ja>Rumanra |
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| + | [[ファイル:エピクロス(前280~270頃のギリシア彫像をもとにしたブロンズ胸像,ナポリ国立考古学博物館).jpg|サムネイル]] |
− | [[Image:Epikur.jpg|thumb|エピクロスの胸像]] | + | '''エピクロス'''({{lang|el|'''Επίκουρος'''}}、Epikouros、[[紀元前341年]] – [[紀元前270年]]) |
− | '''エピクロス'''({{lang|el|'''Επίκουρος'''}}、Epikouros、[[紀元前341年]] – [[紀元前270年]])は、快楽主義などで知られる[[古代ギリシア]]の[[ヘレニズム]]期の[[哲学者]]。 | |
− | [[エピクロス派]]の始祖である。
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− | 現実の煩わしさから解放された状態を「快」として、人生をその追求のみに費やすことを主張した。後世、エピキュリアン=快楽主義者という意味に転化してしまうが、エピクロス自身は肉体的な快楽とは異なる精神的快楽を重視しており、肉体的快楽をむしろ「苦」と考えた。
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− | == 生涯 ==
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− | エピクロスは[[アテナイ]]の植民地であった[[サモス島]]に、[[紀元前341年]]に生まれた。エピクロスの両親は、アテナイ人入植者であり、父は教師であったが、家族の生活は貧しかった。
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− | 当時アテナイ人の青年には2年間の[[兵役]]義務があり、[[紀元前323年]]エピクロスも18歳の時、アテナイへ上京した。この時[[アカデメイア]]で[[クセノクラテス]]の、また[[リュケイオン]]で[[テオプラストス]]の講義を聞いたと言われる。
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− | 2年のアテナイ滞在後、エピクロスは家族のもとに戻るが、サモス島のアテナイ人入植者は、[[アレクサンドロス3世|アレクサンドロス大王]]の後継者[[ペルディッカス]]によって弾圧され、対岸の[[小アジア]]の[[コロポン]]に避難していた。コロポンの家族と合流した後、[[デモクリトス派]]の哲学者[[ナウシパネス]]の門下で学んだと思われる。
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− | [[紀元前311年]]、エピクロスは[[レスボス島]]で自身の学校を開くが迫害を受け、翌年には小アジア北方の[[ラムプサコス]]に移り、のちの[[エピクロス派]]を支える弟子たちを迎えた。
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− | [[紀元前307年]]か[[紀元前306年]]には、エピクロスは弟子たちとともにアテナイへ移った。ここで郊外の庭園付きの小さな家を購入し、そこで弟子たちと共同生活を始めた。いわゆる「[[エピクロスの園]]」である。このエピクロスの学園は万人に開かれ、[[ディオゲネス・ラエルティオス]]は[[哲学者列伝]]の中で、この学園の聴講生として何人かの遊女の名前を記録している。
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− | エピクロスはこの後、友人を訪ねる数度の旅行以外は、アテナイのこの学園で過ごした。[[紀元前270年]]、エピクロスは72歳でこの世を去った。
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− | == その後 ==
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− | 「エピクロスの園」は、レスボス島以来の高弟[[ヘルマルコス]]が引き継いだ。この学園は、エピクロス学派の拠点としてその後も長くつづき、[[ガイウス・ユリウス・カエサル]]の時代には第14代目の学頭が継承していたと言う。
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− | == 学説 ==
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− | === 自然思想と認識論 ===
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− | エピクロスの自然思想は、[[原子論]]者であった[[デモクリトス]]に負っている。つまりそれ以上分割できない粒子である[[原子]]と[[真空|空虚]]から、世界が成り立つとする。
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− | そうした存在を把握する際に用いられるのが[[感覚]]であり、エピクロスはこれは信頼できるものだとみなし、[[認識]]に誤りが生じるのはこの感覚経験を評価する際に行われる思考過程によるものだとした。
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− | こうした彼の[[認識論]]は、後述する彼の倫理学説の理論的基盤となっている。たとえば彼は「[[死]]について恐れる必要はない」と述べているが、その理由として、死によって人間は[[感覚]]を失うのだから、恐怖を感じることすらなくなるのであり、それゆえ恐れる必要はないといった主張を行っている。このように「平静な心(ataraxia[[アタラクシア]])」を追求することを是とした彼の倫理学説の淵源は、彼の自然思想にあると言える。
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− | === 倫理学 ===
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− | エピクロスは、幸福を人生の目的とした。これは人生の目的を徳として、幸福はその結果に過ぎないとした[[ストア派]]の反対である。
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− | 倫理に関してエピクロスは「快楽こそが善であり人生の目的だ」という考えを中心に置いた主張を行っており、彼の立場は一般的に[[快楽主義]]という名前で呼ばれている。ここで注意すべきは、彼の快楽主義は[[帰結主義]]的なそれであって、快楽のみを追い求めることが無条件に是とされるものではない点が重要である。すなわち、ある行為によって生じる快楽に比して、その後に生じる不快が大きくなる場合には、その行為は選択すべきでない、と彼は主張したのである。
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− | より詳しく彼の主張を追うと、彼は欲求を、自然で必要な欲求(たとえば[[友情]]、[[健康]]、[[食事]]、衣服、[[住居]]を求める欲求)、自然だが不必要な欲求(たとえば大邸宅、豪華な食事、贅沢な生活)、自然でもなく必要でもない欲求(たとえば名声、権力)、の三つに分類し、このうち自然で必要な欲求だけを追求し、苦痛や恐怖から自由な生活を送ることが良いと主張し、こうして生じる「平静な心([[アタラクシア]])」を追求することが善だと規定した。こうした理想を実現しようとして開いたのが「庭園」とよばれる共同生活の場を兼ねた学園であったが、そこでの自足的生活は一般社会との関わりを忌避することによって成立していたため、その自己充足的、閉鎖的な特性について[[ストア派]]から激しく批判されることになった。
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− | このようにエピクロスによる快楽主義は、自然で必要な欲望のみが満たされる生活を是とする思想であったが、しばしば欲望充足のみを追求するような放埒な生活を肯定する思想だと誤解されるようになった。しかしこうした生活については、エピクロス自身によって「[[メノイケウス]]宛の手紙」の中で、放埒あるいは性的放縦な享楽的生活では快がもたらされないとして否定的な評価が与えられている。
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− | == 著作 ==
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− | [[プラトン]]と[[アリストテレス]]以外の古代ギリシアの哲学者たちの著作は完全な形では現存せず、多くはさまざまな文献に引用された断片のみ後世に伝えられたが、エピクロスも例外ではない。ただし、古代ギリシア哲学者について主要な資料のひとつとなっている、[[ディオゲネス・ラエルティオス]]の『ギリシア哲学者列伝』は、多くの哲学者について、断片や風説を紹介するにとどまるのに、エピクロスについては最後の章を丸ごと当てて、エピクロスについての評伝と彼が書いたと伝えられる手紙を収録している。[[岩波文庫]]に訳された『エピクロス:教説と手紙』は、これに加え、[[1888年]]に[[バチカン]]の[[写本]]から発見された断片と、後の人々がエピクロスの言葉として引用した断片とをまとめて収録したものである。
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− | == 思想の背景 ==
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− | 彼は「隠れて生きよ」と述べたが、その背景にはマケドニアによる反体制者の処刑、政治活動や思想への弾圧などアテネの不穏な社会情勢があったと言われている。
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− | == 語録==
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− | * 「死はわれわれにとっては無である。われわれが生きている限り死は存在しない。死が存在する限りわれわれはもはや無い」
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− | * 「われにパンと水さえあれば、神と幸福を競うことができる」
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− | * 「われわれが快楽を必要とするのは、ほかでもない、現に快楽がないために苦痛を感じている場合なのであって、苦痛がない時には、我々はもう快楽を必要としない」
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− | == 関連項目 ==
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− | * [[楊朱]]
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− | * [[カール・マルクス]]
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− | *[[ジェレミ・ベンサム|ベンサム]]
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− | == 関連書籍 ==
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− | * [[出隆]], [[岩崎允胤]]訳 『エピクロス : 教説と手紙』([[岩波文庫]], 1959)ISBN 4003360613
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− | * [[日下部吉信]] 『西洋古代哲学史』([[昭和堂]], 1981) ISBN 4812287111
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− | * [[山本光雄]]、[[戸塚七郎]]訳編 『後期ギリシア哲学者資料集』(岩波書店, 1985) ISBN 4000007904
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− | * [[ディオゲネス・ラエルティオス]] 『ギリシア哲学者列伝(下)』(岩波文庫, 1994) ISBN 4003366336
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− | {{Normdaten}}
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| + | ギリシアの哲学者。前 311年頃ミュティレネに学派を創始,306年にはアテネ郊外の庭園に移った。そこで彼の学派は庭園学派と呼ばれる。デモクリトスの原子論を根底にもち,霊魂をも物体とする唯物論者であり,感覚を知識の唯一の源泉かつ善悪の標識とする。そこから有名な快楽主義が生れる。しかし,その快はわずらいを伴うものであってはならないから,享楽であるより苦しみのない心の平静でなくてはならない。そこで彼は来世を否定して死に対する恐怖を断ち,神々を恐れる迷信を乗越えてみずから神々の平静さにあずかろうとした。この努力により彼は魂の救済者との名声を得,その範例的生ゆえに人々の尊敬を集めた ([[エピクロス主義]] ) 。 |
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