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http:///mymemo.xyz/wiki/api.php?action=feedcontributions&user=240F%3A80%3ABFA7%3A1%3A6D26%3A6350%3AD44B%3A5092&feedformat=atom miniwiki - 利用者の投稿記録 [ja] 2024-04-24T16:37:43Z 利用者の投稿記録 MediaWiki 1.31.0 南極観測船 2018-06-10T04:54:33Z <p>240F:80:BFA7:1:6D26:6350:D44B:5092: /* 関連項目 */</p> <hr /> <div>&#039;&#039;&#039;南極観測船&#039;&#039;&#039;(なんきょくかんそくせん)とは、[[南極]]への物資補給・人員派遣や観測・実験任務に携わる[[船]]([[調査船]])のことである。任務の特性上、[[砕氷船|砕氷]]を始めとする高度な能力が求められる。<br /> <br /> == 各国の南極観測船 ==<br /> === 日本 ===<br /> [[File:Icebreaker SHIRASE - しらせ:歴代の南極観測船.jpg|thumb|250px|歴代南極観測船の模型]]<br /> 日本においては[[1957年]](昭和32年)から[[1962年]](昭和37年)までの南極観測船運用(第1~6次)は[[海上保安庁]]により行なわれたが、[[1965年]](昭和40年)から[[海上自衛隊]]により運用が行なわれている。南極地域の観測及び[[南極地域観測隊]]の日本と南極との往復に以下の艦船が用いられた。<br /> <br /> * 初代:[[宗谷 (船)|宗谷]](1957~1962)<br /> * 2代:[[ふじ (砕氷艦)|ふじ]](1965~1983)<br /> * 3代:[[しらせ (砕氷艦)|初代しらせ]](1983~2008)<br /> * 4代:[[しらせ (砕氷艦・2代)|しらせ・2代目]](2009~)<br /> <br /> このうち宗谷は、もともと南極観測船として造られたものではない。宗谷は第二次世界大戦前に[[ソビエト連邦]]の発注により造られたがソ連に引き渡されずに日本海軍に買収され[[大日本帝国海軍艦艇一覧#.E7.89.B9.E5.8B.99.E8.89.A6.E8.89.87|特務艦]]として太平洋戦争に従事、戦後は紆余曲折を経て海上保安庁に編入され当初は[[灯台]]補給船として活躍していたものである。なお、2008年度はオーストラリアの民間砕氷船[[オーロラ・オーストラリス]]が用いられた。<br /> <br /> === ロシア ===<br /> {{節stub}}<br /> * [[レーニン (原子力砕氷艦)|レーニン]]<br /> * [[オビ_(砕氷艦)|オビ]]<br /> <br /> === アメリカ ===<br /> {{節stub}}<br /> 船舶の運用は[[アメリカ沿岸警備隊]]が行っている。<br /> <br /> *[[ウィンド級砕氷艦]]<br /> : [[バートン・アイランド_(砕氷艦)|バートン・アイランド]]<br /> <br /> === オーストラリア ===<br /> {{節stub}}<br /> <br /> === 中国 ===<br /> * [[雪竜]]<br /> <br /> === 韓国 ===<br /> * 初代: [[アラオン]](2009~)<br /> <br /> == 関連項目 ==<br /> * [[砕氷船]]<br /> <br /> {{艦艇}}<br /> {{ship-stub}}<br /> <br /> {{DEFAULTSORT:なんきよくかんそくせん}}<br /> [[Category:調査船]]<br /> [[Category:砕氷船]]<br /> [[Category:南極観測]]<br /> [[Category:船の種類]]</div> 240F:80:BFA7:1:6D26:6350:D44B:5092 標的艦 2018-06-10T04:51:25Z <p>240F:80:BFA7:1:6D26:6350:D44B:5092: </p> <hr /> <div>&#039;&#039;&#039;標的艦&#039;&#039;&#039;(ひょうてきかん)は[[海軍]]の艦種の一つである。名前のとおり、[[爆撃]]訓練や[[砲撃]]訓練、新型[[砲弾]]・ミサイルの実験などで標的として使うことを目的とする[[軍艦]]である。(分類上は[[艦船]]とされる場合も多くあいまいである。詳しくは[[軍艦|軍艦の項目]]を参照。)標的艦は&#039;&#039;&#039;実艦的&#039;&#039;&#039;とも呼ばれる。<br /> [[ファイル:Japanese battleship Settsu as target ship April 7 1940.jpg|right|thumb|300px|[[無線操縦]]式標的艦となった「摂津」]]<br /> 廃艦(廃船)となった艦船の船体をそのまま実弾の標的として処分することもよくある。すでに艦船ではなく単なる&#039;&#039;&#039;標的&#039;&#039;&#039;なので&#039;&#039;&#039;艦&#039;&#039;&#039;と呼ぶのは不適切な表現だが、こちらもしばしば&#039;&#039;&#039;標的艦&#039;&#039;&#039;と呼ばれる。<br /> <br /> == 標的艦 ==<br /> === 日本海軍 ===<br /> [[1923年]](大正12年)9月29日、[[大日本帝国海軍艦艇類別変遷#概要|特務艦]]の1類別として制定され、10月1日に「摂津」が編入される。当初は標的を曳航するだけで実際の標的艦としては使用されなかった。[[昭和]]に入り[[ラジコン|無線操縦技術]]が実用化され「摂津」は[[1937年]](昭和12年)に無線操縦の標的艦に改装された。後年には乗員が乗りこみ爆撃回避の訓練にも使われた。その後に爆撃訓練の機会も増え、「摂津」では速力も遅く運動能力も高くなかったので、「矢風」が標的艦に改造され、更に専用の艦が建造されることとなった。<br /> * [[摂津 (標的艦)|摂津]] - 旧式となった[[戦艦]]から改造。本艦はさらに[[無線操縦]]爆撃標的艦(ラジコン標的艦)に改造。<br /> * [[矢風 (標的艦)|矢風]] - 摂津の操縦艦をしていたが後に自身も標的艦に改造。<br /> * [[波勝 (標的艦)|波勝]] - 戦時急造計画で建造。初めから標的艦として造られた艦。<br /> * [[大浜 (標的艦)|大浜]] - 戦時急造艦。<br /> * 大指 - 大浜の同型艦、未成。<br /> <br /> === アメリカ海軍 ===<br /> * [[アイオワ (BB-4)|アイオワ]] - 無線操縦標的艦に改造。[[パナマ湾]]での演習時に沈没した。<br /> * {{仮リンク|Stoddert|EN|USS Stoddert (DD-302)}} - 無線操縦標的艦に改造。<br /> * [[ユタ (戦艦)|ユタ]] - 無線操縦標的艦に改造。[[真珠湾攻撃]]で[[魚雷]]を受けて沈没した。<br /> * {{仮リンク|Lamberton|EN|USS Lamberton (DD-119)}} - 無線操縦標的艦に改造。<br /> * {{仮リンク|Boggs|EN|USS Boggs (DD-136)}} - 無線操縦標的艦に改造。<br /> * {{仮リンク|Kilty|EN|USS Kilty (DD-137)}} - 無線操縦標的艦に改造。<br /> <br /> === ドイツ海軍 ===<br /> [[ファイル:Hessen1946Kiel.jpg|right|thumb|150px|標的艦となった「ヘッセン」]]<br /> * {{仮リンク|ヘッセン (戦艦)|EN|SMS Hessen}} - [[ブラウンシュヴァイク級戦艦|ブラウンシュヴァイク級]]の一隻を無線操縦のラジコン艦に改装した。<br /> <br /> == 標的 ==<br /> 標的として処分された例。<br /> * 肥前 - [[ロシア帝国]]海軍の戦艦[[レトヴィザン_(戦艦)|レトヴィザン]]を接収、後に改造。1924年7月25日豊後水道で標的として撃沈処分。<br /> * [[壱岐_(戦艦)|壱岐]] - [[ロシア帝国]]海軍の戦艦[[インペラートル・ニコライ1世_(戦艦・初代)|インペラートル・ニコライ1世]]。1915年10月3日、伊勢湾外で、巡洋戦艦[[金剛 (戦艦)|金剛]]、[[比叡 (戦艦)|比叡]] の36 cm主砲の標的として撃沈処分。<br /> * [[石見_(戦艦)|石見]] - [[ロシア帝国]]海軍の戦艦[[オリョール_(戦艦)|アリヨール]]。1924年7月10日、横須賀及び三浦半島城ヶ崎西方で爆撃実験の標的として撃沈処分。<br /> * [[長門_(戦艦)|長門]] - [[太平洋戦争]]後の1946年、アメリカ軍によって原爆の水中爆発実験の標的になり、2回の核爆発に耐え4日間その姿を留めたが、4日後の7月29日未明に沈没。<br /> *[[響_(吹雪型駆逐艦)|響]] - [[太平洋戦争]]後の1947年、戦時賠償艦としてソ連に渡り、ヴェールヌイとなる。1970年代にウラジオストク沖にて標的として撃沈処分。<br /> <br /> == 参考文献 ==<br /> * 雑誌「丸」編集部『&lt;small&gt;写真&lt;/small&gt; 日本の軍艦 第13巻 &lt;small&gt;小艦艇I&lt;/small&gt;』(光人社、1990年) ISBN 4-7698-0463-6<br /> * 中川努「日本海軍特務艦船史」<br /> :『[[世界の艦船]] 増刊第47集』(海人社、1997年3月号増刊、第522集)<br /> <br /> == 関連項目 ==<br /> * [[クロスロード作戦]] - ([[ビキニ環礁]]で行われた上記の長門などを標的とした原爆実験)<br /> <br /> == 出典 ==<br /> {{reflist}}<br /> <br /> == 外部リンク ==<br /> {{Commonscat|Target ships}}<br /> * [http://books.google.com/books?id=LeADAAAAMBAJ&amp;pg=PA72&amp;dq=Popular+Science+1930+plane+%22Popular+Mechanics%22&amp;hl=en&amp;ei=JJlxTqniIc_AtgfAoMD-CQ&amp;sa=X&amp;oi=book_result&amp;ct=result&amp;resnum=1&amp;ved=0CCsQ6AEwADge#v=onepage&amp;q&amp;f=true &quot;Robot Warships&quot; &#039;&#039;Popular Mechanics&#039;&#039;, July 1934, pp. 72-75] conversion of the Boggs to a radio controlled target ship<br /> <br /> {{艦艇}}<br /> [[Category:補助艦船]]<br /> [[Category:標的として沈没した船|*]]<br /> {{DEFAULTSORT:ひようてきかん}}<br /> {{warship-stub}}</div> 240F:80:BFA7:1:6D26:6350:D44B:5092 魚雷艇 2018-06-10T04:45:58Z <p>240F:80:BFA7:1:6D26:6350:D44B:5092: /* 脚注 */</p> <hr /> <div>{{Otheruses|魚雷艇一般|日本海軍の艦種としての魚雷艇|魚雷艇 (大日本帝国海軍)}}<br /> [[Image:BTK_pr.206M.jpg|thumb|250px|魚雷発射管をカメラへ向けるソ連最後の魚雷艇、[[206M型大型魚雷艇|206M号計画「シュトールム」型大型魚雷艇]]]]<br /> &#039;&#039;&#039;魚雷艇&#039;&#039;&#039;(ぎょらいてい、[[英語]]: {{lang|en|motor torpedo boat}})は、[[魚雷]]を主兵装とする[[高速戦闘艇]]である。英語の直訳から以前は&#039;&#039;&#039;内火水雷艇&#039;&#039;&#039;(ないかすいらいてい)と呼ばれたこともあった。国によって分類に差異が見られ、[[水雷艇]]や[[ミサイル艇]]と区別されない場合もある。特に初期の水雷艇や魚雷艇は要目面からも区別がしにくい。[[日本]]では水雷艇と魚雷艇(内火水雷艇)とを区別する伝統があるが、稀に水雷艇も魚雷艇と呼ばれることがある。また、しばしば英語の影響から&#039;&#039;&#039;高速魚雷艇&#039;&#039;&#039;と呼ばれることもあるが、この項では米英などの[[高速魚雷艇]](MTB)との区別のため一律「魚雷艇」と呼ぶこととする。<br /> <br /> == 定義 ==<br /> [[Image:PT&#039;s_patrolling_off_coast_of_New_Guinea.jpg|thumb|250px|ニューギニア方面で哨戒任務に就く[[アメリカ海軍]]のPTボート]]<br /> 魚雷艇は、本来的には「[[内燃機関]]を搭載する水雷艇」である。魚雷を主武装とし、これを目標に接近して発射するため、快速と機動力を第一に設計される。そして、高速と機敏さで大型艦からの砲撃を避けることを期待され、ほとんど[[装甲]]が施されていない。原則として非常に小型であるが、[[1950年代]]以降は汎用性を持たせるため大型化が顕著になっていった。<br /> <br /> == 概要 ==<br /> <br /> === 水雷時代の幕開け ===<br /> 様々な歴史資料が、魚雷艇が[[水雷]]時代の幕開けを導いた、あるいは[[機雷]]や「自走水雷」すなわち魚雷の開発を促したと述べている{{要出典|date=2017年11月}}。水雷が登場した当初、大きな課題となったのはどのようにしてこの新兵器を用いるか、すなわちいかなる艦船にこの兵器を搭載すべきか、という問題であった。<br /> <br /> 水雷を主兵装とするという点で最初期の魚雷艇と言える最初の舟艇は、[[18世紀]]末から[[19世紀]]初めにその姿を現した。第二のシリーズは、[[1878年]]に歴史上に姿を現した。<br /> <br /> === 前史 ===<br /> [[1776年]]から[[1778年]]にかけて行われた[[アメリカ独立戦争]]の中で実施された[[水雷]]による攻撃が、事実関係が確かな歴史上最初の水雷攻撃であるとされている。[[1776年]][[9月7日]]、[[アメリカ海軍]]の[[タートル潜水艇]]が[[イギリス海軍]]の[[戦列艦|3等戦列艦]][[イーグル (戦列艦・3代)|イーグル]]を攻撃したのがこれに当たる。また、[[イギリス]]も[[1803年]]から[[1805年]]にかけて行われた[[ナポレオン戦争]]において水雷を艦隊戦の切り札とする試みを実施している&lt;ref&gt;{{lang|en|&#039;&#039;The Trafalgar Campaign: 1803—1805.&#039;&#039; Robert Gardiner, ed. Chatham Publishing, 1997, pp. 82-84.}} {{en icon}}&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 水雷の実用化に対する最初の試みは、曳航式や刺突式の[[外装水雷]]となって一応の完成を見た。しかし、この水雷は次のスタイルが確立すると急速に廃れた。すなわち、自走水雷こと魚雷の登場である。これらの水雷兵装の研究は強力な海軍の整備に後れを取っていた[[アメリカ合衆国]]において、その遅れを奪回するために盛んに行われた。こうして、魚雷艇登場の基礎が形成されていった。<br /> <br /> より厳密に魚雷艇の創始者と言えるのが[[ロシア帝国]]の[[ステパン・マカロフ]]で、彼は[[露土戦争_(1877年)|露土戦争]]中の1878年[[1月14日]]、[[チェスマー_(水雷艇)|チェスマー]]と[[シノープ_(水雷艇)|シノープ]]という2 隻の艦載水雷艇で以って[[オスマン帝国]]の[[仮装巡洋艦]]を奇襲、魚雷攻撃により撃沈した。チェスマーやシノープは「水雷ランチ」と呼ばれる[[排水量]]わずか数 tの小型艇であったが、これこそがのちにいう奇襲艇「魚雷艇」の始まりといえるものであった。<br /> <br /> === 魚雷艇の誕生 ===<br /> [[Image:Kleines_Torpedoschnellboot_Projekt_131_Libelle_Heck.jpg|thumb|250px|魚雷兵装のための最低限の艇体規模に抑えられた[[ドイツ民主共和国|東ドイツ]]の[[131型魚雷艇|131号計画型魚雷艇]]]]<br /> [[Image:Bewaffnung_S-Boot.jpg|thumb|250px|[[西ドイツ]]の[[ヤグアル級魚雷艇]][[クラーニヒ_(Sボート)|クラーニヒ]]の搭載する兵装類]]<br /> [[Image:Schnellboot Jaguar-Klasse im Sturm.JPG|thumb|250px|魚雷艇の航海性能は決して良好とは言えなかった(西ドイツのヤグアル級)]]<br /> 最初の水雷艇は、30 tから100 t程度の排水量で12 ktから18 ktの速力を持ち、武装は1 門から2 門程度の180 mm魚雷を搭載していた。[[大砲|火砲]]装備は軽量のものだけで、艇によってはまったく搭載していなかった。<br /> <br /> 水雷艇にとって最初の実戦経験期となった1878年から[[日露戦争]]終結の[[1905年]]の間に得られた経験から、水雷艇は任務を遂行するためには性能が不十分であり、その特性を十分生かすにはさらなる改良が必要であることが明らかになってきた。水雷艇の欠点として挙げられたのが、高い脆弱性と貧弱な魚雷搭載量、航続距離の不足、不十分な航洋性、そして魚雷自体の性能不足であった。こうした欠点を克服するために、いくつかの戦術が考え出された。すなわち、攻撃は集団で行うこと、活動時間帯は夜間が好ましいこと、沿岸部のような視認性の悪い海域や[[海峡]]のような航行の不自由な海域で行うこと、このような条件下において魚雷の一斉発射による攻撃を行うこと、そして攻撃ののちは可及的速やかに戦場を離脱すること、である。<br /> <br /> 一方、水雷艇それ自体の能力を向上させる方向は、次のふたつに集約された。<br /> #艇の規模を拡大し、より強力な武装と長大な航続力を確保する。そして、より大型の魚雷を多数搭載し、多数の火砲を装備する。さらに、部分的に防御のための装甲を用いる。<br /> #速力と機動力を高める。これは、敵の反撃をかわして任務を遂行し得る戦闘能力と防御力の向上に繋がる。このため、艇は極力小型軽量に留め、その規模は最低限のものとする。<br /> <br /> この第1の試みは、[[駆逐艦]]の開発へ結実した。これ以降、[[西ヨーロッパ]]諸国では以前の水雷艇や魚雷艇をひとくくりに「魚雷艇」({{lang|en|Torpedo Boat}})と呼ぶようになった。一方、ロシアでは、従来の大小の水雷艇の類を「水雷・魚雷戦闘艦艇」({{lang|ru|минно-торпедные боевые корабли}})にまとめた。後期の大型水雷艇や[[水雷巡洋艦]]は駆逐艦に相当する「艦隊水雷艇」に類別変更された。<br /> <br /> 第2の試みは、高速・小型の戦闘艇へと発展した。それは最大でも排水量300 tに満たない舟艇で、主兵装は2 門から4 門程度の単装魚雷発射管、補助武装として[[機関銃]]や[[機関砲]]を搭載、速力は30 ktから50 kt、防御装甲の欠如を機動性で補っていた。これが、魚雷艇と呼ばれる高速戦闘艇の発祥となった。<br /> <br /> [[20世紀]]初期からイギリスと[[イタリア]]でこのような艦種の開発が実施された。[[1906年]]に沿岸駆逐艦として起工され、後に魚雷艇と類別を変更した[[クリケット_(魚雷艇)|クリケット]]&lt;!-- HMS Cricket --&gt;は、イギリス海軍で初めて主機に内燃機関を採用した。蒸気機関から内燃機関への移行は出力と速度の向上に繋がり、機関砲など重火器の搭載を可能にしただけでなく小型化という恩恵ももたらし、高速魚雷艇が確立した。<br /> <br /> === 第一次世界大戦 ===<br /> 魚雷艇による最初の戦果は、[[第一次世界大戦]]中の[[1917年]][[4月7日]]に挙げられた。この日、イギリス海軍の40 ft級沿岸魚雷艇([[CMB_(魚雷艇)|CMB]])4 隻が[[ドイツ帝国]]の駆逐艦隊と対決し、敵艦の内1 隻を撃沈した&lt;ref&gt;{{lang|en|&#039;&#039;British Motor Torpedo Boats 1939-45.&#039;&#039; Osprey, 2002-...}} {{en icon}}&lt;/ref&gt;。同年、[[MAS_(魚雷艇)|MAS]]と呼ばれた[[イタリア海軍]]の魚雷艇は[[オーストリア=ハンガリー帝国]]の戦艦[[ウィーン_(戦艦)|ウィーン]]を撃沈した。さらに、[[1918年]]にはイタリア海軍の[[MAS-15_(魚雷艇)|MAS-15]]が[[オーストリア=ハンガリー帝国]]の[[弩級戦艦]][[セント・イシュトヴァーン_(戦艦)|セント・イシュトヴァーン]]を雷撃により撃沈、魚雷艇の有効性は確定的なものとなった。<br /> <br /> 40ft級の拡大型である55ft級CMBも実戦で大きな戦果を挙げた。イギリス海軍の使用したこの魚雷艇は、[[1919年]][[6月17日]]に行われた[[クロンシュタット]]港襲撃において停泊中であった[[ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国|ソヴィエト・ロシア]]・[[バルチック艦隊|赤色バルト艦隊]]の[[防護巡洋艦]][[オレーク_(防護巡洋艦)|オレーク]]を撃沈した。その後、[[8月18日]]にはスレードナヤ湾において停泊中であった[[潜水母艦]][[パーミャチ・アゾーヴァ_(装甲巡洋艦)|パーミャチ・アゾーヴァ]]を撃沈し、[[戦艦]][[アンドレイ・ペルヴォズヴァーンヌイ_(戦艦)|アンドレイ・ペルヴォズヴァーンヌイ]]に損傷を与えた&lt;ref&gt;{{lang|en|&#039;&#039;Jane’s War at Sea: 1897—1997.&#039;&#039; By Bernard Ireland and Eric Grove, Harper Collins, 1997, p. 123.}} {{en icon}}&lt;/ref&gt;。この攻撃では、魚雷艇1隻(資料によっては3隻)が駆逐艦[[ガヴリイール_(駆逐艦)|ガヴリイール]]の砲撃により撃沈された。<br /> <br /> === 第二次世界大戦 ===<br /> [[Image:PTBoats.jpeg|thumb|250px|[[ナラガンセット湾]]を進むアメリカ海軍のPTボート]]<br /> [[Image:I1Sub.jpg|thumb|250px|沈没した[[伊号第一潜水艦 (初代)|伊号第一潜水艦]]を捜索するアメリカ海軍の[[PT-65_(PTボート)|PT-65]]]]<br /> [[Image:Mtbspatrolingforeboats.jpg|thumb|250px|イギリスの高速魚雷艇(MTB)]]<br /> [[ワシントン海軍軍縮条約]]、[[ロンドン海軍軍縮会議|ロンドン海軍軍縮条約]]の時代には、条約参加各国では建造の制限された[[駆逐艦]]にかわって大型の[[水雷艇]]の建造を進め、それと同時に沿岸防護用の艦艇を模索した。そのひとつとして採用されたのが非常に小型の船体に少数の魚雷を搭載した魚雷艇であった。<br /> <br /> このうちアメリカ合衆国の&#039;&#039;&#039;[[PTボート]]&#039;&#039;&#039;({{lang|en|Patrol Torpedo boat}}、哨戒魚雷艇)は30 - 50 t級の船体に単装の魚雷発射管を2または4本搭載したもので、[[ソロモン諸島]]や[[ニューギニア島|ニューギニア]]・[[フィリピン]]などで運用された。後に大統領となる[[ジョン・F・ケネディ|ケネディ]]がソロモン諸島で艇長を務め、[[大日本帝国海軍|日本海軍]]の駆逐艦[[天霧 (駆逐艦)|天霧]]と衝突し沈没したPT-109もこの種の艦艇である。アメリカでは、終戦の時点で511 隻の魚雷艇を保有していた。<br /> <br /> 同様の船艇は、イギリスでは&#039;&#039;&#039;[[高速魚雷艇|MTB]]&#039;&#039;&#039;({{lang|en|Motor Torpedo Boat}}、高速魚雷艇)、[[ナチス・ドイツ|ドイツ]]では&#039;&#039;&#039;[[Sボート]]&#039;&#039;&#039;({{lang|de|Schnellboot}}、高速艇)、イタリアでは&#039;&#039;&#039;[[MAS_(魚雷艇)|MAS]]&#039;&#039;&#039;({{lang|it|Motoscafi Anti sommeregibili}}、直訳では機動[[駆潜艇]])、[[ソビエト連邦|ソ連]]では&#039;&#039;&#039;魚雷艇&#039;&#039;&#039;({{lang|ru|Торпедный катер}})と呼称された。[[大日本帝国|日本]]でも&#039;&#039;&#039;[[魚雷艇_(大日本帝国海軍)|魚雷艇]]&#039;&#039;&#039;と呼ばれる小型の[[特務艇]]が研究された。<br /> <br /> これらの船艇は多数が建造され、[[第二次世界大戦]]中、各地で激戦を繰り広げた。イギリス海軍の保有したMTBは[[1939年]]の開戦時で18 隻であったものが終戦時には91 隻になっていた。[[ドイツ海軍]]の保有したSボートは同様に開戦時にはわずか17 隻であったものが終戦時に117 隻を数えたが、同時に損失も大きくのべ112 隻が失われていた。ソ連の[[赤色海軍]]は269 隻の魚雷艇を保有したが、その後戦時中に国内で建造されたのは30 隻に留まり、[[レンドリース法]]によりイギリスのMTBやアメリカのPTボート計166 隻の給与を受け沿岸海域の防備に当てた。<br /> <br /> 魚雷艇の能力は限定的なものに留まり、拡張されたのはただ他の勢力、つまり[[航空機]]や他の水上艦艇との協同作戦能力だけであった。これらの戦力の支援により、戦闘における魚雷艇の有効性は安定したものとなった。しかしながら、日米間に繰り広げられた[[ソロモン諸島の戦い]]で見られたように、魚雷艇が単独で作戦行動に当たらなければならない場合もあった。さらに、魚雷艇本来の奇襲任務に加え、場合によっては偵察哨戒任務、上陸および撤収任務、陽動作戦任務、沿岸海域における[[護送船団|輸送船団]]の護衛任務、[[機雷]]敷設任務、沿岸海域における潜水艦との戦闘任務などが課された。<br /> <br /> === 第二次世界大戦中の代表的魚雷艇 ===<br /> ;イギリス - [[高速魚雷艇|高速魚雷艇(MTB)]]<br /> :[[ヴォスパー]]社で建造された。速力37 kt、533 mm単装魚雷発射管2 門、7.62 - 12.7 mm機銃2 -3 梃、[[爆雷]]4 発<br /> ;ドイツ - [[Sボート|高速艇(Sボート)]]<br /> :[[S-26級高速艇]]では、排水量115 t、全長34.95 m、速力40 kt、533 mm魚雷発射管2 門、20 mm[[高射砲|高角機関砲]]2 門<br /> ;ソ連 - [[G-5級魚雷艇]]<br /> :排水量17 t、全長20 m、速力50 kt以上、533 mm魚雷発射溝2 門、7.62 - 12.7 mm機銃2 梃<br /> ;アメリカ合衆国 - [[PTボート|哨戒魚雷艇(PTボート)]]<br /> :[[PT-103級哨戒魚雷艇]]では、排水量50 t、全長24 m、速力45 kt、533 mm単装魚雷発射管4 門、12.7 mm機銃および40 mm高角砲機関砲<br /> <br /> &lt;gallery&gt;<br /> ファイル:Motor torpedo boat MBT model.jpg|イギリス製高速魚雷艇(MBT)の模型<br /> ファイル:German E-Boat S 204 surrenders at Felixstowe on 13 May 1945.jpg|ドイツのSボート<br /> ファイル:USS PT-105.jpg|アメリカ合衆国の[[PT-105_(PTボート)|PT-105]]<br /> ファイル:Komsomolets torpedo boat.JPG|ソ連の[[123bis型小型魚雷艇|123bis号計画型小型魚雷艇]]<br /> &lt;/gallery&gt;<br /> <br /> === 第二次世界大戦後 ===<br /> [[Image:Project206_Shershen_Egypt_1989_DN-SN-89-09160.jpg|thumb|250px|魚雷兵装を撤去して哨戒艇として使用されるエジプトの[[206型大型魚雷艇|206号計画「シュトールム」型大型魚雷艇]]]]<br /> [[Image:Proj918M_Pilica_Pict0119.jpg|thumb|250px|魚雷発射管を搭載していることと艇体の形態からしばしば魚雷艇に分類されるポーランドの[[918M型駆潜艇|918M号計画型駆潜艇]]]]<br /> 第二次世界大戦後も、簡易な対艦攻撃手段として魚雷艇の建造は続いた。対水上艦艇用の魚雷を主武装とする艦船の建造が終止符を打たれたのは、[[対艦ミサイル]]の小型化、長射程化が進んだ[[1980年代]]のことである。こうした本格的なミサイルの実用化により従来の魚雷艇設計陣が建造をミサイル艇へ切り替える中、最後まで魚雷艇を製造し続けたのはソ連、[[ドイツ|ドイツ連邦共和国]]、[[ドイツ民主共和国]]、[[ノルウェー]]、[[スウェーデン]]、[[中華人民共和国]]、[[イスラエル]]であった。[[日本]]でも[[海上自衛隊]]向けに哨戒魚雷艇の開発が研究されたが、結局時代に合わないという判断から大々的な導入は見送られた。<br /> <br /> 戦後、魚雷艇の主要な任務は主力艦への奇襲攻撃から哨戒任務一般に変わっていった。そのため、交戦相手には小規模の敵戦力や潜水艦が想定されるようになった。一部の魚雷艇は対水上艦用の大型魚雷を搭載せず、ただ対潜用の[[魚雷#魚雷の種類と直径|短魚雷]]のみを搭載するようになった。このような魚雷艇は小規模な海軍向けに建造される場合が多かった。例えば、ドイツ製のこの種の魚雷艇が[[トルコ]]に輸出されている。<br /> <br /> また、魚雷兵装とミサイル兵装を混載した艇も出現した。代表的なものは、イスラエルの[[ダブル級魚雷艇|ダブル級]]、中華人民共和国の[[183R型小型ミサイル艇|河谷級]]、ノルウェーの[[ハウク級高速ミサイル艇|ハウク級]]、ドイツの[[アルバトロス級ミサイル艇|アルバトロス級]]、スウェーデンの[[ノーショーピング級高速ミサイル攻撃艇|ノーショーピング級]]である。<br /> <br /> しかしながら、魚雷艇は小型ゆえに燃料や武装・電子装備類の搭載量が限られ、沿岸など主に母港から離れていない海域での運用に限定されていた。そのため、航空機の発展と共に活躍の場は失われていった。魚雷艇の役割はより豊富な対空火器で対応できる駆逐艦で代替され、戦後は駆逐艦だけでなく[[対艦ミサイル]]を主武装とする[[フリゲート]]や[[ミサイル艇]]の建造へと切り替わっていった。魚雷艇の地位を受け継ぐ艦艇は国によって異なるが、概ねミサイル艇や高速小型の哨戒艇が当てられている。<br /> <br /> 最後の魚雷艇はソ連や[[ポーランド]]で1980年代半ばまで生産されたが、これらの魚雷艇は[[ミサイル艇]]の艇体をもとに設計されており、従来の魚雷艇より大型で沿岸哨戒任務一般に適した使用とされていた。さらに、一部の魚雷艇は肝心の魚雷発射管を降ろし、銃砲を主兵装とする[[哨戒艦艇|哨戒艇]]として運用された。ソ連の最後の魚雷艇は[[水中翼船|水中翼]]と[[ソナー]]を有し、高速で移動する潜水艦の探知と追跡を遂行できる哨戒艇としての能力が付与された。しかし、結局のところこのような魚雷艇の汎用化は本来の奇襲艇としての魚雷艇の存在意義がすでに失われていたことを意味しているに他ならなかった。また、水中翼やソナー・[[レーダー]]・[[艦対空ミサイル]]のような高級装備の付与は魚雷艇の価格高騰と維持のための技術的・財政的困難を呼び起こした。また、小型であるため搭載できる装備の容量にも限りがあり、その汎用化の限界も目に見えていた。ソ連では、多様化した魚雷艇の任務は最終的に[[対潜艦|小型対潜艦]]や[[巡視船|国境警備艦]][[巡視艇|艇]]、ミサイル艇などの任務に特化した艦艇に代替され、魚雷艇はその使命を終えていった。しかし、魚雷艇で培われた高速艇の技術は後継艦艇の発展に大きな功績を残した。<br /> <br /> なお、ソ連の国境警備艦艇やポーランドの警備艇の内、魚雷発射管を装備した小型高速の艦艇についてもメーカー側などで「魚雷艇」と呼んでいることがある。また、[[西側諸国|西側]]でもこれらの艦艇を魚雷発射管を積んでいるという点を過大に重視し、「魚雷艇」と分類していることがある。しかし、これらの艦艇の搭載する魚雷発射管は多くの場合400 mm程度の小口径のもので、従来の魚雷艇のような対水上艦用の大型魚雷は運用できず、専ら小型の対潜魚雷の運用のために当てられている。従って、これらの艦艇が「魚雷艇」と呼ばれることがあっても、それは従来のような奇襲艇ではなく、むしろ駆潜艇や哨戒艇のような任務を担っている艦艇である点には注意が必要である。<br /> <br /> [[2000年]]頃には、世界中で162 隻の魚雷・ミサイル兵装混載艇と47 隻の純粋な魚雷艇が運用されていた。その内訳は、[[バングラデシュ]]で1隻、[[ミャンマー]]で10隻、[[エジプト]]で8隻、イスラエルで17隻、[[ロシア|ロシア連邦]]で5隻(国境警備艦艇を除く)、[[朝鮮民主主義人民共和国]]で6隻であった&lt;ref&gt;{{lang|en|&#039;&#039;[[ジェーン海軍年鑑|Jane&#039;s Warship]] Recognition Guide.&#039;&#039; 2nd ed., Harper Collins, 1999.}} {{en icon}}&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> [[21世紀]]の早い段階で魚雷艇はその役目を完全に終え、艦隊から姿を消すことが予想されている。<br /> <br /> ;第二次世界大戦後の魚雷艇<br /> &lt;gallery&gt;<br /> Image:Norwegian_MTB_Nasty.jpg|[[ノルウェー海軍]]の高速魚雷艇[[ナスティ_(高速魚雷艇)|ナスティ]]<br /> Image:P_6054-1.jpg|西ドイツの[[ジルバーメーヴェ級魚雷艇]][[ヴィルトシュヴァン_(Sボート)|ヴィルトシュヴァン]]<br /> Image:HN-Egyptian-123K-TB-1.jpg|[[エジプト海軍]]のソ連製[[123K型小型魚雷艇|123K号計画型小型魚雷艇]]<br /> Image:Orp_odwazny_4.jpg|ポーランドの[[664型魚雷艇|664号計画型魚雷艇]][[オドヴァージュヌィ_(魚雷艇)|オドヴァージュヌィ]]<br /> &lt;/gallery&gt;<br /> <br /> == 脚注 ==<br /> {{Commons|Category:Torpedo_boats}}<br /> {{脚注ヘルプ}}<br /> &lt;references /&gt;<br /> <br /> {{艦艇}}<br /> <br /> [[Category:軍艦|きよらいてい]]<br /> [[Category:魚雷艇|*]]</div> 240F:80:BFA7:1:6D26:6350:D44B:5092 RO-RO船 2018-06-10T04:39:33Z <p>240F:80:BFA7:1:6D26:6350:D44B:5092: /* 関連項目 */</p> <hr /> <div>{{出典の明記|date=2015-12}}<br /> [[File:Ship passing through Panama Canal 01.jpg|250px|thumb|[[パナマ運河]]を航行するRO-RO船。航行時はランプウェイを上げている]]<br /> &#039;&#039;&#039;RO-RO船&#039;&#039;&#039;(ローローせん、{{lang-en-short|roll-on/roll-off ship}})は、[[フェリー]]のように[[斜路|ランプ]]を備え、[[トレーラー]]などの車両を収納する車両[[甲板]]を持つ[[貨物船]]のことである。<br /> 車両甲板のおかげで搭載される車両はクレーンなどに頼らず自走で搭載/揚陸できる。対義語は&#039;&#039;&#039;LO-LO船&#039;&#039;&#039;({{lang-en-short|lift-on/lift-off ship}})。<br /> 一般的に判りやすく言うなら、旅客を乗せない[[カーフェリー]]と考えればよい。[[自動車運搬船]]も参照の事。<br /> <br /> == 歴史 ==<br /> {{Multiple image|direction=vertical|width=250<br /> |image1=RORO small.JPG<br /> |caption1=RO-RO船<br /> |image2=Yano T-AKR-297 LMSR.jpg<br /> |caption2=[[シュガート級車両貨物輸送艦]]&lt;br /&gt;ヤノ USNS Yano (T-AKR-297)<br /> }}<br /> <br /> 貨物船は[[在来船]]とよばれる[[クレーン]]付、多層船倉の汎用貨物船しかなく、木箱に入れた貨物を数箱ネットに載せて、船搭載のクレーン(本船ギアという)で船倉に運びいれ、船倉内で人力で積みつけ、かつ固定も必要であったので、荷役には莫大な人手が必要で、時間もかかった。<br /> <br /> [[第二次世界大戦]]後、[[コンテナ船]]の出現によって荷役は飛躍的に簡便になったばかりか、[[コンテナ]]をそのまま[[トレーラー]]に積んで、ドア・ツー・ドアの“[[インターモーダル輸送|海陸一貫輸送]]”も可能になった。しかし、コンテナ船の荷揚げ荷卸しができるコンテナ埠頭を整備するには[[ガントリークレーン]]の設置など多額の投資が必要で、当初は[[日本]]でも[[横浜港|横浜]]・[[神戸港|神戸]]など需要の多い大港湾しか整備できなかった。<br /> <br /> そうした状況の中、RO-RO船は岸壁とトレーラーヘッドさえあれば、クレーンが未整備の小港湾でも荷役が可能であり、トレーラーヘッドの車体、船内のスロープ等のデッドスペースが発生する欠点はあるものの、コンテナよりさらに迅速な荷役が可能であるため、コンテナ船寄港地から地方港湾までの国際貨物の末端輸送手段、または国内貨物輸送の有用な手段として脚光を浴びた。21世紀初頭の現在、日本国内で海上輸送される貨物のほとんどは、RO-RO船、又はフェリーで運ばれている。<br /> <br /> さらに、近年は日本・韓国間などの近距離国際海運においても、トレーラー輸送のための国際間の法整備がされたこともあり、[[農作物]]輸送などでRO-RO船による定期航路が開設されるようになった。<br /> <br /> 軍用の部門では[[冷戦]]時代、[[アメリカ軍]]は[[ソビエト連邦軍]]侵攻の場合に[[ヨーロッパ|欧州]]に迅速に[[戦車]]等を輸送するため、RO-RO形式の[[輸送艦]]T-AKRを多数配備し現在も健在である。<br /> {{-}}<br /> <br /> == 構造 ==<br /> === ランプウェー ===<br /> [[File:REFORGER 91 HMMWV debarking.jpg|250px|right|thumb|RO-RO船のランプウェイから岸壁に降りる車]]<br /> 多くが船尾及び船首にランプウェーを備えているが、特定の航路に就役していて岸壁側に斜路が備わっている場合はランプウェーを持たないRO-RO船もある。大型のRO-RO船ではクォーター・ランプウェイと呼ばれるものが右舷船尾にあるのが普通で、このため接岸は常に右舷付けとなる。大きなクォーター・ランプウェイでは40フィートコンテナを積んだトレーラーが他の荷物を積んだフォークリフトと斜路上で行き合えるように船尾側で幅25m、岸壁側で幅12mのものがある。<br /> <br /> &lt;gallery widths=&quot;180px&quot; heights=&quot;150px&quot;&gt;<br /> File:Roroschip.jpg|航行時<br /> File:RoRo.GrandeNigeria.Pforte.wmt.jpg|ランプウェイ部<br /> File:みやこ丸 ドレージ作業01.JPG|御前崎港にて船尾ランプウェイ部からドレージ作業中のみやこ丸<br /> &lt;/gallery&gt;<br /> <br /> === 広い艙内 ===<br /> [[File:Inside of Roro ship.jpg|250px|thumb|RO-RO船の内部。トレーラーヘッドやコンテナが積載されている]]<br /> 車両デッキは一般的に2層~5層程度設けられており、上部デッキは大型トラックやトレーラーに対応するため高さが4.2~4.3m程度確保されている。下部デッキは高さを2.1~2.5mほどとし、トレーラー乗用車混載又は乗用車専用の位置付けであることが多い。荷役は下部デッキ(2層の場合。3~5層船は主に上から2層目)から行い、船内ランプウェイで各デッキへ移動する方法が一般的だが、中には上部デッキ、下部デッキに1基ずつランプウェイを装備し、荷役を独立して行えるようにした船も存在する。<br /> デッキ内部は車輌の走行の利便性を配慮して横隔壁を極端に少なくしており、浸水時には短時間で浮力を失う危険が高い。一部のRO-RO船では二重船殻構造によって外板との間にバラストタンクを設け、安全性に配慮しているものもある。<br /> <br /> RO-RO船の積載能力は、12mシャーシ〇〇台、乗用車〇〇台というように車両積載台数で表されるが、これはあくまで積載能力の一例であり、9mシャーシや中型トラック等を混載した場合には当然積載台数は変化する。<br /> {{-}}<br /> <br /> === 中速回転ディーゼル ===<br /> 船艙への出入りに後部ランプウェーを備える標準的なRO-RO船では、船内配置上、機関室の上を車輌が通過するために、エンジンには比較的背の低い中速回転[[ディーゼルエンジン]]が搭載されていることが多い。<br /> <br /> == 荷役 ==<br /> トレーラーで船内へと運ばれたコンテナの積載方法は2通りある。正しい位置まで自走してきたトレーラーが、トレーラー・ヘッドと呼ばれるトラクター部分から後部のシャーシに積まれたコンテナ部分を切り離して、トレーラー・ヘッドだけが船外へ降りる方法と、船内でシャーシからコンテナを卸して所定の場所に積付け、シャーシとトレーラー・ヘッドが船外へ降りる方法がある。後者の積付け直す方法は、手間と時間がかかるが積載効率が上がる。<br /> トレーラー・ヘッドを含めた車輌全体が船で運ばれることもあるが、外航海運では相手先国の道路交通の国内法がトレーラーの自走を制限する場合があるため、場所をとるトレーラー・ヘッドは一緒に運ばれることは少ない。<br /> <br /> RO-RO船でも全ての荷役をRO-RO方式で行なうとは限らず、甲板上にコンテナを搭載する場合にはLO-LO方式で荷役を行なうのが普通である。<br /> <br /> == RO-RO船とフェリー ==<br /> [[File:Pride_of_burgundy.jpg|thumb|250px|フェリーのプライドオブバーガンディー]]<br /> RO-RO船は、貨物荷役から発達した形態であり、対する[[フェリー]]は、渡船から発達した形態である。発生の由来は異なるが、徐々にフェリーとは構造は似て来ており、近年はRO-RO船とフェリーの区別は曖昧になっている。RO-RO船は広義のフェリーとも言えるが、厳密には、細かな点で違いがある。<br /> <br /> RO-RO船はあくまでも貨物船であり、一般の[[旅客]]と[[乗用車]]の乗船を行わず、基本的にはドライバーのみ13人未満の定員である。また、貨物船であるため、フェリーに比べて保安設備などの規格が緩く、[[船員]]数もフェリーに比べて少ない。また、契約した業者の荷役のみを行い、船内への積載はドライバーではなく、乗組員の手で行われる。それに対し、フェリーは一般旅客を受け入れ、契約していない業者のトラックも受け入れている。広い一般旅客区画が設けられている他、保安体制が厳しく定められている。<br /> <br /> 長距離カーフェリーの場合年間を通しての収益の柱は、トレーラー、トラックの輸送であるケースが多い。この場合旅客船であるカーフェリーは法的規制のためコスト高である。ドライバー抜きでトレーラーのみを運ぶ場合 法的には貨物船であるRO-RO船がずっと経済的である。<br /> このため、長距離カーフェリーは衰退気味でRO-RO船への転換が進みつつある。<br /> <br /> == 関連項目 ==<br /> {{Commonscat|RoRo ships}}<br /> *[[戦車揚陸艦]]<br /> *[[トンスベルク (RORO船)|トンスベルク]]<br /> <br /> {{商船の種類}}<br /> {{艦艇}}<br /> <br /> {{DEFAULTSORT:ろろせん}}<br /> [[Category:水運]]<br /> [[Category:船の種類]]<br /> [[Category:コンテナ]]</div> 240F:80:BFA7:1:6D26:6350:D44B:5092 掃海艇 2018-06-10T04:35:13Z <p>240F:80:BFA7:1:6D26:6350:D44B:5092: /* 外部リンク */</p> <hr /> <div>[[File:Arrival of HMS Bangor - geograph.org.uk - 555293.jpg|thumb|300px|英海軍サンダウン級機雷掃討艇]]<br /> &#039;&#039;&#039;掃海艇&#039;&#039;&#039;(そうかいてい)は、掃海による[[機雷]]の排除を任務とする[[軍艦]]。同任務でより大型の&#039;&#039;&#039;掃海艦&#039;&#039;&#039;、類似した任務にあたる&#039;&#039;&#039;機雷掃討艇&#039;&#039;&#039;についても本項で扱う。<br /> <br /> == 来歴 ==<br /> === 日露戦争から第一次大戦まで ===<br /> [[File:Bundesarchiv Bild 134-B1010, Minensuchboot vor Anker.jpg|thumb|250px|第1次大戦中の[[ドイツ帝国海軍|独海軍]]掃海艇]]<br /> [[機雷戦]]・対機雷戦が初めて世界的な注目を集めたのは[[日露戦争]]の時であった。[[旅順口攻撃]]・[[旅順港閉塞作戦]]において、[[大日本帝国海軍]]・[[ロシア海軍]]双方が係維式の触発[[機雷]]を敷設したことから、これを警戒する必要が生じ、実質的に初めて、掃海が行われることになった。この際には、2隻の艦艇でワイヤ(掃海索)を曳航して機雷の係維索を引っ掛けることで、機雷を危険のない海域に移動させたり、あるいは掃海索に取り付けたカッターで係維索を切断して缶体を浮上させることで、機雷を無力化していたが、掃海索の曳航は[[駆逐艦]]などでも行うことができたことから、専用の掃海艇を必要とはしなかった&lt;ref name=&quot;井川1990&quot;&gt;{{Cite journal|和書|author=井川宏|year=1990|month=10|title=掃海艦艇の特質と種類 (掃海艦艇のメカニズム)|journal=世界の艦船|issue=427|pages=69 - 73|publisher=海人社}}&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> [[第一次世界大戦]]の開戦前までは、各国とも日本海軍と同様に必要に応じて掃海具を適当な艦船に搭載する方式か、一線で使えなくなった艦艇を掃海艇に改装して機雷戦に備えていた。第一次世界大戦では、連合国軍、同盟国軍双方が大規模な機雷敷設作戦を実行したため、各国で多くの掃海艇が新造されたほか、様々な民間船が掃海艇として徴用された。この頃の掃海艇は大きく分けて、高い航洋性を持った外洋型と、小型の沿岸型に分けられる。なお外洋型の一部は武装と機関の能力を強化し、前線での行動を可能とした艦隊随伴型であった。また、外洋型はその航洋性と適度な武装が買われ、連合国軍においてたびたび護衛任務に使用された。<br /> <br /> === 第二次大戦から朝鮮戦争まで ===<br /> [[File:USS Firecrest (AMS-10).jpg|thumb|250px|米海軍アルバトロス級。第2次大戦後期の代表的掃海艇]]<br /> [[第二次世界大戦]]の開戦当初においても、[[機雷]]とはすなわち触発式の係維機雷であり、これに対する掃海艇は、特に外洋型においては、艦隊の前路掃海を主任務として比較的高速・重装備の鋼製の艇が主流であった。しかし大戦後期に、沈底式感応機雷が出現したことで、対機雷戦はいっそう複雑かつ熾烈になった。感応機雷としては、まず船の磁気を感知する磁気機雷、次にスクリューの音響を感知する音響機雷、そして最後には水圧を感知する機雷も敷設された。このことから、特に磁気機雷に対する触雷を避けるため、以後、掃海艇の建材は非磁性化が求められるようになった&lt;ref name=&quot;井川1990&quot;/&gt;。<br /> <br /> これらの沈底式感応機雷は、大戦後にも改良が続けられ、[[朝鮮戦争]]において実戦投入されたことで、その脅威を関係各国に認識させることとなった&lt;ref name=&quot;井川1990&quot;/&gt;。特に感応機雷発火装置の高知能化・目標追尾機雷の出現は、従来の曳航式後方掃海における触雷のリスク・掃海の不確実さを増大させることになり、[[爆発物処理]]の手法により機雷を一個一個確実に無力化していくという、機雷掃討に注目が集まった&lt;ref name=&quot;Hull1990&quot;&gt;{{Cite journal|和書|year=1990|month=10|title=船体 (現代の掃海艦艇を解剖する)|journal=世界の艦船|issue=427|pages=76 - 79|publisher=海人社}}&lt;/ref&gt;。この必要に応じて、既存の掃海艇への機雷探知機(高周波アクティブ・[[ソナー]])の装備が進むとともに、後には機雷処分を担当する[[遠隔操作無人探査機]]である機雷処分具の装備化も進められた&lt;ref name=&quot;大平1990&quot;&gt;{{Cite journal|和書|author=大平忠|year=1990|month=10|title=機雷処分具 (現代の掃海艦艇を解剖する)|journal=世界の艦船|issue=427|pages=96 - 99|publisher=海人社}}&lt;/ref&gt;&lt;ref name=&quot;黒川1990&quot;&gt;{{Cite journal|和書|author=黒川武彦|year=1990|month=10|title=センサー (現代の掃海艦艇を解剖する)|journal=世界の艦船|issue=427|pages=88 - 91|publisher=海人社}}&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> === 1970年代から現代 ===<br /> [[File:MM Crotone M5558.jpg|thumb|right|250px|伊海軍レリチ級。現代の代表的機雷掃討艇。]]<br /> 上記の通り、磁気[[機雷]]の出現以後、掃海艇はいずれも木造を基本としてきた。しかしその後、木材の高騰と木船建造技術者の減少を受け、掃海艇の[[繊維強化プラスチック]] (FRP) 化が模索されるようになり、[[1972年]]には世界初のFRP掃海艇として[[イギリス海軍]]の「{{仮リンク|ウィルトン (掃海艇)|en|HMS Wilton (M1116)|label=ウィルトン}}」が進水した。[[ヨーロッパ|欧州]]各国においては、[[1950年代]]に木造掃海艇を大量建造して以降、これらが老朽化して更新を必要とするまで15 - 20年の空白があったため、次世代掃海艇の建造態勢を事実上一から構築する必要があり、したがって木造艇に拘泥する必要が薄かったこともあり、[[1975年]]前後から就役を開始した戦後第2世代の掃海艇はFRP艇が多く採用されるようになった&lt;ref name=&quot;Hull1990&quot;/&gt;。<br /> <br /> この時期、機雷の技術進歩も急速に進展していた。まず[[1970年代]]初期において、優勢な[[アメリカ海軍]][[原子力潜水艦]]に対抗して、[[ソビエト連邦軍]]は機雷の高性能化・深深度化を進めており、アンテナ機雷や短係止上昇式機雷のなかには水深2,000メートルまで敷設可能なものも出現してきた。このような深深度に敷設された機雷には、従来の掃海艇では対処困難であり、海中を航行する[[潜水艦]]にとって大きな脅威となった。このことから、[[1980年代]]以降、西側諸国においては、深深度機雷に対処するための大型掃海艇・掃海艦の整備が進められた&lt;ref name=&quot;井川1990&quot;/&gt;&lt;ref name=&quot;大平1990&quot;/&gt;。<br /> <br /> また、[[1980年]]前後より、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の[[Mk60キャプター機雷|Mk.60 CAPTOR]]、[[ソビエト連邦|ソ連]]の[[PMT-1機雷|PMT-1]]をはじめとするホーミング機雷が出現しはじめた。CAPTORは小型の誘導[[魚雷]]を収容したカプセルを機雷として敷設するもので、従来の機雷よりもはるかに広大な攻撃範囲を発揮することができ、したがって、その攻撃範囲の外からの探知・類別・処分が求められるようになった。これに対抗するため、機雷処分具の高性能化が志向されるとともに、[[1990年代]]より自航式可変深度ソナー (PVDS) や使い捨て式機雷処分具の開発が模索されるようになった&lt;ref name=&quot;髙橋2014-01&quot;&gt;{{Cite journal|和書|author=髙橋陽一|year=2014|month=1|title=機雷戦艦艇 (特集 自衛艦2014) -- (自衛艦の技術と能力)|journal=世界の艦船|issue=790|pages=136-139|publisher=海人社|naid=40019881926}}&lt;/ref&gt;。また、ソナー技術の進歩に伴って、通常の対潜戦用ソナーにもある程度の障害物回避能力を付与できるようになったことから、掃海艇・機雷掃討艇以外の水上戦闘艦にも機雷処分具を搭載することで、限定的ながら機雷掃討能力を付与する試みもなされている&lt;ref name=&quot;多田2004&quot;&gt;{{Cite journal|和書|author=多田智彦|year=2004|month=9|title=欧米の新しい対機雷戦システム (特集 新しい対機雷戦)|journal=世界の艦船|issue=631|pages=82 - 89|publisher=海人社|naid=40006349316}}&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> == 船体 ==<br /> {{Double image stack|right|HMS Wilton M1116.jpg|MSC-602-YAKUSHIMA.JPG|250|英海軍「ウィルトン」。最初のFRP製掃海艇|海上自衛隊ひらしま型。日本で最後の木造掃海艇}}<br /> 掃海艇の建造にあたっては、下記のような船質が用いられる。<br /> <br /> * 木材<br /> ** 総木製 - [[ブルーバード級掃海艇]]、[[ひらしま型掃海艇]]など<br /> ** アルミニウム骨材・木皮 - [[トン級掃海艇]]、{{仮リンク|ハム級掃海艇|en|Ham-class minesweeper}}<br /> ** 非磁性鋼骨材・木皮<br /> ** 木造・FRP皮 - [[アヴェンジャー級掃海艦]]など<br /> * [[繊維強化プラスチック]] (FRP)<br /> ** 単材 - [[ハント級掃海艇]]、[[トリパルタイト型機雷掃討艇]]、{{仮リンク|レリチ級機雷掃討艇|en|Lerici class minehunter}}など<br /> ** サンドイッチ - {{仮リンク|ランドソルト級機雷掃討艇|en|Landsort-class mine countermeasures vessel}}、[[えのしま型掃海艇]]など<br /> ** コンバインド - [[サンダウン級機雷掃討艇]]<br /> * 鋼材<br /> ** 鋼製 - [[リバー級掃海艇]]<br /> ** 非磁性鋼製<br /> <br /> [[#感応機雷の出現と機雷掃討の試み (第2次大戦~朝鮮戦争)|感応機雷の出現]]以降、触雷を避けるため、船質は非磁性化を求められるようになった。当初は木材が用いられていたが、上記の通り、木材の高騰と木船建造技術者の減少を受けて新素材の採用が模索されるようになり、[[1970年代]]以降、[[繊維強化プラスチック]] (FRP) の採用が拡大した。工作技術が発達途上であった当初に建造された[[ハント級掃海艇|ハント級]]・[[トリパルタイト型機雷掃討艇|トリパルタイト型]]などでは、木製船殻構造を踏襲した横肋骨方式を採用しており、FRPによって別々に製造した骨部材と単板式の外板をピンやボルトによって取り付けるという漸進的な手法が用いられていた&lt;ref name=&quot;SoW1985&quot;&gt;{{Cite journal|和書|year=1985|month=6|title=各国新型掃海艇のプロフィール (新しい掃海艇)|journal=世界の艦船|issue=351|pages=76 - 83|publisher=海人社}}&lt;/ref&gt;。その後、成形技術の発達を受け、後発の[[えのしま型掃海艇|えのしま型]]などではFRPの成形と船体の建造が並行して進められるようになっている。FRPは、構造的連続性と高強度という特性から耐爆性に優れ、また、腐食や含水の影響が無いためライフサイクルコストの大幅な低減が期待できる一方、やはり構造的連続性のために、[[#機関|機関]]においては防振・防音上特別の配慮を必要とするという特徴がある&lt;ref name=&quot;廣郡2012-08&quot;&gt;{{Cite journal|和書|author=廣郡洋祐|year=2012|month=8|title=新型掃海艇「えのしま」の明細|journal=[[世界の艦船]]|issue=764|pages=163 - 169|publisher=[[海人社]]|naid=40019366569}}&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 鋼材は、当初は掃海艇の船質として主流であったが、感応機雷の出現以降はほとんど採用されなくなった。ただし特異な例として、[[イギリス海軍]]が深深度機雷に対する係維掃海用として[[1980年代]]に建造した[[リバー級掃海艇]]では、任務の特性上、感応機雷への触雷リスクが少なく、船価低減の必要もあり、鋼製船体を採用している&lt;ref name=&quot;写真特集&quot;&gt;{{Cite journal|和書|year=1990|month=10|title=写真特集 今日の掃海艦艇|journal=世界の艦船|issue=427|pages=39 - 51|publisher=海人社|naid=}}&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> == 機関 ==<br /> 船体と同様に非磁性化が強く要請されていることから、主機関としては、通常の[[ディーゼルエンジン]]をもとに派生させた非磁性化エンジンが搭載されることが多い。例えばトリパルタイト型においてはRUB215V12 [[V型12気筒]]ディーゼルエンジンが主機関として搭載されたが、非磁性材料割合([[導磁率]]μ&lt;1.05)は、エンジン単体で60%、防振台や[[減速機]]を含めた主推進システム全体では85%とされていた&lt;ref name=&quot;大原1990&quot;&gt;{{Cite journal|和書|author=大原信義|year=1990|month=10|title=推進装置 (現代の掃海艦艇を解剖する)|journal=世界の艦船|issue=427|pages=80 - 83|publisher=海人社}}&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 機雷掃海時には航路保持が、機雷掃討時には定点保持 (Hoverring Positioning) が求められることから、精密な操艦を可能にするため、[[サイドスラスター]]や[[アジマススラスター]]など水平推進装置を備える場合が増えている。掃海時には、低速で、かつ各種掃海具を曳航する必要上から大出力発揮が求められることから、推進器に可変ピッチ・プロペラを採用、減速機を二段式にするなどの特殊な配慮がなされる。一方、機雷掃討時には、長時間低速航走する必要があり、また、放射雑音およびキャビテーションノイズ低減の利点もあることから、低速時用の補助推進装置として[[電気推進 (船舶)|電動推進]]方式を併用する場合も多い。速力の平均値は、最大速力は約15ノット、掃海速力は約7ノットである&lt;ref name=&quot;大原1990&quot;/&gt;。<br /> <br /> また、掃海艇特有の事情として、電磁石式の磁気掃海具を搭載している場合は所要の電力が大きいことから、艦内サービス用の主発電機とは別に、専用の掃海発電機が搭載されることが多かった。ただし近年では、[[パワーエレクトロニクス]]の進歩もあり、[[えのしま型掃海艇|えのしま型]]などでは同一発電機で兼用している&lt;ref name=&quot;廣郡2012-08&quot;/&gt;。<br /> <br /> これらのエンジンは、音響機雷への対策のため、防振ゴムや、天井から吊り下げた特殊な架台に載せたりして、外部へ振動が伝わらないようにされている。特にFRP艇においては、FRPの構造的連続性のために船内の騒音が減衰されにくく、水中放射雑音の大きさに直結することから、これらの防音・防振措置は非常に重要となっている&lt;ref name=&quot;廣郡2012-08&quot;/&gt;。<br /> <br /> == 装備 ==<br /> {{Triple image stack|right|Paravane aboard USS Engage (MSO-433).jpg|USS Constant (MSO-427) deploying the mag-tail.jpg|USS Illusive (MSO-448) lowers an acoustical device for training 2.jpg|250|[[オロペサ型係維掃海具]]の掃海浮標|掃海電纜を展開する米海軍掃海艇|A-Mk.6b低周波音響掃海具}}<br /> 掃海艇が機雷を排除する方法は、下記の2つに大別される。<br /> <br /> ; 機雷掃海<br /> : 掃海具を曳航して、機雷を浮上ないし起爆させるもの。<br /> ; 機雷掃討<br /> : 機雷探知機により機雷を探知し、何らかの手段で処分するもの。<br /> これらに用いるため、掃海艇には下記のような装備が施されている。<br /> <br /> === 機雷探知機 ===<br /> 機雷探知機は、[[超音波]]によって、水中の[[機雷]]の探知・類別を行う装置であり、要するに高周波を使用する[[ソナー#アクティブ・ソナー|アクティブ・ソナー]]である。<br /> <br /> 目標の捜索および類別のために、異なるいくつかの周波数帯を使用する。小さな機雷の探知には高い周波数帯を使うが、この場合、探知精度が高くなる代わりに有効捜索距離は短くなる。探知機は当初は掃海艇の船体に直接装備されるか、または曳航されていたが、対[[潜水艦]]用に深深度に敷設される機雷が出現すると、水面からの探知が困難となった。このため、探知機を任意の深度に吊り下げ曳航する[[可変深度ソナー|VDS]]方式が用いられるようになった。さらに、探知した目標に自走して接近、爆発するホーミング機雷など危害範囲が格段に広い機雷が出現するようになると、危険を避けるため探知機は掃海艇の前程に出すことが必要になった。このため、近時では探知機に推進装置を付けたPVDS方式に移行しようとしている。<br /> <br /> このPVDS方式の探知機に[[爆雷]]、カッターを装備した物も現れたが、そのような多機能化した処分具は非常に高価で、そのような処分具を目標とし攻撃できる機雷も出現したため問題となった。そこで、PVDS方式の探知機を出来るだけ簡略化し運用される方向にある。このため自走爆雷という一種の使い捨ての処分具も出現しており[[ドイツ]]のSea-Foxが有名である。<br /> <br /> === 掃海具 ===<br /> {{main2|各種機雷の詳細については[[機雷#機雷の種類]]}}<br /> 掃海具としては、係維機雷を掃海するための係維掃海具、感応機雷を掃海するための感応掃海具がある。<br /> ; 係維掃海具<br /> : 掃海艇が曳航する掃海具に取付けられた機械式もしくは火薬作動式のカッターにより、係維機雷の本体と錘をつなぐ係維索を切断するのに用いる。現在では[[オロペサ型係維掃海具]]が主流となっている。浮上した機雷本体は掃海艇が[[機関砲]]などにより銃撃し爆発させ処分するほか、[[ヘリコプター]]から[[水中処分員]] (EOD) が降下し爆薬を設置して爆破することもある。<br /> ; 感応掃海具<br /> : 磁気掃海具と音響掃海具がある。前者は曳航した電線に電流を流すことで海中に磁界を発生させる装置で、これにより磁気機雷を作動させて処分する。後者は発音体とその曳航装置からなり、発音体が発する船舶のスクリュー音に類似した音波で音響機雷を作動させ処分する。これらの信号の発生パターンとしては、従来は機雷の調定感度等を推定して、それに合致した信号を流すMSM({{Lang|en|mine setting mode}})が用いられていたが、機雷の高知能化に対抗するため、艦船の磁気・音響シグネチャーを模倣するTEM({{Lang|en|target emulation mode}})も用いられるようになっている。しかし機雷の側も様々な信号を捉えるように工夫しているため、調定は極めて難しいものとなっている&lt;ref name=&quot;高橋2015&quot;&gt;{{Cite journal|和書|author=高橋陽一|year=2015|month=10|title=掃海・掃討作業の実際 (特集・海上自衛隊の掃海能力)|journal=世界の艦船|issue=823|pages=78-83|publisher=海人社|naid=}}&lt;/ref&gt;。<br /> : なお、水圧機雷を効率的に掃海できる掃海具は未だ研究中である。<br /> <br /> === 掃討具 ===<br /> [[File:Cassiopée M642 PAP-104 2.JPG|thumb|250px|[[PAP-104]]機雷処分具]]<br /> 機雷掃討は掃海が困難な水圧機雷が出現した事により考案された。これは機雷探知機により[[機雷]]を捜索し、発見した機雷を処分用の[[爆雷]]やカッターで爆破するという処分方法である。爆雷やカッターは、時限式もしくは掃海艇からのコマンド信号により作動する。初期にはこれらの処分装置の設置を、掃海艇の支援を受けたディンギーと呼ばれる小型艇で行っていたが、ディンギーの乗員にとってこれは危険な作業だった。そのため現在では爆雷およびカッターの設置は[[PAP-104]]に代表されるような[[遠隔操作無人探査機]]によって行うのが主流となっている。<br /> <br /> === 兵装 ===<br /> 掃海艇においては、係維掃海具によって係維索を切断されて浮上した[[機雷]]などを銃撃・処分する必要性から、[[機関砲]]・[[機関銃]]が搭載されている。これらの武装は、機雷処分以外にも、自衛用や哨戒任務時の主兵装として用いられる。また、自衛用として[[携帯式防空ミサイルシステム]] (MANPADS) などが搭載される場合もある。<br /> <br /> == 艇内編成 ==<br /> 掃海艇の艇内編成を示すため、ここでは[[海上自衛隊]]の掃海艇を例に示す。海上自衛隊の掃海艇の艇内の編成は、「[[自衛艦]]の艦内の編制等に関する訓令」([[1972年|昭和47年]]海上自衛隊[[訓令]]第17号)及び「自衛艦の艦内の編制等の細部に関する達」(昭和47年海上自衛隊達第32号)により、次の通りとなっている。幹部自衛官は、艇長・船務長・掃海長・処分士([[水中処分員]]が乗り組んでいる艇に限る)・機関長の5名が配属される。補給長は船務長(誰が兼務しても良い)が兼務しているのが、一般的であり、専門的業務は隊司令部に所属している隊補給が行っている。船体消磁については、電機員が担当しており、この関係で船務長ではなく機関科(長)が担当している。また、潜水は処分士が総括しており、処分士は掃海科に配置されている。このように下記の訓令などとは、かなりの相違があることに注意されたい。<br /> <br /> ; 艇長<br /> : [[三等海佐]]または[[一等海尉]]。指揮系統に従い、上級[[指揮官]]の指揮監督を受け、艦務または艇務を統括する。<br /> ; 船務科<br /> : [[情報]]、電測、[[通信]]、[[暗号]]、船体消磁、航行、[[信号]]、見張、操舵及び[[気象]]に関することを所掌する。<br /> ; 掃海科<br /> : 掃海、敷設、水中処分、[[射撃]]、照射、運用、発射及び水測に関することを所掌する。<br /> ; 機関科<br /> : 主機関、補機、[[電気]]、応急、工作及び潜水に関することを所掌する。<br /> ; 補給科<br /> : 経費、物品の取扱い、[[給食]]、福利厚生、庶務、[[文書]]及び人事事務に関することを所掌する。<br /> <br /> == 分類 ==<br /> 掃海艦艇は、[[西側諸国]]においてはおおむね下記のように大別される&lt;ref name=&quot;井川1992-02&quot;&gt;{{Cite book|和書|author=井川宏|editor=航路啓開史編纂会|year=1992|title=日本の掃海-航路啓開五十年の歩み|chapter=第二章 対機雷戦の装備|publisher=図書刊行会|isbn=4-336-03357-9|pages=152 - 157}}&lt;/ref&gt;&lt;ref name=&quot;井川1992-03&quot;&gt;{{Cite book|和書|author=井川宏|editor=航路啓開史編纂会|year=1992|title=日本の掃海-航路啓開五十年の歩み|chapter=第三章 現代掃海部隊の作戦と訓練|publisher=図書刊行会|isbn=4-336-03357-9|pages=158 - 163}}&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> ; 掃海艦・大型掃海艇 ({{lang|en|Mine Sweeper Ocean}})<br /> : 外洋域において、深深度機雷などに対処する。<br /> ; 中型掃海艇 ({{lang|en|Mine Sweeper Coastal, MSC}})<br /> : &#039;&#039;&#039;沿岸掃海艇&#039;&#039;&#039;とも。対機雷戦の主力となる。<br /> ; 小型掃海艇 ({{lang|en|Mine Sweeping Boats, MSB}})<br /> : MSCでは対応困難な浅海域・内水域の掃海や、MSCの安全確保のための前駆掃海を担当する。[[アメリカ海軍]]や[[海上自衛隊]]では、掃海ヘリコプターや遠隔操縦式掃海具によって代替され、[[1990年代]]までに退役した。<br /> <br /> また、戦後の[[ソビエト連邦海軍|ソ連海軍]]や[[ロシア海軍]]などでは、排水量を基準に5種類の区分がなされている。<br /> ; 海洋掃海艦 ({{lang|ru|морские тральщики}})<br /> : 排水量600 - 1300tのもの。<br /> ; 基地掃海艇 ({{lang|ru|базовые тральщики}})<br /> : 排水量600tまでのもの。<br /> ; 泊地掃海艇 ({{lang|ru|рейдовые тральщики}})<br /> : 排水量250tまでのもの。<br /> ; 河川掃海艇 ({{lang|ru|речные тральщики}})<br /> : 排水量100tまでのもの。<br /> ; 掃海ランチ ({{lang|ru|катерные тральщики}})<br /> : 河川掃海艇より小型のもの。<br /> <br /> == 各国の主な掃海艦艇 ==<br /> {{節スタブ}}<br /> {{Col|<br /> {{navy|Empire of Japan}}<br /> * [[第一号型掃海艇]]<br /> * [[潮型掃海艇]](第七号型掃海艇(初代))<br /> * [[第五号型掃海艇]]<br /> * [[潮型掃海艇#第七号型掃海艇(2代)|第七号型掃海艇(2代)]]<br /> * [[第十三号型掃海艇]]<br /> * [[第十七号型掃海艇]]<br /> * [[第七号型掃海艇 (3代)|第七号型掃海艇(3代)]]<br /> * [[第十九号型掃海艇]]<br /> * [[第百一号型掃海艇]]<br /> * [[第一号型掃海特務艇]]<br /> * [[第百一号型掃海特務艇]]<br /> {{navy|JPN}}<br /> * [[海上自衛隊の掃海船 (編入船)#その他|編入掃海船]]<br /> * [[やえやま型掃海艦]]<br /> * [[あわじ型掃海艦]]<br /> * [[あただ型掃海艇]]<br /> * [[やしろ (掃海艇)|やしろ]]<br /> * [[かさど型掃海艇]]<br /> * [[たかみ型掃海艇]]<br /> * [[はつしま型掃海艇]]<br /> * [[うわじま型掃海艇]]<br /> * [[すがしま型掃海艇]]<br /> * [[ひらしま型掃海艇]]<br /> * [[えのしま型掃海艇]]<br /> * [[掃海艇1号型]]<br /> |<br /> {{navy|USA}}<br /> * {{仮リンク|YMS-1級掃海艇|en|YMS-1-class minesweeper}}<br /> * [[ブルーバード級掃海艇]]<br /> * [[アグレッシブ級掃海艇]]<br /> * アジャイル級掃海艇<br /> * [[アヴェンジャー級掃海艦]]<br /> * [[オスプレイ級機雷掃討艇]]<br /> {{navy|GBR}}<br /> * [[トン級掃海艇]]<br /> * [[ハント級掃海艇]]<br /> * [[リバー級掃海艇]]<br /> * [[サンダウン級機雷掃討艇]]<br /> {{navy|FRA}}/{{navy|NLD}}/{{navy|BEL}}<br /> * [[トリパルタイト型機雷掃討艇]]<br /> {{navy|GER}}<br /> * {{仮リンク|リンダウ級掃海艇|de|Lindau-Klasse}}<br /> * {{仮リンク|ハーメルン級掃海艇|de|Minenabwehrfahrzeuge der Deutschen Marine#Schnelle Minensuchboote Hameln-Klasse (Klasse 343)}}<br /> * {{仮リンク|クルムバッハ級機雷掃討艇|en|Kulmbach-class mine hunter}}<br /> * {{仮リンク|フランケンタール級機雷掃討艇|en|Frankenthal-class minehunter}}<br /> * {{仮リンク|エンスドルフ級掃海艇|en|Ensdorf-class minesweeper}}<br /> |<br /> {{navy|DDR}}<br /> * {{仮リンク|クラーケ型掃海艇|de|Krake-Klasse}}<br /> * {{仮リンク|コンドール型掃海艇|de|Kondor-Klasse|en|Project 89 Kondor Minesweeper}}<br /> {{navy|ITA}}<br /> * {{仮リンク|レリチ級機雷掃討艇|en|Lerici class minehunter}}<br /> {{navy|SWE}}<br /> * {{仮リンク|ランドソルト級機雷掃討艇|en|Landsort-class mine countermeasures vessel}}<br /> {{navy|ESP}}<br /> * {{仮リンク|セグーラ級機雷掃討艇|es|Clase Segura}}<br /> {{navy|KOR}}<br /> * [[襄陽級掃海艇]]<br /> * [[江景級掃海艇]]<br /> {{navy|PRC}}<br /> * [[渦池型掃海艦|渦池型 (081型)]]<br /> * [[渦掃型掃海艇|渦掃型 (082型)]]<br /> * [[渦蔵型掃海艇|渦蔵型 (082-I型)]]<br /> {{navy|YUG}}(現:{{navy|SER}})<br /> * {{仮リンク|ネシュティン級河川掃海艇|en|Neštin-class_river_minesweepers}}<br /> {{navy|ZAF}}<br /> * {{仮リンク|リバー級機雷掃討艇|en|River-class mine hunters}}<br /> }}<br /> <br /> == 参考文献 ==<br /> {{Reflist|2}}<br /> <br /> == 関連項目 ==<br /> * [[軍艦]]<br /> * [[機雷]]<br /> * [[機雷戦]]<br /> * [[船体消磁]]<br /> * [[横須賀消磁所]]<br /> * [[仮屋磁気測定所]]<br /> <br /> == 外部リンク ==<br /> * [http://www.mod.go.jp/msdf/mf/ 海上自衛隊掃海隊群]<br /> <br /> {{艦艇}}<br /> <br /> [[Category:軍艦|そうかいてい]]<br /> [[Category:掃海艇|*]]</div> 240F:80:BFA7:1:6D26:6350:D44B:5092 特殊潜航艇 2018-06-10T04:34:14Z <p>240F:80:BFA7:1:6D26:6350:D44B:5092: /* 外部リンク */</p> <hr /> <div>&#039;&#039;&#039;特殊潜航艇&#039;&#039;&#039;(とくしゅせんこうてい)とは、敵海軍の[[泊地]]襲撃や、工作員潜入などに使われる軍用[[潜水艇]]・小型潜水艦。ミゼット・サブマリン(Midget submarine)とも呼ばれる。日本の[[甲標的]]をはじめとして、世界各国で製造・運用された。<br /> <br /> == 概要 ==<br /> 泊地襲撃に潜水艦を使用するというアイデアは、[[アメリカ独立戦争]]時に使用された世界最初の潜水艇である「[[タートル潜水艇|タートル]]」や、[[南北戦争]]時に世界最初の艦艇を撃沈した「[[H・L・ハンリー (潜水艇)|H.ハンリー]]」、[[第一次世界大戦|第一次]]・第二次世界大戦時にも各国は使用しており、潜水艦運用初期には極基本的な戦法であった。<br /> &lt;!--なお、H.ハンリーの攻撃手段は、船首から棒の先につけた爆薬(外装水雷、または&#039;&#039;&#039;スパー・トーピード&#039;&#039;&#039;という)であったため、世界最初の敵艦撃沈と同時に、世界最初の敵攻撃時に沈んだ潜水艦でもある。 (南軍の装甲艦マナサスを攻撃したランチみたいに、円材の先に爆発物をつけたまま起爆したわけではなく(弾頭は敵艦に刺さって円材から離れ、リールに巻いた長いロープによる遠隔爆破)、敵攻撃時に沈んだわけでもなく(攻撃成功を知らせる灯火信号を敵味方双方で確認)、不帰還の原因も未だ定説がないからこの部分は不適当。) --&gt;<br /> <br /> 外洋行動が可能な大型潜水艦が実用化されると、泊地等の狭水域に対する襲撃行動は艦の大きさの点から不向きとなってきた。第二次世界大戦時には、狭水域における行動に適したサイズと独特の装備を有した潜水艇・特殊潜航艇が開発・製造され、実戦にも投入された。<br /> <br /> ドイツではイギリスの特殊潜航艇によって[[ティルピッツ (戦艦)|ティルピッツ]]が攻撃されたことを機に開発が始まり、[[ネガー (特殊潜航艇)|ネガー]]、[[モルヒ (特殊潜航艇)|モルヒ]]、[[Uボート (XXVII型)|ヘヒト]]、[[デルフィン (特殊潜航艇)|デルフィン]]といった特殊潜航艇を開発した。ドイツの特殊潜航艇は日本のそれよりも小型で、一人乗りのものが多かった。魚雷を改造しただけというものもあり、1,000隻以上の大量の特殊潜航艇が製造されたものの、どれもこれといった活躍を見せることはなかった。戦果といえるものは[[駆逐艦]]1隻と輸送船数隻程度であるとされている。<br /> <br /> 日本の甲標的は、1941年の開戦時における[[真珠湾攻撃]]や1942年の[[特殊潜航艇によるシドニー港攻撃|シドニー港攻撃]]や[[マダガスカルの戦い#日本海軍による攻撃|ディエゴ・スアレス港の攻撃]]等に投入された。真珠湾攻撃では[[ウェストバージニア (戦艦)|戦艦ウェストバージニア]]と[[オクラホマ (戦艦)|戦艦オクラホマ]]に魚雷を命中させたとされる&lt;ref name=47n20091208&gt;[http://www.47news.jp/CN/200912/CN2009120801000287.html 特殊潜航艇の真珠湾雷撃成功か 米専門家が分析] 四国新聞社 全国ニュース 2009/12/08  2016年8月29日閲覧&lt;/ref&gt;。ディエゴ・スアレスでは[[戦艦]][[ラミリーズ_(戦艦・2代)|ラミリーズ]]を大破、[[油槽船]][[ブリティッシュ・ロイヤルティ]](6,993トン)を撃沈した。また[[ガダルカナル]]の作戦において米輸送艦アルチバ(USS Alchiba, AK-23)、米輸送艦マジャバ(USS Majaba, AG-43)など数隻を撃破した。<br /> <br /> == 各国の特殊潜航艇 ==<br /> &lt;!---英語版(Midget submarine)には深海調査艇も含まれているが、日本語ではそれに含まれないので記載せず---&gt;<br /> <br /> === 日本海軍 ===<br /> * [[甲標的]](量産型1940年以降)<br /> * [[蛟竜 (潜水艦)]](量産型1945年)<br /> * [[海龍 (潜水艇)]](量産型1945年)<br /> <br /> === イギリス海軍 ===<br /> * [[X艇]](1942年以降)<br /> * [[XE級潜水艦]](1944年)<br /> * [[スティックルバック級潜水艦]](1950年代)<br /> <br /> === ドイツ海軍 ===<br /> * [[ビーバー (特殊潜航艇)]](1944年以降)<br /> * [[モルヒ (特殊潜航艇)]](1944年以降)<br /> * [[ネガー (特殊潜航艇)]](1944年以降)<br /> * [[UボートXXVII型]](1944年以降、ヘヒトやゼーフントとも呼ばれる)<br /> * [[デルフィン (特殊潜航艇)|デルフィン]](試作のみ)<br /> <br /> ==脚注==<br /> {{Reflist}}<br /> <br /> ==外部リンク==<br /> {{Commonscat|Midget submarines}}<br /> *[http://cgi2.nhk.or.jp/archives/tv60bin/detail/index.cgi?das_id=D0009010787_00000 NHKスペシャル 真珠湾の謎 悲劇の特殊潜航艇 - NHK名作選(動画・静止画) NHKアーカイブス]<br /> <br /> {{艦艇}}<br /> {{デフォルトソート:とくしゆせんこうてい}}<br /> [[Category:ミゼット・サブマリン|*]]</div> 240F:80:BFA7:1:6D26:6350:D44B:5092 巡洋艦 2018-06-10T04:20:01Z <p>240F:80:BFA7:1:6D26:6350:D44B:5092: /* 参考文献 */</p> <hr /> <div>{{Triple image stack|right|H.M.S._Shannon_RMG_PU6262.jpg|USS Des Moines (CA-134) underway at sea on 30 November 1959.jpg|USS Shiloh good deck detail 04016702.jpg|250|英海軍初の装甲帯巡洋艦「[[シャノン (装甲巡洋艦・初代)|シャノン]]」|[[デモイン級重巡洋艦]]|[[タイコンデロガ級ミサイル巡洋艦]]}}<br /> &#039;&#039;&#039;巡洋艦&#039;&#039;&#039;(じゅんようかん、{{Lang-en|cruiser}})は遠洋航行能力・速度等を生かした攻撃力を持たせた[[軍艦]]の艦種。ただし定義は国や年代によって異なる。<br /> <br /> == 来歴 ==<br /> [[帆船]]時代の軍艦は、備砲数による[[イギリス海軍の等級制度|等級]]と、想定任務による艦種によって類別されてきた。一般的に、二層以上の[[砲列甲板]]に64門以上という多数の艦砲を備えた艦によって[[単縦陣]]の戦列を構成して砲撃戦を戦うことから、これらが[[戦列艦]]と称された。一方、これより小さく、砲列甲板が単層で備砲が20~50門程度の艦は[[フリゲート]]や[[コルベット]]と称され、艦隊[[決戦]]の補助や[[通商破壊]]、沿岸警備などにあたっていた。また更に小さい等外艦として[[スループ]]や[[砲艦]]、[[カッター (船)|カッター]]や[[スクーナー]]などがあった{{Sfn|青木|1982|pp=80-84}}{{Sfn|田中|1996}}。<br /> <br /> 「クルーザー」のもとになった「クルーズ」という単語は、ラテン語で十字架を表す「クルクス」({{Lang|latin|crux}})に由来し、「海上をジグザグ航行する」ことをオランダ人が「クルイゼン」({{Lang|nl|cruisen}})と称していたのに倣って、17世紀、イギリス人が「敵船を探し求める軍艦のジグザグ航海」を「クルーズ」と称するようになったとされる。すなわち、当時は艦種というよりは作戦行動を表す単語であり、例えばイギリスで1708年に制定された巡洋艦法({{Lang|en|Cruisers Act}})では、このような任務で得た捕獲賞金について規定されている{{Sfn|青木|1982|p=117}}。戦列から離れての単独任務という性格から、フリゲートやコルベットが投入されることが多かった。また[[1860年代]]の[[南北戦争]]の際には、南軍は13隻の武装船を通商破壊に投入したが、これらは「クルーザー」と称されていた{{Sfn|鳥居|1984}}。<br /> <br /> この時期には舶用[[蒸気機関]]が普及し、[[機帆船]]の時代となっていた。南北戦争での経験を踏まえ、[[アメリカ海軍]]は蒸気フリゲートの速力向上を図り、1864年には「{{仮リンク|ワンパノアグ級フリゲート|label=ワンパノアグ|en|USS_Wampanoag_(1864)}}」を進水させた。また[[イギリス海軍]]は、1868年、設計思想を更に進めて、船体を鉄製とするとともに、舷側に石炭庫を配置して[[装甲#空間装甲|空間装甲]]としての機能をもたせた「{{仮リンク|インコンスタント_(フリゲート・5代)|label=インコンスタント|en|HMS_Inconstant_(1868)}}」を建造した。当時、まだ艦種呼称として採用されてはいなかったものの、後顧的には、イギリス巡洋艦の嚆矢として評価されている{{Sfn|青木|1996}}。<br /> <br /> このように帆から推進機に変わっていく流れの中、[[帆]]装に基づく従来の類別法とは異なる名称が望まれるようになり、イギリス海軍では1875年進水の「[[シャノン (装甲巡洋艦・初代)|シャノン]]」を端緒として「巡洋艦」という艦種呼称が使われるようになり、1878年には、既存のフリゲートとコルベットは巡洋艦に類別変更された{{efn2|類別変更後も、[[1880年代]]までは、旧来の艦種呼称も公文書で用いられることがあった{{Sfn|Friedman|2012}}。}}{{Sfn|Friedman|2012}}。フランス海軍でも1882年進水の「[[ヴォーバン級装甲艦|ヴォーバン]]」は巡航鋼鉄艦({{Lang|fr|Cuirassé de Croisière}})と称され、「フリゲート」の名称は使われなくなっていった{{Sfn|鳥居|1984}}。<br /> <br /> == 装甲帯巡洋艦 ==<br /> [[ファイル:Knyaz&#039;Pozharskiy1864-1911c.jpg|thumb|250px|装甲帯巡洋艦の先駆者、「[[ポジャールスキー公 (装甲巡洋艦)|クニャージ・ポジャールスキー]]」]]<br /> 元来、[[艦砲]]では沿岸[[要塞]]に対抗できないのがセオリーとされていた。しかし[[クリミア戦争]]でフランス軍が実戦投入した装甲[[浮き砲台]]が要塞攻撃を成功させたことで、状況は一変した。この戦訓を踏まえて、[[フランス海軍]]が1859年に進水させた「[[ラ・グロワール]]」と、これに対抗してイギリス海軍が1860年に進水させた「[[ウォーリア (装甲艦)|ウォーリア]]」により、世界の海軍は[[装甲艦]]の時代に突入した。これらの装甲艦により攻撃された場合、要塞の優位性は盤石とはいえなくなっていた。鋼鉄艦・[[蒸気船]]時代の到来とともに、造修・補給を担う基地を世界各地に維持することが重要になっていたことから、各国海軍の遣外艦隊はこれに対抗する必要が生じた{{Sfn|Friedman|2012|loc=&amp;sect;0}}。<br /> <br /> このことから、イギリス海軍初の巡洋艦である「[[シャノン (装甲巡洋艦・初代)|シャノン]]」などは水線部に帯状の装甲を施しており、&#039;&#039;&#039;装甲帯巡洋艦&#039;&#039;&#039;({{Lang|en|belted cruiser}})と称される{{Sfn|中川|1996|pp=167-173}}。またこれに先行して、1870年に[[ロシア帝国海軍]]が竣工させた「[[ポジャールスキー公 (装甲巡洋艦)|クニャージ・ポジャールスキー]]」は、世界で初めて水線防御を施した軍艦と称される{{Sfn|ポルトフ|2010|pp=16-23}}。しかし、特に英艦は装甲艦の延長線上の設計思想で建造されていたために、巡洋艦として必須の航洋性能が低い傾向があったほか、防御重量の増大を避けるために装甲帯の幅を極端に圧縮した結果として、排水量が計画値よりも増えると、装甲部分が容易に水没して意味をなさなくなるという問題があった{{Sfn|中川|1996|pp=167-173}}。<br /> <br /> このため、イギリス海軍の装甲帯巡洋艦は1884年度計画の[[オーランド級装甲巡洋艦|オーランド級]]が最後となり、以後は[[防護巡洋艦]]に移行した{{Sfn|中川|1996|pp=167-173}}。一方、当時第2・3の海軍国であったフランスやロシアは水線部装甲をもつ巡洋艦を重視し、建造を継続した{{Sfn|青木|1996}}。特にロシアが1875年に竣工させた「[[ゲネラール=アドミラール (装甲巡洋艦)|ゲネラール=アドミラール]]」は、装甲帯巡洋艦というよりは、むしろ世界初の[[#装甲巡洋艦|装甲巡洋艦]]として評価されている{{Sfn|ポルトフ|2010|pp=154-159}}。<br /> <br /> == 非防護巡洋艦 ==<br /> 装甲艦の影響を受けた[[#装甲帯巡洋艦|装甲帯巡洋艦]]と対照的に、高速軽快なフリゲート・[[通報艦]]を母体にした&#039;&#039;&#039;[[非防護巡洋艦]]&#039;&#039;&#039;も建造されていた。これらの艦は、通商破壊や商船護衛、前路哨戒や植民地警備といった様々な任務に投入されていた{{Sfn|中川|1996|pp=167-173}}。<br /> <br /> また1884年度でイギリス海軍が建造したスカウト級のように、水雷攻撃を意図した[[水雷巡洋艦]]の任務を帯びた艦もあった。しかし巡洋艦としての設計であったため船殻重量過大であり、また軽量大出力の適切な機関が得られなかったことから所期の速力を達成できず、その後の進化に繋がることはなかった{{Sfn|中川|1996|pp=167-173}}。<br /> <br /> == 防護巡洋艦 ==<br /> [[File:Mersey Class Cruiser Elevation Deck Plan Section.jpg|thumb|250px|マージー級の船体断面図]]<br /> もともと[[イギリス海軍]]では、「{{仮リンク|インコンスタント_(フリゲート・5代)|label=インコンスタント|en|HMS_Inconstant_(1868)}}」に見られるように石炭庫を空間装甲のように配置することで防御に利用するという設計思想があった。1876年度計画の{{仮リンク|コーマス級コルベット|en|Comus-class corvette|label=コーマス級}}では、これに加えて、機関部と弾薬庫の上方に相当する部分の甲板を装甲で覆う防護甲板の手法が導入された{{Sfn|Friedman|2012|loc=&amp;sect;4}}。そして1880年度計画の{{仮リンク|リアンダー級防護巡洋艦|en|Leander-class cruiser (1882)|label=リアンダー級}}では、水平に近い弾道で艦内に突入した砲弾に対する[[避弾経始]]を配慮して、防護甲板に反りを持たせて亀甲型とした。装甲帯のような重く高価な垂直防御と比して、このように水線部より若干下方に防護甲板を設ける水平防御の手法であれば、比較的軽い重量で、かつ重心の上昇も抑制しつつ艦の防御力を向上させられると期待された{{Sfn|青木|1996}}。<br /> <br /> そして1883年には、チリ海軍がイギリスの[[ヴィッカース・アームストロング|アームストロング]]造船所に発注していた巡洋艦「[[和泉 (防護巡洋艦)|エスメラルダ]]」が進水した{{Sfn|Gardiner|1979|p=228}}。同艦は[[帆]]装を全廃するとともに、従来は枢要部のみに設けられていた防護甲板を艦の全長にわたって装着するなど、&#039;&#039;&#039;[[防護巡洋艦]]&#039;&#039;&#039;の原型となった。特に[[#装甲帯巡洋艦|装甲帯巡洋艦]]に限界を感じていたイギリス海軍はこの艦種に着目し、これに範を取った{{仮リンク|マージー級防護巡洋艦|en|Mersey-class cruiser|label=マージー級}}を端緒として多数を建造し、シーレーン防護のため世界各地に配備した{{Sfn|中川|1996|pp=167-173}}。<br /> <br /> しかし[[1880年代]]後期以後の[[速射砲]]の普及は、防護巡洋艦に破滅的な影響をもたらした。防護巡洋艦では、船体内の艦枢要部は防護甲板の下で守られており、上部構造物については、ここに浸水が生じても隔壁により防止できるという目論見から無防備に晒されていた。しかし1894年の[[黄海海戦 (日清戦争)|黄海海戦]]では、短時間に大量の榴弾を投射された結果、艦枢要部が直撃弾を受けずとも、非装甲部が徹底的に破壊されて戦闘能力を喪失する例が多発した。この戦訓から、垂直防御をもたない防護巡洋艦の価値は急激に衰退した{{Sfn|中川|1996|pp=167-173}}。<br /> <br /> == 装甲巡洋艦 ==<br /> [[File:Dupuy-de-lome cross.png|thumb|250px|「[[デュピュイ・ド・ローム (装甲巡洋艦)|デュピュイ・ド・ローム]]」の船体断面図]]<br /> 防護巡洋艦の戦術価値低下とともに、防護巡洋艦のうち大型の艦では、再び垂直防御の導入が図られた{{Sfn|中川|1996|pp=167-173}}。これが&#039;&#039;&#039;[[装甲巡洋艦]]&#039;&#039;&#039;であり、その端緒とされるのが、フランス海軍が1890年に竣工させた「[[デュピュイ・ド・ローム (装甲巡洋艦)|デュピュイ・ド・ローム]]」である{{Sfn|青木|1999}}。また上記の通り、ロシア帝国海軍が1875年に竣工させた「[[ゲネラール=アドミラール (装甲巡洋艦)|ゲネラール=アドミラール]]」は、その先鞭をつけたものとして評価されている{{Sfn|ポルトフ|2010|pp=154-159}}。<br /> <br /> かつての[[巡洋艦#装甲帯巡洋艦|装甲帯巡洋艦]]で断念された広範囲の装甲と航洋性能の両立を実現した背景の一つが、製鋼技術の進歩であった。この時期にはハーヴェイ鋼や[[クルップ鋼]]のように耐弾性の高い[[装甲]]用[[鋼板]]が開発され、従来の普通鋼より薄い装甲板でも所期の防弾性能を発揮できるようになっていた。しかしそれでもなお、装甲重量の抑制のためには防弾性能の妥協が必要であり、中口径速射砲に抗堪する程度に留められた。この結果、艦砲の大口径化に伴って装甲板の厚みを増すことができず、自艦の主砲に堪えられない防御力を持つ軍艦として発達していくこととなった{{Sfn|中川|1996|pp=167-173}}。<br /> <br /> これらの装甲巡洋艦は、通常の巡洋艦と同様に通商破壊や商船護衛、前路哨戒や植民地警備といった任務に投入されていたが、19世紀末ないし20世紀初頭には、更にこれを準主力艦として位置付けて、同種艦数隻で戦列を構成して戦艦部隊とともに行動する運用法が生じた。これに伴い、戦艦に匹敵する攻撃力を備えた艦も登場し、[[巡洋戦艦]]と称される。しかしこれらの艦も、攻撃力に比して弱体な防御力という弱点は引き継いでおり、特にこれが顕著だったイギリス海軍の巡洋戦艦は、[[ユトランド沖海戦]]において砲塔への直撃弾によって瞬時に轟沈した艦もある{{Sfn|青木|1999}}。<br /> <br /> == 偵察巡洋艦 ==<br /> 大型[[#防護巡洋艦|防護巡洋艦]]が[[#装甲巡洋艦|装甲巡洋艦]]に発展する一方、中型防護巡洋艦は淘汰され、小型防護巡洋艦は高速化によって新時代への適応を図ろうとした{{Sfn|中川|1996|pp=167-173}}。<br /> <br /> これに応じて建造された艦種の一つが&#039;&#039;&#039;偵察巡洋艦&#039;&#039;&#039;([[:en:Scout cruiser|Scout cruiser]])である。これは当時発達していた駆逐艦を[[嚮導艦|嚮導]]する小型・高速の巡洋艦であり、駆逐艦に匹敵する高速性能が求められたことから、基本的には駆逐艦を拡大した船型となっているが、巡洋艦としての設計も求められたことから、防護甲板が設けられた{{Sfn|青木|1996}}。<br /> <br /> しかし燃料が重油に移行していく流れのなか、炭庫による防御は意味を失いつつあったうえに、駆逐艦の拡大型としての小型の船体は耐航性に欠け、おまけに駆逐艦の速力向上にも追随が困難となっていた。このため、イギリス海軍での偵察巡洋艦の建造は1911年度で終了した{{Sfn|中川|1996|pp=69-78}}。<br /> <br /> == 軽巡洋艦 ==<br /> [[File:HMS Galatea (1914).jpg|thumb|250px|アリシューザ級。軽巡洋艦の始祖と評される。]]<br /> 偵察巡洋艦の経験を踏まえて、その速力性能を維持しつつ火力を強化し、また遣外任務にも投入できるよう艦型を拡大した艦として開発されたのが&#039;&#039;&#039;[[軽巡洋艦]]&#039;&#039;&#039;である。アメリカ海軍では1904年度計画の[[チェスター級軽巡洋艦|チェスター級]]、イギリス海軍では1908年度計画の[[タウン級軽巡洋艦 (初代)|タウン級]]で既にその萌芽がある{{Sfn|中川|1996|pp=79-106}}。<br /> <br /> そしてイギリス海軍が1912年度計画で建造した[[アリシューザ級軽巡洋艦 (初代)|アリシューザ級]]が軽巡洋艦の始祖となった。同級では、タウン級の途中から採用された水線装甲帯を踏襲するとともに、駆逐艦用機関の導入によって速力を更に向上させ、[[ウィンストン・チャーチル]][[海軍大臣]]は、同級について、真の&quot;{{Lang|en|Light Protected Cruiser}}&quot;となった、と称した{{Sfn|中川|1996|pp=167-173}}。また同時期に、ドイツ帝国海軍は[[マクデブルク級小型巡洋艦|マクデブルク級]]、オーストリア海軍も「[[アドミラル・シュパウン (軽巡洋艦)|アドミラル・シュパウン]]」と、類似した艦を建造した{{Sfn|Gardiner|1984|pp=159-160}}{{Sfn|Gardiner|1984|p=336}}。<br /> <br /> 1930年に調印された[[ロンドン海軍軍縮会議|ロンドン海軍軍縮条約]]では、砲口径6.1インチ(155 mm)以下の巡洋艦が「カテゴリーB」と定義されており、これを軽巡洋艦(Light Cruiser)とする呼称が一般的となった{{Sfn|中川|1996|pp=167-173}}{{Sfn|青木|2006}}。<br /> <br /> == 重巡洋艦 ==<br /> [[ファイル:Bundesarchiv DVM 10 Bild-23-63-09, Kreuzer &quot;Blücher&quot;.jpg|250px|thumb|重巡洋艦「[[ブリュッヒャー (重巡洋艦)|ブリュッヒャー]]」]]<br /> 1922年に調印された[[ワシントン海軍軍縮条約]]では、[[主力艦]]とされていた[[戦艦]]の質と量に制限が課せられた。このときの規定では、排水量10,000トン未満、砲口径8インチ(203 mm)以下の水上戦闘艦は制限を免れた{{Sfn|青木|2006}}。<br /> <br /> このことから、この制限内の艦を多数建造して、これを準・主力艦として位置付ける動きが生じた。これが条約型巡洋艦である。その後、1930年に調印されたロンドン海軍軍縮条約では、口径6.1インチを超える砲を持つ巡洋艦が「カテゴリーA」と定義されており、これを&#039;&#039;&#039;[[重巡洋艦]]&#039;&#039;&#039;とする呼称が一般的となった{{Sfn|中川|1996|pp=167-173}}{{Sfn|青木|2006}}。<br /> <br /> ロンドン海軍軍縮条約の制約を受けて、巡洋艦建造の主力は、次第に軽巡洋艦に移行していくことになった{{Sfn|青木|2006}}。条約が失効したあとも、イギリスやフランスは重巡洋艦よりは軽巡洋艦の建造を優先した。しかし日本やアメリカ、そしてそもそも条約に縛られなかった[[ナチス・ドイツ]]では、条約型巡洋艦よりも大型・強力な重巡洋艦が建造されることになった{{Sfn|岡部|2006}}。<br /> <br /> == ミサイル巡洋艦 ==<br /> アメリカと[[イギリス]]では、それぞれ1943年ごろより[[艦対空ミサイル]]の開発に着手しており、大戦末期に[[日本軍]]が行った[[特別攻撃隊|特別攻撃]](特攻)の脅威を受けて開発は加速していた。アメリカでは、1944年に開始されたバンブルビー計画を基本として開発が進められており、ここから派生した中射程型の[[テリアミサイル|テリア]]は1948年、本命と位置付けられていた長射程型の[[タロス (ミサイル)|タロス]]も1950年には試作に入った{{Sfn|大塚|2012}}。<br /> <br /> [[ファイル:USS Long Beach (CGN-9) underway at sea, circa in the 1960s.jpg|thumb|250px|初の新造ミサイル巡洋艦「[[ロングビーチ (原子力ミサイル巡洋艦)|ロングビーチ]]」]]<br /> [[アメリカ海軍]]において、これらのミサイルは、まず既存の軽巡洋艦・重巡洋艦への改修によって装備化されることになり、1952年度予算で[[ボルチモア級重巡洋艦]]2隻がテリアを搭載した[[ボストン級ミサイル巡洋艦|ボストン級]]として改装されたのを端緒として、順次に改装が進められた。また兵装のミサイル化と同時に機関の[[原子力船|核動力化]]も図った「[[ロングビーチ (原子力ミサイル巡洋艦)|ロングビーチ]]」も建造されたが、巨額な建造費が災いして、同型艦は建造されなかった{{Sfn|石橋|1993}}。また、特にテリアは、より小さい駆逐艦ベースの船体でも十分に収容できることが判明したことから、巡洋艦への改装はそれ以上行われないことになり、かわって駆逐艦を拡大した[[フリゲート#大型駆逐艦|ミサイル・フリゲート]]([[嚮導艦|DLG/DLGN]])の整備が進められた{{Sfn|大塚|2012}}。しかしこのミサイル・フリゲートはどんどん大型化・有力化していったこともあり、[[:en:United States Navy 1975 ship reclassification|1975年の艦種再編]]の際に「ミサイル巡洋艦」と改称された。また[[1978年]]度の[[タイコンデロガ級ミサイル巡洋艦|タイコンデロガ級]]は、[[スプルーアンス級駆逐艦]]を元に[[イージスシステム]]を搭載するよう設計を修正したという経緯もあり、当初はミサイル駆逐艦として類別されていたものの、結局ミサイル巡洋艦に類別変更されている{{Sfn|青木|1993}}。<br /> <br /> 一方、[[ソビエト連邦海軍|ソ連海軍]]では、1956年より「誘導ジェット兵器を備える駆逐艦」の開発を進めていたが、巡洋艦を失うことを憂慮した海軍上層部への配慮から、これは1960年代に入って[[キンダ型巡洋艦|58型ミサイル巡洋艦]]と改称され、ミサイル巡洋艦(RKR){{efn2|ロシア語では誘導ミサイルとロケットの区別がなく、いずれも「ロケット」({{Lang|ru|Ракета}})と称されるため、日本語に訳出される際に便宜的に区別が付されることが多い{{Sfn|ポルトフ|2010|p=79}}。}}の嚆矢となった。アメリカ海軍のミサイル巡洋艦が艦対空ミサイルを主兵装とした[[防空艦]]であったのに対し、これらのソ連海軍のミサイル巡洋艦は、むしろ[[艦対艦ミサイル]]を主兵装として、対水上戦を主任務としていた{{Sfn|ポルトフ|2010|pp=72-89}}。<br /> <br /> == 脚注 ==<br /> === 注釈 ===<br /> {{notelist2}}<br /> <br /> === 出典 ===<br /> {{Reflist|2}}<br /> <br /> == 参考文献 ==<br /> * {{Cite book|authorlink=:en:Norman Friedman|first=Norman|last=Friedman|title=British Cruisers of the Victorian Era|year=2012|publisher=[[:en:United States Naval Institute|Naval Institute Press]]|isbn=978-1591140689|ref=harv}}<br /> * {{Cite book|first=Robert|last=Gardiner|title=[[:en:Conway Publishing|Conway&#039;s All the World&#039;s Fighting Ships 1860-1905]]|year=1979|publisher=Naval Institute Press|isbn=978-0870219122|ref=harv}}<br /> * {{Cite book|first=Robert|last=Gardiner|title=Conway&#039;s All the World&#039;s Fighting Ships 1906-1921 |year=1984|publisher=Naval Institute Press|isbn=978-0870219078|ref=harv}}<br /> * {{Cite book|first=Stephen|last=Saunders|title=[[ジェーン海軍年鑑|Jane&#039;s Fighting Ships 2009-2010]]|year= 2009|publisher=[[:en:Jane&#039;s Information Group|Janes Information Group]]|isbn=978-0710628886|ref=harv}}<br /> * {{Cite book|authorlink=:en:Eric Wertheim|first=Eric|last=Wertheim|title= [[:en:Combat Fleets of the World|The Naval Institute Guide to Combat Fleets of the World, 16th Edition]]|year= 2013|publisher=Naval Institute Press|isbn=978-1591149545|ref=harv}}<br /> * {{Cite book|author=IISS|title=The Military Balance|year=2016|publisher=[[ラウトレッジ]]|isbn=978-1857438352|ref=harv}}<br /> * {{Cite book|和書|authorlink=青木栄一 (地理学者)|last=青木|first=栄一|year=1982|title=シーパワーの世界史〈1〉海軍の誕生と帆走海軍の発達 |publisher=出版協同社|ncid=BN06116852|ref=harv}}<br /> * {{Cite journal|和書|last=青木|first=栄一|year=1993|month=4|title=アメリカ巡洋艦建造の歩み|journal=[[世界の艦船]]|issue=464|pages=129-137|publisher=[[海人社]]|naid=}}<br /> * {{Cite journal|和書|last=青木|first=栄一|year=1996|month=11|title=船体 (技術面から見たイギリス巡洋艦の発達)|journal=世界の艦船|issue=517|pages=176-181|publisher=海人社|isbn=978-4905551577|ref=harv}}<br /> * {{Cite journal|和書|last=青木|first=栄一|year=1999|month=06|title=巡洋戦艦 その誕生から終焉まで (特集 巡洋戦艦 軍艦史上の異彩を顧みる)|journal=世界の艦船|issue=553|pages=70-77|publisher=海人社|naid=40002155515|ref=harv}}<br /> * {{Cite journal|和書|last=青木|first=栄一|year=2006|month=06|title=条約型重巡誕生の経緯と技術的特徴 (特集・回想の条約型重巡)|journal=世界の艦船|issue=659|pages=69-75|publisher=海人社|naid=40007281474|ref=harv}}<br /> * {{Cite journal|和書|last=石橋|first=孝夫|year=1993|month=4|title=アメリカ巡洋艦の技術的特徴|journal=世界の艦船|issue=464|publisher=海人社|pages=138-147|ref=harv}}<br /> * {{Cite journal|和書|last=大塚|first=好古|year=2012|month=11|title=米艦隊防空艦発達史 (特集 米イージス艦「アーレイ・バーク」級) |journal=世界の艦船|issue=769|pages=90-97|publisher=海人社|naid=40019440596|ref=harv}}<br /> * {{Cite journal|和書|authorlink=岡部いさく|last=岡部|first=いさく|year=2006|month=06|title=条約型重巡の後継者たち (特集・回想の条約型重巡)|journal=世界の艦船|issue=659|pages=102-107|publisher=海人社|naid=40007281481|ref=harv}}<br /> * {{Cite journal|和書|last=田中|first=航|year=1984|month=2|title=帆走軍艦の艦種類別|journal=世界の艦船|issue=332|pages=66-69|publisher=海人社|ref=harv}}<br /> * {{Cite journal|和書|last=鳥居|first=信夫|year=1984|month=2|title=近代軍艦の艦種類別|journal=世界の艦船|issue=332|pages=82-83|publisher=海人社|ref=harv}}<br /> * {{Cite journal|和書|last=中川|first=務|year=1996|month=11|title=イギリス巡洋艦史|journal=世界の艦船|issue=517|publisher=海人社|isbn=978-4905551577|ref=harv}}<br /> * {{Cite journal|和書|first=アンドレイ V.|last=ポルトフ|year=2010|month=12|title=ソ連/ロシア巡洋艦建造史|journal=世界の艦船|issue=734|publisher=海人社|naid=40017391299|ref=harv}}<br /> <br /> {{巡洋艦関連項目}}<br /> {{艦艇}}<br /> <br /> {{Normdaten}}<br /> {{DEFAULTSORT:しゆんようかん}}<br /> [[Category:巡洋艦|*]]</div> 240F:80:BFA7:1:6D26:6350:D44B:5092 巡洋戦艦 2018-06-10T04:18:13Z <p>240F:80:BFA7:1:6D26:6350:D44B:5092: /* 関連項目 */</p> <hr /> <div>&#039;&#039;&#039;巡洋戦艦&#039;&#039;&#039;(じゅんようせんかん、{{lang-en-short|Battlecruiser}}, {{lang-de-short|Schlachtkreuzer}})は、強力な攻撃力を持つ大型[[巡洋艦]]を指す。[[戦艦]]と同等の大口径砲を持ち、戦艦よりも長大な艦形で大出力機関を搭載し、高速性能を持つ。[[装甲巡洋艦]](Armored cruiser)を発展させて誕生した。[[第二次世界大戦]]までは[[戦艦]]とともに[[主力艦]]の扱いを受けた。同時代の戦艦よりも建造費はかさんだ。<br /> <br /> 最初にこの種の艦を1908年に建造した[[イギリス海軍]]の定義では、「戦闘巡洋艦」、すなわち広義では[[巡洋艦]]で、攻撃力は戦艦に匹敵する艦種を指す。高速力を持つが、防御力は装甲巡洋艦と同等のままである。<br /> &lt;!--日本語訳は「巡洋戦艦」であるが、イギリス海軍の名称を直訳すると「戦闘巡洋艦」となり、&#039;&#039;&#039;攻撃力が大きい巡洋艦&#039;&#039;&#039;という本艦種の特徴を示している。--&gt;<br /> <br /> == 特徴と誕生 ==<br /> 各国の巡洋戦艦は下記の共通的特徴を持つ&lt;ref name=A&gt;世界の艦船 No.553&lt;/ref&gt;。<br /> #主砲は同時またはそれに近い計画の戦艦と同一型式<br /> #戦艦よりも数ノット優速<br /> #戦艦よりも軽装甲&lt;!--(フィッシャー大将の&#039;&#039;&#039;「&#039;&#039;&#039;速力は最大の防御&#039;&#039;&#039;」&#039;&#039;&#039;という主張の強行によるもので、英国内でも反対は多かった)--&gt;<br /> <br /> 巡洋戦艦はイギリス海軍の[[ジョン・アーバスノット・フィッシャー]]大将によって創造された艦種である。それは単に装甲巡洋艦の任務を継承するだけでなく、同大将が実現した[[ドレッドノート (戦艦)|戦艦ドレッドノート]]の艦隊に随伴するのにふさわしい偵察兵力として生まれた。<br /> <br /> フィッシャー大将の考えた巡洋戦艦の任務は以下の5つで&lt;ref name=A&gt;&lt;/ref&gt;、同等の巡洋戦艦とも戦わない前提だった&lt;ref name=A&gt;&lt;/ref&gt;。<br /> #主力艦隊のための純粋な偵察<br /> #軽艦艇を主体とした敵警戒網を突破しての強行偵察<br /> #敵戦艦の射程外においての敵弱小・中規模艦狩り<br /> #遁走・退却する敵の追跡・撃破<br /> #シーレーン防衛<br /> <br /> == 沿革 ==<br /> [[日露戦争]]の[[黄海海戦 (日露戦争)|黄海海戦]](1904年)と[[日本海海戦]](1905年)では、[[大日本帝国海軍|日本海軍]]の有力な装甲巡洋艦8隻(例:「[[出雲 (装甲巡洋艦)|出雲]]」)が[[戦艦]]4隻(例:「[[三笠 (戦艦)|三笠]]」)と協力して活躍し大きな戦果を挙げた&lt;ref&gt;日本海軍はこの艦種を重視し、ついには戦艦と同等の主砲を搭載する[[筑波型巡洋戦艦|筑波型]]・[[鞍馬型巡洋戦艦|鞍馬型]]を建造する。&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> [[イギリス]]海軍は、上記海戦での戦艦主砲の威力、また同時に中間砲の射弾観測の困難さを重要視し、中間砲を廃止して主砲口径を統一することにより、主砲門数にして従来の2倍以上(従来型4門に対して10門(片舷8門))を持つ戦艦「[[ドレッドノート (戦艦)|ドレッドノート]]」を1906年に建造した。<br /> <br /> これと同時にこの考え方を装甲巡洋艦にも適用して、洋上で出会うあらゆる巡洋艦を撃滅し得る強力な超装甲巡洋艦が必要であると考え、1908年に同じ30.5cm連装砲4基8門の[[インヴィンシブル級巡洋戦艦|インヴィンシブル級]]が誕生した。<br /> <br /> 建造当初はこれらの艦は装甲巡洋艦に分類されていたが、戦艦並みの火力を有するインヴィンシブル級は、1912年&lt;ref name=B&gt;世界の艦船増刊第67集&lt;/ref&gt;に巡洋戦艦という新しい艦種名に分類されることとなり、後に筑波型・鞍馬型もこれに分類された。<br /> <br /> === 初期の巡洋戦艦と戦艦の比較 ===<br /> {| class=&quot;wikitable&quot; border=&quot;1&quot;<br /> !艦種!!艦名!!排水量!!速力!!主砲!!舷側装甲<br /> |-<br /> |戦艦||三笠||15,200トン||18ノット||30.5cm砲4門||223mm<br /> |-<br /> |装甲巡洋艦||出雲||9,773トン||21ノット||20.3cm砲4門||178mm<br /> |-<br /> |弩級戦艦||ドレッドノート||18,110トン||21ノット||30.5cm砲10門||279mm<br /> |-<br /> |巡洋戦艦 ||[[インヴィンシブル (巡洋戦艦)|インヴィンシブル]]||17,373トン||25ノット||30.5cm砲8門||152mm<br /> |}<br /> <br /> === 巡洋戦艦の発達 ===<br /> イギリス海軍において[[弩級戦艦]]の性能は順次拡大され、弩級戦艦から既存の主砲口径を凌駕する34cm砲を持つ[[超弩級戦艦]]へと発達するにつれて、巡洋戦艦も超弩級巡洋戦艦へと拡大発展して行った。同時に、巡洋戦艦は、イギリス以外でも[[ドイツ]]と[[日本]]([[金剛型戦艦|金剛型]])で続々と建造された。<br /> <br /> イギリス式巡洋戦艦の特色は、主砲こそ同世代の戦艦と同等の物を搭載したが、防御装甲を装甲巡洋艦並みに留めた代償に、装甲巡洋艦を凌駕する高速性能を持っていたことである。というよりも装甲巡洋艦の砲力を戦艦並みに引き上げた&quot;超装甲巡洋艦&quot;が、巡洋戦艦の発祥である(最初の巡洋戦艦であるインヴィンシブル級は当初は装甲巡洋艦に分類されていた)。ゆえに英語表記ではBattlecruiser、直訳すれば戦闘巡洋艦と呼ばれるのである。この考え方は[[フォークランド沖海戦]]でドイツ装甲巡洋艦に対して火力と速力の優位性により見事なまでに達成された。&lt;br /&gt;しかし、[[ドイツ海軍]]もまた巡洋戦艦を建造し始めたことに対応して、イギリス海軍の建造した[[ライオン級巡洋戦艦|ライオン級]]は、装甲巡洋艦よりもやや強力な装甲を持つが格下の弩級戦艦や同格の巡洋戦艦の火力にも耐えられない物だった。さらに主砲口径を38.1cm連装砲3基6門に強化し、速力29ノット台を達成した[[レナウン級巡洋戦艦|レナウン級]]は、代償として防御能力はインヴィンシブル級の時代に逆戻りしてしまう程の軽防御であった。もっともこれは戦時緊急計画に基づく建造期間の短縮による制約を受けた物である。最終型の「[[フッド (巡洋戦艦)|フッド]]」は[[第一次世界大戦]]の戦訓により一部の装甲のみ厚くし、部分的には戦艦に準じる垂直防御を備えるに至った。このように巡洋戦艦は、結果的に巡洋艦というよりも高速戦艦に近い艦種に発展していったため、「自艦の搭載する主砲弾の攻撃に耐えられるだけの装甲を施すのが戦艦のセオリーであるが、それを満たさない艦が巡洋戦艦」という定義が広まったが、あくまで後づけの定義である。<br /> <br /> ただし、こういった後づけ定義が広まる以前は、[[ガングート級戦艦]]や[[クイーン・エリザベス級戦艦]]など、防御力を妥協して速力を優先した艦も戦艦に分類されている。後づけの定義が広まった以降は、ドイツが戦艦として建造した[[シャルンホルスト級戦艦|シャルンホルスト級]]を、その「防御力の弱さ」を理由に英国は巡洋戦艦に分類している。<br /> <br /> ドイツ海軍における巡洋戦艦の設計思想は、当初から英国巡洋戦艦に直接対抗すべき艦として計画されていた(つまり、最初から巡洋戦艦との戦闘を考慮して設計されていた)が、自国の大口径砲主砲およびボイラー技術・大型艦用タービン主機の製造能力の遅れなどの要因から、イギリスの同種艦と比べてコンセプトは若干異なった。<br /> <br /> ドイツの巡洋戦艦の特色は、同時期建造の戦艦よりひとクラス小口径の砲を選択する反面、防御能力は自国の装甲巡洋艦以上でむしろ戦艦に次ぐ装甲厚を持っていた(ドイツ巡洋戦艦の各部装甲の厚みはイギリス巡洋戦艦を上回り、イギリス戦艦の装甲厚に匹敵していた)&lt;ref name=E&gt;世界の艦船 1999年6月号(No.553) 特集 巡洋戦艦 軍艦史上の異彩を顧みる 74ページ&lt;/ref&gt;。これにより、イギリス巡洋戦艦と正面切って撃ち合って、敵艦からの被弾に耐えつつ、敵艦を確実に撃沈し得る砲力を備えるに至り、この考え方は[[ユトランド沖海戦]]では一定の成果を証明した。が、結局戦艦との砲戦では早期に戦闘力を失うなど限界もまた露呈し、また巡洋戦艦本来の特徴であるはずの航続力・長期航海のための居住性に関してはイギリス巡洋戦艦に劣っていた。なおドイツ海軍においては、巡洋戦艦は特に新たな類別等級を設けることなく、従来からある「大型巡洋艦(Großer Kreuzer)」にそのまま分類された。これは、リスク論理に基づく国家予算上に制定された法律である艦隊法によるもので、ドイツ海軍の大型巡洋艦とは他国海軍でいう装甲巡洋艦と巡洋戦艦を含む艦種名である。<br /> <br /> また、イギリスのライオン級を元に設計されたのが、日本海軍の[[金剛型戦艦|金剛型]]「[[金剛 (戦艦)|金剛]]」である(当時の日本の造船技術では独自で設計、建造に無理があったため)。金剛型1番艦「金剛」は英国ビッカース社で建造され、その設計図・造船技術を元に、「[[比叡 (戦艦)|比叡]]」・「[[榛名 (戦艦)|榛名]]」・「[[霧島 (戦艦)|霧島]]」の3隻が日本国内で建造された。金剛型はライオン級をベースに不具合を改善すべく見直されており、防御要領や艦内配置が大きく改設計され、特に主砲には当時の主力戦艦にも採用していない35.6cm砲を採用した。金剛型の設計経験をもとに英海軍はライオン級4番艦として準備されていた「[[タイガー (巡洋戦艦)|タイガー]]」を金剛型をベースに設計を変更し別クラスとして建造した。また、それ以前に日本が建造した筑波型・鞍馬型も、装甲巡洋艦よりも強力な防御装甲を持っており、後の[[八八艦隊]]型巡洋戦艦も比較的重防御であって、一貫して主力艦隊と行動を共にするように考慮されていた。Battlecruiserの和訳としては巡洋戦艦という呼称は適切ではないが、この日本海軍の使用目的に従えば巡洋戦艦という用語は適切であるといえる。ただしその日本海軍も、当初は筑波型・鞍馬型を一等巡洋艦に分類しており、巡洋戦艦のコンセプトとしては装甲巡洋艦の強化を出発点としている。<br /> <br /> 巡洋戦艦は、強力な砲力を持ち高速力を有するゆえに、戦艦よりも使いやすい艦種として活躍する機会が多かった。<br /> <br /> === 第一次世界大戦での戦い ===<br /> * [[フォークランド沖海戦]](1914年):[[東洋艦隊 (ドイツ)|ドイツ東洋艦隊]]の主力である[[シャルンホルスト級大型巡洋艦|シャルンホルスト級装甲巡洋艦]]「[[シャルンホルスト (巡洋艦)|シャルンホルスト]]」と「[[グナイゼナウ (巡洋艦)|グナイゼナウ]]」(後述艦の先代クラス)を、イギリスの[[インヴィンシブル級巡洋戦艦]]「インヴィンシブル」と「[[インフレキシブル (巡洋戦艦)|インフレキシブル]]」が撃沈した。<br /> * [[ドッガー・バンク海戦]](1915年):英独の巡洋戦艦同士が戦った海戦。英国は巡洋戦艦5隻、ドイツ側は巡洋戦艦3隻と装甲巡洋艦1隻が対戦し、防御力に劣るドイツの装甲巡洋艦「[[ブリュッヒャー (装甲巡洋艦)|ブリュッヒャー]]」が撃沈された。<br /> この2回の戦闘で、巡洋戦艦の有用性と装甲巡洋艦の時代遅れが明らかになった。<br /> <br /> [[File:Destruction of HMS Queen Mary.jpg|thumb|250px|濛々たる黒煙をあげて爆沈したクイーン・メリー。]]<br /> * [[ユトランド沖海戦]](1916年):第一次大戦最大の主力艦同士の対戦。英独の巡洋戦艦と戦艦のほとんど全てが参加したが、実際に戦ったのは前衛部隊にいた巡洋戦艦同士で、戦艦戦隊は巡洋戦艦に近い最高速度を持つ[[クイーン・エリザベス級戦艦]]を除いては戦場に顔を出しただけといっても良いような状態だった。&lt;br /&gt;装甲巡洋艦には圧勝したイギリス巡洋戦艦だが、超弩級戦艦クラスの火力を持たないドイツ巡洋戦艦の砲撃に対して防御力が不十分なことから、各艦は重大な損害を受けた。特に英国の「インヴィンシブル」、「[[インディファティガブル (巡洋戦艦)|インディファティガブル]]」、「[[クイーン・メリー (巡洋戦艦)|クイーン・メリー]]」の3隻は敵巡洋戦艦の砲弾の火薬庫への侵入を許し、大爆発を起こして次々と爆沈した(ただし、これには英海軍が攻撃を優先するあまり、弾薬庫の防火扉を開放したままで弾薬供給を行っていたという事情もある)。ドイツの巡洋戦艦は英国の同種艦よりも強靭な防御力を誇り、イギリス艦隊からの命中弾に対して多くの艦が耐え抜いたが、一方で「[[リュッツオウ (巡洋戦艦)|リュッツオウ]]」が被弾による浸水の増加で結局放棄された事実は各国海軍に貴重な戦訓を残した。<br /> {{-}}<br /> <br /> === 第一次大戦後の状況 ===<br /> 第一次大戦の戦訓からイギリス式設計の巡洋戦艦の防御力は実戦では危険極まりないことが明らかになり、建造中の「[[フッド (巡洋戦艦)|フッド]]」や設計中(日本の八八艦隊)の巡洋戦艦は大幅な改設計が行われた。また第一次大戦後に残った各国の巡洋戦艦は、軍縮条約の制限下で、戦訓による防御力強化の改装が行われた。<br /> <br /> 特に金剛型巡洋戦艦は、第一次改装によって甲板防御と水中防御が強化された代償として3,000トンも重くなり、速度が27.5ノットから25ノットまで低下、艦種を「戦艦」に変更されてしまった。しかし、既存の日本戦艦に比べれば弱防御のままであり、低下したとはいえ速度は従来のドイツ巡洋戦艦並みである。金剛型はこの後、第二次改装で機関出力を2倍に強化し、速力30ノットの高速戦艦&lt;ref&gt;高速戦艦なる名称は通称であり、日本海軍の正規の艦種名としては存在ぜず、公式艦種名として用いたのは引き続き「戦艦」であった。しかし海軍内部で作戦立案を行う際の、言わば作戦用語として、金剛型は「高速戦艦」と呼称され、他の30ノット未満の戦艦とは明確に区別された。&lt;/ref&gt;に生まれ変わった。<br /> <br /> 英国のレナウン級「[[レパルス (巡洋戦艦)|レパルス]]」と「[[レナウン (巡洋戦艦)|レナウン]]」は、第一次改装(舷側装甲が152mm→229mmに増強)が実施され防御力が強化された。更にドイツの海軍増強に対応するため、新戦艦の技術を用いた第二次改装が計画されたが、「レナウン」の改装後に第二次世界大戦が勃発したため、「レパルス」は改装する機会を失い、そのまま実戦に投入された。艦歴が比較的若く、基本性能が優秀であった「フッド」は、大規模近代化改装どころか軽度の改装すら引き伸ばされ続けた&lt;ref name=B&gt;&lt;/ref&gt;ために対空火器の強化程度で実戦投入された。<br /> <br /> === 第二次世界大戦での戦い ===<br /> 第二次世界大戦には日英あわせて7隻の巡洋戦艦+元巡洋戦艦が参加したが、終戦まで生き残ったのは英国の[[レナウン (巡洋戦艦)|レナウン]](1948年に売却)だけであり、防御力を強化したといってもやはり脆い艦種であった。しかし、日本の金剛型は主力艦で唯一30ノットを出せるクラスとして(あるいは最旧式の戦艦として出し惜しみせず)酷使されたがゆえの全損失とも解釈でき、一概には言い切れない。なお、金剛型は改装時の速力低下に伴い戦艦に分類されているため(第2次改装で速力は向上するも巡洋戦艦に分類されず)、分類上は元巡洋戦艦である。<br /> <br /> [[File:Sinking of HMS Hood.jpg|thumb|250px|爆沈するフッド。&lt;br /&gt;手前の戦艦は「[[プリンス・オブ・ウェールズ_(戦艦)|プリンス・オブ・ウェールズ]]」]]<br /> 各艦の最期は次のとおり。<br /> * [[フッド (巡洋戦艦)|フッド]](1941年):ドイツ戦艦「[[ビスマルク (戦艦)|ビスマルク]]」との戦いにおいて、38cm砲弾が防御装甲を貫通し、&lt;!-- たった5斉射浴びたときに たったは不要。一撃で撃沈されている。--&gt;火薬庫が爆発して轟沈。(非装甲部位を貫いたとの説も有力である)<br /> * [[レパルス (巡洋戦艦)|レパルス]](1941年):[[マレー沖海戦|マレー沖]]で日本海軍[[海軍航空隊|航空隊]]の魚雷攻撃で沈没。<br /> * [[金剛 (戦艦)|金剛]](1944年):台湾海峡で[[シーライオン (SS-315)|アメリカ海軍潜水艦]]の[[魚雷]]を受け沈没。([[潜水艦]]に撃沈された唯一の日本戦艦。)<br /> * [[比叡 (戦艦)|比叡]](1942年):[[第三次ソロモン海戦]]で米国巡洋艦隊との夜戦で舵機損傷して行動不能となり翌日自沈。<br /> * [[榛名 (戦艦)|榛名]](1945年):終戦末期の燃料不足により呉軍港にて係留中に米艦載機に攻撃され大破着底。<br /> * [[霧島 (戦艦)|霧島]](1942年):比叡に続き[[第三次ソロモン海戦|ソロモン海の夜戦]]で米戦艦「[[ワシントン (戦艦)|ワシントン]]」と交戦し、多数の砲弾を受け火災を起こし行動不能になり自沈。<br /> {{-}}<br /> <br /> == 各国の巡洋戦艦 ==<br /> &lt;!--呼称として巡洋戦艦を使用しない艦を含み、計画艦を含まない。&lt;br /&gt; --&gt;<br /> 数字は完成年、完成時の排水量、速力、主砲、舷側装甲厚さ<br /> <br /> {{UK}}<br /> :巡洋戦艦を世界に先駆けて建造しており、戦艦並みの砲力、高速と引き換えの弱防御という、俗に言われる巡洋戦艦の定義を確立した。しかし個艦を見ると防御力は一律でなく、戦艦並みか戦艦に近い防御力を備えた艦も存在する。<br /> * [[インヴィンシブル級巡洋戦艦|インヴィンシブル級]](1909年、17,373t、25ノット、30.5cm砲8門、152mm)&lt;!--3月就役なので、1908年度--&gt;<br /> ** [[インヴィンシブル (巡洋戦艦)|インヴィンシブル]]、[[インフレキシブル (巡洋戦艦)|インフレキシブル]]、[[インドミタブル (巡洋戦艦)|インドミタブル]]<br /> * [[インディファティガブル級巡洋戦艦|インディファティガブル級]](1911年、18,500t、25ノット、30.5cm砲8門、152mm)<br /> ** [[インディファティガブル (巡洋戦艦)|インディファティガブル]]、[[オーストラリア (巡洋戦艦)|オーストラリア]]、[[ニュージーランド (巡洋戦艦)|ニュージーランド]]<br /> * [[ライオン級巡洋戦艦|ライオン級]](1912年、26,270t、27ノット、34.3cm砲8門、229mm)<br /> ** [[ライオン (巡洋戦艦)|ライオン]]、[[プリンセス・ロイアル (巡洋戦艦)|プリンセス・ロイアル]]、[[クイーン・メリー (巡洋戦艦)|クイーン・メリー]]<br /> * [[タイガー (巡洋戦艦)|タイガー]](1914年、28,430t、28ノット、34.3cm砲8門、229mm)<br /> * [[レナウン級巡洋戦艦|レナウン級]](1916年、27,650t、30ノット、38.1cm砲6門、152mm)<br /> ** [[レナウン (巡洋戦艦)|レナウン]]、[[レパルス (巡洋戦艦)|レパルス]]<br /> * [[フッド (巡洋戦艦)|フッド]](1920年、42,670t、31ノット、38.1cm砲8門、305mm)<br /> <br /> {{DEU1871}}<br /> :厳密にはドイツ海軍には巡洋戦艦という艦種は無く、第一次世界大戦までは装甲巡洋艦を含めて、全て「大型巡洋艦」に分類されている。<br /> :第一次大戦後に建造されたシャルンホルスト級は、戦艦に分類されており、これを巡洋戦艦に分類するのは他国からの評価による。<br /> * [[フォン・デア・タン (巡洋戦艦)|フォン・デア・タン]](1910年、19,064t、24.8ノット、28.3cm砲8門、250mm)<br /> * [[モルトケ級巡洋戦艦|モルトケ級]](1911年、22,616t、25ノット、28.3cm砲10門、270mm)<br /> ** [[モルトケ (巡洋戦艦)|モルトケ]]、[[ゲーベン (巡洋戦艦)|ゲーベン]]→後のトルコのヤウズ・スルタン・セリム<br /> * [[ザイドリッツ (巡洋戦艦)|ザイドリッツ]](1913年、24,549t、26ノット、28.3cm砲10門、300mm)<br /> * [[デアフリンガー級巡洋戦艦|デアフリンガー級]](1914年、26,180t、26.5ノット、30.5cm砲8門、300mm)<br /> ** [[デアフリンガー (巡洋戦艦)|デアフリンガー]]、[[リュッツオウ (巡洋戦艦)|リュッツオウ]]、[[ヒンデンブルク (巡洋戦艦)|ヒンデンブルク]]<br /> * [[シャルンホルスト級戦艦|シャルンホルスト級]](1938年、34,841t、33ノット、28.3cm砲9門、350mm)<br /> ** [[シャルンホルスト (戦艦)|シャルンホルスト]]、[[グナイゼナウ (戦艦)|グナイゼナウ]]<br /> <br /> {{JPN1889}}<br /> :筑波型と鞍馬型は、巡洋戦艦の類別が新設された1912年以前の竣工であり、当初は一等巡洋艦(装甲巡洋艦)に類別された。[[ジェーン海軍年鑑]]は当初の類別を使用した。後に巡洋戦艦と類別された頃には、速度性能は凡庸なものになっていた。<br /> :[[ワシントン海軍軍縮条約]]で筑波型と鞍馬型が解体され、金剛型が第一次世界大戦後の改修で速度低下し戦艦に類別されたことで、巡洋戦艦の類別は廃止された。<br /> :金剛型は第二次改装で速度性能を向上させたが、巡洋戦艦に再類別される事はなかった。しかし、作戦時には高速戦艦と呼ばれ、他の戦艦と区別された。<br /> * [[筑波型巡洋戦艦|筑波型]](1907年、13,750t、20.5ノット、30.5cm4門、203mm)<br /> ** [[筑波 (巡洋戦艦)|筑波]]、[[生駒 (巡洋戦艦)|生駒]]<br /> * [[鞍馬型巡洋戦艦|鞍馬型]](1909年、14634t、22ノット、30.5cm4門、203mm)<br /> ** [[鞍馬 (巡洋戦艦)|鞍馬]]、[[伊吹 (巡洋戦艦)|伊吹]]<br /> * [[金剛型戦艦|金剛型]](1913年、27,500t、27.5ノット、35.6cm砲8門、203mm)<br /> ** [[金剛 (戦艦)|金剛]]、[[榛名 (戦艦)|榛名]]、[[比叡 (戦艦)|比叡]]、[[霧島 (戦艦)|霧島]]<br /> &lt;!--<br /> {{USA}}<br /> <br /> アメリカは巡洋戦艦の呼称を用いず、大型巡洋艦とした。&amp;lt;←アラスカ級については艦種記号も巡洋戦艦CCとは異なるCBであり、米海軍は本級を巡洋戦艦とは認識していなかったはずなので「巡洋戦艦の呼称を用いず」という表現は当たらないと思います。類似艦として扱うのが順当ではないでしょうか。&amp;gt;<br /> * [[アラスカ級大型巡洋艦]](1944年、27,500t、33ノット、30.5cm9門、229mm)<br /> ** [[アラスカ (大型巡洋艦)|アラスカ]]、[[グアム (大型巡洋艦)|グアム]]<br /> --&gt;&lt;!--<br /> {{RUS1883}}<br /> <br /> ガングート級は厳密には戦艦であるが、巡洋戦艦に近い性格を持っているので、あえてこちらでも紹介する。<br /> * [[ガングート級戦艦|ガングート級]](1914年、23,360t、23ノット、30.5cm砲12門、225mm)<br /> ** ガングート、ペトロパブロフスク、ポルタワ、セバストポーリ<br /> --&gt;<br /> <br /> == 各国の未成巡洋戦艦 ==<br /> 完成艦のないクラスのみを列挙(ただし計画のみのものを除く)。<br /> <br /> 数字は1番艦起工年、完成時の予定排水量、予定速力、主砲、舷側装甲厚さ<br /> <br /> {{DEU1871}}(敗戦のため中止)<br /> * [[マッケンゼン級巡洋戦艦|マッケンゼン級]](1915年、31,000t、27ノット、35.6cm砲8門、300mm)<br /> ** マッケンゼン、グラーフ・シュペー、プリンツ・アイテル・フリードリヒ、フュルスト・ビスマルク<br /> * [[ヨルク代艦級巡洋戦艦|ヨルク代艦級]](1916年、33,500t、27.3ノット、38.1cm砲8門、300mm)<br /> ** ヨルク代艦、グナイゼナウ代艦、シャルンホルスト代艦(ヨルク代艦のみ起工)<br /> {{JPN1889}} ([[ワシントン海軍軍縮条約|ワシントン条約]]により廃棄)<br /> * [[天城型巡洋戦艦|天城型]](1920年、41,200t、30ノット、40.6cm砲10門、254mm)<br /> ** [[天城 (赤城型空母)|天城]]([[航空母艦|空母]]への改造が予定されたが[[関東大震災]]で破壊され、廃棄)、[[赤城 (空母)|赤城]](空母として完成)、高雄、愛宕<br /> {{USA}}([[ワシントン海軍軍縮条約|ワシントン条約]]により廃棄)<br /> * [[レキシントン級巡洋戦艦|レキシントン級]](1920年、43,500t、33.3ノット、40.6cm砲8門、197mm)<br /> ** [[レキシントン (CV-2)|レキシントン]](空母として完成)、コンステレーション、[[サラトガ (CV-3)|サラトガ]](空母として完成)、レインジャー、コンスティチューション、ユナイテッド・ステーツ<br /> {{RUS1883}}/{{SSR}} ([[ロシア革命]]のため中止)<br /> * [[ボロディノ級巡洋戦艦|ボロディノ級]](1913年、32,500t、26.5ノット、35.6cm砲12門、305mm)<br /> ** ボロディノ、イズメイル、キンブルン、ナヴァリン<br /> <br /> == 戦間期から第二次世界大戦終結まで ==<br /> 第一次大戦終了後から第二次世界大戦までは、ワシントン軍縮条約の制約と経済恐慌の影響で、大艦巨砲主義は一時中断となった。この時期にドイツが建造した[[ドイッチュラント級装甲艦]](ポケット戦艦)は、1万トン台の排水量でありながら前大戦時で巡洋戦艦に多用された28cm砲を持ち、各国の戦艦よりも高速の26ノットを発揮した。このクラスに対してイギリスは巡洋戦艦で対抗可能であったが、巡洋戦艦を持たないフランスはこれに対抗するため、既存の戦艦よりも高速な[[ダンケルク級戦艦]]を建造した。主砲の33cm砲は、新型の長砲身砲であり、重量級砲弾と相まって、イギリスの38.1cm砲に匹敵する攻撃力を持っていた。また集中防御方式による堅牢な防御は、[[メルセルケビール海戦]]において能力が実証された。こうした艦は、防御力と高速性能を重視し主砲口径をやや小さなものを選択するという意味で、第一次世界におけるドイツの巡洋戦艦に類似する性格のクラスであった。ドイツは、ダンケルク級に対抗するために[[シャルンホルスト級戦艦|シャルンホルスト級]]を、前級のマッケンゼン級をベースに設計した。しかし、[[ヴェルサイユ条約]]による制約と主砲開発の遅れからより長砲身となったものの威力に欠けた28cm砲を搭載せざるを得なかった。また艦体の設計開発においても立ち遅れ、近距離砲戦用の垂直装甲の防御性能は数値上では一応自艦の28cm主砲弾に耐えられるものを持つが、現実には主装甲の上下幅が非常に狭く防御範囲が限定されるために劣っており、また遠距離砲戦や爆撃に対抗するための水平防御はさらに劣るという、いささか前時代的なコンセプトのクラスとなってしまった。<br /> <br /> 最後の巡洋戦艦と呼べる艦は、アメリカが建造した[[アラスカ級大型巡洋艦]]で、これはドイツのシャルンホルスト級と日本の新大型巡洋艦計画(アメリカは情報分析によりこの計画を察知したとされるが完全な誤報で日本にそのような建艦計画はなかった&lt;ref&gt;日本が実際に計画した[[B65型大型巡洋艦|超甲巡]]計画は、順番が逆でアメリカがアラスカ級の建造を開始したことに対する対抗上生まれた計画であった。&lt;/ref&gt;)に対抗するための計画艦であり、主砲は30.5cmだが重量級砲弾を50口径の長砲身砲で撃ち出すことにより遠距離での貫通能力を高めた。もちろんアラスカ級はその主砲口径・装甲厚・速力を他国の巡洋戦艦と比較して類似点が多いことをもって巡洋戦艦と「呼べる」存在であったものであって、[[アメリカ海軍]]自身はあくまでもアラスカ級の種別を「大型巡洋艦」としており「巡洋戦艦」とはしていなかった。なお、アラスカ級は艦隊護衛の防空任務にのみ投入されて水上戦闘は行っておらず、「巡洋『戦艦』」としての実戦能力は不明である。<br /> <br /> 最終的に、防御力を改装で強化した巡洋戦艦と速力を設計段階から重視した新世代の戦艦とは、性能的に大差ない存在となった。ワシントン軍縮条約明け(日本の脱退)にともない、イタリアのヴィットリオ・ヴェネト級、ドイツのビスマルク級、および、フランスのリシュリュー級と、30ノット&amp;長砲身15インチ砲搭載の4万(名目は、3.5万)トンクラスの建造競争が続いた。最後に、その集大成といえるアメリカ海軍のアイオワ級が建造された。アイオワ級は火力に見合った防御を有していない艦、戦艦でありながら巡洋戦艦的性格が残っている艦という評もある。しかし、交戦国の戦艦が戦没して消滅し、アイオワ級の防御は検証されることなく終わった。また戦艦そのものが、独力で航空打撃力に抗しうるものではなく、[[コストパフォーマンス]]と運用の悪さからも時代遅れの存在と化し、順次消えていった。<br /> <br /> == 戦後 ==<br /> [[ロシア海軍|旧ソ連海軍]]の[[キーロフ級ミサイル巡洋艦]]は、排水量では出現した当初の巡洋戦艦を上回る大艦であり、[[ジェーン海軍年鑑]]において巡洋戦艦に分類されている。しかしこれは現代的な[[ミサイル艦]]が大型化したものであって、上記で紹介された第二次世界大戦までの巡洋戦艦とは全く性格が異なる艦である(ただし現代水上艦としては珍しく装甲防御を施しており、その意味では巡洋戦艦的と言える)。<br /> <br /> == 艦種略号 ==<br /> イギリス海軍における巡洋戦艦の艦種略号はBattleCruiserの2文字をとって「BC」である。<br /> <br /> アメリカ海軍は巡洋戦艦の艦種略号としてイギリスとは異なる「CC」を定めていたが、巡洋戦艦として完成した艦を保有したことが無いのでCCをつけられた艦は存在しない。アラスカ級は大型巡洋艦(Large Cruser)を略し、ただしCLは既に軽巡洋艦(Light Cruser)に用いられていたためBigのBを後ろにつけて「CB」とされた。<br /> <br /> == 脚注 ==<br /> &lt;references/&gt;<br /> <br /> == 参考図書 ==<br /> * [[世界の艦船]] 1984年12月号 特集 巡洋戦艦史のまとめ 海人社<br /> * 世界の艦船 1999年6月号 特集 巡洋戦艦 軍艦史上の異彩を顧みる 海人社<br /> * 世界の艦船 1987年3月増刊号 近代戦艦史 海人社<br /> * 世界の艦船 1986年1月増刊号 近代巡洋艦史 海人社<br /> * 世界の艦船 1988年3月増刊号 日本戦艦史 海人社<br /> <br /> == 関連項目 ==<br /> * [[十三号型巡洋戦艦]](日本海軍の未成巡洋戦艦。計画のみ)<br /> <br /> {{巡洋艦関連項目}}<br /> {{艦艇}}<br /> <br /> [[Category:巡洋戦艦|*]]<br /> [[Category:巡洋艦|*しゆんようせんかん]]</div> 240F:80:BFA7:1:6D26:6350:D44B:5092 前弩級戦艦 2018-06-10T04:16:07Z <p>240F:80:BFA7:1:6D26:6350:D44B:5092: /* 外部リンク */</p> <hr /> <div>[[ファイル:Japanese battleship Mikasa.jpg|right|thumb|250px|[[大日本帝国海軍]]の戦艦[[三笠 (戦艦)|三笠]](1905年頃)]]<br /> [[ファイル:Brennus Marius Bar.jpg|right|thumb|250px|[[フランス海軍]]最初の戦艦[[ブレニュス (戦艦)|ブレニュス]](1889年建造)。]]<br /> [[ファイル:USS Texas2.jpg|right|thumb|250px|[[アメリカ海軍]]最初の戦艦[[テキサス (1892)|テキサス]](1892年建造)。(1898年頃の着色写真)]]<br /> [[ファイル:HMS Ocean (Canopus-class battleship).jpg|thumb|right|250px|[[イギリス海軍]]の戦艦[[オーシャン (戦艦)|オーシャン]]。前弩級戦艦の典型。]]<br /> &#039;&#039;&#039;前弩級戦艦&#039;&#039;&#039;(ぜんどきゅうせんかん、{{lang-en|Pre-dreadnought battleship}})とは、[[戦艦]]の初期の形態を指し、1890年代中頃から建造が始まり、[[弩級戦艦]]が登場した1906年までの期間に建造された。<br /> <br /> 1870-1880年代の[[装甲艦]]に代わって主力艦として登場したが、[[弩級戦艦]]の登場によりその地位を譲った。<br /> <br /> == 概要 ==<br /> &#039;&#039;&#039;前弩級戦艦&#039;&#039;&#039;は、1890年代中頃から1905年の間に建造された外洋型[[戦艦]]の総称である。一般には1892年以降竣工したイギリス海軍のロイヤル・サブリン級戦艦を始祖とする。<br /> <br /> 装甲板は主に[[鋼鉄]]によって作られ、硬化鋼鉄製の装甲で防護された前弩級戦艦は、主武装として複数の[[砲塔]]内に2~4門の巨砲を備え、副武装として1種類以上の主武装より小さい口径砲でこれらの補助としていた。推進機関は初期は石炭を燃料とする[[複式機関|3段膨張式往復蒸気機関]]であったが、末期には重油と石炭を混ぜて燃料とする混焼缶とタービン機関を組み合わせた。<br /> <br /> それ以前の数十年に建造された装甲艦の混沌とした有様と対照的に、1890年代は、世界中の海軍が基本的にイギリスの[[ロイヤル・サブリン級戦艦|ロイヤル・サブリン級]]かフランスの[[ブレニュス (戦艦)|ブレニュス]]の設計に倣い、何十隻もの戦艦が同様の設計で世界各国で建造され始めることとなった&lt;ref&gt;Roberts, p. 112.&lt;/ref&gt;。1890年代の戦艦の外観の類似性は、建造される戦艦の数が増加することによってより一層強調された。新興海軍国である[[ドイツ帝国|ドイツ]]、[[大日本帝国|日本]]、[[アメリカ]]、[[イタリア]]などが前弩級戦艦の艦隊を自前で作り始め、その脅威に対抗するために[[イギリス]]、[[フランス]]、[[ロシア帝国|ロシア]]、[[オーストリア=ハンガリー帝国]]なども海軍の拡張を進めた。前弩級戦艦による艦隊同士の主たる戦闘は、[[1905年]][[5月27日]]に[[ロシア海軍|ロシア帝国艦隊]]と[[大日本帝国海軍|日本帝国艦隊]]の間で戦われた[[日本海海戦]]である。<br /> <br /> これら多数の戦艦は、[[1906年]]、[[イギリス海軍]]に戦艦「[[ドレッドノート (戦艦)|ドレッドノート]]」が登場したことで一気に時代遅れとなった。ドレッドノートはそれまでの戦艦の大型化、砲戦距離の長距離化の流れに、12インチ(305 mm)主砲を10門装備するという「単一巨砲」のスキームで答え、また革新的な[[蒸気タービン]]機関の装備によって高速化をも達成していた&lt;ref name=&quot;Massie, Dreadnought, pp. 474-5&quot;&gt;Massie, &#039;&#039;Dreadnought&#039;&#039;, pp. 474-5.&lt;/ref&gt;。既存の戦艦は、決定的に時代遅れとなり、以降の新しい戦艦は[[弩級戦艦]](dreadnoughts)、それ以前に建造が始まっていた戦艦は前弩級戦艦(pre-dreadnoughts)と呼ばれることとなった。しかし前弩級戦艦は、旧式化したにもかかわらず[[第一次世界大戦]]で重要な役割を演じ、また[[第二次世界大戦]]で活動していたものもある&lt;ref name=&quot;Chesneau, p. 200.&quot;&gt;Chesneau, p. 200.&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> == 進化 ==<br /> ===装甲艦===<br /> [[ファイル:HMSDreadnought1875.jpeg|thumb|left|1875年進水の装甲艦ドレッドノート(初代)。初期の装甲砲塔艦の特徴である乾舷の低さが見て取れる。]]&lt;!--前弩級戦艦の時代に終止符を打った高名な2代目(1906年進水)と異なり、--&gt;<br /> <br /> 前弩級戦艦は、装甲艦から発達した。最初の装甲艦であるフランスの[[ラ・グロワール]]とイギリスの[[ウォーリア (装甲艦)|ウォーリア]]は、1860年代に就役したときは、帆走[[フリゲート]]に良く似た高い3本のマストと舷側砲を持っていた。そのわずか8年後に登場した最初の航洋砲塔艦([[ブレストワーク・モニター]])であるイギリス軍艦[[サーベラス (モニター)|サーベラス]]と、その3年後に進水した[[デヴァステーション級装甲艦|デヴァステーション級]]は主砲レイアウトはさらに前弩級戦艦に近づき、かつ限定的ながら初の外洋航行性を備えた砲塔艦であった。両艦とも帆装を持たず、4門の巨砲を2門ずつ砲塔に収めて前後2基配置していた。しかしデヴァステーションは敵の海岸と港湾を攻撃することを任務とする航洋砲塔艦であり、[[乾舷]]は極めて低く、外洋での戦闘に必要な耐航性が不足していた。外洋ではその甲板は海水と飛沫で洗われ、砲の操作に悪影響をもたらした。一方、フランスは外洋航行能力を重視して装甲艦から発達した高い乾舷を持つ船体に甲板上の高い位置に単装砲を配する事で外洋での戦闘能力を維持した。各国の海軍は二大海軍国の主力艦の形態を見て、充分な乾舷を持ち、外洋で戦うことのできる、帆装を持ち、砲塔の無い戦艦を建造し続けた。<br /> <br /> 沿岸攻撃用戦艦と外洋戦艦との境界は、[[イタリア海軍]]が1880年に竣工させた[[カイオ・ドゥイリオ級戦艦 (初代)|カイオ・ドゥイリオ級戦艦]]が主砲に[[アームストロング・ホイットワース|アームストロング]]社製「45cm(20口径)前装砲」を採用した事により、これの運用実績をふまえてイギリス海軍も1880年代に発注された[[アドミラル級戦艦]]に至って曖昧なものとなった。同級は装甲の技術的進歩を反映しており、従来の錬鉄の代わりに鉄と鋼鉄による複合装甲を備えていた。主砲口径は12ないし16インチ(305-413 mm)の後装砲で、装甲軍艦の巨砲化の流れに沿っていた。主砲は重さを節約するために[[露砲塔]]に取り付けられた。これについて、歴史家の一部はアドミラル級を前弩級戦艦に至るまでの不可欠なステップと考えるが、単に混乱した不成功の設計とみなす歴史家もいる&lt;ref&gt;Beeler, pp. 167–168: he cites Oscar Parkes as seeing the similarities between Admirals and &#039;&#039;Royal Sovereign&#039;&#039;s, but disagrees.&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> ===前弩級戦艦の登場===<br /> [[ファイル:HMS_Repulse_(1892).jpg|thumb|right|[[ロイヤル・サブリン級戦艦|ロイヤル・サブリン級]][[レパルス (戦艦)|レパルス]]]]<br /> &lt;!--[[ファイル:HMS Caesar.jpg|thumb|right|[[マジェスティック級戦艦]][[シーザー (戦艦)|シーザー]]]]--&gt;<br /> それに続く1892年の[[ロイヤル・サブリン級戦艦|ロイヤル・サブリン級]]も[[露砲塔]]2基を持つが、連装の主砲は13.5インチ(343 mm)で統一され、排水量も前級よりかなり大きく(排水量14,150トン)、また3段膨張式機関採用によって高速でもあった。さらに重要な点として、ロイヤル・サブリン級は高い乾舷を持っており、外洋作戦が可能な戦艦となっていた。しかし、[[露砲塔]]は装甲カバーで覆われておらず、外洋では容赦なく海水がバーベットの開口を通して艦内へ浸水し、排水ポンプで絶えず汲み出さなければ沈没の危険性があった。<br /> <br /> 同時期にフランスでは[[アミラル・ボーダン級戦艦|アミラル・ボーダン級]]が竣工し。こちらは外洋航行も良好な高い乾舷を持った船体にイギリス戦艦よりも大口径の37cm後装砲を中心線配置で前・中・後甲板上に3基を配置していた。主砲の[[露砲塔]]方式はロイヤル・サブリン級と同一であるが、こちらは装甲カバーで覆われており、バーベット内に進入する波浪は僅かだった。<br /> <br /> [[ファイル:HMS_Majestic_(Majestic-class_battleship).jpg|thumb|right|戦艦[[マジェスティック (戦艦)|マジェスティック]]]]<br /> 前弩級戦艦のデザインは、1895年に1番艦が竣工した[[マジェスティック級戦艦|マジェスティック級]]で完成を見た。同級は鋼鉄製装甲で完全に覆われた砲塔2基を持つ。連装の主砲は新開発された12インチ(305 mm)口径で、鋳造技術と装薬の進歩により、コンパクトで強力なものとなり、以降の標準となった。機関配置にも特色があり、機関区の前後を縮めるために円缶から導かれた煙を排出する2本煙突は左右並列に配置した点が特色で、煙突配置を見ただけで他国はイギリスの戦艦と判った。<br /> <br /> 一方、フランスは[[ブレニュス (戦艦)|ブレニュス]]を同年に就役させた。主砲は新開発の34cm(42口径)単装砲を新設計の砲塔に収めたが、フランス海軍ではこの時期から一部の副砲も砲塔形式とした点がイギリスと異なる特色で、従来の砲郭部に配置された副砲は外洋では波浪による影響を受けやすく、ほぼ人力による装填では発射速度の低下が指摘された。フランス海軍では一部の副砲を砲塔形式とする事で外洋戦闘時の有効火力を増やし、かつ機力装填による発射速度の維持を図った。更に機関では当時最新型のベルヴィール式&#039;&#039;&#039;水管缶&#039;&#039;&#039;を採用した事によりマジェスティック級よりも高速の18ノットを発揮した。しかも、ただ単に高性能なだけではなく、水管缶は円缶よりもエネルギー効率が高く、小型で耐久性も飛躍的に高いと言う利点があった。これにより、以後のフランス前弩級戦艦は燃料消費量を押さえたため航続距離が伸び、機関の信頼性も得たのである。防御関係では従来の前弩級戦艦は水線部装甲を持たなかったが、ブレニュスから水線部から最上甲板の間にも中口径砲に耐える装甲を張った事により防御力が上がったのである。<br /> <br /> イギリス海軍のマジェスティック級、フランス海軍のブレニュスは戦艦建造の基本となっただけでなく、二大海軍国に倣う他国の多くの海軍にとってもその後の手本となった。<br /> <br /> == 武装 ==<br /> === 主砲 ===<br /> [[ファイル:MIKASAGUNS.jpg|thumb|right|戦艦[[三笠 (戦艦)|三笠]]の主砲および前部砲塔]]<br /> [[ファイル:Battleship Mikasa from JFS1906 Cropped.png|thumb|left|多くの点で典型的な前弩級戦艦の特徴を示す戦艦三笠。中口径副砲と小口径副砲の位置や、砲塔と主機部分に集中した装甲に注意。]]<br /> [[File:HMS Collingwood Diagram Brasseys 1888.jpg|thumb|left|イギリス戦艦[[アドミラル級戦艦]][[コリンウッド (戦艦)|コリンウッド(1888)]]の図面。[[露砲塔]]のバーベッドが太線で示されている。砲塔後部の楕円は砲弾をせり上げる揚弾筒]]<br /> 前弩級戦艦は、対艦戦闘における異なる役割のために、複数種類の異なる口径の砲を備えていた。主たる武装は2門から4門の大口径主砲であり、中心線上の前後各1基ずつの単装砲塔もしくは連装砲塔に納められた。前弩級戦艦でこれと異なる構成を持つものは極めてまれである。この主砲は、敵戦艦の最も厚い装甲部へ打撃を与えられる&lt;!--主機や弾薬庫や主砲の装甲を撃破できる--&gt;唯一の武器であったにもかかわらず、発射速度が遅く、また戦闘開始直後(射程距離の限界)の着弾の正確さに問題があった&lt;ref name=&quot;Sumrall 14&quot;&gt;Sumrall, p. 14.&lt;/ref&gt;。そのため、射程距離いっぱいでの主砲の撃ちあいで砲弾が命中する事は滅多になく、やがて接近して副砲を併用した水平弾道での撃ち合いに移行するのが、前弩級戦艦の戦闘のセオリーであった。<br /> <br /> 主砲口径で最も一般的なものは12インチ(305 mm)であった。マジェスティック級以降のイギリス戦艦やブレニュス以降のフランスの[[シャルル・マルテル (戦艦)|シャルル・マルテル]]も30.5cm砲を採用したが、イギリスは[[カノーパス級戦艦|カノーパス級]]でも35口径でしかなかったのに対し、フランスは長砲身の45口径砲を採用している。主砲の大半をイギリスから輸入していた日本も同様であった。アメリカ合衆国は1899年起工の[[メイン級戦艦|メイン級]]までは12インチ砲と13インチ(330 mm)砲の両方を使用したが、それ以降は12インチ砲が一般的となった。ロシアは最初の[[ピョートル・ヴェリーキー_(戦艦)|ピョートル・ヴェリーキー]]以降最後の艦までほとんどの艦に12インチ砲を採用し、小型の4隻にのみ10インチ(254 mm)砲を使った。ドイツは前弩級戦艦最初の[[ブランデンブルク級戦艦|ブランデンブルク級戦]]には11インチ(280 mm)砲を採用したが、その後の2クラスでは9.4インチ(240 mm)砲となり小型化しているが、この砲は戦艦の主砲としては初の、そして当時の最大口径の[[速射砲]]であった。その後、11インチ口径の速射砲の実用化に成功し、[[ブラウンシュヴァイク級戦艦|ブラウンシュヴァイク級]]においてこれを搭載した&lt;ref&gt;Roberts, pp. 117–125.&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 主砲の口径は変わらなくても、長砲身砲の導入や砲架の改良による大仰角化で性能は向上した。緩燃性の[[ニトロセルロース]]と[[コルダイト]]火薬の導入は、同じ[[口径]]ならば長い砲身の方が砲口速度を高め、射程の伸長と貫徹力の強化をもたらすことを意味した&lt;ref&gt;Roberts, p. 113.&lt;/ref&gt;。マジェスティック級からドレッドノートに至る間に、イギリスの12インチ(305 mm)砲の砲身長は35[[口径#砲|口径]]から45口径まで増大し、砲口速度は毎秒2,417フィート(737 m/s)から毎秒2,725フィート(830 m/s)まで増加した&lt;ref&gt;Campbell, p. 169.&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> === 副砲 ===<br /> 前弩級戦艦は副砲も備えていた。口径は主砲よりも小さく、初期は4ないし10.7インチ(102-274 mm)のものが採用されたが、扱いやすさから主流は6インチ(152 mm)台に落ち着いた。副砲は実質的にすべて[[速射砲]]であり、発射率を上げるためにいくつかの革新的技術を用いていた。装薬は真鍮製の薬莢で提供され、後装式装填機構とともに、素早い照準と再装填を可能にした&lt;ref&gt;Campbell, p. 163.&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 戦艦どうしの砲戦における副砲の目的は、近距離砲撃戦闘である。主砲のみの撃ち合いによる遠距離砲戦では、砲弾が命中する事は滅多になく、やがて副砲の射程距離まで接近しての、主砲と副砲を<br /> 併用しての近距離戦闘に移行する。その場合においての副砲の役割は、敵艦の装甲が十分でない部分に損害を与えることであった。副砲は敵艦の主装甲を打ち抜くことはできないが、艦橋や煙突のような装甲の薄い部分に損傷を与え、火災を発生させることは可能だった&lt;ref name=&quot;Sumrall 14&quot; /&gt;。<br /> <br /> 同様に重要なこととして、副砲は敵の[[巡洋艦]]や[[駆逐艦]]、さらには[[水雷艇]]に対して使われることになっていた。副砲については、小さく素早い目標を仕留めるために発射率が重視されたが、一方、中口径砲として小型艦の軽度の装甲を打ち抜くことが期待されていた。後の弩級戦艦以降においては、副砲は対小型艦としての用途が中心となる。副砲は、砲塔や、装甲された舷側のケースメート(砲郭部)、あるいは装甲の無い上甲板など、さまざまな方法で設置された。<br /> <br /> === 中間砲 ===<br /> [[ファイル:HMS Agamemnon (1908) profile drawing.png|thumb|left|イギリス戦艦アガメムノン。9.2インチ(234 mm)中間砲10門を6基の砲塔に納めて艦の中央部に装備している。]]<br /> [[ファイル:USS Indiana (BB-1) - NH 52653.jpg|thumb|right|戦艦[[インディアナ (BB-1)|インディアナ]]。中間砲装備方法の例。前部13インチ主砲塔と前部左舷8インチ砲塔を示す。]]<br /> 前弩級戦艦には8インチ(203 mm)ないし10インチ(254 mm)の口径を持つ「中間砲」を持つものもあった。中間砲は、戦艦により強力な火力を持たせる手法であり、敵戦艦ないし長距離の目標を対象としていた。アメリカ海軍は他国の発達と独自に、[[インディアナ級戦艦|インディアナ級]]、[[アイオワ (BB-4)|アイオワ]]、[[キアサージ級戦艦|キアサージ級]]以降、1897年から1901年にかけて起工した艦を除いて中間砲を装備し、その方式の先駆となった&lt;ref name=&quot;Roberts, p. 122.&quot;&gt;Roberts, p. 122.&lt;/ref&gt;。<br /> イギリス海軍が[[キング・エドワード7世級戦艦|キング・エドワード7世級]]で同国の[[装甲巡洋艦]]で広く採用された23.4cm(47口径)砲の中間砲装備を復活させると、アメリカ、イタリア、ロシア、日本もそれに追随して中間砲を主砲の補助として搭載した。しかし、中間砲とは別個に対巡洋艦砲として副砲を混載するなど効率は悪かった。<br /> <br /> 一方、フランスは前弩級戦艦[[イエナ (戦艦)|イエナ]]から[[レピュブリク級戦艦|レピュブリク級]]に至るまで副砲を16.3cmに強化、更に他国の中間砲採用の時勢を見て副砲自体の口径を自国の装甲巡洋艦並みの19.4cm(50口径)単装速射砲とした[[リベルテ級戦艦|リベルテ級]]を建造した、更に主砲と同じく副砲も電動による機力装填・電動旋回で目標追従射撃能力を高めた[[ダントン級戦艦|ダントン級]]は24cm(50口径)連装速射砲6基を搭載した。これら後期の中間砲装備戦艦は、そのほとんどがドレッドノート出現後の完成となり、それゆえ、完成前から時代遅れとなってしまった&lt;ref&gt;Roberts, pp. 125–126.&lt;/ref&gt;。しかし、一部の艦は主砲用とは別個に射撃方位盤や射撃指揮装置を装備して遠距離砲戦に対応させて対艦戦闘に有用な火力を得た艦も存在しており、全くの無駄とは言えなかった。<br /> <br /> 交戦距離は装甲艦時代から引き続き増大しつづけた。1894年から翌年にかけての日清戦争では交戦距離はおおよそ2,000mだったが、1904年の[[黄海海戦 (日露戦争)|黄海海戦]]では日露の艦隊は6,500mを隔てて戦った&lt;ref&gt;Sondhaus, pp. 170, 171, 189.&lt;/ref&gt;。交戦距離の増加の原因は、ひとつには魚雷の航走距離の増加であり、もうひとつは、砲術と射撃管制の進歩であった。結果として、造艦者は副砲の口径を、かつての中間砲と同じものまで大型化することとなった。イギリス海軍最後の前弩級戦艦である[[ロード・ネルソン級戦艦|ロード・ネルソン級]]では、9.2インチ(234 mm)の副砲を備えていた。<br /> <br /> 中間砲、あるいは統一された大口径副砲を有する戦艦は、しばしば「準弩級戦艦」(semi-dreadnoughts)と呼ばれる&lt;ref&gt;Roberts, pp. 125&amp;ndash;6.&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> === 備砲 ===<br /> [[File:QF3pdrHotchkissRN1915.jpeg|thumb|left|装甲艦から超弩級戦艦の時代まで広く搭載された[[オチキス]]式[[ホッチキス QF 3ポンド砲|47mm機砲]]。フランスだけでなく世界中の主力艦の対水雷艇砲として活躍した。]]<br /> [[File:Jaureguiberry 1915 AWM J06004.jpeg|thumb|right|戦艦[[ジョーレギベリ (戦艦)|ジョーレギベリ]]。ミリタリー・マスト上に四つの開口部があり、下段部のみ47mm単装速射砲が1基ずつ計4基が配置された。また、艦首側の[[舷窓]]の下に見える楕円形の穴は水上魚雷発射管]]<br /> <br /> 前弩級戦艦の備砲は、主砲・副砲のほか、第三の砲として小口径の速射砲が組み合わされていた。これには1.5~3インチ(37~76 mm)砲から[[機関銃]]までのさまざまな種類があった。その役割は近距離に迫る水雷艇を撃退することであり、また敵戦艦の甲板上および上部構造を掃射することであった。装備位置はミリタリー・マストと呼ばれる強固な構造のマストの高所に2~4門を配置して高所から俯角をかけて近寄る水雷艇や駆逐艦を掃射したが、水雷艇の大型化に伴い砲も大型化したためにそのまま搭載したのではトップヘビーを招きかねないので装備位置は上部構造物の側面に配置された。&lt;ref name=&quot;Sumrall 14&quot; /&gt;。<br /> <br /> 多くの前弩級戦艦は砲のほかに[[魚雷]]も備えていた。それは喫水線の上または下にある固定式の単装発射管から発射された。前弩級戦艦時代には、魚雷の直径は一般的に18インチ(46 cm)で、射程距離は数千mであった。しかし、戦艦が魚雷で戦果を上げたということは報告されていない&lt;ref&gt;Hill, p. 155.&lt;/ref&gt;。しかし、用兵側の要求により[[超弩級戦艦]]の時代に至るまで装備され続けた。<br /> <br /> === 衝角 ===<br /> [[File:Ramm.png|thumb|left|衝角による近代軍艦への攻撃を図で表したもの。]]<br /> 副砲を含めての近距離砲撃戦でも決着がつかない場合は、最後には[[衝角]]による体当たり攻撃で決着をつけるのが、前弩級戦艦の戦闘のセオリーである。帆船時代においては、艦の航行に制限があったため衝角攻撃はほとんど行えない状態であったが、蒸気機関による動力推進が普及し、艦の速度と航行の自由度が飛躍的に高まると、衝角攻撃戦術の効果に大いに期待が寄せられる事となった。よってほとんどの前弩級戦艦は艦首に衝角を装備する。しかしこれは、まだ主砲の威力が小さかった頃の戦闘の名残、および[[リッサ海戦]]においての誤った戦訓によるものである。実際には戦艦どうしの戦闘で衝角が役に立つ事はなく、むしろ衝突事故の際に味方の艦を誤って撃沈してしまう有害な存在であった。弩級戦艦に移行する頃には衝角は廃止の趨勢となった<br /> <br /> == 防御 ==<br /> [[ファイル:Armoured cruiser schematic.png|thumb|right|典型的な前弩級戦艦の断面模式図。上甲板・中甲板および側面(赤で表示)を装甲し、艦側の石炭庫(グレーで表示)と水密区画による二重底で防御されている。主機はそれらで保護された船体内の空間に置かれている。]]<br /> [[ファイル:BB05 Kearsarge BB06 Kentucky U.S. Naval Historical Center. NH 76632.jpg|thumb|left|アメリカ戦艦[[キアサージ (戦艦)|キアサージ]]の断面図。船体内部の装甲がどのようになっているかが示されている。]]<br /> 前弩級戦艦はかなりの重さの鋼鉄装甲を必要とした。経験則は、船体に均一に防御装甲を行うより、重要な区画に集中的に装甲を施すべきであることを示していた。舷側に水平弾道で被弾しても致命的な浸水を起こさず、また仮に舷側を貫徹されても主機や弾薬庫などに影響が及ばないようにする必要があった。缶や主機を収めた中甲板下方の船体中央部は、喫水線の下からやや上までの幅を持つ主装甲帯で防御された。この中央砲郭([[城郭|シタデル]])は主機をもっとも強力な砲弾からも保護することを目的とした。<br /> <br /> 主砲下部とその揚弾部は、中央砲郭から上方へ延びた厚い円筒形装甲([[バーベット]])の中に収められた。前弩級戦艦時代の初期は主砲は[[露砲塔]]に搭載されていたが、後期には上部を含めて完全に装甲された砲塔に収められた&lt;ref name=&quot;Roberts 117&quot;&gt;Roberts, p. 117.&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 主装甲帯は通常、中央部から前あるいは後ろに行くに従って厚さを減じていた。また同様にシタデルから上部に行くにつれても薄くなっていた。上甲板は2インチないし4インチの鋼鉄による軽度な装甲が施された&lt;ref&gt;Roberts, pp. 132–133.&lt;/ref&gt;。この軽装甲は、高性能炸薬弾が艦の上部構造を破壊するのを防ぐ役割を担っていた&lt;ref&gt;&#039;&#039;The Eclipse of the Big Gun&#039;&#039;, p. 8.&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 1880年代後半の戦艦、例えばイギリスの[[ロイヤル・サブリン級戦艦|ロイヤル・サブリン級]]などには、鉄と鋼鉄の[[複合装甲]]が施されていたが、これはすぐに、アメリカで開発された[[ハーヴェイ鋼]](硬化された鋼鉄)によるより効果的な装甲にとって代わられた。ハーヴェイ鋼は[[1891年]]に試され、[[1893年]]から[[1895年]]にかけて起工された戦艦の標準となった&lt;ref name=&quot;Roberts 117&quot; /&gt;。しかしその君臨した期間は短かった。1895年、ドイツ戦艦[[カイザー・フリードリヒ3世 (戦艦)|カイザー・フリードリヒ3世]]は、より進歩した[[クルップ鋼]]を使い始めた。ヨーロッパ諸国は5年の内にクルップ鋼を採用したが、アメリカだけは20世紀になってもハーヴェイ鋼を使い続けた。装甲プレートの品質向上は、新しい戦艦の装甲がより薄く、より軽くなることを意味した。厚さ12インチ(305 mm)の複合装甲の提供する防御は、7.5インチ(191 mm)のハーヴェイ鋼、または5.75インチ(146 mm)のクルップ鋼に等しいものだった&lt;ref&gt;Sondhaus, p. 166.&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> == 機関 ==<br /> [[ファイル:Water tube boiler schematic.png|thumb|right|水管ボイラーは、前弩級戦艦の主機に高圧蒸気を供給するのに最も効率的な手段で、主なものとしてフランスのベルヴィール式水管ボイラーが採用された。]]<br /> 前弩級戦艦の時代における主機の性能向上は、ボイラーからより高圧の蒸気を得ることから始まった。初期の[[ボイラー|煙管ボイラー]]は、高圧の蒸気を少ない燃料消費で発生させるために、より効率的な[[ボイラー|水管ボイラー]]に取って代わられた。水管ボイラーはより安全で、爆発の危険も少なく、煙管ボイラーよりも柔軟性に富んでいた。ベルヴィール式水管ボイラーは[[1879年]]の初めにフランス海軍で使われ始めたが、イギリス海軍でも、[[1894年]]には[[装甲巡洋艦]]と前弩級戦艦に採用された。その後水管ボイラーは、世界中の海軍がフランスに追随して採用した&lt;ref&gt;Griffiths, pp. 176–177.&lt;/ref&gt;。<br /> [[Image:Triple expansion engine animation.gif|thumb|left|3段膨張式蒸気機関の働き。高圧蒸気が徐々に冷却されつつ、3回にわたって動力を提供する。]]<br /> 前弩級戦艦の動力はほぼすべて[[複式機関|複式]]の[[レシプロ]][[蒸気機関]]によっており、最高速力はほぼ16ないし18ノットだった&lt;ref&gt;Roberts, p. 132.&lt;/ref&gt;。1880年代の装甲艦は2段膨張式機関を使用したが、1880年代末までには、より効率的な3段膨張式機関を使用するようになった。イギリス以外では4段膨張式機関を採用した海軍もあった&lt;ref name=&quot;Roberts 114&quot;&gt;Roberts, p. 114.&lt;/ref&gt;。また、フランスではダントン級で推進機関に列強に先駆けて[[パーソンズ・マリン・スチーム・タービン|パーソンズ]]式[[蒸気タービン]]を採用し4基4軸推進で公試において20ノットを発揮した。<br /> <br /> [[スクリュー]]は2ないし3基あり、複数の主機がそれぞれを駆動した。フランスとドイツは3軸方式を多用したが、その場合には機関の長さが短くなり、防御がより容易になるという利点があった。また、狭い水路で操作しやすく、偶発的な破損にも強かった。しかし、3軸方式は2軸方式より一般的に大きくかつ重くなるので、両国以外の多くの海軍は2軸を好んだ&lt;ref name=&quot;Roberts 114&quot; /&gt;。なお、前述の通りダントン級のスクリューは4軸あった。<br /> <br /> 燃料は前弩級戦艦時代を通じてもっぱら[[石炭]]だったが、1890年代後期には各国海軍で[[石油]]燃料の試験が行われた&lt;ref&gt;Griffiths, p. 177.&lt;/ref&gt;。また、炉に強制通風を行うことで1ないし2ノットの速力増加が認められたが、それはボイラー破損のリスクを伴っていた。<br /> <br /> == 前弩級戦艦艦隊の戦歴 ==<br /> [[ファイル:Battleship Retvisan.jpg|thumb|right|[[旅順口区|旅順港]]で着底したロシア戦艦[[レトヴィザン (戦艦)|レトヴィザン]]]]<br /> <br /> 全盛期の前弩級戦艦は、非常に多様な艦種を擁していた当時の海軍の中心であったが、旧式な装甲艦もまだ運用されていた。戦艦は、多種類の[[巡洋艦]]を周囲に侍らせていた。それは基本的に戦艦の縮小形である[[装甲巡洋艦]]や、より軽量の[[防護巡洋艦]]であり、さらに旧式の非装甲の巡洋艦や、[[スループ]]、[[フリゲート]]なども存在し、鋼鉄製、鉄製、木製などが混在していた。戦艦にとっての脅威は[[水雷艇]]であり、前弩級戦艦の時代はまた、水雷艇の脅威を取り除くために最初の[[駆逐艦]]が作られた時期でもあった。また、最初の有力な[[潜水艦]]が造られたのもこの時代である&lt;ref&gt;Sondhaus, pp. 155–156, 182–183.&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 前弩級戦艦時代は、フランスとロシアが巨大なイギリス海軍に対抗するという、19世紀的な海軍力均衡が終わりを迎え、ドイツ、日本、アメリカ等の新興海軍国が勃興してくる時期であった。[[大日本帝国海軍|日本帝国海軍]]の大拡張と、それよりは小規模の[[アメリカ海軍]]の拡張は、それぞれの植民地の拡大を支えていた。<br /> <br /> 前弩級戦艦同士の海戦は、まさに前弩級戦艦の時代が終ろうとするときまで発生しなかった。1894-95年の[[日清戦争]]は前弩級戦艦が発達している時期に起きているが、関係する最大最新の艦は巡洋艦であった&lt;ref&gt;Sondhaus, pp. 170–171.&lt;/ref&gt;。[[1898年]]の[[米西戦争]]は、アメリカが前弩級戦艦艦隊で臨んだのに対し、スペイン側の戦力は巡洋艦にとどまっていた。やっと前弩級戦艦同士の対等な海戦が起きたのは1904-05年の[[日露戦争]]においてであった。日露戦争では2つの海戦が起きており、[[1904年]][[8月10日]]の[[黄海海戦 (日露戦争)|黄海海戦]]では明確な勝敗が付かなかったが、[[1905年]][[5月27日]]の[[日本海海戦]]は日本の決定的な勝利に終った。<br /> <br /> [[砲艦外交]]は、巡洋艦またはより小型の軍艦で行われるのが普通だった。[[1896年]]、イギリスは3隻の防護巡洋艦と2隻の[[砲艦]]を派遣することで[[イギリス・ザンジバル戦争|ザンジバルの降伏]]をもたらした。[[義和団の乱]]では、西欧諸国の連合艦隊には戦艦が加わっていたものの、軍事行動を担ったのは砲艦や駆逐艦、スループなどであった&lt;ref&gt;Sondhaus, p. 186.&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> === ヨーロッパ ===<br /> [[ファイル:Battleship Justice.png|thumb|right|高速走行中のフランス戦艦[[ジュスティス (戦艦)|ジュスティス]](Justice)]]<br /> <br /> 前弩級戦艦時代にはヨーロッパの海軍が世界を圧していた。イギリスの伝統的なライバル海軍国に加えて、ヨーロッパの新興勢力がその覇権への挑戦を行っていたが、それでもなお[[イギリス海軍]]は最大の規模を維持していた。<br /> <br /> [[ファイル:HMS Dominion.jpg|thumb|175px|left|[[キング・エドワード7世級戦艦]][[ドミニオン (戦艦)|ドミニオン]]は前弩級戦艦の時代が終わろうとする1903年に進水した。]]<br /> [[1889年]]に、英国は正式に「二国標準」を採用し、第2位と第3位の海軍を合わせたよりも多くの戦艦を建造することを正式に決定した。この2国とは当時フランスとロシアを意味し、両国は1890年代前半に正式に同盟を結んでいた。[[ロイヤル・サブリン級戦艦|ロイヤル・サブリン級]]と[[マジェスティック級戦艦|マジェスティック級]]の建造は以前よりも非常に速いペースで進められ、引き続き[[1897年]]から1905年にかけて、[[カノーパス級戦艦|カノーパス級]]、[[フォーミダブル級戦艦|フォーミダブル級]]、[[ダンカン級戦艦|ダンカン級]]および[[キング・エドワード7世級戦艦|キング・エドワード7世級]]の各級戦艦が矢継ぎ早に登場した。[[チリ]]によって発注されたものをイギリスが買収した[[スウィフトシュア級戦艦|スウィフトシュア級]]2隻もあわせ、イギリス海軍は1904年までに、建造中のものも含めて、マジェスティック級以降の前弩級戦艦を39隻保有していた。加えて、さらにより旧式な戦艦もまだ2ダース以上残存していた。イギリス最後の前弩級戦艦[[ロード・ネルソン級戦艦|ロード・ネルソン級]]が登場したのは[[ドレッドノート (戦艦)|ドレッドノート]]の出現の後だった。<br /> <br /> 海軍に関してイギリスの伝統的なライバルであるフランスでは、戦艦への対抗戦力として水雷艇を重視する[[新生学派]]([[ジューヌ・エコール]])の影響のため、1880年代中に一時期戦艦の建造を中断した。1889年になって新生学派の影響が弱まったあと、革新的な戦艦[[ブレニュス (戦艦)|ブレニュス]]の建造が再開された。ブレニュスとその後続艦はイギリスの大方のクラスとは対照的な前述の通り独特な発展を遂げたもので、一風変わった主砲配置をとっていた。ブレニュスは前甲板に連装砲塔を、後部に単装砲塔を配置し3門の13.4インチ(340 mm)砲をもっていたが、後続艦の[[シャルル・マルテル (戦艦)|シャルル・マルテル]]から[[ブーヴェ (戦艦)|ブーヴェ]]は主砲に30.5cm(45口径)単装砲塔2基を前後甲板上に1基ずつ2門を配置し、船体側面に27.4cm(45口径)単装砲塔2基を片舷1基ずつ2門を配置する独特の主砲配置を採っていた。1894年から1896年にかけて起工された[[シャルルマーニュ級戦艦|シャルルマーニュ級]]は、海軍予算の増加により船体が大型化が可能となりフランス戦艦で初めて主砲塔は連装砲2基4門によるイギリス戦艦と同じ配置を採用した&lt;ref&gt;Sondhaus, p. 167.&lt;/ref&gt;。新生学派はまだフランスの海軍戦略に大きな影響力を保持しており、新生学派自体は19世紀末に戦艦の数でイギリスと競争することを断念するに至り衰退した。&lt;ref&gt;Sondhaus, p. 181.&lt;/ref&gt;ドレッドノート革命によるフランスの悩みは大きかったが代わりに艦隊派が勇躍した。遅れを取り戻すべく準弩級戦艦[[リベルテ級戦艦|リベルテ級]]4隻がまだ建造中であり、[[ダントン級戦艦|ダントン級]]6隻もそれに続き、更に弩級戦艦[[クールベ級戦艦|クールベ級]]4隻の建造予算を獲得していた。<br /> <br /> [[ファイル:Wittelsbach-Klasse Querschnitt.jpg|thumb|right|250px|ドイツの前弩級戦艦[[ヴィッテルスバッハ級戦艦]]の断面図(1914年頃)]]<br /> ドイツはまさに1890年代の初めから海軍の建設を始めていたが、1905年までにイギリスとの間で軍備拡張競争を繰り広げ、それが結局は第一次世界大戦を引き起こす要因の一つにつながった。ドイツの最初の前弩級戦艦である[[ブランデンブルク級戦艦|ブランデンブルク級]]が起工されたのは1890年のことだったが、1905年の段階では、建造中のものも含めて更に19隻の戦艦が存在した。この拡張は、1898年および1900年の「[[艦隊法]]」によって規定された支出の急激な増大によって支えられていた&lt;ref&gt;Sondhaus, pp. 180–181.&lt;/ref&gt;。この拡張は、海軍大臣[[アルフレート・フォン・ティルピッツ]]の決断と、イギリスに対して激化する国家的競争意識によるものだった。ドイツの前弩級戦艦には、ブランデンブルク級の他にも、[[カイザー・フリードリヒ3世級戦艦|カイザー・フリードリヒ3世級]]、[[ヴィッテルスバッハ級戦艦|ヴィッテルスバッハ級]]、[[ブラウンシュヴァイク級戦艦|ブラウンシュヴァイク級]]などがあり、両大戦に参加した[[ドイッチュラント級戦艦|ドイッチュラント級]]で頂点に達した。ドイツ艦は概してイギリスの同等艦よりも小型で武装は劣っていたが、フランス戦艦に倣って副砲を砲塔化するなど防御力は同等であった&lt;ref&gt;Roberts, p. 125.&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> [[ファイル:Klasa radetzky.png|thumb|left|[[オーストリア=ハンガリー帝国海軍]]の準弩級戦艦、[[ラデツキー級戦艦|ラデツキー級]]]]<br /> <br /> ロシアもまた、同じく1890年代に海軍拡張競争に加わった。ロシア海軍の主要な目的の1つは、極東での日本の拡大に対して自国の権益を維持することであった。1892年に建造が開始された[[ペトロパヴロフスク級戦艦|ペトロパブロフスク級]]の主砲配置はイギリスのロイヤル・サブリン級を範としたが、同時に副砲を砲塔化し、船体形状もタンブル・ホーム型を採用するなどブレニュスの影響もあった。その後のクラスは、例えばフランス製の[[ツェサレーヴィチ_(戦艦)|ツェサレーヴィチ]]をモデルにした[[ボロジノ級戦艦|ボロジノ級]]にみられるように、フランスの影響が強く見られた。ヨーロッパの先進諸国に比べロシアの造船力は弱体であったが、戦艦のほとんどは国内で調達された。しかし、建造技術が未熟であったことから、多くの艦で排水量超過などの重大な欠陥が生じることとなった。一部国内でまかないきれない戦艦は海外で建造された。例えば最強といわれた[[レトヴィザン (戦艦)|レトヴィザン]]はロシアで設計されたが、アメリカで建造された&lt;ref&gt;Roberts, pp. 120–121.&lt;/ref&gt;。このことが、[[メイン_(戦艦)|メイン]]など当時のアメリカ戦艦の設計にロシア=フランス式の影響を与えることになった。1904年-1905年の日露戦争は、ロシアの前弩級戦艦にとってはまさに災厄であった。ペトロパブロフスク以降に完成した15隻の戦艦のうち、戦争中に沈むか、捕獲された艦は11隻に及んだ。また有名な戦艦[[ポチョムキン=タヴリーチェスキー公 (戦艦)|ポチョムキン]]では1905年6月に[[ロシア第一革命|革命]]派[[水兵]]による反乱が発生して国外へ持ち去られたが、後日鎮圧されて艦隊に復帰した。日露戦争が終結した1905年以降、ロシアは建造中だった前弩級戦艦1隻と2隻ずつ2グループ計4隻の中間砲を持つ準弩級戦艦を建造したが、前弩級戦艦も準弩級戦艦も残らず1923年の[[ソビエト連邦]]結成に前後して除籍された。[[ソ連海軍]]は[[第二次世界大戦]]後ドイツからいくつかの前弩級戦艦を獲得したが、標的などとして処分されている。<br /> <br /> 1893年から1904年にかけて、[[イタリア王国|イタリア]]は8隻の戦艦を起工した。最後の2つのクラスは著しく高速であったが、[[レジナ・マルゲリータ級戦艦|レジナ・マルゲリータ級]]は防護が十分でなく、[[レジナ・エレナ級戦艦|レジナ・エレナ級]]は武装が貧弱だった。いくつかの点で、これらは[[巡洋戦艦]]の概念を先取りしたものとも考えられる&lt;ref&gt;Roberts, p. 126.&lt;/ref&gt;。[[オーストリア=ハンガリー帝国]]も1890年代に海軍の革新を行い、9隻の前弩級戦艦を発注したが、ドレッドノートの出現前には[[ハプスブルク級戦艦|ハプスブルク級]]3隻が完成しただけだった。<br /> <br /> === アメリカと太平洋 ===<br /> [[ファイル:Uss massachusetts bb-2.jpg|thumb|left|1893年に進水した前弩級戦艦[[マサチューセッツ (BB-2)|マサチューセッツ]]]]<br /> <br /> [[アメリカ合衆国]]が戦艦の建造を始めたのは[[1891年]]のことである。それはまず足の短い沿岸防備用戦艦であり、中間砲として革新的な8インチ砲を備えている以外は、イギリスの戦艦[[フッド (巡洋戦艦)|フッド]]と類似していた。アメリカ海軍は、1901-02年起工の[[バージニア級戦艦|バージニア級]]までの間、比較的短航続距離で耐航性に乏しい艦を建造し続けた&lt;ref name=&quot;Roberts, p. 122.&quot;/&gt;。しかし、[[米西戦争]]の、特に輝かしい[[サンチャゴ・デ・キューバ海戦]]などにおいて、前弩級戦艦を持たない時代遅れのスペイン艦隊からアメリカの海上優位を守ったのがこれらの旧式艦であるのも確かである。バージニア級と、それに続く2つのクラスの前弩級戦艦はドレッドノート出現後に完成したが、そのときには既にアメリカにおける弩級戦艦の研究が開始されていた。1907年12月16日から1909年2月22日にかけて、アメリカの16隻の前弩級戦艦からなる「[[グレート・ホワイト・フリート]]」の世界周航が行われた&lt;ref&gt;[http://www.navy.mil/gwf/battleships/bb-20.htm Great White Fleet - USS Vermont BB-20] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20090808061100/http://www.navy.mil/gwf/battleships/bb-20.htm |date=2009年8月8日 }}&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> [[ファイル:MIKASAPAINTING.jpg|thumb|right|[[日本海海戦]]の直前、戦艦[[三笠 (戦艦)|三笠]]艦橋上の[[東郷平八郎|東郷提督]]]]<br /> <br /> 日本は、前弩級戦艦時代に起きた大きな2つの海上戦争の両方に関与していた。日本の最初の前弩級戦艦である[[富士型戦艦|富士型]]は、[[日清戦争]]の勃発時点ではまだ建造中だった&lt;ref&gt;Roberts, p. 123.&lt;/ref&gt;。日清戦争では、[[黄海海戦 (日清戦争)|黄海海戦]]において日本の[[装甲巡洋艦]]と[[防護巡洋艦]]が清国[[北洋艦隊]]の旧式装甲戦艦と巡洋艦の混成艦隊を撃破した。勝利の後、同地域へのロシアの圧力に直面して、日本は富士型2隻に加えてさらに4隻の前弩級戦艦を発注した。それらは日本艦隊の中核を構成し、日露戦争の[[黄海海戦 (日露戦争)|黄海海戦]]と[[日本海海戦]]の2回の海戦において、数的に勝るロシア艦隊と交戦した。日本海軍は新旧さまざまのロシア戦艦8隻を捕獲したほか、日露戦争後にもさらにもう数クラスの前弩級戦艦を建造した。<br /> <br /> == 退場 ==<br /> {{main|弩級戦艦}}<br /> [[ファイル:Battleship Mikasa.jpg|thumb|left|戦艦三笠。現存する唯一の前弩級戦艦である。]]<br /> <br /> 1906年当時、イギリスが戦艦[[ドレッドノート (戦艦)|ドレッドノート]]を就役させたことにより、既存のすべての戦艦が旧式化することになった。ドレッドノートは中間砲や副砲を廃止し、12インチ(305 mm)主砲を4門でなく10門装備することによって、前弩級戦艦の4門に対し8門の片舷火力を持ち、前面に対する火力も2門から6門に増加していた&lt;ref&gt;Massie, &#039;&#039;Dreadnought&#039;&#039;, p. 473.&lt;/ref&gt;。以降、8門以上の主砲を搭載し、かつ6門以上の砲を同一方向に斉射できるのが弩級戦艦(および巡洋戦艦)の定義となる。「単一巨砲」方式への移行は、交戦距離の増大と、最後の前弩級戦艦における中間砲の大口径化の論理的帰結であった。従来の前弩級戦艦では遠距離砲戦での命中はあまり期待できないが、主砲の数を増す事により命中率を上げるのである。さらに単純に主砲の数を増やすのみならず、艦橋から一元的に射撃管制を行う事により、遠距離砲戦での命中率を上げたのである。日本とアメリカはドレッドノート以前に同様な武装を持つ戦艦の設計を行っていたが、ドレッドノートに先を越される結果となった&lt;ref&gt;Sumrall, p. 15; Jentschura, Jung, Mickel p. 23.&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> この新種の軍艦の利点は、その武装にとどまらなかった。ドレッドノートは、イギリス戦艦として初めて推進機関に[[蒸気タービン]]を採用し、前弩級戦艦で標準的だった18ノットでなく、21ノットの最高速度を得ていた。最大口径砲だけが海戦において有効であると考えた場合、多数の12インチ(305 mm)砲を搭載するいわゆる「弩級戦艦」は、戦闘において既存の戦艦より2ないし3倍の戦力を有する&lt;ref&gt;Massie, &#039;&#039;Dreadnought&#039;&#039;, pp. 471-3.&lt;/ref&gt;。一方で中間砲や副砲が有効な場合においては、前弩級戦艦と弩級戦艦の砲力差はそれほどではないため、接近しての砲戦になれば弩級戦艦の優勢は消滅する。速度性能において前弩級戦艦に勝る場合は、副砲や中間砲の射程距離外という、弩級戦艦にとって有利な砲戦距離を維持できる。火力と機動力の両方で勝ることにより、「弩級戦艦」は前弩級戦艦を出し抜くことができる。<br /> <br /> しかし、時代遅れにはなりながらも、前弩級戦艦は現役を続け、重要な戦闘にも参加した。弩級戦艦と巡洋戦艦は艦隊決戦に不可欠であるとすべての国が考えたため、機雷や潜水艦の脅威から厳重に守られ、できるだけ本国の近くに維持された。前弩級戦艦は旧式化し、それだけ価値が低いと考えられたため、より危険な状況に投入されたり、より遠い地域に展開されることになった&lt;ref&gt;Massie, &#039;&#039;Castles of Steel&#039;&#039;, p. 433.&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 今日保存されている唯一の前弩級戦艦は日本海海戦の日本艦隊の旗艦であった戦艦[[三笠 (戦艦)|三笠]]であり、[[1925年]]以降現在まで、[[横須賀]]で[[博物館船]]となっている([[三笠公園]])。<br /> <br /> === 第一次世界大戦 ===<br /> [[ファイル:HMS Canopus bombarding Turkish forts March 1915.jpg|thumb|オスマン帝国の沿岸砲台を12インチ主砲で砲撃する戦艦[[カノーパス (戦艦)|カノーパス]](1915年)]]<br /> 前弩級戦艦の多くは[[第一次世界大戦]]の間も現役にあった。主機と兵器の進歩により、前弩級戦艦は最新の装甲巡洋艦に対しても有効でなく、弩級戦艦や巡洋戦艦には全く歯が立たないとされていたが、それでも戦争で大きな役割を演じた。<br /> <br /> 最も顕著なものは[[1914年]]の晩秋、南アメリカ方面におけるイギリス海軍とドイツ海軍との衝突において示されたものである。2隻のドイツ巡洋艦がイギリスの海運を脅かしたが、海軍本部は巡洋戦艦を主力艦隊から割いて世界の反対側に送るようなことはできないと判断し、その代わりに1896年製の骨董品である前弩級戦艦[[カノーパス (戦艦)|カノーパス]]を派遣した。それは当該区域のイギリス巡洋艦戦隊の増強を意図したものであったが、実際問題としてカノーパスは、その鈍足により、決戦である[[コロネル沖海戦]]に間に合わない結果となった。カノーパスはそれに続く[[フォークランド沖海戦]]で汚名を返上したが、それは港湾防備艦として成したものだった。カノーパスはドイツの巡洋艦[[グナイゼナウ (装甲巡洋艦)|グナイゼナウ]]を当時としては大遠距離となる13,500ヤード(12,300 m)で砲撃した。唯一の命中弾は前の晩から装填されたままだった訓練弾であった。斉射された実弾はすべて水面に着弾して爆発したのに対し、この訓練弾は水面で跳ね、グナイゼナウの煙突に飛び込んだのである。おそらくこのことにより、グナイゼナウは石炭をまだ積み込み中だったイギリス戦隊への急襲を思いとどまり、イギリス戦隊は被るかも知れなかった大きな被害を免れることができた。その後の戦い(フォークランド島沖海戦)は、コロネル沖海戦の後で派遣された2隻の[[インヴィンシブル級巡洋戦艦]]によって決着が付けられた&lt;ref&gt;Bennett, G, &#039;&#039;Naval Battles of the First World War&#039;&#039;, p. 114.&lt;/ref&gt;。これは、イギリスの前弩級戦艦が敵艦に対して行った、おそらく唯一の有意義な戦闘であった。<br /> <br /> [[黒海]]では、5隻のロシアの前弩級戦艦が、1914年11月の[[サールィチ岬の海戦]]で、[[オスマン帝国海軍]]の巡洋戦艦[[ゲーベン (巡洋戦艦)|ヤウズ・スルタン・セリム]]と短い戦闘を行った。<br /> <br /> 新型艦を投入するリスクが高い戦場でも、失って惜しくない前弩級戦艦なら使うことができる、という原則は、イギリス、フランス、ドイツのいずれにおいてもあてはまり、各国は補助的戦場でそれを適用した。ドイツ海軍は[[バルト海]]の戦いでしばしば前弩級戦艦を使用した。前弩級戦艦が最も多く投入されたのは[[ガリポリの戦い]]である。イギリスおよびフランスの12隻の前弩級戦艦は、1915年3月に[[ダーダネルス海峡]]征圧を意図した部隊の中核をなしていた。前弩級戦艦の役割は、オスマン帝国の沿岸砲台と交戦する最新鋭の超弩級戦艦[[クイーン・エリザベス (戦艦)|クイーン・エリザベス]]の支援だった。この戦いにおいて3隻の前弩級戦艦が機雷に触れて沈没し、数隻が大破した。しかし作戦を中止に追い込んだのは、惜しくない前弩級戦艦の損害ではなかった。2隻の巡洋戦艦も損害を受け、クィーン・エリザベスを機雷敷設海域に進入させる危険は冒せないし、前弩級戦艦だけでは海峡の反対側に潜んでいるオスマン帝国の巡洋戦艦(ヤウズ)に対抗することができず、作戦は失敗した&lt;ref&gt;Massie, &#039;&#039;Castles of Steel&#039;&#039;, pp. 466–467.&lt;/ref&gt;。前弩級戦艦はガリポリ上陸の支援も行い、さらに3隻([[ゴライアス (戦艦)|ゴライアス]]、[[トライアンフ (戦艦)|トライアンフ]]、[[マジェスティック (戦艦)|マジェスティック]])を喪った&lt;ref&gt;Massie, &#039;&#039;Castles of Steel&#039;&#039;, pp. 483, 492–493.&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> [[ファイル:PostcardUSSConnecticutBB18pre1922.jpg|thumb|left|250px|戦艦[[コネチカット (戦艦)|コネチカット]]の絵葉書。[[1919年]]に帰還兵の輸送に使われた。]]<br /> <br /> ドイツの前弩級戦艦戦隊は[[1916年]]の[[ユトランド沖海戦]]にも参加した。ドイツの海軍軍人はこれらの艦を、本格的な戦闘ではすぐに沈んでしまうと考えて「5分間の船」と呼んでいた&lt;ref&gt;Massie, &#039;&#039;Castles of Steel&#039;&#039;, p. 564.&lt;/ref&gt;。しかし前弩級戦艦戦隊はその時間を超えて有効な役割を演じた。ドイツ艦隊が戦場から離脱したとき、前弩級戦艦は闇が迫る中、危険を冒してイギリス戦艦戦隊に立ち向かった&lt;ref&gt;Massie, &#039;&#039;Castles of Steel&#039;&#039;, p. 634.&lt;/ref&gt;。それでも沈んだ前弩級戦艦は、双方の主力艦隊が離脱したあとの夜間の混戦で撃沈された[[ポンメルン (戦艦)|ポンメルン]]1隻のみだった&lt;ref&gt;Massie, &#039;&#039;Castles of Steel&#039;&#039;, p. 648.&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 1918年11月の休戦後、アメリカ海軍は15隻の旧式戦艦、8隻の[[装甲巡洋艦]]、2隻の大型[[防護巡洋艦]]を一時的な輸送任務につけた。これらの艦はそれぞれ1回から6回の大西洋横断航海を行い、145,000人以上を故国に帰還させた&lt;ref&gt;{{cite web |url=http://www.history.navy.mil/photos/usnshtp/ap/w1ap-tbc.htm |title=USN Ship Types -- World War I Transports -- Combat Warships employed as Transports |accessdate=2008-03-06 |publisher=History.Navy.Mil |archiveurl=https://web.archive.org/web/20090417191030/http://www.history.navy.mil/photos/usnshtp/ap/w1ap-tbc.htm |archivedate=2009年4月17日 |deadlinkdate=2017年9月 }}&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> === 第二次世界大戦 ===<br /> [[File:Schleswig Holstein firing Gdynia 13.09.1939.jpg|thumb|left|150px|[[1939年]][[9月1日]]、[[ヴェステルプラッテ]]の[[ポーランド軍]]守備隊に砲撃を浴びせるドイツ戦艦[[シュレスヴィヒ・ホルシュタイン (戦艦)|シュレスヴィヒ・ホルシュタイン]]]]<br /> [[File:Schlesien and Schleswig-Holstein.jpg|thumb|right|港に停泊するドイツ戦艦[[シュレジェン (戦艦)|シュレジェン]]と[[シュレスヴィヒ・ホルシュタイン (戦艦)|シュレスヴィヒ・ホルシュタイン]]。両艦は第二次世界大戦にも参加した。]]<br /> 第一次世界大戦の後、大部分の前弩級戦艦と弩級戦艦は、[[ワシントン海軍軍縮条約]]の下で武装解除された。大部分はスクラップとして解体され、他は標的として破壊されるか、訓練あるいは支援艦の任務を与えられた。戦艦[[三笠 (戦艦)|三笠]]のみは、ワシントン条約の特別な例外として、博物館船として残された。<br /> ドイツは[[ヴェルサイユ条約]]の規定により大部分の艦隊を失い、装甲沿岸防備艦として8隻の前弩級戦艦(同時に現役勤務に就くのは6隻以内とされた)のみ保有を認められた&lt;ref name=&quot;Lenton p13&quot;&gt; Lonton 1975, p.13.&lt;/ref&gt;。そのうち2隻は[[第二次世界大戦]]にも従軍した。その1隻、[[シュレスヴィヒ・ホルシュタイン (戦艦)|シュレスヴィヒ・ホルシュタイン]]は、ドイツのポーランド侵入の際、ポーランドの[[ヴェステルプラッテ]]岬を砲撃した。シュレスヴィヒ・ホルシュタインはその後戦争の大半を練習艦として過したが、修理中の[[1944年]]12月に沈没し、[[1945年]]1月にその位置で解体された。もう1隻の[[シュレジェン (戦艦)|シュレジェン]]は、1945年3月に触雷、沈没した&lt;ref name=&quot;Chesneau, p. 200.&quot;/&gt;。<br /> なお、第二次世界大戦においては、退役し、または武装を解かれた前弩級戦艦が、他にも数隻戦没している。[[ギリシャ]]の準弩級戦艦[[キルキス (戦艦)|キルキス]]と[[キルキス級戦艦|レムノス]]は、1914年にアメリカ海軍から購入したものだが、1941年のドイツ軍の[[ギリシャの戦い|ギリシャ侵攻]]の際に、就役していない状態で、ドイツ軍の[[急降下爆撃機]]により沈められた&lt;ref&gt;Chesneau, p. 404.&lt;/ref&gt;。太平洋では、アメリカ潜水艦[[サーモン (SS-182)|サーモン]]が、1942年5月に非武装の日本の前弩級戦艦[[朝日 (戦艦)|朝日]]を撃沈した。朝日は日本海海戦に参加したベテランで、当時[[工作艦]]として使われていた&lt;ref&gt;Jentschura, Jung, Mickel p. 18.&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> == 関連項目 ==<br /> * [[装甲艦]]<br /> * [[弩級戦艦]]<br /> * [[超弩級戦艦]]<br /> * [[蒸気船時代の海戦戦術]]<br /> <br /> == 脚注 ==<br /> {{Reflist|3}}<br /> <br /> == 出典 ==<br /> * Beeler, John, &#039;&#039;Birth of the Battleship: British Capital Ship Design 1870–1881&#039;&#039;. 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