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http:///mymemo.xyz/wiki/api.php?action=feedcontributions&user=58.156.158.18&feedformat=atom miniwiki - 利用者の投稿記録 [ja] 2024-05-15T15:51:36Z 利用者の投稿記録 MediaWiki 1.31.0 カンニング 2018-07-28T03:14:16Z <p>58.156.158.18: /* カンニング事件の例 */</p> <hr /> <div>{{Otheruses||お笑いコンビ|カンニング (お笑いコンビ)}}<br /> &#039;&#039;&#039;カンニング&#039;&#039;&#039;({{Lang-en|cheating}})とは、[[試験]]のとき、隠し持ったメモや他人の答案を見るなどして、答案を作成する不正行為の名称であり、[[学業不正]]の1つである。&#039;&#039;&#039;不正行為&#039;&#039;&#039;とも。<br /> <br /> == 語源 ==<br /> [[File:Yomiuri19050314.gif|thumb|200px|読売新聞[[1905年]](明治38年)の記事]]<br /> [[File:Asahi19070430.gif|thumb|200px|朝日新聞[[1907年]](明治40年)の記事]]<br /> [[File:Wall newspaper about cheating, at the University of Tokyo.JPG|thumb|カンニングについての意識調査を呼びかける[[東京大学]]の壁新聞]]<br /> 語源となったのは[[英語]]の&quot;cunning&quot;(カニング - 狡猾な、ずる賢い)であるが、日本語のカンニングは英語ではcheating(チーティング - 不正行為)という。すなわち日本語のカンニングは[[和製英語]]である&lt;ref&gt;{{Cite book|和書|title=NHKカタカナ英語うそ・ほんと|author=坂田俊策|publisher=日本放送出版協会|date=1988-05-20|page=43}}&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> [[日本語]]におけるこの意味での用法としては、<br /> *[[1902年]](明治35年)出版の[[内田魯庵]]の著書『社会百面相』では、「猾手段」にカンニングと振り仮名が付いている&lt;ref&gt;[日めくり]カンニング 英語では「不正」ではない!? [[読売新聞]] 東京朝刊p.15 2002年7月3日&lt;/ref&gt;。<br /> *[[1905年]](明治38年)3月14日の[[読売新聞]]朝刊ミニコーナー『もしほ草』に「試験で盗み見することを&#039;&#039;&#039;カニング&#039;&#039;&#039;という」という記事がある。<br /> *[[1923年]](大正12年)に[[芥川龍之介]]が書いた『大正十二年九月一日の大震に際して』に、また[[1934年]](昭和9年)に発表された[[夢野久作]]の短編小説『木霊』にも、この意味での「カンニング」という言葉が出てくる。<br /> これらから、戦前から流布していたことが分かる。<br /> <br /> == 手口 ==<br /> 下記のようなものが考えられるが、いずれも不正行為であり、試験中においては挙動不審となりやすい。<br /> ; 記憶しきれない[[公式]]や用語など、テストに出題される可能性があるものをメモにし、筆箱など手元に忍ばせ、試験中に参照する。<br /> : このメモを「&#039;&#039;&#039;カンニングペーパー&#039;&#039;&#039;」、略称「&#039;&#039;&#039;カンペ&#039;&#039;&#039;」という(英語では&#039;&#039;[[:en:Cheat sheet|cheat sheet]]&#039;&#039; という)。ただし、試験にメモの内容通りのものが出るとは限らない。また、カンニングペーパー防止のため、試験中に使用する筆記用具以外のものを置くことそのものを禁止する例も多い。<br /> : 一部には辞書・教科書・ノート・メモなどの持込みを許可する試験もあり、その場合、これらの持込物を参照する行為はカンニングではない。(もちろん、これらの持ち込みが許可されていても他人の解答を見ると当然カンニング扱いになる。)ただし持込物に書き込みをすることは禁止されている場合もあり、そのような持込物への書き込みが発覚した場合はカンニングとみなされることもある。<br /> ; 机の上や[[体]]([[手]]のひら、[[太腿]]など)や文房具(筆記用具や消しゴム等)に直接書き込む。<br /> : その対処として、机に落書きが残っている状態のまま試験を受けている場合、試験監督者が無条件でカンニングとみなす場合もある。<br /> ; 他人の解答をのぞき見る。<br /> : 不自然な方向に視線が移るため、挙動不審になりやすい。また、間違った解答を写してしまうこともある。結果としてのぞき見た答案とよく似た解答が並んだり、あるいは回答がのぞき見た答案と全く同じだったりした場合、採点中にカンニングが発覚することもある。<br /> ; 友人など、他の受験者からメモを回してもらう。<br /> : 監督者からはもちろん、他の受験者から見ても明らかに挙動不審である。<br /> ; [[携帯電話]]を持ち込んで[[電子メール]]で教えてもらう{{efn|[[2004年]]には、[[大韓民国|韓国]]の[[大学修学能力試験]](日本の[[大学入試センター試験]]に相当)において、携帯電話を利用した大規模な[[大学修学能力試験#不正行為|不正行為]]が発覚し、関係した学生が処罰された。また、韓国では[[2006年]]に[[国際コミュニケーション英語能力テスト|TOEIC]]でも同様に大規模なカンニングが行われたことが発覚した。}}。<br /> : 監督者から見ると、他の受験者と視線が違うので目立つ。2011年(平成23年)の[[大学入試問題ネット投稿事件]]で用いられたと思われる。対策として、携帯電話の持込みを禁止したり、使えないように[[通信妨害|ジャミング]]を行ったり、つかえないように受験者に携帯電話の電源を切ってもらい、試験前にカバンに入れさせたり、電源が切れているか試験監督者が確認する。[[日本]]での[[通信機能抑止装置]]の使用にあたっては、実施者が[[実験試験局]]の免許を取得し、第三級[[陸上特殊無線技士]]以上の[[無線従事者]]による管理を要する。<br /> ; 無線による連絡。<br /> : 小形の無線機を使用し試験会場外と連絡を取る。極小のワイヤレスイヤホンを耳に装着して、支援者から解答を聞くという手法などが考えられる&lt;ref&gt;{{Cite web |date=2012-04-20 |url=http://trendy.nikkeibp.co.jp/article/column/20120417/1040525/ |title=もしかすると日本にも!? 中国にあふれるカンニングツール |work=連載:山谷剛史の ニーハオ!中国デジモノ |author=山谷剛史 |publisher=日経トレンディネット |accessdate=2012-10-01}}&lt;/ref&gt;。2012年(平成24年)に起こった運転免許試験カンニング事件では、この手法が用いられている&lt;ref name=&quot;tro12062305060004-n1&quot;&gt;運転免許試験、米粒イヤホンで無線カンニング [[サンケイスポーツ]] 2012年6月23日 &lt;/ref&gt;。監督者は、[[電界強度]]計を用意し発信源の特定を行う等の対策があるが、基本的に技術開発のイタチごっこであり、手法が出たら対策を行うという関係上、取り締まり側が後手に回ってしまう&lt;ref name=&quot;20080711nikkeibo&quot;&gt;「全国統一大学入試で横行するカンニング 科挙の時代から続く伝統は今や先進技術を駆使して集団化」『日経ビジネスオンライン』日経BP社、2008年7月11日&lt;/ref&gt;。<br /> ; 机をコツコツと叩くなどして、友達に[[暗号]]で教えてもらう。<br /> : [[モールス符号]]を利用した手口である。音が出るため周囲に目立ちやすく、挙動不審にもなりやすい。他の受験者の筆記に伴う音などで正確に伝えることも難しい。戦前の{{要出典範囲|date=2012年9月|[[海軍兵学校 (日本)|海軍兵学校]]当時から行われていた。}}<br /> ; 不正な手段により試験問題の出題内容に関する情報を得る。ただ、それを丸暗記してテストに臨む行為はカンニングとは見做されない(その場で不正行為をしていない為)。<br /> : 入学試験や資格試験などでは試験問題が漏洩することはほぼありえないが、学校内の定期試験などでは、学生が試験問題を盗み見てしまったり問題作成者が一部の学生に対してのみ出題内容を教えてしまったりすることが少なからずある。試験の成績への影響は非常に大きいが、事前に問題が漏れていたかどうか、誰が情報を不正に入手したかを客観的に判断することは難しい。尚、教師が生徒にテスト範囲を教える事はあるが、これは学校側が生徒側に対し教えなければならない事なので、不正な手段とは見做されない。<br /> ; 試験の実施者や監督者等を[[買収]]する。<br /> : 近年ではあまり見られないが、[[賄賂]]や買収も不正の手口として行なわれてきている。古くでは中国の科挙で買収を試みた例が存在した。<br /> <br /> == カンニング事件の例 ==<br /> * [[1971年]] - [[大阪大学]]・[[大阪市立大学]][[医学部]]入試問題漏洩事件&lt;ref&gt;『[[奇跡体験!アンビリバボー]]』2009年1月15日放送&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;[http://www.icom.co.jp/beacon/backnumber/web_topix/018.html BEACON-うぇーぶ!!トピックス: (18) 親バカが狂わせた人生 &amp;#12316;入試問題密売事件] [[アイコム]]&lt;/ref&gt;<br /> * [[1977年]] - [[慶應義塾大学]][[商学部]]入試問題漏洩事件&lt;ref&gt;[http://www.jiji.com/jc/d2?p=mos00209-01289823&amp;d=004soc 慶応大学商学部入試問題漏えい事件] 時事通信 昭和の記憶 &#039;70写真特集&lt;/ref&gt;<br /> * [[1980年]] - [[早稲田大学]]商学部入試問題漏洩事件&lt;ref&gt;早稲田大学入試問題漏えい事件『[[ザ!世界仰天ニュース]]』2011年1月19日放送&lt;/ref&gt;<br /> * [[2000年]] - 歯科医師国家試験問題漏洩事件<br /> * [[2002年]] - 一橋大学学期末試験問題 集団カンニング事件&lt;ref&gt;一橋大で集団カンニング 携帯メール使い26人 [[共同通信]] 2002年12月3日&lt;/ref&gt;<br /> * [[2004年]] - 韓国大学入試問題 集団カンニング事件<br /> * [[2005年]] - 台湾大学入試問題 集団カンニング事件<br /> * [[2006年]] - 韓国TOEIC 集団カンニング事件<br /> * [[2010年]] - [[看護師国家試験問題漏洩事件]]<br /> * [[2011年]] - [[大学入試問題ネット投稿事件]]<br /> * 2011年 - 沖縄県警察学校卒業試験問題漏洩事件&lt;ref&gt;警察学校で大胆カンニング未遂 試験問題盗む [[ZAKZAK]] 2011年3月31日&lt;/ref&gt;&lt;!--2011年2月11日、警察学校の担当教官の机に保管されていた卒業試験9科目のうち5科目の問題や模範解答を盗まれてカンニングになった事件。2月17日の1日目の試験終了後に不正発覚。2日目の試験は中止--&gt;<br /> * [[2012年]] - 中国人グループ自動車運転免許試験問題カンニング事件&lt;ref name=&quot;tro12062305060004-n1&quot; /&gt;<br /> * [[2014年]] - 横浜市立大学医学部実技試験問題 集団カンニング事件<br /> * [[2015年]] - 司法試験問題漏洩事件<br /> * [[2016年]] - [[運行管理者]]試験で大規模カンニングが判明し、[[兵庫県警察]]が[[運送会社]]社員9人を[[書類送検]]&lt;ref&gt;[http://mainichi.jp/articles/20160721/k00/00m/040/067000c 運行管理者試験 カンニングで9人書類送検 兵庫県警] 毎日新聞 2016年7月20日&lt;/ref&gt;。<br /> * [[2017年]] - [[海上自衛隊]]の「海曹士技能検定」で試験問題が4つの地方総監部に人脈によって漏洩&lt;ref&gt;[https://www.nikkei.com/article/DGXLASDG28HEM_Y7A820C1CR8000/ 試験問題漏えいで12人懲戒 海自隊員、LINEで送信] 共同通信2017年8月28日&lt;/ref&gt;<br /> * [[2017年]] - [[6月2日]]に[[兵庫県]][[明石市立明石商業高等学校]]で実施された[[実用英語技能検定]]で、受験した生徒のうち2人が[[カンニング]]を行っていたことが、翌[[2018年]][[3月]]に判明。同校が試験監督を[[日本英語検定協会]]が定める通りの人数で配置しておらず、部屋ごとに人数にムラが生じていたため、監督不在の教室が生じ、その結果、カンニングが可能となっていた&lt;ref&gt;[http://www.sankei.com/west/news/180301/wst1803010093-n1.html 英検で生徒がカンニング 監督教員規定より少なく 兵庫・明石商業高校] 産経新聞 2018年3月1日&lt;/ref&gt;。<br /> * [[2018年]] - [[関西大学北陽中学校・高等学校|関西大学北陽高校]]の一部の生徒が、[[関西大学]]への内部進学の合否判定に用いられる民間実施の[[模擬試験|模試]]の回答を、[[インターネット]]を通じて事前入手して回答していたことが[[7月]]に判明。これを受け関大は、選考の公正性が害されるとして、同行を含めた付属3高校からの内部進学者の合否判定を見直すことにした&lt;ref&gt;[https://www.yomiuri.co.jp/osaka/news/20180724-OYO1T50020.html 内部進学模試で生徒が解答事前入手…関大北陽高] 読売新聞 2018年7月24日&lt;/ref&gt;。関大としては、問題の発覚した模試について、結果を選考に用いないことにしたが、民間の模試を合否判定に用いていた大学側にも責任があるとして、不正受験した生徒についても、選考から除外しないとした&lt;ref&gt;[https://www.yomiuri.co.jp/national/20180725-OYT1T50026.html 関大の内部進学不正、民間模試での選考見直しへ] 読売新聞 2018年7月25日&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> == 処罰 ==<br /> カンニングは不正行為であり、公平な試験に反するため、発覚した場合はその試験は即失格となり、厳しい処罰が下る。失格の際、即時解答用紙没収となるのが一般的である。受験料・検定料などはもちろん返還されない。<br /> <br /> 日本では個別法の規定により一部の試験(主に[[国家試験]])において以後の受験が一定期間{{efn|精神保健福祉士試験、言語聴覚士試験、救急救命士試験、社会福祉士試験、臨床工学技士試験、義肢装具士試験、貸金業務取扱主任者資格試験、浄化槽設備士試験、柔道整復師試験、歯科衛生士国家試験、あん摩マツサージ指圧師国家試験、はり師国家試験、きゆう師国家試験、視能訓練士国家試験、理学療法士国家試験、作業療法士国家試験、薬剤師試験、臨床検査技師試験、歯科技工士国家試験、診療放射線技師国家試験、無線従事者国家試験、獣医師国家試験、医師国家試験、医師国家試験予備試験、歯科医師国家試験、歯科医師国家試験予備試験、歯科衛生士国家試験、管理栄養士国家試験、旅行業務取扱管理者試験は「期間を定めて」、&lt;br /&gt;司法試験は「5年以内の期間を定めて」、&lt;br /&gt;狩猟免許試験、税理士試験、弁理士試験、社会保険労務士試験、不動産鑑定士試験、宅地建物取引士資格試験、一級建築士試験、二級建築士試験、木造建築士試験、公認会計士試験、通訳案内士試験、自動車整備士国家試験は「3年以内の期間を定めて」、&lt;br /&gt;技術士試験、気象予報士試験、海技士国家試験は「2年以内の期間を定めて」、&lt;br /&gt;運転免許試験は「1年以内の期間を定めて」、&lt;br /&gt;試験を受けることができないものとすることができると規定されている。}}認められなかったり、国家試験実施者について試験問題漏洩罪{{efn|視能訓練士試験、理学療法士国家試験、作業療法士国家試験、不動産鑑定士試験、薬剤師国家試験、臨床検査技師国家試験、歯科技工士国家試験、診療放射線技師国家試験、一級建築士試験、二級建築士試験、木造建築士試験、医師国家試験、歯科医師国家試験、保健師国家試験、看護師国家試験、管理栄養士国家試験について&lt;br&gt;国家試験事務担当者が故意若しくは重大な過失により事前に試験問題を漏らすことに「6月以下の懲役又は50万円以下の罰金」が規定されている。}}が、カンニングをして合格した受験者には免許証不正受交付罪{{efn|運転免許試験は「1年以下の懲役又は30万円以下の罰金」が規定されている。}}や免許証不正拝受罪{{efn|教員資格認定試験については「1年以下の懲役又は50万円以下の罰金」が規定されている。}}や免許証不正登録罪{{efn|医師国家試験、歯科医師国家試験は「3年以下の懲役若しくは100万円以下の罰金、又はこれを併科」、&lt;br&gt;獣医師国家試験は「2年以下の懲役若しくは100万円以下の罰金に処し、又はこれを併科」、&lt;br&gt;保健師国家試験、助産師国家試験、看護師国家試験は「2年以下の懲役若しくは50万円以下の罰金に処し、又はこれを併科」、&lt;br&gt;一級建築士試験、二級建築士試験、木造建築士試験は「1年以下の懲役又は100万円以下の罰金」、&lt;br&gt;歯科衛生士国家試験、診療放射線技師国家試験は「1年以下の懲役若しくは50万円以下の罰金、又はこれを併科」、&lt;br&gt;公認会計士試験は「6月以下の懲役又は100万円以下の罰金」、&lt;br&gt;人工授精師講習会修業試験は「100万以下の罰金」、&lt;br&gt;あん摩マッサージ指圧師国家試験、はり師国家試験、きゅう師国家試験、柔道整復師国家試験、通訳案内士試験は「50万円以下の罰金」&lt;br&gt;が規定されている。}}が規定されていることがある。<br /> <br /> 実施者の試験問題漏洩罪や免許証不正受交付罪や免許証不正拝受罪や免許証不正登録罪に該当しないカンニングについては、[[窃盗罪]]や[[偽計業務妨害罪]]の罪状で警察沙汰・刑事捜査に発展した例もあり、カンニングで警察に逮捕されたケースも少なくない。<br /> <br /> 日本の[[中学校]]や[[高等学校]]の[[定期考査]](定期試験)などにおいては、当該教科・科目、もしくはそれまでに受験した教科・科目の全て、または考査期間中における全ての試験が失格となる(学習成績で得点が0点(無得点)とされる。)。<br /> <br /> [[大学]]の期末試験では各学の判断にもよるが、中学・高校の定期試験同様、すべての試験が失格になるほか、当該科目の単位が不認定となるのはもちろん、当該科目以外の取得予定だった単位のすべてが不認定になることもある。加えて、一般的に[[校長]](学長)から訓告以上の懲戒処分がなされる。<br /> <br /> これは、法的な効果をもたらす処分であり、原則として、それ以後の推薦状の発行、[[調査書 (進学と就職)|調査書]]や人物証明書の記載内容などに影響がある。私立の大学附属中学校・高等学校などでこのような処分を受けた場合、内部進学ができなくなることがある。懲戒として[[停学]]処分を行い、悪質な場合は[[退学]]処分になる場合もある。<br /> <br /> 大学によっては「試験不正行為取締規則」なる規程を設け、これに基づいて懲戒を決定するところもある。一部には、原則として[[退学]]処分を行う大学などもある。<br /> <br /> 一部の学校では、[[Apple Watch]]を含む[[ウェアラブルコンピュータ|スマートウォッチ]]の発売を受け、入試・試験会場での腕時計の使用・持ち込みを禁止にしているところがある。<br /> <br /> [[欧米]]では、大学などは学問を行う場として重んじられており、カンニングは、自分から学んでよく考えることを否定する行為とされている。<br /> <br /> このため処分も厳しく、カンニングに対しては退学処分が比較的多い。[[ハーバード大学]]の例では、レポートを丸写しして提出した学生の行為をカンニングとし、125名もの学生を退学、停学等の処分したことがある&lt;ref&gt;誇り喪失 大規模カンニング 米ハーバード大、70人退学処分 [[産経エクスプレス]] 2013年2月4日&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 逆に、就職が決まらずに留年したり、全部0点にしてから再履修してよい成績をとるという方法も考えられるが、たとえその方法で成績を上げたとしても、特待生の選考や推薦入試の選考などで外される危険性もありうる。カンニングはほとんどメリットのない方法なので、カンニングはしない方がよい。<br /> <br /> == その他 ==<br /> * [[中華人民共和国|中国]]では、カンニング行為は[[6世紀]]より始まった[[科挙]]において既に行われていたという。科挙は当時の中国で最も権威ある登用試験であり、カンニング防止のために厳重な身体検査も行われたが、それでも科挙に合格すれば[[官僚]]としての地位と名声と富が約束されるとあって、受験生たちは様々な手段を駆使してカンニングに挑んだ。まず科挙に受かるためには、[[四書五経]]を丸暗記しなければならない。そのため、[[豆本]]テキストの持ち込み、[[替え玉受験]]、試験官への[[賄賂]]などは常套手段であり、中には全面に細かい文字で数十万字にも及ぶテキストの文章を書き込んだカンニング用の下着さえ存在した。このカンニングシャツは、日本では[[藤井斉成会有鄰館]]に展示されている{{efn|科挙の試験場では、受験生たちはカンニング防止のため1人ずつ狭い個室に入れられ、試験が終了するまでは各々の個室から出る事を厳しく禁止されていた。逆に言えば、カンニング用の道具を見付からずに個室に持ち込む事さえできれば、受験生たちは個室の中で自由にカンニングをする事も可能であった。}}。一方でこれらのカンニングに対する[[罰]]も相応に厳しく、カンニングが発覚した場合、本人のみならず一族全員に至るまで[[死刑]]にされた例もあった&lt;ref&gt;宮崎市定『科挙 -中国の試験地獄-』&lt;/ref&gt;。また、監視役はカンニングを発見すると報奨金が約束されていたこともあり、厳重な態勢で監視を行なっていた。<br /> *[[1884年]](明治17年)、英語が苦手だった[[正岡子規]]は、東大予備門の受験の際にカンニングをしたことがある。&quot;judiciary&quot;の意味がわからなかった子規が隣の受験生に意味を聞いたところ、「ほうかん」と言われた。本当は「法官」という意味だったが、「幇間」(たいこもち)だと思って解答用紙に書いてしまった。ちなみに、子規はこの試験に合格したが、子規に答えを教えた受験者は不合格になったという(『墨汁一滴』)&lt;ref name=&quot;sankei20110301&quot;&gt;知恵袋(産経新聞 2011年3月1日)&lt;/ref&gt;。<br /> *子規の友人であった[[夏目漱石]]も数学の試験でカンニングをしており、後に『私の経過した学生時代』で「隣の人に見せてもらったのか、それともこっそり見たのか、まあそんなことをして試験は漸っと済した」と明かしている&lt;ref name=&quot;sankei20110301&quot;/&gt;。<br /> *[[石川啄木]](旧制中学の試験でカンニングが発覚、保証人の交代願いが今に残されている。)<br /> *[[橋本龍太郎]](元首相)。中学時代にカンニングの手助けをしていた&lt;ref&gt;慶大法学部政治学科の著名OBらが語る「百年史」が記念出版 読売新聞p.35 1998年12月4日&lt;/ref&gt;。<br /> *[[川島なお美]] - 大学生時代に、カンニングをしたことがあると発言。その際の「開き直り」的な発言も含めて、一部で物議を醸した。<br /> *[[長嶋一茂]] - 大学時代にカンニングしたことがあると発言&lt;ref&gt;[http://www.j-cast.com/tv/2011/03/04089649.html 長嶋一茂「カンニングやった。野球ばっかりだったから、オレ」] [[J-CASTニュース]] 2011年3月4日&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> == 関連語 ==<br /> * [[カンペ]] - [[テレビ番組]]などの[[収録]]に際し、スタッフが[[演者]]に対して掲げる紙製のボードやスケッチブックであり、[[番組]]の進行、[[台詞]]、コメント、[[歌詞]]などを、大きな文字で表記した[[演出]]用の道具のこと。カンペの目的は[[台本]]の補足と演者への指示であるため、視聴者からは見えない位置に掲示される。演出用の「カンペ」の語源は、「看板ペーパー」(紙で作られた[[看板]]」)であって、「カンニングペーパー」の略語ではない。そのため「不正行為」の意味を持たない。また、他の言語においては、「[[かんばん (ソフトウェア開発)|kanban]]」として、[[プロセス管理]]の技法を示す[[英単語|語]]として用いられている。他にも、舞台芸術の種類によっては、「[[プロンプター (舞台芸術)|プロンプト]]」や「[[プロンプター (舞台芸術)#日本の伝統芸能|後見]]」が同種の意味を持つ用語として用いられる。<br /> {{See also|1=プロンプター (舞台芸術)|2=プロンプター (電気機器)}}<br /> * [[プロンプター]] - オペラ・講演などの際に、台詞の発するタイミングを手助けする人・あるいは原稿を読む際の手助けとなる装置。映画「[[ラストサムライ]]」では、主人公が銃の宣伝文句を述べる際に、彼が読み上げる台詞が書かれた紙を持った係が客席に居る描写がされている。<br /> * カンニング・ブレス - [[合唱]]や[[金管楽器]]、[[木管楽器]]の演奏などにおいて、本来息を継ぐべきでないフレーズの中途などで行う呼吸のこと。一息では発音できない長いフレーズが切れずに繋がって聞こえるように、同じパートの演奏者が少しずつ場所をずらしてブレスをするなどの方法によって行なわれる。<br /> * [[笏]] - 宮廷において備忘のために、儀式の作法・式次第を記した紙を貼って使用した。またその記した紙を[[笏紙]]と呼ぶ。<br /> <br /> == 脚注 ==<br /> {{脚注ヘルプ}}<br /> === 注釈 ===<br /> {{Notelist}}<br /> === 出典 ===<br /> {{Reflist}}<br /> <br /> == 関連項目 ==<br /> * [[ザ・カンニング IQ=0]] - カンニングをテーマとした、[[フランス]]の[[コメディ映画]]。1980年公開。<br /> * [[That&#039;s カンニング! 史上最大の作戦?]] - 学生寮の生き残りをかけ、あらゆる方法でカンニングをしていく日本のコメディ映画。1996年公開。<br /> * [[バッド・ジーニアス 危険な天才たち]] - 2017年のタイ映画。<br /> <br /> {{DEFAULTSORT:かんにんく}}<br /> [[Category:欺瞞]]<br /> [[Category:教育問題]]<br /> [[Category:入学試験]]<br /> [[Category:和製英語]]<br /> [[Category:道徳]]</div> 58.156.158.18 ハインリヒ・ヒムラー 2018-07-21T03:50:55Z <p>58.156.158.18: </p> <hr /> <div>{{政治家<br /> |各国語表記 = Heinrich Himmler<br /> |画像 =Bundesarchiv Bild 183-S72707, Heinrich Himmler.jpg<br /> |画像説明 = 1942年のヒムラー<br /> |国略称 ={{DEU1935}}<br /> |生年月日 =[[1900年]][[10月7日]] <br /> |出生地 ={{DEU1871}}&lt;br&gt;{{BAY}}、[[ミュンヘン]] <br /> |没年月日 ={{死亡年月日と没年齢|1900|10|7|1945|5|23}}<br /> |死没地 ={{DEU1935}}&lt;br&gt;{{PRU1933}}&lt;br&gt;[[File:Flagge Preußen - Provinz Hannover.svg|border|25px]] [[ハノーファー県]]、[[リューネブルク]] <br /> |出身校 = [[ミュンヘン工科大学]]<br /> |前職 = <br /> |現職 = <br /> |所属政党 =([[バイエルン人民党]]→)&lt;br&gt;[[File:Reichsadler.svg|23px]] [[国家社会主義ドイツ労働者党]]<br /> |称号・勲章 = [[血の勲章]](1923年11月9日記念メダル)&lt;ref name=&quot;ラムスデン202&quot;&gt;[[#ラムスデン|ラムスデン、p.202]]&lt;/ref&gt;&lt;br&gt;[[黄金ナチ党員バッジ]]&lt;br&gt;[[パイロット兼観測員章|ダイヤモンド付パイロット兼観測員章金章]]([[:de:Flugzeugführerabzeichen|de]]){{#tag:ref|空軍総司令官[[ヘルマン・ゲーリング]]より個人的に贈られた&lt;ref name=&quot;ラムスデン29&quot;&gt;[[#ラムスデン|ラムスデン、p.29]]&lt;/ref&gt;。|group=&quot;注&quot;}}&lt;br&gt;[[ドイツ鷲勲章]]([[:de:Verdienstorden vom Deutschen Adler|de]])<br /> |世襲の有無 = <br /> |親族(政治家) = <br /> |配偶者 ={{仮リンク|マルガレーテ・ヒムラー|de|Margarete Himmler}}(旧姓ボーデン) <br /> |サイン = Himmler Signature.svg<br /> |ウェブサイト = <br /> |サイトタイトル = <br /> |国旗 = <br /> |職名 = [[File:Flag Schutzstaffel.svg|23px]] [[親衛隊全国指導者]]<br /> |内閣 = <br /> |選挙区 = <br /> |当選回数 = <br /> |就任日 = 1929年1月6日<br /> |退任日 = 1945年4月28日<br /> |退任理由 = 総統による全官位剥奪<br /> |国旗2 = <br /> |職名2 = {{flagicon|DEU1919}} {{flagicon|DEU1933}} {{flagicon|DEU1935}} [[ドイツ国]][[国会 (ドイツ)|国会議員]]<br /> |内閣2 = <br /> |選挙区2 = [[オーバーバイエルン]]&lt;br&gt;[[テューリンゲン]]<br /> |当選回数2 = 4回<br /> |就任日2 = 1930年9月14日<br /> |退任日2 = 1945年4月28日<br /> |退任理由2 = 総統による全官位剥奪<br /> |国旗3 = DEU1935<br /> |職名3 = 全ドイツ警察長官<br /> |内閣3 = <br /> |選挙区3 = <br /> |当選回数3 = <br /> |就任日3 = 1936年6月17日<br /> |退任日3 = 1945年4月28日<br /> |退任理由3 = 総統による全官位剥奪<br /> |国旗4 = DEU1935<br /> |職名4 = [[内務大臣]]<br /> |内閣4 = [[ヒトラー内閣]]<br /> |選挙区4 = <br /> |当選回数4 = <br /> |就任日4 = 1943年8月24日<br /> |退任日4 = 1945年4月28日<br /> |退任理由4 = 総統による全官位剥奪<br /> |国旗5 = DEU1935<br /> |職名5 = [[国内予備軍]]司令官<br /> |内閣5 = <br /> |選挙区5 = <br /> |当選回数5 = <br /> |就任日5 = 1944年7月20日<br /> |退任日5 = 1945年4月28日<br /> |退任理由5 = 総統による全官位剥奪<br /> |国旗6 = DEU1935<br /> |その他職歴1 = ドイツ民族性強化国家委員<br /> |就任日6 = 1939年10月7日<br /> |退任日6 = 1945年4月28日<br /> |国旗7 = <br /> |その他職歴2 = [[File:Flag Schutzstaffel.svg|23px]] [[国家保安本部]]長官<br /> |就任日7 = 1942年6月4日<br /> |退任日7 = 1943年1月31日<br /> |所属委員会 =<br /> |議員会館 = <br /> |元首職 = <br /> |元首 = <br /> }}<br /> &#039;&#039;&#039;ハインリヒ・ルイトポルト・ヒムラー&#039;&#039;&#039;({{lang-de|Heinrich Luitpold Himmler}}, {{Audio|de-Heinrich Himmler.ogg|発音}}、[[1900年]][[10月7日]] - [[1945年]][[5月23日]])は、[[ドイツ]]の[[軍人]]、[[政治家]]であり、[[ナチス・ドイツ]]の[[官僚]]である。[[親衛隊 (ナチス)|親衛隊]]や秘密警察[[ゲシュタポ]]を統率した、[[アドルフ・ヒトラー]]の側近として著名。<br /> <br /> == 概要 ==<br /> [[1929年]]に[[国家社会主義ドイツ労働者党]](ナチ党)の[[準軍事組織]]である[[親衛隊 (ナチス)|親衛隊]](SS)の第3代[[親衛隊全国指導者]](RFSS)に就任し、党内警察業務を司った。[[ナチ党の権力掌握|ナチ党の政権掌握]]後には、1934年に[[プロイセン州|プロイセン邦]]の秘密国家警察[[ゲシュタポ]]&lt;ref group=&quot;注&quot;&gt;日本における[[特別高等警察]]に相当し、[[共産主義]]者等の政治的危険分子を取り締まった。&lt;/ref&gt;副長官、1936年には親衛隊全国指導者兼全ドイツ警察長官に任命されて国内の警察機構を一手に掌握した&lt;ref&gt;[[#谷|谷 2000, pp. 98-101.]]&lt;/ref&gt;(ゲシュタポは全国の政治警察を直轄する組織となった)。政権末期の1943年には[[ヒトラー内閣]][[内務大臣 (ドイツ)|内務大臣]]も兼務するようになった。ナチ体制は当初、一元的に統制されているとは言いがたい多頭制の様相を呈していたが、その中でヒムラー率いる親衛隊が次々に権限を拡大して優位に立ったことにより、ナチ体制は「親衛隊国家」の性格を色濃くした&lt;ref&gt;[[#谷|谷 2000, p. 96.]]&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> [[社会ダーウィン主義]]と[[アーリアン学説]]の影響を受けたナチスの[[人種]]イデオロギーは、[[アーリアン学説|アーリア人種]]、特にその一派とされた[[北方人種]]と定義された人々を{{仮リンク|主たる人種|de|Herrenvolk und Herrenrasse}}とし、[[ユダヤ人]]&lt;ref group=&quot;注&quot;&gt;[[セム人]]と呼ばれた。&lt;/ref&gt;、[[ロマ]]&lt;ref group=&quot;注&quot;&gt;ロマはアーリア人とされていたが、ナチスは混血を理由に劣等民族とした。&lt;/ref&gt;、[[スラヴ人]]&lt;ref group=&quot;注&quot;&gt;[[ポーランド人]]、[[チェコ人]]、[[スロバキア人]]、[[ソビエト連邦|ソビエト連邦の加盟国民]]([[ロシア人]]、[[ウクライナ人]]、[[ベラルーシ人]])等がこれに該当する。ヒトラーは[[ロシア革命|ボルシェヴィキ革命]]をユダヤの陰謀とみなしてロシア人を危険視したほか、ドイツ人のための[[東方生存圏]]建設に際して、そこに居住するスラヴ民族やその他の異民族を追放するか北方人種の奴隷階級とすることを構想していた。&lt;/ref&gt;は人種的に劣るとしたが、ヒムラーもまたそれらの人種的に劣るとされた集団を蔑視し、[[北方人種]]の優越性を信じていた。ヒムラー率いる親衛隊は[[水晶の夜]]事件以後、ナチスの人種政策に関与するようになり、ユダヤ人を国外退去させる任務に携わった。「[[北方人種]]」「[[アーリア人]]」として認定された者であっても、反ナチ運動家や障害者などは「人種の血を汚す者」として劣等人種とされた人々と同等に扱った。親衛隊の所管となった[[強制収容所 (ナチス)|強制収容所]](KZ)には、当初ゲシュタポが取り締まりの対象とした政治犯が主に収容されたが、同性愛者や浮浪者など「反社会分子」とみなされた人々やユダヤ人といった政治犯でない人々が収監者の多数を占めるようになった&lt;ref&gt;山本秀行 『世界史リブレット49 ナチズムの時代』 山川出版社、1998年、44頁。&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> [[第二次世界大戦]]期には、ドイツが占領したヨーロッパの広範な地域にヒムラーの権力が及ぶこととなった。[[ポーランド侵攻]]に際しては親衛隊[[アインザッツグルッペン|特別行動部隊]]がポーランド人を奴隷化するための知識人掃討作戦を展開した。占領地域での[[生存圏]]政策の執行においてもヒムラーは中心的役割を担い、親衛隊はドイツに編入されたポーランド西部からポーランド人とユダヤ人をポーランド中部の[[ポーランド総督府|総督府領]]に追放させる任務に当たった。その後ユダヤ人の追放政策は絶滅政策に転換し、「[[生きるに値しない命]]」とされた精神障害者等を殺害する安楽死作戦に従事したスタッフが[[絶滅収容所]]建設のために派遣され、親衛隊はそこでユダヤ人等の大量[[虐殺]]([[ホロコースト]])を組織的に実行した。<br /> <br /> 大戦後期には[[軍集団]]の指揮も任されたが、軍事的素質には乏しく、目立った戦果はあげられなかった。ドイツの戦況を絶望視して独断で[[アメリカ合衆国]]との講和交渉を試みたが失敗し、[[アドルフ・ヒトラー]]の逆鱗に触れて解任された。その後は逃亡を図ったが、[[エルベ川]]を渡った後の1945年5月22日に[[イギリス軍]]の捕虜となり、翌日の5月23日に自殺した。<br /> <br /> == 経歴 ==<br /> === 生い立ち ===<br /> [[File:Bundesarchiv Bild 146-1969-056-19, Familie Himmler.jpg|150px|thumb|left|[[ハインリヒ・フォン・バイエルン|ハインリヒ王子]]とヒムラー一家&lt;ref name=&quot;学研1128&quot;&gt;[[#学研1|『武装SS前史I』、p.128]]&lt;/ref&gt;。&lt;br&gt;&lt;SUB&gt;父ゲプハルト(後列右)、母アンナ(後列左)、ハインリヒ(前列左)、代父ハインリヒ王子と弟{{仮リンク|エルンスト・ヘルマン・ヒムラー|label=エルンスト|de|Ernst Hermann Himmler}}(中央)、兄{{仮リンク|ゲプハルト・ルートヴィヒ・ヒムラー|label=ゲプハルト|de|Gebhard Ludwig Himmler}}(前列右)&lt;/SUB&gt;]]<br /> ハインリヒ・ルイトポルト・ヒムラーは、1900年10月7日、[[ドイツ帝国]][[領邦]][[バイエルン王国]]の首都[[ミュンヘン]]のヒルデガルト通り(Hildegardstraße)二番地にある高級アパート二階に在住するヒムラー家の次男として生まれた&lt;ref name=&quot;ラムスデン202&quot;/&gt;&lt;ref name=&quot;クノップ(2001)上158&quot;&gt;[[#クノップ(2001)上|クノップ(2001年)、上巻p.158]]&lt;/ref&gt;&lt;ref name=&quot;グレーバー8&quot;&gt;[[#グレーバー|グレーバー、p.8]]&lt;/ref&gt;&lt;ref name=&quot;Katrin31&quot;&gt;[[#Katrin|Katrin Himmler, p.31]]&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 父ヨーゼフ・ゲプハルト・ヒムラー(Joseph Gebhard Himmler)は、[[税関]]職員の[[非嫡出子]]として生まれ、貧しくも生活に励み、名門の[[ルートヴィヒ・マクシミリアン大学ミュンヘン]]を卒業し[[ギムナジウム]]の教師になった人物であった。教師として高い評価を得ており、バイエルン王室の[[ハインリヒ・フォン・バイエルン|ハインリヒ王子]]の家庭教師を務めていた&lt;ref name=&quot;Katrin24&quot;&gt;[[#Katrin|Katrin Himmler, p.24]]&lt;/ref&gt;&lt;ref name=&quot;グレーバー8&quot;/&gt;&lt;ref name=&quot;クノップ(2001)上158&quot;/&gt;。母アンナ・マリア・ヒムラー(Anna Maria Himmler)(旧姓ハイダー (Heyder))は、裕福な貿易商人の娘で、1897年にゲプハルトと結婚していた&lt;ref name=&quot;Katrin30&quot;&gt;[[#Katrin|Katrin Himmler, p.30]]&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> ヒムラーが生まれる二年前の1898年7月29日に夫妻は長男{{仮リンク|ゲプハルト・ルートヴィヒ・ヒムラー|label=ゲプハルト・ルートヴィヒ|de|Gebhard Ludwig Himmler}}を儲けている&lt;ref name=&quot;Manvell1&quot;&gt;[[#Manvell|Manvell,Fraenkel, p.1]]&lt;/ref&gt;。さらに1905年12月23日には三男{{仮リンク|エルンスト・ヘルマン・ヒムラー|label=エルンスト・ヘルマン|de|Ernst Hermann Himmler}}が生まれている&lt;ref name=&quot;Katrin31&quot;/&gt;。<br /> <br /> ハインリヒ・ルイトポルトはこの二人の兄弟の間の次男であった。「ハインリヒ」も「ルイトポルト」も[[バイエルン国王|バイエルン王族]]から名付けた名前であった&lt;ref name=&quot;Katrin31&quot;/&gt;。特に「ハインリヒ」の名は、ゲプハルトが家庭教師を務め、またその縁でハインリヒの[[代父母|代父]]となっていたハインリヒ王子が自らの名前を名付けたものであった&lt;ref name=&quot;ヘーネ40&quot;&gt;[[#ヘーネ|ヘーネ、p.40]]&lt;/ref&gt;。当時、王室の人間から名前をもらうことは大変な愛顧であり、名誉なことであった&lt;ref name=&quot;グレーバー8&quot;/&gt;&lt;ref name=&quot;クノップ(2001)上158&quot;/&gt;。こうした王室との関わりと[[カトリック教会|カトリック]]への厚い信仰心によってヒムラー家は大変に保守的な家風であり、ハインリヒもカトリックの教えに従って保守的で厳しいしつけを受けた。ただし父ゲプハルトは[[反ユダヤ主義]]者ではなかった&lt;ref name=&quot;クノップ(2001)上158&quot;/&gt;。ヒムラー家は金持ちとまではいえないが、かなり安定した[[中産階級]]の家庭であった&lt;ref name=&quot;クノップ(2001)上158&quot;/&gt;。戦後、多くの歴史学者が幼少期・青年期のヒムラーに「異常性」や「犯罪性」を見つけ出そうと試みたが、それらしいものは見つけられなかった。[[ロジャー・マンベル]]が当時のバイエルンという地域環境にヒムラーの精神性を求めているぐらいである&lt;ref name=&quot;松永10&quot;&gt;[[#松永|松永、p.10]]&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> [[File:Himmler7.jpg|150px|thumb|left|7歳の頃]]<br /> 父ゲプハルトの遺したメモによるとヒムラーは小学校時代によく病になり、160回も欠席したという。しかし家庭教師ルーデット嬢の指導のおかげで学業の遅れを取り戻し、IIの成績で小学校を卒業したという&lt;ref name=&quot;クノップ(2001)上158&quot;/&gt;。1910年9月にミュンヘンの名門ギムナジウムの{{仮リンク|ヴィルヘルム・ギムナジウム・ミュンヘン|label=ヴィルヘルム・ギムナジウム|de|Wilhelmsgymnasium München}}に入学した&lt;ref name=&quot;Katrin42&quot;&gt;[[#Katrin|Katrin Himmler, p.42]]&lt;/ref&gt;。同ギムナジウムの担任教師から「たいそうな才能に恵まれた生徒で、たゆまぬ勤勉さと燃えるような向上心と極めて熱心な授業態度によって、クラスで最優秀の成績を収めた」と称賛された&lt;ref name=&quot;クノップ(2001)上156&quot;&gt;[[#クノップ(2001)上|クノップ(2001年)、上巻p.156]]&lt;/ref&gt;&lt;ref name=&quot;クノップ(2003)83&quot;&gt;[[#クノップ(2003)|クノップ(2003年)、p.83]]&lt;/ref&gt;。このギムナジウムでの同級生に後に[[アメリカ合衆国]]に移住してアメリカ国民となり、歴史学者となった{{仮リンク|ジョージ・ハルガーテン|en|George W. F. Hallgarten}}がいた。&lt;ref name=&quot;クノップ(2003)83&quot;/&gt;ハルガーデンはナチ党政権誕生とともにアメリカへ逃れた。ヒムラーは後に同級生のハルガーデンのことを「ユダヤの虱」と呼んで馬鹿にした&lt;ref name=&quot;ヘーネ45&quot;&gt;[[#ヘーネ|ヘーネ、p.45]]&lt;/ref&gt;。ハルガーテンはこの頃のヒムラーについて「考えられる限りで最も優しい子羊だった。虫一匹殺せないような少年だった」と証言している&lt;ref name=&quot;クノップ(2001)上156&quot;/&gt;。1913年に父ゲプハルトがミュンヘン北東の[[ランツフート]]の{{仮リンク|ハンス・カロッサ・ギムナウジム・ランツフート|label=ハンス・カロッサ・ギムナウジム|de|deHans-Carossa-Gymnasium Landshut}}の共同校長に任じられたため、ヒムラー一家はランツフートへ移住した&lt;ref name=&quot;Manvell2&quot;&gt;[[#Manvell|Manvell,Fraenkel, p.2]]&lt;/ref&gt;。ヒムラーも父が校長を務めるギムナジウムへ入学している。彼は歴史学、古典学、宗教学で最優秀の成績をとり&lt;ref name=&quot;クノップ(2001)上160&quot;&gt;[[#クノップ(2001)上|クノップ(2001年)、上巻p.160]]&lt;/ref&gt;、他の主要科目も優秀な成績であったが、体育だけは苦手だったという&lt;ref name=&quot;谷70&quot;&gt;[[#谷|谷、p.70]]&lt;/ref&gt;。[[第一次世界大戦]]をはさんで1919年7月に同校を卒業した。卒業証書には「常に品行方正で、性格は几帳面な勤勉さを持っていた」と記された&lt;ref name=&quot;クノップ(2001)上160&quot;/&gt;。<br /> <br /> [[第一次世界大戦]]中の1915年初め、兄ゲプハルトとともにランツフートの「青少年軍」(Jugendwehr)の活動に参加した。これは軍の将校の指導の下に簡単な運動やギムナジウムでの行進などを行う青少年準軍事組織であった&lt;ref name=&quot;Katrin50&quot;&gt;[[#Katrin|Katrin Himmler, p.50]]&lt;/ref&gt;。さらに1915年7月29日、17歳になった兄ゲプハルトが予備軍(Landsturm)に入隊し、1918年4月に[[西部戦線 (第一次世界大戦)|西部戦線]]へ送られた&lt;ref name=&quot;Katrin51&quot;&gt;[[#Katrin|Katrin Himmler, p.51]]&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> ヒムラーも従軍したがり、父親に頼みこむようになった。父ゲプハルトはまず彼がギムナジウムを卒業することを希望していたが、熱心さに根負けし、バイエルン王室へのコネなどを使って息子の入隊の可能性を探った。ヒムラーははじめ海軍士官に志願したが眼鏡をかけていたために受け入れられず(近眼の者は海軍士官になれなかった)&lt;ref name=&quot;ヘーネ40&quot;&gt;[[#ヘーネ|ヘーネ、p.40]]&lt;/ref&gt;、1917年末にバイエルン王国の第11歩兵連隊「フォン・デア・タン」に入隊した&lt;ref name=&quot;ヴィストリヒ199&quot;&gt;[[#ヴィストリヒ|ヴィストリヒ、p.199]]&lt;/ref&gt;&lt;ref name=&quot;ヘーネ41&quot;&gt;[[#ヘーネ|ヘーネ、p.41]]&lt;/ref&gt;。[[レーゲンスブルク]]で6箇月の歩兵訓練を受けた後、1918年6月15日から9月15日まで[[フライジング]]で士官候補生としてのコースを修め、9月15日から10月1日まで[[バイロイト]]のバイエルン第17機関銃中隊で機関銃教練を受けた&lt;ref name=&quot;クノップ(2001)上161&quot;&gt;[[#クノップ(2001)上|クノップ(2001年)、上巻p.161]]&lt;/ref&gt;&lt;ref name=&quot;松永105&quot;&gt;[[#松永|松永、p.105]]&lt;/ref&gt;&lt;ref name=&quot;ヘーネ41&quot;/&gt;。<br /> <br /> しかしヒムラーが前線へ配属される前の1918年11月初め、[[ドイツ革命]]が勃発して帝政が倒れ、1918年11月11日にはドイツは降伏し、第一次世界大戦が終結した。結局、彼が実戦経験を持つことはなかった。しかしヒムラーは親衛隊全国指導者就任後にこの経歴を詐称するようになり、『大ドイツ帝国国会便覧』などの公式履歴にも第一次世界大戦において西部戦線へ出征したかのように記している&lt;ref&gt;[[#クノップ(2001)上|クノップ(2001年)、上巻p.160]]、[[#ヘーネ|ヘーネ、p.41]]&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> なお、兄ゲプハルトは大戦中に西部戦線で[[塹壕戦]]を経験し、兵長まで昇進して[[一級鉄十字章]]と[[二級鉄十字章]]を受章している&lt;ref name=&quot;Katrin57&quot;&gt;[[#Katrin|Katrin Himmler, p.57]]&lt;/ref&gt;。また代父ハインリヒ王子は大戦中に戦死した。ハインリヒ王子の遺産のうち1,000[[マルク (通貨)|マルク]]の[[戦時国債]]がヒムラーに遺贈された&lt;ref name=&quot;クノップ(2001)上158&quot;/&gt;。<br /> <br /> === 第一次世界大戦後 ===<br /> 第一次世界大戦終結後の1918年12月に第11歩兵連隊予備大隊を除隊した。しかしヒムラーはなおも戦場に立ちたがっており、1919年4月には[[ドイツ義勇軍|反革命義勇軍(フライコール)]]の一部隊であるラウターバッハ義勇軍 (Freikorps Lauterbach) に加わって社会主義者が立ち上げた[[バイエルン・レーテ共和国|ミュンヘン・レーテ共和国]]の打倒の軍に従軍した。レーテ共和国は打倒されたが、ヒムラーの部隊はミュンヘンまで到達しておらず、ここでも彼は後方支援の任務に留まっている&lt;ref name=&quot;ヘーネ41&quot;/&gt;。<br /> <br /> その後、敗戦の混乱で経済的に困窮することになると予想した父ゲプハルトは息子に農場で働くことを求めた&lt;ref name=&quot;ヘーネ41&quot;/&gt;。ヒムラーは父の求めに応じてミュンヘン北方[[インゴルシュタット]]の農場で働いていたが、まもなく[[チフス]]に罹病して寝込み、医者から1年間療養してその間は大学で[[農学]]を勉強するよう薦められた。1919年10月18日、ヒムラーは[[ミュンヘン工科大学]]に入学して農学を学ぶこととなった&lt;ref name=&quot;ヘーネ42&quot;&gt;[[#ヘーネ|ヘーネ、p.42]]&lt;/ref&gt;。1919年11月9日、彼は大学内のある学生倶楽部に入会した。[[メンズーア|決闘]]で顔に傷を入れてもらいたいと願っていたためであった。当時のドイツの大学では男が決闘をして顔に傷を付けることは大きなステータスであったが&lt;ref name=&quot;グレーバー20&quot;&gt;[[#グレーバー|グレーバー、p.20]]&lt;/ref&gt;{{#tag:ref|同様に決闘で顔に傷を入れている人物に[[オットー・スコルツェニー]][[親衛隊大佐]]や[[ルドルフ・ディールス]]親衛隊大佐がいる|group=&quot;注&quot;}}、ヒムラーは胃弱でビールを飲むことができなかったため、「決闘に参加する資格なし」と認定されてしまった&lt;ref name=&quot;クノップ(2001)上160&quot;/&gt;。焦ったヒムラーは直ちに医者から胃腸過敏症の証明書をもらい、ようやく決闘への参加が認められた&lt;ref name=&quot;クノップ(2001)上160&quot;/&gt;。しかし誰も弱々しい彼を決闘相手として認めてくれなかった。ヒムラーがようやく決闘して顔に傷を入れることができたのは、卒業間近の1922年6月22日のことであった&lt;ref name=&quot;グレーバー20&quot;/&gt;。<br /> <br /> しかし大学時代のヒムラーは弱々しくも心優しい人物であったことが彼自身の日記から窺える。彼の日記は、戦後ヒムラーの別荘から[[アメリカ軍]]兵士が発見し、アメリカ軍将校が記念品として故郷へ持ち帰っていた。その後、この将校は歴史家から勧められて日記を[[フーバー研究所]]へ預けた。日記はヒムラーの若き日の人格形成についての重要な資料となっている。日記は規格の異なる帳面6冊からなる。1冊目は1914年8月23日から1915年9月26日まで と断片的に速記で書かれた1916年代の事柄が記されている。2冊目は1919年から1920年2月2日まで。身元不明な女性の写真数枚、[[スケートリンク]]の切符1枚、日付の入ったギターリボン、未使用の劇場入場券1枚が挿んである。3冊目は1921年11月1日から12月12日まで。残る3冊には1922年1月12日から7月6日までと1925年2月11日から25日までの記載がある&lt;ref name=&quot;グレーバー10&quot;&gt;[[#グレーバー|グレーバー、p.10]]&lt;/ref&gt;。1919年には盲目の人物の家に何度も通って本を読み聞かせ&lt;ref name=&quot;グレーバー20&quot;/&gt;、1921年には貧しい老女の所へ通って食料などをそっと置いていった{{#tag:ref|1921年の日記にケルンベルガーなる老女の家にパンを置いていったことの記述がある。詳しくは[[:q:Transwiki:ハインリヒ・ヒムラー#ヒムラー自身の発言|語録の項目]]を参照|group=&quot;注&quot;}}。友人が病気になるとこまめに見舞いにいって、本人や家族に代わってお使いをした&lt;ref name=&quot;グレーバー21&quot;&gt;[[#グレーバー|グレーバー、p.21]]&lt;/ref&gt;。[[ウィーン]]の恵まれない子供のための慈善芝居にも出演している&lt;ref name=&quot;グレーバー21&quot;/&gt;。<br /> <br /> また、ヒムラーの日記から、1921年頃から彼が外国への移住を計画していたことが分かる{{#tag:ref|1921年11月23日付けの彼の日記にペルー移住に関する記述がある。詳しくは[[:q:Transwiki:ハインリヒ・ヒムラー#ヒムラー自身の発言|語録の項目]]を参照|group=&quot;注&quot;}}。この国外移住願望は大学卒業後もしばらく持ち続けており、1924年に[[ソビエト連邦|ソ連]]大使館に[[ウクライナ]]に移住できないかを問い合わせている&lt;ref name=&quot;クノップ(2001)上167&quot;&gt;[[#クノップ(2001)上|クノップ(2001年)、上巻p.167]]&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 1922年8月1日、学位を取得して卒業。学業の成績は平均評点1.7とかなり優秀であった&lt;ref name=&quot;クノップ(2001)上167&quot;/&gt;。卒業後すぐに{{仮リンク|オーバーシュライスハイム|de|Oberschleißheim}}で農薬や肥料を扱う会社の研究員となる&lt;ref name=&quot;クノップ(2001)上167&quot;/&gt;。しかし1923年8月末にはヒムラーはオーバーシュライスハイムでの仕事を退職してミュンヘンに戻り、政治活動に専念するようになる&lt;ref name=&quot;クノップ(2001)上160&quot;/&gt;&lt;ref name=&quot;ヘーネ46&quot;&gt;[[#ヘーネ|ヘーネ、p.46]]&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 政治活動や軍事活動には、大学在学中から熱心に取り組んでいた。1919年12月、[[バイエルン人民党]]に入党している(1923年に離党)&lt;ref name=&quot;クノップ(2001)上160&quot;/&gt;。1920年5月、ミュンヘン市民自衛軍に入隊し、ヴァイマル共和国第21ライフル連隊からライフルと鉄兜を受け取った&lt;ref name=&quot;ヘーネ42&quot;/&gt;。第21ライフル連隊は[[エルンスト・レーム]]が兵器担当将校を務めていた&lt;ref name=&quot;グレーバー25&quot;&gt;[[#グレーバー|グレーバー、p.25]]&lt;/ref&gt;。大学卒業に際して、ヒムラーはレームの組織した准軍事組織「{{仮リンク|帝国戦闘旗団|de| Bund Reichskriegsflagge}}」に入団した&lt;ref name=&quot;ヘーネ46&quot;/&gt;&lt;ref name=&quot;グレーバー25&quot;/&gt;。1923年、反スラヴ主義的・[[農本主義]]的な民族主義団体「{{仮リンク|アルタマーネン|de|Artamanen}}」に入団している&lt;ref name=&quot;クノップ(2001)上160&quot;/&gt;。ここで[[リヒャルト・ヴァルター・ダレ]]の人種論と農業論を結合した独特な「[[血と大地]]」思想に影響された。ヒムラーは、親衛隊全国指導者となったのちにダレを親衛隊に招き入れている&lt;ref name=&quot;森瀬200&quot;&gt;[[#森瀬|森瀬繚・司史生、p.200]]&lt;/ref&gt;。ヒムラーは自作農民中心社会を夢見ていた。農地の豊かな東方にドイツ農民を植民させることによって農家の二男・三男が都市へ出る必要がなくなり、またドイツ政府に対して農民が決定的な影響力を持つようになると確信していた。1924年の彼のメモは「都市生活者を農民にけしかけている国際ユダヤ民族は農民の敵」とし、また「600年来、ドイツ農民は世襲財産を守り、拡大するためにスラヴ劣等民族(スラヴ民族)と戦うよう運命づけられてきた」としており、ヒムラーの「国際ユダヤ民族」と「スラヴ劣等民族」への憎しみは農本主義的な民族主義とリンクしていたと見ることもできる&lt;ref&gt;[[#ヘーネ|ヘーネ、p.53-54]]&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> === ナチ党黎明期の活動 ===<br /> [[File:Bundesarchiv Bild 146-1969-054-53A, Nürnberg, Reichsparteitag.jpg|250px|thumb|right|1927年の[[ナチ党党大会]]。ヒトラーとヒムラー(眼鏡の人物)]]<br /> 1923年8月、党員番号14303で[[国家社会主義ドイツ労働者党]]に入党したが、ヒムラーはあくまで帝国戦闘旗団のメンバーとしてレームに従った。[[ミュンヘン一揆]]の際にもレームの指揮の下にバイエルン州戦争省の制圧に参加した。このときのヒムラーはレームの無名の部下の一人にすぎなかったが、帝国戦闘旗団の旗手として旗を持つ役を務めていたため、写真はしっかりと残っている&lt;ref name=&quot;谷71&quot;&gt;[[#谷|谷、p.71]]&lt;/ref&gt;&lt;ref name=&quot;テーラー231&quot;&gt;[[#テーラー|テーラー,ショー, p.231]]&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> ヒムラーがいつ[[アドルフ・ヒトラー|ヒトラー]]と初会見を果たしたかは定かではないが、ミュンヘン一揆の際にヒトラーの演説を聞いていたことはほぼ間違いないとされている。しかし彼がヒトラーに従うようになったのはヒトラーが刑務所から釈放され、党が再建されて以降のことである&lt;ref name=&quot;グレーバー32&quot;&gt;[[#グレーバー|グレーバー、p.32]]&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 当時のヒムラーはあまりに無名の小物すぎたので一揆の失敗後も逮捕を免れた。しかし彼の尊敬するレームが{{仮リンク|ミュンヘン刑務所|label=シュターデルハイム刑務所|de|Justizvollzugsanstalt München}}に投獄されてしまったため、彼の失望は深かった&lt;ref name=&quot;クノップ(2001)上168&quot;&gt;[[#クノップ(2001)上|クノップ(2001年)、上巻p.168]]&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 党の活動が禁止された間、ヒムラーは[[エーリヒ・ルーデンドルフ]]、[[アルブレヒト・フォン・グレーフェ (政治家)|アルブレヒト・フォン・グレーフェ]]、[[グレゴール・シュトラッサー]]が指導するナチ党偽装政党[[国家社会主義自由運動]](NSFB)に入党した&lt;ref name=&quot;クノップ(2001)上168&quot;/&gt;&lt;ref name=&quot;グレーバー27&quot;&gt;[[#グレーバー|グレーバー、p.27]]&lt;/ref&gt;&lt;ref name=&quot;ヘーネ48&quot;&gt;[[#ヘーネ|ヘーネ、p.48]]&lt;/ref&gt;。ヒムラーは[[ナチス左派]]で知られたグレゴール・シュトラッサーの下で120[[ライヒスマルク]]の給料で働くこととなった。シュトラッサーは[[1924年5月ドイツ国会選挙|1924年5月]]と[[1924年12月ドイツ国会選挙|12月の国会議員選挙]]に出馬することとなり、ヒムラーは[[ニーダーバイエルン]]の宣伝担当に任命された。これが彼の最初の大抜擢となった&lt;ref name=&quot;グレーバー28&quot;&gt;[[#グレーバー|グレーバー、p.28]]&lt;/ref&gt;。オートバイに乗って走り回る彼の姿をニーダーバイエルンの多くの人が目撃している&lt;ref name=&quot;谷72&quot;&gt;[[#谷|谷、p.72]]&lt;/ref&gt;。シュトラッサーはヒムラーについて「彼(ヒムラー)は私に献身的であり、私は秘書として彼が必要だ。彼にはやる気もある。だが彼を北(=[[ベルリン]])へ連れて行くつもりはない。世界を征服する男ではないからだ」と述べている&lt;ref name=&quot;クノップ(2003)94&quot;&gt;[[#クノップ(2003)|クノップ(2003年)、p.94]]&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 1924年末にヒトラーが釈放され、1925年2月にナチ党が再建されると、シュトラッサーとともにナチ党へと戻った。同年、シュトラッサーがナチ党のニーダーバイエルン=オーバープファルツ[[大管区指導者]]になるとヒムラーはその代理に任じられた。さらに1926年にシュトラッサーがナチ党宣伝[[全国指導者]]に任命される とヒムラーもそれに伴って宣伝全国指導者代理となった&lt;ref name=&quot;クノップ(2001)上168&quot;/&gt;。しかしシュトラッサーは自らの補佐役としてはヒムラーより[[ヨーゼフ・ゲッベルス]]の方を高く買っていたという&lt;ref name=&quot;桧山166&quot;&gt;[[#桧山|桧山、p.166]]&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> [[File:Bundesarchiv Bild 146II-783, Heinrich Himmler.jpg|200px|thumb|right|1929年、親衛隊全国指導者になったばかりの頃]]<br /> 1925年8月8日に[[親衛隊 (ナチス)|親衛隊(SS)]]に入隊(隊員番号168)。1927年には第2代親衛隊全国指導者[[エアハルト・ハイデン]]の代理に任じられた。ハイデンは[[突撃隊]]最高指導者[[フランツ・プフェファー・フォン・ザロモン]]と対立を深めて[[1929年]][[1月6日]]に辞職することとなった&lt;ref name=&quot;山下(2010)39&quot;&gt;[[#山下(2010)|山下(2010年)、p.39]]&lt;/ref&gt;&lt;ref name=&quot;学研134&quot;&gt;[[#学研1|『武装SS前史I』、p.34]]&lt;/ref&gt;。ヒムラーはハイデンの後任として、同日第3代親衛隊全国指導者に任命された。しかし当時の親衛隊は突撃隊の下部組織であり、隊員も280名ほどしか所属していなかった&lt;ref name=&quot;山下(2010)39&quot;/&gt;&lt;ref name=&quot;クランク16&quot;&gt;[[#クランク|クランクショウ、p.16]]&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 1928年7月3日には[[ブィドゴシュチュ|ブロンベルク]]の地主の娘で看護婦の{{仮リンク|マルガレーテ・ヒムラー|label=マルガレーテ・ボーデン|de|Margarete Himmler}}と結婚しているが、党からヒムラーに支払われていた当時の給料は安く、それだけでは生活困難だったため、マルガレーテの資産を売却して養鶏も営んだ&lt;ref name=&quot;グレーバー37&quot;&gt;[[#グレーバー|グレーバー、p.37]]&lt;/ref&gt;&lt;ref name=&quot;谷73&quot;&gt;[[#谷|谷、p.73]]&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;[[#ヘーネ|ヘーネ、p.56-57]]&lt;/ref&gt;。しかし経営不振で後に倒産した。1929年8月8日に長女[[グドルーン・ブルヴィッツ|グドルーン]]が生まれたが&lt;ref name=&quot;Katrin123&quot;&gt;[[#Katrin|Katrin Himmler, p.123]]&lt;/ref&gt;、その直後にヒムラー夫妻は別居状態と化した&lt;ref name=&quot;グレーバー38&quot;&gt;[[#グレーバー|グレーバー、p.38]]&lt;/ref&gt;&lt;ref name=&quot;谷74&quot;&gt;[[#谷|谷、p.74]]&lt;/ref&gt;&lt;ref name=&quot;ヘーネ57&quot;&gt;[[#ヘーネ|ヘーネ、p.57]]&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> === 親衛隊全国指導者 ===<br /> ヒムラーは親衛隊を党内警察組織として拡充し、1929年12月には1,000人&lt;ref name=&quot;学研134&quot;&gt;[[#学研1|『武装SS前史I』、p.34]]&lt;/ref&gt;&lt;ref name=&quot;ヘーネ64&quot;&gt;[[#ヘーネ|ヘーネ、p.64]]&lt;/ref&gt;、1930年12月には2,700人&lt;ref name=&quot;学研134&quot;/&gt;&lt;ref name=&quot;ヘーネ64&quot;/&gt;、1932年4月には2万5000人&lt;ref name=&quot;山下(2010)43&quot;&gt;[[#山下(2010)|山下(2010年)、p.43]]&lt;/ref&gt;、1932年12月には5万2000人と順調に隊員数を増やした。<br /> これは[[1929年]][[10月24日]]の[[ニューヨーク]]の[[ウォール街大暴落 (1929年)|ウォール街の大暴落]]により発生した[[世界恐慌]]が関係していた。失業者がなだれを打ってナチ党やナチ党組織へ参加を希望し、親衛隊にも入隊希望者が殺到した&lt;ref name=&quot;グレーバー61&quot;&gt;[[#グレーバー|グレーバー、p.61]]&lt;/ref&gt;。親衛隊より多くこの人材源を吸収した突撃隊には、ドイツ各地で徒党を組んで無法行為を働く者が増加した。ついには党首ヒトラーの統制すらも受け付けなくな るほどに荒れ、当時選挙による合法的政権獲得を目指していたヒトラーにとっては頭痛の種となっていた。ヒトラーはこの突撃隊の無法分子に対する警察組織の必要性を痛感し、その任務を果たす組織としてヒムラー率いる親衛隊に目を付けた&lt;ref name=&quot;学研134&quot;&gt;[[#学研1|『武装SS前史I』、p.34]]&lt;/ref&gt;&lt;ref name=&quot;グレーバー62&quot;&gt;[[#グレーバー|グレーバー、p.62]]&lt;/ref&gt;。親衛隊の拡大に強く反対していた突撃隊最高指導者フォン・ザロモンがヒトラーとの対立から1930年8月12日に辞職することになり、さらに1930年8月終わりには東部ベルリン突撃隊指導者[[ヴァルター・シュテンネス]]が党指導部に対して反乱を起こした&lt;ref&gt;[[#阿部|阿部、p.168-169]]&lt;/ref&gt;。こうした情勢からヒトラーは[[1930年]][[11月7日]]付けの命令で正式に親衛隊を党内警察組織と規定し、親衛隊は突撃隊の指揮に従う必要はないと定めた(ただし1934年の「[[長いナイフの夜]]」までは形式的には突撃隊の下部組織であった)&lt;ref name=&quot;阿部172&quot;&gt;[[#阿部|阿部、p.172]]&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> [[File:Bundesarchiv Bild 102-02134, Bad Harzburg, Gründung der Harzburger Front.jpg|250px|thumb|right|1931年、[[国家人民党]]と[[鉄兜団]]と「{{仮リンク|ハルツブルク戦線|de|Harzburger Front}}」を組織した際のナチ党。[[エルンスト・レーム]]の後ろにいる黒い帽子の人物がヒムラー。]]<br /> ヒムラーは党内警察としての任務を果たすべく親衛隊内に情報部の創設を考えるようになり、その運用を任せられる人材を探した。1931年6月に[[親衛隊上級大佐]][[フリードリヒ・カール・フォン・エーベルシュタイン]]男爵の推薦を受けて親衛隊員の面接を受けに来た元海軍将校[[ラインハルト・ハイドリヒ]]に彼は目をつけ、ハイドリヒを親衛隊員として採用した。IC課を設置し、翌1932年7月に同課を[[SD (ナチス)|SD]]に改組した。長官にハイドリヒを任命した&lt;ref name=&quot;桧山169&quot;&gt;[[#桧山|桧山、p.169]]&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;[[#ヘーネ|ヘーネ、p.175-176]]&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 1931年4月初めのヴァルター・シュテンネスの再反乱ではベルリン[[大管区]]親衛隊指導者[[クルト・ダリューゲ]]が鎮圧に活躍している。この功績で親衛隊はヒトラーから高く評価されるようになり、党内警察として突撃隊からの独立性を強めた&lt;ref name=&quot;山下(2010)43&quot;&gt;[[#山下(2010)|山下(2010年)、p.43]]&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 「血と大地」イデオロギーを確立したダレは「歴史に現れる偉大な帝国や文化はほとんど[[北方人種]]により作られた。これらの帝国や文化が滅びたのは北方人種の純血が守れなかったからである」と説いていた。こうした思想に強く影響されていたヒムラーは、[[1929年]]4月に親衛隊の組織規定の草案をヒトラーやフォン・ザロモンに提出し、人種的な問題を親衛隊入隊の条件に据えるようになった&lt;ref&gt;[[#ヘーネ|ヘーネ、p.55・60]]&lt;/ref&gt;。人種の基準を立てることで親衛隊をエリート集団とし、数で勝る突撃隊を抑え込むことを目指した&lt;ref name=&quot;桧山166&quot;&gt;[[#桧山|桧山、p.166]]&lt;/ref&gt;。1931年12月31日の命令で「SSは特別に選抜されたドイツ的北方人種の集団である」と定義し、ダレを長官とする[[親衛隊人種及び移住本部]](RuSHA)を新設させ、親衛隊員たちに対してRuSHAの調査と許可を経ずに結婚することを禁じた&lt;ref name=&quot;山下(2010)80&quot;&gt;[[#山下(2010)|山下(2010年)、p.80]]&lt;/ref&gt;。花嫁が「健康で遺伝的に問題がなく、少なくとも人種的に同等である」ときにのみ婚姻が許可された。また婚姻が許可された親衛隊員は子供を持つことが義務として定められており、子供のない親衛隊員は給料の一部を受給できなかった。「ゲルマン人種を純粋培養するつもりだ」とヒムラーはことあるごとにスピーチするようになった&lt;ref name=&quot;クノップ(2003)100&quot;&gt;[[#クノップ(2003)|クノップ(2003年)、p.100]]&lt;/ref&gt;。ヒムラーは後に植物と絡めて次のように語った。「品種改良をやる栽培家と同じだ。立派な品種も雑草と交じると質が落ちる。それを元に戻して繁殖させるわけだが、我々はまず植物選別の原則に立ち、ついで我々が使えないと思う者、つまり雑草を除去するのだ。私は身長5フィート8インチ(約173センチ)の条件で始めた。特定の身長以上であれば、私の望む血統を有しているはずだからである」&lt;ref name=&quot;グレーバー61&quot;/&gt;&lt;ref name=&quot;ヘーネ60&quot;&gt;[[#ヘーネ|ヘーネ、p.60]]&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 1932年1月25日にはヒムラーは党本部建物である[[褐色の家]]の警備を任され、「共産主義者と警察の妨害から党活動を守る」任務を与えられた&lt;ref name=&quot;グレーバー66&quot;&gt;[[#グレーバー|グレーバー、p.66]]&lt;/ref&gt;&lt;ref name=&quot;ヘーネ78&quot;&gt;[[#ヘーネ|ヘーネ、p.78]]&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 1932年7月7日、親衛隊の独自性をより強く示すために[[制服 (ナチス親衛隊)|親衛隊の制服]]を改定。この時に有名な親衛隊の「黒服」が定められた&lt;ref name=&quot;山下(2010)43&quot;/&gt;。黒服のデザインのモデルとなったのは[[プロイセン王国]]時代の{{仮リンク|第1近衛軽騎兵連隊|de|1. Leib-Husaren-Regiment Nr. 1}}である&lt;ref name=&quot;ラムスデン59&quot;&gt;[[#ラムスデン|ラムスデン、p.59]]&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> === ナチ党の権力掌握後 ===<br /> ==== 政治警察を掌握 ====<br /> [[File:Bundesarchiv Bild 183-R96954, Berlin, Hermann Göring ernennt Himmler zum Leiter der Gestapo.jpg|right|thumb|200px|1934年、[[プロイセン州]]内相[[ヘルマン・ゲーリング]]から[[ゲシュタポ]]監査官及び長官代理に任命された。]]<br /> ヒトラーが[[パウル・フォン・ヒンデンブルク]][[ドイツ国大統領|大統領]]から[[ドイツの首相|首相]]に任命されて[[ナチ党の権力掌握|政権を掌握]]した[[1933年]][[1月30日]]、多くの党幹部が中央政府や各州の要職に就任したが、ヒムラーには当初何のポストも与えられなかった&lt;ref name=&quot;ヘーネ84&quot;&gt;[[#ヘーネ|ヘーネ、p.84]]&lt;/ref&gt;。ヒムラーが自分をあまり強く推さなかったのが原因であるという&lt;ref name=&quot;グレーバー67&quot;&gt;[[#グレーバー|グレーバー、p.67]]&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> [[プロイセン州]]内相[[ヘルマン・ゲーリング]]は2月22日に1万5000人のSS隊員をプロイセン州補助警察として動員した&lt;ref name=&quot;桧山259&quot;&gt;[[#桧山|桧山、p.259]]&lt;/ref&gt;。しかしこの補助警察の指揮権は[[クルト・ダリューゲ]]が握っていた&lt;ref name=&quot;桧山259&quot;/&gt;。3月9日、ヒムラーは、[[ハインリヒ・ヘルト]]首相の[[バイエルン州]]政府の解体に参加したが、この解体も主導的役割は[[フランツ・フォン・エップ]]が果たし、ヒムラーの役割は副次的だった。ヒトラーが新しいバイエルンの統治者「バイエルン州総監」に選んだのもエップだった。ヒムラーは自分がそのポストに任命されると期待していたが&lt;ref name=&quot;グレーバー67&quot;/&gt;、結局彼には[[ミュンヘン]]警察長官 (Polizeipräsident von München) のポストが与えられるに留まった&lt;ref name=&quot;ヘーネ84&quot;/&gt;&lt;ref name=&quot;lexikon&quot;&gt;[http://www.lexikon-der-wehrmacht.de/Personenregister/HimmlerH.htm lexikon der wehrmacht]&lt;/ref&gt;。しかし彼は不満を漏らすことなく、ひたすら職務に励んだ。彼はハイドリヒをミュンヘン警察第6部(政治部)部長に任命し、党の政治的敵対者を次々と「{{仮リンク|保護拘禁|de|Schutzhaft}}」させた&lt;ref name=&quot;大野23&quot;&gt;[[#大野|大野、p.23]]&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 「保護拘禁」した者を収容する施設としてミュンヘン郊外の[[ダッハウ]]に[[ダッハウ強制収容所]]を設置させ、1933年3月20日にヒムラーが記者会見で同収容所の開設を発表した&lt;ref name=&quot;長谷川63&quot;&gt;[[#長谷川|長谷川、p.63]]&lt;/ref&gt;。同収容所は開設当初から親衛隊が単独で運営していた。1933年4月1日にはバイエルン州政治警察司令官 (Politischer Polizeikommandeur in Bayern) に任命された&lt;ref name=&quot;阿部229&quot;&gt;[[#阿部|阿部、p.229]]&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> [[ヒトラー内閣]][[内相]][[ヴィルヘルム・フリック]]による[[強制的同一化]]政策によって各州の自治権の取り上げが進む中、1934年1月までに[[プロイセン州]]と{{仮リンク|シャウムブルク=リッペ自由州|de|Freistaat Schaumburg-Lippe}}を除く各州の政治警察はヒムラーに任せられることとなった&lt;ref name=&quot;クノップ(2001)上178&quot;&gt;[[#クノップ(2001)上|クノップ(2001年)、上巻p.178]]&lt;/ref&gt;&lt;ref name=&quot;グレーバー76&quot;&gt;[[#グレーバー|グレーバー、p.76]]&lt;/ref&gt;&lt;ref name=&quot;ヘーネ98&quot;&gt;[[#ヘーネ|ヘーネ、p.98]]&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 一方プロイセン州は首都[[ベルリン]]を含む国土の半分以上を占める巨大な州であったが、ゲーリングは独自に警察権力を掌握しようとしていたため、当初ヒムラーに警察権力を明け渡そうとしなかった。ヒムラーやハイドリヒはプロイセン州の警察権力を確保するため、ヒンデンブルク大統領にゲーリング配下のプロイセン州秘密警察[[ゲシュタポ]]やその局長[[ルドルフ・ディールス]]の無法行為を讒言するなどして&lt;ref&gt;[[#バトラー|バトラー、p.46-47]]&lt;/ref&gt;、ゲーリングに度重なる圧力を与えた。<br /> <br /> ゲーリングはヒムラーに対して譲歩した。1934年4月20日、ディールスのゲシュタポ局長 (Leiter des Geheimen Staatspolizeiamtes) の上位職として「ゲシュタポ監査官及び長官代理」 (Inspekteur und stellvertretender Chef des Geheimen Staatspolizeiamtes) を新設し、ヒムラーをこれに任じたのであった。ヒムラーは直ちにゲーリングの息のかかったディールスをゲシュタポ局長から解任し&lt;ref name=&quot;ドラリュ79&quot;&gt;[[#ドラリュ文庫|ドラリュ、文庫p.79]]&lt;/ref&gt;、後任にハイドリヒをゲシュタポ局長に据えた。ゲーリングは1935年11月20日までゲシュタポのトップであるゲシュタポ長官 (Chef des Geheimen Staatspolizeiamtes) の座に留任したがすでに形式的な存在であり、実質的なゲシュタポ指揮権はゲーリングからヒムラーに引き渡されてい た&lt;ref name=&quot;学研1114&quot;&gt;[[#学研1|『武装SS前史I』、p.114]]&lt;/ref&gt;&lt;ref name=&quot;阿部269&quot;&gt;[[#阿部|阿部、p.269]]&lt;/ref&gt;&lt;ref name=&quot;大野90&quot;&gt;[[#大野|大野、p.90]]&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> ==== 長いナイフの夜 ====<br /> [[File:Bundesarchiv Bild 102-14886, Kurt Daluege, Heinrich Himmler, Ernst Röhm.jpg|thumb|250px|1934年、[[突撃隊幕僚長]][[エルンスト・レーム]](右)とベルリン親衛隊指導者[[クルト・ダリューゲ]](左)と。]]<br /> 一方ヒムラーがゲシュタポを掌握した頃、[[エルンスト・レーム]]率いる[[突撃隊]]は貴族や[[ユンカー]]が牛耳る[[ヴァイマル共和国軍|国軍]]に取って替わる第二革命を唱え、国軍との緊張を高めていた。国軍との連携を重視するヒトラーにとって厄介な存在となりつつあった。とはいえ長年の同志であるレームが相手であるだけにヒトラーの突撃隊問題に関する立場は曖昧であった。1934年2月28日にはレームと国防相[[ヴェルナー・フォン・ブロンベルク]]に国軍がドイツ唯一の国防兵力であり、突撃隊は訓練など国軍の補助にあたることで合意させて和解させようとした&lt;ref name=&quot;ヘーネ102&quot;&gt;[[#ヘーネ|ヘーネ、p.102]]&lt;/ref&gt;。しかし突撃隊には不満が残り、レームは反ヒトラー言動を強めた&lt;ref name=&quot;ヘーネ102&quot;/&gt;。<br /> <br /> ハイドリヒは親衛隊の勢力拡大の蓋になっている突撃隊を粛清するチャンスが来たと見て、レーム一派の抹殺計画を企てた&lt;ref name=&quot;ヘーネ104&quot;&gt;[[#ヘーネ|ヘーネ、p.104]]&lt;/ref&gt;。しかしヒムラーにとってレームはかつて最も尊敬した人物であり、恩人でもあった。また、その計画を実行に移せば突撃隊と親衛隊に修復不可能な溝ができるため、しばらくは悩んでいた&lt;ref name=&quot;ヘーネ104&quot;/&gt;&lt;ref name=&quot;グレーバー77&quot;&gt;[[#グレーバー|グレーバー、p.77]]&lt;/ref&gt;。しかし結局ハイドリヒに説き伏せられてヒムラーもついにレームら突撃隊幹部を粛清することを企図するようになった。ヒムラーも一度決意したのちは、ためらったり、手心を加えることはなかった&lt;ref name=&quot;ヘーネ104&quot;/&gt;&lt;ref name=&quot;グレーバー77&quot;/&gt;。<br /> <br /> ヒムラーとハイドリヒは、同じく突撃隊の粛清を企図するゲーリングと連携した。突撃隊問題に曖昧な態度をとるヒトラーに粛清を決意させるため、ヒムラー、ハイドリヒ、ゲーリングらは突撃隊の「武装蜂起計画」をでっち上げることとした。1934年4月下旬から5月末にかけてハイドリヒはレームと突撃隊の「武装蜂起」の証拠の収集・偽造を行った&lt;ref name=&quot;ヘーネ105&quot;&gt;ヘーネ、105頁&lt;/ref&gt;&lt;ref name=&quot;桧山292&quot;&gt;[[#桧山|桧山、p.292]]&lt;/ref&gt;。さらにハイドリヒに暗殺対象者リストの作成にあたらせた&lt;ref name=&quot;グレーバー78&quot;&gt;[[#グレーバー|グレーバー、p.78]]&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> そして[[1934年]]6月はじめ頃から偽造された証拠がばら撒かれて突撃隊「武装蜂起」の噂が流された。この噂を重く受け止めた大統領[[パウル・フォン・ヒンデンブルク]]と国防相ブロンベルクは、1934年6月21日に首相ヒトラーに対し、もし突撃隊問題が解決できないならヒトラーの権限を陸軍に移して代わりに処置させると通告した。この通告によりヒトラーは粛清を実行するしかなくなった。またこの頃すでにヒンデンブルクの死が近いことは明らかであった。ヒンデンブルクの死後、ヒトラーは軍に忠誠を誓わせねばならず、そのためには軍が望むレーム以下突撃隊幹部の粛清が必要であった。ヒトラーはこの日に突撃隊の粛清を決意したという&lt;ref name=&quot;阿部274&quot;&gt;[[#阿部|阿部、p.274]]&lt;/ref&gt;&lt;ref name=&quot;ヘーネ111&quot;&gt;ヘーネ、111頁&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> こうして1934年6月30日に行われた粛清事件「[[長いナイフの夜]]」において親衛隊はレーム以下突撃隊幹部の逮捕と処刑の実行部隊となった。親衛隊はこの「功績」によって、1934年7月20日付けのヒトラーの指令により突撃隊から独立した党内組織として認められた&lt;ref name=&quot;阿部280&quot;&gt;[[#阿部|阿部、p.280]]&lt;/ref&gt;&lt;ref name=&quot;グレーバー86&quot;&gt;[[#グレーバー|グレーバー、p.86]]&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> ==== 全ドイツ警察長官 ====<br /> [[File:HimmlerAndHeydrich 1938.jpeg|right|thumb|200px|1938年3月。[[保安警察 (ドイツ)|保安警察]]長官の[[ラインハルト・ハイドリヒ]]と]]<br /> 内相[[ヴィルヘルム・フリック]]はヒムラーを嫌い、[[クルト・ダリューゲ]]を警察指導者にしたがっていた。そのため1934年11月にはダリューゲがドイツ内務省第三局 (Abteilung III)(警察局)の局長に任じられた&lt;ref name=&quot;Yerger148&quot;&gt;[[#Yerger|Yerger, p.148]]&lt;/ref&gt;。フリックはヒムラーを名目的な事務職にしてダリューゲに警察の実権を掌握させる構想を持っていた&lt;ref&gt;[[#ヘーネ|ヘーネ、p.196-197]]&lt;/ref&gt;。しかし1936年6月9日にヒトラーはヒムラーの全ドイツ警察長官就任と閣議への出席の提案を認めた。フリックはヒトラーに抗議したが、ヒトラーは「ヒムラーを閣僚に任命したわけではない。彼は&quot;官房長官&quot;として閣議に出席するだけだ」と述べてフリックを納得させた&lt;ref name=&quot;ヘーネ197&quot;&gt;[[#ヘーネ|ヘーネ、p.197]]&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> そして1936年6月17日、ヒムラーは&#039;&#039;&#039;全ドイツ警察長官&#039;&#039;&#039;(Chef der Deutschen Polizei)に任じられた&lt;ref name=&quot;クランク85&quot;&gt;[[#クランク|クランクショウ、p.85]]&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;[[#スティン|スティン、p.25-26]]&lt;/ref&gt;&lt;ref name=&quot;山下(2010)92&quot;&gt;[[#山下(2010)|山下(2010年)、p.92]]&lt;/ref&gt;。彼はこれを機に警察組織を統合・再編成し、一般警察業務を行う警察部署として[[秩序警察]]を発足させ、[[親衛隊大将]]ダリューゲを長官に任じた&lt;ref name=&quot;スティン26&quot;&gt;[[#スティン|スティン、p.26]]&lt;/ref&gt;。一方政治警察の[[ゲシュタポ]]と[[刑事警察 (ドイツ)|刑事警察]]は[[保安警察]]として統合し、ハイドリヒをその長官に任じた&lt;ref name=&quot;スティン26&quot;/&gt;。<br /> <br /> さらに1937年11月13日には「[[親衛隊及び警察指導者|親衛隊及び警察高級指導者]]」(Höherer SS und Polizeiführer、略称HSSPF)の職を新設してドイツの各地域に配置した。この職はヒムラーの親衛隊全国指導者と全ドイツ警察長官の地位をその地域において代行する者であった&lt;ref name=&quot;山下(2010)66&quot;&gt;[[#山下(2010)|山下(2010年)、p.66]]&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 1939年9月27日にはハイドリヒの傘下にあったSDと保安警察を統合させて、[[国家保安本部]] (RSHA) を親衛隊内に設置させた&lt;ref name=&quot;大野15&quot;&gt;[[#大野|大野、p.15]]&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> ==== 強制収容所掌握 ====<br /> 「長いナイフの夜」の後、すべての[[強制収容所 (ナチス)|強制収容所]]は親衛隊の管轄となり、ヒムラーは、[[ダッハウ強制収容所]]の所長だった[[テオドール・アイケ]]を全強制収容所監督官、[[親衛隊髑髏部隊]](強制収容所看守部隊)総監に任命した&lt;ref name=&quot;ヘーネ206&quot;&gt;[[#ヘーネ|ヘーネ、p.206]]&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 突撃隊やゲーリングが創設した強制収容所はほとんどが閉鎖されていった&lt;ref name=&quot;高橋39&quot;&gt;[[#高橋|高橋、p.39]]&lt;/ref&gt;。代わりに1936年9月に[[ザクセンハウゼン強制収容所]]&lt;ref name=&quot;高橋39&quot;/&gt;、1937年7月末に[[ブーヘンヴァルト強制収容所]]&lt;ref name=&quot;リュビー65&quot;&gt;[[#リュビー|リュビー、p.65]]&lt;/ref&gt;、1938年8月に[[マウトハウゼン強制収容所]]、1938年11月に[[フロッセンビュルク強制収容所]]、1939年5月に[[ラーフェンスブリュック強制収容所]]が創設された&lt;ref name=&quot;高橋45&quot;&gt;[[#高橋|高橋、p.45]]&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> ヒムラーが全ドイツ警察長官になると保護拘禁の範囲が拡大された。もともとは政治犯のみが保護拘禁の対象であったが、「常習的犯罪者」と「反社会分子」も保護拘禁されて強制収容所へ入れられるようになった&lt;ref name=&quot;高橋41&quot;&gt;[[#高橋|高橋、p.41]]&lt;/ref&gt;。なお、戦前期には人種だけを理由として強制収容所に入れられるケースは基本的にはなかった。ユダヤ人がユダヤ人であるというだけで強制収容所に入れられるようになったのは戦中のことである&lt;ref name=&quot;長谷川66&quot;&gt;[[#長谷川|長谷川、p.66]]&lt;/ref&gt;。ただし例外として1938年11月の「[[水晶の夜]]」事件で逮捕されたユダヤ人3万人は強制収容所に移送されている(水晶の夜の際に逮捕されたユダヤ人はほとんどが数週間で釈放されている)&lt;ref name=&quot;長谷川80&quot;&gt;[[#長谷川|長谷川、p.80]]&lt;/ref&gt;&lt;ref name=&quot;リュビー20&quot;&gt;[[#リュビー|リュビー、p.20]]&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> ==== 企業経営 ====<br /> ヒトラー内閣発足以降、親衛隊は{{仮リンク|ノルトラント出版社|de|Nordland-Verlag}}、[[DEST|ドイツ土石製造有限会社 (DEST)]]、[[DAW (ナチ親衛隊企業)|ドイツ装備製造有限会社 (DAW)]]など、様々な企業経営も行っていた。海軍の主計将校であった[[オスヴァルト・ポール]]を[[親衛隊本部]]の 経済部門の部長に任じ、彼にこれらの企業の経営を任せた。親衛隊企業の労働力の多くは強制収容所の囚人をもって充てられ、アイケの強制収容所監視官の地位 もポールの下に置かれていた。ヒムラーは親衛隊企業の中では磁器製造会社の経営に強く関心を示していた。同会社は彼が経営にちょくちょく口を出していたためか常に赤字で、会計士からも常に再編や廃業の勧告を受けていたが最後まで聞き入れず、経営を続けた&lt;ref name=&quot;グレーバー149&quot;&gt;[[#グレーバー|グレーバー、p.149]]&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> ==== 工作活動 ====<br /> こうした警察権力掌握の過程の中で、親衛隊は国内外の様々な政治事件に暗躍した。戦争計画に批判的であった[[ドイツ陸軍 (国防軍)|陸軍]][[元帥 (ドイツ)|元帥]][[ヴェルナー・フォン・ブロンベルク]][[国防大臣]]と陸軍[[上級大将]][[ヴェルナー・フォン・フリッチュ]]陸軍総司令官を[[ブロンベルク罷免事件|スキャンダルで失脚]]させたり、海外でも[[ソヴィエト連邦]][[赤軍|陸軍]][[ソ連邦元帥|元帥]][[ミハイル・トゥハチェフスキー]]をはじめとする[[大粛清|赤軍首脳部が粛清]]されるよう謀略工作を行った。また[[第一共和国 (オーストリア)|オーストリア]]首相[[エンゲルベルト・ドルフース]]の暗殺にも関与し、[[オーストリア・ナチス党]]によるクーデター計画を支援したが、これは失敗に終わった。<br /> <br /> ==== 親衛隊の軍隊化 ====<br /> [[File:Bundesarchiv Bild 183-C05557, Berlin, Sepp Dietrich, Hitler, Heinrich Himmler.jpg|right|thumb|200px|1937年、[[ヨーゼフ・ディートリヒ]](左)と[[アドルフ・ヒトラー]](中央)と。]]<br /> 1933年3月17日にヒムラーはヒトラーをボディーガードする警護部隊の創設を命じられ、親衛隊の精鋭117名を選抜して「SS司令部衛兵班ベルリン」(SS-Stabswache Berlin) を創設させた。指揮官には[[ヨーゼフ・ディートリヒ]]を任じた&lt;ref name=&quot;山下(2010)170&quot;&gt;[[#山下(2010)|山下(2010年)、p.170]]&lt;/ref&gt;。この部隊は後に[[第1SS装甲師団|「ライプシュタンダルテ・SS・アドルフ・ヒトラー」]](Leibstandarte SS Adolf Hitler、略号:LAH、LSSAH)の名を与えられ、戦時中には[[武装親衛隊]] (Waffen-SS) の最精鋭師団となる&lt;ref name=&quot;山下(2010)170&quot;/&gt;&lt;ref name=&quot;スティン41&quot;&gt;[[#スティン|スティン、p.41]]&lt;/ref&gt;&lt;ref name=&quot;ヘーネ89&quot;&gt;[[#ヘーネ|ヘーネ、p.89]]&lt;/ref&gt;。しかしディートリヒはこの部隊をヒトラーだけからの責任を負い、ヒムラーから切り離した存在にしたがっており、そのため発足時から部隊の指揮権をめぐってヒムラーとディートリヒの間で争いがあった&lt;ref name=&quot;学研1144&quot;&gt;[[#学研1|『武装SS前史I』、p.144]]&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> これに触発されたヒムラーは、SSの軍隊を欲しがるようになり、司令部衛兵班創設と同じ時期に[[自動車]]化された[[機動]]力を持ち、警察より強力な[[火器|火力]]を備えた「政治予備隊」(Politische Bereitschaft) を創設させ、いくつかの[[親衛隊上級地区]]に配置した&lt;ref name=&quot;スティン42&quot;&gt;[[#スティン|スティン、p.42]]&lt;/ref&gt;&lt;ref name=&quot;山下(2010)163&quot;&gt;[[#山下(2010)|山下(2010年)、p.163]]&lt;/ref&gt;。アドルフ・ヒトラーも軍の枠組みにとらわれずに自由に動かせる「私軍」をほしがっていた。ナチ党の私兵部隊の突撃隊には反ヒトラー派も多く、ヒトラーの「私軍」になりうる余地はなかった。1934年6月末、[[ヴァイマル共和国軍|国軍]](Reichswehr)と争っていた突撃隊幹部は[[長いナイフの夜]]事件において粛清された。突撃隊の粛清にあたったのはヒムラーら親衛隊であり、この件で親衛隊は国軍の軍部から高い評価を得ることとなった。ヒトラーは親衛隊の中に軍隊を置くことを模索するようになった。国防相[[ヴェルナー・フォン・ブロンベルク]]は親衛隊が三連隊の軍隊を保有することを承認した&lt;ref name=&quot;芝30&quot;&gt;[[#芝|芝、p.30]]&lt;/ref&gt;。これを承けてヒトラーは、1934年9月24日に三軍司令官に対して、国軍をドイツ唯一の国防組織と認めつつ、武装した親衛隊部隊を三連隊と一通信隊を置くことを通達した。この通達に基づき設置されたのが[[親衛隊特務部隊]]であった&lt;ref name=&quot;芝30&quot;&gt;[[#芝|芝、p.30]]&lt;/ref&gt;。特務部隊は戦時には陸軍の司令権限を認めつつ、平時にはヒムラーが指揮を執るとされた。特務部隊の扱いは軍隊と同等であり、特務部隊の隊員は給与支給帳 (Soldbuch) と軍歴手帳 (Wehrpaß) の所持を認められて軍人扱いを受けた。<br /> <br /> こうして政治予備隊が1934年9月24日に[[親衛隊特務部隊]](SS-VT)に再編されて軍隊化される運びとなった&lt;ref name=&quot;山下(2010)163&quot;&gt;[[#山下(2010)|山下(2010年)、p.163]]&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 特務部隊の編成や訓練は国軍(1935年以降[[ドイツ国防軍|国防軍]] (Wehrmacht) と改称)の協力を得て進められた。1934年10月にはバイエルン州{{仮リンク|バート・テルツ|de|Bad Tölz}}に親衛隊の士官学校が創設され、さらに翌年には[[ブラウンシュヴァイク]]にも親衛隊士官学校が開設された&lt;ref name=&quot;武装SS30&quot;&gt;『武装SS ナチスもう一つ暴力装置』30p&lt;/ref&gt;。特務部隊の軍事教練には[[パウル・ハウサー]](1932年まで国軍で中将をしていた人物で、1934年から親衛隊に招かれていた)が大きな役割を果たし、ヒムラーの「政治的兵士」たちを実戦に出せるレベルまで叩き上げた&lt;ref name=&quot;武装SSナチスもう一つの暴力装置30&quot;&gt;芝健介著『武装SS -ナチスもう一つの暴力装置-』(講談社選書メチエ)30p&lt;/ref&gt;&lt;ref name=&quot;SSの歴史フジ430&quot;&gt;ハインツ・ヘーネ著『髑髏の結社 SSの歴史』(フジ出版社)430p&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 1936年10月1日、ヒムラーは親衛隊特務部隊の管理のため、[[パウル・ハウサー]]を長とする親衛隊特務部隊総監部を創設させた&lt;ref name=&quot;スティン46&quot;&gt;[[#スティン|スティン、p.46]]&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> === 戦時中 ===<br /> ==== 警察活動 ====<br /> [[File:Bundesarchiv Bild 121-0273, Krakau, Ankunft Heinrich Himmler.jpg|200px|thumb|right|[[ブルーノ・シュトレッケンバッハ]]と(ポーランド、1939年)]]<br /> 1939年8月、ヒトラーから[[ポーランド侵攻]]の口実を作るよう命じられたヒムラーは、ハイドリヒに計画を策定させた。こうして1939年8月31日にSDにより実行に移されることになるのが[[グライヴィッツ事件]]であった。この作戦は「ヒムラー作戦」と命名されていた。SD工作員[[アルフレート・ナウヨックス]]がポーランド軍人に成りすまして[[ポーランド]]の[[グライヴィッツ]]放送局を占拠し、反独演説を行った。この事件を口実に、ヒトラーは「いまやドイツとポーランドは戦争状態に入った」としてポーランドとの戦争を国会において宣言したのであった&lt;ref name=&quot;ヒトラーの秘密警察68&quot;&gt;『ヒトラーの秘密警察』68p&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> しかし大戦前期にヒトラーの信用を損なう事件もいくつか存在した。1939年11月8日、ヒトラーは[[ビュルガーブロイケラー]]で[[ミュンヘン一揆]]16周年記念演説を行ったが、この際にヒトラーが退席した後、時限爆弾の爆発で7人が死亡、63人が負傷する事件が発生。11月8日夜に[[スイス]]へ不法越境しようとした[[ゲオルク・エルザー]]が 容疑者として浮上した。ヒトラーはエルザーの背後に[[イギリス]]がいると睨み、ヒムラーは背後関係の捜査を命じた。彼はヒトラーの期待に応えるべく、自らがエルザーのところへ赴いて直々にエルザーの拷問を行っている。エルザーは爆弾犯が自分であることは認めたが、単独犯であると主張してイギリスの陰謀は否定した。ヒムラーはイギリスの陰謀立証に失敗し、ヒトラーから叱責を受けることとなった&lt;ref name=&quot;SSの歴史フジ285&quot;&gt;ハインツ・ヘーネ著『髑髏の結社 SSの歴史』(フジ出版社)285p&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> [[File:Bundesarchiv Bild 183-J00683, Berlin, Keitel, Himmler, Milch.jpg|250px|thumb|left|1942年3月、[[ベルリン]]。[[ヴィルヘルム・カイテル|カイテル]]元帥、ヒムラー、[[エアハルト・ミルヒ|ミルヒ]]元帥。]]<br /> また、ヒムラーや[[SD (ナチス)|SD]]のハイドリヒは、[[ルーマニア王国|ルーマニア]]の「[[鉄衛団]]」を支持していたが、「鉄衛団」は1941年1月に統治者[[イオン・アントネスク]]に対して反乱を起こす。ヒトラーや外相[[ヨアヒム・フォン・リッベントロップ]]はアントネスクを支持したが、SDはなおも「[[鉄衛団]]」を擁護し、[[ホリア・シマ]]以下その幹部を救出している。この一件はヒトラーの怒りに触れ、現地のSD将校は処分された&lt;ref name=&quot;SSの歴史フジ286&quot;&gt;ハインツ・ヘーネ著『髑髏の結社 SSの歴史』(フジ出版社)286p&lt;/ref&gt;。リッベントロップはこれをSSの勢力拡大を止める好機と見て1941年8月9日にヒムラーに協定を結ばせ、国家保安本部や警察随行官の通信文を大使や公使に目を通すことを認めさせ、SDの干渉に歯止めをかけようとした。さらにリッベントロップはSSとかつて敵対したSAの幹部を公使に続々と任命するように なった。しかしながら戦争が進むにつれて外務省の役割は減っており、リッベントロップがヒムラーやSSの躍進を止めるには至らなかった&lt;ref name=&quot;SSの歴史フジ288&quot;&gt;ハインツ・ヘーネ著『髑髏の結社 SSの歴史』(フジ出版社)288p&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 1942年6月4日、[[国家保安本部]]長官兼[[ベーメン・メーレン保護領]]副総督を務めていたハイドリヒは、[[イギリス]]が送りこんできた[[チェコ人]]暗殺部隊に暗殺された。しばらくはヒムラーが国家保安本部長官職を兼務し、国家保安本部I局(人事局)局長[[ブルーノ・シュトレッケンバッハ]][[親衛隊少将]]を長官代理に任命して国家保安本部長官の実務を担わせていたが、1943年1月からはヒトラーの同意も得て[[親衛隊大将]][[エルンスト・カルテンブルンナー]]を後任に任じた&lt;ref name=&quot;ナチ親衛隊知識人の肖像251&quot;&gt;大野英二著『ナチ親衛隊知識人の肖像』(未來社)288p&lt;/ref&gt;。1943年8月20日、ヒムラーはフリックに代わって内相に就任、名実ともにドイツ警察の支配者となった&lt;ref name=&quot;ヒトラー全記録601&quot;&gt;阿部良男著『ヒトラー全記録 -20645日の軌跡-』(柏書房)601p&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> ==== 軍司令官として ====<br /> [[File:Bundesarchiv Bild 101III-Weill-059-18, Metz, Heinrich Himmler auf Panzer.jpg|right|thumb|250px|1940年9月。[[第1SS装甲師団]]の戦車を視察する]]<br /> [[File:Bundesarchiv Bild 183-J28419, Himmler überreicht die Goldene Nahkampfspange.jpg|right|thumb|250px|1944年12月、[[ヴァイクセル軍集団]]司令官として]]<br /> 1939年5月、ヒトラーは2万人の兵員限定をつけながらも親衛隊特務部隊の師団編成を認めた。ヒムラーは師団創設のため砲兵連隊の設立を急いだが、1939年9月の[[ポーランド侵攻]]までに間に合わず、親衛隊特務部隊はこの戦争を連隊編成で参加した。ポーランド戦後に改めてヒトラーから師団昇格を認められた。1940年4月22日の[[親衛隊作戦本部]]の司令により親衛隊特務部隊は[[武装親衛隊]] (Waffen-SS) と名を変えた。武装親衛隊は急速に拡張され、大戦を通じて38個師団90万の兵力を数えるまでに成長した。[[ドイツ国防軍|国防軍]]に比べると損害率や戦死者・負傷者が多かったが、ヒムラーはこの理由について「国防軍が困難な任務を親衛隊に与えるため」と説明していた&lt;ref name=&quot;武装SSナチスもう一つの暴力装置60&quot;&gt;芝健介著『武装SS -ナチスもう一つの暴力装置-』(講談社選書メチエ)60p&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 武装親衛隊の兵員募集は親衛隊本部の長官である[[親衛隊大将]][[ゴットロープ・ベルガー]]が主導的役割を果たした。ベルガーは国防軍と折り合いをつけながら兵員確保に励んだ。また国防軍の徴兵対象にない[[ヒトラー・ユーゲント]]などの若年層やドイツ系外国人なども盛んに集めた。やがて非ドイツ系の外国人も受け入れも開始した。ソ連との戦いを「[[反共]][[十字軍]]」になぞらえて武装SSに勧 誘した。ヒムラーは非ドイツ系外国人、特に東方諸民族の受け入れにはアレルギーがあったがベルガーに説得され、戦争の拡大とともに外国人の受け入れもやむなしとなった。武装親衛隊の中には[[インド人]]で構成された部隊や[[ボスニア]]の[[イスラム教徒]]を中心に構成された師団まで存在した([[第13SS武装山岳師団]])&lt;ref name=&quot;武装SSナチスもう一つの暴力装置第五章&quot;&gt;芝健介著『武装SS -ナチスもう一つの暴力装置-』(講談社選書メチエ)第五章&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> ドイツの戦況悪化とともに国防軍不信に陥ったヒトラーは、親衛隊に信頼を寄せるようになっていった。1944年2月14日には国防軍情報部([[アプヴェーア]])部長[[ヴィルヘルム・カナリス]][[海軍大将]]が失脚。ヒトラーはアプヴェーアの機能を[[国家保安本部]]第6局(国外諜報 (Ausland-SD) 局長[[ヴァルター・シェレンベルク]])の下に吸収させ、同局の軍事情報部とすることを認めた&lt;ref name=&quot;ヒトラーの秘密警察221&quot;&gt;『ヒトラーの秘密警察』221p&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> さらに1944年7月20日、[[7月20日事件|ヒトラー暗殺計画]]の鎮圧に際してヒムラーは[[国内予備軍]]司令官の地位を授かった(実務は[[親衛隊大将]][[ハンス・ユットナー]]が代行した)。この時から[[陸軍兵器局]]が中心に開発してきた[[V2ロケット]]の生産・運用も陸軍から[[親衛隊経済管理本部]]の手に移っている。親衛隊は国防軍に対して完全なる優位を確立した。<br /> <br /> ヒムラー自身は、自分が実戦にたずさわった経験がなく、その点でまともな軍歴を持っていないことに劣等感を抱いていた。そこでヒムラーは自分が軍司令官として実戦を指揮して赫々たる戦果を挙げることを熱望するにいたった。ヒムラーはヒトラーにこうした希望を述べ、ヒトラーの側近であった[[マルティン・ボルマン]]もこれを支持したため、1944年12月2日にヒムラーはオーバーライン軍集団司令官に就任し、西部戦線で指揮を執ることとなった。ヒムラーのオーバーライン軍集団は[[シュトラースブルク]]まで数キロまで迫ったが、結局[[アメリカ軍]]の反撃にあって[[ライン川]]の向こうへ撃退された。しかしヒトラーはオーバーライン軍集団でのヒムラーの指揮を評価し、1945年1月23日にヒムラーを[[独ソ戦|東部戦線]]の[[ヴァイクセル軍集団]]司令官に任じた。参謀総長[[ハインツ・グデーリアン]]上級大将はこの人事に反対したが、ヒトラーは強行した。ヒムラーは今度こそ戦勝報告をヒトラーにもたらそうと張り切り、予備軍や武装SS残存兵力をかき集め、また、[[フェリックス・シュタイナー]]ら著名な武装親衛隊将軍を招集した。ドイツ本土に迫る[[赤軍|ソ連軍]]を迎え撃つが、すでにドイツ軍は消耗しきっており、しかも部隊指揮経験を持たないヒムラーはまともな作戦指揮ができなかったため、ソ連軍に[[オーデル川]]を突破された。グデーリアンはヒムラー降ろしを急ぎ、結局、最後にはヒトラーも司令官の首を挿げ替えることに同意し、1945年3月20日、同軍集団の司令官職は[[陸軍]][[大将]][[ゴットハルト・ハインリツィ]]に替えられた。この件でヒムラーの権威は大きく傷ついた&lt;ref name=&quot;SSの歴史フジ538&quot;&gt;ハインツ・ヘーネ著『髑髏の結社 SSの歴史』(フジ出版社)538p&lt;/ref&gt;。なお、ヒムラーの軍集団司令官就任にあたって、政敵であったボルマンがこれを支持している。実は、ボルマンはヒムラーが軍事的素養を持たず軍司令官としては失敗することを見越していたのであり、これを利用してヒムラーの権威を失墜させようとしていたのであった&lt;ref name=&quot;SSの歴史フジ532&quot;&gt;ハインツ・ヘーネ著『髑髏の結社 SSの歴史』(フジ出版社)532p&lt;/ref&gt;。さらにボルマンは、ヒムラーがヒトラーの至近にいたのでは自分がヒトラーの耳を独占することができないため、ヒムラーを戦線に行かせることによってヒトラーから遠ざけることをたくらんだのである。案の定、ヒムラーは軍司令官としては馬脚を現し、ボルマンはヒトラーに対してヒムラーの無能ぶりを吹き込むことに成功した。<br /> <br /> ==== ヒムラーとホロコースト ====<br /> [[File:Bundesarchiv Bild 192-308, KZ-Mauthausen, Himmlervisite.jpg|right|thumb|250px|1941年4月、[[マウトハウゼン強制収容所]]の視察。話しかけている人物は所長[[フランツ・ツィライス]][[親衛隊少佐]](当時)。]]<br /> 開戦前から戦争初期にかけてヒムラー以下親衛隊はユダヤ人の国外追放を行っていた。1938年にオーストリアの「ユダヤ人移民局」の局長になった[[SD (ナチス)|SD]]ユダヤ人課の[[アドルフ・アイヒマン]]が 注目され、1939年1月にはベルリン内務省内に「ユダヤ人移住中央本部」が設置されてアイヒマン方式が全国に拡大された。1939年10月7日にはヒム ラーはドイツ民族性強化国家委員 (Reichskommissar für die Festigung des deutschen Volkstums) に任命された&lt;ref name=&quot;ナチズムとユダヤ人絶滅政策88&quot;&gt;『ナチズムとユダヤ人絶滅政策 -ホロコーストの起源と実態-』88p&lt;/ref&gt;&lt;ref name=&quot;武装SS全史1119&quot;&gt;『欧州戦史シリーズVol.17 武装SS全史1』119p&lt;/ref&gt;。この権限に基づき、彼は親衛隊の本部の一つとして「[[ドイツ民族性強化国家委員本部]]」 (RKFDV) を設置し、親衛隊大将[[ウルリヒ・グライフェルト]]を本部長に任じた。[[アーリア人]]の支配民族思想に基づいてヨーロッパ・ユダヤ人の東方への植民・強制移住政策を推し進めた。<br /> <br /> 1939年9月の[[ポーランド侵攻]]後、国家保安本部は占領下[[ポーランド]]や[[ソ連]]占領地域に[[アインザッツグルッペン]](特別行動部隊)を派遣して[[ユダヤ人]]を含む反体制ポーランド住民を銃殺した。しかしながらこの時期に親衛隊がユダヤ人の絶滅を計画していたわけではないと見られている。ヒムラーも1940年5月に「ユダヤ人根絶の[[大粛清|ボルシェヴィキ的方法]]は信念として非ゲルマン的であるし、不可能である」と述べている&lt;ref name=&quot;SSの歴史フジ319&quot;&gt;ハインツ・ヘーネ著『髑髏の結社 SSの歴史』(フジ出版社)319p&lt;/ref&gt;。ユダヤ人絶滅政策([[ホロコースト]])の決定はヒムラーではなくアドルフ・ヒトラーによるものと考えられている。ヒトラーがホロコーストを決意したのは1941年夏であったと言われる&lt;ref name=&quot;ナチズムとユダヤ人絶滅政策99&quot;&gt;『ナチズムとユダヤ人絶滅政策 -ホロコーストの起源と実態-』99p&lt;/ref&gt;&lt;ref name=&quot;SSの歴史フジ319&quot;&gt;ハインツ・ヘーネ著『髑髏の結社 SSの歴史』(フジ出版社)319p&lt;/ref&gt;。しかしヒトラーの命令を受けて実際にホロコーストを組織したのはヒムラーと親衛隊であった。<br /> <br /> 1941年6月に[[バルバロッサ作戦]]([[独ソ戦]])が発動された後、国家保安本部は[[アインザッツグルッペン]]を[[ソビエトロシア]]に進撃する[[ドイツ国防軍|国防軍]]に追随させ、占領地のユダヤ系住民を大量虐殺した。この独ソ戦下のアインザッツグルッペンの活動はユダヤ人の絶滅を意図して行ったホロコーストの一部とみなされている。1941年8月、ヒムラーは、{{仮リンク|オーバーシュレージエン州|de|Provinz Oberschlesien}}にある[[アウシュヴィッツ強制収容所]]所長[[ルドルフ・フェルディナント・ヘス]]をベルリンに呼び出し、ヨーロッパ中のユダヤ人を絶滅させることを告げ、アウシュヴィッツを絶滅収容所に改築することを命じた。これを承けてヘスはアウシュヴィッツにガス室を設置させた&lt;ref name=&quot;ナチ強制収容所153&quot;&gt;長谷川公昭著『ナチ強制収容所 -その誕生から解放まで-』153p&lt;/ref&gt;&lt;ref name=&quot;ヒトラーの共犯者上195&quot;&gt;『ヒトラーの共犯者 上』195p&lt;/ref&gt;。さらにこの後、ポーランドにユダヤ人の殺戮だけを目的とした[[ベウジェツ強制収容所]]、[[ソビボル強制収容所]]、[[トレブリンカ強制収容所]]の三大[[絶滅収容所]]が 建設された。ユダヤ人はヨーロッパ各地からアウシュヴィッツをはじめとするポーランド東部の絶滅収容所に集められ、ガス室等で大量虐殺されるようになった。当時ゲシュタポのユダヤ人課課長となっていたアイヒマンがユダヤ人の列車輸送の手配および直接のユダヤ人狩り立てに深く関与している。<br /> <br /> 正式にユダヤ人絶滅が国家政策として定められたのは1942年1月20日、国家保安本部長官ハイドリヒが[[ベルリン]]の[[ヴァンゼー]]湖畔の高級住宅地にある邸宅で関係省庁の次官級を集めて行った[[ヴァンゼー会議]]であるとされる。この会議で[[ユダヤ人問題の最終的解決]]に ついて各官庁の分担範囲を決定したといわれる(一方、アインザッツグルッペンや絶滅収容所でのガス殺は1941年にはすでに開始されていることから、この会議はゲーリングからユダヤ人問題の最終的解決の委任を受けていたハイドリヒがヒムラーのユダヤ人問題への口出しをけん制するために開いただけの会議であるなどという説もある&lt;ref name=&quot;ヒトラー全記録535&quot;&gt;『ヒトラー全記録』535p&lt;/ref&gt;。ちなみに会議の出席者アイヒマンもこの会議開催にハイドリヒが自分の権限を誇示するための意味があったことを主張している&lt;ref name=&quot;アイヒマン調書76&quot;&gt;ヨッヘン・フォン・ラング編『アイヒマン調書 -イスラエル警察尋問録音記録-』(岩波書店)76p&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 一般的にヒムラーや親衛隊は無差別にユダヤ人を虐殺していたというイメージが付きまとうが、実際のところはそうではない。[[親衛隊経済管理本部]]長官であり、強制収容所運営の責任者である[[オズヴァルト・ポール]]は一貫して強制収容所に移送したユダヤ人の軍需産業への奴隷労働力としての使用を目指していた。労働できる者は絶滅政策の事実上の対象外として、過酷な強制労働に従事させられた。アウシュヴィッツ所長ルドルフ・ヘスもその回顧録に「アウシュヴィッツへ送られてくるユダヤ人は本来すべて抹殺されるはずであったが、ドイツ・ユダヤ人が最初に送られてきた頃にはすでに労働可能な者は選別して収容所の軍需目的に使用するようにという命令が出されていた」と書いている&lt;ref name=&quot;ナチズムとユダヤ人絶滅政策106&quot;&gt;『ナチズムとユダヤ人絶滅政策 -ホロコーストの起源と実態-』106p&lt;/ref&gt;。[[総力戦]]体制が強まる中、強制収容所の奴隷労働力はナチスにとってますます重要となっていた。ヒムラーは強制収容所の囚人の死亡率を下げることを一貫して命じ続け、親衛隊経済管理本部もそれに努力していた&lt;ref name=&quot;ナチズムとユダヤ人絶滅政策159&quot;&gt;『ナチズムとユダヤ人絶滅政策 -ホロコーストの起源と実態-』159p&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 一方、「労働不能」とされたユダヤ人は、ナチスにとって全く役に立たないばかりか、既に悪かったドイツの食糧事情をさらに悪化させる厄介な存在であった。そのため即時に絶滅対象とされた。戦時中に行われたユダヤ人絶滅政策とは基本的に「労働不能」と認定されたユダヤ人の絶滅政策であった&lt;ref name=&quot;ナチズムとユダヤ人絶滅政策123&quot;&gt;『ナチズムとユダヤ人絶滅政策 -ホロコーストの起源と実態-』123p&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> ヒムラーやポールの命令を受けてアウシュヴィッツや[[マイダネク強制収容所]]でも「労働不能者」(=ガス室送り)と強制労働させる者の選別が行われていた。この選別にあたっては親衛隊軍医が大きな権限を持ち、[[ヨーゼフ・メンゲレ]]はその典型として悪名高い&lt;ref name=&quot;ナチ強制収容所158&quot;&gt;長谷川公昭著『ナチ強制収容所 -その誕生から解放まで-』158p&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> ヒムラーはヒトラーのユダヤ人絶滅指令について、ふつうでは耐え難い命令であった、と述べているが&lt;ref&gt;[[#谷|谷 2000, p. 207.]]&lt;/ref&gt;、あくまでこれを完遂するつもりであった。したがって労働に従事させる者もいずれは殺害するつもりであった。1942年秋にはヒムラーが[[オットー・ゲオルク・ティーラック]]法相との会談で「労働を介した絶滅」という言葉を口にしたことはそれを端的に表していると言えよう&lt;ref name=&quot;ナチ強制収容所188&quot;&gt;長谷川公昭著『ナチ強制収容所 -その誕生から解放まで-』188p&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> ==== ヒトラー暗殺計画 ====<br /> [[File:Bundesarchiv Bild 146-1972-109-18A, Berlin, Bendlerstraße, Waffen-SS-Männer.jpg|thumb|250px|1944年7月21日、ヒムラーの命令でベルリンの{{仮リンク|ベンドラー・ブロック|label=ベンドラー街|de|Bendlerblock}}(国防省)を占拠した[[武装親衛隊]]。]]<br /> 1944年7月20日午後0時40分過ぎ、[[東プロイセン]]・[[ラステンブルク]]にあった[[総統大本営]]「[[ヴォルフスシャンツェ]]」の会議室において、ヒトラーが将校たちと会議中に[[プロイセン参謀本部|参謀本部]][[大佐]][[クラウス・フォン・シュタウフェンベルク]]伯爵([[国内予備軍]]参謀長)が仕掛けた時限爆弾が爆発した。将校や速記者に死亡者・負傷者が出たが、ヒトラーは軽傷を負うにとどまった([[7月20日事件|ヒトラー暗殺計画]])。<br /> <br /> この時ヒムラーは25キロ離れたマウルゼー湖畔のSS本部にいたが、午後1時頃に事件を知るとただちにラステンブルクの総統大本営へ急行し、わずか30分で到着した&lt;ref name=&quot;ヒトラー暗殺事件128&quot;&gt;ロジャー・マンベル著『ヒトラー暗殺事件 世界を震撼させた陰謀 第二次世界大戦ブックス31』(サンケイ出版)128p&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> ヒムラーは総統大本営に到着後、SS隊員とともに捜査を開始した。会議室から一人姿を消したシュタウフェンベルク大佐が犯人であると確信し、ベルリンにいた{{仮リンク|フンベルト・アーハマー=ピフラーダー|de|Humbert Achamer-Pifrader}}親衛隊上級大佐にシュタウフェンベルクの逮捕を命令した(しかしベンドラー街にシュタウフェンベルクの逮捕に向かったピフラーダーの方が、逆にシュタウフェンベルクによって身柄を確保されてしまっている)。ヒトラーはシュタウフェンベルクの上官である国内予備軍司令官[[フリードリヒ・フロム]]上級大将も何らかの形で謀反に関わっていると考え、ヒムラーを新たな国内予備軍司令官に任命し、ベルリンへ行くよう命じた。予備軍とはいえ、ヒムラーは念願の軍司令官の地位を手に入れたことになる&lt;ref name=&quot;ヒトラー暗殺事件148&quot;&gt;ロジャー・マンベル著『ヒトラー暗殺事件 世界を震撼させた陰謀 第二次世界大戦ブックス31』(サンケイ出版)148p&lt;/ref&gt;。午後5時頃にヒトラーを別れる際に「総統、後のことは私にお任せください」と述べている&lt;ref name=&quot;ナチス親衛隊228&quot;&gt;『ナチス親衛隊』228p&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> ヒムラーがベルリンに到着した7月21日明け方にはすでにシュタウフェンベルク大佐ら首謀者は{{仮リンク|ベンドラー・ブロック|label=ベンドラー街|de|Bendlerblock}}(国防省)においてフロムの命令で銃殺されており、その遺体はフロムの指示で勲章や階級章や軍服などを身に着けたまま軍人として埋葬されていた。ヒムラーはただちに武装親衛隊を動員してベンドラー街を占拠した。シュタウフェンベルク大佐らの遺体を掘り起こさせて勲章などを剥奪すると、その遺体を火葬させて遺灰は野原にばら撒かせた。<br /> <br /> ヒムラーは国家保安本部長官[[エルンスト・カルテンブルンナー]]に大々的な捜査・逮捕を命じた。カルテンブルンナーの指揮の下に捜査が進められ、最終的に5,000人程が処刑され、数千人が強制収容所へ送られた。「長いナイフの夜」事件以来の大規模な政治犯の逮捕劇となった&lt;ref name=&quot;ナチス親衛隊229&quot;&gt;『ナチス親衛隊』229p&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> ヒムラーは一連の謀反の最大の鎮圧者となったのであるが、ヒムラー自身が事前に計画を知っていながら事件の発生を黙認した可能性も指摘されている&lt;ref name=&quot;ヒトラーの共犯者上204&quot;&gt;『ヒトラーの共犯者 上』204p&lt;/ref&gt;。暗殺計画実行直前の1944年7月17日、[[ゲシュタポ]]は、ヒトラー暗殺計画の可能性があり、その計画者として[[カール・ゲルデラー]]と[[陸軍]][[上級大将]][[ルートヴィヒ・ベック]]の逮捕状を発給するようヒムラーに求めているが、なぜか拒否している。SDの某将校は「ヒムラーは表向き引き延ばし戦術をとっていた」と証言している。一旦実行に移させてから逮捕したほうがよいという判断だったのか、それともヒムラーがヒトラー暗殺を期待していたのかは今となっては不明だが、いずれにせよこの暗殺計画は失敗に終わり、その後のヒムラーはいつも通り反逆者の逮捕・処刑の実行者となった&lt;ref name=&quot;ヒトラーの共犯者上204&quot;&gt;『ヒトラーの共犯者 上』204p&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> [[ドイツ国防軍|国防軍]]の将校たちが暗殺事件に関与していたことは国防軍の地位の低下につながった。それは親衛隊が国防軍に対して絶対的な優位を確立したことを意味した。同じ日にヒトラーがヒムラーを国内予備軍司令官に任じたことも、このことのだめ押しとなった&lt;ref name=&quot;ナチス親衛隊230&quot;&gt;『ナチス親衛隊』230p&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> === 戦争末期 ===<br /> ==== 講和交渉 ====<br /> 大戦末期の1945年春、ヒムラーはドイツ勝利の確信を失っていた。これは専属マッサージ師[[フェリックス・ケルステン]]やSD第VI局(対外諜報)局長[[ヴァルター・シェレンベルク]]らとの会話から確認できる。ヒトラー政権が存続するためには、[[ソ連]]を除いた[[アメリカ]]と[[イギリス]]との講和が必要であると認識していた。<br /> <br /> シェレンベルクの斡旋で1945年2月19日、訪独した[[スウェーデン]][[赤十字社]]の[[フォルケ・ベルナドッテ]]伯爵とヒムラーは、入院していた{{仮リンク|ホーエンリューヒェン療養所|de|Heilanstalten Hohenlychen}}において初めて会見した。ベルナドッテは米英との和平のためには強制収容所の囚人の解放がよいと薦め、まず[[スカンディナヴィア]]系の強制収容所抑留者をスウェーデンに引き渡してほしいと求めた。しかしこの時ヒムラーは「もしその要求に応じたら、スウェーデンの新聞はでかでかと書くでしょうね。&quot;戦犯ヒムラー、最後の土壇場で責任逃れ。今から免罪対策&quot;とね。」と述べて拒否した&lt;ref name=&quot;ナチス親衛隊235&quot;&gt;『ナチス親衛隊』235p&lt;/ref&gt;。しかしその後さらに戦況が悪化し、ヒムラーはついにアメリカとイギリスに対しては降伏しても構わないという心境に至り、米英軍とドイツ軍の残存兵力でもって協力してソ連と戦うことを望んだ。4月2日にヒムラーは再度ベルナドッテと面会した。ヒムラーは[[西部戦線 (第二次世界大戦)|西部戦線]]における条件付き降伏を米英に提案してくれないかと求めた。ベルナドッテは「ヒムラーがヒトラーの後継者を名乗ること。ナチスを解体させて党員を配置換えすること。スカンディナヴィア系の強制収容所抑留者を釈放すること」などを条件として求め、ヒムラーはこれに応じた。その後もヒムラーとベルナドッテは4月20日と4月24日に面会して米英に対しての降伏に向けた調整を続けた&lt;ref name=&quot;ナチス親衛隊236&quot;&gt;『ナチス親衛隊』236p&lt;/ref&gt;&lt;ref name=&quot;髑髏の結社SSの歴史フジ550&quot;&gt;ハインツ・ヘーネ著『髑髏の結社 SSの歴史』(フジ出版)550p&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 1945年4月20日、最後の総統誕生日にヒムラーはベルリンの[[総統地下壕]]に入り、[[ヒトラー]]と面会した。しかし憔悴したヒトラーにはすでに期待しておらず、早々に地下壕を出ると、部分降伏に向けた工作を再開した。4月21日午前2時、ケルステンの地所でシェレンベルクとともにアメリカ政財界に強い影響力を持つ[[世界ユダヤ人会議]]の特使{{仮リンク|ノルベルト・マズーア|de|Norbert Masur}}と極秘に面会し、アメリカ政府への執り成しを求めた。ヒムラーはマズーアに「君たち[[ユダヤ人]]と我々[[ナチス|国家社会主義者]]は共に争いの斧を降ろす時である」などと述べた。マズーアは親衛隊の側が一方的にユダヤ人に斧を振り降ろしていたにも関わらず何という言い草だと思いつつ、それでもいくらかの同胞の命を救うことができるかもしれないと考えてヒムラーとの交渉を続けた。マズーアはスイスかスウェーデンに向かうことができる場所の強制収容所に収容されているユダヤ人については速やかに解放すること、それ以外の場所の強制収容所に入れられているユダヤ人についてはその強制収容所を無抵抗で連合軍に明け渡すまで人間的な待遇を与えることを条件として提示した。ヒムラーはそれを了承した&lt;ref&gt;[[#クノップ(2001)|クノップ(2001)、p.205-207]]&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> ベルナドッテはアメリカ政府にヒムラーの西部戦線降伏提案を伝えていたが、4月29日、アメリカの[[ハリー・S・トルーマン|トルーマン]]大統領は「部分降伏はありえず」として、正式に提案の拒絶を発表し&lt;ref name=&quot;ナチス親衛隊258&quot;&gt;『ナチス親衛隊』258p&lt;/ref&gt;、ヒムラーは落胆した。しかもこの彼の活動は1945年4月28日、[[英国放送協会|BBC]]のラジオ放送によって「無条件降伏を申し出た」という旨で暴露され、やがてヒトラーの知るところとなる&lt;ref name=&quot;ヒトラー全記録646&quot;&gt;阿部良男著『ヒトラー全記録 -20645日の軌跡-』(柏書房)646p&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> ==== 解任 ====<br /> ヒトラーは、かねてからヒムラーとの間の連絡将校[[ヘルマン・フェーゲライン]]が亡命を企てて逮捕されたことや、[[ベルリンの戦い]]における[[武装親衛隊]]の不活発さが原因でヒムラーに不信感を持っていたが、自ら「忠臣ハインリヒ」と呼んでいたヒムラーの忠誠を疑うことはなかった。それだけに、上記の報道を知った時のヒトラーは「あのヒムラーに裏切られた」として激怒した。彼は即座にヒムラーの全官職を剥奪し、逮捕命令を出した。当時の彼の官職は親衛隊全国指導者、内務大臣、全ドイツ警察長官、[[国民突撃隊]]総司令官であった。<br /> <br /> しかし当時の伝達機能の制限により、ヒムラーの逮捕命令が伝達されたのはドイツ北部の指揮権を持っていた海軍総司令官[[カール・デーニッツ]]の許に届いたものに限られた。デーニッツは逮捕命令を受領するが、命令にはヒムラー以外のドイツ北部の全反逆者の処置命令も附属していたために実行が困難なこと、また、彼が依然として警察や親衛隊を掌握しており、その兵力が多かったために命令を無視している。<br /> <br /> 5月1日午前0時頃にヒムラーは親衛隊員たちを引き連れて[[フレンスブルク政府]]のデーニッツの元を訪れた。デーニッツは不測の事態に備えて[[Uボート]]の水兵で周りを固めた。自身も銃を書類の下に隠し持っていたという。彼はここでヒトラーの電報をヒムラーに見せ、総統が死んだこと、みずからが後継者に指名されたこと、そしてヒムラーは解任されたことを告げた。電報を読んだ彼の顔は青ざめ、しばらく考えこんだ様子であったという。しかしすぐにデーニッツに祝福の言葉を述べ、みずからが次席としてデーニッツを支えたいと述べた。彼はこれを拒否したが、親衛隊や警察勢力の離反を警戒して結局[[シュレースヴィヒ=ホルシュタイン州]]の行政長官の地位を与えた&lt;ref name=&quot;SSの歴史フジ557&quot;&gt;『髑髏の結社 SSの歴史』(フジ出版社)557p&lt;/ref&gt;&lt;ref name=&quot;ナチス親衛隊259&quot;&gt;『ナチス親衛隊』259p&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> しかし戦時中から米英において「ホロコーストの執行者」「強制収容所の支配者」として悪名高かったヒムラーは、降伏処理のために設立された臨時政府であるフレンスブルク政府にとっては邪魔な存在であった。5月6日17時頃にデーニッツはヒムラーと東方占領地域大臣[[アルフレート・ローゼンベルク]]らに解任を申し渡した。ヒムラーは首相代行[[ルートヴィヒ・シュヴェリン・フォン・クロージク|フォン・クロージク]]と会談したが、結局デーニッツとの交渉を諦めた&lt;ref name=&quot;ヒトラーの共犯者上209&quot;&gt;グイド・クノップ著『ヒトラーの共犯者 上 -12人の側近たち-』(原書房)209p&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> === 逃亡と死 ===<br /> [[File:Himmler Dead.jpg|thumb|自殺直後のヒムラー]]<br /> [[File:Himmler-death-mask.jpg|150px|left|thumb|ヒムラーの[[デスマスク]]]]<br /> フレンスブルク政府を放逐されたヒムラーは5月20日に「[[野戦憲兵 (ドイツ)|野戦憲兵]]曹長ハインリヒ・ヒッツィンガー」として、髭を剃って[[眼帯]]を装着、[[ルドルフ・ブラント]]、[[カール・ゲプハルト]]などの側近たちとともに[[ホルシュタイン]]から[[エルベ川]]を超えて逃亡した。5月22日、[[ブレーマーフェルデ]]と[[ハンブルク]]の間にある{{仮リンク|バルンシュテット|de|Barnstedt}}村のはずれでイギリス軍に拘束され、捕虜として[[リューネブルク]]の捕虜収容所に送られた。<br /> <br /> ヒムラーは何度も強制収容所を視察し、部下が実際に何をしているかをよく知っており、ユダヤ人迫害等の非人道的な行為ゆえに戦後連合軍から糾弾されることを覚悟していた。そのため、敗戦間近になると部下に、親衛隊の制服を国防軍の軍服に着替え、国防軍に潜り込んで逃亡するように命令していた。これが「忠誠こそ我が名誉」と若き親衛隊員を導いた親衛隊全国指導者の最後の命令となった。<br /> <br /> ヒムラーは、イギリス軍の一兵卒の捕虜への粗末な扱いに耐えられなくなり、収容所所長に対して「私はハインリヒ・ヒムラーだ」と名乗った。さらに連合軍上層部との政治的交渉を求めた。所長は上層部に取り計らってみると回答したが、結局交渉は拒否された。翌5月23日、ヒムラーの身体検査が行われた。イギリス軍のエドウィン・オースティン曹長がヒムラーに長椅子を指して「これがあなたの寝台だ。服を脱ぎなさい」と全裸になることを要求したが、これに対してヒムラーは「君は私が誰だか分かっているのかね」などと述べた。オースティンは「あなたはハインリヒ・ヒムラーだ。そしてこれがあなたの寝台だ。服を脱ぎなさい」と再度全裸になることを要求した。ヒムラーとオースティンはしばらくじっと睨みあっていたが、先に目を逸らしたのはヒムラーの方だった。彼はおとなしく服を脱ぎはじめた&lt;ref name=&quot;クノップ(2001)211&quot;&gt;[[#クノップ(2001)|クノップ(2001)、p.211]]&lt;/ref&gt;。軍医がヒムラーの身体を調べ、口の中を調べようと指を入れた時、ヒムラーは軍医の指にかみついた。そして奥歯に隠し持っていた[[シアン化カリウム]]のカプセルを噛み砕き倒れた。その場にいたイギリス軍兵士たちはすぐにヒムラーの身体を逆さにして毒を吐き出させようとした。ついで糸と針で舌を固定して[[催吐剤]]を使用して胃液を吐きださせようとしたが、約12分間苦しんだ後に死亡した&lt;ref name=&quot;クノップ(2001)212&quot;&gt;[[#クノップ(2001)|クノップ(2001)、p.212]]&lt;/ref&gt;。自殺を防げなかった軍医は直後に「やられた」と口にしたという&lt;ref name=&quot;クノップ(2001)211&quot;/&gt;。イギリス軍はヒムラーの遺体の写真を撮り、さらに[[デスマスク]]を作った後、彼の頭を切開して脳の一片を切り取って保存した&lt;ref name=&quot;クノップ(2003)143&quot;&gt;[[#クノップ(2003)|クノップ(2003)、p.143]]&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 遺体は1日放置され、イギリス軍の報告を受けて到着したアメリカ軍とソ連軍の士官の検死を受けた後、リューネブルクの森に埋められた&lt;ref name=&quot;SSの歴史フジ558&quot;&gt;『髑髏の結社 SSの歴史』(フジ出版社)558p&lt;/ref&gt;&lt;ref name=&quot;クノップ(2001)212&quot;/&gt;。埋葬後に墓石等は与えられなかったため、森のどこに埋められているのかは不明である&lt;ref name=&quot;クノップ(2001)212&quot;/&gt;。<br /> <br /> == 家族 ==<br /> [[File:Bundesarchiv Bild 146-1969-056-55, Heinrich Himmler mit Frau und Tochter Gudrun.jpg|thumb|左から娘[[グドルーン・ブルヴィッツ|グドルーン]]、妻{{仮リンク|マルガレーテ・ヒムラー|label=マルガレーテ|de|Margarete Himmler}}、ヒムラー。]]<br /> [[File:Bundesarchiv Bild 146-1990-080-04, Marga Himmler.jpg|thumb|left|150px|妻マルガレーテ(1918年)]]<br /> 1928年7月3日、ヒムラーは[[ブィドゴシュチュ|ブロンベルク]]の地主の娘{{仮リンク|マルガレーテ・ヒムラー|label=マルガレーテ・ボーデン|de|Margarete Himmler}}と結婚している。マルガレーテは金髪碧眼の長身であり、彼が理想とする「ドイツ女性」であった。彼女は[[第一次世界大戦]]中に看護婦をしており、[[ベルリン]]で短い結婚生活をした後、父の資金で診療所をやっていた。しかしヒムラーより7歳も年上であり、しかも[[プロテスタント]]の女性であったので、ヒムラーの[[カトリック]]の両親は結婚に大反対した。しかし彼は譲らず、両親を説得してとうとう結婚にこぎつけている&lt;ref name=&quot;ナチス親衛隊37&quot;&gt;『ナチス親衛隊』37p&lt;/ref&gt;&lt;ref name=&quot;SSの歴史フジ56&quot;&gt;『髑髏の結社 SSの歴史』(フジ出版社)56p&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 1929年8月にマルガレーテとの間に一人娘[[グドルーン・ブルヴィッツ|グドルーン]] (Gudrun) を儲けた。ヒムラーはグドルーンを大変可愛がり、「Püppi(お人形さん)」と呼んでいた。彼はグドルーンを仕事場にもよく連れて行き、強制収容所の視察にも連れて行ったことがある。強制収容所視察の日の夜、グドルーンは日記にそのことを書いている&lt;ref name=&quot;ヒトラーの親衛隊125&quot;&gt;『ヒトラーの親衛隊』125p&lt;/ref&gt;。一方マルガレーテは男の子の養子を一人迎えているが、ヒムラーはこの養子にはほとんど関心を持たず、グドルーンが生まれた後は妻マルガレーテに対しても興味をなくし、別居するようになった。<br /> <br /> ヒムラーは1937年から{{仮リンク|ヘトヴィヒ・ポトハスト|de|Hedwig Potthast}}と愛人関係となっていた。ヘドヴィヒは1930年代半ばからヒムラーの個人スタッフの秘書となっていた女性であった。この女性との間に長男ヘルゲ(1942年誕生)と次女ナネッテ(1944年誕生)を儲けている&lt;ref name=&quot;SSの歴史フジ409&quot;&gt;ハインツ・ヘーネ著『髑髏の結社 SSの歴史』(フジ出版社)409p&lt;/ref&gt;。ヘドヴィヒとの愛人関係が深まるとマルガレーテと離婚しようとしたが、グドルーンのことがあって結局中止した。<br /> <br /> ヘトヴィヒの両親は、ヒムラーがヘドヴィヒに子供を身ごもらせながら結婚しようとせず、家すら用意しないことに憤慨していたが、私的生活は質素であったヒムラーに愛人用の家を用意できる金はなかった。結局、党の金庫を握っている[[マルティン・ボルマン]]に頼んで党の費用から8,000[[ライヒスマルク]]を借り、[[ベルヒテスガーデン]]の[[ケーニヒス湖|ケーニヒ湖]]畔の{{仮リンク|シェーナウ・アム・ケーニヒスゼー|label=シェーナウ|de|Schönau am Königssee}}にヘドヴィヒ用の住居を建てることにした。ここはボルマン夫人ゲルダ・ボルマンの家に近いため、ヒムラーとボルマンの友好を深める場ともなった&lt;ref name=&quot;SSの歴史フジ409&quot;/&gt;。愛人やその子供2人に関することは一般国民には秘匿されていた&lt;ref name=&quot;ヒトラーの親衛隊130&quot;&gt;『ヒトラーの親衛隊』130p&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 兄の{{仮リンク|ゲプハルト・ルートヴィヒ・ヒムラー|label=ゲプハルト|de|Gebhard Ludwig Himmler}}は1939年から文部省に勤務して、工学出版物に関する課の課長となった。1944年には部長クラスに昇進。またゲプハルトは[[武装親衛隊]]にも入隊しており、[[親衛隊大佐]]まで昇進している。1945年には武装親衛隊監督官のポストに就任している。ミュンヘンにある欧州アフガニスタン協会にも勤務した。<br /> <br /> 弟の{{仮リンク|エルンスト・ヘルマン・ヒムラー|label=エルンスト|de|Ernst Hermann Himmler}}はベルリン放送局の主任技師を務めていたが、[[ベルリン攻防戦]]で戦死した。エルンストの孫、{{仮リンク|カトリン・ヒムラー|label=カトリン|de|Katrin Himmler}}は[[ユダヤ人]]と結婚し、祖父兄弟に関する著書がある。<br /> <br /> ヒムラーの父ゲープハルトの異母兄であるコンラート・ヒムラー (Konrad Himmler) の孫にハンス・ヒムラー (Hans Himmler) がいる。彼はSS中尉であったが、酔って職務上の機密を漏らしたのを知ったヒムラーは彼を死刑にせよと命令した。その後減刑されてハンス は前線送りとなったが、親衛隊について否定的な発言があったとされて再度逮捕され、結局[[ダッハウ強制収容所]]で「同性愛者」として銃殺刑に処せられている。この件は、ヒムラーが親族であっても親衛隊の規律を乱す者は容赦しないことを示そうとしたのではないかと考えられている&lt;ref name=&quot;ヒトラーの親衛隊110&quot;&gt;『ヒトラーの親衛隊』110p&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 邪悪の代名詞となってしまった「ヒムラー」の名を背負った[[グドルーン・ブルヴィッツ|グドルーン]]は、戦後ドイツ社会から差別的な扱いを受け、やがてナチス擁護の[[歴史修正主義]]者になった。後に結婚してブルヴィッツと改姓したが、グドルーンは「嘘をついて新しい人生を始めることなどできません。私はずっとグドルーン・ヒムラーであることに変わりはありません」と述べている。彼女はナチス戦犯の逃亡生活や捕まった後の弁護を支援する団体「静かなる助力」の活動に貢献した&lt;ref name=&quot;ヒトラーの親衛隊417&quot;&gt;『ヒトラーの親衛隊』417p&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> == 人物 ==<br /> [[File:Bundesarchiv Bild 183-R99621, Heinrich Himmler.jpg|thumb|1938年のヒムラーの肖像画]]<br /> * [[アドルフ・ヒトラー]]からはその忠実ぶりから「忠臣ハインリヒ」と呼ばれていた。[[エルンスト・レーム]]からは「アンヒムラー(Anhimmler、熱狂的崇拝者の意)」と揶揄されていた&lt;ref name=&quot;ヒトラーの共犯者上171&quot;&gt;『ヒトラーの共犯者 上』171p&lt;/ref&gt;。また「ライヒス・ハイニ(Reiches Heini)」というあだ名もあった&lt;ref name=&quot;ヒトラーの共犯者上178&quot;&gt;『ヒトラーの共犯者 上』178p&lt;/ref&gt;。これらが美称にせよ蔑称にせよヒトラーと国から与えられた職務には忠実であるというのは、ヒムラーの共通した風評であった。<br /> * ヒムラーには、[[ラインハルト・ハイドリヒ]]の操り人形であるとの風評があり、「4つのH(Himmlers Hirn heißt Heydrich、「ヒムラーの頭脳、すなわち、ハイドリヒ」の意)」というジョークが流れた&lt;ref name=&quot;ヒトラーの共犯者上187&quot;&gt;『ヒトラーの共犯者 上』187p&lt;/ref&gt;。<br /> * 運動神経が鈍く、1936年に[[バート・テルツ]]の親衛隊士官学校で国家体力検定を受けたヒムラーは、親衛隊全国指導者として銀章は取りたいと思い、上半身裸で走るほど気合いを入れたが、結局銅賞の受賞で終わった。彼はどうしても銀章が欲しくて銀章の受賞者である[[カール・ヴォルフ]](ヒムラーの副官)から彼を昇進させる代わりに銀章を譲り受けたという&lt;ref name=&quot;学研1135&quot;&gt;[[#学研1|『武装SS前史I』、p.135]]&lt;/ref&gt;。また、親衛隊少将[[ヴァルター・シェレンベルク]]の回顧録によると1939年9月に[[ポーゼン]]でヒムラーが[[列車]]を降りるための階段を踏み外して地面に長々と倒れてしまったという&lt;ref name=&quot;シェレンベルク53&quot;&gt;[[#シェレンベルク|シェレンベルク、p.53]]&lt;/ref&gt;。その後、取り巻きの親衛隊将官、将校たちはヒムラーの[[鼻眼鏡]]を探すのに苦労し、激昂した彼の怒声を聞きながら気まずい空気の中で歩き出す羽目になったという。ヴォルフは、ヒムラーと車両の中で長々と話して引きとめていたシェレンベルクが原因だとして彼に「君を恨むぞ」と言ったという&lt;ref name=&quot;シェレンベルク53&quot;/&gt;。<br /> * 生来胃が弱く、若いころから胃痛に悩まされていたヒムラーは、自らの苦しみを緩和できるマッサージ師[[フェリックス・ケルステン]]を寵愛した。そのためケルステンはヒムラーを通じて親衛隊に隠然たる力を持つこととなった。ケルステンの息子の証言によると[[エルンスト・カルテンブルンナー]]はケルステンを警戒し、道路を封鎖して彼の暗殺を図ろうとしたことがあるという。これを聞いたヒムラーは激怒し、カルテンブルンナーを呼び出して「もしケルシュテンの身に何かあった時はお前は24時間以内に死ぬ」と叱責したという&lt;ref name=&quot;ヒトラーの共犯者上191&quot;&gt;『ヒトラーの共犯者 上』191p&lt;/ref&gt;。<br /> * ヒムラーは部下の親衛隊隊員に「強さ」を求める演説を何度も行った。ヒムラーと話しているとすぐに「強さ」の話が始まるので[[ヘルマン・ゲーリング]]はそれを「ヒムラーの発作」と呼んだ&lt;ref name=&quot;クノップ(2003)109&quot;&gt;[[#クノップ(2003)|クノップ(2003年)、p.109]]&lt;/ref&gt;。ヒムラーの「強さ」への渇望により、武装親衛隊の士官学校などでは過酷な演習が行われ、しばしば死者が発生した&lt;ref name=&quot;クノップ(2003)109&quot;/&gt;。イギリス軍の[[ブリティッシュ・コマンドス|コマンド部隊]]の訓練に匹敵する死亡者水準であったという&lt;ref name=&quot;テーラー119&quot;&gt;[[#テーラー|テーラー,ショー, p.119]]&lt;/ref&gt;。ゲーリングはヒムラーから武装親衛隊の実弾演習の話を聞かされた時、「親愛なるヒムラー、私も空軍の降下訓練で同じことをやろうと思っているのだよ。パラシュートをつけて二度飛ばせ、三度目はパラシュート無しで飛ばすのだ」と皮肉ったという。ただ、ヒムラーがそれにどう反応したかは伝わっていない&lt;ref name=&quot;クノップ(2003)109&quot;/&gt;。<br /> * 自らの地味な容姿のせいか「見た目より中身は濃い」というプロイセンに伝わる言葉を愛し、親衛隊のスローガンに掲げている。<br /> * ヒムラーは、華美な生活を嫌い、権力を握っても私生活は極めて質素であった&lt;ref name=&quot;クノップ(2001)上58&quot;&gt;[[#クノップ(2001)上|クノップ(2001年)、上巻p.58]]&lt;/ref&gt;。[[1929年]]から給料を据え置いたと言われ、[[ランゲ・アンド・ゾーネ|ランゲ・ウント・ゼーネ]]の[[腕時計]]を買うのにケルステンから100ライヒスマルクの借金をしていたという&lt;ref name=&quot;山下(2010)58&quot;&gt;[[#山下(2010)|山下(2010年)、p.58]]&lt;/ref&gt;。「[[親衛隊全国指導者友の会]]([[:de:Freundeskreis Reichsführer SS|de]])」に財界から大量の献金があったが、ヒムラーは私腹を肥やすことなく、全て親衛隊の機密費と高官の経費に充てていたという&lt;ref name=&quot;山下(2010)58&quot;/&gt;。「いつの日か貧しく死ぬことが私自身にとっては理想である」という言葉を残している&lt;ref name=&quot;クノップ(2001)上152&quot;&gt;[[#クノップ(2001)上|クノップ(2001年)、上巻p.152]]&lt;/ref&gt;。<br /> [[File:Bundesarchiv Bild 101III-Alber-164-18A, Großmufti Amin al Husseini, Heinrich Himmler.jpg|250px|thumb|1943年、ヒムラー(右)と[[エルサレム]][[大ムフティー]]の[[アミーン・フサイニー]](左)]]<br /> * ヒムラーは[[カトリック教会|カトリック]]の教育を受けたにもかかわらず、自らの不倫の「哲学的」正当化のため「離婚の禁止や一人の配偶者を守れなどということは[[キリスト教会]]の不道徳な規定である。[[少子化]]も[[不貞行為|不貞]]もキリスト教会のこの誤った教義のせいである」「[[一夫多妻制]]にすれば別の妻が刺激となって、もう一人の妻はあらゆる点で理想的女性になろうと努力するであろう。気性が荒かったり、体がぶよぶよした女性はいなくなるだろう」などと述べていた。また「戦場で勇敢に戦って戦死した者には美女二人が与えられる」と説いた[[イスラム教]]の預言者[[ムハンマド|モハメッド]]をヒムラーは称えていた&lt;ref name=&quot;クノップ(2001)183&quot;&gt;[[#クノップ(2001)|クノップ(2001)、p.183-184]]&lt;/ref&gt;。<br /> * ヒムラーは親衛隊の軍規、規律に反する行為を犯した隊員には異常なまでに厳しかった。そうした隊員に親衛隊の法廷が下した判決がヒムラーに報告されると彼はもっと厳しい罰を下すよう命じることが多かった&lt;ref name=&quot;クノップ(2003)109&quot;/&gt;。特に横領や命令されていない殺人など個人的犯罪は厳罰を以って処した&lt;ref name=&quot;山下(2010)158&quot;&gt;[[#山下(2010)|山下(2010年)、p.158]]&lt;/ref&gt;。1935年の親衛隊命令でも、命令されていないのに個人的にユダヤ人を殺害することを禁じている&lt;ref name=&quot;山下(2010)158&quot;/&gt;。ブーヘンヴァルト強制収容所所長[[カール・オットー・コッホ]]親衛隊大佐も横領と個人的殺人の容疑で逮捕されて処刑されている。これは殺人自体より、親衛隊の規律を乱している点がヒムラーにとっては問題であったためである&lt;ref name=&quot;山下(2010)158&quot;/&gt;。<br /> * ヒムラーは動物には優しく、動物の保護やドイツの子供たちへの動物愛護教育を熱く論じていた&lt;ref name=&quot;クノップ(2001)上194&quot;&gt;[[#クノップ(2001)上|クノップ(2001年)、上巻p.194]]&lt;/ref&gt;。[[狩猟]]長官であるゲーリングの狩猟好きについて「ゲーリング、あの血に飢えた犬の畜生は動物と見れば手当たり次第に殺している。何も知らずに森の端で草を食む、何の罪もない動物を撃ち殺すのがなぜ楽しいのか。それは正真正銘の虐殺だ」とケルステンに愚痴をこぼしている&lt;ref name=&quot;クノップ(2003)125&quot;&gt;[[#クノップ(2003)|クノップ(2003年)、p.125]]&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;[[#クランク|クランクショウ、p.26-27]]&lt;/ref&gt;。このヒムラーの動物への優しさは彼が「{{仮リンク|下等人種|de|Untermensch}}(ウンターメンシュ、亜人間とも訳される)」とした人間に対して行った虐殺とよく対比されるが、ヒムラーは下等人種について「破壊への意志、原始的な欲望、露 骨な卑劣さを持っており、精神面においてどんな動物よりも低級である」と述べており、事実上、動物より下に位置づける価値観を持っていた&lt;ref name=&quot;クノップ(2001)上194&quot;/&gt;。また、彼は菜食主義であり、殺生を嫌ったために動物の肉は食さなかったとされている。<br /> * ヒムラーの歴史観で一番大事なものは特定の人物でも地位や[[社会階級]]でもなく「[[ゲルマン人|ゲルマン民族]]の血」であった。個人はすぐに死ぬ存在であるが、[[祖先]]から[[子孫]]へという[[民族]]の血の流れは悠久であり、不滅のものと考えていた。そのため祖先、家系の名誉のためには自決さえもいとわないという[[日本]]の[[武士道]]に共鳴していたといわれる&lt;ref name=&quot;ヒムラーとヒトラー123&quot;&gt;『ヒムラーとヒトラー -氷のユートピア-』123p&lt;/ref&gt;。ヒムラーは常にこれを親衛隊の思想の模範とすべきと考えており、「日本を見習え」と演説している。サムライの他にも[[ローマ帝国]]の[[プラエトリアニ]]、[[インド]]の[[カースト制]]の[[クシャトリア]]階級にも強い感銘を受けていた&lt;ref name=&quot;ヒトラーの親衛隊90&quot;&gt;『ヒトラーの親衛隊』90p&lt;/ref&gt;。<br /> * SD対外諜報部長官[[ヴァルター・シェレンベルク]][[親衛隊少将]]によるとヒムラーの[[日本]]への関心はかなり強く、[[日本史]]にも精通していたという。結局実現しなかったが、親衛隊の[[士官候補生]]と[[日本軍]]の士官候補生の交換留学も考えていたという&lt;ref name=&quot;シェレンベルク188&quot;&gt;[[#シェレンベルク|シェレンベルク、p.188]]&lt;/ref&gt;。また日本人が[[アーリア人種]]であることを立証しようとし、戦争末期になっても[[ルーン文字]]と[[片仮名|カナ文字]]の関連性についての調査に意見をしたりしていたともされている&lt;ref name=&quot;クランク19&quot;&gt;[[#クランク|クランクショウ、p.19]]&lt;/ref&gt;。<br /> * 部下たちの残虐な処刑を視察してヒムラーの気分が悪くなったという証言が複数ある。<br /> ** 1941年8月、ヒムラーは[[ミンスク]]で[[アルトゥール・ネーベ]][[親衛隊中将]]の指揮する[[アインザッツグルッペン]]B隊の[[銃殺]]を視察し、ネーベに100人を自分の目の前で銃殺するよう命じたが、女性も多数混じっており、それを見ていた彼は気分を悪くしてよろけ、危うく地面に手をつきそうになってしまったという([[親衛隊大将]][[エーリヒ・フォン・デム・バッハ=ツェレウスキー]]の証言による)&lt;ref name=&quot;ナチス親衛隊200&quot;&gt;『ナチス親衛隊』200p&lt;/ref&gt;。アインザッツグルッペンの殺人活動が銃殺からガストラックによる殺害に変更されたのはこのためではないかといわれている&lt;ref name=&quot;ナチス親衛隊200&quot;/&gt;。<br /> ** 1941年12月15日、ハイドリヒが[[ベーメン・メーレン保護領]]副総督として統治していた[[プラハ]]を視察したヒムラーは、プラハ聖堂横の広場で行われた大規模な[[公開処刑]]を見学した。ところが掃射された直後に彼は気を失って椅子にどさりと座り込んだという。ハイドリヒが警察長官とともにヒムラーの肩を掴んで助け起こし[[メルセデス・ベンツ]]まで運んだが、ハイドリヒの顔には軽蔑の色が浮かんでいたという([[クルト・シャハト=イッサーリス]][[親衛隊大将]]の証言による)&lt;ref name=&quot;ヒトラーの秘密警察144&quot;&gt;『ヒトラーの秘密警察 ゲシュタポ 恐怖と狂気の物語』(原書房)144p&lt;/ref&gt;。<br /> ** [[強制収容所 (ナチス)|強制収容所]]の視察中にヒムラーは、ユダヤ人の[[ガス室]]処刑の様子を覗き穴から見たが、彼は気分を悪くしてガス室の裏へまわり嘔吐したという。この様子を見た二人の親衛隊員は最前線に送られることになったという(強制収容所の囚人[[ハンス・フランケンタール]]の証言による)&lt;ref name=&quot;ヒトラーの親衛隊123&quot;&gt;『ヒトラーの親衛隊』123p&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> === ヒムラーとオカルト ===<br /> [[File:Bundesarchiv Bild 183-H08448, Quedlinburg, Heinrichs-Feier, Heinrich Himmler.jpg|thumb|1938年2月1日。[[クヴェードリンブルク]]大聖堂にある[[ハインリヒ1世 (ドイツ王)|ハインリヒ1世]]の霊廟で]]<br /> ヒムラーは理想主義者であると同時に空想家としての一面もあり、若い頃から超自然的なことや[[スピリチュアリズム]]に関心を寄せていた。ナチス幹部の中で最も[[オカルティズム]]に魅了された人物であり、狂信的な神秘家であったという証言もある&lt;ref&gt;[[横山茂雄]] 『聖別された肉体』 書肆風の薔薇、1990年、pp. 245-248.&lt;/ref&gt;。「{{仮リンク|氷世界論|label=宇宙氷説|de|Welteislehre}}」などの怪しげな理論やゲルマン民族に関する空想的歴史を信じ、親衛隊のイデオロギーに取り入れた&lt;ref&gt;[[#谷|谷 2000, pp. 120-122.]]&lt;/ref&gt;。宗教学的に定義された神秘主義とは異なるが、ヒムラーの思想について血の神秘主義や歴史神秘主義と形容する向きもある。<br /> <br /> ヒムラーは1933年にオーストリアから来た民族主義的オカルティスト、[[カール・マリア・ヴィリグート]]と知り合った。自らを「ウリゴート族の末裔でゲルマン賢者」であるとし、「遠い過去の記憶にアクセスできる」と称するこの男は、「ゲルマン民族の歴史は22万8000年前にまでさかのぼり、その時代太陽は3つあり、地上に小人と巨人がいた」「{{仮リンク|イルミン教|label=イルミネンシャフト|en|Irminenschaft}}がゲルマン民族の本来の民族宗教であり、キリスト教がそれを盗用した」「聖書はドイツ人が書いた」などと主張していた&lt;ref name=&quot;クノップ(2003)113&quot;&gt;[[#クノップ(2003)|クノップ(2003年)、p.113]]&lt;/ref&gt;。ヒムラーは彼の思想に大変のめりこみ、ヴィリグートを親衛隊に招き入れ、[[親衛隊人種及び移住本部]]に配属させた。ヴィリグートはいつでもヒムラーのオフィスに入ることを許され、ヒムラーに「過去の記憶」を披露して彼を満足させた&lt;ref name=&quot;クノップ(2003)114&quot;&gt;[[#クノップ(2003)|クノップ(2003年)、p.114]]&lt;/ref&gt;。ヒムラーが功績を認めた親衛隊員に授与する[[親衛隊名誉リング]]のデザインもヴィリグートに任せている&lt;ref name=&quot;クノップ(2003)114&quot;&gt;[[#クノップ(2003)|クノップ(2003年)、p.114]]&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> ヒムラーは、ドイツの古代史研究機関として「[[アーネンエルベ]]」を創設した。アーネンエルベの探検隊は各地を探検し、[[チベット]]や[[シュヴァルツヴァルト]]など神秘的な場所で先史時代のアーリア人古代文明の存在を探そうとした。古城の廃墟にスパイを送り、キリストの[[聖杯]]を探させたこともあった&lt;ref name=&quot;クノップ(2003)110&quot;&gt;[[#クノップ(2003)|クノップ(2003年)、p.110]]&lt;/ref&gt;。ヒムラーは、聖杯はキリスト教がキリスト教より古い歴史を持つ「古代アーリア宗教」から強奪した物であり、必ずドイツ人が見つけ出して取り戻さねばならないと思っていた&lt;ref name=&quot;バトラー(2006)34&quot;&gt;[[#バトラー(2006)|バトラー(2006年)、p.34]]&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 東方から攻め寄せてきた[[フン族]]の突撃を防いだ砦と言われる[[ヴェストファーレン]]の古城{{仮リンク|ヴェーヴェルスブルク城|en|Wewelsburg}}にヒムラーは興味を引かれ、1934年7月にこの城を手に入れた。1500年の時を超えて東方から攻め寄せようとするソ連からヨーロッパを守る城である と、現在と過去を生きる男ヒムラーは期待していた。早速ヴィリグートらに改築工事を開始させた。第二次世界大戦のドイツの敗戦までにこの城に彼がつぎ込ん だ資金は1300万[[ライヒスマルク]]にも及ぶ{{#tag:ref|[[読売新聞]]2004年12月18日夕刊によると1ライヒスマルクは2004年の換算で約2100円であるという&lt;ref name=&quot;山下(2010)627&quot;&gt;[[#山下(2010)|山下(2010年)、p.627]]&lt;/ref&gt;。したがって1300万ライヒスマルクとは273億ほどであろうか。|group=&quot;注&quot;}}。大食堂には[[オーク]]製の巨大テーブルが置かれ、この城の「騎士」と認められた親衛隊幹部のネーム入りの椅子が並んでいた。ここでヒムラーや親衛隊幹部達は数時間も瞑想にふけっていた。地下室には石造りの台が12台置かれていて、親衛隊大将が死亡した際には遺骨がここに安置された。親衛隊名誉リングは、持主が親衛隊を離れるか死亡した場合にはヒムラーの手元に返され、ヴェーヴェルスブルク城に永久に保存されることとなっていた。他にも1万2000冊に及ぶ図書 室、応接間、ヒムラーの客室、SS最高法廷もこの城に設置された&lt;ref name=&quot;SSの歴史フジ158&quot;&gt;ハインツ・ヘーネ著『髑髏の結社 SSの歴史』(フジ出版社)158p&lt;/ref&gt;&lt;ref name=&quot;ナチス親衛隊116&quot;&gt;『ヒトラーの親衛隊』116p&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> また、ヒムラーは、スラヴ民族の征服者であるザクセン王[[ハインリヒ1世 (ドイツ王)|ハインリヒ1世]]を深く尊敬していた。スラヴ民族(=現在のソ連)との戦いの事業を継承したい思いが背景にあった。ハインリヒ1世の命日の7月2日には必ず[[クヴェードリンブルク]]大聖堂の墓を詣でた。冷え切った真夜中の納骨堂でヒムラーは毎年敬虔にひざまずいていた。[[フェリックス・ケルステン]]に よると、ヒムラーは7月2日の夜12時から瞑想を行い、ハインリヒ1世との霊的交信を始めたという。半睡状態のヒムラーが「ハインリヒ王の霊が重大なお告げを持って現れる」と述べ、続いて「このたびの王のおぼしめしは…」とお告げを語るのが恒例であった。ついには自身がハインリヒ1世の化身と信じるまでになったという&lt;ref name=&quot;SSの歴史フジ160&quot;&gt;ハインツ・ヘーネ著『髑髏の結社 SSの歴史』(フジ出版社)160p&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> ヒムラーは熱心なカトリックの家に生まれ、本人も若かりし頃は熱心なカトリックであったが、ナチ党の党活動をするうちに徐々にキリスト教とは距離を置くよう になっていた。そのため、親衛隊の隊員たちもキリスト教から切り離し、彼の異教的な思想に取り込むことをはかるようになった。婚姻内部規則で親衛隊隊員の 結婚式はキリスト教会で行なうことを禁止した。また、クリスマスを祝う習慣をやめさせるため、[[冬至祭]]を親衛隊の祭典とした。キリスト教ではなくSSを通じて神を信ずる者を彼は求めていたが、結局隊員たちをキリスト教から切り離すことはできなかった。婚姻規則は隊員たちから不評を買ったため、結局、処分用件が緩和されるなどしていった。一般SSの三分の二は相変わらずキリスト教徒であった。雑多な人種がいた武装SSや[[親衛隊髑髏部隊|髑髏部隊]]では比較的多く、武装SSの53.6%、髑髏部隊の69%が非キリスト教徒であったが、戦争中にはカトリックの司祭がそれぞれの武装親衛隊部隊に配属していた。武装親衛隊の将軍の中には[[ヴィルヘルム・ビットリヒ]]SS大将のように執務室にキリスト教の礼拝堂を置く者もいた&lt;ref name=&quot;SSの歴史フジ162&quot;&gt;ハインツ・ヘーネ著『髑髏の結社 SSの歴史』(フジ出版社)162p&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> ヒムラーの異教思想は他のナチ党幹部にも受けが悪く、[[ヨーゼフ・ゲッベルス]]は1935年8月21日の日記に「[[アルフレート・ローゼンベルク|ローゼンベルク]]とヒムラーとダレは、ばかばかしい儀式は止めるべきだ。バカバカしいドイツ崇拝は全部やめさせなければならない。こんなサボタージュをする奴らには武器だけを持たせよう」と書いている&lt;ref name=&quot;クノップ(2003)107&quot;&gt;[[#クノップ(2003)|クノップ(2003)]] p.107&lt;/ref&gt;。ヒムラーはヴェーヴェルスブルク城にヒトラーの部屋を作らせ、その訪問を心待ちにしていたが、最後までヒトラーから相手にされることはなかった&lt;ref name=&quot;ヘーネ(1981)158&quot;&gt;[[#ヘーネ(1981)|ヘーネ(1981)]] p.158&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> === ヒムラーと大指揮者 ===<br /> ベルリンフィルの首席指揮者[[ヴィルヘルム・フルトヴェングラー]]を毛嫌いしていた。原因はフルトヴェングラーが逮捕された知人を釈放するように高圧的に要求したことにあった。元来、フルトヴェングラーは偉そうな官僚に対して喧嘩をふっかける傾向があり、この時もヒムラーの恐ろしさを知らず、単なる木端役人と思い込んでいた。ヒムラーは後々までも根に持ち、反社会的人物と見なし、収容所で抹殺する機会を執拗に狙っていた。だが、フルトヴェングラーの利用価値を重視するヒトラーやゲッベルスの反対もあり、流石のヒムラーも逮捕に踏み切れなかった。また、[[シュペーア]]などの一部の心ある指導者はフルトヴェングラーに「あなたはヒムラーに狙われているから、早く亡命しなさい」と再三にわたり警告している。ヒトラーの影響力が弱体化し敗戦が目前となった[[1945年]]2月、ヒムラーは[[ウイーン]]滞在中のフルトヴェングラーの逮捕命令を出すが、フルトヴェングラーは間一髪でスイスに亡命した&lt;ref&gt;中川右介『カラヤンとフルトヴェングラー』(幻冬舎新書022)118~125p&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> == 語録と人物評 ==<br /> {{See|q:ハインリヒ・ヒムラー}}<br /> <br /> == ヒムラーを演じた人物 ==<br /> * [[ドナルド・プレザンス]] - 『[[鷲は舞いおりた (映画)|鷲は舞いおりた]]』(1976年、アメリカ映画)<br /> * [[イアン・ホルム]] - 『{{仮リンク|ホロコースト/戦争と家族|en|Holocaust (TV miniseries)}}』(1978年、アメリカドラマ)<br /> * [[ロナルド・レイシー]] - 『[[インディ・ジョーンズ/最後の聖戦]]』(1989年、アメリカ映画){{#tag:ref|ロナルド・レイシーは[[インディ・ジョーンズ シリーズ]]の第一作「[[レイダース/失われたアーク《聖櫃》]]」でも[[ゲシュタポ]]・トート役で出演している。|group=&quot;注&quot;}}<br /> * [[ウルリッヒ・ネーテン]] - 『[[ヒトラー 〜最期の12日間〜]]』(2004年、ドイツ・イタリア・オーストリア映画)、『[[わが教え子、ヒトラー]]』(2007年、ドイツ映画)<br /> * {{仮リンク|マティアス・フライホーフ|de|Matthias Freihof}} - 『[[ワルキューレ (映画)|ワルキューレ]]』(2008年、アメリカ映画)<br /> <br /> == その他 ==<br /> * ドイツ以外の国にも、ヒムラーのように独裁者の個人的信任を背景に政治警察を一手に任された政治家は少なくない。こうした者はしばしば「ヒムラー」と形容されることがある。[[ソ連]]の[[ラヴレンチー・ベリヤ]]や[[中華人民共和国]]の[[康生]]などは、「眼鏡の小男」という特徴までヒムラーに良く似ていた。スターリンは米英首脳にベリヤを「うちのヒムラーです」と冗談交じりに紹介している。<br /> * [[映画]]『[[ヒトラー 〜最期の12日間〜]]』では[[ウルリッヒ・ネーテン]]が演じている。憔悴しきったヒトラーを影で罵倒し、副官にまで「いまさら禁欲的な[[菜食主義]]者に期待しても仕方ないだろう」と酷評されているが、史実ではヒトラーの他にヒムラーも菜食主義者であった(上記参照)。実際の出演は映画冒頭のみでネーテンも短い撮影とセリフの消化に苦労したことをコメントしているが、その後のシーンでも毒薬カプセル・副官[[ヘルマン・フェーゲライン|フェーゲライン]]の処刑など総統地下壕の崩壊に影を落とす存在として描かれている。ネーテンは後年の1944年末を舞台とした別の映画『[[わが教え子、ヒトラー]]』でもヒムラーを演じている。<br /> <br /> == 脚注 ==<br /> {{脚注ヘルプ}}<br /> === 注釈 ===<br /> {{Reflist|group=&quot;注&quot;}}<br /> === 出典 ===<br /> {{reflist|24em}}<br /> <br /> == 参考文献 ==<br /> &#039;&#039;&#039;日本語文献&#039;&#039;&#039;<br /> * {{Cite book|和書|author=[[阿部良男]]著|year=2001|title=ヒトラー全記録 &lt;small&gt;20645日の軌跡&lt;/small&gt;|publisher=[[柏書房]]|isbn=978-4760120581|ref=阿部}}<br /> * {{Cite book|和書|author={{仮リンク|ロベルト・ヴィストリヒ|en|Robert S. Wistrich}}|translator=[[滝川義人]]|year=2002|title=ナチス時代 ドイツ人名事典|publisher=[[東洋書林]]|isbn=978-4887215733|ref=ヴィストリヒ}}<br /> * {{Cite book|和書|author=[[大野英二]]著|year=2001|title=ナチ親衛隊知識人の肖像|publisher=[[未来社]]|isbn=978-4624111823|ref=大野}}<br /> * {{Cite book|和書|author=[[ジョン・キーガン]]著|translator=[[芳地昌三]]|year=1972|title=ナチ武装親衛隊 &lt;small&gt;ヒトラーの鉄血師団&lt;/small&gt;|publisher=[[サンケイ新聞社]]出版局|series=第二次世界大戦ブックス35|asin=B000J9H4WO|ref=キーガン}}<br /> ** {{Cite book|和書|author=ジョン・キーガン著|translator=芳地昌三|year=1985|title=ナチ武装親衛隊 &lt;small&gt;ヒトラーの鉄血師団&lt;/small&gt;(上記文庫版)|publisher=[[サンケイ出版]]|series=第二次世界大戦文庫24|isbn=978-4383024280|ref=キーガン文庫}}<br /> * {{Cite book|和書|author=[[グイド・クノップ]]|translator=[[高木玲]]|year=2001|title=ヒトラーの共犯者 &lt;small&gt;12人の側近たち&lt;/small&gt; 上|publisher=[[原書房]]|isbn=978-4562034178|ref=クノップ(2001)上}}<br /> * {{Cite book|和書|author=グイド・クノップ|translator=高木玲|year=2003|title=ヒトラーの親衛隊|publisher=原書房|isbn=978-4562036776|ref=クノップ(2003)}}<br /> * {{Cite book|和書|author={{仮リンク|エドゥアルト・クランクショウ|en|Edward Crankshaw}}著|translator=[[渡辺修]]{{要曖昧さ回避|date=2016年1月}}|year=1973|title=秘密警察―ヒトラー帝国の兇手|publisher=[[図書出版社]]|ref=クランク}}<br /> * {{Cite book|和書|author=[[栗原優]]著|year=1997|title=ナチズムとユダヤ人絶滅政策 &lt;small&gt;ホロコーストの起源と実態&lt;/small&gt;|publisher=[[ミネルヴァ書房]]|isbn=978-4623027019|ref=栗原}}<br /> * {{Cite book|和書|author={{仮リンク|ゲリー・S・グレーバー|en|Gerry S. Graber}}|translator=[[滝川義人]] |year=2000|title=ナチス親衛隊|publisher=[[東洋書林]]|isbn=978-4887214132|ref=グレーバー}}<br /> * {{Cite book|和書|author=[[オイゲン・コーゴン]]著|translator=[[林功三]]|year=2001|title=SS国家 &lt;small&gt;ドイツ強制収容所のシステム&lt;/small&gt;|publisher=ミネルヴァ書房|isbn=978-4623033201|ref=コーゴン}}<br /> * {{Cite book|和書|author=[[ヴァルター・シェレンベルク]]|translator=[[大久保和郎]]|year=1960|title=秘密機関長の手記|publisher=[[角川書店]]|asin=B000JAPW2M|ref=シェレンベルク}}<br /> * {{Cite book|和書|author=[[芝健介]]|year=1995|title=武装SS &lt;small&gt;ナチスもう一つの暴力装置&lt;/small&gt;|publisher=[[講談社選書メチエ]]|isbn=978-4062580397|ref=芝}}<br /> * {{Cite book|和書|author={{仮リンク|ジョージ・H・スティン|en|George H. Stein}}|translator=[[吉本貴美子]]|others=[[吉本隆昭]]監修|year=2001|title=詳解 武装SS興亡史 &lt;small&gt;ヒトラーのエリート護衛部隊の実像 1939‐45&lt;/small&gt;|publisher=[[学研]]|series=WW selection|isbn=978-4054013186|ref=スティン}}<br /> * {{Cite book|和書|author=[[高橋三郎 (社会学者)|高橋三郎]]著|year=2000|title=強制収容所における「生」|publisher=[[世界思想社]](新装版)|isbn=978-4790708285|ref=高橋}}<br /> * {{Cite book|和書|author=[[谷喬夫]]著|year=2000|title=ヒトラーとヒムラー &lt;small&gt;氷のユートピア&lt;/small&gt;|publisher=[[講談社選書メチエ]]|isbn=978-4062581769|ref=谷}}<br /> * {{Cite book|和書|author={{仮リンク|ジェームス・テーラー|en|James Taylor}}、{{仮リンク|ウォーレン・ショー|en|Warren Shaw}}|translator=[[吉田八岑]]|year=1993<br /> |title=ナチス第三帝国事典|publisher=[[三交社]]|isbn=978-4879191144|ref=テーラー}}<br /> * {{Cite book|和書|author={{仮リンク|ジャック・ドラリュ|fr|Jacques Delarue}}著|translator=[[片岡啓治]]|year=1968|title=ゲシュタポ・狂気の歴史―ナチスにおける人間の研究|publisher=[[サイマル出版会]]|asin=B000JA4KQQ|ref=ドラリュ}}<br /> ** {{Cite book|和書|author=ジャック・ドラリュ著|translator=片岡啓治|year=2000|title=ゲシュタポ・狂気の歴史|publisher=[[講談社学術文庫]]|isbn=978-4061594333|ref=ドラリュ文庫}}<br /> * {{Cite book|和書|author=[[長谷川公昭]]著|year=1996|title=ナチ強制収容所 &lt;small&gt;その誕生から解放まで&lt;/small&gt;|publisher=[[草思社]]|isbn=978-4794207401|ref=長谷川}}<br /> * {{Cite book|和書|author={{仮リンク|ルパート・バトラー|de|Rupert Butler}}著|translator=[[田口未和]]|year=2006|title=ヒトラーの秘密警察 ゲシュタポ;恐怖と狂気の物語|publisher=[[原書房]]|isbn=978-4562039760|ref=バトラー}}<br /> * {{Cite book|和書|author=[[桧山良昭]]|year=1976|title=ナチス突撃隊|publisher=[[白金書房]]|asin=B000J9F2ZA|ref=桧山}}<br /> * {{Cite book|和書|author=[[ラウル・ヒルバーグ]]著|translator=[[望田幸男]]・[[原田一美]]・[[井上茂子]]|year=1997|title=ヨーロッパ・ユダヤ人の絶滅 上巻|publisher=[[柏書房]]|isbn=978-4760115167|ref=ヒルバーグ上}}<br /> * {{Cite book|和書|author=ラウル・ヒルバーグ著|translator=望田幸男・原田一美・井上茂子|year=1997|title=ヨーロッパ・ユダヤ人の絶滅 下巻|publisher=柏書房|isbn=978-4760115174|ref=ヒルバーグ下}}<br /> * {{Cite book|和書|author=[[ハインツ・ヘーネ]]著|translator=[[森亮一]]|year=1981|title=SSの歴史 &lt;small&gt;髑髏の結社&lt;/small&gt;|publisher=[[フジ出版社]]|isbn=978-4892260506|ref=ヘーネ}}<br /> ** {{Cite book|和書|author=ハインツ・ヘーネ著|translator=森亮一|year=2001|title=SSの歴史 &lt;small&gt;髑髏の結社&lt;/small&gt; 上|publisher=[[講談社学術文庫]]|isbn=978-4061594937|ref=ヘーネ文庫上}}<br /> ** {{Cite book|和書|author=ハインツ・ヘーネ著|translator=森亮一|year=2001|title=SSの歴史 &lt;small&gt;髑髏の結社&lt;/small&gt; 下|publisher=講談社学術文庫|isbn=978-4061594944|ref=ヘーネ文庫下}}<br /> * {{Cite book|和書|author=[[マイケル・ベーレンバウム]]著|translator=[[芝健介]]|year=1996|title=ホロコースト全史|publisher=[[創元社]]|isbn=978-4422300320|ref=ベーレンバウム}}<br /> * {{Cite book|和書|author=[[松永祝一]]|year=2005|title=ハインリッヒ・ヒムラー|publisher=[[文芸社]]|isbn=978-4286005461|ref=松永}}<br /> * {{Cite book|和書|author=[[森瀬繚]]、[[司史生]]|year=2008|title=図解第三帝国|publisher=[[新紀元社]]|isbn=978-4775305515|ref=森瀬}}<br /> * {{Cite book|和書|author=[[山下英一郎]]|year=1997|title=SSガイドブック|publisher=[[新紀元社]]|isbn=978-4883172986|ref=山下(1997)}}<br /> * {{Cite book|和書|author=山下英一郎|year=2006|title=ナチ・ドイツ軍装読本 &lt;small&gt;SS・警察・ナチ党の組織と制服&lt;/small&gt;|publisher=[[彩流社]]|isbn=978-4779112126|ref=山下(2006)}}<br /> * {{Cite book|和書|author=山下英一郎|year=2010|title=制服の帝国 &lt;small&gt;ナチスSSの組織と軍装&lt;/small&gt;|publisher=彩流社|isbn=978-4779114977|ref=山下(2010)}}<br /> * {{Cite book|和書|author={{仮リンク|ロビン・ラムスデン|en|Robin Lumsden}}|translator=[[知野龍太]]|year=1997|title=ナチス親衛隊軍装ハンドブック|publisher=[[原書房]]|isbn=978-4562029297|ref=ラムスデン}}<br /> * {{Cite book|和書|editor=[[ヨッヘン・フォン・ラング]]編|translator=[[小俣和一郎]]|year=1960|title=アイヒマン調書 &lt;small&gt;イスラエル警察尋問録音記録&lt;/small&gt;|publisher=[[岩波書店]]|isbn=978-4000220507|ref=ラング}}<br /> *{{Cite book|和書|author=[[マルセル・リュビー]]著|translator=[[菅野賢治]]|year=1998|title=ナチ強制・絶滅収容所 &lt;small&gt;18施設内の生と死&lt;/small&gt;|publisher=[[筑摩書房]]|isbn=978-4480857507|ref=リュビー}}<br /> * {{Cite book|和書|year=2001|title=武装SS全史I|series=欧州戦史シリーズVol.17|publisher=[[学研]]|isbn=978-4056026429|ref=学研1}}<br /> * {{Cite book|和書|year=2001|title=武装SS全史II|publisher=学研|series=欧州戦史シリーズVol.18|isbn=978-4056026436|ref=学研2}}<br /> <br /> &#039;&#039;&#039;英語文献&#039;&#039;&#039;<br /> * {{Cite book|author=Katrin Himmler|translator=Michael Mitchell|year=2008|title=The Himmler Brothers -A German Family History-(ペーパーバック)|publisher=Pan Macmillan|isbn= 978-0330448147|ref=Katrin}}<br /> * {{Cite book|author=Roger Manvell,Heinrich Fraenkel|year=2007|title=HEINRICH HIMMLER The Sinister Life of the Head of the SS and Gestapo([[ペーパーバック]])|publisher=Skyhorse Publishing|language=[[英語]]|isbn=978-1602391789|ref=Manvell}}<br /> * {{Cite book|author=Mark C. Yerger|year=2002|title=Allgemeine-SS|publisher=Schiffer Pub Ltd|language=[[英語]]|isbn=978-0764301452|ref=Yerger}}<br /> <br /> == 外部リンク ==<br /> {{Wikiquote|ハインリヒ・ヒムラー}}<br /> {{Commons|Heinrich Himmler}}<br /> * http://www.lexikon-der-wehrmacht.de/Personenregister/HimmlerH.htm<br /> * http://www.dhm.de/lemo/html/biografien/HimmlerHeinrich/<br /> * [http://www.shoa.de/p_heinrich_himmler.html Biografie bei Shoa.de]<br /> * http://www.fdk-berlin.de/forum2000/filme/himmler.html<br /> * http://www.kueste.vvn-bda.de/grab.htm<br /> * [http://www.dieterwunderlich.de/Heinrich_Himmler.htm Biografie Himmlers und weiterführende Links]<br /> * [http://www.lohengrin-verlag.de/Artikel/Himmler.htm Heinrich Himmler und die Schwarze Sonne]<br /> <br /> {{Start box}}<br /> {{S-ppo}}<br /> {{Succession box<br /> | title = [[親衛隊全国指導者]]<br /> | years = [[1929年]][[1月6日]] - [[1945年]][[4月28日]]<br /> | before = [[エアハルト・ハイデン]]<br /> | after = [[カール・ハンケ]]<br /> }}<br /> {{Succession box<br /> | title = [[国家保安本部|国家保安本部長官]]<br /> | years = [[1942年]][[6月4日]] - [[1943年]][[1月30日]]<br /> | before = [[ラインハルト・ハイドリヒ]]<br /> | after = [[エルンスト・カルテンブルンナー]]<br /> }}<br /> {{S-off}}<br /> {{Succession box<br /> | title = 全ドイツ警察長官<br /> | years = [[1936年]][[6月17日]] - [[1945年]][[4月28日]]<br /> | before = (新設)<br /> | after = (廃止)<br /> }}<br /> {{Succession box<br /> | title = [[内務大臣]]<br /> | years = [[1943年]][[8月24日]] - [[1945年]][[4月28日]]<br /> | before = [[ヴィルヘルム・フリック]]<br /> | after = [[ヴィルヘルム・シュトゥッカート]]<br /> }}<br /> {{S-mil}} <br /> {{Succession box<br /> | title = [[国内予備軍]]司令官<br /> | years = [[1944年]][[7月20日]] - [[1945年]][[4月28日]]<br /> | before = [[フリードリヒ・フロム]]<br /> | after = (廃止)<br /> }}<br /> {{Succession box<br /> | title = [[上ライン軍集団]]司令官<br /> | years = [[1944年]][[12月10日]] - [[1945年]][[1月24日]]<br /> | before = (新設)<br /> | after = (廃止)<br /> }}<br /> {{Succession box<br /> | title = [[ヴァイクセル軍集団]]司令官<br /> | years = [[1945年]][[1月25日]] - [[1945年]][[3月12日]]<br /> | before = (新設)<br /> | after = [[ゴットハルト・ハインリツィ]]<br /> }}<br /> {{End box}}<br /> <br /> {{ナチ党}}<br /> {{ヒトラー内閣}}<br /> {{Normdaten}}<br /> {{Good article}}<br /> <br /> {{DEFAULTSORT:ひむらあ はいんりひ}}<br /> [[Category:ミュンヘン出身の人物]]<br /> [[Category:第一次世界大戦期ドイツの軍人]]<br /> [[Category:第一次世界大戦後ドイツ義勇軍]]<br /> [[Category:ナチ党全国指導者]]<br /> [[Category:親衛隊将軍]]<br /> [[Category:ヴァイマル共和国の政治家]]<br /> [[Category:ドイツ第三帝国期の政治家]]<br /> [[Category:ドイツ第三帝国の将軍]]&lt;!--ヴァイクセル軍集団司令官なので--&gt;<br /> [[Category:ドイツの反共主義者]]<br /> [[Category:ホロコースト]]<br /> [[Category:神秘思想家]]<br /> [[Category:自然保護活動家]]<br /> [[Category:捕虜となった人物]]<br /> [[Category:自殺した人物]]<br /> [[Category:1900年生]]<br /> [[Category:1945年没]]</div> 58.156.158.18 クラブ活動 2018-07-21T03:34:17Z <p>58.156.158.18: /* 課題・問題点と対策 */</p> <hr /> <div>{{redirectlist|部活動|西田理英の漫画|部活動 (漫画)|伊藤清順の漫画|ぶかつどう}}<br /> {{redirect|同好会|大正・第二次大戦中の[[院内会派]]の同&#039;&#039;&#039;交&#039;&#039;&#039;会|同交会}}<br /> {{複数の問題<br /> |出典の明記 = 2018年5月<br /> |独自研究 = 2007年11月<br /> }}<br /> &#039;&#039;&#039;クラブ活動&#039;&#039;&#039;(クラブかつどう、club activity)もしくは、&#039;&#039;&#039;部活動&#039;&#039;&#039;(ぶかつどう、extracurricular activity)、&#039;&#039;&#039;サークル活動&#039;&#039;&#039;(サークルかつどう)は、いずれも共通の趣味・興味を持つ仲間が集まった[[団体]]での活動のこと。[[学校|学校内]]のほか企業内や市民サークルとしての活動もまた多く存在する。<br /> <br /> == 概説 ==<br /> 部活動、クラブ活動、サークル活動の内容には様々なものがあり、活動の類型は各学校・各団体で異なっている。活動内容により、大まかに「運動系(体育系)」と「文化系」に区分されることが多い。なお、運動系の部を運動部(あるいは体育部)、文化系の部を文化部という。<br /> <br /> 学校教育における活動では[[日本]]の「部活動」のように厳密な定義が設けられている場合もある(後述)。「クラブ活動」も学習指導要領上の用語であるが、中学校では2002年、高等学校では2003年の学習指導要領改訂で消滅している。<br /> <br /> 通常日本では[[小学校]]、[[中学校|中学]]または[[高等学校|高校]]や[[大学]]・[[短期大学]]において、同じクラブ活動を卒業まで行うことが多い(学校側が複数のクラブ活動への参加を認めている場合は、1人で複数のクラブ活動に参加している事例もある)。しかし、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]ではシーズンごとに違った部活動に所属することが多い&lt;ref name=&quot;chosa2012&quot; /&gt;。一年中同じクラブに所属することはあまりないため、さまざまな競技や文化体験ができる。<br /> <br /> 欧米諸国やオーストラリア・ニュージーランドなどでは、学校単位での組織的な部活動ではなく、地域の[[クラブチーム]]に所属することも多い。[[近代オリンピック|オリンピック]]、[[サッカー]]等で一流選手を輩出しているのは地域のクラブチームが存在するためで、中にはプロの選手も存在し高度な練習が行えるためである。日本でも、サッカーなど一部の競技では、部活動ではなく、[[日本クラブユースサッカー連盟|ユースチーム]]などに所属する例が見られる。<br /> <br /> [[社会主義国]]では国威高揚のため国がかりでアスリート育成を行うことが多かった。<br /> <br /> == 日本の学校教育の部活動 ==<br /> === 定義 ===<br /> 日本の学校教育の「部活動」には定義があり、[[学習指導要領]]では、「部活動は,学校教育活動の一環として,スポーツや文化,学問等に興味と関心をもつ同好の生徒が,教職員の指導の下に,主に放課後などにおいて自発的・自主的に活動するもの」&lt;ref name=&quot;:0&quot;&gt;文部科学省,高等学校学習指導要領解説 特別活動編,46. http://www.mext.go.jp/component/a_menu/education/micro_detail/__icsFiles/afieldfile/2011/01/05/1234912_014.pdf&lt;/ref&gt;と定義されており、その内容については、「スポーツや文化及び科学等に親しませ,学習意欲の向上や責任感,連帯感の涵養等に資するものであり,学校教育の一環として,教育課程との関連が図られるよう留意すること」&lt;ref&gt;文部科学省,中学校学習指導要領解説 総則編,84. http://www.mext.go.jp/component/a_menu/education/micro_detail/__icsFiles/afieldfile/2011/01/05/1234912_001.pdf&lt;/ref&gt;と指示されている。<br /> <br /> 部活動は[[小学校]]・[[中学校]]・[[高等学校]]・[[大学]]・[[短期大学]]・[[高等専門学校]]・[[専修学校]]で一般的に使われる呼称であり、&#039;&#039;&#039;部活&#039;&#039;&#039;(ぶかつ)と略される。<br /> <br /> 学校において&#039;&#039;&#039;部&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;同好会&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;愛好会&#039;&#039;&#039;などというように団体を種別ごとに区分する制度と関連し、狭義には、部という団体種の活動を指して部活動という。この場合、新規創設時は愛好会・同好会として活動し、ある程度の活動実績が評価されて部に昇格するシステムを採る学校もある。この場合、部に昇格することで、例えば、部の運営費用が生徒会から予算として認められるようになる。<br /> <br /> 一方、広義には部のような活動を行う団体全ての活動を指し、各学校などによってその範囲が定められているのが通例である。<br /> <br /> === 加入 ===<br /> 2007年度の[[栃木県]]の中学校および高校における入部率は90.8%で、運動部が73.6%、文化部が17.2%となっている。統計では文化部の入部率が年々上昇しており、昔と比べて男子生徒の選択肢が広がったことが増加に繋がったとされる&lt;ref&gt;[http://web.archive.org/web/20071112065000/http://www.tokyo-np.co.jp/article/tochigi/20071111/CK2007111102063574.html 東京新聞-中高生とも入部率増加 部活動 07年度県教委調査]&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 2013年現在の情報として、[[長野県]]では運動部の加入率自体が全国平均より7.7%低いという。逆に、大部分の学校において、年間を通して朝練習が行われている状況は、全国比で同県が突出しているという&lt;ref&gt;[http://sankei.jp.msn.com/life/news/131114/edc13111408060001-n2.htm 賛否渦巻く部活の「朝練」-「廃止」に踏み出した長野の決断 中学生の燃え尽き症候群など懸念+(2-2ページ)] - MSN産経ニュース、2013.11.14&lt;/ref&gt;。部の練習時間を確保するため早朝から登校して行われる練習(いわゆる“朝練”)が行われ、一部生徒は学課授業を睡眠に充てるなどして部活動の練習、競技、演目を消化する&lt;ref&gt;前園真聖(元プロサッカー選手)鹿児島実業高校卒サッカー部所属。しくじり先生 俺みたいになるな 3時間SP テレビ朝日 2015年 ゲスト出演&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 基本的には、部活動の入部は強制ではなく、自主的なもので任意での参加ではある(学校によってはクラブ活動の所属を義務付けている事例もある)が、中等教育では、どの部にも所属せずに、その日の授業が終わり次第校舎を後にして帰宅する生徒は[[帰宅部]]と呼ばれる。<br /> <br /> また、「在籍しているが活動に参加していない」という部員をよく、&#039;&#039;&#039;{{Anchor|幽霊部員}}&#039;&#039;&#039;と呼ぶ。幽霊部員が出る背景には、たとえば入部が義務付けられているが希望する部が無い、「履歴書に書く」ための実績の確保などがある。実質的には「部活動に参加せず、すぐ下校する」という、いわゆる[[帰宅部]]と呼ばれるスタイルである。<br /> <br /> クラブ活動によっては、優秀な生徒の引き抜き防止などの理由から、[[転学]]者に対しての活動を一定期間禁止・制限する場合もある(元の学校へ通学が続けられない理由がある場合や、元の学校でその部に入部していなかった場合は、参加が認められることもある)。同様に[[過年度生]]に対しても、体格などの理由から活動できる期間がその学校の最短修業年限より短い期間に制限される場合がある。<br /> <br /> === 運動系と文化系 ===<br /> {{未検証|section=1|date=2011年8月}}<br /> 部活動・クラブ活動・サークル活動は、運動系と文化系に分けられる。日本においては、運動系の部活動がまず作られたといわれている。<br /> ; 運動系<br /> : 一般に運動系は、対抗試合に勝ち、より高い成績を収めることが重要とされている。スポーツによる人間形成が行われることを期待し、日本においては、精神的な活動をするところも多い。最近では、精神性を重視しつつ、科学的な手法を練習メニューに組み込むことで、活動時間を短時間に抑えて効果を上げる部もある。<br /> : 学校管理下における運動部活動は「&#039;&#039;学校教育活動の一環として、スポーツに興味と関心を持つ同好の児童生徒が、教員等の指導の下に、自発的・自主的にスポーツを行うものであり、より高い水準の技能や記録に挑戦する中で、スポーツの楽しさや喜びを味わい、学校生活を充実させる意義を有するもの&#039;&#039;」(文部科学省)としている&lt;ref&gt;[http://www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/html/hpad199801/hpad199801_2_051.html 我が国の文教施策] 文部科学省]&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> ; 文化系<br /> : 文化系は、目的とすることをどのように設定するかによって、重要とされることは異なる。大会などの成績であることもあれば、学校や地域における奉仕的な活動の遂行や、学術・芸術・技術などにおいての相互扶助、研究の成果を提供することであったりもする。なお、吹奏楽部・合唱部・演劇部などの公演系は、[[全日本吹奏楽コンクール]]・[[NHK全国学校音楽コンクール]]などの大会で優秀な成績をとるために休日もなく厳しい練習を積んだり、[[マーチングバンド|マーチングコンテスト]]に参加する部では運動系の部とほぼ変わらないような肉体的な訓練を積むこともある。<br /> : 活動内容に学校独自の要素が多く、部によっては全国高等学校文化連盟などの文化連盟において該当する部門が無い場合もある。それらの部では、学校内や地域を対象にした発表を目標におく者が多い。<br /> ; 総務部<br /> : 文化系のうち、学校全体の行事に関わるような活動を行う放送部・吹奏楽部などについては、「総務部」として分類されることや、委員会活動として捉えられる場合もある。また、運動系に分類されることの多い応援団などにも同様の傾向がある。<br /> ; 外局<br /> :北海道の多くの高等学校では、「吹奏楽」・「放送」・「図書」に関わる活動を部活動ではなく、生徒会の外局として設置している。外局制度を導入する学校では、「吹奏楽局」、「放送局」、「図書局」などの呼称が用いられる。<br /> <br /> === 各段階別の活動 ===<br /> [[小学校]]、[[中学校]]、[[高等学校]]、[[大学]]と[[公教育]]の段階が進むにつれ、部活動、クラブ活動、サークル活動の状況は少しずつ変わる。小学校などでは、クラブ活動が中心とされるところが多く、中学校や高等学校では、部活動が中心とされるところが多い。大学になると比較的[[在籍者 (学習者)|学生]]の束縛はゆるくなることが多い。大きくは[[公益]]・分野重視の団体と人間交流重視の団体に2分されるが、重視するものを明確にしていない団体も存在する。<br /> <br /> [[初等教育]]、[[中等教育]]段階の部活動等に伴う[[競技]]については、主催者の明確化、[[勝利]]至上主義の排除、参加の本人意志の尊重など、全国的な基本基準が定められており&lt;ref&gt;「児童生徒の運動競技に関する基準」(『児童・生徒の運動競技について」の廃止に伴う新たな児童生徒の運動競技の取扱いについて』・[http://www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/nc/t20010330004/t20010330004.html 平13年12ス企体第6号、[[文部科学省]][[スポーツ]]・[[青少年]]局企画・[[体育]]課長通知「児童生徒の運動競技について」別添]より)。&lt;/ref&gt;、これに基づいて各[[教育庁]]、[[学校]]、[[団体]]等も詳細な[[基準]]や[[安全]][[対策]]等を作成し、[[責任]]の明確化と[[児童]]・[[在籍者 (学習者)|生徒]]の[[健康]]や[[学習|学業]]に支障のない範囲で活動が行われることになっている。<br /> <br /> ==== 初等教育 ====<br /> 小学校などの初等教育においては、クラブ活動は必修となっている。これは、[[学習指導要領]]に定めがあり、[[特別活動]]の一領域とされているためである。各学校毎や複数校が連携する形でそれなりにクラブが設けられている。なお、組織率は低いが、必修ではない選択制の部活動・クラブ活動も組織され、[[合唱]]団・[[ブラスバンド]]を初めとして組織されている。なお、必修のクラブ活動と選択のクラブ活動を区別するために、それぞれを「必修クラブ」「選択クラブ」と呼ぶこともある。<br /> <br /> 小学校のクラブ活動は、毎週の6校時目に各教室に分かれて活動を行う事が多い。また、最近では、「クラブ活動」という名称以外の時間は、基本的にクラブ活動をしないという学校も多い。だが、必修のクラブ活動については、[[学習指導要領#2002年(平成14年)-|学習指導要領]]の改定により、いわゆる「[[ゆとり教育]]」の一環で、[[2002年]]度から[[土曜日]]が全て[[休日|休業日]]になり、それにともなって毎週のクラブ活動の時間が月1時間程度に削減される学校が増加していった。授業時間を確保するための処置ともいえる。運営は各クラブの実態によって練習時間が変則的になり放課後に発表会のための練習を行うところもある。[[子供|子ども]]たちの要望や、地域の[[ボランティア]](多くの場合、元[[保護者]])が指導に来校する場合もあるが、実質の運営は個々の教員による。<br /> <br /> [[京都府]][[京都市]]では、部活動も近年始まり、[[文化]]系の部活動も存在する。[[休み時間#放課後|放課後]]に異なる[[学年]]や[[学級]]の児童が1つの集団となって部活動を行うことは、[[コミュニケーション]]の発達の上でもたいへん望ましいとされる。しかし、指導員の確保はたいへん難しく、[[教員]]だけでは十分に対応できない場合が増えている。&lt;!--一部の真面目な教員の存在がある。「これは自分の仕事ではない、負担になる。」といって何でも断る教員は、時代に取り残される異物である。--&gt;地域教育力の低下する現在、保護者と児童の現実を守るのは教員の積極的なかかわりが必要不可欠である。[[英語]]部などのような教員が指導を苦手とする分野は、保護者だけで部活動を運営するところもある。初等教育においては、[[校長]]の指導の下に教員が部活動運営の基盤となるべきであるが、なかなか行き届かないことも多い。&lt;!--健全な社会創りのさまたげになっている。--&gt;一方、児童や教員の負担を考え、かつては行なってきた部活動を廃止し、[[クラブチーム|地域のクラブ・サークルやスポーツ少年団]]などに事実上委託する小学校も増えてきている。<br /> <br /> なお、小学生を対象とした[[スポーツ少年団]]が小学校単位で活動している場合において、指導者によって、例えば[[少年サッカー]]クラブチームが「[[サッカー]]部」、[[少年野球]]クラブチームが「[[野球]]部」と呼ばれるなど、当該スポーツ少年団が暗黙にその小学校のクラブ活動と同義のものとして認識され、「学校のクラブ」「地域のクラブ」の境界が曖昧になることがある。<br /> [[合宿]]は,一般的には行われない。<br /> <br /> ==== 中等教育 ====<br /> [[中学校]]や[[高等学校]]などの[[中等教育]]においては、部活動もクラブ活動も[[課外活動]]である。<br /> <br /> 1958年の学習指導要領では、特別教育活動の1つとして、生徒の自発的な参加によって行われる活動とされていたが、中学校では1972年、高等学校では1973年改訂の学習指導要領から、クラブ活動は[[特別活動]]の一領域として必修とされた。中学校では1993年、高等学校では1992年改訂の学習指導要領では、「部活動への参加をもってクラブ活動の一部又は全部の履修に替えることができる」と明記された。しかし、中学校では2002年、高等学校では2003年改訂の学習指導要領で必修のクラブ活動は[[総合的な学習の時間]]に吸収・統合される形で廃止され、現在の学習指導要領では「部活動は,学校教育活動の一環として,スポーツや文化,学問等に興味と関心をもつ同好の生徒が,教職員の指導の下に,主に放課後などにおいて自発的・自主的に活動するもの」&lt;ref name=&quot;:0&quot; /&gt;とされている。現在では各校の実態に応じ、生徒の自主的、自発的な参加&lt;ref&gt;[http://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/new-cs/youryou/chu/sou.htm 文部科学省 現行学習指導要領 第1章 総則 第4 指導計画の作成等に当たって配慮すべき事項 (13)]&lt;/ref&gt;による課外活動の一環としての部活動が行われている。<br /> <br /> 多くの学校では、部活動は、[[生徒会]]の傘下または連携関係や協力関係において運営する。<br /> <br /> 中学、高校で運動部活動指導に当たる教員の競技経験の有無は凡そ5割&lt;!--(内訳)中学校・経験有47.9%、無52.1% 高校・経験有55.0%、無45.0%--&gt;前後となっている&lt;ref&gt;[http://www.japan-sports.or.jp/Portals/0/data/katsudousuishin/doc/houkokusho.pdfhttp://www.japan-sports.or.jp/Portals/0/data/katsudousuishin/doc/houkokusho.pdf 学校運動部活動指導者の実態に関する調査報告書]公益財団法人日本体育協会指導者育成専門委員会 平成26年7月(PDF)&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> ==== 高等教育 ====<br /> [[大学]]・[[短期大学]]・[[高等専門学校]]などの[[高等教育]]の場においては、これらの諸活動は全て[[課外活動]]である。このため、活動団体の類型区分は各学校によって異なるが、一般的に学生の志向によって、公益・分野重視の団体と人間交流重視の団体に大きくは分ける事が出来るといわれている。なお、複数の学校に跨って活動する「[[インターカレッジ]](一般には略して&#039;&#039;&#039;インカレ&#039;&#039;&#039;)サークル」と呼ばれる形態のものも見られる。<br /> <br /> 体育会や文化会などの自治組織が設けられて、部活動やクラブ活動を管轄していることが多い。体育会や文化会などと[[学生自治会]]の関係は学校ごとに様々である。また、これらの活動分野ごとの組織に所属しないでサークル活動を行うこともある。<br /> <br /> 特に大学に分類される学校での公認クラブは、日本におけるその分野での先駆者的な立場で始まったものも少なくなく、特に外来の運動競技などでは、国内におけるその種目の初期段階から重要な役割を果たしている例があり、そのため、他の学校教育現場での様に、全競技種目を統括するような総合体育大会のような運用方法はとられていない。(一部地域ではそういう形態も見られるが一般的とは言えない。)むしろ競技種目別に個別の連盟や協会が早くから整備され順次加盟校を増やす形態で発達してきたものが殆んどである。(参考:後述関連項目に一部紹介)<br /> <br /> === 組織・大会 ===<br /> ==== 運動系の組織・大会 ====<br /> *[[ユニバーシアード]]<br /> *各地区大学総合体育大会(組織運営されていない地域もある)<br /> *[[全日本医科学生体育大会王座決定戦]]<br /> **[[東日本医科学生体育連盟]]<br /> ***[[東日本医科学生総合体育大会]]<br /> **[[西日本医科学生体育連盟]]<br /> ***[[西日本医科学生総合体育大会]]<br /> *[[全日本歯科学生体育連盟]]<br /> **[[全日本歯科学生総合体育大会]]<br /> *[[全国高等専門学校体育協会]] (傘下に各地区高等専門学校体育連盟がある)<br /> **[[全国高等専門学校総合体育大会]]<br /> *[[全国高等学校体育連盟]]<br /> **[[全国高等学校総合体育大会]]<br /> *[[日本高等学校野球連盟]]<br /> **[[選抜高等学校野球大会]]<br /> **[[全国高等学校野球選手権大会]]<br /> *[[日本中学校体育連盟]]<br /> <br /> ==== 文化系の組織・大会 ====<br /> * [[全日本大学新聞連盟設立準備委員会]]<br /> *[[全国高等学校文化連盟]]<br /> **[[全国高等学校総合文化祭]]<br /> **[[全国高等学校文芸コンクール]]<br /> *[[全国中学校文化連盟]]<br /> **[[中学校総合文化発表会]]<br /> *[[全日本吹奏楽連盟]]<br /> **[[全日本吹奏楽コンクール]]<br /> **[[全日本アンサンブルコンテスト]]<br /> **[[全日本マーチングコンテスト]]<br /> *[[全日本合唱連盟]]<br /> **[[全日本合唱コンクール]]<br /> <br /> === 課題・問題点と対策 ===<br /> 日本の学校において、クラブ活動は生徒・学生の自己実現や成長に重要な役割を担う半面、一部の活動が教師を含めて過度な心身・時間の負担になっているとの指摘がある。こうした、いわゆる「[[ブラック部活]]」問題の対策を含めて、部活動について学術的に研究し、提言を行う「日本部活動学会」が2017年12月発足した&lt;ref&gt;[https://jaseca2017.jimdo.com/ 日本部活動学会](2017年12月29日閲覧)&lt;/ref&gt;<br /> &lt;ref&gt;[https://mainichi.jp/articles/20171228/k00/00m/040/085000c 「日本部活動学会」が発足 名古屋で記念集会]毎日新聞ニュースサイト(2017年12月27日)&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> こうした問題点が認識されるようになった背景の一つとして、2016年8月に[[日本放送協会|NHK]]の番組『[[クローズアップ現代+]]』で、練習中に理不尽なハラスメント行為を行う部活動の問題が取り上げられた。「生徒の人格を否定するような暴言や、体調を崩すほどの長時間拘束」といった内容で、こうした部活動を&#039;&#039;&#039;[[ブラック部活]]&#039;&#039;&#039;と呼び、吹奏楽部の指導者が生徒を罵倒したり椅子を蹴ったりする音声が流され、その実態が放送された&lt;ref&gt;[http://www.nhk.or.jp/gendai/articles/3847/1.html 『「死ね!バカ!」これが指導? ~広がる“[[ブラック部活]]”~』- NHKクローズアップ現代+、2016.8.1]&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 「ブラック部活」まで行かなくとも、記録や勝利を目指して長時間の厳しい練習を行う部活動が、運動が苦手だったり、他の部活動と掛け持ちを希望したりする生徒に過度な負担となっている面がある。このため参加しやすい「軽運動部」を設けるなどする学校もあるほか、[[スポーツ庁]]が運動部活動のガイドラインを策定している&lt;ref&gt;[http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/201803/CK2018032602000245.html 月に数回 楽しく運動/ゆる部活 始まっています]『東京新聞』夕刊2018年3月26日&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> また部活動で死傷事故や野外[[遭難]]が起きることもある。[[那須雪崩事故]](2017年3月)後、部活動として冬山[[登山]]を行う高校は半減した&lt;ref&gt;[https://www.nikkei.com/article/DGKKZO28570650W8A320C1CC0000/ 高校の冬山登山半減 事故後の部活動 安全対策苦悩映す]『日本経済新聞』夕刊2018年3月26日(調査は[[共同通信]]による)&lt;/ref&gt;。他、部発動を指導する教員の[[時間外労働]]が長くなりすぎ、[[過労死]]にまで至った例もある&lt;ref&gt;[https://mainichi.jp/articles/20180717/ddm/041/040/075000c 過労死 部活指導で認定 時間外勤務、月100時間 富山の教諭] 毎日新聞 2018年7月17日&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> [[岐阜県立岐阜商業高等学校|岐阜商高]]硬式野球部監督の[[鍛治舎巧]]は、「引き出しの少ない指導者は生徒を型に嵌めたがる。個性を尊重し奔放にやらせると自分が対応できなくなるから」と話している。<br /> <br /> 競技経験の無い部活の顧問を任される教員も多い。<br /> <br /> 高校球児の頭髪に限れば、周囲の固定観念が根強い。九州地方のチームが甲子園に立った時、監督は選手の頭髪を自由化すると、OBやファンから「球児らしくない」と苦情が殺到した。頭を丸めることを強制することは明確な体罰(暴力)と定義されている&lt;ref&gt;2018年6月7日中日新聞朝刊27面&lt;/ref&gt;。河田剛[[スタンフォード大学]](米国)アメリカンフットボール部コーチは「日本人はケガをおしてやり続けることが素晴らしいと思っている。」&lt;ref&gt;2018年6月9日中日新聞朝刊29面&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> == 欧米の学校教育の部活動 ==<br /> === イギリス ===<br /> イギリスの部活動(学校スポーツ)の歴史は19世紀のパブリックスクールを起源とする&lt;ref name=&quot;chosa2012&quot; /&gt;。運動部の部活動は初等学校と中等学校の双方にあり体育教師が指導している例が多い&lt;ref name=&quot;chosa2012&quot; /&gt;。部活動加入率は約50%で多くの児童や生徒は週に1~2回の活動である&lt;ref name=&quot;chosa2012&quot; /&gt;。<br /> <br /> イングランドの学校で提供されているスポーツ種目数は約50種目であり、各学校では平均18.2種目となっている&lt;ref name=&quot;chosa2012&quot; /&gt;。<br /> <br /> イングランドのナショナルカリキュラムでは、初等学校や中等学校については体育の時間数を週2時間、部活動あるいは地域でのスポーツ活動を週3時間とする計週5時間を政策目標としている&lt;ref name=&quot;chosa2012&quot;&gt;[http://www.mext.go.jp/a_menu/sports/jyujitsu/__icsFiles/afieldfile/2012/07/27/1323969_1_1.pdf 三菱総合研究所「体育活動中の事故防止に関する調査研究における海外調査(報告書)」] 文部科学省&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> === フランス ===<br /> フランスでは体育教育とは別に児童・生徒に対して教育スポーツ(sport scolaire)と呼ばれる活動が提供されている&lt;ref name=&quot;chosa2012&quot; /&gt;。教育スポーツは国民教育省とスポーツ省の共同のパートナーシップで実施されている&lt;ref name=&quot;chosa2012&quot; /&gt;。<br /> <br /> フランスでは教育スポーツを推進するため各学校に学校スポーツ非営利社団(AS)が創設されている&lt;ref name=&quot;chosa2012&quot; /&gt;。<br /> *初等教育ではASの創設義務はないものの、初等教育のASの統括団体である初等教育スポーツ連合(USEP)の加盟校は13,200校である&lt;ref name=&quot;chosa2012&quot; /&gt;。<br /> *中等教育ではASの創設義務があり、加入を希望する中学生や高校生はASに所属して競技に参加することができる&lt;ref name=&quot;chosa2012&quot; /&gt;。<br /> <br /> 2006年の調査ではASに加入してスポーツを行っている生徒が約20%、スポーツクラブに加入してスポーツを行っている生徒が約52%、組織に所属せず自由にスポーツを実践している生徒が約68%であった(複数回答可能な調査で重複あり)&lt;ref name=&quot;chosa2012&quot; /&gt;。<br /> <br /> === ドイツ ===<br /> ドイツでは運動系の部活動に相当するものはないが、授業外スポーツ活動は盛んに行われている&lt;ref name=&quot;chosa2012&quot; /&gt;。ヘッセン州では授業外スポーツ活動として全日制プログラムや協議会の開催などが実施されている&lt;ref name=&quot;chosa2012&quot; /&gt;。<br /> <br /> === アメリカ ===<br /> アメリカの教育政策やスポーツ政策は各州で状況が異なる&lt;ref name=&quot;chosa2012&quot; /&gt;。<br /> <br /> カリフォルニア州の場合、中学校や高等学校では放課後にするクラブ活動が整備されているが、入部の条件としてトライアウトへの合格が必要になる例が多い&lt;ref name=&quot;chosa2012&quot; /&gt;。野球、バスケットボール、アメリカンフットボールなどの人気競技では経験者でなければ入部することは難しいシステムとなっている&lt;ref name=&quot;chosa2012&quot; /&gt;。また、季節によって異なる種目に所属して活動する生徒も多い&lt;ref name=&quot;chosa2012&quot; /&gt;。<br /> <br /> == 活動内容の例 ==<br /> === 運動系 ===<br /> *[[球技]]系<br /> **[[野球]]([[硬式野球]]、[[軟式野球]])<br /> **[[テニス]](硬式テニス、[[ソフトテニス]])<br /> **[[バレーボール]]([[ビーチバレー]])<br /> **[[バスケットボール]]([[3x3]])<br /> **[[サッカー]]([[フットサル]])<br /> **[[ラグビー]]<br /> **[[アメリカンフットボール]]<br /> **[[バドミントン]]<br /> **[[タッチフットボール]]<br /> **[[卓球]]<br /> **[[ソフトボール]]<br /> **[[ラクロス]]<br /> **[[ハンドボール]]<br /> **[[フィールドホッケー]]<br /> **[[アイスホッケー]]<br /> **[[水球]]<br /> **[[ゴルフ]]<br /> **[[ビリヤード]]<br /> **[[ボウリング]]<br /> **[[ゲートボール]]<br /> **[[スカッシュ (スポーツ)|スカッシュ]]<br /> **[[セパタクロー]]<br /> *[[武術]]・[[武道]]系<br /> **[[古武術]]・[[古武道]]([[柔術]]、[[居合術]]、[[弓術]]、[[棒術]])<br /> **[[現代武道]]([[相撲]]、[[柔道]]、[[剣道]]、[[居合道]]、[[空手道]]、[[弓道]]、[[合気道]]、[[薙刀|なぎなた]]、[[杖道]]、[[銃剣道]]、[[短剣道]]、[[少林寺拳法]]、[[日本拳法]]、[[躰道]])<br /> **[[中国武術]]([[太極拳]]、[[八極拳]]、[[少林拳]])<br /> **[[フェンシング]]<br /> **[[アーチェリー]]<br /> *[[格闘技]]系<br /> **[[レスリング]]<br /> **[[ボクシング]]<br /> **[[テコンドー]]<br /> **[[キックボクシング]]・[[ムエタイ]]<br /> **[[カポエイラ]]<br /> *[[野外活動]]系<br /> **[[水泳]]<br /> **[[スキー]]<br /> **[[スノーボード]]<br /> **[[ソリ]]([[ボブスレー]]、[[リュージュ]]、[[スケルトン (スポーツ)|スケルトン]])<br /> **[[登山]]([[山岳]]、[[ワンダーフォーゲル]]、[[ハイキング]])<br /> **[[ボート競技]]([[レガッタ]])<br /> **[[カヌー]]<br /> **[[カッターボート]]<br /> **[[ヨット]]([[セーリング]])<br /> **[[ウィンドサーフィン]]<br /> **[[サーフィン]]<br /> **[[水上スキー]]<br /> **[[ダイビング]]([[スキューバダイビング]]、[[スキンダイビング]])<br /> **[[ローラースケート]]<br /> **[[スケートボード]]<br /> **[[ハンググライダー]]、[[パラグライダー]]<br /> **[[自転車競技|自転車]]<br /> *その他<br /> **[[陸上競技]]<br /> **[[スケート]]([[フィギュアスケート]]、[[スピードスケート]])<br /> **[[体操]]([[体操競技]]、[[新体操]]、[[トランポリン]])<br /> **[[ウエイトリフティング]]<br /> **[[パワーリフティング]]<br /> **[[エアロビクス]]<br /> **[[ボディビル]]<br /> **[[馬術]]<br /> **[[応援団]]・[[チアリーディング]]・[[バトントワリング]]<br /> **[[グライダー|航空部]]<br /> **[[ダーツ]]<br /> **[[ダンス]]([[フォークダンス]])<br /> **[[よさこい]]([[YOSAKOI]]、[[ヤートセ]]等)<br /> <br /> === 文化系 ===<br /> *[[芸術]]系・[[芸能]]系<br /> **[[邦楽]]・[[吹奏楽]]・[[管弦楽]]・[[室内楽]]・[[ギター]]([[クラシックギター]])・[[ハンドベル]]・[[マンドリン]]・[[箏曲]]・[[琴|箏]]・[[尺八]]・[[三味線]]・[[太鼓]]([[和太鼓]]、[[むさしのばやし]])<br /> **[[軽音楽]]・[[ロック (音楽)|ロック]]・[[ジャズ]]・[[フォークソング]]<br /> **[[合唱]](コーラス)<br /> **[[美術]]・[[絵画]]・[[イラスト]]<br /> **[[演劇]]<br /> **[[詩吟]]<br /> **[[落語]]、[[落語研究会 (サークル活動)]]<br /> **[[写真]]、[[デジタル写真]]<br /> **[[手芸]]、[[被服]]<br /> **[[映画]]<br /> **[[放送]](大学では[[放送研究会]]、[[アナウンス研究会]]など)<br /> **[[書道]]<br /> **[[茶道]]<br /> **[[華道]]<br /> **[[装道]]<br /> **[[漫画]]・[[アニメーション]]・[[創作]]<br /> **[[テーブルゲーム]]([[囲碁]]、[[将棋]]、[[チェス]]、[[麻雀]]、[[オセロ (遊戯)|オセロ]]、[[五目並べ]]、[[トランプ]]、[[TRPG]]、[[かるた]]([[競技かるた]]など))<br /> **[[エレクトロニック・スポーツ]]([[ビデオゲーム]]・[[テレビゲーム]]・[[コンピュータゲーム]]・[[テトリス]])<br /> **[[コンピューター]]、[[パソコン]]<br /> **[[クイズ]](大学に多いが、21世紀突入後は高等学校でも創設する事例が増えている)<br /> **[[ルービックキューブ]]<br /> **[[奇術]](マジック)<br /> **[[速記]]<br /> **[[芸能]]([[広告]]・[[アイドル]]・[[ゴシップ]]研究など)<br /> *[[学術]]系・[[社会]]系<br /> **[[文芸]]・[[文学]]<br /> **[[民俗学]]<br /> **[[科学]]([[化学]]、[[生物]]、[[物理]]、[[地学]]、[[天文学|天文]])・[[数学]]<br /> **[[農業]]([[園芸]]、[[畜産]]など)<br /> **[[社会]]([[地理]]、[[歴史]]・[[史学]]、[[旅行]])<br /> **[[外国語]]・[[英語]]・[[英会話]]([[ESS]])・[[ドイツ語]]・[[フランス語]]・[[アラビア語]]・[[ロシア語]]<br /> **[[商業]]([[簿記]]など) <br /> **[[新聞]]・[[報道]]・[[マスメディア|マスコミ]]<br /> **[[政治]]・[[弁論部・雄弁会]]・[[ディベート]]<br /> **[[福祉]]・[[ボランティア]]・[[赤十字]]([[青少年赤十字]])<br /> **[[教育]]([[教育学]]研究や教育・[[保育]]・[[児童]]ボランティア、[[教員採用試験]]対策の勉強など)<br /> **[[交通機関]]([[鉄道]]、[[バス (交通機関)|バス]])<br /> *[[技術]]・[[産業]]系<br /> **[[コンピュータ]]・[[コンピュータ|電子計算機]]、[[情報技術]]・[[情報メディア]]・[[ワープロ]]<br /> **[[ロボット]]、[[機械]]、[[工作]]<br /> **[[自動車]]・[[オートバイ|バイク]]・[[船]]・[[水上オートバイ]]・[[航空]](運動系にあたる場合もある)<br /> **[[サイクリング]](運動系として扱われることもある)<br /> **[[アマチュア無線]]・[[ラジオ]]・[[電子工作]](これらは物理傘下の場合もある)<br /> **[[人力飛行機|航空研究会]]<br /> *[[交流]]系・[[思想]]系(限定した人員で活動を行う団体も多く、「文化系」と区別して扱われることもある)<br /> **[[イベント系サークル]](「遊び系」と捉えられることもある)<br /> **[[社会人サークル]]趣味スポーツ<br /> **特定[[宗教]]、特定[[イデオロギー]]([[社会科学研究会]]、[[原理研究会]]、[[崇教真光#隊活動|L・H陽光研究会]]など)<br /> **[[料理]]([[菓子]]、[[評論]])<br /> **[[パチンコ]]<br /> **[[競馬]](各国の競馬研究。日本では21世紀突入直後に大学生の[[競馬ファン]]によって大学に競馬サークルが急速に創設されるようになり、また各大学の競馬サークルが共同で「[[うまカレ]]」を創設している)<br /> <br /> ==脚注・出典==<br /> {{脚注ヘルプ}}<br /> {{Reflist}}<br /> <br /> == 関連項目 ==<br /> *[[児童会]] - [[生徒会]] - [[学生自治会]]<br /> *[[部室]]<br /> *[[帰宅部]]<br /> *[[日本の高校野球]]<br /> *[[Wikipedia:ウィキプロジェクト 大学/大学同窓組織・保護者組織・学生組織の記事独立基準|大学同窓組織・保護者組織・学生組織の記事を独立するときの基準]]<br /> *[[クラブチーム]]<br /> <br /> == 外部リンク ==<br /> &#039;&#039;&#039;運動系&#039;&#039;&#039;<br /> * [http://www.zen-koutairen.com/ 財団法人全国高等学校体育連盟](全国高体連)<br /> * [http://www.japan-sports.or.jp/chutairen/ 財団法人日本中学校体育連盟](全国中体連)<br /> * [http://www.chutairen.com/fukuoka/ken/ 福岡県中学校体育連盟]<br /> <br /> &#039;&#039;&#039;文化系&#039;&#039;&#039;<br /> * [http://www.kobunren.or.jp/ 社団法人全国高等学校文化連盟](全国高文連)<br /> * [http://www.ne.jp/asahi/funabashi/d-c-a/zenkokutyuubunren.htm 全国中学校文化連盟について](全国中文連、船橋市中学校演劇連盟の[[ウェブページ]]内)<br /> <br /> &#039;&#039;&#039;その他&#039;&#039;&#039;<br /> * [https://jaseca2017.jimdo.com/ 日本部活動学会]<br /> * [http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/niigata/kikaku/078/35.htm 読売新聞記事「部活激変(1)若手教員減り負担増 ボランティア指導に限界も]<br /> * [http://www.yomiuri.co.jp/kyoiku/renai/20060913us41.htm 読売新聞記事「部活激変(2)地域のクラブが代役]<br /> * [http://www.yomiuri.co.jp/kyoiku/renai/20060914us41.htm 読売新聞記事「部活激変(3)教師の負担 報いる動き]<br /> * [http://www.yomiuri.co.jp/kyoiku/renai/20060923us41.htm 読売新聞記事「部活激変(4)顧問の激務 訴え切実]<br /> <br /> {{デフォルトソート:くらふかつとう}}<br /> [[Category:学校文化]]<br /> [[Category:日本の学生生活]]<br /> [[Category:人間関係]]</div> 58.156.158.18 開発独裁 2018-06-23T03:29:33Z <p>58.156.158.18: /* ヨーロッパ・中央アジア */</p> <hr /> <div>&#039;&#039;&#039;開発独裁&#039;&#039;&#039;(かいはつどくさい、{{lang-en-short|developmental dictatorship}}、{{lang|en|developmental autocrat}})とは、<br /> # 経済発展の為には「政治的安定」が必要であるとして、国民の[[政治]]参加を著しく制限し、[[独裁]]を正当化すること。<br /> #: また、そのような政治運営を通して達成した経済発展の成果を国民に分配することによって、支配の正当性を[[担保]]としている政治体制を「開発独裁体制」という。より明確な定義を与えた「開発主義」という用語が用いられている。<br /> # 企業や研究機関が行う商品化の流れの中で、[[研究開発]]期と量産期の間に立ちはだかる、いわゆる「[[デスバレー (研究開発)|研究開発における死の谷]]」という困難な時期がある。これを乗り越えるためにトップダウン型で行う方法論。<br /> 本項目では1.を扱う。<br /> <br /> == 経緯 ==<br /> === 由来 ===<br /> 政治研究者として初めて「開発独裁」という用語を用いたのは[[カリフォルニア大学バークレー校]]の{{仮リンク|ジェームス・グレガー|en|A. James Gregor}}による[[1979年]]の著作「{{lang|en|&#039;&#039;Italian Fascism and Developmental Dictatorship&#039;&#039;}}」(イタリアのファシズムと開発独裁。{{lang|en|Princeton University Press, 1979}})であったとされるが(末廣、1994年、211頁)、その後、彼による開発独裁概念が引き継がれることはなかった。<br /> <br /> むしろ、[[アジア]]・[[ラテンアメリカ]]の政治体制を分析するために用いられたのは、「官僚的権威主義 {{lang|en|bureaucratic authoritarianism}}」「官僚政体 {{lang|en|bureaucratic polity}}」「抑圧的開発政治体制 {{lang|en|repressive developmentalist regime}}」といった諸概念であった。<br /> <br /> 「開発独裁」という用語が初めて用いられたのは、[[1980年代]]前半であるが、[[比較政治]]研究者・[[地域研究]]者などを始めとして、[[日本語]]話者の政治研究者の間では「開発独裁」という語を用いる事には、極めて慎重であった。<br /> <br /> [[日本]]で[[1980年代]]半ば頃から「開発独裁」という用語が、[[マスメディア|マスコミ]]上で頻繁に現れるようになったのは、[[大韓民国|韓国]]や[[中華民国|台湾]]での[[民主化運動]]が高揚し、また、アジア各地で[[開発]]による負の側面が大きくクローズアップされ、それらの地域の各政権に対する批判が生じてからであった。<br /> <br /> 当時「開発独裁政権」と名指しされたのは、[[フェルディナンド・マルコス]]の[[フィリピン]]、[[スハルト]]の[[インドネシア]]、[[リー・クアンユー]]の[[シンガポール]]など、[[東南アジア]]の反共諸政権であった。<br /> <br /> それらの政権は、[[ファシズム]]とは違うため、開発独裁という語が用いられ始めた形跡があるが、その際かならずしも、類似する用語と並べての理論的整理や、概念の精緻化が図られたとは言い難い。<br /> <br /> 当初、開発独裁政権と目された諸政権には、[[1980年代]]初頭に消滅したものもあれば、[[冷戦]]終了後から[[アジア経済危機]]後に消滅したものもある。しかし、今日においても「開発独裁」という用語自体は、[[1980年代]]後半に[[アジア]]諸国に対して批判的に用いられた頃の「語感」のまま、その対象地域を地理的・歴史的に拡散させつつ(ときに不用意に)使用されている。今日でもなお、慎重な検討を要する用語であることに変わりない。<br /> <br /> === 権力独占と抑圧された民主主義 ===<br /> [[フィリピン]]の[[フェルディナンド・マルコス|マルコス]]政権や[[インドネシア]]の[[スハルト]]政権、[[タイ王国|タイ]]の[[サリット・タナラット|サリット]]政権といった「開発独裁」国家では、開発政策を推進する上で、[[軍部]]出身者や国家[[官僚]]などの少数の[[エリート]]が[[権力]]を独占して国家運営を行なった。これは[[利権]]を私物化することになるため、国家中枢の実態は国民に対して隠蔽された。<br /> <br /> これらの開発途上国が経済発展・工業化をめざして開発政策を推し進めていくためには、国家の諸資源を一元的に管理して、計画的かつ優先的に経済開発に投入する必要があった。しかし、こうした開発途上国の政治過程に、地域的・[[党派]]的・[[イデオロギー]]的・[[宗教]]的に多様な集団と、それらを代表する[[政党]]などが、[[選挙]]や[[間接民主制|議会制民主主義]]を通じて参入してくれば、各派の利害が錯綜して、それら調整することは難しくなる。<br /> <br /> 実際、限られた国家資源を各派の政治家が争って食い物にしあうような[[汚職]]や腐敗も目立った。韓国やタイ、インドネシアで開発独裁政権が生まれたのは、それに先立つ時期にそうした「議会政治の失敗」や「政党政治の腐敗」を経験してからのことであった。<br /> <br /> 開発独裁政権下では[[結社の自由]]や[[言論の自由]]が抑圧され、[[秘密警察]]・治安警察による社会の監視体制が作られた。興味深いことに、開発独裁が起きた多くの国では[[共産党]]が強い影響力を持っており、民主主義政党は厳しく弾圧された。[[労働運動]]も政府の[[御用組合]]のみが存続を許されていたにすぎない。<br /> <br /> 開発独裁の「独裁」とは、他ならぬこうした権力の独占状況と、国内における政治的自由の抑圧状況を指し示しているが、開発独裁政権においても「民主主義」的諸制度が全面的に否定されていたわけではない&lt;ref&gt;この点が[[複数政党制]]や[[普通選挙]]を否定する共産党指導下の[[一党独裁制]]と異なるところである&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 開発独裁政権下では、さまざまな制約下で、[[政党]]・[[議会]]・[[選挙]]などの民主的諸制度は存続した。しかし、それらは制度的外観を備えているにすぎないもので、開発独裁政権にとってそれらは政権の「民主的」な正当性を内外にアピールするために必要とされていたに過ぎない。実際には、選挙は政府の厳重な監視下に置かれて実施され、政権与党の圧勝劇を演出し、議会には先鋭的な対立は持ち込まれなかったのである。<br /> <br /> === 開発独裁と共産主義 ===<br /> 開発独裁政権とされた諸国家は、共通項の一つに[[反共主義]]があった。この目的のほとんどは西側、特に[[アメリカ合衆国]]からの援助を受けることにあったのだが、実際は[[共産主義]]([[マルクス・レーニン主義]])のノウハウや組織力に依存している点が多い。<br /> <br /> 例えば、[[中華民国]]の[[蒋経国]]、韓国の[[朴正煕]]は過去に共産党員だった経験から、[[政治将校]]や[[計画経済]]などの共産主義のノウハウを取り入れた。[[タイ王国|タイ]]の[[タクシン・チナワット]]政権、[[シンガポール]]の[[人民行動党]]のように共産主義勢力と関係を結んだ例もある。インドネシアでもフィリピンでもマレーシアでも五カ年計画が行われた。つまり、開発独裁と共産主義は親和性がないとは限らない。<br /> <br /> [[トウ小平|鄧小平]]以来、[[中国共産党]]の[[一党独裁制|一党独裁]]下で[[改革開放|市場経済を導入]]し、著しい経済成長を達成した[[中華人民共和国|中国]]や、同様に[[ドイモイ]]政策を導入した[[ベトナム]]、企業に対する労働者自主管理(経営概念はあるが、資本は労働者所有であり、経営者は労働者が求人する)理念による自主管理社会主義を掲げていた[[ヨシップ・ブロズ・チトー|チトー]]政権時代の[[ユーゴスラビア社会主義連邦共和国|ユーゴスラビア]]なども、一種の開発独裁とする見解もある。<br /> <br /> なぜなら、共産党による[[一党独裁制]]のもとで経済発展の道が模索されるようになれば、それがそのまま開発独裁の外観を具備することにもなるからである。何よりも、当の中国ではこれを意識して、理路整然と開発独裁をマルクス主義に丸め込む動きもある。<br /> <br /> また、[[ソビエト連邦|ソ連]]崩壊後の[[中央アジア]]や[[コーカサス|カフカス]]地方では[[トルクメニスタン]]の[[サパルムラト・ニヤゾフ]]政権、[[カザフスタン]]、[[ウズベキスタン]]、[[アゼルバイジャン]]などに代表されるように、旧共産党指導者が「開発独裁」的な政権運営を行っているような例もある。<br /> <br /> === 開発独裁の終焉 ===<br /> 開発独裁政権が経済運営に成功し(その指標として「年何%の経済成長率」がさかんに喧伝された)、その成果を国民に分配すると、国民の支持を調達して政治的正当性を高めることができる。開発独裁はそのようにして政権の維持を図ってきた。<br /> <br /> [[中華民国]]や[[大韓民国]]では、経済成長の結果、民主化運動([[美麗島事件]]・[[民主化宣言]])が高揚した。その後、また、政権に関わる人物やその一族による不正蓄財、[[同族経営]]、[[汚職]]、また、取り巻きや[[財界人]]・[[政商]]との癒着、[[収賄]]、[[賄賂]]が多発し、開発の恩恵が一部の人々によって独占されていることが明らかになると、開発独裁政権は急速にその正当性を失い、国内の民主化運動から重大な挑戦を受けるようになった。[[1986年]]の[[フィリピン]]における[[フェルディナンド・マルコス|マルコス]]政権の[[エドゥサ革命]]による崩壊は、その一例である。<br /> <br /> 国際的な要因としても、[[1989年]]に起きた[[東欧革命]]によって、[[冷戦|東西冷戦]]が終結したことで、西側諸国(特に[[アメリカ合衆国]])は、アジアにおける反共政権の擁護に関心を失い、むしろその人権状況に厳しい認識を示すようになった。開発独裁政権にとって重要な後ろ盾だったはずの西側諸国の立場は変化したのである。<br /> <br /> また、[[アジア通貨危機]]後の経済危機によって大衆の生活が危機的状況にさらされた[[インドネシア]]でも、[[スハルト]]政権下での汚職・癒着・縁故主義を糾弾する大衆の街頭行動が引き金となって、[[1998年]]、30年以上にわたって長期政権を維持してきたスハルトは辞職した。<br /> <br /> 上記のように、開発独裁の結果として一定の経済発展をなしとげた国では民主化運動の流れの中で政権が崩壊し、開発独裁が終焉したケースが多いが、[[シンガポール]]では先進国並の経済発展を遂げた後も、[[人民行動党]]による事実上の一党独裁制([[ヘゲモニー政党制]])が続いている。<br /> <br /> また共産主義体制で、市場経済を導入した[[中華人民共和国|中国]]や[[ベトナム]]においても、依然として[[共産党]]([[中国共産党]]・[[ベトナム共産党]])による一党独裁体制が継続している。<br /> <br /> == 開発独裁が行われた主な国 ==<br /> 以下に、過去、開発独裁がみられた国家・地域を挙げているが、慎重な検討を要するものもあるので注意。なお()内はその当時の政権名である。<br /> ===東アジア・東南アジア===<br /> * {{Flagicon|PHL}} [[フィリピン]]([[フェルディナンド・マルコス]]政権)<br /> * {{Flagicon|IDN}} [[インドネシア]]([[スハルト]]政権)<br /> * {{Flagicon|KOR}} [[大韓民国|韓国]]([[朴正煕]]政権、[[全斗煥]]政権)<br /> * {{Flagicon|SGP}} [[シンガポール]]([[リー・クアンユー]]政権以降2017年現在も継続中)<br /> * {{Flagicon|ROC}} [[中華民国]]([[台湾]])([[蒋介石]]政権、[[蒋経国]]政権)<br /> * {{Flagicon|THA}} [[タイ王国|タイ]]([[サリット・タナラット|サリット]]政権、[[タクシン・チナワット|タクシン]]政権)<br /> * {{Flagicon|MYS}} [[マレーシア]]([[マハティール・ビン・モハマド|マハティール]]政権以降2017年現在も継続中)<br /> * {{Flagicon|CHN}} [[改革開放]]以降の[[中華人民共和国]]([[鄧小平]]政権以降2017年現在も継続中)<br /> * {{Flagicon|VNM}} [[ドイモイ]]以後の[[ベトナム]]([[ベトナム共産党]][[グエン・ヴァン・リン]]政権)<br /> * [[ファイル:Flag of Bhutan (1949-1956).svg|border|25x20px|]] [[ファイル:Flag of Bhutan (1956-1969).svg|border|25x20px|]] {{Flagicon|BTN}} [[ブータン]](2005年以前のワンチュク家)<br /> * {{Flagicon|MYA1974}} [[ミャンマー]] (1988年以降の軍事政権。2011年の民政移管で事実上終焉)<br /> <br /> ===中近東===<br /> * [[File:State Flag of Iran (1933-1964).svg|border|25x20px|]] {{flagicon|IRN1964}} [[パフラヴィー朝|イラン]]([[モハンマド・レザー・パフラヴィー|パフラヴィー2世]]王政)<br /> * {{Flagicon|IRQ1963}} [[イラク]]([[サッダーム・フセイン]]政権、1980年代)<br /> * {{flagicon|Turkey}} [[トルコ]]([[レジェップ・タイイップ・エルドアン]]政権、2017年現在も継続中)<br /> * {{Flagicon|YEM}} [[イエメン]]([[アリー・アブドッラー・サーレハ]]政権)<br /> <br /> ===ヨーロッパ・中央アジア===<br /> * {{flagicon|SPA}} [[スペイン]]([[フランシスコ・フランコ]]政権。ただし第二次世界大戦中まではファシズム独裁だった)<br /> * {{flagicon|YUG1945}} [[ユーゴスラビア社会主義連邦共和国|ユーゴスラビア]]([[ヨシップ・ブロズ・チトー]]政権)<br /> * {{Flagicon|SSR1955}} {{Flagicon|SSR}} [[ソビエト連邦]]([[ミハイル・ゴルバチョフ]]政権)<br /> * [[ソ連崩壊]]後の旧ソ連構成諸国の一部<br /> ** {{flagicon|Russia}} [[ロシア]]([[ウラジーミル・プーチン]]政権、2017年現在も継続中)<br /> ** {{Flagicon|BLR1991}} {{Flagicon|BLR1995}} {{Flagicon|BLR}} [[ベラルーシ]]([[アレクサンドル・ルカシェンコ]]政権、2017年現在も継続中)<br /> ** {{Flagicon|KAZ}} [[カザフスタン]]([[ヌルスルタン・ナザルバエフ]]政権、2017年現在も継続中)<br /> ** {{Flagicon|UZB}} [[ウズベキスタン]]([[イスラム・カリモフ]]政権以降2017年現在も継続中)<br /> ** {{Flagicon|TKM1992}} {{Flagicon|TKM1997}} {{Flagicon|TKM}} [[トルクメニスタン]]([[サパルムラト・ニヤゾフ]]政権以降2017年現在も継続中)<br /> ** {{Flagicon|AZE}} [[アゼルバイジャン]]([[ヘイダル・アリエフ]]政権以降2017年現在も継続中)<br /> ** {{Flagicon|GEO1990}} [[ジョージア (国)|グルジア]] - ([[エドゥアルド・シェワルナゼ]]政権)<br /> <br /> ===南米===<br /> * {{Flagicon|BRA1889}} {{Flagicon|BRA1960}} {{Flagicon|BRA1968}} [[ブラジル]]([[ジェトゥリオ・ドルネレス・ヴァルガス]](バルガス)政権。他、1964年から1985年までの[[軍事政権]])<br /> * {{Flagicon|CHL}} [[チリ]]([[アウグスト・ピノチェト]]政権)<br /> * {{Flagicon|ARG}} [[アルゼンチン]]([[1976年]]から[[1983年]]にかけての軍事政権)<br /> * {{flagicon|Venezuela}} [[ベネズエラ]]([[ウゴ・チャベス]]政権)<br /> <br /> ===アフリカ===<br /> * {{flagicon|MAR}} [[モロッコ]]([[ハサン2世 (モロッコ王)|ハサン2世]]王政)<br /> * {{flagicon|ZAI}} [[ザイール]](現・[[コンゴ民主共和国]])([[モブツ・セセ・セコ]]政権)<br /> * {{flagicon|LBY1972}} {{flagicon|LBY1977}} [[大リビア・アラブ社会主義人民ジャマーヒリーヤ国|リビア]]([[ムアンマル・アル=カッザーフィー]]による[[ジャマーヒリーヤ]]([[直接民主制|直接民主]])制)<br /> * {{Flagicon|GHA}} [[ガーナ]]([[ジェリー・ローリングス]]政権)<br /> * {{flagicon|South Africa}} [[南アフリカ共和国]]([[ジェイコブ・ズマ]]政権)<br /> * {{Flagicon|SDN}} [[スーダン]]([[オマル・アル=バシール]]政権、2017年現在も継続中)<br /> <br /> ==脚注==<br /> {{脚注ヘルプ}}{{reflist}}<br /> <br /> == 関連項目 ==<br /> * [[独裁]]・[[独裁主義]]・[[独裁政治]]<br /> * [[全体主義]]・[[全体主義体制]]・[[ファシズム]]<br /> * [[恐怖政治]]<br /> * [[箱物行政]]<br /> * [[権力]]<br /> * [[権威]]・[[権威主義]]<br /> *[[スルタン主義体制]]<br /> * [[開発]]<br /> * [[一党独裁制]]<br /> * [[官僚]]<br /> * [[共産主義]]・[[共産党]]<br /> * [[社会主義市場経済]]<br /> * [[民主主義体制]]<br /> * [[ビルマ式社会主義]] - 民主主義の抑圧や反共主義という点では一致するものの、経済開発には極めて消極的で(独自の社会主義体制も手伝って)経済や産業は停滞・衰微していった。また、文民官僚を敵視し、放逐して後釜に軍人を任用するなど、[[軍国主義]]ともとれる特異な反官僚政策をとった。<br /> * [[明治維新]] - [[19世紀]]日本の[[富国強兵]]政策は開発独裁に似た面もあるが、独裁者が存在せず議会政治の導入が順調に進んだという相違点がある。なお、開発独裁諸国の中では、韓国の朴正煕が「[[維新体制]]」を称するなど明治維新を模範とした。<br /> * [[エスタド・ノヴォ]] - 開発独裁に類似した権威主義体制だが、開発独裁とは対照的に、経済開発は鉱業など輸出向け産業を除いて極力行わない政策を採った。<br /> <br /> == 参考文献 ==<br /> * [[末廣昭]]「アジア開発独裁論」[[中兼和津次]]編『講座現代アジア(2)近代化と構造変動』(東京大学出版会、1994年)<br /> * 世界銀行『東アジアの奇跡―経済成長と政府の役割』(東洋経済新報社、1994年)<br /> :A World Bank Policy Research Report &#039;&#039;The East Asian Miracle : Economic Groth and Public Policy&#039;&#039;, 1993.<br /> * [[東京大学社会科学研究所]]編『20世紀システム(4)開発主義』(東京大学出版会、1998年)<br /> * [[浅見靖仁]]「開発・ナショナリズム・民主化:開発独裁論再考」赤木攻・安井三吉編『講座東アジア近現代史第5巻 東アジア政治のダイナミズム』(青木書店、2002年)<br /> <br /> {{DEFAULTSORT:かいはつとくさい}}<br /> [[Category:開発]]<br /> [[Category:独裁]]<br /> [[Category:政治システム]]<br /> [[Category:腐敗|ふはい]]</div> 58.156.158.18 免税店 2018-06-16T02:57:17Z <p>58.156.158.18: /* 免税店と課税 */</p> <hr /> <div>{{複数の問題<br /> | 出典の明記 = 2016年3月<br /> | 国際化 = 2016年3月 | 領域 = 日本<br /> }}<br /> [[ファイル:Duty Free shop - Ben Gurion Airport.jpg|thumb|right|[[ベン・グリオン国際空港]]([[イスラエル]])内の免税店]]<br /> [[ファイル:NASCO-Noi Bai Airport Duty-free shop.jpg|thumb|right|[[ノイバイ国際空港]]([[ベトナム]])内の免税店]]<br /> [[ファイル:IshimaruDenki Electric DutvFree Shop 2007.jpg|thumb|right|[[秋葉原]]([[日本]])にある市中の免税店。アジアからの観光客が近年増加しているため、同地区では免税店へ転換する店舗が増加している]]<br /> [[ファイル:DFS-Okinawa2.JPG|thumb|right|[[那覇空港]](日本)にある、市中の免税店で購入した商品を受け取るための施設]]<br /> &#039;&#039;&#039;免税店&#039;&#039;&#039;(めんぜいてん)は、出国する旅行者に対して、[[商品]]にかかる[[税金]]([[消費税]]や[[酒税]]、輸入品の[[関税]]など)を免除して[[販売]]する[[小売|小売店]]をいう。主に[[空港]]内や一部の[[繁華街]]に存在する。また、国際[[航路]]の船内に設けられているショーケース販売や、国際線航空機の機内免税品販売も免税店の一種である。<br /> <br /> == 概要 ==<br /> 本来、「duty-free」とは[[関税]]が無税であることを、「tax-free」は[[消費税]]などの付加価値税が無税であることをさすが、日本語ではどちらも「免税」となることから混同されていることが多い。<br /> <br /> 日本にも、消費税だけでなく、関税・たばこ税・酒税などまで免税になる保税免税店(duty-free)と、消費税だけが免税になる消費税免税店(tax-free)の2種類の「免税店」が存在するが、消費税免税店にduty-freeと書いてあったり、不正確な表記も見られる。<br /> <br /> 2014年の免税店市場規模は、韓国が世界1位で7兆1000億ウォン(約7590億円)。特に急増する中国人観光客が売り上げの半分以上を占めている&lt;ref&gt;[http://japanese.joins.com/article/481/169481.html 【コラム】韓国、免税産業世界1位守るには(1)]中央日報&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;[http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2014/12/11/2014121101110.html 免税店売上高に占める外国人の割合 韓国人上回る]朝鮮日報&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> == 保税免税店(duty-free) ==<br /> 空港免税店が代表例である。基本的に、税とは国家が課するものなので、海港であれ空港であれ出国手続きから、船舶・航空機内を経て、他国への入国手続きまでの間は、税法上はどこの国にも属さない事になる。つまり、この間一切の税金がかからないため、特に高額の税金がかかる[[ビール]]などの[[酒|酒類]]([[酒税]])や[[タバコ]]([[たばこ税]])、[[香水]]([[関税]])などの商品を、本体のみの価格(場合によっては国内価格の半額以下)で購入することができる。おおよそ世界中の国際空港の出国手続き後の区域(当然空港内である)には、免税店が出店している。購入した品物はそのまま機内持ち込み手荷物として国外に持ち出される。<br /> <br /> 多くの場合は出国手続き後の出発エリアに存在するが、理論的には入国手続き前の到着エリアにも出店可能であり、現にそのような空港([[アイスランド]][[ケプラヴィーク国際空港]]、[[中華民国]][[台湾桃園国際空港]]、[[フィリピン]][[ニノイ・アキノ国際空港]]など)もある。日本でも、[[関税法]]基本通達の改正によって、到着エリアにも出店が可能になったことから、[[成田国際空港]]に到着時免税店が出店した。ただし、関税法基本通達により、商品は海外製品に限られる。また、一部店舗は入国審査後の手荷物受取所に出店となっている&lt;ref&gt;[http://www.naa.jp/jp/20170629-Arrivaldutyfree.pdf 第 1、第 2 及び第 3 ターミナル国際線到着エリアに『到着時免税店』がオープン!]成田国際空港株式会社&lt;/ref&gt;。国際線航空機の機内販売、国際航路の船内販売もこの類型に属する。<br /> <br /> 日本の国内法上、この類型の免税店は[[関税法]]上の「保税蔵置場」の許可を受けている「保税地域」や「保税売店」と呼ばれる区域であって、外国から到着した「外国貨物」の、関税や国内税の納付を保留した状態である(保税区域から品物を持ち出すには、所定の税金を納める必要がある)。税金納付を保留した状態で出国者向けに販売するため、安価になるのである。<br /> <br /> この類型の免税店を市中に設置しようとすると、品物を保税区域から持ち出す事ができないので、支払と引き換えに商品を顧客に手渡すことができない。この類型の免税店を市中に設置するには何らかの工夫が必要であり、その存在はかなり少ない。<br /> <br /> 日本国内で市中に出店している例は、沖縄県那覇市の[[特定免税店制度]]の適用を受ける那覇空港国内線ターミナルビルの[[DFS]]免税店、[[那覇市]]おもろまちにある「[[DFSギャラリア・沖縄]]」、下記「市中への保税免税店の出店」の項に記載されている各店がある。<br /> <br /> == 消費税免税店(tax-free) ==<br /> 消費税法第8条に定める「輸出物品販売場」のことで、家電量販店や百貨店などの市中免税店がこの類型である事が多く、いわゆる[[ブランド]]物や家電製品(外国向けモデルを取りそろえていることも多い)を販売する店が多い。訪日外国人観光客の増加とともに、百貨店や家電量販店が免税手続きカウンターを設置して対応している。こうした免税店では、購入の際にパスポートなど免税で購入する事のできる人物であることを証明する書類を呈示する必要がある。さらに、購入した品物を必ず国外に持ち出す(輸出する)ことの誓約書を提出した上で、消費税免税で購入し、品物をその場で持ち帰ることができる。購入した品物の明細書はパスポートに貼付され、出国手続き時に明細書通りの品物を所持していなければ、明細書と比較して不足分は国内で消費したものとして消費税が課税される。2014年には対象品目の拡大、対象金額の引き下げが行われ、これまで対象外だった食料品などの消耗品も対象になった。そのため、国内で消費していないことを証明するために、消耗品は開封したことが判別可能な専用のセキュリティーバッグで商品を厳封し、もし出国前に開封した形跡がある場合、国内で消費されたとみなし、課税される。<br /> <br /> 日本においては、非居住者(外国人旅行者や海外在住日本人)に対する免税は一般物品については5000円以上、消耗品(特殊包装が必要。一般物品についても消耗品と特殊包装をすることで合算が2018年7月1日から可)については5000円以上50万円以下について、消費税免税制度の対象となっている。<br /> <br /> あまり知られていないが、海外旅行者に対する免税制度もあり,贈答品や渡航先で使用または消費する物品について免税店で購入した単価1万円超の物品に関しても、所定の手続きを経ることで輸出物品販売所が輸出したものとして消費税の輸出免税の対象となる。この場合、購入者誓約書を店舗に提出するとともに、輸出証明申請を輸出時(物品持ち出し時)に税関に提出し、後日、税関から輸出証明書について免税店に提出する必要がある。<br /> <br /> 海外では、一旦通常通り消費税込みの価格で購入し、購入現場にて免税手続きだけをし、出国手続き後のエリアにある消費税払い戻しカウンターにて返金を行うことが多く、それらを専門的に行う国際企業(Global Blue等)も存在する。これらは事後免税制度と呼ばれることがある。<br /> <br /> == 市中への保税免税店の出店 ==<br /> 2014年7月31日、[[成田国際空港 (企業)|成田国際空港]]と[[三越伊勢丹ホールディングス]]など各社が合弁で新会社を設立し、沖縄の[[特定免税店制度]]以外では初めて、市内でブランド品などが購入可能な空港型免税店(保税免税店)を市中免税店の形態で[[三越]]銀座店内にオープンすると発表した&lt;ref&gt;[http://www.naa.jp/jp/press/pdf/20140731-goubenosirasesyousai.pdf 「株式会社 Japan Duty Free Fa-So-La 三越伊勢丹(仮称)」の設立に関する契約締結及び銀座三越における「空港型免税店」(保税売店)の展開について]成田国際空港株式会社&lt;/ref&gt;。2016年1月27日、「Japan Duty Free GINZA」がオープン。同年3月31日には、[[関西国際空港]]に日本初出店をした韓国業界1位の[[ロッテ免税店]]も同じ銀座にある[[東急プラザ銀座]]内に「ロッテ免税店銀座」を、4月1日には、[[福岡三越]]内に[[福岡空港ビルディング]]、[[西日本鉄道]]、三越伊勢丹ホールディングスが出資する「FUKUOKA DUTY FREE TENJIN」がオープン。また、2017年4月27日には、韓国で業界2位の[[ホテル新羅]]が、[[高島屋]]、[[全日空商事]]と合弁で[[タカシマヤタイムズスクエア]]内に「高島屋免税店 SHILLA&amp;ANA」がオープン。一方で、中国人観光客による[[爆買い]]の陰りなどから、市内免税店事業への進出を検討していた[[新関西国際空港]]は、計画を中止した&lt;ref&gt;[http://www.nikkei.com/article/DGXLASGM06H3L_W4A101C1MM8000/ 韓国ロッテ、銀座に都内最大の空港型免税店 15年度]日本経済新聞&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> == 免税店と課税 ==<br /> デューティフリーにしてもタックスフリーにしても、当局が最も警戒するのは、課税されるべき品物が課税されないまま国内流通することである。<br /> <br /> 消費税免税店の場合、店頭でパスポート等で免税対象者を限定していること、その者が免税購入後に国内に品物を流出させたとしても、出国時に現品がなければその分の消費税が徴収できる(または返金を出国手続き後にする)事で、不正規流通を防止している。<br /> <br /> 保税免税店では、空港免税店の場合は購入客は、そのまま[[旅客機]]に搭乗してしまうので問題はないが、市中に保税免税店を開こうとすると、購入物品が確実に国外に持ち出されるよう、「保税運送」の承認を受けて購入者が出国する空港まで運送し、出国手続き後(搭乗直前)に購入物品を引き渡すか、市中で注文を受け、空港近くの保税倉庫から購入客の出国時に商品を引き渡すか、いずれにしても引き渡し場所を空港内に確保しなければならないなどの課題が生じる。<br /> <br /> 前述の「Japan Duty Free GINZA」では、[[東京国際空港]]・[[成田国際空港]]内に「市内免税店引き渡しカウンター」を設置した(その他の空港から出国する旅客は引き渡し不可)。韓国など多くの国では、主要な国際空港、港湾に免税品引き渡し所を設置することで対処している。購入した市内免税店の免税品引き渡し所が存在する空港なら、どこの空港から出国しても引き渡しは可能である(商品は出国空港まで保税運送される)。しかし、[[チャーター便]]などで空港内、港湾内に引き渡し所が存在しない場合、免税品は購入できない。<br /> <br /> また、購入時に正確な出国日時、便名を申告しないと空港に商品が用意できず、引き渡しができない場合がある。特に、[[空港ターミナルビル]]が複数ある空港や、[[旅行代理店]]経由のパッケージツアー客、[[コードシェア便]]などの場合、正確な航空会社名を把握していない場合、利用する空港ターミナルビルとは別のターミナルに商品が送られ、商品のターミナル転送に時間がかかることから、引き渡しできない恐れもある。<br /> <br /> 訪日外国人向けの免税店として認可を受けながら、実際には免税の対象外である[[中華人民共和国|中国]]人バイヤーに対し、[[腕時計]]などを短期間に多数販売していたとして、[[税務調査]]によって、一旦還付を受けた[[消費税]]と[[附帯税|過少申告加算税]]を[[没収|追徴]]課税された例がある&lt;ref&gt;[https://mainichi.jp/articles/20180601/k00/00e/040/318000c 大阪国税 免税店、脱税で追徴 高級時計を業者へ大量販売] 毎日新聞 2018年6月1日&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> == 国内向けの免税店 ==<br /> 各国それぞれの事情で国内向け免税店が存在する。<br /> <br /> === 日本・那覇市(特定免税店制度) ===<br /> [[第二次世界大戦]]後の[[アメリカ合衆国による沖縄統治|アメリカ統治時代]]の[[沖縄県]]では、酒税や関税などが日本の本土より安かったため、本土からの観光客にとっては市内の一般小売店でも免税ショッピング(正確には低税率ショッピング)が楽しめた。この需要は大きく、観光産業にとっての追い風になっていた。<br /> <br /> [[1972年]]の[[沖縄返還]]に伴い、税率が本土並みに引き上げられると、低税率のメリットが無くなってしまうため、代替措置として[[沖縄の観光戻税制度|観光戻税制度]]が施行された。<br /> <br /> その後、[[2002年]]には観光戻税制度が廃止され、代わって[[特定免税店制度 (沖縄)|特定免税店制度]]が施行され、本土から来る観光客は、引き続き沖縄県で免税ショッピングが可能となっている。この制度では、那覇空港発の沖縄県外行き国内線(与論空港・奄美空港は鹿児島県なので沖縄県外に当たる)で品物を県外に一旦持ち出すことが免税ショッピングの条件であるので、外国人や沖縄県在住者も免税価格で購入できる(その後沖縄県内に持ち込んでも課税されない)。<br /> <br /> 特定免税店に指定されている[[那覇市]]おもろまちの「DFSギャラリア・沖縄」で搭乗予定日と便名を申告して免税価格で購入し、那覇空港国内線ターミナルビルの商品受け取りカウンター(セキュリティチェック後の制限エリア内にある)で受け取って搭乗する。受け取りカウンターに隣接してDFS免税店があり、ここでは免税価格で購入して商品をその場で受け取ってそのまま搭乗できる。市中への保税免税店の出店の類型に相当する。<br /> <br /> === 韓国・済州島 ===<br /> [[済州特別自治道]]では、道外に出る観光客は、済州特別自治道旅行客に対する免税店特例規定により、[[済州国際空港]](国内線乗り場)、済州港、市内にあるJDC免税店、済州観光公社免税店で免税ショッピングが可能になっている(韓国外に出国する観光客のための免税店は別にある)。なお、沖縄の特定免税店制度と異なり、煙草の販売も行われているが、、年間6回、1回当たり600[[アメリカ合衆国ドル|ドル]](酒類、煙草は各1個)という購入制限がある。購入の際には、[[本人確認]]のため[[身分証明書]]の提示が必要。価格は他の韓国内免税店と同様、全て[[アメリカ合衆国ドル|米ドル]]表示となっている。<br /> <br /> === 中国・海南島 ===<br /> [[海南島]]では、離島免税政策により海南島を離島する観光客を対象に、年2回(ただし、[[海南省]]住民は1回)、毎回8,000[[人民元]]を限度に、免税ショッピングが可能となっている。限度額は段階的に引き上げられており、さらなる限度額、利用回数制限の引き上げが検討されている。<br /> <br /> ==脚注==<br /> {{reflist}}<br /> <br /> == 関連項目 ==<br /> {{Commonscat|Duty-free shops}}<br /> {{Wiktionary|免税|免税店}}<br /> * [[DFSグループ]] - 世界最大の免税店チェーン。<br /> * [[ナリタ5番街]] - 日本最大の空港内免税店モール。<br /> * [[ロッテ免税店]] <br /> * [[沖縄の観光戻税制度]]<br /> * [[特定免税店制度 (沖縄)]]<br /> * [[出入国管理]]<br /> <br /> == 外部リンク ==<br /> * [https://kotobank.jp/word/%E5%85%8D%E7%A8%8E%E5%BA%97-682781#E3.83.87.E3.82.B8.E3.82.BF.E3.83.AB.E5.A4.A7.E8.BE.9E.E6.B3.89 免税店(メンゼイテン)とは] - [[コトバンク]]<br /> ** [https://kotobank.jp/word/%E7%A9%BA%E6%B8%AF%E5%9E%8B%E5%85%8D%E7%A8%8E%E5%BA%97-1720125 空港型免税店(くうこうがためんぜいてん)とは] - コトバンク<br /> * [http://www.mlit.go.jp/kankocho/tax-free/about.html 免税店とは|消費税免税店サイト] - 日本の[[観光庁]]<br /> * [https://taxfree.jp 免税店.jp] - 一般社団法人ジャパンショッピングツーリズム協会が手掛ける日本の免税店の情報サイト。<br /> <br /> <br /> {{DEFAULTSORT:めんせいてん}}<br /> [[Category:免税店|*]]</div> 58.156.158.18 富士山測候所 2018-04-01T03:37:32Z <p>58.156.158.18: </p> <hr /> <div>[[file:Fujiradarstation.jpg|thumb|250px|富士山最高峰剣ヶ峰と、ドームが撤去された富士山測候所]]<br /> [[file:Fujisan radar dome.jpg|thumb|250px|退役移設後展示されている富士山レーダードーム(富士吉田市)]]<br /> <br /> &#039;&#039;&#039;富士山測候所&#039;&#039;&#039;(ふじさんそっこうじょ)とは、かつて[[気象庁]][[東京管区気象台]]が[[剣ヶ峰 (富士山)|富士山頂剣ヶ峯]]に設置していた気象官署のこと。[[2004年]]に測候所閉鎖([[#測候所閉鎖とその後|後述]])以降は&#039;&#039;&#039;富士山特別地域気象観測所&#039;&#039;&#039;となっており、自動気象観測装置による気象観測を行っている。<br /> <br /> == 概要 ==<br /> === 臨時富士山測候所 ===<br /> 日本最高峰の富士山で[[気象観測]]すれば[[高山気象]]観測や[[台風]]の予報、また富士山登山者の人命保護に役立つとしてかなり早い時期から富士山での気象観測所の計画は何度も行われた。[[1932年]]、外輪山南東の東安河原に公設の&#039;&#039;&#039;中央気象台臨時富士山[[測候所]]&#039;&#039;&#039;が開設され通年測候が行われたが、観測結果は[[超短波]]無線機で気象庁に送られた。<br /> <br /> なお、富士山の気象観測の支援拠点は、初期の頃から[[御殿場市|御殿場]]に置かれており、[[1941年]](昭和16年)には支援拠点として御殿場事務所が開設され、富士山測候所職員の通勤や物資搬送には主に御殿場口登山道が使われており、現在{{いつ|date=2012年12月}}&lt;!-- See [[WP:DATED]] --&gt;でも、御殿場口登山道沿いに測候所職員の冬季の登下山に使われた鉄製の手すりや避難小屋が残っている。<br /> <br /> === 富士山頂気象観測所 ===<br /> [[1936年]]、風の観測条件を考えて日本最高峰の剣ヶ峯に&#039;&#039;&#039;富士山頂気象観測所&#039;&#039;&#039;として移設。これは当時世界最高所の常設気象観測所となった。高山気象観測を目的に気象観測を行った。これによって、日本上空を流れる偏西風の謎の解明や高山気象における基礎的データが収集された。現在{{いつ|date=2015年10月}}は、[[モンスーン気候]]の長期的変動を捉えるために、中国南部の山間地に自動気象観測点を国際協力で設置しているが、これらの経験を元にしたものである。<br /> <br /> === 富士山レーダー ===<br /> {{main|富士山レーダー}}<br /> [[伊勢湾台風]]([[1959年]])による甚大な被害を受けて[[1964年]]、日本に接近する[[台風]]の観測を目的としてドーム形[[気象レーダー|レーダー]](通称:[[富士山レーダー]])が設置され、運用を開始した。このレーダーサイトは、日本では富士山が標高が一番高く単独峰であったため、レーダーの視野を最大にすることが可能であることから設置されたものである。半径700kmと広範囲の積乱雲を捉えることができるため、台風観測に威力を発揮し、現在の台風予報の基礎的データ及び予報精度の向上に寄与した。また富士山頂のシンボルとして登山者にも親しまれた。<br /> <br /> === 測候所閉鎖とその後 ===<br /> [[気象衛星]]の発達や、[[車山気象レーダー観測所|長野レーダー]]・[[牧之原気象レーダー観測所|静岡レーダー]]の設置などにより、富士山でのレーダー観測は必要性を失った為、[[1999年]]に、レーダー観測が廃止された。さらに観測装置が発達したことにより、現地での人手による観測の必要性は失われ、[[2004年]]に自動観測装置が設置され無人施設となり、気象観測([[気温]]、[[気圧]]、[[日照時間]](夏季のみ))を継続して行っている&lt;ref&gt;{{Cite press release| format=PDF |url=http://www.jma-net.go.jp/tokyo/sub_index/koho/hodo/20080606sokukojo.pdf |title=富士山測候所の特別地域気象観測所への移行について |date=2008-06-06 |publisher=東京管区気象台}}&lt;/ref&gt;。ただし、それまで行われていた[[風向]]・[[風速]]の観測については、観測装置のメンテナンスが困難なため廃止され、[[NHKラジオ第2放送]]の[[気象通報]]で放送されていた富士山頂の風向・風速は放送されなくなった。<br /> <br /> 廃止された気象レーダードームは、[[富士吉田市]]と御殿場市との誘致合戦の結果、いち早く名乗りを上げた富士吉田市の[[富士吉田市立富士山レーダードーム館|富士山レーダードーム館]]([[道の駅富士吉田]]に隣接)に展示されることとなった。測候所の施設自体は、研究者の組織である「富士山高所科学研究会」が中心となって設立した[[特定非営利活動法人|NPO法人]]「富士山測候所を活用する会」が、夏季期間に借用し、[[2007年]]から様々な研究活動を行っている。年間予算は約4000万円で、電源や施設の補修費は会の負担。観測対象は大気中の[[二酸化炭素]]濃度、中国などからも[[偏西風]]に乗って飛来する[[水銀]]等の[[大気汚染]]物質、[[東京電力福島第一原子力発電所事故]]により飛散した[[放射性物質]]と幅広い<br /> &lt;ref&gt;{{Cite news|url=http://www.sankei.com/premium/news/170319/prm1703190020-n1.html|title=富士山測候所 貸与10年/大気化学者ら結集、通年観測で成果|work=|publisher=[[産経新聞]]朝刊|date=2017年3月20日}}&lt;/ref&gt;。[[雷]]の発生や[[落雷]]を間近で観測できる利点もあるほか、高所医学の研究、大気中の水蒸気から飲用水を作る技術の実験などにも使われている&lt;ref&gt;{{Cite news|url=http://www.asahi.com/articles/photo/AS20170831002517.html|title=孤高富士山、絶好の観測地 NPO「測候所」活用10年|work=|publisher=『[[朝日新聞]]』夕刊|date=2017年8月31日}}&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> === 『カンテラ日誌』 ===<br /> 1936年から無人化まで職員が『[[ランプ (照明器具)#カンテラ|カンテラ]]日誌』を綴っていた。厳しい環境下での建設作業や観測、[[太平洋戦争]]中の米軍機による空襲や[[大日本帝国陸軍]]による高地[[炊飯]]実験、[[イノシシ]]の出現、[[英国海外航空機空中分解事故]](1966年)目撃談など貴重な記録が含まれる。1985年には抜粋が『カンテラ日記 富士山測候所の50年』([[筑摩書房]])として出版されている。<br /> <br /> 無人化に伴い[[東京管区気象台]]に移管され、2012年には44冊の存在が確認されていた。同気象台は、2018年の[[毎日新聞]]による[[情報公開]]請求に対して「不存在」「職員が私的に記したもので公文書にはあたらず、保管義務はない」と回答した&lt;ref&gt;[https://mainichi.jp/articles/20180325/k00/00m/040/162000c 富士山頂日誌どこへ/測候所の68年 台風や戦争も記す 気象台「私的で保管義務ない」]『毎日新聞』朝刊2018年3月25日(社会面)&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> ===所在地===<br /> 富士山の8合目以上は、[[静岡県]]と[[山梨県]]の[[県境]]境界未定地域となっているが、気象庁は測候所所在地を「静岡県[[富士宮市]]富士山剣が峰」としていた。また、富士山特別地域気象観測所の所在地についても、気象庁は「富士宮市富士山頂」としている&lt;ref&gt;[http://www.data.jma.go.jp/obd/stats/data/mdrr/chiten/sindex2.html 地上気象観測地点一覧(気象庁HP)]&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> == 歴史 ==<br /> * [[1880年]]([[明治]]13年)から[[野中到 (気象学者)|野中到]]らにより、ときおり富士山での気象観測が行われていた。<br /> * [[1895年]](明治28年)野中到が山頂剣が峰に木造6坪の観測所を建設。冬季観測を試みる。<br /> * [[1927年]]([[昭和]]2年)佐藤順一が東京自動車学校鈴木靖二校長の寄付を得て観測小屋「佐藤小屋」を山頂東安河原に完成、気象観測は1931年(昭和6年)まで続いた。<br /> * [[1932年]](昭和7年)[[7月1日]]第二極年国際協同観測の一つとして山頂東安河原に「中央気象台臨時気象観測所」を設立、一年限りの予算で観測を開始。<br /> * [[1934年]](昭和9年)「中央気象台臨時気象観測所」の閉鎖の危機を廣瀬潔らの働きかけにより三井報恩会の援助を得て継続が決定。<br /> * [[1936年]](昭和11年)国費により常設の測候所「中央気象台富士山頂観測所」として剣ヶ峯に移設。<br /> * [[1964年]](昭和39年)[[9月10日]] 富士山レーダーを設置。<br /> * [[1965年]](昭和40年)[[3月1日]] レーダーの正式に運用開始。<br /> * [[1966年]](昭和41年)[[9月25日]] 台風26号がすぐ西を通過し、最大瞬間風速の[[日本一の一覧|日本記録]]の91.0m/sを観測。<br /> * [[1999年]]([[平成]]11年)[[11月1日]] レーダー観測廃止。<br /> * [[2004年]](平成16年)[[10月1日]] 無人化。(悪天候のため9月30日より延期。)<br /> * 2007年(平成19年)7月1日「活用する会」による初の夏季観測(9月5日まで)。 <br /> * [[2008年]](平成20年)10月1日に富士山特別地域気象観測所と名称を変更。<br /> <br /> == 登場作品 ==<br /> *[[新田次郎]]『[[富士山頂 (小説)]]』<br /> *新田次郎原作『[[芙蓉の人〜富士山頂の妻]]』<br /> * 『[[プロジェクトX〜挑戦者たち〜]]』(テレビ[[ドキュメンタリー]]):レーダードームが完成するまでの模様を放送した。<br /> *『[[地球防衛企業ダイ・ガード]]』([[テレビアニメ]]):[[フィクション]]の設定として、「界震」と呼ばれる[[異次元]]現象の観測施設を兼ねている。<br /> <br /> == その他 ==<br /> 富士山測候所の職員が、[[戦中]]から代々に亘って「[[カンテラ日誌]]」を記載し続けてきたが、測候所の無人化の際に所在不明となっていることが明らかとなった。東京管区気象台は「[[証書#私署証書・私文書|私的文書]]であり、保管義務はない」としているものの、測候所の歴史が綴られた貴重な資料であったため、文書の紛失を惜しむ声や、同気象台の対応への批判の声が多数出ている&lt;ref&gt;[https://mainichi.jp/articles/20180325/k00/00m/040/162000c 気象庁 富士山頂日誌不明 測候所で68年、台風も戦争も] 毎日新聞 2018年3月25日&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> == 脚注 ==<br /> &lt;references /&gt;<br /> <br /> ==参考文献==<br /> {{Refbegin}}<br /> *{{Cite book|和書|author=志崎大策 |date=2002-09-08 |title=富士山測候所物語 |series=気象ブックス012 |publisher=成山堂書店 |isbn=4425551117 |ref=harv }}<br /> {{Refend}}<br /> <br /> == 関連項目 ==<br /> {{Commonscat|Mount Fuji weather station}}<br /> * [[気象]]<br /> * [[気象庁]]<br /> ** [[気象台]]<br /> ** [[管区気象台]]<br /> * [[富士山]]<br /> * [[富士山頂サブミリ波望遠鏡]]<br /> * [[英国海外航空機空中分解事故]]<br /> *[[野中到 (気象学者)]]<br /> <br /> == 外部リンク ==<br /> * [http://fuji3776.net/ 富士山高所科学研究会]<br /> ** [http://npo.fuji3776.net/ NPO法人 富士山測候所を活用する会]<br /> * [http://npo.fuji3776.net/museum/timeline.html 富士山測候所の歴史]<br /> <br /> {{coord|35|21|38.9|N|138|43|37.7|E|region:JP|display=title}}<br /> {{Normdaten}}<br /> {{DEFAULTSORT:ふしさんそつこうしよ}}<br /> [[Category:富士山]]<br /> [[Category:富士宮市]]<br /> [[Category:富士宮市の建築物]]<br /> [[Category:気象庁]]</div> 58.156.158.18
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