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http:///mymemo.xyz/wiki/api.php?action=feedcontributions&user=220.216.84.187&feedformat=atom miniwiki - 利用者の投稿記録 [ja] 2024-05-09T00:34:26Z 利用者の投稿記録 MediaWiki 1.31.0 デンマーク=ノルウェー 2018-03-20T16:34:21Z <p>220.216.84.187: </p> <hr /> <div>{{出典の明記|date=2011年9月}}<br /> {{基礎情報 過去の国<br /> |略名 = <br /> |日本語国名 = デンマーク=ノルウェー<br /> |公式国名 = Danmark–Norge<br /> |建国時期 = [[1524年]]<br /> |亡国時期 = [[1814年]]<br /> |先代1 = カルマル同盟<br /> |先旗1 = Flag of the Kalmar Union.svg<br /> |先代2 = <br /> |先旗2 = <br /> |次代1 = デンマーク<br /> |次旗1 = Flag of Denmark.svg<br /> |次代2 = スウェーデン=ノルウェー&lt;!--ノルウェー (1814年)--&gt;<br /> |次旗2 =Flag_of_Norway_(1814–1821).svg<br /> |国旗画像 = Flag of Denmark.svg<br /> |国旗リンク = [[デンマークの国旗|国旗]]<br /> |国旗幅 = &lt;!-- 初期値125px --&gt;<br /> |国旗縁 = &lt;!-- no と入力すると画像に縁が付かない --&gt;<br /> |国章画像 = Royal Arms of King Frederick IV of Denmark and Norway.svg<br /> |国章リンク = &lt;!-- リンクを手動で入力する場合に指定 --&gt;<br /> |国章幅 = &lt;!-- 初期値85px --&gt;<br /> |標語 = <br /> |標語追記 = <br /> |国歌 = <br /> |国歌追記 = <br /> |位置画像 = Denmark-Norway in 1780.svg<br /> |位置画像説明 = 1780年の領土<br /> |位置画像幅 = &lt;!-- 初期値250px --&gt;<br /> |公用語 = &#039;&#039;&#039;公式&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;&lt;nowiki&gt;&lt;/nowiki&gt;<br /> *[[デンマーク語]]<br /> *[[ドイツ語]]<br /> &#039;&#039;&#039;非公式&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;&lt;nowiki&gt;&lt;/nowiki&gt;<br /> *[[ノルウェー語]]<br /> *[[アイスランド語]]<br /> *[[フェロー語]]<br /> *[[ノルン語]]<br /> *[[フリジア語]]<br /> *[[サーミ語]]<br /> *[[低地ドイツ語]]<br /> &#039;&#039;&#039;学術用語&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;&lt;nowiki&gt;&lt;/nowiki&gt;<br /> *[[ラテン語]]<br /> |首都 = [[コペンハーゲン]]<br /> |元首等肩書 = 国王<br /> |元首等年代始1 = 1524年<br /> |元首等年代終1 = 1533年<br /> |元首等氏名1 = [[フレゼリク1世 (デンマーク王)|フレゼリク1世]] &lt;small&gt;(初代)&lt;/small&gt;<br /> |元首等年代始2 = 1808年<br /> |元首等年代終2 = 1814年<br /> |元首等氏名2 = [[フレデリク6世 (デンマーク王)|フレデリク6世]] &lt;small&gt;(最終)&lt;/small&gt;&lt;ref group = &quot;†&quot;&gt;ノルウェー国王は退位したが、デンマーク国王として[[1839年]]まで在位した。&lt;/ref&gt;<br /> |首相等肩書 = <br /> |首相等年代始1 = <br /> |首相等年代終1 = <br /> |首相等氏名1 = <br /> |首相等年代始2 = <br /> |首相等年代終2 = <br /> |首相等氏名2 = <br /> |面積測定時期1 = 1780年<br /> |面積値1 = 487,426<br /> |面積測定時期2 = <br /> |面積値2 = <br /> |人口測定時期1 = 1645年<br /> |人口値1 = 1,315,000<br /> |人口測定時期2 = 1801年<br /> |人口値2 = 1,859,000<br /> |変遷1 = カルマル同盟崩壊<br /> |変遷年月日1 = 1524年<br /> |変遷2 = 連合解消<br /> |変遷年月日2 = 1814年<br /> |通貨 = デンマークリクスダラー&lt;br /&gt;ノルウェーリクスダラー<br /> |通貨追記 = <br /> |時間帯 = <br /> |夏時間 = <br /> |時間帯追記 = <br /> |ccTLD = <br /> |ccTLD追記 = <br /> |国際電話番号 = <br /> |国際電話番号追記 = <br /> |注記 = &lt;references group = &quot;†&quot; /&gt;<br /> }}<br /> &#039;&#039;&#039;デンマーク=ノルウェー&#039;&#039;&#039;は、[[デンマーク]]と[[ノルウェー]]を中心に構成されていた[[同君連合]]。[[カルマル同盟|カルマル連合]]が[[1523年]][[6月6日]]にスウェーデンの最終的な離脱宣言で崩壊して以後、特にノルウェー[[王国参事会]]が廃止された[[1537年]]以後の呼称である。[[デンマーク]]には[[シュレースヴィヒ=ホルシュタイン公国|スレースヴィ・ホルステン両公国]]も属していたが、それらは独自の行政単位であった。したがって、デンマーク・ノルウェー間での連合の解消は両公国との関係には影響せず、[[1864年]]まで同君連合を構成し続けた。<br /> <br /> [[1814年]][[1月14日]]、[[キール条約]]によってノルウェーは[[スウェーデン]]へ割譲されることとなった。ノルウェーにおいては[[クリスチャン8世 (デンマーク王)|クリスチャン・フレゼリク]]王子が国王に選出され、[[エイツヴォル]]議会は[[憲法]]を採択した。しかし、ノルウェーの独立は国際的承認を受けられなかった。[[モス協定]]でスウェーデンはノルウェー憲法を承認し、ノルウェーは内政に関して高度の自治を獲得することとなった([[スウェーデン=ノルウェー]])。人口1,315,000(1645年)、1,859,000(1801年)。面積487476km{{sup|2}}。<br /> <br /> ==カルマル連合の解消==<br /> デンマーク=ノルウェー連合王国の起源は、1380年、デンマーク王女でノルウェー王妃であった[[マルグレーテ1世|マルグレーテ]]が夫[[ホーコン6世]](ノルウェー王)と父の[[ヴァルデマー4世 (デンマーク王)|ヴァルデマー4世]](デンマーク王)の死後、両国の摂政となったことに端を発する。さらにマルグレーテはスウェーデンを降し、カルマル連合を締結して北欧に覇をとなえた&lt;ref&gt;[[#武光|武光(2001)p.87]]&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;[[#川原崎|川原崎(2008)pp.266-267]]&lt;/ref&gt;&lt;ref group=&quot;注釈&quot;&gt;14世紀末からデンマーク王家はスウェーデン支配に精力をかたむけ、デンマーク王家の息のかかった者をスウェーデン王家に対し養子などとして送り込んでいる。[[#武光|武光(2001)p.87]]&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> カルマル連合は最終的に[[1536年]]まで継続されたが、[[伯爵戦争]]を経て、この年にデンマーク王国参事会はノルウェーをデンマークの州とすることを宣言した。ノルウェーは[[世襲君主制|世襲王制]]であったため、国王の関心はノルウェーの独立性をより小さく抑えておくことであった。それはデンマーク王家が将来にわたってデンマーク王に選出される権利を確実なものにするためであった。ノルウェーは[[法 (法学)|法]]と一部の機関を独自のものとして保ったが、それまでノルウェーの[[植民地]]であった[[アイスランド]]・[[グリーンランド]]・[[フェロー諸島]]はデンマーク王のもとに属することとなった。<br /> <br /> ==絶対主義の導入==<br /> [[1660年]]、[[フレデリク3世 (デンマーク王)|フレゼリク3世]]は[[身分制議会]]における貴族と市民の対立を利用して、[[絶対王政|絶対主義]]と[[世襲君主制]]を導入した。絶対主義の導入によって「旧貴族」は影響力と伝統的特権の多くを失った。一方で、絶対主義体制における国王への臣従によって新たに貴族となった者たちには、新たな特権が与えられた。これに伴い、「旧貴族」の支配下にあったデンマーク王国参事会は廃止されることとなった。<br /> <br /> また連合全体に新たな行政制度が導入され、[[1687年]]には[[クリスチャン5世 (デンマーク王)|クリスチャン5世]]が新たな法を導入した。ノルウェーではこの時まで、13世紀の[[マグヌス6世 (ノルウェー王)|マグヌス改法王]]以来の全国法が効力を有していたのである。<br /> <br /> ==同君連合国家「ヒールスタート」==<br /> [[1773年]]、デンマーク王は[[ロシア皇帝]]との条約で二重王国と[[シュレースヴィヒ=ホルシュタイン公国|ホルシュタイン]]への主権を保障され、ここに同君連合国家「ヒールスタート」が成立した。デンマーク=ノルウェーはスウェーデンとも[[1753年]]に国境に関する条約を結び、ノルウェー北部の[[フィンマルク県|フィンマルク]]への支配権が保障された。[[大北方戦争]]終結から18世紀末に至るまで、デンマーク=ノルウェーには直接の脅威が存在しなかったからである。<br /> <br /> ヒールスタートの維持は異なる民族の合意と融合にかかっていた。それは第一に[[ノルウェー人]]・[[デンマーク人]]・ホルシュタイン人、次いで北ノルウェーの[[サーミ人]]と[[植民地]]の様々な住民を含むその他の民族である。多様な文化を抱えるヒールスタートにとっては、共通の基盤を見出すことは困難であった。ヒールスタートは1つの民族からなるのか、あるいは複数の民族と複数の祖国からなるのか、という問題が呈された。[[:da:J.H.E. Bernstorff|ベアンストーフ]]・[[:da:H.C. Schimmelmann|シメルマン]]・[[:da:C.D.F. Reventlow|レーヴェントロウ]]ら[[1784年]]以降の権力者たちにとって、連合内の異なる言語や文化との連帯感の中で青年期を送ったことは決定的な意味をもった。特に1784年から1814年に至るまでには、借地農の法的地位を定める勅令([[1787年]])、土地緊縛制の廃止([[1788年]])など徹底的な改革が実行された。[[1790年]]には出版の自由も保証されたが、これは[[1799年]]に再び規制が強化された。<br /> <br /> ==社会的状況==<br /> デンマークとノルウェーの関係は、経済的に見れば完璧に機能していた。古くからノルウェーを悩ませていた農作物の不足は、デンマークの農業によって補われた。一方で、[[北方戦争]]で[[スコーネ]]の領土を失ってから強力な海軍を維持する必要に迫られたデンマークでは、木材が不足し、森林がノルウェーの最大の切り札となった。ノルウェーは鉱物資源を有していたため、工業化に関して先進的であると見なされた。ノルウェーの製鉄業はデンマークの鉄供給を独占し、デンマークは一方でノルウェーの穀物供給を独占していた。<br /> <br /> しかし、官職に就くためには大学のある[[コペンハーゲン]]からその経歴を始めなければならず、海軍士官の教育に関してもそれは同様であった。デンマークに渡ったノルウェー人は、コペンハーゲンの影響を刻み込まれ、また言語においても影響を受けた。[[デンマーク語]]は唯一の書き言葉であったが、ノルウェーの民衆の話し言葉とは異なっていた。コペンハーゲンで教育を受けた者の多くは帰国せず、またデンマークと両公国からは多くの官僚や実業家がノルウェーに移住した。<br /> <br /> ==ナポレオン戦争==<br /> デンマーク=ノルウェーは、[[ナポレオン戦争]]に対して当初は中立を標榜したものの、イギリスとの通商面での対立を回避出来ず、[[1800年]]にスウェーデン、[[ロシア帝国]]などと組んで「[[武装中立同盟]]」を結んだ。しかし翌[[1801年]]に海軍がイギリス艦隊に敗れると反英的な立場に転じ、[[フランス帝国]]へと接近した。[[1807年]]には[[イギリス海軍]]がコペンハーゲンを攻撃し、軍艦を拿捕して去ると、デンマークはやむなくフランスとの同盟に入った。<br /> <br /> 1807年以降イギリス海軍が[[カテガット海峡]]に展開し、デンマークとノルウェーの交通は遮断された。ノルウェーは飢餓に陥り、経済は壊滅したが、フレゼリク6世はフランスとの同盟を継続した。国王はノルウェーの忠誠心を保つため、従弟の[[クリスチャン8世 (デンマーク王)|クリスチャン・フレゼリク]](後のデンマーク王[[クリスチャン8世 (デンマーク王)|クリスチャン8世]])を[[総督]]として派遣した。イギリス軍艦の巡回する状況下でノルウェー入りしなければならず、クリスチャン・フレゼリクは漁師に変装して漁船に乗り込んだ。<br /> <br /> 1814年の[[キール条約]]によって、デンマークとノルウェーの緊密な政治的関係は断ち切られた。[[対仏大同盟]]諸国はナポレオン戦争におけるデンマーク=ノルウェーの役割からしてそれほど大きな要求をしようとはしなかったが、しかし、スウェーデンはそうではなかった。スウェーデンは数世紀にわたり、特に[[1809年]]にロシアにフィンランドを割譲して以降、ノルウェー侵攻を企図していたのである。スウェーデンが同盟側に立って参戦した見返りとして、ノルウェーが割譲されることとなった。<br /> <br /> かつてノルウェーの植民地であったアイスランド・グリーンランド・フェロー諸島は、同君連合以前のノルウェーの法的支配下にあったため、デンマークがこれを獲得した。ノルウェー割譲の代償として、デンマークは[[北ドイツ]]のスウェーデン領を得ることになったが、その際[[スウェーデン領ポメラニア|スウェーデン領ポンメルン]]と[[リューゲン島]]が[[プロイセン王国|プロイセン]]に併合されたため、代わりに[[ホルシュタイン]]に隣接する[[ザクセン=ラウエンブルク]]をデンマークがプロイセンから得るという取引が行われた(ザクセン=ラウエンブルクの領有権は、スウェーデンが有していたがノルウェーを獲得できたため、譲歩することとなった)。<br /> <br /> == 分離とノルウェー=スウェーデン同君連合 ==<br /> ノルウェー人は、スウェーデンへの併合を避けるため、独立し、同時代のヨーロッパにおいて最も自由な憲法を制定しようと試みた。ノルウェーの王位継承者でもあったクリスチャン・フレゼリクは独立運動の指導者となり、エイツヴォルに憲法制定議会を招集した。この議会は1814年5月17日にクリスチャン・フレゼリクを独立ノルウェーの国王に選んだ。<br /> <br /> しかし、ノルウェーのこの独立は長続きしなかった。王太子[[カール14世ヨハン (スウェーデン王)|カール・ユーハン]]率いるスウェーデン軍が7月に侵攻し、[[8月14日]]にノルウェーは休戦を余儀なくされた。クリスチャン・フレゼリクは臨時議会を召集し、退位を表明した。議会はスウェーデンとの同君連合に必要な憲法修正を行った。5月17日の[[エイツヴォル憲法]]の大部分は維持することを許され、[[11月4日]]にノルウェー議会は、形式上は自発的に、スウェーデンの[[カール13世 (スウェーデン王)|カール13世]]を国王に選出した。この連合はかなり緩やかなものであり、両国に共通なのは国王と外交のみであった。<br /> <br /> ノルウェーはスウェーデンとの連合を強いられたが、デンマークとの文化的な絆の多くは依然として保たれた。[[1811年]]に設立された王立フレゼリク大学(現在の[[オスロ大学]])によって、ノルウェー人はもはや教育を受けるためにコペンハーゲンに行く必要がなくなったが、ノルウェーの教育制度は依然としてデンマークのものと似通っていた。後に[[ブークモール|リクスモール]]と呼ばれることになるノルウェーの書き言葉もまた、20世紀初めに至るまで概して[[デンマーク語]]と同様であった。ただし19世紀中期には、[[イーヴァル・オーセン|オーセン]]によって作られた[[ニーノシュク|ランスモール]]という新たな書き言葉も登場する。<br /> <br /> 1814年前後の[[ナショナリズム]]の高揚に伴い、ノルウェーの立場からデンマークを批判するパンフレットも発行されていた。こうした形で見られるようなデンマークに対する不快感は、スウェーデンとの連合時代に入っても残り、デンマークとの連合はしばしば否定的に「400年間の夜」と呼ばれもした。しかし、その後の研究によって示された時代像は、功罪両面に光を当てたより具体的なものとなっていく。<br /> <br /> == 脚注 ==<br /> {{脚注ヘルプ}}<br /> === 注釈 ===<br /> {{Reflist|group=注釈}}<br /> === 出典 ===<br /> {{Reflist|2}}<br /> <br /> == 参考文献 ==<br /> * {{Cite book|和書|author=[[武光誠]]|year=2001|month=4|title=世界地図から歴史を読む方法|publisher=[[河出書房新社]]|series=KAWADE夢新書|isbn=4-309-50217-2|ref=武光}}<br /> * {{Cite book|和書|author=[[川原崎剛雄]](監修)|year=2008|month=4|title=ヨーロッパの「王室」がよくわかる本|publisher=[[PHP研究所]]|series=PHP文庫|isbn=978-4-569-66963-2|ref=川原崎}}<br /> <br /> ==関連項目 ==<br /> *[[カルマル同盟]]<br /> *[[デンマーク・ノルウェー連合王国]]<br /> <br /> {{北欧の歴史}}<br /> <br /> {{DEFAULTSORT:てんまくのるうえ}}<br /> [[Category:デンマーク=ノルウェー|*]]<br /> [[Category:1524年に設立された国家・領域]]<br /> [[Category:1814年に廃止された国家・領域]]</div> 220.216.84.187 北方戦争 2018-03-20T15:51:25Z <p>220.216.84.187: /* 関連項目 */</p> <hr /> <div>{{Otheruses|17世紀の戦争(1655年 - 1661年)|18世紀の戦争(1700年 - 1721年)|大北方戦争}}<br /> {{脚注の不足|date=2015年2月}}<br /> {{Battlebox<br /> |battle_name = 北方戦争<br /> |campaign = 北方戦争<br /> |conflict = 北方戦争<br /> |image = [[ファイル:Tåget över bält2.jpg|300px]]<br /> |caption = [[氷上侵攻|ベルト海峡越えの進軍]]<br /> |date = 1655年 - 1660年<br /> |place = [[デンマーク=ノルウェー]]、[[バルト帝国|スウェーデン帝国]]、[[ポーランド=リトアニア共和国]]、[[ニュースウェーデン]]<br /> |result = 下記の条約により講和<br /> *[[ロスキレ条約 (1658年)|ロスキレ条約]]と[[コペンハーゲン条約 (1660年)|コペンハーゲン条約]](スウェーデン・デンマーク間)<br /> *[[オリヴァ条約]](スウェーデン・ハプスブルク家・ブランデンブルク・ポーランド=リトアニア間)<br /> *[[ヴァリエサル条約]]と[[カディス条約]](スウェーデン・ロシア間)<br /> |combatant1 = {{flagicon2|Sweden|1562}} [[バルト帝国|スウェーデン帝国]]&lt;br /&gt;{{flagicon image|Wappen Mark Brandenburg.png}} [[ブランデンブルク=プロイセン]](1656年 - 1657年)&lt;br /&gt;{{flagicon2|Transylvania|1596}} [[トランシルヴァニア公国]]&lt;br /&gt;{{flagicon image|Flag of the Cossack Hetmanat.svg}} [[ヘーチマン国家]](1657年)&lt;ref&gt;Hrushevsky (2003), pp. 327ff.&lt;/ref&gt;&lt;br /&gt;{{flagicon image|POL COA Radziwiłł.svg}} [[リトアニア大公国]]&lt;br /&gt;{{flagicon2|Wallachia|1658}} {{仮リンク|ワラキア公国|en|Wallachia}}&lt;br /&gt;{{flagicon2|Moldavia|1646}} {{仮リンク|モルダヴィア公国|en|Moldavia}}<br /> |combatant2 = {{flagicon image|Chorągiew królewska króla Zygmunta III Wazy.svg}} [[ポーランド=リトアニア共和国]]&lt;br /&gt;{{flagicon|Denmark}} [[デンマーク=ノルウェー]]&lt;br /&gt;{{flagicon2|Habsburg Monarchy}} [[ハプスブルク帝国]]&lt;br /&gt;{{flagicon image|Flag of Oryol (variant).svg}} [[ロシア・ツァーリ国]](1656年 - 1658年)&lt;br /&gt;{{flagicon image|Gerae-tamga.svg}} [[クリミア・ハン国]]&lt;br /&gt;{{flagicon image|Wappen Mark Brandenburg.png}} [[ブランデンブルク=プロイセン]](1655年 - 1656年、1657年 - 1660年)&lt;br /&gt;{{flagicon|Dutch Republic}} [[ネーデルラント連邦共和国]]<br /> |commander1 = {{flagicon2|Sweden|1562}} [[カール10世 (スウェーデン王)|カール10世グスタフ]]&lt;br /&gt;{{flagicon2|Sweden|1562}} {{仮リンク|アルヴィド・ヴィッテンベリ|en|Arvid Wittenberg}}&lt;br /&gt;{{flagicon|Sweden|1562}} {{仮リンク|マグヌス・ガブリエル・ド・ラ・ガーディエ|en|Magnus Gabriel De la Gardie}}&lt;br /&gt;{{flagicon|Sweden|1562}} {{仮リンク|カール・グスタフ・ウランゲル|en|Carl Gustaf Wrangel}}&lt;br /&gt;{{flagicon|Sweden|1562}} {{仮リンク|グスタフ・オットー・ステンボック|en|Gustaf Otto Stenbock}}&lt;br /&gt;{{flagicon|Sweden|1562}} {{仮リンク|小ペル・ブラヘ|en|Per Brahe the Younger}}&lt;br /&gt;{{flagicon image|Wappen Mark Brandenburg.png}} 選帝侯[[フリードリヒ・ヴィルヘルム (ブランデンブルク選帝侯)|フリードリヒ・ヴィルヘルム]]&lt;br /&gt;{{flagicon2|Transylvania|1596}} [[ラーコーツィ・ジェルジ2世]]&lt;br /&gt;{{flagicon image|Herb Viyska Zaporozkogo (Alex K).svg}} アントン・ジュダノヴィチ({{lang|ro|Anton Zhdanovich}})<br /> |commander2 = {{flagicon image|Chorągiew królewska króla Zygmunta III Wazy.svg}} [[ヤン2世 (ポーランド王)|ヤン2世カジミェシュ]]&lt;br /&gt;{{flagicon image|Chorągiew królewska króla Zygmunta III Wazy.svg}} [[スタニスワフ・レヴェラ・ポトツキ]]&lt;br /&gt;{{flagicon image|Chorągiew królewska króla Zygmunta III Wazy.svg}} {{仮リンク|スタニスワフ・ランコロンスキ|en|Stanisław Lanckoroński (hetman)}}&lt;br /&gt;{{flagicon image|Chorągiew królewska króla Zygmunta III Wazy.svg}} [[イェジ・セバスティアン・ルボミルスキ]]&lt;br /&gt;{{flagicon image|Chorągiew królewska króla Zygmunta III Wazy.svg}} {{仮リンク|ステファン・ツァルニエツキ|en|Stefan Czarniecki}}&lt;br /&gt;{{flagicon image|Chorągiew królewska króla Zygmunta III Wazy.svg}} {{仮リンク|パヴェウ・ヤン・サピェハ|en|Paweł Jan Sapieha}}&lt;br /&gt;{{flagicon image|Chorągiew królewska króla Zygmunta III Wazy.svg}} [[ヴィンツェンティ・コルヴィン・ゴシェフスキ]]&lt;br /&gt;{{flagicon|Denmark}} [[フレデリク3世 (デンマーク王)|フレデリク3世]]&lt;br /&gt;{{flagicon|Denmark}} {{仮リンク|ウルリク・フレデリク・ギルデンレーヴェ|en|Ulrik Frederik Gyldenløve}}&lt;br /&gt;{{flagicon|Denmark}} {{仮リンク|アンデルス・ビレ|en|Anders Bille}}{{KIA}}&lt;br /&gt;{{flagicon|Denmark}} {{仮リンク|イウァー・クラッベ|en|Iver Krabbe}}&lt;br /&gt;{{flagicon image|Flag of Tsar of Moscow.jpg}} [[アレクセイ (モスクワ大公)|アレクセイ]]&lt;br /&gt;{{flagicon image|Flag of Tsar of Moscow.jpg}} {{仮リンク|マトヴェイ・シェレメーテフ|ru|Шереметев, Матвей Васильевич}}{{KIA}}&lt;br /&gt;{{flagicon image|Wappen Mark Brandenburg.png}} 選帝侯[[フリードリヒ・ヴィルヘルム (ブランデンブルク選帝侯)|フリードリヒ・ヴィルヘルム]]&lt;br /&gt;{{flagicon2|Habsburg Monarchy}} [[ライモンド・モンテクッコリ]]&lt;br /&gt;{{flagicon2|Habsburg Monarchy}} {{仮リンク|ジャン=ルイ・ラーデュイ・ド・スーシュ|en|Jean-Louis Raduit de Souches}}<br /> |strength1 = <br /> |strength2 = <br /> |casualties1 = スウェーデンの死者70,000&lt;ref&gt;Claes-Göran Isacson, Karl X Gustavs Krig (2002) Lund, Historiska Media. Page 265. {{ISBN2|91-89442-57-1}}&lt;/ref&gt;(傭兵は除外)<br /> |casualties2=<br /> }}<br /> &#039;&#039;&#039;北方戦争&#039;&#039;&#039;(ほっぽうせんそう、{{lang-en|Northern War}}、[[1655年]] - [[1661年]])は、[[17世紀]]に起きた[[スウェーデン]]([[バルト帝国]])とその他の国々、[[ポーランド・リトアニア共和国|ポーランド・リトアニア連合]]([[大洪水時代]]、[[1648年]] - [[1667年]])、[[モスクワ大公国]]([[ロシア・ツァーリ国]]、[[1656年]] - [[1658年]])、[[ブランデンブルク=プロイセン]]([[1657年]] - [[1660年]])、[[神聖ローマ帝国]]([[1657年]] - [[1660年]])、そして[[デンマーク=ノルウェー]]([[1657年]] - [[1658年]]、[[1658年]] - [[1660年]])との[[戦争]]を一纏めにした時に使われる。<br /> <br /> == 名称 ==<br /> この戦争には様々な別名が各国に存在する。例えばポーランドにおいては、「[[大洪水時代]]」がしばしばこの一連のスウェーデン、ブランデンブルク、ロシア、[[トランシルヴァニア]]、そして[[ウクライナ・コサック]]との戦争を指す用語として使われており&lt;ref&gt;入江、注p41。「ポーランド・スウェーデン戦争」とも呼ばれている。&lt;/ref&gt;、デンマークにおいては「[[カール・グスタフ戦争|カール・グスタヴ戦争]]」として知られている。これらの戦争において、[[イングランド王国|イングランド]]は一貫してスウェーデンの[[同盟国]]として行動し、[[ネーデルラント連邦共和国|ネーデルラント]]はイングランドに対抗するため逆の立場でこの戦争に関与した&lt;ref&gt;ミュラー、p24 - p27、p40。オランダは、戦前は経済的結び付きの強いスウェーデンの同盟国であった。しかしスウェーデンの[[重商主義]]政策は、結果的にオランダとの競争を招き、経済的にも政治的にも二国間の関係を悪化させることとなった。新たな同盟国となったイングランドは、スウェーデンの新たな市場となったがオランダほど強固なものとはならなかった。&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> == 戦闘の推移 ==<br /> === 前史 ===<br /> 北方戦争はスウェーデンが起こしたものだが、数年前に勃発したコサックの反乱([[フメリニツキーの乱]])によりポーランド・リトアニア連合が巻き込まれた[[大洪水時代]]と言う[[内戦]]に、近隣諸国が介入したものである。特にスウェーデンはポーランドとの王位継承権問題を抱えており、スウェーデンの新王朝[[プファルツ王朝|プファルツ家]]の王位をポーランド王に認めさせるという意図もあった。スウェーデンは、周辺諸国にも火種を抱えていた。東方のモスクワ国家は西欧の窓である[[バルト海]]の出口を奪われていた。[[デンマーク=ノルウェー]]は、スウェーデンとの遺恨が前世紀より続いていた。両国は隙あらばスウェーデンとの戦争を伺っていた。フメリニツキーの乱ではモスクワ国家とスウェーデンは共闘関係にあったが、スウェーデンが[[リトアニア大公国]]と[[ケダイネイ合同]]を結び連合王国(共和国)に影響力を行使する事は、必然的にスウェーデンによる脅威が強まる事を意味し、モスクワ国家との対立関係はさらに深まる事となった。静観の立場をとるデンマークも連合王国でのスウェーデンの動向を伺っていた。一方でスウェーデンがバルト海世界で影響力が増せば増すほど新王家の国王は、周辺国への野心を高まらせて行く事となる。大洪水時代という未曾有の内戦は、近隣諸国の介入による国家間戦争に至り、スウェーデンによる侵攻は、結果的に北方諸国間による抗争を激化させて行く事となる。<br /> <br /> === 開戦 ===<br /> この戦争は、当初はスウェーデンが圧倒し、後の両国との[[講和条約]]により、プファルツ王朝を認めさせた事と、[[1629年]]に成立した{{仮リンク|スウェーデン領リヴォニア|en|Swedish Livonia}}([[リヴォニア]]の[[リーフランド]])を正式にスウェーデン領として認めさせる事が出来た。しかしスウェーデンによる脅威から、連合王国の徹底抗戦と周辺諸国の対スウェーデン戦争を呼び起し、戦域は拡大し、多大な犠牲を強いられる事となった。特にポーランドとの[[同君連合]]下にあった[[リトアニア大公国]]との[[ケダイネイ合同]]([[1655年]])は、完全に失敗に終わる事となった。これはスウェーデン国王自身の誇大化した野心と連合王国の分割、そしてスウェーデン軍による連合王国の都市、農村への略奪・破壊行為が連合王国国民の怒りを買い&lt;ref&gt;入江、注p41。&lt;/ref&gt;、時勢的にフメリニツキーの乱が一段落した事もあって、連合王国の総力を挙げての大反撃に転換し、スウェーデン軍はその後軍事的敗退を喫し、[[1657年]]に連合王国から追い払われる結果となったのである。これはスウェーデンの新王家であるプファルツ王家にとっては大失態であったが、ポーランド側にとっても軍事的にも政治的にも大転換の余力は無かった。スウェーデン軍の狼藉により連合王国の経済は圧迫され、国土の疲弊をもたらした上、スウェーデン軍を追い払っても尚、[[ウクライナ・コサック]]や[[ロシア・ポーランド戦争 (1654年-1667年)|ロシアとの戦争]]が継続したからである。スウェーデン軍は、デンマークとの戦争激化によって[[1659年]]に完全撤退したが、ポーランドとの和平が成るまではポーランドの[[貿易港]]を圧迫し続けた。とは言え、王位継承問題については、スウェーデンの最低限の戦争目的は果たされる事となる。<br /> <br /> モスクワ国家はスウェーデンのポーランドでの成功をみて脅威を感じ、ポーランドとの戦争を一時停止し、[[1656年]]からスウェーデンと交戦状態に入った。モスクワ国家はスウェーデンがポーランドで孤立している間、戦争で優位に立ち、フィンランド、エストニア、ラトヴィアなど広大な領土の占領に成功した。しかしウクライナで親ポーランド派が反旗を翻し([[反頭領の反乱]])、ポーランドも停戦を破棄してきたため、この危機に対応する必要からモスクワ国家はスウェーデンと[[1658年]]末に休戦。モスクワ国家は休戦後もスウェーデン東部領土を占領下に置いていたものの、スウェーデンからしてみれば交戦状態からは免れており、危機的状態からは脱する事となった。<br /> <br /> デンマークはポーランドでのスウェーデンの失態を見逃さず、この機に乗じて[[宣戦布告]]するも、スウェーデン軍は迅速で一気に[[ユトランド半島]]に侵攻し、開戦わずか数ヶ月でユトランド半島を制圧した([[カール・グスタフ戦争]])。デンマークは首都を半島から[[シェラン島]]に戻し、優位な海軍をもって防衛しようとしたが、1657年から1658年の冬の大[[寒波]]がデンマークを襲い、艦隊も氷に閉ざされた。さらにシェラン島に至る海峡も凍結した事で、スウェーデン軍は「[[氷上侵攻]]」を敢行し、首都[[コペンハーゲン]]は包囲されデンマークは降伏した。1658年[[2月26日]][[ロスキレ条約 (1658年)|ロスキレ条約]]を締結。ロスキレ条約の結果、デンマークはスウェーデンに領土を割譲したものの、デンマークが[[ネーデルラント連邦共和国|オランダ]]と密約したと言う不穏な情報がスウェーデンにもたらされ、1658年11月、オランダ艦隊はスウェーデン艦隊を撃破したあげく、コペンハーゲン防衛のための陸軍部隊を展開した。これを不快視したスウェーデンは1659年に再度デンマークに侵攻する。しかしスウェーデン軍は、名将デ・ロイテル率いるオランダ艦隊に支援された抵抗により、コペンハーゲンを攻略する事は出来ず、その間にデンマーク、[[ブランデンブルク=プロイセン]]、[[ハプスブルク君主国]]との軍事同盟が成立し、その同盟軍による進駐とデンマーク軍による抵抗により、スウェーデン軍はデンマークからの撤退を余儀なくされた。スウェーデンは戦争を継続するも戦陣を置いた[[スコーネ]](ロスキレ条約以前はデンマーク領)でも反乱が起きたため、戦況は暗転した。さらに[[1660年]]初頭、軍を指揮するスウェーデン国王自身が熱病に冒される事となった&lt;ref&gt;武田,物語 北欧の歴史、p58 - p60。&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;武田,物語 スウェーデン史、p65 - p68。&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> == 講和 ==<br /> [[ファイル:Swedish_Empire_(1560-1815)_en2.png|thumb|250px|[[バルト帝国|スウェーデン帝国]]の領土拡大。1658年の[[ロスキレ条約 (1658年)|ロスキレ条約]]により緑枠の領土を、1660年の[[コペンハーゲン条約 (1660年)|コペンハーゲン条約]]により萌黄色の領土を獲得したスウェーデンは、その大国時代の頂点を迎えた。]]<br /> カール10世は1660年初に病気に倒れ、2月23日に死去した。カール10世の死により和平の障害の1つが除かれ、4月23日には[[オリヴァ条約]]が締結された。スウェーデンは{{仮リンク|スウェーデン領リヴォニア|en|Swedish Livonia}}の主権を認められ、ブランデンブルクは[[プロイセン公国]]の主権を承認され、ヤン2世カジミェシュはスウェーデン王位への請求を取り下げたがスウェーデン王の称号を死去まで保持することを承認された。占領地は全て原状回復とした&lt;ref name=&quot;Frost183&quot;&gt;Frost (2000), p.183&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> しかし、デンマークは直近の成功によりスウェーデンの弱点を見つけ、和平に前向きではなかった。オランダは封鎖を解除したが、説得されて再びデンマークに肩入れした。フランスとイングランドはスウェーデン側で介入、再び大戦が起こるように思えた。しかし、デンマークの政治家{{仮リンク|ハンニバル・セヘステッド (ノルウェー総督)|en|Hannibal Sehested (governor)|label=ハンニバル・セヘステッド}}は外国の直接介入を排除して平和条約を交渉、[[コペンハーゲン条約 (1660年)|コペンハーゲン条約]]の締結に成功した。条約によりスウェーデンは[[ボーンホルム島]]と[[トロンデラーグ]]をデンマークに返還した&lt;ref name=&quot;Frost183&quot; /&gt;。またデンマークはバルト海でのスウェーデンに対する海軍行動の禁止を約束した&lt;ref&gt;武田 (2003), pp. 67-68.&lt;/ref&gt;。1660年の条約は政治的にはデンマーク、スウェーデンとノルウェーの境界を定め、境界は現代まで続いた。また、スウェーデンは{{仮リンク|ドミニウム・マリス・バルティキ|en|Dominium maris baltici}}(環バルト海世界の覇権)を確保した&lt;ref&gt;百瀬,熊野,村井, p. 150。この環バルト海世界の覇権は、以後、凡そ半世紀に渡って維持されることとなった。&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> ロシアは[[ロシア・ポーランド戦争 (1654年-1667年)|対ポーランド戦争]]を継続したが、スウェーデンとは[[カディス条約]]で講和、ロシアが占領したスウェーデン領を返還した&lt;ref name=&quot;Frost183&quot; /&gt;。<br /> <br /> === 講和条約の一覧 ===<br /> *[[ケーニヒスベルク条約 (1656年)|ケーニヒスベルク条約]] - スウェーデン・ブランデンブルク=プロイセン間、1656年締結。ブロンベルク条約とオリヴァ条約により無効。<br /> *[[ブロンベルク条約]] - ブランデンブルク=プロイセン・ポーランド=リトアニア間、1657年締結。<br /> *[[ロスキレ条約 (1658年)|ロスキレ条約]] - スウェーデン・デンマーク間、1658年締結。コペンハーゲン条約により無効。<br /> *[[オリヴァ条約]] - スウェーデン・ブランデンブルク=プロイセン・オーストリア・ポーランド=リトアニア間、1660年締結。<br /> *[[コペンハーゲン条約 (1660年)|コペンハーゲン条約]] - スウェーデン・デンマーク間、1660年締結。<br /> *[[カディス条約]] - スウェーデン・ロシア間、1661年締結。<br /> <br /> == 戦争の影響 ==<br /> スウェーデンはこの戦争で軍事的成功は殆ど為し得なかったが、政治的成功を得て北方の[[覇権]]を確立するに至った。北方戦争は、この様にバルト海世界に多大なインパクトを与え、スウェーデンと交戦国との40年間の和平の後、北方諸国が再度結集した戦争([[大北方戦争]]、[[1700年]] - [[1721年]])を再開する事となる。同時にスウェーデン財政にも多大なプレッシャーを与え、戦後のスウェーデンの国力弱体化を招く事にも繋がった&lt;ref&gt;入江、p45 - p47、p69 - 70。&lt;/ref&gt;。スウェーデンはバルト海世界での優位を保ったが、[[植民地]]はオランダによって奪われ、スウェーデンの植民地帝国への道は絶たれた([[プファルツ王朝]]の元では、[[スウェーデン海軍]]の更新はなく、スウェーデンの植民地であった[[北アメリカ|北米]]の[[ニュースウェーデン]]及び[[アフリカ]]の[[ゴールド・コースト]]を喪失した&lt;ref&gt;武田,物語 スウェーデン史、p52 - p53。&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;ミュラー、p38 - p43。スウェーデンの重商主義政策は、植民地事業では失敗に終わり、[[海運]]業の奨励に留まった。国家財政の悪化とともにスウェーデン経済も停滞することとなり、結果的にスウェーデンの[[国力]]弱体化をもたらすこととなった。&lt;/ref&gt;)。しかしスウェーデンにとって肥沃な[[スコーネ地方]]の獲得は、北方戦争の中での数少ない成果でもあった。1658年のロスキレ条約で得た領土の内、残った領土がスコーネだった。この領土を維持するためにスウェーデン政府は、他の占領地をデンマークに返還している。スウェーデンにとって、[[北海]]へ進出する事は悲願でもあった。この地方はデンマークにとっても重要であり、かつての[[北海帝国]]の首都は[[ルンド]]にあった。この地方をスウェーデンが獲得した1658年の段階で、一時、デンマークの人口がスウェーデンの半分にまで減少した程の影響を残した&lt;ref&gt;武田,物語 北欧の歴史、p59。&lt;/ref&gt;。このためデンマークは、バルト海の覇権奪回のみならず、スコーネ奪回のために幾度となくスウェーデンに対し戦端を開いている。1670年代の[[スコーネ戦争]]、1700年代の大北方戦争、19世紀の[[ナポレオン戦争]]によるスウェーデン分割の意図などである。しかしいずれもデンマークが敗退し、スウェーデンの地方自治体である[[スコーネ県]]として今日に至っている&lt;ref&gt;入江、p41 - p42。スコーネは当初、スウェーデン政府による[[同化政策]]による反発から[[ゲリラ]]活動も行われたが、大北方戦争期にはスウェーデン化が成功し、「良きスウェーデン人」となっていた。&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> ポーランドを中心とした連合王国も、スウェーデンと和平を結んだものの疲弊しており、以後も続く戦争によって、さらなる打撃を受ける事となる。ポーランドでは、フメリニツキーの死後、反頭領の反乱や[[リプカ・タタール人]]による{{仮リンク|リプカの反乱|en|Lipka Rebellion}}([[1672年]])等の内戦が続いた。ウクライナでは、[[1649年]]に[[ヘーチマン国家]]が独立したが、[[ロシア・ツァーリ国|モスクワ・ロシア]]の勢力伸長を経て[[1786年]]に[[ロシア帝国]]に吸収された。北方戦争では反スウェーデン側の強固な抵抗もあり、「ポーランド・リトアニア連合の分割」の目論見が成功に終わった訳ではなかったが、この強大化したロシア帝国がこの政策を継承して「[[ポーランド分割]]」を実施した。1660年にブランデンブルク=プロイセンがポーランド王国から[[プロイセン公国]]として独立することを承認されたが、[[プロイセン王国]]を経て、強大な[[ドイツ帝国]]へと変貌して行く。<br /> <br /> == 脚注 ==<br /> {{脚注ヘルプ}} <br /> {{Reflist|2}}<br /> <br /> == 参考文献 ==<br /> *{{cite book|title=The Northern Wars. War, State and Society in Northeastern Europe 1558-1721|first=Robert I|last=Frost|publisher=Longman|year=2000|isbn=978-0-582-06429-4}}<br /> *{{Cite book|last=Hrushevskyi|first=Mykhailo|title=Illustrated History of Ukraine|chapter=Between Moscow and Sweden|publisher=BAO|location=Donetsk|year=2003|isbn=966-548-571-7|language=ru}}<br /> * {{Cite book|和書|author = 阿部重雄|title = タチーシチェフ研究 18世紀ロシア一官僚=知識人の生涯と業績|date = 1996-02|publisher = [[刀水書房]]|isbn = 978-4-88708-193-2}}<br /> * {{Cite book|和書|author = 入江幸二|title = スウェーデン絶対王政研究|date = 2005-12|publisher = [[知泉書館]]|isbn = 978-4-901654-62-3}}<br /> * {{Cite book|和書|author = 武田龍夫|authorlink = 武田龍夫|title = 物語 北欧の歴史 - モデル国家の生成|date = 1993-05|publisher = [[中央公論新社]]|series = 中公新書 1131|isbn = 978-4-12-101131-2}}<br /> * {{Cite book|和書|author = 武田龍夫|title = 物語 スウェーデン史 - バルト大国を彩った国王、女王たち|date = 2003-10|publisher = [[新評論]]|isbn = 978-4-7948-0612-3}}<br /> * {{Cite book|和書|author = レオス・ミュラー |others = [[玉木俊明]]、根本聡、入江幸二訳|title = 近世スウェーデンの貿易と商人|date = 2006-03|publisher = 嵯峨野書院|isbn = 978-4-7823-0431-0}}<br /> * {{Cite book|和書|editor = [[百瀬宏]]、[[熊野聰]]、村井誠人編|title = 北欧史|edition = 新版|date = 1998-08|publisher = [[山川出版社]]|series = 新版世界各国史 21|isbn = 978-4-634-41510-2}}<br /> <br /> == 関連項目 ==<br /> * [[大洪水時代]]<br /> * スウェーデン戦争([[カール・グスタフ戦争]])<br /> * [[ロシア・ポーランド戦争 (1654年-1667年)|ロシア・ポーランド戦争]]<br /> * [[氷上侵攻]]<br /> * [[バルト帝国]]<br /> * [[ヴァーサ王朝]]<br /> * [[ポーランド・リトアニア共和国]]<br /> * [[プロシア公領]]<br /> * [[グリゴリー・コトシーヒン]]<br /> <br /> {{Normdaten}}<br /> {{DEFAULTSORT:ほつほうせんそう}}<br /> [[Category:北方戦争|*]]<br /> [[Category:17世紀の戦争]]<br /> [[Category:スウェーデンの戦争]]<br /> [[Category:ポーランド・リトアニア共和国の戦争]]<br /> [[Category:神聖ローマ帝国の戦争]]<br /> [[Category:プロイセンの戦争]]<br /> [[Category:デンマーク=ノルウェーの戦争]]<br /> [[Category:モスクワ・ロシアの戦争]]<br /> [[Category:大洪水時代]]<br /> [[Category:17世紀のヨーロッパ]]<br /> [[Category:北欧史]]<br /> [[Category:バルト帝国]]<br /> [[Category:カール10世]]<br /> [[Category:フリードリヒ・ヴィルヘルム]]</div> 220.216.84.187 大北方戦争 2018-03-20T15:37:53Z <p>220.216.84.187: /* 外部リンク */</p> <hr /> <div>{{Otheruses|18世紀の戦争(1700年 - 1721年)|17世紀の戦争(1655年 - 1661年)|北方戦争}}<br /> {{Battlebox<br /> | battle_name= 大北方戦争<br /> | campaign= 大北方戦争<br /> | colour_scheme=background:#ffccaa<br /> | image=[[ファイル:Great Northern War.jpg|300px]]<br /> | caption= <br /> | conflict= 大北方戦争<br /> | date= [[1700年]] - [[1721年]]<br /> | place= [[北ヨーロッパ|北東ヨーロッパ]]<br /> | result= スウェーデン側の敗北、[[ロシア帝国|帝政ロシア]]の成立<br /> | combatant1={{SWE1611}}&lt;br&gt;{{POL1569}}(1704年 - 1709年)&lt;br&gt;[[ファイル:Flag of the Ottoman Empire (1453-1844).svg|25px]] [[オスマン帝国]](1710年 - 1714年)&lt;br&gt;[[ファイル:Flag of the Cossack Hetmanat.svg|25px]] [[ヘーチマン国家]](1708年 - 1709年)&lt;br&gt;{{flagcountry|Kingdom of Great Britain}}(1720年)<br /> | combatant2={{RUT}}&lt;br&gt;[[ファイル:Flag of Denmark.svg|25px]] [[デンマーク=ノルウェー]](1700年、1709年 - 1720年)&lt;br&gt;[[ファイル:Flag of Electoral Saxony.svg|25px]] [[ザクセン選帝侯領]](1700年 - 1704年、1709年 - 1720年)&lt;br&gt;{{POL1569}}(1700年 - 1704年、1709年 - 1720年)&lt;br&gt;[[ファイル:Flag of the Cossack Hetmanat.svg|25px]] [[ヘーチマン国家]]&lt;br&gt;{{flagicon2|Prussia|1701}} [[プロイセン王国]](1715年 - 1720年)&lt;br&gt;[[ファイル:Flag of Hanover (1692).svg|25px]] [[ハノーファー王国|ハノーファー選帝侯]](1715年 - 1720年)&lt;br&gt;{{flagcountry|Kingdom of Great Britain}}(1717年 - 1720年)<br /> | commander1=[[ファイル:Sweden-Flag-1562.svg|25px]] [[カール12世 (スウェーデン王)|カール12世]]&lt;br&gt;[[ファイル:Herb Rzeczypospolitej Obojga Narodow.svg|25px]] [[スタニスワフ・レシチニスキ]]&lt;br&gt;[[ファイル:Flag of the Ottoman Empire (1453-1844).svg|25px]] [[アフメト3世]]&lt;br&gt;[[ファイル:Flag of the Cossack Hetmanat.svg|25px]] [[イヴァン・マゼーパ]]<br /> | commander2={{flagicon|Russia}} [[ピョートル1世]]&lt;br&gt;[[ファイル:Flag of Denmark.svg|25px]] [[フレデリク4世 (デンマーク王)|フレデリク4世]]&lt;br&gt;{{flagicon2|Electorate of Saxony}} [[アウグスト2世 (ポーランド王)|アウグスト2世]]&lt;br&gt;{{flagicon2|Prussia|1701}} [[フリードリヒ・ヴィルヘルム1世 (プロイセン王)|フリードリヒ・ヴィルヘルム1世]]<br /> | strength1=77,000-393,400&lt;br&gt;*内訳&lt;br&gt;スウェーデン兵:77,000-135,000&lt;br&gt;オスマン帝国兵:100,000-200,000&lt;br&gt;コサック兵:8,000-40,000&lt;br&gt;ポーランド=リトアニア連合兵:16,000<br /> | strength2=310,000&lt;br&gt;*内訳&lt;br&gt;ロシア兵:170,000&lt;br&gt;デンマーク兵:40,000&lt;br&gt;ポーランド=リトアニア連合兵、ザクセン兵:100,000&lt;br&gt;プロイセン兵、ハノーファー兵:不明<br /> | casualties1=戦死25,000&lt;br&gt;飢餓、災害、疲労での死175,000&lt;ref&gt;Ericson (2004)&lt;/ref&gt;<br /> | casualties2=ロシア軍戦死:最小75,000&lt;br&gt;ポーランド軍戦死:14,000-20,000&lt;br&gt;ザクセンとデンマーク人戦死:8000&lt;br&gt;デンマーク人戦死:60,000(1709年 - 1719年)&lt;ref group=&quot;注&quot;&gt;それぞれの国での飢餓、災害、過労による死:数万~数十万(ロシアはスウェーデンより多いと考えられる。1709年から1719年のデンマーク人の死者にはこれも含む)&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;Lindegren(1995)&lt;/ref&gt;<br /> |}}<br /> &#039;&#039;&#039;大北方戦争&#039;&#039;&#039;(だいほっぽうせんそう、{{Lang-sv|Stora nordiska kriget}}、{{Lang-ru|Великая Северная война}}、{{Lang-pl|III wojna północna}}、{{Lang-da|Den Store Nordiske Krig}}、{{Lang-de|Großer Nordischer Krieg}}、{{Lang-en|Great Northern War}}、[[1700年]] - [[1721年]])は、[[スウェーデン]]と[[反スウェーデン同盟]](&#039;&#039;&#039;北方同盟&#039;&#039;&#039;)を結成した諸国とが[[バルト帝国|スウェーデンの覇権]]をめぐって争った戦争であり、近世の[[北ヨーロッパ|北欧]]、[[中央ヨーロッパ|中欧]]、そして[[東ヨーロッパ|東欧]]における重要な画期となった。<br /> <br /> == 概要 ==<br /> 当初、北方同盟は[[ピョートル1世]]のロシア、[[フレデリク4世 (デンマーク王)|フレデリク4世]]の[[デンマーク=ノルウェー]]、[[アウグスト2世 (ポーランド王)|アウグスト2世]](強健王)の[[ザクセン選帝侯領|ザクセン]]=[[ポーランド・リトアニア共和国|ポーランド=リトアニア]]から構成されていた。フレデリク4世とアウグスト2世はスウェーデンに敗れて1700年と[[1706年]]に脱落したが、[[1709年]]に再加入している。[[ブラウンシュヴァイク=リューネブルク|ブラウンシュヴァイク=リューネブルク公]]([[ハノーファー王国|ハノーファー選帝侯]])兼[[イギリス]]王[[ジョージ1世 (イギリス王)|ジョージ1世]](ゲオルク1世ルートヴィヒ)は[[1714年]]にハノーファーとして同盟に加入し、[[1717年]]にはイギリスとして参戦した。また[[1715年]]には[[ブランデンブルク=プロイセン]]王[[フリードリヒ・ヴィルヘルム1世 (プロイセン王)|フリードリヒ・ヴィルヘルム1世]]が参加した。スウェーデン側では[[カール12世 (スウェーデン王)|カール12世]]のスウェーデンを始め、[[ホルシュタイン=ゴットルプ家|ホルシュタイン=ゴットルプ公領]]が、[[1704年]]から[[1710年]]の間に[[スタニスワフ・レシチニスキ]]の下にポーランドとリトアニアの諸侯が、[[1708年]]から1710年には[[コサック]]の[[イヴァン・マゼーパ]]がそれぞれ参戦した。[[オスマン帝国]]は一時期スウェーデン王カール12世を庇護してピョートル1世に対して介入した。<br /> <br /> 戦争は、デンマーク=ノルウェーによるホルシュタイン=ゴットルプ、ザクセン=ポーランド=リトアニアによる[[スウェーデン領リヴォニア]]{{enlink|Swedish Livonia|en}}そしてロシアによるスウェーデン領[[イングリア]]に対する三方面からの攻勢で始まった。スウェーデンは[[トラヴェンタール条約|トラヴェンタール]]と[[ナルヴァ]]でデンマークとロシアの攻撃を撃退し、アウグスト2世への反攻ではリトアニア、ポーランドからザクセンへと追撃し、[[アルトランシュテット条約]]で敗北を認めさせ、彼を退位させた。 一方、ピョートル1世はスウェーデンのバルト地方を奪取し、この地に[[サンクトペテルブルク]]を建設して[[バルト海]]への出口を固めた。 カール12世はピョートル1世と対するべく、ザクセンからロシアへ戻ったが、ロシア遠征は[[ポルタヴァの戦い|ポルタヴァ]]でのスウェーデン主力軍の壊滅とカール12世のオスマン帝国領[[ベンデル]]への逃亡で終わった。 ロシア軍の追撃はオスマン帝国軍の介入によって[[プルト川]]([[プルト条約]])で頓挫した。<br /> <br /> ポルタヴァの戦い後、当初の北方同盟が再建され、その後ハノーファーとプロイセンが加盟した。バルト海の南と東のスウェーデン軍残余は追い払われ、スウェーデン領土は連合国によって分割された。スウェーデン本国は西からデンマーク=ノルウェー、東方からはロシアに侵入された。デンマークの攻撃は[[ヘルシングボリの戦い]]{{enlink|Battle of Helsingborg|en}}で撃退されたが、ロシアはフィンランドを占領し{{enlink|Greater Wrath|大いなる怒り}}、スウェーデン海軍と沿岸要塞に深刻な打撃を与えた。カール12世はノルウェーに戦線を開いたが、[[1718年]]に[[フレデリックスハルド]]{{enlink|Fredriksten|en}}で戦死した。<br /> <br /> 戦争はスウェーデンの敗北で終わり、ロシアがバルト海における新たな列強国となり、ヨーロッパ政治における新しい重要なプレーヤーとなった。正式な講和はスウェーデンとハノーファー、プロイセンとは[[1719年]]の[[ストックホルム条約]]、デンマークとは[[1720年]]に[[フレデリクスボー条約]]、ロシアとは1721年に[[ニスタット条約]]がそれぞれ結ばれている。 これによって、スウェーデンは[[スウェーデン=フィンランド|フィンランド]]、[[エーレスンド海峡|ズンド海峡]]、[[スウェーデン領ポメラニア]]{{enlink|Swedish Pomerania|en}}の北部を除くすべての領土を割譲させられ、 ホルシュタイン=ゴットルプ公領との関係は断たされた。ハノーファーは[[ブレーメン]]=[[フェルデン (アラー)|フェルデン]]{{enlink|Bremen-Verden|en}}を獲得し、ブランデンブルク=プロイセンは[[オーデル川|オーデル川河口域]]を併合し、ロシアはバルト海地方をデンマークは[[シュレースヴィヒ=ホルシュタイン州|シュレースヴィヒ=ホルシュタイン]]を確保している。スウェーデン[[絶対君主制]]はカール12世の死によって終焉し、[[自由の時代]](&#039;&#039;[[:en:Age of Liberty|Frihetstiden]]&#039;&#039;)が始まった。一方、ロシアはスウェーデンの[[バルト海]]における[[覇権]]を奪い取り、[[ヨーロッパ]]における[[列強]]の一員となり、また、この戦争で獲得した地に新都[[サンクトペテルブルク]]を建設し、1721年、元老院と宗務院がピョートル1世に皇帝([[インペラトル]])の称号を贈り[[ロシア帝国]]となった&lt;ref name=&quot;toriyama62&quot;&gt;鳥山(1978),p.62&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 北方戦争は、後に文化人や[[軍人]]の研究材料として取り上げられている。[[ヴォルテール]]や[[カール・フォン・クラウゼヴィッツ|クラウゼヴィッツ]]によるものが有名である。<br /> <br /> この戦争の時期、参戦各国で暦法が異なり、ロシアは[[ユリウス暦]](以下&#039;&#039;&#039;露暦&#039;&#039;&#039;)、スウェーデンは独自の[[スウェーデン暦]](以下&#039;&#039;&#039;瑞暦&#039;&#039;&#039;)、ポーランドやドイツ諸侯は[[グレゴリオ暦]]を使用していた。参戦国が多数なため、本項目の日付はグレゴリオ暦を基本とし、必要に応じて露暦と瑞暦を併記する。<br /> <br /> == 背景 ==<br /> === バルト帝国の形成 ===<br /> [[ファイル:Swedish Empire in Early Modern Europe (1560-1815).png|thumb|250px|left|バルト帝国(1560年 - 1815年)]]<br /> {{main|バルト帝国}}<br /> [[16世紀]]にデンマークから独立したスウェーデンは、その後も幾度かデンマークと戦火を交えてきた([[北方七年戦争]]、[[カルマル戦争]])。<br /> <br /> [[グスタフ2世アドルフ (スウェーデン王)|グスタフ2世アドルフ]](在位:[[1611年]] - [[1632年]])の時代にスウェーデンは[[動乱時代]]にあったロシアに介入して、[[1617年]]に[[ストルボヴァの和約]]を勝ち取り、[[カレリア]]と[[イングリア]]を割譲させ&lt;ref&gt;熊野他 (1998), p. 147.&lt;/ref&gt;、ロシアからバルト海への直接的な出口を奪い、これによりロシアはスウェーデンの[[地域覇権]]に対抗しえない地位に陥ることになった。<br /> <br /> グスタフ2世アドルフは[[三十年戦争]]に介入して[[プロテスタント]]陣営の主力軍として戦った。グスタフ2世アドルフは[[1632年]]の[[リュッツェンの戦い (1632年)|リュッツェンの戦い]]で戦死したものの、スウェーデンは[[ヴェストファーレン条約]]で北ドイツの[[ブレーメン公領]]{{enlink|Duchy of Bremen|en}}と[[フェルデン (アラー)|フェルデン]]、[[ヴィスマール]]そして[[ポメラニア|西ポメラニア]]を獲得している&lt;ref&gt;熊野他 (1998), p. 149.&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 三十年戦争末期に勃発したデンマークとの[[トルステンソン戦争]]でもスウェーデンは勝利し、[[ゴットランド島]]とノルウェーの2地域を割譲させるとともに[[ズンド海峡通行税]]{{enlink|Sound Dues|en}}免除特権を勝ち取った&lt;ref&gt;熊野他 (1998), p. 143.&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> [[カール10世 (スウェーデン王)|カール10世]](在位:[[1654年]] - [[1660年]])の時にスウェーデンは[[オリヴァ条約]]{{enlink|Treaty of Oliva|en}}でポーランドから[[リヴォニア]]を獲得した([[大洪水時代]])。またデンマークとの[[カール・グスタフ戦争]]では[[ユトランド半島]]を制圧し、[[1658年]]の[[ロスキレ条約 (1658年)|ロスキレ条約]]によって[[スコーネ]](スウェーデン南部)、[[トロンハイム]](ノルウェー中部、後に返還)、[[ボーンホルム島]]を割譲させた&lt;ref&gt;熊野他 (1998), p. 150.&lt;/ref&gt;([[北方戦争]]を参照)。<br /> <br /> こうして[[1560年]]から[[1658年]]の間にスウェーデンは[[フィンランド湾]]を中心とした[[カレリア]]、[[イングリア]]、[[エストニア]]、[[リヴォニア]]地方を含む[[バルト帝国]]をつくり上げた。<br /> <br /> === 北方同盟の結成 ===<br /> [[1695年]]にスウェーデンの同盟者の[[ホルシュタイン=ゴットルプ家|シュレースヴィヒ=ホルシュタイン=ゴットルプ公]][[クリスチャン・アルブレクト (シュレースヴィヒ=ホルシュタイン=ゴットルプ公)|クリスチャン・アルブレクト]]が死去するとデンマーク=ノルウェー王[[クリスチャン5世 (デンマーク王)|クリスチャン5世]](1699年死去)がゴットルプの相続を主張して紛争になり、スウェーデン王[[カール11世 (スウェーデン王)|カール11世]]が調停にあたったが、[[1697年]]にカール11世が死去するとデンマーク軍はゴットルプに侵入して要塞のいくつかを制圧した&lt;ref&gt;箕作 (1915), pp. 52-53.&lt;/ref&gt;。この為、ホルシュタイン=ゴットルプ公領の新当主[[フレデリク4世 (シュレースヴィヒ=ホルシュタイン公)|フレデリク4世]]は[[1698年]]にカール11世の王女[[ヘドヴィグ・ソフィア・アヴ・スヴェーリエ|ヘドヴィグ・ソフィア]]と結婚して同盟を固めた。デンマークは対抗上、同盟者を求めてポーランドと接近する&lt;ref&gt;箕作 (1915), pp. 54-55.&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> [[反スウェーデン同盟]](&#039;&#039;&#039;北方同盟&#039;&#039;&#039;)の結成に深く関わった人物が亡命スウェーデン貴族[[ヨハン・パトクル]]である。パトクルはスウェーデン領リヴォニアの貴族でスウェーデン王カール11世の時に大逆罪を宣告されて亡命を余儀なくされ、[[ポーランド・リトアニア共和国|ポーランド]]王兼[[ザクセン選帝侯領|ザクセン選帝侯]][[アウグスト2世 (ポーランド王)|アウグスト2世]]に仕えていた。パトクルの画策により、[[1699年]]8月にデンマークとザクセンとの同盟が成立し、そして[[11月22日]](露暦11月10日)にはロシアとザクセンとの[[プレオブラジェンスキー条約]]が締結され、ロシアとデンマーク、ザクセンによる北方同盟が成立する&lt;ref&gt;箕作 (1915), p. 60.&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 反スウェーデン同盟が結成されたことを知ったカール12世は1700年1月に[[イギリス]]、[[オランダ]]と防御同盟を結んでこれに対抗した&lt;ref&gt;箕作 (1915), p. 63.&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> == 両軍 ==<br /> === スウェーデン陣営 ===<br /> [[ファイル:Karl XII 1706.jpg|thumb|left|150px|スウェーデン王[[カール12世 (スウェーデン王)|カール12世]]]]<br /> 「兵隊王」と呼ばれ&lt;ref&gt;[http://100.yahoo.co.jp/detail/%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%83%AB%EF%BC%8812%E4%B8%96%EF%BC%89/ カール(12世)(Yahoo!百科事典)]&lt;/ref&gt;軍事的天才と評されることになる&lt;ref name=&quot;abe119&quot;&gt;阿部(1966), p. 119.&lt;/ref&gt;&lt;ref name=&quot;toriyama38&quot;&gt;鳥山(1978), p. 38.&lt;/ref&gt;スウェーデン王カール12世&lt;ref group=&quot;注&quot; name=&quot;cousins&quot;&gt;[[カール12世 (スウェーデン王)|スウェーデン王カール12世]]、シュレースヴィヒ=ホルシュタイン公[[フレデリク4世 (シュレースヴィヒ=ホルシュタイン公)|フレデリク4世]]、ポーランド王兼ザクセン選帝侯[[アウグスト2世 (ポーランド王)|アウグスト2世]]、そしてデンマーク=ノルウェー王[[フレデリク4世 (デンマーク王)|フレデリク4世]]は全員デンマーク=ノルウェー王[[フレデリク3世 (デンマーク王)|フレデリク3世]]の孫にあたる。&lt;/ref&gt;は[[1697年]]に14歳で父カール11世からスウェーデン王位を継承、絶対君主国家としてバルト帝国(スウェーデン王国)を引き継いだ。父は戦争を避けて国政改革に専念し、保護関税制や貴族領地を削減して王領を増加させる[[土地回収]]({{lang|sv|&#039;&#039;reduktion&#039;&#039;}})を実施して財政を安定させ、王権と帝国の軍事力を強化させていた&lt;ref&gt;熊野他 (1998), pp. 151-152.&lt;/ref&gt;&lt;ref name=&quot;abe119&quot; /&gt;。<br /> <br /> カール12世は自らを中世騎士の申し子と考え、強い正義感と贅沢や飲酒そして[[フランス語]]の使用といった[[バロック様式]]の生活への嫌悪とで知られている。その代わりに、彼は当時のバロック様式の王宮を出て馬上の兵士としての生活を好んだ。生涯、妻を迎えることがなかった彼は「私は軍隊と結婚したのだ」と公言している&lt;ref name=&quot;toriyama38&quot; /&gt;。<br /> <br /> 彼は約束を破り王位にふさわしくないと見なした敵対者達を王位から引き下ろすことを追求し、それ故に幾つもの和平の機会を逃してきた。このような態度は、一部の者からは偉大と、他からは狂気と見なされ、1718年に彼を殺した銃弾がどこから撃たれたのかは明らかでない&lt;ref&gt;武田 (2003), pp. 85-86.&lt;/ref&gt;。戦争中、カール12世以外で最も重要なスウェーデンの指揮官は親友の[[カール・グスタフ・レーンスケルド]]{{enlink|Carl Gustav Rehnskiöld|en}}であり、他に[[マグヌス・ステンボック]]や[[アダム・ルートヴィヒ・レーヴェンハウプト]]{{enlink|Adam Ludwig Lewenhaupt|en}}がいる。<br /> <br /> カール12世&lt;ref group=&quot;注&quot; name=&quot;cousins&quot; /&gt;の従弟であるホルシュタイン=ゴットルプ公フレデリク4世はカール12世の姉[[ヘドヴィグ・ソフィア・アヴ・スヴェーリエ]]の夫である。彼の息子であり[[1702年]]に公位を継いだ[[カール・フリードリヒ (シュレースヴィヒ=ホルシュタイン=ゴットルプ公)|カール・フリードリヒ]]はカール12世の死後スウェーデン王位を主張したが、カール12世の妹[[ウルリカ・エレオノーラ (スウェーデン女王)|ウルリカ・エレオノーラ]]の主張に譲らざるを得なかった。後にカール・フリードリヒは[[ピョートル1世]]の皇女[[アンナ・ペトロヴナ]]と結婚していた。<br /> <br /> [[ウクライナ・コサック]]の首長([[ヘーチマン]])[[イヴァン・マゼーパ]]はピョートル1世側で戦ったが、[[1708年]]にカール12世側へ寝返っている。しかし、[[1709年]]にスウェーデンがロシアに敗れた後は亡命、同年に亡命地のオスマン帝国で死去した。部下の[[ダヌィーロ・アポーストル]]は一旦マゼーパと共にスウェーデン軍へ降ったがロシアへ寝返り、以後はロシア軍に従軍、後にヘーチマンに選出された。<br /> {{-}}<br /> <br /> === 北方同盟陣営 ===<br /> {{multiple image|image1=Inconnu_d&#039;après_J.-M._Nattier,_Portrait_de_Pierre_Ier_(musée_de_l’Ermitage).jpg|image2=Frederik den 4.jpg|width1=146|width2=150|footer=[[ロシア]]の[[ツァーリ]]・[[ピョートル1世]](左)とデンマーク=ノルウェー王[[フレデリク4世 (デンマーク王)|フレデリク4世]](右)}}<br /> [[ファイル:August II of Poland and Friedrich Wilhelm I of Prussia.PNG|thumb|right|200px|ポーランド王兼ザクセン選帝侯[[アウグスト2世 (ポーランド王)|アウグスト2世]](左)とプロイセン王兼ブランデンブルク選帝侯[[フリードリヒ・ヴィルヘルム1世 (プロイセン王)|フリードリヒ・ヴィルヘルム1世]](右)]]<br /> [[ロシア]]の[[ツァーリ]]・ピョートル1世は[[1689年]]に姉[[ソフィア・アレクセーエヴナ|ソフィア]]の[[摂政]]政府を倒して実権を掌握すると、父[[アレクセイ (モスクワ大公)|アレクセイ]]が行っていた諸改革を継続、また[[1695年]]から[[1696年]]に[[黒海]]への出口を求めてアゾフ遠征を行い、[[オスマン帝国]]から[[アゾフ|アゾフ要塞]]を奪取した。[[1697年]]には[[西ヨーロッパ|西欧]]への[[グランドツアー]]に出発して先進技術を学んでいる。[[1698年]]、ピョートル1世は[[ストレリツィ|銃兵隊]]反乱の報を受け、旅行を切り上げて帰国する途上でポーランド王兼ザクセン選帝侯アウグスト2世と会見し、反スウェーデン同盟に合意した&lt;ref&gt;トロワイヤ (1981), pp. 101-102.&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> ピョートル1世の治世により、[[ロシア・ツァーリ国]]は[[ロシア帝国|近代的な帝国]]につくり変えられ、バルト海、黒海そして[[カスピ海]]への出口も獲得した。&#039;&#039;&#039;大帝&#039;&#039;&#039;の彼の称号は、これらの成果をもってのことである。ピョートル1世以外で最も重要なロシアの指揮官は[[アレクサンドル・メーンシコフ|アレクサンドル・ダニロヴィチ・メーンシコフ]]と[[ボリス・シェレメーテフ]]{{enlink|Boris Sheremetev|en}}である。<br /> <br /> ザクセン選帝侯フリードリヒ・アウグスト1世(カール12世の従兄&lt;ref group=&quot;注&quot; name=&quot;cousins&quot; /&gt;)は[[ヤン3世 (ポーランド王)|ヤン3世]]の没後にポーランド王位を得た(アウグスト2世強健王)。彼はバロック様式の生活を送り、首都[[ドレスデン]]を世界的に有名なバロック様式の街に変え、360人もの庶子をもうけたとされる&lt;ref&gt;菊池 (2009), pp. 77-85.&lt;/ref&gt;。彼はスウェーデンに奪われたリヴォニア奪回を企てて&lt;ref name=&quot;Lukowski&amp;Zawadzki126&quot;&gt;ルコフスキ&amp;ザヴァツキ (2007), p. 126.&lt;/ref&gt;、ヨハン・パトクルに反スウェーデン同盟を画策させた&lt;ref&gt;阿部 (1966), p. 120.&lt;/ref&gt;。1698年9月のプラヴォにおけるピョートル1世との会合でスウェーデン攻撃計画が立てられ、これが彼の没落のもととなる。[[ポーランド・リトアニア共和国]]を絶対君主制に転換しようとする彼の野心は失敗に終わった。彼の称号は身体的な強健さに由来する。<br /> <br /> [[デンマーク=ノルウェー]]王[[フレデリク4世 (デンマーク王)|フレデリク4世]](カール12世の従兄&lt;ref group=&quot;注&quot; name=&quot;cousins&quot; /&gt;)は[[1699年]]に父クリスチャン5世から王位を継承した。デンマークは祖父[[フレデリク3世 (デンマーク王)|フレデリク3世]]と父の時代に絶対王政を確立させており&lt;ref&gt;熊野他 (1998), pp. 153-156.&lt;/ref&gt;、過去の戦争でスウェーデンに領土を奪われた上に隣接するホルシュタインまでスウェーデンの勢力下に入ったことに憤慨していた&lt;ref&gt;阿部 (1966), pp. 120-121.&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> [[ブランデンブルク辺境伯|ブランデンブルク選帝侯]]および[[プロイセン王国|プロイセン王]][[フリードリヒ・ヴィルヘルム1世 (プロイセン王)|フリードリヒ・ヴィルヘルム1世]]([[1713年]]即位)は[[1715年]]から参戦した。彼はかねてからのブランデンブルクの目標であった、ブランデンブルク中心地域からバルト海への出口となるオーデル川河口域を獲得する決意をしていた。<br /> <br /> [[ハノーファー王国|ハノーファー選帝侯]]であり[[1714年]]に[[イギリス]]王に即位した[[ハノーヴァー朝|ハノーファー家]]の[[ジョージ1世 (イギリス王)|ジョージ1世]](ハノーファー選帝侯ゲオルク1世ルートヴィヒ)は、内陸の選帝侯領から[[北海]]への出口を得る機会とした。<br /> <br /> === 軍隊の規模 ===<br /> カール12世が率いたスウェーデン軍はグスタフ2世アドルフ以来のバルト帝国形成において勝利を積み重ねて来た、比較的小規模ではあるが、大陸諸国の軍隊よりもより専門化され訓練された軍隊であった&lt;ref&gt;Konstam (1994), p. 15.&lt;/ref&gt;。とりわけ、この軍隊は熟達した[[軍事教練]]により、[[小火器]]の高い発射速度を維持しえた。<br /> <br /> スウェーデンの人口は300万人程であったが&lt;ref&gt;長谷川&amp;大久保&amp;土肥 (2009), p. 396.&lt;/ref&gt;、戦時において村々から徴兵を行う制度を確立しており&lt;ref&gt;Konstam (1994), pp. 16-18.&lt;/ref&gt;、1700年の開戦時にはカール12世は毎年訓練を施した77,000人の[[常備軍]]を有しており、戦争の犠牲に関わらず、[[1707年]]までにその数は12万人にまで膨れ上がっている。しかしながら、スウェーデンは長期戦ではその軍隊を補給し維持しえないことが明らかとなる。大陸での戦役では軍隊は新たに占領した土地で略奪や徴税をして自給自足することを原則としてきたが、戦争のコストは被占領国が提供しうる資金よりも遥かに高価になり、スウェーデンの財源は枯渇することになった。<br /> <br /> ロシアの人口は1050万人で&lt;ref group=&quot;注&quot;&gt;1670年代(土肥 (1992), p. 6)&lt;/ref&gt;、開戦前に32,000人を募兵しており、外国人将校が多くを占めた&lt;ref&gt;土肥 (1992), pp. 66-67.&lt;/ref&gt; 。ピョートル1世は緒戦のナルヴァの戦いでの惨敗を契機に大規模な軍制改革に着手して[[徴兵制]]を整備し、ロシア人貴族の将校を養成して1707年にはロシア軍の規模は20万人に達している&lt;ref&gt;土肥 (1992), pp. 96-105.&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;Gray (1994), p. 15.&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> デンマークはホルシュタイン=ゴットルプへの侵攻とその他の戦線に2万人を派兵している。ポーランドとザクセンを合わせて少なくとも10万人を動員することができた。<br /> {{-}}<br /> <br /> == 1700年 - 1709年:カール12世の攻勢 ==<br /> [[ファイル:Great Northern War Part1.png|thumb|300px|大北方戦争前半期(1700年 - 1710年)]]<br /> === 1700年:デンマーク、リガそしてナルヴァ ===<br /> {{Main|テンニング包囲戦|トラヴェンタール条約|ナルヴァの戦い}}<br /> 1700年2月、デンマーク=ノルウェー王フレデリク4世が自国領の南にあるスウェーデンの同盟国ホルシュタイン=ゴットルプ公領への攻撃を行い、3月に[[テンニング包囲戦|テンニングを包囲した]]&lt;ref&gt;Frost (2000), pp. 227-228.&lt;/ref&gt;。 同時にアウグスト2世の軍隊がスウェーデン領リヴォニアを通って、ダウガフリヴァを占領し、[[リガ]]を包囲した。これより前の1699年12月にアウグスト2世はリガに対する最初の強襲を行ったが失敗していた&lt;ref&gt;Frost (2000), pp. 228-229.&lt;/ref&gt;。ロシアはオスマン帝国との和平交渉中で、7月に[[コンスタンティノープル条約 (1700年)|コンスタンティノープル条約]]が締結され、30年間の和議が成立したとの知らせが[[モスクワ]]に入った翌日の[[8月20日]](露暦8月9日)に宣戦した&lt;ref&gt;阿部 (1966), p. 122.&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;トロワイヤ (1981), pp. 116-117.&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> カール12世はまずデンマークに焦点を合わせた。7月、イギリス、オランダ艦隊(同盟に基づいて出動したが交戦する意思はなかった&lt;ref&gt;Gray (1994), p. 7.&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;箕作 (1915), pp. 71-72.&lt;/ref&gt;)の支援を受けたスウェーデン艦隊はズンド海峡を封鎖するデンマーク艦隊を退却させ、[[シェラン島]]に兵を上陸させた。カール12世は兵15,000をもってデンマークの首都[[コペンハーゲン]]に進軍する&lt;ref&gt;阿部 (1966), pp. 122-123.&lt;/ref&gt;。この予想外の動きと海軍の圧力により、デンマーク=ノルウェーは[[8月18日]](瑞暦8月9日)に[[トラヴェンタール条約]]を結んで早々に戦争から脱落させられた&lt;ref name=&quot;Frost(2000)229&quot;&gt;Frost (2000), p. 229&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> [[ファイル:Victory at Narva.jpg|thumb|250px|left|[[ナルヴァの戦い]]に敗れ、スウェーデン軍に降伏するロシア兵]]<br /> 今やカール12世はバルト海の東部海岸に迅速に軍隊を配備して残る敵と対峙することができた。リヴォニアのアウグスト2世の他にロシアのツァーリ・ピョートル1世の軍隊が既にスウェーデン領イングリアへの侵攻途上にあり、9月に兵40,000をもって[[ナルヴァ]]を包囲していた&lt;ref name=&quot;Frost(2000)229&quot; /&gt;&lt;ref&gt;阿部 (1966), p. 123.&lt;/ref&gt;。ロシア軍はナルヴァを攻めあぐね、包囲が長期化した[[11月30日]](露暦11月19日/瑞暦11月20日)、急遽海路を使ってエストニアに上陸したカール12世率いるスウェーデン軍12,000(または8,000)が吹雪をついて包囲軍の本営を急襲して蹴散らし、ロシア軍は惨敗を喫した([[ナルヴァの戦い]])&lt;ref name=&quot;Frost(2000)230&quot;&gt;Frost (2000), p. 230.&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;阿部 (1966), pp. 123-125.&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> トラヴェンタール条約とナルヴァの戦いによって北方同盟は事実上瓦解しており、[[スペイン継承戦争]]勃発直前の情勢でもあり、スウェーデン宰相[[ベント・ガブリエルソン・オクセンシェルナ]]{{enlink|Bengt Gabrielsson Oxenstierna|en}}は、戦争をスウェーデン有利に終わらせカール12世をヨーロッパの調停者とする絶好の機会であると見なし、和議を王に進言したが、カール12世はこれを退け、あくまでもアウグスト2世を討つ意思を表明した&lt;ref&gt;箕作 (1915), pp. 97-99.&lt;/ref&gt;。<br /> {{-}}<br /> <br /> === 1701年 - 1704年:リトアニアとポーランド ===<br /> {{Main|w:Crossing of the Düna|クリシュフの戦い}}<br /> [[ファイル:Battle of Kliszow 1702.JPG|thumb|250px|[[クリシュフの戦い]]]]<br /> ナルヴァでロシア軍を打ち破ったカール12世はモスクワ進軍も考えたが、参謀本部の勧めもありアウグスト2世に包囲されているリガの救援に向かった&lt;ref&gt;阿部 (1966), p. 125.&lt;/ref&gt;。翌1701年7月、カール12世率いるスウェーデン軍は[[ダウガヴァ川|ドヴィナ川]]を強行渡河してザクセン=ポーランド軍を打ち破り、リガを救出した([[ドヴィナ川の戦い]]{{enlink|Crossing of the Düna|en}})&lt;ref&gt;箕作 (1915), pp. 102-108.&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> アウグスト2世は交渉を求めるが、カール12世はこれを認めず、ポーランド全国議会([[セイム]]){{enlink|General sejm|en}}に対して新国王の選出を要求する&lt;ref&gt;箕作 (1915), pp. 115-116.&lt;/ref&gt;。翌1702年、カール12世はポーランド=リトアニア共和国に侵入して5月に[[ワルシャワ]]を占領した。[[7月19日]](瑞暦7月9日)、アウグスト2世は22,000の兵を集めて、ポーランド中央部[[キェルツェ]]南方でカール12世率いるスウェーデン軍12,000と対したが大敗を喫する([[クリシュフの戦い]])&lt;ref&gt;Frost (2000), p. 272.&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;箕作 (1915), pp. 138-144.&lt;/ref&gt;。しかし、スウェーデン軍に参戦していたシュレースヴィヒ=ホルシュタイン公フレデリク4世もこの戦いで戦死した。<br /> <br /> アウグスト2世はなおも和平を乞うたが、カール12世はあくまでもアウグスト2世の退位を求めて和平は成立せず戦いは続いた&lt;ref&gt;箕作 (1915), pp. 148-155.&lt;/ref&gt;。[[1703年]]10月、カール12世はトルニ要塞を陥落させ、アウグスト2世を追い詰める&lt;ref&gt;箕作 (1915), pp. 157-159.&lt;/ref&gt;。[[1704年]]7月、カール12世は国王選挙に干渉して、彼が望む[[スタニスワフ・レシチニスキ]]を新国王スタニスワフ1世に選出させた&lt;ref&gt;阿部 (1966), p. 132.&lt;/ref&gt;&lt;ref name=&quot;Lukowski&amp;Zawadzki126&quot; /&gt;。スタニスワフ・レシチニスキは翌[[1705年]][[10月4日]]に戴冠し、カール12世はこの傀儡王と[[ワルシャワ条約 (1705年)|ワルシャワ条約]]を結んでポーランド=リトアニアを属国となした。<br /> {{-}}<br /> <br /> === 1701年 - 1706年:ロシア軍の再建とアルトランシュテット条約 ===<br /> {{Main|ポーランド内乱 (1704年 - 1706年)|w:Battle of Erastfer|w:Battle of Fraustadt|ナルヴァ条約|ワルシャワ条約 (1705年)|アルトランシュテット条約}}<br /> [[ファイル:Storm of Noteburg 1702.jpg|thumb|250px|ピョートル大帝によるノーテボリ占領([[シュリッセリブルク]](=&quot;鍵となる要塞&quot;)と命名)]]<br /> [[ファイル:ZauerveydNA Petr1UsmirDA19.jpg|thumb|250px|ロシア軍のナルヴァ占領(1704年)]]<br /> ナルヴァの戦いはピョートル1世にとって大きな痛手となったが、カール12世のザクセン=ポーランド=リトアニアへの転戦は、ピョートル1世に軍を再建してバルト諸州を獲得する機会を与えた。ピョートル1世は大規模な軍制改革を行って兵士の徴兵制度や幹部養成、軍事行政機構を整備させ、常備連隊を拡充した&lt;ref&gt;阿部 (1966), pp. 127-130.&lt;/ref&gt;。1700年にはロシア軍は34,000人の兵士しか残っていなかったが、徴兵を繰り返すことにより[[1705年]]に兵士の数は20万人に達している&lt;ref&gt;Duffy (1982), p. 17.&lt;/ref&gt;。またナルヴァで失われた大砲を急ぎ鋳造するために教会の鐘を供出させることまでした&lt;ref&gt;阿部 (1966), p.136.&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;トロワイヤ (1981), p. 122.&lt;/ref&gt;。彼は外国人の専門家に兵士を訓練させ、西欧式の新型火器を装備させた。<br /> <br /> 1701年末にロシア軍は約26,000の兵をもってリヴォニアへ侵攻した。[[ウォルマー・アントン・フォン・シュリッペンバッハ|シュリッペンバッハ総督]]{{enlink|Wolmar Anton von Schlippenbach|en}}率いるスウェーデン軍は幾つかの戦術的勝利を収めたものの、ロシア軍は着実にリヴォニアへの攻撃を続け、寡兵のスウェーデン軍は次第に劣勢に陥った。1701年12月にボリス・シェレメーテフ率いるロシア軍は[[エーレスターの戦い]]{{enlink|Battle of Erastfer|en}}でスウェーデン・リヴォニア軍を撃破した。1702年夏にロシア軍は兵4万で再度侵攻を開始し、[[7月30日]](露暦7月19日)のフーメンスルフ(&#039;&#039;Hummelshof&#039;&#039;)の戦いでロシア軍は6,000人のスウェーデン軍に大勝する。この戦いでスウェーデン・リヴォニア軍は壊滅し、ロシアによるリヴォニア征服の基礎が形づくられた。<br /> <br /> その後、ボリス・シェレメーテフはロシア軍を率いてイングリアへ進軍し、[[10月22日]](露暦10月11日)にノーテボリ([[シュリッセリブルク]])を占領した。この時、ノーテボリのスウェーデン兵は10日間に渡って抵抗し、スウェーデン兵110人の犠牲に対し、ロシア兵に6000人の犠牲を負わせた。ピョートル1世はこの地を「イングリアへの鍵」とみなし、要塞はドイツ語で「鍵の城」を意味するシュリュッセルブルク({{lang|de|Schlüsselburg}})と命名された。[[1703年]]5月にロシア軍はネヴァ川河口に木造の要塞を構築し、これが後の[[サンクトペテルブルク]]となる&lt;ref&gt;阿部 (1966), pp. 126-127.&lt;/ref&gt;。イングリアの残りの地域もロシア軍に占領され、翌1704年夏には[[ドルパート]]とナルヴァがロシア軍の手に落ちた。<br /> <br /> 一方、ポーランドではアウグスト2世の支持者は未だ多く、ポーランド=リトアニアのアウグスト派貴族は1704年8月にロシアと[[ナルヴァ条約]]を締結して抵抗の意思を示した。翌[[1705年]]、ピョートル1世はロシア軍を率いてアウグスト2世を救援すべくポーランドへ侵入した&lt;ref&gt;阿部 (1966), p. 132.&lt;/ref&gt;。ロシア軍は有利に戦いを進めて、一時はポーランドの大部分を解放して、1705年秋にはスウェーデン軍を分断する態勢を取った&lt;ref&gt;阿部 (1966), pp. 132-133.&lt;/ref&gt;。だが、アウグスト2世とロシア軍との連携は上手くゆかず&lt;ref&gt;阿部 (1966), pp. 133-134.&lt;/ref&gt;、[[1706年]][[2月13日]](瑞暦2月3日)の[[フラウシュタットの戦い]]{{enlink|Battle of Fraustadt|en}}でザクセン=ポーランド軍およびロシア軍はまたもスウェーデン軍(指揮官[[カール・グスタフ・レーンスケルド]]{{enlink|Carl Gustav Rehnskiöld|en}})に大敗を喫してしまう。<br /> <br /> 8月にスウェーデン軍はザクセンに侵入し&lt;ref&gt;箕作 (1915), p. 181.&lt;/ref&gt;、抵抗力を失ったアウグスト2世は[[9月24日]](瑞暦9月14日)にスウェーデンと[[アルトランシュテット条約]]を結び、ポーランド王位および[[リトアニア大公国|リトアニア大公]]位を放棄して戦争から脱落した&lt;ref name=&quot;Frost(2000)p230,p263&quot;&gt;Frost(2000), p. 230, p. 263.&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;阿部 (1966), p. 135.&lt;/ref&gt;。これにより北方同盟は瓦解し、カール12世の敵はピョートル1世のロシアのみとなる。アルトランシュテットには西欧の外交官が訪問に訪れ、スペイン継承戦争参戦を思い止まらせようとするイギリスと味方にしようとするフランスがそれぞれ暗躍した。カール12世はいずれの提案も受け付けずロシアへの遠征だけを考えていたが、ザクセン侵攻の際[[シレジア|シュレージエン]]を通過したことでオーストリアから抗議されたり、逆にシレジアのプロテスタントとカトリックの平等及びスウェーデン軍の徴兵を承認させている([[1707年]]7月の[[アルトランシュテット条約 (1707年)|アルトランシュテット条約]])。その他の国々も中立・同盟を結びスウェーデンの勢いは頂点に達した&lt;ref&gt;阿部 (1996), pp. 86-95.&lt;/ref&gt;。<br /> {{-}}<br /> <br /> === 1707年 - 1709年:カール12世のロシア遠征 ===<br /> {{Main|レスナーヤの戦い|ポルタヴァの戦い|エストニアとリヴォニアの降伏}}<br /> [[ファイル:Battle of Lesnaya.jpg|thumb|250px|[[レスナーヤの戦い]]]]<br /> [[ファイル:Peter the Greate in Battle of Poltava.jpg|thumb|250px|ロシア軍の[[ポルタヴァの戦い|ポルタヴァでの勝利]]]]<br /> 1707年にピョートル1世は和議を打診したが、カール12世が[[ネヴァ川]]両岸とサンクトペテルブルクを含むすべての占領地の返還を要求したため成立しなかった&lt;ref&gt;トロワイヤ (1981), p. 126.&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 戦争を終わらせるためにカール12世はポーランドに本拠を置いてモスクワ攻略を含むロシア中心部への最後の攻撃を命じた。1707年[[9月2日]](露暦8月22日)に約44,000人のスウェーデン軍はザクセンを発ち、ゆっくりと東に進軍した。[[ヴィスワ川]]に到達すると彼らは川が凍結する1708年[[1月10日]](露暦12月30日)まで渡河を待ち、その後、敵対的な[[マスリア]]{{enlink|Masuria|en}}を経て、[[2月8日]](露暦1月28日)にロシア軍が放棄した[[フロドナ]]を無血占領した。 スウェーデン軍は[[スマルホニ]]{{enlink|Smarhoń|en}}や[[ミンスク]]周辺に留まり、冬営に入った。<br /> <br /> 冬の間にスウェーデン軍は風土病にひどく苦しめられ、宿営地を発ったのは6月のことで、[[スモレンスク]]に向かって進軍した。 春の間にクールラントのレーヴェンハウプト将軍は補給品を集め、兵12,000を率いて[[10月22日]](露暦10月11日)までにカール12世の本隊と合流するよう命じられた&lt;ref&gt;Kuvaja (2008), pp.180-185&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 1708年[[7月14日]](露暦7月3日/瑞暦7月4日)にカール12世はホロウチン(&#039;&#039;Holowczyn&#039;&#039;)の戦い{{enlink|Battle of Holowczyn|en}}でロシア軍を撃破したものの&lt;ref&gt;箕作 (1915), pp. 208-213.&lt;/ref&gt;、ピョートル1世の[[焦土作戦]]により、ロシア領内を進むにつれてスウェーデン軍は補給にひどく苦しめられるようになった&lt;ref&gt;トロワイヤ (1981), p. 127.&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;Gray(1994), p.11&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;箕作 (1915), pp. 214-218.&lt;/ref&gt;。レーヴェンハウプトの援軍は130キロにまで近づいていたが、補給を必要とするカール12世は合流を諦め、穀物とよりよい気候を求めて[[ウクライナ]]へと転進した。[[コサック]]首長[[イヴァン・マゼーパ]]指揮下のウクライナ軍([[ヘーチマン国家]])は幾度かカール12世と協議を持ち、ここに至り彼はロシアからの独立を得るべく正式にスウェーデンとの同盟を宣言した。<br /> <br /> レーヴェンハウプトは南下を続けたが、[[10月9日]](露暦9月28日/瑞暦9月29日)、小さな村の近くの川を渡っている最中にピョートル1世率いるロシア軍に襲われた([[レスナーヤの戦い]])。戦闘に敗れたレーヴェンハウプトはできるだけ早くカール12世と合流することを優先させ、大砲と食糧の大半を遺棄した。彼らが最終的にカール12世の主力部隊と合流した時には補給品を欠いた7,000人が残っていただけだった&lt;ref&gt;Gray (1994), p. 16.&lt;/ref&gt;。10月にはマゼーパの首都[[バトゥールィン]]がロシア軍に攻略されている&lt;ref&gt;鳥山 (1978), p. 50.&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> {{main|w:Great Frost of 1709|w:Great Northern War plague outbreak}}<br /> <br /> 翌[[1709年]]春になり、カール12世は前進を再開したが、飢餓や疫病のためにその数を3分の1に減らしていた。カール12世は食糧と拠点を手に入れるべくウクライナの[[ボルスクラ川]]{{enlink|Vorskla River|en}}沿いにある[[ポルタヴァ]]を包囲した&lt;ref&gt;トロワイヤ (1981), p. 129.&lt;/ref&gt;。ピョートル1世は既にここを守るための大軍を組織しており、彼はすぐに到着した。[[7月8日]](露暦6月27日/瑞暦6月28日)、ロシア軍42,000人とスウェーデン軍16,000人が[[ポルタヴァの戦い|ポルタヴァで会戦した]]&lt;ref&gt;Gray (1994), p. 18.&lt;/ref&gt;。カール12世は先の包囲戦の最中に狙撃されて負傷しており、指揮権はカール・グスタフ・レーンスケルド将軍に委ねられている。激戦の末に数に勝るロシア軍が大勝し、スウェーデン軍は数千人の戦死者を出して潰走した。カール12世はオスマン帝国領へ逃れ、スウェーデン軍の残余はペレヴォローチナで降伏した{{enlink|Surrender at Perevolochna|en}}&lt;ref&gt;Frost (2000), p. 231, p. 286.&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> このスウェーデン軍の大敗は戦争の帰趨を決しはしたが、戦争自体を終わらせはしなかった。 デンマーク、ザクセンは再び参戦し、[[ボリス・クラーキン]]{{enlink|Boris Kurakin|en}}の狡猾な政治的手段によってスタニスワフは廃位、アウグスト2世はポーランド王に復位した。ピョートル1世はバルト地方での戦役を継続し、最終的に強力な海軍を築いた。[[1710年]]、ロシア軍はリガと[[タリン]]を占領した。[[エストニアとリヴォニアの降伏]]によりバルト地方はロシアに統合された。<br /> {{-}}<br /> <br /> == 1709年 - 1721年:北方同盟の反攻 ==<br /> [[ファイル:Great Northern War Part2.png|thumb|300px|大北方戦争後半期(1709年 - 1721年)]]<br /> === 新北方同盟の結成 ===<br /> ポルタヴァの戦い以降、ピョートル1世とアウグスト2世は1709年に[[トルン条約 (1709年)|トルン条約]]を結んで再び同盟し、同年、デンマーク=ノルウェー王フレデリク4世とアウグスト2世が[[ドレスデン条約 (1709年)|ドレスデン条約]]を、続いてロシアとデンマーク=ノルウェーとが[[コペンハーゲン条約 (1709年)|コペンハーゲン条約]]を締結している。1710年には[[ハノーファー条約 (1710年)|ハノーファー条約]]が結ばれて、[[ハノーファー王国|ハノーファー選帝侯]]([[ハノーヴァー朝|ハノーファー家]])が加盟し、選帝侯ゲオルク1世ルートヴィヒは後に[[イギリス]]王[[ジョージ1世 (イギリス王)|ジョージ1世]]となる。[[1713年]]には[[ブランデンブルク=プロイセン]]とロシアが[[シュヴェート条約]]を結んで同盟した。一方、イギリス王ジョージ1世は[[1715年]]に3つの同盟を締結した。デンマーク=ノルウェーと[[ベルリン条約 (1715年)|ベルリン条約]]、ブランデンブルク=プロイセンと[[シュテッティン条約 (1715年)|シュテッティン条約]]、ロシアとは[[グライフスヴァルト条約]]をそれぞれ結んだ。<br /> <br /> === 1709年 - 1714年:オスマン帝国の参戦 ===<br /> {{Main|プルート川の戦い|プルト条約|w:Skirmish at Bender}}<br /> スウェーデン軍が降伏した時、カール12世と僅かなスウェーデン兵、それにイヴァン・マゼーパのコサックがオスマン帝国領に逃れ、[[モルドバ]]の[[ベンデル]]にコロニーを築いた。 ピョートル1世はカール12世の立ち退きを要求したが、[[スルターン|スルタン]]・[[アフメト3世]]はこれを拒否し、カール12世の働きかけとロシアの勢力拡大の危惧からオスマン帝国は1710年11月にロシアに対する宣戦を布告する&lt;ref&gt;トロワイヤ (1981), p. 152.&lt;/ref&gt;&lt;ref name=&quot;abe147&quot;&gt;阿部 (1966), p. 147.&lt;/ref&gt;([[プルート川の戦い|露土戦争]])。<br /> <br /> [[ファイル:Prut pohod in 1711-en.svg|thumb|left|250px|[[プルート川の戦い]](1711年)]]<br /> ピョートル1世はオスマン帝国内のキリスト教徒や[[モルダヴィア]]と[[ワラキア]]の太守[[ディミトリエ・カンテミール]]に援助を約束して内部撹乱工作を行い&lt;ref&gt;トロワイヤ (1981), p. 154.&lt;/ref&gt;&lt;ref name=&quot;abe147&quot; /&gt;、1711年に兵約4万を率いてオスマン領内へ侵攻した。だが、ロシア軍は罠にかかり[[プルト川]]で約15万のオスマン軍の攻撃を受け、ピョートル1世自身も捕らえられかねない危機に陥った([[プルート川の戦い]])&lt;ref&gt;阿部 (1966), pp. 149-150.&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;トロワイヤ (1981), p. 155.&lt;/ref&gt;。ピョートル1世は同行していた愛人[[エカチェリーナ1世|エカチェリーナ]]の勧めもあって&lt;ref&gt;鳥山 (1978), p. 54.&lt;/ref&gt;、和議に持ち込み、[[7月12日]]に[[アゾフ|アゾフ要塞]]の返還、ポーランドの内政への不干渉、カール12世の帰国の容認などを条件とする不利な内容の[[プルト条約]]を締結した&lt;ref&gt;阿部 (1966), p. 150.&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> だが、カール12世は帰国に関心を示さず、ベンデルに臨時宮廷をつくり、なおもスウェーデンとオスマン帝国とが共闘してロシアを攻めるようアフメト3世を説得しようとした。アフメト3世はこれを拒否して寛大な待遇も止めて、[[1713年]]にカリバリク(&#039;&#039;[[:en:Skirmish at Bender|kalabalik]]&#039;&#039;:騒乱の意味)と呼ばれるスウェーデン人とトルコ兵との武力衝突が起きるとカール12世を拘束した&lt;ref&gt;箕作 (1917), pp. 223-243.&lt;/ref&gt;。カール12世は[[エディルネ|アドリアノープル]]近くのデモチカに幽閉され、オスマン戦線を開く希望を捨てた彼は[[1714年]]10月に脱出すると騎馬で敵地を走破して僅か2週間足らずで北ドイツのスウェーデン領[[シュトラールズント]]に帰還した&lt;ref&gt;武田 (2003), p. 84.&lt;/ref&gt;。なお、マゼーパはウクライナに戻れず、1709年に没している。<br /> {{-}}<br /> <br /> === 1710年 - 1716年:スコーネと北ドイツ、ポーランド ===<br /> [[ファイル:Altona.brand.1713.jpg|thumb|250px|デンマーク領[[ハンブルク=アルトナ|アルトナ]]は1713年の[[マグヌス・ステンボック]]将軍の攻撃で焼失した。同年、ロシア軍はその報復としてスウェーデン領[[ヴォルガスト]]を焼き払った。]]<br /> {{Main|w:Siege of Stralsund (1711-1715)|ガーデブッシュの戦い|w:Siege of Tönning}}<br /> 1709年11月、再参戦したデンマーク軍がズンド海峡を渡ってスウェーデン南部の[[スコーネ]](旧デンマーク領)に侵攻した。スウェーデン軍の[[マグヌス・ステンボック]]は僅かな兵しか持っていなかったのでいったん後退し、新兵を集めた上で反撃に転じて翌[[1710年]][[3月10日]](瑞暦2月28日)の[[ヘルシングボリの戦い]]{{enlink|Battle of Helsingborg|en}}で勝利し、デンマーク軍は本国へ撤退した&lt;ref&gt;箕作 (1917), pp. 215-217.&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 1710年、ポーランドのスウェーデン軍は連合軍の追撃を受けつつスウェーデン領ポメラニアへと撤退し、1711年に[[シュトラールズント包囲戦|シュトラールズントで包囲された]]{{enlink|Siege of Stralsund (1711-1715)|en}}。しかし、町はステンボック将軍率いるスウェーデンの救援軍が到着したため占領を免れ、スウェーデン軍はポメラニアを確保し、西に転じて[[ガーデブッシュの戦い]]で連合軍を撃破した。だが、連合軍の追撃を受けたスウェーデン軍は罠にかかり、[[テンニング包囲戦|テンニングで包囲され降伏した]]{{enlink|Siege of Tönning|en}}&lt;ref&gt;Wilson (1998), p. 140.&lt;/ref&gt;。ステンボックは捕虜のまま[[1717年]]に死亡した。<br /> <br /> 1714年にカール12世はオスマン帝国から帰国し、11月にシュトラールズントに到着した。近くの[[グライフスヴァルト]]は既に失陥しており、ハノーファー選帝侯として参戦していたイギリス王ジョージ1世は[[11月17日]]にロシアのピョートル1世と同盟を結んでいる&lt;ref&gt;Torke (2005), p. 165.&lt;/ref&gt;。[[ポメラニア戦役 (1715年-1716年)|ポメラニア戦役]]に参加していたが、公式には中立であったブランデンブルク=プロイセンも[[1715年]]夏にスウェーデンに対して宣戦布告して、連合への参加を公にした&lt;ref&gt;Meier (2008), p. 23.&lt;/ref&gt;。これによってカール12世はすべての北ヨーロッパ諸国と交戦状態となり、シュトラールズントの命運も窮まった。カール12世は1715年12月までここに留まり、陥落の僅か数日前に脱出している。[[1716年]]には[[ヴィスマール]]が降伏し、スウェーデンのバルトおよびドイツのすべての領土は失われた&lt;ref&gt;North (2008), p. 53.&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> アウグスト2世が復位したポーランドでは、ザクセン軍の駐留に対するポーランド貴族([[シュラフタ]])の不満が高まり、[[1715年]]にロシア軍を後ろ盾とする[[タルノグルト連盟]]が結成された&lt;ref name=&quot;Lukowski&amp;Zawadzki127128&quot;&gt;ルコフスキ&amp;ザヴァツキ (2007), pp. 127-129.&lt;/ref&gt;。翌1716年11月に[[ワルシャワ条約 (1716年)|ワルシャワ条約]]が締結され、ザクセン軍は撤退し、ポーランド軍の軍備も大幅に制限されることになり、この条約は1717年2月の「無言国会」で批准され、ポーランドはロシアの[[保護国]]と化す&lt;ref&gt;ルコフスキ&amp;ザヴァツキ (2007), p. 129.&lt;/ref&gt;。<br /> {{-}}<br /> <br /> === 1713年 - 1721年:フィンランド ===<br /> [[ファイル:Gangut battle 1714.jpg|thumb|right|[[ハンゲの海戦|ガングートの海戦]](ハンコ半島沖海戦)でのロシア軍の勝利、1714年。]]<br /> {{Main|ハンゲの海戦|w:Greater Wrath}}<br /> バルト地方を制圧したロシアは1712年に[[フョードル・アプラクシン]]将軍率いる約7万人の軍団を編成してフィンランドへ攻め込んだ&lt;ref&gt;阿部 (1966), p. 153.&lt;/ref&gt;。翌1713年7月、ロシア軍は西欧戦史上に例のないとされる海陸共同作戦を敢行して[[ヘルシンキ]]を攻略した&lt;ref&gt;阿部 (1966), p. 154.&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 1713年から1714年にかけてロシア軍は[[フィンランド]]を攻略を進め、1714年2月のラッポラの戦い{{enlink|battle of Storkyro|en}}でフィンランド駐留軍主力部隊を撃破し、スウェーデン軍の抵抗力は潰えた&lt;ref&gt;阿部 (1966), p. 155.&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 1714年7月、[[ハンコ|ハンコ半島]]沖においてピョートルの[[ガレー船]][[ロシア海軍|海軍]]が[[スウェーデン海軍]]に大勝し、これによりロシアが制海権を握った&lt;ref&gt;阿部 (1966), pp. 157-158.&lt;/ref&gt;。(&#039;&#039;&#039;ガングートの海戦&#039;&#039;&#039;(露呼称)/[[ハンゲの海戦]](瑞呼称))<br /> <br /> 1714年から1721年のロシアによるフィンランド占領期間は、[[フィンランドの歴史]]では「[[:en:Greater Wrath|大いなる怒り]]」 ({{lang-fi|isoviha}})と呼ばれている。<br /> {{-}}<br /> <br /> === 1716年 - 1718年:ノルウェー ===<br /> [[ファイル:Karl XIIs likfärd (1884), målning av Gustaf Cederström (1845-1933).jpg|thumb|250px|『カール12世の葬送』&lt;br&gt;[[グスタヴ・セーデルストレム]]画]]<br /> {{Main|w:Great Northern War and Norway |w:Fredriksten|w:Carolean Death March}}<br /> カール12世はオスマン帝国から帰国すると再び戦争指導を自ら取り始め、デンマーク=ノルウェーに単独講和を強いさせるべく1716年2月にデンマーク領ノルウェーに攻め込み、一時は[[クリスチャンサン]]を攻略したが、部下の不手際と[[デンマーク海軍]]に糧道を断たれたため撤退を余儀なくされている&lt;ref&gt;箕作 (1917), p. 255.&lt;/ref&gt;。北方同盟諸国はスウェーデン本土侵攻を策し、7月から8月にかけてコペンハーゲンに艦隊を集結させたが、諸国の足並みがそろわず作戦は中止となっている&lt;ref&gt;箕作 (1917), pp. 255-259.&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> カール12世はイギリスを味方に引き込もうと試みた&lt;ref&gt;箕作 (1917), pp. 260-263.&lt;/ref&gt;が、国王ジョージ1世はハノーファー選帝侯としてバルト海への出口を求めて既にスウェーデンと戦争状態に入っていた。同盟を求めたカール12世はイギリスの[[ジャコバイト]]([[名誉革命]]で王位を追われた[[スチュアート朝|スチュアート系勢力]])と交渉した{{enlink|Jacobite Risings|en}}&lt;ref&gt;箕作 (1917), pp. 262-263.&lt;/ref&gt;が、これは1717年にイギリスによるスウェーデンへの宣戦布告という結果になった。<br /> <br /> 局面を打開すべく、カール12世はロシアとの単独交渉を開始した。[[1718年]]5月にスウェーデン全権[[ゲオルク・ハインリヒ・フォン・ゲルツ|ハインリヒ・フォン・ゲルツ]]男爵とロシア全権[[アンドレイ・オステルマン]]はバルト海の[[オーランド諸島|オーランド島]]で会談を持ち、スウェーデンはロシアに対してかなりの譲歩し、代わりにロシアと共闘してデンマークやハノーファーそしてポーランドと戦い、バルト地方の代償としてドイツでの権益を回復しようと目論んだ&lt;ref&gt;阿部 (1966), p. 165.&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 一方、ノルウェー戦線は膠着状態に陥り、[[12月11日]](瑞暦11月30日)、[[オスロ]]東南にある[[フレデリックスハルド]]{{enlink|Fredriksten|en}}を包囲していたカール12世は狙撃されて死亡した。カール12世の死により、スウェーデン軍は直ちに撤退したが、猛吹雪の中の退却は苦難を極めて多大の損害を出し、「キャロリアン死の行進」(&#039;&#039;[[:en:Carolean Death March|karolinernas dödsmarsch]]&#039;&#039;)と呼ばれている。<br /> <br /> カール12世には子はなく、妹の[[ウルリカ・エレオノーラ (スウェーデン女王)|ウルリカ・エレオノーラ]]が王位を継承した&lt;ref name=&quot;Frost(2000)295296&quot;&gt;Frost (2000), pp. 295-296.&lt;/ref&gt;。ゲルツは処刑されロシアとの交渉も打ち切られた&lt;ref&gt;阿部 (1996), p. 151.&lt;/ref&gt;。<br /> {{-}}<br /> <br /> == 1719年 - 1721年:講和 ==<br /> === 1719年 - 1720年:イギリスの介入 ===<br /> {{Main|ストックホルム条約|w:Battle of Grengam}}<br /> [[ファイル:Battle of grengam.jpg|thumb|250px|[[グレンガム島沖の海戦]]{{enlink|Battle of Grengam|en}}]]<br /> カール12世死去の時点で、北方同盟はスウェーデン軍の敗北と撤退後に残された権力の空白をいかに埋めるかを巡って次第に分裂し始めた。イギリスは北方同盟側で参戦していたが、ロシアによるバルト海の覇権を望まず、外交的な圧力をかけ北方同盟の足並みを乱し始めた&lt;ref&gt;阿部 (1966), p. 162.&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> ジョージ1世とフレデリク4世は北ドイツの覇権を望み、アウグスト2世はフリードリヒ・ヴィルヘルム1世のバルト海沿岸南東部への野心を憂慮していた。戦力がバルト海周辺に分散していたピョートル1世は中東欧における覇権に思いを巡らせ、[[メクレンブルク]]{{enlink|Mecklenburg|en}}にまで海軍基地を建設することを求めた。[[1719年]]、ジョージ1世とアウグスト2世、そして[[神聖ローマ皇帝]][[カール6世 (神聖ローマ皇帝)|カール6世]]はロシア国境を戦前の状態に押し戻すべく相互援助条約(ウィーン条約)を締結した&lt;ref name=&quot;Frost(2000)295296&quot; /&gt;&lt;ref&gt;阿部 (1966), p. 167.&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> カール12世の死後もスウェーデンはピョートル1世の条件での講和を拒否していた。1719年夏、ロシア艦隊がスウェーデンの東海岸を襲撃した。いくつかの都市が攻撃され、ストックホルムの群島のほぼすべての建物が焼き払われた。小規模なロシア軍がスウェーデンの首都ストックホルムへ迫ったが、[[8月24日]](瑞暦8月13日)の[[ステケットの戦い]]{{enlink|battle of Stäket|en}}で阻止されている。<br /> <br /> 一方、ハノーファー=イギリスおよびブランデンブルク=プロイセンはスウェーデンとの単独講和を交渉し、1719年から1720年始めの[[ストックホルム条約]]により、スウェーデンの北ドイツ領土が分割された。交渉はバルト海南部におけるスウェーデンの地位の完全な崩壊を防ぐことを策すフランスが仲介し、スウェーデンには[[ヴィスマール]]と北部スウェーデン・ポメラニアが残された。ハノーファーはスウェーデン領[[ブレーメン=フェルデン]]{{enlink|Bremen-Verden|en}}を獲得し、ブランデンブルク=プロイセンは南部スウェーデン・ポメラニアを併合した{{enlink|Province of Pomerania (1653-1815)|en}}&lt;ref name=&quot;Frost(2000)296&quot;&gt;Frost (2000), p. 296.&lt;/ref&gt;。更にイギリスはスウェーデンとの同盟条約を締結している&lt;ref&gt;阿部 (1966), p. 168.&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> スウェーデンとの同盟条約に基づきイギリスはバルト海に艦隊を派遣してロシアに圧力をかけたが、ロシア軍はスウェーデンへの襲撃を続け、1720年7月の[[グレンガム島沖の海戦]]{{enlink|Battle of Grengam|en}}で再びスウェーデン艦隊を撃破した。<br /> <br /> === 1720年 - 1721年:ニスタット条約 ===<br /> {{Main|フレデリクスボー条約|ニスタット条約}}<br /> [[ファイル:NystatIngria.png|thumb|250px|黄色が戦前のスウェーデン領、緑色がロシア領、黄色地に緑の斜線がニスタット条約でロシアに割譲された地域]]<br /> 北方同盟の反目に加えて、スウェーデン内部でもスウェーデン王位を巡るシュレースヴィヒ=ホルシュタイン=ゴットルプ公[[カール・フリードリヒ (シュレースヴィヒ=ホルシュタイン=ゴットルプ公)|カール・フリードリヒ]](カール12世の甥)と[[ヘッセン=カッセル方伯領|ヘッセン=カッセル方伯]]世子[[フレドリク1世 (スウェーデン王)|フリードリヒ]](ウルリカ・エレオノーラの夫)との対立が存在した。ゴットルプ派は失脚し、[[1720年]]5月にウルリカ・エレオノーラは夫フリードリヒに譲位した(スウェーデン王フレドリク1世)。<br /> <br /> デンマークとの和平が結ばれた時、既に北方同盟は分解しており、デンマークはズンド海峡南部の以前の領土を取り戻す軍事的状況になかった。しかしながらスウェーデンは、ホルシュタイン=ゴットルプ家への支援を停止し、公領はデンマークによって確保され、北部は併合された。更にスウェーデンはズンド海峡通行税免除特権{{enlink|Sound Dues|en}}を撤回した。それぞれの条約は[[フレデリクスボー条約|フレデリクスボー]]で1720年7月に締結された&lt;ref name=&quot;Frost(2000)296&quot; /&gt;。<br /> <br /> 最終的にハノーファー、イギリス、ブランデンブルク=プロイセン、そしてデンマーク=ノルウェーと講和を結んだ時、スウェーデンはウィーン条約派やフランスの反ロシア感情が同盟にまで達し、これによってロシアに占領された東部諸州を取り戻すことを期待した。だが、主にイギリスとフランスとの内部対立により、スウェーデンの目論見は成功しなかった。したがって、戦争は最終的に[[ウーシカウプンキ]](ニースタード)において1721年[[9月10日]](露暦8月30日)にロシアとスウェーデンの間で締結された[[ニスタット条約]]によって終結した。<br /> <br /> フィンランドはスウェーデンに返還されたが、エストニア、リヴォニア、イングリア、[[プリオゼルスク|ケックスホルム]]([[ケックスホルム県]]の最北部([[古きフィンランド]])のみは[[1808年]]から[[1809年]]までの[[第二次ロシア・スウェーデン戦争|フィンランド戦争]]までスウェーデン領として残された)とカレリアの大部分はロシアに割譲された。<br /> <br /> ザクセン=ポーランド=リトアニアとスウェーデンは正式な平和条約を締結せず、1660年の[[北方戦争|第二次北方戦争]]終結の際に結ばれた[[オリヴァ条約]]{{enlink|Treaty of Oliva|en}}を更新している&lt;ref&gt;Donnert (1997), p. 510.&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> == 戦後 ==<br /> スウェーデンは17世紀に獲得したほとんどすべての「海外」領土を失い大国としての地位を喪失した。カール12世の死によって絶対王政は終焉し、代わって貴族を中心とした議会が力を持つ「[[自由の時代]]」(&#039;&#039;[[:en:Age of Liberty|Frihetstiden]]&#039;&#039;)が始まり、[[グスタフ3世 (スウェーデン王)|グスタフ3世]](在位:[[1771年]] - [[1792年]])の王権復興まで続くことになる。戦争に敗れたスウェーデンの不満は失われた領土を取り戻そうとする無益な試みを導き、[[1741年]]の[[ロシア・スウェーデン戦争 (1741年-1743年)|ハット党戦争]]&lt;ref&gt;熊野他 (1998), 索引p. 22.&lt;/ref&gt;({{lang|sv|Hattarnas ryska krig}})や[[1788年]]のグスタフ3世の対ロシア戦争([[第一次ロシア・スウェーデン戦争]])を引き起こしている&lt;ref name=&quot;Frost(2000)296&quot; /&gt;。後者の戦争では領土奪還はならなかったものの、スウェーデンは実質的に勝利し、ロシアからの干渉を停止させ、両国間の[[勢力均衡]]はある程度は回復している&lt;ref&gt;武田 (2003), p. 123.&lt;/ref&gt;。外交的には伝統的な親仏外交を推し進めていたものの、グスタフ3世の[[クーデター]]が起きるまでは、プロイセン、ロシアなど[[列強]]の政治的影響力の元に晒されるなど、「自由の時代」とは「危機の時代」でもあった&lt;ref&gt;武田 (2003), pp. 94-105.&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> ポーランド国土はこの戦争によって甚大な被害を蒙り、ニスタット条約によって元ポーランド領のリヴォニアがロシアに割譲され、ポーランドには何ら得るものがなく終わったに留まらず、国王と貴族([[シュラフタ]])との対立に乗ぜられてロシアの事実上の保護国となってしまう&lt;ref name=&quot;Lukowski&amp;Zawadzki127128&quot; /&gt;。[[1733年]]にアウグスト2世が死去すると、フランスの支援を受けたスタニスワフ・レシチニスキ([[ルイ15世 (フランス王)|フランス王ルイ15世]]の舅になっていた)が国王に選出された。これに反発したロシアとオーストリアがアウグスト2世の息子[[アウグスト3世 (ポーランド王)|アウグスト3世]]を擁立して[[ポーランド継承戦争]]に突入した。その後もポーランドへの外国の干渉は止まず、18世紀末の[[ポーランド分割]]と国家消滅の運命をたどることになる。<br /> <br /> デンマークは17世紀にスウェーデンに奪われた元東デンマーク諸州の奪回やスウェーデン領北ポメラニアの確保といった主目標は達成しえなかったが、スウェーデンの脅威の排除とズンド海峡通行税免除特権に終止符を打つことができた。スウェーデンからの賠償金と通行税によって財政は改善し、文化興隆の時代に入っている&lt;ref&gt;熊野他 (1998), pp. 162-163.&lt;/ref&gt;。しかしデンマークは[[シュレースヴィヒ]][[領有権]]を巡るホルシュタイン=ゴットルプ家との争いは続いた。外交的にはスウェーデンとの対立は継続し、親露外交を推し進めたため、次第にロシア依存が高まる事となった&lt;ref&gt;武田 (2003), p. 137.&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム1世はこの戦争の後、ロシアと同様の徴兵制の整備と貴族将校([[ユンカー]])の養成を行い、プロイセンを強力な軍事国家となさしめ、兵隊王と呼ばれた&lt;ref&gt;長谷川&amp;大久保&amp;土肥 (2009), pp. 506-509.&lt;/ref&gt;。フリードリヒ・ヴィルヘルム1世の子[[フリードリヒ2世 (プロイセン王)|フリードリヒ2世]](在位:[[1740年]] - [[1786年]])がこの軍事国家を引き継ぎ、列強との諸戦争を戦い抜いて小国プロイセンを列強の地位に押し上げることになる。<br /> <br /> バルト地方を獲得したロシアは[[北ヨーロッパ|北]]・[[東ヨーロッパ]]における最強国になった。1721年[[11月2日]](露暦10月22日)、[[元老院]]と[[宗務院]]がピョートル1世に皇帝(インペラトル)の称号を贈り、[[ロシア帝国]]が成立する&lt;ref name=&quot;toriyama62&quot; /&gt;。それから3年余の[[1725年]]1月にピョートル1世は死去し、その後は女帝や幼帝が次々に立つ政治的に不安定な時代が続き、ピョートル1世の改革の一部は放棄されもしたが&lt;ref&gt;木崎 (1971), pp. 168-169.&lt;/ref&gt;、その近代化政策はロシア人の血を一滴も引かない女帝[[エカチェリーナ2世]](在位:[[1762年]] - [[1796年]])によって引き継がれることになる。<br /> <br /> == 年表 ==<br /> {| class=&quot;wikitable&quot;<br /> |-<br /> ! 西暦 !! 大北方戦争関連事項 !! 参考事項<br /> |-<br /> |style=&quot;vertical-align:top;white-space:nowrap&quot; | [[1699年]]<br /> |style=&quot;vertical-align:top&quot;|(8月~11月)ロシア、ザクセン=ポーランド=リトアニア、デンマーク=ノルウェーが[[反スウェーデン同盟]](北方同盟)を結成。<br /> |style=&quot;vertical-align:top&quot;|([[8月25日]])デンマーク=ノルウェー王[[クリスチャン5世 (デンマーク王)|クリスチャン5世]]死去、[[フレデリク4世 (デンマーク王)|フレデリク4世]]が即位。<br /> |-<br /> |style=&quot;vertical-align:top;white-space:nowrap&quot; | [[1700年]]<br /> |style=&quot;vertical-align:top&quot;|(2月)ザクセン=ポーランド=リトアニアとデンマークがスウェーデンを攻撃。大北方戦争開戦。&lt;br&gt;(7~8月)カール12世、コペンハーゲンを衝き、[[トラヴェンタール条約]]によりデンマークが脱落。&lt;br&gt;([[11月30日]])カール12世、[[ナルヴァの戦い]]でロシア軍を撃破。&lt;br&gt;(この年)[[リトアニア大公国]]で[[内戦]]([[リトアニア内戦 (1700年)|リトアニア内戦]])。||<br /> |-<br /> |style=&quot;vertical-align:top;white-space:nowrap&quot; |[[1701年]]<br /> |style=&quot;vertical-align:top&quot;|([[7月19日]])カール12世、[[ダウガヴァ川]]を強行渡河してポーランド=リトアニアを撃破。{{enlink|Crossing of the Duna|en}}<br /> |style=&quot;vertical-align:top&quot;|(この年)[[スペイン継承戦争]]勃発。&lt;br&gt;([[1月18日]])[[ブランデンブルク辺境伯|ブランデンブルク選帝侯]][[フリードリヒ1世 (プロイセン王)|フリードリヒ1世]]がプロイセン王に即位。<br /> |-<br /> |style=&quot;vertical-align:top;white-space:nowrap&quot; |[[1702年]]<br /> |style=&quot;vertical-align:top&quot;|(3月)スウェーデン軍、ポーランド侵攻開始。&lt;br&gt;([[7月19日]])カール12世、[[クリシュフの戦い]]{{enlink|Battle of Klissow|en}}でザクセン=ポーランド軍に勝利。<br /> |style=&quot;vertical-align:top&quot;|([[3月8日]])イングランド王[[ウィリアム3世 (イングランド王)|ウィリアム3世]]死去。[[アン (イギリス女王)|アン女王]]が即位。<br /> |-<br /> |style=&quot;vertical-align:top;white-space:nowrap&quot; | [[1703年]]||([[5月24日]])ピョートル1世、海港[[サンクトペテルブルク]]建設。||<br /> |-<br /> |style=&quot;vertical-align:top;white-space:nowrap&quot; | [[1704年]]||([[7月12日]])[[スタニスワフ・レシチニスキ]]、スウェーデンの影響力の下でポーランド王に選出。<br /> |style=&quot;vertical-align:top&quot;|([[8月13日]])[[ブレンハイムの戦い]]でイギリス、[[ハプスブルク君主国|オーストリア]]軍が[[フランス王国|フランス]]、[[バイエルン大公|バイエルン]]軍に勝利。<br /> |-<br /> |style=&quot;vertical-align:top;white-space:nowrap&quot; |[[1705年]]||<br /> |([[5月5日]])[[神聖ローマ皇帝]][[レオポルト1世 (神聖ローマ皇帝)|レオポルト1世]]死去。[[ヨーゼフ1世]]が即位。<br /> |-<br /> |style=&quot;vertical-align:top;white-space:nowrap&quot; |[[1706年]]||([[2月13日]])[[フラウシュタートの戦い]]{{enlink|Battle of Fraustadt|en}}でザクセン=ポーランド軍およびロシア軍がスウェーデン軍に大敗。&lt;br&gt;([[9月24日]])[[アルトランシュテット条約]]締結。ポーランド王[[アウグスト2世 (ポーランド王)|アウグスト2世]]退位。||<br /> |-<br /> |style=&quot;vertical-align:top;white-space:nowrap&quot; |[[1707年]]||(8月)カール12世、ロシア遠征を開始。<br /> |([[5月1日]])[[イングランド王国]]と[[スコットランド王国]]が合併して[[グレートブリテン王国|連合王国]]が成立。<br /> |-<br /> |style=&quot;vertical-align:top;white-space:nowrap&quot; |[[1708年]]||([[7月14日]])カール12世、ホロウチン(&#039;&#039;Holowczyn&#039;&#039;)の戦い{{enlink|Battle of Holowczyn|en}}でロシア軍を撃破&lt;br&gt;([[10月9日]])[[レスナーヤの戦い]]でスウェーデン軍は敗北し、補給物資を失う。&lt;br&gt;([[10月28日]])[[ヘーチマン国家]]の元首[[イヴァン・マゼーパ]]がモスクワに対して反乱。||<br /> |-<br /> |style=&quot;vertical-align:top;white-space:nowrap&quot; |[[1709年]]||([[7月8日]])[[ポルタヴァの戦い]]でスウェーデン軍壊滅。カール12世は[[オスマン帝国]]に逃亡。&lt;br&gt;([[9月21日]])イヴァン・マゼーパ死去&lt;br&gt;([[10月17日]])ザクセン=ポーランド=リトアニアとデンマークが再参戦。&lt;br&gt;(この年)スタニスワフ・レシチニスキが廃位、アウグスト2世がポーランド王に復位。||<br /> |-<br /> |style=&quot;vertical-align:top;white-space:nowrap&quot; | [[1710年]]||(2月)[[スコーネ]](スウェーデン南部)に侵攻したデンマーク軍がスウェーデンの[[マグヌス・ステンボック|ステンボック]]将軍に敗れる。||<br /> |-<br /> |style=&quot;vertical-align:top;white-space:nowrap&quot; | [[1711年]]||(7月)オスマン帝国、[[プルート川の戦い]]でピョートル1世率いるロシア軍に対して勝利。&lt;br&gt;([[7月23日]])[[プルト条約|プルトの和約]]により、ロシアは[[アゾフ海|アゾフ要塞]]をオスマン帝国へ返還。<br /> |style=&quot;vertical-align:top&quot;|([[4月17日]])神聖ローマ皇帝ヨーゼフ1世死去。[[カール6世 (神聖ローマ皇帝)|カール6世]]が即位。<br /> |-<br /> |style=&quot;vertical-align:top;white-space:nowrap&quot; | [[1712年]]||(この年)ピョートル1世、サンクトペテルブルクに[[遷都]]。&lt;br&gt;([[12月9日]])ステンボック、[[ガーデブッシュの戦い]]でザクセン・デンマーク軍に勝利。<br /> |style=&quot;vertical-align:top&quot;|([[3月23日]]&lt;ref&gt;鳥山 (1978), p. 56.&lt;/ref&gt;)ピョートル1世、愛人[[エカチェリーナ1世|エカチェリーナ]]を正式な皇妃となす。<br /> |-<br /> |style=&quot;vertical-align:top;white-space:nowrap&quot; | [[1713年]]<br /> |<br /> |([[2月25日]])プロイセン王フリードリヒ1世死去。[[フリードリヒ・ヴィルヘルム1世 (プロイセン王)|フリードリヒ・ヴィルヘルム1世]]が即位。&lt;br&gt;([[4月11日]])[[ユトレヒト条約]]が締結、スペイン継承戦争は事実上終結。<br /> |-<br /> |style=&quot;vertical-align:top;white-space:nowrap&quot; | [[1714年]]||(2月)ステンボック、[[:en:Siege of Tönning|テニングで降伏]]。&lt;br&gt;([[8月7日]])[[ガングートの海戦]]でバルト海の[[制海権]]をロシアが掌握。&lt;br&gt;バルト地方、フィンランドも占領され、バルト帝国は事実上崩壊。&lt;br&gt;(11月)カール12世、[[亡命]]先のオスマン帝国から帰還。<br /> |style=&quot;vertical-align:top&quot;|([[8月1日]])イギリス女王アン死去。ハノーファー選帝侯ゲオルク1世ルートヴィヒが[[ジョージ1世 (イギリス王)|ジョージ1世]]として即位。&lt;br&gt;([[11月26日]])フランスとオーストリアが[[ラシュタット条約]]を締結してスペイン継承戦争終結。<br /> |-<br /> |style=&quot;vertical-align:top;white-space:nowrap&quot; | [[1715年]]||(5月~6月)プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム1世、スウェーデンに宣戦。<br /> |style=&quot;vertical-align:top&quot;|([[9月1日]])フランス王[[ルイ14世 (フランス王)|ルイ14世]]死去。[[ルイ15世 (フランス王)|ルイ15世]]即位。<br /> |-<br /> |style=&quot;vertical-align:top;white-space:nowrap&quot; | [[1716年]]||(この年)カール12世、デンマークに[[氷上侵攻]]を試みるも失敗。||<br /> |-<br /> |style=&quot;vertical-align:top;white-space:nowrap&quot; | [[1718年]]||([[12月11日]])カール12世、ノルウェーのフレデリックスハルド[[要塞]]で[[狙撃]]され死亡。<br /> |style=&quot;vertical-align&quot;|([[6月29日]])ピョートル1世に廃嫡されたロシア皇太子[[アレクセイ・ペトロヴィチ|アレクセイ]]が獄死。<br /> |-<br /> |style=&quot;vertical-align:top;white-space:nowrap&quot; | [[1719年]]||(この年)ロシア軍、スウェーデン本土を強襲するも撃退される(1721年まで)。||<br /> |-<br /> |style=&quot;vertical-align:top;white-space:nowrap&quot; | [[1720年]]||([[3月11日]])スウェーデン、[[ウルリカ・エレオノーラ (スウェーデン女王)|ウルリカ・エレオノーラ]]女王が退位、[[フレドリク1世 (スウェーデン王)|フレドリク1世]]が即位、[[ヘッセン王朝|ヘッセン朝]]開始。&lt;br&gt;(この年)[[フレデリクスボー条約]]と[[ストックホルム条約]]により、スウェーデンとザクセン=ポーランド=リトアニア、デンマーク、プロイセン、イギリスとが講和。||<br /> |-<br /> |style=&quot;vertical-align:top;white-space:nowrap&quot; | [[1721年]]||([[9月10日]])[[ニスタット条約]]締結。北方戦争終結。&lt;br&gt;([[11月2日]])ピョートル1世、ロシア皇帝(&#039;&#039;&#039;[[インペラトル]]&#039;&#039;&#039;)に戴冠。[[ロシア帝国]]が成立する。||<br /> |}<br /> ※日付は[[グレゴリオ暦]]。<br /> <br /> == 脚注 ==<br /> === 注釈 ===<br /> {{Reflist|group=注}}<br /> <br /> === 出典 ===<br /> {{Reflist|2}}<br /> <br /> == 参考文献 ==<br /> {{Refbegin}}<br /> *{{cite book|last=Ericson|first=Lars|title=Svenska knektar|publisher=Historiska media|year=2004}}<br /> *{{cite book|last=Lindegren|first=Jan|title=Det danska och svenska resurssystemet i komparation|publisher=Umeå : Björkås : Mitthögsk|year=1995}}<br /> *{{cite book|last=Duffy|first=Christopher|title=Russia &#039;s Military Way to the West|publisher=Routledge Kegan &amp; Paul|year=1982}}<br /> *{{cite 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The heroic life of King Charles XII of Sweden|publisher=St. Martin&#039;s Press|year=1960}}<br /> *{{cite book|last=Donnert|first=Erich|title=Europa in der Frühen Neuzeit: Festschrift für Günter Mühlpfordt|publisher=Böhlau|year=1997|series=Aufbruch zur Moderne|volume=3|isbn=3412006971|language=de}}<br /> *{{cite book|title=The Northern Wars. War, State and Society in Northeastern Europe 1558-1721|first=Robert I|last=Frost|publisher=Longman|year=2000|isbn=978-0-582-06429-4}}<br /> *{{cite book|last=Meier|first=Martin |title=Vorpommern nördlich der Peene unter dänischer Verwaltung 1715 bis 1721. Aufbau einer Verwaltung und Herrschaftssicherung in einem eroberten Gebiet|volume=65|series=Beiträge zur Militär- und Kriegsgeschichte|publisher=Oldenbourg Wissenschaftsverlag|location=Munich|year=2008|isbn=3486582852|language=de}}<br /> *{{cite book|last=North|first=Michael|title=Geschichte Mecklenburg-Vorpommerns|publisher=CH Beck|year=2008|series=Beck Wissen|volume=2608|isbn=3406577679|language=de}}<br /> *{{cite book|last=Peterson|first=Gary Dean|title=Warrior kings of Sweden. The rise of an empire in the sixteenth and seventeenth centuries|publisher=McFarland|year=2007|isbn=0786428732}}<br /> *{{cite book|last=Torke|first=Hans-Joachim|title=Die russischen Zaren 1547-1917|publisher=C.H.Beck|year=2005|edition=3|isbn=3406421059|language=de}}<br /> *{{cite book|last=Wilson|first=Peter Hamish|title=German armies. War and German politics, 1648-1806 |publisher=Routledge|year=1998|series=Warfare and history|isbn=1857281063}}<br /> *{{cite book|last=Konstam|first=Angus|title=Poltava 1709: Russia comes of age |publisher=Osprey Publishing|year=1994|series=Campaign|isbn=978-1855324169}}<br /> * &#039;&#039;Sweden and the Baltic, 1523 &amp;ndash; 1721&#039;&#039;, by Andrina Stiles, Hodder &amp; Stoughton, 1992 ISBN 0-340-54644-1<br /> * &#039;&#039;The Struggle for Supremacy in the Baltic: 1600-1725&#039;&#039; by Jill Lisk; Funk &amp; Wagnalls, New York, 1967<br /> * &#039;&#039;Norges festninger&#039;&#039; by Guthorm Kavli; Universitetsforlaget; 1987; ISBN 82-00-18430-7<br /> * &#039;&#039;Admiral Thunderbolt&#039;&#039; by Hans Christian Adamson, Chilton Company, 1958<br /> * &#039;&#039;East Norway and its Frontier&#039;&#039; by Frank Noel Stagg, George Allen &amp; Unwin, Ltd. 1956<br /> * &#039;&#039;THE ROAD TO MOSCOW&#039;&#039; by Major Wilbur E.Gray, Strategy &amp; Tactics#171,Decision Games,1994<br /> *{{Cite book|和書|author=アンリ・トロワイヤ |translator=工藤庸子|year=1981|title=大帝ピョートル|publisher=[[中央公論新社]]|isbn=978-4120010552|ref=トロワイヤ}}<br /> *{{Cite book|和書|author=イェジ・ルコフスキ、フベルト・ザヴァツキ |translator=河野肇|year=2007|title=ポーランドの歴史 (ケンブリッジ版世界各国史) |publisher=[[創土社]]|isbn=978-4789300537|ref=ルコフスキ&amp;ザヴァツキ}}<br /> * [[阿部重雄]]『ピョートル大帝と北方戦争』([[大類伸]]監修、[[林健太郎 (歴史学者)|林健太郎]]・[[堀米庸三]]編『世界の戦史 第六巻 ルイ十四世とフリードリヒ大王』に収録)[[新人物往来社|人物往来社]]、1966年。<br /> * 阿部重雄『タチーシチェフ研究 {{smaller|18世紀ロシア一官僚=知識人の生涯と業績}}』[[刀水書房]]、1996年。<br /> *{{Cite book|和書|author=武田龍夫 |translator=|year=2003|title=物語 スウェーデン史―バルト大国を彩った国王、女王たち|publisher=[[新評論]]|isbn=978-4794806123|ref=武田}}<br /> *{{Cite book|和書|author=鳥山成人 |translator=|year=1978|title=世界を創った人びと〈20〉ピョートル大帝|publisher=[[平凡社]]|isbn=|ref=鳥山}}<br /> *{{Cite book|和書|author=[[箕作元八]] |translator=|year=1915|title=西洋史新話第8冊 北方の流星王|publisher=[[博文館]]|ref=箕作(1915)}}<br /> *{{Cite book|和書|author=箕作元八 |translator=|year=1917|title=西洋史新話第9冊 ペートル大帝|publisher=博文館|ref=箕作(1917)}}<br /> *{{Cite book|和書|author=[[百瀬宏]]、[[熊野聰]]、村井誠人|translator=|year=1998|title=北欧史 (世界各国史)|publisher=[[山川出版社]]|isbn=978-4634415102|ref=北欧}}<br /> *{{Cite book|和書|author=[[土肥恒之]]|translator=|year=1992|title=ピョートル大帝とその時代 サンクト・ペテルブルグ誕生|publisher=[[中公新書]]|isbn=978-4121010926|ref=土肥}}<br /> * {{Cite book|和書|author=[[長谷川輝夫]]、土肥恒之、[[大久保桂子]]|translator=|year=2009|title=世界の歴史〈17〉ヨーロッパ近世の開花|publisher=中央公論新社|isbn=978-4122051157|ref=長谷川}}<br /> * {{Cite book|和書|author=[[木崎良平 (歴史学者)|木崎良平]]|translator=|year=1971|title=ピーター大帝―ロシア帝制の確立|publisher=[[清水書院]]|isbn=|ref=木崎}}<br /> * {{Cite book|和書|author=菊池良夫|translator=|year=2009|title=図説 神聖ローマ帝国|publisher=[[河出書房新社]]|isbn=978-4309761275|ref=菊池(2009)}}<br /> *{{EB1911|wstitle=Sweden}}<br /> {{Refend}}<br /> <br /> == 関連項目 ==<br /> {{commons|Great Northern War}}<br /> <br /> *[[バルト帝国]]([[スウェーデン]])<br /> *[[ロシア帝国]]、[[ロシア・ツァーリ国]]<br /> *[[プロイセン王国]]<br /> *[[ポーランド王国]]、[[ポーランド・リトアニア共和国]]<br /> *[[ヘーチマン国家]]<br /> *[[オスマン帝国]]<br /> *[[モルダヴィア]]<br /> *[[ペトロパヴロフスク要塞]]<br /> <br /> === [[ウォーゲーム|ボードゲーム]] ===<br /> * Joseph Miranda【On to Moscow】, Strategy &amp; Tactics No.171, Decision Games<br /> * Joseph Miranda【Great Northern War】, Strategy &amp; Tactics No.302, Decision Games<br /> * Goran Bjorkman, Stefan Ekstrom 【Pax Baltica】, Three Crown Games, GMT Games<br /> * Pohr Rohrbough, 【A thunder upon the land: Narva Poltava】, Against the odds No.42, LPS Inc.<br /> <br /> == 外部リンク ==<br /> *[http://www.northernwars.com/ About Northern Wars]<br /> <br /> {{Good article}}<br /> {{Normdaten}}<br /> <br /> {{デフォルトソート:たいほつほうせんそう}}<br /> [[Category:大北方戦争|*]]<br /> [[Category:17世紀の戦争]]<br /> [[Category:18世紀の戦争]]<br /> [[Category:スウェーデンの戦争]]<br /> [[Category:モスクワ・ロシアの戦争]]<br /> [[Category:エストニアの戦争]]<br /> [[Category:ベラルーシの戦争]]<br /> [[Category:ウクライナの戦争]]<br /> [[Category:ラトビアの戦争]]<br /> [[Category:リトアニアの戦争]]<br /> [[Category:デンマーク=ノルウェーの戦争]]<br /> [[Category:ポーランド・リトアニア共和国の戦争]]<br /> [[Category:プロイセン王国の戦争]]<br /> [[Category:オスマン帝国の戦争]]<br /> [[Category:18世紀のヨーロッパ]]<br /> [[Category:北欧史]]<br /> [[Category:バルト地方]]<br /> [[Category:ピョートル1世]]<br /> [[Category:カール12世]]</div> 220.216.84.187
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