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http:///mymemo.xyz/wiki/api.php?action=feedcontributions&user=2400%3A7800%3A4975%3A9200%3AF510%3A2F62%3AE709%3A419D&feedformat=atom miniwiki - 利用者の投稿記録 [ja] 2024-05-08T09:58:37Z 利用者の投稿記録 MediaWiki 1.31.0 ボルステッド法 2018-08-11T08:48:28Z <p>2400:7800:4975:9200:F510:2F62:E709:419D: </p> <hr /> <div>&#039;&#039;&#039;ボルステッド法&#039;&#039;&#039;({{lang-en|Volstead Act}})正式には&#039;&#039;&#039;National Prohibition Act&#039;&#039;&#039;(国家禁酒法)は、[[アメリカ合衆国]]内で禁酒法に関して規定した連邦法。下院司法委員長アンドリュー・ボルステッドにちなんで名付けられた。しかしボルステッドが仕事をしたのは法律の立案よりもむしろ、スポンサーや援助者としてであった。法案を考えて、牽引したのは反酒場連盟のウェイン・ホイーラーであった。<br /> <br /> == 手続き ==<br /> 法案は[[ウッドロウ・ウィルソン]][[アメリカ合衆国大統領|大統領]]によって[[拒否権|拒否]]されたが、1919年10月28日に議会によって覆された。法は「この法によって許可される場合を除いて誰も少しでも酔わせる酒を製造しない、売らない、物々交換しない、輸送しない、輸入しない、輸出しない、届けない、提供しない」ことを示した。それは特に酒に酔うことを禁止しなかった。つまり摂取することはお咎め無しだった。法は酔わせる酒を0.5%以上のアルコールを含有しているどんな飲料であってもと定義して、既に同様な法律があった州でも、全ての既存の禁酒法に取って代わった。[[アメリカ合衆国憲法修正第18条]]との組み合わせと、その当局の下で可決される法律は単に「禁酒法」として知られるようになって、1920年代(一般に[[狂騒の20年代]]として知られる)に非常に米国に影響を及ぼした。<br /> <br /> == 影響 ==<br /> 禁酒法の影響は当初はほとんど予期されていなかった。製品、輸入と[[アルコール飲料]]の流通 ― 合法的な企業のかつての仕事の範囲 ― は犯罪の[[ギャング]]によって支配された。そして、彼らの大半は殺人を伴う暴力による対立を伴って互いに市場の支配権を得るために争った。<br /> <br /> 主要なギャング、例えば[[オマハ (ネブラスカ州)|オマハ]]の[[トム・デニス]]と[[シカゴ]]の[[アル・カポネ]]は大もうけして、地元で、そして全米で賞賛された。ギャングが低賃金でかつ人員不足の執行職員に[[贈賄]]して、高額な弁護費用を支払うことが出来るほど裕福になったので、法律の施行は難しかった。多くの市民は、密売者に同情的だった。<br /> <br /> そして、立派だった市民が「目が見えないブタ」と呼ばれる、不法なもぐり酒場の誘惑に吸い込まれていった。より高い社会経済グループの間で、カクテルパーティが人気となり、1920年代の社会は一層、緩みだした。当局に協力する者は、しばしば脅迫され、時には殺害されたりもした。<br /> <br /> いくつかの主要な都市、シカゴと[[デトロイト]]を含む酒輸入の主要な場所では、密輸入ギャングは、かなりの政治的影響力を持った。[[ミシガン州]][[警察]]が、デトロイトのドイツ・ハウスを急襲した際には、市長、保安官と地方議員等が一網打尽に逮捕された。<br /> <br /> ボルステッド法の第29節では、家庭で「酔わない[[リンゴ酒]]と果物ジュース」を200[[ガロン]](75リットル)作ることが許可されている&lt;ref name=&quot;Pinney&quot;&gt;{{cite book | first=Thomas | last = Pinney | title=A History of Wine in America From Prohibition to the Present| month=July | year=2005 |isbn=978-0-520-24176-3}} p. 2. [http://www.ucpress.edu/books/pages/10206/pinney1.pdf Chapter 1]&lt;/ref&gt;。当初は酒に酔うことは0.5%以上のアルコールを含むことであると定義された&lt;ref&gt;[http://www.time.com/time/printout/0,8816,787465,00.html Fizz Water] Time 6 August 1928.&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> しかしアメリカ合衆国内国歳入庁はすぐさま、これを取り消したため、家庭でのワイン醸造は実質的に合法化された&lt;ref&gt;[http://query.nytimes.com/gst/abstract.html?res=9F02E5D91131E433A25756C2A9619C946195D6CF ALLOWS HOME BREW OVER HALF PER CENT.; Internal Revenue Ruling Applies Only to Beverages Consumed in Domiciles. MUST BE NON-INTOXICATING Beer Not Included, and Only Cider and Fruit Juices May Be Sold.] New York Times 25 July 1920.&lt;/ref&gt;&lt;ref name=&quot;Pinney&quot;/&gt;。いくつかのブドウ園は、家庭でワインを作るため、ブドウを大いに販売した。<br /> <br /> ジンファンデル・ブドウは、ブドウ園の近くで生活している家庭での醸造に一般に普及していた。しかし東海岸の市場への長旅では、薄い皮は、こすれて腐敗しやすかった&lt;ref name=&quot;Pinney26&quot;&gt;Pinney p. 26.&lt;/ref&gt;。アリカンテ・ブーシェの厚い皮は腐敗しにくいため、これと類似した品種が、家庭用ワイン醸造市場のために広く植えられた&lt;ref name=&quot;Pinney26&quot;/&gt;&lt;ref name=&quot;Johnson pg 444&quot;&gt; H. Johnson &#039;&#039;Vintage: The Story of Wine&#039;&#039; p. 444. Simon and Schuster 1989 ISBN 0671687026.&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> この法律に違反した場合、最高で2,000ドルの罰金、1か月から5年の[[禁錮]]刑に処される可能性があった&lt;ref&gt;{{Cite web|title=Volstead Act- 1920 |url=http://www.historycentral.com/documents/Volstead.html |publisher=HISTORYCENTRAL.com |accessdate=2009-9-18}}&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> またこの時、[[カナダ]]から[[マフィア]]を通じて、酒を密輸入し大きな財産を築いた[[ジョセフ・P・ケネディ]]([[ジョン・F・ケネディ]]の父)の話は有名であり、一種の語り草になっている。<br /> <br /> == 廃止 ==<br /> アルコールが社会的な認知を受け、法の軽視や犯罪組織の跋扈といった禁酒法の悪影響が明らかになったため、禁酒法は擁護者を失った。1933年までに禁酒法への大衆の反対は圧倒的になった。同年1月、最初のボルステッド法が0.5%以上のアルコールを制限対象にしていたのに対し、議会はカレン=ハリソン法(重量で3.2%、容積で4%まで合法化)で反対を先取りしようとした。しかし、カレン=ハリソン法は不十分だった。<br /> <br /> 議会は1933年2月に禁酒法を廃止する修正案(ブレーン法)を提出した。そして1933年12月5日にユタ州が修正案を批准する36番目の州になった時、[[アメリカ合衆国憲法修正第21条|憲法修正第21条]]は発効した。これは、修正18条を廃止し、ボルステッド法を憲法違反とし、1935年の連邦アルコール管理局の設立までアルコールの管理を州に戻すものだった。<br /> <br /> 1968年、銃器規制法の可決で連邦アルコール管理局は[[アルコール・タバコ・火器及び爆発物取締局]]となってイニシャルATFとして知られるようになった。1972年に[[リチャード・ニクソン]]大統領はATFを創設する[[大統領令]]に署名した。レックス・D・デイビスは移行を監督した。そして、局の最初の責任者となった。そして1970年以降部門を率いた。彼の在任期間中、デイビスは政治的な[[テロリスト]]と[[犯罪組織]]を目標としている働きで組織を導いた&lt;ref name=Holley2008&gt;<br /> {{cite news<br /> |title=Rex Davis, 83; ATF Ex-Chief, Moonshiners&#039; Foe<br /> |first=Joe |last=Holley |authorlink=<br /> |curly= |author= |author2= |author3= |author4= |author5= |author6= |author7= <br /> |url=http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2008/01/10/AR2008011003831.html<br /> |format= |agency= |work=[[ワシントンポスト|Washington Post]] |date=January 11, 2008 |page=B07 |accessdate=2009-05-04<br /> |publisher= |location= |isbn= |issn= |oclc= |pmid= |pmd= |bibcode= |doi= |id= <br /> |language = |archiveurl= |archivedate= |quote=}}<br /> &lt;/ref&gt;&lt;!-- &lt;ref&gt;[http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2008/01/10/AR2008011003831.html?nav=hcmodule Rex Davis, 83; ATF Ex-Chief, Moonshiner&#039;s Foe, Washington Post, 11 January 2008]&lt;/ref&gt; --&gt;。しかし、課税と他のアルコール問題は、その時間、重要性が高度に認識されることはなかった。<br /> <br /> == 脚注 ==<br /> {{Reflist}}<br /> <br /> == 関連項目 ==<br /> * [[アメリカ合衆国憲法修正第18条]]<br /> * [[アメリカ合衆国における禁酒法]]<br /> * [[アルコール・タバコ・火器及び爆発物取締局]]<br /> <br /> {{DEFAULTSORT:ほるすてつとほう}}<br /> [[Category:禁酒]]<br /> [[Category:酒類関連法規]]<br /> [[Category:アメリカ合衆国の警察]]<br /> [[Category:アメリカ合衆国の政治史 (1918年-1945年)]]<br /> [[Category:アメリカ合衆国の政治史 (1945年-1989年)]]</div> 2400:7800:4975:9200:F510:2F62:E709:419D アル・カポネ 2018-08-11T08:44:21Z <p>2400:7800:4975:9200:F510:2F62:E709:419D: </p> <hr /> <div>{{Infobox 犯罪者<br /> |名前=アル・カポネ&lt;br /&gt;{{lang|en|Al Capone}}<br /> |画像=Al Capone-around 1935.jpg<br /> |画像サイズ=200px<br /> |画像説明=アル・カポネ(1935年)<br /> |出生名={{lang|en|Alphonse Gabriel Capone}}&lt;br /&gt;アルフォンス・ガブリエル・カポネ<br /> |生年月日={{birth date|1899|1|17}}<br /> |出生地={{USA1896}}、[[ニューヨーク州]][[ニューヨーク]][[ブルックリン区]]<br /> |没年月日={{death date and age|1947|1|25|1899|1|17|df=y}}<br /> |死没地={{USA1912}}、[[フロリダ州]][[マイアミビーチ]]パームアイランド島<br /> |死因=脳卒中に伴う肺炎<br /> |国籍={{USA1912}}<br /> |別名=[[スカーフェイス]]&lt;br /&gt;暗黒街の顔役<br /> |動機=<br /> |罪名=脱税<br /> |有罪判決=有罪<br /> |刑罰=懲役<br /> |現況=<br /> |職業=[[ギャング]]&lt;br /&gt;家具販売業者(自称)<br /> |配偶者=[[メアリー・ジョゼフィン・カフリン]]<br /> |両親=父:ガブリエーレ・カポネ&lt;br&gt;母:テレサ・ライオーラ<br /> |子=[[アルバート・フランシス・カポネ]]<br /> |署名=Al Capone Signature.svg<br /> }}<br /> &#039;&#039;&#039;アル・カポネ&#039;&#039;&#039;({{lang-en|Al Capone}}、[[1899年]][[1月17日]] - [[1947年]][[1月25日]])は、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の[[ギャング]]。「カポネ」は[[イタリア語]]の発音であり、英語の発音では「カポーン」が近い。<br /> <br /> [[アメリカ合衆国における禁酒法|禁酒法]]時代に、[[シカゴ]]で高級ホテルを住まい兼事務所にしてそこから組織を指揮し、密造酒製造・販売、売春業、賭博業をして組織を拡大し、[[犯罪組織]]を統合近代化していったことで知られている。<br /> <br /> [[身長]]は179cmで、当時としては大柄であった。顔に傷があったことで「スカーフェイス」というニックネームがあった。しかし、本人はこの呼び名を嫌っていたため、本人の前で呼ぶ者はいなかった。<br /> <br /> 家族は妻の[[メアリー・ジョゼフィン・カフリン|メエ]]と息子の[[アルバート・フランシス・カポネ|ソニー]]。<br /> <br /> == 生涯 ==<br /> [[ファイル:Al Capone mother.jpg|thumb|right|150px|アルと母テレサ]]<br /> [[1899年]]、[[ニューヨーク]]の[[ブルックリン区]]に[[イタリア王国|イタリア]]の[[カンパニア州]][[サレルノ県]][[アングリ]]出身の[[イタリア系アメリカ人]]の家に九人兄弟の四男として生まれる。父のガブリエーレは[[理髪師]]であり、母のテレサは[[裁縫]]婦であった。<br /> <br /> 少年時代のアルは6年生まで成績も良かったが、その後は学校をサボるようになる。7年生に進級する頃、担任の女教師に注意され、殴り合いの喧嘩となって2度と学校には行かなかったという。この頃のアルは遊び好きで、洒落た服を着て外出しはしゃいだりした。また、ビリヤードの名手で町のチャンピオンであったという。幼友達だったエドワード・ディーン・サリヴァンによれば、アルは無邪気な少年で、酒は一滴も飲まなかったが、「アドニス社交クラブ」という暴力の巣窟のような店に出入りしていたという。ここでアルは銃の扱いかたを覚え、イタリアン・マフィアの幹部[[ジョニー・トーリオ]]&lt;ref&gt;http://www.britannica.com/biography/Johnny-Torrio&lt;/ref&gt;とも出会う。<br /> <br /> === 犯罪の世界へ ===<br /> まだ駆け出しの頃、トーリオの紹介で[[フランキー・イェール]]と出会う。アルはイェールに気に入られ、彼の店「ハーヴァード・イン」で皿洗いから給仕、バーテンダーから用心棒までなんでもこなした。そして、イェールに認められて本格的に暗黒街に入る。[[シチリア]]出身ではなかったためマフィア本流には加われなかった。<br /> <br /> 1920年(1919年や1921年とする説もある)にトーリオに呼ばれてシカゴへ行く。この頃アルは、[[ホワイト・ハンド]]を痛めつけたため、ボスのワイルド・ビル・ロベットから狙われていた。他にも2件の殺人事件に関与し、起訴されそうでもあった。そのためシカゴ行きはちょうど良かった。シカゴへ行くとき友人の[[ラッキー・ルチアーノ]]から2万ドルの餞別をもらったという。ルチアーノは後年「カポネのやつ感極まって、今にも泣きそうな顔だったよ」と語っている。<br /> <br /> シカゴでは、最初[[ジム・コロシモ]]の売春宿で[[ポン引き]]などをしていた。この下積み時代に不正事業を組織化して反対派と和解するトーリオの手法を見習ったという。<br /> <br /> 1年とたたないうちにトーリオの犯罪帝国で出世し、賭博場兼売春宿の支配人にもなり、雇われ人ではなくパートナーになると、客引きなどする必要はなくなった。この頃すでに2万5千ドル近い年収を稼ぐ実業家になっていたという。さらにシカゴに自分名義で家を購入しブルックリンから家族を呼んだ。妻子だけではなく母や兄弟たちも呼んだ。<br /> <br /> その後、ウィリアム・E・ディヴヴァーがシカゴ市長になると政治改革が続くと考え、事業の本部をシセロへ移した。<br /> <br /> [[ダイオン・オバニオン]]を暗殺した頃から、自分も暗殺されるのではないかという恐怖から警備が厳重になった。どこに行くにも両脇に2人のボディーガードを連れて行き、外出には必ず車を使った。この時期、自宅以外1人でいることは無かったという。<br /> <br /> [[1925年]][[1月12日]]、“ハイミー”ワイスと“スキーマー”ドルッチと[[ジョージ・モラン]]は最初のカポネ暗殺を企て、アルの車に[[トンプソン・サブマシンガン|トミーガン]]で攻撃した。ボンネットが引き裂かれ、エンジンが壊れるほどの威力であった。運転手は負傷したが、アルは車にいなかったため、無事だった。その後、トミー・クイリンジョーネという若い運転手が誘拐されて殺されるという事件があった。<br /> <br /> ===「暗黒街の顔役」 ===<br /> [[1925年]]、ジョニー・トーリオが敵に襲われて引退するとアルは縄張りを譲られ、26歳にして組織のトップに立った。”酒の密売”でのし上がっていくが、その過程で次々と敵を抹殺していった。さらに[[ウィリアム・ヘイル・トンプソン|“ビッグ・ビル”・トンプソン]]をはじめ、市議会議員、警察などの官憲を買収して勢力の拡大と安泰化を図った。1920年代のアル・カポネは、実質的に市長ともいえる存在となっていた。1927年頃にはシカゴで有名人となり、1929年にカポネ一家の年間の収益は6200万ドル(現在の貨幣価値に換算すると8億3千万ドル)にもなった。カポネはジャズの大ファンであり、秘密の酒場や会員制クラブで、黒人ジャズ・ミュージシャンに演奏させたりもした。有名なジャズ・ミュージシャンを拉致して、演奏させたこともあった。<br /> <br /> 部下の[[ジャック・マクガーン]]が「ジョージ・“バグズ”・モラン一味を抹殺すべきだ」と言ったとき、アルにとってもモランは商売敵で自分の命を脅かす存在だったため、それに同意し、彼に1万ドルと暗殺にかかる諸経費を支払う約束をした。そして[[1929年]][[2月14日]]、[[聖バレンタインデーの虐殺]]は実行された。この事件は全米のマスコミに大きく取り上げられた。虐殺が行なわれた当時、アルはマイアミ・ビーチに滞在していた。警察はアルを疑い電話の記録を調べたが、事件の前後数日間はシカゴからの記録もなかった。<br /> <br /> [[1929年]][[5月]]にアトランティック・シティで行なわれた暗黒街の会議の後、拳銃の不法所持で自作自演で逮捕される。その理由は、聖バレンタインデーの虐殺でカポネの行動が目立ちすぎているので、世間の非難の目をそらすという意味だった。このことも会議の議題の一つになっていた。刑期は[[5月17日]]から[[1930年]][[3月17日]]の10ヶ月間。刑務所内では言うまでもなくVIP待遇だった。一部資料によると莫大な利益を上げているカポネと、ニューヨークやその他のギャングの仲が悪くなり、カポネが身の危険を感じたためだという話もある。<br /> <br /> [[1930年]]の暮れ、逮捕を逃れるため、アルはシカゴのサウス・ステート・ストリート935番地の店で貧しい人たちに1日に3度、無料給食を提供した。このことは新聞などでも報じられ、国民が感心した出来事だった。無料給食を運営するのは1ヶ月に1万ドル経費が掛かる、とアルは言っていた。しかし、実際には経費のほとんどはアル・カポネ自身が負担したのではなく、地元のパン屋、生肉業者、コーヒー豆屋などに寄付させたもので、彼らはアルの言いなり状態だったという。<br /> <br /> === アメリカ合衆国対アルフォンス・カポネ ===<br /> [[ハーバート・フーヴァー|フーヴァー]]政権下、[[アメリカ合衆国財務長官|財務長官]][[アンドリュー・メロン]]の号令のもと、[[所得税]]の[[脱税]]と、[[ボルステッド法]]違反の両面からカポネに対する追及が進められた。特に後者で密造酒関係の調査を行なった[[エリオット・ネス]]のチームは「アンタッチャブル」と呼ばれ世間の耳目を集めたが、最終的に脱税を主としてカポネは告発された。<br /> <br /> [[1931年]][[10月7日]]、アル・カポネの脱税裁判が始まった。裁判ではかつてカポネ帝国の会計係だったフレッド・リースが証言台に立ち賭博場のことなどを証言した。アルは合計11年の懲役、罰金8万ドルの有罪判決を受けた。刑を宣告されたとき、自分が予想していたよりも過酷な宣告だったため、微笑は苦いもので今にも怒りが爆発しそうだったという。<br /> <br /> アルは裁判が始まる前に、陪審員候補者のリストを入手して1人千ドルで買収した。しかし、このことはアルの一味だった[[エドワード・J・オヘア]]が事前に密告したため、開廷するや陪審員を入れ替えられてしまい、目論見が外れた。アル・カポネは事前に陪審員を買収したということもあって、彼の弁護士は裁判での弁護を怠っていたといわれている。1990年代に行なった模擬裁判でアル・カポネは無罪だったという。<br /> <br /> === 刑務所での生活 ===<br /> [[1931年]][[10月24日]]、アルはクック郡刑務所に入る。この刑務所でアルは所長と職員を買収し、レキシントン・ホテルに住んでいたころと変わらない豪華な生活をしており、そこから以前と同じように組織を動かしていた。所長がアルの機嫌をとっていたという。しかし[[1932年]][[5月2日]]、アルにとって最後の望みであった再審請求は最高裁から退けられた。この時、アルはかなり失望したという。<br /> <br /> 1932年[[5月3日]]の午後、アルは家族に別れを告げ、列車でアトランタへ向かった。このとき、刑務所へ向かうアルを見ようと来た[[エリオット・ネス]]がおり、アルとネスは少し話をしたという。アルとネスが会ったのはこの時が最後である。<br /> <br /> アルがアトランタ刑務所に入ったころ、新聞にはアル・カポネが刑務所を牛耳っていると書かれていたが、実際には逆で、アルが他の囚人の標的になっており、「酒と女はどこにある?デブ」などと罵倒されたりもした。しかし、刑務所内では娑婆にいた頃、アルに世話になった者もいて、そういった連中はアルの味方になった。<br /> <br /> ここでのアルの仕事は靴工場で靴の修理だった。毎日8時間電動ミシンで靴底を縫い合わせていたという。<br /> <br /> === アルカトラズ刑務所 ===<br /> [[ファイル:Acaponeh.jpg|thumb|200px|アルカトラズ刑務所のカポネ]]<br /> 1932年8月22日に[[アルカトラズ刑務所]]に到着。通常囚人は列車から船に乗り換えて刑務所に移送されるが、カポネの逃亡及び奪還を恐れた当局は客車から彼を降車させず、客車を[[はしけ]]に乗せて直接刑務所まで船でけん引して移送した。囚人番号は#Az-85号になる。<br /> <br /> 刑務所の中では風呂場の掃除係として従順に刑に服しており、他の囚人からは「wop with the mop(「モップを持ったイタリア野郎」の意。wop([[ウォップ]])はイタリア系に対する[[蔑称]])と呼ばれていた。刑務所所内での態度は良好で、週末には囚人仲間と[[バンジョー]]を演奏して楽しんでいたという。しかし、次第に若年時に感染した[[梅毒]]が悪化し始める。<br /> <br /> [[1936年]]に囚人によるストライキがあったがアルは参加しなかった。このことで他の囚人から妻と子を殺してやるなどの脅しを受けた。すると、アルは独房で毛布を頭からかぶり泣いていたという。この子供じみた行動も梅毒による痴呆症状だが、看守や囚人たちはそれと知らないので、長い刑務所暮らしで頭がおかしくなったのだろうと思っていた。<br /> <br /> 1936年[[6月23日]]にはジミー・ルーカスという囚人に刃物で刺されるという事件があった。原因はルーカスがアルから金をゆすろうとしたが断ったのと、ストに参加しなかったこと。ルーカスはその後、6ヶ月間の隔離棟での生活で狂人になったという。<br /> <br /> その後、アルの梅毒はますます悪化し、心身は衰弱していった。[[1938年]]の検査で初めて梅毒が発覚し、刑務所の医師は症状の改善を期待して[[梅毒#.E3.81.8B.E3.81.A4.E3.81.A6.E3.81.AE.E7.99.82.E6.B3.95|マラリアを接種]]したが、ほとんど効果はなかった。<br /> <br /> [[1939年]]1月に[[ロサンゼルス]]近くの連邦矯正施設に移送され、そこで残りの刑期の1年近くを過ごす。<br /> <br /> 同年[[10月25日]]、[[連邦捜査局|FBI]]捜査官のD・W・マジーがアルを面会した。彼はこの時の面会について、アルは現実と妄想の区別が付かず、理性を失っていたと感じたという。<br /> <br /> 同年[[11月16日]]、アルは釈放された。このときのアルはクック郡刑務所に入るときの身なりがよく自信に満ちあふれた人物とは別人であったという。<br /> <br /> === 出所後 ===<br /> 出所後、アルは[[ボルチモア]]のユニオン記念病院で、[[梅毒]]の治療を受けることになる。4ヶ月の治療の後、アルと家族は[[フロリダ]]のパームアイランド島にある家で生活する。この頃、アルの家には暗黒街の人間が訪れてきて、アルと[[雑談]]をしたり、他の兄弟と商談をしたという。<br /> <br /> [[1945年]]、アルは梅毒治療として、民間人で初めて[[ペニシリン]]を投与されたが、病気が進行しすぎていたため、効果はなかった。<br /> <br /> [[1947年]][[1月25日]][[土曜日]]の[[東部標準時]][[午前]]7時25分、アルは[[脳卒中]]に伴う[[肺炎]]により[[死亡]]した。出所してから死亡するまで、かつて牛耳ったシカゴへは戻ることはなかった。アルは土曜日に死亡したので、各紙の[[日曜日]]版には大きく報じられた。[[ニューヨーク・タイムズ]]はこのことを「悪夢の終わり」と伝えた。<br /> <br /> [[1947年]][[2月4日]]に行われた葬儀の会葬者の中には、かつて「アルの側近」だった[[ジェイク・グージック]]や、後に「シカゴの大物ボス」になる[[マレー・ハンフリーズ]]の姿もあった。<br /> <br /> === 死後 ===<br /> アルが死んだのち、シカゴ暗黒街のボスは、フランク・ニティ、[[ポール・リッカ]]、[[トニー・アッカルド]]、[[サム・ジアンカーナ]]、{{仮リンク|サム・バッタグリア|en|Sam Battaglia}}と引き継がれていく。<br /> <br /> == スカーフェイス事件 ==<br /> ハーヴァード・インで働いて1年ほどたったある夜、店にいた若い女性客にひわいな言葉を言った。すると、女性客の兄のフランク・ガルチョが妹を侮辱された事に怒ってアルを1発殴り、更にナイフで左頬と首筋を切りつけ、店から逃走した。このとき顔に傷がついたことで「スカーフェイス(向こう傷)」という異名がついた。この後、アルはガルチョを探し復讐しようとしていた。そのため、ガルチョは知り合いを通じて、サルヴァトーレ・ルカーニア(後の[[ラッキー・ルチアーノ]])にこの事件を話した。このことでアル、ルカニーア、ガルチョ、そしてイェールで正式な話し合いをした。その結果、ガルチョの妹を侮辱したアルがガルチョに謝罪することになった(資料によってはルチアーノではなくジュゼッペ・マッセリアとするものもある)。<br /> <br /> 後年、権力を持ったアルは報復する事はせず、そればかりか彼を週給100ドルで使い走りに雇ったという。<br /> <br /> == シセロ・トリビューン紙 ==<br /> 1920年代に[[ロバート・セント・ジョン]]というジャーナリストはシセロ・トリビューンという新聞でカポネ一味の悪影響を糾弾し、暴露していた。そのため、[[ラルフ・カポネ]]が部下を使いセント・ジョンを暴行した。アルはそのことを謝り、金で解決しようとした。しかし、セント・ジョンは金を受け取らなかった。そのため、アルは新聞社の出資者に圧力をかけ、新聞社の権利を買い取ることにした。その後、セント・ジョンは新聞社を去った。<br /> <br /> == マクスウィギン事件 ==<br /> [[1926年]][[4月27日]]、カポネ組の構成員が、敵のオドンネル兄弟と間違えてウィリアム・H・マクスウィギンという若い検事を殺害してしまった。そのため、アル・カポネは指名手配された。300人の刑事が3ヶ月捜査しても見つからなかったので、アル・カポネは[[カナダ]]か[[イタリア]]へ逃亡したのではないかという噂が流れた。実際には[[ミシガン州]][[ランシング (ミシガン州)|ランシング]]に身を隠し、友人のアンジェロ・マストロピエトロの協力を得て、安楽な逃亡生活をおくっていた。<br /> <br /> ランシングでは暴力や殺人はなかったが、それでも警戒して[[ジャック・マクガーン]]と[[フランク・ニティ]]の2人の部下を呼んだ。アルはランシング郊外のラウンド・レイクの湖の周辺を散歩したり、ひと泳ぎしたり、ときには湖に遊びに来た子供たちの相手をした。ランシングに住むイタリア系の人々はアルの潜伏に手を貸していた。この頃ランシングの人たちはブラック・ハンドの残党やパープル・ギャングの犠牲になっていた。アルはそういった連中に「ランシングの人たちに手を出すなら、このアル・カポネが相手になる」と言うと、彼らは手を引いたという。貧しい家庭には生活費や学費を出したり、子供たちを連れてアイスクリームを買いにいったり、こうしてアルはこの街で人気者になった。<br /> <br /> 3ヶ月間ランシングで過ごした後、シカゴへもどる。1926年7月29日、シカゴ刑事裁判所に出頭する。警察などが事件を調べていくうちにマクスウィギン殺人事件は起るべくして起った事故ということになった。なぜなら、マクスウィギンはアイルランド系のギャングスターと付き合いがあり、禁酒法に違反してもぐり酒場にも頻繁に出入りし、とても検事とは思えない行動をとっていたためである。アルに対しても、3ヶ月間行方をくらましている間に市民の怒りはおさまっており、捜査でも事件について法的に立証できず、アルは自由の身になった。<br /> <br /> == 恩師イェール暗殺 ==<br /> 1928年、この頃フランキー・イェールとの闇酒取引はうまくいっていなかった。イェールは酒を運ぶトラックのハイジャックが増え続けていると言っていた。このことについてアルはイェール本人を疑っていた。この輸送ルートはカポネ組の大きな収入源(この頃アルの年収は推定で1億ドルを超えていた)の一つだった。詳しく知るために友人のジェームズ・デ・アマートをブルックリンに送りイェールの監視を頼むが、アマートはやがて殺された。そしてイェールの闇酒取引の不正が疑いから確信に変わり、[[ジェイク・グージック]]らと暗殺を計画する。マクガーン、アルバート・アンセルミ、ジョン・スカリーゼ、フレッド<キラー>バーグの部下を使い、1928年7月1日に暗殺を実行する。その年の夏の終わりに、イェール暗殺の仕返しと思われる事件があった。アルの友人でウニオーネ・シチリオーネの会長のアントニオ・ロンバルドが暗殺され、そのあとを継いだパスカリーノ・ロロルドも暗殺された。<br /> <br /> == ニューヨーク・マフィアとの関係 ==<br /> ニューヨークで[[カステランマレーゼ戦争]]([[1929年]] - [[1931年]])と呼ばれる[[サルヴァトーレ・マランツァーノ]]([[1886年]] - [[1931年]])と[[ジョー・マッセリア]]([[1879年]] - [[1931年]])の間でイタリア系[[マフィア]]の覇権争いが行なわれていた1931年、アル・カポネは最初マッセリア側に軍資金を送ったが、マランツァーノ側から早まったマネはしない方が良いと言われ、それ以上のことはしなかった。4月にマッセリアが暗殺されて抗争が終わり、5月にシカゴでギャングの集まりがあった時に、マランツァーノはアルのことをシカゴ・ファミリーのボスとして認め、アルを讃える演説をした。このときアルは、マランツァーノにダイヤをちりばめた腕時計を贈った。マランツァーノに同行して来た[[ジョゼフ・ボナンノ]]はこのときのことを「カポネは最高のホストだった」と絶賛している。マランツァーノはニューヨークのマフィアを5つのグループに分割し[[五大ファミリー]]を統括するボスとなったが、9月にマッセリアと協定を結んでいた[[コーサ・ノストラ]]の[[ラッキー・ルチアーノ]]に暗殺され、ニューヨーク・マフィアはラッキー・ルチアーノの傘下となった。さらにルチアーノは[[コミッション]]の元に[[:en:Philadelphia crime family]]・[[:en:Buffalo crime family]]・[[:en:Los Angeles crime family]]・[[シカゴ・アウトフィット]]を置く現在に続く組織を固め、後に[[:en:Detroit Partnership]]・[[:en:Kansas City crime family]]が加わった。ラッキー・ルチアーノも前述のシカゴ会合に出席している。<br /> <br /> == 人物像 ==<br /> 若い頃のアルは家族思いで、チンピラ時代に3〜10ドルの金を稼ぐと、その金を家に持ちかえり母親に渡すような少年だった。成長するに従いファイヴ・ポインツ・ジュニアなど色々なギャングに入ったりもしたが堅気の仕事もしており、製本工場やボーリング場で働いていた。<br /> <br /> メエとの出会いは19歳のときである。[[1918年]][[12月4日]]に息子のソニーが生まれ、[[12月30日]]に結婚式が行われた。実際のアルは、結婚してから[[フランキー・イェール|イェール]](ニューヨークのギャング、後出)の下で働くのを一時期やめて、[[ボルチモア]]へ行き、建設会社に簿記係(この時代のギャングで簿記が出来たのはカポネぐらいであろう)として就職した。毎日スーツにネクタイのまじめな服装で経営者のピーター・アイエロの事務所へ出勤した。近所の住民によるとアルは頭の良い好人物であったという。しかし、父ガブリエーレが死んだ1920年ごろにジョニー・トーリオとイェールとの付き合いを再開した。1920年、アイエロに退職を申し出た。餞別としてアイエロはアルに500ドル貸し、アルはこの恩義を決して忘れなかった。後年にピーター・アイエロが技術大会でシカゴに来たとき、大物になったアルは彼を歓迎する宴会を開き、[[シセロ]]ではパレードを行なった。<br /> <br /> 酒の密売については、「俺は人々が望むものを与えてきた。なのに俺に返ってくるのは悪口だけだ」と言っていた。<br /> <br /> その陽気な性格からマスコミにも取り上げられることが多く、自らも生活貧窮者に対する食事の無料給付の慈善事業を行うなど大衆の支持獲得に腐心した。<br /> <br /> ボクシング世界チャンピオンの[[ジャック・デンプシー]]とは友人だった時期もあり、試合前には花束を贈ったりもした。デンプシーもアルのことを「最高のファンの一人」と言っていた。<br /> <br /> 彼は世の中について「他人が汗水たらして稼いだ金を価値のない株に変える悪徳銀行家は、家族を養うために盗みを働く気の毒な奴より、よっぽど刑務所行きの資格がある。この稼業に入るまでは悪徳政治家など世の中には高価な服を着て偉そうな話し方をする悪党がこんなに多いとは知らなかった」とコーネリアス・ヴァンダービルトのインタビューで答えている。<br /> <br /> == 大衆文化への影響 ==<br /> === 映画・テレビ ===<br /> アル・カポネをモデルにした映画やテレビドラマは数多く作られ、今も歴史上最も有名なギャングとして語り伝えられている。[[エドワード・G・ロビンソン]]主演の『{{仮リンク|犯罪王リコ|en|Little Caesar (film)}}』はアル・カポネをモデルにした映画であり、[[ポール・ムニ]]主演の『[[暗黒街の顔役 (1932年の映画)|暗黒街の顔役]]』も同様で、[[アル・パチーノ]]主演の『[[スカーフェイス (映画)|スカーフェイス]]』はそのリメイク版。<br /> <br /> 1957年に[[酒類取締局]](現[[アルコール・タバコ・火器及び爆発物取締局]])捜査官[[エリオット・ネス]]の活躍を描いて発行された『The Untouchables』は、1950年代後半に『[[アンタッチャブル (テレビドラマ)|アンタッチャブル]]』としてTVドラマ化され人気を博したが、内容のほとんどはドラマシリーズ用のフィクションである。描かれているネスやカポネの人物像には、現実との乖離が指摘されている{{誰|date=2010年2月}}。<br /> <br /> なお、『The Untouchables』の映像化作品には、1950年代後半〜1960年代初頭にかけて放送された残党を逮捕する上記テレビドラマ版の他に、テレビ放送に先駆けて公開されたカポネ逮捕劇の映画『[[アンタッチャブル (テレビドラマ)|ザ・アンタッチャブル どてっ腹に穴をあけろ]]』、1987年に製作・公開されて大ヒットしたリメイク映画版『[[アンタッチャブル (映画)|アンタッチャブル]]』([[ブライアン・デ・パルマ]]監督作品。主演:[[ケビン・コスナー]]。カポネ役:[[ロバート・デニーロ]])、1990年代にテレビドラマ化されたリメイクテレビドラマ版『{{仮リンク|新アンタッチャブル|en|The Untouchables (1993 TV series)}}』がある。<br /> <br /> === 舞台 ===<br /> 2015年、[[宝塚歌劇団]][[雪組]]公演のミュージカル『アル・カポネ - スカーフェイスに秘められた真実 -』が[[梅田芸術劇場#シアタードラマシティ|シアタードラマシティ]]と[[赤坂ACTシアター]]で上演。作・演出は[[原田諒]]、主演は[[望海風斗]]&lt;ref&gt;{{cite web|url=http://kageki.hankyu.co.jp/news/detail/47b44cdcfd95a728d1dca4f3f4b1431a.html|title=2015年 公演ラインアップ【シアター・ドラマシティ、東京特別】<5月~6月・雪組『アル・カポネ ―スカーフェイスに秘められた真実―』>|publisher=[[宝塚歌劇団]]|date=2014-11-20|accessdate=2014-11-20}}&lt;/ref&gt;。第23回[[読売演劇大賞]]の作品賞・上半期ベスト5に選ばれた&lt;ref&gt;{{cite web|url=http://www.theaterguide.co.jp/theater_news/2015/07/28.php|title=「第23回読売演劇大賞」上半期ベスト5が発表に|publisher=シアターガイド|date=2015-07-28|accessdate=2015-07-30}}&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> === 音楽 ===<br /> [[ジャマイカ]]の[[ディージェイ]]、[[デニス・アルカポーン]]はカポネから影響を受け、自らの芸名とした。「Guns Don&#039;t Argue」など、自らをカポネになぞらえた作品も多く発表している。イギリスのグループ、ペイパー・レースは「ザ・ナイト・シカゴ・ダイド」の歌詞の一部で、アル・カポネについても歌っている。<br /> <br /> == 参考文献 ==<br /> * 山田吐論『実録マフィア映画の世界』<br /> * [[ローレンス・バーグリーン]]『カポネ 人と時代-愛と野望のニューヨーク篇-』<br /> * ローレンス・バーグリーン『カポネ 人と時代-殺戮と絶望のシカゴ篇-』<br /> * [[ヒロ服部]]『アメリカを震撼させた男たち』<br /> * アメリカン・マフィア「完全版」DVD-BOX([[CBS]])<br /> <br /> == 関連作品 ==<br /> * ドキュメンタリー 「[[失われた世界の謎]]」シリーズ 第25回「アル・カポネの暗黒の街」([[ヒストリー・チャンネル]])<br /> <br /> == 脚注 ==<br /> {{Reflist}}<br /> <br /> == 関連項目 ==<br /> {{Commons|Al Capone}}<br /> * [[ギャング]]<br /> * [[マフィア]]<br /> * [[ラッキー・ルチアーノ]]<br /> * [[アメリカ合衆国における禁酒法]] - [[ボルステッド法]] - [[禁酒]]<br /> * [[ジョセフ・P・ケネディ]] - 禁酒法時代に密接な関係を作り、財を築いた。<br /> * [[梅毒]]<br /> <br /> {{Normdaten}}<br /> {{DEFAULTSORT:かほね ある}}<br /> [[Category:カポネ家|ある]]<br /> [[Category:ギャング]]<br /> [[Category:マフィア]]<br /> [[Category:アルカトラズ]]<br /> [[Category:イタリア系アメリカ人]]<br /> [[Category:梅毒で死亡した人物]]<br /> [[Category:ブルックリン出身の人物]]<br /> [[Category:1899年生]]<br /> [[Category:1947年没]]</div> 2400:7800:4975:9200:F510:2F62:E709:419D 健康増進法 2018-08-11T07:48:34Z <p>2400:7800:4975:9200:F510:2F62:E709:419D: /* 原則屋内禁煙の改正 */</p> <hr /> <div>{{law}}<br /> {{日本の法令|<br /> 題名=健康増進法|<br /> 通称=なし|<br /> 番号=平成14年8月2日法律第103号|<br /> 効力=現行法|<br /> 種類=医事法|<br /> 内容=健康の保持・増進|<br /> 関連=[[歯科口腔保健の推進に関する法律]]など|<br /> リンク=[http://law.e-gov.go.jp/htmldata/H14/H14HO103.html 総務省法令データ提供システム]|}}<br /> &#039;&#039;&#039;健康増進法&#039;&#039;&#039;(けんこうぞうしんほう、平成14年8月2日法律第103号)は、国民の健康維持と現代病予防を目的として制定された[[日本]]の[[法律]]。平成13年に政府が策定した[[医療制度改革]]大綱の法的基盤とし、国民が生涯にわたって自らの健康状態を自覚するとともに健康の増進に努めなければならないことを規定したものである。<br /> <br /> == 概説 ==<br /> 従来の[[栄養改善法]](廃止)に代わるもので、第5章以降は栄養改善法の条文を踏襲している。第1章から第4章までは新たに設けられたものである。健康増進法で加わった条文では、「国民は…生涯にわたって…健康の増進に努めなければならない」とするなど、健康維持を国民の義務としており、自治体や医療機関などに協力義務を課しているなどの特徴がある。<br /> <br /> 2条は、国民は生涯にわたって健康の増進に努めなければならないとする。5条は、国、地方自治体、健康保険者、医療機関などに協力義務を課す。7条は、厚生労働大臣は、国民の健康の増進のための基本的な方針を定めるとする。<br /> <br /> == 構成 ==<br /> *第1章 総則(第1条―第6条)<br /> *第2章 基本方針等(第7条―第9条)<br /> *第3章 国民健康・栄養調査等(第10条―第16条の2)<br /> *第4章 保健指導等(第17条―第19条の4)<br /> *第5章 特定給食施設等<br /> **第1節 特定給食施設における栄養管理(第20条―第24条)<br /> **第2節 受動喫煙の防止(第25条)<br /> *第6章 特別用途表示等(第26条―第33条)<br /> *第7章 雑則(第34条・第35条)<br /> *第8章 罰則(第36条―第40条)<br /> *附則<br /> <br /> == 内容 ==<br /> {{Seealso|日本の医療#健康づくり}}<br /> === 健診事業 ===<br /> 本法により、従来の[[老人保健法]]に基づく健康診断事業は廃止された。代わって、65歳以上を対象にした[[介護予防健診]]が2006年度(平成18年度)から開始され、市町村の新しい義務として、[[特定高齢者]]把握事業を行い、国の基準に該当するものに対して[[介護予防事業]]を行うことが定められた。<br /> <br /> また、65歳未満の国民に対しては、2008年度(平成20年度)から、[[特定健診]]事業が開始される予定である。ここでは、腹囲が大きく血液検査に異常値を持つ者を[[メタボリックシンドローム]]該当者ないしは予備群として選び出すことと、これらの者に[[特定保健指導]]を行うことの二点を、健康保険者に義務づけている。<br /> <br /> === 受動喫煙防止 ===<br /> 第25条では、多数の者が利用する施設の管理者に対し、[[受動喫煙]]を防止するために必要な措置を講ずるよう求めており、努力規定を制定している。この条文に違反しても、法令上なんの罰則はない。なお、厚生労働省健康局長通知により&lt;ref&gt;{{Cite web|url=http://www.mhlw.go.jp/seisakunitsuite/bunya/kenkou_iryou/kenkou/tobacco/dl/tuuchi-121029.pdf|title=受動喫煙防止対策の徹底について|format=PDF|publisher=厚生労働省|accessdate=2017-04-02}}&lt;/ref&gt;、本条の制定趣旨、対象となる施設、受動喫煙防止措置の具体的方法を明示しているが、法的強制力はない。<br /> <br /> 2017年(平成29年)には、建物内での原則禁煙などを盛り込んだ[[厚生労働省]]提出の改正案が、[[第193回国会]]に提出される筈だったが&lt;ref name=&quot;asahi20170302&quot;&gt;{{Cite news|title=飲食店は原則禁煙、違反は罰金50万円 厚労省案公表|newspaper=朝日新聞|date=2017-03-02|url=http://www.asahi.com/articles/ASK316KWQK31UBQU00P.html|accessdate=2017-04-02}}&lt;/ref&gt;&lt;ref name=&quot;sankei20170301&quot;&gt;{{Cite news|title=舞台・スタジアムは「喫煙」OK 健康増進法改正案 興行場の喫煙室認める|newspaper=産経新聞|date=2017-03-01|url=http://www.sankei.com/life/news/170301/lif1703010058-n1.html|accessdate=2017-04-02}}&lt;/ref&gt;、自民党厚生労働部会内で議論が紛糾し、[[厚生労働大臣]][[塩崎恭久]]が強硬姿勢を崩さず、閣議決定や国会審議の目処すら立たないまま&lt;ref name=&quot;nikkeibp20170321&quot;/&gt;、国会に改正案が提出される事なく、自民党内だけで議論が終了した&lt;ref name=&quot;sankei20170606&quot;/&gt;。<br /> {{see also|#原則屋内禁煙の改正原案}}<br /> <br /> === 特別用途表示、栄養表示基準 ===<br /> 第26条からは、[[特定保健用食品]](トクホ)制度を定めている。所管は[[消費者庁]]に移管された。<br /> <br /> == 原則屋内禁煙の改正 ==<br /> [[2020年]]の[[2020年夏季オリンピック|東京オリンピック]]・[[東京パラリンピック (2020年)|パラリンピック]]に向けた[[受動喫煙]]対策を推進するため、[[2017年]](平成29年)にはスナックや[[バー (酒場)|バー]]など延床面積30[[平方メートル]]以下の小規模飲食店を除く、全ての飲食店で原則禁煙とし、悪質な施設管理者に50万円以下の罰金や違反して喫煙した者に、30万円以下の[[過料]]を科すなどの内容が盛り込んだ改正案が、[[第193回国会]]に提出される筈だった&lt;ref name=&quot;asahi20170302&quot; /&gt;&lt;ref name=&quot;sankei20170301&quot; /&gt;。<br /> <br /> しかし、自民党厚生労働部会で「非現実的だ」「[[近代オリンピック|五輪]]のためなら[[東京都|東京]]だけでやれ」と反対論が噴出し、自民党の部会でも了承されず、安倍内閣での閣議決定が出来無い状態が続いたまま&lt;ref name=&quot;nikkeibp20170321&quot;&gt;{{cite news | author = 庄子育子 | url = http://business.nikkeibp.co.jp/atcl/report/15/110879/031700629/ | title = たばこ議連が反発、混迷する受動喫煙防止対策 所管の厚生労働省と神経戦 | newspaper = [[日経ビジネス]] | publisher = [[日経BP]] | date = 2017-03-21 | accessdate = 2017-06-18 }}&lt;/ref&gt;、閣議決定される事もなく、第193回国会では[[国会 (日本)|国会]]に健康増進法改正案の提出さえ出来ずに議論は終了した&lt;ref name=&quot;sankei20170606&quot;&gt;{{cite news | author = 坂井広志 | url = http://www.sankei.com/politics/news/170606/plt1706060049-n1.html | title = 受動喫煙防止法案、今国会の成立断念 自民政調と塩崎恭久厚労相の信頼崩壊 迷走重ねた調整 | newspaper = [[産経新聞]] | publisher = [[産経新聞社]] | date = 2017-06-06 | accessdate = 2017-06-18 }}&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> [[2018年]](平成30年)7月の[[第196回国会]]において、前回より緩和された原則禁止の法案が可決された。<br /> <br /> == 所管 ==<br /> 健康増進法の主務官庁は[[厚生労働省]]である。[[消費者庁]]発足後は、表示関係を同庁が所管している&lt;ref&gt;{{Cite news |url=http://mainichi.jp/life/food/news/20101201k0000m040122000c.html |title=誇大広告:健康食品、業者名公表へ 消費者庁が方針 |newspaper=毎日jp |publisher=毎日新聞社 |date=2010-12-01 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20101203043057/http://mainichi.jp/life/food/news/20101201k0000m040122000c.html |archivedate=2010-12-03}}&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;{{Cite web|url=http://www.caa.go.jp/info/nal/pdf/k_ichiran_1.pdf|title=消費者庁の主な所管法律|format=PDF|publisher=消費者庁|accessdate=2017-04-02}}&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> == 関連項目 ==<br /> *[[日本の健康]] / [[日本の医療]]<br /> *[[21世紀における国民健康づくり運動]](健康日本21)<br /> *[[生活習慣病]]<br /> *[[日本の喫煙]]<br /> *[[神奈川県公共的施設における受動喫煙防止条例]]<br /> *[[エヴァン法]]<br /> *[[栄養表示基準]]<br /> *[[健康食品]]<br /> *[[医療費亡国論]]<br /> *[[地域保健法]]<br /> *[[大西英男]]<br /> *[[穴見陽一]]<br /> <br /> == 脚注 ==<br /> &lt;references/&gt;<br /> <br /> == 外部リンク ==<br /> *[http://elaws.e-gov.go.jp/search/elawsSearch/elaws_search/lsg0500/detail?lawId=414AC0000000103&amp;openerCode=1 電子政府 法令検索]<br /> <br /> {{DEFAULTSORT:けんこうそうしんほう}}<br /> [[Category:日本の法律]]<br /> [[Category:日本の医事法]]<br /> [[Category:日本の健康政策]]<br /> [[Category:公衆衛生]]<br /> [[Category:健康づくり]]<br /> [[Category:日本のたばこ対策関連法規]]<br /> [[Category:2002年の法]]<br /> [[Category:日本の健康関連法規]]<br /> [[Category:栄養補助食品]]</div> 2400:7800:4975:9200:F510:2F62:E709:419D 羽田空港発着枠 2018-08-10T16:10:47Z <p>2400:7800:4975:9200:F510:2F62:E709:419D: /* 沿革 */</p> <hr /> <div>{{Pathnav|東京国際空港|frame=1}}<br /> &#039;&#039;&#039;羽田空港発着枠&#039;&#039;&#039;(はねだくうこうはっちゃくわく)とは、[[東京国際空港]]の出・入場許可便枠のことである。この語は[[国土交通省]]内でも使用されている&lt;ref&gt;[http://www.mlit.go.jp/koku/koku_fr1_000030.html 羽田空港発着枠の配分基準検討懇談会]&lt;/ref&gt; ほか、[[マスメディア]]においても使用される語である。<br /> <br /> == 概要 ==<br /> === 歴史 ===<br /> [[第二次世界大戦]]後、日本の航空業界は[[日本国政府]]([[運輸省]])の強い規制の下に置かれ、需給調整の観点から路線毎に免許を与えたため、航空会社が自由に参入・撤退はできず、<br /> * [[日本航空]]は国際線と国内幹線を担当<br /> * [[全日本空輸]]は国内幹線と準幹線、一部のローカル線を担当<br /> * 東亜国内航空(後の[[日本エアシステム]]、現・日本航空)は準幹線と国内ローカル線を担当<br /> などと、参入できる路線まで区別されてきた。これが、いわゆる[[45/47体制]]である。<br /> <br /> この体制は、[[1986年]]([[昭和]]61年)に廃止され、規模が一定以上の路線ではダブル、トリプルトラック化&lt;ref&gt;同一路線を2社、あるいは3社が運航すること。&lt;/ref&gt; が認められる。この基準は徐々に緩和され、[[1997年]]([[平成]]9年)には基準自体が撤廃される。その後も[[規制緩和]]の中で[[2000年]](平成12年)に[[航空法]]が改正され、新規育成と競争促進を目的に、空港への発着は原則的に安全基準などを満たせばよい事前届出制となった。これにより、各航空会社の参入・撤退の自由が原則的に保障された&lt;ref name=&quot;配分推移&quot;&gt;[http://www.mlit.go.jp/policy/shingikai/kouku01_sg_000042.html 第1回羽田発着枠配分基準検討小委員会 配付資料2 羽田空港発着枠の現状と検討課題]&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> だが、[[東京国際空港]](羽田空港)、[[成田国際空港]]、[[大阪国際空港]](伊丹空港)、[[関西国際空港]]の主要4空港については、これらを「[[混雑空港]]」として指定し、混雑空港については、発着を許可制とすることで、参入・撤退への規制が維持された&lt;ref&gt;[[2016年]]に[[福岡空港]]が混雑空港に追加指定されている。&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> しかし、一口に混雑空港といっても、具体的な規制についてはさまざまであり、伊丹空港については、[[大阪空港訴訟]]による騒音問題を理由として、ジェット機の総量規制を行っており、成田と関西の両空港については、国内線の発着枠に余裕がある。そのため、空港の発着能力が限界に達しているため、発着枠の配分規制を行っているのは『羽田空港のみ』である。<br /> <br /> 羽田空港については、混雑空港運行許可の更新(5年ごと)に合わせ、配分を見直すこととしている。[[2005年]](平成17年)2月の更新の際には、有識者による懇談会でルールが作られ&lt;ref&gt;[http://www.mlit.go.jp/common/000020729.pdf 当面の羽田空港の望ましい利用のあり方について]&lt;/ref&gt; 再配分が行われた。<br /> <br /> また、羽田空港では[[日本の空港]]としては2016年(平成28年)現在、唯一小型機の乗り入れが禁止されている。元々限られた発着枠で、できるだけ輸送量を大きくするため、[[1969年]](昭和46年)の[[運輸省]](当時)[[航空局]]長[[通達]]で始まったものであり、2016年(平成28年)現在は、混雑空港の許可制を利用して、許可基準上小型機については、一律に発着を許可しないこととされている。これも、発着枠の配分規制同様に発着枠の不足を原因とするものであり、規制方法について、混雑空港の許可制を利用していることにおいても同様である。<br /> <br /> === 時間帯 ===<br /> 航空機の発着需要、及び騒音の体感は時間帯によって大きく異なる。そのため、国土交通省では、時間帯を以下の3つに区分し、発着能力と発着枠配分方法を定めている&lt;ref&gt;[http://www.mlit.go.jp/koku/koku_fr1_000034.html 羽田空港発着枠の配分基準検討懇談会(第4回) 配布資料3-2]&lt;/ref&gt;。<br /> {| class=&quot;wikitable&quot;<br /> |+ <br /> ! !! 6時-8時半 !! 8時半-20時半 !! 20時半-23時 !! 23時-6時<br /> |-<br /> ! 出発<br /> | colspan=&quot;2&quot; | 混雑 || 特定 || 深夜早朝<br /> |-<br /> ! 到着<br /> | 特定 || colspan=&quot;2&quot; | 混雑 || 深夜早朝<br /> |}<br /> このうち、混雑時間帯は発着需要が高いので、国土交通省が省益として発着枠を配分している。以下述べる発着枠のうち、特に注記ないものは、この混雑時間帯の発着枠を指す。<br /> <br /> 一方、特定時間帯と深夜早朝時間帯については、航空会社が希望すれば使用できる。ただし現状では、特定時間帯のうち出発20時半-21時、到着8時-8時半についても、発着需要が高く、発着能力を使い切っている状況である&lt;ref&gt;「航空機は誰が飛ばしているのか」 轟木一博 日経プレミアシリーズ&lt;/ref&gt;。また、深夜早朝時間帯は、騒音発生を抑えるため飛行ルートが制限されるので、発着能力も制限されるものの、2017年10月現在でも発着枠に余裕がある。<br /> <br /> == 発着能力 ==<br /> [[ファイル:Haneda Expansion ja.svg|thumb|400px|東京国際空港のレイアウト]]<br /> === 沖合展開事業期 ===<br /> 2003年7月時点の旅客機運用は、以下の通りであった。<br /> {| class=&quot;wikitable&quot;<br /> |+ <br /> ! !! A滑走路 !! B滑走路 !! C滑走路<br /> |-<br /> ! 北風時<br /> | 着陸 || 不使用&lt;ref&gt;[[海上保安庁]]や新聞社などの離陸はあった。&lt;/ref&gt; || 離陸<br /> |-<br /> ! 南風好天時<br /> | 離陸 || colspan=&quot;2&quot; | 着陸<br /> |-<br /> ! 南風悪天時<br /> | 離陸 || 着陸 || 不使用<br /> |}<br /> 滑走路毎に離陸もしくは着陸が連続する場合の処理能力は、以下の通り。<br /> {| class=&quot;wikitable&quot;<br /> |+ <br /> ! !! 6時台 !! 7-21時台 !! 22時台<br /> |-<br /> ! 出発<br /> | 32回/時 || 32回/時 || 32回/時<br /> |-<br /> ! 到着<br /> | 26回/時 || 29回/時 || 26回/時<br /> |}<br /> 発着回数は1日あたり774回(28.3万回/年)。以後、管制運用の見直しや高速脱出誘導路の整備などが行われ、830回(30.3万回/年)まで発着枠は増加している。<br /> <br /> なお、深夜早朝時間帯に旅客定期便は設定されていない&lt;ref&gt;南風悪天時の進入路が陸上低空となるため。&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> === D滑走路供用 ===<br /> 2010年10月に、D滑走路が供用開始された。滑走路運用は以下の通りである。<br /> {| class=&quot;wikitable&quot;<br /> |+ <br /> ! 昼間時間帯 !! A滑走路 !! B滑走路 !! C滑走路 !! D滑走路<br /> |-<br /> ! 北風<br /> | (南方面からの)着陸 || 不使用 || {北方面から(へ)の}離着陸 || (南・西方面への)離陸<br /> |-<br /> ! 南風<br /> | (南・西方面への)離陸 || (南方面からの)着陸 || (北方面への)離陸 || (北方面からの)着陸<br /> |}<br /> 発着能力は以下の通りとなった&lt;ref name=&quot;配分推移&quot; /&gt;&lt;ref&gt;[http://www.mlit.go.jp/koku/koku_fr1_000031.html 羽田空港発着枠の配分基準検討懇談会(第1回) 資料4]&lt;/ref&gt;&lt;ref name=&quot;発着回数&quot;&gt;[http://www.mlit.go.jp/koku/koku_fr8_000003.html 東京国際空港(羽田空港)の新滑走路供用に伴う運用変更に関するお知らせ よくある質問 Q4]&lt;/ref&gt;。<br /> {| class=&quot;wikitable&quot;<br /> |+ <br /> ! rowspan=&quot;2&quot; | 昼間時間帯 !! rowspan=&quot;2&quot; | 出発 !! rowspan=&quot;2&quot; | 到着 !! rowspan=&quot;2&quot; | 発着枠総数/日 !! rowspan=&quot;2&quot; | 国内線 !! colspan=&quot;2&quot; | 国際線<br /> |-<br /> ! 一般 !! リレー時間帯&lt;ref&gt;6時台出発と22時台到着のうちの、一部国際線発着枠のこと。混雑時間帯の発着枠だが、深夜早朝時間帯の国際線との接続のため設けられたものなので、別枠で計上している。&lt;/ref&gt;<br /> |-<br /> ! 2010年10月21日~<br /> | 34回/時&lt;ref name=&quot;離陸&quot;&gt;6,7時台は40回、22時台は5回&lt;/ref&gt; || 33回/時&lt;ref name=&quot;着陸&quot;&gt;6,7時台は5回、22時台は40回&lt;/ref&gt; || - || - || - || - <br /> |-<br /> ! 2011年3月27日~<br /> | 35回/時&lt;ref name=&quot;離陸&quot; /&gt; || 35回/時&lt;ref name=&quot;着陸&quot; /&gt; || 960+20回 || 880回 || 80回 || 20回<br /> |-<br /> ! 2013年3月31日~<br /> | 37回/時&lt;ref name=&quot;離陸&quot; /&gt; || 37回/時&lt;ref name=&quot;着陸&quot; /&gt; || 1010+20回 || 930回 || 80回 || 20回<br /> |-<br /> ! 2013年度中~<br /> | 40回/時 || 40回/時 || 1094+20回 || 930回 || 160+4回&lt;ref&gt;羽田空港発着枠の現状と検討課題27頁の、国際定期便の発着回数の部分では160回とされている。しかし、28頁の図では84回増枠分が示されているので、既配分80回と合わせて計164回となる。こちらだと、国内線930回、リレー時間帯20回と合わせて、27頁の発着枠総枠の1114回と合致する。&lt;/ref&gt; || 20回<br /> |}<br /> {| class=&quot;wikitable&quot;<br /> |+ <br /> ! 深夜早朝時間帯 !! 出発 !! 到着<br /> |-<br /> ! 2010年10月21日~<br /> | 8回/時 || 8回/時<br /> |}<br /> なお、2012年度の首都圏空港(羽田・成田)の利用者数のうち、国際線の割合は約36%である&lt;ref&gt;国内線利用客数は6261万9249人、国際線利用客数は3483万5315人。[http://www.cab.mlit.go.jp/tcab/img/statistics/pdf/riyou_h24nendo.pdf 東京航空局 管内空港利用概況 平成24年度速報値]&lt;/ref&gt;。ところが昼間時間帯の国際線発着枠は、2014年度の最終形でも16.5%にとどまっている。<br /> <br /> === 技術的な可能性 ===<br /> <br /> 平成26年7月8日、首都圏空港機能強化技術検討小委員会から中間とりまとめが発表された&lt;ref&gt;[http://www.mlit.go.jp/report/press/kouku01_hh_000053.html 首都圏空港機能強化技術検討小委員会の中間取りまとめについて]&lt;/ref&gt;。まず実測値を元にした現ルートの最大発着回数が示され、続いて新ルート案の最大発着回数が推定されている。その数値は以下の通りである。<br /> <br /> {| class=&quot;wikitable&quot;<br /> |+ <br /> ! rowspan=&quot;2&quot; | 種類 !! rowspan=&quot;2&quot; | 風向 !! rowspan=&quot;2&quot; | 現ルート !! colspan=&quot;2&quot; | 北風案&lt;ref&gt;離陸後、荒川河口付近から陸地上空を北向きに飛行。&lt;/ref&gt;<br /> |-<br /> ! 南風案1&lt;ref&gt;B滑走路から川崎方面に離陸&lt;/ref&gt; !! 南風案2&lt;ref&gt;B滑走路から川崎方向に離陸+中野区・新宿区・渋谷区・港区・品川区上空からの着陸&lt;/ref&gt;<br /> |-<br /> ! rowspan=&quot;2&quot; | 離陸 !! 北風<br /> | 43 || colspan=&quot;2&quot; | 46<br /> |-<br /> ! 南風<br /> | 42 || 42 || 46<br /> |-<br /> ! rowspan=&quot;2&quot; | 着陸 !! 北風<br /> | 45 || colspan=&quot;2&quot; | 44<br /> |-<br /> ! 南風<br /> | 41 || 42 || 44<br /> |}<br /> <br /> なお北風時と南風時では回数が異なるが、風向により遅延等を発生させないために、少ない方を発着容量とするのが一般的である。よって現ルートでは離陸42回、着陸41回が時間値となる。同様に北風・南風1案では離陸42回・着陸42回、北風・南風2案では離陸46回・着陸44回となる。<br /> <br /> 平成27年1月21日に開催された首都圏空港機能強化の具体化に向けた協議会では、国から北風・南風2案の提案がなされている&lt;ref&gt;[http://www.mlit.go.jp/koku/koku_tk7_000005.html 首都圏空港機能強化の具体化に向けた協議会 第2回 参考資料1]&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;なお北風案には発着数が同数の1案と2案があるが、国は陸上航行の少ない1案を提案した。&lt;/ref&gt;。ただし都心上空の飛行については騒音影響が見込まれるため、国際線の離着陸が集中する15時~19時への限定を想定している&lt;ref&gt;[http://www.mlit.go.jp/koku/koku_tk7_000005.html 参考資料2 HPでの情報発信に係る関係資料(羽田空港機能強化関係)(1)]&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> == 発着枠配分 ==<br /> 出典:&lt;ref name=&quot;配分推移&quot; /&gt;<br /> {{See also|東京国際空港#国際線の就航状況}}<br /> <br /> === 沖合展開事業 ===<br /> {| class=&quot;wikitable&quot;<br /> |+<br /> ! rowspan=&quot;2&quot; | !! colspan=&quot;3&quot; | 国内線 || rowspan=&quot;2&quot; |国際線&lt;ref&gt;金浦線は旅客チャーター便。&lt;/ref&gt;<br /> |-<br /> ! 大手&lt;ref&gt;日本航空、全日本空輸、日本エアシステムの3社。&lt;/ref&gt; !! 新規&lt;ref&gt;スカイマークエアラインズと北海道国際航空。その後、2002年8月に就航したスカイネットアジア航空、2006年3月に就航したスターフライヤーも加わる。&lt;/ref&gt; !! 合計<br /> |-<br /> ! ~1997年7月<br /> | 276 || 0 || 276 || 4<br /> |-<br /> ! 1997年7月&lt;ref&gt;新C滑走路の供用開始。羽田空港沖合展開事業の進展による。&lt;/ref&gt;~<br /> | 310(+34) || 6(+6) || 316(+40) || 4(+0)<br /> |-<br /> ! 2000年7月&lt;ref&gt;新B滑走路の供用。&lt;/ref&gt;~<br /> | 352(+42) || 21(+15) || 373(+57) || 4(+0)<br /> |-<br /> ! 2002年4月&lt;ref&gt;[[チャイナエアラインズ]](中華航空)の成田移転。&lt;/ref&gt;~<br /> | 352(+0) || 25(+4) || 377(+4) || 0(-4)<br /> |-<br /> ! 2002年10月&lt;ref&gt;日本航空と日本エアシステムの統合による、発着枠の返還。&lt;/ref&gt;~<br /> | 340(-12) || 37(+12) || 377(+0) || 0(+0)<br /> |-<br /> ! 2003年7月&lt;ref&gt;滑走路占有時間の短縮。&lt;/ref&gt;~<br /> | 340(+0) || 47(+10) || 387(+10)|| 0(+0)<br /> |-<br /> ! 2003年11月&lt;ref&gt;[http://www.mlit.go.jp/kisha/kisha03/12/121024_.html 金浦-羽田間航空便の運航について]<br /> &lt;/ref&gt;~<br /> | 340(+0) || 47(+0) || 387(+10)|| 4(+4)<br /> |}<br /> こうした新規航空会社への発着枠配分を受けて、35年ぶりの新規参入として、1998年9月にスカイマークエアラインズ(現・[[スカイマーク]])、続いて12月に北海道国際航空(現・[[AIRDO]])、2002年8月にスカイネットアジア航空(現・[[ソラシドエア]])が就航を果たした。<br /> {| class=&quot;wikitable&quot;<br /> |+ <br /> ! rowspan=&quot;2&quot; | !! colspan=&quot;8&quot; | 国内線 || rowspan=&quot;2&quot; |国際線&lt;ref&gt;旅客チャーター便。&lt;/ref&gt; || rowspan=&quot;2&quot; |合計<br /> |-<br /> ! [[日本航空|JAL]] !! [[全日本空輸|ANA]] !! [[スカイマーク|SKY]] !! [[AIR DO|ADO]] !! [[ソラシドエア|SNA]] !! [[スターフライヤー|SFJ]] !! 新規未使用枠 !! 政策枠<br /> |-<br /> ! ~2005年4月<br /> | 182 || 158 || 17 || 10 || 12 || 0 || 8 || 0 || 4 || 391<br /> |-<br /> ! 2005年4月&lt;ref&gt;発着枠の回収・再配分。JALから22便、ANAから18便を回収して、再配分した。&lt;/ref&gt;~<br /> | 171(-11) || 149(-9) || 21(+4) || 14(+4) || 12(+0)&lt;ref name=&quot;新規未使用&quot;&gt;その後、同年12月までに、SNAが新規未使用枠から6便取得している。&lt;/ref&gt; || 0 || 20(+12)&lt;ref name=&quot;新規未使用&quot; /&gt; || 0(+0)|| 4(+0) || 391(+0)<br /> |-<br /> ! 2005年12月&lt;ref&gt;管制運用の見直し。[http://www.mlit.go.jp/kisha/kisha05/12/120829_.html 羽田空港の増枠及びその配分について]&lt;/ref&gt;~<br /> | 173(+2) || 152(+3) || 28(+7) || 17(+3) || 18(+6) || 9(+9) || 0(-20) || 0(+0)|| 8(+4&lt;ref&gt;2005年8月1日に、暫定的に公用機等枠を使用して、既に4便/日→8便/日に増便していたものを、通常の発着枠に切り替えた。[http://www.mlit.go.jp/kisha/kisha05/01/010728_.html 金浦・羽田チャーター便増便に伴う  東京国際空港到着歓迎イベントについて]&lt;/ref&gt;) || 405(+14)<br /> |-<br /> ! 2007年11月&lt;ref&gt;高速離脱誘導路の整備による。しかし、航空会社の配分ではなく、航空局が発着枠を留保したうえでの暫定利用である。同年9月1日に設備は完成しており、9月、10月は臨時便として運行されていた。[http://www.mlit.go.jp/kisha/kisha07/12/120711_.html 羽田空港の増枠およびその使用について]&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;[http://www.mlit.go.jp/kisha/kisha07/12/120713_2_.html 増加する羽田空港の発着枠を使用する航空会社の決定について]&lt;/ref&gt;~<br /> | 173(+0) || 152(+0) || 28(+0) || 17(+0) || 18(+0) || 13(+4) || 0(+0) || 2(+2)|| 12(+4)&lt;ref&gt;[http://www.mlit.go.jp/kisha/kisha07/12/120831_.html 羽田=虹橋旅客チャーター便の開設について]&lt;/ref&gt; || 415(+10)<br /> |-<br /> ! 2009年10月&lt;ref&gt;[[北京首都国際空港]]への国際旅客定期チャーター便開設。[http://www.mlit.go.jp/report/press/cab03_hh_000089.html 羽田=北京首都空港間の国際旅客チャーター便の開設について]&lt;/ref&gt;~<br /> | 173(+0) || 152(+0) || 28(+0) || 17(+0) || 18(+0) || 13(+0) || 0(+0) || 2(+0)|| 16(+4) || 419(+4)<br /> |}<br /> なお、2005年4月の、5年に一度の発着枠配分見直しでは、ローカル線を保護するために[[稚内空港|稚内]]、[[中標津空港|中標津]]、[[紋別空港|紋別]]などの1日3便以下の16路線は回収対象から外されている。このうち、10路線を運航する全日本空輸は「路線固定化では自由な経営ができない」と反発、このため、これら16路線をひとつのグループとしてグループ内での便数の増減を認めつつ、完全撤退には歯止めを加えた。<br /> <br /> 羽田路線は1便あたり20億円の価値があるとされるので、大手2グループとしてはかなりの痛手であった。逆に新規会社にとっては配分された発着枠の運用が今後の成功につながるといえる。<br /> <br /> また、2005年12月13日、国土交通省航空局は新たに「羽田空港発着枠の転用に関するルール」を設定した。これは、羽田空港に関係する多様な輸送網の形成を図るため、新規航空会社に配分される羽田空港の発着枠について、新滑走路(D滑走路)の供用開始までの間、新規航空会社に配分された羽田空港の発着枠を使用して運航している路線を減便しようとする場合は、多様な輸送網の形成を目的として羽田空港の着陸料が軽減されている路線([[新千歳空港|新千歳]]・伊丹・[[福岡空港|福岡]]・[[那覇空港|那覇]]以外の地方路線)に転用する場合を除き、減便に関係する発着枠を回収するものである。<br /> <br /> なお、この新ルールが適用されるのは以下の通りである。このようなルールが設けられた背景には、スカイマークエアラインズ(当時)が羽田 - 鹿児島便、羽田 - 徳島便を地方便として優先的に発着枠を割り当てられたにもかかわらず、いずれの路線も撤退後に羽田 - 福岡便など高収益路線にその枠をそのまま充当したことに批判が出たためである。<br /> <br /> * スカイネットアジア航空<br /> ** 羽田 - [[長崎空港|長崎]] 6便(往復)<br /> * 北海道国際航空(エア・ドゥ)<br /> ** 羽田 - [[女満別空港|女満別]] 3便(往復)<br /> * スカイマーク<br /> ** 羽田 - [[神戸空港|神戸]] 7便(往復)<br /> * スターフライヤー<br /> ** 羽田 - [[北九州空港|新北九州]] 3便(往復)<br /> <br /> また、[[アジア・ゲートウェイ構想]]により羽田空港への国際チャーター便の運航基準が緩められ、20時30分から8時30分まで中・長距離の国際旅客チャーター便の運航が認められている。これを生かし、2008年4月1日には、[[香港国際空港]]への定期チャーター便が開設されている&lt;ref&gt;[http://www.pref.kanagawa.jp/cnt/p15195.html 神奈川県 めるまが・神奈川口vol.17]&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> === D滑走路供用 ===<br /> &lt;div style=&quot;height:auto; overflow: auto; text-align: left&quot;&gt;<br /> {| class=&quot;wikitable&quot;<br /> |+ <br /> ! rowspan=&quot;3&quot; | || colspan=&quot;14&quot; |国内線 || colspan=&quot;2&quot; | 国際線 || rowspan=&quot;3&quot; |合計<br /> |-<br /> ! colspan=&quot;2&quot; |JAL || colspan=&quot;2&quot; |ANA || colspan=&quot;2&quot; |SKY || colspan=&quot;2&quot; |ADO || colspan=&quot;2&quot; |SNA || colspan=&quot;3&quot; |SFJ || rowspan=&quot;2&quot; |政策枠|| rowspan=&quot;2&quot; |一般|| rowspan=&quot;2&quot; |リレー<br /> |-<br /> ! 自由枠 !! 地方路線限定枠 !! 自由枠 !! 地方路線限定枠 !! 自由枠 !! 地方路線限定枠 !! 自由枠 !! 地方路線限定枠 !! 自由枠 !! 地方路線限定枠 !! 自由枠 !! 地方路線限定枠 !! 内際乗継改善枠<br /> |-<br /> ! 2010年10月31日&2011年3月27日&lt;ref&gt;配分枠決定は1回だが、配分は2回に分けて行われた。[http://www.mlit.go.jp/report/press/cab04_hh_000030.html 羽田空港の新規発着枠(37便)の配分について]&lt;/ref&gt;~<br /> | 173(+0) || 7+0.5&lt;ref name=&quot;JAL&quot;&gt;到着1枠。&lt;/ref&gt;(+7+0.5) || 152(+0) || 9+2.5&lt;ref name=&quot;ANA&quot;&gt;出発4枠、到着1枠。&lt;/ref&gt;(+9+2.5) || 24(+3) || 8(+1)|| 17(+3) || 4(+1) || 15(+3) || 7(+1) || 9(+3) || 4+1&lt;ref name=&quot;SFJ&quot;&gt;到着2枠。&lt;/ref&gt;(+1+1) || 4(+0) || 3(+1) || 40(+24) || 10(+10) || 490<br /> |-<br /> ! 2013年3月31日&lt;ref&gt;[http://www.mlit.go.jp/report/press/kouku04_hh_000073.html 羽田空港国内線発着枠(25便)の配分について]&lt;/ref&gt;~<br /> | 176(+3) || 7+0.5&lt;ref name=&quot;JAL&quot;&gt;到着1枠。&lt;/ref&gt;(+0) || 160(+8) || 9+2.5&lt;ref name=&quot;ANA&quot;&gt;出発4枠、到着1枠。&lt;/ref&gt;(+0) || 28(+4) || 8(+0)|| 19(+2) || 4(+0) || 18(+3) || 7(+0) || 14(+5) || 4+1&lt;ref name=&quot;SFJ&quot;&gt;到着2枠。&lt;/ref&gt;(+0) || 4(+0) || 3(+0) || 40(+0) || 10(+0) || 515<br /> |-<br /> ! 2013年度中~<br /> | 176(+0) || 7+0.5&lt;ref name=&quot;JAL&quot;&gt;到着1枠。&lt;/ref&gt;(+0) || 160(+0) || 9+2.5&lt;ref name=&quot;ANA&quot;&gt;出発4枠、到着1枠。&lt;/ref&gt;(+0) || 28(+0) || 8(+0)|| 19(+0) || 4(+0) || 18(+0) || 7(+0) || 14(+0) || 4+1&lt;ref name=&quot;SFJ&quot;&gt;到着2枠。&lt;/ref&gt;(+0) || 4(+0) || 3(+0) || 82(+42) || 10(+0) || 557<br /> |}<br /> &lt;/div&gt;<br /> <br /> ==== 国際線 ====<br /> ===== 沿革 =====<br /> 2007年(平成19年)に、国土交通省は、アジア・ゲートウェイ構想に沿う形で、昼間時間帯の発着枠のうち年間3万回を近距離国際線に割り当てるとしていた。これは、将来の国内航空需要に対応した発着枠を確保した後の、余裕枠を活用したものである。また、深夜早朝時間帯は[[シンガポール・チャンギ国際空港|シンガポール]]、[[シャルル・ド・ゴール国際空港|パリ]]、[[ジョン・F・ケネディ国際空港|ニューヨーク]]などの、アジア長距離便、および欧米便の就航も可能とした&lt;ref&gt;[http://www.kantei.go.jp/jp/singi/asia/dai7/siryou_cab1.pdf アジア・ゲートウェイ構想の実現に向けた航空分野の取組み]&lt;/ref&gt;。これに対応するため、新国際線ターミナルビルを整備し、2010年(平成22年)に開業させた。<br /> <br /> なお、近距離国際線については、概ね羽田発着の国内線の距離(2012年(平成24年)現在、羽田からの国内線で最も長距離の路線は、[[石垣空港]]までの1,947[[キロメートル|km]]、1,228[[マイル]])以内の区間を目安とするとされていた。具体的には[[仁川国際空港|ソウル]]、[[金海国際空港|釜山]]、[[済州国際空港|済州]]、[[上海浦東国際空港|上海]]、[[ウラジオストク空港|ウラジオストク]]などである。<br /> <br /> 長距離国際線については、[[アメリカ合衆国運輸省]]に対し、[[デルタ航空]]&lt;ref&gt;2010年2月16日申請。羽田空港とシアトル、[[デトロイト・メトロポリタン・ウェイン・カウンティ空港|デトロイト]]、[[ロサンゼルス国際空港|ロサンゼルス]]および[[ホノルル国際空港|ホノルル]]間 [http://news.delta.com/index.php?s=43&amp;item=930 Delta Air Lines Seeks to Compete at Tokyo&#039;s Haneda Airport]&lt;/ref&gt;、[[アメリカン航空]]&lt;ref&gt;2010年2月16日申請。羽田空港と[[ジョン・F・ケネディ国際空港|ニューヨーク/ジョン・F・ケネディ空港]]および[[ロサンゼルス国際空港|ロサンゼルス]]間。 [http://aa.mediaroom.com/index.php?s=43&amp;item=2852 American Airlines Applies to Fly From New York and Los Angeles to Tokyo (Haneda), the Busiest Airport in Asia]&lt;/ref&gt;、[[ユナイテッド航空]]&lt;ref&gt;羽田空港と[[サンフランシスコ国際空港|サンフランシスコ]]間。 [http://www.united.com/press/detail/0,7056,61653,00.html United Airlines Seeks to Serve Haneda Airport; Service to Downtown Tokyo Builds on Company&#039;s Strong Asia Network]&lt;/ref&gt;、[[コンチネンタル航空]]&lt;ref&gt;羽田空港と[[ニューアーク・リバティー国際空港|ニューヨーク/ニューアーク空港]]および[[グアム国際空港|グアム]]間。 [http://phx.corporate-ir.net/phoenix.zhtml?c=85779&amp;p=irol-newsArticle_Print&amp;ID=1391563&amp;highlight= Continental Airlines and Continental Micronesia Apply to Fly Nonstop From New York/Newark and Guam to Tokyo&#039;s Haneda Airport]&lt;/ref&gt;、[[ハワイアン航空]]&lt;ref&gt;羽田ホノルル間。毎日2便。 [http://investor.hawaiianairlines.com/phoenix.zhtml?c=82818&amp;p=irol-newsArticle&amp;ID=1391569&amp;highlight= Hawaiian Eyes Honolulu-Tokyo Service]&lt;/ref&gt; から、運航申請があった。これに対し、2010年(平成22年)5月7日に、アメリカ合衆国運輸省は羽田空港への4航路に関する決定の提案を発表した&lt;ref&gt;[http://www.dot.gov/affairs/2010/dot9210.htm DOT Announces Proposed Decision to Award Four Routes at Tokyo&#039;s Haneda Airport]&lt;/ref&gt;。アメリカン航空はニューヨーク/ジョン・F・ケネディ空港から&lt;ref&gt;[http://aa.mediaroom.com/index.php?s=43&amp;item=2920 American Airlines Awarded Right to Fly From New York Kennedy to Tokyo (Haneda), the Busiest Airport in Asia : New Flights Will Complement American&#039;s Service to Tokyo (Narita) and Benefit Japan Airlines and Other oneworld Carriers]&lt;/ref&gt;、デルタ航空はロサンゼルスおよびデトロイトから&lt;ref&gt;[http://news.delta.com/index.php?s=43&amp;item=1022 Delta Air Lines Applauds DOT for Haneda Airport Decision : New flights will connect Detroit, Los Angeles with Tokyo&#039;s preferred business airport]&lt;/ref&gt;、および[[ハワイアン航空]]はホノルルから&lt;ref&gt;[http://investor.hawaiianairlines.com/phoenix.zhtml?c=82818&amp;p=irol-newsArticle&amp;ID=1424308&amp;highlight= Hawaiian Receives Tentative Approval for New Tokyo Service]&lt;/ref&gt; 就航との決定提案となっている。<br /> <br /> 2009年(平成21年)10月、当時の[[国土交通大臣]]・[[前原誠司]]は、&#039;&#039;&#039;羽田空港の[[ハブ空港]]化構想&#039;&#039;&#039;を発表した&lt;ref&gt;{{cite press release | url = http://www.mlit.go.jp/report/interview/daijin091013.html | title = 前原大臣会見要旨 | publisher = [[国土交通省]] | date = 2009-10-13 | accessdate = 2016-10-19 }}&lt;/ref&gt;。これは、増加する発着枠11万回のうち、半分を国際線に割り当てるというものである。この結果として、新規に国内線に配分される発着枠は減少する。[[成田空港問題|過去の経緯]]にもかかわらず成田空港との棲み分けをなし崩しにされた[[千葉県]]及び[[成田市]]や&lt;ref&gt;{{cite news | author = | url = https://www.nikkei.com/article/DGXNZO08080130V20C10A5L71000/ | title = 千葉県知事と成田市長、羽田強化方針に懸念表明|accessdate=2017-10-19|date=2010-05-26 | newspaper = [[日本経済新聞]] | publisher = [[日本経済新聞社]]}}&lt;/ref&gt;、羽田空港への直行便就航を求めていた[[佐渡空港]]&lt;ref&gt;[http://mainichi.jp/area/niigata/news/20091205ddlk15010184000c.html 県議会:知事答弁 佐渡-羽田線「不可欠」 北陸新幹線「国などと協議余地」/新潟]&lt;/ref&gt;、[[但馬空港]]&lt;ref&gt;[http://www.kobe-np.co.jp/rensai/access/97.html 羽田空港に新滑走路 但馬-東京直行便へ機運]&lt;/ref&gt; からは反発の声が挙がった。<br /> <br /> この構想を受け、2010年(平成22年)5月17日の、国土交通省成長戦略会議最終報告では、昼間時間帯の国際線について行っていた、アジア近距離ビジネス路線への限定を廃止するとした&lt;ref name=&quot;国交省成長戦略&quot;&gt;[http://www.mlit.go.jp/page/kanbo01_hy_000926.html 国土交通省成長戦略 航空分野報告書 3-11頁]&lt;/ref&gt;。そのために、発着枠40.7万回が達成される時点で、基本的には、昼間時間帯の発着枠3万回を、国際線に追加配分して、計6万回にするとしている&lt;ref name=&quot;国交省成長戦略&quot; /&gt;。<br /> <br /> その後、以下の国々との間で、当局間合意&lt;ref&gt;中国のみ、意見交換と合意&lt;/ref&gt; により、昼間時間帯の就航が認められている。また、平成25年10月3日に、国土交通省から、日本側発着枠の航空会社への配分が行われた&lt;ref&gt;[http://www.mlit.go.jp/report/press/kouku04_hh_000084.html 羽田空港国際線発着枠の配分について]&lt;/ref&gt;。<br /> {| class=&quot;wikitable&quot;<br /> ! !! 協議時期 !! 日本側発着枠 !! ANA便数 !! JAL便数 !! 相手国側発着枠 !! 就航先<br /> |-<br /> ! [[イギリス]]&lt;ref&gt;[http://www.mlit.go.jp/report/press/kouku03_hh_000179.html 日本・英国航空当局間協議の結果について]&lt;/ref&gt;<br /> | 2012年1月17日~20日 || 2 || 1 || 1 || 2 || [[ロンドン・ヒースロー空港]]<br /> |-<br /> ! [[フランス]]&lt;ref&gt;[http://www.mlit.go.jp/report/press/kouku03_hh_000193.html 日本・フランス航空当局間協議の結果について]&lt;/ref&gt;<br /> | 2012年7月4日~7日 || 2 || 1 || 1 || 2 || [[パリ=シャルル・ド・ゴール空港]]<br /> |-<br /> ! [[中華人民共和国|中国]]&lt;ref&gt;[http://www.mlit.go.jp/report/press/kouku03_hh_000194.html 日中航空関係の拡大について]&lt;/ref&gt;<br /> | 2012年8月8日 || 2 || 1 || 1 || 2 || [[北京首都国際空港]]<br /> |-<br /> ! [[シンガポール]]&lt;ref&gt;[http://www.mlit.go.jp/report/press/kouku03_hh_000198.html 日本・シンガポール航空当局間協議の結果について]&lt;/ref&gt;<br /> | 2012年9月18日~19日 || 2 || 1 || 1 || 2 || [[シンガポール・チャンギ国際空港]]<br /> |-<br /> ! [[タイ王国]]&lt;ref&gt;[http://www.mlit.go.jp/report/press/kouku03_hh_000202.html 日本・タイ航空当局間協議の結果について]&lt;/ref&gt;<br /> | 2012年11月20日~21日 || 2 || 1 || 1 || 1 || [[スワンナプーム国際空港]](バンコク)<br /> |-<br /> ! [[ドイツ]]&lt;ref&gt;[http://www.mlit.go.jp/report/press/kouku03_hh_000204.html 日本・ドイツ航空当局間協議の結果について]&lt;/ref&gt;<br /> | 2013年2月13日~15日 || 2 || 2 || 0 || 2 || [[フランクフルト空港]]、[[ミュンヘン空港]]<br /> |-<br /> ! [[ベトナム]]&lt;ref&gt;[http://www.mlit.go.jp/report/press/kouku03_hh_000209.html 日本・ベトナム航空当局間協議の結果について]&lt;/ref&gt;<br /> | 2013年6月11日~12日 || 1 || 1 || 0 || 1 || [[ノイバイ国際空港]](ハノイ)<br /> |-<br /> ! [[インドネシア]]&lt;ref&gt;[http://www.mlit.go.jp/report/press/kouku03_hh_000211.html 日本・インドネシア航空当局間協議の結果について]&lt;/ref&gt;<br /> | 2013年6月25日~26日 || 1 || 1 || 0 || 1 || [[スカルノ・ハッタ国際空港]](ジャカルタ)<br /> |-<br /> ! [[フィリピン]]&lt;ref&gt;[http://www.mlit.go.jp/report/press/kouku03_hh_000215.html 日本・フィリピン航空当局間協議の結果について]&lt;/ref&gt;<br /> | 2013年9月11日~12日 || 1 || 1 || 0 || 1 || [[ニノイ・アキノ国際空港]](マニラ)<br /> |-<br /> ! [[カナダ]]&lt;ref&gt;[http://www.mlit.go.jp/report/press/kouku03_hh_000217.html 日本・カナダ航空当局間協議の結果について]&lt;/ref&gt;<br /> | 2013年9月24日 || 1 || 1 || 0 || 1 || [[バンクーバー国際空港]]<br /> |-<br /> ! [[アメリカ合衆国]]&lt;ref&gt;[http://www.mlit.go.jp/report/press/kouku03_hh_000244.html 日本・米国航空当局間協議の結果について]&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;[http://www.regulations.gov/contentStreamer?documentId=DOT-OST-2016-0048-0083&amp;attachmentNumber=1&amp;disposition=attachment&amp;contentType=pdf United States. Department of Transportation.  &quot;2016 U.S.-Haneda combination services allocation proceeding. Final order.&quot;  September 1, 2016.]&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;[http://www.mlit.go.jp/common/001129249.pdf 日米路線に係る羽田空港国際線発着枠の配分]&lt;/ref&gt;<br /> | 2016年2月16日~18日 || 5 || 3 || 2 || 5 || [[サンフランシスコ国際空港]], [[ロサンジェルス国際空港]], [[ミネアポリス・セントポール国際空港]], [[ホノルル国際空港]]<br /> |-<br /> ! 合計 !! !! 21 !! 14 !! 7 !! 20 !! <br /> |}<br /> 国交省はJAL経営再建の過程で両社の財務体質に格差が生じたため、発着枠の配分によって是正する必要があると判断し、発着枠の(ANAへの)傾斜配分&lt;ref&gt;再拡張前の国際チャーター便、および2010年10月の配分では、国際線発着枠は双方同数であった。&lt;/ref&gt; を行った。会見した国交省の平岡成哲航空事業課長は、行政が現在の状況を放置すれば、航空業界の中期的な競争環境に歪みが生じる恐れがあるため、発着枠の傾斜配分によって是正すると説明している&lt;ref&gt;[http://jp.reuters.com/article/topNews/idJPTYE99106420131002 「羽田の国際線発着枠はANAに傾斜配分 JALは反発」] ロイター 2013年 10月 2日 19:26 JST&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> また、アメリカ合衆国とは2012年(平成24年)4月の非公式会談以来、路線開設に向け複数回航空交渉を行っているが、交渉は暗礁に乗り上げていた。その理由は、米国の3大航空会社のうち、デルタ航空とユナイテッド航空が路線開設に消極的なため、米当局が本腰を入れて交渉しないことにある&lt;ref&gt;[http://diamond.jp/articles/-/40454 米国との航空交渉が難航で羽田国際化“離陸”の視界不良 週刊ダイヤモンド 2013年8月22日]&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> デルタ航空は、成田空港を[[ハブ空港]]として、1日25便を運航しているため、羽田空港に2~3便運航しても、基地コストの負担増や旅客の股裂きが起こることと、日本に提携先がいないため、競争上不利なことを懸念している。一方ユナイテッド航空は、米当局が(日本に提携先のない)デルタ航空を優遇するため、配分において不利との懸念を持っている。<br /> <br /> 結局、2016年(平成28年)2月18日に、協議と合意がなされたが、これに先立ち、デルタ航空は声明を発表し&lt;ref&gt;[http://news.delta.com/us-japan-talks-risk-delta-flights-tokyo-narita U.S., Japan talks risk Delta flights to Tokyo-Narita]&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;[http://www.travelvision.jp/news/detail.php?id=70908 デルタ、成田全線の運休示唆、羽田昼枠交渉に反論]&lt;/ref&gt;、交渉成立による成田撤退を示唆。合意後にも声明を発表し&lt;ref&gt;[http://delta.jp.mediaroom.com/index.php?s=43&amp;item=1429 日米航空交渉の合意を受けたデルタ航空のコメント]&lt;/ref&gt;、分析後に路線の調整を行う旨を明らかにしている。<br /> <br /> なお、発着枠の航空会社への配分であるが、「深夜早朝時間帯の双方4便を昼間時間帯に移行&lt;ref&gt;[http://www.mlit.go.jp/report/press/kouku03_hh_000244.html 日本・米国航空当局間協議の結果について 日米航空交渉の合意内容]&lt;/ref&gt;」とされていることから、現在の深夜早朝時間帯の配分(日本側が日本航空2便、全日空2便。アメリカ側がデルタ航空1便、ユナイテッド航空1便、ハワイアン航空1便、アメリカン航空1便&lt;ref&gt;[http://www.mlit.go.jp/report/press/kouku03_hh_000244.html 日本・米国航空当局間協議の結果について 日本・米国航空関係(旅客便一覧)第2頁]&lt;/ref&gt;)も移行されると思われる。そのため新規配分されるのは昼間時間帯1便/国、深夜早朝時間帯1便/国となる。<br /> <br /> ===== 成田縛り =====<br /> また2014年夏ダイヤから、国土交通省は成田空港から羽田空港への国際線の移管が過度に進まないよう「羽田に国際線を新しく就航させる場合は、成田の発着便も残すように」という「非公式の行政指導」があり、国際線羽田就航の各航空会社は、許認可権限を握る国土交通省が路線維持を強く求めたため、航空関係者は『&#039;&#039;&#039;成田縛り&#039;&#039;&#039;』と呼び「半ば[[義務]]づけられた暗黙の[[紳士協定]]」と受け止め、日本の航空会社は、[[コードシェア便]]や成田空港から相手国に対する新規就航地を新規開設して、高需要路線を羽田空港に移管できるよう対応していた。<br /> <br /> しかし外国の航空会社のなかには、収益上対応が出来ずに撤退を検討するところが出始め、相手国の航空当局や航空会社からの不満が出ている&lt;ref&gt;[http://tabiris.com/archives/naritashibari/ 「成田縛り」ルールは崩壊するか。ヴァージン撤退でANAがコードシェア失い、羽田運航ができなくなる?]&lt;/ref&gt;。2015年(平成27年)[[2月28日]]に、英国[[ヴァージン・アトランティック航空]]が成田-ロンドン線を廃止し、日本からの撤退をしたことにより、コードシェア先の[[全日本空輸]]の羽田 - ロンドン/ヒースロー線が「このルールに抵触する状況」となっている&lt;ref&gt;[http://bizmakoto.jp/makoto/articles/1502/12/news083.html ヴァージン航空の日本撤退で浮上した「成田縛り」とは何か?]&lt;/ref&gt;。さらに[[2017年]](平成29年)[[1月10日]]には、[[ルフトハンザドイツ航空]]が成田 - フランクフルト線を運休している。<br /> <br /> この「成田縛り」により発生した、[[エコノミークラス]]の余剰在庫が[[格安航空券]]の供給源ともなっていたが、「成田縛り」はヴァージンの日本路線撤退後、運用が曖昧なっており、2016年(平成28年)秋頃に緩和されたと言われ、これに伴い、座席の仕入単価が急騰したことが、格安[[旅行代理店]][[てるみくらぶ]]の[[倒産]]につながったとする意見もある&lt;ref&gt;{{Cite web |date=2017-3-31 |url=http://biz-journal.jp/2017/03/post_18529.html |title=てるみくらぶ、知られざる破綻の真相…呆れた放漫経営、国の「成田ルール」廃止で窮地 |publisher=[[Business Journal]] |accessdate=2017-4-11}}&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> ===== 効果 =====<br /> 「羽田空港の国際化の効果等に関する調査」&lt;ref&gt;[http://www.jterc.or.jp/document/130528_seminar.pdf 運輸政策研究所 研究報告会 2013年春 第33回](PDF)&lt;/ref&gt; によれば、2010年10月の国際化によって、地方での国際線利用が韓国・ソウルの[[仁川国際空港]]から羽田へ回帰する傾向が見られた&lt;ref&gt;[http://www.aviationwire.jp/archives/21063 羽田、国際化でハブ機能回復傾向 地方から乗り継ぎ増加]&lt;/ref&gt;。国際化により、羽田の利用は全国的に増加し、特に中国・四国と九州・沖縄からの旅客は仁川経由の割合が減少。仁川の利用割合は、中国・四国は10年が7%だったが、11年には3%に減少し、九州・沖縄では10年の15%が11年は8%とほぼ半減した。<br /> <br /> ==== 国内線 ====<br /> 2013年の配分では、評価期間中に日本航空の企業再建期間が含まれていたため、日航の評価が下がり、配分数が少なくなっている。また、優先的に配分を受けられる新規航空会社の分類が、増枠の時点で保有機材数が12機に達する見込みがない航空会社とされた。そのため、今回配分ではスターフライヤーのみが該当している。<br /> <br /> 国内線では、発着枠の増加により、飛行機の小型化、多路線化や多頻度化が可能となる。そのため大手航空会社は、2000年代後半以降に順次、国内線の幹線およびそれ以外の高需要路線で主力となっていた[[ボーイング747-400#747-400D型|ボーイング747-400D型機]]の運行を無くして、燃費などの効率が良い[[ボーイング777]]型機、[[ボーイング767]]型機を含めた、中・小型機の運航を増やしている。1機あたりの定員は減少するが、発着枠に余裕が出ることから、効率的な機材運用、コスト削減を目的としている。<br /> <br /> == 脚注 ==<br /> {{脚注ヘルプ}}<br /> {{Reflist}}<br /> <br /> == 参考文献 ==<br /> * 雑誌「[[エアライン (雑誌)|Airline]]」[[イカロス出版]] 各号 ほか<br /> <br /> == 関連項目 ==<br /> * [[首都圏第3空港構想]]<br /> <br /> == 外部リンク ==<br /> * [http://www.tokyo-airport-bldg.co.jp/ 羽田空港ターミナルBIG BIRD(日本空港ビルデング)Webサイト]<br /> * [http://www.pa.ktr.mlit.go.jp/haneda/ 国土交通省関東地方整備局 東京空港整備事務所ホームページ]<br /> * [http://www.mlit.go.jp/koku/04_outline/01_kuko/02_haneda/index.html 国土交通省航空局 羽田空港およびおよび首都圏第3空港について]<br /> <br /> {{デフォルトソート:はねたくうこうはつちやくわく}}<br /> [[Category:東京国際空港]]<br /> [[Category:航空機の運航]]</div> 2400:7800:4975:9200:F510:2F62:E709:419D
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