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http:///mymemo.xyz/wiki/api.php?action=feedcontributions&user=240B%3A11%3A4A00%3A400%3A45F5%3AB432%3AD0EE%3ABC0B&feedformat=atom miniwiki - 利用者の投稿記録 [ja] 2024-04-25T17:16:58Z 利用者の投稿記録 MediaWiki 1.31.0 日本の降伏 2018-07-28T12:10:56Z <p>240B:11:4A00:400:45F5:B432:D0EE:BC0B: /* 参考文献 */</p> <hr /> <div>[[ファイル:Shigemitsu-signs-surrender.jpg|thumb|300px|1945年9月2日、[[ミズーリ (戦艦)|USSミズーリ]]艦上で[[リチャード・サザランド]]中将が見守る中、[[日本の降伏文書|降伏文書]]に署名する[[重光葵]][[外務大臣 (日本)|外務大臣]]、右随行の[[加瀬俊一 (1925年入省)|加瀬俊一]]]]<br /> &#039;&#039;&#039;日本の降伏&#039;&#039;&#039;(にっぽんのこうふく、にほんのこうふく)では、[[第二次世界大戦]]([[太平洋戦争]])末期の[[日本]]による「[[ポツダム宣言]]」の受諾を経た、日本による降伏文書の署名に至る日本、および日本の各占領地における経過を説明する。<br /> <br /> == ポツダム宣言受諾までの経緯 ==<br /> {{節スタブ}} <br /> [[ファイル:Bundesarchiv Bild 183-R67561, Potsdamer Konferenz, Konferenztisch.jpg|thumb|[[ポツダム会談]]の様子。写真には、[[クレメント・アトリー]]、[[アーネスト・ベヴィン]]、[[ヴャチェスラフ・モロトフ]]、[[ヨシフ・スターリン]]、[[ウィリアム・リーヒ]]、[[ジェームズ・F・バーンズ]]及び[[ハリー・S・トルーマン]]を含む。]]<br /> {{main|ポツダム宣言}}<br /> [[1944年]](昭和19年)7月に[[東條内閣]]が倒れて以後、戦争終結への動きが具体化し始める。この時点で[[アメリカ軍]]の反攻による[[日本本土空襲|本土への空襲]]も時間の問題となっていた。[[1945年]](昭和20年)2月には、[[近衛文麿]]元総理大臣を中心としたグループは、戦争の長期化が[[ソビエト連邦軍]]による占領(“日本の赤化”)を招くと主張して、戦争の終結を主張する「[[近衛上奏文]]」を[[昭和天皇]]に進言した。しかし、昭和天皇はこれを却下し、後には工作を察知した[[憲兵 (日本軍)|憲兵隊]]により、[[吉田茂]](後の首相)・[[岩淵辰雄]]・[[殖田俊吉]]らいわゆる「[[ヨハンセングループ]]」が逮捕されている。そして軍部は「[[国体]]護持」を主張して戦争を継続した。<br /> <br /> 一方で、当時[[小磯内閣]]も[[本土決戦]]を進めながら、同時に和平工作を模索していた。[[1944年]](昭和19年)に[[宇垣一成]]元[[陸軍大臣]]を中国に派遣して[[蒋介石政権]]との和平交渉を打診した。そして、[[1945年]](昭和20年)3月には[[汪兆銘政権|南京国民政府]]高官でありながら既に蒋介石政権と通じていることが知られていた[[繆斌]]を日本に招き、和平の仲介を依頼している。だが、当時の[[重光葵]][[外務大臣 (日本)|外務大臣]]は繆斌を信用せず、[[小磯国昭]][[内閣総理大臣|総理大臣]]と対立して結果的に内閣総辞職につながった。<br /> <br /> 4月7日に成立した[[鈴木貫太郎内閣|鈴木内閣]]の外務大臣[[東郷茂徳]]は、翌年4月には期限が切れるとは言え、未だに[[日ソ中立条約]]が有効であった[[ソビエト社会主義共和国連邦]]を、仲介とした和平交渉を行おうとした。東郷自身は[[ヨシフ・スターリン|スターリン]]が日本を「侵略国」と呼んでいること(1944年革命記念日演説)から、和平交渉の機会を既に逸したと見ていたものの、[[大日本帝国陸軍|陸軍]]が中立条約の終了時もしくはそれ以前のソ連軍の満州への侵攻を回避するための外交交渉を望んでいるため、ソ連が和平の仲介すると言えば軍部もこれを拒めないこと、ソ連との交渉が破綻すれば日本が外交的に孤立して軍部も実質上の降伏となる和平条件を受け入れることになるという打算があったとされている。かつて東郷自身、駐ソ[[特命全権大使|大使]]としてモスクワで、[[ノモンハン事件]]を処理し、ソ連との和平を実現させたという経験も背景にあったとされる。<br /> <br /> 5月の[[最高戦争指導会議]]構成員会合(首相・陸海軍大臣・外相・陸軍参謀総長・海軍軍令部総長の6人)では、ソ連の参戦防止・中立確保のための交渉を行う合意を得た。当初はこれに戦争終結も目的として含まれていたが、[[阿南惟幾]]陸軍大臣が「本土を失っていない日本はまだ負けていない」として反対したため、前記の2項目のみを目的とすることになった&lt;ref&gt;[[長谷川毅]]『暗闘(上)』中公文庫、2011年、p151&lt;/ref&gt;。東郷は、元上司で元[[内閣総理大臣|首相]]の[[広田弘毅]]を[[ヤコフ・マリク]]ソ連大使と箱根などで会談させたが、具体的条件や「戦争終結のための依頼」であることを明言せず、はかばかしい成果は得られなかった。<br /> <br /> 6月6日の最高戦争指導会議構成員会合で「国体護持と皇土保衛」のために戦争を完遂するという「今後採ルヘキ戦争指導ノ基本大綱」が採択され、それが御前会議で正式決定されると、内大臣の[[木戸幸一]]と東郷、[[米内光政]]海軍大臣は、[[第二次世界大戦]]の際限ない長期化を憂慮し、ソ連を通じた和平の斡旋へと動き出した&lt;ref&gt;『暗闘(上)』p198&lt;/ref&gt;。木戸からソ連の斡旋による早期戦争終結の提案を受けた昭和天皇はこれに同意し、6月22日の御前会議でソ連に和平斡旋を速やかに行うよう政府首脳に要請した&lt;ref&gt;『暗闘(上)』pp.290 - 212、218 - 220&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> しかし東郷は、広田・マリク会談に時間をかけすぎ、進展が見られなかった(広田はマリクとの最後の会談でソ連に和平斡旋の条件として、[[満州国]]の中立化などを提案している&lt;ref&gt;『満洲国―「民族協和」の実像』塚瀬進 吉川弘文館 P.147&lt;/ref&gt;が、マリクは政府上層部で真剣に考慮されるだろうと回答しただけであった&lt;ref&gt;『暗闘(上)』p226&lt;/ref&gt;)ことから、天皇は7月7日に親書を持った特使を派遣してはどうかと東郷に述べた&lt;ref&gt;『暗闘(上)』pp.248 - 250&lt;/ref&gt;。東郷は近衛文麿に特使を依頼し、7月12日に近衛は天皇から正式に特使に任命された。外務省からはモスクワの日本大使館を通じて、特使派遣と和平斡旋の依頼をソ連外務省に伝えることとなった{{Refnest|group=&quot;注&quot;|『昭和天皇独白録』によれば、「私が今迄聞いてゐた所では、海岸地方の防備が悪いといふ事であつたが、報告に依ると、海岸のみならず、決戦師団さへ、武器が満足に行き渡つてゐないと云ふ事だつた。敵の落した爆弾の鉄を利用して「シャベル」を作るのだと云ふ、これでは戦争は不可能と云ふ事を確認した。木戸は米内にも東郷にも鈴木にも意見を聞いたが、皆講和したいと云ふ、然し誰も進んで云ひ出さない。それで私は最高指導会議の者を呼んで、速かに講和の手筈を進める様に云つた。「ソビエト」を経てやれと云つたかどうかは記憶して居らぬ。この時鈴木その他から先づ「ソビエト」の肝を探らうと、云ひ出した、私はそれは良い事と思ふが、現状に於ては速かに事を処理する必要があると云つた。これですつかり講和の決意が出来て安心した、但し講和の条件に付ては、皆各と意見があつた。之と前后して、鈴木は詔書を出して国民を激励して頂きたいと云つて釆たが、前述の理由で、絶対に反対だと云つたら、鈴木は御尤もだと云つて帰つた。どうも政府も軍人も二股かける傾向があるのはよろしくない。この場合鈴木だから、隔意なく思ふ事が云へたのだ。・・・然しソ連は誠意ある国とは思へないので、先づ探りを入れる必要がある、それでもし石油を輸入して呉れるなら南樺太も、満洲も与へてよいといふ内容の広田「マリク」会談を進める事にした。しかし、「スターリン」は会議から帰つた后も、返事を寄越さず、その中に、不幸にして「ソビエト」の宣戦布告となつた。こうなつては最早無条件降伏の外はない。」とある&lt;ref&gt;寺崎英成「昭和天皇独白録」136頁&lt;/ref&gt;。}}。<br /> <br /> しかし、すでにソビエト連邦は、[[1945年]](昭和20年)2月の[[ヤルタ会談]]で、[[ヨーロッパ戦勝記念日]]から3ヶ月以内の[[ソ連対日宣戦布告|対日宣戦]]で合意しており、日本政府の依頼を受ける気はなかった。5月から6月にかけて、[[ポルトガル]]や[[スイス]]の陸海軍駐在武官から、ソ連の対日参戦についての情報が日本に送られたり&lt;ref&gt;[[NHKスペシャル]]「終戦 なぜ早く決められなかったのか」(2012年8月15日放映)[http://www.nhk.or.jp/special/detail/2012/0815/index.html]。当番組では連合国に傍受解読された駐在武官発の電報(ロンドンに保存)が紹介された。&lt;/ref&gt;、モスクワから帰国した陸軍駐在武官補佐官の浅井勇中佐から「[[シベリア鉄道]]におけるソ連兵力の極東方面への移動」が関東軍総司令部に報告されたりしていたが&lt;ref&gt;NHK取材班『太平洋戦争 日本の敗因6 外交なき戦争の終末』角川文庫、1995年、pp.204 - 208&lt;/ref&gt;、これらの情報は、[[日本軍]]・[[外務省]]の間で共有されなかったり、希望的観測のもと、重要な情報が軽視される結果となった。<br /> <br /> 7月の[[ポツダム会談]]では近衛特使の件を、アメリカ・イギリスに暴露した上で、両国と協議してソ連対日宣戦布告まで、日本政府の照会を放置する事に決定した上でポツダム宣言に同意した。一方、日本政府はソ連の仲介を期待して「ノーコメント」とする方針を取り&lt;ref&gt;これが「黙殺」と報道発表され、「宣言拒否」と連合国側に受け止められる口実となった。&lt;/ref&gt;、[[8月6日]]の[[広島市への原子爆弾投下|広島]]への[[原子爆弾]]投下、[[8月9日]]の[[ソ連対日参戦]]を回避することは出来無かった。<br /> <br /> ==「玉音放送」==<br /> {{main|玉音放送}}<br /> <br /> == マッカーサーの到着 ==<br /> 1945年8月15日、ポツダム宣言受諾を国民に知らせて鈴木貫太郎内閣は総辞職し、後継首相には、降伏・占領に対する軍の抵抗を懸念して、皇族の東久邇宮稔彦王(当時)が指名された&lt;ref name=&quot;ishikawa6&quot;&gt;石川真澄著『戦後政治史 新版』(2004年)岩波新書6ページ&lt;/ref&gt;。8月30日、連合軍最高司令官ダグラス・マッカーサー元帥が、[[マニラ]]から沖縄経由で[[神奈川県]][[厚木市]]の[[厚木海軍飛行場]]に到着した&lt;ref name=&quot;ishikawa6&quot;/&gt;。同じ日、アメリカ第11空挺団の輸送機150機が、4,200人の部隊を乗せて飛来し、日本占領が始まった&lt;ref name=&quot;ishikawa6&quot;/&gt;。<br /> <br /> == 降伏文書調印 ==<br /> {{main|日本の降伏文書|対日戦勝記念日}}<br /> 1945年[[9月2日]]には、[[東京湾]]横須賀沖に停泊していた[[アメリカ海軍]]の[[ミズーリ (戦艦)|戦艦ミズーリ]]上で降伏文書の調印式が行われた。日本側は、[[外務大臣 (日本)|外務大臣]]重光葵、[[大日本帝国陸軍]]参謀総長梅津美治郎が降伏文書に署名した&lt;ref name=&quot;ishikawa6&quot;/&gt;。<br /> <br /> == 占領軍による間接統治 ==<br /> 「[[厚木航空隊事件]]」のような反乱事件がいくつか起きたものの、日本国内、アジア各地に展開していた日本軍は、ほとんど抵抗らしい抵抗もなく約60日で武装解除された&lt;ref name=&quot;ishikawa6&quot;/&gt;。満州(中国東北部)、南樺太(サハリン)、千島列島などにいた日本軍兵士数10万人(86万人といわれる)は、ソ連軍によって武装解除後シベリアをはじめとするソ連領内に連れ去られ、1年から数年にわたる過酷な自然と劣悪な待遇のもとに強制労働に服し、約6万8000人が死んだ&lt;ref name=&quot;ishikawa7&quot;&gt;石川真澄著『戦後政治史 新版』(2004年)岩波新書7ページ&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 日本は朝鮮半島をアメリカとソ連に、台湾を中華民国に、樺太および南北千島列島および歯舞色丹をソ連に、「「本州、北海道、九州及四国並びに吾等(連合国)の決定する小島」(ポツダム宣言)をアメリカによって占領されたが、本土はアメリカと[[イギリス]]という2国のみに占領され、同じ敗戦国のドイツのような[[イデオロギー]]が対立する複数の連合国による分割占領を免れた&lt;ref name=&quot;ishikawa7&quot;/&gt;」。<br /> <br /> ソ連は参戦後に[[釧路市]]と留萌町(現在の[[留萌市]])の両都市と、それらを結ぶ線より北の[[北海道]]を占領する意向を8月15日示したが、アメリカ合衆国大統領トルーマンが即座に拒否した。マッカーサーは、初め日本を直接に統治する軍政を布こうとし、9月3日にその旨布告しようとしていたが、前日にこの方針を知った日本政府の要請を受け入れ、結局、日本政府を通じた間接統治の形をとることとした&lt;ref name=&quot;ishikawa7&quot;/&gt;。もっともアメリカの対日政策立案を1944年暮れから手がけていたSWNCC(スウンク;国務・陸軍・海軍3省調整委員会)が、1945年8月22日から31日にかけて起草した「降伏後におけるアメリカの初期の対日方針」には、「最高司令官は・・・天皇を含む日本政府機構及諸機関を通じて其権限を行使すべし」との原則、つまり間接統治が掲げられていた&lt;ref name=&quot;ishikawa7&quot;/&gt;。<br /> <br /> 日本はアメリカ軍と[[イギリス連邦占領軍]]を中心とした[[連合国軍占領下の日本|連合国軍による占領統治]]の下に置かれ、[[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]]が一連の[[日本の戦後改革|戦後改革]]を[[連合国軍最高司令官]]の布告・命令・指示によって展開させた。[[1946年]](昭和21年)[[11月3日]]に、[[大日本帝国憲法]]が改正された[[日本国憲法]]が公布され、[[1947年]](昭和22年)[[5月3日]]に同憲法が施行された。<br /> <br /> == 占領の終了 ==<br /> 1951年7月20日、日本政府に講和会議出席の招請状が届いた&lt;ref name=&quot;ishikawa56&quot;&gt;石川真澄著『戦後政治史 新版』(2004年)岩波新書56ページ&lt;/ref&gt;。その10日前の7月10日には開城(ケソン)で[[朝鮮戦争]]の休戦会議がはじまっていた&lt;ref name=&quot;ishikawa56&quot;/&gt;。9月8日に、サンフランシスコ市内のオペラハウスで、[[サンフランシスコ平和条約]]が日本を含む49か国で調印された&lt;ref name=&quot;ishikawa56&quot;/&gt;。<br /> <br /> 講和会議に招かれた52か国のうち、ソ連と[[チェコスロバキア]]、[[ポーランド]]はアメリカやイギリスなどとの意見の対立から調印を拒否した&lt;ref name=&quot;ishikawa56&quot;/&gt;。また、戦後独立したばかりで、独立国家として日本と対戦していなかった[[インド]]と[[ビルマ]]、[[ユーゴスラビア]]は招請に応じなかった。また、[[国共内戦]]の結果台湾へ逃れた中華民国と、建国されたばかりで日本と戦っていない[[中華人民共和国]]、日本の同盟国であった[[ドイツ]]を引き継いだ[[西ドイツ]]と[[東ドイツ]]、[[イタリア]]は招請されなかった&lt;ref name=&quot;ishikawa56&quot;/&gt;。なお[[大韓民国]]は会議への招請を主張したが、戦後に建国されたために日本と交戦しておらず、さらに大戦当時は日本領であり多くが自主的に日本軍の将兵として参戦していたことを理由にアメリカから招請を拒否されている&lt;ref&gt;{{Cite book<br /> |author=United States Department of State<br /> |title=United States Department of State / Foreign relations of the United States, 1951. Asia and the Pacific (in two parts)<br /> |year=1951<br /> |volume=VI, Part 1<br /> |pages=p. 1296<br /> |url=http://digital.library.wisc.edu/1711.dl/FRUS.FRUS1951v06p1<br /> }}&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;{{Cite book|和書<br /> |author=[[塚本孝]]<br /> |title=レファレンス<br /> |year=1992<br /> |month=3<br /> |publisher=国立国会図書館調査立法考査局<br /> |volume=494<br /> |pages=pp. 95-101<br /> |chapter=韓国の対日平和条約署名問題<br /> }}&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 講和条約が発効し、連合国軍による日本占領が終結したのは、1952年4月28日であった&lt;ref name=&quot;ishikawa56&quot;/&gt;が、[[横井庄一]]や[[小野田寛郎]]に代表されるように、終戦の伝達が不可能な環境下で潜伏していたために、戦後も長い間、山中などで戦闘状態にあった兵士も多くいた(大半が数年で帰還した)。[[日本軍|旧日本軍]]兵士や[[満蒙開拓青少年義勇軍]]たちの中には、[[八路軍]]や[[国民革命軍|国民政府軍]]に強制的に参加させられ、[[国共内戦]]に従軍した者もあった&lt;ref&gt;池谷薫『蟻の兵隊 日本兵2600人[[山西省]]残留の真相』(新潮社、[[2007年]](平成19年))、米濱泰英『日本軍「山西残留」』(オーラル・ヒストリー企画、[[2008年]](平成20年)6月)、山口盈文『僕は八路軍の少年兵だった』(草思社 [[1994年]](平成6年)、新版が光人社文庫、2006年)に詳しい、また[[中国山西省日本軍残留問題]]を参照。&lt;/ref&gt;。また自ら除隊し[[インドネシア独立戦争]]や、[[ベトナム独立戦争]]に身を投じる者もいた。<br /> <br /> == 「終戦の日」はいつか ==<br /> {{Main|対日戦勝記念日}}<br /> 伝統的な戦時国際法において休戦協定の合意は口頭による同意によれば良く文書の手交を要件としない。このため休戦が協定された日と休戦協定が外交文書([[降伏文書]])として固定された日は異なり、実際に各地の戦線で休戦が合意された日もまた異なる。そのため現実に戦闘が停止された日付(あるいは現地日本軍が降伏した日、あるいは降伏式を執り行った日付)には前後があり、また日本国政府が停戦を通告した日(最初のものは短波ラジオを通じた8月10日)、連合国の各司令部により停戦の事実が確認された日などにも前後関係がある。<br /> <br /> 今日、「[[終戦の日]]」とは、[[昭和天皇]]が「玉音放送」によって、[[大日本帝国政府]]がポツダム宣言の受諾(=日本軍の降伏表明)を[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]側に通告したことを、国民に放送を通じて公表した[[1945年]](昭和20年)[[8月15日]]とするのが一般的である。一方、大日本帝国政府がポツダム宣言の受諾を連合国側に通告したのは、前日の[[8月14日]]であり、玉音放送によって読み上げられた「終戦の詔書」の日付もその日となっている。<br /> <br /> 大日本帝国政府及び連合国代表が[[降伏文書]]に調印した日は、[[1945年]](昭和20年)[[9月2日]]であり、諸外国ではこの日を「[[対日戦勝記念日]]」としている例が多いが、中華民国や中華人民共和国、旧ソビエト連邦のように[[9月3日]]とする国もある。なお国際条約として日本国が交戦国と正式に平和条約などを締約し戦争状態が終了した日は[[日本国との平和条約]]が発効した1952年4月28日、[[日本国と中華民国との間の平和条約]]が発効した1952年8月5日、[[日ソ共同宣言]]が発効した1956年12月12日である(但し日ソ共同宣言は戦争状態の終了を確認した条約である)。<br /> <br /> == 終戦工作の例 ==<br /> 日本軍が有利な展開なうちに早期に休戦・終結させる試みは、[[1942年]](昭和17年)の時期から一部の政治家・官僚・民間人の間で摸索された。しかし、戦争勝利を大義とした[[東條内閣|東条内閣]]及び[[軍部]]により弾圧され、[[中野正剛]]のように自決に追い込まれもした。終戦工作としては、他に以下のようなものが知られる。<br /> * [[燕京大学]][[学長]][[ジョン・スチュワート (教育者)|ジョン・スチュワート]]や[[上海]][[市長]][[周仏海]]を仲介者とする和平工作。<br /> * 日本軍[[今井武夫]]参謀副長と中国軍[[何柱国]]上将との和平協議。<br /> * [[水谷川忠麿]][[男爵]](近衛文麿異母弟)と中国国際問題研究所[[何世禎]]との和平工作。<br /> * [[スウェーデン]]公使[[ウィダー・バッゲ]]を仲介者とするイギリスとの和平工作。また、[[小野寺信]]駐在武官も[[ナチス・ドイツ]]の[[親衛隊 (ナチス)|親衛隊]]諜報部門の統括責任者である[[ヴァルター・シェレンベルク]]と共に[[スウェーデン王室]]との間で独自の工作を行っている&lt;ref&gt;回想に[[小野寺百合子]]『バルト海のほとりにて 武官の妻の大東亜戦争』(共同通信社。初版1985年)。&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;情報開示により近年研究が進み、評伝に岡部伸([[産経新聞]]編集委員)による『消えたヤルタ密約緊急電 情報士官・小野寺信の孤独な戦い』(新潮選書、2012年)、『「諜報の神様」と呼ばれた男 連合国が恐れた情報士官小野寺信の流儀』(PHP研究所、2014年)がある。&lt;/ref&gt;だが、ソ連との交渉に専念したい東郷の意向で延期されたまま終戦を迎えた&lt;ref&gt;小野寺工作を元に、[[佐々木譲]](作家)が小説で『ストックホルムの密使』(新潮社、のち新潮文庫)を著し、[[1995年]](平成7年)10月に、[[日本放送協会|NHK]]でドラマ放送(前・後)された。&lt;/ref&gt;。<br /> * [[スイス]]における[[Office of Strategic Services|アメリカ戦略事務局]]の[[アレン・ダレス]]を仲介者とした[[岡本清福]]陸軍武官・[[加瀬俊一 (1920年入省)|加瀬俊一]]公使や[[藤村義朗 (海軍軍人)|藤村義朗]]海軍武官らによる和平工作&lt;ref&gt;岡本・加瀬のルートによるスイスでの活動は、竹内修司『幻の終戦工作 ピース・フィーラーズ1945夏』([[文春新書]]、[[2005年]])に詳しい。著者は『[[文藝春秋 (雑誌)|月刊文藝春秋]]』、『[[諸君!]]』などの編集者で、昭和史関連の著作編集を行っている。なお、岡本・加瀬と藤村は別個に活動しており、お互いの活動をほとんど知らなかったとされる。&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;[[有馬哲夫]]『「スイス諜報網」の日米終戦工作 ポツダム宣言はなぜ受けいれられたか』(新潮選書、2015年)では、藤村の和平工作に否定的な見解を述べている。&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;藤村=ダレス工作を元に、[[西村京太郎]](作家)が小説『D機関情報』(講談社)を著し、『[[アナザー・ウェイ ―D機関情報―]]』(主演[[役所広司]]、[[1988年]])で映画化された。&lt;/ref&gt;。<br /> これらはいずれも和平条件の問題や日本側による仲介者への不信、タイミングなどから、実現には至らなかった。<br /> <br /> == 軍隊の降伏 ==<br /> 本土防衛の軍隊は、各地で[[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]]に対する降伏式を行っている。<br /> === 北海道・本州・四国・九州 ===<br /> 青森県の場合&lt;ref&gt;「占領の瞬間生々しく 降伏式の写真見つかる」デーリー東北新聞社オンライン(2010/03/11)[http://www.daily-tohoku.co.jp/news/2010/03/11/new1003111401.htm]&lt;/ref&gt;、[[宇垣完爾]]・海軍[[大湊警備府]]司令長官、[[星野利元]]・陸軍50軍司令官、[[金井元彦]]県知事らが、[[1945年]](昭和20年)9月9日に大湊湾洋上のアメリカ軍艦パミナント上で占領命令書に署名している。アメリカ軍側は9月2日に日本と連合国の降伏文書調印を踏まえ、24時間以内に北海道と北東北を管轄する同警備府が武装解除することなどを命じている。<br /> === 沖縄 ===<br /> 9月7日に[[南西諸島]]の軍を代表して[[第28師団 (日本軍)|第28師団]]司令官[[納見敏郎]]中将と[[高田利貞]]少将、[[加藤唯雄]]海軍少将の3名が日本軍の沖縄戦降伏文書に調印し、[[ジョセフ・スティルウェル]]米国陸軍大将が日本軍の降伏を受諾し署名することで、沖縄戦が公式に終結する&lt;ref name=&quot;ruykyu15&quot;&gt;{{cite news|url=http://ryukyushimpo.jp/news/prentry-247513.html|title=日本軍の降伏文書 公開 沖縄市が終戦70年展|newspaper=琉球新報|date=2015-08-19 |accessdate=2016-05-27}}&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;{{cite web|url=http://www.archives.pref.okinawa.jp/publication/2012/09/post-80.html|title=9月7日 沖縄での降伏調印式 (1945年)|publisher=沖縄県公文書館 |accessdate=2016-05-28}}&lt;/ref&gt;{{refnest|group=&quot;注&quot;|沖縄戦の降伏文書には、リーガル版の厚手の用紙が使用されており、米軍側は青インクで署名をしている&lt;ref name=&quot;ruykyu15&quot;/&gt;。}}。<br /> === 現在の日本以外 ===<br /> * ルソン島バギオ[http://avalon.law.yale.edu/wwii/j6.asp]<br /> * ラバウル[http://vrroom.naa.gov.au/print/?ID=25316]<br /> * 南京[http://j.people.com.cn/94474/7135310.html][http://zh.wikisource.org/zh/%E5%90%91%E4%B8%AD%E5%9C%8B%E6%88%B0%E5%8D%80%E6%8A%95%E9%99%8D%E9%99%8D%E6%9B%B8]<br /> * シンガポール[http://www.burmastarbc.com/jpnsurrender.htm]<br /> * ソウル[http://www.law.ou.edu/ushistory/japsurr.shtml][http://members.jcom.home.ne.jp/yosha/yr/empires/War_declarations_and_treaties.html]<br /> <br /> {{gallery<br /> | title = 太平洋戦域各地の降伏式<br /> | align = center<br /> | lines = 6<br /> | ファイル:Japanese surrender (AWM 019296).jpg|[[ニューギニア島]]にて、[[w:Australian 6th Division|オーストラリアの第6師団]][[w:Horace Robertson|ホレス・ロバートソン]]少将に軍刀を引き渡す[[第18軍 (日本軍)|日本の第18軍]][[安達二十三]]司令官<br /> | ファイル:COLLECTIE TROPENMUSEUM In de haven van Kupang (Timor) luisteren de Japanse bevelhebber kolonel Kaida Tatuichi en zijn stafcommandant majoor Muiosu Slioji aan dek van H TMnr 10001519.jpg|[[ティモール島]]の[[w:HMAS Moresby (1918)|HMASモーズビー]]にて、降伏の条項を聴く日本の戒田達一[[戦車第4連隊]]連隊長<br /> | ファイル:Ando Rikichi surrender.jpg|日本の[[安藤利吉]][[台湾総督府|台湾総督]]の降伏を受諾する中国の[[陳儀]][[台湾省行政長官公署|台湾省行政長官]]<br /> | ファイル:KandaSurrender.jpg|[[パプアニューギニア]]の[[ブーゲンビル島]]にて、日本軍の降伏文書に署名する[[第17軍 (日本軍)|第17軍]][[神田正種]]司令官<br /> | ファイル:RE-OCCUPATION OF FRENCH INDO-CHINA.jpg|[[サイゴン]]の降伏式にて、イギリス海軍の中尉に軍刀を引き渡す日本海軍の将校<br /> }}<br /> <br /> == 参考文献 == <br /> === 史伝資料 ===<br /> *「終戦史録」(外務省編、同刊行会, 1986)。初刊1952、新版1997ほか<br /> * 外務省編「終戦史録」 北洋社(全6巻&lt;ref&gt;別巻に「終戦を問い直す シンポジウム」1980。&lt;/ref&gt;), 1977-78<br /> * 外務省編「日本の選択 第二次世界大戦 終戦史録」 山手書房新社(上中下), 1990<br /> * [[江藤淳]]監修、[[栗原健]]・[[波多野澄雄]]編「終戦工作の記録」、講談社文庫(上下), 1986<br /> * 江藤淳編・波多野澄雄解題「占領史録」(全4巻)、講談社, 1981-82/講談社学術文庫, 1989、文庫新版(上下), 1995<br /> * [[林茂]]・[[辻清明 (政治学者)|辻清明]]編「日本内閣史録 5」第一法規, 1981<br /> * 鹿島平和研究所編「日本外交史 25 大東亜戦争・終戦外交」 [[松本俊一]]監修, 1972 <br /> **「日本外交史 26 終戦から講和」 [[鈴木九萬]]監修, 1973、[[鹿島出版会]](各新版)<br /> * 中尾裕次編「昭和天皇発言記録集成」 芙蓉書房出版(上下), 2003<br /> * [[参謀本部 (日本)|参謀本部]]所蔵 「敗戦の記録」 原書房, 1967、新版1989、2005<br /> * 森松俊夫監修「『大本營陸軍部』大陸命・大陸指総集成 10巻」エムティ出版, 1994<br /> * [[防衛庁]][[防衛研修所]]戦史室「大本營陸軍部10 昭和二十年八月まで」朝雲新聞社, 1975<br /> * [[軍事史学会]]編「大本営陸軍部戦争指導班 機密戦争日誌」 錦正社(上下), 1998/新版合本2008<br /> * [[佐藤元英]]・[[黒沢文貴]]編「GHQ歴史課陳述録 終戦史資料」原書房(上下), 2002<br /> <br /> === 日記・回想録 ===<br /> * 「鈴木貫太郎自伝」 鈴木一編、時事通信社, 1968、新版1985&lt;ref&gt;この版には、回顧談「終戦の表情」を収録(労働文化社, 1946)&lt;/ref&gt;<br /> **[[日本図書センター]]〈人間の記録〉, 1997 / [[中公クラシックス]], 2013(小堀桂一郎解説)<br /> * 鈴木貫太郎伝記編纂委員会編「鈴木貫太郎伝」鈴木貫太郎伝記編纂委員会, 1960<br /> *: 新版「歴代総理大臣伝記叢書32 鈴木貫太郎」ゆまに書房, 2006<br /> * 「東久邇日記 日本激動期の秘録」徳間書店, 1968<br /> ** [[東久邇稔彦]]「一皇族の戦争日記」日本週報社, 1957 /「私の記録」東方書房, 1947<br /> * [[東郷茂徳]]「時代の一面 東郷茂徳外交手記」 改造社, 1952 / 原書房, 2005(新版)<br /> * [[迫水久常]]「機関銃下の首相官邸 &lt;small&gt;二・二六事件から終戦まで&lt;/small&gt;」 恒文社, 1964、新版1986ほか / ちくま学芸文庫, 2011<br /> * 迫水久常「大日本帝国最後の四か月」 オリエント書房, 1973 / 河出文庫, 2015<br /> * [[下村海南]]「終戦秘史」 講談社, 1950 / 講談社学術文庫, 1985(新版)<br /> * [[藤田尚徳]]「[[宮内庁侍従職|侍従長]]の回想」 講談社, 1961 / 中公文庫, 1987 / 講談社学術文庫, 2015<br /> * [[細川護貞]]「細川日記」 中央公論社(新版), 1978 / 中公文庫(上下), 1979、新版2002<br /> * [[重光葵]]「重光葵手記」(正・続) 中央公論社, 1986-88 <br /> * 重光葵「昭和の動乱」 中央公論社, 1952 / 中公文庫(上下), 2001(新版)<br /> * 重光葵「外交回想録」 毎日新聞社, 1978 / 中公文庫, 2011(各新版)<br /> * [[岡崎勝男]]「戦後二十年の遍歴」 中公文庫, 1999。初刊・私家版<br /> * [[木戸幸一]]「木戸幸一日記」 東京大学出版会(上・下), 1966<br /> *「証言・私の昭和史5 終戦前後」聞き手三國一郎 旺文社文庫、文春文庫(新版), 1989<br /> *「もう一つの戦後史」聞き手江藤淳、講談社, 1978&lt;ref&gt;昭和史の当事者・その親族13名へのインタビュー&lt;/ref&gt;<br /> * [[松村謙三]]「三代回顧録」東洋経済新報社, 1964 <br /> * [[高松宮宣仁親王]]「高松宮日記」 中央公論新社(全8巻), 1997<br /> * [[河辺虎四郎]]「河辺虎四郎回想録 市ヶ谷台から市ヶ谷台へ」 時事通信社, 1962 / 毎日新聞社, 1979<br /> * [[保科善四郎]]「[[大東亜戦争]]秘史 失われた和平工作」原書房, 1975<br /> *「最後の参謀総長[[梅津美治郎]]」 同刊行会編、芙蓉書房, 1976 <br /> * [[有末精三]]「終戦秘史 有末機関長の手記」 芙蓉書房, 1987(新版)<br /> * [[宮崎周一]]「大本営陸軍部作戦部長 宮崎周一中将日誌」 錦正社, 2003<br /> * [[豊田副武]]「最後の帝国海軍」 世界の日本社, 1950 / 中公文庫, 2017<br /> * [[富岡定俊]]「開戦と終戦」毎日新聞社, 1968 / 中公文庫, 2018<br /> * [[藤田信勝]]「敗戦以後」プレスプラン, 2003/リーダーズノート新書, 2011<br /> <br /> === 歴史書・伝記 ===<br /> * [[半藤一利]]「&lt;small&gt;決定版&lt;/small&gt; 日本のいちばん長い日」 文藝春秋, 1995、文春文庫, 2006<br /> * 半藤一利「聖断 昭和天皇と鈴木貫太郎」 文藝春秋, 1985/PHP文庫(新版), 2006<br /> * [[小堀桂一郎]]「宰相鈴木貫太郎」 文藝春秋, 1982、文春文庫, 1987<br /> **「鈴木貫太郎 &lt;small&gt;用うるに玄黙より大なるはなし&lt;/small&gt;」 ミネルヴァ書房〈日本評伝選〉, 2016。増訂版<br /> * [[波多野澄雄]]「宰相鈴木貫太郎の決断 &lt;small&gt;「聖断」と戦後日本&lt;/small&gt;」岩波書店〈[[岩波現代全書]]〉, 2015<br /> * [[萩原延壽]]「東郷茂徳 &lt;small&gt;伝記と解説&lt;/small&gt;」 原書房, 2005(新版)/朝日新聞社, 2008<br /> * 東郷茂彦「祖父東郷茂徳の生涯」 文藝春秋, 1993<br /> * [[豊田穣]]「孤高の外相 重光葵」 講談社, 1990<br /> * 渡辺行男「重光葵 上海事変から国連加盟まで」中公新書, 1996<br /> * [[実松譲]]「[[米内光政]]正伝」光人社, 2009(新版)<br /> *「昭和史の天皇」 中公文庫(1-4), 2012。元版:読売新聞社(全30巻), 1980完結<br /> **「天皇の終戦 激動の227日」 読売新聞社, 1988-上記の再編版<br /> * [[入江隆則]]「敗者の戦後」 中央公論社〈中公叢書〉, 1989/文春学藝ライブラリー(文庫・新版), 2015<br /> * [[長谷川毅]]「暗闘 スターリン、トルーマンと日本降伏」 中央公論新社, 2006、中公文庫(上下), 2011<br /> * [[仲晃]]「黙殺 ポツダム宣言の真実と日本の運命」 NHKブックス(上下), 2000<br /> * [[五百籏頭真|五百旗頭真]]「日米戦争と戦後日本」 講談社学術文庫(新版), 2005 <br /> * 五百旗頭真「占領期 首相たちの新日本」 読売新聞社〈20世紀の日本3〉, 1997/講談社学術文庫, 2007<br /> * 五百旗頭真「日本の近代6 戦争・占領・講和 1941〜1955」 中央公論新社, 2001、中公文庫, 2013<br /> * [[戸部良一]]「日本の近代9 逆説の軍隊」 中央公論新社, 1998、中公文庫, 2012<br /> * [[児島襄]]「天皇5 帝国の終焉」 カゼット出版(新版), 2007-全5巻<br /> * [[ジョン・トーランド]]「大日本帝国の興亡5 平和への道」 [[毎日新聞社]]外信部訳、ハヤカワ文庫(全5巻)、2015(新版)<br /> * レスター・ブルークス「終戦秘話 一つの帝国を終わらせた秘密闘争」[[井上勇]]訳、時事通信社, 1968、新版1985。原題は&#039;&#039;Behind Japan&#039;s surrender&#039;&#039;<br /> * [[芦田均]]「第二次世界大戦外交史」岩波文庫(上下), 2015(新版)。解説[[井上寿一]]<br /> <br /> === 個別研究 === <br /> * [[保阪正康]]「&lt;small&gt;新版&lt;/small&gt; 敗戦前後の日本人」 朝日文庫, 2007<br /> * 遠山茂樹・今井清一・藤原彰「昭和史(新版)」岩波新書, 1959<br /> * [[纐纈厚]]「日本降伏 迷走する戦争指導の果てに」日本評論社, 2013<br /> * {{Cite book|和書|author = [[加藤聖文]]|title = 「大日本帝国」崩壊 &lt;small&gt;東アジアの1945年&lt;/small&gt;|publisher = [[中央公論新社]] |series = [[中公新書]]|date = 2009-07 |isbn = 4-12-102015-4|ref = 加藤 (2009年)}}<br /> * 趙景達「植民地朝鮮と日本」岩波新書, 2013<br /> * [[若林正丈]]「台湾 変容し躊躇するアイディンティティ」ちくま新書, 2001<br /> * {{Cite book|和書|author = 小倉貞男|title = 物語ヴェトナムの歴史 &lt;small&gt;一億人国家のダイナミズム&lt;/small&gt;|publisher = [[中央公論新社]] |series = [[中公新書]]|date = 1997-07 |isbn = 4-12-101372-7|ref = 小倉 (1997年)}}<br /> * 小林英夫「日本軍政下のアジア」 岩波新書, 1993<br /> * 『岩波講座アジア・太平洋戦争 第7巻 支配と暴力』編集委員倉沢愛子ほか、岩波書店, 2006<br /> **中野聡「植民地統治と南方軍政―帝国・日本の解体と東南アジア」<br /> <br /> === 辞典・事典項目 ===<br /> * 師岡佑行「終戦工作」 「社会科学大事典 10」鹿島研究所出版会, 1969<br /> * 波多野澄雄「終戦工作」 「国史大辞典 7」吉川弘文館, 1986<br /> * 木坂順一郎「終戦工作」 「日本史大事典 3」平凡社, 1993<br /> <br /> === その他 ===<br /> * 『消えた潜水艦とたった一人の和平工作』(日本テレビ「[[知ってるつもり?!]]」2002年5月28日放送分)<br /> <br /> == 脚注 ==<br /> === 注釈 ===<br /> &lt;references group=&quot;注&quot; /&gt;<br /> <br /> === 出典 ===<br /> {{脚注ヘルプ}}<br /> {{Reflist|2}}<br /> <br /> == 関連項目 ==<br /> * [[ヨーロッパ戦勝記念日]]<br /> * [[欧州戦線における終戦 (第二次世界大戦)]]<br /> * [[終戦の日]]<br /> * [[ポツダム宣言]]<br /> * [[日本の降伏文書]]<br /> * [[対日戦勝記念日]]<br /> * [[連合国軍占領下の日本]]<br /> * [[日本国との平和条約]](サンフランシスコ平和条約)<br /> * [[日本の戦後改革]]<br /> * [[終戦日記]]<br /> * [[日本のいちばん長い日]](1945年8月15日に至るまでを描いた映画)、ほかに「[[日本のいちばん長い夏]]」がある<br /> * [[失敗の本質]]<br /> * [[ベトナム独立宣言]](日本が降伏した1945年9月2日に出された)<br /> * [[現代 (時代区分)]]<br /> <br /> {{太平洋戦争・詳細}}<br /> <br /> {{デフォルトソート:にほんのこうふく}}<br /> [[Category:1945年の日本|こうふく]]<br /> [[Category:第二次世界大戦下の各国]]<br /> [[Category:太平洋戦争]]<br /> [[category:日本の戦後処理|こうふく]]<br /> [[Category:1945年8月]]<br /> [[Category:1945年9月]]</div> 240B:11:4A00:400:45F5:B432:D0EE:BC0B 米内光政 2018-07-28T12:04:04Z <p>240B:11:4A00:400:45F5:B432:D0EE:BC0B: /* 米内を演じた俳優 */</p> <hr /> <div>{{政治家<br /> |人名 = 米内 光政<br /> |各国語表記 = よない みつまさ<br /> |画像 = Mitsumasa yonai.jpg<br /> |画像サイズ = 250px<br /> |画像説明 = 海軍大臣だった頃<br /> |国略称 ={{JPN}}<br /> |生年月日 = [[1880年]][[3月2日]]<br /> |出生地 = {{JPN}} [[岩手県]][[盛岡市]]<br /> |没年月日 = {{死亡年月日と没年齢|1880|3|2|1948|4|20}}<br /> |死没地 = <br /> |出身校 = [[海軍兵学校 (日本)|海軍兵学校]](29期)&lt;br /&gt;[[海軍大学校]](12期)<br /> |称号・勲章 = [[ファイル:OF-8 - Kaigun Taisho.gif|30px]] [[海軍大将]]&lt;br /&gt;[[従二位]]&lt;br /&gt;[[勲一等旭日大綬章]]&lt;br /&gt;[[金鵄勲章|功一級金鵄勲章]]<br /> |親族(政治家) = <br /> |配偶者 = 米内こま<br /> |サイン = YonaiM kao.png<br /> |国旗 = JPN<br /> |職名 = 第37代 [[内閣総理大臣]]<br /> |内閣 = [[米内内閣]]<br /> |就任日 = [[1940年]][[1月16日]]<br /> |退任日 = 1940年[[7月22日]]<br /> |元首職 = [[天皇]]<br /> |元首 = [[昭和天皇]]<br /> |国旗2 = JPN<br /> |職名2 = 第49 - 52代 [[海軍大臣]]<br /> |内閣2 = [[小磯内閣]]&lt;br /&gt;[[鈴木貫太郎内閣]]&lt;br /&gt;[[東久邇宮内閣]]&lt;br /&gt;[[幣原内閣]]<br /> |就任日2 = [[1944年]][[7月22日]]<br /> |退任日2 = [[1945年]][[12月1日]]<br /> |国旗3 = JPN<br /> |職名3 = 第39 - 41代 海軍大臣<br /> |内閣3 = [[林内閣]]&lt;br /&gt;[[第1次近衛内閣]]&lt;br /&gt;[[平沼内閣]]<br /> |就任日3 = [[1937年]][[2月2日]]<br /> |退任日3 = [[1939年]][[8月30日]]<br /> }}<br /> <br /> &#039;&#039;&#039;米内 光政&#039;&#039;&#039;(よない みつまさ、[[1880年]]([[明治]]13年)[[3月2日]] - [[1948年]]([[昭和]]23年)[[4月20日]])は、[[大日本帝国|日本]]の[[大日本帝国海軍|海軍]][[海軍軍人|軍人]]、[[政治家]]。最終[[階級]]は海軍[[大将]]。[[位階]]は[[従二位]]。[[勲等]]は[[勲一等旭日大綬章|勲一等]]。[[功級]]は[[功一級]]。第23代[[連合艦隊司令長官]]。第39-41、49-52代[[海軍大臣]]。[[米内内閣|第37代]][[内閣総理大臣]]。<br /> <br /> == 生涯 ==<br /> === 出生から海軍兵学校時代 ===<br /> [[1880年]]([[明治]]13年)、[[岩手県]][[盛岡市]]に旧[[盛岡藩]]士・[[米内受政]]の長男として生まれる。[[1886年]](明治19年)、鍛冶町尋常小学校に入学。[[1891年]](明治24年)、[[盛岡市立下橋中学校|盛岡高等小学校]]に入学。[[1894年]](明治27年)、[[岩手県立盛岡第一高等学校|岩手県尋常中学校]]に入学。[[1898年]](明治31年)、[[海軍兵学校 (日本)|海軍兵学校]][[海軍兵学校卒業生一覧 (日本)#29期|29期]]に入校。同期生には[[高橋三吉]]、[[藤田尚徳]]、[[佐久間勉]]、[[八角三郎]](中学も同期)らがいる。兵学校では「グズ政」という渾名がついた。<br /> <br /> 当時の米内のノートは記述の質・量が膨大であり、ひとつの問題に対して自分が納得が行くまであらゆる角度からアプローチをかけ問題を解決している。これは[[詰め込み教育|詰め込み式教育]]が当たり前だった海軍教育においては珍しい勉強法であった。米内の勉強法を知っていた当時の教官は「彼は上手くいけば化ける。いや、それ以上の逸材になるかも知れない」と目を掛け、多少の成績の不振でも米内をかばい続け、何とか米内を海軍兵学校から卒業させた。後に同期の藤田尚徳は人事局長時代、当時の[[呉鎮守府]]司令長官・[[谷口尚真]]から「君のクラスでは誰が一番有望かね?」という質問に即座に「それは米内です」と答えたという。谷口はそれに「そうか。僕も同意見だ。ただ米内君は面倒くさがり屋で、その面倒くさがりの度が少し過ぎてやせんかと思うがね」と答えたという{{Sfn|阿川弘之|1982|p=}}。<br /> <br /> === 海軍士官として ===<br /> [[1901年]]([[明治]]34年)に[[海軍兵学校 (日本)|海軍兵学校]][[海軍兵学校卒業生一覧 (日本)#29期|29期]]を125人中68番の成績で卒業。海軍少尉候補生、練習艦「[[金剛 (コルベット)|金剛]]」乗り組み。[[1903年]]([[明治]]36年)、任海軍少尉。<br /> <br /> [[1905年]](明治38年)、[[日露戦争]]に従軍。[[第三艦隊 (日本海軍)|第三艦隊]]第十六水雷艇隊所属。第一艦隊第二駆逐隊所属の[[駆逐艦]]「[[電 (雷型駆逐艦)|電]]」乗組み。海軍[[中尉]]。[[日本海海戦]]に参戦{{Sfn|緒方竹虎||p=161-163}}。[[1906年]](明治39年)、功四級金鵄勲章。大隈コマと結婚。任海軍大尉。[[1912年]]([[大正]]元年)、任海軍少佐。[[海軍大学校]]甲種学生12期。[[1914年]](大正3年)海軍大学校卒業。[[旅順要港部]]参謀。<br /> <br /> [[1915年]](大正4年)2月、ロシア・[[サンクトペテルブルク]][[在ロシア日本国大使館|大使館]]付[[駐在武官]]補佐官。ロシア駐在時代の駐在員監督官が海軍省に送った報告書によると、米内は「語学の上達が非常に早く、ロシア人教師も驚く程である。異国の風土にも違和感なく溶け込み、(米内のロシア駐在という)人選は適格である」と絶賛している。ある同期は「ロシア語で電話が出来る[[海軍省]]内唯一の人」と回想し、[[佐世保鎮守府]]参謀時代は「暇つぶし」と称して『[[グリゴリー・ラスプーチン|ラスプーチン]]秘録』というロシア語で書かれたルポを翻訳したりしている。<br /> <br /> [[1916年]](大正5年)、任海軍中佐。[[1917年]](大正6年)4月、ロシア駐在を免ぜられる。[[1918年]](大正7年)海軍大学校教官。[[軍令部]]参謀。8月、ソ連・[[ウラジオストック]]駐在。[[ロシア革命]]の混乱、国際情勢を分析し、論文を作成している。[[1919年]](大正8年)9月、ウラジオストック駐在を免ぜられる。[[1920年]](大正9年)、任海軍大佐。6月よりベルリン駐在。[[1921年]](大正10年)、ポーランド駐在員監督。[[1922年]](大正11年)、装甲巡洋艦「[[春日 (装甲巡洋艦)|春日]]」艦長。[[1923年]](大正12年)、練習艦「[[磐手 (装甲巡洋艦)|磐手]]」艦長。米内は[[ニュージーランド]]の小学校を訪問するが、もともと口数が少ない方で挨拶をした際は、「I&#039;m glad to see you, thank you.」としか話さなかった。<br /> <br /> [[1924年]](大正13年)戦艦「[[扶桑 (戦艦)|扶桑]]」「[[陸奥 (戦艦)|陸奥]]」艦長。[[1925年]](大正14年)、任海軍少将。[[第二艦隊 (日本海軍)|第二艦隊]]参謀長。当時の司令長官は谷口尚真であるが、谷口があまりにも謹厳であり部下にもこれを要求したため米内が「河の水棲むほどの清さかな」という句を送っている。谷口は「ありがとう。」とこれを受け取ったという。[[1926年]](大正15年)、軍令部第三班長。[[1927年]]([[昭和]]2年)、第四水雷戦隊司令官。特別大演習に参加。[[1928年]](昭和3年)、[[第一遣外艦隊]]司令官。<br /> <br /> [[1930年]](昭和5年)、任海軍中将。[[鎮海要港部]]司令官。この役職は「[[免職|クビ]]5分前」「[[流罪|島流し]]」と言われ、米内が赴任した頃は「一週間に半日仕事があれば良い方だ」といわれた閑職であった。米内は「いつでも辞める覚悟はできてるよ」と同期に語っているが、読書三昧の日々を過ごし、[[漢籍]]から[[ロシア文学]]や[[社会科学]]、中学の後輩である[[野村胡堂]]の小説まで読み耽ったという。米内の読書法は「本は三度読むべし。1回目は始めから終わりまで大急ぎで、2度目は少しゆっくり、3度目は咀嚼して味わうように読む」というものだった。[[荒城二郎]]に送った手紙によると、毎日二時間は必ず読書の時間を設け、司令官といってもほとんどやることがなく執務中にも読書をしていたという。<br /> <br /> [[1932年]](昭和7年)第三艦隊司令長官。米内は[[インフルエンザ]]をこじらせて[[胸膜炎]]になり療養を必要としたが拒絶した。海軍次官だった藤田尚徳は軍令部次長・高橋三吉と相談し、「米内君の気持ちはよくわかる。しかし第三艦隊司令長官は米内君でなくとも勤まる。だが帝国海軍の将来を考える時必ずこの人に大任を託す時期が来ると思う。今米内君を再起不能の状態に陥れてはならぬ。たとえ今はその気持ちを蹂躙しても、また後で怒られても良い」と結論に達し海軍次官と軍令部次長の権限で米内を療養させた。早期治療の効果か1ヵ月後には米内は職務に復帰することができた。のちに藤田と高橋は、米内を現役大将として残すため、自ら[[予備役]]編入を願い出ている&lt;ref&gt;『歴代海軍大将全覧』「藤田尚徳」中公新書ラクレ&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 幕僚の[[保科善四郎]]によれば、砲艦[[二見 (砲艦)|二見]]が[[長江|揚子江]]を航行中に暗岩に乗り上げてしまい、司令長官である米内が責任を取り進退伺の電報を打つよう保科に命じた。保科は「米内さんのような、命をかけて国に尽くしている人材をここで失くしてはならない。温存する必要がある」と電報を預かり、打ったフリをして独断で握り潰した。もしそのまま進退伺を出していれば確実に受理されて依願予備役になっていたものと思われ、「我ながら傑作だった。あれでクビになっていたら日本は本土決戦でメチャクチャになっていたよ」と語っている。<br /> <br /> [[ファイル:Mitsumasa Yonai.jpg|thumb|200px|[[1936年]]頃、[[連合艦隊司令長官]]当時]]<br /> [[1933年]](昭和8年)、[[佐世保鎮守府]]司令長官。[[友鶴事件]]が発生し、この時査問委員会の一人である[[森田貫一]]機関中将は、佐世保を訪れて米内を訪ねた際、米内は「これは(日本海軍の)根幹に関わることだ。僕はどうなってもいいから本当のことをしっかりやってくれ」と言い、森田は「偉い人だ。米内さんが職を賭して徹底解決を推進されたことが成功の原因だった。役人根性むき出しで責任回避をはかりうやむやにしていたら、日本海軍は大変なことになっていただろう」と話している&lt;ref&gt;吉田俊雄著『日本海軍のこころ』文春文庫 pp.310-312&lt;/ref&gt;。[[1934年]](昭和9年)第二艦隊司令長官。<br /> <br /> [[1935年]](昭和10年)、[[横須賀鎮守府]]司令長官。[[1936年]](昭和11年)[[2月26日]]、[[二・二六事件]]発生の際、米内は[[新橋 (東京都港区)|新橋]]の[[待合茶屋]]に泊まっており、事件のことは何も知らず、朝の始発電車で横須賀に帰り、その始発で[[横須賀線]]はストップしたため、間一髪のところで、事件対応に追われる横須賀鎮守府に責任者不在という事態は免れたと[[井上成美]]の『思い出の記』にはあるが、待合の女中の妹の結婚式に参加し、二次会で早朝まで東京に滞在していたことを待合の関係者が証言しており、それが事実なら当時女房役だった参謀長・井上成美が知らないわけがなく、意図的に米内を庇った可能性がある。鎮守府に着いた米内は[[参謀長]]の井上成美とともにクーデター部隊を「[[反乱]]軍」と断定、制圧に動いた。<br /> <br /> 12月1日、[[連合艦隊司令長官]]兼[[第一艦隊 (日本海軍)|第一艦隊]]司令長官に補される。<br /> <br /> === 第39 - 41代海軍大臣 ===<br /> [[ファイル:Mitsumasa Yonai and Isoroku Yamamoto.jpg|right|150px|thumb|米内と山本五十六]]<br /> [[1937年]](昭和12年)2月2日、[[林内閣]]の[[海軍大臣]]に就任。米内は軍政が嫌いで連合艦隊司令長官を就任僅か2ヶ月で退任させられ海相に任ぜられることを非常に渋り、周囲には「一属吏になるなんて、全くありがたくない話だ」とぼやいていたという。当初、[[林銑十郎]]は海相に[[末次信正]]を望み、両人間で了解済みであった。しかし[[海軍省#次官|海軍次官]]・[[山本五十六]]は前海相・[[永野修身]]に米内を強く推し、[[軍令部]]総長・[[伏見宮博恭王]]の同意を得て決定した{{Sfn|野村實|1996|p=194-197|ps=「林内閣の海相人事」}}。米内は山本を次官に留任させている。軍務局第一課長だった[[保科善四郎]]によれば、[[広田内閣]]崩壊後、後任の海軍大臣を誰にするかについて話し合われた時、保科が真っ先に米内を挙げ、次官の山本五十六の同意を得て留任希望の永野修身を説得して米内の大臣就任の了承を取ったという。<br /> <br /> 4月、[[大将|海軍大将]]に進級。海相の初期には「金魚大臣」と渾名がついた。<br /> <br /> 大臣秘書官だった[[実松譲]]中佐は、米内のあまりの博識に驚き、どこでそんな知識を身につけたのか質問したところ、「鎮海に二年、佐世保に一年、横須賀に一年というように、官舎でやもめ暮らしをしている間に読書の癖がついた。特に鎮海の閑職時代には書物を読むのが何より楽しみであった。そして、いま海軍大臣という大事な仕事をするのに、それが非常に役に立っているように思われる。人間と言うものは、いついかなる場合でも、自分の巡り合った境遇を、もっとも意義あらしめることが大切だ」と答え、「練習艦の米内艦長から教えられているような少尉候補生時代の気分に戻った」と回顧している。<br /> <br /> 海軍大臣を務めていた頃、年末になると海軍からは[[賞与|ボーナス]]が、内閣からは手当が支給されていたが、米内は「国家から二重に手当を受ける理由はない。海軍の分は頂戴しておくが、内閣の分は適当に処理しておいてくれ」と言って、内閣からの手当を秘書官の実松譲に手渡していた。実松は考えた末、大臣スタッフ一同で分配する事にして、その内の一部を米内の所に持っていき、「これは大臣の分です」と言うと、米内はニコニコして受け取ったという。<br /> <br /> [[月月火水木金金|休日返上]]で勤務している「海軍さん」を芸者衆が慰問に訪れ、米内の秘書官が同じく休日勤務をしていた軍務局長の井上成美、軍令部次長の[[古賀峯一]]などを呼び空室だった海軍省の次官室(当時の次官は山本五十六)を使って芸者手製の弁当を食べていたことが露見して米内と山本が激怒、秘書官をすべてクビにしようとした。芸者衆が懇願して山本は「酒は飲んでいないので罪一等を減じる。1年間の進級停止」と妥協したものの、今度は米内の態度が硬化し「ダメ、全員クビだ」の一点張り。困った芸者衆が海軍の長老に直訴しようとしたところ、慌てた米内と山本がこれは[[ドッキリ|悪戯]]ということを明かし、その日は芸者衆に追いかけまわされたという。もっとも、その悪戯のいちばんの「被害者」である秘書官の実松穣は「悪戯にも程があるのではないか」と複雑な気持ちを自伝で述べている。また実松の自伝によるとこれは山本の発案で、米内は「やりすぎではないか」と消極的だったと記しており、阿川弘之が書いた、米内・山本の「共謀」とは少し展開が違っている。<br /> <br /> 中国・[[華南]]で[[ハンセン氏病]]に罹った兵が、戦いではなく病気で軍を離れたことに対する苦悩を手記にして人事局長だった[[清水光美]]に送った。人事局長を経てその手記を見た米内は、「これを送って慰めてやってくれ」と[[漢詩]]を書いた書と絵画を送ったという。<br /> <br /> [[下士官]]・[[兵 (日本軍)|兵]]の家族の[[福利厚生]]、特に病気になった時の対策が資金面の都合で滞っておりこれは歴代海相の共通の悩みだった。米内は[[大蔵大臣]]・[[結城豊太郎]]に相談してすぐに許諾をもらい、要港の大規模病院の建設は支出を[[大蔵省]]に渋られたため、民間からの寄付で補おうと海相官邸に[[財界]]の有力者を呼び集め寄付を呼びかけたところ、予定額をはるかに超える寄付金が集まった。これにより歴代海軍大臣の懸案であった医療問題が解決した。<br /> <br /> [[ファイル:First Konoe Cabinet.jpg|thumb|200px|[[1937年]][[3月7日]]、[[内閣総理大臣]][[近衛文麿]](前列中央)と]]<br /> [[1937年]](昭和12年)6月4日、[[第1次近衛内閣]]でも海相に留任した。<br /> <br /> 8月9日に[[第二次上海事変]]発生すると、8月13日の閣議で断固膺懲を唱え、陸軍派兵を主張した。8月14日には、不拡大主義は消滅し、北支事変は[[支那事変]]になったとして、全面戦争論を展開、台湾から[[杭州市|杭州]]に向けて、さらに8月15日には長崎から[[南京]]に向けて[[海軍航空隊]]による渡洋爆撃を敢行した。さらに同日から8月30日まで、[[上海市|上海]]・[[揚州市|揚州]]・[[蘇州市|蘇州]]・[[句容市|句容]]・[[浦口区|浦口]]・[[南昌市|南昌]]・[[九江市|九江]]を連日爆撃し、これにより[[日中戦争]]の戦火が各地に拡大した。[[1938年]](昭和13年)1月11日の[[御前会議]]では、[[トラウトマン和平工作|トラウトマン工作]]の交渉打切りを強く主張、「[[蒋介石]]を対手とせず」の[[第一次近衛声明]]につながった&lt;ref&gt;南京戦史資料集、偕行社、1989年&lt;/ref&gt;。1月15日の[[大本営政府連絡会議]]において、蒋介石政権との和平交渉、トラウトマン工作の継続を強く主張する陸軍参謀次長・[[多田駿]]に反対して、米内は交渉打切りを主張し、近衛総理をして「爾後国民政府を対手とせず」という発言にいたらしめたことが、[[中国]]における最も有力な交渉相手をみすみす捨て去って泥沼の長期戦に道を拓いた上、アメリカ政府の対日感情を著しく悪化させた。<br /> <br /> 11月25日の[[五相会議]]で、米内は[[海南島]]攻略を提案し合意事項とした。当時の海軍中央部では「海南島作戦が将来の対英米戦に備えるものである」という認識は常識であり、米内は「対英米戦と海南島作戦の関係性」は承知であった。この件に関して、「第二次上海事変で、出兵に反対する[[賀屋興宣]]を閣議で怒鳴りつけて、無理矢理、兵を出して、シナ事変を泥沼化させた」「海南島に出兵を強行して日米関係を決定的に悪化させた」という批判もある{{要出典|date=2017-03}}。この言動は、海軍の論理を政治の世界で優先させるということが米内の一貫した思想にすぎなかったということを示しており、当時、上海や海南島には多数の海軍部隊が孤立しており、それを救出するために米内は派兵を主張したが、その派兵が事変全体の長期化を招く危険には米内は考慮をはらっていなかった&lt;ref&gt;福田和也『総理大臣の採点表』文藝春秋&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> [[ファイル:Yonai, Itagaki and Hiranuma at a Budjet Committee session cropped.jpg|thumb|250px|1939年(昭和14年)1月、[[予算委員会|衆議院予算総会]]の大臣席で[[板垣征四郎]]陸相(左)と言葉を交わす米内海相。米内の右には[[平沼騏一郎]]首相も見える。]]<br /> <br /> [[1939年]](昭和14年)1月5日、[[平沼内閣]]でも海相に留任した。<br /> <br /> 海軍次官・山本五十六、[[軍務局長]]・井上成美とともに、ドイツ・[[イタリア]]との[[日独伊三国軍事同盟]]に反対する。[[日独防共協定]]締結に際しては、「なぜ[[ソビエト連邦|ソ連]]と手を握らないか」と慨嘆した親ソ派であった&lt;ref&gt;[[新名丈夫]]編『海軍戦争検討会議記録 太平洋戦争開戦の経緯』(毎日新聞社、1976年)pp.64-65&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 8月、五相会議の席上で、同盟を締結した場合に日独伊と英仏米ソ間で戦争となった場合、海軍として見通しはどうかと大蔵大臣・[[石渡荘太郎]]から問われた時に米内は「勝てる見込みはありません。日本の海軍は米英を相手に戦争ができるように建造されておりません。独伊の海軍にいたっては問題になりません」と言下に答えた。8月30日 昭和天皇は、米内に「海軍が(命がけで三国同盟を止めたことに対し)良くやってくれたので日本の国は救われた」という言葉をかけたという&lt;ref&gt;岡田啓介回顧録 岡田貞寛編 毎日新聞社刊&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 米内の日独伊三国同盟反対論について、「海軍力が日独伊では米英に及ばないという海軍の論理から反対しただけであって、大局的な意味での反対論ではなかった」「魅力に富んだ知的人物だが、政治面において定見のある人物とはいえなかった」という否定的な意見もある&lt;ref&gt;福田和也『総理大臣の採点表』文藝春秋&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 同年に[[豊後水道]]で[[潜水艦]]が沈没し[[呉鎮守府]]が引き揚げ作業に当たったが、沈没場所が水深数百メートルである上に、潮の流れが速いため作業は難航、外部からも経費の無駄遣いと批判を浴びて現場も「こっちも好きでやっているのではない。非難があるならやめてしまえ」と意欲が低下していた。それを察した鎮守府参謀長が[[海軍省]]に報告に行ったところ、当時海軍次官であった山本五十六は「経費はいくらかかってもいいからしっかりやれ。しかし無理して人を殺さぬように」と激励した。米内も「次官から聞いた。御苦労」とただそれだけ述べた。参謀長は現場に戻り、伝えたところ非常にモチベーションが上がり作業も無事終了した。参謀長は戦後に「あの短い大臣の言葉と次官の人を殺すなという一言は、千万言にも勝る温かい激励でした」と回想している。<br /> <br /> 平沼内閣の総辞職により海相を辞任して[[軍事参議院|軍事参議官]]となる。<br /> <br /> === 内閣総理大臣 ===<br /> [[ファイル:Yonai comforting kids 29 March 1940.jpg|thumb|200px|戦地で父を失った郷里岩手県の子供たちを[[総理大臣官邸|官邸]]に招いて励ます米内(1940年3月29日)]]<br /> [[ファイル:Mitsumasa Yonai smiling.jpg|thumb|1940年1月16日、親任式を終えてほっと一息の米内]]<br /> {{See also|米内内閣}}<br /> <br /> [[1940年]](昭和15年)[[1月16日]]、第37代[[内閣総理大臣]]に就任する。米内を総理に強く推したのは[[昭和天皇]]自身だったようだ。この頃、[[ナチス・ドイツ]]はヨーロッパで破竹の猛進撃を続け、軍部はもとより、世論にも日独伊三国軍事同盟締結を待望する空気が強まった。天皇はそれを憂慮し、良識派の米内を任命したと『[[昭和天皇独白録]]』の中で述べている。また[[内大臣府|内大臣]]の[[湯浅倉平]]も米内首相の実現に大いに働いている。[[大命降下|組閣の大命]]を受けに宮中に参内した時、当初米内は組閣を辞退するつもりだった。しかし「朕、卿に組閣を命ず」という天皇の甲高い声を聞いて、米内は「電気に打たれたようになって」断りを言い出せなくなったという。なお大命が降下した時、米内は海相を退任して閑職の軍事参議官の任に就いてはいたものの、まだ現役の海軍大将であったが、首相就任と同時に自ら[[予備役]]となる。1922年(大正11年)に海軍大臣を兼任したまま首相に就任した[[加藤友三郎]]を最後に現役の陸海軍将官に組閣の大命が下る例は絶え、その後に首相となった[[田中義一]]・[[斎藤実]]・[[岡田啓介]]・[[林銑十郎]]・[[阿部信行]]は、いずれも予備役か[[退役]]の陸海軍大将であった。加藤以前の軍人首相は[[山縣有朋]]ほかいずれも現役のまま首相を務めており、大命降下のあった現役将官があえて予備役になってから首相となることは先例がなく、また後例もない人事だったのである(米内以後に首相になった軍人四人のうち、[[東條英機]]・[[東久邇宮稔彦王]]は現役で大命降下し首相就任後も現役にとどまり、[[小磯国昭]]・[[鈴木貫太郎]]は大命降下時予備役であった)。海相・[[吉田善吾]]らは米内に現役に留まるよう説得したが、米内は総理が現役将官であることは[[統帥権]]を干犯することに繋がりかねないと言ってこれを受け入れなかった{{Sfn|野村實|1996|p=197-203}}。米内が予備役となったことは、軍令部総長・伏見宮博恭王の後任に米内を擬していた海軍人事局をも困惑させる事態であった。<br /> <br /> 就任直後の[[1月21日]]、[[千葉県]][[房総半島]]沖合いの公海上でイギリス軍巡洋艦が貨客船「[[浅間丸]]」を臨検、乗客のドイツ人男性21名を[[戦時捕虜]]として連行する[[浅間丸事件]]が発生した。世論がイギリスを非難する中、イギリスとドイツ人船客の解放をめぐって米内は難しい交渉を行うことになった。一方、[[大日本帝国陸軍|陸軍]]と米内の関係は最初からうまく行かず、[[倒閣]]の動きは就任当日から始まったといわれる。陸軍は日独伊三国同盟の締結を要求する。米内が「我国はドイツのために火中の栗を拾うべきではない」として、これを拒否すると、陸軍は[[陸軍大臣]]・[[畑俊六]]を辞任させて後継陸相を出さず、米内内閣を[[内閣総辞職|総辞職]]に追い込んだ。当時は[[軍部大臣現役武官制]]があり、陸軍または海軍が大臣を引き上げると内閣が倒れた{{refnest|group=&quot;注&quot;|倒閣は陸軍だけが考えた訳ではない。6月7日に[[立憲政友会|立憲政友会正統派]][[総裁]][[久原房之助]]が同様の要求を行って拒絶されると、[[内閣参議]]を辞職して[[松野鶴平]][[鉄道大臣]]ら閣僚・政務官の引揚を通告した。だが、政党派内部では久原のように[[新体制運動]]を支持する意見と[[鳩山一郎]]のように[[立憲民政党]]と合同してでも[[政党政治]]を守るべきとの意見が対立しており、鳩山側の松野が辞任に同調しなかったことと、新体制運動を進めていた近衛の側近達からも久原の行動を時期尚早として相手にされなかったため、最終的に久原1人が辞任する羽目となった。}}{{refnest|group=&quot;注&quot;|畑は当時の[[参謀総長]]だった[[閑院宮載仁親王]]から陸相を辞任するように迫られ、皇族への忠誠心が厚かった畑はその命令を断ることができなかった。閑院宮の顔を立てたいと考えていた一方で、どうしても内閣総辞職を回避したかった畑は、米内に対して辞表を提出しても受理しないよう内密に話をつけていたが、なぜか米内は辞表を受理した。}}。米内はその経過を公表して、総辞職の原因が陸軍の横槍にあったことを明らかにした。米内は畑の疲れ切った表情をみて「畑が自殺でもするのではないか。」と心配したという。昭和天皇も「米内内閣だけは続けさせたかった。あの内閣がもう少し続けば戦争になることはなかったかもしれない」と、石渡荘太郎に語っている。<br /> <br /> 総理大臣を辞任した直後に、[[日光市|日光]]を訪れた際には「見るもよし 聞くもまたよし 世の中は 言わぬが花と 猿はいうなり」という[[短歌]]と、「寝たふりを しても動くや 猫の耳」という句を詠んでいる。<br /> <br /> [[ファイル:Yonai and his staff.jpg|thumb|250px|1940年10月、「一六会」の親睦会で]]<br /> 米内が内閣総理大臣を辞した後、陸軍を除く秘書官達で米内の親睦会が作られた。陸軍の秘書官も「あなたたちは(米内内閣の瓦解とは)関係ないのだから」と誘われたのだが、「我々は米内さんに迷惑をかけた存在なので参加する資格などありません」と丁重に断りを入れている。米内内閣が発足した日も辞表を奉呈した日も16日だったことから「&#039;&#039;&#039;一六会&#039;&#039;&#039;」と名付けられ、戦後も長く行われ年号が[[平成]]に変わっても存続した。会員には[[宇佐美毅 (宮内庁長官)|宇佐美毅]]、[[福地誠夫]]などがいる&lt;ref&gt;[[福地誠夫]]『回想の海軍ひとすじ物語』(光人社)p.108&lt;/ref&gt;。昭和天皇は「一六会」の存在は知っており、「一六会」の日になると「今日は『一六会』の日だね」と侍従に述べたという。<br /> <br /> 総理大臣を辞任後、病院通いに[[東京市電]]を利用していたが、長身で目立ったせいか米内だということがすぐわかり、至る所で国民にサインを求められたり話しかけられたりして「困ったな」と言いながらも嫌な顔もせず談笑やサインに応じていた。元とは言え総理経験者となると[[自家用車]]や[[ハイヤー]]などを使って通院するのが普通で[[公共交通機関]]を使って通院した戦前の総理は米内くらいだという。海軍から公用車が派遣されたが、「[[予備役]]なので」と断っている。逆に陸軍は次官の子弟の通学の送り迎えにも公用車を使い、国民の顰蹙を買っている。<br /> <br /> 9月15日、日独伊三国同盟に対する海軍首脳の会議があり、軍令部総長・伏見宮博恭王が「ここまできたら仕方ない」と発言し、海軍は同盟に賛成することを決定した。翌日、会議に出席していた連合艦隊司令長官・山本五十六は、海相・[[及川古志郎]]に、米内を現役復帰させ連合艦隊司令長官に就任させることを求めている。この日は昭和天皇が伏見宮の更迭を口にした日でもあったが、及川は米内の復帰と伏見宮更迭を拒んでいる。10月末または11月初頭、山本は及川に米内を軍令部総長として復帰させるよう提案した。この時も及川は採り上げなかったが、山本は11月末に再び米内の連合艦隊司令長官起用を及川に進言している。この時、伏見宮は米内を軍令部総長とすることに同意した。しかしのちに伏見宮が辞任した際、後任として伏見宮が指名したのは永野修身であった。及川は米内の中学の後輩で米内を尊敬しており、[[第3次近衛内閣]]成立の際に米内の海相としての復帰を図ったことがある。こうした米内の現役復帰をめぐる動きはいずれも実現せずに[[太平洋戦争]]を迎えた{{Sfn|野村實|1996|p=203-213}}。<br /> <br /> [[1943年]](昭和18年)、[[海軍甲事件]]で戦死した盟友・山本五十六の[[国葬]]委員長を務める。だが軍人が[[軍神|神格化]]されることを毛嫌いしていた山本をよく知る米内は、後に山本神社建立の話などが出るたびに、井上成美とともに「山本が迷惑する」と言ってこれに強く反対したため、神社は建立されなかった{{Sfn|阿川弘之|1982|p=}}。米内は『[[朝日新聞]]』に追悼文を寄稿、その中で「不思議だと思ふのは四月に實にはつきりした夢を見た、何をいつたか忘れたが、今でも顔がはつきりする夢を見た、をかしいなと思つてゐたが、まさかかうなるとは思はなかつた」とその夜のことを振り返っている&lt;ref&gt;朝日新聞昭和18年5月22日号&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> === 第49-52代海軍大臣 ===<br /> [[ファイル:Koiso cabinet photo op.jpg|thumb|250px|1944年7月22日、[[小磯内閣]]の閣僚らと(前列最右に米内)]]<br /> [[ファイル:Kantaro_Suzuki_cabinet_-_April_7,_1945.jpg|thumb|250px|1945年4月7日、[[鈴木貫太郎内閣]]の閣僚らと(前列右に米内)]]<br /> [[ファイル:Cabinet_of_Prince_Higashikuni_Naruhiko.jpg|thumb|250px|1945年8月17日、[[東久邇宮内閣]]の閣僚らと(2列目左から2人目に米内)]]<br /> [[ファイル:Shidehara cabibet.jpg|thumb|250px|1945年10月9日、[[幣原内閣]]の閣僚らと(前列左から3人目に米内)]]<br /> <br /> [[1944年]](昭和19年)、[[東條内閣]]が倒れると、予備役から現役に復帰して[[小磯内閣]]で再び海軍大臣となる。軍部大臣現役武官制により、予備役海軍大将の米内が海軍大臣となるには、「召集」ではなく「現役復帰」の必要があった。予備役編入された陸海軍将校・士官が現役復帰するには、「天皇の特旨」が必要とされ、極めて稀なことだった。米内は、陸軍出身の[[小磯國昭]]と二名で組閣の大命を受けた(小磯が上席で、内閣総理大臣となった)異例の組閣経緯から「副総理格」とされ、「小磯・米内連立内閣」とも呼ばれた。米内は、海軍次官の[[岡敬純]]を「岡は一夜にして放逐する」と更迭、[[横須賀鎮守府]]でコンビを組んだ井上成美(当時海軍兵学校校長)を「首に縄をかけて引きずってでも中央に戻す」と直接説得、「次官なんて柄ではない」「江田島の村長(= 海軍兵学校校長)で軍人生活を終わらせたい」と言い張る井上を中央に呼び寄せた{{refnest|group=&quot;注&quot;|井上は後に「貫禄負けでした」と述べている。東條内閣末期から米内邸に日参していた[[中山定義]]によると、大臣就任前から「井上は今どこにいる」「井上はいいな」とつぶやいたことがあり、米内が大臣に復帰したら次官は必ず井上だという感触をつかみ嬉しくなったと著書で述べている。}}。なお、米内の同期生で親友であった荒城二郎の姉妹は井上の兄・[[井上達三]]に嫁いでおり&lt;ref&gt;帝国秘密探偵社『大衆人事録 東京篇』「井上達三」&lt;/ref&gt;、米内、井上には私的にもつながりがあった。<br /> <br /> 米内の現役復帰を画策した[[岡田啓介]]は、米内を円満に海軍へ復帰させるには海軍内の米内の系統と共に末次の系統の顔も立てておく必要があるとの声を受けたため、岡田は[[藤山愛一郎]]の邸宅にて二人を引き合わせ、関係の修復に努め、共に個人の感情より国のために力を尽くすことを誓わせた。[[末次信正]]と米内の関係は、過去に宴席で[[五・一五事件]]に対する責任などで口論となる、会っても口をきかないなど険悪であった。米内の現役復帰は成ったが、予定されていた末次の軍令部総長への復帰話は天皇の反対等と末次の急病と悪化のためにそれっきりとなってしまった。軍令部なら召集官でもなれるのだから、末次を召集の形で連れてきてはどうかと米内に勧めるものもいたが、米内は応じなかった。これに関して岡田は「(米内は)末次のような性格の男がいては、自分の考えている戦局の収拾がうまくいかんと思ったのではないかね」とし、『[[昭和天皇独白録]]』には「私は末次の総長に反対した。米内が後で末次のことを調べたら、海軍部内の八割は末次をよく知つてゐないと云ふことが判つた相だ」とある。ただし、復帰直後の米内は末次総長が実現しない場合には辞任する旨を語っており{{Sfn|野村實|1996|p=21}}、末次の総長人事には熱意を持っていた{{Sfn|緒方竹虎||p=37}}。<br /> <br /> [[空襲]]で[[海軍省]]と大臣官邸が焼けてしまい、麻生孝雄海軍大臣秘書官が[[堤康次郎]]所有の建物を官邸として借り受けようと交渉に向かったところ、堤は最初は不機嫌だったが米内の名前が出てきた途端に顔色が変わり、「よろしゅうございます。お貸ししましょう。私は米内さんが好きなので」と建物の提供を無条件で承知してくれた。「米内さんの人徳で借りれたようなものだ」と麻生は後に述べている。<br /> <br /> 空襲で[[明治宮殿]]を焼失した翌朝、米内は宮城の外でひとり長時間にわたって額づいたという。<br /> <br /> [[12月3日]]、[[神雷部隊]]を視察し、飛行場で閲兵式を行う&lt;ref&gt;戦友会『海軍神雷部隊』12頁&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> [[1945年]](昭和20年)、[[鈴木貫太郎内閣]]にも海相として留任。米内本人は「連立内閣」の小磯だけが辞めて自分が残るというのは道義上問題があると考えていた。だが今度は次官であった井上成美が米内の知らないところで「米内海相の留任は絶対に譲れない」という「海軍の総意(実は井上の独断)」を、大命の下った鈴木や内大臣・[[木戸幸一]]に申し入れていたのだった{{refnest|group=&quot;注&quot;|この経緯を後年井上は「ワンマン次官、いけなかったかしら」と述懐している&lt;ref&gt;井上成美『思い出の記』&lt;/ref&gt;。海軍省が作成した大臣候補は井上であり、人事局が作成した案に「大臣 井上」と書かれた書類を見た井上は「自分が大臣に不適格であることは自分がいちばんよくわかっている。何としてでも米内さんにやっていただく」とハンコを押さず却下した。}}。<br /> <br /> 米内は海相として太平洋戦争終結の道を探った。天皇の真意は和平にあると感じていたからで、5月末の会議では陸軍大臣・[[阿南惟幾]]と論争し、「一日も早く講和を結ぶべきだ」、「この大事のために、私の一命がお役に立つなら喜んで投げ出すよ」と言い切った{{refnest|group=&quot;注&quot;|のちに米内と共に内閣で終戦を主張する[[外務大臣 (日本)|外務大臣]]・[[東郷茂徳]]は当初どっちつかずの態度で、日記に「外務省は今の状況をわかっているのか」と苛立ちを書き記しているが、米内の地道な説得で和平へと傾いたといわれている。東郷が和平を主張し出した後は「東郷君がすべて(私が言いたいことを)主張してくれているから私からは何も言うことはない」と言って表だって発言することはなくなった。ただし、東郷の方もメモの中で[[5月11日]]の[[戦争最高指導会議]]構成員会合においで米内が[[ソ連]]を仲介として軍事物資を獲得できないかとする提案を行ったことに「そのような余地は無い」と主張して米内の現状のソ連に対する認識の甘さを批判した上で和平の仲介以外望むべきではないと説いたことが記されており、米内・東郷ともに相手の和平に対する考えを探っていた段階にあったとも捉えられる。}}。<br /> <br /> 5月11日、ドイツ降伏直後に宮中で開かれた[[最高戦争指導会議]]における対ソ交渉についてソ連からの援助を引き出すべきだと主張したが、ソ連を軍事的経済的に利用できる段階ではもはやないと外務大臣・[[東郷茂徳]]に却下されている。しかし鈴木内閣は結論としてソ連に対する和平仲介を依頼する方針を決定し、交渉を開始した。<br /> <br /> 6月9日の鈴木による議会での発言([[天罰発言事件]])を継戦派の議員が2日後に問題視したことで国会は混乱に陥り、倒閣運動まで発生してしまった。これにより、米内は議会の内閣に対する姿勢を問題視して辞意を表明したところ、阿南から辞意を思いとどまるように手紙による説得を受け、これを受け入れた。<br /> <br /> ソ連との交渉については、すでに内密に対日参戦を決意していたソ連からは回答を引き伸ばされるだけであった。やがて7月末に至り、連合国が日本に対し降伏を勧告する[[ポツダム宣言]]が発表される。東郷は受諾の可能性を主張するが、阿南をはじめとする統帥部は宣言拒否を激しく主張、結果として閣議では「ポツダム宣言に関しては強い見解をださず様子をみる」旨発表すると決定した。ところが統帥部は閣議の決定を無視して鈴木に宣言に対して強い態度を取るべきと主張、鈴木はこの突き上げに屈して、宣言の黙殺を記者会見で声明した。この黙殺声明により、[[日本への原子爆弾投下|原子爆弾投下]]と[[ソ連の対日参戦]]という新たな事態が発生した。米内は連合国のポツダム宣言発表から鈴木の黙殺声明にいたるまで、ポツダム宣言に対して曖昧な態度をとっている。米内のこの曖昧さが、阿南などポツダム宣言拒否派に押し切られ、黙殺声明への大きな原因になったとする批判もある。<br /> <br /> 原爆投下・ソ連参戦以降、米内はポツダム宣言受諾による戦争終結を東郷外相とともに強力に主張する。受諾に反対し[[本土決戦]]を主張する阿南と閣議・最高戦争指導会議で激論を展開した。「戦局は依然として互角である」と強がりを言う阿南に対し「陸相は互角というが、ブーゲンビル、サイパン、レイテ、硫黄島、沖縄、みんな明らかに我が方は負けている。個々の戦いで武勇談はあるやもしれないが、それは勝敗とは別の問題である」と米内は言い返した。さらに「戦闘には負けているかもしれないが、戦争そのものに負けたとはいえない。陸軍と海軍では感覚が違う」と再反論する阿南に対し米内は「あなたがなんと言おうと日本は戦争に負けている」と言い、両者の話に結着はつかなかった。<br /> <br /> 8月9日の天皇臨席の最高戦争指導会議で、東郷重徳、米内光政、[[平沼騏一郎]]は、天皇の地位の保障のみを条件とするポツダム宣言受諾を主張、それに対し阿南惟幾、[[梅津美治郎]]、[[豊田副武]]は受諾には多数の条件をつけるべきで条件が拒否されたら本土決戦をするべきだと受諾反対を主張した。天皇は東郷、米内、平沼の見解に同意し、終戦が原則的に決定された。しかし連合国側から条件を付す件について回答文があり、ふたたび受諾賛成と反対の議論が再燃する。<br /> <br /> 8月12日、軍令部総長・豊田副武大将と陸軍参謀総長・梅津美治郎大将が昭和天皇に対してポツダム宣言受諾を反対する[[帷幄上奏]]を行う。同日、米内は、抗戦を主張する豊田と軍令部次長・[[大西瀧治郎]]の二人を呼び出した。米内は大西に対して「軍令部の行動はなっておらない。意見があるなら、大臣に直接申出て来たらよいではないか。最高戦争指導会議(9日)に、招かれもせぬのに不謹慎な態度で入って来るなんていうことは、実にみっともない。そんなことは止めろ」と言いつけ、大西は涙を流して詫びた。次に豊田に対して「それから又大臣には何の相談もなく、あんな重大な問題を、陸軍と一緒になって上奏するとは何事か。僕は軍令部のやることに兎や角干渉するのではない。しかし今度のことは、明かに一応は、海軍大臣と意見を交えた上でなければ、軍令部と雖も勝手に行動すべからざることである。昨日海軍部内一般に出した訓示は、このようなことを戒めたものである。それにも拘らず斯る振舞に出たことは不都合千万である」と非難し、豊田は済まないという様子で一言も答えなかった&lt;ref&gt;戦史叢書93大本営海軍部・聯合艦隊(7)戦争最終期 471-473頁&lt;/ref&gt;。豊田が軍令部総長に就任する際に、昭和天皇は「司令長官失格の者を総長にするのは良くない」と反対する旨を米内に告げているが、米内は「若い者に支持がある。彼の力によって若い者を抑えて終戦に持っていきたい」と返答した。しかし豊田は押し切られた形になり、米内も親しい知人に「豊田に裏切られた気分だ。見損なった」と述べ、昭和天皇は「米内の失敗だ。米内のために惜しまれる」と述懐している&lt;ref&gt;『[[昭和天皇独白録]]』&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 8月14日、天皇は最高戦争指導会議および閣僚の面前で、再度受諾を決定、これにより終戦が最終的に決した。<br /> <br /> 鈴木内閣の陸軍大臣だった阿南惟幾は[[終戦の日]]当日に「米内を斬れ{{refnest|group=&quot;注&quot;|元々、米内と阿南は気質的な部分でなかなか反りが合わず、[[竹下正彦]]陸軍中佐は戦後「率直に言って、阿南は米内が嫌いだった。阿南は[[鈴木貫太郎]]首相に対しては、愛敬の念非常に深いものがあったが、米内をほめた言葉を聞いたことがない」と述懐しており、米内も[[小島秀雄]]海軍少将に対して「阿南について人は色々言うが、自分には阿南という人物はとうとう分からずじまいだった」と語っている{{Harvnb|阿川弘之|1982|p=}}。また、終戦の[[玉音放送]]の原稿についても、「戦勢日ニ非ニシテ」を「これでは戦争に負けているように聞こえる」という阿南に対して、「現に負けているではないか」と言い返す米内で言い争いになったこともあるという。しかしこれは鈴木の仲介で阿南の主張が通り、「戦局必スシモ好転セス」と改められた。[[迫水久常]]は会議中に米内が中座する際、「ここは絶対に妥協しちゃ駄目だよ」と耳打ちされ、意を汲んで阿南に抵抗していたが、帰ってきたらあっさり訂正を認めたので拍子抜けした、と述べている。}}」と言い残して自決したが、米内本人は軍人として法廷で裁かれる道を選んだ。[[戦争犯罪人|戦犯]]として拘束されることを予期し、[[巣鴨拘置所|巣鴨プリズン]]へ収監される場合に備えていたものの、結局米内は容疑者には指定されなかった{{refnest|group=&quot;注&quot;|ある知人が米内宅を訪ねた時、寝具などの荷物をすべてまとめており「(収監される)準備は完了だよ」と笑顔で答えたという。}}。<br /> <br /> 米軍側は米内の以前の言動を詳細に調査しており、[[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]]の某軍人が元秘書官である[[麻生孝雄]]のもとを訪ねた際、いきなり米内のことを切り出し「米内提督については生い立ちからすべて調査してある。命を張って日独伊三国同盟と対米戦争に反対した事実、終戦時の動静などすべてお見通しだ。米内提督が戦犯に指名されることは絶対にない。我々は米内提督をリスペクトしている」と断言し、麻生に米内の伝記を書くことさえ勧めている。また保科善四郎や[[吉田英三]]、[[豊田隈雄]]などが「米内さんだけは戦犯にしてはいけない」と奔走したという話もある。戦後処理の段階に入っても米内の存在は高く評価され、[[東久邇宮内閣]]・[[幣原内閣]]でも海相に留任して帝国海軍の幕引き役を務めた。幣原内閣の組閣時には健康不安から{{refnest|group=&quot;注&quot;|[[血圧]]は最高260、収縮時でも230ほどで心臓が肥大し背骨に接触していた程で、戦前の豊頬が見る影もなく痩せ細っていた。}}辞意を固めていたにもかかわらずGHQの意向で留任している。<br /> <br /> 米内は「言葉は不適当と思うが原爆やソ連の参戦は[[天佑]]だった」&lt;ref&gt;読売新聞、2006年(平成18年)8月15日、第46850号 12版。&lt;/ref&gt;続けて「国内情勢で戦いをやめるということを出さなくて済む。私がかねてから時局収拾を主張する理由は敵の攻撃が恐ろしいのでもないし、原子爆弾やソ連の参戦でもない。一に国内情勢の憂慮すべき事態(食糧事情などによる国内秩序の崩壊から日本が内部から崩壊すること)が主である。(中略)軍令部あたりも国内がわかっておらなくて困るよ」と近衛文麿や[[細川護貞]]などに語った。<br /> <br /> 海軍省最後の日となった11月30日に、海軍大臣として挨拶をした際にも、[[朝日新聞]]の海軍担当記者が作った原稿を読んだ後「では皆さん、さようなら」とだけ喋って終わった。幣原内閣において海軍省は廃止され[[第二復員省]]となったことから、米内が日本で最後の海軍大臣となった。<br /> <br /> 海軍省廃止の翌日の12月1日に宮中に召された米内は、お別れの言上をした際、昭和天皇から「米内には随分と苦労を掛けたね。それがこんな結末になってしまって・・・。これからは会う機会も少なくなるだろう。米内はだいぶ体が弱っているようだから、健康にくれぐれも注意するように。これは私が今さっきまで使っていた品だが、今日の記念に持ち帰ってもらいたい」として、筆も墨も濡れた状態の硯箱に、二羽の丹頂鶴に菊の小枝をあしらった金蒔絵が描かれた蓋を天皇自ら閉じたうえで、直接手渡された。硯箱を持って廊下へ退出するなり、米内は声を殺して泣き出したという。またこのとき、[[香淳皇后]]も別室で米内を涙ながらに厚く労っている。現在その硯は、盛岡市にある[[先人記念館]]に展示されているが、他の展示品が寄贈なのに対して硯のみ「米内家からの貸与」となっている。<br /> <br /> 海軍解体前、米内はその当時軍務局長だった保科に、「戦犯に指名されるかもしれないし、私の健康もすぐれないから」と前置きした上で、「[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]も永久に日本に軍備を撤廃させることはない。日露戦争の前のトン数を基準に海軍再建を模索すべし」「海軍には優秀な人材が数多く集まり、その伝統を引き継いできた。先輩たちがどうやってその伝統を築き上げてきたか、後世に伝えるべし」「海軍が持っていた技術を日本復興に役立てること」を委託している。保科は[[Y委員会]]を通して現在の[[海上自衛隊]]創設に間接的に影響を与えており、後に衆議院議員となった保科自身も米内の遺志を一つでも達成すべく政界入りを目指したと述べている。<br /> <br /> === 東京裁判 ===<br /> 戦後の[[極東国際軍事裁判]]では[[証人]]として[[1946年]](昭和21年)3月・5月の2度に亘って出廷し、「当初から、この戦争は成算のなきものと感じて、反対であった」「天皇は、開戦に個人的には強く反対していたが、開戦が内閣の一致した結論であったため、やむなく開戦決定を承認した」と、天皇の立場を擁護する発言に終始した。<br /> <br /> その上で、[[満州事変]]・[[支那事変]]・日米開戦を推進した責任者として、[[土肥原賢二]]・[[板垣征四郎]]・[[武藤章]]、文官では[[松岡洋右]]の名前も挙げて、陸軍の[[戦争責任]]を追及している。しかし、[[東條英機]]の責任については言明する事がなかった{{refnest|group=&quot;注&quot;|昭和16年(1941年)10月に[[近衛文麿]]が内閣を投げ出すと、後継首班を決める[[重臣会議]]では[[及川古志郎]]海相も総理候補として名も上ったが、これに猛反対して潰したのが米内と[[岡田啓介]]で、もう一人の候補だった東條はこの海軍の「消極的賛成」のおかげで次期首班に選ばれたという経緯があった。}}。<br /> <br /> 一方で、陸軍大臣単独辞任で米内内閣を瓦解させた事でA級戦犯として裁かれることになった畑俊六に対しては、これを庇って徹底的にとぼけ通し、裁判長[[ウィリアム・ウェブ]]から「You are the most stupid prime minister I have ever seen.(こんな愚鈍な総理大臣など見たことがない)」と面前で罵られた。一方で、首席検事[[ジョセフ・キーナン]]はむしろ「あれは畑を庇っていたのだ。国際法廷の席上であのような態度をとれる人間はいない」と敬意を表し、日本を離れる際自筆の晩餐会招待状を送り、健康上の理由で米内が断っても「是非お会いしたい」と何度も招待している{{refnest|group=&quot;注&quot;|[[山田風太郎]]は、米内はこのような腹芸をするタイプではなく、通訳がいい加減だった為に頓珍漢なやり取りになったのではないかと記している&lt;ref&gt;『人間臨終図巻II』徳間文庫 ISBN 4-19-891491-5&lt;/ref&gt;。また、そもそも米内内閣倒閣を推進した一派が[[参謀総長]]の[[閑院宮載仁親王]]を御輿に担いでいたため、米内は皇室に累を及ぼすことを恐れて実状を口にすることを避けたともいわれている。しかし他の検事団も概ね米内を評価しており、ある若い検事が米内の後姿を見て「ナイス・アドミラル」と言っていたのを、『一軍人の生涯 提督・米内光政』を書いた[[緒方竹虎]]は聞いている。畑はその米内の態度について、「米内内閣は陸相たる私の辞職により総辞職の止む無きに至った。(中略)誠に申し訳ないことだったと自責の念に駆られている。(中略)その後大将はこんなことを根にも持たれないで私に対する友情も少しも変わらなかったことは、私が常々敬服するところである。(中略)[東京裁判にて] 毅然として私の弁護のために法廷に立たれ、裁判長の追及批判も物ともせず、徹頭徹尾私が米内内閣倒閣の張本人ではなかったことを弁護されたことは、私の感銘するところである。(中略)この一事は故大将の高潔なる人格を象徴して余りあるものと信ずる」と米内の銅像が盛岡に建てられた際に編纂された『米内光政追想録』に手記として残している。}}。<br /> <br /> [[ダグラス・マッカーサー|マッカーサー]]は日本の占領統治で天皇を利用するため、天皇の戦争責任を問わない方針を定めていたが、連合国の中には天皇の戦争責任を問うべきだとする国もあった。そのためマッカーサーの秘書官フェラーズ准将は、米内をGHQ司令部に呼び「天皇が何ら罪のないことを日本側が立証してくれることが最も好都合だ。そのためには近々開始される裁判が最善の機会だと思う。この裁判で東条に全責任を負わせるようにすることだ」と語り、米内は「同感です」と答えたと言う&lt;ref&gt;『資料日本現代史2』栗屋健太郎&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> === 晩年・死後 ===<br /> [[ファイル:Yonai Mitsumasa statue.JPG|thumb|[[盛岡八幡宮]]境内にある米内光政像。碑文は[[小泉信三]]による。]]<br /> 1946年(昭和21年)、[[公職追放]]となる&lt;ref&gt;『朝日新聞』1946年3月11日一面。&lt;/ref&gt;(死去後の[[1952年]]追放解除&lt;ref&gt;『朝日新聞』1952年3月4日夕刊一面。&lt;/ref&gt;)。元大臣秘書官の麻生孝雄に誘われて、[[北海道]][[釧路町]]で北海道牧場株式会社(通称:霞ヶ関牧場)の牧場経営に参加する。<br /> <br /> [[1948年]](昭和23年)、[[肺炎]]により死去。68歳と1ヵ月だった。軽い[[脳溢血]]に肺炎を併発したのが直接の死因だが、長年の[[高血圧症]]に[[腎臓病|慢性腎臓病]]の既往症があり、さらに[[帯状疱疹]]にも苦しめられるなど、実際は体中にガタがきていた{{Sfn|阿川弘之|1982|p=}}。実際、戦後になって少し体調は落ち着きを見せていただけあって、帯状疱疹が彼の寿命を縮めたといえる。<br /> <br /> 戦後になって昭和天皇が[[日本学士院]]を招いて催された昼食会で、天皇は小泉信三に、「雑誌に米内のことを書いたね」と語りかけた。小泉が『心』昭和24年1月号に寄稿した米内の想い出を読んでのことである。「拙文がお目に触れてしまいましたか」と小泉が恐縮すると、「あれを読んで米内が懐かしくなった」と天皇は言う。それで陪食にあずかる他の参加者もそれぞれ米内の思い出話を紹介しはじめたが、やがて天皇は感慨深げに「惜しい人であった」と言ったきり口を閉ざしてしまい、このためその場は静まり返ってしまったという。<br /> <br /> 米内の死後12年を経た[[1960年]](昭和35年)、[[盛岡八幡宮]]境内に背広姿の米内の銅像&lt;ref&gt;[http://www.asahi-net.or.jp/~un3k-mn/ren-yonai04.jpg 背広姿の米内の銅像]&lt;/ref&gt;が立てられ、[[10月12日]]に除幕式が行われた。その直前に、巣鴨プリズンから仮釈放された81歳の畑俊六が黙々と会場の草むしりをしていた{{Sfn|阿川弘之|1982|p=}}。<br /> <br /> == 人物 ==<br /> [[ファイル:Yonai, Itagaki, Tojo.jpg|thumb|200px|昭和14年(1939年)1月、[[板垣征四郎]] (中央右) の「陸相就任祝賀会」に参加する米内海相。板垣の右には当時陸軍次官だった[[東條英機]]も見える。]]<br /> <br /> === 人柄 ===<br /> 身長170cm、体重80kg。[[日曜大工]]や[[長唄]]を趣味とし、[[遊女]]の哀れを歌った色っぽい長唄を好んだ{{Sfn|冨森叡児|2003|p=89}}。[[ロシア文学]]にも親しみ、[[アレクサンドル・プーシキン|プーシキン]]を愛読した{{Sfn|冨森叡児|2003|p=89}}。好物はおからと豆腐だったという。<br /> <br /> 極端に口数が少なく、面倒くさがりで、説明や[[演説]]を嫌い、平沼内閣の閣僚中、演説回数が一番少なく、1回の演説字数が461字と、他の大臣の半分という記録が残っている{{Sfn|冨森叡児|2003|p=89}}。また終生抜けなかった[[南部弁]]を気にしたという説もある{{Sfn|冨森叡児|2003|p=89}}。しかし、佐世保時代に親交があった知人や長官官邸の女中は「米内さんは口数が少ないといわれているが、そんなことはない。うちではよくしゃべっていたし、冗談もよく言っていた」と証言しており、戦後は人が変わったかのように口数が多くなった、という証言もある。<br /> <br /> 米内は髪を[[ポマード]]で整えて[[七三分け|七三]]に分け{{Sfn|冨森叡児|2003|p=89}}、若い頃から[[鼻メガネ|鼻眼鏡]]を愛用した{{Sfn|冨森叡児|2003|p=89}}が、[[練習艦]]「磐手」艦長時代に[[横須賀鎮守府]]長官・[[野間口兼雄]]大将から「強いてとは言わぬが、頭髪もなるべく短く切った方がいい」と訓示され、先輩に「長官かなり機嫌が悪いぞ。クルクル坊主に剃れ」と冷やかされても切ろうとしなかった。米内は坊主頭が海外では[[囚人]]の髪型であることを知っており、海外と直接接する海軍軍人の髪型としてふさわしくない、という理念からであったという。また戦争末期に上官に髪を切るよう言われ「私が尊敬する米内大将は髪を伸ばしております。何故海軍が陸軍と同じことをしないといけないのでしょうか。それが教育と言うのならその教育は間違っております」と拒否した士官もいたという(もっとも、その士官はその上官によって考査表に「上官ノ命ニ従ワズ素行ハ極メテ不良ナリ」と「丙」をつけられたという)。米内自身は長男の剛政に、「髪の毛を伸ばすのは良いが常にきちんと整えて清潔感を大事にすべし」と述べている。<br /> <br /> 長男の剛政が人の上に立つ時に部下をどう扱うべきか尋ねたところ、「器の中で自由に泳がせておけばいい。器からはみ出しそうな者がいれば頭をポカリとやる。それ以外は手も口も出さない。しかし部下を泳がせる器は自分が作るものだよ。自分の心がけ次第で広くも狭くもなる」と剛政は述懐している{{Sfn|七宮涬三|1994|p=}}。<br /> <br /> === 酒が米内か、米内が酒か ===<br /> 米内は酒が非常に強く、「酒が米内か、米内が酒か」とまで言われていた。かなりのハイペースで飲みいくら飲んでも顔色一つ変えず、淡々と飲んでいたという。<br /> <br /> 総理大臣の時に[[満州国]]の皇帝・[[愛新覚羅溥儀]]が日本を訪れた際に米内の酒の量が話題になり、「満州語に『海量(ハイリャン)』という言葉がある。米内の酒の量は『海量』か」と尋ねたところ、[[高松宮宣仁親王]]が「いえ、米内は『洋量(ヤンリャン)』です」と返したエピソードがある。また、銀座の芸者衆の間で「米内さんを酔っ払わせたら懸賞金を与える」という話が広まり、酒に自信がある芸者が何人も挑戦したが米内を酔わせることができず、ある芸者は米内の前で号泣して悔しがったという。<br /> <br /> 酔っ払うことはほとんどなかったそうだが、ほろ酔い加減になると[[長唄]]の調子が棒読みになったともいう。また米内自らロシア駐在時代に酔ってロシア水兵に演説をしたことを語り、「私が演説するくらいなので、相当酔っていたのでしょう」と言ったこともある。保科善四郎は「米内さんにとって酒は食べ物だった」と回想している。<br /> <br /> 海軍料亭などで飲む際には二升・三升は当たり前のように飲むと料亭の女将達からも言われていた。若い頃は自ら「俺は時には二升・三升あるいはそれ以上を平気で飲む事があった。しかし家に帰っておふくろの蒲団を敷くまでは乱れないでいる。ところが敷き終わって自分の部屋に帰ったら最後、酔いが廻って前後不覚になってしまうんだ。それまではいくら飲んでも気持ちはしゃんとしているんだけれどね」と話す事があった。周りの者はまさか冗談だろうと誰も信じていなかったらしい。<br /> <br /> === 逸話 ===<br /> [[ファイル:Yonai and Itagaki honoring their teacher.jpg|thumb|200px|1939年6月3日に東京の料亭で開かれた謝恩会で尋常中学時代の恩師・冨田小一郎(左から二人目)を囲む[[板垣征四郎]]陸相(最左)、[[田中舘愛橘]]帝大名誉教授(右から二人目)、米内海相。]]<br /> 米内と[[陸軍大将]]の[[板垣征四郎]]は政治的立場も思想も異なったが、同郷([[岩手県]])出身の先輩後輩ということで公務の外ではなにかとウマが合い、お互いを「光っつぁん」「征っこさん」と呼んでいた。東京の料亭で開かれた[[岩手県立盛岡第一高等学校|盛岡尋常中学校]]時代の恩師・冨田小一郎への謝恩会も両大臣の呼びかけで行われたもので、他にも作家の[[野村胡堂]]、言語学者の[[金田一京助]]など、冨田の教え子たちが多く集った。<br /> <br /> 長身で日本人離れした風貌であり{{Sfn|冨森叡児|2003|p=89}}、また非常に温厚な性格であったため女性によくもてたようで、特に[[花柳界]]では山本五十六とともに圧倒的な人気があった。長男の剛政は父の死後、[[愛人]]だったと称する女性にあちこちで会ったり{{Sfn|冨森叡児|2003|p=89}}、戦争中主計士官として赴任中上官が年老いた芸者を連れてきたかと思ったら、「こいつは貴様の父上のインチ(馴染み芸者)だ」と言われたりして困ったという。[[佐世保鎮守府]]長官退任の際、[[佐世保駅]]周辺には見送りに訪れた[[芸者]]で黒山の人だかりができたといわれている。<br /> <br /> 「陸奥」艦長時代、艦は呉軍港に在泊していたのだが東京より娘の病死の連絡が入った。米内は「艦長として艦は離れがたい用事があるので帰京はあきらめる。代わりの子供は幾らでもできる。」と言ったという。米内の滅私奉公という軍人らしいエピソードである。<br /> <br /> また、横須賀鎮守府長官時代に[[上海]]から米内を慕ってある芸者が横須賀までやって来て、現在の[[ストーカー]]のようにつきまとった。周囲は米内の今後のこともありその対応に苦慮するが米内は彼女に対しても分け隔てなく接し、参謀長だった[[井上成美]]も「これは男と女の問題ですからね」と投げ出している。これを聞いた横須賀の芸者衆は、「あの堅物の井上さんがそんなこと言うなんて」と目を丸くしたという。なおその芸者は一時期横須賀で芸者をしていたものの、知らぬ間に横須賀から消えそれ以後の消息は不明だという。<br /> <br /> 米内は、日独伊三国同盟締結時、この報を聞いて「われわれの三国同盟反対は、あたかもナイアガラの流れに逆らって船をこいでるようなもので、今から見ると無駄な努力であった」と嘆息し、[[緒方竹虎]]の米内、山本の海軍が続いていたなら徹頭徹尾反対したかの質問に対し「無論反対したが殺されていたでしょうね」と述懐している&lt;ref&gt;一軍人の生涯 提督・米内光政&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 米内は晩年まで父親が残した借金を返済していたということがあり、海外駐在が多かったのも借金で生活が苦しいのを見かねた同期が「海外に出れば手当が支給され、それだけで現地の生活が出来る」というはからいによるものであった。功四級金鵄勲章の年金も借金のかたに取られてしまっている。また、[[佐世保鎮守府]]長官時代にも海軍の福利団体に三千円の借款を申し込んでいる。中将で借金を申し込んだのは前代未聞で、申し込みを受けた理事(大臣副官が兼務)もどう処理していいのか戸惑ったという。米内が借金を返済するのは海軍大臣になってからであり、佐世保鎮守府長官時代に宛てた親友の[[荒城二郎]]向けの手紙にも、「(米内が現職留任かもという人事異動の噂が立ち)陸上勤務は金がかかるがかといって辞職するわけにもいかない。金がないからまた借金でもするか、ハハハ」と書いている。<br /> <br /> [[武見太郎]](後の[[日本医師会]]会長)が「開戦前、海軍上層部の見通しはどうだったんですか。まさか勝てると思ってたわけじゃないんでしょう」と聞くと、「軍人というものは、一旦命令が下れば戦うのです」と答え、「陸軍の支配下に伸びて行った日本の、偏狭な国粋主義思想は世界に通用するものではなかったけれども、日本には古来から日本独自の伝統思想風習がある。その上にアメリカ流の民主主義を無理にのっけようとすると、結局反動が来るのではないか。それを心配している。民族のものの考え方は、戦争に負けたからといって、そう一朝一夕に代わるものではない」と、[[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]]による占領政策を批判する発言をしたという。それに対し「科学技術を振興して行けば、日本は立ち直って新しい国に生まれ変わることが出来ると思いますがね」と武見が反論すると、「国民思想は科学技術より大事だよ」と大声をだしたという。米内の予想では「日本が本当に復興するまで二百年かかる」と述べたという。<br /> <br /> 戦後高血圧で悩まされた際、[[幣原内閣]]の[[外務大臣 (日本)|外務大臣]]だった[[吉田茂]]から、当時銀座で開業していた武見太郎を紹介された。武見は米内とはほとんど面識がなかったが義理の祖父である[[牧野伸顕]]より「あの人のものの見方は偏った所が全くない。軍人であれだけ醒めた見方をする人は珍しい」と常日頃から聞かされていた。そして吉田から「命を削ってお国に尽くし日本を救った方だ。あの方は金がないからどんなことがあっても絶対に診察料は取るな」と指示されていたという。&lt;!-- 吉田から「この人からは金を取るな」と言われていたのは、他にも[[岡田啓介]](元海軍大将)がいる。--&gt;&lt;!--投げ込み/脱線トリビア--&gt;米内は武見の診察を受け、「いい医者だよ。薬をくれずに僕に酒を飲んでもいいと言ったからね」とすこぶる上機嫌だったという。米内の高血圧は既に対処不能な段階になっていたため酒が解禁されたといわれているが、米内の晩年は比較的穏やかで、最終的には肺炎で最期を迎えている。<br /> <br /> == 評価 ==<br /> [[山本五十六]]は海軍次官として米内の部下だった頃に「うちの大臣は頭はそれほどでもない。しかし肝っ玉が備わっているから安心だ」というコメントをしている。また、[[大井篤]]は米内の功績を評価しつつも『孫子』の「将は智・信・仁・勇・厳なり」という言葉を挙げ、「信・仁・勇・厳は文句なしだが智に関しては問題がなかったとは言えない」としている。大井は終戦間際の[[井上成美]]の大将昇進、[[軍令部]]次長に[[大西瀧治郎]]を就任させた例を挙げているが、それを井上に言ったところ、「大西を推薦したのはボクだからね」と答えた。これを大井は「(井上さんは)意図的に米内さんを庇っている」と批判した。<br /> <br /> 井上成美大将は戦後、「[[海軍大将]]にも一等大将、二等大将、三等大将とある」と述べており、文句なしの一等大将と認めたのは[[山本権兵衛]]・[[加藤友三郎]]・米内の三人だけであった。井上成美は、「海軍の中で誰が一番でしたか?」の質問に「海軍を預かる人としては米内さんが抜群に一番でした」と語っている。また「包容力の極めて大きい人だ。米内さんに仕えた者は、誰でも自分が一番信頼されているように思いこむ。これが、まさに将たるものの人徳というべきであろう。山本さん(山本五十六)はよほど米内さんを信頼していたようで、『誰でも長所、短所はあるよ。しかし、あれだけ欠点がない人はいない』と言っていた」と述懐している。米内と親交のあった[[小泉信三]]は「国に大事が無ければ、人目に立たないで終わった人」と米内を評している。[[大西新蔵]]は「米内さんは、海軍という入れ物をはみ出していた大物だった」という。[[保科善四郎]]は「私心がない人だ。欲というものが全くない。国の立場に立った欲があるだけだ」と米内を評す。[[高木惣吉]]は、「世に言う秀才タイプではない。雄弁も迫力も政治的炯眼もない。だが、自分の精魂を傾けて信じる結論だけを最後まで繰り返した」と評する&lt;ref&gt;山本五十六と米内光政 高木惣吉著&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> [[前田稔 (海軍軍人)|前田稔]]は、「米内さんは[[老荘思想|老荘]]の風があって、これはいけないと思ったら反論する人には誰であろうと容赦せず、また自分の意見には絶対に妥協しない、あくまで流れに逆らうカミソリみたいな切れ味の井上さん(井上成美)を参謀長として、また次官として上手に包み込んで使っておられた。一回り大きな軍政家でした」と同じような述懐をしている{{Sfn|阿川弘之|1982|p=}}。<br /> <br /> 中国文学者の[[守屋洋]]は『[[老子]]』を解説した著書の中で[[大山巌]]と米内の名前を挙げ、「暗愚に見えて実は智を内に秘めている。しかし智を表面に見せずあくまで暗愚に装う」「熟慮や智謀を超越し、その果てに達した無為自然の境地を持った人物」と東洋的リーダーの典型として評価をしている<br /> <br /> 戦争への危機感が高まる中、[[海軍左派]]を自認しながら海軍部内への意思浸透を怠ったこと、同じ海軍左派である山本五十六を右翼勢力や過激な青年将校から護るためとして[[連合艦隊司令長官]]に転出させたこと、早期和平を主張して陸軍と対立することの多かった海軍次官・井上成美を1945年(昭和20年)5月に大将に昇進させて次官を辞任させ、後任次官に[[多田武雄]]、軍務局長に周囲から[[本土決戦]]派と見なされていた保科善四郎を置き、軍令部次長に徹底抗戦派の大西瀧治郎を就任させた人事などに対する批判や非難、また軍政家・政治家としての力量に疑問を投げかける意見もある。<br /> <br /> 敗戦間もない1945年11月28日の第89回[[帝国議会]][[衆議院]]本会議にて、[[反軍演説]]などで知られる[[斎藤隆夫]]による[[軍国主義]]に対する軍の責任を問う質問への答弁において、最後の[[陸軍大臣]][[下村定]]大将は、陸軍を代表して自らそのような軍国主義に陥って暴走した陸軍の非を認め、その原因の分析と共にこれを総括し、国民に対して謝罪を行っている。しかし、下村と同じく最後の海軍大臣としてこの国会に立った米内は、(斎藤の質問には)海軍大臣を対象とした答弁が求められておらず、議事録にもないことを理由に答弁に立つ事を拒否、米内は下村陸相とは対照的に場内の議員達の憤激を買うという一幕があった。<br /> <br /> 下村率いる陸軍が組織としての敗戦責任の非を公的な場で認めた一方で、米内率いる海軍はその後の組織解体に至るまで、敗戦責任について組織として公的な分析と総括、自省を行う事はついになかった。その後、多くの文化人により米内を始めとする海軍左派を「良識派」として大書した傾向も相まって、いわゆる[[陸軍悪玉論|陸軍悪玉論・海軍善玉論]]が昭和史の上で定着する遠因ともなったと、自らの著作すらもそうした傾向のあった[[半藤一利]]をして言わしめる事となった&lt;ref&gt;[[半藤一利]]『指揮官と参謀 - コンビの研究』文春文庫、1992年&lt;/ref&gt;。陸軍悪玉論・海軍善玉論自体は半藤を始めとする海軍派の作家や、戦史研究者の中ですらも既に一方的に偏った不正確な主張であるとみなされているが、[[海上自衛隊]]が公的に「海軍の後裔」たる事を公言する事が日本社会が受容している一方で、[[陸上自衛隊]]は同様の主張は控えめに行う傾向にあるなど、2010年代現在に至るまで日本国民の印象の中に極めて強い影響を残し続けている。<br /> <br /> アメリカの[[タイム誌]]は、海軍大臣のとき&lt;ref&gt;タイム [http://www.time.com/time/covers/0,16641,19370830,00.html 1937年8月30日号]&lt;/ref&gt;と総理のとき&lt;ref&gt;タイム [http://www.time.com/time/covers/0,16641,19400304,00.html 1940年3月4日号]&lt;/ref&gt;の二度にわたって米内の特集記事を組んでおり、いずれも表紙を飾る[[タイム誌#表紙を飾った日本人|カバーパーソン]]として扱っている。<br /> <br /> == 履歴 ==<br /> === 略歴 ===<br /> * 1880年([[明治]]13年) - [[岩手県]][[盛岡市]]下小路に生まれる。<br /> * 1886年(明治19年) - 鍛冶町尋常小学校に入学。<br /> * 1891年(明治24年) - 盛岡高等小学校(現[[盛岡市立下橋中学校]])に入学。<br /> * 1894年(明治27年) - 岩手尋常中学校(現[[岩手県立盛岡第一高等学校]])に入学。<br /> * 1898年(明治31年) - [[海軍兵学校 (日本)|海軍兵学校]]に入校。<br /> * 1901年(明治34年) - 海軍兵学校卒業(第29期)。海軍少尉候補生。練習艦「金剛」乗り組み。<br /> * 1903年(明治36年) - [[海軍少尉]]。<br /> * 1904年(明治37年) - [[日露戦争]]に第三艦隊第十六水雷艇隊、第一艦隊駆逐艦「電」に所属し従軍。[[海軍中尉]]。<br /> * 1906年(明治39年) - 功五級[[金鵄勲章]]。大隈コマと結婚。[[海軍大尉]]。<br /> * 1912年([[大正]]元年) - [[海軍少佐]]、海大甲種学生。<br /> * 1914年(大正3年) - [[海軍大学校]]卒業(第12期)。[[旅順要港部]]参謀。<br /> * 1915年(大正4年) - [[ロシア]]駐在([[サンクトペテルブルク]];駐在武官補佐官;1915年(大正4年)2月 – 1917年(大正6年)4月)。<br /> * 1916年(大正5年) - [[海軍中佐]]。<br /> * 1918年(大正7年) - [[ソビエト連邦|ソ連]]駐在([[ウラジオストック]];1918年(大正7年)8月 – 1919年(大正8年)9月)。[[海軍大学校]]教官、[[軍令部]]参謀。<br /> * 1920年(大正9年) - [[海軍大佐]]。[[ベルリン]]に駐在(1920年(大正9年)6月 – )。<br /> * 1921年(大正10年) - [[ポーランド]]駐在員監督。<br /> * 1922年(大正11年) - [[装甲巡洋艦]]「[[春日 (装甲巡洋艦)|春日]]」艦長。<br /> * 1923年(大正12年) - 装甲巡洋艦「[[磐手 (装甲巡洋艦)|磐手]]」艦長。<br /> * 1924年(大正13年) - [[戦艦]]「[[扶桑 (戦艦)|扶桑]]」、「[[陸奥 (戦艦)|陸奥]]」艦長。<br /> * 1925年(大正14年) - [[海軍少将]]、[[第二艦隊 (日本海軍)|第二艦隊]]参謀長。<br /> * 1926年(大正15年) - [[軍令部]]第三班長。<br /> * 1927年([[昭和]]2年)- 特別大演習中、第四水雷戦隊司令官。<br /> * 1928年(昭和3年) - [[第一遣外艦隊]]司令官。<br /> * 1930年(昭和5年) - [[海軍中将]]、[[鎮海警備府|鎮海要港部]]司令官。<br /> * 1932年(昭和7年) - [[第三艦隊 (日本海軍)|第三艦隊]]司令長官。<br /> * 1933年(昭和8年) - [[佐世保鎮守府]]司令長官。<br /> * 1934年(昭和9年) - 第二艦隊司令長官。<br /> * 1935年(昭和10年) - [[横須賀鎮守府]]司令長官。<br /> * 1936年(昭和11年) - [[連合艦隊司令長官]]兼[[第一艦隊 (日本海軍)|第一艦隊]]司令長官。<br /> * 1937年(昭和12年) - [[林内閣]]で[[海軍大臣]]を拝命(つづく[[第1次近衛内閣]]と[[平沼内閣]]でも留任)、[[海軍大将]]。<br /> * 1939年(昭和14年) - [[軍事参議官]]。<br /> * 1940年(昭和15年) - [[予備役]]に編入され[[内閣総理大臣]]となる。<br /> * 1943年(昭和18年) - 戦死した連合艦隊司令長官[[山本五十六]]の[[国葬]]委員長をつとめる。<br /> * 1944年(昭和19年) - [[現役]]に復帰して[[小磯内閣]]の海軍大臣となる(つづく[[鈴木貫太郎内閣|鈴木内閣]]、[[東久邇宮内閣]]、[[幣原内閣]]でも留任)。<br /> * 1948年(昭和23年) - [[肺炎]]により死去。墓所は盛岡市円光寺。<br /> <br /> === 栄典 ===<br /> * [[勲一等旭日大綬章]] - 1934年(昭和9年)4月29日<br /> * [[功一級金鵄勲章]] - 1942年(昭和17年)4月4日<br /> * [[勲一等瑞宝章]] - 1933年(昭和8年)1月<br /> <br /> ;外国勲章等<br /> * 勲一位景雲章 - 1942年(昭和17年)2月9日&lt;ref name=&quot;kanpo19420212&quot;&gt;[{{NDLDC|2961028}} 『官報』1942年2月12日 賞勳局] &lt;/ref&gt;<br /> * [[ドイツ鷲勲章|ドイツ鷲勲章大十字章]] - 1940年(昭和15年)2月27日&lt;ref&gt;[{{NDLDC|2960442/6}} 『官報』第3946号、昭和15年3月4日]&lt;/ref&gt;<br /> * 3等{{仮リンク|聖アンナ勲章|en|Order of St. Anna}}<br /> * {{仮リンク|八卦章|label=勲四等八卦章|ko|팔괘장 (훈장)|}}<br /> * 建国神廟創建記念章 - 1942年(昭和17年)2月9日&lt;ref name=&quot;kanpo19420212&quot;/&gt;<br /> <br /> == 系譜 ==<br /> 米内家は[[摂津国]]大坂から盛岡に移住し、[[南部信直]]に仕えた[[宮崎勝良|宮崎庄兵衛勝良]]を祖とし、三代目[[傳秀政|傳左衛門秀政]]の時に祖母で勝良の妻方の姓「米内」を名乗るようになった。この「米内」は祖母の出身地が[[出雲国]][[米内郷]]から来るもので、本来の[[陸奥国]]の[[米内氏]]の一族ではない。しかし、陸奥在住の縁で次第に陸奥米内氏の一族であるかのように自覚し、また周囲からもそのように評価されて幕末に至った。<br /> <br /> 陸奥米内氏は[[一方井]]氏の分家筋にあたり、[[一方井氏]]は[[俘囚]]長[[安倍頼良]]・貞任父子の末裔であることから、米内光政も自身を[[安倍貞任]]の末裔だと称していた。<br /> <br /> 三女和子が元[[竹中工務店]]会長の[[竹中錬一]]に嫁いでいる。<br /> <br /> &lt;pre&gt;<br /> <br />   ┏竹中藤右衛門━━┳寿美<br />   ┃        ┃<br />   ┃        ┣竹中宏平<br />   ┃        ┃  ┣━━竹中祐二<br />   ┗竹中藤五郎   ┃ りゅう子  ┃<br />            ┃       ┃<br />            ┃竹下登━━━━公子<br />            ┃(首相)<br />            ┃<br />            ┃(15代)<br />            ┗竹中錬一<br />              ┣━━━竹中統一<br />     米内光政━━━┳和子<br />      (首相)  ┃<br />            ┗米内剛政<br /> &lt;/pre&gt;<br /> <br /> == 米内を演じた俳優 ==<br /> ;映画<br /> * [[柳永二郎]] 『[[太平洋の鷲]]』(1953年、東宝)&lt;br /&gt; 『[[日本敗れず]]』(1954年、新東宝)、劇中の役名は米田海軍大臣<br /> * [[山村聡]] 『[[日本のいちばん長い日]]』(1967年、東宝)&lt;br /&gt; 『[[激動の昭和史 軍閥]]』(1970年、東宝)<br /> * [[松本白鸚 (初代)|八代目松本幸四郎]] 『[[連合艦隊司令長官 山本五十六]]』(1968年、東宝)<br /> * [[池部良]] 『[[あゝ決戦航空隊]]』(1974年、東映)<br /> * [[西沢利明]] 『[[太陽 (映画)|太陽]]』(2005年、ロシア映画)<br /> * [[柄本明]] 『[[聯合艦隊司令長官 山本五十六]]』(2011年、東映)<br /> * [[中村育二]] 『[[日本のいちばん長い日]]』(2015年、松竹)<br /> ;テレビドラマ<br /> * [[増田順司]] 『NHK特集 日本の戦後 (第一回)』(1977年、NHK)<br /> * [[渡辺文雄 (俳優)|渡辺文雄]] 『[[海にかける虹〜山本五十六と日本海軍]]』(1983年、テレビ東京[[新春ワイド時代劇]])<br /> * 村上幹夫 『[[山河燃ゆ]]』(1984年、NHK大河ドラマ)<br /> * [[村井国夫]] 『海の夕映え 最後の海軍大将井上成美』(1992年、日本テレビ)<br /> * [[神山繁]] 『ヒロシマ 原爆投下までの4か月』(1996年、NHK)<br /> * [[原田大二郎]] 『聖断』(2005年、テレビ東京)<br /> ;テレビアニメ<br /> * [[佐々木敏]]&lt;ref group=&quot;注&quot;&gt;佐々木は米内と同じ[[岩手県]]出身でアニメでも東北訛りで演じている。&lt;/ref&gt; 『[[ジパング (漫画)|ジパング]]』(2004年、TBS[[テレビアニメ]])<br /> <br /> == 脚注 ==<br /> === 注釈 ===<br /> {{脚注ヘルプ}}<br /> {{Reflist|group=&quot;注&quot;}}<br /> === 出典 ===<br /> {{脚注ヘルプ}}<br /> {{Reflist|3}}<br /> <br /> == 参考文献・関連文献 ==<br /> {{参照方法|date=2015年2月|section=1}}<br /> * [http://www.jacar.go.jp/index.html アジア歴史資料センター(公式)]<br /> **[http://www.jacar.go.jp/DAS/meta/image_A06031062100 Ref.A06031062100]「写真週報 26号」(昭和13年8月10日号) 米内光政「海軍作戦一年を回顧して国民に告ぐ」<br /> **[http://www.jacar.go.jp/DAS/meta/image_A06031069600 Ref.A06031069600]「写真週報 101号」(昭和15年1月31日号) 米内内閣組閣・浅間丸事件<br /> **[http://www.jacar.go.jp/DAS/meta/image_A06031033300 Ref.A06031033300]「週報 第171号」(昭和15年1月24日号) 米内光政「全国民の協力を求む」<br /> * {{Cite book|和書|url= http://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000008246789-00?ar=4e1f |title=米内光政追想録|publisher=米内光政銅像建設会|year=1961}}<br /> <br /> &#039;&#039;&#039;書籍&#039;&#039;&#039;<br /> * {{Cite book|和書|author=[[阿川弘之]]|title=米内光政|publisher=新潮社|series=[[新潮文庫]]|year=1982|month=5|isbn=978-4-10-111006-6|ref=harv}}<br /> * {{Cite book|和書|author=[[緒方竹虎]]|title=一軍人の生涯|publisher=[[文藝春秋新社]]|year=1955|asin=B000JB54LU|ref=harv}}<br /> **{{Cite book|和書|author=緒方竹虎|title=一軍人の生涯-提督・米内光|year=1983|month=6|publisher=光和堂|isbn=978-4875380597}}<br /> * {{Cite book|和書|author=神川武利|title=米内光政-海軍魂を貫いた無私・廉潔の提督|series=PHP文庫|year=2001|month=2|isbn=978-4569575186|ref=harv}}<br /> * {{Cite book|和書|author=[[佐藤朝泰]]|title=豪閥 地方豪族のネットワーク|publisher=[[立風書房]]|year=2001|month=6|pages=213-216|isbn=978-4651700793|ref=harv}}<br /> * {{Cite book|和書|author=[[実松譲]]、[[高木惣吉]] 編|title=海軍大将米内光政覚書|publisher=[[光人社]]|isbn=4-7698-0021-5 C0095}}<br /> * {{Cite book|和書|author=実松譲|title=米内光政-山本五十六が最も尊敬した一軍人の生涯|year=1993|month=8|series=光人社NF文庫|isbn=978-4769820208|ref=harv}}<br /> **{{Cite book|和書|author=実松譲|edition=新版|title=海軍大将 米内光政正伝-肝脳を国の未来に捧げ尽くした一軍人政治家の生涯|publisher=光人社|year=2009|ref=harv}}<br /> * {{Cite book|和書|author=高田万亀子|title=静かなる楯-米内光政(上・下)|publisher=[[原書房]]}}<br /> * {{Cite book|和書|author=高田万亀子|title=米内光政の手紙|publisher=原書房|year=1993|month=10|isbn=978-4562024780}}<br /> * {{Cite book|和書|chapter=米内光政|pages=89|author=冨森叡児|title=実録首相列伝―国を担った男達の本懐と蹉跌|series=歴史群像シリーズ(70号)|publisher=学研|date=2003-06|isbn=978-4056031515|url= http://hon.gakken.jp/book/1860315100 |ref=harv}}<br /> * {{Cite book|和書|author=[[豊田穣]]|title=激流の小舟 提督・米内光政の生涯(上・下)|series=講談社文庫}}のち光人社。<br /> * {{Cite book|和書|author=[[七宮ケイ三|七宮涬三]] 編著|title=米内光政のすべて|publisher=[[新人物往来社]]|year=1994|month=1|isbn=4404020678|ref={{Sfnref|七宮涬三|1994}} }}<br /> * {{Cite book|和書|author=[[野村実|野村實]]|title=山本五十六再考|series=中公文庫|year=1996|month=4|isbn=978-4122025790|ref={{Sfnref|野村實|1996}} }}<br /> * {{Cite book|和書|author=[[松田十刻]]|title=海軍 一軍人の生涯 最後の海軍大臣 米内光政|series=光人社NF文庫|year=2006|month=10|isbn=978-4769825128|ref=harv}}<br /> * {{Cite book|和書|author=三村文男|title=米内光政と山本五十六は愚将だった 「海軍善玉論」の虚妄を糺す|year=2002|month=7|publisher=テーミス|isbn=978-4901331067|ref=harv}}<br /> <br /> == 関連項目 ==<br /> {{Commonscat|Mitsumasa Yonai}}<br /> *[[竹中工務店]]<br /> *[[大日本帝国海軍軍人一覧]]<br /> *[[佐久間勉]]<br /> *[[親和銀行]]<br /> *[[浅間丸事件]]<br /> *[[実松譲]]<br /> *[[盛岡八幡宮]]<br /> <br /> == 外部リンク ==<br /> * {{Cite web|url= http://www.mfca.jp/institution/senjin/yonai/index.html |publisher=[[公益財団法人]][[盛岡市]]文化振興事業団|work=盛岡市先人記念館|title=米内光政|accessdate=2015-02-27}}<br /> <br /> {{start box}}<br /> {{s-off}}<br /> {{succession box<br /> | title = {{Flagicon|JPN}} [[内閣総理大臣]]<br /> | before = [[阿部信行]]<br /> | years = 第37代:1940年1月16日 - 同7月22日<br /> | after = [[近衛文麿]]<br /> }}<br /> {{succession box<br /> | title = {{Flagicon|JPN}} [[海軍大臣]]<br /> | before = [[永野修身]]&lt;br /&gt;[[野村直邦]]<br /> | years = 第39・40・41代:1937年2月2日 - 1939年8月30日&lt;br /&gt;第49 - 52代:1944年7月22日 - 1945年12月1日<br /> | after = [[吉田善吾]]&lt;br /&gt;[[第二復員省]]へ移行<br /> }}<br /> {{s-mil}}<br /> {{succession box<br /> | title = {{Flagicon|JPN}} [[連合艦隊司令長官]]<br /> | before = [[高橋三吉]]<br /> | years = 第23代 : 1936年12月1日 - 1937年2月2日<br /> | after = [[永野修身]]<br /> }}<br /> {{end box}}<br /> <br /> {{日本国歴代内閣総理大臣<br /> |当代=[[米内内閣|37]]<br /> |在任期間= 1940年1月16日 - 同7月22日<br /> |前代=[[阿部内閣|36]]<br /> |前首相名=阿部信行<br /> |次代=[[第2次近衛内閣|38]]・[[第3次近衛内閣|39]]<br /> |次首相名=近衛文麿}}<br /> <br /> {{海軍大臣}}<br /> {{Normdaten}}<br /> <br /> {{デフォルトソート:よない みつまさ}}<br /> [[Category:米内光政|*]]<br /> [[Category:大日本帝国海軍将官]]<br /> [[Category:第二次世界大戦期の政治家]]<br /> [[Category:太平洋戦争の人物]]<br /> [[Category:昭和時代戦前の内閣総理大臣]]<br /> [[Category:日本の海軍大臣]]<br /> [[Category:海軍大学校の教員]]<br /> [[Category:日露戦争の人物]]<br /> [[Category:日中戦争の人物]]<br /> [[Category:二・二六事件の人物]]<br /> [[Category:公職追放者]]<br /> [[Category:海軍兵学校 (日本)出身の人物]]<br /> [[Category:海軍大学校出身の人物]]<br /> [[Category:岩手県立盛岡第一高等学校出身の人物]]<br /> [[Category:岩手県出身の人物]]<br /> [[Category:奥州安倍氏]]<br /> [[Category:勲一等旭日大綬章受章者]]<br /> [[Category:勲一等瑞宝章受章者]]<br /> [[Category:功一級金鵄勲章受章者]]<br /> [[Category:功五級金鵄勲章受章者]]<br /> [[Category:ドイツ鷲勲章受章者]]<br /> [[Category:八卦章受章者]]<br /> [[Category:聖アンナ勲章受章者]]<br /> [[Category:1880年生]]<br /> [[Category:1948年没]]<br /> [[Category:山本五十六]]</div> 240B:11:4A00:400:45F5:B432:D0EE:BC0B
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