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http:///mymemo.xyz/wiki/api.php?action=feedcontributions&user=240F%3A77%3A1036%3A1%3A7944%3AF6C2%3AE242%3AA111&feedformat=atom
miniwiki - 利用者の投稿記録 [ja]
2024-05-21T02:04:22Z
利用者の投稿記録
MediaWiki 1.31.0
衣笠祥雄
2018-09-08T07:04:53Z
<p>240F:77:1036:1:7944:F6C2:E242:A111: /* 野球 */</p>
<hr />
<div>{{画像提供依頼|顔写真|date=2017年4月|cat=人物}}<br />
{{Infobox baseball player<br />
|選手名 = 衣笠 祥雄<br />
|選手写真ファイル名 = <br />
|写真サイズ = <br />
|写真のコメント = <br />
|国籍 = {{JPN}}<br />
|出身地 = [[京都府]][[京都市]][[東山区]]<br />
|生年月日 = {{生年月日と年齢|1947|1|18|no}}<br />
|没年月日 = {{死亡年月日と没年齢|1947|1|18|2018|4|23}}<br />
|身長 = 175<br />
|体重 = 73<br />
|利き腕 = 右<br />
|打席 = 右<br />
|守備位置 = [[三塁手]]、[[一塁手]]<br />
|プロ入り年度 = 1965年<br />
|ドラフト順位 = <br />
|初出場 = 1965年5月16日<br />
|最終出場 = 1987年10月22日<br />
|経歴 = <br />
* [[龍谷大学付属平安中学校・高等学校|平安高等学校]]<br />
* [[広島東洋カープ|広島カープ<br />広島東洋カープ]] (1965 - 1987)<br />
|選出国 = 日本<br />
|選出年 = {{by|1996年}}<br />
|得票率 = <br />
|選出方法 = 競技者表彰<br />
}}<br />
'''衣笠 祥雄'''(きぬがさ さちお、[[1947年]][[1月18日]] - [[2018年]][[4月23日]]<ref name="nikkan180424">{{Cite web |date=2018-04-24 |url=https://www.nikkansports.com/baseball/news/201804240000356.html |title=“鉄人”衣笠祥雄氏が大腸がん死去、19日まで仕事 |publisher=日刊スポーツ |accessdate=2018-04-24}}</ref>)は、[[日本]]の[[プロ野球選手]]([[内野手]])。引退後は[[野球解説者]]・[[野球評論家]]・[[タレント]]。所属事務所は[[キャスト・プラス]]。[[広島東洋カープ]]オーナー付スタッフ。[[京都府]][[京都市]][[東山区]]馬町出身<ref>[https://mainichi.jp/articles/20180425/ddl/k26/050/383000c 衣笠祥雄さん死去 平安高出身 府内惜別の声「子供たちに夢与えた」/京都] 毎日新聞、2018年4月25日</ref><ref>『データバンクにっぽん人』、佐藤正弥編、現代書林、1982年、13頁</ref><ref>『限りなき挑戦』より、リポーターの山際淳司が出身地として馬町を取材するシーンを見ることができる(テロップでも馬町の名が表示されている)。馬町は[[京都女子大学]]付近に位置している。</ref>。旧名は'''衣笠 幸雄'''。愛称は「'''[[鉄人]]'''」。[[国民栄誉賞]]受賞者。息子は俳優の[[衣笠友章]]<ref>『テレビ・タレント人名事典』第6版(2004年、[[日外アソシエーツ]]編・発行/[[紀伊國屋書店]]発売)ISBN 9784816918520</ref>。<br />
<br />
連続[[試合]]出場記録日本記録・世界2位記録、連続フル[[イニング]]出場歴代3位、通算[[安打]]数歴代5位、通算[[本塁打]]数歴代7位(通算504本は[[張本勲]]とタイ)の記録保持者。[[赤ヘル打線]]の主砲として1970年代後半から1980年代の広島カープ黄金時代を築き上げる原動力となった選手の一人である<ref>[https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2018/04/25/kiji/20180425s00001173086000c.html 「鉄人」衣笠祥雄さん死去 赤ヘル黄金期支えたレジェンド ] スポニチアネックス、2018年4月25日。</ref><ref>[https://dot.asahi.com/wa/2018042700111.html?page=1 山本浩二、古葉竹織らが語る“鉄人”衣笠祥雄の真実「監督をしなかったことが残念」] AERA、2018年4月28日。</ref>。<br />
<br />
== 経歴 ==<br />
=== プロ入り前 ===<br />
[[進駐軍]]の兵士として日本に駐留中だった[[アフリカ系アメリカ人]]の父親と、[[日本人]]の母親の間に生まれた<ref>プロ野球を創った名選手・異色選手400人194p、[[新宮正春]]、米田厚彦、1999年、講談社、ISBN 978-4062645218</ref>。<br />
<br />
[[京都市立洛東中学校]]入学時には、柔道部に入りたかったが、中学に柔道部がなかったためやむなく野球部に入部した<ref>『限りなき挑戦』</ref>。[[1964年]]の[[龍谷大学付属平安中学校・高等学校|平安高等学校]]3年時、春の[[第36回選抜高等学校野球大会]]と夏の[[第46回全国高等学校野球選手権大会]]に[[捕手]]として出場し、いずれもベスト8の成績を残す。この時バッテリーを組んでいたのが、[[植木一智]](後に[[阪神タイガース|阪神]])であった。<br />
<br />
=== 現役時代 ===<br />
翌{{by|1965年}}、[[広島東洋カープ|広島カープ]]に入団。[[白石勝巳]][[プロ野球監督#NPB|監督]]の方針で内野手に転向。<br />
<br />
{{by|1968年}}から[[一塁手]]として一軍レギュラーに定着。1974年までの[[野球の背番号|背番号]]28から、「'''[[鉄人]]'''([[横山光輝]]の[[漫画]]『[[鉄人28号]]』より)」の愛称で親しまれており、またその愛称が示す通り、野球選手の中でも小柄な体格でありながら、正反対に飛び抜けて体が頑丈でもあった。負傷しても休まず試合に出場することも多く、その頑丈さで[[大相撲]]の幕内力士[[青葉城幸雄|青葉城]]と並び称されたこともある。<br />
<br />
{{by|1975年}}には[[ジョー・ルーツ]]監督によって「ウチには[[読売ジャイアンツ|巨人]]の[[長嶋茂雄]]を越える[[三塁手]]がいるじゃないか」と励まされ、三塁手に[[コンバート (野球)|コンバート]]される<ref name="tokyo2018425" >[http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/201804/CK2018042502000133.html 偉業 2215試合連続出場 衣笠祥雄さん死去 骨折中も休まず] 東京新聞、2018年4月25日。</ref>(本当は[[ゲイル・ホプキンス]]が「一塁手がいい」と言ったのがコンバートの原因だった)<ref>ナンバー[[豪打列伝2]] P.95~96</ref>。この年、5番打者として4番の[[山本浩二]]と共に[[クリーンナップ]]の一翼を担い、球団初の[[セントラル・リーグ]]優勝に大きく貢献した。特に、[[1975年のオールスターゲーム (日本プロ野球)|オールスターゲーム]]における山本との二打席連続アベック[[本塁打]]は、オールスター屈指の名場面として語り草になっている<ref name="tokyo2018425" /><ref>[http://www.hochi.co.jp/baseball/npb/20180428-OHT1T50280.html 【掛布雅之氏特別観戦記】広島・菊池に若き日の衣笠さんの野性味を見た] スポーツ報知、2018年4月29日。</ref>。<br />
<br />
{{by|1976年}}に[[最多盗塁 (日本プロ野球)|盗塁王]]のタイトルを獲得。<br />
<br />
{{by|1970年}}10月19日の対巨人戦から始まった連続試合出場記録であったが、{{by|1979年}}はシーズン序盤から極度の不振に陥った。5月27日の時点で[[打率]]が.198と落ち込んだために[[古葉竹識]]監督が翌28日の試合に先発メンバーから外す決断に踏み切った。このために[[三宅秀史]]が保持していた700試合の連続フルイニング出場日本プロ野球記録はあと22試合というところで断念させられた。[[江夏豊]]の著書によると、この時スタメンを外されることが決定した衣笠の荒れようは凄まじいものがあり、手当たり次第に物を投げ飛ばしたという<ref>江夏豊[[左腕の誇り]] P.292</ref>。この年は[[代打]]、[[代走]]、[[守備固め]]による途中からの試合出場が21試合もあった。8月1日の対巨人戦では[[西本聖]]から[[死球]]を受け、左の[[肩甲骨]]を骨折する重傷を負ってしまう。全治2週間と診断が下され、1122試合で連続試合出場記録がストップしてしまう危機が訪れたが、翌2日の試合で代打として姿を見せた<ref name="118-121">宇佐美徹也[[プロ野球データブック]] P.118~121</ref>。[[江川卓 (野球)|江川卓]]の投球にフルスイングで挑んで三球三振という記録を残した。試合後には「1球目はファンのために、2球目は自分のために、3球目は西本君のためにスイングしました」「それにしても江川君の球は速かった」とコメントしている。衣笠が代打で打席に登場した瞬間、広島ファンのみならず、巨人ファン・ベンチからも大きな拍手が起こった。続く3日の試合では2番三塁手としてフル出場をして、その不死身ぶりで周囲を驚愕させた<ref name="118-121" />。<br />
<br />
{{by|1980年}}7月29日の対[[東京ヤクルトスワローズ|ヤクルト]]戦は[[飯田徳治]]の保持する1246試合の連続試合出場記録に並ぶはずの試合だったが、5回裏に降雨が激しくなり、[[ノーゲーム]]が宣告された。もう1日雨で延びた後の31日に改めてタイ記録、8月2日の対巨人戦で飯田を抜く1247試合の連続試合出場の日本プロ野球記録が達成された<ref name="118-121" />。<br />
<br />
{{by|1982年}}も12年連続全試合出場を果たし、[[王貞治]]の皆勤11シーズンの記録を破った<ref name="118-121" />。<br />
<br />
{{by|1983年}}4月9日の開幕戦の対[[中日ドラゴンズ|中日]]戦では[[堂上照]]から満塁本塁打を放ち、同年は3本の満塁打を放った。8月9日の対[[阪神タイガース|阪神]]戦で史上16人目となる通算2000本[[安打]]を達成。[[日本プロ野球名球会]]会員となる。<br />
<br />
{{by|1984年}}には37歳にして自己最高の打率.329・31本塁打・102打点の成績を残した。[[最多打点 (日本プロ野球)|打点王]]を獲得し、同年のチームのリーグ優勝・[[1984年の日本シリーズ|日本シリーズ]]制覇に伴って[[最優秀選手 (野球)|MVP]]にも輝いた。<br />
<br />
{{by|1986年}}6月7日の対阪神戦で2000試合連続出場を達成したが、この時点で打率は.224と低迷。7月の月間打率は.188(64[[打数]]12安打)、8月の月間打率は.145(83打数12安打)。7月29日から8月3日までの無安打でついに打率は1割台に転落してしまい、チームもほぼ同時期に首位の座を巨人に譲った。ベンチは衣笠の打順を5番から6番、更には7番と下げながら、それでも使い続けた。終盤は盛り返して優勝したが、苦戦の一つの原因となってしまった<ref name="118-121" />。<br />
<br />
[[メジャーリーグベースボール]]の[[ルー・ゲーリッグ]]が保持する2130試合連続試合出場世界記録まであと45試合まで迫り、{{by|1987年}}の開幕を迎えることとなった。開幕戦は4打数3安打の[[猛打賞]]、2戦目は[[勝利打点]]を叩き出すなど好調な滑り出しとなった<ref name="118-121" />。6月11日の対[[横浜DeNAベイスターズ|大洋]]戦でついにゲーリッグの記録に並んだ。[[6月13日]]の対[[中日ドラゴンズ|中日]]戦で2131試合に到達。この試合で[[小松辰雄]]から左翼へ8号本塁打を放って記録に花を添え、[[広島市民球場 (初代)|広島市民球場]]を満員にした地元ファンの祝福に応えた<ref>[http://www.sponichi.co.jp/baseball/special/calender/calender_10june/KFullNormal20100601211.html ついに2131試合 衣笠祥雄 世界記録に自ら祝砲] - スポニチアネックス 日めくりプロ野球 2010年6月配信</ref>。[[6月22日]]に王貞治に次いでプロ野球選手として2人目の[[国民栄誉賞]]を授与された。9月21日には満足に守備が出来なくなった事を理由に現役引退を表明した。最終出場試合となった対大洋戦の[[10月22日]]に2215試合連続出場を果たした。この試合では2回に[[新浦寿夫]]から先制の17号2点本塁打を放ち、3回にも[[二塁打]]を叩き、ベンチへ退いた<ref name="118-121" />。功績を讃え、1975年から衣笠のつけていた背番号「'''3'''」はカープの[[野球界の永久欠番|永久欠番]]となっている。<br />
<br />
同時代のチームメイトに[[山本浩二]]という強打者がおり、引退後も鉄人のイメージが付きまとっているためか、今では連続試合出場記録以外の話題を採り上げられることは少ないが、長期に亘って安定した打撃成績を残し、通算安打2543本(歴代5位で[[福本豊]]と同数)、通算本塁打504本(歴代7位で[[張本勲]]と同数)、通算[[打点]]1448(歴代10位)、通算[[得点]]1372(歴代5位)を記録している。また、1976年に盗塁王を獲得するなど史上3人しかいない500本塁打、200盗塁(他は張本、山本)を記録し、ゴールデングラブ賞を3度受賞した屈指のオールラウンド・プレーヤーでもある。山本・衣笠の'''[[YK砲]]'''は球史に残る強力なコンビであった。2人のアベック本塁打は86本を数え、巨人の王貞治・[[長嶋茂雄]]([[ON砲]])の106本に次ぐ日本プロ野球史上2位である。<br />
<br />
=== 引退後 ===<br />
引退後は、[[1988年]]から[[東京放送ホールディングス|東京放送]](TBS。その後、企業再編により[[TBSラジオ|TBSラジオ&コミュニケーションズ→TBSラジオ]]<ref>2016年4月1日に商号変更。</ref>と[[TBSテレビ]]に分立)の[[野球解説者]]を務める<ref>『TBS50年史』資料編P234掲載の「主なスポーツ番組解説者」においても、1988年から2001年現在のプロ野球解説者としてリスト内に明記されている。</ref>。一方で、[[朝日新聞社]]嘱託(1988年 - 2017年1月)で運動面のコラムを受け持つ他、タレント活動も展開。[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]系『[[午後は○○おもいッきりテレビ]]』の[[コメンテーター]]として出演したほか、広範にわたる洋楽の知識を生かし、自らが選曲とパーソナリティを手掛ける音楽番組『鉄人ミュージック』がTBSラジオで不定期に放送された<ref>{{Cite news|url=https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2018/04/25/kiji/20180424s00041000451000c.html|title=衣笠さん 球界一の洋楽通だった 絶妙センス“ブルーノ・マーズ+江夏の21球”|work=Sponichi Annex|newspaper=[[スポーツニッポン]]|date=2018-04-25|accessdate=2018-08-03}}</ref>。また[[ソニー]]の[[パーソナルコンピュータ|PC]]・[[VAIO]]のユーザーであり、「[http://www.vaio.sony.co.jp/Products/Concept/VOM/Main/index.html VAIO OWNERS:達人の選択]{{リンク切れ|date=2013年2月}}」でVAIO愛好家としても紹介されている。<br />
<br />
現役時代から引退後にかけて、[[広島県]][[呉市]]にある[[味噌]]メーカー「ますやみそ」の[[コマーシャルメッセージ|CM]]キャラクターを務めていた。<br />
<br />
引退後は球団の監督もコーチもやることはなかった。衣笠は新聞社の取材にてその理由を問われ、自分一人ではどうこうできない人間関係の問題であることを示唆している<ref>{{Cite news|url=https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2018/04/25/kiji/20180425s00001173074000c.html|title=衣笠氏、監督もコーチもしない「理由」 ぎりぎりの本音に感謝|work=Sponichi Annex|newspaper=[[スポーツニッポン]]|date=2018-04-25|accessdate=2018-05-08}}</ref>。<br />
<br />
{{by|1996年}}、[[野球殿堂 (日本)|野球殿堂]]入り。<br />
<br />
=== 死去 ===<br />
[[2018年]]4月23日、[[大腸癌|上行結腸がん]]のため死去した<ref name="nikkan180424"/>。{{没年齢|1947|1|18|2018|4|23}}。<br />
<br />
死去4日前の19日に[[BS-TBS]]と[[TBSチャンネル2]]で生放送された[[横浜DeNAベイスターズ]]対[[読売ジャイアンツ]]戦([[横浜スタジアム]])で解説を行ったのが最後のメディア出演となった。2017年頃から解説における衣笠の声のかすれが心配されており、この日の放送でも画面に映る衣笠の表情が硬く時折声が聞き取れない部分もあったため<ref>{{Cite news|url=https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2018/04/24/kiji/20180424s00001173175000c.html|title=衣笠祥雄さん死去 今月19日に解説したばかり 声かすれ ネット上では心配の声も|newspaper=スポニチアネックス|publisher=スポーツニッポン|accessdate=2018-05-15}}</ref>、視聴者らが衣笠の声の異変や体調を不安視していた矢先の訃報であった<ref>[https://www.j-cast.com/2018/04/20326714.html 衣笠祥雄、異様な「かすれ声」に心配続出 テレビ局・事務所に聞くと...] J-CASTニュース、2018年4月20日、2018年4月24日閲覧</ref>。TBSも衣笠の体調を考慮しこの日の中継は急遽[[槙原寛己]]とのダブル解説体制としていた。その槙原もこの日の衣笠は体調が思わしくなくなかなか声が出ない状態だったと語っている<ref>[https://www.daily.co.jp/baseball/2018/04/24/0011193402.shtml 衣笠氏と最後に解説の槙原氏「本当に声が出なかった、喋りたくても喋れない…」] デイリースポーツ、2018年4月24日</ref>。なお本人の希望もあり4月26日にも同局で解説者として出演する予定だったという。<br />
<br />
同年4月28日から4月30日まで、広島球団は対[[阪神タイガース]]との3連戦([[MAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島]])を衣笠の追悼試合とし、広島の監督・コーチ・選手・スタッフが喪章を着用して試合に臨んだ<ref>[http://www.carp.co.jp/news18/n-088.html 4月28日(土)~30日(休) 阪神戦について] 広島東洋カープ公式サイト</ref>。28日の試合前には[[黙祷]]が捧げられた<ref>[https://mainichi.jp/articles/20180428/k00/00e/050/326000c プロ野球:背番号「3」で黙とう 衣笠さん追悼試合 広島] 毎日新聞、2018年4月28日</ref>。<br />
<br />
== 逸話 ==<br />
[[ファイル:衣笠祥雄 連続試合出場記録 石碑01.JPG|300px|thumb|right|衣笠祥雄 連続試合出場記録 石碑([[広島市]][[中区 (広島市)|中区]]・[[広島市民球場 (初代)|旧広島市民球場跡地]]敷地内)]]<br />
===人物===<br />
「野球選手になったら、でかい家を買って綺麗な女と結婚する」と夢見ていた衣笠少年は、入団時の契約金で[[第一種運転免許|自動車免許]]を取り、フルサイズのアメリカ車[[フォード・ギャラクシー]]を購入した。当時のカープは創立十数年の貧乏球団であり、[[長谷川良平]]監督やコーチ・主力選手が乗っているのは大半が[[マツダ]]車で、中には[[自転車]]通勤の者も珍しくなかった<ref><br />
[https://www.daily.co.jp/baseball/2018/04/25/0011195535.shtml 安仁屋宗八氏 衣笠氏訃報に「鉄人なんだから元気でいてほしかった」] デイリースポーツ、2018年4月25日。</ref>。そんなチーム状況を横目に気ままにアメリカ車を乗り回していたが、何度となく事故を起こし、最終的には免許を剥奪された<ref name="tokyo2018425" />。<br />
<br />
[[1960年代]]後半、[[ベトナム戦争]]の泥沼化に伴い、[[アメリカ軍|米軍]][[岩国飛行場|岩国基地]]は前線基地となっていた。基地周辺は兵隊で溢れ、飲み屋やゴーゴークラブなど飲食店が大いに賑わっていた。衣笠はよく車で約1時間かけて岩国基地まで遊びに行き、現地で仲良くなった兵隊達とよく飲み明かしていた。そんなある日、いつものように一緒に飲んでいた米兵の友人に「明日[[ベトナム]]へ行くんだ」と告げられる。衣笠はこの言葉に大きなショックを受け、好きな野球をやりながら遊び回る自身を恥じ、以後野球に真剣に打ち込むようになったという<ref name="tokyo2018425" /><ref>[https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2018/04/25/kiji/20180424s00041000421000c.html 衣笠氏 思い知った野球できる幸せ…ベトナム戦争時、死覚悟の米兵に「目覚めた」 ] スポニチアネックス、2018年4月25日。</ref>。<br />
<br />
[[1970年]]、最大の恩師というべき[[関根潤三]]が打撃コーチとして広島に入団。[[根本陸夫]]監督は「衣笠をリーグを代表する打者にしてくれ」と頼み、それを受けて関根は、衣笠にマンツー・マンの過酷な練習を課した<ref name="tokyo2018425" />。朝・昼・夜の練習が終わり、他の選手が休んだり遊びに行ったりする時間に入っても、更に宿舎の屋上でバットを振らせていた。あまりにも厳しい練習に耐えかね、ある晩衣笠は、関根を無視して飲みに出かけた。そして夜中の3時過ぎ、もうそろそろいいだろうと宿舎に帰ってくると、なんと玄関で関根が待ち構えていた<ref>[https://www.zakzak.co.jp/spo/news/180426/spo1804260006-n2.html 衣笠さん、豪快すぎる鉄人伝説 深夜2時に泥酔パンツ一丁で素振り… (2/3ページ)] ZAKZAK、2018年4月25日。</ref>。関根は怒りもせずに「さあやるぞ」とバットを手渡し、観念した衣笠は泣きながら朝まで素振りを続けたが、関根は[[2008年]][[9月27日]]の[[フジテレビONE|フジテレビ739]]『[[プロ野球ニュース]]』において「素振りさせたけど、最初は反抗的な目だったからこっちも意地になって朝まで付き合った」と語っている。後年衣笠の[[野球殿堂 (日本)|野球殿堂]]入りが決まった時、関根は『プロ野球ニュース』に出演し、この時の出来事を思い出話として披露。「いやあ、あの頃はボクも若かった」と照れ笑いを浮かべていた。<br />
<br />
{{by|1979年}}の「[[江夏の21球]]」で知られる[[1979年の日本シリーズ|日本シリーズ]](対[[大阪近鉄バファローズ|近鉄バファローズ]])第7戦では、9回裏の近鉄の攻撃の際にブルペンでリリーフ投手を用意させていた古葉竹識監督の采配に不満を抱きモチベーションが上がらない江夏を「お前がやめるなら俺も一緒にやめてやる」となだめた<ref>[http://www.hochi.co.jp/baseball/npb/20180424-OHT1T50314.html 衣笠祥雄さんなくして「江夏の21球」はあり得なかった] スポーツ報知、2018年4月25日。</ref><ref>[https://www.tokyo-sports.co.jp/sports/baseball/991000/ 【急逝・衣笠氏追悼秘話】「江夏の21球」生んだ鉄人の気配り] 東京スポーツ、2018年4月25日。</ref><ref>[http://number.bunshun.jp/articles/-/12049 名作ノンフィクション 「江夏の21球」はこうして生まれた 【連載第2回】] Sports Graphic Number、2009年4月2日。</ref>。[[ビーエス朝日|BS朝日]]『[[ザ・インタビュー〜トップランナーの肖像〜]]』でこの場面を振り返り、「江夏が怒っているのはよく分かったが、どうしても勝ちたくて、江夏に何を言ったら効果的か、マウンドに行く間、考えていた」と話した<ref>[http://archives.bs-asahi.co.jp/interview/prg_097.html 『ザ・インタビュー〜トップランナーの肖像〜』バックナンバー10月10日(土) ゲスト:衣笠祥雄(野球解説者)]</ref><ref>[https://kadobun.jp/talks/17/045b156b?per_page=72 【『江夏の21球』対談 衣笠祥雄 後編】 | カドブン] カドブン、2017年7月21日。</ref>。広島でチームメイトになった江夏とは無二の親友で、プライベートでは常に行動を共にしていた<ref>[https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2018/04/25/kiji/20180424s00001173497000c.html 江夏氏、衣笠氏の一言で生まれた「21球」…訃報に沈痛「宝物だった」] スポニチアネックス、2018年4月25日。</ref>。<br />
<br />
極度の[[偏食]]で、魚が苦手で肉しか食べられない<ref>[https://www.tokyo-sports.co.jp/sports/baseball/990646/ 【追悼 衣笠祥雄氏】華麗なる文化人との交流 文壇バーの常連だった ] 東京スポーツ、2018年4月25日。</ref>。[[下柳剛]]との酒の席では「野菜食べないで大丈夫なんですか?」と心配する下柳を'''「野菜は牛が食うとる」'''と一蹴したという<ref>[[ガンバレ日本プロ野球!?]]([[J SPORTS]])2011-2012シーズン・第6回放送での下柳の発言。</ref><ref>[[村田修一]]も『[[ズームイン!!サタデー]]』(「プロ野球熱ケツ情報」2017年6月24日放送分)にて同様の発言をしている。</ref>。<br />
<br />
無類の[[ワイン]]好きであり、高価なワインを多数所蔵していたが、ドクターストップをかけられていたこともある。<br />
<br />
===野球===<br />
現役時代は「当てる」バッティングを全くせず、常にフルスイングで打席に臨んでいた。そのため本塁打や[[打点]]が多い反面、[[三振]]や凡打も多く、これほどの通算成績を残しているにも関わらず、シーズンを通して打率が3割以上はたった1度([[1984年]])しかない。通算三振数は1587個(当時日本記録)、通算[[併殺打]]は267(セ・リーグ記録)に上る。ただし、現在の三振数歴代1位(1955個)の[[清原和博]]が実働22年で100三振以上のシーズンが9回あったのに対し、衣笠は1回もなく(最多は80、82、83年の89個)、三振数がリーグ最多となったのも70年(81個)の1回しかない(清原は3回)。<br />
<br />
シーズン打率3割到達経験なしの通算2000安打達成者は[[柴田勲]]、[[田中幸雄 (内野手)|田中幸雄]]の2名のみだが、2000安打達成時点であれば衣笠も含まれる。唯一の3割到達シーズン(1984年)が2000安打達成後のためである。また、打点王と盗塁王のタイトル獲得経験がある数少ない選手である(他の該当者は[[飯田徳治]]と[[イチロー]]の2人のみ)。<br />
<br />
元[[阪神タイガース]]の[[江本孟紀]]は、現役時代の衣笠について「打者の目の高さに投げた明らかなボール球にもフルスイングする。当たれば確実に本塁打になるだけに、全く気が抜けなかった」と語っている。また江本は、衣笠から自身通算1000個目となる三振を奪っているが、偶然にもそれは、衣笠にとっても通算1000個目となる三振であった。<br />
<br />
その一方で球史に残る強打者でありながら通算[[犠打]]数は88と、本塁打を500本以上を記録した打者の中でも突出して多い<ref>2位は山本浩二の49であり、他の打者は軒並み10以下である</ref>。衣笠がチームプレイに徹していた証左でもある。<br />
<br />
通算被死球161は日本プロ野球史上3位だが、振る舞いは非常に紳士的であった。どんなに危険で痛い死球を受けても、怒るどころか左手で「いいよ、大丈夫だから」と逆に相手投手を気遣いながら一塁へ向かっていた。1979年8月1日の対[[読売ジャイアンツ|巨人]]戦で[[西本聖]]から死球を受け乱闘騒ぎになった際、西本が衣笠の元へ謝りに近寄っていったところ「危ないからベンチに下がっていろ」と言われ、西本は衣笠の器の大きさを感じたと語っている。[[大島康徳]]は「ただ一人だけ、僕がそういうとき(死球や危ない球が来たとき)の対応で、すごいな、カッコいいなと思ったのが広島の衣笠祥雄さんです。あの人は危ない球だろうが、当てられようが、ほとんど顔色を変えず、当たったときもその個所を手でサッとはらい、タタタッと一塁に向かった。ダンディでしたね。もちろん、衣笠さんは避け方もうまかった。逃げるのが下手な選手なら、あんなに当てられているうちに何度も大ケガをしてますよ。」と述べている<ref>[[週刊ベースボール]]2018年9月10日号大島流『危険球に負けない方法』【大島康徳の負くっか魂!!第75回】、78-79頁</ref>。<br />
<br />
連続試合出場の世界記録を更新した時、「いつか、誰かにこの記録を破ってほしい。この記録の偉大さが本当にわかるのは、その人だけだろうから」という言葉を残した。衣笠の記録は[[アメリカ合衆国|アメリカ]]でも非常に高く評価されており、現在でも「キヌガサ」は、アメリカで最も名前の知られている日本人野球選手の一人である。[[1996年]][[6月14日]]に[[カル・リプケン|カル・リプケン・ジュニア]]([[ボルチモア・オリオールズ|オリオールズ]])が記録を更新した試合にも、来賓としてアメリカに招かれた。また、[[人間国宝]]の[[藤原雄]]と親しく、上記の試合のとき藤原が作った[[備前焼]]をリプケンに手渡している。<br />
<br />
本人は自分の記録を抜いてくれたことを非常に喜んでいたといい、後々リプケンとは親友にもなった。<br />
<br />
一方、衣笠の世界記録更新の前後には、「記録作りのために出場しているだけ」「監督・コーチの温情」と批判する野球ファンも少なからず存在した。[[1986年]]以降は成績が振るわなかった(試合にフル出場せず、中盤で交代することも多かった)ことと、1979年当時、三宅秀史が持っていた700試合連続フルイニング出場の記録にあと22試合まで迫りながら、極度のスランプのためスタメンから外されたことがあるという前例が、そのような批判の根拠である。<br />
<br />
[[広島市民球場 (初代)|広島市民球場]]の敷地内には、連続出場記録を記念した碑がある。また、[[長崎県]][[長崎市]]布巻町(旧:三和町)の元宮公園には、衣笠の業績を称えて名付けられた「衣笠球場」がある。<br />
<br />
[[NHKスペシャル|NHK特集]]で放送された『17年間休まなかった男 衣笠祥雄の野球人生』で自宅で夫人と共にインタビューを受けた際、自宅では[[新聞|一般紙]]は読むが[[スポーツ新聞|スポーツ紙]]を読まなかった([[新聞販売店]]のスポーツ紙の勧誘も断っていた事を夫人が明かしていた)。理由はスポーツ新聞によって野球に追っかけられている気がするためである。また、一般紙だとスポーツ欄がわずかで政治・経済などを知ることが出来るから野球を連想させる事が無く考えずに済むからだという。<br />
<br />
[[田淵幸一]]([[阪神タイガース|阪神]])が1970年8月26日の対広島戦([[阪神甲子園球場]])で[[外木場義郎]]から左こめかみに死球を受けて病院へ搬送されるほどの重傷を負ったことをきっかけとして、安全対策から[[日本野球機構]]が耳あて付きヘルメットの導入を決めた際には、衣笠は「視界が遮られ、逆に頭部付近のボールから逃げられなくなる」と反対した。この主張が認められ、プロで一定年数活躍した選手には例外的に耳なしヘルメットが認められた<ref>[http://gendai.ismedia.jp/articles/-/36066?page=2 二宮清純「田淵幸一、“頭部死球”の産物」] 現代ビジネス 2013年6月7日付</ref>。<br />
<br />
== 詳細情報 ==<br />
=== 年度別打撃成績 ===<br />
{| {{年度別打撃成績|リーグ=日本プロ野球}}<br />
|-<br />
|style="text-align: center;"|{{by2|1965}}<br />
|rowspan="23" style="text-align: center;white-space:nowrap;"|[[広島東洋カープ|広島]]<br />
|28||46||44||3||7||1||0||1||11||2||0||0||1||0||0||0||1||4||1||.159||.178||.250||.428<br />
|-<br />
|style="text-align: center;"|{{by2|1966}}<br />
|32||40||34||3||5||3||1||0||10||2||1||0||0||0||4||0||2||9||1||.147||.275||.294||.569<br />
|-<br />
|style="text-align: center;"|{{by2|1967}}<br />
|28||52||48||6||12||2||0||2||20||5||1||1||0||0||3||0||1||13||2||.250||.308||.417||.724<br />
|-<br />
|style="text-align: center;"|{{by2|1968}}<br />
|127||463||395||52||109||19||2||21||195||58||11||4||1||2||54||0||11||76||11||.276||.377||.494||.872<br />
|-<br />
|style="text-align: center;"|{{by2|1969}}<br />
|126||485||428||43||107||12||0||15||164||46||32||'''15'''||5||1||40||1||11||73||'''17'''||.250||.330||.383||.713<br />
|-<br />
|style="text-align: center;"|{{by2|1970}}<br />
|126||459||406||44||102||10||3||19||175||57||13||5||2||1||42||3||8||'''81'''||14||.251||.333||.431||.764<br />
|-<br />
|style="text-align: center;"|{{by2|1971}}<br />
|'''130'''||543||460||72||131||18||2||27||234||82||12||11||2||2||64||3||'''15'''||71||10||.285||.390||.509||.898<br />
|-<br />
|style="text-align: center;"|{{by2|1972}}<br />
|'''130'''||565||498||67||'''147'''||18||1||29||254||99||12||7||0||6||49||5||12||77||16||.295||.372||.510||.882<br />
|-<br />
|style="text-align: center;"|{{by2|1973}}<br />
|'''130'''||529||454||52||94||12||1||19||165||53||6||3||4||3||65||6||3||73||17||.207||.310||.363||.674<br />
|-<br />
|style="text-align: center;"|{{by2|1974}}<br />
|'''130'''||529||471||72||119||10||1||32||227||86||7||5||0||4||48||2||6||78||14||.253||.330||.482||.811<br />
|-<br />
|style="text-align: center;"|{{by2|1975}}<br />
|'''130'''||532||479||66||132||22||1||21||219||71||18||4||0||4||44||2||5||61||21||.276||.343||.457||.800<br />
|-<br />
|style="text-align: center;"|{{by2|1976}}<br />
|'''130'''||569||'''522'''||82||156||26||2||26||264||69||'''31'''||'''14'''||5||1||31||2||'''10'''||84||'''19'''||.299||.350||.506||.856<br />
|-<br />
|style="text-align: center;"|{{by2|1977}}<br />
|'''130'''||'''582'''||514||88||136||22||2||25||237||67||28||'''15'''||8||1||53||1||6||81||11||.265||.340||.461||.801<br />
|-<br />
|style="text-align: center;"|{{by2|1978}}<br />
|'''130'''||547||461||81||123||18||1||30||233||87||9||13||2||4||69||8||'''11'''||83||14||.267||.375||.505||.881<br />
|-<br />
|style="text-align: center;"|{{by2|1979}}<br />
|'''130'''||478||410||82||114||21||2||20||199||57||15||4||4||0||55||4||9||72||9||.278||.376||.485||.861<br />
|-<br />
|style="text-align: center;"|{{by2|1980}}<br />
|'''130'''||549||489||79||144||20||0||31||257||85||16||6||6||2||42||2||'''10'''||89||6||.294||.362||.526||.888<br />
|-<br />
|style="text-align: center;"|{{by2|1981}}<br />
|'''130'''||553||495||82||134||23||2||30||251||72||7||7||8||2||40||3||8||83||'''16'''||.271||.335||.507||.842<br />
|-<br />
|style="text-align: center;"|{{by2|1982}}<br />
|'''130'''||551||483||74||135||22||0||29||244||74||12||2||12||2||44||0||'''10'''||89||10||.280||.352||.505||.857<br />
|-<br />
|style="text-align: center;"|{{by2|1983}}<br />
|'''130'''||557||496||86||145||25||1||27||253||84||8||4||6||2||49||4||4||89||10||.292||.361||.510||.871<br />
|-<br />
|style="text-align: center;"|{{by2|1984}}<br />
|'''130'''||542||490||79||161||25||1||31||281||'''102'''||11||1||6||'''7'''||34||2||5||83||13||.329||.378||.573||.952<br />
|-<br />
|style="text-align: center;"|{{by2|1985}}<br />
|'''130'''||540||480||77||140||16||0||28||240||83||10||5||6||5||46||2||3||77||12||.292||.354||.500||.854<br />
|-<br />
|style="text-align: center;"|{{by2|1986}}<br />
|'''130'''||520||477||42||98||11||0||24||181||59||4||2||4||0||32||2||'''7'''||80||10||.205||.266||.379||.645<br />
|-<br />
|style="text-align: center;"|{{by2|1987}}<br />
|'''130'''||403||370||40||92||17||0||17||160||48||2||2||6||1||23||3||3||61||13||.249||.297||.432||.730<br />
|-<br />
!colspan="2"|通算:23年<br />
|2677||10634||9404||1372||2543||373||23||504||4474||1448||266||130||88||50||931||55||161||1587||267||.270||.345||.476||.820<br />
|}<br />
* 各年度の'''太字'''はリーグ最高<br />
<br />
=== タイトル ===<br />
* [[最多打点 (日本プロ野球)|打点王]]:1回 (1984年)<br />
* [[最多盗塁 (日本プロ野球)|盗塁王]]:1回 (1976年)<br />
* [[最多安打 (日本プロ野球)|最多安打]](当時連盟表彰なし):1回 (1972年) ※1994年より表彰<br />
<br />
=== 表彰 ===<br />
* [[最優秀選手 (日本プロ野球)|MVP]]:1回 (1984年)<br />
* [[ベストナイン (日本プロ野球)|ベストナイン]]:3回 (1975年、1980年、1984年)<br />
* [[ゴールデングラブ賞]]:3回 (1980年、1984年、1986年)<br />
* [[月間MVP (日本プロ野球)|月間MVP]]:4回 (1975年6月、1979年9月、1982年6月、1983年7月)<br />
* [[正力松太郎賞]]:1回 (1984年)<br />
* [[日本プロスポーツ大賞]]<br />
** 大賞:1回 (1984年)<br />
** 殊勲賞:1回 (1987年)<br />
* [[国民栄誉賞]] (1987年)<br />
* [[広島県|広島県民栄誉賞]] (1987年)<br />
* [[京都市|京都市市民栄誉賞]] (1987年)<ref>{{Cite web|url=http://www.city.kyoto.lg.jp/sogo/page/0000090694.html|title=京都市市民栄誉賞|publisher=[[京都市]]|work=|date=|accessdate=2017-12-04}}</ref><br />
* [[新語・流行語大賞]] 特別賞 (1987年、「鉄人」)<br />
* [[野球殿堂 (日本)|野球殿堂]]競技者表彰(1996年)<br />
<br />
=== 記録 ===<br />
; 初記録<br />
* 初出場:1965年5月16日、対[[中日ドラゴンズ]]7回戦([[ナゴヤ球場|中日スタヂアム]])、9回表に佐々木勝利の代打で出場<br />
* 初先発出場:1965年7月25日、対[[横浜DeNAベイスターズ|大洋ホエールズ]]15回戦([[広島市民球場 (初代)|広島市民球場]])、8番・[[捕手]]で先発出場<br />
* 初安打:同上、3回裏に[[及川宣士]]から<br />
* 初得点:同上、3回裏に[[興津立雄]]の2点適時二塁打で記録<br />
* 初本塁打・初打点: 1965年8月22日、対[[阪神タイガース]]15回戦(広島市民球場)、3回裏に[[村山実]]からソロ <br />
; 節目の記録<br />
* 100本塁打:1972年7月18日、対阪神タイガース14回戦([[岡山県野球場]])、3回裏に[[江夏豊]]から左越2ラン ※史上35人目<br />
* 150本塁打:1974年6月9日、対中日ドラゴンズ9回戦(中日スタヂアム)、8回表に[[三沢淳]]から左越逆転決勝3ラン ※史上68人目<br />
* 1000試合出場:1975年4月24日、対大洋ホエールズ3回戦(広島市民球場)、5番・[[三塁手]]で先発出場 ※史上178人目<br />
* 1000本安打:1976年5月22日、対中日ドラゴンズ7回戦(ナゴヤ球場)、4回表に三沢淳から中前安打 ※史上95人目<br />
* 200本塁打:1976年8月28日、対大洋ホエールズ20回戦(川崎球場)、1回表に[[根本隆]]から中越先制ソロ ※史上25人目<br />
* 250本塁打:1978年6月8日、対横浜大洋ホエールズ9回戦(川崎球場)、2回表に[[田村政雄]]から先制2ラン ※史上14人目<br />
* 1500試合出場:1978年9月25日、対[[東京ヤクルトスワローズ|ヤクルトスワローズ]]24回戦(広島市民球場)、7番・三塁手で先発出場 ※史上60人目<br />
* 1500本安打:1980年4月9日、対横浜大洋ホエールズ2回戦(広島市民球場)、3回裏に[[野村収]]から中前安打 ※史上37人目<br />
* 300本塁打:1980年6月1日、対中日ドラゴンズ9回戦(広島市民球場)、1回裏に[[藤沢公也]]から左中間へ先制ソロ ※史上13人目 <br />
* 1000三振:1980年9月6日、対阪神タイガース18回戦(広島市民球場)、1回裏に[[江本孟紀]]から ※史上6人目<br />
* 3000塁打:1981年7月21日、対阪神タイガース14回戦(阪神甲子園球場)、2回表に[[工藤一彦]]からソロ ※史上17人目<br />
* 1000打点:1982年4月4日、対中日ドラゴンズ1回戦(広島市民球場)、7回裏に[[水谷啓昭]]から2ラン ※史上14人目<br />
* 350本塁打:1982年4月10日、対横浜大洋ホエールズ2回戦(広島市民球場)、4回裏に野村収から左越3ラン ※史上11人目<br />
* 1000得点:1982年6月4日、対[[読売ジャイアンツ]]10回戦(広島市民球場)、5回裏に[[山本浩二]]の適時打で生還し記録 ※17人目 <br />
* 2000試合出場:1982年8月29日、対阪神タイガース24回戦([[阪神甲子園球場]])、6番・三塁手で先発出場 ※史上18人目 <br />
* 3500塁打:1983年7月10日、対阪神タイガース13回戦(阪神甲子園球場)、2回表に工藤一彦から左中間へ先制ソロ ※史上12人目<br />
* 2000本安打:1983年8月9日、対阪神タイガース14回戦(広島市民球場)、5回裏に[[小林繁]]から左前安打 ※史上16人目<br />
* 300二塁打:1983年9月1日、対阪神タイガース19回戦(阪神甲子園球場)、4回表に[[野村収]]から ※史上24人目<br />
* 400本塁打:1983年9月15日、対ヤクルトスワローズ23回戦([[明治神宮野球場]])、4回表に[[宮本賢治]]から左越ソロ ※史上9人目 <br />
* 4000塁打:1985年7月5日、対阪神タイガース10回戦(阪神甲子園球場)、6回表に[[福間納]]から左中間二塁打 ※史上9人目<br />
* 450本塁打:同上、8回表に[[山本和行]]から左越ソロ ※史上8人目<br />
* 350二塁打:1986年5月11日、対読売ジャイアンツ7回戦(広島市民球場)、4回裏に[[西本聖]]から右翼線二塁打 ※史上16人目<br />
* 2500試合出場:1986年8月10日、対中日ドラゴンズ15回戦(広島市民球場)、3番・[[一塁手]]で先発出場 ※史上4人目<br />
* 1500三振:同上、7回裏に[[都裕次郎]]から ※史上初<br />
* 2500本安打:1987年6月14日、対中日ドラゴンズ11回戦([[徳山市野球場]])、4回裏に[[江本晃一]]から左越ソロ ※史上4人目<br />
* 500本塁打:1987年8月11日、対ヤクルトスワローズ15回戦(広島市民球場)、4回裏に[[尾花高夫]]から左越ソロ ※史上5人目<br />
; その他の記録<br />
* 2215試合連続出場(1970年10月19日 - 1987年10月22日)※日本記録<ref>達成当時は世界記録だったが1996年6月12日にMLBのカル・リプケンによって塗り替えられた</ref><br />
* 678試合連続フルイニング出場(1974年4月17日 - 1979年5月27日)※歴代3位<br />
* [[サイクル安打]]:1976年7月7日、対読売ジャイアンツ16回戦([[札幌市円山球場]]) ※史上28人目、初回先頭打者本塁打でのサイクル安打達成はNPB史上初<ref>週刊ベースボール2014年9月22日号109ページ</ref><br />
* 22年連続シーズン盗塁(1966年~1987年)※[[広瀬叔功]]と並んで日本タイ記録<br />
* 20年連続シーズン2桁本塁打(1968年 - 1987年)※歴代4位タイ<br />
* 13年連続シーズン20本塁打以上(1974年 - 1986年)※歴代3位タイ<br />
* 5試合連続本塁打(1971年6月6日 - 6月10日)<br />
* 2試合連続初回先頭打者本塁打(1977年10月4日 - 10月5日)<br />
* 1イニング2死球:1976年8月31日、対中日ドラゴンズ16回戦(ナゴヤ球場)、3回表に[[青山久人]]・[[金井正幸]]から ※日本記録<br />
* 代打の代打で満塁本塁打:1973年10月10日、対ヤクルトスワローズ戦 ※NPB史上初<ref>週刊ベースボール2014年6月30日号97ページ</ref><br />
* [[オールスターゲーム (日本プロ野球)|オールスターゲーム]]出場:13回 (1971年、1974年 - 1977年、1980年 - 1987年)<br />
<br />
=== 背番号 ===<br />
* '''28''' (1965年 - 1974年)<br />
* '''3''' (1975年 - 1987年)(永久欠番)<br />
<br />
== 関連情報 ==<br />
=== CM ===<br />
* ますやみそ<br />
* [[アートネイチャー]](現役時代末期)<br />
<br />
=== 出演番組 ===<br />
* [[プロ野球中継]](解説)<br />
** [[SAMURAI BASEBALL]]([[TBSテレビ]][[ジャパン・ニュース・ネットワーク|系列]]・[[BS-TBS]]。1988年より担当。タイトルは2016年以降のもの)<br />
** [[TBSラジオ エキサイトベースボール]]([[TBSラジオ]]。1988年から担当。タイトルは2006年以降のもの)<br />
** [[RCCカープナイター]]([[中国放送|RCCラジオ]])<br />
* サンデーTOKYO(1989年4月16日 - 1990年9月30日、日曜13:00 - 14:55。TBSラジオ)<ref>『TBS50年史』資料編P198掲載ラジオ番組一覧表または『TBS50年史』DVD-ROM『ハイブリッド検索編』収録ラジオ番組リストより、『サンデーTOKYO』を参照。</ref><br />
* 衣笠祥雄のほっとひといき(1991年10月7日 - 1992年4月3日、平日18:00 - 19:00のワイド番組内で放送<ref>『TBS50年史』DVD-ROM『ハイブリッド検索編』に収録のラジオ番組リストより、『衣笠祥雄のほっとひといき』を参照。</ref>。TBSラジオ)<br />
* 鉄人ミュージック(2007年開始、不定期。プロ野球中継が無い日に放送されるTBSラジオ『[[プロ野球ネットワーク]]』内の1コーナー)<br />
* [[午後は○○おもいッきりテレビ]]([[日本テレビ放送網|日本テレビ]]。コメンテーター)<br />
* [[秘密のケンミンSHOW]]([[讀賣テレビ放送|読売テレビ]])<br />
* [[幕末青春グラフィティ 福沢諭吉]](TBSテレビ、1985年) - 野球に魅せられた男 役<br />
* [[サンデーモーニング]](TBSテレビ、コメンテーターとして)<br />
* RCC開局65年記念特別番組「発掘!スクープ映像 広島はここから始まった~よみがえる昭和の記憶~」(2017年12月27日、[[中国放送|RCCテレビ]])<br />
<br />
=== 連載 ===<br />
; コラム<br />
* カープモバイルサイトRCC広島カープ『衣笠祥雄の鉄人の流儀』 - 6年に渡り連載された。<br />
<br />
=== 著書 ===<br />
* 『限りなき挑戦―鉄人と呼ばれるオレの野球人生』([[旺文社]]・1984/12) ISBN 4-01-009824-4<br />
* 『自分とどう闘いつづけるか―継続こそ力なり!』([[PHP研究所]]・1985/04) ISBN 4-569-21554-8<br />
* 『ルー・ケーリッグを超えて―忍耐野球の軌跡』([[ベースボール・マガジン社]]・1987/09) ISBN 4-583-02646-3 <br />
* 『お父さんからきみたちへ―明日(あす)を信じて』([[講談社]]・1988/10) ISBN 4-06-203834-X<br />
* 『人生、フルスイング 』([[佼成出版社]]・1993/04) ISBN 4-333-01633-9<br />
* 『野球の夢一途に』([[日本放送出版協会]]・1998/03) ISBN 4-14-080357-6 <br />
* 衣笠祥雄監修、野球と野球人を考える会編 『野球道とは何か』([[KKロングセラーズ]]・2008/1) ISBN 9784845408030<br />
* 『野球の神様がいた球場 広島市民球場とカープの軌跡』([[ベースボール・マガジン社]]・2008/12) ISBN 978-4583101293<br />
* 『水は岩をも砕く(男のVシリーズ)』([[KKロングセラーズ]]・2008/12) ISBN 978-4-8454-2136-7<br />
* 『カープ愛。広島はなぜ「人作り」が優れているのか――76の思考』(青志社・2015/4) ISBN 978-4865900040<br />
* 『鉄人のひとり言』(青志社・2016/7) ISBN 978-4865900309<br />
; 共著<br />
* 『昭和プロ野球の裏側 友情と歓喜のドラマの裏に何があったのか?』 (廣済堂新書)(廣済堂出版・2018/3/31) ISBN 978-4331521519<br />
*: [[江夏豊]]、[[二宮清純]]との共著<br />
<br />
=== 関連書籍 ===<br />
* [[山際淳司]]著『バットマンに栄冠を』([[角川書店]]・1988年11月)ISBN 4041540550<br />
* [[本田靖春]]著『戦後の巨星二十四の物語』(講談社・2006年10月)ISBN 4062135329<br />
; [[写真集]]<br />
* [[立木義浩]]撮影『親と子の情景(2) 立木義浩写真集』(1998年9月)ISBN 9784620605463<br />
: 祥雄・友章親子の写真が掲載。<br />
<br />
=== 絵本 ===<br />
* 文・絵 関屋敏隆 『鉄人衣笠』(1992年6月、くもんの創作絵本)<br />
** 文・絵 関屋敏隆 『鉄人衣笠』(2018年6月25、[[小学館]])復刻版<br />
<br />
=== 関連映像作品 ===<br />
; [[テレビ番組]]<br />
* 『17年間休まなかった男〜衣笠祥雄の野球人生〜』(『NHK特集』No.980。1986年6月6日、[[NHK総合テレビジョン]]放送。放送時間:45分) ※[[NHKアーカイブス (施設)|NHKアーカイブス]]でも一般公開されている<ref>[http://cgi2.nhk.or.jp/archives/tv60bin/detail/index.cgi?das_id=D0009040231_00000 NHK特集 17年間休まなかった男~衣笠祥雄の野球人生~ NHK名作選(動画・静止画)_NHKアーカイブス]</ref>。2018年4月30日に追悼番組『"鉄人"の闘志 永遠に〜追悼・衣笠祥雄さん〜』(17:10 - 18:00)として放送された<ref>{{Cite news|title=衣笠さん追悼し「NHK特集」32年ぶり放送|date=2018-04-26|url=http://www.hochi.co.jp/entertainment/20180426-OHT1T50201.html|newspaper=スポーツ報知|agency=報知新聞社}}</ref>。<br />
* 『追悼 衣笠祥雄さん』(2018年4月23日、RCCテレビ)<ref>[https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2018/04/24/kiji/20180424s00041000214000c.html 広島地元局RCC 衣笠祥雄さん追悼特番を緊急編成 安仁屋宗八氏と山崎隆造氏が出演] スポニチアネックス、2018年4月24日</ref><br />
* 『追悼特別番組 ありがとう 鉄人 衣笠祥雄さん』(2018年4月28日、[[広島テレビ放送|広島テレビ]])<br />
; [[ビデオグラム]]([[VHS]])<br />
* 『限りなき挑戦―鉄人・衣笠 栄光の軌跡』(1987年発売。東京放送、[[パック・イン・ビデオ]])<br />
<br />
=== 漫画・アニメ ===<br />
* [[野球狂の詩]] 水原勇気とドリームボール対決をしている。<br />
<br />
=== 所属事務所 ===<br />
* スポーツ・マネジメント・システム(SMS。[[TBSビジョン]]スポーツ事業部。2000年頃まで所属)<br />
* [[キャスト・プラス]](クリエイティブ・メディア・エージェンシー=CMA時代の2001年頃より所属)<br />
<br />
== 脚注 ==<br />
{{脚注ヘルプ}}<br />
{{reflist|2}}<br />
<br />
== 参考資料 ==<br />
* TBS50年史(2002年1月、東京放送編・発行)…[http://opac.ndl.go.jp/recordid/000003623730/jpn 国立国会図書館の所蔵情報]<br />
** 資料編<br />
** [[DVD|DVD-ROM]]『ハイブリッド検索編』<br />
* 限りなき挑戦―鉄人・衣笠 栄光の軌跡([[#関連映像作品]]を参照)<br />
* 各種外部リンク<br />
<br />
== 関連項目 ==<br />
* [[京都府出身の人物一覧]]<br />
* [[広島東洋カープの選手一覧]]<br />
<br />
== 外部リンク ==<br />
{{NPB|71573820|衣笠祥雄}}<br />
* [http://www.baseball-museum.or.jp/baseball_hallo/detail/detail_119.html 野球殿堂 衣笠祥雄]<br />
※[[インターネットアーカイブ]]の保存キャッシュも含む。<br />
* [http://www.castplus.co.jp/profile/kinugasa.html キャスト・プラス(所属事務所)のプロフィール]<br />
* [http://meikyu-kai.org/member/batter/sachio_kinugasa.html 衣笠祥雄プロフィール(日本プロ野球名球会公式サイト)]<br />
** [http://wayback.archive.org/web/20120429115507/http://www.meikyukai.co.jp/img/member/movie/kinugasa.mov 衣笠の打撃フォームを撮影した動画(名球会公式サイト。movファイル)] - リンク先は、インターネットアーカイブ2012年4月29日付保存キャッシュ<br />
* [http://wayback.archive.org/web/20081014043754/http://www.meikyukai.co.jp/column/sachio_kinugasa.html 衣笠祥雄コラム(名球会公式サイト。原典:財団法人産業雇用安定センター刊『かけはし』2000年5月号)] - リンク先は、インターネットアーカイブ2008年10月14日付保存キャッシュ<br />
* [http://web.archive.org/web/*/http://www.tbs-v.co.jp/kinupro.html SMS所属当時のプロフィールの保存キャッシュ一覧(1999年 - 2000年)] - [[インターネットアーカイブ]]より<br />
* [http://wayback.archive.org/web/20010711175925/http://www2.rosenet.ne.jp/~cma/03/index.html 2001年7月当時のプロフィール(CMAサイト内)] - インターネットアーカイブ2001年7月11日付保存キャッシュ<br />
* [http://wayback.archive.org/web/*/http://www.cma-co.jp/kinugasa.html 2003年 - 2007年のプロフィール(CMAサイト内)] - インターネットアーカイブの保存キャッシュ一覧<br />
* [http://wayback.archive.org/web/20090224205431/http://www.cma-co.jp/profile/kinugasa.html 2009年2月当時のプロフィール(CMAサイト内)] - インターネットアーカイブ2009年2月24日付保存キャッシュ<br />
<br />
{{Navboxes|title=業績<br />
|list1=<br />
{{名球会}}<br />
{{国民栄誉賞}}<br />
{{正力松太郎賞}}<br />
{{日本プロスポーツ大賞}}<br />
{{セントラル・リーグMVP}}<br />
{{セントラル・リーグ打点王}}<br />
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{{セントラル・リーグ ベストナイン (三塁手)}}<br />
{{セントラル・リーグ ゴールデングラブ (三塁手)}}<br />
{{報知プロスポーツ大賞受賞者-セ・リーグ}}<br />
}}<br />
<br />
{{デフォルトソート:きぬかさ さちお}}<br />
[[Category:日本の野球選手]]<br />
[[Category:龍谷大学付属平安高校出身の野球選手]]<br />
[[Category:広島東洋カープ及び広島カープの選手]]<br />
[[Category:打点王 (NPB)]]<br />
[[Category:盗塁王 (NPB)]]<br />
[[Category:最優秀選手 (NPB)]]<br />
[[Category:NPBオールスターゲーム選出選手]]<br />
[[Category:名球会]]<br />
[[Category:野球解説者]]<br />
[[Category:日本の野球殿堂表彰者]]<br />
[[Category:国民栄誉賞受賞者]]<br />
[[Category:日本のタレント]]<br />
[[Category:ラジオ番組のパーソナリティ・DJ]]<br />
[[Category:朝日新聞社の人物]]<br />
[[Category:京都市出身の人物]]<br />
[[Category:アメリカ系日本人]]<br />
[[Category:アフリカ系日本人]]<br />
[[Category:1947年生]]<br />
[[Category:2018年没]]</div>
240F:77:1036:1:7944:F6C2:E242:A111
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