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http:///mymemo.xyz/wiki/api.php?action=feedcontributions&user=2404%3A7A86%3A7E80%3A3400%3A9186%3A4941%3A2560%3A26D1&feedformat=atom miniwiki - 利用者の投稿記録 [ja] 2024-05-14T10:39:29Z 利用者の投稿記録 MediaWiki 1.31.0 島津義久 2018-06-05T07:51:13Z <p>2404:7A86:7E80:3400:9186:4941:2560:26D1: /* 人物・逸話 */</p> <hr /> <div>{{基礎情報 武士<br /> | 氏名 = 島津義久<br /> | 画像 =Yoshihisa shimadzu.jpg<br /> | 画像サイズ = 250px<br /> | 画像説明 = 島津義久像([[東京芸術大学大学美術館]]蔵) <br /> | 時代 = [[戦国時代 (日本)|戦国時代]]から[[安土桃山時代]]<br /> | 生誕 = [[天文 (元号)|天文]]2年[[2月9日 (旧暦)|2月9日]]([[1533年]][[3月4日]])<br /> | 死没 = [[慶長]]16年[[1月21日 (旧暦)|1月21日]]([[1611年]][[3月5日]])<br /> | 改名 = 虎寿丸([[幼名]])→忠良→義辰→義久、&lt;br /&gt;龍伯(法号)<br /> | 別名 = 又三郎、三郎左衛門尉([[仮名 (通称)|通称]])、太守公、貫明公<br /> | 諡号 = <br /> | 神号 = 大国豊知主命<br /> | 戒名 = 妙谷寺殿貫明存忠庵主<br /> | 霊名 = <br /> | 墓所 = [[鹿児島市]]池之上町の[[福昌寺 (鹿児島市)|福昌寺]]<br /> | 官位 = 従五位下、従四位下、修理大夫、贈従三位<br /> | 幕府 = [[室町幕府]]:[[薩摩国|薩摩]]・[[大隅国|大隅]]・[[日向国|日向]]守護職<br /> | 主君 = [[足利義昭]]→[[豊臣秀吉]]→[[豊臣秀頼|秀頼]]→[[徳川家康]]<br /> | 藩 = <br /> | 氏族 = [[島津氏]]<br /> | 父母 = 父:[[島津貴久]]&lt;br/&gt;母:[[入来院重聡]]の娘・雪窓夫人<br /> | 兄弟 = &#039;&#039;&#039;義久&#039;&#039;&#039;、[[島津義弘|義弘]]、[[島津歳久|歳久]]、[[島津家久|家久]]<br /> | 妻 = 正室:[[島津忠良]]の娘・&#039;&#039;&#039;花舜夫人&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;継室:[[種子島時尭]]の娘・&#039;&#039;&#039;円信院殿&#039;&#039;&#039;<br /> | 子 = 平([[島津義虎]]室)、玉姫([[島津彰久]]正室)、[[島津亀寿|亀寿]]([[島津久保]]、[[島津忠恒|島津忠恒(家久)]]正室)&lt;br&gt;養子:&#039;&#039;久保&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;&#039;&#039;[[島津忠恒]](家久)&#039;&#039;&#039;&#039;&#039;<br /> | 特記事項 = <br /> }}<br /> &#039;&#039;&#039;島津 義久&#039;&#039;&#039;(しまづ よしひさ)は、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]から[[安土桃山時代]]にかけての武将。[[薩摩国]]の[[守護大名]]・[[戦国大名]]。[[島津氏]]第16代当主。<br /> <br /> 島津氏の家督を継ぎ、[[薩摩国|薩摩]]・[[大隅国|大隅]]・[[日向国|日向]]の三州を制圧する。その後も[[耳川の戦い]]において九州最大の戦国大名であった[[豊後国]]の[[大友氏]]に大勝し、また[[沖田畷の戦い]]では九州西部に強大な勢力を誇った[[肥前国]]の[[龍造寺氏]]を撃ち破った。<br /> <br /> 義久は優秀な3人の弟([[島津義弘]]・[[島津歳久|歳久]]・[[島津家久|家久]])と共に、精強な家臣団を率いて九州統一を目指し躍進し、一時は[[筑前国|筑前]]・豊後の一部を除く九州の大半を手中に収め、島津氏の最大版図を築いた。しかし、[[豊臣秀吉]]の[[九州平定|九州征伐]]を受け降伏し、本領である薩摩・大隅2ヶ国と日向諸県郡を安堵される。豊臣政権・[[関ヶ原の戦い]]・徳川政権を生き抜き、隠居後も家中に強い政治力を持ち続けた。<br /> <br /> == 生涯 ==<br /> === 幼少時 ===<br /> 天文2年(1533年)2月9日、第15代当主・[[島津貴久]]の嫡男として[[伊作城]]に生まれ、幼名は&#039;&#039;&#039;虎寿丸&#039;&#039;&#039;と名づけられた。<br /> <br /> 幼少の頃は大人しい性格だった。しかし祖父の[[島津忠良]]は「義久は三州([[薩摩国|薩摩]]・[[大隅国|大隅]]・[[日向国|日向]])の総大将たるの材徳自ら備わり、義弘は雄武英略を以て傑出し、歳久は始終の利害を察するの智計並びなく、家久は軍法戦術に妙を得たり」と兄弟の個性を見抜いた評価を下しており、義久に期待していた。<br /> <br /> 元服した直後は祖父と同じ&#039;&#039;&#039;忠良&#039;&#039;&#039;(ただよし)を[[諱]]とし、通称は&#039;&#039;&#039;又三郎&#039;&#039;&#039;と名乗った。後に第13代将軍・[[足利義輝]]からの[[偏諱]](「義」の1字)を受け、&#039;&#039;&#039;義辰&#039;&#039;&#039;(よしたつ)、後に&#039;&#039;&#039;義久&#039;&#039;&#039;と改名している(以下、本記事中では全て&#039;&#039;&#039;義久&#039;&#039;&#039;と記す)。<br /> <br /> === 三州統一 ===<br /> 天文23年([[1554年]])、島津氏と[[蒲生氏#薩摩蒲生氏|蒲生氏]]・[[祁答院氏]]・[[入来院氏]]・[[菱刈氏]]などの薩摩・大隅国衆の間で起きた[[岩剣城の戦い|岩剣城攻め]]で初陣を果たす。以後、国衆との戦いに従事しており、[[弘治 (日本)|弘治]]3年([[1557年]])には蒲生氏が降伏し、永禄12年([[1569年]])に大口から[[相良氏]]と菱刈氏を駆逐すると、翌元亀元年([[1570年]])には[[東郷氏]]・入来院氏が降伏、薩摩統一がなった。<br /> <br /> この薩摩統一の途上であった[[永禄]]9年([[1566年]])、義久は父の隠居により家督を相続し、島津家第16代当主となっている。<br /> <br /> 島津氏は薩摩の統一が成る前より、薩隅日肥が接する要衝である[[真幸院]]の帰属を巡って[[日向国]]の[[伊東義祐]]と対峙していた。[[元亀]]3年([[1572年]])5月、伊東義祐の重臣・[[伊東祐安]](加賀守)を[[総大将]]に、[[伊東祐信]](新次郎)、[[伊東又次郎]]、[[伊東祐青]](修理亮)らを大将にした3,000人の軍勢が島津領への侵攻を開始し、[[飯野城]]にいた義久の弟・[[島津義弘]]が迎え撃った。義弘は300人を率いて出撃し、[[木崎原]]にて伏兵などを駆使して伊東軍を壊滅させた。義弘が先陣を切って戦い、伊東祐安、伊東祐信、伊東又次郎など大将格五人をはじめ、名のある武者だけで160余人、首級は500余もあったという。この合戦は寡勢が多勢を撃破したものである([[木崎原の戦い]])。<br /> <br /> また、これと並行して大隅国の統一も展開しており、[[天正]]元年([[1573年]])に[[禰寝氏]]を、翌年には[[肝付氏]]と[[伊地知氏]]を帰順させて大隅統一も果たしている。<br /> <br /> 最後に残った日向国に関しては[[天正]]4年([[1576年]])[[伊東氏]]の[[高原城]]を攻略、それを切っ掛けに「[[伊東四十八城|惣四十八城]]」を誇った伊東方の支城主は次々と離反し、伊東氏は衰退をする。こうして伊東義祐は[[豊後国]]の[[大友義鎮|大友宗麟]]を頼って亡命し、三州統一が達成された。<br /> <br /> === 耳川の戦い ===<br /> {{Main|耳川の戦い}}<br /> 伊東義祐が亡命したことにより大友宗麟が[[天正]]6年([[1578年]])10月、大軍を率いて日向国に侵攻してきた。宗麟は務志賀([[延岡市]]無鹿)に止まり、[[田原親賢|田原紹忍]]が総大将となり、[[田北鎮周]]・[[佐伯惟教|佐伯宗天]]ら4万3千を率いて、戦いの指揮を取ることになった。島津軍は[[山田有信]]を[[高城 (新納院)|高城]]に、後方の[[佐土原町|佐土原]]に末弟・[[島津家久]]を置いていたが、大友軍が日向国に侵攻すると家久らも高城に入城し、城兵は3千余人となった。大友軍は高城を囲み、両軍による一進一退の攻防が続いた。<br /> <br /> 11月、義久は2万余人の軍勢を率いて出陣し、佐土原に着陣した。島津軍は大友軍に奇襲をかけて成功し、[[小丸川|高城川]]を挟んで大友軍の対岸の根城坂に着陣した。大友軍は宗麟がいないこともあり、団結力に欠けていた。大友軍の田北鎮周が無断で島津軍を攻撃し、これに佐伯宗天が続いた。無秩序に攻めてくる大友軍を相手に義久は「[[釣り野伏せ]]」という戦法を使い、川を越えて追撃してきた大友軍に伏兵を次々と繰り出して壊滅させた。島津方は田北鎮周や佐伯宗天を始め、[[吉弘鎮信]]や[[斎藤鎮実]]、軍師の[[角隈石宗]]など主だった武将を初め2千から3千の首級を挙げた([[耳川の戦い]])。 この大友氏の敗退に伴い、宗麟が守護を務める[[肥後国]]から、[[名和氏]]と[[城氏 (藤原姓菊池一門)|城氏]]が島津氏に誼を通じてくる。<br /> <br /> 天正8年(1580年)、島津氏と[[織田信長]]との間で交渉が開始される。これは信長が毛利氏攻撃に大友氏を参戦させるため、大友氏と敵対している島津氏を和睦させようというものであった。この交渉には朝廷の[[近衛前久]]が加わっている。最終的に義久は信長を「上様」と認めて大友氏との和睦を受諾し、天正10年(1582年)後半の毛利攻めに参陣する計画を立てていたが、[[本能寺の変]]で信長が倒れたことにより実現はしなかった{{Sfn|黒嶋|2010}}{{Sfn|黒嶋|2011}}。<br /> <br /> 天正9年([[1581年]])には[[球磨]]の[[相良氏]]が降伏、これを帰順させている。<br /> <br /> === 沖田畷の戦い ===<br /> {{Main|沖田畷の戦い}}<br /> 耳川の戦いで大友氏が衰退すると、[[肥前国]]の[[龍造寺隆信]]が台頭してきた。龍造寺隆信の圧迫に耐えかねた[[有馬晴信]]が[[八代市|八代]]にいた義弘・家久に援軍を要請してきた。それに応えた島津軍は天正10年([[1582年]])、龍造寺方の千々石城を攻め落として300人を打ち取った。これを機に、晴信は人質を差し出し、島津氏に服属した。翌年、[[肥前有馬氏|有馬氏]]の親戚である安徳城主・[[安徳純俊]]が[[龍造寺氏]]に背いた。島津軍は八代に待機していた[[新納忠堯]]・[[川上忠堅]]ら1,000余人が援軍として安徳城に入り、深江城を攻撃した。<br /> <br /> 天正12年([[1584年]])、義久は家久を総大将として[[島原市|島原]]に派遣し、自らは肥後国の[[水俣市|水俣]]まで出陣した。家久は3,000人を率いて島原湾を渡海し、安徳城に入った。有馬勢と合わせて5,000余りで、龍造寺軍2万5千(一説には6万)という圧倒的兵力に立ち向かうことになった。家久は沖田畷と呼ばれる湿地帯にて、龍造寺隆信を初め、一門・重臣など3千余人を討ち取り勝利した([[沖田畷の戦い]])。ほどなくして龍造寺氏は島津氏の軍門に降ることとなった。<br /> <br /> === 九州統一への戦い ===<br /> {{Main|豊薩合戦}}<br /> 天正12年(1584年)、龍造寺氏が島津氏の軍門に降り、[[肥後国]]の[[隈部親永]]・[[隈部親泰|親泰]]父子、[[筑前国]]の[[秋月種実]]らが、次々と島津氏に服属や和睦していった。天正13年([[1585年]])、義弘を総大将とした島津軍が肥後国の[[阿蘇惟光]]を下した([[阿蘇合戦]])。これにより肥後国を完全に平定し、義弘を肥後守護代として支配を委ねた。この危機に大友宗麟は[[豊臣秀吉]]に助けを求め、義久の元に秀吉からこれ以上九州での戦争を禁じる書状が届けられた(「[[惣無事令]]」)。<br /> <br /> 島津家中でも論議を重ねたが、義久はこれを無視し、大友氏の所領の筑前国の攻撃を命じた。天正14年([[1586年]])7月、義久は八代に本陣を置いて筑前攻めの指揮を取った。筑前へ[[島津忠長]]・[[伊集院忠棟]]を大将とした2万余が大友方の[[筑後国]]の[[筑紫広門]]を攻めた。島津軍の攻撃を受け、広門は秋月種実の仲介により開城し軍門に降った。これを見て、筑後の[[原田信種]]、[[星野鎮種]]、[[草野家清]]ら、肥前の[[龍造寺政家]]の3,000余騎、[[豊後国|豊後]]の[[城井友綱]]と[[長野惟冬]]の3,000余騎など、大名・国衆が参陣した。<br /> <br /> これにより筑前・筑後で残るは[[高橋紹運]]の守る[[岩屋城]]、[[立花宗茂]]の守る[[立花城]]、[[立花直次|高橋統増]]の守る[[宝満山城]]のみであった。7月、島津忠長・伊集院忠棟を大将とした3万余が岩屋城を落とした([[岩屋城の戦い]])。しかしこの戦いで島津方は[[上井覚兼]]が負傷、死者数千の損害を出す誤算となった。直後に宝満山城も陥落させたが立花城は諦め、豊後侵攻へ方針を転換した。島津軍は撤退する際、立花宗茂の追撃を受け高鳥居城、岩屋城、宝満山城を奪還されている。<br /> <br /> 義久は肥後側から義弘を大将にした3万700余人、日向側から家久を大将にした1万余人に豊後攻略を命じた。しかし、義弘は[[志賀親次]]が守る[[岡城 (豊後国)|岡城]]を初めとした[[直入郡]]の諸城の攻略に手間取ったため、大友氏の本拠地を攻めるのは家久だけになっていた。家久は[[利光宗魚]]の守る[[鶴賀城]]を攻め、利光宗魚が戦死するも抵抗は続いた。<br /> <br /> 12月、大友軍の援軍として[[仙石秀久]]を軍監とした、[[長宗我部元親]]・[[長宗我部信親]]・[[十河存保]]ら総勢6,000余人の豊臣連合軍の先発隊が九州に上陸する。家久はこれを迎え撃つべく[[大野川|戸次川]]を挟んで対陣した。合戦は敵味方4,000余が討死した乱戦であったが、家久は釣り野伏せ戦法を用い豊臣連合軍を圧倒した。長宗我部信親・十河存保が討死し、豊臣連合軍が総崩れとなり勝利した([[戸次川の戦い]])。<br /> <br /> この戦いの後、鶴賀城は家久に降伏した。[[大友義統]]は戦わずに北走して豊前との国境に近い[[高崎山城]]まで逃げたため、家久は鏡城や[[小岳城]]を落として北上し、[[府内城]]を落とした。家久は大友宗麟の守る[[臼杵城]]を包囲した。<br /> <br /> === 秀吉の九州征伐 ===<br /> {{Main|九州平定}}<br /> 天正15年([[1587年]])、豊臣軍の先鋒・[[豊臣秀長]]率いる[[毛利氏|毛利]]・[[小早川氏|小早川]]・[[宇喜多氏|宇喜多]]軍など総勢10万余人が豊前国に到着し、日向国経由で進軍した。続いて、豊臣秀吉率いる10万余人が[[小倉]]に上陸し、肥後経由で薩摩国を目指して進軍した。豊臣軍の上陸を知った豊後の義弘・家久らは退陣を余儀なくされ、大友軍に追撃されながら退却した。豊前・豊後・筑前・筑後・肥前・肥後の諸大名や国人衆は一部を除いて、次々と豊臣方に下った。秀長軍は山田有信ら1,500余人が籠る高城を囲んだ。また秀長は高城川を隔てた根白坂に陣を構え、後詰してくる島津軍に備えた。島津軍は後詰として、義弘・家久など2万余人が[[宮部継潤]]の陣に夜襲を仕掛たが、継潤が抗戦している間に、藤堂高虎・黒田孝高が合流する。島津軍の夜襲は失敗に終わり、島津軍が薩摩国に撤退する島津軍は多くの犠牲を出し、本国へと敗走した([[根白坂の戦い]])。<br /> <br /> 島津の本領に豊臣軍が迫ると、出水城主・[[島津忠辰]]はさして抗戦せずに降伏、以前から秀吉と交渉に当たっていた伊集院忠棟も自ら人質となり秀長に降伏、家久も城を開城して降伏した。義久は鹿児島に戻り、剃髪して、名を龍伯と改めた。その後、伊集院忠棟とともに[[川内市|川内]]の[[泰平寺 (薩摩川内市)|泰平寺]]で秀吉と会見し、正式に降伏した。義久は降伏したものの、義弘・歳久・[[新納忠元]]・[[北郷時久]]らは抗戦を続けていた。高野山の[[木食応其]]から和議を促され義久は彼らに降伏を命じたが、歳久はこれに不服であり、秀吉の駕籠に矢を射かけるという事件を起こしている。<br /> <br /> === 豊臣政権下 ===<br /> 秀吉は島津家の領地としてまず義久に薩摩一国を安堵し、義弘に新恩として大隅一国、義弘の子・[[島津久保|久保]](義久には男児が無かったため、甥の久保に三女・[[島津亀寿|亀寿]]を娶わせ後継者と定めていた)に日向国[[諸県郡|諸縣郡]]を宛行った。またこの際、伊集院忠棟には秀吉から直々に大隅のうちから肝付一郡が宛行われている。島津家家臣の反発は強く、[[伊東祐兵]]や[[高橋元種]]といった新領主は、島津家の家臣が立ち退かないと豊臣秀長に訴え出ている。<br /> <br /> 天正16年([[1588年]])、秀吉から義弘に、羽柴の名字と豊臣の本姓が与えられた。また、天正18年([[1590年]])、義久に羽柴の名字のみ与えられた{{Sfn|村川|2000}}。豊臣政権との折衝には義弘が主に当たることになる。しかし島津家は[[刀狩]]令にもなかなか応じず、京都に滞在させる軍兵も十分に集まらなかった。この頃[[京都府|京都]]では、島津家には義久と家臣が豊臣政権に従順ではないという噂が立ち、[[石田三成]]の家臣が義弘に内報している。また秀吉政権に重用された伊集院忠棟らに対する家中の反感も高まりつつあった。<br /> <br /> 秀吉は[[文禄・慶長の役|朝鮮出兵]]を実行し、諸大名に対して出兵を命じた。しかし、島津家は秀吉の決めた軍役を十分に達成することができなかった上、重臣の一人[[梅北国兼]]は[[唐津市|名護屋]]に向かう途中の肥後国で反乱を起こした([[梅北一揆]])。これらを島津氏の不服従姿勢と見て取った秀吉は不服従者の代表として歳久の首を要求し、義久は歳久に自害を命じた。また[[文禄]]2年(1593年)、朝鮮で久保が病死したため、久保の弟・[[島津忠恒|忠恒]]に亀寿を再嫁させて後継者としている。<br /> <br /> 文禄3年([[1594年]])、義弘は石田三成に[[検地]]実施を要請する。検地の結果、島津氏の石高は倍増したが、義久の直轄地は大隅国や日向国に置かれ、義弘に[[鹿児島]]周辺の主要地が宛行われることとなった&lt;ref group=&quot;注釈&quot;&gt;検地の結果、島津家の領地は22万4,522石から、56万9,533石となった。そのうち義久と義弘の所領はそれぞれ10万石、伊集院忠棟に8万石、太閤蔵入地として1万石、検地奉行の石田三成に6千石、細川幽斎に3千石が宛行われている。ちなみに、この内の太閤蔵入地、石田三成領、細川幽斎領は主に義久に宛われていた大隅国内に置かれた。また、一門の[[島津忠辰]]が秀吉の命に背き改易されたため、忠辰の旧領出水3万石は[[宗義智]]と[[寺沢広高]]に与えられている。&lt;/ref&gt;。<br /> これは秀吉政権が義弘を事実上の島津家当主として扱ったためとされ、領地安堵の[[朱印状]]も義弘宛に出されている。当主の座を追われた義久は大隅濱の市にある[[富隈城]]に移ったが、島津家伝来の「御重物」は義久が引き続き保持しており、島津領内での実権は依然として義久が握っていた。これを「両殿体制」という。<br /> <br /> 秀吉の死後、朝鮮の役が終わると、[[泗川の戦い]]等の軍功を評価され、島津家は5万石の加増を受けた&lt;ref group=&quot;注釈&quot;&gt;かつて島津家から太閤蔵入地や石田三成・細川幽斎の所領として設定された分と、島津忠辰の旧領出水3万石。&lt;/ref&gt;。<br /> しかし家中の軋轢は強まり、忠恒が伊集院忠棟を斬殺する事件が起こる。義久は自分は知らなかったと三成に告げているが、事前に義久の了解を得ていたという説もある&lt;ref group=&quot;注釈&quot;&gt;[[山本博文]]は『島津義弘の賭け』で、『庄内陣記』の記述として「忠棟殺害は忠恒と義弘が計画し、義久が同意を与えた」と引用している。&lt;/ref&gt;。<br /> 事件後には家臣達から忠棟の子・[[伊集院忠真]]と連絡をとらないという起請文をとっている。([[庄内の乱]])<br /> <br /> === 関ヶ原の戦いと戦後処理 ===<br /> 慶長5年([[1600年]])、[[関ヶ原の戦い]]においては京都にいた義弘は西軍に加担することになる。この間、義弘は国元に援軍を要請するが、義久も忠恒も動かなかった。<br /> <br /> 戦後、西軍への荷担は義弘が行ったもので、義久はあずかり知らぬ事であったとして、講和交渉を開始する。家康に謝罪するため忠恒が上洛しようとするが、義久は「上洛は忠孝に欠けた行い」と反対している&lt;ref&gt;義久あて忠恒書状&lt;/ref&gt;。<br /> 忠恒は義久や義久の家臣の反対を振り切って上洛した。義久は忠恒の上洛を追認し「病のために上洛できないため、代わりに忠恒が上洛する」と書状を送っている。結果的に島津家は改易を免れ、本領安堵の沙汰が下った。<br /> <br /> === 晩年 ===<br /> [[徳川家康]]による領土安堵後の慶長7年([[1602年]])、「御重物」と当主の座を正式に島津忠恒に譲り渡して隠居したが、以後も[[江戸幕府]]と都度都度書状をやりとりするなど絶大な権威を持ち、死ぬまで家中に発言力を保持していた。この頃の体制を指して「三殿体制」とよぶ。<br /> <br /> 慶長9年([[1604年]])には大隅の[[霧島市|国分]]に[[国分城 (大隅国)|国分城]](舞鶴城)を築き、移り住んだ。<br /> <br /> しかし、娘・亀寿と忠恒の不仲などから関係は次第に悪化したと言われる。忠恒・亀寿夫妻の間には1人も子が無かったことから外孫の[[島津久信]]を忠恒の次の後継者に据えようとしたが失敗したとされる。また、義弘・忠恒親子が積極的に推進した[[琉球王国|琉球]][[琉球侵攻|出兵]]にも反対していたとされる。慶長15年頃には「龍伯様(義久)、惟新様(義弘)、中納言様(忠恒)が疎遠になられ、召し使う侍も三方に別れ、世上に不穏な噂が流れて」{{refnest|『山田四郎左衛門聞書』&lt;ref group=&quot;注釈&quot;&gt;慶長15年に作成されたとみられる覚書。『島津義弘の賭け』で山本博文は慶長15年の[[平田増宗]]殺害直前の会見であるとしている。&lt;/ref&gt;}}いたという。<br /> <br /> 慶長16年(1611年)1月21日、国分城にて病死した。[[享年]]79。辞世は「世の中の 米(よね)と水とを くみ尽くし つくしてのちは 天つ大空」。<br /> <br /> == 人物・逸話 ==<br /> * 徳川家康は義久に興味があったらしく、[[本多忠勝]]に命じて[[島津豊久]](義久の甥)を[[大坂]]に招き、耳川の戦いの顛末を聞いた。豊久がかくかくしかじかと話をし、やがて退出した後、家康は「いやはや義久はかねて聞いていたより恐ろしい大将である、いにしえの[[楠木正成]]に負けずとも劣らない采配ぶりである」と感心したという&lt;ref&gt;『[[名将言行録]]』&lt;/ref&gt;。<br /> *ある時、義久は家康に合戦での手柄話を乞われた。義久は「弟たちや家臣団を遣わせて合戦し、勝利をおさめたというだけであって、自分の働きなどひとつもない」と答え、家康は「自ら手を砕くことなく勝利を得ることこそ源頼朝に並ぶ大将の道」と関心している。<br /> * 江戸時代初期に国分地方(現[[鹿児島県]][[霧島市]][[国分市|国分]])において[[タバコ]]の生産を奨励したのは義久といわれる(『[[大日本農功伝]]』)。貧しい土地柄で換金性の高い農産物の乏しかった南九州において、タバコの収入は以後貴重な[[薩摩藩]]の収入源となった。<br /> *自室に歴史上の大悪人の肖像画を飾っていた。不思議に思った家臣が、なぜ悪人の肖像画を飾っているか問うと、「良い行いは、自らがしようと思えば出来る。だが、悪い行いというのは知らず知らずのうちにしてしまうものだ。常にこの連中の顔を見て、こいつらと同じ真似はするまい、そう心がければ、道を誤まることはない」と答えている。<br /> * この時代の武将には珍しく、義久本人の当時の肖像画は残存していない。『要用集』下巻に「御画像・御影・御牌所は妙谷寺で、御廟所は[[福昌寺 (鹿児島市)|福昌寺]]」とあり存在していたのは間違いないようだが、[[廃仏毀釈]]により同寺が廃寺となった際、またはそれに伴い大平神社へ移管された際に失われたようである&lt;ref&gt;{{Cite web | title=島津四兄弟の長男・義久の肖像画だけが存在していないのはなぜ? | url=http://best-times.jp/articles/-/8637 | publisher=BEST T!MES powered by歴史人 | accessdate=2018-06-05}}&lt;/ref&gt;。そのため容貌に関しては不明である。[[鹿児島県]][[薩摩川内市]]の[[泰平寺 (薩摩川内市)|泰平寺]]に義久降伏の銅像がある。<br /> * [[細川幽斎]]から古今伝授を受けたり、[[関白]]・[[近衛前久]]との親交が厚かったなど、教養人でもあったと言われている。<br /> *ある日、義久の居城の城門があまりにも質素なので、弟が「他国の使者が来た時に恥ずかしいのでは?」といったところ、「小板葺きにして立派になっても、百姓が疲れきっているようでは、使者は国主の政治が良くないことを見抜くだろう。使者になるほどの者は、様々なことに気付く者だ。途中、当国の地を通って風俗、生活を見て、富み栄えているか、城門が粗末であろうと何の問題もない。むしろ、城門は立派なのに民衆が疲労している方が問題だ」と言い返した。<br /> * 天正14年(1586年)、義久は豊臣秀吉から直書をもって大友宗麟との和睦と[[豊臣氏]]への臣従を迫られたが、1月11日に出した書状では宛名を細川幽斎にして和睦・臣従を拒むという返信を送っている。この内容は秀吉の出自の低さを厳しく指摘する内容であり{{refnest|group=&quot;注釈&quot;|「この御返書、関白殿へにて候へば、勿論その通りに相応の御請けをなすべく候。さりながら羽柴事は、寔(まこと)に由来なき仁と世上沙汰候。当家の事は、頼朝已来愁変なき御家の事に候。しかるに羽柴へ、関白殿あつかいの返書は笑止の由どもに候。また、右の如きの故なき仁に関白を御免の事、ただ綸言の軽きにてこそ候へ。何様に敬はれ候ても苦しかるまじきよし、申す人も候。(以下省略)」&lt;ref&gt;「[[上井覚兼日記]]」、『[[島津家文書]]』3-1436所収。&lt;/ref&gt;}}、その後、島津氏に対する秀吉の心証を非常に害した可能性がある{{Sfn|三木|1972}}。<br /> * 沖田畷の戦いや豊後侵攻戦などで出陣するときにはくじで吉凶を占うなどしている。特に豊後侵攻戦においては幾度もくじを引いたため、家臣の[[上井覚兼]]には日記で「兎角愚慮の外の由也」と記され嘆かれている。また、豊後侵攻戦に於いて幾度もくじ引きしたのはこの戦によって豊臣政権と全面衝突するのを何とか避けようとした策ではないかとの指摘がある{{Sfn|三木|1972}}、&lt;ref&gt;[[桐野作人]][http://373news.com/_bunka/jikokushi/10.php 「さつま人国志」2007年6月9日][[南日本新聞]]&lt;/ref&gt;。<br /> * 義久の末弟・[[島津家久]]は正室の産んだ子ではなく、妾腹に生まれた子であり、またその母は高貴な身分ではなかった。兄弟四人で連れ立って、鹿児島吉野で馬追を行った時のこと。馬追が終わり、当歳駒を一緒に見ていたとき、歳久が義久と義弘に向かって「こうして様々な馬を見ておりますと、馬の毛色は大体が母馬に似ております、人間も同じでしょうね」と言った。義久は歳久の言わんとすることを察し、「母に似ることもあるだろうが、一概にそうとも言い切れない。父馬に似る馬もあるし、人間も同じようなものとは言っても、人間は獣ではないのだから、心の徳というものがある。学問をして徳を磨けば、不肖の父母よりも勝れ、また徳を疎かにすれば、父母に劣る人間となるだろう」と言った。それからというもの家久は、昼夜学問と武芸にのみ心を砕き、片時も無為に日々を過ごすことはなく、数年の内に文武の芸は大いに優れ、知力の深いこと計りがたいほどとなり、四兄弟の能力の優劣もなくなった(『日本戦史 九州陣』)。<br /> *義久への殉死者で「権之丞([[肥後盛秀]])」という者がいた。ある日、立ち入り禁止である義久の狩場で[[キジ|雉]]狩りしてた権之丞は、義久が来たのを見て逃げ出したが、権之丞は追われる最中に笠を落としてしまう。義久が笠を見てみると持ち主の姓名が書いてあった。しかし義久は微笑して、名前の部分を消した。権之丞はこの行為により命拾いし、この事を恩に感じて殉死した&lt;ref&gt;{{Citation|和書|editor=鹿児島県私立教育会|title=西藩野史|date=1896}}&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> == 系譜 ==<br /> === 出自 ===<br /> 島津氏は[[惟宗氏]]の一族・[[惟宗忠康]]の子・[[島津忠久|忠久]]が、[[鎌倉時代]]に[[日向国]][[島津荘]]を[[源頼朝]]に与えられ、[[室町時代]]に入ってから薩摩、大隅、日向の三ヶ国の守護職を歴任するようになった一族である。もともと、義久の家系は分家の[[伊作家]]であったが、父貴久が本家の[[島津勝久|勝久]]の養子となっており、義久は本家の当主の子として生まれている。<br /> <br /> === 配偶者 ===<br /> 「島津氏正統系図」など信用性の高い史料によれば、祖父・[[島津忠良|忠良]]の娘(義久の叔母にあたる)花舜夫人を妻に迎え、死別後は[[種子島時尭]]の娘を後妻としたとあり、その他の正室や側室に関する記載はない。<br /> <br /> しかし、「[[上井覚兼日記]]」[[天正]]11年3月13日に&#039;&#039;&#039;御料様&#039;&#039;&#039;の記載があることや、『[[薩藩旧記雑録]]』に所収された[[慶長]]4年(1599年)頃の島津家の領地の配分について &#039;&#039;&#039;義久内儀義弘内儀分&#039;&#039;&#039;という記載があることから、2人の正室没後に後妻が存在した可能性は否定できない。<br /> <br /> そのほか、義久の側に仕える小侍従なる女性が先妻を亡くした[[木脇祐光]]に下げ渡された。小侍従は懐妊していたため7月目(「諸家系図」では6月とも)の永禄12年に男児(祐光次男)を生んだという。のちに男児は肥後国八代で死去した鮫島次郎三郎の名跡を相続して鮫島宗堯(大蔵)と称したという話もある&lt;ref&gt;「本藩人物志」[[鮫島宗堯]]の項を参照&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> なお、義久は種子島時尭娘の女中であった国上時通の娘([[一之臺 (種子島氏)|一之臺]])に奥向きの用件を委ねていることが確認されている&lt;ref&gt;「薩藩旧記雑録」、「町田氏正統系譜」&lt;/ref&gt;が、この女性が義久の継室あるいは側室であったかどうかは現存史料からは不明である。<br /> <br /> === 子孫 ===<br /> 弟・[[島津義弘|義弘]]の子である[[島津忠恒|忠恒(家久)]]を養嗣子としたため、忠恒の血統が薩摩藩主となっていくこととなるが、忠恒の子・[[島津光久|光久]]の外祖父(母方の祖父)は義久の孫にあたる[[島津忠清]](母が娘の御平)なので、光久以降の子孫たちは(女系を介してではあるが)義久の血も引いていることになる。<br /> <br /> == 家臣 ==<br /> {| width=&quot;100%&quot;<br /> |-<br /> | valign=&quot;top&quot; |<br /> *[[島津義弘]]<br /> *[[島津久保]]<br /> *[[島津忠恒]]<br /> *[[島津義虎]]<br /> *[[島津歳久]]<br /> *[[島津忠隣]]<br /> *[[島津家久]]<br /> *[[島津豊久]]<br /> *[[島津忠仍]]<br /> *[[島津以久|島津征久]]<br /> *[[島津彰久]]<br /> *[[島津忠長]]<br /> *[[島津忠倍]]<br /> *[[伊集院忠朗]]<br /> *[[伊集院忠倉]]<br /> *[[伊集院忠棟]]<br /> *[[伊集院忠真]]<br /> | valign=&quot;top&quot; |<br /> *[[伊集院久治]]<br /> *[[伊地知重政]]<br /> *[[伊地知重順]]<br /> *[[入来院重時]]<br /> *[[入来院重高]]<br /> *[[上原尚近]]<br /> *[[上井覚兼]]<br /> *[[梅北国兼]]<br /> *[[頴娃久虎]]<br /> *[[面高頼俊]]<br /> *[[桂忠詮]]<br /> *[[樺山善久]]<br /> *[[樺山忠副]]<br /> *[[樺山忠助]]<br /> *[[樺山久高]]<br /> *[[鎌田政年]]<br /> | valign=&quot;top&quot; |<br /> *[[鎌田政広]]<br /> *[[鎌田政近]]<br /> *[[鎌田政虎]]<br /> *[[鎌田政冨]]<br /> *[[川上久隅]]<br /> *[[川上久利]]<br /> *[[川上忠克]]<br /> *[[川上久朗]]<br /> *[[川田義朗]]<br /> *[[汾陽理心]]<br /> *[[喜入季久]]<br /> *[[喜入久道]]<br /> *[[喜入忠続]]<br /> *[[喜入久正]]<br /> *[[木脇祐光]]<br /> *[[肝付兼盛]]<br /> | valign=&quot;top&quot; |<br /> *[[肝付兼寛]]<br /> *[[許儀後]]<br /> *[[税所篤和]]<br /> *[[佐多忠増]]<br /> *[[佐多久政]]<br /> *[[佐多久慶]]<br /> *[[鮫島宗俊]]<br /> *[[猿渡信光]]<br /> *[[白浜重治]]<br /> *[[種子島恵時]]<br /> *[[種子島時尭]]<br /> *[[種子島久時]]<br /> *[[寺山久兼]]<br /> *[[東郷重治]]<br /> *[[東郷重位]]<br /> *[[長崎通常]]<br /> | valign=&quot;top&quot; |<br /> *[[奈良原延]]<br /> *[[新納忠元]]<br /> *[[新納忠堯]]<br /> *[[新納忠光]]<br /> *[[新納忠増]]<br /> *[[新納忠秀]]<br /> *[[禰寝重張]]<br /> *[[浜田経重]]<br /> *[[林景福]]<br /> *[[肥後盛秀]]<br /> *[[比志島義基]]<br /> *[[比志島義興]]<br /> *[[比志島国貞]]<br /> *[[平田光宗]]<br /> *[[平田歳宗]]<br /> *[[平田増宗]]<br /> | valign=&quot;top&quot; |<br /> *[[平田宗次]]<br /> *[[北郷時久]]<br /> *[[北郷忠虎]]<br /> *[[本田親貞]]<br /> *[[町田久倍]]<br /> *[[町田久政]]<br /> *[[宮原景種]]<br /> *[[八木正信]]<br /> *[[八木豊信 (島津家臣)|八木豊信]]<br /> *[[山田有信]]<br /> *[[山田有栄]]<br /> *[[山田久武]]<br /> *[[義岡久延]]<br /> *[[吉田清孝]]<br /> *[[吉利忠澄]]<br /> *[[吉利忠張]]<br /> |}<br /> <br /> == 墓所 ==<br /> [[鹿児島市]]内の[[福昌寺 (鹿児島市)|福昌寺跡]]に歴代島津家当主らと共に[[宝筐印塔]]がある。他にも[[霧島市]]国分の金剛寺跡には遺体の一部(歯と伝えられる)が祀られた三重石塔&lt;ref&gt;[http://www.city-kirishima.jp/modules/page045/index.php?id=3#12 霧島市公式ホームページより]&lt;/ref&gt;、[[京都市]]の[[今熊野観音寺]]には[[平田増宗]]・[[山田有栄]]らと共に慶長5年(1600年)に建てた逆修塔がある。また、[[高野山]]にも供養塔がある。<br /> &lt;gallery&gt;<br /> File:Tomb of Shimazu Yoshihisa in Tokujian-ato.jpg|島津義久墓(霧島市国分の徳持庵跡)<br /> &lt;/gallery&gt;<br /> <br /> == 官歴 ==<br /> *[[永禄]]7年([[1564年]]):従五位下修理大夫<br /> *[[天正]]9年([[1581年]])[[5月3日_(旧暦)|5月3日]]:従四位下<br /> *[[大正]]4年([[1915年]])[[11月10日]]:[[贈位|贈]][[従三位]]<br /> <br /> == 脚注 ==<br /> {{脚注ヘルプ}}<br /> === 注釈 ===<br /> &lt;references group=&quot;注釈&quot; /&gt;<br /> === 出典 ===<br /> {{Reflist|2}}<br /> <br /> == 参考文献 ==<br /> * {{Citation|和書|last=三木|first=靖|authorlink=三木靖|title=薩摩島津氏|series=戦国史叢書10|date=1972|publisher=新人物往来社}}<br /> * {{Citation|和書|last=福島|first=金治|authorlink=福島金治|title=戦国大名島津氏の領国形成|date=1988|publisher=[[吉川弘文館]]}}<br /> * {{Citation|和書|last=吉永|first=正春|title=九州戦国合戦記|date=1994|publisher=[[海鳥社]]}}<br /> * {{Citation|和書|last=村川|first=浩平|authorlink=村川浩平|title=日本近世武家政権論|date=2000|publisher=近代文芸社}}<br /> * {{Citation|和書|author=|title=裂帛島津戦記―決死不退の薩摩魂|date=2010|series=歴史群像シリーズ 戦国セレクション|publisher=[[学研ホールディングス|学研]]}}<br /> * {{Cite journal|和書|author=黒嶋敏|authorlink=黒嶋敏|title=織田信長と島津義久|date=2010|journal=日本歴史|issue=741号|ref={{SfnRef|黒嶋|2010}}}}<br /> * {{Cite journal|和書|author=黒嶋敏|title=島津義久 熱く、冷めた信長へのまなざし|date=2011|journal=歴史読本|volume=56巻|issue=7号|ref={{SfnRef|黒嶋|2011}}}}<br /> <br /> == 関連項目 ==<br /> {{commonscat|Shimazu Yoshihisa}}<br /> *[[上井覚兼日記]]<br /> *[[泰平寺 (薩摩川内市)]]<br /> *[[大乗院 (鹿児島市)]]<br /> *[[小林城]]<br /> *[[高原城]]<br /> <br /> == 島津義久を主題とした作品 ==<br /> * [[桐野作人]]『島津義久 九州全土を席巻した智将』([[PHP研究所|PHP文庫]])<br /> <br /> {{島津氏歴代当主||第16代|1566年 - 1587年}}<br /> <br /> {{デフォルトソート:しまつ よしひさ}}<br /> [[Category:奥州島津氏|よしひさ]]<br /> [[category:守護大名]]<br /> [[category:戦国大名]]<br /> [[Category:薩摩国の人物]]<br /> [[Category:薩摩藩の人物]]<br /> [[Category:1533年生]]<br /> [[Category:1611年没]]</div> 2404:7A86:7E80:3400:9186:4941:2560:26D1
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