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http:///mymemo.xyz/wiki/api.php?action=feedcontributions&user=92.9.60.180&feedformat=atom miniwiki - 利用者の投稿記録 [ja] 2024-05-21T04:58:33Z 利用者の投稿記録 MediaWiki 1.31.0 メアリー1世 (イングランド女王) 2018-04-26T13:55:05Z <p>92.9.60.180: Mary was the fifth child, not the sixth.</p> <hr /> <div>{{基礎情報 君主<br /> | 人名 = メアリー1世<br /> | 各国語表記 = Mary I<br /> | 君主号 = イングランド女王<br /> | 画像 = Maria Tudor1.jpg<br /> | 画像サイズ = <br /> | 画像説明 = イングランド女王メアリー1世像&lt;br /&gt;[[アントニス・モル]]画、1554年<br /> | 在位 = [[1553年]][[7月19日]] - [[1558年]][[11月17日]]<br /> | 戴冠日 = 1553年10月1日<br /> | 別号 = アイルランド女王&lt;br /&gt;[[アラゴン王国|アラゴン]]王妃、[[カスティーリャ王国|カスティーリャ]]王妃、[[ナポリ王国|ナポリ]]王妃<br /> | 全名 = <br /> | 出生日 = [[1516年]][[2月18日]]<br /> | 生地 = {{ENG927}}、[[グリニッジ]]、プラセンティア宮殿<br /> | 死亡日 = [[1558年]][[11月17日]]<br /> | 没地 = {{ENG927}}、ロンドン、[[セント・ジェームズ宮殿]]<br /> | 埋葬日 = 1558年12月14日 <br /> | 埋葬地 = {{ENG927}}、[[ウェストミンスター寺院]]<br /> | 継承者 = [[エリザベス1世]]<br /> | 継承形式 = 継承者<br /> | 配偶者1 = [[フェリペ2世 (スペイン王)|フィリップ・オブ・スペイン]]<br /> | 子女 = <br /> | 王家 = [[テューダー家]]<br /> | 王朝 = [[テューダー朝]]<br /> | 王室歌 = <br /> | 父親 = [[ヘンリー8世 (イングランド王)|ヘンリー8世]]<br /> | 母親 = [[キャサリン・オブ・アラゴン]]<br /> }}<br /> <br /> &#039;&#039;&#039;メアリー1世&#039;&#039;&#039;({{lang-en-short|Mary I of England}}, [[1516年]][[2月18日]] - [[1558年]][[11月17日]])は、[[イングランド王国|イングランド]]と[[アイルランド王国|アイルランド]]の女王(在位:[[1553年]][[7月19日]] - 1558年11月17日)。[[ヘンリー8世 (イングランド王)|ヘンリー8世]]と最初の王妃[[キャサリン・オブ・アラゴン]]([[カスティーリャ王国|カスティーリャ]]女王[[イサベル1世 (カスティーリャ女王)|イサベル1世]]と[[アラゴン王国|アラゴン]]王[[フェルナンド2世 (アラゴン王)|フェルナンド2世]]の娘)との娘として、[[グリニッジ宮殿]]で生まれた。[[イングランド国教会]]に連なる[[プロテスタント]]に対する過酷な迫害から、&#039;&#039;&#039;ブラッディ・メアリー&#039;&#039;&#039;(血まみれのメアリー)と呼ばれた&lt;ref&gt;血を思わせるトマトジュースとウォッカを混ぜた[[カクテル]]の「[[ブラッディ・マリー]]」の名はこのメアリー1世の異名に由来する。&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> == 生涯 ==<br /> === 不安定な身分 ===<br /> 王妃キャサリン・オブ・アラゴンは4度の懐妊に失敗していたが、5度目の懐妊でメアリーを出産した。メアリーの名は、叔母[[メアリー・テューダー (フランス王妃)|メアリー王女]]([[ヘンリー7世 (イングランド王)|ヘンリー7世]]の末子)にちなんだものだった。<br /> <br /> 当初は男児誕生を願っていたヘンリー8世も、娘が健康であると知ると「イングランドでは女子の王位継承を妨げる法はない」として跡継ぎと見なし、鍾愛した。養育係として[[プランタジネット朝|プランタジネット家]]男系最後の生き残りである[[マーガレット・ポール]]が任命された。&lt;!--実際[[フランス王国|フランス]]王家などは[[サリカ法典|サリカ法]]を採り王女の即位を認めていなかったが、イングランドにはそうした制約はなかった。--&gt;&lt;!--諄々--&gt;<br /> <br /> [[1519年]]、ヘンリー8世は[[庶子]]の[[ヘンリー・フィッツロイ (初代リッチモンド公爵)|ヘンリー・フィッツロイ]]が生まれると、この男児をただちに[[リッチモンド公爵]]に叙している。ヘンリー8世の父[[ヘンリー7世 (イングランド王)|ヘンリー7世]]が即位前にリッチモンド伯爵だったことからもわかるように、この叙爵は庶子に対するものとしては破格のもので、この子が正嫡でないことへの無念さがそこには見て取れる。一方メアリーに対しては、[[プリンス・オブ・ウェールズ]]に相当する王女として「[[プリンセス・オブ・ウェールズ]]」の称号が用いられたものの、そこに世継ぎとしての法的な根拠は付与されなかった。<br /> <br /> ヘンリー8世はメアリーの幼児期を通して常に、メアリーと然るべき名家の男子との縁談を模索していた。当初は[[フランス王国|フランス]]の王子を検討し、2歳の時に[[フランソワ1世 (フランス王)|フランソワ1世]]の王子[[フランソワ3世 (ブルターニュ公)|フランソワ]]と婚約したが破談になった。[[1522年]]、6歳の時に16歳年上の従兄である[[神聖ローマ皇帝]][[カール5世 (神聖ローマ皇帝)|カール5世]]と婚約したが、再び破談となった。再度フランスと、ということでフランソワ1世の第2王子アンリ(のちの[[アンリ2世 (フランス王)|アンリ2世]])との婚約を模索したが首尾よく行かなかった。しかし、少女期のメアリーは非常に美しく、魅力的であり、そのことは他国にも伝わっていたという。<br /> <br /> メアリーが9歳になる頃には、キャサリンとの間にもうこれ以上の子はできないことが明らかな情勢となっていた。男子を切望するヘンリー8世は、寵愛する[[アン・ブーリン]]と再婚するためにキャサリンとの婚姻無効を宣言、これとともにメアリーからは世継ぎの地位ばかりか王女の身位までが剥奪されて庶子とされた([[第一継承法]]も参照)。ヘンリー8世はメアリーに「両親の結婚は間違いだった」と認めさせようとしたが、拒否されている。<br /> <br /> やがてアン王妃が第2王女[[エリザベス1世|エリザベス]]を産むと、アンはメアリーに対して名目上の「プリンセス・オブ・ウェールズ」となったエリザベスへの臣従を強要したが、メアリーはエリザベスを「妹としては認めるが、王女としては認めない」と突っぱねた。怒ったアンはメアリーを強引にエリザベスの侍女の身分におとしめ、自身の叔母の監視の下、幽閉状態に置いた。アンが王妃の間を通じてヘンリー8世はメアリーとの面会は拒絶している。アンはかつての愛人だった[[ノーサンバーランド伯爵]]{{仮リンク|ヘンリー・パーシー (第6代ノーサンバランド伯)|label=ヘンリー・パーシー|en|Henry Percy, 6th Earl of Northumberland}}に対して、メアリーを殺すつもりだと話していたことが知られている。またアンの裁判では、複数の者がメアリーの毒殺未遂があったことを証言している。この時期、[[ハートフォードシャー]]で幽閉状態にあったメアリーは病気がちであり、養育係のポールや侍女、侍従たちと引き離された彼女にとっての唯一の相談相手であり、庇護者は神聖ローマ帝国及び[[スペイン]]の駐英大使だった{{仮リンク|ウスタシュ・シャピュイ|en|Eustace Chapuys}}であった&lt;ref&gt;当時の神聖ローマ皇帝はメアリーの従兄であり元婚約者で、スペイン国王をも兼ねていたカール5世(カルロス1世)であった。&lt;/ref&gt;。メアリーがヘンリー8世と再会したのはアンが処刑されたときだった。次の王妃[[ジェーン・シーモア]]との関係は良好であった。ジェーンはヘンリー8世とメアリーが和解することを強く望んだ。ヘンリー8世の和解条件は、ヘンリー8世が[[イングランド国教会]]の長であること、そして両親の結婚が無効であることを認めることであった。当初、メアリーはこれを拒絶したが、メアリーの境遇の安定のためにシャピュイと神聖ローマ皇帝カール5世(スペイン国王カルロス1世)の説得により、渋々この条件を受けいれた。メアリーは宮廷に戻り、かつて王女として持っていた財産と侍女らも戻され、ボーリュー城などが住居として与えられた(メアリーの前の城主はアン・ブーリンの弟の[[ジョージ・ブーリン|ジョージ]]だった)。ジェーンが王子[[エドワード6世 (イングランド王)|エドワード]]を出産すると、メアリーはこの王子の[[代父母|洗礼の代母]]役を務めた。その一方で、メアリーはエリザベスと共に庶子として扱われ続けた。このことに対し、メアリーを王女の地位に戻すことを求めた反乱({{仮リンク|恩寵の巡礼|en|Pilgrimage of Grace}})が、かつてのメアリーの侍従であったスリーフォード男爵ジョン・ハッセーによって起こされた。ハッセーは処刑されたが、メアリーはこの件に不関与とされ、罪に問われることはなかった。<br /> <br /> [[1539年]]、[[プファルツ=ノイブルク公]]{{仮リンク|フィリップ (プファルツ=ノイブルク公)|label=フィリップ|en|Philip, Duke of Palatinate-Neuburg}}から求婚を受けるが、[[プロテスタント]]であることから断っている。この頃、ヘンリー8世はメアリーを王妃不在時の宮廷の「女主人」として扱うようになっていた。<br /> <br /> ヘンリー8世が晩年に6番目の王妃とした[[キャサリン・パー]]は、家族の絆を大切にすることに心を砕き、まだ幼少のエドワードとエリザベスを自らのもとで養育するとともに、4歳年下の「娘」のメアリーにも心を砕いた。こうした努力が実り、健康を害して近い将来の死を悟ったヘンリー8世は、エドワードがまだ幼くひ弱な体質であることを危惧して、[[1543年]]に王位継承法を改正しメアリーとエリザベスにエドワードに次ぐ王位継承権を与えた([[第三継承法]]も参照)。しかし「プリンセス」の称号は復活させず、「レディ」の称号のままであった。&lt;!--しかし庶子か王女であるかの判定は曖昧なままに据え置かれた。--&gt;果してヘンリー8世はその翌年に死去し、まだ9歳の[[エドワード6世 (イングランド王)|エドワード6世]]が即位した。<br /> [[ファイル:Mary_I_by_Master_John.jpg|180px|thumb|即位前のメアリー(1544年)]]<br /> <br /> === エドワード6世の死と女王即位 ===<br /> エドワード6世はその短い治世を通じて、自らの[[推定相続人]]たるメアリーに対して[[カトリック教会|カトリック]]の信仰を放棄するよう促し続けたが、母キャサリンによって敬虔なカトリックに育てられていたメアリーはそれを拒絶し続けた。メアリーはエドワード6世の在位中は、ほとんど宮廷に赴くことはなかった。しかしこれは、メアリーの王位継承権が再び危ういものとなることを意味した。病弱のエドワード6世は即位から6年後には、もう回復の見込みがないほど病床に伏す身となっていた。彼が後継者として指名したのは、父ヘンリー8世の妹[[メアリー・テューダー]]の孫にあたる[[ジェーン・グレイ]]だったが、その背後にはこの直前に自身の子[[ギルフォード・ダドリー|ギルフォード]]をジェーンと結婚させていた野心家の[[ジョン・ダドリー (初代ノーサンバランド公)|ノーサンバランド公ジョン・ダドリー]]の暗躍があった。<br /> <br /> エドワード6世が[[1553年]]7月6日に15歳で夭折すると、[[枢密院 (イギリス)|枢密院]]は筋書き通りジェーン・グレイを女王に推戴した。ノーサンバランド公はメアリーの身柄を拘束しようとしたが、事前に身の危険を察知したメアリーは[[トマス・ハワード (第3代ノーフォーク公)|ノーフォーク公トーマス・ハワード]]に匿われ、ロンドンを脱出する。その間に7月10日にはジェーンが[[ロンドン塔]]に入城し、その王位継承が公に宣言されたが、一方のメアリーも13日に[[ノリッチ|ノリッジ]]で即位を宣言した。すると、メアリーのもとには支持者が続々と集結し、民衆蜂起となってロンドンに進軍した。これを自ら鎮圧しようと兵を向けたノーサンバランド公は、逆に惨敗を喫してしまう。これを受けて19日には枢密院も一転メアリー支持を表明、ロンドンに入ったメアリーは改めて即位を宣言した。ノーサンバランド公とその子ギルフォードは、ジェーン・グレイとともに身柄を拘束された。こうしてメアリーは名実共にイングランドの女王となった。<br /> <br /> メアリーを支持する民衆がこのように蜂起したのは、ヘンリー8世の遺言では王位継承権がエドワード、メアリー、エリザベスの順にあったのにもかかわらず、これを継いだエドワード6世の遺言ではこの異母姉2人を差し置いて、[[プロテスタント]]であるという理由で従姪のジェーンが後継者に指名されていたことから、それがエドワード6世の真意であることを疑い、ジェーンがノーサンバランド公の傀儡になることを危惧したためといわれている。エドワード6世の遺言の真偽は別として、少なくともそれを理由に民衆の蜂起を煽ったメアリーの作戦勝ちだった。そして彼女は「イングランドで初めて広く国民に支持された女王」になったのである。<br /> <br /> === 宗教政策 ===<br /> 敬虔なカトリック信者であるメアリー1世は、父ヘンリー8世以来の[[宗教改革]]を覆し、イングランドは[[教皇|ローマ教皇]]を中心とするカトリック世界に復帰した&lt;ref&gt;ただし、教会の資産を回復することはできなかった。&lt;/ref&gt;。メアリーはプロテスタントを迫害し、女性や子供を含む約300人を処刑したため、「ブラッディ・メアリー」 (Bloody Mary) と呼ばれた。処刑された者の中には、[[トマス・クランマー]]、[[ヒュー・ラティマー]]、[[ニコラス・リドリー]]らがいる&lt;ref&gt;ケアンズ『基督教全史』いのちのことば社。&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;スコット・アンダーソン『殉教』ホームスクーリング・ビジョン。&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> === フェリペ2世との結婚 ===<br /> 母方から[[スペイン]]([[カスティーリャ王国|カスティーリャ]]=[[アラゴン連合王国|アラゴン]])王家の血を引くメアリーは、結婚の相手に従兄カール5世の子である[[アストゥリアス公]]フェリペ(後のスペイン王[[フェリペ2世 (スペイン王)|フェリペ2世]])を選んだ。しかしカトリックの宗主国のようなスペイン王太子との結婚は、将来イングランド王位がスペイン王位に統合されてしまう可能性を孕んでいただけに反対する者も多く、[[トマス・ワイアット (反乱者)|トマス・ワイアット]]らが[[ケント (イングランド)|ケント]]でエリザベスを王位に即けること求めて蜂起する事態となったが、反乱は鎮圧されワイアットは処刑された。この乱に連座する形で、ジェーン・グレイらを処刑している&lt;ref&gt;ジェーン・グレイの母[[フランセス・ブランドン]]はメアリーの親しい従姉妹だったため、ジェーンを助命する心づもりだったが、乱の影響とフェリペからの強い要請があった。&lt;/ref&gt;。この後にもいくつかの反乱が起こるが、そのいずれもがエリザベスを王位に即けることを旗印にしたものだった。<br /> <br /> メアリーは幾多の反対を押し切り、1554年7月20日に11歳年下のフェリペと結婚した。フェリペには共同王としてのイングランド王位が与えられたが、1556年にスペイン王として即位するため本国に帰国、1年半後にロンドンに戻ったものの、わずか3か月後には再びスペインに帰国し、以後二度とメアリーに会うことはなかった。フェリペとの結婚後、メアリーには懐妊かと思われた時期もあったが、[[想像妊娠]]だった上、実は[[卵巣腫瘍]]を発症していた模様で、妊娠と思われたのはその症状だったと推測されている。<br /> <br /> この結婚によって、イングランドは[[フランス王国|フランス]]とスペインの戦争([[第六次イタリア戦争]])に巻き込まれ、フランスに敗れて大陸に残っていた唯一の領土[[カレー (フランス)|カレー]]を失うことになった。<br /> <br /> 悪いことづくめに終わったフェリペとの結婚の果てに、メアリーは自らの健康も害してその死期を悟るようになった。後継者は異母妹エリザベス以外にいなかったが、母を王妃の座から追いやった淫婦の娘としてメアリーはエリザベスのことを終生憎み続けており、死の前日になってしぶしぶ彼女を自身の後継者に指名するほどだった。<br /> <br /> メアリー1世は5年余りの在位の後、卵巣腫瘍により1558年11月17日に[[セント・ジェームズ宮殿]]で死去した。メアリーの命日はその後200年間にわたって「圧政から解放された日」として祝われた。<br /> <br /> === 修正主義による再評価 ===<br /> 近年、[[ピューリタン]]寄りで[[リベラル]]な従来の歴史観を批判する[[歴史修正主義]]によって、メアリー1世の治世に対する極度に否定的な見方は緩みつつある。新しい角度からの視点では次のように評価されている。<br /> <br /> メアリー1世は[[宗教改革]]に逆行してカトリックへの復帰を目指し、その過程で多くのプロテスタントを処刑したことが非難されてきた。しかし宗教改革はエドワード6世時代には一般社会には浸透せず、イングランドの実質的なプロテスタント化はエリザベス1世時代以後に進んでいったものと考えられる。エドワード6世死去の時点では、教養ある貴族や[[ジェントリ]]階層は伝統的な宗教慣習に強い愛着を示し、一般民衆と彼らを教導する[[教区]]の聖職者もプロテスタントの革命的な改革やその教義を理解しなかった。カトリックへの復帰がさしたる抵抗なく行われたのはこのためだといえる。メアリー1世の治世がもし長ければ、イングランドがプロテスタント国家にならなかった可能性は高い。<br /> <br /> フェリペとの結婚は、スペインによる属国化を招きかねなかったとして非難されてきた。しかし当時は[[テューダー朝|テューダー家]]の血を引く者のほとんどが女性であり、また国内貴族との結婚はジェーン・グレイの例にも見られるように、貴族間の派閥争いや王家乗っ取りを許すおそれからはばかられたという事情があった。婚姻時の取り決めでも、フェリペのイングランド共同王としての資格はメアリーとの結婚期間のみに限定されており、イングランド王位の継承権はフェリペとメアリーの間の子のみに認められており、イングランドの独立性は充分に考慮されていた。&lt;!--<br /> <br /> だが彼女の治世は短命に終わり、さらに子供を残せなかったことで、妹エリザベスの後継は事実上決定していた。--&gt;<br /> <br /> == クイーン・メアリー ==<br /> [[クイーン・メアリー|メアリーという名の「クイーン」]]は、他にも3人がほぼ同時代の[[グレートブリテン島|ブリテン]]にいた。<br /> *[[メアリー・テューダー (フランス王妃)|メアリー・テューダー]]<br /> *:フランス王[[ルイ12世 (フランス王)|ルイ12世]]の王妃(1514年)。ルイ12世との死別後、兄のイングランド王[[ヘンリー8世 (イングランド王)|ヘンリー8世]]の寵臣・初代サフォーク公爵[[チャールズ・ブランドン]]と再婚するが、1533年に死去するまでその称号は「ダッチェス・オヴ・サフォーク」(サフォーク公爵夫人)ではなく「クイーン・オヴ・フランス」(フランス王妃)のままだった。後にメアリー1世とイングランド王位を争って破れた[[ジェーン・グレイ]]は、このメアリー・テューダーとチャールズ・ブランドンの孫娘にあたる。<br /> *[[メアリ・オブ・ギーズ|メアリー・オブ・ギーズ]]<br /> *:[[スコットランド王国|スコットランド]]王[[ジェームズ5世 (スコットランド王)|ジェームズ5世]]の王妃(1538年 - 1542年)。ジェームズ5世との死別後も、生後6日でスコットランド女王となった娘のメアリー・ステュアートの摂政として1560年に死去するまで「クイーン・ダウェジャー」(王太后)だった。<br /> *[[メアリー (スコットランド女王)|メアリー・ステュアート]]<br /> *:スコットランド女王(1542年 - 1567年)。この間[[フランス王国|フランス]]王[[フランソワ2世 (フランス王)|フランソワ2世]]の王妃(1559年 – 1560年)としてもクイーンだった。<br /> メアリー女王、[[メアリー1世]]に限っても2人、[[メアリー・テューダー]]に限っても2人が存在することになる。<br /> <br /> == 主な小説 ==<br /> *[[ヴィクトル・ユーゴー]]『マリー・チュードル』<br /> *Carolyn Meyer &#039;&#039;Mary, Bloody Mary&#039;&#039;<br /> *Carolyn Meyer &#039;&#039;Beware, Princess Elizabeth&#039;&#039;<br /> *Jean Plaidy &#039;&#039;In the Shadow of the Crown&#039;&#039;, Three River Press<br /> *ロザリンド・マイルズ『我が名はエリザベス』近代文芸社<br /> <br /> == 補注 ==<br /> {{Reflist}}<br /> <br /> == 参考文献 ==<br /> *石井美樹子『イギリス・ルネサンスの女たち』中央公論社<br /> *石井美樹子『薔薇の冠〜イギリス王妃キャサリンの生涯』 朝日新聞社<br /> *岩井淳/指昭博(編)『イギリス史の新潮流 修正主義の近世史』彩流社 2000年<br /> *小西章子『華麗なる二人の女王の闘い』小学館<br /> *ヒバート『女王エリザベス(上)』原書房 ISBN 4-562-03146-8<br /> *Nichols, J. G. (ed.), &#039;&#039;Chronicles of Queen Jane and Two Years of Queen Mary&#039;&#039;, Camden Society, 1850, rep. 1968.<br /> *Nichols, J. G. (ed.), &#039;&#039;Diary of Henry Machyn&#039;&#039;, Camden Society, 1848, rep. 1968.<br /> *R. Tyler (ed.), &#039;&#039;Calendar of Letters, Dispatches and State Papers Relating to the Negotiation between England and Spain&#039;&#039;, 1969-78, vol. 11.<br /> *Weir, Alison (1996), &#039;&#039; Britain&#039;s Royal Families: The Complete Genealogy&#039;&#039;, London: Pimlico. ISBN 0-7126-7448-9.<br /> *Waller, Maureen (2006), &#039;&#039;Sovereign Ladies: The Six Reigning Queens of England&#039;&#039;, New York: St. Martin&#039;s Press, ISBN 0-312-33801-5.<br /> *Porter, Linda (2007), &#039;&#039;Mary Tudor: The First Queen&#039;&#039;, London: Little, Brown. ISBN 978-0-7499-0982-6.<br /> *Whitelock, Anna (2009), &#039;&#039;Mary Tudor: England&#039;s First Queen&#039;&#039;, London: Bloomsbury. ISBN 978-0-7475-9018-7.<br /> *Duffy, Eamon (2009), &#039;&#039;Fires of Faith: Catholic England Under Mary Tudor&#039;&#039;, New Haven, CT: Yale University Press. ISBN 0-300-15216-7.<br /> <br /> {{イングランド王|1553年 - 1558年|イングランド女王}}<br /> {{アイルランド王|1553年 - 1558年|アイルランド女王}}<br /> {{Normdaten}}<br /> <br /> {{DEFAULTSORT:めあり1}}<br /> [[Category:イングランドの君主]]<br /> [[Category:アイルランドの君主]]<br /> [[Category:イギリスの女性君主]]<br /> [[Category:スペインの王妃]]<br /> [[Category:アストゥリアス公妃]]<br /> [[Category:イギリス・スペイン関係]]<br /> [[Category:テューダー家]]<br /> [[Category:ヘンリー8世の子女]]<br /> [[Category:イングランドのカトリックの人物]]<br /> [[Category:グリニッジ区出身の人物]]<br /> [[Category:1516年生]]<br /> [[Category:1558年没]]</div> 92.9.60.180
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