Warning : Undefined variable $type in /home/users/1/sub.jp-asate/web/wiki/extensions/HeadScript/HeadScript.php on line 3
Warning : "continue" targeting switch is equivalent to "break". Did you mean to use "continue 2"? in /home/users/1/sub.jp-asate/web/wiki/includes/json/FormatJson.php on line 297
Warning : Trying to access array offset on value of type bool in /home/users/1/sub.jp-asate/web/wiki/includes/Setup.php on line 660
Warning : session_name(): Session name cannot be changed after headers have already been sent in /home/users/1/sub.jp-asate/web/wiki/includes/Setup.php on line 834
Warning : ini_set(): Session ini settings cannot be changed after headers have already been sent in /home/users/1/sub.jp-asate/web/wiki/includes/session/PHPSessionHandler.php on line 126
Warning : ini_set(): Session ini settings cannot be changed after headers have already been sent in /home/users/1/sub.jp-asate/web/wiki/includes/session/PHPSessionHandler.php on line 127
Warning : session_cache_limiter(): Session cache limiter cannot be changed after headers have already been sent in /home/users/1/sub.jp-asate/web/wiki/includes/session/PHPSessionHandler.php on line 133
Warning : session_set_save_handler(): Session save handler cannot be changed after headers have already been sent in /home/users/1/sub.jp-asate/web/wiki/includes/session/PHPSessionHandler.php on line 140
Warning : "continue" targeting switch is equivalent to "break". Did you mean to use "continue 2"? in /home/users/1/sub.jp-asate/web/wiki/languages/LanguageConverter.php on line 773
Warning : Cannot modify header information - headers already sent by (output started at /home/users/1/sub.jp-asate/web/wiki/extensions/HeadScript/HeadScript.php:3) in /home/users/1/sub.jp-asate/web/wiki/includes/Feed.php on line 294
Warning : Cannot modify header information - headers already sent by (output started at /home/users/1/sub.jp-asate/web/wiki/extensions/HeadScript/HeadScript.php:3) in /home/users/1/sub.jp-asate/web/wiki/includes/Feed.php on line 300
Warning : Cannot modify header information - headers already sent by (output started at /home/users/1/sub.jp-asate/web/wiki/extensions/HeadScript/HeadScript.php:3) in /home/users/1/sub.jp-asate/web/wiki/includes/WebResponse.php on line 46
Warning : Cannot modify header information - headers already sent by (output started at /home/users/1/sub.jp-asate/web/wiki/extensions/HeadScript/HeadScript.php:3) in /home/users/1/sub.jp-asate/web/wiki/includes/WebResponse.php on line 46
Warning : Cannot modify header information - headers already sent by (output started at /home/users/1/sub.jp-asate/web/wiki/extensions/HeadScript/HeadScript.php:3) in /home/users/1/sub.jp-asate/web/wiki/includes/WebResponse.php on line 46
http:///mymemo.xyz/wiki/api.php?action=feedcontributions&user=2400%3A7800%3A4975%3A9200%3AD499%3A20FC%3AEFDC%3AF8FC&feedformat=atom
miniwiki - 利用者の投稿記録 [ja]
2024-05-10T00:07:28Z
利用者の投稿記録
MediaWiki 1.31.0
プロビデンスの目
2018-08-04T09:26:03Z
<p>2400:7800:4975:9200:D499:20FC:EFDC:F8FC: /* 使用 */</p>
<hr />
<div>{{複数の問題<br />
| 出典の明記 = 2016年10月<br />
| 大言壮語 = 2016年10月<br />
| 観点 = 2016年10月<br />
}}<br />
'''プロビデンスの目'''(プロビデンスのめ、{{Lang-en-short|Eye of Providence}})とは、[[目]]が描かれたキリスト教における[[意匠]]。[[プロビデンス]]は[[キリスト教]]の[[摂理 (神学)|摂理]]という意味で、'''神の全能の目'''({{Lang-en-short|all-seeing eye of God}})を意味する。[[光背]]や、[[三位一体]]の象徴である三角形としばしば組み合わせて用いられる。<br />
<br />
== 使用 ==<br />
[[中世]]から[[ルネサンス]]にかけて以降、[[三位一体]]の象徴としてデザインが用いられた。現在でも[[アメリカ合衆国の国章]]の裏面をはじめ町や大学の紋章、アメリカ合衆国ドルをはじめとする[[通貨]]のデザインで用いられている。<br />
<br />
<gallery><br />
ファイル:Catedral De Salta Ojo de la Providencia - Salta Cathedral All Seeing Eye.jpg|1882年に完成したアルゼンチンのサルタ大聖堂のプロビデンスの目<br />
ファイル:ChristianEyeOfProvidence.svg|[[キリスト教]]で用いられるプロビデンスの目のデザイン<br />
ファイル:Pontormo - Cena in Emmaus - Google Art Project.jpg|1525年に[[ヤコポ・ダ・ポントルモ]]の描いた[[エマオの晩餐]]。キリストの上にプロビデンスの目が描かれている。<br />
ファイル:Holy Trinity Column - Love.jpg|[[オロモウツの聖三位一体柱]]にあるレリーフ。愛の寓意を表し、プロビデンスの目を掲げている。<br />
ファイル:Allsehendes Auge am Tor des Aachener Dom.JPG|[[アーヘン大聖堂]]に施されたプロビデンスの目の装飾。下側に[[ローマ数字]]で「MDCCLXVI」(1766)と書かれている。<br />
ファイル:US Great Seal Reverse.svg|[[アメリカ合衆国の国章]]の裏面。未完成の[[ピラミッド]]の基部にローマ数字で「MDCCLXXVI」(1776)と書かれている。<br />
ファイル:QuoModoDeum.gif|[[錬金術]]で用いられるプロビデンスの目<br />
ファイル:Declaration of Human Rights.jpg|[[フランス人権宣言]]の版画<br />
ファイル:Coat of arms of the University of Chile.svg|[[チリ大学]]の校章<br />
ファイル:OneUSD both sides.png|1935年に採用された[[アメリカ合衆国]]の1[[アメリカ合衆国ドル|ドル]]紙幣。国章の裏面がデザインとして使われている。[[ラテン語]]で、右の[[白頭鷲]]の下部に「多くのものから一つに」、左の未完成のピラミッドの上部に「神は我々の企てを支持される」、下部に「時代の新しい秩序」とローマ数字で「MDCCLXXVI」(1776)と書かれている。<br />
ファイル:500-Hryvnia-Skovoroda-back.jpg|[[ウクライナ]]の500[[フリヴニャ]]紙幣の裏面<br />
ファイル:EEK-50krooni-front.jpg|[[エストニア]]の50[[クローン]]紙幣の表面。[[:en:Käina|Käina]]教会がデザインされている。<br />
ファイル:United-Nations-University-03.jpg|[[日本]]の[[青山通り]]沿いにある[[国際連合大学]]本部ビル。13階層のピラミッドと頂上の三角形に囲まれたプロビデンスの目を暗示する設計となっている。<br />
ファイル:IAO-logo.png|アメリカ情報認知局(IAO)のシンボルマーク<br />
</gallery><br />
<br />
== 陰謀論 ==<br />
[[ファイル:MasonicEyeOfProvidence.gif|thumb|初期のフリーメーソンリーで用いられたプロビデンスの目]]<br />
[[ファイル:SealOfTheUS Prototype.png|thumb|デュ・シミティエールが提案した国章案]]<br />
フリーメイソン陰謀論者やそれにまつわる[[都市伝説]]では、三角形に目を配したプロビデンスの目は[[フリーメイソン]]の象徴とされる。この紋章がUSドル紙幣に描かれていることはアメリカ合衆国がフリーメイソンの支配下にある証拠だ、と唱える者もいる。これらの[[図像学]]研究においては、プロビデンスの目は「神が全てを見通す目」だと考えている。未完成のピラミッド型の建造物の上で、まわりを栄光の光によって囲まれる三角形の目で監視する、という意味。神の目で人類を監視していることを示しているとされる。<br />
<br />
アメリカのドル札だけではなく、日本の[[千円紙幣|千円札]]を透かして見ると[[野口英世]]の左目と[[富士山]]の頂上付近が重なって見える様子が「プロビデンスの目」であり<ref>『ハローバイバイ・関暁夫の都市伝説』 竹書房、2006年、75頁、ISBN 9784812429488</ref>、[[日本銀行]]紋章も、フリーメイソンリーがアメリカ合衆国と同じく日本経済にも関与していると考察する者もいる<ref>武田了円 『日銀券は悪魔の隠し絵』 第一企画出版、1994年、ISBN 978-4887190207 </ref>。<br />
尚、[[野口英世]]は、[[ジョン・コールマン]]の著書[[三百人委員会]]会員のロックフェラー財団の研究員に属し貢献した。<br />
ロックフェラー財団は、福島県の野口の生家の保存を目的として「野口英世博士記念会」を設立し、現在は[[野口英世記念館]]となった。紙幣発行の[[日本銀行]]も資本の30%程度は非公表であるとし、同行は[[三百人委員会]]が保有している私有銀行であるとの陰謀論を唱える者もいる。また世界の紙幣発行のFRBも国有ではなく、[[三百人委員会]]の資本が入っているとしている。<br />
<br />
=== 陰謀論に対する反論 ===<br />
{{See also|アメリカ合衆国の国章}}<br />
ただし、プロビデンスの目自体のデザインは古くから教会建築などに用いられる一般的な紋章であり、国章選定の当時はフリーメーソンリーとの関連があるとは見られていなかった。また国章制定委員会のメンバーであったフリーメーソンは[[ベンジャミン・フランクリン]]のみである上、プロビデンスの目使用を提案したのは{{仮リンク|ピエール・デュ・シミティエール|en|Pierre Eugene du Simitiere}}であり、かれはメーソンではなかった。さらにこの委員会での国章制定は流れ、[[フランシス・ホプキンソン]]が提案したデザインを元にした{{仮リンク|ウィリアム・バートン|en|William Barton (heraldist)}}のデザインした案が最終案の雛形になった。ただしホプキンソン自身が提案した図案に階段ピラミッドはあるがプロビデンスの目はない。さらにこの際の委員会でも決定は行われず、正式決定が行われたのは1782年のことであった。ホプキンソンとバートン、正式決定に関与した{{仮リンク|チャールズ・トムソン|en|Charles Thomson}}らがフリーメーソンリーと関係があったという事実は確認されていない。紋章はその後いくつかの修正を経て現在に至っている。<br />
<br />
さらにフリーメーソンリーでもプロビデンスの目のデザインは用いていたが、1782年の国章制定以前に三角形と目によるプロビデンスの目が用いられたフリーメーソンの文書は存在していない。フリーメーソンリーが公式に三角形と目によるデザインに言及したのは{{仮リンク|トマス・スミス・ウェッブ|en|Thomas Smith Webb}}の著書による1797年のことである。フリーメーソンリーの複数のロッジはこれらの根拠をあげ、国章制定への関与や、この三角形に目を描いた紋章がフリーメーソンを表す紋章であることを否定している<ref>[http://freemasonry.bcy.ca/anti-masonry/anti-masonry02.html#eye_pyramid Grand Lodge of British Columbia and Yukon], ''Anti-masonry Frequently Asked Questions''</ref><ref>[http://www.freemasons-freemasonry.com/masonic_dollar.html Pietre-Stones Review of Freemasonry], ''The "Masonic" One Dollar: Fact or Fiction?'' by W.Bro. David Barrett</ref><ref>[http://www.msana.com/eyeinpyramid.asp Eye in the Pyramid] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20131115112010/http://msana.com/eyeinpyramid.asp |date=2013年11月15日 }}</ref>。<br />
<br />
また、[[イルミナティ]]の紋章であるとされることもあるが、[[大英博物館]]にあるイルミナティ文書の原本や、メンバーが使用していた場所のデザインにプロビデンスの目は存在していない<ref>[http://freemasonry.bcy.ca/anti-masonry/illuminatitexts.html]''The Bavarian Illuminati records''</ref>。<br />
<br />
さらには、日本銀行は法律上出資者に議決権がなく支配を目的とした株式の取得に意味がないこと、米国での連邦準備銀行は各地区銀行の出資によるもので資本構造は明快で不明な出資者による支配はないこと、金融監督により通貨供給量を管理する[[FRB]]・実際の紙幣を引き渡す各地区連邦準備銀行・紙幣を印刷する[[アメリカ合衆国財務省]]・市場操作により通貨の流通量の間接的な操作を行う[[連邦公開市場委員会]]を混同していること、香港のように[[香港上海銀行]]他中央銀行以外が長期間紙幣を発行し安定した紙幣の流通を実現している例があること、現在では直接の紙幣の流通残高をはるかに超える信用取引が実体経済を支えていること等から、紙幣発行に関する陰謀論は極めて稚拙なものであり容易に反論できる水準にすぎない。金融による支配についても同様に[[ロスチャイルド]]、[[ロックフェラー]]、[[ジョン・モルガン]]を混同したものが多い。<br />
<br />
== 脚注 ==<br />
{{脚注ヘルプ}}<br />
{{Reflist}}<br />
{{Christ-stub}}<br />
<br />
{{DEFAULTSORT:ふろひてんすのめ}}<br />
[[Category:シンボル]]<br />
[[Category:国章]]<br />
[[Category:目]]<br />
[[Category:陰謀論]]</div>
2400:7800:4975:9200:D499:20FC:EFDC:F8FC
関門海峡
2018-08-04T08:31:31Z
<p>2400:7800:4975:9200:D499:20FC:EFDC:F8FC: /* 関連項目 */</p>
<hr />
<div>[[ファイル:関門海峡空撮.JPG|thumb|right|航空機内から撮影した関門海峡。上が下関市、下が北九州市門司区]]<br />
[[ファイル:View_from_roof_of_Hinoyama_Station_(south)_4.jpg|thumb|right|関門海峡を望む(火の山駅より撮影)]]<br />
[[ファイル:kanmon-yakei.jpg|right|thumb|夜景(同上)]]<br />
[[File:KanmonStraits west 20130815 103803.jpg|thumb|手前は下関港本港地区、その奥に三菱重工業下関造船所、造船所左は船島(巌流島)(海峡ゆめタワーから撮影)]]<br />
[[File:Shimonoseki 15AUG2013 Yamaguchi Japan.jpg|thumb|手前の水路は本州と彦島を隔てる小瀬戸、左奥に関門海峡を挟んで北九州市が見える(海峡ゆめタワーから撮影)]]<br />
'''関門海峡'''(かんもんかいきょう)は[[本州]]の[[山口県]][[下関市]]と[[九州]]の[[福岡県]][[北九州市]]を隔てる[[海峡]]。名称は両岸の地名である、馬関(現在の下関市)の「関」と、門司(現在の北九州市[[門司区]])の「門」を取ったものである。'''穴戸海峡'''(あなとかいきょう)、'''馬関海峡'''(ばかんかいきょう)、'''下関海峡'''(しものせきかいきょう)とも称された<ref>『山口県の地名』平凡社、1980年、p.433</ref>。最深部は水深47m。潮流は大潮で最大10ノットを超えることもある。<br />
<br />
通過時には4ノット以上の速力を維持することが義務付けられている。本州と九州を隔てる水路を'''大瀬戸'''(おおせと)といい、[[彦島]]と本州を隔てる水路を'''小瀬戸'''(こせと)または'''小門海峡'''(おどかいきょう)という。大瀬戸の幅が約600mまで狭まる[[壇ノ浦]]と[[和布刈]]の間は'''早鞆の瀬戸'''(はやとものせと)という。<br />
<br />
一般には大瀬戸の下関と北九州市門司区の間を関門海峡と呼ぶ。なお、海運業界では下関市彦島の周囲を迂回する形で門司区 - [[小倉北区]] - [[戸畑区]] - [[若松区]]に抜けるルートが[[関門航路]]=関門海峡との認識である。<br />
<br />
2017年、山口県下関市と福岡県北九州市にまたがる42件が「『[[関門“ノスタルジック”海峡]]』〜時の停車場、近代化の記憶〜」として[[日本遺産]]に認定された。<br />
<br />
== 歴史 ==<br />
* 約6000年前 - 本州と九州が分断され、海峡が形成される。<br />
* [[1185年]]([[元暦]]2年/[[寿永]]4年)[[3月25日]] - [[壇ノ浦の戦い]]で[[安徳天皇]]が入水、[[平氏|平家一門]]が滅亡。<br />
* [[1592年]](文禄元年) - 明石(石井)与次兵衛の過失により関門海峡の暗礁で船が座礁したが、[[豊臣秀吉]]は危うく難をのがれ、与次兵衛はその責任をとって切腹した。それ以降、この場所を[[与次兵衛灘]]と言うようになった。与次兵衛灘はその後、浮世絵や講談、歌舞伎の題材になっており、[[フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト|シーボルト]]によるスケッチも残されている。<br />
* [[1612年]]([[慶長]]17年)[[5月13日]] - [[宮本武蔵]]と[[佐々木小次郎]]による[[巌流島]]での決闘が行われる。<br />
* [[1863年]]([[文久]]3年)[[7月16日]] - [[長州藩]]が馬関海峡を通過するアメリカ商船に砲撃を開始、翌年5月の[[下関戦争]](馬関戦争)の原因となる。<br />
* [[1895年]](明治28年)[[4月17日]] - [[日清戦争]]の講和条約([[下関条約]])が海峡に面した[[割烹]][[旅館]]「[[春帆楼]]」で調印。<br />
* [[1910年]](明治43年) - [[内務省]]が関門海峡第1期改良工事に着手。<br />
* [[1942年]](昭和17年)[[11月15日]] - [[関門トンネル (山陽本線)|関門鉄道トンネル]]が開通。<br />
* [[1945年]](昭和20年)[[3月27日]]から[[7月11日]] - [[B-29 (航空機)|B29]]による[[機雷戦|機雷敷設]]が行われる。日本近海に投下された機雷は推定11000とされ、そのうち約5,000個が関門海峡に投下された。現在も約1700が未処理であると推定されている<ref>{{Cite web|url=http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20141127-00000042-mai-soci|deadlinkdate=2018-06-15|accessdate=2014-11-27|archiveurl=https://web.archive.org/web/20141206042652/https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20141127-00000042-mai-soci|archivedate=2014-12-06|date=2014-11-27|title=<関門海峡>海中に眠る負の遺産 米軍機雷なお1700発 |publisher=毎日新聞}}</ref>。<br />
* [[1958年]](昭和33年)[[3月9日]] - [[関門トンネル (国道2号)|関門国道トンネル]]が供用を開始する。<br />
* [[1973年]](昭和48年)[[11月14日]] - [[高速道路]]の[[関門橋]]が供用を開始する。<br />
* [[1974年]](昭和49年)7月 - [[関門航路]]が[[港湾法]]による[[開発保全航路]]に指定される。<br />
* [[1975年]](昭和50年)[[3月10日]] - [[新幹線]]の[[新関門トンネル]]が供用を開始する。<br />
* [[2017年]](平成29年)[[山口県]][[下関市]]と[[福岡県]][[北九州市]]にまたがる42件が「関門“ノスタルジック”海峡<ref>{{Cite web|url=https://www.japanheritage-kannmon.jp/|title=日本遺産 関門ノスタルジック海峡|accessdate=2018-05-21|website=www.japanheritage-kannmon.jp|language=ja}}</ref>」〜時の停車場、近代化の記憶〜として[[日本遺産]]に認定される。<br />
<br />
== 交通 ==<br />
[[ファイル:関門海峡・Kanmon.JPG|thumb|right|関門橋の直下を航行する船舶]]<br />
[[ファイル:KANMON Kisen that sails between vessels Yamaguchi,JAPAN.jpg|thumb|right|両岸を結ぶ小型船(左下)は、行き交う大型船の間を縫って航行している。]]<br />
[[ファイル:Kanmonkyo Bridge 01.JPG|thumb|right|陸上交通の一端を担う関門橋]]<br />
=== 海上交通 ===<br />
[[工業地帯]]の集中する[[瀬戸内海]]と、[[東シナ海]]を挟んで[[中華人民共和国|中国]]や[[大韓民国|韓国]]などとの往来には、近傍に適当な海路がないことから関門海峡の通過が不可欠であるなど、重要な航路の一つとなっている。<br />
<br />
一方、海峡の狭さ、潮流の速さ・向き(潮の[[干満]]により1日4回[[潮流]]の向きが変わる)、船舶通航量の多さ、航路の複雑さ(関門航路は筆記体の「[[V]]」の字)から、日本国内に7箇所設置されている[[海上交通センター]]「関門マーチス」が置かれている。なお、海峡を通過する船舶は[[水先人|水先案内人]](パイロット)の同乗が義務づけられている。さらに、[[潮流放送]](ひのやました)、[[潮流信号所]](部埼、火ノ山下、台場鼻)、AISが設置されており、潮流による事故を防止するための情報提供がされている。<br />
<br />
関門海峡を含む全長約50kmの区間が、全国に15箇所ある開発保全航路のひとつ「関門航路」に指定されており、[[国土交通省]][[九州地方整備局]]が整備を行なっている。2016年現在の航路の水深は12mで、船舶の大型化に対応するため2034年完了予定で水深14m化事業が行われている<ref>[http://www.qsr.mlit.go.jp/s_top/jigyo-hyoka/160921/shiryou5_kanmonkouro.pdf 関門航路 開発保全航路整備事業(平成28年度 第3回 九州地方整備局 事業評価監視委員会)]</ref>。[[浚渫]](航行に支障になる堆積物の除去)と(事故等による)油回収に機動的に対応するために、専用の船舶である「[[海翔丸]]」が九州地方整備局関門航路事務所に配備されている。<br />
<br />
海峡を横断する航路は、本州と九州を結ぶ陸上交通(トンネルおよび橋)が無い頃は主要な交通機関であったが、それらが供用されたのちは両岸を結ぶ限定的な交通として機能している。また、遊覧目的の観光利用も見られる。<br />
<br />
=== 陸上交通 ===<br />
海峡の狭さが故に、比較的早い段階から[[海底トンネル]]や[[橋]]が整備され、現在、海底トンネル3本、橋1本の合わせて4本のトンネルと橋梁が本州と九州をつないでいる。そのはしりと言える1942年の鉄道トンネル開通、1958年の[[国道2号]]のトンネル開通に伴って、[[鉄道]]や[[自動車]]により頻繁に往来が行われるようになった。以降、海峡両岸は強力に結びつけられ、下関市と北九州市ならびに両市の周辺地域は、海峡を跨いだ「[[関門都市圏]]」と呼ばれる一つの[[都市圏]]を形成している。<br />
<br />
一方、九州への鉄道や道路は関門海峡以外にないため、一度[[災害]]や大事故が発生し、鉄道や道路交通が海峡間で使用不能になると、その影響は計り知れない<ref>陸上交通の迂回路となりうる[[豊予海峡]]に橋梁またはトンネルを建設する構想があるが実現していない。</ref>。<br />
* 関門トンネル<br />
** [[関門トンネル (国道2号)|関門国道トンネル]] - [[一般国道]]([[国道2号]]、歩行者用トンネルも設置)<br />
** [[関門トンネル (山陽本線)|関門鉄道トンネル]] - [[在来線]]([[山陽本線]])<br />
** [[新関門トンネル]] - [[新幹線]]([[山陽新幹線]])<br />
* [[関門橋]] - 関門自動車道([[高速自動車国道]])<br />
<br />
=== 事故 ===<br />
海峡が狭く潮流も速いため、タンカーや[[貨物船]]などの事故が発生し、他の船舶の運航に支障をきたすことがある。<br />
<br />
[[国道2号]][[関門トンネル (国道2号)|関門トンネル]]では、交通事故が発生すると通行止めとなることがあり、この場合は[[関門橋]]が迂回路となる。また、関門橋は、強風などの気象条件により通行止めや速度規制が行われることがある。また、関門鉄道トンネル内で車両故障が発生したことにより同トンネルが不通となる事例や、当該列車内の乗客が長時間にわたり閉じ込められる事例が発生している。また、関門トンネルの大規模工事による長期通行止めの際に、台風等により関門橋が通行止めになったり、鉄道が運転見合わせになることによって、九州地方が事実上"孤立"状態になることもある。<br />
; 主な事故など<br />
* [[1953年]][[6月28日]] - 梅雨前線の影響で大雨となり、関門鉄道トンネルが水没した。死傷者は発生しなかったが、[[門司駅]]と[[下関駅]]の間は21日間にわたって不通となった(このときは、まだ運航していた国鉄[[関門連絡船]]が輸送を担った)。<br />
* [[2005年]][[3月20日]] - [[福岡県西方沖地震]]で北九州市で[[震度]]5弱、下関市で震度4の強い地震が発生したことから、海峡を横断するすべての陸上交通(関門鉄道トンネル・新関門トンネル・関門橋)が一時不通となった。なお、同年[[4月20日]]には同地震の最大余震となる震度4の地震が発生し、本震よりは影響は少なかったものの、下関と門司の間を結ぶ列車のダイヤが乱れた。<br />
* [[2006年]][[1月7日]] - 下関駅が[[放火]]され、[[下関駅放火事件|駅舎が全焼する]]。駅の通信設備も被害を受け、門司駅を発着する[[山陽本線]]の列車が[[小月駅]]までの間で不通となったほか、同線および[[日豊本線]]・[[鹿児島本線]]でもダイヤの乱れなどを発生させた。不通となった期間はバスによる代行輸送が行われ、2日後の[[1月9日]]に復旧した。<br />
* [[2009年]][[10月27日]] - [[海上自衛隊]]の[[護衛艦]]「[[くらま (護衛艦)|くらま]]」と韓国船籍の[[コンテナ船]]「[[カリナ・スター]]」が衝突し、双方が炎上する衝突事故が発生した。<br />
<br />
== 唱歌 ==<br />
[[1900年]](明治33年)に発表された[[大和田建樹]]作詞の『[[鉄道唱歌]]』第2集山陽九州編では、門司・下関と関門海峡を26番から30番までの5番で歌いこんでいる。なおこの当時[[山陽本線]]は私設鉄道の[[山陽鉄道]]の路線であり、さらには路線も下関まで開業しておらず三田尻駅(今の[[防府駅]])が終点で、九州へ本州から渡る客はその手前の[[徳山駅]]から航路で門司に出ていた。<br />
* 26.''少しくあとに立ちかえり 徳山港を船出して 二十里ゆけば豊前なる 門司の港につきにけり''<br />
* 27.''向(むかい)の岸は馬関にて 海上わずか二十町 瀬戸内海(うちうみ)の咽首を しめてあつむる船の数''<br />
* 28.''朝(あした)の帆影夕烟 西北さしてゆく船は 鳥も飛ばぬと音にきく 玄海洋(なだ)やわたるらん''<br />
* 29.''満ち引く汐も早鞆の 瀬戸と呼ばるる此(この)海は 源平両氏の古戦場 壇の浦とはこれぞかし''<br />
* 30.''世界にその名いと高き 馬関条約結びたる 春帆楼の跡といて 昔しのぶもおもしろや''<br />
<br />
== 脚注 ==<br />
{{脚注ヘルプ}}<br />
{{Reflist}}<br />
<br />
== 関連項目 ==<br />
{{Commons|Category:Kanmon Straits}}<br />
* [[関門港]] - [[下関港]]と[[北九州港]](門司港・新門司港・小倉港など)の法令上の総称。[[特定重要港湾]]。<br />
* [[巌流島]](船島)<br />
* [[唐戸]]<br />
* [[彦島]]<br />
* [[壇ノ浦]]([[赤間神宮]])<br />
* [[火の山 (山口県)]]<br />
* [[門司港レトロ]]<br />
* [[世界平和パゴダ]]<br />
* [[和布刈]]([[和布刈神社]]・[[和布刈公園]])<br />
* [[関門海峡花火大会]]<br />
* [[関門海峡ロープウェイ]]<br />
<br />
== 外部リンク ==<br />
* [http://www.pa.qsr.mlit.go.jp/kanmon/ 国土交通省九州地方整備局 関門航路事務所]<br />
* [http://www6.kaiho.mlit.go.jp/kanmon/ 第七管区海上保安本部 関門海峡海上交通センター](関門マーチス)<br />
** [http://www6.kaiho.mlit.go.jp/moji/rink_htm/anzen.htm 関門海峡航行参考図]<br />
<br />
{{Coor title dms|33|56|49|N|130|56|48|E|region:JP_type:waterbody|display=title|name=関門海峡}}<br />
{{DEFAULTSORT:かんもんかいきよう}}<br />
[[Category:日本の海峡]]<br />
[[Category:瀬戸内海]]<br />
[[Category:日本海]]<br />
[[Category:瀬戸内海国立公園]]<br />
[[Category:山口県の観光地]]<br />
[[Category:福岡県の観光地]]<br />
[[Category:山口県の地形]]<br />
[[Category:福岡県の地形]]<br />
[[Category:下関市の地理]]<br />
[[Category:門司区の地理]]<br />
[[Category:チョークポイント]]<br />
[[Category:日本の音風景100選]]</div>
2400:7800:4975:9200:D499:20FC:EFDC:F8FC
本州四国連絡橋
2018-08-03T07:24:53Z
<p>2400:7800:4975:9200:D499:20FC:EFDC:F8FC: /* 児島・坂出ルート */</p>
<hr />
<div>'''本州四国連絡橋'''(ほんしゅうしこくれんらくきょう)は、[[本州]]と[[四国]]を[[橋]]などで結ぶ[[道路]]・[[鉄道]]ルートである。<br />
<br />
[[本州四国連絡高速道路|本州四国連絡高速道路株式会社]]および独立行政法人[[日本高速道路保有・債務返済機構]]([[2005年]][[9月30日]]までは[[本州四国連絡橋公団]])が管理・運営し、以下の3ルートがある。 <br />
[[ファイル:Akashi Bridge.JPG|right|thumb|神戸・鳴門ルートの明石海峡大橋]]<br />
[[ファイル:Map of Honshu-Shikoku Bridge Project (ja).svg|thumb|right|3ルートの概念図。西から尾道・今治ルート(赤)・児島・坂出ルート(緑)・神戸・鳴門ルート(黄)]]<br />
<br />
;神戸・鳴門ルート(こうべ・なるとルート)<br />
:*全線開通:[[1998年]](平成10年)4月5日<br />
:*供用内容:[[神戸淡路鳴門自動車道]]<br />
:*通過市町村:兵庫県[[神戸市]]、[[淡路市]]、[[洲本市]]、[[南あわじ市]]、徳島県[[鳴門市]]<br />
:<br />
;児島・坂出ルート(こじま・さかいでルート、[[通称]]:[[瀬戸大橋]])<br />
:*全線開通:[[1988年]](昭和63年)4月10日<br />
:*供用内容:[[瀬戸中央自動車道]]、[[四国旅客鉄道]](JR四国)[[本四備讃線]]<br />
:*通過市町村:岡山県[[倉敷市]]、香川県[[坂出市]]<br />
:<br />
;尾道・今治ルート(おのみち・いまばりルート、通称:[[瀬戸内しまなみ海道]])<br />
:*全線開通:[[1999年]](平成11年)5月1日(生口島内の高速道路を除く)<br />
:*供用内容:[[西瀬戸自動車道]]、歩行者・自転車・原付専用道<br />
:*通過市町村:広島県[[尾道市]]、愛媛県[[今治市]]<br />
<br />
[[1999年]][[5月1日]]の尾道・今治ルートの開通をもって3ルートがそろい、事業としてはほぼ完成している。<br />
<br />
== 概要 ==<br />
[[ファイル:WaterPipeOfPearlBridge.jpg|thumb|180px|right|ライフライン(明石海峡大橋に敷設されている上水道)]]<br />
本州四国連絡橋は、[[四国]]4県の人々の人命を守る防災目的、物流・運輸・観光の時短目的等により、国が策定した[[国家プロジェクト]]である。<br />
<br />
道路としての神戸淡路鳴門自動車道・瀬戸中央自動車道・西瀬戸自動車道の3路線を[[本州四国連絡道路]]と総称し、本州四国連絡橋の最大の機能となっている。また、西瀬戸自動車道には歩行者・自転車・原動機付自転車(125cc以下)の専用道路も併設されている。<br />
<br />
鉄道は児島・坂出ルートのみにある。JR四国の本四備讃線(愛称:[[瀬戸大橋線]])として供用している部分(主に橋梁下部)は、日本高速道路保有・債務返済機構がJR四国に貸し付けている(ただし[[鉄道事業法]]第59条の規定で日本高速道路保有・債務返済機構には同法が適用されず、JR四国は[[鉄道事業者|第一種鉄道事業者]]となる)。なお、当初計画では神戸・鳴門ルートにも鉄道を通す予定だった。<br />
<br />
こうした道路機能・鉄道機能のほかに[[送電線]]・[[導水管]]・[[光ファイバーケーブル]]も敷設され、本州と四国を結ぶ[[ライフライン]]の機能も有している。<br />
<br />
本州-九州間は[[下関市]]と[[北九州市]][[門司区]]のいわゆる「[[関門海峡|関門]]」エリアでしか接続ができず、また四国-九州間は船舶というルートしかないということに比べれば、本州-四国間は複数の接続ルートを持つため、1つの道路が途絶してもほかでカバーでき、近畿・四国・中国が相互に行き来できる。<br />
<br />
=== 呼称 ===<br />
正式名称はプロジェクト名でもある「本州四国連絡橋」であるが、メディア等では様々な呼称で表現され以下の例がある。<br />
* 本四架橋(ほんしかきょう)<br />
* 本州四国架橋(ほんしゅうしこくかきょう)<br />
* 本四連絡橋(ほんしれんらくきょう)<br />
なお各々のルート毎や各橋毎の呼称も、様々に存在する。(各項を参照)<br />
<br />
== 沿革 ==<br />
=== 前史 ===<br />
* [[1889年]]([[明治]]22年)5月23日 香川県議会議員[[大久保じん之丞|大久保諶之丞]]が本四架橋の必要性をとなえる。<br />
**[[讃岐鉄道]]の開通式の席で本州と四国との間に橋を架ける構想を提案したのが、本州四国連絡橋構想の始めの一歩といわれている。<br />
* [[大正|大正時代]]には[[徳島県]]選出代議士の[[中川虎之助]]が「鳴門架橋に関する建議案」を[[国会]]に提出した。<br />
* [[昭和]]に入ると、[[神戸市|神戸]]市長の[[原口忠次郎]]が「明石海峡架橋構想」を固めた。<br />
<br />
=== 戦後 ===<br />
* [[1955年]](昭和30年)5月11日 [[日本国有鉄道|国鉄]][[宇高連絡船]]「[[紫雲丸]]」の海難事故([[紫雲丸事故#5度目の事故|紫雲丸事故]])。修学旅行の小学生など死者168名、これがきっかけで本四架橋の構想が具体化した。なお、紫雲丸は就航してから9年間に5回事故を起こし、2回の沈没で死者175名を出している。<br />
**この時期、[[伯方島]]木浦(きのうら)港沖の[[第十東予丸沈没事故]](死者397名)、[[生口島]][[瀬戸田港]]沖の[[第五北川丸沈没事故]](死者113名)、[[明石海峡]]での[[せきれい丸沈没事故]](死者304名)など旅客船の沈没事故が相次ぎ、多数の犠牲者が出ていた。重大事故が多発する背景として、戦後の混乱期で絶対的な船舶が足りず、少々の悪天候でも定員以上の乗客を乗せて運行していたことが挙げられる。<br />
* 先の事故を契機に各ルート沿線自治体で架橋推進協議会が発足し、架橋誘致運動が活発化。架橋協力預金制度や、キャンペーンのための歌や「架橋音頭」が作られた。なお、[[1954年]]の[[洞爺丸事故]]を含めて被害者救済が国会で議題となった結果、[[船客傷害賠償責任保険]]が整備された。<br />
* [[1959年]](昭和34年) 国鉄や[[建設省]]による調査開始。<br />
**建設省により明石・鳴門ルート(Aルート)、日比・高松ルート(Cルート)、児島・坂出ルート(Dルート)、尾道・今治ルート(Eルート)の4ルートで調査開始。その後、国鉄の宇野・高松ルート(Bルート)が加わり5ルートとなる。<br />
<br />
=== 着工へ ===<br />
その後激しい誘致合戦を経て、A,D,Eの3ルートに絞り込まれる。<br />
* [[1969年]](昭和44年) [[新全国総合開発計画]]に3ルートの建設が明記される。<br />
* [[1970年]](昭和45年)1月31日 閣議により、3ルートの実施設計調査を同時に着手する方針を決定する。<br />
* 1970年(昭和45年)5月 [[本州四国連絡橋公団法]]が成立する。<br />
* 1970年(昭和45年)7月1日 [[本州四国連絡橋公団]]が設立される。<br />
* 1970年(昭和45年)12月 [[建設大臣]]・[[運輸大臣]]による調査に関する基本計画が指示される。<br />
* [[1972年]](昭和47年) 調査報告書が提出される。<br />
* [[1973年]](昭和48年)9月 工事に関する基本計画が指示される。<br />
**3ルート、鉄道は2線(児島・坂出ルートは[[新幹線]]・[[在来線]]併設、明石・鳴門ルートは新幹線単独)。<br />
* 1973年(昭和48年)10月 3ルート(明石・鳴門ルートの[[大鳴門橋]]、児島・坂出ルートの[[南備讃瀬戸大橋]]・[[北備讃瀬戸大橋]]、尾道・今治ルートの[[因島大橋]]・[[大三島橋]])の起工式を11月25日と内定する。<br />
* 1973年10月26日 工事実施計画が認可される。<br />
<br />
=== 着工延期 ===<br />
この矢先に、オイルショックの影響による[[総需要抑制策]]で着工が延期される。<br />
* 1973年(昭和48年)10月 [[オイルショック]]が発生する。<br />
* 1973年(昭和48年)11月16日 石油緊急対策要綱を閣議決定し、以後「総需要抑制策」がとられる。<br />
* 1973年(昭和48年)11月20日 建設大臣より「着工延期」の指示が各自治体に下る。起工式の5日前の事であった。<br />
=== 部分着工へ ===<br />
その後1ルート3橋として進めることが決まり、順次事業化を手がける橋を拡大していった。<br />
* [[1975年]](昭和50年)8月 関係大臣により1ルート着工の方針が決まる。<br />
**「当面1ルートにつき、その早期完成を図る。右ルートは[[鉄道道路併用橋|鉄道併用橋]]とし、第三次[[全国総合開発計画]]において決定する。」<br />
* 1975年(昭和50年)8月18日 「1ルート3橋」の方針を決定する。<br />
**関係省庁決定<br />
**#大三島橋は着工の凍結を解除する。<br />
**#大鳴門橋は、従来の方針で諸般の準備を進める。<br />
**#因島大橋については、引き続き、着工時期について検討する。<br />
* 1975年(昭和50年)12月21日 大三島橋が着工される。<br />
* [[1976年]](昭和51年)7月2日 大鳴門橋が着工される。<br />
* 1976年(昭和51年)7月16日 因島大橋の着工準備が指示される。<br />
* [[1977年]](昭和52年)1月8日 因島大橋が着工される。<br />
* 1977年(昭和52年)4月 閣議了承により「1ルート」を決定する。<br />
**「当面早期完成を図る1ルートは、道路・鉄道併用橋とし、総合的観点から、児島・坂出ルートとすることを内定する。」(以下略)<br />
* 1977年(昭和52年)11月4日 「全国総合開発計画」が閣議決定される。<br />
**「本州・四国連絡ルートについては、当面、早期完成を図るルートとして児島~坂出ルートに道路・鉄道併用橋を建設することとし、環境影響調査等の結果を踏まえて事業を実施する。」<br />
* [[1978年]](昭和53年)10月10日 児島・坂出ルート全線が道路鉄道併用橋として着工される。<br />
* [[1983年]](昭和58年)5月 「[[第二次臨時行政調査会|臨調]]」が閣議決定される。<br />
**「本州四国連絡橋の建設は当面1ルート4橋に限定する。」<br />
* [[1985年]](昭和60年)8月 [[明石海峡大橋]]を道路単独橋とする方針が決定される。<br />
* 1985年(昭和60年)12月 明石海峡大橋と[[生口橋]]の事業化が追加決定される。<br />
* 1987年(昭和62年)12月 来島大橋の事業化が追加決定される。<br />
<br />
=== 一号橋完成 ===<br />
* [[1979年]](昭和54年)5月13日 全架橋で初めて、大三島橋が開通する。<br />
* [[1983年]](昭和58年)12月4日 因島大橋が開通する。<br />
* [[1985年]](昭和60年)6月8日 大鳴門橋が開通する。<br />
* [[1987年]](昭和62年) [[撫養橋]]が開通する。<br />
* [[1988年]](昭和63年) [[伯方・大島大橋]]が開通する。<br />
<br />
=== 本四つながる ===<br />
* '''1988年(昭和63年)4月10日 児島・坂出ルート(瀬戸大橋)が全面開通'''。<br />
**歴史上初めて本州と四国が事実上陸続きになった。[[皇太子]]夫妻(当時)を招き、香川県坂出市の[[与島]]で記念式典を開催。JR瀬戸大橋線は始発から営業開始、瀬戸中央自動車道は午後3時から供用開始。<br />
**これに先立つ4月3日には瀬戸大橋開通前イベントとして「瀬戸大橋[[ブリッジウォーク]]」を開催。10万人が参加し、正午には参加者全員で手をつなぎ本州と四国を約10kmの人の鎖で結んだ。<br />
**この年の3月には[[青函トンネル]]が開通しており、瀬戸大橋の開通をもって[[日本列島]]の4つの島が鉄道で結ばれた([[一本列島]])。<br />
* [[1991年]](平成3年) 生口橋が開通する。<br />
* [[1994年]](平成6年) [[電源開発]]により、本州と四国を結ぶ高圧電線(50万[[ボルト (単位)|V]])「[[本四連系線]]」が完成。<br />
* '''[[1998年]](平成10年)4月5日''' 明石海峡大橋が開通し、'''神戸・鳴門ルートが全面開通'''。<br />
* '''[[1999年]](平成11年)5月1日''' [[来島海峡大橋]]、[[多々羅大橋]]、[[新尾道大橋]]が開通し、'''尾道・今治ルート(瀬戸内しまなみ海道)が全面開通'''。但し、西瀬戸自動車道の一部区間で未供用となっていた。<br />
* [[2005年]](平成17年)10月1日 公団民営化により、本州四国連絡高速道路株式会社が発足。<br />
* 2006年(平成18年)4月29日 最後の未開通区間である、西瀬戸自動車道の生口島北IC~生口島南IC間(一般国道317号生口島道路)が開通し、西瀬戸自動車道が全線供用開始する。<br />
<br />
== 各ルート詳細 ==<br />
=== 神戸・鳴門ルート ===<br />
[[ファイル:Akashi-kaikyo bridge night shot small.jpg|thumb|right|明石海峡大橋(夜景)]]<br />
[[ファイル:Big Naruto Bridge04n3872.jpg|thumb|right|大鳴門橋]]<br />
[[ファイル:MinamiBisanSetoOhashi.jpg|thumb|right|南備讃瀬戸大橋(中央)と北備讃瀬戸大橋(左)]]<br />
[[ファイル:Kurushimakaikyou ohashi01.jpg|thumb|right|来島海峡大橋]]<br />
[[兵庫県]][[神戸市]][[垂水区]]舞子から[[徳島県]][[鳴門市]]に至る、全長89.0km(橋梁部6.5km)のルート。<br />
;橋梁<br />
:* [[明石海峡大橋]]([[吊り橋]])<br />
:* [[大鳴門橋]](吊り橋)<br />
:* [[撫養橋]]([[桁橋]])<br />
:<br />
;機能<br />
:* 道路([[神戸淡路鳴門自動車道]])<br />
:* [[上水道]]<br />
:* 未開通だが、大鳴門橋には[[新幹線]]を敷設するための設備がある(明石海峡大橋は非対応のため別に橋かトンネルが必要)。<br />
:<br />
;事業費<br />
:約1兆5000億円<br />
<br />
=== 児島・坂出ルート ===<br />
[[岡山県]][[倉敷市]]から[[香川県]][[坂出市]]に至る、全長37.3km(橋梁部9.4km)のルート。<br />
;橋梁<br />
:* [[下津井瀬戸大橋]](吊橋)<br />
:* [[櫃石島橋]]([[斜張橋]])<br />
:* [[岩黒島橋]](斜張橋)<br />
:* [[与島橋]]([[トラス橋]])<br />
:* [[北備讃瀬戸大橋]](吊橋)<br />
:* [[南備讃瀬戸大橋]](吊橋)<br />
:<br />
;機能<br />
:* 道路([[瀬戸中央自動車道]])<br />
:* 鉄道(JR[[本四備讃線]]) ※[[四国新幹線]]は計画のみ<br />
:* 送電線([[電源開発]] [[本四連系線]])<br />
;事業費<br />
:約1兆1700億円<br />
<br />
=== 尾道・今治ルート ===<br />
[[広島県]][[尾道市]]から[[愛媛県]][[今治市]]に至る、全長59.4km(橋梁部9.5km)のルート。<br />
;橋梁<br />
:* [[新尾道大橋]](斜張橋)・[[尾道大橋]](斜張橋)<br />
:* [[因島大橋]](吊橋)<br />
:* [[生口橋]](斜張橋)<br />
:* [[多々羅大橋]](斜張橋)<br />
:* [[大三島橋]]([[アーチ橋]])<br />
:* [[伯方・大島大橋]](吊橋)<br />
:* [[来島海峡第一大橋]](吊橋)<br />
:* [[来島海峡第二大橋]](吊橋)<br />
:* [[来島海峡第三大橋]](吊橋)<br />
:<br />
;機能<br />
:* 道路([[西瀬戸自動車道]])<br />
:* 道路(歩行者・自転車・原動機付自転車(125cc以下)の専用道路)<br />
;事業費<br />
:約7500億円<br />
<br />
== 参考資料 ==<br />
*藤川寛之著、財団法人交通研究協会発行『本州四国連絡橋のはなし-長大橋を架ける-』(成山堂書店、2002年、ISBN 4-425-76111-1)<br />
<br />
== 関連項目 ==<br />
* [[本州四国連絡高速道路]]<br />
* [[本四備讃線]]・[[瀬戸大橋線]] - JR鉄道路線の名称および愛称。<br />
* [[一本列島]]<br />
* [[四国新幹線]]<br />
* [[四国横断新幹線]]<br />
* [[紫雲丸事故]]<br />
* [[せきれい丸沈没事故]]<br />
* [[第五北川丸沈没事故]]<br />
* [[第十東予丸沈没事故]]<br />
* [[安芸灘諸島連絡架橋]](安芸灘とびしま海道)<br />
* [[日本の離島架橋]]<br />
<br />
== 外部リンク ==<br />
* [http://www.jb-honshi.co.jp/ JB本四高速] - 本州四国連絡高速道路(公式サイト)<br />
* [http://www.jr-shikoku.co.jp/ JR四国] - 四国旅客鉄道(公式サイト)<br />
<br />
[[Category:本州四国連絡道路の橋|*]]</div>
2400:7800:4975:9200:D499:20FC:EFDC:F8FC
本州四国連絡橋公団
2018-08-03T07:22:14Z
<p>2400:7800:4975:9200:D499:20FC:EFDC:F8FC: /* 財務及び会計 */</p>
<hr />
<div>{{Infobox 組織<br />
| 名称 = 本州四国連絡橋公団<br />''Honshu-Shikoku Bridge Authority''<br />
| 画像 = <br />
| 画像サイズ = <br />
| 画像説明 = <br />
| 略称 = 本四公団<br />
| 設立 = [[1970年]][[7月1日]]<br />
| 廃止 = [[2005年]][[9月30日]]<br />
| 種類 = [[道路]]、[[鉄道]]<br />
| 地位 = [[特殊法人]]<br />
| 目的 = <br />
| 本部 = [[兵庫県]][[神戸市]][[中央区 (神戸市)|中央区]][[小野柄通]]四丁目1番22号<br />
| 位置 = <br />
| 貢献 =<br />
| メンバー = <br />
| 言語 = <br />
| リーダー = <br />
| 人物 = <br />
| 機関 = <br />
| 設立者 = <br />
| 関連組織 = [[日本道路公団]]<br />[[日本鉄道建設公団]]<br />[[日本高速道路保有・債務返済機構]]<br />[[本州四国連絡高速道路]]<br />
| スタッフ = <br />
| ボランティア = <br />
| 予算 = <br />
| ウェブサイト = <br />
| 補足 = <br />
}}<br />
'''本州四国連絡橋公団'''(ほんしゅうしこくれんらくきょうこうだん、''Honshu-Shikoku Bridge Authority'')は、かつて存在した[[特殊法人]]。[[本州四国連絡橋公団法]]により、[[本州]]と[[四国]]の連絡橋に係る有料の[[道路]]及び[[鉄道]]の建設及び管理などを目的として[[1970年]](昭和45年)[[7月1日]]設立され、[[日本道路公団]]及び[[日本鉄道建設公団]]の本四連絡にかかる業務を引き継いだ。[[本州四国連絡道路]]を建設・管理していた。略称は本四公団。[[2005年]]([[平成]]17年)[[9月30日]]に日本道路公団等民営化関係法施行法により解散。業務は[[日本高速道路保有・債務返済機構]]ならびに[[本州四国連絡高速道路]]株式会社に引き継がれた。<br />
<br />
== 概要 ==<br />
=== 業務 ===<br />
[[国土交通大臣]]から指示された'''基本計画'''にしたがって、下記の業務をおこなった。<br />
*本州と四国を連絡する有料の[[一般国道]]の建設・管理<br />
*本州と四国を連絡する[[鉄道施設]]の建設・管理および[[鉄道事業者]]への有償貸与<br />
<br />
基本計画とは、具体的には以下の事項をいう(法施行令)。<br />
*一般国道 <br />
#路線名及び管理の区間<br />
#車線数<br />
#設計速度<br />
#連結位置及び連結予定施設<br />
#新設に関する工事に要する費用の概算額<br />
#その他必要な基本的事項 <br />
*鉄道施設<br />
#路線名<br />
#起点及び終点並びに主たる経過地<br />
#単線、複線等の別及び線路の規格<br />
#電化する路線にあつては、その旨<br />
#工事に要する費用の概算額<br />
#その他必要な基本的事項<br />
<br />
公団は、これらをふまえて策定した工事実施計画や道路にかかる料金及び料金の徴収期間につき、あらためて国土交通大臣の認可をうけ、建設・管理した。なお、本州四国連絡道路については、[[道路整備特別措置法]]によりいわゆる[[有料道路#維持管理有料制|維持管理有料制度]]が認められていた。<br />
<br />
== 沿革 ==<br />
「[[本州四国連絡橋]]」の事業そのものの歩みは同項目参照。<br />
<br />
*[[1970年]][[5月12日]] 根拠法成立<br />
*[[1970年]][[7月1日]] 設立<br />
*[[1988年]]7月 国の機関等移転の方針に基づき、公団が移転対象と決定<br />
*[[1989年]] 移転先が[[神戸市]]に決定<br />
*[[1995年]] [[特殊法人]]の整理合理化方針決まる<br />
:3ルートが概成した時点で現行の組織体制を見直す。<br />
:要員を大幅に削減する。<br />
:1996年度に予定されている本社の神戸移転に向けて必要な準備を進める。<br />
*[[1995年]]から[[1996年]]にかけて[[神戸市]]に本社移転<br />
*[[1997年]] 神戸移転(本社所在地の変更、関係法の施行)<br />
*[[2001年]] [[道路関係四公団]]の整理合理化方針決定。いわゆる「第三者機関」にて一体的に検討することになる。<br />
*[[2003年]][[5月12日]] 「本州四国連絡橋公団の債務の負担の軽減を図るために平成十五年度において緊急に講ずべき特別措置に関する法律」施行。公団債務2兆2,550億円の一部が、国の[[一般会計]](財源は[[自動車重量税]])において処理されることが決まる。<br />
*[[2005年]][[9月30日]] 民営化により、業務を[[日本高速道路保有・債務返済機構]]ならびに[[本州四国連絡高速道路]]株式会社に引き継ぎ、公団は解散した。<br />
<br />
==財務及び会計==<br />
公団は事業年度毎に国土交通大臣から、事業計画等の認可、財務諸表の承認をうけた。一方、資金の借入のほか、[[日本の高速道路]]には無い沿道の地方公共団体による負担金を受け取り、本州四国連絡橋[[債券]]の発行をおこない、[[日本国政府]]の[[債務保証]]が認められた。さらには道路の建設費につき、日本国政府による当分の間の無利子貸付もなされた。<br />
<br />
しかしながら本州四国連絡橋は、[[日本道路公団]]の全国料金プール制に組み込まれず、3ルートプール制を採用し、開通から30年の債務償還計画で返済する計画を策定したことから、超高額の高速料金になってしまい、通行量が当初予測より半分にも満たない状態になり、管理費と利子の一部だけを支払ったことから、当初の負債に利子が付いてしまって、利子が付いた債務が複利で増加したことで、2003年度には負債総額2兆2,550億円を経上し、本四公団の危機的な財務諸表が露わになった。<br />
<br />
2003年(平成15年)5月12日、上記の特別措置法により、政令で定める公団の債務の一部を一般会計において承継するという大なたが振るわれた。これにより国庫は1兆3,400億円を負担し、残りを[[日本高速道路保有・債務返済機構]]が返済する債務の組み替えを実施し、平成15年度末の資産合計は3.9兆円、負債合計は2.9兆円とされている。<br />
<br />
== 外部リンク ==<br />
* [http://www.jb-honshi.co.jp/ 本州四国連絡高速道路株式会社(JB本四高速)]<br />
* [http://www.jehdra.go.jp/ 独立行政法人 日本高速道路保有・債務返済機構(高速道路機構)]<br />
* [http://web.archive.org/*/www.hsba.go.jp/ インターネットアーカイブ - 本州四国連絡橋公団(hsba.go.jp)]<br />
<br />
{{本州四国連絡高速道路}}<br />
{{日本の高速道路}}<br />
{{デフォルトソート:ほんしゆうしこくれんらくきようこうたん}}<br />
[[Category:本州四国連絡道路|旧ほんしゆうしこくれんらくきようこうたん]]<br />
[[Category:公団]]<br />
[[Category:瀬戸内海の交通史]]</div>
2400:7800:4975:9200:D499:20FC:EFDC:F8FC
Warning : Cannot modify header information - headers already sent by (output started at /home/users/1/sub.jp-asate/web/wiki/extensions/HeadScript/HeadScript.php:3) in /home/users/1/sub.jp-asate/web/wiki/includes/WebResponse.php on line 46