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miniwiki - 利用者の投稿記録 [ja]
2024-05-16T17:32:14Z
利用者の投稿記録
MediaWiki 1.31.0
ポーランド・ソビエト・リガ平和条約
2018-11-04T20:22:35Z
<p>220.106.245.74: </p>
<hr />
<div>[[ファイル:Rzeczpospolita 1922.png|thumb|right|300px|ポーランド・ソビエト・リガ平和条約後の中央・東ヨーロッパ]]<br />
'''ポーランド・ソビエト・リガ平和条約'''(ポーランド・ソビエト・リガへいわじょうやく、{{lang-pl|'''Traktat Ryski'''}}; {{lang-ru|'''Рижский мирный договор'''}}; {{lang-uk|'''Ризький мир'''}})は、[[1921年]][[3月18日]][[リガ]]において、一方を[[ポーランド|ポーランド共和国]]とし、他方を[[ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国]]と[[ウクライナ・ソビエト社会主義共和国]]として結ばれた講和条約である。この条約により、[[ポーランド・ソビエト戦争]]は終結した。'''リガ平和条約'''(Peace of Riga)ともいわれる。<br />
<br />
== 背景 ==<br />
{{Main|ポーランド・ソビエト戦争}}<br />
[[ロシア内戦]]が生じている際、ポーランド国民は歴史的に敵対していた[[ロシア]]から、[[ポーランド・リトアニア共和国]]の領土全てを奪回したいと考えていた。当時ソビエトは自国の革命を必要なら武力を使用してでも、西ヨーロッパに輸出しようとしていた。仮に、[[ボリシェヴィキ]]がポーランドを占拠した場合、彼らはドイツの共産主義者の助けを借りて、[[ドイツ]]でのソビエト革命の成功を確実にすると考えられていた。<br />
<br />
歴史家の[[ジョン・フレデリック・チャールズ・フラー|J.F.C.フラー]]は、最も重要な戦いの1つとして{{仮リンク|ワルシャワの戦い (1920年)|en|Battle of Warsaw (1920)|label=ワルシャワの戦い}}を記載している。この戦闘により、ポーランドは敵を打ち負かし大勝利を収め、ソビエトは平和条約のための交渉を始めた<ref name="Cienciala">[http://www.ku.edu/~eceurope/hist557/lect11.htm ポーランド再生]、カンサス大学(University of Kansas)、教授による講義ノート Anna M. Cienciala、2004年。最終更新2006年6月2日</ref>。<br />
<br />
== 条約 ==<br />
条約の会談は[[1920年]][[8月17日]]に開始された。ポーランドの反撃が迫る[[ミンスク]]で、そして[[9月21日]]、[[リガ]]に移動して再開された。リガで、ソビエトは2つの提案を[[9月21日]]、[[9月28日|28日]]に行った。ポーランドの代表は[[10月2日]]に逆提案を行った。[[10月5日|5日]]にソビエトはポーランドの提案の修正版を提案し、ポーランドはそれを受け入れ、[[10月12日]]に停戦が調印された<ref name="Eley"> {{cite book | author =Geoff Eley| title =Forging Democracy: The History of the Left in Europe, 1850-2000 | year =2002 | | editor = | pages = | chapter = | chapterurl = | publisher =Oxford University Press | location =US | id =ISBN =0195044797| url = |format = |accessdate = }}</ref>。そして、[[10月18日]]に効力を発した。<br />
<br />
主な交渉は、ポーランドの[[:en:Jan Dąbski|ヤン・ドンプスキ]]とソビエトの[[アドリフ・ヨッフェ]]によって行われた。<br />
<br />
この条約は、その当初から議論を呼んでいた。<br />
[[ポーランド・ソビエト戦争|ポーランド・ボリシェヴィキ戦争]]の間にポーランドが獲得したもののほとんどが、近視的で偏狭な人が平和の交渉と呼ぶものにより失われたと多数の人が主張した。彼らはポーランドの独立性をもたらしたものが欠けていた。それは、[[ユゼフ・ピウスツキ]]による、将来の予言と戦士の心と体を持った完全性の理解の組み合わせである。<br />
<br />
リガの条約の交渉中1921年までは、ピウスツキは国家元首としてではなく、オブザーバーとして参加していた。その条約の交渉は、「卑怯な行動」と彼は述べていた<ref name="Davies"> {{cite book | author =[[ノーマン・デイヴィス|Norman Davies]]| title =White Eagle, Red Star: the Polish-Soviet War, 1919–20 | year =2003 | editor = | pages =399 | chapter = | chapterurl = | publisher =Pimlico | location = | id =ISBN 0-7126-0694-7| url =http://books.google.com/books?ie=UTF-8&vid=ISBN0231053525&id=DMoPXktGwiUC&pg=PA399&lpg=PA399&dq=Riga+an+act+of+cowardice&sig=i3vknEXAKsMRzbdbyuxKdq9e1XE |format =|accessdate = }} (First edition: New York, St. Martin's Press, inc., 1972.)</ref>。軍の敗北により、ボリシェヴィキは、ポーランドに和平の代表団に、論争となっている国境線の地域における領土の譲歩を提案した。しかし、ポーランド側で見ていた多数の傍観者は、ポーランドが勝利せず敗北したかの様に、[[リガ]]の交渉が行われていると考えていた。<br />
実際、[[ポーランド共和国下院|セイム]] (Sejm) の6人から構成されている特別議会の代表は、ソビエトの大きな譲歩を受け入れるかの投票を行った。その譲歩は、[[ミンスク]]を国境のポーランド側に残すと言うものであった。国家主義者[[スタニスワフ・グラプスキ]] ({{lang|pl|[[:pl:Stanisław Grabski|Stanisław Grabski]]}}) の圧力により、100kmの追加の領土は否決された。国家主義者は、その国境内に1/3の少数民族しか存在しない統一ポーランド州と、ポーランド人の移民の試みの成功による特権を想像していた。そのため、この否決は国家主義戦略の勝利であり、ピウスツキの連邦制を完全に打破したことによる勝利であった。しかし、大衆の意見は、戦争の終結を要求しており、ポーランド人は、両陣営とも、[[国際連盟]]からの圧力を受けていた。<br />
<br />
一方、平和条約の交渉はソビエトが調印に躊躇したことにより、数か月延期された。しかし、ソビエトは、国内の不安定な状態に直面した。2月23日から3月17日まで、[[クロンシュタット]]の[[クロンシュタットの反乱|水兵の反乱]]に直面した。これは衝撃を与えた。農民がソビエトの権力に対して蜂起したのだった。農民は、軍隊を食べさせるための穀物を所有しており、消費者のいる地域を望んでいた。この様な状況から、[[ウラジーミル・レーニン|レーニン]]は平和条約の締結のため、ソビエトの全権を委任した<ref name="Cienciala"/>。<br />
[[File:Caricature for Riga Peace 1921.png|300px|thumb|ポーランドとソヴィエトによるベラルーシ分割を批判するプロパガンダポスター。]]<br />
結局、両陣営とも[[1921年]][[3月18日]]にリガ平和条約の調印を決定した。その条約では、ポーランドとロシアの間で、[[ベラルーシ]]と[[ウクライナ]]で紛争中の領土を分割した。<br />
<br />
[[シモン・ペトリューラ]]に率いられたウクライナはポーランドと協力して戦っていた。しかし、リガ条約では、ポーランドは彼らをだました―ポーランドとウクライナ両陣営の危機になるものだった<ref name="Cienciala"/>。ピウスツキは、この条約は恥知らずなもので、近視的な政治的計算によるものであると感じていた。<br />
<br />
伝えられるところでは、彼は部屋をでて、リガ会議の結果を待っているウクライナ人に話しかけた。「みなさん、私はあなたたちに詫びないといけない。」<ref name="Apologies">実際、ピウスツキはウクライナ人の役人に完全に異なった状況で謝罪している。</ref><ref name="Surdykowski"> {{cite book | author =Jerzy Surdykowski | coauthors = | title =Duch Rzeczypospolitej | year =2001 | editor = | pages =335 | chapter =Ja was przepraszam panowie, czyli Polska a Ukraina i inni wpóltowarzysze niedoli | publisher =Wydawictwa Naukowe PWN | location =Warsaw | id =ISBN 83-01-13403-8 | url = }}</ref><ref name="Bruski"> {{cite journal | author =Jan Jacek Bruski | year =2002 | month =August | title =Sojusznik Petlura | journal =Wprost | volume = 1029| issue =2002-08-18 | pages = | id =ISSN 0209-1747|url =http://www.wprost.pl/ar/?O=13734&C=57|accessdate =2006-09-28 }}</ref>条約はウクライナとのポーランドの同盟に反するものであった。その同盟は、それぞれが和平を個別に結ぶことを禁止していた。これは、ポーランドとウクライナの少数派との関係を悪化させた。このウクライナの少数派はウクライナが同盟国ポーランドにだまされ、ソビエトのプロパガンダと1930年代と1940年代における[[ヴォルィーニ]]における[[ヴォルィーニの虐殺|ウクライナ人の虐殺]]の結果によって、利用されたと感じていた。1921年の終わりまで、ウクライナ人とベラルーシ人とロシア白軍の多数の戦力は、ポーランド国境を越え、降伏するか、ソビエト軍により全滅させられた。<br />
<br />
しかし、[[ユゼフ・ピウスツキ]]の夢である、独立国による[[東ヨーロッパ]]同盟 ([[:en:Międzymorze|Międzymorze]]) は、この条約により挫折した。なぜなら、ポーランドは、ウクライナとの同盟による責任とその独立の支援を満たすことができず、リトアニア人が自分たちの首都であると主張している、[[ヴィリニュス]]の都市のポーランドへの併合の結果、ポーランドとリトアニアの関係は同様に悪化したためである。<br />
[[ファイル:Rzeczpospolita 1789-1920.png|thumb|left|250px|リガ平和条約後のポーランドの国境と、[[ポーランド分割]]前の[[ポーランド・リトアニア連合]]の国境]]<br />
<br />
レーニンも平和条約は不十分であると考えていた。彼は、革命を西へ拡大させるという構想を一時的にあきらめることにした<ref name="Cienciala"/>。<br />
<br />
[[ファイル:Treaty of Riga.jpg|thumb|right|250px|条約の2ページ目。ポーランド語版]]<br />
一方、リガ平和条約は、ポーランドの東国境を安定させた。新しいポーランドの州は、[[ポーランド・リトアニア連合]]が第一次、第二次の[[ポーランド分割]]でロシアへ失われたほとんどの土地であった。そこには、特に[[スウツク|スルーツク]]と[[ジトームィル|ジトーミル]]の近辺には、ポーランドの少数民族(100万以下)が住んでいた。これは、ソビエトにこれらのポーランド人に対する報復を引き起こした。―これは、莫大な資産(土地や森林)の没収、宗教的迫害(1923年Cieplak司教)、そして、1931年 - 1934年に[[カザフスタン]]へのポーランド人の全ての人員の強制移住を引き起こした。リガ条約の国境におけるポーランド側に住んでいる[[ポーランド人]]を含む人々と[[ウクライナ]]人と、[[ベラルーシ]]人、[[リトアニア]]人、[[ユダヤ人]]等の少数民族(約600万人の人口)は、1938年までの17年間、共産主義者の[[独裁者]]から解放され、資産の自由や宗教の自由が許された。しかし、これは、民族差別から、特に[[1929年]]からの[[世界恐慌]]において、彼らを保護することではなかった、<br />
<br />
ポーランドは、[[ポーランド分割]]期間の[[帝政ロシア]]への経済投資に対する賠償金を(3000万[[ルーブル]])を受け取った。ロシアは、1772年後に略奪した、([[ザルスキー図書館]] (Załuski Library) のような)絵画や他のポーランドの国有財産を返還した。両陣営は戦争自体の賠償請求を放棄することを宣言した。<br />
<br />
== 脚注 ==<br />
{{脚注ヘルプ}}<br />
<div class="references-small"><br />
<references/><br />
</div><br />
<br />
== 参考文献 ==<br />
* [[ノーマン・デイヴィス|Davies, Norman]], ''White Eagle, Red Star: the Polish-Soviet War, 1919-20'', Pimlico, 2003, ISBN 0-7126-0694-7. (First edition: New York, St. Martin's Press, inc., 1972.)<br />
<br />
== 関連項目 ==<br />
* [[ポーランド・ソビエト戦争]]<br />
* [[西ベラルーシ]]<br />
<br />
== 外部リンク ==<br />
* 条約全文<br />
** [http://www.konflikty.pl/artykul-tekstyzrodlowe-509.html ポーランド語正文]<br />
** [http://poland1939.ru/node/539 ロシア語正文]<br />
** [http://treaties.un.org/doc/publication/unts/lon/volume%206/v6.pdf#page=102 ウクライナ語正文](PDF、国際連盟条約集)<br />
** {{PDFlink|[http://www.forost.ungarisches-institut.de/pdf/19210318-1.pdf 英語訳文]}} - PDFファイル<br />
<br />
{{DEFAULTSORT:ほおらんとそひえとりかへいわしようやく}}<br />
[[Category:ポーランドの条約|そひえとりかへいわしようやく]]<br />
[[Category:ロシアの講和条約]]<br />
[[Category:ソビエト連邦の条約]]<br />
[[Category:ウクライナ・ソビエト社会主義共和国]]<br />
[[Category:ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国]]<br />
[[Category:ベラルーシの歴史]]<br />
[[Category:ポーランドの歴史 (1918–1939)]]<br />
[[Category:ロシア内戦]]<br />
[[Category:リガの歴史]]<br />
[[Category:1921年の条約]]<br />
[[Category:ポーランド・ソビエト連邦関係|りかへいわしようやく]]</div>
220.106.245.74
タピオ・ヴィルカラ
2018-09-21T15:26:05Z
<p>220.106.245.74: </p>
<hr />
<div>[[File:Tapio-Wirkkala-1959.jpg|thumb|right|250px|タピオ・ヴィルカラ(1959年)]]<br />
'''タピオ・ヴィルカラ'''('''Tapio Wirkkala''', [[1915年]][[6月2日]] - [[1985年]][[5月19日]])は、[[フィンランド]]を代表する[[デザイナー]]、[[彫刻家]]。よりフィンランド語に近い表記では'''タピオ・ヴィルッカラ'''。娘の[[マーリア・ヴィルッカラ|マーリア]]は現代芸術家。<br />
<br />
[[広告代理店]]に勤務しながら数々のデザイン[[設計競技|コンペ]]に参加し、人々に知られる。1947年、[[イッタラ]]社のデザインコンペに優勝。1951年、[[ミラノ]]で行われた[[トリエンナーレ]]で三部門金メダルを受賞し、名声を不動のものとする。彼のデザインは、ガラス食器やカトラリーといったテーブルウェアから、テーブルや椅子、照明といった家具、ケチャップやシャンプー容器などの工業デザイン、紙幣や[[近代オリンピック|オリンピック]]の[[記念切手]]にいたるまで、実に多彩である。氷や水、木の葉など、自然の要素を巧みにモチーフに取り入れ、見る者にフィンランドの自然と対峙しているかのような感覚を抱かせる。<br />
<br />
1951年から1954年の間は、[[ヘルシンキ工芸大学]]の芸術科教授として、後進の指導にも当たっている。<br />
<br />
== 年表 ==<br />
*[[1915年]] フィンランド、[[ハンコ]]に生まれる。<br />
*[[1933年]] - [[1936年]] ヘルシンキの美術学校で彫刻を学ぶ。<br />
*[[1946年]] - イッタラ社のデザイナーとして勤務する。<br />
*[[1947年]] - イッタラ社のデザインコンペに優勝。<br />
*[[1951年]] - [[1954年]]<br />
**[[1951年ミラノ・トリエンナーレ|ミラノ・トリエンナーレ]]で三部門グランプリを受賞。[[1952年]]、[[1954年]]にもそれぞれ入賞する。<br />
**{{仮リンク|ヘルシンキ工芸大学|en|University of Art and Design Helsinki}}で教鞭をとる。<br />
*[[1985年]] - ヘルシンキで死去。<br />
<br />
== 主な作品 ==<br />
===ガラス製品===<br />
*1946年 - Chantarelle (Kantarelliとしても知られている) ※ワイングラス等<br />
*1952年 - タピオ (Tapio) ※トリエンナーレ入賞作品<br />
*1959年 - ブリリアント・シェリー・ワイングラス (Brilliant sherry wine glass) <br />
*1968年 - ウルティマ・ツーレ (Ultima Thule) シリーズ ※タンブラー、ショットグラス等<br />
*1972年 - ガイザ (Gaissa) ※オールドファッションドグラス等<br />
<!--<br />
===カトラリー===<br />
<br />
===家具===<br />
--><br />
== 関連項目 ==<br />
*[[カイ・フランク]]<br />
*[[ティモ・サルパネヴァ]]<br />
*[[フィンランドのデザイン]]<br />
*[[ルニングプライズ]]-第1回(1951年)受賞。<br />
<br />
== 外部リンク ==<br />
*[http://www.uiah.fi/frontpage.asp?path=1866 University of Art and Design Helsinki](公式HP, 英語)<br />
*[http://www.iittala.com/designor/web/iittalacom.nsf/pages/etusivu_en?opendocument&lang=en イイッタラ](公式HP,英語)<br />
*[http://www.int.rosenthal.de/155/Home.htm ローゼンタール社](公式HP,英語) タピオがデザインした食器類を製造。<br />
<br />
{{DEFAULTSORT:ういるから たひお}}<br />
[[Category:フィンランドのデザイナー]]<br />
[[Category:フィンランドの彫刻家]]<br />
[[Category:ロシア帝国のフィンランド人]]<br />
[[Category:1915年生]]<br />
[[Category:1985年没]]<br />
<br />
{{Artist-stub}}</div>
220.106.245.74
ヤコブ・ギンペル
2018-09-05T21:48:14Z
<p>220.106.245.74: </p>
<hr />
<div>{{Portal クラシック音楽}}'''ヤコブ・ギンペル'''('''''Jakob Gimpel''''', [[1906年]][[4月16日]] [[リヴィウ|リヴォフ]] - [[1989年]][[3月12日]] [[ロサンジェルス]]<ref>{{cite book | last = Slonimsky | first = Nicolas | authorlink = | coauthors = Theodore Baker | title = Baker's Biographical Dictionary of Musicians, Eighth Edition | publisher = Schirmer Books | date = 1992 | location = New York, New York | pages = | url = | doi = | id = | isbn = }}</ref>)は、後半生に[[アメリカ合衆国]]で活躍した[[ポーランド人]]の[[ピアニスト]]・音楽教師。兄カロルは指揮者・ピアニストで、弟[[ブロニスワフ・ギンペル|ブロニスワフ]]は著名な[[ヴァイオリニスト]]<ref>{{cite news | first= | last= | coauthors= | title=Jakob Gimpel, a Concert Pianist, Dies at 82 | date= | publisher= | url =http://proquest.umi.com/ | work =The New York Times | pages = | accessdate = | language = }}</ref><ref>{{cite news | first=Peter | last=Gimpel | coauthors= | title=Jakob Gimpel: A Biographical Essay | date=2004 | publisher=Jakob & Bronislaw Gimpel Archives | url =http://www.gimpelmusicarchives.com/ | work = | pages = | accessdate = | language = }}</ref>。<br />
<br />
== 略歴 ==<br />
=== 生い立ちからデビューまで ===<br />
父アドルフから[[ピアノ]]の手解きを受けた後、コルネリア・タルノフスカと[[エドゥアルト・シュトイアーマン]]にピアノを、[[音楽理論]]を[[アルバン・ベルク]]に師事、[[1923年]]に[[ウィーン]]において、[[ピエール・モントゥー]]の指揮する[[コンセルトヘボウ管弦楽団]]との共演により、[[セルゲイ・ラフマニノフ|ラフマニノフ]]の《[[ピアノ協奏曲第2番_(ラフマニノフ)|ピアノ協奏曲 第2番]]》を演奏してデビューを果たした<ref>{{cite news | first=Peter | last=Gimpel | coauthors= | title=Jakob Gimpel: A Biographical Essay | date=2004 | publisher=Jakob & Bronislaw Gimpel Archives | url =http://www.gimpelmusicarchives.com/ | work = | pages = | accessdate = | language = }}</ref>。<br />
<br />
室内楽奏者としては、[[ブロニスワフ・フーベルマン]]や[[エリカ・モリーニ]]、[[ナタン・ミルシテイン]]や弟ブロニスワフと演奏旅行を行なった<ref>{{cite news | first=Peter | last=Gimpel | coauthors= | title=Jakob Gimpel: A Biographical Essay | date=2004 | publisher=Jakob & Bronislaw Gimpel Archives | url =http://www.gimpelmusicarchives.com/ | work = | pages = | accessdate = | language = }}</ref>。[[1937年]]にフーベルマンがパレスチナ交響楽団([[イスラエル・フィルハーモニー管弦楽団]]の前身)を設立できるように支援した。<br />
<br />
=== 映画界入り ===<br />
[[1938年]]に渡米して[[ニューヨーク]]入りし、後に[[ロサンジェルス]]に移った。『[[ガス燈 (映画)|ガス燈]]』や『[[失われた心]]』、『[[忘れじの面影]]』といった往年の洋画のほか、『[[ラビット狂騒曲]]』や、『[[トムとジェリー]]』の「[[ワルツの王様]]」といった古典的な[[アニメーション]]でピアノの吹き替え演奏を担当している<ref>{{cite news | first=Peter | last=Gimpel | coauthors= | title=Jakob Gimpel: A Biographical Essay | date=2004 | publisher=Jakob & Bronislaw Gimpel Archives | url =http://www.gimpelmusicarchives.com/ | work = | pages = | accessdate = | language = }}</ref>。<br />
<br />
===終戦と晩年===<br />
[[第二次世界大戦]]後に、アメリカに[[亡命]]した[[ヨーロッパ]]出身の芸術家の中で、最初にヨーロッパに戻った芸術家の一人である。[[1954年]]に[[西ドイツ]]で盛大に演奏会を行なった。[[1971年]]から[[1986年]]まで、[[カリフォルニア州立大学]][[カリフォルニア州立大学|ノースリッジ校]]の教授を務めた<ref>{{cite news | first=Peter | last=Gimpel | coauthors= | title=Jakob Gimpel: A Biographical Essay | date=2004 | publisher=Jakob & Bronislaw Gimpel Archives | url =http://www.gimpelmusicarchives.com/ | work = | pages = | accessdate = | language = }}</ref>。<br />
<br />
[[1979年]][[5月9日]]に、弟ブロニスワフとロサンジェルスで共同リサイタルを行なう予定であったが、演奏会の数日前にブロニスワフが急死したため、ギンペルは弟を偲んで追悼演奏会を行なった<ref>{{cite news | first=Nicolas | last=Slonimsky | coauthors=Theodore Baker | title=Baker's Biographical Dictionary of Musicians | date=1984 | publisher=Schirmer Books | url =http://proquest.umi.com | work = | pages = | accessdate = | language = }}</ref>。<br />
<br />
西ドイツ政府と[[イスラエル]]政府から受勲した<ref>{{cite news | first= | last= | coauthors= | title=Jakob Gimpel, a Concert Pianist, Dies at 82 | date= | publisher= | url =http://proquest.umi.com/ | work =The New York Times | pages = | accessdate = | language = }}</ref>。<br />
<br />
== 参考資料 ==<br />
<div class='References-small'><br />
<References/><br />
</div><br />
<br />
== 外部リンク ==<br />
* http://www.gimpelmusicarchives.com/<br />
<br />
{{Normdaten}}<br />
<br />
{{DEFAULTSORT:きんへる やこふ}}<br />
[[Category:ポーランドのピアニスト]]<br />
[[Category:アメリカ合衆国のピアニスト]]<br />
[[Category:ユダヤ人のクラシック音楽のピアニスト]]<br />
[[Category:ポーランド系アメリカ人]]<br />
[[Category:東欧ユダヤ系アメリカ人]]<br />
[[Category:カリフォルニア州立大学の教員]]<br />
[[Category:オーストリア=ハンガリー帝国のユダヤ人]]<br />
[[Category:リヴィウ出身の人物]]<br />
[[Category:1906年生]]<br />
[[Category:1989年没]]</div>
220.106.245.74
ヴワディスワフ・レイモント
2018-09-05T21:30:31Z
<p>220.106.245.74: </p>
<hr />
<div>{{Infobox writer<br />
| name = Władysław Reymont<br>ヴワディスワフ・レイモント<br />
| image = Wladyslaw Reymont 1924.jpg<br />
| image_size = 200px<br />
| birth_name = Stanisław Władysław Rejment<br />
| birth_date = {{birth date|1867|5|7|df=y}}<br />
| birth_place = [[ポーランド立憲王国]] [[ウッチ県]]<br />
| death_date = {{death date and age|1925|12|5|1867|5|7|df=y}}<br />
| death_place = {{POL}} [[ワルシャワ]]<br />
| nationality = {{POL}}<br />
| awards = [[ノーベル文学賞]](1924)<br />
| signature = Władysław Stanisław Reymont podpis z książki Chłopi Tom I,II page005.jpg<br />
}}<br />
{{thumbnail:begin}}<br />
{{thumbnail:ノーベル賞受賞者|1924年|ノーベル文学賞|彼の偉大なる国民的叙事詩"[[:en:The Peasants|農民]]"に対して}}<br />
{{thumbnail:end}}<br />
'''ヴワディスワフ・レイモント'''('''Władysław Stanisław Reymont'''、[[1867年]][[5月7日]] - [[1925年]][[12月5日]])は[[ポーランド]]の[[小説家]]。[[1924年]]度[[ノーベル文学賞]]受賞。<br />
<br />
== 人物 ==<br />
ポーランドの[[コビェレ・ヴィェルキェ]]{{enlink|Kobiele_Wielkie|a=on}}の農村で[[オルガン]]弾きの息子として生まれた。幼少より[[演劇]]に熱中し、定職につくことなくポーランド中を放浪した。[[1895年]]に発表した[[ルポタージュ]]『[[ヤスナ・グラ修道院|ヤスナ・グラ]]への巡礼』で自身の持つ文学的才能を評価され、小説家としての地位を確立する。<br />
<br />
[[四季]]折々のポーランド農民の生活をつぶさに描いた作品『農民』で国内だけでなく国際的な評価も得て、1924年、ノーベル文学賞を受賞した。<br />
<br />
現在、ポーランドの[[ウッチ]]には、彼にちなんだ「ウッチ・ヴワディスワフ・レイモント空港」という名の空港がある。<br />
<br />
== 主な作品 ==<br />
*『出会い』(1879年)<br />
*『ヤスナ・グラへの巡礼』{{enlink|Pielgrzymka_do_Jasnej_Góry||pl|a=on}}(1895年)<br />
*『喜劇女優』{{enlink|Komediantka_(powieść)||pl|a=on}}(1896年)<br />
*『酵母』(1897年)<br />
*『約束の地』{{enlink|The_Promised_Land_(novel)|a=on}}(1899年)<br />
*『農民』{{enlink|The_Peasants|a=on}}(1902年-1909年)<br />
:*{{cite book|和書|title=農民 第1-4|author=加藤朝鳥 [訳]|publisher=春秋社|year= }}(1925年-1926年)<br />
:#{{cite book|和書|title= 第1 秋|series=農民|author=―――― [訳]|publisher=春秋社|year= 1925}}<ref name="shunju01">{{cite book|和書|title= 第1 秋|series=農民|author=―――― [訳]|publisher=春秋社|url=http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1017018|accessdate=2018-04-10 |year= }} - デジタル版(国立国会図書館/図書館送信参加館内公開)</ref><ref name="mikasa">{{cite book|和書|title= 第1 秋|series=農民|author=―――― [訳]|publisher=三笠書房|url=http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1193736|accessdate=2018-04-10|year= 1939}} - デジタル版(国立国会図書館/図書館送信参加館内公開)</ref><ref>{{cite book|和書|title=農民 第1部|author=新居格 [訳]|publisher=文学社|url=http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1137099|accessdate=2018-04-10|year=1945}} - デジタル版(国立国会図書館/図書館送信参加館内公開)</ref><br />
:#{{cite book|和書|title= 第2 冬|series=農民|author=―――― [訳]|publisher=春秋社|year= 1925}}<ref name="shunju02">{{cite book|和書|title= 第2 冬|series=農民|author=―――― [訳]|publisher=春秋社|url=http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/10298153|accessdate=2018-04-10|year= 1925}} - デジタル版(国立国会図書館/図書館送信参加館内公開)</ref><ref name="mikasa2_4">冊子体、3冊 - {{cite book|和書|title= 第2-4部|series=農民|author=―――― [訳]|publisher=三笠書房|year= 1939}}</ref><br />
:#{{cite book|和書|title= 第3 舂|series=農民|author=―――― [訳]|publisher=春秋社|year= }}<ref name="mikasa2_4"/><ref name="shunju03">{{cite book|和書|title= 第3 舂|series=農民|author=―――― [訳]|publisher=春秋社|url=http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1017042|accessdate=2018-04-10|year= }} - デジタル版(国立国会図書館/図書館送信参加館内公開)</ref><br />
:#{{cite book|和書|title= 第4 夏|series=農民|author=―――― [訳]|publisher=春秋社|year= 1926}}<ref name="mikasa2_4"/><ref name="shunju04">{{cite book|和書|title= 第4 夏|series=農民|author=―――― [訳]|publisher=春秋社|url=http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/10298152|accessdate=2018-04-10|year= 1926}} - デジタル版(国立国会図書館/図書館送信参加館内公開)</ref><br />
:*{{cite book|和書|chapter= 農人 ラジラス・レイモント |page=387|title=世界田園文学 : 名作選集 |number=298}}<ref name="bunkyo">{{cite journal|和書|chapter= 農人 ラジラス・レイモント|author= 和田伝 [訳]|page=387|title=世界田園文学 : 名作選集 298|url=http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1190315?tocOpened=1|accessdate=2018-04-10|publisher=文教書院|year=1927}} - デジタル版(国立国会図書館/図書館送信参加館内公開)</ref><br />
:*{{cite magazine|和書|title= レイモント「農民」――世界の農民文学作品 -2-|author=男沢 淳|magazine=農民文学|publisher=農民文化協会|number=4 (通号) |pages= 50-51|date=1951-12}}<ref>{{cite magazine|和書|title= レイモント「農民」――世界の農民文学作品 -2-|author=男沢 淳|magazine=農民文学 |url=http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1854427|accessdate=2018-04-10|publisher=農民文化協会|number=4 (通号) |pages= 50-51|date=1951-12}} - デジタル版(国立国会図書館/図書館送信参加館内公開)</ref><br />
:*柏木智二「レイモント『農民』」<br />
:#{{cite magazine|和書|title= 海外の文学 レイモント『農民』(上) 圧政下のポーランド農民の総体を活写 |author=―――― |magazine=農民文学 |number=186|pages=74-81|location=国分寺|publisher=日本農民文学会|date=1983-07}}<ref>[http://id.ndl.go.jp/bib/000000019409 柏木智二「海外の文学 レイモント『農民』(上)」 - 国立国会図書館内/図書館送信のデジタル資料]</ref><br />
:#{{cite magazine|和書|title= 海外の文学 レイモント『農民』(中) |author=――――|pages=106-112|magazine=農民文学 |number=187|location=国分寺|publisher=日本農民文学会|date=1983-11}}<ref>[http://id.ndl.go.jp/bib/000000019409 柏木智二「海外の文学 レイモント『農民』(中)」 - 国立国会図書館内/図書館送信のデジタル資料]</ref><br />
:#{{cite magazine|和書|title=海外の文学 レイモント『農民』(下) |author=――――|pages=85-98|magazine=農民文学 |number=188 |location=国分寺|publisher=日本農民文学会|date=1984-01}}<ref>[http://id.ndl.go.jp/bib/000000019409 柏木智二「海外の文学 レイモント『農民』(下)」 - 国立国会図書館内/図書館送信のデジタル資料]</ref><br />
<br />
* 歴史三部作(1913年 - 1918年)<br />
**『ポーランド士族共和国の最後の議会』<ref>{{cite book|和書|chapter= レイモント|title=ポーランド事情 |series=博文館時局叢書 (第1輯)|author1=根岸 謙|publisher= 博文館|year=1940}}</ref><br />
**『ニル・デスペランドゥム』<ref name="konnichi"/><br />
**『蜂起』<ref name="konnichi"/><br />
*{{cite book|和書|title=阿片窟にて|series=大衆文庫 (文芸 1)|author=上田行夫 [訳]|publisher=紅玉堂書店|year=1930}}<ref name="konnichi"/><br />
*{{cite book|和書|chapter= 最後のひとり, 奈落の底, 秋の夜, 阿片窟|title=第11 祖国に告ぐ 悲しみの家|series=ノーベル賞文学叢書|publisher=今日の問題社|year=1941}}<ref name="konnichi">デジタル版(国立国会図書館/図書館送信参加館内公開) - {{cite book|和書|chapter= 最後のひとり, 奈落の底, 秋の夜, 阿片窟|title=第11 祖国に告ぐ 悲しみの家|series=ノーベル賞文学叢書|url=http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1069282|accessdate=2018-04-10|publisher=今日の問題社|year=1941}} 第11巻掲載の一覧<br />
*「レイモント」馬場清彦 [筆] p.1<br />
*「祖國に急ぐ」三宅史平 [訳] p.3<br />
*「最後のひとり」―――― [訳] p.31<br />
*「奈落の底」―――― [訳] p.51<br />
*「秋の夜」―――― [訳] p.67<br />
*「阿片窟」馬場清彦 [訳] p.85</ref><br />
**{{cite book|和書|title=ノーベル賞文学叢書 |number=11 |edition=復刻版|chapter= 最後のひとり, 奈落の底, 秋の夜, 阿片窟|publisher=東京 : 本の友社|date=2005-12}} - 初版は今日の問題社刊(1941年)。<ref>本の友社版復刻『ノーベル賞文学叢書』11巻掲載のレイモント作品一覧。<br />
* 「祖国に告ぐ」三宅史平 [訳]<br />
* 「最後のひとり」―――― [訳]<br />
* 「奈落の底」―――― [訳]<br />
* 「秋の夜」―――― [訳]<br />
* 「阿片窟」馬場清彦 [訳]<br />
</ref><br />
*{{cite book|和書|chapter=強情な子 レイモント(ポーランド)一九二四年 |title=美しいたましいの歌 |series=少年少女のための世界ノーベル賞文庫 ; 1(文学賞編 上)|author1=日本児童文芸家協会 [編]|author2=帆足次郎 [絵]|page= 197|publisher=東西文明社 |year=1956}}<ref> 国立国会図書館内/図書館送信 - {{cite book|和書|chapter=強情な子 レイモント(ポーランド)一九二四年 |title=美しいたましいの歌 |series=少年少女のための世界ノーベル賞文庫 ; 1(文学賞編 上)|author1=日本児童文芸家協会 [編]|author2=帆足次郎 [絵]|page= 197|url=http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1628771|accessdate=2018-04-10|publisher=東西文明社 |year=1956}}</ref><br />
*{{cite magazine|和書|title=読書案内 戦歿農民兵士の手紙とレイモントの農民 |author=丸山義二 |page=230|magazine=農業世界 |volume=56|number=10|publisher=<br />
博友社|date=19611-1}}<ref>[http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1756697 丸山義二『読書案内・戦没農民兵士の手紙とレイモントの農民」のデジタル版は国立国会図書館限定で閲覧可能。]</ref><br />
*{{cite book|和書|chapter=レイモント |title=クヌート・ハムスン.アナトール・フランス.ヴワディスワフ=スタンスワフ・レイモント|series=ノーベル賞文学全集 (4)|publisher=主婦の友社|year= 1971}}<ref>「正義」(米川和夫 [訳])、「秋の一夜」(―――― [訳])、「人と作品」(ヨセプトリプッコ [著] 大久保和郎 [訳])、「著作目録」(米川 [編])。</ref><br />
*{{cite book|和書|chapter=春・二題 |author1=金子佳代 [訳] |author2= 関口時正 [訳]|title=ポーランド文学の贈りもの|publisher=恒文社|date=1990-01}}<br />
*{{cite video|和書|title=約束の土地 [Ziemia obiecana]|people=ヴワデァスワフ・レイモント [原作]; [[アンジェイ・ワイダ]] [監督・脚本]; ダニエル・オルブルィフスキ [ほか出演]|media=DVD-box ; 2 disc.2; 1974年ポーランド作品; カラー; モノラル ビスタ; 音声:ポーランド語; 字幕:日本語|publisher=[[紀伊國屋書店]]|date=2011-09}}<br />
<br />
== 脚注 ==<br />
=== 参考文献 ===<br />
{{Reflist}}<br />
<br />
== 関連項目 ==<br />
* [[ノーベル文学賞]]<br />
<br />
{{Writer-stub}}{{Authority control}}{{ノーベル文学賞受賞者 (1901年-1925年)}}<br />
{{Authority control}}<br />
<br />
{{DEFAULTSORT:れいもんと うわていすわふ}}<br />
[[Category:ポーランドの小説家]]<br />
[[Category:ノーベル文学賞受賞者]]<br />
[[Category:ロシア帝国のポーランド人]]<br />
[[Category:1867年生]]<br />
[[Category:1925年没]]</div>
220.106.245.74
レオポルド・ゴドフスキー
2018-09-05T15:23:38Z
<p>220.106.245.74: </p>
<hr />
<div>{{Infobox Musician <!--プロジェクト:音楽家を参照--><br />
| Name = レオポルド・ゴドフスキー<br />Leopold Godowsky<br />
| Img = LeopoldGodowsky55.jpg<br />
| Img_capt = <br />
| Img_size = <!-- サイズが250ピクセルに満たない場合のみ記入 --><br />
| Landscape = <!-- 画像の横幅が広く、高さが小さい場合に“yes”を記入 --><br />
| Background = classic<br />
| Birth_name = <!-- 個人のみ --><!-- 出生時の名前が公表されている場合にのみ記入 --><br />
| Alias = <br />
| Blood = <!-- 個人のみ --><br />
| School_background = <!-- 個人のみ --><br />
| Born = [[1870年]][[2月13日]]<br />{{RUS1858}} [[:pl:Sozły|ソズウィ]]<br />
| Died = {{死亡年月日と没年齢|1870|2|13|1938|11|21}}<br />{{USA1912}} [[ニューヨーク]]<br />
| Origin = <br />
| Instrument = [[ピアノ]]<br />
| Genre = [[クラシック音楽]]<br />
| Occupation = [[ピアニスト]]<br />[[作曲家]]<br />[[教師]]<br />
| Years_active = <br />
| Label = <br />
| Production = <br />
| Associated_acts = <br />
| Influences = <br />
| URL = <br />
| Notable_instruments = <br />
}}<br />
{{Portal クラシック音楽}}<br />
'''レオポルド・ゴドフスキー'''('''Leopold Godowsky''', [[ポーランド語]] '''Leopold Godowski''' レオポルト・ゴドフスキ, [[1870年]][[2月13日]] - [[1938年]][[11月21日]])は、[[ポーランド]](現・[[リトアニア]]。当時は[[ロシア帝国]])の[[ユダヤ人]]の[[ピアニスト]]、[[作曲家]]、[[教師]]。「ピアニストの中のピアニスト ''The Pianist of Pianists''」と呼ばれる。<br />
<br />
== ピアニストとしてのゴドフスキー ==<br />
===生涯===<br />
ゴドフスキーは現在の[[リトアニア]]の首都[[ヴィリニュス]]の近く、[[ソズウィ]] [[:pl:Sozły|Sozły]] に生まれた。幼少の頃、彼はピアノ演奏と音楽理論のレッスンを受けていた。14歳になると[[ベルリン芸術大学|ベルリン高等音楽院]]に入学し、[[エルンスト・ルドルフ]]の下で研鑽を積み始めるも3ヶ月で辞めてしまう。それ以外では、彼は基本的に独学家だった。<br />
<br />
コンサート・ピアニストとしての活動<ref>最終的にオーストラリアと南極を除く全大陸に及ぶことになる…日本も含む。日本公演も成功したものの、ピアノの調律がよくなかったと伝えられる。ヤマハミュージックメディア出版ゴドフスキー練習曲集上巻まえがきより。</ref>を開始したのは、ゴドフスキーが僅か10歳の時だった。[[1886年]]、[[北アメリカ]]の巡回公演後、[[ヴァイマル]]にいる[[フランツ・リスト]]の下で勉強しようと思いヨーロッパに戻ってくるが、直後にリストの死を知り、[[パリ]]へ赴く。パリで彼は作曲家=ピアニストであった[[カミーユ・サン=サーンス]]と親交を結ぶ。サン=サーンスとの出会いは、ゴドフスキーに当時の優れたフランスの音楽家達と知り合うきっかけを与えた。サン=サーンスはゴドフスキーを養子にし姓を継いでもらうよう申し入れたが、ゴドフスキーがそれを辞退するとサン=サーンスは大変不機嫌になったという。<br />
<br />
[[1890年]]、ゴドフスキーは[[教師]]として[[ニューヨーク大学|ニューヨーク音楽大学]](New York College of Music)で活動を始めた。[[ニューヨーク]]に居るとき、彼は[[フリーダ・サックス]](Frieda Saxe)と結婚し、[[アメリカ合衆国]]市民権を獲得する。[[1894年]]には[[フィラデルフィア]]のブロードストリート音楽院([[w:Combs College of Music|Combs Broad Street Conservatory of Music]])、翌年の[[1895年]]には[[シカゴ音楽院]]([[w:The Music Conservatory of Chicago College of Performing Arts|Chicago Musical College]])に移動。シカゴ音楽院ではピアノ学科代表になった。大成功に終わった[[1900年]]のヨーロッパ巡回公演の際、ゴドフスキーは[[ベルリン]]の地へ再び訪れるが、そこで彼の時間は教育活動と演奏活動で二分した。[[1909年]]から[[1914年]]にかけて、ゴドフスキーは[[ウィーン国立音楽大学|ウィーン音楽院]]の[[マスタークラス]]を教える。[[1914年]]、[[第一次世界大戦]]が勃発し、彼は[[ニューヨーク]]に戻った。ニューヨークにある自宅には当時の著名なピアニストや有名人がしばしば訪れた。特別の仲だった[[セルゲイ・ラフマニノフ]]からは、“[[V.R.のポルカ]]”を献呈されている。演奏・作曲・教育の三本で有名になりすぎたことによる過労が、後の健康状態に深刻な打撃を与えていた。<br />
<br />
終戦を迎えると、ゴドフスキーは演奏活動を再開したが、[[1930年]][[6月17日]]、[[ロンドン]]でのレコーディング中に脳卒中を起こす。それによって彼は公開演奏の経歴にピリオドを打ち、同時に[[1929年]]の[[ウォール街大暴落 (1929年)|暗黒の木曜日]]<ref>[[世界恐慌]]</ref>で彼が負った莫大な経済的損失を回復させる手立てをも失った。[[1932年]]の息子の自殺と[[1933年]]の妻の死は、悪化するヨーロッパの政治情勢<ref>それはゴドフスキーの死期を暗示していた。</ref>への彼の絶望と相まり、ゴドフスキーは作曲活動をも止めてしまう。悪化する欧州政情は、ゴドフスキーが構想していた「音楽と音楽家の世界会議」(World Synod of Music and Musicians)や「国際的な音楽教師機関」(International Master Institute of Music)を無に帰した。[[1938年]][[11月21日]]、[[胃癌]]のためニューヨークで死去。<br />
<br />
弟子に[[ゲンリフ・ネイガウス]]、[[ホルヘ・ボレット]]、[[デヴィッド・サパートン]]等がいる。この三人はゴドフスキーと同じように非業の死を<ref>ネイガウスはシベリアへ送られ、ボレットはエイズに倒れ、サパートンは録音した音盤を廃棄処分にされた。</ref>遂げた。<br />
<br />
=== 演奏スタイル ===<br />
ダイナミックレンジは狭かったと伝えられるが、一音も弾き逃さない丁寧な演奏であったことは多くのピアニストによって証言された。もともと演奏家としてあがり性であったことなどから、残されている音源からは彼が当代一流であったかどうかを判断するのは難しい。しかし、ブゾーニのような完璧主義者と異なり比較的多くの音源が残された。「気が乗っていないまま」弾いてしまったショパンのソナタ第二番などは、彼本人も不満であった。ショパンの装飾音も勝手にゴドフスキーの手によって直されるなど、20世紀後半以後のショパン演奏とはかなりかけ離れており、後期ロマン派の脚色が入った表現である。<br />
<br />
== 作曲家としてのゴドフスキー ==<br />
===作品解説===<br />
ゴドフスキーは、他の作曲家の[[ピアノ]]小品に基づく[[パラフレーズ]]で最もよく知られている。それらの作品は、精巧な[[対位法]]的処理、豊かな[[半音階]]的[[和声]]により極限まで昇華される。この分野でのゴドフスキーの最も有名な作品は『'''[[ショパンのエチュードによる練習曲|ショパンの練習曲に基づく53の練習曲]]'''』だろう。対声部の導入、技巧的パッセージの右手から左手への転換、左手独奏用編曲、2曲の同時演奏など様々な手法を用いて、ゴドフスキーは[[フレデリック・ショパン|ショパン]]の27の練習曲<ref>それは既に演奏困難なものではあるが。</ref>をそれぞれ編曲している。<ref>原典版は当時ショパンに関して普及しておらず、現在の基準からみると和声外音は不適切なまま残されている。</ref><br />
<br />
これは現代の辣腕な技巧家にとっても極めて苛酷な曲集であり、今までに全曲録音を行ったピアニストは[[ジョフリー・ダグラス・マッジ]]<ref>仏Dante</ref>、[[カルロ・グランテ]]<ref>Altarus; Music & Arts; 二度の録音</ref>、[[マルカンドレ・アムラン]]<ref>Hyperion</ref>の3人。<ref>コンスタンティン・シチェルバコフの録音がMarco Poloから最後に予定されているが、未リリース。</ref>リサイタルで全曲演奏を行ったピアニストは、カルロ・グランテと[[フランチェスコ・リベッタ]]しかおらず、ゴドフスキーの[[著作権]]が切れた現在も全曲演奏の女性の挑戦者は一切存在せず<ref>全集はおろか選集も確認できない。</ref>険しい難易度を誇っている。この他に、[[ミヒャエル・ナナサコフ]]<ref>Nanasawa Articulates</ref>と名づけられたコンピュータ出力による自動演奏の全曲版もある。<br />
<br />
オリジナル作品も同様の難しさで、代表作とされる『'''[[パッサカリア (ゴドフスキー)|パッサカリア]]'''』、『'''[[ジャワ組曲]]'''』などの作品も、その超絶技巧故ごく一部のピアニストを除き、ほとんど演奏されることは無かった。僅かに『'''古きウィーン'''』<ref>[[トリアコンタメロン]]第11番</ref>などの小品が、[[ヤッシャ・ハイフェッツ]]によって[[ヴァイオリン]]用に編曲され、比較的知られ過ぎない状況であった。パッサカリアについて、「これを弾くには手が6本いるよ」といったのはホロヴィッツである。<br />
<br />
ゴドフスキーの『'''[[ピアノソナタ (ゴドフスキー)|ピアノ・ソナタ ホ短調]]'''』は、一時期録音が急増した時期があり、[[アダム・アレクサンダー]]、[[ジョフリー・ダグラス・マッジ]]、[[マルカンドレ・アムラン]]、[[カルロ・グランテ]]、[[ミヒャエル・シェーファー]]、[[ラディスラフ・ファンツォヴィツ]]、[[ベンクト=オーケ・ルンディン]]、[[コンスタンティン・シチェルバコフ]]など腕自慢のピアニストがこぞって弾いているが、世界初録音はマッジのものである。<br />
<br />
===1980年代後半からの再評価===<br />
彼の作曲家としての実力は楽壇に不当に無視され、ゴドフスキーの没後50年は「ピアニストの書いた難技巧を伴う程度の作品」という不名誉な位置付けに甘んじた<ref>ニューグローブ第二版音楽事典にいたっては彼の作品リストすら編纂していない。</ref>。このことはカールフィッシャー社<ref>[[w:Carl Fischer Music|Carl Fischer Music]]</ref>から出版された全5巻のゴドフスキー選集の完結が[[2004年]]であったこと、その選集の中に子供の為のAPSシリーズが含まれていないことなどに表れている。ゴドフスキーのピアノ作品はセイパートンやボレットによって細々と伝えられているにすぎない状態だった。しかしフズム音楽祭で1980年代後半にアムランが芸術家の生涯を演奏したころから急激に再評価の機運が高まってきた。Danteのゴドフスキー選集はその評価に乗る形でまずマッジが先頭を切って録音したものである。<br />
<br />
現在はカルロ・グランテとコンスタンチン・シチェルバコフの2人が、ゴドフスキー全集のリリースを長期間にわたり進めている。現在は楽譜の入手が容易になったことも含め、多くのピアニストがゴドフスキーの演奏を行っている。ただし、フィッシャー社による楽譜ゴドフスキー・コレクションは第二巻だけが完売してしまい、品切の状態が続いている。<br />
<br />
=== オリジナル作品 ===<br />
*[[パッサカリア (ゴドフスキー)|シューベルトの「未完成交響曲」の冒頭部による44の変奏、カデンツァとフーガ(パッサカリア)]] <br />
*[[ピアノソナタ (ゴドフスキー)|ピアノソナタ ホ短調]](グランド・ソナタ)<br />
*[[ジャワ組曲]] <br />
*4つのピアノのための詩<br />
*12のヴァイオリンとピアノのための印象<br />
*[[トリアコンタメロン]](30日物語) <br />
*ピアノ4手用の46の作品 Miniatures<br />
*4分の3拍子による24の性格的小品(仮面舞踏会) Walzermasken<br />
<br />
=== 編曲作品 ===<br />
*J・S・バッハ [[無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータ|無伴奏ヴァイオリン・ソナタ]]第1番~第3番のピアノ用編曲<br />
*J・S・バッハ [[無伴奏チェロ組曲]]第2番・第3番・第5番のピアノ用編曲<br />
*[[ジャン=フィリップ・ラモー|ラモー]]、[[ジャン=バティスト・リュリ|リュリ]]、[[アルカンジェロ・コレッリ|コレッリ]]、[[ドメニコ・スカルラッティ|D・スカルラッティ]]他 [[ルネサンス]] 16のバロック編曲集<br />
*[[フランツ・シューベルト|シューベルト]] [[楽興の時]] 第3番の編曲<br />
*[[ショパンのエチュードによる練習曲|ショパンの練習曲に基づく53の練習曲]]<br />
*[[フレデリック・ショパン]] [[ワルツ第6番 (ショパン)|ワルツ第6番]]変ニ長調「子犬」の編曲 <br />
*ショパン [[ワルツ第9番 (ショパン)|ワルツ第9番]]変イ長調「別れ」の編曲 <br />
*[[ヨハン・シュトラウス2世]] 「[[こうもり (オペレッタ)|こうもり]]」の編曲<br />
*ヨハン・シュトラウス2世 「[[芸術家の生活]]」の編曲<br />
*[[カミーユ・サン=サーンス|サン・サーンス]] 「[[動物の謝肉祭|白鳥]]」の編曲<br />
*[[イサーク・アルベニス|アルベニス]] 「タンゴニ長調」の編曲<br />
<br />
== エピソード ==<br />
なお、彼の息子レオポルド・ゴドフスキー2世([[w:Leopold Godowsky, Jr.|Leopold Godowsky Jr.]])はヴァイオリニストになったが、友人のピアニスト・レオポルド・マネス([[w:Leopold Mannes|Leopold Mannes]])と共にカラー[[写真]]の開発に当たり、[[コダック|コダック社]]の協力により[[1935年]]に初の本格的なカラーフィルム「コダクローム」を開発した<ref>[http://clara.oc-to.net/schumann/sonota/kanwa/kodak.html kodak]</ref>。彼は[[ジョージ・ガーシュウィン]]の妹フランセス([[w:Frances Gershwin|Frances]])と結婚している。<br />
<br />
[[チャールズ・チャップリン|チャップリン]]とのツーショット、[[アルベルト・アインシュタイン|アインシュタイン]]と[[アルノルト・シェーンベルク|シェーンベルク]]とのスリーショットによる写真は、特に有名。<br />
<br />
== 参考文献 ==<br />
*John Gillespie, Anna Gillespie. 1995. Notable twentieth-century pianists: a bio-critical sourcebook, Greenwood <br />
*Vai Music: Presenting Francesco Libetta<br />
*Godowsky, Dagmar. 1958. First Person Plural: The Lives of Dagmar Godowsky, p. 35. Viking Press.<br />
*Dubal, David. 2004. The Art of the Piano, p. 130. Cambridge, UK, Amadeus Press.<br />
*Godowsky, Dagmar. 1958. First Person Plural: The Lives of Dagmar Godowsky, p. 34. Viking Press.<br />
*Horowitz, Joseph. 1999. Arrau on music and performance, p. 92. Courier Dover Publications, ISBN 978-0-486-40846-0<br />
*Mitchell, Mark Lindsey. 2000. Virtuosi: A Defense and A (Sometimes Erotic) Celebration of Great Pianists, p. 128. Indiana University Press, ISBN 978-0-253-33757-3<br />
*Schonberg, Harold C.. The Great Pianists, p. 338.<br />
*"Dizionario di musica", di A.Della Corte e G.M.Gatti, Paravia, 1956,pag.261<br />
*Godowsky in: Die Musik in Geschichte und Gegenwart.<br />
*die entsprechende Charakterisierung in: Oehlmann, Werner (Hg.): Reclams Klaviermusikführer, Band II, Von Franz Schubert bis zur Gegenwart, Zweite Auflage, Stuttgart o. J. (Copyright 1973), S. 524.<br />
*Steve Donald Jones: Essay on Leopold Godowsky's 53 Studien über die Etüden von Chopin. Phil. Diss., University of Iowa, 1978.<br />
*Igor Kirpnis, Marc-André Roberge: Godowsky, Leopold. Artikel in: Die Musik in Geschichte und Gegenwart. Zweite, neubearbeitete Ausgabe, Personenteil Band 7, Sp. 1183 f.<br />
*Donald Manildi: Guides to Godowsky. In: Piano & Keyboard, Januar-Februar 1998, S. 40 f.<br />
*Richard McCandless Gipson: The Life of Emma Thursby, 1845-1931. New York 1940.<br />
*Jeremy Nicholas: Godowsky. Ein Pianist für Pianisten – Eine Biografie Leopold Godowskys. Staccato-Verlag, Düsseldorf 2012, ISBN 978-3-932976-50-6.<br />
*Leonard S. Saxe: The published music of Leopold Godowsky, in: Music Library Association Notes, Second Series, Vol. XIV, No. 2, März 1957, S. 165 ff.<br />
*Emerson Withorne: Biographical Sketch. In: Leopold Godowsky: A Night in Spring (Frühlingsnacht), Progressive Series Compositions Catalog No. 1208. Art Publication Society, St. Louis, 1915, S. 1 ff.<br />
*Artis Woodhouse: Godowsky comes of age. In: Piano & Keyboard, Juli–August 1997, S. 31 ff.<br />
<br />
==脚注==<br />
<references /><br />
<br />
== 外部リンク ==<br />
*[http://www.godowsky.com/enter.html Leopold Godowsky] {{en icon}}<br />
*[http://www.godowsky.org/ Official Godowsky Institute page created by The International Master Institute of Music "Leopold Godowsky"]<br />
*[http://www.esm.rochester.edu/sibley/specialc/findaids/display.php?id=84 Leopold Godowsky Collection - Manuscripts] at the [[Eastman School of Music]]<br />
*[http://www.lib.umd.edu/ipam/collections/leopold-godowsky Leopold Godowsky Collection] at the [[International Piano Archives|International Piano Archives at Maryland]]. Retrieved 27 July 2013.<br />
*[http://www.newinternationalgodowskysociety.com/ The New International Godowsky Society] - Site dedicated to the works and writings of Leopold Godowsky and Paul Howard. Contains Paul Howard's news letters and early dispatches from The International Godowsky Society.<br />
*{{IMSLP|id=Godowsky%2C_Leopold|cname=レオポルド・ゴドフスキー}}<br />
<br />
{{Normdaten}}<br />
{{DEFAULTSORT:ことふすき れおほると}}<br />
<br />
[[Category:ポーランドの作曲家]]<br />
[[Category:近現代の作曲家]]<br />
[[Category:ユダヤ系ポーランド人]]<br />
[[Category:ポーランドのクラシック音楽のピアニスト]]<br />
[[Category:ウィーン国立音楽大学の教員]]<br />
[[Category:ロシア帝国のユダヤ人]]<br />
[[Category:1870年生]]<br />
[[Category:1938年没]]</div>
220.106.245.74
グスターフ・フサーク
2018-09-05T10:00:45Z
<p>220.106.245.74: </p>
<hr />
<div>{{出典の明記|date=2014年10月}}<br />
<br />
{{大統領<br />
| 人名 = グスターフ・フサーク<br />
| 各国語表記 = Gustáv Husák<br />
| 画像 = Gustáv Husák - oříznuto.JPG<br />
| 画像サイズ = <br />
| キャプション = <br />
| 国名 = {{CSK}}<br />
| 代数 = 第9<br />
| 職名 = 大統領<br />
| 就任日 = [[1975年]][[5月29日]]<br />
| 退任日 = [[1989年]][[12月10日]]<br />
| 副大統領 = <br />
| 副大統領職名 = <br />
| 元首 = <br />
<!-- ↓省略可↓ --><br />
| 国名2 = [[File:Flag of the KSC.svg|25px|チェコスロバキア共産党の旗]] チェコスロバキア<br />
| 代数2 = 第4<br />
| 職名2 = [[チェコスロバキア共産党|共産党第一書記]]<br />
| 就任日2 = [[1969年]][[4月17日]]<br />
| 退任日2 = [[1987年]][[12月17日]]<br />
| 副大統領2 = <br />
| 副大統領職名2 = <br />
| 元首2 = <br />
| 国名3 = <br />
| 代数3 = <br />
| 職名3 = <br />
| 就任日3 = <br />
| 退任日3 = <br />
| 副大統領3 = <br />
| 副大統領職名3 = <br />
| 元首3 = <br />
| 国名4 = <br />
| 代数4 = <br />
| 職名4 = <br />
| 就任日4 = <br />
| 退任日4 = <br />
| 副大統領4 = <br />
| 副大統領職名4 = <br />
| 元首4 = <br />
| 国名5 = <br />
| 代数5 = <br />
| 職名5 = <br />
| 就任日5 = <br />
| 退任日5 = <br />
| 副大統領5 =<br />
| 副大統領職名5 = <br />
| 元首5 = <br />
<!-- ↑省略可↑ --><br />
| 出生日 = [[1913年]][[1月10日]]<br />
| 生地 = {{HUN1867}} {{仮リンク|ポズトニー|en|Pozsony County}}<br />
| 死亡日 = {{死亡年月日と没年齢|1913|1|10|1991|11|18}}<br />
| 没地 = {{CSK}} [[ブラチスラヴァ]]<br />
| 配偶者 = マグダ・フサーコワ(1966年没)<br />ビエラ・フサーコワ(1977年没)<br />
| 政党 = [[スロバキア共産党]]<br />[[チェコスロバキア共産党]]<br />
| サイン = <br />
}}<br />
<br />
'''グスターフ・フサーク'''('''Gustáv Husák''', [[1913年]][[1月10日]]-[[1991年]][[11月18日]])は、[[チェコスロバキア共産党|チェコスロヴァキア共産党]]第一書記([[1969年]]~[[1987年]])、[[チェコスロバキアの大統領|大統領]]([[1975年]]~[[1989年]])。<br />
<br />
==来歴・人物==<br />
[[1933年]]、[[スロバキア共産党]]に入党。[[第二次世界大戦]]中の[[1944年]]、[[ナチス・ドイツ]]およびその傀儡国家であった[[ヨゼフ・ティソ]]が統治する独立スロヴァキアに対する[[スロバキア民衆蜂起|スロバキア国民蜂起]]に参加。戦後、スロバキア共産党の指導者として、[[1948年]]の共産党体制成立に貢献するが、チトー主義者、シオニスト、民族主義者に対する粛清が猛威を振るった[[1950年代]]に「ブルジョワ民族主義」を理由に終身刑を宣告される。[[1963年]]名誉回復措置により、釈放。<br />
<br />
[[1968年]]の、いわゆる「[[プラハの春]]」の時期に政界に復帰し、4月に成立した[[オルドジフ・チェルニーク]]内閣で連邦化問題を担当する副首相となるなど、改革派の一人とみられていた。しかし、8月の軍事介入後、次第に改革派から距離を置き、ソ連の信頼を勝ち取り、1969年4月、[[アレクサンジェル・ドゥプチェク]]に代わって、党第一書記に就任。改革勢力や反体制派に対する弾圧を強め、「{{仮リンク|正常化体制 (チェコスロヴァキア)|en|Normalization (Czechoslovakia)|label=正常化体制}}」路線を進める。<br />
<br />
[[1980年代]]後半、[[ミハイル・ゴルバチョフ]]の登場によって国内でも改革を求める気運が高まる中、第一書記の地位を[[ミロシュ・ヤケシュ]]に譲り、批判を和らげようとするが、1989年11月の[[ビロード革命]]後に大統領を辞任、翌年には党を除名された。2年後の1991年11月18日死去(78歳)。<br />
<br />
{{commonscat|Gustáv Husák}}<br />
<br />
{{先代次代|[[チェコスロバキアの大統領|チェコスロヴァキア大統領]]|[[1975年]] - [[1989年]]|[[ルドヴィーク・スヴォボダ]]|[[ヴァーツラフ・ハヴェル]]}}<br />
{{先代次代|[[チェコスロバキア共産党|チェコスロヴァキア共産党]][[第1書記|第一書記]]|[[1969年]] - [[1987年]]|[[アレクサンジェル・ドゥプチェク]]|[[ミロシュ・ヤケシュ]]}}<br />
<br />
{{Normdaten}}<br />
{{DEFAULTSORT:ふさあく くすたあふ}}<br />
[[Category:チェコスロバキアの大統領]]<br />
[[Category:チェコスロバキア社会主義共和国の政治家]]<br />
[[Category:チェコスロバキア社会主義共和国英雄]]<br />
[[Category:クレメント・ゴットワルト勲章受章者]]<br />
[[Category:ホセ・マルティ勲章受章者]]<br />
[[Category:ゲオルギ・ディミトロフ勲章受章者]]<br />
[[Category:カール・マルクス勲章受章者]]<br />
[[Category:スフバートル勲章受章者]]<br />
[[Category:レーニン勲章受章者]]<br />
[[Category:十月革命勲章受章者]]<br />
[[Category:ソビエト連邦英雄]]<br />
[[Category:オーストリア=ハンガリー帝国のスロバキア人]]<br />
[[Category:1913年生]]<br />
[[Category:1991年没]]</div>
220.106.245.74
ヨゼフ・スデック
2018-09-05T07:36:49Z
<p>220.106.245.74: </p>
<hr />
<div>{{参照方法|date=2012年12月}}<br />
[[画像:Plaque Josef Sudek.jpg|thumb|ヨゼフ・スデックの銘板、プラハ]]<br />
'''ヨゼフ・スデック'''('''Josef Sudek''', [[1896年]][[3月17日]]-[[1976年]][[9月15日]])は、戦間期を主として活躍し、「プラハの詩人」と呼ばれた[[チェコ]]出身の[[写真家]]である。(ヨゼフ・スデク、またはヨセフ・スデクとも書かれる。)<br />
<br />
[[第一次世界大戦]]へ出兵中に右腕を負傷し、のち失うこととなる。1920年代に写真家として活動をはじめる。<br />
<br />
その作品は、[[広告写真]]を写真家としての活動の皮切りとしているも、プラハの町を撮影対象とした、[[風景写真]]、[[都市写真]]がほとんどを占める。作品傾向としては、[[ストレートフォトグラフィ]]と[[ピクトリアリスム]]の双方を含み、作品により使い分けがなされている。特に「光」のとらえ方において特徴があり、「光と影の作家」といった言い方もなされる。また、一部の作品では[[シュルレアリスム]]的な傾向もうかがえる。<br />
<br />
代表作としては、[[第二次世界大戦]]下、ナチにより撮影活動が制限されたことを受けて、主として自身のアトリエの窓からの眺めを撮影した作品をまとめた、「スタジオ(アトリエ)の窓辺より」というシリーズがある(1940年代)。<br />
<br />
東欧の社会主義体制崩壊に伴い、近年はますます世界的にその評価が高まってきており、現在では20世紀を代表する写真家の巨匠の一人として数えられるまでになっている。<br />
<br />
== 参考文献 ==<br />
<br />
* 『プラハの光 ヨゼフ・スデク写真集』/ヨゼフ・スデク+ズデニエク・キルシュネル(Zdenek Kirschner)/高嶺エヴァ+海都洋子・翻訳/JICC出版局(宝島社)/ISBN 4796606904/[[1993年]]<br />
* 阿部賢一『複数形のプラハ』人文書院/ISBN 4409510665/2012年<br />
*: 「第6章 光と闇の交錯――ヨゼフ・スデクの『聖ヴィート』」<br />
<br />
== 外部リンク ==<br />
* [http://www.josefsudek.net/ Josef Sudek] {{en icon}}<br />
* [http://www.jade.dti.ne.jp/~azm/text/w_19990109_sudek.htm 写真集紹介]<br />
<br />
{{DEFAULTSORT:すてつく よせふ}}<br />
[[Category:チェコの写真家]]<br />
[[Category:オーストリア=ハンガリー帝国のチェコ人]]<br />
[[Category:1896年生]]<br />
[[Category:1976年没]]</div>
220.106.245.74
エミール・フィラ
2018-09-05T07:34:11Z
<p>220.106.245.74: </p>
<hr />
<div>[[File:E.Filla foto.jpg|thumb|160px|エミール・フィラ]]<br />
[[File:Muzeum Kampa E. Filla.jpg|thumb|フィラ展のポスター]]<br />
'''エミール・フィラ'''('''Emil Filla''', [[1882年]][[4月4日]] - [[1953年]][[10月7日]])は、[[チェコ]]出身の[[画家]]、[[彫刻家]]。チェコキュビズムの代表的存在。<br />
<br />
== 人物・来歴 ==<br />
1882年、鉄道公務員の息子としてチェコ東部の町、Chropyněに生まれた。翌年、家族で[[ブルノ]]に引っ越す。1903年よりプラハの造形芸術大学で学び、1904年には主席を獲得。<br />
<br />
ファラの画家としてのキャリアは1905年に始まる。この年、[[プラハ]]で開かれた[[エドヴァルド・ムンク]]の展覧会に感銘を受け、同じく感銘を受けた他の若い7人の芸術家たちと芸術集団オスマを結成。ムンクの影響を受け、印象主義的だった作風は次第に表現主義的なものに移り変わっていった。彼の代表的作品、 "ドストエフスキーの読者" (1907)はこの時期に描かれた物である。 <br />
<br />
フィラはこの時期に時折、昔の巨匠達の作品を学ぶためにヨーロッパ中を旅しており、特にイタリアでは[[ジョット・ディ・ボンドーネ]]の作品に魅了された。また、1910年頃にはパリで[[ジョルジュ・ブラック]]や[[パブロ・ピカソ]]の作品を知る。ブラックとピカソとはチェコの芸術史家、ビンセンス・クラマーを通して個人的に知り合い、彼らの作風である[[キュビズム]]は次第にフィラの後の芸術作品における基本要素となっていった。<br />
<br />
1911年からは、定期的にパリに滞在するようになり、ピカソやブラック、[[ポール・セザンヌ|セザンヌ]]のもとを訪問した。[[ヴェネツィア]]では、[[ティントレット]]、[[エル・グレコ]]、そして[[バロック]]時代の画家達の作品を分析、考察した。1913年3月27日、哲学者であり心理学者でもあったFrantišek Krejčíの娘、Hana Krejčováと結婚。後には、チェコの彫刻家、Otto Gutfreundと親交を結ぶ。<br />
<br />
1914年には第一次世界大戦のために[[オランダ]]に亡命。その頃、フランスの前衛派たちがキュビズムから次第に離れていっても、フィラはそれに忠実であった。それからフィラは、オランダの静止画から構図や題材を自分の作品に取り入れた。1916年に描かれた"窓辺の金魚"では、オランダの芸術集団[[デ・ステイル]]からの影響を知ることが出来る。<br />
<br />
第一次世界大戦が終わった1918年、 フィラはプラハに戻り、そこで芸術家としての活動を再開。1921年にはキュビズム最後の作品、 "女と絨毯"を制作。<br />
<br />
1937年8月29日、反ファシズムの集会で演説,1939年9月1日に逮捕され、1945年まで[[ダッハウ]]と[[ブーヘンヴァルト]]の強制収容所に抑留された。1945年5月21日にブーヘンヴァルトからプラハに戻ると、プラハ芸術学校の教授に任命される。 1947年には記念碑的作品"ブーヘンヴァルトからの解放"を描く。晩年は風景画を描いて過ごした。<br />
<br />
1953年10月6日プラハで死去、Střešoviceの墓地に埋葬された。<br />
<br />
{{Artist-stub}}<br />
{{Normdaten}}<br />
{{DEFAULTSORT:ふいら えみる}}<br />
[[Category:チェコの画家]]<br />
[[Category:オーストリア=ハンガリー帝国のチェコ人]]<br />
[[Category:1882年生]]<br />
[[Category:1953年没]]</div>
220.106.245.74
カレル・チャペック
2018-09-05T06:59:50Z
<p>220.106.245.74: </p>
<hr />
<div>{{出典の明記|date=2015年10月21日 (水) 09:03 (UTC)}}<br />
{{Portal|文学}}<br />
[[File:Karel Čapek.jpg|thumb|right|カレル・チャペック(30歳)]]<br />
[[File:Tumbstone-kcapekPICT0125.JPG|thumb|right|カレル・チャペックの墓]]<br />
'''カレル・チャペック'''({{lang-cs|Karel Čapek}}、1890年1月9日 - 1938年12月25日)は、[[チェコ]]の[[作家]]、[[劇作家]]、[[ジャーナリスト]]。兄は、[[ナチス・ドイツ]]の強制収容所で死んだ画家・作家の[[ヨゼフ・チャペック]]。<br />
<br />
== 概要 ==<br />
大戦間の[[チェコスロバキア]]で最も人気のあった国民的作家。[[戯曲]]『ロボット』({{lang|cs|[[R.U.R.]]}})において、「労働」を意味するチェコ語「<ruby lang="cs">robota<rp>(</rp><rt lang="cs-Kana">ロボタ</rt><rp>)</rp></ruby>」(もともとは[[古代教会スラブ語]]での「隷属」の意)から '''[[ロボット]]''' という言葉を作ったと言われるが、彼自身は兄ヨゼフが作った言葉だと主張している。代表作『R.U.R.』『山椒魚戦争』は[[サイエンス・フィクション|SF]]の古典的傑作とされている。[[小説]]、[[戯曲]]の他にも、文筆活動は童話、旅行記、文明評論など多岐にわたっている。また趣味であった園芸においても自らの体験を交えた作品を発表している。<br />
<br />
小説『[[山椒魚戦争]]』と戯曲『母』では[[アドルフ・ヒトラー]]と[[ナチズム]]を痛烈に批判している。そのためにチャペックは[[ゲシュタポ]]内では『チェコ第二の敵』として危険視される。ゲシュタポは1939年3月15日、ドイツがプラハを占領した際に、いち早く彼を逮捕するためにチャペック邸に乗り込んでさえいるが、その前年に彼は死亡している。<br />
<br />
== 生涯 ==<br />
1890年、当時[[オーストリア=ハンガリー帝国]]領であった[[ボヘミア]]のマレー・スヴァトニョヴィツェという小さな町で、チャペック家の三男として生まれた。家族は父と母と姉、そして兄ヨゼフとの5人家族、父は町医者で、また当時地域の文化活動の中心を務めていた人物だった。<br />
<br />
1905年、ボヘミア東部の中心都市にある[[ギムナジウム]]に進学するが、思想問題でやめなければならない事態に陥ったため、結婚していた姉を頼り[[モラヴィア]]の中心都市[[ブルノ]]の[[チェコ語]]ギムナジウムへ進学する。<br />
<br />
1909年、ギムナジウムを優等で卒業して[[カレル大学]]へ進学し、哲学を専攻する。[[1910年]]、[[ベルリン]]のフリードリヒ・ヴィルヘルム大学(現[[フンボルト大学ベルリン|ベルリン大学]])へ留学する。[[1911年]]、ベルリンの大学を修了後に兄ヨゼフがいた[[パリ]]の[[ソルボンヌ大学]]へ留学、造形芸術家集団に参加する。ヨゼフとともに戯曲『盗賊』を書く。<br />
<br />
1914年、[[第一次世界大戦]]が勃発する。チャペックは鼻骨の怪我により従軍することはなかったが、カレルの友人たちは従軍した。<br />
<br />
1915年に帰国後、母校のカレル大学で博士号を得る。卒業後、しばらくは家庭教師の仕事をしていたが生計が立たず、実家から仕送りを受ける。1916年、チャペック兄弟として正式にデビューする。このころはフランス詩の翻訳に熱心に取り組む。同年、持病の脊椎の[[リウマチ]]により兵役免除となる。1917年、独立前に唯一発行が許されていた国民新聞(ナーロドニー・リスティ)に論説文を書く仕事に就く。<br />
<br />
1920年、[[プラハ]]の[[ヴィノフラディ劇場]]の演劇人としても活動していたチャペックは『[[R.U.R.]]』を書き上げる。このときに[[ロボット]]という言葉が生まれた。後の妻オルガ・シャインプフルゴヴァーとこのとき出会う。<br />
<br />
1921年、チェコスロバキア政府は[[共産主義]]運動を弾圧し、政府にあわせ次第に保守化していく国民新聞に不安を感じ、民衆新聞(リドヴェー・ノヴィニ)へ兄とともに移籍する。その後、死ぬまで民衆新聞に在籍し続けた。戯曲『虫の生活』(ヨゼフとともに合作)を出版する。<br />
<br />
1922年に『クラカチット』を新聞の連載小説として執筆開始する。戯曲『マクロプラス事件』を書く。『絶対子工場』(''Továrna na absolutno'')を出版する。この年、当時の大統領である[[トマーシュ・マサリク]]と面識を持つ。<br />
<br />
1924年、『クラカチット』が出版される。同年、国家賞を受賞する。イギリス・ペンクラブの招待により英国大博覧会取材をかねてイギリスへ、この年の秋頃から多方面から知識人を自宅に招いて討論する『金曜会』を開くようになる。<br />
<br />
1925年、ペンクラブのプラハ支部設立準備委員になる。翌月には会長に選ばれる。ヨゼフと再び合作、戯曲『創造者アダム』を制作開始する。<br />
<br />
1926年。『創造者アダム』を完成する。「金曜会」にマサリク大統領が初めて参加する。この年の大晦日に行われたパーティーで行われた余興により、マスコミに論争が起きたが、後に解決する。<br />
<br />
1933年、『ダーシェンカ、子犬の生活』『ホルドゥバル』を出版する。『流れ星』を執筆する。チェコスロヴァキア・ペンクラブ会長を辞任する。<br />
<br />
1936年、『山椒魚戦争』を出版する。20年に知り合ったオルガ・シャインプフルゴヴァーと結婚。ノルウェーの新聞雑誌に、[[ノーベル文学賞|ノーベル賞]]を彼にという提案が初めて出される。<br />
<br />
1938年、[[ルイ・アラゴン]]の提唱の元、フランスの11人の作家がノーベル賞を与えようとほかの作家たちに呼びかけをするが、本人は辞退する。同じころ、右翼系新聞が批判する。12月中旬、嵐で荒れた庭の手入れをしたことが原因で風邪をひき、一時回復するものの19日に悪化し、[[12月25日]]の未明に肺炎により死去する。最後のコラムが民衆新聞に載る。小説『作曲家フォルティーンの生涯と作品』の草稿が未完で残る。現在、ヴィシェフラト墓地に埋葬されている。<br />
<br />
ロボットという言葉を生み出したことに少々苦い思いを抱いていたようで、「歯車、光電池、その他諸々の怪しげな機械の部品を体内に詰め込んだブリキ人形を、世界に送り出すつもりは作者にはなかった」と述べている。<br />
<br />
1939年、ナチス・ドイツがプラハを占領する。3月、チャペックの死を知らない[[ゲシュタポ]]がチャペック邸を襲撃、踏み込んで来た一同に、オルガは夫カレルが4ヶ月前に没したことを、皮肉を込めて伝えたという。<br />
<br />
==日本での翻訳==<br />
日本での翻訳は、従来、限られた一部の作品についてのみであったが、1990年の『絶対子工場』の翻訳以降、1990年代~2000年代には[[石川達夫]]、[[飯島周]]、[[田才益夫]]らが、チャペックの未訳作品を多数、翻訳紹介を行った。<br />
<br />
== 著作(日本語訳) ==<br />
===小説===<br />
*{{lang|cs|Boží muka}}(1917年)<br />
**受難像(チャペック小説選集1、[[石川達夫]]訳、[[成文社]]、1995年)<br />
*{{lang|cs|Trapné povídky}} (1921年)<br />
**苦悩に満ちた物語(チャペック小説選集2、石川達夫訳、成文社、1996年)<br />
*{{lang|cs|Továrna na absolutno}}(1922年)<br />
**絶対子工場([[金森誠也]]訳、[[木魂社]]、1990年)<br />
**絶対製造工場([[飯島周]]訳、[[平凡社ライブラリー]]、2010年)<br />
*{{lang|cs|Krakatit}}(1922年)<br />
**クラカチット([[田才益夫]]訳、[[楡出版]]、1992年)<br />
**クラカチット(田才益夫訳、[[青土社]]、2008年)<br />
*{{lang|cs|Zahradníkův rok}}(1929年)<br />
**園芸家12カ月([[小松太郎]]訳、[[誠文堂新光社]]、1959年)<br />
**園芸家12カ月(小松太郎訳、[[中公文庫]]、1975年、改版1996年) ISBN 4122002842<br />
**園芸家の一年(飯島周編訳、[[恒文社]]、1997年)<br />
**園芸家の十二ヶ月([[栗栖茜]]訳、[[海山社]]、2013年)<br />
**園芸家の一年(飯島周編訳、平凡社ライブラリー、2015年)<br />
*{{lang|cs|Povídky z jedné kapsy}}(1929年)<ref>この作品名から日本で初の本格的なチャペックの紹介となった[[千野栄一]]『ポケットのなかのチャペック』([[晶文社]], 1975年)が生まれた。</ref><br />
*ひとつのポケットから出た話([[栗栖継]]訳、至誠堂・現代人叢書 1960年)<br />
**ひとつのポケットから出た話([[栗栖継]]訳、[[晶文社]]、1976年)<br />
**ひとつのポケットからでた話(栗栖茜訳、海山社、2011年)<br />
*{{lang|cs|Povídky z druhé kapsy}}(1929年)<br />
**ポケットから出てきたミステリー(田才益夫訳、晶文社、2001年)<br />
**もうひとつのポケットからでた話(栗栖茜訳、海山社、2011年)<br />
*{{lang|cs|Devatero pohádek}}(1932年)<br />
**短編集中の「カッパのはなし」のみ([[西郷竹彦]] 訳,[[松山文雄]] 絵 [[麦書房]]・雨の日文庫、1958年)<br />
**長い長いお医者さんの話 チャペック童話集([[中野好夫]]訳、[[岩波書店]]、1952年)<br />
**カレル・チャペック童話全集(田才益夫訳、青土社、2005年)<br />
**チャペック童話絵本シリーズ「郵便屋さんの話」「お医者さんのながいながい話」([[関沢明子]]訳、藤本将画、2008年)<br />
*{{lang|cs|Kniha apokryfů}}(1932年)<br />
**外典(チャペック小説選集6、石川達夫訳、成文社、1997年)<br />
*{{lang|cs|Hordubal}}(1933年)<br />
**ホルドゥバル(チャペック小説選集3、飯島周訳、成文社、1995年)<br />
*{{lang|cs|Dášeňka čili život štěněte}}(1933年)<br />
**小犬日記([[秦一郎]]訳、高陽書院、1938年)<br />
**ダアシェンカ : ある子犬のくらしから([[小川浩一]]訳 講談社 1981年)<br />
**ダーシェンカ([[伴田良輔]]監訳、[[新潮文庫]]、1998年、新版2001年→[[ヴィレッジブックス]]、2006年→愛蔵版、青土社、2015年)<br />
**ダーシェンカ あるいは子犬の生活([[保川亜矢子]]訳、[[メディアファクトリー]]、1998年)<br />
**子犬の生活ダーシェニカ([[小野田若菜]]訳、[[ブロンズ新社]]、2003年)<br />
**いたずら子犬ダーシェンカ(栗栖茜訳、[[海山社]]、2008年)<br />
*{{lang|cs|Povětroň}}(1934年) <br />
**流れ星(チャペック小説選集4、飯島周訳、成文社、1996年)<br />
**流れ星(田才益夫訳、青土社、2008年)<br />
*{{lang|cs|Obyčejný život}}(1934年)<br />
**平凡な人生(チャペック小説選集5、飯島周訳、成文社、1997年)<br />
*{{lang|cs|Válka s mloky}}(1936年)<br />
**山椒魚戦争([[樹下節]]訳、[[世界文化社]]、1953年→ 三一新書、1956→[[角川文庫]]、1967年)<br />
**山椒魚戦争([[松谷健二]]訳、[[創元SF文庫|創元推理文庫SF]]、1968年)<br />
**山椒魚戦争(栗栖継訳、早川書房・世界SF全集 1970年)<br />
**山椒魚戦争(栗栖継訳、[[岩波文庫]]、1978年)<br />
**山椒魚戦争([[小林恭二]]・[[大森望]]訳、[[小学館]]、1994年)<br />
**山椒魚戦争(栗栖継訳、[[ハヤカワ文庫]]、1998年)<br />
*{{lang|cs|Měl jsem psa a kočku}}(1939年)<br />
**チャペックの犬と猫のお話(石川達夫訳、[[河出文庫]]、1998年)<br />
*{{lang|cs|Život a dílo skladatele Foltýna}}(1939年)<br />
**ある作曲家の生涯 -カレル・チャペック最後の作品(田才益夫訳、青土社、2016年)<br />
*{{lang|cs|Bajky a podpovídky}}(1946年)<br />
**こまった人たち チャペック小品集(飯島周編訳、[[平凡社]]ライブラリー、2005年)<br />
*{{lang|cs|Pudlenka}}(1970年)<br />
**ふしぎ猫プドレンカ(小野田若菜訳、ブロンズ新社、2003年)<br />
**チャペックのこいぬとこねこは愉快な仲間([[いぬいとみこ]]・[[井出弘子]]訳、河出文庫、1999年<br />
*チャペック小説選集 1 受難像(石川達夫訳、成文社、1995)<br />
*チャペック小説選集 2 苦悩に満ちた物語(石川達夫訳、成文社、1996)<br />
*チャペック小説選集 3 ホルドゥバル(石川達夫訳、成文社 1995)<br />
*チャペック小説選集 4 流れ星(石川達夫訳、成文社 1996)<br />
*チャペック小説選集 5 平凡な人生(石川達夫訳、成文社 1997)<br />
*チャペック小説選集 6 外典(石川達夫訳、成文社 1997)<br />
*カレル・チャペック短編集(青土社、田才益夫訳、2007年)<br />
*赤ちゃん盗難事件―カレル・チャペック短編集II(青土社、田才益夫訳、2008年)<br />
*ありふれた殺人―カレル・チャペック短編集III(青土社、田才益夫訳、2008年)<br />
<br />
===戯曲===<br />
*{{lang|cs|R.U.R.}}(1920年)<br />
**ロボツト 四幕([[鈴木善太郎]]訳、[[金星堂]]、1924年)<br />
**ロボット ({{lang|cs|R.U.R.}})([[千野栄一]]訳、岩波文庫、1989年)<br />
**{{lang|cs|R.U.R.}}ロボット(栗栖継訳、[[十月社]]、1992年)<br />
*{{lang|cs|Věc Makropulos}}(1922年)<br />
**マクロプロス事件 序言と三幕からなるコメディー(田才益夫訳、八月舎、1998年)<br />
*近代劇全集38 中欧篇(鈴木善太郎訳、第一書房、1927年)<br />
*#蟲の生活<br />
*#マクロポウロス家の秘法<br />
*チャペック戯曲全集(八月舎、田才益夫訳、2006年)<br />
*#愛の盗賊<br />
*#{{lang|cs|R.U.R.}}<br />
*#マクロプロス事件<br />
*#白い病気<br />
*#母<br />
*#愛・運命の戯れ(ヨゼフ・チャペックとの共著)<br />
*#虫の生活から(ヨゼフ・チャペックとの共著)<br />
*#創造者アダム(ヨゼフ・チャペックとの共著)<br />
<br />
===旅行記・エッセイ・コラムその他===<br />
*{{lang|cs|Anglické listy}}(1924年)<br />
**イギリス通信([[岡本圭次郎]]編、成美堂、1957年)<br />
**イギリスだより(カレル・チャペック・エッセイ選集2、飯島周編訳、恒文社、1996年)<br />
**イギリス便り([[伊藤廣里]]訳、近代文芸社、2001年)<br />
**イギリスたより(カレル・チャペック旅行記コレクション、飯島周編訳、[[ちくま文庫]]、2007年)<br />
*{{lang|cs|Hovory s T. G. Masarykem}}(1928年 - 1935年)<br />
**マサリクとの対話 哲人大統領の生涯と思想(石川達夫訳、成文社、1993年)<br />
*{{lang|cs|Výlet do Španěl}}(1930年)<br />
**スペイン旅行記(カレル・チャペック・エッセイ選集5、飯島周編訳、恒文社、1997年)<br />
**スペイン旅行記(カレル・チャペック旅行記コレクション、飯島周編訳、ちくま文庫、2007年)<br />
*{{lang|cs|Obrázky z Holandska}}(1932年)<br />
**オランダ絵図(カレル・チャペック旅行記コレクション、飯島周編訳、ちくま文庫、2010年)<br />
*{{lang|cs|Cesta na sever}}(1936年) <br />
**北欧の旅(カレル・チャペック旅行記コレクション、飯島周編訳、ちくま文庫、2009年)<br />
*{{lang|cs|Jak se co dělá}}(1938年)<br />
**新聞・映画・芝居をつくる(カレル・チャペック・エッセイ選集6、飯島周編訳、恒文社、1997年)<br />
*{{lang|cs|Obrázky z domova}}(1953年)<br />
**チェコスロヴァキアめぐり (カレル・チャペック・エッセイ選集1、飯島周編訳、恒文社、1996年)<br />
**チェコスロヴァキアめぐり(カレル・チャペック旅行記コレクション、飯島周編訳、ちくま文庫、2007年)<br />
*{{lang|cs|Na břehu dnů}}(1966年)<br />
**コラムの闘争 ジャーナリスト カレル・チャペックの仕事(田才益夫訳編、[[社会思想社]]、1995年)<br />
<br />
*いろいろな人たち―チャペック・エッセイ集(平凡社ライブラリー、飯島周編訳、1995年)<br />
*未来からの手紙―チャペック・エッセイ集(平凡社ライブラリー、飯島周編訳、1996年)<br />
*カレル・チャペックの闘争(社会思想社、田才益夫編訳、1996年)<br />
*カレル・チャペックのごあいさつ(田才益夫訳、青土社、2004年)<br />
*カレル・チャペックの日曜日(田才益夫訳、青土社、2004年)<br />
*カレル・チャペックの童話の作り方(田才益夫訳、青土社、2005年)<br />
*カレル・チャペックの新聞賛歌(田才益夫訳、青土社、2005年)<br />
*カレル・チャペックの愛の手紙(田才益夫訳、青土社、2006年)<br />
*カレル・チャペックの警告(田才益夫訳、青土社、2007年)<br />
<br />
== 脚注 ==<br />
<br />
<references/><br />
<br />
== 外部リンク ==<br />
{{Commonscat|Karel Čapek}}<br />
{{Wikisourcelang|cs|Autor:Karel Čapek|カレル・チャペック}}<br />
*[http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person1236.html チャペック カレル:作家別作品リスト]([[青空文庫]])<br />
<br />
{{DEFAULTSORT:ちやへつく かれる}}<br />
[[Category:カレル・チャペック|*]]<br />
[[Category:オーストリア=ハンガリー帝国のチェコ人]]<br />
[[Category:チェコの小説家]]<br />
[[Category:チェコの劇作家]]<br />
[[Category:チェコの反共主義者]]<br />
[[Category:SF作家]]<br />
[[Category:1890年生]]<br />
[[Category:1938年没]]<br />
<br />
{{Normdaten|BIBSYS=90053337}}</div>
220.106.245.74
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