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http:///mymemo.xyz/wiki/api.php?action=feedcontributions&user=2400%3A402E%3A8883%3A3300%3AB1BA%3AC8E6%3A7411%3A895D&feedformat=atom miniwiki - 利用者の投稿記録 [ja] 2024-05-21T09:24:23Z 利用者の投稿記録 MediaWiki 1.31.0 筒井順慶 2018-08-01T08:40:33Z <p>2400:402E:8883:3300:B1BA:C8E6:7411:895D: 出典のない記述を削除、個人的な感想文を書くのはお止めください。</p> <hr /> <div>{{基礎情報 武士<br /> | 氏名 = 筒井順慶<br /> | 画像 = Tsutsui Junkei.jpg<br /> | 画像サイズ = 250px<br /> | 画像説明 = <br /> | 時代 = [[戦国時代 (日本)|戦国時代]] - [[安土桃山時代]]<br /> | 生誕 = [[天文 (元号)|天文]]18年[[3月3日 (旧暦)|3月3日]]([[1549年]][[3月31日]])<br /> | 死没 = [[天正]]12年[[8月11日 (旧暦)|8月11日]]([[1584年]][[9月15日]])<br /> | 改名 = 藤勝 → 藤政 → 陽舜房順慶(号)<br /> | 別名 = 権少僧都<br /> | 戒名 = <br /> | 墓所 = [http://www.yk-kankou.jp/spotDetail40.html 筒井順慶歴史公園]<br /> | 官位 = <br /> | 主君 = [[織田信長]]→[[豊臣秀吉]]<br /> | 氏族 = [[筒井氏]]<br /> | 父母 = 父:[[筒井順昭]]、母:大方殿([[山田道安]]娘)<br /> | 兄弟 = 女子([[井戸良弘]]室)、&#039;&#039;&#039;順慶&#039;&#039;&#039;、女子([[箸尾高春]]室)、女子([[筒井順国]]室)<br /> | 妻 = 室:多加姫([[九条家]]女)、松([[布施春行]]娘)、信長の娘か妹{{Sfn|谷口研|2014|p=141}}<br /> | 子 = 養子:&#039;&#039;&#039;&#039;&#039;[[筒井定次|定次]]&#039;&#039;&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;[[筒井順斎|順斎]]&#039;&#039;、&#039;&#039;[[筒井定慶|定慶]]&#039;&#039;、&#039;&#039;[[筒井慶之|慶之]]&#039;&#039;{{Sfn|籔景三|1985|pp=18-24}}}}<br /> &#039;&#039;&#039;筒井 順慶&#039;&#039;&#039;(つつい じゅんけい)は、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]から[[安土桃山時代]]にかけての[[武将]]、[[戦国大名]]。得度して順慶と称する前は、[[室町幕府]]13代[[征夷大将軍|将軍]]・[[足利義輝|足利義藤(後の義輝)]]の[[諱|偏諱]]により&#039;&#039;&#039;藤勝&#039;&#039;&#039;(ふじかつ)、&#039;&#039;&#039;藤政&#039;&#039;&#039;(ふじまさ)と名乗っていた。[[大和国|大和]][[筒井城]]主、後に大和[[郡山城 (大和国)|郡山城]]主。事績については『[[多聞院日記]]』に詳らかに記述されている。<br /> <br /> == 生涯 ==<br /> === 出生から家督相続 ===<br /> [[大和国]]の[[戦国大名]]・[[筒井順昭]]の子として生まれた{{Efn|『明智系図』には、明智光秀の弟・[[明智信教]]が順昭の養子となり、順慶になったと記されている。しかし、[[明智光綱]]の没年と順慶の生年がかなり離れていることや、その他の一級史料には書かれていないことから俗説とされている。}}。筒井氏は興福寺一条院に属する有力宗徒が武士化し、父親順昭の代には大和最大の武士団となり{{Sfn|谷口研|2014|p=138}}、筒井城を拠点に戦国大名化していた。母は[[山田道安]]の娘・大方殿。<br /> <br /> 天文19年([[1550年]])、父が28歳で病死したため、叔父の[[筒井順政]]の後見の元、わずか2歳で家督を継ぐこととなる。当時の大和は「大和四家」と呼ばれる筒井氏、[[越智氏 (大和国)|越智氏]]、[[箸尾氏]]、[[十市氏]]や僧兵を擁した[[興福寺]]の勢力が強く守護職の存在しない国であったが、[[永禄]]2年([[1559年]])から三好長慶の寵臣である[[松永久秀]]が侵攻し、[[永禄]]5年([[1562年]])には筒井氏と協力関係にあった[[十市遠勝]]が久秀の軍門に下るなど、筒井氏にとって厳しい情勢にあった。さらに[[永禄]]7年([[1564年]])には叔父の順政は死去してしまう。<br /> <br /> 翌永禄8年([[1565年]])8月、[[三好三人衆]]と[[松永久通]]の軍勢が将軍[[足利義輝]]を暗殺したが([[永禄の変]])、11月16日、松永久秀と三好三人衆は決裂してしまう。松永久秀は急遽、後ろ盾を無くした順慶の基盤が揺らいでいる所に奇襲を仕掛け、同11月18日、順慶は居城・筒井城を追われている([[筒井城の戦い]])。この時、[[箸尾高春]]・高田当次郎といった麾下の勢力が順慶を見限り離れている。居城を追われた順慶は、一族の布施左京進のいる布施城に逃れ、しばらく雌伏の時を過ごした。一部の史料は[[河内国]]へ逃れたと伝えるが、あまり信憑性はないと言われている{{Sfn|籔景三|1985|p=75}}。<br /> <br /> 後に順慶は布施氏の下で力を蓄え、離反した高田氏の居城である高田城を攻撃している。<br /> <br /> === 筒井城争奪戦 ===<br /> 巻き返しを図る順慶は、永禄9年([[1566年]])になると、果敢に松永軍に対する反撃を敢行する。順慶は[[三好三人衆]]と結託し、筒井城の奪還を企図する。[[4月11日 (旧暦)|4月11日]]から[[4月21日 (旧暦)|21日]]にかけて両軍の間で戦闘が行われ、[[美濃庄城]]を孤立させて降伏させている。順慶と三人衆は筒井城へ迫った。対して5月19日久秀は大和を抜け河内に赴いて同盟関係であった[[畠山氏]]・遊佐氏と合流、[[堺市|堺]]で[[三好義継]]と久秀との間で戦闘が起こった。順慶はこの間隙を突いて筒井城の奪還を画策、筒井城周囲に設置された松永の陣所を焼き払うなどした。<br /> <br /> 久秀は筒井城の救援には向かえず(『多聞院日記』『細川両家記』)、友能登屋、臙脂屋(べにや)に斡旋させて和睦を結び、[[5月30日 (旧暦)|5月30日]]に姿を消した。周囲の陣を焼き払い、外堀を埋めた順慶は本格的に城の奪還に着手、[[6月8日 (旧暦)|6月8日]]、ついに城の奪還を果たした。順慶が筒井城を奪還できた背景には、阿波三好家の重臣・[[篠原長房]]の進軍によって久秀の足場が揺らぎ、筒井城に軍勢を差し向けられる余裕がなかったことが指摘されている{{Sfn|籔景三|1985|p=78}}。<br /> <br /> 筒井城を奪還した順慶は[[春日大社]]に参詣した。この時、宗慶大僧都を戒師として得度し藤政から&#039;&#039;&#039;陽舜房順慶&#039;&#039;&#039;と改名した(正式に順慶を名乗るのはこの時から)。翌永禄10年([[1567年]])には再び三人衆や篠原長房と結んで奈良の大仏殿を占拠し要塞化して、多聞城の久秀と対峙した。10月10日久秀軍が東大寺に討ち入り決戦し大仏殿が久秀軍の兵火の残り火の失火で焼け落ちるが久秀側が勝つ([[東大寺大仏殿の戦い]]){{Sfn|籔景三|1985|pp=80-84}}。<br /> <br /> この頃、[[織田信長]]の台頭が著しくなり、永禄11年([[1568年]])には[[足利義昭]]を奉じて上洛、三人衆は信長に抵抗して9月に畿内から駆逐され、足利義栄も上洛できないまま急死し、義昭が15代将軍に擁立され、畿内は信長に平定された。松永久秀は織田信長・足利義昭と誼を通じたが、対する順慶は久秀の打倒に専念するあまり、情報収集が遅滞した{{Sfn|籔景三|1985|p=87}}。劣勢の順慶を見限り、菅田備前守などの家臣が順慶から離反し七條を焼き討ちしている。<br /> <br /> そして、松永久秀は幕府の直臣(信長の家臣ではなく、義昭の家臣)となり、大和一国を「切り取り次第」とされた(『足利季世記』)。久秀は、郡山辰巳衆を統率して筒井城に迫った。順慶は叔父の[[福住順弘]]の下へと落ちのびた。10月10日には、信長の応援軍の佐久間信盛、細川藤孝の2万が来軍し、両軍で大和を制圧し始める。[[福住城]]に潜伏していた順慶だが、[[元亀]]元年([[1570年]])に十市遠勝の死によって内訌を生じた十市城を攻め落とす。さらに松永方の城となっていた[[窪之庄城]]を奪回し、[[椿尾上城]]を築城するなど、久秀と渡り合うために布石を打っていった。<br /> <br /> 翌元亀2年([[1571年]])になると松永久秀は[[武田信玄]]と通じたうえに、篠原長房や摂津の[[荒木村重]]と結び、同年6月から8月にかけて、足利義昭方の[[畠山秋高]]や[[和田惟長]]の居城を攻めている。これに対し足利義昭は筒井順慶に接近し、九条家の娘を養女として順慶に嫁がせている。順慶は[[井戸良弘]]に命令して[[辰市城]]築城に着手、[[7月3日 (旧暦)|7月3日]]に完成した同城は松永攻略の橋頭堡となった。城の着工が迅速に行われた背景には、順慶を支持する地元の人々の経済的な支援があったと考えられる{{Sfn|籔景三|1985|p=99}}。勢いに乗った松永久秀・[[松永久通|久通]]父子、三好義継らの連合軍は、[[8月4日 (旧暦)|8月4日]]には辰市城に迫り大規模な合戦に及んだ。しかし順慶は、これを迎え討ち、松永軍に大きな被害を与え、久秀の甥や重臣の竹内秀勝らを打ち取り首500を挙げた。敗戦した久秀は筒井城を放棄し、順慶は再び筒井城を奪還することに成功した。筒井城の奪還によって、[[信貴山城]]と[[多聞山城]]を繋ぐ経路が分断され、久秀は劣勢に立たされることとなった。<br /> <br /> === 織田信長に臣従 ===<br /> 元亀2年10月25日、順慶は[[明智光秀]]の斡旋をもって信長に臣従し、久秀も[[佐久間信盛]]を通じて信長に臣従したので、同年[[11月1日 (旧暦)|11月1日]]に光秀・信盛の仲介で順慶と久秀は和睦した&lt;ref&gt;『増補筒井家記』乾、「大日本史料」10編6冊717頁&lt;/ref&gt;{{Sfn|高柳|1958|p=65|ps=、出典は『増補筒井家記』、悪本なので、そのままには信用できないが後の両者の関係も見て興味があるとする。}}。やがて久秀は同じく信長と反目するようになった将軍・足利義昭などと結託する([[信長包囲網]])が、順慶は[[北小路城]]に久秀・久通父子を招待して猿楽を催すなど表面上はしばらく円滑な関係が続いた(『和州諸将軍伝』){{Sfn|籔景三|1985|p=100}}。<br /> <br /> 元亀3年(1572年)4月、久秀は信長に対する叛意を明らかにし、三好義継、三好三人衆らと組んで信長に謀反を起こした。元亀4年([[1573年]])になると4月に武田信玄が病死、7月に義昭が[[槙島城の戦い]]に敗れて京都を追放され、それを匿った三好義継も11月に信長に討伐されると([[若江城の戦い]])、12月、松永久秀も多聞山城を取り巻かれ和議を申し込み、同城を明け渡す条件で降伏した{{Sfn|籔景三|1985|pp=107-108}}。12月26日、多聞山城は開城された。この頃に順慶は信長に接近していたと見られ、松永方となっていた[[河内国|河内]][[交野城|私部城]]を陥落させている。翌天正2年([[1574年]])正月、久秀は岐阜城に伺候しており&lt;ref&gt;『信長公記』6巻&lt;/ref&gt;、同じ月に順慶も岐阜を訪れ織田信長に拝謁し、3月23日、信長の臣従に際しその証として母親を人質として差し出している(『多聞院日記』)。<br /> <br /> その後、順慶は信長傘下で参戦する。天正3年([[1575年]])2月27日、信長の娘か妹を妻に迎える(『多聞院日記』){{Sfn|谷口研|2014|p=141}}。同年3月に[[原田直政]]が大和守護に任命され{{Sfn|谷口克広|2007|pp=66-67}}、その与力となり、同年5月の[[長篠の戦い]]に信長に鉄砲隊50人を供出、同年8月の[[越前一向一揆]]攻略にも原田直政が率いる大和軍勢総員の内の隊で参戦した{{Sfn|谷口研|2014|p=141}}。だが、原田は天正4年([[1576年]])5月3日、石山本願寺戦の三津寺砦攻めで戦死する。<br /> <br /> 同年([[1576年]])[[5月10日 (旧暦)|5月10日]]、信長により明智光秀と万見千代が使者となり「大和一国一円筒井順慶存知」で大和国支配を任される(『多聞院日記』同日条)。同時期に明智光秀の与力となる{{Sfn|谷口研|2014|p=142}}。[[5月22日 (旧暦)|5月22日]]には、人質として差し出していた順慶の母が帰国した。母の帰国を許可されたことの返礼も兼ねて、順慶は築城中であった[[安土城]]を訪問、信長に拝謁し、太刀二振に柿、布などを献上し、信長からは縮緬や馬を賜っている。5月30日、光秀が石山本願寺戦の陣地内で重病となり、一乗院で坊衆7人に祈祷させている{{Sfn|谷口研|2014|p=142}}。<br /> <br /> 天正5年([[1577年]])、順慶は他の諸将と共に[[雑賀衆|雑賀一揆]]の反乱を鎮圧した([[紀州征伐]])。同年、久秀が信長に対して再度反旗を翻すと、信貴山城攻めの先鋒を務めている([[信貴山城の戦い]])。手始めに[[片岡城]]を陥落させ、続いて信貴山城へ総攻撃が行われた。[[10月10日 (旧暦)|10月10日]]、遂に城は陥落、久秀父子は切腹または焼死した。信貴山城陥落については、順慶が[[本願寺]]の援軍と称して潜入させた手勢が内部から切り崩しを行い、落城に貢献したと『[[大和軍記]]』は伝えている。また、『[[大和志科]]』は、久秀の遺骸を順慶が回収し、[[達磨寺 (北葛城郡王寺町)|達磨寺]]に手厚く葬ったと記述している。『和洲諸将軍伝』にも、久秀の遺骸が達磨寺に葬られた旨の記述があるが、ここでは久秀の遺骸を回収し葬った人物は「入江大五良」と書かれている{{Sfn|籔景三|1985|pp=136-138}}。<br /> <br /> 久秀父子の滅亡もあって、天正6年([[1578年]])に大和平定が果たされた。同年、信長の命令により[[龍王山城]]を破却している。同年4月、[[播磨国|播磨]]攻めに参戦。6月には[[神吉頼定]]が籠城する[[神吉城]]を攻撃している。帰国後の10月には、石山本願寺に呼応した吉野の一向衆徒を制圧する。天正7年([[1579年]])には、信長に反逆した[[荒木村重]]が篭る[[伊丹城|有岡城]]攻めに参加した([[有岡城の戦い]])。<br /> <br /> 天正8年([[1580年]])、居城を筒井城から[[大和郡山城]]へ移転する計画を立てていた所に、8月に信長より本城とする城以外の城の破却を促す命令が出る。順慶は筒井城はじめ支城を破却し、築城した大和郡山城に移転した。筒井城から大和郡山城へ拠点を移した根拠としては、筒井城が低地にあり、水害の影響を被りやすかったという問題があった。同年9月8日、信長が大和一帯の差出[[検地]]を順慶に命じ、12月まで明智光秀と[[滝川一益]]が奉行として派遣されて実行している。これに伴い、10月28日に戒重・岡弥二郎・大仏供・高田当次郎など、かつて松永久秀に追従していた筒井家配下の人物達が、信長に一度離反した咎で明智光秀らの主導で処断された。11月7日付「国中一円筒井存知」の信長朱印状で正式に大和一国が任され、郡山城入城が言い渡される。翌天正9年([[1581年]])6月3日、かねてより確執があった[[吐田遠秀]]を郡山城で謀殺し、6月15日にその領地を与えられている(『多聞院日記』各同日条)。<br /> <br /> 同年の[[天正伊賀の乱#第二次天正伊賀の乱|天正伊賀の乱]]では他の武将と共に[[織田信雄]]に属し、9月3日に大和から伊賀へと進攻、3,700の手勢を指揮し、[[蒲生氏郷]]と共に[[比自山]]の裾野に布陣するが、伊賀衆の夜襲を受け、半数の兵士を失う苦戦を強いられる。この時、伊賀の地理に精通していた菊川清九郎という家臣が順慶の窮地を救ったと言われる([[比自山城の戦い]])。その経緯については『[[伊乱記]]』が詳しく描写している{{Sfn|籔景三|1985|pp=162-163}}。<br /> <br /> === 本能寺の変の後 ===<br /> 天正10年([[1582年]])[[6月2日 (旧暦)|6月2日]]、明智光秀が信長を討ち取った[[本能寺の変]]が起こった。順慶は福住順弘・布施左京進・[[筒井順国|慈明寺順国]]・箸尾高春・[[島清興]](左近)・[[松倉重信]]ら一族、重臣を召集して評定を行った。光秀は順慶が与力で信長の傘下に入る際の仲介者で縁戚関係にもあり、武辺の多い織田軍団としては数少ない教養人同士として友人関係にもあった。そのため、光秀からは変の後に味方になるよう誘われた。<br /> <br /> 順慶は辰市近隣まで派兵して陣を敷いたが、積極的には動かなかった。だが、消極的ながらも近江に兵を出して光秀に協力した{{sfn|高柳|1958|pp=244-245}}。その後も評定を重ね、一度河内国へ軍を差し向ける方針を立てたが、結局は食料を備蓄させて篭城する動きを見せた。[[6月10日 (旧暦)|6月10日]]には、誓紙を書かせて[[豊臣秀吉|羽柴秀吉]]への恭順を決意した。同日、光秀の家臣・[[藤田行政|藤田伝五郎]]が順慶に光秀への加勢を促すよう郡山城を訪れたが、順慶はこれを追い返している。[[6月11日 (旧暦)|6月11日]]には、順慶が大和郡山で切腹したという風聞を始め流言蜚語が飛び交った。<br /> <br /> 光秀は与力で親密な関係にあった順慶の加勢を期待して、[[河内国]]を抑えるため[[洞ヶ峠]]に布陣し、順慶の動静を見守ったが、順慶は静観の態度を貫徹した。洞ヶ峠への布陣は、順慶への牽制、威嚇であったとも解釈されている{{Sfn|籔景三|1985|p=167}}。光秀が洞ヶ峠に出陣したことが後世歪曲されて喧伝され、順慶が洞ヶ峠で秀吉と光秀の合戦の趨勢を傍観したという、いわゆる洞ヶ峠の故事が生まれ、この「洞ヶ峠」は日和見主義の代名詞として後世用いられている。<br /> <br /> 結局、光秀は[[6月13日 (旧暦)|6月13日]]に山崎での戦闘の敗走時に、[[落ち武者狩り]]に討たれる([[山崎の戦い]])。光秀は謀反に際し、自らの与力的立場にある近畿地区の織田大名たちが味方してくれることを期待していたが、このうち18万石(大和の与力を合わせると45万石)の順慶と12万石の[[細川幽斎]]が味方しなかったことは、その兵力の大きさで致命傷となった{{Sfn|谷口研|2014|pp=194-196}}。<br /> <br /> [[6月14日 (旧暦)|6月14日]]、順慶は大和を出立して京都[[醍醐]]に向い、羽柴秀吉に拝謁した。この際、秀吉は順慶の遅い参陣を叱責した。秀吉の叱責によって順慶が体調を崩し、その話が奈良一円に伝播して人々を焦燥させた(『多聞院日記』)。[[6月27日 (旧暦)|6月27日]]、織田家の後継者を選別する[[清洲会議]]が実施され、順慶は他の一般武将達と共に待機している。[[7月11日 (旧暦)|7月11日]]には、秀吉への臣従の証として、養子(従弟、甥でもあった)[[筒井定次|定次]]を人質として差し出している。<br /> <br /> 光秀死後は秀吉の家臣となり、大和の所領は安堵された。天正12年(1584年)頃から胃痛を訴え床に臥していたが、[[小牧・長久手の戦い]]に際して出陣を促され、病気をおして伊勢・美濃へ転戦。大和に帰還して程なく36歳で病死した。筒井家は定次が継いだ。<br /> <br /> == 順慶の死後 ==<br /> 順慶の重臣だった[[島清興]]は順慶の死後、跡を継いだ定次と上手くいかず筒井家を離れたが、後に[[石田三成]]の腹心となり[[関ヶ原の戦い]]に参加した。<br /> <br /> 天正13年(1585年)閏8月18日、筒井家は順慶亡き後秀吉に伊賀上野に20万石で転封された。徳川方の上杉討伐の軍列に並んだが、上野城が攻められ留守番役の筒井玄播允が戦わず開場して逐電したとの凶報で引き返した。そのため、城は取り返したが、1日で終わった[[関ヶ原の戦い]]には事実上参戦できず、戦後の加増を受けなかった東軍唯一の大名となる。その後も定次は豊臣秀頼に年賀の挨拶に参城し、家内が徳川派と豊臣派とで分裂し争い、慶長11年(1606年)12月23日、上野城が火災で大きく罹災し、その復興問題から両派による抗争が再燃した。慶長13年(1608年)、[[筒井騒動]]で筒井家重臣の[[中坊秀祐]]が、家康に主君定次の悪政や鹿狩での倦怠などを訴え、それで[[改易]]、定次と嫡子の順定は、陸奥磐城平藩預かりでの幽閉後に慶長20年(1615年)3月5日切腹させられたことで筒井家は絶家した。畿内の要衝で豊臣家に対する抑えの伊賀上野に豊臣との間で曖昧な定次を置く危険性と、定次自体への不信があったとされる{{Sfn|籔景三|1985|pp=213-214}}。<br /> <br /> == 人物 ==<br /> 順慶は茶湯、謡曲、歌道など文化面に秀でた教養人であり、自身が僧でもあった関係で、[[仏教]]への信仰も厚く大和の寺院を手厚く保護したとも言われている。ただし、天正8年には鉄砲[[鋳造]]のために[[釣鐘]]を没収したり、興福寺の寺僧の処罰を命じられたりと、信長政権下では必ずしも[[寺社]]の保護ばかりを行っているわけではない。<br /> <br /> == 子孫 ==<br /> 大名家としては滅亡したが、現在も順慶の傍系子孫と伝えられている家は少なくない。順慶の養子で定慶の弟の順斎(福住順弘の次男)は徳川家康に仕え旗本1千石となり、家名は幕末まで続いた。幕末に日露和親条約の交渉を行った[[筒井政憲]](ただし久世氏の出身で養子として筒井氏を継いだ)が末裔にいる。<br /> [[山口県文書館]]所蔵の毛利家文庫の中に、順慶の没後に生まれた実子([[筒井順正|順正]])が存在したという記述があるが、史実とは認めがたい。<br /> <br /> == 江戸期の軍記や不明の説話 ==<br /> * 幽閉中大坂夏の陣で豊臣家大坂城から寄せ手に射られた矢軸(矢篦)に「羽柴伊賀守定次」の墨書きがあったから内通の疑いにより、切腹させられた(『伊陽安民話』、『翁物語』)。だが、お預け幽閉中でありえない{{Sfn|籔景三|1985|p=218}}。<br /> <br /> == 家臣 ==<br /> * [[島清興]]<br /> * [[松倉重信]]<br /> * [[森好之]]<br /> * [[福住順興]]<br /> * [[慈明寺順国]]<br /> * [[山田順清]]<br /> * [[布施左京進]]<br /> * [[十市藤政]]<br /> <br /> == 順慶を主題とする作品 ==<br /> ; 小説<br /> * [[筒井康隆]]『筒井順慶』<br /> * [[風野真知雄]]『筒井順慶』PHP文庫<br /> <br /> == 脚注 ==<br /> === 注釈 ===<br /> {{Reflist|group=注釈}}<br /> <br /> === 出典 ===<br /> {{脚注ヘルプ}}<br /> {{reflist|2}}<br /> <br /> == 参考文献 ==<br /> * {{Cite book|和書 |author = 高柳光寿 |authorlink = 高柳光寿 |year = 1958 |title = 明智光秀 |editor = 日本歴史学会 |publisher = [[吉川弘文館]] |series = 人物叢書1 |asin = B000JATNXQ |ref = {{SfnRef|高柳|1958}} }}<br /> * {{Cite book|和書 |author =籔景三|authorlink =籔景三|title=筒井順慶とその一族|publisher=[[新人物往来社]]|year =1985|isbn=978-44040128144|ref = {{SfnRef|籔景三|1985}}}}<br /> * {{Cite book|和書|url= http://www.chuko.co.jp/shinsho/2007/07/101907.html |author=[[谷口克広]]|title=信長と消えた家臣たち-失脚・粛清・謀反|series=中公新書|year=2007|month=7|publisher=[[中央公論新社]]|isbn=978-4-12-101907-3|ref={{SfnRef|谷口克広|2007}}}}<br /> * {{Cite book|和書 |author = 谷口研語 |authorlink = 谷口研語 |year = 2014 |title = 明智光秀 |publisher = [[洋泉社]] |series = 歴史新書y |isbn = 978-4800304216 |ref = {{SfnRef|谷口研|2014}}}}<br /> <br /> == 関連項目 ==<br /> {{Commons|Category:Tsutsui Junkei}}<br /> * [[戦国時代の人物一覧]]<br /> * [[東大寺大仏殿の戦い]]<br /> * [[辰市城#辰市城の合戦|辰市城の合戦]]<br /> * [[千石堀城#千石堀城の戦い|千石堀城の戦い]]<br /> * [[片岡城]]<br /> * [[多聞山城]]<br /> * [[交野城]]<br /> * [[畿内・近国の戦国時代]]<br /> <br /> <br /> {{大和筒井氏当主|1550年 - 1584年}}<br /> <br /> {{DEFAULTSORT:つつい しゆんけい}}<br /> [[Category:筒井氏|しゆんけい]]<br /> [[Category:大和国の人物]]<br /> [[Category:戦国大名]]<br /> [[Category:織豊政権の大名]]<br /> [[Category:1549年生]]<br /> [[Category:1584年没]]</div> 2400:402E:8883:3300:B1BA:C8E6:7411:895D
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