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miniwiki - 利用者の投稿記録 [ja]
2024-05-05T00:44:30Z
利用者の投稿記録
MediaWiki 1.31.0
延暦寺
2018-06-20T15:39:24Z
<p>60.36.246.215: /* 外部リンク */</p>
<hr />
<div>{{出典の明記|date=2017年8月7日 (月) 07:50 (UTC)}}<br />
{{Redirect|北嶺}}<br />
{{日本の寺院<br />
|名称 = 延暦寺<br />
|画像 = [[ファイル:Enryakuji Konponchudo04n4272.jpg|300px]]<br>[[延暦寺根本中堂|根本中堂]](国宝)と回廊(重文)<br />
|所在地 = 滋賀県大津市坂本本町4220<br />
|位置 = {{ウィキ座標2段度分秒|35|4|13.62|N|135|50|27.33|E|region:JP-25_scale:20000_type:landmark|display=inline,title|name=延暦寺}}<br />
|山号 = 比叡山<br />
|宗派 = [[天台宗]]<br />
|寺格 = 総本山<br />
|本尊 = [[薬師如来]]<br />
|創建年 = [[延暦]]7年([[788年]])<br />
|開基 = [[最澄]]<br />
|正式名 = <br />
|別称 = 比叡山、叡山<br />
|札所等 = [[新西国三十三箇所]]18番(横川中堂)<br/>[[西国薬師四十九霊場]]49番<br/>[[神仏霊場巡拝の道]]150番(滋賀18番)<br/>[[播州薬師霊場]]特別札所<br/>[[東海四十九薬師霊場|東海四十九薬師]]特別札所<br/>[[西山国師遺跡霊場]]客番(文殊楼)<br/>真盛上人二十五霊場3番(浄土院)<br/>[[法然上人二十五霊場]]特別霊場([[青龍寺 (大津市坂本)|青龍寺]])<br/>真盛上人二十五霊場2番([[青龍寺 (大津市坂本)|青龍寺]])<br/>[[近畿三十六不動尊]]26番([[無動寺 (大津市)|無動寺]])<br />
|文化財 = [[延暦寺根本中堂|根本中堂]]、金銅経箱ほか(国宝)<br/>根本中堂回廊、絹本著色天台大師像ほか(重要文化財)<br/>世界遺産<br />
|公式HP = http://www.hieizan.or.jp/<br />
|公式HP名 = 天台宗総本山 比叡山延暦寺<br />
|地図2 = {{Location map+|Japan Kyoto city|width=200|caption=|float=center|places=<br />
{{Location map~|Japan Kyoto city|lat_deg=35|lat_min=4|lat_sec=13.62|lon_deg=135|lon_min=50|lon_sec=27.33|position=bottom|label='''東塔'''}}<br />
{{Location map~|Japan Kyoto city|lat_deg=35|lat_min=4|lat_sec=27.54|lon_deg=135|lon_min=50|lon_sec=2.29|position=left|label='''西塔'''}}<br />
{{Location map~|Japan Kyoto city|lat_deg=35|lat_min=5|lat_sec=48.48|lon_deg=135|lon_min=50|lon_sec=59.43|position=left|label='''横川'''}}<br />
{{Location map~|Japan Kyoto city|lat_deg=34|lat_min=59|lat_sec=7.65|lon_deg=135|lon_min=45|lon_sec=27.92|position=bottom|mark=blue pog.svg|label=京都駅}}}}{{center|{{small|京都盆地における位置<br />[[#東塔|東塔]] - 根本中堂<br />[[#西塔|西塔]] - 釈迦堂 <br />[[#横川|横川]] - 横川中堂}}}}<br />
}}<br />
{{mapplot|135.840925|35.07045|延暦寺}}<br />
'''延暦寺'''(えんりゃくじ、[[正字]]: {{lang|zh-hant|'''延曆'''}}'''寺''')は、[[滋賀県]][[大津市]][[坂本本町]]にあり、[[標高]]848mの[[比叡山]]全域を境内とする[[寺院]]。'''比叡山'''、または'''叡山'''(えいざん)と呼ばれることが多い。[[平安京]]([[京都]])の北にあったので'''南都'''の[[興福寺]]と対に'''北嶺'''(ほくれい)とも称された。[[平安時代]]初期の[[僧]]・[[最澄]]([[767年]] - [[822年]])により開かれた[[日本]][[天台宗]]の本山寺院である。[[住職]](貫主)は[[天台座主]]と呼ばれ、末寺を統括する。[[1994年]]には、[[古都京都の文化財]]の一部として、(1200年の歴史と伝統が世界に高い評価を受け)[[文化遺産 (世界遺産)|ユネスコ世界文化遺産]]にも登録された。寺紋は天台宗菊輪宝。<br />
<br />
== 概要 ==<br />
[[最澄]]の開創以来、[[高野山]][[金剛峯寺]]とならんで[[平安仏教]]の中心であった。天台法華の教えのほか、[[密教]]、禅([[止観]])、念仏も行なわれ仏教の総合大学の様相を呈し、[[平安時代]]には[[皇室]]や[[貴族]]の尊崇を得て大きな力を持った。特に密教による加持祈祷は平安貴族の支持を集め、真言宗の[[東寺]]の密教([[東密]])に対して延暦寺の密教は「[[台密]]」と呼ばれ覇を競った。<br />
<br />
「延暦寺」とは単独の堂宇の名称ではなく、比叡山の山上から東麓にかけて位置する東塔(とうどう)、西塔(さいとう)、横川(よかわ)などの区域(これらを総称して「三塔十六谷」と称する)に所在する150ほどの堂塔の総称である。<ref>[http://www.hieizan.or.jp/keidai/ 「境内案内」(延暦寺公式サイト)]</ref> 日本仏教の礎(佼成出版社)によれば、比叡山の寺社は最盛期は三千を越える寺社で構成されていたと記されている。<br />
<br />
[[延暦]]7年([[788年]])に最澄が[[薬師如来]]を本尊とする一乗止観院という草庵を建てたのが始まりである。開創時の年号をとった延暦寺という寺号が許されるのは、最澄没後の[[弘仁]]14年([[823年]])のことであった。<br />
<br />
延暦寺は数々の名僧を輩出し、日本天台宗の基礎を築いた[[円仁]]、[[円珍]]、[[融通念仏宗]]の開祖[[良忍]]、[[浄土宗]]の開祖[[法然]]、[[浄土真宗]]の開祖[[親鸞]]、[[臨済宗]]の開祖[[栄西]]、[[曹洞宗]]の開祖[[道元]]、[[日蓮宗]]の開祖[[日蓮]]など、新仏教の開祖や、日本仏教史上著名な僧の多くが若い日に比叡山で修行していることから、「日本仏教の母山」とも称されている。比叡山は文学作品にも数多く登場する。[[1994年]]に、[[国際連合教育科学文化機関|ユネスコ]]の[[世界遺産]]に[[古都京都の文化財]]として登録されている。<br />
<br />
また、「12年籠山行」「千日回峯行」などの厳しい[[修行]]が現代まで続けられており、日本仏教の代表的な[[聖地]]である。<br />
<br />
なお、[[長野県]]境に近い[[岐阜県]][[中津川市]]神坂(みさか)に最澄が817年に設けた「広済院」があったと思われる所を寺領とした「飛び地境内」がある<ref name="asahi20161124">{{Cite news <br />
| title = 街道が結ぶ最澄の縁 旅の難所に宿・顕彰碑前で法要 中津川「延暦寺飛び地」<br />
| newspaper = [[朝日新聞]]<br />
| date = 2016-11-24<br />
| author = 森川洋<br />
| publisher = 朝日新聞社<br />
| page = 朝刊 岐阜全県版<br />
}}</ref>。<br />
<br />
<!--なお、延暦寺執行(代表役員)である武覚超は、右派政治団体[[日本会議]]の代表役員を務めている。--><!--左の記述は、少なくとも「概要」の節に書くべきものとは思われない。--><br />
== 歴史 ==<br />
{{右|<br />
[[画像:Hieizan biwakogawa.JPG|thumb|none|220px|[[琵琶湖]]から見た比叡山]]<br />
[[画像:Sakamoto Otsu04s4592.jpg|thumb|none|220px|門前町として栄えた大津市[[坂本 (大津市)|坂本]]地区には数々の里坊が並ぶ]]<br />
}}<br />
<br />
===前史===<br />
比叡山は『[[古事記]]』にもその名が見える山で、古代から山岳信仰の山であったと思われ、東麓の[[坂本 (大津市)|坂本]]にある[[日吉大社]]には、比叡山の[[地主神]]である[[大山咋神]]が祀られている。<!--延暦寺は延暦7年([[788年]])最澄が現在の根本中堂の地に営んだ小堂がその起源である--><br />
<br />
===最澄===<br />
[[最澄]]は俗名を三津首広野(みつのおびとひろの)といい、[[天平神護]]2年([[766年]])、[[近江国]]滋賀郡(滋賀県大津市)に生まれた(生年は[[767年]]説もある)。15歳の[[宝亀]]11年([[780年]])、近江国分寺の僧・行表のもとで[[得度]](出家)し、最澄と名乗る。青年最澄は、思うところあって、奈良の大寺院での安定した地位を求めず、785年、郷里に近い比叡山に小堂を建て、修行と経典研究に明け暮れた<ref name="yougo">{{Cite book|和書|author=全国歴史教育研究協議会|authorlink=|title=日本史B用語集―A併記|origdate=2009-3-30|accessdate=|edition=改訂版|publisher=[[山川出版社]]|series=|isbn=9784634013025}}</ref>。20歳の延暦4年([[785年]])、奈良の[[東大寺]]で受戒(正式の僧となるための戒律を授けられること)し、正式の僧となった。最澄は数ある経典の中でも[[法華経]]の教えを最高のものと考え、中国の天台大師[[智ギ|智顗]]の著述になる「法華三大部」(「法華玄義」、「法華文句」、「[[摩訶止観]]」)を研究した。<br />
<br />
延暦7年([[788年]])、最澄は[[三輪山]]より[[大物主神]]の[[分霊]]を日枝山に勧請して大比叡とし従来の祭神[[大山咋神]]を小比叡とした。そして、現在の根本中堂の位置に薬師堂・文殊堂・経蔵からなる小規模な寺院を建立し、'''一乗止観院'''と名付けた。この寺は比叡山寺とも呼ばれ、年号をとった「延暦寺」という寺号が許されるのは、最澄の没後、弘仁14年(823年)のことであった。時の[[桓武天皇]]は最澄に帰依し、天皇やその側近である和気氏の援助を受けて、比叡山寺は京都の[[鬼門]](北東)を護る国家鎮護の道場として次第に栄えるようになった。<br />
<br />
延暦21年([[802年]])、最澄は還学生(げんがくしょう、短期留学生)として、[[唐]]に渡航することが認められ。延暦23年([[804年]])、[[遣唐使]]船で唐に渡った。最澄は、霊地・[[天台山]]におもむき、天台大師[[智ギ|智顗]]直系の[[道邃]](どうずい)和尚から天台教学と[[菩薩戒|大乗菩薩戒]]、行満座主から天台教学を学んだ。また、越州(紹興)の龍興寺では[[順暁]][[阿闍梨]]より[[密教]]、翛然(しゃくねん)禅師より[[禅]]を学んだ。延暦24年([[805年]])、帰国した最澄は、天台宗を開いた<ref name="yougo" />。このように、法華経を中心に、天台教学・戒律・密教・禅の4つの思想をともに学び、日本に伝えた(四宗相承)ことが最澄の学問の特色で、延暦寺は総合大学としての性格を持っていた。後に延暦寺から[[浄土教]]や[[禅宗]]の宗祖を輩出した源がここにあるといえる。<br />
<br />
=== 大乗戒壇の設立 ===<br />
延暦25年([[806年]])、日本天台宗の開宗が正式に許可されるが、仏教者としての最澄が生涯かけて果たせなかった念願は、比叡山に[[大乗仏教|大乗]][[戒壇]]を設立することであった。大乗戒壇を設立するとは、すなわち、奈良の旧仏教から完全に独立して、延暦寺において独自に僧を養成することができるようにしようということである。<br />
<br />
最澄の説く天台の思想は「一向大乗」すなわち、すべての者が[[菩薩]]であり、[[成仏]]([[悟り]]を開く)することができるというもので、奈良の旧仏教の思想とは相容れなかった。当時の日本では僧の地位は国家資格であり、国家公認の僧となるための儀式を行う「戒壇」は日本に3箇所(奈良・[[東大寺]]、筑紫・[[観世音寺]]、[[薬師寺 (下野市)|下野・薬師寺]])しか存在しなかったため、天台宗が独自に僧の養成をすることはできなかったのである。最澄は自らの仏教理念を示した『[[山家学生式]]』(さんげがくしょうしき)の中で、比叡山で得度(出家)した者は12年間山を下りずに籠山修行に専念させ、修行の終わった者はその適性に応じて、比叡山で後進の指導に当たらせ、あるいは日本各地で仏教界のリーダーとして活動させたいと主張した。<br />
<br />
だが、最澄の主張は、奈良の旧仏教(南都)から非常に激しい反発を受けた<ref name="syousetsu">{{Cite book|和書|author=[[佐藤信 (歴史学者)|佐藤信]]、[[五味文彦]]、[[高埜利彦]]、[[鳥海靖]]|authorlink=|title=詳説日本史研究|origdate=2008-8-30|accessdate=|edition=改訂版|publisher=[[山川出版社]]|series=|isbn=9784634011014}}</ref>。南都からの反発に対し、最澄は『顕戒論』により反論し、各地で活動しながら大乗戒壇設立を訴え続けた<ref name="syousetsu" />。<br />
<br />
大乗戒壇の設立は、[[822年]]、最澄の死後7日目にしてようやく許可され、このことが重要なきっかけとなって、後に、延暦寺は日本仏教の中心的地位に就くこととなる<ref name="syousetsu" />。[[823年]]、比叡山寺は「延暦寺」の[[勅額]]を授かった<ref name="yougo" />。延暦寺は徐々に仏教教学における権威となり、南都に対するものとして、北嶺と呼ばれることとなった<ref name="yougo" />。なお、最澄の死後、義信が最初の天台座主になった<ref name="yougo2">{{Cite book|和書|author=日本史用語研究会|authorlink=|title=必携日本史用語|origdate=2009-2-2|accessdate=|edition=四訂版|publisher=[[実教出版]]|series=|isbn=9784407316599}}</ref>。<br />
<br />
=== 名僧を輩出 ===<br />
大乗戒壇設立後の[[比叡山]]は、日本仏教史に残る数々の名僧を輩出した。[[円仁]](慈覚大師、794 - 864)と[[円珍]](智証大師、814 - 891)はどちらも[[唐]]に留学して多くの[[仏典]]を持ち帰り、比叡山の[[密教]]の発展に尽くした。また、[[円澄]]は西塔を、円仁は横川を開き、10世紀頃、現在みられる延暦寺の姿ができあがった<ref name="yougo2" />。<br />
<br />
なお、比叡山の[[僧]]はのちに円仁派と円珍派に分かれて激しく対立するようになった。[[正暦]]4年([[993年]])、円珍派の僧約千名は山を下りて[[園城寺]](三井寺)に立てこもった。以後、「[[山門]]」(円仁派、延暦寺)と「[[寺門派|寺門]]」(円珍派、園城寺)は対立・抗争を繰り返し、こうした抗争に参加し、武装化した法師の中から自然と[[僧兵]]が現われてきた。<br />
<br />
平安から[[鎌倉時代]]にかけて延暦寺からは名僧を輩出した。円仁・円珍の後には「元三大師」の別名で知られる[[良源]](慈恵大師)は延暦寺中興の祖として知られ、火災で焼失した堂塔伽藍の再建・寺内の規律維持・学業の発展に尽くした。また、『往生要集』を著し、浄土教の基礎を築いた恵心僧都[[源信 (僧侶)|源信]]や[[融通念仏宗]]の開祖・[[良忍]]も現れた。平安末期から鎌倉時代にかけては、いわゆる[[鎌倉仏教|鎌倉新仏教]]の祖師たちが比叡山を母体として独自の教えを開いていった。<br />
<br />
比叡山で修行した著名な僧としては以下の人物が挙げられる。<br />
* [[良源]](慈恵大師、元三大師 912年 - 985年)比叡山中興の祖。<br />
* [[源信 (僧侶)|源信]](恵心僧都、942年 - 1016年)『[[往生要集]]』の著者<br />
* [[良忍]](聖応大師、1072年 - 1132年)[[融通念仏宗]]の開祖<br />
* [[法然]](円光大師、源空上人 1133年 - 1212年)日本の[[浄土宗]]の開祖<br />
* [[栄西]](千光国師、1141年 - 1215年)日本の[[臨済宗]]の開祖<br />
* [[慈円]](慈鎮和尚、1155年 - 1225年)歴史書「[[愚管抄]]」の作者。天台座主。<br />
* [[道元]](承陽大師、1200年 - 1253年)日本の[[曹洞宗]]の開祖<br />
* [[親鸞]](見真大師、1173年 - 1262年)[[浄土真宗]]の開祖<br />
* [[日蓮]](立正大師、1222年 - 1282年)[[日蓮宗]]の開祖<br />
<br />
=== 武装化 ===<br />
延暦寺の武力は年を追うごとに強まり、強大な権力で[[院政]]を行った[[白河天皇|白河法皇]]ですら「賀茂河の水、双六の賽、山法師、是ぞわが心にかなわぬもの」と言っている。山は当時、一般的には比叡山のことであり、山法師とは延暦寺の僧兵のことである。つまり、強大な権力を持ってしても制御できないものと例えられたのである。延暦寺は自らの意に沿わぬことが起こると、僧兵たちが[[神輿]](当時は[[神仏混交]]であり、神と仏は同一であった)を奉じて[[強訴]]するという手段で、時の権力者に対し自らの主張を通していた。<br />
<br />
また、祇園社(現在の[[八坂神社]])は当初は[[興福寺]]の配下であったが、10世紀末の抗争により延暦寺がその末寺とした。同時期、[[北野天満宮|北野社]]も延暦寺の配下に入っていた。1070年には祇園社は[[鴨川 (淀川水系)|鴨川]]の西岸の広大の地域を「境内」として認められ、朝廷権力からの「[[不入の権 (日本)|不入権]]」を承認された<ref>中世史家の[[伊藤正敏]]は、これ以降、京は比叡山の経済的影響を強く受けた「叡山の門前町」となり、また、この1070年をもって「中世の開幕」とすべきと主張している。伊藤正敏『寺社勢力の中世』ちくま新書</ref>。<br />
<br />
このように、延暦寺はその権威に伴う武力があり、また物資の流通を握ることによる財力も持っており、時の権力者を無視できる一種の独立国のような状態(近年はその状態を「[[寺社勢力]]」と呼ぶ)であった。延暦寺の僧兵の力は奈良[[興福寺]]と並び称せられ、'''南都北嶺'''と恐れられた。<br />
<br />
延暦寺の勢力は貴族に取って代わる力をつけた武家政権をも脅かした。従来、[[後白河天皇|後白河法皇]]による[[平氏政権]]打倒の企てと考えられていた[[鹿ケ谷の陰謀]]の一因として、後白河法皇が仏罰を危惧して渋る[[平清盛]]に延暦寺攻撃を命じたために、清盛がこれを回避するために命令に加担した[[院近臣]]を捕らえたとする説([[下向井龍彦]]・[[河内祥輔]]説)が唱えられ、[[建久]]2年([[1191年]])には、延暦寺の大衆が[[鎌倉幕府]]創業の功臣・[[佐々木定綱]]の処罰を朝廷及び[[源頼朝]]に要求し、最終的に頼朝がこれに屈服して定綱が配流されるという事件が起きている([[建久二年の強訴]])。<br />
<br />
=== 武家との確執 ===<br />
{{出典の明記|date=2015年4月3日 (金) 00:00 (UTC)|section=1}} <br />
初めて延暦寺を制圧しようとした権力者は、[[室町幕府]]六代将軍の[[足利義教]]である。義教は将軍就任前は義円と名乗り、[[天台座主]]として比叡山側の長であったが、[[還俗]]・将軍就任後は比叡山と対立した。<br />
<br />
[[永享]]7年([[1435年]])、度重なる叡山制圧の機会にことごとく和議を(諸大名から)薦められ、制圧に失敗していた足利義教は、謀略により延暦寺の有力僧を誘い出し斬首した。これに反発した延暦寺の僧侶たちは、根本中堂に立てこもり義教を激しく非難した。しかし、義教の姿勢はかわらず、絶望した僧侶たちは2月、根本中堂に火を放って焼身自殺した。当時の有力者の日記には「山門惣持院炎上」([[満済准后日記]])などと記載されており、根本中堂の他にもいくつかの寺院が全焼あるいは半焼したと思われる。また、「本尊薬師三体焼了」([[大乗院日記目録]])の記述の通り、このときに円珍以来の[[本尊]]もほぼ全てが焼失している。同年8月、義教は焼失した根本中堂の再建を命じ、諸国に[[段銭]]を課して数年のうちに竣工した。また、[[宝徳]]2年([[1450年]])[[5月16日 (旧暦)|5月16日]]に、わずかに焼け残った本尊の一部から本尊を復元し、根本中堂に配置している。<br />
<br />
なお、義教は延暦寺の制圧に成功したが、義教が後に殺されると延暦寺は再び武装し僧を軍兵にしたて数千人の僧兵軍に強大化させ独立国状態に戻った。<br />
<br />
[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]に入っても延暦寺は独立国状態を維持していたが、[[明応]]8年([[1499年]])、[[管領]][[細川政元]]が、対立する前将軍[[足利義稙]]の入京と呼応しようとした延暦寺を攻めたため、再び根本中堂は灰燼に帰した。<br />
<br />
また戦国末期に[[織田信長]]が京都周辺を制圧し、[[朝倉義景]]・[[浅井長政]]らと対立すると、延暦寺は朝倉・浅井連合軍を匿うなど、反信長の行動を起こした。[[元亀]]2年([[1571年]])、延暦寺の僧兵4千人が強大な武力と権力を持つ僧による仏教政治腐敗で戦国統一の障害になるとみた信長は、延暦寺に武装解除するよう再三通達をし、これを断固拒否されたのを受けて[[9月12日 (旧暦)|9月12日]]、延暦寺を取り囲み焼き討ちした。これにより延暦寺の堂塔はことごとく炎上し、多くの僧兵や僧侶が殺害された。この事件については、京から比叡山の炎上の光景がよく見えたこともあり、[[山科言継]]など公家や商人の日記や、[[イエズス会]]の報告などにはっきりと記されている(ただし、山科言継の日記によれば、この前年の[[10月15日 (旧暦)|10月15日]]に浅井軍と見られる兵が延暦寺西塔に放火したとあり、延暦寺は織田・浅井双方の圧迫を受けて進退窮まっていたとも言われている)。<br />
<br />
''この時の戦いの様子は[[比叡山焼き討ち (1571年)|比叡山焼き討ち]]も参照。''<br />
<br />
信長の死後、[[豊臣秀吉]]や[[徳川家康]]らによって各僧坊は再建された。根本中堂は三代将軍[[徳川家光]]が再建している。家康の死後、[[天海]]僧正により江戸の鬼門鎮護の目的で上野に東叡山[[寛永寺]]が建立されると、天台宗の宗務の実権は江戸に移った(現在は比叡山に戻っている)。しかし、{{独自研究範囲|date=2015年4月3日 (金) 00:11 (UTC)|いったん世俗の権力に屈した延暦寺は、かつての精神的権威を復活することはできなかった。}}<br />
<br />
=== 現代 ===<br />
[[1956年]](昭和31年)[[10月11日]]午前3時30分に[[重要文化財]]だった大講堂から出火、同じく重要文化財であった鐘台に類焼し、これら2棟が全焼した。<br />
<br />
[[1987年]](昭和62年)[[8月3日]]、[[8月4日]]両日、比叡山開創1200年を記念して[[天台座主]][[山田恵諦]]の呼びかけで世界の宗教指導者が比叡山に集い、「比叡山宗教サミット」が開催された。その後も毎年8月、これを記念して比叡山で「世界宗教者平和の祈り」が行なわれている。<br />
<br />
[[1994年]](平成6年)、延暦寺は「[[古都京都の文化財]]」の一環として[[国際連合教育科学文化機関|ユネスコ]]の[[世界遺産]]に登録されている。<br />
<br />
==== 延暦寺近辺への土砂の大量不法投棄 ====<br />
<br />
延暦寺が運営する[[霊園]]に隣接した[[残土]][[処分場]]に、[[2004年]]以降に[[京都市]]内の[[建設会社]]の[[西日本開発]]が建設[[残土]]を大量に搬入するようになり、総量は大津市[[土砂条例]]で定められた9,900[[平方メートル]]をはるかに越えるようになった。大津市は[[2012年]][[10月]]に当該の業者に中止命令を出すと共に、条例違反でこの業者を[[滋賀県警察|滋賀県警]]に[[告訴・告発|告発]]したが、直後に処分地の所有者が変更され、[[不法投棄]]は継続された。土砂の崩落も相次ぐようになって負傷者も出るようになり、参拝者が危険に曝されるリスクが高まったことなどから、延暦寺と地域住民らが、滋賀県[[公害審査会]]に[[公害紛争処理法]]に基づく公害[[調停]]を申し立てることになった<ref>{{Cite news |url=http://mainichi.jp/select/news/20130605k0000e040247000c.html |title=大量残土:延暦寺霊園隣に 崩落でけが 住民ら公害調停へ |newspaper=毎日jp |publisher=毎日新聞社 |date=2013-06-05 |archiveurl=https://archive.is/20130625135420/http://mainichi.jp/select/news/20130605k0000e040247000c.html |archivedate=2013年6月25日 |deadlinkdate=2017年10月 }}</ref>。この不法投棄問題で滋賀県警は、[[法人]]としての西日本開発とその男性[[社長]]を大津市土砂条例違反容疑で[[書類送検]]した<ref>{{Cite news|url=http://mainichi.jp/select/news/20130723k0000e040251000c.html|title=残土処分場:大量土砂搬入の建設会社社長ら送検 大津|newspaper=毎日jp|publisher=毎日新聞社|date=2013-07-23|accessdate=2013-10-19|archiveurl=https://archive.is/20130728070246/http://mainichi.jp/select/news/20130723k0000e040251000c.html|archivedate=2013年7月28日|deadlinkdate=2017年10月}}</ref>。[[2014年]][[7月7日]]に、大津市が[[行政代執行]]などで土砂崩落防止工事を実施することや、周辺の[[川|河川]]や[[水路]]の水質検査を[[2017年]]度まで実施することなどで調停が成立した<ref>[http://mainichi.jp/area/news/20140707ddf041040008000c.html 大津市:残土問題 公害調停成立 延暦寺霊園近隣、市が崩落防止工事] 毎日新聞 2014年7月7日</ref>。<br />
<br />
==== 組織暴力団との関係 ====<br />
<br />
[[2006年]][[4月21日]]、延暦寺にて指定[[暴力団]][[山口組]]の歴代組長の[[法要]]を実施した。この件については事前に[[滋賀県警察]]から「組織の権力誇示と香典名目の資金集めに利用される」として法要の中止要請がなされていたが、延暦寺側は「これは単なる宗教の行事」として要請を拒絶し、その後、延暦寺内阿弥陀堂において[[法要]]式典の中では最高級とされる「特別永代回向」に最高幹部ら100名近い組員が参加し執り行われた。<br />
<br />
同寺を含め全国にある約75,000の寺が所属する財団法人[[全日本仏教会]]は、約30年前の[[1976年]]、全日本仏教徒会議において「暴力団排除」の決議を行っており、また2006年3月13日には全日本仏教会理事長である安原晃が「組織暴力団の義理かけ法要への協力を止めよう」との声明を発表した直後であった。法要後、全日本仏教会は、これらの決議及び声明を無視した延暦寺側に対して遺憾の意を表明した。<br />
<br />
後日法要が終わったのち、この式典について延暦寺法務部は報道陣に対し「次からは暴力団の法要は拒否したい」とのコメントを述べた。その後、同寺は[[5月18日]]に大津市内で「一山協議会」を開き、代表役員の執行と、6人の執行局役員全員が責任を取って総辞職した。その中で同寺は寺院関係者及び全日本仏教会への謝罪を表明しており、ホームページにおわびを掲載、宗内の約3000寺に「おわび状」を郵送している。<br />
<br />
その後同寺は、歴代組長の家族ら少人数での位牌参拝を認めていたが、各[[自治体]]で[[暴力団排除条例]]が相次いで制定されるなど、暴力団排除への社会的気運が高まってきたことなどから、[[2011年]]に同寺は山口組に対し、参拝を止めるよう伝達し、山口組もこれを了承した<ref>{{Cite news |url=http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20111117-OYT1T00745.htm |title=延暦寺、山口組の参拝拒否…歴代組長の位牌安置 |newspaper=YOMIURI ONLINE |publisher=読売新聞社 |date=2011-11-17 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20111118140950/http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20111117-OYT1T00745.htm |archivedate=2011年11月18日 |deadlinkdate=2017年10月 }}</ref>。<br />
<br />
==== 暴力事件 ====<br />
<br />
2016年4月、「延暦寺会館」副館長の男性僧侶が20代の修行僧ら3人に暴力をふるい、うち一人に左耳の鼓膜を破るなどの重傷を負わせた。男性僧侶は動機について「修行僧の態度にカッとなって頭に血が上り、殴ってしまった」としている。延暦寺は男性僧侶を厳重注意し、刑事告発しない方針。「厳粛に受け止め、伝統の名誉と信頼の回復に努めます」とコメントを発表した<ref>『朝日新聞』 2016年6月9日 </ref><ref>『中日新聞』 2016年6月9日 </ref>。<br />
<br />
== 比叡山の修行 ==<br />
=== 籠山行 ===<br />
{{出典の明記|date=2015年4月3日 (金) 00:09 (UTC)|section=2}} <br />
比叡山の[[修行]]は厳しい。山内の院や坊の[[住職]]になるためには三年間山にこもり続けなければならない。三年籠山の場合、一年目は浄土院で最澄廟の世話をする侍真(じしん)の助手を務め、二年目は百日回峰行を、そして三年目には常行堂もしくは法華堂のいずれかで90日間修行しなければならない。常行堂で行う修行(常行三昧)は本尊・[[阿弥陀如来]]の周囲を歩き続けるもので、その間念仏を唱えることも許されるが、基本的に禅の一種である。90日間横になることは許されず、一日数時間手すりに寄りかかり仮眠をとるというものである。法華堂で行われる行は常坐三昧といわれ、ひたすら坐禅を続け、その姿勢のまま仮眠をとる。<br />
<br />
十二年籠山では好相行が義務付けられており、好相行を満行しなければ十二年籠山の許可が下りない。好相行とは浄土院の拝殿で好相が得られるまで毎日一日三千回の[[五体投地]]を行うものである。好相とは一種の[[神秘体験]]であり、経典には如来が来臨して頭を撫でるとか、五色の光が差すのが見えるという記述もあるが、その内容は秘密とされている。{{要出典範囲|date=2015年4月3日 (金) 00:09 (UTC)|早い者で1~2週間、何年もかかって好相を得る者もいるという。}}<br />
<br />
=== 千日回峰行 ===<br />
{{main|[[千日回峰行 (比叡山)|千日回峰行]]}}<br />
<br />
7年間、1年に100日から200日、合計千日間、[[比叡山]]の[[山内]]を巡拝する回峰行。途中、[[堂入り]]という荒行を行い、これを満行した者は生身の[[不動明王]]、'''当行満阿闍梨'''と呼ばれる。千日間を満行した者は'''北嶺[[大行満]][[大阿闍梨]]'''と呼ばれる。[[第二次世界大戦]]以降で満行した者は、2017年現在、14人。<br />
<br />
== 境内 ==<br />
[[ファイル:Enryakuji Konponchudo02s5s3200.jpg|thumb|根本中堂と回廊]]<br />
比叡山の山内は「東塔(とうどう)」「西塔(さいとう)」「横川(よかわ)」と呼ばれる3つの区域に分かれている。これらを総称して「三塔」と言い、さらに細分して「三塔十六谷二別所」と呼称している。このほか、滋賀県側の山麓の坂本地区には本坊の滋賀院、「里坊」と呼ばれる寺院群、比叡山とは関係の深い[[日吉大社]]などがある。<br />
<br />
* 三塔十六谷二別所<br />
** 東塔-北谷、東谷、南谷、西谷、[[無動寺谷]]<br />
** 西塔-東谷、南谷、南尾谷、北尾谷、北谷<br />
** 横川-香芳谷、解脱谷、戒心谷、都率谷、般若谷、[[飯室谷]]<br />
** 別所-黒谷、安楽谷<br />
<br />
=== 東塔 ===<br />
延暦寺発祥の地であり、本堂にあたる根本中堂を中心とする区域である。<br />
<br />
* [[延暦寺根本中堂|根本中堂]](国宝) - 最澄が建立した一乗止観院の後身。現在の建物は織田信長焼き討ちの後、寛永19年([[1642年]])に[[徳川家光]]によって再建されたものである。[[1953年]](昭和28年)に[[国宝]]に指定された。入母屋造で幅37.6メートル、奥行23.9メートル、屋根高24.2メートルの大建築である。土間の内陣は外陣より床が3メートルも低い、独特の構造になっている。内部には3基の厨子が置かれ、中央の厨子には最澄自作の伝承がある秘仏・薬師如来立像を安置する(開創1,200年記念の[[1988年]]に開扉されたことがある)。本尊厨子前の釣灯篭に灯るのが、最澄の時代から続く「不滅の法灯」である。この法灯は信長の焼き討ちで一時途絶えたが、山形県の[[立石寺]]に分灯されていたものを移して現在に伝わっている。嘉吉3年([[1443年]])に[[南朝 (日本)|南朝]]復興を目指す[[後南朝]]の[[日野家|日野氏]]などが[[京都]]の御所から[[三種の神器]]の一部を奪う[[禁闕の変]]が起こると、一味は根本中堂に立て篭もり、朝廷から追討令が出たことにより幕軍や山徒により討たれる。<br />
* 文殊楼(重文)<ref name="example">[http://www.pref.shiga.lg.jp/jourei/reisys/426920500001000000MH/426920500001000000MH/426920500001000000MH.html 滋賀県指定有形文化財の指定]</ref> - [[寛文]]8年([[1668年]])の火災後の再建。二階建ての門で、階上に文殊菩薩を安置する。根本中堂の真東に位置し、他の寺院における山門にあたる。<br />
* [[大講堂]](重文) - 寛永11年([[1634年]])の建築。もとは東麓・坂本の[[日吉東照宮|東照宮]]の讃仏堂であったものを[[1964年]]に移築した。重要文化財だった旧大講堂は寛永19年(1642年)に完成した裳階つき建築だったが[[1956年]]に放火による火災で焼失している。本尊は大日如来。本尊の両脇には向かって左から日蓮、道元、栄西、円珍、法然、親鸞、良忍、[[真盛]]、一遍の像が安置されている。いずれも若い頃延暦寺で修行した高僧で、これらの肖像は関係各宗派から寄進されたものである。<br />
* 法華総持院東塔 - [[1980年]]再建。多宝塔型の塔であるが、通常の多宝塔と異なり、上層部は平面円形ではなく方形である。下層には[[胎蔵界]]大日如来、上層には[[仏舎利]]と法華経1,000部を安置する。<br />
* 戒壇院(重文) - [[延宝]]6年([[1678年]])の再建。<br />
* 国宝殿 - 山内諸堂の本尊以外の仏像や絵画、工芸品、文書などを収蔵展示する。<br />
* [[浄土院 (大津市)|浄土院]] - 東塔地区から徒歩約15分のところにある。宗祖最澄の廟があり、山内でもっとも神聖な場所とされている。ここには12年籠山修行の僧がおり、宗祖最澄が今も生きているかのように食事を捧げ、庭は落ち葉1枚残さぬように掃除されている。<br />
* [[無動寺 (大津市)|無動寺]] - 根本中堂から南へ1.5キロほど離れたところにあり、[[千日回峰行]]の拠点である。不動明王と弁才天を祀っている。[[貞観 (日本)|貞観]]7年([[865年]])、回峯行の創始者とされる[[相応 (僧)|相応和尚]]が創建した。<br />
* 大書院 - [[昭和天皇]]の即位にあわせ東京の[[村井吉兵衛]]の邸宅の一部を移築したもので迎賓館として使用されている。<br />
* 阿弥陀堂<br />
* 灌頂堂<br />
* 八部院堂 - [[790年]]草創、[[1988年]]再建。<br />
<br />
<gallery><br />
ファイル:Enryakuji Monjuro02n3200.jpg|文殊楼(重文)<br />
ファイル:Enryakuji Daikodo2.jpg|大講堂(重文)<br />
ファイル:Enryakuji Toto01n3200.jpg|東塔<br />
ファイル:Enryakuji Kaidanin01n3200.jpg|戒壇院(重文)<br />
File:Trip to Kyoto (5253800200).jpg|浄土院拝殿(重文)<br />
ファイル:Enryakuji Amidado.jpg|阿弥陀堂<br />
ファイル:Enryakuji Kanchodo01n3200.jpg|灌頂堂<br />
ファイル:Enryakuji Shoro01n4272.jpg|鐘楼<br />
ファイル:Mudoji (Otsu, Shiga) Myoodo.jpg|無動寺明王堂<br />
|比叡山延暦寺根本中堂の御朱印<br />
</gallery><br />
<br />
=== 西塔 ===<br />
* 転法輪堂(重文) - 西塔の中心堂宇で、釈迦堂ともいう。信長による焼き討ちの後、[[文禄]]4年([[1595年]])、当時の[[園城寺]]弥勒堂(金堂に相当し、南北朝時代の[[1347年]]の建立)を豊臣秀吉が無理やり移築させたものである。現存する延暦寺の建築では最古のもので本尊は釈迦如来立像(重文)。<br />
* [[常行三昧堂|常行堂]]・法華堂(重文) - 2棟の全く同形の堂が左右に並んでいる。向かって右が普賢菩薩を本尊とする法華堂、左が阿弥陀如来を本尊とする常行堂で、文禄4年([[1595年]])の建築である。2つの堂の間に渡り廊下を配した全体の形が天秤棒に似ているところから「担い堂」の称がある。<br />
* 瑠璃堂(重文) - 西塔地区から黒谷(後述)へ行く途中にある。信長の焼き討ちをまぬがれた唯一の堂といわれる。様式上、室町時代の建築である。<br />
* [[青龍寺 (大津市坂本)|黒谷青龍寺]] - 西塔地区から1.5キロほど離れた黒谷にあり、法然が修行した場所として有名である。<br />
<gallery><br />
ファイル:Enryakuji Tenhorindo02n4272.jpg|転法輪堂<br />(釈迦堂)(重文)<br />
ファイル:Enryakuji Jogyodo01n3200.jpg|常行堂(重文)<br />
ファイル:Enryakuji Hokkedo02n3200.jpg|法華堂(重文)<br />
ファイル:Enryakuji Ninaido01n3200.jpg|にない堂渡廊下<br />
ファイル:Enryakuji Eryodo01n4272.jpg|恵亮堂<br />
ファイル:Enryakuji Saito06n3200.jpg|<ruby><rb>箕淵</rb><rt>みのふち</rt></ruby>弁財天社(聖光院跡)<br />
File:Enryaku-ji (4154474078).jpg|西塔鐘楼(重文)<br />
</gallery><br />
<br />
=== 横川 ===<br />
西塔から北へ4キロほどのところにある。[[嘉祥]]3年([[850年]])、円仁(慈覚大師)が建立した首楞厳院(しゅりょうごんいん)が発祥である。<br />
<br />
* 横川中堂(よかわちゅうどう) - [[新西国三十三箇所|新西国三十三箇所観音霊場]]第18番札所。旧堂は[[1942年]]、落雷で焼失し、現在の堂は[[1971年]]に鉄筋コンクリート造で再建されたものである。本尊は聖観音立像(重文)。<br />
* 根本如法塔 - 多宝塔で、現在の建物は大正期の再建。円仁が法華経を写経し納めた塔が始まりである。<br />
* 四季講堂(元三大師堂)(重文) - 四季に法華経の論議を行うことから四季講堂と呼ばれる。[[おみくじ]]発祥の地である。<br />
* 恵心院<br />
* [[安楽律院]] - 天台宗安楽律法流の道場。<br />
<gallery><br />
ファイル:Enryaku-ji Yokokawa-chudo-r.jpg|横川中堂<br />
ファイル:Enryaku-ji Ganzandaishido-r.jpg|四季講堂(元三大師堂)(重文)<br />
ファイル:Eshinin.jpg|恵心院<br />
</gallery><br />
<br />
=== 神坂(みさか) ===<br />
[[長野県]]境に近い[[岐阜県]][[中津川市]]神坂(みさか)に最澄が817年に設けた[[広済院・広拯院|広済院]]があったと思われる所を寺領とした「飛び地境内」である<ref name="asahi20161124"/>。<br />
[[1958年]](昭和33年)に建立された最澄の「遺跡顕彰碑」があり、最澄の遺徳をしのぶ法要が毎年営まれる<ref name="asahi20161124"/>。<br />
<br />
== 文化財 ==<br />
[[ファイル:Kōjōkaichō.jpg|thumb|嵯峨天皇宸翰光定戒牒(国宝)弘仁14年(823年)]]<br />
[[ファイル:Catalogue of imported items.jpg|thumb|伝教大師請来目録(国宝)巻末「印可」の部分 唐時代・805年]]<br />
[[ファイル:Dengyō-daishi nittōchō.jpg|thumb|伝教大師入唐牒のうち明州牒(国宝)唐時代・804年]]<br />
[[ファイル:List of Implements Saicho.jpg|thumb|羯磨金剛目録(全文)(国宝)最澄筆 弘仁2年(811年)]]<br />
[[ファイル:Seven-strip surplice.jpg|thumb|七条刺納袈裟(国宝)唐時代]]<br />
[[ファイル:Saikouhanbutu.jpg|thumb|山門再興文書(重要文化財)のうち 天正12年(1584年)5月朔日 豊臣秀吉直判]]<br />
<br />
=== 国宝 ===<br />
* 根本中堂(附:須弥壇及び宮殿3具)<br />
* 金銅経箱 - 平安時代後期の金属工芸。横川から発掘された。<br />
* 宝相華蒔絵経箱 - 平安時代後期の漆工芸品<br />
* 七条刺納袈裟、刺納衣 - 最澄が持ち帰った、唐時代の染織遺品<br />
* 伝教大師将来目録 - 貞元21年(805年)跋、唐の越州から最澄が将来した経典類の自筆目録<br />
* 羯磨金剛目録 - 最澄自筆の将来品目録、弘仁2年(811年)<br />
* 天台法華宗年分縁起 - 最澄筆<br />
* 六祖恵能伝 - 貞元19年(803年)奥書、最澄が持ち帰った、唐時代の写本<br />
* 伝教大師入唐牒 - 最澄の唐での通行許可書、台州牒(貞元20年・804年)と越州牒(貞元21年・805年)からなる<br />
* 光定戒牒(こうじょうかいちょう) - 「[[三筆]]」の一人[[嵯峨天皇]]の筆、弘仁14年(823年)<br />
<br />
=== 重要文化財 ===<br />
'''(建造物)'''<br />
* 根本中堂回廊<br />
* 大講堂(旧東照宮本地堂)<br />
* 転法輪堂(釈迦堂)<br />
* 大乗戒壇院堂<br />
* 瑠璃堂<br />
* 相輪橖(そうりんとう)<br />
* 常行堂及び法華堂(附:廊下)<br />
* 延暦寺11棟<ref>平成28年7月25日文部科学省告示第102号。</ref><ref>[http://www.bunka.go.jp/koho_hodo_oshirase/hodohappyo/2016052002.html 重要文化財(建造物)の指定について](文化庁サイト)</ref><ref group="注釈">11棟のうち以下の9棟は国の重要文化財指定以前に滋賀県指定有形文化財の指定を受けていた。<br />
*阿弥陀堂鐘楼(1963年指定)<br />
*四季講堂(1967年指定)<br />
*慈眼堂(2006年指定)<br />
*文殊楼、山王社、浄土院伝教大師御廟・唐門・拝殿、元三大師御廟拝殿(2014年指定)</ref><br />
**文殊楼<br />
**山王社 <br />
**浄土院伝教大師御廟(附 棟札1枚)<br />
**浄土院唐門<br />
**浄土院拝殿<br />
**阿弥陀堂鐘楼<br />
**西塔鐘楼<br />
**四季講堂(附 厨子、棟札5枚)<br />
**元三大師御廟拝殿(附御廟瑞垣、鳥居)<br />
**横川鐘楼<br />
**慈眼堂(附 厨子)(大津市坂本4丁目 滋賀院所在)<br />
<br />
'''(絵画)'''<br />
* 絹本著色天台大師像 <br />
* 絹本著色天台大師像 有賛 <br />
* 絹本著色相応和尚像 <br />
* 絹本著色不動明王三大童子五部使者像 <br />
* 絹本著色文殊菩薩像 <br />
* 絹本著色山王本地仏像<ref group="注釈">本像は滋賀県草津市の観音寺([[芦浦観音寺]])旧蔵で、個人所有を経て後に延暦寺に寄進されたもの。</ref><br />
* 紙本著色山王霊験記 <br />
<br />
'''(彫刻)'''<br />
* 木造釈迦如来立像(釈迦堂安置。特別な機会にしか公開しない[[秘仏]][[本尊]]<ref>[http://www.hieizan.or.jp/archives/2556 釈迦堂内陣特別拝観秘仏ご開帳]延暦寺ホームページ(2017年12月22日閲覧)</ref>) <br />
* 木造聖観音立像(横川中堂安置) <br />
* 木造光定大師立像(旧所在山麓大師堂) <br />
* 木造不動明王二童子像(旧所在無動寺明王堂) <br />
* 木造降三世明王立像(旧所在無動寺明王堂) <br />
* 木造軍荼利夜叉明王立像(旧所在無動寺明王堂) <br />
* 木造大威徳明王像(旧所在無動寺明王堂) <br />
* 木造金剛夜叉明王立像(旧所在無動寺明王堂) <br />
* 木造四天王立像(旧所在根本中堂) <br />
* 木造四天王立像 2躯(旧所在釈迦堂) <br />
* 木造千手観音立像(旧所在山王院) <br />
* 木造不動明王立像(旧所在飯室不動堂) <br />
* 木造維摩居士坐像([[青龍寺 (大津市坂本)|黒谷青龍寺]]旧蔵) <br />
* 木造慈恵大師坐像([[青龍寺 (大津市坂本)|黒谷青龍寺]]旧蔵)弘安9年(1286年)銘 <br />
* 木造慈恵大師坐像(本覚院旧蔵)文永2年(1265年)銘 <br />
* 木造阿弥陀如来立像(滋賀院旧蔵) <br />
* 木造吉祥天立像(滋賀院旧蔵) <br />
* 木造大黒天立像(律院旧蔵) <br />
* 木造薬師如来坐像<ref group="注釈">本像は[[1944年]]、[[兵庫県]]の個人所有として重文(旧国宝)に指定され、後に延暦寺に寄進されたもの。</ref><br />
<br />
'''(工芸品)'''<br />
* 尾長鳥繍縁花文錦打敷 <br />
<br />
'''(書跡典籍、古文書、歴史資料)'''<br />
* 紺紙金銀交書法華経 8巻 <br />
* 紺紙銀字法華経 8巻 <br />
* 華厳要義問答 行福筆 <br />
* 悉曇蔵 8帖 <br />
* 伝述一心戒文 上中下 3帖 応徳元年良祐写<br />
* 延暦寺楞厳三昧院解 天禄三年正月十五日 <br />
* 山門再興文書 4通 <br />
* 道邃和尚伝道文 <br />
* 宗存版木活字(付属品共)174,261点 <br />
<br />
'''(一山寺院所有分)'''<br />
:以下の重要文化財(比叡山麓坂本の里坊の所有)については、延暦寺が文化財保護法第32条の2の規定に基づく「管理団体」に指定されており、比叡山国宝殿に保管されている<ref>管理団体指定は1966年に行われた(昭和41年3月24日文化財保護委員会告示第17号)</ref>。<br />
* 恵光院 絹本著色不動二童子像 <br />
* 実蔵坊 絹本著色毘沙門天像 <br />
* 実蔵坊 水晶舎利塔 <br />
* 大林院 絹本著色不動明王二童子像 <br />
* 大林院 木造不動明王坐像 <br />
* 寿量院 木造阿弥陀如来坐像 <br />
* 乗実院 木造阿弥陀如来立像 <br />
* 恵日院 木造慈眼大師坐像 <br />
* 求法寺 木造慈恵大師坐像 文永4年(1267年)銘<br />
* 明徳院 絹本著色地蔵菩薩像 <br />
* 妙行院 木造地蔵菩薩立像 <br />
* 玉蓮院 木造不動明王二童子立像 <br />
* 弘法寺 金銀鍍水瓶 <br />
* 弘法寺 法華経(装飾経) <br />
<br />
上記のほか、以下の重要文化財についても、延暦寺が「管理団体」に指定されており、比叡山国宝殿に保管されている<ref>管理団体指定は明王院については1966年、蓮台寺については1969年に行われた(昭和41年3月24日文化財保護委員会告示第17号および昭和44年11月4日文化庁告示第9号)</ref>。<br />
<br />
* 明王院(大津市葛川坊村町)所有<br />
** 紙本著色光明真言功徳絵詞<br />
** 絹本着色不動明王二童子像 <br />
** 木造千手観音・不動明王・毘沙門天立像 <br />
** 葛川明王院文書 <br />
** 葛川与伊香立庄相論絵図 <br />
** 葛川明王院参籠札 <br />
* 蓮台寺(滋賀県[[栗東市]])所有<br />
** 木造薬師如来両脇侍像<br />
<br />
典拠:2000年までに指定の国宝・重要文化財については、『国宝・重要文化財大全 別巻』(所有者別総合目録・名称総索引・統計資料)(毎日新聞社、2000)による。2000年以降の指定物件については、個別に脚注を付した。<br />
<br />
なお、境内は国の史跡に指定され、「比叡山鳥類繁殖地」として天然記念物に指定されている。<br />
また、[[1994年]]12月、「[[古都京都の文化財]]」の一つとして[[日本の世界遺産|世界遺産]]に登録された。<br />
<br />
=== 焼失した文化財 ===<br />
[[1942年]][[7月30日]]、[[雷|落雷]]による火災で以下の建造物1件、工芸品1件が焼失した<ref>焼失文化財については[http://www.pref.shiga.lg.jp/edu/katei/bunkazai/bunkazaimokuroku/index.html 文化財目録](滋賀県教育委員会)による(「指定解除」のページを参照)</ref>。<br />
* (旧)横川中堂 - 旧国宝建造物。<br />
* 銅筒 - 金銅経箱(現国宝)の付属品だったもの<br />
<br />
[[1956年]][[10月11日]]、[[放火]]により以下の建造物2件、彫刻3件(いずれも当時重要文化財)が焼失した。<br />
* (旧)大講堂<br />
* 大講堂鐘台<br />
* 銅造釈迦如来坐像<br />
* 木造持国天・多聞天立像<br />
* 木造阿弥陀如来坐像<br />
== 交通 ==<br />
=== バス路線 ===<br />
====東塔====<br />
東塔区域の最寄りの[[バス停留所|バス停]]は、'''延暦寺バスセンター'''である。以下の路線が乗り入れ、[[京都バス]]および[[京阪バス]]により運行されている。[[叡山ロープウェイ]]比叡山頂駅を利用する場合、延暦寺バスセンター・比叡山頂停留所間はバスで約5分。<br />
<br />
'''延暦寺バスセンター'''停留所<br />
*[[京都バス嵐山営業所#比叡山線(比叡山ドライブバス)|51系統]](京都バス):京都駅 行き/[[叡山ロープウェイ#接続路線|比叡山頂]] 行き(京阪出町柳経由)<br />
*[[京阪バス山科営業所#京都比叡山線(比叡山ドライブバス)|57系統]](京阪バス):京都駅 行き/比叡山頂 行き(京阪出町柳経由)<br />
*シャトル系統(京阪バス):比叡山頂 行き(当停留所始発)<br />
*シャトル系統(京阪バス):ロテル・ド・比叡行き/比叡山頂 行き<br />
*シャトル系統(京阪バス):横川行き/比叡山頂 行き(西塔経由)<br />
<br />
====西塔====<br />
西塔区域の最寄りの[[バス停留所|バス停]]は、'''西塔'''バス停である。以下の路線が乗り入れ、[[京阪バス]]により運行されている。<br />
<br />
'''西塔'''バス停<br />
*シャトル系統(京阪バス):横川行き/比叡山頂 行き(延暦寺バスセンター経由)<br />
====横川====<br />
横川区域の最寄りの[[バス停留所|バス停]]は、'''横川'''バス停である。以下の路線が乗り入れ、[[京阪バス]]により運行されている。<br />
<br />
'''横川'''バス停<br />
*シャトル系統(京阪バス):比叡山頂 行き(当停留所始発、延暦寺バスセンター経由)<br />
<br />
=== ケーブル ===<br />
最寄り駅である[[比叡山鉄道|坂本ケーブル]][[ケーブル延暦寺駅]]より徒歩10分(東塔区域まで)。<br />
<br />
== 脚注 ==<br />
{{脚注ヘルプ}}<br />
=== 注釈 ===<br />
{{Reflist|group="注釈"}}<br />
=== 出典 ===<br />
{{Reflist}}<br />
<br />
== 参考文献 ==<br />
{{参照方法|date=2015年4月3日 (金) 00:10 (UTC)}}<br />
* 延暦寺執行局編 『比叡山 その歴史と文化を訪ねて』 比叡山延暦寺刊、1993<br />
* 東京国立博物館・京都国立博物館編 『最澄と天台の国宝』(特別展図録)、[[読売新聞社]]刊、2005<br />
* 井上靖、塚本善隆監修、安岡章太郎、誉田玄昭著 『古寺巡礼京都26 延暦寺』 [[淡交社]]、1978<br />
* [[竹村俊則]] 『昭和京都名所図会 洛南』 [[駸々堂]]、1982<br />
* 『比叡山 天台宗開宗千二百年記念(別冊太陽)』 [[平凡社]]、2006 <br />
* 『週刊朝日百科 日本の国宝』16号、[[朝日新聞社]]、1998<br />
* 『日本歴史地名大系 京都市の地名』 [[平凡社]]<br />
* 『角川日本地名大辞典 京都府』 [[角川書店]]<br />
* 『国史大辞典』 [[吉川弘文館]]<br />
* 日本仏教の礎 [[佼成出版社]] 2010<br />
<br />
== 関連項目 ==<br />
{{Commonscat|Enryakuji}}<br />
* [[天台座主]]<br />
* [[叡山版]]<br />
* [[日吉大社]]<br />
* [[山王神道]]<br />
* [[石清水八幡宮]]<br />
* [[鬼門]]<br />
* [[台密]]<br />
* [[寛永寺]]<br />
* [[輪王寺]]<br />
* [[山科本願寺]]<br />
* [[圓教寺]] - 「西の比叡山」<br />
* [[佐々木庄]]<br />
* [[比叡山焼き討ち]]<br />
* [[比叡山中学校・高等学校]]<br />
* [[ミラレパ]] - チベット僧侶のルン・ゴム・パと回峰行者との類似<br />
* [[沢田研二]] - [[1975年]][[7月20日]]、[[ザ・ピーナッツ]]の[[伊藤エミ]]と当寺にて挙式([[1987年]]に離婚)<br />
<br />
== 外部リンク ==<br />
* [http://www.hieizan.or.jp/ 天台宗総本山 比叡山延暦寺](公式サイト) {{ja icon}}<br />
* {{Twitter|enryakuji_hiei|延暦寺}}<br />
<br />
{{古都京都の文化財}}<br />
{{Buddhism2}}<br />
{{Normdaten}}<br />
{{デフォルトソート:えんりやくし}}<br />
[[Category:天台宗の寺院|*]]<br />
[[Category:大津市の寺]]<br />
[[Category:天台宗|*えんりやくし]]<br />
[[Category:新西国三十三箇所]]<br />
[[Category:東海四十九薬師霊場]]<br />
[[Category:神仏霊場巡拝の道]]<br />
[[Category:平成百景]]<br />
[[Category:世界遺産 あ行]]<br />
[[Category:古都京都の文化財]]<br />
[[Category:室町時代の建築]]<br />
[[Category:安土桃山時代の建築]]<br />
[[Category:江戸時代の建築]]<br />
[[Category:日本の国宝 (建造物)]]<!--このカテゴリは残しておいてよいのでは?--><br />
[[Category:日本の国宝 (工芸品)]]<br />
[[Category:日本の国宝 (書跡・典籍・古文書)]]<br />
[[Category:滋賀県の重要文化財]]<br />
[[Category:滋賀県にある国指定の史跡]]<br />
[[Category:京都府にある国指定の史跡]]</div>
60.36.246.215
観音寺
2018-06-20T00:57:23Z
<p>60.36.246.215: /* 関東地方 */</p>
<hr />
<div>__NOTOC__<br />
'''観音寺'''、[[正字]]: '''觀音寺'''(かんのんじ、かんおんじ、かんのうじ)は、[[仏教]]の[[寺院]]やそれに基づく地名など。各地に存在する。<br />
<br />
== 寺院 ==<br />
<!--追加する際は、北・東から順に--><br />
=== 北海道 ===<br />
* [[観音寺 (黒松内町)]] – [[北海道]][[寿都郡]][[黒松内町]]にある[[曹洞宗]]の寺院。[[安政]]6年[[開山 (仏教)|開山]]。<br />
<br />
=== 東北地方 ===<br />
; 宮城県<br />
* [[観音寺 (気仙沼市)]] – [[宮城県]][[気仙沼市]]にある[[天台宗]]の寺院。<br />
* [[観音寺 (東松島市)]] – [[宮城県]][[東松島市]]にある[[曹洞宗]]の寺院。<br />
; 福島県<br />
* [[観音寺 (喜多方市)]] – [[福島県]][[喜多方市]]にある[[曹洞宗]]の寺院。<br />
<br />
=== 関東地方 ===<br />
; 栃木県<br />
* [[観音寺 (小山市)]] – [[栃木県]][[小山市]]にある[[真言宗豊山派]]の寺院。<br />
; 群馬県<br />
* [[観音寺 (藤岡市)]] – [[群馬県]][[藤岡市]]岡之郷甲にある真言宗の寺院。<br />
; 埼玉県<br />
* [[観音寺 (秩父市)]] – [[埼玉県]][[秩父市]]にある真言宗豊山派の寺院。[[秩父三十四箇所|秩父三十四観音霊場]]21番札所。<br />
* [[観音寺 (飯能市)]] – 埼玉県[[飯能市]]にある[[真言宗智山派]]の寺院。<br />
; 茨城県<br />
* [[観音寺 (筑西市)]] – [[茨城県]][[筑西市]][[中舘]]([[中館]])456 及び 522にある寺院。施無畏山延命院。[[伊佐城]]も参照。<br />
; 千葉県<br />
* [http://www.kannon-ji.jp/enki_a.html 観音寺 (柏市)] – 千葉県柏市にある真言宗豊山派の寺院。<br />
* [[観音寺 (君津市)]] – [[千葉県]][[君津市]]にある真言宗智山派の寺院。通称[[三石観音]]。<br />
; 東京都<br />
* [[観音寺 (荒川区)]] – [[東京都]][[荒川区]]にある真言宗豊山派の寺院。<br />
* [[観音寺 (新宿区)]] – 東京都[[新宿区]]高田馬場にある単立系の寺院。<br />
* [[観音寺 (世田谷区下馬)]] – 東京都[[世田谷区]]にある単立系の寺院。<br />
* [[観音寺 (世田谷区桜上水)]] – 東京都世田谷区にある真言宗豊山派の寺院。<br />
* [[観音寺 (品川区)]] – 東京都[[品川区]]にある天台宗の寺院。<br />
* [[観音寺 (多摩市)]] – 東京都[[多摩市]]関戸にある真言宗豊山派の寺院。<br />
* [[塩船観音寺]] – 東京都[[青梅市]]塩船にある[[真言宗醍醐派]]の寺院。<br />
* [[観音寺 (八王子市)]] – [[東京都]][[八王子市]][[万町]]にある真言宗智山派の寺院。<br />
; 神奈川県<br />
* [[大船観音寺]] – 神奈川県[[鎌倉市]]岡本にある曹洞宗の寺院。[[大船観音]]がある。<br />
<br />
=== 中部地方 ===<br />
; 新潟県<br />
* [[観音寺 (阿賀町綱木)]] – [[新潟県]][[東蒲原郡]][[阿賀町]]綱木にある真言宗豊山派の寺院。<br />
* [[観音寺 (阿賀町豊実)]] – 新潟県東蒲原郡阿賀町豊実にある曹洞宗の寺院。通称菱潟全海堂。全海上人の[[即身仏]]を安置。<br />
* [[観音寺 (阿賀町両郷)]] – 新潟県東蒲原郡阿賀町両郷にある○○宗の寺院。<br />
* [[観音寺 (村上市)]] – 新潟県[[村上市]]肴町にある[[高野山真言宗]]の寺院。日本最後の[[即身仏]] 佛海上人を安置。[[弘安]]5年(1282年)開創。<br />
; 長野県<br />
* [[観音寺 (松本市)]] – [[長野県]][[松本市]]にある高野山真言宗の寺院。<br />
* [[観音寺 (佐久市)]] – 長野県[[佐久市]]にある天台宗の寺院。<br />
<br />
==== 東海地方 ====<br />
; 愛知県<br />
* [[大草観音寺]] – [[愛知県]][[小牧市]]大草にある曹洞宗の寺院。<br />
* [[観音寺 (小牧市岩崎)]] – 愛知県小牧市岩崎にある曹洞宗の寺院。<br />
* [[観音寺 (小牧市外堀)]] – 愛知県小牧市外堀にある曹洞宗の寺院。<br />
* [[観音寺 (豊山町)]] – 愛知県[[西春日井郡]][[豊山町]]にある曹洞宗の寺院。<br />
* [[観音寺 (春日井市神屋町)]] – 愛知県[[春日井市]]神屋町にある曹洞宗の寺院。<br />
* [[観音寺 (春日井市松河戸町)]] – 愛知県春日井市[[松河戸町]]にある曹洞宗の寺院。<br />
* [[荒子観音|観音寺 (荒子観音)]] – 愛知県[[名古屋市]]にある天台宗の寺院。<br />
* [[観音寺 (東郷町)]] – 愛知県[[愛知郡 (愛知県)|愛知郡]][[東郷町]]にある浄土宗西山禅林寺派の寺院。<br />
* [[観音寺 (北名古屋市)]] – 愛知県[[北名古屋市]]にある曹洞宗の寺院。<br />
* [[観音寺 (高浜市)]] – 愛知県[[高浜市]]にある浄土宗の寺院。<br />
* [[伏見屋観音寺]] – 愛知県[[碧南市]]にある寺院。<br />
* [[観音寺 (清須市)]] – 愛知県[[清須市]]にある曹洞宗の寺院。<br />
* [[観音寺 (津島市)]] – 愛知県[[津島市]]にある[[真言宗智山派]]の寺院。もと[[津島神社]]の[[神宮寺]]。[http://www.geocities.jp/beppinudontokumori/index.html 牛玉山(ごおうざん)観音寺]<br />
<br />
==== 北陸地方 ====<br />
; 富山県<br />
* [[観音寺 (小矢部市)]] – [[富山県]][[小矢部市]]にある高野山真言宗の寺院。[[北陸観音霊場]]第26番礼所。<br />
* [[観音寺 (高岡市)]] – 富山県[[高岡市]]城光寺にある曹洞宗の寺院。<br />
<br />
=== 近畿地方 ===<br />
; 三重県<br />
* [[観音寺 (四日市市垂坂町)]] – [[三重県]][[四日市市]][[垂坂町]]にある天台宗の寺院。<br />
* [[観音寺 (四日市市六呂見)]] – 三重県四日市市[[六呂見]]にある浄土宗の寺院。<br />
* [[観音寺 (鈴鹿市高塚町)]] – 三重県[[鈴鹿市]]高塚町にある真言宗御室派の寺院。<br />
* [[観音寺 (鈴鹿市寺家)]] – 三重県鈴鹿市寺家にある高野山真言宗の寺院。<br />
* [[津観音|観音寺 (津観音)]] – 三重県[[津市]]にある真言宗醍醐派の寺院。<br />
* [[観音寺 (名張市)]] – 三重県[[名張市]]朝日町にある[[真言宗室生寺派]]の寺院。<br />
; 滋賀県<br />
* [[観音寺 (米原市)]] – [[滋賀県]][[米原市]]にある天台宗の寺院。<br />
* [[観音正寺]] – 滋賀県[[近江八幡市]]にある天台宗系の寺院。[[観音寺城]]の名は当寺に因む。<br />
; 京都府<br />
* [[観音寺 (京都市東山区)]] – [[京都府]][[京都市]][[東山区]]にある[[真言宗泉涌寺派]]の寺院。<br />
* 朝日山[[東向観音寺]]<br />
* [[山崎聖天|観音寺 (山崎聖天)]] – 京都府[[乙訓郡]][[大山崎町]]にある真言宗系単立の寺院。<br />
* [[観音寺 (京田辺市)]] – 京都府[[京田辺市]]にある真言宗智山派の寺院。<br />
* [[観音寺 (精華町)]] – 京都府[[相楽郡]][[精華町]]にある寺院。<br />
* [[観音寺 (舞鶴市)]] – 京都府[[舞鶴市]]にある真言宗御室派の寺院。<br />
* [[観音寺 (福知山市観音寺)]] – 京都府[[福知山市]]観音寺にある高野山真言宗の寺院。<br />
* [[観音寺 (福知山市大江町南山)]] – 京都府福知山市大江町南山にある高野山真言宗の寺院。<br />
; 大阪府<br />
* [[観音寺 (大阪市天王寺区逢阪)]] – [[大阪府]][[大阪市]][[天王寺区]]逢阪にある[[融通念佛宗]]の寺院。<br />
* [[観音寺 (大阪市天王寺区城南寺町)]] – 大阪市天王寺区城南寺町にある高野山真言宗の寺院。<br />
* [[観音寺 (大阪市天王寺区堂ケ芝)]] – 大阪府大阪市天王寺区堂ヶ芝にある曹洞宗の寺院。通称、大阪豊川稲荷別院。<br />
* [[韓国観音寺]] – 大阪市[[生野区]]桃谷にある日本最大の[[韓国仏教]]の[[寺院]]。正式名は「[[宗教法人]]・民衆佛教観音寺」。<br />
* [[観音寺 (東大阪市西岩田)]] – 大阪府東大阪市西岩田にある真言宗の寺院。河内西国第十九番霊所。<br />
* [[観音寺 (東大阪市東豊浦町)]] – 大阪府東大阪市東豊浦町にある真言宗の寺院。<br />
* [[観音寺 (柏原市太平寺)]] – 大阪府[[柏原市]]太平寺にある曹洞宗の寺院。<br />
* [[観音寺 (柏原市本郷)]] – 大阪府柏原市[[本郷 (柏原市)|本郷]]にある浄土宗の寺院。<br />
* [[観音寺 (和泉市上代町)]] – 大阪府[[和泉市]]にある浄土宗の寺院。<br />
* [[観音寺 (和泉市観音寺町)]] – 大阪府和泉市にある浄土宗の寺院。<br />
* [[観音寺 (阪南市)]] – 大阪府[[阪南市]]にある臨済宗妙心寺派の寺院。<br />
* [[大聖観音寺]]<br />
; 兵庫県<br />
* [[観音寺 (豊岡市)]] - [[兵庫県]][[豊岡市]]日高町観音寺にある[[天台宗]]の寺院。<br />
* [[観音寺 (朝来市)]] - 兵庫県[[朝来市]]和田山町竹田にある寺院。<br />
* [[観音寺 (明石市)]] – 兵庫県[[明石市]]にある臨済宗妙心寺派の寺院。<br />
* [[観音寺 (加古川市尾上町)]] – 兵庫県[[加古川市]][[尾上町 (加古川市)|尾上町]]にある曹洞宗の寺院。「白旗観音寺」とも呼ばれる。[[播磨西国三十三箇所]]28番札所<br />
* [[観音寺 (加古川市志方町)]] – 兵庫県[[加古川市]][[志方町 (加古川市)|志方町]]にある曹洞宗の寺院。<br />
* [[観音寺 (姫路市)]] -兵庫県[[姫路市]][[新在家本町 (姫路市)|新在家本町]]にある浄土宗の寺院。<br />
* [[観音寺 (宍粟市)]] – 兵庫県[[宍粟市]]にある高野山真言宗の寺院。山号は[[慈光山]]。<br />
; 奈良県<br />
* おふさ観音寺 – [[奈良県]][[橿原市]]小房町にある高野山真言宗の寺院。⇒ [[おふさ観音]]<br />
* [[音羽山観音寺]] – 奈良県[[桜井市]]南音羽にある[[融通念仏宗]]の寺院。<br />
* [[観音寺 (香芝市)]] – 奈良県[[香芝市]]にある高野山真言宗の寺院。<br />
*[[観音寺 (三郷町)]] - 奈良県[[三郷町]]にある融通念仏宗の寺院。国指定文化財の木造地蔵菩薩立像がある。<br />
; 和歌山県<br />
* [[観音寺 (御坊市)]] – 和歌山県[[御坊市]]にある浄土宗の寺院。<br />
* [[観音寺 (和歌山市)]] – 和歌山県[[和歌山市]]にあった日蓮宗の寺院。[[円如寺]]と改称後[[報恩寺]]と合併した。<br />
<br />
=== 中国地方 ===<br />
; 岡山県<br />
* [[不洗観音寺]] – [[岡山県]][[倉敷市]]にある真言宗系単立の寺院。<br />
* [[観音寺 (玉野市)]] – 岡山県[[玉野市]]築港にある[[日蓮宗]]の寺院。日本随一優生観世音菩薩を祀る。<br />
* [[銘金山觀音寺遍照院]]<br />
; 広島県<br />
* [[菩提所観音寺跡]] – [[広島県]][[広島市]][[安佐北区]]にある同県指定史跡。[[安芸国]]にあった[[熊谷氏]]の菩提寺の跡。<br />
<br />
=== 四国地方 ===<br />
; 愛媛県<br />
* [[観音寺 (今治市)]] – [[愛媛県]][[今治市]]伯方町にある曹洞宗の寺院。<br />
; 香川県<br />
* [[観音寺 (観音寺市)]] – [[香川県]][[観音寺市]]にある[[真言宗大覚寺派]]の寺院。四国八十八箇所霊場の第六十九番札所。<br />
* [[観音寺 (坂出市)]] – 香川県[[坂出市]]にある真言宗御室派の寺院。<br />
; 徳島県<br />
* [[観音寺 (徳島市)]] – [[徳島県]][[徳島市]][[国府町観音寺]]にある高野山真言宗の寺院。<br />
* [[観音寺 (徳島市勢見町)]] – 徳島県徳島市[[勢見町]]にある[[高野山真言宗]]の寺院。<br />
; 高知県<br />
* [[観音寺 (須崎市)]] – [[高知県]][[須崎市]]にある真言宗智山派の寺院。<br />
* [[観音寺 (高知市)]] – [[高知県]][[高知市]]にある真言宗醍醐派の寺院。<br />
<br />
=== 九州地方 ===<br />
* [[観音寺 (飯塚市)]] – [[福岡県]][[飯塚市]]にある[[高野山真言宗]]の寺院。<br />
* [[呑山観音寺]] – [[福岡県]][[糟屋郡]][[篠栗町]]にある[[高野山真言宗]]の寺院。[[篠栗四国八十八箇所]]第十六番札所。<br />
* [[観音寺 (長崎市宿町)]] – [[長崎県]][[長崎市]]宿町にある真言宗系単立の寺院。<br />
* [[観音寺 (長崎市脇岬町)]] – 長崎県長崎市脇岬町にある曹洞宗の寺院。<br />
* [[観音寺 (対馬市)]] – [[長崎県]][[対馬市]]にある寺院。<br />
* [[観音寺 (人吉市)]] – [[熊本県]][[人吉市]]にある臨済宗妙心寺派の寺院。<br />
* [[鹿児島観音寺]] – [[鹿児島県]][[鹿児島市]]にある寺院。<br />
* [[観音寺 (南さつま市)]] – [[鹿児島県]][[南さつま市]]にかつて存在した真言宗の寺院。<br />
=== 沖縄県 ===<br />
* [[金武観音寺]] – [[沖縄県]][[国頭郡]][[金武町]]にある高野山真言宗寺院。<br />
<br />
=== 台湾 ===<br />
* [[竹林山観音寺]] – [[台湾]][[新北市]][[林口区]]にある寺院。<br />
* [[壽山巖観音寺]] – [[台湾]][[桃園県]][[亀山郷]]にある寺院。<br />
<br />
=== 朝鮮 ===<br />
* [[観音寺 (開城市)]](<span lang="ko">관음사、觀音寺</span>) – [[朝鮮民主主義人民共和国|朝鮮]][[黄海北道]][[開城市]]。<br />
<br />
=== 中国 ===<br />
* [[臥龍寺]] – [[西安]][[碑林区]]柏樹林街。<br />
* [[大嶼山観音寺]] – [[香港]][[大嶼山]][[羗山]]。<br />
<br />
== 地名 ==<br />
* [[山形県]][[酒田市]][[観音寺 (酒田市)|観音寺]]。もと[[飽海郡]][[観音寺村]]。[[観音寺城 (出羽国)]]([[来次城]])の所在地、国人[[来次氏]]の根拠地<ref>[http://zyousai.sakura.ne.jp/mysite1/sakata/kannonzi.html 観音寺城], [http://atenzasports23z.blog.so-net.ne.jp/2011-04-04 観音寺城]</ref><br />
* [[近江国]][[観音寺城]]<br />
* [[観音寺市]] – 香川県にある[[地方公共団体]]<br />
<br />
* [[観音寺街道]] – 中国[[北京市]][[大興区]]の[[街道弁事所]]<br />
* [[観音寺鎮 (クイ県)]] – 中国[[江蘇省]][[淮安市]][[クイ県|盱眙県]]の[[鎮]]<br />
* [[観音寺鎮 (新鄭市)]] – 中国[[河南省]][[鄭州市]][[新鄭市]]の鎮<br />
* [[観音寺鎮 (桃源県)]] – 中国[[湖南省]][[常徳市]][[桃源県]]の鎮<br />
* [[観音寺鎮 (略陽県)]] – 中国[[陝西省]][[漢中市]][[略陽県]]の鎮<br />
* [[観音寺郷]] – 中国[[河南省]][[平頂山市]][[魯山県]]の[[郷]]<br />
<br />
== その他 ==<br />
* [[観音寺 (銘菓)]] – 香川県観音寺市の[[銘菓]]。<br />
* [[観音寺駅]] – 曖昧さ回避ページ<br />
<br />
== 脚注 ==<br />
{{Reflist}}<br />
<br />
== 関連項目 ==<br />
* [[観音菩薩]]<br />
* [[観音院 (曖昧さ回避)]]<br />
* [[特別:Prefixindex/観音寺|観音寺で始まる記事の一覧]]<br />
<br />
{{Aimai}}<br />
<br />
{{デフォルトソート:かんのんし}}<br />
[[Category:同名の寺]]<br />
[[Category:観音菩薩]]<br />
[[Category:日本の地名]]<br />
[[Category:中国の地名]]</div>
60.36.246.215
河津町
2018-06-19T03:55:51Z
<p>60.36.246.215: /* 名所旧跡・行事等 */</p>
<hr />
<div>{{日本の町村<br />
|自治体名=河津町<br />
|区分=町<br />
|画像=Prunus lannesiana cv. Kawazu-zakura 03.jpg<br />
|画像の説明=河津桜<br />
|旗=[[ファイル:Flag of kawazu Shizuoka.JPG|border|120px|center]]<div style="text-align:center">河津[[市町村旗|町旗]]</div><br />
|都道府県=静岡県<br />
|支庁=<br />
|郡=[[賀茂郡]]<br />
|コード=22302-6<br />
|隣接自治体=[[下田市]]、[[伊豆市]]、<br />[[賀茂郡]][[松崎町]]、[[西伊豆町]]、[[東伊豆町]]<br />
|木=[[カワヅザクラ|河津桜]]<br />
|花=[[ハナショウブ|花菖蒲]]<br />
|シンボル名=他のシンボル<br />
|鳥など=<br />
|郵便番号=413-0595<br />
|所在地=賀茂郡河津町田中212-2<br />{{coord|34.757|138.987611|region:JP|display=inline,title|format=dms|name=河津町役場}}<br />[[ファイル:Kawazu town hall.JPG|250px |center]]<br />
|外部リンク=[http://www.town.kawazu.shizuoka.jp/ 河津町役場]<br />
|位置画像={{基礎自治体位置図|22|302}}<br />
|特記事項=<br />
}}<br />
'''河津町'''(かわづちょう)は、[[日本]]の[[東海地方]]東端部の、[[静岡県]][[賀茂郡]]に属する[[町]]である。[[伊豆半島]]の先端部(南端部)に近い東側地域の一角を占め、[[太平洋]]に面する。<br />
<br />
[[サクラ]]の一[[栽培品種]]である[[カワヅザクラ]](河津桜)の[[発祥]]地および[[観光]]地として全国的に知られており、[[花見]]の季節には必ず紹介される。<br />
<br />
== 地勢 ==<br />
町域の81%は山林と原野で占められ、市街地は[[天城山]]南東の山稜を源流とする[[河津川]]下流の平地に広がる。東部は[[相模灘]]([[太平洋]])に面する。<br />
<br />
* [[山]] - 登り尾(1057m)、猿山(1000m)、三筋山(812m)、鉢ノ山(619m)<br />
* [[河川]] - [[河津川]]<br />
<br />
== 歴史 ==<br />
=== 年表 ===<br />
==== 先史時代 ====<br />
<!--※人類史以前~石器時代~古墳時代--><br />
* [[縄文時代]]晩期(約2,300年前) - 笹原地区にて[[集落]]の形成期/笹原地区の南小学校を中心とする地域に残る[[姫宮遺跡]]の最下層が、この頃に営まれていた<ref name="宮崎-姫宮遺跡">{{Cite web |url=http://kkmiya.com/archives/portfolio-item/himemiyaiseki/ |title=姫宮遺跡について |work= |publisher=宮崎商会 |accessdate=2018-03-01}}</ref>。この集落は、縄文時代から[[弥生時代]]へ移り変わる時期の数少ない遺跡で、さらに[[古墳時代]]、[[奈良時代]]を経て、[[平安時代]]まで存続した<ref name="宮崎-姫宮遺跡" />。<br />
* [[4世紀]]頃([[古墳時代]]前期) - 河津町笹原[[字]]比咩宮<sup>ひめみや</sup>にて、[[杉桙別命神社#姫宮神社|姫宮神社]]の創建<ref name="宮崎-姫宮神社">{{Cite web |url=http://kkmiya.com/archives/portfolio-item/himemiyajinja/ |title=姫宮神社について |work= |publisher=宮崎商会 |accessdate=2018-03-01}}</ref>([[遺物]]推定)/[[姫宮遺跡]]の4世紀頃の層から[[祭祀]]遺物が出土する<ref name="宮崎-姫宮神社" />。<br />
<br />
==== 古代 ====<br />
<!--※飛鳥時代・奈良時代・平安時代--><br />
* [[天平]]21年([[749年]]、[[奈良時代]]) - [[行基]]が、谷津村にて仙洞山那蘭陀寺(<sup>せんとうさん ならんだじ</sup> 南禅寺の前身)を[[開山 (仏教)|開山]]する([[伝承]])<ref name="T.jp-河津">{{Cite web |url=https://www.travel.co.jp/guide/article/19385/ |title=河津 |work= |publisher=トラベル.jp |accessdate=2018-03-01}}</ref><ref name="宮崎-ならんだ">{{Cite web |url=http://kkmiya.com/archives/portfolio-item/buddha/ |title=伊豆ならんだの里 仏像展示館 |work= |publisher=宮崎商会 |accessdate=2018-03-01}}</ref>。[[本尊]]は行基が自ら彫った[[薬師如来]]像であったという。<br />
* [[康和]]元年([[1099年]]、[[平安時代]]) - 実道法師が、那蘭陀寺(南禅寺の前身)を再興し<ref name="宮崎-ならんだ" />、広大な[[境内]]に七堂[[伽藍]]が整備されて、[[本堂]]に幾つもの[[仏像]]を安置する大寺院となる。<br />
<br />
==== 中世 ====<br />
<!--※鎌倉時代・建武の新政・室町時代--><br />
* [[永享]]4年([[1432年]]、[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]) - 那蘭陀寺(南禅寺の前身)の裏山が山津浪([[山崩れ]])を起こし、寺は堂宇はことごとく大破、仏像群は埋没し、これが元で[[廃寺]]となる<ref name="T.jp-河津" /><ref name="宮崎-ならんだ" />。<br />
* [[天文 (元号)|天文]]10年([[1541年]]、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]) - 南禅[[和尚]](正光院)が、谷津の那蘭陀寺跡地の土中から仏像群を掘り起こし、建立した[[仏堂]]に納めると、人々はこれを「南禅堂」と呼ぶようになる<ref name="T.jp-河津" /><ref name="宮崎-ならんだ" />。これが現存する南禅寺(なぜんじ)の興りであるという<ref name="T.jp-河津" /><ref name="宮崎-ならんだ" />。<br />
<br />
==== 安土桃山時代 ====<br />
<br />
==== 江戸時代 ====<br />
* [[文化 (元号)|文化]]11年([[1814年]]) - 南禅堂(南禅寺の前身)の[[本堂]]の再建。<br />
* [[幕末]] - [[伊豆国]][[賀茂郡]]の一角である当地域(河津郷)には15か村があった。<br />
* [[慶応]]4年<br />
:* [[6月29日 (旧暦)|6月29日]]([[新暦]]換算:[[1868年]][[8月17日]]) - [[明治政府]]が、[[韮山代官所]]に替えて[[韮山県]]を設置し、[[伊豆国]]内の全ての旧[[幕府領]]・旧[[旗本]]領と、[[相模国]]内の一部を除く旧幕府領・旧旗本領を管轄とする。<br />
:* [[7月 (旧暦)|7月]](新暦換算:1868年の8月か9月<ref group="*">[[和暦]]の慶応4年7月1日と7月29日(最終日)は、[[西暦]]([[グレゴリオ暦]])では1868年の8月18日と9月15日にあたる。</ref>) - 当地域に多くの領地を持つ[[沼津藩]][[水野氏]]が[[上総国]][[菊間]]へ、[[掛川藩]][[太田氏]]が[[上総国]][[芝山]]へ[[移封]]され、[[伊豆国]]の旧幕府領は全て[[県]]地となり、[[韮山県]]に置き換えられる。<br />
<br />
==== 明治時代 ====<br />
* [[明治4年]]<br />
:* [[7月14日 (旧暦)|7月14日]](新暦換算:[[1871年]][[8月29日]]) - 全国で[[廃藩置県]]が断行される。この段階の[[韮山県]]域は[[飛地]]だらけであった[[幕藩体制]]下の[[領分]]をほぼ踏襲した極めて錯綜的なものであった。<br />
:* [[11月14日 (旧暦)|11月14日]](新暦換算:1871年[[12月25日]]) - [[廃藩置県#第1次府県統合|第一次府県統合]]により、[[相模国]]西域と[[伊豆国]]全域に置かれていた3県が[[日本の市町村の廃置分合#合体|合体(新設合併)]]して[[足柄県]]が成立。これをもって[[韮山県]]は廃止される。<br />
* [[明治5年]][[9月15日 (旧暦)|9月15日]](新暦換算:[[1872年]][[10月17日]]) - 国が修験道廃止令を発布したのに伴い、河津郷でも谷津の南禅堂(南禅寺の前身)などが荒廃し始める/南禅堂は無住寺となり、[[平安時代]]から伝わる仏像群と文化11年(1814年)に再建された[[本堂]]を残すのみとなって廃れてしまう。<br />
* [[1873年]](明治6年) - 梨本村にて、[[工部省]]深川工作分局管轄の[[梨本村不熔白煉化石製造所]]([[官営模範工場]]であるところの耐火[[煉瓦]]製造所で、現在の「煉瓦の洞遺跡」)が操業を開始する。<br />
* [[1875年]](明治8年) - [[賀茂郡]]の筏場村に矢野村が[[日本の市町村の廃置分合#編入|編入]]し、新たな筏場村が発足する。<br />
* [[1876年]](明治9年)[[4月18日]] - [[廃藩置県#第2次府県統合|第二次府県統合]]により、[[足柄県]]の[[相模国]]が[[神奈川県]]に、[[伊豆国]]が[[静岡県]]に編入される。これをもって足柄県は廃止される。<br />
* [[1883年]](明治16年)[[10月31日]] - 梨本村不熔白煉化石製造所が、稲葉来蔵に貸与される。翌年に払い下げられる(?)。<br />
* [[1887年]](明治20年)某月某日 - 浜村(2年後の[[下河津村]]浜、現在の河津町浜)にて、[[宮内庁]][[帝室林野局#御料局時代|御料局]]静岡支庁河津出張所([[帝室]][[御料地]]である[[天城山]][[国有林]]の管理運用を担う機関)の開所<ref name="Inaba-201306">{{Cite web |author=稲葉修三郎 |date=2013-06 |url=http://www.town.kawazu.shizuoka.jp/wp-content/uploads/2013/01/f6971065306a1e2fa4d695492da534e3.pdf |title=連載 歴史の散歩道 天城のみちすがら 第6話 天城のお山 天城山国有林(一) |work=広報かわづ 2013年6月 No.490 |publisher=河津町 |accessdate=2018-03-01}}</ref>。<br />
* [[1889年]](明治22年)[[4月1日]] - 全国で[[町村制]]が施行され、河津では、河津下郷9か村(見高村、浜村、笹原村、田中村、沢田村、峰村、谷津村、縄地村、逆川村)が[[日本の市町村の廃置分合#合体|合体(新設合併)]]して[[下河津村]]を発足し、河津上郷6か村(梨本村、大鍋村、小鍋村、湯ヶ野村、下佐ヶ野村、川津筏場村)が合体(新設合併)して[[上河津村]]を発足する。<br />
* [[1890年]](明治23年) - 河津郷七抱七楠(<sup>かわづごう ななかかえ ななくすのき</sup> 古来、河津郷にあったという、7抱えもある7本の[[クスノキ]]の巨木)のうち[[杉桙別命神社]]の大楠1本以外の6本が、明治の中頃<ref group="*">年表上の記載位置「1890年(明治23年)」は、明治時代全期のちょうど中間にあたる。</ref>までに全て[[伐採]]されてしまった。<br />
* [[1892年]](明治25年) - [[小学校令]]に基づき、上河津・見高・田中・峰・逆川・縄地に[[尋常小学校]]を置く。<br />
<br />
===== 日清戦争後 =====<br />
<!--1895年(明治28年)3月以後--><br />
* [[1895年]](明治28年) - 沢田石を用いた帝国京都博物館の開館。<br />
* [[1896年]](明治29年)<br />
:* [[4月1日]] - 全国一斉の[[郡制]]施行に先立って[[伊豆]]で郡域が改められ、[[賀茂郡]]・[[田方郡]]の2郡となる。<br />
:* [[9月1日]] - 全国で郡制が施行される。<br />
* [[1900年]](明治33年) - [[天城峠]]下にて、天城山隧道(現在[[通称]]:[[天城トンネル]])の着工。<br />
* [[1902年]](明治35年) - 天城山隧道(現在通称:天城トンネル)の竣工・開通。三島下田街道の完成。<br />
<br />
===== 日露戦争後 =====<br />
<!--1905年(明治38年)9月5日以後--><br />
* [[1906年]](明治39年) - 湯ヶ野を[[震源]]とする地震({{M}}5.7程度)の発生。<br />
* [[1910年]](明治43年)2月 - 河津川水力電気[[株式会社]]の設立。<br />
* [[1911年]](明治44年)[[1月1日]] - 河津川水力電気株式会社の開業<ref name="静岡県史年表">静岡県史年表</ref>。<br />
<br />
==== 大正時代 ====<br />
* [[1912年]]([[大正]]元年) - 上河津実業補習学校の設立。<br />
* [[1914年]](大正3年)<br />
:* 某月某日 - 河津各区に区長を置く。<br />
:* 9月某日 - 河津川水力電気株式会社 梨本発電所の建設。<br />
* [[1915年]](大正4年)<br />
:* 某月某日 - 下田・大仁間にて[[路線バス]]の開通。<br />
:* 5月某日 - 河津川水力電気株式会社 梨本発電所の創立。<br />
* [[1917年]](大正6年) - 田中・峰・逆川・縄地・見高の尋常小学校及び下河津高等小学校を併合して下河津尋常高等小学校とする。本校は笹原に置き、見高・見高入谷・縄地・逆川に分校を置く。<br />
<br />
===== 第一次世界大戦後 =====<br />
<!--1918年(大正7年)11月11日以降--><br />
* [[1920年]](大正9年)9月 - 河津川水力電気株式会社 小鍋発電所の創立。<br />
* [[1923年]](大正12年) - 見高・見高入谷の2分校が独立して見高尋常小学校となる。<br />
* [[1925年]](大正14年) - <br />
:* 某月某日 - 河津浜・稲取間で[[路線バス]]の開通。<br />
:* 3月某日 - 湯ヶ野大火の発生/50戸余、山林35町歩を焼失した。<br />
:* 12月上旬 - [[川端康成]]が、雑誌『[[文藝時代]]』1926年1月号(第3巻第1号)にて[[小説]]『[[伊豆の踊子]]』を発表<!--※1926年に記載されていましたが、1月号は前年の12月に発刊されるものです。バックナンバーを調べた限りでは12月8日ですし、当時もそんなには違わないはずです。-->。<br />
* [[1926年]](大正15年)<br />
:* 某月某日 - 見高尋常小学校が、尋常高等小学校となる。<br />
:* 某月某日 - [[下河津村]]立下河津実業補習学校の設立。<br />
:* [[11月22日]]もしくは[[11月26日]](※資料によって異なる) - [[下河津村]]峰の住人・稲葉時太郎が、[[奈良時代]]から[[温泉]]があったという[[伝承]]がありながら荒廃し切っていた故郷の復興を期して温泉の[[掘削]]を試みて4年目のこの日、大噴湯を得る<ref name="町-峰温泉大噴湯公園">{{Cite web |url=http://kankou.town.kawazu.shizuoka.jp/attraction/141/ |title=峰温泉大噴湯公園 |work=花といで湯の町、河津 |publisher=河津町役場 |accessdate=2018-03-01}}</ref>。<br />
<br />
==== 昭和時代 ====<br />
===== 太平洋戦争前 =====<br />
* [[1927年]]([[昭和]]2年)4月 - 下河津村の村長助役以下役場員が、村会で衝突し、総辞職する。<br />
* [[1932年]](昭和7年)10月 - 下田・片瀬間(白浜・下河津経由)で[[路線バス]]の開通。<br />
* [[1933年]](昭和8年)6月 - 伊豆循環道路東海岸線伊東・下田間の完成。<br />
* [[1935年]](昭和10年) - 上河津村立実業補習学校の廃校と、同村立信農青年学校の設立・開校。<br />
[[ファイル:Cinnamomum camphora 20100601 (Kawazu) (B).jpg|thumb|230px|杉桙別命神社の大楠]]<br />
* [[1936年]](昭和11年)<br />
:* [[9月3日]] - 峰新町にある[[ソテツ]]の大木が、「新町の大ソテツ」名義で国指定[[天然記念物]]となる。<br />
:* [[12月16日]] - 田中宮ノ脇にある[[杉桙別命神社]](河津来宮神社)の[[クスノキ]]の巨木が、「杉桙別命神社の大クス」名義で国指定天然記念物となる。<br />
* [[1937年]](昭和12年)4月 - 下河津大火の発生/13戸、24棟が焼失する。<br />
* [[1941年]](昭和16年)<br />
:* 4月1日 - [[国民学校令]]により、[[尋常小学校]]は[[国民学校]]と改称、上河津国民学校(湯ヶ野)、下河津第一国民学校(笹原)、下河津第二国民学校(見高浜)とする。<br />
:* 5月某日 - 狩野川、伊東、伊豆、河津川水力電気を統合し、伊豆合同水力電気会社が成立する。<br />
<br />
===== 太平洋戦争中 =====<br />
<!--1941年12月8日から1945年9月2日まで--><br />
* [[1942年]](昭和17年) - [[金属類回収令]]により、河津町内の[[梵鐘]]が全て供出される。<br />
<br />
===== 太平洋戦争後 =====<br />
* [[1947年]](昭和22年)<br />
:* 某月某日 - 六・三制[[義務教育]]実施に伴い、[[国民学校]]初等科は小学校に、高等科は新制中学校として発足。<br />
:* 某月某日 - 帝室林野局河津出張所が「東京営林局河津営林署」へ改称。<br />
* [[1948年]](昭和23年)<br />
:* 12月某日 - [[稲取高等学校]]上河津[[分校]]([[定時制]])の開校。<br />
:* 某月某日 - 上河津[[農業協同組合]]と下河津農業協同組合の設立。<br />
:* 某日某日 - 上河津幼稚園の開園。<br />
:* 某月某日 - [[石原忍]]博士が谷津にて河津町立「文化の家」を開設。<br />
* [[1952年]](昭和27年)<br />
:* 某月某日 - 下河津第一小学校が「下河津小学校」へ、下河津第二小学校が「見高小学校」へ改称。<br />
:* 某月某日 - 上・下河津両村に[[教育委員会]]が発足。<br />
* [[1953年]](昭和28年) - 梨本大畑の[[ナチシダ]]自生北限地が国の[[天然記念物]]に指定される。<br />
* [[1954年]](昭和29年)<br />
:* [[12月1日]] - [[東伊豆道路]]の下田区間の開通。<br />
:* 某月某日 - 下河津幼稚園と下河津見高分園の開園。<br />
[[ファイル:KawazuZakura Genboku.JPG|thumb|230px|今も残る河津桜原木(飯田家)]]<br />
* [[1955年]](昭和30年)頃の2月某日 - [[カワヅザクラ]](河津桜)の[[発見]]/田中地区の飯田勝美が、[[河津川]]沿いの雑地に生えていた珍しい[[サクラ]]の若木を発見して自宅の庭先に定植し、稼業の[[屋号]]から「小峰桜」と呼んで育て始める。これがのちの学術調査で[[雑種]]起源の知られていなかった[[栽培品種]]と判明し、「カワヅザクラ(河津桜)」と命名されることになり、やがては河津の名を全国に知らしめる一大[[観光資源]]へと育ってゆく。<br />
* [[1958年]](昭和33年)<br />
:* [[9月1日]] - [[賀茂郡]]の[[上河津村]]と[[下河津村]]が[[日本の市町村の廃置分合#合体|合体(新設合併)]]したうえで[[町制]]を施行し、'''河津町が発足'''<ref name="町-概要">{{Cite web |author=河津町役場 |url=http://www.town.kawazu.shizuoka.jp/gyousei/gaiyou/ |title=町の概要 |work=公式ウェブサイト |publisher=河津町 |accessdate=2018-03-01}}</ref>/人口10,464人、世帯数2,054戸<ref name="町-概要" />。新町発足に伴い、小中学校と幼稚園が改称する。西小学校(湯ヶ野)・南小学校(笹原)・東小学校(見高浜)・西中学校(湯ヶ野)・南中学校(笹原)・双葉幼稚園(湯ヶ野)・姫宮幼稚園(笹原)・朝日幼稚園(見高浜)。<br />
:* [[9月27日]] - [[狩野川台風]]が[[神奈川県]]に上陸し、河津町も被害甚大。<br />
* [[1959年]](昭和34年) - 沢田にわかば保育園の開園。<br />
* [[1961年]](昭和36年)[[12月10日]] - [[伊豆急行]]電鉄(伊東・下田間)が全線開通し、当地域初の[[鉄道駅]]として[[河津駅]]が開業する。<br />
* [[1962年]](昭和37年)<br />
:* [[3月31日]] - [[稲取高等学校]]河津分校の廃校。<br />
:* [[5月10日]] - 浜地区にて、河津町[[商工会]]の設立。<br />
:* [[7月7日]] - [[伊豆急行]]電鉄(伊東・下田間)の[[臨時駅]]として今井浜海水浴場駅(現・[[今井浜海岸駅]])が開業。<br />
* [[1963年]](昭和38年)<br />
:* 某月某日 - 田中地区にて、役場新庁舎の完成。<br />
:* 某月某日 - 笹原地区にて、[[農林省]][[林野庁]]河津営林署([[天城山]][[国有林]]の管理運用を担う機関)の開署<ref name="Inaba-201306" />。<br />
:* 某月某日 - 湯ヶ野地区にて、[[国民宿舎]]「かわづ」の開舎。<br />
* [[1965年]](昭和40年)<br />
:* 9月 - [[東伊豆町]]および河津町の5[[農協]]が合併し、伊豆東農協となる。<br />
:* [[11月12日]] - [[湯ヶ野温泉|湯ヶ野]]にて、伊豆の踊り子文学碑の建立<ref name="町-踊子碑">{{Cite web |author=河津町役場 |url=http://kankou.town.kawazu.shizuoka.jp/attraction/538/ |title=伊豆の踊り子文学碑 |work=公式ウェブサイト |publisher=河津町 |accessdate=2018-03-01}}</ref>/小説『[[伊豆の踊子]]』の舞台になったことを記念して[[川端康成]]ゆかりの「福田屋」の隣の空地に石碑が建立された<ref name="町-踊子碑" />。<br />
* [[1966年]](昭和41年)1月 - 飯田勝美宅の「小峰桜」(のちの[[カワヅザクラ]]:河津桜)が初めて[[開花]]する/これを見留めたのち、飯田勝美は亡くなった。<br />
* [[1968年]](昭和43年) - この頃から、飯田勝美の「小峰桜」(のちの[[カワヅザクラ]]:河津桜)が、町民有志の手で少しずつ町内に増殖されるようになる。<br />
* [[1969年]](昭和44年)<br />
:* [[3月1日]] - [[伊豆急行]]電鉄(伊東・下田間)の[[臨時駅]]であった今井浜海水浴場駅が通年営業化し、「[[今井浜海岸駅]]」へ改称。<br />
:* 5月某日 - 上佐ヶ野にて、河津浜病院の開院。<br />
* [[1970年]](昭和45年) - 有料道路新天城トンネルの開通。<br />
* [[1972年]](昭和47年)<br />
:* [[1月10日]] - [[東京電力]] 梨本・小鍋両発電所が操業を停止<ref name="静岡県史年表" />。<br />
:* 1月10日 - [[伊豆急行|伊豆急]]河津駅前広場の完成。<br />
* [[1974年]](昭和49年)<br />
:* [[5月9日]] - [[伊豆半島沖地震]]({{M}}6.9)の発生/南伊豆を中心に被害大。<br />
:* 某月某日 - 大堰浄水場の供用開始。<br />
:* 某月某日 - 飯田勝美宅の「小峰桜」が、知られていなかった[[栽培品種]]と判明し、「[[カワヅザクラ]](河津桜)」と命名される。<br />
* [[1975年]](昭和50年)4月某日 - 河津町が[[カワヅザクラ]](河津桜)を「町の木」に指定<ref name="町-概要" />/原木が町内にあることから<ref name="町-概要" />。町民有志らによる植栽が河津川河口などから町内全域に広がる<ref>[http://www.at-s.com/news/article/politics/shizuoka/409352.html 老木化「河津桜」どうする 植え替えに河川法の壁、新景観を模索]静岡新聞、2017/10/5</ref>。<br />
* [[1976年]](昭和51年)[[8月18日]] - [[伊豆半島]]南部を集中[[豪雨]]が襲い、鉢の山を[[震源]]とする河津地震({{M}}5.4)が発生する<ref>{{Cite web|url=http://cais.gsi.go.jp/KAIHOU/report/kaihou17/03_15.pdf|title=3-15 伊豆半島東部の群発地震(1976年5月-10月|publisher=[[東京大学地震研究所]] 地震移動観測室・地震活動研究部門|date=|accessdate=2016-04-28}}</ref>/豪雨は天城山で[[降水量]]509[[ミリメートル|mm]]を記録した。<br />
* [[1978年]](昭和53年)[[1月14日]] - [[伊豆大島近海の地震|伊豆大島近海地震]]({{M}}7.0)の発生/河津町内の被害甚大。伊豆急は復旧までに5ヶ月を、天城線バスは半年を要した。<br />
* [[1980年]](昭和55年) - 河津西中学校と河津南中学校が統合し、河津中学校が設立・開校する。<br />
* [[1981年]](昭和56年)<br />
:* [[3月29日]] - 七滝高架橋([[通称]]:[[河津七滝ループ橋]])の供用開始。<br />
:* [[4月1日]] - [[下田市]]6丁目にて、下田市・河津町・[[南伊豆町]]による、[[下田地区消防組合]]の発足。<br />
* [[1982年]](昭和57年)<br />
:* [[4月1日]] - [[伊豆半島]]南東部地域(河津町を含む)を管轄区域とする下田地区[[消防組合]]が、[[賀茂郡]]下田町(現・[[下田市]])で発足<ref name="下田消組-年報201608" />/2013年(平成25年)4月1日には西伊豆町と松崎町が加入し、半島南部全域を管区に収める消防広域化が実現した<ref name="下田消組-年報201608" />。<br />
:* 6月中旬 - 七滝高架橋(通称:[[河津七滝ループ橋]])が、昭和56年度[[土木学会田中賞]](作品部門)を受賞。<br />
:* [[7月12日]] - 河津町と[[長野県]][[北安曇郡]]の[[白馬村]]が、[[姉妹都市]]提携を締結<ref name="Hakuba-20121211" />。<br />
* [[1983年]](昭和58年)4月1日 - 峰地区にて、[[下田地区消防組合]]河津分署が業務を開始<ref name="下田消組-年報201608" />。<br />
* [[1984年]](昭和59年) - B&G河津海洋センターのグランドオープン。<br />
* [[1987年]](昭和62年)4月1日 - [[静岡県]]全域で消防相互応援協定が締結される<ref name="下田消組-年報20160401">{{Cite web |date=2016-04-01 |url=http://shimoda-fd.jp/wp-content/uploads/2016/06/9a7a2c495048a60871fef53b88ac8fe81.pdf |title=応援協定 - 消防年報 |format=PDF |work=公式ウェブサイト |publisher=下田地区消防組合 |accessdate=2018-03-01}}</ref>/[[災害時応援協定]]の一種で、対象は全ての災害。<br />
<br />
==== 平成時代 ====<br />
* [[1989年]]([[平成]]元年) - 町営温泉集中管理事業の開始。<br />
* [[1990年]](平成2年)[[10月1日]] - [[下田市]]で[[伊豆太陽農業協同組合]]が発足し、河津町も管轄地域となる。<br />
* [[1991年]](平成3年)<br />
:* 2月 - 第1回河津桜まつりの開催<ref name="JTA-櫻井泰次" />/1か月に亘った開催期間中の観光入込客数は約3,000人と、当時はまだこじんまりとした催しであった<ref name="CEF-201802">{{Cite web |date=2018-02 |url=http://www.chukeiren.or.jp/magazine/pdf/ganbaruchubu%20201802.pdf |title=1本の桜の木がもたらした地域おこしの奇跡 |work=かんばるchubu 観光地域づくり編 |publisher=[[一般社団法人]][[中部経済連合会]] |accessdate=2018-03-01}}</ref>。<br />
:* [[9月10日]] - [[伊豆半島]]南部を集中豪雨が襲う/河津町内は各地で被害甚大。損害額は約42億円に上った。<br />
* [[1992年]](平成4年) - 河津営林署は天城営林署に統合され、天城営林署河津森林経営センターとなる。<br />
* [[1993年]](平成5年)<br />
:* 某月某日 - 踊り子温泉会館のグランドオープン。<br />
:* 某月某日 - サンシップ今井浜のグランドオープン。<br />
:* 某月某日 - 小規模授産所「いずみ」の開所。<br />
* [[1994年]](平成6年) - 新峰山トンネルの開通。<br />
* [[1995年]](平成7年) - [[国道135号]]の浜橋の改修工事の完了。<br />
* [[1996年]](平成8年)<br />
:* 2月 - 第6回河津桜まつりの開催<ref name="JTA-櫻井泰次" />/[[ボンネットバス]]を利用したお花見バスの運行開始<ref name="JTA-櫻井泰次" />。この年からは夜桜まつりも実施<ref name="CEF-201802" />。期間中の観光入込客数は10万人を数え<ref name="JTA-櫻井泰次" /><ref name="CEF-201802" />、経済波及効果も現れ始める<ref name="JTA-櫻井泰次" />。<br />
:* 某月某日 - 河津町と[[長野県]][[北安曇郡]]の[[白馬村]]([[姉妹都市]])が、[[災害時応援協定]]を締結。<br />
:* 某月某日 - [[下田街道]]が[[文化庁]]の「歴史の道百選」に選ばれる。<br />
* [[1997年]](平成9年)<br />
:* [[3月24日]] - [[静岡県]]全域で[[消防防災ヘリコプター|防災ヘリコプタ-]]応援協定が締結される<ref name="下田消組-年報20160401" />/[[災害時応援協定]]の一種で、対象は全ての災害<ref name="下田消組-年報20160401" />。<br />
:* 某月某日 - 河津町保健福祉防災センターの開設。<br />
:* 某月某日 - 国立湊病院の移管に伴う、共立湊病院の設立・開院。<br />
* [[1998年]](平成10年)<br />
:* [[3月7日]] - [[日本放送協会|NHK]]の[[紀行番組]]『[[小さな旅]]』の#80「早春の桜 思いをつなぐ ~静岡県河津町~」で河津桜が取り上げられ<ref>{{Cite web |date=2013-01 |url=http://www.cab-j.org/img/news/20121128tabi4.pdf |title=小さな旅 |format=PDF |work=公式ウェブサイト |publisher=[[衛星テレビ広告協議会]] (CAB-J) |accessdate=2018-03-01}}</ref>、大きな反響を得る<ref name="JTA-櫻井泰次" />/同時期には『[[じゃらん]]』や『[[るるぶ]]』などといった大手旅雑誌が特集記事を組み<ref name="JTA-櫻井泰次" />、国内大手新聞も河津桜まつりを[[トピックス]]として大きく取り上げるようになった<ref name="JTA-櫻井泰次" />。 <br />
:* 某月某日 - [[河川法#97年法改正|平成9年改正河川法]]の施行により、河川区域での[[植樹]]が禁止される。<br />
:* 某月某日 - 田中地区にて、日本一早い露地栽培の菖蒲園「かわづ花菖蒲園」の開園<ref name="JTA-櫻井泰次" />。<br />
* [[1999年]](平成11年)2月 - 第9回河津桜まつりの開催<ref name="JTA-櫻井泰次" />/期間中の観光入込客数が初めて100万人を超える<ref name="JTA-櫻井泰次" /><ref name="CEF-201802" />。<br />
* [[2001年]](平成13年)某月某日 - 峰地区にて、[[河津バガテル公園]]の開園<ref name="JTA-櫻井泰次" />。<br />
* [[2002年]](平成14年)<br />
:* 某月某日 - 河津町役場、河津町観光協会、河津町商工会、農業・漁業・林業の各組合などで、河津桜まつり実行委員会が組織され、それまでの河津町観光協会に換わって河津桜まつりを主催することとなる<ref name="CEF-201802" />。<br />
:* 2月 - 第12回河津桜まつりの開催/[[露店]]の出店数が150軒ほどに膨れ上がる<ref name="CEF-201802" />。<br />
* [[2003年]](平成15年)某月某日 - 田中地区にて、かわづカーネーション見本園(地域の主要生産花である[[カーネーション]]の見本園)の開園<ref name="JTA-櫻井泰次" />。<br />
:* 2月某日 - [[4世紀]]由来の旧社地である河津町笹原[[字]]比咩宮にて、[[杉桙別命神社#姫宮神社|姫宮神社]]の再建。<br />
<br />
* [[2004年]](平成16年)<br />
:* 3月 - [[静岡県]]東部[[ドクターヘリ]]の運航開始<ref name="下田消組-年報201608" />。<br />
:* 某月某日 - [[露店]]営業管理[[条例]]を制定<ref name="JTA-櫻井泰次" />/河津桜まつりの開催時に地域外から出店する臨時商店が年々増加し、それに連れて販売品に対する苦情も増え、問題視されるようになってきたことを受けて、これらの出店に対して条例による規制(届け出制)が施行されることとなった<ref name="JTA-櫻井泰次" />。<br />
:* 某月某日 - 河津桜まつりの観光客対策としての[[駐車場]]の充実<ref name="JTA-櫻井泰次" />/[[河津駅]]周辺地区の空き地を町が借り上げ、県事業を活用し、全面舗装した駐車場を整備した<ref name="JTA-櫻井泰次" />。<br />
:* 某月某日 - ?地区にて、ユリ園の開園<ref name="JTA-櫻井泰次" />。<br />
* [[2005年]](平成17年)2月 - 第17回河津桜まつりの開催<ref name="JTA-櫻井泰次" />/この年、観光用[[トイレ]]の新設と仮設トイレの増設によるトイレ環境の充実が完了<ref name="JTA-櫻井泰次" />。<br />
* [[2012年]](平成24年)9月30日 - サンシップ今井浜の閉館。<br />
* [[2003年]](平成15年)12月某日 - [[下田市]]・河津町・[[南伊豆町]]の法定合併協議会の解散。<br />
* [[2005年]](平成17年)[[2月23日]] - [[観光庁]]の「[[観光カリスマ|観光のカリスマ百選]]」に、[[地域おこし]]を精力的に牽引する河津町長・櫻井泰次が選出される<ref name="CEF-201802" /><ref name="KC-2005" />。<br />
* [[2009年]](平成21年)[[2月1日]] - 峰地区にて、[[峰温泉#峰温泉大噴湯公園|峰温泉大噴湯公園]]のグランドオープン。<br />
* [[2010年]](平成22年)[[2月1日]] - 河津桜観光交流館のグランドオープン<ref>{{Cite web |url=http://www.kawazu-onsen.com/koryukan/koryukan.html |title=河津桜観光交流館 |work=伊豆・河津温泉郷 |publisher=河津桜観光協会 |accessdate=2018-03-01}}</ref>。<br />
* [[2013年]](平成25年)<br />
:* [[2月20日]] - 谷津地区の南禅寺[[境内]]にて「伊豆ならんだの里 河津平安仏像展示館」のグランドオープン<ref name="南禅寺-展示館">{{Cite web |author= |date= |url=http://kawazuheian.sakura.ne.jp/ |title=河津平安の仏像展示館 |work=公式ウェブサイト |publisher=伊豆ならんだの里 河津平安の仏像展示館 |accessdate=2018-03-01}}</ref>。<br />
:* [[7月24日]] - [[テレビ東京]]の人気[[テレビドラマ]]『[[孤独のグルメ]] Seasen3』第3話「静岡県賀茂郡河津町の生ワサビ付きわさび丼」で七滝地区の名物「わさび丼」が取り上げられ、連日行列ができるまでの反響を得、提供する店舗も増加する<ref name="CEF-201802" />。これを受けて町では[[商工会]]や[[伊豆急行]]を中心に「河津わさびで泣かせ隊」が結成され、わさびグルメのメニュー開発が始まる<ref name="CEF-201802" />。<br />
* [[2014年]](平成26年)某月某日 - 町が「河津桜保護育成計画」を策定<ref name="CEF-201802" />。<br />
* [[2015年]](平成27年)<br />
:* [[3月19日]] - [[国民宿舎]]「かわづ」の閉舎。<br />
:* [[3月31日]] - 下田地区消防組合管区全域で、消防救急[[デジタル]][[消防無線|無線]]の運用開始<ref name="下田消組-年報201608" />。<br />
:* 某月某日 - 「河津わさびで泣かせ隊」の有志による、[[株式会社]]泣かせ隊の設立<ref name="CEF-201802" />。<br />
<!-- memo:2018年2月10日-3月10日 - 第28回河津桜まつりの開催。主に開催数の計算用。--><br />
<br />
=== 行政区域の変遷 ===<br />
<br />
== 人口 ==<br />
総人口:7410人 男:3,592人 女:3818人 (2018年1月1日現在)<ref>http://www.town.kawazu.shizuoka.jp/</ref><br />
{{人口統計|code=22302|name=河津町}}<br />
<br />
== 行政 ==<br />
* [[市町村長|町長]] - 岸 重宏(きし しげひろ):2017年(平成29年)11月26日就任<ref>{{Cite web|url=http://www.town.kawazu.shizuoka.jp/newstopic/%e5%b2%b8%e3%80%80%e9%87%8d%e5%ae%8f-%e6%b0%8f%e3%81%8c%e7%94%ba%e9%95%b7%e3%81%ab%e5%b0%b1%e4%bb%bb%e3%81%97%e3%81%be%e3%81%97%e3%81%9f/|title=岸重宏氏が同日より河津町長に就任しました|date=2017-11-26|publisher=河津町|accessdate=2017-11-27}}</ref><ref name="町-概要" />。1期目。元・副町長<ref name="JTA-櫻井泰次" />。<br />
* 副町長 - 土屋 晴弥:2017年(平成29年)12月23日就任<ref name="町-概要" />。<br />
=== 歴代町長 ===<br />
* 先代 - 相馬 宏行(そうま ひろゆき):2014年(平成26年)4月20日就任。<br />
* 元 - 櫻井 泰次(さくらい たいじ)<ref name="JTA-櫻井泰次">{{Cite web |author= |date=2012年9月13日 |url=http://www.mlit.go.jp/kankocho/shisaku/jinzai/charisma/mr_sakurai.html |title=櫻井泰次 |work=公式ウェブサイト |publisher=[[観光庁]] |accessdate=2018-03-01}}</ref>:1986年(昭和61年)就任<ref name="JTA-櫻井泰次" />、2010年(平成22年)退任<ref name="CEF-201802" />。全6期<ref name="CEF-201802" />。七滝温泉ホテル社長<ref name="JTA-櫻井泰次" />。河津町の[[地域おこし]]の功労者で、2005年(平成17年)2月23日には[[観光庁]]の「[[観光カリスマ|観光のカリスマ百選]]」に選出されてもいる<ref name="CEF-201802" /><ref name="KC-2005">{{Cite web |author=『観光カリスマ百選』選定委員会 |date=2005年3月18日 |url=http://www5.cao.go.jp/keizai2/2005/0318charisma.pdf |title=『観光カリスマ百選』選定結果について |format=PDF |work=公式ウェブサイト |publisher=[[内閣府]] |accessdate=2018-03-01}}</ref>。<br />
=== 役場等 ===<br />
==== 役場 ====<br />
* 河津町役場 - 静岡県賀茂郡河津町田中212-2に所在。[[標高]]13[[メートル|m]]。<br />
==== 税務 ====<br />
* 下田[[税務署]] - [[下田市]]と[[賀茂郡]]を管轄。下田市6-3-26に所在。<ref>{{Cite web |url=http://kankatsu.jp/zeimusho/shimoda/ |title=下田税務署(静岡県) |work=全国の税務署一覧 |publisher=管轄ナビ |accessdate=2018-03-01}}</ref><br />
==== 町民サービス施設 ====<br />
<br />
=== 姉妹都市 ===<br />
:{{Jflag}} [[白馬村]]([[長野県]][[北安曇郡]]) - [[1982年]](昭和57年)[[7月12日]]に[[姉妹都市]]提携の締結<ref name="Hakuba-20121211">{{Cite web |author=白馬村役場 |date=2012-12-11 |url=http://www.vill.hakuba.lg.jp/somu/pr_magazine/12/1211/121103.pdf |title=今年 河津町と白馬村は姉妹都市提携30周年を迎えます! |work=公式ウェブサイト |publisher=白馬村 |accessdate=2018-03-01}}</ref>。<br />
<br />
=== 警察 ===<br />
* [[静岡県警察]]<br />
:* [[下田警察署]] - [[伊豆半島]]南部の東海岸地域にある1市3町(北から順に、[[賀茂郡]][[東伊豆町]]、同郡河津町、[[下田市]]、賀茂郡[[南伊豆町]])を管轄。下田市東中7-8に所在。<br />
<br />
=== 消防・防災・救急救命 ===<br />
* [[下田地区消防組合]] - [[伊豆半島]]南部の1市4町([[下田市]]と、[[賀茂郡]]の河津町・[[西伊豆町]]・[[松崎町]]・[[南伊豆町]])を管轄する<ref name="下田消組-年報201608">{{Cite web |date=2016-08 |url=http://shimoda-fd.jp/wp-content/uploads/2016/08/7f1b21a571bc81517bbf8b85b1ef7ccd.pdf |title=下田地区消防組合の概要 - 消防年報 |format=PDF |work=公式ウェブサイト |publisher=下田地区消防組合 |accessdate=2018-03-01}}</ref>[[消防組合]]。1982年(昭和57年)4月1日に半島東南部地域(河津町、下田町〈現・下田市〉、南伊豆町)を管区として発足<ref name="下田消組-年報201608" />。2013年(平成25年)4月1日には西伊豆町と松崎町が加入したことで半島南部全域を管区に収める消防広域化が実現した。<br />
:* 下田消防本部 - 下田地区消防組合の本部。<br />
::* 下田市消防署 - 下田消防本部のある[[消防署]]。下田市東本郷1-5-21に所在。<br />
:::* 河津分署 - 下田市消防署の一分署。下田地区消防組合河津分署。賀茂郡河津町峰338-18に所在。1983年(昭和58年)4月1日に業務開始<ref name="下田消組-年報201608" />。<br />
* 河津町[[消防団]] - 全10分団<ref>{{Cite web |date=2009-01 |url=http://www.nissho.or.jp/2009/01/post-1434.html |title=静岡県・河津町消防団 |work=公式ウェブサイト |publisher=[[日本消防協会]] |accessdate=2018-03-01}}</ref><ref>{{Cite web |date=2016-04-01 |url=http://shimoda-fd.jp/wp-content/uploads/2016/06/6c6c2027a4251d78759b1466f77ecc031.pdf |title=消防団 - 消防年報 |format=PDF |work=公式ウェブサイト |publisher=下田地区消防組合 |accessdate=2018-03-01}}</ref>。<br />
<br />
== 立法 ==<br />
=== 町議会 ===<br />
* [[議長]] - 宮崎啓次<ref name="町-概要" /><br />
<!-- * 会派(議席) - --><br />
* 議員定数 - 11名<ref name="町-概要" /><br />
=== 選挙区 ===<br />
* [[静岡県第2区 (中選挙区)|静岡県第2区]]([[中選挙区]])<br />
<br />
== 司法 ==<br />
=== 裁判所 ===<br />
* [[静岡地方裁判所]]下田支部 - [[下田市]]4-7-34に所在。下田市と、[[賀茂郡]]5町(東伊豆町、河津町、南伊豆町、松崎町、西伊豆町)を管轄<ref>{{Cite web |url=http://www.courts.go.jp/saiban/kankatu/sizuoka/index.html |title=静岡県内の管轄区域表 |work=公式ウェブサイト |publisher=裁判所 |accessdate=2018-03-01}}</ref><ref>{{Cite web |url=http://www.courts.go.jp/shizuoka/about/syozai/shimoda/index.html |title=静岡地方裁判所下田支部 静岡家庭裁判所下田支部 下田簡易裁判所 |work=公式ウェブサイト |publisher=裁判所 |accessdate=2018-03-01}}</ref>。<br />
* [[静岡家庭裁判所]]下田支部 - 所在地と管轄区域は上に同じ。<br />
* 下田簡易裁判所 - 所在地と管轄区域は上に同じ。河津町を管区に含む[[簡易裁判所]]。<br />
=== 検察庁 ===<br />
* [[静岡地方検察庁]]下田支部 - [[下田市]]4-7-13に所在。<br />
* [[下田区検察庁]] - 所在地と管轄区域は上に同じ。河津町を管区に含む[[区検察庁]]。<br />
<br />
== 医療 ==<br />
* 河津浜病院 - 河津町川津筏場1512-7に所在。<br />
* 伊豆今井浜病院 - 河津町見高178に所在。<br />
* ほか<br />
<br />
== 郵便事業 ==<br />
* 河津郵便局 - 河津町笹原299-5に所在。<br />
* 上河津郵便局 - 河津町下佐ケ野80-1に所在。<br />
<br />
== 経済 ==<br />
=== 産業 ===<br />
平成17年度の国勢調査では次のような結果が出ている。<br />
{| class="wikitable"<br />
!区分!!人数<br />
|-<br />
|'''[[第一次産業]]'''<br />
|'''計 629'''<br />
|-<br />
| 農業<br />
|574<br />
|-<br />
| 林業<br />
|14<br />
|-<br />
| 漁業<br />
|41<br />
|-<br />
|'''[[第二次産業]]'''<br />
|'''計 600'''<br />
|-<br />
| 鋼業<br />
|0<br />
|-<br />
| 建設業<br />
|470<br />
|-<br />
| 製造業<br />
|130<br />
|-<br />
|'''[[第三次産業]]'''<br />
|'''計 3043'''<br />
|-<br />
| 電気・ガス・熱供給・水道業<br />
|19<br />
|-<br />
| 情報通信業<br />
|12<br />
|-<br />
| 運輸業<br />
|167<br />
|-<br />
| 卸売・小売業<br />
|765<br />
|-<br />
| 金融・保険業<br />
|44<br />
|-<br />
|不動産業<br />
|36<br />
|-<br />
| 飲食店・宿泊業<br />
|787<br />
|-<br />
| 医療・福祉<br />
|369<br />
|-<br />
| 教育・学習支援業<br />
|149<br />
|-<br />
| 複合サービス業<br />
|100<br />
|-<br />
| サービス業<br />
|465<br />
|-<br />
| 公務<br />
|130<br />
|-<br />
|}<br />
<br />
== 地域 ==<br />
<!--<br />
===健康===<br />
*平均年齢<br />
--><br />
== 教育機関 ==<br />
=== 中学校 ===<br />
* 河津町立河津中学校<ref>http://www.town.kawazu.shizuoka.jp/kurashi/educational-institutions/</ref><br />
<br />
=== 小学校 ===<br />
* 河津町立西小学校<br />
* 河津町立東小学校<br />
* 河津町立南小学校<ref>http://www.town.kawazu.shizuoka.jp/kurashi/educational-institutions/</ref><br />
<br />
=== 幼稚園===<br />
* 河津町立さくら幼稚園<ref>http://www.town.kawazu.shizuoka.jp/kurashi/educational-institutions/</ref><br />
<br />
== {{Anchor|保育園|保育所}} ==<br />
<!--※注:保育所は教育機関ではないので、「教育機関」節に収めないで下さい。--><br />
2017年(平成29年)4月1日時点で、河津町内の[[認可保育所]]数は5、認可保育所[[待機児童]]数は0名。<br />
<br />
== 金融機関 ==<br />
* [[静岡銀行]] 河津支店 - 河津町浜119-1に所在。<br />
* [[三島信用金庫]] 河津支店 - 河津町峰497-15に所在。<br />
* [[伊豆太陽農業協同組合]] - 1990年(平成2年)10月1日設立。<br />
:* 下河津支店 - 河津町笹原341に所在。<br />
:* 上河津支店 - 河津町湯ヶ野141-9に所在。<br />
<br />
== マスメディア ==<br />
=== 地域新聞 ===<br />
河津町独自の[[地方紙|地域新聞]]は無い。<br />
<!-- === 出版・印刷 === --><br />
=== 放送局 ===<br />
* [[河津中継局]] - 河津町(峯山)に所在。放送区域は一部を除く河津町域。<br />
* [[NHK河津見高浜テレビ中継局]] - 河津町見高今井(片瀬山)に所在。放送区域は一部を除く河津町域。<br />
<br />
== 交通 ==<br />
=== 鉄道 ===<br />
[[ファイル:Kawazustation.jpg|thumb|230px|河津駅]]<br />
; [[伊豆急行線]]<br />
* [[今井浜海岸駅]] - 1962年(昭和37年)に[[臨時駅]]「今井浜海水浴場駅」として開業。1969年(昭和44年)に通年営業化して現在名へ改称。<br />
* [[河津駅]] - 1961年(昭和36年)の全線開通時に開業。<br />
<br />
=== 道路 ===<br />
【[[日本の高速道路|高速道路]]】<br />
; [[伊豆縦貫自動車道]]([[河津下田道路]])<br />
: 河津IC(予定)、逆川IC(予定)<br />
<br />
【[[一般国道|国道]]】<br />
* [[国道135号]]<br />
* [[国道414号]]<br />
<br />
【[[都道府県道|県道]]】<br />
<!--[[○○県道○号○○△△線]]--><br />
* [[静岡県道14号下佐ケ野谷津線]]<br />
* [[静岡県道115号湯ケ野松崎線]]<br />
<br />
=== バス ===<br />
* [[南伊豆東海バス]]<br />
<!--<br />
=== 船舶 ===<br />
--><br />
<br />
== 名所旧跡・行事等 ==<br />
[[ファイル:Kawazu7daru Odaru.jpg|thumb|160px|河津七滝の大滝]]<br />
[[ファイル:Kawazu roopbridge01.JPG|thumb|200px|河津七滝ループ橋]]<br />
[[ファイル:小湊第1隧道 - panoramio.jpg|thumb|200px|小湊一号隧道(小湊第1隧道)]]<br />
<br />
: ※外部リンク {{Cite web |url=http://www.kawazu-onsen.com/kanko/kanko.html |title=観光施設 |work=伊豆・河津温泉郷 |publisher=河津桜観光協会 |accessdate=2018-03-01}}リンク先に河津町の観光地図あり。個別の解説もクリックすることで開く。<br />
* [[カワヅザクラ]](河津桜)<br />
** 早咲きの桜<br />
* [[河津七滝]](ななだる)<br />
** 伊豆山中の七つの滝 ■右列に関連画像あり<br />
* [[河津七滝ループ橋]](七滝高架橋) ■右列に画像あり<br />
* [[天城トンネル]](天城山隧道)<br />
* 小湊一号隧道、小湊二号隧道 - [[扁額]]には「小湊一号隧道」「小湊二号隧道」とあるが、[[道路標識]]には「小湊第1隧道」「小湊第2隧道」とある。 ■右列に画像あり<br />
* 河津温泉郷<br />
** [[湯ヶ野温泉]]<br />
** [[河津七滝温泉]]<br />
* [[河津バガテル公園]]<br />
* [[峰温泉]]<br />
** [[峰温泉大噴湯公園]]<br />
** [[踊り子温泉会館]]<br />
* かわづカーネーション見本園<br />
* かわづ花菖蒲園<br />
* [[今井浜海水浴場]]<br />
* 河津浜海水浴場<br />
* 南禅寺(なぜんじ) - [[行基]]開創伝説のある[[古刹]]。[[平安時代|平安]]前期の[[薬師如来]]坐像、平安中期の[[地蔵菩薩]]立像、[[十一面観音]]立像、[[天部]]形立像(一対)、[[梵天]]立像、[[帝釈天]]立像(いずれも静岡県指定文化財)を始め、二十数体にも及ぶ多数の平安時代の仏像を安置。<br />
:* 伊豆ならんだの里 河津平安仏像展示館 - 2013年(平成25年)に開館<ref name="南禅寺-展示館" />。<br />
* 足湯処(無料の足湯)<br />
** 豊泉足湯処<br />
** さくらの足湯処<br />
** 河津三郎の足湯処<br />
* [[iZoo]](爬虫類専門の動物園)<br />
* 鳳儀山[[栖足寺]](せいそくじ、かっぱの寺) - [[谷津 (河津町)|谷津]]。[[臨済宗建長寺派]]<ref>[http://kappa.live/ 公式]、[https://izu88.net/archives/temple/temple35 伊豆88遍路 第35番札所]、[http://ukoara.com/izu_gosyuinsanpo/ 御朱印さんぽ]</ref><br />
<br />
== 地域にゆかりのある著名人 ==<br />
=== 名誉町民 ===<br />
* [[石原忍]] - 1879年(明治12年)9月25日、[[東京府]](現・[[東京都]])生まれ。[[医学者]]([[眼科医]]、[[軍医]])。[[帝国大学]][[名誉教授]]。河津町[[名誉町民]]受章者(1957年〈昭和32年〉)、[[文化功労者]](1961年〈昭和36年〉)。 <br />
=== 出身著名人 ===<br />
* 稲葉時太郎 - 峰村(のちの[[下河津村]]峰、現在の河津町峰)の人。[[峰温泉]]の復興功労者。<ref name="町-峰温泉大噴湯公園" /> ''cf.'' 関連事象の年表での記載位置:1926年<br />
* 飯田勝美 - 生年不詳。[[カワヅザクラ|河津桜]][[原木]]の発見者・定植者。''cf.'' 関連事象の年表での記載位置:1955年、1966年、1968年、1974年、1975年<br />
* [[篠崎真吾]] - 元[[ロッテリア]]社長、[[公認会計士]]<br />
* 935. (クミコ) - 1972年(昭和47年)10月30日、河津町生まれ。[[歌手]]([[音楽ユニット]]「[[&[AND]]]」のボーカル)。<br />
<br />
=== 地域にゆかりのある異邦人等 ===<br />
* [[川端康成]] - 1899年(明治32年)6月14日生まれ。[[大阪府]]出身。 [[小説家]]、[[文芸評論]]家。小説『[[伊豆の踊子]]』の中で[[湯ヶ野温泉|湯ヶ野]]が舞台の一つとして描かれた。由来地には記念碑がある。''cf.'' 関連事象の年表での記載位置:1925年、1965年<br />
=== 大使 ===<br />
* 高橋東吾・[[磯野貴理子]]夫妻 - 2014年(平成26年)3月3日、観光大使を委嘱。<br />
* [[前野朋哉]] - [[岡山県]][[倉敷市]]出身。[[俳優]]。2014年(平成26年)9月、観光大使を委嘱。<br />
<br />
== 河津町を舞台にした作品 ==<br />
=== 文学・記録・漫画 ===<br />
* [[井伏鱒二]] - 河津川筋、南豆荘の将棋盤<br />
* [[川端康成]] - [[伊豆の踊子]]<br />
* [[中島敦]] - 蕨・竹・老人<br />
* [[梶井基次郎]] - [[冬の蠅]]<br />
* [[荻原井泉水]] - かっぱの甕<br />
* [[石坂洋次郎]] - 奥伊豆参り、忘れ得ぬ人々<br />
* [[三島由紀夫]] - [[真夏の死]]<br />
* [[西村京太郎]] - 伊豆・河津七滝に消えた女、河津・天城連続殺人事件<br />
* [[吉村達也]] - 天城大滝温泉殺人事件<br />
<br />
=== ドラマ ===<br />
* [[テレビ東京]]『[[孤独のグルメ]] Seasen3』第3話「静岡県賀茂郡河津町の生ワサビ付きわさび丼」 - 2013年(平成25年)7月24日放映。七滝地区の名物「わさび丼」が取り上げられた<ref name="CEF-201802" />。視聴者の反響は大きく、新商品の開発にもつながった<ref name="CEF-201802" />。<br />
<br />
== 脚注 ==<br />
{{脚注ヘルプ}}<br />
=== 注釈 ===<br />
{{Reflist|group=*}}<br />
=== 出典 ===<br />
{{Reflist|2}}<br />
<br />
== 関連項目 ==<br />
{{osm box|r|4674474}}<br />
{{Commonscat|Kawazu, Shizuoka}}<br />
* [[伊豆の踊子]]<br />
* [[河津氏]]<br />
** [[伊東祐親]]([[河津祐親]])<br />
** [[河津祐泰]]<br />
** 『[[曽我物語]]』([[曾我兄弟の仇討ち]])<br />
* [[カワヅザクラ]]<br />
* [[河津七滝]]<br />
* [[河津掛け]]<br />
<br />
== 外部リンク ==<br />
* {{Official website}}<br />
* [http://www.kawazu-onsen.com/ 河津町観光協会]<br />
* [http://www.nanadaru.com/ 河津七滝観光協会WEBサイト]<br />
<br />
{{静岡県の自治体}}<br />
{{Normdaten}} <br />
<br />
{{DEFAULTSORT:かわつちよう}}<br />
[[Category:静岡県の市町村]]<br />
[[Category:賀茂郡 (静岡県)]]<br />
[[Category:河津町|*]]</div>
60.36.246.215
取手市
2018-06-18T15:57:52Z
<p>60.36.246.215: </p>
<hr />
<div>{{日本の市<br />
|画像 = ファイル:Oohorinowatashi 001.JPG<br />
|画像の説明 = [[小堀の渡し]]<br />
|市章 = [[ファイル:Flag of Toride, Ibaraki.svg|100px|center]]取手[[市町村旗|市旗]][[ファイル:Toride Ibaraki chapter.JPG|75px|center]]取手[[市町村章|市章]]<br />
|市章の説明 = [[1963年]]([[昭和]]38年)[[3月1日]]制定<br />
|自治体名=取手市<br />
|都道府県=茨城県<br />
|支庁=<br />
|コード=08217-1<br />
|隣接自治体=[[つくばみらい市]]、[[龍ケ崎市]]、[[守谷市]]、<br/>[[北相馬郡]][[利根町]]<br/>[[千葉県]]:[[我孫子市]]、[[柏市]]<br />
|木=[[モクセイ]]<br/>[[ゲッケイジュ]]<br />
|花=[[ツツジ]]<br/>[[フジ (植物)|フジ]]<br />
|シンボル名=市の鳥<br />
|鳥など=[[フクロウ]]<br/>[[カワセミ]]<br />
|郵便番号=302-8585<br />
|所在地=取手市寺田5139番地<br /><small>{{ウィキ座標度分秒|35|54|41.4|N|140|3|1.3|E|region:JP}}</small><br/>[[ファイル:Toride City Hall.JPG|250px|取手市役所]]<br />
|外部リンク=[http://www.city.toride.ibaraki.jp/ 取手市]<br />
|位置画像={{基礎自治体位置図|08|217}}<br />
|特記事項=<br />
}}<br />
'''取手市'''(とりでし)は、[[茨城県]][[茨城県南地域|南部]]に位置する[[市]]。<br />
<br />
== 概要 ==<br />
地域の中央部を南北に[[水戸街道]]([[国道6号]])が通り、[[利根川]]の水運とあいまって、古くは宿場町だった。また、1970年代から1980年代にかけて東京都心の[[ベッドタウン]]として開発され人口が増加。それ以降、いわゆる「[[茨城都民]]」と呼ばれる住民が多くなった。<br />
<br />
[[1995年]]をピーク<ref>{{Cite web|url=http://www.city.toride.ibaraki.jp/index.cfm/11,5254,c,html/5254/kokusei1.pdf|title=平成17 年国勢調査第一次基本集計結果概要 取手市|publisher=取手市役所|accessdate=2012-04-18}}</ref>として以降、[[都心回帰|都心回帰現象]]の影響や、子供が成長して家を離れるケース(当初より[[核家族]]が目立った井野や戸頭では、[[団塊の世代|団塊世代]]前後の夫婦のみが暮らし、子供は進学・就職・結婚等で取手を離れて他地域を生活拠点とするケース)も多く見受けられ、人口は減少傾向に推移している。その一方で世帯数は増加しており、少数世帯化・少子高齢化及び校舎の老朽化が進み、2008年(平成20年)から市内の小・中学校の大幅な統合が実施された。<br />
<br />
[[2005年]]に[[北相馬郡]][[藤代町]]との合併によって人口10万人を突破するとともに、茨城県の「まちづくり特例市」に認定され、土地利用や福祉関係等の県主要事務の権限移譲を受けており、現在取手駅周辺再開発・土地区画整理事業・宅地開発などが新たに行われている。市内では、現在[[都市再生機構|UR]]による[[常総ニュータウン]]取手ゆめみ野の開発が進められている(ゆめみ野の詳細は常総ニュータウンの項目を参照)。また、[[東京芸術大学]]取手キャンパスが市内にあることから、「アートのまち取手」としてまちづくりを展開しており、その一環として[[1999年]]より市民と取手市、東京芸術大学の三者が共同で、[http://www.toride-ap.gr.jp/ 取手アートプロジェクト](TAP=Toride Art Project略)を行っている。<br />
<br />
== 地理 ==<br />
[[県庁所在地]]の[[水戸市]]まで60[[キロメートル]] (km) 、[[東京]]までは約40&nbsp;kmに位置する。[[東日本旅客鉄道|JR]][[常磐線]]や[[関東鉄道常総線|常総線]]の駅を中心に市街地が広がる一方、田園地帯も多く残る。また、古くは水戸街道の宿場町だったことから、それに関連した史跡・文化財が多数見られる。交通面は、鉄道ではJR常磐線、[[関東鉄道]]常総線が、道路では[[国道6号]]と、そこから分岐する[[国道294号]]の事実上の始点があり、茨城県南地域の交通の要衝として機能している。<br />
<br />
[[関東平野]]に位置し、[[利根川]]と[[小貝川]]に面していることから、かつては水害が多かった。現在でも、市南西部と南東部の台地上の地域を除くと、市域の多くで浸水の危険性が見られる。詳しくは[http://www.ktr.mlit.go.jp/shimodate/08_hanra/map_2/index.htm 浸水想定区域図]を参照。しかし、近年は利根川、小貝川などの堤防の高機能化により、河川の氾濫に伴う浸水被害はほとんどなくなっている。一方、[[集中豪雨]]により市内の一部低地などでは道路が冠水するなどの被害が発生する。<br />
<br />
* 市内を流れる河川:利根川、小貝川、北浦川、相野谷川、谷田川、西浦川、大野川<br />
<br />
[[1911年]]([[明治]]44年)から[[1920年]]([[大正]]9年)の利根川河川改修によりできた、利根川を挟んだ[[千葉県]]側に「取手市小堀(おおほり)」と呼ばれる、いわゆる[[対岸飛び地|対岸飛地]]があり、市営[[渡船|渡し船]]である[[小堀の渡し]]によって結ばれている。また、小堀地区を循環するバスも運行されている。尚、この地区は[[古利根沼]]が千葉県[[我孫子市]]との境である。<br />
<br />
「取手」の都市名の由来は、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]に大鹿太郎左衛門の砦(大鹿城:現在の取手競輪場付近)があったことから名づけられたといわれている。ただし、[[平安時代]]末の11世紀には[[伊勢神宮]]の[[相馬御厨]]として、当市周辺の地名がすでに史料に記されており、さらに13世紀になると、稲村、戸頭、高井、大鹿などの地名も[[相馬氏]]の領地として史料に登場することから、正確な由来は判明していない。[[平将門]]が城堡(砦:とりで)を築いた事に由来するとの説もある。また、「取手」「鳥手」「鳥出」という標記がされている歴史書なども見受けられる。<br />
<br />
[[File:Toride city center area Aerial photograph.1989.jpg|thumb|380px|取手市中心部周辺の空中写真。[[利根川]]の北東岸に取手市街地が広がる。画像下部方向の利根川対岸は[[千葉県]][[我孫子市]]域であるが、画像右下部付近に見える三日月形の河跡湖[[古利根沼]]と利根川に挟まれた小堀(おおほり)地区は取手市域である。<br/>1989年撮影の15枚を合成作成。{{国土航空写真}}。]]<br />
=== 隣接している自治体 ===<br />
; 茨城県<br />
* [[つくばみらい市]]<br />
* [[龍ケ崎市]]<br />
* [[守谷市]]<br />
* [[北相馬郡]][[利根町]]<br />
; 千葉県<br />
* [[我孫子市]]<br />
* [[柏市]]<br />
<br />
=== 人口 ===<br />
{{人口統計|code=08217|name=取手市}}<br />
<br />
== 歴史 ==<br />
* [[1871年]]([[明治]]4年)- 廃藩置県により、常陸国に属した現・久賀地区が[[新治県]]、下総国の属した小貝川以南が[[印旛県]]に属する。<br />
* [[1873年]](明治6年)- 小貝川以南が[[千葉県]]に属する。<br />
* [[1875年]](明治8年)- 小貝川以南が[[茨城県]]に編入される。新治県は廃止され、久賀地区も茨城県となる。<br />
* [[1885年]](明治18年)- 地積編成により、取手村と大鹿村が合併して取手村になる。<!-- 取手宿部分は、自治体名としては取手村が正しい --><br />
* [[1889年]](明治22年)- 市制町村制の施行により、取手村と台宿村が合併して[[北相馬郡]]取手町になる。<br />
* [[1947年]]([[昭和]]22年)- 取手町が[[井野村 (茨城県)|井野村]]を編入。<br />
* [[1955年]](昭和30年)- [[寺原村]]、[[稲戸井村]]、[[高井村 (茨城県)|高井村]](旧同地村は[[守谷市|守谷町]]へ分割編入)、[[小文間村]]を編入。<br />
* [[1963年]](昭和38年)[[3月1日]] - 現在の市章となる町章を制定。<ref>図典 日本の市町村章 p58</ref><br />
* [[1970年]](昭和45年)[[10月1日]] - 市制施行。<br />
* [[1972年]](昭和47年) - 市の木、市の花を制定。<br />
* [[1975年]](昭和50年) - 「取手市民憲章」を制定。<br />
* [[1981年]](昭和56年)[[11月1日]] - 新町名に、新町五丁目(旧大字取手の一部)、新取手一丁目〜五丁目(大字寺田・野々井の各一部)を設定<ref>{{Citation|title={{PDFlink|[http://soumu.pref.ibaraki.jp/file/PDF/1981/198110/n6983.pdf 字区域の変更(昭和56年10月26日 茨城県告示第1526号)]}}|periodical=茨城県報|publisher=茨城県|volume=第6983号|date=1981年10月26日|pages=pp.2-4}}</ref>。<br />
* [[1985年]](昭和60年)11月1日 - 新取手5丁目の区域(旧寺田の一部)を追加設定<ref>{{Citation|title={{PDFlink|[http://soumu.pref.ibaraki.jp/file/PDF/1985/198510/n7395.pdf 字区域の変更(昭和60年10月31日 茨城県告示1467号)]}}|periodical=茨城県報|publisher=茨城県|volume=第7395号|pages=pp.1-2|date=1985年10月31日}}</ref>。<br />
* [[1995年]]([[平成]]7年)[[10月2日]] - 新町名として、中原町(旧大字取手・井野の一部)、井野台3丁目〜5丁目(旧大字井野の一部)を設定<ref>{{Citation|title={{PDFlink|[http://soumu.pref.ibaraki.jp/file/PDF/1995/199509/n684.pdf 町の区域の設定(平成7年9月14日 茨城県告示第1048号)]}}|periodical=茨城県報|publisher=茨城県|volume=第684号|pages=p.2|date=1995年9月14日}}</ref>。<br />
* [[2001年]](平成13年) - 市の鳥を制定。<br />
* [[2005年]](平成17年)[[3月28日]] - 北相馬郡[[藤代町]]を編入。<br />
* 2005年(平成17年)[[10月1日]] - 市の木・花・鳥を改訂(旧藤代町分も含めた形に変更)。<br />
<br />
== 行政 ==<br />
=== 歴代市長 ===<br />
* 中村金左衛門([[1970年]]([[昭和]]45年)、1期)※1955年(昭和30年) - 1970年(昭和45年)まで4期。旧取手町長。<br />
* 海老原一雄(1970年(昭和45年) - [[1979年]](昭和54年)、2期)<br />
* 菊地勝志郎(1979年(昭和54年) - [[1995年]]([[平成]]7年)、4期)<br />
* 大橋幸雄(1995年(平成7年) - [[2003年]](平成15年)、2期)<br />
* 塚本光男(2003年(平成15年) - [[2007年]](平成19年)、1期)<br />
* [[藤井信吾 (政治家)|藤井信吾]](2007年(平成19年) - 現職、3期目)<br />
<br />
=== 市役所庁舎 ===<br />
[[ファイル:fujisirocho.jpg|thumb|250px|藤代庁舎]]<br />
取手市では、本所機能を分散させた分庁舎方式を採用している。<br />
* 取手市役所 - 総務部、政策推進部、財政部、健康福祉部、建設部、まちづくり振興部、議会事務局、監査事務局ほか<br />
* 藤代庁舎 - 教育委員会、農業委員会、藤代総合窓口課、農政課<br />
* 取手駅西口都市整備事務所 - 都市整備部<br />
* 窓口等を設置している施設<br />
** 取手支所(福祉会館内)<br />
** 取手駅前窓口(リボンとりでビル3階)<br />
** 戸頭窓口コーナー(戸頭公民館内)<br />
<br />
=== 財政 ===<br />
2008年度(平成20年度)は341億3,000万円の一般会計予算が組まれており、歳入の約57%が市税で、そのうち約35%が個人市民税、約27%が[[キヤノン]]や[[キリンビール]]などの市内に事業所・工場が所在する企業の法人市民税で占める(法人税収入では、[[つくば市]]、[[水戸市]]に次ぐ茨城県内第3位、法人税割ではつくば市に次ぐ茨城県内第2位)。一般会計からの支出は民生費が最も多くを占め、ついで総務費、土木費、公債費が並ぶ。また、同年度は9つの特別会計で188億2,796万7,000円の予算が組まれている。<br />
<br />
企業による法人税収入が茨城県内第3位と企業に恵まれた環境だが、全体では近年市町村民税法人税割が大幅に落ち込んでおり、2009年に地方交付税の交付団体となった。<br />
<br />
負債に関しては、2006年度(平成18年度)末時点で、地方債現在高比率174.0%(茨城県内ワースト20)、実質的な債務残高比率186.3%(茨城県内ワースト21)、将来にわたる財政負担比率173.3%(茨城県内ワースト13)である。その一方で、経常収支に占める人件費率が34.9%(茨城県内ワースト8)と、近隣と比較して非常に高い人件費率となっており、旧藤代町との合併の影響による職員数の適正な定員管理が大きな課題となっている。<!-- なお、人件費については、近隣の市町村では消防事務を一部事務組合で共同で行っている事が多く消防職員は市職員ではないが、取手市では消防を市営で行っているため、消防職員を市職員としてカウントしていることにも起因しているようである。 「ようである」と推測となっているのでコメントアウト。確証が得られるソースがありましたら修正復活させて下さい。--><br />
<br />
=== 広域事務 ===<br />
* [http://www.jyouso-koiki.or.jp/ 常総地方広域市町村圏事務組合]<br />
: [[常総市]](旧水海道市域)・[[つくばみらい市]]・[[守谷市]]・当市のごみ処理などを行っている。守谷市に組合運営の常総環境センター(ごみ処理施設)・組合事務所・常総運動公園が設置されている。<br />
* [http://business2.plala.or.jp/ibananww/ 茨城県南水道企業団]<br />
: [[牛久市]]・[[龍ケ崎市]]・当市の上水道供給を行っている。<br />
* 取手地方広域下水道組合<br />
: つくばみらい市の一部・当市の下水道処理を行っている。<br />
* 龍ケ崎地方衛生組合<br />
: [[稲敷市]]・牛久市・龍ケ崎市・稲敷郡[[阿見町]]・稲敷郡[[河内町]]・[[稲敷郡]][[美浦村]]・[[北相馬郡]][[利根町]]・当市のし尿などの処理を行っている。<br />
* 取手市外二市火葬場組合<br />
: つくばみらい市・守谷市・当市で斎場の運営を行っている。<br />
* 利根川水系県南水防事務組合<br />
: 牛久市・[[つくば市]]・つくばみらい市・龍ケ崎市・当市の広域的な水防事務を行っている。<br />
* 茨城県市町村総合事務組合<br />
: 茨城県内市町村の職員退職手当の管理や、県民交通災害共済事業等の事務を行っている。<br />
* 茨城租税債権管理機構<br />
: 茨城県内市町村の一部の市税徴収代行事務を行っている。<br />
<br />
=== 第三セクター等 ===<br />
* 取手市土地開発公社<br />
* 取手市都市開発公社<br />
* 取手市健康福祉医療事業団<br />
* 取手市文化事業団<br />
* 取手市農業公社<br />
<br />
=== 警察・消防 ===<br />
==== 管轄警察署 ====<br />
* [[取手警察署]](国道6号沿いにある警察署で、管轄は守谷市と北相馬郡利根町、当市である)<br />
* 取手駅前交番<br />
* 白山交番<br />
* 戸頭交番<br />
* 藤代地区交番<br />
* 小文間駐在所<br />
* 久賀駐在所<br />
<br />
==== 管轄消防署 ====<br />
[[取手市消防本部]]<br />
* 取手消防署<br />
* 戸頭消防署<br />
* 吉田消防署<br />
* 椚木消防署<br />
** 宮和田出張所(2010年4月1日に宮和田消防署から椚木消防署の出張所に改組)<br />
<br />
=== その他の機関 ===<br />
* 水戸地方法務局取手出張所<br />
* 取手簡易裁判所<br />
* 取手区検察庁<br />
* [[国土交通省]]下館工事事務所藤代出張所<br />
* 国土交通省利根川下流河川事務所取手出張所<br />
* 茨城県[[自転車競技]]事務所([[取手競輪場]])<br />
** ※取手市ではなく、茨城県所管の施設である。<br />
* なお、国税の所管は竜ヶ崎税務署(龍ケ崎市)、県税の所管は稲敷県税事務所(稲敷市)である。<br />
<br />
== 経済 ==<br />
=== 特産品 ===<br />
* [[米]]<br />
* [[日本酒]](君萬代・田中酒造、金門・金門酒造、賜杯桜・賜杯桜酒造)<br />
* [[漬物]]([[奈良漬]]・[http://www.shinroku.co.jp/ 新六本店])<br />
* [[リーキ]](西洋ネギ)<br />
<br />
=== 農業 ===<br />
* [[岡堰]]土地改良区<br />
* [[福岡堰]]土地改良区<br />
<br />
=== 商業 ===<br />
商業の中心地は取手駅前で、[[1973年]][[3月23日]]に駅東口に[[片倉工業|カタクラ]]ショッピングプラザ、[[1985年]]に駅西口に[[東急ストア|取手とうきゅう]]が開店した。[[1986年]]8月には[[西友]]が撤退したが、[[1988年]][[9月21日]]に[[ボックスヒル]]取手店が開店し、[[1990年]]頃に取手駅前は最盛期を迎える。しかし、カタクラショッピングプラザは[[2001年]]の[[イトーヨーカ堂|イトーヨーカドー]]の撤退後、キーテナントに[[マルエツ]]、[[大創産業|ダイソー]]などを入れたが[[2007年]][[4月26日]]に閉店<ref>{{Cite web|url=http://www.katakura.co.jp/Activities/Kaihatu/toride_info.htm|title=◆◆◆弊社取手カタクラショッピングプラザ営業終了のお知らせ◆◆◆|publisher=片倉工業|accessdate=2010-03-01}}</ref>。現在は取り壊されている。また、取手とうきゅうも[[2010年]][[8月31日]]をもって閉店した。市内には[[ラーメン]]店を展開する『[[ゆにろーず]]』の本社と製麺所があり、[[ベイシア]]の出店計画も2005年より存在する<ref>平成20年第3回取手市議会定例会会議録(第4号)</ref>。<!-- 中止か今後出店か不透明なので計画が存在するとしました -->そのような中、2012年度中に西友が取手とうきゅう跡地に出店すると報じられ<ref>{{cite news |title=東急ストア跡 西友が出店へ 茨城・取手駅西口|newspaper=[[産経新聞]]|date=2012年8月1日|url=http://sankei.jp.msn.com/region/news/120801/ibr12080102170001-n1.htm|accessdate=2012-08-28}}</ref>、「リボンとりで」として開業した(西友は1階部分に食料品販売のみで営業し、2階以上は専門店)。<br />
<br />
市西部の戸頭では、街開き後に[[エコス|マスダ]]や[[リブレ京成]]などの[[スーパーマーケット|スーパー]]が出店し、新大利根橋・常総ふれあい道路の開通、隣接する守谷市の常総ニュータウン南守谷・ヒルズ美園などの開発が進むと、[[ジャスコ]]取手店が出店。さらに[[2001年]](平成13年)にジャスコに隣接する場所に[[カルフール]]<ref>平成13年第1回取手市議会定例会会議録(第2号)</ref>、戸頭に隣接する米ノ井に[[ベイシア]]が出店する予定であったが<ref>平成13年第2回取手市議会定例会会議録(第2号)</ref>、これらは中止となっている。しかし、カルフール予定地には、戸頭地内にあった[[ケーズホールディングス|ケーズデンキ]]が移転し、[[ホーマック]]も新規出店。[[2007年]](平成19年)には[[ヤオコー]]が出店した。この他、戸頭にはジェーソンが出店した。2015年(平成27年9月)、イオン取手店(旧ジャスコ取手店)は閉店した。<br />
<br />
=== 工業 ===<br />
* [[キヤノン]]取手事業所<br />
* [[麒麟麦酒]]取手工場<br />
* [[日清食品]]関東工場<br />
* [[ニッピ]]バイオマトリックス研究所<br />
* [[東京鉄骨橋梁]]取手工場<br />
<br />
=== 金融機関 ===<br />
* [[みずほ銀行]]取手支店<br />
* [[三井住友銀行]]取手支店<br />
* [[東日本銀行]]取手支店<br />
* [[常陽銀行]]取手支店、戸頭支店、取手西支店、藤代支店<br />
* [[筑波銀行]]取手支店、取手西支店、藤代支店、新取手出張所<br />
* [[中央労働金庫]]取手支店<br />
* [[水戸信用金庫]]取手支店、藤代支店<br />
* [[茨城県信用組合]]取手支店、藤代支店<br />
* [[JAバンク]]取手支店、寺原支店、藤代支店、久賀支店<br />
* [[ゆうちょ銀行]]<br />
** 市内各郵便局が代理店として業務を行っている。(所在地は「郵便」節を参照)<br />
<br />
=== 郵便 ===<br />
<div style="float: left; vertical-align: top; white-space: nowrap; margin-right: 1em;"><br />
* [[取手郵便局]](集配局)<br />
* 小文間郵便局<br />
* 取手寺田郵便局<br />
* 取手白山郵便局<br />
* 取手[[ボックスヒル]]内郵便局<br />
* 取手井野郵便局<br />
* 取手一郵便局<br />
* 藤代山王郵便局<br />
* 稲戸井郵便局<br />
* 取手新道郵便局<br />
* 取手戸頭郵便局<br />
* [[藤代郵便局]](集配局)<br />
* 藤代清水郵便局<br />
* 藤代新川郵便局<br />
* 宮和田郵便局<br />
</div>{{clear|left}}<br />
<br />
== 国際交流 ==<br />
* {{flagicon|CHN}} [[桂林市]]([[中華人民共和国]])<br />
* {{flagicon|USA}} [[ユバシティ (カリフォルニア州)]]([[アメリカ合衆国]])<br />
* 取手市国際交流協会<br />
<br />
== 地域 ==<br />
=== 学校教育 ===<br />
==== 大学 ====<br />
* [[東京芸術大学]]取手キャンパス<br />
市は[[1985年]][[9月]]に目白女子大学(仮称。現在の[[目白大学]])の誘致を行い、[[1986年]][[1月]]に正式に取手市に建設する意向を受け、米ノ井地区が候補となったが<ref>広報とりで No.528 1988年7月1日</ref>、建設は中止となった。<br />
<br />
==== 高等学校 ====<br />
茨城県立<br />
* [[茨城県立取手第一高等学校]]<br />
* [[茨城県立取手第二高等学校]]<br />
* [[茨城県立取手松陽高等学校]]<br />
* [[茨城県立藤代高等学校]]<br />
* [[茨城県立藤代紫水高等学校]]<br />
私立<br />
* [[江戸川学園取手中学校・高等学校|江戸川学園取手高等学校]]<br />
* [[聖徳大学附属取手聖徳女子中学校・高等学校|聖徳大学附属取手聖徳女子高等学校]]<br />
<br />
==== 中学校 ====<br />
;取手市立<br />
* 取手第一中学校(昭和22年4月、北相馬郡学校組合立取手中学校本校(井野教場)として開校、昭和30年9月、寺原教場(分校)が取手第二中学校として開校により分離したため、取手第一中学校に改称、昭和54年4月、生徒増加により、取手第一中学校から分離し、取手東中学校として開校、平成24年3月、〈旧〉取手第一中学校と〈旧〉取手東中学校が統合により、両校が閉校し、4月から、現在の〈新生〉取手第一中学校となり、開校<br />
* [[取手市立取手第二中学校|取手第二中学校]]<br />
* 永山中学校<br />
* 戸頭中学校<br />
* 藤代中学校<br />
* 藤代南中学校<br />
<br />
;私立<br />
* [[江戸川学園取手中学校・高等学校|江戸川学園取手中学校]]<br />
* [[聖徳大学附属取手聖徳女子中学校・高等学校|聖徳大学附属取手聖徳女子中学校]]<br />
<br />
==== 小学校 ====<br />
;取手市立<br />
* 取手小学校<br />
* 取手東小学校<br />
* 白山小学校<br />
* 寺原小学校<br />
* 取手西小学校<br />
* 永山小学校<br />
* 高井小学校<br />
* 戸頭小学校<br />
* 藤代小学校<br />
* 久賀小学校<br />
* 山王小学校<br />
* 宮和田小学校<br />
* 六郷小学校<br />
* 桜が丘小学校<br />
<br />
;私立<br />
* [http://es.e-t.ed.jp 江戸川学園取手小学校]<br />
<br />
==== 幼稚園 ====<br />
<div style="float: left; vertical-align: top; white-space: nowrap; margin-right: 1em;"><br />
* 藤代幼稚園(市立)<br />
* [http://www.kofudai.ed.jp/ 光風台幼稚園]<br />
* あづま幼稚園<br />
* チューリップ幼稚園<br />
* チューリップ第二幼稚園<br />
* 取手幼稚園<br />
* 取手ふたば文化幼稚園<br />
* 白山幼稚園<br />
* みどりが丘幼稚園<br />
* 戸頭幼稚園<br />
* めぐみ幼稚園<br />
* さつき幼稚園<br />
* つつみ幼稚園<br />
</div>{{clear|left}}<br />
<br />
====専修学校====<br />
* 取手歯科衛生専門学校<br />
* 日本医療秘書専門学校([[日本医療秘書専門学校|大阪府にある同名の学校]]とは無関係)<br />
* [[成田つくば航空専門学校]]<br />
* [[関東理工自動車専門学校]]<br />
* つくば総合高等学園<br />
<br />
=== 職業訓練 ===<br />
* [[日本情報処理短期大学校]]<br />
<br />
=== 社会教育 ===<br />
==== 市立図書館 ====<br />
* [http://www.toride-toshokan.jp/ 取手図書館]<br />
* ふじしろ図書館<br />
<br />
== 市立公民館 ==<br />
* 中央公民館<br />
* 小文間公民館<br />
* 永山公民館<br />
* 井野公民館<br />
* 寺原公民館<br />
* 戸頭公民館<br />
* 白山公民館<br />
* 藤代公民館<br />
* 山王公民館<br />
* 六郷公民館<br />
* 相馬公民館<br />
* 相馬南公民館<br />
* 久賀公民館<br />
* 高須公民館<br />
{{clear|left}}<br />
<br />
=== その他の教育・文化施設 ===<br />
* [http://toride-gsc.com/ 取手グリーンスポーツセンター]<br />
* 藤代スポーツセンター<br />
* [http://homepage2.nifty.com/3251/ 市民会館、福祉会館]<br />
* 埋蔵文化財センター<br />
* 白山子育て支援センター<br />
* 戸頭子育て支援センター<br />
* 藤代子育て支援センター<br />
* 東部子育て支援センター<br />
*井野なないろ子育て支援センター(2020年1月、東部子育て支援センターから移行し、開所予定)<br />
* 働く婦人の家・勤労青少年ホーム<br />
<br />
=== 福祉 ===<br />
==== 保健衛生 ====<br />
* 取手市立保健センター(ウェルネスプラザ)<br />
<br />
==== 児童福祉(保育所) ====<br />
;取手市立<br />
* 永山保育所<br />
*井野なないろ保育所(2020年1月、吉田保育所と舟山保育所を統合し、開園予定)<br />
* 吉田保育所<br />
* 舟山保育所<br />
* 白山保育所<br />
* 戸頭北保育所<br />
* 中央保育所<br />
* 久賀保育所<br />
<br />
;私立<br />
* 取手保育園<br />
* ふたば保育園<br />
* 育英保育園<br />
* たちばな保育園<br />
* 共生保育園<br />
* [http://www.swas.jp/ina/ 稲保育園]<br />
* 井野保育園<br />
* 戸頭東保育園<br />
* 取手ふたば文化保育園([[認定こども園]])<br />
<br />
==== 高齢者福祉 ====<br />
* 老人福祉センターさくら荘<br />
* かたらいの郷<br />
* デイサービスセンターふれあいの郷<br />
* 特別擁護老人ホームふれあいの郷<br />
* 取手市介護老人保健施設緑樹荘<br />
<br />
==== 障害福祉 ====<br />
* あけぼの<br />
* つつじ園<br />
* もくせい園<br />
<br />
=== 医療 ===<br />
==== 病院 ====<br />
* [[JAとりで総合医療センター]]<br />
* 取手北相馬保健医療センター医師会病院<br />
* 医療法人中村会 常総病院<br />
* 医療法人櫻友会 取手中央病院<br />
* 医療法人社団 宗仁会病院<br />
* 医療法人西秀会 西間木病院<br />
* 医療法人社団輝峰会 東取手病院<br />
* 医療法人社団耕潤会 藤代病院<br />
<br />
== 交通 ==<br />
=== 鉄道 ===<br />
* [[東日本旅客鉄道]](JR東日本)[[常磐線]] - [[取手駅]]、[[藤代駅]]<br />
*: 取手駅は常磐線[[常磐快速線|快速電車]]・[[常磐緩行線|各駅停車]]<!--(共に緑色の線が入った電車)-->の始発駅である。<br />
* [[関東鉄道]][[関東鉄道常総線|常総線]] - 取手駅、[[西取手駅]]、[[寺原駅]]、[[新取手駅]]、[[ゆめみ野駅]]、[[稲戸井駅]]、[[戸頭駅]]<br />
*中心となる駅:取手駅<br />
<br />
=== バス ===<br />
* [[関東鉄道]] - [[関東鉄道守谷営業所|守谷営業所]]、[[関東鉄道竜ヶ崎営業所|竜ヶ崎営業所]]、[[関東鉄道つくば中央営業所|つくば中央営業所]]<br />
* [[大利根交通自動車]]<br />
*[[JRバス関東]]([[深夜バス]]のみ)<br />
* [[取手市コミュニティバス|ことバス]] - 市が運営する[[コミュニティバス]](運行は関東鉄道・大利根交通自動車に委託)<br />
<br />
=== 道路 ===<br />
* [[一般国道]] - [[国道6号]]、[[国道294号]]<br />
* [[県道]] - [[茨城県道11号]]、[[茨城県道19号]]、[[茨城県道47号]]、[[茨城県道58号]](取手市内は国道294号と重複)、[[茨城県道130号]]、[[茨城県道170号]]、[[茨城県道208号]]、[[茨城県道210号]]、[[茨城県道211号]]、[[茨城県道219号]]、[[茨城県道229号]]、[[茨城県道251号]]、[[茨城県道269号]]、[[茨城県道270号]]、[[茨城県道327号]]、[[茨城県道328号]]、[[茨城県道502号]](自転車道)<br />
; 高速道路<br />
: 市内へは[[常磐自動車道]][[谷和原インターチェンジ|谷和原IC]]([[つくばみらい市]])を利用する。<!--参考までに、同ICから市役所まで[[国道294号]]を約10km進む。所要時間は約30分。--><br />
<br />
=== 船 ===<br />
* [[小堀の渡し]](市営渡船) - 小堀渡船場、取手緑地運動公園サッカー場前、取手ふれあい桟橋を発着する<br />
<br />
== メディア ==<br />
=== テレビ ===<br />
取手市は民放[[キー局]]、[[日本放送協会|NHK]][[NHK放送センター|東京]][[NHK教育テレビジョン|教育]]、[[NHK水戸放送局|NHK水戸]][[NHK総合テレビジョン|総合]]、[[放送大学学園|放送大学]]の放送対象地域である。また、放送対象地域外であるがほとんどの地域で[[日本放送協会|NHK]][[NHK放送センター|東京]][[NHK総合テレビジョン|総合]]/[[千葉テレビ放送|チバテレ]]/[[東京メトロポリタンテレビジョン|TOKYO MX]]が視聴できる。<br />
<br />
尚、アンテナの設置方向の関係(南の東京スカイツリー向きと、北の筑波中継局もしくは水戸放送局向きと、2つのアンテナを設置している住戸は実際ほぼ見当たらない)から、NHK総合テレビについても、[[日本放送協会|NHK]][[NHK放送センター|東京]][[NHK総合テレビジョン|総合]](JOAK-DTV)を設定、視聴している世帯が多いものと推定される。<br />
<br />
{| class="wikitable" style="text-align:center"<br />
![[リモコンキーID]]!!放送局名!!コールサイン!!チャンネル<br />
|-<br />
|1||[[NHK水戸放送局|NHK水戸]][[NHK総合テレビジョン|総合]]||JOEP-DTV||49<br>([[NHK筑波中継局|筑波中継局]])<br />
|-<br />
|2||[[日本放送協会|NHK]][[NHK放送センター|東京]][[NHK教育テレビジョン|教育]]||JOAB-DTV||26<br />
|-<br />
|3||[[千葉テレビ放送|チバテレ]]<br>(放送対象地域外)||JOCL-DTV||30<br />
|-<br />
|4||[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]||JOAX-DTV||25<br />
|-<br />
|5||[[テレビ朝日]]||JOEX-DTV||24<br />
|-<br />
|6||[[TBSテレビ]]||JORX-DTV||22<br />
|-<br />
|7||[[テレビ東京]]||JOTX-DTV||23<br />
|-<br />
|8||[[フジテレビジョン|フジテレビ]]||JOCX-DTV||21<br />
|-<br />
|9||[[東京メトロポリタンテレビジョン|TOKYO MX]]<br>(放送対象地域外)||JOMX-DTV||16<br />
|-<br />
|12||[[放送大学学園|放送大学]]||JOUD-DTV||28<br />
|}<br />
ケーブルテレビは、[[土浦ケーブルテレビ]](J:COM茨城)のサービスエリアである。<br />
<br />
=== ラジオ放送 ===<br />
当市では茨城県内をカバーしている[[茨城放送]]のほか、千葉県の[[ベイエフエム|BayFM]]をはじめとして、在京AM・FM局や埼玉県の[[エフエムナックファイブ|NACK5]]が聴取エリアである。聴取エリア内ではないものの、電波状況によっては、神奈川県の[[横浜エフエム放送|FMヨコハマ]]や山梨県の[[エフエム富士|FM-FUJI]]、栃木県の[[エフエム栃木|RADIO BERRY]]も聴取可能な場合がある。同じく、東京方面も含む近隣地域の[[コミュニティ放送|コミュニティFM]]が聴取できることがある。<br />
<br />
== 名所・旧跡・観光スポットなど ==<br />
; [[小貝川]]サイクリングロード<br />
: 利根川の合流地点から茨城県下館市までの約60キロメートルのコースで、小貝川の左岸・右岸を取りかえながら堤防上を走っていける。また利根川との合流地点からそのまま利根川沿いを走ることもできる。(取手駅方面等)<br />
; 新四国相馬八十八カ所霊場<br />
: 現在の取手市 - 我孫子市周辺に現存する250年の歴史の巡礼地([http://www.toride-kankou.net/henro/ 取手市観光ガイド])<br />
; とりで利根川大花火<br />
: 取手駅にほど近い利根川の河川敷で行われる。橋の開通を記念し、[[1930年]]([[昭和]]5年)に始まった。打ち上げ数は約8000発。有料観覧席2000席(例年7月1日に販売)開催は例年8月中旬。取手駅東側の旧水戸街道一帯は車両通行止めとなり多くの出店で賑わう。また、花火大会には珍しく仮設ゴミ捨て場が多く設けられる。しかし、向かいの千葉側では出店も少なく本部やスピーカー・ゴミ捨て場は設置されない。<br />
; [http://www.kirin.co.jp/about/brewery/factory/toride/index.html/ キリンビアパーク取手]<br />
; 小貝川フラワーカナル<br />
: 小貝川土手沿い約3キロ程のエリアに、5月-6月と9月-10月頃に[[ケシ|ポピー]]や[[コスモス]]が一面に咲き、毎年花まつりが開催される。<br />
; [[八坂神社 (取手市)|八坂神社]](もと[[牛頭天王社]])例大祭<ref>[http://toride-yasaka.or.jp 公式]</ref><br />
: 関東三大御輿とされる大御輿の渡御や底抜け山車、神楽ばやしなど、例年[[8月1日]] - [[8月3日]]に行われ、取手駅東側の旧水戸街道一帯は車両通行止めとなり人で賑わう。[[取手八坂神社]]は[[1626年]]([[寛永]]3年)創建、神輿は[[1812年]]([[文政]]9年)に造られた。本殿・拝殿は取手市指定有形文化財。<br />
;[http://www.toride-ap.gr.jp/ 取手アートプロジェクト(TAP=Toride Art Project略)]<br />
;[http://haisyaku.jugem.jp/ 拝借景(アートスペース)]<br />
; 旧取手宿[[本陣]](茨城県指定有形文化財、取手市指定史跡)<br />
: [[水戸街道]]の[[本陣]]跡、1795年(寛政7年)に建てられた建物が現存し無料公開されている。[[徳川斉昭]]歌碑が建っている。<br />
; 米井山[[龍禅寺]]<small>([[竜禅寺]])</small>三仏堂(国の[[重要文化財]])<ref>[https://www.city.toride.ibaraki.jp/maibun/shisetsu/034.html]、[https://www.city.toride.ibaraki.jp/maibun/bunkakatsudo/rekishi/shitebunkazai/ryuzenji.html]</ref><br />
: [[924年]]([[延長 (元号)|延長]]2年)創建とも、[[937年]]([[承平 (日本)|承平]]7年)に[[平将門]]が建立とも言われる。現存の三仏堂は室町時代後期の建築。<br />
; 本多作左衛門重次([[本多重次]])の墓(茨城県指定史跡)<br />
: 妻宛の「一筆啓上、火の用心、お仙泣かすな馬肥やせ」の簡潔な手紙で有名。晩年を現在の当市井野で過ごした。重次の菩提寺(本願寺:墓の東南約1km)に遺品等が収蔵されている。<br />
; 大鹿山[[長禅寺 (取手市)|長禅寺]]三世堂(茨城県指定有形文化財)<ref>[https://www.city.toride.ibaraki.jp/maibun/shisetsu/045.html 長禅寺]、[https://www.city.toride.ibaraki.jp/maibun/bunkakatsudo/rekishi/shitebunkazai/sazaedo.html 三世堂]</ref><br />
: [[取手駅]]東側、急な階段を上り詰めた丘の上にある。[[931年]]([[承平 (日本)|承平]]元年)平将門が創建と伝えられる寺院。<br />
; [[大日山古墳]](茨城県指定史跡)<br />
: 言い伝えではここは[[平将門]]の墳墓で、隣に将門の愛妾桔梗の住居があったとも言われている。<br />
=== 寺院 ===<br />
* [[照谷寺]]<ref>[https://shoukokuji.com 公式]</ref><br />
* 大鹿山[[弘経寺 (取手市)|弘経寺]]<ref>[http://gugyoji.or.jp 公式]</ref><br />
* 明香山観音院[[東谷寺]]<ref>[http://www.eastvalley.or.jp/tokokuji.html 公式]</ref><br />
<br />
== 当市出身・ゆかりの有名人 ==<br />
<div style="float: left; vertical-align: top; white-space: nowrap; margin-right: 1em;"><br />
* [[平将門]](武将)、将門は「相馬の小次郎」とも称したが、これは相馬郡にあった母の実家(現在の取手市寺田)で育ったことによる。<br />
* [[本多重次]](三河三奉行)<br />
* [[酒詰治左衛門]](治水)<br />
* [[広瀬誠一郎]]([[利根運河]]開削者)<br />
* [[武藤完雄]] - [[東北大学]]名誉教授、[[消化器外科学]]・[[医学博士]]<br />
* [[武藤清]](建築家)、[[東京大学]]教授、文化勲章受章<br />
* [[永田春水]](日本画家)<br />
* [[服部正一郎]](画家)<br />
* [[高野素十]](俳人・医学博士)旧山王村生まれ。<br />
* [[坂口安吾]](小説家)[[1938年]]から2年間、取手病院に住み込む。<br />
* [[折原啓子]](映画女優)<br />
* [[木内幸男]](高校野球監督)、取手第二高等学校甲子園優勝時の監督。<br />
* [[松沼博久]](プロ野球選手)、取手第二高等学校OB<br />
* [[松沼雅之]](プロ野球選手)、取手第二高等学校OB<br />
* [[大野久 (野球)|大野久]](プロ野球選手)、取手第二高等学校OB<br />
* [[石田文樹]](プロ野球選手)、取手第二高等学校OB<br />
* [[吉田剛]](プロ野球選手)、取手第二高等学校OB<br />
* [[野口祥順]](プロ野球選手)、藤代高等学校OB<br />
* [[田口昌徳]](プロ野球選手)、藤代紫水高等学校OB<br />
* [[井坂亮平]](プロ野球選手)、取手東中学校(現・取手第一中学校)、藤代高等学校OB<br />
* [[美馬学]](プロ野球選手)、藤代中学校、藤代高等学校OB<br />
* [[飯田真輝]](プロサッカー選手)<br />
* [[輪湖直樹]](プロサッカー選手)、旧北相馬郡[[藤代町]]出身。藤代南中学校OB<br />
* [[吉田豊 (競馬)|吉田豊]](JRA騎手)、藤代中学校OB<br />
* [[吉田隼人]](JRA騎手)、藤代中学校OB<br />
* [[長塚智広]](競輪)、アテネオリンピック銀メダル、取手第一高等学校OB<br />
* [[十文字貴信]](競輪)、アトランタオリンピック銅メダル、取手第一高等学校OB<br />
* [[井上貴子 (プロレスラー)|井上貴子]](女子プロレスラー) 、取手松陽高等学校OG<br />
* [[小川良成]](プロレスラー)<br />
* [[堂島孝平]](ミュージシャン)、大阪生まれ当市育ち、取手松陽高等学校OB<br />
* [[伊原直子]](声楽家)当市在住、アルト歌手<br />
* [[豊嶋真千子]](声優)<br />
* [[西村美月]](NHK新潟放送局キャスター)<br />
* [[蛯原哲]](日本テレビアナウンサー)<br />
* [[斎藤哲也]](TBSアナウンサー)<br />
* [[中村慶子]](NHKアナウンサー)<br />
* [[結城さとみ]](NHKアナウンサー)<br />
* [[木内美穂]](女優)<br />
* [[琴吉 (呼出)|琴吉]](大相撲呼出)<br />
* [[加藤啓子 (囲碁棋士)|加藤啓子]]([[女流棋士 (囲碁)|女流棋士]])<br />
* [[後藤仁]]([[日本画家]]、アジアの[[美人画]])一時、当市在住<br />
* [[蔡國強]]([[現代美術家]])1990年前後から5年間、当市在住<br />
* [[伊勢谷友介]](俳優、モデル)、東京藝大取手キャンパスOB<br />
* [[廣枝音右衛門]](台湾総督府警察の警察官。市内に墓と部下が建立した顕彰碑がある。)<br />
</div>{{clear|left}}<br />
<br />
== その他 ==<br />
=== 電話番号の市外局番 ===<br />
旧取手市域の市外局番は02977(小堀・取手の一部のみ0471)となっていたが、[[1986年]]([[昭和]]61年)[[8月]]に桁ずれを行い、0297(市内局番は7X)に変更された。小堀・取手の一部は、0471区域([[千葉県]]・柏MAと同じ地区の扱いである)の市内局番の不足に伴い[[2002年]]([[平成]]14年)[[2月11日]]に04(市内局番は71XX)に変更された。<br />
<br />
=== 当市を舞台にした作品・歌謡 ===<br />
* 「[[一本刀土俵入]]」[[長谷川伸]]<br />
: [[歌舞伎]]の演目にもなっている、江戸時代の取手宿が舞台(取手宿の旅籠屋の安孫子屋、取手宿から少し離れた利根川を望む高台にあるお蔦の家、等)<br />
* 「[[海と風と虹と]]」「[[平将門]]」[[海音寺潮五郎]]<br />
: NHK大河ドラマ「[[風と雲と虹と]]」の原作でもある。<br />
*「日本文化私観」[[坂口安吾]]<br />
: 筆者が取手に住んだ時のことについて書かれている。利根川に沿った小さな町で、[[とんかつ]]屋と[[蕎麦]]屋の他に食堂がなかったこと、框へ腰かけてコップ酒を飲む習慣「トンパチ」があり、村の百姓が「トンパチやんべいか」と言って親しんだこと、酒屋は一杯15銭だったり17銭だったり日によって仕入れ値段でまちまちだったことなど、[[1938年]]-[[1940年]]の取手の様子が書かれている。<br />
* 「人情取手宿」歌:[[氷川きよし]]、作詞:[[松井由利夫]]、作曲:[[水森英夫]]<br />
: 一本刀土俵入を題材とした演歌。<br />
* 『トトリ』というゆるキャラがいる。<br />
<br />
== 関連項目 ==<br />
{{commonscat|Toride, Ibaraki}}<br />
* [[全国市町村一覧]]<br />
* [[茨城県の合併新市・新町一覧]]<br />
* [[元気戦隊トリディンジャー]]<br />
<br />
== 脚注 ==<br />
{{脚注ヘルプ}}<br />
{{Reflist}}<br />
<br />
== 外部リンク ==<br />
* [http://www.city.toride.ibaraki.jp/ 取手市]<br />
* {{Twitter|toride_city}}<br />
* {{Facebook|toridecity|取手市役所}}<br />
* [http://www.toride-kankou.net/ 取手市観光ガイド]<br />
<br />
{{取手市の町・字}}<br />
{{茨城県の自治体}}<br />
{{Normdaten}}<br />
<br />
{{Pref-stub|pref=茨城県}}<br />
<br />
{{DEFAULTSORT:とりてし}}<br />
[[Category:茨城県の市町村]]<br />
[[Category:北相馬郡]]<!--取手町へのカテゴリ--><br />
[[Category:取手市|*]]</div>
60.36.246.215
雷山
2018-06-17T22:04:04Z
<p>60.36.246.215: /* 関連項目 */</p>
<hr />
<div>{{otheruses|日本の九州にある山|中華人民共和国の県|雷山県|その他の雷山|雷山 (曖昧さ回避)}}<br />
{{Infobox 山<br />
|名称 = 雷山<br />
|画像 = [[File:Mount Rai, enkei-1.jpg|280px]]<br />
|画像キャプション = 北側から望む<br />
|標高 = 954.5<br />
|座標 = {{ウィキ座標2段度分秒|33|28|43|N|130|13|24|E|type:mountain_region:JP|display=inline,title}}<br />
|所在地 = {{JPN}}<br />[[福岡県]][[糸島市]]・[[佐賀県]][[佐賀市]]<br />
|山系 = [[筑紫山地]]([[脊振山地]])<br />
|種類 =<br />
|初登頂 =<br />
|地図 = {{location map<br />
|Japan#Japan Fukuoka#Japan Saga<br />
|mark = RedMountain.svg|marksize = 12<br />
|lat_deg = 33|lat_min = 28|lat_sec = 43|lat_dir = N<br />
|lon_deg = 130|lon_min = 13|lon_sec = 24|lon_dir = E<br />
|width = 280<br />
|relief =<br />
}}{{日本の位置情報|33|28|43|130|13|24|雷山|33.4786,130.2233|雷山|nocoord=Yes}}<br />
}}<br />
'''雷山'''(らいざん)は、[[福岡県]][[糸島市]]と[[佐賀県]][[佐賀市]]との境にある[[標高]]954.5mの[[山]]である。<br />
<br />
== 概要 ==<br />
[[脊振山系]]に属し、同山系北部の分水嶺を成す<ref name="佐賀県百科">『佐賀県大百科事典』p.837「雷山」</ref>。山頂は福岡県側に位置する。頂上の下に広がる草原を「層々岐野(そそぎの)」と呼び、[[神功皇后]]の伝説が伝えられている場所という。この野原の名に因んで「雷山」は「層々岐岳(そそぎだけ)」の別名を持つ。頂上には[[雷神社 (糸島市)|雷神社]]の上宮(石祠、三つ)がある。<br />
<br />
北側の斜面は急崖を成す。山頂からは、北方の[[福岡市]]街や[[玄界灘]]が一望できる<ref name="佐賀県百科"/>。<br />
<br />
[[花崗岩]]質の脊振山地の中では珍しく、[[蛇紋岩]]や緑簾石英角閃石[[結晶片岩|片岩]]などの[[変成岩]]が分布する<ref name="佐賀県百科"/>。<br />
<br />
古来、山全体が[[雷神]]の鎮座する霊山と考えられ、故に「雷山」の名を持つという。<br />
<br />
また、『[[万葉集]]』に「対馬の嶺は 下雲あらなふ 可牟の嶺に たなびく雲を 見つつ偲はも」という句があるが、この句の「可牟の嶺(かむのみね)」は「神の嶺」で雷山に比定する説がある<ref name="佐賀県百科"/>。<br />
<br />
地元では「雷山に雲がかかると雨になる」という。[[千如寺|雷山千如寺大悲王院]](雷山観音)、[[雷山神籠石]]、不動滝(清賀の滝)が観光名所。<br />
<br />
== 交通 ==<br />
* JR[[筑前前原駅]]から雷山観音前行バスで約30分、そこから山頂まで徒歩で約4km。<br />
<br />
== 脚注 ==<br />
{{reflist}}<br />
<br />
== 関連項目 ==<br />
* {{Commonscat-inline|Mount Rai}}<br />
* [[万葉地名]] - [[有明山 (長崎県)]]<br />
<br />
{{DEFAULTSORT:らいさん}}<br />
[[Category:佐賀県の山]]<br />
[[Category:福岡県の山]]<br />
[[Category:神仏分離]]<br />
[[Category:山号]]<br />
[[Category:佐賀市の地理]]<br />
[[Category:糸島市の地理]]<br />
{{Japanese-history-stub}}<br />
{{mountain-stub|pref=福岡県|pref2=佐賀県}}<br />
{{pref-stub|pref=福岡県}}<br />
{{buddhism-stub}}<br />
{{shinto-stub}}</div>
60.36.246.215
門跡
2018-06-15T20:34:49Z
<p>60.36.246.215: </p>
<hr />
<div>{{出典の明記|date=2013年2月13日 (水) 04:57 (UTC)}}<br />
{{wiktionary|門跡}}<br />
'''門跡'''(もんせき、もんぜき)は、[[皇族]]・[[公家]]が住職を務める特定の寺院、あるいはその住職のことである。[[寺格]]の一つ。元来は、[[日本の仏教]]の[[開祖]]の正式な後継者のことで「門葉門流」の意であった(この場合は'''門主'''とも)。[[鎌倉時代]]以降は[[位階]]の高い寺院そのもの、つまり[[寺格]]を指すようになり、それらの寺院を'''門跡寺院'''と呼ぶようになった。<br />
<br />
[[浄土宗]]の[[知恩院]]門跡は浄土'''門主'''(もんす)という。<br />
<br />
[[浄土真宗本願寺派]]の[[本願寺]][[住職]]は'''門主'''(もんしゅ)、[[真宗大谷派]]の[[僧侶]]及び[[門徒]]の代表者は'''門首'''(もんしゅ)と書き、いずれも[[親鸞]]の子孫の[[大谷家]]から出ている。<br />
<br />
== 概要 ==<br />
[[永村眞]]の説によれば、「門跡」という用語は、[[平安時代]]に[[法流]]・門徒(法流の構成員)の意味に用いられ、[[鎌倉時代]]になると[[院家]](法流の拠点施設)・院主(院家の住持)の意味に転じ、[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]以降になると特定の貴種がいる院家・院主の意味で定着したとしている。法流はその教えを維持するために有力な檀越である[[天皇家]]や[[摂関家]]などに出自を持つ貴種の出身者を後継者として遇し、法流の院家・経典(物質的)および教説・秘儀(教学的)を相承することで、排他的管理と内外に対する優位性を確立していったのである<ref>永村眞「中世寺院と〈門跡〉」永村眞 編『中世の門跡と公武権力』(戎光祥出版、2017年) ISBN 978-4-86403-251-3</ref>。<br />
<br />
== 沿革 ==<br />
[[宇多天皇]]が[[出家]]して[[仁和寺]]に入室し御室御所と称し、御室門跡となったのが始まりである。仁和寺は当初は宇多天皇の子孫(宇多源氏)が住職である別当を務めていたが、[[三条天皇]]の皇子である[[性信入道親王]]が住職に就いた際に別当よりも上位である検校を称し、その後を白河天皇の皇子である[[覚行法親王]]が継いだことから皇族が住職を務める[[真言宗]]の寺院と認識され、後の門跡寺院のはしりとなった<ref>横内裕人「仁和寺御室論をめぐる覚書」永村眞 編『中世の門跡と公武権力』(戎光祥出版、2017年) ISBN 978-4-86403-251-3</ref>。<br />
<br />
一方、天台宗の総本山である延暦寺では、12世紀の初めに[[天台座主]]の[[仁豪]]([[明快]]の弟子)と[[無動寺 (大津市)|無動寺]]の[[寛慶]](後に天台座主、[[行玄]]の師)が寺を2つに分ける内紛を起こし、その影響は後々にも及んだ(源平合戦の際にも仁豪の法流は平家支持を、寛慶の法流は中立の立場に立った)。前者は[[三千院]](梨本・梶井)、後者は[[青蓮院]]を拠点とし、前者には[[堀河天皇]]の皇子である[[最雲法親王]]、後者には[[鳥羽天皇]]の皇子である[[覚快法親王]]、次いで[[摂関家]]出身の[[慈円]]が入ったことで格式を高めて門跡寺院となった。なお、一般には明快を梨本門跡の祖、行玄を青蓮院門跡の祖とみなされているが、梨本・青蓮院が「両門跡」と称されるようになったのは鎌倉時代に入った[[1220年代]]と推定されている。その後、[[後白河天皇]]ゆかりの[[妙法院]]が[[後高倉院]]皇子である[[尊性法親王 (鎌倉時代)|尊性法親王]]を迎えたことで格式を高め、[[1260年代]]には両門跡と肩を並べるようになり、[[1280年代]]には「三門跡」と呼ばれるようになった<ref>衣川仁「延暦寺三門跡の歴史的機能」永村眞 編『中世の門跡と公武権力』(戎光祥出版、2017年) ISBN 978-4-86403-251-3</ref>。<br />
<br />
鎌倉時代初期頃からは[[皇族]]や[[摂家]]等の子弟が特定の寺院に出家するようになる([[摂政]][[九条道家]]の息[[法助]]が初めて皇族でない御室門跡となる<ref>[[和田英松]]、<small>[[所功]]校訂</small>『官職要解』 [[講談社学術文庫]] ISBN 978-4061586215、376p</ref>)。これは、武家が実権を持ったために平安時代よりも経済力が低下した皇室や公家が、跡取りとなる長男や次男以外を出家させたためである。医療の発達していなかった時代は、病気で子に万一のことがあり、家系が断絶することがないように、正妻の他に側室を持ちたくさんの子をもうけることが、上流階級の「家」の存続のために必要であったが、同時にそのことは冠婚葬祭で多くの出費を伴うことに直結した。出家すると婚姻しないため、結納・支度金・婚礼費用等の直接的な出費の削減になるだけでなく、子を作らないため、宮家や別家を作ることがなく、家として大幅な経費の節減となるうえ、少ない領地をさらに分封することを防ぐこともできた。なお、家に残った跡取りに万一のことがあれば、出家した子弟のうちの選ばれたものが[[還俗]]して家を継いだ。(武家の場合、次男以下は出家することは少なく「[[部屋住み]]」として、分家ができない場合は、他家への養子に入るのを待つことが多かった。)<br />
<br />
子弟らは[[荘園 (日本)|荘園]]を所有しておりその経済力を背景とした政治力をもって、受け入れた寺院内の支配権を掌握するようになり、各門流を継承するようになった。これらが慣例化してやがて、「門跡」自体が「貴族」出身者によって継承される特定の院家・寺院を指す称号へと変化した。<br />
<br />
そして[[室町時代]]になると、[[寺格]]としての「門跡」が確立し、[[室町幕府]]には、門跡寺院に関する政務を執る[[門跡奉行]]が置かれた。さらに[[江戸幕府]]では、宮門跡(親王門跡)・摂家門跡・清華門跡・公方門跡(武家門跡)・准門跡(脇門跡)などに区分して制度化した。[[禁中並公家諸法度]](第13条)では、天皇の皇子・連枝(兄弟)である宮門跡は摂家出身の摂家門跡よりも上とされ(宮中内では摂家は親王の上とされていたことから反対の扱いとなる)、同格であればその修行期間の長さに基づいた。この規定によって天皇の孫以下(具体的には宮家出身者)は宮門跡にはなれないと解されたが、宮家出身者が天皇の猶子になった場合の解釈は曖昧のまま残された。実際に[[天和 (日本)|天和]]元年([[1681年]])に[[後陽成天皇]]の孫で伯父の[[後水尾天皇]]の猶子となっていた[[良尚入道親王]]([[八条宮家]])が門跡に列せられ、[[18世紀]]の末には宮門跡は全員天皇の猶子となった宮家出身者が占めてこの状態で明治維新を迎える事になった([[安永]]8年([[1780年]])には皇統断絶により閑院宮家から光格天皇が即位しており、天皇の皇子・連枝を出家させる余裕は失われていたのである)<ref>高埜利彦『近世の朝廷と宗教』吉川弘文館、2014年、P129-130・135-139</ref>。<br />
<br />
== 本願寺の門跡成 ==<br />
なお、門跡寺院の歴史の中で特殊な地位を占める存在に[[本願寺]]がある。[[浄土真宗]]の祖・[[親鸞]]([[日野家]]出身)の直系子孫が継承した本願寺は歴史的経緯<ref>親鸞は九条家出身の青蓮院門跡[[慈円]]から得度を受け、九条家および同家から分かれた一条家と関係が深かった(妙香院は一条家ゆかりの門跡寺院)ため、両院の影響下に置かれていた(大田壮一郎「初期本願寺と天台門跡寺院」大阪真宗史研究会 編『真宗教団の構造と地域社会』(清文堂出版、2005年)) ISBN 4-7924-0589-0 p11-40)。</ref>から妙香院、後に青蓮院門跡の傘下に置かれていた(本願寺がたびたび行った朝廷への献金も青蓮院を経由して申し出がされていた)。ところが、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]に入ると[[専修寺]]との勢力争いが深刻になる中、[[証如]]・[[顕如]]が2代続けて摂関家[[九条家]]の猶子となる一方、青蓮院門跡が[[天文 (日本)|天文]]年間末期に一時的に空席([[弘治 (日本)|弘治]]年間に後継に決定した[[尊朝法親王]]も若年で門跡が職務が行い得ない)状態になったのを機に、青蓮院からの自立と専修寺への対抗を意図して摂家門跡の例に倣って門跡に加えて貰えるように朝廷への工作を行い、[[永禄]]2年([[1559年]])に本願寺を門跡に列する[[正親町天皇]]の勅許が出された。ところが、[[天正]]19年([[1591年]])に[[豊臣秀吉]]の命で本願寺が京都に移転し、2年後に顕如が亡くなった後に発生した後継問題を巡って東西本願寺に分裂すると、これまで本願寺が大坂にあったために黙認してきた京都の古くからの諸門跡寺院が本願寺の門跡としての資格に異論を唱えるようになる。更に禁中並公家諸法度の規定を厳密に解釈すると、本願寺は門跡の要件を満たしていない(日野家は[[名家 (公家)|名家]]格)とされる可能性もあった。江戸幕府は本願寺の門跡としての扱いを従前通りとしてその要件について判断を示すことはなかったが、[[後水尾天皇]]・[[霊元天皇]]は門跡としての特権を否認・制限する方針を示して東西本願寺と対立した。その結果、霊元院政下の[[元禄]]13年([[1700年]])頃になって、東西本願寺を諸門跡の最後尾、准門跡の格と位置づけられることになった<ref>太田光俊「本願寺〈門跡成〉と〈准門跡〉本願寺」永村眞 編『中世の門跡と公武権力』(戎光祥出版、2017年) ISBN 978-4-86403-251-3</ref>。<br />
<br />
== 門跡寺院 ==<br />
{{colbegin|3}}<br />
* [[法相宗]]<br />
** [[一乗院|興福寺一乗院]]<br />
** [[大乗院|興福寺大乗院]]<br />
* [[山門派|天台宗山門派]]<br />
** [[青蓮院]]([[粟田御所]])<br />
** 魚山[[三千院|円融房]](<!--梶井殿、-->[[梶井門跡]]、[[梨本門跡]]、三千院)<br />
** 南叡山[[妙法院]]<br />
** 護法山安國院出雲寺[[毘沙門堂]]<br />
** [[曼殊院]]([[竹の内門跡]])<br />
** 日光山[[輪王寺]]<br />
** [[浄土寺]]<ref>[[浄土院 (京都市左京区)|浄土院]] ?</ref><br />
** [[本覚寺]]<br />
** [[法住寺 (京都市)|法住寺]]<br />
** [[妙香院]]<br />
** [[滋賀院]]<br />
* [[寺門派|天台宗寺門派]]<br />
** [[聖護院]]<br />
** [[照高院]]<br />
** 岩倉山[[実相院]]<br />
** [[円満院|三井寺円満院]]<br />
** 朝日山[[平等院]](浄土宗と兼ねる)<br />
** [[常住院]]<br />
** [[如意寺 (京都市)|如意寺]]([[如意ヶ嶽]]山上、[[如意輪寺 (曖昧さ回避)|如意輪寺]]。廃寺)<ref>[http://www.kagemarukun.fromc.jp/page097.html [[如意寺跡]]1]、[http://www.kagemarukun.fromc.jp/page098.html 如意寺跡2]、[http://www.kagemarukun.fromc.jp/page099.html 如意寺跡3]、[http://www.kagemarukun.fromc.jp/page100.html 如意寺跡4]</ref><br />
*** 宝厳院<br />
* [[真言宗]]<br />
** 大内山[[仁和寺]]([[御室御所]])<br />
** 嵯峨山[[大覚寺]]([[嵯峨御所]])<br />
** [[蓮華光院]]<br />
** 醍醐山[[三宝院|醍醐寺三宝院]]<br />
** 醍醐山[[金剛王院|醍醐寺金剛王院]]<br />
** 牛皮山[[随心院|隨心院]]([[小野門跡]])<br />
** 亀甲山[[勧修寺]]([[山階門跡]])<br />
** 吉祥山[[安祥寺 (京都市)|安祥寺]]<br />
** [[東南院 (奈良市)|東南院]]<br />
** [[上乗院]]<br />
** [[勝宝院]]<br />
** [[菩提院]]<br />
** [[教令院]]<br />
* [[浄土宗]]<br />
** 華頂山知恩教院大谷寺([[知恩院]])<br />
** 聖衆來迎山無量壽院[[禅林寺 (京都市)|禅林寺]](永観堂)<br />
* [[日蓮宗]]<br />
** [[瑞龍寺 (近江八幡市)|瑞龍寺]]([[村雲御所]])<br />
{{colend}}<br />
<br />
== 門跡 ==<br />
=== 宮門跡(親王門跡) ===<br />
[[法親王]]、または[[入道親王]]が住職として居住する13の寺院。十三門跡とも称する。実際には親王家に限って入寺するのは輪王寺・仁和寺・大覚寺の3門跡で、その他は摂家や[[足利将軍家]]からも入寺することができた。6代将軍[[足利義教|義教]]が青蓮院から、15代将軍[[足利義昭|義昭]]が一乗院からそれぞれ還俗して将軍となったほか、足利義視(10代将軍[[足利義稙|義稙]]の父)が浄土寺から還俗して8代将軍[[足利義政|義政]]の養子となっている。<br />
<br />
{{colbegin|3}}<br />
* 日光山[[輪王寺]]<br />
* 南叡山[[妙法院]]<br />
* [[聖護院]]<br />
* [[照高院]]<br />
* [[青蓮院]]<br />
* 魚山[[三千院]]<br />
* [[曼殊院]]<br />
* [[護法山安國院出雲寺|護法山 安國院 出雲寺]]([[毘沙門堂]])<br />
* [[円満院|圓満院]]<br />
* [[大内山仁和寺|大内山 仁和寺]]<br />
* [[嵯峨山大覺寺|嵯峨山 大覺寺]]<br />
* [[龜甲山勸修寺|龜甲山 勸修寺]]<br />
* [[蕐頂山知恩敎院大谷寺|蕐頂山 知恩敎院 大谷寺]]([[知恩院]])<br />
{{colend}}<br />
<br />
=== 摂家門跡 ===<br />
摂家の子弟が住職となる。個々の門跡寺院に固有の称号ではなく、その時々の住持の出身を指す。室町時代頃から用いられるようになった。<br />
<br />
=== 准門跡 ===<br />
門跡に準ずる格式の寺院のこと。または、他の門跡寺に対して従の関係にある門跡寺のこと。脇門跡ともいう。<br />
<br />
=== 天台宗五門跡(京都五箇室門跡) ===<br />
{{colbegin|3}}<br />
* [[青蓮院]]<br />
* [[三千院]]<br />
* [[毘沙門堂]]<br />
* [[曼殊院]]<br />
* [[妙法院]]<br />
{{colend}}<br />
<br />
=== 醍醐寺五門跡 ===<br />
{{colbegin|3}}<br />
* [[三宝院]]<br />
* 高野山[[報恩院 (高野町)|報恩院]]<ref>[https://www.hoon-in.com 公式]</ref><br />
* [[金剛王院]]<br />
* [[理性院]]<ref>[https://yaokami.jp/1266378/ yaokami]</ref><br />
* [[無量寿院 (醍醐寺)|無量壽院]]<ref>[https://yaokami.jp/1266374/ yaokami]、[http://shinden.boo.jp/wiki/醍醐寺無量寿院 神殿大観]</ref><br />
{{colend}}<br />
<br />
=== 五門跡 ===<br />
浄土真宗で門跡に准ぜられた五寺の総称。五門徒ともいう。江戸時代中期、[[文化_(元号)|文化]]11年([[1814年]])に[[真宗木辺派]]本山[[錦織寺]]が、それまでの浄土宗から浄土真宗に復帰し、准門跡に加えられた。<br />
{{colbegin|3}}<br />
* 龍谷山本願寺([[西本願寺]])<br />
* 真宗本廟([[東本願寺]])<br />
* 渋谷山(汁谷山)[[佛光寺]]<br />
* 高田山[[専修寺]]<br />
* [[圓頓山華園院興正寺]]<br />
* 遍照山天神護法院[[錦織寺]]<br />
{{colend}}<br />
これら6家は明治5年3月にいずれも華族となった<ref>[[浅見雅男]] 『華族誕生 <small>名誉と体面の明治</small>』 [[中公文庫]] ISBN 978-4122035423、68p</ref>。明治29年6月9日、両本願寺の大谷家が[[伯爵]]、佛光寺の[[渋谷家]]・専修寺の[[常磐井家]]・興正寺の[[華園家]]・錦織寺の[[木辺家]]がそれぞれ[[男爵]]に叙せられている。<br />
<br />
=== 尼門跡 ===<br />
皇女や貴族の息女が住職となる寺院。正式には[[比丘尼御所]]と称した。「尼門跡」は明治以降の名称である。<br />
{{colbegin|3}}<br />
* [[天台宗]]<br />
** 真盛山[[本光院 (上京区真盛町)|本光院]]{{small|(本光院門跡、上七軒[[西方尼寺]]、[[蔵人御所]]、[[茶の寺]]、[[腰掛如来]]。[[上京区]][[真盛町]]745、[[天台真盛宗]])|}}<br />
* [[真言宗]]<br />
** [[妙心寺 (新宮市)|妙心寺]]<br />
* [[臨済宗]]<br />
** 岳松山[[大聖寺 (京都市)|大聖寺]]([[御寺御所]])<br />
** 西山[[宝鏡寺|寳鏡寺門跡]]([[百々御所]])<br />
** [[曇華院]](竹御所、[[竹之御所]]、[[竹の御所]])<br />
** 円成山[[霊鑑寺]]([[谷御殿]]、[[鹿ヶ谷比丘尼御所]])<br />
** 普門山[[圓照寺]]([[山村御所]])<br />
** 聖明山[[林丘寺]]([[音羽御所]])<br />
** 広徳山[[慈受院]]([[薄雲御所]])<br />
** [[宝慈院]]([[千代野御所]])<br />
* [[律宗]]<br />
** [[法華寺]]([[氷室御所]]、[[光明宗]])<br />
* [[法相律宗]]([[聖徳宗]])<br />
** 法興山[[中宮寺]]([[斑鳩御殿]])<br />
* [[浄土宗]]<br />
** [[三時知恩寺]]([[入江御所]])<br />
* [[四宗兼学]]<br />
** [[光照院]]([[常盤御所]])<br />
* [[日蓮宗]]<br />
** [[瑞龍寺 (近江八幡市)|瑞龍寺]]([[村雲御所]])<br />
{{colend}}<br />
<br />
== 御里房 ==<br />
多くの門跡寺院は御所周辺にあった公家町(現[[京都御苑]])内に、御里房とよばれる別邸(京屋敷)を構えていた。門跡寺院の門主は、皇族や五摂家の子弟という家柄の高い人物であり、御所で開かれる歌会や行事に参加することも多かったため便宜上[[御所]]周辺にも邸宅が必要だったからである。また、入寺前の準備期間中は、この御里房で過ごすことが多かった。彼らは、天皇をとりまく文化[[サロン]]の構成メンバーであり、和歌や書などに優れた人物が多かった。<br />
<br />
== 脚注 ==<br />
{{Reflist}}<br />
<br />
== 関連項目 ==<br />
* [[院家]]<br />
* [[座主]]<br />
* [[法主]]<br />
<br />
{{Buddhism2}}<br />
<br />
{{DEFAULTSORT:もんせき}}<br />
[[Category:門跡|* もんせき]]<br />
[[Category:日本の寺]]<br />
[[Category:日本の僧|*もんせき]]<br />
[[Category:日本の皇室]]<br />
[[Category:天皇制]]<br />
[[Category:皇室の施設]]<br />
[[Category:公家]]<br />
[[Category:日本の宮殿]]</div>
60.36.246.215
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