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<hr />
<div>{{政治家<br />
|人名 = 第2代ロッキンガム侯爵<br />チャールズ・ワトソン=ウェントワース<br />
|各国語表記 = {{lang|en|Charles Watson-Wentworth<br />2nd Marquess of Rockingham}}<br />
|画像 = 2nd Marquess of Rockingham.jpg<br />
|画像サイズ = 200px<br />
|国略称 ={{GBR1606}}<br />
|画像説明 = <br />
|生年月日 = [[1730年]][[5月13日]] <br />
|出生地 = {{GBR1606}}、[[イングランド]]・{{仮リンク|ウェントワース (サウス・ヨークシャー州)|en|Wentworth, South Yorkshire|label=ウェントワース}}<br />
|没年月日 = {{死亡年月日と没年齢|1730|5|13|1782|7|1}}<br />
|死没地 = {{GBR1606}}、イングランド・[[ロンドン]]<br />
|出身校 = [[ケンブリッジ大学]]<br />
|所属政党 = [[ホイッグ党 (イギリス)|ホイッグ党]]<br />
|称号・勲章 = 第2代[[ロッキンガム侯爵]]、[[ガーター勲章]]ナイト(KG)、[[枢密院 (イギリス)|枢密顧問官]](PC)<br />
|親族(政治家) = <br />
|配偶者 = メアリー<br />
|サイン = <br />
|国旗 = GBR1606<br />
|職名 = [[イギリスの首相|首相]]<br />
|就任日 = [[1765年]][[7月13日]] - [[1766年]][[7月30日]]<br />[[1782年]][[3月27日]]<br />
|退任日 = [[1782年]][[7月1日]]<br />
|元首職 = [[イギリスの君主|国王]]<br />
|元首 = [[ジョージ3世 (イギリス王)|ジョージ3世]]<br />
|国旗2 = GBR1606<br />
|職名2 = [[貴族院 (イギリス)|貴族院]]議員<br />
|就任日2 = [[1751年]]<br />
|退任日2 = [[1782年]]<br />
}}<br />
'''第2代[[ロッキンガム侯爵]]、チャールズ・ワトソン=ウェントワース'''({{lang-en-short|'''Charles Watson-Wentworth, 2nd Marquess of Rockingham'''}}, {{Post-nominals|post-noms=[[ガーター勲章|KG]], [[枢密院 (イギリス)|PC]]}}、[[1730年]][[5月13日]] - [[1782年]][[7月1日]])は、[[イギリス]]の[[政治家]]、[[貴族]]。<br />
<br />
[[ホイッグ党 (イギリス)|ホイッグ党]][[トマス・ペラム=ホールズ (初代ニューカッスル公)|ニューカッスル公爵]]派として頭角を表し、[[1765年]]に[[イギリスの首相|首相]]となり、[[自由主義]]改革や[[アメリカ]]植民地人のための改革を行ったが、[[1766年]]には国王[[ジョージ3世 (イギリス王)|ジョージ3世]]との不仲や[[ウィリアム・ピット (初代チャタム伯爵)|大ピット]]派の取り込み失敗など政権の不安定化により国王に更迭された。下野後には「ロッキンガム派」と呼ばれる明確な野党派閥を形成して国王や親国王内閣の批判を行うようになり、これによって政治思想で与野党に分かれて論争を行うという現代的な意味での[[政党政治]]がイギリスに根付くようになった。[[アメリカ独立戦争]]をめぐっても[[アメリカ合衆国の独立|アメリカ独立]]を擁護し、頑なに認めようとしない国王や[[フレデリック・ノース (第2代ギルフォード伯爵)|ノース卿]]内閣を批判した。アメリカ独立戦争の敗戦が決定的となった[[1782年]]3月にノース卿内閣の倒閣に成功し、代わって第二次ロッキンガム侯爵内閣を組閣した。行政改革やアメリカとの交渉を行ったが、同年7月に死去した。<br />
<br />
== 生涯 ==<br />
=== 首相就任まで ===<br />
[[ファイル:Young Marquess of Rockingham.jpg|180px|thumb|若い頃のロッキンガム侯爵を描いた{{仮リンク|リチャード・ハウストン|en|Richard Houston}}の絵画。]]<br />
[[1730年]][[5月13日]]、初代[[ロッキンガム侯爵]]{{仮リンク|トマス・ワトソン=ウェントワース (初代ロッキンガム侯爵)|label=トマス・ワトソン=ウェントワース|en|Thomas Watson-Wentworth, 1st Marquess of Rockingham}}とその後妻メアリー(第2代[[ノッティンガム伯爵]][[ダニエル・フィンチ (第2代ノッティンガム伯)|ダニエル・フィンチ]]の娘)の長男として生まれた<ref name="thepeerage.com">{{Cite web |url= http://thepeerage.com/p25503.htm#i255025 |title=Charles Watson-Wentworth, 2nd Marquess of Rockingham|accessdate= 2014-04-03 |last= Lundy |first= Darryl |work= [http://thepeerage.com/ thepeerage.com] |language= 英語 }}</ref>。<br />
<br />
[[ウェストミンスター校]]から[[ケンブリッジ大学]]へ進学した<ref name="世界(1981,12)397">[[#世界(1981,12)|世界伝記大事典(1981)世界編12巻]] p.397</ref>。15歳の頃の[[1745年]]には父に無断で[[カンバーランド公]][[ウィリアム・オーガスタス (カンバーランド公)|ウィリアム・オーガスタス]]の軍に従軍している<ref name="世界(1981,12)397" />。[[1748年]]から[[1750年]]にかけてはヨーロッパ旅行をした<ref name="世界(1981,12)397" />。<br />
<br />
[[1750年]][[9月17日]]には[[アイルランド貴族]]爵位モルトン伯爵に叙せられる<ref name="CP">{{Cite web |url=http://www.cracroftspeerage.co.uk/online/content/rockingham1746.htm|title=Rockingham, Marquess of (GB, 1746 - 1782)|accessdate= 2015-11-16 |last= Heraldic Media Limited |work= [http://www.cracroftspeerage.co.uk/online/content/introduction.htm Cracroft's Peerage The Complete Guide to the British Peerage & Baronetage] |language= 英語 }}</ref>。ついで同年[[12月14日]]の父の死によりロッキンガム侯爵位と[[ヨークシャー]]、[[ノーサンプトンシャー]]、[[アイルランド]]にあるロッキンガム侯爵家の所領を相続した。[[1751年]]から[[貴族院 (イギリス)|貴族院]]議員となる<ref name="世界(1981,12)397" />。しだいに貴族院[[ホイッグ党 (イギリス)|ホイッグ党]]の中で頭角をあらわしてきた。<br />
<br />
[[1760年]]に即位したばかりの[[ジョージ3世 (イギリス王)|ジョージ3世]]の{{仮リンク|寝室侍従長|en|Lord of the Bedchamber}}となったが、[[7年戦争]]の早期講和を目指すジョージ3世は、[[1762年]]に首相初代[[ニューカッスル公爵]][[トマス・ペラム=ホールズ (初代ニューカッスル公)|トマス・ペラム=ホールズ]]を辞任に追いやり、第3代[[ビュート伯爵]][[ジョン・ステュアート (第3代ビュート伯)|ジョン・ステュアート]]を首相にして[[パリ条約 (1763年)|パリ条約]]締結へ向けて動いた<ref>[[#今井(1990)|今井(1990)]] p.321-328</ref>。これに反発したロッキンガム侯爵は[[1762年]]に職を辞した<ref name="世界(1981,12)397" />。<br />
<br />
以降ホイッグ党ニューカッスル公爵派の派閥に属した<ref name="今井(1990)331">[[#今井(1990)|今井(1990)]] p.331</ref>。ビュート伯爵は権謀術数でニューカッスル公爵派が野党として団結することを阻止しようと図ったが、それに反発するニューカッスル公爵派の議員たちは、[[1762年]][[12月23日]]にニューカッスル公爵の甥の[[オンズロー]]の家で定期的な会合を行うことを決めた。しかしニューカッスル公爵自身は反対したため、議長にはロッキンガム侯爵が据えられた。歴史家の多くはこの時がロッキンガム侯爵派ホイッグ党の誕生と評価している<ref>[[#小松(1983)|小松(1983)]] p.164-165</ref>。<br />
<br />
=== 第一次ロッキンガム侯爵内閣 ===<br />
[[1765年]]に摂政法制定をめぐって首相[[ジョージ・グレンヴィル]]と国王ジョージ3世が対立し、グレンヴィル更迭を決意したジョージ3世は叔父カンバーランド公にグレンヴィルを排除した内閣を組閣できるよう与野党に手回ししてほしいと頼み、その意を受けたカンバーランド公はロッキンガム侯爵と[[ウィリアム・ピット (初代チャタム伯爵)|大ピット]]に協力を要請したが、大ピットは協力を拒否したので、結局1765年7月にロッキンガム侯爵が組閣の大命を受けることになった({{仮リンク|第一次ロッキンガム侯爵内閣|en|First Rockingham Ministry}})<ref name="世界(1981,12)397" /><ref name="今井(1990)331" />。<br />
<br />
内閣発足当初は組閣の第一の功労者であるカンバーランド公の影響力が強かったが、1765年10月にカンバーランド公が[[薨去]]したため、以降はロッキンガム侯爵の主導権が確立された<ref name="今井(1990)331" /><ref name="小松(1983)167">[[#小松(1983)|小松(1983)]] p.167</ref>。またロッキンガム侯爵の派閥の長であるニューカッスル公爵はすでに70過ぎだったため、政府要職への就任を避け、[[王璽尚書]]として入閣していた。そのためこの頃から派閥の実権もニューカッスル公爵からロッキンガム侯爵へと移っていった<ref name="今井(1990)360">[[#今井(1990)|今井(1990)]] p.360</ref>。<br />
<br />
彼の内閣は1年しか持たなかったが、その短い間にも自由主義的内閣改革や植民地人の主張に一定の理解を示した政策・改革を行った。<br />
<br />
グレンヴィル前政権期に国王ジョージ3世とグレンヴィル首相がジョージ3世の勅語を批判した[[ジョン・ウィルクス|ウィルクス]]を「一般逮捕状(人物を特定しない逮捕令状)」で逮捕して言論弾圧を行った問題では、「一般逮捕状」の違法性を議会で決議させることで国王やグレンヴィル前政権の強権政治を否定するという自由主義的立場を示した<ref name="今井(1990)360">[[#今井(1990)|今井(1990)]] p.360</ref>。<br />
<br />
この頃、植民地アメリカでは[[印紙法]]反対運動とイギリス製品ボイコット運動が盛り上がっており、7年戦争後の不況に苦しんでいたイギリス商人たちの間でも、ボイコットを恐れて印紙法に反対する者が増えていた。[[1766年]]1月には[[ロンドン]]・[[ブリストル]]などアメリカとの貿易を重視する都市20以上から印紙法廃止を要求する請願書が庶民院に提出され、政府も立場をはっきりする必要に迫られた。ロッキンガム派は商人との繋がりが強い派閥だったのでロッキンガム侯爵も印紙法廃止に前向きだったものの、議会や宮廷には対植民地強硬派も多かったため、両方の意見を折衷する形で1766年3月に印紙法廃止法案と宣言法(議会の植民地に対する統治権を宣言した法案)をセットで議会に提出して可決させた<ref>[[#今井(1990)|今井(1990)]] p.331-332</ref>。<br />
<br />
しかしこの措置は国王ジョージ3世からも植民地人からも支持されず、また議会内でもグレンヴィル前政権の政策に反対することでは一致していたはずの大ピット派からも支持を得られなかったため、より安定した内閣を求めるジョージ3世の意向で[[1766年]]7月末に更迭され、代わって大ピットが組閣の大命を受けた<ref name="今井(1990)332">[[#今井(1990)|今井(1990)]] p.332</ref>。<br />
<br />
=== 政党政治と民主主義の発展 ===<br />
これ以降ロッキンガム派はこれまでの半与党的野党の立場ではなく、明確に野党の立場に立つようになった。また野党系「独立派」議員も多数ロッキンガム派に合流し始めた。これによってホイッグ党ロッキンガム派は強力な団結力を持つ巨大野党と化していった。[[ロバート・ウォルポール|ウォルポール]]以来の「ホイッグの優越」時代は新しい局面に入り、優越的地位にあるホイッグ党内で与野党に分かれて対立・論争が行われるようになった。これが与野党対立の現代的な[[政党政治]]の幕開けであった<ref>[[#今井(1990)|今井(1990)]] p.332-333</ref>。<br />
<br />
ロッキンガム侯爵の側近である理論家[[エドマンド・バーク]]の主導のもとロッキンガム派は「国王が『国王の友』と呼ばれる議員を用いて議会に不当な影響力を及ぼそうとしている。これを防ぐためには我々は政党として団結するしかない」という独自の政治理論を立てて政党としての団結力を高めていった<ref>[[#今井(1990)|今井(1990)]] p.333-334</ref>。<br />
<br />
一方、議会外のウィルクス支援運動は金権政治の温床となっていた[[腐敗選挙区]](中世以来の都市選挙区で人口減少により選挙区の体をなさなくなった選挙区。選挙区民の人数が少ないので買収しやすい)の削減など議会改革運動に発展していた。ロッキンガム侯爵自身は大貴族なので議会改革には慎重だったものの、反政府という共通の立場からロッキンガム派はウィルクス運動とも連携をとるようになった<ref>[[#今井(1990)|今井(1990)]] p.336-338</ref>。<br />
<br />
=== 野党活動 ===<br />
ロッキンガム派の野党活動とウィルクス運動の盛り上がりで[[1770年]]1月には[[オーガスタス・フィッツロイ (第3代グラフトン公)|グラフトン公爵]]内閣の中からも野党に同調する造反閣僚が出て内閣は分裂して総辞職を余儀なくされ、代わってノース卿[[フレデリック・ノース (第2代ギルフォード伯爵)|フレデリック・ノース]]が新たな首相となった<ref name="今井(1990)338">[[#今井(1990)|今井(1990)]] p.338</ref>。<br />
<br />
ロッキンガム派はノース卿内閣に対しても徹底抗戦の立場を取ったが、[[1770年]]から[[1771年]]にかけて野党は弱体化した。同じく野党になっていた大ピット派と意見がかみ合わず連携が取れなかったためであった(大ピット派は国王を批判せず、州選出議員の増加を目指したのに対し、ロッキンガム派は国王の影響力に政治腐敗の原因を求めた)。議会外のウィルクス運動も同時期に内部分裂を起こして下火になりはじめた。1771年春には庶民院議場で大ピット派の議員とロッキンガム派の議員の乱闘事件が起こり、両派の確執は決定的となり、野党大団結の目は無くなった。これが結果的にノース卿内閣の長期安定政権樹立につながった<ref>[[#今井(1990)|今井(1990)]] p.338-339</ref>。<br />
<br />
しかしロッキンガム侯爵派が野党活動を緩めることはなく、ノース卿内閣を王党派という意味で「トーリー党」と呼んで批判し、同政権への協力を一切拒否した<ref name="今井(1990)339">[[#今井(1990)|今井(1990)]] p.339</ref>。特に[[1773年]]にノース卿内閣がアイルランド不在地主に課税しようとした際にはアイルランド大地主ロッキンガム侯爵は激怒し、強力に反対してその計画を阻止した<ref name="今井(1990)340">[[#今井(1990)|今井(1990)]] p.340</ref>。<br />
<br />
[[1774年]]の{{仮リンク|1774年イギリス総選挙|label=解散総選挙|en|British general election, 1774}}においてバークは彼の選挙区での演説で庶民院議員と地元選挙区の密接さを強調する一方、「庶民院は様々な敵対的利害から派遣されてきた大使の会議ではない」と述べることで、庶民院議員は自分の選挙区だけにとらわれず全国民のために行動すべきと訴えた。以降これはロッキンガム派が政党として固まるうえで重要な行動原理となる<ref name="今井(1990)342">[[#今井(1990)|今井(1990)]] p.342</ref>。<br />
<br />
=== アメリカ独立戦争をめぐって ===<br />
1775年に[[アメリカ独立戦争]]が始まった。ロッキンガム派はアメリカ植民地人のジョージ3世への抵抗運動を自分たちのジョージ3世への抵抗運動と重ね合わせたため、アメリカ植民地人の抵抗運動に共感を寄せていた。しかし[[1776年]]に独立宣言が発せられ、アメリカの勝利が[[大英帝国]]の崩壊を意味することが明確となったため、不安になったロッキンガム派は立場を曖昧にし、[[1777年]]初めの頃には議会を欠席する戦術をとるようになった<ref name="今井(1990)346">[[#今井(1990)|今井(1990)]] p.346</ref>。<br />
<br />
しかし戦況がアメリカ優位に進む中、[[1778年]][[2月2日]]にロッキンガム派の議員[[チャールズ・ジェームズ・フォックス]]がこれ以上アメリカに増援部隊を送らないことを求める動議を庶民院に提出した。この動議は否決されながらも165票もの賛成票が入り、これをきっかけにロッキンガム派は明確に[[アメリカ独立]]を承認する方針に舵を切った。一方大ピット派の派閥を継承していた[[ウィリアム・ペティ (第2代シェルバーン伯)|シェルバーン伯爵]]はアメリカ独立に反対であり、野党は分裂した<ref>[[#今井(1990)|今井(1990)]] p.347-348</ref>。<br />
<br />
また政府が戦費に苦しむ中、ロッキンガム派は行政の無駄の削減と国王の経済的影響力を低下させる「行政のスリム化」を訴えるようになった。[[1778年]]4月には「戦時財政に寄生している」とされた政府契約業者の排除法案を提出して政府に揺さぶりをかけた<ref name="今井(1990)348">[[#今井(1990)|今井(1990)]] p.348</ref>。<br />
<br />
=== 第二次ロッキンガム侯爵内閣 ===<br />
[[1781年]]にはアメリカ独立戦争におけるイギリスの敗戦が決定的となり、[[1782年]][[2月22日]]に戦争終結を求める動議が庶民院で可決された。続いて[[3月8日]]と[[3月15日|15日]]にノース卿内閣不信任案が提出された。不信任案は否決されたもののわずか10票差であったため、ノース卿は議会における自らの求心力低下を悟り、総辞職した<ref name="今井(1990)354">[[#今井(1990)|今井(1990)]] p.354</ref>。<br />
<br />
アメリカ独立承認を頑なに拒んできた国王ジョージ3世も、いよいよロッキンガム侯爵に組閣交渉を行わねばならなくなった。ロッキンガム侯爵はアメリカ独立や経済改革を国王が支持することを条件として提示し、対して国王はシェルバーン伯爵を閣僚として入閣させる事を条件として提示した。両者が妥協に達した結果、ロッキンガム侯爵を首相、シェルバーン伯爵を内務大臣、フォックスを外務大臣とする{{仮リンク|第二次ロッキンガム侯爵内閣|en|Second Rockingham Ministry}}が成立した。ロッキンガム派の政党重視がある程度実現されたものの、いまだ国王の一定の影響力を受ける顔ぶれの内閣であった<ref>[[#今井(1990)|今井(1990)]] p.354-355</ref>。<br />
<br />
陸軍支払長官として入閣したバークの主導で「行政機構改革法」が成立し、アメリカ植民地関連の100以上の官職がもはや無用の物として廃止された。一方議会外のヨークシャー運動で盛り上がっていた議会改革案に対してはロッキンガム派の中でも意見が別れた。フォックスが議会改革に前向きだったのに対して、ロッキンガム侯爵やバークは慎重だった<ref name="今井(1990)355">[[#今井(1990)|今井(1990)]] p.355</ref>。またアメリカとの交渉をめぐってはアメリカの完全独立に反対するシェルバーン伯爵とアメリカ完全独立を求めるフォックスの閣内対立が深まった。国王も内閣への影響力を失うまいと意図的にシェルバーン伯爵を支援して閣内対立を煽っていた<ref>[[#今井(1990)|今井(1990)]] p.355-356</ref>。<br />
<br />
そんな中の1782年6月末にロッキンガム侯爵は病気で重体となり、[[7月1日]]には死去した。彼の死後、シェルバーン伯爵に組閣の大命があり、それに反発したフォックスらロッキンガム派は下野し、以降ロッキンガム派はフォックスが指導するようになり「フォックス派」と呼ばれるようになった。これはロッキンガム派がもはや指導者個人の人脈の集まりではなく、政治思想に基づいた集団、つまり政党になっていたことを意味している<ref name="今井(1990)356">[[#今井(1990)|今井(1990)]] p.356</ref>。<br />
<br />
ロッキンガム侯爵は[[ヨーク大聖堂]]に埋葬された<ref name="世界(1981,12)398">[[#世界(1981,12)|世界伝記大事典(1981)世界編12巻]] p.398</ref>。子供は無く、彼の死とともにロッキンガム侯爵位は廃絶した。<br />
<br />
== 人物 ==<br />
大地主であり、都会より田園を愛した。そのためロンドンでの政治活動にも没頭しきれず、そこから鈍重・怠惰といった印象を持たれがちだったという<ref name="小松(1983)165">[[#小松(1983)|小松(1983)]] p.165</ref>。<br />
<br />
そんな彼が革新派の首相になった理由について、第4代[[オーフォード伯爵]][[ホレス・ウォルポール]]は、次の点を指摘する。まずロッキンガム侯爵は大地主として極めて裕福であり、資金援助してもらうために多くの議員が彼に追従していたこと、社会的地位と威厳があったのでオールドホイッグからも評判が良かったこと、地元のヨークシャーに独自の王国を造り、そこの選挙区ではホイッグ、トーリー、独立党派など幅広い層が彼の影響下に置かれていたことなどである<ref name="小松(1983)166">[[#小松(1983)|小松(1983)]] p.166</ref>。<br />
<br />
[[競馬]]を愛し、特に若い頃には熱中していたという<ref name="世界(1981,12)397" />。イギリスの[[イギリスクラシック三冠|三大クラシック競走]]のひとつで、世界最初の[[クラシック_(競馬)|クラシック競走]]である[[セントレジャーステークス]]は、当初はロッキンガム侯爵の名を採って「ロッキンガムステークス」という名前にしようという案があった。この競走は1770年代の[[ドンカスター競馬場]]付近の有力者だったロッキンガム侯爵が創立<!--organized-->したもので<ref name="Tuffrey(2009)46">[[#Tuffrey(2009)|Tuffrey(2009)]] p.46</ref>、まだ競走に固有名詞が命名されていなかった[[1776年]]秋の第1回競走(「登録料25ギニーの[[ステークス方式|スイープステークス]]」)ではロッキンガム侯爵の所有馬が優勝している<ref name="ロン(1976)86">[[#ロン(1976)|ロングリグ(1976)]] p.86</ref>{{refnest|group="注"|この馬は、レース優勝時点では特別な名を持たない「名無し馬」であり、単に「ロッキンガム侯爵の青鹿毛の牝馬」と記録された。のちに[[アラバキュリア]]と命名されている<ref name="ロン(1976)86"/><ref name="Fletcher(1902)3149">[[#Fletcher(1902)|Fletcher(1902)]] p.31-49</ref>。}}。1778年初頭、第3回目の開催に先立って馬主たちの晩餐会が催され、その席上でこの競走を「ロッキンガムステークス」と命名しようという提案がなされた<ref name="ロン(1976)86"/>。しかしロッキンガム侯爵は辞退し、この競走の原案をロッキンガム侯爵に示唆した人物で、友人の{{仮リンク|アンソニー・セントレジャー|en|Anthony St Leger (British Army officer)}}(元[[庶民院 (イギリス)|庶民院議員]])の名を採ることを推薦した<ref name="ロン(1976)86"/>{{refnest|group="注"|セントレジャーは地元の農場主。彼の所有馬は第1回競走ではロッキンガム侯爵の所有馬(アラバキュリア)に次ぐ2着だった。なお、セントレジャーを「中将<ref name="ロン(1976)86"/>」あるいは「大佐<ref name="Vamplew(2008)112">[[#Vamplew(2008)|Vamplew(2008)]] p.111-1126</ref>」とする日本語文献があるが、実際にはセントレジャーステークス創設時の彼の身分はLietenant Colonel(定訳は「[[中佐]]」。[[イギリス軍の階級]]参照。)である<ref name="Tuffrey(2009)46"/><!--[[:en:Anthony St Leger (British Army officer)]]にしたがうならば、Lietenant Colonelとなったあと一度退役していて、セントレジャーS創設時は軍役には就いていなかった。-->。セントレジャーは、後にbrigadier general(定訳は[[准将]])となり、イギリス本国を離れて[[セントルシア]]の総督として赴任。最終階級はMajor General(定訳は「[[少将]]」)。}}。その結果この競走は「セントレジャーステークス」と呼ばれるようになった<ref name="ロン(1976)86"/><ref name="Mortimer(1978)178">[[#Mortimer(1978)|Mortimer(1978)]] p.178</ref>。<br />
<br />
まもなく、この競走を手本として[[オークス]]と[[ダービーステークス|ダービー]]が創設されており、もしもロッキンガム侯爵がセントレジャーステークスを創設しなければ、ダービーも存在しなかっただろうと評されている<ref name="Tyrrel(1997)10">[[#Tyrrel(1997)|Tyrrel(1997)]] p.10</ref>。なお、ロッキンガム侯爵は[[ドンカスターカップ]]の「前身」とされることもある「ドンカスター競馬会賞(コーポレーションプレート)」の創設メンバーにも名を連ねている<ref name="Fletcher(1902)3149"/>。<br />
<br />
== 栄典 ==<br />
=== 爵位 ===<br />
[[1750年]][[9月17日]]に以下の爵位を新規に叙せられた<ref name="CP" />。<br />
*'''初代モルトン伯爵''' <small>({{lang|en|1st Earl of Malton}})</small><br />
*:([[アイルランド貴族]]爵位)<br />
*'''初代モルトン男爵''' <small>({{lang|en|1st Baron Malton}})</small><br />
*:(アイルランド貴族爵位)<br />
<br />
1750年[[12月14日]]に死去した父{{仮リンク|トマス・ワトソン=ウェントワース (初代ロッキンガム侯爵)|label=トマス・ワトソン=ウェントワース|en|Thomas Watson-Wentworth, 1st Marquess of Rockingham}}から以下の爵位を継承した<ref name="CP" />。<br />
*'''第2代[[ロッキンガム侯爵]]''' <small>({{lang|en|2nd Marquess of Rockingham}})</small><br />
*:([[1746年]][[4月19日]]創設[[グレートブリテン貴族]]爵位)<br />
*'''第2代モルトン伯爵''' <small>({{lang|en|2nd Earl of Malton}})</small><br />
*:([[1734年]][[11月19日]]創設グレートブリテン貴族爵位)<br />
*'''ノーサンプトン州におけるハイアム・フェラーズの第2代ハイアム子爵''' <small>({{lang|en|2nd Viscount Higham, of Higham Ferrers in the County of Northampton}})</small><br />
*:(1734年11月19日創設グレートブリテン貴族爵位)<br />
*'''ノーサンプトン州におけるロッキンガムの第6代ロッキンガム男爵''' <small>({{lang|en|6th Baron Rockingham, of Rockingham in the County of Northampton}})</small><br />
*:([[1645年]][[1月26日]]創設[[イングランド貴族]]爵位)<br />
*'''ヨーク州におけるモルトンの第2代モルトン男爵''' <small>({{lang|en|2nd Baron Malton, of Malton in the County of York}})</small><br />
*:([[1728年]][[5月28日]]創設グレートブリテン貴族爵位)<br />
*'''ヨーク州におけるワスの第2代ワス男爵'''<small>({{lang|en|2nd Baron Wath, of Wath in the County of York}})</small><br />
*:(1734年11月19日創設グレートブリテン貴族爵位)<br />
*'''ノーサンプトン州におけるハロウデンの第2代ハロウデン男爵''' <small>({{lang|en|2nd Baron Harrowden, of Harrowden in the County of Northampton}})</small><br />
*:(1734年11月19日創設グレートブリテン貴族爵位)<br />
=== 勲章 ===<br />
*[[1760年]]、[[ガーター勲章|ガーター勲章(騎士団)]]ナイト(KG)<ref name="CP" /><br />
<br />
== 家族 ==<br />
[[ファイル:Mary Bright.jpg|180px|thumb|right|妻のメアリー]]<br />
[[1752年]]にトマス・リデルの娘であるメアリーと結婚したが、子供は無かった<ref name="thepeerage.com" />。<br />
<br />
== 出典 ==<br />
{{脚注ヘルプ}}<br />
{{Reflist|2}}<br />
<br />
== 注釈 ==<br />
<references group="注" /><br />
<br />
== 参考文献 ==<br />
*{{Cite book|和書|editor=[[今井宏]]編|date=1990年|title=イギリス史〈2〉近世|series=世界歴史大系|publisher=[[山川出版社]]|isbn=978-4634460201|ref=今井(1990)}}<br />
*{{Cite book|和書|author=[[小松春雄]]|date=1983年|title=イギリス政党史研究 エドマンド・バークの政党論を中心に|publisher=[[中央大学出版部]]|asin=B000J7DG3M|ref=小松(1983)}}<br />
*{{Cite book|和書|author=[[ロジャー・ロングリグ]]|date=1976年|title=競馬の世界史|translator=[[原田俊治]]|publisher=[[日本中央競馬会|日本中央競馬会弘済会]]|asin=B000J9355O|ref=ロン(1976)}}<br />
*{{Cite book|和書|date=1981年|title=世界伝記大事典〈世界編 12〉ランーワ |publisher=[[ほるぷ出版]]|asin=B000J7VF4O|ref=世界(1981,12)}}<br />
*{{Cite book|和書|author=W.ヴァンプルー、J.ケイ|date=2008年|title=英国競馬事典|translator=山本雅男|publisher=財団法人競馬国際交流協会|ref=Vamplew(2008)}}<br />
*{{Cite book|author=Roger Mortimer、Richard Onslow、Peter Willet|date=1978年|title=Biographical Encyclopaedia Of British Flat Racing||publisher=Macdonald And Jones|location= London|ref=Mortimer(1978)}}<br />
*{{Cite book|author=Peter Tuffrey|date=2009年|title=Racing In Doncaster|publisher=The History Press|location=Gloucestershire|ref=Tuffrey(2009)}}<br />
*{{Cite book|author=Joseph Smith Fletcher|date=1902年|title=The History of the ST.Leger Stakes,1776-1901|publisher=Hutchinson and co.|ref=Fletcher(1902)}}<br />
*{{Cite book|author=John Tyrrel|date=1997年|title=Running Racing The Jockey Club Years since 1750|publisher=Quiller Press|location=London|ref=Tyrrel(1997)}}<br />
<br />
== 外部リンク ==<br />
{{Commonscat|Charles Watson-Wentworth, 2nd Marquess of Rockingham|第2代ロッキンガム侯爵チャールズ・ワトソン=ウェントワース}}<br />
{{wikisource author|Charles Watson-Wentworth, 2nd Marquess of Rockingham}}<br />
*[https://web.archive.org/web/20081115132725/http://www.number10.gov.uk/history-and-tour/prime-ministers-in-history/marquess-of-rockingham More about Charles Wentworth, Marquess of Rockingham]<br />
<br />
{{s-start}}<br />
{{s-court}}<br />
{{succession box | title={{仮リンク|寝室侍従長|en|Lord of the Bedchamber}} | before=新設 | after=[[ジョージ・モンタギュー (第4代マンチェスター公爵)|第4代マンチェスター公爵]] | years=[[1760年]] – [[1762年]]}}<br />
{{s-off}}<br />
{{s-bef|before=[[ジョージ・グレンヴィル]]}}<br />
{{s-ttl|title={{flagicon|GBR1606}} [[イギリスの首相|首相]]|years=[[1765年]][[7月13日]] – [[1766年]][[7月30日]]}}<br />
{{s-aft|after=[[ウィリアム・ピット (初代チャタム伯爵)|初代チャタム伯爵]]}}<br />
{{s-bef|before=不明}}<br />
{{s-ttl|title={{flagicon|GBR1606}} {{仮リンク|貴族院院内総務|en|Leader of the House of Lords}}|years=[[1765年]] – [[1766年]]}}<br />
{{s-aft|after=[[オーガスタス・フィッツロイ (第3代グラフトン公)|第3代グラフトン公爵]]}}<br />
{{s-bef|before=[[フレデリック・ノース (第2代ギルフォード伯爵)|ノース卿]]}}<br />
{{s-ttl|title={{flagicon|GBR1606}} [[イギリスの首相|首相]]|years=[[1782年]][[3月27日]] – [[1782年]][[7月1日]]}}<br />
{{s-aft|rows=2|after=[[ウィリアム・ペティ (第2代シェルバーン伯)|第2代シェルバーン伯爵]]}}<br />
{{s-bef|before=不明}}<br />
{{s-ttl|title={{flagicon|GBR1606}} {{仮リンク|貴族院院内総務|en|Leader of the House of Lords}}|years=[[1782年]]}}<br />
{{s-reg|gb}}<br />
{{s-bef|before={{仮リンク|トマス・ワトソン=ウェントワース (初代ロッキンガム侯爵)|label=トマス・ワトソン=ウェントワース|en|Thomas Watson-Wentworth, 1st Marquess of Rockingham}}}}<br />
{{s-ttl|title=第2代[[ロッキンガム侯爵]]|years=[[1750年]] – [[1782年]]}}<br />
{{s-non|reason=廃絶}}<br />
{{s-reg|ie}}<br />
{{s-bef|before=新設}}<br />
{{s-ttl|title=初代モルトン伯爵|years=[[1750年]] – [[1782年]]}}<br />
{{s-non|reason=廃絶}}<br />
{{end}}<br />
{{イギリスの首相}}<br />
{{Normdaten}}<br />
{{Good article}}<br />
{{DEFAULTSORT:ろつきんかむこうしやく02 わとそんうえんとわあす ちやあるす}}<br />
[[Category:グレートブリテン王国の首相]] <br />
[[Category:イギリス・ホイッグ党の政治家]]<br />
[[Category:イギリスの枢密顧問官]] <br />
[[Category:イギリスの侯爵]]<br />
[[Category:アイルランドの貴族]]<br />
[[Category:馬主]] <br />
[[Category:ガーター勲章]]<br />
[[Category:ケンブリッジ大学出身の人物]]<br />
[[Category:ロザラム (大都市バラ)出身の人物]]<br />
[[Category:1730年生]]<br />
[[Category:1782年没]]</div>220.216.93.215フレンチ・インディアン戦争2018-01-23T16:04:27Z<p>220.216.93.215: /* 外部リンク */</p>
<hr />
<div>{{Battlebox<br />
|battle_name = フレンチ・インディアン戦争<br />
|campaign = フレンチ・インディアン戦争<br />
|colour_scheme = background:#ffccaa<br />
|image = [[ファイル:French and Indian War.png|250px]]<br />
|caption = フレンチ・インディアン戦争の主な戦場と各国勢力の図<br/>(水色がフランス、ピンクがイギリス、オレンジがスペイン。複数の色の地域は、それぞれが所有を巡って争った地域)<br />
|conflict = [[七年戦争]]<br />
|date = [[1754年]] - [[1763年]]<br />
|place = [[北アメリカ]]<br />
|result = [[グレートブリテン王国]](イギリス)の勝利<br/>(後の[[パリ条約 (1763年)|パリ条約]]により、[[サンピエール島・ミクロン島]]以外のフランス領土が他国に割譲)<br />
|combatant1 = {{FRA987}}<br />
*{{Flagicon image|Royal Standard of King Louis XIV.svg}} [[ヌーベルフランス]]<br />
{{Flagicon image|Bandera de España 1760-1785.svg}} [[スペイン帝国]]<br />
*{{Flagicon image|Flag of Cross of Burgundy.svg}} [[ヌエバ・エスパーニャ]]<br />
[[アベナキ同盟]]<br />
*[[ファイル:Flag of Western Abenaki.svg|25px]] [[アベナキ族]]<br />
*[[ファイル:Mikmaq State Flag.svg|border|25px]] [[ミクマク族]]<br />
*[[アルゴンキン族 (ケベックの民族)|アルゴンキン族]]<br />
*[[モホーク族]]<br />
*[[レナペ族]]<br />
*[[オジブワ|オジブワ族]]<br />
*[[オタワ族]]<br />
*[[ショーニー族]]<br />
*[[ファイル:Wyandot Nation.png|border|25px]] [[ワイアンドット族]]<br />
|combatant2 = {{GBR1606}}<br />
*{{TTC}}<br />
**[[ファイル:Flag of the Iroquois Confederacy.svg|25px]] [[イロコイ連邦]]<br />
**[[カタウバ族]]<br />
**[[ファイル:Flag of the Cherokee Nation.svg|25px]] [[チェロキー族]]<br />
|commander1 ={{Flagicon image|Royal Standard of King Louis XIV.svg}} [[ルイ=ジョゼフ・ド・モンカルム]]{{KIA}}<br/>{{Flagicon image|Royal Standard of King Louis XIV.svg}} [[ピエール・フランソワ・ド・リゴー|ヴォードルイユ]]<br/>{{Flagicon image|Flag of Levis.svg}} [[ディスカウ男爵ジャン・エルドマン]]{{POW}}<br/>{{Flagicon image|Royal Standard of King Louis XIV.svg}} [[フランソワ=マリー・ル・マルシャン・ド・リニエリ]]{{KIA}}<br/>{{Flagicon image|Flag of Levis.svg}} [[フランソワ=ガストン・ド・レビ]]<br>{{Flagicon image|Royal Standard of King Louis XIV.svg}} [[ジョゼフ・クーロン・ド・ジュモンヴィユ]]{{KIA}}<br/>{{Flagicon image|Flag of Levis.svg}} [[ミシェル=アンジュ・デュケーヌ・ド・メネヴィユ]]<br />
| commander2 ={{Flagicon|GBR1606}} [[ジェフリー・アマースト (初代アマースト男爵)|ジェフリー・アマースト]]<br/>{{Flagicon|GBR1606}} [[エドワード・ブラドック]]{{KIA}}<br/>{{Flagicon|GBR1606}} [[ジェームズ・ウルフ]]{{KIA}}<br/>{{Flagicon|GBR1606}} [[4代ルゥードゥン伯ジョン・キャンベル]]<br/>{{Flagicon|GBR1606}} [[ジェームズ・アバークロンビー (将軍)|ジェームズ・アバークロンビー]]<br/>{{Flagicon image|Naval Ensign of Great Britain (1707-1800).svg}} [[エドワード・ボスコーエン]]<br/>{{Flagicon image|Grand Union Flag.svg}} [[ジョージ・ワシントン]]<br/>{{Flagicon|GBR1606}} [[ジョン・フォーブズ]]<br />
|strength1 = 正規兵1万(陸軍とカナダ防衛軍、1757年の最多時の人数)<ref name="FrenchRegStrength">Brumwell, pp. 24–25.</ref><br/>民兵7900<br />
|strength2 = 正規兵と民兵4万2千 (1758年の最多時の人数)<ref name="BritStrength">Brumwell, pp. 26–31, documents the starting sizes of the expeditions against Louisbourg, Carillon, Duquesne, and West Indies.</ref><br />
|casualties1 = <br />
|casualties2 = <br />
}}<br />
'''フレンチ・インディアン戦争'''(フレンチ・インディアンせんそう、French and Indian War、[[1755年]] - [[1763年]])は、[[七年戦争]]のうち、[[北アメリカ]]を舞台に繰り広げられた一連の戦闘である。[[13植民地|イギリス領アメリカ植民地]]と[[ヌーベルフランス]]が主な戦場となり、いずれも、本国からの援助を得て戦闘が行われた。[[1756年]]、この戦争は北アメリカの地域紛争から世界的な戦争となった。[[カナダ]]では、一部の[[歴史家]]がこの戦争を単に七年戦争と呼ぶが、[[フランス系カナダ人]]はしばしば、この戦争のことをラ・ゲール・ド・ラ・コンケットLa Guerre de la Conquête(征服戦争)と表現する。<br />
<br />
ヨーロッパでは、北アメリカで行われたこの戦争に関して、特に決まった呼び名はない。この名はイギリス人入植者の、2つの主な敵、[[フランス王国]]の軍、フランス軍と同盟を結んだ様々な[[インディアン]]の部族のことである。しかし[[グレートブリテン王国]](イギリス)もまたインディアンと同盟を結んでいた。しかし、イギリス側からの視点でフランスがインディアンと同盟していたと見るため、「フランスとインディアンとの戦争(French and Indian War)」と呼ばれる。この戦争は、従来の植民地戦争とは違い、欧州の戦争に先立つ植民地での衝突で火ぶたが切られた。<br />
<br />
戦場は主にヌーベルフランスと、[[バージニア植民地]]から[[ノバスコシア州|ノバスコシア]]に至るまでのイギリス人入植地との境界に沿って行われた。戦争の発端は、[[アレゲニー川]]と、[[モノンガヘラ川]]が合流する場所(現在の[[ペンシルベニア州]][[ピッツバーグ]])で起きた紛争だった。この紛争は[[1754年]][[5月]]、[[ジュモンヴィルグレンの戦い]]において、バージニア[[民兵]]隊の指揮官、[[ジョージ・ワシントン]]が、フランスの巡回兵を待ち伏せして起こした暴動に発展した。[[1755年]]、[[1756年]]そして[[1757年]]の、ペンシルベニアと[[ニューヨーク植民地]]における作戦はことごとく失敗した。失敗の原因は、同盟を管理する上でのまずさ、内輪もめ、そしてフランスとインディアン同盟の攻撃が功を奏したためであった。1755年の、ノバスコシアと(フランス人入植地の)アカディアの境界で起きた[[ボーセジュールの戦い]]は、イギリスがアカディア人をこの地から追い出した結果、アカディア人の抵抗が起きたものである。<br />
<br />
1757年、イギリスにとって惨憺たる敗戦が続いた。ルイブールへの遠征の失敗に続き、[[ウィリアム・ヘンリー砦の戦い]]では、インディアンによりイギリス兵にかなりの残虐行為がなされた。イギリス本国政府は評価を落とし、[[ウィリアム・ピット (初代チャタム伯爵)|ウィリアム・ピット]]が首相に返り咲いた。ピットは植民地の軍事力を大幅に増やし、一方フランスは、ヌーベルフランスの限られた戦力の援助のために、護送船団を出すのには乗り気でなく、代わりに、ヨーロッパの戦争で、プロシャとその同盟国に対する軍事力を結集するのを優先させた。1758年から[[1760年]]の間、イギリス軍はヌーベルフランスの中心地[[ケベック・シティー|ケベック]]の陥落に成功し、1760年[[9月]]、ついに[[モントリオール]]を攻略した。<br />
<br />
この結果、イギリスは第二次百年戦争ともいえる[[北米植民地戦争]]の参戦国で最も大きな発展を遂げることとなった。フランスは[[ミシシッピ川]]以西の[[フランス領ルイジアナ|ルイジアナ]]を同盟国の[[スペイン]]に割譲した、これは、スペインが敗戦により[[フロリダ]]をイギリスに割譲した、その代償だった。スペインは、イギリスに[[フロリダ]]を割譲した見返りに、[[キューバ]]の[[ハバナ]]を手に入れた。[[カリブ海]]から北のフランスの植民地は、[[サンピエール島・ミクロン島|サンピエール島とミクロン島]]<ref group="注釈">現在もフランスの海外領土(海外準県)である。</ref>だけになった。これにより、イギリスは、北アメリカ東半分の植民地勢力の支配を固めた。<br />
<br />
==名前の由来==<br />
[[File:Battle of Quebec.png|thumb|180px|left|ウィリアム王戦争(ケベックの戦い、1690年)]]<br />
植民地同士の戦争は何通りかの呼び名がある。イギリス領のアメリカ植民地では、[[17世紀]]後半から、ヨーロッパの戦争に呼応して起こった植民地戦争が、その時々の君主の名前にちなんで、たとえば[[ウィリアム王戦争]]、[[アン女王戦争]]、[[ジョージ王戦争]]と呼ばれていた。すでに1740年代の戦争に[[ジョージ2世 (イギリス王)|ジョージ王]]の名が冠せられていたため、やはりジョージ王治世下に起こった[[1750年代]]の戦争は「フレンチ・アンド・インディアン戦争」と呼ばれた<ref name="anderson crucible of war 747"/>。この呼び名は[[アメリカ合衆国]]で定着しているが、この名前は、インディアンが英仏どちらにも加担していたという事実がぼやけてしまっている<ref>Jennings, p. xv.</ref>。アメリカの歴史家は、この呼び名か、ヨーロッパ式の「七年戦争」を用い、他にも、あまり頻繁ではないが「第四植民地戦争」や「イギリス帝国大戦争」Great War for the Empireという名を使ったりもする<ref name="anderson crucible of war 747">Anderson (2000), p. 747.</ref>。<br />
<br />
ヨーロッパでは、北アメリカを戦場とした七年戦争の決まった呼び名はない。ヨーロッパ以外の地域をひっくるめて七年戦争として知られている。この七年というのはヨーロッパの戦争に関するものである、正式な宣戦布告が1756年に行われ、[[1763年]]の[[パリ条約 (1763年)|パリ条約]]までに7年を要したからである。実際に北アメリカ本土で行われた戦いの年数は、6年で終わっている。[[1754年]]の[[ジュモンヴィルグレンの戦い]]から[[1760年]]の[[モントリオールの攻略]]までの6年間である<ref name="anderson crucible of war 747"/>。<br />
<br />
カナダでは、フランス系住民もイギリス系住民も、ヨーロッパと北アメリカの戦争の双方を七年戦争(英Seven Years War、仏la Guerre des Sept ansゲール・ド・セタン)としている<ref>[http://www.thecanadianencyclopedia.com/index.cfm?PgNm=TCE&Params=A1ARTA0007300 The Canadian Encyclopedia: Seven Years' War].</ref><ref>{{fr icon}} [http://www.thecanadianencyclopedia.com/index.cfm?PgNm=TCE&Params=F1ARTF0007300 L'Encyclopédie canadienne: Guerre de Sept Ans].</ref>。フランス系カナダ人は「征服戦争」(ゲール・ド・ラ・コンケット)という表現をすることもある<ref>[http://www.salic-slmc.ca/showpage.asp?file=histoire_ling/intro_fr_en/guerre_sept_ans&language=fr&updatemenu=true La guerre de la Conquête (1756-1760)]</ref>。<br />
<br />
==1750年代の北アメリカ==<br />
[[File:Nouvelle-France map-en.svg|thumb|left|300px|1750年当時の北アメリカと各国の勢力図。ピンクと紫がイギリス領、青がフランス領、オレンジがスペイン領である。]]<br />
ミシシッピ川以東の北アメリカは、イギリスとフランスの所有権争いが激しかった。<br />
<br />
フランス系住民の人口は、当時約7万5千人で、[[セントローレンスバレー]]沿いに集中しており、その他には[[アカディア]](現在のノバスコシア)やロワイヤル島(現在の[[ケープブレトン島]])に住んでいた。そしてわずかな人数が[[ニューオーリンズ]]やミシシッピ川流域の入植地にいた。フランス人の[[毛皮貿易|毛皮交易]]者は、[[セントローレンス川]]やミシシッピ川の全域の連水経路を通って、地元のインディアンたちと交易をした。インディアン女性と結婚することもしばしばあった<ref>{{cite book |first=John |last=Powell |title=Encyclopedia of North American immigration |year=2005 |location=New York |publisher=Facts On File |page=204 |isbn=0816046581 }}</ref>。<br />
<br />
イギリスの入植地は150万人の人口がいて、南は[[ジョージア植民地]]から、北はノバスコシアや[[ニューファンドランド島]]までの、北アメリカ大陸東部に沿って広がっていた<ref>{{cite book |first=Francis D. |last=Cogliano |title=Revolutionary America, 1763–1815: A Political History |year=2008 |location=London |publisher=Routledge |page=32 |isbn=9780415964869 }}</ref>。<br />
<br />
ヌーベルフランスとニューイングランドの間のかなり広大な土地は、インディアンによって支配されていた。北は[[ミクマク族]]と[[アベナキ族]]が、ノバスコシアやアカディアの一部、ヌーベルフランスの東部や現在の[[メイン州|メイン]]を支配していた<ref>Jennings, pp. 9, 176</ref>。[[イロコイ連邦]]は現在の[[ニューヨーク州]]の北部の大部分と[[オハイオ領土]](オハイオカントリー)を支配していたが、オハイオカントリーには[[レナペ]](デラウェア)、[[ショーニー族|ショーニー]]、[[ミンゴ]]の諸族も住んでいた。レナペ、ショーニー、ミンゴはイロコイ連邦の管理下にあり、合意をする上での権限が制約されていた<ref name="A2K_23">Anderson (2000), p. 23</ref>。内陸のかなり南には[[カタウバ]]、[[クリーク族|クリーク]]、[[チョクトー]]、そして[[チェロキー]]の諸族が住んでいた<ref>Jennings, p. 8</ref>。<br />
<br />
[[File:A Battle of the French-Indian War.jpg|thumb|230px|left|森林でイギリス軍にゲリラ戦を仕掛けるインディアン兵]]<br />
戦争が勃発した時、ヌーベルフランスはインディアンたちの交易網を利用して<ref>[http://www.encyclopedia.com/topic/French_and_Indian_Wars.aspx French and Indian Wars, Facts, Information, Pictures | Encyclopedia.com articles about French and Indian Wars]</ref>アベナキ、[[二ピシング族|二ピシング]]、さらに西の五大湖周辺の[[オジブワ]]、[[フォックス族|フォックス]]、チョクトー族などがフランスに与した。いっぽうでイギリスは、[[イロコイ連邦]]を味方に引き入れたが<ref>Borneman, p.89</ref>、カタウバ族とチェロキー族、そしてオハイオ領土のデラウェアやショーニー族(オハイオインディアン)とも同盟した<ref>Borneman, p.162</ref>。しかし、イギリスは、1758年にチェロキー族と[[アングロ・チェロキー戦争]]を引き起こした<ref>[http://www.fofweb.com/History/MainPrintPage.asp?iPin=EMHI0178&DataType=AmericanHistory&WinType=Free Facts on File History Database Center - Cherokee War]</ref>。同じ1758年の10月、ペンシルベニアの行政府は[[イーストン条約]]の交渉に成功した。これはオハイオカントリーの多くの部族に、フランスとの同盟を破棄して中立を保つのと引き換えに、ペンシルベニア植民地から自分たちの土地を守るというものだった<ref>Borneman, p. 164</ref>。<br />
<br />
北アメリカ東部におけるスペインの植民地はフロリダに限定されていた。キューバと他の[[西インド諸島]]の領土も支配していたが、七年戦争ではこういったところも軍事目標となった。フロリダは人口が少なく、[[サンオーガスティン (フロリダ)|サンオーガスティン]]と[[ペンサコーラ (フロリダ州)|ペンサコーラ]]にわずかな集落があった。<br />
<br />
[[File:Troupes de la Marine 2.jpg|thumb|180px|right|トゥループ・ド・ラ・マリン]]<br />
戦争勃発当時は、北アメリカにフランスの正規兵はおらず、イギリスの正規軍もわずかだった。ヌーベルフランスは、一部森林地帯での戦闘経験を摘んだ植民地の正規兵である[[フランス領カナダの防衛軍|トゥループ・ド・ラ・マリン]]で防衛しており<ref>[http://public.gettysburg.edu/~tshannon/hist106web/Canada/_private/military_of_new_france.htm The Military of New France]</ref>必要な時には民兵を召集した。イギリス領アメリカの植民地は、インディアンの襲撃に備えて、あまり訓練を積んでいない民兵を召集したが、いかなる常備軍も持っていなかった。<br />
<br />
==戦争への道==<br />
===セロロンの遠征===<br />
[[File:Wpdms ohio country.png|thumb|180px|right|オハイオ領土、すぐ上の水色の部分がエリー湖]]<br />
[[1747年]][[6月]]、{{仮リンク|ジョージ・クローハン|en|George Croghan}}のような交易者に影響されたイギリス人商人のオハイオ領土への進出、拡張を懸念したヌーベルフランス[[総督]][[ロラン=ミシェル・バラン・ド・ラ・ガリソニエール]]は、{{仮リンク|ピエール=ジョゼフ・セロロン・ド・ブランヴィユ|en|Pierre Joseph Céloron de Blainville}}に、この地への軍事遠征をさせた。この遠征の目的は、この土地が元々はフランスのものであったという主張の確認であり、イギリスの影響がどれほどのものかを判断し、またインディアンにフランスの力を見せつけるためでもあった<ref name="A2K_26">Anderson (2000), p. 26.</ref>。<br />
<br />
セロロンの遠征軍は約200人のトゥループ・ド・ラ・マリンと30人のインディアン兵で構成されていた。遠征は3000キロにも及ぶもので、[[1749年]]の[[6月]]から[[11月]]の間に行われた。[[セントローレンス川]]を上り、[[オンタリオ湖]]の北岸に沿って進軍を続け、[[ナイアガラ]]{{要曖昧さ回避|date=2014年6月15日}}で連水経路を横切り、そして[[エリー湖]]の南岸をたどった。[[チョトーカ・ポルタージュ]](現在の[[ニューヨーク州]]バルセロナ)で一行は内陸のアレゲニー川の方向へ進んだ、この川は現在の[[ピッツバーグ]]に通じており、ここにセロロンは、オハイオ領土はフランスの領土であると刻んだ鉛の[[銘板]]を埋めた<ref name="A2K_26"/>。そしてイギリス人商人や毛皮交易者と出くわすたびに、セロロンは領土はフランスのものであり、ここから出て行くようにと告げた<ref name="A2K_26"/>。<br />
<br />
セロロンの遠征軍がログスタウンについた時、地元のインディアンたちが、オハイオ領土を所有しているのは我々であり、フランスがどう言おうと、自分たちはイギリス人との取引をするだろうと告げた<ref name="fowler 14">Fowler, p. 14.</ref>。セロロンはそのまま南へ遠征を続け、[[オハイオ川]]とマイアミ川(Great Maimi Rivers)が合流する地点に出た。ここはピカウィラニの集落のちょうど南に当たっていて、[[マイアミ族]]の本拠地だった。このマイアミ族の族長メメスキアはオールド・ブリトンと呼ばれていた。セロロンは彼に、長老たちがイギリスとの取引を続けるのなら、悲惨な結果になるだろうと告げたが、オールド・ブリトンはこの警告を無視した。セロロンは失望し<ref name="ParkLoram">[http://www.dnr.state.oh.us/parks/magazinehome/magazine/sprsum2006/parkspotlight/tabid/310/Default.aspx Park Spotlight: Lake Loramie] Ohio State Parks Magazine, Spring 2006</ref>、1749年11月にモントリオールへ戻った。<br />
<br />
セロロンは遠征を広範囲にわたって述べた報告書で、こう書いている。「私が言えるのは、この地域のインディアンたちはフランスに対してよからぬ印象があり、イギリスにはひたすら尽くしている。彼らがどうすればフランスのもとに戻ってくるかはわからない<ref name="fowler 14"/>。セロロンがモントリオールに戻るかなり前に、オハイオ領土の状況を綴った報告書はロンドンとパリで評判になり、英仏の実力行使を喚起するものとなっていた。[[マサチューセッツ湾直轄植民地]]の総督で、領土拡張の提唱者で、人を説得する能力に特に秀でていた[[ウィリアム・シャーリー]]は、イギリス植民地の入植者は、フランスがいる限り安全ではないと明言した<ref name="fowler 15">Fowler, p. 15.</ref>。<br />
<br />
===インディアン諸部族との交渉===<br />
[[ファイル:French and Indian War map.png|thumb|250px|left|フレンチ・インディアン戦争の舞台となったニューヨークとペンシルベニア(1905年発行の地図)]]<br />
1749年、イギリス政府は、オハイオ領土での交易や入植を拡大するため、{{仮リンク|バージニア・オハイオカンパニー|en|Ohio Company}}に土地を提供した<ref>Alfred P. James, ''The Ohio Company: Its Inner History'' (1959) pp 26-40</ref>。この下賜には100家族以上の入植と、防御のための砦の建設が求められていた。しかし、[[ペンシルベニア植民地]]もここが自分たちの土地であると主張しており、両植民地は各自の主張を譲らず、互いに行動に移すように要求した<ref>Jennings, p. 15</ref>。1750年に、バージニア植民地とオハイオカンパニーの代理として、{{仮リンク|クリストファー・ギスト|en|Christopher Gist}}がオハイオ領土を実地調査して、地元のインディアン部族との交渉をログスタウンで切り出した<ref>Jennings, p. 18</ref>。これは1752年の[[ログスタウン条約]]で締結され、「ハーフ・キング」と呼ばれたインディアンの有力者タナチャリゾン(タナギリソン)と、イロコイ族の代表とがモノンガヘラ川(現在のペンシルベニア州ピッツバーグ)に[[ストロングハウス]]を建てることを許可された<ref>Anderson (2000), p. 28</ref>。<br />
<br />
[[オーストリア継承戦争]](北アメリカにおける[[ジョージ王戦争]])が、[[アーヘンの和約]]の署名によって[[1748年]]に終了した。この条約は、各領地を戦前の状態に戻すことが決められ、イギリスが奪った[[ルイブール要塞|ルイブール]]がフランスへ返還された。これがニューイングランドの住民を怒らせたため、イギリスは、失業者対策を兼ね、ルイブールに近い[[ハリファックス]]に入植地と軍港を作った<ref>木村、104頁。</ref>。他にも[[ニューイングランド]]との取引のあったアカディア、[[漁業]]権が焦点となったニューファンドランドも、なお英仏の抗争の一因となっていた<ref>木村、94-98頁。</ref>。<br />
<br />
===ピカウィラニの攻撃===<br />
[[1752年]][[3月17日]]に、ヌーベルフランス総督の{{仮リンク|ジョンキエール侯爵ジャック=ピエール・ド・ラ・ジョンキエール|en|Jacques-Pierre de Taffanel de la Jonquière, Marquis de la Jonquière}}が亡くなり、臨時の総督にシャルル・ル・モイヌ・ド・ロンゲイユが就任した。その年の[[7月]]には、{{仮リンク|デュケーヌ侯爵ミシェル=アンジュ・デュケーヌ・ド・メネヴィユ|en|Michel-Ange Duquesne de Menneville}}がヌーベルフランスに到着して、正式に総督に就任した<ref>Anderson (2000), p. 27</ref>。イギリス軍はなおもオハイオで軍事活動を続けており、そのためロンゲイユは、トゥループ・ド・ラ・マリンの士官である{{仮リンク|シャルル・ミシェル・ド・ランラード|en|Charles Michel de Langlade}}を指揮官として、遠征軍をオハイオに派遣した。ランラードが率いた兵は300人で、オタワ族とフランス系カナダ人から成り立っていた。この遠征の目的は、セロロンによるイギリスとの交易中止を無視した、ピカウィラニのマイアミ族への懲罰だった。[[6月21日]]、フランス軍はピカウィラニの交易所を攻撃し、3人の交易者を[[捕虜]]として<ref name="ParkLoram"/>、14人のマイアミ族を殺した。その中にはオールド・ブリトンもいた。彼は、伝えられるところによると、遠征に参加したオタワ族の儀式で、その肉を食べられた。<br />
<br />
===フランスの砦建設===<br />
[[File:French British Forts 1753 1758.jpg|thumb|180px|right|1753年から1758年にかけてのオハイオ領土の英仏の砦、中央左デュケーヌ砦より北がフランスのもの]]<br />
[[1753年]]の春、{{仮リンク|ポール・マリン・ド・ラ・マルグ|en|Paul Marin de la Malgue}}が2000人のトゥループ・ド・ラ・マリンとインディアン兵の指揮を任された。マリンの任務は、オハイオバレーのフランス国王領をイギリスから守ることだった。マリンは4年前にセロロンが遠征した経路をなそったが、セロロンがフランス領であることを示すために鉛板を埋めたその場所に、[[砦]]を作って兵を駐屯させた。最初に作ったのは、エリー湖南岸沿いの、[[プレスク島砦]](現在のペンシルベニア州エリー近く)だった。次に[[ルブッフ・クリーク]]の源流に通じる道を建設し、そして2つ目の砦である[[ル・ブッフ砦]]を作った。(現在のペンシルベニア州ウォーターフォード)この砦は、ルブッフ・クリークの源流を囲い込むように建設されていた。そして南へ移動し、イギリス人交易者を追い払いまたは捕囚したため、イギリス人とイロコイ連邦とが、ラ・マルグのやっていることに気付いてしまった。ミンゴ族の族長であるタナチャリゾンは非常にフランス人を嫌っていた。フランスの領土の拡張によって西へ追いやられたイロコイ連邦諸族の生き残りであり、フランス人に父親を殺されて食べられたのを非難していた。タナチャリゾンはル・ブッフ砦に出向き、軍事行動を起こして駐屯兵を脅かしたが、マリンは小ばかにしたようにタナチャリゾンを追い返した<ref name="fowler 31">Fowler, p. 31.</ref>。<br />
<br />
[[File:Sir William Johnson.jpg|thumb|150px|left|ウィリアム・ジョンソン]]<br />
イロコイ族はニューヨーク植民地北部の、[[ウィリアム・ジョンソン (初代準男爵)|ウィリアム・ジョンソン]]の屋敷に使者を送った。ジョンソンはイロコイ族から「ワラギゲー」、偉大なことを成し遂げる人物と呼ばれており、ニューヨークでは、イロコイ連邦の賞賛すべき構成員とされていた。[[1746年]]に、ジョンソンはイロコイ軍の大佐となり、その後はニューヨーク西部民兵隊の大佐となった。この民兵隊は[[オールバニ (ニューヨーク州)|オールバニ]]で{{仮リンク|ジョージ・クリントン<!-- [[:en:George Clinton (vice president)]] とリンク -->|en|George Clinton (Royal Navy officer)|FIXME=1}}総督や、他の植民地から来た高官と会った。[[ヘンドリック・テヤノギン|ヘンドリック]]族長は、イギリスは義務を守って、フランスの侵入を阻むべきだと主張した。クリントンから不満げな返答が返って来た時、ヘンドリックは「コーヴナント・チェーン」、長きにわたって続いてきたイロコイ連邦とイギリスの友好関係はこわれたと宣言した<ref>[http://books.google.co.jp/books?id=N4ER-N1xqjQC&pg=PT49&dq=Albany+conference+Clinton+Hendrick+William+Johnson+Warraghiggey&hl=ja&sa=X&ei=GLm1UPS9LJGZmQXin4FA&ved=0CDUQ6AEwAA:From Colonial America to the New Century. Presidents of the United States, Maps, Constitutional Documents and More (Google eブックス)]</ref>。<br />
<br />
===バージニアの対応===<br />
[[File:Robert Dinwiddie from NPG.jpg|thumb|150px|right|バージニア総督ディンウィディー]]<br />
バージニアの総督{{仮リンク|ロバート・ディンウィディー|en|Robert Dinwiddie}}は、自分が苦境にあることに気付いた。ディンウィディーはオハイオカンパニーへの投資者のひとりであり、フランスがオハイオを自己の領土と主張すれば、オハイオカンパニーは資金を失いかねなかった<ref>O'Meara, p. 48</ref>。1753年[[10月]]、オハイオに駐留しているフランス軍に対抗するために、ディンウィディーは21歳のヴァージニア民兵隊[[少佐]]である、[[ジョージ・ワシントン]]に、フランス軍にバージニアからの立ち退きを警告するように命令した<ref name="A2K_42_3">Anderson (2000), pp. 42–43</ref>。ワシントンはわずかな兵を連れて出発し、行く道すがらで通訳として[[ジェイコブ・ヴァン・ブルーム]]を、そしてヴァージニアの中隊の測量士であるクリストファー・ギストを、またタナチャリゾンに率いられた数人の[[ミンゴ族]]を仲間に加えた。[[12月12日]]、ワシントンと兵士たちはル・ブッフ砦に到着した<ref>Anderson (2000), p. 43</ref><ref>Jennings, p. 63</ref>。<br />
<br />
フランス軍は、指揮官のマリンが[[10月29日]]に亡くなっており、{{仮リンク|ジャック・レガルデュール・ド・サン=ピエール|en|Jacques Legardeur de Saint-Pierre}}が新たに指揮官となっていた。サン=ピエールはその夜、ワシントンを食事に招いた。食事中、ワシントンはサン=ピエールに、ディンウィディーの手紙を差し出した。それには、オハイオカントリーからの、フランスの即時撤退を要求するとしたためられていた。サン=ピエールはこれに対して、丁重にこう言った。「貴殿が私に撤退せよと言われたことに関しては、それに従う義務があるとは思わない」<ref name="fowler 35">Fowler, p. 35.</ref>サン=ピエールは、フランスがオハイオを自国領と主張するのは、イギリスよりも歴史の点でまさっているからだと説明した。それというのも、それよりほぼ100年前に、[[ロベール=カブリエ・ド・ラ・サール|ラ・サール]]がオハイオを探検していたからだった<ref name="ellis 5">Ellis, ''His Excellency George Washington'', p. 5.</ref>。<br />
<br />
[[File:Monongahela_River.png|thumb|180px|right|モノンガヘラ、アレゲニー両川とオハイオ川の合流点(現在のピッツバーグ)]]<br />
ワシントン一行は[[12月16日]]の早朝にル・ブッフ砦を出発して、[[1754年]]の[[1月16日]]に[[ウィリアムズバーグ (バージニア州)|ウィリアムズバーグ]]に戻った。報告書にワシントンはこう記している。「フランスは南部に押し入った」<ref name="fowler 36">Fowler, p. 36.</ref>そして、この地域に砦を建築して行く段階を詳細に記し、アレゲニー川とモノンガヘラ川の合流点に砦を築こうとするフランスの意図について伝えている<ref>O'Meara, pp. 37–38.</ref>。<br />
<br />
==戦争の経緯==<br />
ディンウィディーは、ワシントンが戻るかなり前に、{{仮リンク|ウィリアム・トレント|en|William Trent}}をオハイオに派遣した。1754年が開けて間もないころで、フランス軍は倉庫のある、規模の小さな砦の建設を始めたところだった<ref>O'Meara, p. 41</ref>。デュケーヌ総督は、同じ時期に、サン=ピエールを解任し、{{仮リンク|クロード=ピエール・ペコーディ・ド・コントルクール|en|Claude-Pierre Pécaudy de Contrecœur}}の指揮のもと500人の兵が、1754年の[[4月5日]]に南にあるヴェナンゴ砦を出発した<ref>O'Meara, pp. 43–45</ref>。[[4月16日]]にコントルクール一行はル・ブッフ砦に着いた。トレントの小規模な軍勢の撤退を気前よく許し、建築道具を購入して、後にデュケーヌ砦となる砦の建設を続けた<ref>Jennings, p. 65</ref>。<br />
<br />
[[File:Assassinat de Jumonville-2.png|thumb|180px|right|ジュモンヴィユの戦死]]<br />
ワシントンが報告書を携えて[[ウィリアムズバーグ (バージニア州)|ウィリアムズバーグ]]に戻ったのち、ディンウィディーはワシントンに、より大きな軍をトレントの援軍として指揮するように命じた。ル・ブッフ砦に向かう途中で、ワシントンは、トレントが退却したことを知った<ref>Anderson (2000), p. 50</ref>。タナチャリゾンがワシントンへの支援を約束していたため、ワシントンはそのままデュケーヌ砦に向かい、このミンゴ族の族長と会った。この周辺にはフランスの[[偵察]]兵がいることを聞かされて、ワシントンは兵のうち何人か、そしてタナチャリゾンと彼の手下のインディアン兵たちを連れて行って、[[3月28日]]にフランス軍を不意打ちした。フランス軍の多くが戦死し、その中には指揮官の{{仮リンク|ジョゼフ・クーロン・ド・ジュモンヴィユ|en|Joseph Coulon de Jumonville}}もいた。ジュモンヴィユの首は、伝えられるところによると、タナチャリゾンから[[トマホーク]]で2つに裂かれたと言われている。歴史家のフレッド・アンダーソンは、タナチャリゾンがなぜそうしたのかについて、ミンゴ族の間での権威を取り戻すためにはイギリスの支援を得る必要があると考え、この行為に及んだのではないかと示唆している。ミンゴ族の多くは、長い間の交易相手であるフランスを支持しようとしていたからである。タナチャリゾンの兵は、コントルクールに、ジュモンヴィユはイギリス兵の銃により殺されたと言っている<ref name="AndersonCrucible51_9">Anderson (2000), pp. 51–59.</ref>。この[[ジュモンヴィルグレンの戦い]]は、歴史家の間でフレンチ・インディアン戦争の最初の戦闘であり、オハイオ領土での交戦の始まりとされている。<br />
<br />
この戦闘の後、ワシントンは数マイル後退して[[ネセシティ砦]]を建てた。はその年の[[7月3日]]、この砦はフランス軍の襲撃を受けることになり、ワシントンはこの戦いで降伏した。この時、ワシントンは武装しての撤退ができるよう交渉している。この時のワシントン軍の兵士によると、フランス軍はショーニー、デラウエア、そしてミンゴ諸族の者を連れていた。そのミンゴ族こそ、タナギリソンがイギリスの味方をするようにつとめていた者達だった<ref name="AndersonCrucible59_65">Anderson (2000), pp. 59–65.</ref>。<br />
<br />
[[File:WashingtonFIwar.jpg|thumb|200px|left|フレンチ・インディアン戦争中のワシントン(1753, 54年頃)]]<br />
この2つの戦いの知らせが8月になってイギリスに伝わり、[[初代ニューカッスル公トマス・ペラム=ホルズ]]政権は数か月の交渉の後、フランス撃退のため翌年に遠征軍を送ることを決めた<ref name="Fowler52">Fowler, p. 52.</ref>。[[陸軍少将]][[エドワード・ブラドック]]がその指揮官に選ばれた<ref>Lengel p. 52.</ref>。このイギリスの軍事計画については、ブラドックが北アメリカに発つ前にフランスに細かい情報が洩らされ、国王ルイ15世は、1755年、[[ディスカウ男爵ジャン・エルドマン]]指揮下の、6つの連隊をヌーベルフランスに派遣した<ref>O'Meara, p. 113.</ref>。イギリス軍は、フランスの港の封鎖をもくろんで、1755年に艦隊を送り込んだが、フランスの艦隊もすでに北アメリカに向かっていた。[[提督]]{{要曖昧さ回避|date=2014年6月15日}}の[[エドワード・ホーク]]は、速戦隊(fast squadron)を北アメリカに送り、フランスを阻止しようとした。次なるイギリスの攻めの手として、提督[[エドワード・ボスコーエン]]は、[[1755年6月8日の海戦]]で、フランス艦のアルシドと、2隻の輸送艦に砲撃を加えた<ref name="Fowler74_5">Fowler, pp. 74–75.</ref>。1755年を通して、イギリスはフランス艦隊の艦を奪い、水夫を捕囚するなどして嫌がらせを続けた。このことは、最終的に1756年の正式な宣戦布告へ貢献した<ref name="Fowler98">Fowler, p. 98.</ref>。<br />
<br />
===イギリスの作戦 (1755年)===<br />
[[File:Acadie 1754.png|thumb|230px|left|1754年当時のアカディア。ピンクがイギリス領、緑がフランス領である。]]<br />
イギリスは[[1755年]]の攻撃計画を立てた。[[エドワード・ブラドック]][[将軍]]は遠征軍を[[デュケーヌ砦]]まで率いる予定だった、その一方でマサチューセッツ植民地の総督であるウィリアム・シャーリーは、[[オスウィーゴ砦]]の守りを固め、[[ナイアガラ砦]]を攻撃する任務を与えられた。サー・ウィリアム・ジョンソンはセントフレデリック砦(現在のニューヨーク州[[クラウンポイント]])を攻略し<ref>O'Meara, pp. 110–111.</ref>、[[ロバート・モンクトン]][[中佐]]は、イギリス領ノバスコシアとアカディアの境界にある[[ボーセジュール砦]]を攻略予定だった<ref>O'Meara, p. 163.</ref>。<br />
<br />
{{main|エドワード・ブラドック}}<br />
[[File:Braddock's death at the Battle of Monongahela 9-July-1755.jpg|thumb|150px|right|ブラドック将軍の戦死]]<br />
1755年6月、ブラドックは正規兵2000人と植民地民兵を率いてデュケーヌ砦攻略の遠征に出た。この遠征は大惨事に終わった。[[モノンガヘラの戦い]]で、フランス軍とインディアン兵はイギリス軍を待ち伏せし、ブラドックは致命傷を負った。この時の敗因として、ブラドックの戦法はヨーロッパのそれであり、アメリカの広大な境界地帯にはふさわしくなかったとする説がある<ref>Borneman, pp. 48-55</ref>。<br />
<br />
ブラドックの戦死により、ウィリアム・シャーリーが北アメリカのイギリス軍の指揮をまかされた。1755年12月、シャーリーは翌[[1756年]]に向けた作戦計画の段取りを示した。ナイアガラ砦、[[クラウンポイント砦]]、そしてデュケーヌ砦の攻略計画を刷新し、また、オンタリオ湖北岸の[[フロンテナック砦]]を攻撃し、メインの手つかずの森林を抜けて、[[ショーディエール川]]を渡り、[[ケベック・シティー|ケベック]]を攻撃するというものだった。ウィリアム・ジョンソンや、ニューヨーク総督の{{仮リンク|チャールズ・ハーディ|en|Charles Hardy}}をはじめとする士官からは不賛成の声が出、口論になって、この計画は難航し、わずかな支持しか得られなかった。また、ニューカッスル公が1756年1月に、マサチューセッツ総督をシャーリーから第4代ラウドン伯爵ジョン・キャンベルに替え、次席指揮官には[[ジェームズ・アバークロンビー (将軍)|ジェームズ・アバークロンビー]]が就任した。両者とも、フランスが北アメリカに送り込んだ3人の士官ほどには遠征経験がなかった<ref name="Fowler98" />。<br />
<br />
{{main|オスウィーゴ砦の戦い (1756年)}}<br />
ブラドックの死後に指揮官となったシャーリーは、オンタリオ湖畔のオスウィーゴに着き、行軍してくるフランス軍に対抗すべくそこの防御を強化したき<ref>Borneman, pp. 56</ref>。その後イギリス本国から北アメリカの最高指揮官として赴任した{{仮リンク|ジョン・キャンベル (第4代ラウドン伯爵)|en|John Campbell, 4th Earl of Loudoun|label=第4代ラウドン伯爵}}が、シャーリーに代わって指揮を執った。オスウィーゴ砦は指揮官の後退と物資の少なさに悩まされた。そして[[1756年]][[8月12日]]、[[ルイ=ジョゼフ・ド・モンカルム]]率いるフランス軍がオスウィーゴ砦に攻め入ってこの砦を攻略した。イギリス軍はこれで多大な損失を出した<ref>Borneman, pp.67-69</ref>。後にシャーリーから罷免され、上官の命令に従わなかったとして、本国で査問にかけられた<ref>Borneman, p.84</ref>。一方モンカルムはこの作戦で弾みをつけた<ref>Borneman, p.86</ref>。<br />
<br />
{{main|ジョージ湖の戦い}}<br />
ウィリアム・ジョンソンは、[[ハドソン川]]とジョージ湖南端の間の連携水路にエドワード砦を作ろうとした。他方、ディスカウは、ヌーベルフランスの総督である[[ピエール・フランソワ・ド・リゴー|ヴォードルイユ]]の命を受け、シャンプラン湖に向かう敵軍をはぐらかすのが先だった。フランス軍とカナダの民兵とは、カリヨン砦の建設を着々と進めていた。そのフランス軍は、野営していたイギリス軍を驚かすべく砲撃を開始した。イギリスは最終的に反撃に出て、ディスカウはその時に負傷し、捕虜となった。フランスはなおもカリヨン砦の工事に取り掛かっており、ジョンソンは2つ目の砦を建設するべく、ジョージ湖の南に新しく[[ウィリアム・ヘンリー砦]]を作った(1759年の攻略後、タイコンデロガ砦と改名)<ref>Borneman, pp.46-59</ref><ref>Borneman, pp.56-57</ref>。<br />
<br />
モンクトンは、この1755年の軍事計画では唯一成功した人物だった。6月のボーセジュールの戦いで、フランスのルイブール砦への陸上の援軍を断ったのである。補給路を断つために、[[ノバスコシア州|ノバスコシア]]総督の[[チャールズ・ローレンス]]は、フランス語を話すアカディア人に、この地からの追放を命令した。植民地のレンジャー部隊[[ロジャーズ・レンジャーズ]]を含むモンクトンの軍勢は、何千人もの{{仮リンク|アカディア人追放|en|Expulsion of the Acadians|label=アカディア人を強制的に退去}}させ、抵抗するものを突き止め、残虐行為を行った。それ以上の他の要素もあって、ルイブールへの補給路の断絶はルイブールを活動停止へと導いた<ref>{{cite book |last=Patterson |first=Stephen E. |chapter=1744-1763: Colonial Wars and Aboriginal Peoples |editor1-first=Phillip |editor1-last=Buckner |editor2-first=John |editor2-last=Reid |title=The Atlantic Region to Confederation: A History |location=Toronto |publisher=University of Toronto Press |year=1994 |page=152 |isbn=0802005535 }}</ref>。<br />
<br />
[[File:Marquis de Boishébert - Charles Deschamps de Boishébert et de Raffetot (1753) McCord Museum McGill.jpg|thumb|150px|right|アカディア人の抵抗を手助けしたカナダの軍人[[シャルル・デシャン・ド・ボワシェベール]]]]<br />
しかしアカディア人は、ボワシェベール率いる部隊やインディアンの同盟と共に抵抗し、勝利もしたが、最終的にはイギリス軍の手に落ちた<ref>大矢・ロングフェロー、230-231頁。</ref>。この時のイギリスの作戦、アカディア側の抵抗には以下のようなものがある。<br />
<br />
'''イギリスの作戦'''<br />
*[[ファンディ湾方面作戦]]<br />
*[[プティクーディアク川方面作戦]]<br />
*[[セントジョン川方面作戦]]<br />
*[[サンジャン島方面作戦]]<br />
'''アカディア人の抵抗'''<br />
*[[プティクーディアクの戦い]]<br />
*[[ブラッディクリークの戦い (1757年)]]<br />
*[[ルーネンバーグ奇襲 (1756年)]]<br />
<br />
===フランスの勝利 (1756年-1757年)===<br />
フランス陸軍が1756年5月に北アメリカに送り込んだのは、オーストリア継承戦争で経験を積んだルイ=ジョゼフ・ド・モンカルム少佐、そして[[フランソワ=ガストン・ド・レビ|シュール・ド・レビ]]と、{{仮リンク|フランソワ=シャルル・ド・ブールラマク|en|François-Charles de Bourlamaque}}大佐だった<ref>Borneman, pp. 82</ref>。モンカルムはすでにオーストリア継承戦争で経験を積んでいた。この1756年[[5月18日]]、イギリスはフランスに正式に宣戦布告し、ヨーロッパにも戦火が拡大した。ヨーロッパでの戦いは七年戦争と呼ばれた<ref>Borneman, pp. 67-68</ref>。<br />
<br />
{{main|ウィリアム・ヘンリー砦の戦い}}<br />
[[File:Portrait of Montcalm.JPG|thumb|180px|right|ルイ=ジョゼフ・ド・モンカルム]]<br />
ヌーベルフランス総督ヴォードルイユは、1756年の春にモンカルムの到着を決して喜んではいなかった。ヴォードルイユは行政も軍事も自身の一手に収めたがっており、モンカルムと役割分担をすることで、この両者の間に不信感がくすぶるようになった。モンカルムもそれを感じ取っていた。また、インディアンとの同盟にもとまどっていた。特に、相手がだれであろうが、殺し方が残忍で[[頭皮]]を剥ぐやり方について、自身の母親に手紙を書き送っている<ref>Borneman, pp. 82-83</ref>。しかしその後、フランス軍はカリヨン砦から南に異動して、ウィリアム・ヘンリー砦を4日間にわたって攻撃し、ここを攻め落とした。フランスの非正規兵(カナダ人偵察兵とインディアン兵)は、[[1757年]]の前半一杯ウィリアム・ヘンリー砦を攻撃した<ref>Nester, pp. 53–61</ref>。<br />
<br />
[[File:Montcalm trying to stop the massacre.jpg|thumb|180px|left|ウィリアム・ヘンリー砦の戦いの後、降伏したイギリス軍に乱暴するインディアンを止めるモンカルム]]<br />
精力的に攻め続けるフランス軍とは対照的に、ルードゥーンは官僚的でなかなか腰を上げなかったが<ref>Borneman,p.84</ref>同じ1757年、ルードゥーンは、植民地担当の{{仮リンク|南部担当大臣|en|Secretary of State for the Southern Department}}[[ウィリアム・ピット (初代チャタム伯爵)|ウィリアム・ピット]]に指示されるまま、次席指揮官のジェームズ・アバークロンビーとフランス軍との交戦のためにまずルイブールを目指した。しかし準備の遅れが災いして、遠征軍がハリファックスからの出航準備ができたのは8月の始めだった。その間にフランス艦は、フランス本国沿岸のイギリスの封鎖を逃れ、北アメリカのイギリス艦隊に数で勝るフランス艦隊が、ルイブールでルードゥーンを待ち受けていた。この戦力を目の当たりにしたルードゥーンは[[ボストン]]へ引き返したが、すでにウィリアム・ヘンリー砦は崩壊していた<ref>Borneman, pp. 86-95</ref>。<br />
<br />
1月にはタイコンデロガ(カリヨン砦)の近くで[[かんじきの戦い (1757年)|第一次かんじきの戦い]]が起こった。2月には、フランスの非正規兵は、結氷したジョージ湖を挟んでの対岸に襲撃を仕掛け、倉庫と砦の外にある建物を壊した。8月の始めには、モンカルムと7000人の軍勢が砦を包囲し、イギリス軍は、条件付きの撤退を認めるのに合意して降伏した。撤退が始まった時、モンカルムのインディアン同盟兵が、虐殺の機会が失われたことに怒り、イギリス軍の縦隊を攻撃して、数百人の男女、子供、そして奴隷を殺し、また捕囚した。この包囲戦の余波として、おそらくは遠くへのインディアンへの[[天然痘]]の伝染もあった。インディアン兵の一部は、この作戦に参加するため、[[ミシシッピ川]]のかなたから来たものもいたと言われている<ref>Nester, pp. 53–61</ref>。<br />
<br />
===イギリスの制覇 (1758年-1760年)===<br />
[[File:William Pitt, 1st Earl of Chatham by William Hoare.jpg|thumb|180px|right|ウィリアム・ピット]]<br />
ヴォードルイユとモンカルムは、[[1758年]]は最小限の補給を受けただけだった、イギリスの、フランス沿岸の封鎖が、フランス艦の出航を制限していたからだ。1757年の不作で、ヌーベルフランスの状況は一層悪化し、厳しい冬となった。伝えられるところでは、ヌーベルフランスの[[アンタンダン]]のフランシス・ビゴが、邪悪なことをたくらんでいた。ビゴの物価を高騰させる手段は、モンカルムとその仲間の私腹を肥やすためのものと信じられていた。また、西部に住むインディアン部族の天然痘の大流行で、ここに住むものが減少した。戦闘に参加した多くの部族が他の部族を非難し、また、フランス人が悪い薬を持ち込んだとも言った。天然痘は、戦闘後の人々が込み合った中で恐らく広まったのだった<ref name="Fowler138">Fowler, p. 138.</ref>。この状況からみると、モンカルムは、セントローレンス川の防御、そしてカリヨン、ケベック、ルイブールの主な防御に関してのわずかな方法に集中していた。一方ヴォードルイユは、襲撃による戦術の継続を主張したが失敗した。このやり方は、何年か前には非常に功を奏したのであった<ref name="Fowler139">Fowler, p. 139.</ref>。<br />
<br />
北アメリカでのイギリスの作戦失敗は、ヨーロッパにおける失敗とも結びついていた。これにより主な軍事顧問でもあった[[ウィリアム・オーガスタス (カンバーランド公爵)|カンバーランド公]]も第一線を退いて、ピットが軍事作戦を仕切ることになった。ピットは当初、[[第一大蔵卿]][[ウィリアム・キャヴェンディッシュ (第4代デヴォンシャー公爵)|デヴォンシャー公]]のもとで、{{仮リンク|サザン・デパートメントの国務大臣|en|Secretary of State for the Southern Department}}<ref group="注釈" name="ex02">サザン・デパートメントは、イングランド南部、ウェールズ、アイルランド、ヨーロッパーのカトリック国やイスラム諸国を担当する部署として、18世紀末までイギリスの内閣に置かれていた。</ref>として就任したが、ヨーロッパ戦線を重んじるジョージ2世と対立し、一旦辞任を余儀なくされた<ref>Borneman, pp.72-74</ref>その後国民の支持を得て返り咲いたピットは、北アメリカを主眼に置き、ルイブール、カリヨン砦とデュケーヌ砦を奪う作戦をたて、大人数の正規部隊と、それを支援する民兵隊とによる攻撃作戦を展開した<ref>Borneman, pp. 96-99</ref>。<br />
<br />
====1758年====<br />
[[File:FortDuquesne.jpg|thumb|180px|left|デュケーヌ砦に進軍するフォーブス指揮下のイギリス軍]]<br />
{{main|デュケーヌ砦の戦い}}<br />
1758年9月から10月にかけて、イギリス軍の作戦である[[フォーブズ遠征]]が行われた。[[ジョン・フォーブズ]]将軍率いる6000人規模の部隊は、抗争の絶えないオハイオ領土から、フランス軍を追い出すのが目的だった。[[9月14日]]にデュケーヌ砦に向かったイギリス軍は撃退されたが、その後フランス軍は、オハイオ領土をイギリスの支配下に置いたまま砦から退却した<ref>{{cite book |first=Fred |last=Anderson |title=Crucible of War: The Seven Years' War and the Fate of Empire in British North America, 1754–1766 |year=2000 |location=New York |publisher=Alfred A. Knopf |pages=267-285 |isbn=0375406425 }}</ref>イギリス軍がデュケーヌ砦に入り、この砦を再建して、ウィリアム・ピットにちなんで、ピット砦と命名した。これが今の[[ピッツバーグ]]である<ref>[http://pittsburgh.about.com/od/history/a/Three-Centuries-Of-Pittsburgh-History.htm Three Centuries of Pittsburgh History]</ref>。ノバスコシア、ルイブールのフランスの大々的な砦は、包囲戦の末イギリスの手に落ちた<ref>William, Wood, ''The Great Fortress: A Chronicle of Louisbourg 1720–1760'' ([http://www.gutenberg.org/etext/6026 online from [[Project Gutenberg]]])</ref>。<br />
<br />
[[File:The Victory of Montcalms Troops at Carillon by Henry Alexander Ogden.JPG|thumb|200px|right|カリヨン砦での勝利を喜ぶモンカルムとフランス軍]]<br />
{{main|カリヨンの戦い}}<br />
3度目の侵攻作戦は、[[カリヨンの戦い]]でのフランス軍の勝利で阻止された。この戦いでは、3600人のフランス兵が見事に、そして意を決して、アバークロンビー率いる1万8千人のイギリス軍正規兵、民兵、そしてインディアンの同盟軍を、砦の外で完敗させた<ref>[http://militaryhistory.about.com/od/frenchindianwar/p/battle-of-carillon.htm Battle of Carillon French & Indian War Battle of Carillon]</ref>。アバークロンビーは戦いの後ジョージ湖の南まで敗走したが、その後[[8月26日]]から27日にかけて、フロンテナック砦を[[ジョン・ブラッドストリート]]大佐に襲撃させて物資を奪い、ケベックと、他の砦との連絡を絶った。後にアバークロンビーは、ルイブールの戦いの勝者である[[ジェフリー・アマースト (初代アマースト男爵)|ジェフリー・アマースト]]にその地位を譲った<ref name="militaryh-2">[http://militaryhistory.about.com/od/frenchindianwar/a/French-Indian-Seven-Years-War-1759.htm French and Indian War - French & Indian War Seven Years' War]</ref>。<br />
<br />
====1759年-1760年====<br />
[[File:Jeffreyamherst.jpg|thumb|150px|left|ジェフリー・アマースト]]<br />
「幸運の年1759年」に<ref>[http://www.cliomusings.com/2011/06/seven-years-war-britains-annus.html Clio's Lessons: The Seven Years' War - Britain's Annus Mirabilis]</ref>、イギリス軍はすべての戦場で快進撃を続けた。[[ナイアガラ砦の戦い]]で、その前年のフロンテナック砦の戦い共々、オハイオ領土におけるフランスの影響を封じ込め、カリヨン砦を奪い、[[エイブラハム平原の戦い]]で、[[ジェームズ・ウルフ]]がモンカルムを破った(この戦いで両名とも戦死した)<ref name="militaryh-2"/>また、イギリス領アメリカのレンジャー部隊[[ロジャーズ・レンジャーズ]]による、フランスに味方したアベナキ族への襲撃もあった<ref>Borneman, pp. 228-230</ref>フランスはイギリス本土進攻に焦点を合わせることを決定した。これは、ピットによる海外植民地作戦を阻止するものだったが、この目論見は失敗した、イギリスの諸艦隊が自国近海に張り付いており、{{仮リンク|ジャン=フランソワ・ド・ラ・クルー=サブラン|en|Jean-François de La Clue-Sabran}}率いる[[トゥーロン艦隊]]がボスカーエンの戦隊に発見され、交戦の後フランス軍は逃走した。これが[[ラゴスの海戦]]である。また、[[ブレスト (フランス)|ブレスト]]封鎖中のホーク艦隊が一旦[[トーベイ]]に撤退した隙を狙って、フランスのコンフラン提督のブレスト艦隊が、ブルターニュ半島南部のキブロン湾に向かったため、荒天の中、しかも浅瀬の多い[[キブロン湾]]で両者は相まみえた。フランス軍はまたも多大な損失を出して敗北を喫した。この海戦は「七年戦争における[[トラファルガーの海戦]]と呼ばれ、ホークの名を一躍たからしめた<ref>小林、334-338頁。</ref><br />
<br />
[[File:Capitulation Montreal.jpg|thumb|250px|right|モントリオールに入るイギリス軍]]<br />
[[1760年]]、イギリス軍は[[サントフォワの戦い]]で負けたにも関わらず<ref>[http://www.pc.gc.ca/lhn-nhs/qc/ristigouche/natcul/natcul2.aspx Parks Canada - Battle of the Restigouche National Historic Site of Canada - History]</ref>、[[レスティガッチの海戦]]でフランスの救援部隊の上陸を阻止することができ<ref>[http://www.pc.gc.ca/eng/lhn-nhs/qc/ristigouche/index.aspx - Parks Canada - Battle of the Restigouche National Historic Site of Canada]</ref>一方で陸軍は、ケベック、シャンプラン湖、そしてセントローレンス川上流の三方向からモントリオールへと進軍した<ref>[http://grandquebec.com/histoire/conquete-canada/ La chute de la Nouvelle-France - Québec]</ref>。ここに北米大陸におけるフランスの植民地支配は終わりを告げた。<br />
<br />
1760年9月、ヴォードルイユ総督が降伏文書に調印した後<ref>木村、180頁。</ref>、初代総督となった[[ジェームズ・マレー]]は、植民地にとどまることを選んだフランス人入植者には、[[カトリック教会|カトリック]]を信仰し続ける自由、財産を所有する自由、平穏な生活を送る権利を与えた<ref>木村、114頁。</ref><br />
<br />
===戦争の終結===<br />
[[File:Vue de la descente a Terre Neuve par le chevalier de Ternay en 1762.jpg|200px|thumb|left|シグナルヒルの戦い]]<br />
北アメリカ大陸における英仏の戦いの大部分は、1760年に幕を閉じた。一方ヨーロッパでの戦闘はまだ続いていた。主だった例外はフランスによる[[ニューファンドランド島]]の[[セントジョンズ (ニューファンドランド・ラブラドール州)|セント・ジョンズ]]の包囲であった。アマーストはこの予期せぬ戦闘を知って、直ちに、甥の[[ウィリアム・アマースト (初代アマースト伯爵)|ウィリアム・アマースト]]と部隊とを派遣して、[[1762年]]9月の[[シグナルヒルの戦い]]で、ニューファンドランドの支配を取り戻させた<ref>Anderson (2000), p. 498</ref>。<br />
<br />
北アメリカのイギリス軍の多くが、西インド諸島で続いていたイギリス軍の作戦への参戦のため、配置しなおされた。その中には[[ハバナの戦い]]もあった。スペインは遅まきながらフランスの同盟国として参戦したのである。また、マルティニークへのイギリス軍の遠征もあった<ref name="Cave21">Cave, p. 21</ref>。<br />
<br />
将軍アマーストはまた、西部に広がっていたフランスの砦をイギリスの支配下に収める指揮を執った。アマーストがこの地に対して持ち込んだ方針は、多くのインディアンを混乱させ、[[1763年]]に、[[ポンティアック戦争]]として知られる戦闘の一因となった<ref>Jennings, p. 439</ref>。この時の、辺境地帯の砦や集落への一連の攻撃で、イギリス軍はその後も部隊を駐留させる必要が生じ、この問題は[[1766年]]まで解決されなかった<ref>Anderson (2000), pp. 617–632</ref>。<br />
<br />
この北アメリカの戦争は、1763年[[2月10日]]のパリ条約署名で正式に終止符が打たれ、ヨーロッパを舞台にした七年戦争も、[[2月15日]]の[[フベルトゥスブルク条約]]で終結した。イギリスはフランスに、ミシシッピ川以東の北アメリカか、[[グアドループ]]と[[マルティニーク]]の[[カリブ海]]の諸島かのいずれを取るかを提案した。当時、この両者はイギリスの支配下にあった。フランスは、カナダを割譲したが、サンピエール・ミクロンの所有の交渉は可能だった。サンピエール・ミクロンはセントローレンス湾の小さな島で、そこでの漁業権がほしかったのである。フランスにとっては、カナダより、カリブ海の島の方が経済的価値が大きかった。[[砂糖]]の収穫量が大きく、防御もしやすかったからだ。しかしイギリスにとって、ヌーベルフランスを得たことは満足であった。この際防御は問題点ではなかったし、イギリスにとって砂糖の供給源はいくらでもあったからだった。スペインは、イギリスにフロリダを割譲し、代わりに[[キューバ]]を得た。またフランスから敗戦の埋め合わせとして、ニューオーリンズを含めた[[ルイジアナ]]を得た。ミシシッピ川流域の割譲については、すべての参戦国にゆだねられた<ref>Anderson (2000), pp. 505–506</ref>。<br />
<br />
==その後の北米植民地==<br />
[[File:NorthAmerica1762-83.png|thumb|left|250px|1763年のパリ条約後の北アメリカ。ピンクがイギリス領、黄色が、1762年のフォンテーヌブロー条約後にスペインが手に入れた領土である。]]<br />
この戦争はヨーロッパの大国(イギリス、フランス、スペイン)の経済、政治、そして行政面と社会面での関係を変えた。これらの国の植民地や入植者、そして原住の人々は、彼らが領有した土地に住んだ。フランスとイギリスはこの戦争でかなりの経費を使い、これが後々長期にわたり重大な問題となった。<br />
<br />
イギリスはヌーベルフランスとアカディアを支配下に置いた。約8万人の人口があり、その大部分はフランス語を話すカトリック信者だった。1755年に始まった[[アカディア人の追放]]は、最終的にはヨーロッパや南の方の植民地からの入植者を受け入れ可能にした。イギリスは、北アメリカの植民地のあちこちに彼らを入植させたが、多くはヨーロッパに戻り、また一部はニューオーリンズに行った、そこではフランス語が使えると期待したからだ。また一部の者は、[[フランス領ギアナ]]や[[フォークランド諸島]]など、さまざまな地域に入植者として送られた。後者の方はうまく行かなかった。また、[[サントドミンゴ]]のような場所へ移住した者、[[ハイチ革命]]の後でニューオーリンズへ入植した者もいて、独自の[[ケイジャン]]文化をはぐくんだ。ルイジアナの人口は、現在のケイジャンの人口の入植によるところが大きい。ケイジャンとは、フランス語のアカディアンがカディアンとなり、そしてケイジャンとなったものである<ref name="Calloway161_164">Calloway, pp. 161–164</ref>。<br />
[[File:053107-crayfishetouffee.jpg|thumb|180px|right|現在のニューオーリンズに伝わるケイジャン料理]]<br />
<br />
和平条約の後、[[ジョージ3世 (イギリス王)|ジョージ3世]]が国王宣言を10月7日に行った。これは新しくイギリス領となった土地の区分と行政の概略で、このうちの一部は、現在のカナダの行政とインディアンの関係に引き継がれている。インディアンには[[アパラチア山脈]]の西部を居住地とするといった条項があり、西の境界の入植者の勢いが高まっていたこともあり<ref>Anderson (2000), pp. 565–566</ref>、この境界線はどう見ても一時的な足枷であった<ref>Anderson (2000), pp. 636–637</ref>。この声明には、カトリック信者のカナダ人の、公民としての参加を妨げる条項もあった<ref>Anderson (2000), p. 568</ref>。[[1774年]]の[[ケベック法]]による和解で、これらの諸問題は処理されたが、宗教に関しては、13植民地の多数のプロテスタントが、カトリックを大きく上回っていた。<br />
<br />
[[File:1765 BostoniansReadingStampAct.png|thumb|230px|left|印紙条例に目を通すボストンの人々]]<br />
この戦争には経費が掛かった。特にピットの在任時には出費が多く1億4千万ポンドにも上り、その半分はアメリカ植民地の防御に費やされた。七年戦争により、イギリスの[[国債]]はほぼ2倍となった。国王は債務を支払うための財源として、植民地に新しい税をかけることにした。イギリス人は、この負担は植民地も引き受けるべきだと考えた。このため、13植民地に対し、[[1764年]]に[[砂糖法]]が施行された。これは砂糖のみならず、[[コーヒー]]や[[ワイン]]も対象となり、その後対個人の税である[[印紙法]]も施行された。<ref>Borneman, pp. 296-297</ref><ref name="CTP">[http://www.collegetermpapers.com/TermPapers/History_Other/The_French_and_Indian_War_As_a_Cause_Of_the_American_Revolution.html The French and Indian War As a Cause Of the American Revolution, History, Other - CollegeTermPapers.com]</ref>この新税の導入に対して、大規模かつ徹底した抗議行動が起こり、このため軍が出動し、総督府は何とか無事に仕事を遂行できた。これらの課税条例は最終的にアメリカ独立戦争の発端となった<ref>Anderson, Fred. "[http://americanheritage.com/articles/magazine/ah/2005/6/2005_6_75.shtml The Real First World War and the Making of America]" ''American Heritage'', November/December 2005.</ref><br />
一方で、この戦争でフランスとの植民地獲得競争での優位を確実にしたイギリスは、[[植民地貿易]]の利潤をよりいっそう蓄積することが可能となった。このことは1760年代以降のイギリス[[産業革命]]を促した、数ある要因のなかのひとつになっている<ref>[http://satoshi-nitta.com/kokumin/kokumin-109.htm 第百九章 文明の第二の波=産業革命]</ref>。<br />
<br />
多くのインディアンにとって、北アメリカでのフランスの軍事力が失われたことは、強力な同盟の消失を意味し、イギリス支配でそれが埋め合わされたことは、彼らにとって最大の追い立てが始まることであった<ref name="Cavexii" />。オハイオ領土は特に、法的、あるいは非合法いずれの入植地も攻撃されやすかった。ブラドックとフォーブズが、この地へ軍事用の道路を作ったからだった<ref>Anderson (2000), p. 525</ref>。スペインはルイジアナの領土を手に入れたが([[1769年]]まで正式な領土ではなかった)、戦争の反響が穏やかなのはここだけだった。イギリスがフロリダを手に入れると、ここの部族は西へと移動した。彼らはイギリス人と仕事をしたくなかったのだ。また、チョクトー族とクリーク族の、長い間の仇敵同士の反目を当時イギリスが利用したのである<ref name="Calloway133_138">Calloway, pp. 133–138</ref>。フロリダの支配が変わることで、この地の、カトリックのスペイン人入植者もまた移動した。大部分はキューバへ行った。彼らはサン・オーガスティンの行政のすべての記録を携えていた、しかし洗礼を受けた[[ヤマシー族]]は[[メキシコ]]の湾岸に入植しなおした<ref name="Calloway152_156">Calloway, pp. 152–156</ref>。<br />
<br />
[[File:Prise de la Bastille.jpg|thumb|180px|right|フランス革命におけるバスチーユ牢獄の襲撃]]<br />
フランスは北アメリカの所有に関しては比較的わずかな価値しか認めず、砂糖を多く産出して利益が上がる[[アンティル諸島]]に関しては特に価値を見出しており、ここをどうにかして保持しようとした。条約締結代表のセザール・ガブリエル・ド・ショワゾーは、パリ条約ではかなりのことをしたと考えており、哲学者の[[ヴォルテール]]は、[[ルイ15世 (フランス王)|ルイ15世]]はたかだか[[数エーカーの雪]]を失っただけだと書いた<ref name="Cave52">Cave, p. 52</ref>。しかしフランスにとって、戦争での財政負担は王国の力を弱め、これが[[1789年]]の[[フランス革命]]の遠因となった<ref name="Cavexii">Cave, p. xii</ref>。この当時の啓蒙主義により、[[絶対王政]]への不信感が民衆の間に広まって行き、晩年のルイ15世統治下のフランスでは、[[オーストリア継承戦争]]からこの戦争および七年戦争の戦費と、[[ヴェルサイユ宮殿]]での豪奢な生活などによって財政事情がきわめて悪化した。[[ルイ16世 (フランス王)|ルイ16世]]の時代に入ると、アメリカ独立戦争支援のための出費があり、フランスの尽力で、アメリカは[[ヨークタウンの戦い]]で独立をかちとった<ref name="research">[http://www.123helpme.com/view.asp?id=66442 French Revolution :: essays research papers]</ref><ref name="FR">[http://www.123helpme.com/view.asp?id=22896 The French Revolution :: European Europe History]</ref><ref name="rob">[http://robwrite.hubpages.com/hub/The-French-Revolution The French Revolution]</ref>。このため財政は継続して逼迫し、これを打開するため新税を導入しようとして[[全国三部会]]が招集されたことが[[フランス革命]]勃発のきっかけとなっている<ref name="research"/><ref name="FR"/><ref name="rob"/>。<br />
<br />
[[File:Brooklyn Museum - George Washington - Charles Willson Peale - overall.jpg|thumb|150px|right|ジョージ・ワシントン(1776年) [[チャールズ・ウィルソン・ピール]]作]]<br />
北部にあったフランスの脅威が去り、イギリスは沿岸部の防衛をアメリカ植民地の民兵に委託した、そうすうることで、カリブ海に軍を送れたからだ。また、イギリスの軍事力はカナダのフランス植民地への抑止力であり、それがなくなったため、逆にアメリカ植民地の独立を招いたのだった。また、フランス系カナダ人の権限をかなり認めた[[1774年]]の[[ケベック法]]施行も、イギリス系アメリカ人にとっては脅威となり、これも独立戦争の一因と考えられている<ref name="CTP"/><ref>[http://www.thecanadianencyclopedia.com/articles/conquest Conquest - The Canadian Encyclopedia]</ref><ref>木村、117-118頁。</ref>。<br />
<br />
[[1778年]]のアメリカ独立戦争時、フランスはイギリスに対してアメリカと同盟を結び、北アメリカに戻ってきた。この時フランスはイギリスに勝利し、これを歴史家の[[アルフレッド・ケイヴ]]は「フランスは…モンカルムの仇討ちを果たしたのだ」と述べている<ref name="Cave82">Cave, p. 82</ref>。<br />
<br />
==フレンチ・インディアン戦争の逸話==<br />
[[File:Sprit of '76.2.jpeg|thumb|150px|left|ヤンキー・ドゥードルのイラスト。歌詞の通りに太鼓や笛といった楽器を持っている<ref>http://14.studio-web.net/~yamahisa/yankee_doodle.html Yankee Doodle ヤンキー ドゥードル アルプス一万尺元歌 (MIDI付)</ref>。]]<br />
アメリカ[[民謡]]『[[アルプス一万尺|ヤンキードゥードル]]』(日本では『アルプス一万尺』の名で知られる)は、1755年、イギリス軍支援に集まった13植民地の兵が、洗練されたイギリス軍の兵士に対し、[[裏皮]]あり毛皮ありの種々雑多な服をまとった兵たちで、それを揶揄するためイギリスの軍医シャックバーグが1755年に作詞した。歌詞は様々で、ジョージ・ワシントンを歌ったものもある<ref>[http://www.contemplator.com/america/ydoodle.html Yankee Doodle]</ref>。しかし、植民地白人はこの歌が好きで、のちのアメリカ独立戦争の際にもよく愛唱された<ref>[http://folkmusic.about.com/od/folksongs/qt/YankeeDoodle.htm Yankee Doodle - Background Information and History of the Song Yankee Doodle]</ref>。<br />
<br />
[[ベンジャミン・フランクリン]]はデュケーヌ砦遠征隊に物資を調達している。また、この遠征には[[ダニエル・ブーン]]も加わっていた<ref>[http://books.google.co.jp/books?id=d_Hg3WqNQJ8C&hl=ja The French & Indian War Googleブックス p.43]</ref>。<br />
<br />
戦争終結後の1764年、スペイン領ルイジアナとなったミシシッピ川西岸に毛皮の交易所がフランス系住民によって建設された。これが[[セントルイス]]である。町の名はフランス王[[ルイ9世 (フランス王)|ルイ9世]]にちなむ<ref>[http://www.infoplease.com/ipa/A0108593.html St. Louis, Mo.:Population, Weather, Demographics, Facts, History, Mayor, Landmarks - Infoplease.com]</ref>。<br />
<br />
この戦争において [[天然痘]][[ウイルス]]がイギリス軍によって[[生物兵器]]的な使われ方をしたと言われる。インディアンに、天然痘のウイルスが付着した毛布を送ったのである<ref>[http://www.bookrags.com/research/smallpox-eradication-storage-and-po-wmi/ Research Smallpox: Eradication, Storage, and Potential Use as a Bacteriological Weapon]</ref>。<br />
しかしこれには賛否両論があり、仮に贈ったとしても、意図的なものかどうかわからないともいわれている<ref>[http://www.nativeweb.org/pages/legal/amherst/lord_jeff.html Amherst and Smallpox]</ref>。後に、[[1780年代]]の初めに、インディアン、特に[[チプワイアン族]]とスー族の間に天然痘が蔓延した。探検家のデビッド・トンプソンは、インディアンたちが患者である白人の家を襲撃して、その衣服を身に着けたために感染したのではないかと語っている<ref>木村、毛皮、77-78頁。</ref>。<br />
<br />
== フレンチ・インディアン戦争に関する作品 ==<br />
*[[映画]]<ref>[http://www.screenjunkies.com/movies/genres-movies/war-movies/5-best-french-and-indian-war-movies/ 5 Best French and Indian war Movies | Screen Junkies]</ref><br />
**[[征服されざる人々]]<br />
**[[ラスト・オブ・モヒカン]]<br />
**[[北西への道]]<br />
**Evangeline<br />
**The War That Made America<br />
*[[TVドラマ]]<br />
**[[ホークアイ (Hawkeye)]]<br />
* [[ウォー・シミュレーションゲーム|ボードゲーム]]<br />
** Volko Ruhnke, "Wilderness war", GMT Games,2001<br />
** Joseph Miranda "The French & Indian War",Strategy & Tactics No.231,Decision Games,2005<br />
** Martin Wallace "A Few Acres of Snow", Treefrog Games, 2011<br />
** E. Harvey, W. Nester "Ticonderoga", Strategy & Tactics No.277,Decision Games,2012<br />
<br />
==関連書籍==<br />
{{Refbegin}}<br />
*[[Allan W. Eckert|Eckert, Allan W]]. ''Wilderness Empire''. Bantam Books, 1994, originally published 1969. ISBN 0-553-26488-5. Second volume in a series of historical narratives, with emphasis on Sir William Johnson. Academic historians often regard Eckert's books, which are written in the style of novels, to be unreliable, as they contain things like dialogue that is clearly fictional.<br />
*[[Francis Parkman|Parkman, Francis]]. ''[http://books.google.ca/books?id=Z48-AAAAYAAJ&dq=Montcalm%20and%20Wolfe%3A%20The%20French%20and%20Indian%20War&pg=PP1#v=onepage&q&f=true Montcalm and Wolfe: The French and Indian War]''. Originally published 1884. New York: Da Capo, 1984. ISBN 0-306-81077-8.<br />
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<br />
== 脚注 ==<br />
===注釈===<br />
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=== 出典 ===<br />
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<br />
==参考文献==<br />
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*{{Cite book|title=Crucible of War: The Seven Years' War and the Fate of Empire in British North America, 1754-1766 |last=Anderson |first=Fred |authorlink=Fred Anderson |coauthors= |year=2000 |publisher=Knopf |location=New York |isbn=0-375-40642-5 |page= |pages= |url=http://books.google.ca/books?id=-vMxLslZopgC&lpg=PR1&dq=Crucible%20of%20War%3A%20The%20Seven%20Years'%20War%20and%20the%20Fate%20of%20Empire%20in%20British%20North%20America%2C%201754-1766&pg=PR1#v=onepage&q&f=true |ref=Anderson2000}}<br />
*{{Cite book|title=The War that Made America: A Short History of the French and Indian War |last=Anderson |first=Fred |authorlink= |coauthors= |year=2005 |publisher=Viking |location=New York |isbn=0-670-03454-1 |page= |pages= |url=http://www.wqed.org/tv/specials/the-war-that-made-america/ |ref=Anderson2005}} - Released in conjunction with the 2006 [[Public Broadcasting Service|PBS]] miniseries ''[[The War that Made America]]''.<br />
*{{Cite book|title=Redcoats: The British Soldier and War in the Americas, 1755-1763|first=Stephen|last=Brumwell|ref=Brumwell|year=2006|publisher=Cambridge University Press|url=http://books.google.ca/books?id=qEZfYRuZLJQC&lpg=PP1&dq=%3DRedcoats%3A%20The%20British%20Soldier%20and%20War%20in%20the%20Americas%2C%201755-1763&pg=PP1#v=onepage&q&f=true|isbn=978-0-521-67538-3}}<br />
*{{Cite book|title=The Scratch of a Pen: 1763 and the Transformation of North America|first=Colin G|last=Calloway|ref=Calloway|publisher=Oxford University Press|year=2006|url=http://books.google.ca/books?id=XtxG369-VHQC&lpg=PP1&dq=The%20Scratch%20of%20a%20Pen%3A%201763%20and%20the%20Transformation%20of%20North%20America&pg=PP1#v=onepage&q&f=true|isbn=978-0-19-530071-0}}<br />
*{{Cite book|title=The French and Indian War|last=Cave |first=Alfred A.|authorlink= |coauthors= |year=2004 |publisher=Greenwood Press|location=Westport, Connecticut - London|isbn=0-313-32168-X |url=http://books.google.ca/books?id=iiZoWyv77qQC&lpg=PP1&dq=French%20and%20Indian%20Wars&pg=PP1#v=onepage&q&f=true |ref=Cave}}<br />
*{{Cite book|title=His Excellency George Washington |last=Ellis |first=Joseph J. |authorlink=Joseph Ellis |coauthors= |year=2004 |publisher=Vintage Books |location=New York |isbn=1-4000-3253-9 |page= |pages= |url=http://books.google.ca/books?id=jdrjRMhV5PcC&lpg=PP1&dq=His%20Excellency%20George%20Washington&pg=PP1#v=onepage&q&f=true |ref=Ellis}}<br />
*{{Cite book|title=Empires at War: The French and Indian War and the Struggle for North America, 1754-1763 |last=Fowler |first=William M. |authorlink=William M. Fowler |coauthors= |year=2005 |publisher=Walker |location=New York |isbn=0-8027-1411-0 |page= |pages= |url= |ref=Fowler}}<br />
*{{Cite book|title=Empire of Fortune: Crowns, Colonies, and Tribes in the Seven Years' War in America |last=Jennings |first=Francis |authorlink=Francis Jennings |coauthors= |year=1988 |publisher=Norton |location=New York |isbn=0-393-30640-2 |page= |pages= |url=http://books.google.ca/books?id=VsBPyRfdHEAC&lpg=PP1&dq=Empire%20of%20Fortune%3A%20Crowns%2C%20Colonies%2C%20and%20Tribes%20in%20the%20Seven%20Years%20War%20in%20America&pg=PP1#v=onepage&q&f=true |ref=Jennings}}<br />
*{{cite book|last=Nester|first=William R|title=The first global war: Britain, France, and the fate of North America, 1756–1775|location=Westport, CT|publisher=Praeger|year=2000|isbn=978-0-275-96771-0|oclc=41468552}}<br />
* {{cite book|last=O'Meara|first=Walter|title=Guns at the Forks|publisher=Prentice Hall|location=Englewood Cliffs, NJ|year=1965|url=http://books.google.com/?id=1UpMrXR3rvwC&lpg=PP1&dq=Guns%20at%20the%20Forks&pg=PP1#v=onepage&q&f=true|oclc=21999143|isbn=978-0-8229-5309-8}}<br />
*[http://www.collectionscanada.gc.ca/virtual-vault/ Virtual Vault Chambre forte virtuelle]<br />
*Walter R. Borneman, ''The French and Indian War'' New York: Harper Collins Publushers, 2006<br />
*木村和男編 『世界各国史 23 カナダ史』 山川出版社、1999年<br />
*小林幸雄著 『図説 イングランド海軍の歴史』 原書房、2007年<br />
*大矢タカヤス・ヘンリー=ワズワース・ロングフェロー著 『地図から消えた国、アカディの記憶』 書肆心水、2008年<br />
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<br />
== 関連項目 ==<br />
{{Commons category|French and Indian War}}<br />
* [[北米植民地戦争]]<br />
* [[第2次百年戦争]]<br />
* [[七年戦争]]<br />
* [[世界の一体化]]<br />
* [[インディアン戦争]]<br />
* [[民族浄化]]<br />
* [[1760年の征服]]<br />
* [[アメリカ独立戦争]]<br />
* [[フランス革命]]<br />
* [[プラッシーの戦い]]<br />
<br />
==外部リンク==<br />
*[http://www.militaryheritage.com/7yrswar.htm The French and Indian War Website]<br />
*[http://www.historicalpreservation.org Historical Preservation Archive: Transcribed Articles & Documents]<br />
*[http://www.pbs.org/thewarthatmadeamerica/ The War That Made America] from [[Public Broadcasting Service|PBS]]<br />
*[http://www.forgottenwaronline.org/ FORGOTTEN WAR: Struggle for North America] from [[Public Broadcasting Service|PBS]]<br />
*[http://www.shmoop.com/intro/history/us/the-french-indian-war.html French and Indian War] study guide, analysis, primary sources, teacher resources<br />
*[http://www.history.army.mil/reference/colon/ficol.htm Select Bibliography of the French and Indian Wars] compiled by the [[United States Army Center of Military History]]<br />
*[http://ns1763.ca/remem/7yw-timeline-w.html Seven Years' War timeline]<br />
*[http://ns1758.ca/parkman/14517_montcalm_and_wolfe.html Montcalm and Wolfe, by Francis Parkman] online ebook<br />
*[http://www.youtube.com/results?search_query=French+and+Indian+War+reenactments&oq=French+and+Indian+War+reenactments&aq=f&aqi=&aql=&gs_l=youtube.12...293235.307220.0.310655.27.24.3.0.0.1.140.1411.23j1.24.0...0.0.4ES8o69wri8 French and Indian War Living History Reenactments (videos)]<br />
* [http://www.k5.dion.ne.jp/~a-web/Gv-eng-5.htm 1758-1958 フォート・デュケーヌ(ピッツバーグ200年記念)(『スタンプ・メイツ』 (V)イギリス人の探検大航海 )]<br />
* [http://ns1763.ca/remem/7yw-timeline-w.html French and Indian War Timeline(英語)]<br />
<br />
{{Normdaten}}<br />
<br />
{{デフォルトソート:ふれんちいんていあんせんそう}}<br />
[[Category:フレンチ・インディアン戦争|*]]<br />
[[Category:18世紀の戦争]]<br />
[[Category:北米植民地戦争]]<br />
[[Category:七年戦争]]<br />
[[Category:アメリカ合衆国の戦争]]<br />
[[Category:カナダの戦争]]<br />
[[Category:グレートブリテン王国の戦争]]<br />
[[Category:フランスの戦争]]<br />
[[Category:インディアン戦争]]<br />
[[Category:アメリカ合衆国の歴史 (-1776)]]<br />
[[Category:フランスブルボン朝]]<br />
[[Category:ケベック州の歴史]]<br />
[[Category:ノバスコシア州の歴史]]<br />
[[Category:1750年代]]<br />
[[Category:1760年代]]</div>220.216.93.215 Warning: Cannot modify header information - headers already sent by (output started at /home/users/1/sub.jp-asate/web/wiki/extensions/HeadScript/HeadScript.php:3) in /home/users/1/sub.jp-asate/web/wiki/includes/WebResponse.php on line 46