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http:///mymemo.xyz/wiki/api.php?action=feedcontributions&user=2400%3A4133%3A9B77%3AFE00%3ACCA5%3A7FE0%3A1A5D%3A26E7&feedformat=atom
miniwiki - 利用者の投稿記録 [ja]
2024-05-10T16:51:36Z
利用者の投稿記録
MediaWiki 1.31.0
児玉誉士夫
2018-09-02T12:02:18Z
<p>2400:4133:9B77:FE00:CCA5:7FE0:1A5D:26E7: /* 終戦と「逆コース」 */</p>
<hr />
<div>{{Infobox 人物<br />
|氏名 = 児玉 誉士夫<br />
|ふりがな = こだま よしお<br />
|画像 = A Japanese Tragedy 1946 film (12) wmplayer 2013-04-09 19-27-49-090 R.jpg<br />
|画像サイズ = <!-- 省略値は180x180px --><br />
|画像説明 = 児玉誉士夫(映画『[[日本の悲劇 (1946年の映画)|日本の悲劇]]』より)<br />
|生年月日 = [[1911年]]2月18日<br />
|生誕地 = {{jpn}} 福島県<br />
|没年月日 = {{死亡年月日と没年齢|1911|02|18|1984|01|17}} <br />
|死没地 =<br />
|職業 =<br />
|出身校 = 京城商業専門学校<br/>[[日本大学皇道学院]]<br />
|父親 =<br />
|母親 =<br />
|配偶者 =<br />
|子供 = [[萩原吉太郎#脚注|児玉 博隆]](長男)、児玉 守弘(三男)<br />
|親戚 =<br />
}}<br />
<br />
'''児玉 誉士夫'''(こだま よしお、[[1911年]]([[明治]]44年)[[2月18日]] - [[1984年]]([[昭和]]59年)[[1月17日]])は、[[日本]]の[[右翼]]運動家。[[中央情報局|CIA]]エージェントであったという<ref>[http://www.archives.gov/iwg/declassified-records/rg-263-cia-records/second-release-name-files.html CIA Records - Name Files]</ref><ref name="Weiner">ティム・ワイナー「CIA秘録」文藝春秋</ref><ref>{{cite book |title=ドキュメント日商岩井 |publisher=徳間書店 |year=1979 |author=角間隆}}</ref><ref>{{cite book |title=自民党 その表と裹 |publisher=新日本出版社 |year=1963 |author=川端治}}</ref>。[[暴力団]]・[[稲川会|錦政会]]<ref group="注釈">後の稲川会。会長は[[稲川聖城|稲川裕芳]]で、後の稲川聖城</ref>顧問<ref name="Y">[[大下英治]]『首領 昭和闇の支配者 三巻』[[大和書房]]&lt;だいわ文庫&gt;、2006年、ISBN 978-4-479-30027-4 p.273</ref>。「'''政財界の黒幕'''」、「'''[[フィクサー]]'''」と呼ばれた。[[1960年]]、[[生前葬]]を行う。[[河野一郎]]や[[大野伴睦]]といった大物政治家が児玉のための葬儀に集まり、焼香した{{要出典|date=2015年6月12日}}。三男はTBSサービス<ref group="注釈">[[東京放送ホールディングス]](TBSHD)子会社</ref>社長の児玉守弘<ref group="注釈">こだま もりひろ、[[1943年]][[5月17日]] - </ref>。<br />
<br />
== 出生 ==<br />
戸籍上は、[[福島県]][[安達郡]][[本宮町 (福島県)|本宮町]](現[[本宮市]])中条45番地に生まれた<ref name="a">[[大下英治]]『黒幕 昭和闇の支配者 第1巻』[[大和書房]]&lt;だいわ文庫&gt;、2006年、ISBN 4-479-30018-X p.16</ref>。父の酉四郎の[[旧姓]]は山田といい、上杉家の家臣であった山田彦右衛門の子兵太夫が丹羽長重に仕え、以降、兵蔵-為貞-貞常-為英-為栄-為芳と続いた<ref>『二本松市史5近世Ⅱ』</ref>。祖父山田兵太夫は[[明治維新]]後、二本松の副[[参事]]になったが、父の代になって、同じ[[二本松藩]]の[[御典医]]児玉家から望まれて[[養子]]となったため、児玉姓にかわった<ref>『児玉誉士夫自伝 悪政・銃声・乱世』</ref>。ただし、これらの家系は後に児玉誉士夫自身によって作られた「設定」のようである。実際のところ、児玉誉士夫の出自は全く不明である。幼少時は酷い貧乏暮らしで、父親と二人で掘っ立て小屋に住んでいたとされる。7歳で母親を亡くし、8歳で[[朝鮮]]に住む親戚の家に預けられ、[[京城]]商業[[旧制専門学校|専門学校]]を卒業した後、来日して<ref group="注釈">[[日本大学]]皇道科を卒業したということになっている。</ref>[[向島 (墨田区)]]の鉄工所に住み込んだ。それからは様々な[[右翼団体]]を転々とすることになる。<br />
<br />
== 右翼活動==<br />
[[ファイル:1929 toyama mitsuru kodama yoshio genyosha meeting.jpg|250px|サムネイル|玄洋社の会合で[[中野正剛]](前列左)・頭山満(前列中央)らと(1929年・前列右から2人目が児玉)]]<br />
最初[[社会主義]]に傾倒したが、その後[[超国家主義]]に転じ、[[玄洋社]]の[[頭山満]]に私淑した。[[1929年]]には[[赤尾敏]]と津久井龍雄ら[[高畠素之]]門下によって創設された急進的な[[右翼団体]]「建国会」(会長は[[上杉慎吉]]、顧問に頭山)に加わった。すぐに[[昭和天皇]]に[[直訴]]しようとして捕まる。この'''天皇直訴事件'''で半年投獄された。<br />
<br />
その後、建国会を脱退した津久井の急進愛国党を経て1931年に津久井と狩野敏がつくった全日本愛国者共同闘争協議会に参加。そこで'''国会ビラ撒き事件'''や'''[[井上準之助]]蔵相脅迫事件'''を起こし投獄された。<br />
<br />
[[1932年]]に釈放され、[[満州]]に渡り、[[大川周明]]門下の笠木良明ら率いる[[大雄峯会]]に参加。同年、帰国すると「'''独立青年社'''」を設立。頭山満の三男頭山秀三が主宰する天行会と共に、陸軍特別大演習に随行する[[斎藤実|斎藤首相]]や閣僚を暗殺し発電所を破壊して停電を起こすことで皇道派の[[クーデター]]を誘発しようと計画(天行会・独立青年者事件)。発覚して、3年半の懲役刑を受けた。その後、'''[[笹川良一]]'''が結成した[[右翼団体]]·[[国粋大衆党]]<ref group="注釈">後の[[国粋同盟]]</ref>に参加。<br />
<br />
1937年、[[情報局|外務省情報部]]長[[河相達夫]]の知遇を得て、中国各地を視察<ref name="われかく戦えり">自著『われかく戦えり』[[広済堂出版]]、1975年、pp.321-327</ref>。1938年、海軍の嘱託となり、1941年から上海で児玉機関を運営し、それをきっかけに[[黒幕]]へのし上がっていく。<br />
== 児玉機関 ==<br />
[[File:1939 kodama yoshio wang jingwei.png|thumb|250px|児玉と[[汪兆銘]](1939年)]]<br />
[[1938年]]に[[日中戦争]]が始まった。翌1939年、[[外務省]]情報部の懇意の笹川の紹介で採用され、海軍航空本部の嘱託となった。ここで[[源田実]]と知り合い、戦後に源田が児玉に[[瀬島龍三]]を紹介した<ref>{{Cite book|和書|author=[[共同通信社]]社会部編|year=1999|title=沈黙のファイル : <small>「瀬島龍三」とは何だったのか</small>|publisher=新潮社|isbn=4-10-122421-8|page=47}}</ref>。[[1941年]]真珠湾攻撃の直前、海軍航空本部独自の物資調達の為に笹川が[[山縣正郷]]少将に紹介、その後任者が[[大西瀧治郎]]少将(当時)で、後に大西中将が自決する日まで、親しい間柄となる<ref group="注釈">大西中将が自決に使った刀は児玉が贈った物といわれる。</ref>。この縁で[[上海市|上海]]に'''児玉機関'''<ref group="注釈">[[右翼団体]]・[[大化会]]の村岡健次(後の[[暴力団]][[北星会]]会長・[[岡村吾一]])らが児玉機関で働いていた。中国人や満州人を銃で脅し、恐ろしく安い値で物資を獲得したため略奪と呼ばれた。他の部下には副機関長となった[[吉田彦太郎]]や[[岩田幸雄]]、[[藤吉男]]、[[許斐氏利]]ら[[右翼]]の無法者がそろった。<br />
:この類の「○○機関」は当時大陸において非常に多く、前述の表の仕事と比して裏の仕事として中国側へのスパイ活動、抗日スパイの検挙や殲滅等を請け負っていた。以下は里見機関と水田機関とに対する関係である。<br />
::・児玉は吉田彦太郎を[[里見甫]]のもとへ何度もやって、里見から中国の情報をもらっていた。里見が親しい人にこぼすには、こと中国の情報収集に関しては、児玉はだめだった。 竹森久朝 『見えざる政府-児玉誉士夫とその黒の人脈』 白石書店 1976年 P 70<br />
::・当初、現地で商事会社東光公司を経営していた'''[[水田光義]]'''の水田機関を通じて物資を調達していた。1943年、水田が暗殺される。</ref>と呼ばれる店を出した。これは、'''[[タングステン]]'''<ref group="注釈" name="scap">児玉のタングステン保有状況は、[[Office of Strategic Services|OSS]]の1943年12月14日付調査報告書に詳細な記述がある。<br />
:児玉は1948年の釈放後、'''東京レアメタル'''という会社を[[銀座]]に作った。目的は[[SCAP]]のためにタングステンとモリブデンを調達することだった。のちに大元産業と改称された。Glenn Davis and John G. Roberts 守山尚美訳 『軍隊なき占領-ウォール街が「戦後」を演出した』 新潮社 1996年12月 P 100<br />
::[[朝鮮戦争]]の頃、[[大久保利通#家族・子孫|大久保利春]]が代表取締役であった日本海商事は、東京レアメタルの輸送部門を請け負っていた。 竹森久朝 『見えざる政府-児玉誉士夫とその黒の人脈』 白石書店 1976年 P70-71<br />
<br />
そして児玉は、小松信之助という人物がCIAにタングステンを納入する契約書の保証人となっている。 1954年8月10日に報告された情報。CIA Name Files, the Second Release 2002, Yoshio Kodama.</ref>や[[ラジウム]]、[[コバルト]]、[[ニッケル]]などの戦略物資を買い上げ、海軍航空本部に納入する独占契約をもらっていた<ref group="注釈">児玉機関のような仕事はすでに[[三井財閥|三井]]、[[三菱財閥|三菱]]などの大企業が入っていたが即決主義で集めたため現地では重宝された。</ref>。よく、児玉はこの仕事で[[ダイヤモンド]]や[[白金|プラチナ]]など、'''1億7500万ドル相当の資金'''を有するに至ったと言われている<ref group="注釈">巣鴨拘置所での1947年4月21日付取調べによると、児玉機関の資産の総額は当時の日本円に換算して7000万円あったという。また、資産の2/3を吉田彦太郎に与えたとしている。<br />
:ただし、終戦時の資産評価額。[[有馬哲夫]]『児玉誉士夫-巨魁の昭和史』文春新書 2013年 p.82.</ref>。アメリカ陸軍情報局の報告では、児玉機関は鉄と塩および'''[[モリブデン]]'''<ref group="注釈" name="scap"/>鉱山を管轄下におさめ<ref group="注釈" name="mount" />、農場や養魚場、秘密兵器工場も運営。戦略物資、とくにタングステンを得るため、日本のヘロインを売っていた<ref>Glenn Davis and John G. Roberts 守山尚美訳 『軍隊なき占領-ウォール街が「戦後」を演出した』 新潮社 1996年12月 p.100.</ref>。<br />
<br />
児玉の行動について[[憲兵]]の監視はあったが、[[大西瀧治郎]]のような大物が庇護しているため逮捕してもすぐに釈放されるという結果となった。この間、[[1942年]]4月30日に行われた[[第21回衆議院議員総選挙]](いわゆる翼賛選挙)に5人当選区の東京5区から立候補をして8位落選をしている。<br />
<br />
=== 終戦と「逆コース」 ===<br />
[[ファイル:19460326 kodama yoshio.png|250px|サムネイル|戦犯として収容時のマグショット]]<br />
終戦を迎えた翌日、1945年8月16日に児玉と懇意にしていた大西が遺書を残し[[切腹|割腹自決]]した。児玉も急行し、駆けつけた児玉に「貴様がくれた刀が切れぬばかりにまた会えた。全てはその遺書に書いてある。[[厚木飛行場|厚木]]の[[小園安名|小園]]に軽挙妄動は慎めと大西が言っていたと伝えてくれ。」と話した。児玉も自決しようとすると大西は「馬鹿もん、貴様が死んで糞の役に立つか。若いもんは生きるんだよ。生きて新しい日本を作れ。」といさめた。<br />
<br />
終戦後、講和内閣の首班として[[東久邇宮稔彦王]]が組閣した時には東久邇宮自身は児玉を知らなかったが内閣参与となっていた{{要出典|date=2015年4月}}。1946年初頭、[[A級戦犯]]の疑いで占領軍に逮捕され、[[巣鴨拘置所|巣鴨プリズン]]に送られた。その間、[[アメリカ対日協議会|ジャパン・ロビー]]の暗躍により右翼をパージする[[SCAP]]の方針が批判され、アメリカの占領政策は協力的な戦犯を反共のために利用する「[[逆コース]]」を走るようになった。1948年12月24日に釈放されるが、そこで[[CIA]]に協力するようになったかが今でも議論されている<ref group="注釈">{{要出典|date=2014-11|「1948年末、釈放された児玉は中央情報局(CIA)に協力するようになった」と後にアメリカでも報道された}}という。しかし、1953年に記録され2005年に機密解除されたCIA文書で、児玉は次のように評されている。<br />
:諜報工作員としての価値は事実上ゼロ。職業的な嘘つき、ギャング、ペテン師、根っからの泥棒。……。実際の諜報工作技能は皆無であり、金儲け以外に関心がない。<br />
<br />
Edward Drea, Greg Bradsher, Robert Hanyok, James Lide, Michael Petersen, and Daqing Yang, ''[http://www.archives.gov/iwg/japanese-war-crimes/introductory-essays.pdf Researching Japanese War Crimes - Introductory Essays]'' (2006), p208</ref>。確かなのは、拘留中に[[昭和通商]]との関係を暴かれていたことと<ref>有馬哲夫『児玉誉士夫-巨魁の昭和史』文春新書 2013年 pp.67-80.</ref>、釈放後も続く調査で[[吉田彦太郎]]が児玉機関の所有した国内鉱山を明らかにしていること<ref group="注釈" name="mount">1948年6月4日の尋問。所有していたという鉱山は以下の通り。{{see also|日本の鉱山の一覧}}<br />
:山梨県 塩山 乙女鉱山(タングステン、モリブデン)<br />
:滋賀県 鮎川(ひょうたん石)<br />
:京都府 鐘打鉱山(タングステン)<br />
:福岡県 福岡鉱山(タングステン)<br />
:島根県 清久鉱山(モリブデン)<br />
:秋田県 平沢 北日本カーバイド社(タングステン鉄、モリブデン鉄)<br />
<br />
前掲書『児玉誉士夫-巨魁の昭和史』P.48.</ref>、そして後にCIAが、児玉を反共思想・軍閥構想の持ち主であると分析していること<ref group="注釈">1953年9月1日付報告書『日本人インテリジェント・サービス』が児玉の取り組んでいる課題とするものを4点掲げている。<br />
:・日本共産党を破壊し、共産主義の影響力をアジアから排除すること。<br />
:・日本を反共産主義連盟の主要国とすること。<br />
:・軍閥の再武装を通じて、国家主義的日本を再建すること。<br />
:・予想される日本共産党による流血革命に対抗する計画を練り、それに備えること。<br />
<br />
前掲書『児玉誉士夫-巨魁の昭和史』p.128.</ref>である。この間に[[公職追放]]となった<ref>{{citation<br />
| 和書<br />
| title = 公職追放に関する覚書該当者名簿<br />
| editor = 総理庁官房監査課<br />
| publisher = 日比谷政経会<br />
| year = 1949<br />
| id = {{NDLJP|1276156}}<br />
| page = [{{NDLDC|1276156/453}} 269]<br />
| ref = harv<br />
}}</ref>。<br />
<br />
=== 「フィクサー」へ ===<br />
[[ファイル:Kodama Hatoyama Miki.JPG|250px|サムネイル|児玉邸にて政治家たちと密談(1953年)<BR /><SUB>前列左側が児玉、後列左から[[廣川弘禅]]・[[鳩山一郎]]・[[三木武吉]]。</SUB>]]児玉は児玉機関が管理してきた旧海軍の在留資産をもって上海から引き上げていた<ref group="注釈">戦時犯罪の疑いをかけられたくなかった海軍は児玉に処分を依頼。この海軍の秘密資金を[[米内光政]]海相の了承を得て掌中にしていた。旧海軍の資産のためアメリカも没収せずに、宙に浮いた。そして吉田彦太郎の管理する緑産業ビル地下に隠匿。後の[[本州製紙]]本社所在地。</ref>。児玉は、[[巣鴨拘置所]]に共にいた'''[[辻嘉六]]'''<ref group="注釈">[[北一輝]]、[[大川周明]]と並ぶ右翼のボス。[[児玉源太郎]]の私設秘書であった。[[政友会]]系の黒幕として隠然たる影響力を持った。児玉の出所3日前に病死。 春名幹男 『秘密のファイル : CIAの対日工作』 上巻 共同通信社 2000年 p.264{{see also|隠退蔵物資事件}}</ref>に勧められて、1946年初頭、逮捕される直前に、この資金の一部を鳩山ブランドの[[日本民主党]](鳩山民主党)の結党資金として提供した。<br />
<br />
[[1950年]]、北炭[[夕張炭鉱]]の労組弾圧のため'''明楽組'''を組織して送り込んだ<ref group="注釈">「あきらぐみ」と読む。{{see also|萩原吉太郎}}</ref>。G2<ref group="注釈">アメリカ諜報担当・[[参謀第2部]]。{{see also|キャノン機関}}</ref>と多くの暴力団の中心的仲介者としての地位を築き、十数年後には児玉は来たるべき闘争に備えて[[右翼]]の結集を目論んだ。暴力団との仲介には児玉機関にいた[[岡村吾一|村岡健次]]が大きな役割を果たすことになる。<br />
<br />
== 岸信介 ==<br />
[[Image:Nobusuke Kishi Dec 14, 1956.jpg|200px|thumb|right|岸信介]]<br />
[[1954年]]には、[[河野一郎]]を総理大臣にする画策に力を貸した。[[1955年]]には[[自由党 (日本 1950-1955)|自由党]](緒方自由党)と合併して[[自由民主党 (日本)|自民党]]になった後も緊密な関係を保ち、長らく最も大きな影響力を行使できる[[フィクサー]]([[黒幕]])として君臨した。'''[[岸信介]]'''が首相になる際にもその力を行使した。<br />
<br />
岸首相の第1次FX問題をめぐる汚職を[[日本社会党|社会党]]の[[今澄勇]]が追及していた時には等々力の児玉の私邸へ二度も呼び、児玉は追及をやめるように説得した。しかし、今澄が聞き入れないため、身上調書を渡した。それには今澄の政治資金の出所、その額、使っている料理屋、付き合っている女が全て書かれていた。児玉は[[東京スポーツ]]を所有する他<ref group="注釈">[[町井久之]]ともに[[芸能|芸能界]]とのつながりも深く、特に[[三田佳子]]と親しい。 「芸能界新興勢力の首領 バーニング・プロ社長の『実力』研究」 p.18</ref>に、腹心をいくつもの雑誌社の役員に送り込んでいた。それらに書き立てられることは脅威となった。<br />
<br />
[[Image:Eisenhower in the Oval Office.jpg|thumb|right|160px|ドワイト・D・アイゼンハワー]]<br />
[[日米安保条約]]改定のため党内協力が必要となった岸信介は[[1959年]]1月16日、次期総理大臣を党人派の[[大野伴睦]]に譲り渡す誓約をした<ref group="注釈">{{see also|永田雅一}}</ref>。その立会人が児玉であり、河野一郎や佐藤栄作も署名した誓約書が残されている。改定に反対する'''[[安保闘争]]'''<ref group="注釈">1959年(昭和34年)から1960年(昭和35年)の第一波。[[ドワイト・D・アイゼンハワー|アイゼンハワー]][[アメリカ合衆国大統領|大統領]]の訪日を日本政府に中止させた。</ref>を阻止するため、岸信介首相は[[自由民主党 (日本)|自民党]]の[[木村篤太郎]]らにヤクザ・右翼を動員させたが<ref group="注釈">警察の動員数では大統領の移動経路を確保できなかった。</ref>、児玉はその世話役も務めた<ref group="注釈">このとき自民党からは6億円前後の資金が提供されていたが、右翼と暴力団の間で行方不明となった。児玉らは嫌疑をかけられ真相究明会まで設けられたが、いつしか沙汰やみになった。 竹森久朝 『見えざる政府-児玉誉士夫とその黒の人脈』 白石書店 1976年 P 79-80</ref>。<br />
<br />
[[1962年]](昭和37年)の夏頃から、「(安保闘争のような)一朝有事に備えて、全国博徒の親睦と大同団結のもとに、反共の防波堤となる強固な組織を作る」という構想のもと、児玉誉士夫は東亜同友会の結成を試みた。結局、同会は結成されなかった。しかし、[[稲川会|錦政会]]・[[稲川聖城|稲川裕芳]]会長、[[北星会]]・[[岡村吾一]]会長、[[東声会]]・'''[[町井久之]]'''会長らの同意を取り付けていた。昭和38年([[1963年]])には、関東と関西の暴力団の手打ちを進め、三代目[[山口組]]・[[田岡一雄]]組長と町井会長との「兄弟盃<ref group="注釈">田岡を兄とする</ref>」を実現させた。<br />
<br />
== 裏社会活動 ==<br />
60年代初期には15万人以上の会員がいた日本最大の[[右翼団体]][[全日本愛国者団体会議]]([[全愛会議]])を支える指導者の一人であった<ref group="注釈">顧問には日本国粋会、松葉会、義人党などの親分がいた。実名では[[天野辰夫]]や[[橘孝三郎]]、[[小沼正]]、[[佐郷屋留雄]]、[[笹川良一]]、[[三浦義一]]らがいた。全愛会議はスト破りや組合潰しを暴力で行った。</ref>。1961年、この全愛会議内に児玉に忠実な活動グループ'''青年思想研究会(青思研)'''が誕生した<ref group="注釈">[[日乃丸青年隊]]の[[高橋正義]]を議長とし、下部組織には[[住吉会]]系の元組長や[[東声会]]の[[町井久之]]が代表を務める組織があった。新潟県の山中で軍事訓練を行い、児玉は訓練後、「君達各人が一人一殺ではなく一人で百人を殺してくれることを望む」と会員に語った。青思会は日本最大の行動右翼として児玉に反目する者を恐れさせた。{{see also|三和銀行#脚注}}</ref>。60年代終わりには青思研を全愛会議から脱退させた。<br />
<br />
[[1967年]]7月、笹川良一の肝煎りで、「第一回[[世界自由民主連盟|アジア反共連盟]]<ref group="注釈">世界反共連盟の地域団体。後に[[統一教会]]系の[[反共]]団体・[[国際勝共連合]]の設立につながる。「[[朝日ジャーナル]]」によれば、米国では、[[文鮮明]]-児玉誉士夫-笹川良一などを通ずる関係が、米下院国際機関小委員会(フレーザー委員会。委員長はドナルド・M・フレーザー民主党議員)での証言で明らかになっている。</ref>結成準備会」が開催された<ref group="注釈">山梨県本栖湖畔にある全日本モーターボート競走連合会の施設で開催。</ref>。この時、市倉徳三郎、統一教会の劉孝之らが集まったが、児玉も自分の代理として白井為雄を参加させた。<br />
<br />
1969年、青思研より独立した右翼団体[[日本青年社]]<ref group="注釈">前身は楠皇道隊</ref>が結成。これは[[ヤクザ]]と見分けが付かない[[任侠右翼]]の始まりであった。<br />
<br />
児玉は[[1965年]]の[[日本国と大韓民国との間の基本関係に関する条約|日韓国交回復]]にも積極的な役割を果たした。国交回復が実現し、5億ドルの対日賠償資金が供与されると、韓国には日本企業が進出し、利権が渦巻いていた。児玉誉士夫もこの頃からしばしば訪韓して朴政権要人と会い、日本企業やヤクザのフィクサーとして利益を得た。児玉だけではない。元[[満州国]]軍将校、のちに韓国大統領となる[[朴正煕]]<ref group="注釈">朴政権の政策には[[統一教会]]が呼応し、[[安岡正篤]]が共鳴した。</ref>とは満州人脈が形成され、岸信介<ref group="注釈">[[統一教会]]に大変賛同的であったことは有名である。</ref>、[[椎名悦三郎]]らの政治家や元[[大本営]]参謀で商社役員の[[瀬島龍三]]が日韓協力委員会まで作って、韓国利権に走った。<br />
<br />
日本国内では企業間の紛争にしばしば介入した。1972年[[河本敏夫]]率いる[[三光汽船]]は'''[[ジャパンライン]]'''の乗っ取りを計画して同社株の買占めを進めた。困惑したジャパンラインの[[土屋研一]]は児玉<ref group="注釈">当時[[銀座]]4丁目の雑居ビルに事務所を構えていた。</ref>に事件の解決を依頼した<ref group="注釈">報酬は現金1億円だった。</ref>。しかし、児玉が圧力をかけても、河本はなかなかいうことを聞かなかった。そこで、児玉は[[そごう]]会長の[[水島廣雄]]に調停を依頼。水島の協力により、河本は買い占めた株の売却に同意する。児玉は水島に謝礼として1億円相当のダイヤモンドを贈った。こうして児玉の支配下に収まったジャパンラインは、[[昭和石油]]の子会社だった[[日本精蝋]]を1974年夏に買収した<ref group="注釈">日本精蝋では太刀川恒夫が役員に名を連ねたこともある。 竹森久朝 『見えざる政府-児玉誉士夫とその黒の人脈』 白石書店 1976年 P 160</ref><ref group="注釈">児玉が介入した乗っ取り事件は数多い。<br />
:・例えば[[野村證券]]社長の[[瀬川美能留]]から莫大な資金提供を受けていた。<br />
:・[[1973年]]には粉飾決算に揺れる[[殖産住宅相互]]株式会社の株主総会乗り切りに絡んで、同社長の東郷民安から児玉や、配下の[[岡村吾一]]に金銭が渡っている。{{see also|総会屋#総会屋の歴史|神戸製鋼所#政治的問題|M資金}}<br />
:・他にも[[インドネシア]]への政府開発援助では[[東日貿易]]秘書として[[スカルノ]]大統領の夜の相手に選ばれたクラブホステス根元七保子([[源氏名]]はデビ、後の[[デヴィ・スカルノ|デヴィ夫人]])を送り込んで荒稼ぎをしている。</ref>。<br />
<br />
児玉が圧力をかける時は今澄のときのように傘下のメディアを駆使した。利用された大手メディアに'''[[博報堂]]'''がある。その中に児玉は次の二つの目的を持ったセクションを作った。一つは、博報堂の取引先を児玉系列に組み込む。もう一つは、その系列化された企業に持ち込まれるクレームを利用してマスコミを操作し、なびかないメディアには広告依頼を回さない<ref group="注釈">博報堂ルート以外でも言論に圧力をかけた例は数多い。悪事を書き立てる[[正論新聞]]を黙らせるため、[[巽産業]]株式会社代表取締役[[石井唯博]](後の[[稲川会]]会長[[石井隆匡|石井進]])を送り込んだこともあった。{{see also|藤原弘達#創価学会・公明党に対する批判}}</ref>。このセクションは広告会社として品位に欠けた。そこで、当時の博報堂の持ち株会社であった'''伸和'''<ref group="注釈">1960年10月設立。現在の実質的な持ち株会社は博報児童教育振興会。</ref>の商号を、1975年に'''博報堂コンサルタント'''へ変えて、また、定款にも「企業経営ならびに人事に関するコンサルタント業務」の項目を加えて、この元親会社に業務を請け負わせた<ref group="注釈">主として[[電通]]が宣伝広告部門で独占契約をしている企業を標的にした。[[三越]]、[[味の素]]などは、広告部門の一部を博報堂に割かねばならなかった。 竹森久朝 『見えざる政府-児玉誉士夫とその黒の人脈』 白石書店 1976年 P 169-170<br />
:なお、電通は[[里見甫]]との関係が論じられている。</ref>。役員は、広田隆一郎社長の他に、町田欣一、山本弁介、'''太刀川恒夫'''が重役として名を連ねた。広田は、福井純一<ref group="注釈">1972年11月30日に社長就任。9日前に「亜土」という会社を設立。資本金は200万円。のちに博報堂の株式30.6%を所有するトンネル会社となる。株式保有の過程に特別背任容疑をかけられ、1975年11月27日に福井は東京地検特捜部に逮捕された。</ref>博報堂社長の大学時代ラグビー関係者で、警視庁が関西系暴力団の準構成員としてマークしていた人物。町田は、元警察庁刑事部主幹。山本は元[[日本放送協会|NHK]]政治部記者。太刀川は[[塚本素山ビル]]の等々力産業社長で児玉側近の第一人者であった<ref>竹森久朝 『見えざる政府-児玉誉士夫とその黒の人脈』 白石書店 1976年 P 167-169</ref>。<br />
<br />
== ロッキード事件 ==<br />
[[ロッキード事件]]と児玉の関わりは、しばしばロッキード社または日本の政界という事件の帰着点ばかりが焦点化して報道・出版される傾向がある。しかし、ロッキード社が児玉へ秘密送金する窓口として、元[[Office of Strategic Services|OSS]] 員が社長だった[[:en:Goldline International|ディーク・ペレラ社]]を利用したという興味深い事実がある<ref>[http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/077/0380/07702170380015a.html 衆議院会議録情報 第077回国会 予算委員会 第15号] 1976/2/17</ref>。ディークは外国為替と貴金属取引に特化した企業であるが、21世紀に数件の訴訟を提起されている。その一方、今日ヨーロッパでは[[HSBC]]や[[ドイツ銀行]]がやはり外国為替と貴金属取引をめぐり不祥事を露呈している。<br />
<br />
=== ロッキード社の秘密代理人 ===<br />
児玉はすでに[[1958年]]([[昭和]]33年)から[[ロッキード・マーティン|ロッキード社]]の秘密代理人となり、日本政府に同社の[[F-104 (戦闘機)|F-104]]“スターファイター”戦闘機を選定させる工作をしていた。児玉が働きかけた政府側の人間は自民党の[[大野伴睦]]、[[河野一郎]]、[[岸信介]]らであった。[[1960年]]代末の契約が更新され、韓国も含まれるようになった。児玉は親しい仲にあった韓国の朴政権にロッキード社のジェット戦闘機を選定するよう働きかけていたのである。韓国に対する影響力の大きさが窺える。しかし、この頃、大野も河野も死亡しており、新しい総理大臣の[[佐藤栄作]]や[[田中角栄]]にはあまり影響力をもっていなかった。<br />
<br />
そこで児玉は田中との共通の友人、'''[[小佐野賢治]]'''に頼るようになった。小佐野は[[日本航空]]や[[全日本空輸]]の大株主でもあり、ロッキード社製のジェット旅客機の売り込みでも影響力を発揮したが、すでに日本航空は[[マクドネル・ダグラス]]社製の[[マクドネル・ダグラス DC-10|DC-10]]型機の購入を決定していたこともあり、その矛先を全日空に向けた。<br />
<br />
この頃深い関係を作り上げていた田中角栄が[[1972年]]([[昭和]]47年)に首相になると児玉の工作は功を奏し、その後全日空は同機種を21機購入し、この結果ロッキード社の日本での売上は拡大した。さらに全日空は、ロッキードから得た資金を自社の権益の拡大を図るべく航空族議員や運輸官僚への賄賂として使い、その後このことはロッキード事件に付随する[[ロッキード事件#全日空ルート|全日空ルート]]として追及されることとなった。<br />
<br />
ロッキード社社長の[[アーチボルド・コーチャン]]が「児玉の役割は[[P-3 (航空機)|P-3C]]導入を政府関係者に働きかけることだった。児玉は次の大臣に誰がなりそうか教えてくれた。日本では大臣はすぐに代わるから特定の大臣と仲良くなっても無駄である。彼は私の[[国務省]]だった。」と調書で語っている。<br />
<br />
=== ロッキード裁判 ===<br />
しかし[[1976年]]([[昭和]]51年)、アメリカ上院で行われた公聴会で、「ロッキード社が日本の超国家主義者を秘密代理人として雇い、多額の現金を支払っている」事実が明らかにされ、日本は大騒ぎとなった。その後、[[三木武夫]]首相によってこの事件の捜査が開始され、すでにこの事件の中心人物と目されていた65歳の児玉は[[衆議院]]での証人喚問が行われる直前に「発作」を起こし、床についた<ref group="注釈">同年[[3月23日]]の[[児玉誉士夫邸セスナ機特攻事件|自宅へのセスナ機の特攻事件]]では、右翼から非難される退廃ぶりを露呈した。</ref>。<br />
<br />
しかし、間もなく児玉は脱税と外為法違反で[[起訴#公訴の提起(刑事訴訟法)|在宅起訴]]され、裁判に臨むことになった。[[1977年]]([[昭和]]52年)6月に一度公判に出廷した後は病気と称して自宅を離れなかった。元総理の[[田中角栄]]は収賄容疑で逮捕され、[[1983年]]([[昭和]]58年)10月に有罪判決が出された。児玉は死期が近づいた時、「自分はCIAの対日工作員であった」と告白している。72歳の児玉は判決が出る直前の[[1984年]]([[昭和]]59年)1月に再び発作を起こして没し、裁判は打ち切りとなった。<br />
<br />
当時、児玉が経営する企業の役員を務めていた[[日吉修二]](2016年7月11日に死去。『[[NHKスペシャル]]』『[[未解決事件 (NHKスペシャル)|未解決事件]]』File.5 「ロッキード事件」でのインタビューが生涯で最後のインタビューとなった)によると、事件発覚直後、児玉の秘書から急遽呼ばれ、段ボール5箱分の書類をすぐに焼却するよう指示されたという。日吉はインタビューの中で「これが天下の児玉だと思ってますよ。それはやっぱり日本の為の[[国士]]ですから、何か事を起こすのにはやっぱ資金がないとね。(資金の)必要があったんじゃないかなと思う。これやっぱりロッキード事件に絡んだ書類くらい思ってますよ。伝票みたいなものもあったし、色んな綴じてある書類もあったし、そんないちいちね見ながらこれは焼いていいか、それはやらない。私、意外と忠実だから言われたらピッと焼いちゃう。ただ燃やしているチラチラ見える中には、英語の物もあったと思います。」と述べている。<br />
<br />
児玉の通訳の[[福田太郎]]も死ぬ直前、次のような供述をしている。<br />
<br />
*福田「アメリカの公聴会で領収書の一部が公表されることになりました。ロッキード社から児玉さんに謝っておいてくれと電話がありました。」<br />
<br />
*児玉「それは話が違う。私に迷惑をかけないようにすると言っていたではないか。」<br />
<br />
*秘書「それを否定しなければなりません。先生は知らないと言えばいい。判子と書類は燃やしてしまいます。」<br />
<br />
2016年に放送されたNHKスペシャル・未解決事件のインタビューに応じた[[堀田力]]元検事は「核心は[[P-3 (航空機)|P3C]]ではないか。P3Cで色々あるはずなんだけど。('''児玉誉士夫'''がロッキード社から)金を上手に取る巧妙な手口は証言で取れている。(そこから先の)金の使い方とか、こっちで解明しなきゃいけないけど、そこができていない。それはもう深い物凄い深い闇がまだまだあって、日本の大きな政治経済の背後で動く闇の部分に一本光が入ったことは間違いないんだけど、国民の目から見れば検察、もっともっと彼らがどういう所でどんな金を貰ってどうしているのか、暗闇の部分を全部照らしてくれって。悔しいというか申し訳ない」と語っている。<br />
<br />
== 逸話 ==<br />
* [[松本清張]]の小説『[[けものみち]]』に登場する人物「鬼頭洪太」は、児玉をモデルにしているとする説がある<ref>権田萬治『松本清張 時代の闇を見つめた作家』(文藝春秋・2009年)第八章</ref>。<br />
* [[村上春樹]]の小説『[[羊をめぐる冒険]]』に登場する「先生」と呼ばれる架空の人物は、児玉をモデルにしているとする説がある<ref>加藤典洋編『村上春樹』(荒地出版社・1996年)p.70</ref>。<br />
<br />
==脚注==<br />
=== 注釈 ===<br />
{{脚注ヘルプ}}<br />
<references group="注釈" /><br />
=== 出典 ===<br />
{{脚注ヘルプ}}<br />
{{Reflist|2}}<br />
<br />
== 児玉誉士夫関連の書籍 ==<br />
* 児玉誉士夫『われ敗れたり』協友社、1949年 原題"I was Defeated" 巣鴨プリズンで資料として書かされたもの。<br />
* 児玉誉士夫『悪政・銃声・乱世』―児玉誉士夫自伝[[広済堂出版]]、1974年<br />
* 児玉誉士夫『獄中獄外』―児玉誉士夫日記広済堂出版、1974年<br />
* 児玉誉士夫『われかく戦えり』―児玉誉士夫随想・対談広済堂出版、1975年<br />
* [[牛島秀彦]] 『力道山―大相撲・プロレス・ウラ社会』[[第三書館]] 1995年<br />
* [[立石勝規]] 『金融腐敗の原点―児玉誉士夫のダイヤモンド』[[徳間文庫]] 1997年<br />
* [[小柳順治]]・[[田丸ようすけ]]『実録日本の黒幕 右翼の巨魁 児玉誉士夫』[[竹書房]]、2008年、ISBN 978-4-8124-6907-1<br />
<br />
== 児玉誉士夫関連の映画・オリジナルビデオ・ドキュメンタリー ==<br />
* 『[[あゝ決戦航空隊]]』([[1974年]]、[[東映]])、児玉誉士夫役は、[[小林旭]]<br />
* 『[[日本の首領|やくざ戦争 日本の首領]]』([[1977年]]、[[東映]])、大山喜久夫のモデルは、児玉誉士夫。大山喜久夫役は、[[内田朝雄]]<br />
* 『[[日本の首領|日本の首領 野望篇]]』([[1978年]]、東映)、大山喜久夫のモデルは、児玉誉士夫。大山喜久夫役は、内田朝雄<br />
* 『[[日本の首領|日本の首領 完結篇]]』(1978年、東映)、大山喜久夫のモデルは、児玉誉士夫。大山喜久夫役は、[[片岡千恵蔵]]<br />
* [[降旗康男]]監督『[[日本の黒幕]]』([[1979年]]、東映)、主人公・山岡邦盟のモデルは、児玉誉士夫。山岡邦盟役は、[[佐分利信]]<br />
* 『[[実録 東声会|実録 東声会 初代 町井久之]]』([[2006年]]、[[GPミュージアムソフト]])、児玉誉士夫役は[[曽根晴美]]<br />
* 『[[実録 東声会|実録 東声会 初代 町井久之 完結編]]』(2006年、GPミュージアムソフト)、児玉誉士夫役は曽根晴美<br />
* 『[[劇場版 MOZU]]』([[2015年]]、東映)、吉田駒夫のモデルは、児玉誉士夫。吉田駒夫役は、[[ビートたけし]]<br />
* 『[[NHKスペシャル]]』『[[未解決事件 (NHKスペシャル)|未解決事件]]』File.5 「ロッキード事件」([[2016年]])、児玉誉士夫役は[[苅谷俊介]]<br />
<br />
== 関連項目 ==<br />
* [[ブロードウェイマンション]]<br />
* [[TSK・CCCターミナルビル]]<br />
* [[ヘンリー・キッシンジャー]]<br />
* [[日本プロレス]] - 力道山死去後に代表取締役会長を務めている。<br />
* [[児玉誉士夫邸セスナ機特攻事件]]<br />
<br />
== 参考文献 ==<br />
=== ウェブサイト ===<br />
* [http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/046/0488/04604240488030c.html 「国会会議録・第046回国会 法務委員会 第30号」]<br />
* [http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/077/0750/07708120750022c.html 「国会会議録・第077回国会 ロッキード問題に関する調査特別委員会 第22号」]<br />
* [http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/077/0750/07708120750022c.html 「国会会議録・第077回国会 ロッキード問題に関する調査特別委員会 第22号」]<br />
* [http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/080/0750/08005110750009c.html 「国会会議録・第080回国会 ロッキード問題に関する調査特別委会 第9号」]<br />
<br />
=== 書籍・雑誌 ===<br />
* [[青谷和久]]『戦後日本の政財界をダメにした四人の首領』山手書房 1978年 笹川良一/小佐野賢治/児玉誉士夫/萩原吉太郎<br />
* 「芸能界新興勢力の首領 バーニング・プロ社長の『実力』研究」『[[噂の真相]]』1982年4月号、pp.16-22<br />
* [[飯干晃一]]『[[柳川組]]の戦闘』[[角川文庫]]、1990年、ISBN 4-04-146425-0<br />
* [[田中清玄]]・[[大須賀瑞夫]]『田中清玄自伝』[[文藝春秋]]、1993年、[[ちくま文庫]]、2008年、ISBN 4-480-42440-7<br />
* [[溝口敦]]『撃滅 山口組vs一和会』[[講談社]]&lt;+α文庫&gt;、2000年、ISBN 4-06-256445-9<br />
* [[山平重樹]]『義侠ヤクザ伝・藤田卯一郎』[[幻冬舎]]&lt;アウトロー文庫&gt; 2003年 ISBN 4-344-40476-9<br />
* 山平重樹『一徹ヤクザ伝 高橋岩太郎』幻冬舎&lt;アウトロー文庫&gt;、2004年、ISBN 4-344-40596-X<br />
* 「山口組50の謎を追う」([[洋泉社]]) 2004年 ISBN 4-89691-796-0<br />
* [[カプランとデュブロ]]『ヤクザが消滅しない理由』[[不空社]]、2006年、ISBN 4-903350-05-3<br />
* [[畠山清行]]『何も知らなかった日本人』[[祥伝社]]文庫、2007年<br />
<br />
{{東京スポーツ}}<br />
{{Normdaten}}<br />
{{デフォルトソート:こたま よしお}}<br />
[[Category:大陸浪人]]<br />
[[Category:日中戦争の人物]]<br />
[[Category:太平洋戦争の人物]]<br />
[[Category:日本の政治運動家]]<br />
[[Category:日本の右翼活動家]]<br />
[[Category:日本の反共主義者]]<br />
[[Category:帝都日日新聞社の人物]]<br />
[[Category:やまと新聞の人物]]<!--1940年に経営を継承--><br />
[[Category:日本の国政選挙の立候補経験者]]<br />
[[Category:A級戦犯容疑者]]<br />
[[Category:公職追放者]]<br />
[[Category:脱税した人物]]<br />
[[Category:ロッキード事件の人物]]<br />
[[Category:東京スポーツの人物]]<br />
[[Category:プロレスの関係者]]<br />
[[Category:暴力団関係者]]<br />
[[Category:力道山]]<br />
[[Category:1911年生]]<br />
[[Category:1984年没]]<br />
[[Category:福島県出身の人物]]</div>
2400:4133:9B77:FE00:CCA5:7FE0:1A5D:26E7
Warning : Cannot modify header information - headers already sent by (output started at /home/users/1/sub.jp-asate/web/wiki/extensions/HeadScript/HeadScript.php:3) in /home/users/1/sub.jp-asate/web/wiki/includes/WebResponse.php on line 46