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http:///mymemo.xyz/wiki/api.php?action=feedcontributions&user=240B%3A11%3A4A00%3A400%3AFC91%3A79C2%3AE935%3A7E4D&feedformat=atom miniwiki - 利用者の投稿記録 [ja] 2024-05-08T14:53:11Z 利用者の投稿記録 MediaWiki 1.31.0 クロード・レヴィ=ストロース 2018-09-15T08:08:48Z <p>240B:11:4A00:400:FC91:79C2:E935:7E4D: </p> <hr /> <div>{{Infobox 哲学者<br /> | region = [[西洋哲学]]<br /> | era = 20世紀の哲学&lt;br /&gt;21世紀の哲学<br /> | image_name = Levi-strauss 260.jpg<br /> | image_size = 250px<br /> | image_alt = <br /> | image_caption = クロード・レヴィ=ストロース<br /> | name = クロード・レヴィ=ストロース&lt;br /&gt;Claude Lévi-Strauss<br /> | other_names = <br /> | birth_date = {{生年月日と年齢|1908|11|28|死去}}<br /> | birth_place = {{BEL}}・[[ブリュッセル]]<br /> | death_date = {{死亡年月日と没年齢|1908|11|28|2009|10|30}}&lt;ref name=&quot;leMonde-Necrologie&quot;&gt;{{Cite web |date=2009-11-04 |url=http://www.lemonde.fr/carnet/article/2009/11/04/claude-levi-strauss-anthropologue-pere-du-structuralisme_1262637_3382.html#ens_id=1262333|title=Nécrologie: Claude Lévi-Strauss, anthropologue, père du structuralisme |publisher=Le Monde|accessdate=2009-11-12|quote=&quot;30 octobre 2009 Mort à Paris.&quot; }}&lt;/ref&gt;<br /> | death_place = {{FRA}}・[[パリ]]<br /> | school_tradition = [[大陸哲学]]&lt;br /&gt;[[フランス現代思想]]&lt;br /&gt;[[フランス社会学派]]&lt;br /&gt;[[構造主義]]<br /> | main_interests = [[哲学]]&lt;br /&gt;社会[[人類学]]、[[文化人類学]]、[[民族学]]、[[アメリカ先住民]]、[[親族関係]]&lt;br /&gt;[[神話学]]&lt;br /&gt;[[倫理学]]&lt;br /&gt;[[言語哲学]]<br /> | notable_ideas = 二項対立、限定交換、一般交換、[[互酬性]]、[[構造]]、構造変換<br /> | influences = [[フェルディナン・ド・ソシュール]]&lt;br /&gt;[[ロマーン・ヤーコブソン]]&lt;br /&gt;[[フランツ・ボアズ]]&lt;br /&gt;[[マルセル・モース]]&lt;br /&gt;[[ニコライ・トルベツコイ]]&lt;br /&gt;[[ジャン=ジャック・ルソー]]&lt;br /&gt;[[カール・マルクス]]&lt;br /&gt;[[エミール・デュルケーム]]&lt;br /&gt;[[モーリス・メルロー=ポンティ]]&lt;br /&gt;[[ジークムント・フロイト]]&lt;br /&gt;[[ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル]]&lt;br /&gt;[[ルネ・デカルト]]&lt;br /&gt;[[セーレン・キェルケゴール]]&lt;br /&gt;[[エトムント・フッサール]]&lt;br /&gt;[[アルフレッド・ラドクリフ=ブラウン]]&lt;br /&gt;その他多数<br /> | influenced = [[ミシェル・フーコー]]&lt;br /&gt;[[ジル・ドゥルーズ]]&lt;br /&gt;[[ジャック・デリダ]]&lt;br /&gt;[[ジャック・ラカン]]&lt;br /&gt;[[ジュディス・バトラー]]&lt;br /&gt;[[ジャン・ピアジェ]]&lt;br /&gt;[[ジャン・ボードリヤール]]&lt;br /&gt;[[ピエール・ブルデュー]]&lt;br /&gt;[[ルイ・アルチュセール]]&lt;br /&gt;[[エドマンド・リーチ]]&lt;br /&gt;[[ロラン・バルト]]&lt;br /&gt;[[スラヴォイ・ジジェク]]&lt;br /&gt;[[ウンベルト・エーコ]]&lt;br /&gt;[[フレドリック・ジェイムソン]]&lt;br /&gt;[[マルセル・ドゥティエンヌ]]&lt;br /&gt;[[ジャン=ピエール・ヴェルナン]]&lt;br /&gt;その他多数<br /> | signature = <br /> | signature_alt = <br /> | website = &lt;!-- {{URL|example.com}} --&gt;<br /> }}<br /> &#039;&#039;&#039;クロード・レヴィ=ストロース&#039;&#039;&#039;(Claude Lévi-Strauss、[[1908年]][[11月28日]] - [[2009年]][[10月30日]]&lt;ref name=&quot;leMonde-Necrologie&quot; /&gt;)は、[[フランス]]の[[文化人類学|社会人類学者]]、[[民族学]]者。出身は[[ベルギー]]の首都[[ブリュッセル]]。[[コレージュ・ド・フランス]]の[[社会人類学]]講座を1984年まで担当し、[[アメリカ先住民]]の神話研究を中心に研究を行った。[[アカデミー・フランセーズ]]会員。<br /> <br /> 専門分野である人類学、神話学における評価もさることながら、一般的な意味における[[構造主義]]の祖とされ&lt;ref&gt;{{Cite book|和書 |author = [[光嶋裕介]] |year = 2017 |title = 建築という対話 僕はこうして家をつくる |publisher = [[筑摩書房]] |page = 188 |isbn = 978-4-480-68980-1}}&lt;/ref&gt;、彼の影響を受けた人類学以外の一連の研究者たち、[[ジャック・ラカン]]、[[ミシェル・フーコー]]、[[ロラン・バルト]]、[[ルイ・アルチュセール]]らとともに、1960年代から1980年代にかけて、[[現代思想]]としての構造主義を担った中心人物のひとり。<br /> <br /> == 主な経歴 ==<br /> === 生い立ちから学生時代まで 1908-1929 ===<br /> 1908年に、両親が一時的に滞在していた[[ベルギー]]の[[ブリュッセル]]で生まれる。両親とも[[アルザス]]出身の[[ユダヤ人]]の家系であり、また両親は[[イトコ]]同士であった。曽祖父は[[イザーク・シュトラウス]]という作曲家で&lt;ref&gt;[http://www.ambafrance-jp.org/%E3%82%AF%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%AC%E3%83%B4%E3%82%A3 在日フランス大使館公式サイトの記事「クロード・レヴィ=ストロースが100歳の誕生日」]より(2010年1月29日更新、2017年3月1日閲覧)&lt;/ref&gt;、同時代に活躍したワルツ王[[ヨハン・シュトラウス2世]]と同姓であったことから生前パリで人気があったという。姓の一部「ストロース」は「シュトラウス」のフランス語風の読み方である。父親の職業は画家であり、その交友関係は芸術を通じてのものが多かった。そのため、幼少期から、芸術に親しみやすい環境で育った。<br /> <br /> 少年期には、[[パブロ・ピカソ|ピカソ]]や[[イーゴリ・ストラヴィンスキー|ストラヴィンスキー]]、[[リヒャルト・ワーグナー|ワーグナー]]などを同時代的に摂取しただけでなく、[[ジャポニスム]]期、[[印象派]]の時代からフランスへさかんに紹介されていた[[浮世絵]]を初めとする日本の文物にも触れており、日本の美術工芸への関心を持ち続けた。<br /> <br /> 両親の友人らを通じて、比較的早くから[[マルクス主義]]に触れ、高校から大学時代にかけては、社会主義運動に参加し学生組織の書記長を務めた。また、ベルギー社会党の協同組合運動をフランスに紹介したほか、社会党代議士ジョルジュ・モネの秘書として法案作成に携わるなど、政治的な活動も行っていた。<br /> [[パリ大学|ソルボンヌ大学]]を卒業し、[[法学]]の学士号を取得する傍ら、[[哲学]]を学び、[[アグレガシオン]](哲学教授資格試験)に合格する。合格後の教育実習の同期生には、[[モーリス・メルロー=ポンティ]]、[[シモーヌ・ド・ボーヴォワール]]などがいた。<br /> <br /> 教授資格取得後、2つの[[リセ]](フランスにおける中等教育機関、日本の高校相当)で、哲学教師を経験する。その時期には、資格取得試験のために中断していた政治活動を再開し、教師生活をしながら、ベルギー出身の社会主義理論家ヘンドリック・ド・マン(アンリ・ド・マン)のパリ講演を企画したり、赴任地の地方議会への立候補を企てるなどの活動を行った。また、哲学教師としての生活にあきたらず、パリ大学での指導教授の一人であった社会学者[[セレスタン・ブーグレ]]から、新設のブラジル、[[サンパウロ大学]]の社会学教授としての赴任の打診を受けたことをきっかけに、当時興味をもち始めていた民族学のフィールドワークへの期待を抱いて、&lt;ref&gt;本人は民族学への転進にはアメリカの文化人類学者[[ロバート・ローウィ]]の著作『未開社会』を読んだことが大きな契機だったと語っている&lt;/ref&gt;、社会学の教授としてブラジルへと渡る&lt;ref&gt;このときのフランスからの派遣教授陣のなかには、後に大著『地中海』で有名になる[[アナール学派]]の歴史家、[[フェルナン・ブローデル]]もいた。&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> === ブラジルでの教師生活 1930-1939 ===<br /> 大学教授として、1932年の{{仮リンク|護憲革命|pt|Revolução Constitucionalista de 1932|en|Constitutionalist Revolution}}後の新たな社会の担い手を自認する新興ブルジョワ層の学生相手に社会学を講じ、妻ディナとともにサンパウロ州の郊外を中心に民族学のフィールドワークに取り組んだ&lt;ref&gt;この最初の妻とは、ブラジルを離れる頃には離婚していたようであるが、ブラジルでの大小さまざまなフィールドワークは共同で行っていた。たとえば、彼らが撮影した[[ボロロ族]]の民族誌フィルムには、2人の名前がクレジットされている。&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 2年間の大学教授生活の間は、主に大学の休暇を利用して現地調査を行い、長期休暇の際には、パラグアイとの国境地帯に居住していた{{仮リンク|カデュヴェオ族|en|Kadiweu_people}}や、ブラジル内陸のマトグロッソ地方に居住していた{{仮リンク|ボロロ族|en|Bororo_people}}のもとでの調査を行った。これらの調査結果は、フランスへの一時帰国の際に、[[マルセル・モース]]らの後援のもとで、パリの[[人類博物館]]などで発表された。その後、大学からの任期延長の話を断り、1936年からほぼ一年間を、ブラジルの内陸部を横断する長期調査に費やす。この調査の途上で、{{仮リンク|ナムビクワラ族|en|Nambikwara_people}}や[[トゥピ=カワイブ族]]など、アマゾン川の支流に暮らすいくつかの民族と接触している。<br /> <br /> ブラジルへと渡るまでの経緯や、ブラジルでの現地調査などのさまざまな体験、さらに後述の亡命を経て第二次大戦後フランスに帰国する頃までの体験のいくつかが、著書『[[悲しき熱帯 (レヴィ・ストロース)|悲しき熱帯]]』(1955年)のなかで印象的に回想されている。<br /> <br /> === ニューヨークにおける亡命生活 1940-1949 ===<br /> ブラジルでの長期横断調査の後、[[第二次世界大戦]]前夜にフランスに帰国して応召、[[西部戦線 (第二次世界大戦)|西部戦線]]に従軍する。フランスの敗戦により兵役解除となり、いったん南仏に避難するも、ナチスによるユダヤ人迫害が迫るのを逃れて、[[マルセイユ]]から船でアメリカ合衆国へ亡命する。同じ船上には、[[シュルレアリスト]]詩人の[[アンドレ・ブルトン]]もいた。<br /> <br /> 亡命先のニューヨークでは、ブルトンを初め、当時ニューヨークに集っていたシュルレアリストたちと親しく交際&lt;ref&gt;他には[[マックス・エルンスト]]、[[イヴ・タンギー]]ら&lt;/ref&gt;。彼らと連れ立って、アメリカ先住民の美術工芸品の収集を熱心に行っていた。社会人大学の[[ニュースクール大学|ニュースクール・フォー・ソーシャル・リサーチ]]にて文化人類学を講じる。当時のニューヨークにはまたヨーロッパからのユダヤ系をはじめとする亡命知識人たちがおり、ニュースクールには彼らが教師として多数名を連ねていた&lt;ref&gt;ドイツからフランスを経て亡命してきた[[ハンナ・アーレント|ハンナ・アレント]]もそのひとりである。&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> この大学において同じく合衆国へと亡命してきていた[[言語学]]者・[[ロシア・フォルマリズム|民俗学]]者の[[ロマン・ヤコブソン]]と知り合う。二人はお互いの講義を聴講しあい、レヴィ=ストロースは彼から、彼自身が主導してきた構造言語学の方法論、とりわけ[[音韻論]]([[音素]]およびその[[二項対立]]的な組成、さらにゼロ音素の概念など)の発想を学び、ブラジルでのフィールドワークにおいて漠然とした着想を得ていた、親族構造論の骨格として活用することを思いつく&lt;ref&gt;「南米のインディオにおける戦争と交易」という南米を主題にした親族交換論が1942年に発表されている。&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 1945年の論文『言語学と人類学における構造分析』において、音韻論的な二項対立を活用して親族組織を分類するための基礎的な方法論がテストされた後、第二次大戦の終結後も合衆国にとどまり、およそ2年間の執筆期間をかけて、デュルケム学派の親族論の批判的継承やモースの[[贈与論]]の着想の活用をはじめ、従来の人類学・社会学の[[近親相姦]]および親族関係の主題を網羅したうえで、女性の交換を親族構造の根本的機能であることを提起した序論および第1部と理論部と、それに続いて、[[ニューヨーク公共図書館]]に通いつめての所蔵文献資料の検討の結果である、オーストラリアから北東・東南アジア・古代中国・インドの親族構造を題材にそうした交換様態の存在を例証した第2部・第3部からなる大著『親族の基本構造』を、博士論文として完成させた。<br /> <br /> === 『親族の基本構造』の発表から社会人類学講座の創設 1950-1959 ===<br /> 1948年頃に完成した『親族の基本構造』を携えて、フランスへと帰国する。1949年に『親族の基本構造』は論文審査を通過し、フランスにおいて公刊される。神話学者[[ジョルジュ・デュメジル]]の紹介により、[[高等研究実習院]]に職を得て、未開社会における宗教をめぐるセミネールを、この後、コレージュ・ド・フランスへの社会人類学講座創設にともなってのこのセミネールが発展的に解消されるまで担当する&lt;ref&gt;講座新設後も数年間はコレージュの講義と並行して、高等研究実習院でも彼の講義が行われており、サルトルの『弁証法的理性批判』の講読はこの講座で行われている。&lt;/ref&gt;。この間、[[マルセル・モース]]の著作集『社会学と人類学』の編集にたずさわり、「浮遊するシニフィアン」の概念などを提起しつつ、モースを彼自身の構造人類学の先駆者として再読する長大な序文を執筆するなど、自身の方法論である構造人類学をいわばフランス社会学派の相続者のひとつとして認知させる方向で研究をすすめていく。<br /> <br /> 1951年、1952年の2度にわたってコレージュ教授選へと立候補するも、学閥間の争いの結果として落選する。1958年の再々度の立候補までの間、みずからの方法論を冠した初めての論文集『構造人類学』(1958年)に所収される民族学・社会人類学関連の諸論文を執筆し研究活動を続けるかたわら、[[国際連合教育科学文化機関|ユネスコ]]の反人種主義キャンペーンのための小冊子『人種と歴史』(1952年)を執筆したほか&lt;ref&gt;同キャンペーンに際して[[ミシェル・レリス]]も『人種と文明』という小冊子を執筆している。&lt;/ref&gt;)、[[メルロ=ポンティ]]と[[サルトル]]が共同で編集していた論壇誌『タン・モデルヌ(現代)』誌でも「火あぶりにされるサンタクロース」をはじめとして幅広い論考を世に問うており、さらには1955年の自叙伝的色彩をもった民族誌風の著作『悲しき熱帯』の刊行によりセンセーショナルな評価を獲得する。『基本構造』によって学会内部で著名であった彼の名前は、一気に世間に知れ渡ることになった。<br /> <br /> 3度目の立候補で、親友の哲学者であるメルロ=ポンティの尽力をはじめ&lt;ref&gt;『野生の思考』はこの選出後しばらくして急逝した、彼の記憶に捧げられている。&lt;/ref&gt;)、[[デュメジル]]や[[バンヴェニスト]]らの後押しもあって、1959年から[[コレージュ・ド・フランス]]の教授に選出される&lt;ref&gt;{{Cite book|和書 |author = クロード・レヴィ=ストロース |year = 2016 |title = 神話と意味 |publisher = [[みすず書房]] |isbn = 978-4-622-08591-1}}&lt;/ref&gt;。この選出により彼が担当することになる講座は、新設の社会人類学講座であり、コレージュ・ド・フランスに人類学系の講座が設けられたのはこれが最初であった。<br /> <br /> またこの社会人類学講座の創設と前後して、人類学のための学術雑誌『L&#039;Homme(人間)』が、彼の呼びかけのもと、言語学者バンヴェニストや先史学者[[アンドレ・ルロワ=グーラン|ルロワ=グーラン]]、さらに地理学者の[[ピエール・グルー]]らを編集同人に加えて発刊される。それまではフランスに存在しなかった、大英帝国の『王立人類学協会雑誌』、『マン』誌、アメリカ合衆国人類学会の学会誌『アメリカン・アンスロポロジスト』のような人類学専門誌の創刊により、前述の社会人類学講座と合わせて、フランスにおける人類学研究の拠点のひとつの軸が形成され、彼も自身の研究を勧めるとともに、この研究グループに指導的立場として関わっていくことになる。<br /> <br /> === 『今日のトーテミスム』および『野生の思考』から『神話論理』へ 1960-1969 ===<br /> コレージュ教授への就任と前後して、レヴィ=ストロースの研究活動の中心は、拠点としてはコレージュにおける毎年度の講義に、主題としては高等研究実習院のセミネール担当以来取り組んできた、未開社会の宗教研究とりわけ未開社会の神話の研究へと移った。パリの人類博物館や高等研究実習院の人類学関連部門と連携しつつセミネールを運営しながら研究活動を行っていった。これ以降、1984年のコレージュ退職までに刊行された著作はすべて(および、1969年度講義をもとにして1992年に刊行された『大山猫の物語』)、まず講義において着想が練られ、聴講者との議論を経たのちに、著作として刊行されたものである。<br /> <br /> 1962年には、前年度の講義「今日のトーテミスムおよび野生の思考」を下敷きにして、[[トーテミズム]]という人類学上の概念を批判的に検討し、従来の用法を徹底的に解体しつくした『今日のトーテミスム』、ならびに、その解体作業を踏まえて未開的分類論がもつある種の合理性を説得的に取り出し、『人種と歴史』において挑発的に提出した「冷たい社会」と「熱い社会」という理念的対比を念頭において、冷たい社会における社会像の産出とその秩序維持のメカニズムを現代社会にも残存する諸要素と通底させるかたちで例証してみせた『[[野生の思考]]』が発表された。<br /> <br /> == 思想的特色 ==<br /> 彼の人類学におけるデータ分析の方法論において中心をなすのは、[[言語学]]とりわけ、[[フェルディナン・ド・ソシュール|ソシュール]]から[[ロマン・ヤコブソン|ヤコブソン]]へといたる構造言語学における[[音韻論]]および、フランス社会学年報派、とりわけ[[デュルケム]]の流れを汲む社会学者[[マルセル・モース]]の社会学=人類学思想の2つであるといえる。<br /> <br /> ただし、さまざまな著作の随所で度々述べられているように、青年期に親しんだマルクス主義や、地質学への興味に見られる博物学的関心(こうした性向から、ときにゲーテが研究した自然学への親近感を表明することもある)に加え、芸術家の出入りが多い環境で育ったこともあり、西洋[[クラシック音楽]]におけるワーグナーやストラヴィンスキー、絵画におけるシュルレアリズムやキュビズムなど、同時代のアヴァンギャルド芸術思潮からの影響も多分に受けており、こうした多方面的な知識が、彼の著作を単なる人類学における論文や著書とは一線を画したものにしており、多くの言語に訳されている。<br /> <br /> === 親族構造の分析-『親族の基本構造』から『親族の複合構造』へ ===<br /> 未開社会の婚姻規則の体系、無文字社会を[[贈与]]の問題や、[[記号学]]的立場から分析した。オーストラリア先住民([[アボリジニ]])と東南アジア・古代中国・インド・北東アジアの婚姻規則の体系を構造言語学のインスピレーションをもとにして統一的観点からの分析をし、博士論文となった1949年の『親族の基本構造』において自らの基本的立場を明らかにした。<br /> <br /> この「構造」に、[[群論]]を使った数理的な解析を与えたのは、数学者の[[アンドレ・ヴェイユ]](かの[[ブルバキ]]の結成メンバーであり、[[シモーヌ・ヴェイユ (哲学者)|シモーヌ・ヴェイユ]]の兄である)である。<br /> <br /> === 「未開社会」観の変革 ===<br /> レヴィ=ストロースは、『野生の思考(パンセ・ソバージュ)』(1962年)などにおいて、従来の「[[野蛮]](混沌)」から洗練された秩序が形作られたとする[[ヨーロッパ中心主義|西洋中心主義]]に対し、混沌の象徴と結びつけられた「未開社会」においても一定の秩序・構造が見いだせると主張し、[[オリエンタリズム]]的見方に一石を投じた。これは、後の[[ポストコロニアリズム]]で特に高く評価されている。なお、『パンセ・ソバージュLa pensée sauvage』の題は、[[ブレーズ・パスカル|パスカル]]の『[[パンセ]]』を元にしたといわれ「野生の三色すみれ」の意味もある。<br /> <br /> == 関わった論争 ==<br /> === 『弁証法的理性批判』をめぐって-サルトルとの論争 ===<br /> 1962年の『野生の思考』の最終章「歴史と弁証法」においてレヴィ=ストロースは、[[ジャン=ポール・サルトル|サルトル]]の[[実存主義]]を強烈に批判した。このことから、実存主義に対立し、それを乗り越えるものとしての構造主義という思潮が、ときには過剰なまでにもてはやされる契機となった。本人はその後も、センセーショナルな流行からはつねに距離をとり、10年もの歳月をかけて、ライフワークとなった4巻に及ぶ『神話論理』(『生のものと火にかけたもの』、『蜜から灰へ』、『テーブルマナーの起源』、『裸の人』)を完成させ、神話研究において不滅の業績を残した。<br /> <br /> 彼の問題意識はサルトルの実存主義という主体偏重を批判し、西洋社会における、西洋中心主義に対する批判的意識から出発している。前者に対しては、主体ではなく、主体間の構造こそが重要だと主張し(主体が使う言語は共同体社会によって生み出された構造主義的なものなので、絶対的な主体ではありえない)、後者に対しては、どのような民族においてもその民族独自の構造を持つもので、西洋側の構造でその他の構造に対して優劣をつけることなど無意味だと主張した。<br /> <br /> === デリダによる批判 ===<br /> [[橋爪大三郎]]の分析によると{{要出典|date=2015年5月}}、<br /> <br /> * [[ジャック・デリダ]]は、従来のパロール(話し言葉)中心の言語分析(ロゴス中心主義([[:en:Logocentrism]])、音声中心主義([[:en:Phonocentrism]])という語をデリダは使った)に反対し、エクリチュール(文字)を重視せよと主張していた。<br /> * そのデリダから見ると、レヴィ=ストロースは音韻論を人類学に持ち込み、なおかつ社会が出来てから文字が出来るという後成説を採っているので、デリダの批判するロゴス中心主義者と映る。<br /> <br /> そのため、デリダは、レヴィ=ストロースを批判したとされる。<br /> <br /> しかし、同じく橋爪大三郎の指摘によれば{{要出典|date=2015年5月}}、レヴィ=ストロースの主張とデリダの批判の間には噛み合っていない部分が多く、またレヴィ=ストロースの専門(人類学)とデリダの専門(言語分析)は必ずしも矛盾しないとされ、すなわちデリダによる批判という見解にはやや的外れな点があるとされる。<br /> <br /> === リーチによる批判 ===<br /> 英国の[[社会人類学|社会人類学者]][[エドマンド・リーチ]]は、レヴィ=ストロースの親族研究を多岐に渡って批判している。しかし、[[小田亮 (文化人類学者)|小田亮]]の分析によると、これはリーチ自身、「基本構造」という語が、交叉イトコ婚([[いとこ婚#文化人類学におけるいとこ婚]])による[[婚姻]]体系ではインセスト・タブーと外婚制が裏表となっているという意味で「基本」構造と呼ばれていることを理解していないためであり、また経済的に何の利益もない「交換のための交換」が社会生成に関係するということを捉え損なっているためであるという。<br /> <br /> 詳しくは、小田亮『レヴィ=ストロース入門』([[ちくま新書]]、2000年)と、エドマンド・リーチ『レヴィ=ストロース』(吉田禎吾訳、[[ちくま学芸文庫]]、2000年)を参照。<br /> <br /> == エピソード・来日ほか==<br /> * レヴィ=ストロース(Lévi-Strauss)が姓である。ジーンズのブランド[[リーバイス]]の創始者[[リーヴァイ・ストラウス]](Straussが姓)と似ているので、時折、関係があると誤解されることがあり、実際にリーバイス社が日本で紹介され始めた際には「レヴィ・ストロース社」とされることがあった。本人も、合衆国に出張した際、[[カリフォルニア]]のレストランで名前を告げると「pants or books?(ズボン、それとも本?)」と尋ねられたと語っている。<br /> * 1955年に代表作『悲しき熱帯』を刊行し、センセーショナルに評価受容された際、[[ゴンクール賞]]を選定するアカデミー・[[ゴンクール]]から、小説でないために『悲しき熱帯』を受賞作にできないのは、非常に残念だという旨の[[コミュニケ]]が発表された。なおアカデミー・フランセーズ選出者は、賞を返上するという慣行があるらしく、仮にレヴィ=ストロースが受賞した場合、この慣行が行われていた可能性がある。<br /> * 1973年に[[エラスムス賞]]を受賞。同年[[アカデミー・フランセーズ]]正会員に選ばれた。<br /> * 1977年10月から11月、1986年4月の他に数度来日し&lt;ref&gt;『[[芸術新潮]]』2018年6月号、[[新潮社]]、 124頁。&lt;/ref&gt;、講演・[[シンポジウム]]や日本の学者らとの交流を行っている。[[日本文化]]を高く評価する[[親日家]]であり、1993年春の外国人[[叙勲]]で[[勲等|勲二等]][[旭日章|旭日重光章]]が授与されている。<br /> * 1993年4月14-15日、[[日本放送協会|NHK]]「[[ETV特集]]」で、弟子の[[川田順造]]によるロング・インタビュー「第1回 自然・人間・構造」、「第2回 日本への眼差し」を放映。のち[[白水社]]でビデオ化(別冊付)されたが絶版、未[[DVD]]。<br /> * [[2008年]]11月28日に100歳の誕生日を迎え、フランスでは記念行事が行われ、また政府はフランスで活動する人文社会科学者を対象とする「レヴィ=ストロース賞」の創設を発表。<br /> * [[2009年]]10月30日深夜にフランス東部リニュロール村の別荘で死去した。遺言により親族による密葬を経て、11月3日に代理人でもある出版社が公表した。最後の様子は、[[川田順造]]『文化を交叉させる 人類学者の眼』([[青土社]]、[[2010年]]5月、序文レヴィ=ストロース)の著者あとがきに詳しい。なお『レヴィ=ストロース論集成』(青土社、2017年4月)がある。<br /> *[[フランス語圏]]での伝記にドニ・ベルトレ『レヴィ=ストロース伝』(藤野邦夫訳、[[講談社]]、2011年)、また入門書にカトリーヌ・クレマン『レヴィ=ストロース』([[塚本昌則]]訳、[[白水社]]&lt;[[文庫クセジュ]]&gt;、2014年)がある。<br /> <br /> == 指導を受けた研究者たち ==<br /> * [[ピエール・クラストル]]<br /> * [[フランソワーズ・エリティエ=オジェ]]<br /> * [[フィリップ・デスコーラ]]<br /> * [[モーリス・ゴドリエ]]<br /> * [[ピエール・ブルデュー]]<br /> * [[ミシェル・ペラン]]<br /> * [[川田順造]] 関連著書多数<br /> * [[渡辺公三]] 関連著書多数<br /> * [[吉田禎吾]] 『レヴィ=ストロース 人と思想』(入門書で共著、[[清水書院]]、1991年、新版2015年)がある。<br /> * [[夏刈康男]] [[社会学者]]<br /> <br /> == 主要著作 ==<br /> 他の「構造主義者」と異なり、レヴィ・ストロースの文章は明晰であると評価されている。難解な言い回しを用いず、また彼の構造主義という発想の基点の一つである数学的知識に関しても誤った理解をすることなく受け入れたことで、後に[[フランス現代思想]]界を揺るがす[[アラン・ソーカル]]による一連の批判([[ソーカル事件]])の対象外に置かれることとなった。<br /> <br /> * &#039;&#039;Les structures élémentaires de la parenté,&#039;&#039; (Paris, Presses Universitaires de France, 1949)<br /> ** 『親族の基本構造』 [[青弓社]]、2000年<br /> * &#039;&#039;Tristes tropiques&#039;&#039; (Paris, Plon(Terre humaine), 1955)<br /> ** 『[[悲しき熱帯 (レヴィ・ストロース)|悲しき熱帯]]』 [[中央公論新社]]、のち[[中公クラシックス]]、各・全2巻<br /> ** 『悲しき南回帰線』 [[講談社学術文庫]]、全2巻<br /> * &#039;&#039;Anthropologie structurale&#039;&#039; (Paris, Plon, 1958)<br /> ** 『構造人類学』 [[みすず書房]]<br /> * &#039;&#039;La pensée sauvage&#039;&#039; (Paris, Plon, 1962)<br /> ** 『[[野生の思考]]』 みすず書房<br /> * &#039;&#039;Les mythologiques&#039;&#039; (Paris, Plon, 1964 - 71)<br /> ** 『神話論理』 みすず書房 全4巻‐第4巻目は2分冊につき全5冊、2006年-2010年<br /> * &#039;&#039;Le regard éloigné&#039;&#039; (Paris, Plon, 1983)<br /> ** 『はるかなる視線』 みすず書房 全2巻<br /> * &#039;&#039;Paroles données&#039;&#039; (Paris, Plon, 1984)<br /> ** 『パロール・ドネ』 講談社選書メチエ<br /> * &#039;&#039;La potière jalouse&#039;&#039; (Paris, Plon, 1985)<br /> ** 『やきもち焼きの土器作り』 みすず書房<br /> * &#039;&#039;De près et de loin&#039;&#039; (Paris, Odile Jacob, 1988)<br /> ** 『遠近の回想』(ディディエ・エリボンとの共著) みすず書房<br /> * &#039;&#039;Saudades do Brasil&#039;&#039; (Paris, Plon, 1994)<br /> ** 『ブラジルへの郷愁』 みすず書房/普及版・中央公論新社。写真が主 <br /> * &#039;&#039;Saudades de São Paulo&#039;&#039; (São Paulo, Companhia das letras, 1996)<br /> ** 『サンパウロへの[[サウダージ]]』 みすず書房、2008年。写真が主<br /> * &#039;&#039;L&#039;autre face de la lune. Écrits sur le Japon&#039;&#039; (Paris, Seuil, 2011)<br /> ** 『月の裏側 日本文化への視角』 中央公論新社、2014年<br /> * &#039;&#039;Nous sommes tous des cannibales&#039;&#039; (Paris, Seuil, 2013)<br /> ** 『大山猫の物語』みすず書房、2016年<br /> <br /> == 脚注 ==<br /> {{脚注ヘルプ}}<br /> {{reflist|2}}<br /> <br /> == 関連項目 ==<br /> * [[ポスト構造主義]]<br /> * [[インセスト・タブー]]<br /> * [[ブリコラージュ]]<br /> * [[オクタビオ・パス]] - 『クロード・レヴィ=ストロース あるいはアイソーポスの新たな饗宴』がある。[[鼓直]]・木村栄一訳(叢書ウニベルシタス・[[法政大学出版局]]、1988年)<br /> * [[中沢新一]] - 『パロール・ドネ』を訳した。([[講談社選書メチエ]]、2009年)<br /> <br /> == 外部リンク ==<br /> {{Commonscat|Claude Lévi-Strauss}}<br /> * [http://www.lib.hit-u.ac.jp/pr/reading/tz/html/levistrauss.html 書誌]<br /> * [http://www.documen.tv/asset/About_Tristes_Tropiques.html Documentaire 52&#039;: About &quot;Tristes Tropiques&quot;] 1991 - Film Super 16 &lt;!-- 有料コンテンツのようです。WP:EL? --&gt;<br /> <br /> {{アカデミー・フランセーズ|29|18|1973|2009|アンリ・ド・モンテルラン|アミン・マアルーフ|れういすとろおす くろおと}}<br /> {{Normdaten}}<br /> <br /> {{DEFAULTSORT:れういすとろおす くろおと}}<br /> [[Category:20世紀フランスの哲学者]]<br /> [[Category:21世紀フランスの哲学者]]<br /> [[Category:フランスの文化人類学者]]<br /> [[Category:アメリカ合衆国の文化人類学者]]<br /> [[Category:ポストモダン哲学]]<br /> [[Category:構造主義]]<br /> [[Category:神話学者]]<br /> [[Category:第二次世界大戦期フランスの軍人]]<br /> [[Category:フランスの亡命者]]<br /> [[Category:レジオンドヌール勲章受章者]]<br /> [[Category:勲二等旭日重光章受章者]]<br /> [[Category:エラスムス賞]]<br /> [[Category:アカデミー・フランセーズ会員]]<br /> [[Category:コレージュ・ド・フランスの教員]]<br /> [[Category:高等研究実習院の教員]]<br /> [[Category:サンパウロ大学の教員]]<br /> [[Category:ユダヤ系フランス人]]<br /> [[Category:ユダヤ人の哲学者]]<br /> [[Category:ユダヤ人の著作家]]<br /> [[Category:ブリュッセル出身の人物]]<br /> [[Category:長寿の人物]]<br /> [[Category:1908年生]]<br /> [[Category:2009年没]]</div> 240B:11:4A00:400:FC91:79C2:E935:7E4D チャールズ・リンドバーグ 2018-09-14T23:43:50Z <p>240B:11:4A00:400:FC91:79C2:E935:7E4D: /* 第二次世界大戦 */</p> <hr /> <div>{{Infobox aviator<br /> |name=チャールズ・リンドバーグ&lt;br&gt;{{lang|en|Charles Lindbergh}}<br /> |image=Col Charles Lindbergh.jpg<br /> |image_size=200px<br /> |caption=<br /> |full_name={{lang|en|Charles Augustus Lindbergh}}&lt;br&gt;チャールズ・オーガスタス・リンドバーグ<br /> |birth_date={{生年月日と年齢|1902|2|4|no}}<br /> |birth_place={{USA1896}}、[[ミシガン州]][[デトロイト (ミシガン州)|デトロイト市]]<br /> |death_date={{死亡年月日と没年齢|1902|2|4|1974|8|26}}<br /> |death_place={{USA}}、[[ハワイ州]]キパフル<br /> |death_cause=リンパ腫瘍<br /> |resting_place={{USA}}、[[ハワイ州]]キパフル、パラパラ・ホオマウ教会墓地<br /> |resting_place_coordinates= <br /> |monuments=<br /> |nationality={{USA}}<br /> |spouse=[[アン・モロー・リンドバーグ]]<br /> |relatives=父:[[チャールズ・オーガスト・リンドバーグ]]&lt;br&gt;母:エヴァンジェリン・ロッジ・ランド・リンドバーグ<br /> |known_for=初の[[大西洋横断飛行|大西洋単独無着陸飛行]]に成功<br /> |first_flight_aircraft=<br /> |first_flight_date=<br /> |famous_flights=[[大西洋横断飛行|大西洋単独無着陸飛行]](1927年)<br /> |license_date=<br /> |license_place=<br /> |air_force=<br /> |battles=<br /> |rank=<br /> |awards=[[ピューリッツァー賞 伝記部門]](1954年)<br /> |website= <br /> }}<br /> [[File:LindberghStLouis.jpg|thumb|250px|right|スピリット・オブ・セントルイス号の前でポーズをとるリンドバーグ]]<br /> &#039;&#039;&#039;チャールズ・オーガスタス・リンドバーグ&#039;&#039;&#039;({{lang-en|Charles Augustus Lindbergh}}, [[1902年]][[2月4日]] - [[1974年]][[8月26日]])は、[[アメリカ合衆国]]の飛行家で、[[ハーモン・トロフィー]]、[[名誉勲章]]、[[議会名誉黄金勲章]]の受賞者。[[1927年]]に「[[スピリットオブセントルイス号|スピリット・オブ・セントルイス]]」と名づけた単葉単発単座の[[プロペラ機]]で[[ニューヨーク]]・[[パリ]]間を飛び、[[大西洋横断飛行|大西洋単独無着陸飛行]]に初めて成功。[[1931年]]には北太平洋横断飛行にも成功した。<br /> <br /> == 生い立ち ==<br /> [[スウェーデン系アメリカ人|スウェーデン移民]]の息子として[[ミシガン州]][[デトロイト (ミシガン州)|デトロイト市]]で生まれ、[[ミネソタ州]][[リトルフォールズ]]で成長した。父[[チャールズ・オーガスト・リンドバーグ|チャールズ・オーガスト]]([[:en:Charles August Lindbergh]])は[[弁護士]]、その後[[共和党 (アメリカ)|共和党]]の[[国会議員]]となり[[第一次世界大戦]]へのアメリカの参戦に反対した。母エヴァンジェリン({{lang|en|Evangeline Lodge Land Lindbergh}})は[[化学]][[教員|教師]]だった。<br /> <br /> リンドバーグは幼少時から機械への関心を示したが、[[1922年]]には[[機械工学]]から離れ、[[ネブラスカ航空機]]で[[パイロット (航空)|パイロット]]と[[整備士]]の訓練に参加したあと[[カーチス・ライト|カーティス]]JN-4「ジェニー」を買い、曲芸飛行士になった。[[1924年]]には[[アメリカ陸軍航空隊]]で飛行士として訓練を始めた。訓練を一番の成績で終え[[1920年代]]にはライン・セントルイスの民間航空便[[パイロット (航空)|パイロット]]として働いた。<br /> <br /> == 大西洋単独無着陸飛行 ==<br /> [[1927年]][[5月20日]]5時52分(出発時の現地時刻)、リンドバーグはスピリットオブセントルイス号(ライアンNYP)でニューヨーク・[[ロングアイランド]]のルーズベルト飛行場&lt;ref&gt;ルーズベルト飛行場([[:en:Roosevelt Field (airport)]])は現存せず、その跡地はルーズベルトフィールドモール([[:en:Roosevelt Field (shopping mall)]])というショッピングモールになっている。&lt;/ref&gt;を飛び立ち、[[5月21日]]22時21分(到着時の現地時刻)、[[パリ]]の[[ル・ブルジェ空港]]に着陸、大西洋単独無着陸飛行に初めて成功した。この時、リンドバーグは25歳であった。飛行距離は5,810kmで飛行時間は{{要出典範囲|33時間29分30秒|date=2016年7月}}だった。これによりリンドバーグは、ニューヨーク-パリ間を無着陸で飛んだ者に与えられる[[オルティーグ賞]]とその賞金25,000ドル、さらに世界的な名声を得た。{{要出典範囲|無着陸飛行を達成した際にル・ブルジェ空港へ押し寄せた観客の数は、空港に入り切らなかった分も含めて延べ75万人とも100万人ともいわれている。|date=2010年10月}} <br /> <br /> スピリットオブセントルイス号は、リンドバーグの指示の下に特別にカスタマイズされた機体であった。多量の[[燃料]]([[ガソリン]])を積むべく[[操縦席]]の前方に燃料タンクを設置したため、座席からは直接前方が見えず、[[潜望鏡]]のようなものを使うか、機体側面の窓から顔を出す必要があった。当時、無名の操縦士だったリンドバーグには出資者が少なかったため、他のオルティーグ賞挑戦者のように大型の機材を用意できず、また機材そのものもリンドバーグが望んだベランカ社製品より性能の低いものにせざるを得なかったことから、前方視界を犠牲にして燃料の搭載量を増やすことで対処したのである&lt;ref&gt;[http://www.aero.or.jp/web-koku-to-bunka/07.05.15hirasawa.htm 平沢秀雄「&quot;THE SPIRIT OF ST.LOUIS&quot;-リンドバーグ大西洋単独無着陸飛行80周年によせて」]&lt;/ref&gt;。さらにバックアップの操縦士を乗せることもできなかったため、パリまでの全行程を一人で操縦し続けるという過酷な飛行となった。飛行中、リンドバーグは強い睡魔に襲われたが、これを克服してパリに到達した。現在、この機体は[[国立航空宇宙博物館|スミソニアン航空宇宙博物館]]に展示されている。<br /> <br /> 「リンドバーグが大西洋無着陸飛行に初めて成功した」と誤解されがちだが、単独でない大西洋無着陸飛行については、[[1919年]]に[[ジョン・オールコック]]と[[アーサー・ブラウン]]が達成している。これは、[[6月14日]]から[[6月15日]]にかけての16時間で[[ニューファンドランド島]]から[[アイルランド]]へ1,890kmを飛行したものであった(その他の大西洋横断飛行については「[[大西洋横断飛行]]」を参照)。<br /> <br /> また、パリ上空で「翼よ、あれがパリの灯だ!」と叫んだとされるが、この台詞は後世の脚色であり、リンドバーグはその時自分がパリに着いたことも分らなかったという。実際に発した最初の言葉としては、「誰か英語を話せる人はいませんか?(この後英語を話せる人に「ここはパリですか?」と尋ねる)」であるという説と、「トイレはどこですか?」であるという説の2つがある。いずれにせよ、「翼よ、あれがパリの灯だ!」の出所は[[自伝]] &quot;&#039;&#039;{{lang|en|The Spirit of St. Louis}}&#039;&#039;&quot;の和訳題であり、日本語では広く知られているが、英語圏ではこれに対応するよく知られた台詞は存在しない。<br /> <br /> == 結婚と愛児誘拐事件 ==<br /> [[1929年]]に駐[[メキシコ]]大使[[ドワイト・モロー]]([[:en:Dwight Morrow]])の次女[[アン・モロー・リンドバーグ|アン]]と結婚した。アンは夫の勧めでパイロットや[[無線通信]]士の技術を身につけ、乗務員として調査飛行に同行する。後年、彼女は[[作家]]となった。夫妻はチャールズ・オーガスタス・ジュニア([[1930年]])、ジョン([[1932年]])、ランド([[1937年]])、アン([[1940年]])、スコット([[1942年]])およびリーヴェ([[1945年]])の6人の子供をもうけた。 <br /> <br /> 1932年3月1日に1歳8か月の長男ジュニアが自宅から誘拐され、10週間に及ぶ探索と誘拐犯人との身代金交渉の後に、5月12日、[[ニュージャージー州]]ホープウェルで死んでいるのが見つかった([[リンドバーグ愛児誘拐事件]])。<br /> <br /> [[2003年]]11月、リンドバーグと[[ミュンヘン]]の帽子屋ブリギッテ・ヘスハイマー({{lang|de|Brigitte Hesshaimer}})の間に3人の非嫡出子が生まれていたことが[[デオキシリボ核酸|DNA]]テストによって証明された。3人はそれぞれ[[1958年]]・[[1960年]]・[[1967年]]にドイツで生まれた。リンドバーグとヘスハイマーの関係は[[1957年]]に始まり、彼の死まで継続された。ヘスハイマーは[[2001年]]に74歳で死去した。<br /> <br /> == リンドバーグ夫妻の北太平洋航路調査と来日 ==<br /> [[ファイル:Charles Lindbergh and his wife visit to Japan.jpg|thumb|200px|リンドバーグ夫妻の日本訪問]]<br /> リンドバーグ夫妻は[[1931年]]に、[[パンアメリカン航空]]から依頼された北太平洋航路調査のためニューヨークから[[カナダ]]、[[アラスカ州]]を経て、日本と[[中華民国]]まで[[ロッキード]]の[[水上機]]シリウス「チンミサトーク号(チンミサトークは[[イヌイット]]の言葉で『大鳥』の意)」で飛行した。<br /> <br /> 途中[[8月23日]]&lt;ref&gt;[http://kitanotakarajima.la.coocan.jp/knsr_thutz_zmkiiw.html 「北の宝島へ/北方領土と千島…記憶の周遊旅行」国後島 東沸湖と材木岩]&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;[http://kitanotakarajima.la.coocan.jp/etrf_shana.html 「北の宝島へ/北方領土と千島…記憶の周遊旅行」択捉島の首都・沙耶]&lt;/ref&gt;には日本の[[国後島]]<br /> 、[[8月24日]]には[[根室市]]、26日に[[霞ヶ浦]]、その後[[大阪]]、[[福岡県|福岡]]を経て、中華民国の[[南京市|南京]]と[[漢口]]まで飛行した。妻のアン・モローは、飛行記録として『 &#039;&#039;{{lang|en|NORTH TO THE ORIENT}}&#039;&#039; 』を著した。<br /> <br /> == 人工心臓の開発 ==<br /> [[ファイル:Lindbergh perfusion pump in Putnam Gallery, 2009-11-24.jpg|thumb|150px|right|リンドバーグの還流ポンプ]]<br /> リンドバーグの大きな業績の一つとして[[人工心臓]]の開発がある&lt;ref name=&quot;manga&quot;&gt;まんが医学の歴史 茨木保著 [[医学書院]]発行 ISBN 978-4-260-00573-9&lt;/ref&gt;。リンドバーグには[[心臓弁膜症]]を患っている姉がおり、心臓病の治療法を開発したいという思いから生理学者[[アレクシス・カレル]]の研究室を訪れた&lt;ref name=&quot;manga&quot;/&gt;。2人は意気投合し共同研究をおこない、[[1935年]]に「カレル・リンドバーグポンプ」を開発&lt;ref name=&quot;manga&quot;/&gt;。これは今日の人工心臓に影響を与えている&lt;ref name=&quot;manga&quot;/&gt;&lt;ref name=&quot;terumo&quot;&gt;[http://www.terumo.co.jp/duraheart/general/history.html 聖域への挑戦 ~人工心臓の歩み~]&lt;/ref&gt;。組織が体外で生き続るための生理学的条件についてはカレルの知識が、血液を連続して環流させるポンプ装置の発明についてはリンドバーグの工学知識が生かされた&lt;ref name=&quot;terumo&quot;/&gt;。<br /> <br /> == 第二次世界大戦 ==<br /> [[第二次世界大戦]]前夜、リンドバーグは[[アメリカ軍]]の要請で[[ナチス・ドイツ|ドイツ]]に何度か旅行し、[[ドイツ空軍]]についての報告を行った。[[1938年]]には[[ヘルマン・ゲーリング]]から勲章を授与されたが、この授与は、ユダヤ人を差別する政策や[[アンシュルス]]などの強権的な対外政策を進める[[国家社会主義ドイツ労働者党|ナチス党]]政権と親密になりすぎているということでアメリカ国内で批判を受けた。批判に対して、リンドバーグは「ドイツに対する過剰な非難である」と反論した。<br /> <br /> ヨーロッパで第二次世界大戦が勃発した後、[[共和党 (アメリカ)|共和党]]員であったリンドバーグはアメリカの[[孤立主義]]とドイツの政策に対する支持者となり、各地で講演を行った。[[1941年]][[1月23日]]には[[アメリカ連邦議会]]で演説し、ドイツと中立条約を結ぶべきと主張した。リンドバーグは[[孤立主義]]をとなえるアメリカ第一委員会({{lang|en|America First Committee}})の主要なスポークスマンであり、1941年[[9月11日]]の[[アイオワ州]][[デモイン (アイオワ州)|デモイン]]での演説では、イギリス人と[[ユダヤ人]]がアメリカに[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]側での参戦を働きかけていると述べた。この発言に[[ユダヤ系アメリカ人]]が反発し、[[フランクリン・ルーズベルト]]大統領はリンドバーグのアメリカ陸軍航空隊での委任を解除した。<br /> <br /> == 余生 ==<br /> [[1953年]]に大西洋単独無着陸飛行について書いた &quot;&#039;&#039;{{lang|en|The Spirit of St. Louis}}&#039;&#039;&quot;(邦題『翼よ、あれがパリの灯だ』)を出版し、これにより、[[1954年]]の[[ピュリッツァー賞]]を受賞した。同書は[[1957年]]に[[ビリー・ワイルダー]]監督の手で映画化された(映画の邦題は『[[翼よ! あれが巴里の灯だ]]』で、原作にないフィクションも一部含まれている)。<br /> <br /> [[1970年]]には訪日し、[[大阪万博]]を訪れた。晩年は、妻のアン・モローと共に[[ハワイ州]]の[[マウイ島]]に移り住んだ。また、[[自然環境]]の保全に力を注ぐようになり、世界各地を回り、[[環境保護]]活動に参加、多額の資金を寄付した。<br /> <br /> [[1974年]][[8月26日]]朝にマウイ島ハナのキパフルにある別荘にてリンパ腫瘍が原因で72歳で死去した。<br /> <br /> == 孫 ==<br /> 2002年5月2日、大西洋単独無着陸飛行75周年を記念して、孫のエリック・リンドバーグが「ニュー・スピリット・オブ・セントルイス号」で大西洋単独無着陸飛行を実行、無事成功した[http://www.47news.jp/CN/200205/CN2002050201000317.html]。またエリックは民間宇宙開発競技会[[Ansari X Prize]]に出資している。<br /> <br /> == その他 ==<br /> * 「[[フリーメイソン]]」の会員&lt;ref&gt;[http://www.lodgestpatrick.co.nz/famous.php#A|title= Famous freemason A-L]&lt;/ref&gt;である。<br /> * [[ウォルト・ディズニー・カンパニー|ウォルト・ディズニー・プロダクション]]による[[ミッキーマウス]]作品の実質的な第1作『[[プレーン・クレイジー]]』は、彼による大西洋単独無着陸飛行を意識した作品である。<br /> * [[桜エビ〜ず]]が[[2018年]]に発売した楽曲「リンドバーグ」は、チャールズ・リンドバーグがモチーフになっている&lt;ref&gt;[https://natalie.mu/music/news/290658 桜エビ~ずがハバナイ浅見北斗提供の新曲「リンドバーグ」配信、MVも公開]、音楽ナタリー、2018年7月11日 11:08。&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> ==著作(日本語訳)==<br /> *『翼よ、あれがパリの灯だ』 [[佐藤亮一]]訳、恒文社、1991。[[ピューリッツァー賞]]受賞<br /> **旧版 『翼よ、あれがパリの灯だ』 旺文社文庫(上下) 1976。他にも様々な版で刊行<br /> *『リンドバーグ 第二次大戦日記』 [[新庄哲夫]]訳、新潮社(2巻組)、1974<br /> **『孤高の鷲 リンドバーグ 第二次大戦参戦記』 [[学習研究社|学研M文庫]](上下)、2002<br /> **『リンドバーグ 第二次大戦日記』 [[角川ソフィア文庫]](上下)、2016<br /> <br /> ==伝記など(日本語)==<br /> *ジヨーヂ・ブキヤナン・フアイフ『リンドバーグ物語 孤独の荒鷲』日本飛行学校出版部訳 日本飛行学校出版部 1929<br /> *広畑恒五郎『空の王者リンドバーグ』婦女界社 1931<br /> *ケニス・S.デイヴィス『英雄 チャールズ・リンドバーグ伝』[[村上啓夫]]訳 早川書房 1966<br /> *[[柴野民三]]『リンドバーグ 大西洋無着陸横断飛行の英雄』チャイルド本社 1984<br /> *宝島編集部編『虹を追いかけて リンドバーグ』JICC出版局 1991<br /> *岡高志『リトル・ウィング リンドバーグ・ストーリー』ソニー・マガジンズ文庫 1993<br /> *ジョイス・ミルトン『リンドバーグ チャールズとアンの物語』[[中村妙子]]訳 筑摩書房(上下) 1994<br /> *[[今西祐行]]『リンドバーグ』チャイルド本社 1998 こども伝記ものがたり<br /> *アン・モロー・リンドバーグ『翼よ、北に』中村妙子訳、[[みすず書房]] 2002<br /> *A.スコット・バーグ『リンドバーグ 空から来た男』[[広瀬順弘]]訳 角川文庫(上下) 2002<br /> <br /> == 映画 ==<br /> *[[ビリー・ワイルダー]]監督『[[翼よ! あれが巴里の灯だ]]』[[ジェームズ・ステュアート]]主演 1957<br /> <br /> == 脚注 ==<br /> {{reflist}}<br /> <br /> == 関連項目 ==<br /> {{Commons|Charles Lindbergh}}<br /> * [[スコット・フィッツジェラルド]]<br /> * [[リンドベルイ]]<br /> * [[ロバート・ゴダード]] - 現代のロケット技術の開拓者の一人。当時、先進的過ぎる発想で世間から嘲笑されていたゴダードに資金援助した。<br /> {{Normdaten}}<br /> {{DEFAULTSORT:りんとはく ちやるす}}<br /> [[Category:アメリカ合衆国のパイロット]]<br /> [[Category:アメリカ合衆国の反共主義者]]<br /> [[Category:ピューリッツァー賞受賞者]]<br /> [[Category:議会名誉黄金勲章受章者]]<br /> [[Category:名誉勲章受章者]]<br /> [[Category:レジオンドヌール勲章受章者]]<br /> [[Category:訪日外国人]]<br /> [[Category:スウェーデン系アメリカ人]]<br /> [[Category:デトロイト出身の人物]]<br /> [[Category:1902年生]]<br /> [[Category:1974年没]]</div> 240B:11:4A00:400:FC91:79C2:E935:7E4D
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