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http:///mymemo.xyz/wiki/api.php?action=feedcontributions&user=27.99.43.214&feedformat=atom miniwiki - 利用者の投稿記録 [ja] 2024-04-27T02:13:37Z 利用者の投稿記録 MediaWiki 1.31.0 ジェームズ2世 (イングランド王) 2018-02-11T03:58:59Z <p>27.99.43.214: /* カトリック信仰 */</p> <hr /> <div>{{出典の明記|date=2017年9月}}<br /> {{基礎情報 君主<br /> | 人名 = ジェームズ7世及びジェームズ2世<br /> | 各国語表記 = {{lang|en|James VII / James II}}<br /> | 君主号 = イングランド王&lt;br /&gt;スコットランド王<br /> | 画像 =ファイル:James II of England.jpg<br /> | 画像サイズ = <br /> | 画像説明 = [[ゴドフリー・ネラー]]画<br /> | 在位 = [[1685年]][[2月6日]] - [[1688年]][[12月1日]]<br /> | 戴冠日 = 1685年[[4月23日]]<br /> | 別号 = アイルランド王&lt;br /&gt;グレートブリテン王(非公式)&lt;br/&gt;ノルマンディー公&lt;ref&gt; Weir, Alison (1996). 258. Britain&#039;s Royal Families: The Complete Genealogy. Revised Edition. Random House, London. ISBN 0-7126-7448-9&lt;/ref&gt;<br /> | 姓名 = <br /> | 出生日 = [[1633年]][[10月14日]]<br /> | 生地 = {{ENG927}}、[[セント・ジェームズ宮殿]]<br /> | 死亡日 = [[1701年]][[9月16日]]<br /> | 没地 = {{FRA987}}、[[サン=ジェルマン=アン=レー]]城<br /> | 埋葬日 = <br /> | 埋葬地 = {{FRA987}}、[[サン=ジェルマン=アン=レー]]城<br /> | 配偶者1 = [[アン・ハイド]]&lt;br/&gt;[[メアリー・オブ・モデナ]]<br /> | 子女 = [[#子女|一覧参照]]<br /> | 王家 = [[ステュアート朝|ステュアート家]]<br /> | 王朝 = [[ステュアート朝]]<br /> | 王室歌 = <br /> | 父親 = [[チャールズ1世 (イングランド王)|チャールズ1世]]<br /> | 母親 = [[ヘンリエッタ・マリア・オブ・フランス]]<br /> | サイン = JamesIISig.svg<br /> }}<br /> <br /> &#039;&#039;&#039;ジェームズ7世&#039;&#039;&#039;及び&#039;&#039;&#039;ジェームズ2世&#039;&#039;&#039;(James VII of Scotland and James II of England, [[1633年]][[10月14日]] - [[1701年]][[9月16日]]、在位:[[1685年]][[2月6日]] - [[1688年]])は、[[イングランド王国|イングランド]]・[[スコットランド王国|スコットランド]]・[[アイルランド王国|アイルランド]]の王。スコットランド王としてはジェームズ7世、イングランド王・アイルランド王としてはジェームズ2世。3王国にとってジェームズは、歴史上最後の[[カトリック教会|カトリック]]信仰を有する国王となった。治世中の宗教政策や政治のやりかたはイングランド支配層の支持を失い、[[名誉革命]]によって王位を逐われ、王国は[[ウィリアム3世 (イングランド王)|ウィリアム3世]]・[[メアリー2世 (イングランド女王)|メアリー2世]]の共同統治となった。<br /> <br /> ウィリアム・メアリーでなくジェームズこそ正統なる王であるという人々は[[ジャコバイト]]&lt;ref&gt;「ジャコバイト」のもととなったJacobusは「ジェームズ」の[[ラテン語]]読みである。詳しくは「[[ジャコバイト]]」を参照。&lt;/ref&gt;とよばれ、ジャコバイト運動はたびたび名誉革命体制イングランドを脅かした。ジェームズの死後、ジャコバイトはジェームズの息子[[ジェームズ・フランシス・エドワード・ステュアート|ジェームズ老僭王]]を推戴して活動を続けた。<br /> <br /> かつてジェームズ7世/2世は、イギリス史のなかでカトリック絶対王政を目論んだ悪役として描かれていたが、[[1970年代]]の歴史学界の変化、および名誉革命300周年を迎えた[[1989年]]前後の研究などにより、従来の悪役像を否定する方向にシフトしつつある。<br /> <br /> ==生涯==<br /> [[ファイル:St james palace.jpg|thumb|left|180px|ジェームズが生まれた[[セント・ジェームズ宮殿]]。[[16世紀]]に[[ヘンリー8世 (イングランド王)|ヘンリー8世]]によって建造されたもので、ロンドン市内の最も古い宮殿のひとつである]]<br /> ===少年期===<br /> 1633年、[[チャールズ1世 (イングランド王)|チャールズ1世]]と[[フランス王国|フランス]]王[[アンリ4世 (フランス王)|アンリ4世]]の娘[[ヘンリエッタ・マリア・オブ・フランス|ヘンリエッタ・マリア]]との間に生まれた。兄に[[チャールズ2世 (イングランド王)|チャールズ2世]]、姉に[[オランダ総督]]・[[オラニエ=ナッサウ家|オラニエ公]][[ウィレム2世 (オラニエ公)|ウィレム2世]]妃[[メアリー・ヘンリエッタ・ステュアート|メアリー・ヘンリエッタ]]、妹に[[オルレアン公]][[フィリップ1世 (オルレアン公)|フィリップ1世]]妃[[ヘンリエッタ・アン・ステュアート|ヘンリエッタ・アン]]がいる。フランス王[[ルイ14世 (フランス王)|ルイ14世]]は母方の従弟で、イングランド王兼オランダ総督[[ウィリアム3世 (イングランド王)|ウィリアム3世]]は甥に当たる。<br /> <br /> [[1640年]]、7歳の時に[[イングランド内戦]]([[清教徒革命]])が始まると、一家で[[騎士党|王党派]]の拠点[[オックスフォード]]に移り、その最中の[[1644年]]、11歳で[[ヨーク公]]に叙された。内戦は国王側の敗北に終わり、オックスフォードも[[1646年]]に陥落した。ジェームズは[[セント・ジェームズ宮殿]]に監視つきで幽閉されたが、幾度も脱出を試みた。[[1648年]]、15歳のジェームズは[[長老派]]の一人コロネル・バンプフィールドの助力を得て、女装して[[ネーデルラント連邦共和国|オランダ]]の[[デン・ハーグ|ハーグ]]へと逃れた。<br /> <br /> [[1649年]]に父は[[円頂党|議会派]]に処刑され、王党派はジェームズの兄チャールズ2世を次期国王に推した。チャールズはスコットランドとアイルランドでは王として認められ、スコットランドの[[スクーン]]で[[1651年]]に戴冠した。しかし[[イングランド共和国|共和政イングランド]]はステュアート家を敵視しており、イングランド王位を得ることはかなわなかった。さらに[[オリバー・クロムウェル|オリヴァー・クロムウェル]]によってスコットランドは制圧され、ステュアート一族はフランスに亡命した。<br /> <br /> ===亡命時代===<br /> フランスに渡った後、ステュアート一家はヨーロッパ各地を転々とした。まずチャールズ・ジェームズ兄弟はフランスで[[テュレンヌ子爵アンリ・ド・ラ・トゥール・ドーヴェルニュ|テュレンヌ将軍]]のもとで軍人として生計を立て、ジェームズは[[フロンドの乱]]でテュレンヌの軍に合流して反乱軍と戦った。続いてジェームズ23歳の[[1656年]]、2人は生活のため[[スペイン]]軍指揮官の[[コンデ公]][[ルイ2世 (コンデ公)|ルイ2世]]について各地を転戦、[[フランス・スペイン戦争 (1635年-1659年)|フランス・スペイン戦争]]でジェームズは[[南ネーデルラント|スペイン領ネーデルラント]]でフランス軍と交戦、[[1658年]]の[[砂丘の戦い (1658年)|砂丘の戦い]]でコンデ公の軍に加わり、テュレンヌ率いるフランス軍と交戦した。テュレンヌやコンデ公は、ジェームズの軍人としての才能を高く評価している。<br /> <br /> 兄弟は復位の可能性を求めて列強の国々を巡ったが、[[三十年戦争]]などで疲弊したヨーロッパ諸国にチャールズ・ジェームズを助ける余力などなく、むしろ[[護国卿|護国卿政]]イングランドと友好関係を築こうとさえしていた。<br /> <br /> [[1660年]]、クロムウェルの死去に伴いイングランド護国卿政が瓦解すると、チャールズ2世は[[ブレダ宣言]]を発してイングランド王座に就き、ジェームズも故国の土を踏んだ。兄チャールズ2世には庶子は多くても嫡出子がなく、ジェームズが次期国王と目された。1660年9月、26歳のジェームズは兄の腹心の[[クラレンドン伯爵]][[エドワード・ハイド (初代クラレンドン伯爵)|エドワード・ハイド]]の娘[[アン・ハイド]]と結婚した。<br /> <br /> ジェームズはヨーク公に加えて[[オールバニ]]公・[[海軍本部 (イギリス)|海軍総司令官]]の称号も得て[[イギリス海軍|イングランド海軍]]を束ね、第2次・第3次[[英蘭戦争]]([[1665年]] - [[1667年]]、[[1672年]] - [[1674年]])にたずさわった。海軍総司令官在任中は[[サミュエル・ピープス]]と組んで海軍再建に尽力、第2次英蘭戦争では[[サンドウィッチ伯爵]][[エドワード・モンタギュー (初代サンドウィッチ伯爵)|エドワード・モンタギュー]]と父方の従兄[[カンバーランド公]][[ルパート (カンバーランド公)|ルパート]]と共に1665年の[[ローストフトの海戦]]でオランダ艦隊に大勝利を飾った。後継者を失うことを恐れた兄の命令で後方に回され、1665年以降は海戦から遠ざかったが、第3次英蘭戦争で海軍に復帰して再度オランダ艦隊と交戦した。1672年の[[ソールベイの海戦]]で敗北を喫し、翌年の政争で海軍総司令官を辞任してルパートに交代したため、以後は海戦に参加していない。<br /> <br /> [[1664年]]にアメリカに派遣されたイングランド軍は、北アメリカのオランダ植民地[[ニューネーデルラント]]を占領し、その栄誉を称えて中心都市[[ニューアムステルダム]]は[[ニューヨーク]](ヨーク公にちなむ)に、フォート・オレンジは[[オールバニ (ニューヨーク州)|オールバニ]](オールバニ公にちなむ)と改められた。[[ニュージャージー植民地]]も手に入れたが、後に友人に譲渡した。一方でジェームズは[[王立アフリカ会社]]の筆頭理事も務め、[[奴隷貿易]]に従事した。<br /> <br /> [[ファイル:Mary of modena lg.jpg|thumb|right|ジェームズの2番目の妃メアリー・オブ・モデナ。[[北イタリア]]の[[モデナ公国]]出身で、敬虔なカトリック信徒であった]]<br /> <br /> ===カトリック信仰===<br /> [[17世紀]]のイングランドにおいて、王がカトリックを信仰することは、イングランド固有の法と伝統の破壊者、そして絶対王政を布く暴君といった烙印を押されることを意味した。元々イングランド人はカトリックを好んでいなかったが&lt;ref&gt;イングランドの[[反カトリック]]感情は「よき女王ベス」と慕われた[[エリザベス1世]](1558年 - 1603年)がプロテスタントで「流血のメアリ」と怖れられた[[メアリー1世 (イングランド女王)|メアリー1世]](1553年 - 1558年)がカトリックであったこと、[[1640年]]にアイルランドで起こったカトリック市民によるプロテスタントの虐殺事件の記憶が残っていたこと、長年の敵国フランスがカトリックの大国であったことなど、複合的な原因による。&lt;/ref&gt;、ルイ14世のカトリック寄りの政策は、カトリックが王につくと議会・法を無視して絶対王政に走るという偏見を助長した。ジェームズがカトリックを信仰したことは当時のイングランドにとって由々しき問題であった。<br /> <br /> ヨーク公ジェームズがカトリック信仰になったのは[[1668年]]から[[1669年]]、35歳前後のころと考えられている。このことはしばらく伏せられていたが、ジェームズの信仰に対する疑惑は次第に広がり、特に宮廷にカトリックの影響が及ぶことを懸念する声が高まった。反カトリック感情に押されて議会は[[1673年]]改正[[審査法]]を成立させ、文官・武官の役職につく者に以下の手続きを求めた。<br /> # [[化体説]]を否認すること。(化体説とはカトリックの教理のひとつで、[[ぶどう酒]]と[[パン]]がキリストの血と体になるとするもの。)<br /> # 宣誓において[[カトリック教会]]を「迷信深く怠惰」であると明言すること。<br /> # [[イングランド国教会]]の聖餐を受けること。<br /> ジェームズは海軍総司令官の職を続けるにあたって、これらの手続きを求められ、拒絶して職を辞した。これによってジェームズのカトリック信仰は公然の秘密となった。<br /> <br /> 兄であり王であったチャールズ2世はジェームズの転向に反対し、ジェームズの子らを[[プロテスタント]]として育てるように命じた。しかし一方で[[1673年]]、先妻を亡くしたジェームズ(当時40歳)の再婚相手にカトリックの[[メアリー・オブ・モデナ]]を選ぶことを許した。イングランドの人々の間で、この新しいヨーク公夫人は[[教皇|ローマ教皇]]の手先ではないかという噂が立った。<br /> <br /> [[1677年]](ジェームズ44歳)、ジェームズは長女のメアリー(後の[[メアリー2世 (イングランド女王)|メアリー2世]])をプロテスタントの甥オラニエ公ウィレム3世(後の[[ウィリアム3世 (イングランド王)|ウィリアム3世]])に娶せたが、これは国内の反カトリック圧力を受けてのことであった。こうした妥協にもかかわらず、チャールズ2世妃[[キャサリン・オブ・ブラガンザ|キャサリン]]が流産してジェームズの王位継承が現実味を帯びてくると、カトリックへの敵意は収まらなかった。[[1678年]]には陰謀の捏造騒ぎ([[カトリック陰謀事件]])がおこり、ロンドンは反カトリックの集団ヒステリー状態に陥った。議会ではジェームズの王位継承を阻もうとする[[王位排除法案]]が3度にわたって提出され上下両院で紛糾したが、チャールズ2世の機転でこの法案は廃案となった&lt;ref&gt;排除法案に批判的な貴族院と連携して否決させたり、拒否権や議会解散権を行使して排除法案を廃案に追い込んだ。&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> === スコットランド統治 ===<br /> チャールズ2世はジェームズを守るため、このヒステリーが鎮まるまで[[1679年]]にネーデルラントの[[ブリュッセル]]に逃れさせた。更に騒ぎの伝播していないスコットランドに移し、そこでローダーデイル公[[ジョン・メイトランド (初代ローダーデイル公)|ジョン・メイトランド]]に代えて国王名代の地位に据えた。ジェームズはスコットランドで王位継承の根回しを進めるとともに、スコットランドでのジェームズの人気を確保した。一方で宗教弾圧も決行、[[長老派教会]]の[[カヴェナンター]]を弾圧している([[殺戮時代]])。<br /> <br /> 排除法案などを提出したのは元閣僚で反カトリック・反ジェームズの中心的人物である[[シャフツベリ伯爵]][[アントニー・アシュリー=クーパー (初代シャフツベリ伯爵)|アントニー・アシュリー=クーパー]]である。彼ら急進派(後に[[ホイッグ党 (イギリス)|ホイッグ]]と呼ばれる)は、カトリック陰謀事件の熱もおさまって政治的攻勢をかけられなくなり、合法的な手段でジェームズの王位継承を阻止することが不可能と判断した。この当時、カトリックではあっても血筋正しいジェームズが王であるべきだという保守派(後に[[トーリー党 (イギリス)|トーリー]]と呼ばれ、ホイッグと並び[[二大政党制]]の基礎となる)も少なからず存在した。<br /> <br /> 排除法案に対抗してチャールズ2世は2度にわたり議会を解散し、その後チャールズ2世の治世に議会が召集されることはなかった。こうした状況で急進派が打った手段が[[ライハウス陰謀事件]]([[1683年]])で、チャールズ2世とジェームズ兄弟を一挙に暗殺する計画を立てた。この暗殺計画は未遂のうちに露見しホイッグの指導者層は処刑、シャフツベリ伯は[[1682年]]に別の陰謀発覚で[[ネーデルラント]]に亡命し翌1683年に死去、一方のジェームズは1682年に帰国、[[1684年]]に海軍総司令官に復職した。<br /> [[ファイル:James2coin.jpg|thumb|1/2クラウン(1/8[[スターリング・ポンド|ポンド]])貨。ジェームズ即位を記念して1686年鋳造された。刻印に&#039;&#039;IACOBUS II DEI GRATIA&#039;&#039;(James II by the Grace of God)の文字が読みとれる]]<br /> <br /> ===国王ジェームズ7世および2世===<br /> [[ファイル:James ii england.jpg|thumb|200px|left|ジェームズ2世]]<br /> チャールズ2世は[[1685年]]、死の床でカトリックに転向した後&lt;ref&gt;カトリックであることを告白したと表するものもある。この場合、遡ってカトリック信仰であったことを意味する。この点については議論があるが、いずれにせよチャールズは生前からカトリックに理解・共感を示していた。&lt;/ref&gt;、公式な次代国王を決めずに死去した。王位は当時51歳のジェームズに渡り、[[ウェストミンスター宮殿]]で[[4月23日]]戴冠式が行われ、イングランドとアイルランドの王ジェームズ2世、スコットランド王ジェームズ7世が誕生した。当初はジェームズ2世の即位にはっきりと反対の態度をとる者はほとんどいなかった。5月に召集された議会も王室費の増加を決議するなど、ジェームズ2世に友好的な態度を見せた。<br /> <br /> [[モンマスの反乱]]は、ジェームズ2世の即位に反対する運動であった。チャールズ2世の庶子・[[モンマス公]][[ジェイムズ・スコット (初代モンマス公爵)|ジェームズ・スコット]]は[[スコットランド貴族]]・アーガイル伯[[アーチボルド・キャンベル (第9代アーガイル伯)|アーチボルド・キャンベル]]と結託、自分こそが王であると僭称して1685年[[6月20日]]に反乱を起こしたが、アーガイルはすぐに捕らえられ処刑、モンマスも[[セッジムーアの戦い]]でイングランド軍に敗れ、[[ロンドン塔]]で処刑された&lt;ref&gt;この反乱に対するジェームズの厳しい態度から、後世の史家たちから「[[血の巡回裁判]]」「残酷な支配者」と批判されることもあったが、当時はこれらの処置を当然と見る向きがほとんどで、同時代人からは批判されていない。&lt;/ref&gt;。さらなる反乱を防ぐ目的で、ジェームズ2世は大規模な常備軍の設置を検討したが、これにはカトリック絶対主義のあらわれであるとして議会の反発を招いた。常備軍の問題は結局ジェームズ2世側が折れて撤回したが、同時に議会は解散され、ジェームズ2世の治世には再度召集されることはなかった。<br /> <br /> [[ファイル:James II statue 1.jpg|thumb|left|200px|[[ロンドン]]・[[トラファルガー広場]]のジェームズ2世像。木彫師[[グリンリング・ギボンズ]]の手による。公式な彫像は、この像と[[オックスフォード大学]]ユニバーシティ・カレッジの2箇所のみである]]<br /> [[ファイル:Seven Bishops.jpg|left|thumb|200px|ジェームズに請願を提出した7名の主教。「Seven Bishops」として知られる]]<br /> <br /> ===議会との対立===<br /> [[ファイル:James.II.jpg|thumb|200px|right|ジェームズ2世]]<br /> 宗教問題による緊張は[[1686年]]、あるフランス外交官から、王は揺るぎない支配体制を築くべきであると進言されたことに端を発する。この問題を審議した[[王座裁判所]]は、王は審査法による宗教的制限を受けないという決定を下した。ジェームズ2世はこの決定を根拠に、カトリック信徒が高位公職につくことを許し、ローマ教皇大使[[フェルディナンド・ダッダ]]を宮廷に招き入れ、[[イエズス会]]士[[エドワルド・ペトレ]]を自らの[[聴罪司祭]]に据えた。こうしたことは[[メアリー1世 (イングランド女王)|メアリー1世]]時代([[1553年]] - [[1558年]])以来なかったことで、プロテスタント支配層の怒りを買い、ジェームズ2世の支持層であったトーリーとの溝を深めることになった。<br /> <br /> 次にジェームズ2世は[[ロンドン主教]]で反カトリックの急先鋒の一人[[ヘンリー・コンプトン]]をはじめ、要職にあった国教会信仰の者を免職しはじめた。[[1687年]]1月には義弟で[[アイルランド総督 (ロード・レフテナント)|アイルランド総督]]のクラレンドン伯[[ヘンリー・ハイド (第2代クラレンドン伯爵)|ヘンリー・ハイド]]・[[大蔵省 (イギリス)|大蔵卿]]のロチェスター伯[[ローレンス・ハイド (初代ロチェスター伯爵)|ローレンス・ハイド]]兄弟を罷免して4月に{{仮リンク|信仰自由宣言|en|Declaration of Indulgence}}を発し、カトリック及び非国教会プロテスタントへの制限・処罰を停止した&lt;ref&gt;こうした政策や宣言が、非国教会プロテスタント(たとえば長老派などピューリタン)の支持を得るためであったのか、もしくは真に信仰の自由を実現しようという意図であったのかについては論争がある。&lt;/ref&gt;。更に[[オックスフォード大学]][[クライスト・チャーチ (オックスフォード大学)|クライストチャーチ]]およびユニバーシティ・カレッジ&lt;ref&gt;カレッジ制をとるオックスフォード大学のなかでも歴史と伝統が長い両校は、政治的影響力も小さくなかった。また[[大学選挙区]]を有しており、オックスフォード大学選挙区から2名の下院議員を選出していた。&lt;/ref&gt;でも国教会信徒からカトリックへ要職・研究者職のすげ替えが行われ、これが議会を刺激した。7月には議会を解散、10月から11月にかけて各州の[[統監]]と[[治安判事]]に、次の選挙に親カトリックを支持するかどうかの質問状を送り、反対派を更迭、自治都市への介入も進めていった。<br /> <br /> これらの親カトリック政策、および非国教会信徒への規制緩和政策は、支配者層の大部分であった国教会信徒との軋轢を生んでいったが、一方で優遇されるカトリックの側にとっても手放しで喜べることではなかった。広い支持のない政策によって優遇されたカトリック聖職者らは、ジェームズ2世亡き後は再び強い敵意の中に放り出されるのではないかという不安を持ち始めていた。いまやジェームズ2世の支持基盤は、ごく少数の腹心たちだけであった。<br /> <br /> ===名誉革命===<br /> {{main|名誉革命}}<br /> イングランド反カトリックの我慢の糸が切れたのは1688年の4月、再び信仰自由宣言を発して国教会[[礼拝]]で宣言を読み上げるようにという命令が下された時であった。[[カンタベリー大主教]][[ウィリアム・サンクロフト]]ら7名の[[主教]]は連名で請願を提出し、宗教政策の再考をジェームズ2世に迫ったが、ジェームズ2世は主教らの逮捕でこれに応じた&lt;ref&gt;[[騒乱罪]]の名目であった。裁判では無罪を言い渡されている。&lt;/ref&gt;。更に6月、ジェームズ2世に長子[[ジェームズ・フランシス・エドワード・ステュアート|ジェームズ・フランシス・エドワード]](ジェームズ老僭王)が生まれて&lt;ref&gt;すでに生まれていたのを隠し、この時期に公表したのではないかという指摘もされている。&lt;/ref&gt;カトリック政権が続くであろうことが明白となった。<br /> <br /> ジェームズ2世の支持基盤であったトーリーは鼻白み、かわってホイッグ急進派が次第に勢いを盛り返しつつあり、急進派の幾人かが密かにオランダのオラニエ公ウィレム3世と連絡をとり始めていた。ウィレム3世はジェームズ2世の甥で、娘メアリーの婿でもあった。急進派の間ではカトリック絶対主義の強国フランスの専制君主ルイ14世と戦うプロテスタントの英雄と目されており、イングランド王位を引き継がせるには絶好の相手であった。一方ウィレム3世の側でも、オランダの国力のみでフランスと戦うのは心細く、戦略上イングランドを味方に引き入れることが望ましいと考えていた。<br /> <br /> 両者の利害は一致し、[[6月30日]]、後に[[イモータル・セブン]]とよばれる7人のプロテスタント貴族(シュルーズベリー伯[[チャールズ・タルボット (シュルーズベリー公)|チャールズ・タルボット]]、[[デヴォンシャー公|デヴォンシャー伯]][[ウィリアム・キャヴェンディッシュ (初代デヴォンシャー公爵)|ウィリアム・キャヴェンディッシュ]]、ダンビー伯[[トマス・オズボーン (初代リーズ公)|トマス・オズボーン]]、ラムリー男爵[[リチャード・ラムリー (初代スカーバラ伯)|リチャード・ラムリー]]、ロンドン主教ヘンリー・コンプトン、[[エドワード・ラッセル (初代オーフォード伯爵)|エドワード・ラッセル]]、[[ヘンリー・シドニー (ロムニー伯)|ヘンリー・シドニー]])がウィレム3世に招聘状を送り、正式にイングランドに王として来てほしいと要請した。<br /> <br /> 9月にはウィレム3世が攻めてくることが明白になり、フランスのルイ14世はジェームズ2世に援軍を申し出た。ジェームズ2世はこれを断って&lt;ref&gt;援軍を招けば、イングランドがフランスに占領される、もしくは戦禍が国土に及ぶという危惧がジェームズ2世にはあった。&lt;/ref&gt;自前の軍を召集しようとしたが、ジェームズ2世の命令を聞く部下や軍隊はほとんどいなかった。[[11月5日]]にウィレム3世が[[アルマダの海戦]]([[1588年]]、対[[スペイン]])を凌ぐ5万の軍勢を従えて何の抵抗も受けずに上陸、側近の[[ジョン・チャーチル (初代マールバラ公)|ジョン・チャーチル]](後の[[マールバラ公]])と[[サラ・ジェニングス]]夫妻らほとんどのイングランド貴族がウィレム3世に寝返り、次女[[アン (イギリス女王)|アン]]と[[ジョージ (カンバーランド公)|ジョージ]]の夫妻が彼らの手引きでオランダ軍に投降するに至り、ジェームズ2世は自らの敗北を悟って[[国璽]]を[[テムズ川]]に投げ捨て、逃亡を図った。[[ケント (イングランド)|ケント]]で一旦は捕えられたが解放され&lt;ref&gt;ジェームズ2世を処刑すべしという声もあったが、イングランド内戦のさなかチャールズ1世が首を刎ねられ、結果的に殉教者として同情が集まったという経緯があった。ジェームズ2世を逃がしたのは、かつてはウィリアム3世の度量の広さゆえであるとも言われたが、実際はジェームズ2世の人気を回復させないためであった。&lt;/ref&gt;、フランスに再亡命した。この時、ジェームズ2世は55歳に達していた。<br /> <br /> 一方、歓呼のもとロンドンに迎えられたウィレム3世は、議会が解散中であったため[[仮議会]]を召集し&lt;ref&gt;仮議会は[[イングランド王政復古|王政復古]]([[1660年]])の時も召集されているが、双方ともどのような手続・法的根拠によって仮議会が召集されたのか明らかになっていない。&lt;/ref&gt;、国王即位の承認を受けた。ここにイングランドは[[ウィリアム3世 (イングランド王)|ウィリアム3世]]・[[メアリー2世]]による共同統治が始まった。<br /> <br /> [[ファイル:Château de Saint-Germain-en-Laye01.jpg|thumb|left|ジェームズが晩年を過ごしたサン=ジェルマン=アン=レー城]]<br /> ===ジャコバイトの王として===<br /> フランスに逃れたジェームズ2世は捲土重来を図って[[1689年]]3月、フランス軍を伴ってアイルランドに上陸した。スコットランドでは親ジェームズ2世のダンディー子爵[[ジョン・グラハム (初代ダンディー子爵)|ジョン・グラハム]]が反乱を起こして戦死したが、アイルランドではジャコバイトのティアコネル伯[[リチャード・タルボット (ティアコネル伯)|リチャード・タルボット]]と[[パトリック・サースフィールド]]らがジェームズ2世に協力、[[アイルランド議会 (1297-1800)|アイルランド議会]]は[[イギリスの議会|ウェストミンスター]]の決定に従わず、ジェームズ2世が王であることを確認し、「信仰の自由に関する法&lt;ref&gt;カトリック・プロテスタントを問わずアイルランドにおいては信仰による差別をしないとする法。&lt;/ref&gt;」を成立させた。かくしてジェームズ2世=カトリック勢力とウィリアム3世=プロテスタント勢力の戦い([[ウィリアマイト戦争]])が始まったが、[[ボイン川の戦い]]で敗れたジェームズ2世は敗残の味方たちを置き去りにしてフランスに逃れた。捨てられた側の兵士たちから不満が噴出し「くそったれのジェームズ(&#039;&#039;Séamus á Chaca&#039;&#039;、&quot;James the Shit&quot;)」というニックネームがつけられた。<br /> <br /> アイルランドは[[1691年]]までにイングランド軍に平定され、スコットランドの反乱も鎮圧され、名誉革命政権は足場を固めた。大陸で起こった[[大同盟戦争]]でイングランド・オランダ同盟軍を率いるウィリアム3世と戦っていたルイ14世もジェームズ2世の支援を行おうとしたが、[[1692年]]の[[バルフルール岬とラ・オーグの海戦]]でフランス海軍が壊滅、イングランド遠征は失敗に終わった。<br /> <br /> 戦後、ジェームズ2世はフランスの[[サン=ジェルマン=アン=レー]]城に住むことを許され、[[1696年]](ジェームズ63歳)には王位奪還を狙ってウィリアム3世暗殺計画を立てたが失敗に終わった。ルイ14世はジェームズ2世に[[ポーランド・リトアニア共和国|ポーランド]]王位を用意したが、これを受諾することはイングランド王位を諦めることを意味すると考えたジェームズ2世は辞退し、ルイ14世との関係も冷えていった&lt;ref&gt;[[レイスウェイク条約]]をイングランドとの間に締結して大同盟戦争を終わらせたルイ14世は、これ以上ウィリアム3世のイングランドと対立を続ける材料がなくなったためでもある。&lt;/ref&gt;。以後、ジェームズ2世は禁欲的な[[告解]]者として生活し、1701年9月16日に[[脳出血]]で死亡した。67歳であった。遺体はサン=ジェルマン=アン=レーに埋葬されている。<br /> <br /> === 遺したもの ===<br /> 次女アンはプロテスタント信仰で、[[1702年]]のウィリアム3世の死後に王位を継いだ(メアリー2世は[[1694年]]に死去)。1701年に制定された[[1701年王位継承法|王位継承法]]は、アン亡き後にジェームズ老僭王(カトリック信仰、ジャコバイトの王)が王位を継ぐのを防ぐための法だった。これによってジェームズ老僭王は王位継承権を失い、代わってプロテスタントで[[ジェームズ1世 (イングランド王)|ジェームズ1世]]の女系の曾孫の[[ハノーファー選帝侯]]ゲオルク・ルートヴィヒ([[ジョージ1世 (イギリス王)|ジョージ1世]])が迎えられて[[ハノーヴァー朝]]が成立することになった。<br /> <br /> ジャコバイトの間ではジェームズ8世及び3世として知られるジェームズ老僭王は、たびたびジャコバイト運動を起こした。特に大規模だったのは、スコットランドで起こした[[1715年]]の反乱である。王位が[[ステュアート朝]]からハノーヴァー朝に移り、情勢が不安定になったのを見て軍を起こしたが、結局鎮圧された。ジェームズ老僭王の息子[[チャールズ・エドワード・ステュアート|チャールズ・エドワード]](チャールズ3世、チャールズ若僭王)は、[[1745年]]のジャコバイト反乱を主導してイングランドを震撼させたが、スコットランドの反乱軍との連絡の不備もあって[[カロドン・ミュアの戦い]]で鎮圧された。若僭王の弟[[ヘンリー・ベネディクト・ステュアート|ヘンリー・ベネディクト]]は[[枢機卿]]となった。ジェームズの嫡系の子孫はヘンリー・ベネディクトが最後で、ヘンリーの死後は王位を主張しなくなった。現在に伝わる推定相続者は[[バイエルン大公|バイエルン公]][[フランツ・フォン・バイエルン|フランツ]]で、ジャコバイトの間では「フランシス2世」と呼ばれている。<br /> <br /> 一方、ジェームズ2世は[[アラベラ・チャーチル]]([[ウィンストン・チャーチル (1620-1688)|サー・ウィンストン・チャーチル]]の娘でマールバラ公ジョン・チャーチルの姉)との間に[[庶子]]ヘンリエッタを残しており、その家系は[[スペンサー伯爵]]家と婚姻を行い[[ダイアナ (プリンセス・オブ・ウェールズ)|ダイアナ元妃]]に至ることになった。そして[[1981年]]のダイアナ妃と[[チャールズ (プリンス・オブ・ウェールズ)|チャールズ王太子]]の結婚、翌年の[[ウィリアム (ケンブリッジ公)|ウィリアム王子]]の誕生により294年振りにジェームズ2世の血筋は[[イギリス王室]]に甦った。もう1人の庶子でヘンリエッタの弟[[ジェームズ・フィッツジェームズ (初代ベリック公)|ジェームズ・フィッツジェームズ]]もフランスに帰化して、子孫はスペイン貴族とフランス貴族に叙爵、[[アルバ公]]位を受け継ぎ、現在に至る。<br /> <br /> == イングランド王位継承の家系図 ==<br /> {{ステュアート朝の家系図}}<br /> <br /> == 子女 ==<br /> 最初の妃[[アン・ハイド]]との間に8人の子を儲けたが、2人の娘を除いて夭折した。<br /> # チャールズ(1660年 - 1661年) - [[ケンブリッジ公]]<br /> # [[メアリー2世 (イングランド女王)|メアリー2世]](1662年 - 1694年) - イングランド・スコットランド・アイルランド女王、オランダ総督[[ウィリアム3世 (イングランド王)|ウィリアム3世]]と結婚<br /> # ジェームズ(1663年 - 1667年) - ケンブリッジ公<br /> # [[アン (イギリス女王)|アン]](1665年 - 1714年) - イングランド・スコットランド・アイルランド女王、のち[[グレートブリテン王国|グレートブリテン]]女王、[[デンマーク]]・[[ノルウェー]]王子[[ジョージ (カンバーランド公)|ジョージ]]と結婚<br /> # チャールズ(1666年 - 1667年) - ケンダル公<br /> # エドガー(1667年 - 1671年) - ケンブリッジ公<br /> # ヘンリエッタ(1669年)<br /> # キャサリン(1671年)<br /> 2番目の妃[[メアリー・オブ・モデナ]]との間に7人の子を儲けたが、2人の子を除いて夭折した。<br /> # キャサリン・ローラ(1675年 - 1676年)<br /> # イザベラ(1676年 - 1681年)<br /> # チャールズ(1677年) - ケンブリッジ公<br /> # エリザベス(1678年)<br /> # シャーロット・メアリー(1682年)<br /> # [[ジェームズ・フランシス・エドワード・ステュアート|ジェームズ・フランシス・エドワード]](1688年 - 1766年) - イングランド王位僭称者、「老僭王」<br /> # [[ルイーザ・マリア・テレーザ・ステュアート|ルイーザ・マリア・テレーザ]](1692年 - 1712年)<br /> 愛妾[[アラベラ・チャーチル]]との間に4人の子を儲けた。<br /> # ヘンリエッタ・フィッツジェームズ(1667年 - 1730年) - ウォルドグレイヴ男爵[[ヘンリー・ウォルドグレイヴ (初代ウォルドグレイヴ男爵)|ヘンリー・ウォルドグレイヴ]]と結婚、ガルモエ子爵[[ピアズ・バトラー (第3代ガルモエ子爵)|ピアズ・バトラー]]と再婚<br /> # [[ジェームズ・フィッツジェームズ (初代ベリック公)|ジェームズ・フィッツジェームズ]](1670年 - 1734年) - ベリック公<br /> # ヘンリー・フィッツジェームズ(1673年 - 1702年) - アルベマール公<br /> # アラベラ・フィッツジェームズ(1674年 - 1704年) - 修道女<br /> 愛妾[[キャサリン・シードリー]]との間に3人の子を儲けたが、1人を残して夭折した。<br /> # キャサリン・ダーンリー(1681年 - 1743年) - アングルシー伯[[ジェームズ・アンズリー (第3代アングルシー伯)|ジェームズ・アンズリー]]と結婚、[[バッキンガム公]][[ジョン・シェフィールド (初代バッキンガム=ノーマンビー公)|ジョン・シェフィールド]]と再婚<br /> # ジェームズ・ダーンリー(1684年 - 1685年)<br /> # チャールズ・ダーンリー(生没年不詳) - 夭折<br /> <br /> == 人物像 ==<br /> [[ファイル:Van Soest, Attack on the Medway.jpg|thumb|right|第2次[[英蘭戦争]]で奇襲を受けるイングランド軍艦。海軍総司令官の職にあったジェームズは、対オランダ主戦論者の中心的存在でもあった]]<br /> ジェームズは、国王は断固たる強い姿勢を維持しなければならないと考えていた。これは優柔不断から妥協や追従を繰り返し、ついには腹心[[トマス・ウェントワース (初代ストラフォード伯爵)|ストラフォード伯]]の処刑に署名してしまった父チャールズ1世の教訓があった。実際、兄チャールズ2世に、安易な妥協をしないようたびたび進言している。しかし一方で、自身が安易な妥協を見せることもあった。政治家として時には譲歩しなければならないと感じたゆえのことであったが、これによって原則を強調しながらも大衆受けを狙う行動を時折見せた。信仰自由宣言によって非国教会信徒に官職の門戸を開こうとしたのも、こうした下地があった。<br /> <br /> ジェームズはまた、人物を敵味方の二分法で分けがちなところがあった。ジェームズにとって、自分の意見を是とする者は信頼に足る者であり、諌言を行う者は敵であった。これは亡命中、[[イングランド内戦]]の情報を国王派に偏った者から得ていたためでもある。国王派からみれば、チャールズ1世は正当な主張に則った行動をしており、野心的なイングランドの議会派[[ジェントリ]]が民衆の間に広がっていた不満を利用して国を混乱に陥れた、と映っていた。側近らはそのままジェームズに伝え、他に情報のチャンネルがないジェームズは、これを鵜呑みにせざるを得なかった。結果、議員・政治家を疑ってかかるようになり、敵と判断した者を排除しようとした。<br /> <br /> == 歴史的評価 ==<br /> === 悪役としての250年 ===<br /> 長い間、名誉革命はイングランド史上最大の「偉業」であり、これをもたらした[[ウィリアム3世 (イングランド王)|ウィリアム3世]]は信仰の自由と法([[コモン・ロー]])および伝統を守った英雄として描かれた。相対的にジェームズ2世の評価は低く、「カトリック[[絶対王政]]を布こうとした専制君主」という歴史上の悪役であった。このような歴史観は名誉革命直後からイングランド人の間で主流であり、[[フランス革命]]の影響もあってむしろ強化された。ウィリアム3世=英雄・ジェームズ2世=敵役という[[ホイッグ史観]]は[[20世紀]]中盤まで、ほとんど批判を受けずに継承されてきた。ジェームズに関する伝記で最初のものは[[1948年]]、史家フランシス・ターナーによるものである。これは入念に調べ上げられているが、ほぼホイッグ史観の路線を踏襲した否定的見解に基づく伝記であった。<br /> <br /> === 修正主義とミラーの伝記 ===<br /> [[1970年代]]に起こった[[修正主義歴史学]]の隆盛は、[[歴史学]]を物語から学問に押し上げようとする動きでもあった。修正主義歴史学は、歴史の物語性や因果律を批判的に検討し、[[進歩史観]]の否定や歴史的偶発性の指摘を行った&lt;ref&gt;たとえば修正主義学派は、[[チャールズ1世 (イングランド王)|チャールズ1世]]の兄[[ヘンリー・フレデリック・ステュアート|ヘンリー]]([[1594年]] - [[1612年]]、聡明な人物として将来を嘱望されていたが早世した)が長生きしていれば[[清教徒革命]]は起こらなかったのではないかと指摘している。&lt;/ref&gt;。その流れの中で、名誉革命研究も新たな展開を見せることになった。次第にウィリアム3世の戦略的利己心やホイッグ急進派の実態などが明らかにされ、名誉革命は歴史的偉業から単なる宮廷[[クーデター]]に格下げされた。ジェームズ2世については「カトリック絶対王政を目指した専制君主」という像が真実だとすれば、[[カトリック陰謀事件]]などの騒動やジェームズ2世が国王に即位できた理由が説明できなくなる点などが指摘された。ジェームズ2世を支持した層が存在したことが明らかになり、歴史的悪役の枠内では捉えきれなくなりつつあった。そうした潮流のなかでジョン・ミラーが著した「James II」(初版[[1978年]])は、現在もっとも評価の高い伝記である。<br /> <br /> ミラーは、ジェームズ2世は絶対王政に憧れている面があったものの、それを実現する計画も努力もほとんどなく、むしろイングランドで信仰の自由──カトリックも含めて──を実現しようとしたにすぎない、と指摘した。<br /> <br /> === 論争 ===<br /> ミラーの伝記は従来のジェームズ2世観からすれば革命的な変化であり、[[ネオ=ホイッグ]]とよばれる保守的な歴史家から批判が集中した。同様に伝記を出版したウィリアム・スペックは、ミラーの指摘を「まったく信用に値しない(ultimately unconvincing)」とこき下ろし、一方ミラーも「ビル・スペックは300年前と同じようなことをいまだに主張している」と応じている。ことジェームズ2世の評価に関する限り、ミラーの研究のほうが比較的広く受け入れられているが、ジェームズ2世の宗教観や政治思想などを詳細かつ広範にカバーした研究が望まれている。<br /> <br /> 日本のイギリス史研究でもミラーやスペックらの研究が受け入れられているが、ジェームズ2世についての新しい日本語文献はほとんど存在しない。これは日本の17~18世紀イギリス研究が、[[浜林正夫]]による名誉革命に関する著作が出て以降、経済史・社会史・民衆史および[[イギリス帝国]]研究などに重点が移ってきていること、国王といえども個人の伝記は日本語訳されることがほとんどなかったこと、および英語で出版されたものを読めば足りるとされてきたこと、などの理由による。研究界の外では旧来のジェームズ2世=専制君主という構図が根強く残り、[[世界史 (科目)|世界史]]の教科書などではホイッグ史観に基づく悪役像が反映されている。<br /> <br /> == 脚注 ==<br /> &lt;div class=&quot;references-small&quot;&gt;&lt;references /&gt;&lt;/div&gt;<br /> <br /> == 参考文献など ==<br /> *書籍<br /> ** [[岩井淳]]、[[指昭博]]『イギリス史の新潮流—修正主義の近世史』[[彩流社]]、2000年。 ISBN 4882026716<br /> ** [[浜林正夫]]『イギリス名誉革命史 上巻』[[未來社]]、1981年。 ISBN 4624110552<br /> ** [[友清理士]]『イギリス革命史(上)・(下)』[[研究社]]、2004年。<br /> **Callow, John (2005). &#039;&#039;James II The truiumph and the tragedy&#039;&#039;, National Archives. ISBN 1903365570<br /> **Miller, John (2000). &#039;&#039;James II&#039;&#039;, 3rd. ed. Yale University Press. ISBN 0300087284<br /> **Schwoerer, Lois G(2003). &#039;&#039;The Revolution of 1688-1689:Changing Perspectives(PaperBack)&#039;&#039;, Cambridge University Press. ISBN 0521526140<br /> **Speck, William A. (2002). &#039;&#039;James II&#039;&#039;, Longman. ISBN 058228712X<br /> *ウェブ<br /> **[http://jacobite.ca/kings/james2.htm McFerran, Noel S. (2003). &quot;James II and VII.&quot; 2006年6月25日参照]<br /> <br /> == 関連項目 ==<br /> * [[ホリールード宮殿]] <br /> * [[セント・ジャイルズ大聖堂]]<br /> * [[シッスル勲章]]<br /> * [[ボストン暴動]]<br /> <br /> == 外部リンク ==<br /> {{commons|James II of England|ジェームズ2世}}<br /> *{{Find A Grave|1976|King James II}}<br /> *[http://www3.dcs.hull.ac.uk/cgi-bin/gedlkup/n=royal?royal706 James&#039;s issue]<br /> <br /> {{イングランド王|1685年 - 1688年}}<br /> {{アイルランド王|1685年 - 1688年|アイルランド王}}<br /> {{スコットランド王|1685年 - 1688年}}<br /> {{ジャコバイト王位継承者}}<br /> {{Normdaten}}<br /> {{DEFAULTSORT:しえむす2}}<br /> [[Category:王冠連合の君主]]<br /> [[Category:ジャコバイト王位請求者]]<br /> [[Category:イギリスの亡命者]]<br /> [[Category:ポーランド王位継承候補]]<br /> [[Category:ヨーク公]]<br /> [[Category:オールバニ公]]<br /> [[Category:アルスター伯]]<br /> [[Category:ステュアート家|しえむす7]]<br /> [[Category:ブルボン朝の人物]]<br /> [[Category:大同盟戦争の人物]]<br /> [[Category:イングランドのカトリックの人物]]<br /> [[Category:シティ・オブ・ウェストミンスター出身の人物]]<br /> [[Category:1633年生]]<br /> [[Category:1701年没]]</div> 27.99.43.214
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