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http:///mymemo.xyz/wiki/api.php?action=feedcontributions&user=219.96.7.204&feedformat=atom miniwiki - 利用者の投稿記録 [ja] 2024-05-10T14:13:54Z 利用者の投稿記録 MediaWiki 1.31.0 ロドス島 2018-09-20T10:47:15Z <p>219.96.7.204: </p> <hr /> <div>{{Redirect|ロードス島|ファンタジー作品に登場する架空の島|ロードス島戦記}} <br /> {{No footnotes|date=2018-03-15}}<br /> {{Infobox Greek Isles<br /> |name = ロドス島<br /> |native_name = Ρόδος<br /> |skyline = アポロン神殿.JPG<br /> |sky_caption = ロドス・タウンのアクロポリスにあるアポロン神殿<br /> |map = GR Rhodes.PNG<br /> |coordinates = {{coord|36|10|N|28|00|E}}<br /> |chain = [[ドデカネス諸島]]<br /> |isles = <br /> |area = 1400.684<br /> |highest_mount = アタヴィロス山<br /> |elevation = 1216<br /> |periph = [[南エーゲ]] <br /> |prefect = [[ロドス県]]<br /> |capital = [[ロドス]]<br /> |population = 117007<br /> |pop_as_of = 2001<br /> |postal = <br /> |telephone = <br /> |license = <br /> |website = <br /> }}<br /> &#039;&#039;&#039;ロドス島&#039;&#039;&#039;(ロドスとう、{{lang-el|&#039;&#039;&#039;Ρόδος&#039;&#039;&#039;}}、{{lang|el-Latn|&#039;&#039;Ródos&#039;&#039;}}、{{lang-en-short|Rhodes}})は、[[エーゲ海]]南部の[[アナトリア半島]]沿岸部に位置する[[ギリシャ]]領の島。[[ドデカネス諸島]]に属し、ギリシャ共和国で4番目に大きな面積を持つ。&#039;&#039;&#039;ロードス島&#039;&#039;&#039;との表記も用いられる([[#名称]]節参照)。<br /> <br /> 島で最大の都市である[[ロドス]]の街は、古代以来港湾都市として栄え、[[世界の七不思議]]の一つである「[[ロドス島の巨像]]」が存在したことでも知られる。また、その中世期の街並みは「[[ロドスの中世都市]]」の名で[[世界遺産]]に登録されている。<br /> <br /> == 名称 ==<br /> 日本ではしばしば「&#039;&#039;&#039;ロードス&#039;&#039;&#039;」と表記されるが、これは[[ドイツ語]]表記 {{lang|de|Rhodos}} に近い。[[ギリシア語]]表記は {{lang|grc|Ρόδος}} で、発音はロードスとロドスの中間である。このほか、この島に関係の深い言語ではそれぞれ以下のように呼ばれた。<br /> <br /> * [[イタリア語]]: {{lang|it|Rodi}} (ロディ島)<br /> * [[オスマン語]]: {{lang|ota|ردوس}} / {{lang|ota-Latn|&#039;&#039;Rodos&#039;&#039;}}<br /> * [[ラディーノ語]]: {{lang|lad|Rodi}} &lt;small&gt;あるいは&lt;/small&gt; {{lang|lad|Rodes}}<br /> <br /> 英語では {{lang|en|Rhodes}} (ローズ島)あるいは {{lang|en|Rhode}} (ロード島)と呼ぶ。[[アメリカ合衆国]]の[[ロードアイランド州]]({{lang|en|Rhode Island}})の名は直接には同州の[[ロード島]]に由来するが、この島の名はロドス島にちなむとされる説もある(異説あり)。<br /> <br /> == 地理 ==<br /> [[image:Rhodos topo.png|thumb|250px|ロドス島]]<br /> === 位置・広がり ===<br /> ロドス島は[[ドデカネス諸島|ドデカニサ諸島]]の東部、[[アナトリア半島]]沿岸部に位置する。[[エーゲ海]]の南限を形成する島の一つで、ギリシャ共和国の主要な島の中では最も東に位置する(これより約125km東には[[カステロリゾ島]]などがある)。ロドスの街は、州都[[エルムポリ]]から南東へ約313km、[[クレタ島]]の[[イラクリオ]]から北東へ約305km、トルコの[[アンタルヤ]]から南南西へ約227kmの距離にある。ロドス島はアテネと[[キプロス島]]のほぼ中間にあたっており、ロドスの街は首都[[アテネ]]から南東へ約433km、キプロス島の[[ニコシア]]から西北西へ約485kmの距離である。<br /> <br /> 北東―南西に長い菱型の島で、長さは約80km、幅は最大約34kmある。面積は約1,400km²で、約220kmの海岸線を持つ。<br /> <br /> ロドス島の北には約18kmを隔ててアナトリア半島(トルコ・[[ムーラ県]])がある。最も近いトルコの都市は、ロドスの街から北へ約47kmにある[[マルマリス]]で、マルマリスとロドスとの間は航路で結ばれている。島の西には約10kmを隔てて[[ハルキ島]]と{{仮リンク|アリミア島|el|Αλιμιά}}、北西には約20kmを隔てて{{仮リンク|シミ島|en|Symi|redirect=1}}、南西には約45kmを隔てて[[カルパトス島]]がある。<br /> <br /> {{Geographic Location<br /> | Centre = ロドス島<br /> | North = アナトリア半島 (18km)<br /> | Northeast = <br /> | East = [[カステロリゾ島]] (125km)<br /> | Southeast = <br /> | South = <br /> | Southwest = [[カルパトス島]] (45km)<br /> | West =[[ハルキ島]] (10km)&lt;br/&gt;アリミア島 (10km)<br /> | Northwest = {{仮リンク|シミ島|en|Symi|redirect=1}} (20km)<br /> | image = <br /> }}<br /> === 地勢 ===<br /> 島の最高峰は、島の西海岸中央部にそびえるアタヴィロス山{{enlink|Αττάβυρος||el}}。島は山がちな地形であるが、北部と南部に平野が広がっている。島最大の空港であるロドス国際空港は、西岸北部の平野に位置する。<br /> {{gallery<br /> |width=180<br /> |height=180<br /> |lines=2<br /> |File:Attavyros.JPG|アタヴィロス山<br /> |File:Rhodes Tsambika3 tango7174.jpg|島の北東部、アルハンゲロスの海岸<br /> |File:Rhodes airport view from Filerimos.jpg|島の北西部、空港周辺<br /> |File:Rhodos Landschaft bei Lindos.jpg|島の東部、リンドス付近の景観<br /> }}<br /> === 主要な都市・集落 ===<br /> 人口3000人以上の都市・集落は以下の通り(2001年国勢調査時点)。<br /> *[[ロドス]](ロドス地区) - 52,318人<br /> *{{仮リンク|イアリソス|en|Ialysos}}(イアリソス地区) - 10,107人<br /> *{{仮リンク|アルハンゲロス|en|Archangelos, Rhodes}}(アルハンゲロス地区) - 5,500人<br /> *{{仮リンク|アファンドウ|en|Afantou}}(アファンドウ地区) - 5,494人<br /> *{{仮リンク|カリテア (ロドス県)|en|Kallithea, Rhodes|label=カリテア}}(カリテア地区) - 4,370人<br /> *{{仮リンク|クレマスティ|en|Kremasti}}(ペタルデス地区) - 4,372人<br /> <br /> 島最大の都市・&#039;&#039;&#039;[[ロドス]]&#039;&#039;&#039;の街は、島の東北端に位置しており、その南西に&#039;&#039;&#039;イアリソス&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;クレマスティ&#039;&#039;&#039;がある。2004年時点で、島の人口約13万人のうち内6万人あまりがロドスの街の周辺で生活している。人口のほとんどは島の北半分に暮らしており、島の島の東側には北からカリテア、アファンドウ、アルハンゲロス、リンドスなどの町が連なる。東海岸に突き出した半島に位置する&#039;&#039;&#039;[[リンドス]]&#039;&#039;&#039;(人口810人)は、古代遺跡と海水浴場で知られている。<br /> <br /> {{gallery<br /> |width=180<br /> |height=180<br /> |lines=2<br /> |File:Rho gen view.jpg|島の北西岸、イアリソスからロドス方面<br /> |image:LindosVillages5.JPG|島の東岸、リンドス<br /> |File:Archangelos042.JPG|島の北東部、アルハンゲロス<br /> }}<br /> <br /> == 歴史 ==<br /> {{main|{{仮リンク|ロドス島の歴史|en|Rhodes#History}}}}<br /> <br /> === 古代 ===<br /> この島には[[新石器時代]]から人が住んでいたが、その頃の痕跡はわずかしか残っていない。[[紀元前16世紀]]には[[ミノア文明]]の人々が、そして[[紀元前15世紀]]に[[アカイア人]]が到来し、さらに[[紀元前11世紀]]には[[ドーリア人]]がこの島へとやってきた。ドーリア人たちはのちに本土のコス、[[クニドス]]、[[ハリカルナッソス]]に加えて[[リンドス]]、[[イアリソス]]、[[カメイロス]]という3つの重要な都市(いわゆるドーリア人の6[[ポリス]])を建設した。<br /> <br /> [[アケメネス朝]]が小アジアにまでその勢力を拡大するとロドスもその影響を否が応にも受けざるを得ない位置にあったが、[[ペルシャ戦争]]後の[[紀元前478年]]にロドス島の諸都市はアテナイを中心とする[[デロス同盟]]に加わった。この後[[紀元前431年]]には[[ペロポネソス戦争]]が勃発するが、ロドス島はデロス同盟の一員ではあったものの中立的な立場をとりつづけた。戦争が終わる[[紀元前404年]]ペロポネソス戦争で[[古代ギリシア|ギリシア]]は疲弊し、それがまた侵略を招くこととなった。[[紀元前357年]]にハリカルナッソスのマウスロス王によってロドス島は征服され、[[紀元前340年]]にはアケメネス朝の支配下に入った。しかしその後[[紀元前332年]]に、東征中の[[アレクサンドロス3世]]がロドス島をアケメネス朝の支配から解放し、自己の勢力圏の一部とした。<br /> [[File:Rhodos palace.jpg|thumb|right|250px|ロドス島]]<br /> アレクサンドロスの死後、後継者問題からその配下の将軍らによる戦乱が起こり、[[プトレマイオス1世]]、[[セレウコス1世|セレウコス]]、[[アンティゴノス1世|アンティゴノス]]らが帝国を分割した。 このいわゆる[[ディアドコイ戦争]]の間ロドス島は主に交易関係を通じてエジプトに拠るプトレマイオスと密接な関係にあったが、ロドスの海運力がプトレマイオスに利用されることを嫌ったアンティゴノスは、息子デメトリオスに軍を率いさせてロドスを攻撃させた([[ロドス包囲戦]]、[[紀元前305年]] - [[紀元前304年]])。これに対してロドス側はよく守ってデメトリオスの攻撃を凌ぎきり、翌年攻囲戦の長期化を望まないアンティゴノスとプトレマイオス双方が妥協して和平協定が成立した。この時デメトリオスの軍が遺していった武器を売却して得た収益をもとに、今日[[アポロの巨像]]としてその名を残している[[太陽神]][[ヘーリオス]]の彫像が造られた。<br /> <br /> ロドス島は[[エジプト]]の[[プトレマイオス朝]]との交易の重要な拠点となると同時に、[[紀元前3世紀]]の[[エーゲ海]]の通商を支配した。海における商業と文化の中心地として発展し、その貨幣は地中海全域で流通していた。[[哲学]]や[[文学]]、[[修辞学]]の有名な学府もあった。<br /> <br /> [[紀元前190年]]、[[セレウコス朝]]の攻撃を受けるもこれを退けた。この時の勝利を記念して、[[エーゲ海]]北端の[[サモトラケ島]]に翼をもった勝利の女神[[ニーケー]]の像が建てられた。(→[[サモトラケのニケ]])[[紀元前164年]]に[[共和政ローマ|ローマ共和国]]と平和条約を結び、以後ローマの[[貴族]]たちのための学校としての役割を担うことになる。両者の関係は、当初はローマの重要な同盟国として様々な特権が認められていたが、のちにローマ側によりそれらは剥奪されていき、[[ガイウス・ユリウス・カエサル]]死後の戦乱の最中にはカシウスによる侵略を受け都市は略奪された。<br /> <br /> 紀元前後、後に[[アウグストゥス]]の後を継ぎ皇帝となる[[ティベリウス]]がこの地で隠遁生活を送ったほか、[[パウロ]]が訪れ[[キリスト教]]を伝えた。[[297年]]、それまでのローマの同盟国という地位からその直接統治下に移ったが、ローマ帝国分裂後は[[東ローマ帝国]]領となった。<br /> <br /> === 中世 ===<br /> 東ローマ領であった一千年の間には、ロドス島はさまざまな軍隊によって繰り返し攻撃された。<br /> <br /> 東ローマ帝国が衰亡しつつあった[[1309年]]、ロドス島は[[聖ヨハネ騎士団]](別名・ホスピタル騎士団)に占領され、ロドス島騎士団と称されるこの騎士団のもと都市は中世ヨーロッパ風に作り変えられた。&#039;&#039;&#039;騎士団長の居城&#039;&#039;&#039;などのロドス島の有名な遺跡の多くはこの時期に造営されたものである。騎士団は島内に堅固な城塞を築き、[[1444年]]の[[エジプト]]の[[マムルーク朝]]の攻撃や[[1480年]]の[[オスマン帝国]]の[[メフメト2世]]の攻撃を防いだが、[[1522年]]に[[スレイマン1世]]の大軍に攻囲され遂に陥落した([[ロドス包囲戦 (1522年)|ロドス包囲戦]])。騎士団の残った者たちは[[マルタ島]]へ移っていった。<br /> <br /> ロドス島の征服は、オスマン帝国にとっては東地中海の海路の安全、つまり、[[イスタンブール]]と[[カイロ]]の間の円滑な商品流通に寄与するものであった。その後、1669年に[[ヴェネツィア共和国]]支配下の[[クレタ島]]がオスマン帝国に征服されたが、その際には、ロドス島から軍が送られていた。<br /> <br /> === 近代 ===<br /> [[1912年]]、[[トルコ]]領だったロドス島は[[イタリア]]によって占領され、[[1947年]]にはドデカネス諸島ともに[[ギリシャ]]に編入された。<br /> <br /> なおここではギリシャとトルコによるロドス島支配の交代に関する多くの出来事は省略している。<br /> === 地震 ===<br /> ロドス島の歴史は大地震の歴史でもある。([[地震の年表]])下記のロードス島として記録されているものだけではなく、他にギリシャの地震で被害を受けている。<br /> *紀元前226年 ギリシャ、ロードス島で地震。港口にあった巨像が倒壊する。<br /> *155年 ギリシャ東部ロードス島で地震、ロードス市(BC407年建設)全滅。<br /> *1304年8月9日 ギリシャ東部ロードス島で地震 - M 8。<br /> *1856年10月12日 ギリシャ、クレタ島、ロードス島で地震 - M 8.0、死者35人。<br /> <br /> == 社会 ==<br /> === 産業・経済 ===<br /> [[File:Villare Rhodes.JPG|thumb|150px|ロドスワイン]]<br /> 島の経済は[[観光]]によって成り立っており、産業部門の中でサービス業がもっとも発達している。<br /> <br /> ロドス島は、[[ワイン]]生産地域の一つである([[ギリシャワイン]]参照)。ギリシャの[[原産地名称保護制度]]によって、「ロドスワイン」(赤ワイン・白ワイン)は最上級のO.P.A.P.に、甘口ワインの「マスカット・オブ・ロドス」はO.P.E.に指定され、厳しい基準によって名称が管理されている。<br /> <br /> 工業は小規模で、地元での消費のために輸入した材料を加工する程度である。<br /> <br /> このほか島の産業には、農業、牧畜業、漁業がある。<br /> <br /> === 住民・宗教 ===<br /> 島で最も優勢な宗教は[[ギリシャ正教会]]である。少数派ではあるが、[[カトリック教会|ローマカトリック]]の存在も顕著である。カトリックの信徒の多くは、この島がギリシャ領になった後も島に残った[[イタリア人]]の末裔である。このほか、オスマン帝国時代からの名残りとして、[[ムスリム]]([[イスラム教]]徒)のマイノリティもいる。<br /> <br /> 島の[[ユダヤ人]]([[ユダヤ教]]徒)コミュニティは、西暦[[1世紀]]にさかのぼる歴史を持つ。1557年に建設されたカハル・シャローム{{enlink|Kahal Shalom Synagogue}}はギリシャ最古の[[シナゴーグ]]であり、現在も旧市街のユダヤ人街にある。ユダヤ人たちの活動のピークであった1920年代には、ロドスの街の3分の1までがユダヤ人であった。1940年代には、さまざまな民族的背景を持つ2000人ほどのユダヤ人がいたが、ドイツによる[[ホロコースト]]によってそのほとんどが移送・殺害された。第二次世界大戦後、カハル・シャロームは海外の支援者の手によって再建されたが、島に普段暮らすユダヤ人は少ないため、定期的な宗教行事は行われていない。<br /> &lt;gallery&gt;<br /> File:Rhodos164.JPG|ロドスのスレイマン・モスク<br /> File:Kahal Shalom Synagogue entrance 2010.jpg|カハル・シャロームの外観<br /> File:Rhodes Synagogue.JPG|カハル・シャローム<br /> &lt;/gallery&gt;<br /> <br /> == 行政区画 ==<br /> {{Infobox Greek Dimos<br /> |name = ロドス<br /> |name_local = Ρόδος<br /> |image_map = 2011 Dimos Rodou.png<br /> |image_skyline = <br /> |caption_skyline =<br /> |lat_deg = 36<br /> |lat_min = 10<br /> |lon_deg = 28<br /> |lon_min = 00<br /> |elevation_min = <br /> |elevation_max = <br /> |periph = [[南エーゲ]]<br /> |prefec = [[ロドス県]]<br /> |municipality = [[ロドス]]<br /> |municunit =<br /> |mayor = <br /> |party = <br /> |since = <br /> |population_as_of = 2001年<br /> |pop_municipality = 117007<br /> |area_municipality = 1407.9 <br /> |pop_municunit = <br /> |area_municunit =<br /> |pop_community =<br /> |postal_code = <br /> |area_code = <br /> |licence = <br /> |website = <br /> }}<br /> <br /> === 自治体(ディモス) ===<br /> &#039;&#039;&#039;ロドス市&#039;&#039;&#039;({{lang|el|[[:el:Δήμος Ρόδου|Δήμος Ρόδου]]}})は、[[南エーゲ]]地方[[ロドス県]]に属する[[基礎自治体]]([[ギリシャの地方行政区画#ディモス|ディモス]])である。ロドス市はロドス島全域を市域とする。<br /> <br /> 現在のロドス市は、カリクラティス改革(2011年1月施行)にともない、(旧)ロドス市など10の自治体が合併して発足した。旧自治体は、新自治体を構成する行政区([[ギリシャの地方行政区画#ディモスの下位区分|ディモティキ・エノティタ]])となっている。<br /> <br /> 下表の番号は、下に掲げた「旧自治体」地図の番号に相当する。面積の単位はkm²、人口は2001年国勢調査時点。<br /> {| class=&quot;wikitable sortable&quot; style=&quot;text-align:left; font-size:85%&quot;<br /> !| <br /> !width=&quot;120&quot;| 旧自治体名 <br /> !width=&quot;100&quot;| 綴り <br /> !width=&quot;120&quot;| 政庁所在地 <br /> !width=&quot;40&quot;| 面積<br /> !width=&quot;40&quot;| 人口<br /> |-<br /> | 1|| [[ロドス]] || {{lang|el|[[:el:Ρόδος (πόλη)|Ρόδος]]}} || &#039;&#039;&#039;ロドス&#039;&#039;&#039; || align=right| 19.5 || align=right| 53,709<br /> |-<br /> | 2|| {{仮リンク|アルハンゲロス|en|Archangelos, Rhodes}} || {{lang|el|[[:el:Δήμος Αρχαγγέλου|Αρχάγγελος]]}} || アルハンゲロス {{enlink|Αρχάγγελος Ρόδου||el|a=on}} || align=right| 115.4 || align=right| 7,779<br /> |-<br /> | 4|| {{仮リンク|アタヴィロス|en|Attavyros}} || {{lang|el|[[:el:Δήμος Ατταβύρου|Αττάβυρος]]}} || エムボナス || align=right| 3,225 || align=right| 3,225<br /> |-<br /> | 5|| {{仮リンク|アファンドウ|en|Afantou}} || {{lang|el|[[:el:Δήμος Αφάντου|Αφάντου]]}} || アファンドウ {{enlink|Αφάντου||el|a=on}} || align=right| 46.1 || align=right| 6,712<br /> |-<br /> | 8|| {{仮リンク|イアリソス|en|Ialysos}} || {{lang|el|[[:el:Ιαλυσός|Ιαλυσός]]}} || イアリソス || align=right| 16.7 || align=right| 10,107<br /> |-<br /> | 9|| {{仮リンク|カリテア (ロドス県)|en|Kallithea, Rhodes|label=カリテア}} || {{lang|el|[[:el:Δήμος Καλλιθέας Δωδεκανήσου|Καλλιθέα]]}} || ファリラキ {{enlink|Faliraki||en|a=on}} || align=right| 109.8 || align=right| 10,251<br /> |-<br /> |11|| [[カメイロス|カミロス]] || {{lang|el|[[:el:Δήμος Καμείρου|Κάμειρος]]}} || ソロニ {{enlink|Soroni||en|a=on}} || align=right| 211.8 || align=right| 5,145<br /> |-<br /> |17|| [[リンドス]] || {{lang|el|[[:el:Δήμος Λινδίων|Λίνδος]]}} || リンドス {{enlink|Λίνδος||el|a=on}} || align=right| 178.9 || align=right| 3,633<br /> |-<br /> |20|| {{仮リンク|ノティア・ロドス|en|South Rhodes}} || {{lang|el|[[:el:Δήμος Νότιας Ρόδου|Νότια Ρόδος]]}} || イェナディ {{enlink|Gennadi||en|a=on}} || align=right| 379.1 || align=right| 4,313<br /> |-<br /> |22|| {{仮リンク|ペタルデス|en|Petaloudes}} || {{lang|el|[[:el:Δήμος Πεταλούδων|Πεταλούδες]]}} || クレマスティ {{enlink|Κρεμαστή Ρόδου||el|a=on}} || align=right| 89.2 || align=right| 12,133<br /> |}<br /> {{gallery<br /> |width=180<br /> |height=180<br /> |lines=2<br /> |File:Location of municipalities within the Dodecanese Islands.png|ドデカニサ県の旧自治体(2010年まで)<br /> |File:2010 Dimos Rodou.svg|ロドス市(2011年から)<br /> }}<br /> <br /> == 交通 ==<br /> === 空港 ===<br /> *{{仮リンク|ロドス国際空港|en|Rhodes International Airport}}<br /> *ロドス・マリツァ空港{{enlink|Rhodes Maritsa Airport}}<br /> *カラトス飛行場<br /> ロドス島には3つの飛行場がある。民間で用いているのはロドス国際空港1つのみで、残る2つは軍用である。<br /> <br /> ロドス国際空港は、ロドスの街から南西へ約19kmに位置する。古代オリンピックで活躍した格闘選手・[[ディアゴラス|ロドスのディアゴラス]]にちなみ、「ディアゴラス空港」の愛称が付けられている。<br /> <br /> == 文化・観光 ==<br /> === 観光 ===<br /> ;[[ロドスの中世都市]]<br /> :ユネスコの世界遺産に登録されている。<br /> === スポーツ ===<br /> ;サッカー<br /> :プロサッカークラブとして、ディアゴラスFC{{enlink|Diagoras F.C.}}とロドスFC{{enlink|Rodos F.C.}}があり、ともにロドスを本拠としている。2011/12シーズンは[[フットボールリーグ (ギリシャ)|フットボールリーグ]](2部リーグ)に属しているディアゴラスFCは、ドデカニサ諸島がオスマン帝国支配下にあった1905年に創設された伝統あるチームで、1986年から1989年には[[ギリシャ・スーパーリーグ]](1部リーグ)に所属していたこともある。1968年創設のロドスFCも1部リーグに属した経験を持つが(1978–80, 81–83)、2011/12シーズンは3部リーグで戦っている。<br /> ;バスケットボール<br /> :プロバスケットボールチームとして、[[ギリシャA1バスケットボールリーグ|1部リーグ]]に属するコロッソス・ロドスBC{{enlink|Kolossos Rodou B.C.}}が本拠を置いている。<br /> <br /> ロドス島は[[国際アイランドゲームズ協会]]に加盟しており、同協会が2年に1度開催する{{仮リンク|アイランドゲームズ|en|Island Games}}に代表を送っている。2007年にはロドス島でアイランドゲームズが開催された{{enlink|2007 Island Games}}。<br /> <br /> === 文化 ===<br /> *「ここがロドスだ、ここで跳べ!」({{lang-la|[[wikt:en:hic Rhodus, hic salta|Hic Rhodus, hic salta!]]}})とは、[[イソップ寓話]]の「ほら吹き男」の話をもとにした成句。あるほら吹きの競技選手が遠征先のロドス島から帰り、「ロドスでは大跳躍をした、みながロドスに行ったらロドスの人が証言してくれるだろう」と吹聴するが、これを聞いた男が「それが本当なら証人はいらない、ここがロドスだと思って跳んでみろ」と言い返したというものである。[[ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル|ヘーゲル]]が『[[法の哲学]]』で、[[カール・マルクス|マルクス]]が『[[資本論]]』で、それぞれこの成句を引用していることで知られる。日本語訳には「ここがロードス島だ、ここで跳べ!」「さあ跳べ、ここがロドスだ!」などのバリエーションがあり、解釈によっては「ここがロードス島だ、ここで踊れ!」などとも訳される。<br /> *映画『[[ナヴァロンの要塞|ナバロンの要塞]]』や『[[オフサイド7]]』の野外撮影の多くはロドス島で行われた。<br /> <br /> == 人物 ==<br /> === 出身者 ===<br /> *{{仮リンク|リンドスのクレオヴロス|en|Cleobulus}} - 紀元前6世紀の哲学者・僭主。「[[ギリシャ七賢人]]」の一人。<br /> *[[ディアゴラス|ロドスのディアゴラス]] - 紀元前5世紀の格闘家。<br /> *[[ディノクラティス]] - 紀元前4世紀の建築家(出身地には異説あり)<br /> *[[メムノン]] - (紀元前380年 - 紀元前333年)ペルシャに仕えた傭兵隊長。<br /> *{{仮リンク|リンドスのカレス|en|Chares of Lindos}} - 紀元前3世紀の彫刻家。「[[ロドス島の巨像]]」の作者とされる。<br /> *[[ロドスのレオニダス]] - 紀元前2世紀の陸上競技選手。<br /> *{{仮リンク|ロドスのアゲサンドロス|en|Agesander of Rhodes}} - 紀元前1世紀の彫刻家。「[[ラオコーン像]]」の作者の一人。<br /> <br /> == 脚注 ==<br /> {{Reflist}}<br /> <br /> == 参考文献 ==<br /> * [[塩野七生]]『[[ロードス島攻防記]]』<br /> *秀村欣二/伊藤貞夫著『世界の歴史2 ギリシアとヘレニズム』講談社、1976年<br /> *P・プティ/A・ラロンド著(北野徹訳)『ヘレニズム文明』文庫クセジュ(白水社)、2008年<br /> *芳賀京子著『ロドス島の古代彫刻』中央公論美術出版、2007年<br /> <br /> == 外部リンク ==<br /> {{Commons|Category:Rhodes}}<br /> * [http://www.discover-rhodes.com Rhodes News Weather and Guides]<br /> <br /> {{Geographic Location<br /> | Centre = ロドス<br /> | North = <br /> | Northeast = <br /> | East = [[カステロリゾ島|カステロリゾ]]<br /> | Southeast = <br /> | South = <br /> | Southwest = [[カルパトス島|カルパトス]]<br /> | West =[[ハルキ島|ハルキ]]<br /> | Northwest = {{仮リンク|シミ島|en|Symi|label=シミ|redirect=1}}<br /> | image = <br /> }}<br /> {{使徒パウロの第三回伝道旅行}}<br /> <br /> {{DEFAULTSORT:ろとすとう}}<br /> [[Category:ロドス島|*]]<br /> [[Category:ギリシャの島]]<br /> [[Category:エーゲ海の島]]<br /> [[Category:ドデカネス諸島]]<br /> [[Category:ギリシャの観光地]]<br /> [[Category:イタリア王国]]<br /> [[Category:ロドス県]]</div> 219.96.7.204 レニウム 2018-09-19T15:00:09Z <p>219.96.7.204: /* 出典 */</p> <hr /> <div>{{Elementbox<br /> |name=rhenium<br /> |number=75<br /> |symbol=Re<br /> |pronounce={{IPAc-en|ˈ|r|iː|n|i|əm}} {{respell|REE|nee-əm}}<br /> |left=[[タングステン]]<br /> |right=[[オスミウム]]<br /> |above=[[テクネチウム|Tc]]<br /> |below=[[ボーリウム|Bh]]<br /> |series=遷移金属<br /> |period=6<br /> |group=7<br /> |block=d<br /> |image name=Rhenium_single_crystal_bar_and_1cm3_cube.jpg<br /> |appearance=銀灰色<br /> |atomic mass=186.207<br /> |electron configuration=&amp;#91;[[キセノン|Xe]]&amp;#93; 4f&lt;sup&gt;14&lt;/sup&gt; 5d&lt;sup&gt;5&lt;/sup&gt; 6s&lt;sup&gt;2&lt;/sup&gt;<br /> |electrons per shell=2, 8, 18, 32, 13, 2<br /> |phase=固体<br /> |density gpcm3nrt=21.02<br /> |density gpcm3mp=18.9<br /> |melting point K=3459<br /> |melting point C=3186<br /> |melting point F=5767<br /> |boiling point K=5869<br /> |boiling point C=5596<br /> |boiling point F=10105<br /> |heat fusion=60.43<br /> |heat vaporization=704<br /> |heat capacity=25.48<br /> |vapor pressure 1=3303<br /> |vapor pressure 10=3614<br /> |vapor pressure 100=4009<br /> |vapor pressure 1 k=4500<br /> |vapor pressure 10 k=5127<br /> |vapor pressure 100 k=5954<br /> |vapor pressure comment=<br /> |crystal structure=hexagonal<br /> |japanese crystal structure=[[六方晶系]]<br /> |oxidation states=&#039;&#039;&#039;7&#039;&#039;&#039;, &#039;&#039;&#039;6&#039;&#039;&#039;, 5, 4, 3, 2, 1, 0, -1(弱[[酸性酸化物]])<br /> |electronegativity=1.9<br /> |number of ionization energies=4<br /> |1st ionization energy=760<br /> |2nd ionization energy=1260<br /> |3rd ionization energy=2510<br /> |atomic radius=[[1 E-10 m|137]]<br /> |covalent radius=[[1 E-10 m|151±7]]<br /> |magnetic ordering=[[常磁性]]&lt;ref&gt;[http://www-d0.fnal.gov/hardware/cal/lvps_info/engineering/elementmagn.pdf Magnetic susceptibility of the elements and inorganic compounds] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20120112012253/http://www-d0.fnal.gov/hardware/cal/lvps_info/engineering/elementmagn.pdf |date=2012年1月12日 }}, in Handbook of Chemistry and Physics 81st edition, CRC press.&lt;/ref&gt;<br /> |electrical resistivity at 20=193 n<br /> |thermal conductivity=48.0<br /> |thermal expansion=6.2<br /> |speed of sound rod at 20=4700<br /> |Young&#039;s modulus=463<br /> |Shear modulus=178<br /> |Bulk modulus=370<br /> |Poisson ratio=0.30<br /> |Mohs hardness=7.0<br /> |Vickers hardness=2450<br /> |Brinell hardness=1320<br /> |CAS number=7440-15-5<br /> |isotopes=<br /> {{Elementbox_isotopes_stable | mn=[[レニウム185|185]] | sym=Re | na=37.4% | n=110}}<br /> {{Elementbox_isotopes_decay2 | mn=[[レニウム187|187]] | sym=Re<br /> | na=62.6% | hl=[[1 E18 s|4.12×10&lt;sup&gt;10&lt;/sup&gt; y]]<br /> | dm1=[[アルファ崩壊|α]]&lt;br /&gt;(未確認) | de1=1.653 | pn1=[[タンタル183|183]] | ps1=[[タンタル|Ta]]<br /> | dm2=[[ベータ崩壊|β&lt;sup&gt;-&lt;/sup&gt;]] | de2=0.0026 | pn2=[[オスミウム187|187]] | ps2=[[オスミウム|Os]]}}<br /> |isotopes comment=<br /> }}<br /> &#039;&#039;&#039;レニウム&#039;&#039;&#039;({{lang-en-short|rhenium}} {{IPA-en|ˈriːniəm|}})は[[原子番号]]75の[[元素]]。[[元素記号]]は &#039;&#039;&#039;Re&#039;&#039;&#039;。[[マンガン族元素]]の一つで、銀白色の[[金属]]([[遷移金属]])。<br /> <br /> == 概要 ==<br /> [[レアメタル]]の一種、地殻中の存在量は 1ppb程度&lt;ref name=jinstmet.J2016022 /&gt;。[[比重]]は21.0、[[融点]]は3100 {{℃}}、[[沸点]]は5800 {{℃}}(融点、沸点とも異なる実験値あり)。常温、常圧で安定な[[結晶構造]]は、[[六方最密充填構造]] (HCP)。[[フッ化水素酸]]、[[塩酸]]には不溶。酸化力のある酸([[硝酸]]、[[硫酸|熱濃硫酸]])には溶ける。[[過酸化水素]]や[[臭素]]水にも溶ける。原子価は+2価〜+7価。単体では最も硬い金属である。<br /> <br /> == 同位体 ==<br /> {{Main|レニウムの同位体}}<br /> レニウムには[[安定同位体]]レニウム185があるが、最も多いのは62.6%を占めるレニウム187で、[[半減期]]412億年の[[放射性同位体]]である。なお、一つ以上の安定同位体を持つ元素の中で、天然放射性同位体が安定同位体より多く存在している元素は、レニウムの他に[[テルル]]と[[インジウム]]がある。<br /> <br /> == 歴史 ==<br /> [[1925年]]に[[ワルター・ノダック|ノダック]] (W. Noddack) とタッケ (I. Tacke) とベルグ (O. Berg) が発見&lt;ref name=&quot;sakurai&quot;&gt;{{Cite |和書 |author =[[桜井弘]]|title = 元素111の新知識|date = 1998| pages = 309|publisher =[[講談社]]|isbn=4-06-257192-7 |ref = harv }}&lt;/ref&gt;。[[ライン川]]のラテン名 Rhenus が語源&lt;ref name=&quot;sakurai&quot; /&gt;。二番目に遅く発見された天然元素である(最後に発見されたのは[[フランシウム]])。<br /> <br /> === 小川正孝による過去の発見 ===<br /> [[1908年]](明治40年)、[[小川正孝]]は43番元素を発見、&#039;&#039;&#039;ニッポニウム&#039;&#039;&#039;(nipponium, 元素記号:Np 、[[日本]]素という意味)と命名したと発表したが、後に43番元素が地球上には存在しないことが判明するとこれは取り消された。<br /> <br /> 現在ではこの時発見されたのがレニウムであると考えられている。当時、[[X線]][[分光]]装置が手に入らず、正しい測量ができなかったため、誤って43番元素で原子量およそ100の元素として発表された。レニウムが発見されたのちに小川自身で、発見した元素の正しい測量が行われた形跡がある。また、小川に頼まれてX線で試料を測定した[[木村健二郎]]は「それはきれいなレニウムだった」と証言している&lt;ref&gt;{{Cite journal|和書|author=吉原 賢二|authorlink=吉原賢二|url=http://www.chart.co.jp/subject/rika/scnet/19/sc19_1.pdf|title=再発見:ニッポニウムの真実|format=PDF|journal=化学と教育|publisher=[[日本化学会]]|volume=55|issue=6|date=2007-06-20|pages=270-273|issn=0386-2151|oclc=166882777|naid=110008732455|id={{NCID|AN10033386}}、{{全国書誌番号|00070714}}}}&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 43番元素の元素記号として使用する予定だった「Np」はその後[[ネプツニウム]]に使用された。43番元素は人工的に作られ[[テクネチウム]]となった。<br /> <br /> == 生産 ==<br /> 有用な[[金属]]であるが、レアメタルの文字どおり特に希少であり、年間の生産量は極めて僅かである([[2012年]]推定生産量:52.6トン&lt;ref name=&quot;USGSMCS2014&quot;&gt;U.S. Geological Survey, &#039;&#039;Mineral Commody Summaries 2014&#039;&#039;, pp130-131, 2014, Reston, Virginia. [http://minerals.usgs.gov/minerals/pubs/mcs/2013/mcs2013.pdf]&lt;/ref&gt;)。[[モリブデナイト]]の他、[[希土類]]鉱物、[[コロンバイト]]、[[タンタライト]]、[[硫化銅]]鉱などの鉱石や、銅の[[精錬]]で発生する残渣中に微量含まれているのを[[イオン交換樹脂]]で吸着分離して得る。2011年の生産量は、44.5トン&lt;ref name=jinstmet.J2016022 /&gt;。<br /> <br /> 主な生産国は[[チリ]]で、世界の半分以上を生産する。他に[[アメリカ合衆国]]、[[ポーランド]]、[[ウズベキスタン]]、[[カザフスタン]]、[[ロシア]]などで生産されている&lt;ref name=&quot;USGSMCS2014&quot; /&gt;。[[ペルー]]、[[カナダ]]でも生産が行われていた。<br /> <br /> [[1946年]]以降[[ロシア]]によって実効支配されている[[択捉島]]では、ほぼ純粋な[[硫化レニウム(IV)]] (ReS&lt;sub&gt;2&lt;/sub&gt;) の組成を持つ[[レニウム鉱]] (Rheniite) が発見されている。択捉島では[[火山]]の噴出ガスから回収されて生産されている。<br /> <br /> 日本国内では、[[住友金属鉱山]]や[[東芝マテリアル]]が金属粉や合金などの加工を行っている。<br /> <br /> === リサイクル ===<br /> ジェットエンジンのタービンブレードには 3-6mass% を含有する為、貴重な資源である。従って、使用済みタービンブレードやタービンブレード製造工程中で発生するスクラップから回収して循環利用されている&lt;ref name=jinstmet.J2016022 /&gt;&lt;ref&gt;八木良平、岡部徹、[https://www.jstage.jst.go.jp/article/journalofmmij/132/7/132_114/_article/-char/ja/ レニウムのリサイクルの現状とプロセス技術] Journal of MMIJ., Vol.132 (2016) No.7 p.114-122, {{doi|10.2473/journalofmmij.132.114}}&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;{{PDFlink|[http://www.okabe.iis.u-tokyo.ac.jp/japanese/for_students/parts/pdf/150911_MMIJ_Fall_Abstract_Yagi.pdf ニッケル基超合金スクラップからレニウムをリサイクルする新技術の開発]}} 資源・素材講演集 Vol.2 (2015) No.2 (秋・松山)&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> == 用途 ==<br /> ; 工業用途<br /> : レニウムは[[水素化]][[触媒]]、石油改質触媒として高[[オクタン価]][[ガソリン]]や[[天然ガス]]の液体燃料化用[[アルミナ]]担持の[[プラチナ]]レニウム触媒、[[合金]]材料などに利用される。<br /> : [[ニッケル]]・レニウム[[合金]]は、スーパーアロイの1つとして耐熱性が求められるジェットエンジンのタービンブレードなどの材料に使われる&lt;ref name=jinstmet.J2016022&gt;八木良平、岡部徹、[https://www.jstage.jst.go.jp/article/jinstmet/80/6/80_J2016022/_article/-char/ja/ レニウムの現状と製錬技術] 日本金属学会誌 Vol.80 (2016) No.6 p.341-349, {{doi|10.2320/jinstmet.J2016022}}&lt;/ref&gt;。<br /> : [[タングステン]]・レニウム[[合金]]は[[フィラメント]]、[[熱電対]]、電子部品、航空宇宙用部品、[[X線管]]ターゲットなどに使用される。[[タングステン]]などのフィラメントに数%添加すると、高温で使用中に、あるいは揺れても垂れ下がらない性質(ノンサグ性)が与えられるため、自動車用などに適する&lt;ref&gt;{{PDFlink|[http://www.toshiba-tmat.co.jp/list/pdf/tamo8.pdf タングステン・レニウム合金によるワイヤー「レニタン」]}} 東芝マテリアル&lt;/ref&gt;。熱電対では添加によって使用寿命が向上する。<br /> : [[モリブデン]]・レニウム合金も電子部品などに使用される。<br /> ; [[放射年代測定]]<br /> : レニウム-[[オスミウム]]放射壊変系を利用した年代測定&lt;ref&gt;野崎達生、加藤泰浩、鈴木勝彦、[https://www.jstage.jst.go.jp/article/chikyukagaku/48/4/48_279/_article/-char/ja/ Re–Os同位体を用いた地球化学:年代決定から古環境解読まで] 地球化学 Vol.48 (2014) No.4 p.279-305, {{doi|10.14934/chikyukagaku.48.279}}&lt;/ref&gt;。<br /> : &lt;ce&gt;{}^{187}Re -&gt; {}^{187}Os&lt;/ce&gt; 、半減期 5.0×10{{sup|10}}年<br /> <br /> == レニウムの化合物 ==<br /> * [[二ホウ化レニウム]] (&lt;ce&gt;ReB2&lt;/ce&gt;)<br /> * [[過レニウム酸]] (&lt;ce&gt;HReO4&lt;/ce&gt;)<br /> * [[過レニウム酸アンモニウム]] (&lt;ce&gt;NH4ReO4&lt;/ce&gt;)<br /> * [[酸化レニウム(IV)]] (&lt;ce&gt;ReO2&lt;/ce&gt;)<br /> * [[酸化レニウム(VI)]] (&lt;ce&gt;ReO3&lt;/ce&gt;)<br /> * [[酸化レニウム(VII)]] (&lt;ce&gt;Re2O7&lt;/ce&gt;)<br /> * [[硫化レニウム(IV)]] (&lt;ce&gt;ReS2&lt;/ce&gt;)<br /> <br /> == 法規制 ==<br /> [[大量破壊兵器]]の開発等に用いられるおそれがあるため、[[外国為替及び外国貿易法]]及び[[輸出貿易管理令]](別表第一の二の項)によって、[[2014年]][[9月15日]]よりレニウム、レニウム[[合金]]又はレニウムタングステン合金の一次製品であって、[[経済産業省令]]で定める仕様&lt;ref&gt;レニウム含量90%以上、質量20kg以上で、内径100-300mmの円筒形のもの{{Cite web|date=2014-08-14|url=http://kanpou.npb.go.jp/20140814/20140814g00181/20140814g001810002f.html|title=官報号外第181号 経済産業省令第四十一号|publisher=独立行政法人国立印刷局|language=日本語|accessdate=2014-08-19}}&lt;/ref&gt;のものは、[[経済産業大臣]]の許可を受けなければ[[輸出]]できない&lt;ref&gt;{{Cite web|date=2014-07-22|url=http://www.meti.go.jp/press/2014/07/20140722007/20140722007.pdf|title=輸出貿易管理令の一部を改正しました|publisher=経済産業省|language=日本語|accessdate=2014-08-19}}&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> == 脚注 ==<br /> {{Reflist}}<br /> <br /> == 関連項目 ==<br /> {{Commons|Rhenium}}<br /> * [[レニウム鉱]]<br /> * [[ニホニウム]] - 小川正孝が発見した「ニッポニウム」は幻に終わったが、[[21世紀]]になって[[理化学研究所]]のチームが113番元素の[[元素合成|合成]](発見)に成功し、日本由来の「ニホニウム」と命名された。<br /> <br /> == 外部リンク ==<br /> * 梶雅範、吉原賢二、{{PDFlink|[http://www.chart.co.jp/subject/rika/scnet/19/sc19_1.pdf 小川正孝 - 新元素「ニッポニウム」の発見者]}}<br /> <br /> {{元素周期表}}<br /> {{レニウムの化合物}}<br /> {{Normdaten}}<br /> {{DEFAULTSORT:れにうむ}}<br /> [[Category:レニウム|*]]</div> 219.96.7.204 中山みき 2018-09-15T07:43:01Z <p>219.96.7.204: /* 外部リンク */</p> <hr /> <div>{{Infobox religious biography<br /> |名前=中山みき、中山美支、中山美伎<br /> |画像=<br /> |画像サイズ=<br /> |画像説明=<br /> |宗教=[[天理教]]<br /> |宗派=<br /> |寺院=<br /> |後の教祖(おやさま)<br /> |戒名=<br /> |法名=<br /> |筆名=<br /> |諡号=<br /> |出生名=前川美支<br /> |生年月日=[[寛政]]10年[[4月18日 (旧暦)|4月18日]]([[1798年]][[6月2日]])<br /> |出生地=[[大和国]][[山辺郡]]西三昧田村(現・[[奈良県]][[天理市]]三昧田町)<br /> |没年月日=[[明治]]20年([[1887年]])[[2月18日]]<br /> |死没地=大和国山辺郡庄屋敷村(現・奈良県天理市三島町)<br /> |墓所=奈良県天理市豊田町豊田山墓地<br /> |墓所座標=<br /> |両親=父:前川半七、母:前川きぬ<br /> |配偶者=[[中山善兵衛]]<br /> |子供=[[中山秀司|秀司]]、まさ、やす、はる、つね、こかん<br /> |本拠地=<br /> |肩書き=[[宗教家]]<br /> |任期=1838年 - 1887年<br /> |就任日=<br /> |先代=<br /> |次代=<br /> |退任理由=<br /> |階級=<br /> |師=<br /> |転生=<br /> |弟子=<br /> |著作=<br /> |出家=<br /> |入門=<br /> |地位=<br /> |署名=<br /> }}<br /> &#039;&#039;&#039;中山 美支&#039;&#039;&#039;(なかやま みき、[[寛政]]10年[[4月18日 (旧暦)|4月18日]]([[1798年]][[6月2日]]) - [[明治]]20年([[1887年]])[[2月18日]])は、[[日本]]の[[宗教家]]、[[天理教]][[教祖]]。[[明治11年]][[11月1日]]に天理教教会本部より出版された「[[みかぐらうた]]」複製本の初版では著者は「奈良県平民 故中山美支」となっているが&lt;ref&gt;[http://base1.nijl.ac.jp/~kindai/img/KGTU/KGTU-00557/KGTU-00557-03.jpg 国文学研究資料館 画像データベース]&lt;/ref&gt;、現在の天理教では「&#039;&#039;&#039;中山みき&#039;&#039;&#039;」が公式表記とされる&lt;ref&gt;{{Cite news |title=親のいます里・天理 人間創造の元なる「ぢば」 |newspaper=天理教公式サイト |url=http://www.tenrikyo.or.jp/jpn/tenri/oyasato/ |accessdate=2015-8-1}}&lt;/ref&gt;。天理教では、「教祖」と書いて「&#039;&#039;&#039;おやさま&#039;&#039;&#039;」と呼称している。<br /> <br /> == 生涯 ==<br /> [[寛政]]10年[[4月18日 (旧暦)|4月18日]]([[1798年]][[6月2日]])朝に、[[津藩]]領の[[大和国]][[山辺郡]]三昧田村(正確には西三昧田村、当時三昧田村は東西に分割され、東は柳本藩領、西が津藩領だった。現在の[[奈良県]][[天理市]][[三昧田町]])の庄屋・前川(まえがわ)半七正信の家に生まれる。『稿本天理教教祖伝』など多くの資料で、幼少の頃からの慈悲深さと同情の心の篤さ、信仰熱心といった記述が多い&lt;ref&gt;{{Cite book |author = [[天理大学]]付属おやさと研究所<br /> |authorlink = |coauthors = |date = 1997年11月24日 |title = 改訂 天理教事典 |publisher = 天理教道友社 |page = 492 |isbn = 4-8073-0412-7}}&lt;/ref&gt;。前川家は[[浄土宗]]の[[檀家]]であったので、その感化を幼時より受けて浄土宗の熱心な[[信者]]となった。浄土宗の[[尼|尼僧]]になることを希望し、19歳の時に中山家の檀那寺であった勾田村(現・天理市勾田町)の善福寺にて五重相伝を受ける&lt;ref&gt;{{Cite book |author = [[天理大学]]付属おやさと研究所<br /> |authorlink = |coauthors = |date = 1997年11月24日 |title = 改訂 天理教事典 |publisher = 天理教道友社 |page = 492 |isbn = 4-8073-0412-7}}&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> [[文化 (元号)|文化]]7年[[9月15日 (旧暦)|9月15日]]([[1810年]][[10月13日]])に、同じく津藩領・庄屋敷村の庄屋・[[中山善兵衛]]に嫁ぐ。天理教では、その教義においてこの中山家を含む地所が人間世界創造に由来があるとして、この場所を「元のやしき」あるいは「お屋敷」と呼んでいる。<br /> <br /> [[天保]]9年[[10月23日 (旧暦)|10月23日]]([[1838年]][[12月9日]])の夜四ッ刻(午後十時)、長男・秀司の足の病の原因究明と回復のために、[[修験道]][[当山派]][[内山永久寺]]の配下の山伏、中野市兵衛に祈祷を依頼した&lt;ref group=&quot;注釈&quot;&gt;中野市兵衛の天理教との関わりは、秀司の足の病の祈祷のために天保8年(1837年)10月に寄加持を行ったのがはじめてで、その後は秀司の症状が悪化するたびに中山家で寄加持が行われていた。({{Cite book |author = [[天理大学]]付属おやさと研究所<br /> |authorlink = |coauthors = |date = 1997年11月24日 |title = 改訂 天理教事典 |publisher = 天理教道友社 |page = 39,146,147,690-695,810 |isbn = 4-8073-0412-7}})&lt;/ref&gt;。その時市兵衛が災因を明らかにするためにする憑祈祷の依り坐が不在だったために、みきが依り坐、加持代となる。この時、みきの様子は一変し、まったく別人になったかのような、著しい変化があり、いわゆる憑依状態に入った&lt;ref name=&quot;kazi&quot;&gt;{{Cite web |date=2008 |url=http://www2.kokugakuin.ac.jp/frontier/publication/bulletin1_10.pdf |title=民俗宗教における柱の信仰と儀礼 |format=PDF |publisher=[[宮家 準]] |accessdate=2015-08-10}}&lt;/ref&gt;。このことを天理教では「月日(神)のやしろ」に召される、と呼んでいる&lt;ref group=&quot;注釈&quot;&gt;「月日」とは天理教主神・天理王命をあらわすことばであり、天理教では人間にとって身近な存在である月日のように親しみを感じやすくさせるために「月日」と呼ぶとされる。({{Cite book |author = [[天理大学]]付属おやさと研究所<br /> |authorlink = |coauthors = |date = 1997年11月24日 |title = 改訂 天理教事典 |publisher = 天理教道友社 |page = 549 |isbn = 4-8073-0412-7}})&lt;/ref&gt;。このときに憑依を悟った市兵衛が「あなたは何神様でありますか」と問うたところ、みきは「&#039;&#039;&#039;我は天の将軍なり&#039;&#039;&#039;」あるいは「大神宮」とこたえた&lt;ref name=&quot;syoya&quot; /&gt;&lt;ref name=&quot;tenri&quot;&gt;{{Cite news | title = 天理教 | newspaper = [[国民新聞]]『月曜静観』 | date = 1935-06-03 |author = [[五来欣造]] |url = http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=10067494&amp;TYPE=IMAGE_FILE&amp;POS=1}}&lt;/ref&gt;とされる。市兵衛があらためて「天の将軍とは何神様でありますか」というと「&#039;&#039;&#039;我は元の神・実の神である。この屋敷にいんねんあり。このたび、世界一れつをたすけるために天降った。みきを神のやしろに貰い受けたい。&#039;&#039;&#039;&lt;ref&gt;{{Cite book |author = [[天理大学]]付属おやさと研究所<br /> |authorlink = |coauthors = |date = 1997年11月24日 |title = 改訂 天理教事典 |publisher = 天理教道友社 |page = 147 |isbn = 4-8073-0412-7}}&lt;/ref&gt;」あるいは「我はみきの体を神の社とし、親子諸共神が貰い受けたい。&lt;ref name=&quot;tenri&quot; /&gt;」と語り、親神(おやがみ)・天理王命(てんりおうのみこと)がみきに[[憑依]]し[[天啓]]を受けたとされている。中山家は古くから村の庄屋や年寄といった村役人をつとめる家であり&lt;ref name=&quot;syoya&quot;&gt;{{Cite journal |author = 池田士郎 |date = 2006-03 |title = 庄屋善兵衞とその妻 : 天理教立教当時の精神史点描 |journal = Journal of Research Office for Human Rights |volume = 9 |page = 1 |publisher = 天理大学人権問題研究室 |issn = 1344-0802 |url = https://opac.tenri-u.ac.jp/opac/repository/metadata/2466/JNK000901.pdf |format = PDF |accessdate = 2015-08-23}}&lt;/ref&gt;、同時に質屋業を営んでおり、みきの伝記である稿本天理教教祖伝には「子供は小さい、今が所帯盛りであるのに神のやしろに差上げては、後はどうしてやって行けるか善兵衞としても、元の神の思召の激しさに一抹の懸念は残るが、さりとて、家庭の現状を思えば、どうしてもお受けしようという気にはなれないので、又しても、一同揃うて重ねてお断り申し、早々にお昇り下さい。」とあるように、再三辞退を続けたが、みきが「元の神の思わく通りするのや、神の言う事承知せよ。聞き入れくれた事ならば、世界一列救けさそ。もし不承知とあらば、この家、粉も無いようにする。」と申し出を受け入れるならば世の人々を救済するが、拒めば人の世を滅ぼすとこたえ、最終的にみきの家族の反対を振り切る形で、[[10月26日 (旧暦)|10月26日]](同年[[12月12日]])になって、夫の善兵衛がみきを「月日(神)のやしろ」となることを承諾した&lt;ref name=&quot;kazi&quot; /&gt;&lt;ref name=&quot;syoya&quot; /&gt;&lt;ref name=&quot;tenri&quot; /&gt;。そのときのみきは「満足、満足」とこたえて、憑依が終わったとされている&lt;ref name=&quot;syoya&quot; /&gt;。みきの三男で後の初代[[真柱]]・[[中山眞之亮]]の手記に「御持なされる幣を振り上げて紙は散々に破れ御身は畳に御擦り付けなされて遂に御手より流血の淋漓たる」と書かれているように、この間のみきは衰弱していた&lt;ref name=&quot;syoya&quot; /&gt;&lt;ref&gt;『教祖様御伝』(中山新治郎『復元』33号、天理教教義及史料集成部、1958年4月)&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> こうして天理教が立教されたが、みきはしばらくすると屋敷内の内蔵にこもりがちになり、遂には終日出てこずに誰もいないはずの蔵の中で誰かと話をするかのように眩く声が蔵の外まで漏れて聞こえてくることもあった&lt;ref name=&quot;syoya&quot; /&gt;。次第に中山家の評判は悪化し、史実でも庄屋中山善兵衞の名前は[[天保10年]](1838年)3月晦日付「宗旨御改帳」を奉行所へ提出したのを最後に地方文書から消えている&lt;ref name=&quot;syoya&quot; /&gt;。<br /> <br /> その後、みきは天理王命の神命に従い、例えば、近隣の[[貧民]]に惜しみなく財を分け与え、自らの財産をことごとく失うことがあっても、その神命に従う信念は変わらなかったとされる。<br /> <br /> ===布教活動===<br /> みきは41歳で「月日のやしろ」に定まったが、幾度か池や井戸などに身を投げようとしたこともあった&lt;ref name=&quot;nen&quot;&gt;{{Cite book |author = [[天理大学]]付属おやさと研究所<br /> |authorlink = |coauthors = |date = 1997年11月24日 |title = 改訂 天理教事典 |publisher = 天理教道友社 |page = 971-984 |isbn = 4-8073-0412-7}}&lt;/ref&gt;。その後、内蔵に篭ることもなくなったものの、家財や道具を貧民に施したり、屋敷を取り払い、母屋や田畑を売り払えといったみきの言動は家族や親戚のみならず、村人や役人までもが不信感を抱くようになり、天保13年([[1842年]])には夫・善兵衛をはじめ多くの親族が、みきの行為を気の狂いか憑きものとして、元に戻るように手を尽くしている&lt;ref name=&quot;nen&quot; /&gt;。<br /> <br /> この後、長らく具体的な布教は行われず、嘉永6年([[1853年]])に夫・善兵衛が死去すると、当時17歳であった五女のこかんに[[浪速]](現在の[[大阪]])・[[道頓堀]]へ神名を流させに行かせたとされている&lt;ref name=&quot;nen&quot; /&gt;が、これについては後に教団が信者から献金を受けるために事実が歪曲化、脚色されたという説が存在している&lt;ref name=&quot;his&quot; /&gt;&lt;ref group=&quot;注釈&quot;&gt;現在の天理教ではこのことを布教活動である「にを(お)いがけ」の開始としているが、天理教の講師であった八島秀雄ほか、フリーライターの早川和広、宗教学者の[[村上重良]]らも史実的根拠が乏しいとして、こかんが浪速へ向かったのは長男・秀司の米相場失敗による借金返済のためであるという説を採用している。&lt;/ref&gt;。翌年、三女・はる懐妊の際にみき自ら安産祈願である「をびや(おびや)許し」をはじめて施した。これが従来の[[毒忌み]]や凭れ物、腹帯といった慣習に従わなくても、容易に安産できるとして次第に評判を呼び、これをきっかけとしてみきの評判や教えは広がっていた&lt;ref name=&quot;nen&quot; /&gt;。<br /> <br /> [[元治]]元年([[1864年]])ごろにはみきを慕うものも増え、旧暦10月26日に専用に「つとめ場所」を建築。またこの年春ごろより、天理教の救済手段とされる「さづ(ず)け」のはじめとして、みきが信者に授けた扇によって神意をはかることができるとする「扇のさずけ」と「肥のさずけ」を開始&lt;ref group=&quot;注釈&quot;&gt;「扇のさずけ」はみき死後に飯降伊蔵による「おさしづ(御指図)」で禁じられている。&lt;/ref&gt;、この頃には辻忠作、仲田儀三郎、山中忠七ら古参として教団形成に影響を与えた人物や、みきから唯一、「言上の許し」を与えられて神意を取り次いだ後の本席である[[飯降伊蔵]]夫妻が入信している。しかし、天理教への信仰さえあれば、信者らはみきから「をびや許し」や「たすけ」を受けられ、医者から治療を受ける必要はないと説いたために[[大和神社]]の神官や地元の僧侶、村医者などが論難にくるようになり、これは明治7年([[1874年]])に[[教部省]]から出された「禁厭祈疇ヲ以テ医薬ヲ妨クル者取締ノ件」という布達に違反、また明治13年([[1880年]])に制定され、翌年から施行された当時の[[大阪府]]の違警罪の一項「官許を得ずして神仏を開帳し人を群衆せしもの」にも違反し、警察からの取り締まりを受けるなど権力との対立が表面化していった&lt;ref name=&quot;his&quot;&gt;{{Cite journal |author = 島田裕巳 |date = 2008-09 |title = Historical Changes in the Criticism of New Religions(&lt;Special Issue&gt;Criticism of Religion) |journal = 宗教研究/日本宗教学会編 |publisher = 日本宗教学会 |issn = 03873293 |url = http://ci.nii.ac.jp/els/110006937277.pdf?id=ART0008841983&amp;type=pdf&amp;lang=en&amp;host=cinii&amp;order_no=&amp;ppv_type=0&amp;lang_sw=&amp;no=1442107588&amp;cp= |format=PDF |accessdate=2015-09-01}}&lt;/ref&gt;&lt;ref name=&quot;femi&quot;&gt;{{Cite journal |author = 福島ひとみ, 金子珠理ほか |date = 1998-09 |title = 天理教とフェミニズム |journal = Womansprit |volume = 26 |publisher = フェミニズム・宗教・平和の会 |url = https://nwec.repo.nii.ac.jp/?action=repository_uri&amp;item_id=16190&amp;file_id=22&amp;file_no=1 |format=PDF |accessdate=2015-09-01}}&lt;/ref&gt;。こうしたなかで、信者らは各地に出向き布教を行いはじめ、みきも[[慶応]]2年([[1866年]])、『あしきはらひ たすけたまへ てんりん(てんり)おうのみこと』の歌と手振りを教示、翌年には『御神楽歌(みかぐらうた)』の製作を開始し、手振りのほかにも鳴り物の稽古もはじめた。地元住民からも苦情が相次ぐ中で、同年に長男・秀司が[[神祇管領長上|京都神祇管領]][[吉田家]]に願い出て、7月23日に布教認可を得て公認となり迫害は収まった。その間にみきは神命に従い、明治元年([[1868年]])には、『みかぐらづとめ』を完成、翌明治2年([[1869年]])正月から『[[おふでさき]]』を書き始め、第一号(正月)と第二号(3月)を執筆、翌年には『ちよとはなし』『よろづよ八首』の教授、同6年には飯降伊蔵に命じての「甘露台(かんろだい)」の雛形(模型)製作、同8年6月29日(旧暦5月26日)の「ぢば定め」など、天理教の基を築いていった。<br /> <br /> しかしながら、このころより官憲の取締りが再び活発化、神具の没収に続いて信仰差し止めの誓約書の署名を強いられた。この中でもみきは天命を貫き通し、[[1875年]](明治8年)には[[奈良県庁]]より呼び出しがあり、秀司らとともに留置される。そして明治15年には「かんろだい石」の没収、および『みかぐらうた』の一部改変が断行される&lt;ref name=&quot;nen&quot; /&gt;。その後もみきだけではなく、信者や家族も度々留置、拘留を受け、[[1886年]](明治19年)には「最後の御苦労」と呼ばれるみき最後の12日間の拘留を受ける&lt;ref name=&quot;nen&quot; /&gt;。こうした動きを止めようと眞之亮らをはじめ、古参信者らが教会設置公認運動を展開する中、その認可を見ることなく翌年2月18日(旧暦1月26日)午後2時ごろに満88歳(享年90)で死去した。<br /> <br /> ===死後===<br /> [[ファイル:Oyasama&#039;s Residence.jpg|thumbnail|250px|教祖殿(きょうそでん)。天理教では、現在もここで生活しているとされる。]] <br /> みきは生前に神の啓示によって『おふでさき』第三号に「このたすけ百十五才ぢよみよと さだめつけたい神の一ぢよ」と記したように&lt;ref name=&quot;hyaku&quot;&gt;{{Cite book |author = [[天理大学]]付属おやさと研究所 |authorlink = |coauthors = |date = 1997年11月24日 |title = 改訂 天理教事典 |publisher = 天理教道友社 |page = 777 |isbn = 4-8073-0412-7}}&lt;/ref&gt;、神にもたれかかって心を澄み切って生きるならば人間の寿命は115歳と説いていた。みきがその寿命を25年も縮めて他界したことは、当時の信者らに多くの動揺を与えた&lt;ref name=&quot;his&quot; /&gt;。翌3月25日に飯降伊蔵がみきの後継者・本席となり神の言葉を取り次いだ。その『おさしづ』の中で伊蔵は「子供可愛い故、をやの命を二十五年先の命を縮めて、今からたすけするのやで。&lt;ref name=&quot;hyaku&quot; /&gt;」と説明し、子供(=人間)の心の成人(心が澄み陽気ずくめになること)がをや(神)の思惑通りに運ばないから、人々に心の成人を促したのであると教示している。また同時にみきは「現身(うつしみ)を隠した」のであり、「魂は永久に元の屋敷に留まり、存命のまま一れつ人間の成人を見守り、ご守護してくださっている」&lt;ref&gt;「ようこそおかえり」 ([[1985年]]4月、[[天理教道友社]])&lt;/ref&gt;という教祖存命の理が誕生し、現在の天理教信仰の根本的な精神的支柱となっている。そのため、天理教本部では、みきの魂は教祖殿で生活しているとされ、生前と同じように食事や着替えが運ばれるなど、いろいろな世話がなされている。<br /> <br /> その後、天理教は「神道直轄天理教会」として東京府より認可を受け『みかぐらうた』・『おふでさき』・『泥海古記』は天理教の根本の教義・教典となり、没後も本席・[[飯降伊蔵]]の下、『おさしづ』に基づき[[天理教]]として布教が行われた。また教祖年祭として、没後翌年に教祖1年祭を開催(最終的に中止)、5年祭、10年祭と続き、以後10年ごとに執行され、2016年1月には教祖130年祭が執り行れた。[[1934年]](昭和10年)からはみきの誕生を記念して教祖誕生祭が毎年、4月18日に開催されている。1956年(昭和31年)3月8日から、午後2時のサイレンがはじまり、現在に至っている&lt;ref group=&quot;注釈&quot;&gt;午後二時は教祖・中山みきが死去した時刻で、サイレンがなると信者・参拝者たちは手を止めて黙祷する。なお、同年7月7日から[[ミュージックホーン|サイレン]]が現在使用されている「みかぐらうた」のメロディーとなっている。&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> == 略歴 ==<br /> *1798年(寛政10年)6月2日(陰暦4月18日)- [[大和国]][[山辺郡]]西三昧田村で前川家に誕生。<br /> *1806年(文化4年)- この頃から[[寺子屋]]に通う。信仰熱心で12歳のころには[[尼]]になることを志望している。<br /> *1810年(文化7年)10月13日 - 山辺郡庄屋敷村の中山家に嫁ぐ。夫・善兵衛は23歳、みきは13歳。<br /> *1816年(文化13年)4月12日 - 勾田村善福寺にて[[五重相伝]]をうける。<br /> *1838年(天保9年)12月9日(陰暦10月23日)- 長男・秀司の加持祈祷のためにみきが加持台になったところ、憑依状態になる。<br /> *1838年(天保9年)12月12日(陰暦10月26日)- &#039;&#039;&#039;みきが「月日のやしろ」に定まる&#039;&#039;&#039;。天理教では立教の日とされる。<br /> *1854年(嘉永6年)- 中山家の母屋が売り払われる。<br /> *1855年(安政1年)- をびや許しの開始。<br /> *1865年(慶応1年)- このころよりみきへの参詣者が増加。7月26日、飯降伊蔵夫妻に扇の伺い、10月26日、つとめ場所が棟上される。<br /> *1866年(慶応2年)- 信者に「あしきはらひたすけたまえ」の歌と手振りを教える。6月19日、初代真柱・[[中山眞之亮]]誕生。<br /> *1867年(慶応3年)- 以後3年間にわたり、みかぐらうた「十二下り」を教える。7月23日に京都[[吉田神祇管領]]より認可。<br /> *1869年(明治2年)- 「おふでさき」の執筆を開始。翌年から「ちよとはなし」と「よろづよ八首」を指導。<br /> *1874年(明治7年)- 前川家から神楽面を受け取る。12月26日ごろから赤衣を着るようになる。このころより奈良警察ほか官憲の取締りが活発化。<br /> *1875年(明治8年)6月29日 - ぢば定めを行う。この年「いちれつすますかんろだい」の歌と手振り、また「十一通りのつとめ」を教える。9月には[[奈良県庁]]より呼出状、翌日出頭し留置。<br /> *1882年(明治15年)- 5月12日、かんろだい石、赤衣が警察より没収、同時期にみかぐらうたの一部が改変される。翌年11月には、晩年の住まい場所となった御休息所が落成。またこのころ警察からの取調べが活発化し、奈良監獄などに度々拘留。<br /> *1886年(明治19年)2月18日 - みき最後の拘留でみき、眞之亮らが聴取を受ける。以後12日間、櫟本分署に引致。天理教では「最後の御苦労」と称している。<br /> *1887年(明治20年)- 1月上旬にみきの容態が急変する。&#039;&#039;&#039;2月18日(旧暦正月26日)、午後2時ごろ中山みき死去。満88歳没(享年90)。&#039;&#039;&#039;2月23日、葬儀が教会本部にて執り行われる。火葬後、善福寺に埋葬される。3月25日、飯降伊蔵が本席に就任。<br /> <br /> ==家族==<br /> {{familytree/start|style=font-size:80%}}<br /> 一部省略している。<br /> <br /> {{familytree | | | | | GRM |y| GRP | | GRM=(前川)きぬ|GRP=中山善右衛門}}<br /> {{familytree | | | | | | | |!| }}<br /> {{familytree | | | MOM |y| DAD|MOM=&#039;&#039;&#039;美支(みき)&#039;&#039;&#039;|DAD=中山善兵衛}}<br /> {{familytree | |,|-|-|-|+|-|-|-|v|-|-|-|-|-|-|-|v|-|-|-|v|-|-|-|.| }}<br /> {{familytree | SIS1 | | SIS2 | | SIS3 |y| STR | | SIS4 | | ME | | JOE |y| MAT|MAT=(小東)まつゑ|JOE=秀司|ME=まさ|SIS1=こかん|SIS2=つね(夭)|SIS3=はる|STR=梶本惣治郎|SIS4=やす(夭)}}<br /> {{familytree | | | | | | | | | |,|-|^|-|.| | | | | | | | | | | | | |!| }}<br /> {{familytree | | | | | | | | | NARA | | SIN | | | | | | | | | | | | TAM | | |NARA=楢治郎|SIN=[[中山眞之亮|眞之亮]]|TAM=たまへ}}<br /> {{familytree | | | | | | | | | | | | | |L|~|~|~|~|~|~|y|~|~|~|~|~|~|J| }}<br /> {{familytree | | | | | | | | | | | | | | | | | |,|-|-|^|-|-|.| | | | | }}<br /> {{familytree | | | | | | | | | | | | | | | | | SYO | | | | TAMA | | | | | | | | | | | | | |SYO=[[中山正善|正善]]|TAMA=玉千代}}<br /> {{familytree | | | | | | | | | | | | | | | | | |!| | | | | | | | }}<br /> {{familytree | | | | | | | | | | | | | | | | | SZENE | | | | | | | | | | | | | | | | | |SZENE=善衛}}<br /> {{familytree | | | | | | | | | | | | | | | | | |!| | | | | | | | }}<br /> {{familytree | | | | | | | | | | | | | | | | | ZEN | | | | | | | | | | | | | | | | | |ZEN=善司}}<br /> {{familytree | | | | | | | | | | | | | | | | | |!| | | | | | | | }}<br /> {{familytree | | | | | | | | | | | | | | | | | DAI | | | | | | | | | | | | | | | | | |DAI=大亮&lt;ref group=&quot;注釈&quot;&gt;養子。善司の実弟である中田善亮の長男&lt;/ref&gt;}}<br /> {{familytree/end}}<br /> <br /> 夫善兵衛との間に、一男五女(秀司、おまさ、おやす、おはる、おつね、こかん)を授かる。後の中山家家督で初代真柱の[[中山眞之亮]]ははるの三男である。<br /> <br /> == 教団への指摘 ==<br /> 現在の宗教法人天理教教会本部と中山みきの教えは明らかな違いがあるという指摘は多くあり、明治期の「応法の道」と呼ばれる諸改革、および昭和期、特に第二次世界大戦中の「革新」によってみきの主張は歪曲され権力に迎合したが、それらは戦後の「復元」後も天理教団内に根強く残っているという研究もある&lt;ref name=&quot;sano&quot;&gt;{{Cite journal |author = 佐野智規 |date = 2009-08 |title = 〈慈悲〉と資本主義(承前):二〇世紀最初期における天理教教祖伝の分析(上)|journal = 早稲田大学大学院文学研究科紀要 : 第3分冊 日本語日本文学・演劇映像学・美術史学・日本語日本文化 |publisher = 早稲田大学大学院文学研究科 |ISSN = 1341-7533 |url = http://dspace.wul.waseda.ac.jp/dspace/bitstream/2065/32269/1/BungakuKenkyukaKiyo_54_03_Sano.pdf |format=PDF |accessdate=2015-09-01}}&lt;/ref&gt;。そもそもみきは教会公認および設置運動に否定的であったと宗教学者の[[島田裕巳]]やライターの早川和広らが批判している&lt;ref name=&quot;his&quot; /&gt;。<br /> <br /> 天理教教会本部が編纂した『稿本天理教教祖伝』においては、立教以後のみきは神性が強調され、人間性は問われず、したがってすべての行動が神的存在として人々を救済する活動のさまざまな現れでしかなかったとする批判があり&lt;ref name=&quot;ou&quot;&gt;{{Cite journal |author = 黄耀儀 |date = 2009-05 |title = 芹沢光治良の作品に現れた中山みき像を通して彼の宗教観をみる―ニューエイジ運動との接点― |journal = 多元文化. v.9, 2009, p.215-229 |publisher = 名古屋大学国際言語文化研究科国際多元文化専攻 |issn = 1346-3462 |url = http://ir.nul.nagoya-u.ac.jp/jspui/bitstream/2237/11871/1/%E9%BB%84.pdf |format = pdf|accessdate = 2015-08-23}}&lt;/ref&gt;、ジャーナリストの[[青地晨]]は著書『天理教 百三十年目の信仰革命』の中で、神がかりの時点からのみきが既に神だと見られ、苦悩や希望などの人間的感情が伴わないという教義の解釈は、みきは自己判断の能力を失い、神に操られる人形に等しいというふうに述べている&lt;ref name=&quot;ou&quot; /&gt;。同様の指摘では、[[天理大学]]付属おやさと研究所[[教授]]の幡鎌一弘が、教祖の50年の「ひながた&lt;ref group=&quot;注釈&quot;&gt;論文内では『稿本天理教教祖伝』の編纂当初では「ひながた」について、当時の『天理教教典』に準じてみき誕生からの90年と、立教後の50年の二つの「ひながた」の見方があったものの、第五稿以降は後者の意味に限定されていることも指摘している。{{Cite journal |author = 幡鎌一弘 |date = 2010-03 |title = The Formation of the Life of Oyasama(Deconstruction of the Founders&#039; Biographies,Panels,THE PROCEEDINGS OF THE SIXTY-EIGHTH ANNUAL CONVENTION OF THE JAPANESE ASSOCIATION FOR RELIGIOUS STUDIES) |journal = 教祖伝の脱構築,パネル,&lt;特集&gt;第六十八回学術大会紀要 |publisher = 日本宗教学会 |url = http://ci.nii.ac.jp/els/110007580239.pdf?id=ART0009404658&amp;type=pdf&amp;lang=jp&amp;host=cinii&amp;order_no=&amp;ppv_type=0&amp;lang_sw=&amp;no=1440833926&amp;cp=.pdf |format = PDF|accessdate = 2015-08-23}}&lt;/ref&gt;」と中山みきの現前性(存在証明)の二つに支えられて、教祖死去の明治20年で終わる『稿本天理教教祖伝』の枠組みそのものが、中山みきの物語を狭めているのではないかと述べている&lt;ref&gt;{{Cite journal |author = 幡鎌一弘 |date = 2010-03 |title = The Formation of the Life of Oyasama(Deconstruction of the Founders&#039; Biographies,Panels,THE PROCEEDINGS OF THE SIXTY-EIGHTH ANNUAL CONVENTION OF THE JAPANESE ASSOCIATION FOR RELIGIOUS STUDIES) |journal = 教祖伝の脱構築,パネル,&lt;特集&gt;第六十八回学術大会紀要 |publisher = 日本宗教学会 |url = http://ci.nii.ac.jp/els/110007580239.pdf?id=ART0009404658&amp;type=pdf&amp;lang=jp&amp;host=cinii&amp;order_no=&amp;ppv_type=0&amp;lang_sw=&amp;no=1440833926&amp;cp=.pdf |format = PDF|accessdate = 2015-08-23}}&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 教団内部からの批判としては、元天理教教会本部修養科講師で元天理教本嬬原分教会会長の八島英雄が1970年代後半に教団批判を展開しており、1979年には櫟本分署跡保存会を発足させ代表となっている&lt;ref&gt;[http://www.tenri.info/ 櫟本分署跡講座]&lt;/ref&gt;。1985年12月に教会の機関紙『ほんあづま』202号で、教祖百年祭を機に応法の理である神道教理や儀礼を廃止し、教祖が教えた通りに「かんろだい」を目標にして各教会でおつとめを行い、みかぐらうたとおふでさきに基づいて教育せよと提唱したため、翌年に教会長職を罷免されている&lt;ref group=&quot;注釈&quot;&gt;おなじく櫟本分署跡保存会の事務局長川本しづ子が教会長をつとめる天理教本常一分教会も、審判会も行なわずに罷免して裁判になっている。その後、和解し現在は天理教から独立している。&lt;/ref&gt;。その後、八島が教会から立ち退かなかったために、八島と宗教法人天理教との間で裁判が行われている。この裁判の中では[[1991年]][[5月31日]]に[[東京地方裁判所]]にて、元天理教[[表統領]]清水国雄が「&#039;&#039;&#039;八島英雄氏が主張する教説、いわゆる八島教学について真柱が、異端とか、異説とか、異安心と裁定したことはないし、意見を述べたこともない。また、天理教及び天理教教会本部の正式機関では、八島教学が異端とか、異説とか、いかなる判定も下したことはない。&#039;&#039;&#039;」という内容の証言を述べている&lt;ref&gt;[http://www.lcv.ne.jp/~toyohumi/top2.html 天理教豊文教会公式サイト - 「元表統領 『ほんあづま』誌の八島教学は異端でも異説でもないと正式に発言」]&lt;/ref&gt;。八島教学とは八島の著書『中山みき研究ノート』内でのみきの考察であり、そこでは教祖に関する数々の逸話が否定されている。この八島の異説には天理教青年会ほか教団内部からの反論もあり、天理教青年会本部の機関紙『あらきとうりょう』149号で、唯物論的で教祖の実在からかけ離れていると批判し、史料と合わせて反駁していほか、『確かな教理理解のために』という反駁本も出版している。みさと原典研究会の代表で天理教御里分教会長をつとめる植田義弘は多数の著書の中で、現在の教団の原典に対する態度を批判している&lt;ref group=&quot;注釈&quot;&gt;ただし、植田は八島の考察を「教祖の天啓やひながたを人間的なレベルの思想や行動と受け取り、霊魂や転生を否定し、心身を唯物的に認識していることには同意できない」としている(天理教みさとブログ<原典からの出発>「5/25 月例会報告」)。&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 特に現在の教団の重要な教えであるとされる「月日のやしろとなられた教祖は、親神の思召のまに/\『貧に落ち切れ。』と、急き込まれると共に、嫁入りの時の荷物を初め、食物、着物、金銭に至るまで、次々と、困って居る人々に施された。」という『稿本天理教教祖伝』の記述&lt;ref&gt;[http://shikidai24.com/essay_H15/essay_38.html 天理教敷大大教会「湧き立つよろこびを求めて」第38回]&lt;/ref&gt;は、八島のみならず、島田も『日本の10大新宗教』の中で、早川も『天理教・その堕落と悲劇』の中で、実際はみきの長男・秀司が米と綿の相場で失敗し、家ごと借金してしまったが、教団は後にその事実を歪曲して、信者から金を取ろうしたため「貧に落ちきれ」という思想が生まれたと指摘している。<br /> また、これに関連して嘉永6年(1853年)、みきの五女・こかんの「[[浪速]](現在の[[大阪]])での神名流し」についても史実的伝承が乏しいとされ&lt;ref name=&quot;his&quot; /&gt;&lt;ref&gt;[http://www.marino.ne.jp/~rendaico/nakayamamiyuki/mikiryakuden/mikiryakuden_32kokannonioigakeco.htm 天理教教祖中山みきの研究【こかんの大坂布教】]&lt;/ref&gt;、これに関しては『改訂 天理教事典』内で矛盾が生じている&lt;ref group=&quot;注釈&quot;&gt;『改訂天理教事典』の「中山こかん」の説明には、嘉永6年(1853年)に「天理王命」の神名を伝えに行った、とあるが、「てんりんおうのみこと」の説明では、32年後の明治18年の公認運動の頃から「天理王命」の字に一定した、との記述がある。({{Cite book |author = [[天理大学]]付属おやさと研究所 |authorlink = |coauthors = |date = 1997年11月24日 |title = 改訂 天理教事典 |publisher = 天理教道友社 |page = 662 |isbn = 4-8073-0412-7}})&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> また天理教との関わりが深かった小説家の[[芹沢光治良]]は著書『教祖伝』&lt;ref group=&quot;注釈&quot;&gt;この本は天理教の機関紙『[[天理時報]]』に1950年10月29日から1957年9月8日までの7年間、338 回に渡って連載された長編伝記小説。&lt;/ref&gt;にて、教団成立を認めず、真の信仰世界を求めている教祖中山みきと教団を作ろうとする弟子との理念の衝突に関する描写によって、教団批判の立場が見られる&lt;ref name=&quot;ou2&quot;&gt;{{Cite journal |author = 黄耀儀 |date = 2015-02 |title = 『秘蹟 : 母の肖像』にあらわれた芹沢光治良の信者像 : スピリチュアリティの視点からの分析 |journal = 多元文化 |publisher = 名古屋大学国際言語文化研究科国際多元文化専攻 |issn = 1346-3462 |url = http://ir.nul.nagoya-u.ac.jp/jspui/bitstream/2237/21357/1/%E9%BB%84.pdf |format = PDF |accessdate = 2015-08-23}}&lt;/ref&gt;。また「教団というものは、神の教えにも、人間の信仰にも、さして関係がないことだが、教団ができると、信仰がそれに結びつけられて、神の教を曲げることが、しばしば起きる」とも書かれている&lt;ref name=&quot;ou&quot; /&gt;&lt;ref name=&quot;ou2&quot; /&gt;。1987年に発表された『神の慈愛』でも、天理教で教祖中山みきの死後、「をや」の言葉を取り次いだ人が本席と呼ばれる[[飯降伊蔵]]のみであることに触れ、飯降の死後、存命の教祖は教祖殿に納まり、教祖の言葉を取り次ぐ者も天啓者も現れないとして、天理教の指導者である真柱がは神の代理者となり、真柱が中心となり彼に都合のいいものだけで教理を創って教会に公布した、という内容を述べている&lt;ref name=&quot;ou&quot; /&gt;。<br /> 宗教学者の[[弓山達也]]はこのことに関連して著書『天啓のゆくえ―宗教が分派するとき』で[[ほんみち]]や[[ほんぶしん]]、[[おうかんみち]]などの宗教団体が天理教から分立したことについて、特に飯降の死亡後の大正から昭和初期にかけて多く誕生していることに触れ、中山みきや飯降伊蔵の死後、親神の意思を伝える天啓者がいなくなったことに起因していると分析している&lt;ref name=&quot;ou&quot; /&gt;。<br /> ===学者による考察===<br /> 天理教を研究する宗教学者の中でも、[[村上重良]]は著書『近代民衆宗教史の研究』の中で、このみきの立教に至る「神がかり」を準備したものは、夫婦の不和や子女の夭折、長男の重病、出産後の生理的不調など家族の問題からくる精神的苦悩・生理的苦痛にあるとして、みきにとって「月日のやしろ」となることは、病、息子の難病、家の道具、夫婦の不和、重労働からの解放を意味したと論じている。この考察は後に[[島薗進]]の「突発説」の否定や、[[笠原一男]]、[[小栗純子]]らに受け継がれている。島薗はこの村上の考察について『天理教研究史試論』の中で「教団内外のそれまでの教祖伝研究の成果を結集し、一つの歴史叙述にまとめあげた」功績は大きいと評価している&lt;ref name=&quot;sawa&quot;&gt;{{Cite journal |author = 澤井治郎 |date = 2015-02 |title = A Short Survey of the Beginning of Tenrikyo(Section 7,THE PROCEEDINGS OF THE SEVENTY-SECOND ANNUAL CONVENTION OF THE JAPANESE ASSOCIATION FOR RELIGIOUS STUDIES) |journal = 宗教研究別冊 |publisher = 日本宗教学会 |issn = 21883858 |url = http://ci.nii.ac.jp/els/110009820838.pdf?id=ART0010327345&amp;type=pdf&amp;lang=jp&amp;host=cinii&amp;order_no=&amp;ppv_type=0&amp;lang_sw=&amp;no=1442107211&amp;cp= |format = PDF |accessdate = 2015-08-23}}&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> == 脚注 ==<br /> == 注釈 ==<br /> &lt;references group=&quot;注釈&quot;/&gt;<br /> == 出典 ==<br /> &lt;references /&gt;<br /> <br /> == 参考文献 ==<br /> *{{Cite book |author = [[天理大学]]付属おやさと研究所<br /> |authorlink = |coauthors = |date = 1997年11月24日 |title = 改訂 天理教事典 |publisher = 天理教道友社 |page = 971-984 |isbn = 4-8073-0412-7}}<br /> *{{Cite book<br /> |author = [[天理大学]]付属おやさと研究所<br /> |authorlink =<br /> |coauthors =<br /> |date = 1997年11月24日<br /> |title = 改訂 天理教事典<br /> |publisher = 天理教道友社<br /> |page = 39,146,147,690-695,810<br /> |isbn = 4-8073-0412-7<br /> }}<br /> *『教祖様御伝稿案』(山澤為治『復元』2,3,5,6,11,12,13,14号、天理教教義及史料集成部、1946年4月)<br /> *『教祖様御伝』(中山新治郎『復元』33号、天理教教義及史料集成部、1946年4月)<br /> *『古老聞書』(上田嘉成『復元』創刊号、天理教教義及史料集成部、1946年4月)<br /> *『稿本天理教教祖伝』 - 伝記資料(天理教教会本部編纂、昭和31年10月26日)<br /> *[[芹沢光治良|芹沢光治郎]]『教祖様』(新潮社刊)<br /> <br /> ==関連項目==<br /> *[[井出国子]]<br /> *[[天理教]]<br /> <br /> ==外部リンク==<br /> *[http://www.tenrikyo.or.jp/jpn/tenri/foundation/ 天理教公式サイト「信仰となりたち」]<br /> <br /> {{Reli-bio-stub}}<br /> {{Normdaten}}<br /> {{DEFAULTSORT:なかやま みき}}<br /> [[Category:日本の宗教家]]<br /> [[Category:江戸時代の女性]]<br /> [[Category:幕末の女性]]<br /> [[Category:明治時代の人物]]<br /> [[Category:戦前日本の女性]]<br /> [[Category:大和国の人物]]<br /> [[Category:天理教の人物|*]]<br /> [[Category:新宗教の開祖]]<br /> [[Category:天理市の歴史]]<br /> [[Category:1798年生]]<br /> [[Category:1887年没]]</div> 219.96.7.204 バーブ教 2018-09-14T08:21:30Z <p>219.96.7.204: /* 関連項目 */</p> <hr /> <div>[[ファイル:Haifa-Bahai.jpg|350px|right|thumb|[[ハイファ]]にあるバーブの[[霊廟]]]]<br /> {{ウィキプロジェクトリンク|バーブ教・バハーイー教|[[File:Star of Hykal.png|32px]]}}<br /> &#039;&#039;&#039;バーブ教&#039;&#039;&#039;(バーブきょう、&amp;#1576;&amp;#1575;&amp;#1576;&amp;#1740; &amp;#1607;&amp;#1575;)は、[[イラン]]などに分布した[[イスラム教]]の流れを汲む[[一神教]]である。1840年代に[[セイイェド・アリー・モハンマド|バーブ]](ミールザー・アリー・モハンマド)によりイランで[[十二イマーム派]][[シーア派]]の一派[[シャイヒー派]]から起こったが、のちに[[シャリーア]](イスラーム法)の廃止を宣言するなどしたため、一般には[[イスラーム]]の枠外とされて1850年代末には徹底的弾圧を受けた。これを逃れた教徒の一部は[[バハーイー教]]へと発展する。一方、現在バーブ教を称する一派は{{仮リンク|アザリー派|en|Azali}}とも呼ばれ今もイランに残るという。<br /> <br /> なお、発祥の地である[[イラン|イラン・イスラーム共和国]]では、バーブ教の存在、信仰は、現在[[違法]]であるとされている。<br /> <br /> ==教義==<br /> バーブ教は[[十二イマーム派]][[シーア派]]の一派[[シャイヒー派]]からおこったため、当初の中心的教義はシャイヒー派に近いものであった。終末と救世主の出現・[[イマーム]]の再臨は間近であるとして、終末にのぞむためにも[[コーラン]]を尊重し、[[シャリーア]]の厳格な遵守をなすべきだというものである。この時点での[[シャイヒー派]]との若干の相違点はミールザー・アリー・モハンマドが「バーブ」(アラビア語で「門」の意)であるとした点を強調したことにある。[[十二イマーム派]]シーア派におけるバーブとは、[[隠れイマーム]]と直接霊的交信が可能な者のことで、小[[ガイバ (イスラム教)|ガイバ]]中の四人の代理者がよく知られている。シャイヒー派ではこれを「完全シーア信徒」といい、バーブ教ではアリー・モハンマドをこれに擬したのである。しかし、のちにバーブの主張はより強いものとなった。[[1848年]]には自らイマームの再臨(ガーエム)であるとして、シャリーア廃止を宣言した。「[[コーラン]]」にかえて自らの預言「{{仮リンク|バヤーン|en|Persian Bayán}}」を新たな啓典としたのである。バーブ教がイスラームと決定的に袂を分かったのはこの時だったといえよう。<br /> <br /> ==歴史==<br /> ===バーブと集団の形成===<br /> バーブは、[[1819年]][[シーラーズ]]の[[サイイド]](ムハンマドの子孫とされる人びと。ペルシア語ではセイイェド)家系の商人の家に生まれた。本名をミールザー・アリー・モハンマドという。1840年頃には[[カルバラー]]で学び、[[シャイヒー派]]の影響を受けるようになる。[[1843年]]シャイヒー派指導者セイイェド・カーゼム・ラシュティーが没すると、シャイヒー派に混乱が起こるがこれを受けてアリー・モハンマドは1844年5月12日、自らがバーブであると宣言した。同時にラシュティー死後の指導者を求めるシャイヒー派の{{仮リンク|モッラー・ホセイン・ボシュルーイー|en|Mullá Husayn}}がバーブ宣言を認知し、ここにバーブを中心とする集団が出現することになる。<br /> <br /> そののち、集団の中核にボシュルーイーをはじめとする19人の「{{仮リンク|生ける文字|en|Letters of the Living}}」を形成して各地のシャイヒー派に派遣、宣教につとめる。<br /> 「生ける文字」の一人アリー・バスターミーは[[アタバート]]で1844年夏以降宣教し、[[ウラマー]]らの面前で[[ムハンマド・ムンタザル|マフディー]]{{要曖昧さ回避|date=2014年7月24日}}の到来など過激な言辞をはいて[[オスマン帝国]]当局、{{仮リンク|ウスーリー派|en|Usuli}}ウラマーの反発を招き、審問されている。また同じくボシュルーイーは[[エスファハーン]]・[[テヘラン]]を経由して[[ホラーサーン]]での宣教につとめている。この時期の宣教はシャイヒー派ネットワークに乗せておこなわれたものといわれる。<br /> 1845年1月、バーブはイマームの再臨の予兆を宣言して、信徒らにカルバラーに集うよう呼びかけた。自身も[[1844年]]9月に[[メッカ]]巡礼へと出発するが、バスターミーの有罪判決など状況の悪化によりカルバラーには入れず、[[1845年]]7月シーラーズに戻り軟禁される。[[1846年]]9月には町の混乱に乗じてエスファハーンに逃れ太守の保護下に置かれるが、太守死後[[1847年]]2月[[ガージャール朝]]政府によって逮捕され、テヘランでの[[モハンマド・シャー]]との会見ののち[[アゼルバイジャン]]のマークーに送られた。1848年、さらに[[タブリーズ]]へ移され、法廷において自らがイマームの再臨(ガーエム)であると宣言。虐待を受ける。[[1850年]]、処刑された([[:en:Execution of the Báb]])。<br /> <br /> ===バーブ教諸蜂起===<br /> ====バダシュトの会合====<br /> [[1848年]]初夏、ホラーサーンの街シャールード近郊の村バダシュトにおける主立ったバーブ教徒80人が会合をした。ちょうどバーブのガーエム宣言直後にあたる。<br /> 「生ける文字」の一人[[ゴッラトルエイン]]の主導により、バーブの救出とシャリーアからの離脱を決定した。このとき彼女は、バーブに従いシャリーアに従わない以上もはや[[ヘジャブ]]は必要ないとして髪の毛を現したままの姿であったという。のちに女性平等の教説などにつながるが、この過激な主張により、保守的な[[シャイヒー派]]をはじめとする多くの人びとが離脱。バーブ教と渾然一体となっていたタブリーズなどのシャイヒー派は急速にバーブ色を薄めることになる。<br /> このバダシュトの会合が諸叛乱のはじまりであった。<br /> <br /> ====シェイフ・タバルスィー蜂起====<br /> 1848年10月~49年5月。「生ける文字」ボシュルーイーらがバーブの救出を目標に[[マシュハド]]にて旗揚げ。黒旗を掲げて武装バーブ教徒700名でカルバラーに向かう。[[マーザンダラーン]]のバールフォルーシュで住民と衝突、付近のシェイフ・タバルスィー廟を要塞化し立てこもる。数度にわたる討伐を退けるが、最終的には鎮圧される。ボシュルーイーらは戦死し教団中心に打撃をうけた。<br /> この事件を境に、ガージャール朝政府は高位ウラマーの非難にもかかわらず無関心でいたバーブ教への態度を改め、叛乱者と認識した。参加者もシーア派三代イマーム・[[フサイン・イブン・アリー (イマーム)|ホセイン]]の「カルバラーの悲劇」と自らを重ね合わせていたことを示す史料もあり、熱狂的信者の存在が認められる一方で、シェイフ・タバルスィー廟という森の中の聖者廟というロケーションから、土俗的信仰を持つ集団とのかかわりも想定される。<br /> <br /> ====ネイリーズ蜂起====<br /> 1850年5月、6月。[[ファールス (イラン)|ファールス]]の街ネイリーズでの都市蜂起。指導者はアーガー・セイイェド・ヤフヤー・ダーラービー。おおむね1000人程度が参加した。ダーラービーが[[ヤズド]]からネイリーズに赴き宣教を開始すると、すぐに一街区が改宗した。もともと都市民の一部と支配者は対立関係にあり、ダーラービーによって対立が激化、蜂起に至った。ネイリーズ郊外の城塞を占拠したが、ファールス太守の軍により二ヶ月で鎮圧された。1853年初には都市支配者がバーブ教徒に暗殺され、小規模な蜂起が再び発生している。<br /> <br /> ====ザンジャーン蜂起====<br /> 1850年5月から51年1月まで。イラン北西部[[ザンジャーン]]での蜂起。元{{仮リンク|アフバーリー派|en|Akhbari}}の[[ウラマー]]で[[ホッジャトルエスラーム]]であった{{仮リンク|モッラー・モハンマド・アリー・ザンジャーニー|en|Hujjat}}が指導。2000人程度の参加と見積もられる。要塞への立てこもりと長期にわたる包囲戦ののち鎮圧される。実態はあまりよくわからないが、その後のバーブ教徒の間では、蜂起にいたる以前の太守の横暴・暴虐、および包囲戦での苦闘・殉教、その後の弾圧などはさまざまな形で伝説化された。<br /> <br /> ====シャー暗殺未遂事件====<br /> [[1852年]]8月15日。ゴッラトルエインら3人がイラン君主[[ナーセロッディーン・シャー]]の暗殺を試みて失敗。下獄、拷問ののち殉教した。この事件によってガージャール朝政権/社会はバーブ教を完全に敵視し、バーブ教は大弾圧により壊滅的打撃を受けた。<br /> <br /> ===その後のバーブ教===<br /> 大弾圧によりバーブ教徒の中心はオスマン帝国領[[バグダード]]へ追放され、オスマン帝国によってさらに各地へ移され、国内のバーブ教は壊滅状態に陥った。このときイランを離れたバーブ教徒に、ガージャール朝貴族でのちに[[バハーイー教]]をおこす[[バハーウッラー]]と、{{仮リンク|ソブヘ・アザリー|en|Subh-i-Azal}}の兄弟もいた。バハーウッラーらがバハーイー教へと発展する一方、アザリーを中心としてバーブ教の教義を守る人びとも出てくる。彼らが{{仮リンク|アザリー派|en|Azali}}である。<br /> <br /> そもそもはアザリーがバーブの後継者とされていたが、アザリーが従来の政治的行動主義を維持しようとするのに対し、バハーウッラーらは政治的活動主義から離れ内向的宗教生活を重視して分裂した。この政治的活動主義から、[[イラン立憲革命]]期にいたる著名なイランの自由主義者・立憲主義者には、バーブ教と関わりがある疑われる人びとが少なくない。政治的な弾圧が徹底するほどイランにおけるアザリー派はシーア派伝統の[[タキーヤ]]にのっとり表向き十二イマーム派信徒として振る舞うことを余儀なくされ、活発な活動は影をひそめてゆく。現在バーブ教徒を名乗るのは、このアザリー派の人びとである。<br /> <br /> バーブ教はその後も禁圧を受け、イスラーム革命後のイランでも違法となっているが、なお数百万人の教徒がいるともいう。イラン政府によるバーブ教への対応は国際社会から人権問題として指弾されたこともある。また海外のイラン人コミュニティでもバーブ教コミュニティがある。<br /> <br /> ==バーブ教の歴史的意義==<br /> ===シーア派の中でのバーブ教===<br /> [[シャイヒー派]]は、[[シーア派]]が{{仮リンク|ウスーリー派|en|Usuli}}によって制度化・法制化されてゆくなかで、従来のシーア派の内在的傾向を強調した。イマームの「隠れ」中であっても「完全なるシーア派信徒」はイマームから流出する知識を受けうるとする。これはイマーム不在時における「理性による法解釈」の執行者として権威を持つウスーリー派[[イジュティハード|ムジュタヒド]]の基盤を掘り崩すものであり、{{仮リンク|アフバーリー派|en|Akhbari}}の覆滅後{{仮リンク|ウスーリー派|en|Usuli}}へのアンチテーゼとして強い影響力を持った。さらに、18世紀末イランにおいては[[スーフィズム]]・イマーム復活論が全般的高まりつつあった。<br /> <br /> これを背景に、バーブ教はシャイヒー派のイマーム復活、マフディー到来を予感させる教説を受け継いだといえる。[[ヒジュラ暦]]1261年は第12代イマームのガイバから1000年である。これに従ってマフディー降臨説を流布・利用したのはその例である。同時に、諸蜂起指導者が「[[ジハード]]」という言葉を用いたということも重要で、マケインはバーブ教徒が[[千年至福説]]的モチーフを利用していたとの指摘をしている。宣教においても既存のシャイヒー派ネットワークを用いており、バーブ教はシャイヒー派を受け継ぐものであったといえよう。<br /> <br /> ===社会情勢とバーブ教参加階層===<br /> 19世紀後半のイランは、社会的混乱、金銀の流出、それに伴う物価高騰、対外的には度重なる敗北という状況にあり、これに対して弱体なガージャール政府は有効な対抗手段を持たなかった。このような状況への不満が、イマーム再臨の千年至福説と結びつき、バーブ教に活力を与えたというのは定説となっている。<br /> <br /> バーブ教諸叛乱をさして、[[ソビエト連邦|ソ連]]のイラン史家イワノフは、19世紀の外国製品流入による社会変動にともなう都市低所得層と農民による反封建運動という見方を示した。その後の論考もバーブ教の教義の社会革命的革命性については保留しつつも、重い租税に対する未発達な農民戦争であり、イラン国内の内部矛盾に基づく市民派運動として扱われる。<br /> <br /> しかし1980年代以降、このような見方は否定されつつある。モーメンは、諸蜂起参加者において名前の分かるものを分析したところ、その出身階層と地方にほぼ偏りはなく一部階層を中心とした運動とは考えにくく、むしろ有力宗教指導者の改宗にしたがって支持者も改宗したのだ、とした。近藤はシェイフ・タバルスィー蜂起における地縁的結合を重視する。アマーナトは没落しつつある商人・職人・下級役人を中心と考え、黒田は蜂起参加者に占める下級ウラマー([[モッラー]]ら)の割合から、バーブ教はその千年王国思想ではなく、上級ウラマーへの反感を下級ウラマーと共有することで運動を展開させえたと考える。<br /> <br /> またネイリーズ、ザンジャーンに顕著な地方政治における対立で利用されたという指摘もある。もともと政治的対立構図にある集団の一方が対抗的にバーブ教に改宗するというパターンである。モガッダムはバーブ教徒そのものの思想的統一性に疑問を呈し、ガージャール朝への反抗意識自体もかなりの幅があると考えている。その意味で体制派が、反対派を非難するときに「バーブ教徒」は常套句となっており、バーブ教そのもののイランでのあり方の実際をわかりにくくしている。また主要な研究者がバハーイー教徒であり、やや研究に偏りが見られる点も否定できず、一方で、イラン国内のバーブ教関連史料へのアクセスは非常に困難で、また史料自体の散逸も多く、全体像のとらえにくいテーマとなっている。<br /> <br /> ==参考文献==<br /> {{脚注ヘルプ}}<br /> *Amanat, Abbas, &#039;&#039;Resurrection and Renewal: The Making of the Babi Movement in Iran 1844-1850&#039;&#039;, London and Ithaca: Cornell University Press, 1989.<br /> *Ivanov, M. S., &#039;&#039;Babidskie vosstaniya v Irane (1848-1852),&#039;&#039; Moscow, 1939.<br /> *近藤信彰, 「バーブ教徒のシェイフ・タバルスィー蜂起」『日本中東学会年報』5, pp.309-39, 1990.<br /> *MacEoin, D., &quot;The Babi concept of Holy War,&quot; Religion, 12, pp.119-31, 1982.<br /> *Momen, M., &quot;The Social Basis of the Babi Upheavals in Iran (1848-52): A Preminar analysis,&quot; International Journal of Middle East Studies, 15, pp.157-83, 1983.<br /> *Smith, P., &#039;&#039;The Babi and Baha&#039;i Religions: from Messianic Shi&#039;ism to a World religion&#039;&#039;, Cambridge: Cambridge University Press, 1987.<br /> *Zabihi-Moghaddam, S., &quot;The Babi-State Conflict at Shaykh Tabarsi,&quot; Iranian Studies, 35, pp.87-112, 2002.<br /> <br /> == 関連項目 ==<br /> * [[バーブ教徒の乱]]<br /> <br /> {{新宗教}}<br /> <br /> {{デフォルトソート:はあふきよう}}<br /> [[Category:イラン]]<br /> [[Category:イスラム教系新宗教]]<br /> [[Category:イランの歴史]]<br /> [[Category:イランの宗教]]<br /> [[Category:バーブ=バハーイー教|*はあふきよう]]</div> 219.96.7.204 バハーイー教 2018-09-14T08:21:16Z <p>219.96.7.204: </p> <hr /> <div>&#039;&#039;&#039;バハーイー教&#039;&#039;&#039;(バハーイーきょう)は、19世紀半ばに[[イラン]]で[[バハー・ウッラー]]が創始した[[一神教]]である。[[ファイル:Baha&#039;i star.png|thumb|200px|バハーイー教の象徴・九芒星]]イランでは初期から布教を禁止され、バハー・ウッラーと信者はイランから[[イラク]]、[[トルコ]]を経て、当時[[オスマン帝国]]の牢獄の町であった[[アッコ|アッカ]](現イスラエル領)へと追放され、投獄生活ののち放免され、そこで一生を終えたため、今日では[[イスラエル]]の[[ハイファ]]にある[[カルメル山]]に本部を持つ。[[ファイル:TerracesBenGurion2.jpg|thumb|240px|[[ハイファと西ガリラヤのバハーイー教聖地群]]として[[世界遺産]]でもあるバハーイー世界センター&lt;BR&gt;&lt;SUB&gt;階段の上に建っているのがバーブの聖廟&lt;/SUB&gt;]]信徒数は公称600万人、189ヶ国と46の属領に広がっており、[[ブリタニカ百科事典]]によると現在布教国数で[[キリスト教]]に続き世界で二番目に広がりを見せている宗教である&lt;ref&gt;{{Cite web|url=http://www.bahaijp.org/bahai-towa|publisher=日本バハーイー共同体|title=バハーイーとは|accessdate=2011-2-4}}&lt;/ref&gt;。なお、[[ペルシア語]]の発音に即して「バハーイー」と日本語表記されることが多いが、日本のバハーイー共同体は「&#039;&#039;&#039;バハイ&#039;&#039;&#039;」と表記している。バハーイー教の創始者の名前も同様に、発音表記を「バハー・ウッラー」とする文献もあるが、バハーイー共同体では、「バハオラ」と表記している。<br /> <br /> この宗教は[[イラン]]で生まれたが、そこではその発端から現在までも続いている迫害が続いている。この宗教は19世紀半ばの[[バーブ教]]から成長したものであり、その創立者であるバーブは、神が[[イエス・キリスト|イエス]]や[[ムハンマド・イブン=アブドゥッラーフ|ムハンマド]]を送ったのと同様の方法で預言者を送るであろうと教えた。1863年に生国である[[イラン]]から取り除かれた後、[[バハー・ウッラー]]は自分がその預言者であると宣言した。彼は[[イラン]]より追放されて[[オスマン帝国]]シリア州のアッカ(現イスラエル、[[アッコ]]市)の監獄で10年以上費やした。1892年の[[バハー・ウッラー]]の没後、この宗教の指導権は息子のアブドル・バハー(1844-1921)に移り、その後には[[バハー・ウッラー]]の曽孫のショーギ・エフェンディ(1897-1957)に移った。世界中のバハーイー達は毎年、宗教の事務を管理する地方、国の精神行政会メンバーを選出し、国の精神行政会のメンバーは五年ごとに[[万国正義院]]、世界のバハーイー共同体を管掌する九人のメンバー選出する。その座はイスラエル、[[ハイファ]]のバーブ廟の近くある。<br /> <br /> バハーイー教の教義はいくつかの点で他の一神教信仰と似ている。神は唯一であり、全てに権能を持つものと見なされている。しかしながら、バハー・ウッラーは宗教は、歴史を通じて神を顕示する主要宗教の創設者達&lt;ref&gt;A.V. (20 April 2017). [https://www.economist.com/blogs/economist-explains/2017/04/economist-explains-7 &quot;The Economist explains: The Bahai faith&quot;]. &#039;&#039;The Economist&#039;&#039;. Retrieved 23 April 2017.&lt;/ref&gt;によって、秩序的、進歩的に唯一の神によって啓示されると教えた。それために、バハーイーたちは主要宗教を、社会慣習や解釈によって分かれてはいるが、目的においては原則的に一体であると見なしている。また公然と人種差別と[[ナショナリズム]]を拒絶し、諸民族の一体性についても同様に強調している。バハーイーの教えの中心には、すべての国々、民族、信条、階級の繁栄が保証される統一された世界の秩序という目的がある&lt;ref&gt;Moojan Momen (October 1, 2011). &quot;Baha&#039;i&quot;. In Mark Juergensmeyer; Wade Clark Roof. &#039;&#039;Encyclopedia of Global Religion&#039;&#039;. SAGE Publications. ISBN 978-0-7619-2729-7. &lt;/ref&gt;。<br /> <br /> == 語源 ==<br /> バハーイー(Bahá&#039;i)はバハー・ウッラーの教え、あるいはバハーに従う者の意味がある。それはアラビア語バハー(بهاء Bahá&#039;)に由来し、「栄光、光輝」を意味し、この語にペルシャ語の接尾辞イー(یِ i)がついた形である。英語でのBaha&#039;ismは軽蔑的な意味合いを含んで使われる&lt;ref&gt;Hatcher, W.S.; Martin, J.D. (1998). [https://books.google.com/books?id=IZmkG1ASirgC &#039;&#039;The Bahá&#039;í Faith: The Emerging Global Religion&#039;&#039;]. New York, NY: Harper &amp; Row. ISBN 0-06-065441-4.&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> == 教義 ==<br /> [[Image:Bahaullah from miller.jpg|right|200px|thumb|バハー・ウッラー]]<br /> バハー・ウッラー自身の家系、また、その神学の聖約も[[アブラハム]]へ遡るところからバハーイー教は基本的には[[アブラハムの宗教]]の系列に含まれるものだが、[[モーセ]]、[[イエス・キリスト|イエス]]、[[ムハンマド]]らに足して、アブラハムの宗教に含まれていない[[ザラスシュトラ|ゾロアスター]]、[[釈迦]]などの世界の全ての大宗教の創始者も神の[[啓示]]者であり、バハーイー教の創始者バハー・ウッラーはそれらの最も新しい時代に生まれたひとりであるとされる。この他宗教を排除しない寛容な思想の影響もあり、相手を改宗させる目的での布教活動は禁止されている。<br /> <br /> [[人類]]の[[平和]]と統一を究極の目標とし、[[真理]]の自己探求、[[男女平等]]、[[一夫一婦制]]、[[科学]]と[[宗教]]との調和、[[偏見]]の除去、[[教育]]の普及、[[国際補助語]]の採用、極端な[[貧富の差]]の排除、各国[[政府]]と[[法律]]の尊重([[暴力革命]]の否定)、[[アルコール]]や[[麻薬]]の禁止などの[[教義]]、[[戒律]]を持つ。発祥地のイランや[[中東]]にとどまらない世界的な普遍宗教としての性格を有する。<br /> <br /> バハー・ウッラーの長男で、1892年にバハーイー共同体の指導者となったアブドル・バハーは進化論を否定し、疑似科学に基づく創造論を主張&lt;ref&gt;バハイ・オンライン図書館 「質疑応答集」[http://www.geocities.jp/oneworld_international/library/ab/saq4_j.htm 第四部 人間の起源と能力と状態について]&lt;/ref&gt;した。ただし、他の宗教同様進化論に対する対応は信者によって違い、多様である。<br /> <br /> 累進的な啓示というバハーイー教の概念は、世界の諸宗教の有効性の受容に帰着し、それらの宗教の創設者たちは「神の顕示者」と見なされる。宗教の歴史は、その時代、その場所に相応しいものとして聖典として与えられ、より広範な、より進歩的な啓示を「顕示」である者たちがもたらす一連の配分であると解釈される。特定の宗教の社会的な教え(例えば祈祷時に向く方向や、食事の禁令)は後の「顕示」によって、時代や場所によって適切とされるように無効とされるかもしれない。反対にある一般的な原理(例えば隣人同士の協力や慈善)は普遍的で一貫しているように見なされる。バハーイーの信仰では、この累進的啓示の過程は終わることがないが、それは周期的だと信じられている。<br /> <br /> しばしばバハーイーの信仰は先行宗教の信条を混淆したものと見なされるが、バハーイー教徒は彼らの宗教は自分の聖典、教義、歴史を持つ独自の伝統だと主張する。[[スンナ派]]、[[シーア派]]ともに[[イスラーム]]の機関や聖職者はバハーイー教を[[イスラーム]]からの棄教者または背教者と見なし、バハーイー教徒への迫害に繋げている。相対年代および[[バハー・ウッラー]]の教えの現代の状況への妥当性において他の伝統と異なるものとし、バハーイー教徒は自らの信仰を独立した世界宗教としている。[[バハー・ウッラー]]は先行宗教の[[メシア]]再臨の希望を満たしたものと考えられている。<br /> <br /> === 神 ===<br /> [[ファイル:Greatest Name at Shrine of Bahá&#039;u&#039;lláh.jpg|サムネイル|ヤー バハーウ・ル・アブハー]]<br /> ユダヤ教、キリスト教(三位一体説は否定されるが、アブドル・バハーによる独自の解釈もある&lt;ref&gt;バハイ・オンライン図書館 質疑応答集[http://www.geocities.jp/oneworld_international/library/ab/saq2_j.htm 第二部]&lt;/ref&gt;)、イスラームに共通する唯一神を信仰する。聖典の原語では[[アッラーフ|アッラー]](Alláhアラビア語)やホダー(Khodáペルシャ語)などが一般に使われるが、いくつかの例外を除いて各国語に翻訳されて使用されている。<br /> <br /> {{quote|アッラーフ アブハー(Alláhu abhá 神はいとも光輝なり、あるいは、いとも栄光なり)}}<br /> <br /> バハーイー教において最も基本的な祈りであり、翻訳されずに原語のまま唱える。バハー・ウッラーがアドリアノープルに追放されていた頃から使用されだした&lt;ref name=&quot;:1&quot;&gt;バハイ・オンライン図書館 [http://www.geocities.jp/oneworld_international/library/dict/dict3_j.htm バハイ事典]&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> {{quote|ヤー バハーウ・ル・アブハー(ya Bahá&#039;u l-abhá いとも光輝(栄光)なるものの光輝(栄光)よ)}}<br /> <br /> 「バハー」(Bahá&#039;)は、バハーイー教において「最大の名」(al-ism l-a&#039;zam)とされる。バハーイー教では、イスラームの伝承では神の多くの名称があるが、そのいずれが最大の名であることは隠されていた、バハー・ウッラーはそれはバハーであると啓示された、とする。<br /> <br /> 他に「不可知の本質」「絶対一性それ自体」「全ての名称の主」などとされ、ダニエル書の「日の老いたる者」や、「慈悲深い者」「自存する者」などクルアーン由来の名称も多く使われている。<br /> <br /> === 神の顕示者と累進的啓示 ===<br /> バハーイー教における重要な概念に神の顕示者(Manifestations of God)がある。これはセム系一神教の預言者にあたり、バハーイー教でも預言者という言葉は使われるが神の顕示者という言葉がより好んで使われる。神の顕示者とは同じ神から遣わされて、同じ目的のためにこの世に現れるとされる一連の人間のことであり、その本性は神と世界の仲介者である。古くはアブラハムやモーセ、イエス、ムハンマドなどであり、バハー・ウッラーに続くとされる。同じ神から遣わされた彼らは、その教えに本質的に違いはなく、差異があるように見えるのは、ただ時代・地域の制限と能力による。神の顕示者には優劣はなく、同等であり、本質においては彼らは一つである。これらのバハーイー教独自の預言者観はバハー・ウッラーの確信の書やアブドル・バハーの質疑応答集に最もよく表されている&lt;ref&gt;バハイ・オンライン図書館 [http://www.bahaijpn.com/library/baha/ki1_j.htm 確信の書]&lt;/ref&gt;&lt;ref name=&quot;:2&quot;&gt;バハイ・オンライン図書館 [http://www.geocities.jp/oneworld_international/library/ab/saq3_j.htm 質疑応答集 第三部]&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> この神の顕示者という考えは累進的啓示という概念と直接にリンクしている。神の顕示者は各時代に現れて新たに神の啓示を伝える。それは各啓示の根底に共通する不変的な教えを時代に合わせて適応させるためであり、その目的は人類を教え、進歩に導くためである。そのために啓示は累進的に行われ、それに終わりはない。ムハンマドからバーブまで千年以上の時の経過があり、バハー・ウッラーから少なくとも千年間は新たな顕示者が現れることはない。<br /> <br /> ==== 大預言者と小預言者 ====<br /> 神の顕示者と呼ばれる大預言者と小預言者と呼ばれる区別する。前者は太陽であり、後者はその熱と光を受ける月に例えられている。モーセに対するアロンや、ダビデ、エリヤ、エリシャ、イザヤなどの旧約聖書の預言者が小預言者とされ、彼らは大預言者であったモーセの影響の下にあるとされる&lt;ref name=&quot;:2&quot; /&gt;。<br /> <br /> 神の顕示者・大預言者とされるものは、アダム、ノア、アブラハム、モーセ、イエス、ムハンマド、バーブ、バハー・ウッラーの他、[[ザラスシュトラ|ゾロアスター]]がバハー・ウッラー自身によって言及されている。更にアブドル・バハーによって、[[クリシュナ]]、[[仏陀|ブッダ]]が神の顕示者として言及された&lt;ref name=&quot;:1&quot; /&gt;。孔子については偉大な教育者で改革者と言及しているが、バハーイー教では神の顕示者と認定されなかった&lt;ref&gt;バハイ・オンライン図書館 [http://www.bahaijpn.com/library/comp/door_j.htm 明日への扉41]&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> アダム(ここでは人類の祖としてではなく、啓示の周期の初めの人物)からバーブまでが一つの周期であり、バーブによって新たな啓示の周期が始まったとする。<br /> <br /> === 聖典 ===<br /> [[バハー・ウッラー]]の書簡が「神の言葉」として最重要視され、その先駆者であるバーブの著作も重要視される。アブドル・バハーは前二者のように「神の顕示者」とはされないが、[[バハー・ウッラー]]から聖典の解釈者に任命され、彼による質疑応答集、講話、書簡等も聖典に入れられている&lt;ref&gt;バハイ出版局 [http://www.bahaijp.org/library/about 聖典]&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 各人相当量の書簡が存在するが、主要な著述を年代順に下記に列挙する。<br /> <br /> ==== バーブ ====<br /> * 名称の維持者(Qayyúmu&#039;l-Asmá&#039;) アラビア語。クルアーンのユースフ章の解釈とも知られる。111章42節からなり、バーブによって書かれた最初の書。1844年5月に、最初の弟子となったモッラー・ホセインの前で第一章が書き上げられた。<br /> * ペルシャ語のバヤーン(Bayán) バヤーンは「声明、宣言」を意味する。より短いアラビア語のバヤーンもあるがペルシャ語のものが重視される。1847年の末、あるいは1848年の初めに書かれた。バービー教徒の法典であり、神の顕示者と呼ばれる預言者の到来を約束する。<br /> * 名称の書(Kitabu&#039;l-Asmá&#039;) バーブの著作のなかでも最も重要なものの一つである。1847-1850年の間に書かれた。3000ページに及ぶ大作であるが、いくつかの原稿が紛失している。<br /> <br /> ==== バハー・ウッラー ====<br /> * 四つの谷(Chahár Vádí) ペルシャ語。1857年、クルディスタンのスレイマニエ山中より帰還して後に、バグダードで書かれたスーフィズム的な神秘思想の短編。<br /> * 隠された言葉(Kalimát-i-Maknúnih) アラビア語篇71節とペルシャ語篇82節に分かれる。1857年頃に書かれた。呼び掛けから始まる短い文章のコレクションであり、表現力において全ての書簡の中でも優れている。アブドル・バハーはこれを日夜毎に読むことを勧め、「神秘の宝庫」であり、「深秘の扉を開くであろう」と言う&lt;ref&gt;[http://bahai-library.com/compilation_hidden_words_bwc][http://bahai-library.com/compilation_hidden_words_bwc &quot;Hidden Words: References of &#039;Abdu&#039;l-Bahá and Shoghi] &lt;/ref&gt;。<br /> * 聖なる神秘の宝石(Javáhiru’l-Asrár) アラビア語。バグダード時代にイスファハーンのセイイド・ユースフェ・スィディヒーの質問に対する回答として書かれた。117節に分かれる。<br /> * 七つの谷(Haft-Vádí) ペルシャ語。1860年に書かれた。スーフィズム的な神秘思想の短編。四つの谷の内容とは関係がない。アッタールやハーフェズなどのペルシャの神秘詩人の引用を含む。<br /> * 確信の書(Kitáb-i-Íqán) 1861年にバーブの叔父であるハッジ・ミルザー・セイエド・ムハンマドの求めに応じてペルシャ語で書かれた。二部構成であり、バーブの正当性が福音書、クルアーンの解釈によって示されている。神の顕示者という概念についての神学を含み、ケターベ・アクダスについで重要とされる。<br /> * アフマドへの書簡(Lawh-i-Ahmad ) 1865年アラビア語とペルシャ語で、アドリアノープルの流刑地から迫害の止まないイランのヤズドの信者であったアフマドに宛てられた書簡。この書簡自体が特別な祈りの文として扱われている。<br /> * 驚異の書(Kitáb-i-Badí’) ペルシャ語「驚異の書」を意味する。1867-1868年に書かれた。確信の書の二倍の分量があり、バーブによるアラビア語の著作の引用を含み、バーブの予言した神の顕示者について説明する。英語にも未翻訳。<br /> * 万軍の主の召喚(英題Summoins of the Lord of Hosts) アドリアノープル時代(1863-1868)からアッカ時代初期の五つの書簡をコレクトしている編纂書。諸国の為政者への書簡を含む。<br /> * 和合の幕屋(英題Tabernacle of Unity) 1870-1877年、著名なゾロアスター教徒の学者であったマーニクチー・サーヘブへの書簡と質問への回答である「ローヘ・マーニクチー・サーヘブ」と「ローへ・ハフト・プルスィーシュ」を含む編纂書。<br /> * ケターベ・アクダス(Kitáb-i-Aqdas) アラビア語「最聖の書」を意味する。原題はアル・キターブ・ル・アクダス(الكتاب الأقدس‎‎)、ペルシャ語読みでケターベ・アクダスで通用されている。1873年に書かれ、いくつかの手書き写本がイランのバハーイー教徒の下へと送られた。1891年に整えられてムンバイで公刊された。バハーイー教における最高の法典であり訓戒である。「啓典の母」とされ、ショーギ・エフェンディはこの書を「黙示録での新しいエルサレム」と表現した。1992年にテキストは190(189)節に割り振られ、注釈が付けられた英訳が完成した&lt;ref&gt;[http://bahai-library.com/bahaullah_kitab_aqdas_multilinear Kitab-i-Aqdas Multilinear Translation project]&lt;/ref&gt;。<br /> * アクダス啓示後の書簡(英題Tablets of Bahá’u’lláh Revealed After the Kitáb-i-Aqdas) ケターベ・アクダス啓示後のバハー・ウッラーの主要な書簡を集めた編纂書。「タジャッリーヤト」「ローへ・アクダス」、カルメル山の優位を暗示する「ローへ・カルメル」などを含む。<br /> * 狼の子への手紙(Lawh-i-Ibn-i-Dhib) 1891年にバージの住宅で書かれた最晩年の手紙。[[エスファハーン|イスファハーン]]のイスラーム聖職者であるシェイク・ムハンマド・ターキーへ送られた。彼の父シャイフ・ムハンマド・バーキルは狼と呼ばれ、父子ともにバハーイー教徒への激しい迫害者であった。<br /> * 落穂集(Gleanings) バハー・ウッラーの著作からショーギ・エフェンディが重要としたところを抜粋し、166章に編集し英訳したもの。バハーイー教徒必読の書となっている。<br /> * 祈りと瞑想(Prayers and Meditations) バハー・ウッラーの祈祷文をショーギ・エフェンディが189章に収集してし英訳したもの。<br /> <br /> ==== アブドル・バハー ====<br /> * 聖なる文明の秘訣(Risali-yi-madaniyyih The Secret of Divine Civilization) 1875年にイランの支配者と人々に宛てて書かれた書。<br /> * 質疑応答集 1908年に公刊された。1904-1906年ハイファを訪れたローラ・クリフォード・バーニーとの質疑応答をまとめたもの。<br /> * パリ講話集 1912年パリで行われた講話を集めたもの。<br /> <br /> === 社会的原則 ===<br /> 次の原則はバハーイーの教えの理解しやすい要約として頻繁に列挙される。それらはアブドル・バハーの1912年のヨーロッパ及び北米での旅行での講演の記録に由来する。<br /> <br /> * 一つの神<br /> * 一つの宗教<br /> * 人類の統一<br /> * 多様性の中の統一<br /> * 男女の同等性<br /> * あらゆる偏見の形の除去<br /> * 世界平和と新しい秩序<br /> * 科学と宗教の調和<br /> * 真理の探究の独立<br /> * 常に進歩する文明の原理<br /> * 普遍的な義務教育<br /> * 普遍的な補助言語<br /> * 政府に従うこと<br /> * 富と貧困の格差の解消<br /> * 経済問題に対する霊的な解決策<br /> <br /> === 形而上の宇宙論 ===<br /> バハー・ウッラーは五つの存在領域を区別していた&lt;ref&gt;Smith, Peter (2000). [https://books.google.com/books?id=pYfrAQAAQBAJ &quot;metaphysics: God and the world&quot;]. &#039;&#039;A Concise Encyclopedia of the Bahá&#039;í Faith&#039;&#039;. Oxford: Oneworld Publications. pp. 245–246. ISBN 1-85168-184-1.&lt;/ref&gt;。使用される用語は部分的にはイスラーム・[[新プラトン主義]]にまで遡ることができるが、これはバハー・ウッラーが[[新プラトン主義]]の世界観を立証することを意味するものではない&lt;ref&gt;&#039;&#039;[http://bahai-library.com/pdf/l/lepain_hierarchy_spiritual_worlds.pdf The Tablet of All Food: The Hierarchy of the Spiritual Worlds and the Metaphoric Nature of Physical Reality]&#039;&#039;. Baha’i Studies Review 16, pp. 43–60. doi: 10.1386/bsr.16.43/1.&lt;/ref&gt;。彼はすべての形而上学的見解を絶対的真理ではなく、精神、心理的、文化的な反映として相対的なものと見なしている。バハーイー教は、主に社会倫理や個人倫理に焦点を当てながら形而上学の重要性を強調する。<br /> <br /> 神は五つの領域すべてに顕現し、人間は物質世界から天使的世界の間に存在する。<br /> <br /> {| class=&quot;wikitable&quot;<br /> |-<br /> ! 名称 !! 形容・描写 !!シンボルカラー<br /> |-<br /> |ナースート(物質界)<br /> |この物質世界は人間、動物、植物、鉱物の各界に分けられる。<br /> |真紅<br /> |-<br /> |マラクート(心霊界)<br /> |栄光の楽園。&lt;br/&gt;天使の領域、諸霊魂の世界。<br /> |緑<br /> |-<br /> |ジャバルート(中間界)<br /> |至高の天国、最上の集合。&lt;br/&gt;神の顕示者はここで個別な存在を得て、神の意志の径路となる。&lt;br/&gt;運命の書、神の筆。<br /> |黄色又は金色<br /> |-<br /> |ラーフート(神性の領域)<br /> |栄光の地平線、天上の宮廷、神の玉座。&lt;br/&gt;神の諸名称と諸属性はここにおいて現れる。&lt;br/&gt;聖霊、神の[[ロゴス]]、神のヌース。&lt;br/&gt;神の普遍的顕示、[[シナイ山|シナイ]]にて語る者、燃える柴、古えの美、アルファにしてオーメガ、最初にして最後、至高の筆。&lt;br/&gt;神の鳩、ガブリエル、神秘のナイチンゲール。<br /> |純白<br /> |-<br /> |ハーフート(”かの”領域)<br /> |神の顕れざる本質。「隠された宝」。絶対一性。<br /> |<br /> |}<br /> <br /> 神的な世界はこの世界の回りを廻り、すべてが相互依存している。神的世界は隠喩によってのみ記述することができる&lt;ref name=&quot;:3&quot;&gt;Lepain, J.M. (2010) [1990]. &#039;&#039;[http://bahai-library.com/pdf/l/lepain_hierarchy_spiritual_worlds.pdf The Tablet of All Food: The Hierarchy of the Spiritual Worlds and the Metaphoric Nature of Physical Reality]&#039;&#039;. Baha’i Studies Review 16, pp. 43–60. doi: 10.1386/bsr.16.43/1.&lt;/ref&gt;。ナースートとマラクートは「創造の世界」であり、同じ霊的な法によって支配されている。この世界の人生の目的は、次の世界に必要な霊的な資質を育てることである&lt;ref name=&quot;:3&quot; /&gt;。<br /> <br /> バハー・ウッラーはまた神の多くの世界について書いている。「スーレ・ヴァファ」では「神の世界はあなたたちの数法では数え切れず、あなたたちの尺度において無限であるという真実を知りなさい。全知、全賢なる神以外には誰もそれを思慮し理解することはできない」&lt;ref&gt;Bahá&#039;u&#039;lláh (1994) [1873-92]. [http://reference.bahai.org/en/t/b/TB/tb-13.html.iso8859-1#gr20 &#039;&#039;Tablets of Bahá&#039;u&#039;lláh Revealed After the Kitáb-i-Aqdas&#039;&#039;]. Wilmette, Illinois, USA: Bahá&#039;í Publishing Trust. p. 187. ISBN 0-87743-174-4.&lt;/ref&gt;。アブドル・バハーは「ローヘ・アファーキーエ」において、無限の世界に無限の神の顕示者たちがいる、と述べている&lt;ref&gt;Hatcher, John S. (2005). [https://books.google.com/books?id=xxJCt1Kj--8C &#039;&#039;Close Connections: The Bridge Between Spiritual and Physical Reality&#039;&#039;]. Wilmette, Illinois. pp. 150–151. ISBN 1-931847-15-0.&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> == 実践 ==<br /> === 祈り ===<br /> バハーイー教では祈りを、義務とされる必須の祈り(Obligatory prayer)と、献身的あるいは一般的祈り(devotional or general prayer)の二種類とする。どの祈祷文もバーブ、バハー・ウッラー、アブドゥル・バハーに由来し、多くの祈祷文が残されている。<br /> <br /> 一般的祈りは様々な場合に唱えるものとして分類されており、バハーイー教徒は、任意にこれらの祈りを行うことができる。<br /> <br /> ==== 義務となる祈り ====<br /> バハーイー教徒は毎日3回、必須の祈りと呼ばれる祈祷を行わなければならず、断食とこの日々の必須の祈りはバハーイー教にとって最も大きな義務になっており、それを怠ることは霊的な罰則を持つものと見なされている&lt;ref name=&quot;:0&quot;&gt;Walbridge, John. [http://bahai-library.com/walbridge_encyclopedia_prayer_worship &quot;Prayer and worship&quot;]. Retrieved 2008-04-27.&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> バハーイー教の特徴として、必須の祈りは各個人で行うことが規定されており、キリスト教の典礼やイスラームの集団礼拝ように義務としての集団礼拝は存在しない。例外として「故人のための祈り」のみ会衆の祈りとして設定されている&lt;ref&gt;バハイ・オンライン図書館 [http://www.geocities.jp/oneworld_international/library/prayer/depart_j.htm バハイの祈り「個人のための必須の祈り」]&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> ケターベ・アクダスにおいて、この必須の祈りについて規定された。バハー・ウッラーは別の書簡にこの祈祷文を書いておいたが、周囲のイスラーム教徒を刺激しないために当時それを公開しなかった。この時書かれたテキストは9つのラーカー(Rak&#039;ah、動作を含む祈祷の単位)からなるものとされていたが、バハー・ウッラーの死後、長男であったミルザー・ムハンマド・アリーによって金庫から盗まれ、失われてしまった&lt;ref name=&quot;:0&quot; /&gt;。<br /> <br /> その後、上記のテキストの代わりに、バハー・ウッラーの三つの祈りのテキスト(短いもの、中位のもの、長いもの)が日々の必須の祈りとして使われている。原文はいずれもアラビア語であるが、各国語に翻訳されたものが使用される。<br /> <br /> バハーイー教徒はこの三つの中から一つを任意に決めて使用するが、それぞれの祈祷文の規定に従わなければならない。<br /> <br /> ==== 規定 ====<br /> 一日に、朝(日の出から正午の間)、昼(正午から日没の間)、夜(日没後からその2時間後の間)の三回行うことが規定されている。<br /> <br /> 中位と長い必須の祈りは立礼や跪拝などの動作を含み、それが物理的に行えない場合以外は義務である。<br /> <br /> 必須の祈りの前には、手と顔の洗浄を行わなければない。清浄な水が得られず洗浄が行えない場合は、「いとも純粋なる御方、いとも純粋なる神の御名において」と5回繰り返したのちに祈祷を行う。また、怪我などによって水の使用が害になる場合もこれに準じる。<br /> <br /> 必須の祈りには、ケブレー(Qiblih 崇拝点。イスラームのキブラ(Qibla)にあたる)が定められており、アッコ(イスラエル)のバハー・ウッラー廟(バージ)の方面を向くことが定められている&lt;ref&gt;[http://www.geocities.jp/oneworld_international/library/dict/dict3_j.htm バハイ・オンライン図書館 バハイ事典「ゲブレ」]&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 15歳未満、70歳以上、病気中の人、月経中の女性は義務的ということから免除される。<br /> <br /> ===== 短い必須の祈り =====<br /> 昼にのみ使用するこができる。<br /> <br /> この祈りは神の前に謙遜の姿勢で立って行わなければならない。<br /> <br /> 最も短く、アラビア語原文では25ワードに過ぎないが、バハーイー教におけるもっとも基本的な教え、神の唯一性の宣言と、その前にある人間は崇拝者であり奴隷であるという関係性を簡潔に示している。<br /> <br /> {| class=&quot;wikitable&quot;<br /> |&lt;small&gt;ローマナイズド&lt;/small&gt;<br /> Ashhadu yá ilahi bi-annaka khalaqtaní li-&#039;rfánika wa ibádatika. <br /> <br /> Ashhadu fí-hadha&#039;l híni bi&#039;ajzí wa quwwatika wa dha&#039;fi wa&#039;qtidárika wa faqrí wa ghanáika. <br /> <br /> Lá iláha illa anta&#039;l muhayminu&#039;l qayyúm. <br /> |-<br /> |&lt;small&gt;訳の一例&lt;/small&gt;<br /> わが神よ、あなたがわたしを造り給うたは、わたしがあなたを知り、あなたを崇拝するためだと証言いたします。<br /> <br /> まさにこの時、わたしの無力とあなたの力、わたしの弱さとあなたの強さ、わたしの貧しさとあなたの豊かさを証言いたします。<br /> <br /> 苦難より救う方、自存する方であるあなたの他に神はない!<br /> |}<br /> <br /> ===== 中位の必須の祈り =====<br /> 朝、昼、夕のいずれにも使用することができ、必須の祈りで基本的に使われることが多い。<br /> <br /> 手と顔の洗浄に関わる祈りを含む。<br /> <br /> バハー・ウッラーの「祈りと瞑想」にテキストを見出すことができる。<br /> <br /> ===== 長い必須の祈り =====<br /> 一日に一度使用することができる。<br /> <br /> バハー・ウッラーはこの祈りについて語っている。<br /> <br /> 「この祈りは、自身が祈りに満ちた気持ちを感じた時に行うものである。実に、これはこのようなものとして啓示された。もし、それが岩に向かって唱えられれば岩は動き出し、叫び出すであろう。山に向かって唱えられれば、山は動き出し、流れ去るであろう。これを唱え、神の掟を満たす者は善き哉!」&lt;ref&gt;[http://bahai-library.com/compilation_importance_obligatory_prayer &#039;&#039;The Importance of Obligatory Prayer and Fasting&#039;&#039;] - a compilation from the Bahá&#039;í writings, compiled by the Research Department of the Universal House of Justice&lt;/ref&gt;<br /> <br /> これもバハー・ウッラーの「祈りと瞑想」にテキストを見出すことができる。<br /> <br /> この長い必須の祈りは、サラート(アラビア語「礼拝」)またはナマーズ(ペルシャ語「礼拝」)として知られている。<br /> <br /> ===== 95回の称名 =====<br /> 一日の中に、「アッラーフ・アブハー」という最大の名を含む称名(ズィクル)を95回唱えることも義務とされる。この祈りを行う場合も洗浄を行うことを義務付けられるが、必須の祈りに伴って行う場合は、合わせて一度の洗浄でよいことになっている。<br /> <br /> === 十九日間の断食 ===<br /> 十九日間の断食は、バハーイー暦の一年の最後の月に当たる十九日間の日の出から日没まで行われる期間である。必須の祈りに加えて、バハーイー教徒にとって最も大きな義務となっている。バハーイーの断食はいくつかの他宗教の断食の実践に似ている。断食はバーブによって設定され、バーブはペルシャ語のバヤーンにおいて、バービ暦の最後の月の19日間が断食の当たると記した。バハー・ウッラーによっても受容された。これについての規則はケターベ・アクダスによって記された。春分前の十九日間がこれにあたる。(3月1、2日~19、20日)。この時期以外に断食することも許されているが、それは奨められず、ほとんど行われない。必須の祈りと同じく、バハーイー教徒にとって最も大きな義務であり、人を神に近づけることを意図している。ショーギ・エフェンディは次のように説明している。<br /> <br /> 「断食は、本質的に瞑想と祈りの期間である。その間に、信者は自身の内なる生命を再調整する手配し、魂に潜在している精神的力を活気づけ、生き返らす努力しなければならない」&lt;ref&gt;Effendi, Shoghi (1973). [http://reference.bahai.org/en/t/se/DG/dg-71.html#pg28 &#039;&#039;Directives from the Guardian&#039;&#039;]. Hawaii Bahá&#039;í Publishing Trust. p. 28.&lt;/ref&gt;<br /> <br /> このようにその重要性と目的は基本的に精神的な特性を持っている。断食は象徴的であり、肉体的な欲望と利己心を節制することを思い起こさせる。<br /> <br /> ==== 断食の規定と免除 ====<br /> 断食の期間はバハーイー暦の閏日(2月26日~3月1日)の終了から始まる。<br /> <br /> 日の出から日没の間、飲食および喫煙は立たれる。15歳以上に達すれば男女ともに義務とされる。<br /> <br /> もし無意識間に摂食してしまっても、事故として断食を破ったことにはならない&lt;ref&gt;Compilations (1983). Hornby, Helen (Ed.), ed. [http://bahai-library.com/hornby_lights_guidance_2&amp;chapter=1#n780 &#039;&#039;Lights of Guidance: A Bahá&#039;í Reference File&#039;&#039;]. Bahá&#039;í Publishing Trust, New Delhi, India. pp. 234–235. ISBN 81-85091-46-3.&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 昼夜の時間が大幅に変わる高緯度の地方では、時計によってその時間を固定する。<br /> <br /> 断食の義務の免除について、ケターベ・アクダスは提示している。免除に当たる人は質素に、また私的に摂食するように求められる。<br /> <br /> * 病気の人<br /> * 15歳未満、70歳以上<br /> * 重労働に従事している人<br /> * 妊娠している女性<br /> * 看護している女性<br /> * 月経時の女性<br /> <br /> 他に旅行中においても断食の免除が与えられる。家に帰った場合は直ちに断食をし始めなければならない。<br /> <br /> === フクークッラー(ホゴゴラ) ===<br /> フクークッラー(アラビア語 ﺣﻘﻮﻕ ﺍﻟﻠﻪ‎‎ Huqúqu&#039;lláh ホゴゴラとも表記される)は「神の権利」と訳される、ケターベ・アクダスによって規定された社会経済的かつ霊的な法である。その最も基礎的な形式は、本人の負債の支払いの後に残った、十分に生活できる財産よりも多い余剰部分の19パーセントを提供することであり、その提供資金は社会的、経済的な開発計画や人道目的に使用される。<br /> <br /> 1873年にケターベ・アクダスによってフクークッラーの法は書かれたが、最初に段階では支払いの受理は行われなかった。1878年にバハー・ウッラーは最初の受託者を任命し、イランでの信者からフクークを受け取る責任を持っていた。この後、中東のバハーイー教徒に広がっていった。1985年、フクークに関する情報は世界的に拡散された。1991年には、フクークッラーの中央事務所がバハーイー・世界センターに設立された。<br /> <br /> バハー・ウッラー在世時はフクークは彼に直接管理され、その没後にはアブドル・バハーがそれを行った。アブドル・バハーの遺訓において、フクークッラーはthe Guardian of the Cause of Godによって提供を受けると規定された。万国正義院の選挙以来は、この機関へと提供される。<br /> <br /> ==== 計算 ====<br /> フクークッラーの支払いは個人所有物の価値の計算に基づく。必要経費がすべて支払われた後、当人の財産、収入を対象とする。<br /> <br /> 所有物のカテゴリーは、住宅、必要な家庭用品、ビジネスあるいは専門の設備および家具のようなものは、フクークッラーや他の支払いから免除される。どの用品が必要で考えられるかの決定は、バハー・ウッラーは当人にそれを任せた。<br /> <br /> === 巡礼 ===<br /> バハーイー教徒の巡礼は、ハイファ、アッコの聖地と、バハーイー・世界センターのバージを訪れることから成っている&lt;ref&gt;Smith, Peter (2000). &quot;Pilgrimage&quot;. &#039;&#039;A concise encyclopedia of the Bahá&#039;í Faith&#039;&#039;. Oxford: Oneworld Publications. p. 269. ISBN 1-85168-184-1.&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> バハー・ウッラーはケターベ・アクダスによって、バグダードのバハー・ウッラーの家とシーラーズのバーブの家へ、この二つの場所への巡礼を命じた。「スーレ・ハッジ」として知られる二つに分かれた書簡では、これらの場所への巡礼のために特定の儀式を規定した。<br /> <br /> 「余裕があり、そうすることができる場合、且つ、それを誰かが妨害しない場合は義務である」<br /> <br /> 信者はどちら片方を自由に選ぶことができた。その後、アブドル・バハーは巡礼の目的地としてバージのバハー・ウッラー廟を指定したが、その為の特別な儀式は規定しなかった。<br /> <br /> ==== バグダートのバハー・ウッラーの家 ====<br /> <br /> バグダードの「最も偉大な家(バイト・ル・アァザム)」バハー・ウッラーの家は、1853年から1863年まで、バグダートの北東、スレイマニエ市の近郊のクルディスタンの山に2年間を除いて、バハー・ウッラーの住んでいた場所であった。それはチグリス川の西部土手のカディミーヤ地区にある。それがケターベ・アクダスによって巡礼地として指定され、聖地と見なされた。1922年、シーア派の権威者がこの家を没収した。国際連盟の委員会はバハーイー教徒の返還請求を認めたが、コミュニティに返還されなかった&lt;ref&gt;Smith, Peter (2000). &quot;Baghdad: the House of Bahá&#039;u&#039;lláh&quot;. &#039;&#039;A concise encyclopedia of the Bahá&#039;í Faith&#039;&#039;. Oxford: Oneworld Publications. pp. 66–67. ISBN 1-85168-184-1.&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 2013年6月に不明瞭な状況の中破壊された&lt;ref&gt;[http://news.bahai.org/story/961 &quot;Sacred site in Baghdad destroyed&quot;]. &#039;&#039;Bahá&#039;í World News Service&#039;&#039;. 28 June 2013. Retrieved 28 June 2013.&lt;/ref&gt;。6月27日、万国正義院はすべての全国精神行政会に、かの家が破壊されたことを書簡で通知した。<br /> * シーラーズのバーブの家<br /> [[ファイル:Houseofthebab2008.jpg|サムネイル|電灯の位置にバーブの家があった。(2008年)]]<br /> 1844年5月23日に、バーブはこの家でモッラー・ホセインに自らの使命を表明した。1942年3月にそれはバハーイー教の敵によって攻撃され破損した。1955年には破壊されたが、後に再建された。1979年のイラン革命によって再び破壊された。1981年には通りと公共広場にされた&lt;ref&gt;Smith, Peter (2000). &quot;Shiraz: the House of the Báb&quot;. &#039;&#039;A concise encyclopedia of the Bahá&#039;í Faith&#039;&#039;. Oxford: Oneworld Publications. p. 314. ISBN 1-85168-184-1.&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> ==== 九日間の巡礼地 ====<br /> 巡礼地としてバハーイー・世界センターの下記の場所が定められている。<br /> <br /> * バージ<br /> ** バハー・ウッラー廟<br /> **バージの住宅<br /> * ハイファ<br /> ** バーブ廟<br /> ** アーク  <br /> *** 万国正義院<br /> *** 国際教育センター<br /> *** 聖典学習センター<br /> *** 国際文書館<br /> ** 記念碑公園<br /> ** 未来の礼拝の場<br /> ** アブドル・バハーの家<br /> ** アマトゥル・バハー・ルヒーイェ・ハヌムの墓所<br /> ** 巡礼の家<br /> * アッコ<br /> ** レズワンの園<br /> ** アッブードの家<br /> ** アブドゥッラー・パーシャーの家<br /> ** マズライの住居<br /> <br /> === 勧告と禁止 ===<br /> 下記は信者に要求されるか、勧められるバハー・ウッラーの教えの数例である。<br /> <br /> * 日々の必須の祈りに加えて、献身的な祈りを捧げ、瞑想すること、聖典を学習するべきである。<br /> * [[火葬]]および[[ミイラ]]化は強く反対する。<br /> * 陰口と中傷は禁止され、非難される。<br /> * 飲酒および売酒は禁止される。<br /> * 性交は夫婦間でのみ許され、婚前、婚外、同性愛交渉は禁止される。<br /> * 派閥党争は慎むことが求められる。<br /> * 専門の物乞いは禁止される。<br /> * ギャンブルの禁止。<br /> <br /> === 労働 ===<br /> バハー・ウッラーは乞食や苦行をする生活を禁じた。[[修道院]]制も禁じられる。バハーイー教徒は有用な仕事に従事する間に精神的なことを実践することを教えられる。霊的な生活の中での自己奮起と人類への奉仕の重要性は[[バハー・ウッラー]]の著作の中でも強調されている。そこでは彼は人類への奉仕の精神において仕事を為すことを神の前で祈り、礼拝することに等しく楽しむと述べている。<br /> <br /> == シンボル ==<br /> === 五芒星 ===<br /> [[ファイル:Haykal-Bab.JPG|サムネイル|バーブ手書きのヘイカル]]<br /> 五芒星またはヘイカル(haykal アラビア語「寺院」)は、ショーギ・エフェンディによって言及されている。<br /> <br /> 「厳密に言えば、五芒星はバーブによって使用され説明されたように、わたしたちの信仰の象徴である」<br /> <br /> 五芒星はバーブとバハー・ウッラーによって書簡や手紙の外欄に使用されている。<br /> <br /> ハイカルはヘブライ語hēyḵālの借用語であり、それはエルサレムの神殿を意味した。アラビア語では、この意味の他に人体や何かの形を意味する。バハー・ウッラーは特に「スーレ・ヘイカル」において、寺院の意味はそのままとし、ヘイカルを神の顕示者としてのバハー・ウッラー自身の身体を意味するものとして使用している。<br /> <br /> 「おお、生ける神殿よ! 実に、我ら(神の自称)は天と地の間に我が原理のしるしとして汝を定めた......」&lt;ref&gt;Bahá&#039;u&#039;lláh (2002) [1868]. [http://reference.bahai.org/en/t/b/SLH/slh-4.html#gr36 &#039;&#039;The Summons of the Lord of Hosts&#039;&#039;]. Haifa, Israel: Bahá&#039;í World Centre. p. 21. ISBN 0-85398-976-1.&lt;/ref&gt;<br /> <br /> === 九芒星 ===<br /> アイソセフィのアブジャド法によれば、baha&#039;という言葉は[[9]]の数価に相当するために、9という数字はバハーイー教において頻繁に使われている&lt;ref&gt;Smith, Peter (2000), [https://books.google.com/books?id=pYfrAQAAQBAJ &quot;greatest name&quot;], &#039;&#039;A concise encyclopedia of the Bahá&#039;í Faith&#039;&#039;, Oxford: Oneworld Publications, pp. 167–168, ISBN 1-85168-184-1&lt;/ref&gt;。最も一般的に使用されている形は九芒星である。<br /> <br /> === リングストーン・シンボル ===<br /> [[ファイル:BahaiRing2.jpg|サムネイル|リングストーン]]<br /> このシンボルはアブドル・バハーによってデザインされたものであり、それは二つの星(ヘイカル)によって構成されている。下のラインは人間性と創造の世界を表し、上のラインは神の世界、真ん中の線は神の現れと啓示を表す。二つの星はバハー・ウッラーとバーブを示している&lt;ref&gt;`Abdu&#039;l-Bahá, published in Hornby 1983, p. 269&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> == 歴史 ==<br /> === バーブ ===<br /> [[1844年]]に、イランの[[シーラーズ]]の商人[[セイイェド・アリー・モハンマド]](バハーイー教では[[啓示者]]のひとり)が、諸々の宗教で「約束された人物」(つまりバハー・ウッラー)の先駆者であると宣言して、アラビア語で「門」を意味する「バーブ」の称号を名乗った。彼の開いた[[バーブ教]]は、実質的にイスラム教から独立した宗教であるとみなされる。シャイヒー派の信徒を中心に多くの十二イマーム派の信徒に支持されたが、イランの十二イマーム派[[ウラマー]]たちの強い反発を招き、[[ガージャール朝]]政府の弾圧を受けた。結局バーブは[[1850年]]、[[タブリーズ]]で処刑されるが、信徒たちは今度はバーブが予言した「神が現し給う者」の到来を探し始めた。<br /> <br /> === バハー・ウッラー ── 神が現し給う者 ===<br /> ガージャール朝に仕える高級官僚の家系に生まれたミールザー・ホセイン・アリーは、バーブ教が開かれた直後からバーブの信徒で、[[1852年]]に政府により逮捕され拘束された。このテヘランでの獄中生活の最中に、彼は自身がバーブが予言した「神が現し給う者」であると最初に受け取ったとされる。9年後の[[1863年]]、ホセイン・アリはイラクの[[バグダード]](オスマン帝国領)に追放されるが、ここで彼は正式に、自身がバーブの予言した、「神が現し給う者」であると宣言し、アラビア語で「神の栄光」を意味するバハー・ウッラーの称号を名乗った。これがバハーイー教の実質的な始まりである。<br /> <br /> バハー・ウッラーの教えはバーブ教のほとんどの信徒に受け入れられたが、バハー・ウッラー自身はイラン政府とオスマン政府の警戒を受けて、バグダードから[[イスタンブール]]、[[エディルネ]]に移され、最終的には[[1868年]]に[[パレスチナ]]の[[アッコ|アッカ]](アクレ)に流され、後にその近辺にある[[バージ]]に移り、[[1892年]]にそこで昇天した。アッカ及びバージの地はバハーイー教徒にとっての聖地となっている。<br /> <br /> アッカやバージ以外でバハーイー教の聖地は[[ハイファ]]の[[カルメル山]]の斜面に位置するバーブの聖廟とその周辺地域である。バーブの遺骸は、イランから聖地へ運ばれ、バハーウッラーによって指定された場所に築かれた聖堂に埋葬された。<br /> <br /> === アブドル・バハー ── 聖約の中心 ===<br /> [[画像:Abdulbaha2.jpg|200px|thumb|アブドル・バハー]]<br /> バハー・ウッラーによって後継者に使命されたのは、彼の長男、[[アブドル・バハー]](彼の名前はアラビア語で「バハー(=栄光)のしもべ」を意味する)であった。バハー・ウッラーは長男を「聖約の中心」と呼ぶように定め、全てのバハーイー教徒が、バハー・ウッラー亡き後、彼の指導に従うよう指示した。バハー・ウッラー自身、彼のことを息子でありながら「師」(Master)と呼んだと言う。<br /> <br /> アブドル・バハーは既に父の長い追放と監禁の生活を共に過ごしていたが、継承後も監禁生活は[[1908年]]の[[青年トルコ人革命]]まで続いた。解放後、アブドル・バハーは父の教えを[[アラビア語]]で「光を求める者」を意味する「バハーイー」と呼んだ。彼は[[ヨーロッパ]]、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]、[[カナダ]]に旅行して世界的な宣教を開始し、多くのバハーイー教文献が様々な言語に翻訳された。[[1921年]][[11月28日]]にアブドル・バハーは[[ハイファ]]で亡くなった。遺体はバーブの遺骸のある聖廟に埋められている。<br /> <br /> === ショーギ・エフェンディ ── 守護者 ===<br /> [[ファイル:Shoghi Effendi2.jpg|200px|thumb|ショーギ・エフェンディ]]<br /> アブドル・バハーの孫であり、また、バーブの血を引く。アブドル・バハーは父、後継者として最年長の孫、[[ショーギ・エフェンディ]]を「守護者」に任命した。アブドル・バハーの逝去時、ショーギ・エフェンディは、[[オックスフォード大学]]の学生であったが、[[1921年]]から[[1957年]]に[[イギリス]]で死去するまでの36年間、バハーイー共同体を導き、世界的規模の共同体の確立の基盤を敷いた。また、この間、バハー・ウッラーとアブドル・バハーの著作の翻訳も精力的に進めた。ショーギ・エフェンディの時代に[[ハイファ]]のバハーイー教本部は世界センターに発展し、バハーイー教の世界布教は大いに進展する。<br /> <br /> === バハーイー共同体運営機構の確立 ===<br /> [[1957年]]にエフェンディは死去するが、彼は生前に後継者を指名しなかったばかりか子どももいなかった。このため、バハーウッラーの頃から教団運営の任にあたり実務を司っていた「{{仮リンク|大業の翼成者|en|Hands of the Cause}}」による集団指導体制へと移行した後、[[1963年]]に世界的バハーイー共同体の行政管理を司る最高機関として[[万国正義院]]が設置された。<br /> <br /> === バハーイー教と日本人 ===<br /> 日本でのバハーイー教は、1875年のアブドル・バハーによるいくつかの言及の後に始まった。日本人のコンタクトは1902年、山本寛一が[[ハワイ州|ハワイ]]・[[ホノルル]]に住んでいた時が最初であり、ついで[[藤田左弌郎]]による。<br /> <br /> 1914年に、ジョージ・ジェイコブ・オーガーとアグネス・アレクサンダーが日本へ開拓した。アレクサンダーは、1967年までの間、約31年日本で暮らした。日本本土で最初のバハーイー教への入信者は福田菊太郎だった。<br /> <br /> == 組織 ==<br /> [[画像:Seat of the House of Justice.jpg|200px|thumb|万国正義院]]<br /> バハーイー教には[[聖職者]]はおらず、各地のバハーイー共同体は「地方精神行政会」(Local Spiritual Assembly) と呼ばれる行政機関により管理されている。同様に、「全国精神行政会」(National Spiritual Assembly) と呼ばれる9人のメンバーから構成される行政機構は、全国バハーイー共同体の事務を指示し調整する役目を負う。その上に「[[万国正義院|万国正義院」]] (The Universal House of Justice) という世界的なバハーイー共同体の行政管理を行う、9名のメンバーから構成される機構が置かれる。これらのメンバーは、成人のバハーイー教徒の中から共同体に役立つことができる信徒を互選することになっているが、自分から立候補したり選挙運動をすることは禁じられている。<br /> <br /> バハーイー教では、[[バハー・ウッラー]]の権威から連続した「聖約」(神との契約)を重視する。このため「[[万国正義院]]」には、バハー・ウッラーがその法律の書である「ケタベ・アクダス」の記していない詳細な事項について法律を制定し、また時代の変遷に応じてその法律を改廃する権限と機能を、「聖約」として有している。「聖約」は、バハーイー教の中での分裂や分派の形成・共同体内での個人の独善的な解釈を阻み啓示と教えを守る役割を持つ。それ故、バハー・ウッラーの後継者アブドル・バハーとその後継者ショーギ・エフェンデイおよび上述の「万国正義院」の正当性を否定・無視する信徒、または他の個人や機関を正当性のあるバハーイー共同体の機構だと訴える信徒は「聖約を破る人」としてバハイー共同体から除名されることがある。<br /> <br /> === バハーイー・世界センター ===<br /> [[ファイル:CarmelArc.jpg|サムネイル|アーク]]<br /> 世界センターはバハー・ウッラー廟、バーブ廟とカルメル山の庭園とアークの建築物を含むエリアから成っている。アークはバハーイー教本部の複数の建築物の総称であり、万国正義院所在地、国際教育センター、国際文書館、聖典学習センターからなる。五番目の国際バハーイー図書館の計画は土地所有者との売買の問題で建設されていない。<br /> <br /> 国際的な管理と調整が世界センターで発生し、国際レベルで影響する宗教に関する決定や、聖典の研究や翻訳を含んでいる。世界センターは巡礼のための目的地となっている。2008年7月、「[[ハイファと西ガリラヤのバハーイー教聖地群]]」として世界遺産に登録された&lt;ref&gt;[https://worldheritagesite.xyz/haifa/ 世界遺産オンラインガイド]&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> === 礼拝の場 ===<br /> バハーイー教には聖職者はなく、説教も典礼も決まった祭礼もない。ほとんどのバハーイー教の集会は個人の家、地域のバハーイー・センター、何らかの設備を借りて行われる&lt;ref&gt;{{Cite book|和書|author=P.R.ハーツ|title=バハイ教|date=|year=2003|publisher=青土社|page=26|translator=奥西峻介}}&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 2017年、カンボジア初となる礼拝堂がバッタンバン州において建設された。&lt;ref&gt;[http://business-partners.asia/cambodia/syakai-20170912-battambang/ バッタンバン州にてカンボジア初となるバハイ教の礼拝堂建設[社会]]&lt;/ref&gt;<br /> <br /> ==== バハーイー・ハウス・オブ・ワーシップ ====<br /> [[ファイル:BahaiTempleWilmette.jpg|サムネイル|219x219ピクセル|ウィルメットのハウス・オブ・ワーシップ]][[ファイル:Image-New Delhi Lotus.jpg|サムネイル|[[ロータス寺院]]、ニューデリー<br /> ]]これはバハーイーの聖典で「{{仮リンク|マシュリク・ル・アヅカル|label=バハイ礼拝堂|en|Bahá&#039;í House of Worship}}(مشرق اﻻذكار 夜明けの場)」と呼ばれる機関を指す。これは病院、大学を含む複合体の中心を形成する。最初のバハーイー共同体が設立された[[アシガバート]](現[[トルクメニスタン]])は当時ロシア領であり、イランでの迫害を逃れたバハーイー教徒は[[アーザルバーイジャーン|アーゼルバイジャーン]]やトルクメニスタンへと逃れた。アシガバードでもシーア派過激派がバハーイー共同体を襲撃したが、行政府は襲撃者を逮捕し裁判に掛けた。これは公式な行政府がバハーイー教徒に対する迫害を許さなかった初めての例であり、アシガバードはバハーイー教徒の居住地として有名になり共同体は発展した。後に全ての宗教を非合法化とした社会主義政権となり消滅した&lt;ref&gt;{{Cite book|和書|author=P.R.ハーツ|title=バハイ教|date=|year=2003|publisher=青土社|page=95|translator=奥西峻介}}&lt;/ref&gt;。現在(2017年)世界では9のハウス・オブ・ワーシップがあり、そこではバハーイー教徒以外の宗教信者にも開放されている。<br /> <br /> # アメリカ合衆国、イリノイ州ウィルメット<br /> # ウガンダ、カンパラ<br /> # オーストラリア、ニュー・サウス・ウェールズ州シドニー<br /> # ドイツ、ホフハイム・ランゲンハイン<br /> # パナマ、パナマシティ<br /> # サモア、ティアパパタ<br /> # インド、ニューデリー([[ロータス・テンプル]]の名で知られ、年間100万人の訪問者がある観光名所でもある。)<br /> # チリ、サンティアゴ<br /> # カンボジア、バッタンバン<br /> <br /> === 国際連合とバハーイー教 ===<br /> [[バハー・ウッラー]]は人類集合のこの時代において世界的政府の必要性について書き記した。この強調されたことに従って、国際的バハイのコミュニティは[[国際連合|国連]]のような組織によって国際関係を改善する努力をすることに決めた。バハイ・インターナショナル・コミュニティは[[ハイファ]]の万国正義院の指導のもとに、これらの組織に顧問の地位を持っている。&lt;ref&gt;{{Cite book|和書|author=P.R.ハーツ|title=バハイ教|date=|year=2003|publisher=青土社|page=151|translator=奥西峻介}}&lt;/ref&gt;<br /> <br /> * [[国際連合児童基金]](UNISEF)<br /> * [[国際連合婦人開発基金]](UNIFEM)<br /> * [[国際連合経済社会理事会]](ECOSOC)<br /> * [[国際連合環境計画]](UNEP)<br /> * [[世界保健機関|世界保健機構]](WHO)<br /> <br /> バハイ・インターナショナル・コミュニティは、[[ニューヨーク]]、[[ジュネーヴ|ジュネーブ]]の国際連合に事務所を持ち、地方委員会での代議権を持ち、アジズ・アベバ、バンコク、ナイロビ、ローマ、サンティアゴにも事務所がある&lt;ref&gt;Bahá&#039;í International Community (6 June 2000). [http://www.bic.org/statements/bahai-international-community-history-active-cooperation-united-nations &quot;History of Active Cooperation with the United Nations&quot;] (Press release). Retrieved25 September 2013.&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> == 国際補助言語 ==<br /> バハーイー教は世界が一つの国際的な補助言語を採用することを主張する。その目的は民族間、国家間でのコミュニケーションと統一性を改善することにある。しかしながら、その補助言語は既存の自然言語を抑圧するものではなく、文化的な区別を保存するために「多様性の中のと統一」という概念を適用しなければならない。<br /> <br /> バハーイー教の教えには人類の単一性に対する強い焦点がある。それは世界の民族間の改善されたコミュニケーションを、有機的な世界の統一性に関わる部分だと見なすからである。非常に多くの言語の存在が情報の自由な流れを阻害し、平均的な人間が世界の出来事の普遍的な展望を得ることを困難とするので、バハーイー教は言語の現在の多様性を、人類の統一性にとっての障害と見なす。<br /> <br /> 国際補助言語の選択と制度化の原則は、バハーイー教の重要な教義の中にある。[[バハー・ウッラー]]は「イシュラーカート」と「マクスード」の書簡の中で、共通語の不在は異なる言語の民族間のコミュニケーションの不足であり、世界の統一への主な障害であり、言語による誤解が世界平和への努力を蝕む、と教えた。彼は人々はお互いに理解し得るかもしれないと、人類が母国語に加えて補助言語も学校で教えられるように主張し、補助言語が採用されないままでは、人類の完全な統一は実現されないだろうと述べた。アブドル・バハーは国際補助言語の原則の促進を、「人類の世界にたいする第一の貢献」とし、そお実現を「人類に利益と喜びが与えられる時代のもっとも偉大な達成」と呼んだ。<br /> <br /> しかしながら、バハー・ウッラーは補助言語は既存の自然言語を抑圧するものではないと強調した。バハーイー教は文化的に異なる成分が単一性と互換性を持ち、人類が世界の至る所で様々な文化によって豊かになるとする。言語的少数派はは自分の母語に従って文化を維持するので、国際補助言語を持つことが大多数の言語グループからの圧力を退け、少数言語を保持するであろうとする。<br /> <br /> === 言語の選択 ===<br /> バハーイー教のいかなる権威者も、国際補助言語にどの言語を採用するかということは明示しなかった。バハー・ウッラーは次のように述べている。「世界言語は既存の言語から選ばれるか、発明される言語から選ばれるであろう」<br /> <br /> アブドル・バハーは[[エスペラント]]の理念を称賛した。19世紀後半から20世紀前半の[[エスペランティスト]]とバハーイー教徒の間には共通点があった。1913年2月12日にパリ・エスペラント協会で述べている。<br /> <br /> 「Dr.[[ルドヴィコ・ザメンホフ|ザメンホフ]]にエスペラントを造らせ給うた神に称賛あれ。それは国際的な通信手段になる潜在的な特質を持っています。私たちはこの高貴な努力のために彼に感謝するに違いありません。この方法は彼の同胞たちに非常に役立ったからです。エスペラントの熱心な推進者の不屈な努力と自己犠牲によって、エスペラントは世界的なものとなるでしょう。従って、私たちすべての人はこの言語を学ばなければならないし、可能な限りそれがより広く認められて、世界全ての国家及び政府によって受容されるかもしれないし、公立学校のカリキュラムの一部になるよう拡げなければなりません。私は将来の国際会議や協議会でエスペラントが採用されることを望みます。そうすれば人々はたった二つの言語、自分の母語と国際語の二つがあればいいことになるでしょう。世界の人々の間に完全な統一が確立されるでしょう。今日、様々な国家とコミュニケーションすることがどれだけ困難か考えて下さい。五十の言語を学んだとしても、更に他の国に移動すればそこの言語を知らないかもしれない。私はあなた方が極めて努力することを望みます。そうすればこのエスペラントという言語が大いに拡がっていくでしょう」&lt;ref&gt;Esslemont, J.E. (1980) [1923]. [http://reference.bahai.org/en/t/o/BNE/bne-135.html &quot;Universal Language&quot;]. [http://reference.bahai.org/en/t/je/BNE/ &#039;&#039;Bahá&#039;u&#039;lláh and the New Era&#039;&#039;] (5th ed.). Wilmette, Illinois, USA: Bahá&#039;í Publishing Trust. p. 165. ISBN 0-87743-160-4.&lt;/ref&gt;<br /> <br /> こうしたエスペラントに対する好意にも関わらず、ショーギ・エフェンディと万国正義院はエスペラントを補助言語とすべきという公式な支持はないということを強調した&lt;ref&gt;Smith, Peter (2000). &quot;Esperanto&quot;. &#039;&#039;A concise encyclopedia of the Bahá&#039;í Faith&#039;&#039;. Oxford: Oneworld Publications. pp. 134–135. ISBN 1-85168-184-1.&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 現在、バハーイー教徒エスペランティストの活動的なサブ・コミュニティが存在している。バハーイー・エスペラント連盟は1973年に設立された。また、[[ルドヴィコ・ザメンホフ]]の末娘であった[[リディア・ザメンホフ]]はバハーイー教徒であった。アブドル・バハーの求めで、アグネス・ボールドウィン・アレクサンダーは初期のエスペラントの唱道者となり、[[日本]]での会議や会合でバハーイー教を拡げるためにそれを使用した。<br /> <br /> == 暦 ==<br /> バハーイー暦は、バーブが宗教を宣言した年である1844年3月21日を基点として定められた暦を基礎とする。一年19か月、一月19日で、太陽暦に合致させるために4日か5日の閏日がある。新年はペルシャで伝統的に[[ノウルーズ]]と呼ばれるものに相当し、断食の月の終わり、3月21日の近くの春分の日に生じる。コミュニティはフィーストと呼ばれる会合のために各月の初めに集まる。<br /> <br /> === 月 ===<br /> 19の月それぞれには神の性質の名が与えられている&lt;ref name=&quot;:4&quot;&gt;{{Cite book|和書|author=P.R.ハーツ|title=バハイ教|date=|year=2003|publisher=青土社|page=126|translator=奥西峻介}}&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> {| class=&quot;wikitable&quot;<br /> !<br /> !名称<br /> !意味<br /> !グレゴリオ暦対応<br /> |-<br /> |1<br /> |バハー<br /> |栄光<br /> |3月21-4月8日<br /> |-<br /> |2<br /> |ジャラール<br /> |偉大<br /> |4月9日-4月27日<br /> |-<br /> |3<br /> |ジャマール<br /> |美<br /> |4月28日-5月16日<br /> |-<br /> |4<br /> |アザマ<br /> |壮大<br /> |5月17日-6月4日<br /> |-<br /> |5<br /> |ヌール<br /> |光<br /> |6月5日-6月23日<br /> |-<br /> |6<br /> |ラフマ<br /> |慈悲<br /> |6月24日-7月12日<br /> |-<br /> |7<br /> |カリマ<br /> |言葉<br /> |7月13日-7月31日<br /> |-<br /> |8<br /> |カマール<br /> |完全<br /> |8月1日-8月19日<br /> |-<br /> |9<br /> |アスマー<br /> |名称<br /> |8月20日-9月7日<br /> |-<br /> |10<br /> |イッザ<br /> |強さ<br /> |9月8日-9月26日<br /> |-<br /> |11<br /> |マシーヤ<br /> |意志<br /> |9月27日-10月15日<br /> |-<br /> |12<br /> |イルム<br /> |知識<br /> |10月16日-11月3日<br /> |-<br /> |13<br /> |クドラ<br /> |力<br /> |11月4日-11月22日<br /> |-<br /> |14<br /> |カウル<br /> |言辞<br /> |11月23日-12月11日<br /> |-<br /> |15<br /> |マサーイル<br /> |問題<br /> |12月12日-12月30日<br /> |-<br /> |16<br /> |シャラフ<br /> |名誉<br /> |12月31日-1月18日<br /> |-<br /> |17<br /> |スルターン<br /> |主権<br /> |1月19日-2月6日<br /> |-<br /> |18<br /> |ムルク<br /> |王権<br /> |2月7日-2月25日<br /> |-<br /> |<br /> |アイヤーミ・ハー(閏日)<br /> |ハーの日<br /> |2月26日-3月1日<br /> |-<br /> |19<br /> |アアラー(断食日)<br /> |至高<br /> |3月2日-3月20日<br /> |}<br /> <br /> === 週日 ===<br /> バハーイー暦の週の初めは土曜日に始まり金曜日に終わり、一日はユダヤ教、イスラーム教のように日没を以て始まる。<br /> <br /> バハーイー教の聖典では金曜日が休日として維持されることになっているが、全ての国でそれが守られているわけではない。例えばイギリスの全国精神行政会では、現在これを実行しないことが決定された&lt;ref&gt;National Spiritual Assembly of the Bahá’ís of the United Kingdom. [http://www.faithwales.co.uk/media/images/GC-26330_Council_for_Wales_Friday_rest_day.pdf Letter from the NSA to the Bahá’í Council for Wales] Retrieved July 11, 2014.&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> {| class=&quot;wikitable&quot;<br /> |-<br /> !<br /> !名称<br /> !意味<br /> |-<br /> |土曜<br /> |ジャラール<br /> |偉大さ<br /> |-<br /> |日曜<br /> |ジャマール<br /> |美<br /> |-<br /> |月曜<br /> |カマール<br /> |完全<br /> |-<br /> |火曜<br /> |ファザール<br /> |優美<br /> |-<br /> |水曜<br /> |イダール<br /> |正義<br /> |-<br /> |木曜<br /> |イスティジュラール<br /> |威厳<br /> |-<br /> |金曜<br /> |イスティクラール<br /> |独立<br /> |}<br /> <br /> === 聖日 ===<br /> 歴史上の出来事を記念して、一年に九つの聖日が設定されており、祝賀されている&lt;ref name=&quot;:4&quot; /&gt;。<br /> <br /> * 3月21日 ノウルーズ(新年) <br /> * 4月21日 レズワン(初日)<br /> * 4月29日 レズワン(九日目)<br /> * 5月2日 レズワン(最終日)<br /> * 5月23日 バーブ宣言日<br /> * 5月29日 バハー・ウッラー命日<br /> * 7月9日 バーブ殉教日<br /> * 10月20日 バーブ誕生日<br /> * 11月12日 バハー・ウッラー誕生日 <br /> <br /> === 周期 ===<br /> バハーイー暦では、19年をワーヒド(アラビア語「一つ」)と呼ぶ一周期とし、それが19回繰り返すクッリー・シャイ(アラビア語「すべてのもの」)と呼ぶ大周期がある。これらの単位はバーブによって定められた。各ワーヒドにもそれぞれ名称があり(例、第一ワーヒド「アリフ」、第二ワーヒド「バー」)。現在2015年から2034年までの第十ワーヒド「フッブ」(アラビア語「愛」)の間にある。<br /> <br /> 第二のクッリー・シャイは2205年に始まる&lt;ref&gt;  Bolhuis, Arjen (2006-03-23). [http://bahai-library.com/bolhuis_kull_shay &quot;The first Kull-i-Shay&#039; of the Bahá&#039;í Era&quot;]. Retrieved 2006-09-23.&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> == 脚注 ==<br /> {{脚注ヘルプ}}<br /> {{reflist|2}}<br /> <br /> == 関連項目 ==<br /> {{ウィキプロジェクトリンク|バーブ教・バハーイー教|[[画像:Bahai star.svg|34px]]}}<br /> {{Commons&amp;cat|Bahá&#039;í Faith}}<br /> *[[モナ・マフムードニジャード]]、[[ダビフッラー・マフラーミ]] - 何れも[[イスラム原理主義]]下で殉教したバハーイー教徒。<br /> *[[エジプトIDカード論争]] - バハーイー教徒の扱いを巡って論争になった。<br /> *[[藤田左弌郎]]<br /> *[[:en:Bahá&#039;í Faith in Japan]] - 日本とバハーイー教との関係。<br /> *[[バハーイー教徒に対する迫害]]<br /> <br /> == 外部リンク ==<br /> * [http://www.bahai.org/ バハーイー教世界公式サイト]<br /> * [http://www.bahaijp.org/ 日本バハーイー共同体]<br /> <br /> {{新宗教}}<br /> {{Authority control}}<br /> <br /> {{デフォルトソート:ははあいいきよう}}<br /> [[Category:アブラハムの宗教]]<br /> [[Category:イスラム教系新宗教]]<br /> [[Category:イスラム教]]<br /> [[Category:バーブ=バハーイー教|*ははあいいきよう]]<br /> [[Category:イランの宗教]]<br /> [[Category:政府文書によりセクトと分類された団体]]</div> 219.96.7.204 Webオーサリングツール 2018-09-14T06:34:56Z <p>219.96.7.204: </p> <hr /> <div>[[Image:Kwrite edit html.png|thumb|right|250px|[[KWrite]] - HTMLエディタの例]]{{HTML}}<br /> <br /> &#039;&#039;&#039;Webオーサリングツール&#039;&#039;&#039;(ウェブオーサリングツール)とは、いわゆる&#039;&#039;&#039;[[ウェブページ]]&#039;&#039;&#039;作成ソフトのことで、ウェブページを構成する[[HyperText Markup Language|HTML]]、[[Cascading Style Sheets|CSS]]などの[[ファイル (コンピュータ)|ファイル]]を編集するデザインツールである。[[インターネット]]の黎明期から存在し、[[フリーウェア]]も多い。&#039;&#039;&#039;HTMLエディタ&#039;&#039;&#039;のように[[ソースコード]]を編集するのではなく、[[ワープロソフト]]あるいは[[グラフィックソフトウェア]]のような感覚で、視覚的に編集するツールを指す場合がほとんどである。<br /> <br /> ==概要==<br /> HTMLやCSSの文法がわからなくても手軽に利用できるため、利用者は多い。個々のウェブページを作成するだけでなく、[[ディレクトリ]]などサイト全体の構成をまとめて管理できたり、作成したファイルを[[サーバ]]にアップロードする[[File Transfer Protocol|FTP]]や、サイトに用いる画像を作成・管理する便利な機能がついているソフトもある。<br /> <br /> ==HTMLエディタ==<br /> HTMLは[[マークアップ言語]]であり、[[プログラミング言語]]のような構造を持っている。そのような特質に対応した[[テキストエディタ]]を特に&#039;&#039;&#039;HTMLエディタ&#039;&#039;&#039;と呼ぶ。<br /> <br /> 特徴としては[[HTML要素]]名や[[リテラル]]文字列(ダブルクォート記号で囲まれた固定文字列)を色分け表示する[[シンタックスハイライト]]、文法チェックや自動[[字下げ|インデント]]表示など整形機能がある。インターネットの黎明期においては、もっぱらこのようなテキストエディタでHTMLファイルが作成された。現在入手できる[[Microsoft Windows|{{lang|en|Windows}}]]用のものは「{{lang|en|[[TeraPad]]}}」、「{{lang|en|[[Crescent Eve]]}}」、「{{lang|en|[[EmEditor]]}}」、「[[秀丸エディタ]]」がHTML編集に対応した機能を備えている。また、{{lang|en|[[macOS]]}}のものでは[[mi (テキストエディタ)|mi]]、{{lang|en|[[Jedit X]]}} や {{lang|en|[[skEdit]]}}、[[Unix系|{{lang|en|Unix}}系]]オペレーティングシステムでは{{lang|en|[[KWrite]]}}や{{lang|en|[[Kate]]}}がHTML編集に適した機能を持っている。<br /> <br /> テキストエディタには基本的に[[プレビュー]]画面は用意されておらず、ブラウザで表示を確認しながら編集作業を進めるのが通常のスタイルである。しかし最近は「HTMLエディタ」と銘打ち、プレビュー機能を備えたエディタである{{lang|en|[[alphaEDIT]]}}や{{lang|it|[[Espresso]]}}のようなソフトも登場している。プレビューには{{lang|en|[[WebKit]]}}か{{lang|en|[[Trident]]}}を用いるケースが多い。<br /> <br /> 歴史的にHTMLエディタの機能を強化したのが、現在のウェブオーサリングツールであるともいえる。HTMLエディタで作成するシンプルなコードは[[検索エンジン最適化]]にも効果的であることから、一部の[[ウェブデザイナー]]には見直されつつあり、[[Coda (ソフトウェア)|{{lang|en|Coda}}]]のようにHTMLおよびCSSの直接編集と[[コンテンツ管理システム]] (CMS) の機能を組み合わせたウェブ構築ソフトもある。ただし入れ子になったテーブルや[[スタイルシート]]を多用したサイトを、最初からテキストエディタでコーディングするのは煩雑であるため、デザイン重視のサイトの構築には、なおウェブオーサリングツールを併用するのが一般的である。<br /> <br /> ==主なウェブオーサリングツール==<br /> 対応OSについて特記がないものはクロスプラットフォームである。<br /> <br /> *[[Adobe Dreamweaver]]([[アドビシステムズ]])<br /> *[[Adobe Contribute]](アドビシステムズ)<br /> *[[Aptana|Aptana Studio]](Aptana Inc.)<br /> *[[Amaya]]([[World Wide Web Consortium|W3C]])<br /> *[[BiND for WebLiFE]]([[デジタルステージ]]。CMS的なウェブオーサリングツール)<br /> *[[BlueGriffon]](オープンソース、Nvu、KompoZerの後継)<br /> *[[iWeb]]([[アップル (企業)|アップル]]「[[iLife]]」に含まれる。)<br /> *[[KompoZer]](オープンソース、Nvu の修正版)<br /> *[[Microsoft Expression Web]](マイクロソフト。前身は [[Microsoft FrontPage]]。Windows専用)<br /> *[[Mozilla Composer]]([[Mozilla Organization]])<br /> *[[Nvu]](オープンソース、Mozilla Composer の独立化アプリケーション)<br /> *[[ホームページ・ビルダー]]([[IBM]]、[[ジャストシステム]])<br /> *[[ホームページ (パソコンソフト)|ホームページV3・ZERO]]([[ソースネクスト]])<br /> <br /> ==関連項目==<br /> *[[コンテンツ管理システム]] (CMS)<br /> *[[ウェブサイト]]<br /> *[[コーポレートサイト]]<br /> *[[HyperText Markup Language]] (HTML)<br /> *[[テキストエディタ]]<br /> *[[コンストラクションツール]]<br /> <br /> {{Webオーサリングソフト}}<br /> <br /> {{DEFAULTSORT:うえふおおさりんくつうる}}<br /> [[Category:Webオーサリングソフト|*]]<br /> [[Category:アプリケーションソフト]]<br /> [[Category:HTML]]<br /> [[Category:ウェブサイトの構成]]</div> 219.96.7.204 ユーザビリティ 2018-09-14T06:32:44Z <p>219.96.7.204: /* 外部リンク */</p> <hr /> <div>{{参照方法|date=2013年1月}}<br /> &#039;&#039;&#039;ユーザビリティ&#039;&#039;&#039;({{lang-en|usability}})あるいは[[日本語]]で&#039;&#039;&#039;使用性&#039;&#039;&#039;(しようせい)とは、使いやすさとか使い勝手といった意味合いで使われることが多い。しかし、その語義は多様であり、関連学会においても合意された定義はまだ確立されていない。<br /> <br /> [[国際標準化機構]]によるISO 9241-11は「特定の利用状況において、特定のユーザによって、ある製品が、指定された目標を達成するために用いられる際の、有効さ、効率、ユーザの満足度の度合い」と定義し、有効性、効率、満足度を挙げる。[[ヤコブ・ニールセン]]もコンピュータのインタフェースデザインにおいてこの問題に取り組んでいる。ニールセンの『ユーザビリティエンジニアリング原論』 では、学習しやすさ、効率、エラー、満足が挙げられる。<br /> <br /> ほかにISO 9126はソフトウェアの品質に関する規格で、理解性、修得性、操作性を挙げている。<br /> <br /> ==定義==<br /> {{lang|en|[[wikt:use|use]]}}(使う)と {{lang|en|[[wikt:able|able]]}}(できる)から来ており「使えること」が元々の意味である。<br /> <br /> ===ISO 9241-11===<br /> [[1998年]]の[[ISO]] 9241-11での定義。<br /> <br /> * &#039;&#039;&#039;ユーザビリティ&#039;&#039;&#039; ({{lang|en|usability}}): 特定の利用状況において、特定のユーザによって、ある製品が、指定された目標を達成するために用いられる際の、有効さ、効率、ユーザの満足度の度合い。<br /> ** &#039;&#039;&#039;有効さ&#039;&#039;&#039; ({{lang|en|effectiveness}}): ユーザが指定された目標を達成する上での正確さ、完全性。<br /> ** &#039;&#039;&#039;効率&#039;&#039;&#039; ({{lang|en|efficiency}}): ユーザが目標を達成する際に、正確さと完全性に費やした資源。<br /> ** &#039;&#039;&#039;満足度&#039;&#039;&#039; ({{lang|en|satisfaction}}): 製品を使用する際の、不快感のなさ、および肯定的な態度。<br /> ** &#039;&#039;&#039;利用状況&#039;&#039;&#039; ({{lang|en|context of use}}): ユーザ、仕事、装置(ハードウェア、ソフトウェア及び資材)、並びに製品が使用される物理的及び社会的環境。<br /> <br /> ===ニールセン===<br /> [[ヤコブ・ニールセン]]『ユーザビリティエンジニアリング原論』(1994年)は、インタフェースのユーザビリティとは、5つのユーザビリティ特性からなる多角的な構成要素を持つとしている。<br /> <br /> # &#039;&#039;&#039;学習しやすさ&#039;&#039;&#039;: システムは、ユーザがそれを使ってすぐ作業を始められるよう、簡単に学習できるようにしなければならない。<br /> # &#039;&#039;&#039;効率性&#039;&#039;&#039;: システムは、一度ユーザがそれについて学習すれば、後は高い生産性を上げられるよう、効率的な使用を可能にすべきである。<br /> # &#039;&#039;&#039;記憶しやすさ&#039;&#039;&#039;: システムは、不定期利用のユーザがしばらく使わなくても、再び使うときに覚え直さないで使えるよう、覚えやすくしなければならない。<br /> # &#039;&#039;&#039;エラー&#039;&#039;&#039;: システムはエラー発生率を低くし、ユーザがシステム使用中にエラーを起こしにくく、もしエラーが発生しても簡単に回復できるようにしなければならない。また、致命的なエラーが起こってはいけない。<br /> # &#039;&#039;&#039;主観的満足度&#039;&#039;&#039;: システムは、ユーザが個人的に満足できるよう、また好きになるよう楽しく利用できるようにしなければならない。<br /> <br /> ===違い===<br /> ニールセンの定義するユーザビリティは、ISO 9241-11の定義よりも意味が若干限定的になっている。<br /> <br /> ニールセンの定義では、ユーザが望む機能を[[システム]]が十分満たしているかどうか、といった事柄はユーティリティ(実用性)に含まれる内容である。それと区別して、ユーザビリティは、その機能をユーザがどれくらい便利に使えるかという意味であるとされている。<br /> 一方、ISO 13407では、ニールセンがユーティリティと定義した内容も、ユーザビリティに含んでいる。つまりニールセンが定義するユーザビリティは、ISO 13407が定義するユーザビリティに内包される形となる。<br /> <br /> ==訳語==<br /> ユーザビリティに類する日本語は、以下に挙げるような用語が、多数にわたって存在している。<br /> <br /> ; 使い勝手<br /> : 使い勝手とは、使いやすさの程度を表す言葉であり、一般には「使い勝手がいい、悪い」という形で使われている。その意味合いはかなり広く、取り扱いが容易であること、操作が分かりやすいこと、便利な機能がついていること、などを意味している。その意味で、後述の大きなユーザビリティ(英語:{{lang|en|big usability}})やニールセンのユースフルネス(英語:{{lang|en|usefulness}})に近い概念であり、したがって、またISO9241-11の定義におよそ対応すると言ってよい。ただし、ユーザの利用状況や達成目標に適合している、というニュアンスまでは表現しえていないため、現在はユーザビリティというカタカナ語が一般的に使われている。<br /> ; 使いやすさ<br /> : 使いやすさ (英語:{{lang|en|ease of operation}}) とは、一般的には取り扱いが容易であることを意味している。前述のように使い勝手は使いやすさの程度をあらわす言葉であるが、使い勝手に比較すると使いやすさはその対象範囲が操作部位に限定される傾向がある。また時代的には、マンマシンインタフェースが研究対象とされていた時期によく使われていた。この意味で、操作性 (英語:{{lang|en|operability}}) とも近い概念である。<br /> ; 利用性<br /> : 利用性は利用のしやすさをあらわす言葉であり、「{{lang|en|usability}}」の訳語として利用することも可能ではあるが、特定の達成目標に依存した面があり、またあまり一般的ではない。<br /> ; 使用性<br /> : 使用性はISO9241-11をJIS規格にする際に「{{lang|en|usability}}」の訳語として用いられた。その意味ではユーザビリティと等価であるともいえるが、必ずしも一般的な用語ではないため、特別な技術的文脈でしか使われていない。<br /> ; 可用性<br /> : 可用性はユーザビリティに近い概念であるが、厳密にいうと「{{lang|en|availability}}」の訳語であり、システムの壊れにくさを表すものである。<br /> ; 利用品質<br /> : 利用品質は「{{lang|en|quality in use}}」または「{{lang|en|quality of use}}」の訳であり、英語においても「{{lang|en|usability}}」とほぼ等価な意味合いで用いられている。ただ、この用語が使われるのは、品質 ({{lang|en|quality}}) という観点で議論を行う文脈である場合が多く、品質保証や品質管理などに近い分野で使われることが多い。<br /> ; ユーザーテスト<br /> : ユーザテストは、製品テスト、設計テスト、ユーザビリティテスト、設計検証など多くの名前で知られています。実際のシナリオで実際のユーザとデザインをテストする非常に重要なプロセスです。 ユーザーの懸念やユーザビリティの問題を深く理解すれば、その問題を解決することができます。&lt;ref&gt;[https://www.toptal.com/designers/ux-consultants/how-to-conduct-usability-testing-in-6-steps Toptal - How to Conduct Usability Testing in Six Steps]&lt;/ref&gt;<br /> <br /> ==背景==<br /> ===シャッケル===<br /> 人間工学の大家であったブライアン・シャッケル({{lang|en|Brian Shackel}})は、1991年の著作『{{lang|en|Human Factors for Informatics Usability}}』の中で、ユーティリティ(utility、必要な機能があるか)とユーザビリティ(usability、ユーザがうまく使えるか)とライカビリティ({{lang|en|likeability}}、ユーザが適切だと感じられるか)という三つの側面の総和と、コスト(初期コストと運用コスト)とのバランスを考慮し、前者の比率が高いものほどアクセプタビリティ(バランスがとれており、購入するに最適である)が高いといえる、という構図を提案している。<br /> <br /> この考え方は、以後のユーザビリティ概念(たとえばニールセン、ISO9241-11)に影響を及ぼしたと考えられる。<br /> <br /> ===ニールセン===<br /> ウェブ・ユーザビリティの権威であるニールセンは、ユーザビリティに関して最初に出版された概論書『ユーザビリティエンジニアリング原論』 (1994) において、ユーザビリティの概念を、彼の考えた階層的概念構造の中に位置づけて示した。<br /> <br /> それによると、ユーザビリティは、学習しやすさ ({{lang|en|learnability}})、効率 ({{lang|en|efficiency}})、記憶しやすさ ({{lang|en|memorability}})、エラー ({{lang|en|errors}})、満足 ({{lang|en|satisfaction}}) といった品質要素から構成される概念として示されている。この定義は、いちおう人間工学、認知工学、感性工学的な側面を考慮したものになっているが、かならずしも網羅的、かつ相互排他的になっておらず、概念定義としては十分なものではない。また、それぞれの品質要素は、学習のしやすさや効率などの諸側面において問題がないようにと考えられており、いわばマイナスでない特性の集合となっている。<br /> <br /> いいかえれば、ニールセンにおけるユーザビリティは、そのような問題点のないことを意味しており、マイナスの側面を0レベルまで向上させるという意味合いを持っている。彼がヒューリスティック評価という手法を提唱したのは、ユーザビリティテスト ({{lang|en|usability test}}、{{lang|en|usability testing}}) による評価が全盛の時代であり、それはいいかえれば評価がユーザビリティ活動の中心となっていた時代でもあった。<br /> <br /> ニールセンは、ユーザビリティと対比させてユーティリティ ({{lang|en|utility}}) という概念を位置づけている。これは機能や性能のように製品やシステムのポジティブな側面である。いいかえれば、0レベルからプラスの方向に製品の魅力を増してゆくものである。このように、彼の定義ではユーザビリティにはプラスの方向性は含まれておらず、その意味で、小さなユーザビリティ ({{lang|en|small usability}}) と呼ばれることもある。<br /> <br /> ニールセンは、ユーザビリティとユーティリティを合わせた概念として、ユースフルネス ({{lang|en|usefulness}}) という上位概念を位置づけているが、これは後述するISO9241-11のユーザビリティ定義に近いものであり、大きなユーザビリティ ({{lang|en|big usability}}) と呼ばれる概念に近い。<br /> <br /> ===ISO===<br /> こうした状況の中、ユーザビリティという概念にきちんとした定義を与えたのがISO規格であり、現在はこの定義が一般的に用いられている。ISOの規格におけるユーザビリティの定義には、ISO 9126系のものとISO 9241-11系のものがある。<br /> <br /> ====ISO 9126====<br /> [[ISO 9126]]は、ソフトウェアの品質に関する規格であり、品質特性を機能性 ({{lang|en|functionality}})、信頼性 ({{lang|en|reliability}})、使用性 ({{lang|en|usability}})、効率性 ({{lang|en|efficiency}})、保守性 ({{lang|en|maintenability}})、移植性 ({{lang|en|portability}}) に分けている。その中でユーザビリティは使用性として、理解性 ({{lang|en|understandability}})、習得性 ({{lang|en|learnability}})、操作性 ({{lang|en|operability}}) から構成される概念となっている。品質特性は定量的に把握できることを重視されるため、ここでのユーザビリティは概念定義として十分なものにはなっていない。つまり、ISO 9126は[[ソフトウェア品質]]について、その多様な側面を網羅したものになっているが、ユーザビリティの定義は必ずしも厳密ではなく、現在は次に述べるISO 9241-11の定義の方が一般的に利用されている。<br /> <br /> ====ISO 9241-11====<br /> 1998年に成立したISO 9241-11は、JIS Z8521として1999年にJIS化されており、ここではユーザビリティに関するかなり厳密な定義が行われている。すなわち、ユーザビリティとは、「ある製品が、指定された利用者によって、指定された利用の状況下で、指定された目標を達成するために用いられる際の有効さ、効率及び満足度の度合い」として定義されている。さらに、有効さ ({{lang|en|effectiveness}}) については「ユーザが、指定された目標を達成する上での正確さと完全さ」、効率 ({{lang|en|efficiency}}) については「ユーザが、目標を達成する際に正確さと完全さに費やした資源」、満足度 ({{lang|en|satisfaction}}) については「不快さのないこと、及び製品使用に対しての肯定的な態度」という定義が与えられている。有効さと効率という二つの概念は、相互排他性が明確であり、またこの規格以前にも、品質を表現する際にしばしば用いられているため了解性が高いといえる。なお、満足度については、部分的に有効さと効率に従属する側面を持っている。つまり、有効であり効率的であれば、それによって満足感がもたらされるからである。ただし、より感性的な、たとえば審美的な側面などは満足度固有の側面であり、その点では他の二つの概念から独立したものといえる。<br /> <br /> ISO 9241-11のユーザビリティの定義は、Nielsenの定義と比較してポジティブな側面を含んだ幅広いものになっており、その意味で大きなユーザビリティ ({{lang|en|big usability}}) と呼ばれることもある。このISO9241-11のユーザビリティの定義は、その後、ISO 13407やISO 20282、CIF (ISO 25062)などの各種の規格においても用いられることになり、ユーザビリティに関する現在の標準的定義であるといえる。ただ、有効さと効率が相互排他的な概念であるのに対し、満足度はそれらに従属する側面もあり、また価格やデザインなどユーザビリティ以外の要因によっても影響されるため、[[黒須正明]]は、ユーザビリティの下位概念を有効さと効率の二つに限定している。<br /> <br /> [[人間工学]]や[[ユーザーインターフェイス|ユーザ・インタフェイス]]の分野では、ユーザビリティの定義に様々な解釈がある。例えば、ユーザビリティに関するプロセスを定めた国際規格として、[[1999年]]6月に、[[国際標準化機構]]により制定された[[ISO 13407]]がある。ユーザにとっての利用品質の確保と向上を目指す設計プロセスを確立することを基本的な目的に、[[インタラクティブ・システム]]の[[人間中心設計]]プロセスを規格化したものであり、設計プロセスそのものを人間中心にすることで、ユーザビリティの向上を図るものである。また、ISO 13407に関連した規格として、[[ISO 9241-11]]がある。これは、ユーザビリティの定義と、ユーザビリティをユーザの行動と満足度を尺度に規定または評価する場合に考慮しなければならない情報の認識方法を説明した国際規格であり、ISO 13407はこの定義を用いて制定されている。なお、ISO 13407は2009年現在改訂中であり、番号がISO 9241-210と変更されることになっている。<br /> <br /> ==出典==<br /> {{Reflist}}<br /> <br /> ==参考文献==<br /> * {{lang|en|Shackel, B.}}、{{lang|en|Richardson, S.}} (1991) 「{{lang|en|Human Factors for Informatics Usability}}」{{lang|ang|Cambridge University Press}}<br /> * {{lang|en|Nielsen, J.}} 「{{lang|en|Usability Engineering}}」 {{lang|en|Morgan Kaufmann}} (1994)、「ユーザビリティエンジニアリング原論-ユーザーのためのインタフェースデザイン」 東京電機大学出版会、第二版 (2002) ISBN 978-4501532000<br /> * ISO9241-11 「{{lang|en|Ergonomic requirements for office work with visual display terminals.}}」 {{lang|en|Part 11: Guidance on Usability}} (1998) (JIS Z 8521: 人間工学-視覚表示装置を用いるオフィス作業-使用性の手引き)<br /> * ISO13407 「{{lang|en|Human-centred design processes for interactive systems}}」 (1999) (JIS Z-8530: インタラクティブシステムのための人間中心設計プロセス 2000)<br /> * [[黒須正明]]、伊東昌子、時津倫子 「ユーザ工学入門-使い勝手を考える・ISO13407への具体的アプローチ」 共立出版 (1999) ISBN 978-4320071469<br /> * ユーザビリティハンドブック編集委員会 「ユーザビリティハンドブック」 共立出版 (2007) ISBN 978-4-320-12192-8<br /> <br /> == 関連項目 ==<br /> * [[アクセシビリティー]]<br /> * [[インタラクションデザイン]]<br /> * [[ユーザビリティテスト]]<br /> <br /> ==外部リンク==<br /> *[http://www.usability.gr.jp/index.html U-Site] {{ja icon}} ユーザビリティの第一人者ヤコブ・ニールセンによる記事、「ニールセン博士のAlertbox」の翻訳記事が掲載される。ほかユーザビリティに関する記事が掲載されている。<br /> <br /> {{DEFAULTSORT:ゆうさひりてい}}<br /> [[Category:ユーザビリティ|*]]<br /> [[Category:人間工学]]<br /> [[Category:ユーザインタフェース]]<br /> [[Category:快適技術]]<br /> [[Category:設計]]<br /> [[Category:性能]]<br /> [[Category:ウェブアクセシビリティ]]</div> 219.96.7.204 エクステリアデザイナー 2018-09-14T03:25:50Z <p>219.96.7.204: /* 外部リンク */</p> <hr /> <div>{{出典の明記|date=2010年5月}}<br /> &#039;&#039;&#039;エクステリアデザイナー&#039;&#039;&#039;<br /> <br /> # 自動車や電車車両の外部デザインを担当したデザイナーの呼称<br /> # [[外構]]に関する知識を利用して[[空間]]を植物や[[光]]で[[演出]]する職業<br /> <br /> == 乗り物 ==<br /> エクステリアデザイナーは、[[インテリア]]に対して、乗り物や建物の外観(外側)の空間をデザインする。<br /> <br /> 自動車エクステリアデザイナーとは、自動車のボディーをデザインする専門家。<br /> 自動車デザイナーはチーフデザイナー、デザインディレクターのもと、外形をデザインするエクステリアデザイナー、内装を考えるインテリアデザイナー、色をデザインするカラーデザイナーに細分化されている。このデザイン担当を経験してカーデザイナーとなるケースも数多い。自動車のエクステリアデザイナーには、次のような人物らがいる。<br /> * ピーター・スティーヴンス(マクラーレンF1GTRエクステリアデザイン)<br /> * 鈴木康裕(ルノー ウインド エクステリアデザイナー)<br /> * 平林俊一(日産RASHEEN エクステリアデザイナー)<br /> * ユルゲン・レフラー(アウディデザイン・エクステリアデザイナー)<br /> * ジャイルズ・テイラー(プジョー・シトロエン・グループではエクステリア・デザイナーとして)<br /> * [[山中俊治]]([[1982年]]~[[1987年]] - [[日産自動車]]エクステリアデザイナー)<br /> * [[ローレンス・ヴァン・デン・アッカー]](元[[ドイツ]]・[[インゴルシュタット]]デザインセンターのエクステリアデザイナー)<br /> * 大谷一郎(MITSUBISHI iエクステリアデザイナー)<br /> * ニック・マラコフスキー(クライスラー・200C EV 主任エクステリア デザイナー)<br /> * ジュリアン・ブラシ(BMW Z4 エクステリアデザイナー)<br /> * アンドレアス・ミント(VW シロッコ3代目、フォルクスワーゲンAGデザイン部エクステリアデザイナー)<br /> * [[アンドレアス・ザパティナス]]([[フィアット・バルケッタ]]チーフ・エクステリアデザイナー)<br /> * ク・ミンチョル(メルセデスベンツ社エクステリアデザイナー)<br /> * ヤツェク・フレーリッヒ(BMW 5シリーズ6世代目エクステリアデザイン担当、BMWデザイン部エクステリアデザイナー)<br /> * マルティン・クロップ(フォルクスワーゲン4ドアクーペ「パサートCC」デザインチームエクステリアデザイナー)<br /> * アドリアン・ファン・ホーイドンク(元BMW AG自動車エクステリアデザイナー)<br /> * トニー・シャメンコフ(ジープ・レネゲード コンセプト主任エクステリア デザイナー)<br /> * セザール・ムンタダ(アウディAG エクステリアデザイナー)<br /> <br /> == 空間演出 ==<br /> エクステリア(exterior)とは、「外部の」、「外観上の」という意味を持つが、建物敷地の外構をエクステリア(Exterior)と呼ぶ場合については、[[外構#概要]]を参照。<br /> <br /> [[エクステリア (外構)]](えくすてりあ がいこう)とは、居住、生活する建物の外にある構造物全体を指す言葉である。それには、門、車庫、[[カーポート]]、土間、アプローチ、塀、柵、垣根、などの構造物、それに植栽、物置、また後述する関連品も含まれる。<br /> <br /> 店舗など商用施設の場合は、景観照明による観光集客効果や広告効果、ムードなどの効果など、時間や季節を取り入れたデザインの意味合いも含まれる。<br /> <br /> エクステリアデザイナーは、[[造園]]の幅広い知識が必要であるばかりでなく、[[土木]]、[[エクステリア商品]]、[[金物]] などの知識も備えている他、[[建築]]の知識も必要とされる。<br /> === 業務範囲 ===<br /> エクステリアデザイナーは、以下のような建築物の外観と敷地全体に関わるデザインを総合的に行う職業のことで、フェンス、門、[[カーポート]]、門から玄関までのアプローチなど、家と庭と建物の外周を総合的にデザインする[[デザイナー]](職業)である。<br /> <br /> * アプローチ (門から玄関までの部分)<br /> * 土間 (車庫)、駐車場、ガレージ、[[カーポート]]<br /> * 犬走 (いぬばしり)、園路<br /> * 塀、外壁、ブロック、基礎<br /> * 門、門扉<br /> * 垣根、フェンス<br /> * 物置<br /> * 照明、ライティング<br /> * 植栽、池、噴水<br /> <br /> == 関連項目 ==<br /> *[[カーデザイナー]]<br /> *[[照明デザイナー]]<br /> *[[インテリアデザイナー]]<br /> *[[ガーデンデザイナー]]<br /> *[[造園]]<br /> *[[エクステリア]]<br /> *[[CAD]] 3DCAD (3次元CAD)<br /> *[[カーポート]]<br /> <br /> == 外部リンク ==<br /> *[http://www.eandg.co.jp/ E&Gアカデミー]<br /> <br /> {{Artist-stub}}<br /> <br /> {{DEFAULTSORT:えくすてりあてさいなあ}}<br /> [[Category:建築に関する職業]]<br /> [[Category:照明]]<br /> [[Category:デザイナー]]<br /> [[Category:エクステリア]]</div> 219.96.7.204 アーバンデザイナー 2018-09-14T03:25:26Z <p>219.96.7.204: /* 外部リンク */</p> <hr /> <div>{{参照方法|date=2012年12月}}<br /> {{雑多な内容の箇条書き|date=2012年12月}}<br /> &#039;&#039;&#039;アーバンデザイナー&#039;&#039;&#039;(Urban Designer)とは、都市計画業務において、[[都市]]の[[デザイン]]をおこなう[[職能]]。この場合のデザインの意味合いは広く、[[まちづくり]]や地域やまちのデザイン等を専門に手掛ける[[職業]]や[[専業]]にしている人たちをも意味している。「都市デザイナー」(都市デザイン)、「都市環境デザイナー」(都市環境デザイン)、「環境デザイナー」(環境デザイン)などと呼ばれることもある。丹下健三は以前建築雑誌 1958年1月号 都市計画・特集、都市設計家の確立、都市計画に対する質問、という小論を著し、[[都市設計]]家を提示したことがある。<br /> <br /> 個々の建物や施設の質を追求するというよりは、<br /> * 都市(街・町・地域)全体としての調和・景観の美しさ<br /> * 住民や訪問者にとっての地域全体として利用しやすさ<br /> などを重視する。<br /> <br /> == 主なアーバンデザイナー ==<br /> {{hidden begin|title = 主なアーバンデザイナーの一覧|titlestyle = background:lightgreen;width:60%}}<br /> * [[北沢猛]] - アーバンデザイナー。[[東京大学大学院新領域創成科学研究科]] [[東京大学大学院工学系研究科]]兼任教授。都市デザインと空間計画に関する実践と実証研究を。横浜市企画調整局都市デザイン・グループ, [[柏の葉]]UDCKセンター長など<br /> * 中農一也(かつて那覇市役所都市デザイン室に勤務)<br /> * [[鈴木エドワード]] - ハーバードでアーバンデザインを専攻<br /> * [[大村虔一]] - 仙台市総合計画審議会会長、宮城大学教授<br /> * [[土田旭]] - 地域づくり計画策定、[[都市計画家]]、アーバンデザイナー。都市環境研究所で代表所員(会長)。代表作に[[日立駅]]前地区都市デザイン、[[幕張新都心]]など<br /> * [[林泰義]] - [[足助町]]ほか、全国各地でアーバンデザインを実践<br /> * [[浅田孝]]、[[田村明]] - 横浜市都市デザインのルーツ<br /> * [[国吉直行]] - [[横浜市]]の都市デザイン行政を担当。[[横浜市立大学]]国際総合科学部特別契約教授。<br /> * [[岩崎駿介]] - [[筑波大学]]教授、横浜市などで実践を<br /> * [[望月真一]] - 日本の[[建築家]]、[[都市プランナー]]、アーバンデザイナー、[[環境デザイナー]]、都市コンサルタントアトリエUDI都市設計研究所<br /> * [[曽根幸一]] - [[都市計画家]]。[[建築家]]。アーバンデザイナーで都市デザインの観点から建築を捉える姿勢をとっている<br /> * [[倉田直道]] - 建築家・都市デザイナー(工学院大学建築都市デザイン学科教授、[[早稲田大学芸術学校]]講師 <br /> * [[堀池秀人]] - 建築家、都市デザイナー、マサチューセッツ工科大学 MIT 客員教授等も<br /> * [[青森県立弘前高等学校の人物一覧|千葉貴司]] - 建築家、都市デザイナー<br /> * [[高橋志保彦]] - [[建築家]]。アーバンデザイナー。[[神奈川大学]][[名誉教授]]<br /> * [[出口敦]] - 日本の都市研究者、[[都市計画家]]、アーバンデザイナー。[[九州大学|九州大学大学院]]人間環境学研究院都市<br /> * [[鳴海邦碩]] - 日本の都市環境デザイン研究家。アーバンデザイナー。[[大阪大学]][[大学院]]ビジネスエンジニアリング専攻<br /> * [[ビクター・グルーエン]] - [[ウィーン]]出身の[[建築家]]、[[都市計画家]]、アーバンデザイナー。[[アメリカ合衆国]]内のショッピングセンターを数多く手がける<br /> * 金錫澈 - 都市設計家であり建築家。[[セマングム]]干拓地問題では環境と地域を生かす代案を提示<br /> * [[エドモンド・ベーコン]] - フィラデルフィアでアーバンデザイナーとして活躍。アーバンデザイナーの定義において、真のアーバンデザイナーに必要なのは、建築家と都市計画家と行政官を兼ね備えた人物と<br /> * [[原昭夫]] - 那覇市役所、世田谷区役所で住宅政策とまちづくり、建築と都市デザイン等の業務に従事<br /> * [[レム・コールハース]] - [[ハーバード大学]]大学院デザイン学部における“建築実践と都市デザイン”の教授も<br /> * [[後藤春彦]] - 早稲田大学[[助手 (教育)|助手]]、[[宮城県]][[中新田町]]都市デザイン企画専門官 も。都市設計と地域計画の両面から都市・地域景観に関する研究に<br /> * [[神田駿]] - 日本とアメリカで建築設計、都市デザイン、環境デザイン、まちづくりなどを手がけながら、教育にも<br /> * [[鈴木崇英]] - [[都市計画コンサルタント]]の株式会社UG都市設計を設立。代表取締役を<br /> * [[パーシー・ジョンソン・マーシャル]] - 1959年から[[エディンバラ大学]]で教鞭をとり、1964年には都市設計および地域計画講座教授に就任した<br /> * [[萬羽敏郎]] - [[まちづくり]]活動家もほか都市設計家、[[建築家]]としても<br /> * [[アルヴァ・アールト]] - 文教都市[[オタニエミ]]都市設計の他オタニエミ工科大学のキャンパス計画と建物も<br /> * [[田中滋夫]] - 株式会社都市デザイン代表。都市デザインを、現場を通じて実践することを目指している<br /> * [[マイケル・ジョーンズ (ラグビー選手)]] - オークランド大学で[[学位]]学士号、文学修士号のほかに都市設計学士号を得ている<br /> * [[ヘンリ・フリッツクロフト]] - [[ウエスト・エンド (ロンドン)]]における都市設計および複数の[[カントリー・ハウス]]の設計に携わる<br /> * [[山中知彦]] - 専門分野は[[景観]]・[[都市デザイン]]、[[まちづくり]]活動支援で、住宅や住環境の設計<br /> * [[設計組織ADH|木下康子]] - UR[[都市再生機構]]都市デザインチームリーダーも務める<br /> * [[渡辺真理 (建築家)]] - [[法政大学]]教授。専門は建築意匠のほか、都市デザインを<br /> * [[及川清昭]] - [[立命館大学]][[理工学部]]建築都市デザイン学科教授<br /> * [[イボン・ライディン]] - 市計画の最高権威の一人であり、イギリス政府の建築、都市デザイン、公共スペースに関する諮問機関であるCommission for Archite <br /> * [[坂本英之]] - ドイツ政府給費留学・[[シュトゥットガルト大学]]都市デザイン研究所客員研究員をも<br /> * [[卯月盛夫]] - [[ハノーファー]]市都市計画局、世田谷区都市デザイン室、世田谷まちづくりセンター所長、早稲田大学教授も <br /> * [[丹下健三]] - [[都市計画]]の研究・業務に従事。人口密度や交通現象、都市デザイン等の研究を続け、それらの成果を戦後に建築学会で多く発表<br /> * [[槇文彦]] - [[セントルイス・ワシントン大学]]とハーバード大学で都市デザインを講じた。プリンスオブウェールズ都市デザイン賞も受賞<br /> * [[神谷宏治]] - 大学院に在籍時[[丹下健三]]研究室で、建築・都市設計の研究に従事。学部の同級に[[槇文彦]]<br /> * [[磯崎新]] - かつては「都市デザイナー」を標榜していた<br /> * [[黒川紀章]] - 都市のデザイン実作作品も多数<br /> * [[水谷頴介]] - 神戸市の沿岸都市計画、[[ポートアイランド]]をはじめ、福岡市の[[シーサイドももち]]など。<br /> * [[梅沢忠雄]] - 日本初の都市設計事務所([[UG都市設計]])設立<br /> * [[佐藤滋]] - 新たなまちづくりの仕組みのまちづくり、都市設計・計画に取り組んでいる<br /> * [[渡辺定夫]] - 日立駅前再開発 「都市デザイン委員会」委員長などや人材育成に尽力<br /> * ラモーン・メハド - バンクーバー都市デザインなどを<br /> * [[ヒデオ・ササキ]] - SWA設立者、[[コロラド大学]]のキャンパス計画と都市デザイン顧問なども多く歴任<br /> * [[リチャード・ロジャース (建築家)]] - [[グレーター・ロンドン・オーソリティ]]の建築・都市デザイン委員会の議長も務めている<br /> * [[アルド・ロッシ]] - ヨーロッパの都市デザインに基づくモダニズムの見解を前進させる立場を<br /> * [[エルヴィン・バルト]] - フリードリッヒ・カール広場改造案は、フーゴ・コッホに都市デザインの模範として紹介される<br /> * [[西村幸夫]] - 東京大学にて[西村・北沢・窪田 都市デザイン研究室]を主宰<br /> * アラン・ジェイコブス - [[サンフランシスコ]]都市計画局長として<br /> * [[池辺陽]] - [[下関市]]と[[宇部市]]、また戦災復興都市設計競技では[[渋谷]]を担当。翌年、[[別府市]]の復興都市設計も<br /> * [[加藤源]] - 都市市計画学会賞(計画設計部門)は、JR花巻駅周辺地区の都市設計で受賞<br /> * [[川手昭二]] - 都市計画家・都市設計家。建築家。 建築研究者。都市研究家。創設期の日本住宅公団で多摩 ニュータウンや港北ニュータウン建設に携わる<br /> * [[ジョルジョ・ヴァザーリ]] - 都市設計家、庭園設計家、祝祭演出家のかたわらで美術家の生涯を扱った『芸術家列伝』を著す<br /> * [[ポール・ヴィリリオ]] - 都市設計家のほか、哲学者としても活躍<br /> * ルセリア・タラント・ロドリゲス - 女性都市設計家でグリーン・アーキテクチャーと持続可能性都市を専門<br /> {{hidden end}}<br /> <br /> ==参考文献==<br /> * 都市とデザイン-デザインが都市を創る都市がデザインを創る 栄久庵憲司監修著 電通 1992<br /> * 都市環境のデザイン 高橋志保彦編著 プロセスアーキテクチュア 1992<br /> * 朝日選書 美しい都市景観をつくるアーバンデザイン 田村明 朝日新聞社 1997<br /> * アーバンデザインという仕事、望月真一、住まいの図書館出版局、1996年<br /> * アメリカの都市再開発 日端康雄他著 学芸出版社<br /> * 東京の美学-混沌と秩序 芦原義信 (岩波新書)岩波書店 1995<br /> * 都市環境デザイン会議編 日本の都市環境デザイン85~95 学芸出版社 1996<br /> <br /> ==関連項目==<br /> * [[アーバンデザイン]] <br /> * [[デザイナー]] <br /> * [[環境デザイナー]]<br /> * [[造園家]] <br /> * [[建築家]] [[都市計画家]] <br /> * [[ランドスケープ]][[アーキテクト]]<br /> * [[ジョルジュ・オスマン]]、[[アルベルト・シュペーア]]、[[後藤新平]]<br /> <br /> ==外部リンク==<br /> * [http://web.archive.org/20111206124054/web.mac.com/kitazawatakeru/a_site_of_Kitazawa,Takeru/%E7%A9%BA%E9%96%93%E8%A8%88%E7%94%BB%E3%81%B8%E5%8C%97%E6%B2%A2%E7%8C%9B.html 北沢猛・東京大学教授のページ]<br /> * [http://www.gakugei-pub.jp/judi/semina/s0105/to013.htm アーバンデザインとは?]<br /> * [http://dic.yahoo.co.jp/dsearch?enc=UTF-8&amp;p=de&amp;dtype=0&amp;stype=0&amp;dname=0ss&amp;pagenum=1 Yahoo!辞書]<br /> <br /> {{Art-stub}}<br /> {{デフォルトソート:ああはんてさいなあ}}<br /> [[Category:デザイナー]]<br /> [[Category:都市計画家|*ああはん]]<br /> [[Category:コミュニティ]]</div> 219.96.7.204 環境デザイナー 2018-09-14T02:52:16Z <p>219.96.7.204: /* 外部リンク */</p> <hr /> <div>{{出典の明記|date=2012年12月}}<br /> {{雑多な内容の箇条書き|date=2012年12月}}<br /> &#039;&#039;&#039;環境デザイナー&#039;&#039;&#039;(かんきょうデザイナー)とは、[[環境デザイン]]をおこなう[[デザイナー]]。[[建築家]]・[[ランドスケープ]]・[[アーキテクト]]のほか[[ガーデンデザイナー]]や[[都市計画家]]・都市デザイナー、[[ファニチャー]]・[[デザイナー]]、[[建設業]]界で活動する景観設計の[[専門家]]、[[森林保全]]・施業など[[研究家]]ほか。広域的に[[都市計画]]や地域計画を行う場合の[[都市計画家]]や[[アーバンデザイナー]]と呼ばれるデザイナーや、景観の専門家、森林整備に携わる技術者やランドスケープアーキテクト、また、[[環境]]に配慮して[[設計]]を行う建築家など、これらの職種の「デザイナー」は、環境デザイナーを兼ねているともいえる。<br /> <br /> 人のすみか、活動場としての[[環境]]というものからしてその範囲は幅広く、そのため環境デザインは身近なみどりから[[ファニチャー]]から[[建築]]、建築群から[[道路]](街路)や[[河川]](水辺)などの土木施設も含めた都市全般から、[[公園]]や[[緑地]]、[[里山]]から[[森林]]場合によっては海中まで、その対象も幅広い。<br /> <br /> そのため、[[多自然型川づくり]]や自然再生事業、[[橋梁]]等の[[シビックデザイン]]等の計画設計業務に主体的に取り組む技術者も、環境デザイナーに含むことができる。<br /> <br /> ちなみに、個別の設計的な業務よりも、[[環境アセスメント]]的な業務(環境評価)や調査解析、各種環境関係の規制法令に基づく助言を中心に行う場合には、[[環境コンサルタント]]と呼ばれる職能が存在する。<br /> <br /> == 主な環境デザイナー ==<br /> * [[イブ・ブリュニエ]]<br /> * [[イアン・マクハーグ]]<br /> * [[中嶋猛夫]] - [[女子美術大学]][[芸術学部]][[教授]]<br /> * [[彦坂裕]] - (株)スペースインキュベータ代表<br /> * [[伊藤邦衛]] - [[造園設計事務所]]代表<br /> * [[吉村元男]] - [[鳥取環境大学]]教授<br /> * [[堀越哲美]] - [[名古屋工業大学]][[大学院]]教授<br /> * [[仙田満]] - 環境デザイン研究所主宰<br /> * [[ヒデオ・ササキ]] - SWAの創始者の一人。広く[[環境デザイン]]の設計活動を展開する<br /> * [[ローレンス・ハルプリン]] - ランドスケープデザイン/アーバンデザイン<br /> * [[望月真一]] - [[埼玉大学]][[大学院]], アーバンデザイン<br /> * [[池原謙一郎]] - 元[[筑波大学]]芸術専門学群教授<br /> * [[ロバート・ブール・マルクス]] - [[ガーデンデザイン]]/ランドスケープデザイン<br /> * [[ダン・カイリー]] - ランドスケープデザイン/アーバンデザイン<br /> * [[ガレット・エクボ]] - EDAW創始者の一人<br /> * [[団塚栄喜]] - [[彫刻]], ランドスケープデザイン<br /> * [[トーマス・チャーチ]] - ランドスケープデザイン/ガーデンデザイン <br /> * [[近藤公夫]] - [[奈良女子大学]][[名誉教授]]。[[農学博士]]<br /> * [[ポール・フリードバーグ]] - ランドスケープデザイン/アーバンデザイン <br /> * [[田中雅美 (建築家)]] - 住環境デザイナー<br /> * [[平澤太]] - (株)Designcafe 取締役、平澤太デザイン計画機構 主宰 アーバニスト/空間デザイナー<br /> * エドアール・レドント - 都市デザイン<br /> * 桜田秀美 - [[インダストリアルデザイン]]<br /> * 正木覚 - [[ガーデンデザイン]]<br /> * 芹沢高志 - P3代表<br /> * [[福原成雄]] - [[大阪芸術大学]]教授<br /> * 二見恵美子 - 自然風景式屋上庭園デザイン他 <br /> * [[ラッセル・ペイジ]] - ランドスケープデザイン/ガーデンデザイン <br /> * [[三田育雄]] - [[東北芸術工科大学]][[名誉教授]]<br /> * [[宮崎吾朗]] - ランドスケープデザイン<br /> * [[星ひで樹]] - [[ガーデンデザイン]]/住空間デザイン/ランドスケープデザイン/日本工学院非常勤講師<br /> * [[吉村伸一]] - [[多自然型川づくり]]<br /> * [[福留脩文]] - 多自然型川づくり<br /> * [[石原和幸]] - ガーデンデザイン<br /> <br /> == 関連項目 ==<br /> * [[デザイン]]<br /> * [[アーキテクチャ]]<br /> * [[環境]]<br /> * [[開発]]<br /> * [[ランドスケープ]]<br /> * [[景観]](都市景観・町並み)<br /> * [[景観生態学]]<br /> <br /> == 外部リンク ==<br /> * [http://www.cbr.mlit.go.jp/chugi/joliet/index.html 伊藤清忠・景観デザインフォトライブラリー]<br /> <br /> {{Env-stub}}<br /> {{artist-stub}}<br /> {{DEFAULTSORT:かんきようてさいなあ}}<br /> [[Category:環境デザイナー|*]]</div> 219.96.7.204 公爵 2018-09-14T00:16:28Z <p>219.96.7.204: </p> <hr /> <div>{{Otheruses||アダルトゲームのブランド|公爵 (ブランド)}}<br /> &#039;&#039;&#039;公爵&#039;&#039;&#039;(こうしゃく、{{Lang-en-short|Duke}}、{{Lang-de-short|Herzog}})は、[[爵位]](五爵)の第1位である。[[侯爵]]の上位に相当する&lt;ref&gt;[[新村出]][[編集|編]]『[[広辞苑|広辞苑 第六版]]』([[岩波書店]]、[[2011年]])942頁および[[松村明]]編『[[大辞林|大辞林 第三版]]』([[三省堂]]、[[2006年]])849頁参照。&lt;/ref&gt;。[[ヨーロッパ]]の[[貴族]]の[[称号]]の訳語、古代[[中国]]の諸侯の称号、また[[明治]]以降から戦前まで使われた[[日本]]の[[華族]]の称号として用いられる。<br /> <br /> 日本ではこの「[[公]]」によって(英語の場合であれば)[[プリンス|prince]]と[[デューク (称号)|duke]]の両方の称号を表そうとしたため混乱を生じることとなった。princeは基本的には小国の君主や諸侯、王族の称号であり、dukeは諸侯の称号である。日本語では、例えば[[モナコ]]や[[リヒテンシュタイン]]の君主、[[マルタ騎士団]]長などのprinceを「公」ではなく「[[大公]]」と訳すことで「公爵」(duke)との区別をつけようとする場合がある。ただし、こうして便宜的に使用された場合の「大公」は、[[ルクセンブルク]]の君主がもつ称号grand dukeや[[ロシア帝国|ロシア]]等のgrand prince、[[オーストリア]]の[[オーストリア大公|archduke]]と区別される必要が改めて生じてくる。逆に、日本の華族制度における「公爵」の公式英訳にはdukeではなくprinceが当てられたが、たとえば[[伊藤博文]]や[[近衛文麿]]の爵位が英米ではprinceと訳されることとなり、[[皇族]]と誤解されるような場合があった。<br /> <br /> 日本語では[[侯爵]]と発音が同じであることから区別する必要があるときは「おおやけ-こうしゃく」と呼ばれた。<br /> <br /> == 日本の公爵 ==<br /> 日本では、[[明治維新]]後の[[1884年]]([[明治]]17年)に[[華族令]](明治17年宮内省達)が制定され、華族制度が定められた。同令第2条において、[[華族]]を世襲制の公侯伯子男の五等爵とし、公爵はその第1位とした。[[1889年]](明治22年)に、[[貴族院令]](明治22年[[勅令]]第11号)が制定されると、公爵は同令第1条2号により、公爵たる者は貴族院議員となる資格を与えられることが規定された([[貴族院 (日本)#華族議員|華族議員]])。[[1907年]](明治40年)には、華族令(明治40年[[皇室令]]第2号)が制定され、襲爵、華族の品位その他の手続きが細かく規定された。<br /> <br /> 公爵は以下の基準(「叙爵内規」)によって授けられた。<br /> #&#039;&#039;&#039;皇族&#039;&#039;&#039; - [[親王]][[王 (皇族)|諸王]]より臣位に列せられた者。このような内規はあったが、実際に[[臣籍降下]]によって公爵を与えられた例はない。<br /> #&#039;&#039;&#039;公家&#039;&#039;&#039; - 旧[[摂家|摂関家]]。公家社会でも最高位に属するとされ、[[摂政]]・[[関白]]に昇る資格を持っていた家柄である。[[近衛家]]、[[九条家]]、[[二条家]]、[[一条家]]、[[鷹司家]]の計5家。<br /> #&#039;&#039;&#039;武家&#039;&#039;&#039; - [[徳川将軍家|徳川宗家(徳川将軍家)]]。[[徳川家達]]家がこれにあたる。1家のみ。<br /> #&#039;&#039;&#039;勲功者&#039;&#039;&#039; - 国家に偉勲ある者。これは3種に大別できる。<br /> ##一つは「偉勲」がなくとも華族たる資格を持っていた家のうち、功績が加味されて本来よりも高い爵位を与えられたグループである。[[三条家]]([[三条実美]]の功績)、[[岩倉家]]([[岩倉具視]]の功績)、[[島津家]](旧[[鹿児島藩|薩摩鹿児島藩主]]家)、[[毛利家]](旧[[長州藩|長門萩藩主]]家)の4家がこれにあたる。また、後年[[侯爵]]から陞爵した[[西園寺家]]([[西園寺公望]]の功績)、[[徳大寺家]]([[徳大寺実則]]の功績)、[[水戸徳川家]]([[徳川篤敬]]の功績)の3家もこれに含めて考えられる。<br /> ##次に本家がすでに公爵となっているにもかかわらず、その人物の特別な功績が認められて別に家を立てることをゆるされ、さらに公爵位を授けられたグループがある。具体的には、藩主ではなかったがその後見人として[[幕末]]の[[薩摩藩]]に大きな影響を与えた[[島津久光]]とその子孫([[玉里島津家]])、[[大政奉還]]後に養子の徳川家達に家督を譲って隠棲した江戸幕府第15代将軍の[[徳川慶喜]]とその子孫([[徳川慶喜家]])の2家である。<br /> ##[[元老]]となった[[伊藤博文]]の伊藤家、[[大山巌]]の大山家、[[山縣有朋]]の山縣家、[[松方正義]]の松方家、[[桂太郎]]の桂家の5家は、本人の功績によって「新華族」となり、その後本人の功績によってさらに陞爵し、公爵となったものである。伊藤、大山、山縣、松方は当初伯爵であり、桂は子爵であった。最後の元老となった[[西園寺公望]]の[[西園寺家]]を含めると、元老総勢9名のうち6名6家が公爵を与えられたことになる。<br /> <br /> {| class=&quot;wikitable&quot;<br /> |+有爵者一覧<br /> !style=&quot;background-color:skyblue&quot;|家名(通称等)!!style=&quot;background-color:skyblue&quot;|受爵者&lt;br /&gt;襲爵者!!style=&quot;background-color:skyblue&quot;|旧家格!!style=&quot;background-color:skyblue&quot;|備考<br /> |-<br /> |[[近衛家]]||[[近衛篤麿]]&lt;br /&gt;[[近衛文麿]]||旧[[摂家|摂関家]]||[[1884年]](明治17年)[[7月7日]]、叙爵。&lt;br /&gt;1945年(昭和20年)[[12月16日]]、返上。&lt;br /&gt;[[藤原北家]]嫡流<br /> |-<br /> |[[九条家]]||[[九条道孝]]&lt;br /&gt;[[九条道実]]&lt;br /&gt;[[九条道秀]]||旧摂関家||[[1884年]](明治17年)7月7日、叙爵。&lt;br /&gt;[[藤原北家]]嫡流<br /> |-<br /> |[[二条家]]||[[二条基弘]]&lt;br /&gt;[[二条厚基]]&lt;br /&gt;[[二条弼基]]||旧摂関家||1884年(明治17年)7月7日、叙爵。&lt;br /&gt;[[藤原北家]]嫡流<br /> |-<br /> |[[一条家]]||[[一条実輝]]&lt;br /&gt;[[一条実孝]]||旧摂関家||1884年(明治17年)7月7日、叙爵。&lt;br /&gt;[[藤原北家]]嫡流<br /> |-<br /> |[[鷹司家]]||[[鷹司熙通]]&lt;br /&gt;[[鷹司信輔]]||旧摂関家||1884年(明治17年)7月7日、叙爵。&lt;br /&gt;[[藤原北家]]嫡流<br /> |-<br /> |[[三条家]](転法輪三条家)||[[三条実美]]&lt;br /&gt;[[三条公美]]&lt;br /&gt;[[三条実憲]]&lt;br /&gt;[[三条公輝]]&lt;br /&gt;[[三条実春]]||旧[[清華家]]||1884年(明治17年)7月7日、叙爵。&lt;br /&gt;[[藤原北家]][[閑院流]]<br /> |-<br /> |[[徳川将軍家|徳川家(徳川宗家)]]||[[徳川家達]]&lt;br /&gt;[[徳川家正]]||旧将軍家||1884年(明治17年)7月7日、叙爵。&lt;br /&gt;[[清和源氏]]と称するが明確でない。<br /> |-<br /> |[[毛利家]]||[[毛利元徳]]&lt;br /&gt;[[毛利元昭]]&lt;br /&gt;[[毛利元道]]||旧[[萩藩]]主||1884年(明治17年)7月7日、叙爵。&lt;br /&gt;[[大江氏]]<br /> |-<br /> |[[島津家]](島津宗家)||[[島津忠義]]&lt;br /&gt;[[島津忠重]]||旧[[鹿児島藩]]主||1884年(明治17年)7月7日、叙爵。&lt;br /&gt;清和源氏と称する(本来は[[惟宗氏]])。<br /> |-<br /> |[[玉里島津家|島津家(玉里家)]]||[[島津久光]]&lt;br /&gt;[[島津忠済]]&lt;br /&gt;[[島津忠承]]||旧鹿児島藩主家分家||1884年(明治17年)7月7日、叙爵。&lt;br /&gt;清和源氏と称する(本来は[[惟宗氏]])。<br /> |-<br /> |[[岩倉家]]||[[岩倉具定]]&lt;br /&gt;[[岩倉具張]]&lt;br /&gt;[[岩倉具栄]]||旧[[羽林家]]||1884年(明治17年)7月8日、叙爵。&lt;br /&gt;[[村上源氏]]<br /> |-<br /> |[[徳川慶喜家|徳川家(徳川慶喜家)]]||[[徳川慶喜]]&lt;br /&gt;[[徳川慶久]]&lt;br /&gt;[[徳川慶光]]||旧将軍家別家||[[1902年]](明治35年)[[6月3日]]、叙爵。&lt;br /&gt;清和源氏と称するが明確でない。<br /> |-<br /> |[[伊藤家]]||[[伊藤博文]]&lt;br /&gt;[[伊藤博邦]]&lt;br /&gt;[[伊藤博精]]||旧[[萩藩]]出身||[[1907年]](明治40年)[[9月21日]]、[[侯爵]]より[[陞爵]]。&lt;br /&gt;[[越智氏]]と称するが明確でない。<br /> |-<br /> |[[山縣家]]||[[山縣有朋]]&lt;br /&gt;[[山縣伊三郎]]&lt;br /&gt;[[山縣有道]]&lt;br/&gt;[[山縣有信]]||旧萩藩出身||1907年(明治40年)9月21日、[[侯爵]]より陞爵。&lt;br /&gt;清和源氏と称するが明確でない。<br /> |-<br /> |[[大山家]]||[[大山巌]]&lt;br /&gt;[[大山柏]]||旧[[鹿児島藩]]出身||1907年(明治40年)9月21日、侯爵より陞爵。&lt;br /&gt;[[近江源氏]]<br /> |-<br /> |[[徳大寺家]]||[[徳大寺実則]]&lt;br /&gt;[[徳大寺公弘]]&lt;br /&gt;[[徳大寺実厚]]||旧[[清華家]]||[[1911年]](明治44年)4月21日、[[侯爵]]より陞爵。&lt;br /&gt;[[藤原北家]][[閑院流]]<br /> |-<br /> |[[桂家]]||[[桂太郎]]&lt;br /&gt;[[桂広太郎]]||旧[[萩藩]]出身||[[1911年]](明治44年)4月21日、侯爵より陞爵。&lt;br /&gt;[[大江氏]]<br /> |-<br /> |[[西園寺家]]||[[西園寺公望]]&lt;br /&gt;[[西園寺八郎]]||旧[[清華家]]||[[1920年]]([[大正]]9年)[[9月7日]]、侯爵より陞爵。&lt;br /&gt;[[1946年]]([[昭和]]21年)[[7月1日]] 返上。&lt;br /&gt;[[藤原北家]][[閑院流]]<br /> |-<br /> |[[松方家]]||[[松方正義]]&lt;br /&gt;[[松方巖]]||旧[[鹿児島藩]]出身||[[1922年]](大正11年)[[9月18日]]、[[侯爵]]より陞爵。&lt;br /&gt;[[1927年]](昭和2年)[[12月19日]]、返上。<br /> |-<br /> |[[水戸徳川家|徳川家(水戸家)]]||[[徳川圀順]]||旧[[水戸藩]]主||[[1929年]](昭和4年)[[11月18日]] 、侯爵より陞爵。&lt;br /&gt;清和源氏と称するが明確でない。<br /> |}<br /> ※ 特記のない限り、[[1884年]](明治17年)[[7月7日]]に受爵。<br /> <br /> == イギリスの公爵 ==<br /> [[File:Coronet of a British Duke.svg|180px|thumb|公爵の紋章上の冠]]<br /> [[イングランド王国|イングランド]]に確固たる貴族制度を最初に築いた王は[[ウィリアム1世 (イングランド王)|征服王ウィリアム1世]](&lt;small&gt;在位:[[1066年]]-[[1087年]]&lt;/small&gt;)である。彼はもともとフランスの[[ノルマンディー公]]であったが、[[エドワード懺悔王]](&lt;small&gt;在位:[[1042年]]-[[1066年]]&lt;/small&gt;)の崩御後、イングランド王位継承権を主張して[[1066年]]にイングランドを征服し、イングランド王位に就いた([[ノルマン・コンクエスト]])。重用した臣下もフランスから連れて来た[[ノルマン人]]だったため、大陸にあった貴族の爵位制度がイングランドにも持ち込まれることになった&lt;ref name=&quot;小林(1991)16-17&quot;&gt;[[#小林(1991)|小林(1991)]] p.16-17&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> イングランドの[[デューク (称号)|公爵(Duke)]]は、伯爵(Earl)と男爵(Baron)に続いて創設された爵位だった。[[1337年]]に[[エドワード3世 (イングランド王)|エドワード3世]](&lt;small&gt;在位:[[1327年]]-[[1377年]]&lt;/small&gt;)が皇太子[[エドワード黒太子]]に[[コーンウォール公爵]](Duke of Cornwall)位を与えたのが公爵の最初である。続いて[[1351年]]に同じくエドワード3世が[[ヘンリー3世 (イングランド王)|ヘンリー3世]](&lt;small&gt;在位:[[1216年]]-[[1272年]]&lt;/small&gt;)の曾孫である[[ヘンリー・オブ・グロスモント (初代ランカスター公)|ヘンリー]]に[[ランカスター公爵]](Duke of Lancaster)位を与えたことで公爵位が貴族の最上位で王位に次ぐ称号であることが明確化した&lt;ref name=&quot;森(1987)5&quot;&gt;[[#森(1987)|森(1987)]] p.5&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 臣民に公爵位が与えられた最初の事例は、[[1483年]]に[[リチャード3世 (イングランド王)|リチャード3世]](&lt;small&gt;在位:[[1483年]]-[[1485年]]&lt;/small&gt;)より[[ノーフォーク公爵]](Duke of Norfolk)を与えられた[[ジョン・ハワード (初代ノーフォーク公)|ジョン・ハワード]]である(もっとも彼も先祖を遡れば王族にたどり着く)&lt;ref name=&quot;森(1987)6&quot;&gt;[[#森(1987)|森(1987)]] p.6&lt;/ref&gt;&lt;ref name=&quot;小林(1991)18&quot;&gt;[[#小林(1991)|小林(1991)]] p.18&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> その後、臣民の公爵位は[[ステュアート朝]]期(特に[[イングランド王政復古|王政復古]]後の最初の国王[[チャールズ2世 (イングランド王)|チャールズ2世]]時代)に急増した。[[ハノーファー朝]]期にも公爵位の授与が行われ、最も多い時期には40家の公爵家が存在した。しかし家系の断絶でその数は減少していった&lt;ref&gt;[[#森(1987)|森(1987)]] p.7-8&lt;/ref&gt;。2014年現在臣民の公爵家は24家にまで減っている。<br /> <br /> 公爵内の序列はまず王族公爵が別格で先頭である。その下におかれる臣民公爵たちは[[イングランド貴族]]公爵、[[スコットランド貴族]]公爵、[[グレートブリテン貴族]]公爵、[[アイルランド貴族]]公爵、[[連合王国貴族]]公爵の順番で序列付けられる&lt;ref&gt;[[#森(1987)|森(1987)]] p.9&lt;/ref&gt;。宮中席次における臣民公爵の序列は、国王(女王)、王妃(王配)、皇太子、王子、[[カンタベリー大主教]]、[[大法官]]、[[ヨーク大主教]]、[[イギリスの首相|首相]]、[[枢密院 (イギリス)|枢密院]]議長、[[庶民院 (イギリス)|庶民院]]議長、[[国璽尚書]]、英連邦高等弁務官及び外国大使に次ぐ13番目である&lt;ref&gt;[[#森(1987)|森(1987)]] p.11-12&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 侯爵から男爵までの貴族が「卿(Lord)」と尊称されるのに対し、公爵のみは「閣下(Your Grace)」と尊称される&lt;ref name=&quot;森(1987)15&quot;&gt;[[#森(1987)|森(1987)]] p.15&lt;/ref&gt;。また公爵・侯爵・伯爵は従属爵位を持っているのが一般的であり、嫡男は父の持つ爵位のうち二番目の爵位を[[儀礼称号]]として称する&lt;ref name=&quot;森(1987)15&quot;/&gt;。<br /> <br /> === 現存する公爵位 ===<br /> ==== 王族公爵位 ====<br /> {| class=&quot;wikitable&quot; style=&quot;text-align:center; font-size:smaller&quot;<br /> ! 紋章<br /> ! 爵位名&lt;br/&gt;(爵位の創設年と分類)<br /> ! 現公爵の肖像<br /> ! 現公爵の名前<br /> ! 備考<br /> |-<br /> | [[File:Arms of the Duchy of Cornwall (Variant 1).svg|80px]]<br /> | &#039;&#039;&#039;[[コーンウォール公爵]]&#039;&#039;&#039;&lt;br/&gt;([[1337年]]創設[[イングランド貴族]])<br /> | rowspan=&quot;2&quot; |[[File:Duchess of Cornwall, Prince of Wales - NIH-crop.jpg|80px]]<br /> | rowspan=&quot;2&quot; |[[プリンス・オブ・ウェールズ]]&lt;br/&gt;[[チャールズ (プリンス・オブ・ウェールズ)|チャールズ]]&lt;br/&gt;&lt;small&gt;(1948 - )&lt;/small&gt;<br /> | rowspan=&quot;2&quot; |[[エリザベス2世|エリザベス女王]]の長男、皇太子<br /> |-<br /> | [[File:Shield of Arms of the Duke of Rothesay.svg|80px]]<br /> | &#039;&#039;&#039;[[ロスシー公爵]]&#039;&#039;&#039;&lt;br/&gt;([[1398年]]創設[[スコットランド貴族]])<br /> |-<br /> | [[File:Arms of Richard, Duke of Gloucester.svg|80px]]<br /> | &#039;&#039;&#039;[[グロスター公爵]]&#039;&#039;&#039;&lt;br/&gt;([[1928年]]創設[[連合王国貴族]])<br /> | [[File:The Duke of Gloucester in 2008 cropped2.jpg|80px]]<br /> | 第2代グロスター公爵&lt;br/&gt;[[リチャード (グロスター公)|リチャード]]&lt;br/&gt;&lt;small&gt;(1944 - )&lt;/small&gt;<br /> | 女王の従姉弟<br /> |-<br /> | [[File:Arms of Edward, Duke of Kent.svg|80px]]<br /> | &#039;&#039;&#039;[[ケント公爵]]&#039;&#039;&#039;&lt;br/&gt;([[1934年]]創設[[連合王国貴族]])<br /> | [[File:Duke of Kent2013,6.jpg|80px]]<br /> | 第2代ケント公爵&lt;br/&gt;[[エドワード (ケント公)|エドワード]]&lt;br/&gt;&lt;small&gt;(1935 - )&lt;/small&gt;<br /> | 女王の従姉弟<br /> |-<br /> | [[File:Arms of Philip, Duke of Edinburgh.svg|80px]]<br /> | &#039;&#039;&#039;[[エディンバラ公爵]]&#039;&#039;&#039;&lt;br/&gt;([[1947年]]創設[[連合王国貴族]])<br /> | [[File:Prince Phillip of Edinburgh.jpg|80px]]<br /> | 初代エディンバラ公爵&lt;br/&gt;[[フィリップ (エディンバラ公)|フィリップ]]&lt;br/&gt;&lt;small&gt;(1921 - )&lt;/small&gt;<br /> | 女王の[[王配]]<br /> |-<br /> | [[File:Arms of Andrew, Duke of York.svg|80px]]<br /> | &#039;&#039;&#039;[[ヨーク公爵]]&#039;&#039;&#039;&lt;br/&gt;([[1986年]]創設[[連合王国貴族]])<br /> | [[ファイル:Prince Andrew August 2014 (cropped).jpg|80px]]<br /> | 初代[[ヨーク公爵]]&lt;br/&gt;[[アンドルー (ヨーク公)|アンドルー]]&lt;br/&gt;&lt;small&gt;(1960 - )&lt;/small&gt;<br /> | 女王の次男<br /> |-<br /> | [[File:Arms of William, Duke of Cambridge.svg|80px]]<br /> | &#039;&#039;&#039;[[ケンブリッジ公爵]]&#039;&#039;&#039;&lt;br/&gt;([[2011年]]創設[[連合王国貴族]])<br /> | [[File:Duke Cambridge2013,6.jpg|80px]]<br /> | 初代[[ケンブリッジ公爵]]&lt;br/&gt;[[ウィリアム (ケンブリッジ公)|ウィリアム]]&lt;br/&gt;&lt;small&gt;(1982 - )&lt;/small&gt;<br /> | チャールズ皇太子の長男<br /> |-<br /> | [[File:Arms of Harry, Duke of Sussex.svg|80px]]<br /> | &#039;&#039;&#039;[[サセックス公爵]]&#039;&#039;&#039;&lt;br/&gt;([[2018年]]創設[[連合王国貴族]])<br /> | [[File:Prince Harry Trooping the Colour cropped.JPG|80px]]<br /> | 初代[[サセックス公爵]]&lt;br/&gt;[[ヘンリー (サセックス公)|ヘンリー]]&lt;br/&gt;&lt;small&gt;(1984 - )&lt;/small&gt;<br /> | チャールズ皇太子の次男<br /> |}<br /> <br /> ==== 臣民公爵位 ====<br /> {| class=&quot;wikitable&quot; style=&quot;text-align:center; font-size:smaller&quot;<br /> ! 紋章<br /> ! 爵位名&lt;br/&gt;(爵位の創設年と分類)&lt;br/&gt;家名<br /> ! 現公爵の肖像<br /> ! 現公爵の名前<br /> |-<br /> | [[File:Arms of the Duke of Norfolk.svg|80px]]<br /> | &#039;&#039;&#039;[[ノーフォーク公爵]]&#039;&#039;&#039;&lt;br/&gt;([[1483年]]創設[[イングランド貴族]])&lt;br/&gt;[[フィッツアラン=ハワード家]]<br /> | [[File:18th Duke of Norfolk 3 Allan Warren.JPG|80px]]<br /> | 第18代ノーフォーク公爵&lt;br/&gt;[[エドワード・フィッツアラン=ハワード (第18代ノーフォーク公)|エドワード・フィッツアラン=ハワード]]&lt;br/&gt;&lt;small&gt;(1956 - )&lt;/small&gt;<br /> |-<br /> | [[File:Coat of Arms of the Duke of Somerset.svg|80px]]<br /> | &#039;&#039;&#039;[[サマセット公爵]]&#039;&#039;&#039;&lt;br/&gt;([[1547年]]創設[[イングランド貴族]])&lt;br/&gt;[[シーモア家]]<br /> | [[File:19th Duke of Somerset Allan Warren.jpg|80px]]<br /> | 第19代サマセット公爵&lt;br/&gt;{{仮リンク|ジョン・シーモア (第19代サマセット公)|label=ジョン・シーモア|en|John Seymour, 19th Duke of Somerset}}&lt;br/&gt;&lt;small&gt;(1952 - )&lt;/small&gt;<br /> |-<br /> | rowspan=&quot;3&quot; |[[File:Duke of richmond.svg|80px]]<br /> | &#039;&#039;&#039;[[リッチモンド公爵]]&#039;&#039;&#039;&lt;br/&gt;([[1675年]]創設[[イングランド貴族]])&lt;br/&gt;ゴードン=レノックス家<br /> | rowspan=&quot;3&quot; |[[ファイル:Lord March.JPG|80px]]<br /> | rowspan=&quot;3&quot; |第11代リッチモンド公爵&lt;br/&gt;第11代レノックス公爵&lt;br/&gt;第6代ゴードン公爵&lt;br/&gt;{{仮リンク|チャールズ・ゴードン=レノックス (第11代リッチモンド公爵)|label=チャールズ・ゴードン=レノックス|en|Charles Gordon-Lennox, 11th Duke of Richmond}}&lt;br/&gt;&lt;small&gt;(1955 - )&lt;/small&gt;<br /> |-<br /> | &#039;&#039;&#039;[[レノックス公爵]]&#039;&#039;&#039;&lt;br/&gt;([[1675年]]創設[[スコットランド貴族]])&lt;br/&gt;ゴードン=レノックス家<br /> |-<br /> | &#039;&#039;&#039;[[ゴードン公爵]]&#039;&#039;&#039;&lt;br/&gt;([[1876年]]創設[[連合王国貴族]])&lt;br/&gt;ゴードン=レノックス家<br /> |-<br /> | [[File:Blason Henri Charles FitzRoy (1663-1690), 1er Duc de Grafton.svg|80px]]<br /> | &#039;&#039;&#039;[[グラフトン公|グラフトン公爵]]&#039;&#039;&#039;&lt;br/&gt;([[1675年]]創設[[イングランド貴族]])&lt;br/&gt;フィッツロイ家<br /> | [[File:12th Duke of Grafton 3 Allan Warren.JPG|80px]]<br /> | 第12代グラフトン公爵&lt;br/&gt;{{仮リンク|ヘンリー・フィッツロイ (第12代グラフトン公爵)|label=ヘンリー・フィッツロイ|en|Henry FitzRoy, 12th Duke of Grafton}}&lt;br/&gt;&lt;small&gt;(1978 - )&lt;/small&gt;<br /> |-<br /> | [[File:Beaufort Arms (France modern).svg|80px]]<br /> | &#039;&#039;&#039;[[ボーフォート公爵]]&#039;&#039;&#039;&lt;br/&gt;([[1682年]]創設[[イングランド貴族]])&lt;br/&gt;サマセット家<br /> | <br /> | 第12代ボーフォート公爵&lt;br/&gt;{{仮リンク|ヘンリー・サマセット (第12代ボーフォート公爵)|label=ヘンリー・サマセット|en|Henry Somerset, 12th Duke of Beaufort}}&lt;br/&gt;&lt;small&gt;(1952 - )&lt;/small&gt;<br /> |-<br /> | [[File:Blason Charles Ier Beauclerk (1670-1726) 1er duc de Saint-Albans.svg|80px]]<br /> | &#039;&#039;&#039;[[セント・オールバンズ公|セント・オールバンズ公爵]]&#039;&#039;&#039;&lt;br/&gt;([[1684年]]創設[[イングランド貴族]])&lt;br/&gt;ボークラーク家<br /> | [[File:14th Duke of St Albans 3 Allan Warren.jpg|80px]]<br /> | 第14代セント・オールバンズ公爵&lt;br/&gt;{{仮リンク|マレー・ボークラーク (第14代セント・オールバンズ公爵)|label=マレー・ボークラーク|en|Murray Beauclerk, 14th Duke of St Albans}}&lt;br/&gt;&lt;small&gt;(1939 - )&lt;/small&gt;<br /> |-<br /> | [[File:Russell arms.svg|80px]]<br /> | &#039;&#039;&#039;[[ベッドフォード公爵]]&#039;&#039;&#039;&lt;br/&gt;([[1694年]]創設[[イングランド貴族]])&lt;br/&gt;ラッセル家<br /> | <br /> | 第15代ベッドフォード公爵&lt;br/&gt;{{仮リンク|アンドリュー・ラッセル (第15代ベッドフォード公爵)|label=アンドリュー・ラッセル|en|Andrew Russell, 15th Duke of Bedford}}&lt;br/&gt;&lt;small&gt;(1962 - )&lt;/small&gt;<br /> |-<br /> | [[File:Cavendish arms.svg|80px]]<br /> | &#039;&#039;&#039;[[デヴォンシャー公爵]]&#039;&#039;&#039;&lt;br/&gt;([[1694年]]創設[[イングランド貴族]])&lt;br/&gt;{{仮リンク|キャヴェンディッシュ家|en|House of Cavendish}}<br /> |<br /> | 第12代デヴォンシャー公爵&lt;br/&gt;{{仮リンク|ストカー・キャヴェンディッシュ (第12代デヴォンシャー公爵)|label=ストカー・キャヴェンディッシュ|en|Stoker Cavendish, 12th Duke of Devonshire}}&lt;br/&gt;&lt;small&gt;(1944 - )&lt;/small&gt;<br /> |-<br /> | [[File:Duke of Malborough COA.svg|80px]]<br /> | &#039;&#039;&#039;[[マールバラ公|マールバラ公爵]]&#039;&#039;&#039;&lt;br/&gt;([[1702年]]創設[[イングランド貴族]])&lt;br/&gt;[[スペンサー家|スペンサー=チャーチル家]]<br /> | [[File:Marquess of Blandford Allan Warren.jpg|80px]]<br /> | 第12代マールバラ公爵&lt;br/&gt;[[ジェイミー・スペンサー=チャーチル (第12代マールバラ公)|ジェイミー・スペンサー=チャーチル]]&lt;br/&gt;&lt;small&gt;(1955 - )&lt;/small&gt;<br /> |-<br /> | [[File:Manners arms.svg|80px]]<br /> | &#039;&#039;&#039;[[ラトランド公爵]]&#039;&#039;&#039;&lt;br/&gt;([[1703年]]創設[[イングランド貴族]])&lt;br/&gt;マナーズ家<br /> | <br /> | 第11代ラトランド公爵&lt;br/&gt;{{仮リンク|デイヴィッド・マナーズ (第11代ラトランド公爵)|label=デイヴィッド・マナーズ|en|David Manners, 11th Duke of Rutland}}&lt;br/&gt;&lt;small&gt;(1959 - )&lt;/small&gt;<br /> |-<br /> | rowspan=&quot;2&quot; |[[File:Douglas hamiltonCoA.png|80px]]<br /> | &#039;&#039;&#039;[[ハミルトン公爵]]&#039;&#039;&#039;&lt;br/&gt;([[1643年]]創設[[スコットランド貴族]])&lt;br/&gt;[[ハミルトン氏族|ダグラス=ハミルトン家]]<br /> | rowspan=&quot;2&quot; |[[File:The Duke and Duchess of Hamilton cropped.jpg|80px]]<br /> | rowspan=&quot;2&quot; |第16代ハミルトン公爵&lt;br/&gt;第13代ブランドン公爵&lt;br/&gt;{{仮リンク|アレクサンダー・ダグラス=ハミルトン (第16代ハミルトン公爵)|label=アレクサンダー・ダグラス=ハミルトン|en|Alexander Douglas-Hamilton, 16th Duke of Hamilton}}&lt;br/&gt;&lt;small&gt;(1978 - )&lt;/small&gt;<br /> |-<br /> | &#039;&#039;&#039;[[ブランドン公爵]]&#039;&#039;&#039;&lt;br/&gt;([[1711年]]創設[[グレートブリテン貴族]])&lt;br/&gt;ダグラス=ハミルトン家<br /> |-<br /> | rowspan=&quot;2&quot; |[[File:Duke of Buccleuch arms.svg|80px]]<br /> | &#039;&#039;&#039;[[バクルー公|バクルー公爵]]&#039;&#039;&#039;&lt;br/&gt;([[1663年]]創設[[スコットランド貴族]])&lt;br/&gt;{{仮リンク|スコット氏族|label=ダグラス=スコット家|en|Clan Scott}}<br /> | rowspan=&quot;2&quot; | [[File:10th Duke of Buccleuch Allan Warren.JPG|80px]]<br /> | rowspan=&quot;2&quot; |第10代バクルー公爵&lt;br/&gt;第12代クイーンズベリー公爵&lt;br/&gt;{{仮リンク|リチャード・スコット (第10代バクルー公爵)|label=リチャード・ダグラス=スコット|en|Richard Scott, 10th Duke of Buccleuch}}&lt;br/&gt;&lt;small&gt;(1954 - )&lt;/small&gt;<br /> |-<br /> | &#039;&#039;&#039;[[クイーンズベリー公爵]]&#039;&#039;&#039;&lt;br/&gt;([[1684年]]創設[[スコットランド貴族]])&lt;br/&gt;ダグラス=スコット家<br /> |-<br /> | rowspan=&quot;2&quot; |[[File:Duke of Argyll arms.svg|80px]]<br /> | &#039;&#039;&#039;[[アーガイル公爵]]&#039;&#039;&#039;&lt;br/&gt;([[1701年]]創設[[スコットランド貴族]])&lt;br/&gt;[[キャンベル氏族|キャンベル家]]<br /> | rowspan=&quot;2&quot; |[[File:13th Duke of Argyll Allan Warren.JPG|80px]]<br /> | rowspan=&quot;2&quot; |第13代アーガイル公爵&lt;br/&gt;第6代アーガイル公爵&lt;br/&gt;{{仮リンク|トーキル・キャンベル (第13代アーガイル公爵)|label=トーキル・キャンベル|en|Torquhil Campbell, 13th Duke of Argyll}}&lt;br/&gt;&lt;small&gt;(1968 - )&lt;/small&gt;<br /> |-<br /> | &#039;&#039;&#039;[[アーガイル公爵]]&#039;&#039;&#039;&lt;br/&gt;([[1892年]]創設[[連合王国貴族]])&lt;br/&gt;[[キャンベル氏族|キャンベル家]]<br /> |-<br /> | [[File:Duke of Atholl arms.svg|80px]]<br /> | &#039;&#039;&#039;[[アソル公爵]]&#039;&#039;&#039;&lt;br/&gt;([[1703年]]創設[[スコットランド貴族]])&lt;br/&gt;{{仮リンク|マレー氏族|label=マレー家|en|Clan Murray}}<br /> | <br /> | 第12代アソル公爵&lt;br/&gt;{{仮リンク|ブルース・マレー (第12代アソル公爵)|label=ブルース・マレー|en|Bruce Murray, 12th Duke of Atholl}}&lt;br/&gt;&lt;small&gt;(1960 - )&lt;/small&gt;<br /> |-<br /> | [[File:Graham-Montrose arms.svg|80px]]<br /> | &#039;&#039;&#039;[[モントローズ公爵]]&#039;&#039;&#039;&lt;br/&gt;([[1707年]]創設[[スコットランド貴族]])&lt;br/&gt;{{仮リンク|グラハム氏族|label=グラハム家|en|Clan Graham}}<br /> | [[File:Official portrait of The Duke of Montrose crop 2.jpg|80px]]<br /> | 第8代モントローズ公爵&lt;br/&gt;{{仮リンク|ジェイムズ・グラハム (第8代モントローズ公爵)|label=ジェイムズ・グラハム|en|James Graham, 8th Duke of Montrose}}&lt;br/&gt;&lt;small&gt;(1935 - )&lt;/small&gt;<br /> |-<br /> | [[File:Coat of arms of the Duke of Roxburghe.svg|80px]]<br /> | &#039;&#039;&#039;[[ロクスバラ公爵]]&#039;&#039;&#039;&lt;br&gt;([[1707年]]創設[[スコットランド貴族]])&lt;br/&gt;イニス=カー家<br /> | [[File:10th Duke of Roxburghe Allan Warren - 2.jpg|80px]]<br /> | 第10代ロックスバラ公爵&lt;br/&gt;{{仮リンク|ガイ・イニス=カー (第10代ロックスバラ公爵)|label=ガイ・イニス=カー|en|Guy Innes-Ker, 10th Duke of Roxburghe}}&lt;br/&gt;&lt;small&gt;(1954 - )&lt;/small&gt;<br /> |-<br /> | [[File:Coat of arms of the Duke of Manchester.svg|80px]]<br /> | &#039;&#039;&#039;[[マンチェスター公爵]]&#039;&#039;&#039;&lt;br/&gt;([[1719年]]創設[[グレートブリテン貴族]])&lt;br/&gt;モンタギュー家<br /> | <br /> | 第13代マンチェスター公爵&lt;br/&gt;{{仮リンク|アレクサンダー・モンタギュー (第13代マンチェスター公爵)|label=アレクサンダー・モンタギュー|en|Alexander Montagu, 13th Duke of Manchester&lt;!-- リダイレクト先の「[[:en:Duke of Manchester]]」は、[[:ja:マンチェスター公爵]] とリンク --&gt;}}&lt;br/&gt;&lt;small&gt;(1962 - )&lt;/small&gt;<br /> |-<br /> | [[ファイル:Coat of Arms of the Duke of Northumberland.svg|80px]]<br /> | &#039;&#039;&#039;[[ノーサンバーランド公爵]]&#039;&#039;&#039;&lt;br/&gt;([[1766年]]創設[[グレートブリテン貴族]])&lt;br/&gt;{{仮リンク|パーシー家|en|House of Percy}}<br /> | [[File:12th Duke of Northumberland 3 Allan Warren.jpg|80px]]<br /> | 第12代ノーサンバーランド公爵&lt;br/&gt;{{仮リンク|レイフ・パーシー (第12代ノーサンバーランド公爵)|label=レイフ・パーシー|en|Ralph Percy, 12th Duke of Northumberland}}&lt;br/&gt;&lt;small&gt;(1956 - )&lt;/small&gt;<br /> |-<br /> | [[File:FitzGerald arms.svg|80px]]<br /> | &#039;&#039;&#039;[[リンスター公爵]]&#039;&#039;&#039;&lt;br/&gt;([[1766年]]創設[[アイルランド貴族]])&lt;br/&gt;{{仮リンク|フィッツジェラルド家|en|FitzGerald dynasty}}<br /> | <br /> | 第9代リンスター公爵&lt;br/&gt;{{仮リンク|ラルフ・パーシー (第9代リンスター公爵)|label=モーリス・フィッツジェラルド|en|Maurice FitzGerald, 9th Duke of Leinster}}&lt;br/&gt;&lt;small&gt;(1948 - )&lt;/small&gt;<br /> |-<br /> | [[File:Arms of the Duke of Abercorn.jpg|80px]]<br /> | &#039;&#039;&#039;[[アバコーン公爵]]&#039;&#039;&#039;&lt;br/&gt;([[1868年]]創設[[アイルランド貴族]])&lt;br/&gt;ハミルトン家<br /> | [[File:5th Duke of Abercorn 3 Allan Warren.jpg|80px]]<br /> | 第5代アバコーン公爵&lt;br/&gt;[[ジェイムズ・ハミルトン (第5代アバコーン公爵)|ジェイムズ・ハミルトン]]&lt;br/&gt;&lt;small&gt;(1934 - )&lt;/small&gt;<br /> |-<br /> | [[ファイル:Duke of Wellington Arms.svg|80px]]<br /> | &#039;&#039;&#039;[[ウェリントン公爵]]&#039;&#039;&#039;&lt;br/&gt;([[1814年]]創設[[連合王国貴族]])&lt;br/&gt;ウェルズリー家<br /> | [[File:Lorddouro.jpg|80px]]<br /> | 第9代ウェリントン公爵&lt;br/&gt;{{仮リンク|チャールズ・ウェルズリー (第8代ウェリントン公爵)|label=チャールズ・ウェルズリー|en|Charles Wellesley, 9th Duke of Wellington}}&lt;br/&gt;&lt;small&gt;(1945 - )&lt;/small&gt;<br /> |-<br /> | [[File:Egerton family COA (Dukes of Bridgewater, Dukes of Sutherland).svg|80px]]<br /> | &#039;&#039;&#039;[[サザーランド公爵]]&#039;&#039;&#039;&lt;br/&gt;([[1833年]]創設[[連合王国貴族]])&lt;br/&gt;エジャートン家<br /> | <br /> | 第7代サザーランド公爵&lt;br/&gt;{{仮リンク|フランシス・エジャートン (第7代サザーランド公爵)|label=フランシス・エジャートン|en|Francis Egerton, 7th Duke of Sutherland}}&lt;br/&gt;&lt;small&gt;(1940 - )&lt;/small&gt;<br /> |-<br /> | [[File:Grosvenor family COA (Dukes of Westminster).svg|80px]]<br /> | &#039;&#039;&#039;[[ウェストミンスター公爵]]&#039;&#039;&#039;&lt;br/&gt;([[1874年]]創設[[連合王国貴族]])&lt;br/&gt;グローヴナー家<br /> | <br /> | 第7代ウェストミンスター公爵&lt;br/&gt;{{仮リンク|ヒュー・グローヴナー (第7代ウェストミンスター公爵)|label=ヒュー・グローヴナー|en|Hugh Grosvenor, 7th Duke of Westminster}}&lt;br/&gt;&lt;small&gt;(1991 - )&lt;/small&gt;<br /> |-<br /> | [[File:Duke of Fife COA.svg|80px]]<br /> | &#039;&#039;&#039;[[ファイフ公爵]]&#039;&#039;&#039;&lt;br/&gt;([[1900年]]創設[[連合王国貴族]])&lt;br/&gt;カーネギー家<br /> | <br /> | 第4代ファイフ公爵&lt;br/&gt;{{仮リンク|デイヴィッド・カーネギー (第4代ファイフ公爵)|label=デイヴィッド・カーネギー|en|David Carnegie, 4th Duke of Fife}}&lt;br/&gt;&lt;small&gt;(1961 - )&lt;/small&gt;<br /> |}<br /> <br /> === かつて存在した公爵位 ===<br /> &lt;!--50音順--&gt;<br /> *{{仮リンク|アイルランド公爵|en|Duke of Ireland}}:第9代[[オックスフォード伯]][[ロバート・ド・ヴィアー (アイルランド公)|ロバート・ド・ヴィアー]]が一代限りで叙される<br /> *{{仮リンク|アルベマール公爵|en|Duke of Albemarle}}:マンク家が2代保有したが、1688年に絶家。<br /> *{{仮リンク|アンカスター=ケスティーブン公爵|en|Duke of Ancaster and Kesteven}}:{{仮リンク|リンジー伯爵|en|Earl of Lindsey}}バーティ家が5代にわたって保有。1809年に廃絶。リンジー伯位は現存<br /> *{{仮リンク|ウィンザー公爵|en|Duke of Windsor}}:退位後の[[エドワード8世 (イギリス王)|エドワード8世]]の爵位。<br /> *[[ウォートン公爵]]:第2代ウォートン侯[[フィリップ・ウォートン (初代ウォートン公爵)|フィリップ・ウォートン]]が叙されるが、一代で絶家。前身の[[ウォートン男爵]]は現存。<br /> *[[エクセター公爵]]:王族のホランド家が保有したが、1475年に絶家。<br /> *[[オーモンド公爵]]:バトラー家が3代保有したが、1758年に絶家。前身の従属爵位オーモンド伯爵は存続し、後にオーモンド侯爵を与えられるも1997年に絶家。<br /> *{{仮リンク|オールバニ公爵|en|Duke of Albany}}:王族の爵位<br /> *[[カンバーランド公爵]]:王族の爵位<br /> *{{仮リンク|キングストン=アポン=ハル公爵|en|Duke of Kingston-upon-Hull}}:ピアポイント家が2代保有したが、1773年に絶家。<br /> *[[キンタイア=ローン公爵]]:スコットランド王族{{仮リンク|ロバート・ステュアート (キンタイア=ローン公爵)|label=ロバート・ステュアート|en|Robert Stuart, Duke of Kintyre and Lorne}}が叙された。<br /> *[[クラレンス公爵]]:王族の爵位<br /> *[[クリーヴランド公爵]]:フィッツロイ家が3代、ヴェイン家(後ポーレット)が4代保有したが、1891年に絶家。<br /> *[[グリニッジ公爵]]:2代アーガイル公[[ジョン・キャンベル (第2代アーガイル公爵)|ジョン・キャンベル]]が叙されたが、一代で絶家。<br /> *{{仮リンク|ケンダル公爵|en|Duke of Kendal}}<br /> *{{仮リンク|コノート公爵|en|Duke of Connaught}}:[[ヴィクトリア (イギリス女王)|ヴィクトリア女王]]の第3王子[[アーサー (コノート公)|アーサー]]が保有した。<br /> *[[サウサンプトン公爵]]:クリーヴランド公爵フィッツロイ家が2代保有したが、1774年に廃絶<br /> *[[サフォーク公爵]]:[[チャールズ・ブランドン (初代サフォーク公爵)|チャールズ・ブランドン]]、ついで3代ドーセット侯[[ヘンリー・グレイ (初代サフォーク公爵)|ヘンリー・グレイ]]が叙された。<br /> *{{仮リンク|シャンドス公爵|en|Duke of Chandos}}:ブリッジス家が3代保有したが、1789年に廃絶<br /> *[[シュルーズベリー公爵]]:12代[[シュルーズベリー伯]][[チャールズ・タルボット (シュルーズベリー公)|チャールズ・タルボット]]が叙されたが、一代で消滅。シュルーズベリー伯は現存。<br /> *{{仮リンク|ションバーグ公爵|en|Duke of Schomberg}}:ションバーグ家が3代保有したが、1719年に絶家。<br /> *[[ダグラス公爵]]:3代ダグラス侯{{仮リンク|アーチボルド・ダグラス (初代ダグラス公爵)|label=アーチボルド・ダグラス|en|Archibald Douglas, 1st Duke of Douglas}}が叙されたが、一代で絶家。ダグラス侯位はハミルトン公爵家が継承。<br /> *[[ドーヴァー公爵]] クイーンズベリー公ダグラス家が2代保有したが、1778年に廃絶<br /> *[[ドーセット公爵]]:サックヴィル家が5代保有したが、1843年に絶家。<br /> *[[ニューカッスル公爵|ニューカッスル=アポン=タイン公爵]]:キャヴェンディッシュ家が2代、{{仮リンク|ジョン・ホールズ (初代ニューカッスル公)|label=ジョン・ホールズ|en|John Holles, 1st Duke of Newcastle}}が1代、[[トマス・ペラム=ホールズ (初代ニューカッスル公)|トマス・ペラム=ホールズ]]が1代保有した<br /> *[[ニューカッスル公爵|ニューカッスル=アンダー=ライン公爵]]:[[トマス・ペラム=ホールズ (初代ニューカッスル公)|トマス・ペラム=ホールズ]]とペラム=クリントン家が10代保有したが、1988年に絶家。従属爵位だった[[リンカーン伯]]は現存<br /> *[[バッキンガム公爵]]:スタッフォード家が3代、ヴィリアーズ家が2代保有したが、1687年に絶家。<br /> *{{仮リンク|バッキンガム=ノーマンビー公爵|en|Duke of Buckingham and Normanby}}:シェフィールド家が2代保有したが、1735年に絶家。<br /> *[[バッキンガム=シャンドス公爵]]:グレンヴィル家が3代保有したが、1889年に絶家。従属爵位だった[[コバム子爵]]は現存。<br /> *[[ブリッジウォーター公爵]] : [[ブリッジウォーター伯爵]]エジャートン家が2代有したが、1803年に絶家。ブリッジウォーター伯位も1829年に絶家<br /> *[[ポートランド公爵]]:ベンティンク家が9代保有したが、1990年に絶家。前身の従属爵位[[ポートランド伯爵]]は現存。<br /> *[[ボルトン公爵]]:[[ウィンチェスター侯]]ポーレット家が6代保有したが、1794年に絶家。ウィンチェスター侯は現存。<br /> *マンスター女公爵:[[エーレンガルト・メルジーネ・フォン・デア・シューレンブルク]]が1代限りで保有<br /> *[[モンマス公爵]]:チャールズ2世の庶子[[ジェイムズ・スコット (初代モンマス公爵)|ジェイムズ・スコット]]が1663年に叙されたが、1685年に剥奪。従属称号の[[ドンカスター伯爵]]は1743年に復活し現存。<br /> *{{仮リンク|モンタギュー公爵|en|Duke of Montagu}}:モンタギュー家が保有したが、1766年に絶家。<br /> *[[リーズ公爵]]:オズボーン家が12代保有したが、1964年に絶家。<br /> *[[ロス公爵]]:スコットランド王族の爵位<br /> *[[ロシズ公爵]]:7代ロシズ伯{{仮リンク|ジョン・レズリー (初代ロシズ公爵)|label=ジョン・レズリー|en|John Leslie, 1st Duke of Rothes}}が叙されたが、一代で絶家。ロシズ伯は現存。<br /> *{{仮リンク|ローダーデール公爵|en|Duke of Lauderdale}}:2代ローダーデール伯[[ジョン・メイトランド (初代ローダーデイル公)|ジョン・メイトランド]]が叙されたが、一代で絶家。ローダーデール伯は現存。<br /> <br /> == その他の公爵 ==<br /> *[[公#ヨーロッパにおける公の称号]]<br /> *[[公#中国における公の称号]]<br /> *[[貴族]]<br /> *[[プリンス]]({{Lang|en|prince}})<br /> *[[ヘルツォーク]]([[:en:Herzog (title)|Herzog]])<br /> <br /> == 脚注 ==<br /> {{reflist}}<br /> <br /> == 参考文献 ==<br /> === 文献資料 ===<br /> * 新村出編『広辞苑 第六版』(岩波書店、2011年)ISBN 400080121X<br /> * 松村明編『大辞林 第三版』(三省堂、2006年)ISBN 4385139059<br /> *{{Cite book|和書|author=[[小林章夫]]|date=1991年(平成3年)|title=イギリス貴族|series= [[講談社現代新書]]1078|publisher=[[講談社]]|isbn=978-4061490789|ref=小林(1991)}}<br /> *{{Cite book|和書|date=1987年(昭和62年)|title=英国の貴族 遅れてきた公爵||author=[[森護]]|publisher=[[大修館書店]]|isbn=978-4469240979|ref=森(1987)}}<br /> <br /> == 関連項目 ==<br /> *[[貴族院 (日本)#公爵議員・侯爵議員]]<br /> *[[公爵領]]<br /> * [[貴族]]<br /> * [[爵位]]<br /> * [[大公]]<br /> * [[侯爵]]<br /> * [[伯爵]]<br /> * [[子爵]]<br /> * [[男爵]]<br /> <br /> {{日本の旧華族}}<br /> <br /> {{デフォルトソート:こうしやく}}<br /> [[Category:公爵|*]]<br /> [[Category:日本の爵位]]<br /> [[Category:中国の爵位]]<br /> [[Category:イギリスの爵位|*こうしやく]]<br /> [[Category:フランスの爵位|*こうしやく]]</div> 219.96.7.204 儀礼称号 2018-09-14T00:03:17Z <p>219.96.7.204: </p> <hr /> <div>{{複数の問題|独自研究=2015年3月|出典の明記=2015年3月|正確性=2015年3月}}<br /> &#039;&#039;&#039;儀礼称号&#039;&#039;&#039;(ぎれいしょうごう、courtesy title)とは、[[儀礼]]的に名乗る[[称号]]。[[栄誉称号]]のひとつ。主にヨーロッパの[[王族]]、[[貴族]]において[[爵位]]、称号を有する当主以外の家族が、儀礼的にそれに準じる称号を名乗る事を言う。また、公的な貴族制度がなくなった国においては貴族の称号は全て儀礼的称号といえる。日本において戦後に旧[[華族]]がこのような儀礼称号を名乗る例は見られない。<br /> <br /> ==イギリス貴族の儀礼称号==<br /> [[イギリス]]の[[貴族]]において正式な貴族(peer:有爵者)は当主一人であるが、その家族も身分に従った儀礼的な称号(courtesy title)で呼称される。伯爵(Earl)以上の貴族で、従たる爵位(subsidiary titles)を有する場合、その長男やさらにその長男は当主の主たる爵位以外のいずれかの爵位を(当該爵位の保有者であることを示す定冠詞(the)を除外した形で)名乗ることができる(例えば[[ノーフォーク公]](the Duke of Norfolk)は[[アランデル伯爵]](the Earl of Arundel)でもあるため、その長男はアランデル伯爵(Earl of Arundel)を名乗る)。それ以外の子女や子爵以下の貴族の全ての子女は、当主の身分に準じて[[卿#イギリス|ロード]](Lord)、[[レディ]](Lady)、[[オナラブル]](Honourable)の敬称が許される。<br /> <br /> なお、有爵者たる貴族の夫人は、夫の爵位の女性形(自身の権利において爵位を有する場合と同じ称号。例えば、伯爵夫人の場合は女伯爵と同じcountess。)を(正式な場合には夫の氏名とともに)名乗るが、これは儀礼称号とはされない。<br /> <br /> ==その他==<br /> *[[イタリア]]は[[1946年王政廃止に関するイタリアの国民投票|1946年6月2日の国民投票]]によって王政の廃止が決まり、[[1948年]][[1月1日]]の[[イタリア共和国憲法]]施行で正式に貴族制度が廃止されたが、憲法の経過規定第14条は、「[[1922年]][[10月28日]]以前に存在した貴族の爵位に付随する名称は、氏名の一部とみなされる」と規定している。基準日となる1922年10月28日は、[[ファシスト党]]の[[ローマ進軍]]を受けて、国王[[ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世]]が[[ベニート・ムッソリーニ]]に組閣を命じた日の前日である。<br /> <br /> ==関連項目==<br /> *[[爵位]]<br /> *[[称号]]<br /> *[[栄誉称号]]<br /> *[[公爵]]<br /> *[[侯爵]]<br /> *[[伯爵]]<br /> *[[子爵]]<br /> *[[男爵]]<br /> *[[夫人]]<br /> <br /> {{デフォルトソート:きれいしようこう}}<br /> [[category:儀礼称号|*]]</div> 219.96.7.204 名誉職 2018-09-14T00:00:23Z <p>219.96.7.204: /* 関連項目 */</p> <hr /> <div>{{混同|栄誉職}}<br /> &#039;&#039;&#039;名誉職&#039;&#039;&#039;(めいよしょく)とは、特定の[[法人]]その他の[[組織 (社会科学)|組織]]・[[団体]]において実質的な権限・責任の伴わない名義上の職のことをいう。<br /> <br /> ==名誉職とは==<br /> 名誉ある職ではなく、名義上の職であるというのが本質的な意味である。基本的には会社の運営・経営に対して長年にわたり大きな功績を残し、第一線を退いたベテランの経営者や功労者が就くために設定される役職である。<br /> <br /> [[給与]]等の[[報酬]]が伴う場合と、そうでない場合があり、はじめから名誉職として設置されている職責もあれば、企業の意思決定の実権を失って事実上は名誉だけで職責のないものと位置づけられている場合もある。また、高い知名度・カリスマ性・影響力を持っている人物や国際的に権威のある賞を受賞した人物が第一線から退く場合などには、単純に功績を称えてのポストというだけではなく、引退後に万一にも経済的困窮の状態に陥られると会社のイメージに関わる、あるいは他社で競合する事業を立ち上げられると困るために権利確保をしておくなどといった事情から、一種の[[捨扶持]]を与えるために名誉職を用意することもある。<br /> <br /> 公職では刑務所の慰問に尽力したとして[[杉良太郎]]が[[刑務官|特別矯正監]]に任命されるなど、功績を讃えるために創設されることがある。他にも警察が著名人を[[一日署長]]を任命するなど、イベント時のポストが臨時で設置される。これらは本来の意義通り『名義上の職』であり、実務上の権限は無い。<br /> <br /> 企業では[[名誉顧問]]、[[名誉会長]]などが名誉職に相当する。また、単なる[[会長]]・[[顧問]]であってもその人物のために新設される場合には実質では名誉職であることが見られる。人事などで企業経営に対する影響力を持ったり、報酬が支払われている場合もあることから、時代にそぐわないとして廃止される場合も多い。鉄道会社ではイベントとして[[駅長#一日駅長|一日駅長]]が任命されることがある。<br /> <br /> 他方、昨今の[[ベンチャー企業]]・[[情報技術|IT]]企業などにおいては、若くして企業を立ち上げた創業者が当初は企業経営を華々しく成功させて俗に言う「カリスマ社長」となり、[[株式市場]]に[[上場]]させるなどしたまではよかったものの、その後の業績低迷や他の有力[[株主]]・[[銀行]]の意向などが要因となって経営の実権を奪われ、場合によっては30代程度の若さで社長職から「[[勇退]]」させられ、新設ポストの会長などといった実権の無い名誉職に追いやられるという事例も見られる。<br /> <br /> ==関連項目==<br /> *[[称号]]<br /> *[[名誉称号]]<br /> *[[閑職]]<br /> * [[名誉城主]]<br /> <br /> {{DEFAULTSORT:めいよしよく}}<br /> [[Category:企業の役職]]<br /> [[Category:経済人・資産家の称号]]<br /> [[Category:職務称号]]<br /> [[Category:名誉称号|*めいよしよく]]</div> 219.96.7.204 免許 2018-09-13T23:55:40Z <p>219.96.7.204: /* 関連項目 */</p> <hr /> <div>{{出典の明記|date=2018年9月}}<br /> &#039;&#039;&#039;免許&#039;&#039;&#039;(めんきょ)とは、以下の2つを指す。<br /> # [[日本]]の[[芸道]]における[[家元]]が門人に[[流派]]の名乗りを許すること。<br /> # 1.の概念から派生した日本の[[法律]]上の免許のこと。<br /> <br /> == 芸道における免許 ==<br /> 免許とは本来、日本[[伝統芸能]]、[[芸道]]、例えば[[茶道]]、[[華道]]、[[古武道|日本武術]]、[[日本舞踊]]、[[能]]、[[狂言]]、[[兵法|軍学]]などの[[流派]]において、師匠が弟子に一通りの内容を伝授すること。または、伝授に際して与えられる、“伝授が為されたことを証明する”&#039;&#039;&#039;許し状&#039;&#039;&#039;(ゆるしじょう)のこと。<br /> <br /> なお、その芸事における全伝を伝授するのは、&#039;&#039;&#039;皆伝&#039;&#039;&#039;(かいでん)と言い、免許とは異なるが、免許と皆伝が同時に伝授された場合は、併せて&#039;&#039;&#039;免許皆伝&#039;&#039;&#039;(めんきょかいでん)と呼ばれる。これはその流派により制度が異なるので[[家元]]・[[宗家]]には免許皆伝があるものの、門人に対しては必ずしもあるわけではない。また門人に免許を与える権限も宗家にしかない流派、免許門人に可能な流派などさまざまである。<br /> <br /> [[大相撲]]においても過去には[[力士]]が[[横綱]]を締めるには[[吉田司家]]が発行する免許が必要であり、これを持たずに[[横綱土俵入り]]を行なった力士もいるが1人として歴代の正式な横綱には数えられていない。同様に[[立行司]]も吉田司家の免許により紫房(もしくは紫白房)[[軍配]]を許されることでその地位に就くものであった。<br /> <br /> == 法律の免許 ==<br /> [[法学]]において、免許とは一般に禁止・制限されている行為を[[行政機関]]が特定の人に対して許すことや、特定の人に権利を定めて地位を与えることである。講学上の概念としては、[[許可]]と[[特許_(行政法)|特許]]の双方を含む。<br /> <br /> 法律上の文言では、資格(許可・特許)のことを講学上の概念とは別に免許という語が使用されている場合がある。<br /> 日本では日常会話において単に「免許」という際には、最も身近な[[自動車]]の[[運転免許]](道路交通法 84条)を指すことが多い(→[[日本の運転免許]])。求人広告で「要普免」などとも表現される。<br /> <br /> 大まかに免許は、自動車の運転免許など[[個人|自然人]](個人)に与えられるものと、[[法人]]([[団体]])に与えられるもの(事業免許)に分けることができるが、[[個人|自然人]](個人)にも[[法人]]にも与えられるものもある。<br /> <br /> 免許を証明する書面は&#039;&#039;&#039;免許証&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;免許状&#039;&#039;&#039;などと呼ばれ、個人に与えられたものは、時に[[身分証明書]]の代用として機能することもある。これは、当該官庁が、[[法律]]に基づきその免許・資格を与えた[[人 (法律)|人]]が確かに存在すると証明しているのと同じだからである&lt;ref&gt;試験受験の際には受験票を兼ねる申請書に顔写真を貼り付けて提出し、合格して免許証・資格証の交付を受ける際には免許証申請書に[[住民票]]を添えなければならない&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> {{Main2|法令に基づく日本の免許の一覧|日本の免許一覧|法令に基づかない民間資格との関連など|日本の資格一覧|免状|日本の免状一覧|許認可|日本の許認可一覧}}<br /> <br /> == 脚注 ==<br /> {{脚注ヘルプ}}<br /> {{Reflist}}<br /> <br /> == 関連項目 ==<br /> * [[資格]]<br /> <br /> {{Culture-stub}}<br /> {{Sikaku-stub}}<br /> {{Law-stub}}<br /> <br /> {{デフォルトソート:めんきよ}}<br /> [[Category:免許|*]]<br /> [[Category:流派|*めんきよ]]<br /> [[Category:文化・芸能の称号]]<br /> [[Category:武道・武術の称号]]</div> 219.96.7.204 兵法家 2018-09-13T12:10:24Z <p>219.96.7.204: /* 外部リンク */</p> <hr /> <div>&#039;&#039;&#039;兵法家&#039;&#039;&#039;とは、<br /> # 「へいほうか」とは、中国の[[孫武]]や[[呉起]]など軍学としての戦略、戦術を説く[[兵法]]者。⇒[[兵家]]<br /> # 「ひょうほうか」とは、日本の[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の武術家。以下詳説する。<br /> ----<br /> <br /> &#039;&#039;&#039;兵法家&#039;&#039;&#039;(ひょうほうか)は、日本の[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]に、[[武芸 (日本)|武芸]]([[剣術]]・[[槍術]]などの[[古武道|武術]])を教授することにより生計を立てていた者のこと。<br /> <br /> 「兵法(ひょうほう)」はあくまで個人の武芸の技を磨くものである。そのため、戦場においてはあまり役に立つものとは考えられておらず、高名な武将([[加藤清正]]・[[福島正則]]など)であっても兵法を習ったというものは少なく、むしろ当時は[[足軽]]技とみなされる傾向にあった。[[松浦清]]は[[大名]]であるが、[[心形刀流]]剣術の達人であった。兵法家として自称したのは、[[塚原卜伝]]・[[上泉信綱]]・[[宮本武蔵]]などが有名であるが、ただし、兵法家の価値は全般的には必ずしも高くはなく(大局を宰領する武将とはみなされなかったのであろう)、[[大名]]出身の[[柳生藩|柳生家]]以外でもっとも高禄であった宮本武蔵でさえ、晩年、[[細川氏|細川家]]において、客分700石という小藩の[[家老]]程度の待遇であった(もっとも武蔵はその芸術家的天分と剣術を形而上的領域にまで昇華したという点で、並みの「兵法家」とは区別できる)。ただし、それは軍や政治的価値観においての話であり、本来兵法とは自分の身を守るための護身術であり、政治的価値を見出すのは見当違いとも言える。また、単に戦うための技術を学ぶだけの格闘技と違い、手段を選ばず自らが生き残る事に主眼を置いたより実戦的な生き残り術でもある。それと同時に厳しい鍛錬により自らを律し、正道を成す為の精神鍛錬の意味合いも強い。<br /> <br /> == 『甲陽軍鑑』における分類 ==<br /> 『[[甲陽軍鑑]]』品第四十(下)では、兵法家は3つに分類されている。<br /> <br /> * &#039;&#039;&#039;兵法つかい&#039;&#039;&#039; - 練習を通して、人に教える事ができるもの(教育者・指導者)。<br /> * &#039;&#039;&#039;兵法者&#039;&#039;&#039; - 剣技に優れ、勝負に強い者(達人)。例として、塚原卜伝と前原筑前の名が挙げられており、卜伝を、「奇特はないが、兵法修行に励み、諸侍の大小ともに畏敬される者」と評し、筑前については、「さしずめ目も足も手も身もきく、奇特を現す者」と分類している。<br /> * &#039;&#039;&#039;兵法仁&#039;&#039;&#039; - 武芸に優れ、特別な技巧なくしても何度でも手柄を取り、勝利する者(知略家)。[[山本勘助]]の名が挙げられており、この「兵法仁」が3段階の[[ヒエラルキー]]の頂点と位置付けられている。<br /> <br /> ただし、「軍なるものは進止ありて、正奇なし(基本運用は進むか止まるかであって、正兵・奇兵は瑣末である)」(『闘戦経』)の記述にあるように、知略家を頂点とする考え方に否定的な兵法書もある。理由として、奇策に頼り過ぎると、真正面から攻めること、しいては敵を恐れるようになってしまう為である&lt;!-- 参考『闘戦経』 2011年より --&gt;。『闘戦経』が「大将視点」で語られ&lt;!-- 「戦国の主は、疑を捨て、権を益すにあり」は一例。 --&gt;、『[[五輪書]]』が「一兵視点」で説かれたのに対し、『甲陽軍鑑』の場合、「軍師視点」であり、従って、兵法を指導できる程度の者を下位とし、兵法で勝ち続ける者を中位、その上位を戦術に長けた者と位置付けた(山本勘助も京流を初めとする多くの術を学んだ武芸者ではある)。<br /> <br /> == 中条流における兵法家解釈 ==<br /> [[中条流]]の秘伝では、兵法を「&#039;&#039;&#039;平法&#039;&#039;&#039;」と記し、理由として、「この心を何といふなれば、平かに一生事無きをもって第一とするなり。戦を好むは道に非ず。やむを得ざる時に太刀を手にするべきなり。この教えを知らずして、この手に誇らば、命を捨てるもとたどるべし」とあり、兵法家は好戦的になるべきではない(好戦的な者は腕に覚えがあっても命を落とすのみ)と道徳を説いている流派も登場している。<br /> <br /> == 外部リンク ==<br /> * [http://homepage1.nifty.com/longivy/note/li0002.htm ろんがいび:「兵法」の語義の変遷]<br /> * [http://kenkaku.la.coocan.jp/kenzyutu/kensikan.htm 剣客の待遇]<br /> <br /> {{デフォルトソート:ひようほうか}}<br /> [[Category:日本武術]]<br /> [[Category:武術家|*ひようほうか]]</div> 219.96.7.204 ヒトゲノム計画 2018-09-07T09:18:38Z <p>219.96.7.204: </p> <hr /> <div>{{複数の問題<br /> |出典の明記=2016年7月<br /> |言葉を濁さない=2016年7月<br /> }}<br /> {{Genomics}}<br /> <br /> &#039;&#039;&#039;ヒトゲノム計画&#039;&#039;&#039;(ヒトゲノムけいかく、{{lang-en-short|Human Genome Project}})は、[[ヒト]]の[[ゲノム]]の全[[塩基配列]]を解析するプロジェクト。[[1953年]]の[[デオキシリボ核酸|DNA]]の[[二重らせん]]構造の発見から50周年となる[[2003年]]に完了した。<br /> <br /> プロジェクトは、各国のゲノムセンターや大学などによる国際ヒトゲノム配列コンソーシアムによって組織され、これまでにワーキング・ドラフトを発表し、その改良版の発表が継続して行われている。解読されたゲノムは、[[NCBI]]や[[UCSC]]、および Sanger Centerなどの研究機関で参照することができる。<br /> <br /> [[ファイル:Wellcome genome bookcase.png|thumb|解読された全ヒトゲノムの上製本]]<br /> ==歴史==<br /> このプロジェクトは1990年に米国のエネルギー省と厚生省によって30億ドルの予算が組まれて発足し、15年間での完了が計画されていた。発足後、プロジェクトは国際的協力の拡大と、[[ゲノミクス|ゲノム科学]]の進歩(特に配列解析技術)、および[[情報工学|コンピュータ関連技術]]の大幅な進歩により、ゲノムの下書き版(ドラフトとも呼ばれる)を2000年に完成した。このアナウンスは2000年6月26日、[[ビル・クリントン]]米国大統領と[[トニー・ブレア]]英国首相によってなされた。これは予定より2年早い完成であった。完全・高品質なゲノムの完成に向けて作業が継続されて、2003年4月14日には完成版が公開された。そこにはヒトの全[[遺伝子]]の99%の配列が99.99%の正確さで含まれるとされている<br /> <br /> プロジェクトが加速したもう一つの理由として[[セレラ・ジェノミクス社]]による商業的なヒトゲノムプロジェクトの存在がある。この企業は[[ショットガン・シークエンシング法]]という新しい方式でシークエンシングを行い、新たに発見された遺伝子を特許化しようとした。しかしこれは公的資金によって進められているヒトゲノムプロジェクト(こちらを以下HGPとする)と拮抗してしまうことから、調整を図る為にバミューダで会議が開かれることとなり、作成されたデータについては作成から24時間を基本として全て公開して全ての研究者が自由に利用できるようにするという項目を含む、[[バミューダ原則]](1996年2月)という形で合意が成された。最終的には、このような競争はプロジェクトにとって非常に良いものであったことが証明されたといえる。<br /> <br /> ゲノムのドラフトは2000年6月に発表されたが、その詳細な情報についてはセレラ社もHGP側も翌年2月まで公表されなかった。2001年2月に、HGP側はNature誌の特別号で&lt;ref&gt;[http://www.nature.com/nature/journal/v409/n6822/full/409860a0.html Initial sequencing and analysis of the human genome.] Nature 409, 860-921. 2001年2月15日. &lt;/ref&gt;、セレラ社はScience誌で&lt;ref&gt;[http://www.sciencemag.org/content/291/5507/1304.full The Sequence of the Human Genome] Science 291, 1304-1351. 2001年2月16日. &lt;/ref&gt;その配列に対する分析と、そのドラフトの構築に用いた手法の詳細が発表された。このゲノムのドラフトは全ゲノムのうちの約90%分の足場にはなると期待されており、そのギャップを埋めていくことで完成に近付けることになる。<br /> <br /> 各ドラフト配列は最低でも4回から5回はチェックされ、シークエンシングの完成度と精度が向上していく。ドラフト配列では約47%が高品質配列であったが、完成版では7-8重のチェックがなされ、エラー率は10,000残基中で1残基程度まで抑えられているという{{誰2|date=2016年7月}}。<br /> <br /> ヒトゲノムプロジェクトは、数ある国際[[ゲノムプロジェクト]]の一つに過ぎず、各ゲノムプロジェクトはそれぞれの生物のシークエンシングを行っている。ヒトの[[デオキシリボ核酸|DNA]]配列の解読は確実な利益を我々にもたらす一方で、[[ハツカネズミ|マウス]]や[[ショウジョウバエ]]、[[ゼブラフィッシュ]]、[[酵母]]、[[線虫]]、また数多くの微生物や寄生虫などの[[モデル生物]]の配列解析の成果は生物学と医学の発展に重要な役割を果たすことが期待されている{{誰2|date=2016年7月}}。<br /> <br /> ==プロジェクトのゴール==<br /> HGPの目標は30億塩基対の高品質な配列を決定するだけでなく、この巨大なデータに含まれる遺伝子を見つけることも重要である。プロジェクトの予備調査では約22,000遺伝子が存在するとされているが、この数は多くの研究者の予測よりも遥かに少ないこともあり、現在でもこの調査は進行中である。HGPのもう一つのゴールはより高速かつ効率的なDNAシークエンシング法を開発し、それを産業化に向けて技術移転することにある。<br /> <br /> 今日、ヒトの[[デオキシリボ核酸|DNA]]配列情報はデータベースに蓄積され、インターネットを介して誰でも利用することができる。ただし、これらのデータは何らかの解釈を加えなければほとんど利用価値が無いことから、これらのデータを解析する[[プログラム (コンピュータ)|コンピュータ・プログラム]]が数多く開発されている。&lt;ref&gt; [http://togodb.biosciencedbc.jp/togodb/view/stga_category ゲノム解析ツール リンク集] バイオサイエンスデータベースセンター NBDC (Natiolal Bioscience Database Center) 科学技術振興機構 JST &lt;/ref&gt;<br /> <br /> 単純なDNA[[塩基配列]]の中から遺伝子の境界を特定したり、何らかの特徴を見出す作業は&#039;&#039;&#039;アノテーション&#039;&#039;&#039;と呼ばれ、[[バイオインフォマティクス]]の得意とする分野である。現在でも最高品質のアノテーションを行うには生物の専門家に頼らねばならないが、その作業には大変な時間を要する。しかし、ゲノムプロジェクトのようなハイスループットなデータ生産の現場では、それに見合うペースでのアノテーションが必要とされたことから、コンピュータプログラムが利用されるケースが多くなってきたのである。現在、アノテーションに用いられている技術として最も役立っているのは、人間の言語の統計モデルをDNA配列解析に応用したものであり、[[形式文法]]などの[[計算機科学|コンピュータ・サイエンス]]から導入した手法を利用している。<br /> <br /> ==もたらされる利益==<br /> ゲノムデータを解釈する作業は、まだ始まったばかりである。ゲノム情報の解明は、[[医学]]や[[バイオテクノロジー]]の飛躍的な発展に貢献することが期待されている。そしてやがては[[悪性腫瘍|ガン]]や[[アルツハイマー病]]などの疾患の治療に役立つものになると思われる{{誰2|date=2016年7月}}。<br /> <br /> 例えば、ある研究者が何らかのガンについて調査していく過程で、ある遺伝子に着目したとする。この研究者は[[World Wide Web|WWW]]のヒトのゲノム・データベースを訪れることで、他の研究者がこれまでにこの遺伝子について何を調査したのか、すなわち3次構造はどうなっているのか、どのような機能があるのか、他のヒトの遺伝子との進化上での関係はどうなっているのか、酵母やマウス、ショウジョウバエと比べてどうなっているのか、有害な突然変異が起こる可能性があるか、他の遺伝子と相互作用するのか、どの組織で発現しているのか、関連する疾患は何か…などについて調査することができる。<br /> このような得られる情報の種類は数多くあり、これは[[バイオインフォマティクス]]が注目を浴びる一因となっている。<br /> <br /> 特にゲノム学と関連して注目を集めている技術としては[[DNAマイクロアレイ|マイクロアレイ]]がある(マイクロアレイはDNAチップとも呼ばれる)。これはDNAのプローブが小さな板の上に規則的に配置されたもので、3万件以上の遺伝子について、同時にそれらのサンプル内における存在量を測定できるものである。この技術はこれからの医学・科学向けの診断用ツールとしての可能性を秘めていることから、大きな関心を集めている。また、ヒトゲノム計画の結果として今後も数多くの技術がここから派生すると見られている{{誰2|date=2016年7月}}。<br /> <br /> 生物間でのDNA配列比較分析が可能となったことで、[[進化]]の研究においては新たな道が切り開かれた。現在では進化に関わる問題は、多くの場合は[[分子生物学]]の手法によって研究を進めることができる。実に、[[リボソーム]]の出現や細胞内小器官の出現、[[胚]]発生から各種器官への発達、[[脊椎動物]]の[[免疫系]]の出現までを分子レベルで関連付けできるのである。このプロジェクトのデータによって、ヒトとその近縁の種(霊長類や哺乳類)の違いや類似性に関する問題が解明されていくであろうと期待されている{{誰2|date=2016年7月}}。<br /> <br /> == 脚注 ==<br /> {{脚注ヘルプ}}<br /> {{Reflist}}<br /> <br /> ==関連項目==<br /> * [[ヒトゲノム]]<br /> * [[遺伝学]]<br /> * [[バイオインフォマティクス]]<br /> * [[オーダメイド医療]]<br /> * [[クレイグ・ヴェンター]]<br /> * [[1000人ゲノムプロジェクト]]<br /> * [[DNAの日]]<br /> <br /> == 外部リンク ==<br /> *[http://www.ncbi.nlm.nih.gov/gene Home - gene - NCBI] - アメリカ[[国立生物工学情報センター]]の遺伝子データベース<br /> {{DEFAULTSORT:ひとけのむけいかく}}<br /> <br /> [[Category:生物学の研究技術]]<br /> [[Category:生物学史]]<br /> [[Category:ゲノムプロジェクト]]<br /> [[Category:ゲノミクス|*ひとけのむけいかく]]<br /> [[Category:バイオインフォマティクス|*ひとけのむけいかく]]</div> 219.96.7.204 力 (物理学) 2018-09-05T12:17:14Z <p>219.96.7.204: /* 批判 */ 長らく出典の示されない記述を除去。</p> <hr /> <div>[[物理学]]における&#039;&#039;&#039;力&#039;&#039;&#039;(ちから、{{lang-en-short|force}})とは、[[物体]]の[[状態]]を[[変化]]させる[[原因]]となる作用であり{{sfn|培風館物理学三訂版|2005|loc=【力】}}、その作用の大きさを表す[[物理量]]である。特に質点の[[動力学]]においては、質点の[[運動_(物理学)|運動状態]]を変化させる[[状態量]]のことをいう{{sfn|小出|1997|p=18}}。広がりを持つ物体の場合は、運動状態とともにその形状を変化させる。<br /> <br /> 本項ではまず、[[古代]]の[[自然哲学]]における力の扱いから始め[[近世]]に確立された「[[ニュートン力学]]」や、[[古典物理学]]における[[力学]]、すなわち[[古典力学]]の発展といった歴史について述べる。<br /> <br /> 次に歴史から離れ、現在の一般的視点から古典力学における力について説明し、その後に古典力学と対置される[[量子力学]]について少し触れる。<br /> <br /> 最後に、力の概念について時折なされてきた、「[[形而上学|形而上]]的である」といったような批判などについて、その重要さもあり、項を改めて扱う。<br /> <br /> == 歴史 == <br /> [[自然哲学]]において、力という概念は、何かに内在すると想定されている場合と、外から影響を及ぼすと想定されている場合がある。古代より思索が重ねられてきた。<br /> <br /> === 古代 ===<br /> [[プラトン]]は物質は[[プシュケー]]を持ち運動を引き起こすと考え、[[デュナミス]]という言葉に他者へ働きかける力と他者から何かを受け取る力という意味を持たせた。<br /> <br /> [[アリストテレス]]は『[[自然学 (アリストテレス)|自然学]]』という書を著したが、物質の本性を因とする自然な運動と、物質に外から強制的な力が働く運動を区別した。<br /> <br /> [[6世紀]]の[[ピロポノス]]は、物質そのものに力があると考えた。<br /> <br /> [[アラビア]]の自然哲学者ら([[アラビア科学]])の中にはピロポノスの考えを継承する者もいた。<br /> <br /> === ルネサンス以降 === <br /> [[14世紀]]の[[ビュリダン]]は、物自体に &#039;&#039;{{lang|la|impetus}}&#039;&#039;(インペトゥス、いきおい)が込められているとして、それによって物の運動を説明した。これを[[インペトゥス理論]]と言う。<br /> <br /> [[Image:StevinEquilibrium.svg|right|200px|thumb|&#039;&#039;&#039;ステヴィンの機械&#039;&#039;&#039;。斜面上に等間隔に重さの等しい球を配置する。それぞれの球を縄で繋ぎ鎖を作る。このとき鎖が[[斜面]]上の一方へと回転するなら、これは[[永久機関]]として利用できる。]]<br /> [[ベルギー]]出身の[[オランダ人]]工学者[[シモン・ステヴィン]] ([[:en:Simon Stevin|Simon Stevin]]、1548 &amp;mdash; 1620) は力の合成と分解を正しく扱った人物として有名である。[[1586年]]に出版した著書 &quot;&#039;&#039;De Beghinselen Der Weeghconst&#039;&#039; &quot; の中でステヴィンは[[斜面]]の問題について考察し、「ステヴィンの機械」と呼ばれる架空の[[永久機関]]が実際には動作しないことを示した&lt;ref group=&quot;注&quot;&gt;ステヴィンによるこの問題の証明は &#039;&#039;{{en|Epitaph of Stevinus}}&#039;&#039; (ステウィヌスの碑)と呼ばれる。Stevinus はステヴィンのラテン語名。&lt;/ref&gt;。つまり、どのような斜面に対しても斜面の頂点において力の釣り合いが保たれるには{{仮リンク|力の平行四辺形の法則|en|Parallelogram of force}}が成り立っていなければならないことを見出したのである。<br /> <br /> 力の合成と分解の規則は、ステヴィンが最初に発見したものではなく、それ以前にもそれ以後にも様々な状況や立場で論じられている。同時代の発見として有名なものとして[[ガリレオ・ガリレイ]]の理論がある。ガリレオは斜面の問題が[[てこ]]などの他の機械の問題に置き換えられることを見出した。<br /> <br /> その後、フランスの数学者、天文学者である[[フィリップ・ド・ラ・イール]] (1640 &amp;mdash; 1718) は数学的な形式を整え、力を[[空間ベクトル|ベクトル]]として表すようになった{{refnest|group=&quot;注&quot;|ただし現在用いられるベクトルの記法が発達したのは[[19世紀]]以降である{{sfn|湯川|1975|pp=58&amp;ndash;62}}。}}。<br /> <br /> [[ルネ・デカルト]]は[[渦動説]] ({{en|Cartesian Vortex}}) を唱え、「&#039;&#039;空間には隙間なく目に見えない何かが満ちており、物が移動すると渦が生じている&#039;&#039; 」とし、物体は[[エーテル (物理)|エーテル]]の[[渦]]によって動かされていると説明した{{sfn|Barbour|2001}}{{sfn|内井|2006}}。<br /> <br /> === ニュートン力学 ===<br /> 現代の力学に通じる考え方を体系化した人物として、しばしば[[アイザック・ニュートン]]が挙げられる。&lt;!--[[ガリレオ・ガリレイ|ガリレオ]]、[[ヨハネス・ケプラー|ケプラー]]など先行する研究は存在するが、力学的な力の本質を運動を変化させる働きにあるとし、運動が変化するとはどういうことか、裏返せば運動が変化しないということはどういうことかを現代的視点から体系的に記述した初めての人物である{{要出典|date=2008年11月}}。--&gt;ニュートンは[[ガリレオ・ガリレイ]]の動力学も学んでいた。またデカルトの著書を読み、その渦動説についても知っていた(ただしこの渦動説の内容については批判的に見ていた)。<br /> <br /> ニュートンは[[1665年]]から[[1666年]]にかけて数学や自然科学について多くの結果を得た。特に物体の運動について、{{仮リンク|力の平行四辺形の法則|en|Parallelogram of force}}を発見している。この結果は後に『[[自然哲学の数学的諸原理]]』(プリンキピア、[[1687年]]刊)の中で[[運動の第2法則]]を用いて説明されている&lt;ref&gt;[[s:en:The Mathematical Principles of Natural Philosophy (1729)/Axioms, or Laws of Motion|Newton&#039;s &#039;&#039;Mathematical Principles of Natural Philosophy&#039;&#039;, Axioms or Laws of Motion, Corollary I]]. [[s:メインページ|ウィキソース]]。&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> ニュートンはその著書『自然哲学の数学的諸原理』において、[[運動量]] ({{en|quantity of motion}}) を物体の速度と質量 ({{en|quantity of matter}}) の[[積]]として定義し、[[ニュートン力学|運動の法則]]について述べている。ニュートンの運動の第2法則は「&#039;&#039;運動の変化は物体に与えられた力に比例し、その方向は与えられた力の向きに生じる&#039;&#039; 」というもので、これは現代的には以下のように定式化される。<br /> :&lt;math&gt;\frac{\mathrm{d}\boldsymbol{p}}{\mathrm{d}t} = \boldsymbol{F}\,.&lt;/math&gt;&lt;ref group=&quot;注&quot; name=&quot;futoji&quot;&gt;太字の変数は[[ベクトル]]量を表す。&lt;/ref&gt;<br /> ここで {{math|{{sfrac|d&#039;&#039;&#039;&#039;&#039;p&#039;&#039;&#039;&#039;&#039;|d&#039;&#039;t&#039;&#039;}}}} は物体が持つ運動量 &#039;&#039;&#039;{{mvar|p}}&#039;&#039;&#039; の[[時間微分]]、&#039;&#039;&#039;{{mvar|F}}&#039;&#039;&#039; は物体にかかる力を表す。このニュートンの第2法則は、[[運動の第1法則|第1法則]]が成り立つ[[慣性系]]において成り立つ。<br /> <br /> ニュートン自身は第2法則を[[微分]]を用いた形式では述べていない。運動の変化 ({{en|alteration of motion}}) を運動量の変化と解釈するなら、それは[[力積]]に相当する。<br /> <br /> == 熱力学 ==<br /> <br /> === エネルギーと力 ===<br /> {{main|エネルギー保存の法則}}<br /> [[熱力学]]が形成される[[19世紀]]前半までは、現在の[[エネルギー]]に相当する概念が力({{lang-la-short|&#039;&#039;vis&#039;&#039;}}, {{lang-en-short|force}}, {{lang-de-short|Kraft}})と呼ばれていた。<br /> たとえば、[[ルドルフ・クラウジウス]]は[[1850年]]の論文 ,,&#039;&#039;{{de|&amp;Uuml;ber die bewegende Kraft der W&amp;auml;rme}}&#039;&#039; &quot;{{sfn|Clausius|1850}}で[[熱力学第一法則]]について述べているが、{{de|Kraft}} という語を用いているし、その英訳でも {{en|Force}} が用いられている。<br /> <br /> 現在の[[運動エネルギー]]に対応する概念について、[[1676年]]から[[1689年]]の頃に[[ゴットフリート・ライプニッツ]]は &#039;&#039;{{la|vis viva}}&#039;&#039; と名付けた。これは当時の運動に関する[[保存則]]の議論の中で、[[保存量]]として提案されたものである。<br /> <br /> [[1807年]]に、[[トマス・ヤング]]は &#039;&#039;{{la|vis viva}}&#039;&#039; にあたる概念を&#039;&#039;&#039;エネルギー&#039;&#039;&#039;と名付けたが、直ぐ様それが一般に用いられることはなかった。<br /> [[力学]]の言葉として&#039;&#039;&#039;運動エネルギー&#039;&#039;&#039;や&#039;&#039;&#039;[[位置エネルギー|ポテンシャル・エネルギー]]&#039;&#039;&#039;が定義されるのは1850年以降のことで、運動エネルギーは1850年頃に[[ウィリアム・トムソン]]によって、位置エネルギーは[[1853年]]に[[ウィリアム・ランキン]]によってそれぞれ定義されている{{sfn|Rankine|1853}}。<br /> <br /> == 古典力学 ==<br /> {{古典力学}}<br /> {{物理量<br /> |英語=force<br /> |画像=[[画像:Mehaaniline töö.png|250px]]<br /> |記号={{mvar|F}}<br /> |次元=[[質量|M]] [[長さ|L]] [[時間|T]] {{sup-|2}}<br /> |階=[[ベクトル]]<br /> |SI=[[ニュートン (単位)|ニュートン]] (N)<br /> |CGS=[[ダイン]] (dyn)<br /> |FPS=[[パウンダル]] (pdl)<br /> |MKSG=[[重量キログラム]] (kgf)<br /> |CGSG=[[重量グラム]] (gf)<br /> |FPSG=[[重量ポンド]] (lbf)<br /> }}<br /> === 定義 ===<br /> [[古典力学]]における&#039;&#039;&#039;力&#039;&#039;&#039;({{lang-en|force}})の、最も初等的な定義は[[質量]]と[[加速度]]の積を力とするものである。<br /> :&lt;math&gt;\boldsymbol{F} = m\boldsymbol{a}.&lt;/math&gt;&lt;ref group=&quot;注&quot; name=&quot;futoji&quot; /&gt;<br /> ここで &#039;&#039;&#039;{{mvar|F}}&#039;&#039;&#039; は[[物体]]に働く力、{{mvar|m}} は物体の質量、&#039;&#039;&#039;{{mvar|a}}&#039;&#039;&#039; は物体の加速度を表す&lt;ref group=&quot;注&quot;&gt;力、質量、加速度の順序や記号は単に慣習的なものであり、文献によって様々な表現がある。例えば {{math|1=&#039;&#039;m&#039;&#039;&#039;a&#039;&#039;&#039;&#039;&#039; = &#039;&#039;&#039;&#039;&#039;F&#039;&#039;&#039;&#039;&#039;}} のように書かれている文献も数多くある。いずれにせよ、数学上あるいは物理学上の意味は同じである。&lt;/ref&gt;。力は向きと大きさによって特徴づけられ、一般には[[空間ベクトル|ベクトル量]]として表現される。この定義は[[ニュートン力学]]&lt;ref group=&quot;注&quot; name=&quot;Newtonian&quot;&gt;古典力学のうち、非[[相対論]]的な[[力学]]をニュートン力学と呼ぶ。ただし文献によっては古典力学に相対論を含めないものもある。&lt;/ref&gt;における[[運動量]]の定義と[[運動の第2法則]]から導かれる。上述の {{math|1=&#039;&#039;&#039;&#039;&#039;F&#039;&#039;&#039;&#039;&#039; = &#039;&#039;m&#039;&#039;&#039;a&#039;&#039;&#039;&#039;&#039;}} はしばしば[[ニュートンの運動方程式]](あるいは短縮して[[運動方程式]])と呼ばれる。<br /> <br /> 一般に力は[[運動の第2法則]]を満たし、物体に働く&#039;&#039;&#039;力の総和&#039;&#039;&#039;(合力)は[[運動量]]の時間変化に等しい。<br /> :&lt;math&gt;\boldsymbol{F} = \frac{\mathrm{d}\boldsymbol{p}}{\mathrm{d}t}\,.&lt;/math&gt;<br /> ここで &#039;&#039;&#039;{{mvar|F}}&#039;&#039;&#039; は[[物体]]に働く力、&#039;&#039;&#039;{{mvar|p}}&#039;&#039;&#039; は物体の運動量、{{mvar|t}} は[[慣性系]]の時刻を表す。[[ニュートン力学]]において運動量は速度 &#039;&#039;&#039;{{mvar|v}}&#039;&#039;&#039; と[[慣性質量]] {{mvar|m}} の積で表され、<br /> :&lt;math&gt;\boldsymbol{p} = m\boldsymbol{v}&lt;/math&gt;<br /> また速度 &#039;&#039;&#039;{{mvar|v}}&#039;&#039;&#039; の時間微分は加速度 &#039;&#039;&#039;{{mvar|a}}&#039;&#039;&#039; であることから、物体の慣性質量は一定である場合について、次の関係が成り立つ。<br /> :&lt;math&gt;\boldsymbol{F} = m\boldsymbol{a}\,.&lt;/math&gt;<br /> 以上は相対論を考えに入れない場合である。そのため実際には、慣性系から見た対象の(相対)速度が光速に近くなると良い近似ではなくなる。[[特殊相対性理論]]では[[慣性系]]の定義のほか、運動量の定義もまたニュートン力学と異なる。相対論的な粒子の運動量をニュートン力学に合わせて表現すると、運動量は以下のように修正される。<br /> :&lt;math&gt;\boldsymbol{p} = \frac{m}{1 - v^2/c^2}\boldsymbol{v}.&lt;/math&gt;&lt;ref group=&quot;注&quot; name=&quot;relativistic_momentum&quot;&gt;この運動量は[[四元運動量]]の空間成分である。&lt;/ref&gt;<br /> ここで {{mvar|c}} は[[光速]]であり、{{mvar|m}} は[[不変質量]](静止質量)である。したがって、運動方程式は以下のようになる。<br /> :&lt;math&gt;\boldsymbol{F} = \frac{\mathrm{d}}{\mathrm{d}t}\left(\frac{m}{1 - v^2/c^2}\boldsymbol{v}\right).&lt;/math&gt;<br /> 光速に対して速度の大きさ {{mvar|v}} が極めて小さければ、相対論的な運動量はニュートン力学における定義とほとんど一致する。たとえば[[音速]]は光速の 0.0001% 程度であり、地球上で起こる大抵の運動に関してはニュートン力学を適用することができる。<br /> <br /> 運動の第2法則は慣性系においてのみ成り立ち、慣性系は[[運動の第1法則]]によって定義される。一般に取り扱われる系が完全な意味で慣性系であることはなく、例えば地上の運動は少なからず地球の[[自転]]の影響を受けるが、自転によって生じる[[慣性力]]を運動方程式に加えることで、非慣性系の運動を慣性系の場合と同じように取り扱うことができる。<br /> <br /> [[ニュートン力学]]では、[[運動の第3法則]]が成り立つ。運動の第3法則は「作用反作用の法則」とも呼ばれ、作用(力)に対してその対となる反作用が必ず存在することを述べる。例えば物体Aから物体Bに及ぼされる力 {{math|&#039;&#039;F&#039;&#039;&lt;sub&gt;A &amp;rarr; B&lt;/sub&gt;}} が存在するとき、それを打ち消す力 {{math|&#039;&#039;F&#039;&#039;&lt;sub&gt;B &amp;rarr; A&lt;/sub&gt;}} が物体Bから物体Aへ及ぼされる。両者の和を考えるとこれは常に 0 に等しくなる。<br /> :&lt;math&gt;F_\mathrm{A \to B} + F_\mathrm{B \to A} = 0.&lt;/math&gt;<br /> 作用反作用の法則は[[慣性力]]に対しては成り立たず、この意味で慣性力は&#039;&#039;&#039;見かけの力&#039;&#039;&#039; ({{en|fictitious force}}) であるということができる。慣性力は慣性系から非慣性系へ視点を移した際に現れる力であり、その反作用は存在しない。ニュートン力学においては慣性力を除くすべての力が物体間の相互作用として理解されるが、[[電磁場]]のような[[場]]との相互作用を含める場合、物体間だけで相互作用が閉じるという前提は破綻し、その結果として上述の作用反作用の法則が成り立たなくなる。そのため、電磁場を含む力学においては、作用反作用の法則は[[電磁気学]]に適合するように修正される。<br /> <br /> 作用反作用の法則はより一般化され[[運動量保存の法則]]として述べれられることがある。運動量保存則に則した立場では、力は物体間(あるいは物体と[[場]]の間)で行われる相互の[[運動量]]の授受を示すものと理解できる。ある時間に物体に及ぼされる力の総和と時間の積、すなわち力の時間に関する[[積分]]は、その時間における物体の運動量の変化量に等しい。この運動量の変化量は[[力積]]と呼ばれる。<br /> <br /> 古典力学で採用される運動の諸法則によって定められる範囲では、力の定義は速度や加速度のような運動学的な量に比べて抽象的である。より具体的な定義は個々の[[現象論]]によって与えられる。多くの場合、[[地球]]の[[重力]]や[[バネ]]の復元力のように何らかの[[ポテンシャル]]を最小化しようとする働きとして表される。<br /> <br /> 通常、力はそれが働く物体に付随するものとして考えられるため、力に個々の作用点を付して特別に注意を払うことはない。しかしながらより一般的に、ある点に対してその点を作用点とする力を与える[[関数 (数学)|関数]]を用いて運動を捉えることもできる。そのような関数は&#039;&#039;&#039;力の[[場]]&#039;&#039;&#039; ({{en|field of force}}) とか&#039;&#039;&#039;力場&#039;&#039;&#039;と呼ばれる{{sfn|江沢|2005|p=91}}{{sfn|新井|2003|pp=151&amp;ndash;152}}。力の場は、[[空間]]の点に対してその点に束縛されたベクトルを与える関数であり、このような関数は[[ベクトル場]]と総称される。力の場は、文脈に応じていくつか異なる定義が与えられる。一つの定義では、単位質量の試験物体に加えられる力を与える場をいい、別の定義では単にある物体に働く力を与える場とされる{{sfn|新井|2003|p=152}}。前者の定義では、何らかの[[単位系]]で質量が 1 となる&lt;ref group=&quot;注&quot;&gt;科学技術分野で一般的な[[SI単位系]]では質量の基本単位は[[キログラム]]である。従ってこの場合の単位質量は {{val|1|u=kg}} となる。[[ヤード・ポンド法]]では質量の基本単位は[[ポンド (質量)|ポンド]]となるため、単位質量は {{val|1|u=lb}} となる。&lt;/ref&gt;物体に働く力を与える。従ってその[[量の次元|次元]]は {{sfrac|力|質量}} となる。後者の定義は前者の場 {{math|&#039;&#039;&#039;&#039;&#039;F&#039;&#039;&#039;&#039;&#039;(&#039;&#039;&#039;&amp;middot;&#039;&#039;&#039;)}} に適当な質量 {{mvar|m}} を乗じた場 {{math|&#039;&#039;m&#039;&#039;&#039;F&#039;&#039;&#039;&#039;&#039;(&#039;&#039;&#039;&amp;middot;&#039;&#039;&#039;)}} に相当する。この場合、ある点 {{mvar|&#039;&#039;&#039;x&#039;&#039;&#039;}} で物体に働く力は {{math|&#039;&#039;m&#039;&#039;&#039;F&#039;&#039;&#039;&#039;&#039;(&#039;&#039;&#039;&#039;&#039;x&#039;&#039;&#039;&#039;&#039;)}} と表される。具体的な力の場は何らかの[[ポテンシャル]]によって与えられる。例として、[[重力]]ポテンシャルや[[電磁ポテンシャル]]などが挙げられる。<br /> <br /> 力は文脈によって、[[相互作用#物理学|相互作用]] ({{en|interaction}})、作用 ({{en|action}}) などとも呼ばれる。ただし、相互作用は(本質的には多体間の)[[ポテンシャル]]を指すこともあり、また[[最小作用の原理|作用]]は[[解析力学]]においては力と異なる概念として定義されている。<br /> <br /> ==== 次元と単位 ====<br /> {{seealso|ニュートン (単位)|国際単位系|新しいSIの定義|国際量体系|次元解析}}<br /> 力の[[量の次元]]は MLT&lt;sup&gt;&amp;minus;2&lt;/sup&gt;([質量]&amp;times;[長さ]&amp;times;[時間]&lt;sup&gt;&amp;minus;2&lt;/sup&gt;)である&lt;ref group=&quot;注&quot; name=&quot;power&quot;&gt;記号に対する上付きの添字はその量の[[冪|ベキ]]を表す。たとえば {{math|A&lt;sup&gt;2&lt;/sup&gt;}} は {{math|A &amp;times; A}} を意味する。[[正の数と負の数|負数]]のベキは[[逆数]]のベキを表し、たとえば {{math|B&lt;sup&gt;&amp;minus;2&lt;/sup&gt;}} は {{math|{{sfrac|1|B}} &amp;times; {{sfrac|1|B}}}}、つまり {{math|{{sfrac|1|B&amp;times;B}}}} を意味する。折衷的な表現として {{math|B&lt;sup&gt;&amp;minus;2&lt;/sup&gt;}} を {{math|{{sfrac|1|B&lt;sup&gt;2&lt;/sup&gt;}}}} と表すこともしばしばある。&lt;/ref&gt;。力の次元が他の量の次元によって組み立てられることは、[[ニュートン力学]]において力 &#039;&#039;&#039;{{mvar|F}}&#039;&#039;&#039; が[[質量]] {{mvar|m}} と[[加速度]] &#039;&#039;&#039;{{mvar|a}}&#039;&#039;&#039; の積として与えられること、<br /> :&lt;math&gt;\boldsymbol{F} = m\boldsymbol{a},&lt;/math&gt;<br /> 加速度 &#039;&#039;&#039;{{mvar|a}}&#039;&#039;&#039; が、加減速される時間に対する[[速度]] &#039;&#039;&#039;{{mvar|v}}&#039;&#039;&#039; の変化の割合、すなわち速度の[[時間微分]]として定義されること、<br /> :&lt;math&gt;\boldsymbol{a}(t) = \frac{\mathrm{d}\boldsymbol{v}(t)}{\mathrm{d}t},&lt;/math&gt;<br /> 速度 &#039;&#039;&#039;{{mvar|v}}&#039;&#039;&#039; もまた、運動する時間に対する[[位置]] &#039;&#039;&#039;{{mvar|x}}&#039;&#039;&#039; の変化の割合として定義されること、<br /> :&lt;math&gt;\boldsymbol{v}(t) = \frac{\mathrm{d}\boldsymbol{x}(t)}{\mathrm{d}t},&lt;/math&gt;<br /> から導かれる。位置、あるいは[[変位]]は基準点に対する[[距離]]を測ることによって決定でき、位置の変化量 {{math|d&#039;&#039;&#039;&#039;&#039;x&#039;&#039;&#039;&#039;&#039;}} は長さの次元 (L) を持つ。速度は位置の変化量 {{math|d&#039;&#039;&#039;&#039;&#039;x&#039;&#039;&#039;&#039;&#039;}} と時間 {{math|d&#039;&#039;t&#039;&#039;}} の[[比]]なので、次元は長さ (L) に時間 (T) の逆数を乗じた LT&lt;sup&gt;&amp;minus;1&lt;/sup&gt; となる。加速度についても同様の手続きから量の次元が定まり、加速度の量の次元は LT&lt;sup&gt;&amp;minus;2&lt;/sup&gt; である。力は加速度に質量を乗じたものなので、量の次元も加速度の量の次元に質量の次元 (M) を掛けた MLT&lt;sup&gt;&amp;minus;2&lt;/sup&gt; となる。<br /> <br /> 力の単位もまた、それぞれの基本量に対応する基本単位から組み立てられる。[[国際量体系]]では基本量として質量、時間、長さを採り、[[国際単位系]]では国際量体系に対応して質量の単位を[[キログラム]] (kg)、時間の単位を[[秒]] (s)、長さの単位を[[メートル]] (m) としてこれらを基本単位としている。国際単位系に従えば、力の単位は kg&amp;middot;m&amp;middot;s&lt;sup&gt;&amp;minus;2&lt;/sup&gt; と表すことができる。また国際単位系では、目的に応じて組立単位が定義されており、力の単位として[[ニュートン (単位)|ニュートン]] (N) が定められている。ニュートンなどの組立単位はすべて基本単位の代数操作によって定義されており、ニュートンの場合、N {{=}} kg&amp;middot;m&amp;middot;s&lt;sup&gt;&amp;minus;2&lt;/sup&gt; と定義されている。<br /> <br /> ==== 静力学 ====<br /> [[静力学]]では力は基本的な状態量になる。力を構成する要素は、力の&#039;&#039;&#039;大きさ&#039;&#039;&#039; ({{en|magnitude}})、力の&#039;&#039;&#039;向き&#039;&#039;&#039; ({{en|direction}})、作用線の&#039;&#039;&#039;方向&#039;&#039;&#039;、作用線の&#039;&#039;&#039;位置&#039;&#039;&#039;である{{sfn|江沢|2005|p=7}}。力が及ぼされる点を&#039;&#039;&#039;[[力点と作用点|作用点]]&#039;&#039;&#039;&lt;ref group=&quot;注&quot;&gt;作用点はまた&#039;&#039;&#039;着力点&#039;&#039;&#039;とも呼ばれる{{sfn|新井|2003|p=150}}。&lt;/ref&gt;({{en|point of action}}) と呼ぶ{{sfn|新井|2003|p=150}}。&#039;&#039;&#039;作用線&#039;&#039;&#039; ({{en|line of action}}) とは作用点を通り、力の向きに対して[[平行]]な直線のことである{{sfn|新井|2003|p=151}}。<br /> また、力が2体力である場合には、力を及ぼすものと力が及ぼされるものとの組を考えることができる。すべての力が2体力であるなら、それぞれの力は&#039;&#039;&#039;互いに独立&#039;&#039;&#039;であり、物体にかかる&#039;&#039;&#039;正味の力&#039;&#039;&#039; ({{en|net force}}) はそれぞれの独立な力の単純な和として表される{{sfn|江沢|2005|p=7}}。<br /> <br /> たとえば、物体 {{math|A}} に物体 {{math|B, C}} が力を及ぼしている場合、物体 {{math|A}} に働く正味の力は、<br /> :&lt;math&gt;\boldsymbol{F}_\mathrm{A} = \boldsymbol{F}_\mathrm{B \to A} + \boldsymbol{F}_\mathrm{C \to A}&lt;/math&gt;<br /> と分解することができる。ここで {{math|&#039;&#039;&#039;&#039;&#039;F&#039;&#039;&#039;&#039;&#039; {{sub|A}}}} は物体 {{math|A}} に働く正味の力、{{math|&#039;&#039;&#039;&#039;&#039;F&#039;&#039;&#039;&#039;&#039; {{sub|B &amp;rarr; A}}, &#039;&#039;&#039;&#039;&#039;F&#039;&#039;&#039;&#039;&#039; {{sub|C &amp;rarr; A}}}} はそれぞれ物体 {{math|B, C}} が物体 {{math|A}} に及ぼしている力を表す。このことは {{math|A}} に力を及ぼす物体が増えても同様に成り立つ。<br /> <br /> ==== 解析力学 ====<br /> {{seealso|オイラー=ラグランジュ方程式#ニュートン力学との関係}}<br /> [[解析力学]]における力は、[[ニュートン力学]]の定義と異なり、[[オイラー=ラグランジュ方程式]]を通じて&#039;&#039;&#039;一般化運動量&#039;&#039;&#039; {{en|(generalized momentum)}} の[[時間微分]]に等しくなる[[関数 (数学)|関数]]として与えられる。一般化運動量の時間微分という意味での力は、&#039;&#039;&#039;一般化力&#039;&#039;&#039; {{en|(generalized force)}} あるいは&#039;&#039;&#039;広義の力&#039;&#039;&#039;と呼ばれ、ニュートン力学における力とは区別される。<br /> <br /> 一般化運動量は[[ラグランジアン]]の一般化速度による[[偏微分]]として定義される{{sfn|ランダウ|リフシッツ|1974|pp=17&amp;ndash;18}}。一般化運動量を &#039;&#039;&#039;{{mvar|P}}&#039;&#039;&#039;、ラグランジアンを {{mvar|L}}、[[一般化座標]]の組を &#039;&#039;&#039;{{mvar|q}}&#039;&#039;&#039;、一般化速度の組を {{math|{{dot|&#039;&#039;&#039;&#039;&#039;q&#039;&#039;&#039;&#039;&#039;}}}} と表せば、一般化運動量は以下のように定義される。<br /> :&lt;math&gt;<br /> \boldsymbol{P}(\boldsymbol{q}, \dot\boldsymbol{q}, t) <br /> = \frac{\partial L(\boldsymbol{q}, \dot\boldsymbol{q}, t)}<br /> {\partial\dot\boldsymbol{q}}.<br /> &lt;/math&gt;&lt;ref group=&quot;注&quot;&gt;関数 {{math|&#039;&#039;f&#039;&#039;(&#039;&#039;&#039;&#039;&#039;u&#039;&#039;&#039;&#039;&#039;)}} のベクトル &#039;&#039;&#039;{{mvar|u}}&#039;&#039;&#039; による微分は、ベクトル &#039;&#039;&#039;{{mvar|u}}&#039;&#039;&#039; の各成分 {{math|1=&#039;&#039;u&lt;sub&gt;i&lt;/sub&gt;&#039;&#039;, &#039;&#039;i&#039;&#039; = 1, 2, ..., &#039;&#039;d&#039;&#039;}} に対する偏導関数 {{math|{{sfrac|&amp;part;&#039;&#039;f&#039;&#039;|&amp;part;&#039;&#039;u&lt;sub&gt;i&lt;/sub&gt;&#039;&#039;}}}} を成分に持つベクトル {{math|({{sfrac|&amp;part;&#039;&#039;f&#039;&#039;|&amp;part;&#039;&#039;u&lt;sub&gt;1&lt;/sub&gt;&#039;&#039;}}, {{sfrac|&amp;part;&#039;&#039;f&#039;&#039;|&amp;part;&#039;&#039;u&lt;sub&gt;2&lt;/sub&gt;&#039;&#039;}}, ..., {{sfrac|&amp;part;&#039;&#039;f&#039;&#039;|&amp;part;&#039;&#039;u&lt;sub&gt;d&lt;/sub&gt;&#039;&#039;}})}}、つまり[[勾配 (ベクトル解析)|勾配]]を与える。&lt;/ref&gt;<br /> <br /> [[オイラー=ラグランジュ方程式]]<br /> :&lt;math&gt;<br /> \left.<br /> \frac{\partial L(\boldsymbol{q}, \dot\boldsymbol{q}, t)}{\partial \boldsymbol{q}}<br /> \right|_{(\boldsymbol{q}, \dot\boldsymbol{q}) = (\boldsymbol{q}(t), \dot\boldsymbol{q}(t))} <br /> = \frac{\mathrm{d}}{\mathrm{d}t} \left(<br /> \left.<br /> \frac{\partial L(\boldsymbol{q}, \dot\boldsymbol{q}, t)}{\partial\dot\boldsymbol{q}}<br /> \right|_{(\boldsymbol{q}, \dot\boldsymbol{q}) = (\boldsymbol{q}(t), \dot\boldsymbol{q}(t))}<br /> \right)<br /> &lt;/math&gt;&lt;ref group=&quot;注&quot;&gt;ここで {{math|{{dot|&#039;&#039;&#039;&#039;&#039;q&#039;&#039;&#039;&#039;&#039;}}(&#039;&#039;t&#039;&#039;)}} は[[関数 (数学)|関数]] {{math|&#039;&#039;&#039;&#039;&#039;q&#039;&#039;&#039;&#039;&#039;(&#039;&#039;t&#039;&#039;)}} の {{mvar|t}} による[[微分]]を表す。この微分の記法は[[ニュートンの記法]]と呼ばれる。&lt;/ref&gt;<br /> を一般化運動量 &#039;&#039;&#039;{{mvar|P}}&#039;&#039;&#039; で書き換えると、以下のように書ける。<br /> :&lt;math&gt;<br /> \left.<br /> \frac{\partial L(\boldsymbol{q}, \dot\boldsymbol{q}, t)}{\partial \boldsymbol{q}}<br /> \right|_{(\boldsymbol{q}, \dot\boldsymbol{q}) = (\boldsymbol{q}(t), \dot\boldsymbol{q}(t))} <br /> = \frac{\mathrm{d}}{\mathrm{d}t} \left(<br /> \left.<br /> \boldsymbol{P}(\boldsymbol{q}, \dot{\boldsymbol{q}}, t) <br /> \right|_{(\boldsymbol{q}, \dot\boldsymbol{q}) = (\boldsymbol{q}(t), \dot\boldsymbol{q}(t))}<br /> \right)<br /> &lt;/math&gt;<br /> 上記のオイラー=ラグランジュ方程式の右辺から、一般化力 &#039;&#039;&#039;{{math|&amp;Psi;}}&#039;&#039;&#039;&lt;ref group=&quot;注&quot;&gt;この記法はあまり一般的ではない。一般化力を表す記号としてはしばしば {{math|Q}} が用いられる。&lt;/ref&gt; は次のように定義される{{sfn|ランダウ|リフシッツ|1974|pp=18&amp;ndash;19}}。<br /> :&lt;math&gt;<br /> \boldsymbol{\Psi}(\boldsymbol{q}, \dot\boldsymbol{q}, t) <br /> = \frac{\partial L(\boldsymbol{q}, \dot\boldsymbol{q}, t)}<br /> {\partial \boldsymbol{q}}.<br /> &lt;/math&gt;<br /> オイラー=ラグランジュ方程式<br /> :&lt;math&gt;<br /> \left.<br /> \boldsymbol{\Psi}(\boldsymbol{q}, \dot{\boldsymbol{q}}, t)<br /> \right|_{(\boldsymbol{q}, \dot\boldsymbol{q}) = (\boldsymbol{q}(t), \dot\boldsymbol{q}(t))} <br /> = \frac{\mathrm{d}}{\mathrm{d}t} \left(<br /> \left.<br /> \boldsymbol{P}(\boldsymbol{q}, \dot{\boldsymbol{q}}, t) <br /> \right|_{(\boldsymbol{q}, \dot\boldsymbol{q}) = (\boldsymbol{q}(t), \dot\boldsymbol{q}(t))}<br /> \right)<br /> &lt;/math&gt;<br /> と[[ニュートンの運動方程式]]<br /> :&lt;math&gt;\boldsymbol{F}(t) = \frac{\mathrm{d}}{\mathrm{d}t}\boldsymbol{p}(t)&lt;/math&gt;<br /> と見比べれば、左辺の一般化力 &#039;&#039;&#039;{{math|&amp;Psi;}}&#039;&#039;&#039; は力に相当する量であることが分かる。<br /> <br /> === 力の釣り合い ===<br /> その物体の速度が変化しないとき、&#039;&#039;&#039;力が釣り合っている&#039;&#039;&#039;と言う。例えば、自動車が時速 40 km/h のまま直進しているとき、車体にかかる力は釣り合っている。この時、エンジン等によって動かされた車輪が加速しようとする力と車軸の[[摩擦]]や空気抵抗によって減速しようとする力が釣り合っている、と考えるのである。<br /> <br /> === 力の合成と分解 ===<br /> [[image:Force elementaire.png|right|250px|thumb|&#039;&#039;&#039;力の合成&#039;&#039;&#039; 力 {{math|d&#039;&#039;&#039;&#039;&#039;T&#039;&#039;&#039;&#039;&#039;}} と力 {{math|d&#039;&#039;&#039;&#039;&#039;N&#039;&#039;&#039;&#039;&#039;}} を合成した力 {{math|d&#039;&#039;&#039;&#039;&#039;F&#039;&#039;&#039;&#039;&#039;}} は平行四辺形の法則によって対角線として計算できる。]]<br /> &#039;&#039;&#039;力の合成&#039;&#039;&#039;とは、ある点に働く複数の力を 1 つの等価な力として表すことを言う。またその逆の操作を&#039;&#039;&#039;力の分解&#039;&#039;&#039; ({{en|decomposition of force}}) と呼ぶ{{sfn|江沢|2005|p=9}}。合成された力のことを&#039;&#039;&#039;合力&#039;&#039;&#039; ({{en|resultant force}}) という{{sfn|江沢|2005|p=6}}。<br /> 力は[[ベクトル]]として定義されているので{{sfn|江沢|2005|p=62}}、[[ベクトル空間]]における[[加法]]の規則に従い合成と分解を行うことができる{{sfn|江沢|2005|pp=4&amp;ndash;6}}。力と運動量がベクトルであることにより、運動方程式を任意の成分に分解することができる。この原理を&#039;&#039;&#039;運動の独立性&#039;&#039;&#039; ({{en|independence of motions}}) という{{sfn|江沢|2005|p=62}}。<br /> <br /> 分解された力と元の力、あるいは合成される力とそれらの合力の関係を図形的に表すものとして、{{仮リンク|力の平行四辺形|en|Parallelogram of force}}がしばしば用いられる。力の分解に関して、2 成分に分解された力は[[平行四辺形]]の辺をなし、その対角線は元の力となる。同様に、2つの力が同じ点に働くと、それらは平行四辺形の辺をなす。2つの力の合力は2つの力のなす平行四辺形の対角線として図示される{{sfn|江沢|2005|pp=4&amp;ndash;6}}。力の分解や合成を平行四辺形の組み合わせによって表すことができる、という法則を&#039;&#039;&#039;平行四辺形の法則&#039;&#039;&#039; ({{en|parallelogram law}}) と呼ぶ{{sfn|新井|2003|p=151}}。平行四辺形の法則はまた、&#039;&#039;&#039;ニュートンの第4法則&#039;&#039;&#039; ({{en|Newton&#039;s fourth law}}) とか&#039;&#039;&#039;力の重畳原理&#039;&#039;&#039; ({{en|superposition principle of force}}) とも呼ばれる{{sfn|新井|2003|p=151}}。<br /> <br /> === 分類 ===<br /> [[連続体力学]]などの分野では、力は次の 2 つに分類される。<br /> ; 面積力<br /> : 面を通して作用し、その大きさが面積に比例する力{{sfn|巽|1982|pp=33&amp;ndash;31}}。表面を横切る微視的な[[運動量]]の[[流束]]とも言え{{sfn|Ferziger|Perić|2003|p=5}}、&#039;&#039;&#039;表面力&#039;&#039;&#039;とも呼ばれる。物体の面を介して作用するので[[近接作用]]力である{{sfn|京谷|2008|p=31}}。例としては[[圧力]]、[[応力]]、[[表面張力]]などが挙げられる。<br /> ; 体積力<br /> : 物体の体積に比例する力{{sfn|今井|1997|p=13}}。&#039;&#039;&#039;物体力&#039;&#039;&#039;とも呼ばれる。物体には直接触れずに作用する力なので[[遠隔作用]]力である{{sfn|京谷|2008|p=31}}。例として[[重力]]、[[遠心力]]、[[コリオリ力]]、[[電磁力]]などがある。<br /> <br /> == 量子力学 ==<br /> {{main|量子力学|場の量子論|基本相互作用|標準模型}}<br /> [[古典力学]]に対置される[[量子力学]]では、[[場の量子論]]により、宇宙における力の源は[[基本相互作用]]による、[[電磁相互作用]]・[[弱い相互作用]]・[[強い相互作用]]・[[万有引力|重力相互作用]]の 4 つに整理された。ただし、重力は[[古典論]]に属する[[一般相対性理論]]も関係し、また重力の量子化([[量子重力理論]])は研究の途上である。一方で電磁相互作用と弱い相互作用とを統一的に記述する電弱統一理論は[[ワインバーグ=サラム理論]]によって完成した。その次と言える強い相互作用の統一は[[大統一理論]]として研究中である。またその他の主な未解決の問題についての概観は[[標準模型]]の記事を見よ。<br /> <br /> == 批判 ==<br /> (古典力学の)力は物理学の根幹にかかわるものであるが、力の定義づけは自明ではないともいわれる{{sfn|培風館物理学三訂版|2005|loc=【力】}}。アイザック・ニュートンは『自然哲学の数学的諸原理』において力と質量について明確な定義を与えていない。現代的な視点では、[[ニュートン力学]]における力は運動の第2法則 {{math|&#039;&#039;&#039;&#039;&#039;F&#039;&#039;&#039;&#039;&#039; {{=}} &#039;&#039;m&#039;&#039;&#039;a&#039;&#039;&#039;&#039;&#039;}} によって定義されるものと解釈されるが、この解釈のもとでは、比例定数の慣性質量 {{mvar|m}} が未定義な量であるために、力と慣性質量の定義が独立しておらず、不満である。そのため、力と質量の定義を分離すべきという批判がなされている{{sfn|培風館物理学三訂版|2005|loc=【力】}}。<br /> <br /> [[アメリカ航空宇宙局]]のサイトでは「自由物体の動きに変化を起こしたり、あるいは固定物体に[[応力]]を与える基となる &lt;u&gt;agent&lt;/u&gt;(エージェント)&lt;ref&gt;&quot;Any external &#039;&#039;&#039;agent that causes a change in the motion&#039;&#039;&#039; of a free body, or that causes stress in a fixed body.&quot; [http://earthobservatory.nasa.gov/Glossary/?mode=alpha&amp;seg=f&amp;segend=h Glossary] - Earth Observatory, NASA&lt;/ref&gt;」といった説明になっている。<br /> <br /> == 脚注 ==<br /> === 注釈 ===<br /> {{reflist|group=注}}<br /> === 出典 ===<br /> {{reflist|2}}<br /> <br /> == 参考文献 ==<br /> {{wikisourcelang|en|The Mathematical Principles of Natural Philosophy (1729)}}<br /> {{wikisourcelang|en|The Mathematical Principles of Natural Philosophy (1846)}}<br /> * {{Cite book|和書|title=物理学辞典|publisher=[[培風館]]|edition=三訂版|date=2005-10|isbn=978-4563020941|ref={{sfnref|培風館物理学三訂版|2005}}}}<br /> * {{cite book|和書|last=小出|first=昭一郎|authorlink=小出昭一郎|title=力学|publisher=[[岩波書店]]|year=1997|ref=harv}}<br /> * {{cite book|first=Julian|last=Barbour|authorlink=ジュリアン・バーバー|title=The Discovery of Dynamics: A Study from a Machian Point of View of the Discovery and the Structure of Dynamical Theories|date=2001|isbn=0-19-513202-5|ref=harv}} <br /> * {{cite book|和書|last=内井|first=惣七|authorlink=内井惣七|title=空間の謎・時間の謎 &amp;mdash; 宇宙の始まりに迫る物理学と哲学|publisher=[[中公新書]]|date=2006|isbn=412101829X|ref=harv}}<br /> * {{cite book|和書|last=湯川|first=秀樹|authorlink=湯川秀樹|title=物理講義|publisher=[[講談社]]|date=1975-1|isbn=978-4061298576|ref=harv}}<br /> * {{cite|和書|last=巽|first=友正|authorlink=巽友正|title=流体力学 |publisher=培風館 |date=1982 |isbn=4-563-02421-X |ref=harv}}<br /> * {{cite|和書|title=コンピュータによる流体力学|first1=Joel H.|last1=Ferziger|first2=Milovan|last2=Peri&amp;#x107;|translator=小林敏雄、谷口伸行、坪倉誠|publisher=[[シュプリンガー・フェアラーク東京]]|date=2003|isbn=4431708421|ref=harv}}<br /> * {{cite|和書|editor=非線形CAE協会|last=京谷|first=孝史 |title=よくわかる連続力学体ノート|publisher=[[森北出版]]|date=2008|isbn=9784627948112 |ref=harv}}<br /> * {{cite|和書|last=今井|first=功|authorlink=今井功 (物理学者)|title=流体力学 前編|publisher=[[裳華房]]|edition=24|date=1997|origdate=1973-11-25|isbn=4785323140|ref=harv}}<br /> * {{cite book|和書|author=山本義隆|last=山本|first=義隆|authorlink=山本義隆|title=磁力と重力の発見|publisher=[[みすず書房]]|year=2003|ref=yamamoto}}<br /> * {{Cite book|和書|first=エルンスト|last=マッハ|authorlink=エルンスト・マッハ|title=マッハ力学史 (上)―古典力学の発展と批判|translator=岩野秀明|series=ちくま学芸文庫|publisher=[[筑摩書房]]|date=2006|isbn=978-4480090232|ref=harv}}<br /> * {{Cite book|和書|first=エルンスト|last=マッハ|title=マッハ力学史 (下)―古典力学の発展と批判|translator=岩野秀明|series=ちくま学芸文庫|publisher=筑摩書房|date=2006|isbn=978-4480090249}}<br /> * {{cite book|和書|first=ハインリッヒ|last=ヘルツ|authorlink=ハインリッヒ・ヘルツ|title=力学原理|publisher=東海大学出版会|year=1974|month=11|isbn=978-4486002444|ref=harv}}<br /> * {{cite book|和書|first1=ヨーゼフ・T|last1=デヴレーゼ|first2=ヒード|last2=ファンデン・ベルヘ|title=科学革命の先駆者 シモン・ステヴィン―不思議にして不思議にあらず|series=科学史ライブラリー|others=山本義隆(監修)、中澤聡(訳)|publisher=[[朝倉書店]]|date=2009|isbn=9784254106428|ref=harv}}<br /> ** {{cite book|first1=J. T.|last1=Devreese|first2=G.|last2=Vanden Berghe|title=Wonder en is gheen wonder. De geniale wereld van Simon Stevin 1548-1620|language=Nederlands|publisher=Davidsfonds, Leuven|date=2003|pages=342|ref=harv}} &amp;mdash; [[オランダ語]]原著。<br /> ** {{cite book|first1=J. T.|last1=Devreese|first2=G.|last2=Vanden Berghe|title=&#039;Magic is No Magic&#039;. The Wonderful World of Simon Stevin|language=English|publisher=WIT Press, Ashurst, Southampton|date=2007|pages=310|ref=harv}} &amp;mdash; 著者による英訳。<br /> * {{cite book|和書|last=江沢|first=洋|authorlink=江沢洋|title=力学 ― 高校生・大学生のために|pages=458|publisher=[[日本評論社]]|date=2005-2-20|isbn=4535785015|ref=harv}}<br /> * {{cite book|和書|last=新井|first=朝雄|authorlink=新井朝雄|title=物理現象の数学的諸原理 ―現代数理物理学入門―|publisher=共立出版|date=2003-2-20|isbn=4-320-01726-9|ref=harv}}<br /> * {{cite book|和書|first1=レフ|last1=ランダウ|authorlink1=レフ・ランダウ|first2=エフゲニー|last2=リフシッツ|authorlink2=エフゲニー・リフシッツ|title=理論物理学教程 力学|others=[[広重徹|広重, 徹]](訳)、[[水戸巌|水戸, 巌]](訳)|publisher=東京図書|edition=増補第 3 版|date=1974-10-1|isbn=978-4-489-01160-3|ref=harv}}<br /> * {{cite book|url=http://books.google.co.jp/books?id=Tm0FAAAAQAAJ|first=Isaac|last=Newton|others=[[ジョン・マチン|John Machin]], Andrew Motte (translator) |title=The Mathematical Principles of Natural Philosophy|volume=1|language=English|date=1729|ref={{sfnref|Principia|1729}}}}<br /> * {{cite journal|first=R.|last=Clausius|authorlink=ルドルフ・クラウジウス|title=&amp;Uuml;ber die bewegende Kraft der W&amp;auml;rme|language=Deutsch|journal=Annalen der Physik|volume=79|pages=368–397, 500–524|date=1850|ref=harv}} [http://gallica.bnf.fr/ark:/12148/bpt6k15164w/f384.table Part I], [http://gallica.bnf.fr/ark:/12148/bpt6k15164w/f518.table Part II].<br /> * {{cite journal|title=On the Moving Force of Heat, and the Laws regarding the Nature of Heat itself which are deducible therefrom|url=http://www.archive.org/details/londonedinburghd02lond|language=English|journal=Philosophical Magazine|date=1851-7|series=4|volume=2|pages=1–21, 102–119}} &amp;mdash; {{harvnb|Clausius|1850}} の英訳版。[http://books.google.com/books?id=JbwdWbbM1KgC&amp;pg=RA1-PA1 Google Books]。<br /> * {{cite journal|first=William John Macquorn|last=Rankine|authorlink=ウィリアム・ランキン|title=On the general Law of the Transformation of Energy|url=http://www.tandfonline.com/doi/abs/10.1080/14786445308647205|doi=10.1080/14786445308647205|journal=Philosophical Magazine|series=4|volume=5|issue=30|pages=106-117|date=1853|ref=harv}}<br /> <br /> == 関連項目 ==<br /> {{Commonscat}}<br /> * [[ニュートン力学]]<br /> * [[運動の第2法則]]<br /> * [[重力を説明する古典力学的理論]]<br /> * [[遠隔作用]]と[[近接作用]]<br /> * [[ポテンシャル]]<br /> ** [[ベクトルポテンシャル]]と[[スカラーポテンシャル]]<br /> ** [[熱力学ポテンシャル]]<br /> * [[応力]]<br /> * [[圧力]]<br /> * [[表面張力]]<br /> * [[相反定理]]<br /> {{古典力学のSI単位}}<br /> <br /> {{デフォルトソート:ちから}}<br /> [[Category:力 (自然科学)|*]]<br /> [[Category:自然哲学]]<br /> [[Category:物理学]]<br /> [[Category:力学]]<br /> [[Category:電磁気学]]<br /> <br /> [[gd:Neart]]</div> 219.96.7.204 ドーリア人 2018-09-04T12:29:34Z <p>219.96.7.204: </p> <hr /> <div>[[File:Ancient Greek Northern regions (English).svg|thumb]]<br /> [[File:Western Asia Minor Greek Colonization.svg|thumb|青:ドーリア人]]<br /> &#039;&#039;&#039;ドーリア人&#039;&#039;&#039;(ドーリアじん、{{lang-el|Δωριείς, Dories}}, {{lang-en|Dorians}})、または&#039;&#039;&#039;ドーリス人&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;ドリス人&#039;&#039;&#039;は、[[アイオリス人]]、[[イオニア人]]と並ぶ[[古代ギリシア]]を構成した集団のひとつ。[[紀元前1100年]]頃ギリシャに侵入し、主に[[ペロポネソス半島]]に定住した。ギリシア語のドリス方言を話し、代表的な都市は[[スパルタ]]である。<br /> <br /> ==歴史==<br /> {{main|{{仮リンク|ドーリア人の侵攻|en|Dorian invasion}}}}<br /> <br /> [[ギリシア神話]]によると、その名は、彼らの祖[[ヘレーン]]の息子[[ドーロス]]が移住した、{{仮リンク|ドリス (アナトリア半島)|label=ドリス|en|Doris (Asia Minor)}}地方を故郷と考えていたことに由来する。<br /> <br /> [[ミケーネ文明]]の衰退のころから後、[[紀元前1200年]]ころから[[紀元前800年]]ころまでは、文字による史料がなく、詳しい歴史が分からないため、ギリシャ史上の[[暗黒時代 (古代ギリシア)|暗黒時代]]とも呼ばれている。この暗黒時代の後に、[[ポリス]]を中心とする古代民主制の時代が到来する。ミケーネ文明の領域を切り取るかたちで、ドーリア人は鉄の武器で先住民を征服しながら[[ペロポネソス半島]]や[[エーゲ海]]の島々に侵入し、[[スパルタ]]をはじめとするポリスを形成した。数世紀後にはさらに[[アナトリア半島]]沿岸部や[[シチリア島|シチリア]]、[[南イタリア]]などの広範囲に植民した。<br /> <br /> ==文化==<br /> [[古代ギリシア語]]には{{仮リンク|ドーリス方言群 (古代ギリシア語)|en|Doric Greek|label=ドリス方言}}があり、建築様式には[[ドーリア式]]がある。ドーリア式はそのシンプルで力強い様式が特徴。<br /> <br /> == 関連項目 ==<br /> * [[ギリシャの歴史]]<br /> * [[ドリス]] ([[:en:Doris (Greece)]], [[:en:Doric hexapolis]])<br /> * {{仮リンク|ドリス方言|en|Doric Greek}}<br /> * [[アイオリス人]]<br /> * [[アカイア人]] - [[イオニア人]]<br /> * [[スパルタ]]<br /> <br /> {{history-stub}}<br /> {{デフォルトソート:とおりあしん}}<br /> [[Category:古代ギリシア|*とおりあしん]]</div> 219.96.7.204 イオニア人 2018-09-04T12:28:56Z <p>219.96.7.204: </p> <hr /> <div>{{出典の明記|date=2015年7月}}<br /> [[File:Western Asia Minor Greek Colonization.svg|thumb|緑:イオニア人]]<br /> &#039;&#039;&#039;イオニア人&#039;&#039;&#039;(イオニアじん、{{lang-el|Ἴωνες}}, &#039;&#039;Íōnes&#039;&#039;, 英語:Ionian)とは、[[紀元前20世紀|紀元前2000年]]ころに[[バルカン半島]]を南下し、[[ギリシャ]]中部や[[アナトリア半島]](小アジア)北西部に定住したとされる[[アカイア人]]の一部。[[アイオリス人]]や[[ドーリア人]]と並ぶ、[[古代ギリシア]]を構成した集団のひとつ。代表的な[[ポリス]]は[[アテナイ]]である。<br /> <br /> [[ペルシア人]]は、最初に接触を持ったのが小アジア西岸のギリシア人だったのでギリシア人全体をイオニア人と呼び、その呼び方は[[インド]]など東方に広まった。具体的には、ギリシア人のことを、[[パーリ語]]では&#039;&#039;&#039;Yona&#039;&#039;&#039;、[[サンスクリット]]では&#039;&#039;&#039;Yavana&#039;&#039;&#039;、[[アルメニア語]]では&#039;&#039;&#039;Huyn&#039;&#039;&#039;、[[トルコ語]]では&#039;&#039;&#039;Yunan&#039;&#039;&#039;、さらに現代[[ペルシア語]]ではギリシアのことを&#039;&#039;&#039;Yūnān&#039;&#039;&#039;と呼んでいる。いずれも、「イオニア(の) &#039;&#039;&#039;Ionian&#039;&#039;&#039;」から派生した言葉である。[[フラウィウス・ヨセフス]]は、イオニア人を、聖書に登場する[[ヤペテ]]の息子ヤワンと関連づけている。「&#039;&#039;イオニア人ならびに全ギリシア人はヤワンに由来する&#039;&#039;」([[フラウィウス・ヨセフス]]『[[ユダヤ古代誌]]』I:6)。<br /> <br /> ==神話==<br /> ギリシア神話では、イオニア人たちの祖は、[[エレクテウス]]の娘[[クレウーサ]]の息子&#039;&#039;&#039;イオン&#039;&#039;&#039;とされている。その父親は、[[ヘーシオドス]]の『Eoiae』によるとクレウーサの夫クストス、[[エウリピデス]]によると[[アポローン|アポロン]]だと言われている。<br /> <br /> == 関連項目 ==<br /> * [[ギリシャの歴史]]<br /> * [[イオニア]]<br /> * [[ギリシア語イオニア方言]]<br /> <br /> {{デフォルトソート:いおにあしん}}<br /> [[Category:古代ギリシア|*いおにあしん]]<br /> [[Category:イオニア|*しん]]</div> 219.96.7.204 アイオリス人 2018-09-04T12:27:39Z <p>219.96.7.204: /* 関連項目 */</p> <hr /> <div>[[File:Western Asia Minor Greek Colonization.svg|thumb|赤:アイオリス人]]<br /> &#039;&#039;&#039;アイオリス人&#039;&#039;&#039;(アイオリスじん、Aioleis, {{lang-el|Αἰολεῖς}}))は、[[イオニア人]]、[[ドーリア人]]と並ぶ[[古代ギリシャ]]を構成した集団のひとつ&lt;ref&gt;{{Cite book|和書|author=全国歴史教育研究協議会|year=2009|title=世界史B用語集|publisher=[[山川出版社]] |ISBN=978-4-634-03302-3}}&lt;/ref&gt;<br /> 。[[ギリシャ神話]]によると、彼らの祖が[[アイオロス]]であると考えられていたことに由来する。<br /> <br /> [[紀元前3000年]]頃に[[ドナウ川]]流域から移住してきたと考えられている。<br /> <br /> [[紀元前2000年]]頃に、ギリシャ本土中部[[テッサリア]]と[[ボイオティア]]地方から[[レスボス島]]に移住し、さらに[[アナトリア半島]]西部に植民し、12の[[都市国家|ポリス]]を建設した。<br /> <br /> 紀元前6世紀末頃からは[[ペルシア帝国]]に支配され、さらに[[セレウコス朝|セレウコス朝シリア王国]]や[[アッタロス朝|アッタロス朝ペルガモン王国]]の支配を受け、ローマ時代以降には衰退していった。<br /> <br /> == 脚注 ==<br /> {{脚注ヘルプ}}<br /> {{reflist}}<br /> <br /> == 関連項目 ==<br /> * [[ギリシャの歴史]]<br /> * [[アイオリス]]<br /> * {{仮リンク|ギリシア語アイオリス方言|en|Aeolic Greek}}<br /> <br /> {{history-stub}}<br /> {{DEFAULTSORT:あいおりすしん}}<br /> [[Category:古代ギリシア|*あいおりすしん]]</div> 219.96.7.204 ノルマン人 2018-09-04T12:24:10Z <p>219.96.7.204: </p> <hr /> <div>{{複数の問題<br /> | 出典の明記 = 2012年9月<br /> | 独自研究 = 2016年12月<br /> }}<br /> [[file:Normans possessions 12century-fr.png|right|thumb|300px|12世紀にノルマン人が征服した地を赤で示す]]<br /> &#039;&#039;&#039;ノルマン人&#039;&#039;&#039;(ノルマンじん、Normanean)は、[[スカンディナヴィア]]および[[バルト海]]沿岸に原住した北方系[[ゲルマン人]]。初期の時点では、「[[ヴァイキング]]」という概念とほぼ同じ(同項目を参照)。<br /> <br /> == 略史 ==<br /> [[8世紀]]後半から活発化。[[9世紀]]には[[ヨーロッパ]]各地を侵略し、次のような国々を建国した。<br /> <br /> *ヴァイキングが住み着いた[[フランス]]北西部の[[ノルマンディー]]([[コタンタン半島]]辺り)の[[フランス人]]もノルマン人と言う。「[[ノルマンディー公国]]」を建国し、11世紀に[[イングランド]]に[[征服王朝]]「[[ノルマン朝]]」を建国した([[ノルマン・コンクエスト]])。その一部は、[[イタリア]]へ侵攻し、[[南イタリア]]に[[シチリア王国]]([[オートヴィル朝]])を建国した([[ノルマン人による南イタリア征服]])。<br /> *[[グレートブリテン島]]、[[アイルランド島]]をたびたび侵略した一派は、[[デーン人]]、[[ノース人]]と呼ばれる。ノース人は北方ドイツや[[フィンランド]]をはじめ、西は[[カナダ]]、東は[[ウクライナ]]にまで進出した。彼らの一部は[[地中海]]へ進出し、ノルマンディーから来たノルマン人と合流している。<br /> *[[ロシア]]平原([[ガルダリケ]])に侵入した一派は[[ヴァリャーグ]]と呼ばれる。ヴァランジャンとも言う。彼らはこの地で「[[ルーシ・カガン国]]」、「[[ノヴゴロド公国]]」、「[[キエフ大公国]]」を建国した。さらに[[黒海]]に進出し、[[東ローマ帝国]]の[[コンスタンティノポリス]]侵攻も行った。ただし彼らは、商業目的も兼ねていた。また、北欧から東ローマへ赴いて[[傭兵]]となり、皇帝の親衛隊として活動したノルマン人も多い。<br /> *8世紀から9世紀にかけ、ヴァイキングの故地[[スカンディナヴィア半島]]を中心に[[デンマーク]]、[[スウェーデン]]、[[ノルウェー]]と言った[[王国]]が建国され、10世紀には、[[アイスランド]]が成立した。[[北欧諸国]]家を建国したノルマン人たちは、[[北欧神話]]、[[ルーン文字]]を捨て、[[キリスト教]]([[西方教会]])に改宗した。<br /> *[[アイスランド]]に進出したノルマン人の中には、[[大西洋]]を越え、[[グリーンランド]]、[[アメリカ大陸]]([[アメリカ大陸の発見]])へ達する者もいた。<br /> *地中海に進出したノルマン人たちは、[[ローマ教皇]]の唱えた[[十字軍]]にも参加した。その中には、1099年に[[アンティオキア公国]]を建国した者もいた。<br /> <br /> ヴァイキングが終了した後、彼らは、[[北ヨーロッパ|北欧]]において独自の[[国家]]を建設し、[[中世]]以降、[[デーン人]]、[[スヴェーア人]]、[[ノース人]]、[[アイスランド人]]へと分離し、ノルマン人としての概念は薄れていった。しかし彼らの[[言語]]である「[[古ノルド語]]」は、16世紀頃まで使用されていた。ノルマン人と言う呼称が復活するのは、19世紀である。この時代、つかのまではあったが、彼らの[[ナショナリズム]]が昂揚し、ノルマン人を冠した「[[汎スカンディナヴィア主義]]」が沸き上がった。しかし同じゲルマン人である[[ドイツ人]]が掲げた「[[汎ゲルマン主義]]」([[ドイツ統一]])に敗れ、ノルマン人としての一体化、統一は失われたまま現在に至っている。20世紀、[[第二次世界大戦]]後、[[北欧諸国]]が[[北欧理事会]]を設立したが、これは北欧諸国の協調と協力のための[[国際組織]]で、ノルマン人の合同と言うわけではない。<br /> <br /> == 移動ルート ==<br /> 西ヨーロッパには[[北海]]を船で渡り、ロシア平原へ向かった者は[[バルト海]]を渡って東の[[ヴォルガ川]]上流でノヴゴルド公国を興し、川を下り、[[カスピ海]]へ出た。バルト海から南へ向かった者は[[ドニエプル川]]上流でキエフ大公国を興し、下流へ進み[[黒海]]へ出た。黒海からは[[アゾフ海]]に注ぐ[[ドン川]]を遡上し、ハザール王国でヴォルガ川からカスピ海へ移動することが出来た。こうしてイスラム支配下の[[カフカース|コーカサス]]地方を経由せずにカスピ海まで進出した。カスピ海とスカンディナヴィアを結ぶ歴史はこのように古くからあり、現在のアゼルバイジャンの[[バクー]]では地表に浸み出した[[石油]]の存在が知られていたため、スウェーデン王[[カール11世 (スウェーデン王)|カール11世]]が派遣した調査団のドイツ人医師[[エンゲルベルト・ケンペル]]が1683年12月頃にヨーロッパ人初の油田記録を残した。ケンペルは1ヶ月滞在後ペルシャに渡り使節団と別れ、インドとインドネシアを経由して1690年に来日し、出島に2年間滞在した。19世紀にはスウェーデン人の[[アルフレッド・ノーベル|ノーベル]]兄弟がバクーに石油会社を設立した。<br /> <br /> == 著名な人物 ==<br /> * [[リューリク]] - [[ロシア]]平原に侵入し、[[862年]][[ノヴゴロド公国]]を建てる。イーゴリはリューリクの子とされるのが定説だが、否定説もある。[[ルーシ族]]の出自とされるが、後述のオレグ、イーゴリと共に半[[伝説]]的な人物である。<br /> *[[オレグ (キエフ大公)|オレグ]] - [[キエフ大公国]]の実質的な建国者。[[キエフ]]を支配していた[[アスコルド]]と[[ジール]]を殺害して建国。当初はイーゴリの[[摂政]]、[[王権]]代行であった。<br /> * [[イーゴリ1世|イーゴリ]] - オレグを後見人に[[882年]][[キエフ大公国]]を建国。この国家は後に[[スラヴ人|スラヴ]]化し、[[10世紀]]に[[正教会|東方正教会]]に改宗。<br /> * [[オリガ (キエフ大公妃)|オリガ]] - キエフ公妃。ノルマン人説もある。[[957年]]東方正教会に帰依。<br /> * [[ロロ]] - 北[[フランス]]を略奪し、[[911年]][[ノルマンディー公国]]を建てる。<br /> * [[赤毛のエイリーク]](Eiríkr rauði) - [[グリーンランド]]を発見。<br /> * [[レイフ・エリクソン]] - 赤毛のエイリークの長男で[[クリストファー・コロンブス|コロンブス]]以前に[[北米大陸]]([[アメリカ州|アメリカ]])に到達した。<br /> * [[クヌート1世 (イングランド王)|カヌート大王]](クヌート) - [[デーン人]]の指導者、[[国王]]。[[1016年]]、[[イングランド]]に[[デーン朝]]を開く([[北海帝国]])。<br /> * [[ハーラル3世 (ノルウェー王)]] - 王位に就く前には東ローマの皇帝親衛隊に参加していたと言われる。<br /> * [[ロベルト・イル・グイスカルド|ロベール・ギスカール]] - ノルマンディー公国出身。東ローマ・ロンバルド系諸侯が並立する[[南イタリア]]を[[ノルマン人による南イタリア征服|征服]]して統一する。<br /> * [[ボエモン1世 (アンティオキア公)|ターラント侯ボエモン]] - ロベール・ギスカールの子。[[第1回十字軍]]に参加し[[1098年]][[アンティオキア公国]]を建国。<br /> * [[ルッジェーロ1世|ロジェ1世]] - ロベール・ギスカールの弟。[[シチリア]]を征服し、後にスペインに征服されるまでの[[シチリア王国]]となる礎を築く。<br /> * [[ウィリアム1世 (イングランド王)|ノルマンディー公ギヨーム]] - [[1066年]][[イングランド]]を征服([[ノルマン・コンクエスト|ノルマンコンクエスト]])し、ウィリアム1世を名乗る。現在に続く[[イギリス]]王室の血統を築く。<br /> <br /> == 脚注 ==<br /> {{脚注ヘルプ}}<br /> {{Reflist}}<br /> <br /> == 参考文献 ==<br /> <br /> == 関連項目 ==<br /> {{Commonscat|Normans}}<br /> * [[ゲルマン人]]<br /> * [[ヴァイキング]]([[海賊]])<br /> * [[ヴァリャーグからギリシャへの道]]<br /> * [[北海帝国]]<br /> * [[ハスカール]]<br /> * [[北欧神話]](ゲルマン神話)<br /> * [[サガ]]<br /> * [[古エッダ|詩のエッダ]]、[[スノッリのエッダ|散文のエッダ]]<br /> * [[ルーン文字]]<br /> * [[古ノルド語]]<br /> * [[アルシング]]<br /> * [[カルマル同盟]]<br /> * [[汎スカンディナヴィア主義]]<br /> * [[ノルマン語]]([[オイル語]]形)<br /> * [[ノルマン・東ローマ戦争]]<br /> <br /> {{DEFAULTSORT:のるまんしん}}<br /> [[Category:ノルマン人|*]]<br /> [[Category:インド・ヨーロッパ系諸民族]]<br /> [[Category:北欧の民族]]<br /> [[category:ゲルマン人]]<br /> [[Category:先史ヨーロッパ]]<br /> [[Category:北欧史]]<br /> [[Category:中世ヨーロッパ]]<br /> [[Category:中世の北欧]]<br /> [[Category:中世のイングランド]]<br /> [[Category:中世のアイルランド]]<br /> [[Category:中世のイタリア]]<br /> [[Category:ウクライナの歴史]]<br /> [[Category:フランスの歴史]]<br /> [[Category:ロシアの歴史]]<br /> [[Category:イギリスの民族]]<br /> [[Category:アイルランドの民族]]</div> 219.96.7.204 ヘム 2018-09-04T08:46:36Z <p>219.96.7.204: 太字を見出し代わりに使用しない。</p> <hr /> <div>[[ファイル:Heme_a.svg|thumb|right|200px|[[ヘムa]]の構造]]<br /> [[ファイル:Heme b.svg|thumb|right|200px|[[ヘムb]]の構造]]<br /> <br /> &#039;&#039;&#039;ヘム&#039;&#039;&#039;([[英語]]: {{lang|en|Haem}}、[[アメリカ英語|米語]]: {{lang|en|Heme}}、[[ドイツ語]]: {{lang|de|Häm}})は、2価の[[鉄]]原子と[[ポルフィリン]]から成る[[錯体]]である。通常、2価の鉄とIX型[[プロトポルフィリン]]からなる[[プロトヘム]]である[[フェロヘム]]のことをさすことが多い。[[ヘモグロビン]]、[[ミオグロビン]]、[[ミトコンドリア]]の[[電子伝達系]]([[シトクロム]])、薬物代謝酵素([[P450]])、[[カタラーゼ]]、[[一酸化窒素合成酵素]]、[[ペルオキシダーゼ]]などの[[ヘムタンパク質]]の[[補欠分子族]]として構成する。ヘモグロビンは、ヘムと[[グロビン]]から成る。ヘムの鉄原子が酸素分子と結合することで、ヘモグロビンは酸素を運搬している。<br /> <br /> フェリヘムやヘモクロム、[[ヘミン]]、ヘマチンなど、その他のポルフィリンの鉄錯体もヘムと総称されることもある。<br /> <br /> == 生合成 ==<br /> ヘムは以下のように8段階の反応によって生合成される。<br /> <br /> === 第1段階 ===<br /> [[Image:Heme synth step1.png|thumb|300px|アミノレブリン酸合成]]<br /> <br /> [[ポルフィリン]]と&#039;&#039;&#039;ヘム&#039;&#039;&#039;の生合成の[[律速]][[酵素]]は、[[グリシン]]と[[スクシニルCoA]]がδ-[[アミノレブリン酸]]へ縮合することを媒介する[[アミノレブリン酸シンターゼ]](アミノレブリン酸合成酵素)(Aminolevulinic acid synthase)({{EC number|2.3.1.37}})である。アミノレブリン酸シンターゼは、[[ミトコンドリア]]内に所在する。ヘム合成の第1段階の反応である&lt;ref name=tamura&gt;[https://www.jstage.jst.go.jp/article/fpj/130/4/130_4_270/_pdf ポルフィリン生合成とヘム代謝におけるヒトABCトランスポーターの役割]、田村 藍ほか、日本薬理学雑誌、Vol. 130 (2007) No. 4 &lt;/ref&gt;。ヒトにおいてはアミノレブリン酸シンターゼの転写は、[[鉄]]と結合していないポルフィリン中間体の蓄積を防ぐために、[[ポルフィリン]]との結合要素であるFe2+の存在の有無によって厳密に管理されている。体内には2種類のアミノレブリン酸シンターゼが存在する。1つは、[[赤血球]]前駆細胞で発現し、もう1つは全身で発現するものである。赤血球の形成は、[[X染色体]]上の[[遺伝子]]に記述されているが、もう1つは3染色体の遺伝子上に記述されている。X染色体に関連した[[鉄芽球性貧血]]は、X染色体上のアミノレブリン酸シンターゼの遺伝子の変異によって起こるが、もう1つの遺伝子の変異は何の疾患も発生させない。<br /> <br /> [[Image:Haembiosynthesis.png|800px|thumb|[[δ-アミノレブリン酸]]から[[プロトポルフィリンIX]]までの生合成経路]]<br /> <br /> {{-}}<br /> === 第2段階 ===<br /> ミトコンドリアから[[細胞質]]に移行したδ-[[アミノレブリン酸]]2分子が細胞質に所在する[[アミノレブリン酸脱水酵素]]によって[[脱水縮合]]されると、[[ピロール]]環構造を持つ[[ポルフォビリノーゲン]](PBG)となる。<br /> <br /> [[file:Porphobilinogen Biosynthesis.png|400px|ポルフォビリノーゲンの合成]]<br /> δ-[[アミノレブリン酸]]2分子 [[ポルフォビリノーゲン]](PBG)<br /> <br /> === 第3段階 ===<br /> 細胞質においてポルフォビリノーゲン4分子が[[ポルフォビリノーゲン脱アミノ酵素]](別名:ヒドロキシメチルビラン合成酵素)によって[[アンモニア]]を脱離して結合すると、ピロールが4つ直線状に連結した構造をもつ[[ヒドロキシメチルビラン]]が出来る。<br /> <br /> 4 [[file:Porphobilinogen.svg|100px|Porphobilinogen]] + H&lt;sub&gt;2&lt;/sub&gt;O ⇒[[file:Hydroxymethylbilan.svg|300px|Hydroxymethylbilan]] + 4 NH&lt;sub&gt;3&lt;/sub&gt;<br /> [[ポルフォビリノーゲン]] [[ヒドロキシメチルビラン]]<br /> <br /> === 第4段階 ===<br /> ヘム合成回路において細胞質において[[ヒドロキシメチルビラン]]が[[ウロポルフィリノーゲンIIIシンターゼ]]によって縮合し、環を巻くと[[ウロポルフィリノーゲンIII]]となる。この際、ウロポルフィリノーゲンIIIシンターゼの働きにより4つの[[ピロール環]]が整然と並んだヒドロキシメチルビランの一端のピロール環一つだけが反転して縮合し環を形成する。ウロポルフィリノーゲンIIIシンターゼが働かない場合、ピロール環が整然と並んだままのヒドロキシメチルビランが自発的に縮環して[[ウロポルフィリノーゲンI]] が生成する。ウロポルフィリノーゲンI はウロポルフィリノーゲン脱炭酸酵素の基質となり[[コプロポルフィリノーゲンI]]へと変換されるが、これはコプロポルフィリノーゲン酸化酵素の基質とならないため、[[プロトポルフィリン]]には至らない&lt;ref&gt;[http://merckmanual.jp/mmpej/sec12/ch155/ch155a.html はじめに: ポルフィリン症] メルクマニュアル18版 日本語版&lt;/ref&gt;。<br /> このようにウロポルフィリノーゲンI やコプロポルフィリノーゲンIが蓄積していくことがポルフィリン症の原因の1つとなりうる。<br /> <br /> [[file:Hydroxymethylbilan.svg|280px|Hydroxymethylbilan]] ⇒[[file:Uroporphyrinogen_III.svg|240px|Uroporphyrinogen III]]<br /> [[ヒドロキシメチルビラン]] [[ウロポルフィリノーゲンIII]]<br /> <br /> [[file:Uroporphyrinogen_I.svg|200px|Uroporphyrinogen I]]<br /> [[ウロポルフィリノーゲンI]]<br /> <br /> === 第5段階 ===<br /> 細胞質において[[ウロポルフィリノーゲンIII]]が、[[ウロポルフィリノーゲン脱炭酸酵素]]によって4つの[[酢酸]]基が[[脱炭酸]]されて[[メチル基]]となったものが[[コプロポルフィリノーゲンIII]]である。<br /> {{-}}<br /> [[file:Uroporphyrinogen III.svg|200px]] ---&gt; [[file:Coproporphyrinogen III.svg|200px]] + 4 CO&lt;sub&gt;2&lt;/sub&gt;<br /> [[ウロポルフィリノーゲンIII]] [[コプロポルフィリノーゲンIII]]<br /> <br /> === 第6段階 ===<br /> さらに、細胞質に所在したコプロポルフィリノーゲンIIIがミトコンドリア内に移行し、[[コプロポルフィリノーゲン酸化酵素]]によって2箇所のプロピオン酸基が酸化され、[[ビニル基]]に変換されると[[プロトポルフィリノーゲンIX]] となる&lt;ref name=tamura/&gt;。<br /> <br /> [[File:Coproporphyrinogen III.svg|200px|コプロポルフィリノーゲンIII]] ---&gt; [[File:Protoporphyrinogen IX.svg|200px|プロトポルフィリノーゲンIX]]<br /> [[コプロポルフィリノーゲンIII]] [[プロトポルフィリノーゲンIX]]<br /> <br /> === 第7段階 ===<br /> 最終的に[[プロトポルフィリノーゲン酸化酵素]]によって酸化されると、[[共役系|共役]]した[[ポルフィリン環]]が形成され、プロトポルフィリンIX ができあがる。<br /> <br /> [[File:Protoporphyrinogen IX.svg|200px|プロトポルフィリノーゲンIX]] ---&gt; [[Image:Protoporphyrin IX_2.svg|200px|プロトポルフィリンIX]]<br /> [[プロトポルフィリノーゲンIX]] [[プロトポルフィリンIX]]<br /> <br /> === 第8段階 ===<br /> [[鉄付加酵素]]によりプロトポルフィリンIXに[[鉄]]が配位したものが&#039;&#039;&#039;ヘム&#039;&#039;&#039;である。この反応はミトコンドリア内で進む。ミトコンドリア内で生成されたヘムは細胞質に出て対応するアポタンパク質と結合してヘムタンパク質となる&lt;ref name=tamura/&gt;。<br /> <br /> [[file:Protoporphyrin_IX_2.svg|220px|Protoporphyrin IX]] + Fe&lt;sup&gt;2+&lt;/sup&gt; ⇔ [[file:H%C3%A4m.svg|220px|Häm b]] + 2H&lt;sup&gt;+&lt;/sup&gt;<br /> [[プロトポルフィリンIX]] &#039;&#039;&#039;ヘム&#039;&#039;&#039;<br /> <br /> === ヘム生合成の8段階の反応と関連事項 ===<br /> {| cellpadding=3 cellspacing=0 border=1 style=&quot;border-collapse:collapse&quot;<br /> |bgcolor=&quot;#eeeeee&quot;| &#039;&#039;&#039;[[酵素]]&#039;&#039;&#039;<br /> |bgcolor=&quot;#eeeeee&quot;| &#039;&#039;&#039;[[基質]]&#039;&#039;&#039;<br /> |bgcolor=&quot;#eeeeee&quot;| &#039;&#039;&#039;生成物&#039;&#039;&#039;<br /> |bgcolor=&quot;#eeeeee&quot;| &#039;&#039;&#039;[[染色体]]&#039;&#039;&#039;<br /> |bgcolor=&quot;#eeeeee&quot;| &#039;&#039;&#039;[[EC番号]]&#039;&#039;&#039;<br /> |bgcolor=&quot;#eeeeee&quot;| &#039;&#039;&#039;[[:en:OMIM|OMIM]]&#039;&#039;&#039;<br /> |bgcolor=&quot;#eeeeee&quot;| &#039;&#039;&#039;[[ポルフィリン症]]&#039;&#039;&#039;<br /> |-<br /> | [[アミノレブリン酸合成酵素]]<br /> | [[グリシン]]と[[スクシニルCoA]]<br /> | δ-アミノレブリン酸<br /> | 3p21.1、[[X染色体]]<br /> | [http://www.expasy.org/cgi-bin/nicezyme.pl?2.3.1.37 2.3.1.37]<br /> | [http://www.ncbi.nlm.nih.gov/entrez/dispomim.cgi?id=125290 125290]<br /> | -<br /> |-<br /> | [[アミノレブリン酸脱水酵素]]<br /> | [[アミノレブリン酸]]<br /> | ポルフォビリノーゲン<br /> | 9q34<br /> | [http://www.expasy.org/cgi-bin/nicezyme.pl?4.2.1.24 4.2.1.24]<br /> | [http://www.ncbi.nlm.nih.gov/entrez/dispomim.cgi?id=125270 125270]<br /> | アミノレブリン酸脱水酵素欠損症<br /> |-<br /> | [[ポルフォビリノーゲン脱アミノ酵素]]<br /> | [[ポルフォビリノーゲン]]<br /> | ヒドロキシメチルビラン<br /> | 11q23.3<br /> | [http://www.expasy.org/cgi-bin/nicezyme.pl?2.5.1.61 2.5.1.61]<br /> | [http://www.ncbi.nlm.nih.gov/entrez/dispomim.cgi?id=176000 176000]<br /> | [[急性間欠性ポルフィリン症]] (AIP)<br /> |-<br /> | [[ウロポルフィリノーゲンIII合成酵素]]<br /> | [[ヒドロキシメチルビラン]]<br /> | ウロポルフィリノーゲンIII<br /> | 10q25.2-q26.3<br /> | [http://www.expasy.org/cgi-bin/nicezyme.pl?4.2.1.75 4.2.1.75]<br /> | [http://www.ncbi.nlm.nih.gov/entrez/dispomim.cgi?id=606938 606938]<br /> | 先天性赤芽球性ポルフィリン症 (CEP)<br /> |-<br /> | [[ウロポルフィリノーゲンIII脱炭酸酵素]]<br /> | [[ウロポルフィリノーゲンIII]]<br /> | コプロポルフィリノーゲンIII<br /> | 1p34<br /> | [http://www.expasy.org/cgi-bin/nicezyme.pl?4.1.1.37 4.1.1.37]<br /> | [http://www.ncbi.nlm.nih.gov/entrez/dispomim.cgi?id=176100 176100]<br /> | [[晩発性皮膚ポルフィリン症]](PCT)<br /> |-<br /> | [[コプロポルフィリノーゲン酸化酵素]]<br /> | [[コプロポルフィリノーゲンIII]]<br /> | プロトポルフィリノーゲンIX<br /> | 3q12<br /> | [http://www.expasy.org/cgi-bin/nicezyme.pl?1.3.3.3 1.3.3.3]<br /> | [http://www.ncbi.nlm.nih.gov/entrez/dispomim.cgi?id=121300 121300]<br /> | 遺伝性コプロポルフィリン症(HCP)<br /> |-<br /> | [[プロトポルフィリノーゲン酸化酵素]]<br /> | [[プロトポルフィリノーゲンIX]]<br /> | プロトポルフィリンIX<br /> | 1q22<br /> | [http://www.expasy.org/cgi-bin/nicezyme.pl?1.3.3.4 1.3.3.4]<br /> | [http://www.ncbi.nlm.nih.gov/entrez/dispomim.cgi?id=600923 600923]<br /> | 多彩性ポルフィリン症(VP)<br /> |-<br /> | [[鉄付加酵素]]<br /> | [[プロトポルフィリンIX]]<br /> | &#039;&#039;&#039;ヘム&#039;&#039;&#039;<br /> | 18q21.3<br /> | [http://www.expasy.org/cgi-bin/nicezyme.pl?4.99.1.1 4.99.1.1]<br /> | [http://www.ncbi.nlm.nih.gov/entrez/dispomim.cgi?id=177000 177000]<br /> |骨髄性プロトポルフィリア<br /> |}<br /> <br /> == 分解 ==<br /> ヘムの分解は、[[脾臓]]中の[[マクロファージ]]によって開始される。このマクロファージは、循環中の古くなったり損傷を受けた[[赤血球]]を取り除く。最初の段階で、ヘムは、[[ヘムオキシゲナーゼ]](HMOX)により[[ビリベルジン]]に分解される。[[NADPH]]が還元剤として使われ、[[酸素分子]]が反応に加わり、[[一酸化炭素]](CO)が生成され、[[鉄]]がIII価のイオン(Fe&lt;sup&gt;3+&lt;/sup&gt;)として[[ポルフィリン環]]から解放される。<br /> <br /> 遊離ヘムは脂溶性の鉄化合物であることから、[[活性酸素]]生成を促進して細胞傷害を悪化させる&lt;ref&gt;{{Cite journal|和書|author=高橋徹 |author2=清水裕子 |author3=井上一由 |author4=森松博史 |author5=楳田佳奈 |author6=大森恵美子 |author7=赤木玲子 |author8=森田潔 |title=酸化ストレスに対するヘムオキシゲナーゼ-1の臓器保護的役割 |date=2007-10-01 |journal=日本薬理学雑誌|volume=130 |number=4 |naid=10020167375 |doi=10.1254/fpj.130.252 |pages=252-256 |ref=harv}}&lt;/ref&gt;。例えば、ヘムを含む[[ミオグロビン]]は筋挫滅や強い圧迫を受けた筋肉が開放されると[[カリウム]]、[[乳酸]]などとともに大量に流れ出し、[[クラッシュ症候群]]を引き起こし、急性[[腎不全]]を引き起こす。ミオグロビンや[[ヘモグロビン]]のヘム色素は急性[[尿細管]]壊死を引き起こし腎不全の原因となる&lt;ref&gt;[http://merckmanual.jp/mmpej/sec17/ch236/ch236b.html 急性尿細管壊死: 尿細管間質性疾患:メルクマニュアル18版日本語版]&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> ヘム分解は、DNAや脂質を損傷させる有害な[[酸化ストレス]]を速やかに解消するための反応で、種の保存のために[[進化]]の過程で獲得されたものと考えられる。つまり、[[細胞]]が遊離したヘムにより発生した[[フリーラジカル]]にさらされると、ヘムを分解代謝するヘムオキシゲナーゼ1が極めて速やかに導入されることとなる(下図参照)。その理由は、細胞は遊離ヘムによる酸化ストレスを迅速に解消するためにヘムを分解する能力を指数的に増加させなければならないからである。これは、遊離ヘムによる悪影響を迅速に回避するための細胞の自衛反応であろう。<br /> <br /> [[file:Heme b.svg|200px]] [[file:Biliverdin3.svg|220px]]<br /> HMOX(ヘムオキシゲナーゼ)1/2<br /> ヘム --------------&gt; [[ビリベルジン]] + Fe&lt;sup&gt;3+&lt;/sup&gt;<br /> / \<br /> H&lt;sup&gt;+&lt;/sup&gt; + NADPH [[NADP]]&lt;sup&gt;+&lt;/sup&gt;<br /> O&lt;sub&gt;2&lt;/sub&gt; CO<br /> <br /> 2番目の反応として、ビリベルジンが[[ビリベルジン還元酵素]](BVR)によりビリルビンに還元される。<br /> <br /> [[file:Bilirubin.svg|220px]]<br /> ビリベルジン還元酵素(BVR)<br /> ビリベルジン -----------------&gt; [[ビリルビン]]<br /> / \<br /> H&lt;sup&gt;+&lt;/sup&gt; + NADPH NADP&lt;sup&gt;+&lt;/sup&gt;<br /> <br /> ビリルビンは、血漿中の[[アルブミン]]である[[タンパク質]]と結合して[[肝臓]]に運ばれる。肝臓では、ビリルビンが[[グルクロン酸]]と結合してより水に溶けやすいものとなる。この反応は[[グルクロン酸転移酵素|UDP-グルクロン酸転移酵素]](UDPGUTF)によって媒介される。<br /> <br /> [[File:Uridine diphosphate glucuronic acid.svg|250px]] [[File:Bilirubin diglucuronide.svg|280px]]<br /> ビリルビン + [[ウリジン二リン酸グルクロン酸]]------------&gt; [[ジグルクロン酸ビリルビン]]<br /> \<br /> 2 [[ウリジル酸]](UMP) + 2 [[リン酸]](Pi)<br /> ウリジン二リン酸-グルクロン酸転移酵素(UDPGUTF)<br /> <br /> この形のビリルビンは肝臓から[[胆汁]]として[[分泌]]される。[[腸内細菌]]は、[[ジグルクロン酸ビリルビン]]のグルクロン酸を外し、さらにビリルビンを[[ウロビリノーゲン]]へと還元させる。ある程度のウロビリノーゲンは、[[小腸]]に吸収され、体内で[[抗酸化物質|抗酸化作用]]を示し&lt;ref&gt;中村宜司「胆汁色素代謝物ウロビリノーゲンの抗酸化作用」『日本農芸化学会誌』75巻,2001,p144 {{JGLOBAL ID|200902172619022847}}&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;{{cite journal|last1=NAKAMURA|first1=Takashi|last2=SATO|first2=Katsuyuki|last3=AKIBA|first3=Mitsuo|last4=OHNISHI|first4=Masao|title=Urobilinogen, as a Bile Pigment Metabolite, Has an Antioxidant Function|journal=Journal of Oleo Science|volume=55|issue=4|year=2006|pages=191–197|issn=1345-8957|doi=10.5650/jos.55.191}}&lt;/ref&gt;、酸化されると黄色の[[ウロビリン]]に変化し、[[腎臓]]に運ばれ、[[尿]]として[[排泄]]される。大半のウロビリノーゲンは、[[大腸]]を経てウロビリノーゲンの両端のピロール環が還元されて無色の[[ステルコビリノーゲン]]が生成され、さらにステルコビリノーゲンが酸化されて分子中央の[[メチレン基]]が[[二重結合]]化して[[共役系|共役]]して、[[大便]]の茶色の元となる[[ステルコビリン]]が生成されて大便とともに排泄される&lt;ref&gt;青木好雄 竹村哲雄 [http://square.umin.ac.jp/aoki530t/prorogu_daigaku/cyoubunshi7.htm 総説 生体内における分子認識]&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> [[file:I-Urobilinogen.svg|220px]] [[file:I-Urobilin1.svg|220px]]<br /> 腸内細菌 小腸吸収 酸化 (尿中に排泄)<br /> [[ビリルビン]]-----&gt;[[ウロビリノーゲン]]---------&gt;[[ウロビリン]](黄色)<br /> 大腸へ 還元 酸化 (大便中に排泄)<br /> ---------&gt;[[ステルコビリノーゲン]]---------&gt;[[ステルコビリン]](茶色)<br /> [[file:stercobilinogen1.svg|220px]] [[file:stercobilin.svg|220px]]<br /> <br /> == 脚注 ==<br /> &lt;references /&gt;<br /> <br /> == 関連項目 ==<br /> * [[ヘムa]]<br /> * [[ヘムb]]<br /> * [[ヘムc]]<br /> * [[ヘムo]]<br /> * [[ポルフィリン]]<br /> * [[シトクロム]]<br /> <br /> {{代謝}}<br /> {{補因子}}<br /> {{テトラピロール}}<br /> <br /> {{DEFAULTSORT:へむ}}<br /> [[Category:ヘムタンパク質|*]]<br /> [[Category:テトラピロール]]<br /> [[Category:ポルフィリン]]<br /> [[Category:鉄の化合物]]<br /> [[Category:配位化合物]]<br /> [[Category:補因子]]<br /> [[Category:代謝]]</div> 219.96.7.204 感情 2018-09-01T14:05:44Z <p>219.96.7.204: 見出しの中にリンクを作らない。</p> <hr /> <div>[[File:Emotions - 3.png|thumb|感情]]<br /> &#039;&#039;&#039;感情&#039;&#039;&#039;(かんじょう)とは、ヒトなどの動物がものごとやヒトなどに対して抱く[[気持ち]]のこと。[[喜び]]、[[悲しみ]]、[[怒り]]、[[諦め]]、[[驚き]]、[[嫌悪]]、[[恐怖]]などがある([[感情の一覧]])。<br /> <br /> == 概要 ==<br /> [[精神医学]]・[[心理学]]では感情({{lang-en-short|emotion}})と[[気分]](mood)を区別することがあり、前者の方がより一時的なものをさす(しばしば[[天気]] weather と[[天候]] climate に例えられる)。しかし両者を区別せずに使用する場合も多い。[[脳科学]]的には、感情は[[大脳]]の表面([[大脳皮質]])、および[[脳]]の深部(辺縁系など)、[[身体]]の密接な[[相互作用]]で成り立っているとする。また感情と[[思考]]や[[認知]]は、たとえその人が意識にのぼらせなくても密接に関係し合っている([[#感情の脳科学|「感情の脳科学」節]]参照)。<br /> <br /> 一般に[[人間]]([[ヒト]])は感情を抱くが、ヒト以外の[[哺乳類]]も、大脳辺縁系の構造はヒトと類似していること、辺縁系各部位に対する電気刺激や神経作用物質の投与により、不安・恐怖・怒りなどヒトの[[情動]]反応に類似した反応をみせることが古くから知られ、これらの動物にも感情(情動)があると推測されることも多い。ただし、比較認知科学的には研究が始まったばかりであり、あくまでも[[刺激]]と[[行動]]の相関関係が観測されているだけにすぎない、とする主張もある。<br /> <br /> 生活文化においては、単に「&#039;&#039;&#039;[[:wikt:情|情]]&#039;&#039;&#039;」と略する事がある。他人の感情を深くくみ取り(感受性が高い)、場合によってはそれに伴った感情を態度(涙を流すなど)や行動に表すほどに心が豊かな事を「情に厚い」という。「情に厚い江戸っ子気質」などの語句に使用され、[[江戸っ子]]の[[いき]]の一つともされている。<br /> <br /> == 感情の生物学 ==<br /> 生物学的には感情は大きく四つの要因に分ける事ができる。(1)感情を引き起こす[[脳科学]]的メカニズム、(2)感情の社会的メカニズム、(3)個人の感情を形作る感情の[[発達|個体発達]]、(4)種に普遍的な感情を形作った進化的機能である。前二者は[[至近要因]]、後二者は[[究極要因]]と呼ばれる。<br /> <br /> === 至近要因-感情の脳科学 ===<br /> [[生理学]]的には、感情には&#039;&#039;&#039;身体感覚に関連した[[無意識]]な感情&#039;&#039;&#039;(emotion, 情動)と&#039;&#039;&#039;[[意識]]的な感情&#039;&#039;&#039;(feelingもしくはemotional feeling)と分類されることが多い。意識的感情(feeling)には、&#039;&#039;&#039;大脳皮質&#039;&#039;&#039;(大脳の表面)とりわけ[[帯状回]]、[[前頭葉]]が関与している。無意識感情には、&#039;&#039;&#039;皮質下&#039;&#039;&#039;(脳の中心の方)の[[扁桃体]]、[[視床下部]]、[[脳幹]]に加えて、[[自律神経]]系、[[内分泌]]系、骨格筋などの&#039;&#039;&#039;末梢系&#039;&#039;&#039;(脳の外の組織)が関与する。しかし、感情も情動も皮質と帯状回のみで成立する、という反論も存在する(Rollsたち)。<br /> <br /> emotionについては[[情動]]を参照のこと。<br /> <br /> たとえば我々が恐怖を感じるとき、同時に脈がはやくなり、口が渇き、手に汗を握るのを感じる。恐怖を感じているのは皮質であり、末梢の反応(動悸など)を起こすのは皮質下である。しかし感情について考えるとき、両者を切り離して考えることはできない。<br /> <br /> [[アントニオ・ダマシオ]]らは、[[スタンレー・シャクター]]らの[[感情の二要因説]]を発展させ、感情を体験・認識することは、刺激に対して発生した身体反応を説明するために皮質が作る&#039;&#039;&#039;ストーリー&#039;&#039;&#039;であると主張している。例えば、被験者にアドレナリンを注射した後で不快な環境に置いたところ、アドレナリンの副作用を知らされていない被験者は、アドレナリンにより起こった動悸や冷や汗などの反応を環境のせいにし不快がったが、副作用を知らせておいた被験者はアドレナリンのせいだと判断し、不快さも少なかったという。つまり皮質が、&#039;&#039;&#039;身体の反応を、前後の文脈と照らし合わせて解釈し感情というストーリーを作った&#039;&#039;&#039;ということになる。<br /> <br /> (注)シャクターらは、感情2要因説を1960年代に唱えたが、その後2要因となるような直接の証拠が得られなかったため、彼は自身の仮説を修正して、生理的基盤(=情動)に基づいてその後感情が形成される、という感情の2段階説を唱えた(1982年)。これを発展させたのが、Lazarusたちで、感情を社会性も含めたより複雑なものとして定義した([[罪悪感]]、やきもち、[[嫉妬]]、[[愛]]、なども含めた)。<br /> <br /> [[マグダ・アーノルド]]の感情理論では、外界からの刺激に対して、&#039;&#039;&#039;まず危険であるか有益であるか&#039;&#039;&#039;を皮質下および帯状回で無意識に判断し、次に皮質で&#039;&#039;&#039;どう行動するかを判断&#039;&#039;&#039;する。その判断に基づいて末梢の反応(&#039;&#039;&#039;交感神経の興奮、骨格筋の緊張など&#039;&#039;&#039;)が起こり、最後に皮質にてそれを&#039;&#039;&#039;意識的な感情として認識する&#039;&#039;&#039;。この説の根拠となる実験的証拠は、強い感情を惹起する視覚刺激を短時間(30ms以下)呈示すると、意識上は認識できない([[サブリミナル効果]]参照)にも関わらず末梢では反応が見られるという事実である。しかし意識に関して、どこでどのように感情意識が発生しているか、という点については、いまだ諸説あり、詳細は不明である。<br /> <br /> * 補足1<br /> *: 上記したような身体と感情の密接なつながりは、感情に関係する日常的な言葉にもよくみられる。例えば、「胸が痛む」、「断腸の思い」、「血湧き肉躍る」、「手に汗握る」、「胸をおどらせる」、「腹が立つ」、「はらわたが煮えくり返る」、「頭に血が上る」、「むかつく」、「苦々しい」、「鉛を呑んだような」、「ちむぐりさ(=肝苦しい、沖縄方言)」など。このうちの幾つかは典型的な交感神経亢進反応であり、幾つかはそれらに起因するかもしれない消化管症状である。<br /> * 補足2<br /> *: [[精神疾患]]の治療に用いられる[[認知行動療法]]は、「認知の仕方を変えることによって感情を調整する」という理論に基づいており、皮質と皮質下の相互作用を応用した好例と言える。また、[[自律訓練法]]は「手が暖かい」「気持ちがおちついている」など、リラックスした身体状態をイメージしながら心身の緊張をとる訓練法であり、ストレス解消、心身症、神経症などの治療に用いられる。これも末梢の自律神経反応と感情の相互作用を応用した一例である。<br /> * 2012年10月、脳神経外科の世界的権威であるエベン・アレグザンダーは「死後の世界は存在する」と発言した。かつては一元論者で死後の世界を否定していた人物であったが、脳の病に侵され入院中に臨死体験を経験して回復した。退院後、体験中の脳の状態を徹底的に調査した結果、昏睡状態にあった7日間、脳の大部分は機能を停止していたことを確認した。そしてあらゆる可能性を検討した結果、「あれは死後の世界に間違いない」と判断して、自分の体験から「脳それ自体は意識を作り出さないのでは?」との実体二元論の仮説を立てている<br /> <br /> ==== 個体発達 ====<br /> 幼い[[赤ん坊]]でも生後数日で母親の表情に反応するようになる。また宙に浮いた物体を見せると長く見つめるなど、何らかの感情を持っていると考えられる。主要な感情は4歳頃までには形成される。<br /> <br /> === 進化心理学で想定する要因 ===<br /> [[進化心理学]]では、感情の仕組みは、環境に応じて素早く行動を決定するための生物学的適応であり、進化の過程で形成されたと考える。[[進化心理学|進化心理学者]]は親族間の愛情は[[血縁選択]]によって、親子間、夫婦間の愛情と反目は[[親子の対立]]、[[性的対立]]の要因によって進化したと考えている。また[[レダ・コスミデス]]のような研究者はそれぞれの感情が異なる選択圧によって形成され、異なる機能を持ち、したがって異なる神経的基盤あるいは[[心のモジュール性|モジュール]]を持つと考えている。[[ロバート・トリヴァース]]、[[リチャード・アレグザンダー]]、[[マーティン・ノヴァク]]といった進化生物学者と[[ゲーム理論]]家は、友情、協力、裏切り、罪悪感、公平さ、道徳観などを引き起こす動機として一部の感情が進化し、それは[[互恵的利他主義]]と[[間接互恵性]]、[[互酬|一般互酬性]]の理論から導きだせると考えている。このような視点からは、感情は少なくとも部分的には生得的であり、一般認知能力からある程度独立しており、内外の刺激に対して瞬時に自律的に発動すると考えられる。この生物学的適応という視点は機能主義心理学にも遡ることができる。<br /> <br /> == 感情の分類 ==<br /> 人間にはどのような感情があるのかについては古来様々に議論されてきた。以下に、歴史的文化的経緯、感情研究の歴史に基づく分類、<br /> 詳しくは[[感情の一覧]]を参照。<br /> <br /> === 六情 ===<br /> 一般に、6種類の代表的な感情として、<br /> # 喜<br /> # 怒<br /> # 哀<br /> # 楽<br /> # 愛 (いとしみ)<br /> # 憎 (にくしみ)<br /> が総称されることが多い。<br /> <br /> === 三字経 ===<br /> 「曰喜怒、曰哀懼、愛悪欲、七情具」とあり、<br /> # 喜<br /> # 怒<br /> # 哀<br /> # 懼 (おそれ)<br /> # 愛 (いとしみ)<br /> # 悪 (にくしみ)<br /> # 欲<br /> の七情が人にそなわっていると言う。<br /> <br /> === 中国の五情(ごじょう) ===<br /> 人間の持つ代表的な感情を、<br /> # 喜 (よろこび)<br /> # 怒 (いかり)<br /> # 哀 (かなしみ)<br /> # 楽 (たのしみ)<br /> # 怨 (うらみ)<br /> の五つにまとめて表す。<br /> <br /> === 部首が「心」で感情を表す漢字 ===<br /> 忌 (いむ) ・忍 (しのぶ) ・怒 (いかる) ・恐 (おそれる) ・恥 (はじらう) ・恋 (こい) ・悲 (かなしい) ・愁 (うれえる) ・慕 (したう) ・憂 (うれえる) ・怪 (あやしむ) ・怖 (こわい) ・悔 (くやむ) ・恨 (うらむ) ・惜 (おしむ) ・悼 (いたむ) ・愉 (たのしむ) ・憎 (にくむ) ・憤 (いきどおる) ・懐 (なつかしむ) 等々。<br /> <br /> === 感情を表す和語 ===<br /> 感情を表す形容詞および形容動詞 (例:かなしい) 、その感情をいだいている/いだく動作を表す動詞 (例:かなしむ) 、抽象化された名詞 (例:かなしみ) を示す。ただし、「愛する」「嫌悪する」の様に「 (漢字) +〜する」は漢語が混ざっているため除いた。<br /> * 形容詞および形容動詞<br /> *: かなしい・うらがなしい・ものがなしい・みじめだ・やるせない・たのしい・うれしい・しあわせだ・めでたい・いまわしい・はずかしい・うらめしい・にくたらしい・いやだ・きらいだ・さわやかだ・いつくしい・いとおしい・つまらない・おそろしい・こわい<br /> * 動詞<br /> *: このむ・よろこぶ・いかる・おこる・かなしむ・おそれる・はじらう・はにかむ・うれえる・あやしむ・うらむ・にくむ・いきどおる・むかつく・きらう・けぎらいする・めでる・うんざりする・あきる・びびる<br /> * 名詞<br /> *: よろこび・かなしみ・いかり・うらみ<br /> <br /> === インドの伝統的な美学理論 ===<br /> ナヴァ・ラサ (人間の9つの基本的感情) というものがあり、それは、<br /> # シュリンガーラ ([[恋愛]]感情;恋する気持ち、愛する気持ち)<br /> # ハースヤ (滑稽な笑い)<br /> # カルナ (悲しみ)<br /> # ラウドラ (怒り)<br /> # ヴィーラ (勇ましい気持ち、活力あふれる気持ち)<br /> # バヤーナカ (恐れ)<br /> # ビーバッサ (嫌悪)<br /> # アドブタ (驚き)<br /> # シャーンタ (平和)<br /> の9つであるとされる (参考 [[ラサ (インド文化)|ラサ]]) 。<br /> <br /> === チャールズ・ダーウィン ===<br /> 悲しみ、幸福、怒り、軽蔑、嫌悪、恐怖、驚きという七つの基本的感情が、[[文化]]によって異ならず、普遍的に同じ方法で表現されると考えていた。また子供の成長やオランウータンの感情表現の観察を通して、人間と他の霊長類の類似性を見いだした。<br /> <br /> === 心理学的な感情の分類 ===<br /> 表情認知からみた感情の分類。[[ポール・エクマン]]は次の6つの感情は生物学的基盤を持ち、[[ヒューマン・ユニバーサルズ]]であると結論した。<br /> * 幸福感、驚き、恐れ、悲しみ、怒り、嫌悪<br /> エクマンは1990年代にこのリストを拡張し、以下を加えた。<br /> * 楽しさ、軽蔑、満足、困惑、興奮、罪の意識、功績に基づく自負心、安心、満足感、喜び、罪悪感<br /> <br /> == 表情 ==<br /> 感情は[[表情]]や仕草となってあらわれる。表情は[[非言語コミュニケーション]]の一部である。<br /> <br /> 表情は自律的に働き、訓練しないと意識的にコントロールできない。また[[ヒューマン・ユニバーサル]]な性質であり、どの文化でも基本的な表情は共通している。進化的な視点からは、コミュニケーション信号は他個体を操作するために自由にコントロールできる方が有利であると考えられるが、そうなっていない。[[アモツ・ザハヴィ]]のような一部の生物学者は、正直に自分の感情を伝えることがもっとも利益を得られるからだと考え、[[ハンディキャップ理論|ハンディキャップ信号]]の一種ではないかと主張しているが、実際にどのような利益があるのかは明らかでない。<br /> <br /> == 感情が冒される疾患や状態 ==<br /> * 感情・気分が冒される疾患の代表的なものは[[気分障害]]([[うつ病]]、[[躁うつ病]]、[[躁病]]など)である。うつ病では抑うつ気分(落ち込んだ、疲れた、元気のない、悲しい、泣きたいような、嫌になる、死にたい、絶望的)を呈するが、躁状態では気分が爽快になり、元気で、活気にあふれている、自信満々、動き回りたいなどの気分を呈する。重症になると攻撃的な気分、怒りが前面に出てくる。<br /> * しかし抑うつ気分を呈する疾患はうつ病だけではない。[[適応障害]]、[[統合失調症]]、[[摂食障害]]、[[パーソナリティ障害]]など様々な疾患に合併することがある。また、精神疾患に限らず、健康な人でも一時的に抑うつ的になることはよくある。<br /> * 大脳辺縁系の一部をなす[[扁桃体]]やその周辺が破壊されると、[[Kluver-Bucy症候群]]と呼ばれる、性行動異常、情動異常(サルの場合、ヘビを見ても全く怖がらず触ろうとする)、口唇傾向などを特徴とする状態になる。<br /> * [[アレキシサイミア]](alexithymia)は、[[精神医学]]の用語で、自らの感情を自覚・認知したり表現したりすることが不得意で、空想力・想像力に欠ける傾向のことをさす。この傾向を持つ人は[[心身症]]になりやすいといわれている。つまり自らの感情を認識することが苦手なため、身体の症状として現れてしまうという(詳しくは[[アレキシサイミア]]、[[心身症]]参照)。<br /> <br /> === イスラム世界 ===<br /> [[音楽]]が人間に与える感情を利用して[[医療]]行為としての[[音楽療法]]が行われていた([[ユーナーニー医学]])。<br /> <br /> == 感情に作用する薬物 ==<br /> * [[抗うつ薬]]:抗うつ薬はうつ病、うつ状態の治療薬であり、落ち込んだ気分、意欲低下などを改善する。[[セロトニン]]系、[[ノルアドレナリン]]系、[[ドパミン]]系神経を賦活することで効果を発現する。抗うつ薬によってその3系統の神経系への働きの強さが異なり、薬剤ごとに薬効が異なる。<br /> * [[抗不安薬]]:[[ベンゾジアゼピン]]受容体に働くことで、不安を取り除く作用がある。<br /> * 違法な薬物である[[覚醒剤]]は、脳の[[ドーパミン]]系を強く興奮させることで快の気分を発現する。しかし同時に[[ドーパミン]]系神経の異常を来たし、様々な副作用・後遺症を来たす。<br /> * その他にも、アルコール、ステロイドなど様々な薬物が感情に作用する。<br /> <br /> == 感情を分析する医療用工学技術 ==<br /> * [[情動]]:[[感性制御技術]]の分野における、[[韻律 (言語学)|韻律]]からの感情認識がある。医療用工学技術としては、情動は興奮において90%以上の認識精度を持つが、感情は個人の認知ラベルの影響差があり、そこまでの精度は保障されない。<br /> * [[感情認識]]:独立行政法人・[[情報通信研究機構]]と株式会社[[AGI (企業)|AGI]]の共同研究において、fMRI用に使用可能な感情認識は音声からの[[感性制御技術]]STがある。しかし、音声が出ない状況では使用できない。<br /> * その他にも、[[徳島大学]]などでは、表情からの感情認識の研究がされている。<br /> <br /> == 関連項目 ==<br /> {{sisterlinks<br /> | wikt = 感情<br /> | commons = Category:Emotions<br /> }}<br /> * [[感情の一覧]]<br /> * [[アンビバレンス]]<br /> * [[感情労働]]<br /> * [[心理学]]<br /> * [[脳科学]]<br /> * [[認知行動療法]]<br /> * [[自律訓練法]]<br /> * [[クオリア]]<br /> <br /> == 外部リンク ==<br /> {{Spedia|Models_of_Emotion|Models of Emotion|感情のモデル}}<br /> {{SEP|emotion|Emotion}}<br /> * 松川半山『[{{NDLDC|863409/31}} 童蒙画引単語篇]』1874年。(国会図書館・近代デジタルライブラリー)<br /> *{{脳科学辞典|記事名=顔表情認知}}<br /> <br /> {{感情のフッター}}<br /> <br /> {{DEFAULTSORT:かんしよう}}<br /> [[Category:感情|*]]<br /> [[Category:心理学]]<br /> [[Category:顔]]<br /> [[Category:主観的体験]]</div> 219.96.7.204 テンプレート:感情のフッター 2018-09-01T14:03:44Z <p>219.96.7.204: </p> <hr /> <div>{{Navbox<br /> | name = 感情のフッター<br /> | title = [[感情]] ([[感情の一覧|一覧]])<br /> | state = {{{state|autocollapse}}}<br /> | image= [[File:Plutchik-wheel.svg|90px]]<br /> |listclass = hlist<br /> <br /> | group1 = [[感情]]<br /> | list1 =<br /> *[[崇拝]]<br /> *[[諦め]]<br /> *[[畏怖|驚き]]<br /> *[[楽しみ]]<br /> *[[悲しみ]]<br /> *[[怒り]]<br /> *[[苦悶]]<br /> *[[いらだち]]<br /> *[[不安]]<br /> *[[覚醒]]<br /> *[[対人魅力|魅力]]<br /> *[[優しさ]]<br /> *[[慈悲]]<br /> *[[軽蔑]]<br /> *[[満足]]<br /> *[[敗北主義|敗北]]<br /> *[[意気消沈|落胆]]<br /> *[[意気消沈]]<br /> *[[欲望]]<br /> *[[希望]]<br /> *[[絶望]]<br /> *[[失望]]<br /> *[[無念]]<br /> *[[嫌悪]]<br /> *[[エクスタシー|恍惚状態]]<br /> *[[困惑]]<br /> *[[エンスージアスト|熱中]]<br /> *[[嫉妬]]<br /> *[[羨望]]<br /> *[[劣等感]]<br /> *[[多幸感]]<br /> *[[興奮]]<br /> *[[恐怖]]<br /> *[[フラストレーション]]<br /> *[[罪悪感]]<br /> *[[幸福]]<br /> *[[憎悪]]<br /> *[[怨み]]<br /> *[[ホームシック]]<br /> *[[敵意]]<br /> *[[恥]]<br /> *[[ヒステリー]]<br /> *[[心酔]]<br /> *[[情緒不安定]]<br /> *[[プレッシャー|プレッシャー(重圧)]]<br /> *[[侮蔑]]<br /> *[[激昂]]<br /> *[[孤独]]<br /> *[[寂しさ]]<br /> *[[憧れ]]<br /> *[[愛]]<br /> *[[愛憎]]<br /> *[[性欲]]<br /> *[[メランコリー]]<br /> *[[パニック]]<br /> *[[情欲]]<br /> *[[プレジャー]]<br /> *[[傲慢]]<br /> *[[残念]]<br /> *[[社会的排除|拒絶]]<br /> *[[良心の呵責]]<br /> *[[ルサンチマン]]<br /> *[[羞恥心]]<br /> *[[人見知り]]<br /> *[[衝撃]]<br /> *[[悲痛]]<br /> *[[悔しさ]]<br /> *[[後悔]]<br /> *[[悪意]]<br /> *[[善意]]<br /> *[[同情]]<br /> *[[共感]]<br /> *[[哀れみ]]<br /> *[[苦しみ]]<br /> *[[驚愕]]<br /> *[[振戦|スリル]]<br /> *[[報復|執念]]<br /> *[[心配]]<br /> *[[勤勉|熱心]]<br /> *[[熱意]]<br /> *[[シャーデンフロイデ]]<br /> *[[メシウマ|メシウマ(ネットスラング)]]<br /> *[[サウダージ]]<br /> *[[アンビバレンス]]<br /> <br /> | group2 = [[世界観]]<br /> |list2 =<br /> *[[感傷主義]]<br /> *[[両立主義]]<br /> *[[実存主義]]<br /> *[[宿命論]]<br /> *[[非両立主義]]<br /> *[[形而上学]]<br /> *[[ニヒリズム]]<br /> *[[楽天主義]]<br /> *[[悲観主義]]<br /> *[[世捨て人|世捨て]]<br /> *[[社会正義]]<br /> *[[ベルトシュメルツ]]<br /> <br /> }}&lt;noinclude&gt;<br /> [[Category:感情|*TEMPLATES]]<br /> [[Category:心理学のテンプレート]]<br /> &lt;/noinclude&gt;</div> 219.96.7.204 カラゴ 2018-09-01T00:41:38Z <p>219.96.7.204: </p> <hr /> <div>&#039;&#039;&#039;カラゴ&#039;&#039;&#039;とは、[[被差別部落]]で使われた[[隠語]]のこと。「唐語」「唐言」などの字があてられる。部落外の者にわからぬよう、部落民同士で意思の疎通を図るために考案された。地域によっては&#039;&#039;&#039;サンショウ&#039;&#039;&#039;ともいう&lt;ref name=&quot;上原&quot;&gt;上原善広『日本の路地を旅する』文春文庫版140頁&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 語源は純然たる[[日本語]]ばかりであり、[[江戸時代]]後期以降につくられたものと推測されている。差別の原因ともなったため、今日ではカラゴの不使用を申し合わせた部落が多い。<br /> <br /> 以下、[[高知県]][[宿毛市]]の貝礎地区のカラゴを紹介する。「ギンシャリ」「バラス」「ゲソク」のように部落外で使われている語も見られる。(>以下は語源)<br /> <br /> *シデジロー(一人前の男性。社会人。主人)>仕手、やりて<br /> *ワクツ(一人前の女性。主婦)<br /> *ボブジロー(おばあさん。老女)<br /> *ガリ(男女の子供。幼稚な子供)<br /> *シデガリ(男の子供。保育園児・小中高生)<br /> *ワクツガリ(女の子供)<br /> *カマル(人が現れる。人が来る。人の動き)>罷る<br /> *アオクナ(しゃべってはいけない。知らせるな)>(教えや命令などを)仰ぐ<br /> *アオケ(知らせてやれ。伝達してやれ)<br /> *フケル(その場を去る。逃げる。どこかに行くこと)>花札にふけるの用語あり。<br /> *ゴトシ(仕事。作業。労働)>仕事<br /> *リュウセン(何もしない。さぼる。遊んで仕事をしない)<br /> *ニヤク(金銭)>荷役?<br /> *ハム(来る。入る。受入する。収入)<br /> *フッタ(死亡。死人。死んだ動物など)>フルヒト=死人<br /> *セブッタ(死ぬ。死亡。命がなくなった)<br /> *ケハイイ(恥ずかしい。面倒な。赤面する)>「化粧い」。化粧して恥ずかしい。<br /> *ビラ(衣類。着物)>びらびらするもの=布<br /> *ジャネ(米。食料)>シャリ=米粒<br /> *ギンシャリ(白米)>銀舎利、白米<br /> *ヨミナ(よいところ。よいこと)<br /> *ダカセ(やる。もらう)>抱かせ<br /> *ボク(木材。薪。薪木)>材木、立木、樹木<br /> *タゲル(盗む)<br /> *トスク(盗み。泥棒)<br /> *ヤカメル(煮る。焼く)<br /> *ノース(食う。食事)<br /> *テンリョウ(杵でついた餅。ぼた餅)<br /> *ゼンギョウ(犬。野犬)<br /> *バラス(殺す)>ばらばらにする<br /> *ヅウジ(里芋。甘藷。ジャガイモ)<br /> *エンコ(肉。牛馬の肉。死んだ牛馬の肉)>エンコ(土佐の方言でカッパのこと)<br /> *カッポ(牛馬の肉。肉)>ガッポウ(岐阜の方言で牛のこと)、カッパ(愛媛の方言で老牛のこと)<br /> *キザエモン(肉)<br /> *ヘロ(牛馬や豚の内臓)<br /> *ネス(部落外のもの)<br /> *テコ(部落の人々)<br /> *スネグロ(部落外のもの)>スネはネスの倒語。クロは黒で、白の対義語。ジローの対義語がグロ。<br /> *ヤロク(泥棒。ならず者)<br /> *キス(酒。焼酎。ウィスキー)>好きの倒語。芸人やテキヤの隠語。<br /> *キスグレ(酒癖が悪い)<br /> *ゲソク(草履。履物。藁や竹の皮で編んだもの)>下足<br /> *グラ(目。体の一部。額の部分)<br /> *ツナゲン(目が見えない)<br /> *ゲソ(肺病。伝染病)<br /> *ツベ(腰。尻)>土佐全般の方言。<br /> *イッサンマイ(牛馬の内臓、腸)<br /> *ワヤナ。ブウイ(悪い人)<br /> <br /> [[愛媛県]][[新居郡]][[泉川村]](現・[[新居浜市]])の部落では下記の言葉が使われていた&lt;ref&gt;『海南新聞』1912年10月1日&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> *つぐり、どうり(草履)<br /> *どうきん(雑巾)<br /> *だんぷ(ランプ)<br /> *でに(銭)<br /> *ゆす(椅子)<br /> *がらんす(ガラス)<br /> *だんきょう(らっきょ)<br /> *だくだい(落第)<br /> *だいさん(財産)<br /> *のし(おぬし)<br /> *おかぼいる、なく事(暴れる)<br /> *れんき(電気)<br /> *りてんしゃ(自転車)<br /> *しんずる(死ぬ)<br /> *へこ(癩病)<br /> *いんずる(帰る)<br /> *ばっ(嗚呼)<br /> *おらんく(わたくしところ=私処)<br /> <br /> [[山口県]][[光市]]の浅江高州地区では以下のような言葉が使われていた&lt;ref name=&quot;上原&quot; /&gt;。<br /> *トウサン(東京)<br /> *ゴットン(汽車)<br /> *ゴウダベエ(田舎者)<br /> *メンキュウ(金)<br /> *チュウマア(宿)<br /> *セミ(店)<br /> *チマ(町)<br /> <br /> なお[[栃木県]][[塩谷郡]]に定住した箕直しの[[山窩]]の夫婦によると(夫は[[1909年]]生まれ、妻は[[1923年]]生まれ)、山窩の隠語で部外の者をネスと呼んでいたという&lt;ref&gt;[[筒井功]]『サンカの真実 三角寛の虚構』113頁&lt;/ref&gt;。また[[1915年]]生まれの[[埼玉県]]の山窩女性によると、山窩の隠語で足袋をゲソと呼んでいたという&lt;ref&gt;筒井功『サンカの真実 三角寛の虚構』112頁&lt;/ref&gt;。これは上記の高知県宿毛市のカラゴにおける「ネス(部落外のもの)」「ゲソク(草履。履物。藁や竹の皮で編んだもの)」と一致または類似している。<br /> <br /> ネスという隠語はネスゴロウの略であり、部落外の一般民に対する敵意が含まれており、[[山口県]][[萩市]]の部落でも使われていた&lt;ref&gt;[[部落解放同盟]]新南陽支部発行『学習会資料』&lt;/ref&gt;。ただしネスという隠語は[[テキヤ]]の世界でも「素人」の意味で使われている&lt;ref&gt;[[加太こうじ]]『わたしの日本語』56頁&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;加太こうじ『日本のヤクザ』45頁&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;日本人文科学会『社会的緊張の研究』113頁&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;[[神崎宣武]]『わんちゃ利兵衛の旅: テキヤ行商の世界』94頁&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;[[中村周作]]『行商研究: 移動就業行動の地理学』281頁&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;[[南博]]『近代庶民生活誌: 盛り場、裏町』48頁&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;林英夫『流民』261頁&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;[[岩井弘融]]『病理集団の構造: 親分乾分集団研究』96頁&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> ==カラゴの使用例==<br /> *ボク、タゲニ、カマル(薪木をとりにゆく)<br /> *シデン。カマツタケン。アオクナ。(男の人が来たのでなにも言うな)<br /> *ヅウジ。ヤカメテ。ノース。(芋を煮て、あるいは焼いて食う)<br /> *グラン。ツナゲン。(目が見えない)<br /> *ゲソク。バラシテ。ノース。(草履をつくって飯を食う)<br /> *ワクツガ。カマツタケン。ケハイイコト。アオクナ。(女の人が来ているので恥ずかしいことを言うな)<br /> *ワクツガ。フケテカラ。アオケ。(女の人が帰ってから話せ)<br /> <br /> ==脚注==<br /> {{Reflist}}<br /> <br /> ==参考文献==<br /> *『宿毛の部落史』483-489頁<br /> <br /> {{language-stub}}<br /> {{日本語の方言}}<br /> {{日本語}}<br /> {{DEFAULTSORT:からこ}}<br /> [[Category:被差別部落]]<br /> [[Category:日本のスラング|*からこ]]<br /> [[Category:民俗学]]<br /> [[Category:言葉の文化]]<br /> [[Category:日本語の言語変種]]</div> 219.96.7.204 色気 2018-09-01T00:38:56Z <p>219.96.7.204: </p> <hr /> <div>[[Image:Lingerie flickr.jpg|thumb|150px|下着姿の女性]]<br /> &#039;&#039;&#039;色気&#039;&#039;&#039;(いろけ)とは、[[異性]]([[同性愛者]]にとっては[[同性]])をひきつける[[性 (生物学)|性的]]な魅力があることを指す[[俗語]]である。英語では「&#039;&#039;&#039;セクシー&#039;&#039;&#039;」(Sexy)や「&#039;&#039;&#039;セックスアピール&#039;&#039;&#039;」(Sex Appeal)などが該当し、いずれも現代の日本では[[外来語|カタカナ言葉]]として通用する。<br /> <br /> == 概要 ==<br /> 色気の「色」とは、主に[[色|色彩]](英語:Color)を指す言葉であるが、一方で性的な魅力を意味する俗語や[[慣用句]]として様々に使用されている。古くは容姿や髪の色艶が良いことなども意味し、転じて異性を指したり性的な意味合いを含む言葉として使用されるようになった。&lt;ref&gt;「色」という言葉、または「いろ」という発音が性的な意味合いを持つようになった語源には諸説がある。「和訓栞」(発行:1887年・著者:[[谷川士清]])による「漢語で女のことを色という」説、「日本語原考」(発行:1920年代・[[与謝野鉄幹]])による「男女の放縦な情交を指す『淫(いん)』の語尾を略し、ラ行音を添えた」説など。なお、国文学者:[[折口信夫]]による「古代の貴族階級における家庭内にて女の順序を意味したイロネなどに関連する」説では、「いろ兄」や「いろ姉」と書くイロネは何れも母親を同じにする兄弟姉妹を意味しており、「色」という言葉や「いろ」という発音が血縁関係や性に関連する物事から発生したと捉えた。&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;辞書「全訳 古語辞典 携帯版」(発行:2005年・出版:[[ベネッセコーポレーション]])初刷、「色なり」の項目より。随筆「[[枕草子]]」(発行:[[平安時代|平安中期]]頃・著者:[[清少納言]])にて「髪、色に、こまごまとうるはしう…(髪は、艶やかで、細やかに整い…)」などの使用例。&lt;/ref&gt;<br /> <br /> 現代における俗語としての「色」は一般的に[[恋愛]]や[[性欲]]に関連する言葉の接頭語として使用されることが多く、「色気」は性的な魅力を指して使用することが多い。<br /> <br /> === 性的な魅力 ===<br /> 色気は、相手にとって性的な魅力がある人間のことを指す。ただし、性的な魅力が何であるかは人間によって様々であり、具体的な物事(容姿やファッションなど)から抽象的な物事(仕草や言葉遣いなど)まで多種多様である。一般的には、「女性的魅力」や「男性的魅力」などといった性的な要素が好意的に受け止められる場合や、それによって恋愛感情や性欲に関連した行為を喚起させるような雰囲気や様子を指して「色気」と表現することが多い。&lt;ref&gt;辞書「女性語辞典」(発行:1967年・出版:東京堂出版)にて「色節(いろふし)」の項目より。主に遊郭で使用したとされ、延宝9年(1681年)の書とされる「朱雀諸分鑑」にて「口には色節をやりて…(言葉には色気を含ませて…)」などの使用例。&lt;/ref&gt;<br /> <br /> なお、性的な魅力とは[[生物学]]的な要素だけではなく、文化や風習による要素まで広義に内包しており、厳密に定義するのは困難である。例えば、[[歌舞伎]]における[[女形]]は男性でありながら女性を表現する役者であり、容姿や[[ファッション]]といった外見のみならず、仕草・立ち振る舞い・言葉遣い・考え方といった抽象的な表現まで、「女性の色気」を広く解釈して初めて演じることができるとされる。また、同性からも魅力を感じるような場合や、相手の性格そのものに惹き付けられる要素があるような場合は、[[性別]]や[[年齢]]に関係なく使用されることがある。&lt;ref&gt;[[文春新書]]「菊五郎の色気」(発行:2007年・著者:[[長谷部浩]])より。「女方から男伊達まで、こぼれんばかりの色気で江戸の粋を立ちのぼらせる歌舞伎役者、[[尾上菊五郎]]」などとある。&lt;/ref&gt;<br /> <br /> === その他 ===<br /> 愛嬌(あいきょう)や趣(おもむき)、[[風情]](ふぜい)などといった、好ましい印象や調和している様子を指すことがある。例えば「場に色気(色)を添える」などの用法は、男性しかいない席に女性が加わることで場が明るく華やぐことを意味している。このような場合は前後の文脈から推測するしかないが、かなり曖昧で感覚的な用法であると思ってよい。&lt;ref&gt;辞書「全訳 古語辞典 携帯版」(発行:2005年・出版:[[ベネッセコーポレーション]])初刷、「色」の項目より。和歌集「[[古今和歌集]]」(発行:905年・撰者は[[紀貫之]]、[[紀友則]]、[[壬生忠岑]]、[[凡河内躬恒]])にて「今の世の中色につき、人の心花になりにけるより…(今は世間が華美に流れ、人の心が派手になってしまい…)」、随筆「[[徒然草]]」(発行:1330年頃・著者:[[吉田兼好]])にて「色もなく覚え侍りしを…(風情のないことだと思ったが…)」などの使用例。また、「色好み(いろごのみ)」は風流を解する人、「色好む(いろこのむ)」は恋愛に長けた人という意味があった。&lt;/ref&gt;<br /> <br /> == 類義語 ==<br /> * お色気(おいろけ) = 接頭語の「お」を付け、「色気」よりもソフトな意味合いで使用される。<br /> * 色香(いろか) = 色が香る、色気が漂うような雰囲気や様子を指す。<br /> * 色事(いろごと) = 恋愛や性行為に関連する物事の全般を指す。<br /> * 色恋沙汰(いろこいざた) = 恋愛全般を指すが、主に恋愛が原因となる悩みやトラブルを指す。<br /> * 色っぽい(いろっぽい) = 色気があることを指す。[[慣用句]]として「艶っぽい」とも書き、同じく「いろっぽい」と読む。<br /> * 悩殺(のうさつ) = 具体的な性行為がなくとも、色気などによって相手を虜にしてしまうことを指す。<br /> <br /> == 使用例 ==<br /> * 性的な魅力があることを「色気がある」、性的な魅力がないことを「色気がない」などといった用法で使う。恋愛において「男としての色気がない」や、不倫において「人妻独特の色気がある」など。<br /> * [[思春期]]や[[結婚適齢期]]を迎えて、異性や恋人などの人目を気にしだすような行為を「色気付く(いろけづく)」という。例えば「あの子も色気付く年頃だ」などと使う。<br /> * 性別や年齢に関係なく異性に人気があるような場合、「結構なお歳(高齢)なのに色気がある」などと使う。<br /> * [[粋]]な役者や人気のあるタレントなどに、「演技に色気がある」などと使う。<br /> * 色気を前面に出したテレビ番組で「[[お色気番組]]」や、スポーツ新聞などで[[風俗店]]を扱ったような記事で「お色気記事」などと使う。<br /> * 「色気より食い気」という用法は、性欲より食欲を重視する際に使う[[ことわざ]]である。[[合コン]]などで恋愛よりも食事を重視するような際に言葉通り使うこともあれば、実利優先の[[比喩]](転義法)として結婚よりも仕事を選ぶような際に揶揄して使う場合もある。<br /> * 「色気を出す」という用法は、性的な魅力を相手に見せるような場合だけではなく、広範囲の分野に興味を持ったり手を出そうとすることを意味する場合にも使われる。その場合は「あのタレントは芸能界だけでは飽き足らず、政界にまで色気を出している(進出しようとしている)」などと使う。<br /> <br /> == 脚注 ==<br /> {{Reflist}}<br /> <br /> == 関連項目 ==<br /> *[[色 (曖昧さ回避)|色]](色彩以外の「色」について)<br /> *[[恋愛]]<br /> *[[性]] (性の曖昧さ回避、なお生物学的な性については「[[性 (生物学)]]」を参照)<br /> *[[美人]]<br /> *[[美少年]]<br /> *[[美少女]]<br /> *[[性愛]]<br /> *[[性欲]]<br /> *[[美意識]]<br /> *[[俗語]]<br /> <br /> {{Normdaten}}<br /> {{性}}<br /> {{DEFAULTSORT:いろけ}}<br /> <br /> [[Category:性的魅力|*いろけ]]<br /> [[Category:日本の美学]]<br /> [[Category:性の俗語]]<br /> [[Category:性と社会]]<br /> [[Category:性に関連する項目]]<br /> [[Category:容姿]]<br /> <br /> [[pl:Atrakcyjność fizyczna]]</div> 219.96.7.204 合気道 2018-08-31T14:07:27Z <p>219.96.7.204: /* 外部リンク */</p> <hr /> <div>{{Infobox_武道・武術&lt;!--詳しい方の追記お願いします--&gt;<br /> |読み=あいきどう<br /> |画像名=Ueshiba.jpg<br /> |画像説明=植芝盛平。合気道の創始者。<br /> |別名=<br /> |競技形式=<br /> |使用武器=木刀・杖<br /> |発生国={{JPN}}<br /> |創始者=[[植芝盛平]]<br /> |源流=[[大東流合気柔術]]・[[柳生新陰流]]・[[鹿島新当流]]など<br /> |流派=<br /> |主要技術=体術・武器術<br /> |公式ウェブサイト=[http://www.aikikai.or.jp/ 財団法人 合気会]<br /> }}&lt;!--詳しい方の追記お願いします--&gt;<br /> &#039;&#039;&#039;合気道&#039;&#039;&#039;(あいきどう・合氣道)は、[[武道]]家・[[植芝盛平]]が[[大正]]末期から[[昭和]]前期にかけて創始した[[武道]]。植芝盛平が日本古来の[[柔術]]・[[剣術]]など各流各派の[[日本武術|武術]]を研究し、独自の[[精神]][[哲学]]でまとめ直した、[[体術]]を主とする総合武道である。<br /> <br /> (植芝盛平が創始したもの以外の「合気道」は&#039;&#039;&#039;→“[[#「合気道」の名称について|「合気道」の名称について]]”&#039;&#039;&#039; にて詳述。)<br /> <br /> == 概説 ==<br /> 「合気道」とは「天地の“[[気]]”に合する道」の意&lt;ref&gt;&#039;&#039;&#039;天地の気に合する&#039;&#039;&#039;…出典:[[#合気道一路|『合気道一路』221頁]]&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> [[柔道]]・[[剣道]]・[[空手道]]等と並ぶ&lt;ref&gt;&#039;&#039;&#039;武道別人口数&#039;&#039;&#039;(1993年)…「国際柔道連盟:164ヶ国・約2000万人、国際剣道連盟:31ヶ国・約780万人、国際空手道連盟:143ヶ国・約3000万人、国際合気道連盟:38ヶ国・約120万人」(出典:[[#武道|『武道』224p]])&lt;/ref&gt;、[[21世紀]]初頭の日本において代表的な[[武道]]の一つである&lt;ref&gt;&#039;&#039;&#039;代表的な武道&#039;&#039;&#039;…「武道は、武士道の伝統に由来する我が国で体系化された武技の修錬による心技一如の運動文化で、柔道、剣道、弓道、相撲、空手道、合気道、少林寺拳法、なぎなた、銃剣道を修錬して心技体を一体として鍛え、人格を磨き、道徳心を高め、礼節を尊重する態度を養う、国家、社会の平和と繁栄に寄与する人間形成の道である。<br /> 平成二十年十月十日<br /> [[日本武道協議会]]制定<br /> 」([http://www.nipponbudokan.or.jp/shinkoujigyou/rinen.html 財団法人 日本武道館公式ウェブサイト「武道の理念」])&lt;/ref&gt;。[[太平洋戦争]]([[大東亜戦争]])終了後、一般社会への普及が始まり、日本のみならず[[世界]]で大きく広まった&lt;ref name=&quot;合気道人口&quot;/&gt;&lt;ref name=&quot;海外普及&quot;/&gt;。<br /> <br /> 合理的な体の運用により体格体力によらず相手を制することが可能であるとしている点が特徴。<br /> <br /> 技の稽古を通して心身を練成し、自然との調和、世界平和への貢献&lt;ref&gt;&#039;&#039;&#039;世界平和への貢献&#039;&#039;&#039;…「争いもない、戦争もない、美しいよろこびの世界を作るのが合気道である。」(出典:[[#武産合気|『武産合気』140頁]])&lt;/ref&gt;を行う等を主な理念とする。<br /> <br /> === 歴史:成立から展開 ===<br /> <br /> [[画像:Takeda_Sokaku.jpg|サムネイル|220px|[[武田惣角]]|右]]<br /> 合気道の創始者・[[植芝盛平]]は[[1883年]]([[明治]]16年)[[和歌山県]][[西牟婁郡]][[元町 (田辺市)|西ノ谷村]](後の[[田辺市]])の富裕な農家に生まれた。[[1905年]](明治38年)[[日露戦争]]出征と前後して[[天神真楊流]]・[[柳生心眼流]]などの[[柔術]]や[[柔道|講道館柔道]]を学び、[[1915年]]([[大正]]4年)[[北海道]][[開拓]]中に[[大東流合気柔術|大東流]]の[[武田惣角]]に出会いその技に驚嘆し入門、武術的開眼を得る。<br /> <br /> [[1920年]](大正9年)、父の死をきっかけに[[宗教団体]][[大本]]の実質的教祖・[[出口王仁三郎]]に出会い入信、大きな思想的影響を受ける。王仁三郎の勧めで[[京都府|京都]]の[[綾部市|綾部]]に「植芝塾」道場設立、開墾・建設作業に従事しつつ甥の[[井上鑑昭]]([[親英体道]]の創始者)と共に「合気武術」を教団内で指導する。[[1924年]](大正13年)出口と共に[[モンゴル]]に渡り宗教国家建設を目指し活動するも失敗(「パインタラ事件」)、数々の死線をくぐった後帰国、[[1925年]](大正14年)綾部での修行中「突如黄金の光に包まれ宇宙と一体化する」という幻影に襲われる[[神秘体験]]に遭遇(「黄金体験」)、「気の妙用」という武道極意と「万有愛護」という精神理念に達する。<br /> <br /> 身長150cm台の小柄な体躯&lt;ref&gt;&#039;&#039;&#039;盛平の小柄な体躯&#039;&#039;&#039;…ただし肩幅・胸板の厚みなど骨格・筋肉は非常に逞しく、怪力の持ち主であった。体重は壮年期でも75kgに達していたという。[[日露戦争]]出征時(21~22歳)「五尺一寸五分の短身ながら体重は二十貫」(156cm, 75kg)とある。(出典:[[#合気道|『合気道』177頁]])&lt;/ref&gt;から特異な技を繰り出す武道家の評判はやがて[[東京]]にも及び、[[1925年]](大正14年)[[海軍大将]][[竹下勇]]の招請で上京し[[伯爵]][[山本権兵衛]]らを前に演武を披露、絶賛を博す&lt;ref&gt;&#039;&#039;&#039;上京の経緯&#039;&#039;&#039;…大本教団内の有力者であった[[浅野和三郎]]の兄・[[海軍中将]][[浅野正恭]]が竹下勇に盛平を紹介したことが大きなきっかけとなった。盛平は槍で米俵を持ち上げ別の場所に積み替えるという技を披露し、山本から「明治維新以来これほど素晴らしい槍使いを見たことがない」と激賞された。(出典:[[#植芝盛平伝|『植芝盛平伝』182-184頁]])&lt;/ref&gt;。これを機に、後に起こる[[大本事件#第二次大本事件|第二次大本事件]]を予見した出口の勧めにより[[1927年]]([[昭和]]2年)東京へ移住、竹下の紹介で多くの社会的有力者が門人や支援者となった。また次第に武田惣角・大東流と距離を置き始め独自の武道を模索する。[[1931年]](昭和6年)東京牛込に&lt;span id=&quot;皇武館&quot;&gt;皇武館&lt;/span&gt;道場設立。関東・関西に数箇所の道場も開かれ盛平の名声は高まってゆく。この頃の教授対象は[[皇族]]・[[華族]]・軍人・実業家や武道家の子弟が主で、入門は一部の層に限られていた&lt;ref&gt;&#039;&#039;&#039;入門者の制限&#039;&#039;&#039;…無頼の輩による合気道の悪用を恐れた盛平は、入門にあたり、身元の確かな二人以上の保証人があることを条件とした。(出典:[[#植芝盛平伝|『植芝盛平伝』307頁]])&lt;/ref&gt;。<br /> [[1940年]](昭和15年)[[合気会|財団法人皇武会]]設立。大東亜戦争中は軍部からの要請で[[陸軍憲兵学校]]・[[陸軍中野学校]]・[[海軍大学校]]などで盛平が武術指導を行なう。[[1942年]](昭和17年)戦時統制策により皇武会は政府の外郭団体・[[大日本武徳会]]の統制化に入る。([[#大日本武徳会合気道|→大日本武徳会合気道]])かねてより戦争に批判的であった盛平はこれを機に茨城県[[岩間町]]に隠棲する&lt;ref name=&quot;岩間隠棲&quot;&gt;&#039;&#039;&#039;岩間隠棲&#039;&#039;&#039;…盛平は軍への協力には消極的であったといい、1942年(昭和17年)大日本武徳会への統合を機に、病気などを理由に東京での一切の職を辞し、昭和10年頃から土地を買い集めていた茨城県岩間町に移住した。その際「このたびはどうやら、祖国苦難の戦となりそうじゃ」と、半ば敗戦を予測し、「わしは祖国復興に備えて岩間に合気道の拠点を確保する」と語ったという。(出典:[[#戦後合気道群雄伝|『戦後合気道群雄伝』20頁]])&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> (※ 以上特に注記のない記述は[[#植芝盛平伝|『植芝盛平伝』]]に基づく。)<br /> <br /> [[日本の降伏|終戦]]後の[[1948年]](昭和23年)に皇武会は「[[合気会|財団法人合気会]]」として改めて[[文部省]]の認可を受け、この時から「合気道」の名称を用いだした。(→[[#植芝「合気道」の出発|“植芝「合気道」の出発”]])<br /> これにより盛平は初代合気道「道主」となり、没後は特に「[[開祖]]」と呼ばれる。しかし戦後の混乱、[[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ(連合軍総司令部)]]の武道禁止政策&lt;ref name=&quot;武道禁止政策&quot;&gt;&#039;&#039;&#039;武道禁止政策&#039;&#039;&#039;…昭和21年暮にGHQより発された。ただし全面的な禁止ではなく、「学校での授業・対抗試合」などが「軍国主義の鼓舞」であるとして禁止されただけであった。しかし刀剣保持禁止令も発されるなど武道に対する警戒感は強く、無用にGHQを刺激せぬよう、多くの武道家が表立った活動を自粛したのであった(出典:[[#合気道一路|『合気道一路』93-94頁]])。なお合気会本部は認可当初から昭和28年まで、東京ではなく岩間に置かれた。「当分はその方が、GHQを刺激しないでよかろう」という文部省の判断であった(出典:[[#合気道一路|『合気道一路』106頁]])。&lt;/ref&gt;などにより合気道の復興は困難を極めた。<br /> <br /> [[画像:Gozo_shioda.gif|サムネイル|220px|[[塩田剛三]]|右]]<br /> [[1954年]](昭和29年)日本総合武道大会(長寿会主催)で盛平の弟子・[[塩田剛三]]が優勝し、財界人の援助を得て「[[養神館合気道|合気道養神館]]道場」を創設し合気道の普及に名乗りを上げる。これに大きな刺激を受け、合気会も本格的な活動を開始する。戦後合気道は、盛平三男で合気会本部道場長・[[植芝吉祥丸]]の方針転換により、[[#演武会|演武会]]の開催や技術書の出版などを通し一般に公開される。合気会は盛平を合気道の象徴として前面に押し出す一方、吉祥丸本部道場長、[[藤平光一]]師範部長らを実務の中心に据え合気道の普及を図って行く&lt;ref&gt;&#039;&#039;&#039;一般への公開&#039;&#039;&#039;…出典:[[#合気道教室|『合気道教室』19-21頁]]&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> [[1950年代]]から盛平の弟子たちが積極的に海外普及に努めた結果、東南アジア・北南米・欧州など国際的に広まり、[[1961年]](昭和36年)盛平自身も[[ハワイ]]に渡り各地で演武を披露した。[[2005年]]([[平成]]17年)時点で合気会だけで85ヶ国に支部道場を開設している&lt;ref name=&quot;海外普及&quot;&gt;&#039;&#039;&#039;海外支部道場数&#039;&#039;&#039;…[http://www.aikikai.or.jp/jpn/what.htm (財)合気会公式サイト]の記述による。&lt;/ref&gt;。&lt;/span&gt;<br /> <br /> [[1969年]](昭和44年)盛平死去、吉祥丸が二代目道主となる。その後[[砂泊かん秀|砂泊諴秀]]、[[藤平光一]]、[[富木謙治]]といった高弟の独立が相次ぐが、大学の[[クラブ活動|部活]]・[[カルチャーセンター]]を通しての普及に力を入れていた合気会は着実に会員を増やした。[[1976年]](昭和51年)には合気会傘下の[[全日本合気道連盟]]及び[[国際合気道連盟]](IAF)&lt;ref&gt;[http://www.aikido-international.org/ 国際合気道連盟(IAF)]&lt;/ref&gt;が結成され、IAFは[[1984年]](昭和59年)に[[スポーツアコード (スポーツ組織)|国際競技団体総連合(GAISF)]]の正式会員となり、[[1989年]](平成元年)以降[[ワールドゲームズ]]大会に毎回参加している。<br /> <br /> [[1999年]](平成11年)合気道の国際的な隆盛を築いた吉祥丸死去。吉祥丸の次男[[植芝守央]]が三代目道主となる。合気会の会員は合気道人口の大半を占め、日本国内100万人・全世界で160万人とも言われ、合気道界の多数派・主流派を形成している&lt;ref name=&quot;合気道人口&quot;&gt;&#039;&#039;&#039;合気道人口&#039;&#039;&#039;…「海外では欧米諸国はもちろん、最近では東南アジアやブラジル、アルゼンチンといった南米の国々でも盛んに行われ、95ヶ国&#039;&#039;&#039;約160万人&#039;&#039;&#039;にも及ぶ人々が、日々稽古に励んでいるのです。」(出典:[[#合気道パーフェクトマスター|『合気道パーフェクトマスター』18頁]])<br /> <br /> 「現在、合気道人口は大ざっぱに見て、国内では内輪に見積もって110~120万人であろう。(中略)合気会傘下の(中略)団体の加入者を加えた概算である。海外では、20~30万人修行者がいるので、世界の合気道人口は130万人から150万人というところだ。」「国内の組織の90パーセントは合気会に加盟している。」(出典:[[#図解コーチ 合気道|『図解コーチ 合気道』38-39頁]])&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 一方盛平の門下及び合気会から独立した複数の団体・会派が存在する。(→“[[#主な会派|主な会派]]”)全国・海外にも支部を持つ会派から、それらに属さず特定の地域で独自に活動する団体まで大小様々である。<br /> <br /> [[2012年]](平成24年)4月から日本の[[中学校]]で実施された武道必修化に伴い、幾つかの地域で[[保健体育]]の授業に導入されている&lt;ref&gt;[http://www.nipponbudokan.or.jp/shupan/budou_jyugyo02.html 日本武道館 武道授業関連情報>連載名:武道授業実践の概要紹介(2011年2月号~)]、[http://www.nipponbudokan.or.jp/shupan/pdf/201109_2/201102_1.pdf 「田辺市における中学校武道授業必修化に向けた取組」(合気道)]、[http://www.nipponbudokan.or.jp/shupan/pdf/201109_2/201106.pdf 「笠間市における中学校体育武道『合気道』導入に向けて」]、[http://www.nipponbudokan.or.jp/shupan/pdf/201201/20120102.pdf 「東みよし町における中学校武道必修化に向けた取組」(合気道)]( 2015年4月19日閲覧。)&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> === 技・稽古の特徴 ===<br /> ※多数会派である[[合気会]]を基本に記述する。<br /> *合理的な体の運用により体格体力に関係なく「小よく大を制する」、[[投げ技]]・[[固め技]]により、相手を傷つけずに制することが可能としている。(→“[[#技の形態|技の形態]]”、“[[#合気と呼吸力|合気と呼吸力]]”、“[[#「護身術」としての有効性に関する議論|「護身術」としての有効性に関する議論]]”)<br /> *二人一組の約束稽古(何の技を行うか合意の元に行う)中心。投げ技・[[関節技]]が主で[[打撃技]]の稽古は少ない。(→“[[#稽古の形態|稽古の形態]]”)<br /> *[[試合]]がない。&lt;ref&gt;&#039;&#039;&#039;試合を行なわない理由&#039;&#039;&#039;…合気会の見解{{Quotation|&#039;&#039;&#039;Q&#039;&#039;&#039;:合気道にはなぜ試合がないのですか。<br /> <br /> &#039;&#039;&#039;A&#039;&#039;&#039;:現代における武道の価値というものを考えましたときに、現代に生きている一般の人が行えて何かしら生活に結びつく点がなければ、その意味はないに等しいのではないのではないでしょうか。この現代にあって、誰かと武術で勝負をし、その勝敗にこだわることにどれほどの意味があるのでしょう。<br /> 『合気道では試合はしない』という立場を一貫してきました。<br /> <br /> 何故かというと、合気道には『相手を倒す』という思想がないからです。もし試合を行えば、必ず『勝ちたい』『相手を倒したい』という執着心が生じるでしょう。そうした思いがあっては、自然と一体にはなれません。それは天地自然の調和に反しているのです。<br /> <br /> 自然と一体になり天地自然と調和するということが合気道の要諦です。したがって試合を行えば、それは合気道にとっての一番大事な理念自体を否定してしまうことになるのです。ですから、試合は行わないのです。|[[#規範 合気道 基本編|『規範 合気道 基本編』17-18頁]]}}<br /> &lt;/ref&gt;(→“[[#主な会派|主な会派]]”)<br /> *[[合気会#段級位制|段級位制]]をとっている。<br /> *[[道着|稽古着]]は[[柔道]]・[[空手]]などと同系の、白[[晒|晒し]][[筒袖]]・[[和服#和服は右前|前合わせ]]の[[トップス (衣服)|上衣]]に、白晒しズボン状の股下(こした)を用いる。[[成人]]初級者は白帯、有段者は[[黒帯]]と、股下の上に黒[[袴]](スカート状のものではなく、ズボンのように股の割れた「[[袴#種類|馬乗り袴]]」)を着用する。&lt;ref&gt;&#039;&#039;&#039;[[袴]]&#039;&#039;&#039;…袴を着ける理由としては、「足捌きを隠すため」「[[儒教|五倫五常]]の教えに基づく」等が言われる。また道場によっては、女子は初段前・入門時からでも袴の着用が許される場合がある。これは稽古中に女性の身体の線が袴によって隠れるよう盛平が気遣ったためという。(出典:[[#氣の確立|『氣の確立』93頁]])&lt;/ref&gt;<br /> *柔道と同様、畳上で稽古する。<br /> *稽古相手相互の座礼・[[道場]]正面への礼など一般的な最低限の[[礼式|礼法]]を除けば、合気道全体で統一化・定型化されたような厳格な礼法は無い。<br /> &lt;gallery&gt;<br /> File:G Blaize Kokiu Nague 2.JPG|<br /> File:Shihonage.jpg|<br /> &lt;/gallery&gt;<br /> <br /> === 理念・精神性 ===<br /> 「精神的な境地が技に現れる」と精神性が重視される。これは[[神道]]・[[大本|大本教]]との関係など&lt;ref&gt;&#039;&#039;&#039;盛平の精神世界への志向性&#039;&#039;&#039;…盛平は戦前[[大本]]の[[出口王仁三郎]]に師事し多大な影響を受けた。また青年時代故郷の和歌山で[[南方熊楠]]に出会い[[神社合祀]]反対運動に取り組んだことや、戦時中[[茨城県]][[岩間町]](後・[[笠間市]])に[[合氣神社]]を創建したことに見られるように、[[神道]]への親しみが深く、合気道の技や理念を語る際も『[[古事記]]』や神道用語を多く用いた。盛平は自らの武道を「[[禊ぎ]]」「[[神楽|神楽舞]]」などと表現している。「合気道は言葉ではなく&#039;&#039;&#039;禊&#039;&#039;&#039;であります。」(出典:[[#合気神髄|『合気神髄』49頁]])「合気道は気の御業であります。言霊の妙用であります。(中略)わたしはいま『天の浮橋』に立ち、世界人類の大和大愛を希いつつ&#039;&#039;&#039;神楽舞い&#039;&#039;&#039;昇り、舞いくだろうと思います」(出典:[[#植芝盛平伝|『植芝盛平伝』294-295頁]])&lt;/ref&gt;、[[精神世界]]への志向性が強かった盛平自身の性格の反映といえる。<br /> このように創始者個人の思想や生い立ちが個々の修行者に及ぼすカリスマ的な影響力は、他武道に比して強い。その背景には、小兵でありながら老齢に達しても無類の強さを発揮するなど、盛平に関しての超人的なエピソードが幾つも伝わっており([[植芝盛平#エピソード|&#039;&#039;&#039;→&#039;&#039;&#039;植芝盛平・エピソード]])、それが多くの合気道家に事実として信じられ、伝説的な武術の“達人”として半ば神格化されていることも大きな理由の一つである。<br /> <br /> 武術をベースにしながらも、理念としては、武力によって勝ち負けを争うことを否定し、合気道の技を通して敵との対立を解消し、自然宇宙との「&#039;&#039;&#039;和合&#039;&#039;&#039;」「&#039;&#039;&#039;万有愛護&#039;&#039;&#039;」を実現するような境地に至ることを理想としている&lt;ref&gt;&#039;&#039;&#039;&lt;span id=&quot;盛平自身の言葉による合気道の理念&quot;&gt;盛平自身の言葉による合気道の理念&lt;/span&gt;&#039;&#039;&#039;…{{Quotation|合気とは、敵と闘い、敵を破る術ではない。世界を和合させ、人類を一家たらしめる道である。合気道の極意は、己を宇宙の働きと調和させ、己を宇宙そのものと一致させることにある。合気道の極意を会得した者は、宇宙がその腹中にあり、「我は即ち宇宙」なのである。私はそのことを、武を通じて悟った。<br /> <br />  いかなる速技で、敵がおそいかかっても、私は敗れない。それは私の技が、敵の技より速いからではない。これは、速い、おそいの問題ではない。はじめから勝負がついているのだ。<br /> <br />  敵が、「宇宙そのものである私」とあらそおうとすることは、宇宙との調和を破ろうとしているのだ。すなわち、私と争おうという気持ちをおこした瞬間に、敵は既に破れているのだ。そこには、速いとか、おそいとかいう、時の長さが全然存在しないのだ。<br /> <br />  合気道は、無抵抗主義である。無抵抗なるが故に、はじめから勝っているのだ。邪気ある人間、争う心のある人間は、はじめから負けているのである。<br /> <br />  ではいかにしたら、己の邪気をはらい、心を清くして、宇宙森羅万象の活動と調和することができるか?<br /> <br />  それには、まず神の心を己の心とすることだ。それは上下四方、古往今来、宇宙のすみずみにまでにおよぶ、偉大なる「愛」である。「愛は争わない。」「愛には敵がない。」何ものかを敵とし、何ものかと争う心は、すでに神の心ではないのだ。これと一致しない人間は、宇宙と調和できない。宇宙と調和できない人間の武は、破壊の武であって、真の武産(たけむす:神道の真理の言葉)ではない。<br /> <br />  だから武技を争って、勝ったり負けたりするのは真の武ではない。真の武はいかなる場合にも絶対不敗である。即ち絶対不敗とは絶対に何ものとも争わぬことである。勝つとは己の心の中の「争う心」にうちかつことである。あたえられた自己の使命をなしとげることである。しかし、いかにその理論をむずかしく説いても、それを実行しなければ、その人はただの人間にすぎない。合気道は、これを実行してはじめて偉大な力が加わり、大自然そのものに一致することができるのである。|[[#武産合気|『武産合気』13-14頁]]}}&lt;/ref&gt;。主流会派である合気会が試合に否定的であるのもこの理念による。「&#039;&#039;&#039;和の武道&#039;&#039;&#039;」「&#039;&#039;&#039;争わない武道&#039;&#039;&#039;」「&#039;&#039;&#039;愛の武道&#039;&#039;&#039;」などとも形容され、欧米では「&#039;&#039;&#039;動く[[禅]]&#039;&#039;&#039;」とも評される。<br /> <br /> 近代以降、武道の多くが「[[剣道]](剣)」「[[柔道]](投・極)」「[[空手]](打)」と技術的に特化していったのに対し、合気道では投・極・打(当身)・剣・杖・座技を修し、攻撃の形態を問わず自在に対応し、たとえ多数の敵に対した場合でも、技が自然に次々と湧き出る段階まで達することを求める。この境地を盛平は「&#039;&#039;&#039;武産合気&#039;&#039;&#039;」(無限なる技を産み出す合気&lt;ref&gt;&#039;&#039;&#039;武産合気&#039;&#039;&#039;…出典:[[#武道解説編|『武道解説編』22頁]]&lt;/ref&gt;)と表現し、自分と相手との和合、自分と宇宙との和合により可能になるとしている。&lt;ref&gt;また盛平は「魄(肉体)は魂(精神)の生き宮であり、魄の修行を土台にして魂を成長させ、最終的に魂が表、魄が裏にならなくてはならない」と語り、肉体鍛錬と精神修養のどちらかに偏らないよう戒めた。&lt;/ref&gt;<br /> <br /> 武術とは一見相反する「&#039;&#039;&#039;愛&#039;&#039;&#039;」や「&#039;&#039;&#039;和合&#039;&#039;&#039;」という概念を中心理念として明確に打ち出した合気道の独自性は、[[第二次世界大戦]]後・[[東西冷戦]]や[[南北問題|南北対立]]下で平和を渇望する世界各国民に、実戦的な護身武術としてと同時に、求道的な平和哲学として広く受け容れられた。またこのような精神性は、盛平の神秘的な言動や晩年の羽織袴に白髯という仙人を思わせる風貌と相まって、盛平のカリスマ性を高める要因ともなった。<br /> <br /> 盛平の弟子の中には[[藤平光一]]を初めとして、[[多田宏]]、[[佐々木の将人]]のように、[[ヨガ]]を日本に持ち込んだ[[中村天風]]の影響を受けた合気道師範も多く、合気道の精神性重視という気風を次代に継承している。<br /> <br /> == 技・稽古の形態 ==<br /> 技は体術・武器術([[剣術|剣]]・[[杖術|杖]])を含み、対多人数の場合も想定した総合武術である。ただし実際には武器術を指導する師範の割合は多くなく、体術のみを指導する稽古が大半である&lt;ref&gt;&#039;&#039;&#039;広まらぬ武器術指導&#039;&#039;&#039;……{{Quotation|最近の合気道界を見ますと、合気道は武道でありながら、「武道の根元は武術にある」ということを忘れたのか知らないのか、その技法の中に武道性をまったく見ることができず、「合気道は剣だ、また投げ抑えは当てだ」と言うだけで、その説明もなく、なかには当てや武器技は必要ないと言う者さえ出て来ている状態で、いまやまさに合気道は老人婦女子の健康法となりさがってきております。|[[#許す武道|『許す武道』3頁]]}}&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> === 技の形態 ===<br /> 無駄な力を使わず効率良く相手を制する合気道独特の力の使い方や感覚を「[[#合気と呼吸力|&#039;&#039;&#039;呼吸力&#039;&#039;&#039;]]」「[[#合気と呼吸力|&#039;&#039;&#039;合気&#039;&#039;&#039;]]」などと表現し、これを会得することにより、また同時に“合理的な”体の運用・体捌きを用いて“相手の力と争わず”に相手の攻撃を無力化し、年齢や性別・体格体力に関係なく&lt;ref&gt;&#039;&#039;&#039;年齢・性別・体格体力に無関係&#039;&#039;&#039;…{{Quotation|初対面の人が発する質問の第一は、必ず申し合わせたように、「私のような力のない者でもできるでしょうか」(中略)である。これに対し私は「(中略)力はいかにして全身より抜ききって、気力を充実さすか、ということに日頃の練習法があるのですから、非力な婦人、子供の方でも立派にこなせるのです」と言っている。&lt;br /&gt;<br /> すなわち合気道の練習法においては、力に拘泥し力づくで技法を学ぼうとする態度は、最もさけねばならぬことである。|[[#合気道|『合気道』98頁]]}}&lt;/ref&gt;相手を制することが可能になるとしている。<br /> # 合気道の技は一般的に、相手の攻撃に対する防御技・返し技の形をとる。&lt;ref&gt;&#039;&#039;&#039;攻撃と防御&#039;&#039;&#039;…先に自ら打って相手の攻撃を誘う場合もあるが、基本には「相手の欲するところを自ら与える」(出典:[[#植芝盛平と合気道2|『植芝盛平と合気道2』66頁「相手の欲するところを与えなさいと盛平先生はいっています。」砂泊かん秀インタビュー]])という考えが根底にある。&lt;/ref&gt;<br /> # 相手の攻撃線をかわすと同時に、相手の死角に直線的に踏み込んで行く&lt;span id=&quot;入身&quot;&gt;「&#039;&#039;&#039;入身&#039;&#039;&#039;(いりみ)」&lt;/span&gt;&lt;ref&gt;&#039;&#039;&#039;死角と入身&#039;&#039;&#039;…ここでいう「死角」とは、側面・側背部・背後など、相手の視野から外れ、且つ自分からの攻撃は届くが相手からの攻撃は届きにくい位置のことである。「武道における入身は相手の死角にどう入るかです。(中略)相手に分からないように自然にスッと入身になっていなければ、合気道の技は生まれてきません。」(出典:[[#許す武道|『許す武道』16頁]])このように一瞬で相手の攻撃を逸らし死角に入ることを「入身一足(いっそく)」という。(出典:[[#図解コーチ 合気道|『図解コーチ 合気道』46-47頁]])&lt;/ref&gt;や、相手の攻撃を円く捌き同方向へ導き流し無力化する「[[#体の転換|&#039;&#039;&#039;転換&#039;&#039;&#039;]]」など、合気道独特の体捌きによって、自分有利の位置と体勢を確保する。<br /> # 主に手刀(しゅとう)を用いた接触点を通して、相手に呼吸を合わせて接触点が離れぬよう保ちつつ、「円の動き・らせんの動き」など「&#039;&#039;&#039;円転の理&#039;&#039;&#039;」をもって、相手の重心・体勢を崩れる方向に導いて行く。このとき無駄な力が入っていると、相手の反射的な抵抗を誘発し、接触点が外れる、力がぶつかって動きを止められる等の不具合が生じ、技の流れを阻害する。そのため「&#039;&#039;&#039;脱力&#039;&#039;&#039;」&lt;ref&gt;&#039;&#039;&#039;導き&#039;&#039;&#039;と&#039;&#039;&#039;脱力&#039;&#039;&#039;…「開祖盛平翁が(中略)『力で導くのではない。気で導くのだ』といっておられた」(出典:[[#合気道教範|『合気道教範』17頁]])。脱力部位は、上半身、特に腕肩の脱力が言われる。{{Quotation|合気道における力の使い方は、先ず第一に肩、首等上半身の力を全く抜き、臍下丹田に気力を充実すること、第二に手を開き五指を張って指先に力を入れる、ということである。指先に力を入れるのは、自然に重心をさげ、全身を硬直から救うことを意味している。|[[#合気道|『合気道』98-99頁]]}}&lt;/ref&gt;ということが特に推奨される。また脱力により、リラックスして動ける自由性や、技中に体の重さを効果的に使うことが可能になる。&lt;ref&gt;&#039;&#039;&#039;自由性・重さ&#039;&#039;&#039;…出典:[[#身体づかいの「理」を究める|『身体づかいの「理」を究める』34,40頁]]&lt;/ref&gt;<br /> # また相手の側背面などの死角から相手に正対し、かつ自分の正中線上(正面)に相手を捕捉することにより、最小の力で相手の重心(中心軸)・体勢を容易にコントロールし導き崩す。<br /> # 体勢の崩れた相手に対し投げ技や固め技を掛ける。崩しを行わずに技を掛けようとしても技は容易に掛からない。(「崩しは厳しく、投げはやさしく」などと言い、崩しを重視する。)<br /> # このように相手との接触点を通じ技を掛ける機微と一連のプロセスを「&#039;&#039;&#039;結び&#039;&#039;&#039;・&#039;&#039;&#039;導き&#039;&#039;&#039;・&#039;&#039;&#039;崩し&#039;&#039;&#039;」と言い、合気道の技の大切な要素として、また精神理念に通じるものとしても強調することがある。&lt;ref&gt;&#039;&#039;&#039;接触点&#039;&#039;&#039;…なお技に熟達すると、直接相手に触れずに、相手の攻撃のタイミングや勢いを利用し導き崩す場合もある。また状況やタイミングが合えば「結び・導き・崩し」を瞬時に、直線的に行い技を決める。盛平は「合気道は一撃克(よ)く死命を制するもの」(出典:[[#合気道|『合気道』163頁]])「触れ合う前に勝負は決まってるんだよ。」(出典:[[#許す武道|『許す武道』]])などと述べていた。&lt;/ref&gt;<br /> <br /> === 稽古の形態 ===<br /> 二人一組の約束[[組手]]形式(何の技を使うか合意の元に行う)の稽古が中心であり、「&#039;&#039;&#039;取り&#039;&#039;&#039;(捕り)」(相手の攻撃を捌いて技を掛ける側)と「&#039;&#039;&#039;受け&#039;&#039;&#039;」(相手に攻撃を仕掛けて技を受ける側)の役を互いに交代しながら繰り返し行う。<br /> <br /> 一般的な合気会の道場では、まず指導者が取り・その補助者が受けとなり課題である技の形を示演し、これにならって稽古生各々二人一組となり技を掛け合う。取り・受けは平等に同数回交代しながら行う。片方が10回投げればもう片方も10回投げる。技は右左と「&#039;&#039;&#039;表&#039;&#039;&#039;」(入身で相手の死角に踏み込む)「&#039;&#039;&#039;裏&#039;&#039;&#039;」(転換で相手の背後に回りこむ)をやはり同数回行う。<br /> <br /> [[柔道]]のような[[乱取り]]稽古は通常は行われない&lt;ref&gt;&#039;&#039;&#039;乱捕り&#039;&#039;&#039;…ただし柔道とも関係の強い[[日本合気道協会]]のみ早くから乱取り稽古を取り入れている。&lt;/ref&gt;。基本的に相手の手首・肘・肩関節を制する幾つかの形から始まり、稽古を重ねる中で多様な応用技・変化技(投げ技・固め技など)を学んで行く。立ち技と正座で行う座り技が中心で、寝技は殆ど行われない。打撃(「[[当身]]」)は牽制程度に用いることが多く、打撃中心の稽古は行われない&lt;ref&gt;&#039;&#039;&#039;打撃&#039;&#039;&#039;…<br /> *「牽制」とは言っても、相手の急所を狙って打つものであり、本質的には武術としての厳しさを表すものでもある。<br /> **「合気道の当ては、空手のように一撃で勝敗を決するものではなく、受けの一瞬の気を抜いて、体を崩すために使います。従って、人の鍛えられない部分、例えば首、目、脇の下などの急所に対して、主に貫手や掌底の当てを使います。」(出典:[[#許す武道|『許す武道』22頁]])<br /> *また、合気道の体捌きは常に敵の急所にいつでも打撃を加えこれを制する可能性を持つ(体捌き・関節技の動きの中に当身の理合が隠されている)と言われている。<br /> **「通常、二教は手首をつかんで関節を極めるというように、突きと関係がないように思われていますが、この技は完全に『突き』を意識した技になっています。入った時すでに相手の突き蹴りの攻撃を受けない体勢になっていなければいけません。相手の顔面へ、掌底と同時に指頭で目を潰す当てが入っています。」(出典:[[#許す武道|『許す武道』48頁]])<br /> **「相手が手を取りにくるその前に当てが入っていなくてはなりません。それが当ての呼吸です。」(出典:[[#許す武道|『許す武道』56頁]])<br /> **「大切なことは常に当てが入る状態にすることです。そして相手の蹴りも突きも受けないことです。これが入身です。」(出典:[[#許す武道|『許す武道』64頁]])<br /> **「こうした当てを、合気道では流れの中にうまく溶け込ませています。」(出典:[[#許す武道|『許す武道』202頁]])<br /> *「&#039;&#039;&#039;当身が七分で技(投げ)三分&#039;&#039;&#039;」という盛平の言葉も残されている。<br /> **「わたくしの方のはアテ([[当て身]])が七分、投げが三分でして」(出典:[[#植芝盛平伝|『植芝盛平伝221頁]])&lt;/ref&gt;。[[蹴り技]]・脚を使った絞め技などは基本的には行わない&lt;ref&gt;&#039;&#039;&#039;蹴り技&#039;&#039;&#039;…[[佐々木の将人]]の証言では、佐々木が他の弟子と蹴り技を捌く稽古をしていたところを盛平が見咎め「きたならしい」と叱責されたという(出典:[[#開祖の横顔|『開祖の横顔』22頁]])。&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> この他に、一人の取りに複数の受けが掛かって行く「多人数掛け」&lt;ref&gt;&#039;&#039;&#039;多人数掛け&#039;&#039;&#039;…「二人掛け」「三人掛け」から十人以上の受けを相手にする多人数掛けもある。&lt;/ref&gt;や、[[剣術|剣]]・[[杖術|杖]]・[[短刀]]取りなど[[武器]]術・対武器術(→「[[#合気道の武器術|合気道の武器術]]」)の稽古も行われる。<br /> <br /> === 基本的な技 ===<br /> * &#039;&#039;&#039;一教&#039;&#039;&#039;:相手の腕を取り肘関節を可動限界まで伸展させ相手を腹這いにさせ抑える。<br /> * &#039;&#039;&#039;四方投げ&#039;&#039;&#039;:相手の手首を持ち、入身・転換の体さばきによって相手を崩し、両腕を振りかぶりつつ180度背転し、“刀を斬る”ように腕を振り下ろすことにより、相手の肘を頭の後ろに屈曲させ脇を伸ばし仰け反らせて倒す。その形が、ちょうど剣を振りかぶって、四方に切り下すように見えるところから、名称がつけられた&lt;ref&gt;『図解合気道入門』134頁。&lt;/ref&gt;。<br /> * &#039;&#039;&#039;入身投げ&#039;&#039;&#039;:相手の側背に入身して背後から首を制し、転換しつつ相手を前方へ導き崩し、反動で起き上がった相手の頭を肩口に引き寄せ、引き寄せた側の手刀を下方から大きく円を描くように差し上げて斬りおろし相手を仰向けに倒す。<br /> * &#039;&#039;&#039;小手返し&#039;&#039;&#039;:相手の手首を取り、入身・転換で体を捌きつつ崩し、反対の手を相手の手の甲にかぶせ、手首を返して肘関節を屈曲させ仰向けに倒す。<br /> * &lt;span id=&quot;体の転換&quot;&gt;&#039;&#039;&#039;体の転換&#039;&#039;&#039;&lt;/span&gt;:相手に片手を掴まれた状態から掴まれた手と同じ半身の足で、相手の足の外側に半歩[[#入身|入身]]し、更にその足を軸に水平方向に180度背転し、相手と同方向を向き力を丸く捌いて前方へ導き流し崩す。技と言うよりも入身・転換という基本的な体捌きを身に付けるための鍛錬法である。「体の変更」「入身転換」とも言う。&lt;ref&gt;&#039;&#039;&#039;体の転換・体の変更&#039;&#039;&#039;…「体の転換」が片方の足を軸(1点軸)にもう片方の足が弧を描くように回転するのに対し、両足の位置を変えず両足裏それぞれを軸(2点軸)に体の向きだけを180度回転させることを「体の変更」と称する場合もある。(出典:[[#身体づかいの「理」を究める|『身体づかいの「理」を究める』25頁]])&lt;/ref&gt;<br /> * &#039;&#039;&#039;&lt;span id=&quot;座技呼吸法&quot;&gt;座技呼吸法&lt;/span&gt;&#039;&#039;&#039;:向かい合って正座した状態から相手に両手首を強い力で掴ませ、指先を上に向けながら手刀を振り上げることで相手の体を浮かせ、そのまま後ろに押して相手の体勢を崩す。大東流の「座捕合気上げ」に似ているが、合気道では「[[#呼吸力|呼吸力]]の養成法(“呼吸法”の名称はその略である)」として指導されている。<br /> (その他の主な技:&#039;&#039;&#039;二教&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;三教&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;四教&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;五教&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;天地投げ&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;回転投げ&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;呼吸投げ&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;腰投げ&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;隅落し&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;合気投げ&#039;&#039;&#039;等。以上の技は最大公約数的なものであり、流派や道場によって細部は異なる。同じ技が別の名で呼ばれること、別の技が同じ名で呼ばれることも少なくない。)<br /> <br /> 合気会系の道場では、稽古は体の転換から始まり、座技呼吸法を行って終わることが多い。これは怪我を防ぐために体の変更で身体をほぐし、徐々に激しい投げ技を行うよう盛平が制定したからである&lt;ref&gt;日々の練習に際しては体の変更より始め逐次強度を高め身体に無理を生ぜしめざるを要す然る時は如何なる老人と雖も身体に故障を生ずる事なく愉快に練習を続け鍛錬の目的を達する事を得べし(合気道練習上之心得)(出典:[[#合気道|『合気道』164頁]])&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> ==== 技の呼び方 ====<br /> 合気道の技は相手の攻撃に対して投げ技・もしくは固め技にて応じるのが基本である。技の呼び方は「技開始時の“受け”・“取り”の位置的関係」または「技開始時の“受け”の攻撃形態」に「上記の固有技名」を組み合わせる。<br /> <br /> 例えば、「受け」が右手で「取り」の左手首を掴んだ状態を「片手取り」または「逆半身片手取り」という。「受け」が手刀を正面から振り下ろす攻撃形態を「正面打ち」、斜め横から振り下ろすのを「横面打ち」といい、それぞれの状態から上記いずれの技も派生し得る。<br /> <br /> 例:<br /> <br /> (位置・攻撃) (技)<br /> * 正面打ち  + 一教   = 正面打ち一教<br /> * 片手取り  + 一教   = 片手取り一教<br /> * 片手取り  + 四方投げ = 片手取り四方投げ<br /> * 横面打ち  + 四方投げ = 横面打ち四方投げ<br /> など<br /> <br /> === 合気と呼吸力 ===<br /> 「[[合気]]」と「呼吸力」は合気道技法の原理であると同時に、合気道の重要な理念とされる概念。<br /> <br /> ==== 「合気」の歴史的考察 ====<br /> 日本における武術用語としての「&#039;&#039;&#039;合気&#039;&#039;&#039;」は、江戸~明治・大正期の剣術書などに認められる。それらは彼我の技量や気迫などが拮抗し膠着状況に陥る、または先手を取られ相手の術中に嵌るといった、武術的には忌避すべき状態を差す言葉であった&lt;ref&gt;&#039;&#039;&#039;江戸~大正期の合気&#039;&#039;&#039;…{{Quotation|「合気」という語は近世の武術伝書「一刀流兵法韜袍(とうほう)起源考」や「槍剣事理問答」等に見ることができる。相互に気勢や拍子があう状態の意味で使用されている。|[[#武道(日本史小百科)|『武道(日本史小百科)』(志々田文明)195頁]]}}<br /> {{Quotation|寛政12年(1800)の「剣術秘伝独習行」(蒨園(せんえん)述)には、「双方体気満々として立向かいたるは、相気なり。孫子に云く、能く戦うものは鋭気を避くと」とあります。(中略)名著といわれる[[高野佐三郎]]著「剣道」(大正4年)のなかで、「合気を外づして闘うを肝要とす」と記しているように、その後も一般的には剣術書などの中で積極的な意味で用いられることはなく、勝負上で注意すべき点として記されています。|[[#合気道教室|『合気道教室』9頁]]}}&lt;/ref&gt;。しかし明治以降、「合気之術」など積極的な意味の使用例が現れる。この頃の「合気」には「[[読心術]]や気合の掛け声をもって相手の先を取る」といった意味付けがなされていた。大正期には各種武術書に同様の意味合いで「合気」の使用が見られ、「合気」が武術愛好家の間で静かなブームになっていたという。&lt;ref&gt;&#039;&#039;&#039;合気之術&#039;&#039;&#039;…「明治25年([[1892年]])に東京で出版された『合気之術』(武骨居士著)は、合気に関する刊本としてはもっとも古いものと思われます。ここで著者が合気之術の必須内容としてあげているのは、『敵人読心の術』と『掛声の気合』です。」(出典:[[#合気道教室|『合気道教室』10頁]]) [{{NDLDC|859828/1}} 武骨居士著『武道秘訣 合氣之術』(国立国会図書館・近代デジタルライブラリー)]&lt;/ref&gt;<br /> <br /> [[大東流合気柔術]]では、相手の力に力で対抗せず、相手の“[[気]]”(攻撃の意志、タイミング、力の[[ベクトル]]などを含む)に自らの「“気”を合わせ」相手の攻撃を無力化させるような技法群やその原理を指す。<br /> なお大東流は初め「大東流柔術」と称していた。この名称に「合気」の文字が加わったことが確認できるのは、[[1922年]]([[大正]]11年)、[[武田惣角]]が[[植芝盛平|盛平]]に授与した目録&lt;ref&gt;&#039;&#039;&#039;合気柔術秘伝奥儀之事&#039;&#039;&#039;…(出典:[[#合気道教室|『合気道教室』10-11頁]])&lt;/ref&gt;が初めてである。&lt;br /&gt;<br /> 惣角は同年[[綾部]]の[[大本]]教団にいた盛平のもとを訪れている。この時に[[出口王仁三郎]]が「合気」を名乗るよう盛平に勧め、盛平は「合気」を大東流の名に加えることを惣角に進言、以後惣角もこれを容れて「大東流合気柔術」を名乗った、とする証言がある。&lt;ref&gt;&#039;&#039;&#039;「合気」の名称&#039;&#039;&#039;…[[井上鑑昭]]の証言{{Quotation|合気武道という名前は出口王仁三郎先生が付けてくれたのです。大東流柔術ではおかしいんじゃないかと言ってね。植芝叔父(盛平)を呼んで、『大東流柔術というのはやめとけ、合気という名前にしたらいい』といったわけです。(中略)それまでは皇武武道といってました。|[[#植芝盛平と合気道1|『植芝盛平と合気道1』45頁]]}}<br />  [[植芝吉祥丸]]の証言{{Quotation|大正十一年頃(一九二二)、武田惣角さんが植芝塾へ来たわけです。武田さんが、三、四ヵ(ママ)月おって、その時に父(盛平)と話をし、『大東流合気柔術』として、はじめて“合気”をその中に入れたわけです。それまで合気の術というのはあちこちにあることはありましたが、ひとつの流派として、何々流合気というのはぜんぜんありませんでした。それまでは大東流は大東流柔術でした。(中略)<br /> <br /> (聞き手:大東流合気柔術と“合気”を加えたのは出口先生の提案ですか、大東流のほうで付けたのですか。)<br /> <br /> 私は小さかったですからはっきりしたことはいえません。文献からいえば大正十一年の前半期までは『大東流柔術』で、惣角先生が来てしばらく経って大正十一年の暮れ、後半期から『大東流合気柔術』になりました。父は出口さんに合気じゃといわれ、また惣角先生にも話をもっていったらよかろうといわれたのです。<br /> <br />  父が合気という言葉をいい出したのは、大正十一年です。これは文献ではっきりしております。今そういう真相を知っている者は誰もいない。(中略)ですから私は父がいったことを信用するしかないわけです。|[[#植芝盛平と合気道 1|『植芝盛平と合気道1』11頁]]}}<br /> なお[[#合気道教室|『合気道教室』11頁]] は「植芝(盛平)が武田に改称を提言した説」を「植芝が大東流においても『合気』なる語を付与した創案者であることを示唆」するものであるとし、「生前の植芝(盛平)がそのこと(惣角への提言)を明言していないことや、当時の師弟間の厳しい関係を考えれば、成り立ちがたい説」と断じる一方、「出口や、大本に出入りし武田から指導を受けた軍人たちが(中略)『合気之術』の静かなるブームを背景に(中略)門人たちの誰かが『合気之術』の達人として武田を理解し、その技法の流名に『合気』の語を加えることを進言したことも推察」できるとしている。しかしその「門人たち」が「当時の師弟間の厳しい関係」を如何に乗り越えたかについては、特に考察がない。&lt;br /&gt;<br /> また[[佐川幸義]]は「惣角は合気という言葉を大正二年以前から使っていた」と証言している。&lt;br /&gt;<br /> {{Quotation|これは私の父が武田先生に教わった技をまとめたノート。ここに、『アイキをかける……』という言葉が随所に出てくるでしょう。これは、大正二年五月十四日に記されたものです。父は当時数え年で五十歳ぐらいで、武田先生は五十五歳でした。だから、合気という言葉はその当時から使われていました。武田先生は合気柔術と柔術を区別して教えていました。|[[#武田惣角と大東流|『武田惣角と大東流』54頁]]}}&lt;/ref&gt;<br /> <br /> 合気道においては上記の意味合いも踏まえ、そこから更に推し進めて「他者と争わず、自然や宇宙の法則(=“気”)に和合することによって理想の境地を実現する」といった精神理念を含むものになった。(盛平は「合氣とは愛なり」&lt;ref&gt;&#039;&#039;&#039;合氣とは愛なり&#039;&#039;&#039;…出典:[[#合氣道で悟る|『合氣道で悟る』109頁]]&lt;/ref&gt;と語っている。)&lt;br /&gt;<br /> 大東流における「合気の技法」的なものから、合気道の体捌きである入身・転換、技に入るタイミング、相手に掴まれた部分を脱力して相手と一体化する感覚など、相手や自然の物理法則との調和・また宗教的な意味合いでの[[#盛平自身の言葉による合気道の理念|「宇宙の法則」と和合を図ろうとする]]ことなど、技法から理念まで全てを広く「合気」と表現する傾向がある。<br /> <br /> ==== 呼吸力 ====<br /> 「&lt;span id=&quot;呼吸力&quot;&gt;&#039;&#039;&#039;呼吸力&#039;&#039;&#039;&lt;/span&gt;」は盛平が自らの武道を確立する過程で生み出した造語であり、「合気」を盛平独自の主観を通して表現したものである。&lt;ref&gt;&#039;&#039;&#039;呼吸力&#039;&#039;&#039;…出典:[[#「技」と「言葉」|『「技」と「言葉」』148頁]]&lt;/ref&gt;&lt;br /&gt;<br /> 合気道における「合気」が主に理念的な意味で広く用いられるのに対し、「呼吸力」は主に「技法の源になる力」という意味合いで用いられる。(ただし理念面でも「呼吸」「呼吸力」は用いられることがあり、両者の違いは必ずしも明確ではない。)<br /> <br /> この「呼吸力」が具体的に何の力を指しているかについては、様々な言説がある。盛平は弟子達に合気道の理念、理合を説明する際、[[古事記]]の引用や[[神道]]用語の使用が多く、難解・抽象的な表現であったため後代様々な解釈が奔出することになる。例えば「[[呼吸]](筋)の力である」「“[[気]]”の力である」「実際の呼吸のように自然で無意識的な力の使い方である」「全身の力を統一したものである」など、意見は多岐に分かれる。&lt;ref&gt;&#039;&#039;&#039;呼吸力の定義&#039;&#039;&#039;…なお盛平の著書では、呼吸とは呼吸活動を指すのではなく、呼と吸のような相反する二つの物から生み出される力といった意味合いで語っている場合が多い。「水火」と書いて「いき」などと読ませそれが「呼吸」である、といった具合である。(出典:[[#「技」と「言葉」|『「技」と「言葉」』145-148頁]])&lt;br /&gt;<br /> 具体的に呼吸力と言われる代表的なものは「[[#座技呼吸法|座技呼吸法]]」などの、強く捕まれた状態から手刀を立てる動作の際に用いられる力として語られる。<br /> *&#039;&#039;&#039;植芝吉祥丸&#039;&#039;&#039;<br /> {{Quotation|呼吸力とはどのようなことを言うのであろうか?生理的に息を吸い息を吐くことを呼吸と言うが、ここに言う呼吸法も全くその通りである。しかしながら、これは、頭の先から足の爪先まで、からだ全体で、天地と共に呼吸することを意味する。即ちこの場合、天地の流れと一体化し、自然と一体化した姿そのものが呼吸であるのであるから、かかる心境を養うことにより、自然力の充分なる集中発揮が可能となるのである。人間の気持ち、気というものが、その万事に重大なる影響のあることには、今更言うまでもない。<br /> <br /> (中略)気力を充実し必勝の信念を以て事に当たれば、普段に数倍する威力を発揮することができる。その気の力を平素常に保持し、臨機応変たくまずして自然に出し得るように自己を鍛錬するのが、呼吸力の養成である。|[[#合気道|『合気道』152-153頁]]}}<br /> <br /> *&#039;&#039;&#039;[[砂泊かん秀]]&#039;&#039;&#039;<br /> {{Quotation|(聞き手)改めて伺いますが、先生が言われている“呼吸力”とは一体どういうものなのでしょうか?<br /> <br />  &#039;&#039;&#039;砂泊&#039;&#039;&#039; 簡単に言えば、相手の触ったところに任せて一体化するということです。(中略)力を抜くことによって相手の力がどちらに向いているか、引くか、押すか、それがすぐ分かる。そこへソッと入ってくる。もう後になってくれば相手が触れただけでそこに技が出てくる。力で押しているうちはぶつかってしまって駄目ですよ。|[[#開祖の横顔|『開祖の横顔』104-105頁]]}}<br /> <br /> *&#039;&#039;&#039;植芝守央&#039;&#039;&#039;<br /> {{Quotation|合気道の力“呼吸力”は全身から生み出される力です。|[[#合気道パーフェクトマスター|『合気道パーフェクトマスター』75頁]]}}<br /> &lt;/ref&gt;(→「[[#座技呼吸法|座技呼吸法]]」)<br /> <br /> 合気・呼吸力について、小柄な老人がわずかな動きで屈強な大男を幾人も手玉にとり簡単に投げ飛ばしたり押さえ込んでしまう不思議な技、というイメージが一般的に流布し、しばしば怪しげなものとして疑われることも多い。&lt;br /&gt;<br /> 合気・呼吸力を具体的な技法原理として解明するために、脱力・体重利用・重心移動・腹腰部深層筋・[[梃子の原理]]・錯覚や[[反射]]の利用・心理操作など様々な側面から説明が試みられている。また、合気道の呼吸力と大東流など他武術の合気が同一か異なるものかについても意見が分かれる。<br /> <br /> ただし<br /> * 「脱力」が合気や呼吸力を発揮する条件であること<br /> * 姿勢や呼吸の重視<br /> * 「[[丹田|臍下丹田]]」の意識を重視する<br /> などの点において、各派の意見に共通性が見られる。<br /> <br /> === 合気道の武器術 ===<br /> 合気道の稽古で使用される[[武器]]は[[剣術|剣]]([[木刀|木剣]])・[[杖術|杖]]・[[短刀]](木製・ゴム製など)の三種類である。ただしこのうち短刀は、短刀の攻撃を捌く技(「短刀取り」)の習得のためのみに用いられるものであり、短刀術を目的とするものではない。したがって「合気道の武器術」と言う場合は、剣・杖を意味するのが普通である。<br /> <br /> 剣は<br /> *「剣取り」(剣による攻撃を素手で捌く、または剣を取りに来た相手に投げ技などをかける)と<br /> *「合気剣」(剣対剣、またそれを想定した単独の[[形稽古|形]])、<br /> 杖は<br /> *「杖取り」(杖による攻撃を素手で捌く、または杖を取りに来た相手に投げ技などをかける)と<br /> *「合気杖」(杖対剣、またそれを想定した単独形)<br /> がある。<br /> <br /> [[植芝盛平|盛平]]は「合気道は剣の理合である」と言い、剣・杖を重要なものとして語った。徒手技は剣・杖の術理を体術の形で現したものであるとされ&lt;ref&gt;&#039;&#039;&#039;徒手技は剣・杖の術理&#039;&#039;&#039;…「四方投げは正に刀の操法の表現であり。これに刀を持てばそのまま刀法ともなり得るのである。」 (出典:[[#合気道|『合気道』124頁]])&lt;/ref&gt;、たとえば徒手の投げ技などにおいては、腕を振り下ろす動作を「斬る」「斬り下ろす」などと表現する。また体術・剣術・杖術に共通する半身の構えは相手の突きを躱しつつ前方の相手を突くための槍術の構えを反映したものである。他に重い剣を速く振り上げる体の動きと呼吸力との関連を指摘する師範もいる。<br /> <br /> 盛平は茨城の岩間で[[斉藤守弘]]と剣・杖の研究をしたが、一方盛平が具体的に合気道の剣術・杖術を弟子に教えることは限られていた。このため盛平没後の合気道界において、積極的に剣・杖を指導する道場の割合は多くない。また師範により下のように見解が分かれている。<br /> <br /> 1. 合気道の体術に剣術や杖術の理合が含まれているので、あえて剣・杖を修練する必要がない。<br /> <br /> 2. 体術のみでは不十分で剣・杖などの武器術も修練する必要がある。…またこの意見も<br /> <br />  2-1. 「合気剣」「合気杖」「松竹梅の剣&lt;ref&gt;盛平が主に岩間以外の弟子に教えた、正面打ち・横面打ち・突きに対応する三つの型&lt;/ref&gt;」などを修練する師範([[斉藤守弘]]、[[引土道雄]]、[[小林裕和 (合気道家)|小林裕和]]など)と、<br /> <br />  2-2. 他流の剣術や杖術の形を合気道の理合で解釈して修練する師範([[西尾昭二]]、[[針すなお]]など)とに分かれる。<br /> <br /> 合気道の武器術として最も有名なものは、斉藤守弘が盛平の武器技を整理した「合気剣」と「合気杖」である。<br /> <br /> === 演武会 ===<br /> 試合を行わない合気道では、各自の技量の向上と世間一般への普及を目的として、[[演武|演武会]]が開催される。師範・高段者はもとより、初級者・児童に至るまで、各地の合気道家が一堂に会し日頃の稽古の成果を披露するのである。同じ技であっても激しく叩きつけるように行う者、静かに淡々と行う者など、様々な個性が現れる。このように上下を問わず大勢の演武者が参加する形式の演武会は、戦後二代目道主・吉祥丸(当時本部道場長)の発案により始まったものである。<br /> <br /> [[1950年]]([[昭和]]25年)9月末から10月初めにかけて、東京[[日本橋 (東京都中央区)|日本橋]]の百貨店・[[高島屋]]東京店にて合気道初の一般公開演武会が5回に渡り開催された。これは百貨店屋上階の特設ステージ上で、不特定の一般観衆に向かい、盛平を始め師範クラスの高弟から入門間もない初心者までが技を披露するという、その当時武道界全体で見ても例のない試みであった。また戦前・戦中を通じて厳しく公開を制限され、一般大衆にとって未だ神秘のベールに包まれていた合気道を、より身近な、誰もが始めることが可能な「開かれた武道」として普及をアピールするために絶好の画期的イベントであった。<br /> <br /> この演武会は連日多くの観客を集め、またマスコミにも取り上げられるなど成功を収め、合気道が世の中に普及する大きな転換点となり、これ以降、各会派が定期的に演武会を開催することになった。中でも合気会が[[日本武道館]]で毎年行う「全日本合気道演武大会」&lt;ref&gt;&#039;&#039;&#039;全日本合気道演武大会&#039;&#039;&#039;…第一回は[[1961年]](昭和36年)5月14日に東京・[[山野ホール]]で1600人の観客を集め行われた。(出典:[[#植芝盛平伝|『植芝盛平伝』313頁]])第三回からは[[日比谷公会堂]]、1977年以降日本武道館で開催されている。(出典:[[#合気道一路|『合気道一路』313頁]])&lt;/ref&gt;は国内外最大規模の演武会である&lt;ref&gt;他に大規模な演武会としては、[[全国学生合気道連盟]](合気会傘下)による「全国学生合気道演武大会」、[[養神館]]が主催する「全日本養神館合気道総合演武大会」が知られている。&lt;/ref&gt;。また他武道でも同形式の演武会が開かれるようになった&lt;ref&gt;&#039;&#039;&#039;初の一般公開演武会&#039;&#039;&#039;…同企画は吉祥丸が合気会常務理事に招いた元プロ野球[[セントラル・リーグ]]興業本部長・徳永繁雄の助言により始まったものだった。この企画を知った盛平は、当初非常に反発した。それまで演武とは盛平一人が演武することであって、未熟な者が人前でその技を披露することなど考えられなかったからである。だが結局盛平は吉祥丸の説得を受け入れ、開催を承諾する。(出典:[[#戦後合気道群雄伝|『戦後合気道群雄伝』164-173頁]])&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> == 他武道・他武術との関係 ==<br /> === 大東流合気柔術との相違点 ===<br /> 大東流と合気道には、武道の目的と意味をどう位置づけるかという思想性に鮮明な相違が認められる。盛平の合気道は古来の武術と一線を画して、「万有愛護」や「宇宙との和合」を目指す、といった理念的傾向が強い。これは、大本の合気武道時代からのものと考えられる。大東流では多く伝わる逆関節技や、足による踏み技・固め技など、荒々しい技の殆どが合気道で省かれているのも、この思想性によると考えられる。&lt;ref&gt;&#039;&#039;&#039;思想による荒技の省略&#039;&#039;&#039;…出典:[[#合気道一路|『合気道一路』220-221頁]]&lt;/ref&gt;<br /> <br /> === 柔道との交流 ===<br /> [[1930年]](昭和5年)10月、[[竹下勇]]の紹介で[[柔道|講道館柔道]]創始者・[[嘉納治五郎]]が講道館幹部二人と共に盛平の道場を訪れた。この頃嘉納は、[[競技]][[スポーツ]]化した柔道が勝敗に囚われる余り精神性を軽んずる弊に陥り、「武道の競技化・[[体育]]化による人格教育の実現」という嘉納の理想が形骸化しつつある傾向に危機感を抱いていた。その反省から私的に「古武道研究会」を主宰し、[[古武道]]諸流派の保存と伝承に務め、それを以って武道教育に精神性の復活を図ろうとしていた&lt;ref&gt;&#039;&#039;&#039;嘉納の危機感&#039;&#039;&#039;…参考:[[#植芝盛平と合気道1|『植芝盛平と合気道1』97-99頁 望月稔インタビュー]]&lt;/ref&gt;。そのような経緯の元、初めて盛平の技を見た嘉納は「これこそ私が理想としていた武道、本当の柔道だ」と賞賛した。&lt;ref&gt;&#039;&#039;&#039;嘉納治五郎の賞賛&#039;&#039;&#039;…それを聞いた同行の[[永岡秀一]]が「では私達がやっているのは嘘の柔道ですか?」と冗談交じりに聞き返したのに対し、嘉納は「単なる柔道ではなく広義の柔道である」と説明したという。(出典:[[#植芝盛平と合気道1|『植芝盛平と合気道1』197頁 杉野嘉男インタビュー]])&lt;/ref&gt;盛平の技に魅了された嘉納は講道館から当時若手の有望株であった[[望月稔]]を派遣し合気道の修行に当たらせた。盛平の有力な弟子であった[[富木謙治]]、[[塩田剛三]]らも、盛平に入門する前は柔道の有段者であった。特に、富木や望月は盛平の高弟となってからも柔道家としての活動もおこなっており、その理念には合気道・柔道双方の影響がみられる。<br /> <br /> === 剣道との交流 ===<br /> 盛平は剣術の研究のために、戦前自らの道場「皇武館」で[[剣道]]の指導を行わせた。実際の指導は、親交のあった[[中山博道]]([[神道無念流]])の3人の高弟で「[[有信館]]の三羽烏」と呼ばれた[[中倉清]](当時は盛平の婿養子)、[[羽賀準一]]、[[中島五郎蔵]]が行った。<br /> <br /> === 空手との交流 ===<br /> 空手の経験者で盛平に師事した人物も少なくなく、戦前に入門した弟子としては[[望月稔]]、[[小西康裕 (空手家)|小西康裕]]が、戦後の門弟では[[有川定輝]]、[[千葉和雄]]、[[西尾昭二]]が知られている。いずれも空手の捌きに合気道の円転の理を応用したり、逆に空手の打撃を参考に合気道の当身と捌きの関係を研究し、より実戦的な技法を模索した。<br /> <br /> == 健康法としての合気道 ==<br /> 合気道は[[健康法]]としても人気がある。攻撃してくる相手の力を利用するので(空手や柔道のようには)強い筋力を必要とせず老若男女を問わず誰でもはじめることができ、和合の精神を重視し、また活動は〔組み手稽古〕(試合形式ではなく、二人一組で行う稽古)が中心であることから、[[健康法]]としても人気が高く、広く定着しているのである。<br /> <br /> 例えば以下のようなことが言われている。<br /> *試合がないので、勝つための過剰に激しい稽古をする必要が無く、年齢体力にかかわらず無理なく自然に心身・足腰の鍛練ができる。<br /> *合気道の稽古は、技を左右同じ動きで同回数繰り返すため、左右の身体の歪みを取る効果がある。<br /> *[[受身]]で畳の上を転がることにより、&lt;!--骨格を矯正し、--&gt;[[血行]]を促す。また受身の習得で転倒による[[怪我]]をしにくくなる。<br /> *関節技を掛けられることによって[[ストレッチ]]効果が得られ、関節・筋肉の老化防止や、[[五十肩]]などの[[予防]]になる。<br /> <br /> === 準備運動 ===<br /> 合気会系の多くの道場で、稽古の始まりに盛平の考案による準備運動を行うのが慣例となっている。身体各部の柔軟などと共に、[[古神道]]の[[禊]]の行法「[[鳥之石楠船神|天の鳥船]]」(「舟漕ぎ運動」)「[[鎮魂|振魂]]」(「振りたま」)&lt;ref&gt;&#039;&#039;&#039;[[禊]]の行法&#039;&#039;&#039;…[[古神道]]の[[川面凡児]]が復興したものを行っていた。(出典:[[#植芝盛平伝|『植芝盛平伝』281頁]])&lt;/ref&gt;が採り入れられ、また「[[西式健康法]]」や「[[真向法]]」も取り入れられている。<br /> <br /> == 護身術としての合気道 ==<br /> 合気道は「非力な女性の護身術として最適」と喧伝されている&lt;ref&gt;&#039;&#039;&#039;女性の護身術として&#039;&#039;&#039;…{{Quotation|合気道がいかに勝敗を争わぬからといって、武道である以上、護身術として役立つことはいうまでもない。<br /> <br /> (中略)反射的に身の危険を避ける無駄のないすばやい動きは、合気道独特のものだ。女性の護身術としても最適であろう。合気道は力まかせの技法ではなく、相手の力を合理的に利用する技法を基本にしているので、非力な女性の護身術として向いている。|[[#図解コーチ 合気道|『図解コーチ 合気道』11頁]]}}&lt;/ref&gt;。ただし、護身術としての有効性については、疑問を呈する人もいる。<br /> <br /> これらの疑念について、合気会は「日々の鍛錬をきちんとやれば基礎を何度も修練している内に体得できる。実際に使えるようになる」という見解を示している&lt;ref&gt;&#039;&#039;&#039;護身術の有効性に関する合気会側の見解&#039;&#039;&#039;…{{Quotation|&#039;&#039;&#039;Q&#039;&#039;&#039;:稽古を見ていると人がクルクル回っていて、実際に武道として使えるように思えないのですが。<br /> <br /> &#039;&#039;&#039;A&#039;&#039;&#039;:例えば、学校の勉強をしていて基礎や基本の問題を解くとしましょう。それに対して、『こんなものが入試に出るはずがない』と言って入試問題ばかり解こうとしている学生がいたとしたら読者はどう思いますか。その学生の学力は向上するでしょうか。『しない』とは断言できませんが、基礎や基本を無視して円滑な向上は望めないでしょう。何につけ、一見、遠回りのように見えながら、基礎や基本をしっかり身につけた方が、上達は早いのです。<br /> <br /> そのまますぐに役に立ちそうに見えることを学ぼうというのは、武道で言うと『こう来たら、こうする』式のものに堕しやすいものです。それらはすぐに役に立ちそうで、実は逆に使えません。起こり得る全てのパターンを予習することなど不可能ですし、実際の場面で、いちいち『こう来たら、こうする』などと思い出して動こうとしたら、間に合わないからです。(中略)すべてをすぐに役に立てることは不可能です。基礎を何度も修練している内に体が体得するのです。体得すれば、自ずと実際に使えるようになります。(中略)蹴り技を稽古の中で使わないのですから、合気道は蹴り技に対処できないのでは、と『こう来たら、こうする』式の発想の人は考えるに違いありません。<br /> <br /> タイに合気道を指導しに行った人から、聞いた話です。ご存じのようにタイでは、ムエタイが盛んです。やはり、実際、試さなければ認めない人というのはどこにでもいます。この指導員は、ムエタイをやっている人に試合を申し込まれました。最初は、合気道ではそのような申し出に応じないと応えていましたが、立ち合わざるえなくなったのです。<br /> <br /> 仕方がない、と無念無想で相対した次の一瞬には、そのムエタイの人を一教で押さえ込んでいたのです。これには押さえ込んだ指導員本人もびっくりしていました。本人自身、一教が現実の場面で使えるなどとはそれまで考えていなかったからです。これは『こう来たら、こうする』などとは一切考えずに自然に体が動いた結果でした。このように日々の鍛錬がきちんとなされれば蹴り技にも対処できるのです。 |[[#規範 合気道 基本編|『規範 合気道 基本編』17-18頁]]}}&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> == 主な会派 ==<br />  ※独立年次順、「&#039;&#039;&#039;組織名&#039;&#039;&#039;(流儀名・通称):独立年~、創設者」<br /> * &#039;&#039;&#039;[[合気会|公益財団法人 合気会]]&#039;&#039;&#039; (「合気道」):[[1940年]]([[昭和]]15年)~(「財団法人 皇武会」→[[1948年]](昭和23年)~「財団法人 合気会」)、[[植芝盛平]]<br /> **合気道創始者・植芝盛平の興した合気道界の最大会派。合気道人口の8割を占めると言われる。[[日本武道協議会]]加盟。<br /> * &#039;&#039;&#039;[[養神館合気道|公益財団法人 合気道養神会]]&#039;&#039;&#039; (「養神館合気道」):[[1956年]](昭和31年)~、[[塩田剛三]]<br /> **盛平の高弟・塩田剛三が設立。「実戦合気道」を標榜、[[警視庁]][[女性警察官]]の正課科目、警視庁[[機動隊]]選抜隊員の研修科目に採用されている。<br /> * &#039;&#039;&#039;[[養正館武道|養正館]]&#039;&#039;&#039; (「養正館合気道」):[[1963年]](昭和38年)~、[[望月稔]]<br /> **盛平の高弟・望月稔が設立。合気道に柔道や空手などの要素を取り入れた。(※その後養正館は合気道から独立した新武道「養正館武道」を標榜。[[2000年]]([[平成]]12年)に「[http://budo-seifukai.com/ 正風会]」が「養正館合気道」を受け継ぐとして養正館から独立。)<br /> * &#039;&#039;&#039;[http://www.kanshusunadomari-manseikanaikido.com/ 万生館合氣道]&#039;&#039;&#039;:[[1969年]](昭和44年)~、[[砂泊かん秀|砂泊諴秀]]<br /> **盛平の高弟・砂泊諴秀が設立。九州一円を中心に普及。<br /> * &#039;&#039;&#039;[[日本合気道協会|NPO法人 日本合気道協会]]&#039;&#039;&#039;(「昭道館合気道」「富木流」):[[1974年]](昭和49年)~、[[富木謙治]]<br /> **盛平の高弟・富木謙治が設立。柔道を参考に[[乱取り|乱取り稽古]]や試合を取り入れ、大学合気道などの一部で普及。<br /> * &#039;&#039;&#039;[http://shodokanaikido.com/ NPO法人 昭道館合気道連盟]&#039;&#039;&#039;<br /> **日本合気道協会から分かれて設立された。<br /> * &#039;&#039;&#039;[[心身統一合氣道|一般社団法人 心身統一合氣道会]]&#039;&#039;&#039;(「[[心身統一合氣道]]」):1974年(昭和49年)~(「[[氣の研究会|財団法人 氣の研究会]]」→[[2010年]](平成22年)~「一般社団法人 心身統一合氣道会」)、[[藤平光一]]<br /> **盛平の高弟・(財)合気会の師範部長であった藤平光一が設立。「氣」を重視する。毎年「全日本心身統一合氣道競技大会」(体技競技審査会)という形審査形式の試合を行っている。<br /> * &#039;&#039;&#039;[[合気道S.A.]]&#039;&#039;&#039;:[[1991年]](平成3年)~、[[櫻井文夫]]<br /> **塩田剛三の高弟・櫻井文夫が設立。他流派からの参加も受け入れた打撃ありの組み手試合を行っている点が特徴。<br /> * &#039;&#039;&#039;[[岩間神信合氣修練会|NPO法人 岩間神信合氣修練会]]&#039;&#039;&#039; (「岩間流合気道」「[[岩間スタイル]]」):[[2004年]](平成16年)~、[[斉藤仁弘]]<br /> **盛平の高弟・[[斉藤守弘]]の息子である斉藤仁弘が設立。「合気剣・合気杖」など盛平晩年の合気道を伝えているとされており、海外にも影響力を持つ。<br /> <br /> == 合気道経験者 ==<br /> (※ 生年順)<br /> &lt;!--*[[下條小三郎|下條(げじょう)小三郎]]…[[海軍中佐]]。[[柳生新陰流]]19世[[柳生厳周]]の高弟で達人と謳われた。昭和初期に上京当初の盛平の門人となり、一方で昭和5~6年頃盛平に柳生新陰流剣術を教授した&lt;ref&gt;&#039;&#039;&#039;柳生新陰流教授時期&#039;&#039;&#039;…出典:[[#「技」と「言葉」|『「技」と「言葉」』20頁]]。&lt;/ref&gt;。下條は允可の段階でないと教えない「無刀の位」を除く様々な形を手をとって盛平に教えたといい、盛平は下條から「間合い」の問題について大きな示唆を得たという。&lt;ref&gt;&#039;&#039;&#039;下條小三郎&#039;&#039;&#039;…出典:[[#合気道教室|『合気道教室』17頁]][http://homepage1.nifty.com/kitabatake/rikukaigun72.2.html 1865年生まれ]&lt;/ref&gt; --&gt;<br /> * [[浅野正恭]]…[[海軍中将]]。[[心霊]]研究家。弟の[[浅野和三郎]]が大本の幹部であった縁で大正末期盛平に入門、綾部で指導を受ける。同じ海軍の[[竹下勇]]に「凄い武道家がいる」と盛平を紹介し、盛平が世に出るきっかけをつくった。<br /> * 竹下勇…[[海軍大将]]。第14代[[連合艦隊司令長官]]。第3代[[日本相撲協会|大日本相撲協会]]会長。1925年(大正14年)盛平を東京に招請、軍政財界の要人に盛平を紹介し、武道家としての盛平を世に知らしめた。門人として献身的に盛平を支え、公私に渡り強力な支援者となる。(財)皇武会([[合気会]]の前身)初代会長。<br /> * [[二木謙三]]…[[医学博士]]。[[東京帝国大学]]医学部教授。日本[[医学]]界の重鎮。昭和初期~十年代、毎朝内弟子の寝込みを襲い、叩き起こしては朝稽古に励んだという。(財)皇武会理事。昭和18年頃には大病を患った盛平のために交通事情の悪い中を茨城県岩間まで往診した。&lt;ref&gt;&#039;&#039;&#039;二木謙三往診&#039;&#039;&#039;…出典:[[#合気道一路|『合気道一路』61頁]]&lt;/ref&gt;<br /> * [[三浦真]]…[[陸軍少将]]。1930年(昭和5年)入門。[[日露戦争]]で[[銃剣]]で胸を刺し貫かれる重傷を負いながら敵兵を[[軍刀]]で斬り倒し続け、一躍当時の英雄となった。武田惣角の弟子であり、盛平の分派独立に憤慨し道場破りに来たが、盛平の技に感嘆しその場で入門した。自らが校長を務める陸軍戸山学校の武道指導者として盛平を招いた。&lt;ref&gt;&#039;&#039;&#039;三浦真&#039;&#039;&#039;…出典:[[#植芝盛平伝|『合気道開祖 植芝盛平伝』197-198,307頁]]&lt;/ref&gt;&lt;!--&lt;ref&gt;参考:[http://purunus.com/index.php/%E4%B8%89%E6%B5%A6%E7%9C%9F 軍人データベース 『サクラタロウ DB (Purunus DB)』]&lt;/ref&gt;--&gt;<br /> * [[山本英輔]]…海軍大将。第19代連合艦隊司令長官。[[1927年]](昭和2年)頃入門。<br /> * [[高橋三吉]]…海軍大将。[[1928年]](昭和3年)入門。盛平を自らが校長を務める[[海軍大学校]]の武道講師に招聘した。<br /> * [[百武源吾]]…海軍大将。徹底した対米協調・避戦派。海軍を追われた後、第7代[[九州帝国大学]]総長。1928年(昭和3年)入門。<br /> * [[近藤信竹]]…海軍大将。1928年(昭和3年)入門。<br /> * [[中里介山]]…[[小説家]]。代表作「[[大菩薩峠]]」で有名。[[1929年]](昭和4年)入門。<br /> * [[柳原白蓮]]…[[歌人]]。[[大正三美人]]の一人。大正年間当時一大スキャンダルとなった「恋の逃避行」中に綾部の[[大本]]教団に身を寄せ、植芝塾の稽古に熱心に通ったという。また昭和以降上京後も盛平から弟子の就職の世話を頼まれるなど交流が続いた。&lt;ref&gt;&#039;&#039;&#039;柳原白蓮&#039;&#039;&#039;…出典:[[#植芝盛平と合気道1|『植芝盛平と合気道1』149頁]]&lt;/ref&gt;<br /> * [[岡田幸三郎]]…[[実業家]]。[[塩水港精糖]]社長。[[1926年]](大正15年=昭和元年)入門。(財)合気会理事。皇武会の設立・財団法人認可申請を立案・尽力。<br /> * [[藤田欽哉]]…実業家。[[ゴルフ]]コース設計者。[[霞ヶ関カンツリー倶楽部]]創設者。日本ゴルフ界の草分け。[[1926年]](大正15年=昭和元年)入門。皇武会・合気会の設立・財団法人認可申請を立案・尽力。(財)合気会理事。&lt;ref&gt;&#039;&#039;&#039;藤田欽哉&#039;&#039;&#039;…{{Quotation|故藤田欽哉氏(1889-1970)<br /> 早稲田大学卒業後、三菱銀行に3年勤務、米国 オハイオ州マイアミ大、短期間コロンビア大に学び、<br /> ニューヨークにて貿易商に勤務。<br /> その時ゴルフを覚え、帰国後、貿易商を営んでいたところ、霞ケ関の地主からゴルフ場建設を依頼されて<br /> 霞ケ関CCの創始者にもなり、東コースを設計した。<br /> 他に那須GC、習志野CC、千葉CC野田コース、静岡CCなどを設計した。<br /> 故藤田氏は、東京・駒込に生まれ、六義園の邸内で育ち<br /> 大面積の土地に対する判断や処理する能力に卓越したものがあり、<br /> 土壌を動かさず自然の地形と起伏・池を生かしたコースの設計に特長がある。|[http://www.hmcc.co.jp/hm-club.html#13 東松山カントリークラブ]|}}&lt;/ref&gt;<br /> * [[東条英機]]…陸軍大将。第40代[[内閣総理大臣]]。[[1934年]](昭和9年)[[関東軍]]司令官の時に、[[憲兵隊]]に武術指導に来た[[富木謙治]](盛平高弟)の技を絶賛し、自らも熱心に学んだ。&lt;ref&gt;&#039;&#039;&#039;東条英機&#039;&#039;&#039;…出典:[[#合気道教室|『合気道教室』25頁]]、[[#植芝盛平と合気道1|『植芝盛平と合気道1』8-9頁]]&lt;/ref&gt;<br /> * [[前田利為]]…[[陸軍大将]]。[[華族]]([[侯爵]]・[[加賀]][[前田家]]16代当主)。盛平を自らが校長を務める[[陸軍大学校]]の武術指導者に迎えた。(財)皇武会理事。<br /> * [[尾上菊五郎 (6代目)|尾上菊五郎(六代目)]]…[[歌舞伎]][[役者]]。1929年(昭和4年)入門。<br /> * [[市川猿翁 (初代)|市川猿翁]](二代目猿之助)…歌舞伎役者。1929年(昭和4年)入門。<br /> * [[石井光次郎]]…[[政治家]]。第54代[[衆議院議長]]。[[日本体育協会]]会長。[[自民党]]石井派の領袖として[[副総理]]、[[法務大臣]]など主要閣僚を歴任。1928年(昭和3年)[[朝日新聞]]勤務時代に入門、朝日新聞大阪本社に盛平指導道場を設立させるなど朝日社内に合気道を広めた。(財)合気会理事。盛平の葬儀では友人代表を務めた。&lt;ref&gt;&#039;&#039;&#039;石井光次郎&#039;&#039;&#039;…出典:[[#植芝盛平伝|『合気道開祖 植芝盛平伝』192-193頁]]&lt;/ref&gt;<br /> * [[大石ヨシエ]]…政治家。婦人運動家。女性初の[[代議士]]の一人。大本時代(大正年間)綾部の植芝塾道場に入門。<br /> * [[富田健治]]…[[内務省 (日本)|内務省]][[官僚]]。[[政治家]]。第45代[[内閣書記官長]]。第25代官選[[長野県知事]]。[[貴族院 (日本)|貴族院]]議員。戦後[[代議士]]。[[大阪府警察部]]長の時、[[大本事件#第二次大本事件|第二次大本事件]]で警察に拘束された盛平の窮地を救った。(財)合気会初代理事長。<br /> * [[西勝造]]…[[西式健康法]]創始者。[[土木工学|土木工学者]]・技術者。合気道(合気会)六段。(財)合気会理事。藤田欽哉と共に合気会の財団法人認可に尽力。胃腸障害に苦しむ盛平に野菜食を指導した。<br /> * [[賀陽宮恒憲王]]…[[皇族]]。[[陸軍中将]]。陸軍戸山学校長、陸軍大学校長、師団長などを歴任。1938年に盛平が出版した技術書『武道』は、当時盛平が個人指導を行っていた賀陽宮のための解説書として作られたものであった。&lt;ref&gt;&#039;&#039;&#039;賀陽宮恒憲王&#039;&#039;&#039;…出典:[[#武道解説編|『武道解説編』14-18頁]]&lt;/ref&gt;<br /> * [[友末洋治]]…政治家。[[官選]]第45代、[[民選]]初代~第3代[[茨城県]][[知事]]。皇武会の財団法人化に[[厚生省]]担当官として尽力。<br /> * [[天竜三郎]]…[[大相撲]][[力士]]([[関脇]])。相撲[[解説者]]。相撲界改革を訴えた[[春秋園事件]]で知られる。[[1939年]](昭和14年)、[[満州国]]での演武会で盛平に腕試しを挑み投げられたのをきっかけに入門&lt;ref&gt;&#039;&#039;&#039;盛平、天竜を投げる&#039;&#039;&#039;…[[#jikidesi|『植芝盛平と合気道 1』228頁]]&lt;/ref&gt;。<br /> * [[高松宮宣仁親王]]…皇族([[大正天皇]]第三皇子)。海軍大佐。海軍大学在学中(1934年(昭和9年)~1936年(昭和11年))武術師範であった盛平に指導を受けた&lt;ref&gt;&#039;&#039;&#039;高松宮宣仁親王&#039;&#039;&#039;…出典:[[#植芝盛平と合気道1|『植芝盛平と合気道1』133頁]]&lt;/ref&gt;。<br /> * [[野間恒]]…[[講談社]]第2代社長。[[剣道]]家(剣道[[教士]])。[[昭和天覧試合]]等で優勝し「天才剣士」「昭和の大剣士」と称された。1935年(昭和10年)以降に盛平に入門、野間により撮影された当時の盛平の技の写真が数百枚有ることが知られている。&lt;ref&gt;&#039;&#039;&#039;野間道場の写真&#039;&#039;&#039;…未整理のためまとまった形で公開・出版はされていない。(出典:[[#武道解説編|『武道解説編』27-28頁]])&lt;/ref&gt;<br /> * [[中倉清]]…剣道家(剣道・[[居合道]][[範士]]九段)。[[日本の警察官|警察官]]。剣道公式戦69連勝という前人未踏の記録を樹立、「昭和の[[宮本武蔵|武蔵]]」と称される。師の[[中山博道]]が盛平と親しかった縁で、共に「有信館三羽烏」と呼ばれた[[羽賀準一]]、[[中島五郎蔵]]と、新設された「皇武館道場剣道部」で活動した。1932年(昭和7年)に盛平の[[婿養子]]となるが1937年(昭和12年)に離縁。&lt;ref&gt;&#039;&#039;&#039;中倉清&#039;&#039;&#039;…出典:[[#植芝盛平と合気道2|『植芝盛平と合気道2』161-163頁]]&lt;/ref&gt;<br /> * [[園田直]]…政治家。第110代[[外務大臣 (日本)|外務大臣]]。合気道(合気会)八段。(財)合気会理事。全日本合気道連盟会長。盛平の死去に際して葬儀委員長を務めた。<br /> * [[鎌田茂雄]]…[[仏教学者]]。[[天道流合気道]]六段。<br /> * [[荒川博]]…[[プロ野球選手]]・[[プロ野球監督|監督]]。1956年(昭和36年)、合気会本部道場に入門。合気道(合気会)六段&lt;ref&gt;&#039;&#039;&#039;[[荒川博]]六段&#039;&#039;&#039;…出典:「季刊合気ニュース」 NO.142 [[2004年]]、 荒川博インタビュー「野球に生かす合気道」、ISBN 4900586277、31頁。 &lt;/ref&gt;。合気道から着想した打撃理論で[[王貞治]]に「[[一本足打法]]」を指導、ホームラン王に育てる。<br /> * [[海部俊樹]]…政治家。第76・77代内閣総理大臣。合気道(合気会)三段&lt;ref name=nuki_37&gt;出典:[[# 「抜き」と「呼吸力」の極意|『 「抜き」と「呼吸力」の極意』37頁]]&lt;/ref&gt;。(財)合気会理事。<br /> * [[広岡達朗]]…プロ野球選手。合気道(合気会)三段&lt;ref name=nuki_37&gt;&lt;/ref&gt;。監督として弱小球団であった[[東京ヤクルトスワローズ|ヤクルト]]、[[埼玉西武ライオンズ|西武]]を日本一に導く。[[2010年]](平成22年)1月、[[アメリカ]][[大リーグ]]・[[ロサンゼルス・ドジャース|ドジャース]]に臨時コーチとして合気道を指導&lt;ref&gt;「&#039;&#039;&#039;ド軍“臨時コーチ”に広岡氏!合気道指導へ&#039;&#039;&#039;」…「元ヤクルト、西武監督で野球評論家の広岡達朗氏(77)が 米大リーグ、ドジャースの“臨時コーチ”を務めることが8日、分かった。伸び悩む準レギュラーの選手たちに合気道の指導を行うためで、10日に渡米する。(中略)広岡氏と合気道の出合いは、巨人2年目の1995年。新人王に輝いた翌年にスランプに見舞われ、救いを求めたのが気の第一人者、 中村天風師だった。そこで「心が体を動かす」という人間の体に潜んでいる気の積極的観念を学び、さらに弟子の藤平(とうへい)光一師から長嶋、王らとともに指導を受けた。」(出典:[http://www.sanspo.com/mlb/news/100109/mla1001090503002-n1.htm &#039;&#039;sanspo.com 2010年1月9日付の記事&#039;&#039;] )&lt;/ref&gt;。<br /> * [[針すなお]]…[[漫画家]]。合気道(合気会)七段&lt;ref name=nuki_36&gt;出典:[[# 「抜き」と「呼吸力」の極意|『 「抜き」と「呼吸力」の極意』36頁]]&lt;/ref&gt;。[[佐賀]]の合気道道場「高伝館」館主。<br /> * [[榎本喜八]]…プロ野球選手。合気道(合気会)三段&lt;ref name=nuki_37&gt;&lt;/ref&gt;荒川博と共に合気道を参考にした打法を研究、「安打製造機」「打撃の神様」と呼ばれる。&lt;ref&gt;&#039;&#039;&#039;榎本喜八&#039;&#039;&#039;…出典:「合気道探求」第13号 出版芸術社、1997年、ISBN 488293132X、34頁。&lt;/ref&gt;<br /> * [[亀井静香]]…政治家。第15・16代[[特命担当大臣]]([[金融]]・[[郵政]]改革)。第2代[[国民新党]]代表。[[養神館合気道]]六段[http://www.yoshinkan.net/cgi-bin/osirase_f/cgi/msgs.cgi?do=jwd&amp;wn=1256001909]。[[東大]]合気道部で主将を務めた。1961年(昭和36年)に[[全日本学生合気道連盟]]を結成、初代委員長となる。(財)合気会理事。<br /> * [[小渕恵三]]…政治家。第84代[[内閣総理大臣]]。[[早稲田大学合気道部]]昭和3年卒。[[日本合気道協会]]四段&lt;ref name=nuki_37&gt;&lt;/ref&gt;。<br /> * [[鈴木邦男]]…[[政治活動家]]。日本合気道協会三段&lt;ref&gt;{{Cite web |author=鈴木邦夫 |date=2015-05-27|url=http://blogos.com/article/113314/ |title=人生の基本は、合気道から学んだ |quote= |work=[[BLOGOS]] |publisher=[[LINE (企業)|LINE Corporation]] |accessdate=2015-07-30}}&lt;/ref&gt;。<br /> * [[杉良太郎]]…[[俳優]]。養神館合気道五段&lt;ref name=nuki_36&gt;&lt;/ref&gt;。<br /> * [[倉田保昭]]…俳優。合気道二段&lt;ref&gt;出典:[http://www.kurata-pro.com/profile/ 倉田プロモーション/倉田保昭プロフィール]。2015年5月1日閲覧。&lt;/ref&gt;。<br /> * [[永倉万治]]…[[作家]]。最晩年に合気会支部道場入門、死の直前まで学ぶ&lt;ref&gt;&#039;&#039;&#039;永倉万治&#039;&#039;&#039;…「二〇〇〇年十月五日、我が合気道和光支部道場内で雑誌社の撮影中の出来事、道場生だった作家永倉萬治氏の死。一年ちょっとの付き合いであったが、彼は身をもって葉隠を教えてくれたような気がする。生前「死ぬのは怖い」と漏らしていたこともある彼は、生を大切にした。脳卒中の経験をもっての身体で、他の人よりも死は身近であったはず、そんな永倉氏は今できる事に常に興味をもって接していたと思う。」(出典:[http://members3.jcom.home.ne.jp/wakoaiki/aisatsu.html &#039;&#039;和光市合気道和光支部ホームページ/師範挨拶&#039;&#039;])&lt;/ref&gt;。<br /> * [[内田樹]]…[[思想家]]。[[神戸女学院大学]]文学部名誉教授。合気道(合気会)六段&lt;ref&gt;出典:[http://www.city.osaka.lg.jp/hodoshiryo/seisakukikakushitsu/0000081535.html 大阪市 政策企画室 【報道発表資料】内田 樹氏を市長特別顧問に委嘱します]&lt;/ref&gt;。<br /> * [[由美かおる]]…[[俳優|女優]]。合気道(合気会)三段&lt;ref&gt;出典:[[#美しくなるための合気道|『由美かおる 美しくなるための合気道』121頁]]&lt;/ref&gt;。<br /> * [[クリストファー遙盟]]…[[尺八]]演奏家。合気道三段。1975年に[[小林保雄]]の道場に入門。<br /> * [[スティーブン・セガール]]…俳優。青年時代に来日、大阪で合気道を学び道場長を務めた後、[[ハリウッド]]に渡り[[アクション映画]][[スター]]となる。合気道(合気会)七段&lt;ref name=nuki_36&gt;&lt;/ref&gt;。<br /> * [[加来耕三]]…[[歴史家]]。作家。合気道(合気会)四段&lt;ref&gt;出典:[[#戦後合気道群雄伝|『戦後合気道群雄伝』269頁]]&lt;/ref&gt;。<br /> * [[堤大二郎]]…俳優。天道流合気道初段&lt;ref&gt;出典:[http://ameblo.jp/tsutsumi-daijiro/entry-10410105653.html]&lt;/ref&gt;。<br /> * [[小西博之]]…俳優。「[特 技] 合気道」([http://www.softpolis.co.jp/stork/t_konishi.html 公式プロフィールによる])。<br /> * [[加藤鷹]]…[[AV男優]]。「合気道初段」([http://www.katotaka.com/profile.html 公式プロフィールによる])。<br /> * [[加藤雅也]]…俳優。「特技:合気道」([http://www.jap.co.jp/masaya/frame/f_profile.html 公式プロフィールによる])。<br /> * [[葛城奈海]]…[[タレント]]。合気道(合気会)五段。<br /> &lt;!-- * [[永作博美]]…女優。--&gt;<br /> * [[大月晴明]]…[[キックボクサー]]、[[K-1]]選手。昭道館合気道(富木流)を学び、この技術を取り入れ高いKO率を誇る。[[WPKC]]世界[[ムエタイ]][[ライト級]]王者。&lt;ref&gt;&#039;&#039;&#039;大月晴明&#039;&#039;&#039;…「ライフワークとして武道の達人を目指す大月は、実戦合気道の道場にも足を運ぶ。<br /> 『どうやったら相手のバランスが崩れるのか。そのための圧力のかけ方などを学んでいます。合気道の技術はキックでもおおいに役立つ。ボクの闘い方は、いろいな格闘技のブレンドと言ってもいいかもしれない』」(出典:[http://www.pia.co.jp/hot_sports/hone/0513.html &#039;&#039;@ぴあ「21世紀の骨のあるヤツ-第170回 大月晴明(キックボクシング)&#039;&#039;」]。2015年5月1日閲覧。)<br /> &lt;/ref&gt;<br /> * [[斉藤工]]…俳優。「趣味 合気道」([http://saitoh-takumi.jp/prof/prof.html 公式プロフィールによる])。<br /> * [[秋元才加]]…[[アイドル|アイドル歌手]]([[AKB48]]メンバー)。合気道二段&lt;ref&gt;&#039;&#039;&#039;秋元才加合気道二段&#039;&#039;&#039;…「(聞き手)そういえば、秋元さんは合気道二段なんですよね。&#039;&#039;&#039;秋元&#039;&#039;&#039; そうなんですよ。女の子だからって、守ってもらうだけじゃなくていいんだって」(出典:[http://book.asahi.com/comicbreak/TKY201003260160.html &#039;&#039;朝日新聞朝刊、2010年3月24日掲載『コミック・ブレーク 〈私のコミック履歴書〉秋元才加さん(AKB48)』インタビューより。&#039;&#039;]2015年5月1日閲覧。)&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> == 合気道を重要テーマとするメディア作品 ==<br /> === 小説 ===<br /> * [[津本陽]]著『黄金の天馬』(ISBN 4569673775) - [[植芝盛平]]をモデルにした伝記小説。<br /> * [[火野葦平]]著『王者の座』([[弥生書房]] [[1958年]]・絶版) - [[天竜三郎]]を主人公にした小説。<br /> * [[山田克郎]]著『王者の庭 合気道 植芝盛平伝』([[浪速書房]] [[1959年]])<br /> * [[和巻耿介]]著『王道の門 疾風編』(ISBN 4334710263)、『王道の門 迅雷編』(ISBN 4334710484 ) - 盛平をモデルした冒険小説。<br /> * [[牧野吉晴]]著『飛燕合気道』([[報知新聞社]] [[1970年]]) - [[塩田剛三]]をモデルにした長編小説。<br /> * [[ガディエル・ショア]]著『合気道小説 神技 - Kami‐Waza』(ISBN 4862203159) - 「2172年[[フランス]]の合気道学校“アイキ・リブリウム”で開祖植芝盛平の最高技法“神技”を蘇らせる試みがなされていた」という設定の[[サイエンス・フィクション|SF]]武道小説。<br /> <br /> === ノンフィクション ===<br /> * [[増田俊也]]著『[[木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか]]』 - 柔道史上最強の[[木村政彦]]の親友として[[塩田剛三]]が出てくる。また木村のライバルの師匠として[[植芝盛平]]も登場する。<br /> <br /> === 漫画 ===<br /> * [[武富智]]著『[[EVIL HEART]]』(イビル ハート) - 心に傷を負う反抗的な[[中学生]]の少年が、合気道に出会い成長していく姿を描く。<br /> * [[板垣恵介]]著『[[グラップラー刃牙]]』 - 主人公「範馬刃牙」が地下格闘技場で様々な格闘家と戦う格闘技漫画。[[塩田剛三]]をモデルとした重要キャラクター「[[渋川剛気]]」が登場する。渋川の師として[[植芝盛平]]がモデルになったと思われる御輿芝喜平もでている。<br /> * [[安彦良和]]著『[[虹色のトロツキー]]』 - 満州国・蒙古・[[シベリア]]を舞台とする歴史劇。主人公の[[武道]]の師匠として盛平が、また[[富木謙治]]、天竜三郎も登場する。盛平が関わった「パインタラ事件」が物語の重要な鍵として語られる。<br /> * [[山岡朝]]作画 [[植芝守央]]監修 『[[劇画 合気道開祖 植芝盛平物語]]』- [[植芝吉祥丸]]著『[[合気道開祖 植芝盛平伝]]』([[出版芸術社]] [[1999年]])の劇画化。盛平の生涯をその生誕から描く。著名なエピソードはほとんど描かれている。作画者は合気会に入門し、稽古を重ねた上で本作を手がけた。<br /> <br /> === 映画 ===<br /> * 『[[激突! 合気道]]』([[1975年]]) - 盛平の若き日の活躍を描く[[東映]]アクション映画。[[千葉真一]]扮する空手家との岩場での決闘がクライマックス。<br /> * 『[[あいのこころ]]』([[2008年]]) - [[福島県]][[二本松市]]を舞台に、合気道を通して4人の高校生が友情を深め合う姿を描く青春映画。<br /> <br /> == 「合気道」の名称について ==<br /> 21世紀初めの時点で「合気道」と言えば、一般的には[[植芝盛平]]の興した合気道を指すが、実は「合気道」の名を用いたのは盛平が最初ではなく、盛平とは別系統の「合気道」が存在する。また「合気道」という名称には“合気系武道(・武術)”全般を通称的に指し示す[[普通名詞]]としての一面もある([[#通称|→例]])。<br /> === 「合気道」の初出と命名 ===<br /> ==== 大日本武徳会合気道 ====<br /> 盛平は自らの武道の名称を「大東流」に始まり「植芝流」「相生流」「合気武術」「大日本旭流柔術」「皇武道」など目まぐるしく変え続けたが、ようやく1936年(昭和11年)頃から「合気武道」で定着しだした。<br /> <br /> 盛平は自他共に認める「忠君愛国の士」ではあったが、大東亜戦争の開戦・継続には批判的であった。しかし「愛」と「和合」を旨とする自らの武道を、その精神を封殺しただの戦闘技術としてのみ軍に供せねばならない矛盾に耐えつつ、憲兵学校武術師範等の職務を篤実に務め続けた&lt;ref&gt;&#039;&#039;&#039;盛平の大東亜戦争観&#039;&#039;&#039;…出典:[[#植芝盛平伝|『植芝盛平伝』35-38頁]]&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 昭和17年([[1942年]])、戦時政策により武道界も政府の[[外郭団体]]・[[大日本武徳会]]の統制化に入ることになる。盛平率いる皇武会もその例外ではなかった。一代で育て上げた自らの武道に強い誇りを持っていた盛平にとって、この統合は不本意なものであった。<br /> <br /> 統合にあたり、盛平は武徳会から「総合武術部門」設立についての協力要請を受けたが、これに対し[[#皇武館|皇武館]]道場の「総務」として渉外を担当していた門人[[光輪洞合気道|平井稔]]を推薦し、同時に自らは老齢や病を表向きの理由に各団体顧問・軍での武術指導など一切の公職を辞し、東京の皇武館道場を息子吉祥丸に任せ、妻と共にかねて土地を買い集めていた茨城県[[岩間町]]に隠遁する&lt;ref name=&quot;岩間隠棲&quot;/&gt;。平井は盛平の委任を受け、大日本武徳会の幹事に就任した。<br /> <br /> この時武徳会に設置された「&#039;&#039;&#039;合気道部&#039;&#039;&#039;」と、“総合武術”(体術・剣術などを総合的に扱う武術)として制定された「&#039;&#039;&#039;大日本武徳会合気道&#039;&#039;&#039;」が固有武道名称として初めて確認できる「合気道」である。<br /> 平井がこの合気道部の運営に当たった&lt;ref&gt;&#039;&#039;&#039;大日本武徳会に平井稔派遣&#039;&#039;&#039;…{{Quotation|昭和十四、五年頃の入門生に、平井稔という人がおり、丁度その後大戦となり、前記優秀なる内弟子らの相次ぐ出征の後を引き受け、道場総務をしていた。たまたま時勢の流れは合気道をも武徳会に統合し、その一翼とすることになり、武徳会の役員であった久富達夫氏から皇武会の富田健治理事に照会があり、それにより道主(盛平)の代理として、右の平井氏が合気道の代表代理格で武徳会に席を置くことになり、武徳会内に合気道部が設置され、合気道の練士、教士、範士が出現するところまで行った。これはすでに終戦直前の混乱期であった。|[[#合気道|『合気道』68頁]]}}&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 「合気道」の命名は、講道館から武徳会役員となった[[久富達夫]]が主唱したことを平井が証言している。この時久富は、「総合武術部門は剣杖などの要素も包括的に含めたい。そのため従来から在る各武術流派との軋轢を生じさせぬよう、特定流派を連想させず、また勇ましさを前面に出したものでなく、当たり障りのない柔らかい印象の名前が良い」として「合気道」を提唱したという&lt;ref&gt;&#039;&#039;&#039;「合気道」の命名&#039;&#039;&#039;…(平井稔インタビューより){{Quotation|大日本武徳会の中における武道体系、いわゆる『武徳会流』に付けた名称が『合気道』だった。<br /> <br />  武徳会では名称をめぐっていろいろ議論があった。幹事会を何回も何回も開いて議論しました。柔道、剣道部門が中心になって動いており、一口に総合武道といっても各流派があり、従来の流派とのあつれきを少なくするため、あたりさわりのない名称を付けることになりました。久富さんの提案で、実戦的な武道をということで、柔術を基本にした部門を作ることになった。柔というのは総合体系を持っているから剣も杖も使う。久富さんが熱心にそれを主張された。それで合気武道とかいわずに、『合気道』にして、道をはっきりしたほうがいい、総合武道として、合気道というものを作ったらいいんじゃないかということになった。私は久富さんに同意見で賛成したんです。<br /> <br />  つまり、『合気道』といったほうが総合的なものを全部含められる。剣道とか柔道だとかの、ことさらに流派にこだわった名称を付けたり、勇ましい名前なんかを使わずに、すべて総合的に総括的に柔らかい名前を付けようというのが久富さんの意見であり、結論的には誰にも異論はなかったわけです。|[[#植芝盛平と合気道2|『植芝盛平と合気道 2』51頁]]}}&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> [[植芝吉祥丸|吉祥丸]]・[[植芝守央|守央]]・合気会の著作物では「昭和17年([[1942年]])武徳会への統合に際して、盛平は正式に『合気道』の呼称に統一すると宣言した」としている&lt;ref&gt;&#039;&#039;&#039;合気会側の見解&#039;&#039;&#039;…「昭和十七年(1942)五十九歳 (中略)この武徳会との関係もあり『合気武道』の呼称を改め、初めて正式に『合気道』を名乗ることとなった。」(出典:[[#合気道|『合気道』310頁]])&lt;/ref&gt;。しかし一方、盛平や門人の[[奥村繁信]]は「合気道と名乗ったのは戦後だ」と述べている&lt;ref&gt;&#039;&#039;&#039;戦後合気道を名乗る&#039;&#039;&#039;…盛平インタビューより<br /> {{Quotation|(聞き手)いつ頃から合気道という言葉をお使いになりましたか。<br /> <br /> &#039;&#039;&#039;盛平翁&#039;&#039;&#039; 合気道というのは戦後です。|[[#植芝盛平と合気道1|『植芝盛平と合気道 1』255-256頁]]}}<br /> <br /> 盛平の高弟・[[奥村繁信]]の証言{{Quotation|合気道も当時([[1940年]]頃)は“合気武術”と言われていたと思います。それが昭和十八年くらいに合気武道となって、戦後“合気道”となったわけです。|[[#開祖の横顔|『開祖の横顔』176頁]]}}&lt;/ref&gt;。<br /> 吉祥丸・守央の著作からも、武徳会合気道部への統合には相当の抵抗感があったことが記されており&lt;ref&gt;&#039;&#039;&#039;武徳会合気道部への抵抗感&#039;&#039;&#039;…{{Quotation| しかも戦時下統制の波は、とうぜん武道界にもおよび、合気道 - 当時は一般に、「合気武道」として知られていたが、「植芝合気武道」「皇武合気」などの別称もあった - もまた武徳会に統合されることになった。そのさい開祖は正式に、「合気道」の呼称に統一するむねを宣した。すなわち、「武徳会=合気道部」となったのである。(中略)<br /> <br />  率直にいって、この時点で開祖は明確に岩間への転住に踏み切ったもののようである。&lt;br /&gt;<br />  国策に異を唱えるわがままこそ自制したが、己れが一代の辛酸と研鑽とをもって築きあげた合気道である、それが便宜的に、「合気道部」などで一括されることに、開祖の潔癖が耐えられようはずはなかった。&lt;br /&gt;<br /> 「わしは雑務はようせんがな。まだまだ修行じゃ」といい、武徳会には渉外的手腕のすぐれていた当時道場総務だった内弟子の平井稔氏(のち、「大日本恒輪洞合気道」と称して活動)を代理人としてさしむけ、自分はさっさと岩間におもむいてしまった。|[[#植芝盛平伝|『植芝盛平伝』256-257頁]]}}&lt;/ref&gt;、「合気道」の呼称が実際に皇武館側に受け入れられていたかどうかについても前記の通り証言に食い違いがある。<br /> <br /> ==== 植芝「合気道」の出発 ====<br /> 昭和20年([[1945年]])終戦により武道統制は消滅、翌年[[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ(連合軍総司令部)]]の命令により大日本武徳会は解散する。平井は大日本武徳会合気道を受け継ぐとして「[[光輪洞合気道]]」を興すが、盛平の武道とは別系統の、平井独自の武道であるとしている&lt;ref&gt;&#039;&#039;&#039;平井独自の武道&#039;&#039;&#039;…(平井稔インタビューより){{Quotation|しかし私自身としては、武道の杖にしろ剣にしろ、いき方については、私自身が以前からとっておる考え方がありましたからね。ですから、そういうところ(盛平の道場)で大きく刺激を受けたというよりも、(植芝)先生との出会いの中に円の基本のいき方というものを、たいへん都合よく解釈していったのかもしれません。円転無窮などといったことは間違いではなかったんだという自信につながりました。私は壮年期であったし、そういうことをとくに考える時期であったので、自然に会得していった。だけど植芝先生は植芝先生なりに会得されたものがあったと思います。<br /> (中略)それから戦後、飯倉の道場で私なりのいき方でやっている時、警察の内務官であった富田健治さんが『平井先生、どうだねもう一度こちらの植芝のほうをお考えくださいませんか』と、わざわざ道場へ見えました。私は私の信ずる道で、志を立てたのでお断りいたしますというようにいったわけです。|[[#植芝盛平と合気道2|『植芝盛平と合気道 2』48-49頁]]}}&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> [[植芝盛平|盛平]]が正式に「合気道」の名称を用い出した時期として確実なのは、昭和23年([[1948年]])2月9日、[[合気会|財団法人合気会]]の[[文部省]]による認可の時点である。合気会認可直前は「武産合気(たけむすあいき)」と称していたとする証言がある&lt;ref&gt;&#039;&#039;&#039;合気会発足直前の流儀名&#039;&#039;&#039;…「昭和二十三年に入門した徳山浩一(現・[http://www.sankyo-printing.com/outline.html 株式会社三協]代表取締役会長)の記憶によれば、&#039;&#039;&#039;財団法人の許可がおりるまで、『皇武会』では『武産合気』を称し&#039;&#039;&#039;、入身技や一ヶ条(現・一教)、二ヶ条(現・二教)などを今日同様に教え、学んでいたという。」(出典:[[#戦後合気道群雄伝|『戦後合気道群雄伝』108頁]])。&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 「合気道」を名乗った経緯について、盛平は生前ラジオのインタビューの中で、[[文部省]]の「中村光太郎」という人物に勧められたからであると語っている。&lt;ref&gt;&#039;&#039;&#039;「合気道」を名乗った経緯&#039;&#039;&#039;…(植芝盛平ラジオインタビューより){{Quotation|<br /> (聞き手)合気道というお言葉は、どういうところからお付けになったのでございますか。<br /> <br /> &#039;&#039;&#039;盛平翁&#039;&#039;&#039; 付けたんじゃない。国のこれは至宝やからな、個人が勝手に付けるものじゃない。そこでほっといたらやな、文部省の中村光太郎さんの方から、合気道としたらどうだな、という相談があった。で、向こうから合気道とせよということだった。結構な話やから合気道にしようと、こういうことや。<br /> その後ですね、付けたものの合気道について、少し自分も調べてみなあいけない。|[[#植芝盛平と合気道1|『植芝盛平と合気道 1』255-256頁]]}}<br /> * 盛平の説く「合気道」の命名理由<br /> {{Quotation|「合気」という名は、昔からあるが、「合」は「愛」に通じるので、私は自分の会得した独特の道を「合気道」とよぶことにした。したがって、従来の武芸者が口にする合気と私の言う合気とはその内容が根本的に異るのである。|[[#合気道|『合気道』]]50頁}}なお吉祥丸によると、合気会認可の折に文部省の担当事務官・「中山甲子」の尽力があったと記している。(出典:[[#合気道一路|『合気道一路』]]100-101頁)<br /> &lt;/ref&gt;当時のGHQの武道禁止政策&lt;ref name=&quot;武道禁止政策&quot;/&gt;への対応としても、武術的な勇ましさを主張しない「合気道」という名称は好都合であった&lt;ref&gt;&#039;&#039;&#039;武道禁止策への対応&#039;&#039;&#039;…出典:[[#合気道教室|『合気道教室』18頁]]。&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> === 植芝系以外の主な合気道 ===<br /> *平井稔の[[光輪洞合気道]]<br /> *{{Anchor|通称|}}[[大東流]]などの一部で通称的に用いられているもの&lt;ref&gt;&#039;&#039;&#039;通称としての「合気道」&#039;&#039;&#039;…(例;[http://www.nhk-cul.co.jp/programs/program_435231.html 「合気道教室(大東流合気柔術)」]、[http://www.yume-dj.com/budou/budou.html 「合気道・居合道」]、[http://www.geocities.jp/daitouryuu_tokushima/sibu.htm 「○○女性合気道教室」「□□合気道倶楽部」])&lt;/ref&gt;。<br /> *[[武田流合気之術]]を受け継ぐとする、[[武田流中村派合気道]]、[[日本伝無限流合気道]]<br /> *[[大韓民国|韓国]]の[[ハプキドー]]([[漢字]]表記は「合気道」)<br /> <br /> == 脚注 ==<br /> {{脚注ヘルプ}}<br /> &lt;references/&gt;<br /> <br /> == 参考文献 ==<br /> * {{Anchor|ブリタニカ|}}『ブリタニカ国際大百科事典(4)』「格技-合気道([[富木謙治]])」 [[ティビーエス・ブリタニカ]]、1972年、{{NCID|BN01561461}}。<br /> * {{Anchor|武の真人|}}[[砂泊兼基]] 『武の真人 - 合気道開祖植芝盛平伝』 [[たま出版]]、1981年、ISBN 4884810708。<br /> * {{Anchor|美しくなるための合気道|}}[[西野晧三]]著・植芝吉祥丸監修 『由美かおる 美しくなるための合気道』 [[講談社]]、1983年、ISBN 9784062005340。<br /> * {{Anchor|禅と合気道|}}[[鎌田茂雄]]・[[清水健二]] 『禅と合気道』 [[人文書院]]、1984年、ISBN 9784409410196。<br /> * {{Anchor|合気道教室|}}[[志々田文明]]・[[成山哲郎]] 『合気道教室』 [[大修館書店]]〈スポーツVコース〉、1985年、ISBN 4469162884。<br /> * {{Anchor|武産合気|}}高橋英雄編著 『武産合気 - 植芝盛平先生口述』 [[白光真宏会|白光真宏会出版局]]、1986年、ISBN 4892140805。<br /> * {{Anchor|合気武道精髄|}}平子俊明 『合気武道精髄』 [[愛隆堂]]、1989年、ISBN 4750201936。<br /> * {{Anchor|武道(日本史小百科)|}}[[二木謙一]]・[[加藤寛(歴史学者)|加藤寛]]・[[入江康平]]編 『武道(日本史小百科)』 [[東京堂出版]]、1994年、ISBN 4490202318。<br /> * {{Anchor|合気道の心を求めて 1|}}[[砂泊かん秀|砂泊諴秀]] 『合気道の心を求めて 1―合気道開祖植芝盛平翁遺訓』 [[学燈社]]、1995年、ISBN 9784312102065。<br /> * {{Anchor|合気道一路|}}[[植芝吉祥丸]] 『合気道一路 - 戦後合気道発展への風と雲』 [[出版芸術社]]、1995年、ISBN 4882931079。<br /> * {{Anchor|心と剣|}}アンドレ・ノケ著、[[スタンレー・プラニン]]翻訳 『心と剣―写真とともに語る盛平合気道』 [[合気ニュース]]、1996年、ISBN 9784900586192。<br /> * {{Anchor|合気道人生|}}[[塩田剛三]] 『合気道人生』 [[竹内書店新社]]、1996年、ISBN 4803500118。<br /> * {{Anchor|合気道|}}植芝吉祥丸著・[[植芝盛平]]監修 『合気道-復刻版』 出版芸術社、1996年(1962年刊の復刻)、ISBN 4882931192。<br /> * {{Anchor|規範 合気道 基本編|}}植芝吉祥丸・[[植芝守央]] 『規範 合気道 基本編』 [[合気会]]、1997年、ISBN 4882931435。<br /> * {{Anchor|図解コーチ 合気道|}}植芝吉祥丸 『図解コーチ 合気道』 (スポーツシリーズ) [[成美堂出版]]、1998年、ISBN 4415007570。<br /> * {{Anchor|羽賀準一|}}[[堂本昭彦]] 『羽賀準一 剣道遺稿集―附伝記・日記』 [[島津書房]]、1999年、ISBN 978-4882180562。<br /> * {{Anchor|武道解説編|}}[[斉藤守弘]] 『武産合気道 別巻 植芝盛平翁の技術書武道解説編』 合気ニュース、1999年、ISBN 4900586560。<br /> * {{Anchor|植芝盛平伝|}}植芝吉祥丸著・植芝守央監修 『合気道開祖 植芝盛平伝』 出版芸術社、1999年、ISBN 4882931680。<br /> * {{Anchor|合気神髄|}}植芝吉祥丸監修 『合気神髄 - 合気道開祖・植芝盛平語録』 [[八幡書店]]、2002年、ISBN 4893503820。<br /> * {{Anchor|武田惣角と大東流|}}合気ニュース編集部編 『武田惣角と大東流合気柔術 改訂版』 合気ニュース、2002年、ISBN 4900586692。<br /> * {{Anchor|合氣道で悟る|}}砂泊諴秀 『合氣道で悟る』 たま出版、2002年、ISBN 4812700523。<br /> * {{Anchor|合気道 武道化への道|}}萩原俊明 『合気道 武道化への道』 愛隆堂、2003年、ISBN 4750202606。<br /> * {{Anchor|許す武道|}}[[西尾昭二]] 『許す武道 - 合気道 - 入身一足の理合』 どう出版、2004年、ISBN 4900586293。<br /> * {{Anchor|力のない者の合気道|}}上和田 義秋 『力のない者の合気道』 新風舎、 2004年、ISBN 479744178X。<br /> * {{Anchor|「技」と「言葉」に秘められた精神世界|}}[[大宮司朗]] 『開祖 植芝盛平の合気道-「技」と「言葉」に秘められた精神世界』 [[柏書房]]、2005年、ISBN 4760127003。<br /> * {{Anchor|氣の確立|}}[[藤平光一]] 『中村天風と植芝盛平 氣の確立』 [[幻冬舎]]〈幻冬舎文庫〉、2005年、ISBN 4344406621。<br /> * {{Anchor|合気道修行|}}塩田剛三  『合気道修行―対すれば相和す』 2006年、[[竹内書店新社]]、1997年、ISBN 9784803500424。<br /> * {{Anchor|植芝盛平と合気道1|}}合気ニュース編集部編 『決定版 植芝盛平と合気道1-開祖を語る直弟子たち』 [[合気ニュース|どう出版]]、2006年、ISBN 4900586811。<br /> * {{Anchor|植芝盛平と合気道2|}}合気ニュース編集部編 『決定版 植芝盛平と合気道2-開祖を語る直弟子たち』 どう出版、2006年、ISBN 4900586838。<br /> * {{Anchor|古事記と植芝盛平|}}[[清水豊 (武術研究家)|清水豊]] 『古事記と植芝盛平―合気道の神道世界』 [[ビイングネットプレス]]、2006年、ISBN 978-4434082559。<br /> * {{Anchor|神話世界と合気道|}}清水豊 『植芝盛平の武産合気 - 神話世界と合気道』 [[柏書房]]〈柏武術叢書〉、2006年、ISBN 4760129464。<br /> * {{Anchor|身体づかいの「理」を究める|}}[[佐原文東]] 『DVDで見て、学ぶ 身体づかいの「理」を究める!実践合気道入門』 [[永岡書店]]、2007年、ISBN 4522424310。<br /> * {{Anchor|武道vs.物理学|}}[[保江邦夫]] 『武道vs.物理学』 [[講談社]]〈講談社プラスアルファ新書〉、2007年、ISBN 4062724758。<br /> * {{Anchor|心身一如の身体づくり|}}[[原尻英樹]] 『心身一如の身体づくり 武道、そして和する合気、その原理・歴史・教育』 [[勉誠出版]]、2008年、ISBN 978-4585054016。<br /> * {{Anchor|神仙道|}}清水豊 『神仙道と植芝盛平―合気道と太極拳をつなぐ道教世界』 ビイングネットプレス、2008年、ISBN 978-4904117040。<br /> * {{Anchor|合気開眼|}}保江邦夫 『合気開眼 - ある隠遁者の教え』 [[海鳴社]]、2008年、ISBN 4875252471。<br /> * {{Anchor|戦後合気道群雄伝|}}[[加来耕三]] 『戦後合気道群雄伝』 出版芸術社、2008年、ISBN 9784882933465。<br /> * {{Anchor|合気道パーフェクトマスター|}}[[植芝守央]] 『合気道パーフェクトマスター』〈スポーツ・ステップアップDVDシリーズ) [[新星出版社]]、2009年、ISBN 4405086435。<br /> * {{Anchor|開祖の横顔|}}月刊秘伝編集部編 『開祖の横顔 - 14人の直弟子が語る合気道創始者・植芝盛平の言葉と姿』 [[BABジャパン]] 2009年、ISBN 4862204317。<br /> * {{Anchor|「抜き」と「呼吸力」の極意|}}[[井上強一]] 『合気道 「抜き」と「呼吸力」の極意―相手を無力化する神秘の科学』&lt;BUDO‐RA BOOKS&gt; [[東邦出版]]、2009年、ISBN 9784809408076。<br /> * {{Anchor|物理学で合気に迫る|}}保江邦夫 『物理学で合気に迫る 身体「崩し」の構造』 [[BABジャパン]]、2011年、ISBN 9784862205841。<br /> * {{Anchor|むすびの武術|}}清水豊 『「むすび」の武術と植芝盛平―合気道・太極拳・八卦拳』 ビイングネットプレス、2011年、ISBN 9784904117699。<br /> <br /> == 関連項目 ==<br /> {{commons&amp;cat|Aikido|Aikido}}<br /> * [[格闘技]]<br /> * [[護身術]]<br /> * [[合気]]<br /> * [[気]]<br /> * [[合気ニュース]]<br /> * [[月刊秘伝]]<br /> <br /> == 外部リンク ==<br /> * [http://www.aikikai.or.jp/ 公益財団法人合気会]<br /> * [http://iwamashinshinaikido.com/ja/ 岩間神信合氣修練会]<br /> &lt;!--* [http://www.choujintairiku.com/aiki/next.html 合気会師範による技の解説実演動画集] --&gt;<br /> * [http://www.aikido-international.org/ 国際合気道連盟(IAF)]<br /> <br /> {{武道・武術}}<br /> {{日本関連の項目}}<br /> {{Authority control}}<br /> <br /> {{DEFAULTSORT:あいきとう}}<br /> [[Category:合気道|*]]</div> 219.96.7.204 しかと 2018-08-30T14:31:40Z <p>219.96.7.204: /* 関連項目 */</p> <hr /> <div>{{字引|date=2009年12月10日 (木) 14:36 (UTC)}}<br /> [[ファイル:Hanafuda 10-4.svg|thumb|100px|語源となった「紅葉に鹿」]]<br /> &#039;&#039;&#039;しかと&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;シカト&#039;&#039;&#039;とは、特定の対象(主に人&lt;ref&gt;たとえば「信号をしかとする」といった用い方はされない。&lt;/ref&gt;)を[[無視]]することを指す[[ヤクザ]]の[[隠語]]。一般の人間にも使用されている。<br /> <br /> == 語源 ==<br /> [[花札#絵柄|花札]]で10月(紅葉)の10点札が、そっぽを向いた鹿の絵柄であることに由来する&lt;ref&gt;[[広辞苑]]第六版 「しかと」&lt;/ref&gt;。この事から転じて、[[博徒]]の間で無視の隠語となった。<br /> <br /> == 脚注 ==<br /> &lt;references /&gt;<br /> <br /> == 関連項目 ==<br /> * [[いじめ]]<br /> * [[ネグレクト]]<br /> * [[村八分]]<br /> * [[やくざ]]<br /> <br /> {{嫌がらせ}}<br /> <br /> [[Category:日本のいじめ]]<br /> [[Category:差別]]<br /> [[Category:花札]]<br /> [[Category:ヤクザ|*しかと]]</div> 219.96.7.204 骨法 (隠し武器術) 2018-08-30T14:18:10Z <p>219.96.7.204: </p> <hr /> <div>{{出典の明記|date=2018年8月}}<br /> &#039;&#039;&#039;骨法&#039;&#039;&#039;(こっぽう)とは、[[メリケンサック]]状の隠し武器を用いて[[当身技|当身]]を行う日本の伝統武術。「&#039;&#039;&#039;強法&#039;&#039;&#039;」とも呼ばれる。<br /> <br /> [[尾張]]の佐々木大学が考案したとされる。佐々木は、[[捕手術]]で自分より強い者を捕らえる場合にどうするかを考え、隠し武器を用いて当身の威力を高めることを考案し、[[一条不二流|一条不二流骨法]]を開いた。<br /> <br /> {{武道・武術}}<br /> {{Japan-culture-stub}}<br /> {{DEFAULTSORT:こつほう}}<br /> [[Category:骨法 (隠し武器術)|*]]<br /> [[Category:柔術]]</div> 219.96.7.204 category:ビールベースのカクテル 2018-08-29T14:01:51Z <p>219.96.7.204: </p> <hr /> <div>&lt;div class=&quot;pathnavbox&quot;&gt;<br /> * {{Pathnav|主要カテゴリ|…|食文化|食品|飲料|酒|カクテル}}<br /> * {{Pathnav|主要カテゴリ|…|食文化|食品|飲料|酒|醸造酒|ビール}}<br /> &lt;/div&gt;<br /> {{ウィキプロジェクトリンク|酒|[[画像:Drinking Bacchus WGAREG001.jpg|34px|ウィキプロジェクト 酒]]}}<br /> {{Commonscat|Cocktails with beer}}<br /> &#039;&#039;&#039;[[ビール]]をベースとした[[カクテル]]&#039;&#039;&#039;のカテゴリ。<br /> <br /> {{DEFAULTSORT:ひいるへすのかくてる}}<br /> [[Category:カクテル]]<br /> [[Category:ビール|かくてる]]</div> 219.96.7.204 片手軍刀術 2018-08-29T03:26:05Z <p>219.96.7.204: /* 注釈 */</p> <hr /> <div>&#039;&#039;&#039;片手軍刀術&#039;&#039;&#039;(かたてぐんとうじゅつ)とは、旧[[日本陸軍]]が制定した[[軍刀]]を使う[[戦闘技術|戦技]]。後に[[両手軍刀術]]も制定された。<br /> <br /> == 歴史 ==<br /> === フランス式剣術採用期(明治22年版「剣術教範」) ===<br /> [[大日本帝国陸軍]]発足後の[[1874年]]([[明治]]7年)に[[フランス陸軍]]から[[体操]]教官として招聘されたジュクロー歩兵[[軍曹]]&lt;ref&gt;久保武郎「剣術教範にみる軍刀術教育の変遷-1- 片手軍刀術」では、「ヂュクロー」と表記されている。&lt;/ref&gt;が、体操教育の傍ら教官や助教に「フランス式剣術」を教育したが、ジュクロー軍曹は剣術や銃剣術は専門外であったため、この時点ではフランス式剣術はあまり定着しなかった。この間、[[将校]]は日本の伝統的な[[剣術]]を自主的に錬磨し、[[1875年]](明治8年)に軍刀が[[サーベル]]様式に定められても、これは変わらなかった。<br /> <br /> [[1884年]](明治17年)、[[陸軍戸山学校]]にフランス陸軍からド・ラビレー歩兵[[中尉]]とキエール砲兵軍曹を教官として招聘し、正剣術([[フェンシング]]の[[フェンシング#フルーレ|フルーレ]]に相当)、軍刀術(フェンシングの[[フェンシング#サーブル|サーブル]]に相当)、フランス式の銃剣術が本格的に[[戦闘技術|戦技]]として指導・研究された。ド・ラビレー中尉はフランス式剣術・銃剣術の教育を徹底するために、[[陸軍省|陸軍卿代理]]・[[西郷従道]]に日本式剣・[[槍術]]の訓練の廃止を建言した。これにより陸軍では日本式剣術・槍術が疎んじられるようになった。<br /> <br /> [[1887年]](明治20年)のフランス人教官の帰国後、[[1889年]](明治22年)、「陸軍剣術教範」が制定・発布されたが、その内容はフランス陸軍の教範の翻訳であった。なお、武道史研究者の[[中村民雄 (体育学者)|中村民雄]]によれば、このとき「[[防具 (剣道)|防具]]」という語が初めて使われたという&lt;ref&gt;[http://www2.educ.fukushima-u.ac.jp/~kuro/nakamura/kendo001.html#go 防具(剣道具)の歴史(上) 中村 民雄 語の由来]&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> === 日本式軍刀術の制定(明治27年版「剣術教範」) ===<br /> 1887年(明治20年)にフランス人教官が帰国すると、フランス式の剣術や銃剣術を取りやめ、日本の伝統的な[[剣術]]や[[槍術]]を元にした独自の軍刀術や銃剣術を制定する気運が高まった。「陸軍剣術教範」制定後の[[1890年]](明治23年)6月に戸山学校長に着任した[[大久保春野]][[大佐]]は、フランス式剣術・銃剣術の廃止と日本式軍刀術・銃剣術の制定を決定し、軍刀術や銃剣術の研究に着手した。<br /> <br /> [[1892年]](明治25年)、剣術家([[津田一伝流]]第2世)でもある[[津田教修]][[大尉]]が戸山学校体操科長に着任したことにより、さらに研究が進み、フランス式剣術は攻撃精神の養成に不十分であり、[[日本人]]の体格にも適さないとして、[[1894年]](明治27年)に日本の伝統的な剣術をもとにした片手軍刀術を制定し、訓練には片手軍刀術用[[竹刀]](全長約94[[センチメートル|cm]]、柄長約21cm、重量約370[[グラム|g]])と[[防具 (剣道)|剣道の防具]]を用いることとし、剣術教範を改定した。<br /> <br /> 日本式軍刀術の制定にあたり、両手で扱う内容に改める案もあったが、当時の制式軍刀が片手で扱うサーベル様式であったことと、当時はまだ陸軍内にフランス式剣術の信奉者が多かったことから、片手で扱う内容のままとなった。<br /> <br /> === 片手軍刀術の改良(明治40年版「剣術教範」) ===<br /> [[日露戦争]]の戦訓から、[[火力 (軍事)|火力]]のみでは勝敗を決することはできず、[[白兵戦|白兵]]突撃が必要とされるようになり、軍刀術が重視されるようになった。このような中、片手軍刀術に改良が加えられ、[[1907年]](明治40年)に剣術教範が改定された。<br /> <br /> === 両手軍刀術の制定(大正4年版「剣術教範」) ===<br /> 片手軍刀術の制定当時から、軍刀術を日本古来の剣術と同じく両手で扱う内容に改めるべきという意見があったが、[[1915年]]([[大正]]4年)の「剣術教範」の改正で[[両手軍刀術]]が制定された。これにより、片手軍刀術は[[騎兵]]科のみで訓練されるようになった。<br /> <br /> == 脚注 ==<br /> &lt;references/&gt;<br /> <br /> == 参考文献 ==<br /> *日本武道館『日本の武道』 [[日本武道館]] 2007年<br /> *{{Cite journal ja-jp|author=久保武郎|date=1987-03|title=剣術教範にみる軍刀術教育の変遷-1-片手軍刀術|url=http://ci.nii.ac.jp/naid/40004573639|journal=[[防衛大学校]][[紀要]]|serial=54輯 人文科学分冊|publisher=防衛大学校|issn=0911-9019|naid=40004573639|pages=175-194}}<br /> *{{Cite journal ja-jp|author=久保武郎|date=1990-03|title=剣術教範にみる軍刀術教育の変遷-2-両手軍刀術|url=http://ci.nii.ac.jp/naid/40004573484|journal=防衛大学校紀要|serial=60輯 社会科学分冊|publisher=防衛大学校|issn=0911-9000|naid=40004573484|pages=67-88}}<br /> <br /> == 関連項目 ==<br /> *[[銃剣道]]<br /> *[[短剣道]]<br /> *[[振気流]]<br /> *[[戸山流]]<br /> *[[警視流]]<br /> *[[近接格闘術]]<br /> <br /> {{武道・武術}}<br /> <br /> {{DEFAULTSORT:かたてくんとうしゆつ}}<br /> [[Category:剣道]]<br /> [[Category:剣術]]<br /> [[Category:明治以降に創始された日本武術の流派]]<br /> [[Category:大日本帝国陸軍]]</div> 219.96.7.204 両手軍刀術 2018-08-29T03:25:35Z <p>219.96.7.204: </p> <hr /> <div>&#039;&#039;&#039;両手軍刀術&#039;&#039;&#039;(りょうてぐんとうじゅつ)とは、旧[[日本陸軍]]が制定した[[軍刀]]を使う[[戦闘技術|戦技]]。<br /> <br /> == 歴史 ==<br /> === 両手軍刀術の制定(大正4年版「剣術教範」) ===<br /> [[1894年]]([[明治]]27年)、[[陸軍戸山学校]]において、それまで行われていた[[フランス]]式剣術を廃し、日本の伝統的な[[剣術]]をもとにした[[片手軍刀術]]を制定した。しかし、当時の制式軍刀が片手で扱う[[サーベル]]様式であったことなどから、片手で扱う内容のままだった。<br /> <br /> 軍刀術を日本古来の剣術と同じく両手で扱う内容に改めるべきという意見が片手軍刀術の制定当時からあったが、なかなか実現しなかった。<br /> <br /> [[1912年]]([[大正]]元年)、戸山学校長・林二輔[[中佐]]は両手軍刀術の制定を決めた。しかし[[剣道]]や伝統的な剣術には道場でしか通用しない非実戦的な技法もあるため軍刀術としての要求に合致しないとして、学生隊長・二宮久二を主任として教官や長期学生に両手軍刀術の研究をさせた。<br /> <br /> [[1915年]](大正4年)の「陸軍剣術教範」の改正で両手軍刀術が制定された。これにより、従来の片手軍刀術は[[騎兵]]科のみで訓練されるようになった。<br /> <br /> [[1916年]](大正5年)、全国の[[連隊]]・[[大隊]]から各1名の[[士官]]学生を戸山学校に入校させ、両手軍刀術の教育が実施され、以降、毎年実施された。<br /> <br /> また、戸山学校の剣術科教官・助教を[[京都]]の[[武道専門学校]]に派遣して修業させ、[[梅川巳之四郎]]・[[小沢愛次郎]]・[[斎村五郎]]・[[大島治喜太]]ら高名な剣道家を嘱託として戸山学校に招聘し、教官・助教の研修を毎週1回行った。<br /> <br /> === 短期教育化(昭和9年版「剣術教範」) ===<br /> 在営年限の短縮や軍隊教育の科目の増加により、軍刀術を短期教育化する必要が出てきた。<br /> <br /> これに対応するため、[[1934年]]([[昭和]]9年)、主に戦場実技に重点を置くことで短期教育化した内容に「剣術教範」が改正された。<br /> <br /> 短期教育化による練度の低下を避けるため、応用教育を充実させることで練度の維持を図った。応用教育は対銃・対短剣などの異種白兵剣術、突進しての連続斬突や不整地やガス散布下や対多数などの状況を想定した格闘訓練、夜間に訓練を行う夜間剣術があった。<br /> <br /> === さらなる短期速成教育化(「短期錬成教育軍刀(一撃必殺)訓練要綱」) ===<br /> 戦争が継続している状況のため、剣術の経験が無い者に対して短期速成的に軍刀の基礎的な斬撃刺突方法を教育する必要が出てきた。<br /> <br /> これに対応するため、戸山学校では「剣術教範」とは別に[[1941年]]([[昭和]]16年)に「短期錬成教育軍刀(一撃必殺)訓練要綱」を作成した。<br /> <br /> その内容は、両手正面斬撃・両手刺突・両手左斜斬撃(左袈裟斬り)を、その場斬撃・数歩前進斬撃・数歩疾走斬撃・10mないし20m疾走斬撃に限定して行うものであった。<br /> <br /> == 技法 ==<br /> 大正4年版「陸軍剣術教範」での両手軍刀術を、剣道との比較を中心に記す。括弧内は剣道での用語である。<br /> <br /> ;両手軍刀術用[[竹刀]]<br /> :長さは刀身2[[尺]]6[[寸]](約78.8[[センチメートル|cm]])・柄1尺2寸(約36.4cm)&lt;ref&gt;全長3[[尺]]8[[寸]](約1[[メートル|m]]15cm)となり、[[大日本武徳会]]で定められた剣道用竹刀と同じ長さである。&lt;/ref&gt;。<br /> ;提刀<br /> :刃部を下にして竹刀を提げる。剣道とは逆に刃部を下にしているのは軍刀の佩用を想定しているためである。<br /> ;構刀(構え)<br /> :剣道の[[五行の構え#中段の構え|正眼の構え]]とほぼ同じだが、刀先を相手の目に向ける。<br /> ;斬撃部・刺突部([[打突]]部位)<br /> :剣道よりも少なく、斬撃部は面・前臂(右小手)・右胴&lt;ref&gt;教範には右胴しか記されていないが、これは右胴に習熟すると左胴も容易に斬れるということからである。&lt;/ref&gt;、刺突部は喉のみ。<br /> ;返撃突(返し技)<br /> :剣道には多彩な返し技があるが、両手軍刀術では次の4種のみ訓練された。<br /> :*面の返撃(面すりあげ面)<br /> :*前臂の返撃(小手打ち落とし面)<br /> :*胴の返撃(胴打ち落とし面)<br /> :*突の返突(突なやし突)<br /> :<br /> ;連続斬撃(面の連続打ち)<br /> :{{節スタブ}}<br /> ;試合教習(かかり稽古)<br /> :剣道でいうかかり稽古のことで、試合の要領を修得するために習技者の技量に応じて段階的に行った。<br /> :この段階で、打撃・押圧を加えて行う撃突(払い技)や前臂・面を斬ると見せかけて行う撃突などを学んだ。<br /> <br /> == 脚注 ==<br /> {{Reflist}}<br /> <br /> == 参考文献 ==<br /> *{{Cite journal ja-jp|author=久保武郎|date=1987-03|title=剣術教範にみる軍刀術教育の変遷-1-片手軍刀術|url=http://ci.nii.ac.jp/naid/40004573639|journal=防衛大学校紀要|serial=54輯 人文科学分冊|publisher=防衛大学校|issn=0911-9019|naid=40004573639|pages=175-194}}<br /> *{{Cite journal ja-jp|author=久保武郎|date=1990-03|title=剣術教範にみる軍刀術教育の変遷-2-両手軍刀術|url=http://ci.nii.ac.jp/naid/40004573484|journal=防衛大学校紀要|serial=60輯 社会科学分冊|publisher=防衛大学校|issn=0911-9000|naid=40004573484|pages=67-88}}<br /> <br /> == 関連項目 ==<br /> *[[片手軍刀術]]<br /> *[[銃剣道]]<br /> *[[短剣道]]<br /> *[[振気流]]<br /> *[[戸山流]]<br /> *[[警視流]]<br /> *[[近接格闘術]]<br /> <br /> {{武道・武術}}<br /> <br /> {{DEFAULTSORT:りようてくんとうしゆつ}}<br /> [[Category:剣道]]<br /> [[Category:剣術]]<br /> [[Category:明治以降に創始された日本武術の流派]]<br /> [[Category:大日本帝国陸軍]]</div> 219.96.7.204 警視流 2018-08-28T14:10:19Z <p>219.96.7.204: /* 関連項目 */</p> <hr /> <div>&#039;&#039;&#039;警視流&#039;&#039;&#039;(けいしりゅう)は、[[明治]]10年代に[[警視庁 (内務省)|警視庁]]で制定された[[古武道|武術]]の[[形稽古|形]]。<br /> <br /> &#039;&#039;&#039;木太刀形&#039;&#039;&#039;([[剣術|撃剣]]形)、&#039;&#039;&#039;[[抜刀術|立居合]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[柔術]]&#039;&#039;&#039;(警視拳法)からなっていたが、[[警視庁|現在の警視庁]]では木太刀形と立居合のみが伝承されている。<br /> <br /> == 制定の経緯 ==<br /> [[ファイル:警視庁武術世話掛.jpg|thumb|300px|明治21年([[1888年]])頃の[[警視庁武術世話掛]]]]<br /> [[明治]]10年([[1877年]])に起きた[[西南戦争]]での[[警視隊]][[抜刀隊]]の活躍によって、[[剣術]]の有用性が再認識され、[[警視総監|大警視]][[川路利良]]は『撃剣再興論』を著し警察において剣術を奨励する意向を明らかにした。<br /> <br /> 明治12年([[1879年]])、[[巡査教習所]]に[[道場]]が設けられ、[[桃井春蔵]]と[[榊原鍵吉]]の審査を経て、[[警視庁武術世話掛|撃剣世話掛]]として[[梶川義正]]、[[上田馬之助]]、[[逸見宗助]]が最初に登用された。その後も[[真貝忠篤]]、[[下江秀太郎]]、[[得能関四郎]]、[[三橋鑑一郎]]、[[坂部大作]]、[[柴田衛守]]など剣客が続々と採用された。<br /> <br /> この世話掛たちの出身[[流派]]がまちまちな状況であったことから、指導方法を統一するために、各流派の技を選り抜き「警視庁流」が制定された。明治19年([[1886年]])の[[弥生慰霊祭記念柔道剣道試合|弥生祭武術大会]]の席上で発表されたという。<br /> <br /> [[制服|洋装]][[サーベル|帯剣]]の[[日本の警察官|警察官]]の進退に適するように制定されたためか、各流派の[[宗家]]が伝える形とは動作が異なる部分もある。<br /> <br /> == 警視流木太刀形 ==<br /> [[剣術]]10流派から1本ずつ技を採用して構成されている。諸流派を統合した形という点で[[日本剣道形]]の先駆けといえる{{refnest|group=注釈|警視流を学んだ人物が多く剣道形制定委員を務めている。}}。[[太平洋戦争]]前には[[剣道]]の教本に掲載されることもあり、[[中山博道]]のように積極的に修練する剣道家もいた。現在も警視庁の剣道家によって伝承されている。<br /> <br /> 脛斬りに対する応じ方(八相)や[[肘打ち]](阿吽)など、日本剣道形には見られない技法も含まれている。[[礼式|礼法]]や[[木刀|木太刀]]も日本剣道形とは異なり、古式の形態を残している。木太刀は全長3[[尺]]3[[寸]](約1[[メートル|m]])で刃長2尺4寸(約73[[センチメートル|cm]])、柄9寸(約27cm)、刀身部の断面の形状は[[蛤刃]]と定められており、写しが市販されている。<br /> <br /> (流派名は警視流の表記に従う)<br /> #八相([[直心影流剣術|直心影流]])<br /> #変化([[将監鞍馬流|鞍馬流]])<br /> #八天切([[堤宝山流]])<br /> #巻落([[立身流]])<br /> #下段の突([[北辰一刀流]])<br /> #阿吽([[浅山一伝流]])<br /> #一二の太刀([[示現流]])<br /> #打落([[神道無念流]])<br /> #破折([[柳生流]])<br /> #位詰([[鏡新明智流|鏡心明智流]])<br /> <br /> === 撃剣級位 ===<br /> {{main|剣道の段級位制#警視庁}}<br /> <br /> == 警視流立居合 ==<br /> [[抜刀術|居合]]5流派から1本ずつ技を採用して構成されている。[[座法|座位]]の技はなく、すべて立ち技である。現在も警視庁居合同好会{{refnest|group=注釈|[[昭和]]44年([[1969年]])に当時の警視庁[[刑事部]]長[[土田國保]]が中心となって発足した[[同好会]]。[[平成]]24年([[2012年]])現在、警視庁職員、[[OB・OG|OB]]、外部からの参加者によって組織され、週に一度、警視庁本部道場で朝稽古が行われている&lt;ref&gt;『[[剣道日本|月刊剣道日本]]』2012年11月号116-117頁、スキージャーナル&lt;/ref&gt;。}}に伝承されている。一部の民間道場でも稽古されている。<br /> <br /> #前腰([[浅山一伝流]])<br /> #無双返し([[神道無念流]])<br /> #回り掛け([[田宮流]])<br /> #右の敵([[鏡新明智流|鏡心明智流]])<br /> #四方([[立身流]])<br /> <br /> == 警視流柔術形 ==<br /> [[警視庁武術世話掛#柔術世話掛|柔術世話掛]]も設置された。[[柔術]]16本、[[捕縄術|早捕]]法7種からなる。<br /> <br /> 柔術は木太刀形、立居合のように各流1本ずつではなく、14流派と諸流併合した技16本で構成されていた。早捕には技の名前が付けられていない。似た技が複数あるなど、木太刀形、立居合に比べると余り整理されていない内容に思われる。柔術形は、警視庁で[[柔道|講道館柔道]]が採用されたことによって、最も早く指導されなくなった。<br /> <br /> (木太刀形、立居合と異なり、元になった流派名を並記する規定はないが、元流派も記す)<br /> *柄取:[[天神真楊流]]と[[真蔭流]]より<br /> *柄止:[[渋川流]]より<br /> *柄搦:[[立身流]]より<br /> *見合取:[[戸田流]]と[[気楽流]]より<br /> *片手胸取:[[荒木新流]]より<br /> *腕止メ:[[起倒流]]より<br /> *襟投:[[渋川流]]と[[天神真楊流]]より<br /> *摺込:[[無双流]]と[[清水流]]より<br /> *敵ノ先:[[心明殺活流|神明殺活流]]より<br /> *帯引:[[良移心当流|良移心頭流]]より<br /> *行連レ 左上頭:[[殺当流]]より<br /> *行連レ 右突込:各流合併<br /> *行連レ 左右腰投:[[渋川流]]「四方組」より<br /> *行連レ 右壁副:[[揚心流]]より<br /> *行連レ 後捕:各流合併<br /> *陽ノ離レ:[[扱心流]]の同名の技より<br /> <br /> === 早捕 ===<br /> *鈎縄<br /> *捕縄:各流合併<br /> *捕縄:[[立身流]]より<br /> *早縄:[[関口新心流|関口流]]より<br /> *早縄(五寸縄):[[水野流]]より<br /> *早縄(七寸縄)<br /> *手錠縄<br /> <br /> == 脚注 ==<br /> === 注釈 ===<br /> {{reflist|group=&quot;注釈&quot;}}<br /> === 出典 ===<br /> {{reflist}}<br /> <br /> == 参考文献 ==<br /> *[[警視庁]][[警務部]]教養課編『警視庁武道九十年史』([[1965年]])<br /> *[[庄子宗光]]『剣道百年』、[[時事通信社]]<br /> *[[戸部新十郎]]『明治剣客伝 日本剣豪譚』、[[光文社文庫|光文社]]<br /> *『[[剣道日本|月刊剣道日本]]』1999年8月号 特集 古流を遣う〈前編〉、スキージャーナル<br /> *『月刊剣道日本』1999年9月号 特集 古流を遣う〈後編〉、スキージャーナル<br /> *『月刊剣道日本』2012年11月号 連載 刀に夢中【5】警視庁居合同好会、スキージャーナル<br /> *中井憲治『[http://ci.nii.ac.jp/naid/110009457913 警視流立居合に関する研究]』、[[仙台大学]][[紀要]]([[2012年]]9月)<br /> *[[木下寿徳]]著『[{{NDLDC|949379/124}} 剣法至極詳伝]』、武道奨励会([[1913年]])<br /> *久富鉄太郎著『[{{NDLDC|859946}} 拳法図解]』、須原鉄二([[1888年]]1月)<br /> *井口松之助編『[{{NDLDC|860053}} 早縄活法 柔術練習図解 一名警視拳法]』、岡島屋([[1899年]]6月)<br /> <br /> == 関連項目 ==<br /> *[[逮捕術]]<br /> *[[近接格闘術]]<br /> *[[片手軍刀術]]<br /> *[[両手軍刀術]]<br /> *[[戸山流]]<br /> *[[海軍高山流抜刀術|高山流]]<br /> <br /> {{武道・武術}}<br /> {{戦前の日本警察}}<br /> <br /> {{DEFAULTSORT:けいしりゆう}}<br /> [[Category:日本武術の流派]]<br /> [[Category:剣術流派]]<br /> [[Category:剣道]]<br /> [[Category:居合]]<br /> [[Category:柔術の流派]]<br /> [[Category:明治以降に創始された日本武術の流派]]<br /> [[Category:戦前の日本警察]]<br /> [[Category:警視庁]]</div> 219.96.7.204 鳥山石燕 2018-08-25T02:08:36Z <p>219.96.7.204: </p> <hr /> <div>[[ファイル:Kappa jap myth.jpg|thumb|240px|○[[河童]](かっぱ) 川太郎ともいふ&lt;br /&gt;『[[画図百鬼夜行]]』の内、一図「河童」&lt;br /&gt;[[ハス|蓮]]池の茂みから現れ出でた河童を描く。]]<br /> &#039;&#039;&#039;鳥山 石燕&#039;&#039;&#039;(とりやま せきえん、[[正徳 (日本)|正徳]]2年([[1712年]]&lt;ref&gt;生年は正徳4年([[1714年]]))ともいわれる。&lt;/ref&gt;) - [[天明]]8年[[8月23日 (旧暦)|8月23日]]([[1788年]][[9月22日]])は、[[江戸時代]]中期の[[画家]]、[[浮世絵|浮世絵師]]&lt;!--WP:POV--&gt;。[[妖怪]]画を多く描いたことで知られる。<br /> <br /> == 生涯 ==<br /> 正徳2年(1712年)頃に誕生。[[姓]]は佐野(さの)、[[諱]]は豊房(とよふさ)。[[字]]は詳らかでない。船月堂、零陵洞、玉樹軒、月窓と号す。<br /> <br /> [[狩野派]][[門人]]として[[狩野周信]](かのう ちかのぶ。[[狩野派#江戸時代中期以降|cf.]])および玉燕に付いて[[絵画|絵]]を学んだといい、[[御用絵師]]であったと伝わるが詳しい事蹟は不明な点も多い。[[俳諧]]は東流斎燕志の門人であったとされる。<br /> <br /> 画業としては肉筆作品(美人画など)や鬼子母神([[東京都]][[雑司ヶ谷]])の『大森彦七図』、円融寺([[埼玉県]][[秩父市]])の『[[平景清|景清]]牢破りの図』などの奉納額が主なものであったと見られている。奉納額の絵に歌舞伎役者の似顔を用いたことで評判をあつめたという。浮世絵師のひとりと目されているが美人画や役者絵として版行された[[錦絵]]作品(一枚絵)はほとんど確認されておらず、版本としての作品が多い。浮世絵版画に用いられる「拭きぼかし」の技法を発明し版本にはじめて利用したのは石燕の画集『鳥山彦』(『石燕画譜』とも・1774年)であると伝えられている。俳人としても広く活動しており、そのあつまりの句集に句や絵を寄せている。<br /> <br /> 弟子は多く著名な人物では、[[喜多川歌麿]]や[[恋川春町]]、[[栄松斎長喜]]、[[歌川豊春]]などを育てており、のちにそれぞれ浮世絵師・戯作者などとして大きく成長している。<br /> <br /> [[安永]]5年([[1776年]])に版本として刊行された妖怪画集『[[画図百鬼夜行]]』が高評を得て、3年後の安永8年(1779年)には続篇として『[[今昔画図続百鬼]]』を刊行。以後さらに安永10年([[1780年]])には『[[今昔百鬼拾遺]]』を、[[天明]]4年([[1784年]])には『[[百器徒然袋]]』を世に出した。<br /> <br /> 天明8年(1788年)、死去。墓所は台東区元浅草の光明寺。法名は画照院月窓石燕居士。<br /> <br /> == 妖怪画 ==<br /> 鳥山石燕は壮年以後に出版された『画図百鬼夜行』をはじめとする版本で特にその名を知られており、彼の代表作であるといえる。石燕の描く妖怪画は、後年[[葛飾北斎]]や[[歌川豊国]]・[[歌川豊広]]が[[合巻]]や[[読本]]などで描いている恐怖心や嗜虐性をいたずらにかきたてる種類のものではなく、『[[百鬼夜行絵巻]]』などの[[妖怪絵巻]]や[[草双紙|赤本]]の「化物づくし」などに見られてきた、むしろ微笑みや奇妙さを誘う作風であるのが特徴である。<br /> <br /> 石燕の妖怪画は後世の画家たちにも多くの影響を与えており、石燕による作品がそのまま「妖怪」そのものを示すデザインとして用いられたりすることも多い。現代の日本あるいは日本人のもつ妖怪のイメージは漫画家・[[水木しげる]]に拠るところも大きいが、水木による妖怪画も石燕作品に取材したものが多く、日本人の思い描く妖怪の一角は石燕の著作によって大きく占められているといっても過言ではない。<br /> <br /> == 脚注 ==<br /> {{Reflist}}<br /> <br /> == 参考文献 ==<br /> * {{Cite book<br /> |和書<br /> |author= [[吉田漱]]<br /> |title= 浮世絵の見方事典<br /> |year= 1987<br /> |publisher= 北辰堂<br /> |series= <br /> |isbn= 4-89287-152-4<br /> }}<br /> * {{Cite book<br /> |和書<br /> |author= [[高田衛]] 監修、[[稲田篤信]]・田中直日 編<br /> |title= 鳥山石燕 画図百鬼夜行<br /> |year= 1992<br /> |publisher= [[国書刊行会]]<br /> |isbn= 4-336-03386-2<br /> }}<br /> * {{Cite book<br /> |和書<br /> |author= [[荒俣宏]]・[[水木しげる]]・[[京極夏彦]]ほか<br /> |title= [[怪 (ムック)|怪]] vol.0018<br /> |year= 2005<br /> |publisher= 角川書店<br /> |isbn= 4-04-883912-8-C9495<br /> }}<br /> * {{Cite book<br /> |和書<br /> |author= 鳥山石燕<br /> |title= 鳥山石燕 [[画図百鬼夜行]]全画集<br /> |year= 2005<br /> |publisher= [[角川書店]]<br /> |series= [[角川ソフィア文庫]]<br /> |isbn= 978-4-04-405101-3<br /> }}<br /> <br /> == 関連項目 ==<br /> {{Commonscat|Toriyama Sekien}}<br /> * [[浮世絵#代表的な浮世絵師]]<br /> * [[浮世絵師一覧]]<br /> * [[肉筆浮世絵]]<br /> <br /> == 外部リンク ==<br /> * [http://www.repository.lib.tmu.ac.jp/dspace/bitstream/10748/5200/1/10410-001.pdf 石燕妖怪画私注(近藤瑞木)]<br /> <br /> {{DEFAULTSORT:とりやま せきえん}}<br /> [[Category:浮世絵師]]<br /> [[Category:18世紀の美術家]]<br /> [[Category:1712年生]]<br /> [[Category:1788年没]]</div> 219.96.7.204 シビルエンジニア 2018-08-25T01:14:09Z <p>219.96.7.204: </p> <hr /> <div>&#039;&#039;&#039;シビルエンジニア&#039;&#039;&#039; (Civil engineer)<br /> * 語源としては、「エンジニア」の古義で軍事のそれを指す「[[工兵]]」に対し、非軍事(civilian sector)でそれと同様の[[インフラストラクチャー]]整備のような仕事をする者という意味である。ただし、英語圏においても今日において一般には単に、土木や大規模建築のエンジニアという意味で使われている(英語版記事[[:en:Civil engineer]]や[[:en:Civil engineering]]を参照)。<br /> * 土木技術者(土木技師)。なお、[[土木学会]]では、『構造工学委員会のシビルエンジニアによる構造計画の考え方に関する小委員会』で、<エンジニアリングを主としながらも各種技術を紡ぐ資質を有する「アーキテクト」としての技術者、特に構造的な側面に焦点を当てながら、シビルエンジニアリングによる構造計画の考え方を模索、整理しテキスト化するとともに、今後のあるべき構造計画の姿についての提案を発信することを目的として、研究調査活動を行うもの>をシビルエンジニアとして定義している。<br /> * 建築構造設計技術者([[:en:Structural engineer]]) [[構造エンジニア]]。なお、アメリカ合衆国でいうストラクチュラルエンジニアは、ある一定の建築構造の設計をする場合の資格名で使用されていて、一般に建築構造設計の従事者はシビルエンジニアとよばれる。<br /> <br /> {{Aimai}}<br /> {{デフォルトソート:しひるえんしにあ}}<br /> [[Category:土木技術者|*しひるえんしにあ]]<br /> [[Category:構造家|*しひるえんしにあ]]</div> 219.96.7.204 庭師 2018-08-25T01:09:39Z <p>219.96.7.204: </p> <hr /> <div>{{No footnotes|date=2017年10月}}<br /> [[File:Parterre2.jpg|thumb|275px|[[イギリス式庭園]]の花壇の一部]]<br /> [[File:gardening.jpg|thumb|180px|庭師]]<br /> [[File:Royal Gardener John Rose and King Charles II - Hendrick Danckerts 1675.jpeg|thumb|180px|王室庭師 John Rose と国王 Charles II(Hendrick Danckerts 作、1675年)]]<br /> &#039;&#039;&#039;庭師&#039;&#039;&#039;(にわし)とは、[[庭]]を造る人のこと。古くは&#039;&#039;&#039;園丁&#039;&#039;&#039;(えんてい)や&#039;&#039;&#039;ガーデナー&#039;&#039;&#039;&lt;ref&gt;{{lang-en-short|gardener}} に由来する。&lt;/ref&gt;と呼ばれる。庭石、樹木や池、水路から芝などを含めて、庭を一つの造形空間として設計施工、製作する人、またその樹木などの植物の生育を管理し、定期的に剪定したりする管理の仕事もする専門家である。<br /> <br /> == 庭師と造園家 ==<br /> 日本語圏では例えば[[小川治兵衛]]のように庭に関する事項全般、施工から手入れなどを行うほか、設計も行うことになるため、庭師が[[造園家]]や作庭家と言われる場合がある。しかし[[重森三玲]]のような庭園の研究者や官庁に勤める造園技師が名園を作庭する場合も多く、造園家や作庭家はそうした人物らを含めた総称である。<br /> <br /> イギリスの[[ランスロット・ブラウン]]は庭師でもあったが作庭家でもある。英語では「{{読み仮名|{{lang|en|gardener}}|ガーデナー}}」と「{{読み仮名|{{lang|en|garden architect}}|ガーデン・アーキテクト}}」は異なる。<br /> <br /> == 概要 ==<br /> すでに古代において[[造園]]技術は発達し、[[バビロンの空中庭園]]やローマのドムス・アエリアやハドリアヌス庭園([[ヴィッラ・アドリアーナ (ティヴォリ)|ヴィラ・アドリアーナ]])など、大規模な[[庭園]]が造営されたことが知られている。しかし機械的技芸一般を軽視した古代社会においては、庭を造る者の地位は一般に低かったとされる。[[オスマン帝国]]の[[宮廷庭師]]は、[[首切り役人]]も兼任していたほか、身分の高い者が裁判で死罪の判決が下された際、死刑の判決が出た被告と[[徒競走]]を行い、被告がその競争に負けた場合は即刻死刑執行、被告が勝った場合は[[国外追放]]といった職務にも従事していた。<br /> <br /> [[トルコ]]ではほか16世紀半ば[[チューリップ]]の交配が盛んになり改良新種が次々と生まれた時代にはチューリップ専門の庭師も誕生しているが、当時のイスラム長官エブスード・エフェンディまでもが「楽園の光」と名づけた新しいチューリップを作っていることがしられている。トルコはまた[[インド]]を侵略した際[[パプリカ]]を持ち帰るが、そうした[[蔬菜]]を宮廷庭師に栽培させていたことが[[ハンガリー]]に伝わる[[唐辛子]]にまつわる言い伝えから知られる。<br /> <br /> [[中世]][[ヨーロッパ]]でも[[スペイン]]などで造営された[[イスラム庭園]]、特に水を弾きれ、噴水などを駆使した[[アルハンブラ宮殿]]や[[ヘネラリフェ]]の庭園は有名であるが、同時代の[[修道院]]や宮廷では菜園と庭園の区別はあまり発達せず、むしろ蔬菜園を兼ねた[[中庭]]が主流であった。ただしこの時代に関して残されている史料からは宮廷庭師たちが国王や貴族の下で働いていた記録があり、実用的かつ美しさにも配慮した園芸作業に従事していたことがわかっている。[[フランク王国]]のカール(シャルルマーニュ)大帝の邸宅庭園に用いられた植物リストには[[リンゴ|りんご]]や[[セイヨウナシ]]などの果樹のほか、[[ユリ]]や[[バラ]]、[[アヤメ|アイリス]]、[[セージ]]などが植えられていたことが記載され、視覚的なことだけでなく[[芳香植物]]など香りも重視していたとされる。<br /> <br /> 宮廷庭師の蔬菜栽培に関する記録はほかにも多く、[[フランス]]で[[13世紀]]頃に食されていた[[アスパラガス]]は貴族の[[野菜]]と称されるほど高価なものとされるが、特に[[ルイ14世 (フランス王)|ルイ14世]]は宮廷庭師に、一年中食べられるように[[温室栽培]]を命じたというし、1593年に[[イベリア半島]]を旅行した[[マクシミリアン2世 (神聖ローマ皇帝)|マクシミリアン2世]]の宮廷[[植物学者]][[カロルス・クルシウス|シャルル・ド・レクリューズ]]が[[カスティリア]](スペイン)で、庭師や主婦までもがカプシクム(唐辛子)を丁寧に栽培していると報告。また[[イタリア]]で[[トマト]]栽培が裕福層の観賞用としてものから食用に移行するのは、[[ナポリ]]の宮廷庭師が苗を自分の家に持ち帰り食用にしたからといわれている。宮廷庭師ミヒャエル・ハンフらは16世紀に果樹や野菜を栽培する実用園として造られていたルストガルテンを1647年に[[ブランデンブルク選帝侯]]の[[フリードリヒ・ヴィルヘルム (ブランデンブルク選帝侯)|フリードリヒ・ヴィルヘルム]]の命によりオランダ庭園に改造したことが知られる。17世紀には[[ジャガイモ]]やトマトなどが観賞用から食糧としての経済的有用性が認められるようになり、イギリスなどは食糧を大量生産するという目的で、それら蔬菜の苗木を植民地で栽培し始める。<br /> <br /> [[ルネサンス]]期から[[バロック]]に入ると水利技術を駆使した庭園が発達し、[[ヴィラ・メディチ|メディチ荘]]の建設に[[コジモ1世]]が依頼した水利技術者であり[[建築家]]そして[[彫刻家]]として知られるニッコロ・トリボロのような人物が作庭に当たり、また庭園設計の理論も盛んに著述されるようになっていくが、このことはヨーロッパにおける庭園の発達に大きな変革をもたらし、[[ヴェルサイユ宮殿]]に見られる大規模な庭園の造営において、造園家は農芸の専門師という立場から、[[芸術家]]としての扱いを受けていき、厚遇されるようになっていく。[[ラファエロ・サンティ|ラファエロ]]は「美しき女庭師」を描き、[[ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト|モーツァルト]]の[[歌劇]]「[[偽の女庭師]]」は1775年1月、ドイツ[[ミュンヘン]]で初演される。[[アンドレ・ル・ノートル]]の家はパリにある王室所有の[[テュイルリー庭園]]で代々働いていた造園家の家柄として知られるし、[[ドイツ]][[マクデブルク]]のフリードリッヒ・ウィルヘルムスパルクを手がけた[[ペーター・ヨセフ・レンネ]]も宮廷庭師の家柄出身である。<br /> <br /> [[チャールズ1世 (イングランド王)|チャールズ1世]]お抱えの庭師で、16世紀終盤から17世紀にかけて活躍したジョン・トラデスカント親子は17世紀中ごろから18世紀にかけて海外から珍しい植物を採集してくる「[[プラントハンター]]」と呼ばれる職能として活躍する。彼らは船で各国をまわり、珍しい植物を採集してきては自宅の庭で育てていた。また同じく諸国を回ったロバート・フォーチュンも{{仮リンク|エジンバラ王立植物園|en|Royal Botanic Garden Edinburgh}}で園芸を修め、[[ロンドン園芸協会]]の庭師であった。イギリスではほかに[[ハンプトンコート]]などの庭師[[ジョージ・ロンドン]]や[[ヘンリー・ワイズ]]や彼らのもとで働いていた[[スティーヴン・スウィツァー]]や[[アン (イギリス女王)|アン女王]]のお抱え庭師ロジャー・ルッカーらが知られる。彼らは庭園の維持管理や修景を担当する王室園芸官として活躍する。<br /> <br /> 日本では古くは苑池を管理する[[園池司]]などの管制や明治の開拓使が園芸師として外国人を雇っていることが知られるが、庭を施工する者の意味での「庭師」という意味と語は江戸時代に定着したものである。<br /> <br /> ほかに庭を造る者の呼び名は他に平安時代末期からの「石立僧」、室町時代の[[善阿弥]]など「山水河原者」があり、実際に庭を造る人物の身分が呼び名に現れている。<br /> <br /> 室町以降の[[枯山水]]などの試みは広く行われるようになっていくが、これは[[禅宗]]の影響を受け[[雪舟]]、[[夢窓疎石]]のような「石立僧」が台頭していったことがあるが、現在でも[[深谷光軌]]、[[枡野俊明]]など僧侶が[[作庭家]]となるケースはある。<br /> <br /> 江戸期は[[回遊式庭園]]の形式が発達し、時の[[徳川幕府]]は作庭責任者の将軍家御庭師とともに御用庭師にあたる御庭掛などを定め、庭園管理に務めさせている。江戸期には、[[貞観園]]改修に参画した幕府のお抱え庭師であった九段仁右衛門や藤井友之進、[[縮景園]]築造に呼ばれた京都からの庭師[[清水七郎右衛門]]、[[清水園]]([[新発田藩]])に関わった幕府お抱え庭師[[縣宗知]]、[[宮良殿内]]の和風[[枯山水庭園]]を作庭した[[首里]]の庭師城間親雲上などがいた。[[駒込]]には江戸城内の庭師もつとめた植木屋伊藤家などがあった。<br /> <br /> 近代からは植木職人や樹木・[[園芸種]]を育てる農家が[[屋号]]をもって[[建設業]]、[[造園業]]や石材業を営むようになっていくが、この中で小川治兵衛の植治など、今日にも残る[[老舗]]といわれる植木商や造園業者に発展したものや出入り業で家業を継いで発展したものが多く、また戦前ごろから大学卒の[[学士]]などが修行し独立するケースもみられていく。近代期では、[[大河内山荘]]を築造した広瀬利兵衛、[[殿ヶ谷戸庭園]]を築造した[[仙石]]、自らの手で[[合浦公園]]造成を開始した旧弘前藩庭師の水原衛作、[[迎賓館]]を築造した[[佐野藤右衛門]]、&lt;!--[[服部敬雄]]邸庭園なども手がけた--&gt;[[岩城亘太郎]]、[[柴又帝釈天]]邃渓園を築造した向島の庭師永井楽山などがいる。<br /> <br /> 現在では幾多の名園は企業や公共団体が管理するものが主流を占め、[[中根金作]]のように[[京都府]]など[[自治体]]の[[技師]]や[[文化庁]]や[[環境省]]など国の[[技官]]として任用されるケースもある。<br /> <br /> == 関連項目 ==<br /> *[[トピアリー]] - [[奴隷]]の庭師が生垣に主人と自分のイニシャルを刈り込んだのが最初とされる<br /> *作庭家 [[ガーデンデザイナー]]<br /> *[[サイトスペシフィック・アート]] - 造園または&#039;&#039;&#039;庭師&#039;&#039;&#039;的な仕事<br /> *[[ロベルト・プロシネチキ]] - 庭師の足を持つ男と呼ばれた<br /> *[[ドナルド・E・ウェストレイク]] - 妻は庭師としても有名<br /> *[[リマのローザ]] - [[刺繍]]と庭師の守護聖人<br /> *[[職藝学院]] - 大工と庭師の[[専門学校]]。[[富山県]][[富山市]]<br /> *庭師と農民の博物館 - [[バンベルク]]にある<br /> *[[メフメト2世]] - 専門は庭師であったとされる<br /> *[[河原者]]<br /> *カテキョ - [[業界用語]]で庭師<br /> *職人 <br /> *クストス([[修道院長]]) - [[フランシスコ会]]では庭師の意<br /> *[[造園技能士]]<br /> *[[フリオ・クルス]] - 愛称=庭師(ハルディネーロ)<br /> <br /> == 庭師関連の作品 ==<br /> *[[庭師サッちゃん]]<br /> *[[画家と庭師とカンパーニュ]]<br /> *[[サムワイズ・ギャムジー]]/[[ハムファスト・ギャムジー]]<br /> *[[ジョン・ローランド]]<br /> *[[京都の女庭師風水探偵さくら子]]シリーズ<br /> *[[チャンス (1979年の映画)]] <br /> *[[マイケル・K]] <br /> *[[なでしこ (グリム童話)]]<br /> *[[人間腸詰]] <br /> *[[ファゴットとチェロのためのソナタ (モーツァルト)]]/[[ピアノソナタ第6番 (モーツァルト)]] - [[オペラ]]『偽の女庭師』(偽の花作り女)の初演のために作成 [[モーツァルトの楽曲一覧]]<br /> *『庭師 ただそこにいるだけの人(原題:Being There)』<br /> *庭師の娘 - [[プーランクの楽曲一覧]]<br /> *[[枯山水 (ボードゲーム)]]<br /> <br /> == 架空の庭師 ==<br /> *チャンス (1979年の映画) - 名前をチョーンシー・ガーディナーと聞き間違え、誤って大統領顧問、候補になる<br /> *[[ロード・オブ・ザ・リング]] - ホビットの使用人と仲間フロドバギンズ 、リングベアラー <br /> *トムとバーバラのグッド・グッド・ライフ (1975年TVシリーズ) - なろうとする中産階級の英カップル。自給自足で自分の庭をもつ<br /> *[[不思議の国のアリス]] - 白いウサギの庭師パット <br /> *[[ローゼンメイデン]] - マンガやアニメ。蒼星石と翠星石は 、植物、人間の魂の木だけでなく、それらの能力についての庭師と呼ばれる<br /> *銀河の首都(アイザック・アシモフのファウンデーションシリーズ)- 巨大な帝国に複雑で豪華なオフィスと高い役人と&quot;彼の下で男性と女性の軍隊とともに皇居の主任庭師は重要人物として登場 <br /> *[[ハリー・ポッター]]シリーズ - 複数の庭師、植物学者などが登場する<br /> **ポモナスプラウト - ハーブの研究の先生 <br /> **ハーバート・ビアリー - 元のハーブの研究の先生 <br /> **フランク・ブライス - なぞなぞ庭師 <br /> **ミランダオオタカ(フィルム)とフィリーダ胞子<br /> **ハドリアヌスホイットル - 現実のガーデンデザイナーにちなんで名付けられている<br /> <br /> == 庭師に関係する作品をもつ作家 ==<br /> *[[マックス・エルンスト]] - 『美しき女庭師の帰還』を1967年に発表<br /> *ラファエロ・サンティ - 代表作に、美しき女庭師(1507年)<br /> *[[A・J・クローニン]] - スペインの庭師&lt;ref&gt;{{lang-en-short|The Spanish Gardener}}&lt;/ref&gt;(1950年)<br /> *[[ギュスターヴ・カイユボット]] - 庭師たち&lt;ref&gt;{{lang-fr-short|Les Jardiniers}}&lt;/ref&gt;(1875-1877)<br /> *シルヴィーとブルー - 詩「気違い庭師の歌」<br /> *[[ジャック・イベール]] - サモス島の庭師&lt;ref&gt;{{lang-fr-short|Le jardinier de Samos}}&lt;/ref&gt;(1932初演)<br /> <br /> == 庭師でもあった人物 ==<br /> *[[ウィリアム・ブラウン (バウンティ号)]] - [[バウンティ (帆船)]]号の乗組員の庭師<br /> *[[ウィリアム・ロビンソン (造園家)]] - [[ダブリン]]で庭師として修行経験をもつ<br /> *[[岡田憲久]] - 京都で庭師として[[修業]]も<br /> *[[ルイス・ベーマー]] - 高校卒業後、宮廷庭師の下で修業<br /> *[[ヴァルター・シュタイナー]] - 妻とともに[[スウェーデン]]の[[ファルン]]に移り住み、庭師として働いている<br /> *[[ニカウ]] - 実際は庭師<br /> *[[グフタフ・マイヤー]] - もとはプロイセン宮廷の庭師<br /> *[[ドン・トンプソン]] - 庭師も兼業<br /> *[[クラーク・アシュトン・スミス]] - 庭師として働きながら絵や彫刻にいそしみ、詩や小説の執筆<br /> *[[愛新覚羅溥儀]] - のちに北京[[植物園]]で庭師<br /> *[[ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン]] - 晩年庭師に<br /> *[[ジェームズ・スターレー]] - 当初庭師をしていた<br /> *[[ハンス・ヘルムート・キルスト]] - 一時期庭師を<br /> *諫山修身([[日本ナザレン教団]]) - [[ロサンゼルス]]で庭師として働いていた<br /> *[[ラッキー・デューベ]] - 南アフリカ共和国の歌手<br /> *[[ジョゼフ・モニエ]] - 庭師として植木鉢の改良に取り組んだ事から[[鉄筋コンクリート]]を開発する。<br /> <br /> == 家業(親)が庭師の人物 ==<br /> *[[シクストゥス5世 (ローマ教皇)]] - 父は庭師<br /> *[[メルヒオール・バウアー]] - 父親は庭師、自身も造園を学んでいる<br /> *[[ヘンリ・フリッツクロフト]] - 父は[[ハンプトン・コート]]で働く庭師<br /> *[[フリードリッヒ・ルードヴィッヒ・フォン・シュケル]] - 祖父以来宮廷庭師の家柄<br /> *アンドレ・ル・ノートル - 代々宮廷庭師の家柄<br /> *[[サチェル・ペイジ]] - 父は庭師<br /> *[[ペーター・シュミット]] - 庭師の子として生まれる<br /> *[[ジミ・ヘンドリックス]] - 父アルは庭師<br /> *[[ハインリヒ・ミュラー]] - 父アロイスは、衛生部隊の曹長として従軍経験のある庭師<br /> *[[サルゴン (アッカド王)]] - [[キシュ]]王に仕えた庭師ラーイブムに拾われて育ったとされる<br /> *[[ジョン・ポール・ジョーンズ (軍人)]] - 実家はアービグラッドで庭師を営む<br /> <br /> == 脚注 ==<br /> &lt;references /&gt;<br /> <br /> == 参考文献 ==<br /> *世界一の庭師の仕事術 WAVE出版 石原和幸 2009年 ISBN 9784872903966<br /> *名人庭師 剪定・整姿の知恵袋 講談社プラスアルファ新書 吉村 隆一<br /> *平野泰弘 編著「名人庭師とっておきの知恵袋」講談社<br /> *スペインの庭師 A.J.クローニン 三笠書房 竹内道之助 1957<br /> <br /> {{DEFAULTSORT:にわし}}<br /> [[Category:造園家|*にわし]]<br /> [[Category:作庭家|*にわし]]<br /> [[Category:園芸家|*にわし]]<br /> [[Category:ガーデニング]]</div> 219.96.7.204 怪談 2018-08-22T00:50:54Z <p>219.96.7.204: </p> <hr /> <div>{{Otheruses||その他}}<br /> &#039;&#039;&#039;怪談&#039;&#039;&#039;(かいだん)は、怖さや怪しさを感じさせる[[物語]]の総称。[[日本]]古来のものを限定して呼ぶ場合もある。中でも、[[四谷怪談]]・[[皿屋敷]]・[[牡丹灯籠|牡丹燈籠]]の三話は「日本三大怪談」に数えられることが多い。<br /> <br /> 怪談(&lt;!--スリラーや--&gt;怪奇ジャンルの作品)は日本国内では通常「[[夏]]の[[風物詩]]」にあげられるが、近年は[[冬]]の時期に放映や作品発表が行われるケースもある。<br /> <br /> == 歴史 ==<br /> 元来、[[死]]に関する物語、[[幽霊]]、[[妖怪]]、[[怪物]]、あるいは怪奇現象に関する物語は[[民話]]伝説、あるいは[[神話]]の中にも多数存在する。<br /> <br /> 『[[今昔物語集]]』(「霊鬼」)など、[[平安時代]]末期(1120年頃)の古典文学にも多数の怪談が収録されているが、それらを題材にしてまとまった形で残っている物では『[[雨月物語]]』(1776年)が有名である。また、[[四谷怪談]](1727年)や[[皿屋敷|番町皿屋敷]](1700年代末)のように[[歌舞伎]]の題材にも取り上げられ、ひとつのジャンルを構成していた。現在の感覚における古典的な怪談はこれらに基づく物である。また、[[落語]]にも怪談物があり[[怪談噺]](怪談咄)と言われ、初代[[林屋正蔵]]はじめとする累代林屋、[[三遊亭円朝]]、[[立川三五郎]]などが創作・演出に工夫を凝らし、伝承に力を尽くした&lt;ref name=&quot;hyakkazensyo&quot;&gt;関山和夫「怪談咄」『日本大百科全書』[[小学館]]。 &lt;/ref&gt;。演目には『[[牡丹灯籠]]』・『[[怪談乳房榎]]』・『[[お菊の皿]]』・『[[質屋蔵]]』・『[[真景累ヶ淵]]』・『[[反魂香_(落語)|反魂香]]』・『[[もう半分]]』・『[[子育て幽霊]]』・『[[菊江の仏壇]]』などがある。<br /> <br /> [[小泉八雲]](ラフカディオ・ハーン、&#039;&#039;&#039;Lafcadio Hearn&#039;&#039;&#039;)は古くから伝わる日本各地の怪談や奇談を収集し、自らの解釈にしたがって情緒豊かな物語に仕立て上げ、『[[怪談 (小泉八雲)|怪談 (kwaidan)]]』(1904年)として一冊にまとめた。<br /> <br /> また、[[明治]]末期には、当時欧米で流行していた[[心霊主義|スピリチュアリズム]]の影響を受け、日本でも「怪談ブーム」が到来し、文学者たちが「[[百物語]]」を催したり、盛んに怪談の執筆を行っている&lt;ref&gt;[[ちくま文庫]]から刊行されている、[[東雅夫]]の怪談文芸アンソロジーを参照&lt;/ref&gt;。また、現在では「[[民俗学]]の原点」とされている『[[遠野物語]]』についても、話者の[[佐々木喜善]]・著者[[柳田國男]]ともに「怪談愛好者」であり、「怪談ブーム」の副産物として登場したものともいえる&lt;ref&gt;[[水野葉舟]]『遠野物語の周辺』(国書刊行会)収録の[[横山茂雄]]による解題「怪談への位相」より。&lt;/ref&gt;。民話としての怪談は[[松谷みよ子]]の研究の対象ともなっている。<br /> <br /> 戦後は、[[新倉イワオ]]が1968年に日本初の心霊番組を企画制作。後に日本テレビ「[[お昼のワイドショー]]」内で放映された『[[あなたの知らない世界]]』などによって1970年代の怪談ブームをリードした。新倉はその後も番組企画本など合わせて50冊余りの怪異譚を蒐集した著作を世に送り、大人が怪談を嗜むことを許容する社会環境と後年の素地を築いた。また、1970~1980年代に活躍した[[中岡俊哉]]による児童向け怪談、1970年代にブームとなった[[つのだじろう]]の『[[うしろの百太郎]]』『[[恐怖新聞]]』などの恐怖漫画によって子供時代に恐怖・オカルトの洗礼を受けた世代が成長して、現在の怪談需要を支えている。<br /> <br /> [[木原浩勝]]と[[中山市朗]]は、自らが体験者より収集した怪異譚の人名や地名を意図的にぼかすことによって取材ソースを秘匿し、「[[実話怪談]]集」というスタイルにまとめ、江戸奉行・[[根岸鎮衛]]による随筆「[[耳袋]]」になぞらえて『新・耳・袋〜あなたの隣の怖い話』([[扶桑社]]、1990年)として出版した。この仕事は長く忘れられていたが、1998年に復活刊行され、2005年までの7年間に刊行され続けた『[[新耳袋]]』全十巻([[メディアファクトリー]])により「怪談」という日本古来のエンターテイメントの復権がなされることとなった。<br /> <br /> 『新耳袋』の休眠期に当たる1991年~1997年には実話怪談集『[[「超」怖い話]]』([[勁文社]])が[[安藤薫平]]、[[樋口明雄]]の手によって編まれた。これは1998年の新耳袋復活と勁文社倒産の後も[[平山夢明]]、[[加藤一 (作家)|加藤一]]に引き継がれ、[[竹書房]]から刊行されている続刊は、新耳袋と並んで近代実話怪談のひとつの潮流となっている。<br /> <br /> 落語の他に古典的な怪談の題材を扱う講談師にかつては、7代目[[一龍斎貞山]]、近年には[[一龍斎貞水]]がいるが、現代の怪談需要にそぐわず、講談形式の演目・演者は減少している&lt;ref name=&quot;hyakkazensyo&quot;/&gt;。代わりに怪談話者として有名な&lt;ref&gt;株式会社タレントデータバンク。&lt;/ref&gt;[[タレント]]の[[稲川淳二]]による({{要出典範囲|1993年頃から始まった|date=2010年10月}})現代の生活様式に合わせた怪談が語られている。また前述の新耳袋の著者である木原・中山は、[[新宿ロフトプラスワン]]において定期的な怪談のトークライブを続けており、11年目を迎えた2007年には通算50回を18年目を迎えた2014年には通算100回超える。現代的な題材の怪談話者としては、[[浜村淳]]、[[桜金造]]、[[つまみ枝豆]]、[[北野誠 (タレント)|北野誠]]、[[みぶ真也]]、[[白石加代子]]などがタレント活動の中で展開している。シンプルな表現形式の講談から、演劇的な美術や演出を用いて怪談を[[ショー・ビジネス]]化し、ジャンルとして発展させた稲川の功績は大きい。<br /> <br /> また伝統的な怪談の会のスタイルとして、&#039;&#039;&#039;[[百物語]]&#039;&#039;&#039;が挙げられる。<br /> <br /> 怪談と[[都市伝説]]が混同されていることもあるが、現状では明確な公的な定義は共有されていない。<br /> <br /> == 怪談の例 ==<br /> * [[本所七不思議]]<br /> * [[皿屋敷]](播州皿屋敷、番町皿屋敷など)<br /> * [[四谷怪談]](東海道四谷怪談など)<br /> * [[小泉八雲]]『[[怪談_(小泉八雲)|怪談]]』所収<br /> ** [[ろくろ首]]<br /> ** [[耳無し芳一]]<br /> ** [[雪女]]<br /> ** [[のっぺらぼう|むじな]]<br /> * [[牡丹灯籠|牡丹燈籠]](灯篭)<br /> * [[累ヶ淵]]<br /> **[[真景累ヶ淵]]<br /> * [[おいてけ堀]]<br /> * [[八反坊]]<br /> * [[化け猫#鍋島の化け猫騒動|鍋島藩の化け猫騒動]]<br /> * [[学校の怪談]]:都市伝説に近い面がある。<br /> <br /> == 脚注 ==<br /> &lt;references/&gt; <br /> <br /> == 関連項目 ==<br /> * [[怪談噺]]<br /> * [[幽]] - 怪談専門誌<br /> * [[都市伝説]]<br /> ** [[怪談都市伝説]]<br /> * [[ホラー]]<br /> * {{仮リンク|ゴースト・ストーリー (物語)|label=ゴースト・ストーリー|en|Ghost story}} - 英語圏。<br /> <br /> {{DEFAULTSORT:かいたん}}<br /> [[Category:怪談|*]]<br /> [[Category:小説]]</div> 219.96.7.204 源氏物語 2018-08-22T00:45:20Z <p>219.96.7.204: </p> <hr /> <div>{{otheruses}}<br /> [[ファイル:Ch5 wakamurasaki.jpg|thumb|300px|[[土佐光起]]筆『源氏物語画帖』より「[[若紫]]」。飼っていた雀の子を逃がしてしまった幼い紫の上と、柴垣から隙見する源氏。]]<br /> [[ファイル:Ch20 asago.jpg|thumb|300px|土佐光起筆『源氏物語画帖』より「[[朝顔 (源氏物語)|朝顔]]」。雪まろばしの状景。邸内にいるのは源氏と紫の上。]]<br /> {{ウィキポータルリンク|文学|[[File:Murasaki Shikibu.jpg|60px]]}}<br /> 『&#039;&#039;&#039;源氏物語&#039;&#039;&#039;』(げんじものがたり)は、[[平安時代]]中期に成立した日本の長編物語、[[小説]]。文献初出は[[1008年]]([[寛弘]]五年)。作者の[[紫式部]]にとって生涯で唯一の物語作品である&lt;ref name=shikibu-works&gt;物語の他には「[[紫式部日記]]」や[[和歌集]]の「紫式部集」があり「[[百人一首|小倉百人一首]]」にも[[和歌]]が収められている(*)。後に、紫式部の「源氏物語」と「紫式部日記」の2作品は絵画化された。約150年後の[[平安時代]]末期に「[[源氏物語絵巻]]」、約200年後の[[鎌倉時代]]初期に「[[紫式部日記絵巻]]」が制作された。(*)「めぐりあひて 見しやそれとも わかぬまに 雲がくれにし 夜半の月かな」[https://www.shigureden.or.jp/about/database_03.html?id=57 小倉百人一首文化財団・時雨殿]&lt;/ref&gt;。主人公の[[光源氏]]を通して、恋愛、栄光と没落、政治的欲望と権力闘争など、平安時代の[[貴族#日本|貴族]]社会を描いた&lt;ref name=genji-shikibu&gt;上智大学文学部教授 [[三田村雅子]]、NHK 2012年4月4日放送「100分de名著 源氏物語」第1回。NHK出版100分de名著『源氏物語』 (2012/3/24)。[[紫式部日記]]。&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 下級[[貴族#日本|貴族]]出身の[[紫式部]]は、20代後半で[[藤原宣孝]]と結婚し一女をもうけたが、結婚後3年ほどで夫と死別し、その現実を忘れるために物語を書き始めた。これが『源氏物語』の始まりである&lt;ref name=genji-shikibu/&gt;。最初は、当時[[紙]]が貴重で紙の提供者がいれば、その都度書き&lt;ref name=kami-supply&gt;[[江戸時代]]の[[松永貞徳]]の源氏物語の写本全54冊(54帖)の1冊1冊の厚みが示すように、[[紫式部]]は当初多くの分量は書けず1冊(1帖)の厚みは薄いが、支援者の[[藤原道長]]により安定した[[紙]]の供給が行なわれて以降は34帖「[[若菜 (源氏物語)|若菜]]」のように1冊(1帖)の厚みが急激に増した。上智大学文学部教授 [[三田村雅子]]、NHK 2012年4月4日放送「100分de名著 源氏物語」第1回。(参考)『源氏物語』与謝野晶子訳、各帖の総ページ数より、1帖「[[桐壷]]」26、2帖「[[帚木_(源氏物語)|帚木]]」44、3帖「[[空蝉_(源氏物語)|空蝉]]」12、そして、34帖「[[若菜 (源氏物語)|若菜]]」上192、下190。(角川文庫 1999年(平成11年)5月10日)所収&lt;/ref&gt;、仲間内で批評し合うなどして楽しんでいたが&lt;ref name=shikibu-nikki&gt;[[紫式部日記]]より、当初、[[紫式部]]は仲間内で意見を言い合ったり手紙のやり取りで批評し合って楽しんでいたことから「最初は現代の同人誌のような楽しみ方だった」。上智大学文学部教授 [[三田村雅子]]、NHK 2012年4月4日放送「100分de名著 源氏物語」第1回。NHK出版100分de名著『源氏物語』 (2012/3/24)。&lt;/ref&gt;、その物語の評判から[[藤原道長]]が娘の[[中宮]][[藤原彰子|彰子]]の家庭教師として紫式部を呼んだ。それを機に宮中に上がった紫式部は宮仕えをしながら藤原道長の支援の下で物語を書き続け、54帖からなる『源氏物語』を完成させた&lt;ref name=kami-supply/&gt;&lt;ref name=genji-shikibu2&gt;中宮[[藤原彰子|彰子]]は[[一条天皇]]の妻であったが、一条天皇のもう一人の妻であり後に亡くなった[[藤原定子]]の家庭教師は[[清少納言]]だった。なお、[[藤原道長]]の要請で宮中に上がった[[紫式部]]は、宮中の様子を中心に書いた「[[紫式部日記]]」を残している。&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> なお、源氏物語は文献初出から150年ほど後の[[平安時代]]末期に「[[源氏物語絵巻]]」として絵画化された&lt;ref name=genji-emaki&gt;[http://www.gotoh-museum.or.jp/collection/genji.html 『国宝 源氏物語絵巻』] [[五島美術館]]&lt;/ref&gt;。現存する絵巻物の内、[[徳川美術館]]と[[五島美術館]]所蔵のものは[[国宝]]となっている。また現在、『源氏物語』は日本のみならず20ヶ国語を超える翻訳を通じ世界各国で読まれている&lt;ref name=genji-honyaku&gt;[https://www.soken.ac.jp/file/disclosure/pr/publicity/journal/no15/pdf/32-33.pdf#search=%27%E6%BA%90%E6%B0%8F%E7%89%A9%E8%AA%9E+%E7%BF%BB%E8%A8%B3+%E5%90%84%E5%9B%BD%27 『源氏物語』の翻訳状況] 総合研究大学院大学教授 伊藤鉃也 日本文学研究専攻。2009年3月時点、刊行されたもの24種類、現在進行中のもの4種類、未確認(あるらしい、というもの)6種類。&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> == 題名 ==<br /> [[File:Hyakuninisshu 057.jpg|thumb|[[紫式部]]]]<br /> 古[[写本]]は題名の記されていないものも多く、記されている場合であっても内容はさまざまである。『源氏物語』の場合は冊子の標題として「源氏物語」ないしそれに相当する物語全体の標題が記されている場合よりも、それぞれの帖名が記されていることが少なくない。こうした経緯から、現在において一般に『源氏物語』と呼ばれているこの物語が書かれた当時の題名が何であったのかは明らかではない。古い時代の写本や注釈書などの文献に記されている名称は大きく以下の系統に分かれる。<br /> * 「源氏の物語」、「[[光源氏]]の物語」、「光る源氏の物語」、「光源氏」、「源氏」、「源氏の君」などとする系統。<br /> * 「紫の物語」、「[[紫のゆかり]]」、「紫のゆかりの物語」などとする系統。<br /> これらはいずれも源氏(光源氏)または[[紫の上]]という[[主人公]]の名前をそのまま物語の題名としたものであり、物語の固有の名称であるとはいいがたい。また、執筆時に著者が命名していたならば、このようにさまざまな題名が生まれるとは考えにくいため、これらは作者によるものではない可能性が高いと考えられている&lt;ref&gt;池田亀鑑「総記 一 名称」『合本 源氏物語事典』。 &lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 『[[紫式部日記]]』、『[[更級日記]]』、『[[水鏡]]』などこの物語の成立時期に近い主要な文献に「源氏の物語」とあることなどから、物語の成立当初からこの名前で呼ばれていたと考えられているが、作者の一般的な通称である「紫式部」が『源氏物語』(=『紫の物語』)の作者であることに由来するならば、そのもとになった「紫の物語」や「紫のゆかりの物語」という名称はかなり早い時期から存在したとみられ、「源氏」を表題に掲げた題名よりも古いとする見解もある。「紫の物語」といった呼び方をする場合には現在の源氏物語54帖全体を指しているのではなく、「[[若紫]]」を始めとする紫の上が登場する巻々(いわゆる「紫の上物語」)のみを指しているとする説もある。<br /> <br /> 『[[河海抄]]』などの古伝承には「源氏の物語」と呼ばれる物語が複数存在し、その中で最も優れているのが「光源氏の物語」であるとするものがある。しかし現在、「源氏物語」と呼ばれている物語以外の「源氏の物語」の存在を確認することはできないため、[[池田亀鑑]]などはこの伝承を「とりあげるに足りない奇怪な説」に過ぎないとして事実ではないとしている&lt;ref&gt;池田亀鑑 『源氏物語入門 新版』 6頁。&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;池田亀鑑 『源氏物語入門』 6頁。&lt;/ref&gt;が、[[和辻哲郎]]は、「現在の源氏物語には読者に現在知られていない光源氏についての何らかの周知の物語が存在することを前提として初めて理解できる部分が存在する」として、「これはいきなり斥くべき説ではなかろうと思う」と述べている&lt;ref&gt;和辻哲郎「[[日本精神史研究]]」所収「源氏物語について」&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> このほかに、「源語(げんご)」、「紫文(しぶん)」、「紫史(しし)」などという漢語風の名称で呼ばれていることもあるが、これらは漢籍の影響を受けたものであり、それほど古いものはないと考えられている。池田によれば、その使用は[[江戸時代]]をさかのぼらないとされる&lt;ref&gt;池田亀鑑 『源氏物語入門 新版』 8頁。&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;池田亀鑑 『源氏物語入門』 7頁。&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> == 概要 ==<br /> [[File:Genji emaki 01003 006.jpg|250px|thumb|[[源氏物語絵巻]]第38帖「[[鈴虫 (源氏物語)|鈴虫]]」(12世紀、[[五島美術館]]蔵)]]<br /> :全54帖のあらすじは「[[源氏物語各帖のあらすじ]]」を、登場人物は「[[源氏物語の登場人物]]」をご覧ください。<br /> [[紫式部]](詳細は[[#作者は誰か|作者]]を参照)の著した、通常54帖(詳細は[[#巻数は、いくつか|巻数]]を参照)よりなるとされる&lt;ref&gt;玉上琢弥 『[[世界大百科事典]]』 428頁。&lt;/ref&gt;&lt;ref name=&quot;arasuji&quot;&gt;{{Cite book|和書<br /> |author=早乙女利光<br /> |authorlink=早乙女利光<br /> |editor=[[小林保治]]編著<br /> |title=あらすじで読む日本の古典<br /> |origdate=2004-03-30<br /> |accessdate=2009-11-25<br /> |edition=初版<br /> |publisher=[[中経出版]]<br /> |series=楽書ブックス<br /> |isbn=9784806119852<br /> |pages=p. 53<br /> |chapter=源氏物語<br /> }}&lt;/ref&gt;。写本・版本により多少の違いはあるものの、おおむね100万文字・22万文節&lt;ref&gt;伊藤鉄也『源氏物語本文の研究』、19頁、おうふう、[[2002年]](平成14年)11月。 ISBN 4-273-03262-7 &lt;/ref&gt;400字詰め原稿用紙で約2400枚&lt;ref&gt;伊藤鉄也『源氏物語本文の研究』、19頁、おうふう、2002年(平成14年)11月。&lt;/ref&gt;に及ぶおよそ500名近くの人物が登場し&lt;ref&gt;田中宗孝『源氏物語の読み方』幻冬舎ルネッサンス新書、幻冬舎ルネッサンス、2013年(平成25年)12月、p. 17. ISBN 978-4-7790-6089-2 &lt;/ref&gt;、70年余りの出来事が描かれた長編で、800首弱の[[和歌]]を含む典型的な王朝物語である。物語としての虚構の秀逸、心理描写の巧みさ、筋立ての巧緻、あるいはその文章の美と美意識の鋭さなどから、しばしば「古典の中の古典」&lt;ref&gt;{{Cite book|和書<br /> |author=秋山虔<br /> |authorlink=秋山虔<br /> |title=源氏物語がわかる<br /> |origdate=1997-07<br /> |publisher=[[朝日新聞社]]<br /> |series=AERAムック<br /> |isbn=9784022740618<br /> |pages=pp. 12-13<br /> |chapter=論じても論じ尽くし得ぬ古典中の古典<br /> }}&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;{{Cite book|和書<br /> |author=林田孝和<br /> |authorlink=林田孝和<br /> |editor=林田孝和他編<br /> |title=源氏物語事典<br /> |origdate=2002-05<br /> |publisher=[[大和書房]]<br /> |isbn=4479840605<br /> |pages=pp. 3-4<br /> |chapter=序<br /> }}&lt;/ref&gt;と称賛され、[[日本文学]]史上最高の傑作とされる。<br /> <br /> ただし、度々喧伝されている「&#039;&#039;&#039;世界最古の[[長篇小説]]&#039;&#039;&#039;」という評価は、近年でも2008年(平成20年)の[[源氏物語千年紀]]委員会の「源氏物語千年紀事業の基本理念」でも、『源氏物語』を「世界最古の長編小説」と位置づけ&lt;ref&gt;{{Cite web<br /> |year=2008<br /> |url=http://www.2008genji.jp/iinkai/gaiyou.html#rinen<br /> |title=基本理念<br /> |work=源氏物語千年紀事業の概要<br /> |publisher=源氏物語千年紀委員会<br /> |archiveurl=http://web.archive.org/web/20080217174426/http://www.2008genji.jp/iinkai/gaiyou.html<br /> |archivedate=2008-02-17<br /> |accessdate=2009-11-19<br /> }}&lt;/ref&gt;するなどしているが、王朝文学に詳しい作家[[中村真一郎]]による、(古代[[ラテン文学]]の)[[アプレイウス]]の『黄金のロバ』や、[[ペトロニウス]]の『[[サチュリコン]]』に続く「古代世界最後の(そして最高の)長篇小説」とする知見&lt;ref&gt;[[中村真一郎]] 「世界と文学」:『源氏物語の世界』、26-29頁、新潮社〈新潮選書〉、初版1968年(昭和43年)6月。 ISBN 978-4-10-600111-6 &lt;/ref&gt;や、[[島内景二]]のように日本国内にも『[[竹取物語]]』や『[[うつほ物語]]』などがあるから最古とは認定出来ないという意見&lt;ref&gt;[[島内景二]] 『源氏物語ものがたり』([[新潮社]]、2008年)p16,17 &lt;/ref&gt;もあり、学者たちの間でも見解が異なる。20世紀に入り、英訳、仏訳などで欧米社会にも紹介され、『[[失われた時を求めて]]』など、[[20世紀の文学|20世紀文学]]との類似から高く評価されるようになった。<br /> <br /> [[母系制]]が色濃い平安朝中期(概ね[[10世紀]]頃)を舞台に、[[天皇]]の親王として出生し、才能・容姿ともにめぐまれながら[[臣籍降下]]して[[源氏]]姓となった&#039;&#039;&#039;[[光源氏]]&#039;&#039;&#039;の栄華と苦悩の人生、およびその子孫らの人生を描く。通説とされる三部構成説に基づくと、各部のメインテーマは以下とされ、長篇恋愛小説としてすきのない首尾を整えている。<br /> <br /> * 第一部:光源氏が数多の恋愛遍歴を繰り広げつつ、王朝人として最高の栄誉を極める前半生<br /> * 第二部:愛情生活の破綻による無常を覚り、やがて出家を志すその後半生と、源氏をとりまく子女の恋愛模様<br /> * 第三部:源氏没後の子孫たちの恋と人生<br /> <br /> [[日本の中古文学史|平安時代の日本文学史]]においても、『源氏』以前以降に書かれたかによって、物語文学は「前期物語」と「後期物語」とに区分され&lt;ref&gt;木村正中編『中古日本文学史』(有斐閣:有斐閣双書、1979年(昭和54年)11月) ISBN 4-641-05608-0 &lt;/ref&gt;、あるいはこの『源氏』のみを「前期物語」及び「後期物語」と並べて「中期物語」として区分&lt;ref&gt;三谷栄一編『体系 物語文学史 第三巻 物語文学の系譜 1.平安物語』 有精堂、1983年(昭和58年)&lt;/ref&gt;する見解もある。後続して成立した王朝物語の大半は、『源氏』の影響を受けており、後世しばらくは『[[狭衣物語]]』と並べ、「源氏、狭衣」を二大物語と称した。後者はその人物設定や筋立てに多くの類似点が見受けられる。&lt;!--『源氏』は、文学に限らず、[[絵巻]]物(『[[源氏物語絵巻]]』他)・[[香道]]など、他分野の文化にも多大な影響を与えた。--&gt;<br /> <br /> こうした『源氏物語』の影響は文学に限定されず、原典成立後の平安時代末期に物語を画題とした日本四大絵巻のひとつ『[[源氏物語絵巻]]』が制作された。その後も『源氏』を画題とした『[[源氏絵]]』は、版本『[[絵入源氏物語]]』、また『源氏物語図屏風』等の[[屏風]]や[[襖]]などに様々な画派によって描かれた。また、『源氏物語』意匠の[[調度品]]、さらに[[着物]]や[[帯]]の[[香の図]](源氏香)等にもその影響がみえ、後の文化や生活に多大な影響を与えたとされている。<br /> <br /> == 構成 ==<br /> 『源氏物語』は長大な物語であるため、いくつかの部分に分けて取り扱われている事例が多い。<br /> <br /> === 二部構成説、三部構成説 ===<br /> 『[[白造紙]]』、『[[紫明抄]]』あるいは『[[花鳥余情]]』といった古い時代の文献には、[[宇治十帖]]の巻数を「宇治一」、「宇治二」というようにそれ以外の巻とは別立てで数えているものがあり、このころ、すでにこの部分をその他の部分とはわけて取り扱う考え方が存在したと見られる。<br /> <br /> その後、『源氏物語』全体を光源氏を主人公にしている「幻」(「雲隠」)までの『光源氏物語』とそれ以降の『[[宇治大将物語]]』(または『薫大将物語』)の2つにわけて、「前編」、「後編」(または「正編」(「本編」とも)、「続編」)と呼ぶことは古くから行われてきた。<br /> <br /> [[与謝野晶子]]は、それまでと同様に『源氏物語』全体を2つにわけたが、光源氏の成功・栄達を描くことが中心の陽の性格を持った「桐壺」から「藤裏葉」までを前半とし、源氏やその子孫たちの苦悩を描くことが中心の陰の性格を持った「若菜」から「夢浮橋」までを後半とする二分法を提唱した&lt;ref&gt;与謝野晶子「紫式部新考」『太陽』[[1928年]](昭和3年)1月・2月号のち『与謝野晶子選集4』(春秋社)に所収&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> その後の何人かの学者はこの2つの二分法をともに評価し、[[玉上琢弥]]は第一部を「桐壺」から「藤裏葉」までの前半部と、「若菜」から「幻」までの後半部にわけ、[[池田亀鑑]]は、この2つを組み合わせて『源氏物語』を「桐壺」から「藤裏葉」までの第一部、「若菜」から「幻」までの第二部、「匂兵部卿」から「夢浮橋」までの第三部の3つに分ける三部構成説を唱えた。三部構成説はその後広く受け入れられるようになった。<br /> <br /> このうち、第一部は武田宗俊によって成立論(いわゆる玉鬘系後記挿入説)と絡めて「[[紫上系]]」の諸巻と「[[玉鬘系]]」の諸巻に分けることが唱えられた。この区分は、武田の成立論に賛同する者はもちろん、成立論自体には賛同しない論者にもしばしば受け入れられて使われている&lt;ref&gt;「紫の上系」と「玉鬘系」はそれぞれ「a系」と「b系」、「本系」と「傍系」あるいはそれぞれの筆頭に来る巻の巻名から「桐壺系」と「帚木系」といった呼び方をされることもある。&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 第三部は、「匂兵部卿」から「竹河」までのいわゆる匂宮三帖と、「橋姫」から「夢浮橋」までの宇治十帖にわけられることが多い。<br /> <br /> 上記にもすでに一部出ているが、これらとは別に連続したいくつかの巻々をまとめて<br /> * 帚木、空蝉、夕顔の三帖を[[帚木三帖]]<br /> * 玉鬘、初音、胡蝶、蛍、常夏、篝火、野分、行幸、藤袴、真木柱の十帖を[[玉鬘十帖]]<br /> * 匂兵部卿、紅梅、竹河の三帖を[[匂宮三帖]]<br /> * 橋姫、椎本、総角、早蕨、宿木、東屋、浮舟、蜻蛉、手習、夢浮橋の十帖を[[宇治十帖]]<br /> といった呼び方をすることもよく行われている。<br /> <br /> 巻々単位とは限らないが、「紫上物語」、「明石物語」、「玉鬘物語」、「浮舟物語」など、特定の主要登場人物が活躍する部分をまとめて「○○物語」と呼ぶことがある&lt;ref&gt;池田亀鑑「新講源氏物語(合本)」至文堂、1963年。 &lt;/ref&gt;。<br /> <br /> ==== 四部構成説 ====<br /> <br /> 三部構成説に対して、以下のような四部構成説も唱えられている。論者によって区切る場所や各部分の名称がさまざまに異なっている&lt;ref&gt;{{Cite book|和書<br /> |author=重松信弘<br /> |title=源氏物語研究叢書 3 源氏物語の主題と構造<br /> |origdate=1981-11<br /> |publisher=風間書房<br /> |isbn=4759905588<br /> |pages=pp. 107-117<br /> |chapter=四部説<br /> }}&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> {| class=&quot;wikitable&quot;<br /> |-<br /> |提唱者<br /> |第一部<br /> |第二部<br /> |第三部<br /> |第四部<br /> |-<br /> |[[藤岡作太郎]]<br /> |正編前紀&lt;br /&gt;桐壺から朝顔<br /> |正編中紀&lt;br /&gt;少女から藤裏葉<br /> |正編後紀&lt;br /&gt;若菜から竹河<br /> |続編&lt;br /&gt;橋姫から夢浮橋<br /> |-<br /> |[[久松潜一]]&lt;br /&gt;[[実方清]]<br /> |第一期&lt;br /&gt;桐壺から明石<br /> |第二期&lt;br /&gt;澪標から藤裏葉<br /> |第三期&lt;br /&gt;若菜から幻<br /> |第四期&lt;br /&gt;匂宮から夢浮橋<br /> |-<br /> |[[重松信弘]]<br /> |正編青年期&lt;br /&gt;桐壺から明石<br /> |正編中年期&lt;br /&gt;澪標から藤裏葉<br /> |正編晩年期&lt;br /&gt;若菜から竹河<br /> |続編&lt;br /&gt;匂宮から夢浮橋<br /> |-<br /> |[[森岡常夫]]<br /> |第一期&lt;br /&gt;桐壺から朝顔<br /> |第二期&lt;br /&gt;少女から藤裏葉<br /> |第三期&lt;br /&gt;若菜から幻<br /> |第四期&lt;br /&gt;匂宮から夢浮橋<br /> |-<br /> |[[大野晋]]&lt;ref&gt;大野晋『源氏物語』古典を読む14、[[岩波書店]]、1984年(平成6年)1月。 のち 同時代ライブラリー249、岩波書店、1996年(平成8年)1月。ISBN 4-00-260249-4 および [[岩波現代文庫]]、2008年(平成20年)9月。 ISBN 978-4-00-600197-1 &lt;/ref&gt;<br /> |a系&lt;br /&gt;第一部([[紫上系]])<br /> |b系&lt;br /&gt;第一部([[玉鬘系]])<br /> |c系=第二部&lt;br /&gt;[[若菜 (源氏物語)|若菜]]から[[幻 (源氏物語)|幻]]<br /> |d系=第三部&lt;br /&gt;[[匂宮]]から[[夢浮橋]]<br /> |-<br /> |}<br /> <br /> === 巻について ===<br /> ==== 各帖の名前 ====<br /> {| class=&quot;wikitable&quot;<br /> |-<br /> ! colspan=&quot;2&quot;|帖!!colspan=&quot;2&quot;|名!!colspan=&quot;2&quot;|読み!!年立!!備考<br /> |-<br /> | colspan=&quot;2&quot;|&amp;nbsp;1||colspan=&quot;2&quot;|[[桐壺]]||colspan=&quot;2&quot;|きりつぼ||[[光源氏|源氏]]誕生-12歳||a系<br /> |-<br /> | colspan=&quot;2&quot;|&amp;nbsp;2||colspan=&quot;2&quot;|[[帚木_(源氏物語)|帚木]]||colspan=&quot;2&quot;|ははきぎ||源氏17歳夏||b系<br /> |-<br /> | colspan=&quot;2&quot;|&amp;nbsp;3||colspan=&quot;2&quot;|[[空蝉_(源氏物語)|空蝉]]||colspan=&quot;2&quot;|うつせみ||源氏17歳夏||帚木の並びの巻、b系<br /> |-<br /> | colspan=&quot;2&quot;|&amp;nbsp;4||colspan=&quot;2&quot;|[[夕顔_(源氏物語)|夕顔]]||colspan=&quot;2&quot;|ゆうがお||源氏17歳秋-冬||帚木の並びの巻、b系<br /> |-<br /> | colspan=&quot;2&quot;|&amp;nbsp;5||colspan=&quot;2&quot;|[[若紫]]||colspan=&quot;2&quot;|わかむらさき||源氏18歳||a系<br /> |-<br /> | colspan=&quot;2&quot;|&amp;nbsp;6||colspan=&quot;2&quot;|[[末摘花 (源氏物語)|末摘花]]||colspan=&quot;2&quot;|すえつむはな||源氏18歳春-19歳春||若紫の並びの巻、b系<br /> |-<br /> | colspan=&quot;2&quot;|&amp;nbsp;7||colspan=&quot;2&quot;|[[紅葉賀]]||colspan=&quot;2&quot;|もみじのが||源氏18歳秋-19歳秋||a系<br /> |-<br /> | colspan=&quot;2&quot;|&amp;nbsp;8||colspan=&quot;2&quot;|[[花宴]]||colspan=&quot;2&quot;|はなのえん||源氏20歳春||a系<br /> |-<br /> | colspan=&quot;2&quot;|&amp;nbsp;9||colspan=&quot;2&quot;|[[葵_(源氏物語)|葵]]||colspan=&quot;2&quot;|あおい||源氏22歳-23歳春||a系<br /> |-<br /> | colspan=&quot;2&quot;|10||colspan=&quot;2&quot;|[[賢木]]||colspan=&quot;2&quot;|さかき||源氏23歳秋-25歳夏||a系<br /> |-<br /> | colspan=&quot;2&quot;|11||colspan=&quot;2&quot;|[[花散里]]||colspan=&quot;2&quot;|はなちるさと||源氏25歳夏||a系<br /> |-<br /> | colspan=&quot;2&quot;|12||colspan=&quot;2&quot;|[[須磨_(源氏物語)|須磨]]||colspan=&quot;2&quot;|すま||源氏26歳春-27歳春||a系<br /> |-<br /> | colspan=&quot;2&quot;|13||colspan=&quot;2&quot;|[[明石_(源氏物語)|明石]]||colspan=&quot;2&quot;|あかし||源氏27歳春-28歳秋||a系<br /> |-<br /> | colspan=&quot;2&quot;|14||colspan=&quot;2&quot;|[[澪標_(源氏物語)|澪標]]||colspan=&quot;2&quot;|みおつくし||源氏28歳冬-29歳||a系<br /> |-<br /> | colspan=&quot;2&quot;|15||colspan=&quot;2&quot;|[[蓬生]]||colspan=&quot;2&quot;|よもぎう||源氏28歳-29歳||澪標の並びの巻、b系<br /> |-<br /> | colspan=&quot;2&quot;|16||colspan=&quot;2&quot;|[[関屋_(源氏物語)|関屋]]||colspan=&quot;2&quot;|せきや||源氏29歳秋||澪標の並びの巻、b系<br /> |-<br /> | colspan=&quot;2&quot;|17||colspan=&quot;2&quot;|[[絵合]]||colspan=&quot;2&quot;|えあわせ||源氏31歳春||a系<br /> |-<br /> | colspan=&quot;2&quot;|18||colspan=&quot;2&quot;|[[松風_(源氏物語)|松風]]||colspan=&quot;2&quot;|まつかぜ||源氏31歳秋||a系<br /> |-<br /> | colspan=&quot;2&quot;|19||colspan=&quot;2&quot;|[[薄雲 (源氏物語)|薄雲]]||colspan=&quot;2&quot;|うすぐも||源氏31歳冬-32歳秋||a系<br /> |-<br /> | colspan=&quot;2&quot;|20||colspan=&quot;2&quot;|[[朝顔_(源氏物語)|朝顔]](槿)||colspan=&quot;2&quot;|あさがお||源氏32歳秋-冬||a系<br /> |-<br /> | colspan=&quot;2&quot;|21||colspan=&quot;2&quot;|[[少女_(源氏物語)|少女]]||colspan=&quot;2&quot;|おとめ||源氏33歳-35歳||a系<br /> |-<br /> | colspan=&quot;2&quot;|22||colspan=&quot;2&quot;|[[玉鬘 (源氏物語)|玉鬘]]||colspan=&quot;2&quot;|たまかずら||源氏35歳||以下玉鬘十帖、b系<br /> |-<br /> | colspan=&quot;2&quot;|23||colspan=&quot;2&quot;|[[初音 (源氏物語)|初音]]||colspan=&quot;2&quot;|はつね||源氏36歳正月||玉鬘の並びの巻、b系<br /> |-<br /> | colspan=&quot;2&quot;|24||colspan=&quot;2&quot;|[[胡蝶_(源氏物語)|胡蝶]]||colspan=&quot;2&quot;|こちょう||源氏36歳春-夏||玉鬘の並びの巻、b系<br /> |-<br /> | colspan=&quot;2&quot;|25||colspan=&quot;2&quot;|[[蛍_(源氏物語)|蛍]]||colspan=&quot;2&quot;|ほたる||源氏36歳夏||玉鬘の並びの巻、b系<br /> |-<br /> | colspan=&quot;2&quot;|26||colspan=&quot;2&quot;|[[常夏]]||colspan=&quot;2&quot;|とこなつ||源氏36歳夏||玉鬘の並びの巻、b系<br /> |-<br /> | colspan=&quot;2&quot;|27||colspan=&quot;2&quot;|[[篝火]]||colspan=&quot;2&quot;|かがりび||源氏36歳秋||玉鬘の並びの巻、b系<br /> |-<br /> | colspan=&quot;2&quot;|28||colspan=&quot;2&quot;|[[野分_(源氏物語)|野分]]||colspan=&quot;2&quot;|のわき||源氏36歳秋||玉鬘の並びの巻、b系<br /> |-<br /> | colspan=&quot;2&quot;|29||colspan=&quot;2&quot;|[[行幸_(源氏物語)|行幸]]||colspan=&quot;2&quot;|みゆき||源氏36歳冬-37歳春||玉鬘の並びの巻、b系<br /> |-<br /> | colspan=&quot;2&quot;|30||colspan=&quot;2&quot;|[[藤袴]]||colspan=&quot;2&quot;|ふじばかま||源氏37歳秋||玉鬘の並びの巻、b系<br /> |-<br /> | colspan=&quot;2&quot;|31||colspan=&quot;2&quot;|[[真木柱]]||colspan=&quot;2&quot;|まきばしら||源氏37歳冬-38歳冬||以上玉鬘十帖、玉鬘の並びの巻、b系<br /> |-<br /> | colspan=&quot;2&quot;|32||colspan=&quot;2&quot;|[[梅枝]]||colspan=&quot;2&quot;|うめがえ||源氏39歳春||a系<br /> |-<br /> | colspan=&quot;2&quot;|33||colspan=&quot;2&quot;|[[藤裏葉]]||colspan=&quot;2&quot;|ふじのうらば||源氏39歳春-冬||a系、以上第一部<br /> |-<br /> |rowspan=&quot;2&quot;|34||34||rowspan=&quot;2&quot;|[[若菜 (源氏物語)|若菜]]||上||rowspan=&quot;2&quot;|わかな||-じょう||源氏39歳冬-41歳春||&amp;nbsp;<br /> |-<br /> |35||下||-げ||源氏41歳春-47歳冬||若菜上の並びの巻<br /> |-<br /> |35||36||colspan=&quot;2&quot;|[[柏木_(源氏物語)|柏木]]||colspan=&quot;2&quot;|かしわぎ||源氏48歳正月-秋||&amp;nbsp;<br /> |-<br /> |36||37||colspan=&quot;2&quot;|[[横笛_(源氏物語)|横笛]]||colspan=&quot;2&quot;|よこぶえ||源氏49歳||&amp;nbsp;<br /> |-<br /> |37||38||colspan=&quot;2&quot;|[[鈴虫 (源氏物語)|鈴虫]]||colspan=&quot;2&quot;|すずむし||源氏50歳夏-秋||横笛の並びの巻<br /> |-<br /> |38||39||colspan=&quot;2&quot;|[[夕霧_(源氏物語)|夕霧]]||colspan=&quot;2&quot;|ゆうぎり||源氏50歳秋-冬||&amp;nbsp;<br /> |-<br /> |39||40||colspan=&quot;2&quot;|[[御法]]||colspan=&quot;2&quot;|みのり||源氏51歳||&amp;nbsp;<br /> |-<br /> |40||41||colspan=&quot;2&quot;|[[幻_(源氏物語)|幻]]||colspan=&quot;2&quot;|まぼろし||源氏52歳の一年間||&amp;nbsp;<br /> |-<br /> |41||-||colspan=&quot;2&quot;|[[雲隠]]||colspan=&quot;2&quot;|くもがくれ||-||本文なし。光源氏の死を暗示。以上第二部<br /> |-<br /> | colspan=&quot;2&quot;|42||colspan=&quot;2&quot;|[[匂宮]]&lt;br /&gt;匂兵部卿||colspan=&quot;2&quot;|におう(の)みや&lt;br /&gt;におうひょうぶきょう||[[薫]]14歳-20歳||&amp;nbsp;<br /> |-<br /> | colspan=&quot;2&quot;|43||colspan=&quot;2&quot;|[[紅梅_(源氏物語)|紅梅]]||colspan=&quot;2&quot;|こうばい||薫24歳春||匂宮の並びの巻<br /> |-<br /> | colspan=&quot;2&quot;|44||colspan=&quot;2&quot;|[[竹河]]||colspan=&quot;2&quot;|たけかわ||薫14,5歳-23歳||匂宮の並びの巻<br /> |-<br /> | colspan=&quot;2&quot;|45||colspan=&quot;2&quot;|[[橋姫 (源氏物語)|橋姫]]||colspan=&quot;2&quot;|はしひめ||薫20歳-22歳||以下宇治十帖<br /> |-<br /> | colspan=&quot;2&quot;|46||colspan=&quot;2&quot;|[[椎本]]||colspan=&quot;2&quot;|しいがもと||薫23歳春-24歳夏||&amp;nbsp;<br /> |-<br /> | colspan=&quot;2&quot;|47||colspan=&quot;2&quot;|[[総角 (源氏物語)|総角]]||colspan=&quot;2&quot;|あげまき||薫24歳秋-冬||&amp;nbsp;<br /> |-<br /> | colspan=&quot;2&quot;|48||colspan=&quot;2&quot;|[[早蕨]]||colspan=&quot;2&quot;|さわらび||薫25歳春||&amp;nbsp;<br /> |-<br /> | colspan=&quot;2&quot;|49||colspan=&quot;2&quot;|[[宿木]]||colspan=&quot;2&quot;|やどりぎ||薫25歳春-26歳夏||&amp;nbsp;<br /> |-<br /> | colspan=&quot;2&quot;|50||colspan=&quot;2&quot;|[[東屋 (源氏物語)|東屋]]||colspan=&quot;2&quot;|あずまや||薫26歳秋||&amp;nbsp;<br /> |-<br /> | colspan=&quot;2&quot;|51||colspan=&quot;2&quot;|[[浮舟 (源氏物語)|浮舟]]||colspan=&quot;2&quot;|うきふね||薫27歳春||&amp;nbsp;<br /> |-<br /> | colspan=&quot;2&quot;|52||colspan=&quot;2&quot;|[[蜻蛉_(源氏物語)|蜻蛉]]||colspan=&quot;2&quot;|かげろう||薫27歳||&amp;nbsp;<br /> |-<br /> | colspan=&quot;2&quot;|53||colspan=&quot;2&quot;|[[手習 (源氏物語)|手習]]||colspan=&quot;2&quot;|てならい||薫27歳-28歳夏||&amp;nbsp;<br /> |-<br /> | colspan=&quot;2&quot;|54||colspan=&quot;2&quot;|[[夢浮橋]]||colspan=&quot;2&quot;|ゆめのうきはし||薫28歳||以上宇治十帖。以上第三部<br /> |}<br /> 以上の54帖の現在伝わる巻名は、紫式部自身がつけたとする説&lt;ref&gt;玉上琢弥「源氏物語の巻名その他 河海抄疏-(一)-」『言語と文芸』1960年(昭和35年)10月。 のち『源氏物語研究』および『源氏物語評釈 別巻1 源氏物語研究』角川書店、1980年(昭和55年)&lt;/ref&gt;と後世の人々がつけたとする説&lt;ref&gt;池田亀鑑「総記 三 巻名と巻序」池田亀鑑編『源氏物語事典』東京堂出版 1960年(昭和35年)(合本は1987年(昭和62年)3月15日刊) ISBN 4-4901-0223-2 &lt;/ref&gt;が存在する。作者自身が付けたのかどうかについて、直接肯定ないし否定する証拠はみつかっていない。現在伝わる巻名にはさまざまな異名や異表記が存在し、もし作者が定めた巻名があるのならこのように多様な呼び方は生じないので、現在伝わる巻名は後世になって付けられたものであろうと考えられる。しかし一方で、本文中(手習の巻)に現れる「夕霧」(より正確には「夕霧の御息所」)という表記が、「夕霧」という巻名に基づくとみられるとする理由により、少なくとも夕霧を初めとするいくつかの巻名は作者自身が名付けたものであろうとする見解もある。<br /> <br /> 源氏物語の巻名は、後世になって、[[源氏物語巻名歌|巻名歌]]の題材にされたり、[[香道#源氏香|源氏香]]や[[投扇興]]の点数などに使われたり、女官や[[遊女]]が好んで名乗ったりした([[源氏名]])。<br /> <br /> ==== 巻名の表記 ====<br /> 実際の古写本や古注釈での巻名の表記には次のようなものがある。<br /> * 仮名書きされているもの<br /> * 部分的に漢字表記になっているもの<br /> **「はゝき木(陽明文庫本)」箒木、「すゑつむ花(陽明文庫本)」末摘花、「もみちの賀(源氏釈)」紅葉賀、「花のゑん(源氏釈)」花宴、「絵あはせ(源氏釈)」絵合、「とこ夏(奥入)」常夏、「うき舟(奥入)」浮舟、「あつま屋(源氏釈)」東屋<br /> * 当て字を使用しているもの<br /> **「陬麻(奥入)」、「陬磨(原中最秘抄)」須磨、「未通女(奥入)」、「乙通女(河海抄)」乙女<br /> * 異表記と見られるもの<br /> **「賢木」と「榊」、「朝顔」と「槿」、「乙女」と「少女」、「匂兵部卿」と「匂宮」、「寄生」と「宿木」<br /> <br /> それ以外に、「桐壺」に対する「壺前栽」、「賢木」に対する「松が浦島」、「明石」に対する「浦伝」、「少女」に対する「日影」といった大きく異なる異名を持つものもある。<br /> <br /> ==== 巻名の由来 ====<br /> 現在一般的に源氏物語の巻名の由来は次のようにいくつかに分けて考えられている&lt;ref&gt;池田亀鑑「総記 三 巻名と巻序」『源氏物語事典』東京堂出版、1956年(昭和31年)。&lt;/ref&gt;。これは室町時代の注釈書『[[花鳥余情]]』に始まりいくつかの修正を受けながらも現在でも主流とされている考え方ではあるが疑問も唱えられている&lt;ref&gt;清水婦久子「源氏物語の巻名の由来 その諸問題」青須我波良、第59号 2004年(平成16年)3月、pp.. 1-38。 &lt;/ref&gt;。<br /> ;その巻の中で使用されている言葉に由来するもの。<br /> :「桐壺」、「関屋」、「野分」、「梅枝」、「藤裏葉」、「匂宮」、「紅梅」、「手習」など。<br /> ;その巻に中の和歌の文句に由来するもの。<br /> :「帚木」、「空蝉」、「若紫」、「葵」、「花散里」、「澪標」、「松風」、「薄雲」、「玉鬘」、「行幸」、「横笛」、「夕霧」、「御法」、「幻」、「橋姫」、「椎本」、「宿木」、「浮舟」など。<br /> ;その巻の中に使用され、和歌の題材にもなっているもの。<br /> :「夕顔」、「末摘花」、「賢木」、「須磨」、「明石」、「蓬生」、「松風」、「朝顔」、「少女」、「初音」、「胡蝶」、「蛍」、「常夏」、「篝火」、「藤袴」、「若菜」、「柏木」、「鈴虫」、「竹河」、「総角」、「早蕨」、「東屋」、「蜻蛉」<br /> ;他の巻に見える言葉に由来するもの。<br /> :「紅葉賀」<br /> ;巻の中の語句を転用したもの。<br /> :「花宴」<br /> ;巻の中で描かれている出来事に由来するもの。<br /> :「絵合」<br /> ;巻の主題とおぼしき語句を用いたもの。<br /> :「夢浮橋」<br /> ;本文そのものが存在しないもの。<br /> :「雲隠」<br /> <br /> == 成立・生成・作者に関する諸説 ==<br /> 現在では3部構成説(第1部:「桐壺」から「藤裏葉」までの33帖、第2部:「若菜上」から「幻」までの8帖、第3部:「匂宮」から「夢浮橋」までの13帖)が定説となっているが、その成立・生成・作者・原形態に関しては古くから様々な議論がなされてきた。以下に、特に重要であろうと思われるものを掲げる。<br /> <br /> === 作者は誰か ===<br /> ==== 通説 ====<br /> [[File:Tosa Mitsuoki 001.jpg|180px|thumb|紫式部([[土佐光起]]画)]]<br /> [[一条天皇]][[中宮]]・[[藤原彰子]]([[藤原道長]]の長女)に[[女房]]として仕えた&#039;&#039;&#039;[[紫式部]]&#039;&#039;&#039;が作者というのが通説である&lt;ref&gt;池田亀鑑「総記 八 作者」『合本 源氏物語事典』&lt;/ref&gt;。物語中に「作者名」は書かれていないが、以下の文から作者は紫式部だろうと言われている。<br /> <br /> * 『紫式部日記』(写本の題名は全て『紫日記』)中に自作の根拠とされる次の3つの記述<br /> ** [[藤原公任]]の 源氏の物語の若紫 という呼びかけ。<br /> ** [[一条天皇]]の「源氏の物語の作者は[[日本紀]]をよく読んでいる」という述懐により日本紀の御局と呼ばれたこと。<br /> ** [[藤原道長]]が源氏の物語の前で好色の歌を日記作者に詠んだこと。<br /> * [[尊卑分脈]]の註記<br /> * 後世の源氏物語註釈書<br /> <br /> {{Cquote|「左衛門督 あなかしここのわたりに若紫やさぶらふ とうかがひたまふ 源氏にかかるへき人も見えたまはぬにかの上はまいていかでものしたまはむと聞きゐたり」|4=底本、宮内庁蔵『紫日記』黒川本}}<br /> {{Cquote|「内裏の上の源氏の物語人に読ませたまひつつ聞こしめしけるに この人は日本紀をこそよみたまへけれまことに才あるべし とのたまはせけるをふと推しはかりに いみじうなむさえかある と殿上人などに言ひ散らして日本紀の御局ぞつけたりけるいとをかしくぞはべる」|4=底本、宮内庁蔵『紫日記』黒川本}}<br /> {{Cquote|「源氏の物語御前にあるを殿の御覧じて 例のすずろ言ども出で来たるついでに梅の下に敷かれたる紙に書かせたまへる すきものと名にしたてれば見る人の折らで過ぐるはあらじとぞ思ふ たまはせたれば 人にまだ折られぬものをたれかこのすきものぞとは口ならしけむ めざましう と聞こゆ」|4=底本、宮内庁蔵『紫日記』黒川本}}<br /> {{Cquote|「上東門院女房 歌人 紫式部是也 源氏物語作者 或本雅正女云々 為時妹也云々 御堂関白道長妾」|4=『新編纂図本朝尊卑分脉系譜雑類要集』}}<br /> <br /> 紫式部ひとりが書いたとする説の中にも以下の考え方がある。<br /> *短期間に一気に書き上げられたとする考え方<br /> *長期間にわたって書き継がれてきたとする考え方。この場合はその間の紫式部の環境の変化(結婚、出産、夫との死別、出仕など)が作品に反映しているとするものが多い。<br /> <br /> ==== 異説 ====<br /> 光源氏のモデルと言われる[[源高明]]自身が作者という説がある。<br /> <br /> 推理作家の藤本泉は[[1962年]](昭和37年)の小説&lt;ref&gt;「クロノプラスティック1008年」同人誌 現象 {{Cite book|和書<br /> |author=藤本泉<br /> |year=1986<br /> |title=一〇〇八年源氏物語の謎<br /> |pages=6-101<br /> |publisher=旺文社<br /> |isbn=4-01-061489-7<br /> }}に収録&lt;/ref&gt;をはじめとして『源氏物語』多数作者説をとっていた。その中の著作&lt;ref&gt;{{Cite book|和書<br /> |author=藤本泉<br /> |year=1980<br /> |title=源氏物語の謎 千年の秘密を いま解明する<br /> |pages=166-178<br /> |publisher=祥伝社<br /> }}&lt;/ref&gt;で桐壺など「原 源氏物語」を源高明とその一族が書いたと仮定していたが、続く著作&lt;ref&gt;{{Cite book|和書<br /> |author=藤本泉<br /> |year=1986<br /> |title=歴史推理 王朝才女の謎 紫式部複数説<br /> |pages=152-153<br /> |publisher=徳間書店<br /> |isbn=4-19-568049-2<br /> }}&lt;/ref&gt;において源高明説が弱いことを認めており、同著で他の複数作者の推定を行っている。<br /> 作者は紫式部ではないとする説の根拠の一部は以下の通り。<br /> <br /> * 藤原道長を始めとする当時の何人もの人物がもてはやしたとされる作品であるにもかかわらず、当事者の記録とされている『紫式部日記』(原題『紫日記』)(藤本泉はこの『紫日記』も紫式部の作ではないとしている)を除くと、当時、数多く存在した公的な記録や日記などの私的な記録に一切記述がない。<br /> * 現実とは逆に、常に藤原氏が敗れ、源氏が政争や恋愛に最終的に勝利する話になっており、藤原氏の一員である紫式部が書いたとするのは不自然である。{{main|#藤原氏と源氏}}<br /> * 作中で描かれている[[妊娠]]や[[出産]]に関する話の中には、女性(特に、子供を産んだ経験のある女性)が書いたとするにはあり得ない矛盾がいくつも存在する。<br /> * 女性の手による作品のはずなのに、作中に婦人語と呼べるものがまったくみられない。<br /> * 源氏物語の中において描かれている時代が紫式部の時代より数十年前の時代と考えられる。<br /> * 紫式部の呼び名の元になった父親(式部大丞の地位に就いていた)を思わせる「藤式部丞」なる者が、帚木の帖の雨夜の品定めのシーンにおいて最も愚かな内容の話をする役割を演じており、紫式部が書いたとするには不自然である。<br /> <br /> ==== 一部別作者説 ====<br /> 『源氏物語』の大部分が紫式部の作品であるとしても、一部に別人の手が加わっているのではないかとする説は古くから存在する。<br /> <br /> 古注の[[一条兼良]]の『花鳥余情』に引用された『宇治大納言物語』には、『源氏物語』は紫式部の父である[[藤原為時]]が大筋を書き、娘の紫式部に細かいところを書かせたとする伝承が記録されている。『河海抄』には[[藤原行成]]が書いた『源氏物語』の写本に藤原道長が書き加えたとする伝承が記録されている。一条兼良の『花鳥余情』、[[一条冬良]]の『世諺問答』などには宇治十帖が紫式部の作ではなくその娘である[[大弐三位]]の作であるとする伝承が記録されている。これらの伝承に何らかの事実の反映を見る説も多いものの、池田亀鑑はこれらの親子で書き継いだとする説は、『[[漢書]]』について前半を[[班彪]]が書き、残りを子の[[班固]]が書き上げたという故事にちなんだもので、事実とは何の関係もないとの見解を示している&lt;ref&gt;池田亀鑑『源氏物語入門 新版』pp. 23-24 &lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 近代に入ってからも、さまざまな形で「源氏物語の一部分は紫式部の作ではない」とする説が唱えられてきた。<br /> <br /> [[与謝野晶子]]は筆致の違いなどから「[[若菜 (源氏物語)|若菜]]」以降の全巻が大弐三位の作であるとした&lt;ref&gt;与謝野晶子「紫式部新考」『太陽』[[1928年]](昭和3年)1月・2月号のち『与謝野晶子選集4』(春秋社)に所収&lt;/ref&gt;。 和辻哲郎は、「大部分の作者である紫式部と誰かの加筆」といった形ではなく、「一つの流派を想定するべきではないか」としている&lt;ref&gt;和辻哲郎「源氏物語について」『思想』1922年(大正11年)11月「日本精神史研究」所収『和辻哲郎全集第四巻』(岩波書店 1962年)所収&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 第二次世界大戦後になって、登場人物の官位の矛盾などから、[[武田宗俊]]らによる「[[竹河]]」の巻別作者説といったものも現れた&lt;ref&gt;武田宗俊「源氏物語の研究」(岩波書店、1954年)&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> これらのさまざまな別作者論に対して、[[ジェンダー]]論の立場から、『源氏物語』は紫式部ひとりで全て書き上げたのではなく別人の手が加わっているとする考え方は、すべて「紫式部ひとりであれほどのものを書き上げられたはずはない」とする女性蔑視の考え方に基づくものであるとするとして、「ジェンダーの立場から激しく糾弾されなければならない」とする見解も出現した&lt;ref&gt;[[三谷邦明]]「成立構想論における女性蔑視 方法論によるとらえ直し」『国文学解釈と鑑賞別冊 源氏物語をどう読むか』 1986年所収&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> [[阿部秋生]]は、『[[伊勢物語]]』、『[[竹取物語]]』、『[[平中物語]]』、『[[うつほ物語]]』、『[[落窪物語]]』、『[[住吉物語]]』など当時存在した多くの物語の加筆状況を調べた上で、『そもそも、当時の「物語」はひとりの作者が作り上げたものがそのまま後世に伝えられるというのはむしろ例外であり、ほとんどの場合は別人の手が加わった形のものが伝えられており、何らかの形で別人の手が加わって後世に伝わっていくのが物語のとって当たり前の姿である』として、「源氏物語だけがそうでないとする根拠は存在しない」との見解を示した&lt;ref&gt;阿部秋生「物語の増補・改訂」「岩波セミナーブックス41 源氏物語入門」P137~(岩波書店、1992年(平成4年)9月7日) ISBN 4-00-004211-4&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> [[計量文献学]]により文体、助詞・助動詞など単語の使い方について統計学的手法による分析・研究が進められている&lt;ref&gt;{{Cite journal|和書<br /> |author=安本美典<br /> |authorlink=安本美典<br /> |year= 1958<br /> |title=文体統計による作者推定について-源氏物語・宇治十帖の作者について<br /> |journal=心理学評論<br /> |volume=2<br /> |issue=1<br /> |pages=147-156ページ<br /> |publisher=心理学評論刊行会<br /> }}&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;{{Cite journal|和書<br /> |author=安本美典<br /> |authorlink=安本美典<br /> |year= 1961<br /> |month=6<br /> |title=文章心理学の新領域<br /> |journal=国語学<br /> |url=http://ci.nii.ac.jp/naid/40001286568<br /> |publisher日本語学会<br /> |accessdate=2010-07-22<br /> }}&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;{{Cite journal|和書<br /> |author=安本美典<br /> |authorlink=安本美典<br /> |year= 1983<br /> |month=4<br /> |title=宇治十帖の作者-文章心理学による作者推定<br /> |journal=文学・語学<br /> |publisher=朝倉書店<br /> |url=http://ci.nii.ac.jp/naid/10004652145<br /> |accessdate=2010-07-22<br /> }}&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;{{Cite web<br /> |author=新井皓士<br /> |date=1997-03-01<br /> |url=http://hermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/rs/bitstream/10086/10768/1/ronso1170300010.pdf<br /> |title=源氏物語・宇治十帖の作者問題:一つの計量言語学的アプローチ<br /> |format=PDF<br /> |publisher=[[一橋大学]]<br /> |accessdate=2010-07-22<br /> }}&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;{{Cite book|和書<br /> |author=村上征勝<br /> |year=2004<br /> |title=シェークスピアは誰ですか? 計量文献学の世界<br /> |pages=125-153<br /> |publisher=文藝春秋<br /> |isbn=4-16-660406-6<br /> }}&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> ==== 執筆期間・執筆時期 ====<br /> 源氏物語が紫式部によって「いつ頃」、「どのくらいの期間かけて」執筆されたのかについて、いつ起筆されたのか、あるいはいつ完成したのかといった、その全体を直接明らかにするような史料は存在しない。紫式部日記には、[[寛弘]]5年([[1008年]])に源氏物語と思われる物語の冊子作りが行われたとの記述があり、その頃には源氏物語のそれなりの部分が完成していたと考えられる。[[安藤為章]]は、『[[紫家七論]]』([[元禄]]16年([[1703年]])成立)において、「源氏物語は紫式部が[[寡婦]]となってから出仕するまでの3、4年の間に大部分が書き上げられた」とする見解を示したが、これはさまざまな状況と符合することもあって有力な説になった。しかし、その後、これほどに長い物語を書き上げるためには当然長い期間が必要であると考えられるだけでなく、前半部分の諸巻と後半部分の諸巻との間に明らかな筆致の違いが存在することを考えると、執筆期間はある程度の長期にわたると考えるべきであるとする説や、結婚前、父に従って越前国に赴いていた時期に書き始められたとする説や作中の出来事が当時の実際に起きたさまざまな事実を反映しており最終的な完成時期をかなり引き下げる説も唱えられるようになってきた&lt;ref&gt;堀内秀晃「紫式部諸説一覧 七 源氏物語執筆開始の時期」阿部秋生編『諸説一覧源氏物語』明治書院、1970年(昭和45年)8月、pp.344-345。&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;堀内秀晃「紫式部諸説一覧 11 源氏物語の完成」阿部秋生編『諸説一覧源氏物語』明治書院、1970年(昭和45年)8月、pp.350-352。&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 一方で、必ずしも長編の物語であるから長い執筆期間が必要であるとはいえず、数百人にも及ぶ登場人物が織りなす長編物語が矛盾無く描かれているのは短期間に一気に書き上げられたからであると考えるべきであるとする説もある&lt;ref&gt;池田亀鑑「総記 十三 執筆期間」『合本 源氏物語事典』&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> ==== 執筆動機 ====<br /> なぜ、紫式部はこれほどの長編を書き上げるに至ったのかという点についても、直接明らかにした資料は存在せず、古くからさまざまに論じられている。古注には、<br /> *[[村上天皇]]の皇女[[選子内親王]]から新しい物語を所望されて書き始めたとする『無名草子』に記されている説<br /> *藤原氏により左遷された[[源高明]]の鎮魂のために藤原氏一族である紫式部に書かせたという『河海抄』に記されている説<br /> などがある。近代以降にも、<br /> *作家としての文才や創作意欲を満たすため<br /> *寡婦としての寂しさや無聊を慰めるため<br /> *式部の父がその文才で官位を得たように式部が女房になるため<br /> といったさまざまな説が唱えられている&lt;ref&gt;池田亀鑑「総記 十二 執筆動機について」『合本 源氏物語事典』&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> === 巻数は、いくつか ===<br /> ==== 通説 ====<br /> 現在、『源氏物語』は一般に54帖であるとされている。ただし54帖の中でも「雲隠」は題のみで本文が伝存しない。そのため、この54帖とする数え方にも以下の2つの数え方がある。<br /> *巻名のみの「雲隠」を含め「若菜」を上下に分けずに54帖とする。中世以前によく行われたとされる。<br /> *「雲隠」を除き、「若菜」を上下に分けて54帖とする。中世以後に有力になった。<br /> <br /> [[鎌倉時代]]以前には、『源氏物語』は「雲隠」を含む37巻と「並び」18巻とに分けられており、並びの巻を含めない37巻という数え方が存在し、さらに、宇治十帖全体を一巻に数えて全体を28巻とする数え方をされることもあった。37巻とする数え方は仏体37尊になぞらえたもので、28巻とする数え方は[[法華経]]28品になぞらえたものであると考えられている。これらはいずれも数え方が異なるだけであって、その範囲が現在の『源氏物語』と異なるわけではない。<br /> <br /> それらとは別に、現在、存在しない巻を含めるなどによって別の巻数を示す資料も存在する。<br /> <br /> ==== 失われた巻々 ====<br /> かつて、『源氏物語』には、現在は存在しないいくつかの「失われた巻々」が存在したとする説がある。そもそも、最初から54帖であったかどうかというそのこと自体がはっきりしない。<br /> <br /> 現行の本文では、<br /> *光源氏と藤壺が最初に関係した場面<br /> *六条御息所との馴れ初め<br /> *朝顔の斎院が初めて登場する場面<br /> に相当する部分が存在せず、位置的には「桐壺」と「帚木」の間にこれらの内容があってしかるべきであるとされる(現に、この脱落を補うための帖が後世の学者によって幾作か書かれている)。藤原定家の記した「奥入」にはこの位置に「&#039;&#039;&#039;[[輝く日の宮]]&#039;&#039;&#039;(かがやくひのみや)」という帖がかつてはあったとする説が紹介されており、池田亀鑑や[[丸谷才一]]のようにこの説を支持する人も多い。つまり、「輝く日の宮」については、<br /> *もともとそのような帖はなく作者は1-3のような描写をあえて省略した<br /> *「輝く日の宮」は存在したがある時期から失われた<br /> *一度は「輝く日の宮」が書かれたが、ある時期に作者の意向もしくは作者の近辺にいた人物と作者の協議によって削除された(丸谷才一は藤原道長の示唆によるものとする)<br /> <br /> の3説があることになる。「輝く日の宮」は「桐壺」の巻の別名であるとする説もある。<br /> <br /> それ以外にも、故実書の一つ『[[白造紙]]』に含まれる「[[源氏物語巻名目録]]」に、「サクヒト」、「[[狭筵|サムシロ]]」、「スモリ」といった巻名が、また、[[藤原為氏]]の書写と伝えられる[[源氏物語古系図]]に、「[[法の師]]」、「[[巣守]]」、「[[桜人]]」、「ひわりこ」といった巻名がみえるなど、古注や古系図の中にはしばしば現在みられない巻名や人名がみえるため、「輝く日の宮」のような失われた巻が他にもあるとする説がある。当時の人々はこのような外伝的な巻々まで含めたものまでを源氏物語として扱っていたとみられるため、このような形の源氏物語を「[[源氏物語の類]]」といった形で把握する説もある。この他、『更級日記』では『源氏物語』の巻数を「五十余巻(よかん)」としているが、これが54巻を意味しているのかどうかについても議論がある。<br /> <br /> [[2009年]](平成21年)11月には「巣守帖」と思われる写本の一部が[[中央大学]]教授の池田和臣によって発見されたと報道されており、今後の研究が待たれる&lt;ref&gt;{{Cite news<br /> |url = http://www.yomiuri.co.jp/national/culture/news/20091102-OYT1T00017.htm<br /> |title = 源氏物語、幻の続編「巣守帖」か…写本確認<br /> |newspaper = [[読売新聞]]<br /> |date = 2009-11-02<br /> |accessdate = 2009-11-02<br /> }}&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> ==== 源氏物語60巻説 ====<br /> {{main|源氏物語60巻説}}<br /> 『[[無名草子]]』や『[[今鏡]]』、『[[源氏一品経]]』、『[[光源氏物語本事]]』のように、古い時代の資料に『源氏物語』を60巻であるとする文献がいくつか存在する。一般的には、この60巻という数字は[[仏教経典]]の[[天台]]60巻になぞらえた抽象的な巻数であると考えられているが、この推測はあくまで「60巻という数字が事実でなかった場合、なぜ(あるいはどこから)60巻という数字が出てきたのか」の説明に過ぎず、60巻という数字が事実でないという根拠が存在するわけではない。<br /> <br /> この「『源氏物語』が全部で60巻からなる」という伝承は、「源氏物語は実は60帖からなり、一般に流布している54帖の他に秘伝として伝えられ、許された者のみが読むことが出来る6帖が存在する」といった形で一部の古注釈に伝えられた。源氏物語の注釈書においても、一般的な注釈を記した「水原抄」に対して秘伝を記した「原中最秘抄」が別に存在するなど、この時代にはこのようなことはよくあることであったため、「源氏物語本文そのものに付いてもそのようなことがあったのだろう」と考えられたらしく、秘伝としての源氏物語60巻説は広く普及することになり、後に、多くの影響を与えた。例えば、『源氏物語』の代表的な補作である「雲隠六帖」が6巻からなるのも、もとからあった54帖にこの6帖を加えて全60巻になるようにするためだと考えられており、江戸時代の代表的な『源氏物語』の刊本をみても、<br /> * 『[[絵入源氏物語]]』は『源氏物語』本文54冊に、「源氏目案」3冊、「引歌」1冊、「系図」1冊、「山路露」1冊を加えて<br /> * 『源氏物語[[湖月抄]]』は「若菜」上下と「雲隠」を共に数に入れた源氏物語本文55冊に「系図」、「年立」などからなる「首巻」5冊を加えて<br /> いずれも全60冊になる形で出版されている。<br /> <br /> ==== 並びの巻 ====<br /> {{seealso|本の巻・並びの巻}}<br /> 『源氏物語』には[[並びの巻]]と呼ばれる巻が存在する。『源氏物語』は[[鎌倉時代]]以前には「雲隠」を含む37巻と「並び」18巻とに分けられていた。並びがあるものは、他に、『[[うつほ物語]]』、『[[浜松中納言物語]]』がある。このことに対して、「奥入」と鎌倉時代の文献『弘安源氏論議』において、その理由が不審である旨が記されている。帖によっては登場人物に差異があり、話のつながりに違和感を覚える箇所があるため、ある一定の帖を抜き取ると話がつながるという説がある。その説によれば、紫式部が作ったのが37巻の部分で、残りの部分は後世に[[仏教]]色を強めるため、読者の嗜好の変化に合わせるために書き加えられたものだとしている。<br /> <br /> ==== 並びの巻に関する寺本直彦の説 ====<br /> 『源氏物語』の巻名の異名は次の通りであるが、<br /> <br /> # 桐壺 - 壺前栽<br /> # 賢木 - 松が浦島<br /> # 明石 - 浦伝<br /> # 少女 - 日影<br /> # 若菜(上‐箱鳥、下‐諸鬘、上下‐諸鬘)<br /> # 匂宮 - 薫中将<br /> # 橋姫 - 優婆塞<br /> # 宿木 - [[貌鳥]]<br /> # 東屋 - [[狭筵|狭蓆]]<br /> # 夢浮橋 - [[法の師]]<br /> <br /> 寺本は8で「貌鳥」を並の巻の名とする諸書の記述に注目し、「貌鳥」は現在の「宿木」巻の後半ないし末尾であったことを明らかにし、5「若菜」に対する「諸鬘」なども同様であったと推論した。 その他に、1、10もそれぞれ、「桐壺」が「桐壺」と「壺前栽」、「夢浮橋」が「夢浮橋」と「法の師」に二分されていたことを示すもので、また、『奥入』の「空蝉」巻で、<br /> <br /> 一説には、二(イ巻第二)かヽやく日の宮&lt;small&gt;このまきなし(イこのまきもとよりなし)。&lt;/small&gt;ならひの一はヽ木ヽ&lt;small&gt;うつせみはおくにこめたり(イこのまきにこもる)。&lt;/small&gt;<br /> <br /> という記述についても、「輝く日の宮」が別個にあるのではなく、それは現在の「桐壺」巻の第3段である藤壺物語を指し、「輝く日の宮」を「桐壺」巻から分離し第2巻とし、これを[[本の巻]]とし、「空蝉」巻を包含した形の「帚木」巻と「夕顔」巻とをそれぞれ並一・並二として扱う意味であると理解しようとした。 寺本は、結論として、並とは本の巻とひとそろい、ひとまとめになることを示し、巻々をわけ、合わせる組織・構成に関係づけた&lt;ref&gt;寺本直彦「源氏物語目録をめぐって -異名と并び-」」『文学・語学』1978年(昭和53年)6月号のち『源氏物語受容史論考 続編』風間書房、1984年1月、pp.. 645-681。&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;寺本直彦「源氏物語目録続考 -「さむしろ」と「ならび」の一異説とについて-」源氏物語探求会編『源氏物語の探求 第四編』風間書房、1979年(昭和54年)4月、pp. 37-67。のち『源氏物語受容史論考 続編』風間書房、1984年(昭和59年)1月、pp. 682-713。&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> === 巻々の執筆・成立順序 ===<br /> 『源氏物語』の巻々が執筆された順序については「桐壺」から始まる現在読まれている順序で書かれたとするのが一般的な考えであるが、かならずしもそうではないとする見方も古くからさまざまな形で存在する。<br /> <br /> 古注の『[[源氏物語のおこり]]』や『河海抄』などには、『源氏物語』が、現在、冒頭に置かれている「桐壺」の巻から書き始められたのではなく、[[石山寺]]で「須磨」の巻から起筆されたとする伝承が記録されている。ただし、これらの伝承は「紫式部が[[源高明]]の死を悼んで『源氏物語』を書き始めた」とするどう考えても歴史的事実に合わない説話や、紫式部が[[菩薩]]の化身であるといった中世的な神秘的伝承と関連づけて伝えられることも多かったため、古くからこれを否定する言説も多く、近世以降の『源氏物語』研究においては『源氏物語』の成立や構成を考えるための手がかりとされることはなかった。<br /> <br /> [[与謝野晶子]]は、『源氏物語』は「帚木」巻から起筆され、「桐壺」巻は後になって書き加えられたのであろうとする説を、『源氏物語』の全体を二分して後半の始まりである「若菜」巻以降を紫式部の作品ではなくその娘である[[大弐三位]]の作品であろうとする見解とともに唱えた&lt;ref&gt;[[与謝野晶子]]「紫式部新考」『太陽』[[1928年]](昭和3年)1月・2月号、のち『与謝野晶子選集4』([[春秋社]])に所収&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> [[和辻哲郎]]は、「帚木」巻の冒頭部の記述についての分析などから、「とにかく現存の源氏物語が桐壺より初めて現在の順序のままに序を追うて書かれたものではないことだけは明らかだと思う」と結論付けた&lt;ref&gt;和辻哲郎「源氏物語について」『思想』1922年(大正11年)11月、のち「[[日本精神史研究]]」『和辻哲郎全集第四巻』([[岩波書店]] 1962年(昭和37年))に所収&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> [[阿部秋生]]は「桐壺」巻から「初音」巻までについて、<br /> * まず、「若紫」、「紅葉賀」、「花宴」、「葵」、「賢木」、「花散里」、「須磨」の各巻が先に書かれ、<br /> * その後、「帚木」、「空蝉」、「夕顔」、「末摘花」が書かれた後に、「須磨」以後の巻が執筆され、<br /> * 「乙女」巻を書いた前後に「桐壺」巻が執筆された<br /> とする説を発表したが&lt;ref&gt;青柳(阿部)秋生「源氏物語の執筆の順序」『国語と国文学』1939年(昭和14年)8・9月&lt;/ref&gt;、玉上琢弥が部分的に賛同した以外は大きな影響を与えることはなかった&lt;ref&gt;玉上琢弥「源語成立攷」(「国語・国文」1940年(昭和15年)4月号、のち「源氏物語評釈 別巻」に収録)&lt;/ref&gt;。この他に、「桐壺」巻を後からの書き加えであるとする説には、藤田徳太郎の説&lt;ref&gt;藤田徳太郎『源氏物語綱要』不老閣書房、1928年(昭和3年)2月、p.480 &lt;/ref&gt;、「桐壺」巻のほか「帚木」巻も後から書き加えたとする[[佐佐木信綱]]の説&lt;ref&gt;[[佐佐木信綱]]「源氏物語の古写本その他」『国語と国文学』[[1925年]](大正14年)10月号 &lt;/ref&gt;がある。<br /> <br /> ==== 武田宗俊の第一部二系統説 ====<br /> [[武田宗俊]]は阿部秋生の仮説を『源氏物語』第一部全体に広げ、第一部の巻々を紫上系・玉鬘系の2つの系統に分類し、<br /> * 紫上系の巻だけをつなげても矛盾のない物語を構成し、[[おとぎ話]]的な「めでたしめでたし」で終わる物語になっている。武田はこれを『「原」源氏物語』であるとしている。<br /> * 紫上系の巻で起こった出来事は玉鬘系の巻に反映しているが、逆に、玉鬘系の巻で起こった出来事は紫上系の巻に反映しない。<br /> * 玉鬘系の巻はしばしば紫上系の巻と時間的に重なる描写がある。<br /> * 源氏物語第一部の登場人物は、紫上系の登場人物と玉鬘系の登場人物に明確に分けることができ、紫上系の登場人物は、紫上系・玉鬘系のどちらの巻にも登場するのに対して、玉鬘系の登場人物は玉鬘系の巻にしか登場しない。<br /> * 光源氏や紫上といった両系に登場する主要人物の呼称が紫上系の巻と玉鬘系の巻で異なる。<br /> * 紫上系の巻で光源氏と関係を持つのは紫の上・藤壺・六条御息所といった身分の高い「上の品」の女性達であり、玉鬘系の巻で光源氏と関係を持つのは空蝉・夕顔・玉鬘といった上の品より身分の低い「中の品」の女性達であるというように明確にわかれている。<br /> * 桐壺巻と帚木巻、夕顔巻と若紫巻など紫上系の巻から玉鬘系の巻に切り替わる部分や、逆に、玉鬘系の巻から紫上系の巻に切り替わる部分の描写に不自然な点が多い。<br /> * 紫上系の巻の文体や筆致等は素朴であり、玉鬘系の巻の描写は深みがある。これは後で書かれた玉鬘系の方がより作者の精神的成長を反映しているためであると考えると説明がつく。<br /> <br /> といったさまざまな理由から、『源氏物語』第一部はまず紫上系の巻が執筆され、玉鬘系の巻はその後に、一括して挿入されたものであるとした&lt;ref&gt;武田宗俊「源氏物語の最初の形態」『文学』1950年(昭和25年)6・7月『源氏物語の研究』(岩波書店、1954年(昭和29年))所収&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> ==== 武田説以後の諸説 ====<br /> [[風巻景次郎]]は、現在の『源氏物語』には存在しない「輝く日の宮の巻」と「桜人の巻」の存在を想定し、それによって武田説に存在した「並びの巻」と「玉鬘系」の「ずれ」を解消し、「並びの巻が玉鬘系そのものであり、後記挿入されたものである」とした&lt;ref&gt;風巻景次郎「源氏物語の成立に関する試論」(1951年(昭和26年))『風巻景次郎全集第4巻 源氏物語の成立』([[おうふう|桜楓社]]、1969年(昭和44年))所収&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> [[丸谷才一]]は[[大野晋]]との対談で、この説をさらに深め(1)b系は、空蝉、夕顔、末摘花、玉鬘を中心に源氏の恋の失敗を描いた帖であることが共通していること、(2)筆がa系よりもこなれており、叙述に深みがあることなどの点から、a系第一部の評価が高くなったのちに、今度は御伽噺の主人公のように完璧な光源氏(実際にa系の源氏はそう描かれている)の人間味を描くために書かれたのがb系ではないかと述べている。また、b系には、後に、「雨夜の品定め」と呼ばれる女性論や、「日本紀などはただかたそばぞかし」と源氏に語らせた物語論もあり、独自の見解を提唱している&lt;ref&gt;大野晋・丸谷才一対談『光る源氏の物語』(中公文庫、1994年(平成6年))/大野晋『源氏物語』(岩波書店、1984年(昭和59年).新版[[岩波現代文庫]]、2008年(平成20年))&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;丸谷才一『輝く日の宮』([[講談社]]、2003年(平成15年)、[[講談社文庫]]で再刊)&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 斎藤正昭は、玉鬘系の巻々のうち玉鬘十帖などは紫の上系の巻々より後に書かれたが、帚木三帖は逆に紫の上系の巻々より前に書かれたとした&lt;ref&gt;斎藤正昭「源氏物語成立研究 執筆順序と執筆時期」(笠間書院、2001年(平成13年)10月) ISBN 978-4-305-10341-3 &lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;「紫式部伝 源氏物語はいつ、いかにして書かれたか」(笠間書院、2005年(平成17年)5月) ISBN 978-4305702883 &lt;/ref&gt;。玉鬘系の巻々がいくつかに分割して挿入されたとする説には、この他に、伊藤博による帚木三帖と末摘花を葵帖着筆前の挿入、蓬生及び関屋を少女巻執筆後の後記挿入とする説&lt;ref&gt;伊藤博『武田宗俊説をめぐって』 『国文学解釈と鑑賞別冊 源氏物語をどう読むか』([[至文堂]]、1986年(昭和61年)4月5日)所収 &lt;/ref&gt;などがある。<br /> <br /> この他にも、武田説が出てからは、さまざまな論点から武田説と同様に、『源氏物語』が現行の巻の並び通りに執筆・成立されたのではないとする学説が続出した&lt;ref&gt;[[高橋和夫 (国文学者)|高橋和夫]]『源氏物語の主題と構想』(桜楓社、1966年(昭和41年))&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;[[森一郎]]「源氏物語初期構造の成立過程 ―ひびきあい連関する長編生成」『国文学解釈と鑑賞別冊 源氏物語をどう読むか』(至文堂、1986年(昭和61年)4月5日)所収&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;[[石田穣二]]「文体と批評と」『国文学解釈と鑑賞別冊 源氏物語をどう読むか』(至文堂、1986年(昭和61年)4月5日)所収&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> ==== 武田説批判 ====<br /> 武田説については、このように大きな影響力を持ち、多くの賛同者を得た一方で激しい批判も数多く受けた。批判を行った点は論者によってさまざまに異なるが、その主なものを挙げる。<br /> * 源氏物語には「本伝」と呼ぶべき部分と「外伝」と呼ぶべき部分が存在することは確かであるが、あくまで構想論上の問題として考えるべきものではあっても成立論の問題として考えるべきではないとするもの&lt;ref&gt;岡一男「源氏物語成立論批判」『国文学研究』第五編(早稲田大学国文学会)&lt;/ref&gt;<br /> * 武田説は近代的な合理主義を前提として議論を進めているが、そのような合理主義が源氏物語が成立した当時に通用するとは限らないとするもの&lt;ref&gt;秋山虔「源氏物語の成立・構想の問題 戦後の成立論の始発、武田・風巻・池田三氏の研究をめぐって」『源氏物語講座 第二巻』(有精堂、1971年(昭和46年))&lt;/ref&gt;<br /> * 「葵」巻の中に末摘花のことを指しているとされる一節があるなど、玉鬘系の人物が紫上系の巻に現れるといった点などの武田説の主張の根拠の事実認識に誤りがあるとするもの&lt;ref&gt;岡一男『源氏物語の基礎的研究』(東京堂出版、1966年)465~476頁&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;[[大西善明]]「光源氏の呼び名について」『平安文学研究』第8号(1952年)&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;[[長谷川和子]]『源氏物語の研究』(東宝書房、1957年(昭和32年))&lt;/ref&gt;。<br /> * 「玉鬘系の主要人物が紫上系に登場しないこと」などは構想論上の要請に基づくものとして説明できるとするもの&lt;ref&gt;[[中野幸一]]「改めて長編物語の成立を考えるために」『国文学解釈と鑑賞別冊 源氏物語をどう読むか』(至文堂、1986年(昭和61年)4月5日)所収&lt;/ref&gt;。<br /> * 根拠に描写がこなれているとか不自然であるとかいった主観的なものについては学問的に検証できるものではなく、武田論文においても具体的な検証は何も行われていないとするもの。<br /> * 『源氏物語』がどのような経過で成立したのかを根拠付ける外部資料は少なくとも今のところ存在せず、『更級日記』などの記述をみても、成立してほどない時期から、『源氏物語』は今のような五十四帖全てが完成した形で読まれてきたと考えられることから、たとえ『源氏物語』の成立過程がどのようなものであるにせよ、『源氏物語』の研究・鑑賞は五十四帖全てが完成した形での『源氏物語』に対して行われるべきである。『源氏物語』に、一見すると欠落している部分が存在するようにみえるのは、武田説が主張するような複雑な成立の経緯が存在するために起きた現象なのではなく、物語の中に、意図的に「描かれていない部分」を設けることによって、すべてを具体的に描くより豊かな世界を構成しようとする構想上の理由が原因であるとするもの&lt;ref&gt;玉上琢彌『源氏物語の構成-描かれ樽部分が描かれざる部分によって支えられていること-』『文学』1952年(昭和27年)6月号で発表。のち『源氏物語研究 源氏物語評釈別巻一』(角川書店、1966年(昭和41年))および『源氏物語音読論』(岩波現代文庫、2003年(平成15年)11月14日) ISBN 4-00-600115-0 所収&lt;/ref&gt;。<br /> * 成立論と構想論が明確に区別されず、混じり合って議論されていることを批判するもの&lt;ref&gt;[[森岡常夫]]「源氏物語の成立・構想論の研究」[[山岸徳平]]・[[岡一男]]監修『源氏物語講座第二巻 成立と構想』(有精堂、1971年(昭和46年)6月1日)所収&lt;/ref&gt;。<br /> * 紫上系と玉鬘系の間に質的な違いが存在することを認めつつも、そこから何らの証拠もないままで成立論に向かうのは「気ままな空想」に過ぎないとするもの&lt;ref&gt;高橋亨「成立論の可能性」『国文学解釈と鑑賞別冊 源氏物語をどう読むか』(至文堂、1986年(昭和61年)4月5日)所収&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> ==== その他の説 ====<br /> ;原『源氏物語』短編説<br /> :原『源氏物語』は、「若紫」、「蛍」程度の短編であるとの説。和辻哲郎による。<br /> ;後挿入説<br /> :一部の帖があとから挿入されたという説。「桐壺」1帖(室町時代の『[[源氏物語聞書]]』、与謝野晶子の説)、「帚木」・「空蝉」・「夕顔」3帖([[風巻景次郎]]の説)など。<br /> ;池田亀鑑の説<br /> :『源氏物語』は長編的な性格を持った巻々と短編的な性格を持った巻々から構成されており、長編的な性格を持った巻々は今並べられている順序で執筆されたと考えられるが、短編的性格を持った巻々は長編的な性格を持った巻々が一区切りついたところで、またはそれらと並行して書かれ、長編的な性格を持った巻々の間に後から挿入されたと考えられる&lt;ref&gt;池田亀鑑『源氏物語入門 新版』pp.. 126-129 &lt;/ref&gt;。<br /> <br /> === 第3部と宇治十帖 ===<br /> 「匂宮」巻以降は、源氏の亡き後、光源氏・頭中将の子孫たちのその後を記す。特に、最後の10帖は「&#039;&#039;&#039;宇治十帖&#039;&#039;&#039;」と呼ばれ&lt;ref&gt;玉上琢弥 『世界大百科事典』 429頁。&lt;/ref&gt;&lt;ref name=&quot;arasuji&quot;/&gt;、[[平安京|京]]と[[宇治市|宇治]]を舞台に、[[薫|薫の君]]・[[匂宮]]の2人の男君と宇治の三姉妹の恋愛模様を主軸にした仏教思想の漂う内容となっている。<br /> <br /> 第3部および宇治十帖については他作説が多い。主なものを整理すると以下のとおりとなる。<br /> <br /> * 「[[匂宮]]」、「[[紅梅 (源氏物語)|紅梅]]」、「[[竹河]]」は宇治十帖とともに後人の作を補入したものであるとの[[小林栄子]]による説。<br /> * 宇治十帖は大弐三位(紫式部の娘賢子)の作であるとする説。一条兼良の『花鳥余情』、一条冬良の『世諺問答』などによる。また、与謝野晶子は「若菜」以降の全巻が大弐三位の作であるとした。<br /> * 別人の作説 - 安本美典 文部省(現[[文部科学省]])の統計数理研究所(「雲隠」までと宇治十帖の[[名詞]]と[[助動詞 (国文法)|助動詞]]の使用頻度が明らかに異なるという研究結果による)&lt;ref&gt;安本美典「宇治十帖の作者─文章心理学による作者推定」(「文学・語学」第4号、1957年(昭和32年))&lt;/ref&gt;<br /> <br /> 通説では、第3部はおそらく式部の作(第2部執筆以降かなり長期間の休止を置いたためか、用語や雰囲気が相当に異なっているが、それをもって必ずしも他人の作とまでいうことはできない)というものである。また、研究者の間では、通説においても、「紅梅」、「竹河」はおそらく別人の作であるとされる(「竹河」については武田宗俊、与謝野晶子の説でもある)。<br /> <br /> === 主要テーマ(主題)の諸説 ===<br /> 「源氏物語の主題が何であるのか」については古くからさまざまに論じられてきたが、『源氏物語』全体を一言でいい表すような「主題」については、「[[もののあはれ]]」論がその位置に最も近いとはいえるものの、未だに広く承認された決定的な見解は存在しない。古注釈の時代には「天台60巻になぞらえた」とか「一心三観の理を述べた」といった[[仏教]]的観点から説明を試みたものや、『[[春秋]]』、『[[荘子]]』、『[[史記]]』といったさまざまな中国の古典籍に由来を求めた[[儒教]]的、[[道教]]的な説明も多くあり、当時としては主流にある見解といえた。『源氏物語』自体の中に儒教や仏教の思想が影響していることは事実としても、当時の解釈はそれらを教化の手段として用いるためという傾向が強く、物語そのものから出た解釈とはいいがたいこともあって、後述の「もののあはれ」論の登場以後は衰えることになった。<br /> <br /> これに対し、[[本居宣長]]は、『[[源氏物語玉の小櫛]]』 において、『源氏物語』を「外来の理論」である儒教や仏教に頼って解釈するべきではなく、『源氏物語』そのものから導き出されるべきであるとし、その成果として、「[[もののあはれ]]」論を主張した。この理論は源氏物語全体を一言でいい表すような「主題」として最も広く受け入れられることになった&lt;ref&gt;阿部秋生「物のあはれの論」『源氏物語入門』岩波セミナーブックス41(岩波書店、1992年(平成4年)9月7日) ISBN 4-00-004211-4 &lt;/ref&gt;。その後、明治時代に入ってから[[藤岡作太郎]]による「源氏物語の本旨は夫人の評論にある」といった理論が現れた&lt;ref&gt;藤岡作太郎「国文学全史 平安朝編」(東京開成館、1905年(明治38年))のち[[平凡社]][[東洋文庫 (平凡社)|東洋文庫]]や[[講談社学術文庫]]に収録&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 明治時代以後、[[坪内逍遥]]によって『[[小説神髄]]』が著されるなどして西洋の文学理論が導入されるに伴い、さまざまな試みがなされ、中には、部分的にはそれなりの成果を上げたものもあったものの、<br /> * そもそも、『源氏物語』に西洋の文学理論でいうところの「テーマ」が存在するのか。<br /> * 『源氏物語』に対して西洋の文学理論を適用すること、およびそれに基づく分析手法を用いた結果導き出された「テーマ」に意味があるのか<br /> <br /> といった前提が問い直されていることも多く、それぞれがそれぞれの関心に基づいて論じているという状況であり、『源氏物語』全体を一言で表すような主題を求める努力は続けられており、[[三谷邦明]]による反[[万世一系]]論や、[[鈴木日出男]]による源氏物語虚構論&lt;ref&gt;鈴木日出男「源氏物語虚構論」([[東京大学出版会]]、2003年(平成15年)2月20日) ISBN 978-4130800655&lt;/ref&gt;などのような一定の評価を受けた業績も現れてはいるものの、一方で、『源氏物語』には西洋の文学理論でいうところの「テーマ」は存在しないとする見解も存在する&lt;ref&gt;「四 主題」『日本古典文学全集 源氏物語一』(小学館、1970年(昭和45年))&lt;/ref&gt;など広く合意された結論が出たとはいえない状況である&lt;ref&gt;池田亀鑑「構想と主題」『源氏物語入門』([[社会思想社]][[現代教養文庫]]、1957年(昭和32年))&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;[[阿部好臣]]「主題」[[秋山虔]]編『源氏物語必携II』別冊国文学 No.13(学燈社、1982年(昭和57年)2月10日) &lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;[[長谷川政春]]「主題」秋山虔編『源氏物語事典』別冊国文学 No.36(学燈社、1989年(平成元年)5月10日)&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;[[増田繁夫]]「源氏物語作中人物論の視覚 主題論として」「国文学 解釈と鑑賞の研究」[[1991年]](平成3年)5月号 学燈社&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;秋山虔「源氏物語の主題」『新講 源氏物語を学ぶ人の為に』(世界思想社、1995年(平成7年)2月20日) ISBN 4-7907-0538-2&lt;/ref&gt;。『源氏物語』の、それぞれの部分についての研究がより精緻になるにしたがって、『源氏物語』全体に一貫した主題をみつけることは困難になり、「読者それぞれに主題と考えるものが存在することになる」という状況になる&lt;ref&gt;[[池田節子]]「主題」『源氏物語事典』[[林田孝和]]、[[竹内正彦]]、[[針本正行]]、[[植田恭代]]、[[原岡文子]]、[[吉井美弥子]]編(大和書房、2002年5月25日)ISBN 4-4798-4060-5 &lt;/ref&gt;。[[1998年]](平成10年)から[[1999年]](平成11年)にかけて風間書房から出版された『源氏物語研究集成』では、全15巻のうち冒頭の2巻を「源氏物語の主題」にあて、計17編の論文を収録しているが、『源氏物語』全体の主題について直接論じたものはなく、すべて「桐壺巻の主題」・「「帚木」三帖の主題」・「須磨・明石巻の主題」・「玉鬘十帖の主題」・「藤壺物語主題論」・「紫上物語の主題」・「六条御息所物語の主題」・「若菜上・下巻の主題と方法」・「明石君物語の主題」・「御法・幻巻の主題」・「柏木物語の主題」・「夕霧物語の主題」・「大君物語」・「宇治十帖における薫の主題」・「浮舟物語の主題」・「宇治の物語の主題」といった形で特定の巻または「○○物語」といった形でまとまって扱われることの多い、関連を持った一群の巻々についての主題を論じたものばかりである&lt;ref&gt;『源氏物語研究集成 第1巻 源氏物語の主題 上』(風間書房、1998年(平成10年)6月30日) ISBN 4-7599-1095-6 &lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;『源氏物語研究集成 第2巻 源氏物語の主題 下』(風間書房、1999年(平成11年)9月15日) ISBN 4-7599-1128-6 &lt;/ref&gt;。<br /> <br /> ==== 藤原氏と源氏 ====<br /> 『源氏物語』は、なぜ[[藤原氏]]全盛の時代に、かつて藤原一族が[[安和の変]]で失脚させた[[源氏]]を主人公にし、源氏が恋愛に常に勝ち、源氏の帝位継承をテーマとして描いたのか。初めてこの問いかけを行った藤岡作太郎は、「源氏物語の本旨は、夫人の評論にある」とした論の中で、政治向きに無知・無関心な女性だからこそこのような反藤原氏的な作品を書くことができたし、周囲からもそのことを問題にはされなかったのだとしたが、逆に池田亀鑑は、藤原氏の全盛時代という現実世界の中で生きながらも高邁な精神を持ち続けた作者紫式部が理想を追い求めた世界観の表れがこの『源氏物語』という作品であるとしている&lt;ref&gt;池田亀鑑「構想と主題」『源氏物語入門』(社会思想社現代教養文庫、1957年(昭和32年))pp. 169-170 &lt;/ref&gt;。この問題を取り上げた中には、<br /> * 『源氏物語』を著したのは藤原氏の紫式部ではなく多数の作者らであるとする、推理作家である[[藤本泉]]の説{{main|#異説}}<br /> * 恨みをはらんで失脚していった源氏の[[怨霊]]を静めるためであるという『[[逆説の日本史]]』などで論じた[[井沢元彦]]の説&lt;ref&gt;「源氏物語と菅原道真編」週刊ポスト1995年(平成7年)「逆説の日本史4 中世鳴動編」第3章(小学館、1996年(平成8年)6月)および(小学館文庫、1999年(平成11年)1月1日)に収録&lt;/ref&gt;<br /> <br /> といった説も存在する。もっとも、このような見解については『源氏物語』成立の背景に以下のような理由を挙げている大野晋の見解のように、氏族として藤原氏と源氏が対立しているとはいえず、仮に、そのようなものがあったとしても個人的な対立関係の範疇を超えないとして、問いかけの前提の認識に問題があるとする見方もある&lt;ref&gt;大野晋「紫式部の生活」『源氏物語』(岩波書店、1984年(昭和59年)、のち2008年(平成20年)に岩波現代文庫)&lt;/ref&gt;。<br /> * この物語の作者である紫式部は、父藤原為時が源師房の父具平親王と親しく、一時期、家司をつとめていたこともあるとみられるなど藤原氏の中でも源氏と近い立場にあること。<br /> * 藤原道長はその甥[[藤原伊周]]との対立など藤原氏一族の内部での激しい権力闘争を行う一方、以下のように源氏一族とは縁戚関係の構築に積極的であり、源氏との対立関係にあるとはいいがたいこと。<br /> ** 藤原道長の正妻が[[源倫子]]である(道長はその他にも[[源明子]]も妻にしている)。<br /> ** 道長の息子[[藤原頼通]]の正室[[隆姫女王]]の弟であった[[源師房]]が、頼通の[[猶子]](『[[小右記]]』には「異姓の養子」と表記)になり、道長の娘婿ともなり、藤原摂関家と最も密接な関係を築き上げたことにより太政大臣にまでなり、[[源氏長者]]の地位に就き、唯一の公家源氏である[[村上源氏]]の祖となった。<br /> また、より積極的に、上記のような事実関係を前提にして、「『源氏物語』は紫式部が父の藤原為時とともに具平親王の元にいた時期に書き始められた」とする見解もある&lt;ref&gt;斎藤正昭「源氏物語成立研究 執筆順序と執筆時期」(笠間書院、2001年(平成13年)10月) ISBN 978-4-305-10341-3 &lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;斎藤正昭「紫式部伝 源氏物語はいつ、いかにして書かれたか」(笠間書院、2005年(平成17年)5月) ISBN 978-4305702883 &lt;/ref&gt;。<br /> <br /> == 本文 ==<br /> === 概要 ===<br /> [[写本]]については池田亀鑑の説では以下の3種類に分けられるとされる。ただし、その後もこの分類について妥当か研究されている。詳しくは[[源氏物語の写本]]を参照。<br /> ;[[青表紙本|青表紙本系]]([[定家本源氏物語|定家本]])<br /> :[[藤原定家]]が校合したもの。その表紙が青かったことからこう呼ばれる。定家の直筆『定家本』4帖を含む。一般的には最も紫式部の書いたものに近いとされている。主な写本として[[藤原定家自筆本源氏物語|藤原定家自筆本]]、[[明融本]]、[[大島本]]、[[三条西家本]]、[[池田本源氏物語|池田本]]、[[肖柏本源氏物語|肖柏本]]、[[榊原家本源氏物語|榊原家本]]、[[横山本源氏物語|横山本]]、[[大正大学本源氏物語|大正大学本]]、[[東久邇宮家旧蔵本源氏物語|東久邇宮家旧蔵本]]、[[吉川本源氏物語#青表紙本|吉川本]]、[[國學院大學本源氏物語|國學院大學本]]、[[中院文庫本源氏物語|中院文庫本]]、[[早稲田大学本源氏物語|早稲田大学本]]などがある。<br /> ;[[河内本|河内本系]]<br /> :大監物 [[源光行]]、[[源親行|親行]]の親子が校合したもの。彼ら2人とも河内守を経験したことがあることからこう呼ばれる。表題は『光源氏』となっているものも多い。主な写本として[[尾州家本源氏物語|尾州家本]]、[[御物本源氏物語|御物本]]、[[七毫源氏]]、[[天理河内本源氏物語|天理河内本]]、[[大島河内本源氏物語|大島河内本]]、[[平瀬本源氏物語|平瀬本]]、[[鳳来寺本源氏物語|鳳来寺本]]、[[中山本源氏物語|中山本]]、[[吉川本源氏物語#河内本|吉川本]]などがある。<br /> :河内本から派生した系列として[[花山院長親]]が整えた「[[耕雲本]]」と呼ばれるものがあり、これに属する写本として[[高松宮家本源氏物語|高松宮家本]]、[[金子本源氏物語|金子本]]、[[曼殊院本源氏物語|曼殊院本]]などがある。<br /> ;[[別本]]<br /> :「青表紙本系」および「河内本系」のどちらでもないもの。特定の系統を示すものではない。多くは「青表紙本系」と「河内本系」が混合し崩れた本文であると考えられているが、藤原定家らによって整理される以前の形態を残すものも「古伝本系別本」として別本の中に含まれており、それには[[従一位麗子本源氏物語|従一位麗子本]]、[[陽明文庫本源氏物語|陽明文庫本]]、[[保坂本源氏物語|保坂本]]、[[国冬本源氏物語|国冬本]]、[[御物本源氏物語|御物本]]、[[阿里莫本源氏物語|阿里莫本]]、[[麦生本源氏物語|麦生本]]、[[飯島本源氏物語|飯島本]]、[[大沢本源氏物語|大沢本]]、[[中京大学本源氏物語|中京大学本]]、[[東京大学本源氏物語|東京大学本]]、[[言経本源氏物語|言経本]]、[[橋本本源氏物語|橋本本]]、[[ハーバード大学本源氏物語|ハーバード大学本]]、[[伏見天皇本源氏物語|伏見天皇本]]、[[角屋本源氏物語|角屋本]]などがある。<br /> <br /> ただし、流通しているものは混合している。<br /> <br /> 近世以前に[[印刷]]されたものはほとんど仏典に限られ、そうでないものは写本によって流通していた。筆写の際に文の追加・改訂が行われ、書き間違い、錯簡も多く、鎌倉時代には21種の版があったとされる。そこで、[[藤原定家]]がそれらを原典に近い形に戻そうとして整理したものが「青表紙本」系の写本である。その写本も定家自筆のものは4帖しか現存せず、それ以降も異本が増え、室町時代には百数十種類にも及んだ。<br /> <br /> 16世紀末に活字印刷技法が日本に伝えられ、のち、慶長年間になってはじめて『源氏物語』の[[古活字版]](大字10行本)が刊行された。現在、竜門文庫、実践女子大学図書館、国立国会図書館にその所蔵が知られている。<br /> <br /> ; 参考<br /> * [http://www.nijl.ac.jp/events/exhibits/genji/ 『源氏物語』とその前後]<br /> * [http://www.um.u-tokyo.ac.jp/publish_db/2001Hazama/07/7118.html 古典文学作品では何をもって「オリジナル」と考えるべきか?]<br /> <br /> === 本文の伝承の始まり ===<br /> 紫式部の書いた『源氏物語』の原本は現存していない。また、『紫式部日記』の記述によれば、紫式部の書いた原本をもとに当時の[[能書家]]によって清書された本があるはずであるが、これらもまた現存するものはない。『紫式部日記』の記述によると、そもそも、作者の自筆の原本の段階で草稿本、清書本など複数の系統の本が存在し、作者の手元にあった草稿本を道長が勝手に持ち出すといった意図しないケースを含めてそれぞれが外部に流出するなど、『源氏物語』の本文は当初から非常に複雑な伝幡経路をたどっていたことが分かる。確実に平安時代に作成されたと判断できる写本は現在のところ一つもみつかっておらず、この時期の写本を元に作成されたとみられる写本も非常に数が限られている。このため、現在ある諸写本を調べていけば何らかの一つの本文にたどり着くのかどうかさえ議論に決着がつかない状態である。そのため、現在では紫式部が書いた原本の復元はほぼ不可能であると考えられている。<br /> <br /> 平安時代末期に成立したとみられる『[[源氏物語絵巻]]』には、絵に添えられた詞書として、『源氏物語』の本文とみられるものが記されており、その中には、現在知られている『源氏物語』の本文と大筋で同じながら、現在発見されているどの写本にもみられない本文が含まれている。この本文は現在確認されている限りで最も古い時代に記された『源氏物語』の本文ということになるが、「絵巻の詞書」というその性質上、もともとの本文の要約である可能性などもあるため、本来の『源氏物語』本文をどの程度忠実に写し取っているのか解らないとして本文研究の資料としては使用できないとされている。<br /> <br /> 『源氏物語』は完成直後から広く普及し多くの写本が作られたとみられる。しかし、鎌倉時代以降の『源氏物語』が古典として重要な教養の源泉であるとされた以後の時代に作成された写本は、証本となしうる信頼できる写本を元に注意深く写しとって、きちんと校合などもした上で完成させることが一般的であったが、それ以前、平安時代には『源氏物語』などの物語は広く普及し多くの写本が作られており、その中には[[従一位麗子本源氏物語|従一位麗子本]]などの身分の高い人物が自ら作ったとみられる写本もあったのであるが、物語という作品の位置付けが「絵空事」、「女子供の手慰み」といったものであり、勅撰集など公的な位置付けを持った歌集はもちろん、そうでない私的な歌集などと比べても極めて低いものであった。そのため、当時は筆写の際にかなり自由に文の追加・改訂が行われるのがむしろ一般的であったとみられる。この際、作者の紫式部が受領階級の娘であり妻であったという当時の身分・階級制度の中では高いとはいえない地位にあったことも、本文を忠実に写し取り伝えていこうとする動機を欠く要因になったとする意見も学者の中には多い。<br /> <br /> 『[[更級日記]]』での、作者の[[菅原孝標女]]が『源氏物語』の一部分だけを読む機会があって最初からすべてを読みたいと願ったという記述にみられるように、『源氏物語』のような大部の書物は常に全体がセットになって流通しているというわけではなかったとみられる。写本による流通が主であった時代には、大部の書物は全体の中から自分が残したい、あるいは人に読ませたいと考えた部分だけを書き写すといった形で流通することも少なくなかったと考えられる。このようないくつかの現象の結果として、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけてのころには多くの『源氏物語』の写本が存在しているものの、家々が持つ写本ごとにその内容が違っており、どれが元の形であったのか分からないという状況になっていた。<br /> <br /> === 「青表紙本」と「河内本」の成立 ===<br /> 『源氏物語』が単なる「女子供の手慰み」という位置づけから、『[[古今和歌集]]』などと並んで重要な教養(歌作り)の源泉として古典・聖典化していった[[平安時代]]末期から[[鎌倉時代]]初期にかけて、『源氏物語』の本文について2つの大きな動きが起こった。一つは藤原定家によるもので、その成果が「青表紙本」系本文であり、もう一つが河内学派によるものでその成果が「河内本」系の本文である。これ以後20世紀末ころから「別本」系本文の再評価が始まるまでの長い間、『源氏物語』の本文についてはこの2つの本文をめぐって動くことになる。<br /> <br /> 両者の作業はいずれも乱れた状況にあった『源氏物語』の本文を正そうとするものであったが、その結果は若干異なったものとなった。現在ある「青表紙本」と「河内本」の本文を比べると、「青表紙本」の方をみると、意味が通らない多くの箇所で「河内本」をみると意味が通るような本文になっていることが多い。これは、「河内本」が意味の通りにくい本文に積極的に手を加えて意味が通るようにする方針で校訂されたのに対して、「青表紙本」では意味の通らない本文も可能な限りそのまま残すという方針で校訂されたためであるからだと考えられている。このことは、藤原定家と源光行らが共にほぼ同じ資料を前にして、当時の本文の状況を、「さまざまに異なった本文が存在し、その中のどれが正しいのかわからない」と認識していたにもかかわらず、定家は「その疑問を解決することはできなかった」という意味のことを述べ、源光行は「さまざまな調査の結果疑問をすっきりと解決することができた」という意味のことを述べるという正反対の結論に達していることともよく対応していると考えられてきた。定家の作り上げた「青表紙本」系統の本文が本当に元の本文に手を加えていないかどうかについては、近年になって、定家の『[[土佐日記]]』など他の古典の写本作成に対する態度を詳細に調査することによって、ある場合には積極的に本文に手を加えることもあるということが明らかになってきたために再検討の必要が唱えられている。<br /> <br /> === 室町時代・江戸時代 ===<br /> この2系統の本文のうち、鎌倉時代には「河内本」が圧倒的に優勢な状況であり、[[今川貞世|今川了俊]]などは「&#039;&#039;&#039;青表紙本は絶えてしまった&#039;&#039;&#039;」と述べていたほどであった。その最も大きな原因は、話の筋や登場人物の心情を理解するためにはそれ自体として意味のくみとれなかったり、前後の記述に矛盾のある(ようにみえる)箇所を含んでいる「青表紙本」よりも、そのような矛盾を含んでいない(ようにみえる)「河内本」のほうが使いやすかったりしたからであると考えられている。それでも、室町時代半ばごろから藤原定家の流れを汲む[[三条西家]]の活動により、古い時代の本文により忠実だとされる「青表紙本」が優勢になり、逆に、「河内本」の方が消えてしまったかのような状況になった。三条西家系統の「青表紙本」は純粋な「青表紙本」と比べると「河内本」などからの混入がみられる本文であった。<br /> <br /> その後、江戸時代に入ると版本による『源氏物語』の刊行が始まり、裕福な庶民にまで広く『源氏物語』が行き渡るようになってきた。「[[慶長古活字版源氏物語|慶長古活字版]]」、「[[伝嵯峨本源氏物語|伝嵯峨本]]」や「[[元和本源氏物語|元和本]]」のような[[無印源氏]]・[[素源氏]]と呼ばれるようなものからはじまり「[[絵入源氏物語]]」、「[[首書源氏物語]]」、「[[源氏物語湖月抄]]」と次々と出版されていった版本の本文は、当時、最も有力であった広い意味での「青表紙本」系統の三条西家系統の本文に、さらに、「河内本」や「別本」からの混入がみられる本文であった。写本や版本によって本文が異なることはこの時代すでに知られており、本居宣長などもその点についての指摘を行ったこともあるが本格的な本文研究に進むことはなかった。この時代、良質な写本の多くは大名や公家、神社仏閣などに秘蔵されており、どこがどのような写本を所蔵しているのかということすらほとんどの場合明らかではなかったため、複数の写本を実際に手にとって具体的に比較することは事実上不可能であった。<br /> <br /> なお、江戸時代における『源氏物語』の普及には、ダイジェスト版ともいうべき各種版本(『[[源氏小鏡]]』(3巻,1657年)、『[[十帖源氏]]』(10巻,1661年)、『おさな源氏』(10巻,1666年)、『[[源氏物語忍草]]』(10巻,1688年))も貢献していたと考えられる&lt;ref&gt;今西祐一郎「『源氏物語』はいかにして「古典」になったか」『古典について、冷静に考えてみました』岩波書店,2016年9月,p116-7&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> === 明治時代以後 ===<br /> [[明治時代]]に入ると[[活字]]による印刷本文の発行が始まった。当初は江戸時代に発行された刊本をそのまま活字化するだけであったが、次第に、より古い、より原本に近いと考えられる本文を求めるようになり、「首書源氏物語」の本文と「源氏物語湖月抄」の本文とではどちらが優れているのかといった議論を経て、1914年(大正3年)に「首書源氏物語」を底本にした校訂本である『源氏物語』が有朋堂文庫から出版され、広く普及した。やがて、明治末年ころから学問的な本文研究の努力が本格的に始まった。多くの学者の努力によって、「[[大島本]]」などの「青表紙」系統の写本や、当時はすでに失われてしまったと考えられていた「河内本」系統の写本など多くの古写本が発見され、学問的な比較作業が行われた。その結果は池田亀鑑により『校異源氏物語』および『源氏物語大成 校異編』に結実した。<br /> <br /> 池田は集められた多くの写本を「青表紙本系」と「河内本系」の2つに分け、それに属さない写本を「別本」として1つにまとめ、3種類の系統に分けた。古注の中などで言及されており、言葉だけは広く知られていた「青表紙本」と呼ばれる写本のグループと、「河内本」と呼ばれる写本のグループが本当に存在することはこの時代になって初めて明らかになったということができる。この3分類法はいろいろな別の分野での研究結果とも一致すると考えられたこともあって、説得力のある見解として広く受け入れられるようになった。池田は、それぞれの写本をどの分類に入れるかを決めるに当たっては、それぞれの写本の奥書(その写本がどのような写本からいつ誰によってどのように写されたのかといったことを記してある部分)の内容など、それぞれの写本の外形的なものを重視した。<br /> <br /> このような歴史的経緯や写本を外形的な特徴に基づいて分類することが、本文そのものの内容の分類として正しい、妥当なものであるのかどうか、そもそも、「青表紙本」や「河内本」が成立したのは事実であるとしても、本文の系統としてそのような区分を立てることが妥当なのかどうかについての検討をすることもなかった点には注意を払う必要がある。<br /> <br /> このように、その後の研究によって、この3分類法はいろいろと問題点も指摘されるようになってはいるが、現時点でも一応は有効なものとされている。<br /> <br /> これらの3分類を見直すべきだとする見解としては、阿部秋生による「奥書に基づいて写本を青表紙本、河内本などと分類することが妥当なのかどうかは、本文そのものを比較しそういう本文群が存在することが明らかになった後で初めていえることであって、その手続きを経ることなく奥書に基づいて写本を分類することは、本文そのものを比較するための作業の前段階の仮の作業以上の意味を持ち得ない」、あるいは、「もし、青表紙本がそれ以前に存在したどれか一つの本文を忠実に伝えたのであれば、河内本が新しく作られた混成本文であるのに対し、青表紙本とは別本の中の一つであり、源氏物語の本文系統は、青表紙本・河内本・別本の3分類で考えるべきではなく、別本と河内本の2分類で考えるべきである」といったものがある&lt;ref&gt;阿部秋生『源氏物語の本文』(岩波書店、1986年(昭和61年)6月20日)&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> === 実際の写本 ===<br /> 古い時代に作られ現在まで伝わっている実際の写本は、できあがった写本が完成当時の姿をそのまま伝えられていることは少なく、一部が欠けてしまったり、その欠けた部分を補うために別の写本と組み合わせたり、別系統の本文を持った写本と校合されたりしていることも少なくない。このような状態の写本を元にしてそのまま写した写本を作成したために、最初に完成した時点ですでに巻ごとに異なった系統の本文になったとみられる写本も存在する。<br /> <br /> 例えば、「青表紙本」系統の写本の中で最も良質な本文であるとされ、現在、多くの校訂本の底本に採用されている[[飛鳥井雅康]]筆の「大島本」の場合でも、「浮舟」を欠いた53帖しか現存しておらず、「初音」帖は他の部分と同じ飛鳥井雅康の筆でありながら、本文自体は「青表紙本」系統の本文ではなく、「別本」系統の本文であり、「桐壺」と「夢浮橋」は後世の別人の筆である。また、ほぼ全巻にわたって数多くの補筆や訂正の跡がみられるが、その内容は「河内本」系統の写本に基づくとみられるものが多い。<br /> {{main|源氏物語の写本の一覧}}<br /> <br /> === 校訂本 ===<br /> 前半は、本文校訂のみに特化し校異を掲げた文献。他にも、主要な写本については個別に翻刻したものが出版されている。<br /> * 『[[校異源氏物語]]』(全4巻)池田亀鑑(中央公論社、1942年(昭和17年))<br /> * 『[[源氏物語大成]]』(校異編)池田亀鑑(中央公論社、1953年(昭和28年)-1956年(昭和31年))<br /> * 『[[河内本源氏物語校異集成]]』加藤洋介編(風間書房、2001年(平成13年))ISBN 4-7599-1260-6<br /> * 『[[源氏物語別本集成]]』(全15巻)[[伊井春樹]]他源氏物語別本集成刊行会(おうふう、1989年(平成元年)3月~2002年(平成14年)10月)<br /> * 『源氏物語別本集成 続』(全15巻の予定)伊井春樹他源氏物語別本集成刊行会(おうふう、2005年(平成17年)~)<br /> <br /> 以下の出版は、注釈・解説を付けた刊行で多くは校訂本も兼ね、現代語訳と対照になっているものもある。注釈などの内容を簡略化した軽装版や文庫版が一部の出版社で刊行している。<br /> <br /> これらはすべて青表紙本系の写本を底本にしており、中でも、三条西家本を底本にしている(旧)日本古典文学大系本((旧)[[岩波文庫]](全6巻)版は軽装版)を除き基本的に大島本を底本にしている。<br /> * 『源氏物語』日本古典全書(全7巻)池田亀鑑著(朝日新聞社、1946年(昭和21年)~1955年(昭和30年))<br /> * 『源氏物語』[[日本古典文学大系]](全5巻)[[山岸徳平]](岩波書店、1958年(昭和33年)~1963年(昭和38年))<br /> * 『源氏物語評釈』(全12巻別巻2巻)玉上琢弥(角川書店、1964年(昭和39年)~1969年(昭和44年))<br /> * 『源氏物語』[[日本古典文学全集]](全6巻)阿部秋生他(小学館、1970年(昭和45年)~1976年(昭和51年))<br /> * 『源氏物語』[[新潮日本古典集成]](全8巻)[[石田穣二]]他(新潮社、1976年(昭和51年)~1980年(昭和55年)、新装版2014年)<br /> * 『源氏物語』完訳日本の古典(全10巻)阿部秋生他(小学館、1983年(昭和58年)~1988年(昭和63年))<br /> * 『源氏物語』新日本古典文学大系(全5巻)室伏信助他(岩波書店、1993年(平成5年)~1997年(平成9年))<br /> ** 『源氏物語』岩波文庫(全9巻)、2017年(平成29年)7月より刊行)。改訂軽装版<br /> * 『源氏物語』新編日本古典文学全集(全6巻)阿部秋生他(小学館、1994年(平成6年)~1998年(平成10年))<br /> * 『正訳 源氏物語 本文対照』(全10巻)[[中野幸一]]訳(勉誠出版、2015年(平成27年)~2017年(平成29年)) <br /> <br /> == 登場人物 ==<br /> {{main|源氏物語の登場人物}}<br /> {{see also|Category:源氏物語の登場人物}}<br /> <br /> 『源氏物語』の登場人物は膨大な数に上るため、ここでは主要な人物のみを挙げる。<br /> <br /> 『源氏物語』の登場人物の中で本名が明らかなのは光源氏の家来である[[藤原惟光]]と[[源良清]]くらいであり、光源氏をはじめとして大部分の登場人物は「呼び名」しか明らかではない。また、『源氏物語』の登場人物の表記には、もともと作中に出てくるものと、直接作中には出てこず、『源氏物語』が受容されていく中で生まれてきた呼び名のふた通りが存在する。作中での人物表記は当時の実際の社会の習慣に沿ったものであるとみられ、人物をその官職や居住地などのゆかりのある場所の名前で呼んだり、「一の宮」や「三の女宮」あるいは「大君」や「小」君といった一般的な尊称や敬称で呼んだりしていることが多いため、状況から誰のことを指しているのか判断しなければならない場合も多いだけでなく、同じひとりの人物が巻によって、場合によっては一つの巻の中でも様々な異なる呼び方をされることがあり、逆に、同じ表現で表される人物が出てくる場所によって別の人物を指していることも数多くあることには注意を必要とする。<br /> <br /> ; [[光源氏]]<br /> :第1部・第2部の主人公。桐壺帝と桐壺更衣の子で桐壺帝第二皇子。[[臣籍降下]]して源姓を賜る。いったん[[須磨]]に蟄居するが、のち復帰し、さらに准太上天皇に上げられ、[[六条院]]と称せられる。原文では「君」「院」と呼ばれる。妻は葵の上、女三宮、事実上の正妻に紫の上。子は、夕霧(母は葵の上)、[[冷泉帝]](母は藤壺中宮、表向きは桐壺帝の子)、[[明石の姫君|明石中宮]]([[今上帝 (源氏物語)|今上帝]]の中宮。母は明石の御方)。ほか養女に[[秋好中宮|秋好中宮(梅壺の女御)]](六条御息所の子)と[[玉鬘 (源氏物語)|玉鬘]](内大臣と夕顔の子)、表向き子とされる薫(柏木と女三宮の子)がいる。<br /> ; [[桐壺帝]]<br /> :光源氏の父。子に源氏のほか、[[朱雀帝]](のち朱雀院)、[[蛍兵部卿宮]]、[[宇治八の宮|八の宮]]などが作中に出る。末子とされる冷泉帝は、桐壺帝の実子でなく、源氏の子。<br /> ; [[桐壺更衣]]<br /> :桐壺帝の更衣。父は[[大納言]]であったが、入内前に他界。寵愛は深かったが、[[弘徽殿女御]]を始めとする后妃たちからのいじめに遭い、心労の末、源氏が3歳のとき夭逝する。<br /> :没後、[[三位]]の位を賜る。<br /> ; [[藤壺|藤壺中宮]]<br /> :桐壺帝の[[先帝]]の[[内親王]]。桐壺更衣に瓜二つであり、そのため更衣の死後後宮に上げられる。源氏と密通して冷泉帝を産む。&lt;!--立后前女御であったとする文は原典にはない--&gt;<br /> ; [[葵の上]]<br /> :[[左大臣 (源氏物語)|左大臣]]の娘で、源氏の最初の正妻。源氏より年上。母[[大宮 (源氏物語)|大宮]]は桐壺帝の姉妹であり、源氏とは従兄妹同士となる。夫婦仲は長らくうまくいかなかったが、懐妊し、夕霧を生む。六条御息所との車争いにより怨まれ、生霊によって取り殺される。<br /> ; [[頭中将|頭中将/内大臣]]<br /> :左大臣の子で、葵の上の同腹の兄。源氏の友人でありライバル。恋愛・昇進等で常に源氏に先んじられる。子に柏木、[[雲居雁]](夕霧夫人)、[[弘徽殿女御]](冷泉帝の女御)、玉鬘(夕顔の子、[[髭黒|髭黒大将]]夫人)、[[近江の君]]など。主要登場人物で唯一一貫した呼び名のない人物。<br /> ; [[六条御息所]]<br /> :桐壺帝の前東宮(桐壺帝の兄)の御息所。源氏の愛人。源氏への愛着が深く、その冷淡を怨んで、葵の上を取り殺すに至る。夕顔のことも生き霊となって取り殺したという説もある。前東宮との間の娘は[[斎宮|伊勢斎宮]]、のちに源氏の養女となって冷泉帝の[[後宮]]に入り、秋好中宮となる。源氏は御息所の死後、その屋敷を改築し壮大な邸宅を築いた(六条院の名はここから)。<br /> ; [[紫の上]]<br /> :藤壺中宮の姪、[[兵部卿宮]]の娘。幼少の頃、源氏に見出されて養育され、葵の上亡き後、事実上の正妻となる。源氏との間に子がなく、明石中宮を養女とする。晩年は女三宮の降嫁により、源氏とやや疎遠になり、無常を感じる。<br /> ; [[明石の御方]]<br /> :[[明石の入道]]と[[明石尼君]]の娘。源氏が不遇時にその愛人となり、明石中宮を生む。不本意ながら娘を紫の上の養女とするが、入内後再び対面し、以後その後見となる。<br /> ; [[末摘花 (源氏物語)|末摘花]]<br /> :常陸宮の娘。大輔の命婦の手引きで源氏の愛人となるが、酷く痩せていて鼻が象の様に長く、鼻先が赤い醜女。作品中最も醜く描かれている。<br /> ; [[空蝉 (源氏物語)|空蝉]]<br /> :故・[[衛門督]]の娘。亡き父が入内を望んでいたが、父の死でその夢は絶たれる。後に夫となる伊予介(後に常陸介)から何かと任国からの食料を送られるなどの援助を受けながら弟・小君とひっそり暮らしていたが、自邸に盗賊が押し入り、伊予介が助けに入った事がきっかけで、結婚。小君とともに、伊予介の屋敷で暮らすことに。<br /> :[[方違え]]で訪れた源氏と一夜を共にするが、自分が人妻であることを考え、源氏を遠ざける。[[関屋]]では、逢坂関にて源氏の一行とすれ違い、文を交わす場面がある。その後、常陸介に先立たれ出家。後に[[二条院|二条東院]]に引き取られて源氏の庇護を受ける。<br /> <br /> ----<br /> <br /> ; [[女三宮|女三の宮]]<br /> :朱雀院の第三皇女で、源氏の姪にあたる。藤壺中宮の姪であり、朱雀院の希望もあり源氏の晩年、二番目の正妻となる。柔弱な性格。柏木と通じ、薫を生む。<br /> ; [[柏木 (源氏物語)|柏木]]<br /> :内大臣の長男。女三宮を望んだが果たせず、降嫁後六条院で女三宮と通じる。のち露見して、源氏の怒りをかい、それを気に病んで病死する。<br /> ; [[夕霧 (源氏物語)|夕霧]]<br /> :源氏の長男。母は葵の上。母の死後しばらくその実家で養育されたのち、源氏の六条院に引き取られて[[花散里]]に養育される。2歳年上の従姉である内大臣の娘雲居雁と幼少の頃恋をし、のち夫人とする。柏木の死後、その遺妻朱雀院の[[落葉の宮|女二宮(落葉の宮)]]に恋をし、強いて妻とする。<br /> ----<br /> <br /> ; [[薫]]<br /> :第3部の主人公。源氏(真実には柏木)と女三宮の子。生まれつき身体からよい薫がするため、そうあだ名される。宇治の八の宮の長女[[宇治の大君|大君]]、その死後は妹中君や浮舟を相手に恋愛遍歴を重ねる。<br /> ; [[匂宮]]<br /> :今上帝と明石中宮の子。第三皇子という立場から、放埓な生活を送る。薫に対抗心を燃やし、焚き物に凝ったため匂宮と呼ばれる。宇治の八の宮の中君を、周囲の反対をおしきり妻にするがその異母妹浮舟にも関心を示し、薫の執心を知りながら奪う。<br /> ; [[浮舟 (源氏物語)|浮舟]]<br /> :八の宮が[[女房]]に生ませた娘。[[浮舟の母|母]]が結婚し、養父とともに下った[[常陸国|常陸]]で育つ。薫と匂宮の板ばさみになり、苦悩して入水するが[[横川の僧都]]に助けられる。その後、出家した。<br /> <br /> == 現代語訳 ==<br /> === 現代日本語 ===<br /> 元来『源氏物語』は作者紫式部と、同時代の同じ環境を共有する読者のために、執筆されたと推察されており、加えて作者と直接の面識がある人間を読者として想定していたとする見解もある&lt;ref&gt;[[加藤周一]]「『源氏物語』と『今昔物語』の時代」『日本文学史序説 上』([[ちくま学芸文庫]]、1999年4月) ISBN 4-480-08487-8 &lt;/ref&gt;。書かれた当時の『源氏物語』は、周囲からは「面白い読み物」として受け取られており、少し経た時代でも、当時12歳だった[[菅原孝標女]]が、特に誰の指導を受けるということもなく1人で読みふけっていたとされている。時代を経て物語で用いる言葉遣いも、前提とする知識・常識も変化してゆく事で、気軽に『源氏物語』を読むことは困難になっていった。<br /> <br /> 同時期の文学である『[[枕草子]]』『[[土佐日記]]』などは、簡単な注釈さえあれば現代日本人が読むことがさほど難しくないのに対し、『源氏』の原文を読むことは現代日本人にとってもかなり難しい。他の王朝文学と比べても語彙は格段に豊富、内容は長く複雑で、専門的な講習を受けないと『源氏』の原文を理解するのは困難である。現代では、現代語訳で親しんでいる人のほうが多いといえる。数ある古典日本文学の中で、多様な性格を持つその内容ゆえに、最も多く現代語訳が試みられており、訳者に作家が多いのも特徴である&lt;ref&gt;土方洋一「源氏物語の現代語訳」『アエラムック 源氏物語がわかる』(朝日新聞社、1997年(平成9年)7月)、三田村雅子「現代語訳」、立石和弘「現代語訳と加工文化」『源氏物語事典』 林田孝和ほか編(大和書房、2002年(平成14年)5月)&lt;/ref&gt;。これらは、訳者の名前から、「与謝野源氏」、「谷崎源氏」といった風に、「&#039;&#039;&#039;○○源氏&#039;&#039;&#039;」と呼ばれている。<br /> <br /> 国文学者・研究者による翻訳は、比較的直訳・逐語訳的な訳注が多いのに比べて、作家・小説家による翻訳は多くの場合、原文に対して叙述の順番を入れ替えたり、和歌によるやりとりを普通の会話文に直したり、原文とは視点を変えて叙述したりといった応用工夫が行われていること多く、そのような作品は単なる現代語訳ではなく翻案作品として扱われることもある。<br /> <br /> ; 与謝野晶子訳<br /> {{Main|与謝野晶子訳源氏物語|源氏物語礼讃歌}} <br /> [[File:Akiko Yosano younger.jpg|thumb|180px|与謝野晶子]]<br /> [[与謝野晶子]]は生涯に3度現代語訳を試みた。与謝野は、12歳当時、『源氏物語』を原文で素読していたことを、後に、自身の歌の中に詠み込んでおり、さまざまな創作活動の中に『源氏物語』の大きな影響を読み取ることができる。<br /> <br /> 一度目の翻訳は、与謝野夫妻の支援者であった実業家(小説家でもある)の小林政治の依頼により、100か月で完成させることを目標に始められたもので、1912年(明治45年)2月から1913年(大正2年)11月にかけて、「新訳源氏物語」上、中、下一、下二巻として金尾文淵堂から出版され、1914年12月に4冊ものの縮刷版が刊行されている。これは全文の翻訳ではなくダイジェストであるが、通常、これが『源氏物語』の最初の現代語訳であるとされている。この最初の翻訳には晶子の夫[[与謝野鉄幹]]の手も入っているとする見解もある&lt;ref&gt;逸見久美「解説『晶子』源氏の出来るまで」『新装版 全訳源氏物語.一』 角川文庫、2008年(平成20年)4月。ISBN 978-4043889013 &lt;/ref&gt;。<br /> <br /> これは『源氏物語』の専門家でない[[森鴎外]]が校訂に当たっているなどといった問題もあり、再度、『新新訳源氏物語』として翻訳を試みた(2回目)が、「宇治十帖の前まで終わっていた」とされる&lt;ref&gt;与謝野晶子「読書、虫干、蔵書」評論集『光る雲』(1928年(昭和3年)7月)所収&lt;/ref&gt;。このときの原稿は、1923年9月の[[関東大震災]](大正[[関東地震]])により文化学院に預けてあった原稿が全て焼失したため、世に出ることはなかった。<br /> <br /> 現在、通常流布しているのは晩年の1938年(昭和13年)10月から1939年(昭和14年)9月にかけて「新新訳源氏物語」(第一巻から第六巻まで)として金尾文淵堂から出版された3度目のものである。1939年(昭和14年)10月に完成祝賀会が[[上野精養軒]]にて開催されており、同人はこれを「決定版」としている。この翻訳は、当時、まだ学術的な校訂本がなかったことから、「流布本」であった『[[湖月抄|源氏物語湖月抄]]』の本文を元にしていたとされる。原文にはない主語を補ったり、作中人物の会話を簡潔な口語体にしたりするなど大胆な意訳と、敬語を中心とした大幅な省略で知られている。それに対して、歌の部分については歌人らしく、「和歌は源氏物語にとって欠かせない重要な要素である」として、いずれの翻訳も全く手を加えることなくそのまま収録しており、他の翻訳が行っているような和歌の部分を会話文に改めるといったことをしていない。また、新新訳では各帖の冒頭に自身の和歌を加えている&lt;ref&gt;池田和臣「与謝野晶子」『源氏物語ハンドブック』 [[秋山虔]]他編([[新書館]]、1996年(平成8年)10月)&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 池田亀鑑の解説を加えたものが、1954年(昭和29年)10月から1955年(昭和30年)8月にかけて「全訳源氏物語」として、全9冊で[[角川文庫]]から出版されており、1971年(昭和46年)8月から1972年(昭和47年)2月にかけて全3冊に合本・改版され重版した。2008年(平成20年)に[[源氏物語千年紀]]を記念し、『新装版 全訳源氏物語』全5冊に改版された。他に、1948年(昭和23年)には日本社から日本文庫で、1951年(昭和26年)には三笠文庫([[三笠書房]])で、1976年(昭和51年)(新装版、1987年(昭和62年))には[[河出書房新社]]の日本古典文庫で、2002年(平成14年)には[[勉誠出版]]刊の「鉄幹 晶子全集」の第7巻及び第8巻として、2005年(平成17年)から2006年(平成18年)に舵社からデカ文字文庫と、多くの出版社から刊行されている。これらとは別に、最初の訳書も、後年の翻訳より読みやすいといった評価があったことから、2001年(平成13年)に角川書店から単行本が出版され、2008年(平成20年)には、『与謝野晶子の源氏物語』[[角川文庫ソフィア]]全3冊で出版された。双方の訳書とも1942年(昭和17年)5月29日に与謝野が死去したため、1993年(平成5年)に著作権の保護期間が満了しており、パブリック・ドメインで利用できるため青空文庫などに収録されている。<br /> <br /> ; 谷崎潤一郎訳<br /> {{Main|谷崎潤一郎訳源氏物語}}<br /> [[谷崎潤一郎]]も生涯に3度現代語訳を試みた。<br /> <br /> 最初は『源氏物語[[湖月抄]]』本文を元に、1935年(昭和10年)9月より着手された。[[国文学者]][[山田孝雄]]の校閲を受けながら進められ、1939年(昭和14年)から1941年(昭和16年)にかけ『潤一郎訳源氏物語』全26巻が、[[中央公論社]]で刊行された。これは、「旧訳」、「26巻本」などと呼ばれている。当時の社会情勢から、中宮の密通に関わる部分など[[皇室]]に関した部分は何箇所か削除されている。<br /> <br /> 2度目は上記の削除部分を復活すると共に、全編にわたり言葉使いを読みやすく改訂し、1951年(昭和26年)から1954年(昭和29年)12月にかけ、『潤一郎新訳 源氏物語』全12巻として刊行された。この版は「新訳」、「12巻本」などと呼ばれた。他に豪華版全5巻別巻1や、新書版全8巻も刊行されている。<br /> <br /> 『潤一郎訳』は谷崎の意向が大きく反映され、『潤一郎新訳』は原文を尊重し省略無しの完訳であることが特徴である&lt;ref&gt;玉上琢弥 『世界大百科事典』 430頁、平凡社。&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 3度目は[[中央公論社]]版「日本の文学」に(一部)収録するため、改稿に着手された。1964年(昭和39年)から1965年(昭和40年)に『潤一郎新々訳 源氏物語』全10巻別巻1が、新版が1979年(昭和54年)から翌年にかけ刊行された。これは「新々訳」、「11巻本」などと呼ばれている。口述筆記のせいもあって、[[新仮名遣い]]になっている。[[与謝野晶子]]訳とは対照的に、原文の文体を生かしつつやや古風な訳文となった。(最晩年の)谷崎は、本書をもって「決定版である」としている&lt;ref&gt;畑中基紀「谷崎潤一郎」、秋山虔編 『源氏物語事典』 学燈社、北山谿太『源氏物語辞典』 [[平凡社]]、1980年(昭和55年)、大和書房で『源氏物語事典』2002年(平成14年)も参照 。&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;[[伊吹和子]]『われよりほかに 谷崎潤一郎最後の十二年』(講談社 1994年2月 、[[講談社文芸文庫]]上・下 2001年(平成13年))&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 『潤一郎訳 源氏物語』は、1968年から1970年にかけ『谷崎潤一郎全集』第25-28巻(新版『全集』では第27-30巻)に収録。1973年(昭和48年)[[中公文庫]]創刊に伴い、全5巻で刊行(1991年(平成3年)に改版)。豪華版で、1966年(昭和41年)に全5巻別巻1が、1983年(昭和58年)に愛読愛蔵版全1巻が、1992年(平成4年)に同普及版全1巻が刊行された。<br /> <br /> ; 窪田空穂訳<br /> : 国文学者で歌人でもある[[窪田空穂]]の『現代語訳源氏物語』は、1939年(昭和14年)から1943年(昭和18年)にかけ[[改造社]]全8冊で出版された。戦後に同社で、1947年(昭和22年)から1949年(昭和24年)にかけ再版された。1967年に『窪田空穂全集 27.28巻』(角川書店)に収録。窪田訳は、別に抄訳版があり、1970年に[[春秋社]]で出版している。<br /> ; 円地文子訳<br /> : [[円地文子]]の現代語訳は、1967年(昭和42年)7月に着手され、[[玉上琢弥]]、犬養廉、[[清水好子]]、[[竹西寛子]]、[[阿部光子]]などの協力を得ながら1972年(昭和47年)から1973年(昭和48年)にかけ全10巻で[[新潮社]]から刊行され、1980年(昭和55年)に、新潮文庫に全5巻で再刊された(2008年(平成20年)に全6巻に改版)。さまざまな箇所に原文にはない全く創造的な加筆を行っており、特徴の一つとなっている。<br /> :円地は1975年(昭和50年)5月に公演された[[歌舞伎]]『源氏物語葵の巻』の台本も手がけているほか、現代語訳の過程で生まれたエッセイ『源氏物語私見』(新潮社、1974年(昭和49年)、1985年(昭和60年)に新潮文庫、2004年(平成16年)に「なまみこ物語」と併せ[[講談社文芸文庫]]に収録)、『源氏物語の世界・京都』(平凡社、1974年(昭和49年))、『源氏物語のヒロインたち』(講談社、1987年(昭和62年))など『源氏物語』関係の著作も多い&lt;ref&gt;畑中基紀「円地文子」『源氏物語事典』林田孝和・竹内正彦・針本正行ほか編『源氏物語事典』大和書房、2002年(平成14年)5月、p. 90。 ISBN 4-4798-4060-5 &lt;/ref&gt;。2007年(平成19年)に新潮社で、[[竹下景子]]による朗読CD(現在は桐壺から夕顔まで2巻)が出された。<br /> ;田辺聖子訳<br /> {{Main|新源氏物語 (田辺聖子)}}<br /> :[[田辺聖子]]の現代語訳は、『新源氏物語』として1974年(昭和49年)11月から1978年(昭和53年)1月にかけて『[[週刊朝日]]』で連載された後、1978年(昭和53年)から1979年(昭和54年)にかけて全5巻で新潮社から刊行され、1984年(昭和59年)5月に[[新潮文庫]]に収録。当初書かれたのは「幻」巻部分までで、それ以降の部分は1985年(昭和60年)10月から1987年(昭和62年)7月まで『DAME』で連載されたが、同誌の休刊により「宿木」巻の途中までで中断し、残りの部分は書き下ろしで執筆されて1991年(平成2年)5月に新潮社から「新源氏物語 霧ふかき宇治の恋」として出版され、1993年(平成5年)11月に、新潮文庫に収録された。2004年(平成16年)に出版された『田辺聖子全集 全24巻』では、第7巻および第8巻の2巻がこれに当てられており、「霧ふかき宇治の恋」を含めた全体を「新源氏物語」としている。<br /> :原文の巻序に従っておらず全体の構成を入れ替えており、「空蝉の巻」から始まっていることや、原文の中で登場人物達が和歌で伝えようとしていることを通常の会話文に直しているなど原文を大幅に直している部分があるため、「単なる現代語訳」ではなく「翻案作品」であるとされることも多い。この翻訳・翻案から生まれた関連本として「源氏紙風船」(新潮社、1981年(昭和56年))がある。小説作品で、光源氏の従者の一人の視点から描いた「私本・源氏物語」(実業之日本社、1980年(昭和55年)、のち文春文庫)、岡田嘉夫の絵を豊富に配して光源氏10話・薫2話が編まれた「源氏たまゆら」(講談社、1991年(平成2年)、のち講談社文庫1995年(平成7年))がある。<br /> ; 橋本治訳<br /> : [[橋本治]]の現代語訳は、『窯変 源氏物語』の題名で、1991年(平成3年)5月から1993年(平成5年)にかけ中央公論社全14巻で刊行され、後に、1995年(平成7年)11月から1996年(平成8年)10月にかけ中公文庫に収録された。橋本はこの作品を「紫式部の書いた『源氏物語』に想を得て、新たに書き上げた、原作に極力忠実であろうとする一つの創作、一つの個人的解釈である」としており、基本的に光源氏と薫からの視点で書かれており、大幅な意訳になっている部分もあることなどから、 単なる「現代語訳」ではなく「翻案作品」であるとみなすことも多い。<br /> :橋本には『源氏供養』のタイトルで関連エッセイがあり、上記の現代語訳に関する事柄も収めている。<br /> ; 瀬戸内寂聴訳<br /> : [[瀬戸内寂聴]]の現代語訳は、1996年(平成8年)12月から1998年(平成10年)にかけ[[講談社]]から全10巻で刊行され、「新装版」が2001年(平成13年)9月から2002年(平成14年)6月にかけ、[[講談社文庫]]版が2007年(平成19年)1月から10月にかけ出版された。瀬戸内には、女性の視点から描いた翻案作品『女人源氏物語』が小学館全5巻で、1988年(昭和63年)から1989年にかけ出版され、後に[[集英社文庫]]に収録された。『わたしの源氏物語』(小学館、1989年(平成元年)7月、集英社文庫、1993年(平成5年)6月)、『歩く源氏物語』(講談社、1994年(平成6年)9月)、『源氏物語の脇役たち』(岩波書店、2000年(平成12年)3月)、『痛快!寂聴源氏塾』(集英社インターナショナル、2004年(平成16年)3月、のち軽装版『寂聴源氏塾』、2007年(平成19年)3月)など多くの関連著作がある。「源氏」関連の講演や行事等にも積極的に関わっている。<br /> ; 大塚ひかり訳<br /> : [[大塚ひかり]]による現代語訳は、『大塚ひかり全訳 源氏物語』([[ちくま文庫]]全6巻)が、2008年(平成20年)より2010年(平成22年)にかけ刊行された。「読んで分かる原文重視の逐語訳」を目標に、「敬語・謙譲語を抑さえる」、「『ひかりナビ』と称する説明文を付け加える」、「あえて原文を随所に配する」という3つの工夫を行っている&lt;ref&gt;『大塚ひかり全訳 源氏物語』第1巻の、作者による「はじめに」より。&lt;/ref&gt;。大塚は、『もっと知りたい源氏物語』(日本実業出版社、2004年(平成16年)4月)や、『源氏の男はみんなサイテー 親子小説としての源氏物語』([[マガジンハウス]]、1997年(昭和62年)11月)、『カラダで感じる源氏物語』(ちくま文庫、2002年(平成14年)10月)、『源氏物語の身体測定』(三交社、1994年(平成6年)10月)といった関連著作がある。<br /> ; [[今泉忠義]]訳<br /> : 本文は「青表紙系版本中最善本である」という理由により、江戸時代の版本である『首書源氏物語』を用いる。「桜楓社版 源氏物語」の現代語訳版として企画され、1974年(昭和49年)1月から1975年(昭和50年)10月にかけ全10巻が刊行された。「桜楓社版 源氏物語」は、現代語訳編の他に、森昇一・岡崎正継による本文編、語法編などの構成。1977年から78年に『源氏物語 全現代語訳』で、[[講談社学術文庫]]に全20冊で収録され、新装版全7冊が、2000年(平成12年)から2001年(平成13年)かけ刊行された。<br /> ; [[玉上琢弥]]訳<br /> : 底本は、定家直筆本のあるものはそれを用い、存在しないものは明融臨模本、それも存在しなければ飛鳥井雅康本([[大島本]])である。もともとは1964年(昭和39年)から1969年(昭和44年)にかけて角川書店から出版された『源氏物語評釈』の中の現代語訳に原文脚注索引を付けたもので、1964年(昭和39年)から1975年(昭和50年)にかけ角川文庫全10巻が刊行(後に[[角川ソフィア文庫]])。原文に近い訳であるが現代語訳を独立して読めるようになっている。なお、十巻巻末には[[国宝]][[源氏物語絵巻]]の解説索引がある。<br /> ; [[尾崎左永子]]訳<br /> : 1997年(平成9年)から1998年(平成10年)にかけて「新訳源氏物語」として[[小学館]]より全4巻で刊行された。<br /> ; [[中井和子]]訳<br /> : 15年がかりで翻訳を仕上げたとされる『現代京ことば訳 源氏物語』が1991年(平成3年)に[[大修館書店]]から全3巻で刊行され、2005年(平成17年)に全5巻の新装版として刊行された。[[京都放送|KBS京都]]から北山たか子による朗読CDも発売されている。<br /> ; [[林望]]訳<br /> : 2010年(平成22年)から2013年(平成25年)にかけて「謹訳 源氏物語」として[[祥伝社]]より全10巻で刊行された。2017年(平成29年)秋から文庫化されている。<br /> ; [[角田光代]]訳<br /> : 河出書房新社版の日本文学全集(上中下)で、2017年9月に上巻が出版され、中下巻は2018年12月にかけ刊行予定。解題は藤原克己が担当。<br /> <br /> 他にも、[[鈴木正彦]]による訳(1926年、第百書房)や[[上野榮子]]による訳(2008年(平成20年)、日本経済新聞出版社)などの他、2008年(平成20年)には「[[ナイン・ストーリーズ・オブ・ゲンジ]]」として9人の現代作家がそれぞれ源氏物語の翻訳に取り組むという企画が行われ&lt;ref&gt;『ナイン・ストーリーズ・オブ・ゲンジ』新潮社、2008年(平成20年)10月。 ISBN 978-4-10380851-0 &lt;/ref&gt;、[[江國香織]](夕顔)、[[角田光代]](若紫)、[[町田康]](末摘花)、[[金原ひとみ]](葵)、[[島田雅彦]](須磨)、[[桐野夏生]](柏木)、[[小池昌代]](浮舟)、[[日和聡子]](蛍)、[[松浦理英子]](帚木)&lt;ref&gt;このうち、江國香織、角田光代、町田康、金原ひとみ、島田雅彦、桐野夏生については当初雑誌『[[新潮]]』([[新潮社]])2008年(平成20年)10月号に掲載されたものである。&lt;/ref&gt;らがそれぞれ源氏物語の新訳・[[超訳]]に挑戦するなど、新たな翻訳が生み出されつつある。<br /> <br /> === 外国語 ===<br /> 『源氏物語』は日本文学の代表的なものとして多くの言語に翻訳されている&lt;ref&gt;井上英明「外国語訳」『源氏物語事典』 林田孝和ほか編(大和書房、2002年(平成14年)5月25日)&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;岡野弘彦ほか『国境を越えた源氏物語』([[PHP研究所]]、2007年(平成19年)10月10日) ISBN 978-4-569-69259-3 &lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;[http://www.nijl.ac.jp/~t.ito/HTML/kaken03/kaigaigenji.html 海外における源氏物語]&lt;/ref&gt;。重訳や抄訳も含めると、現在、20言語以上の翻訳が確認できるとのことである&lt;ref&gt;{{Cite news<br /> |author = 浪川知子<br /> |url = http://www.yomiuri.co.jp/book/news/20070615bk01.htm<br /> |title = 「源氏物語」の趣 フランスに届くか<br /> |work = 本よみうり堂<br /> |newspaper = 読売新聞<br /> |date = 2007-06-15<br /> |accessdate = 2009-11-19<br /> }}&lt;/ref&gt;<br /> <br /> ;[[英語]]訳<br /> 外国語へ最初の翻訳は、おそらく[[末松謙澄]]による英訳であった。末松が[[イギリス]]の[[ケンブリッジ]]にいたときになされたもので1882年に出版された。抄訳であることに加えて、翻訳の質が悪いことから、当時においてもほとんど注目されなかった(後述のウェイリーは参照していたようである)。今日でも一部の研究者以外に省みられることはない。<br /> <br /> 20世紀に入り、[[アーサー・ウェイリー]]([[ブルームズベリー・グループ]]の一員)により『源氏物語』は西洋世界に本格的に紹介された。1925年に「桐壺」から「葵」までを収めた第1巻が出版され、1933年に「宿木」から「夢浮橋」までを収めた第6巻が出て完結した。<br /> <br /> ウェイリー訳は、各国で広く重訳&lt;ref&gt;井上英明「アーサー・ウェイリー」『源氏物語ハンドブック』 秋山虔ほか編(新書館、1996年10月)&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;[[平川祐弘]]『アーサー・ウェイリー 〈源氏物語〉の翻訳者』([[白水社]]、2008年11月 ISBN 978-4-560-03191-9)&lt;/ref&gt;され、現代日本語で再訳された『&#039;&#039;&#039;ウェイリー版 源氏物語&#039;&#039;&#039;』は 各・全4巻で、(佐復秀樹訳、[[平凡社ライブラリー]]、2008年9月-2009年3月)及び(毬矢まりえ・森山恵訳、[[左右社]]、2017年12月~)がある。<br /> <br /> ウェイリー訳は、かなり自由な意訳を行っており、当時の文学界にあわせた華麗な文体を用いている。省略箇所も多く、多数の誤訳が指摘されてもいる。日本文学研究者の[[エドワード・サイデンステッカー]]の訳(1976年)はウェイリー訳の欠点を改善し、第二次世界大戦後の文学的傾向に合わせて、文章の装飾を落とし、原文に近づける努力がなされている&lt;ref&gt;伊井春樹編『世界文学としての源氏物語 サイデンステッカー氏に聞く』(笠間書院、2005年10月) ISBN 4-305-70311-4 &lt;/ref&gt;。[[ロイヤル・タイラー]]の英訳(2001年)は、より一層この傾向を強め、豊富な注を入れ、学問的な精確さを持っている。他に重要な英訳は、抄訳版だが[[ヘレン・クレイグ・マッカラ]]によるもの(1994年)がある。<br /> <br /> ; [[フランス語]]訳<br /> : [[フランス]]では、[[日本学]]の権威[[ルネ・シフェール]]が翻訳に当たった(1988年に公刊)。現在まで、[[フランス語|仏語]]圏における唯一の完訳であり、また、訳の質も非常に高く、評価を得ている。<br /> ; [[ドイツ語]]訳<br /> : [[オスカー・ベンル]]が原文から訳し、これも優れた訳と評価がある。<br /> ; [[イタリア語]]訳<br /> : アーサー・ウェイリーの英語訳からの重訳(抄訳)が1944年に出版されている。ローマ大学元教授のマリア=テレサ・オルシ({{Lang|it|Maria Teresa Orsi}})による完訳 {{Lang|it|&#039;&#039;La storia di Genji&#039;&#039;}} (ISBN 9788806146900)が2012年6月に出版される&lt;ref&gt;{{Cite web |url=http://www.47news.jp/CN/201206/CN2012061201001927.html | agency =共同通信|title=イタリア語に「源氏物語」完訳 ローマ大元教授が初めて |date=2012-06-12|accessdate=2012-06-13}}&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;{{cite news|title=「源氏物語」、イタリア語で初めて完訳 |newspaper=日本経済新聞|agency=共同通信 |date=2012-06-13 |url=http://www.nikkei.com/article/DGXNASDG1202X_T10C12A6CC0000/ |accessdate=2012-06-13}}&lt;/ref&gt;。<br /> ; [[スペイン語]]訳<br /> :原文からの完全翻訳では、Hiroko Izumi ShimonoとIván Pinto Románの2人により、3分冊構成の翻訳本がペルー共和国において2017年11月に出版されている。第一分冊は、「桐壷」から27巻「篝火」までおさめられた完訳本(&#039;&#039;El Relato de Genji - Primera Parte -&#039;&#039;. Fondo Editorial de la Asociación Peruano Japonesa.) (ISBN 9789972920592)が2013年8月に出版された。その後、2017年11月に出版された第二分冊は、28巻「野分」から41巻「幻」が、また、第三分冊は、42巻「匂宮」から54巻「夢浮橋」がおさめられた完訳本(&#039;&#039;El Relato de Genji - Segunda Parte - . El Relato de Genji - Tercera Parte - .&#039;&#039; Fondo Editorial de la Asociación Peruano Japonesa.)(ISBN 9786124740626, ISBN 9786124740633)である。この完訳本は豊富な注が入れられており、学問的な精確さを兼ね備えている。また、挿絵には、早稲田大学九曜文庫の源氏物絵巻の絵が数多く使われている。<br /> :アーサー・ウェイリーの英語訳からの重訳(抄訳)が1941年に出版されている(Fernando Guitérrez. Romance de Genji. Barcelona: Juventud, 1941)。また、ロイヤル・タイラー英語訳からの重訳(完訳)が2005年に出版され(Jordi Fibla. La historia de Genji. Vilahur: Ediciones Atalanta, 2005 / Los relatos de Uji. Vilahur: Ediciones Atalanta, 2006)、英語訳・フランス語訳・ドイツ語訳・その他からの重訳(完訳)が2005年に出版されている(Xavier Roca-Ferrer. La novela de Genji I &amp; II. Barcelona: Ediciones Destino, 2005)。<br /> :原文からの抄訳版は、2013年にアリエル・スティラーマンによる「桐壺」巻が早稲田大学で発表された。([http://www.genjienespanol.wordpress.com/ Blog Genji en Español])。<br /> ; [[オランダ語]]訳<br /> : アーサー・ウェイリーの英語訳からの重訳(抄訳)が1930年に出版されている。<br /> ; [[スウェーデン語]]訳<br /> : アーサー・ウェイリーの英語訳からの重訳(抄訳)が1927年に出版されている。<br /> ; [[フィンランド語]]訳<br /> : 参議院議員の[[弦念丸呈]](ツルネン・マルテイ)が1980年にフィンランド語の翻訳(但し抄訳)を出版している。<br /> ; [[チェコ語]]訳<br /> : [[福井県立大学]]教授[[カレル・フィアラ]]のチェコ語訳は現在進行中。<br /> ; [[ロシア語]]訳<br /> : タチヤーナ・ソコロワ=デリューシナの翻訳がある。<br /> ; [[中国語]]訳 <br /> : 原文からの完訳としては、[[豊子愷]]の翻訳『源氏物語上・中・下』(人民文学出版社、1980年から1982年)がある。[[台湾]]では[[林文月]]の翻訳『源氏物語上・下』(中外文学月報社、1982年)がある。<br /> ; [[朝鮮語]]訳<br /> : 田溶新の翻訳や柳呈の翻訳『源氏物語イヤギ(物語)』全3冊(ナナム出版、2000年)がある。<br /> <br /> === 発行部数 ===<br /> * 瀬戸内寂聴訳(全10巻 講談社) - 220万部&lt;ref&gt;[https://news.mynavi.jp/news/2000/10/11/06.html 瀬戸内寂聴、俵万智らのインターネット講義&amp;出版「源氏大学ドット・コム」]、マイコムジャーナル、2000年10月11日。&lt;/ref&gt;<br /> * 与謝野晶子訳(全3巻 角川文庫) - 172万部&lt;ref name=asahi2000&gt;朝日新聞 2000年1月9日付日曜版「名画日本史 源氏物語絵巻」&lt;/ref&gt;<br /> * 谷崎潤一郎訳(全5巻 中公文庫) - 83万部&lt;ref name=asahi2000 /&gt;<br /> * 円地文子訳(全5巻 新潮文庫) - 103万部&lt;ref name=asahi2000 /&gt;<br /> * 田辺聖子訳(全5巻 新潮文庫) - 250万部&lt;ref name=asahi2000 /&gt;<br /> * 橋本治訳(全5巻 中公文庫) - 42万部&lt;ref name=asahi2000 /&gt;<br /> * 週刊朝日百科 世界の文学24 源氏物語(朝日新聞社) - 初版20万部が完売&lt;ref&gt;http://f2.aaa.livedoor.jp/~mikura/tree4.html#188&lt;/ref&gt;<br /> * 大和和紀『あさきゆめみし』(全13巻 講談社) - 1800万部&lt;ref&gt;[http://www.genji1000.com/library/070403b.html 読売新聞大阪発刊55周年記念 源氏物語~千年の時を超えて 千年紀に寄せて・・・漫画家 大和和紀]、読売新聞社、2007年4月3日。&lt;/ref&gt;<br /> <br /> == 影響・受容史 ==<br /> 中古期における『源氏物語』の影響は2期に大別することができる。第1期は院政期初頭まで、第2期は院政期歌壇の成立から新古今集撰進までである。<br /> <br /> 第1期においては、『源氏物語』は上流下流を問わず貴族社会で面白い小説として広く読まれた。当時の一般的な上流貴族の姫君の夢は後宮に入り帝の寵愛を受け[[皇后]]の位に上ることであったが、『源氏物語』は帝直系の源氏の者を主人公にし、彼の住まいを擬似後宮にしたて女君たちを分け隔てなく寵愛するという内容で彼女たちを満足させ、あるいは、人間の心理や恋愛、美意識に対する深い観察や情趣を書き込んだ作品として貴族たちにもてはやされたのである。この間の事情は菅原孝標女の『[[更級日記]]』に詳しい。<br /> <br /> 優れた作品が存在し、それを好む多くの読者が存在する以上、『源氏物語』の享受はそのままこれに続く小説作品の成立という側面を持った。中古中期における『源氏』受容史の最大の特徴は、それが『源氏』の文体、世界、物語構造を受継ぐ諸種の作品の出現をうながしたところにあるといえるだろう。11世紀より12世紀にかけて成立した数々の物語は、その丁寧な叙述と心理描写の巧みさ、話の波乱万丈ぶりよりも決め細やかな描写と叙情性や風雅を追求しようとする性向において、明らかに『うつほ物語』以前の系譜を断ち切り、『源氏物語』に拠っている。それがあまりに過度でありすぎるために源氏亜流物語という名称さえあるほどだが、例えば、『[[浜松中納言物語]]』、『狭衣物語』、『[[夜半の寝覚]]』などは『源氏』を受継いで独特の世界を作り上げており、王朝物語の達しえた成熟として高く評価するに足るであろう。後期王朝物語=源氏亜流物語には光源氏よりも[[薫]]の人物造型が強く影響を与えていることが知られる。[[源氏物語各帖のあらすじ#第三部]]参照。<br /> <br /> 平安末期には既に古典化しており、『六百番歌合』で[[藤原俊成]]をして「源氏見ざる歌詠みは遺恨の事なり」といわしめた源語は歌人や貴族のたしなみとなっており、室町時代の注釈書『花鳥余情』では「我が国の至宝は源氏の物語のすぎたるはなし」と位置づけられるまでになっている。このころには言語や文化の変化や流れに従い原典をそのまま読むことも困難になってきたため、原典に引歌や故事の考証や難語の解説を書き添える注釈書が生まれた。<br /> <br /> 一方、仏教が浸透していく中で、「色恋沙汰の絵空事を著し多くの人を惑わした紫式部は[[地獄 (仏教)|地獄]]に堕ちたに違いない」という考えが生まれ、「&#039;&#039;&#039;[[源氏供養]]&#039;&#039;&#039;」と称した紫式部の霊を救済する儀式がたびたび行われた。後に[[小野篁]]伝説と結びつけられた。<br /> <br /> [[江戸時代]]に入ると、版本による源氏物語の刊行が始まり、裕福な庶民にまで『源氏物語』が広く普及することになった。江戸時代後期には、当時の[[中国文学]]の流行に逆らう形で、設定を[[室町時代]]に置き換えた通俗小説ともいうべき『[[偐紫田舎源氏]]』([[柳亭種彦]]著)が書き起こされた。伝統的な図式の「[[源氏絵]]」は、様々な画派により挿絵入りの版本『[[絵入源氏物語]]』や浮世絵に描かれた。また、[[歌舞伎]]化され、世に一大ブームを起こしたが、[[天保の改革]]であえなく断絶した。<br /> <br /> [[明治]]以後多くの現代語訳の試みがなされ、[[与謝野晶子]]や[[谷崎潤一郎]]の訳本が何度か出版されたが、[[昭和]]初期から「皇室を著しく侮辱する内容がある」との理由で、光源氏と藤壺女御の逢瀬などを二次創作物に書き留めたり上演したりすることなどを政府から厳しく禁じられたこともあり、訳本の執筆にも少なからず制限がかけられていた。第二次世界大戦後はその制限もなくなり、[[円地文子]]、[[田辺聖子]]、[[瀬戸内寂聴]]、[[林望]]などの訳本が出版されている。原典に忠実な翻訳以外に、[[橋本治]]の『窯変源氏物語』に見られる大胆な解釈を施した意訳小説や、[[大和和紀]]の漫画『[[あさきゆめみし]]』や[[小泉吉宏]]の漫画『[[まろ、ん]]』、花園あずきの漫画『はやげん! はやよみ源氏物語』を代表とした漫画作品化などの試みもなされている。<br /> <br /> 現代では冗談半分で、『源氏物語』と純愛ものの[[アダルトゲーム]]や[[ハーレムアニメ]]とのストーリーの類似性が指摘されることがあるが、「『源氏物語』は猥書であり、子供に読ませてはならない」という論旨の文章は既に室町時代や江戸時代に存在している。<br /> <br /> また、[[若紫]]と光源氏の関係から「幼い少女を自分好みの女性に育てること」が、同書が漫画等のエンタメで半ば慣用句化されている。<br /> <br /> 『源氏物語』は諸外国にも少なからず影響を与えている。[[マルグリット・ユルスナール]]は『源氏物語』の人間性の描写を高く評価し、短編の続編を書いた。<br /> <br /> 2008年には[[源氏物語千年紀]]の記念式典が京都府・京都市などが中心となって開催され、[[明仁|今上天皇]]・[[皇后美智子|皇后]]が臨席した。多数の講演・シンポジウムが催され、瀬戸内寂聴、[[佐野みどり]]、[[ドナルド・キーン]]、[[平川祐弘]]らが参加した。後に、紫式部日記での初出である11月1日が、幅広く古典に親しむ[[古典の日]]として法制化された&lt;ref&gt;{{Citation|和書|title=古典の日について |url=http://www.bunka.go.jp/pr/publish/bunkachou_geppou/2013_10/special_02/special_02.html |periodical=文化庁月報 |date=2013-10 |issue=541 |author=[[文化庁]]長官官房政策課}}&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> == 歴史的注釈書 ==<br /> 『源氏物語』については、平安末期以降、数多くの注釈書が作られた&lt;ref&gt;古注釈のまとまった解題としては『源氏物語 注釈書・享受史 事典』伊井春樹(東京堂出版、2001年9月15日) ISBN 4-490-10591-6 &lt;/ref&gt;。『源氏物語』の注釈書の中でも、特に、明治時代以前までのものを&#039;&#039;&#039;古注釈&#039;&#039;&#039;と呼ぶ。一般には、『源氏釈』から『河海抄』までのものを「[[古注]]」、『花鳥余情』から『湖月抄』までのものを「[[旧注]]」、それ以後江戸時代末までのものを「[[新注]]」と呼び分けている&lt;ref&gt;吉森佳奈子「古注釈・梗概書」『講座源氏物語研究 第4巻 鎌倉・室町時代の源氏物語』([[おうふう]]、2007年6月20日) ISBN 978-4-273-03454-2 &lt;/ref&gt;。『源氏釈』や『奥入』といった初期の注釈書は、もともとは独立した注釈書ではなく、写本の本文の末尾に書き付けられていた注釈が後になって独立した1冊の書物としてまとめられたものである。『[[源氏大鏡]]』や『[[源氏小鏡]]』といった中世に数多く作られた[[梗概書]]もそれぞれ注釈を含んでいる。<br /> {{main|源氏物語の古注釈書の一覧}}<br /> * 『[[源氏釈]](げんじしゃく)』([[平安時代]]末期、全1巻、[[藤原伊行]]) - 最も古い源氏物語の注釈書。もともとは藤原伊行が写本に書き付けたもの。<br /> * 『[[奥入]](おくいり)』(1233年頃、全1巻、藤原定家) - もともとは藤原定家が自ら作成した証本の本文の末尾に書き付けたもの。池田亀鑑は写本にこの「奥入」があるかどうかを写本が青表紙本であるかどうかを判断する条件に挙げている&lt;ref&gt;「奥入の成立とその価値」『源氏物語大成 第十二冊 研究篇』(中央公論社、1985年9月20日) ISBN 4-1240-2482-7 &lt;/ref&gt;。[[大島本]]や[[明融本|明融臨模本]]に書かれている「第一次奥入」と定家自筆本([[大橋本奥入|大橋本]])に書かれている「第二次奥入」とがある。<br /> &lt;!--*「源氏物語河内本」(13世紀初頭、[[源光行]]・[[源親行]]父子の合作)--&gt;<br /> * 『[[水原抄]](すいげんしょう)』(13世紀中頃、[[源親行]]) - [[河内方]]による最初の注釈書。現在は大部分散逸したが一部残存。<br /> * 『[[紫明抄]](しめいしょう)』(13世紀後半、全10巻、素寂)<br /> * 『[[異本紫明抄]](いほんしめいしょう)』(著者未詳) - 諸注を集成したもの。『河海抄』の説を全く引用していないので、それ以前の成立であると思われる。<br /> * 『[[幻中類林]](げんちゅうるいりん)』([[光源氏物語本事]]、華洛非人桑門了悟)<br /> * 『[[弘安源氏論議]](こうあんげんじろんぎ)』(1280年(弘安3年)、[[源具顕]]) - 最古の討論形態の注釈書。[[飛鳥井雅有]]等8名が参加。<br /> * 『[[雪月抄]](せつげつしょう)』<br /> * 『[[原中最秘抄]](げんちゅうさいひしょう)』(1364年 源親行) - 最古の秘伝書形態の注釈書。「水原抄」中の最も秘たる部分を抄録して諸家の説を加えたとされる。<br /> * 『[[河海抄]](かかいしょう)』(1360年代、全20巻、[[四辻善成]]) - 『源氏物語』の著作の由来、物語の時代の準拠、物語の名称、作者の伝や旧跡、物語と[[歌道]]の関係等について幅広く述べている。全体を通して、これ以前の考証に詳しく触れるとともに「今案」として自説も多く述べている。<br /> * 『[[仙源抄]](せんげんしょう)』(1381年、[[長慶天皇]]) - 最古の辞書形態の注釈書。源氏物語の語句約一千をいろは順に並べた辞書。<br /> * 『[[珊瑚秘抄]](さんごひしょう)』(1397年、四辻善成) - 源氏物語の注釈書『河海抄』の秘説書。『河海抄』で注を省略した秘説を三十三条集めたもの。<br /> * 『[[源氏物語千鳥抄]](げんじものがたりちどりしょう)』(南北朝時代、平井相助)<br /> * 『[[山頂湖面抄]](さんちょうこめんしょう)』([[1449年]]、祐倫)<br /> * 『[[源氏物語年立 (一条兼良)|源氏物語年立]](げんじものがたりとしだて)』(1453年、一条兼良) - 源氏物語の作品世界内における出来事を時間的に順を追って記したもの、つまり[[源氏物語年立|年立]]であるが、独立した年立としては最初のもの。<br /> * 『[[花鳥余情]](かちょうよせい、かちょうよじょう)』(1472年、全30巻、[[一条兼良]]) - 冒頭部分の自序において「『河海抄』の足りない部分、誤っている部分を正しくするため著した」とを述べている。注釈の特徴としては、単に語句のみを採り上げるのではなく長く文を引用して説明していることと、著者自身が左大臣関白を勤ていたため[[有職故実]]に関して詳しく正確であることが挙げられる。<br /> * 『[[源語秘訣]](げんごひけつ)』(1477年、一条兼良) - 「花鳥余情」の秘伝書<br /> * 『[[種玉編次抄]](しゅぎょくへんじしょう)』(1499年、[[宗祇]])<br /> * 『[[弄花抄]](ろうかしょう)』(1504年、[[三条西実隆]])<br /> * 『[[細流抄]](さいりゅうしょう)』(1510年、[[三条西実隆]])<br /> * 『[[明星抄]](みょうじょうしょう)』(1530年、三条西実枝)<br /> * 『[[万水一露]](ばんすいいちろ)』(1545年、能登永閑)<br /> * 『[[紹巴抄]](しょうはしょう)』{1565年、20巻20冊、[[里村紹巴]])<br /> * 『[[山下水]](やましたみず)』(1570年、[[三条西実枝]])<br /> * 『[[孟津抄]](もうしんしょう)』(1575年、[[九条稙通]])<br /> * 『[[花屋抄]](はなやしょう)』(1594年、花屋玉栄)<br /> * 『[[岷江入楚]](みんごうにっそ)』(1598年、[[中院通勝]])<br /> * 『[[首書源氏物語]](しゅしょげんじものがたり)』(1673年、一竿斎)<br /> * 『[[湖月抄]](こげつしょう)』(1673年、全60巻、[[北村季吟]])<br /> * 『[[源氏外伝]]』(1673年ころ、[[熊沢蕃山]])<br /> * 『[[源注拾遺]](げんちゅうしゅうい)』(1698年、[[契沖]])<br /> * 『[[紫家七論]](しかしちろん)』(1703年、安藤為章)<br /> * 『[[一簣抄]]』(いっきしょう)(1716年、[[近衛基煕]])<br /> * 『[[源氏物語新釈]](げんじものがたりしんしゃく)』(1758年、[[賀茂真淵]])<br /> * 『[[源氏物語年紀考]](げんじものがたりねんきこう)』([[1763年]]、[[本居宣長]])いわゆる[[源氏物語年立|新年立]]。<br /> * 『[[紫文要領]](しぶんようりょう)』(1763年、上下2巻、本居宣長)<br /> * 『源語梯(げんごてい)』(1784年、五井純禎(蘭洲)) - 辞書形態の注釈書<br /> * 『[[源氏物語玉の小櫛]](げんじものがたりたまのおぐし)』(1796年、全9巻、[[本居宣長]]) - 「[[もののあはれ]]」を提唱。<br /> * 『[[すみれ草]](すみれくさ)』(1812年、全3巻、北村久備) - 系図2巻と年立1巻からなる。<br /> * 『[[源氏物語評釈]](げんじものがたりひょうしゃく)』(1861年、[[萩原広道]]) - 古注釈の最後に位置づけられる。<br /> <br /> == 派生作品 ==<br /> === 文学作品 ===<br /> ==== 擬作・補作 ====<br /> 後世の人物が『源氏物語』の欠を補った作。作者自身が別人であることを明かしているか、別作者であることが明らかである形で伝えられているため、狭義の偽作には含まれないが関連して論じられることは多い。まとまった補作が存在する場所は下記のように限られている&lt;ref&gt;加藤昌嘉「付録 『源氏物語』続編・外伝一覧」人間文化研究機構国文学研究資料館文学形成研究系「平安文学における場面生成研究」プロジェクト編『物語の生成と受容 2 国文学研究資料館平成18年度研究成果報告』人間文化研究機構国文学研究資料館文学形成研究系「平安文学における場面生成研究」プロジェクト、2007年2月、pp.. 237-256。 ISBN 4-87592-118-7 &lt;/ref&gt;。<br /> * 「桐壺」と「帚木」の間を補うもの<br /> ** 『藤壺』(2004年、全1巻、瀬戸内寂聴) - &lt;small&gt;「輝く日の宮」を補完する短編。光源氏と藤壺が初めて結ばれるまでを書く。現代文の他、古文体も併記。&lt;/small&gt;<br /> * 「空蝉」と「夕顔」の間を補うもの<br /> ** 『手枕』(1763年、全1巻、本居宣長) - &lt;small&gt;「桐壺」と「帚木」の間を埋める。六条御息所と光源氏の馴れ初めを書く&lt;/small&gt;<br /> *「蓬生」前後の別伝<br /> **『[[別本八重葎]]』(成立時代不明-&lt;small&gt;鎌倉時代の成立とする見方もある一方江戸時代成立の擬古文とする見方もある&lt;/small&gt;、作者不明)&lt;ref&gt;市古貞次・三角洋一編『鎌倉時代物語集成 5』笠間書院、1992年4月。 &lt;/ref&gt;<br /> * 「雲隠」の欠落を補うもの<br /> ** 「雲隠」(雲隠六帖)([[室町時代]]、作者不詳)-&lt;small&gt;源氏の出家失踪を描く&lt;/small&gt;<br /> ** 『源氏の君の最後の恋』&#039;&#039;Le Dernier Amour de Prince Genghi&#039;&#039;(1984年、短編集『[[東方綺譚]]』に収録、[[マルグリット・ユルスナール]]) -&lt;small&gt;「雲隠」を補完する短編。源氏の最期を花散里が看取る&lt;/small&gt;<br /> * 「夢浮橋」の後を補う後日譚<br /> ** 『[[山路の露]](やまじのつゆ)』([[鎌倉時代]]、作者不詳、一説には[[建礼門院右京大夫]]とも) -&lt;small&gt;宇治十帖「夢浮橋」の後日譚。薫と浮舟の再会を書く&lt;/small&gt;<br /> ** 『[[雲隠六帖]]』(「雲隠」を除く。[[室町時代]]、作者不詳) -&lt;small&gt;源氏物語の後日譚。1雲隠(源氏の出家失踪)、2巣守(匂宮の即位と薫、浮舟の結婚)、3桜人、4法の師(薫、浮舟の出家)、5雲雀子(薫の霊が息子に出家のすすめ)、6八橋(匂帝に帝位のまま悟るようにとの教え)、あとがき(康平元年戊戌年(1058年)正月大僧都、信誉のものと元応元年(1319年)9月藤原親兼の2系統)&lt;/small&gt;<br /> **『雪のあした』(江戸時代、伴蒿蹊) -&lt;small&gt;惟光の孫惟豊が「夢浮橋」以後の出来事を語る。&lt;/small&gt;&lt;ref&gt;風間誠史校訂「雪のあした」『業書江戸文庫 7 伴蒿蹊集』国書刊行会、1993年2月。 ISBN 978-4-336-03010-8 &lt;/ref&gt;<br /> **『物がたり 夢浮橋の後をつぐ』(江戸時代、源直好)&lt;ref&gt;風間誠史校訂「物がたり 夢浮橋の後をつぐ」『業書江戸文庫 7 伴蒿蹊集』国書刊行会、1993年2月。 ISBN 978-4-336-03010-8 &lt;/ref&gt;<br /> **『花を惜しむ詞 手習いの君になずらう』(江戸時代、[[橘千蔭]])<br /> ** 『稲妻』(2000年、[[ライザ・ダルビー]])-&lt;small&gt;同人による「紫式部物語」の下巻・巻末に収録。「夢浮橋」の後を補う巻。薫と浮舟のその後を書く&lt;/small&gt;<br /> <br /> ==== 二次創作 ====<br /> 源氏物語の成立事情をテーマにした作品<br /> * [[丸谷才一]] 『[[輝く日の宮]]』&lt;small&gt;(全1巻、講談社、2003年6月/講談社文庫、2006年6月) - 最後の章を失われた「輝く日の宮」の復元にあてる&lt;/small&gt;<br /> * ライザ・ダルビー[[[:en:Liza Dalby|Liza Dalby]]]『紫式部物語-その恋と生涯 &#039;&#039;The Tale of Murasaki&#039;&#039;』 &lt;small&gt;(岡田好惠訳、上下2巻、[[光文社]]、2000年/[[光文社文庫]]、2005年) - 紫式部の娘から孫に伝えられた、紫式部が自らの生涯を記した日記という形で、『源氏物語』執筆の背景などを描く&lt;/small&gt;<br /> * [[井沢元彦]] 『GEN 「源氏物語」秘録』(角川書店、1995年10月/実業之日本社、1997年11月/角川文庫、1998年10月)<br /> * 森谷明子 『千年の黙 異本源氏物語』(東京創元社、2003年10月/創元推理文庫、2009年6月)<br /> * [[古川日出男]]『女たち三百人の裏切りの書』(新潮社、2015年4月) - &lt;small&gt;「宇治十帖」が後世の改ざんであると主張する紫式部の怨霊が本物の物語を語り、台頭する瀬戸内の海賊や奥州の武士たちのエピソードと絡んでゆく物語。&lt;/small&gt;<br /> <br /> ==== 意訳小説 ====<br /> * 『新源氏物語』(1978年 - 1979年、全5巻、田辺聖子)<br /> * 『私本・源氏物語』(1980年、全1巻、田辺聖子) - &lt;small&gt;光源氏の従者の視点から書く&lt;/small&gt;<br /> * 『女人源氏物語』(1988年 - 1989年、全5巻、瀬戸内寂聴) - &lt;small&gt;光源氏の女君たちの視点から書く&lt;/small&gt;<br /> * 『窯変 源氏物語』(1991年 - 1993年、全14巻、橋本治) - &lt;small&gt;光源氏の視点から書く&lt;/small&gt;<br /> * 『六条御息所 源氏がたり』(2008年 - 、[[林真理子]]) - &lt;small&gt;亡霊となった六条御息所の視点から書く&lt;/small&gt;<br /> * 『[[英語で読むシリーズ|英語で読む源氏物語]]』(2010年、グレン・サリバン) - &lt;small&gt;短い英文による抄訳を連ねている&lt;/small&gt;<br /> <br /> ==== 翻案小説 ====<br /> * 『[[偐紫田舎源氏]]』([[合巻]]。1829年 - 1842年、38編172冊、柳亭種彦作、[[歌川国貞]]画) - &lt;small&gt;足利将軍の子・光氏が浮名を流しながら[[お家騒動]]を解決する[[勧善懲悪]]もの。&lt;/small&gt;<br /> *『読み違え源氏物語』(2007年、文藝春秋、[[清水義範]])<br /> *『[[ヒカルが地球にいたころ……]]』(2011年 - 2014年、全10巻、[[ファミ通文庫]]、[[野村美月]]作、[[竹岡美穂]]画) - &lt;small&gt;[[平成時代]]に設定を置き換えた[[ライトノベル]]。&lt;/small&gt;<br /> *『源氏物語 時の姫君 いつか、めぐりあうまで』(2011年、[[角川つばさ文庫]]、[[越水利江子]]) - &lt;small&gt;紫の上を主人公に翻案した[[児童小説]]。&lt;/small&gt;<br /> *『光源氏と不機嫌な花嫁』(2013年、集英社シフォン文庫、春秋子作、四位広猫画) - &lt;small&gt;光源氏と葵上のエピソードをモチーフとした[[ティーンズラブ#小説|(女性向け)ティーンズラブ小説]]。&lt;/small&gt;<br /> <br /> === エッセイ・評論 ===<br /> * 『源氏の恋文』(1984年、尾崎左永子)<br /> * 『源氏の薫り』(1986年、尾崎左永子)<br /> * 『源氏の明り』(1997年、尾崎左永子)<br /> * 『服装から見た源氏物語』(1982年、近藤富枝)<br /> * 『「源氏物語」を江戸から読む』(1985年、野口武彦)<br /> <br /> === 漫画 ===<br /> * 『[[あさきゆめみし]]』(1979年 - 1993年、全13巻、講談社、[[大和和紀]])<br /> * 『赤塚不二夫のまんが古典入門 源氏物語』(1983年、学研、[[赤塚不二夫]])<br /> * 『マンガ源氏物語』(1987年 - 1988年、上下巻、[[平凡社]]、[[みはしまり]]&lt;small&gt;画&lt;/small&gt;、[[清水好子]]&lt;small&gt;監修&lt;/small&gt;)<br /> * 『源氏物語』(1988年 - 1990年、全8巻、小学館、[[牧美也子]])「桐壺」から「藤裏葉」まで<br /> * 『源氏物語』(1996年 - 1997年、全3巻、マンガ日本の古典、[[長谷川法世]])<br /> * 『源氏物語 美しき花の乱』(2001年 - 2002年、全2巻、蒼馬社、[[井出智香恵]])<br /> * 『月下の君』(2001年 - 2004年、全7巻、小学館、[[嶋木あこ]]) - &lt;small&gt;[[平成時代]]に設定を置き換えた作品&lt;/small&gt;<br /> * 『源氏物語』(2001年 - 2005年、全7巻&lt;small&gt;(「桐壺」から「紅葉賀」まで)&lt;/small&gt;、集英社、[[江川達也]])<br /> * 『大掴源氏物語 まろ、ん?』(2002年、&lt;small&gt;(「輝日宮」についても触れられている)&lt;/small&gt;、[[幻冬舎]]、[[小泉吉宏]])<br /> * 『マンガ源氏物語』(2002年、[[講談社]]&lt;small&gt;(「桐壺」から「賢木」まで)&lt;/small&gt;、みはしまり&lt;small&gt;画&lt;/small&gt;、清水好子&lt;small&gt;監修&lt;/small&gt;)<br /> * 『[[パタリロ源氏物語!]]』(2004年 - 2008年、全5巻、白泉社、[[魔夜峰央]]) - &lt;small&gt;『[[パタリロ!]]』の登場人物、[[ジャック・バルバロッサ・バンコラン|バンコラン]]が光源氏を演じる&lt;/small&gt;<br /> * 『GENJI 源氏物語』(2004年 - 2005年、全4巻&lt;small&gt;(「桐壺」から「薄雲」まで)&lt;/small&gt;、集英社、[[きら (漫画家)|きら]]) - &lt;small&gt;光源氏と紫の上、そして藤壺の三角関係を重点に置く。語り部は紫の上&lt;/small&gt;<br /> * 『源氏ものがたり』(2006年 - 2009年、全4巻、小学館、[[美桜せりな]]) - &lt;small&gt;桐壺から浮舟までの主要女性に焦点をあてた読切作品を纏めている&lt;/small&gt;<br /> * 『源氏物語』(2010年 - 2011年、全2巻、[[角川書店]]、[[宮城とおこ]]&lt;small&gt;画&lt;/small&gt;、[[高山由紀子]]&lt;small&gt;原作&lt;/small&gt;) - &lt;small&gt;下記の映画『[[源氏物語 千年の謎]]』の[[コミカライズ]]作品。&lt;/small&gt;<br /> * 『[[源君物語]]』(2011年 - 、『[[週刊ヤングジャンプ]]』([[集英社]])にて連載中、[[稲葉みのり]]) - &lt;small&gt;[[平成時代]]に設定を置き換えた[[ラブコメディ]]&lt;/small&gt;<br /> * 『はやげん! はやよみ源氏物語』(2012年、[[新書館]]、[[花園あずき]])<br /> * 『百合源氏』(2014年、[[無限の地平はみな底辺]])<br /> * 『黒源氏物語』(『花とみるらむ〜恋虜源氏物語〜』より改題)(2015年 - 、『[[Cheese!]]』(小学館)にて連載中、[[桜田雛]])<br /> <br /> === 映画 ===<br /> * 『[[源氏物語 (1951年の映画)|源氏物語]]』(1951年、[[大映]]、監督:[[吉村公三郎]]、監修:[[谷崎潤一郎]]、脚本:[[新藤兼人]]、主演:[[長谷川一夫]] [[木暮実千代]])<br /> * 『[[源氏物語 浮舟]]』(1957年、大映、監督:[[衣笠貞之助]]、原作:[[北条秀司]]、脚色:[[八尋不二]]・衣笠貞之助、出演:長谷川一夫(薫)、[[市川雷蔵 (8代目)|市川雷蔵]](匂宮)、[[山本富士子]](浮舟))<br /> * 『[[新源氏物語]]』(1961年、大映、監督:[[森一生]]、原作:[[川口松太郎]]、脚本:八尋不二、主演:市川雷蔵 [[寿美花代]])<br /> * 『源氏物語』(1966年、[[日活]]、製作・監督・脚本:[[武智鉄二]]、主演:[[花ノ本寿]])<br /> * 『紫式部 源氏物語』(1987年、[[角川ヘラルド・ピクチャーズ|日本ヘラルド映画]]、アニメ作品、監督:[[杉井ギサブロー]]、脚本 : [[筒井ともみ]]、音楽:[[細野晴臣]]、キャラクター原案 : [[林静一]]、作画監督、キャラクターデザイン : [[名倉靖博]]声:光源氏 : [[風間杜夫]]、夕顔 : [[萩尾みどり]]、葵の上 : [[田島令子]]、六条御息所 : [[梶三和子]]、藤壺 : [[大原麗子]]、紫の上 : [[横山めぐみ]]、朧月夜 : [[風吹ジュン]]、北山の僧都 : [[常田富士夫]]、(C)朝日新聞社/テレビ朝日/KADOKAWA&lt;ref&gt;日本ヘラルド映画(株)は、2006年3月に[[角川映画]]に吸収合併された。よって、このアニメ作品は、それ以降は、角川映画として紹介されている。『[http://www.kadokawa-pictures.jp/official/00377/ 紫式部 源氏物語]』公式サイト(KADOKAWA)&lt;/ref&gt;。<br /> * 『[[映像詩 源氏物語]] あさきゆめみし 〜Lived In A Dream〜』(2000年、NHKハイビジョン版と同じ内容)<br /> * 『[[千年の恋 ひかる源氏物語]]』(2001年、[[東映]]、監督:[[堀川とんこう]]、脚本:[[早坂暁]]、主演:[[天海祐希]])<br /> * 『[[源氏物語 千年の謎]]』(2011年、[[東宝]]、原作:[[高山由紀子]]『源氏物語 悲しみの皇子』(文庫版では『源氏物語 千年の謎』に改題)、製作:[[角川歴彦]]・監督:[[鶴橋康夫]]、主演:[[生田斗真]])<br /> <br /> === ドラマ ===<br /> ==== テレビドラマ ====<br /> * 『源氏物語 浮舟』(1957年、[[TBSテレビ|TBS]][[日曜劇場|東芝日曜劇場]]、全1回、脚本:北条秀司、主演:[[松本白鸚 (初代)|八代目松本幸四郎]])<br /> * 『ミュージカル・コメディ 源氏物語』(1958年、TBS東芝日曜劇場、全1回、脚本:北条秀司、主演:[[中村鴈治郎 (2代目)|二代目中村鴈治郎]])<br /> * 『源氏物語』(1959年、[[讀賣テレビ放送|よみうりテレビ]]、全61回)<br /> * 『源氏物語』(1965年 - 1966年、[[MBSテレビ|毎日放送]]、全26回、演出:[[市川崑]]、[[池田徹朗]]、[[西前充男]]、[[青木民男]]、脚本:[[田中澄江]]、[[林馬呂]]、[[畑中国明]]、[[沼田幸二]]、[[大藪郁子]]、[[宮川一郎]]、[[小松崎公朗]]、[[早坂暁]]、[[谷川俊太郎]]、監修:[[山本健吉]]、主演:[[伊丹十三]](光源氏)、出演:[[小山明子]](藤壺)、[[丘さとみ]](葵の上)、[[富士真奈美]](紫の上)、[[藤村志保]](夕顔)、[[吉村実子]](明石の方)、[[中村玉緒]](空蝉)、[[岸田今日子]](六条御息所)、[[加賀まりこ]](女三宮)、[[山本学]](頭中将)、[[河原崎長一郎]](柏木)、[[田村正和]](夕霧))、[[黒柳徹子]]、[[津川雅彦]]、[[森次浩司]]、[[木暮実千代]]、[[野川由美子]]、[[春川ますみ]]、[[高橋幸治]]、[[池内淳子]](紫式部)、[[東山千栄子]] 〈1966年度 アメリカ・[[エミー賞]]受賞〉<br /> * 『源氏物語』(1980年、TBS、全1回、脚本:[[向田邦子]]、演出:[[久世光彦]]、主演:[[沢田研二]]) - &lt;small&gt;「資生堂スペシャル」と冠す&lt;/small&gt;<br /> * 『[[源氏物語 上の巻・下の巻]]』(1991 - 1992年、TBS、全2回、脚本:[[橋田壽賀子]]、主演:[[東山紀之]]、[[片岡仁左衛門 (15代目)|片岡孝夫]]) - &lt;small&gt;「TBS創立40周年記念番組 橋田寿賀子スペシャル」と冠す&lt;/small&gt;<br /> * 『映像詩 源氏物語 あさきゆめみし 〜Lived In A Dream〜』(2000年、[[NHKデジタル衛星ハイビジョン|NHKハイビジョン]]、脚本:[[唐十郎]]、音楽:[[三枝成章]]、監督:[[三枝健起]]、出演:[[宝塚歌劇団]][[花組 (宝塚歌劇)|花組]]、[[専科 (宝塚歌劇)|専科]]ほか)<br /> * 『[[鵜飼いに恋した夏]]』(2014年&lt;!--11月12日--&gt;、[[NHK BSプレミアム]]、全1回、作:[[永田優子]]、出演:[[伊藤淳史]]、[[忽那汐里]]ほか、[[宇治十帖]]をモチーフとした青春ドラマ)<br /> * 『源氏さん!物語』(2017年、[[フジテレビジョン|フジテレビ]][[FNS27時間テレビ (2017年)|FNS27時間テレビ]]、全1回、脚本:[[根本ノンジ]]、演出:[[平野眞]]、出演:[[城田優]](光源氏)、[[野村周平]]ほか、「源氏物語」を大幅にアレンジしたドラマ)<br /> <br /> ==== ラジオドラマ ====<br /> * ラジオドラマ『源氏悲帖』北条秀司(1963年2月)<br /> <br /> === テレビアニメ ===<br /> * 『[[源氏物語千年紀 Genji]]』(2009年、監督:[[出崎統]]、声:[[櫻井孝宏]])<br /> <br /> === 舞台芸術 ===<br /> ==== 朗読・語り ====<br /> * 『源氏物語 もののあはれ 源流への旅』[http://www.genji-kyokotoba.jp 山下智子] 全五十四帖 隔月連続語り会<br /> <br /> ==== 演劇 ====<br /> * 『源氏物語』(1966年 帝国劇場 光源氏:[[長谷川一夫]]、共演:[[京マチ子]])<br /> * 『うき身を醒めぬ夢になしても』(2006年 演出:成瀬芳一、脚本:[[水原央]]、光源氏は[[初風緑]])<br /> * 『艶は匂へど…』(2007年 演出:恵川智美、脚本:[[水原央]]、光源氏は[[峰さを理]])<br /> * 『夕顔の森〜香子のプリズムトリップ〜』2008年 演出、脚本:[[室生春]] ※源氏物語をモチーフにしている。<br /> * 『源氏物語』(2011年11月 [[ニコニコミュージカル]]、演出:[[湯澤幸一郎]]、脚本:[[喜安浩平]]、光源氏は[[ぽこた]])<br /> <br /> ==== 歌舞伎 ====<br /> * 『朧月夜かんの君』舟橋聖一(1974年)<br /> * 『源氏物語 葵の巻』円地文子(1975年、歌舞伎座)<br /> * 『浮舟』北条秀司<br /> * 『妄執』北条秀司<br /> * 『末摘花』北条秀司(1960年11月)<br /> * 『落葉の宮』北条秀司(1959年、歌舞伎座)<br /> * 『藤壺絵巻』川口松太郎(1951年11月、明治座)<br /> * 『源氏物語』土橋成男(明治座操業90年・同再開場25周年記念として1972年)大川橋蔵 光源氏と藤壺との関係を描いたもの。<br /> <br /> ==== 能 ====<br /> * 碁(「空蝉」を題材としたもの。復曲)<br /> * 半蔀(「夕顔」を題材としたもの)<br /> * 夕顔(「夕顔」を題材としたもの)<br /> * [[葵上]](「葵」を題材としたもの)<br /> * 野宮(「賢木」を題材としたもの)<br /> * 須磨源氏(「須磨」「明石」を題材としたもの)<br /> * 住吉詣(「澪標」を題材としたもの)<br /> * 玉鬘(「玉鬘」を題材としたもの)<br /> * 落葉(「夕霧」を題材としたもの。いわゆる「陀羅尼落葉」とは別の曲である)<br /> * 浮舟(「浮舟」を題材としたもの)<br /> * [[源氏供養]]<br /> <br /> ==== 浄瑠璃 ====<br /> * 『[[源氏供養]]』<br /> * 『あふひのうえ』<br /> <br /> ==== 宝塚歌劇 ====<br /> {{main|源氏物語 (宝塚歌劇)}}<br /> 宝塚歌劇団では黎明期から今日まで繰り返し上演されている。特に、[[春日野八千代]]の光源氏役は当たり役として名高い。<br /> <br /> ==== 戯曲 ====<br /> * 『源氏物語』番匠谷英一<br /> * 『宇治十帖』番匠谷英一<br /> * 『源氏物語』舟橋聖一<br /> <br /> === 邦楽 ===<br /> * 『葵上』([[地歌]]・[[箏曲]])<br /> * 『桐壺』(箏曲(組歌))<br /> * 『須磨』(箏曲(組歌)。[[八橋検校]]作曲)<br /> * 『明石』(箏曲(組歌))<br /> * 『空蝉』(箏曲(組歌))<br /> * 『橋姫』(箏曲(組歌))<br /> * 『玉鬘』(箏曲(組歌))<br /> * 『四季源氏乙女の曲』(箏曲(組歌))<br /> * 『夢の浮橋』(地歌・箏曲)<br /> * 『新浮舟』(地歌・箏曲。[[松浦検校]]作曲)<br /> * 『[[夕顔 (地歌)|夕顔]]』(地歌・箏曲。[[菊岡検校]]作曲)<br /> * 『新青柳』(地歌・箏曲。[[石川勾当]]作曲・石川の「三つ物」の一曲)<br /> * 『梓』(地歌・箏曲)<br /> * 『新玉鬘』(地歌・箏曲。[[幾山検校]]作曲)<br /> * 『葵の上』(山田流箏曲。[[山田検校]]作曲・山田の「四つ物」の一曲)<br /> * 『石山源氏』(山田流箏曲。千代田検校作曲)<br /> <br /> === 現代音楽 ===<br /> * 『源氏物語』『宇治十帖』(両作ともオペラ、[[松平頼則]]作曲)<br /> * 『源氏物語』(グランドオペラ、[[三木稔]]作曲)<br /> * 『葵の上』([[ミュジーク・コンクレート]]、[[湯浅譲二]]作曲)<br /> * 『葵の上』(ミュジーク・コンクレート、[[黛敏郎]]作曲)<br /> * 『源氏物語幻想交響絵巻』(管弦楽曲、[[冨田勲]]作曲)<br /> * 『源氏幻奏』(合唱組曲、[[鈴木輝昭]]作曲)<br /> <br /> === ポピュラー音楽 ===<br /> * 『[[源氏物語 (橋幸夫のアルバム)|源氏物語]]』[[橋幸夫]](1975年5月発売・LPでのオリジナルアルバム)<br /> * 『[[女たちよ]]』[[沢田研二]](1983年)<br /> <br /> === その他書籍 ===<br /> * 『源氏物語の色』(1988年、別冊太陽)<br /> * 『源氏物語六条院の生活』(1998年、1999年改訂、五島邦治・風俗博物館、風俗博物館)<br /> * 『六条院へ出かけよう 源氏物語と京都』(2005年、五島邦治・風俗博物館、風俗博物館)<br /> * 『源氏物語の色辞典』(2008年、吉岡幸雄、紫紅社)<br /> * 『源氏物語の舞台を訪ねて』(2011年、加納重文、宮帯出版社)<br /> <br /> == 関連文献 ==<br /> === 入門書 ===<br /> * [[池田亀鑑]] 『源氏物語入門』 社会思想社〈現代教養文庫〉、新版2001年(平成13年)、ISBN 4-390-11639-8、 初版1957年(昭和32年)、(オンデマンド版、文元社、2004年(平成16年)) ISBN 4-86145-005-5<br /> * [[阿部秋生]] 『源氏物語入門』 岩波書店〈岩波セミナーブックス〉41、1992年(平成4年)、ISBN 4-00-004211-4。<br /> * [[藤井貞和]] 『源氏物語入門』 講談社〈講談社学術文庫〉、1996年(平成8年)、ISBN 978-4061592117。<br /> * 出口汪 『源氏物語が面白いほどわかる本』中経出版、2001年(平成13年)1月 ISBN 978-4-8061-1439-0 のち文庫版上下2巻で、中経出版〈中経の文庫〉、2007年(平成19年)、上巻ISBN 978-4-8061-2688-1、下巻ISBN 978-4-8061-2689-8。<br /> * 『源氏物語がわかる』 朝日新聞社〈AERAムック〉、1997年(平成9年)、ISBN 9784022740618。<br /> * 『2時間でわかる源氏物語 新装版』 [[明治書院]]、2009年、ISBN 978-4-625-64401-6<br /> <br /> === 事典 ===<br /> 源氏物語に特化した事典類だけでも簡単なものから詳細なものまで数多くのものが出版されている。源氏物語を理解するための年立てや系図といった参考資料が組み合わさっているものも多い。<br /> * 『源氏物語事典』 池田亀鑑編、東京堂出版、1960年(昭和35年)、合本1987年(昭和62年)、ISBN 4-4901-0223-2。<br /> * 『源氏物語事典』 岡一男編、春秋社、1964年(昭和39年)。<br /> * 『源氏物語事典』 三谷栄一編、有精堂、1973年(昭和48年)、ISBN 4-640-30259-2。<br /> * 『源氏物語事典』 秋山虔編、学燈社〈別冊国文学〉No.36、1989年(平成元年)5月10日。<br /> * 『源氏物語図典』 秋山虔ほか編、小学館、1997年(平成9年)。<br /> * 『源氏物語を知る事典』 [[西澤正史]]編、東京堂出版、1998年(平成10年)、ISBN 4-490-10485-5。<br /> * 『源氏物語必携事典』 秋山虔・室伏信助ほか編、角川書店、1998年(平成10年)、ISBN 978-4-04-883547-3。<br /> * 『源氏物語事典』 林田孝和・植田恭代・竹内正彦・原岡文子・針本正行・吉井美弥子編、大和書房、2002年(平成14年)5月、ISBN 4-4798-4060-5。<br /> <br /> === 辞典 ===<br /> 源氏物語に特化した語彙辞典<br /> * 北山谿太編『源氏物語辞典』[[平凡社]]、1957年(昭和32年)10月。<br /> * [[秋山虔]]・[[室伏信助]]編『源氏物語大辞典』[[角川学芸出版]]、2011年(平成23年)2月。 ISBN 978-4-0465-3220-6<br /> <br /> === ハンドブック類 ===<br /> * [[秋山虔]]編『日本文学必携シリーズ 源氏物語必携』学灯社、1969年(昭和44年)。<br /> * 秋山虔編『源氏物語必携』学燈社〈別冊国文学〉No.1、1978年(昭和53年)。<br /> * 秋山虔編『源氏物語必携II』学燈社〈別冊国文学〉No.13、1982年(昭和57年)。<br /> * 秋山虔編『新・源氏物語必携』学燈社〈別冊国文学〉No.50、1997年(平成9年)。<br /> * 秋山虔ほか編『源氏物語ハンドブック』新書館、1996年(平成8年)。 ISBN 4-403-25019-X<br /> * [[鈴木日出男]]編『源氏物語ハンドブック』三省堂、1998年(平成10年)。 ISBN 4-385-41034-8<br /> * 中野幸一編『常用 源氏物語要覧』武蔵野書院、1997年(平成9年)。 ISBN 4-8386-0383-5<br /> <br /> === 原文テキスト ===<br /> * 『校注古典叢書 源氏物語 新装版』 阿部秋生校注、[[明治書院]]<br /> *#(一)、2001年04月 ISBN 4-625-71305-6<br /> *#(二)、2001年04月 ISBN 4-625-71306-4<br /> *#(三)、2002年02月 ISBN 4-625-71316-1<br /> *#(四)、2001年04月 ISBN 4-625-71311-0<br /> *#(五)、2001年04月 ISBN 4-625-71307-2<br /> *#(六)、2003年02月 ISBN 4-625-71324-2<br /> <br /> === 研究文献目録 ===<br /> * 『源氏物語 研究ハンドブック』 [[吉海直人]]編、翰林書房<br /> *# 1999年(平成11年)、ISBN 4-87737-071-4。<br /> *# 1999年(平成11年)、ISBN 4-87737-072-2。<br /> *# 2001年(平成13年)、ISBN 4-87737-137-0。<br /> * 「源氏物語研究文献目録」『源氏物語講座 第10巻』 [[今井卓爾]]ほか、勉誠社、1993年(平成5年)、ISBN 4-585-02021-7。<br /> <br /> === 用例索引 ===<br /> * 『源氏物語大成』(索引編)<br /> * 『源氏物語語彙用例総索引 自立語編』全5巻、勉誠出版、1994年(平成6年)、ISBN 4-585-08004-X。<br /> * 『源氏物語語彙用例総索引 付属語編』全5巻および別冊、勉誠出版、1996年(平成8年)、ISBN 978-4585100034。<br /> * 『源氏物語索引』(新日本古典文学大系版の索引) 岩波書店、1999年(平成11年)。<br /> <br /> その他にCD-ROM化された本文検索システムとして次のようなものがある。<br /> * 『角川古典大観 源氏物語』 伊井春樹、角川書店(CD-ROM)<br /> * 『源氏物語本文研究データベース』 勉誠出版(CD-ROM)<br /> <br /> === 講座など ===<br /> 源氏物語に特化したもののみ。<br /> * 『源氏物語講座』全8巻、山岸徳平ほか、有精堂、1971年(昭和46年)-1972年(昭和47年)。<br /> * 『講座源氏物語の世界』全9巻、秋山虔ほか、有斐閣、1980年(昭和55年)-1984年(昭和59年)。<br /> * 『源氏物語講座』全10巻、今井卓爾ほか、勉誠社、1991年(平成3年)-1993年(平成5年)。<br /> * 『源氏物語の鑑賞と基礎知識(国文学解釈と鑑賞. 別冊)』全43冊、鈴木一雄ほか 2001年(平成13年)-2005年(平成17年)  至文堂。<br /> * 『源氏物語研究集成』全15巻、風間書房、伊井春樹ほか 1998年(平成10年)-2001年(平成13年)。<br /> * 『人物で読む源氏物語』全20巻、勉誠出版、上原作和ほか 2005年(平成17年)-2006年(平成18年)。<br /> * 『講座源氏物語研究』全12巻・別巻2、おうふう、伊井春樹ほか 2006年(平成18年)-2008年(平成20年)。<br /> <br /> === 論文集 ===<br /> 既発表の主要論文などを集めたもの。<br /> * 『増補 国語国文学研究資料大成3 源氏物語』上、三省堂、初版1960年(昭和35年)、増補版1977年(昭和52年)。<br /> * 『増補 国語国文学研究資料大成4 源氏物語』下、三省堂、初版1961年(昭和36年)、増補版1977年(昭和52年)。<br /> * 『日本文学研究資料叢書 源氏物語』 有精堂<br /> *# 1969年(昭和44年)、ISBN 4-640-30017-4。<br /> *# 1970年(昭和45年)、ISBN 4-640-30018-2。<br /> *# 1971年(昭和46年)、ISBN 4-640-30019-0。<br /> *# 1982年(昭和57年)、ISBN 4-640-30020-4。<br /> *鈴木一雄編『国文学解釈と鑑賞 別冊 源氏物語』至文堂<br /> *# 成立論・構想論 1982年(昭和57年)3月。<br /> *# 構想論・主題論 1982年(昭和57年)4月。<br /> *# 文体論・表現論 1982年(昭和57年)5月。<br /> * 『日本文学研究大成 源氏物語』 1 森一郎ほか 国書刊行会, 1988年(昭和63年)<br /> * 『日本文学研究資料新集 源氏物語 語りと表現』三谷邦明ほか 有精堂、1991年(平成3年)、ISBN 4-640-30954-6。<br /> * 『日本文学研究論文集成 源氏物語』2巻 藤井貞和ほか監修 若草書房<br /> *# 1998年(平成10年) 松井健児編 ISBN 4-948755-20-6<br /> *# 1999年(平成11年) 植田恭代編 ISBN 4-948755-27-3<br /> * 『テーマで読む源氏物語論』2008年(平成20年)に全3巻として刊行されたが2010年(平成22年)になって第4巻が刊行された、今西祐一郎ほか 勉誠出版。<br /> *# 「主題」論の過去と現在 2008年(平成20年)10月 ISBN 978-4-585-03186-4<br /> *# 本文史学の展開/言葉をめぐる精査 2008年(平成20年)6月 ISBN 978-4-585-03187-1<br /> *# 歴史・文化との交差語り手・書き手・作者 2008年(平成20年)10月 ISBN 978-4-585-03188-8<br /> *# 紫上系と玉鬘系-成立論のゆくえ- 2010年(平成22年)6月 ISBN 978-4-585-29006-3<br /> <br /> == 脚注 ==<br /> {{脚注ヘルプ}}<br /> === 注釈 ===<br /> {{Reflist|group=注釈}}<br /> === 出典 ===<br /> {{Reflist|2}}<br /> <br /> ==参考文献(多く参照)==<br /> *{{cite encyclopedia<br /> | author = 玉上琢弥<br /> | encyclopedia = 世界大百科事典<br /> | title = 源氏物語<br /> | accessdate=2009-11-25<br /> | edition = 1972年<br /> | publisher = [[平凡社]]<br /> | volume = 9巻<br /> }}<br /> *{{Cite book|和書<br /> |author=池田亀鑑<br /> |title=源氏物語入門<br /> |origdate=1957年初版<br /> |accessdate=2009-12-08<br /> |publisher=社会思想研究会<br /> |series=現代教養文庫<br /> }}<br /> <br /> == 関連項目 ==<br /> {{Wikiquote|源氏物語}}<br /> {{Commons|Category:The Tale of Genji}}<br /> {{wikisource}}<br /> * [[源氏物語の登場人物]]<br /> * [[源氏物語絵巻]]<br /> * [[紫式部]]<br /> * [[紫式部日記]]<br /> * [[紫式部日記絵巻]]<br /> * [[藤原道長]] <br /> * [[御堂関白記]](藤原道長の日記)<br /> * [[国風文化]]<br /> * [[日本の中古文学史]]([[もののあはれ]])<br /> * [[物語]] / [[作り物語]] / [[王朝物語]]<br /> * [[風俗博物館]]-京都市にある私立の専門[[博物館]]<br /> * [[宇治市源氏物語ミュージアム]]<br /> * [[紅楼夢]]&lt;!-- 比較されるべき作品かどうか良く分からないが、そういったものに関する記事が立てられれば、そちらに移すべき。取りあえず残した。 --&gt;<br /> <br /> == 外部リンク ==<br /> * {{青空文庫|000052|362|新字新仮名|源氏物語}}([[与謝野晶子]]訳)<br /> * [http://kindai.ndl.go.jp/search/searchResult?SID=kindai&amp;searchWord=%E5%AE%AE%E7%94%B0%E5%92%8C%E4%B8%80%E9%83%8E 宮田和一郎による註付き現代語訳] 近代デジタルライブラリー<br /> * [http://www.genji.co.jp/yosano/yosano.html 角川文庫 全訳源氏物語(与謝野晶子訳)] - [[与謝野晶子]]による現代語訳は1993年に[[著作権の保護期間]]が満了したため、[[パブリック・ドメイン]]で利用できる。<br /> * [http://www.sainet.or.jp/~eshibuya/ 定家本系「源氏物語」(青表紙本)本文に関する情報と資料の研究] - [[渋谷栄一]]による定家本の本文・現代語訳・注釈・翻刻資料・他<br /> * [http://www.h2.dion.ne.jp/~miyawaki/Genji/tree.html 「源氏物語の世界 再編集版」]宮脇文経の作成による上記サイトの再編集版<br /> * [http://angel-zaidan.org/genji/ 源氏物語全講会] - 岡野弘彦、森永エンゼルカレッジ<br /> *[http://genji.choice8989.info/#mokuji 3分で読む源氏物語]<br /> === ワールド・デジタル・ライブラリー ===<br /> [[ワールド・デジタル・ライブラリー]]は[[国際連合教育科学文化機関]]によるデジタル・ライブラリープロジェクトである。<br /> * [http://www.wdl.org/en/item/785/ 源氏物語] The Tale of Genji: Volumes 1-54:UNESCO World Digital Library<br /> * [http://www.wdl.org/en/item/2688/ 源氏物語:源氏目案] The Tale of Genji: Commentary on Key Words and Phrases, Volumes 55-57:UNESCO World Digital Library<br /> * [http://www.wdl.org/en/item/2689/ 源氏物語:源氏系圖] The Tale of Genji: Genealogy, Volume 58:UNESCO World Digital Library<br /> * [http://www.wdl.org/en/item/2690/ 源氏物語:山路の露] The Tale of Genji: A Sequel, Volume 59:UNESCO World Digital Library<br /> * [http://www.wdl.org/en/item/2691/ 源氏物語:源氏物語引き哥] The Tale of Genji: Index, Volume 60:UNESCO World Digital Library<br /> <br /> === 資料博物館 ===<br /> * [http://www.iz2.or.jp/ 風俗博物館]<br /> * [http://www.uji-genji.jp/ 宇治市源氏物語ミュージアム]<br /> * [http://www.genji.co.jp/ 古典総合研究所]<br /> <br /> {{源氏物語|state=uncollapsed}}<br /> {{源氏物語の写本と関連書|state=uncollapsed}}<br /> {{Normdaten}}<br /> {{DEFAULTSORT:けんしものかたり}}<br /> [[Category:源氏物語|*]]<br /> [[Category:紫式部]]<br /> [[Category:11世紀の書籍]]<br /> [[Category:日本の小説]]<br /> [[Category:日本の恋愛小説]]<br /> [[Category:王子を主人公にした物語]]<br /> [[Category:京都府を舞台とした作品]]<br /> [[Category:京都市を舞台とした小説]]<br /> [[Category:兵庫県を舞台とした作品]]<br /> [[Category:神戸市を舞台とした小説]]<br /> [[Category:近畿地方を舞台とした作品]]<br /> [[Category:親族の恋愛を扱った作品]]</div> 219.96.7.204 地震モーメント 2018-08-21T08:38:23Z <p>219.96.7.204: </p> <hr /> <div>&#039;&#039;&#039;地震モーメント&#039;&#039;&#039;(じしんモーメント)とは、[[地震]]の大きさを示す指標のひとつで、[[断層]]運動の[[力のモーメント]]([[エネルギー]])の大きさを表す。<br /> <br /> 断層面の[[剛性率]]を&lt;math&gt;\mu&lt;/math&gt;([[パスカル (単位)|Pa]])、断層面積の合計を&lt;math&gt;A&lt;/math&gt;([[平方メートル|m&lt;sup&gt;2&lt;/sup&gt;]])、断層全体での変位(すべり)量の平均を&lt;math&gt;\bar{D}&lt;/math&gt;([[メートル|m]])としたとき、地震モーメント&lt;math&gt;M_0&lt;/math&gt;は、<br /> :&lt;math&gt;M_0=\mu A\bar{D}&lt;/math&gt;<br /> と表される。単位は[[ニュートンメートル]](N・m)である。<br /> <br /> == 概要 ==<br /> 地震そのものの大きさを表す指標としては最も的確な指標であり、[[発震機構|セントロイド・モーメント・テンソル]](CMT解)の算出や、大地震で多用される[[モーメント・マグニチュード]] (Mw) の算出に用いられている。<br /> <br /> マグニチュードと地震の放出するエネルギー &lt;math&gt;W_0&lt;/math&gt; ([[ジュール|J]])は以下の関係にある。<br /> : &lt;math&gt;\log_{10} W_0 = 1.5 M + 4.8&lt;/math&gt;<br /> <br /> 地震の放出するエネルギーは応力降下量(ストレスドロップ、stress drop) &lt;math&gt; \Delta \sigma&lt;/math&gt; と以下の関係にある。<br /> : &lt;math&gt;M_0 = \frac{\Delta \sigma}{c} A^{2/3}&lt;/math&gt;<br /> <br /> また、エネルギーは岩盤の剛性率 &lt;math&gt;\mu&lt;/math&gt; と以下の関係にある。<br /> : &lt;math&gt;W_0 = \frac{1}{2} \Delta \sigma D A = \frac{\Delta \sigma}{2 \mu} M_0&lt;/math&gt;<br /> <br /> 多くの地震において応力降下量と剛性率の比率はほぼ一定と見做せるから、地震の放出するエネルギーと地震モーメントはほぼ比例するといえる。この考えから地震モーメントに基づいた地震の規模を定義することが可能でモーメント・マグニチュードと呼ばれる&lt;ref&gt;{{PDFlink|[http://gps-prod-storage.cloud.caltech.edu.s3.amazonaws.com/people_personal_assets/kanamori/HKjgr77.pdf Kanamori(1977)]}} Kanamori, H., 1977, The energy release of great earthquakes, &#039;&#039;J. Geophys. Res.&#039;&#039; &#039;&#039;&#039;82&#039;&#039;&#039;, 2981-2987.&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;{{PDFlink|[http://www.gps.caltech.edu/uploads/File/People/kanamori/HKjgr79d.pdf HANKS(1979)]}} THOMAS C. HANKS and HIROO KANAMORI(1979) : Moment magnitude scale. &#039;&#039;Journal of Geophysical Research&#039;&#039; &#039;&#039;&#039;84&#039;&#039;&#039; (B5): 2348–50.&lt;/ref&gt;&lt;ref name=&quot;Kanamori2&quot;&gt;金森博雄 『岩波地球科学選書 地震の物理』岩波書店、1991年&lt;/ref&gt;。<br /> : &lt;math&gt;W_0 = \frac{M_0}{2 \times 10^4}&lt;/math&gt;<br /> <br /> : &lt;math&gt;M_{\rm{W}} = (\log_{10}M_0 - 9.1) / 1.5&lt;/math&gt;<br /> <br /> Mwの算出に用いることからも分かるように、&lt;math&gt;M_0&lt;/math&gt;はマグニチュードと対応している。このことから経験的に地震の規模と断層長・変位量の目安が分かっている。断層長、幅、変異量の比率が地震の規模に拘わらずほぼ一定で[[図形の相似|相似]]と見做すスケーリング則が成立していると仮定すると以下のようになる。<br /> *Mw3のとき、断層長は約400m、変位量は約2cm<br /> *Mw5のとき、断層長は約4km、変位量は約0.2m<br /> *Mw6のとき、断層長は約13km、変位量は約0.6m<br /> *Mw7のとき、断層長は約40km、変位量は約2m<br /> *Mw8のとき、断層長は約130km、変位量は約6m<br /> *Mw9のとき、断層長は約400km、変位量は約20m<br /> <br /> 1960年代後半から[[地震学]]に登場した考え方であり&lt;ref&gt;Aki, Keiiti (1966). &quot;4. Generation and propagation of G waves from the Niigata earthquake of June 14, 1964. Part 2. Estimation of earthquake moment, released energy and stress-strain drop from G wave spectrum&quot;. &#039;&#039;Bulletin of the Earthquake Research Institute&#039;&#039; &#039;&#039;&#039;44&#039;&#039;&#039;: 73–88.&lt;/ref&gt;、1980年代からモーメント・マグニチュードが普及してからは地震観測でも広く使われている指標である。算出には波形が安定した遠地波形(震源から遠い観測点の波形)を用いる必要があり、すぐには算出できないという欠点がある。<br /> <br /> == エネルギーとの関係式 ==<br /> 地震モーメントは地震時のエネルギー変化の直接的な指標ではない。地震モーメントと地震に関わるエネルギーの関係は不確定性が大きく地震毎に変動する可能性のあるパラメータに依存している。地震の潜在的なエネルギーは、生成された[[応力]]と{{仮リンク|重力エネルギー|en|Gravitational energy}}として、[[弾性エネルギー]]の形で地殻に蓄積される&lt;ref&gt;{{cite journal |last1= Kostrov |first1= B. V. |date= 1974 |title= Seismic moment and energy of earthquakes, and seismic flow of rock [in Russian] |journal= Izvestiya, Akademi Nauk, USSR, Physics of the solid earth [Earth Physics] |volume= 1 |pages= 23–44 (English Trans. 12–21)}}&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;{{cite journal |last1= Dahlen |first1= F. A. |date= February 1977 |title= The balance of energy in earthquake faulting |journal= Geophysical Journal International |volume= 48 |issue= 2 |pages= 239–261 |doi= 10.1111/j.1365-246X.1977.tb01298.x}}&lt;/ref&gt;。地震発生時、蓄積された潜在エネルギー&lt;math&gt;\Delta W&lt;/math&gt;は、亀裂生成のような岩石の摩擦弱化と非弾性変形におけるエネルギー拡散&lt;math&gt;E_f&lt;/math&gt;、熱量&lt;math&gt;E_h&lt;/math&gt;、放射された地震エネルギー&lt;math&gt;E_s&lt;/math&gt;に変換される。<br /> <br /> 地震によって引き起こされる潜在エネルギーの欠損&lt;math&gt;\Delta W&lt;/math&gt;は、&lt;math&gt;\overline\sigma&lt;/math&gt;を地震前後の断層における絶対的な断応力の平均値、&lt;math&gt;\mu&lt;/math&gt;を断層面の剛性率とした時、<br /> <br /> :&lt;math&gt;\Delta W \approx \frac{\overline\sigma}{\mu} M_0&lt;/math&gt;<br /> <br /> で推定される&lt;ref&gt;{{Citation |first1= Anupama |last1= Venkataraman |first2= H. |last2= Kanamori |date= 11 May 2004 |title= Observational constraints on the fracture energy of subduction zone earthquakes |journal= Journal of Geophysical Research |volume= 109 |issue= B05302 |pages= |doi= 10.1029/2003JB002549 |url= http://onlinelibrary.wiley.com/store/10.1029/2003JB002549/asset/jgrb13848.pdf?=1&amp;t=j61xh1a7&amp;s=74860b9e8876bceb84c519db9ed4f76787d5c43a |bibcode=2004JGRB..109.5302V}} 式3&lt;/ref&gt;。すべての深さでの絶対的な断応力を測定する技術、または正確に推定する方法は存在していないため、&lt;math&gt;\overline\sigma&lt;/math&gt;は不完全な値で用いられている。&lt;math&gt;\overline\sigma&lt;/math&gt;はある地震と他の地震で異なる値を取りえる。同一の地震モーメント&lt;math&gt;M_0&lt;/math&gt;、異なる断応力&lt;math&gt;\overline\sigma&lt;/math&gt;の2つの地震は全く異なる潜在エネルギー&lt;math&gt;\Delta W&lt;/math&gt;が計測される。<br /> <br /> 地震によって引き起こされる放射エネルギー&lt;math&gt;E_\mathrm{s}&lt;/math&gt;は、&lt;math&gt;\eta_R&lt;/math&gt;を放射効率、&lt;math&gt;\Delta\sigma_s&lt;/math&gt;を静的応力減衰とした時、<br /> <br /> :&lt;math&gt; E_\mathrm{s} \approx \eta_R \frac{\Delta\sigma_s}{2\mu} M_0 &lt;/math&gt;<br /> :&lt;math&gt;\eta_R = \frac{E_s}{E_s+E_f}&lt;/math&gt;<br /> <br /> で推定される&lt;ref&gt;{{Citation |first1= Anupama |last1= Venkataraman |first2= H. |last2= Kanamori |date= 11 May 2004 |title= Observational constraints on the fracture energy of subduction zone earthquakes |journal= Journal of Geophysical Research |volume= 109 |issue= B05302 |pages= |doi= 10.1029/2003JB002549 |url= http://onlinelibrary.wiley.com/store/10.1029/2003JB002549/asset/jgrb13848.pdf?=1&amp;t=j61xh1a7&amp;s=74860b9e8876bceb84c519db9ed4f76787d5c43a |bibcode=2004JGRB..109.5302V}} 式1&lt;/ref&gt;。すなわち、放射エネルギーは地震前後の断層の断応力に比例する。<br /> <br /> これら2つのエネルギー量は定数ではない。例えば、&lt;math&gt;\eta_R&lt;/math&gt;は破裂速度に依存し、通常の地震では1に近いが、津波地震やスロー地震のような破裂速度が遅い地震では非常に小さい。<br /> <br /> &lt;math&gt;M_0&lt;/math&gt;は同一だが&lt;math&gt;\eta_R&lt;/math&gt;・&lt;math&gt;\Delta\sigma_s&lt;/math&gt;は異なる2つの地震は、異なる地震エネルギー&lt;math&gt;E_\mathrm{s}&lt;/math&gt;を放出する。なぜなら&lt;math&gt;M_0&lt;/math&gt;と&lt;math&gt;E_\mathrm{s}&lt;/math&gt;は発生した地震の独立した条件で計測され、&lt;math&gt;E_\mathrm{s}&lt;/math&gt;は1970年代に比べて正当評価された放射エネルギーに関連した個々の地震規模に従って直接的で明確に算出されるためである。<br /> <br /> ジョージ・サイとジョン・ボートライトは1995年にエネルギー・マグニチュード (M&lt;sub&gt;E&lt;/sub&gt;) を、&lt;math&gt;E_\mathrm{s}&lt;/math&gt;を放射エネルギー(単位: ジュール、N.m)とした時、<br /> <br /> : &lt;math&gt;M_\mathrm{E} = \textstyle{\frac{2}{3}}\log_{10}E_\mathrm{s} -3.2&lt;/math&gt;<br /> <br /> で定義した&lt;ref&gt;{{Citation |first1= George L. |last1= Choy |first2= John L. |last2= Boatwright |date= 10 September 1995 |title= Global patterns of radiated seismic energy and apparent stress |journal= Journal of Geophysical Research |volume= 100 |number= B9 |pages= 18205–28 |doi= 10.1029/95JB01969 |bibcode = 1995JGR...10018205C |url= http://www.agu.org/pubs/crossref/1995/95JB01969.shtml}}&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> == 脚注 ==<br /> {{脚注ヘルプ}}<br /> {{reflist}}<br /> <br /> == 参考文献 ==<br /> *防災科学技術研究所強震ネットワーク 強震動の基礎<br /> **[http://www.k-net.bosai.go.jp/k-net/gk/publication/1/I-3.2.3.html 3.2.3 モーメントマグニチュード]<br /> **[http://www.k-net.bosai.go.jp/k-net/gk/publication/1/I-5.1.4.html 5.1.4 地震モーメント] <br /> **[http://www.k-net.bosai.go.jp/k-net/gk/publication/Sect-1/Table5.1.2-1.JPG いろいろなマグニチュードにおける震源断層の大きさLと平均すべり量Dの標準値]<br /> <br /> == 関連項目 ==<br /> * [[モーメント・マグニチュード]] (Mw)<br /> <br /> {{earthquake}}<br /> <br /> {{デフォルトソート:ししんもおめんと}}<br /> [[Category:地震学]]<br /> [[Category:災害スケール]]<br /> [[Category:力 (自然科学)]]</div> 219.96.7.204 発生学 2018-08-20T06:33:10Z <p>219.96.7.204: </p> <hr /> <div>[[Image:Embryo, 8 cells.jpg|thumb|240px|right|桑実胚:8細胞期]]<br /> [[Image:Blastulation.png|thumb|240px|right|&#039;&#039;&#039;1&#039;&#039;&#039; - 桑実胚, &#039;&#039;&#039;2&#039;&#039;&#039; - 胞胚]]<br /> [[Image:Gastrulation.png|thumb|240px|&#039;&#039;&#039;1&#039;&#039;&#039; - 胞胚, &#039;&#039;&#039;2&#039;&#039;&#039; - 原腸形成; &#039;&#039;&#039;オレンジ&#039;&#039;&#039; - 外胚葉, &#039;&#039;&#039;赤&#039;&#039;&#039; - 内胚葉]]<br /> &#039;&#039;&#039;発生学&#039;&#039;&#039;(はっせいがく、Embryology)は、[[胚]]の発生を研究する学問である。胚とは、[[動物]]では[[誕生]]や[[孵化]]の前、[[植物]]では[[発芽]]の段階にある全ての組織と定義できる。<br /> <br /> 発生学では主に、[[受精卵]]の発生と組織や器官への分化を扱っている。分割が起こると、[[桑実胚]]から端に極のある[[胞胚]]となる。<br /> <br /> [[左右相称動物]]では、胞胚の発達の仕方には大きく2通りあり、これによって動物界が二分されている。胞胚の最初にできた極が口になるのが[[旧口動物]]であり、肛門になるのが[[新口動物]]である。旧口動物には、[[昆虫]]などの多くの[[無脊椎動物]]が含まれ、新口動物には[[脊椎動物]]などの進化した動物の多くが含まれる。また、この過程を[[原腸胚|原腸形成]]という。<br /> <br /> 原腸形成が起こるとすぐに細胞は3つの層に分かれ、全ての器官や組織はここから作られる。<br /> *[[内胚葉]]からは、[[消化管]]、[[肺]]、[[膀胱]]等ができる。<br /> *[[中胚葉]]からは、[[筋肉]]、[[骨格]]、[[血管]]等ができる。<br /> *[[外胚葉]]からは、[[神経管]]や[[皮膚]]等ができる。<br /> ヒトでは、「胚」という言葉は、[[受精卵]]が[[子宮]]に着床した時から、[[妊娠]]後8週目頃までを指し、妊娠8週目を過ぎると[[胎児]]と呼ばれるようになる。多くの種で、初期の胚は良く似ている。これは、多くの種が同じ[[進化]]の歴史を経てきているからであると説明される。これは[[相同|相同性]]と呼ばれる。<br /> <br /> ==歴史==<br /> [[Image:6 weeks pregnant.png|right|thumb|6週目のヒトの胎児]]<br /> [[Image:10dayMouseEmb.jpg|thumb|150px|right|10日目のネズミの胚]]<br /> [[Image:Beetle larvae filtered sw.jpg|thumb|150px|right|カブトムシの幼虫]]<br /> 18世紀まで、ヒトの発生には、[[卵子]]や[[精子]]の中に予め小さな胎児が含まれているという[[前成説]]が信じられていた。これと反対の説が[[後成説]]で、[[アリストテレス]]によって2000年も前に考えられていた。後成説では、卵から徐々に動物の形成が始まるとされる。19世紀に[[顕微鏡]]が改良されると、生物学者は進化の段階に沿って胚を観察することができるようになり、後成説が支持されるようになった&lt;ref&gt;Campbell et al. (p. 987)&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 近代の発生学の草分けには、[[ギャヴィン・デ・ビーア]]、[[チャールズ・ダーウィン]]、[[エルンスト・ヘッケル]]、[[J・B・S・ホールデン]]、[[ジョゼフ・ニーダム]]らがいる。また、アリストテレスから続く近代以前の発生学者には、[[レオナルド・ダ・ヴィンチ]]、[[マルチェロ・マルピーギ]]、[[ジェロラモ・カルダーノ]]、[[ラザロ・スパランツァーニ]]らがいる&lt;ref&gt;Massimo De Felici, Gregorio Siracus, &#039;&#039;[http://www.ijdb.ehu.es/fullaccess/fulltext.0009/ft515.pdf The rise of embryology in Italy: from the Renaissance to the early 20th Century,]&#039;&#039; Int. J. Dev. Biol. 44: 515-521 (2000).&lt;/ref&gt;。他には[[ウイリアム・ハーベー]]、[[クリスティアン・パンダー (動物学者)|クリスティアン・パンダー]]、[[アウグスト・ヴァイスマン]]らが発生学に重要な貢献をした。<br /> <br /> 1950年代以降は、[[デオキシリボ核酸]]の構造が明らかになり、[[分子生物学]]、[[発生生物学]]に関する知見が蓄積し、胚から徐々に形態が変わってくるそれぞれの段階で、どの遺伝子がどのように制御されながら働いているのかを明らかにする取り組みができるようになった。<br /> <br /> ==脊椎動物と無脊椎動物==<br /> 発生についての多くの原則は、脊椎動物と同様に無脊椎動物にも当てはまる&lt;ref&gt; Parker, Sybil. &quot;Invertebrate Embryology,&quot; &#039;&#039;[http://books.google.com/books?vid=ISBN0079115047&amp;id=CMC32Rmo9tYC&amp;q=%22invertebrate+embryology%22+and+%22mcgraw-hill%22&amp;dq=%22invertebrate+embryology%22+and+%22mcgraw-hill%22&amp;pgis=1 McGraw-Hill Encyclopedia of Science &amp; Technology]&#039;&#039; (McGraw-Hill 1997).&lt;/ref&gt;。そのため、無脊椎動物の胚の研究が脊椎動物の胚の研究を進化させてきた。しかし、多くの相違点も見つかっている。例えば、無脊椎動物の多くの種は発達が完了する前に、親とは違う形の[[幼虫]]の時代を経る。無脊椎動物の発生学は、他の無脊椎動物の種と似ている点が多いが、違いも沢山ある。例えば、[[クモ]]は卵から直接成虫になるが、多くの昆虫は少なくとも1つの幼虫の段階を経る。<br /> <br /> ==近代の発生学の研究==<br /> 現在では発生学は、発生の過程での遺伝学的制御、細胞シグナル、ある種の病気や[[突然変異]]、[[幹細胞]]との関係等で、重要な研究テーマとなっている。<br /> <br /> ==脚注==<br /> {{Reflist}}<br /> <br /> ==関連項目==<br /> {{commonscat|Embryology}}<br /> {{Wikibooks}}<br /> {{wiktionary}}<br /> *[[胚発生]]<br /> *[[反復説]]<br /> *[[旧口動物]]<br /> *[[新口動物]]<br /> *[[胚葉]]<br /> *[[中胚葉]]<br /> *[[後成説]]<br /> *[[発生生物学]]<br /> *[[モルフォゲン]]<br /> *[[心臓の発生]]<br /> <br /> ==外部リンク== <br /> * [http://www.rsrevision.com/Alevel/ethics/embryology/index.htm Embryo Research] UK philosophy and ethics website discussing the ethics of embryology<br /> * [http://www.religioustolerance.org/res_emb.htm Human embryo research] Canadian website covering the ethics of human embryo research<br /> * [http://www.indiana.edu/~anat550/embryo_main/index.html Indiana University&#039;s Human Embryology Animations]<br /> * [http://www.cambridgenetwork.co.uk/views/biolines What is a human admixed embryo?]<br /> * [http://embryology.med.unsw.edu.au/ UNSW Embryology] Large resource of information and media<br /> * [http://www2.merriam-webster.com/cgi-bin/mwmednlm?book=Medical&amp;va=embryo Definition of embryo according to Webster]<br /> <br /> {{生物学}}<br /> {{Normdaten}}<br /> {{デフォルトソート:はつせいかく}}<br /> [[Category:発生学|*]]</div> 219.96.7.204 潮吹き (女性器) 2018-08-20T06:30:54Z <p>219.96.7.204: </p> <hr /> <div>{{性的}}<br /> &#039;&#039;&#039;潮吹き&#039;&#039;&#039;(しおふき)とは、[[オーガズム]]の前または最中手でGスポットを刺激されて、女性の[[尿道]]から液体が排出される現象。AV界では[[尿失禁]]とは区別される。名前の由来は鯨の潮吹きのさまに似ていることからきている。[[英語]]では、Squirting又は[[:en:Female ejaculation|Female ejaculation]]、直訳すると「[[女性]]の[[射精]]」となる。<br /> <br /> == 潮とは何か ==<br /> 性的活動時に女性の尿道を通じて排出される液体である。少量である場合は、粘液であり、色は透明であったり、白色ミルク色であったり、黄色であったりする。排出される量が増えるにつれて、透明な水に近くなる。数分の間に数回潮を吹くことができる女性がいる。排出される液体(潮)の性状に、生理周期が影響を及ぼすと報告する女性もいる&lt;ref name=&quot;female&quot;&gt;[http://www.the-clitoris.com/f_html/female_ejaculation.htm the-clitoris.com] female ejaculation&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> === 潮の成分 ===<br /> 一人の女性において、潮と尿を比較すると、潮の方が、[[前立腺特異抗原|PSA]](前立腺特異抗原)、[[PAP]](前立腺酸フォスファターゼ)、ブドウ糖の濃度が高く、[[クレアチニン]]の濃度が低い。また尿中PSA濃度は、[[オーガズム]]後の尿の方が、オーガズム前尿よりも高い&lt;ref name=&quot;belzer&quot;&gt;{{cite journal |author =Belzer, EG.|year =1981|title =Orgasmic expulsions of women: a review and heuristic inquiry |journal =Journal of Sex Research |volume =17 |issue =1|pages =1–13 |doi =10.1080/00224498109551093}}&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> === 潮の量 ===<br /> 女性の射精時に排出される潮の量は、2、3ml からカップ2杯まで、いろいろに変化する。女性の[[前立腺]]の大きさは、約5ml ほどの容積であるに過ぎない。女性の前立腺は、性的に刺激された場合に、液体を含んで腫大すると考えられている。1回の射精で 排出される上限の量はカップ2杯であり、女性が膀胱に貯める尿の量とほぼ同じである&lt;ref name=&quot;female&quot;/&gt;。女性が水分不足の状態にあれば、潮の量は少なくなる。<br /> <br /> === 潮の機能 ===<br /> 現在のところ不明である。数ml で白色粘稠の前立腺液と、カップ2杯で水様透明の前立腺液とでは、機能が異なるかもしれないし、同じかもしれない。<br /> <br /> # 潮吹きは、尿路感染症の予防に役立っているという見方がある&lt;ref&gt;[http://www.medical-hypotheses.com/article/S0306-9877(09)00513-1/abstract Does female ejaculation serve an antimicrobial purpose?] Medical Hypotheses 73 (6): 1069-71.(December 2009)&lt;/ref&gt;。女性は尿路感染症の頻度が高く、性交渉がきっかけで感染が起きることがある。潮吹きにより尿道が洗浄され、雑菌が洗い流されると主張する。<br /> # 女性の前立腺液は、精子の生存に役立つという見方がある。膣内は弱酸性であり、雑菌が体内へ侵入するのを防いでいるが、同時に精子の生存を不可能にしている。男性の前立腺液は弱アルカリ性で、エネルギー源の果糖を含み、精子の生存が可能な環境を提供している。女性の前立腺液も弱アルカリ性でブドウ糖を含み、同じ役割があると主張する。なお、女性のオーガズムは妊娠確率を高くしているという見方があるが、真相は不明である。{{Main|オーガズム#生物学などにおけるオーガズムの機能を巡る諸仮説}}<br /> # 潮吹きは、挿入をする際に摩擦を少なくする為に役立つとする見方がある。潮吹きをするためには丹念な愛撫をする必要があり、女性が快感を得て十分に拡張された膣はペニスを受け入れやすい。<br /> <br /> == 女性の前立腺 ==<br /> 女性の[[前立腺]]を西洋の医学誌に最初に記載したのは、[[:en:Reinier De Graaf|Reinier De Graaf]] (1672年)である。 Graaf は、「前立腺は、女性の尿道を取り巻く腺と導管の機能的集合である」と正しく記載した。2001年に解剖学用語に関する米国連邦委員会は、「女性の前立腺」という語を次期の組織学用語に加えることに同意した。男性の前立腺と[[相同]]の器官であるので、「[[スキーン腺]]」ではなく、「女性の前立腺」と呼ぶ科学者もいる。<br /> <br /> 女性の前立腺の平均サイズは3.3×1.9×1.0cmであり、平均の重さは 5.2g で、親指大の大きさである&lt;ref name=&quot;female&quot;/&gt;。前立腺の周囲には筋組織があり、液体の噴出を可能にしている。<br /> <br /> 前立腺の組織中に生化学的、免疫科学的方法によりPSAやPAPが検出される。これは女性においても男性の場合と同じように、射精により排出される物質が、前立腺において作られることを示唆している&lt;ref&gt;{{cite journal | author = Pollen, JJ; Dreilinger, A | year = 1984 | month = March | title = Immunohistochemical identification of prostatic acid phosphatase and prostate specific antigen in female periurethral glands | journal = Urology | volume = 23 | issue = 3 | pages = 303–4 | pmid = 6199882 | doi = 10.1016/S0090-4295(84)90053-0}}&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;{{cite journal | author = Tepper, SL; Jagirdar, J; Heath, D; Geller, SA | year = 1984 | month = May | title = Homology between the female paraurethral (Skene&#039;s) glands and the prostate. Immunohistochemical demonstration | journal = Arch Pathol Lab Med | volume = 108 | issue = 5 | pages = 423–5 | pmid = 6546868 }}&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 男性の前立腺は[[アンドロジェン]](男性ホルモン)の影響を受けるが、女性の前立腺は[[エストロジェン]](女性ホルモン)の影響を受ける。<br /> <br /> 性機能に関しては、クリトリスと膣壁は主に体性神経系の陰部神経[[:en:pudendal nerve|pudendal nerve]]に支配される(運動性、感覚性)。これに対し、膀胱と尿道と前立腺は主に副交感神経系の骨盤神経[[:en:pelvic nerve|pelvic nerve]]に支配される(運動性、感覚性)&lt;ref name=&quot;ejaculation&quot;/&gt;&lt;ref&gt;[http://www.jscf.org/jscf/SIRYOU/healthcare/foundation/healthcare_foundation-07.pdf 脊損ヘルスケア・基礎編 第7章 性機能障害]&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;[http://mintarticles.com/read/sexuality-articles/about-the-vulva-the-female-sexual-organ,3964/ About the Vulva - the Female Sexual Organ]&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 女性の前立腺の機能は2つある。一つは、[[外分泌腺]]として前立腺液(潮)を作って導管の中に蓄えることである。前立腺液は、PSA、PAP、ブドウ糖、果糖を含んでいる。もう一つは、[[内分泌腺]]として[[セロトニン]]を作って血中に分泌することである&lt;ref name=&quot;female&quot;/&gt;。それにより、精神が安定化し、ストレス耐性が増す。<br /> <br /> == Gスポット ==<br /> 1944年、[[ドイツ]]の[[産婦人科医]]である[[エルンスト・グレフェンベルグ]]らが、膣前壁の[[尿道]]の内側表面つたいにある性欲を喚起する部位を発見し、1950年に論文発表した。グレフェンベルグの頭文字を取ってその部位は[[Gスポット]]と呼ばれる。<br /> <br /> [[クリトリス]]への刺激だけで射精できる女性は比較的少なく、クリトリスとGスポットの両方への刺激を必要とする女性が多い。<br /> <br /> ==潮吹きの前準備==<br /> 女性の体でもっとも傷つきやすい部分である膣を刺激するにあたって、爪の手入れは必要不可欠である。短くするだけではひっかかりができてしまうので、必ずヤスリでなめらかにしてから臨む。また、濡れが悪かった時のためにもローションを常備しておいた方が良いとされる&lt;ref&gt;https://pan-pan.co/detail/69662 確実に女性に潮吹きさせる方法&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> == 潮吹きの訓練 ==<br /> あるアメリカの調査では、女性の4割が「[[オーガズム]]に伴い潮を吹くことがある」と答えている。Lisa Lawless は「すべての女性は射精できる能力がある」と述べている&lt;ref name=&quot;Lisa&quot;&gt;[http://www.holisticwisdom.com/article_sex_female-ejaculation.htm Female Ejaculation ] Did you know that ALL women are capable of it?<br /> &lt;/ref&gt;。アメリカでは、女性が潮吹きの仕方を学ぶ講習会が行われている&lt;ref name=&quot;ejaculation&quot;&gt;{{Citation |author=Deborah Sundah |title = female ejaculation and THE G-SPOT |isbn = 978-1904132387}}&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> #心身ともに充分にリラックスする。このため最初は一人で練習するとよい。<br /> #まず乳首を優しく舐めながら、クリトリスをソフトタッチに刺激する。<br /> #2本の指で、[[Gスポット]]を円形になでる。あるいは、英語の come here の指の動きをする。<br /> #たゆまずに刺激を続けると、次第に快感が蓄積して、前立腺に液体(潮)が溜まり、Gスポットの辺りが内腔に突出してくる。<br /> #快感が蓄積された後に、2本の指で、Gスポットを前方に(恥骨の方向に)痛みを伴わない程度に数回圧迫して、液体(潮)の排出を促す。<br /> #それにより射精(潮吹き)が始まるはずである。もし始まらなければ、少し前に戻って、ソフトタッチを繰り返す。<br /> #うまく射精するようになれば、Gスポットを圧迫するタイミングを前後させて、射精とオーガズムが同時に得られるようにする&lt;ref name=&quot;ejaculation&quot;/&gt;。<br /> <br /> == 潮吹きで得られる快感 ==<br /> クリトリスとGスポットへの刺激を続けて射精が近づくと、女性は尿意のようなものを感じる。射精したい気持ちは、尿意と僅かながら似ている。この尿意が心理的な抵抗となって刺激をやめてしまい、潮吹きに至らなくなる場合が多い。この心理的な抵抗を取り除くために、風呂場でオーガズムと同時に排尿させようとする愛撫が行われることがある。<br /> <br /> 女性は潮を吹くことにより、通常のオーガズムとは別の新しい感覚が得られるという説がある。新しい感覚が得られない場合でも、通常より強いオーガズムが得られる場合も多からずある&lt;ref name=&quot;female&quot;&gt;[http://www.the-clitoris.com/f_html/female_ejaculation.htm the-clitoris.com] female ejaculation&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> == 脚注 ==<br /> {{Reflist}}<br /> <br /> == 参考文献 ==<br /> * I love female orgasm ISBN 978-1569242766<br /> <br /> == 関連項目 ==<br /> * [[Gスポット]]<br /> * [[膣]]<br /> * [[スキーン腺]]<br /> * [[膣分泌液]](愛液)<br /> * [[オーガズム]]<br /> <br /> == 外部リンク ==<br /> * [http://www.the-clitoris.com/f_html/female_ejaculation.htm female ejaculation] the-clitoris.com<br /> * [http://www.getfrank.co.nz/x-marks-the-g-spot/ X Marks the G-Spot]<br /> * [http://texified.com/Pages/Things%20Biological/GSpot.htm Grafenberg Spot]<br /> <br /> {{性}}<br /> <br /> {{DEFAULTSORT:しおふき}}<br /> [[Category:哺乳類の雌の生殖系]]<br /> [[Category:体液]]<br /> [[Category:人間の女性の生殖系]]<br /> [[Category:女性とセクシャリティ]]<br /> [[Category:射精]]<br /> <br /> [[simple:Ejaculation#Women]]</div> 219.96.7.204 医用画像処理 2018-08-20T04:54:26Z <p>219.96.7.204: </p> <hr /> <div>&#039;&#039;&#039;医用画像処理&#039;&#039;&#039;(いようがぞうしょり)はMedical image processingを意味し、Medical imagingと同意ではない。<br /> 以降、医用画像処理を医用イメージングに替えて記述する。<br /> <br /> &#039;&#039;&#039;医用イメージング&#039;&#039;&#039;(いようイメージング、{{lang-en-short|Medical imaging}})は、臨床([[病気]]の[[診断]]および検査)や医学(解剖学的研究)のために人体(およびその部分)の[[画像]]を生成する技法およびプロセスを指す。人間に限らない「生体画像処理」の一部であり、[[放射線医学]]、[[内視鏡]]検査、[[サーモグラフィー]]、医用写真撮影、[[顕微鏡]]検査などとも密接に関連する。本来、[[画像]]を生成するよう設計されていなかった測定手法や記録手法([[脳波]]や[[脳磁図]])も一種の[[地図]]のように表せるデータを生成することから、医用イメージングの一形態と見ることもできる。<br /> <br /> 画像診断学(放射線診断学)において扱う医用画像には、単純X線画像、CT、MRI、超音波断層画像(US)、血管造影(血管撮影)などがある。画像を(時には撮影も行い)医学的に解釈する医師を放射線診断医あるいは画像診断医と呼び、医師の専門分野のひとつである。[[診療放射線技師]]は診断用医用画像の撮影を行う。<br /> <br /> 撮影された画像に対し必要に応じた画像処理を施すことは、医用イメージングの一分野であり、医療施設内では特にラジオロジストあるいは診療放射線技師がその行為を行うことが多い。<br /> <br /> 科学的研究としては、その観点に応じて[[医用生体工学]]、[[医用物理学]]、[[医学]]などの一分野に位置づけられる。撮影機器や画像生成機器の研究開発は[[医用生体工学]]、[[医用物理学]]、[[情報工学]]の領域である。そういった機器の利用や画像の解釈は、[[放射線診断学]]や撮影部位に対応した医学の下位分野([[脳科学]]、[[循環器学]]、[[精神医学]]、[[心理学]]など)の領域である。医用イメージングのために開発された様々な技術は、他の[[科学]]や[[産業]]にも応用されている。<br /> <br /> 医用イメージングは、人体内部を可視化した画像を生成する技法であると見なされることが多い。例えば、[[超音波検査]]の場合、超音波を発することで組織内のエコーから内部構造を知ることができる。[[X線]]の場合、骨や脂肪などでX線の吸収率が異なることを利用して画像を得る。<br /> <br /> == 主な画像処理技術 ==<br /> === 蛍光透視法 ===<br /> [[蛍光透視法]](Fluoroscopy)は[[X線写真]]と同様な手法で人体の内部構造の画像をリアルタイムで得られるが、定常的な[[X線]]の入力を必要とする。内臓を視覚化するため、造影剤としてバリウム、ヨウ素、空気などが使われる。蛍光透視法は、画像誘導式の手術でも使われる。<br /> <br /> === 核磁気共鳴画像法 (MRI) ===<br /> {{Main|核磁気共鳴画像法}}<br /> <br /> 核磁気共鳴画像(MRI)は、強力な磁石を使って人体中の水分子にある[[水素]]原子核(1つの[[陽子]])を分極/励磁させ、発生する信号を空間的に符号化することで人体の画像を得る。MRI は2種類の[[電磁場]]を使用する。第一は非常に強力な静磁場(数[[テスラ (単位)|テスラ]]単位)であり、水素原子核を分極させる。第二はそれよりもやや弱い傾斜磁場であり、空間の符号化のために時間と共に変化する(1KHzオーダーの変化)。そして、水素原子核に極めて強い[[高周波]](要するに電波である)を当てて、放出される高周波を受信し画像化する。[[コンピュータ断層撮影|CT]] と同様、MRIは人体をスライスにしたような二次元の画像を生成するため、断層撮影技術の一種でもある。最近では、複数の二次元画像を合成したり、はじめから三次元データを収集することにより、三次元のイメージを生成することが可能である。CT とは異なり、MRIは[[放射線]]を使わないため、健康への危険性が少ないとされている。例えば、X線やCTと異なり、強い磁場による人体への影響は特に知られていないため、撮影回数に制限がないとされている。組織が高周波によって過熱する危険性が指摘されてはいるが、体内あるいは皮膚表面に金属が存在しない限り実際上問題となることはない。ペースメーカーなどの金属が体内にあると検査を受けられない。これはペースメーカー内のICが電磁波によって破壊されたり、誤作動したりといった事例が報告されているためであり、過熱が原因ではない。これらの危険性は検査手順や機器の設計によって制御される性質のものではなく、静磁場強度に依存するものである。CT と MRI はそれぞれ組織の異なる特性を検知するため、画像も全く異なったものとなる。CT では、X線の組織における吸収の程度のみが画像の濃淡を決定する要素であり、組織コントラストは一般にあまりよくない。MRI は水素を含む組織しか見られないため、カルシウムでできている骨は写らないが、軟部組織コントラストは一般にCTよりよい。このため、脳の内部や関節の診断に適している。<br /> <br /> MRI は1980年代から使われ始めた。そのため、強力な磁場の長期的な影響はまだ判っていない。<br /> <br /> === シンチグラフィ ===<br /> {{Main|シンチグラフィ}}<br /> <br /> シンチグラフィでは、病気と関連した生物学的活動領域を検出するために[[ガンマ線]]カメラの画像を使用する。短命な核種(I-123、Tc-99mなど)を患者に投与する。このような核種自体をそのまま投与することにはあまり意味がないことが多く、これら核種に、生体の各組織に親和性のある物質を結合させることにより、種々の画像を得る。<br /> <br /> === ポジトロン断層法 (PET) ===<br /> {{Main|ポジトロン断層法}}<br /> <br /> ポジトロン断層法シンチグラフィと同様に、&lt;sup&gt;18&lt;/sup&gt;F などの短命な核種を腫瘍に吸収されやすい[[グルコース]]などの物質に似た物質に組み込んで投与する。PET装置は[[コンピュータ断層撮影|CT]]装置と組み合わせて使われることが最近多くなりつつある。これにより、PET で検出された腫瘍について、CT で得られる解剖学的構造で位置を確定することができる。<br /> <br /> === X線投影 ===<br /> [[X線]]は、肺の病理学的変化を検出するだけでなく、骨折の範囲を診断する場合にも使われる。[[バリウム]]のような造影剤を使うと、胃や腸の構造を視覚化することができ、潰瘍やある種の[[大腸癌]]の診断が可能である。<br /> <br /> == 断層撮影 ==<br /> 断層撮影(Tomography)とは、人体の断面の画像を得る手法である。以下のような手法がある:<br /> <br /> ; リニア断層撮影:最も基本的な断層撮影法。X線発生装置は人体上を A 地点から B地点まで移動し、同時に受像部が B地点から A地点まで移動する。このときの焦点に診断したい部位が来るよう配置する。このとき、焦点面の上下はぼやけてほとんど写らなくなる。現在では[[コンピュータ断層撮影|CT]]に置換され、ほとんど使われない。<br /> ; Poly断層撮影:複雑な断層撮影法。装置を円形・楕円形・8の字など様々に動かす。これも現在では CT に置換され、ほとんど使われない。<br /> ; 狭角断層撮影:リニア断層撮影から派生した手法であり、限定された弧を描くような動きをする。現在でも経静脈的尿路造影(IVU)の際の腎臓の視覚化に使われることがある。<br /> ; オルソパントモグラフィ(OPT):あごのX線画像をあたかも骨を切り開いたかのように平面に撮影することができ、[[歯学]]分野でよく使われる。<br /> ; [[コンピュータ断層撮影]](CT):[[X線]]を使って、人体の360度方向からのデータを得、そのデータをコンピューター処理することにより断層像を得るものである。最近はらせん状に人体をスキャンするもの(らせんCTあるいはヘリカルCT)が主流となっている。単純な[[X線写真]]よりも被曝量が多いが、得られる情報ははるかに多い。<br /> <br /> === 超音波 ===<br /> {{Main|超音波検査}}<br /> 1.5 から 15.0 [[メガヘルツ (単位)|MHz]]の[[超音波]]を使い、組織からの反射によって二次元画像を取得するもので、リアルタイムに観察することが可能である。腹部臓器、心臓、[[胎児]]、脚の静脈などの画像を得るのに使われる。CT や MRI に比較して解剖学的な情報量は少ないといった記載をしばしばみるが誤りであり、リアルタイムに観察できるという点は非常に大きな利点である。また、磁場や放射線よりも超音波は安全であると考えられている。また、運用も比較的安価で、扱いやすい。[[ドップラー効果]]を利用して血流速度等を測定することも出来る。<br /> <br /> == 生物学的画像技術 ==<br /> === 電子顕微鏡 ===<br /> {{Main|電子顕微鏡}}<br /> 電子顕微鏡は、[[陰極線|電子線]]をあてることで非常に微細な構造を高解像度で視覚化する。[[病理学|組織病理学]]で[[細胞小器官]]を調べるのに使われる。単に高解像度の像を得る他、免疫組織化学的な手法と合わせて特定物質の局在を探るなどの用途もある(免疫電子顕微鏡法)。近年では[[共焦点レーザー顕微鏡]]や蛍光色素の発達に伴い利用は減少しているが、一部の診断では必須とされている。<br /> <br /> == 三次元画像の生成 ==<br /> [[ファイル:3D SSD.gif|thumb|right|CTスキャン結果を3Dアニメーションにしたもの]]<br /> 最近では CT や MRI や超音波の画像を三次元画像に変換するソフトウェアが登場している。CT や MRI は本来二次元の画像をフィルムに映し出すものであった。三次元画像を生成するには複数回の撮影を行って、それらをコンピュータを使って統合して三次元モデル化する。三次元超音波画像も同様の手法で生成される。<br /> <br /> 重要な構造を詳細に視覚化できるため、三次元視覚化手法は各種診断や外科治療にとって重要な情報源となっている。[[双生児|結合双生児]]の分離手術でも三次元画像が重要な情報源となっている。<br /> <br /> コンピュータの処理能力が向上した2000年代以降は、各組織の透過率をコントロールし、内部を可視化する[[ボリュームレンダリング]]という技術も用いられるようになった。<br /> これらの画像処理に用いられるソフトウェアは[[ボリュームレンダリング#ソフトウェア|医療用画像処理ソフトウェア]]を参照。<br /> <br /> その他の(研究中も含む)三次元画像技術には以下のものがある:<br /> <br /> * [[拡散光トモグラフィ]]<br /> * [[エラストグラフィ]]<br /> * [[電気インピーダンス・トモグラフィ]]<br /> * [[光音響画像処理]]<br /> * [[眼科学]]<br /> ** [[角膜形状解析法]]<br /> ** [[光コヒーレンス断層画像化法]]<br /> ** [[走査レーザー検眼鏡]]<br /> <br /> これらの一部は未だ研究段階にあり、臨床には使われていない。<br /> <br /> == 検査以外の画像処理 ==<br /> [[ニューロイメージング]]は、[[ブレイン・マシン・インターフェース]]のように何らかの障害のある人が外部の機器を制御するという実験に使われている。<br /> <br /> == 関連項目 ==<br /> * [[放射線医学]]<br /> * [[健康診断]]<br /> * [[コンピュータ断層撮影]]<br /> * [[DICOM]]<br /> * [[OsiriX]]<br /> * [[X線写真]]<br /> * [[バイオインフォマティクス]]<br /> * [[S/N比]]<br /> <br /> == 外部リンク ==<br /> *[http://www.j-imaging.com/ 画像処理ポータル 画像機器総覧 ]画像機器総覧は画像処理に関連する製品、技術情報を紹介しているポータルサイト<br /> *[http://www.innervision.co.jp/ インナビネット ]医療と画像のポータルサイト インナビネット<br /> * [http://crr.medinfo.ufl.edu Curriculum In Radiology Reporting] - Funded by RSNA WWW Education Grant<br /> * [http://www.radiologyjournal.org Radiology Journal]<br /> * [http://www.cirse.org Cardiovascular and Interventional Radiological Society of Europe]<br /> * [http://www.medicalimaging.org Medicalimaging.org offers info from peer-reviewed journals on economic and clinical value of medical imaging]<br /> <br /> {{デフォルトソート:いようかそうしより}}<br /> [[Category:画像処理]]<br /> [[Category:画像診断|*いようかそうしより]]</div> 219.96.7.204 クラウドソーシング 2018-08-20T02:25:16Z <p>219.96.7.204: /* 外部リンク */</p> <hr /> <div>&#039;&#039;&#039;クラウドソーシング&#039;&#039;&#039;({{lang-en|crowdsourcing}})とは、不特定多数の人の寄与を募り、必要とするサービス、アイデア、またはコンテンツを取得するプロセスである。このプロセスは多くの場合細分化された面倒な作業の遂行や、スタートアップ企業・チャリティの資金調達のために使われる。群衆(crowd)と業務委託(sourcing)を組み合わせた造語で、特定の人々に作業を委託する[[アウトソーシング]]と対比される。<br /> <br /> クラウドソーシングは狭義では、不特定多数の人に業務を委託するという新しい雇用形態を指す。広義では、必ずしも雇用関係を必要とせず、不特定多数の人間により共同で進められるプロジェクト全般を指す場合もあり、その場合[[オープンストリートマップ]](OSM)や[[reCAPTCHA]]などが代表例として挙げられる。<br /> <br /> == 概要 ==<br /> 従来、[[アウトソーシング]]という形で企業などが、外部に専門性の高い業務を外注するというトレンドがあった。しかし、昨今では、インターネットの普及により社外の「不特定多数」の人にそのような業務を外注するというケースが増えている。それらを総称し、クラウドソーシングと呼ばれている。知的生産力やコンテンツなどを、多数の人々から調達・集約し、事業成果を得ることを目的にしている。<br /> <br /> たとえば、[[P&amp;G]]は商品開発に、[[ボーイング]]は機体組み立てに、[[プレイバイウェブ|商業PBW]]は文章・イラスト・音声・音楽にそのような手法を取り入れている。&lt;ref&gt;[http://ec.nikkeibp.co.jp/item/books/P45870.html ウィキノミクス] &lt;/ref&gt;<br /> <br /> 概念自体は目新しいものではなく、主に[[PC]]と[[インターネット]]を使用する事により従来からある[[内職]]の発展形態の一種であるともいえ、類似概念としてのデジタル内職ともいえる。<br /> <br /> == 定義 ==<br /> 2005年に[[:en:WIRED Magazine]]の編集者であるジェフ·ハウ(Jeff Howe)とマーク·ロビンソン(Mark Robinson)が、企業が個人に仕事を外注するためにインターネットをどのように使っているかについての議論の末に用語「クラウドソーシング」を生み出した&lt;ref name=&quot;Safire&quot;&gt;{{cite news|last= Safire | first= William | url=http://www.nytimes.com/2009/02/08/magazine/08wwln-safire-t.html?_r=3&amp;ref=magazine&amp; | title= On Language | publisher= New York Times Magazine | date= February 5, 2009 | accessdate= May 19, 2013}}&lt;/ref&gt;。ハウとロビンソンは「群衆(crowd)にアウトソーシング(outsourcing)」するようなことが起こっているのだという結論に達し、それが「クラウドソーシング」という造語に繋がった。ハウはまず2006年6月のWIRED誌の記事、「クラウドソーシングの台頭(The Rise of Crowdsourcing)」に付随するブログ記事で「クラウドソーシング」の定義を発表した(そして数日後に出版された)&lt;ref name=&quot;howedefinition&quot;&gt;{{cite web|last= Howe | first= Jeff |url=http://crowdsourcing.typepad.com/cs/2006/06/crowdsourcing_a.html |title=Crowdsourcing: A Definition |publisher=Crowdsourcing Blog |date=June 2, 2006 |accessdate=January 2, 2013}}&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> &lt;blockquote&gt;「単純に定義すると、クラウドソーシングは、かつて従業員によって実行されていた機能を、公募するような形で不特定(かつ一般的には大規模な)人々のネットワークにアウトソーシングする企業や機関の行為のことを指す。これは、集団労働(作業が協調的に取り組まれる場合)の形を取ることができるが、しばしば、単独の個人によっても行われる。重要な前提条件は、公募形式と潜在的な労働者の大規模なネットワークを使用することである。」&lt;/blockquote&gt;<br /> <br /> ダレンC.ブラバム(Daren C. Brabham)は2008年2月1日の記事で「クラウドソーシング」を「オンライン分散型問題解決と生産モデル」と定義した&lt;ref name = Convergence&gt;<br /> {{Citation | last = Brabham | first = Daren | title = Crowdsourcing as a Model for Problem Solving: An Introduction and Cases | journal = Convergence: The International Journal of Research into New Media Technologies | volume = 14 | issue = 1 | year = 2008 | pages = 75–90 | url = http://www.clickadvisor.com/downloads/Brabham_Crowdsourcing_Problem_Solving.pdf | format=[[PDF]] | doi=10.1177/1354856507084420}}&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> クラウドソーシングでは、問題が公募の形で群衆に割り当てられる。群衆が成果物を提出すると、その成果物は依頼主に帰属することになる。成果物を提出した労働者に金銭的な報酬が渡されることもある。他方、名声や知的満足感だけが報酬となることもある。クラウドソーシングは、自分の空き時間で作業するアマチュアやボランティアか、依頼主に知られていなかった専門家や小規模企業から成果物を生み出し得る&lt;ref name = wired2006&gt;{{cite news | url = http://www.wired.com/wired/archive/14.06/crowds.html | title = The Rise of Crowdsourcing | work = &#039;&#039;[[Wired (magazine)|Wired]]&#039;&#039; | first= Jeff|last= Howe | year = 2006 }}&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> クラウドソーシングの依頼主は主にクラウドソーシングがもたらす恩恵によって動機づけられている。その恩恵の一つは、成果物や情報を比較的安価に大量に収集する能力である。一方労働者は、社会的接触、知的な刺激、そして時間つぶしなどの内因動機や金銭的な利益などの外因性の動機によってクラウドソーシングされたタスクに貢献することを動機づけられている。<br /> <br /> 「クラウドソーシング」という用語は境界が曖昧なために、多くの共同作業は、実際はそうでない場合でも、クラウドソーシングと考えられている。このような状況は科学文献での定義の拡散を生んでおり&lt;ref name=&quot;estelles&quot; /&gt;、様々な著者が用語が指す全体像を失って自分の専門分野に応じてクラウドソーシングの異なる定義を与えている。<br /> <br /> 科学文献、一般向け文献における40以上のクラウドソーシングの定義を調査して、ヴァレンシア工科大学(スペイン)の経営学者であるエンリケ・エステリェス・アローラス(Enrique Estellés-Arolas)とフェルナンド・ゴンザレス・ラドロン・デ・ゲバラ(Fernando González Ladrón-de-Guevara)が、定義を統合を図った&lt;ref name=&quot;estelles&quot;&gt;{{Citation | last1 = Estellés-Arolas | first1 = Enrique | last2 = González-Ladrón-de-Guevara | first2 = Fernando | title = Towards an Integrated Crowdsourcing Definition | journal = Journal of Information Science | volume = 38 | issue = 2 | year = 2012 | pages = 189–200 | url = http://www.crowdsourcing-blog.org/wp-content/uploads/2012/02/Towards-an-integrated-crowdsourcing-definition-Estell%C3%A9s-Gonz%C3%A1lez.pdf| format=[[PDF]] | doi=10.1177/0165551512437638}}&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> &lt;blockquote&gt;「クラウドソーシングは、個人や組織、非営利団体、または企業が、様々な知識を持つ種々混合で多数の個人から成るグループに、柔軟性のある公募を通して、自発的に作業に取り組むことを提案する参加型オンライン活動の一種である。群衆が自分の労働力やお金、知識および(あるいは)経験を持ち寄って参加する、複雑さやモジュラリティが異なるタスクの遂行においては、常に相互の利益が伴っている。つまり、労働者は経済的利益あるいは社会的な認識、自尊心、個人の技能の成長のようなある種の満足感を受け取る必要とする。そして一方で依頼主は労働者が事業にもたらした成果(遂行された活動の種類に寄って形式は異なる)を入手して有利に活用する。」&lt;/blockquote&gt;<br /> <br /> ヘンク・ヴァン・エス(Henk van Ess)は倫理的な根拠に基づいてクラウドソーシングの結果を「お返し」する必要性を強調している。彼の非科学的、非商業的な定義は広く大衆紙に引用されている&lt;ref&gt;{{cite news| first= Maurice |last=Claypole |url= http://www.guardian.co.uk/education/2012/feb/14/web-translation-fails-learners |title=Learning through crowdsourcing is deaf to the language challenge |work=The Guardian |location=London |date=February 14, 2012}}&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> &lt;blockquote&gt;「クラウドソーシングは、問題を解決して解決策を自由に皆と共有したいという専門家の願望に焦点を当てている。」&lt;/blockquote&gt;<br /> <br /> クラウドソーシングシステムは、様々なタスクを達成するために使用される。例えば、群衆が新しい技術を開発し、デザイン作業を行うために集められるもの(「コミュニティベースのデザイン」&lt;ref&gt;{{cite news |title=Crowd Sourcing Turns Business On Its Head |first=David |last=Whitford |url= http://www.npr.org/templates/story/story.php?storyId=93495217 |newspaper=CNN |date= January 8, 2010 |accessdate=February 27, 2012}}&lt;/ref&gt;あるいは「分散[[参加型デザイン]]」としても知られている)、アルゴリズムのステップを改良あるいは実行したりするもの([[:en:human-based computation]]を参照)、または大量のデータを集めたり、体系化したり、分析したりするもの([[:en:citizen science]]を参照)などがある。<br /> == クラウドソーシングサイト ==<br /> クラウドソーシングサイトには職種や業務の分野を限定せず仕事の委託ができる総合型サイト([[オーデスク]]&lt;ref name=higa/&gt;、{{仮リンク|Freelancer.com|en|Freelancer.com}}&lt;ref name=higa/&gt;、[[ランサーズ]]&lt;ref name=higa/&gt;、[[クラウドワークス]]&lt;ref name=higa/&gt;など)と、作業の種類や分野をしぼって作られた特化型サイト([[Amazon Mechanical Turk]]&lt;ref name=higa/&gt;、{{仮リンク|InnoCentive|en|InnoCentive}}&lt;ref name=higa/&gt;など)とがある&lt;ref name=higa/&gt;。<br /> <br /> 2013年の[[イーランス]]と[[クラウドワークス]]を対象にした[[比嘉邦彦]]の調査によれば、日本のクラウドソーシングサイトでは[[著作家|ライター]]業務の時給が低すぎる傾向にある&lt;ref name=higa&gt;[[比嘉邦彦]]「情報による新しい労働形態」『第三の産業革命』2015年 pp.181-190&lt;/ref&gt;。また、参加当初は低い報酬しか得られなくとも、クラウドソーシングサイト上で受注実績を重ねることにより信頼が生まれ、高額な希望報酬で取引が成立するようになることがあるという&lt;ref name=higa/&gt;<br /> <br /> === クラウドソーシングサイトの問題点 ===<br /> クラウドソーシングサイトは気軽に仕事を発注できるため審査が追いついておらず度々不適切な仕事内容が掲載され問題視されている&lt;ref name=&quot;opposition&quot;/&gt;&lt;ref name=&quot;crowdworks&quot;/&gt;。<br /> <br /> == 現状と問題点 ==<br /> これまで、能力はありながら、地方在住者等で地域的、時間的、年齢的等の制約により都市部での企業での勤務が困難であった者にも機会が提供されるようになった。<br /> その反面、面識の無い不特定多数と成果報酬形式で取引するため、達成率の数値化の困難な依頼内容によっては発注者、業務受託者間で認識の相違があり、係争に発展するリスクがあり、顕在化する事例も報告されている。また、それに伴い、新たな[[内職商法]]による被害も報告されており、注意の喚起が行われている。&lt;ref&gt;{{citation|url=http://smany.jp/1011 |title=内職商法には気をつけよう}}&lt;/ref&gt;<br /> <br /> === 保守系政治ブログ記事作成依頼問題 ===<br /> [[クラウドワークス]]でブログ記事作成依頼が一件800円であったが、その内容が「共産党に票を入れる人は反日」というブログ記事を書くという案件だった&lt;ref&gt;[https://www.bengo4.com/internet/n_6701/ クラウドワークスで「共産党に票を入れる人は反日」ブログ記事作成依頼、掲載中止に]&lt;/ref&gt;。また他にも保守(反民進・嫌韓)系まとめブログサイトの運営管理、政治・芸能系時事ネタ動画を作成などの案件もあった&lt;ref name=&quot;opposition&quot;&gt;[http://buzzap.jp/news/20170922-anti-opposition-party-blog-movie-crowdworks/ 野党を叩き嫌韓を煽るブログ記事やYouTube動画、1本数十円のクラウドソーシングで大量生産されていた]&lt;/ref&gt;。<br /> これらの案件がネット上で話題となると[[クラウドワークス]]側は該当案件を削除し差別や政治系案件の対応を強化すると発表した&lt;ref name=&quot;crowdworks&quot;&gt;[https://crowdworks.jp/blog/?p=1553 政治系ブログ記事作成案件の掲載中断に関しまして]&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> == 脚注 ==<br /> {{Reflist}}<br /> <br /> == 関連項目 ==<br /> * [[ウィキノミクス]]<br /> * [[アウトソーシング]]<br /> * [[集合知]]<br /> * [[巨大知]]<br /> * [[内職]]<br /> * [[内職商法]]<br /> * [[SOHO]]<br /> * [[市民科学]] ― ボランティアによる科学研究への貢献で、しばしばクラウドソーシングによる。<br /> * 五毛党<br /> <br /> == 外部リンク ==<br /> &lt;!-- <br /> 記事名を補完し、読者の理解を助けるようなリンクを貼って下さい!!宣伝はやめて!<br /> --&gt;<br /> * [http://www.atmarkit.co.jp/aig/04biz/crowdsourcing.html クラウドソーシング - @IT情報マネジメント用語事典]<br /> * [http://dic.yahoo.co.jp/newword?ref=1&amp;pagenum=1&amp;index=2006000663 クラウドソーシング - Yahoo!辞書 - クラウドソーシング]<br /> * [http://dictionary.goo.ne.jp/search/%82%AD810335250522961300/jn/5/ クラウドソーシング - goo辞書]<br /> <br /> {{Internet-stub}}<br /> <br /> {{DEFAULTSORT:くらうとそおしんく}}<br /> [[Category:クラウドソーシング|*]]<br /> [[Category:アウトソーシング]]<br /> [[Category:協働]]<br /> [[Category:ビジネス]]<br /> [[Category:社会心理学]]</div> 219.96.7.204 Google ストリートビュー 2018-08-20T02:24:49Z <p>219.96.7.204: /* 外部リンク */</p> <hr /> <div>{{更新|date=2015年7月}}<br /> {{Infobox Software<br /> | 名称 = Google ストリートビュー<br /> | ロゴ = [[ファイル:Street View logo.png|128px]]<br /> | スクリーンショット = <br /> | 開発元 =[[Google]]<br /> | 最新版 =<br /> | 最新版発表日 = {{Start date and age|2018|2|5}}<br /> | 最新評価版 =<br /> | 最新評価版発表日 =<br /> | プログラミング言語 = [[ActionScript]]<br /> | 対応OS = [[Android]]&lt;br/&gt;[[iOS (アップル)|iOS]]&lt;br/&gt;[[Microsoft Windows]]&lt;br/&gt;[[macOS]]&lt;br/&gt;[[Linux]]<br /> | 対応プラットフォーム =<br /> | 種別 =<br /> | サポート状況 = 継続中<br /> | ライセンス =<br /> | 公式サイト = [https://www.google.com/maps/streetview/ google.com/maps/]<br /> }}<br /> [[ファイル:Google Street View Car in Tokyo.JPG|250px|thumb|撮影用の自動車([[スバル・インプレッサ]])屋根の上に、[[グローバル・ポジショニング・システム|GPS]]ユニットと、前と左右方向へのレーザスキャナ、全方向撮影用のカメラユニットを載せている。]]<br /> <br /> &#039;&#039;&#039;Google ストリートビュー&#039;&#039;&#039;(グーグル ストリートビュー、{{lang-en|Google Street View}})は、[[Google]]が2007年に開始した世界中の道路沿いの風景を[[パノラマ写真]]で提供するインターネットサービスと店内版の撮影サービスである旧Google インドアビュー(海外では、Google Business View)を含めた総合的なブランド名称である&lt;ref&gt;{{Cite news|title=Google Street View – Hire a Trusted Pro to Boost Your Visibility|url=https://www.google.co.jp/intl/ja/streetview/hire/|accessdate=2018-04-21|language=ja|work=Google ストリートビュー}}&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 公道版で提供されている写真は、ストリートビューカーと呼ばれる専用に開発された自動車の屋根に搭載した[[全天球カメラ]]で地上約2.45メートル&lt;ref&gt;{{Cite web|date=2009-05-13|url=http://www.asahi.com/digital_sp/cloud/TKY200911280242.html |title=40センチ低い位置から撮り直し グーグル・ストリートビュー|publisher=[[朝日新聞]] |accessdate=2010-10-17 }}&lt;/ref&gt;から各地を走って撮影している。自動車が入れない場所では撮影機材を[[自転車|三輪自転車]]&lt;ref&gt;{{Cite web|date=2009-05-20|url=http://wired.jp/2009/05/20/google%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%93%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%81%AE%E6%96%B0%E5%85%B5%E5%99%A8%E3%80%8C%E4%B8%89%E8%BC%AA%E8%87%AA%E8%BB%A2%E8%BB%8A%E3%80%8D%E5%8B%95%E7%94%BB/|title=<br /> Googleストリートビューの新兵器「三輪自転車」(動画)|publisher=[[WIRED (雑誌) |WIRED]] |accessdate=2016-02-23 }}&lt;/ref&gt;に乗せて撮影し、自転車も走れない場所では人が撮影機材(トレッカー&lt;ref&gt;{{Cite web|url=https://maps.google.co.jp/intl/ja/maps/about/partners/streetview/trekker/|title=トレッカー貸出しプログラム|publisher=[[Google]] |accessdate=2016-02-23 }}&lt;/ref&gt;)を背負って歩いて撮影されている。<br /> <br /> 撮影エリアは世界中の都市や郊外をカバーし、日本では都市や住宅地はもちろん、離島や[[富士山]]の登山道&lt;ref&gt;{{Cite web|date=2013-07-23|url=http://weekly.ascii.jp/elem/000/000/159/159261/|title=富士山のGoogleストリートビューがついに公開!|publisher=[[週刊アスキー]] |accessdate=2016-02-23 }}&lt;/ref&gt;までもカバーしている。<br /> <br /> 店内版は、[[一眼レフカメラ]]に[[魚眼レンズ]]を付け、専用の[[台座]]を使い、[[三脚]]に乗せて撮影をする。簡易型の[[RICOH THETA]]のような[[360°カメラ]]でも撮影は可能である。Googleが直接撮影するパターンと、Googleから認定を受けた[[認定フォトグラファー]]が、有償でお店から撮影費用をもらい撮影をするパターンがある。2018年4月現在、日本国内には、1320もの認定フォトグラファーが存在する&lt;ref&gt;{{Cite news|title=Google Street View – Hire a Trusted Pro to Boost Your Visibility|url=https://www.google.co.jp/intl/ja/streetview/hire/|accessdate=2018-04-21|language=ja|work=Google ストリートビュー}}&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> == 概要 ==<br /> ストリートビュー機能は、Google マップおよびGoogle Earth上で利用できる。Google マップでは、利用可能な地域に地図を合わせることで、縮尺の調節バーの上の人型の[[アイコン]](ペグマン、{{lang-en|Pegman}})が黄色に点灯する。この状態で人型のアイコンを地図上に[[ドラッグ・アンド・ドロップ|ドラッグ]]すると、ストリートビューの提供されている道路(日本では主要な[[国道]]をはじめ、都市部や郊外の道路)が青色で表示されるので、そこにアイコンを配置(ドロップ)することで、風景を閲覧できるビュアー画面に切り替わる。ビュアーでは、路上風景のパノラマ写真が表示され、地図はその右下に表示される。パノラマ写真内の道路の上に黄色いラインと矢印が表示されるので、矢印をクリックすることで直接位置を移動できるほか、写真の拡大や縮小、全画面表示、[[マウス (コンピュータ)|マウス]]による[[視点]]の変更が可能&lt;ref&gt;[http://www.youtube.com/watch?v=oznVGCaa3hw&amp;feature=relmfu オンラインで街を歩こう。Google マップのストリートビュー] - 基本的な使い方([[YouTube]] Google Channel Japan)&lt;/ref&gt;。Google Earthの場合は、まずStreet Viewレイヤーを有効にするとマップ上に黄色い[[カメラ]]のアイコンが表示され、そのアイコンをダブルクリックするとビュアーが起動して風景が表示される。<br /> [[File:2015-05-20 Google Street View camera cars in Kobe,Hyogo,Japan、神戸市立藤原台小学校前のグーグルストリートビューカー DSCF1886.jpg|thumb|240px|left|[[神戸市立藤原台小学校]]前を撮影中のGoogle ストリートビューカー]]<br /> <br /> 車載カメラは3次元方向のほぼ全周(水平方向360度、上下方向290度)を撮影しているため、パノラマ写真上でマウスを[[クリック (マウス)|クリック]]したり、[[キーボード (コンピュータ)|キーボード]]を操作してポインタを動かすことで、上下([[仰俯角|仰角・伏角]])・前後・左右へと視野を移動させたり、ズームアップやズームアウトさせたりすることもできる。パノラマ写真内の道路に沿って表示されている線はカメラを積んだ車両が撮影しながら動いた経路であり、ユーザーはこれに沿ってパノラマ写真内の先や手前へ視点を動かすこともできる。自動車での撮影が適さない場合には Street View Trike と名づけられた[[三輪自転車]]が用いられている&lt;ref&gt;[http://www.youtube.com/watch?v=TqRTpBvwt7o&amp;feature=player_embedded#! 早朝に][[ローマ]]&lt;span&gt;市内を撮影する Street View Trike&lt;/span&gt; ([[YouTube]] Google Channel)&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> ただし[[航空写真]]と異なり、後述のプライバシー上の問題もあってか、頻繁に写真が更新されている訳ではないので、撮影された当時の雰囲気を確認するには向いているものの、現在の建物や道の状態等を確実に確認できる訳ではない。また、このことにより負のイメージを負わされ続けることもある。<br /> <br /> 特定地点の特定アングルのパノラマ写真を友人らや仕事相手と共有したい場合、その写真を印刷したり、そのアングルのURLをメールに貼りつけて送ったり、HTMLを貼りつけてウェブサイトに表示させたりすることができる。<br /> <br /> [[2007年]][[5月25日]]に立ちあげられた時点では[[アメリカ合衆国]]の5都市の路上風景だけが対象であったが、その後アメリカ全土をはじめ、世界各国へとサービス地点を拡大させ続けている。一方で、車載カメラからは路上にいる人々の顔や、塀や窓の中の様子までが見えてしまうため、各国で[[プライバシー]]をめぐる論争を起こしている。<br /> <br /> == 撮影方法 ==<br /> [[ファイル:Google Street View Car in Chinatown, Toronto.jpg|250px|thumbnail|right|2009年6月5日に[[カナダ]]の[[トロント]]にある[[中華街]]で目撃された撮影車]]<br /> [[ファイル:GoogleCars.JPG|250px|thumbnail|right|2008年12月に[[ルーマニア]]の首都・[[ブカレスト]]の[[グランドホテル]]前で目撃された撮影車]]<br /> ; ストリートビューカー(自動車)<br /> : 車道を撮影用に改造した自動車で走行しながら屋根に搭載した全天球カメラ撮影をしている。撮影と同時に[[グローバル・ポジショニング・システム|GPS]]で撮影位置と前と左右に向けたレーザースキャナーで建物の形状を記録している。<br /> : 使用されている車の車種は、日本国内や香港では[[トヨタ・プリウス]]や[[スバル・インプレッサ]]、北米では[[シボレー・コバルト]]やトヨタ・プリウス、ヨーロッパでは[[アストラ (自動車)|オペル・アストラ]](オーストラリアやニュージーランドでは[[ホールデン (自動車)|ホールデン]]・アストラ)、ブラジルでは[[フィアット・スティーロ]]&lt;ref&gt;[http://www.portaldasnoticias.com/google-street-view-no-brasil-com-fiat-stilo/ Google Street View no Brasil com Fiat Stilo] {{pt icon}}&lt;/ref&gt;などの[[自動車]]で、中心より220cm上に取り付けられたカメラで撮影し、自動車で通行できる場所のほとんどはこのような方法で撮影されている&lt;ref name=&quot;cars-trikes&quot;&gt;[http://maps.google.com/intl/ja/help/maps/streetview/technology/cars-trikes.html カメラを載せて走る乗り物たち]&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> ; ストリートビュー トライク(自転車)<br /> : 自動車の通行出来ない場所([[大学]]、観光施設、遊園地など)では専用に改造して三輪自転車(トライク)専用の機材に取り付けられたカメラが用いられている&lt;ref name=&quot;cars-trikes&quot;&gt;[http://maps.google.com/intl/ja/help/maps/streetview/technology/cars-trikes.html カメラを載せて走る乗り物たち]&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> ; トレッカー(徒歩)<br /> : 重量約20キロの背負子式の撮影機材を人が背負って富士山の登山道などを歩いて撮影を行う。主な撮影者はボランティアで、Googleが希望者への貸出を行っている&lt;ref&gt;[https://maps.google.co.jp/intl/ja/maps/about/partners/streetview/trekker/ あなたもトレッカーで撮影してみませんか? ]&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> ; トロリー(手押し車)<br /> : 美術館や店舗などの屋内の撮影に使われている。&lt;ref name=&quot;cars-trikes&quot;&gt;[http://maps.google.com/intl/ja/help/maps/streetview/technology/cars-trikes.html カメラを載せて走る乗り物たち]&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> ; 船上トレッカー(船)<br /> : 三陸海岸では漁船&lt;ref&gt;[http://news.mynavi.jp/news/2014/10/20/174/ グーグル、海上で撮影した三陸海岸の様子をストリートビューで公開]&lt;/ref&gt;、航路ではフェリーに機材を設置して撮影している&lt;ref&gt;[http://setonaikaikisen.co.jp/news/archives/977 Googleストリートビューで広島・呉~松山航路船上からの風景がご覧いただけます。]&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> ; その他<br /> : 水上や雪上の条件の限られた場所の撮影では[[スノーモービル]]や[[水上オートバイ]]を使用している&lt;ref name=&quot;cars-trikes&quot;&gt;[http://maps.google.com/intl/ja/help/maps/streetview/technology/cars-trikes.html カメラを載せて走る乗り物たち]&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> ;ユーザー自身による撮影<br /> [[File:RICOH THETA FRONT.jpg|thumb|[[RICOH THETA]]は、Photo Sphereに対応したカメラのひとつである]]<br /> :Googleストリートビューのような360度パノラマ写真をユーザー自身が撮影してGoogle マップで公開できるよう、Photo Sphere(フォトスフィア)という機能も提供されている。これによってお店や観光地などで、ユーザー独自のストリートビューを公開する事ができる。この機能を利用するには、Photo Sphereに対応したカメラアプリ、基準を満たすメタデータが埋め込まれたパノラマ写真、または[[RICOH THETA]]などの対応したカメラ機器のいずれかが必要となる。<br /> <br /> == サービスの拡大の経緯 ==<br /> {{Collapse top|年月日とサービス対象エリアの一覧}}<br /> &lt;!--ウィキペディアはニュース速報ではありません。性急な編集をせず事実を確認し、正確な記述を心がけてください。--&gt;<br /> &#039;&#039;&#039;太字&#039;&#039;&#039;は高画質による閲覧可能を表す。&#039;&#039;&#039;&#039;&#039;[[イタリック体|斜体]]の太字&#039;&#039;&#039;&#039;&#039;は一部高画質による閲覧可能を表す。<br /> {| class=&quot;wikitable&quot; style=&quot;font-size:90%&quot;<br /> !|年月日<br /> !|追加された地点<br /> |-<br /> | [[2007年]][[5月25日]] || {{flagicon|United States}} &#039;&#039;&#039;&#039;&#039;[[サンフランシスコ]]&#039;&#039;&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;&#039;&#039;[[ラスベガス]]&#039;&#039;&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;&#039;&#039;[[デンバー]]&#039;&#039;&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;&#039;&#039;[[マイアミ]]&#039;&#039;&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;&#039;&#039;[[ニューヨーク]]&#039;&#039;&#039;&#039;&#039;<br /> |-<br /> | 2007年[[8月7日]] || {{flagicon|United States}} &#039;&#039;&#039;&#039;&#039;[[ロサンゼルス]]&#039;&#039;&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;&#039;&#039;[[サンディエゴ]]&#039;&#039;&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;&#039;&#039;[[ヒューストン]]&#039;&#039;&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;&#039;&#039;[[オーランド]]&#039;&#039;&#039;&#039;&#039;<br /> |-<br /> | 2007年[[10月9日]] || {{flagicon|United States}} &#039;&#039;&#039;&#039;&#039;[[ポートランド (オレゴン州)|ポートランド]]&#039;&#039;&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;&#039;&#039;[[フェニックス (アリゾナ州)|フェニックス]]&#039;&#039;&#039;&#039;&#039;、[[ツーソン]]、&#039;&#039;&#039;&#039;&#039;[[シカゴ]]&#039;&#039;&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;&#039;&#039;[[ピッツバーグ]]&#039;&#039;&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;&#039;&#039;[[フィラデルフィア]]&#039;&#039;&#039;&#039;&#039;<br /> |-<br /> |style=&quot;white-space:nowrap&quot; | 2007年[[12月10日]] || {{flagicon|United States}} &#039;&#039;&#039;[[ダラス]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;&#039;&#039;[[ミネアポリス]]&#039;&#039;&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;&#039;&#039;[[インディアナポリス]]&#039;&#039;&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;&#039;&#039;[[デトロイト]]&#039;&#039;&#039;&#039;&#039;、[[プロビデンス (ロードアイランド州)|プロビデンス]]、&#039;&#039;&#039;&#039;&#039;[[ボストン]]&#039;&#039;&#039;&#039;&#039;<br /> |-<br /> | [[2008年]][[2月12日]] || {{flagicon|United States}} &#039;&#039;&#039;[[ジュノー (アラスカ州)|ジュノー]]&#039;&#039;&#039;、[[ボイシ]]、[[ソルトレイクシティ]]、&#039;&#039;&#039;&#039;&#039;[[サンアントニオ]]&#039;&#039;&#039;&#039;&#039;、[[カンザスシティ (ミズーリ州)|カンザスシティ]]、&#039;&#039;&#039;&#039;&#039;[[ミルウォーキー]]&#039;&#039;&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;&#039;&#039;[[ローリー (ノースカロライナ州)|ローリー]]&#039;&#039;&#039;&#039;&#039;、[[オールバニ (ニューヨーク州)|オールバニ]]、[[マンチェスター (ニューハンプシャー州)|マンチェスター]]<br /> |-<br /> | 2008年[[3月27日]] || {{flagicon|United States}} &#039;&#039;&#039;&#039;&#039;[[アンカレジ]]&#039;&#039;&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;&#039;&#039;[[フェアバンクス]]&#039;&#039;&#039;&#039;&#039;、[[スポケーン]]、[[ヨセミテ国立公園]]、[[アルバカーキ]]、&#039;&#039;&#039;&#039;&#039;[[オースティン (テキサス州)|オースティン]]&#039;&#039;&#039;&#039;&#039;、[[リトルロック (アーカンソー州)|リトルロック]]、[[ロックフォード (イリノイ州)|ロックフォード]]、[[マディソン (ウィスコンシン州)|マディソン]]、&#039;&#039;&#039;&#039;&#039;[[ナッシュビル]]&#039;&#039;&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;&#039;&#039;[[クリーブランド (オハイオ州)|クリーブランド]]&#039;&#039;&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;&#039;&#039;[[タンパ]]&#039;&#039;&#039;&#039;&#039;、[[リッチモンド (バージニア州)|リッチモンド]]<br /> |-<br /> | 2008年[[6月10日]] || {{flagicon|United States}} &#039;&#039;&#039;&#039;&#039;[[サクラメント (カリフォルニア州)|サクラメント]]&#039;&#039;&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;&#039;&#039;[[フレズノ]]&#039;&#039;&#039;&#039;&#039;、[[オクラホマシティ]]、&#039;&#039;&#039;&#039;&#039;[[セントルイス]]&#039;&#039;&#039;&#039;&#039;、[[ジャクソン (ミシシッピ州)|ジャクソン]]、[[ルイビル]]、&#039;&#039;&#039;&#039;&#039;[[アトランタ]]&#039;&#039;&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;&#039;&#039;[[コロンバス (オハイオ州)|コロンバス]]&#039;&#039;&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;&#039;&#039;[[ジャクソンビル (フロリダ州)|ジャクソンビル]]&#039;&#039;&#039;&#039;&#039;、[[コロンビア (サウスカロライナ州)|コロンビア]]、&#039;&#039;&#039;&#039;&#039;[[シャーロット (ノースカロライナ州)|シャーロット]]&#039;&#039;&#039;&#039;&#039;、[[バッファロー (ニューヨーク州)|バッファロー]]、[[バージニアビーチ]]、[[イエローストーン国立公園]]<br /> |-<br /> | 2008年[[7月2日]] || {{flagicon|France}} &#039;&#039;&#039;[[エグラン]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[オーレー]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ブール・ドワザン]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ブレスト (フランス)|ブレスト]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ブリウド]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;&#039;&#039;[[セリィ]]&#039;&#039;&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ショレ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[アンブラン]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[エタンプ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[フィジャック]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ラヌメザン]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ラヴラネ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ナント]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[サン・マロ]]&#039;&#039;&#039; &lt;br&gt; {{flagicon|Italy}} &#039;&#039;&#039;&#039;&#039;[[クーネオ]]&#039;&#039;&#039;&#039;&#039;<br /> |-<br /> | 2008年[[8月4日]] || {{flagicon|Australia}} &#039;&#039;&#039;&#039;&#039;[[アデレード]]&#039;&#039;&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;&#039;&#039;[[オールバニ (オーストラリア)|オールバニ]]&#039;&#039;&#039;&#039;&#039;、[[アリススプリングス]]、&#039;&#039;&#039;&#039;&#039;[[ブリスベン]]&#039;&#039;&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ブロークンヒル]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;&#039;&#039;[[ケアンズ]]&#039;&#039;&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;&#039;&#039;[[キャンベラ]]&#039;&#039;&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;&#039;&#039;[[ジェラルトン]]&#039;&#039;&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;&#039;&#039;[[ホバート]]&#039;&#039;&#039;&#039;&#039;、[[カラサ]]、&#039;&#039;&#039;&#039;&#039;[[メルボルン]]&#039;&#039;&#039;&#039;&#039;、[[マウント・アイザ]]、&#039;&#039;&#039;&#039;&#039;[[パース (西オーストラリア州)|パース]]&#039;&#039;&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;&#039;&#039;[[ロックハンプトン]]&#039;&#039;&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;&#039;&#039;[[シドニー]]&#039;&#039;&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;&#039;&#039;{{仮リンク|タムワース (オーストラリア)|en|Tamworth, New South Wales|label=タムワース}}&#039;&#039;&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;&#039;&#039;[[ウォガウォガ]]&#039;&#039;&#039;&#039;&#039;、その他田舎町 &lt;br&gt; {{flagicon|Japan}} [[千葉市]]、[[函館市]]、&#039;&#039;&#039;&#039;&#039;[[神戸市]]&#039;&#039;&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;&#039;&#039;[[京都市]]&#039;&#039;&#039;&#039;&#039;、[[奈良市]]、&#039;&#039;&#039;&#039;&#039;[[大阪市]]&#039;&#039;&#039;&#039;&#039;、[[さいたま市]]、&#039;&#039;&#039;&#039;&#039;[[札幌市]]&#039;&#039;&#039;&#039;&#039;、[[仙台市]]、&#039;&#039;&#039;&#039;&#039;[[東京都区部|東京都区部(東京23区)]]&#039;&#039;&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;&#039;&#039;[[横浜市]]&#039;&#039;&#039;&#039;&#039; &lt;br&gt; {{flagicon|United States}} [[ニューオーリンズ]]、[[バトンルージュ]]、その他田舎町<br /> |-<br /> | 2008年[[10月14日]] || {{flagicon|France}} &#039;&#039;&#039;[[パリ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[リヨン]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[マルセイユ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ニース]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[リール (フランス)|リール]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[トゥールーズ]]&#039;&#039;&#039;<br /> |-<br /> | 2008年[[10月27日]] || {{flagicon|Spain}} &#039;&#039;&#039;[[バルセロナ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[マドリード]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[セビリア]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[バレンシア (スペイン)|バレンシア]]&#039;&#039;&#039;<br /> |-<br /> | 2008年[[10月29日]] || {{flagicon|Italy}} &#039;&#039;&#039;[[フィレンツェ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ミラノ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ローマ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[コモ湖]]&#039;&#039;&#039;(&#039;&#039;&#039;[[ベッラージョ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ベッラーノ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[チェルノッビオ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[コモ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[レッコ (レッコ県)|レッコ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[マルグラーテ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ヴァレンナ]]&#039;&#039;&#039;など)<br /> |-<br /> | 2008年[[11月4日]] || {{flagicon|United States}} &#039;&#039;&#039;&#039;&#039;[[シアトル]]&#039;&#039;&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ワシントンD.C.]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;&#039;&#039;[[ボルチモア]]&#039;&#039;&#039;&#039;&#039;、その他田舎町<br /> |-<br /> | 2008年[[12月1日]] || {{flagicon|New Zealand}} [[オークランド (ニュージーランド)|オークランド]]、[[ウェリントン]]、[[クライストチャーチ]]、[[ハミルトン (ニュージーランド)|ハミルトン]]、[[ダニーデン]]など主要都市<br /> |-<br /> | 2008年[[12月9日]] || {{flagicon|United States}} [[ウェストバージニア州]]、[[サウスダコタ州]]、[[ノースダコタ州]]、[[バーモント州]]、[[メイン州]]一部地域 &lt;br&gt; {{flagicon|Australia}} [[ダーウィン (ノーザンテリトリー)|ダーウィン]]ほか多くの中小都市<br /> |-<br /> | [[2009年]][[3月18日]] || {{flagicon|England}} &#039;&#039;&#039;[[ロンドン]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[オックスフォード]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ケンブリッジ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ノッティンガム]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ダービー (イギリス)|ダービー]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[シェフィールド]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[リーズ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[マンチェスター]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ブラッドフォード (イングランド)|ブラッドフォード]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[スカンソープ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ブリストル]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ノリッチ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ニューカッスル・アポン・タイン]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[バーミンガム]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[コヴェントリー]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[リヴァプール]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[サウサンプトン]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ヨーク (イングランド)|ヨーク]]&#039;&#039;&#039;、その他田舎町 &lt;br&gt; {{flagicon|United Kingdom}} &#039;&#039;&#039;[[ベルファスト]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[キャリクファーガス]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ラーン (北アイルランド)|ラーン]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ニュータウンアビー]]&#039;&#039;&#039;、その他田舎町 &lt;br&gt; {{flagicon|Wales}} &#039;&#039;&#039;[[カーディフ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[スウォンジ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[バリー (ウェールズ)|バリー]]&#039;&#039;&#039;、その他田舎町 &lt;br&gt; {{flagicon|Scotland}} &#039;&#039;&#039;[[グラスゴー]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[エディンバラ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ダンディー (スコットランド)|ダンディー]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[アバディーン]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[アーブロース]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[カーヌスティ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[エロン]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[フォーファー]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[フレーザーバラ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[インヴァルリー]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ピーターヘッド]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ポートルゼン]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ストーンヘヴン]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ウェストヒル (スコットランド)|ウェストヒル]]&#039;&#039;&#039;、その他田舎町 &lt;br&gt; {{flagicon|France}} &#039;&#039;&#039;[[パリ]]&#039;&#039;&#039;(都市圏:&#039;&#039;&#039;[[ヴェルサイユ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[オルリー]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[リュエイユ=マルメゾン]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ナンテール]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[サン=ドニ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ブローニュ=ビヤンクール]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[シャンピニー=シュル=マルヌ]]&#039;&#039;&#039;)、&#039;&#039;&#039;[[アミアン]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[カレー (フランス)|カレー]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ダンケルク]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ランス (パ=ド=カレー県)|ランス]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ドゥエー]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[トゥールコワン]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ヴィルヌーヴ=ダスク]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ヴァランシエンヌ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ル・アーヴル]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ルーアン]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ランス (マルヌ県)|ランス]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[シャロン=アン=シャンパーニュ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[カーン]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[レンヌ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ナント]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[アンジェ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[トロワ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ストラスブール]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[アグノー]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ポワチエ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ディジョン]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[クレルモン=フェラン]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[リモージュ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[モンペリエ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[エクス=アン=プロヴァンス]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[トゥーロン]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[カンヌ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[アンティーブ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ヴァランス]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ロマン=シュル=イゼール]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[サン=テティエンヌ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[グルノーブル]]&#039;&#039;&#039;&lt;br/&gt;<br /> {{flagicon|Italy}} &#039;&#039;&#039;[[ブスト・アルシーツィオ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[トリノ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ノヴァーラ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[モンツァ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ウーディネ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ジェノバ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[パルマ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ボローニャ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[リヴォルノ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[アレッツォ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ペルージャ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ラクイラ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[フィウミチーノ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[カゼルタ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ナポリ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[アヴェッリーノ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[サレルノ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[バーリ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ビトント]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[レッジョ・ディ・カラブリア]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[カターニア]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[カリャリ]]&#039;&#039;&#039;、その他田舎町 &lt;br&gt; {{flagicon|Spain}} &#039;&#039;&#039;[[マドリード]]&#039;&#039;&#039;(都市圏:&#039;&#039;&#039;[[ラス・ロサス・デ・マドリード]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[アルコベンダス]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[コスラーダ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[フエンラブラーダ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[モストレス]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ヘタフェ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[アルガンダ・デル・レイ]]&#039;&#039;&#039;など), &#039;&#039;&#039;[[オビエド]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[サバデイ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[タラサ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[サラゴサ]]&#039;&#039;&#039;、その他田舎町 &lt;br&gt; {{flagicon|Netherlands}} &#039;&#039;&#039;[[アムステルダム]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[アムステルフェーン]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ロッテルダム]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[フローニンゲン]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[スパイケニッセ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[フォーレンダム]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ザーンスタット]]&#039;&#039;&#039; &lt;br&gt; {{flagicon|United States}} 各州中小都市<br /> |-<br /> | 2009年[[6月10日]] || {{flagicon|France}} &#039;&#039;&#039;[[ディズニーランド・リゾート・パリ]]&#039;&#039;&#039; &lt;br&gt; {{flagicon|United States}} &#039;&#039;&#039;[[モントレー湾]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[サンタモニカ・ピア]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[サードストリートプロムナード]]&#039;&#039;&#039;<br /> |-<br /> | 2009年[[8月19日]] || {{flagicon|Switzerland}} &#039;&#039;&#039;[[ベルン]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[チューリッヒ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[バーゼル]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ローザンヌ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ジュネーヴ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ヌーシャテル]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ラ・ショー=ド=フォン]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ビール 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&#039;&#039;&#039;[[アオスタ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ドモドッソラ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ラティーナ]]&#039;&#039;&#039;、その他田舎町 &lt;br&gt; {{flagicon|United States}} &#039;&#039;&#039;[[レゴランド|レゴランド・カリフォルニア]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ラグナ・セカ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[サンディエゴ州立大学]]&#039;&#039;&#039;<br /> |-<br /> | 2009年[[10月7日]] || {{flagicon|Czech Republic}} &#039;&#039;&#039;[[プラハ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ムニェルニーク]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ブランディース・ナッド・ラベン=スタラーボレスラフ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ポジェブラディ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ベネショフ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[プルシーブラム]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ベロウン]]&#039;&#039;&#039; &lt;br&gt; {{flagicon|Canada}} &#039;&#039;&#039;[[ケベック (ケベック州)|ケベック]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[トロント]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[オタワ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ハミルトン 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[[旭川市]]、&#039;&#039;&#039;&#039;&#039;[[名古屋市]]&#039;&#039;&#039;&#039;&#039;、[[岐阜市]]、&#039;&#039;&#039;&#039;&#039;[[長崎市]]&#039;&#039;&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;&#039;&#039;[[諫早市]]&#039;&#039;&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;&#039;&#039;[[佐世保市]]&#039;&#039;&#039;&#039;&#039;、[[種子島]]、[[屋久島]]、[[奄美大島]]、[[徳之島]]、&#039;&#039;&#039;[[沖縄本島]]&#039;&#039;&#039;、[[宮古列島]]、&#039;&#039;&#039;[[旭川市旭山動物園]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[札幌ドーム]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[札幌市円山動物園|円山動物園]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[北海道大学]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[北海道大学北方生物圏フィールド科学センター耕地圏ステーション植物園|北海道大学植物園]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[モエレ沼公園]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[中島公園]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[札幌芸術の森|芸術の森野外美術館]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[滝野すずらん丘陵公園]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[さっぽろ羊ヶ丘展望台]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[北海道開拓の村]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[真駒内公園]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[スカイウェイカントリークラブ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ハウステンボス]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[高台寺]]&#039;&#039;&#039; 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&#039;&#039;&#039;[[シーワールド]]&#039;&#039;&#039;(オーランド、サンアントニオ、サンディエゴ)、&#039;&#039;&#039;[[ボストン大学]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ハーシーパーク]]&#039;&#039;&#039;<br /> |-<br /> | [[2010年]][[1月21日]] || {{flagicon|Sweden}} &#039;&#039;&#039;[[ストックホルム]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[マルメ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ルンド]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ヨーテボリ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[オッケレー]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ハルムスタッド]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ヴェステロース]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[エスキルストゥーナ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ニュヒェーピング]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ウプサラ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ノーショーピング]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ヨンショーピング市|ヨンショーピング]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[リンシェーピング]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[エーレブルー]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ボロース]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ベクショー]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[カルマル市|カルマル]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ヘスレホルム]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ヘルシンボリ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[シェブデ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[クリスチャンスタード]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[カールスクルーナ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ウメオ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ピーテオー]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[シェレフテオ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ルレオ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[カーリクス]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ハパランダ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ゴットランド島]]&#039;&#039;&#039;・&#039;&#039;&#039;[[フォーレ島]]&#039;&#039;&#039;・&#039;&#039;&#039;[[エーランド島]]&#039;&#039;&#039;一部地域 &lt;br&gt; {{flagicon|Denmark}} &#039;&#039;&#039;[[コペンハーゲン]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[オーフス]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[オーデンセ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[オールボー]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ラナース]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ホーセンス]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[スカーイェン]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ヴァイレ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[コリング]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ロスキレ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[オベンロー]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ヒレレズ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[スラーエルセ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[エスビャウ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[セナボー]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ヘルシンゲル]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[サムセー島]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[エーア島]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[レム島]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ファーン島]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[レス島]]&#039;&#039;&#039; &lt;br&gt; {{flagicon|England}} &#039;&#039;&#039;[[ロイヤルレミントンスパ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ウィッケン・フェン]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[バーリントン・ホール]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[バッズリー・クリントン]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ライム・パーク]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[クォリー・バンク・ミル]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[マラム・コーヴ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[スタッドリー王立公園]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[リンディスファーン城]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ナイマンズ・ガーデン]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[エイヴベリー・マナー]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[コーフェ城]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[グレンダーガン・ガーデン]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[エンジェル・オブ・ザ・ノース]]&#039;&#039;&#039; &lt;br&gt; {{flagicon|Wales}} &#039;&#039;&#039;[[プラス・ネウイズ]]&#039;&#039;&#039; &lt;br&gt; {{flagicon|Scotland}} &#039;&#039;&#039;[[インヴァネス]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ミュアー・オブ・オード]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ネス湖]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ラーグス]]&#039;&#039;&#039; &lt;br&gt; {{flagicon|Northern Ireland}} &#039;&#039;&#039;[[マッセンデン・テンプル]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ダウンヒル・ハウス]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[マウント・スチュワート]]&#039;&#039;&#039; &lt;br&gt; {{flagicon|Italy}} &#039;&#039;&#039;[[ヴェローナ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ブレシア]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ジェモーナ・デル・フリウーリ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ラヴェンナ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[マントヴァ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[クレモナ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[レッジョ・エミリア]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ヴィチェンツァ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ペーザロ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ファーノ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ペスカーラ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[メストレ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[アスコリ・ピチェーノ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[キエーティ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[スルモーナ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ピサ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ルッカ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ピストイア]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[プラート]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[カンポバッソ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[フォッジャ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[マンフレドーニア]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ポテンツァ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[アルタムーラ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[マテーラ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ターラント]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ブリンディジ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[オストゥーニ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[クロトーネ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[カタンザーロ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ラメーツィア・テルメ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[レッチェ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[サッサリ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[オルビア]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ヌーオロ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[アルゲーロ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[サン・ピエトロ島]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[パレルモ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[シラクサ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ラグーザ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[アグリジェント]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[マルサーラ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[トラーパニ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[プローチダ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[カプリ島]]&#039;&#039;&#039; 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&#039;&#039;&#039;[[オスロ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[フレドリクスタ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[モス (ノルウェー)|モス]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[サルプスボルグ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ドランメン]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ボス (ノルウェー)|ボス]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[スタヴァンゲル]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[クリスチャンサン]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ベルゲン]]&#039;&#039;&#039; &lt;br&gt; {{flagicon|Finland}} &#039;&#039;&#039;[[ヘルシンキ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ラハティ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[エスポー (フィンランド)|エスポー]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ヴァンター]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[タンペレ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ノキア 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(オンタリオ州)|ウィンザー]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[シドニー (ノバスコシア州)|シドニー]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[シャーロットタウン]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[プリンス・アルバート (サスカチュワン州)|プリンス・アルバート]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ホワイトホース (ユーコン準州)|ホワイトホース]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[イヌヴィック]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[レジャイナ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[シクーティミ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ナナイモ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[コートネイ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[パウエル・リバー]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ルーロー]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ケロウナ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[カムループス]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[レスブリッジ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ロイドミンスター]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[サンダーベイ 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(オンタリオ州)|クリントン]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[レミントン (オンタリオ州)|レミントン]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[キングストン (オンタリオ州)|キングストン]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[アマーストバーグ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[チャタム・ケント]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ブレナム (オンタリオ州)|ブレナム]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ブラントフォード]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ケンブリッジ (オンタリオ州)|ケンブリッジ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ゲルフ (オンタリオ州)|ゲルフ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ピーターボロ (オンタリオ州)|ピーターボロ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[トレントン (オンタリオ州)|トレントン]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[トンプソン (マニトバ州)|トンプソン]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[グランド・プレーリー]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[プリンスルパート]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[レッド・ディア]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[リンビー 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&#039;&#039;&#039;[[エルモシージョ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ティフアナ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[エンセナーダ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[サン・ルイス・リオ・コロラード]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ラパス (バハ・カリフォルニア・スル州)|ラ・パス]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ノガーレス (ソノーラ州)|ノガーレス]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[グアイマス]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[シウダ・オブレゴン]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[シウダ・フアーレス]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[チワワ (チワワ州)|チワワ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[デリシアス]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[パラル]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[サルティーヨ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ゴメス・パラシオ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[トレオン]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[レイノサ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[リオ・ブラボ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[マタモロス|マタモーロス]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[シウダ・ビクトリア]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[:en:Altamira, Tamaulipas|アルタミラ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[シウダ・マデーロ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[タンピコ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ミラマール]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[クリアカン]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[マサトラン]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ドゥランゴ (ドゥランゴ州)|ドゥランゴ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[フレスニージョ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[サカテカス]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[テピク]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[アグアスカリエンテス]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[サン・ルイス・ポトシ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[リオ・ベルデ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[シウダ・フェルナンデス]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[シウダ・バジェス]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[テパティトラン]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[レオン (メキシコ)|レオン]]&#039;&#039;&#039;<br /> |-<br /> | 2010年[[6月8日]] || {{flagicon|South Africa}} &#039;&#039;&#039;[[プレトリア]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ヨハネスブルグ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ポロクワネ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ルステンブルク]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ケープタウン]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[サイモンズタウン]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ポート・エリザベス]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[イースト・ロンドン]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ピーターマリッツバーグ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ダーバン]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ブルームフォンテーン]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[2010 FIFAワールドカップ]]のスタジアム&#039;&#039;&#039;(&#039;&#039;&#039;[[ケープタウン・スタジアム|ケープタウン]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[エリス・パーク・スタジアム|エリス・パーク]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[FNBスタジアム|サッカー・シティ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ロフタス・ヴァースフェルド・スタジアム|ロフタス・ヴァースフェルド]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[モーゼス・マヒダ・スタジアム|モーゼス・マヒダ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ネルソン・マンデラ・ベイ・スタジアム|ネルソン・マンデラ・ベイ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[フリーステイト・スタジアム|フリーステイト]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ムボンベラ・スタジアム|ムボンベラ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ピーター・モカバ・スタジアム|ピーター・モカバ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ロイヤル・バフォケン・スタジアム|ロイヤル・バフォケン]]&#039;&#039;&#039;)<br /> |-<br /> | 2010年[[9月30日]] || {{flagicon|Brazil}} &#039;&#039;&#039;[[ベロオリゾンテ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[リオデジャネイロ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[サンパウロ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ドゥケ・デ・カシアス]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ノバイグアス]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ベルフォードロッショ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[サン・ジョアン・デ・メリチ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ニテロイ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[サンゴンサロ (リオデジャネイロ州)|サンゴンサロ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[グアルーリョス]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[オザスコ (サンパウロ州)|オザスコ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[タボアン・ダ・セーハ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ディアデマ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[サンベルナルド・ド・カンポ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[カラピクイーバ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[コンタジェン]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ベチン]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[セッテ・ラゴアス]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[クルベロ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ディアマンティーナ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ルース (ミナスジェライス州)|ルース]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[オウロ・プレット]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[コンゴーニャス]]&#039;&#039;&#039; &lt;br&gt; {{flagicon|Ireland}} &#039;&#039;&#039;[[ダブリン]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[コーク (アイルランド)|コーク]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[リムリック]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ゴールウェイ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ウォーターフォード]]&#039;&#039;&#039; &lt;br&gt; {{flagicon|United States}} &#039;&#039;&#039;[[ヒロ (ハワイ島)|ヒロ]]&#039;&#039;&#039; &lt;br&gt; {{flagicon|Antarctica}} &#039;&#039;&#039;[[サウス・シェトランド諸島]]&#039;&#039;&#039;(&#039;&#039;&#039;[[南極大陸]]&#039;&#039;&#039;)の&#039;&#039;&#039;[[ハーフムーン島]]&#039;&#039;&#039;<br /> |-<br /> | 2010年[[11月2日]] || {{flagicon|Germany}} &#039;&#039;&#039;[[オーバーシュタウフェン]]&#039;&#039;&#039;の一部、&#039;&#039;&#039;[[ブランデンブルク門]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[戦勝記念塔 (ベルリン)|戦勝記念塔]]&#039;&#039;&#039;(&#039;&#039;&#039;[[ベルリン]]&#039;&#039;&#039;)、&#039;&#039;&#039;[[ケーニヒス広場]]&#039;&#039;&#039;(&#039;&#039;&#039;[[ミュンヘン]]&#039;&#039;&#039;)、&#039;&#039;&#039;[[ケールブラント橋]]&#039;&#039;&#039;(&#039;&#039;&#039;[[ハンブルク]]&#039;&#039;&#039;)、&#039;&#039;&#039;[[テアーター広場]]&#039;&#039;&#039;(&#039;&#039;&#039;[[ドレスデン]]&#039;&#039;&#039;)、&#039;&#039;&#039;[[ソリテュード城]]&#039;&#039;&#039;(&#039;&#039;&#039;[[シュトゥットガルト]]&#039;&#039;&#039;)、各サッカースタジアム:&#039;&#039;&#039;[[アリアンツ・アレーナ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[HSHノルトバンク・アレーナ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ミラーントーアシュタディオン]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ヴェストファーレンシュタディオン]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[アレナ・アウフシャルケ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[バイ・アレーナ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ラインエネルギーシュタディオン]]&#039;&#039;&#039;<br /> |-<br /> | 2010年[[11月18日]] || {{flagicon|Germany}} &#039;&#039;&#039;[[ベルリン]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ビーレフェルト]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ボーフム]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ボン]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ブレーメン]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ドルトムント]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ドレスデン]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[デュースブルク]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[デュッセルドルフ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[エッセン]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[フランクフルト]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ハンブルク]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ハノーファー]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ケルン]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ライプツィヒ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[マンハイム]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ミュンヘン]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ニュルンベルク]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[シュトゥットガルト]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ヴッパータール]]&#039;&#039;&#039;<br /> |-<br /> | 2010年[[12月8日]] || {{flagicon|Romania}} &#039;&#039;&#039;[[ブカレスト]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ブラショフ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ティミショアラ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[コドレア]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[アラド (ルーマニア)|アラド]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ミエルクレア=チュク]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[シナヤ]]&#039;&#039;&#039; &lt;br&gt; {{flagicon|Norway}} &#039;&#039;&#039;[[トロンハイム]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[シーエン]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[クリスチャンサン]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[トロムソ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[トンスベルグ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[オーレスン]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ハウゲスン]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[サンネフヨル]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ボードー]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[アーレンダール]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ハーマル]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ラルヴィク]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ハルデン]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[リレハンメル]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ハーシュタ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[モルデ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[コングスベルグ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[イェービク]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ホーテン]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[モー・イ・ラーナ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[コングスビンゲル]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[クリスティアンスン]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ヘーネフォス]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ナルヴィク]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[アルタ (ノルウェー)|アルタ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[エルベルム]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[シー (ノルウェー)|シー]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[スタインシャー]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[スチェルダールシャルセン]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[グリムスタ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[マンダール]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[エーゲルスン]]&#039;&#039;&#039; &lt;br&gt; {{flagicon|Denmark}} &#039;&#039;&#039;[[ボーンホルム島]]&#039;&#039;&#039; &lt;br&gt; {{flagicon|Netherlands}} &#039;&#039;&#039;[[テルスヘリング]]&#039;&#039;&#039; &lt;br&gt; {{flagicon|South Africa}} 各中小都市<br /> |-<br /> | [[2011年]][[2月1日]] || {{flagicon|Russia}} &#039;&#039;&#039;[[トレチャコフ美術館]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[エルミタージュ美術館]]&#039;&#039;&#039; &lt;br&gt; {{flagicon|Germany}} &#039;&#039;&#039;[[旧国立美術館 (ベルリン)|旧国立美術館]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[絵画館 (ベルリン)|絵画館]]&#039;&#039;&#039; &lt;br&gt; {{flagicon|United States}} &#039;&#039;&#039;[[フリーア美術館]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[フリック・コレクション]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[メトロポリタン美術館]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ニューヨーク近代美術館]]&#039;&#039;&#039; &lt;br&gt; {{flagicon|Spain}} &#039;&#039;&#039;[[ソフィア王妃芸術センター]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ティッセン=ボルネミッサ美術館]]&#039;&#039;&#039; &lt;br&gt; {{flagicon|Czech Republic}} &#039;&#039;&#039;[[カンパ美術館]]&#039;&#039;&#039; &lt;br&gt; {{flagicon|England}} &#039;&#039;&#039;[[ナショナル・ギャラリー (ロンドン)|ナショナル・ギャラリー]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[テート・ブリテン]]&#039;&#039;&#039; &lt;br&gt; {{flagicon|France}} &#039;&#039;&#039;[[ヴェルサイユ宮殿]]&#039;&#039;&#039; &lt;br&gt; {{flagicon|Italy}} &#039;&#039;&#039;[[ウフィツィ美術館]]&#039;&#039;&#039; &lt;br&gt; {{flagicon|Netherlands}} &#039;&#039;&#039;[[ゴッホ美術館]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[アムステルダム国立美術館]]&#039;&#039;&#039;<br /> |-<br /> | 2011年[[2月28日]] || {{flagicon|France}} &#039;&#039;&#039;[[シュノンソー城]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ユッセ城]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ヴィランドリー城]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[アンボワーズ城]]&#039;&#039;&#039; &lt;br&gt; {{flagicon|Italy}} &#039;&#039;&#039;[[カゼルタ宮殿]]&#039;&#039;&#039; &lt;br&gt; {{flagicon|Ireland}} &#039;&#039;&#039;[[アイルランド国立植物園]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[パワーズコート・ゴルフクラブ]]&#039;&#039;&#039; &lt;br&gt; {{flagicon|United States}} &#039;&#039;&#039;[[バルボア・パーク]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ピチェッティ・ワイナリー]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[フリーモント・オールダー・オープン・スペース保護区]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ロシアン・リッジ・オープン・スペース保護区]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ランチョ・サン・アントニオ・カウンティ・パーク]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[カニングハム湖]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[サンディエゴ大学]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ウースター・ポリテクニック・インスティテュート]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[スリー・リバーズ・ヘリテージ・トレイル]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[シーワールド・オーランド]]&#039;&#039;&#039; &lt;br&gt; {{flagicon|England}} &#039;&#039;&#039;[[キューガーデン]]&#039;&#039;&#039; &lt;br&gt; {{flagicon|Taiwan}} &#039;&#039;&#039;[[東海大学 (台湾)|東海大学]]&#039;&#039;&#039;<br /> |-<br /> | 2011年[[3月10日]] || {{flagicon|Japan}} &#039;&#039;&#039;[[広島平和記念公園]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[厳島神社]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[MAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島]]&#039;&#039;&#039;<br /> |-<br /> | 2011年[[3月30日]] || {{flagicon|Italy}} &#039;&#039;&#039;[[フォロ・ロマーノ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[コロッセオ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[パラティーノ|パラティーノの丘]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[アッピア街道]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ディオクレティアヌス浴場]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[カラカラ浴場]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ティヴォリのエステ家別荘]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ドゥオモ広場 (フィレンツェ)|ドゥオモ広場]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ピッティ宮殿]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ボーボリ庭園]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ヴェッキオ橋]]&#039;&#039;&#039;&lt;br&gt;{{flagicon|France}} &#039;&#039;&#039;[[フォンテーヌブロー宮殿]]&#039;&#039;&#039;<br /> |-<br /> | 2011年[[5月12日]] || {{flagicon|United States}} &#039;&#039;&#039;[[グルーン・ギターズ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;メディーバル・マッドネス・アット・ルネッサンス・ホール&#039;&#039;&#039; &lt;br&gt; {{flagicon|Australia}}&#039;&#039;&#039; ギリアン・ベルジアン・チョコレート・カフェ&#039;&#039;&#039;<br /> |-<br /> | 2011年[[6月1日]] || {{flagicon|France}} &#039;&#039;&#039;フランス&#039;&#039;&#039;各地<br /> |-<br /> | 2011年[[6月29日]] || {{flagicon|Isle of Man}} &#039;&#039;&#039;[[マン島]]&#039;&#039;&#039;&lt;br&gt;{{flagicon|Jersey}} &#039;&#039;&#039;[[ジャージー]]&#039;&#039;&#039;&lt;br&gt;{{flagicon|Italy}} &#039;&#039;&#039;[[アレッサンドリア]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[トレヴィーゾ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[トレント (イタリア)|トレント]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ボルツァーノ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ピサ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[フェラーラ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ヴァレーゼ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[アスティ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[イーゾレ・トレーミティ]]&#039;&#039;&#039;&lt;br&gt;{{flagicon|Spain}} &#039;&#039;&#039;[[メノルカ島]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[マヨルカ島]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ランサローテ島]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[フエルテベントゥラ島]]&#039;&#039;&#039;&lt;br&gt;{{flagicon|Japan}} &#039;&#039;&#039;[[小笠原諸島]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[隅田川]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[東京都立公園]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[浅草寺]]&#039;&#039;&#039;など&lt;br&gt;{{flagicon|Sweden}} &#039;&#039;&#039;[[エステルスンド]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ボルレンゲ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[エルンシェルツビク]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ソレフテオー]]&#039;&#039;&#039;, &#039;&#039;&#039;[[イェブレ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[スンツヴァル]]&#039;&#039;&#039;&lt;br&gt;{{flagicon|Denmark}} &#039;&#039;&#039;デンマーク&#039;&#039;&#039;各地&lt;br&gt;{{flagicon|Ireland}} &#039;&#039;&#039;アイルランド&#039;&#039;&#039;各地&lt;br&gt;{{flagicon|Netherlands}} &#039;&#039;&#039;オランダ&#039;&#039;&#039;各地&lt;br&gt;{{flagicon|Norway}} &#039;&#039;&#039;ノルウェー&#039;&#039;&#039;各地&lt;br&gt;{{flagicon|Romania}} &#039;&#039;&#039;ルーマニア&#039;&#039;&#039;&lt;br&gt;{{flagicon|South Africa}} &#039;&#039;&#039;南アフリカ&#039;&#039;&#039;各地&lt;br&gt;{{flagicon|Taiwan}} &#039;&#039;&#039;台湾&#039;&#039;&#039;&lt;br&gt;{{flagicon|United States}} &#039;&#039;&#039;アメリカ合衆国&#039;&#039;&#039;各地&lt;br&gt;{{flagicon|Mexico}} &#039;&#039;&#039;メキシコ&#039;&#039;&#039;各地&lt;br&gt;{{flagicon|United Kingdom}} &#039;&#039;&#039;イギリス&#039;&#039;&#039;<br /> |-<br /> | 2011年[[7月8日]] || {{flagicon|Monaco}} &#039;&#039;&#039;[[モナコ]]&#039;&#039;&#039;<br /> |-<br /> | 2011年[[8月16日]] || {{flagicon|Iraq}} &#039;&#039;&#039;[[イラク国立博物館]]&#039;&#039;&#039;<br /> |-<br /> | 2011年[[8月22日]] || {{flagicon|Switzerland}} &#039;&#039;&#039;[[ベッリンツォーナ旧市街の3つの城と防壁・城壁群]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[カウマ湖]]&#039;&#039;&#039;の畔、&#039;&#039;&#039;[[ツェルマット]]&#039;&#039;&#039;のスキーリゾート<br /> |-<br /> | 2011年[[9月28日]] || {{flagicon|Brazil}} &#039;&#039;&#039;[[クリチバ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ポルト・アレグレ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[フロリアノーポリス]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ペロータス]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[パラナグア]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ラジェス]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[アグアス・デ・リンドーイア]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[アウミランテ・タマンダレー]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[アメリカーナ (サンパウロ)|アメリカーナ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[アンパロ]]&#039;&#039;&#039;など<br /> |-<br /> | 2011年[[10月27日]] || {{flagicon|France}} {{flagicon|New Zealand}}<br /> |-<br /> | 2011年[[11月3日]] || {{flagicon|United States of America}} &#039;&#039;&#039;[[ハイライン]] &#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[リバティ・パーク (ソルトレイク・シティ)|リバティ・パーク]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[シックスフラッグス・グレート・アドベンチャー]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[グラント・パーク]]{{要曖昧さ回避|date=2015年8月}}&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ミレニアム・パーク]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[リンカーン動物公園]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ノーザリー島]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ジャクソン・パーク]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[フンボルト・パーク]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ガーフィールド・パーク]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ワシントン・パーク]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ロチェスター工科大学]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[デトロイト動物園]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[スタンフォード大学]]&#039;&#039;&#039;&lt;br&gt;{{flagicon|United Kingdom}} &#039;&#039;&#039;[[ケンジントン・ガーデンズ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ロンドン動物園]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ロングリート・サファリ・パーク]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[グリニッジ公園]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[グリーン・パーク]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[グリニッジ大学]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[リッチモンド公園]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ブッシー・パーク]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[プレジャー・ビーチ・ブラックプール]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[チャイン・ピア]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ペイントン・ピア]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ランズ・エンド (岬)|ランズ・エンド]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ロイヤル・ビクトリア・パーク]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[マウント・エッジカンブ・ハウス]]&#039;&#039;&#039;&lt;br&gt;{{flagicon|Japan}} &#039;&#039;&#039;[[山下公園]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[横浜公園]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[新横浜公園]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[グランモール|グランモール公園]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[大さん橋]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[横浜赤レンガ倉庫]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[汽車道]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[山下臨港線プロムナード]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[象の鼻パーク]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[運河パーク]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[新港パーク]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[横浜国際総合競技場|日産スタジアム]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[よこはま動物園ズーラシア]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[野毛山動物園]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[横浜市立金沢動物園]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ナビオス横浜]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[横浜国立大学]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[群馬サファリパーク]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[小金井公園]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[清水寺]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[竜安寺]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[スペースワールド]]&#039;&#039;&#039;&lt;br&gt;{{flagicon|Denmark}} &#039;&#039;&#039;[[レゴランド・ビルン]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[人魚姫]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[チボリ公園|チボリ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[デュアハウスバッケン遊園地]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[チボリ・フリヘデン]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ドジューズ・サマーランド]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[カステレット要塞]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[オールボー動物園]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[オールボー]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[オーフス]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[野外博物館 (コペンハーゲン)|野外博物館]]&#039;&#039;&#039;&lt;br&gt;{{flagicon|Spain}} &#039;&#039;&#039;[[カサ・デ・カンポ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[レティーロ公園]]&#039;&#039;&#039;などの[[マドリード]]の公園&lt;br&gt;{{flagicon|Netherlands}} &#039;&#039;&#039;[[キューケンホフ公園]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[エフテリング]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ロッテルダム動物園]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[オランダ野外博物館]]&#039;&#039;&#039;&lt;br&gt;{{flagicon|Norway}} &#039;&#039;&#039;[[フロッグナー公園]]&#039;&#039;&#039;&lt;br&gt;{{flagicon|France}} &#039;&#039;&#039;[[アステリックス・パーク]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[フューチャースコープ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ブルカニア]]&#039;&#039;&#039;&lt;br&gt;{{flagicon|Sweden}} &#039;&#039;&#039;[[グローナルンド遊園地]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[スカンセン]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ノルデンズ・アーク]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[コールモーデン・ワイルドライフ・パーク]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[スロットスコーゲン]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ヨーテボリ植物園]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[リセベリ]]&#039;&#039;&#039;&lt;br&gt;{{flagicon|Italy}} &#039;&#039;&#039;[[ヴェローナ]]&#039;&#039;&#039;&lt;br&gt;{{flagicon|Singapore}} &#039;&#039;&#039;[[シンガポール・フライヤー]]&#039;&#039;&#039;<br /> |-<br /> | 2011年[[11月22日]] || {{flagicon|Belgium}} &#039;&#039;&#039;[[ブリュッセル]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[アントウェルペン]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ヘント]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[シャルルロワ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[リエージュ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ブルッヘ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[スカールベーク]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ナミュール]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[アンデルレヒト]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ルーヴェン]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[モンス]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[モランビーク=サン=ジャン]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[メヘレン]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[イクセル]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[アールスト]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ラ・ルヴィエール]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[イクセル]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[コルトレイク]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ハッセルト]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[シント=ニクラース]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[オーステンデ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[トゥルネー]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ヘンク]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[セラン]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ルーセラーレ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ヴェルヴィエ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ムスクロン]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ボッベジャーンランド]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[プロプザランド・デ・パンネ]]&#039;&#039;&#039;<br /> |-<br /> | 2011年[[12月13日]] || {{flagicon|Spain}} &#039;&#039;&#039;[[イビサ島]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ラ・パルマ島]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[フォルメンテラ島]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ラ・ゴメラ島]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[エル・イエロ島]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ポルトゥガレテ]]&#039;&#039;&#039;&lt;br&gt;{{flagicon|Japan}} [[東日本大震災]]により被災した地域(初公開は&#039;&#039;&#039;[[八戸市]]、[[青森市]]、[[階上町]]、[[盛岡市]]、[[奥州市]]、[[大船渡市]]、[[北上市]]、[[釜石市]]、[[宮古市]]、[[陸前高田市]]、[[遠野市]]、[[花巻市]]、[[普代村]]、[[岩泉町]]、[[田野畑村]]、[[山田町]]、[[滝沢市|滝沢村]]、[[住田町]]、[[洋野町]]、[[矢巾町]]、[[大槌町]]、[[平泉町]]、[[金ヶ崎町]]、[[白河市]]、[[相馬市]]、[[古殿町]]、[[石川町]]、[[浅川町]]、[[鮫川村]]、[[棚倉町]]、[[塙町]]&#039;&#039;&#039;)&lt;ref&gt;Googleの[http://www.miraikioku.com/streetview/ 未来へのキオク ストリートビュー]では、震災前後の被災地の写真が公開されている。&lt;/ref&gt;<br /> |-<br /> | [[2012年]][[1月25日]] || {{flagicon|South Korea}} &#039;&#039;&#039;[[ソウル特別市|ソウル]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[釜山広域市|釜山]]&#039;&#039;&#039;&lt;br&gt;{{flagicon|Italy}} &#039;&#039;&#039;[[エルバ島]]&#039;&#039;&#039;<br /> |-<br /> | 2012年[[2月14日]] || {{flagicon|Japan}} &#039;&#039;&#039;[[石見銀山|大久保間歩]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[秋芳洞]]&#039;&#039;&#039;<br /> |-<br /> | 2012年[[2月22日]] || {{flagicon|Russia}} &#039;&#039;&#039;[[モスクワ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ドモジェドヴォ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ポドリスク]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ヒムキ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ムィティシ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ヴィドノエ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[サンクトペテルブルク]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[カザン]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[至聖三者聖セルギイ大修道院]]&#039;&#039;&#039;&lt;br&gt;{{flagicon|Poland}} &#039;&#039;&#039;[[ピョトルコフスカ通り]]&#039;&#039;&#039;&lt;br&gt;{{flagicon|New Zealand}} 各地で高画質に更新&lt;br&gt;{{flagicon|United States}} 各地で高画質に更新<br /> |-<br /> | 2012年[[3月21日]] || {{flagicon|Thailand}} &#039;&#039;&#039;[[バンコク]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[チエンマイ県]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[プーケット県]]&#039;&#039;&#039;&lt;br&gt;{{flagicon|Poland}} &#039;&#039;&#039;[[ワルシャワ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[クラクフ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ウッチ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ヴロツワフ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[オレシニツァ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[オワバ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ポズナン]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[グダニスク]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[シュチェチン]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ルブリン]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ビャウィストク]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[グディニャ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ソポト]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[グニェズノ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[シフィノウイシチェ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[マルボルク城]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ベンジン城]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ビスクピン]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ヤスタルニャ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ヘル (ポーランド)|ヘル]]&#039;&#039;&#039;&lt;br&gt;{{flagicon|Brazil}} &#039;&#039;&#039;[[ネグロ川]]&#039;&#039;&#039;一部&lt;br&gt;{{flagicon|Switzerland}} &#039;&#039;&#039;[[レーティッシュ鉄道]]&#039;&#039;&#039;一部<br /> |-<br /> | 2012年[[4月3日]] || {{flagicon|India}} &#039;&#039;&#039;[[国立博物館 (ニューデリー)|国立博物館]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[国立近代美術館 (ニューデリー)|国立近代美術館]]&#039;&#039;&#039;&lt;br&gt;{{flagicon|Australia}} &#039;&#039;&#039;[[ニュー・サウス・ウェールズ州立美術館]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[オーストラリア国立美術館]]&#039;&#039;&#039;&lt;br&gt;{{flagicon|Japan}} &#039;&#039;&#039;[[足立美術館]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[東京国立博物館]]&#039;&#039;&#039;&lt;br&gt;{{flagicon|Taiwan}} &#039;&#039;&#039;[[国立故宮博物院]]&#039;&#039;&#039;&lt;br&gt;{{flagicon|Israel}} &#039;&#039;&#039;[[イスラエル博物館]]&#039;&#039;&#039;&lt;br&gt;{{flagicon|Qatar}} &#039;&#039;&#039;[[イスラム芸術博物館 (ドーハ)|イスラム芸術博物館]]&#039;&#039;&#039;&lt;br&gt;{{flagicon|Austria}} &#039;&#039;&#039;[[美術史博物館]]&#039;&#039;&#039;&lt;br&gt;{{flagicon|France}} &#039;&#039;&#039;[[フォンテーヌブロー宮殿]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[オランジュリー美術館]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ケ・ブランリ美術館]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[オルセー美術館]]&#039;&#039;&#039;&lt;br&gt;{{flagicon|Greece}} &#039;&#039;&#039;[[アクロポリス博物館]]&#039;&#039;&#039;&lt;br&gt;{{flagicon|Germany}} &#039;&#039;&#039;[[旧博物館 (ベルリン)|旧博物館]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ペルガモン博物館]]&#039;&#039;&#039;&lt;br&gt;{{flagicon|Italy}} &#039;&#039;&#039;[[カピトリーノ美術館]]&#039;&#039;&#039;&lt;br&gt;{{flagicon|Netherlands}} &#039;&#039;&#039;[[王宮 (アムステルダム)|王宮]]&#039;&#039;&#039;&lt;br&gt;{{flagicon|Russia}} &#039;&#039;&#039;[[プーシキン美術館]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ロシア美術館]]&#039;&#039;&#039;&lt;br&gt;{{flagicon|Spain}} &#039;&#039;&#039;[[カタルーニャ美術館]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[クリスタル宮殿]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[レティーロ公園]]&#039;&#039;&#039;&lt;br&gt;{{flagicon|United Kingdom}} &#039;&#039;&#039;[[テート・モダン]]&#039;&#039;&#039;&lt;br&gt;{{flagicon|United 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&#039;&#039;&#039;[[エルサレム]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[テルアビブ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ハイファ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[エルサレム聖書動物園]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ラマット・ガン・サファリ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ミニ・イスラエル]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ベングリオン大学]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[カフル・カンナ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[メルハバ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ナシュホリム]]&#039;&#039;&#039;&lt;br&gt;{{flagicon|Ukraine}} &#039;&#039;&#039;[[キエフ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ドネツィク]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[リヴィウ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ハルキウ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[オデッサ]]&#039;&#039;&#039;<br /> |-<br /> | 2012年[[4月27日]] || {{flagicon|Japan}} &#039;&#039;&#039;[[談合坂サービスエリア]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[多賀サービスエリア]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[養老サービスエリア]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[御在所サービスエリア]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[上郷サービスエリア]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[富士川サービスエリア]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[足柄サービスエリア]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[海老名サービスエリア]]&#039;&#039;&#039;&lt;ref&gt;各サービスエリアでは、上下線の画像が公開されている。&lt;/ref&gt;<br /> |-<br /> | 2012年[[5月14日]] || {{flagicon|Estonia}} &#039;&#039;&#039;[[タリン]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[タルトゥ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ナルヴァ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[パルヌ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ヴィリャンディ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ユフヴィ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ハープサル]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ヨゲヴァ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[カルドラ]]&#039;&#039;&#039;など&lt;br&gt; {{flagicon|Latvia}} 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&#039;&#039;&#039;[[オストラヴァ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[プルゼニ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[リベレツ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[オロモウツ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ウースチー・ナド・ラベム]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[フラデツ・クラーロヴェー]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[チェスケー・ブジェヨヴィツェ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[パルドゥビツェ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ハヴィジョフ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ズリーン]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[クラドノ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[モスト]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[カルヴィナー]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[フリーデク=ミーステク]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[オパヴァ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[カルロヴィ・ヴァリ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[テプリツェ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ジェチーン]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[イフラヴァ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ホムトフ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[プルジェロフ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ムラダー・ボレスラフ]]&#039;&#039;&#039;&lt;br&gt; {{flagicon|United States of America}} &#039;&#039;&#039;[[モロカイ島]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ラナイ島]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[カウアイ島]]&#039;&#039;&#039;を追加、&#039;&#039;&#039;[[オアフ島]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[マウイ島]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ハワイ島]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ハワイ火山国立公園]]&#039;&#039;&#039;を更新<br /> |-<br /> | 2012年[[7月12日]] || {{flagicon|Japan}} &#039;&#039;&#039;[[五稜郭公園]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[トラピスト修道院]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[旧函館区公会堂]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[金森赤レンガ倉庫]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[小樽市総合博物館]]&#039;&#039;&#039;運河館、&#039;&#039;&#039;蒸気機関車資料館&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[北海道庁旧本庁舎]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[北海道開拓記念館]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[首里城]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[勝連城跡]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[斎場御嶽]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[中城城跡]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[今帰仁城跡]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[座喜味城跡]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[識名園]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[沖縄平和祈念公園]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ひめゆりの塔]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[旧海軍司令部壕]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[玉泉洞]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[海洋博公園]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[おきなわワールド]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[万座毛]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;サザンリンクスゴルフクラブ&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;シギラベイカントリークラブ&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;16のビーチ&#039;&#039;&#039;&lt;br&gt; {{flagicon|United States of America}} &#039;&#039;&#039;[[カリフォルニア州の自然保護地域#国立公園システム|カリフォルニア州の国立公園]]&#039;&#039;&#039;<br /> |-<br /> | 2012年[[7月17日]] || {{flagicon|Antarctica}} &#039;&#039;&#039;[[南極点]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ケープ・ロイズ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ディスカバリー小屋]]&#039;&#039;&#039;を含む[[南極]]<br /> |-<br /> | 2012年[[7月27日]] || {{flagicon|United Kingdom}} &#039;&#039;&#039;[[オリンピック・パーク (ロンドン)|オリンピック・パーク]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[オリンピア (ロンドン)|オリンピア]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[エクセル展覧会センター]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[O2アリーナ 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&#039;&#039;&#039;[[ブラジリア]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[サルヴァドール]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[フォルタレザ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ナタール]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[レシフェ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[フォス・ド・イグアス]]&#039;&#039;&#039;([[イタイプダム]]を含む)、&#039;&#039;&#039;[[ゴイアニア]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[クイアバ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[カンポ・グランデ (マットグロッソ・ド・スル州)|カンポ・グランデ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[コルンバ (ブラジル)|コルンバ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ウベルランジア]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[サン・ルイス (マラニョン州)|サン・ルイス]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[テレジーナ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[シノプ (マットグロッソ州)|シノプ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[モソロ]]&#039;&#039;&#039;など&lt;br&gt; {{flagicon|United States of America}} &#039;&#039;&#039;[[ルイジアナ州]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[サウス・カロライナ州]]&#039;&#039;&#039;の一部を高画質化。&lt;br&gt; {{flagicon|Mexico}} &#039;&#039;&#039;[[テオティワカン]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[トゥルム]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[チチェン・イッツァ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[エクバラム]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[コフンリッチ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ツィバンチェ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[パレンケ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ツィビィルチャルトゥン]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[プラズエラ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ペラルタ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ボナンパク]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ベカン]]&#039;&#039;&#039;などを含む中央アメリカの遺跡<br /> |-<br /> | 2012年[[9月6日]] || {{flagicon|Japan}} &#039;&#039;&#039;[[愛知文教大学]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[亜細亜大学]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[大分大学]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[大阪経済法科大学]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[大阪府立大学]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[沖縄大学]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[帯広畜産大学]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[金沢大学]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[金沢工業大学]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[関西大学]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[関東学院大学]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[京都産業大学]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[群馬大学]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[神戸芸術工科大学]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[國學院大学]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[静岡県立大学]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[四天王寺大学]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[島根県立大学]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[上智大学]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[信州大学]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[大東文化大学]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[中央学院大学]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[東京経済大学]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[東京藝術大学]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[東京理科大学]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[東北芸術工科大学]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[獨協大学]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[鳥取大学]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[名古屋大学]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[奈良女子大学]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[新潟大学]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[三重大学]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[武蔵野美術大学]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[明海大学]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[明治国際医療大学]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[山形大学]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[横浜薬科大学]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[琉球大学]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[龍谷大学]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[流通科学大学]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[和洋女子大学]]&#039;&#039;&#039;<br /> |-<br /> | 2012年[[9月12日]] || {{flagicon|Japan}} &#039;&#039;&#039;[[宇宙航空研究開発機構]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[日本科学未来館]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[種子島宇宙センター]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[筑波宇宙センター]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[相模原キャンパス (JAXA)|相模原キャンパス]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[調布航空宇宙センター]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[地球観測センター]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[臼田宇宙空間観測所]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[内之浦宇宙空間観測所]]&#039;&#039;&#039;<br /> |-<br /> | 2012年[[9月25日]] || {{flagicon|Chile}} &#039;&#039;&#039;[[サンティアゴ (チリ)|グレーター・サンティアゴ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[バルパライソ|グレーター・バルパライソ]]&#039;&#039;&#039;([[リマチェ]]を含む)、&#039;&#039;&#039;[[コンセプシオン (チリ)|グレーター・コンセプシオン]]&#039;&#039;&#039;&lt;br&gt; {{flagicon|Croatia}} &#039;&#039;&#039;[[ザグレブ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[プーラ (クロアチア)|プーラ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[スプリト]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ザダル]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ドゥブロヴニク]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[リエカ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[オシエク]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[シベニク]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ヴァラジュディン]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[カルロヴァツ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[クルク島]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ビェロヴァル]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[スラヴォンスキ・ブロド]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ジャコヴォ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ヴィロヴィティツァ]]&#039;&#039;&#039;など&lt;br&gt; {{flagicon|Andorra}} &#039;&#039;&#039;[[アンドラ・ラ・ベリャ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[カニーリョ教区|カニーリョ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[アンカム教区|アンカム]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[アスカルダズ=アングルダーニ教区|アスカルダズ=アングルダーニ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ラ・マサーナ教区|ラ・マサーナ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ウルディーヌ教区|ウルディーヌ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[サン・ジュリアー・ダ・ロリア教区|サン・ジュリアー・ダ・ロリア]]&#039;&#039;&#039;など&lt;br&gt; [[File:Antennarius striatus.jpg|20px]] [[オーストラリア]]、[[フィリピン]]、[[ハワイ]]([[アメリカ合衆国]])の海中<br /> |-<br /> | 2012年[[10月10日]] || 新しく追加された場所:&lt;br&gt; {{flagicon|Canada}} カナダ&lt;br&gt; {{flagicon|Denmark}} デンマーク&lt;br&gt; {{flagicon|Italy}} イタリア&lt;br&gt; {{flagicon|Macau}} マカオ&lt;br&gt; {{flagicon|Norway}} ノルウェー&lt;br&gt; {{flagicon|Singapore}} シンガポール&lt;br&gt; {{flagicon|Sweden}} スウェーデン&lt;br&gt; {{flagicon|Taiwan}} 台湾&lt;br&gt; {{flagicon|Thailand}} タイ&lt;br&gt; {{flagicon|United Kingdom}} イギリス&lt;br&gt; {{flagicon|United States}} アメリカ合衆国&lt;br&gt; スペシャルコレクション内で公開:&lt;br&gt; {{flagicon|Brazil}} ブラジル&lt;br&gt; {{flagicon|France}} フランス&lt;br&gt; {{flagicon|Japan}} 日本&lt;br&gt; {{flagicon|Mexico}} メキシコ&lt;br&gt; {{flagicon|South Africa}} 南アフリカ&lt;br&gt; {{Flagicon|Spain}} スペイン&lt;br&gt; {{flagicon|Russia}} ロシアのランドマーク<br /> |-<br /> | 2012年[[10月17日]] || {{flagicon|United States}} [[ノースカロライナ州]]の&#039;&#039;&#039;[[グーグル・モジュール・データセンター]]&#039;&#039;&#039;<br /> |-<br /> | 2012年[[10月30日]] || {{flagicon|Slovakia}} &#039;&#039;&#039;[[ブラチスラヴァ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[コシツェ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[プレショフ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ジリナ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ニトラ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[バンスカー・ビストリツァ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[トルナヴァ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[マルチン (スロバキア)|マルチン]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[トレンチーン]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ポプラト]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[プリエヴィドザ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ズヴォレン]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ポヴァヅスカ・ビストリツァ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ノヴェー・ザームキ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ミハロフツェ]]&#039;&#039;&#039;など<br /> |-<br /> | 2012年[[11月28日]] || {{flagicon|Botswana}} &#039;&#039;&#039;[[ハボローネ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[フランシスタウン]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[マウン]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[パラピエ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ラモツア]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[レトラカネ]]&#039;&#039;&#039;ほか&lt;br&gt; {{flagicon|Norway}} &#039;&#039;&#039;[[スヴァールバル諸島]]&#039;&#039;&#039;&lt;br&gt; {{flagicon|Canada}} &#039;&#039;&#039;[[ケンブリッジ・ベイ]]&#039;&#039;&#039;ほか&lt;br&gt; {{flagicon|Austria}} &#039;&#039;&#039;[[ゼルデン]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[イシュグル]]&#039;&#039;&#039;を含むスキー場&lt;br&gt; {{flagicon|United States}} &#039;&#039;&#039;[[ユタ州]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ミシガン州]]&#039;&#039;&#039;のスキー場&lt;br&gt; {{flagicon|Italy}} スキー場&lt;br&gt; {{flagicon|Spain}} &#039;&#039;&#039;[[シエラネバダ山脈 (アメリカ合衆国)|シエラネバダ山脈]]&#039;&#039;&#039;を含むスキー場&lt;br&gt; {{flagicon|Switzerland}} &#039;&#039;&#039;[[ダボス]]&#039;&#039;&#039;を含むスキー場&lt;br&gt;{{Flagicon|Australia}} &#039;&#039;&#039;[[ルナパーク・シドニー]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[タロンガ動物園]]&#039;&#039;&#039;<br /> |-<br /> | 2012年[[12月14日]] || {{flagicon|Gibraltar}} &#039;&#039;&#039;[[ジブラルタル]]&#039;&#039;&#039;の主要部&lt;br&gt; {{flagicon|Ukraine}} &#039;&#039;&#039;[[チェルニウツィー]]&#039;&#039;&#039;中心部の道路<br /> |-<br /> | 2013年[[1月17日]] || {{flagicon|Israel}} &#039;&#039;&#039;[[リション・レジオン]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ペタク・チクヴァ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[アシュドッド]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ベエルシェバ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ホロン (イスラエル)|ホロン]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ブネイ・ブラク]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ラマト・ガン]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[レホヴォト]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[アシュケロン]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ヘルツリーヤ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[クファール・サバ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ハデラ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ナザレ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ラーナナ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ラハト]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ナハリヤ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[キリヤット・アタ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[エイラート]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ホッド・ハシャロン]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[エーカー]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[カルミエル]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ティベリア]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[アフラ]]&#039;&#039;&#039;など<br /> |-<br /> | 2013年[[1月30日]] || {{flagicon|Lithuania}} &#039;&#039;&#039;[[ヴィリニュス]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[カウナス]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[クライペダ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[シャウレイ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[パネヴェジース]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[アリートゥス]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[マリヤンポレ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[マジェイケイ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ヨナヴァ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ウテナ (リトアニア)|ウテナ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ケダイネイ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[テルシェイ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ヴィサギナス]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[タウラゲ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ウクメルゲ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[プルンゲ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[シルテ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[クレティンガ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ラドヴィリシュキス]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ドルスキニンカイ]]&#039;&#039;&#039;など&lt;br&gt; {{flagicon|United States}} &#039;&#039;&#039;[[グランド・キャニオン]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[バリンジャー・クレーター]]&#039;&#039;&#039;などを含む新規追加と、高画質化<br /> |-<br /> | 2013年[[2月1日]] || {{flagicon|Japan}} &#039;&#039;&#039;[[中部国際空港]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[みなとみらい線]]の横浜駅以外全駅&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[DFSギャラリア・沖縄]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[京都マルイ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[新宿マルイ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[有楽町マルイ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[札幌ドーム]]&#039;&#039;&#039;<br /> |-<br /> | 2013年[[2月15日]] || {{flagicon|United States}} &#039;&#039;&#039;[[ルーカス・オイル・スタジアム]]&#039;&#039;&#039;<br /> |-<br /> | 2013年[[2月20日]] || {{flagicon|Japan}} &#039;&#039;&#039;[[徳島県]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[高知県]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[群馬県]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[長野県]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[山梨県]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[静岡県]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[福井県]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[岐阜県]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[愛媛県]]&#039;&#039;&#039;など<br /> |-<br /> | 2013年[[3月6日]] || {{flagicon|Bulgaria}} &#039;&#039;&#039;[[ソフィア (ブルガリア)|ソフィア]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[プロヴディフ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ヴァルナ (ブルガリア)|ヴァルナ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ブルガス]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ルセ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[スタラ・ザゴラ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[プレヴェン]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[アセノヴグラト]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ブラゴエヴグラト]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ドブリチ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ガブロヴォ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ハスコヴォ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[パザルジク]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ペルニク]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[スリヴェン]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[シュメン]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ヴェリコ・タルノヴォ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ヴラツァ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ヤンボル]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[アイトス]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ボテヴグラト]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ディミトロヴグラト]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ドゥプニツァ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ゴルナ・オリャホヴィツァ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[カルロヴォ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[クルジャリ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[カザンラク]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[キュステンディル]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ロム (ブルガリア)|ロム]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ロヴェチ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[モンタナ (ブルガリア)|モンタナ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ノヴァ・ザゴラ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ペトリチ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ラズグラト]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[サモコフ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[サンダンスキ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[セヴリエヴォ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[シリストラ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[スモリャン]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[スヴィシュトフ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[トロヤン]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ヴェリングラト]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ヴィディン]]&#039;&#039;&#039;など&lt;br&gt; {{flagicon|Russia}} &#039;&#039;&#039;[[モスクワ|モスクワ都市圏]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[トヴェリ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ウラジーミル (ウラジーミル州)|ウラジーミル]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ルジェフ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[カルーガ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[トゥーラ (ロシア)|トゥーラ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[リャザン]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ノヴォモスコフスク]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ルイビンスク]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ヤロスラヴリ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[コストロマ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[イヴァノヴォ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[キネシマ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[コヴロフ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ムーロム]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[プスコフ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[スモレンスク]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ブリャンスク]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[オリョール]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[クルスク]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[エレツ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[リペツク]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[タンボフ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[スタールイ・オスコル]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ベルゴロド]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ニジニ・ノヴゴロド]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[アルザマス]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[サランスク]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ペンザ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[サラトフ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[カムイシン]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ヴォルゴグラード]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ノヴォシャフチンスク]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ヴォルゴドンスク]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ロストフ・ナ・ドヌ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ノヴォチェルカッスク]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[バタイスク]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[アゾフ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[タガンログ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[エイスク]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[エリスタ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[アストラハン]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[チホレツク]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[クロポトキン]]{{要曖昧さ回避|date=2015年8月}}&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[アルマヴィル (ロシア)|アルマヴィル]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[スタヴロポリ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ピャチゴルスク]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[エセントゥキ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[キスロヴォツク]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[スラビャンスク=ナ=クバニ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[クラスノダール]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[マイコープ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[アナパ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ノヴォロシースク]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ゲレンジーク]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[トゥアプセ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ソチ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[アドレル]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ムルマンスク]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[セヴェロドヴィンスク]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[アルハンゲリスク]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ヴィボルグ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ペトロザヴォーツク]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ノヴゴロド]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[チェレポヴェツ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ヴォログダ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[スィクティフカル]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[キーロフ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[グラゾフ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ヨシュカル・オラ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[チェボクサル]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ノヴォチェボクサルスク]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ゼレノドリスク]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[カザン]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ウリヤノフスク]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ディミトロヴグラト]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[トリヤッチ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[サマーラ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ノヴォクイビシェフスク]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[シズラニ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[エンゲリス]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ペルミ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[イジェフスク]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ニジネカムスク]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ナーベレジヌイェ・チェルヌイ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ブグリマ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ヴォトキンスク]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ステルリタマク]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[サラバト (ロシア)|サラバト]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[オレンブルク]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[オルスク]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[マグニトゴルスク]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ニジニ・タギル]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[エカテリンブルク]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[カメンスク]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[カメンスク=ウラリスキー]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ズラトウースト]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ミアス]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[チェリャビンスク]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[クルガン]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[チュメニ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[オムスク]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ネフチェユガンスク]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[スルグト]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ニジネヴァルトフスク]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ノヴォシビルスク]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[トムスク]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ユルガ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ケメロヴォ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[プロコピエフスク]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ノヴォクズネツク]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[バルナウル]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ビイスク]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ルプツォフスク]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[クラスノヤルスク]]&#039;&#039;&#039;など&lt;br&gt; {{flagicon|Portugal}} &#039;&#039;&#039;[[フンシャル]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[コインブラ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[アヴェイロ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ギマランイス]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ヴィゼウ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[レイリア]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[エヴォラ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ポンタ・デルガダ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ポルティマン]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ポヴォア・デ・ヴァルジン]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ヴィアナ・ド・カステロ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[コビリャン]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ブラガンサ]]&#039;&#039;&#039;など&lt;br&gt; {{Flagicon|United States of America}} カリフォルニア州、アイダホ州、インディアナ州、ユタ州の画像更新&lt;br&gt; {{flagicon|United Kingdom}} 画像更新<br /> |-<br /> | 2013年[[3月18日]] || スペシャルコレクションの世界最高峰&lt;br&gt; {{flagicon|Tanzania}} &#039;&#039;&#039;[[キリマンジャロ山]]のウフル峰&#039;&#039;&#039;&lt;br&gt; {{flagicon|Russia}} &#039;&#039;&#039;[[エルブルス山]]&#039;&#039;&#039;&lt;br&gt; {{flagicon|Argentina}} &#039;&#039;&#039;[[アコンカグア]]&#039;&#039;&#039;&lt;br&gt; {{flagicon|Nepal}} &#039;&#039;&#039;[[エベレスト]]の[[エベレスト・ベース・キャンプ|サウス・ベース・キャンプ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[タンボチェ僧院]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[カラ・パタール]]&#039;&#039;&#039;、[[ルクラ (ネパール)|ルクラ]]と[[ナムチェバザール]]の間にある&#039;&#039;&#039;土砂災害橋&#039;&#039;&#039;、ナムチェバザールの&#039;&#039;&#039;仏塔&#039;&#039;&#039;&lt;br&gt; {{flagicon|Japan}} &#039;&#039;&#039;[[富士山]]&#039;&#039;&#039;<br /> |-<br /> | 2013年[[3月27日]] || {{flagicon|Japan}} &#039;&#039;&#039;[[福島県]][[浪江町]]&#039;&#039;&#039;<br /> |-<br /> | 2013年[[4月5日]] || {{flagicon|India}} &#039;&#039;&#039;[[ヌリッテヤグラム]]・ダンス村&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ワンダーラ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ジャナパダ・ロカ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;プラクルティ・クラブ&amp;リゾート&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;オールド・バンガロール・リゾート&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;クラークス・エキゾティカ&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;ソウギャ・インターナショナル・ホリスティック・ヘルス・センター&#039;&#039;&#039;など[[カルナータカ州]][[バンガロール]]付近の名所<br /> |-<br /> | 2013年[[4月22日]] || {{flagicon|Lesotho}} &#039;&#039;&#039;[[マセル]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ロマ (レソト)|ロマ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[マフェテング]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[モハレス・フーク]]&#039;&#039;&#039;など&lt;br&gt; {{flagicon|Hungary}} &#039;&#039;&#039;[[ブダペスト]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[デブレツェン]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[セゲド]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ミシュコルツ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ペーチ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ジェール]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ニーレジハーザ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ケチケメート]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[セーケシュフェヘールヴァール]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ソンバトヘイ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ソルノク]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[タタバーニャ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[カポシュヴァール]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[エールド]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ヴェスプレーム]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ベーケーシュチャバ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ザラエゲルセグ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ショプロン]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[エゲル]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ナジカニジャ]]&#039;&#039;&#039;など&lt;br&gt; {{flagicon|Poland}} 残りの大部分を追加&lt;br&gt; {{flagicon|Romania}} 残りの大部分を追加、現存するエリアをアップデート&lt;br&gt; {{flagicon|Russia}} &#039;&#039;&#039;[[カリーニングラード]]&#039;&#039;&#039;&lt;br&gt; {{flagicon|France}} エリア拡大&lt;br&gt; {{flagicon|Singapore}} エリア拡大&lt;br&gt; {{flagicon|Ukraine}} 数カ所のランドマーク&lt;br&gt; {{flagicon|Thailand}} パッタヤー、サッタヒープを南下し追加&lt;br&gt; {{flagicon|Japan}} &#039;&#039;&#039;[[屋久島]]&#039;&#039;&#039;&lt;br&gt; {{flagicon|Italy}} &#039;&#039;&#039;[[パンテッレリーア]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ランペドゥーザ島]]&#039;&#039;&#039;の一部など&lt;br&gt; {{flagicon|China}} &#039;&#039;&#039;[[車公廟]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[香港海洋公園]]&#039;&#039;&#039;&lt;br&gt; {{flagicon|Ireland}} &#039;&#039;&#039;[[キルケニー城]]&#039;&#039;&#039;<br /> |-<br /> | 2013年[[5月20日]] || {{flagicon|Austria}} &#039;&#039;&#039;Kaiserliche Wagenburg Wien&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[美術史博物館]]&#039;&#039;&#039;&lt;br&gt; {{flagicon|Denmark}} &#039;&#039;&#039;[[ヒアシュプロング美術館]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ニイ・カールスベルグ・グリプトテク美術館]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[コペンハーゲン国立美術館]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[スカーゲン博物館]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[トーヴァルセン美術館]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[デンマーク国立博物館]]&#039;&#039;&#039;&lt;br&gt; {{flagicon|Finland}} &#039;&#039;&#039;[[アテネウム美術館]]&#039;&#039;&#039;&lt;br&gt; {{flagicon|France}} &#039;&#039;&#039;[[マルロー美術館]]&#039;&#039;&#039;&lt;br&gt; {{flagicon|Germany}} &#039;&#039;&#039;[[クンストパラスト美術館]]&#039;&#039;&#039;&lt;br&gt; {{flagicon|Greece}} &#039;&#039;&#039;[[神学者聖ヨハネ修道院]]&#039;&#039;&#039;&lt;br&gt; {{flagicon|Norway}} &#039;&#039;&#039;[[オスロ国立美術館]]&#039;&#039;&#039;&lt;br&gt; {{flagicon|Sweden}} &#039;&#039;&#039;[[スウェーデン国立美術館]]&#039;&#039;&#039;&lt;br&gt; {{flagicon|Switzerland}} &#039;&#039;&#039;[[バイエラー財団]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;ヌーシャテル民族学博物館&#039;&#039;&#039;&lt;br&gt; {{flagicon|United Kingdom}} &#039;&#039;&#039;[[サーペンタイン・ギャラリー]]&#039;&#039;&#039;&lt;br&gt; {{flagicon|United States}} &#039;&#039;&#039;[[モルガン・ライブラリー]]&#039;&#039;&#039;&lt;br&gt; {{flagicon|Japan}} &#039;&#039;&#039;[[静岡公園]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ヴェルニー公園]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[東京競馬場]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[真鍋庭園]]&#039;&#039;&#039;など<br /> |-<br /> | 2013年[[5月29日]] || &#039;&#039;&#039;[[アメリカ同時多発テロ|9.11テロ]]記念碑・博物館&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[セントラル・パーク]]&#039;&#039;&#039;、[[ハリケーン・サンディ]]による被災地、[[ニューヨーク州]]の画像更新<br /> |-<br /> | 2013年[[6月13日]] || {{flagicon|Japan}} &#039;&#039;&#039;[[富山県]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[石川県]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[鳥取県]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[島根県]]&#039;&#039;&#039;&lt;br&gt; {{flagicon|Brazil}} ブラジル&lt;br&gt; {{flagicon|Canada}} カナダ&lt;br&gt; {{flagicon|Chile}} チリ&lt;br&gt;{{flagicon|Denmark}} デンマーク&lt;br&gt; {{flagicon|Mexico}} メキシコ &lt;br&gt;{{flagicon|Singapore}} シンガポール&lt;br&gt;{{flagicon|Spain}} スペイン&lt;br&gt;{{flagicon|United States}} アメリカ合衆国<br /> |-<br /> | 2013年[[6月24日]] || {{flagicon|United Arab Emirates}} &#039;&#039;&#039;[[ブルジュ・ハリファ|ブルジュ・ハリーファ]]&#039;&#039;&#039;<br /> |-<br /> | 2013年[[6月28日]] || {{flagicon|Japan}} &#039;&#039;&#039;[[端島 (長崎県)|端島]]&#039;&#039;&#039;<br /> |-<br /> | 2013年[[7月1日]] || {{flagicon|Canada}} &#039;&#039;&#039;[[カナダ議会]]&#039;&#039;&#039;<br /> |-<br /> | 2013年[[7月2日]] || {{flagicon|United States}} エリア拡大、高画質化<br /> |-<br /> | 2013年[[7月9日]] || {{flagicon|Canada}} &#039;&#039;&#039;[[イカルイト]]&#039;&#039;&#039;<br /> |-<br /> | 2013年[[7月15日]] || {{flagicon|Belgium}} &#039;&#039;&#039;首相官邸・オフィス&#039;&#039;&#039;<br /> |-<br /> | 2013年[[7月16日]] || {{flagicon|France}} &#039;&#039;&#039;[[エッフェル塔]]&#039;&#039;&#039;<br /> |-<br /> | 2013年[[7月19日]] || {{flagicon|Japan}} &#039;&#039;&#039;[[瀬戸内海]]&#039;&#039;&#039;([[岡山県]]・[[香川県]]諸島部)&#039;&#039;&#039;6島&#039;&#039;&#039;(&#039;&#039;&#039;[[犬島]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[粟島 (香川県)|粟島]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[伊吹島]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[男木島]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[塩飽諸島|高見島]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[豊島 (香川県)|豊島]]&#039;&#039;&#039;)、&#039;&#039;&#039;[[小豆島]]&#039;&#039;&#039;の一部(&#039;&#039;&#039;[[醤の郷]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[迷路のまち]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[坂手港]]&#039;&#039;&#039;)、&#039;&#039;&#039;[[高松琴平電気鉄道志度線]]&#039;&#039;&#039;&lt;ref&gt;[http://internet.watch.impress.co.jp/docs/news/20130719_608389.html 「ことでん」のストリートビュー公開、電鉄社員が撮影機材を背負い徒歩撮影] - [[INTERNET Watch]] 2013/7/19 19:41&lt;/ref&gt;<br /> |-<br /> |2013年[[7月23日]] || {{flagicon|Japan}} &#039;&#039;&#039;[[富士山]]登山道&#039;&#039;&#039;<br /> |-<br /> |2013年[[7月30日]] || {{flagicon|Japan}} &#039;&#039;&#039;[[小笠原諸島]]&#039;&#039;&#039;の観光地<br /> |-<br /> |2013年[[8月1日]] || [[File:Silhouette An-124.svg|18px]] &#039;&#039;&#039;[[エミレーツ航空]][[エアバスA380]]内部&#039;&#039;&#039;({{flagicon|United Arab Emirates}} [[ドバイ国際空港]]にて)<br /> |-<br /> |2013年[[8月14日]] || {{flagicon|Peru}} &#039;&#039;&#039;[[リマ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ワチョ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[トルヒーリョ (ペルー)|トルヒーリョ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[チクラーヨ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[パイタ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ピウラ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[アレキパ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[スヤナ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[パカズマヨ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ハエン (ペルー)|ハエン]]&#039;&#039;&#039;など &lt;br&gt;{{flagicon|Chile}} &#039;&#039;&#039;[[アリカ (チリ)|アリカ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[イキケ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[カラマ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[サンペドロ・デ・アタカマ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[アントファガスタ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[:en:Taltal|タルタル]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[チャニャラル]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[カルデラ (チリ)|カルデラ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[コピアポ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[バエナル]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ラ・セレナ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[コキンボ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[オバエ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[アンダコージョ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[コンバルバラ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[イヤペル]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[サラマンカ (チリ)|サラマンカ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[サン・フェリペ (チリ)|サン・フェリペ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ロス・アンデス (チリ)|ロス・アンデス]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[キンテロ (チリ)|キンテロ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[キヨタ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[コンコン]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[カサブランカ (チリ)|カサブランカ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[サン・アントニオ (チリ)|サン・アントニオ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ランカグア]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[クリコ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[タルカ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[リナレス (チリ)|リナレス]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ロス・アンヘレス]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ナシミエント (チリ)|ナシミエント]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[テムコ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[オソルノ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[プエルト・バラス]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[プエルトモント]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[カルブコ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[アンクド]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[コイハイケ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[アイセン (チリ)|アイセン]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[コクラネ (チリ)|コクラネ]]&#039;&#039;&#039;追加、&#039;&#039;&#039;[[サンティアゴ (チリ)|サンティアゴ]]大都市圏&#039;&#039;&#039;拡大など &lt;br&gt;{{flagicon|United Kingdom}} &#039;&#039;&#039;[[ターディス]]&#039;&#039;&#039;(テレビ番組「[[ドクター・フー]]」より)&lt;br&gt;{{flagicon|Finland}} エリア拡大、画像更新&lt;br&gt; {{flagicon|India}} &#039;&#039;&#039;[[スラ・ヴィンヤーズ]]&#039;&#039;&#039;<br /> |-<br /> |2013年[[8月21日]] || {{flagicon|China}} &#039;&#039;&#039;[[成都パンダ繁育研究基地]]&#039;&#039;&#039;&lt;br&gt; {{flagicon|United States}} &#039;&#039;&#039;[[ヒューストン動物園]]&#039;&#039;&#039;&lt;br&gt; {{flagicon|Mexico}} &#039;&#039;&#039;[[チャプルテペック動物園]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[サカンゴ動物園]]&#039;&#039;&#039;&lt;br&gt; {{flagicon|Brazil}} &#039;&#039;&#039;[[ズーロフィコ・デ・アメリカーナ]]&#039;&#039;&#039;<br /> |-<br /> |2013年[[8月27日]] || {{flagicon|Malaysia}} [[クランバレー]]の&#039;&#039;&#039;[[バトゥ洞窟]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[緬佛寺]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[コーンウォリス要塞]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[カピタン・クリン・モスク]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[プトラスクエア]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[スルタン・サラディン・アブドゥル・アジズ・シャー・モスク]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[サンウェイラグーン]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[レイク・ガーデン・パーク]]&#039;&#039;&#039;など&lt;br&gt; {{flagicon|India}} [[ハイデラバード (インド)|ハイデラバード]]の&#039;&#039;&#039;サイバー・パール&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;アセンダスITパーク&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;ISB&#039;&#039;&#039;<br /> |-<br /> |2013年[[9月3日]] || {{flagicon|Colombia}} &#039;&#039;&#039;[[ボゴタ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[バランキージャ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[カルタヘナ (コロンビア)|カルタヘナ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ククタ]]&#039;&#039;&#039;(一部)、&#039;&#039;&#039;[[ブカラマンガ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[イバゲ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ペレイラ (コロンビア)|ペレイラ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[サンタ・マルタ (コロンビア)|サンタ・マルタ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[モンテリア]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ビリャビセンシオ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[マニサレス]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[バジェドゥパル]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ネイバ]]&#039;&#039;&#039;(一部)、&#039;&#039;&#039;[[アルメニア (キンディーオ県)|アルメニア]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[シンセレホ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[リオアチャ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[トゥンハ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[メデジン]]&#039;&#039;&#039;(特別な地域のみ)など&lt;br&gt; {{flagicon|Brazil}} &#039;&#039;&#039;[[アバエテトゥバ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[アカラウ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[アダマンティナ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[アグレスティーナ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[アーグァス・デ・シャペコー]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[アウチーニョ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[アナニンデウア]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[アナポリス (ブラジル)|アナポリス]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[アナスターシオ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[アラカティ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[アラリピーナ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[アルコヴェルデ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[アリケメス]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[バラ・ド・ガルサス]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ベラ・ヴィスタ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ベレン (パラー州)|ベレン]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ボア・ヴィスタ (ロライマ州)|ボア・ヴィスタ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ボニート]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ブラガンサ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[カラポア]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[カセレス]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[カコアウ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[カイコア]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[カジャゼイラス]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[カマプアン]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[カンポ・マイオル]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[カニンデー]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[カンサンサオ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[カーネイリーノ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[カスタニャウ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[シネランディア]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[シポー]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[コンセイサン・ド・アラグアイア]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[コシム]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[クラテウス]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[クリスタリナ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[クーニャ・ポラン]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[デスカンソ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[エルドラド・ドス・カラジャース]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[フレデリコ・ウェストファレン]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[グァライー]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[グルピ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[イコ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[イグアトゥ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[イニューマス]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[イノセンシア]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[イパメリ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[イポラン・ド・オエステ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[イラセミーニャ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[イタピランガ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ジャラグア]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ジャル]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ジ・パラナ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ジュリオ・デ・カスティリョス]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ジュサーラ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ラーゴ・ダ・ペードラ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ラーゴ・ド・ジュンコ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ラーゴ・ドス・ロドリゲス]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ルイス・コヘイア]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[マカパ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[マナウス]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[マサペー]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ミゲウ・アウヴェス]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;{{仮リンク|ミランダ (ブラジル)|label=ミランダ|en|Miranda, Mato Grosso do Sul}}&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ミラノーテ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[モデーロ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[モンテイロ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ネロポリス]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ニケランディア]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ノーヴァ・エレシン]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ノーヴァ・ルッサス]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ノーヴァ・ヴェネツィア]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[オロス]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[オウロ・ヴェルデ・デ・ゴイアス]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[パウマレス]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[パウミットス]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[パラグァスー・パウリスタ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[パライーゾ・ド・トカンティンス]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[パルナイバ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[パルナミリン]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ペイシェ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ペスケイラ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ペトロリナ・デ・ゴイアス]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ピメンタ・ブエノ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ピニャウジーニョ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ポランガトゥ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ポルト・ナシオナル]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ポルト・ヴェーリョ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ケイマーダス]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ランシャリア]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[レデンサン]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[レリウターバ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[リバス・ド・リオ・パルド]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[リオブランコ (アクレ州)|リオブランコ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[リオ・ブリリャンテ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ロリン・デ・モウラ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ロンドノポリス]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[サンタ・エレナ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[サンタ・イネス]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[サンタ・キテーリア]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[サンタ・ローザ・デ・ゴイアス]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[サンタナ・ド・アカラウー]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[サン・ベネジト]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[サン・カエタノ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[サン・ジョアン・ド・オエステ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[サン・ミゲウ・ド・オエステ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[サン・ライムンド・ノナト]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[サランジ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[サウダーデス]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[セーハ・アウタ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[セーハ・タリャダ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[セルターニャ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ソヒーゾ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[:en:Sousa, Paraíba|ソウザ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[スー・ブラジル]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[タブレイロ・ド・ノルテ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[チアングァー]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[トゥクルイ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[トゥナポリス]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[トゥトイア]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ウニアン]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ウルアス]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ヴェルデジャンテ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ヴィラ・ノヴァ・ドス・マルティーリョス]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ビリェナ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ヴィトーリア・デ・サント・アンタン]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ヴィトーリア・ド・メアリン]]&#039;&#039;&#039;など&lt;br&gt; {{flagicon|New Zealand}} エリア拡大&lt;br&gt; {{flagicon|Japan}} &#039;&#039;&#039;[[福島県]][[大熊町]]、[[双葉町]]&#039;&#039;&#039;など&lt;br&gt; {{flagicon|Thailand}} エリア拡大&lt;br&gt; {{flagicon|Spain}} エリア拡大&lt;br&gt; {{flagicon|United States}} &#039;&#039;&#039;[[シュミット海洋研究所]]&#039;&#039;&#039;&lt;br&gt; {{flagicon|Poland}} &#039;&#039;&#039;[[ヴィエリチカ岩塩坑]]&#039;&#039;&#039;<br /> |-<br /> |2013年[[9月11日]] || {{flagicon|United States}} &#039;&#039;&#039;[[モトX]]&#039;&#039;&#039;<br /> |-<br /> |2013年[[9月12日]] || {{flagicon|Ecuador}} &#039;&#039;&#039;[[ガラパゴス諸島]]&#039;&#039;&#039;<br /> |-<br /> |2013年[[9月25日]] || {{flagicon|Swaziland}} &#039;&#039;&#039;[[ムババーネ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[マンジニ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ンランガーノ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[シテキ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ビッグ・ベンド]]&#039;&#039;&#039;など&lt;br&gt; {{flagicon|Japan}} エリア拡大&lt;br&gt; {{flagicon|Taiwan}} &#039;&#039;&#039;[[金門県]]&#039;&#039;&#039;&lt;br&gt; {{flagicon|United States}} エリア拡大、画像更新&lt;br&gt; {{flagicon|France}} {{flagicon|Switzerland}} &#039;&#039;&#039;[[欧州原子核研究機構]]&#039;&#039;&#039;<br /> |-<br /> |2013年[[9月26日]] || {{flagicon|Japan}} エリア拡大、&#039;&#039;&#039;[[青森県]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[秋田県]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[栃木県]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[茨城県]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[三重県]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[和歌山県]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[山口県]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[大分県]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[佐賀県]]&#039;&#039;&#039;(47[[都道府県]]すべて公開)、&#039;&#039;&#039;[[茨城大学]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[サンシャイン水族館]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[日本大学生物資源科学部]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[パシフィコ横浜]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[遠鉄百貨店]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[熊野参詣道]]&#039;&#039;&#039;など<br /> |-<br /> |2013年[[10月7日]] || {{flagicon|China}} &#039;&#039;&#039;[[UCCA]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[金沙遺跡]]&#039;&#039;&#039;&lt;br&gt; {{flagicon|South Korea}} &#039;&#039;&#039;[[韓国国立中央博物館]]&#039;&#039;&#039;&lt;br&gt; {{flagicon|Italy}} &#039;&#039;&#039;[[レッジャ・ディ・ヴェナリーア・レアーレ]]&#039;&#039;&#039;&lt;br&gt; {{flagicon|Luxembourg}} &#039;&#039;&#039;[[ジャン大公近代美術館]]&#039;&#039;&#039;&lt;br&gt; {{flagicon|Hungary}} &#039;&#039;&#039;[[ブダペスト応用美術館]]&#039;&#039;&#039;&lt;br&gt; {{flagicon|France}} &#039;&#039;&#039;[[ヴェルサイユ宮殿]]&#039;&#039;&#039;&lt;br&gt; {{flagicon|Norway}} &#039;&#039;&#039;[[国際子ども美術館]]&#039;&#039;&#039;<br /> |-<br /> |2013年[[10月10日]] || {{flagicon|Iceland}} &#039;&#039;&#039;[[レイキャヴィーク]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[コーパヴォグル]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ハフナルフィヨルズゥル]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[アークレイリ]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ケプラヴィーク]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[モスフェットルスバイル]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[アクラネース]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[セールフォス]]&#039;&#039;&#039;など&lt;br&gt; {{flagicon|Mexico}} エリア拡大<br /> |-<br /> |2013年[[10月28日]] || {{flagicon|United Kingdom}} &#039;&#039;&#039;[[テムズ川]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[HMSオセロット]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ロンドン・ガトウィック空港]]&#039;&#039;&#039;<br /> |-<br /> |2013年[[11月14日]] || {{flagicon|Italy}} &#039;&#039;&#039;[[ヴェネツィア]]&#039;&#039;&#039;など&lt;br&gt; {{flagicon|France}} エリア拡大&lt;br&gt; {{flagicon|Iceland}} エリア拡大&lt;br&gt; {{flagicon|United States}} &#039;&#039;&#039;[[サーキット・オブ・ジ・アメリカズ]]&#039;&#039;&#039;、エリア拡大<br /> |-<br /> |2013年[[11月20日]] || {{flagicon|India}} &#039;&#039;&#039;[[フマーユーン廟]]&#039;&#039;&#039;&lt;br&gt; {{flagicon|Italy}} &#039;&#039;&#039;[[埋葬の洞窟]]&#039;&#039;&#039;&lt;br&gt; {{flagicon|United States}} &#039;&#039;&#039;[[ナショナル・モール]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[アラモ伝道所]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[イエローストーン国立公園]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[セコイア国立公園]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[グランドティトン国立公園]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[アーチーズ国立公園]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ラシュモア山]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[デビルスタワー]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[バッドランズ国立公園]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ジョシュア・ツリー国立公園]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[シグナル・マウンテン]]&#039;&#039;&#039;など&lt;br&gt; {{flagicon|Canada}} &#039;&#039;&#039;[[ルイブール要塞]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[モレーン湖]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[レイク・ルイーズ]]&#039;&#039;&#039;など<br /> |-<br /> |2013年[[12月4日]] || {{flagicon|Japan}} エリア拡大、画像更新&lt;br&gt; {{flagicon|Thailand}} &#039;&#039;&#039;[[ナーン県]]&#039;&#039;&#039;など&lt;br&gt; {{flagicon|Canada}} &#039;&#039;&#039;[[内閣官房_(カナダ)|内閣官房]]&#039;&#039;&#039;&lt;br&gt; {{flagicon|United Arab Emirates}} &#039;&#039;&#039;[[シェイク・ザーイド・モスク]]&#039;&#039;&#039;&lt;br&gt; {{flagicon|India}} &#039;&#039;&#039;[[シャリフ・ダルガー]]&#039;&#039;&#039;<br /> |-<br /> |2013年[[12月6日]] || {{flagicon|Brazil}} &#039;&#039;&#039;[[イニョッチン庭園美術館]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[イベレ・カマルゴ美術館]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[モレイラ・サーレス資料館]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[イメージと音の博物館]]&#039;&#039;&#039;&lt;br&gt; {{flagicon|France}} &#039;&#039;&#039;[[ロスチャイルド邸]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[パリ工芸博物館]]&#039;&#039;&#039;<br /> |-<br /> |2013年[[12月11日]] || {{flagicon|British Indian Ocean Territory}} &#039;&#039;&#039;Île Vache Marine&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;Peros Banhos&#039;&#039;&#039;&lt;br&gt; {{flagicon|Pitcairn Islands}} &#039;&#039;&#039;[[アダムスタウン (ピトケアン)|アダムスタウン]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ヘンダーソン島 (ピトケアン諸島)|ヘンダーソン諸島]]&#039;&#039;&#039;&lt;br&gt; {{flagicon|Martinique}} &#039;&#039;&#039;La Boucle d&#039;Absalon&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;Habitation Clement&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[:en:Sainte-Anne, Martinique|サンタンヌ]]&#039;&#039;&#039;(一部)&lt;br&gt; {{flagicon|Antarctica}} &#039;&#039;&#039;[[ロイド岬]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;Castle Rock Loop Trail&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;WISSARD Test Site&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[アリーナ谷]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[血の滝]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[マクマード基地]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[テイラー谷]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ブル峠]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ライト谷]]&#039;&#039;&#039;&lt;br&gt; {{flagicon|United States}} &#039;&#039;&#039;[[パールアンドハーミーズ環礁]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[リシアンスキー島]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[レイサン島]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[ターン島]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;イースト島&#039;&#039;&#039;<br /> |}<br /> {{Collapse bottom}}<br /> [[ファイル:Google Street View coverage.svg|290px|thumbnail|right|サービス分布図 &lt;br /&gt;{{legend|#305ba3|利用可能な地域}}{{legend|#7e98ce|一部利用可能な地域}}{{legend|#ff7f27|サービス開始予定地(公式)}}{{legend|#E9B96E|サービス開始予定地(非公式)}}{{legend|#4E9A06|博物館のみ利用可能な地域}}]]<br /> Google ストリートビューは2007年5月25日にアメリカでサービスが開始され、以後各地の大都市・主要都市や国立公園でサービスを行い、アメリカでは全ての州が対象エリアである。また当該主要都市の郊外都市もサービス範囲に入っている。2008年7月2日にはアメリカ以外では初めてフランスとイタリアでサービスが開始され、[[ツール・ド・フランス]]の経路上とイタリア北西部のストリートビューが提供された。さらに将来はヨーロッパ、アジア、中南米、アフリカ諸国などの主要都市にも拡大される予定になっている。中でも、ヨーロッパ諸国では広範囲でサービス提供の予定がある。2008年4月16日には、ストリートビューはGoogle Earth 4.3に完全に対応した。<br /> <br /> === 今後サービス拡大が予定される国および地域 ===<br /> {| class=&quot;wikitable&quot; style=&quot;font-size:90%&quot;<br /> |-<br /> !大陸<br /> !Googleのサイトに掲載されている国および地域&lt;ref&gt;{{cite web|url=http://maps.google.com/help/maps/streetview/learn/where-is-street-view.html |title=Where is Street View – Google Maps with Street View |publisher=Maps.google.com |date= |accessdate=2012-01-12}}&lt;/ref&gt;<br /> !メディアでの報道および非公式に発表された国<br /> |-<br /> |アフリカ<br /> |<br /> *&#039;&#039;{{flag|Réunion}}&#039;&#039;<br /> *{{flag|Senegal}}<br /> |<br /> *{{flag|Mali}}&lt;ref&gt;http://www.theguardian.com/world/2014/oct/21/mali-plans-university-timbuktu-sahara-bono-tuareg&lt;/ref&gt;<br /> *{{flag|Morocco}}&lt;ref&gt;http://www.leconomiste.com/article/955517-google-integre-le-maroc-dans-streetview&lt;/ref&gt;<br /> |- valign=&quot;top&quot;<br /> |アジア<br /> |<br /> *{{flag|India}}&lt;ref&gt;{{cite web|title = Hyderabad to Become the First Indian City to Offer Google Street View|url = http://gadgets.ndtv.com/internet/news/hyderabad-to-become-the-first-indian-city-to-offer-google-street-view-691701|accessdate = 2015-05-13}}&lt;/ref&gt;<br /> *{{flag|Jordan}}&lt;ref&gt;https://lh3.googleusercontent.com/-z3jl3oqdUEM/VbeKB9dXkpI/AAAAAAAAtfI/WNpDSS4FXck/s1600/IUIUI.jpg&lt;/ref&gt;<br /> *{{flag|Kyrgyzstan}}<br /> *{{flag|Sri Lanka}}<br /> |<br /> *{{flag|Qatar}}&lt;ref&gt;http://www.thepeninsulaqatar.com/news/qatar/350898/google-to-offer-doha-street-view-soon&lt;/ref&gt;<br /> |- valign=&quot;top&quot;<br /> |ヨーロッパ<br /> | <br /> *{{flag|Austria}}<br /> *{{flag|Faroe Islands}}&lt;ref&gt;http://www.in.fo/news-detail/news/google-streetview-til-foeroya/&lt;/ref&gt;<br /> *{{flag|Guernsey}}&lt;ref name=&quot;Google Street View car in Guernsey and Alderney&quot;&gt;{{cite news|title=Google Street View car spotted in Guernsey and Alderney|url=http://www.bbc.co.uk/news/world-europe-guernsey-10950697|publisher=BBC |accessdate=2010-08-19 | date=2010-08-12}}&lt;/ref&gt;<br /> |<br /> *{{Flag|Montenegro}}&lt;ref&gt;http://www.vijesti.me/vijesti/crna-gora-ce-biti-ukljucena-street-view-program-clanak-471088&lt;/ref&gt;<br /> |- valign=&quot;top&quot;<br /> |南アメリカ<br /> |<br /> *{{flag|Bolivia}}<br /> *{{flag|Ecuador}}<br /> *{{flag|Uruguay}}<br /> <br /> |<br /> |}<br /> <br /> == パートナープログラム ==<br /> [[ディズニーランド・リゾート・パリ]]は[[テーマパーク]]として史上初めて、Google ストリートビューのサービスを提供した。以降、「パートナープログラム」として、[[広報]]、[[宣伝]]、[[広告]]を目的とした、[[施設]]や[[私有地]]の撮影が行われている&lt;ref&gt;[http://www.youtube.com/watch?v=asDhQu7UL8I 京都高台寺の例](YouTube Google Channel Japan)&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> [[2011年]][[2月1日]]には、[[ニューヨーク近代美術館]]など世界16か所の[[美術館]]および[[ヴェルサイユ宮殿]]と提携して「[[Google アートプロジェクト]][http://www.googleartproject.com/]」を開始している。18ヶ月にわたって各美術館と協力してストリートビューの機材で展示室を撮影し、閲覧者が展示室の作品部分を拡大して高解像度で鑑賞できるようにしている&lt;ref&gt;[http://googlejapan.blogspot.com/2011/02/google_02.html Google Japan Blog: Google アートプロジェクトで、世界の美術館を探検しよう] 2011 年 2 月 2 日 &lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;[http://internet.watch.impress.co.jp/docs/news/20110201_424211.html Googleストリートビューでアート観賞、ニューヨーク近代美術館などと協力で] - INTERNET Watch 2011/2/1 20:00&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> == プライバシー問題 ==<br /> [[2008年]][[5月13日]]からプライバシー対策として、写真に写っている歩行者や車のナンバープレートにボカシが入るようになっている。ボカシは画像認識技術で自動的に施されているので看板に写った人物や仏像にも入るケースがある。また、自宅の所有者が削除依頼を申請すれば建物全体にボカシが入れられる。<br /> <br /> 公開した各国で「住宅地も写るためプライバシーを侵害している」という批判の声が多く上がり、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]・[[ペンシルベニア州]]の住民がストリートビューで自宅内部を勝手に公開されたとして、Googleを相手に裁判を行う事態も起こった。その中でGoogleが答弁として「現代では完全なプライバシーなど存在しない」と反論を述べている&lt;ref&gt;[http://www.technobahn.com/cgi-bin/news/read2?f=200808051827 グーグルが裁判で反論、現代社会に完全なプライバシーなどは存在しない - Technobahn]&lt;/ref&gt;。また、[[レドモンド (ワシントン州)|レドモンド]]の[[マイクロソフト|マイクロソフト・ラボ]]に侵入して長時間写真を撮り続けて企業スパイと勘違いされ、一騒動起こしたこともある。<br /> <br /> ただし、[[肖像権]]については自動認識プログラムでぼかしを入れ修整することで解決する、とGoogle側はコメントしているものの、いまだ顔や[[ナンバープレート]]の表示されている箇所などが報告され、解決とはいえない状況である。日本では家々の[[表札]]や店舗の[[電話番号]]が多く写っているほか、「関係者以外立入禁止」と明記されている道路や、女子校の敷地内にある道路など公道以外で撮影を行っていること、さらには[[横浜市]]の条例に違反する行為や自動車通行止めなど通行規制を無視して進入した事例も報告されている&lt;ref&gt;「[http://news.ameba.jp/weblog/2008/09/17179.html ストリートビューは私道からも撮影していたか]」日刊アメーバニュース、2008年9月8日。&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;[http://takagi-hiromitsu.jp/diary/20080824.html#p01 グーグル株式会社の広報姿勢が嘘八百なことを示す事例 - 高木浩光@自宅の日記]&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;[http://takagi-hiromitsu.jp/diary/20080911.html#p01 グーグルが女子高に侵入して撮影した事例 - 高木浩光@自宅の日記]&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;[http://internet.watch.impress.co.jp/static/yajiuma/2008/09/25/ とうとう条例違反に……ストリートビューで墓地を無断で撮影 やじうまWatch 【2008/09/25】]&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;[http://takagi-hiromitsu.jp/diary/20081015.html グーグルは交通法規も平気で無視する - 高木浩光@自宅の日記]&lt;/ref&gt;。地方自治体や弁護士らも動いており、[[東京都]][[杉並区]]は2008年8月12日と11月7日にGoogleに対し「プライバシーへの配慮と削除要請への適切な対応」を申し入れており&lt;ref&gt;[http://www2.city.suginami.tokyo.jp/news/news.asp?news=7866 杉並区 区からのお知らせ - グーグル社「ストリートビュー」に対し申し入れを行いました]&lt;/ref&gt;、東京都[[町田市]]、[[大阪府]][[茨木市]]、[[北海道]][[札幌市]]をはじめ全国の地方議会から何らかの規制検討や、撮影の事前告知を求めるといった内容の意見書提出も相次いでいる。福岡県弁護士会は2008年12月2日に「ストリートビューサービスの中止を求める声明」を出した&lt;ref&gt;[http://www.fben.jp/suggest/archives/2008/12/ 福岡県弁護士会 主張・提言: 2008年12月 BackNumber]&lt;/ref&gt;。[[2009年]][[2月3日]]に[[東京都]]の[[情報公開・個人情報保護審査会設置法|個人情報保護]][[審議会]]にGoogle日本法人も出席し、「プライバシーについて詰めが甘かった」と釈明。今後は画像の公開前に該当[[地方自治体]]に知らせる意向を示すとともに、海外では公開前に官庁や自治体には事前説明していながら、日本では事前説明をしていなかったことも明かした。住宅街の撮影にも想像力が足りなかったとし、社内で議論を進めていると述べた&lt;ref&gt;[[読売新聞]]2009年2月4日13S版28面&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> またプライバシー侵害問題を受けGoogle日本法人は[[2009年]][[5月13日]]にこれまで路上高さ2.45[[メートル|m]]で撮影をしていたが、今後は塀の中が見えないとされる40[[センチメートル|cm]]低くした路上高さ2.05mに変更して撮影すると発表した。今までに公開した映像は2.05mで撮り直し順次置き換えてゆくとしている。40cm低くすると決定したにもかかわらず、2.45mで撮影済みの未公開映像を公開するという、ちぐはぐな対応も指摘されている。同時に数字などが判別できた車の[[ナンバープレート]]画像にぼかし処理を施したり電話窓口も設ける対策も打ち出した&lt;ref&gt;[[読売新聞]]2009年5月14日13S版34面&lt;/ref&gt;。これに関して[[モザイク処理|ぼかし]]があればプライバシーや肖像権を侵さないと[[総務省]]が見解を表明した&lt;ref&gt;情報通信サービスを巡る問題を検討する部会&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 日本以外でも、プライバシー権のための活動家たちが、このサービスに反対している。この中では、[[ストリップ (性風俗)|ストリップ]]クラブから出てきた男性、[[中絶]]クリニック前の反対運動家、[[ビキニ (水着)|ビキニ]]で日光浴をする女性、公園の[[ホームレス]]、子供を殴る親、公道から見えてしまう私有地内での生活風景など、写されている本人が世界に公開されたくない画像も大量に含まれていることも批判されている&lt;ref&gt;{{cite news |url=http://www.theherald.co.uk/news/other/display.var.1444323.0.0.php |title=Google’s Street View site raises alarm over privacy |author=MacDonald, Calum |publisher=The Herald |date=2007-06-04}}&lt;/ref&gt;。また子供を持つ親は、ストリートビューで安全が損なわれることを懸念している&lt;ref&gt;[http://www.myfoxmilwaukee.com/myfox/pages/News/Detail?contentId=5909178&amp;version=1&amp;locale=EN-US&amp;layoutCode=TSTY&amp;pageId=3.2.1 MyFox Milwaukee | Google Street View Upsets Some Parents&lt;!-- Bot generated title --&gt;]&lt;/ref&gt;。これに対しても、Googleは、ストリートビューは[[パブリックスペース|公共空間]]から撮影されたものであると主張し、写っているものは全て公道から誰でも見ることのできるものとしている。サービス開始前にGoogleは[[ドメスティックバイオレンス]]からのシェルター(保護機関)など公開されると困る施設を写真から除去し、サービス公開後はユーザーに、不適切な情景や人によっては敏感な問題のある情景をGoogleに通報して除去を行うよう要請できる措置を講じている&lt;ref&gt;{{cite news |url=http://www.usatoday.com/tech/news/internetprivacy/2007-06-01-google-maps-privacy_N.htm |title=Google&#039;s street-level maps raising privacy concerns |author=Mills, Elinor |publisher=USA Today |date=2007-06-03}}&lt;/ref&gt;。当初この手続きは、自分の写っている写真の除去のため、自分のIDカードの写真提示を求められるなど複雑であった&lt;ref&gt;{{cite news |url=http://www.ddj.com/dept/webservices/199904845 |title=Google Waffles on Street View Takedown Policy |publisher=Dr. Dobb&#039;s Portal |date=2007-06-15}}&lt;/ref&gt;が、後に簡素化された&lt;ref&gt;{{cite news |url=http://googlesystem.blogspot.com/2007/08/google-lets-you-remove-people-from.html |title=Google Lets You Remove People from Street View |publisher=Google Operating System |date=2007-08-26}}&lt;/ref&gt;。しかし写っている本人が見れば問題になりそうな日光浴やアダルトショップを出入りする人の写真はなお残っている&lt;ref&gt;{{cite news |url=http://www.weburbanist.com/2007/06/08/google-street-view-popular-online-community-or-invasion-of-privacy/ |title=Google Street View: Accidental Online Community or Real Invasion of Privacy? |publisher=Web Urbanist |date=2007-06-08}}&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 顔にボカシを入れる機能は完全ではなく、2007年にGoogleは[[オーストラリア]]で人の顔や車の[[ナンバープレート]]が分からないようにすると断言した&lt;ref&gt;{{cite web|url=http://www.news.com.au/technology/story/0,25642,24130293-5014108,00.html|title=Google unveils Street View across Australia|publisher=news.com.au|date=2008-08-05|accessdate=2008-08-06}}&lt;/ref&gt;が、2008年8月のサービス開始時には顔もナンバープレートも未修整のものが多く残されていた&lt;ref&gt;{{cite news |url=http://www.smh.com.au/news/technology/google-street-view-told-keep-off-private/2008/08/07/1217702214157.html |title=Google Street View told: keep off, private |publisher=The Sydney Morning Herald |date=2008-08-07 |accessdate= 2008-08-08}}&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;{{cite news |url=http://www.smh.com.au/news/web/google-takes-a-risky-road-with-privacy/2008/08/06/1217702095425.html |title=Google takes a risky road with privacy |publisher=The Sydney Morning Herald |date=2008-08-06 |accessdate= 2008-08-07}}&lt;/ref&gt;。またGoogleは、[[アメリカ合衆国連邦政府|連邦政府]]施設の集中する[[ボルチモア]]=[[ワシントンD.C.]]大都市圏でのストリートビューサービスを、[[アメリカ国土安全保障省]]から治安上敏感な建物も多いという要請も受け、リリースを遅らせた&lt;ref&gt;http://www.projo.com/technology/content/CA-GOOGLE27_03-01-08_LH93PVQ_v27.244d0a8.html&lt;/ref&gt;。[[国防総省]]からも米軍施設の写真を除去するよう要請を受け応じている&lt;ref&gt;{{cite web |url= http://www.msnbc.msn.com/id/23505366|title= Pentagon bans Google teams from bases|accessdate=2008-03-07 |publisher= Reuters|work= |date= 2008-03-06}}&lt;/ref&gt;。[[ミネソタ州]][[セントポール (ミネソタ州)|セントポール]]郊外にあるノース・オーク市([[:en:North Oaks, Minnesota|North Oaks, Minnesota]])&lt;ref&gt;かつて市全体が[[ゲーテッドコミュニティ]]であり、部外者の進入を認めるようになった今も全域が住宅購入者の私有地である&lt;/ref&gt;はGoogleに対し、市内が全て私有地との理由からストリートビューの削除を要請した。Googleはこれに従っている&lt;ref&gt;{{cite news |url=http://www.startribune.com/lifestyle/19416279.html |title=North Oaks tells Google Maps: Keep out - we mean it |author=Pabst, Lora |publisher=Minneapolis Star-Tribune |date=2008-05-31}}&lt;/ref&gt;。2009年11月には[[スイス]]の連邦データ保護・情報コミッショナー(FDPIC)が、ストリートビューでの顔やナンバープレートのぼかしが不十分であることから改善勧告を行ってきたが受け入れられていないとしてGoogleを訴えることを明らかにしている&lt;ref&gt;[http://www.itmedia.co.jp/news/articles/0911/17/news008.html スイス政府、ストリートビューめぐりGoogle提訴へ] ITmedia News 2009年11月17日&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> [[2009年]]、イギリスにおいてもストリートビューサービスは開始されたが、運用開始からわずか24時間以内に数十枚の画像が削除要求を受けたとされている&lt;ref&gt;[http://www.technobahn.com/cgi-bin/news/read2?f=200903231829 Technobahn グーグル、イギリスでもStreet Viewの公開開始]&lt;/ref&gt;。<br /> 2009年3月3日、[[タイムズ]]は、[[バッキンガムシャー]]州のBroughton(ブロートン村)にて、ストリートビューの撮影車が怒り出す住民に取り囲まれ、撮影を断念する事態があったことを報じた&lt;ref&gt;[http://technology.timesonline.co.uk/tol/news/tech_and_web/article6022902.ece TIMES ONLINE From The Times April 3, 2009 Village mob thwarts Google Street View car]。&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;[http://wired.jp/wv/2009/04/06/google%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%93%E3%83%A5%E3%83%BC%E6%92%AE%E5%BD%B1%E3%83%81%E3%83%BC%E3%83%A0%E3%82%92%E6%92%83%E9%80%80%EF%BC%9A%E8%8B%B1%E5%9B%BD%E3%81%AE%E4%BD%8F/ WIRED.jp Googleストリートビュー撮影チームを撃退:英国の住民 2009年4月 6日]&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;[http://www.cnn.co.jp/science/CNN200904060020.html CNN.co.jp グーグル「ストリートビュー」撮影の車を締め出し 英国 2009.04.06 Web posted at: 21:16 JST Updated - CNN]&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 2010年5月には、グーグルがストリートビューの情報収集中に、[[WiFi]]のアクセスポイント情報だけでなく、暗号化されていない通信内容まで収集し記録していたことがドイツで明らかになり、各国で物議を醸し司法関係者から調査に入ることを示唆された&lt;ref&gt;{{cite news|url=http://www.techeye.net/security/google-admits-it-sniffed-out-peoples-data|title=Google admits it sniffed out people&#039;s data|date=2010-05-17|publisher=TechEye}}&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;[http://japanese.engadget.com/2010/05/15/google-wifi/ Googleストリートビュー車、WiFi通信内容も「誤って」収集] engadget 日本版、2010年5月15日&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;{{cite news|url=http://news.bbc.co.uk/2/hi/technology/10278068.stm|title=Google accused of criminal intent over StreetView data|date=2010-06-09|work=BBC Online|accessdate=2010-06-10}}&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;{{cite web|url=http://www.dw-world.de/dw/article/0,,5910738,00.html |title=German Foreign Minister joins criticism of Google&#039;s mapping program |publisher=Dw-world.de |date= |accessdate=2010-08-27}}&lt;/ref&gt;。日本でも2011年11月11日に総務省が再発防止を指導した&lt;ref&gt;{{cite web|url=http://www.jiji.com/jc/c?g=eco_date1&amp;k=2011111100691 |title=グーグル日本法人を指導=無線LAN不正受信-総務省 |publisher=時事通信 |date= |accessdate=2011-11-11}}&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 2010年9月、[[チェコ]]では、プライバシー問題からグーグルは新しく画像を収集することを禁止されたと報じられた&lt;ref&gt;{{cite web|url=http://www.thinq.co.uk/2010/9/14/google-street-view-cars-banned-czech-republic/ |title=Google Street View cars banned in Czech Republic |publisher=Thinq.co.uk |date=2010-09-14 |accessdate=2010-10-02}}&lt;/ref&gt;。2010年10月には、[[オーストラリア]]での数カ月に渡る当局からの捜査の末、ストリートビューはオーストラリアでの調査を終了した&lt;ref&gt;{{cite web|url=http://www.computerworld.com.au/article/366213/google_street_view_cars_no_longer_operation_australia/?eid=-144&amp;uid=43372 |title=Google street view cars no longer operational in Australia - Computer world.com - November 9, 2010 |publisher=Computer world.com |date=2010-10-29 |accessdate=2010-12-11}}&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> === 写るのが嫌なら引っ越せ発言 ===<br /> ストリートビューのプライバシー問題に関して[[CNN]]のテレビ番組のインタビューでGoogleの[[エリック・シュミット]][[CEO]]が、「ストリートビューに自宅が写っているのが嫌なら、引っ越せばいい」と発言&lt;ref&gt;[http://www.itmedia.co.jp/news/articles/1010/26/news057.html 「ストリートビューに写るのが嫌なら、引っ越せばいい」とGoogle CEO] - ITmedia&lt;/ref&gt;。後日CNNはインタビューからこの部分を削除した。発言を削除したことについてCNNはGoogleからの要請ではなく自主的に削除したとしている。<br /> <br /> == 脚注 ==<br /> {{脚注ヘルプ}}<br /> {{Reflist|2}}<br /> <br /> == 関連項目 ==<br /> {{Commonscat|Google Street View}}<br /> * [[Google マップ]]<br /> * [[Google Earth]]<br /> * [[Google マイマップ EXPO]]<br /> * [[ルートパノラマ]]<br /> * {{仮リンク|mapjack|en|mapjack}}<br /> * {{仮リンク|Baidu Maps|en|Baidu Maps}}<br /> * [[:en:List of street view services|List of street view services]](英語版)<br /> * [[NAVER]]、[[Daum]] - 韓国版ストリートビューともいえる、独自の地図サービスを展開している。[[ソウル特別市|ソウル]]・[[釜山広域市|釜山市]]のみならず、韓国のほぼ全域がパノラマ写真で閲覧できるようカバーされている。<br /> * [[百度]]、[[テンセント]] - 中国版ストリートビューを展開。<br /> <br /> == 外部リンク ==<br /> * [https://www.google.com/maps/streetview/ Google マップ ストリートビュー]<br /> * [https://www.google.com/maps/ Google マップ]<br /> * [https://www.google.com/culturalinstitute/project/art-project Google アートプロジェクト]<br /> * [https://www.miraikioku.com/ 未来へのキオク] - [[東日本大震災]]の被災地で、震災の発生前後の画像がストリートビューで公開されている。<br /> <br /> {{Google Inc.}}<br /> <br /> {{DEFAULTSORT:くうくるすとりいとひゆう}}<br /> [[Category:Googleのサービス|すとりいとひゆう]]<br /> [[Category:Google マップ|すとりいとひゆう]]<br /> [[Category:オンライン情報源]]<br /> [[Category:地理技術]]<br /> [[Category:地図]]<br /> [[Category:情報社会]]</div> 219.96.7.204 Google マップメーカー 2018-08-20T02:24:13Z <p>219.96.7.204: </p> <hr /> <div>{{Infobox Website<br /> | name = Google マップメーカー<br /> | logo = [[File:Google-Map Maker Logo.png]]<br /> | screenshot = <br /> | collapsible = <br /> | collapsetext = <br /> | caption = <br /> | url = <br /> | alexa = <br /> | commercial = <br /> | type = 地図作成<br /> | language = 多言語<br /> | registration = <br /> | owner = [[Google]]<br /> | author = [[Google]]<br /> | launch date = {{start date and age|2008|6|23}}<br /> | current status = サービス終了 {{end date and age|2017|3|21}}<br /> | revenue = <br /> | slogan = <br /> | content license = <br /> }}<br /> <br /> &#039;&#039;&#039;Google マップメーカー&#039;&#039;&#039;&lt;small&gt;(グーグル マップメーカー、[[英語]]:&#039;&#039;&#039;Google Map Maker&#039;&#039;&#039;)&lt;/small&gt;とは、[[Google]]が立ち上げた[[地図]]作成サイトである。[[Google マップ]]のサービス地域を拡大する目的で開始された&lt;ref&gt;[http://groups.google.com/group/google-map-maker/browse_thread/thread/7ba81462f965c1dd Google Map Maker website]&lt;/ref&gt;。[[Google マップ]]とは別のサービスになっている。<br /> <br /> == 概要 ==<br /> 対応地域であれば、地図上に[[道路]]や[[鉄道]]路線、[[河川]]などを追加したり、[[建物]]の[[輪郭]]作成、[[店舗]]や施設などのスポットを追加する事ができる。道路、鉄道路線、河川を追加するには、専用の描画ツールが用意されており、マウスクリックでポインタを追加していきながら線を引いて作成する。描画ツールを使う時は、航空画像に写り込んでいる[[道路]]や[[建物]]をトレースしながら作成するのが一般的な方法となっている。また道路にはオプションパラメーターが設定可能で、例えば道路は「一般道」、「私道」、「幹線道路」、「歩道」に加え、「アスファルト」、「コンクリート」などの路面タイプなど、多くのパラメーターに対応している。<br /> <br /> Google マップメーカーが役に立ったのは、[[朝鮮民主主義人民共和国|北朝鮮]]の地図がGoogle マップに加わった例が有名である。&lt;ref&gt;[http://japanese.engadget.com/2013/01/30/google/ Google マップに北朝鮮の詳細地図が追加。マップメーカーで地図製作愛好家が協力]&lt;/ref&gt;<br /> <br /> 2017年3月にサービスを終了し、ローカルガイドに統合&lt;ref&gt;[https://support.google.com/mapmaker/answer/7195127 Google Map Maker graduates to Google Maps]&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> == システム ==<br /> Google マップメーカーで作成されたデータは、[[荒らし]]防止や正確性の品質を保つために、他のユーザーからの十分な審査レビューを経て、Google マップへ公開される。<br /> 主に新規ユーザーが作成したデータは、経験豊富なユーザーからのレビューを経てからの公開となる。<br /> <br /> == 脚注 ==<br /> {{脚注ヘルプ}}<br /> &lt;references /&gt;<br /> <br /> == 関連項目 ==<br /> * [[Google マップ]]<br /> * [[Google ビルディング メーカー]]<br /> <br /> {{Google Inc.}}<br /> {{デフォルトソート:くうくるまつふめえかあ}}<br /> [[Category:Google マップ|めえかあ]]<br /> [[Category:Googleのサービス|まつふめえかあ]]<br /> [[Category:クラウドソーシング]]</div> 219.96.7.204 画像 2018-08-19T12:40:45Z <p>219.96.7.204: /* 関連項目 */</p> <hr /> <div>{{WikipediaPage|ウィキペディア上の画像については、[[Wikipedia:FAQ 画像などのファイル]]、[[:Category:画像]]をご覧ください。}}<br /> {{otheruses||肖像画|肖像}}<br /> <br /> [[File:Image created with a mobile phone.png|thumb|画像]]<br /> [[File:Faust bei der Arbeit.JPG|thumb|]]<br /> &#039;&#039;&#039;画像&#039;&#039;&#039;(がぞう)とは、事象を視覚的に[[媒体]]に定着させたもので、そこから発展した[[文字]]は含まない(例:文字と画像、[[書画]])。定着される媒体は主に2次元[[平面]]の[[紙]]であるが、[[金属]]、[[石]]、[[木]]、[[竹]]、[[布]]、樹脂や、[[ディスプレイ (コンピュータ)|モニター]]・[[プロジェクター]]等の[[出力装置]]がある。また、3次元の[[貼り絵]]、[[ホログラフィー]]等も含まれる。<br /> <br /> == 歴史 ==<br /> 現存する古い画像は[[後期旧石器時代]]の[[洞窟壁画]]([[スペイン]]の《[[アルタミラ洞窟]]壁画》(全文:La Cueva de Altamira(Museo de Altamira)&lt;ref name=&quot;Museo_de_Altamira&quot;&gt;[http://museodealtamira.mcu.es/Prehistoria_y_Arte/la_cueva.html Museo_de_Altamira]&lt;/ref&gt;や、[[フランス]]《[[ラスコー洞窟]]壁画》(書影:三浦定俊(2008)&lt;ref name=&quot;MiuraSadatosi2008&quot;&gt;[http://www.bunka.go.jp/takamatsu_kitora/kentokaito/rekkachosa/05/pdf/shiryo_04.pdf 三浦定俊「ラスコー洞窟壁画の保存状況」](高松塚古墳壁画劣化原因調査検討会(第5回)資料/文化庁 所収)&lt;/ref&gt;)。)等)である。これらの画像すなわち、岩面画から抽象化が行われ、画像に属する[[ピクトグラム]]([[絵文字]])、さらに[[文字]]に属する[[象形文字]]が生まれた。<br /> <br /> == 語源 ==<br /> *[[画]]の[[語源]]は「界」(田は四つの境界)や、「形」である(書影:『[[康煕字典網上版]]』p.763&lt;ref name=&quot;KoukiZiten763&quot;&gt;[http://www.kangxizidian.com/kangxi/0763.gif 『康煕字典網上版』]763頁&lt;/ref&gt;)。<br /> *[[像]]の語源は、[[形象]]、[[音像]]である(書影:『康煕字典網上版』p.116&lt;ref name=&quot;KoukiZiten116&quot;&gt;[http://www.kangxizidian.com/kangxi/0116.gif 『康煕字典網上版』]116頁&lt;/ref&gt;)。<br /> <br /> == 同義語 ==<br /> *[[同義語]]に[[図]]、[[絵]](画)、[[図像]]があり、限定表現である[[図形]]、[[影像]]、[[映像]]等がある。<br /> <br /> == 用語「画像」の分類 == <br /> *[[様式]]や精神的な形象には「図」([[英語]]の[[Image]])や「絵(画)」を使用している(例:[[心象図]]、[[物語絵]]、[[肖像画]]、「絵になる」)。<br /> *点・線・面など[[幾何学]]的な表現に[[ダイアグラム|グラフ]]や[[図形]]が使用されている。<br /> *定着する方法による区分:直接描く[[描画]]、一時的定着である[[鏡]]や[[水面]]の反射や[[カメラオブスキュラ]]、版を作り転写する[[版画]]、[[カメラ]]や[[望遠鏡]]、[[顕微鏡]]等の[[光学デバイス]]を利用した[[写真]]、[[印刷]]、モニター入出力等がある。写真で出力した画像は「影像」という。[[映画]]や[[テレビ]]等に映した画像は「映像」という。[[デジタルカメラ]]の普及で[[アナログ画像]]と[[デジタル画像]]の用語も一般化した。<br /> *時間を基準とすると、[[静止画]]、[[動画]]に分類され、静止画動画は[[モーションピクチャー]]という。画像は一般に静止画像をいうことが多い。<br /> *[[色]]数からは[[モノクローム]]、カラーに分類される。<br /> *オリジナル画像を[[原画]]、[[原図]]といい、版として定着した画像を[[図版]]、[[電子媒体]]に定着したものを[[電子画像]]、[[電子影像]](図書の影像は書影)という。<br /> *粗密や[[解像度]]からは、あいまい表現だが、[[精密画像]]、[[高精細画像]]、[[低解像度画像]]等が使用される。<br /> <br /> == 画像ファイル ==<br /> [[コンピュータグラフィックス]]のファイル形式<br /> *[[ビットマップ画像]]([[ラスターグラフィックス]])と[[ジャギー]]のない[[ベクターグラフィックス]]に分類され、ベクターグラフィックは用語「図形」を使用する場合が多い。<br /> 標準[[画像ファイルフォーマット]]<br /> *多数の画像ファイル形式があるが、[[W3C]]が推奨した[[ラスター形式]]には[[JPEG]]や[[Portable Network Graphics|PNG]]等があり、[[ベクター形式]]には[[Extensible Markup Language|XML]]ベースの[[テキスト形式]]で表現できる[[Scalable Vector Graphics|SVG]]がある。また、[[アドビシステムズ]]の[[ベクター形式]]ドキュメントファイル[[Portable Document Format|PDF]]も国際規格ISO 32000-1:2008&lt;ref name=&quot;iso3200&quot;&gt;[http://www.iso.org/iso/catalogue_detail.htm?csnumber=51502 Document management -- Portable document format / ISO Store]&lt;/ref&gt;となった。<br /> <br /> === 画像の単位 ===<br /> *コンピュータで扱う[[画像データ]]の最少[[単位]]を[[ピクセル|画素]]という。物理的な点情報をドットといい、1[[インチ]]あたりのドット密度を[[dpi]]という。<br /> <br /> 画像の要素<br /> *[[明度]]、[[彩度]]、[[輝度 (色)|輝度]]、[[透過度]]等がある。<br /> <br /> 色の表現<br /> *異なるデバイスで色表現が異ならないよう、[[カラーマネージメントシステム]]で各デバイスを制御する必要がある。<br /> *色の合成方法には[[加法混合]](透過光の三原色、例:モニター画面の[[RGB]]値)、[[減法混合]](反射光の三原色、例:カラー印刷などの[[CMYK]])などいくつかがある。<br /> <br /> 画像圧縮<br /> *[[Web画像]]は[[通信速度]]をあげるため、一般に[[画像圧縮]]したり、[[画像サイズ]]を縮小した[[カタログ]]用の[[サムネイル]]や[[プログレッシブJPEG]]を使用する場合が多い。<br /> <br /> == 典拠:全文、書影 ==<br /> &lt;references/&gt;<br /> <br /> == 参考資料 ==<br /> *映像革命CG―コンピュータ・グラフィックスで社会、芸術、産業が変わる ISBN 978-4872463040<br /> <br /> == 関連項目 ==<br /> * [[ラスターグラフィックスエディタ]]<br /> * [[ベクターグラフィックスエディタ]]<br /> * [[デジタル画像]]<br /> * [[2次元コンピュータグラフィックス]]<br /> * [[:Category:コンピュータグラフィックス]]<br /> * [[ビットマップ画像]]<br /> * [[ベクターイメージ]]<br /> * [[画像ファイルフォーマット]]<br /> * [[画像編集]]<br /> * [[画像処理]]<br /> * [[データ圧縮]]<br /> * [[動画]]<br /> * [[イメージ]]<br /> * [[フォトグラフィー]]<br /> <br /> {{Computer-stub}}<br /> {{DEFAULTSORT:かそう}}<br /> [[Category:映像]]</div> 219.96.7.204 西洋美術史 2018-08-19T12:23:55Z <p>219.96.7.204: </p> <hr /> <div>{{単一の出典|date=2013年2月15日 (金) 22:54 (UTC)}}<br /> &#039;&#039;&#039;西洋美術史&#039;&#039;&#039;(せいようびじゅつし)では、[[西洋]]における[[美術]]の[[歴史]]について概説する。<br /> <br /> == 古代 ==<br /> [[File:Lascaux2.jpg|thumb|200px|[[ラスコー洞窟]]の洞窟絵画。明暗を使い分けた体毛の表現などが見られる。]]<br /> ===原始美術===<br /> {{main|原始美術|先史美術}}<br /> [[旧石器時代]]後期に入った頃より、実生活において有用に機能するとは考えにくい遺物・遺構が見られるようになり、これらを総称して一般的に[[原始美術]]/[[先史美術]]などと呼称し、西洋美術史においては[[洞窟絵画]]や[[岩陰彫刻]]、[[丸彫彫刻]]、獣骨などに刻まれた[[刻線画]]などがこれに該当する{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=6}}。また、実用品からも動物や魚の骨などを原材料とした器物や石器類などに動物や魚類、木の葉などを写実的に模様化したものが残されており、美術の目覚めを感じさせる{{Sfn|『西洋美術史要説』|1981|pp=4-5}}。ただし、これらを原始美術と分類し、その地位が確立されたのは20世紀に入ってからである{{Sfn|『西洋の美術 視覚とその時代』|2001|p=7}}。<br /> <br /> 古いものは[[オーリニャック文化|オーリニャック期]]に生み出されたとされ、フランスの[[クニャック洞窟]]に描かれた山羊の洞窟絵画、スペインの[[ラス・チメネアス洞窟]]に描かれた鹿の洞窟絵画などが知られている{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=6}}。動産美術としてはブラッサンプイで出土した象牙彫りの女性頭部像がある{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=6}}。人間を表した作品はたいていの場合裸体女性であり、子孫繁殖を祈念した宗教的意味合いが込められていたと推察される{{Sfn|『西洋美術史要説』|1981|p=5}}。この時代の美術的特徴としては、単純な輪郭線による写実的な表現や生殖機能を強調した表現が挙げられる{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=6}}。[[ソリュトレ期]]の洞窟絵画は発見されていないが、[[マドレーヌ期]]に入ると動物の体毛に応じた明暗の使い分けや、肥痩のある輪郭線を使用した表現力の増した洞窟絵画が出現するようになっている{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=7}}。有名なものとしては[[ラスコー洞窟]]や[[アルタミラ洞窟]]のものが挙げられる{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=7}}。これらの洞窟絵画では野牛、トナカイ、馬、マンモス、鹿などの狩猟対象となった動物のモチーフが主となっていた{{Sfn|『西洋美術史要説』|1981|p=6}}。このため、これらの遺例はヨーロッパ大陸を拠点に生活を営んでいた狩猟採集民族の手によって作成されたものであり、彼らにとって重要・貴重なものを対象として造形的に再現したに過ぎず、後年の美術が獲得していった社会的機能は持っていなかったのではないか、あるいは誰かに見せるために描いたものでは無いのではないかと考えられている{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=8}}{{Sfn|『西洋の美術 視覚とその時代』|2001|p=18}}。<br /> <br /> [[中石器時代]]には東スペインで興った様々な動物と人間を描いた岩陰絵画([[レバント美術]])やスカンジナビア半島からロシアにかけて発達した岩陰線刻画([[極北美術]])が登場した{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=8}}。初期のものには写実的な表現でもって実物大に近い大きさを有しているものも見られるが、時代を追うごとに形像は小型化し、簡略化・形式化が進んでいる{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=8}}。<br /> <br /> [[新石器時代]]に入ると人類は[[土器]]の製作を始め、線状模様が土器表面に描かれるようになった{{Sfn|『西洋美術史要説』|1981|p=10}}。この時代に洞窟絵画に見られるような絵画的美術が創出されたのかどうかは今となっては不明であるが、『西洋美術史要説』では制作そのものが少なかったのではないかと推察している{{Sfn|『西洋美術史要説』|1981|p=11}}。また、土地土地によって建設されたであろう木造住居は残されておらず、美術史的な立場からこの時代の建築遺物としては、[[メンヒル]]、[[ドルメン]]、[[ストーンヘンジ]]などといった宗教的な意味を持っていたと考えられる石製構造物のみである{{Sfn|『西洋美術史要説』|1981|p=9}}。<br /> <br /> [[File:Ishtar Gate at Berlin Museum.jpg|thumb|left|180px|ロバート・コールドウェイによって復原された[[イシュタル門]]。]]<br /> ===メソポタミア美術===<br /> {{main|メソポタミア美術}}<br /> [[File:Raminathicket2.jpg|thumb|160px|[[ウル]]の王墓から出土した「聖樹と牡山羊」。素材の多様化と表現領域の拡大が見られる。]]<br /> ティグリス・ユーフラテス川水域で開花した[[メソポタミア文明]]では、原始農耕社会の中で様々な器形とユーモアな装飾モチーフを特徴とする[[彩文土器]]の出現が見られた{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=9}}。特に[[サーマッラー期]]や[[ハラフ期]]の彩文土器は従来の幾何学文様に加えて特徴を極端に誇張した動物文様や人物文様などが加わり、社会の広がりと異なる文化との交流を示している{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=9}}。地域的な事情から石材が乏しかったことから大型の彫刻は制作されず、建築文化も煉瓦の使用やアーチ式建築の技法発達が見られた{{Sfn|『西洋美術史要説』|1981|p=30}}{{Sfn|『西洋の美術 視覚とその時代』|2001|p=27}}。ここで誕生したメソポタミア美術は、エジプト美術と並んで西洋美術史における始祖とも言える{{Sfn|『西洋美術史入門』|2012|p=146}}{{Sfn|『西洋の美術 視覚とその時代』|2001|p=26}}。<br /> <br /> 紀元前4000年期に入る頃には[[シュメール人]]たちによって神殿を中心とした都市が形成されるようになり、商業の活発化とともに絵文字などの伝達手段が登場するようになった{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|pp=9-10}}。特に[[ウルク期]]の中心的役割を担ったエアンナでは陶片によって壁面や柱がモザイク装飾された神殿が登場し、大理石を素材にした丸彫彫刻が数多く制作された{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=10}}{{Sfn|『西洋の美術 視覚とその時代』|2001|p=27}}。大理石が持つ白い肌触りと柔らかな質感は人間の肉感を表現するのにうってつけであり、素材に大理石を使用するという手段はギリシア美術へと継承された{{Sfn|『西洋の美術 視覚とその時代』|2001|pp=27-28}}。[[ジュムデト・ナスル期]]に入ると礼拝者や聖職者を象ったと思われる立像が制作されるようになり、同時に、政治的指導者の出現によって都市国家としての発展が見られるようになった{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=10}}。制作される美術品は写実的な表現が大きく発達し、素材も多様化して金、銀、ラピスラズリ、貝殻などが用いられるようになった{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=10}}。また、叙述的な表現技法も見られ、戦争などの国家的な出来事も作品モチーフとして取り入れられるようになっている{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=10}}。この時代の彫刻は『エビー・イルの像』に代表されるように、強調された大きな目を有していることに特徴があり、エジプト美術にも影響を与えている{{Sfn|『西洋の美術 視覚とその時代』|2001|p=28}}。<br /> <br /> [[セム人]]の侵攻によって[[アッカド王朝]]が樹立すると、自然主義的な傾向を有した作品が制作されるようになり、同時に、権力者を称えるような王権美術とでも形容すべき様式の確立がなされた{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=11}}{{Sfn|『西洋美術史要説』|1981|pp=31-32}}。アッカド王朝滅亡後、ウルクによるシュメール都市国家の統合がなされた頃には都市の再建に伴って[[ジッグラト]](聖塔)が各地に建設され、宗教観の発展とともに建築分野の美術が大きく発達した{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=12}}{{Sfn|『西洋美術史要説』|1981|p=32}}。ジッグラトは後に続くエジプト美術で建設されたピラミッドの原形となった{{Sfn|『西洋の美術 視覚とその時代』|2001|p=27}}。<br /> <br /> 一方、メソポタミア北部の[[アッシリア]]では、[[バビロニア]]の占領支配によって固有の文化的発展を遂げ、美術作品においても他の地域にない独自性を有するようになった{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=14}}。[[トゥクルティ・ニヌルタ1世]]の時代に入った頃から丸彫彫刻や浮彫彫刻などが数多く制作されるようになり、躍動感のある表現が見られるようになった{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=14}}。また、地理的な環境と版図の拡がりから不透明ながらもアッシリアの美術は[[フェニキア美術]]や[[ギリシア美術]]に一定の影響を与えたと考えられている{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=14}}{{Sfn|『西洋美術史要説』|1981|p=35}}。アッシリア帝国滅亡後に誕生した[[新バビロニア|新バビロニア帝国]]では[[ネブカドネザル2世]]の手によって都市整備が進展し、[[イシュタル門]]に代表される彩釉煉瓦で装飾された建造物が登場した{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=14}}{{Sfn|『西洋美術史要説』|1981|p=38}}。<br /> <br /> その後、[[アカイメネス朝]]によって各地が統治されるようになるとメソポタミア、エジプト、ウラルツなどの美術様式を統合した[[アカイメネス朝美術]]が開花した{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=15}}。特に工芸の分野でその特質は顕著で、金銀象嵌などを駆使した精微な作品が数多く制作されている{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=15}}。<br /> <br /> [[File:Nefertiti bust2.jpg|thumb|150px|[[ネフェルティティの胸像]]はアマルナ美術を代表する彫刻。]]<br /> ===エジプト美術===<br /> {{main|エジプト美術|アマルナ美術}}<br /> ナイル川流域で興った[[エジプト文明]]は肥沃な大地を背景に大いに発展し、[[初期王朝時代]]には[[エジプト美術]]の原型が誕生した{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=16}}{{Sfn|『西洋美術史要説』|1981|p=14}}。エジプト美術の初期は[[メソポタミア美術]]の影響を受けたと考えられている{{Sfn|『古代エジプト ファラオ歴代誌』|2006|p=22}}。初期は[[蛇王の碑]]などに代表される浮彫彫刻や丸彫彫刻がさかんに制作され、既に技術、様式においてエジプト美術の独自性の原形が垣間見える{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=16}}{{Sfn|『エジプト美術』|1973|p=9}}。[[ファラオ]]の神権的権力が確立する[[古王国時代]]には葬祭複合体として古代史においても重要な建築物である[[ピラミッド]]が[[ギーザ|ギザ]]などに建立された{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=16}}{{Sfn|『古代エジプト ファラオ歴代誌』|2006|p=45}}。なお、従来の墳墓([[マスタバ]])の概念を取り払い、ピラミッドとして確立を見たのは[[ジェセル王]]の時代であり、宰相[[イムヘテプ]]によって[[サッカラ]]に建立された階段ピラミッドがその嚆矢とされている{{Sfn|『エジプト美術』|1973|p=12}}{{Sfn|『古代エジプト ファラオ歴代誌』|2006|p=42}}。壁画においては[[メイドゥームの鴨]]など、動植物には写実的で精微な表現を有したものが数多く制作されているのに対し、人像表現は極めて形式的かつ概念的で、上半身は正面向き、下半身は真横からといった形態で表現されていることが多い{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=16}}{{Sfn|『西洋美術史要説』|1981|p=19}}。これは、魚や鳥は死者の食料としての役割を担っており、生きの良さが重要だったのに対し、表された人々は王侯に奉仕する労働力として永遠不動の形を要求するというエジプト独特の信仰から来る表現の違いであると推察されている{{Sfn|『西洋美術史要説』|1981|pp=19-20}}。<br /> [[File:All Gizah Pyramids.jpg|thumb|left|200px|[[ギザの三大ピラミッド]]。]]<br /> 中央集権が瓦解し、[[中王国時代]]に入ると[[アメンエムハト3世]]の時代に入るまで巨大建造物の造営は見られなくなり、代わって[[オシリス柱]]や[[ハトホル柱]]など、独創的な形式を有する葬祭殿や神殿が出現した{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=16}}{{Sfn|『古代エジプト ファラオ歴代誌』|2006|p=112}}。彫刻においては第11王朝期ごろから個性を写実的に捉える傾向を持った新しい[[テーベ様式]]が出現し、従来の伝統的な[[メンフィス様式]]とともに二大潮流を形成した{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|pp=16-17}}{{Sfn|『西洋美術史要説』|1981|pp=21-22}}。しかしながら経済の停滞とともに制作傾向は大型石像彫刻から木製の小像へと変化している{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=17}}。<br /> <br /> [[新王国時代]]に入ると王権の強化とともにエジプト美術は絶頂期を迎え、[[アモン大神殿]]や[[ルクソール神殿]]など、テーベを中心に各地で大型の造営事業が推進された{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=17}}{{Sfn|『西洋美術史要説』|1981|p=23}}。とりわけ、第18王朝期には従来の二大潮流の中に豪華な装飾性と色彩主義が加えられ、宮廷美術の新境地を切り開いた{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=17}}。<br /> <br /> また、[[アマルナ]]の地に都を移した[[アメンホテプ4世]]が唯一神[[アトン]]への信仰に没頭したことから、この時代に制作された美術作品は自然主義的な傾向が色濃く反映されており、エジプト美術のなかでは異彩を放っている{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=18}}{{Sfn|『古代エジプト ファラオ歴代誌』|2006|p=160}}。宮廷美術として型にはめられ、厳格な形式性から解放されたことから、リアリズム表現の技法が大いに伸張した{{Sfn|『古代エジプト ファラオ歴代誌』|2006|p=160}}。王女に口付けをするアメンホテプ4世の彫刻画など、人間の感情や情愛をモチーフとした構図が採用され、表情や姿態に誇張的な表現がとられた{{Sfn|『エジプト美術』|1973|p=88}}。この時代の美術をそれ以外の時代のエジプト美術と区別し、[[アマルナ美術]]と呼称する{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=19}}。アマルナ美術は後世のエジプト美術にも大きな影響を与え、[[ツタンカーメン]]の黄金マスクなどにおいても、アマルナ美術の内観的な表現様式の名残が見て取れる{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=19}}{{Sfn|『西洋美術史要説』|1981|p=26}}。<br /> <br /> エジプト美術の最大の特徴はその様式の不変性で、三千年に及ぶ悠久の時を経てもほぼ変わることなく一貫していることが挙げられる{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=19}}。こうして連綿と継承された技術はその洗練性を高め、後期には[[沈浮彫]]などの高度に発達した特殊な技法が誕生している{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=19}}。一方でこうした不変性は社会的・歴史的基盤があって初めて成立する特殊な美術であったこともまた事実であり、ギリシア美術のような影響力を他の美術に与えることはなかった{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=19}}。しかし、[[末期王朝時代]]に入ると王国の衰退とともにエジプト美術も因襲的な模倣に終始し、他国からの影響を受けながらその独自性すら失っていった{{Sfn|『エジプト美術』|1973|p=96}}。紀元前332年、[[アレクサンドロス3世]]によってエジプト征服がなされると、エジプト美術は形骸化し、ギリシア美術の影響の中に消えていった{{Sfn|『エジプト美術』|1973|p=96}}{{Sfn|『西洋美術史要説』|1981|p=28}}。<br /> <br /> [[File:Knossos - 05.jpg|thumb|220px|クノッソス宮殿の玉座の間に描かれたグリフォン]]<br /> ===ギリシア美術===<br /> {{main|ギリシア美術}}<br /> [[アーサー・エヴァンズ]]のクノッソス発掘によって、地中海域で最初に開花したとされる[[クレタ美術]](ミノス美術)の解明がなされた{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=22}}。新石器時代末期から青銅器時代初頭にかけて、キュクラデス諸島などで人体の特徴を簡潔に捉えた石偶や彩色土器、金属器などが制作されている{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=22}}{{Sfn|『古代ギリシャ』|2012|p=15}}。旧宮殿時代に入ると農業と海上貿易によって都市は経済的に大きく発展し、マリア、クノッソス、ハギア・トリアダなど各地に荘厳な宮殿が造営された{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=22}}。工芸品も数多く制作され、[[カマレス陶器]]のような豪華なものも出現している{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=22}}。<br /> <br /> 紀元前1700年頃に発生した大地震により一時は壊滅の危機に陥るが、新宮殿時代に入るとより複雑で豪華な装飾を持つ宮殿や離宮が建立された{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=22}}。自然と人類を見事に調和させ、自由闊達に描いた壁画が残されており、こうした作風はペロポネソス半島で隆昌した[[ミュケナイ美術]]へ受容、継承された{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=22}}。紀元前1400年頃に入って[[ミュケナイ人]]がクレタ島を征服すると、ミュケナイ美術は最盛期を迎え、後のギリシア建築に大きな影響を与える建造物が複数建築された{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=23}}。ミュケナイ美術は時代を経るに従って豊かな自然主義的作品から簡素化された装飾モチーフを用いた形式主義的作品へと変遷しており、その理由については明らかになっていない{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=23}}。その後、紀元前12世紀頃のドーリス人大移動を境に衰退期へと移行し、ミュケナイ美術はその幕を閉じることとなった{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=23}}。<br /> [[File:Spätgeometrische attische Oinochoe Museum August Kestner.jpg|thumb|left|150px|複雑な幾何学文様と簡素化された装飾モチーフが配されたディピュロン式陶器。]]<br /> 紀元前11世紀中ごろ、アテネのケラメイコスからミュケナイ陶器とは異なる特徴を持った陶器が出現した{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=23}}。黒線や水平帯によって区分した装飾帯に波状線や同心円文を配した構築的な装飾を持ったこれらの様式は原幾何学様式と呼ばれ、ミュケナイ美術とは明確に区別されるようになった{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=24}}。紀元前925年頃になるとこの傾向はより顕著に現れるようになり、紀元前8世紀前半に登場したディピュロン式陶器はメアンダー文、ジグザグ文、鋸歯文、菱形文などを複雑に組み合わせた装飾が配されている{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=24}}。<br /> <br /> こうした幾何学的な構想は陶器の文様に限らず、[[テラコッタ]]や青銅小彫刻などにおいても同様の傾向が見られ、動物や人間などの各部位を幾何学的形態に置き換えた後に全体を再構築するという過程を経て制作されており、有機的形態の分析による認識法や、部分均衡と全体調和によるギリシア美術固有の造形理念が見られる{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=24}}。以上のような経緯を経てギリシア美術は確立に至るが、[[ヨハン・ヨアヒム・ヴィンケルマン]]が記した『古代美術史』に代表されるように、ギリシア美術こそが西洋美術のはじまりであるとする言説も存在している{{Sfn|『西洋美術への招待』|2003|p=1}}。<br /> <br /> その後、エジプト、アッシリア、シリアの東方から持ち込まれた工芸品を通じて、ギリシア美術における装飾モチーフの表現領域が大きく拡大し、[[パメルット]]、[[ハス|ロータス]]、[[ロゼット]]などの植物文や[[スフィンクス]]などの空想動物が用いられるようになった{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=24}}。プロト・コリントス式陶器やコリントス式陶器など、こうした装飾モチーフを利用して制作された作品はギリシア美術の中でも特に東方化様式と呼称し、区別されている{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=24}}。<br /> [[File:Kouros of Tenea - 168 - Glyptothek Munich - DSC07368.jpg|thumb|150px|[[アルカイックスマイル]]を纏った[[テネアのアポロン像]]。]]<br /> 一方、アテネでは叙事詩や物語への関心が高まったことによりこれらをモチーフとした陶器や彫刻が制作され、これらはやがて神話表現へと昇華していくこととなった{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=24}}。紀元前7世紀に入るとエジプト彫刻の影響で大掛かりな彫刻が制作されるようになり、この頃作られた男性裸体像([[クーロス]])は既に両足を前後させて体重を均等に支えるポーズをとっており、ギリシア彫刻としての特徴が見て取れる{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=25}}。<br /> <br /> ここまでに培われた表現基盤と技術的要素を背景として紀元前7世紀中盤ごろよりギリシア美術において最も創造力に満ちた[[アルカイック美術]]が展開された{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=25}}。人体彫刻はより自然な骨格と筋肉をまとったものへと発展し、神殿建築分野ではこれまでの日干煉瓦や材木に代わって石材が使用されるようになり、[[アポロン神殿]]に代表される周柱式神殿が誕生した{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=25}}。紀元前6世紀にはサモスの[[ヘラ神殿]]やエフェソスの[[アルテミス神殿]]など、イオニア式オーダーによるより巨大な神殿が建立されるに至り、これに伴う建築装飾技法が大いに発達した{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=25}}。浮彫彫刻では静止像に動性を、運動像に瞬間の静止を表現できるよう試行錯誤が繰り返されるようになり、その過程で[[アルカイックスマイル]]などの立体表現が生み出された{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=26}}。なお、ギリシア美術で好んで使用された素材である大理石の色によってギリシア彫刻の特徴としてその「白さ」が取り上げられることがあるが{{Sfn|『古代ギリシャ』|2012|p=36}}、制作当時はエジプトから輸入された顔料などを用いて鮮やかな彩色が施されていたことが近年の研究によって明らかになっている{{Sfn|『古代ギリシャ』|2012|p=53}}{{Sfn|『古代ギリシャ』|2012|p=57}}。<br /> <br /> 陶器画の分野ではアッティカがコリントス式陶器の技法を吸収して黒絵式技法を確立し、[[フランソワの壺]]に代表されるような、神々や英雄の神話的場面を描出した作品が制作された{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=26}}{{Sfn|『西洋美術への招待』|2003|p=35}}。アマシスやエクセキアスはこの技法をさらに洗練させ、前者は人間味溢れる神々の姿を、後者は重厚な筆致で崇高な神々の姿を描き出し、神人同形([[アントロポモルフィズム]])という観念を確かなものとしている{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=26}}。その後、黒絵式陶器画は赤絵式陶器画へと転換していき、より細部にこだわった絵画的な表現がなされるようになった{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=26}}{{Sfn|『西洋美術への招待』|2003|p=35}}。こうした技法発展の背景は、板絵や壁画といった新しい芸術表現に対する絵画的探究の表れだったのではないかと考えられている{{Sfn|『西洋美術への招待』|2003|p=35}}。<br /> [[File:The Parthenon in Athens.jpg|thumb|left|200px|[[フェイディアス]]によって造営された[[パルテノン神殿]]。]]<br /> 紀元前5世紀初頭に入ると、{{仮リンク|ポリュグノトス|en|Polygnotos (vase painter)}}や{{仮リンク|ミコン|en|Micon}}といった画家によって「[[トロイア陥落]]」「[[マラトンの戦い]]」などの神話歴史画が描かれ、大絵画というジャンルが確立するに至った{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=27}}。四色主義([[テトラクロミズム]])という制約の下、形像の重複や短縮法といった技法を駆使することによって絵画上に奥行きのある空間表現を試みており、絵画、彫刻におけるギリシア美術の進むべき方向性を示したという意味で特筆すべき存在となった{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=27}}。彫刻分野の作品においては、それまでの直立不動の姿態から支脚/遊脚の概念を取り入れた[[コントラポスト]]へと変化しており、[[クリティオスの青年]]や[[デルフォイの御者像]]などが制作された{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=27}}{{Sfn|『西洋美術史入門』|2012|p=148}}。<br /> [[File:Discophoros BM.jpg|thumb|150px|[[ポリュクレイトス]]の作品「ディスコポーロス」の複製彫刻。]]<br /> この時代、ペルシアを撃退し、ギリシア世界の覇権を獲得したアテネは最盛期を迎え、ギリシア美術もそれにあわせてクラシック時代という新しい領域へと突入することとなった{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=27}}。[[ペリクレス]]によってアクロポリスの整備が推進され、オリンピアの[[ゼウス神殿]]やパエストゥムの[[ポセイドン神殿]]で培った技術にイオニア的な優美さを付加した[[パルテノン神殿]]が建立される{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=27}}。彫刻分野ではパルテノン神殿の造営を指揮した[[フェイディアス]]によって[[アテナ・パルテノスの黄金象牙像]]が制作された他、[[ポリュクレイトス]]によって体中線をS字に湾曲させるなどの技法が生み出され、コントラポストの極致が確立された{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=27}}。絵画の分野では[[アポロドロス]]によって空間表現に不可欠な幾何学的遠近法、空気遠近法の融合化を図った作品が制作された{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=28}}。その他、明暗技法に優れた才能を発揮した{{仮リンク|ゼウクシス|en|Zeuxis}}、性格表現と寓意的表現に優れていた[[パラシオス]]などがギリシア美術における絵画の発展を牽引している{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=28}}。<br /> <br /> クラシック時代後期に入ると個人主義が台頭し、美術界においても多大な影響を与えた{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=28}}。彫刻分野では[[プラクシテレス]]、[[スコパス]]、[[リュシッポス]]が静像に内面性を付加させた表現技法を生み出すとともに、裸体女性像の価値を大きく引き上げることに貢献した{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=28}}。[[アレクサンドロス3世]]の宮廷彫刻家としても知られるリュシッポスは肖像彫刻の分野でも優れた作品を残しており、後世[[ヘレニズム美術]]や[[ローマ美術]]の彫刻家達に大きな影響を与えた{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=28}}。同じく宮廷画家であった[[アペレス]]は明暗法、ハイライト、遠近法を駆使した大絵画を創出し、古代最大の画家と評価されている{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=29}}。<br /> <br /> アレクサンドロス3世の死後、ヘレニズム諸王国が出現し経済活動、人口流動が活発化すると美術の産業化が顕著となった{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|pp=29-30}}。富裕層の市民が住宅を壁画で装飾して彫刻で彩ることが流行化し、古典主義美術の伝統が一時的に途絶えることとなった{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=30}}。こうした現象についてローマ時代の文筆家[[大プリニウス]]は「美術は紀元前3世紀第2四半期に滅亡し、紀元前2世紀中頃に復興した」としている{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=30}}。<br /> [[File:Statue-Augustus.jpg|thumb|left|160px|ローマ美術の代表的作品「[[プリマポルタのアウグストゥス]]」。]]<br /> <br /> ===ローマ美術===<br /> {{main|エトルリア美術|ローマ美術}}<br /> 一方、イタリア中部に定着した[[エトルリア人]]は、ギリシア美術の影響を受けつつも、独自の宗教観や社会制度を背景に独特の美術文化を形成した{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=31}}{{Sfn|『イタリアを知るための55章』|1999|p=16}}。一般に[[エトルリア美術]]は東方化様式期、アルカイック期、古典期(中間期)、ヘレニズム期の4つに分類される{{refnest|group=注釈|先エトルリア文化である[[ヴィッラノーヴァ文化]]の時代を加える場合もある{{Sfn|『エトルリア文明 - 古代イタリアの支配者たち』|1994|p=134}}。}}が、もっとも繁栄を見たのが紀元前6世紀初頭から紀元前5世紀前半にかけてのアルカイック期130年間である{{Sfn|『エトルリア文明 - 古代イタリアの支配者たち』|1994|pp=134-135}}。<br /> <br /> 都市や建築の遺構は少ないが、ギリシア美術で頻繁にモチーフとされた神話を描いた陶器などが出土している他、墓室壁画においては葬儀宴会、舞踏、競技、狩猟など日常生活に密着したモチーフが好んで選択されており、エトルリア人独自の来世観を保持していたことが伺える{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=31}}{{Sfn|『イタリアを知るための55章』|1999|pp=15-16}}{{Sfn|『西洋美術史入門』|2012|p=150}}。紀元前7世紀から顕現したこうした兆候はヘレニズム期まで継続していた{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=31}}。彫刻分野も遺例が少ないものの、紀元前6世紀末に活躍した{{仮リンク|ウルカ|en|Vulca}}はエトルリア人彫刻家として名が知られている特筆すべき人物で、ヴェイオから出土した「アポロン」など、イオニア彫刻の影響を強く受けたテラコッタ像を制作している{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=31}}{{Sfn|『エトルリア文明 - 古代イタリアの支配者たち』|1994|p=136}}。<br /> [[File:0 Colosseum - Rome 111001 (1).JPG|thumb|190px|ローマの代表的な観光地として知られる[[コロッセオ]]。]]<br /> [[File:RomeConstantine&#039;sArch03.jpg|thumb|190px|マクセンティウス帝に勝利したことを記念して建造された[[コンスタンティヌスの凱旋門]]。]]<br /> 紀元前5世紀初頭の古典期に突入すると政治、経済の衰退と共に美術的活動も新鮮味と活力が失われ、様式的にも停滞した{{Sfn|『エトルリア文明 - 古代イタリアの支配者たち』|1994|p=136}}。しかし、ヘレニズム期に入ると来世観に進展が見られ、[[ウァント]]や[[カルン]]といった魔神が墓室壁画のモチーフとして選択されることが多くなった{{Sfn|『エトルリア文明 - 古代イタリアの支配者たち』|1994|p=136}}。肖像彫刻においては写実性溢れる作品が好んで制作されるようになった{{Sfn|『エトルリア文明 - 古代イタリアの支配者たち』|1994|p=136}}。<br /> <br /> 紀元前509年、エトルリアに従属していた都市国家のひとつであった[[ローマ]]は、共和制を樹立し、周辺都市国家を征服しつつ紀元前4世紀にはエトルリアをもその支配下に置いた{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|pp=31-32}}{{Sfn|『イタリアを知るための55章』|1999|p=16}}{{Sfn|『西洋美術史入門』|2012|p=150}}。その過程でエトルリア美術の影響は次第に薄れてはいったが、独自の美術を生み出すには至っていなかった{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=32}}{{Sfn|『ローマ人の世界』|1996|p=134}}。<br /> <br /> 紀元前3世紀に入ると[[サムニウム戦争]]や[[第一次ポエニ戦争]]などの影響により、戦利品として南イタリアのギリシア植民都市から大量の美術品が持ち込まれると、その成熟された美しさに魅了され、[[第二次ポエニ戦争]]以降、ローマ下においてギリシア美術ブームが起こった{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=32}}{{Sfn|『ヨーロッパの中世美術』|2009|p=38}}。これによりローマでは従来の伝統的なエトルリア美術と、「外来」のギリシア美術がそれぞれ潮流を成し、社会に氾濫することとなった{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=32}}。ローマ人の需要に応えるべく、創造性には欠けるが様々な様式の彫刻を注文に合わせて制作する[[ネオ・アッティカ派]]と呼ばれる一派が形成され、[[アウグストゥス]]の庇護を受けて伸張した{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|pp=32-33}}。この影響で「[[アウグストゥスの平和の祭壇]]」や「[[プリマポルタのアウグストゥス]]」といった高度な写実性を有する、洗練された古典主義的な美術品が数多く制作されている{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=33}}{{Sfn|『西洋美術史入門』|2012|p=150}}。<br /> <br /> 建築分野では紀元前1世紀前半ごろより、ヘレニズム期のエトルリア美術を基盤としてローマ固有の建築様式を生み出していった{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=33}}{{Sfn|『ローマ人の世界』|1996|p=135}}。厳格な左右対称性やコリントス式柱頭の多用、内部空間の重視などがローマ建築の特徴として挙げられる{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|pp=33-35}}。紀元前2世紀前半に建設された[[バシリカ]]や紀元前1世紀前半に建築された[[コロッセウム]]などは、新しい建築ジャンルとしてローマ美術における代表的な建造物としてしばしば取り上げられる{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=35}}。<br /> <br /> また、建造物の壁面に描かれた装飾物についてもヘレニズム期の影響を受けるポンペイ第一様式からポンペイ第二様式と呼ばれる装飾法へ移行を果たし、神話的風景画などがさかんに制作された{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=35}}。帝政期に入ると歴代皇帝の事跡を誇示するかのような歴史浮彫が多数制作され、現代では[[トラヤヌス帝の記念柱]]や[[コンスタンティヌス帝の凱旋門]]などがその遺構として知られている{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|pp=35-36}}。<br /> <br /> 同時に神話的な情景を主たるモチーフとしていた古典主義は衰退し、現実の情景を記した写実主義がもてはやされるようになった{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=36}}。さらに、2世紀中ごろからは主要人物をより強調して表現する傾向が顕著となり、その影響は肖像彫刻などの他ジャンルへも波及した{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=36}}。こうした自然主義の放棄と表現主義の台頭という変遷は、この後のローマ美術が[[キリスト教美術]]へと変質化していく過程における重要な転換点として挙げられる{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=36}}。<br /> <br /> == 中世 ==<br /> [[File:Santa maria maggiore 051218-01.JPG|thumb|200px|[[サンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂]]]]<br /> [[File:GallaPlacidiaEle.jpg|thumb|200px|[[ガッラ・プラキディア廟堂]]]]<br /> ===初期キリスト教美術===<br /> {{main|初期キリスト教美術}}<br /> 紀元2世紀末から3世紀はじめにかけて地中海沿岸の各地にローマ美術の流れを汲んだキリスト教美術が誕生した{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=38}}。以降キリスト教美術は1500年以上に渡って東西ヨーロッパにおける美術の中核を担っていったが、キリスト教の誕生から5世紀後半までの美術を[[初期キリスト教美術]]と呼称している{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=38}}。313年に公布された[[ミラノ寛容令]]までは[[キリスト教]]に対して弾圧が繰り返されていたこともあり遺跡、遺品ともに残されているものが少ないが、[[カタコンベ]](地下墓所)の壁画や石棺彫刻といった葬礼美術にその特徴を垣間見ることが出来る{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=38}}{{Sfn|『ヨーロッパの中世美術』|2009|pp=15-17}}{{refnest|group=注釈|キリスト教を主題とした現存する最古の美術品は紀元2世紀から3世紀にかけてのもので、イエス時代を含めそれ以前のものについては発見されていない{{Sfn|『西洋美術への招待』|2003|p=37}}。}}。火葬と土葬が併用されていた古代ローマ時代からヘレニズム文化の影響を受けて土葬へと急激に転換したことが、こうした葬礼美術が制作されるようになった要因の一つとされている{{Sfn|『西洋美術への招待』|2003|p=38}}。キリスト教では偶像崇拝が禁じられていたことから、死後の魂の救済を願って描かれた初期の壁画は、構図やモチーフに異教美術からの積極的な借用が見られるものの、十字架の形を象徴する物や[[イエス・キリスト]]を意味する魚、よき羊飼いや祈る人といった寓意的な人物など、間接的または暗示的な信仰の表明が示されている{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=39}}{{Sfn|『西洋美術史入門』|2012|p=152}}。教義が出来上がり、教会体制が整うにつれて[[新約聖書]]や[[旧約聖書]]に語られている物語がモチーフとして選択されるようになった{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=39}}{{Sfn|『西洋美術史入門』|2012|p=152}}。<br /> <br /> 380年に、[[テオドシウス1世]]によってキリスト教が国教として定められると、帝都コンスタンティノポリス、ローマ、アンティオキアなどの各地で大規模な教会堂の建築が実施された{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=39}}{{Sfn|『ヨーロッパの中世美術』|2009|p=17}}{{Sfn|『西洋美術への招待』|2003|p=37}}。建築様式としてはローマ美術のバシリカから派生したもの(バシリカ式)、ヘレニズム美術の廟墓建築やユダヤ教の記念堂建築の流れを汲むもの(集中式)に大別されるが、いずれも煉瓦造りの質素な外観に対して[[モザイク装飾]]を用いた豪華な内観という特徴を持っており、現実的な地上世界と神秘的な死後世界の対照化を試みている{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=40}}。バシリカ式の教会堂としてはローマの[[サンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂]]が、集中式の教会堂ではラヴェンナの[[ガッラ・プラキディア廟堂]]が、それぞれこの時代に建築された代表的な例として挙げられる{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=40}}。5世紀に入るとキリスト教美術はローマ美術の古典的な様式から豪華な金地や多様な装飾が施された東方的な荘厳美術へと傾倒していった{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=40}}。<br /> [[File:Ayasofya-Innenansicht.jpg|thumb|left|150px|[[アヤソフィア|ハギア・ソフィア大聖堂]]の内部]]<br /> <br /> ===ビザンティン美術===<br /> {{main|ビザンティン美術|イコン}}<br /> 330年、[[コンスタンティヌス1世]]により帝都がコンスタンティノポリス(現[[イスタンブール]])へ移されたことがきっかけで美術活動の重心も東方へと移っていった{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=42}}。これによって初期キリスト教美術に古代アジアや[[サーサーン朝|サーサーン朝ペルシア]]の美術的要素が融合し、[[ビザンティン美術]]が確立された{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=42}}。ビザンティン美術は15世紀までの長きに渡り、大きな変質なく脈々と一貫性を保ち続け、その特徴は荘厳な様式の中に散りばめられた豪華絢爛な装飾性と、精神性や神秘性を追求した理知的な傾向が挙げられる{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=42}}。[[ユスティニアヌス1世]]の第一次黄金時代と呼ばれる時期に建築された[[アヤソフィア|ハギア・ソフィア大聖堂]]は、それまでのバシリカ式と集中式の建築様式を統合し、新しい建築類型を確立させた{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=42}}。また、近東の民族美術の影響で装飾モチーフにも変化が見られ、聖樹や獅子、幾何学文様などの象徴的あるいは抽象的な浮彫装飾が好んで選択されており、人像の表現は激減している{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=44}}。さらに、8世紀に入って[[聖像論争]]が勃発して聖像否定派が優勢に立ったことで、こうした傾向はますます顕著となり、造形美術分野は一時的な衰退を余儀なくされた{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=44}}。<br /> [[File:Christ Pantokrator, Cathedral of Cefalù, Sicily.jpg|thumb|200px|[[チェファル大聖堂]]の大構図モザイク装飾。]]<br /> 9世紀後半に興った[[マケドニア王朝 (東ローマ)|マケドニア王朝]]はその版図を拡大し続け、11世紀にはイタリア南部からスラブ諸国にまで及ぶ大帝国となった{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=46}}。この時代に始まった美術界における栄華をビザンティン美術における第二次黄金時代と呼ぶ{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=46}}。ヘレニズム期の古典的な伝統美術が影響力を強め、教会堂建築も[[オシオス・ルカス修道院]]などに代表される、集中式を基盤とした装いへと立ち返っている{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=46}}。工芸美術の分野では「[[パリ詩篇]]」や「[[ナジアンゾスのグレゴリウス説教集]]」といった擬古典的な様式を採用した写本装飾などが制作された{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=46}}。その後、マケドニア王朝の滅亡とともに[[コムネノス王朝]]が興ると華やかな宮廷美術と、人文主義的な伝統美術が融合した独特の美術が開花した{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=47}}。代表的な教会堂建築としては[[ダフニ修道院]]、[[ネレズィ修道院聖堂]]などがある{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=47}}。13世紀前半には十字軍の略奪と占領などによって再び停滞期に突入するが、[[パレオロゴス王朝]]の時代に入ると[[コーラ修道院]]に代表される写実的で繊細典雅な様式が花開いた{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=47}}。<br /> <br /> 11世紀中葉以降、西方における帝国拠点都市を通じて、ビザンティン美術は西欧美術に大きな影響を与え続け、大構図モザイク装飾を採用した教会堂が各地に建立された{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=47}}。<br /> <br /> ===初期中世美術===<br /> {{main|メロヴィング朝美術|カロリング朝美術}}<br /> [[File:KellsFol292rIncipJohn.jpg|thumb|180px|[[ケルズの書]]はメロヴィング朝における写本装飾の代表的な作品。]]<br /> 476年の[[西ローマ帝国]]滅亡後、ゲルマン諸族の国家が次々と誕生した{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=48}}。ガリアの地においてもゲルマン民族の手によって[[ブルグント王国]]が成立したが、5世紀後半に[[クロヴィス1世]]率いる[[フランク王国]]によって滅ぼされた{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=48}}。クロヴィス1世は都をソワッソンへ移し、ローマ文化を積極的に取り入れ、ローマ帝国の継承者として[[メロヴィング朝]]を興した{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=48}}{{Sfn|『ヨーロッパの中世美術』|2009|p=9}}。こうした経緯によって培われたメロヴィング朝の美術は工芸品分野において優れた技術を見せており、ゲルマン民族特有の豪華な装飾と、ガリア土着の伝統が融合した独特の様式を呈していた{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=50}}。また、近東の修道院制度がイタリアやアイルランドを経てもたらされ、大小様々な僧院が建立されている{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=50}}。写本装飾の分野ではメロヴィング朝特有の[[鳥魚文]]が多用されると同時に、花や鳥を幾何学的に組み合わせた文様なども確認でき、古代の自然主義的表現様式とは一線を画すものが制作されている{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=50}}。7世紀には[[ケルズの書]]に代表されるような、サクソン、オリエント、コプトからの影響を受けた複雑な装飾が施されるようになった{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=50}}。<br /> <br /> [[カロリング朝]]の時代に入ると[[カール大帝]]の手によって学問や芸術の奨励が始まり、美術史的観点において大きな躍進を遂げた{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=51}}。特に彫刻分野においては、北イタリアを中心に発達した組紐文を象徴的に用いた浮彫が各地へ伝播し、後の[[ロマネスク美術]]の基礎を築いた{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=51}}。写本装飾の分野においてはメロヴィング朝時代に一時衰退した古典的な人像表現が復活し、装飾モチーフとして積極的に使用された{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=52}}。その後、[[オットー1世 (神聖ローマ皇帝)|オットー1世]]によって[[神聖ローマ帝国]]が築かれると、西欧文化の主導権を掌握し、文化的傾向の方向性を確たるものとした{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=52}}。<br /> [[File:Reliquaire de sainte foy.jpg|thumb|left|150px|コンクの[[聖女フォワの遺物像]]]]<br /> ===ロマネスク美術===<br /> {{main|ロマネスク美術}}<br /> 9世紀から10世紀にかけて、ノルマン人やサラセン人などの異教徒の脅威により、カロリング朝は[[ユーグ・カペー]]へその王権が引き継がれ、フランク王国は事実上の解体をみた{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=54}}。激動する社会情勢の影響を強く受けた西欧美術も同様に再び大きな変革を迫られることとなった{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=54}}。ロマネスク美術は、そうした社会的変動を背景として初期中世美術という基盤を発展させ開花した、11世紀後半から12世紀にかけての西欧美術を指す{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=54}}。<br /> <br /> 建築分野におけるロマネスク美術の特徴は、重厚な石壁と暗い内部空間に表され、古代バシリカ式建築を基本に添えつつ、東西への方向軸を持った建造物が増加した{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=54}}{{Sfn|『西洋美術への招待』|2003|p=65}}。これは、聖地巡礼を行う礼拝客の動線を配慮した結果発展した形態であると考えられている{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=54}}。こうした形態を保持する教会堂を巡礼路聖堂と呼び、トゥールーズの[[サン・セルナン大聖堂]]などがその代表的建造物として挙げられる{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=54}}。この時代、修道院は学問と美術の中心的存在を担っており、各会派は信仰の普及手段として教会堂の建設を推進した{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=55}}。その表現手段は多様で、シトー会派が図像を否定し、質素な美術を奨励したのに対し、ベネディクト会派は豪華な素材を用いて美術の荘厳化に注力した{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=55}}。地方によって同じロマネスク美術建築でも特徴が大きく異なるのは、地域に対する会派の影響度の違いを示している{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|pp=55-57}}。<br /> [[File:Bayeux hawking.jpg|thumb|240px|70mに渡って[[ノルマン・コンクエスト]]を生き生きと描いた[[バイユーのタペストリー]]。]]<br /> また、後年のゴシック美術の建築と比較して壁面が多く、教会堂の天井や側壁には聖書や聖人伝を題材とした説話的な壁画が描かれた{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=57}}。地方によって細微な違いがあり、もっとも西方的な様式を確立したのはフランスで、その他の地域は大なり小なり東方的なビザンティン美術の要素を取り込んだ壁画が制作されている{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=58}}。イタリアではカロリング朝の伝統を継承しつつも、ビザンティン美術の範例を手本としながら力強い筆致で描かれているのが特徴で、イタロ=ビザンティン様式と呼ばれるこうした大構図壁画は、[[サン・クレメンテ聖堂]]や[[サン・タンジェロ・イン・フォルミス聖堂]]などに残されている{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=57}}。スペインでは東方的な色彩と[[モサラベ美術]]の影響によって、カタルーニャ地方に独特のロマネスク美術が開花した{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|pp=57-58}}。また、オットー朝の写本工房の影響力がドイツ南部、オーストリア、スイス北部などではイタリア経由でもたらされたビザンティン美術の要素と融合を果たしたロマネスク美術が確立されている{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=58}}。<br /> <br /> 工芸分野では十字架、装幀板、燭台、聖遺物箱、祭具といった宗教用具がさかんに作成され、古代の浮彫や彫刻技法を復活させたことに大きな意義を見出すことが出来る{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=58}}。こうした丸彫像ではコンクの[[聖女フォワの遺物像]]がその先駆けとなった{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|pp=58-60}}。その他オットー朝の伝統を汲むドイツや北イタリアの諸工房では、象牙や金を素材とした工芸細工が数多く制作され、フランスのリムーザン地方では[[エマーユ工芸]]が発達し、聖遺物箱や装幀などが制作された{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=60}}。また、[[バイユーのタペストリー]]に代表される刺繍工芸が盛んになったのもロマネスク美術の特徴といえる{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=60}}。<br /> <br /> ===ゴシック美術===<br /> {{main|ゴシック美術}}<br /> {{See also|ゴシック建築|ゴシック様式}}<br /> ロマネスク美術の延長線上に位置付けられる[[ゴシック美術]]は12世紀半ばごろより始まり、人間的・写実的な表現を特徴とし、ロマネスク美術の象徴的・抽象的な表現とは対照的な様相を呈している{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=60}}{{Sfn|『西洋美術史入門』|2012|p=154}}。この変革の背景には社会環境の変化が大きな影響を与えたと考えられている{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=60}}。前時代は修道士や聖職者など、限られた人々が文化の担い手であったのに対し、裕福な市民層や大学を拠点とする知識人などの台頭によってその範囲が拡大していったことが、美術の性格を変革させた一つの要因となっている{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=60}}。<br /> [[File:SaintDenisInterior.jpg|thumb|150px|left|ゴシック建築の最も古い作例とされる[[サン=ドニ大聖堂]](内部)。]]<br /> こうした精神を如実に物語っているのが建築分野であり、その先鞭は[[シュジェール]]によって行われた1144年の[[サン=ドニ大聖堂]]改修工事である{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=60}}。シュジェールは信仰を導く手段として「光」の重要性を謳い、尖頭アーチを用いた肋骨交差穹窿とステンドグラスを嵌め込んだ大窓を組織的に活用することで、新しい建築意匠を創出した{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|pp=60-61}}{{Sfn|『西洋美術史入門』|2012|p=154}}。この動きはすぐにサンス、サンリス、パリ、ランなどフランスの周辺都市へ伝播し、同様の意匠を保持する大聖堂が相次いで建立された{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|pp=60-61}}。さらにはフランス人工匠の手によって国外へも波及し、イギリスのカンタベリー大聖堂など、新規建築や改修時にゴシック建築の様式を取り入れたものが登場している{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=61}}。また、ロマネスク建築の重厚な石造天井は重量的な問題から、自ずと「高さ」に対して限界が見えるようになり、これを解消することを目的とした建築方式が誕生し、広く受け入れられることは必然であったとも言える{{Sfn|『西洋美術への招待』|2003|p=65}}。<br /> [[File:Chartres - cathédrale - ND de la belle verrière.JPG|thumb|180px|[[シャルトル大聖堂]]の南周歩廊にある「美しきステンドグラスの聖母」。]]<br /> 装飾彫刻もこうした動きと連動し、円柱人像などの新しい要素が誕生した{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=61}}。これによって古来以降途絶していた塑像性が復活し、自然な丸みを帯びた人像表現へと発展していく嚆矢となった{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=61}}{{Sfn|『西洋美術への招待』|2003|p=3}}。また、個々の彫像が採用したモチーフを連関させ、全体としての合理性を持たせるといったことも試行されている{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=61}}。こうした特徴もつ装飾彫刻の代表的なものとしては、[[シャルトル大聖堂]]の「王の扉口」(西側正門)などが挙げられる{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=61}}。連関思想は、次第に金属細工や彩色写本といった小型の美術品にも傾向として現出するようになった{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=62}}。<br /> <br /> 12世紀に入るとゴシック建築を採用した聖堂の建立が本格化しはじめ、内部空間構成と建造物の見事な調和が見られるようになった{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=62}}。ブルージュ、シャルトル、ランス、アミアン、ボーヴェといったフランス各地の大聖堂やイギリスのソールズベリー大聖堂、ケルンのザンクト・ペーター大聖堂など壮大な聖堂が各地に建設されている{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=62}}。特に、世界遺産にも指定されているアミアンの[[ノートルダム大聖堂 (アミアン)|ノートルダム大聖堂]]は、その全長が145メートルにも及ぶ巨大な聖堂である{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=62}}。また、物理的制約から解放されたことで、塔や穹窿は高さに対しても追求がなされるようになった{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|pp=62-64}}{{Sfn|『西洋の美術 視覚とその時代』|2001|p=27}}。<br /> <br /> 並行して円柱人像の技法も発展し、13世紀に入ると扉口浮彫から丸彫像への移行が見られるようになった{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=64}}。同時にゴシック彫刻の特長とも言えるS字型に捻った姿態、柔和な相貌、流麗な衣襞といった表現が確立し、古典主義的な思想を孕んだ作品が数多く制作された{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=64}}。さらには14世紀初頭にドイツで制作された[[ピエタ]]の彫像のような凄惨な場面を主題とした彫刻作品も登場し、表現領域の拡張に大きな足跡を残した{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=64}}。<br /> [[File:Pisanello 016.jpg|thumb|150px|left|[[ピサネロ]]の『エステ家の姫君の肖像』は国際ゴシック様式の代表的な作品のひとつ。]]<br /> また、色彩芸術の分野では[[ステンドグラス]]による主題表現が代表的で、シャルトル大聖堂の「美しきステンドグラスの聖母」など、12世紀から13世紀にかけて制作された傑作が多数残されている{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=64}}。写本絵画では個人向けの聖書・詩篇集の制作がフランスやイギリスで活発化し、多くの写本画家がパリを拠点に活動を行っている{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=64}}。中でも『ベルヴィル家の聖務日課書』を制作した[[ジャン・ピュセル]]は、フランスの優雅な人物表現とイタリアの空間表現を融合させ、[[パリ派写本]]と呼ばれる写本の新しい基準様式を確立させたことで知られる{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=64}}。<br /> <br /> イタリアではビザンティン美術の影響が根強く、ゴシック美術の浸透が遅れていたが、{{仮リンク|ヤコポ・トリーティ|en|Jacopo Torriti}}や[[ピエトロ・カヴァリーニ]]といった大構図壁画家によってビザンティン美術からの脱却が図られるようになり、これを継承した[[チマブーエ]]や[[ジョット・ディ・ボンドーネ]]、[[シモーネ・マルティーニ]]といった画家たちによって段階的に成し遂げられ、後世における[[ルネサンス]]の礎が築かれた{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=64}}{{Sfn|『西洋絵画史 WHO&#039;S WHO』|2005|p=1、3、5}}{{Sfn|『ルネサンスとは何であったのか』|2008|pp=89-93}}。こうした画家の登場した時代を切り出してプロト・ルネッサンス時代と呼称する場合もある{{Sfn|『西洋美術史入門』|2012|p=156}}{{Sfn|『ルネサンスとは何か。』|2012|p=56}}。<br /> <br /> 14世紀に入ると教会の分裂や黒死病の大流行に加えて、[[百年戦争 (1337-1368)|百年戦争]]の影響によって大規模な建築造営が見られなくなった{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=64}}。取って代わるように王侯貴族の邸宅や都市の公共施設といった世俗的な実用建築が行われるようになり、用途や地域に即した分極化が進行した{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=64}}。14世紀後半には骨組の構造が複雑化し、装飾的に入り組んだ肋骨構造や曲線を絡み合わせた狭間造りといった特徴が見られるようになる{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|pp=64-67}}。ルーアンの[[ルーアン大聖堂|ノートルダム大聖堂]]はこの時代の代表的な作例と言える{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=67}}。<br /> <br /> また、絵画は14世紀の後半から芸術において主導的な立場へ昇華した{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=67}}。西欧各地の宮廷に展開された絵画芸術は[[国際ゴシック様式]]と呼ばれ、アヴィニョンで興ったシエナ派の流れを汲む、自然観察に基づく正確な細部の描写と豪奢な宮廷趣味を特徴としている{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=67}}。イタリアの[[ピサネロ]]は国際ゴシック様式の代表的な画家であり、『エステ家の姫君の肖像』など、幻想性豊かな作品を制作している{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=67}}{{Sfn|『西洋絵画史 WHO&#039;S WHO』|2005|p=21}}。フランスではパリ、ブルージュ、アンジェ、ディジョンなどで国際ゴシック様式が開花し、1355年頃に描かれたとされる『フランス国王ジャン善良王の肖像』は俗人を描いた単身肖像画としては最古のものとして知られている{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=67}}。ディジョンにはフランドル出身の画家や工人が多く住み着き、[[メルキオール・ブルーデルラム]]、[[ジャン・マヌエル]]、[[アンリ・ベルショーズ]]といった宮廷画家がフランコ=フラマン派の作品を数多く生み出した{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=68}}。<br /> <br /> その他、装飾写本の分野ではネーデルラント出身で写実的な自然描写と精妙な装飾性を有した写本の制作を得意とする[[リンブルク兄弟|ランブール兄弟]]が知られており、『[[ベリー公のいとも豪華なる時祷書]]』はこの時代の写本芸術の最高峰とされている{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=68}}{{Sfn|『西洋絵画史 WHO&#039;S WHO』|2005|p=15}}。ランブール兄弟の作品は15世紀のパリ派写本工房へ大きな影響を与えた{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=68}}。<br /> <br /> == 近世 ==<br /> [[File:View of the Duomo&#039;s dome, Florence.jpg|thumb|180px|[[フィリッポ・ブルネレスキ]]によって設計された独創的な二重殻構造を持つ[[サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂]]の円蓋。]]<br /> ===イタリア初期ルネサンス美術===<br /> {{main|ルネサンス美術}}<br /> [[ルネサンス]]は「再生」を意味するイタリア語 &#039;&#039;rinascita&#039;&#039; から派生した呼称であり、古典古代文化の復興という思想のもと、ギリシア美術やローマ美術の復活と自然の美や現実世界の価値が再発見され、人間の尊厳が再認識された時代を指す言葉となった{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=70}}{{Sfn|『ルネサンスとは何であったのか』|2008|pp=70-76}}{{Sfn|『ルネサンスとは何か。』|2012|p=20}}。イタリアの建築家で人文主義者であった[[レオン・バッティスタ・アルベルティ]]は「意思さえあれば人間は何事も為し得る」という、人間の可能性に絶大な信頼をよせた言葉を残しており、ルネサンス美術の根底に流れる[[人間中心主義]]という世界観を見事に表現している{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|pp=70-71}}。こうした思想は15世紀前半、市民階級がいち早く台頭した都市[[フィレンツェ]]で芽生えた{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=71}}。<br /> <br /> 建築分野では[[サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂]]の円蓋設計を手がけた[[フィリッポ・ブルネレスキ]]の名が挙げられる{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=71}}。ブルネレスキの設計した聖堂は、ゴシック様式の建築からの明確な離脱を示し、バシリカ式聖堂のエッセンスを取り入れつつも調和と秩序を重要視した人間中心的世界観を体現しており、15世紀にフィレンツェで確立されたルネサンス建築の代表的な作例となった{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=71}}{{Sfn|『ルネサンスとは何であったのか』|2008|p=255}}。こうした理念はアルベルティへ継承され、その理念を元に執筆された三大著作(『絵画論』『彫像論』『建築論』)は同時代を含む後世の芸術家たちに絶大な影響を与えることとなった{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=71}}{{Sfn|『ルネサンスとは何であったのか』|2008|p=265}}。また、古代ローマ建築の実測を行うことで、科学的遠近法を発見したことでも後世に大きな影響を残している{{Sfn|『西洋美術の歴史』|2001|p=225}}。<br /> <br /> ブルネレスキの死後はアルベルティが台頭することとなる{{Sfn|『西洋美術の歴史』|2001|p=227}}。フィレンツェから追放された商人の息子であったアルベルティはローマ教皇庁や諸侯の顧問として西欧各地を歴訪しており、こうしたルネサンス様式がヨーロッパ全土に伝播する間接的な貢献をしていたとも言える{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=71}}。15世紀半ばに入り、共和制の理想が鳴りを潜め、豪商が町の政治を取り仕切るようになると、大富豪の市内邸宅(パラッツォ)の建築が相次ぐようになった{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=72}}。[[ミケロッツォ・ミケロッツィ]]が建設した[[メディチ家]]の市内邸宅(パラッツォ・メディチ・リッカルディ)は秩序と安定を志向するルネサンス建築の思想が表現されたパラッツォの代表的な作例である{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=72}}。<br /> [[File:Donatello - David - Florença.jpg|thumb|left|150px|[[ドナテッロ]]制作の『[[ダヴィデ像 (ドナテッロ)|ダヴィデ]]』。]]<br /> 彫刻分野は古代思想の復活という理念が色濃く示された分野であり、ブルネレスキの『アブラハムの犠牲』など、優雅なゴシック彫刻の伝統を打破する力強い人体の把握や細微な写実性を有した作品が数多く登場した{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=72}}{{Sfn|『西洋美術の歴史』|2001|p=218}}。この分野において、国際ゴシック様式からの脱却を試みた最初の彫刻家は[[オルサンミケーレ聖堂]]の『4人の聖者』などで知られる{{仮リンク|ナンニ・ディ・バンコ|en|Nanni di Banco}}であると言われている{{Sfn|『西洋美術の歴史』|2001|p=218}}。古代ローマ以降で初めてコントラポストを採用し、オルサンミケーレ聖堂の『聖ゲオルギウス』を発表して頭角を現した[[ドナテッロ]]は、『預言者ハバクク』『ダヴィデ』など古代ローマの作風の復活に心血を注ぎ、ルネサンス彫刻の方向性を決定付けた{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=72}}{{Sfn|『ルネサンスとは何であったのか』|2008|p=258}}{{Sfn|『西洋美術の歴史』|2001|p=219}}。特に『ダヴィデ』は二本足で立つ孤立像というジャンルで裸体表現を取り入れたという点において特筆すべき作品となっている{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=72}}{{Sfn|『西洋美術の歴史』|2001|p=220}}。ドナテッロの確立したルネサンス彫刻の様式はその後[[アンドレア・デル・ヴェロッキオ|ヴェロッキオ]]や[[ミケランジェロ・ブオナローティ|ミケランジェロ]]へ受け継がれていくこととなる{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=72}}。その他、サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂の『カントリア』を制作した[[ルカ・デッラ・ロッビア]]、後期ゴシック様式を学びながらも『天国の扉』に見られる透視図法を確立した[[ロレンツォ・ギベルティ]]、墓碑彫刻や写実的な胸像で新境地を開拓したロッセリーノ兄弟([[ベルナルド・ロッセリーノ]]、{{仮リンク|アントーニオ・ロッセリーノ|en|Antonio Rossellino}})などが代表的な彫刻家として知られている{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=74}}{{Sfn|『ルネサンスとは何であったのか』|2008|p=256}}。<br /> [[File:Cappella brancacci, Resurrezione del figlio di Teofilo e San Pietro in cattedra (restaurato), Masaccio.jpg|thumb|250px|[[マサッチオ]]の『テオフィルスの息子の蘇生と教座のペテロ』(1425年-1428年頃)。]]<br /> [[File:Fra Angelico 043.jpg|thumb|250px|[[フラ・アンジェリコ]]の『受胎告知』(1438年-1445年頃)。]]<br /> 建築や彫刻分野と比較して絵画分野における革新性の確立は若干遅く1420年代前半ごろであり、これは古典古代における手本とすべき遺品がこの当時ほとんど知られていなかったことが影響していると考えられている{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|pp=74-75}}{{Sfn|『西洋美術の歴史』|2001|p=228}}{{refnest|group=注釈|15世紀のルネサンス時代に生きた画家が見ることが出来たローマ時代の壁画としては、[[トラヤヌス浴場]]の下から発掘された[[ドムス・アウレア]]ぐらいであったとされている{{Sfn|『ルネサンスとは何であったのか』|2008|pp=72-74}}。}}。1421年にフィレンツェへ移住してきた国際ゴシック様式の画家[[ジェンティーレ・ダ・ファブリアーノ]]が制作した『マギの礼拝』に僅かながらその片鱗を見ることができるものの、空間に対する配慮は乏しく、目新しさはあまり無い状態であった{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=75}}。しかし、[[マサッチオ]]の登場により、情勢は一変した{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=75}}{{Sfn|『西洋美術の歴史』|2001|p=228}}。[[ジョット・ディ・ボンドーネ]]がかつて確立した僅かばかりの空間表現に、光の明暗によって量感を表現する手法が融合され、より奥深い空間を手に入れることに成功したのである{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=76}}{{Sfn|『ルネサンスとは何であったのか』|2008|p=264}}。<br /> <br /> さらに、ブルネレスキやアルベルティによって合理的な透視図法の理論が構築されると、多くの画家がその刺激を受けて次々と実験的な作品が誕生した{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=77}}。彩色や光の扱い方が拙いながらも透視図法の研究に没頭し、『ジョン・ホークウッド騎馬像』や『サン・ロマーノの戦い』などの作品を発表した国際ゴシック様式の画家[[パオロ・ウッチェロ]]はその最たる例である{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=77}}{{Sfn|『ルネサンスとは何であったのか』|2008|p=259}}。その後、修道僧画家の[[フィリッポ・リッピ]]、[[フラ・アンジェリコ]]らによってマサッチオの様式が取り入れられる{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=77}}。リッピは日常的室内に聖母子を配置したネーデルラント風の絵画を制作した他、人間中心主義を根底に世俗的かつ官能的な聖母や肉感的なイエスなどを描き出している{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=77}}。『受胎告知』などの作品で知られるフラ・アンジェリコは1430年代以降においてマサッチオの空間表現や明暗描写を積極的に取り入れた宗教画を多数制作した{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=77}}。正確な一点透視図法を採用し、聖会話形式(サクラ・コンヴェルティオーネ)の表題を確立した{{仮リンク|ドメニコ・ヴェネツィアーノ|en|Domenico Veneziano}}もマサッチオの影響を受けた画家の一人である{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=77}}{{Sfn|『西洋美術の歴史』|2001|p=231}}。<br /> [[File:Sandro Botticelli - La nascita di Venere - Google Art Project - edited.jpg|thumb|left|250px|[[サンドロ・ボッティチェッリ]]の『[[ヴィーナスの誕生]]』(1483年頃)。]]<br /> 15世紀後半に入るとフィレンツェで熟成されたルネサンスはイタリアの各都市へ波及していくこととなった{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=77}}。そして、[[フェデリーコ・ダ・モンテフェルトロ]]や[[イザベラ・デステ]]といった人文主義的な君主の治世によって、各都市で豊かな文化活動が育まれた{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|pp=77-78}}。南トスカーナのアレッツォ、およびトスカーナ公国で精力的に作品制作に没頭した数学者で画家の[[ピエロ・デラ・フランチェスカ]]は、15世紀中期における最大の巨匠として知られ、『聖十字架伝説』に代表されるフレスコ壁画の分野では、一切の無駄を排除し、幾何学的とも言える明晰で秩序立った画面を構築している{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=78}}{{Sfn|『西洋美術の歴史』|2001|p=233}}。<br /> <br /> 一方、絵画・彫刻双方の主題に「動勢」が取り入れられるようになり、[[アントニオ・デル・ポッライオーロ]]による力を孕んだ写実的な筋肉の描写や、ヴェロッキオの『キリストの洗礼』に代表される解剖学的知識を導入した生々しい人体表現を持った作品が登場するようになったのも15世紀後半の出来事であった{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=79}}。また、富の蓄積とこれに伴う趣味の贅沢化によって優美で装飾的な様式を持った作品が流行を来し、[[サンドロ・ボッティチェッリ]]の『[[ヴィーナスの誕生]]』に代表される恥美的世界観を表現した作品が生まれている{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=79}}。その他、[[アンドレア・マンテーニャ]]や[[ジョヴァンニ・ベリーニ]]もフィレンツェ以外に活動の拠点を置いた同時代の画家として知られ、ルネサンスの波及を象徴している{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|pp=79-80}}。<br /> <br /> 15世紀末期には教皇分立時代以降沈滞していたローマにおいても、ボッティチェッリ、[[ドメニコ・ギルランダイオ|ギルランダイオ]]、[[ペルジーノ]]らによって[[システィーナ礼拝堂]]の壁面装飾事業が行われるなど、ローマ法王主導の下、旺盛な芸術活動が展開された{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=80}}{{Sfn|『ルネサンスとは何であったのか』|2008|p=149}}。1492年に[[ロレンツォ・デ・メディチ]]が没し、フィレンツェが禁欲的な[[ジロラモ・サヴォナローラ]]の支配下に置かれたことによってローマの芸術活動はさらに盛り上がりを見せ、16世紀にはイタリア美術の中心地へと発展していくこととなる{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=80}}{{Sfn|『ルネサンスとは何であったのか』|2008|pp=124-125}}。<br /> <br /> [[File:Jan van Eyck The Virgin of Chancellor Rolin.jpg|thumb|250px|[[ヤン・ファン・エイク]]の『[[宰相ロランの聖母|ニコラ・ロランの聖母]]』(1435年頃)。]]<br /> ===15世紀の北方美術===<br /> {{main|北方美術}}<br /> [[ブルゴーニュ公国]]に属していた15世紀のネーデルラントでは、毛織物工業の発展と国際貿易の振興によって市民階級の台頭目覚しく、豊かな経済と文化が形成された{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=81}}。特に、フランドル地方で発祥した油彩技法は発色に優れ、精緻な質感描写や視覚的世界のリアルな再現を可能とし、西欧全土へと伝播して今日までの揺ぎ無い地位を確立した{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=81}}{{Sfn|『ルネサンスとは何か。』|2012|p=32}}。ネーデルラントではこうした背景から初期の北方ルネサンスに該当するものは15世紀の絵画に限定され、建築分野や彫刻分野はあくまでゴシック美術の枠内に留まっていたと考えられている{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=81}}。<br /> <br /> さて、この新しい油彩技法が採用された最初の作品として挙げられるのは、兄[[フーベルト・ファン・エイク|フーベルト]]が着手し、弟[[ヤン・ファン・エイク|ヤン]]が完成させたファン・エイク兄弟による『ヘントの祭壇画』である{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=81}}{{refnest|group=注釈|両者の担当区分については議論が交わされてきたが、平面性を重視した構図を採用した部分がフーベルト、アダム、イヴの仰瞰像および現実的な奥行き感を表現した受胎告知の部分がヤンの手によるものであるとするのが今日の定説となっている{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|pp=81-82}}。}}。ヤンは[[フィリップ3世 (ブルゴーニュ公)|フィリップ3世]]の宮廷画家としてその後も精力的な活動を続け、数々の宗教画や肖像画を制作している{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=82}}。中でも『ニコラ・ロランの聖母』は、室内に視点を設定しつつもテラスの向こう側に透視図法に従った精微な風景を描くことによって、不自然さを感じさせること無く室内と外景の統合に成功した画期的な作品として特筆される{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=82}}。ヤンの空気遠近法を駆使した奥行き感の描写は以後のネーデルラント画派へ受け継がれていき、北方ルネサンスの大きな特徴として取り上げられるまでになった{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=82}}。<br /> [[File:Robert Campin 010.jpg|thumb|left|250px|[[ロベルト・カンピン]]の『メロードの祭壇画』(1430年頃)。]]<br /> 同じ頃、トゥルネーで活躍していた[[ロベルト・カンピン]]は写実的な技法で描かれた日用品の多くにキリスト教の象徴的意味を秘めさせた作品を制作し、こうしたテクニックがカンピンを師事した[[ロヒール・ファン・デル・ウェイデン]]によって継承された{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=83}}。ウェイデンは肖像画においても卓越した手腕を見せ、1450年に訪れたイタリアでも賞賛を受けている{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=83}}。<br /> <br /> その後はヤンやロヒールの技法様式に色濃く影響を受けた[[ディルク・ボウツ]]、[[フーゴー・ファン・デル・グース]]、[[ハンス・メムリンク]]らがルーヴァン、ヘント、ブルッヘなどを中心に活躍した{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=83}}。特にファン・デル・グースが作成した羊飼いたちの写実的表現と細微な風景の装飾的な配置が施された『ポルティナーリ祭壇画』は、後にフィレンツェに持ち込まれ、フィレンツェの画家たちに大きな影響を与えた{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=83}}。一方、[[ヒエロニムス・ボス]]は同時代の異色の画家として知られ、人間の悪徳とその懲罰という中世的な思想背景をもとに生み出された数多くの怪物や地獄の描写は、やがて到来するシュールレアリスムを予告しているかのように見られている{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=83}}{{Sfn|『ルネサンスとは何か。』|2012|p=114}}。<br /> <br /> 同時代のフランスは百年戦争終結後も市民階級の台頭が見られず、宮廷周辺のごく限られた範囲での芸術活動に留まっていた{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|pp=83-84}}。そのような中、[[シャルル7世 (フランス王)|シャルル7世]]の宮廷画家をしていた[[ジャン・フーケ]]が『聖母子』など、イタリア初期ルネサンスの影響を受けた作品を制作している{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=84}}。しかし、{{仮リンク|アンゲラン・カルトン|en|Enguerrand Quarton}}など、少数の例外を除いてこうした作品は浸透せず、ミニアチュールの制作が主流を占めていた{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=84}}。<br /> <br /> 対してドイツの美術はネーデルラント絵画の影響下にあり、[[シュテファン・ロッホナー]]や[[コンラート・ヴィッツ]]などが活躍した{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=84}}。特に、ヴィッツの『奇蹟の漁獲』は特定可能な現実の景観を描いた最初の作例として良く知られている{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=84}}。15世紀後半に入ると、{{仮リンク|ミヒャエル・パッハー|en|Michael Pacher}}によって雄渾な絵画や細微な彫刻祭壇が制作された{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=84}}。また、新しい分野として版画美術が伸張し、[[マルティン・ションガウアー]]の登場で技法はさらに洗練され、後世の巨匠[[アルブレヒト・デューラー]]の芸術を育んだ土壌を形成している{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=84}}。<br /> <br /> [[File:David von Michelangelo.jpg|thumb|150px|[[ミケランジェロ・ブオナローティ]]の『[[ダビデ像 (ミケランジェロ)|ダヴィデ]]』。]]<br /> ===イタリア盛期ルネサンス美術===<br /> {{main|盛期ルネサンス}}<br /> イタリアルネサンスのうち、15世紀末から16世紀初頭にかけての約30年間は特に盛期ルネサンスと呼称し、区別される{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=86}}。これは19世紀に定まった芸術観を背景として、この時代を古代ギリシア・ローマと並ぶ西洋美術の完成期と見做し、それ以前を完成に至る準備段階として軽視していた考え方が根付いたためである{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=86}}。しかし、今日では「初期ルネサンス」「盛期ルネサンス」を比較し、どちらが優れているかといった考え方は改められ、それぞれに特質や魅力が備わっている別個の美術として理解されてきており、その違いを区別するための名称として使用されるようになっている{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=86}}{{Sfn|『西洋美術の歴史』|2001|p=241}}。主たる舞台は[[ユリウス2世 (ローマ教皇)|ユリウス2世]]の庇護のもとで活気を取り戻したローマと、東方とヨーロッパ諸国を結ぶ貿易で巨万の富を築いたヴェネツィアである{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=87}}{{Sfn|『ルネサンスとは何であったのか』|2008|pp=216-218}}。<br /> [[File:Mona Lisa, by Leonardo da Vinci, from C2RMF retouched.jpg|thumb|left|150px|[[レオナルド・ダ・ヴィンチ]]の『[[モナ・リザ]]』。]]<br /> 1470年代から活動をはじめた[[レオナルド・ダ・ヴィンチ]]は、新しい芸術様式の創始者として活動当時から認識されており、巨匠と呼ぶにふさわしい功績を数多く獲得した{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=87}}。ヴェロッキオを師としてフィレンツェで修行を積んだ後、軍事技師、画家、彫刻家、建築家としてミラノ公の宮廷に仕えたレオナルドは、その多才ぶりを遺憾なく発揮し、多数の作品を後世に伝え、現代に至るまでの芸術家に大きなインパクトを残している{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=87}}{{Sfn|『ルネサンスとは何であったのか』|2008|p=279}}。<br /> <br /> 絵画では『[[最後の晩餐 (レオナルド)|最後の晩餐]]』や『[[モナ・リザ]]』などを制作しており、特に『モナ・リザ』に使用された新しい技法であるスフマート(ぼかし)は、画面に新たな統一感をもたらし、人物に精気と神秘的雰囲気を与える技法として西洋絵画の様相を一変させるほどの影響を与えた{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=88}}{{Sfn|『ルネサンスとは何か。』|2012|p=40}}{{refnest|group=注釈|スフマート自体はつたないながらも先に描いた『岩窟の聖母』で使用が試みられている{{Sfn|『西洋美術の歴史』|2001|pp=242-244}}。}}。また、自然科学の分野では、鋭い観察力と的確な描画力で解剖学や水力学などの研究に先駆的な業績を残したことも特筆すべき事項である{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=87}}{{Sfn|『ルネサンスとは何か。』|2012|p=42}}。<br /> <br /> 一方、ギルランダイオに師事した[[ミケランジェロ・ブオナローティ]]は人体における新しい表現様式を確立させ、彫刻、絵画の分野において突出した作品を生み出した{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=88}}{{Sfn|『ルネサンスとは何か。』|2012|p=48}}。ミケランジェロが制作した『ダヴィデ』はルネサンス全体を通して代表的な作品として知られている{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=88}}{{Sfn|『西洋美術の歴史』|2001|p=247}}。ローマに赴いた後、ミケランジェロは[[システィーナ礼拝堂]]の[[システィーナ礼拝堂天井画|天井画]]を手がけ、『創世記』の諸場面やキリストの祖先たちの姿を描き出している{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=88}}。特に『アダムの創造』では超越者と人間アダムの邂逅が印象的なタッチで描かれ、アダムの姿は盛期ルネサンスにおける理想的人間像として高い評価を獲得した{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=88}}。従来、ミケランジェロは色彩の乏しい画家との評価がなされてきたが、『アダムの創造』が洗浄され、その色使いが露になったことで、その評価を覆した作品としても名高い{{Sfn|『西洋美術の歴史』|2001|p=249}}。<br /> <br /> また、同じシスティーナ礼拝堂に描かれた『最後の審判』では、悲劇的な装いの中にもヘレニズム彫刻的な逞しさを身に纏ったキリストらの肉体を描き出している{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=88}}。1546年に[[ドナト・ブラマンテ]]の後を継いで[[サン・ピエトロ大聖堂]]建築の総監督に任じられるとブラマンテの構想を継承しつつ、新たに円蓋および建物後方部の設計を行っており、古代建築の本質を体現させた{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|pp=88-90}}。<br /> [[File:Raffael 058.jpg|thumb|250px|[[ラファエロ・サンティ]]の『[[アテナイの学堂]]』。]]<br /> ペルジーノに師事した[[ラファエロ・サンティ]]は、レオナルドやミケランジェロの業績を巧みに取り入れ、20代半ばの若さで独自の人物表現と画面構成の形式美を確立させ、『[[アテナイの学堂]]』に代表される[[バチカン宮殿]]の壁画を制作している{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|pp=90-92}}{{Sfn|『ルネサンスとは何であったのか』|2008|p=292}}{{Sfn|『西洋美術の歴史』|2001|p=253}}。ラファエロが確立した形式美は盛期ルネサンス以降の代表的規範として17世紀から19世紀にかけての多くの画家に影響を与え続けた{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=92}}{{Sfn|『ルネサンスとは何か。』|2012|pp=51-52}}。<br /> [[File:Tizian 085.jpg|thumb|left|180px|[[ティツィアーノ・ヴェチェッリオ]]の『[[エウロペの略奪 (ティツィアーノ)|エウロペの掠奪]]』。]]<br /> この時代、教会や公共施設による注文以外にも富裕層からの注文による美術品の制作が盛んに行われ、[[ジョルジョーネ]]の『嵐』に代表されるような周知の物語主題から逸脱した、絵画の感覚的魅力を優先する作品が数多く登場したのも、盛期ルネサンスの特色のひとつと言える{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=92}}。<br /> <br /> こうした市場ニーズに呼応してヴェネツィアでは色彩と絵具の塗り方が重要な地位を占めるようになり、デッサンに彩色するフィレンツェの技法に対して色彩で造形するという新しい技法が誕生した{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=92}}。レオナルドのスフマートを取り入れつつ、この技法を確立させたのがジョルジョーネであり、早世したジョルジョーネの後を受け継いで油彩技法のあらゆる可能性を探究した[[ティツィアーノ・ヴェチェッリオ]]であった{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|pp=92-93}}{{Sfn|『ルネサンスとは何であったのか』|2008|pp=232-233}}。<br /> <br /> 宗教画家・肖像画家としても絶大な人気を誇っていたティツィアーノであるが、『芸術家列伝』を著した[[ジョルジョ・ヴァザーリ]]は、ティツィアーノが描いた『[[エウロペの略奪 (ティツィアーノ)|エウロペの掠奪]]』について「近くから見るとわけがわからないが、離れて見ると完璧な絵が浮かび上がってくる」と評しており、近代油彩画の創始者としてしばしば名が挙げられるようになっている{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=93}}{{Sfn|『西洋美術の歴史』|2001|p=257}}。同時に、静的な伝統を持つヴェネツィア絵画にダイナミズムを導入したこともティツィアーノの功績として知られている{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=93}}。<br /> [[File:Tintosoup.jpg|thumb|250px|極端な短縮法や奇抜な遠近法といったマニエリスム独特の技法が用いられている[[ティントレット]]の『最後の晩餐』。]]<br /> <br /> ===マニエリスム美術===<br /> {{main|マニエリスム}}<br /> [[マニエリスム]]という言葉は「様式」や「手法」を意味するイタリア語 &#039;&#039;maniera&#039;&#039; から来た言葉で、ヴァザーリはこれを「自然を凌駕する高度の芸術的手法」と定義付けた{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=93}}。しかし、17世紀に入った頃より、生み出される芸術は創造性を失い、盛期ルネサンス時代の巨匠たちの模倣に過ぎないと見做されるようになり、否定的呼称として用いられるようになる{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|pp=93-95}}。その後、21世紀に入って対比評価と切り離され、盛期ルネサンスの特徴であった自然らしさと自然ばなれの調和が崩れ、自然を超えた洗練、芸術的技巧、観念性が存在する作品が登場した盛期ルネサンス後の芸術的動向を指し示す時代様式名として用いられるようになった{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=95}}。<br /> <br /> 最初にマニエリスムの名が冠されたのは、ルネサンスの古典的調和への意識的反逆と解釈された[[ヤコポ・ダ・ポントルモ]]や[[ロッソ・フィオレンティーノ]]の作品であった{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=95}}。しかしながら、ミケランジェロの後半期作品をマニエリスムに含める見方や、[[アーニョロ・ブロンズィーノ]]、[[ベンヴェヌート・チェッリーニ]]、[[ジャンボローニャ]]のような社会に享受された奇想を指してマニエリスムと呼称する解釈もあり、その範囲や定義は今日なお流動的である{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=95}}。<br /> [[File:Chiesa gesu facade.jpg|thumb|left|180px|イエズス会の母教会として建築された[[ジェズ教会|イル・ジェズ聖堂]]。]]<br /> 16世紀初頭は盛期ルネサンスの様式とマニエリスム美術が混ざり合った混沌とした時代であったが、アルプス以北の諸国では比較的早くからマニエリスム美術が受容され、[[フォンテーヌブロー派]]による作品が複数残されている{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=95}}。ヴェネツィアでは盛期ルネサンスが他地域よりも持続するが、16世紀後半に入ると[[ティントレット]]が登場し、その画風にマニエリスムの特徴が見て取れるようになる{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=95}}。その後、ティントレットの影響を受けたクレタ島出身の[[エル・グレコ]]が、ローマでミケランジェロの芸術に感化され、スペインのトレドでマニエリスム的特徴とヴェネツィア絵画的筆致を融合させた宗教画を作成している{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=95}}。<br /> <br /> 一方、パルマでは[[コレッジョ]]がマンテーニャの試みを発展させた、感覚的魅力に溢れた作品を制作しており、その中で導入された明暗対比の強調や、天井画におけるダイナミックな上昇表現などは、後世のバロック美術の到来を予告しているかのような雰囲気を醸している{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=95}}。その他、盛期ルネサンスとバロック美術の橋渡し的な存在となった画家としては[[パオロ・ヴェロネーゼ]]がいる{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=96}}。ヴェロネーゼが制作した『レヴィ家の饗宴』は当初、『最後の晩餐』と題していたが、主題と無関係な人物を多数描き込んだ事で異端尋問にかけられ、「美しい絵を作る画家の自由」を主張し、タイトルの変更を余儀なくされた作品として知られている{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=96}}。<br /> <br /> 建築分野では『建築四書』を著した[[アンドレーア・パッラーディオ]]の名が挙げられる{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=96}}。パッラーディオが設計した[[ヴィラ・アルメリコ・カプラ]]は古典主義建築の規範を示す作品として19世紀に至るまで国際的影響力を固持した{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=96}}。16世紀後半には[[ジャコモ・バロッツィ・ダ・ヴィニョーラ]]、[[ジャコモ・デッラ・ポルタ]]によってイエズス会の母教会『[[ジェズ教会|イル・ジェズ聖堂]]』が建てられ、外観正面のデザインや身廊と円蓋下の明暗対比などの構成要素が、バロック美術における聖堂建築の原形となった{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=96}}。<br /> <br /> [[File:Dürer Melancholia I.jpg|thumb|180px|[[アルブレヒト・デューラー]]の銅版画『[[メランコリア I]]』。]]<br /> ===北方ルネサンス美術===<br /> {{main|北方ルネサンス}}<br /> ドイツのデューラーは、15世紀末から16世紀初頭にかけて行った二度のイタリア旅行を通してルネサンス美術の様式と理念を習得し、人体表現、空間表現において理想とされる技法様式をドイツ絵画へ移入しようと試みた{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=96}}{{Sfn|『ルネサンスとは何であったのか』|2008|p=287}}。この成果は木版画の分野において、ドイツの伝統的な表出性とイタリアの記念碑性を融合させて制作された『黙示録連作』で体現されている{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=96}}。銅版画の分野では[[エングレービング]]技法を極め、『メランコリア I』や『アダムとエヴァ』といった人文主義的内容の作品、理想的裸体像を持った作品を制作し、ルネサンスの母国イタリアへも大きな影響を与えた{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=96}}。また、油彩画では『4人の使徒』が代表的な作品として知られている{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=96}}。その他、『人体均衡論』などの著述にも注力し、後世の芸術家に大きな影響を与えた{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=96}}。<br /> <br /> 線描主体であったデューラーとは対照的に、色彩表現に長けていた[[マティアス・グリューネヴァルト]]は『イーゼンハイム祭壇画』などを制作し、ゴシック末期美術の幻想性を継承した特徴を内包している{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=97}}。また、[[ルーカス・クラナッハ|クラーナハ(父)]]はドイツの森を舞台として古代神話の主題を表現したことで知られている{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=97}}。『ドナウ風景』は西洋美術史上初めて具体的な実景を人間存在抜きで描いた画期的な作品として特筆される{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=97}}。<br /> [[File:Fontainebleau interior francois I gallery 01.JPG|thumb|left|200px|[[フォンテーヌブロー宮殿|フォンテーヌブロー城館]]の『フランソワ1世のギャラリー』。]]<br /> 1517年、[[マルティン・ルター]]によって[[宗教改革]]の機運が高まると美術活動にも深刻な影響を与え、宗教美術が否定的に見られるようになる{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=97}}。[[ハンス・ホルバイン|ホルバイン(子)]]ら宗教画家として活動していた者は次第に肖像画家や宮廷画家へと転向していった{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=97}}。<br /> <br /> フランスでは&lt;span lang=&quot;ja&quot; dir=&quot;ltr&quot;&gt;1494年&lt;/span&gt;のイタリア遠征でルネサンスの美術に触れた[[シャルル8世 (フランス王)|シャルル8世]]によって多くの建築家が招聘され、王室主導の下建築を中心としたフランスルネサンスが開花する{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=98}}。[[フランソワ1世 (フランス王)|フランソワ1世]]の時代にはロワール川流域の城館改修が実施され、ゴシック建築の伝統とイタリアルネサンスの特色が融合された建築物が多数登場した{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=98}}。また、1520年代末にはフォンテーヌブロー城館の改装が始められ、[[ロッソ・フィオレンティーノ]]、[[フランチェスコ・プリマティッチオ]]らを招いて内部装飾を手がけさせた{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=98}}。ここから誕生したイタリアのマニエリスムを体現したロッソらの作品は、フォンテーヌブロー派と呼ばれる宮廷美術様式を生み出す契機になった{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=98}}。その他、ドイツのホルバイン(子)に共通する精緻な様式を確立させた{{仮リンク|ジャン・クルーエ|en|Jean Clouet}}、[[フランソワ・クルーエ]]父子や、チェッリーニの影響を受けつつもフランス独自のルネサンス彫刻を誕生させた[[ジャン・グージョン]]などがいる{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=98}}。<br /> [[File:Pieter Bruegel d. Ä. 106b.jpg|thumb|250px|[[ピーテル・ブリューゲル]]の『雪中の狩人』。]]<br /> 他方、ネーデルラントの絵画美術は15世紀の段階で成熟し、油彩技法や写実的表現においてイタリアに影響を与える側であったが、盛期ルネサンスを迎えて以降は立場が逆転し、イタリアの美術や古典古代の美術を手本として仰ぐようになった{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|pp=98-99}}。16世紀初頭に活動した[[クエンティン・マサイス]]の画風にはレオナルドのスフマートの影響が見て取れ、[[ヤン・ホッサールト]]は古代彫刻風裸体像を描き出している{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=99}}。また、[[ベルナールト・ファン・オルレイ]]は数学的遠近法、短縮法、複雑な運動表現をネーデルラント美術に取り入れた画家として重要である{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=99}}。こうした、15世紀ネーデルラントの精緻な様式からの脱却と、ルネサンスの壮大な様式への推進を行う者を総じて「ロマニスト」と呼び、こうした傾向自体が16世紀ネーデルラント絵画の特徴のひとつとして挙げられる{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=99}}。<br /> <br /> 肖像画においては[[アントニス・モル]]が国際的な活躍を果たしたと同時に、ネーデルラント北部の美術活動の活性化に大きく貢献した{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=99}}。デューラーの影響を受けつつも精緻な銅版画を制作した{{仮リンク|ルーカス・ファン・レイデン|en|Lucas van Leyden}}などは北部で活躍した代表的な美術家の一人である{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=99}}。さらに、1524年にローマからユトレヒトに戻った[[ヤン・ファン・スコーレル]]の影響によってロマニストの活動は北部へも浸透していった{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=99}}。16世紀後半にはプロテスタントの聖像破壊運動などによる宗教的、政治的騒乱が美術活動の発展を妨げたが、16世紀末に登場した[[コルネリス・ファン・ハールレム]]、[[ヘンドリック・ホルツィウス]]らの活躍により、プラハと並んでハールレムが国際マニエリスムの中心地として栄えた{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=99}}。<br /> <br /> 16世紀ネーデルラント絵画のもう一つの特徴としては風俗画、風景画、静物画の自立が挙げられる{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|pp=99-100}}。{{仮リンク|ファン・ヘメッセン|en|Caterina van Hemessen}}および{{仮リンク|ピーテル・アールツェン|en|Pieter Aertsen}}を嚆矢とするこの傾向は、16世紀初頭の[[ヨアヒム・パティニール]]によって大きく前進を見る{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=100}}。パティニールは観察と空想から合成された俯瞰図の中に宗教主題の人物を点景として描き表し、人物と背景の関係性の逆転に成功している{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=100}}。その後、[[ピーテル・ブリューゲル]]によってこの様式は完成され、後世に多大な影響を残した{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=100}}。『雪中の狩人』はその代表的な作品のひとつである{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=100}}{{Sfn|『西洋の美術 視覚とその時代』|2001|p=177}}。<br /> <br /> [[File:Michelangelo Caravaggio 069.jpg|thumb|180px|[[ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジオ]]による『聖母の死』。]]<br /> <br /> ===バロック美術===<br /> {{main|バロック美術}}<br /> 異論はあるものの17世紀の西洋美術時代様式を一般に[[バロック美術]]と称する{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=102}}{{Sfn|『西洋の美術 視覚とその時代』|2001|p=157}}。バロックという言葉の意味については諸説あるが、「規範からの逸脱」を示す形容詞として18世紀末ごろより使用されはじめ、建築を中心とした17世紀の美術に対して否定的な意味で適用された{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=102}}{{Sfn|『西洋の美術 視覚とその時代』|2001|pp=158-159}}。また、狭義には17世紀美術の傾向の一つという意味で使用され、劇的で奔放な特徴を持つ17世紀の作品に対してのみ適用される場合もある{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=102}}{{Sfn|『西洋の美術 視覚とその時代』|2001|p=157}}。<br /> <br /> この時代、盛期ルネサンスの伝統を受け継ぎつつも、より現実に即した表現が強調されるようになり、時間の概念を取り入れた風俗画、風景画、静物画など、実社会により密着したテーマを選定する様式が確立する{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=102}}。活動の舞台はローマを中心に展開されていたが、18世紀初頭にかけて[[ルイ14世 (フランス王)|ルイ14世]]の治世には、フランスが政治面とともに文化面でも中心的役割を果たすようになる{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=102}}。<br /> [[File:Rome Palazzo Farnese ceiling Carracci frescos 04.jpg|thumb|left|250px|[[アンニーバレ・カラッチ]]の『バッカスとアリアドネの勝利』。]]<br /> 16世紀後半、イタリアの美術活動はそのほとんどをヴェネツィアに依拠していたが、この状況を打破しようと[[アンニーバレ・カラッチ]]によって1580年代のボローニャにアカデミア(画塾)が設立される{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=102}}。古代美術と盛期ルネサンス美術の理想性とモデルの写生素描という現実性の融合を試みた追究は広く支持され、[[ボローニャ派]]と呼ばれる新しい作風の体現に成功した{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=102}}。また、カラッチは理想化されたローマ近郊の風景の中に聖書の人物を描き込む「古典主義的風景画」を創始したことでも知られている{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=102}}。<br /> <br /> カラッチの影響を受け、宗教画の人物を現実的な庶民の姿で描き出した[[ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジオ]]の作品は、その斬新な主題の描き方で大きな議論を巻き起こした{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=103}}。冒涜的とみなされ、『聖母の死』の例のように教会に引き取りを拒否される場合もあれば、カラヴァジェスキと呼ばれる狂信的な追従者を生み出す結果にも繋がっており、西欧絵画全体に大きな影響を及ぼした人物の一人であったことは疑いが無い{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=103}}{{Sfn|『西洋の美術 視覚とその時代』|2001|p=160}}。<br /> <br /> 彫刻および建築の分野では[[ジャン・ロレンツォ・ベルニーニ]]がこの時代の代表的な美術家として名が挙げられる{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=103}}。若くして名声を確立したベリニーニは『聖テレジアの法悦』で現実の光を巧みに取り入れた彫刻と建築を組み合わせた作品を制作している{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|pp=103-104}}。その他、多くの噴水彫刻の設計にも携わり、ローマの景観を作り変えたと言われるほどの影響を残した{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=104}}。ベルニーニに師事し、終生のライバルでもあった[[フランチェスコ・ボッロミーニ]]も、独創的な建築表現で名を残した一人である{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=104}}。代表的な建築物としては[[サン・カルロ・アッレ・クワトロ・フォンターネ聖堂]]があり、絵画や浮彫による装飾を必要最低限に抑え、波打つようなカーブや圧力で歪んでいる様な緊張を感じさせる、特異な壁面構成の効果を引き出すことに成功している{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=104}}。<br /> [[File:Ecstasy St Theresa SM della Vittoria.jpg|thumb|180px|[[ジャン・ロレンツォ・ベルニーニ]]による『[[聖テレジアの法悦]]』。]]<br /> フランドルでは[[ピーテル・パウル・ルーベンス|リュベンス]]の登場により新しい絵画の様式が確立される{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|pp=104-106}}。10年近くの間イタリアに滞在し、盛期ルネサンスの美術を習得したリュベンスは、ネーデルラントに帰国した後に制作した『キリスト昇架』によって、ヘレニズム彫刻やミケランジェロを想起させる人体表現とカラヴァッジオに見られる明暗法を見事に融合させ、壮麗で活力漲る独自の方式を完成させた{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|pp=106-107}}。リュベンスはカトリック復興の気運高まる当時の社会背景から多数の祭壇画を制作する一方で各国宮廷に向けた大規模な建築装飾画を創出し、国際的な評価を獲得した。また、晩年にはブリューゲルの伝統を発展させたフランドルの自然を描き出し、風景画の新たな局面を生み出した{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=107}}。<br /> [[File:Johannes Vermeer (1632-1675) - The Girl With The Pearl Earring (1665).jpg|thumb|left|150px|[[ヨハネス・フェルメール]]の『[[真珠の耳飾りの少女]]』。]]<br /> その他、フランドルを代表する画家としては[[アンソニー・ヴァン・ダイク]]、[[ヤーコブ・ヨルダーンス]]などがいる{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=107}}。リュベンスの助手として出発し、[[チャールズ1世 (イングランド王)|チャールズ1世]]の宮廷画家として半生をイングランドで全うしたヴァン・ダイクは、優雅で細線な自身の特徴を活かして肖像画の分野において独自性を発揮し、貴族的肖像画の規範を築き上げた{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=107}}。ヨルダーンスは宗教画や神話画を風俗画的観点で描き出すことを得意とし、庶民的な活力溢れる作品を残している{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=107}}。また、17世紀の美術愛好家の蒐集を描き出した「画廊画」という画種も、フランドルの特徴のひとつとして取り上げられる{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=107}}。<br /> <br /> 16世紀末にオランダ共和国として独立したネーデルラント北部では、国際貿易による経済発展を背景として市民層に向けた作品が大いに発達した{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|pp=107-108}}。市場競争での勝ち残りをかけた熾烈な技巧発達が見られ、卓越した技術を持った画家を数多く輩出した点は特筆に価する{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=108}}。アムステルダムを活動の拠点においた[[レンブラント・ファン・レイン]]はその最たる例である{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=108}}。その他集団肖像画や半身像の風俗画を得意とした[[フランス・ハルス]]、寓意や諺、民間行事を主題とした作品を描き続けた[[ヤン・ステーン]]、日常行為に携わる人物を静物画のタッチで捉えて風俗画の新たな境地を開拓した[[ヨハネス・フェルメール]]などが代表的な画家として挙げられる{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=109}}。とりわけ、フェルメールは19世紀に入ってその近代性が大いに注目を集め、17世紀最大の画家として評価されるに至った{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=110}}。<br /> <br /> 他方、写実的傾向が強まった17世紀のスペインでは[[スペイン黄金世紀|黄金時代]]と呼ばれるほどの美術繁栄がもたらされ、[[ディエゴ・ベラスケス]]や[[フランシスコ・デ・スルバラン]]、[[バルトロメ・エステバン・ムリーリョ]]といった巨匠が登場した{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=111}}。ベラスケスはカラヴァッジオの影響著しい活動初期を経てヴェネツィア絵画やリュベンスとの接触によって自身の技法と様式を洗練させ、視覚的印象を的確に捉える新しい描法を編み出し、『ラス・メニーナス』を始めとする多くの作品を誕生させた{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=111}}。スルバランも同じくカラヴァッジオに強く影響を受けたセビーリャの画家であるが、素朴で神秘主義的な様式を確立させ、静物画や宗教画を厳格な筆致で描き上げた{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=111}}。ムリーリョはフランドル絵画に影響を受けた画家で、華麗な色彩で甘美な宗教画を制作するとともに、風俗画においても人気を博した{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=111}}。写実的傾向の推進は下地となったイスラム美術の影響と相俟ってバロック美術が内包する装飾性の強化に繋がり、この時代のスペイン美術の特徴として表されるようになった{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=111}}。[[スペイン黄金時代美術]]<br /> [[File:Metropolitan Rubens Achelous.jpg|thumb|250px|[[ピーテル・パウル・ルーベンス|リュベンス]]の『アケロオスの祝宴』。]]<br /> フランス絵画では終生をローマで活動した[[ニコラ・プッサン]]、[[クロード・ロラン]]が代表的な画家として取り上げられる{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=112}}{{Sfn|『西洋の美術 視覚とその時代』|2001|p=196}}。ラファエロとカラッチの影響を強く受け、厳格な古典主義様式を確立させたプッサンは『アルカディアの牧人』を筆頭に、古典や神話、聖書の主題を考古学的時代考証を交えて描き出すという理知的な作品の創出に注力した{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=112}}。また、ロランは古典主義的風景画の展開に大きな足跡を残した人物として知られ、ローマ郊外の田園やナポリ湾の風景を理想化して古代の情景として登場させ、過去への郷愁を想起させる詩的風景画を誕生させた{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=112}}。両名の芸術はイタリア、フランスの上流階級層に広く受け入れられ、[[ルイ14世 (フランス王)|ルイ14世]]が設立した王立アカデミーにおいてはラファエロやカラッチとともに規範として仰がれるまでの影響を与えた{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=112}}。一方で建築分野においてはイタリア起源のバロック建築に対して古典主義建築がフランスの様式であるとする考えが広まり、[[クロード・ペロー]]の[[ルーヴル宮殿]]を筆頭に古代風様式に基づく建設が各地で行われた{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|pp=112-113}}。また、[[ジュール・アルドゥアン=マンサール]]、{{仮リンク|ルイ・ル・ヴォー|en|Louis Le Vau}}、[[アンドレ・ル・ノートル]]らによって造営された[[ヴェルサイユ宮殿]]は宮殿建築の範例として大きな影響を与えた{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=113}}。<br /> <br /> ===ロココ美術===<br /> {{main|ロココ美術}}<br /> 1710年代から60年頃までのフランスの美術様式を中心とした時代様式を一般にロココ美術と呼称する{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=114}}。ロココという言葉は、後世の新古典主義時代に[[ルイ15世 (フランス王)|ルイ15世]]時代の美術を軽視して呼び始めた事を嚆矢とし、バロック建築における庭園装飾で使用されたロカイユと呼ばれるデザインに端を発する{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=114}}。現代においては該当する時代の美術を判然とロココ美術と呼ぶようになったため、性質や指向の相反する文化現象が同様の名の下に冠されることが美術史的観点から問題となっている{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=114}}。<br /> [[File:L&#039;Embarquement pour Cythere, by Antoine Watteau, from C2RMF retouched.jpg|thumb|250px|[[アントワーヌ・ヴァトー]]の『キュテラ島の巡礼』。]]<br /> この時代の美術史を概観すると、建築、絵画において特徴的な発展が見られる{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=114}}。{{仮リンク|ガブリエル=ジェルマン・ボフラン|en|Germain Boffrand}}らによって建造された[[オテル・ド・スービーズ]]は、白地に金の装飾が施された壮麗な室内はロココ建築の特徴を現す代表的な作例である{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=114}}。17世紀後半にはギリシア美術、ローマ美術への関心が高まり、[[アンジュ=ジャック・ガブリエル]]によって古代風の柱を採用した[[小トリアノン宮殿]]が建設された{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=114}}。その他、イタリアの建築家[[ジョヴァンニ・バッティスタ・ピラネージ]]はローマ古代遺跡の壮大さを現し、後世[[新古典主義]]や[[ロマン主義]]に大きな影響を与えたことで知られている{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=120}}。<br /> <br /> 工芸分野が黄金時代に達したのはロココ美術の大きな特徴で、家具、金工、服飾、陶器などの各分野で質の高い作品が生み出された{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=115}}。ドイツの[[マイセン (陶磁器)|マイセン]]が飛躍的進歩を遂げたのもこの時代である{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=115}}。彫刻分野では{{仮リンク|ジャン=バティスト・ピガール|en|Jean-Baptiste Pigalle}}、{{仮リンク|エティエンヌ=モーリス・ファルコネ|en|Étienne Maurice Falconet}}、[[ジャン=アントワーヌ・ウードン]]らが活躍したが、主要な領域たりえるには至らなかった{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=115}}。<br /> <br /> 絵画におけるロココ美術の始祖は[[アントワーヌ・ヴァトー]]であると言われている{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=115}}。フランドル地方出身のヴァトーは、パリでの修行過程において様々なテーマ、様式の美術と接触することで才能が開花した{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|pp=115-117}}。中期の代表作『キュテラ島の巡礼』に示された戸外での男女の戯れを表現する画題は「雅な宴(フェート・ギャラント)」と呼ばれ、ロココ美術を語る際に不可欠な要素へと昇華し、{{仮リンク|ニコラ・ランクレ|en|Nicolas Lancret}}や{{仮リンク|ジャン=バティスト・パテル|en|Jean-Baptiste Pater}}などによって追随する形で同様の画題作品が発表されるなど、同年代を含む後世の画家に多大な影響を与えた{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=117}}{{Sfn|『西洋の美術 視覚とその時代』|2001|pp=210-212}}。フェート・ギャラントは[[ポンパドゥール夫人]]の庇護を受けた[[フランソワ・ブーシェ]]によって官能性を帯びた雰囲気を醸し出すようになり、ヨーロッパ中へ広まった{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=117}}{{Sfn|『西洋の美術 視覚とその時代』|2001|pp=216-217}}。こうした画風はロココ美術最期の画家とされた[[ジャン・オノレ・フラゴナール]]へと受け継がれていくこととなる{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=118}}。一方で市民的な感性では家族的テーマが好まれる時代となり、[[ジャン・シメオン・シャルダン]]や[[ジャン=バティスト・グルーズ]]に代表されるような市井の人々の様子を描いた人物画や、中産階級の家庭の一端を描いた静物画などが数多く生み出された{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=118}}{{Sfn|『西洋の美術 視覚とその時代』|2001|p=217}}。<br /> <br /> また、18世紀中ごろより定期的にサロンが開かれるようになり、芸術品が不特定多数の目に触れる機会を持つようになった{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=119}}。これによって[[ドゥニ・ディドロ]]に代表される美術批評の誕生、画商の増加といった社会的傾向が発生し、芸術家とパトロンの関係性に変化が見られるようになったのも時代の特徴を示す出来事として挙げられる{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=119}}。<br /> <br /> 一方、イタリアでは[[アレッサンドロ・マニャスコ]]、{{仮リンク|ジュゼッペ・マリア・クレスピ|en|Giuseppe Crespi}}らによって新しい方向性を持った絵画が生み出された{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=120}}。18世紀に入ると[[ジョヴァンニ・バッティスタ・ティエポロ]]が登場し、白を基調とした明るい天井画や壁画を制作し、重量感を取り去った自由な装飾作品が生まれている{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=120}}。また、イギリスでは大陸美術の輸入により絵画技法が飛躍的に向上したのが18世紀で、19世紀に到来する黄金期の準備段階のような時代となった{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=119}}。代表的な画家としては[[トマス・ゲインズバラ]]、[[ジョシュア・レノルズ]]などがいる{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=119}}。<br /> <br /> == 近代 ==<br /> [[File:Psyche revived Louvre MR1777.jpg|thumb|200px|[[アントニオ・カノーヴァ]]の『アモールとプシケー』。]]<br /> [[File:Église de la Madeleine 3753x3156.jpg|thumb|200px|[[マドレーヌ寺院]]&lt;br&gt;-[[1842年]]]]<br /> ===18世紀から19世紀の美術 ===<br /> {{main|新古典主義|ロマン主義|写実主義}}<br /> フランス革命から第二帝政期に至る18世紀から19世紀にかけてのフランスを中心とした美術様式は、一般に新古典主義、ロマン主義、写実主義の3期に分けて考えられている{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=122}}。18世紀前半に火山噴火によって埋没したローマの古代都市[[ヘルクラネウム]]、[[ポンペイ]]が発見されたことにより、古典・古代の美術を自身の規範としようという機運が高まり、[[ヨハン・ヨアヒム・ヴィンケルマン]]の思想的支柱を得たことでギリシア美術の模倣を尊ぶ志向がヨーロッパ中を席巻する{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=122}}{{Sfn|『西洋の美術 視覚とその時代』|2001|p=222}}。これは、享楽主義的なロココ美術に反感思想を持つ人々の運動であったとも言われている{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=122}}。その後、ナポレオンの帝政期を経ることでフランスでは帝国の栄光を誇示する美術様式へと変容していき、各国に対する影響力を衰退させる事となった{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=122}}。ナポレオンは絵画を重要なプロパガンダ手段として捉えていたこともあり、皇族の儀式を描いた作品や家族や側近の肖像がなどが大量に制作された{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=122}}。しかし、こうした動きは若い芸術家を中心に焦燥感をもたらす結果となり、主観的な激情に溢れ、社会的矛盾を糾弾するリアリスティックな作品が登場する素地を形成した{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=122}}。同時に、フランス美術の影響力から脱却した周辺各国は国々の歴史や風土に根ざした美術の開花を促進させ、普遍的な古典・古代美術の模倣から国々の特殊性へと関心が移行することとなった{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=123}}。これにより、古典的様式が最良とする考え方は捨て去られ、時と場合に応じた適切な美術様式が選択される折衷主義とも呼べる様式が到来することになった{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=123}}。19世紀中ごろには支配層への不満を募らせた市民社会に対応するかのごとく、社会の現実に目を向け、身の回りの自然を描いた風景画が制作されるようになり、フランス文学とも連動して近代芸術の基調を形成する一大潮流が形作られた{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=123}}。<br /> [[File:Jacques-Louis David 007.jpg|thumb|left|200px|[[ジャック=ルイ・ダヴィッド]]の『アルプスを越えるナポレオン』。]]<br /> 建築分野では古代建築遺構の本格的な調査によって建築部位の比例や柱式の決定が討議され、18世紀後半に入ると古代建築を規範とした建物の造営が本格化した{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=123}}。パリの[[サント=ジュヌヴィエーヴ修道院]]を建設した{{仮リンク|ジャック=ジェルマン・スフロ|en|Jacques-Germain Soufflot}}は、コリント式の列柱廊を採用し、古代美術の端正で素朴な様式を取り込むことに成功している{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=123}}。また、古典古代建築への関心から幾何学的比例を重視し、[[ラ・ヴィレットの関門]]や[[アル=ケ=スナンの王立製塩所]]を創出した[[クロード・ニコラ・ルドゥー]]や[[アイザック・ニュートン記念碑]]を設計した[[エティエンヌ・ルイ・ブーレー]]は、空想的建築という新境地を開拓した{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=123}}。考古学的関心が薄れ、帝国の威信表現が横行するようになると特定の建築様式が重視されることが無くなり、過去の様々な様式の応用によって建築がなされた{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=123}}。[[マドレーヌ聖堂]]、[[カルーゼル凱旋門]]、[[マルメゾン城]]、[[ウェストミンスター宮殿]]などが代表的な建築物として知られている{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|pp=123-124}}。<br /> <br /> 新古典主義時代の彫刻分野は規範とする古典古代の作例が充実していたこともあり、重要な美術分野として位置付けられた{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=124}}。イタリアの[[アントニオ・カノーヴァ]]は代表的な彫刻家のひとりで、古代志向の特徴を忠実に再現した上で近代彫刻の複雑な構成を融合させることに成功し、『アモールとプシケー』などを制作した{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=124}}。カノーヴァと双璧をなしたデンマークの[[ベルテル・トルバルセン]]はヘレニズム時代の彫刻に強い影響を受け、端正で典雅な作品を発表した{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=124}}。その他、イギリスの{{仮リンク|ジョン・フラックスマン|en|John Flaxman}}は形態把握と構成を古代彫刻に倣いつつもゴシック美術を彷彿とさせる流麗な作品を発表している{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=124}}。新古典主義以降は材質の変化があらわれ、大理石以外の石材や青銅が好んで用いられるようになった{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|pp=124-125}}。また、表題も裸体に代わって時代考証を経た服装を纏うようになった{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=125}}。しかし、美術全体で見ると新古典主義以降は絵画の影響強く低調に推移し、[[エトワール凱旋門]]の浮彫装飾を制作した{{仮リンク|フランソワ・リュード|en|François Rude}}、肖像彫刻を数多く制作した{{仮リンク|ダヴィッド・ダンジェ|en|David d&#039;Angers}}、動物彫刻という異質性が話題となった{{仮リンク|アントワール・ルイ・バリー|en|Antoine-Louis Barye}}ら若干名の活躍に留まった{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=125}}。<br /> [[File:Theodore Gericault Raft of the Medusa-1.jpg|thumb|200px|政府への批判が込められた作品として大きな話題を巻き起こした[[テオドール・ジェリコー]]の『[[メデューズ号の筏]]』。]]<br /> 絵画分野において、フランスでは1760年代に登場した{{仮リンク|ジョゼフ=マリー・ヴィアン|en|Joseph-Marie Vien}}がロココ風のテーマの絵に古代の構図やポーズを借用した作品を発表して人気を博し、新古典主義時代の口火を切った{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=126}}。その後、[[ドゥニ・ディドロ]]の影響を受けた[[ジャン=バティスト・グルーズ]]によってローマ史を主題とした作品が制作され、1780年代に入るとヴィアンに師事した[[ジャック=ルイ・ダヴィッド]]が登場して、新古典主義の栄華は頂点に達する{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=126}}{{Sfn|『西洋の美術 視覚とその時代』|2001|p=220}}。ナポレオン革命期において、「皇帝の主席画家」の称号を得たダヴィッドが残した数多くの作品は後世の多方面に大きな影響を与えた{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=126}}。『[[ホラティウス兄弟の誓い]]』『[[ソクラテスの死]]』といった物語画はプッサンの影響が強く表われた作品に仕上がっており、『テニスコートの誓い』『マラーの死』などは革命期の視覚的記録として重要な意味を持つ作品として位置付けられている{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=126}}。<br /> <br /> 次代には優美なタッチで古代の叙情を再現した[[ピエール=ポール・プリュードン]]、劇的な表現描法を特徴とした[[ピエール=ナルシス・ゲラン]]らが登場し、新古典主義の作風に影響を受けつつもその変容を見ることが出来る{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=126}}。また、[[フランソワ=ルネ・ド・シャトーブリアン]]の小説挿絵を担当した{{仮リンク|アンヌ=ルイ・ジロデ=トリオゾン|en|Anne-Louis Girodet de Roussy-Trioson}}は、古典的な形態に強い明暗を加えたことでロマン主義的な要素の萌芽を示した{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=126}}。一方、同時代のナポレオンの肖像画や遠征絵画を制作していた[[アントワーヌ=ジャン・グロ]]、[[ドミニク・アングル]]らは新古典主義の正当後継者として、色彩に対する線の優位性、静的な構図といった新古典主義の綱領を最後まで保持した画家として知られている{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=126}}。その他、アングルの弟子からは[[テオドール・シャセリオー]]が頭角を現し、東洋的主題の作品を制作してロマン主義的資質を示した{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=128}}。<br /> [[File:Jean-François Millet (II) 002.jpg|thumb|left|200px|写実主義絵画を代表する作品として知られる[[ジャン=フランソワ・ミレー]]の『[[落穂拾い]]』。]]<br /> 1819年には[[テオドール・ジェリコー]]が1816年に起きたフリゲート艦メデューズ号の難破事件という時事的テーマを取り上げて『[[メデューズ号の筏]]』を発表したことで大きな議論が巻き起こる{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=128}}。ジェリコーの作品は激しいタッチと運動感の描写によって表現され、その非古典主義的なテーマの開拓はロマン主義絵画の先駆者として名が上げられる一因となった{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=128}}。その後、『ダンテの小舟』を描いた[[ウジェーヌ・ドラクロワ]]によって粗いタッチによる動的表現、東洋的主題の採用、色彩の乱舞といったロマン主義絵画の作風が示され、近代絵画の成立に多大なる影響を残した{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=128}}。一方、同世代の[[ポール・ドラローシュ]]はロマン主義的主題を完璧な新古典主義様式で描き出すという移行期ならではの作風で一世を風靡した{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|pp=128-130}}。[[エコール・デ・ボザール]]の講堂壁画はその代表的な作品のひとつである{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=130}}。<br /> [[File:Rain Steam and Speed the Great Western Railway.jpg|thumb|200px|[[ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナー]]の『雨、蒸気、速力 - グレート・ウェスタン鉄道』。]]<br /> 以上に挙げたように、19世紀前半のフランスでは文学的、歴史的テーマを描き出した作品が主流となっていたが、[[バルビゾン派]]の画家によって自然を的確に捉えた風景画作品が登場したのもこの時代であった{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|pp=130-131}}。古典主義的端正さを保ちつつ、ロマン主義的な自然愛好的な心情に溢れた[[テオドール・ルソー]]、[[ジャン=バティスト・カミーユ・コロー]]らの風景画は1830年代ごろより写実主義絵画として新たな局面を開くこととなった{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|pp=130-131}}。1850年前後に入ると[[オノレ・ドーミエ]]、[[ジャン=フランソワ・ミレー]]、[[ギュスターヴ・クールベ]]が登場し、写実主義絵画を代表する画家として知られるようになった{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|pp=131-132}}。1855年、パリの万国博覧会において、私費で個展を開いたクールベは世間に対して攻撃的に写実主義絵画の存在を知らしめ、19世紀後半に誕生する印象主義への潮流を築いた{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=132}}。<br /> <br /> 他方、イギリスのロンドンでは、1760年代に[[ベンジャミン・ウエスト]]によって新古典主義的絵画が持ち込まれると、ロイヤル・アカデミーの設立やフラックスマンの活躍などもあり、ローマやパリと並ぶ新古典主義絵画の中心地として栄えた{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=132}}。しかし、古典絵画を規範としつつも伝統に縛られない表現は比較的早くから実践され、[[ヨハン・ハインリヒ・フュースリー]]、[[ウィリアム・ブレイク]]といった、個性豊かな画家の輩出に成功している{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=132}}。そういった意味では、主題面における絵画の近代化はフランスに先駆けてイギリスで起こったと言って良い{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|pp=132-133}}。19世紀前半に入ると[[ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナー]]の登場によってイギリス絵画は風景画黄金時代を迎えることとなった{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=133}}。18世紀に流行した地誌的水彩画から出発したターナーは光の表現を追究して油彩、水彩、素描を問わず多数の幻想的な風景画を世に送り出した{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|pp=133-134}}。ターナーとは対照的に、空と雲の移り変わりを気象学に基づいた知識で精緻に描き出した[[ジョン・コンスタブル]]の作品は風景画の進むべき方向性を決定的なものとし、19世紀後半の印象主義絵画に大きな影響を与えた{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=134}}。<br /> <br /> ドイツにおける新古典主義は1761年、[[アントン・ラファエル・メングス]]によって制作された『パルナッソス』にその影響を見ることができるものの、その後は代表的といえる程の画家は輩出されなかった{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|pp=134-135}}。19世紀初頭に入るとラテン的な形態把握とゲルマン的な内省性を融合させた作品が登場し、他国に無い特異な美術運動が展開された{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=135}}。この運動は[[カスパー・ダーヴィト・フリードリヒ]]、[[フィリップ・オットー・ルンゲ]]らによる風景画の発展と{{仮リンク|フランツ・プフォル|en|Franz Pforr}}、[[ヨハン・フリードリヒ・オーファーベック]]らによる人間表現の深化に大別することができる{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=135}}。特にローマに移住した後、ラファエロやデューラーを規範としてキリスト教的作品の創出に注力したオーファーベックらの活動は[[ナザレ派]]と呼ばれ、後の[[ラファエロ前派]]に大きな影響を与えた{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|pp=135-136}}。<br /> <br /> その他、スペインに登場した[[フランシスコ・デ・ゴヤ]]もこの時代を代表する画家の一人である{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=136}}。1799年に主席宮廷画家の地位に着いたゴヤは、その卓越した画力で戦争や侵略への憎悪を訴えた作品を多数発表した{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=136}}。主観的な情熱を画題とし、作品に託したという点ではロマン主義美術の先駆者であると言える一方、人生の課題を作品に反映させたという点では近代芸術のあり方を示した最初の一人であると言える{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=136}}。<br /> <br /> [[File:Pari Opera outside.jpg|thumb|200px|[[シャルル・ガルニエ]]によるパリの[[ガルニエ宮|オペラ座]]。]]<br /> <br /> ===19世紀から20世紀の美術 ===<br /> {{main|印象主義|象徴主義|後期印象主義}}<br /> 19世紀後半に入ると産業革命の浸透、資本主義社会の発達、科学技術の進歩により都市人口の大幅な増加と階級対立の激化が見られるようになり、社会全体が大きく変動した時代でもあった{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=138}}。このため、美術活動も大きな変革を伴ったのは必然といえる{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=138}}。<br /> <br /> 建築分野では、[[シャルル・ガルニエ]]によるパリの[[ガルニエ宮|オペラ座]]に見られるような、古典主義を軸としながらも各種建築様式を折衷した建物の造営が主流となり、フランスを中心として高い芸術性を持った建物が各地に作られた{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=138}}。[[ウジェーヌ・エマニュエル・ヴィオレ・ル・デュク]]はこの奔流に抗い、機能主義理論を唱えたが、19世紀中には受け入れられず、[[アール・ヌーヴォー]]の建築分野において部分的に取り入れられたにすぎなかった{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=138}}。19世紀後半に入ると鉄、ガラス、コンクリート、鉄筋コンクリートといった新しい建材が柱や壁などに大掛かりに用いられるようになった{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=138}}。[[ジョセフ・パクストン]]の[[水晶宮]]は、初めて大量にガラスを用いた建造物として知られている{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=139}}{{refnest|group=注釈|水晶宮は1851年にロンドンで開かれた万国博覧会の会場として建設されたものであり、現在は解体されて残っていない{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=139}}。}}。また、[[シカゴ派]]と呼ばれるアメリカ高層建築の流入も、西洋の建築に大きな影響を与えた{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=139}}。シカゴ派を代表する建築家としてはシュレジンガー・マイヤー百貨店などを設計した[[ルイス・サリヴァン]]が挙げられる{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=139}}。<br /> [[File:Hoellentor Detail gr.jpg|thumb|left|200px|単独作品としても評価されている[[オーギュスト・ロダン]]の『[[地獄の門]]』における『[[考える人 (ロダン)|考える人]]』。]]<br /> 彫刻分野では19世紀後半に入り、民族統一や自由を称える記念碑が公共記念物という形で数多く制作された{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=140}}。特に有名なものとしては[[フレデリク・バルトルディ]]の『[[自由の女神像 (ニューヨーク)|自由の女神像]]』、{{仮リンク|ジュール・ダルー|en|Jules Dalou}}の『共和国の勝利』、{{仮リンク|ポール・アルベール・バルトロメ|en|Albert Bartholomé}}の『死者の記念碑』などが挙げられる{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=140}}。第二帝政期に入ると[[ジャン=バティスト・カルポー]]が登場し、『ウゴリーノと息子』『ダンス』『フローラの勝利』など、ロココ美術から受け継いだ優雅な形態とカルポー独自の動態表現を見事に融合させた作品を多数制作し、近代彫刻の父と言われる[[オーギュスト・ロダン]]に大きな影響を与えた{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=140}}。{{仮リンク|アルベール=エルネスト・カリエ=ベルーズ|en|Albert-Ernest Carrier-Belleuse}}に師事したロダンは、イタリアでドナテッロやミケランジェロの作品に触れた後、1877年に『青銅時代』を発表した{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=140}}。『青銅時代』は発表当時、あまりの自然的形態から、モデルから直接型取りしたのではないかと批判を浴びるほどであった{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=140}}。注文彫刻として制作した『カレーの市民たち』では、注文という型にはめられた表現からの脱却を試みている{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=140}}。ロダンは写実表現と劇的な内面表現を融合させることを追究し、終生の大作として『[[地獄の門]]』を制作した{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=140}}。その他、19世紀末に活動したドイツの[[マックス・クリンガー]]は、1902年のウィーン分離派展で素材の多様性を追求した作品『ベートーヴェン』を発表して大きな成功を収めている{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=141}}。<br /> [[File:Edouard Manet 038.jpg|thumb|200px|[[エドゥアール・マネ]]の『[[オランピア (絵画)|オランピア]]』。]]<br /> 19世紀に入ると絵画分野では、新古典主義の美学を維持しつつも社会情勢にあわせるかのように、新しい市民社会に適応する様々な表現の獲得をはじめた{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=141}}。ブルジョワジーの趣味を作品に反映させた[[アレクサンドル・カバネル]]は、1863年にサロンに出品した『ヴィーナスの誕生』によって絶大な人気を博し、[[ジャン=レオン・ジェローム]]は『カエサルの死』に代表されるような、迫真の細部描写と瞬間映像的な場面設定で古代の主題を描きあげた{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=141}}。また、[[ジュール・バスティアン=ルパージュ]]は印象派の色彩や筆致を取り込んだ自然主義的傾向の作品『干し草』を創出し、第三共和国政府の支持を獲得している{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=142}}。<br /> <br /> ドイツの[[アドルフ・フォン・メンツェル]]によって写実的に描かれた『圧延工場』はきわめて珍しい工場労働者を主題とした作品として知られている{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=142}}。メンツェルの例にあるように、農民や労働者といった現実的主題を優れた絵画才能によって描き出す画家が登場し始める{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=142}}。『草上の昼食』で一大騒動を巻き起こした後も、明るい色調と軽快なタッチで現代生活を主題にした数々の名作を生み出した[[エドゥアール・マネ]]はそうした若い画家たちの中心的存在として躍動し、1865年にサロンへ出品した『オランピア』で、古典的伝統を近代絵画へリンクさせる役割を担った{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=143}}{{Sfn|『印象派の誕生』|2010|p=57}}{{refnest|group=注釈|『オランピア』はティツィアーノの『ウルビーノのヴィーナス』に代表されるルネサンス以来の伝統的な横たわるヴィーナスの構図を借用しつつ現代パリの高級娼婦を描き出した作品である{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=143}}。}}。こうしたマネの姿勢や表現方法は印象派の画家に重要な指針を与えることとなった{{Sfn|『西洋美術史入門』|2012|p=172}}。また、[[エドガー・ドガ]]は、オペラ座に集う貴族から底辺社会で生活を営む洗濯女まであらゆる階層の人々の現代生活を深く広く探求して得た主題を、知的な構図と優れたデッサン力で描き出した{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=144}}。特に、引き締まった肉体を持つ女性たちが様々な姿態を提供してくれるバレエの世界に共感を覚え、バレエを主題とした多くの作品を残している{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=144}}。その他、日本の芸術が[[ジャポニスム]]と呼ばれ、西洋絵画に影響を与えたのも19世紀の出来事のひとつであった{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=144}}。<br /> [[File:Edgar Germain Hilaire Degas 009.jpg|thumb|left|200px|[[エドガー・ドガ]]の『舞台のバレエ稽古』。]]<br /> 19世紀後半に入ると、印象派と呼ばれる人々の描いた印象主義絵画が世を賑わすようになった{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=144}}。「印象派」という呼称が誕生したのは1874年のことで、展覧会に出品していた[[クロード・モネ]]、[[ピエール=オーギュスト・ルノワール]]、[[ポール・セザンヌ]]、ドガ、[[カミーユ・ピサロ]]、[[アルフレッド・シスレー]]らのスケッチ的な作品の性格をジャーナリストらが揶揄してつけたものに端を発する{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=144}}。中でもモネは印象派グループを作り上げた最も偉大な画家として知られている{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=145}}{{Sfn|『印象派の誕生』|2010|p=155}}。印象派画家は、絵具を用いて光を表現することを追究し、筆触分割や視覚混合といった科学的技法を作品に導入し、日本の浮世絵や写真などからヒントを得た構図の切り取りや大胆な俯瞰といった斬新な発想を取り入れた{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=145}}。こうして制作された多くの作品は西洋絵画を新たな局面へ誘う重要な革新として後年高く評価される一因となった{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=145}}。また、印象派の活動を受けて、その理論をさらに発展させようと1880年代から1890年代にかけて活躍した[[ポール・ゴーギャン]]、[[フィンセント・ファン・ゴッホ]]らは後期印象派と呼ばれ、こちらも美術史における重要な働きを残した{{Sfn|『西洋美術史入門』|2012|p=174}}。<br /> <br /> 他方、芸術の卑俗化を嫌悪した芸術家たちによって内的な思考や精神世界、夢の世界を表現することが追究されるようになり、印象主義と並んで19世紀後半における芸術の重要な流れを形作ったのが象徴主義であった{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=147}}。その嚆矢とも言えるのがイギリスで起こった[[ラファエル前派]]の運動である{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=147}}。[[ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ]]、[[ジョン・エヴァレット・ミレー]]、[[ウィリアム・ホルマン・ハント]]らによって結成された「ラファエル前派兄弟団」は、ラファエロ以後の絵画を退廃芸術とみなし、それ以前の誠実で理想的な芸術への回帰を主張し、初期ルネサンス時代の絵画に倣った画風で神秘と象徴の世界を描き上げた{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=147}}。その他、象徴主義を代表する画家としては[[アルノルト・ベックリン]]、[[ピエール・ピュヴィス・ド・シャヴァンヌ]]、[[ギュスターヴ・モロー]]、[[オディロン・ルドン]]などが挙げられる{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=149}}。<br /> <br /> こうした動きは19世紀末にはベルギー、オランダ、スイス、オーストリアなど全ヨーロッパに拡充し、[[ユーゲント・シュティール]]、アール・ヌーヴォーといった世紀末運動と密接な関係を保ちながら20世紀の芸術へと受け継がれていった{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=149}}。<br /> <br /> == 現代 ==<br /> [[File:Gustav Klimt 010.jpg|thumb|200px|[[グスタフ・クリムト]]の『[[ダナエ (クリムトの絵画)|ダナエ]]』。]]<br /> ===ベル・エポック===<br /> ベル・エポック(良き時代)とは、1900年から第一次世界大戦までの華やかで享楽的な時代を指すフランス語で、静かに忍び寄る戦乱の気配に耳を塞ぎ、束の間の繁栄と平和を享受した時代であった{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=154}}。芸術分野においてはアール・ヌーヴォー(新しい時代)、ユーゲント・シュティール(青春様式)、[[モダン・スタイル]](近代様式)といった多彩な芸術運動がヨーロッパ中を席巻し、広い分野で相互交流による美術の追究が行われた{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=154}}。世紀末芸術運動とも称されるこの運動は広範囲に及び、それぞれが独自色を保ちつつも新しさを求めようという共通認識の下に活動を展開していた{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=154}}。代表的な活動グループとしては[[ウィリアム・モリス]]を中心とした[[アーツ・アンド・クラフツ|アーツ・アンド・クラフツ運動]]、『ルヴュ・ブランシュ』を中心としたフランス芸術家たち、ベルギーの前衛芸術グループ[[自由美学]]、『ユーゲント』『パン』を舞台としたドイツ画家グループ、ミュンヘン、ベルリン、ウィーンで相次いで結成された[[ゼツェシオン|分離派]]グループなどが挙げられる{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|pp=154-155}}。中でも[[グスタフ・クリムト]]を中心とした[[ウィーン分離派]]の影響力は強く、[[オスカー・ココシュカ]]、[[エゴン・シーレ]]といった表現主義的傾向を強烈に表した尖鋭画家や、[[アドルフ・ロース]]のような「装飾は犯罪である」といった思想を持った芸術家の誕生を促す結果となった{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=155}}。また、表現主義の原点とも言える[[エドヴァルド・ムンク]]や[[ジェームズ・アンソール]]、[[フェルディナント・ホドラー]]といった画家が躍動したのもこの時代である{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=152}}。現代美術のはじまりは、こうした豊かで多様な世紀末芸術の成果を受け継ぎ、乗り越えることによって展開されていった{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=155}}。<br /> <br /> [[File:Wrightfallingwater.jpg|thumb|left|150px|[[フランク・ロイド・ライト]]の[[落水荘]]。]]<br /> ===現代建築===<br /> {{main|モダニズム建築|ポストモダン建築}}<br /> [[オーギュスト・ペレ]]による鉄筋コンクリートを用いた建築技法の導入は、構造体としての抵抗力の強さを獲得するとともに自由な造形性を得ることに成功し、20世紀の建築美術は新たな局面を迎えることとなった{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=155}}。新しい建材の特性理解が浸透していくとともに、コンクリートの持つ可能性を引き出した自由な造形性を持った建築物が誕生した{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=156}}。ゆるやかな局面と巨大な屋根を持った[[ル・コルビュジエ]]の[[ロンシャンの礼拝堂]]、何の支えも無い部屋が空中に突出しているかのような[[フランク・ロイド・ライト]]の[[落水荘]]などは、その代表的な作例として取り上げられる{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=156}}。<br /> <br /> 建築家の社会的役割が変化したのも20世紀の特色のひとつで、建物の完成のみならず、都市社会における機能性や存在意義についてこれまで以上に配慮が必要となった{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=156}}。[[ヴァルター・グロピウス]]が幅広いデザイン教育の機関として[[バウハウス]]を設立したのも、こうした社会的要請を背景にしたものであった{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=156}}。ル・コルビュジエはそうした機能主義を追究した建築家の一人でもあり、こうした流れが[[ミース・ファン・デル・ローエ]]や[[ヴァルター・グロピウス]]といった機能主義を標榜する建築家の誕生を促した{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=156}}。機能主義建築は合理的形態、規格化、[[プレハブ工法|プレファブリケーション]]を推進し、大量生産と結びつくことで現代的な性格を持つに至った{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=157}}。一方でこうした機能主義建築に機械的な冷徹さを感じ取った建築家は有機的建築を推進した{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=157}}。先に挙げたサリヴァンやライトの他、世紀末建築の巨匠[[アントニ・ガウディ]]などもこの流れに含むことができる{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=157}}。<br /> <br /> 第二次世界大戦によって芸術活動は空白の時間を迎えるが、多くの芸術家がアメリカに亡命したこともあり、戦後はアメリカを中心とした建築活動が展開された{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=170}}。グロピウスやローエをはじめとするバウハウス系の建築家がアメリカで建築教育や設計活動に従事し、現代建築の実験場と揶揄されるほど様々な建築物がアメリカに誕生した{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=170}}。1950年代までは、画一的な建築の普及を目指すバウハウス系建築家がアメリカで大きく活動することによって、彼らの国際様式([[モダニズム建築]])が世界的なスタンダードとされていたが、次第にこれに反発する動向が見られるようになり、[[CIAM]](近代建築国際会議)の解散も相俟って地域や用途、建築家の感性によってふさわしい造形を決定する個性化の流れが生まれ、大胆な形態の組み合わせを見せる[[ポストモダン建築]]が登場した{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=171}}。<br /> <br /> [[File:&#039;Unique Forms of Continuity in Space&#039;, 1913 bronze by Umberto Boccioni.jpg|thumb|150px|[[ウンベルト・ボッチョーニ]]の『空間の中のユニークな連続の形態』。]]<br /> ===現代彫刻===<br /> 20世紀の彫刻は、ロダンの影響を甘受し、脱却するところから始めねばならなかった{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=157}}。画家から彫刻家へ転身し、ダルーのアトリエを通じてロダンと出会ったことでロダンに大きく影響を受けた{{仮リンク|メダルド・ロッソ|en|Medardo Rosso}}は、石材からの解放を目論み、素材に蝋や石膏といった伸びのあるものを採用した{{Sfn|『20世紀の美術』|2012|p=86}}。蝋を素材とした『この子を見よ』では素材の流動性を生かした表現が見られ、その表面には印象派絵画にも似た光と影の絶妙なコントラストを生み出すことに成功している{{Sfn|『20世紀の美術』|2012|p=86}}。ロダンの助手でもあった[[アントワーヌ・ブールデル]]は、ロダンの表現力と構想力を受け継ぎつつ、自己の様式確立を追及し、『弓を引くヘラクレス』によって男性的力強さを表現することに成功している{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=157}}。女性像をモチーフとし、健康的で調和の取れた作品を創出した[[アリスティド・マイヨール]]は、ブールデルを通じてロダンに高く評価された彫刻家のひとりであるが、その作風はロダンのそれとは明らかに異なった性格を持ち、地中海的伝統を作品に刻みつける事で自己の確立を試みている{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=157}}{{Sfn|『20世紀の美術』|2012|pp=86-87}}。初期の作品『地中海』は、古典主義的な落ち着きと調和が見られるマイヨールの代表作のひとつである{{Sfn|『20世紀の美術』|2012|p=87}}。マイヨールの作品は後世の彫刻家にも影響を与え、[[マリノ・マリーニ]]、[[アメデオ・モディリアーニ]]といった芸術家の登場を促した{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=157}}。<br /> <br /> 一方で[[キュビスム]]の彫刻は人体の統一性からの脱却を図り、自由奔放な新しい造形表現の獲得に成功している{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=157}}{{Sfn|『20世紀の美術』|2012|p=96}}。代表的な彫刻家としては[[パブロ・ピカソ]]、{{仮リンク|アンリ・ローランス|en|Henry Laurens (scholar)}}、{{仮リンク|ジャック・リプシッツ|en|Jacques Lipchitz}}、[[オシップ・ザッキン]]などが挙げられる{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=159}}。こうした流れを受けてさらにダイナミックな形態のリズムを追究した{{仮リンク|レイモン・デュシャン=ヴィヨン|en|Raymond Duchamp-Villon}}、[[ウンベルト・ボッチョーニ]]らが登場し、根源的な形態を追い求めた[[コンスタンティン・ブランクーシ]]がその後に続いた{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=159}}。ブランクーシはロダンからその才能を見初められ、助手へと誘われた彫刻家のひとりであったが、自身の追い求める表現を実現させるため、あえてその誘いを断っている{{Sfn|『20世紀の美術』|2012|p=88}}。<br /> <br /> 他方で、[[マックス・エルンスト]]、[[ジャン・アルプ]]、[[アルベルト・ジャコメッティ]]らによって生み出された作品は、後の[[シュルレアリスム]]や[[幻想的表現主義]]へとつながっていくこととなった{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=159}}。ブールデルから彫刻を学んだジャコメッティはその後、自身もシュルレアリストのグループに参加し、『シュルレアリスム的なテーブル』などの作品を発表した{{Sfn|『20世紀の美術』|2012|p=99}}。第二次大戦後、現実との乖離に挫折を覚えたジャコメッティはその作風を大きく変え、戦後のフランス彫刻界において、もっとも高い評価を受けた彫刻家のひとりとなった{{Sfn|『20世紀の美術』|2012|p=99}}{{Sfn|『20世紀の美術』|2012|p=169}}。<br /> <br /> ===現代絵画===<br /> [[File:Marc-little blue horses.jpg|thumb|250px|[[フランツ・マルク]]の『小さな青い馬』。]]<br /> 1905年、当時の批評家からフォーヴ(野獣)と呼称された、[[サロン・ドートンヌ]]に出品された鮮烈な色彩表現を持った一連の作品を創出した画家たちが興した運動である[[フォーヴィスム]]は、20世紀最初の絵画革命と言われている{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=159}}{{Sfn|『20世紀の美術』|2012|p=6}}。『[[ジル・ブラス]]』紙で{{仮リンク|ルイ・ヴォークセル|en|Louis Vauxcelles}}に「原色の狂宴の中にいる野獣たちの集まり」と批判されたように、フォービスムは酷評でもって迎えられたが、多くの画家が伝統に縛られない色彩の自立と感情の解放を求める態度に共感を覚え、この新しい様式に共鳴した{{Sfn|『20世紀の美術』|2012|pp=6-7}}。主要なメンバーとしては[[アンリ・マティス]]、[[ジョルジュ・ルオー]]、[[アルベール・マルケ]]、[[モーリス・ド・ヴラマンク]]、[[アンドレ・ドラン]]、[[キース・ヴァン・ドンゲン]]、[[ラウル・デュフィ]]、[[ジョルジュ・ブラック]]らが挙げられる{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=159}}。[[ジョルジュ・スーラ|スーラ]]ら後期印象主義絵画が持つ色彩理論や、ゴッホの原色表現の影響を受けた彼らの共通点は、独自の色彩表現を探究し、色彩の写実的役割からの解放を目指したことにある{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=159}}{{Sfn|『20世紀の美術』|2012|pp=6-7}}。しかしながらこの傾向は明確な声明に支えられていなかったこともあり大きな流行には至らず、1905年をピークとして減衰していくこととなった{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=159}}{{Sfn|『20世紀の美術』|2012|p=9}}。フォーヴィスムを体現し、体験した画家たちはその後色調や技法を変えつつ、独自の美学を追究しそれぞれの方向性を見出していくこととなった{{Sfn|『20世紀の美術』|2012|p=9}}。<br /> <br /> フォーヴィスムが誕生した同じ年に[[エルンスト・ルートヴィヒ・キルヒナー]]、{{仮リンク|エーリッヒ・ヘッケル|en|Erich Heckel}}、[[マックス・ペヒシュタイン]]、[[エミール・ノルデ]]らを中心として前衛絵画グループ[[ブリュッケ]]がドレスデンで結成された{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=160}}{{Sfn|『20世紀の美術』|2012|pp=11-13}}。[[ドイツ表現主義]]の第一波とされるこのグループは、強烈な色彩表現を特徴とする点においてはフォーヴィスムと共通していたが、より濃密な絵画を発表している{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=160}}。その他、1909年にミュンヘンで結成された[[ミュンヘン新芸術家協会|新芸術家同盟]]は、初期メンバーの[[フランツ・マルク]]、[[アウグスト・マッケ]]、[[ワシリー・カンディンスキー]]らに[[パウル・クレー]]が加わることで[[青騎士]]へと発展を遂げ、戦後の[[抽象表現主義]]につながる大胆な絵画表現を試みる活動を実施している{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=160}}{{Sfn|『20世紀の美術』|2012|pp=14-15}}。<br /> [[File:Delaunay - Tour Eiffel.jpeg|thumb|left|200px|[[ロベール・ドローネー]]の『エッフェル塔』。]]<br /> その後、ピカソやブラックによって形態と構成における絵画革命[[キュビスム]]が推進され、[[フアン・グリス]]を加えてモンマルトルを中心に活動を展開した{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=160}}。特にピカソは、90年に渡る長い生涯のなかで絶え間なく絵画の革新と実験を試み、20世紀芸術の方向性に大きな影響を与え続けた{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=161}}。1907年に発表したキュビスムの出発点とも言うべき『[[アビニヨンの娘たち]]』では、アフリカの仮面彫刻のようなプリミティブ芸術に影響を受けた大胆なデフォルメと、セザンヌに学んだ知的構成が融合し、それまでになかった新しい絵画世界の実現に成功している{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=161}}{{Sfn|『20世紀の美術』|2012|p=23}}。キュビスムは対象を解体して、画面上で再構成するというピカソやブラックが推進した手法もさることながら、同時に創出された新聞などの実物を直接画面に貼付する[[コラージュ]]という技法が生み出された点も、絵画のあり方を一変させたという点において、後世の芸術家に多大な影響を与えている{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=162}}{{Sfn|『20世紀の美術』|2012|p=26}}。ピカソ、ブラック、グリスの他、キュビスムの代表的な画家としては[[フェルナン・レジェ]]、[[ロベール・ドローネー]]らがいる{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=162}}。<br /> [[File:Duchamp Fountaine.jpg|thumb|200px|[[マルセル・デュシャン]]の『泉』。]]<br /> キュビスムよりやや遅れて結成された[[未来派]]は、詩人[[フィリッポ・トンマーゾ・マリネッティ]]を中心に活動を展開し、機械文明におけるダイナミズムとスピード感を賛美し、積極的な運動表現を作品に取り入れることを探究した{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=163}}{{Sfn|『20世紀の美術』|2012|pp=32-33}}。主なメンバーとしては[[ジャコモ・バッラ]]、[[ジーノ・セヴェリーニ]]、[[カルロ・カッラ]]などがいる{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=163}}。未来派の活動は絵画のみならず、音楽、建築、彫刻など多方面に及び、先に紹介したボッチョーニもその影響を受けた彫刻家として知られている{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=163}}{{Sfn|『20世紀の美術』|2012|p=36}}。また、マリネッティがロシアを訪れたことでロシアの前衛芸術の形成にも大きな影響を与えた{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=163}}。[[ミハイル・ラリオーノフ]]、[[ナタリア・ゴンチャロヴァ]]らによる[[レイヨニスム]]、[[カジミール・マレーヴィチ]]らによる[[シュプレマティスム]]といった抽象主義的絵画は、こうした影響の中で誕生していった{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=164}}。シュプレマティスムを推進していた[[ウラディミール・タトリン]]、[[アントワーヌ・ペヴスネル]]、[[ナウム・ガボ]]らはその後、シュプレマティスムが見出した幾何学的形態の極地から、さらに推し進めた[[構成主義]]を推進している{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|pp=164-165}}。<br /> <br /> オランダの[[ピエト・モンドリアン]]が創始した[[新造形主義]]も幾何学的な抽象表現を極めた様式のひとつで、モンドリアンはキュビスムの影響を受け、自然風景を垂直と水平の要素にまで還元し、この単純な構図に色の三原色を組み合わせるという美学に到達せしめた{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=165}}。またモンドリアンは、[[テオ・ファン・ドースブルフ]]とともに[[デ・ステイル]]運動を推進し、絵画にとどまらない幅広い芸術分野に新造形主義の様式を拡大していった{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=165}}{{Sfn|『20世紀の美術』|2012|p=44}}。<br /> <br /> 他方、現代絵画のもうひとつの大きな流れとして、人間の心、未知の世界を探究し表現する幻想絵画がある{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=166}}。[[形而上絵画]]はその代表的様式で、中心的人物の[[ジョルジョ・デ・キリコ]]は、長く伸びた影や人気の無い町並みを主題として白昼夢のような郷愁を誘う神秘的かつ不気味な不安を感じさせる作品を生み出している{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=166}}。その不安が現実となるかのように第一次世界大戦が勃発すると、厄災を生み出す社会や文化に対して強い批判を表明する芸術運動が同時多発的に持ち上がった{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=166}}。こうした動きはやがてひとつの大きなうねりとなり、あらゆる既成価値を否定する[[ダダイスム]]が誕生した{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=166}}。[[マルセル・デュシャン]]が展覧会に出品した『泉』と称する便器やひげのあるモナ・リザを描いた『L.H.O.O.Q.』はその最たる例である{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|pp=166-167}}{{Sfn|『シュルレアリスム』|2011|pp=235-236}}。彼らはあらゆる方法で価値の転換を試み、過去の芸術や文化の徹底的な破壊と否定を推し進めた{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=167}}。代表的なメンバーとしては[[ハンス・アルプ]]、[[フランシス・ピカビア]]、[[マン・レイ]]などがいる{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=166}}。<br /> <br /> 第一次世界大戦後には[[シュルレアリスム]]が登場し、ダダイスムによる否定を受けて、非合理の世界を解放することによって新しい価値の創造を目論む動きが始まった{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=167}}。シュルレアリスム運動は詩人[[アンドレア・ブルトン]]が1924年に『シュルレアリスム宣言』を発表したことによって定義の明確化が図られた{{Sfn|『シュルレアリスム』|2011|pp=7-8}}。芸術分野において[[マックス・エルンスト]]、[[サルバドール・ダリ]]、[[ルネ・マグリット]]、[[イヴ・タンギー]]らを中心として展開されたシュルレアリスム運動は、各々の想像力を糧に、夢と現実が矛盾無く世界を構築するような世界(超現実)の実現を目指した{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=167}}。作品制作にあたり、彼らは[[デペイズマン]]、[[オートマティスム]]、[[フロッタージュ]]、[[デカルコマニー]]といった新しい技法を次々と考案し、後世に無視できない多大な影響を残した{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|pp=167-168}}{{Sfn|『シュルレアリスム』|2011|pp=233-234}}。<br /> <br /> こうした新しい芸術運動が様々に展開される一方で、[[アンリ・ルソー]]、{{仮リンク|ルイ・ヴィヴァン|de|Louis Vivin}}、[[アンドレ・ボーシャン]]、{{仮リンク|セラフィーヌ・ルイ|en|Séraphine Louis}}といったいわゆる[[素朴派]]と呼ばれる素人画家が多く登場してきたことも、現代絵画の変革を伝える重要な要素のひとつである{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=168}}{{Sfn|『20世紀の美術』|2012|p=68}}。また、[[エコール・ド・パリ]](例:[[マルク・シャガール|シャガール]]、[[モーリス・ユトリロ|ユトリロ]]、[[モイズ・キスリング|キスリング]]、[[シャイム・スーティン|スーティン]]、[[藤田嗣治]])に代表されるように、特定の運動に加わることなく、自己の世界を表現し続けた画家も数多く存在していたことは忘れてはならない{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=168}}{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=174}}。<br /> <br /> 1945年、第二次世界大戦が終了すると、戦争の影響を強く伺わせるいわゆる戦後美術が登場した{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=172}}。作品としては[[フランシス・ベーコン (芸術家)|フランシス・ベーコン]]が描いた『風景の中の人物』、[[ジャン・フォートリエ]]の『人質』に代表されるような、戦争の悲劇がもたらした人間そのものへの問いかけを含有する悲劇的な様相を表現する傾向にあった{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|pp=172-173}}。アメーバのような不定形なフォルムと血を連想させる生々しい色彩を用いた[[ヴォルス]]や、幼児や精神障害者の描く原生芸術を追求し、[[アールブリュット]]を提唱した[[ジャン・デュビュッフェ]]なども代表的な画家として挙げられる{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=173}}{{Sfn|『西洋美術の歴史』|2001|p=442}}。フォートリエが表現した厚塗りの具象的な作品はその後、[[アンフォルメル]]と呼ばれる表現主義的抽象絵画として1950年以降もてはやされることとなる{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=174}}。こうした作品は、保守派ジャーナリズムや一般観衆から「子供の悪戯描き」と揶揄されながらも感覚に直接訴えかける新鮮な迫力を持った表現形式としてその地位を確立させた{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=174}}。他方で、こうした表現主義的抽象絵画が採った具象的モチーフの拒否を否定することで、現実への復帰を試みた[[ネオダダ]]や[[ポップアート]]が誕生したのもこの時代であった{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=175}}。<br /> <br /> [[File:Spiral-jetty-from-rozel-point.png|thumb|200px|[[ロバート・スミッソン]]の『螺旋状の突堤』。]]<br /> <br /> ===多様化する表現形式===<br /> 1980年代以降、美術を表現する新しい方法が次々と生み出され、それらが互いに影響を及ぼしあうことにより複雑な美術体系が構築された。[[ナムジュン・パイク]]によるビデオ・アート、映画を含めた映像作品も美術作品として定義することが可能であり、現代美術の主要部分を占めるようになったと言って良い{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=195}}。また、[[シンディ・シャーマン]]や[[ロバート・メイプルソープ]]などの写真美術作品や、[[マリーナ・アブラモヴィッチ]]のような自身の身体を用いたパフォーマンス的な美術作品に代表されるように、様々なメディアを使用した表現形式([[メディアアート]])が誕生している{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=196}}{{Sfn|『20世紀の美術』|2012|p=191}}。<br /> <br /> 1960年代後半から1970年代にかけて誕生した、[[ロバート・スミッソン]]を嚆矢とする[[アースワーク]](ランドアート)もそうした多様化した表現形式の帰結のひとつである{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=190}}{{Sfn|『20世紀の美術』|2012|p=160}}。[[写実主義|自然派]]と呼ばれた彼らは地球をキャンバスとし、訪れることさえ容易ではない地に作品を直接制作することで、限られた空間からの解放と美術の商業主義からの脱却を試みた{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=190}}{{Sfn|『20世紀の美術』|2012|p=160}}。代表的なものとしてはすでに[[グレートソルト湖]]の湖中に水没したスミッソンの『螺旋状の突堤』、落雷を呼ぶ金属ポール400本を等間隔に設置し、落雷現象そのものを美術作品として発表した[[ウォルター・デ・マリア]]の『[[ライトニング・フィールド]]』、ストーンヘンジやストーンサークルといった原初的な造形を追及した[[リチャード・ロング]]の環状列石作品群などがある{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=190-191}}{{Sfn|『20世紀の美術』|2012|pp=160-162}}。<br /> <br /> ==注釈==<br /> {{Reflist|group=注釈}}<br /> <br /> ==脚注==<br /> {{reflist|3}}<br /> <br /> ==参考文献==<br /> * {{Cite book|和書|author=青柳正規、西野嘉章、高橋達史、高橋裕子、鈴木杜幾子、太田泰人、高階秀爾、建畠晢|editor=高階秀爾[監修]|title=増補新装 西洋美術史|edition=初版|year=2002|publisher=美術出版社|isbn=4-568-40064-3|ref={{SfnRef|『増補新装 西洋美術史』|2002}}}}<br /> * {{Cite book|和書|author=浅野和生|title=ヨーロッパの中世美術|edition=初版|year=2009|publisher=中央公論新社|series=中公新書|isbn=978-4-12-102014-7|ref={{SfnRef|『ヨーロッパの中世美術』|2009}}}}<br /> * {{Cite book|和書|author=池上英洋|title=西洋美術史入門|edition=初版|year=2012|publisher=筑摩書房|series=ちくまプリマー新書|isbn=978-4-480-68876-7|ref={{SfnRef|『西洋美術史入門』|2012}}}}<br /> * {{Cite book|和書|author=池上英洋、今泉愛子、川口清香、青野尚子、荒井咲紀|editor=池上英洋[監修]|title=ルネサンスとは何か。|edition=初版|year=2012|publisher=阪急コミュニケーションズ|series=pen books|isbn=978-4-484-12231-1|ref={{SfnRef|『ルネサンスとは何か。』|2012}}}}<br /> * {{Cite book|和書|author=H・W・ジャンソン、アンソニー・F・ジャンソン|translator=木村重信、藤田治彦|title=西洋美術の歴史|edition=初版|year=2001|publisher=創元社|isbn=978-4-422-70007-6|ref={{SfnRef|『西洋美術の歴史』|2001}}}}<br /> * {{Cite book|和書|author=NHK「知られざる大英博物館」プロジェクト|title=古代ギリシャ|edition=初版|year=2012|publisher=NHK出版|series=NHKスペシャル 知られざる大英博物館|isbn=978-4-14-081548-9|ref={{SfnRef|『古代ギリシャ』|2012}}}}<br /> * {{Cite book|和書|author=加藤志織、杉山博昭、日塔理恵子、秦明子、河田淳、衣笠ヤヨイ、小松浩之|editor=岡田温司[監修]|title=聖書と神話の象徴図鑑|edition=初版|year=2011|publisher=ナツメ社|isbn=978-4-8163-5133-4|ref={{SfnRef|『聖書と神話の象徴図鑑』|2011}}}}<br /> * {{Cite book|和書|author=嘉門安雄、中山公男、[[中森義宗]]、野村久康、友部直|editor=嘉門安雄[編]|title=西洋美術史要説|edition=18版|year=1981|publisher=吉川弘文館|ref={{SfnRef|『西洋美術史要説』|1981}}}}<br /> * {{Cite book|和書|author=神原正明|title=西洋の美術 視覚とその時代|edition=初版|year=2001|publisher=勁草書房|isbn=4-326-85171-6|ref={{SfnRef|『西洋の美術 視覚とその時代』|2001}}}}<br /> * {{Cite book|和書|author=近藤不二|title=エジプト美術|edition=3版|year=1973|publisher=保育社|series=カラーブックス|ref={{SfnRef|『エジプト美術』|1973}}}}<br /> * {{Cite book|和書|author=酒井健|title=シュルレアリスム|edition=初版|year=2011|publisher=中央公論社|series=中公新書|isbn=978-4-12-102094-9|ref={{SfnRef|『シュルレアリスム』|2011}}}}<br /> * {{Cite book|和書|author=澤柳大五郎|title=ギリシアの美術|edition=初版|year=1964|publisher=岩波書店|series=岩波新書|ref={{SfnRef|『ギリシアの美術』|1964}}}}<br /> &lt;!---塩野七生の著作は[[WP:RS]]ではないのでコメントアウト。<br /> * {{Cite book|和書|author=塩野七生|title=ルネサンスとは何であったのか|edition=初版|year=2008|publisher=新潮社|series=新潮文庫|isbn=978-4-10-118131-8|ref={{SfnRef|『ルネサンスとは何であったのか』|2008}}}}<br /> ---&gt;<br /> * {{Cite book|和書|author=ジャン=ポール・テュイリエ|translator=松田廸子|editor=青柳正規[監修]|title=エトルリア文明 - 古代イタリアの支配者たち|edition=初版|year=1994|publisher=創元社|series=「知の再発見」双書|isbn=4-422-21087-4|ref={{SfnRef|『エトルリア文明 - 古代イタリアの支配者たち』|1994}}}}<br /> * {{Cite book|和書|author=末永照和、早見堯、林洋子、近藤幸夫、中村英樹、嶋崎吉信、堀元影|editor=末永照和[監修]|title=20世紀の美術|edition=9版|year=2012|publisher=美術出版社|isbn=978-4-568-40056-4|ref={{SfnRef|『20世紀の美術』|2012}}}}<br /> * {{Cite book|和書|author=高階秀爾|title=近代絵画史(上)|edition=30版|year=1994|publisher=中央公論社|series=中公新書|isbn=4-12-100385-3|ref={{SfnRef|『近代絵画史(上)』|1994}}}}<br /> * {{Cite book|和書|author=高階秀爾|title=近代絵画史(下)|edition=30版|year=1999|publisher=中央公論社|series=中公新書|isbn=4-12-100386-1|ref={{SfnRef|『近代絵画史(下)』|1999}}}}<br /> * {{Cite book|和書|author=田中英道|title=西洋美術への招待|edition=初版|year=2003|publisher=東北大学出版会|isbn=4-9250-8559-X|ref={{SfnRef|『西洋美術への招待』|2003}}}}<br /> * {{Cite book|和書|author=ナイジェル・スパイヴィー、マイケル・スクワイア|translator=小林雅夫、松原俊文|title=ギリシア・ローマ文化誌百科(上)|edition=2版|year=2007|publisher=原書房|isbn=4-562-04039-4|ref={{SfnRef|『ギリシア・ローマ文化誌百科(上)』|2007}}}}<br /> * {{Cite book|和書|author=ナイジェル・スパイヴィー、マイケル・スクワイア|translator=小林雅夫、松原俊文|title=ギリシア・ローマ文化誌百科(下)|edition=2版|year=2007|publisher=原書房|isbn=978-4-562-04040-7|ref={{SfnRef|『ギリシア・ローマ文化誌百科(下)』|2007}}}}<br /> * {{Cite book|和書|author=蜷川順子|title=美術でたどる世界の歴史|edition=初版|year=2004|publisher=ナツメ社|isbn=4-8163-3755-5|ref={{SfnRef|『美術でたどる世界の歴史』|2004}}}}<br /> * {{Cite book|和書|author=[[ピーター・クレイトン]]|translator=藤沢邦子|editor=[[吉村作治]][監修]|title=古代エジプト ファラオ歴代誌|edition=8版|year=2006|publisher=[[創元社]]|isbn=4-422-21512-4|ref={{SfnRef|『古代エジプト ファラオ歴代誌』|2006}}}}<br /> * {{Cite book|和書|author=村上義和|title=イタリアを知るための55章|edition=初版|year=1999|publisher=明石書店|series=エリアスタディーズ|isbn=4-7503-1123-5|ref={{SfnRef|『イタリアを知るための55章』|1999}}}}<br /> * {{Cite book|和書|author=諸川春樹、利倉隆|editor=諸川春樹[監修]|title=西洋絵画史 WHO&#039;S WHO|edition=11版|year=2002|publisher=美術出版社|isbn=4-568-40039-2|ref={{SfnRef|『西洋絵画史 WHO&#039;S WHO』|2005}}}}<br /> * {{Cite book|和書|author=吉川節子|title=印象派の誕生|edition=初版|year=2010|publisher=中央公論新社|series=中公新書|isbn=978-4-12-102052-9|ref={{SfnRef|『印象派の誕生』|2010}}}}<br /> * {{Cite book|和書|author=ロジェ・アヌーン、ジョン・シェード|translator=藤崎京子|editor=青柳正規[監修]|title=ローマ人の世界|edition=初版|year=1996|publisher=創元社|series=「知の再発見」双書|isbn=4-422-21120-X|ref={{SfnRef|『ローマ人の世界』|1996}}}}<br /> <br /> ==関連文献(全体に関わるもの)==<br /> 【概説・入門書】<br /> * 北澤洋子監修『西洋美術史』(武蔵野美術大学出版局、2006)&lt;small&gt;ISBN 9784901631716&lt;/small&gt;<br /> * 千足伸行監修『新西洋美術史』(西村書店、1999)&lt;small&gt;ISBN 9784890135837&lt;/small&gt;<br /> * 高階秀爾・三浦篤編『西洋美術史ハンドブック』(新書館、1997) &lt;small&gt;ISBN 9784403250248&lt;/small&gt;<br /> * 青山昌文『芸術の理論と歴史 改訂版』(放送大学教育振興会、2006)&lt;small&gt;ISBN 9784595306457&lt;/small&gt;<br /> * 『西洋美術の歴史』(全8巻:[[中央公論新社]]、2016-2017)<br /> 【画集・辞典】<br /> *『世界美術大全集:西洋編』(小学館、全28巻、1992-1997)&lt;small&gt;ISBN 4096010014(第1巻)&lt;/small&gt;<br /> *『世界美術大事典』(小学館、全6巻、1988-1990)&lt;small&gt;ISBN 4096993115(第1巻)&lt;/small&gt;<br /> *『オックスフォード西洋美術事典』(講談社、1989) &lt;small&gt;ISBN 406200979X&lt;/small&gt;<br /> * 木村三郎ほか編『西洋絵画作品名辞典』(三省堂、1994)&lt;small&gt;ISBN 4385154279&lt;/small&gt;<br /> * ジェイムズ・ホール『西洋美術解読事典 新装版』(河出書房新社、2004)&lt;small&gt;ISBN 9784309267500&lt;/small&gt;<br /> <br /> == 関連項目 ==<br /> * [[美術史]]<br /> * [[美学]]<br /> * [[美術家]]<br /> * [[美術家の一覧]]<br /> * [[美術館]]<br /> * [[美術大学]]<br /> * [[近代美術と現代美術]]<br /> * [[おもな近代西洋絵画一覧]]<br /> * [[世界美術大全集西洋編]]<br /> <br /> {{西洋の芸術運動}}<br /> <br /> {{DEFAULTSORT:せいようひしゆつし}}<br /> [[Category:西洋美術史|*]]<br /> [[Category:西洋文化]]<br /> [[Category:ヨーロッパ史]]</div> 219.96.7.204 絵画 2018-08-19T12:20:53Z <p>219.96.7.204: /* 関連項目 */</p> <hr /> <div>[[File:Children art.JPG|thumb|180px|right|{{small|[[児童画]]}}]]<br /> [[File:Jan Vermeer - The Art of Painting - Google Art Project.jpg|thumb|180px|right|{{small|『[[絵画芸術 (フェルメールの絵画)|絵画芸術]]』&lt;br /&gt;[[ヨハネス・フェルメール]]&lt;br /&gt;1666-1667&lt;br /&gt;画布、油彩&lt;br /&gt;120 × 100 cm&lt;br /&gt;[[ウィーン美術史美術館]]}}]]<br /> &#039;&#039;&#039;絵画&#039;&#039;&#039;(かいが)は、[[物体]]の[[形象]]を[[平面]]に描き出したもの&lt;ref name=&quot;kouzien&quot;&gt;広辞苑&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> [[日本語]]では類語の&#039;&#039;&#039;絵&#039;&#039;&#039;が幅広く用いられ、絵画という語は、特に芸術作品としての絵を指す場合がある。ただし、絵と絵画を区別して用いるとは限らない。また&#039;&#039;&#039;画&#039;&#039;&#039;を後ろにつけて描写の技法や対象を示す用語もある([[水墨画]]、[[静物画]]など)。<br /> [[フランス語]]の &#039;&#039;peinture&#039;&#039;(パンチュール)、英語の &#039;&#039;painting&#039;&#039;(ペインティング)、日本語の雅言的表現で絵と呼ぶこともある。<br /> <br /> [[文字]]などを「[[書く]]」ことより早く、絵画を「描く」行動は[[幼少期]]から見られる[[行動]]である。[[発達心理学]]などの分野では、[[14歳]]から[[18歳]]程度で完成期と呼ばれる時期を迎え、多くの人はその頃から、ほとんど描かなくなる。子どもの絵に関する社会科学的研究は豊富だが、大人の絵に関する同様の研究は少ない。その一方で、多くの人が描かなくなる年齢を過ぎても活動的に絵を描く人々が居る。[[歴史]]的に代表的なのは[[画家]]であると言えるが、[[現代 (時代区分)|現代]]ではより多くの[[業種]]に見出される傾向である。なお、[[人間]]の[[発達]]には個人差があり、柔軟な姿勢が必要&lt;ref&gt;http://allabout.co.jp/gm/gc/184285/4/&lt;/ref&gt;である。<br /> <br /> == 概説 ==<br /> 絵画は、基本的には、[[線]]や[[色彩]]をもちいて、物の形や姿を[[平面]]上に描き出したものである。その起源は有史以前に遡り、[[スペイン]]で6万5000年以上前に[[ネアンデルタール人]]が描いたと推定される[[洞窟壁画]]が発見されている&lt;ref&gt;[http://science.sciencemag.org/content/359/6378/912 U-Th dating of carbonate crusts reveals Neandertal origin of Iberian cave art]『[[サイエンス]]』2018年2月23日号(Vol.359, Issue 6378)&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> このような説明では不十分なことがある。別の説明をすると、絵画とは、[[絵具]]などの特定の描画材料を用いた描画を、[[意図]]的に特定の[[支持体]]に対して行うことによって成立したものである。「絵画は, ある物質の表面に故意に色をつけてつくり上げた「もの」にすぎない」&lt;ref&gt;『カラー版 絵画表現のしくみ―技法と画材の小百科』森田 恒之監修 森田 恒之ほか執筆 美術出版社 2000.3 ISBN 4568300533)&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> === 定義の問題 ===<br /> {{未検証|section=1|date=2010年3月}}<br /> {{独自研究|section=1|date=2010年3月}}<br /> 油彩画の初期には板に描かれた、油彩画の以前には[[テンペラ画]]もあった。また額に掛けて壁に飾るのは新しい様態であって、古くは壁に直接描く技法([[壁画]])があった。そういった古いものも絵画として認識するためには、たとえば「{{要出典範囲|支持体の上に、[[絵具]]、すなわち[[顔料]]と[[バインダー]]を練成したもの、を筆などにより塗布して構成されたもの|date=2013年9月}}」という定義が考えられる。<br /> <br /> 現代において絵画の概念の設定にも困難がつきまとう。理由のひとつは新しい素材や技法の登場による。<br /> [[パステル]]や[[色鉛筆]]で描いても良さそうであるが、これは「ドローイング」([[:en:drawing|drawing]])として絵画とは区別されるのが一般的だ。切り絵や貼り絵、[[コラージュ]]はどうなのか。[[パブロ・ピカソ]]の[[1912年]]の作品『籘張りの椅子のある静物』[http://www.musee-picasso.fr/pages/page_id18547_u1l2.htm]には籘張り糢様の布が画布に直接貼り付けられている。興味深い例として、[[イタリア]]の[[ルーチョ・フォンタナ]]の『空間概念』( [[1950年代]])がある。これは画布に切り目が入った作品である&lt;ref&gt; http://www.fondazioneluciofontana.it/&lt;/ref&gt;。[[1960年代]]後半の[[イタリア]]の[[アルテ・ポーヴェラ]]、同じころの日本の「[[もの派]]」の作家たちも、さまざまな素材を作品に用いている。もの派の作家たちの中には、通俗的には絵画と看做されない形態の作品を絵画として制作していると主張している人もいるが、その作品が絵画と看做されているとは言い難い。<br /> <br /> == 組成 ==<br /> 技法的観点、素材的観点は伝統的には組成などと通称された経緯がある。網羅的ではないが[[体系]]的[[範疇]]が蓋然的にであれ存在し、[[大学]]などの[[教育機関]]にあっても一定の認識が存在する。<br /> <br /> === 素材 ===<br /> 以下は素朴なリストである{{要出典|date=2013年9月}}。詳細は[[油彩|油彩画]]、[[水彩|水彩画]]の項等参照。<br /> * [[支持体]]<br /> ** [[紙]]<br /> ** [[布]]、特に、[[帆布]]。[[亜麻]]布や[[絹]]。<br /> ** [[皮革]]<br /> ** [[板]]<br /> *** [[鉄板]]<br /> ** [[ガラス]]<br /> ** [[段ボール]]<br /> ** [[食器]]などの[[工芸品]]<br /> ** [[建造物]]などの壁面や天井<br /> *[[絵具]](液体着色材料、及び、固体着色材料)<br /> ** [[油絵具]]<br /> ** [[水彩絵具]]<br /> ** [[パステル]]<br /> ** [[クレヨン]]<br /> *[[その他]]<br /> ** [[木炭]]<br /> ** [[鉛筆]]<br /> ** [[墨]]<br /> ** [[インク]]<br /> <br /> === 技法 ===<br /> {{要出典|date=2013年9月}}<br /> * [[油彩]]<br /> * [[水彩]]<br /> ** [[ガッシュ]]<br /> ** [[ボディーカラー]]<br /> * [[テンペラ]]<br /> * [[ディステンパー]]<br /> ** [[日本画]]<br /> ** [[水墨画]]<br /> * [[合成樹脂]][[塗料]]<br /> * [[フレスコ]]<br /> * [[パステル]]<br /> * [[チョークアート]]<br /> * [[ペン画]]<br /> * [[ドローイング]]<br /> * [[版画]]<br /> * [[切り絵]]<br /> * [[ちぎり絵]]<br /> * [[コラージュ]]<br /> <br /> == 類型 ==<br /> {{要出典|date=2013年9月}}<br /> * [[風景画]]<br /> * [[静物画]]<br /> * [[人物画]]<br /> ** [[肖像画]]<br /> ** [[自画像]]<br /> * [[博物画]]<br /> ** [[植物画]]<br /> ** [[動物画]]<br /> * [[宗教画]]<br /> * [[歴史画]]<br /> * [[風俗画]]<br /> * [[戦争画]]<br /> <br /> == 類語 ==<br /> ===図画 ===<br /> &#039;&#039;&#039;図画&#039;&#039;&#039;(ずが)は、小学校の[[教科]]に図画工作&lt;ref&gt;中学校以上では[[美術 (教科)|美術]]&lt;/ref&gt;があり、「絵画」と同様の意味で使われることもあるが、絵画のほかに素描([[デッサン]]、[[ドローイング]])、[[イラストレーション|イラスト]]、[[版画]]などを含んでいる。[[法律]]文書では「文書図画」のように文書と組み合わせて使われる。なお、絵画に関する学問は&#039;&#039;&#039;画学&#039;&#039;&#039;と称される。<br /> <br /> ===平面作品 ===<br /> [[彫刻]]に対比される絵画ではなく、「立体作品」に対比される「平面作品」という語が登場した。しかし、絵画、[[版画]]、[[イラストレーション]]、[[印刷物]]、[[映画]]、[[写真]]、[[2次元コンピュータグラフィックス|2DCG]]等が「平面作品」であるかどうか判然とせず、曖昧である。加えて、絵画が立体であるという事実を蹂躙しているという批判もある。<br /> <br /> == ギャラリー ==<br /> &lt;gallery perrow=&quot;8&quot;&gt;<br /> ファイル:Chauvet cave, paintings.JPG|{{small|[[ショーヴェ洞窟壁画]]}}<br /> ファイル:Lascaux painting.jpg|{{small|[[ラスコー洞窟壁画]]}}<br /> ファイル:Una pintura rupestre de la cueva de Toquepala.JPG|{{small|[[トケパラ洞窟壁画]]}}<br /> ファイル:Fayum02.jpg|{{small|ローマ帝国治下のエジプトの少年の葬儀用の肖像画}}<br /> ファイル:Sigiriya ladies 01.jpg|{{small|[[シーギリヤ]]&lt;br /&gt;500年頃}}<br /> ファイル:Stroll About InSpring.jpg|{{small|『遊春図』&lt;br /&gt;[[:zh:展子虔|展子虔]] (zh)&lt;br /&gt;600年頃}}<br /> ファイル:Guo Xi - Early Spring (large).jpg|{{small|『早春図』&lt;br /&gt;[[郭煕]]&lt;br /&gt;[[北宋]]}}<br /> ファイル:Minamoto no Yoritomo.jpg|{{small|『伝源頼朝像』}}<br /> ファイル:Robert campin - de mérode altaarstuk.jpg|{{small|『受胎告知』&lt;br /&gt;[[ロベルト・カンピン]]&lt;br /&gt;1425-1430頃&lt;br /&gt;板、油彩&lt;br /&gt;64.1 × 63,.2 cm&lt;br /&gt;[[メトロポリタン美術館]]}}<br /> ファイル:Van Eyck - Arnolfini Portrait.jpg|{{small|『[[アルノルフィーニ夫妻像|アルノルフィーニ夫妻]]』&lt;br /&gt;[[ヤン・ファン・エイク]]&lt;br /&gt;1434&lt;br /&gt;板、油彩&lt;br /&gt;81.8 × 59.7 cm&lt;br /&gt;[[ナショナル・ギャラリー (ロンドン)|ナショナル ギャラリー(ロンドン)]]}}<br /> ファイル:Paolo Uccello 023.jpg|{{small|『サン・ロマーノの戦い』&lt;br /&gt;[[パオロ・ウッチェロ]]&lt;br /&gt;1438&lt;br /&gt;板、テンペラ&lt;br /&gt;182cm×323cm&lt;br /&gt;[[ウフィツィ美術館]]}}<br /> ファイル:ANGELICO, Fra Annunciation, 1437-46 (2236990916).jpg|{{small|『受胎告知』&lt;br /&gt;[[フラ・アンジェリコ]]&lt;br /&gt;1437-46頃&lt;br /&gt;フレスコ&lt;br /&gt;214cm×318cm&lt;br /&gt;[[サン・マルコ美術館]]}}<br /> ファイル:Giovanni Bellini - Pietà, 1460 circa.jpg|{{small|『[[ピエタ]]』&lt;br /&gt;[[ジョヴァンニ・ベリーニ]]&lt;br /&gt;1460&lt;br /&gt;板、テンペラ&lt;br /&gt;86 × 107 cm&lt;br /&gt;[[ブレラ絵画館]]}}<br /> &lt;!-- ファイル:Paolo Uccello 052.jpg|{{small|『狩猟』&lt;br /&gt;[[パオロ・ウッチェロ]]&lt;br /&gt;1460代&lt;br /&gt;板、テンペラ&lt;br /&gt;65 × 165 cm&lt;br /&gt;[[アシュモリアン美術館]]}} --&gt;<br /> ファイル:Botticelli-primavera.jpg|{{small|『[[プリマヴェーラ|春 (プリマヴェーラ)]]』&lt;br /&gt;[[サンドロ・ボッティチェッリ]]&lt;br /&gt;1477 - 1478頃&lt;br /&gt;板、テンペラ&lt;br /&gt;203 x 314 cm&lt;br /&gt;[[ウフィツィ美術館]]}}<br /> ファイル:Giovanni Bellini - Ritratto del Doge Leonardo Loredan.jpg|{{small|『[[レオナルド・ロレダン]] 』&lt;br /&gt;[[ジョヴァンニ・ベリーニ]]&lt;br /&gt;1501頃&lt;br /&gt;板、油彩&lt;br /&gt;61.5 × 45 cm&lt;br /&gt;[[ナショナル・ギャラリー (ロンドン)|ナショナル ギャラリー(ロンドン)]]}}<br /> ファイル:Raffael 058.jpg|{{small|『[[アテナイの学堂]]』&lt;br /&gt;[[ラファエロ・サンティ|ラファエロ]]&lt;br /&gt;1509-1510&lt;br /&gt;フレスコ&lt;br /&gt;500 × 770 cm&lt;br /&gt;[[バチカン市国]]}}<br /> ファイル:Michelangelo - Fresco of the Last Judgement.jpg|{{small|『[[最後の審判 (ミケランジェロ)|最後の審判]]』&lt;br /&gt;[[ミケランジェロ・ブオナローティ]]&lt;br /&gt;1535-1541&lt;br /&gt;フレスコ&lt;br /&gt;[[システィーナ礼拝堂]]}}<br /> &lt;!-- ファイル:Hasegawa Tohaku, Hasegawa Tohaku - Pine Trees (Shōrin-zu byōbu) - right hand screen.jpg|{{small|『松林図』左隻 (六曲一双)&lt;br /&gt;[[長谷川等伯]]&lt;br /&gt;16世紀&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;[[東京国立博物館]]}} --&gt;<br /> ファイル:Hasegawa Tohaku - Pine Trees (Shōrin-zu byōbu) - right hand screen.jpg|{{small|『松林図』右隻 (六曲一双)&lt;br /&gt;[[長谷川等伯]]&lt;br /&gt;16世紀&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;[[東京国立博物館]]}}<br /> ファイル:Fujinraijin-tawaraya.jpg|{{small|『[[風神雷神図]]』&lt;br /&gt;[[俵屋宗達]]&lt;br /&gt;1600年頃&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;[[建仁寺]]、京都}}<br /> &lt;!-- ファイル:Caravaggio - La vocazione di San Matteo.jpg|{{small|『聖マタイの召命』&lt;br /&gt;[[ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジオ|カラバッジオ]]&lt;br /&gt;1599 - 1600&lt;br /&gt;画布、油彩&lt;br /&gt;322 cm × 340 cm&lt;br /&gt;[[サン・ルイジ・デイ・フランチェージ聖堂]]}} --&gt;<br /> ファイル:Fra Juan Sánchez Cotán 001.jpg|{{small|『マルメロ、キャベツ、メロン、胡瓜の実』&lt;br /&gt;[[フアン・サンチェス・コターン]]&lt;br /&gt;1602&lt;br /&gt;画布、油彩&lt;br /&gt;65,5 × 81 cm&lt;br /&gt;[[サンディエゴ美術館]]}}<br /> ファイル:The Deposition by Caravaggio.jpg|{{small|『キリストの埋葬』&lt;br /&gt;[[ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジオ|カラバッジオ]]&lt;br /&gt;1602&lt;br /&gt;画布、油彩&lt;br /&gt;300 × 203 cm&lt;br /&gt;[[バチカン美術館]]}}<br /> ファイル:Heda, Willem Claeszoon - Breakfast Table with Blackberry Pie - WGA.jpg|{{small|『ブラックベリーパイの朝食』&lt;br /&gt;[[ウィレム・クラース・ヘダ]]&lt;br /&gt;1631&lt;br /&gt;板、油彩&lt;br /&gt;54 x 82 cm&lt;br /&gt;[[ドレスデン美術館]]}}<br /> image:The Anatomy Lesson.jpg|{{small|『[[テュルプ博士の解剖学講義]]』&lt;br /&gt;[[レンブラント・ファン・レイン|レンブラント]]&lt;br /&gt;1632&lt;br /&gt;画布、油彩&lt;br /&gt;216.5 cm × 169.5 cm&lt;br /&gt;[[マウリッツハイス美術館]]}}<br /> &lt;!-- ファイル:Meindert Hobbema 001.jpg|{{small|『ミッデルハルニスの並木道』&lt;br /&gt;[[メインデルト・ホッベマ]]&lt;br /&gt;1689}} --&gt;<br /> ファイル:Jean-Auguste-Dominique Ingres - La Baigneuse Valpinçon.jpg|{{small|『浴女』&lt;br /&gt;[[ドミニク・アングル]]&lt;br /&gt;1808&lt;br /&gt;画布、油彩&lt;br /&gt;146×97.5cm&lt;br /&gt;[[ルーヴル美術館]]}}<br /> ファイル:Monk by the Sea.jpg|{{small|『海辺の僧侶』&lt;br /&gt;[[カスパー・ダーヴィト・フリードリヒ]]&lt;br /&gt;1808-1810&lt;br /&gt;画布、油彩&lt;br /&gt;110 × 171.5cm&lt;br /&gt;[[ベルリン美術館]]}}<br /> ファイル:Natu-aki kusa zu byoubu.jpg|{{small|『風雨草花図』 右隻 (二曲一双)&lt;br /&gt;[[酒井抱一]]&lt;br /&gt;19世紀前半&lt;br /&gt;[[東京国立博物館]]}}<br /> ファイル:The_Great_Wave_off_Kanagawa.jpg|{{small|『[[富嶽三十六景]] [[神奈川沖浪裏]]』&lt;br /&gt;[[葛飾北斎]]&lt;br /&gt;1830年代}}<br /> ファイル:Turner, J. M. W. - The Grand Canal - Venice.jpg|{{small|『ヴェネツィアの大運河』&lt;br /&gt;[[ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナー|ターナー]]&lt;br /&gt;1850&lt;br /&gt;画布、油彩&lt;br /&gt;91 x 122 cm&lt;br /&gt;[[メトロポリタン美術館]]}}<br /> &lt;!--ファイル:Jean auguste dominique ingres madame paul-sigisbert moitessier.jpg|{{small|『モワテシエ夫人』&lt;br /&gt;[[ドミニク・アングル]]&lt;br /&gt;1856&lt;br /&gt;画布、油彩&lt;br /&gt;120 × 92 cm&lt;br /&gt;[[ナショナル・ギャラリー (ロンドン)|ナショナル ギャラリー(ロンドン)]]}} --&gt;<br /> ファイル:Edouard_Manet_016.jpg|{{small|『バルコニー』&lt;br /&gt;[[エドゥアール・マネ]]&lt;br /&gt;1868-1869&lt;br /&gt;画布、油彩&lt;br /&gt;169 × 125 cm&lt;br /&gt;[[オルセー美術館]]}}<br /> ファイル:James Abbot McNeill Whistler 012.jpg|{{small|『黒と金のノクターン-落下する花火』&lt;br /&gt;[[ジェームズ・マクニール・ホイッスラー|ジェームズ・ホイッスラー]]&lt;br /&gt;1875&lt;br /&gt;画布、油彩&lt;br /&gt;60.3 × 46.6cm&lt;br /&gt;[[デトロイト美術館]]}}<br /> ファイル:Georges Seurat - Un dimanche après-midi à l&#039;Île de la Grande Jatte.jpg|{{small|『[[グランド・ジャット島の日曜日の午後]]』&lt;br /&gt;[[ジョルジュ・スーラ]]&lt;br /&gt;1884-86&lt;br /&gt;画布、油彩&lt;br /&gt;205.7×305.8cm&lt;br /&gt;[[シカゴ美術館|シカゴ美術研究所]]}}<br /> &lt;/gallery&gt;<br /> <br /> == 脚注 ==<br /> {{Reflist}}<br /> <br /> == 参考文献 ==<br /> * 『見る脳・描く脳―絵画のニューロサイエンス』岩田誠 東京大学出版会 1997 ISBN 4130633147<br /> * 『脳は美をいかに感じるか ピカソやモネが見た世界』セミール ゼキ (Semir Zeki), 河内十郎 訳 日本経済新聞社 2002 ISBN 4532149606<br /> <br /> == 関連項目 ==<br /> {{Commons category|Paintings}}<br /> {{Wiktionary|絵画}}<br /> * [[美術]]<br /> * [[美術史]]<br /> * [[西洋美術史]]<br /> * [[東洋美術史]]<br /> * [[画家]]<br /> * [[タブロー]]<br /> * [[イラストレーション]]<br /> * [[壁紙]]<br /> * [[インテリア]]<br /> <br /> {{西洋の芸術運動}}<br /> {{美術}}<br /> {{Normdaten}}<br /> <br /> {{デフォルトソート:かいか}}<br /> [[Category:絵画|*]]<br /> [[Category:美術のジャンル]]<br /> [[Category:媒体]]<br /> [[Category:画材]]<br /> [[Category:絵画技術]]</div> 219.96.7.204 タペストリー 2018-08-19T12:06:02Z <p>219.96.7.204: </p> <hr /> <div>{{otheruses|織物|その他}}<br /> [[画像:Watchers of the Stars.jpg|thumb|300px|16世紀頃のフランス製と推測されるタピストリー、 &#039;&#039;L&#039;Astronomie&#039;&#039;]]<br /> [[画像:Loom basse lisse DSC08828.jpg|thumb|300px|タペストリーを織る機、パリのゴブラン工場にて]]<br /> &#039;&#039;&#039;タペストリー&#039;&#039;&#039;({{Lang-en|tapestry}})は、壁掛けなどに使われる室内装飾用の[[織物]]の一種。タペストリーは[[英語]]で、[[中期英語]]では{{Lang|enm|tapissery}}といい、[[フランス語|仏語]]の&#039;&#039;&#039;タピスリ&#039;&#039;&#039;({{Fr|tapisserie}})からきている。製織の技術では日本の{{読み仮名|&#039;&#039;&#039;[[綴織]]&#039;&#039;&#039;|つづれおり|[[平織]]の一種で、太い横糸で縦糸を包み込むことで、縦糸を見えなくして横糸だけで絵柄を表現する織物}}に相当するものである。しかし、規模、用途、材料、様式などは[[東洋]]のものとはかなり異なり、完成までに3年を要する作品もある大変に高価な物だった。最盛期は中世末期であり、現在では、&#039;&#039;&#039;[[ゴブラン織]]&#039;&#039;&#039;とも呼ばれる。<br /> <br /> 現代では織物に印刷したものもある。<br /> <br /> == 製法 ==<br /> タペストリーは[[織機|機]]を使って手作りされる。タペストリーは表面に出ている横糸によってカラフルな模様や絵柄を創り出す織物で、縦糸は完全に横糸に隠れて見えなくなっており、これが縦糸と横糸の両方が見える衣服などの布との違いである。タペストリーを織る場合、縦糸には普通[[木綿]]の糸や[[亜麻]]([[リンネル]])の糸が使われる。絵柄を作る横糸には羊毛([[ウール]])や木綿のほか、[[絹]]糸、[[金]]糸、[[銀]]糸などが使われる。<br /> <br /> タペストリーは専門の[[職人]]が作るが、[[芸術家]]も制作する。日本では[[染織]]や[[工芸]]も[[芸術]]の一分野とみなされているが、西洋では[[純粋芸術]](ファインアート)より一段低い[[応用芸術]]の一分野とされ、純粋芸術家が染織を直接手がけることが奇異の目で見られる場合があった。<br /> <br /> タペストリー・カートゥーンと呼ばれる、厚紙に書くタペストリーの設計図を名のある芸術家が描き、これをもとに職人がタペストリーを織る分業体制をとる場合もある。名画を再現したタペストリーは長年にわたり多くの工房で作られてきたほか、織物独特の存在感・素材感に惹かれた芸術家が工房と共同してタペストリーを手がけている。[[パブロ・ピカソ]]は『[[ゲルニカ (絵画)|ゲルニカ]]』のタペストリーを複数製造し、そのうち一つが[[国際連合安全保障理事会]]議場前に飾られているほか、[[ジョアン・ミロ]]や建築家[[ル・コルビュジエ]]などがタペストリーを職人と共同制作している。<br /> <br /> タペストリーという言葉は、荒い格子の織目が見える[[キャンバス]]地の布などに、織目を目印にして刺繍糸や[[毛糸]]で刺繍をほどこす、[[キャンバスワーク]]や[[ニードルポイント]]などの刺繍に対しても誤って用いられることがある。キャンバスワークやニードルポイントによる刺繍の表面の見え方はタペストリーの表面によく似ているため、これらの刺繍も慣例的にタペストリーと呼ばれるようになった。<br /> <br /> [[防音材]]としても用いられる。<br /> <br /> == 歴史 ==<br /> [[画像:UrumqiWarrior.jpg|thumb|[[紀元前3世紀]]から[[紀元前2世紀]]に作られたタペストリーの一部。ギリシャ人兵士が描かれている。タリム盆地の Sampul で発見され、新疆ウイグル自治区のウルムチ博物館所蔵となっている]]<br /> [[画像:MilleFleurTapestry.jpg|thumb|16世紀フランドルのタペストリー。鮮やかな花と葉を描いた[[千花模様]](ミル・フルール、万華模様)の地にユニコーンが描かれている。ロンドンの[[ヴィクトリア&amp;アルバート美術館]]所蔵]]<br /> 綴織の歴史は古く、[[紀元前15世紀]]に没した[[エジプト第18王朝]][[トトメス3世]]の墓からも鮮やかな麻の綴織が出土している。タペストリーは[[ヘレニズム]]時代にはすでに存在しており、東西交易により広く流通していた。[[紀元前3世紀]]から[[紀元前2世紀]]に作られた古代ギリシア風のタペストリーの一部が、中国西部の[[タリム盆地]]から発見されている。<br /> <br /> [[ヨーロッパ]]へは、[[11世紀]]に[[十字軍]]が東方の産物として手織り[[絨毯]]を持ち帰ったのがタペストリーの始まりとなる。華やかな絨緞を靴で踏むのは忍びないことから、壁にかけたところ、部屋の装飾になるだけでなく、壁の隙間風を防ぎ、断熱効果が認められた。ここからヨーロッパでの需要が高まり、国内で生産できるつづれ織りのタペストリーが生まれた&lt;ref name=repo1&gt;[http://books.google.co.jp/books?id=6mt9_0PE4BoC&amp;pg=PA18 図解入門業界研究最新インテリア業界の動向とカラクリがよーくわかる本]本田榮二、秀和システム, 2010&lt;/ref&gt;。タペストリーは[[14世紀]]初頭の[[ヨーロッパ]]で新たな発展を遂げた。最初は[[ドイツ]]や[[スイス]]で盛んに製造されていた。次第に生産地は[[フランス]]や[[ベルギー]]、[[オランダ]]へと拡大した。<br /> <br /> [[14世紀]]から[[15世紀]]にかけて、フランス北部の[[アラス]]が織物で栄えた都市だった。特に上質のウールで織られたタペストリーはヨーロッパ各地の城や宮殿を飾るために輸出された。しかし[[フランス革命]]の混乱の中、アラスのタペストリーの多くは織り込まれた金糸を取り出すために焼かれ、今では数えるほどしか残っていない。現在でも、「アラス」は産地を問わず上等なタペストリーを指す言葉として使われている。<br /> <br /> [[16世紀]]までに[[フランドル]]がヨーロッパのタペストリー生産の中心地となった。[[17世紀]]、フランドルではタペストリーは、議論の余地はあるにしても最も重要な生産物であり、この時代に作られた多くの種類のものが現存しており、模様や色彩の複雑な細部もはっきり残っている。<br /> <br /> &#039;&#039;&#039;ゴブラン&#039;&#039;&#039;{{enlink|Gobelin}}がタペストリーの代名詞となったのはフランス王の力による。15世紀半ば、パリ市街のすぐ外でジャン・ゴブランとその家族が染織工場を始め、非常に成功した。芸術や産業を支援した[[アンリ4世 (フランス王)|アンリ4世]]は[[17世紀]]始めにフランドルから2人の職人を招いてゴブランの工場で王宮用壁飾りにするタペストリーの生産をさせ、ゴブラン織の名は有名になった。[[1662年]]、[[ルイ14世 (フランス王)|ルイ14世]]の時代に財務総監[[ジャン=バティスト・コルベール]]は[[ゴブラン工場]]を王立家具工場の一部とし、画家[[シャルル・ルブラン]]の運営と監督の下で多くの優れた画家に下絵を描かせたタペストリーを生産した。ゴブラン工場は17世紀末、政府の財政難で閉鎖したが、後にタペストリー生産を再開し現在に至っている。<br /> <br /> === タペストリーの機能とペスト ===<br /> 装飾的なタペストリーが中世ヨーロッパで隆盛を極めたのは、持ち運びできることにも理由がある。王たちや貴族たちは屋敷や別荘や旅先へタペストリーを丸めて持ち運び、到着すると壁に掛けて楽しんだ。キリスト教会では、特別な日などに聖書の場面を表したタペストリーを取り出して飾った。また冬の間、防寒用として熱を逃がさないために城の部屋の壁にタペストリーを飾ることもあった。こうしたことから、タペストリーは絵画以上に貴重な工芸品として取引されていた。<br /> <br /> 中世の[[キリスト教]]は、[[修道院]]の家畜を襲う[[狼]]を邪悪な動物として駆除していたため、[[ペスト菌]]を媒介する[[クマネズミ]]が大量発生したが、そのクマネズミの格好の棲家が、壁に吊ったままの埃だらけのタペストリーだった。この[[14世紀]]の[[ペスト]]蔓延を契機に、タペストリーより軽量で手入れの簡単な布や革が壁を覆うものとして好まれるようになり、製紙・印刷技術の発達によって[[15世紀]]半ばに[[壁紙]]が登場すると、その図柄の自由自在さから、その後は壁紙の需要が高まっていった&lt;ref name=&quot;repo1&quot;/&gt;。<br /> <br /> == 図像 ==<br /> 西洋のタペストリーに描かれている絵柄は、伝統的な書物がもとになっている。特に『[[聖書]]』と、[[オウィディウス]]の『[[変身物語]]』は人気のある題材だった。宗教的な絵柄や神話的な絵柄以外では、[[ユニコーン]]や狩りのシーンが室内装飾用のタペストリーの題材には好まれた。<br /> <br /> == 有名なタペストリー ==<br /> ; サンプルのタペストリー([[:en:Sampul tapestry|The Sampul tapestry]])<br /> : [[紀元前3世紀]] - [[紀元前2世紀]]に作られたと見られる。[[タリム盆地]]のサンプルで発見。ウルムチ博物館所蔵。<br /> ; ヘスティアのタペストリー([[:en:The Hestia Tapestry|The Hestia Tapestry]])<br /> : [[6世紀]]、[[東ローマ帝国]]支配下の[[エジプト]]で作られたもの。[[ヘスティアー|ヘスティア]]神が描かれている。ワシントンD.C.の[[ダンバートン・オークス]]・コレクション所蔵。<br /> ; [[バイユーのタペストリー]](The Bayeux Tapestry)<br /> : [[ヘイスティングズの戦い]]が描かれている。実際にはタペストリーではなく、[[刺繍]]された布。<br /> ; [[アンジェの黙示録]] ([[:fr:Tapisserie de l&#039;Apocalypse|Tapisserie de l&#039;Apocalypse]])<br /> : [[14世紀]]、[[シャルル5世 (フランス王)|シャルル5世]]の画家だったジャン・ド・ブリュージュが[[ヨハネの黙示録]]を題材に描いた下絵をもとに、ニコラ・バターユが制作したもの。現在[[アンジェ]]のアンジェ城が所蔵。<br /> ; [[貴婦人と一角獣]](La Dame à la Licorne)<br /> : 15世紀フランドルで作られた6枚からなるタペストリー。パリの[[クリュニー美術館]](中世美術館)所蔵。<br /> ; [[:en:The Hunt of the Unicorn|The Hunt of the Unicorn]]<br /> : 15世紀末に作られた7枚組のタペストリー。ニューヨークの[[メトロポリタン美術館]]分館、[[クロイスターズ]]所蔵。<br /> ; [[祇園祭]]・[[長浜曳山まつり]]の[[山車|曳山]]を飾るタペストリー<br /> : 16世紀 - 17世紀のブリュッセルで作られたタペストリー。[[トロイア戦争]]が[[モチーフ]]となっている。桃山時代から江戸時代初期にもたらされ、後に京都・大津町衆が購入したもの(来歴は諸説あり、詳細は不明)&lt;ref&gt;{{Cite web |url=http://www.nagahama-hikiyama.or.jp/common/pdf/tokubetuten_1.pdf |title=曳山のタペストリー ベルギーからの舶載品 |format=PDF |publisher=公益財団法人 長浜曳山文化協会 |accessdate=2014-10-24}}&lt;/ref&gt;。京都・大津ともに元は1枚のタペストリーだったものを江戸時代の職人が分割・貼り合わせを行った。<br /> <br /> == 脚注 ==<br /> {{reflist}}<br /> <br /> == 参考文献 ==<br /> * 『染織の文化史』 藤井守一、理工学社、ISBN 4-8445-6302-5<br /> <br /> == 外部リンク ==<br /> {{Commons|Category:Tapestry}}<br /> *[http://en.wikisource.org/w/index.php?title=User:Tim_Starling/ScanSet_TIFF_demo&amp;vol=26&amp;page=ED6A425 (eb1911) Tapestry article]<br /> *[http://www.all-art.org/history194-28.html Tapestry], &quot;A World History of Art&quot;<br /> *[http://www.all-art.org/history194-29tapestry.html Bayeux Tapestry – Propaganda on cloth], &quot;A World History of Art&quot;<br /> *[http://www.designerwalltapestries.com/Tapestry_Info_s/17.htm Tapestry Design and Weaving Info]<br /> *[http://www.alitadesigns.com/gobelins/history.php The History of Gobelins]<br /> <br /> {{デフォルトソート:たへすとりい}} <br /> [[Category:タペストリー|*]]<br /> [[Category:インテリア]]<br /> [[Category:ニードルワーク]]</div> 219.96.7.204 テンプレート:性 2018-08-19T02:44:28Z <p>219.96.7.204: </p> <hr /> <div>{{Navbox<br /> |name = 性<br /> |title = [[性別|性]]<br /> |listclass = hlist hlist-hyphen<br /> <br /> |group1 = 性別<br /> |list1 = <br /> *[[男性]]<br /> *[[女性]]<br /> *[[雄|オス]]<br /> *[[雌|メス]]<br /> *[[半陰陽]] <br /> <br /> |group2 = 学問<br /> |list2 = <br /> *[[婦人科学]]<br /> *[[泌尿器科学]]<br /> *[[性科学]]<br /> *[[生理学]]<br /> *[[生物学]]<br /> *[[ジェンダー]]<br /> <br /> |group3 = 行為と 人間/動物<br /> |list3 = <br /> *[[性行為]]<br /> *[[人間の性]]<br /> *[[動物の性行動]]<br /> <br /> |group4 = [[性的指向]]<br /> |list4 = <br /> *[[異性愛]]<br /> *[[同性愛]]<br /> **[[レズビアン]]<br /> **[[ゲイ]]<br /> *[[両性愛]]<br /> **[[バイセクシャル]]<br /> *[[多性愛]]<br /> *[[全性愛]]<br /> *[[無性愛]]<br /> *[[恋愛的指向]]<br /> <br /> |group5 = [[生理学|生理]]的事象<br /> |list5 = <br /> *[[月経]]<br /> *[[性的興奮]]<br /> *[[オーガズム]]([[潮吹き (女性器)|潮吹き]])<br /> *[[妊娠]] <br /> *[[勃起]]<br /> *[[射精]]<br /> *[[勃起不全]]<br /> *[[異常性欲]]<br /> *[[膣内射精]]<br /> *[[更年期障害]]<br /> *[[膣内射精障害]]<br /> <br /> |group6 = 健康と教育<br /> |list6 = <br /> *[[性教育]]<br /> *[[避妊]]<br /> *[[性行為感染症]]<br /> *[[コンドーム]]<br /> *[[セーファーセックス]]<br /> *[[経口避妊薬]]<br /> <br /> |group7 = 性的行動<br /> |list7 = <br /> *[[性交]]<br /> **[[前戯]]<br /> **[[後戯]]<br /> *[[性交体位]]<br /> *[[オーラルセックス]]<br /> *[[口内射精]]<br /> *[[シックスナイン]]<br /> *[[オナニー]]<br /> *[[ペッティング]]<br /> *[[手マン]]<br /> 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