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miniwiki - 利用者の投稿記録 [ja]
2024-05-22T09:02:37Z
利用者の投稿記録
MediaWiki 1.31.0
本土決戦
2018-06-28T11:52:51Z
<p>2400:4026:AA43:5000:1CAA:195C:1527:7C9C: </p>
<hr />
<div>{{Pathnav|第二次世界大戦|太平洋戦争|日本本土の戦い|frame=1}}<br />
'''本土決戦'''(ほんどけっせん)とは、[[第二次世界大戦]]([[太平洋戦争]])において想定された[[日本]][[本土]]への連合軍陸上戦闘に対する日本側の呼称である。[[アメリカ軍]]と[[イギリス軍]]を中心とした[[連合国_(第二次世界大戦)|連合国]]軍は[[1945年]]秋以降に「[[ダウンフォール作戦]]」として実施を予定し、[[日本軍]]はすべてを決するという意味で「[[決号作戦]]」と称する防衛作戦を計画していた<ref>また、[[ソ連軍]]による[[北海道]]や[[東北地方]]での陸上戦闘の可能性も含まれる。</ref>。1945年(昭和20年)8月に日本が[[ポツダム宣言]]を受諾して[[日本の降伏|降伏]]したため、本土決戦は行われることがなかった。<br />
<br />
== 背景 ==<br />
[[日本国政府|日本政府]]・[[大本営]]が「日米の天王山」と呼号し、死守すべく全力を注いだ[[フィリピンの戦い (1944-1945年) |フィリピンの戦い]]では、[[1945年]](昭和20年)1月9日、連合国軍の[[ルソン島]][[リンガエン湾]]上陸によって日本軍の敗北がほぼ決定的なものとなり、同地の喪失と本土進攻は時間の問題となっていた。<br />
<br />
また、連合国軍の[[潜水艦]]や航空機の攻撃による輸送船の喪失に加え、[[マリアナ海戦]]・[[レイテ沖海戦]]以後は[[制海権]]・[[制空権]]を奪われた。[[機雷]]による日本沿岸の封鎖もあって内地と外地の連絡網は完全に遮断され、[[撤退]]も[[増援]]も絶望的な状況に陥っていた。<br />
<br />
一方、連合国軍の本土上陸に備えた防衛のための準備は[[挙国一致内閣|挙国一致]]体制の掛け声でおこなわれていたが、本土と占領地との間の制海権、制空権の喪失による石油や金属など軍需物資の深刻な不足で遅々として進まず、航空機用の代替燃料として[[松根油]]の生産や、鋼材を節約できる[[コンクリート船]]([[武智丸]])の建造さえ行なわれていた。その上[[日本本土空襲]]による爆撃も加わり、有効な防衛体制を構築すること自体が絶望的な状況であった。<br />
<br />
== 本土防衛戦の準備 ==<br />
=== 基本構想 ===<br />
当初、大本営は本土での地上戦を想定していなかったが、[[絶対国防圏]]が破綻し、本土防衛戦を一から考慮せざるを得ない状況となった。<br />
第一に[[国体護持]]が最優先課題であったため、1944年1月ごろから大本営の転進計画([[松代大本営]])が秘密裏に進められた。<br />
1944年7月20日、参謀総長は『本土沿岸築城実施要綱』を示し、連合国軍の上陸に備え、[[九十九里浜]]や[[鹿島灘]]、[[八戸]]に陣地構築を命じた。また、関東防衛のための大本営直属部隊として[[第36軍 (日本軍)|第36軍]]が編成された。<br />
1944年7月24日、大本営は『陸海軍爾後ノ作戦大綱』を定し、フィリピン、千島列島、本土、台湾の4方面で、連合国軍の侵攻を想定した迎撃作戦の準備を命じた([[捷号作戦]])。<br />
その約1カ月後にフィリピンに米軍が侵攻。これに対し大本営はフィリピンを死守すべく[[捷一号作戦]]を発動したが、逆に[[レイテ沖海戦]]で連合艦隊が壊滅する大敗を喫し、日本は海上作戦能力を事実上喪失した。<br />
<br />
その結果をうけ、大本営は本格的に本土防衛計画に迫られることになった。連合国軍の本土上陸侵攻を遅延させ、その間に本土の作戦準備態勢を確立するための『帝國陸海軍作戦計画大網』を1945年1月20日に定め、陸上防衛戦への準備が進められていくことになる。この作戦計画は、「前縁地帯」つまり千島列島、小笠原諸島、南西諸島の沖縄本島以南、台湾などの地域を「外郭」とし、連合国軍が侵攻してきた場合、出来る限り抗戦して敵の出血を図りつつ、長駆侵攻してくる敵を日本本土深くまで誘い込んだ上で撃退するという海軍の[[漸減邀撃作戦|漸減迎撃戦略]]が採用された。<br />
<br />
1945年4月8日、大本営は、連合軍上陸の際には各方面軍が独立して最期まで戦闘にあたることと、『決号作戦準備要綱』を示達し、一連の防衛計画を正式な作戦名「決号作戦」とした。以降の大本営の構想は、部隊の後退、持久を認めない旨を各部隊に通達し<ref>大本営「国土決戦教令」1945年4月20日発令など</ref>、[[一億玉砕]]の思想にとらわれていくことになる。<br />
<br />
日本軍は、連合国軍が本土に侵攻してくる時期を1945年秋と予測していた。当時の敵情分析をした書類には、<br />
{{quotation|わが本土攻略開始時期、方面及び規模などはなお予断を許さないが、わが、空海武力の打倒、空海基地の推進、日満支の生産及び交通の徹底的に破壊などにより戦争遂行能力の打倒し、大陸と本土との兵力機動を遮断し、そのうえ、十分な陸兵を集中指向を整えたのち、決行するのが至当な順序であろう。その時期は今後の情況により変化するが、本年秋以降は特に警戒を要するものと思考する|[[戦史叢書]]『本土決戦準備<1>関東防衛』[[防衛庁]][[防衛研修所]]戦史室著、[[朝雲新聞社]]刊}}<br />
とされており、連合国軍の日本本土侵攻のスケジュールとほぼ一致していた。<br />
<br />
=== 陸軍 ===<br />
==== 指揮系統の一新 ====<br />
1945年1月22日、すでに[[沖縄戦]]前に解体されていた[[北部軍 (日本軍)|北方軍]]・[[台湾軍 (日本軍)|台湾軍]]に加えて、1944年より本土防衛の総指揮を執っていた[[防衛総司令部]]の隷下にあった[[東部軍 (日本軍)|東部軍]]・[[中部軍 (日本軍)|中部軍]]・[[西部軍 (日本軍)|西部軍]]、及び[[朝鮮軍 (日本軍)|朝鮮軍]]を廃止して、新たに[[方面軍]]と[[軍管区]]を新設した。これによって、作戦と軍政の分離を行い、本土決戦における指揮系統の明確化を図った。[[防衛総司令部]]はこれまでと同様に、直接部隊として東京防衛のための第36軍と[[第6航空軍 (日本軍)|第6航空軍]]を指揮下に置いていた。<br />
<br />
さらに4月8日、指揮の円滑化を図るため、防衛総司令部は[[第1総軍 (日本軍)|第1総軍]]・[[第2総軍 (日本軍)|第2総軍]]に分割された。両総軍の指揮範囲は[[鈴鹿山脈]]を境界としていた。また、航空戦力の一元運用のため、[[航空総軍]]が新設された。この際に、[[第36軍 (日本軍)|第36軍]]は第12方面軍隷下になり、[[第6航空軍 (日本軍)|第6航空軍]]は航空総軍の隷下となった。<br />
<br />
[[画像:師管区(終戦時).gif|400px|thumb|right|]]<br />
これら一連の新指揮系統の確立の結果を以下に示す。<br />
* [[第1総軍 (日本軍)|第1総軍]]<br />
** [[第11方面軍 (日本軍)|第11方面軍]]:[[東北軍管区]]([[東北地方]])<br />
** [[第12方面軍 (日本軍)|第12方面軍]]:[[東部軍管区 (日本軍)|東部軍管区]]([[関東地方|関東]]・[[甲信越地方|甲信越]]地方)<br />
** [[第13方面軍 (日本軍)|第13方面軍]]:[[東海軍管区]]([[東海地方|東海]]・[[北陸地方|北陸]]地方)<br />
* [[第2総軍 (日本軍)|第2総軍]]<br />
** [[第15方面軍 (日本軍)|第15方面軍]]:[[中部軍管区 (日本軍)|中部軍管区]]([[関西地方|関西]]・[[中国地方|中国]]・[[四国]]地方)<br />
** [[第16方面軍 (日本軍)|第16方面軍]]:[[西部軍管区 (日本軍)|西部軍管区]]([[九州]]地方)<br />
* [[第5方面軍 (日本軍)|第5方面軍]]:[[北部軍管区 (日本軍)|北部軍管区]]([[北海道]]・[[樺太庁|樺太]]・[[千島列島]]など北海地方)<br />
* [[第17方面軍 (日本軍)|第17方面軍]]:[[朝鮮軍管区]](朝鮮半島)<br />
* [[第10方面軍 (日本軍)|第10方面軍]]:[[台湾軍管区]](台湾)<br />
<br />
==== 兵力の配備 ====<br />
[[1944年]]に[[マリアナ諸島]]を喪失した頃、日本陸軍の総兵力はおよそ400万人であったが、そのうち、日本本土にあったのは、東部、中部、西部の各軍を合わせても約45万6千人で、総兵力のわずか11%に過ぎず、防衛戦を行うには兵力が不足していた<ref>[[北海道]]、[[千島]]、[[樺太]]、[[小笠原諸島]]、[[南西諸島]]の本土周辺部、[[軍学校]]などのおよそ41万2千人、航空部隊、船舶部隊などの人員約45万3千人を合わせても132万1千人であり、'''総兵力の3分の1程度'''に過ぎなかった。</ref>。<br />
<br />
兵力の欠乏を補うため、[[満州]]や北方からの部隊転用が行われたほか、「[[根こそぎ動員]]」と呼ばれる現役兵から国民兵役に至るまでの大量召集と部隊新設が進められた。根こそぎ動員は、以下の通り、大きく3回に分けて実施された。<br />
*1945年[[2月28日]]に臨時動員が下令された[[本土決戦第一次兵備|第1次兵備]]<br />
*[[4月2日]]と[[4月6日|6日]]にかけて臨時動員が下令された[[本土決戦第二次兵備|第2次兵備]]<br />
*[[5月23日]]に動員下令された[[本土決戦第三次兵備|第3次兵備]]<br />
<br />
これらの動員によって、一般[[師団]]40個、[[旅団|独立混成旅団]]22個など約150万人近くが動員された。日本軍は、前述の時期を念頭に部隊の編成を実施した。しかし、期間や物資の制限から最終的には、兵力や装備が不足していても、編成が完結したと見なす方針が取られた。そのため、これらの師団は結局中途半端な人員・装備のままで配備されていった。<br />
<br />
さらに、緊急時にのみ召集する防衛召集方式の部隊も、補助的な戦力として増設された。沿岸警備などを目的とした[[特設警備隊]]が引き続き編成されたほか、後述の国民戦闘組織と連携する部隊として[[地区特設警備隊]]も編成が始まった。従来は徴兵関係の事務処理機関だった[[連隊区]]司令部も、地区特設警備隊などを指揮して戦闘任務を負うことになり、職員兼任の地区司令部が新たに編成された。これらの部隊は兵器・訓練とも極めて不十分な状態であった。<br />
<br />
以上のほか、本土所在の軍部隊の増加に応じた軍の秩序維持や軍民関係調整を図ることなどを目的に、国内配備の[[憲兵 (日本軍)|憲兵]]の大幅な増強も行われた。正規憲兵だけで14203人に及び、さらに補助憲兵9222人も増加配属された。これにより、国内憲兵は一挙に3倍の兵力となった。<br />
==== 特殊軍務機関の移転 ====<br />
『帝國陸海軍作戦計画大網』の方針に則り、本土防衛戦での[[諜報戦]]、[[秘密戦]]、[[遊撃戦]]、[[細菌戦]]に備え、[[陸軍中野学校]]の群馬移転、および[[登戸研究所]]の長野移転が行われた。<br />
<br />
=== 海軍 ===<br />
==== 指揮系統の一新 ====<br />
レイテ沖海戦の敗北により多くの艦艇を失い、すでに組織的戦闘力を喪失していた海軍は、[[南東方面艦隊]]及び[[南西方面艦隊]]を除いた、全部隊を統一指揮するため、陸軍の指揮系統改編と同じ時期、1945年4月25日に、慶應大学日吉キャンパスに[[海軍総隊]]司令部を設置し、初代の海軍総司令長官には連合艦隊司令長官が兼務し[[豊田副武]]大将、ついで[[小沢治三郎]]中将が任命された。<br />
<br />
=== 行政・民兵等の整備 ===<br />
軍事上の要望と国民の権利を調整するために「[[軍事特別措置法]]」が施行され、船舶港湾などの一元的運営、地方行政組織の臨戦化も図られた。例えば、[[船舶運営会]]に委ねられていた船舶管理は、軍徴用船と合わせて新設の大本営海運総監部が行うことになった。<br />
<br />
さらに、3月下旬以降は、陸海軍と別に全国民の戦力化を図る国民戦闘組織の編成が進められた。3月23日に統制強化と[[民間防衛]]のための[[国民義勇隊]]の設置が閣議決定され、[[国民学校]]初等科終了以上の65歳以下の男性、45歳以下の女性のうち、病弱者と兵役者を除く全員を地域単位で組織した。6月22日の[[義勇兵役法]]公布により、国民義勇隊は陸海軍正規部隊以外の補助戦闘組織である国民義勇戦闘隊への編入が可能となった。義勇兵役法では、[[兵役法]]対象外である若年者・高齢者・女性も対象に取り込まれ、男性は15歳以上60歳以下(当時の男子平均寿命46.9歳)、女性は17歳以上45歳以下までが「義勇召集」によって、国民義勇戦闘隊員に編入され、「義勇兵」として戦闘に参加することが可能となった。ただし召集拒否は不可であり、逃亡、忌避に対しては罰則が加えられた。対象年齢者以外の者も志願すれば、戦闘隊に参加することが可能で、それ以外の者は戦闘予測地域からの退避が予定されていた。これに伴い、在郷軍人会が自主的に組織していた防衛隊は、国民義勇隊に一本化された。<br />
<br />
== 準備の経過 ==<br />
連合国軍は[[1945年]]4月に沖縄侵攻([[沖縄戦]])を開始、6月には[[沖縄県|沖縄]]の占領をほぼ完了した。連合国軍は日本の早期降伏を狙い、機雷や潜水艦による日本本土の海上封鎖、爆撃機による都市空襲を行ったものの、それらの降伏意思に対する効果は不明確であり、本土上陸を果たし、[[東京]]占領によって戦争終結を目指すことが計画された。<br />
<br />
一方、日本政府は[[日露戦争]]を念頭に[[ソビエト連邦|ソ連]]を仲介とし、[[天皇制]]の維持を主目的とする「国体の護持」を掲げた講和工作を行ってはいたが、国家体制の破壊を太平洋戦争の最終目標とする連合国軍に受け入れられるはずがなく<ref>笠井潔『8・15と3・11 戦後史の死角』(NHK出版新書)p.85</ref>、はかばかしい結果を生み出さなかった。結局、成り行きで日本本土における戦争継続方針が採用された。<br />
<br />
『[[昭和天皇独白録]]』によれば、6月12日には、「私が今迄聞いてゐた所では、海岸地方の防備が悪いといふ事であつたが、報告に依ると、海岸のみならず、決戦師団さへ、武器が満足に行き渡つてゐないと云ふ事だつた。 敵の落した爆弾の鉄を利用して「シャベル」を作るのだと云ふ、これでは戦争は不可能と云ふ事を確認した。」また、「終戦後元侍従長の坪島から聞いた事だが一番防備の出来ている筈の鹿児島半島の部隊でさえ、対戦車砲がない有様で、兵は毎日塹壕堀に使役され、満足な訓練は出来て居らぬ有様だった相だ。」とある<ref>[[寺崎英成]]『昭和天皇独白録』[[文藝春秋]]、136頁</ref>。<br />
<br />
1945年7月26日に連合国の共同声明としてポツダム宣言が出される。[[最高戦争指導会議]]ではソ連からの仲介回答が出るまで静観するとされたが、軍部の側から政府に国民の士気に関わるという理由で非難声明を出す要求があり、[[鈴木貫太郎]]首相は記者会見で「重大な価値あるものとは認めない、ただ黙殺するのみである」と述べた。その後、[[日本への原子爆弾投下|原爆投下]]とソ連の[[ソ連対日参戦|参戦]]によって最高戦争指導会議の御前会議において[[昭和天皇]]のいわゆる「聖断」によりポツダム宣言の受諾による停戦を決意、8月14日に宣言の正式受諾を連合国に通告する。翌15日にはそれが発表され、[[9月2日]]に宣言の正式な調印がなされた。これによって「本土決戦」は想定や計画だけに終わる結果となった。<br />
<br />
== 各国軍の想定 ==<br />
[[ファイル:日本本土決戦の概略図.gif|400px|thumb|right|日本本土決戦の概略図]]<br />
=== 日本軍の作戦 ===<br />
{{main|決号作戦}}<br />
千島から九州まで、日本全土において防御陣地の構築や根こそぎ動員による戦闘要員の確保する。特に陣地構築が多かった地区は九州と関東である。軍人のほかに地元住民なども動員して、塹壕や飛行場の構築が行われた。航空攻撃については夜間雷爆撃を主とする通常攻撃も含まれていたが、特攻が主体になると考えられていた。<br />
<br />
=== 連合国軍の作戦 ===<br />
{{main|ダウンフォール作戦}}<br />
<br />
=== ソ連軍の動向 ===<br />
ソ連は1945年[[8月8日]]に日本に宣戦し、翌9日未明、満州・北鮮と千島・樺太に侵攻している([[ソ連対日参戦]])。ソ連は北海道の北半分の占領をアメリカに要求しており、実際に1945年8月後半には軍へ北海道上陸の準備命令を出していた。<br />
<br />
==駐日外交官への対応==<br />
[[ドイツ]]などの同盟国やソ連のような非交戦国、[[スウェーデン]]や[[スイス]]、[[スペイン]]などの中立国の[[外交官]]の多くは東京や疎開先の軽井沢などで通常の活動を行っており、連合国軍上陸の際には日本政府とともに疎開、移動することとなっていた。<br />
<br />
== 現代への影響 ==<br />
「本土決戦」は、絶対国防圏が破られた後に軍部が作成した泥縄的戦略で、その計画が未完に終わったため、戦後日本の防衛戦略に与えた影響は多くはない。しかし、本土決戦の準備のために凄惨な持久戦となった[[沖縄戦]]では多数の人的損害が発生した。自国民と領土を戦略的に犠牲にするという[[国民国家]]として「ありうる選択肢」を、日本政府が対米戦争においては沖縄にのみ負わせる結果に終わったことは、戦後、基地問題に代表される沖縄の本土への不信感を抱かせるに至った。<br />
<br />
作家の[[笠井潔]]は、本土防衛戦が行われた犠牲者数の試算を200万から300万と、沖縄戦と比べて「これでも控えめな数字」と予測している。そしてこの惨禍を逃れたのは「幸運であった」としながらも、同時に、この代償として日本人がなにを失ったかを正確に知る必要がある、と述べている<ref>笠井潔『8・15と3・11 戦後史の死角』(NHK出版新書)p.63</ref>。<br />
<br />
== 舞台設定としての本土防衛戦 ==<br />
本土防衛戦は、それが非常に激しい陸上戦闘を伴うと思われること、またその結果として20世紀後半の日本が分断国家となった可能性があったことから、[[架空戦記]]やSF小説などで舞台設定として用いられることがある。<br />
<br />
=== 「本土決戦」を題材としたフィクション作品 ===<br />
* 『[[地には平和を]]』([[小松左京]]、1963年発表)<br />
* 『本土決戦 日本侵攻・昭和20年11月』(デイヴィッド・ウェストハイマー、[[木村譲二]]訳、1971年)<br />
* 『日本本土決戦』([[檜山良昭]]、1981年)<br />
* 『[[五分後の世界]]』([[村上龍]]、1994年)<br />
* 『[[五分後の世界|ヒュウガ・ウイルス-五分後の世界2]]』(村上龍、1998年、幻冬舎文庫)<br />
* 『鉄槌 1944迎撃!本土決戦!!』1-5巻([[橋本純]]、2000-2001年、[[学習研究社]]歴史群像新書)<br />
<br />
== 研究書、テレビドキュメンタリー ==<br />
* 『幻の本土決戦 房総半島の防衛』全8巻([[千葉日報社]]、1989-1994年)<br />
* 大西比呂志、栗田尚弥、小風秀雅『相模湾上陸作戦―第二次大戦終結への道』([[有隣堂]]新書、1995年)<br />
* [[保阪正康]]『本土作戦幻想/オリンピック作戦編』『コロネット作戦編』([[毎日新聞社]]、2009年)<br />
* 『決定版・太平洋戦争8「一億総特攻」「本土決戦」への道』(歴史群像シリーズ、2010年) <br />
* 藤田昌雄『日本本土決戦―知られざる国民義勇戦闘隊の全貌』([[潮書房光人社]]、2015年) <br />
* [[土門周平]]『本土決戦―幻の防衛作戦と米軍進攻計画』(光人社NF文庫、2015年)<br />
* [[広域高速ネット二九六]]『幻の本土最終決戦~首都の盾 房総千葉~』(2015年) <br />
<br />
== 参考文献 ==<br />
* 山田朗=監修/日吉台地下壕保存の会=編 『一度は訪ねてみたい戦争遺跡 本土決戦の虚像と実像』 [[高文研]] 2011年8月 ISBN 978-4-87498-464-2<br />
<br />
== 脚注 ==<br />
<references /><br />
<br />
== 関連項目 ==<br />
* [[竹槍三百万論]]<br />
* [[ダウンフォール作戦]]<br />
* [[原子爆弾]]<br />
* [[日本の分割統治計画]] <br />
* [[連合国軍占領下の日本]]<br />
<br />
{{デフォルトソート:ほんとけつせん}}<br />
[[Category:太平洋戦争]]<br />
[[Category:上陸作戦]]</div>
2400:4026:AA43:5000:1CAA:195C:1527:7C9C
日本発送電
2018-06-26T16:07:17Z
<p>2400:4026:AA43:5000:1CAA:195C:1527:7C9C: </p>
<hr />
<div>{{基礎情報 会社<br />
|社名 = 日本発送電株式会社<br />
|英文社名 = Japan Electric Generation and Transmission Company<br />
|ロゴ = <br />
|画像 = <br />
|画像説明 = <br />
|種類 = [[株式会社]]<br />
|市場情報 = <br />
|略称 = 日発<br />
|国籍 = {{JPN1889}}<br />
|本社郵便番号 =<br />
|本社所在地 = [[東京都]][[文京区]]小石川町一丁目1番地11<br />
|本店郵便番号 = <br />
|本店所在地 = <br />
|設立 = [[1939年]]([[昭和]]14年)[[4月1日]]<br />
|業種 = 4050<br />
|統一金融機関コード = <br />
|SWIFTコード = <br />
|事業内容 = <br />
|代表者 = <br />
|資本金 = <br />
|発行済株式総数 = <br />
|売上高 = <br />
|営業利益 = <br />
|純利益 =<br />
|包括利益 =<br />
|純資産 = <br />
|総資産 = <br />
|従業員数 = <br />
|支店舗数 = <br />
|決算期 = <br />
|主要株主 = <br />
|主要子会社 = <br />
|関係する人物 = <br />
|外部リンク = <br />
|特記事項 = この欄の出典は『[[会社四季報]]昭和26年第2集』(東洋経済新報社、1951年3月)のp. 56<br />
}}<br />
{{日本の法令<br />
|題名=日本発送電株式会社法(1938年)<br />
|番号=昭和13年4月6日法律第77号<br />
|通称=<br />
|効力=1950年失効<br/> [[電気事業再編成令]]<br />
|種類=行政法<br />
|内容=戦時統制経済の導入<br/> [[第20回衆議院議員総選挙|第20回総選挙衆議院]]<br/> [[第1次近衛内閣]]<br />
|関連=[[国家総動員法]]、[[#電力管理法|電力管理法]]など<br />
|リンク= [http://dl.ndl.go.jp/search/searchResult?searchWord=%E6%97%A5%E6%9C%AC%E7%99%BA%E9%80%81%E9%9B%BB%E3%80%80%E5%AE%98%E5%A0%B1&facetOpenedNodeIds=&featureCode=all&viewRestrictedList=0&pageNo=2 官報]<br />
|ウィキソース= <br />
}}<br />
'''日本発送電株式会社'''(にっぽんはっそうでん)は、[[1939年]](昭和14年)から[[1951年]](昭和26年)までの間に存在した日本の電力事業を司った[[特殊会社]]である。[[国家総力戦]]体制を構築しようとする当時の日本政府の電力国家管理政策に基づき、[[東京電燈]]・[[日本電力]]など全国の[[電力会社]]の[[現物出資]]や[[合併 (企業)|合併]]によって設立された半官半民の[[トラスト (企業形態)|トラスト]]である。<br />
<br />
略称は「'''日発'''」(にっぱつ・ニッパツ)、また[[英語]]表記は、'''Nippon Hassoden K.K.''' あるいは '''Japan Electric Generation and Transmission Company''' であった。<br />
<br />
== 発足の経緯 ==<br />
[[1932年]](昭和7年)4月、後述のいわゆる五大電力会社が'''電力連盟'''という[[カルテル]]を発足させた。これが日本発送電の土台となった。五大電力会社は[[関東大震災]]のときに巨額の[[外債]]を発行していたが、1931年12月の[[金解禁|金輸出再禁止]]がもたらした為替低落により急に外債利払い負担が増えた。そこへ逓信省が電力連盟の結成をはたらきかけ、連盟規約8条の顧問には[[池田成彬]]・[[各務鎌吉]]・[[結城豊太郎]]・八代則彦(やつしろのりひこ。[[日本郵船]]から明治38年住友へ入行。昭和5年に会長)が推された<ref>規約全文は「電力連盟の批判」『東洋経済新報』1932年5月28日に掲載された。</ref>。<br />
<br />
政府側電気委員会は連盟から提出された意見書も加味して1933年7月に料金認可制を敷いた。連盟は多くの点で委員会から独立して活動した。以下は具体例。[[担保付社債信託法]]の改正要求、外債打撃対策の推進、東西電力融通の決定([[電力広域的運営推進機関]]も参照)、火力発電所要石炭の共同購入、中国大陸での電力統制、電力国家管理案への反対など<ref>栗栖赳夫 「外債が我社債制度に与へた影響(中)」『ダイヤモンド』1933年12月1日号</ref>。[[松永安左エ門]]は連盟の中心的役割を演じたが、連盟は多方面で交渉しコスト削減を実現した。1933年4月の担保付社債信託法改正、同年5月・翌年4月の外債買入償却用海外送金許可、東電・[[東信電気]]・日電間の電力融通、撫順炭([[撫順襲撃事件]]も参照)の共同購入、関西共同火力の拡張と中部共同火力の設立等である。<br />
<br />
=== 電力行政の誕生 ===<br />
[[image:Oi Dam power station.jpg|250px|thumb|大井発電所(左)と[[大井ダム]]([[岐阜県]]・[[木曽川]])。建設を巡って起こった宮田用水事件はその後の電力行政に影響を与えた。]]<br />
日本の電気事業は、[[1882年]](明治15年)に[[藤岡市助]]らによって'''[[東京電燈]]'''が設立請願された時を以って誕生した。その後[[1887年]](明治20年)には[[日本橋 (東京都中央区)|日本橋]]に発電所が建設され、付近のごく限られた地域ではあったが送電を開始している。その後[[神戸電燈]]や[[大阪電燈]]、[[名古屋電燈]]、[[京都電燈]]などが相次いで設立され、[[日清戦争]]の勝利によってその勢いはさらに加速した。<br />
<br />
こうした会社の電気事業に対応する法制度は当初存在しなかった。[[1891年]](明治24年)1月、[[帝国議会]]仮議事堂火災事故が発生し仮議事堂が全焼した。この火災の原因は正確な所不明ではあるものの、電灯用の設備が[[漏電]]を起こして出火したのではないかという見方が出た。これを機に[[警視庁]]は保安上の対策を行う上で電気事業を監督するための法令を12月に制定した。この「'''電気営業取締規則'''」が日本における電力関連法規の第一号であった。その後全国各地で勃興する電力会社の監督を円滑に図るべく、監督官庁を警視庁から[[逓信省]]<ref>通常は、後の[[郵政省]](現在の[[総務省]]の一部及び[[日本郵政]]グループ)及び[[日本電信電話公社]](現在の[[NTT]]グループ)・[[国際電信電話株式会社]](現在の[[KDDI]])等の広義の通信行政及び通信事業体の前身とされることが多いが、他にも、当時[[国営]]であった[[電信]]事業との関係から電力行政も所管しており、この点に関しては現在の[[経済産業省]]の前身に当たる。</ref>へと移し、[[1896年]](明治29年)5月に「'''電気事業取締規則'''」が発令され、発電・送電・配電の全てにわたって電気事業者に保安などの義務を課すこととした。これ以降、電力行政は逓信省の流れをくむ[[商工省]]、[[通商産業省]]、[[経済産業省]]が掌ることになる。<br />
<br />
[[1907年]](明治40年)には東京電燈が[[山梨県]]に本格的な[[水力発電所]]である'''駒橋発電所'''を稼働させた。電源開発の促進は、[[富国強兵]]の観点からも政策として促進され、[[1910年]](明治43年)には全国の[[河川]]を対象に包蔵水力の調査を組織的かつ大規模に実施した'''第一次発電水力調査'''が行われた。同時に翌[[1911年]](明治44年)には'''[[電気事業法]]'''が施行され、電気事業者の公益性が確立。同時に[[水利権|発電用水利権]]や土地立入権、山林伐採権などあらゆる権利が保障された。同法の成立以後、各電力会社は競って大規模な[[ダム式発電所|ダム式水力発電所]]の建設を行い、[[福澤桃介]]による[[大井ダム]](木曽川)の建設など全国各地で[[電力会社管理ダム|発電用ダム]]の建設が行われた。<br />
<br />
[[1914年]](大正3年)には猪苗代水力電気が[[福島県]]の猪苗代第一発電所から[[東京都]][[北区 (東京都)|北区]]田端まで約225[[キロメートル]]区間にも及ぶ長距離高圧送電に成功し、送電技術も確立されていった。[[大正時代]]に入ると電力会社間の競争が激化し、やがて東京電燈、[[東邦電力]]、[[大同電力]]、[[宇治川電気]]、[[日本電力]]のいわゆる「'''五大電力会社'''」が誕生。これらを中心として[[木曽川]]、[[信濃川]]、[[飛騨川]]、[[天竜川]]、[[庄川]]などで[[水力発電]]の開発が進められていった。<br />
<br />
ところが、こうした電力開発に対して、旧来から[[水利権|慣行水利権]]などを保有していた地元とのあつれきが激化し、各地で紛争が勃発した。特に大井ダム建設に伴う取水口水没に端を発した'''[[宮田用水]]事件'''([[1924年]]~[[1939年]])や、慣行流木権を巡り法廷闘争にまでもつれ込んだ'''庄川流木事件'''([[1918年]]~[[1933年]])などは、電力会社と地元の紛争が長期化した例として知られている。<br />
<br />
こうした紛争に対して電気事業法では対応が出来なかった。このため河川行政を管轄する[[内務省 (日本)|内務省]]<ref>河川行政に関しては[[建設省]]、[[国土交通省]]の前身である。</ref>は[[1926年]](大正15年)[[8月26日]]に'''河川行政監督令'''を発令。[[ダム]]や水力発電所、及びそれに関連する施設で河川に設置するものは全て[[内務大臣 (日本)|内務大臣]]の[[許認可]]とすることで一応の解決を見た。この内務省の電力行政への介入は、後の電力国家統制の端緒ともなった。<br />
<br />
=== 国家統制への道程 ===<br />
1926年、その後の河川行政を大きく転換させる一つの私案が発表された。[[東京大学|東京帝国大学]]教授で内務省土木試験所長の職に就いていた[[物部長穂]]による'''[[河川総合開発事業#河水統制計画|河水統制計画案]]'''がそれである。物部はこの案において、[[治水]]([[洪水調節]])と利水([[上水道]]、農地[[かんがい]]、水力発電)を総合的かつ効率的に行うためには[[多目的ダム]]による河川開発が最も有用であり、これを有効に行うためには[[水系]]一貫の開発が望ましいと主張した。これは後に[[河川総合開発事業]]と名を改め、現在に至るまで日本における河川行政の基本となっている。さらにこの中で物部は、これら河川施設を有機的に運用するには、公平な立場に立脚している河川事業者、すなわち'''国家による統制が望ましいとした'''。この河水統制計画案は、内務省内務[[技監]]で当時日本における河川行政の第一人者であった[[青山士]](あおやま・あきら)よって取り上げられ、以後内務省はこの物部案を国策として強力に推進する姿勢に転じた。同時期、[[鶴見騒擾事件]]を始めとした無秩序で激烈なシェア争いを繰り広げていた電力業界に対し、逓信省[[官僚]]の中には民間には電気事業を任せられないと考える者も出始めていた。<br />
<br />
[[1927年]](昭和2年)、電力業界を監督する逓信省電気局は新進気鋭の官僚9名を選び内部組織である「'''臨時電気事業調査部'''」を設置、今後の電力行政について新たなる方針を検討するよう指示した。そして翌[[1928年]](昭和3年)の秋に最終結果が答申された。その内容とは後の日本発送電につながる半官半民の国策会社を設立してそこに電力開発を全て委ね、資源の適正開発と低廉な電気料金による安定供給を行うことが重要であるというものであった。逓信省はこの答申をさらに検討した上、[[1932年]](昭和7年)4月に電気事業法を改正した。12月には施行にともない、電力資本の利益に寛容な電気委員会を設置した。[[1937年]](昭和12年)より'''第三次発電水力調査'''を実施したが、その根幹にあったのは先に物部が発表し内務省が国策とする河水統制計画に則った、水系一貫の多目的開発に沿った水力発電開発調査であった。このころから次第に内務官僚や逓信官僚は重要な電気事業を河川事業と同様に国家管理として統制するという方向性を持ち始めていた。<br />
<br />
当時日本は[[満州事変]]の勃発以降、[[軍部]]が次第に台頭していった。特に台頭していたのは「[[統制派]]」と呼ばれるグループであった。彼らは[[自由主義]]経済を否定して国家による[[統制経済]]を行うことで戦時体制を構築・強化して行くことを主眼においていた。[[五・一五事件]]や[[二・二六事件]]を経て対立する[[皇道派]]を粛清することで実権を獲得した[[東條英機]]ら統制派の面々は、私企業の利益より公益を優先することを主張していた[[企画院]]や内務・逓信官僚などと結託し、本格的な統制経済を構築し始めた。そしてその標的となったのが電気事業であり、[[1938年]](昭和13年)、第73回帝国議会に「'''電力国家統制法案'''」が上程されたのである。<br />
<br />
=== 電力管理法 ===<br />
{{日本の法令<br />
|題名=[[#電力管理法|電力管理法]](1938年)<br />
|番号=昭和13年4月6日法律第76号<br />
|通称=<br />
|効力=1950年廃止<br/> [[電気事業再編成令]]<br />
|種類=行政法<br />
|内容=戦時統制経済の導入<br/> [[第20回衆議院議員総選挙|第20回総選挙衆議院]]<br/> [[第1次近衛内閣]]<br />
|関連=[[国家総動員法]]、[[#配電統制令|配電統制令]]など<br />
|リンク= [http://dl.ndl.go.jp/search/searchResult?featureCode=all&searchWord=%E9%9B%BB%E5%8A%9B%E7%AE%A1%E7%90%86%E6%B3%95%E3%80%80%E5%AE%98%E5%A0%B1&viewRestricted=0 官報]<br />
|ウィキソース= <br />
}}<br />
「電力国家統制法案」は、[[1938年]](昭和13年)[[1月19日]]、[[第1次近衛内閣]]において、[[内閣調査局]]により、国家総動員法案などと共に提出された。[[日中戦争]]が次第に激化するに連れ、現状では[[戦時体制]]の維持が図れないとする軍部の意向が強く反映されていた。<br />
<br />
この「電力国家統制法案」は三つの法案からなる。「'''電力管理法案'''」・「'''日本発送電株式会社法案'''」そして「'''電力管理に伴う社債処理に関する法案'''」であったが、特に重要だったのが電力管理法案であった。これは電力会社・道府県・民間企業の全てを対象に、日本に存在する全ての電力施設を国家が接収・管理するという趣旨の法案である。そして接収した電力施設は「半官半民」である'''日本発送電株式会社'''によって管理し、一元運営を行うとするものであった。<br />
<br />
この法案に対して、電力業界は当然のことながら猛反発した。特に[[東邦電力]]社長で「電力王」の異名を持つ'''[[松永安左エ門]]'''は、1933年の講演において軍部に追随する内務・逓信官僚を「'''人間のクズである'''」と痛烈に非難した。だがこうした電力業界の反発は当時絶大な権力を持った軍部によって抑圧され、「人間のクズ」発言をした松永は軍部から危険人物としてマークされるに至った。松永は企画院総裁であった[[鈴木貞一]]の助言によって隠退し、以後正面を切って法案に反対する勢力は居なくなった。一方議会では日本発送電の資金調達に対する財源や、低廉な電気料金の現実性を巡って意見が紛糾。原案は否決されて[[衆議院]]で修正案が提出されたものの、[[貴族院 (日本)|貴族院]]でさらに再修正されるなど法案の成立には紆余曲折があった。<br />
<br />
被収用業者に新会社の株式または社債を交付するというのは,公用徴収の精神である完全賠償に反するという批判に対しては、政府は、「新会社の社債または株式は新会社の採算が確実であるのだから完全賠償である」と反論した。また「本法を成立させる理由は、そもそも電力はその性質上、公益的、独占的であり、わが国は天然資源に乏しく、石油、石炭のような燃料に恵まれず、ただ電源である天然水力には恵まれており、電力事業を民間経営に任せておくと採算上、水力の完全利用が望まれず、地方によって料金が不同であるから、本法によって、水力の完全利用を実現させ、料金を低廉ならしめ、農村電化の実現もあわせて企図するものである」と説明した。<br />
<br />
最終的には衆議院と貴族院での[[両院協議会]]で調整されて、[[3月26日]]に成立。[[国家総動員法]]と共に[[4月1日]]施行された(昭和13年法律第76号)。<br />
<br />
全7条。適用においては、自己の専用または一地方の需要に供する発送電で勅令が定めるもの(すなわち、最大電圧 40000V 以上において使用される送電線路を主体とする電力系統に属する設備、またはこれと密接な関係を有する設備による発送電以外の発送電。電力管理法施行令1条)は除外される。右により管理する発送電中、勅令で定めるもの<ref>(1) 発電設備、(イ)出力5000kWを超過する水力発電設備、(ロ)出力100000kWを超過する火力発電設備、(2) 送電設備、(イ)最大電圧100000V以上において使用されるもの、(ロ)最大電圧40000V以上100000V未満において使用される送電設備で、(1)発電所から電気の主要需要地に至る送電幹線で他の送電系統と連絡し綜合運転をなすのを適当とするもの、(2) 主として電気事業者間における電力受給の用に供されるもの、または(3)他の最大電圧40000V以上において使用される送電線路と並行の関係にある送電線路で綜合運転により電力潮流の改善をなし得るもの、(ハ)第1号の発電設備の相互間を連絡するもの、(ニ)(イ)ないし(ハ)の送電設備に対して送電上、従属関係になるもので電力受給関係整理のために必要なもの、(3) 変電設備、(イ)前号(イ)の送電設備に接続するもの、(ロ)前号(ロ)ないし(ニ)の送電設備に接続する変電設備で送電連絡のためにまたは電力受給のために必要なもの。ただし、電気事業法第30条に規定される施設および特別の事由により逓信大臣が除外するものはこの限りでない(同令2条)</ref>は、日本発送電株式会社として発送電を行なわせる。政府は規定によって日本発送電株式会社および政府が管理する発送電をなすものに対して一定の命令をだすことができ、後者に対する命令に違反した場合、2000円以下の罰金の規定がある。<br />
<br />
法案成立後、政府によって'''電力管理準備局'''と諮問機関である'''電力審議会'''(昭和13年勅令369号による)が5月5日に設置され、発電・送電計画のほか議会で揉めに揉めた電気料金の設定などについて審議・決定が行われた。8月10日には'''電力評価審査委員会'''が設置され、全国の電気事業者から接収する電力施設の評価について審査を行い、これ以降全国の発電所、[[変電所]]、送電施設が段階的に接収されていった。なお、建前としては各事業者からの出資あるいは買収という形で管理を移管するということであったが、実際は[[国家総力戦]]の名の下、強制的に接収したのと同様であった。<br />
<br />
施設の接収がほぼ終わると、国家管理を実施するための実務官庁が必要となった。そこで翌[[1939年]](昭和14年)4月1日に逓信省の下部官庁として'''電気庁'''を新設。<br />
<br />
こうしてすべての準備が整い、電気庁新設と同じ日、日本発送電は発足したのである。だが日本発送電はその名の通り発電と送電を主体とする企業であり、各家庭や事業所への配電事業は従来通り民間に委ねていた。<br />
<br />
=== 配電統制令 ===<br />
{{日本の法令<br />
|題名=配電統制令(1941年)<br />
|番号=昭和16年8月30日法律第832号<br />
|通称=<br />
|効力=1946年廃止<br/> [[電気事業法]]の一部を改正する法律<br/> 昭和21年9月16日法律第22号 <br />
|種類=行政法<br />
|内容=戦時統制経済の導入<br/> [[第20回衆議院議員総選挙|第20回総選挙衆議院]]<br/> [[第1次近衛内閣]]<br />
|関連=[[国家総動員法]]、[[#電力管理法|電力管理法]]など<br />
|リンク= [http://dl.ndl.go.jp/search/searchResult?featureCode=all&searchWord=%E9%85%8D%E9%9B%BB%E7%B5%B1%E5%88%B6%E4%BB%A4%E3%80%80%E5%AE%98%E5%A0%B1&viewRestricted=0 官報]<br />
|ウィキソース= <br />
}}<br />
電力管理法の施行により、日本国内における発電・送電施設はことごとく日本発送電の管理下におかれた。だが[[配電]]事業に関しては従来の通り民間が行った。1937年当時、日本に存在した電気事業者は470社にも及んでいたが、政府はこれを電気事業法に基づく[[行政指導]]を強化することで、事業者間の統合を図り、より広域的な配電事業を形成しようと考えていたからである。だが、大正時代以降の激烈なシェア争いは、各事業者間に拭い難いしこりを残しており、逓信省が事業統合を促しても利害関係や感情的なもつれによって遅々として進まなかった。<br />
<br />
行政指導に限界を感じた逓信省は、事業についても発送電事業と同様に国家統制によって管理し、以って国家総力戦に対応するための配電事業とする方針を固めた。配電事業を国家統制することで先に発足した日本発送電が保有する全国規模の[[送電線]]網に、各事業所が保有していた配電系統を接続することで設備の効率化を図り、重複している配電施設を撤去して二重投資を削減することにより、コスト削減を図って電気料金の低廉化を実現するという狙いもあった。低廉な電気料金は帝国議会でも議論の争点となっていたが、コスト削減によりこの問題を解決する方針を逓信省は採ったのである。<br />
<br />
こうして発送電事業に続いて配電事業の国家統制が推進され、[[太平洋戦争]]直前の[[1941年]](昭和16年)8月30日、'''配電統制令'''が公布。即日施行された。全国各地の配電事業者は統合を余儀無くされ、五大電力会社を始め全ての事業者は会社を解散した。代わりに全国9ブロック(北海道・東北・関東・中部・北陸・近畿・中国・四国・九州)に新たな配電会社が設立され、この'''9配電事業体制'''の下で日本発送電と連携した配電事業が行われた。<br />
<br />
こうして戦局が差し迫る直前に、日本の電力事業は全て政府の管理下に置かれ、宿願の'''電力国家統制が実現した'''のである。<br />
<br />
== 事業内容 ==<br />
=== 組織 ===<br />
日本発送電の本社は[[東京市]][[小石川区]](現:[[東京都]][[文京区]][[小石川]])に置かれた。組織としては社長に相当する'''総裁職'''が置かれ、その下に副総裁や理事が置かれることになった。しかしこうした高級幹部についてはその任免権は全て内閣によって握られ、経営に関する最高意思決定機関は事実上内閣にあった。そして発電に関する重要な施設計画や新規事業の決定には政府が直接関与し、水利権を始めとする許認可権は主務大臣([[逓信大臣]]・内務大臣)がこれを細かい項目に至るまで掌握。日本発送電の運営は完全に政府がコントロールすることになった。このことから日本発送電は「半官半民」と謳ってはいるが、事実上の国営化に等しかった。<br />
<br />
=== 歴代総裁 ===<br />
*[[増田次郎]]:1939年4月1日 - 1941年1月15日<br />
*[[池尾芳蔵]]:1941年1月15日 - 1943年8月11日<br />
*[[新井章治]]:1943年8月11日 - 1947年6月26日<br />
*[[大西英一]]:1947年6月26日 - 1950年9月13日<br />
*[[小坂順造]]:1950年10月13日 - 1951年4月30日<br />
<br />
=== 施設の接収 ===<br />
施設の接収については官民の別なく、段階的かつ一律に行われた。その基準は電力管理法と同時に発令された[[勅令]]第575号である「'''電力管理法施行令'''」によって定められている。すなわち、<br />
# 認可出力が'''5,000キロワット'''を超える水力発電所およびダム。<br />
# 認可出力が'''10,000キロワット'''を超える火力発電所。<br />
# 最大[[電圧]]が'''10万[[ボルト (単位)|ボルト]]'''以上において使用される送電施設。<br />
以上三項目に該当する発電・送電施設は一切の例外なく日本発送電が管理を行い、また施工中であったものに関しても補償費による対価を既存の電力会社に支払ってこれを所有することになった。送電設備のうち40,000ボルト以上10万ボルト未満のものについても、その重要性に応じて接収されていった。さらに各電力会社が持つ既得発電用水利権自体はそのまま保持が認められたものの、5,000キロワット以上の水力発電所を新規に建設することは日本発送電の独占業務とされてしまい、事実上民間企業は大規模水力発電事業に携わることが出来なくなった。加えて日本発送電株式会社法第24条において、同一地点で開発が競合した場合に水利権が両立しないケースには、各電力会社が所有していた既得水利権も[[行政処分]]によって取り消されてしまうと規定されていた。こうして民間の電力会社は新規の電力開発という最重要業務を奪われた形になった。<br />
<br />
例外として企業の自家発電については当初は接収の対象から外されるケースがあった。例を挙げれば[[王子製紙]]が所有する[[王子製紙#水力発電事業|千歳発電所]]群、[[日本軽金属]]が所有する[[富士川]]水系の水力発電所群などがこれに当たる。このうち王子製紙は当時[[石狩川]]水系の[[千歳川]]と[[雨竜川]]に水力発電施設を管理・建設していたが、[[雨竜第1ダム|雨竜第一ダム]]などの雨竜川水系については電力管理法の対象として接収された。だが千歳川の水力発電所群については、仮に接収が行われた場合苫小牧工場の操業が停止するとして逓信省に必死の折衝を行った。この結果千歳川の発電所群は接収を免れた。日本軽金属についても、[[アルミニウム]]精錬に支障を来たすとして接収は免れている。しかし配電統制令が発令されるとそれらの例外もほとんど各配電会社に接収され、王子製紙や日本軽金属などを除けば出力が1,000キロワット以下の小規模発電所以外はことごとく接収されている。<br />
<br />
さらに発電施設に付随する[[鉄道]]事業なども接収の対象となった。例えば[[1942年]](昭和17年)に富山県電気局(現在の[[富山県企業局]])の電力事業を接収した際、富山県営鉄道から[[千垣駅]]~[[粟巣野駅]]間の路線も接収した。だがこの路線は翌年[[富山地方鉄道]]に譲渡している。現在の[[富山地方鉄道立山線]]の一部がこれにあたる。<br />
<br />
=== 電力五ヵ年計画 ===<br />
1939年に日本発送電が発足した当初は、[[水力発電所]]134箇所・197万6,800[[ワット|キロワット]]、[[火力発電所]]18箇所27万3,552キロワット、変電設備115箇所、総容量464万8,350[[アンペア|キロボルトアンペア]]、送電線の全延長7,947キロメートルの設備があった。政府は戦時体制遂行のために早急な新規電力資源開発を進めたが、特に'''水力発電'''に重点を置いて開発を行った。既に1937年に逓信省が実施した第三次発電水力調査によって、大規模[[ダム式発電所]]の建設が必要であるとの認識が示され翌1938年10月には電力審査会によって「'''発電及び送電予定計画要綱'''」が策定された。これにより「水主火従」を原則とし、大規模で高能率の水力発電所を多数建設しこれを大規模送電によって円滑な電力供給を図ろうとしたのである。その翌年、1939年には「'''電力五ヵ年計画'''」を定め、[[1943年]](昭和18年)までの五年間に新規水力発電を185万キロワット、火力発電を92万キロワット開発するという遠大な計画を打ち立てた。<br />
<br />
「電力五ヵ年計画」の策定に従い、日本発送電はかつて電気事業者が手掛けていた開発事業の着手に乗り出した。発足当時施工が進められていた水力発電所は合わせて83万キロワットに及び、これら事業の早期完成が求められた。さらに計画段階にあった[[尾瀬原ダム計画|尾瀬第一・第二発電所]]([[利根川]])や[[朝日ダム|朝日発電所]](飛騨川)などの大規模ダム式発電所計画を早期に着手すべく、調査に乗り出した。ところが実際に運営を開始すると許認可や準備命令などの上意下達が上手く行かず、計画の遂行が遅々として進まないという問題が発生した。また、逓信省が計画した「電力五ヵ年計画」に沿った発電所建設計画はコストの割りには設備規模が小規模で、コスト&パフォーマンス的に問題があった。この結果、1943年までに新規に開発された電力は水力・火力を併せても44万キロワットと、当初の計画に比べ約15.3[[パーセント]]にしかならなかった。さらに太平洋戦争の戦局悪化に伴い物資の不足が深刻になり、新規の電力開発は抑制せざるを得ない状況に陥った。このため既設の設備を最小限度に補修するという消極的な対応を余儀無くされたのである。<br />
<br />
=== 施工・管理していた主な発電所 ===<br />
==== 水力発電所 ====<br />
[[image:Sakupowerstation1.jpg|250px|thumb|[[佐久発電所]]([[群馬県]])]]<br />
[[image:Yomikaki power station.jpg|250px|thumb|[[読書発電所]]([[長野県]])]]<br />
[[image:Kamiaso Power Plant.jpg|250px|thumb|[[上麻生ダム#上麻生発電所|上麻生発電所]]([[岐阜県]])]]<br />
[[Image:Shidsugawa power station.JPG|thumb|250px|志津川発電所([[京都府]])]]<br />
[[Image:Tsukabaru-2808-r1.JPG|thumb|250px|塚原ダム([[宮崎県]])]]<br />
[[画像:Obake-entotsu_1954_001.jpg|thumb|right|250px|[[千住火力発電所]]([[東京都]])]]<br />
{| class="wikitable" style="text-align: center; font-size: smaller;"<br />
|-<br />
!発電所<br />
!所在地<br />
!水系<br />
!河川<br />
!取水口<br />
!認可出力<br />(kW)<br />
!運開年<br />
!備考<br />
|- bgcolor="pink"<br />
|[[雨竜第1ダム|雨竜]]<br />
|[[北海道]]<br />
|[[石狩川]]<br />
|[[雨竜川]]<br />
|[[雨竜第一ダム]]<br />
| style="text-align: right;"|51,000<br />
|[[1943年]]<br />
|<br />
|- bgcolor="pink"<br />
|十和田<br />
|[[青森県]]<br />
|[[奥入瀬川]]<br />
|奥入瀬川<br />
|[[十和田湖]]<br />
| style="text-align: right;"|31,000<br />
|1943年<br />
|天然湖沼利用<br />
|-<br />
|蓬莱<br />
|[[福島県]]<br />
|[[阿武隈川]]<br />
|阿武隈川<br />
|[[蓬莱ダム]]<br />
| style="text-align: right;"|38,500<br />
|[[1938年]]<br />
|<br />
|-<br />
|夏瀬<br />
|[[秋田県]]<br />
|[[雄物川]]<br />
|[[玉川 (秋田県)|玉川]]<br />
|夏瀬ダム<br />
| style="text-align: right;"|20,000<br />
|[[1937年]]<br />
|<br />
|- bgcolor="pink"<br />
|秋元<br />
|福島県<br />
|[[阿賀野川]]<br />
|[[長瀬川 (福島県)|長瀬川]]<br />
|[[秋元湖]]<br />
| style="text-align: right;"|93,600<br />
|[[1940年]]<br />
|天然湖沼利用<br />
|-<br />
|猪苗代第一<br />
|福島県<br />
|阿賀野川<br />
|[[日橋川]]<br />
|(日橋川)<br />
| style="text-align: right;"|56,500<br />
|[[1921年]]<br />
|<br />
|- bgcolor="pink"<br />
|新郷<br />
|福島県<br />
|阿賀野川<br />
|阿賀野川<br />
|新郷ダム<br />
| style="text-align: right;"|51,600<br />
|[[1939年]]<br />
|<br />
|-<br />
|豊実<br />
|[[新潟県]]<br />
|阿賀野川<br />
|阿賀野川<br />
|豊実ダム<br />
| style="text-align: right;"|56,400<br />
|[[1929年]]<br />
|<br />
|-<br />
|[[鹿瀬ダム|鹿瀬]]<br />
|新潟県<br />
|阿賀野川<br />
|阿賀野川<br />
|[[鹿瀬ダム]]<br />
| style="text-align: right;"|49,500<br />
|[[1928年]]<br />
|<br />
|- bgcolor="yellow"<br />
|[[田子倉ダム|田子倉]]<br />
|福島県<br />
|阿賀野川<br />
|[[只見川]]<br />
|[[田子倉ダム]]<br />
| style="text-align: right;"|407,000<br />
|未完成<br />
|[[1959年]]完成<br />
|- bgcolor="pink"<br />
|宮下<br />
|福島県<br />
|阿賀野川<br />
|只見川<br />
|宮下ダム<br />
| style="text-align: right;"|32,000<br />
|[[1946年]]<br />
|<br />
|- bgcolor="yellow"<br />
|[[尾瀬原ダム計画|尾瀬第一<br/>尾瀬第二]]<br />
|[[群馬県]]<br />
|阿賀野川<br/>[[利根川]]<br />
|只見川<br/>片品川<br />
|[[尾瀬原ダム計画|尾瀬原ダム]]<br />
| style="text-align: right;"|179,000<br/>185,000<br />
|未完成<br />
|[[1996年]]中止<br />
|- bgcolor="yellow"<br />
|[[矢木沢ダム|矢木沢]]<br />
|群馬県<br />
|利根川<br />
|利根川<br />
|[[矢木沢ダム]]<br />
| style="text-align: right;"|36,300<br />
|未完成<br />
|[[1967年]]完成<br />
|- bgcolor="yellow"<br />
|[[須田貝ダム|須田貝]]<br />
|群馬県<br />
|利根川<br />
|利根川<br />
|[[須田貝ダム|楢俣ダム]]<ref>後に名称変更し、[[須田貝ダム]]となる。</ref><br />
| style="text-align: right;"|27,200<br />
|未完成<br />
|[[1955年]]完成<br />
|-<br />
|[[佐久発電所|佐久]]<br />
|群馬県<br />
|利根川<br />
|利根川<br />
|綾戸ダム<br/>真壁ダム<br />
| style="text-align: right;"|66,000<br />
|1928年<br />
|<br />
|-<br />
|鬼怒川<br />
|[[栃木県]]<br />
|利根川<br />
|[[鬼怒川]]<br />
|[[黒部ダム (栃木県)|黒部ダム]]<br />
| style="text-align: right;"|36,500<br />
|1926年<br />
|<br />
|-<br />
|八ッ沢<br />
|[[山梨県]]<br />
|[[相模川]]<br />
|谷田川<br />
|大野ダム<br />
| style="text-align: right;"|35,000<br />
|[[1911年]]<br />
|<br />
|-<br />
|[[田代ダム|田代川第一]]<br />
|[[静岡県]]<br/>山梨県<br />
|[[大井川]]<br/>[[富士川]]<br />
|大井川<br/>[[早川 (山梨県)|早川]]<br />
|[[田代ダム]]<br/>保利沢ダム<br />
| style="text-align: right;"|20,862<br />
|1928年<br />
|<br />
|-<br />
|[[大井川ダム|大井川]]<br />
|静岡県<br />
|大井川<br />
|大井川<br />
|[[大井川ダム]]<br />
| style="text-align: right;"|68,200<br />
|[[1936年]]<br />
|<br />
|-<br />
|[[泰阜ダム|泰阜]]<br />
|[[長野県]]<br />
|[[天竜川]]<br />
|天竜川<br />
|[[泰阜ダム]]<br />
| style="text-align: right;"|61,500<br />
|1936年<br />
|<br />
|- bgcolor="yellow"<br />
|[[平岡ダム|平岡]]<br />
|長野県<br />
|天竜川<br />
|天竜川<br />
|[[平岡ダム]]<br />
| style="text-align: right;"|61,500<br />
|中断<br />
|[[1952年]]完成<br />
|- bgcolor="pink"<br />
|[[三浦ダム|三浦]]<br />
|長野県<br />
|[[木曽川]]<br />
|王滝川<br />
|[[三浦ダム]]<br />
| style="text-align: right;"|7,700<br />
|[[1945年]]<br />
|<br />
|-<br />
|[[読書発電所|読書]]<br />
|長野県<br />
|木曽川<br />
|木曽川<br />
|[[読書ダム]]<br />
| style="text-align: right;"|40,700<br />
|[[1923年]]<br />
|<br />
|-<br />
|[[大井ダム|大井]]<br />
|[[岐阜県]]<br />
|木曽川<br />
|木曽川<br />
|大井ダム<br />
| style="text-align: right;"|48,000<br />
|[[1924年]]<br />
|<br />
|- bgcolor="yellow"<br />
|[[丸山ダム|丸山]]<br />
|岐阜県<br />
|木曽川<br />
|木曽川<br />
|[[丸山ダム]]<br />
| style="text-align: right;"|125,000<br />
|中断<br />
|[[1954年]]完成<br />
|- bgcolor="pink"<br />
|[[兼山ダム|兼山]]<br />
|岐阜県<br />
|木曽川<br />
|木曽川<br />
|[[兼山ダム]]<br />
| style="text-align: right;"|39,000<br />
|1943年<br />
|<br />
|-<br />
|[[今渡ダム|今渡]]<br />
|岐阜県<br />
|木曽川<br />
|木曽川<br />
|[[今渡ダム]]<br />
| style="text-align: right;"|20,000<br />
|[[1938年]]<br />
|<br />
|- bgcolor="yellow"<br />
|[[朝日ダム|朝日]]<br />
|岐阜県<br />
|木曽川<br />
|[[飛騨川]]<br />
|[[朝日ダム]]<br />
| style="text-align: right;"|20,500<br />
|中断<br />
|[[1953年]]完成<br />
|-<br />
|[[上麻生ダム|上麻生]]<br />
|岐阜県<br />
|木曽川<br />
|飛騨川<br />
|[[上麻生ダム]]<br/>[[細尾谷ダム]]<br />
| style="text-align: right;"|27,000<br />
|[[1926年]]<br />
|<br />
|- bgcolor="pink"<br />
|[[水内ダム|水内]]<br />
|長野県<br />
|[[信濃川]]<br />
|[[犀川 (長野県)|犀川]]<br />
|[[水内ダム]]<br />
| style="text-align: right;"|21,000<br />
|1943年<br />
|<br />
|-<br />
|[[西大滝ダム|信濃川]]<br />
|長野県<br />
|信濃川<br />
|信濃川<br />
|[[西大滝ダム]]<br />
| style="text-align: right;"|177,000<br />
|[[1939年]]<br />
|<br />
|-<br />
|[[宮中ダム|千手]]<br />
|[[新潟県]]<br />
|信濃川<br />
|信濃川<br />
|[[宮中ダム]]<br />
| style="text-align: right;"|120,000<br />
|1939年<br />
|<br />
|-<br />
|[[高野山ダム|中津川第一]]<br />
|新潟県<br />
|信濃川<br />
|中津川<br />
|[[高野山ダム]]<br />
| style="text-align: right;"|38,950<br />
|1924年<br />
|<br />
|-<br />
|黒部川第二<br />
|[[富山県]]<br />
|[[黒部川]]<br />
|黒部川<br />
|[[小屋平ダム]]<br />
| style="text-align: right;"|72,000<br />
|1936年<br />
|<br />
|- bgcolor="pink"<br />
|黒部川第三<br />
|富山県<br />
|黒部川<br />
|黒部川<br />
|[[仙人谷ダム]]<br />
| style="text-align: right;"|81,000<br />
|[[1940年]]<br />
|<br />
|- bgcolor="yellow"<br />
|[[有峰ダム|和田川第一<br/>和田川第二]]<br />
|富山県<br />
|[[常願寺川]]<br />
|[[和田川 (常願寺川水系)|和田川]]<br />
|[[有峰ダム]]<br />
| style="text-align: right;"|27,000<br/>122,000<br />
|中断<br />
|[[1959年]]完成<br />
|-<br />
|[[真川ダム|真川]]<br />
|富山県<br />
|常願寺川<br />
|真川<br />
|[[真川ダム]]<br />
| style="text-align: right;"|33,200<br />
|1930年<br />
|<br />
|-<br />
|[[祐延ダム|小口川第三]]<br />
|富山県<br />
|常願寺川<br />
|小口川<br />
|[[祐延ダム]]<br />
| style="text-align: right;"|14,000<br />
|1931年<br />
|[[揚水発電]]<ref>現在は揚水発電を行っていない。</ref><br />
|- bgcolor="pink"<br />
|[[小原ダム (富山県)|小原]]<br />
|富山県<br />
|[[庄川]]<br />
|庄川<br />
|[[小原ダム (富山県)|小原ダム]]<br />
| style="text-align: right;"|45,700<br />
|[[1942年]]<br />
|<br />
|-<br />
|祖山<br />
|富山県<br />
|庄川<br />
|庄川<br />
|祖山ダム<br />
| style="text-align: right;"|54,000<br />
|[[1929年]]<br />
|<br />
|-<br />
|小牧<br />
|富山県<br />
|庄川<br />
|庄川<br />
|[[小牧ダム]]<br />
| style="text-align: right;"|72,000<br />
|1929年<br />
|<br />
|-<br />
|志津川<br />
|[[京都府]]<br />
|[[淀川]]<br />
|淀川<ref>[[淀川|宇治川]]と呼ばれる流域。</ref><br />
|志津川ダム<br />
| style="text-align: right;"|32,000<br />
|1924年<br />
|[[1964年]]廃止<ref>[[建設省]]近畿地方建設局が直下流に[[天ヶ瀬ダム]]を建設したため、水没。</ref><br />
|- bgcolor="pink"<br />
|[[立岩ダム|打梨]]<br />
|広島県<br />
|[[太田川]]<br />
|太田川<br />
|[[立岩ダム]]<br />
| style="text-align: right;"|21,770<br />
|1939年<br />
|<br />
|- bgcolor="pink"<br />
|[[高暮ダム|神野瀬]]<br />
|広島県<br />
|[[江の川]]<br />
|神野瀬川<br />
|[[高暮ダム]]<br />
| style="text-align: right;"|20,000<br />
|1945年<br />
|<br />
|- bgcolor="pink"<br />
|[[長沢ダム|長沢]]<br />
|[[高知県]]<br />
|[[吉野川]]<br />
|吉野川<br />
|[[長沢ダム]]<br />
| style="text-align: right;"|5,000<br />
|[[1949年]]<br />
|日発最後の事業<br />
|-<br />
|女子畑<br />
|[[大分県]]<br />
|[[筑後川]]<br />
|[[玖珠川]]<br />
|(玖珠川)<br />
| style="text-align: right;"|26,750<br />
|[[1913年]]<br />
|<br />
|- bgcolor="yellow"<br />
|[[上椎葉ダム|上椎葉]]<br />
|[[宮崎県]]<br />
|[[耳川]]<br />
|耳川<br />
|[[上椎葉ダム]]<br />
| style="text-align: right;"|90,000<br />
|未完成<br />
|[[1955年]]完成<br />
|- bgcolor="pink"<br />
|岩屋戸<br />
|宮崎県<br />
|耳川<br />
|耳川<br />
|岩屋戸ダム<br />
| style="text-align: right;"|50,000<br />
|1942年<br />
|<br />
|-<br />
|塚原<br />
|宮崎県<br />
|耳川<br />
|耳川<br />
|塚原ダム<br />
| style="text-align: right;"|60,000<br />
|1938年<br />
|堤高当時日本一<br />
|}<br />
*(注1)原則として出力2万キロワット以上の発電所を掲載。出力は当時のものである。<br />
*(注2)黄色欄は戦争により中断、あるいは計画段階の状態で9電力会社に移管されたものである。<br />
*(注3)桃色欄は日本発送電が手掛けた事業。<br />
<br />
==== 火力発電所 ====<br />
{| class="wikitable" style="text-align: center; font-size: smaller;"<br />
|-<br />
!発電所<br />
!所在地<br />
!認可出力<br />([[ワット|kW]])<br />
!運開年<br />
!備考<br />
|-<br />
|[[千住火力発電所|千住]]<br />
|[[東京都]]<br />
| style="text-align: right;"|75,000<br />
|[[1905年]]<br />
|[[1963年]]廃止<br />
|-<br />
|[[春日出発電所|春日出]]<br />
|[[大阪府]]<br />
| style="text-align: right;"|62,400<br />
|[[1918年]]<br />
|[[2002年]]廃止<br />
|-<br />
|[[尼崎火力発電所|尼崎]]<br />
|[[兵庫県]]<br />
| style="text-align: right;"|140,000<br />
|[[1928年]]<br />
|<br />
|}<br />
<br />
=== 監督官庁移管 ===<br />
太平洋戦争は日本にとって次第に極めて不利な戦局に陥った。この中で政府は戦時体制維持のためにさらなる物資の動員を目指したが電力も例外ではなく、軍需産業用に莫大な電力量を要求した。特に軍部が要求したのは[[戦闘機]]増産のための電力供給である。1941年の[[真珠湾攻撃]]や翌[[1942年]](昭和17年)の[[ミッドウェー海戦]]などにより[[航空戦]]の重要性が[[大日本帝国海軍|海軍]]などで重要視され、[[制空権]]を確保し戦争を有利に進めるためには戦闘機の増産は不可欠であった。この軍部の意向は電力行政に直ちに反映され、1943年7月には従来の「電力五ヵ年計画」を見直した「'''昭和一八年度生産力拡充計画'''」が策定された。ここで[[1947年]](昭和22年)までの五年間に水力135万キロワット、火力16万キロワットの新規電力開発が決定された。ところがこの計画が決定されたわずか一ヵ月後、再び新規電力開発計画の変更が行われた。この「'''緊急電力拡充非常対策'''」で[[1945年]](昭和20年)までのわずか二年間で水力・火力併せて200万~250万キロワットを緊急に拡充すると定められたのである。<br />
<br />
「緊急電力拡充非常対策」を着実に実施するため、[[東條内閣]]は電力行政を軍需行政の直接監督下に置く方針を打ち出した。そして国家総力戦の遂行を貫徹するため1943年[[11月1日]]、首相が大臣を兼任する形で'''[[軍需省]]'''が設置された。これと同時に電力行政は従来の[[運輸通信省 (日本)|運輸通信省]]<ref>逓信省は1943年11月1日、[[鉄道省]]と合併する形で運輸通信省になっていた。</ref>から軍需省へと移管され、日本発送電の監督官庁であった運輸通信省電気庁は'''軍需省電気局'''として編入された。編入後の翌12月には[[閣議]]によって軍需省の電力行政方針が打ち出され、戦闘機増産を主眼においた「'''電力動員緊急措置要綱'''」を策定し戦時体制の維持を図ろうとしたのである。同時に民間への電力供給は[[鉄道]]、[[通信]]、家庭用電力といった必要最小限の供給に絞り、ここにおいて電力も事実上軍部が掌握する状態になった。<br />
<br />
だが日本発送電の新規電力開発能力は先に述べた通り「五ヵ年計画」でも一割程度の実績しかなく、「要綱」自体が非現実的であった。かつ物資欠乏のため施工中の発電所についても進捗が滞る有様であった。しかし政府は新規電力開発による戦闘機増産を急ぎ、[[人海戦術]]による急ピッチでの建設促進を図った。この中で[[中国人]]・[[朝鮮人]]労働者や敵対していた[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]軍[[捕虜]]などをダム・発電所工事に使役し、過酷な[[強制労働]]に従事させるという事態も発生した。[[長野県]]の[[平岡ダム|平岡発電所]]([[天竜川]])や[[広島県]]の[[王泊ダム|滝山川発電所]](滝山川)などで見られたほか、[[北海道]]の[[雨竜第一ダム|雨竜発電所]]([[雨竜川]])では劣悪な[[タコ部屋労働]]を強いた。また工事従業員に対する安全確保もずさんであり、富山県の[[仙人谷ダム|黒部川第三発電所]]([[黒部川]])工事では[[雪崩]]や[[トンネル]]内の高熱による[[火薬]]爆発事故などで多数の労働者が殉職する<ref>黒部川第三発電所工事の顛末については[[吉村昭]]が発表した小説、『高熱隧道』が知られている。</ref>など、日本発送電が関わった工事では多くの労働者が命を落としており、現在ダム近傍には[[慰霊碑]]が建立されている。<br />
<br />
また、本来は地域開発のために実施される[[河川総合開発事業]]についても軍需省による介入があり、広島県の[[二級ダム|広発電所]]([[黒瀬川]])は[[呉海軍工廠]]のために建設され、[[愛媛県]]の[[柳瀬ダム]]([[銅山川 (四国)|銅山川]])では愛媛県と[[徳島県]]の協議によって廃止した水力発電事業を強引に復活、さらに水利権を巡り[[福島県]]と[[群馬県]]の間で係争状態であった[[尾瀬沼]]の分水問題も強引に利根川水系に分水させた。[[神奈川県]]の[[相模ダム]]([[相模川]])では[[横須賀海軍工廠]]への電力供給も目的にしていたことから、ダム建設に反対する地元住民に対して[[小磯国昭]]や[[杉山元]]、[[荒木貞夫]]など[[大日本帝国陸軍|陸軍]]首脳が地元に乗り込み、陸海軍合同閲兵式を開き示威行動を行うなど戦時体制維持のためになりふり構わぬ姿勢を見せた。<br />
<br />
しかし日本の戦況は日を追う毎に悪化の一途をたどり、物資の欠乏は決定的となった。[[1944年]](昭和19年)8月[[小磯内閣]]は「'''決戦非常措置要領'''」を発令、全ての物資を戦時体制維持のために軍需に徴用する方針を打ち出した。この結果施工中の水力発電所は建設の続行が不可能になり、ほとんど全ての事業が中断に追い込まれた。また[[空襲]]によって火力発電所や変電所は破壊されて発電・配電機能は喪失し、残った水力発電所も酷使や老朽化の補修ができないため事故が続発。発電能力は戦前の60パーセント程度にまで減衰した。こうした中で終戦を迎えたが、電力需給のバランスは崩れたままであった。<br />
<br />
== 電力再編成と日本発送電の解体 ==<br />
=== 財閥指定と集排法の適用 ===<br />
終戦後、日本は深刻な電力不足に襲われた。戦時中は電力供給抑制策で必要最小限の電力需要しかなかったが、その制限が外されたことで電力消費が爆発的に増大し一挙に需要が拡大した。だが供給に関しては空襲による火力発電所や変電所の破壊、既設水力発電所の設備劣化による発電能力減衰、「決戦非常措置要領」や物資欠乏による新規電力開発の中断といった複数の要因が重なり、著しく供給不足になった。こうした電力需給バランスの崩壊が深刻な電力不足を招き、緊急制限による停電が頻発して、治安上にも問題を生じていた。軍需省の廃止<ref>1945年8月26日廃止。</ref>に伴い電力行政は'''[[商工省]]'''に移管されたが、経済政策全般は[[経済安定本部]]によって司られた。1947年経済安定本部は河川総合開発調査審議会を設置し、河川開発に関する調査を行ったがこの中で商工省は新規水力発電開発を行うため7河川2湖沼<ref>[[阿賀野川]]、[[犀川 (長野県)|犀川]]、[[黒部川]]、[[神戸川]]、[[吉野川]]、[[玖珠川]]、[[球磨川]]の7河川及び[[十和田湖]]、[[猪苗代湖]]の2湖沼。</ref>を対象地域として開発計画を検討した。これと同時に日本発送電は[[只見川]]や[[飛騨川]]、[[江の川]]、[[耳川]]などにおいて広域かつ大規模なダム式発電所群の新規計画を立案し電力不足の根本解決に乗り出そうとしており、[[田子倉ダム#田子倉発電所|田子倉発電所]](只見川。[[福島県]])や朝日発電所(飛騨川。[[岐阜県]])、[[長沢ダム|長沢発電所]](吉野川。[[高知県]])、[[上椎葉ダム#上椎葉発電所|上椎葉発電所]](耳川。[[宮崎県]])の実施調査計画を進めていた。<br />
<br />
日本を占領していた[[連合国軍最高司令官総司令部]](GHQ)は日本の戦時体制を支えた[[戦争犯罪人]]の逮捕と、戦争に協力した[[独占資本]]の解体([[財閥解体]])を戦後処理の重要な課題としていたが、1946年4月に[[ポツダム政令]]として'''持株会社整理委員会令'''を公布させた。同勅令の成立によって実施機関として[[持株会社整理委員会]]が設置され、同年9月以降5度に渡り、83社が同委員会を通じて政府から財閥([[トラスト (企業形態)|トラスト]]を含む)指定を受けた。この中には四大財閥([[三井財閥|三井]]・[[三菱財閥|三菱]]・[[住友財閥|住友]]・[[安田財閥|安田]])の他、電力管理法の適用を逃れた王子製紙、そして日本発送電が含まれていた。先述の通り日本発送電はその成立自体が国家総力戦の目的に沿って設立され、経営・人事の全ては政府の影響下にあった。そして政府の施策に連動した電力事業を行っていたことから、財閥解体の適用からは逃れられなかった。さらに1947年12月には、財閥指定を受けなかった独占・寡占企業の整理を目的とする[[過度経済力集中排除法]](集排法)が制定され、日本発送電と9配電会社(と王子製紙)も独占・寡占(集排法上では「過度経済力集中状態」と呼ばれる)企業と認定された。以後GHQの認可の下で、日本発送電の保有株式の整理や事業認可、建設命令、経営陣の任免権は持株会社整理委員会と商工省が監督する形態となった。<br />
<br />
=== 電気事業再編成審議会 ===<br />
GHQは日本発送電と9配電会社に再編成計画を持株整理委員会に提出するよう命令した。これに対し両者は1948年4月に案を委員会に提出したが、この案は全く正反対の性格を持つ構想であった。すなわち日本発送電案は従来の体制である国家管理を維持し、民間から選出された「電気委員会」が会社経営陣に諮問を行うとする案であり、形式的に民主化するという形ではあったが会社自体は発電・送電・配電事業を一括して運営するとしており、いわば日本発送電を強化する内容であった。一方の9配電会社案は会社が発電・送電・配電事業を一括して運営するという点では日本発送電案と一致するものの、その経営形態は完全の民有民営であるとしており、日発成立前のいわば「先祖返り」であった。両者は電気料金や需要の均衡という点で鋭く対立した。時の[[片山内閣]]は[[水谷長三郎]][[商工大臣]]の[[諮問機関]]として「'''電気事業民主化委員会'''」を設置して再編成案を検討し、[[芦田内閣]]の時に両案を折衷する妥協案を呈示した<ref>詳細は不明。</ref>。<br />
<br />
しかしGHQはこうした政府の対応に不満であり、早急な再編成を求めた。そして[[1949年]](昭和24年)5月に開かれた集中排除審査委員会で決定した全国7地域への分割・民営化案をGHQ案とし、9月にはこの案を基礎にしてさらに商工省電力局から電力会社への管理権能を剥脱し、経営には関与しない調整機関の設置を行うという二つの項目を政府に対し強硬に求めた。この時GHQは、政府の鈍重な動きに対して電力再編成を占領軍命令で強行する準備もしていた。これに対し[[第2次吉田内閣]]はGHQの介入を阻止すべく11月、[[大屋晋三]]商工大臣の諮問機関として'''電気事業再編成審議会'''を設置。委員長を含む五人の審議委員を任命した。<br />
<br />
審議委員には[[復興金融公庫]]理事長・[[工藤昭四郎]]、[[慶應義塾大学]]教授・[[小池隆一]]、[[日本製鐵]]<ref>日本発送電と同様に特殊法人であり、集排法により分割。[[新日本製鐵]]の前身。</ref>社長・[[三鬼隆]]、国策パルプ<ref>後の[[山陽国策パルプ]]。[[日本製紙]]の前身の一つ。</ref>副社長・[[水野成夫]]の四名が選ばれた。この四名の人選は[[白洲次郎]]の官僚への働きかけによる。そして審議委員長には「電力王」「電力の鬼」と称され、戦前日本発送電の設立に猛反対し賛成する官僚を「人間のクズ」呼ばわりした旧[[東邦電力]]社長・[[松永安左エ門]]が任命され、二ヶ月の審議を経て二つの案が政府に答申された。一つは三鬼隆が提案した「'''融通会社案'''」で、電気事業は9地域に分割・民営化するものの日本発送電施設は60パーセントを移管させ、残りの40パーセントは国営の融通会社が管理して各会社間の電力融通を調整するというもので、日本発送電案や民主化委員会案に近い。一方松永が提案した「'''9ブロック案'''」は全国9地域に一切の発電・送電・配電を分割するというもので、9配電会社案とほぼ同様であった。この二案に対し松永以外の4委員は三鬼の「融通会社案」を推し、松永の案は付加意見として両論併記という形で提出された。官僚嫌いでもある松永は戦前から一貫して電力事業に国家が必要以上の介入をすることに反対しており、委員会では孤立しながらも持論を押し通したのである。なお、松永は宿願であった日本発送電の解体後も[[財団法人]][[電力中央研究所]]を設立するなど電力事業の発展に注力したが、業界の発展を展望して電気料金値上げなどを強力に推し進めたこともあって、「'''電力の鬼'''」とあだ名された。<br />
<br />
=== 電気事業再編成令 ===<br />
この二つの答申案に対しGHQは三鬼案には強硬に反対し、松永案については不十分であるとしながらも支持した。政府はGHQの意向を受けて付加意見であった松永の「9ブロック案」を政府案として採用し、同年の第7回[[通常国会]]に「'''電気事業再編成法案'''」・「'''公益事業法案'''」として提出した。だが政府や与党である[[民主自由党 (日本)|民主自由党]]でも反対意見があり、野党からも反発があって国会審議は紛糾、審議未了となった。このため政府は一旦両法案を再検討するため次の第8回[[臨時国会]]では法案の提出を見送ったのである。だがこの政府の方針にGHQは強く異議を唱え、早急な法案成立を督促した。さらにGHQは再編成が成立しない限り、日本発送電や9配電会社が申請する新規電力開発、設備補修・拡大・増設、及び社債の発行や増資の一切を許可しないと強硬な姿勢を採った。これは電力不足を解消するための新規電力開発のみならず、これと連携して実施する河川総合開発事業の進捗にも影響を及ぼし、当時[[建設省]]が進めていた[[利根川]]や[[淀川]]など6水系における「河川改訂改修計画」などの治水事業にまで影響を及ぼす懸念があった。<br />
<br />
追い詰められた政府は第9回臨時国会での両法案の強行採決も検討したが、成功する可能性は極めて低かった。これを見たGHQは関係する各方面に占領軍命令に準じた形での電気事業再編成要請を行い、国会開会直後の[[1950年]](昭和25年)[[11月24日]]に[[ポツダム政令]]を発して電力事業再編のための二法令、すなわち'''電気事業再編成令'''と'''公益事業令'''を公布した。ここにおいて集排法指定から三年にわたって紛糾した日本発送電と9配電会社の分割・民営化問題は決着を見たのである。公益事業令に基づいて設置された[[公益事業委員会]]は、両社に再度の再編成計画書提出を求め、これを日本発送電株式会社総裁と9配電会社の社長によって組織する'''電気事業再編成中央委員会'''が検討することになった。<br />
<br />
=== 終焉 ===<br />
[[Image:Nagasawa Dam.jpg|250px|thumb|長沢発電所と[[長沢ダム]]([[高知県]]・[[吉野川]])。日本発送電が最後に完成させた発電事業となった。]]<br />
電気事業再編成中央委員会では日本発送電施設の分与、及び水力発電における発電用水利権の帰属が重要な議題となった。基本的には「'''属地主義'''」として各地域に存在する全ての施設は新たに設立される'''9電力会社'''<ref>この時[[沖縄県]]は[[アメリカ合衆国|アメリカ]]が直接統治しており、[[1972年]](昭和47年)の[[沖縄返還]]後に[[沖縄電力]]が設立され、現在は10電力会社体制である。</ref>([[北海道電力]]・[[東北電力]]・[[東京電力]]・[[中部電力]]・[[北陸電力]]・[[関西電力]]・[[中国電力]]・[[四国電力]]・[[九州電力]])に移管すると定められた。<br />
<br />
北海道・中国・四国・九州各地方の水力発電所と水利権、ならびに全国の火力発電所や変電・配電施設については、ほぼ順当に各地域に割り当てられたが、最大の問題になったのは、東北・関東・中部・北陸(新潟県を含む)・関西各地方における河川の発電用水利権の帰属であった。<br />
<br />
特に中部・北陸地方は、[[日本アルプス]]があること、豪雪地帯が多いことから多くの河川は急流で、水量が豊富であった。このため大正時代には各電力会社が特に力を入れて水力発電の開発を行った。そしてこれらの水力発電所と水利権は最初に開発した電力会社が保有するという「'''一河川一社主義'''」が厳然として存在し、他の電力会社はその河川に新規参入することは事実上不可能であった。だが9ブロックに地域を分割した場合、この地域については複数の電力会社が様々な協定に基づいたり、あるいは合併による帰属変更などで水利権の所在が複雑に入り組んでおり、難しい対応を迫られた。同時期政府は[[国土総合開発法]]制定(1950年)に伴う22地域の特定地域総合開発計画を策定。戦前に練られた大規模かつ広域の水力発電計画([[只見特定地域総合開発計画|只見川筋水力開発計画概要]]・[[飛騨川流域一貫開発計画]]・[[有峰ダム|常願寺川有峰発電計画]]など)が[[治水]]・[[かんがい]]事業と組み合わせた[[河川総合開発事業]]となるに至った。こうしたことは配電地域への電力供給をより確固にさせることができるだけでなく、当該地域における経営基盤の強化にもつながるため、各電力会社は「宝の山」である未開発河川の発電用水利権を簡単に他社へ渡すことに対し強烈に抵抗したのである。特に問題になったのは只見川で、建設中の本名・上田発電所の水利権帰属を巡って東北電力と東京電力が争い、都合2年におよぶ法廷闘争に持ち込まれたほか国会でも問題となり、[[東北地方]]対[[関東地方]]・[[新潟県]]の対立にまで発展した。<br />
<br />
最終的に属地主義の例外として中部・北陸の河川における発電用水利権は一河川一社主義を適用するという中央委員会の「裁定」という形式で各電力会社は妥協した。その結果が下表の帰属状況であるが、同一[[水系]]であっても[[本流]]と[[支流]]で水利権の帰属が異なる水系([[木曽川]]など)、同一河川であっても上流と下流で水利権の所在が異なる河川([[黒部川]]など)、配電地域以外の電力会社が水利権を全て所有する河川([[庄川]]など)など複雑な水利権帰属体系となった。[[信濃川]]水系では本流と支流、流域によって水利権を所有する電力会社が異なるという状態も発生した。こうした水利権の帰属は多少の変更こそあったものの、基本的には現在も変わっていない。こうした状況を例えると、中部地方を流れる木曽川本流の水は水力発電に限っていえば、流域である[[名古屋市]]を中心とする[[中京圏]]ではなく、流域外の[[大阪市]]など[[関西圏]]に電力を供給するために利用されているという状況が続いている。<br />
<br />
日本発送電が全国の発送電業務を一手に引受けていたことは、全国の電気産業労働者の労働条件を統一化しやすい条件となっており、[[総評]]を牽引する[[日本電気産業労働組合]](電産)の結束力を生み出していたのである。日本発送電を分割された結果、9電力会社間に労働条件の格差が生まれて企業別の新たな組合の結成を促し、電産の闘争力が弱くなることになった<ref>河西宏祐 『電産型賃金の世界』 早稲田大学出版部 1999年 pp. 10-11.</ref>。そして会社こそ分割されたが、9電力会社間の[[閨閥]]は解体されなかった<ref>[[広瀬隆]] 『私物国家 日本の黒幕の系図』 光文社 1997年 系図13 松永安左衛門と電力9社がつくりあげた閨閥</ref>。<br />
<br />
==== 中部・北陸における発電用水利権の帰属 ====<br />
:(備考1):[[2008年]]現在の帰属状況を示す。[[地方自治体]]による公営発電事業および[[民間企業]]による[[自家発電]]に係る[[水利権]]は除外している。<br />
:(備考2):欄の配色の緑は[[東北電力]]、水色は[[東京電力]]、薄黄は[[中部電力]]、黄は[[北陸電力]]、桃は[[関西電力]]が水利権を保有する河川流域。<br />
{| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:small;"<br />
|-<br />
!水系<br />
!河川<br />
!所在地<br />
!流域<br />
!保有企業<br />
|-<br />
| rowspan="6"|[[阿賀野川]]<br />
| rowspan="3"|阿賀野川<br />
|[[新潟県]]<br />
|bgcolor="lightgreen" align="left"|阿賀野川[[本流]]および[[支流]]の全域<br />
|bgcolor="lightgreen"|[[東北電力]]<br />
|-<br />
| rowspan="2"|[[福島県]]<br />
|bgcolor="lightgreen" align="left"|阿賀野川本流および[[日橋川]]流域以外の支流<br />
|bgcolor="lightgreen"|東北電力<br />
|-<br />
|bgcolor="lightblue" align="left"|[[猪苗代湖]]、[[桧原湖]]、[[小野川湖]]、[[秋元湖]]、日橋川流域<br />
|bgcolor="lightblue"|[[東京電力]]<br />
|-<br />
| rowspan="3"|[[只見川]]<br />
|[[群馬県]]<br />
|bgcolor="lightblue" align="left"|[[尾瀬沼]]<br />
|bgcolor="lightblue"|東京電力<br />
|-<br />
| rowspan="2"|福島県<br />
|align="left"|滝ダムより上流([[奥只見ダム|奥只見]]、大鳥、[[田子倉ダム|田子倉]]、只見の4ダム)<br />
|[[電源開発]]<br />
|-<br />
|bgcolor="lightgreen" align="left"|[[本名ダム]]より阿賀野川合流点までの下流<br />
|bgcolor="lightgreen"|東北電力<br />
|-<br />
|rowspan="7"|[[信濃川]]<br />
|rowspan="2"|信濃川<br />
|rowspan="2"|[[長野県]]<br />
|bgcolor="lightblue" align="left"|信濃川本流の一部および[[犀川 (長野県)|犀川]]、[[高瀬川 (長野県)|高瀬川]]<br />
|bgcolor="lightblue"|東京電力<br />
|-<br />
|bgcolor="lightyellow" align="left"|信濃川本流の一部および穂高川、鳥居川、[[薄川]]など<br />
|bgcolor="lightyellow"|[[中部電力]]<br />
|-<br />
|中津川<br />
|新潟県<br />
|bgcolor="lightblue" align="left"|全域<br />
|bgcolor="lightblue"|東京電力<br />
|-<br />
|rowspan="2"|清津川<br />
|rowspan="2"|新潟県<br />
|align="left"|[[奥清津発電所]]([[二居ダム]]・[[カッサダム]]を含む上流部)<br />
|電源開発<br />
|-<br />
|bgcolor="lightblue" align="left"|中流部の一部およびカッサ川下流<br />
|bgcolor="lightblue"|東京電力<br />
|-<br />
|rowspan="2"|[[魚野川]]<br />
|rowspan="2"|新潟県<br />
|bgcolor="lightgreen" align="left"|本流および支流の大部分<br />
|bgcolor="lightgreen"|東北電力<br />
|-<br />
|align="left"|[[破間川]]上流部および黒又川上流部([[破間川ダム|破間川]]、[[黒又川第一ダム|黒又川第一]]・[[黒又川第二ダム|黒又川第二]]の3ダム)<br />
|電源開発<br />
|-<br />
|rowspan="2"|[[姫川]]<br />
|姫川<br />
|長野県<br />
|bgcolor="lightyellow" align="left"|本流<br />
|bgcolor="lightyellow"|中部電力<br />
|-<br />
|大所川<br />
|長野県<br />
|bgcolor="lightgreen" align="left"|全域<br />
|bgcolor="lightgreen"|東北電力<br />
|-<br />
|rowspan="4"|[[黒部川]]<br />
|rowspan="2"|黒部川<br />
|rowspan="2"|[[富山県]]<br />
|bgcolor="pink" align="left"|本流上流部([[黒部ダム|黒部]]・仙人谷・小屋平・[[出し平ダム|出し平]]・[[宇奈月ダム]])<br />
|bgcolor="pink"|[[関西電力]]<br />
|-<br />
|bgcolor="yellow" align="left"|本流下流部<br />
|bgcolor="yellow"|[[北陸電力]]<br />
|-<br />
|rowspan="2"|黒薙川<br />
|rowspan="2"|富山県<br />
|bgcolor="yellow" align="left"|[[朝日小川ダム|朝日小川第一発電所]]に関連する黒薙川流域<br />
|bgcolor="yellow"|北陸電力<br />
|-<br />
|bgcolor="pink" align="left"|それ以外の流域<br />
|bgcolor="pink"|関西電力<br />
|-<br />
|rowspan="3"|[[神通川]]<br />
|rowspan="2"|神通川<br />
|[[岐阜県]]<br />
|bgcolor="pink" align="left"|宮川と呼ばれる本流上流部<br />
|bgcolor="pink"|関西電力<br />
|-<br />
|富山県<br />
|bgcolor="yellow" align="left"|本流中流部および富山県内の支流<br />
|bgcolor="yellow"|北陸電力<br />
|-<br />
|[[高原川]]<br />
|岐阜県<br />
|bgcolor="yellow" align="left"|全域<br />
|bgcolor="yellow"|北陸電力<br />
|-<br />
|rowspan="2"|[[庄川]]<br />
|rowspan="2"|庄川<br />
|岐阜県<br />
|align="left"|[[御母衣ダム]]より上流および大白川流域<br />
|電源開発<br />
|-<br />
|岐阜県<br/>富山県<br />
|bgcolor="pink" align="left"|[[鳩谷ダム]]より下流の全流域<br />
|bgcolor="pink"|関西電力<br />
|-<br />
|rowspan="2"|[[手取川]]<br />
|rowspan="2"|手取川<br />
|rowspan="2"|[[石川県]]<br />
|align="left"|[[手取川ダム]]に関連する本流域<br />
|電源開発<br />
|-<br />
|bgcolor="yellow" align="left"|それ以外の全流域<br />
|bgcolor="yellow"|北陸電力<br />
|-<br />
|rowspan="2"|[[九頭竜川]]<br />
|rowspan="2"|九頭竜川<br />
|rowspan="2"|[[福井県]]<br />
|align="left"|[[鷲ダム]]より上流部および石徹白川流域<br />
|電源開発<br />
|-<br />
|bgcolor="yellow" align="left"|[[仏原ダム]]より下流の本流および真名川以外の支流<br />
|bgcolor="yellow"|北陸電力<br />
|-<br />
|rowspan="2"|[[大井川]]<br />
|rowspan="2"|大井川<br />
|rowspan="2"|静岡県<br />
|bgcolor="lightblue" align="left"|[[田代ダム]]に関連する本流源流部<br />
|bgcolor="lightblue"|東京電力<br />
|-<br />
|bgcolor="lightyellow" align="left"|[[畑薙第一ダム]]より下流の本流および支流全流域<br />
|bgcolor="lightyellow"|中部電力<br />
|-<br />
|rowspan="2"|[[天竜川]]<br />
|rowspan="2"|天竜川<br />
|長野県<br />
|bgcolor="lightyellow" align="left"|全流域<br />
|bgcolor="lightyellow"|中部電力<br />
|-<br />
|静岡県<br />
|align="left"|本流及び[[気田川]]を除く支流([[佐久間ダム|佐久間]]・[[秋葉ダム|秋葉]]・[[船明ダム|船明]]・[[新豊根ダム|新豊根]]・[[水窪ダム (静岡県)|水窪ダム]])<br />
|電源開発<br />
|-<br />
|rowspan="2"|[[木曽川]]<br />
|木曽川<br />
|長野県<br/>岐阜県<br />
|bgcolor="pink" align="left"|本流全域および長野県内の支流<br />
|bgcolor="pink"|関西電力<br />
|-<br />
|[[飛騨川]]<br/>[[長良川]]<br/>[[揖斐川]]<br />
|岐阜県<br />
|bgcolor="lightyellow" align="left"|全流域<br />
|bgcolor="lightyellow"|中部電力<br />
|-<br />
|rowspan="2"|[[熊野川|新宮川]]<br />
|rowspan="2"|熊野川<br />
|rowspan="2"|[[奈良県]]<br />
|align="left"|[[猿谷ダム]]より下流の本流および[[北山川]]流域([[池原ダム|池原]]・[[七色ダム|七色]]・小森・坂本ダム)<br />
|電源開発<br />
|-<br />
|bgcolor="pink" align="left"|[[九尾ダム]]より上流の本流および北山川以外の支流<br />
|bgcolor="pink"|関西電力<br />
|}<br />
<br />
これら様々な問題を経て、日本発送電は9配電会社と共に[[1951年]](昭和26年)[[5月1日]]をもって'''全国9地域の電力会社に分割'''され、12年の短い活動を終えた。なお、分割された9電力会社は発足したあとしばらくは資金的に脆弱(ぜいじゃく)な状態が続いたため、満足な新規電力開発ができなかった。これを補完し電力開発を促進することを目的に翌[[1952年]](昭和27年)に電源開発促進法を公布。政府([[大蔵大臣]]・[[財務大臣]])が66.69パーセント、残りを9電力会社が出資して新会社を設立した。これが'''[[電源開発|電源開発株式会社]]'''である。日本発送電と同様に半官半民<ref>[[2003年]](平成15年)の電源開発促進法廃止に伴い政府と9電力会社の保有株は売却され、翌[[2004年]](平成16年)に[[東京証券取引所]]に上場、完全民営化された。</ref>の[[特殊会社]]として設立され、のちには日本発送電最後の総裁であった小坂順造が総裁に就任しているが、日本発送電のように政府に隷属的な組織とはならなかった。<br />
<br />
== 脚注 ==<br />
{{reflist}}<br />
<br />
== 参考文献 ==<br />
*[[福島県]]土木部砂防電力課 「電源只見川開発史」:[[1960年]]<br />
*[[電源開発]]株式会社 「10年史」:[[1962年]]<br />
*[[中部電力]]株式会社 「飛騨川 流域の文化と電力」:[[1979年]]<br />
*[[東京電力]]株式会社 「関東の電気事業と東京電力 電気事業の創始から東京電力50年への軌跡」:[[2002年]]<br />
*[[建設省]][[河川局]]開発課 「河川総合開発調査実績概要」第一巻:[[1950年]]<br />
*建設省河川局監修 「多目的ダム全集」:国土開発調査会 [[1955年]]<br />
*建設省河川局監修・全国河川総合開発促進期成同盟会編 「日本の多目的ダム」1963年版:山海堂 [[1963年]]<br />
*[[財団法人]][[日本ダム協会]] 「ダム年鑑」1991年版:[[1991年]]<br />
*財団法人日本ダム協会 「ダム便覧」<br />
*[http://shashinomori.dualchives.jp/ 王子製紙株式会社 王子製紙社史デジタル閲覧「社史の杜」]<br />
*[http://library.jsce.or.jp/Image_DB/mag/m_jsce/33-05_06/33-5_6-13272.pdf 土木学会誌 第33巻5・6号 「尾瀬原・只見川・利根川の水力開発概要」:土木学会 1948年12月]<br />
<br />
==関連項目==<br />
*[[電力会社]]-[[日本の電力会社一覧 (戦前)]]<br />
*[[水力発電]]-[[電力会社管理ダム]]<br />
*[[電気事業法]]<br />
*[[国家総動員法]]<br />
*[[太平洋戦争]]<br />
*[[過度経済力集中排除法]]<br />
*[[連合国軍最高司令官総司令部]]<br />
*[[日本のダムの歴史]]・[[日本ダム史年表]]<br />
*[[電源開発]]<br />
*[[村田省蔵]]<br />
*[[松永安左エ門]]<br />
*[[藤井崇治]]<br />
<br />
{{DEFAULTSORT:にほんはつそうてん}}<br />
[[Category:昭和時代戦前の経済]]<br />
[[Category:戦時下の日本]]<br />
[[Category:かつて存在した特殊会社]]<br />
[[Category:日本の電気事業者 (戦前)]]<br />
[[Category:日本のダム]]<br />
[[Category:かつて存在した日本の鉄道事業者]]</div>
2400:4026:AA43:5000:1CAA:195C:1527:7C9C
江戸幕府
2018-06-26T15:58:45Z
<p>2400:4026:AA43:5000:1CAA:195C:1527:7C9C: </p>
<hr />
<div>{{Infobox Former Country<br />
|native_name = {{lang|ja|江戸幕府}}<br />{{lang|ja|徳川幕府}} <br />
|conventional_long_name = <br />
|common_name = 徳川幕府<br />
|continent = アジア<br />
|region = 東アジア<br />
|country = 日本<br />
|era = [[江戸時代]]<br />
|status = <br />
|government_type = [[封建制|封建制度]]<br />
|year_start = 1600年<br />
|year_end = 1868年<br />
|life_span = 1603年 – 1868年<br />
|event_start = [[関ヶ原の戦い]]<br />
|date_start = 10月21日(9月15日)<br />
|event_end = [[明治維新]]<br />
|date_end = 1月3日<br />
|event1 = [[大坂の陣#大坂冬の陣|大坂冬の陣]]<br />
|date_event1 = 1614年11月8日(10月7日)<br />
|event2 = [[鎖国|1635年の鎖国令]]<br />
|date_event2 = 1635年<br />
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|date_event3 = 1854年3月31日(3月3日)<br />
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|date_event4 = 1858年7月29日(6月19日)<br />
|p1 = 豊臣政権<br />
|flag_p1 = Toyotomi_mon.png<br />
|p2 = 徳川氏|徳川家<br />
|flag_p2 = Tokugawa family crest.svg<br />
|s1 = 明治政府#中央政府|明治政府<br />
|flag_s1 = Flag of Japan.svg<br />
|s2 = 蝦夷共和国<br />
|flag_s2 = Seal of Ezo.svg<br />
|image_flag = Flag of the Tokugawa Shogunate.svg{{!}}border<br />
|flag = 日本の国旗|国旗<br />
|flag_type = <br />
|image_coat = Tokugawa family crest.svg<br />
|symbol = 日本の国章|国章<br />
|symbol_type = <br />
|image_map = LocationMapJapan.png<br />
|image_map_caption = <br />
|capital = '''[[江戸]]([[デ・ファクト|事実上]])'''<br />[[平安京]]([[京都]])([[デ・ジュリ|法令上]])<br />
|national_motto = <br />
|national_anthem = <br />
|common_languages = [[日本語]]<br />
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|leader1 = [[後陽成天皇]]<br />
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|year_leader1 = 1586年–1611年<br />
|year_leader2 = 1866年–1912年<br />
|title_leader = [[天皇]]<br />
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|representative2 = [[徳川慶喜]]<br />
|year_representative1 = 1603年–1606年<br />
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|title_representative = [[征夷大将軍]]<br />
|deputy1 = [[大久保忠隣]] <br />
|deputy2 = [[立花種恭]]<br />
|year_deputy1 = 1603年–1614年<br />
|year_deputy2 = 1868年<br />
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|legislature = <br />
|stat_year1 = <br />
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|stat_year2 = <br />
|stat_area2 = <br />
|today = {{flag|Japan}}<br />
|footnotes = <br />
}}<br />
<br />
{{政府<br />
|政府名 = 江戸幕府<br />
|画像 = Mitsubaaoi.svg<br />
|創設年 = 1603<br />
|解散年 = 1867<br />
|代表 = [[徳川将軍一覧|征夷大将軍]]<br />
|対象国 = {{JPN}}<br />
|地域 = {{JPN}}<br />
|前政府 = {{JPN1590}} <br />
|後政府 = {{JPN1868}} <br />
|サイト = <br />
|備考 = <br />
}}<br />
[[ファイル:Edo l122.jpg|250px|thumb|[[江戸城]]天守]]<br />
[[File:Nikko Yomeimon M3135.jpg|thumb|250px|[[日光東照宮]]陽明門]]<br />
'''江戸幕府'''(えどばくふ)は、[[1603年]]に[[征夷大将軍]]に任官した[[徳川家康]]が創設した[[武家政権]]である。終末期は、一般的には[[大政奉還]]が行われた[[1867年]]までとされる(他に諸説あり、後述)。[[江戸]](現・[[東京都]])に本拠を置いたのでこう呼ばれる。'''徳川幕府'''(とくがわばくふ)ともいう。[[安土桃山時代]]とともに後期[[封建主義|封建社会]]にあたる。<br />
<br />
__TOC__{{-}}<br />
<br />
== 概要 ==<br />
[[徳川氏|徳川家]]の当主が[[正二位]][[内大臣]]兼[[右大将]]に叙任され、征夷大将軍に任じられて260余りの武家[[大名]]と主従関係を結び、彼らを統制するという制度は、1600年代後半までに確立された。その将軍の政府を「[[幕府]]」、臣従している大名家を「[[藩]]」、さらに両者が複合した権力の体制を「[[幕藩体制]]」と一般に呼んでいる。ただし、「幕府」及び「藩」の語は[[幕末]]期に広く使用され、現在も歴史用語として定着しているものの、江戸時代を通じて使用されていたわけではない。それまでは、将軍の政府は「[[公儀]]」「公辺」などと漠然と呼ばれていた<ref>[[青山忠正]]「幕末政治と社会変動」 『講座明治維新2 幕末政治と社会変動』([[有志舎]])2011年、pp.3-5。</ref>。<br />
<br />
幕府の始期及び終期については諸説あるが、征夷大将軍の任官時期に着目する場合には、家康がはじめて将軍職に任じられた[[1603年]][[3月24日]]([[慶長]]8年[[2月12日 (旧暦)|2月12日]])から、いわゆる[[王政復古の大号令]]によって15代将軍[[徳川慶喜]]の将軍職辞任が勅許され、併せて幕府の廃止が宣言された1868年[[1月3日]]([[慶応]]3年12月9日)までとなる。終期には他にも[[1867年]][[11月9日]](慶応3年[[10月14日 (旧暦)|10月14日]])に15代将軍徳川慶喜が[[大政奉還]]を行った時、[[1868年]][[5月3日]](慶応4年/[[明治]]元年4月11日)の[[江戸開城]]とする説もある。<br />
<br />
徳川将軍が実質的に日本を支配した、この260年あまりの期間を一般に「[[江戸時代]]」と呼ぶ。江戸幕府は日本の歴史上、[[鎌倉幕府]]及び[[室町幕府]]に続く最後の武家政権である。<br />
<br />
また、江戸幕府の統治下にあった江戸時代は'''江戸幕府による平和'''を意味する[[江戸時代|パクス・トクガワーナ(Pax Tokugawana)]]([[:en:List of periods of regional peace]]を参照)とも称される。<br />
<br />
== 幕藩体制 ==<br />
[[File:Tokugawa_Ieyasu2.JPG|thumb|初代将軍・徳川家康]]<br />
幕府の支配体制は[[幕藩体制]]と呼ばれ、将軍の政府である[[幕府]]と、将軍と主従関係を結んだ大名の政府である[[藩]]で構成されていた。将軍は[[大名]]に対して[[朱印状]]を与えてその[[知行]]を保障し、大名は当該知行内において独自に統治を行う権限を一定程度有した。なお、「藩」の語が公称として用いられるようになったのは明治時代のことで、公文書では「領」「領分」、あるいは「領知」などが使用された。公称としての藩は、[[1868年]](明治元年)に公布された[[政体書]]によって設けられ、[[1871年]](明治4年)の[[廃藩置県]]によって廃止された。<br />
<br />
江戸幕府の支配においては、将軍と大名の主従関係を確認するための[[軍役]]として、各藩大名に対して[[参勤交代]]や、築城・治水工事などの[[手伝普請]]が課せられた。<br />
<br />
初代[[徳川家康|家康]]、3代[[徳川家光|家光]]、5代[[徳川綱吉|綱吉]]、8代[[徳川吉宗|吉宗]]、11代[[徳川家斉|家斉]]など、親政を行ったとされる将軍も存在するが、基本的に政治の多くの部分は[[老中]]を初めとする幕閣に委ねられた。権力の集中を避けるため主要な役職は複数名が配置され、一か月交代で政務を担当する月番制を導入し、重要な決定は合議を原則とした。常置の最高職である老中及び臨時に置かれる[[大老]]、その補佐役である[[若年寄]]は[[譜代大名]]から選任され、[[大目付]]・三奉行([[寺社奉行]]・[[町奉行]]・[[勘定奉行]])等の要職には譜代あるいは[[旗本]]が充てられて実務を担った。幕府組織は後期にはその全貌の把握が困難であるほど巨大化・複雑化し、幕末には老中の月番制を廃止して、国内事務・会計・外国・[[陸軍総裁|陸軍]]・[[海軍総裁|海軍]]の各総裁を専務する等の改革が行われた。<br />
<br />
幕府は「公儀」として国内全体の統治を行うとともに、自らも1大名として領分([[天領]]・御領)を支配し、[[京都所司代]]、[[大坂城代]]、[[遠国奉行]]、[[郡代]]・[[代官]]などの地方官を設置した。<br />
<br />
==財政==<br />
第1代将軍[[徳川家康]]の時期に、[[勘定奉行]]が取り仕切る[[勘定方]]が設置されたが財政は安定しておらず、[[赤字]]などによりしばしば[[幕政改革]]が行われた。<br />
<br />
幕末の1866年(慶応2年)には既に[[イギリス]]の[[オリエンタル・バンク]]の支店が横浜に設立されていたと言われ、幕府は[[長州征伐]]のため、同年同銀行と600万[[ドル]]の借款契約を締結した<ref><br />
[[#関山]]、p.p.63.</ref>。<br />
<br />
== 大名 ==<br />
{{See also|近世大名}}<br />
大名は以下のように分類された。<br />
* [[親藩]]:徳川氏の一族<br />
* [[譜代大名]]:[[関ヶ原の戦い]]以前から徳川家に仕えていた大名家<br />
* [[外様大名]]:関ヶ原の戦い以降から徳川家に仕え始めた大名家(関ヶ原の戦いで東軍として戦った豊臣系大名も含む)<br />
<br />
この分類は、政権内の権力において大きな差となっていた。特に、幕府の要職に全て譜代大名をもって充てた事は、鎌倉幕府、室町幕府からの大きな転換であった。鎌倉・室町幕府においては、時によっては将軍家・[[執権]]すらしのぐほどの有力[[御家人]]・[[守護大名]]が要職に就いていた。また、[[豊臣政権]]末期の[[五大老]]制は、有力大名による集団指導体制であり、外様大名である徳川家康の政権簒奪を防ぐことができなかった。これに対して、江戸幕府では譜代大名が幕府の要職を独占していた。元々は豊臣政権時代に一大名に過ぎなかった徳川家康のさらに臣下であった譜代大名は、さほど有力ではない小大名が中心であり、徳川家以外の他の有力大名は、地方を統治する外様大名として中央政権の要職に就くことが無くなった。つまり、徳川将軍個人の独裁体制ではないものの、徳川家という枠組において独裁体制を敷いていたのである。またこのことにより、あまり政治に関与しなかった将軍であっても、幕閣の完全な傀儡になることはなく、政権の簒奪も未然に防止することが可能となった。<br />
<br />
しかしながらこれは、親藩や有力外様大名が幕閣よりも「目上の立場」になる事を意味し(例えば井伊家は譜代大名筆頭であるが、外様大名筆頭の[[前田家]]や、[[徳川御三家|御三家]]・[[御三卿]]よりは下の席次であった)、幕末期において問題点として噴出する事となった。当時の大老である[[井伊直弼]]は強権をもって[[安政の大獄|反対者を弾圧した]]が、その報復である[[桜田門外の変]]に倒れ、以降の江戸幕府は諸大名の統制が困難になり、[[大政奉還]]及び[[江戸開城]]を迎える事となった。<br />
<br />
== 江戸幕府の役職 ==<br />
<!-- * [[征夷大将軍]] --><!-- 将軍は幕府の職制ではなく朝廷の職制、また役職ではなく世襲職 --><br />
=== 大名役 ===<br />
御側御用取次はもともと高級旗本の役職だったが、拝命後ある程度の時を経てから大名に取り立てられる場合が多かった。<br />
* [[大老|大老・大老格]](幕府成立当初は[[大政参与]]も置かれたが後に大老と統一)<br />
* [[老中]]・[[老中格]]<br />
* [[側用人]]・[[御側御用取次]]<br />
以上が幕政の首脳。このうち「幕閣」と呼ばれたのは大老・大老格と老中・老中格で、側用人・御側御用取次は時代や個人によってその権限に大きな差があった。<br />
<br />
* [[京都所司代]]<br />
* [[大坂城代]]<br />
* [[寺社奉行]]<br />
* [[若年寄]]<br />
* [[奏者番]]<br />
<br />
=== 旗本役 ===<br />
{{See also|旗本#江戸幕府の旗本}}<br />
<br />
諸太夫役と布衣役を『天保年間諸役大概順』に拠って列記、これに支配関係と[[伺候席]]を参考として添えた。なお『諸役大概』に記載があるものの、それが役職であるか世襲職であるかが不明瞭なもの ([[林家 (儒学者)|林家]]が代々勤めた[[大学頭]]など)についてはこれを省いた。<br />
<br />
{{colbegin}}<br />
* [[高家 (江戸時代)|高家]] (老中支配、雁間詰)<br />
* [[側衆]] (老中支配)<br />
* [[駿府城#駿府城代|駿府城代]] (老中支配、雁間詰)<br />
* [[遠国奉行#伏見奉行|伏見奉行]] (老中支配、芙蓉間詰)<br />
* [[留守居]] (老中支配)<br />
* [[大番|大番頭]] (老中支配、菊間詰)<br />
* [[書院番頭]] (若年寄支配、菊間詰)<br />
* [[小姓組|小姓組番頭]] (若年寄支配、菊間詰)<br />
* [[御三卿]]家老 (老中支配、芙蓉間詰)<br />
* [[大目付]] (老中支配、芙蓉間詰)<br />
* [[町奉行]] (老中支配、芙蓉間詰)<br />
* [[勘定奉行]] (老中支配、芙蓉間詰)<br />
* [[旗奉行]] (老中支配、菊間詰)<br />
* [[作事奉行]] (老中支配、芙蓉間詰)<br />
* [[普請奉行]] (老中支配、芙蓉間詰)<br />
* [[小普請奉行]] (若年寄支配、中之間詰) <!----><br />
* [[甲府勤番]]支配 (老中支配、芙蓉間詰)<br />
* [[長崎奉行]] (老中支配、芙蓉間詰)<br />
* [[遠国奉行#浦賀奉行 (下田奉行)|浦賀奉行]] (老中支配、芙蓉間詰)<br />
* [[京都町奉行]] (老中支配、芙蓉間詰)<br />
* [[遠国奉行#大坂町奉行|大坂町奉行]] (老中支配、芙蓉間詰)<br />
* [[駿府城#駿府城代|駿府定番]] (老中支配、芙蓉間詰)<br />
* [[禁裏付]] (老中支配、芙蓉間詰)<br />
* 仙洞付 (老中支配、芙蓉間詰)<br />
* [[遠国奉行#山田奉行|山田奉行]] (老中支配、芙蓉間詰)<br />
* [[遠国奉行#日光奉行|日光奉行]] (老中支配、芙蓉間詰)<br />
* [[遠国奉行#奈良奉行|奈良奉行]] (老中支配、芙蓉間詰)<br />
* [[遠国奉行#堺奉行|堺奉行]] (老中支配、芙蓉間詰)<br />
* [[遠国奉行#駿府町奉行|駿府町奉行]] (老中支配、芙蓉間詰)<br />
* [[遠国奉行#佐渡奉行|佐渡奉行]] (老中支配、芙蓉間詰)<br />
* [[遠国奉行#新潟奉行|新潟奉行]] (老中支配、芙蓉間詰)<br />
* [[羽田奉行]] (老中支配、芙蓉間詰)<br />
* 西丸留守居 (若年寄支配、中之間詰)<br />
* [[鉄砲百人組頭]] (若年寄支配、菊間詰)<br />
* [[鑓奉行]] (老中支配、菊間詰)<br />
* [[小普請組]]支配 (老中支配、中之間詰)<br />
* [[新番|新番頭]] (若年寄支配、中之間詰)<br />
* [[持弓頭]]・[[持筒頭]] (若年寄支配、菊間詰)<br />
* [[火消|定火消役]] (若年寄支配、菊間詰)<br />
* [[小姓]] (若年寄支配)<br />
* 中奥小姓 (若年寄支配、山吹間詰)<br />
* 大坂船手 (老中支配、躑躅間詰)<br />
* [[留守居番]] (老中支配、中之間詰)<br />
* [[先手頭|先手頭・弓頭・鉄砲頭]] (若年寄支配、躑躅間詰)<br />
* [[目付]] (若年寄支配、中之間詰)<br />
* [[使番]] (若年寄支配、菊間詰)<br />
* [[書院番頭|書院番組頭]] (若年寄支配、菊間詰)<br />
* [[小姓組|小姓組組頭]] (若年寄支配、菊間詰)<br />
* [[駿府城#駿府城代|駿府勤番組頭]] (駿府城代支配)<br />
* [[鉄砲方]] (若年寄支配、躑躅間詰)<br />
* 西丸裏門番之頭 (若年寄支配、躑躅間詰)<br />
* [[徒頭]] (若年寄支配、躑躅間詰)<br />
* [[小十人|小十人頭]] (若年寄支配、躑躅間詰)<br />
* [[小納戸]] (若年寄支配)<br />
* [[船手]] (若年寄支配、躑躅間詰)<br />
* 二丸留守居 (若年寄支配、焚火間詰)<br />
* [[納戸頭]] (若年寄支配、焚火間詰)<br />
* [[腰物奉行]] (若年寄支配、焚火間詰)<br />
* [[鷹匠]]頭 (若年寄支配、焚火間詰)<br />
* [[勘定吟味役]] (老中支配、中之間詰)<br />
* [[奥右筆]]組頭 (若年寄支配)<br />
* [[郡代]] (勘定奉行支配、躑躅間詰)<br />
{{colend}}<br />
<br />
=== 幕末に新設された主な役職 ===<br />
* [[将軍後見職]]<br />
* [[政事総裁職]]<br />
** [[神奈川奉行]]<br />
** [[遠国奉行#兵庫奉行|兵庫奉行]]<br />
** [[山陵奉行]]<br />
* 国内事務総裁職<br />
* 外国事務総裁職<br />
** [[外国惣奉行]]<br />
*** [[外国奉行]]<br />
* 会計総裁職<br />
* [[京都守護職]]<br />
** [[京都見廻役]]<br />
* 軍事総裁職<br />
** [[幕府海軍]]<br />
*** [[海軍総裁|海軍総裁職]]<br />
**** [[海軍奉行]]<br />
***** [[軍艦奉行]]<br />
** [[幕府陸軍]]<br />
*** [[陸軍総裁|陸軍総裁職]]<br />
**** 陸軍奉行<br />
***** 騎兵奉行<br />
***** 歩兵奉行<br />
***** 撤兵奉行<br />
***** 銃隊奉行<br />
<br />
== 江戸幕府の組織図 ==<br />
<div style="font-size:80%;"><br />
<pre><br />
将軍━┳━大老<br />
┃<br />
┣━老中━━━━┳━━━━━━━━━━━━━━━━御側用人━━━━━━━御側御用取次━━━━━┳━御側衆<br />
┃ ┃ ┃<br />
┃ ┃ ┗━御庭番<br />
┃ ┃<br />
┃ ┣━留守居━━━━━━━━━━┳━留守居公用人<br />
┃ ┃ ┃<br />
┃ ┃ ┣━留守居祐筆<br />
┃ ┃ ┃<br />
┃ ┃ ┣━留守居与力<br />
┃ ┃ ┃<br />
┃ ┃ ┣━留守居同心<br />
┃ ┃ ┃<br />
┃ ┃ ┣━具足奉行━━━━━┳━具足奉行組頭<br />
┃ ┃ ┃ ┃<br />
┃ ┃ ┃ ┗━具足奉行同心<br />
┃ ┃ ┃<br />
┃ ┃ ┣━鉄砲玉薬奉行━━━┳━鉄砲玉薬組頭<br />
┃ ┃ ┃ ┃<br />
┃ ┃ ┃ ┣━鉄砲玉薬同心<br />
┃ ┃ ┃ ┃<br />
┃ ┃ ┃ ┗━掃除の者<br />
┃ ┃ ┃<br />
┃ ┃ ┣━鉄砲箪笥奉行━━━┳━大箪笥方鉄砲箪笥奉行組頭<br />
┃ ┃ ┃ ┃<br />
┃ ┃ ┃ ┣━大箪笥方鉄砲箪笥奉行同心<br />
┃ ┃ ┃ ┃<br />
┃ ┃ ┃ ┣━小箪笥方鉄砲箪笥奉行組頭<br />
┃ ┃ ┃ ┃<br />
┃ ┃ ┃ ┗━小箪笥方鉄砲箪笥奉行同心<br />
┃ ┃ ┃<br />
┃ ┃ ┣━弓矢槍奉行━━━━┳━弓矢槍奉行組頭<br />
┃ ┃ ┃ ┃<br />
┃ ┃ ┃ ┗━弓矢槍奉行同心<br />
┃ ┃ ┃<br />
┃ ┃ ┣━幕奉行━━━━━━┳━幕奉行同心<br />
┃ ┃ ┃ ┃<br />
┃ ┃ ┃ ┗━幕奉行中間<br />
┃ ┃ ┃<br />
┃ ┃ ┣━富士見宝蔵番頭━━┳━富士見宝蔵番組頭<br />
┃ ┃ ┃ ┃<br />
┃ ┃ ┃ ┗━富士見宝蔵番衆<br />
┃ ┃ ┃<br />
┃ ┃ ┣━天主番頭━━━━━┳━天主番組頭<br />
┃ ┃ ┃ ┃<br />
┃ ┃ ┃ ┗━天主番衆<br />
┃ ┃ ┃<br />
┃ ┃ ┣━裏門切手番頭━━━━━━裏門切手同心<br />
┃ ┃ ┃<br />
┃ ┃ ┣━御台様広敷番頭━━━━御台様広敷番衆━━━━┳━御台様広敷伊賀者<br />
┃ ┃ ┃ ┃<br />
┃ ┃ ┃ ┗━御台様広敷進上番<br />
┃ ┃ ┃<br />
┃ ┃ ┣━御簾中様広敷番頭━━━御簾中様広敷番衆━━━┳━御簾中様広敷伊賀者<br />
┃ ┃ ┃ ┃<br />
┃ ┃ ┃ ┗━御簾中様広敷進上番<br />
┃ ┃ ┃<br />
┃ ┃ ┃<br />
┃ ┃ ┣━進物取次番頭━━━━━進物取次番━━━━━━━━進物取次下番<br />
┃ ┃ ┃<br />
┃ ┃ ┃<br />
┃ ┃ ┣━伊賀衆組頭━━━━┳━広敷添番<br />
┃ ┃ ┃ ┃<br />
┃ ┃ ┃ ┗━伊賀衆<br />
┃ ┃ ┃<br />
┃ ┃ ┣━明屋敷番伊賀者組頭━━明屋敷番伊賀者<br />
┃ ┃ ┃<br />
┃ ┃ ┣━明屋敷番調役<br />
┃ ┃ ┃<br />
┃ ┃ ┣━明屋敷番勘定役<br />
┃ ┃ ┃<br />
┃ ┃ ┣━奥火之番<br />
┃ ┃ ┃<br />
┃ ┃ ┗━中間頭━━━━━━━━中間組頭━━━━━━━━━中間<br />
┃ ┃<br />
┃ ┣━高家━━━━━━━━━━━┳━高家肝煎<br />
┃ ┃ ┃<br />
┃ ┃ ┗━表高家<br />
┃ ┃<br />
┃ ┣━御三卿家老<br />
┃ ┃<br />
┃ ┣━大番頭━━━━━━━━━━┳━大番組頭━━━━━━━大番衆<br />
┃ ┃ ┃<br />
┃ ┃ ┗━大番頭与力━━━━━━大番頭同心<br />
┃ ┃<br />
┃ ┣━江戸町奉行━━━━━━━━┳━町奉行所与力━━━┳━内与力━━━━━━━━━━用部屋手付同心<br />
┃ ┃ ┃ ┃<br />
┃ ┃ ┃ ┃<br />
┃ ┃ ┃ ┣━年番方与力━━━━━━┳━年番方同心<br />
┃ ┃ ┃ ┃ ┃<br />
┃ ┃ ┃ ┃ ┗━年番方物書同心<br />
┃ ┃ ┃ ┃<br />
┃ ┃ ┃ ┃<br />
┃ ┃ ┃ ┣━本所方与力━━━━━━┳━本所方同心<br />
┃ ┃ ┃ ┃ ┃<br />
┃ ┃ ┃ ┃ ┗━本所方水主<br />
┃ ┃ ┃ ┃<br />
┃ ┃ ┃ ┣━養生所見廻り与力━━━━━養生所見廻り同心<br />
┃ ┃ ┃ ┃<br />
┃ ┃ ┃ ┣━牢屋見廻り与力━━━━━━牢屋見廻り同心<br />
┃ ┃ ┃ ┃<br />
┃ ┃ ┃ ┣━吟味方与力(吟味与力)━━吟味方同心<br />
┃ ┃ ┃ ┃<br />
┃ ┃ ┃ ┣━赦帳撰要方人別帳掛与力━━赦帳撰要方人別帳掛同心<br />
┃ ┃ ┃ ┃<br />
┃ ┃ ┃ ┣━高積見廻り与力━━━━━━高積見廻り同心<br />
┃ ┃ ┃ ┃<br />
┃ ┃ ┃ ┣━町火消人足改与力━━━━━町火消人足改同心<br />
┃ ┃ ┃ ┃<br />
┃ ┃ ┃ ┣━風烈廻り昼夜廻り与力━━━風烈廻り昼夜廻り同心<br />
┃ ┃ ┃ ┃<br />
┃ ┃ ┃ ┣━例繰方与力━━━━━━━━例繰方同心<br />
┃ ┃ ┃ ┃<br />
┃ ┃ ┃ ┣━町会所掛与力━━━━━━━町会所掛同心<br />
┃ ┃ ┃ ┃<br />
┃ ┃ ┃ ┣━定橋掛与力━━━━━━━━定橋掛同心<br />
┃ ┃ ┃ ┃<br />
┃ ┃ ┃ ┣━古銅吹所見廻り与力━━━━古銅吹所見廻り同心<br />
┃ ┃ ┃ ┃<br />
┃ ┃ ┃ ┣━市中取締諸色調掛与力━━━市中取締諸色調掛同心<br />
┃ ┃ ┃ ┃<br />
┃ ┃ ┃ ┣━猿屋町会所見廻り与力━━━猿屋町会所見廻り同心<br />
┃ ┃ ┃ ┃<br />
┃ ┃ ┃ ┣━御肴青物御鷹餌耳掛与力<br />
┃ ┃ ┃ ┃<br />
┃ ┃ ┃ ┣━諸問屋組合再興掛与力━━━諸問屋組合再興掛同心<br />
┃ ┃ ┃ ┃<br />
┃ ┃ ┃ ┣━非常取締掛与力━━━━━━非常取締掛同心<br />
┃ ┃ ┃ ┃<br />
┃ ┃ ┃ ┣━人足寄場定掛与力━━━━━人足寄場定掛同心<br />
┃ ┃ ┃ ┃<br />
┃ ┃ ┃ ┣━硝石会所見廻り与力━━━━硝石会所見廻り同心<br />
┃ ┃ ┃ ┃<br />
┃ ┃ ┃ ┣━外国掛与力━━━━━━━━外国掛同心<br />
┃ ┃ ┃ ┃<br />
┃ ┃ ┃ ┣━開港掛与力━━━━━━━━開港掛同心<br />
┃ ┃ ┃ ┃<br />
┃ ┃ ┃ ┣━町兵掛与力━━━━━━━━町兵掛同心<br />
┃ ┃ ┃ ┃<br />
┃ ┃ ┃ ┣━当番方与力━━━━━━━━当番方同心<br />
┃ ┃ ┃ ┃<br />
┃ ┃ ┃ ┣━御国益御仕法度掛与力━━━御国益御仕法度掛同心<br />
┃ ┃ ┃ ┃<br />
┃ ┃ ┃ ┣━諸色潤沢掛与力━━━━━━諸色潤沢掛同心<br />
┃ ┃ ┃ ┃<br />
┃ ┃ ┃ ┣━諸色値下掛与力━━━━━━諸色値下掛同心<br />
┃ ┃ ┃ ┃<br />
┃ ┃ ┃ ┣━外国人居留地掛与力━━━━外国人居留地掛同心<br />
┃ ┃ ┃ ┃<br />
┃ ┃ ┃ ┗━町奉行所同心━━━━━┳━隠密廻り同心━━━━━┳━目明し<br />
┃ ┃ ┃ ┃ ┃<br />
┃ ┃ ┃ ┃ ┗━岡引━━━━━下引<br />
┃ ┃ ┃ ┃<br />
┃ ┃ ┃ ┣━定町廻り同心━━━━━┳━目明し<br />
┃ ┃ ┃ ┃ ┃<br />
┃ ┃ ┃ ┃ ┗━岡引━━━━━下引<br />
┃ ┃ ┃ ┃<br />
┃ ┃ ┃ ┣━臨時廻り同心<br />
┃ ┃ ┃ ┃<br />
┃ ┃ ┃ ┣━下馬廻り同心<br />
┃ ┃ ┃ ┃<br />
┃ ┃ ┃ ┣━門前廻り同心<br />
┃ ┃ ┃ ┃<br />
┃ ┃ ┃ ┣━御出座御帳掛同心<br />
┃ ┃ ┃ ┃<br />
┃ ┃ ┃ ┣━定触役同心<br />
┃ ┃ ┃ ┃<br />
┃ ┃ ┃ ┣━引纏役同心<br />
┃ ┃ ┃ ┃<br />
┃ ┃ ┃ ┣━定中役同心<br />
┃ ┃ ┃ ┃<br />
┃ ┃ ┃ ┗━両組姓名掛同心<br />
┃ ┃ ┃<br />
┃ ┃ ┣━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━中間━━━━━小者<br />
┃ ┃ ┃<br />
┃ ┃ ┣━牢屋奉行━━━━━┳━牢屋同心━━━━━━━┳━鍵役<br />
┃ ┃ ┃ ┃ ┃<br />
┃ ┃ ┃ ┃ ┣━数役<br />
┃ ┃ ┃ ┃ ┃<br />
┃ ┃ ┃ ┃ ┣━打役<br />
┃ ┃ ┃ ┃ ┃<br />
┃ ┃ ┃ ┃ ┣━小頭<br />
┃ ┃ ┃ ┃ ┃<br />
┃ ┃ ┃ ┃ ┣━世話役<br />
┃ ┃ ┃ ┃ ┃<br />
┃ ┃ ┃ ┃ ┣━書役━━━━━━━━━┳━本牢当番<br />
┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃<br />
┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┗━百姓牢当番<br />
┃ ┃ ┃ ┃ ┃<br />
┃ ┃ ┃ ┃ ┗━━━━━━━━━━━━━━牢屋下男<br />
┃ ┃ ┃ ┃<br />
┃ ┃ ┃ ┗━牢屋医師<br />
┃ ┃ ┃<br />
┃ ┃ ┣━本所道役<br />
┃ ┃ ┃<br />
┃ ┃ ┣━小石川養生所<br />
┃ ┃ ┃<br />
┃ ┃ ┣━江戸町年寄━━━━━━江戸町名主━━━━━━━━自身番<br />
┃ ┃ ┃<br />
┃ ┃ ┣━江戸町地割役<br />
┃ ┃ ┃<br />
┃ ┃ ┣━江戸町火消<br />
┃ ┃ ┃<br />
┃ ┃ ┗━穢多頭━━━━━━┳━━━━━━━━━━━━━━穢多<br />
┃ ┃ ┃<br />
┃ ┃ ┗━非人頭━━━━━━━━━━非人<br />
┃ ┃<br />
┃ ┣━大坂定番━━━━━━━━━┳━大坂破損並材木奉行━━大坂破損並材木奉行手代<br />
┃ ┃ ┃<br />
┃ ┃ ┣━大坂具足奉行━━━━━大坂具足奉行同心<br />
┃ ┃ ┃<br />
┃ ┃ ┣━大坂鉄砲方━━━━━━大坂鉄砲方同心<br />
┃ ┃ ┃<br />
┃ ┃ ┣━大坂弓矢奉行━━━━━大坂弓矢奉行同心<br />
┃ ┃ ┃<br />
┃ ┃ ┗━大坂鉄砲奉行━━━━━大坂鉄砲奉行同心<br />
┃ ┃<br />
┃ ┣━大坂加番<br />
┃ ┃<br />
┃ ┣━大坂城目付<br />
┃ ┃<br />
┃ ┣━大坂船手━━━━━━━━━┳━大坂船手与力<br />
┃ ┃ ┃<br />
┃ ┃ ┗━大坂船手水主<br />
┃ ┃<br />
┃ ┣━大坂町奉行━━━━━━━━━━大坂町奉行所与力━┳━同心支配与力<br />
┃ ┃ ┃<br />
┃ ┃ ┣━寺社役与力<br />
┃ ┃ ┃<br />
┃ ┃ ┣━地方役与力<br />
┃ ┃ ┃<br />
┃ ┃ ┣━川役与力<br />
┃ ┃ ┃<br />
┃ ┃ ┣━石役与力<br />
┃ ┃ ┃<br />
┃ ┃ ┣━金役与力<br />
┃ ┃ ┃<br />
┃ ┃ ┣━酒改方与力<br />
┃ ┃ ┃<br />
┃ ┃ ┣━御蔵目付与力<br />
┃ ┃ ┃<br />
┃ ┃ ┣━普請役与力<br />
┃ ┃ ┃<br />
┃ ┃ ┣━小買物役与力<br />
┃ ┃ ┃<br />
┃ ┃ ┣━塩噌役与力<br />
┃ ┃ ┃<br />
┃ ┃ ┣━糸割符与力<br />
┃ ┃ ┃<br />
┃ ┃ ┣━極印役与力<br />
┃ ┃ ┃<br />
┃ ┃ ┣━火消役与力<br />
┃ ┃ ┃<br />
┃ ┃ ┣━盗賊改与力<br />
┃ ┃ ┃<br />
┃ ┃ ┣━闕所役与力<br />
┃ ┃ ┃<br />
┃ ┃ ┣━遠国役与力<br />
┃ ┃ ┃<br />
┃ ┃ ┣━定町廻与力<br />
┃ ┃ ┃<br />
┃ ┃ ┣━唐物方与力<br />
┃ ┃ ┃<br />
┃ ┃ ┣━流人役与力<br />
┃ ┃ ┃<br />
┃ ┃ ┣━目安証文役与力<br />
┃ ┃ ┃<br />
┃ ┃ ┣━牢扶持改与力<br />
┃ ┃ ┃<br />
┃ ┃ ┗━大坂町奉行所同心━━━┳━加役銅座俵物掛同<br />
┃ ┃ ┃<br />
┃ ┃ ┣━諸御用調役同心<br />
┃ ┃ ┃<br />
┃ ┃ ┣━加役箱館会所掛同心<br />
┃ ┃ ┃<br />
┃ ┃ ┣━加役箱館産物会所掛同心<br />
┃ ┃ ┃<br />
┃ ┃ ┣━兵庫西宮上ヶ知方同心<br />
┃ ┃ ┃<br />
┃ ┃ ┣━物書役同心<br />
┃ ┃ ┃<br />
┃ ┃ ┣━盗賊所御役所定詰方同心<br />
┃ ┃ ┃<br />
┃ ┃ ┗━盗賊捕方同心<br />
┃ ┃<br />
┃ ┣━勘定奉行━━━━━━━━━┳━勘定組頭<br />
┃ ┃ ┃<br />
┃ ┃ ┣━━━━━━━━━━━━鷹野方組頭<br />
┃ ┃ ┃<br />
┃ ┃ ┣━━━━━━━━━━━━本所牢屋敷取締役<br />
┃ ┃ ┃<br />
┃ ┃ ┣━留役勘定組頭<br />
┃ ┃ ┃<br />
┃ ┃ ┣━評定所番<br />
┃ ┃ ┃<br />
┃ ┃ ┣━評定所留守居<br />
┃ ┃ ┃<br />
┃ ┃ ┣━金奉行<br />
┃ ┃ ┃<br />
┃ ┃ ┣━切手手形改<br />
┃ ┃ ┃<br />
┃ ┃ ┣━蔵奉行<br />
┃ ┃ ┃<br />
┃ ┃ ┣━林奉行<br />
┃ ┃ ┃<br />
┃ ┃ ┣━油漆奉行<br />
┃ ┃ ┃<br />
┃ ┃ ┣━川船改役<br />
┃ ┃ ┃<br />
┃ ┃ ┣━大坂金奉行<br />
┃ ┃ ┃<br />
┃ ┃ ┣━大坂蔵奉行<br />
┃ ┃ ┃<br />
┃ ┃ ┣━二条蔵奉行<br />
┃ ┃ ┃<br />
┃ ┃ ┣━禁裡入用取調役<br />
┃ ┃ ┃<br />
┃ ┃ ┣━金座<br />
┃ ┃ ┃<br />
┃ ┃ ┣━銀座<br />
┃ ┃ ┃<br />
┃ ┃ ┣━銅座<br />
┃ ┃ ┃<br />
┃ ┃ ┣━鉄座<br />
┃ ┃ ┃<br />
┃ ┃ ┣━真鍮座<br />
┃ ┃ ┃<br />
┃ ┃ ┣━朱座<br />
┃ ┃ ┃<br />
┃ ┃ ┣━銭座<br />
┃ ┃ ┃<br />
┃ ┃ ┣━郡代<br />
┃ ┃ ┃<br />
┃ ┃ ┗━代官<br />
┃ ┃<br />
┃ ┣━勘定吟味役━━━━━━━━━━勘定吟味役改役━━━━勘定吟味役改役並━━━━━勘定吟味役下役━━━━━━当分出役<br />
┃ ┃<br />
┃ ┣━作事奉行━━━━━━━━━┳━京都大工頭━━━━━━京都大工棟梁━━━━━━━京都大工<br />
┃ ┃ ┃<br />
┃ ┃ ┣━大工頭━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━大工役の者<br />
┃ ┃ ┃<br />
┃ ┃ ┣━作事下奉行━━━━━━━━━━━━━━━━━┳━作事下奉行手代<br />
┃ ┃ ┃ ┃<br />
┃ ┃ ┃ ┗━作事下奉行書役<br />
┃ ┃ ┃<br />
┃ ┃ ┣━畳奉行━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┳━畳奉行手代<br />
┃ ┃ ┃ ┃<br />
┃ ┃ ┃ ┗━畳蔵門番人<br />
┃ ┃ ┃<br />
┃ ┃ ┣━細工所頭━━━━━┳━細工所組頭━━━━━━━━細工所同心<br />
┃ ┃ ┃ ┃<br />
┃ ┃ ┃ ┣━細工所勘定役頭取━━━━━細工所勘定役<br />
┃ ┃ ┃ ┃<br />
┃ ┃ ┃ ┣━細工所勘定改役<br />
┃ ┃ ┃ ┃<br />
┃ ┃ ┃ ┗━細工方改役━━━━━━━━細工方抱入<br />
┃ ┃ ┃<br />
┃ ┃ ┣━作事方被官━━━━┳━作事方勘定役<br />
┃ ┃ ┃ ┃<br />
┃ ┃ ┃ ┣━作事方小役<br />
┃ ┃ ┃ ┃<br />
┃ ┃ ┃ ┣━作事方手代<br />
┃ ┃ ┃ ┃<br />
┃ ┃ ┃ ┣━作事方書役<br />
┃ ┃ ┃ ┃<br />
┃ ┃ ┃ ┣━作事方定普請同心組頭━━━作事方定普請同心<br />
┃ ┃ ┃ ┃<br />
┃ ┃ ┃ ┣━作事方手大工組頭━━━━━作事方手大工世話役<br />
┃ ┃ ┃ ┃<br />
┃ ┃ ┃ ┣━作事方定小屋門番人<br />
┃ ┃ ┃ ┃<br />
┃ ┃ ┃ ┣━餝棟梁<br />
┃ ┃ ┃ ┃<br />
┃ ┃ ┃ ┣━作事方大棟梁<br />
┃ ┃ ┃ ┃<br />
┃ ┃ ┃ ┣━大鋸棟梁<br />
┃ ┃ ┃ ┃<br />
┃ ┃ ┃ ┗━小細工奉行━━━━━━━━小細工奉行手代<br />
┃ ┃ ┃<br />
┃ ┃ ┣━瓦奉行<br />
┃ ┃ ┃<br />
┃ ┃ ┣━植木奉行━━━━━━━━━━━━━━━━━━┳━植木奉行手代<br />
┃ ┃ ┃ ┃<br />
┃ ┃ ┃ ┗━植木奉行同心<br />
┃ ┃ ┃<br />
┃ ┃ ┗━作事方庭作<br />
┃ ┃<br />
┃ ┣━普請奉行<br />
┃ ┃<br />
┃ ┣━小普請支配<br />
┃ ┃<br />
┃ ┣━旗奉行<br />
┃ ┃<br />
┃ ┣━槍奉行━━━━━━━━━━━━八王子千人頭━千人同心組頭━千人同心<br />
┃ ┃<br />
┃ ┣━留守居番<br />
┃ ┃<br />
┃ ┣━大目付━━━━━━━━━━┳━闕所物奉行<br />
┃ ┃ ┃<br />
┃ ┃ ┣━肝煎坊主<br />
┃ ┃ ┃<br />
┃ ┃ ┣━宗門改加役人別帳改<br />
┃ ┃ ┃<br />
┃ ┃ ┣━道中奉行<br />
┃ ┃ ┃<br />
┃ ┃ ┣━服忌令分限帳改<br />
┃ ┃ ┃<br />
┃ ┃ ┣━日記帳改<br />
┃ ┃ ┃<br />
┃ ┃ ┗━十里四方鉄砲改<br />
┃ ┣━交替寄合<br />
┃ ┃<br />
┃ ┣━駿府城代━━━━━━━━━┳━駿府武具奉行<br />
┃ ┃ ┃<br />
┃ ┃ ┣━駿府定番<br />
┃ ┃ ┃<br />
┃ ┃ ┣━駿府城定番目付<br />
┃ ┃ ┃<br />
┃ ┃ ┣━久能山総門番<br />
┃ ┃ ┃<br />
┃ ┃ ┗━久能山総門番目代<br />
┃ ┃<br />
┃ ┣━駿府加番<br />
┃ ┃<br />
┃ ┣━駿府町奉行<br />
┃ ┃<br />
┃ ┣━禁裡付<br />
┃ ┃<br />
┃ ┣━仙洞付<br />
┃ ┃<br />
┃ ┣━京都町奉行━━━━━━━━┳━京都町奉行所与力<br />
┃ ┃ ┃<br />
┃ ┃ ┣━雑色<br />
┃ ┃ ┃<br />
┃ ┃ ┣━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━穢多年寄<br />
┃ ┃ ┃<br />
┃ ┃ ┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━悲田院年寄<br />
┃ ┃<br />
┃ ┣━伏見奉行<br />
┃ ┃<br />
┃ ┣━長崎奉行<br />
┃ ┃<br />
┃ ┣━奈良奉行<br />
┃ ┃<br />
┃ ┣━伊勢山田奉行<br />
┃ ┃<br />
┃ ┣━日光奉行━━━━━━━━━━━東叡山目代<br />
┃ ┃<br />
┃ ┣━堺奉行<br />
┃ ┃<br />
┃ ┣━浦賀奉行<br />
┃ ┃<br />
┃ ┣━新潟奉行<br />
┃ ┃<br />
┃ ┣━佐渡奉行<br />
┃ ┃<br />
┃ ┣━箱館奉行<br />
┃ ┃<br />
┃ ┣━羽田奉行<br />
┃ ┃<br />
┃ ┣━甲府勤番支配<br />
┃ ┃<br />
┃ ┣━表絵師<br />
┃ ┃<br />
┃ ┗━奥絵師<br />
┃<br />
┣━若年寄━━━┳━御広敷用人<br />
┃ ┃<br />
┃ ┣━数奇屋坊主頭<br />
┃ ┃<br />
┃ ┣━同朋頭━━━━━━━━━━━━奥坊主頭<br />
┃ ┃<br />
┃ ┣━馬医方<br />
┃ ┃<br />
┃ ┣━召馬預<br />
┃ ┃<br />
┃ ┣━馬預━━━━━━━━━━━┳━馬方<br />
┃ ┃ ┃<br />
┃ ┃ ┣━馬飼小頭<br />
┃ ┃ ┃<br />
┃ ┃ ┗━野馬奉行<br />
┃ ┃<br />
┃ ┣━書物奉行<br />
┃ ┃<br />
┃ ┣━駒場薬園預<br />
┃ ┃<br />
┃ ┣━小石川薬園奉行<br />
┃ ┃<br />
┃ ┣━吹上奉行━━━━━━━━━━━吹上添奉行<br />
┃ ┃<br />
┃ ┣━浜御殿奉行━━━━━━━━━━浜御殿添奉行<br />
┃ ┃<br />
┃ ┣━膳奉行<br />
┃ ┃<br />
┃ ┣━賄頭<br />
┃ ┃<br />
┃ ┣━膳所台所頭<br />
┃ ┃<br />
┃ ┣━奥膳所台所頭<br />
┃ ┃<br />
┃ ┣━表台所頭<br />
┃ ┃<br />
┃ ┣━西の丸膳所台所頭<br />
┃ ┃<br />
┃ ┣━西の丸表台所頭<br />
┃ ┃<br />
┃ ┣━歌学者<br />
┃ ┃<br />
┃ ┣━典薬頭<br />
┃ ┃<br />
┃ ┣━表番外科<br />
┃ ┃<br />
┃ ┣━表番医師<br />
┃ ┃<br />
┃ ┣━奥外科<br />
┃ ┃<br />
┃ ┣━奥鍼治<br />
┃ ┃<br />
┃ ┣━奥医師<br />
┃ ┃<br />
┃ ┣━奥口科医師<br />
┃ ┃<br />
┃ ┣━奥眼科医師<br />
┃ ┃<br />
┃ ┣━寄合医師<br />
┃ ┃<br />
┃ ┣━御目見医師<br />
┃ ┃<br />
┃ ┣━小石川養生所医師<br />
┃ ┃<br />
┃ ┣━天文方<br />
┃ ┃<br />
┃ ┣━林大学頭<br />
┃ ┃<br />
┃ ┣━学問所奉行━━━━━━━━━━学問所詰儒者<br />
┃ ┃<br />
┃ ┣━蕃書調所頭取<br />
┃ ┃<br />
┃ ┣━奥儒者<br />
┃ ┃<br />
┃ ┣━表祐筆組頭<br />
┃ ┃<br />
┃ ┣━奥祐筆組頭<br />
┃ ┃<br />
┃ ┣━進物番<br />
┃ ┃<br />
┃ ┣━腰物奉行<br />
┃ ┃<br />
┃ ┣━納戸頭<br />
┃ ┃<br />
┃ ┣━西の丸諸役━━━━━━━━┳━西の丸留守居<br />
┃ ┃ ┃<br />
┃ ┃ ┗━西の丸裏門番頭<br />
┃ ┃<br />
┃ ┣━御三卿付諸役<br />
┃ ┃<br />
┃ ┣━屋敷改並新地改(新地奉行)<br />
┃ ┃<br />
┃ ┣━二の丸留守居<br />
┃ ┃<br />
┃ ┣━船手頭<br />
┃ ┃<br />
┃ ┣━召船役<br />
┃ ┃<br />
┃ ┣━中川番<br />
┃ ┃<br />
┃ ┣━火付盗賊改<br />
┃ ┃<br />
┃ ┣━徒頭<br />
┃ ┃<br />
┃ ┣━小十人頭<br />
┃ ┃<br />
┃ ┣━鳥見組頭<br />
┃ ┃<br />
┃ ┣━鷹匠支配<br />
┃ ┃<br />
┃ ┣━出火之節見廻役<br />
┃ ┃<br />
┃ ┣━本所深川出火之節見廻役<br />
┃ ┃<br />
┃ ┣━使番<br />
┃ ┃<br />
┃ ┣━目付━━━━━━━━━━━┳━徒目付組頭<br />
┃ ┃ ┃<br />
┃ ┃ ┣━小十人目付組頭<br />
┃ ┃ ┃<br />
┃ ┃ ┣━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━中間目付<br />
┃ ┃ ┃<br />
┃ ┃ ┣━貝役<br />
┃ ┃ ┃<br />
┃ ┃ ┣━押太鼓役<br />
┃ ┃ ┃<br />
┃ ┃ ┣━━━━━━━━━━━━掃除頭<br />
┃ ┃ ┃<br />
┃ ┃ ┣━━━━━━━━━━━━提灯奉行<br />
┃ ┃ ┃<br />
┃ ┃ ┣━━━━━━━━━━━━中間頭<br />
┃ ┃ ┃<br />
┃ ┃ ┣━━━━━━━━━━━━駕籠頭<br />
┃ ┃ ┃<br />
┃ ┃ ┣━━━━━━━━━━━━黒鍬頭<br />
┃ ┃ ┃<br />
┃ ┃ ┣━━━━━━━━━━━━小人頭<br />
┃ ┃ ┃<br />
┃ ┃ ┣━表火之番組頭<br />
┃ ┃ ┃<br />
┃ ┃ ┣━━━━━━━━━━━━玄関番<br />
┃ ┃ ┃<br />
┃ ┃ ┣━━━━━━━━━━━━中の口番<br />
┃ ┃ ┃<br />
┃ ┃ ┣━━━━━━━━━━━━伝奏屋敷番<br />
┃ ┃ ┃<br />
┃ ┃ ┣━浜吟味役<br />
┃ ┃ ┃<br />
┃ ┃ ┣━小普請方改役<br />
┃ ┃ ┃<br />
┃ ┃ ┣━━━━━━━━━━━━二の丸火之番<br />
┃ ┃ ┃<br />
┃ ┃ ┣━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━台所番<br />
┃ ┃ ┃<br />
┃ ┃ ┗━━━━━━━━━━━━目付支配無役世話役<br />
┃ ┃<br />
┃ ┣━定火消役<br />
┃ ┃<br />
┃ ┣━先手弓頭<br />
┃ ┃<br />
┃ ┣━先手鉄砲頭<br />
┃ ┃<br />
┃ ┣━鉄砲方<br />
┃ ┃<br />
┃ ┣━持筒頭<br />
┃ ┃<br />
┃ ┣━持弓頭<br />
┃ ┃<br />
┃ ┣━鉄砲百人組頭<br />
┃ ┃<br />
┃ ┣━小納戸頭取<br />
┃ ┃<br />
┃ ┣━小姓頭取<br />
┃ ┃<br />
┃ ┣━中奥番<br />
┃ ┃<br />
┃ ┣━中奥小姓<br />
┃ ┃<br />
┃ ┣━小姓組番頭<br />
┃ ┃<br />
┃ ┣━書院番頭<br />
┃ ┃<br />
┃ ┣━新番頭<br />
┃ ┃<br />
┃ ┣━小普請奉行<br />
┃ ┃<br />
┃ ┣━奥詰衆<br />
┃ ┃<br />
┃ ┣━講武所奉行<br />
┃ ┃<br />
┃ ┣━材木石奉行<br />
┃ ┃<br />
┃ ┗━軍艦操練所頭取<br />
┃<br />
┣━奏者番<br />
┃<br />
┣━寺社奉行━━┳━吟味物調役<br />
┃ ┃<br />
┃ ┣━紅葉山火之番<br />
┃ ┃<br />
┃ ┣━紅葉山御宮御霊屋付坊主<br />
┃ ┃<br />
┃ ┣━紅葉山高盛坊主<br />
┃ ┃<br />
┃ ┣━紅葉山掃除之者組頭<br />
┃ ┃<br />
┃ ┣━神道方<br />
┃ ┃<br />
┃ ┣━楽人方<br />
┃ ┃<br />
┃ ┣━連歌師<br />
┃ ┃<br />
┃ ┣━碁所<br />
┃ ┃<br />
┃ ┣━将棋所<br />
┃ ┃<br />
┃ ┗━大西慶梧役<br />
┃<br />
┣━京都所司代━┳━京都郡代<br />
┃ ┃<br />
┃ ┣━二条城門番之頭<br />
┃ ┃<br />
┃ ┣━二条城御殿預<br />
┃ ┃<br />
┃ ┗━二条城鉄砲奉行<br />
┃<br />
┗━大坂城代<br />
</pre><br />
</div><br />
<br />
== 脚注 ==<br />
{{脚注ヘルプ}}<br />
{{reflist}}<br />
<br />
== 参考文献 ==<br />
{{No footnotes|section=1|date=2017年3月29日 (水) 07:56 (UTC)}}<br />
* <span id="関山"></span>[[関山直太郎]]『日本貨幣金融史研究』、『[{{NDLDC|1276489/40}} 東洋銀行と幕府との関係]』。[[新経済社]]、1943年。<br />
* [[北島正元]]『江戸幕府の権力構造』岩波書店、[[1964年]]<br />
* [[藤野保]]『幕藩体制史の研究-権力構造の確立と展開-』吉川弘文館、[[1961年]]<br />
* [[藤井譲治]]「家綱政権論」 <br />
* [[塚本学]]「綱吉政権論」 <br />
* [[藤野保]]『徳川幕閣のすべて』[[新人物往来社]]、[[1987年]] ISBN 978-4-40401-469-6<br />
* [[藤井譲治]]『江戸幕府老中制形成過程の研究』[[校倉書房]]、[[1990年]]<br />
* 別冊[[歴史読本]]歴史ロマンシリーズ『決定版「徳川幕閣」のすべて』[[新人物往来社]]、[[1994年]]<br />
* [[笹間良彦]]『江戸幕府役職集成』[[雄山閣出版]]、[[1999年]] ISBN 978-4-639-00058-7<br />
* [[村川浩平]]『日本近世武家政権論』[[近代文芸社]]、[[2000年]]<br />
* [[藤井譲治]]『幕藩領主の権力構造』[[岩波書店]]、[[2002年]]<br />
* [[竹内誠]]『徳川幕府事典』[[東京堂出版]]、[[2003年]] ISBN 978-4-490-10621-3<br />
<br />
== 関連項目 ==<br />
* [[江戸時代]]<br />
* [[幕藩体制]]<br />
* [[松平状]]<br />
* [[江戸城]]<br />
* [[大奥]]<br />
* [[徳川将軍一覧]]<br />
* [[徳川御三家]]<br />
* [[御三卿]]<br />
<br />
{{江戸幕府将軍}}<br />
{{江戸幕府大老}}<br />
<br />
{{DEFAULTSORT:えとはくふ}}<br />
[[Category:江戸幕府|*]]<br />
[[Category:江戸]]<br />
[[Category:徳川家康]]<br />
[[Category:徳川氏|*]]<br />
[[Category:1603年に成立した国家・領域]]<br />
[[Category:1868年に廃止された国家・領域]]</div>
2400:4026:AA43:5000:1CAA:195C:1527:7C9C
Warning : Cannot modify header information - headers already sent by (output started at /home/users/1/sub.jp-asate/web/wiki/extensions/HeadScript/HeadScript.php:3) in /home/users/1/sub.jp-asate/web/wiki/includes/WebResponse.php on line 46