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miniwiki - 利用者の投稿記録 [ja]
2024-05-16T22:37:05Z
利用者の投稿記録
MediaWiki 1.31.0
小西行長
2018-07-19T08:36:17Z
<p>2400:402E:8883:3300:90FD:546D:91F1:7FC: 出典のない記述を削除</p>
<hr />
<div>{{基礎情報 武士<br />
| 氏名 = 小西行長<br />
| 画像 = Konishi Yukinaga.jpg<br />
| 画像サイズ = 240px<br />
| 画像説明 = [[落合芳幾]]画<br />
| 時代 = [[戦国時代 (日本)|戦国時代]] - [[安土桃山時代]]<br />
| 生誕 = [[永禄]]元年([[1558年]]){{Efn|行長の生まれた年については、朝鮮の史料である『宣祖実録』の宣祖二十八年の項にある「行長今年三十八」という記述が唯一の記録である。ここから数え年をもとに逆算すると、行長は[[永禄]]元年(1558年)生まれ、ということになる。<ref>{{Harvnb|鳥津|2010}}</ref>}}<br />
| 死没 = [[慶長]]5年[[10月1日 (旧暦)|10月1日]]([[1600年]][[11月6日]])<br />
| 改名 =<br />
| 別名 = 弥九郎([[仮名 (通称)|仮名]])・如信<br />
| 霊名 = アウグスティヌス(アゴスチノ)/[[ドン (尊称)|ドム]]・オーギュスタン・ジヤクラン<ref> {{Citation |last =クラツセ|first =ジアン|author-link=|year=1925| volume=上|title =日本西教史|publisher =太陽堂書店|url={{NDLDC|971162/240}} 国立国会図書館デジタルコレクション|pages=550-551}}</ref><br />
| 墓所 = [[禅幢寺]]([[岐阜県]][[垂井町]])<br />[[堺公園墓地]]内の供養塔([[大阪府]][[堺市]][[南区 (堺市)|南区]])<br />
| 官位 = [[従五位|従五位下]]、[[日向国|日向]][[国司|守]]、[[摂津国|摂津守]]<br />
| 主君 = [[宇喜多直家]]→[[豊臣秀吉]]→[[豊臣秀頼|秀頼]]<br />
| 氏族 = [[小西氏]]<br />
| 父母 = 父:[[小西隆佐]](洗礼名:ジョウチン)、母:ワクサ(洗礼名:[[#家族・子孫|マグダレーナ]])<br />
| 兄弟 = [[小西如清|如清]](洗礼名:ベント)、'''行長'''、[[小西行景|行景]](洗礼名:ジョアン)、[[小西主殿介]](洗礼名:ペドロ)、小西与七郎(洗礼名:ルイス)、[[伊丹屋宗付]]の妻(洗礼名:ルシア)<br />
| 妻 = 正室:'''菊姫'''(洗礼名:ジュスタ)<br />側室:[[立野殿]](洗礼名:カタリナ)<br />
| 子 = [[#家族・子孫|小西兵庫頭]](名不詳)、某女(名不詳、小西弥左衛門室)、妙(洗礼名:マリア、[[宗義智]]室)、[[#家族・子孫|浅山弥左衛門]]<br />猶子:''[[ジュリアおたあ]]''}}<br />
'''小西 行長'''(こにし ゆきなが)は、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]から[[安土桃山時代]]にかけての[[武将]]、[[大名]]。[[肥後国|肥後]][[宇土城]]主。'''アウグスティヌス'''の洗礼名を持つ[[キリシタン大名]]でもある。<br />
<br />
当初は[[宇喜多氏]]に仕え、後に[[豊臣秀吉]]の家臣となる。[[文禄・慶長の役]]では女婿・[[宗義智]]らと共に主要な働きをし、序盤の[[漢城府]]占領の際には[[加藤清正]]と先陣の功を争った。[[関ヶ原の戦い]]では西軍の将として奮戦したが、敗北して捕縛された。自殺を禁じられた[[キリシタン]]であったので、[[切腹]]を拒否して斬首された。<br />
<br />
== 生涯 ==<br />
[[永禄]]元年([[1558年]])、[[和泉国]][[堺市|堺]]の商人・[[小西隆佐]]の次男として京都で生まれた{{Efn|ルイス・フロイスは「羽柴の海軍の司令官は、都生まれのキリシタンで、名をアゴスチニヨといひ」と書簡に記している。<ref>1584年8月31日付けルイス・フロイス書簡より。『イエズス会日本年報・上』所収</ref>}}。<br />
<br />
はじめ[[備前国]][[長船町福岡|福岡]]の豪商・[[阿部善定]]の[[手代]]であった源六(後に岡山下之町へ出て呉服商をしていた魚屋九郎右衛門)の養子となり<ref name="okayamasisi">岡山市史 第二巻 1831頁</ref>、商売のために度々[[宇喜多直家]]の元を訪れていたが、その際に直家に才能を見出されて抜擢されて武士となり、家臣として仕えた<ref name="p45">{{Harvnb|桑田|1989|loc=p.45}}</ref>。[[織田氏]]の家臣・[[豊臣秀吉|羽柴秀吉]]が[[三木城]]攻めを行っている際、直家から使者として秀吉の下へ使わされた。この時、秀吉からその才知を気に入られ、臣下となる<ref name="p45" />。<br />
<br />
=== 秀吉近臣時代 ===<br />
[[豊臣政権]]内では[[舟奉行]]に任命され、[[水軍]]を率いた。[[天正]]13年([[1585年]])には摂津守に任ぜられ、また[[豊臣氏|豊臣姓]]を名乗ることを許される<ref name="p46" />。同年の[[紀州征伐#秀吉の紀州攻め|紀州征伐]]では、水軍を率いて参戦したが、[[雑賀衆]]の抵抗を受けて敗退したといわれている。また一方で、[[太田城 (紀伊国)|太田城]]の水攻めでは、安宅船や大砲も動員して攻撃し、開城のきっかけを作ったともいわれている。<br />
<br />
天正13年(1585年)、[[小豆島]]で1万石を与えられた{{Efn|小豆島のみでは1万石にはならないので、その他の領土があった・1万石という数字が誤りである、などの説があるが、確定する史料はない。}}。<br />
<br />
これに前後して、天正12年([[1584年]])には[[高山右近]]の後押しもあって洗礼を受けキリシタンとなる<ref name="p46">{{Harvnb|桑田|1989|loc=p.46}}</ref>。小豆島では[[グレゴリオ・デ・セスペデス]]を招いてキリスト教の布教を行い、島の田畑の開発を積極的に行った。また、天正15年([[1587年]])の[[バテレン追放令]]の際に改易となった右近を島に匿い、秀吉に諫言している<ref name="p46" />。<br />
<br />
=== 宇土城主時代 ===<br />
天正15年([[1587年]])の[[九州平定]]、天正16年([[1588年]])の[[肥後国人一揆]]の討伐に功をあげ、[[肥後国]]の南半国[[宇土郡|宇土]]、[[益城郡|益城]]、[[八代郡|八代]]の三郡20万石あまりを与えられた。<br />
<br />
天正17年([[1589年]])、宇土古城の東の地(現在の熊本県宇土市古城町)に新たな[[宇土城]]を築城し、本拠とした。小丘陵の城山の頂上に本丸、西に二の丸・堀と石垣三の丸を配し、それぞれを堀と石垣で囲んだ近世城郭であった。鎌倉時代末期に[[宇土氏]]によって築かれた宇土古城とともにみると、鶴が翼を広げているように見えたことから「鶴の城」の異名を持つ。<br />
<br />
この宇土城普請に従わなかった[[天草五人衆]]とはいくさになり([[天草国人一揆]])、これを[[加藤清正]]らとともに平定。天草1万石あまりも所領とした。秀吉は、後の朝鮮出兵を視野に入れて、水軍を統率する行長を肥後に封じたという{{Sfn||桑田|1989|lp=47}}。<br />
<br />
このころ天草は人口3万の2/3にあたる2万3千がキリシタンであり、60人あまりの神父、30の教会が存在したという。志岐氏の所領である志岐には宣教師の要請によって画家でもあるイタリア人修道士([[イルマン]])[[ジョバンニ・ニコラオ]]が派遣され、ニコラオの指導下で聖像学校が営まれ、油絵、水彩画、銅版画が教えられ[[聖画]]・[[聖像]]の製作、パイプオルガンや時計などの製作が行われていた。学校は後の[[文禄]]3年([[1594年]])、有馬半島[[八良尾]]のセミナリオと合併し{{Efn|のち外孫の[[マンショ小西]]もこの有馬のセミナリオで学んでいる。}}、規模を拡大したが、これらイエズス会の活動に行長は援助を与え保護した。<br />
<br />
行長の宇土城は水城として優れた機能を持っていたというが、秀吉の意を受け、[[相良氏]]統治時代からこの地域の海外貿易の中心地であった八代(徳淵津){{Efn|八代は[[ルイス・フロイス]]が『[[フロイス日本史|日本史]]』で絶賛した土地であった。}}にも、[[麦島城]]を築城して水利を強化し、重臣の[[小西行重]]を城代として配置した。行長は従来の山頂にあった古麓城を廃して、麦島城を球磨川と八代海に面する河口の島に建て、堀から外水を引きれて浮城としたので、直接、船で出入りできた。このほか隈庄城、[[木山城 (肥後国)|木山城]]、矢部城、愛藤寺城を支城とし、隈庄城に弟の[[小西主殿介]]、愛籐寺城に[[結城弥平次]]ら一族重臣を城代に任じている。また高山右近の旧臣(キリシタン)が多く家臣に取り立てられた。<br />
<br />
しかし、残りの肥後北半国を領した清正とは次第に確執を深めることになった([[#加藤清正との対立|後述]])。<br />
<br />
=== 文禄・慶長の役 ===<br />
[[ファイル:Bunrokunoeki_shinro.JPG|200px|thumb|文禄の役における小西行長の進路(黄線)]]<br />
文禄元年([[1592年]])からの[[文禄・慶長の役#文禄の役|文禄の役]]に際しては、行長と加藤清正の両名が年来先鋒となることを希望していたが、秀吉は行長を先鋒として、清正は2番手とした。出陣に際して秀吉より大黒の馬を贈られている。戦端が開かれると[[釜山広域市|釜山]]の攻略を皮切りに、次々と朝鮮軍を破り([[釜山鎮の戦い]]、[[東莱城の戦い]]、[[尚州の戦い]]、[[忠州の戦い]])、清正に先んじて[[ソウル特別市|漢城]]を占領し、さらに北進を続け[[平壌]]の攻略を果たす([[大同江の戦い]])。この間、行長は度々朝鮮側に対して交渉による解決を呼び掛けているが、何れも朝鮮側が拒絶または黙殺している。その後、平壌奪還を図った[[祖承訓]]率いる[[明]]軍の攻撃を撃退した。この平壌の戦いでは弟・小西与七郎と従兄弟・小西アントニオ、一門の日比谷アゴストのほかに著名な者の戦死者はなかった。その後、この明軍に対して講和を呼び掛け、50日間の休戦と講和交渉の同意を取り付けた。次に朝鮮軍が平壌を攻撃したがこれも撃退する。<br />
<br />
行長は休戦期日を過ぎても講和交渉の明側の返答を待ち続けていたが、この間、明では[[李如松]]率いる4万余の朝鮮派遣軍を編成し、平壌に向かって進行していた。文禄2年([[1593年]])1月に明軍による平壌攻撃が行われると、抗しきれず漢城まで退却する。同年5月に[[島津忠辰]]が仮病を使って出陣を拒否し改易された際には身柄を預かるなど、国内でも活動した。<br />
<br />
漢城周辺の日本軍は、進撃してきた明軍を[[碧蹄館の戦い]]で破った(このとき行長軍は漢城に駐留)。その後、戦意を喪失した明軍と兵糧不足に悩む日本軍との間に講和交渉が開始される。行長は[[石田三成]]と共に明との講和交渉に携わり、明側の講和担当者・[[沈惟敬]]らと共謀し、秀吉には明が降伏すると偽り、明には秀吉が降伏すると偽って講和を結ぼうといわれる。この時、行長家臣の[[内藤如安]](明側の史料では小西飛騨)が日本側の使者として明の都・[[北京市|北京]]に向かった。<br />
<br />
この結果、明の使者が秀吉を[[日本国王]]に封じる旨を記した書と金印を携えて来日する事になった。冊封の内容は[[アルタン・ハーン]]のものを先例とし、順化王の王号と金印を授与するものであった(秀吉の王冊封以外にも宇喜多秀家、小西行長、増田長盛、石田三成、大谷吉継ら和平派諸将が大都督、前田利家、徳川家康、上杉景勝らが地方の都督指揮に任じられる)。これは明の臣下になることを意味するもので、秀吉が求めていた講和条件は何ら含まれないものだった。これを秀吉に報告する段階で行長は、書を読み上げる[[西笑承兌]]に内容をごまかすよう依頼したが、承兌は書の内容を正しく秀吉に伝えた。このため講和は破綻し、交渉の主導者だった行長は秀吉の強い怒りを買い死を命じられるが、承兌や[[前田利家]]、[[淀殿]]らのとりなしにより一命を救われる。<br />
<br />
<br />
[[慶長]]2年([[1597年]])からの慶長の役でも再び出兵を命じられ、特に講和交渉における不忠義の埋め合わせのため武功を立てて罪を償うよう厳命されて朝鮮へ進攻する。[[漆川梁海戦]]で朝鮮水軍を殲滅し、[[南原市|南原]]の攻略戦([[南原城の戦い]])に参加後、[[全州市|全州]]を占領し[[全羅道]]方面を制圧した後、[[順天倭城]]に在番。翌慶長3年([[1598年]])9月末から10月初めにかけて行われた[[順天倭城の戦い]]では、戦いに先立って明将・[[劉テイ (明)|劉綎]]から講和が持ちかけられ、行長はこれに応じて交渉に臨もうと城を出たが、これは行長を捕縛しようとする明側の謀略であった。この謀略は明側の不手際のため寸前のところで窮地を脱し城内に駆け込んで籠城することができた。続いて明・朝鮮軍による水陸からの攻撃が開始されたが、これを撃退する。その後、秀吉死去による帰国方針が伝えられ、明軍と交渉して円滑な帰国を認める旨の同意を取り付けた。しかし、朝鮮水軍の[[李舜臣]]の反対で、海上封鎖による帰国妨害が続けられたが、[[島津義弘]]等の救援により無事帰国することができた。<br />
<br />
なお、文禄の役の際の進軍、戦闘の模様は従軍僧・[[天荊]]の『[[西征日記]]』に詳しく記されている。<br />
<br />
=== 関ヶ原 ===<br />
[[File:Site of Konishi Yukinaga's Position.jpg|thumb|関ヶ原の戦いの小西行長陣跡(岐阜県不破郡関ケ原町)]]<br />
慶長3年([[1598年]])8月に秀吉が死去すると、行長は12月に帰国する。その後は[[寺沢広高]]とともに[[徳川家康]]の取次役を勤めるなど、むしろ家康との距離を近づけているが、慶長5年([[1600年]])の家康による[[会津征伐]]に際しては上方への残留を命じられた。その後に起こった関ヶ原の戦いでは、石田三成に呼応し西軍の将として参戦する。<br />
<br />
9月15日の関ヶ原本戦では、東軍の[[田中吉政]]、[[筒井定次]]らの部隊と交戦して奮戦する。しかし[[小早川秀秋]]らの裏切りで[[大谷吉継]]隊が壊滅すると、続いて小西隊・宇喜多隊も崩れ、行長は[[伊吹山]]中に逃れた。9月19日、関ヶ原の庄屋・[[林蔵主]]に匿われた。行長は自らを捕縛して褒美をもらうように林蔵主に薦めたが、林はこれを受けず、[[竹中重門]]家臣の伊藤源左衛門・山田杢之丞両名に事情を話し、共々行長を護衛して草津の[[村越直吉]]の陣に連れて行った{{Efn|直吉は林蔵主に褒美として黄金十両を与えた。<ref>『板坂ト斎覚書』</ref>}}。<br />
<br />
10月1日に市中引き回しの後、[[六条河原]]において石田三成・[[安国寺恵瓊]]と共に斬首された。その際、行長はキリシタンであったので、[[浄土門]]の僧侶によって頭上に経文を置かれることを拒絶し、[[マルガレーテ・フォン・エスターライヒ (スペイン王妃)|ポルトガル王妃]]から贈られたキリストとマリアの[[イコン]]を掲げて三度頭上に戴いた後に首を打たれたと伝えられる<ref name="p107"/>。処刑後、首は徳川方によって[[三条大橋]]に晒された。死に臨んで[[告解]]の[[秘蹟]]を同じキリシタンであった[[黒田長政]]に依頼したが、家康の命もあって断られ、処刑当日も司祭が秘蹟を行おうとしたが、接近を許されなかった<ref name="p107"/>。イエズス会側の史料によると、行長の遺体は教会に引き取られた後で改めて秘蹟を受けてカトリック式で葬れた<ref name="p107"/>というが、どこに埋葬されたのかはわかっていない<ref name="konosi">[http://www.city.uto.kumamoto.jp/museum/09yukinaga/096.html 小西行長の最期]</ref>。教皇[[クレメンス8世 (ローマ教皇)|クレメンス8世]]は行長の死を惜しんだと言われる<ref name="p107">{{Citation |和書|last=西山|first=隆則|author-link=|editor= 黒田官兵衛生きるヒントラボ |title =キリシタン武将 黒田官兵衛―「軍師」官兵衛の実像 天の巻(中巻)|publisher=Amazon |edition=[[Amazon Kindle|Kindle]]|page=107}}{{ASIN|B00I0UMHKS}}</ref>。行長が亡くなってから7年後の1607年、イタリアの[[ジェノヴァ共和国|ジェノバ]]では行長を主人公とする音楽劇が作られている<ref name="konosi"/>。<br />
<br />
== 加藤清正との対立 ==<br />
[[image:Toyotomi Yukinaga.gif|thumb|200px|豊臣行長印章(播磨国龍野藩医・中井伯元家蔵)。行長が朝鮮で作らせた牙章(象牙の印鑑の意)。]]<br />
* 領地が互いに隣接していたため、常に境界線をめぐって争ったといわれている。<br />
* 清正が熱心な[[日蓮宗]]信者であったのに対し、行長が熱心なキリシタンであったことも対立の一因を成したという。例えば天正17年([[1589年]])の[[天草五人衆]]の反乱の際、キリシタンの多い天草衆に対して行長は事態を穏便に済ませようとしたが、清正の強引な出兵・介入が原因で武力征伐に踏み切らざるを得なくなったという経緯がある。<br />
* 清正からは文治派のひとりと見なされて、「薬問屋の小倅」と侮られたという。その反発として行長は、朝鮮出兵のとき、軍旗として当時の薬袋である紙の袋に朱の丸をつけたものを使用したという。<br />
* 文禄の役の際の[[京城府|京城]]攻めでは、どちらが先に一番乗りするかを争い、行長が一日の差で清正を出し抜いたという。<br />
* 李氏朝鮮に配下の要時羅(家臣・[[梯七太夫]]のこと)を派遣して清正軍の上陸時期を密告し、清正を討ち取るよう働きかけた。李氏朝鮮は李舜臣に攻撃を命じたが、李は罠だと思い攻撃を躊躇ったために陰謀は失敗した([[柳成龍]]『[[懲ヒ録|懲毖録]]』{{Efn|懲毖録自体が資料としての信頼性が低く、朝鮮側の資料にしか記述が無い為、真偽は不明である。}})。<br />
* 文禄・慶長の役を通じて、清正と作戦や講和の方針をめぐって対立するなど、後に武断派と対立する一因を成した。<br />
* 明に講和の文書を出した際「大将摂津州前司小西秘書少監豊臣行長」と書いている。詐称説もあるが、現存する五山版『春秋経伝集解』荘公第三の巻に内題の下に「豊臣行長」の印が押されたものが発見されており、豊臣姓を下賜されていた可能性がある。<br />
<br />
== 家族・子孫 ==<br />
*祖父:[[小西行正]]<br />
*父:[[小西隆佐]]<br />
*養父:阿部善定の[[手代]]であった[[源六]](後に岡山下之町へ出て呉服商をしていた魚屋九郎右衛門)<ref name="okayamasisi"/><br />
* 母:[[小西ワクサ|ワクサ]] - 熱心なキリシタンで洗礼名はマグダレーナ。秀吉の正室・[[高台院|寧々]]に仕えたといわれるが不詳。<br />
*正室:菊姫 - 夫と同様に熱心なキリシタンで霊名はジュスタ。(宇喜多家資料より)<br />
*側室:[[立野殿]] - のち[[島津忠清]]室。霊名カタリナ。<br />
*子<br />
**[[小西兵庫頭]] - 菊姫との間の子。<br />
**小西秀貞(与助) - 子孫あり。<br />
**[[小西兵右衛門]] - 立野殿との間の子。子孫あり。<br />
**[[小西宇右衛門]]<br />
** 浅山弥左衛門:末子。小西家改易後は加藤・有馬家に仕え、[[島原の乱]]の際に[[黒田忠之]]に召し抱えられる(禄高は1300石)。子孫あり。<br />
**娘:妙(たえ、[[宗義智]]正室) - 関ヶ原の戦い後直ちに離縁・対馬から追放された。追放後は長崎の修道院に匿われていたが間もなく家康によって大赦される。慶長10年(1605年)に病没。 霊名マリア。<br />
**娘:小西弥左衛門の妻 - 菊姫との間の子。霊名カタリナ。<br />
**猶子:[[ジュリアおたあ]] - ジュリアは霊名、おたあは日本名。文禄の役の際に連れて帰った朝鮮人女子。<br />
*孫:[[マンショ小西]] - 宗義智と妙の間の子。江戸時代最後の日本人司祭(殉教)。<br />
*孫:[[小川宗春]] - 小西宇右衛門の子。江戸の医師。<br />
このほか[[天草四郎]]が行長の次男の子という説もあるが、詳細は不明である。<br />
*兄<br />
**[[小西如清]] - 堺代官。霊名ペント。<br />
**[[小西主殿介]] - 生年不明で弟ともされる。名は不明で、主殿介は官途(主殿助ともする)。霊名ペトロ。<br />
*弟<br />
**[[小西行景]] - 宇土城代、知行5千石。子孫あり。霊名ジョアン。<br />
**[[小西与七郎]] - 知行2千石。文禄3年(1594年)5月明の講和使節沈惟敬が来日した際「唐便萬事用所等承り、相調可申添奉行」として小西家中から結城弥平次とともに選ばれた。慶長の役の際朝鮮において日比屋了珪の孫・アゴスト、行長の従兄弟・アントニオと共に討死した。霊名ルイス。別説にジアンとも。<br />
*妹<br />
**[[伊丹屋宗付]]の妻 - 霊名ルシア。<br />
*一門<br />
**[[小西治右衛門]] - 行長の叔父(隆佐の兄弟)<br />
**[[小西アントニオ]] - 一門衆。行長の従兄弟。<br />
**[[小西弥左衛門]] - 日比屋了荷と小西行重の娘(霊名アガタ)の間の子。行長の娘婿。寛永4年(1627年)、マカオに追放され、同年同地で死去。霊名レオン。<br />
*子孫<br />
**[[小西得郎]] - 著書で子孫と書いている<ref>小西得郎『したいざんまい』[[実業之日本社]]、1957年、24、25P</ref>。<br />
<br />
== 家臣 ==<br />
<div class="NavFrame" style="clear: both; border:0; width:100%;"><br />
<div class="NavHead" style="text-align: center;">武将一覧</div><br />
<div class="NavContent" style="text-align: left;"><br />
*家老<br />
**[[小西行重]] - 小西三家老の一人。本名・木戸作右衛門。知行2千石。霊名ディエゴ(もしくはヤコブ(ヤコボ・サクイマン))。<br />
**[[内藤如安|内藤忠俊]] - 小西行長の重臣。霊名ジョアン(如安)。<br />
**[[加藤吉成]] - 家老。[[永禄]]11年([[1568年]])- [[寛永]]10年([[1633年]])[[5月25日 (旧暦)|5月25日]]。九郎太夫。内匠。図書。[[加藤重徳]]の子。[[黒田一成]]の兄。<br />
*城代<br />
**[[蘆塚忠右衛門 (父)]] - 家老(中老)。宇土城城代。侍大将。[[大坂の陣]]で戦死。<br />
**[[日比屋了荷]] - 天文23年(1554年)- ?。通称・兵右衛門。志岐城代。堺の日比屋了珪と奈良屋宗井の娘(霊名イネス)の間の子。天草の統治を任され、同地でイエズス会の活動に対して保護を加えた。 霊名ヴィセンテ。<br />
**[[結城弥平次]] - 愛藤寺城城代。後に有馬晴信に仕える。霊名ジョルジュ。<br />
**[[太田市兵衛]] - 愛藤寺城城代。<br />
**[[伊藤与左衛門]] - 木山城代。関ヶ原のとき開城後切腹。子の四郎兵衛は加藤家に仕えた。<br />
**[[竹内吉兵衛]] - 紀州攻めで武功を立てて秀吉から陣羽織を賜る。梅北の乱のとき、朝鮮に出陣していた小西行重に代わり麦島城代を務めた。その後、子孫は加藤家を経て細川家に仕える。霊名アンブロジオ。<br />
*その他<br />
**[[小西長貞]] - 若狭守。名護屋城普請の作事奉行を務めた。関ヶ原の戦いの際、麦島城から宇土城への援軍を率いて向かう途中、加藤軍と交戦、敗走する。後に切腹。<br />
**[[小西清左衛門]] - 関ヶ原の戦いに従軍し、戦死。<br />
**[[益田好次]] - 祐筆。[[島原の乱]]の一揆勢指導者のひとり。霊名ペイトロ。<br />
**[[水野勝成]] - 元徳川家臣。徳川大名水野氏祖。知行1千石。<br />
**[[宇佐美勝行]] - [[宇佐美定満]]の子。民部。元上杉家臣。上杉家を離れて[[佐々成政]]、小西行長に仕えた。<br />
**[[高松憲重]] - 知行1万石。讃岐高松の土豪の出自。文禄の役で先陣を務めて功があり、秀吉から感状を賜った。<br />
**[[伊智地文大夫]] - 高山右近の妻の妹を娶る(子は4人いる)。天正17年(1589年)11月8日、肥後国人一揆にて天草の志岐で戦死。霊名パウロ。<br />
**[[阿蘇惟善]] - 阿蘇大宮司・[[阿蘇惟光]]の弟。肥後国人一揆後、行長に預けられる。慶長の役で行長に従って出陣した。<br />
**[[森宗意軒]] - 通称・三左衛門。朝鮮出兵に従軍。島原の乱の一揆勢指導者のひとり。<br />
**[[蘆塚忠右衛門 (子)]] - 宇土城代・蘆塚忠右衛門の嫡男。後に有馬晴信に仕える。島原の乱の一揆勢指導者のひとり。<br />
**[[蘆塚忠太夫]] - 蘆塚忠右衛門 (子)の弟。島原の乱の一揆勢指導者のひとり。<br />
**[[梯七太夫]] - 朝鮮の記録では要時羅。朝鮮出兵では小西行長の命令で工作活動を朝鮮で行う。<br />
**[[皆吉続熊]] - 通称・久右衛門。娘は小西行長側室。<br />
**[[駒木根友房]] -通称・八兵衛。鉄砲の名手で、水野勝成とも面識があったという。後島原の乱に一味し、乱後捕らえられて刑死。<br />
**[[日比左近]] - 鉄砲頭兼奉行役。宇土城防衛戦では塩田口を守備。<br />
**[[淡野重政]] - 通称・六郎兵衛。姉は豊臣秀次側室。領地が没収された後、小西行長に仕える。<br />
**[[瀧重時]] - 通称・七右衛門。文禄の役のとき、島津氏に対する小西行長の取次を務める。<br />
**[[小鴨元清|南条元宅(元琢)]] - 宇土城防衛戦で奮戦。<br />
**[[嶋津又助]] - 宇土城防衛戦で奮戦。<br />
**[[伊藤四郎兵衛]] - 伊藤与左衛門の男。関ヶ原の役で小西行長が斬頸処分に処されると、加藤清正に仕えた。<br />
**[[千束善右衛門]] - 供頭、侍大将。関ヶ原に際しては行長の命を受け、有馬・大村・松浦ら九州諸大名へ西軍への参加を要請した。島原の乱の一揆勢指導者のひとり。<br />
**[[芳賀新五]] - 側近、侍大将。関ヶ原の戦いに従軍。加藤吉成とともに敗走するも宇土城を包囲する加藤清正の軍勢に捕らえられ、降伏勧告の使者として宇土城に遣わされた。<br />
**[[藤井六弥太]] - 宇土城の戦いでは、籠城して廻江橋を守り奮戦した。<br />
**[[松浦久次]] - 肥前松浦氏の出という。<br />
**[[後醍院宗重]] - 後醍院良任の男。通称喜兵衛。官途は淡路守。佐々成政、小西行長、島津忠恒らに仕えた。<br />
**[[阿波鳴門之助]] - 本名・阿波彦六。もとは[[竹中重治]]の家臣。朝鮮の大河で戦死。[[尼子十勇士]]のひとりとも。<br />
**[[植木菖蒲ノ介]] - 奉行役。宇土城防衛戦では塩田口を守備。<br />
**[[松浦久次]] - 肥前松浦氏の出。<br />
**[[竹田五兵衛]] - 伊勢出身。のち加藤清正に仕えるも、棄教を拒否して殉教。霊名シモン。<br />
**[[竹ノ内吉兵衛]] - 宇土城の戦いでは、籠城して日比左近、植木菖蒲之助らとともに塩田口を守備した。<br />
**[[南五郎左衛門]] - 大和出身。のち加藤清正に仕えるも、棄教を拒否して殉教。霊名ジョアン。<br />
**[[大江源右衛門]] - 名は実光。島原の乱の一揆勢指導者のひとり。<br />
**[[山善左衛門]] - 島原の乱の一揆勢指導者のひとり。<br />
**[[三宅重徳]] - 通称次郎右衛門。島原の乱の一揆勢指導者のひとり。<br />
*与力・国人衆(天草五人衆ほか)<br />
**[[甲斐秋政]] - 肥後岩尾城主。<br />
**[[天草久種]] - 肥後河内浦城主。関ヶ原の戦いに従軍。のち小早川秀秋に仕える。霊名ジョアン。<br />
**[[天草種元]] - 肥後本渡城主。久種の家臣。天草国人一揆で敗死。霊名アンドレア。<br />
**[[大矢野種基]] - 肥後大矢野城主。朝鮮で戦死。霊名ジャコベ。<br />
**[[大矢野種量]] - 大矢野種基の次男。朝鮮で戦死。霊名ジョアン。<br />
**[[大矢野直重]] - 肥後大矢野城主。種基の次男。のち加藤清正に仕える。<br />
**[[上津浦種直]] - 肥後上津浦城主。霊名ホクロン。<br />
**[[栖本親高]] - 肥後栖本城主。[[梅北一揆]]で戦死。霊名ジョアン。<br />
**[[栖本通高]] - 肥後栖本城主。親高の弟。朝鮮で戦死。<br />
</div><br />
</div><br />
<br />
== 関連作品 ==<br />
<!-- [[Wikipedia:関連作品]]より「記事の対象が、大きな役割を担っている(主役、準主役、メインキャラクター、キーパーソン、メインレギュラー、メインライバル、メイン敵役、ラスボス等)わけではない作品」や未作成記事作品を追加しないで下さい。 --><br />
; 小説<br />
*『海将~海の司令官・小西行長』([[白石一郎]]、新潮社、新版[[講談社]]文庫上下)<br />
*『鉄の首枷 小西行長伝』([[遠藤周作]]、[[中央公論社]]、新版[[ぶんか社]]文庫)<br />
*『宿敵』([[遠藤周作]]、[[角川文庫]]上下)<br />
*『小西行長』(麻倉一矢、[[光文社文庫]])<br />
*『小西行長 後悔しない生き方』(江宮隆之、PHP文庫)<br />
*『小西行長』([[森本繁]]、[[学研M文庫]])<br />
*『高麗秘帖』([[荒山徹]]、[[祥伝社文庫]])<br />
; 漫画<br />
*『[[水軍の将 〜小西行長伝〜]]』([[能田達規]])<br />
<br />
== 脚注 ==<br />
===注釈===<br />
{{脚注ヘルプ}}<br />
{{Notelist}}<br />
{{Reflist|group="注"}}<br />
<br />
=== 出典 ===<br />
{{Reflist|2}}<br />
<br />
==参考文献==<br />
* {{Citation |和書|last=桑田|first=忠親|author-link=桑田忠親|year=1989|title =新編日本武将列伝 5 (東西決戦編) |publisher=秋田書店|isbn=4253003664}}<br />
* {{Citation |和書|last=鳥津|first=亮二|author-link=|year=2010|title =小西行長 : 「抹殺」されたキリシタン大名の実像 : 史料で読む戦国史 |publisher=八木書店|isbn=9784840620499}}<br />
<br />
=== 研究書・論文 ===<br />
*『宇土市史研究 第二十六号』(小西行長基礎資料集)<br />
*『新宇土市史 通史編第二巻 中世・近世』(宇土市史編纂委員会)<br />
*『新宇土市史 資料編第三巻 古代・中世・近世』(宇土市史編纂委員会)<br />
*『宇土城跡三ノ丸跡-弥生時代前期のV字溝と近世城郭遺構の調査-』(1982、宇土城三ノ丸跡発掘調査団・熊本勤労者住宅生活協同組合)<br />
*『宇土城跡(城山)』宇土市埋蔵文化財調査報告書第10集(1985、宇土市教育委員会)<br />
*『麦島城跡−都市計画道路建設に伴う発掘調査−』八代市文化財調査報告書第30集(山内淳司編・八代市教育委員会)<br />
*『平成19年度秋季特別展覧会 小西行長-Don Agostinho-』([[八代市立博物館未来の森ミュージアム]])<br />
*「肥後南部における小西系城郭の構造ー麦島城を素材としてー」『肥後考古学会80周年記念大会』肥後考古学会、山内淳司 2010<br />
*「麦島城の発掘ー小西行長の城を掘る!!」『シリーズ再検証・小西行長』宇土市教育委員会、山内淳司 2010<br />
<br />
== 外部リンク ==<br />
{{commonscat|Konishi Yukinaga}}<br />
* [http://www2.kanko-sekigahara.jp/historicsites-sekigahara/006.html 北天満山・小西行長陣跡 関ケ原観光Web]<br />
* [http://www.yurugp.jp/vote/detail.php?id=00000372 うとん行長しゃん (ゆるキャラ)]<br />
* [http://www.city.uto.kumamoto.jp/museum/09yukinaga/yukinaga.html 小西行長の部屋 宇土市デジタルミュージアム]<br />
* {{Cite web|url=http://www.asahi.com/culture/news_culture/TKY201101130391.html|title=「卑劣」イメージの見直し進む キリシタン大名小西行長|publisher=朝日新聞社|accessdate=2011年1月13日|archiveurl=https://web.archive.org/web/20170215044143/http://www.asahi.com/culture/news_culture/TKY201101130391.html|archivedate=2017年2月15日|deadlinkdate=2017年10月}}<br />
<br />
{{Normdaten}}<br />
{{Portal bar|日本|歴史|軍事|キリスト教|人物伝}}<br />
{{DEFAULTSORT:こにし ゆきなか}}<br />
[[Category:小西氏|ゆきなか]]<br />
[[Category:戦国武将]]<br />
[[Category:織豊政権の大名]]<br />
[[Category:文禄・慶長の役の人物]]<br />
[[Category:備前国の人物]]<br />
[[Category:肥後国の人物]]<br />
[[Category:和泉国の人物]]<br />
[[Category:天草諸島の歴史]]<br />
[[Category:キリシタン]]<br />
[[Category:刑死した人物]]<br />
[[Category:1550年代生]]<br />
[[Category:1600年没]]</div>
2400:402E:8883:3300:90FD:546D:91F1:7FC
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