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http:///mymemo.xyz/wiki/api.php?action=feedcontributions&user=218.33.128.160&feedformat=atom miniwiki - 利用者の投稿記録 [ja] 2024-05-02T23:55:25Z 利用者の投稿記録 MediaWiki 1.31.0 渡し船 2018-05-27T03:43:06Z <p>218.33.128.160: /* 中世以前の渡し */</p> <hr /> <div>[[File:Ben_Tre-Radler_geht_von_der_Fähre,_Mekong.jpg|thumb|240px|もっとも根源的な渡し船。ベトナムのベンチェーにて]]<br /> [[Image:Chikko-Dock Embarking Osaka-City-Ferry.jpg|thumb|240px|right|渡船に乗船する人々&lt;br /&gt;天保山渡船 築港のりば にて]]<br /> &#039;&#039;&#039;渡し船&#039;&#039;&#039;(わたしぶね)とは、[[港湾]]・[[河川]]・[[湖沼]]などで両岸を往復して客や荷物を運ぶ[[船]]及び[[航路]]のことである。&#039;&#039;&#039;渡船&#039;&#039;&#039;(とせん)とも言う。また、渡し船に乗り降りするところを&#039;&#039;&#039;渡し場&#039;&#039;&#039;(わたしば)、&#039;&#039;&#039;渡船場&#039;&#039;&#039;(とせんじょう、とせんば)などという。<br /> <br /> 広義の「渡し船」には、[[離島]]との航路などや、[[釣り]]客を沖の独立した[[防波堤]]や岩礁へ運ぶ渡船業、リゾート企業などが顧客専用として運用するものも含まれる。本稿では狭義の渡し船として、「比較的狭い距離の対岸同士を渡し、庶民の日常の交通手段や観光に利用され、公共性の高いもの」について述べる。大型かつ航路の長いものは&#039;&#039;&#039;[[フェリー]]&#039;&#039;&#039;を、単純な対岸往復でなく、河川や運河の流れに沿って複数の船着場を行き来する船は&#039;&#039;&#039;[[水上バス]]&#039;&#039;&#039;を参照のこと。なお、フェリーと渡し船を呼び分ける文化は日本以外にはあまり存在しないため、各国語版へのリンクは[[フェリー]]のほうを主に参照されたい。<br /> {{TOC limit|3}}<br /> <br /> == 東南アジアの例 ==<br /> [[File:Phà ở t.p. CanThơ.JPG|thumb|240px|メコンデルタの典型的な渡し船。平底船にウィンチ式の[[フェリー#船体構造|ランプウェイ]](航行時も下ろしっぱなしの場合が多い)、屋根、操縦用の櫓という構造が見て取れる。ベトナム、カントーにて]]<br /> [[File:2009-08-30_09-03_Luang_Prabang_020_Mekong.jpg|thumb|240px|ラオス、メコン川のボート]]<br /> [[File:Lascar_View_from_the_central_prang_-_Wat_Arun_(4509726010).jpg|thumb|240px|チャオプラヤ川、ワット・アルンから見る渡し船と水上バス(対岸がワット・ポー)]]<br /> === ベトナム ===<br /> [[ベトナム]]では、主に南部の[[メコンデルタ]]地方を中心に多くの渡船が存在する。この地方では[[メコン川]]が多くの支流に分かれ、農業用・輸送用の水路も網の目のように張り巡らされている。このため船による輸送が活発で、橋をかけることや、そのために高い堤防を造成することが逆に交通の不効率化を招く場所が極めて多い。とはいえ、[[オートバイ]]や[[自転車]]が庶民の基本的な交通手段であることも事実であるため、渡船は生活に欠かせないものとなっている。<br /> <br /> また、21世紀になって[[カントー橋]]や[[ラックミエウ橋]]が掛けられるまで、交通の大動脈である[[国道1A号線_(ベトナム)|国道一号線]]でのバスやトラックでの大規模輸送であっても、大型の渡船が利用された。<br /> <br /> このようにベトナムの渡船は基本的に車両での乗船を考慮する必要があるため、輸送量の多い場所では[[デッキ]]がそのまま[[波止場]]の地面とひとつながりになる船体形状のものが多い。また、河川の流れが極めて緩やかなため、安定性に注意を払う必要が低く、喫水の浅く底が平たい、ある意味一枚の「床」のような形状のものが見られる。<br /> <br /> === ラオス ===<br /> 陸上の交通路がきわめて貧弱で、かつ山岳が多く川の流れが急な[[ラオス]]においては、「対岸へ渡す」船ではなく、川を斜めに渡って乗客を運ぶ渡船が主流である。このため船体は極めて細長い形状である。<br /> <br /> === タイ ===<br /> タイの地方ではベトナム同様のオートバイ利用者向けの渡船も見られるが、陸上交通の充実した首都[[バンコク]]においては、主に徒歩客、特に観光客のためのものが主流である。バンコク都内を南北に流れる[[チャオプラヤー川]]では、[[チャオプラヤー・エクスプレス]]([[水上バス]]に分類される)のような川を上下するもののほかに、対岸同士にある[[ワット・アルン]]と[[ワット・ポー]]を結ぶ渡船などが存在する。<br /> <br /> また、[[ミャンマー]]との国境を形成する[[クラ地峡]]には海上の国境を超える渡し船が多く運行されている。これらは公営のものではなく企業とも呼べない個人経営のものばかりのため、料金交渉が必要であり、事故が起きてもほとんど保障は得られない。メコン川でのラオス国境にも同様なものがあるが、こちらは運賃が決まっており、個人ではなく企業経営のものが多い。<br /> <br /> === マレーシア ===<br /> マレーシアも陸上交通が充実しており、自動車の普及率も高いことから渡船は地方の観光地に多い。[[サラワク州]]の[[クチン]]では、市街を南北に分けるサラワク川支流の中心部は景観維持のために橋がかかっておらず、徒歩客むけの多くの渡船が早朝から夜遅くまで行き交う。<br /> {{clear}}<br /> <br /> == 日本の例 ==<br /> [[File:Hiroshige29 mitsuke.jpg|thumb|240px|『[[東海道五十三次 (浮世絵)|東海道五十三次]]』([[見附宿]])]]<br /> 中世以前は架橋技術の未発達により、渡船に頼る比重が高かった。江戸時代の[[幕藩体制]]においても、架橋が困難な地点や、[[関所]]など軍事的理由で架橋が許されなかった地点を中心に渡船が行われた。また、地形が山がちなことや、軍事的理由から車輪の利用が発達しなかった事によって発生する水運の優位性もあり、渡船は全国各地で行われた。<br /> <br /> 道路が整備され、また車両が普及するなどして陸運が発達すると、水運の至便性よりも洪水忌避が重要となり、堤防の建設などによって生活と水辺は切り離されてゆく傾向にある。また、架橋技術や[[トンネル|隧道]]等土木技術の発達も水運の重要性を低下させる。これらの理由により渡船は徐々に廃止され、[[21世紀]]初頭の日本では観光用ないしは、港湾・河川等においての船舶交通量が多いため、架橋により通過する船舶の交通量を確保できない場合や遠方の離島との間など架橋が困難ないしは、架橋するだけ交通量が確保できない、橋があっても歩行者・自転車の通行が困難な事例など特別な事情がある場合に限られている。<br /> <br /> === 中世以前の渡し ===<br /> [[万葉集]]に、[[三国橋_(渡良瀬川)|古河の渡し]]([[茨城県]][[古河市]])がうたわれている。[[隅田川の渡し#橋場の渡し|隅田の渡し]]([[東京都]][[台東区]][[橋場]]・[[荒川区]][[南千住]])、[[多摩川]]を渡る[[関戸橋|関戸の渡し]](東京都[[多摩市]])、[[丸子橋|丸子の渡し]]([[神奈川県]][[川崎市]])なども古代から知られている。<br /> <br /> また、旧[[渡良瀬川]]を渡る[[栗橋宿|房川渡し]]([[埼玉県]][[久喜市]]・茨城県古河市・[[五霞町]][[元栗橋]])、旧[[入間川]](現[[荒川 (関東)|荒川]])を渡る川口の渡し(埼玉県[[川口市]])、旧[[古利根川|利根川]]を渡る川口の渡し(埼玉県[[加須市]])も江戸時代以前から知られている。<br /> <br /> === 江戸時代の渡し船 ===<br /> [[江戸時代]]、[[東海道#江戸時代|東海道]]の[[馬入川]](現在の[[相模川]])の例でいうと、人を20人まで乗せる&#039;&#039;&#039;小船&#039;&#039;&#039;、馬を乗せる&#039;&#039;&#039;馬船&#039;&#039;&#039;、大型で荷物を運べる[[平田船]]が常備されていた&lt;ref&gt;[http://www.ktr.mlit.go.jp/yokohama/tokaido/02_tokaido/03_sisetu/12index.htm 横浜国道事務所・東海道への誘い・東海道と宿場の施設(川-渡船場)]&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> [[東海道]]が[[多摩川]]を渡る[[六郷大橋]]は度々洪水で流され、1688年(貞享5年)以後は再建を断念し、六郷の渡しが定着した。<br /> <br /> === 現在も運航されている渡船 ===<br /> 渡し舟の中には川の向かいや島に立地する旅館やゴルフ場などに、宿泊客や利用客を輸送するためのものもあるが、本項では説明を省く。<br /> [[画像:Yagiriowatashi.jpg|thumb|240px|right|[[矢切#矢切の渡し|矢切の渡し]](2005年撮影)]]<br /> [[画像:Tenpozan ferry.jpg|thumb|240px|right|天保山渡船 - 築港乗り場にて]]<br /> [[画像:鳴門市営渡船.JPG|thumb|240px|right|鳴門市営渡船]]<br /> [[画像:Urado-bay ferryboat.jpg|thumb|240px|right|高知県営渡船 - [[浦戸湾]]にて]]<br /> [[画像:Wakato ferry.jpg|thumb|240px|right|[[若戸渡船]]]]<br /> [[画像:Kumagawa-river setoishi-kashiki ferryboat 1.jpg|thumb|240px|right|[[瀬戸石駅]]駅前の渡船]]<br /> [[File:Ferry Sanshiro between Jyogashima and port of Misaki.jpg|thumb|240px|right|三崎港と城ヶ島を結ぶ渡し船「さんしろ」、後方には城ヶ島大橋が見える]]<br /> ==== 北上川の渡し舟 ====<br /> :([[岩手県]][[北上市]])<br /> : 北上駅から徒歩10分の場所にある北上川の右岸と左岸を結ぶ。<br /> : 運行は北上川景勝地さくらまつり期間中のみ。雨天や川の増水時に運休する。有料(片道350円)である。<br /> : ※参考:[http://sakura.kitakami-kanko.jp/event/post-21.html 一般社団法人北上観光コンベンション協会] - 北上川景勝地さくらまつりのサイト<br /> ==== 霧幻峡渡し ====<br /> :([[福島県]][[金山町 (福島県)|金山町]])<br /> : 三更地区で霧幻峡を横断する。<br /> : 1964年に一旦廃止されたが2009年、観光資源として復活した。<br /> : 乗船3日前までに予約が必要。有料である。要問合せ→http://okuaizu.pupu.jp/<br /> <br /> ==== 小堀の渡し ====<br /> {{main|小堀の渡し}}<br /> :([[茨城県]][[取手市]])<br /> :利根川右岸([[千葉県]][[我孫子市]]と地続きの側)にある[[飛地]]の小堀(おおほり)地区と左岸(市中心部側)を結ぶ。取手市営。利根川の改修の結果、茨城県の飛地となった地区の利便性のために開設された。以前は無料であったが、地域住民以外の観光乗船が禁止されていた。現在は小堀地区住民と条例に定める利用者は無料、その他は片道200円となり、観光乗船が可能となった。また、取手駅に近い桟橋との三地点を三角運行するようになった。<br /> : ※参考:[http://www.city.toride.ibaraki.jp/index.cfm/9,4115,34,308,html 小堀の渡し] - 取手市公式サイト<br /> ==== 島村渡船 ====<br /> {{main|島村渡船}}<br /> :([[群馬県]][[伊勢崎市]])<br /> : [[利根川]]右岸にある伊勢崎市の[[飛地]]と左岸(伊勢崎市の旧境町中心部側)を結ぶ。群馬県営(伊勢崎市に運航を委託)。人のみ乗船可能。無料。<br /> : 川舟タイプの船を使用。<br /> ==== 赤岩渡船 ====<br /> {{main|赤岩渡船}}<br /> :([[埼玉県]][[熊谷市]]~群馬県[[邑楽郡]][[千代田町]])<br /> : [[利根川]]右岸にある熊谷市の葛和田と左岸の千代田町赤岩を結ぶ。群馬県営(千代田町に運航を委託)。自転車やバイクも乗船可能。無料。<br /> : [[主要地方道]][[埼玉県道・群馬県道83号熊谷館林線]]に指定されている。<br /> : ※参考:[http://www.town.chiyoda.gunma.jp/kensetsu/doboku/doboku002.htm 赤岩渡船] - 千代田町公式サイト<br /> ==== 矢切の渡し ====<br /> {{main|矢切#矢切の渡し}}<br /> :(千葉県[[松戸市]]~[[東京都]][[葛飾区]])<br /> : [[江戸川]]左岸の松戸市[[矢切]](やきり、やぎり)地区と右岸の東京都葛飾区[[柴又]]を結ぶ。民営(個人運営)。有料(大人200円、子供100円 平成24年10月より料金改正)。<br /> : かつて[[江戸幕府]]が江戸川の渡しとして指定し、[[農民]]の管理により運営されていた航路のうち最後の一つ。現在も先祖代々船頭だった個人が運営。<br /> : ※参考:[http://www.matsudo-kankou.jp/wp/?p=164 矢切の渡し] - 松戸市観光協会<br /> : ※参考:[http://www.katsushika-kanko.com/katsumaru/area/shibamata03/ 矢切の渡し] - 葛飾区観光サイト “かつしかまるごとガイド”<br /> ==== (通称)競輪場の渡し ====<br /> :(東京都[[調布市]]~[[神奈川県]][[川崎市]][[多摩区]])<br /> : [[多摩川]]に架かる[[京王電鉄]][[京王相模原線|相模原線]]の鉄橋沿いに運航される。民営(貸しボート店による運営)。有料。<br /> : 競輪場の対岸にある駐車場に駐車した競輪場来場者を主な対象としているが、一般客の利用も可能。[[京王閣競輪場]]で[[競輪]]が開催される日のみ運航。<br /> : かつて同区間に菅の渡しが存在したが、昭和48年に廃止されている。&lt;ref&gt;http://www.geocities.jp/kikuuj/kyudo/watashi/tama-watashi.htm&lt;/ref&gt;<br /> <br /> ==== 浦賀の渡船 ====<br /> {{main|浦賀の渡船}}<br /> :(神奈川県[[横須賀市]])<br /> : [[浦賀港]]の半ばを結ぶ。横須賀市営(民間に運航を委託)。市道2073号。大人150円、小児・自転車等50円。通称「ポンポン船」。<br /> : ※参考:[http://www.city.yokosuka.kanagawa.jp/5610/tosen-main.html 浦賀の渡船] - 横須賀市公式サイト<br /> ==== 城ヶ島渡船 ====<br /> : ([[神奈川県]][[三浦市]])<br /> : 1960年4月の[[城ヶ島大橋]]開通まで三崎仲崎岸壁と城ヶ島の間を渡船が結んでいた。橋の開通により一旦渡船は廃止となった。<br /> : 平成20年5月に観光資源として50年ぶりに渡船が復活する。運航日は土曜休日と繁忙期で、有料(片道300円)である。<br /> : ※参考:[http://www.umigyo.co.jp/enjoy-hakushu.html 城ヶ島渡船白秋のページ] - 三崎港産直センター「うらり」公式サイト<br /> ==== 平の渡し ====<br /> : (富山県[[富山市]])<br /> : [[黒部ダム]]の完成により[[黒部湖]]によって分断された登山道を連絡するために開設。[[関西電力]]が運営(平ノ小屋([[山小屋]])に運航を委託)。無料。<br /> : 1日4往復運航。<br /> ==== 富山県営渡船 ====<br /> {{main|富山県営渡船}}<br /> : (通称)越ノ潟フェリー([[富山県]][[射水市]])<br /> : [[伏木富山港|富山新港]]建設のため分断された両岸を結ぶ。富山県営。無料。<br /> : 2004年から深夜時間帯および荒天時などは無料の代行タクシーを運行。[[富山地方鉄道射水線]]の項目も参照のこと。<br /> ==== 我入道の渡し ====<br /> {{main|我入道の渡し}}<br /> :([[静岡県]][[沼津市]])<br /> : 狩野川河口の我入道東町から蓼原町の両岸を結んでいる。港大橋の完成により1971年に廃止されたが、1997年に復活している。1日4往復は駅に近いあゆみ橋まで運行する。有料。乗船者はライフジャケットの着用が必須であるなど、生活色は無くなっている。<br /> : ※参考:[http://www.city.numazu.shizuoka.jp/kankou/sisetu/ganyudo/index.htm 我入道(がにゅうどう)の渡し船] <br /> ==== 塚間の渡し ====<br /> :([[静岡県]][[静岡市]][[清水区]])<br /> :江尻・清水港から三保湾を渡り三保半島・塚間を結ぶ。通勤利用も多い。<br /> ==== 井川湖渡船 ====<br /> :([[静岡県]][[静岡市]])<br /> : [[井川ダム|井川湖]]上で、[[井川駅]]と集落を結ぶ。静岡市営。無料。<br /> : 1日4往復運航。<br /> : ※参考:[http://www.city.shizuoka.jp/deps/ikawa/akaishimaru.html 渡船「赤石丸」のご案内] - 静岡市公式サイト<br /> [[ファイル:Tokaido31 Arai.jpg|サムネイル|240x240ピクセル|『東海道五十三次』荒井]]<br /> <br /> ==== 今切の渡し ====<br /> :([[静岡県]][[湖西市]]~静岡県[[浜松市]])。<br /> :[[明応地震]]([[明応]]7年、一説には明応8年(1498年))により分断された浜名湖開口部今切地区を結ぶべく創設された。発着場に[[新居関所]]があった。1932年の浜名橋開通で一旦廃止されたが、2013年に観光資源として[[弁天島]]遊船組合により復活した。&lt;ref&gt;http://www.inhamamatsu.com/japanese/activity/minami-hamanako-cruise.php&lt;/ref&gt;4名以上での予約が必要。有料(1人につき1000円)<br /> ==== 牛川の渡船 ====<br /> :([[愛知県]][[豊橋市]])<br /> : [[豊川]]の両岸を結ぶ。豊橋市営。無料。<br /> : 豊橋市道大村町・牛川町175号線に含まれる。航路の起源は不明だが、平安時代から運航されていたという。<br /> : ※参考:[http://www.city.toyohashi.aichi.jp/bu_kensetsu/doboku/gyuukawa/index.html 牛川の渡船] - 豊橋市公式サイト<br /> ==== 中野の渡し ====<br /> {{main|中野の渡し}}<br /> :(愛知県[[一宮市]]~岐阜県[[羽島市]])<br /> : [[木曽川]]を渡る。愛知県営。無料。<br /> : 愛知県営道路渡船([[岐阜県道118号・愛知県道135号羽島稲沢線|愛知県道135号]])。<br /> ==== 小紅の渡し ====<br /> {{main|小紅の渡し}}<br /> :(岐阜県[[岐阜市]])<br /> : [[長良川]]を渡る。岐阜県営(岐阜市に運航を委託)。無料。<br /> : 道路渡船([[岐阜県道173号文殊茶屋新田線|岐阜県道173号]])。<br /> : ※参考:[http://www.gifucvb.or.jp/sightseeing/detail_kankou.php?eid=00026 小紅の渡し] - 岐阜市観光コンベンションセンター<br /> ==== 県道船 ====<br /> {{main|三重県道750号阿児磯部鳥羽線#県道船}}<br /> :(三重県[[志摩市]])<br /> : 的矢湾を渡り、的矢地区と三ヶ所地区を結ぶ。基本的に三重県営(休日などは民間へ業務を委託することもある)。無料。<br /> : 三重県道750号阿児磯部鳥羽線の一部として運行される。<br /> : 便によっては渡鹿野島を経由するものも存在する。この他、渡鹿野島へ向かう民間の渡船も存在するが、こちらは終点が離島である渡鹿野島のみなのでここでは扱わない。<br /> ==== 登山道連絡船 ====<br /> :([[三重県]][[大台町]])<br /> : 旧大杉村再生協議会によって運行され、宮川ダムを横断し、大杉~登山口を結ぶ。<br /> : 1964年に一旦廃止されたが2009年、観光資源として復活した。<br /> : 運行は原則として土曜・休日のみ。水曜を除く平日は四人以上の場合旧大杉村再生協議会へ予約が必要。有料(片道1000円)である。宮川ダムの遊覧船も兼ねる。<br /> ==== 三瀬の渡し ====<br /> :([[三重県]][[大台町]])<br /> : 三瀬の渡し保存会によって運行され、下三瀬~多岐原を結ぶ。<br /> : 昭和30年代に一旦廃止されたが2010年、地元住民の力添えにより復活した。<br /> : 利用に際しては事前に三瀬の渡し保存会へ連絡と予約が必要。料金も事前に確認のこと。<br /> ==== 大阪市の公営渡船 ====<br /> {{main|大阪市の公営渡船}}<br /> : ([[大阪府]][[大阪市]])<br /> : 天保山渡船など、おもに[[大正区]]域の[[大阪港]]や河口付近に8航路。大阪市営。無料。<br /> : 一自治体としては最多の航路を持つ。<br /> : ※参考:[http://www.city.osaka.lg.jp/kensetsu/page/0000011244.html 大阪 渡船場マップ] - 大阪市公式サイト<br /> ==== 安居の渡し ====<br /> :([[和歌山県]][[白浜町]])<br /> : 日置川を横断し安居と仏坂を結ぶ。[[熊野古道]]の一部をなしてきた。<br /> : 昭和29年に一旦廃止されたが迂回路が危険である事もあって2005年10月、世界遺産登録を機に地元有志の手により復活した。<br /> : 乗船3日前までに予約が必要。有料(片道500円)である。<br /> : ※参考:[http://www.town.shirahama.wakayama.jp/kanko/taiken/1452760025050.html 安居の渡し保存会について] - 白浜町教育旅行誘致協議会<br /> ==== 玄武洞渡船 ====<br /> :([[兵庫県]][[豊岡市]])<br /> : [[山陰本線]][[玄武洞駅]]から[[円山川]]の対岸の[[玄武洞]]までの主に観光客の足として、有料で運航。民営。1999年12月で一旦廃止後2008年7月より別事業者により規模を縮小して運航。<br /> ==== 矢田の渡し ====<br /> {{main|矢田の渡し}}<br /> :([[島根県]][[松江市]])<br /> : [[大橋川]]を渡る。地元渡船組合の運営。自転車も乗船可能。有料。<br /> : 観光船も兼ねており、観光船として運航されている時間帯は渡船としては利用できない。<br /> ==== 尾道渡船・駅前渡船など ====<br /> :([[広島県]][[尾道市]])<br /> : 尾道市街と、[[尾道水道]]で隔てられた[[向島 (広島県)|向島]]を結ぶ3航路。民営(それぞれの航路を別の民間企業が運営)。自転車も乗船可能。一部は自動車も積載できる。有料。<br /> : ※参考:[http://www.onoport.jp/sightseeing/map.html 尾道水道フェリーマップ] - 尾道市港湾振興課<br /> ==== 音戸渡船 ====<br /> :(広島県[[呉市]]) <br /> : [[本州]]と[[倉橋島]]を隔てる[[音戸の瀬戸]]を渡る。民営。自転車やバイクも乗船可能(別料金)。有料。 <br /> : ※参考:[https://www.city.kure.lg.jp/soshiki/67/m000013.html 日本一短い航路「音戸の渡し船」] - 呉市観光振興課<br /> <br /> ==== 鶴江の渡し ====<br /> :([[山口県]][[萩市]])<br /> :[[松本川]]河口付近を渡る。萩市営。自転車も乗船可能。無料。<br /> : 道路渡船。人力で運航されている。<br /> : ※参考:[http://machihaku.city.hagi.lg.jp/satellite/hamasaki/index.htm 浜崎エリア紹介ページの一番下段に渡船の案内あり] - 萩まちじゅう博物館推進課/NPO萩まちじゅう博物館公式HP<br /> ==== 長原渡船 ====<br /> {{main|長原渡船}}<br /> :([[徳島県]][[徳島市]]~[[板野郡]][[松茂町]])<br /> : 徳島県営(松茂町に運営を委託)。無料。<br /> : 船は松茂町側に駐在し、6時30分から18時30まで運航。途中に8回設定された休航時間以外は随時運航する。徳島市側から利用の際は、用意されている旗を振るなどして対岸に合図する。<br /> ==== 岡崎渡船・黒崎渡船・島田渡船 ====<br /> :(徳島県[[鳴門市]])<br /> :[[小鳴門海峡]]を渡る3航路。鳴門市営だが「(有)小鳴門渡船」「(有)島田渡船」に運航を委託。無料。<br /> : [[2003年]]までは市の直営だった。<br /> : ※参考:[http://www.city.naruto.tokushima.jp/contents/tosen/index.html 渡船] - 鳴門市公式サイト<br /> ==== 臥龍の渡し ====<br /> :([[愛媛県]][[大洲市]]) <br /> : [[肱川]]の中洲にある眺望ポイントまで運行する渡し船。有料。4・5月の土曜日・休日のみの運航で、[[鵜飼]]見物用の[[屋形船]]を使用するなど遊覧船に近いが、肱川の渡しを復活させるために1980年に復活した経緯がある。 <br /> : ※参考:[http://www.city.ozu.ehime.jp/sightseeing/map/watashi.html 臥龍の渡し] - 大洲市公式サイト<br /> [[画像:Mitsu-no-watashi(Matsuyama City).JPG|thumb|210px|right|三津の渡し(松山市道高浜2号線)]]<br /> ==== 三津の渡し(松山市営渡船) ====<br /> {{main|三津の渡し}}<br /> :([[愛媛県]][[松山市]])<br /> : 三津浜港の湾口を横断する三津浜~港山間の80mを運航。松山市営。自転車も乗船可能。無料。<br /> : 昔ながらの小型動力船。映画「[[がんばっていきまっしょい]]」にも登場した。<br /> : ※参考:[http://www.altamira.jp/ganba/location/matsu/fune.html ロケMAP 松山市営渡船] - 映画「がんばっていきまっしょい」公式サイト<br /> &lt;span id=&quot;urado&quot;&gt;&lt;/span&gt;<br /> ==== 県営渡船龍馬 ====<br /> :([[高知県]][[高知市]])<br /> : [[浦戸湾]]口近くの梶ヶ浦~種崎を結ぶ。高知県営(民間に運航を委託)。自転車やバイク(125cc以下)も乗船可能。無料。<br /> : [[高知県道278号弘岡下種崎線|県道278号]]の一部である関係から県営となっているが、2004年から民間に運航を委託。2002年までは自動車も航送可能だった。<br /> :※参考:[http://www.pref.kochi.lg.jp/soshiki/170106/tosen.html 県営渡船のご案内] - 高知県高知土木事務所<br /> ==== 下田初崎渡し ====<br /> :([[高知県]][[四万十市]])<br /> : 下田の渡しとも言うが、[[筑後川]]にも「下田の渡し」がかつて存在した。[[四万十川]]河口付近の遍路道の下田から初崎まで運航されている。かつては市営で、有料(大人100円)であった。<br /> : 市営時代は定員13人、1日5回の運航であったが、[[2005年]]に一旦廃止され、これをもって四万十川の渡しは全て消失した。<br /> : 2009年に地元住民有志によって「下田の渡し保存会」が結成され、4年ぶりに渡しが復活する。30分前までの予約制で、片道500円の有料である。ただし、一時運休と再開を繰り返しているので、利用には確認が必要である。<br /> : ※参考:[http://www.city.shimanto.lg.jp/simanto/simoda.html 下田初崎渡し] - 四万十市公式サイト<br /> ==== 須崎市営巡航船 ====<br /> :([[高知県]][[須崎市]])<br /> : 浦ノ内湾を横断し四国本島と横浪半島を結ぶ。<br /> : 通学を目的に昭和34年開設されたが一般客も乗船可能。元々遍路道の一部として同ルートの航路があった。<br /> : 有料(片道200~640円)である。<br /> : ※参考:[http://www.city.susaki.kochi.jp/03_shimin/toshikeikaku_koukyoukoutsuu/jyunkousen/jyunkousen_top.html 巡航船/須崎市] - 須崎市公式サイト<br /> ==== 若戸渡船 ====<br /> {{main|若戸渡船}}<br /> :([[福岡県]][[北九州市]])<br /> :[[洞海湾]]沿岸の[[戸畑区]]と[[若松区]]を、[[若戸大橋]]に並行して結ぶ。北九州市営。自転車も乗船可能。有料。<br /> : なお、北九州市には「小倉渡船」もあるが、これは離島航路であり本項で扱う狭義の渡船にはあたらない。<br /> : ※参考:[http://www.city.kitakyushu.lg.jp/kurashi/menu01_0512.html 渡船事業所] - 北九州市公式サイト<br /> ==== 福岡市営渡船博多~志賀島航路 ====<br /> {{main|福岡市営渡船}}<br /> :(福岡県[[福岡市]])<br /> : 九州本島とは陸続きの[[志賀島]]や西戸崎を結ぶ。福岡市営。有料。<br /> : 高速船タイプの船舶を利用しており、航行距離も長く、渡船を名乗ってはいるが他の渡船とは異質である。<br /> : 福岡市営渡船には他に姪浜~能古島・小呂島航路や博多~玄海島があるが、これらは離島航路であり本項で扱う狭義の渡船にはあたらない。<br /> : ※参考:[http://www.port-of-hakata.or.jp/guide/ferry_city/index.html 福岡市営渡船] - 博多港公式サイト<br /> ==== 瀬川汽船 ====<br /> {{main|瀬川汽船}}<br /> :([[長崎県]][[西海市]])<br /> : 佐世保から西彼杵半島の旧西海町を結ぶ。<br /> : 昭和46年までは西海町渡船という公営渡船だった。昭和47年に民営化され瀬川汽船となった。<br /> : 高速船による運営となっており一般的な渡船のイメージとは異なるが、通勤利用も存在する。<br /> : ※参考:[http://segawakisen.co.jp/ 瀬川汽船公式サイト]<br /> <br /> === 廃止・休止された渡船 ===<br /> ; &#039;&#039;&#039;美浦渡船&#039;&#039;&#039;([[北海道]][[美唄市]]~[[樺戸郡]][[浦臼町]])<br /> : [[石狩川]]左岸の美唄市中村地区と浦臼町晩生内地区を結んだ。美唄市と浦臼町の共同運営。人のみ乗船可能であり、無料であった。<br /> : [[2005年]]10月10日に一旦廃止されたが、その後北海道の開拓遺産として観光用に復活。乗船名簿に記入の上ライフジャケットを着用するなど生活色は無くなり、6月から9月にかけての土日・祝日を中心に1日3回運航していた。確実に利用するためには予め[[船頭]]の携帯電話に予約電話を入れる必要があった。2011年3月26日の[[北海道道1159号美唄浦臼線]]「美浦大橋」の開通に伴い関係両市町で協議した結果、船頭の高齢化もあり2011年9月25日限りで96年の歴史に幕を下ろし、これにより北海道から渡し船はすべて姿を消した&lt;ref&gt;[[北海道新聞]] 2010年12月22日付朝刊「美浦渡船来年度限り 浦臼町と美唄市、廃止決定」&lt;/ref&gt;。<br /> : ※参考:[http://www.town.urausu.hokkaido.jp/kouhou/kouhou23/kouhou_23_11.pdf さようなら美浦渡船 ありがとう国田さん] - 浦臼町公式サイト(pdf)<br /> ; &#039;&#039;&#039;[[石狩渡舟]]&#039;&#039;&#039;([[北海道]])<br /> : [[江戸時代]]から[[石狩川]]河口部で運行されていた[[国道231号]]の渡船。[[1978年]]に廃止。<br /> ; &#039;&#039;&#039;旅来渡船&#039;&#039;&#039;([[北海道]])<br /> : [[国道336号]]の渡船。[[国道]]で最後の渡し船(海上国道区間を除く)であったが、[[1992年]]に廃止。詳細は[[国道336号#渡船国道|渡船国道]]を参照。<br /> ; &#039;&#039;&#039;豊里・津山渡船&#039;&#039;&#039;([[宮城県]][[登米市]]旧豊里町~旧津山町)<br /> : 鴇波の渡し・北上川の渡しなどとも言う。1931年から[[国営]]で運営され、次いで旧豊里町と旧津山町の共同運行になり、合併により登米市営となったが、実際の運航は豊里-津山渡船協議会に委託されていた。両岸は気仙沼線の鉄道橋はあるものの、道路橋がないための運航であった。廃止直前には1日11往復の運航ダイヤ(日曜日は運休)が組まれていたが、1人も利用者がいない日が増えたことに加えて船頭の高齢化により[[2010年]][[6月4日]]に廃止され、79年間の歴史に幕を下ろした。<br /> : ※参考:[http://www.city.tome.miyagi.jp/koho/documents/koho-tome127gou-a3.pdf 豊里~津山をつなぐ渡し船 多くの思い出とともに長い歴史に幕] - 登米市公式サイト(pdf)<br /> ; &#039;&#039;&#039;山田の渡し&#039;&#039;&#039;([[宮城県]][[石巻市]])<br /> : 樫崎・山田の渡しとも言う。旧[[桃生町]]の飛び地である北上川左岸の山田地区と桃生町中心部側の樫崎地区を結んでいる。桃生町営から市町合併により現在は石巻市営であるが「山田船場維持組合」に運営委託している。主な利用者は通学時の小中学生であったため、通学需要のない日曜日は運休していた。船頭の死去による後継者問題により、休止され、生徒はスクールバスで通学するようになった。事実上、廃止に近いが制度は残っている。<br /> ; &#039;&#039;&#039;小山の渡し&#039;&#039;&#039;([[宮城県]][[柴田町]]~[[亘理町]]・[[角田市]])<br /> : 東北本線の駅がある柴田町槻木地区と対岸の亘理町小山地区・角田市鳩原地区の境界付近を結んでいた。宮城県営渡船最後の渡し舟であったが、1995年7月7日の[[槻木大橋]]の開通に伴い廃止された。<br /> ; &#039;&#039;&#039;[[新荒川大橋#川口の渡し|川口の渡し]]&#039;&#039;&#039;<br /> : [[荒川 (関東)|荒川]]・[[新河岸川]]の河岸場を結ぶ、[[日光御成道]]に属する船三艘を有する官設の渡船で対岸を結んでいた&lt;ref&gt;『歴史の道調査報告書第七集 荒川の水運』24-26頁。&lt;/ref&gt;。渡船場は「岩淵の渡し」[11]や付近に[[善光寺]]があることから「善光寺の渡し」とも呼ばれ近くに善光寺があり、信州に行かず善光寺参りが江戸近郊で手軽に済ませられるとあって渡船場は大変な賑わいだったという。存在していた時期は定かではないが、渡船料の記録によると遅くとも1780年(安永9年)までには存在していたという。付近の荒川は平水時、その川幅は60間(約109メートル)程度であった&lt;ref&gt;『川口大百科事典』16-17頁。&lt;/ref&gt;。この渡船は1905年(明治38年)3月10日の舟橋の架設により廃止された&lt;ref&gt;『歴史の道調査報告書第七集 荒川の水運』24-26頁。&lt;/ref&gt;。<br /> ;&#039;&#039;&#039;[[隅田川の渡し]]&#039;&#039;&#039;([[東京都]])<br /> :防衛上の理由から架橋が制限されていたため多くの航路が就航し、最盛期の明治時代初期には20航路以上が就航していた。1966年に廃止された「汐入の渡し」をもって、隅田川から渡し船は消滅。<br /> ; &#039;&#039;&#039;波崎町営渡船&#039;&#039;&#039;([[千葉県]][[銚子市]]~[[茨城県]][[波崎町]])<br /> : [[銚子大橋]]の下の利根川両岸を結んでいたが1996年1月末で休航。<br /> ; &#039;&#039;&#039;津宮渡船&#039;&#039;&#039;(千葉県[[香取市]])<br /> : 利根川の両岸を結んでいた、主に通学用の渡船。2007年3月末で廃止。<br /> ; &#039;&#039;&#039;[[富田渡船]]&#039;&#039;&#039;([[千葉県]][[香取市]])<br /> : [[利根川]]左岸にある香取市の富田新田地区と左岸の旧[[小見川町]]中心部側を結んでいた。地元渡船組合の運営。自転車やバイクも乗船可能。有料。<br /> : 2013年3月末で廃止。<br /> ; &#039;&#039;&#039;[[葛木渡船]]&#039;&#039;&#039;(愛知県[[愛西市]])<br /> : [[木曽川]]を渡っていた。愛知県営。無料。<br /> : 愛知県営道路渡船([[愛知県道・岐阜県道119号津島立田海津線|愛知県道119号]])。後述の森下渡船のすぐ隣にあった。<br /> : 2011年3月末をもって運行廃止。<br /> ; &#039;&#039;&#039;[[森下渡船]]&#039;&#039;&#039;(愛知県愛西市~岐阜県[[海津市]])<br /> : [[長良川]]を渡る。岐阜県営。無料。<br /> : 岐阜県営道路渡船([[愛知県道・岐阜県道119号津島立田海津線|岐阜県道119号]])。前述の葛木渡船のすぐ隣にあった。後述の日原渡船(長良川側)と船を共用していたため、2日前までの完全予約制となっていた。<br /> : 2011年3月末をもって運行廃止が決定した。<br /> ; &#039;&#039;&#039;[[日原渡船]]&#039;&#039;&#039;(塩田の渡し)(愛知県愛西市~岐阜県海津市)<br /> : [[木曽川]]及び[[長良川]]を渡る。航路は前述の葛木渡船・森下渡船と同様に、並行して流れる両河川に分かれているが、こちらの場合は同じ名称であった。但し、木曽川側には「塩田渡船」の別名がある。愛知県営(木曽川)、岐阜県営(長良川)。無料。<br /> : 木曽川側は愛知県営道路渡船、長良川側は岐阜県営渡船([[愛知県道120号・岐阜県道117号津島海津線|愛知県道120号・岐阜県道117号]])。長良川側の渡船は前述の森下渡船と船を共用していたため、2日前までの完全予約制となっていた。<br /> :2011年3月末をもって運行廃止。<br /> [[ファイル:Gyosho kuwana.jpg|サムネイル|240x240ピクセル|海上七里ノ渡口『東海道五十三次 桑名』]]<br /> ;&#039;&#039;&#039;[[七里の渡し]]&#039;&#039;&#039;<br /> : [[宮宿]]と[[桑名宿]]を結んでいた、かつての[[官道]]。1601年の東海道制定の際定められた。現在定期航路としては存在しない。<br /> ; &#039;&#039;&#039;[[三里の渡し]]&#039;&#039;&#039;<br /> : [[佐屋宿]]と[[桑名宿]]を結んでいた。1634年、佐屋街道が東海道の脇往還に公認されたことで官道化。1872年に佐屋街道が公認から外れ消滅。<br /> ; &#039;&#039;&#039;[[十里の渡し]]&#039;&#039;&#039;<br /> : [[宮宿]]と[[四日市宿]]を結んでいた。1601年に徳川家康の認可を受け誕生。1872年に公認から外れ徐々に衰退し、現在定期航路としては存在しない。<br /> ; &#039;&#039;&#039;[[如意の渡し]]&#039;&#039;&#039;(富山県[[高岡市]]~[[射水市]])<br /> : [[小矢部川]]を渡る。伏木港湾交通が有料で運営していた。伏木万葉大橋の開通により2009年8月2日を最後に廃止。<br /> ; &#039;&#039;&#039;山崎の渡し&#039;&#039;&#039;([[大阪府]][[島本町]]~[[京都府]][[八幡市]])<br /> : [[淀川]]の両岸を結んでいた渡船。江戸時代以前には[[山崎橋 (山城国)|山崎橋]]が架かっていた。[[谷崎潤一郎]]の小説『[[葦刈]]』にもこの渡船が描写されている。1962年に廃止。<br /> ; &#039;&#039;&#039;水江の渡し&#039;&#039;&#039;([[岡山県]][[倉敷市]])<br /> : 高梁川の改修工事により東西に分断された水江地区を無料で結んでいた。市道「水江2号線」の一部としての機能もあった。廃止直前の運行時間は平日の7時~11時及び14時~18時であった。<br /> : 倉敷大橋が2016年(平成28年)[[1月24日]]開通。同橋開通により同年[[3月31日]]をもって廃止<br /> ; &#039;&#039;&#039;[[境水道渡船]]&#039;&#039;&#039;([[鳥取県]][[境港市]])<br /> : 境港市相生町岸壁と松江市美保関町宇井岸壁間の[[境水道]]両岸を結ぶ。1時間1-3本程度。有料。自転車積載可能。<br /> : 2007年3月末で休航となっているが事実上の廃止。<br /> : ※参考:[http://www.sakaiminato.net/site2/page/guide/point/public/koutu/wtashi/ 境水道渡船] - 境港市観光協会<br /> ; &#039;&#039;&#039;京町軽便渡船&#039;&#039;&#039;([[福岡県]][[久留米市]])<br /> : [[筑後川]]中流域の[[長門石]]-[[京町]]間を結んでいた。[[1891年]]に京町軽便会社が運航を始め、のちに久留米市営に移行した。[[1974年]]7月11日の[[長門石橋]]開通に伴い廃止された。<br /> ; &#039;&#039;&#039;下田の渡し&#039;&#039;&#039;(福岡県久留米市)<br /> :筑後川中流域にて運航された旧[[城島町]]下田地区と同町浜地区とを結んだ。福岡県営。無料。架橋の完成とともに[[1994年]]に廃止。これをもって筑後川の渡しは全て消失した。<br /> ; 楮木の渡し舟([[熊本県]][[八代市]]~[[球磨郡]][[球磨村]])<br /> : [[球磨川]]沿いに走る[[肥薩線]]の[[瀬戸石駅]](八代市)と球磨村神瀬(こうのせ)楮木(かじき)を結ぶ。最寄りの橋まで徒歩で迂回すると1時間近く掛かる対岸を、5分で運行していた。球磨村営で、村から委託を受けた住民組織「楮木地区渡し舟組合」が管理・運営していたが、4人いた船頭は約30年前からは1人だけであった&lt;ref&gt;{{Cite web|url=http://www.47news.jp/smp/news/201210/SM1026_870057.html|title=40年間続けた球磨川渡し舟 最後の船頭引退へ|accessdate=2014-08-02|date=2012-10-26|format=html|publisher=プレスネットジャパン}}&lt;/ref&gt;。村民は無料で、村民以外の利用者は有料。日曜日は運休。<br /> : [[2012年]][[10月31日]]に廃止された。船頭が高齢で後継者が皆無であること、マイカーの普及などで利用者が減少して末期には高校生などの乗客が1日1人いるかいないかだったこと、その主な利用客であった高校生が[[スクーター]]や親の送迎で通学するようになり渡し船を利用しなくなる事が決定打となった&lt;ref&gt;{{Cite news|date=2012-10-28|newspaper=[[西日本新聞]]|title=球磨の流れ 惜別の時 渡し40年 最後の船頭|url=http://www.nishinippon.co.jp/feature/story_blue_sky/article/16514|accessdate=2013-09-18}}&lt;/ref&gt;。廃止まで使われていた和船「楮木丸」は、現在「一勝地温泉かわせみ」で[[足湯]]の湯桶として余生を送っている&lt;ref&gt;{{Cite web|url=http://www.kumamura.com/gikaijimu/gikaidayori/gikai71.data/gikaidayori_no71_20130425.pdf|title=くまむら議会だより 第71号|accessdate=2013-09-19|date=2013-04-25|format=PDF|publisher=球磨村議会}}&lt;/ref&gt;。<br /> : 付近の肥薩線の駅は集落から橋のない対岸に駅があることが多く、かつては多くの駅前に渡船があった。<br /> <br /> == 関連項目 ==<br /> * [[フェリー]]<br /> * [[水上バス]]<br /> * [[橋]]<br /> * [[三途川]]<br /> <br /> == 出典 ==<br /> &lt;references /&gt;<br /> <br /> {{商船の種類}}<br /> {{公共交通}}<br /> <br /> {{DEFAULTSORT:わたしふね}}<br /> <br /> [[Category:渡船|*]]<br /> [[Category:河川の文化]]</div> 218.33.128.160 利根川東遷事業 2018-05-20T14:07:51Z <p>218.33.128.160: /* 河川整理と用水路開発とその後 */</p> <hr /> <div>[[File:Hanyu Aino River Starting Point Pt1 1.JPG|thumb|right|300px|会の川締切りの跡地に立つ川俣締切阯の石碑]]<br /> &#039;&#039;&#039;利根川東遷事業&#039;&#039;&#039;(とねがわとうせんじぎょう)は、江戸時代初期に行われた[[利根川]]の付け替えにかかわる一連の[[河川改修]]を指す。元和7年(1621年)の[[新川通]]開削および[[赤堀川 (茨城県)|赤堀川]]の開削開始から&lt;ref name=&quot;saitama157&quot; /&gt;、[[承応]]3年([[1654年]])の[[赤堀川 (茨城県)|赤堀川]]通水まで行われた。<br /> <br /> [[赤堀川 (茨城県)|赤堀川]]の開削により、利根川の水は太平洋への分水嶺を越えて常陸川へ流され、太平洋へ注ぐ銚子河口まで繋がる安定した江戸の水運が成立した。<br /> <br /> [[徳川家康]]江戸入府後、[[徳川氏]]によって進められ、中世末の[[文禄]]3年([[1594年]])に行われた[[会の川]]の締め切り工事に始まったといわれていたが&lt;ref name=&quot;saitama157&quot; /&gt;、近年の研究では、この締め切りは忍領の水害対策における土木工事と考えられている。<br /> <br /> 本稿では上記以降現代に至るまで続けられた利根川中下流の河川改修を含めて記述する。この河川改修により、関東平野の自然地理的状況は人の手によって大きく変えられ&lt;ref&gt;稲崎、太田、丸山(2014)、408頁。&lt;/ref&gt;、利根川本流は[[銚子]]を通って太平洋に注ぐことになった。&lt;!--を変化させた河川改修事業は、江戸時代前期、江戸時代中後期、江戸時代後期~昭和(戦前)、昭和(戦後)~現在にまで至る&lt;ref&gt;稲崎、太田、丸山(2014)、408頁。&lt;/ref&gt;。--&gt;<br /> <br /> == 目的 ==<br /> 利根川東遷事業は、流域の[[沼]]や[[湿地]]帯からの[[新田]]打ち出し、[[水上交通]]網の確立、利根川を[[北関東]]の[[外堀]]とし、[[東北地方|東北]]諸藩に対する備えとするなどの[[利水]]面と、流域や[[江戸]]を[[水害]]から守る[[治水]]面の目的を持っていると考えられている&lt;ref name=&quot;kokudo&quot;&gt;[http://www.mlit.go.jp/river/toukei_chousa/kasen/jiten/nihon_kawa/83028/83028-1_p1.html 国土交通省 日本の川 関東地方の河川情報 利根川の歴史]&lt;/ref&gt;。ただし利根川本流を東に付け替えることを当初から明確に意識して行われたわけではなかったと、土木史の観点から考えられている&lt;ref name=&quot;koide&quot;&gt;小出博、1975、『利根川と淀川-東日本・西日本の歴史的展開』、中央公論社&lt;/ref&gt;。&lt;!--また、[[徳川家康]]の命を受けて行われた工事が利根川東遷事業の発端となったといわれている。--&gt;<br /> <br /> &lt;!--河川改修の目的は水上交通網の整備などの[[利水]]面が先んじてあった。--&gt;また利根川の[[治水]]システムは[[中条堤]]をその要としていたが、[[天明]]3年([[1783年]])の[[浅間山]][[噴火|大噴火]]後、その機能維持のために河川改修が行われ、江戸川への流量を減少させ赤堀川(銚子方向)への流量を増加させた。[[明治]]時代に入り足尾鉱毒事件の発生により、さらに東流の流量比を高める大規模改修が始まった&lt;ref name=&quot;ookuma&quot;&gt;大熊孝、1981、『利根川治水の変遷と水害』、東京大学出版会&lt;/ref&gt;。また明治43年([[1910年]])の[[明治43年の大水害|大水害]]がきっかけで、中条堤を要とした治水システムを廃止するとともに[[江戸川]]への流入制限は強化され、利根川本流は銚子方向に流れることが確定したとされる&lt;ref name=&quot;ooku2&quot;&gt;大熊孝他、2007、『首都圏の水があぶない』、岩波書店、ISBN 978-4-00-009406-1、2-12頁&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> == 歴史 ==<br /> === 概略 ===<br /> 利根川は現在の東京湾に注いでいたが、およそ3000年前に途中の河道を変え、現在の[[熊谷市]]・[[鴻巣市]]付近から東へ向かい、分流しながら[[渡良瀬川]]の流路地帯(加須から越谷)へ向かって流れるようになった&lt;ref&gt;「[https://www.kubota.co.jp/siryou/pr/urban/pdf/19/pdf/19_1.pdf 先史時代の利根川水系とその変遷]」菊地隆男、アーバンクボタ、1981年。&lt;/ref&gt;。利根川(および[[荒川 (関東)|荒川]])は分合流の変化が激しく、渡良瀬川にも合流した([[合の川]]など)。 <br /> <br /> [[江戸時代]]以前までは、利根川と渡良瀬川とはほぼ平行して南流し[[東京湾]]([[江戸湾|江戸の内海]])へ注ぎ、河口も異なっていた。利根川本流は、一旦、[[会の川]]および[[浅間川]]の主要分流となり、[[加須市]]川口で合流後は、現在の[[大落古利根川|古利根川]]・[[中川]]・[[隅田川]]の流路で[[東京湾]]に注いだ。ただし[[武蔵国]]北部では&lt;!--[[上野国]]との[[両国]]の[[国境]]の南で--&gt;細かく乱流し、[[綾瀬川]]や荒川とも合・分流していた。渡良瀬川の下流部は&lt;!--現在の[[江戸川]]の流路に近く、--&gt;[[久喜市]][[栗橋]]付近は[[権現堂川]]、それより下流は太日川(ふといがわ)(ほぼ現在の[[江戸川]]の流路)と呼ばれていた。&lt;!--[[中世#日本|中世]]末まで利根川と[[渡良瀬川]]は江戸の[[内海]]([[東京湾]])に注ぐ二筋の大河をなしていた。--&gt;&lt;!--渡良瀬川は下流を[[太日川]](ほぼ現在の[[江戸川]])とし同じく江戸湾へ注いでいた。なお、利根川と渡良瀬川を別個の川とする考えがある一方で、[[合の川]]を経て利根川から渡良瀬川の流れも存在し、全く別個ではなかったとみる考えもある。--&gt;<br /> <br /> [[徳川家康]][[江戸入府]]後、利根川主要分流の河道を付け替える工事が始まった。文禄3年(1594年)に[[会の川]]を締め切り、[[元和 (日本)|元和]]7年([[1621年]])には[[浅間川]]を締め切り[[新川通 (埼玉県)|新川通]]を開削し、利根川の中流を一本化し[[加須市]]旗井([[久喜市]][[栗橋]]の北1[[キロメートル]])で渡良瀬川に接続した。これにより、渡良瀬川は利根川の支流となり、権現堂川・太日川は利根川の下流の位置付けとなった。またそれまでの利根川の下流は、上流から切り離された形となり古利根川と呼ばれ、その河口は中川と呼ばれた。<br /> <br /> さらに、[[承応]]3年([[1654年]])に[[古河市]]中田([[栗橋]]の対岸)付近から[[分水嶺]]を越えて[[赤堀川_(茨城県)|赤堀川]]を開削する工事を行い[[香取海]]([[銚子市|銚子]]河口・[[太平洋]])に通じる河道を開いた。これにより、[[江戸時代]]から[[大正時代]]までは、利根川の下流は、[[権現堂川]]から江戸川を経て東京湾へ至る流路と、[[赤堀川_(茨城県)|赤堀川]]から[[常陸川]]を経て太平洋へ至る流路が存在し、二つの流路は[[逆川 (幸手市)|逆川]]を介して[[関宿町|関宿]]でもつながっていた。そして次第に常陸川への流路の方に比重が移り、[[昭和]]3年([[1928年]])に権現堂川が廃され、赤堀川・常陸川の流路のみ残り、江戸川はその支流となった。<br /> <br /> === 江戸時代 ===<br /> [[ファイル:Tone_riverine_system_16century.png|440px|thumb|江戸時代以前の利根川、荒川、渡良瀬川水系。&lt;br&gt;利根川が東京湾に注いでいた。また荒川も現在より東側の水路を通っていた。利根川と荒川の合流地点や川筋はしばしば変化し、古くは、荒川の流れが今の綾瀬川を通っていた時代もあった。]]<br /> [[ファイル:Ina tadatsugu.jpg|thumb|180px|[[水戸市]]にある伊奈忠次の銅像]]<br /> <br /> === 江戸時代前期 ===<br /> [[天正]]18年([[1590年]])[[8月]][[朔日]]徳川家康は[[江戸城]]に入城した。<br /> 付近は荒川などの河川交通と東京湾の湾内交通の結節点としてある程度は栄えていた地であったともされるが、江戸という[[都市]]は成立していなかった。<br /> それから20年を経て[[慶長]]14年([[1609年]])に訪れた[[ドン・ロドリゴ]]の記すところによれば、はやくも江戸の人口は15万となり[[京都]]の半分くらいであったという。<br /> この発展を続ける江戸の町の消費需要をまかなうためには、利根川の[[水運]]をはじめとする物流路の整備が不可欠であった。<br /> <br /> 家康は[[伊奈忠次]]を[[関東郡代]]に任じ、関東周辺の河川改修にあたらせた。以後、[[伊奈忠治|忠治]]、[[伊奈忠克|忠克]]と[[伊奈氏]]3代により、利根川の常陸川河道([[銚子市|銚子]]河口)への通水が行われた。<br /> 太日川下流の[[行徳塩田]]と[[隅田川]]を結ぶため、徳川家康江戸入府後の<br /> 天正18年(1590年)に[[小名木川]]を、<br /> [[寛永]]6年([[1629年]])に[[新川 (江戸川区)|新川]]を開削した。<br /> <br /> ==== 東遷事業の開始 ====<br /> 近世初頭の利根川の東遷事業は、<br /> 文禄3年(1594年)に新郷(現・羽生市)で会の川を締め切った工事に始まったといわれていた&lt;ref name=&quot;saitama157&quot;&gt;田代・塩野・重田・森田、(1999)、157頁。&lt;/ref&gt;。<br /> しかし、近年の研究では、締め切りは忍領の水害対策における土木工事であり、東遷事業のはじまりは、27年後の元和7年(1621年)とされている&lt;ref name=&quot;saitama157&quot;/&gt;。<br /> 元和7年(1621年)この時期、伊奈忠治の指揮のもと、佐波(ざわ)(現・大利根町)から[[加須市]]旗井([[久喜市]][[栗橋]]の北1[[キロメートル]])までの新川通(しんかわどおり)、中田(現・茨城県古河市)と川妻(現・茨城県五霞村)の間から境町(現・茨城県境町)に至る赤堀川が開削された&lt;ref name=&quot;saitama157&quot;/&gt;。<br /> <br /> ==== 会の川の締め切り ====<br /> また、文禄3年(1594年)に羽生領上川俣にて会の川の締め切りがおこなわれた。[[忍城]]の城主であった[[松平忠吉]]が[[家来]]の小笠原三郎左衛門に命じ、工事が行われたといわれるが、関東郡代伊奈忠治との連絡のもと進められたとも推測されている &lt;ref name=&quot;荒川440&quot;&gt;松浦,(1987)440pp.&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> ==== 備前堤(綾瀬川流域)の開発 ====<br /> 慶長年間([[1596年]]-[[1615年]])には、備前堤が築造され、綾瀬川が荒川から切り離され、綾瀬川流域の低湿地の開発と綾瀬川自身を流域の用水源としたという&lt;ref name=&quot;荒川368&quot;&gt;秋葉(1987),368p&lt;/ref&gt;&lt;ref group=&quot;✝&quot; name=&quot;:2&quot;&gt;備前堤の築造時期には慶長年間とする説の他に、中条堤、箕田郷堤等の築造と符号させて中世とする説、寛永年間伊奈忠治の築造とする説など主なものに3説ある(秋葉(1987),368p)。&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> ==== 利根川と渡良瀬川の河川整理 ====<br /> 元和7年(1621年)、[[浅間川]]の締め切りと[[新川通 (埼玉県)|新川通]]の開削、権現堂川の拡幅が行われた。利根川と渡良瀬川が合流し権現堂川・[[太日川]]がその下流となった。なお太日川はほぼ現在の江戸川だが全く同じではない。現在の江戸川の上流部は寛永18年([[1641年]])に開削した人工河川であり、下流部も人工河川とみる説もある。<br /> <br /> ==== 寛永期の河川整理 ====<br /> 寛永6年(1629年)、荒川の西遷が行われた。[[熊谷市]]久下で荒川を締め切り[[和田吉野川]]・[[市野川]]を[[経由]]し[[入間川 (埼玉県)|入間川]]に付け、荒川の下流は隅田川となり旧流路は[[元荒川]]となった。<br /> <br /> 同じく寛永6年(1629年)、[[鬼怒川]]&lt;ref&gt;鬼怒川は[[常総市|水海道]]の南で[[小貝川]]と合流し現在の[[河内町]]付近&lt;!--[[龍ケ崎市|竜ヶ崎]]の南--&gt;で香取海にそそいでいた。&lt;/ref&gt;を小貝川と分離し[[板戸井]]の台地を4キロメートルにわたって開削し常陸川に合流させ、合流点を約30キロメートル上流に移動した。翌寛永7年([[1630年]])に、布佐・布川間を開削し、常陸川を南流させ、また戸田井・羽根野を開削し小貝川も南流させ常陸川の狭窄部のすぐ上流に合流点を付け替えた&lt;ref&gt;初期の[[水戸街道]]は布佐・布川間を船で渡り、また常陸川・小貝川の南流で改良されたそれまでの低湿地を南北に通り抜けた。&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> ==== 赤堀川の掘削 ====<br /> 元和7年(1621年)には[[赤堀川 (茨城県)|赤堀川]]の掘削も始まる。赤堀川は太平洋への分水嶺を越える水路を開削するものであり、利根川の水を香取海へ注ぐ常陸川へ流し、太平洋へ注ぐ銚子河口まで繋がる水運を整備する目的だった。しかし、[[台地]]を掘削するために難工事となり、寛永12年([[1635年]])の工事も含めて2度失敗している。<br /> 承応3年(1654年)、3度目の赤堀川掘削工事により渇水期も常時通水に成功した。これにより利根川東遷事業が完了した&lt;ref name=&quot;:0&quot;&gt;稲崎、太田、丸山(2014)、409頁。&lt;/ref&gt;。この時の赤堀川の川幅は10[[間]](18[[メートル]])程度と狭く、利根川の洪水を流下させる機能はなかった。<br /> <br /> ==== 河川整理と用水路開発とその後 ====<br /> さらに、[[寛文]]5年([[1665年]])、権現堂川・江戸川と、赤堀川・常陸川をつなぐ逆川を開削、これにより銚子から常陸川を遡って関宿に至り、[[逆川 (幸手市)|逆川]]から江戸川を下り新川・[[小名木川]]を通って江戸を結ぶ、用水路開発が加速した&lt;ref name=&quot;:0&quot; /&gt;。<br /> しかし、強引な水路の変更は様々な問題を引き起こした。水量の増大は皮肉にも利根川の土砂堆積による[[浅瀬]]の形成を促し、水量の少ない時期には[[船]]の通行を困難にした。特に関宿からの旧常陸川(現在の利根川下流域)では[[相馬郡 (下総国)|相馬郡]]小堀村、江戸川では[[松戸市|松戸]]までの区間は浅瀬の被害が深刻で、この両区間では[[艀下船]]と呼ばれる小型船が積荷の一部を分載して自船の[[喫水]]を小さくすることで浅瀬との衝突を避けた。これにより小堀・松戸の両河岸には艀下船の河岸問屋が栄えた&lt;ref name=&quot;watanabe&quot;&gt;渡辺英夫、2001、『近世利根川水運の研究』吉川弘文館 「利根川中流域の艀下輸送」(原論文発表1986)/「利根川水運の艀下河岸」(原論文発表1991)ほか&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> === 江戸時代中後期 ===<br /> 天明3年[[7月8日 (旧暦)|7月8日]](1783年[[8月5日]])に[[浅間山]]が大噴火し、[[火砕流]]と火砕泥流、および[[吾妻川]]と利根川の洪水が発生し死者1,000人超の大[[災害]]が起きた。[[河床]]は上昇し中条堤を中心とした治水システムは機能しなくなり、当時の[[土木技術]]では大規模な[[浚渫]]などの抜本的な対策を取ることはできなかったため、[[江戸幕府]]は当面の対策として、酒巻・瀬戸井狭窄部下流[[右岸]]の堤防を徹底強化し赤堀川を拡幅、江戸川の流頭に[[棒出し]]と呼ばれる突堤を設け、18間(33メートル)を限度に川幅を狭め流入量の制限を行った。川幅を狭めた分流速が増し船の航行には不便になるが、洪水の流入を抑えるとともに、土砂流入を防ぎ浅瀬の形成を防止し、舟運機能はせめて確保したいという苦肉の策であった&lt;ref name=&quot;ooku2&quot; /&gt;。これにより行き場を失った水は逆川から銚子方面へあふれ出し、現在の利根川下流域の水害を深刻化させることとなった。また、浅瀬の被害は深刻化し、艀下船を用いても通行が困難になる場合もあった&lt;ref name=&quot;watanabe&quot; /&gt;。パナマ運河工事の土量を越える大規模な浚渫が実施され、この[[浅間山]]大噴火の影響が利根川全域から取り除かれたのは、[[戦後]]も[[高度成長期]]以降のことである。<br /> <br /> === 明治維新後 ===<br /> [[ファイル:Tone_riverine_system_20century.png|440px|thumb|現在の利根川、荒川、渡良瀬水系。明治以降、水系の整備が、物流から治水に切り替わり洪水対策が最重要になった。]]<br /> 明治初期に至るまで、治水上の「利根川の本流」は確定していなかったという。その理由は、なだらかな銚子方面に水を流すよりも、もともとの流路に近く、[[勾配]]もきつい江戸川方面に水を流すほうが理にかなっていたからとされている。また、明治初期まで利根川を中心とした水系は[[物流]]の基本[[インフラストラクチャー]]であった。このような理由から、水系の整備は治水より[[運河]](例、[[利根運河]]…明治23年([[1890年]])完成)としての機能を優先させるものであったと考えられている&lt;ref name=&quot;ookuma&quot;/&gt;。<br /> <br /> しかし、明治10年([[1877年]])ごろから渡良瀬川流域において足尾鉱毒事件が発生することで状況が変化する。鉱毒事件は被害農民と[[警官]]隊による衝突や[[田中正造]]による[[明治天皇]]への[[直訴]]などの激しい抗議行動によって大きな[[社会問題]]となった。一方、[[政府]]としては[[日清戦争]]・[[日露戦争]]のさなかであり、[[銅]]の産出を止めることはできず、なおかつ江戸川を経由した人口密集地でもある[[東京]]や江戸川河口[[行徳]]の[[塩田]]への被害拡大は避けねばならなかった。そのため、明治31年([[1898年]])には、天明の浅間山大噴火後に設けた棒出しの幅を僅か9間(16.2メートル)にまで狭め、江戸川への流入制限を強化して銚子方面へと水を流す方針が固まったとされる&lt;ref name=&quot;koide&quot;/&gt;。<br /> <br /> また、その頃利根川下流の両岸は[[千葉県]][[香取郡]]であったが、当時の千葉県の[[財政]]基盤は弱く利根川の治水事業に[[予算]]が割けなかった。そのために利根川の洪水が頻発してその水が当時直接利根川に面していなかった[[茨城県]][[稲敷郡]]東部地域にも被害を及ぼした。そこで、明治18年([[1885年]])茨城県の[[政治家]]と千葉県でも利根川の恩恵を受けられない[[房総半島]]南部の政治家の間で茨城県の治水事業への財政負担と引換に利根川以北の香取郡を茨城県側に譲渡するという計画が立てられた。これには[[大須賀庸之助]](香取郡長・[[衆議院議員]])や地元住民が激しい抵抗を続けたが、明治32年([[1899年]])に香取郡北部の稲敷郡編入が行われて、国と千葉・茨城両県による改修工事計画が検討され、着手された。<br /> <br /> だが、[[明治維新]]以降、近代的なインフラ整備が進むにつれ、従来の氾濫を前提とした治水は成り立たなくなっていた。明治43年(1910年)の[[明治43年の大水害|関東大水害]]の後中条堤を要としたそれまでの治水システムは破綻、すでに着手していた改修工事の改訂が迫られることになり、計画洪水流量の見直しや江戸川への分流量の増加など大きな変更を生んだ。そして江戸川へは棒出し(後・[[関宿水門|関宿水閘門]])によって流入制限されたため、実際には銚子方面へあふれ出し結果「東遷」が確定、[[大正]]15年([[1926年]])には権現堂川が締め切られる。<br /> <br /> その後は利根川下流の水害激化に対応するため計画上は江戸川への分派率が引き上げられているが、実際には江戸川分派点の利根川本流側には堰や水門のような構造物がなんら造られてこなかったため、結果として洪水時の江戸川の分派率は計画の40[[パーセント]]に対し20パーセント程度にすぎない。利根川治水の眼目の一つが江戸川への分派量の問題であるが、その分派量を一方的に決めるとともに決められた分派率が実現されぬまま[[埼玉県]]側の堤防だけを強化する「首都圏氾濫区域堤防強化事業」が進められ、利根川下流域の対策が後回しにされているというのが現状である&lt;ref name=&quot;ooku2&quot;/&gt;。<br /> <br /> == 影響 ==<br /> 東北太平洋岸の[[海運]]に併せ利根川の水運を使う内川江戸廻り航路は、大消費地江戸と北関東や東北とを結ぶ物流路として発展し、[[鉄道]]網が整備される明治前半まで、流通の幹線として機能し続けた。寛文11年([[1671年]])に江戸幕府の命を受けた[[河村瑞賢]]が、東北諸藩の領内の産米を[[伊豆半島]]の[[下田市|下田]]から直接江戸に運ぶことに成功し、外海江戸廻りの[[東廻海運]]が飛躍的に発達したが、東廻り航路は、危険な犬吠埼沖の通過に加え房総半島を迂回する必要があり、順風が得られない限り東京湾への出入りができない航路であり、利根川の水運は依然として重要であった。<br /> <br /> 旧渡良瀬川、旧鬼怒川、旧小貝川の下流域は[[縄文海進]]時には[[海]]であったが、以後の[[河川]]の堆積作用によって湿地帯が形成されており、治水も兼ねた当事業によって、これらの湿地帯が減り新田が開拓されたとされる一方で、東遷事業以前から新田開発は絶えず行われており、例えば香取海沿岸には古くから[[相馬御厨]]や[[橘荘]]などの[[荘園 (日本)|荘園]]をはじめとする多くの耕作地があり、東遷事業の後、水害により甚大な被害を被るようになったという歴史的事実は無視できない。<br /> <br /> 天明3年(1783年)浅間山大噴火後の中条堤の機能維持のための対策や、明治期の足尾鉱毒事件などを契機に、[[手賀沼]]や[[印旛沼]]、[[霞ヶ浦]]などをふくむ旧香取海沿岸では、排水不良によって洪水の激化を招くこととなった。その一方で水量の少ない時期には、旧常陸川や江戸川上流域に出現した浅瀬が[[高瀬船]]などの通行を妨げる事態が発生し、その傾向は浅間山大噴火以後深刻になった。このことが、舟運機能は確保した上で治水対策を強化していく事情へとつながり、元々海の[[干潟]]や利根川下流の[[低地|低]]湿地帯であった[[首都]]を[[関東大水害|水害]]から守るため行われた大規模な対策事業は、[[塩水くさび|海水]]の溯上を容易にし、現在の[[昭和33年塩害|下流部]]では[[塩害]]が激化、[[戦後]]におけるさらなる対策事業へとつながることになる。そして、それらについての永続的な努力の結果として今日があり、さらには[[利根川水系8ダム]]のような[[日本の長期化ダム事業|終わりの無い問題]]を抱えている。<br /> <br /> == 脚注 ==<br /> {{脚注ヘルプ}}<br /> ;注釈<br /> {{Reflist|group=&quot;✝&quot;}}<br /> ;出典<br /> {{Reflist|2}}<br /> <br /> == 関連文献 ==<br /> === 出典 ===<br /> * 秋葉一男「2備前堤築造後の流域の開発」,『荒川 -人文Ⅰ-』,埼玉県(1987),368-373p<br /> * {{Cite journal |和書|author =稲崎富士 |author2 =太田陽子|author3 =丸山茂徳|authorlink3 =丸山茂徳 |title =400年を越えて続いた日本史上最大最長の土木事業 ―関東平野における河川改修事業を規制したテクトニックな制約― |date =2014 |publisher =東京地学協会|journal =地学雑誌 |volume =124 |issue =4 |doi =10.5026/jgeography.123.401 |pages =401-433 |ref = }}<br /> * 田代脩・塩野博・重田正夫・森田武『埼玉県の歴史 歴史11』株式会社山川出版社、1999年。<br /> * 松浦茂樹「第4章 近世社会と荒川 第2節 治水と河川管理 4関東流河川工法による河川処理とその特徴」,『荒川 人文Ⅰ』,埼玉県(1987)440-450pp.<br /> <br /> == 関連項目 ==<br /> * [[利根川河口堰]] - 戦後の塩害対策等のために設置<br /> * [[常陸川水門]] - 同上<br /> <br /> == 外部リンク ==<br /> * [http://www.ktr.mlit.go.jp/tonege/tonege_index016.html 国土交通省関東地方整備局 利根川下流河川事務所 利根川の概要と歴史]<br /> * [http://www.ktr.mlit.go.jp/edogawa/edogawa00048.html 国土交通省関東地方整備局 江戸川下流河川事務所 首都圏氾濫区域堤防強化対策]<br /> * [http://suido-ishizue.jp/kokuei/kanto/ibaragi/kasumigaura/0102.html 水土の礎 霞ヶ浦をめぐる水利の競合 江戸に始まる開削の嵐]<br /> * [http://www.pref.chiba.lg.jp/kyouiku/bunkazai/sonohoka/kyoudo/tonegawa/unga.html 千葉県教育委員会 利根川水運と関宿水閘門・利根運河]<br /> <br /> {{DEFAULTSORT:とねかわとうせんしきよう}}<br /> [[Category:日本の河川]]<br /> [[Category:日本の水運]]<br /> [[Category:河川工事]]<br /> [[Category:日本の土木史]]<br /> [[Category:利根川水系|*と]]<br /> [[Category:東京湾の歴史]]<br /> [[Category:関東地方の歴史]]<br /> [[Category:江戸時代]]<br /> [[Category:明治時代]]</div> 218.33.128.160 奥州街道 2018-05-19T16:09:29Z <p>218.33.128.160: /* 概要 */</p> <hr /> <div>&#039;&#039;&#039;奥州街道&#039;&#039;&#039;(おうしゅうかいどう)とは、[[江戸時代]]の[[五街道]]の一つ。[[江戸]][[日本橋 (東京都中央区)|日本橋]]を起点として[[千住]]から[[白河市|白河]]へと至る[[街道]]である。[[下野国]][[宇都宮宿]]以南の区間は[[日光街道]]と共用されており、宇都宮宿伝馬町の[[追分]]で日光街道と分岐していた。<br /> <br /> == 概要 ==<br /> 五街道としての奥州街道は正式には&#039;&#039;&#039;奥州道中&#039;&#039;&#039;といい、[[江戸幕府]][[道中奉行]]の直轄下にあった白河以南を指し、道中には27の[[宿場]]が置かれた。江戸時代には江戸と[[陸奥国]]さらには[[蝦夷]]間の物流が増加しており、白河はその中継地点として賑わい、奥州街道沿線では[[下野国]][[宇都宮市|宇都宮]]に次ぐ人口を擁するなど繁盛した。<br /> <br /> 現在、[[東京]]と[[東北地方|東北]]方面を結ぶ[[国道4号]]旧道の[[栃木県]][[宇都宮市]]以北の区間が「奥州街道」と呼ばれている。一部区間では陸羽街道・仙台道・松前道・外が浜道などの名称が併用されていた。<br /> <br /> 奥州街道の前身は鎌倉時代に成立した中路および奥大道([[鎌倉街道]])である。<br /> <br /> === 白河以北 ===<br /> 江戸時代初期には主に東北諸藩の[[参勤交代]]の交通・連絡に用いられたが、江戸中期には[[蝦夷地]]開発のため、江戸末期には[[ロシア]]からの蝦夷地防衛のために往来量が増加した。[[1873年]]([[明治]]6年)に陸羽街道と改称され、現在は大部分が[[国道4号]]となり、並行して[[東北自動車道]]・[[八戸自動車道]]が通っている。<br /> <br /> === 史跡 ===<br /> [[岩手県]][[岩手郡]][[岩手町]]から[[二戸郡]][[一戸町]]に至る街道跡の7区間、延長8.86kmが、「[[盛岡市]]の北方に位置するかつての一戸宿周辺には、[[浪打峠]]をはじめ往時の姿をとどめる街道跡、[[一里塚]]が良好に残っており、[[近世]]の交通の歴史を知る上で貴重である」として、[[国]]の[[史跡]]「奥州街道」に指定されている。<br /> <br /> == 宿場 ==<br /> [[数]]は[[千住宿]]からの通し番号である。<br /> {|class=&quot;wikitable&quot;<br /> |-<br /> !rowspan=&quot;2&quot;|宿場!!rowspan=&quot;2&quot;|令制国!!rowspan=&quot;2&quot;|郡!!colspan=&quot;3&quot;|現在の自治体!!rowspan=&quot;2&quot;|特記事項<br /> |-<br /> !都道府県!!colspan=&quot;2&quot;|市区町村<br /> |-<br /> |0. [[日本橋 (東京都中央区)|日本橋]]||rowspan=&quot;8&quot;|[[武蔵国]]||[[豊島郡 (武蔵国)|豊島郡]]||rowspan=&quot;2&quot;|[[東京都]]||rowspan=&quot;2&quot;|([[東京都区部|特別区]])||[[中央区 (東京都)|中央区]]||五街道の[[起点]]<br /> |-<br /> |1. [[千住宿]]||rowspan=&quot;2&quot;|[[足立郡]]||[[足立区]]||[[水戸街道]]が分岐<br /> |-<br /> |2. [[草加宿]]||rowspan=&quot;6&quot;|[[埼玉県]]||colspan=&quot;2&quot;|[[草加市]]||<br /> |-<br /> |3. [[越ヶ谷宿]]||rowspan=&quot;2&quot;|[[埼玉郡]]||colspan=&quot;2&quot;|[[越谷市]]||<br /> |-<br /> |4. [[粕壁宿]]||colspan=&quot;2&quot;|[[春日部市]]||<br /> |-<br /> |5. [[杉戸宿]]||rowspan=&quot;5&quot;|[[葛飾郡]]||[[北葛飾郡]]||[[杉戸町]]||<br /> |-<br /> |6. [[幸手宿]]||colspan=&quot;2&quot;|[[幸手市]]||[[日光御成街道]]・筑波道が分岐<br /> |-<br /> |7. [[栗橋宿]]||colspan=&quot;2&quot;|[[久喜市]]||<br /> |-<br /> |8. [[中田宿]]||rowspan=&quot;2&quot;|[[下総国]]||rowspan=&quot;2&quot;|[[茨城県]]||rowspan=&quot;2&quot; colspan=&quot;2&quot;|[[古河市]]||<br /> |-<br /> |9. [[古河宿]]||[[古河城|古河城下]]<br /> |-<br /> |10. [[野木宿]]||rowspan=&quot;16&quot;|[[下野国]]||rowspan=&quot;6&quot;|[[都賀郡]]||rowspan=&quot;16&quot;|[[栃木県]]||[[下都賀郡]]||[[野木町]]||<br /> |-<br /> |11. [[間々田宿]]||colspan=&quot;2&quot; rowspan=&quot;3&quot;|[[小山市]]||<br /> |-<br /> |12. [[小山宿]]||[[壬生通り|日光西街道]]・結城道・佐野道・栃木道が分岐<br /> |-<br /> |13. [[新田宿]]||<br /> |-<br /> |14. [[小金井宿]]||colspan=&quot;2&quot; rowspan=&quot;2&quot;|[[下野市]]||<br /> |-<br /> |15. [[石橋宿]]||<br /> |-<br /> |16. [[雀宮宿]]||rowspan=&quot;3&quot;|[[河内郡]]||colspan=&quot;2&quot; rowspan=&quot;3&quot;|[[宇都宮市]]||<br /> |-<br /> |17. [[宇都宮宿]]||[[宇都宮城|宇都宮城下]]&lt;br /&gt;[[日光街道]]・壬生道・鹿沼道・田原道・新里道・大谷道が分岐<br /> |-<br /> |18. [[白沢宿]]||<br /> |-<br /> |19. [[氏家宿]]||rowspan=&quot;2&quot;|[[塩谷郡]]||colspan=&quot;2&quot; rowspan=&quot;2&quot;|[[さくら市]]||<br /> |-<br /> |20. [[喜連川宿]]||[[喜連川城|喜連川城下]]<br /> |-<br /> |21. [[佐久山宿]]||rowspan=&quot;5&quot;|[[那須郡]]||colspan=&quot;2&quot; rowspan=&quot;2&quot;|[[大田原市]]||<br /> |-<br /> |22. [[大田原宿]]||[[大田原城|大田原城下]]<br /> |-<br /> |23. [[鍋掛宿]]||colspan=&quot;2&quot; rowspan=&quot;2&quot;|[[那須塩原市]]||<br /> |-<br /> |24. [[越堀宿]]||<br /> |-<br /> |25. [[芦野宿]]||[[那須郡]]||[[那須町]]||<br /> |-<br /> |26. [[白坂宿]]||rowspan=&quot;2&quot;|[[磐城国]]||rowspan=&quot;2&quot;|[[白河郡]]||rowspan=&quot;2&quot;|[[福島県]]||colspan=&quot;2&quot; rowspan=&quot;2&quot;|[[白河市]]||<br /> |-<br /> |27. [[白河宿]]||[[白河城|白河城下]]<br /> |}<br /> <br /> === 白河以北===<br /> {|class=&quot;wikitable&quot;<br /> |-<br /> !rowspan=&quot;2&quot;|宿場!!rowspan=&quot;2&quot;|令制国!!rowspan=&quot;2&quot;|郡!!colspan=&quot;3&quot;|現在の自治体!!rowspan=&quot;2&quot;|特記事項<br /> |-<br /> !都道府県!!colspan=&quot;2&quot;|市区町村<br /> |-<br /> |27. 白河宿||rowspan=&quot;8&quot;|[[磐城国]]||rowspan=&quot;8&quot;|[[白河郡]]||rowspan=&quot;31&quot;|[[福島県]]||colspan=&quot;2&quot; rowspan=&quot;3&quot;|[[白河市]]||[[白河街道]]が分岐<br /> |-<br /> |28. [[根田宿]]||<br /> |-<br /> |29. [[小田川宿]]||<br /> |-<br /> |30. [[太田川宿]]||rowspan=&quot;5&quot;|[[西白河郡]]||rowspan=&quot;2&quot;|[[泉崎村]]||<br /> |-<br /> |31. [[踏瀬宿]]||<br /> |-<br /> |32. [[大和久宿]]||rowspan=&quot;3&quot;|[[矢吹町]]||<br /> |-<br /> |33. [[中畑新田宿]]||<br /> |-<br /> |34. [[矢吹宿]]||[[水戸街道]]が分岐<br /> |-<br /> |35. [[久来石宿]]||rowspan=&quot;23&quot;|[[岩代国]]||rowspan=&quot;3&quot;|[[岩瀬郡]]||rowspan=&quot;2&quot;|[[岩瀬郡]]||rowspan=&quot;2&quot;|[[鏡石町]]||<br /> |-<br /> |36. [[笠石宿]]||<br /> |-<br /> |37. [[須賀川宿]]||colspan=&quot;2&quot;|[[須賀川市]]||御斎所街道・[[岩城街道]]が分岐<br /> |-<br /> |38. [[笹川宿]]||rowspan=&quot;7&quot;|[[安積郡]]||colspan=&quot;2&quot; rowspan=&quot;7&quot;|[[郡山市]]||<br /> |-<br /> |39. [[日出山宿]]||<br /> |-<br /> |40. [[小原田宿]]||<br /> |-<br /> |41. [[郡山宿]]||[[二本松街道#安積街道|安積街道]]・[[岩城街道]]が分岐<br /> |-<br /> |42. [[福原宿]]||<br /> |-<br /> |43. [[日和田宿]]||岩城街道が分岐<br /> |-<br /> |44. [[高倉宿]]||<br /> |-<br /> |45. [[本宮宿]]||rowspan=&quot;5&quot;|[[安達郡]]||colspan=&quot;2&quot;|[[本宮市]]||[[二本松街道]]・[[岩城街道]]が分岐<br /> |-<br /> |46. [[南杉田宿]]||colspan=&quot;2&quot; rowspan=&quot;4&quot;|[[二本松市]]||<br /> |-<br /> |47. [[北杉田宿]]||<br /> |-<br /> |48. [[二本松宿]]||[[二本松城|二本松城下]]<br /> |-<br /> |49. [[二本柳宿]]||<br /> |-<br /> |50. [[八丁目宿]]||rowspan=&quot;5&quot;|[[信夫郡]]||colspan=&quot;2&quot; rowspan=&quot;5&quot;|[[福島市]]||[[板谷街道|米沢街道]]<br /> |-<br /> |51. [[若宮宿]]||<br /> |-<br /> |52. [[清水町宿]]||<br /> |-<br /> |53. [[福島宿 (奥州街道)|福島宿]]||[[福島城|福島城下]]&lt;br /&gt;[[国道115号|山王土湯道]]・[[板谷街道|米沢街道]]・[[国道115号|中村街道]]・[[川俣街道]]が分岐<br /> |-<br /> |54. [[瀬上宿]]||<br /> |-<br /> |55. [[桑折宿]]||rowspan=&quot;3&quot;|[[伊達郡]]||rowspan=&quot;3&quot;|[[伊達郡]]||[[桑折町]]||[[羽州街道]]が分岐<br /> |-<br /> |56. [[藤田宿]]||rowspan=&quot;2&quot;|[[国見町]]||<br /> |-<br /> |57. [[貝田宿]]||<br /> |-<br /> |58. [[越河宿]]||rowspan=&quot;4&quot;|[[磐城国]]||rowspan=&quot;4&quot;|[[刈田郡]]||rowspan=&quot;25&quot;|[[宮城県]]||colspan=&quot;2&quot; rowspan=&quot;3&quot;|[[白石市]]||<br /> |-<br /> |59. [[斎川宿]]||<br /> |-<br /> |60. [[白石宿]]||[[白石城|白石城下]]<br /> |-<br /> |61. [[宮宿 (奥州街道)|宮宿]]||[[刈田郡]]||[[蔵王町]]||笹谷街道が分岐<br /> |-<br /> |62. [[金ヶ瀬宿]]||rowspan=&quot;21&quot;|[[陸前国]]||rowspan=&quot;4&quot;|[[柴田郡]]||rowspan=&quot;4&quot;|[[柴田郡]]||rowspan=&quot;2&quot;|[[大河原町]]||<br /> |-<br /> |63. [[大河原宿]]||<br /> |-<br /> |64. [[船迫宿]]||rowspan=&quot;2&quot;|[[柴田町]]||<br /> |-<br /> |65. [[槻木宿]]||<br /> |-<br /> |66. [[岩沼宿]]||rowspan=&quot;3&quot;|[[名取郡]]||colspan=&quot;2&quot;|[[岩沼市]]||[[陸前浜街道]]が分岐<br /> |-<br /> |67. [[増田宿]]||colspan=&quot;2&quot;|[[名取市]]||<br /> |-<br /> |68. [[中田宿 (奥州街道)|中田宿]]||colspan=&quot;2&quot; rowspan=&quot;4&quot;|[[仙台市]]||<br /> |-<br /> |69. [[長町宿]]||rowspan=&quot;3&quot;|[[宮城郡]]||<br /> |-<br /> |70. [[仙台宿]]||[[仙台城|仙台城下]]<br /> |-<br /> |71. [[七北田宿]]||<br /> |-<br /> |72. [[富谷宿]]||rowspan=&quot;2&quot;|[[黒川郡]]||colspan=&quot;2&quot;|[[富谷市]]||<br /> |-<br /> |73. [[吉岡宿]]||[[黒川郡]]||[[大和町]]||<br /> |-<br /> |74. [[三本木宿]]||rowspan=&quot;2&quot;|[[志田郡]]||colspan=&quot;2&quot; rowspan=&quot;3&quot;|[[大崎市]]||<br /> |-<br /> |75. [[古川宿]]||<br /> |-<br /> |76. [[荒谷宿]]||rowspan=&quot;7&quot;|[[栗原郡]]||<br /> |-<br /> |77. [[高清水宿]]||colspan=&quot;2&quot; rowspan=&quot;6&quot;|[[栗原市]]||<br /> |-<br /> |78. [[築館宿]]||<br /> |-<br /> |79. [[宮野宿]]||<br /> |-<br /> |80. [[沢辺宿]]||<br /> |-<br /> |81. [[金成宿]]||<br /> |-<br /> |82. [[有壁宿]]||<br /> |-<br /> |83. [[一関宿]]||rowspan=&quot;13&quot;|[[陸中国]]||rowspan=&quot;2&quot;|[[磐井郡]]||rowspan=&quot;16&quot;|[[岩手県]]||colspan=&quot;2&quot; rowspan=&quot;2&quot;|[[一関市]]||<br /> |-<br /> |84. [[山目宿]]||<br /> |-<br /> |85. [[前沢宿]]||rowspan=&quot;3&quot;|[[胆沢郡]]||colspan=&quot;2&quot; rowspan=&quot;2&quot;|[[奥州市]]||<br /> |-<br /> |86. [[水沢宿]]||<br /> |-<br /> |87. [[金ヶ崎宿]]||[[胆沢郡]]||[[金ケ崎町]]||<br /> |-<br /> |88. [[鬼柳宿]]||rowspan=&quot;2&quot;|[[和賀郡]]||colspan=&quot;2&quot; rowspan=&quot;2&quot;|[[北上市]]||<br /> |-<br /> |89. [[黒沢尻宿]]||<br /> |-<br /> |90. [[花巻宿]]||rowspan=&quot;2&quot;|[[稗貫郡]]||colspan=&quot;2&quot; rowspan=&quot;2&quot;|[[花巻市]]||<br /> |-<br /> |91. [[石鳥谷宿]]||<br /> |-<br /> |92. [[日詰郡山宿]]||[[紫波郡]]||[[紫波郡]]||[[紫波町]]||<br /> |-<br /> |93. [[盛岡宿]]||rowspan=&quot;3&quot;|[[岩手郡]]||colspan=&quot;2&quot; rowspan=&quot;2&quot;|[[盛岡市]]||[[盛岡城|盛岡城下]]<br /> |-<br /> |94. [[渋民宿]]||<br /> |-<br /> |95. [[沼宮内宿]]||[[岩手郡]]||[[岩手町]]||<br /> |-<br /> |96. [[一戸宿]]||rowspan=&quot;17&quot;|[[陸奥国]]||rowspan=&quot;3&quot;|[[二戸郡]]||[[二戸郡]]||[[一戸町]]||<br /> |-<br /> |97. [[福岡宿]]||colspan=&quot;2&quot; rowspan=&quot;2&quot;|[[二戸市]]||浄法寺街道・[[登り街道|八戸街道]]が分岐<br /> |-<br /> |98. [[金田一宿]]||<br /> |-<br /> |99. [[三戸宿]]||rowspan=&quot;3&quot;|[[三戸郡]]||rowspan=&quot;14&quot;|[[青森県]]||rowspan=&quot;3&quot;|[[三戸郡]]||[[三戸町]]||[[三戸街道]]が分岐<br /> |-<br /> |100. [[浅水宿]]||rowspan=&quot;2&quot;|[[五戸町]]||<br /> |-<br /> |101. [[五戸宿]]||<br /> |-<br /> |102. [[伝法寺宿]]||rowspan=&quot;5&quot;|[[北郡]]||colspan=&quot;2&quot; rowspan=&quot;2&quot;|[[十和田市]]||<br /> |-<br /> |103. [[藤島宿]]||<br /> |-<br /> |104. [[七戸宿]]||rowspan=&quot;3&quot;|[[上北郡]]||[[七戸町]]||<br /> |-<br /> |105. [[野辺地宿]]||rowspan=&quot;2&quot;|[[野辺地町]]||<br /> |-<br /> |106. [[馬門宿]]||<br /> |-<br /> |107. [[小湊宿]]||rowspan=&quot;6&quot;|[[津軽郡 (陸奥国)|津軽郡]]||[[東津軽郡]]||[[平内町]]||<br /> |-<br /> |108. [[野内宿]]||colspan=&quot;2&quot; rowspan=&quot;3&quot;|[[青森市]]||<br /> |-<br /> |109. [[青森宿]]||<br /> |-<br /> |110. [[油川宿]]||[[羽州街道]]が分岐<br /> |-<br /> |111. [[平舘宿]]||rowspan=&quot;2&quot;|[[東津軽郡]]||rowspan=&quot;2&quot;|[[外ヶ浜町]]||<br /> |-<br /> |112. [[三厩宿]]||<br /> |-<br /> |113. [[松前宿]]||colspan=&quot;2&quot; rowspan=&quot;3&quot;|[[蝦夷地]]||rowspan=&quot;3&quot;|[[北海道]]||[[松前郡]]||[[松前町 (北海道)|松前町]]||<br /> |-<br /> |114. [[箱館宿]]||colspan=&quot;2&quot; rowspan=&quot;2&quot;|[[函館市]]||<br /> |-<br /> | [[五稜郭|箱館奉行所]]||<br /> |}<br /> <br /> == 関連項目 ==<br /> * [[奥の細道]]<br /> * [[歴史の道百選]]<br /> * [[街道てくてく旅]]<br /> * [[北海道・東北の史跡一覧]]<br /> <br /> == 外部リンク ==<br /> * [http://www.yumekaido.ne.jp/ousyuframe.html 奥州街道マップ]<br /> <br /> {{奥州街道}}<br /> {{日本の道100選}}<br /> {{国道4号}}<br /> {{DEFAULTSORT:おうしゆうかいとう}}<br /> [[Category:奥州街道|*]]<br /> [[Category:街道]]<br /> [[Category:北海道の道路]]<br /> [[Category:青森県の道路]]<br /> [[Category:岩手県の道路]]<br /> [[Category:宮城県の道路]]<br /> [[Category:福島県の道路]]<br /> [[Category:栃木県の道路]]<br /> [[Category:埼玉県の道路]]<br /> [[Category:東京都の道路]]<br /> [[Category:北海道の交通史]]<br /> [[Category:青森県の交通史]]<br /> [[Category:岩手県の交通史]]<br /> [[Category:宮城県の交通史]]<br /> [[Category:福島県の交通史]]<br /> [[Category:栃木県の交通史]]<br /> [[Category:埼玉県の交通史]]<br /> [[Category:東京都の交通史]]<br /> [[Category:江戸時代の交通]]<br /> [[Category:日本の道100選]]<br /> [[Category:岩手県にある国指定の史跡]]</div> 218.33.128.160 鎌倉街道 2018-05-19T12:52:15Z <p>218.33.128.160: /* 中路および奥大道 */</p> <hr /> <div>{{脚注の不足|date=2016年6月}}<br /> [[Image:Asahina kiridoshi -03.jpg|thumb|right|200px|鎌倉街道の趣を残す[[朝比奈切通し]]付近。]]<br /> &#039;&#039;&#039;鎌倉街道&#039;&#039;&#039;(かまくらかいどう)は、各地より[[鎌倉]]に至る道路の総称。特に[[鎌倉時代]]に[[鎌倉幕府|鎌倉政庁]]が在った鎌倉と各地を結んだ[[古道]]については&#039;&#039;&#039;鎌倉往還&#039;&#039;&#039;(かまくらおうかん)や&#039;&#039;&#039;鎌倉道&#039;&#039;&#039;(かまくらみち)とも呼ばれ、また&#039;&#039;&#039;鎌倉海道&#039;&#039;&#039;(かまくらかいどう)とも書く。一方で、現況の[[道路]]で「鎌倉街道」や「かまくらみち」と[[通称]]される路線も存在する。<br /> <br /> ==道路の通称==<br /> * [[東京都道18号府中町田線]]&lt;ref&gt;[http://www.kensetsu.metro.tokyo.jp/douro/tusyodoro/ichiran.pdf 東京都道路通称名一覧表(東京都建設局)]&lt;/ref&gt;や[[神奈川県道21号横浜鎌倉線]]の別称&lt;ref&gt;「神奈川県都市地図」昭文社&lt;/ref&gt;などの通称名。<br /> * [[埼玉県]][[日高市]]大谷沢にある[[国道407号]]の交差点名&lt;ref&gt;「埼玉県都市地図」昭文社&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> == 古道・鎌倉街道 ==<br /> 古道としての鎌倉街道とは、鎌倉時代に幕府のある鎌倉と各地を結んだ道路網で、鎌倉幕府の[[御家人]]が有事の際に「いざ[[鎌倉]]」と[[鎌倉殿]]の元に馳せ参じた道であり、鎌倉時代の関東近郊の主要道の意として用いられている。1192年、[[源頼朝]]が鎌倉に幕府を開くと、支配力強化のために鎌倉と東国の各地域を結ぶ道路整備に力を注ぎ、次々と道路網が建設されたため、鎌倉街道は無数にあった{{sfn|浅井建爾|2001|p=92}}。その中でも、鎌倉街道の幹線道は全国の[[国府]]を通り、街道沿いに[[守護所]]も置かれたが、その数はごく限られていた。主要な幹線道は、鎌倉から[[武蔵国|武蔵]]、[[上野国|上野]]の国府を通り、[[碓氷峠]]を越えて[[信濃国|信濃]]へ行く道、[[東海道]]筋をたどる京鎌倉往還、鎌倉から[[甲斐国|甲斐]]とを結ぶ道、[[下野国|下野]]の国府を通って[[白河関]]を越える道、[[常陸国|常陸]]の国府を通って[[勿来関]]を越えて[[陸奥国|奥州]]へ行く道などがあった{{sfn|浅井建爾|2001|p=92}}。<br /> <br /> 一方で、鎌倉街道の呼び名が一般的に用いられるようになったのは[[江戸時代]]以降で、鎌倉時代に書かれた鎌倉政庁自らの記録である『[[吾妻鏡]]』をはじめ、当時の諸文献に「鎌倉街道」の呼び名は見られず、[[江戸時代]]の書物である『[[新編武蔵風土記]]』や『[[江戸名所図会]]』(江戸名所圖會)などに鎌倉街道が散見されている。<br /> <br /> &lt;!--以下には、現在の鎌倉街道に該当するであろう諸道の文献上での記述を記し、さらに現在の古道・鎌倉街道について説明する。--&gt;<br /> === 吾妻鏡 ===<br /> 『[[吾妻鏡]]』で「鎌倉との往還道」という意味で用いられている道路名には以下のようなものがある。<br /> <br /> # 京や[[駿河国|駿河]]・[[遠江国|遠江]]と鎌倉の間、そして鎌倉よりさらに[[下総国|下総]]・[[常陸国|常陸]]に向かう道として&#039;&#039;&#039;[[東海道]]&#039;&#039;&#039;<br /> # 鎌倉から[[武蔵国|武蔵]]東部や[[下野国|下野]]に向かう&#039;&#039;&#039;中路&#039;&#039;&#039;<br /> # さらに中路を経て[[陸奥国|奥州]]に向かう&#039;&#039;&#039;奥大道&#039;&#039;&#039;<br /> # 鎌倉から武蔵西部や[[上野国|上州]]に向かう&#039;&#039;&#039;下道&#039;&#039;&#039;<br /> # 下道からさらに[[信濃国|信濃]]・[[越後国|越後]]に向かう&#039;&#039;&#039;北陸道&#039;&#039;&#039;<br /> # 下野足利荘から鎌倉に至る経路上の道である&#039;&#039;&#039;武蔵大路&#039;&#039;&#039;(経路不明)<br /> <br /> &lt;!--{{独自研究範囲|date=2016年6月9日 (木) 14:30 (UTC)|これらは往還道として実際に用いられた呼称と推定できるが、東海道や北陸道には[[律令制]][[五畿七道]]の一道の意味もあり、また大道や中路は元来[[官道]]の規格を表す言葉でもあるから、道路名と断定するものではない。}}--&gt;<br /> <br /> 以下に、『吾妻鏡』に記述のある道路名について解説する。なお、[[東海道]]と[[北陸道#道路としての北陸道|北陸道]]については各項目を参照のこと。<br /> <br /> ==== 東海道 ====<br /> 『吾妻鏡』の[[文治]]5年[[7月17日 (旧暦)|7月17日]]の条に「&#039;&#039;&#039;東海道&#039;&#039;&#039;大将軍である[[千葉常胤]]と[[八田知家]]は、一族と[[常陸国]]および[[下総国]]の諸氏を率いて宇大、行方を経て岩城、岩崎を廻り[[阿武隈川|遇隈河]]を渡り大手軍(頼朝軍)と合流すること」とある。&lt;!--、{{独自研究範囲|date=2016年6月9日 (木) 14:30 (UTC)|五畿七道のひとつである東海道に属する下総国および常陸国には京から鎌倉を経て下総国、常陸国に通じ奥州へ至る道があった可能性が考えられる。}}--&gt;<br /> <br /> ==== 中路および奥大道 ====<br /> 『吾妻鏡』の文治5年7月17日の条に、[[奥州合戦|奥州征伐]]で[[源頼朝]]率いる大手軍が&#039;&#039;&#039;中路&#039;&#039;&#039;より御下向されると記述されている。鎌倉を発向した頼朝軍は[[下野国]][[宇都宮市|宇都宮(古多橋驛)]]、同[[那須町|那須(新渡戸驛)]]を経て[[白河関]]に至っていることから、中路とは後世の[[日光御成道]]の道筋を通り、[[武蔵国]]東部から下野国を縦断して[[陸奥国|奥州]][[白河市|白川]]に至る古道と推定されている{{要出典|date=2016年6月9日 (木) 14:30 (UTC)}}。<br /> <br /> また同じく『吾妻鏡』には、奥州平定後の記述として&#039;&#039;&#039;奥大道&#039;&#039;&#039;の文字も見え、[[建長]]8年[[6月2日 (旧暦)|6月2日]]の条に、奥大道に夜盗が出没して往来する旅人が困っているため、沿線の地頭等に警固するよう申し付けたとあり、その地頭等として以下の24名を挙げている。<br /> {| style=&quot;vertical-align: top;&quot;<br /> |<br /> * [[小山長村|小山出羽前司]]<br /> * [[宇都宮泰綱|宇都宮下野前司]]<br /> * [[薬師寺朝村|阿波前司]]<br /> * [[島津忠景|周防五郎兵衛尉]]<br /> * [[氏家経朝|氏家余三跡]]<br /> * [[葛西朝清|壱岐六郎左衛門尉]]<br /> * [[葛西時重|壱岐七郎左衛門尉]]<br /> * [[小山時朝|出羽四郎左衛門尉]]<br /> |<br /> * 陸奥留守兵衛尉<br /> * 宮城右衛門尉<br /> * 和賀三郎兵衛尉<br /> * 和賀五郎左衛門尉<br /> * 芦野地頭<br /> * [[那須資広|福原小太郎]] <br /> * 渋江太郎兵衛尉<br /> * 伊古宇又次郎<br /> |<br /> * 平間江地頭<br /> * 清久右衛門次郎<br /> * 鳩井兵衛尉跡<br /> * [[那須資村|那須肥前々司]] <br /> * 宇都宮五郎兵衛尉<br /> * 岩手左衛門太郎<br /> * 岩手次郎<br /> * 矢古宇右衛門次郎<br /> |}<br /> <br /> これら地頭等の所領を現代の自治体名で[[鎌倉]]側から並べると、[[神奈川県]][[川崎市]][[中原区]]上平間、川崎市[[幸区]]下平間、[[東京都]][[足立区]]宮城、足立区伊興、[[埼玉県]][[川口市]]本郷、川口市三ツ和、[[草加市]][[谷塚町|谷塚]]、[[さいたま市]][[岩槻区]]、[[久喜市]]、[[栃木県]][[小山市]]、[[下野市]]薬師寺、[[河内郡]][[上三川町]]多功、下野市児山、 [[宇都宮市]]([[田川 (利根川水系)|田川]]西岸の市街部){{efn|宇都宮付近では[[栃木県道63号藤原宇都宮線|田原街道]]の田川橋梁が古来「鎌倉橋」と呼ばれており、またこの田原街道を北上すると頼朝[[奥州合戦|奥州征伐]]の際に奉幣した[[宇都宮二荒山神社]]の神官を代々務めた宇都宮一族の中里氏の本領「中里」に至り、中里を東進すると氏家を経て矢板に至ることなどから、田原街道筋は当時の鎌倉街道中路ないしその支路と推察される。}}、[[さくら市]][[氏家町|氏家]]、[[矢板市]]川崎、[[大田原市]]福原、大田原市黒羽、[[那須郡]][[那須町]]芦野{{efn|現在、[[白河関]]は[[那須町]]伊王野から北北東に向かった先の[[福島県]][[白河市]]旗宿にあり、白河神社がその遺物と考えられているが、芦野は伊王野から北北西に向かう現在の[[国道294号]]沿線の地名である。}}となり、奥大道はこれら地域を経て[[陸奥国|奥州]]に至っていたものと考えられている{{要出典|date=2016年6月9日 (木) 14:30 (UTC)}}。<br /> <br /> なお、先出の『吾妻鏡』の奥州征伐の記述によると、[[7月19日 (旧暦)|7月19日]]に鎌倉を発った頼朝軍は、中路を経て[[7月25日 (旧暦)|7月25日]]に宇都宮(古多橋驛)に到着、[[7月26日 (旧暦)|7月26日]]に宇都宮を発ち[[7月28日 (旧暦)|7月28日]]に[[那須町|那須(新渡戸驛)]]に到着、翌[[7月29日 (旧暦)|7月29日]]に白河関に至っており、各区間に要した概日数は鎌倉 - 宇都宮間約160kmが6日間、宇都宮 - 那須間約55kmが2日間であったことから、当時の中路の旅程は1日約25 - 30kmであったと見られる{{Synthesis-inline|date=2016年6月9日 (木) 14:30 (UTC)}} 。<br /> <br /> ==== 下道および北陸道 ====<br /> 『吾妻鏡』の[[文治]]5年[[7月17日 (旧暦)|7月17日]]の条に、奥州征伐の&#039;&#039;&#039;北陸道&#039;&#039;&#039;大将軍の[[比企能員]]および[[宇佐美実政]]などが、「[[鎌倉]]から&#039;&#039;&#039;下道&#039;&#039;&#039;を経て[[上野国]]高山、小林、大胡、左貫の住人を集め[[越後国]]から[[出羽国]]に出る」と記述されており、下道は[[相模国]]から[[武蔵国]]を経て[[上野国]]に至り、さらに北で[[北陸道]]に通じていたものと推察されている{{要出典|date=2016年6月9日 (木) 14:30 (UTC)}}。<br /> <br /> ==== 武蔵大路 ====<br /> 『吾妻鏡』の[[養和]]元年[[9月16日 (旧暦)|9月16日]]の条に、[[下野国]][[足利市|足利庄]]の[[桐生六郎]]が幕府の命により追討の命が下された主人の[[足利俊綱|藤原俊綱]]の首を取って武蔵大路よりその首を持参したとある。鎌倉の北西にある「扇谷地区」から源氏山を西へ、梶原谷から藤沢に抜ける道は、かつて「武蔵大路」と呼ばれ、鎌倉街道最大の道筋であった&lt;ref&gt;宮田太郎「鎌倉街道伝説 - 多摩丘陵を中心とした歴史の道」p8&lt;/ref&gt;。境川に沿い町田市、多摩市、国府の府中を過ぎて、群馬県、栃木県の北関東へ続いていた。&lt;!--要出典 鎌倉市中の道とする説、あるいは[[上野国|上州]]から武蔵西部経由で鎌倉に至る道(下道)や、[[下野国|野州]]から武蔵東部経由で鎌倉に至る道(中路)との説など所説ある。--&gt;<br /> <br /> === 宴曲抄 ===<br /> 鎌倉時代に編まれた『宴曲抄』の中の歌謡「善光寺修行」には道中の地名が織りこまれており、『吾妻鏡』でいう下道の経路と推定される。<br /> <br /> 由比の浜([[鎌倉市]][[由比ヶ浜]]) - 常葉山(鎌倉市大仏坂北西の常葉) - 村岡([[藤沢市]]宮前を中心とした付近) - 柄沢(藤沢市柄沢付近) - 飯田([[横浜市]][[泉区 (横浜市)|泉区]]上飯田町・下飯田町付近) - [[菅原神社 (町田市)|井出の沢]]([[町田市]][[本町田]]) - 小山田の里(町田市[[小野路町 (町田市)|小野路町]]) - [[霞ノ関]]([[多摩市]][[関戸 (多摩市)|関戸]]) - 恋が窪([[国分寺市]]の東恋ヶ窪及び西恋ヶ窪) - 久米川([[東村山市]]と[[所沢市]]との境付近) - 武蔵野(所沢市一帯の地域) - 堀兼([[狭山市]]堀兼) - 三ツ木(狭山市三ツ木) - 入間川(狭山市を流れる[[入間川 (埼玉県)|入間川]]で右岸に宿があった) - 苦林([[毛呂山町]][[越辺川]]南岸の苦林宿) - 大蔵([[嵐山町]]大蔵) - [[槻川]](嵐山町菅谷の南を流れる川で[[都幾川]]と合流する) - 比企が原(嵐山町菅谷周辺) - 奈良梨([[小川町]]の市野川岸の奈良梨) - 荒川([[寄居町]]の荒川) - 見馴川(現在の[[小山川]]) - 見馴の渡(見馴川の渡) - 児玉(本庄市児玉町児玉) - 雉が岡(本庄市児玉町八幡山) - [[鏑川]]([[藤岡市]]と[[高崎市]]の境を流れる) - 山名(高崎市山名町) - 倉賀野(高崎市倉賀野町) - 衣沢(高崎市寺尾町) - 指出(高崎市石原町付近) - 豊岡(高崎市の上・中・下豊岡町) - 板鼻([[安中市]]板鼻) - 松井田(安中市[[松井田町松井田]]) - 臼井山([[碓氷峠]]) - 離山 ([[軽井沢町]]の離山) - 追分([[御代田町]]) - 御影新田([[小諸市]]) - 望月([[佐久市]][[望月宿]])- 布引([[布引観音]]) - 海野([[東御市]][[海野宿]])- 白鳥([[東御市]][[白鳥神社]])- 岩下([[上田市]]岩下)- 塩尻([[上田市]]塩尻)- 坂木([[坂城町]] - 力石の渡し - 佐良科([[千曲市]][[稲荷山]])- 姨捨([[姨捨山]]の麓長谷寺付近) - 筑摩([[千曲川]]) - 篠の井([[長野市]]篠ノ井布施) - [[今井神社]]([[長野市]]今井) - [[川中島]](長野市川中島町四ッ屋) - 犀川([[小市の渡し]]) - 安茂里(長野市安茂里) - 山王 - 後町 - [[善光寺]] - 吉田大銀杏(長野市吉田) - [[稲積一里塚]] - 多古(長野市三才) - 吉一里塚 - 黒川 - 沼辺(野尻湖) - 関川 - 新井 - 越後国府<br /> <br /> === 江戸名所図会 ===<br /> [[江戸時代]]に書かれた『江戸名所図会』の「十三」には、「堀兼の井戸」の説明文として鎌倉街道の記述がある。これによると、「堀兼の井戸は[[川越市|河越]]の南、[[堀兼村]]にあり、[[堀兼神社|浅間宮]]の傍にあるため浅間堀兼と称されている。浅間宮の前の道は、古の鎌倉街道で、上州信州への往還道である」とされ、吾妻鏡でいう下道と推定される。<br /> <br /> === 御府内備考 ===<br /> 江戸時代の[[文政]]年間に[[江戸幕府]]により編纂された[[御府内]]の[[地誌]]で『[[御府内備考]]』の「四十八 関口」には、「[[関口村]]」の総説として鎌倉街道の記述がある。これによると、「関口村は小石川、小日向、牛込等に隣接し、地名の起源は不明であるが、この西に宿坂という地名があり、そこは昔鎌倉街道が通り宿坂の関と言った」とされ、この鎌倉街道とは『吾妻鏡』でいう中路、奥大道と推定される。<br /> <br /> === 南向茶話 ===<br /> 江戸時代の[[寛延]]4年に[[酒井忠昌]]により著された『南向茶話』によると、「[[王子村]]の脇に[[谷村]]という所があり、畑道の[[間道]]が昔の当国の往還道であったため&#039;&#039;&#039;鎌倉海道&#039;&#039;&#039;と呼び伝えられているそうですね、と質問した。これに対し、そのとおりです。私(酒井忠昌)もそう聞いています。この谷村という所ではそのように呼ばれており、畑道も鎌倉海道と呼ばれています。谷村の古老の方に拠れば、当国の方には池沼が多くぬかるみの土地柄のため、現在の[[百人町#地名の由来|青山百人町]]の西北の方、[[原宿]]という所を経て、[[八幡神社 (渋谷区千駄ヶ谷)|千駄ケ谷八幡]]の前(この土地では今も地名の小名として「鎌倉海道」と呼んでいる)、[[大久保 (新宿区)|大窪]]を過ぎ、[[高田馬場]]より[[雑司が谷|雜司ケ谷]][[法明寺 (豊島区)|法明寺]]の脇を通り、[[護国寺]]の後ろを通り、現在の[[中山道]]を横切り、谷村、[[滝野川区|滝野川村]]を経て、[[豊島村]]より[[千住宿|千住]]の方へ向かうのが、いにしえの道筋です、とのことです。この説を考察するに、その間の道筋に三箇所も旧名&#039;&#039;&#039;鎌倉海道&#039;&#039;&#039;が残っていることから、何の根拠も無いことではありません。現在の青山百人町から真っ直ぐに[[相模国]]の[[小田原]]への往還道を俗に&#039;&#039;&#039;中道&#039;&#039;&#039;と呼び、東海道より二里近く、日本橋より相州小田原まで十八里であり、・・・(後略)」とある。<br /> <br /> === 上道・中道・下道 ===<br /> 鎌倉街道という言葉は[[江戸時代]]の[[文化 (元号)|文化]]・[[文政]]年間に[[江戸幕府]]により編纂された[[江戸]]および周辺地の[[地誌]]に頻用されており、江戸時代に江戸周辺の住民が鎌倉街道と口伝する道があったことが分かっている。<br /> <br /> 現在、「鎌倉街道には上道・中道・下道という3つの主要道があった」とされることが多いが、これらの言葉の由来については定かではない。「中道」については『吾妻鏡』にも「中路」(鎌倉から武蔵東部を経て下野、白河へ抜ける道)の記述があり、これが語源となったと推定されている。一方、現在「上道」「下道」とされるルートは『吾妻鏡』ではそれぞれ「下道」「東海道」に相当し、同書の記述とは相違している。「鎌倉街道・上道」は、江戸時代に上洛の道(上道)の一道であった[[中仙道]](木曾街道)と並行しており、いつしか両者が混同し、従来の下道が「鎌倉街道・上道」と呼ばれるようになったとの推定がある。また、奈良の道に上道・中道・下道があったことから、鎌倉街道についても同じように呼ばれるようになった、との説がある。<br /> <br /> 以下に現在、鎌倉街道「上道・中道・下道」とされているルートを記す。<br /> <br /> ==== 鎌倉街道上道 ====<br /> 鎌倉街道上道(かまくらかいどうかみつみち)&lt;ref&gt;[http://www2.mmc.atomi.ac.jp/web01/Flower%20Information%20by%20Vps/Historical%20Matter/s02-Kamakura%20Avenue.htm 跡見学園女子大学 副学長室からの花便り] 歴史散歩(3) 鎌倉街道 「上道 (うえつみち)」&lt;/ref&gt;として定説化しているのは、鎌倉から武蔵西部を経て上州に至る古道で、[[高崎市|高崎]]-&gt;山名-&gt;[[奈良梨宿|奈良梨]]-&gt;笛吹峠-&gt;入間-&gt;所沢-&gt;[[府中市 (東京都)|府中]]-&gt;(小野路&lt;ref&gt;[http://www.tamagawa.ac.jp/sisetu/kyouken/kamakura/michi/index.html 玉川学園・玉川大学・協同 多賀歴史研究所 多賀譲治] 海の道・陸の道&lt;/ref&gt;)-&gt;本町田-&gt;瀬谷-&gt;[[化粧坂]]-&gt;鎌倉のルートである&lt;ref&gt;「旧鎌倉街道 探索の旅 上道編」(芳賀善次郎著、さきたま双書)&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;[http://kaidouarukitabi.com/rekisi/rekisi/kamakura/uemiti/kamakurauemichi1.html 鎌倉街道上道を歩く]&lt;/ref&gt;&lt;ref name=&quot;izumi&quot;&gt;[http://www.city.yokohama.lg.jp/izumi/55miryoku/rekinabi/izimamukasi/michi-03/michikawa-1.html 横浜市泉区] 1.鎌倉への道「かまくら道」『かまくら上の道は、鎌倉の化粧坂(けはいざか)から出て境川沿いを北上し、武蔵国府(東京都府中市)から上野(こうずけ)、信濃方面に至る道で、関東平野を南北に結び、戦時・平時を問わず鎌倉、室町時代に大いに利用された道である。新田義貞の鎌倉攻め(府中市分倍河原の戦い)も、この道を南下したといわれている。』『町田市小野路を経て多摩ニュータウンの中を北上し、多摩市関戸で多摩川を渡って、武蔵の国府があった府中に入り、上野(こうづけ)・信濃方面へと続く。』&lt;/ref&gt;。国府付近は、東芝府中工場-&gt;分倍-&gt;中河原へ抜けるルートとなっている&lt;ref&gt;多摩のあゆみ たましん地域文化財団 ISSN 09139680&lt;/ref&gt;。<br /> 『吾妻鏡』にある下道である。鎌倉政庁の公式記録である『吾妻鏡』には「上道」の記述は無く、現在の鎌倉街道上道は『吾妻鏡』に&#039;&#039;&#039;下道&#039;&#039;&#039;として記録されているものに近い。上道には「上洛の道」の意味もあり、江戸時代に[[江戸]]から[[京都|京]]に上る『上道』として整備されていた道路のひとつ[[中山道]]の存在などにより、{{独自研究範囲|date=2016年6月9日 (木) 14:30 (UTC)|これに並行していた鎌倉街道の一路線「下道」が「上道」と呼ばれるようになったとの推定も出来る}}。<br /> <br /> ==== 鎌倉街道中道 ====<br /> 鎌倉街道中道(かまくらかいどうなかつみち)と呼ばれているのは、鎌倉から[[武蔵国]]東部を経て[[下野国]]に至る古道で、『吾妻鏡』にある&#039;&#039;&#039;中路&#039;&#039;&#039;である。<br /> <br /> 経路については、大手中路の鎌倉口として推定されているのが巨福呂坂や亀ヶ谷坂であるが、当時はこれらの道が整備されていなかった可能性もあるとし、[[奥州藤原氏]]の怨霊を鎮めるべく頼朝が建立した[[永福寺跡|永福寺]]の位置などから、二階堂から天園に抜けるハイキングコースを推定する説もある。また、武蔵国南部の経路については、鎌倉から[[巨福呂坂]]あるいは[[亀ヶ谷坂]]を越えて[[戸塚区|戸塚]]方面に向かい、[[中山]]を経えて、[[荏田|荏田宿]]の付近からは、[[二子玉川]]、[[渋谷区|渋谷]]へ続く[[矢倉沢往還]]と同じルートなど所説ある。<br /> <br /> ==== 鎌倉街道下道 ====<br /> 鎌倉街道下道(かまくらかいどうしもつみち)と[[定説]]化されている道筋は、鎌倉から[[朝比奈切通し|朝夷奈切通]]を越え、六浦津より房総半島に渡り、東京湾沿いに北上して下総国府、常陸国に向かうとされている{{要出典|date=2016年6月9日 (木) 14:30 (UTC)}}。ほか、房総半島に渡らず、武蔵国側の東京湾沿いを北上する道筋をこう呼称する場合もある。<br /> <br /> === 古道・鎌倉街道の特徴 ===<br /> 鎌倉は三方を山に囲まれ、南に相模湾が面する要害の地として有意な立地であったことから、鎌倉と諸国を結ぶ街道をつなぐために、鎌倉周囲の山を掘り割って[[切通し]]が作られた{{sfn|浅井建爾|2001|p=92}}。鎌倉には外部に通じる道に7カ所の切通しがつくられたことから、これらは「七切通し」とよばれ{{efn|名越切通し、朝比奈切通し、巨福呂坂切通し、亀ヶ谷坂切通し、化粧坂切通し、大仏坂切通し、極楽寺切通しの7カ所{{sfn|浅井建爾|2001|p=93}}。}}、敵の侵攻に対抗する防御を固める要所でもあった{{sfn|浅井建爾|2001|p=92}}。<br /> * なるべく平坦な直線距離を取る。<br /> * 見晴らしがいいように丘陵や台地、微高地の尾根を通る。<br /> * 尾根道の場合、掘割状の凹型の断面となる。幅は騎馬が2列並んで通れる程度で決して広くはない。<br /> <br /> == 現況 ==<br /> [[Image:Kamakura_Kaido.jpg|thumb|right|200px|鎌倉街道「駒が橋」。[[鎌倉時代]]、[[源頼朝]]がこの地を通ったとき、駒(馬)を橋の代わりに用いたことからこの名称が付けられた。&lt;br/&gt;[[横浜市]][[港北区]]]]<br /> 「古道・鎌倉街道」は、鎌倉時代の記録に基づき整理されたものか、[[近世]]以降の地元民の口伝を整理したものであるか、全てが解明されているわけではない。近世以降の地元民の口伝に基づく鎌倉街道は廃れてしまったものもあるが、逆に拡幅されるなどしたものもあると推察されている。以下に現在「鎌倉街道」と呼ばれる道路等について概説する。<br /> <br /> === 歴史の道 ===<br /> 1996年に文化庁が選定した「歴史の道百選」には、下記の鎌倉街道が含まれている。<br /> *24 鎌倉街道上道 [[埼玉県]][[比企郡]][[小川町]]、[[大里郡]][[寄居町]]、[[入間郡]][[毛呂山町]]<br /> *26 鎌倉街道上総路 [[千葉県]][[袖ケ浦市]]、[[市原市]]<br /> *29 鎌倉街道七口切通 [[神奈川県]][[鎌倉市]]、[[横浜市]]、[[逗子市]]<br /> *38 鎌倉街道御坂路 [[山梨県]][[東八代郡]][[御坂町]](現・[[笛吹市]])、[[南都留郡]][[河口湖町]](現・[[富士河口湖町]])<br /> <br /> === 鎌倉街道の現況 ===<br /> 道路の通称として、&#039;&#039;&#039;鎌倉街道&#039;&#039;&#039;と呼ばれるものには以下の路線が存在する。詳細は各項目を参照のこと。<br /> * [[東京都道18号府中町田線]]および[[神奈川県道・東京都道52号相模原町田線]]<br /> * [[神奈川県道21号横浜鎌倉線]]<br /> * [[神奈川県道402号阿久和鎌倉線]] - 通称、かまくらみち。<br /> <br /> ==== 府中街道付近など ====<br /> 口伝により現在、鎌倉街道と呼ばれる古道・鎌倉往還道のうち、『吾妻鏡』に云う&#039;&#039;&#039;下道&#039;&#039;&#039;(現在は&#039;&#039;&#039;上道&#039;&#039;&#039;と呼ばれるもの)に相当する東京都道18号府中町田線(後述)は全体的に旧経路に平行しており、また『吾妻鏡』の&#039;&#039;&#039;中路&#039;&#039;&#039;ないし&#039;&#039;&#039;奥大道&#039;&#039;&#039;(現在は&#039;&#039;&#039;中道&#039;&#039;&#039;と呼ばれるもの)に相当する神奈川県道21号横浜鎌倉線(後述)は、小袋谷付近までは旧経路をほぼ踏襲しているが、それ以遠のルートは中道から大きく外れて横浜市中心部へ北上していると考えられている{{要出典|date=2016年6月9日 (木) 14:30 (UTC)}}。このほかに、市道として断続的に名前が残っている箇所もある(例:横浜市の「かまくらみち」や、東村山市・小平市内などの[[府中街道]]に平行するような形態の狭い幅の道路など。その他関東各地に名称が残る)。<br /> <br /> 大部分が近代の宅地開発や市街地化、道路環境整備などに伴い姿を大きく変えているが、未舗装のままや宿場の街並みが残り、かつての雰囲気を偲ばせる箇所も一部に残る。<br /> *[[国分寺市]]と[[府中市 (東京都)|府中市]]の市境で黒鐘公園付近にある伝鎌倉街道<br /> *[[町田市]]の[[本町田|町田宿]]・[[菅原神社 (町田市)|井出の沢]]付近から[[小野路町 (町田市)|小野路宿]]付近にかけての旧経路。このうち[[七国山 (町田市)|七国山]]は「七国山自然歩道(鎌倉古道)」として、「鎌倉井戸」と呼ばれる井戸跡共に保存されている。<br /> *上記の小野路宿付近から[[多摩市]]南野の一本杉公園にかけて、&#039;&#039;&#039;鎌倉裏街道跡&#039;&#039;&#039;およびその切り通しがあり、整備・保存されている。[http://www.pompoco.or.jp/chiikitai/tama_rekishi/20030621_tama_yokoyama.htm]<br /> &lt;gallery&gt;<br /> File:Old Kamakura Kaidō in Tokorozawa.jpg|thumb|旧鎌倉街道 埼玉県所沢市星の宮<br /> File:Fuchu.tokyo.kyuu.kamakurakaido and kyuu kousyukaido.kousatuba.toiyabaato.jpg|thumb|[[高札場|札]]の辻、旧甲州街道(左右)と旧鎌倉街道の交差。東京都府中市宮西町。川越道起点であった。<br /> File:Kyuu.kamakurakaido.kokubunji.jpg|thumb|旧鎌倉街道切通。東京都国分寺市西元町4。&lt;ref&gt;[http://www.city.kokubunji.tokyo.jp/shisetsu/kouen/1005196/1004228.html 伝鎌倉街道]【市重要史跡】&lt;/ref&gt;<br /> &lt;/gallery&gt;<br /> <br /> ===その他===<br /> 愛知県(名古屋市、岡崎市など東海道沿い)にも鎌倉街道跡、旧鎌倉街道などと呼ばれる古道の跡が残っている([[東海道]]の項目参照)。<br /> <br /> == 脚注 ==<br /> {{脚注ヘルプ}}<br /> === 注釈 ===<br /> &lt;references group=&quot;注釈&quot;/&gt;<br /> === 出典 ===<br /> {{Reflist}}<br /> <br /> == 参考文献 ==<br /> {{参照方法|date=2016年6月|section=1}}<br /> * [[吾妻鏡]]<br /> * [[宴曲抄]]<br /> * [[江戸名所図会]]<br /> * 御府内備考<br /> * 南向茶話<br /> * [[角川日本地名大辞典]]<br /> * {{Cite book |和書 |author=浅井建爾 |edition= 初版|date=2001-11-10 |title=道と路がわかる辞典 |publisher=[[日本実業出版社]] |isbn=4-534-03315-X |ref=harv}}<br /> * {{cite book | 和書 | author = [[宮田太郎 (古街道研究家)|宮田太郎]] | title = 鎌倉街道伝説 | id = ISBN 4944237065 | publisher = ネット武蔵野 | year = 2001 | month = 11 | location = 小金井 }}&lt;!-- http://opac.ndl.go.jp/recordid/000003619282/jpn --&gt;<br /> * {{cite book | 和書 | editor = 藤原良章 | title = 中世のみちを探る | id = ISBN 4906641830 | publisher = 高志書院 | year = 2004 | month = 6 | location = 東京 }}&lt;!-- http://opac.ndl.go.jp/recordid/000007395665/jpn --&gt;<br /> * {{cite book | 和書 | author = [[齋藤慎一]] | title = 中世を道から読む| id = ISBN 4062880407 | publisher = [[講談社]]〈[[講談社現代新書]]〉 | year = 2010 | month = 2 | location = 東京 }}&lt;!-- http://opac.ndl.go.jp/recordid/000007395665/jpn --&gt;<br /> * {{cite book | 和書 | author = 北倉庄一 | title = 中世を歩く | id = ISBN 978-4990016531 | publisher = テレコム・トリビューン社 | year = 1998 | month = 2 | location = 東京 }}<br /> <br /> * {{cite web | url = http://www.asahi-net.or.jp/~ab9t-ymh/annai/kama1.html | title = 鎌倉街道上道埼玉編 | accessdate = 2010年1月17日 }}<br /> * {{cite web | url = http://yokohama.cool.ne.jp/y_ohata/hodo/hodogaya/kamakuramiti/kamakurakodou.htm | title = 「古鎌倉道(鎌倉古道)」について | accessdate = 2010年5月12日 | author = 大畠洋一}}<br /> <br /> == 関連項目 ==<br /> * [[鎌倉七口]]<br /> <br /> == 外部リンク ==<br /> * [http://www.geocities.jp/yaji_kita843/sub7-02-bangai-yusaka.html 『箱根湯坂路・鎌倉古道を歩く』]<br /> * [http://yokohama.cool.ne.jp/y_ohata/hodo/hodogaya/hodo_index.htm 『保土ヶ谷宿の成立と交通路の変遷』]<br /> <br /> {{DEFAULTSORT:かまくらかいとう}}<br /> [[Category:街道]]<br /> [[Category:神奈川県の交通史]]<br /> [[Category:東京都の道路]]<br /> [[Category:神奈川県の道路]]</div> 218.33.128.160 デーン人 2018-04-14T04:33:13Z <p>218.33.128.160: /* 歴史 */</p> <hr /> <div>{{出典の明記|date=2015年4月28日 (火) 13:03 (UTC)}}<br /> &#039;&#039;&#039;デーン人&#039;&#039;&#039;(デーンじん。{{lang-da|Daner}})は、現在の[[デンマーク]]および[[スウェーデン]]の[[スコーネ]]地方に居住した北方系[[ゲルマン人]]([[ノルマン人]])の一派である。現在のデンマーク人の祖先にあたる。[[ヴァイキング]]時代に[[イングランド]]および西ヨーロッパ一帯に侵攻した。<br /> <br /> ==歴史==<br /> [[ゲルマン民族]]移動の時代に、[[スカンジナビア半島]]から到来し、[[ユトランド半島]]まで進出した。それまでの先住民である西方系[[ゲルマン人]]の[[アングル人]]、[[サクソン人]]、[[ジュート人]]を圧倒し彼らの[[ブリテン島]]移住の誘因を作った。<br /> <br /> [[9世紀]]に入って、[[ヴァイキング]]として西ヨーロッパ一帯に[[海賊]]活動を始めた。[[七王国]]時代のイングランドに侵攻し次々と国を滅ぼした。<br /> <br /> 七王国の一つウェセックス王のアルフレッド([[アルフレッド大王]])は、878年にデーン人に勝利し、[[ウェドモーアの和議]]を結び、ブリテン島東岸の[[デーンロウ]]と称する地域を限定して定住地として認めた。<br /> &lt;!--デーン人の戦術を学習して[[城塞]]をつらねた防衛線を築き、ねばり強く抵抗した。、886年にはロンドンを奪還した。デーンロウのデーン人の[[キリスト教]]改宗にも力を注いだ&lt;ref name=&quot;horigome_099&quot;&gt;堀米(1979)pp.99-100&lt;/ref&gt;。--&gt;<br /> <br /> [[10世紀]]に[[ハーラル1世 (デンマーク王)|ハーラル1世]]が[[キリスト教]]に改宗し、[[デンマーク王国]]としてデーン人を包括した統一国家の始まりとなる。([[デンマークの歴史#中世]])<br /> <br /> [[1013年]]、デンマーク王の[[スヴェン1世 (デンマーク王)|スヴェン王]]が[[イングランド王国|イングランド]]王を追い出し、自身が王となる。[[1016年]]、スヴェンの子[[クヌート1世 (イングランド王)|カヌート大王]]がイングランド王に即位。後にデンマーク王、[[ノルウェー]]王にも即位し、デーン人による[[北海帝国]]を築き上げた。カヌート大王の死後、帝国は崩壊した。<br /> <br /> 中世までのデーン人の国家は、たとえ異民族であっても、デンマーク王に従属し統率下に入ればデーン人と呼ばれ、そのような人々が一種の政治的な[[共同体]]を形作っていた。<br /> <br /> [[近代]]に入ると、[[国民国家]]の成立と共にデンマークの[[ナショナリズム]]・民族意識が高まり、今日のような「[[デンマーク人]]」としての国家となった。<br /> &lt;!--デンマーク人の先祖となる集団であるが、デーン人の民族概念は、現在のデンマーク人とは異なる。それは民族的なものではなく、一種の政治的な[[共同体]]であった。<br /> つまり異民族であっても、デンマーク王に従属して、その統率下に入ればデーン人と呼ばれていたのである。--&gt;<br /> <br /> == 関連項目 ==<br /> * [[ヴァイキング]]<br /> * [[ノース人]]<br /> * [[デンマーク]]<br /> * [[デンマークの歴史]]<br /> * [[スウェーデン人]]<br /> * [[ノルウェー人]]<br /> * [[アイスランド人]]<br /> <br /> {{北欧の歴史}}<br /> <br /> {{デフォルトソート:てんしん}}<br /> [[Category:デンマークの歴史]]<br /> [[Category:デンマークの民族]]<br /> [[Category:北欧の民族]]<br /> [[Category:イギリスの民族]]<br /> [[Category:中世の北欧]]<br /> [[Category:中世ヨーロッパ]]<br /> [[Category:ゲルマン人]]<br /> [[Category:ヴァイキング]]<br /> [[Category:七王国時代]]</div> 218.33.128.160 子午線弧 2018-03-07T12:04:20Z <p>218.33.128.160: /* ヘルメルト・ベッセルの式 */</p> <hr /> <div>&#039;&#039;&#039;子午線弧&#039;&#039;&#039;(しごせんこ、Meridian arc)とは、[[測地学]]において、地球表面または[[地球楕円体]]に沿った[[子午線]]([[経線]])の[[弧 (幾何学)|弧]]を指す。[[子午線]]は[[楕円]][[弧 (幾何学)|弧]]で南北方向に延びる[[測地線]]となる。&lt;!--地球楕円体で[[経線]]([[子午線]])に沿う[[楕円]]の[[弧 (幾何学)|弧]]となる。--&gt;<br /> <br /> [[天文学]]において、2地点の[[緯度#天文緯度 (astronomical latitude)|天文緯度]]測定と子午線弧の長さとを結合することで地球の[[円周]]・[[半径]]を決定した。その始まりは、紀元前3世紀の[[エジプト]]の[[エラトステネス]]で、地球が[[球体]]であることを定量的に示した。<br /> &lt;!--初期の地球半径の決定は、[[紀元前3世紀]]の[[エジプト]]において、[[エラトステネス]]がシエネ(現在の[[アスワン]])と[[アレクサンドリア]]の[[距離]]を測定し地球半径の見積もり、および地球が[[球体]]であることを示したことより始まる。--&gt;<br /> <br /> [[緯度]]差1[[分 (角度)|分]]に相当する子午線弧長は、[[海里]]の定義にも参考にされた。<br /> <br /> == エラトステネスの子午線弧 ==<br /> [[アレクサンドリア]]の科学者[[エラトステネス]]による測定は、地球の[[大円]][[周長]]を計算した最初であった。彼は、[[夏至]]の[[正午]]において、太陽が[[古代エジプト]]の都市シエネ(現在の[[アスワン]])で[[天頂]]を[[通過 (天文)|通過]]するということを知っていた。一方で、彼は自身の測定結果から、彼の居住地であるアレクサンドリアで、同時刻の[[太陽]][[天頂距離]]が[[天球]]大円周長の1/50であるということも日時計が作る角度(7.2°)によって既知としており、天球と地球は同心であることから、アレクサンドリアがシエネの[[真北]]にあるならばアレクサンドリア-シエネ間の距離は地球の大円周長の1/50でなければならないと結論づけた。[[隊商]]の往来日数のデータを使って、彼はアレクサンドリア-シエネ間の距離を5,000[[スタディア]]であると推定した。<br /> <br /> この結果は250,000スタディアの地球周長を意味し、単位スタディオンを[[アッティカ]]スタディオン (185m) と仮定すると、これは46,250kmに相当し、現在の値から約16%大きい。しかし、エラトステネスがエジプトスタディオン (157.5m) を使ったとすれば、彼の測定値は 39,375km(わずか1%程度の[[誤差]])であることが分かる。いずれにしても、幾何設定と古代の状況を斟酌すれば、16%の誤差は称賛に値するものである。<br /> <br /> シエネは、正確にアレクサンドリアの真南にはなく、太陽の[[軌道 (力学)|軌道]]は想定よりも0.5°傾いていた。また、[[ナイル川]]に沿って、または、[[砂漠]]を行旅することからの陸路の距離はおよそ10%程度の誤差があったとされる。<br /> <br /> エラトステネスによる地球形状の見積もりは、その後何百年もの間受け入れられた。およそ150年後に[[ポセイドニオス]]が同様の方法によりアレクサンドリア-[[ロドス島]]間の緯度差を測定するとともに、子午線弧長を[[船]]の[[速度]]と[[航海]]の期間から仮想的に割り出し、地球周長の算出を試みた。<br /> <br /> == 中世から近世にかけての子午線弧の測量 ==<br /> [[8世紀]]に入ると中国でも子午線の計測が行われた。[[玄宗 (唐)|玄宗]]より新暦編纂の勅命を受けた僧[[一行]]は、[[鉄勒]]から[[交州]]にかけての測量を実施し、緯度1度の子午線弧長を351里80歩(約123.7km)と算出した。この算定と実際との誤差は11パーセントである。[[9世紀]]前期には、[[アッバース朝]]第7代[[カリフ]]である[[マアムーン|アル=マアムーン]]の命により、[[フワーリズミー|アル=フワーリズミー]]がシンジャール平原において実施した、[[角度]]測量によって多少良い結果が算出された。[[ヨーロッパ]]では、それまで子午線弧長測量が行われた記録が残っておらず、[[14世紀]]に[[ジョン・マンデヴィル]]が編纂したとされる&quot;[https://web.archive.org/web/20091016102942/http://www.planetnana.co.il/notes/books/mandeville.htm &#039;&#039;The Travels of Sir John Mandeville&#039;&#039;]&quot; ([[大場正史]]訳「東方旅行記」, [[東洋文庫 (平凡社)|東洋文庫]]第19巻, [[平凡社]], 1964, ISBN 9784582800197)において地球が球形であることが言及されている程度であったが、[[16世紀]]になって、もともと[[医師]]、[[生理学者]]であり、[[天文学]]、[[数学]]にも関心を持った{{仮リンク|ジャン・フェルネル|fr|Jean Fernel|en|Jean Fernel}}が、[[経度]]がほぼ等しい[[パリ]]-[[アミアン]]間の緯度差を1[[度 (角度)|度]]とみなした上で、[[荷車]]の[[車軸]]の[[回転数]]からその子午線弧長を決定したことを、著書&quot;[http://www.e-rara.ch/doi/10.3931/e-rara-1294 &#039;&#039;Ioannis Fernelii Ambianatis Cosmotheoria, libros duos complexa&#039;&#039;]&quot; (1528)に書き記している。<br /> <br /> [[1615年]]には[[三角測量]]によるものとしては最初の子午線弧長測量が[[ヴィレブロルト・スネル]]により行われたが、測量結果には数パーセントの誤差があった。その約半世紀後の[[1669年]]に[[ジャン・ピカール]]が本格的な三角測量を行い、[[緯度]]差1度に相当する子午線弧長を0.3%程度の精度で測定した。しかしながら、この頃辺りまでは地球の形状はあくまでも真球であるという前提の下に議論が行われていた。<br /> <br /> == フランス科学アカデミー遠征隊のペルーとラップランドへの派遣 ==<br /> {{main|フランス科学アカデミーによる測地遠征}}<br /> ピカールによる測量以降、測量精度が向上するにつれて、地球の正確な形状についての問題が顕在化し、地球は正確には真球より[[回転楕円体]]と考えるべきとの意見が多くなったが、[[長球]]なのか[[扁球]]なのかについて議論が分かれていた。[[ジャック・カッシーニ]]は、[[1713年]]に自らが行ったダンケルク-[[ペルピニャン]]間の測量結果を『地球の大きさと形状』([http://books.google.co.jp/books?id=jTYAAAAAQAAJ&amp;hl=ja&amp;pg=PP1 &#039;&#039;De la grandeur et de la figure de la terre&#039;&#039;]、[[1720年]])に取りまとめ、この結果と[[ルネ・デカルト]]の[[渦動説]]から、地球が南北に長い長球であることを提唱した。一方では、[[振り子時計]]をパリから赤道付近へ持ってゆくと遅くなるという[[ジャン・リシェ]]による報告からの推測により、[[アイザック・ニュートン]]が発表した[[万有引力]]の理論から赤道方向に長い扁球であると主張する学者も多数いた。<br /> <br /> これを受け、18世紀半ば([[1735年]]~[[1740年]])には、[[フランス科学アカデミー]]が、地球楕円体の形状の論争に決着をつけるために赤道近傍と北極近傍の子午線弧長を比較した。この測量事業は、[[ピエール・ブーゲ]]、[[ルイ・ゴダン]]、[[シャルル=マリー・ド・ラ・コンダミーヌ]]、[[ピエール・ルイ・モーペルテュイ]]及び[[アントニオ・デ・ウジョーア]]らによって[[ペルー]](現在の[[エクアドル]])&lt;ref&gt;18世紀においては、エクアドルという国はまだ存在していなかった。当該地域は、当時[[スペイン]]の管轄下に置かれており、後の[[キト]]市となる“キト[[特別行政区]]”と呼ばれていた。[[1830年]]に独立を果たした際に国の名称として採用された“エクアドル共和国”(「エクアドル」にはスペイン語で『赤道』の意味がある)には、“赤道付近の地域”として選ばれたこの地において実施されることとなった、フランス測地測量事業の名声が影響していると考えられている。&lt;/ref&gt;と[[ラップランド]]([[トルネ谷]])で実行された。<br /> <br /> 測量結果は2地域の同緯度差での子午線弧長に対する有意差を示し、極付近の[[弧長]]が赤道付近の弧長よりも大きいというものであった。これは赤道付近のほうが極付近よりも[[曲率]]が大きいことを示唆しており、[[1687年]]にニュートンが彼の著書『[[自然哲学の数学的諸原理]]』の第3巻において提唱したとおり、地球の数学的形状は扁球として解釈できることが確認された。カッシーニが得た測量結果が不正確であったことは、彼の弟子ともいうべき[[ニコラ・ルイ・ド・ラカーユ]]が[[1739年]]から2年を費やして再測量を行うことにより確認された。<br /> <br /> [[18世紀]]後半にかけて、[[科学アカデミー (フランス)|フランス科学アカデミー]]によって[[ダンケルク]]-[[バルセロナ]]間の子午線弧長の[[測量]]が行われ、[[メートル]]の定義のために使われた。<br /> <br /> == 伊能忠敬 ==<br /> 日本では[[伊能忠敬]]が第二次測量(1801年)の結果から緯度1度に相当する子午線弧長を28.2里と導き出している。<br /> <br /> == 子午線弧長の計算 ==<br /> &lt;!--現在では、測地学において地球楕円体の子午線弧長が単純に用いられることはなく、グローバルな測地基準点網が用いられるが、--&gt;子午線弧長の計算は[[地図投影法]]、特に[[横メルカトル図法]]([[ガウス・クリューゲル図法]])において重要な役割を果たす。<br /> <br /> [[赤道]]から[[緯度#地理緯度 (geographic latitude)|地理緯度]] &lt;math&gt;\varphi\,&lt;/math&gt; までの子午線弧長 &lt;math&gt;S(\varphi)\,&lt;/math&gt; は、[[楕円積分]]が含まれているため、[[初等関数]]では表すことができないが、&lt;math&gt;\varphi\,&lt;/math&gt; の一次[[単項式]]と &lt;math&gt;\varphi\,&lt;/math&gt; の偶数倍を[[位相]]とする[[正弦]][[高調波]]の[[無限級数]]の一般式で書き表すことができる。またこれを指定した次数で打ち切れば[[有限級数]]の形で近似計算に用いることができる。[[オイラー]]は[[1755年]]に第三[[離心率]] &lt;math&gt;e^{\prime\prime}\,&lt;/math&gt; の二乗を微小量として用いて[[無限級数]]の一般式を得た。<br /> <br /> === 第一離心率を用いた表式 ===<br /> [[地球楕円体]]の[[長半径]]を &lt;math&gt;a\,&lt;/math&gt;、第一[[離心率]]を &lt;math&gt;e\,&lt;/math&gt;、子午線[[曲率半径]]&lt;ref&gt;子午線曲率半径は[[平面曲線]]([[楕円]])の幾何学的性質から初等的に求められる。例えば、Rapp, R, (1991): [http://hdl.handle.net/1811/24333 Geometric Geodesy, Part I], &amp;sect;3.5.1, pp. 28–32参照。&lt;/ref&gt;を &lt;math&gt;M_\varphi = \frac{a(1-e^2)}{(1-e^2\sin^2\varphi)^{3/2}}\,&lt;/math&gt; とするとき、[[赤道]]から[[緯度#地理緯度 (geographic latitude)|地理緯度]] &lt;math&gt;\varphi\,&lt;/math&gt; までの子午線弧長 &lt;math&gt;S(\varphi)\,&lt;/math&gt; は以下のように与えられる。<br /> :&lt;math&gt;<br /> S(\varphi)=\int_0^\varphi M_\theta\mathrm{d}\theta=a(1-e^2)\Pi(e^2;\varphi,e)<br /> &lt;/math&gt;<br /> &lt;!--上式には[[楕円積分]]が含まれているため、[[初等関数]]では表すことができないが、&lt;math&gt;\varphi\,&lt;/math&gt; の一次[[単項式]]と &lt;math&gt;\varphi\,&lt;/math&gt; の偶数倍を[[位相]]とする[[正弦]][[高調波]]の[[無限級数]]で書き下すことができる。[[1755年]]に[[オイラー]]が第三[[離心率]]&lt;math&gt;e^{\prime\prime}\,&lt;/math&gt;の二乗を微小量として用いて[[無限級数]]の一般式を得た。--&gt;<br /> <br /> 歴史的に広く用いられてきた &lt;math&gt;S(\varphi)\,&lt;/math&gt; の[[無限級数]]式は、&lt;!--この無限級数の、確認できる最も古い近似導出は、メートルの定義のために実施されたフランス科学アカデミーによるダンケルク-バルセロナ間の子午線弧長測量に参加した、--&gt;[[ジャン=バティスト・ジョゼフ・ドランブル]]が &lt;math&gt;e^2&lt;/math&gt; を微小量として用い[[1799年]]に公表したものである&lt;ref&gt;この式は日本でも広く用いられ、昭和61年版から平成21年版までの[[理科年表]](地学部)にも掲載されていた。&lt;/ref&gt;。&lt;math&gt;e^8&lt;/math&gt; で打ち切った近似式は下記となる。<br /> <br /> :&lt;math&gt;<br /> \begin{align}S(\varphi)\approx<br /> &amp;\;a(1-e^2)\left\{\left(1+\frac{3}{4}e^2+\frac{45}{64}e^4+\frac{175}{256}e^6+\frac{11025}{16384}e^8\right)\varphi\right. \\<br /> &amp;\ -\frac{1}{2}\left(\frac{3}{4}e^2+\frac{15}{16}e^4+\frac{525}{512}e^6+\frac{2205}{2048}e^8\right)\sin 2\varphi \\<br /> &amp;\ +\frac{1}{4}\left(\frac{15}{64}e^4+\frac{105}{256}e^6+\frac{2205}{4096}e^8\right)\sin 4\varphi \\<br /> &amp;\ -\frac{1}{6}\left(\frac{35}{512}e^6+\frac{315}{2048}e^8\right)\sin 6\varphi \\<br /> &amp;\ +\frac{1}{8}\left.\left(\frac{315}{16384}e^8\right)\sin 8\varphi\right\}\\<br /> \end{align}<br /> &lt;/math&gt;<br /> <br /> しかしながら、これはヘルメルトの式などに比べると、共通係数として&lt;math&gt;(1-e^2)&lt;/math&gt;を括り出していることが原因で&lt;ref&gt;共通係数 &lt;math&gt;(1-e^2)&lt;/math&gt; を括り出さずに級数に組み込むか、もしくは&lt;math&gt;\left(1-\frac{1}{4}e^2\right)&lt;/math&gt; を括り出すなどで、収束性は改善される。&lt;/ref&gt;、&lt;math&gt;\left(\cdots\right)&lt;/math&gt; 内で &lt;math&gt;e^2&lt;/math&gt; の冪乗の[[級数]]の[[収束性]]が劣り、精密計算には多くの項数を必要とする。&lt;!--展開は必ずしも[[収束]]がよいとは言えず、精密な測量計算には更に高次の展開を--&gt;<br /> <br /> === 第三扁平率を用いた表式 ===<br /> [[フリードリヒ・ヴィルヘルム・ベッセル]]は1825年に[[緯度#更成緯度 (reduced latitude)|更成緯度]]&lt;!--(reduced latitude, parametric latitude)--&gt;&lt;math&gt;\beta=\tan^{-1}\left(\sqrt{1-e^2}\tan\varphi\right)&lt;/math&gt; で表した子午線弧長 &lt;math&gt;S(\beta)&lt;/math&gt; に対して[[扁平率#第二及び第三扁平率|第三扁平率]] &lt;math&gt;n=\frac{1-\sqrt{1-e^2}}{1+\sqrt{1-e^2}}&lt;/math&gt; を微小量として用い、[[二項定理]]を利用しフーリエ級数展開を行った一般式を得た&lt;ref&gt;[[二項定理]]を利用した級数展開は、<br /> :&lt;math&gt;<br /> \begin{align}<br /> &amp; \left(1+2n\cos\theta+n^2\right)^\alpha \\<br /> &amp;= \left(1+n\, e^{i\theta}\right)^\alpha \left(1+n\, e^{-i\theta}\right)^\alpha \\<br /> &amp;= \left(\sum_{k=0}^\infty \binom{\alpha}{k} n^k e^{ik\theta} \right) \left(\sum_{k=0}^\infty \binom{\alpha}{k} n^k\, e^{-ik\theta} \right) \\<br /> &amp;= \sum_{k=0}^\infty \binom{\alpha}{k}^2 n^{2k} + 2 \sum_{l=1}^\infty \sum_{k=0}^\infty \binom{\alpha}{k} \binom{\alpha}{k+l}\, n^{2k+l} \cos l\theta \\<br /> \end{align}<br /> &lt;/math&gt;<br /> &lt;/ref&gt;。その級数係数は &lt;math&gt;n&lt;/math&gt; の偶数もしくは奇数冪乗の冪級数となる。&lt;!--[[扁平率#第二及び第三扁平率|第三扁平率]] &lt;math&gt;n=\frac{1-\sqrt{1-e^2}}{1+\sqrt{1-e^2}}&lt;/math&gt; の冪級数で表した。--&gt;<br /> :&lt;math&gt;<br /> \begin{align}<br /> S(\beta) &amp;= \frac{a}{1+n} \int_0^\beta \sqrt{1-2n\cos2\beta+n^2} \, d\beta \\<br /> &amp;=\frac{a}{1+n}\left( c_0 \beta + \sum_{l=1}^\infty (-1)^l \frac{c_l}{l} \sin 2 l \beta \right) . \\<br /> c_l &amp;= \sum_{k=0}^\infty a_k \, a_{k+l} .\\<br /> a_k &amp;= \binom{1/2}{k} n^k = (-1)^{k+1} \frac{\left(2k-3\right)!!}{\left(2k\right)!!} n^k . <br /> \end{align}<br /> &lt;/math&gt;<br /> <br /> ここで、&lt;math&gt;j!!&lt;/math&gt; は &lt;math&gt;j&lt;/math&gt; の[[二重階乗]]を表す。ただしこの式は子午線弧長の計算には広くは用いられなかった。なお一般式ではないがベッセルは、[[緯度#求長緯度 (rectifying latitude)|求長緯度]] &lt;math&gt;\mu = \frac{\pi}{2}\,\frac{S}{S\!\left(\pi/2\right)}&lt;/math&gt; で &lt;math&gt;\beta&lt;/math&gt; を表す[[逆関数]]に当たる級数展開も示している。<br /> <br /> 楕円積分の関係式及び &lt;math&gt;n&lt;/math&gt; の符号反転を考えると、地理緯度 &lt;math&gt;\varphi&lt;/math&gt; で &lt;math&gt;S&lt;/math&gt; を表した一般式が得られる。これらの級数の収束性は他に知られている計算式よりも優れている。<br /> :&lt;math&gt;<br /> \begin{align}<br /> S(\varphi) &amp;=\frac{a}{1+n} \int_0^\varphi \frac{\left(1-n^2\right)^2}{\left(1+2n\cos2\varphi+n^2\right)^{\frac{3}{2}}} \, d\varphi \\<br /> &amp;=\frac{a}{1+n}\left( \int_0^\varphi \sqrt{1+2n\cos2\varphi+n^2} \, d\varphi - \frac{2n \sin2\varphi}{\sqrt{1 + 2n \cos2\varphi + n^2}} \right) \\<br /> &amp;=\frac{a}{1+n}\left( c_0 \varphi + \sum_{l=1}^\infty \frac{c_l}{l} \sin 2 l \varphi - \frac{2n \sin2\varphi}{\sqrt{1 + 2n \cos2\varphi + n^2}} \right) <br /> \end{align}<br /> &lt;/math&gt;<br /> <br /> これらの無限級数は、含まれる &lt;math&gt;n&lt;/math&gt; の次数を &lt;math&gt;l_\max&lt;/math&gt; で打ち切れば有限級数となる。すなわち、&lt;math&gt;c_l&lt;/math&gt; を下記のように近似することになる。<br /> :&lt;math&gt;<br /> c_{l,\,\textrm{approx}} = \begin{cases}<br /> \sum_{k=0}^{\lfloor (l_{\max}-l)/2\rfloor} a_k \, a_{k+l} &amp; (l \le l_{\max}) \\<br /> 0 &amp; (l&gt;l_{\max})<br /> \end{cases}<br /> &lt;/math&gt;<br /> <br /> ただし、&lt;math&gt;\lfloor x\rfloor&lt;/math&gt; は[[床関数]](&lt;math&gt;x\,&lt;/math&gt; を超えない最大の[[整数]])を表すものとする。<br /> <br /> ==== ヘルメルト・ベッセルの式 ====<br /> ベッセルはまた1837年に上記の &lt;math&gt;S(\varphi)&lt;/math&gt; の第一式に対しても二項定理の手法で級数展開を得た。括り出された共通係数は&lt;math&gt;a(1-n)^2(1+n)&lt;/math&gt;だった。<br /> &lt;!--ベッセルの得た結果は、次のとおりである。<br /> :&lt;math&gt;<br /> S(\varphi)=a(1-n)^2(1+n)N\left(\phi-\alpha\sin 2\phi+\frac{1}{2}\alpha&#039;\sin4\phi-\frac{1}{3}\alpha&#039;&#039;\sin6\phi+\cdots\right)<br /> &lt;/math&gt;<br /> ここで、<br /> :&lt;math&gt;<br /> \begin{align}<br /> N &amp;= 1+\frac{9}{4}n^2+\frac{225}{64}n^4+\cdots,\\[2pt]<br /> N\alpha &amp;= \frac{3}{2}n+\frac{45}{16}n^3+\frac{525}{128}n^5+\cdots,\\[2pt]<br /> N\alpha&#039; &amp;= \frac{15}{8}n^2+\frac{105}{32}n^4+\cdots,\\[2pt]<br /> N\alpha&#039;&#039; &amp;= \frac{35}{16}n^3+\frac{945}{256}n^5+\cdots<br /> \end{align}<br /> &lt;/math&gt;<br /> である。上式は、&lt;math&gt;e^2\,&lt;/math&gt; の4分の1程度のパラメータである &lt;math&gt;n\,&lt;/math&gt; での展開であることもさることながら、展開の冪乗数が交互に現れ、効率的な収束性を有している。--&gt;<br /> <br /> さらに、[[1880年]]に[[フリードリヒ・ロベルト・ヘルメルト]]が、括り出す共通係数を前節と同じである&lt;math&gt;\frac{a}{1+n}&lt;/math&gt;へ変更し、&lt;!--ベッセルの展開式中にある係数 &lt;math&gt;(1-n)^2(1+n)\,&lt;/math&gt; を含め、展開項の寄与の一部を分母因子 &lt;math&gt;(1+n)\,&lt;/math&gt; に繰り込んだ、それの &lt;math&gt;n&lt;/math&gt; の高次係数が小さくなるよう整理し --&gt;&lt;math&gt;n^4&lt;/math&gt; で打切られた[[近似式]]を提示した&lt;ref&gt;ヘルメルトの提示では実際には式の形にまとまっていなかったが、[[1912年]]に{{仮リンク|ヨハン・ハインリヒ・ルイ・クリューゲル|de|Johann Heinrich Louis Krüger}}がヘルメルトの結果を式の形に取りまとめている。&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> :&lt;math&gt;<br /> \begin{align}<br /> S(\varphi)\approx<br /> &amp;\;\frac{a}{1+n}\left\{\left(1+\frac{n^2}{4}+\frac{n^4}{64}\right)\varphi-\frac{3}{2}\left(n-\frac{n^3}{8}\right)\sin 2\varphi\right. \\<br /> &amp;\ \left.+\frac{15}{16}\left(n^2-\frac{n^4}{4}\right)\sin 4\varphi-\frac{35}{48}n^3\sin 6\varphi+\frac{315}{512}n^4\sin 8\varphi\right\}\\<br /> \end{align}<br /> &lt;/math&gt;<br /> <br /> これは&lt;!--このヘルメルトの式は級数の収束性を改善しており--&gt;一般式にするならば下記となる。<br /> :&lt;math&gt;<br /> \begin{align}<br /> S(\varphi) &amp;=\frac{a}{1+n}\left( c_0 \varphi + \sum_{l=1}^\infty \left(1 - 4 l^2\right) \frac{c_l}{l} \sin 2 l \varphi \right) .<br /> \end{align}<br /> &lt;/math&gt;<br /> しかし前節の一般式と比べるならば &lt;math&gt;\frac{-2n \sin2\varphi}{\sqrt{1 + 2n \cos2\varphi + n^2}}&lt;/math&gt; の項&lt;ref&gt;この項は、不完全楕円積分項の &lt;math&gt;\varphi &lt;/math&gt; に関する二階微分に等しいので、級数展開形では乗数 &lt;math&gt;- 4 l^2&lt;/math&gt; が得られる。&lt;/ref&gt;も級数展開したことは収束性を悪くしており、&lt;math&gt;(1 - 4 l^2)&lt;/math&gt; の乗数に現れている。<br /> <br /> またヘルメルトによる導出過程は一般論としては不備があり、一般式の導出・証明には至らないものだった。しかしヘルメルトの式は簡潔で精度も良いため近似式としては普及した。&lt;!--通常の計算には概ね十分な結果を与えるが、ヘルメルトの文献はより高次の展開項の導出について必ずしも明確な指針を与えたものではなかった。--&gt;<br /> <br /> ==== 河瀬の式 ====<br /> 一般式としてのヘルメルトの式の証明自体については長い間放置されてきていたが、<br /> &lt;!--また上記で紹介した一般式では、各 &lt;math&gt;c_l&lt;/math&gt; が独立した[[無限和]]で構成されている。--&gt;&lt;!--一見簡潔に整理されているように見えるが、--&gt;&lt;!--おり、&lt;math&gt;n\,&lt;/math&gt; についてある次数までで打ち切った近似式を得るのは上記のように容易だが、系統的に求めるには多少見通しが悪い--&gt;&lt;!--非常に取扱いが困難であった--&gt;<br /> 最終的に[[2009年]]に河瀬和重により証明&lt;!--一般式の導出--&gt;が行われた。<br /> <br /> その際に用いられた一般式は、二項定理を経由するものではなく、[[ゲーゲンバウアー多項式]]による級数展開を利用し一種類の無限和に集約された形であった&lt;!--<br /> 全体としてただ一種類の無限和のみに集約された形の、[[ゲーゲンバウアー多項式]]を利用した級数展開による一般式が、[[2009年]]に河瀬和重により次式のように導出された--&gt;&lt;ref&gt;ゲーゲンバウアー多項式を利用した級数展開は、二項定理を利用した級数展開の和の取りまとめ方を変えることでも同様の結果が得られるが、<br /> :&lt;math&gt;<br /> \begin{align}<br /> &amp; \left(1+2n\cos\theta+n^2\right)^\alpha \\<br /> &amp;= \sum_{k=0}^\infty (-n)^k C_k^{(-\alpha)}(\cos\theta) \\<br /> &amp;= \sum_{k=0}^\infty (-n)^k \sum_{l=0}^k \binom{k-l-\alpha-1}{k-l} \binom{l-\alpha-1}{l} \cos (k-2l)\theta \\<br /> &amp;= \sum_{j=0}^\infty\left(\prod_{k=1}^j \nu_k^\alpha\right)^2\left(1+2\sum_{l=1}^{2j}\cos 2l\theta\prod_{m=1}^{l}\left(\nu_{j+(-1)^m\lfloor m/2\rfloor}^\alpha\right)^{(-1)^m}\right) \\<br /> \end{align}<br /> &lt;/math&gt;<br /> ただし、&lt;math&gt;\nu_i^\alpha=\left(\frac{\alpha+1}{i}-1\right)n&lt;/math&gt; である。<br /> &lt;/ref&gt;。<br /> <br /> :&lt;math&gt;<br /> \begin{align}<br /> S(\varphi)&amp;=\frac{a}{1+n}\sum_{j=0}^\infty\left(\prod_{k=1}^j\varepsilon_k\right)^2\left\{\varphi+\sum_{l=1}^{2j}\left(\frac{1}{l}-4l\right)\sin 2l\varphi\prod_{m=1}^l\varepsilon_{j+(-1)^m\lfloor m/2\rfloor}^{(-1)^m}\right\} \\<br /> \end{align}<br /> &lt;/math&gt;<br /> <br /> ここで、&lt;math&gt;\varepsilon_i=3n/2i-n\,&lt;/math&gt; である。上式で &lt;math&gt;j=2\,&lt;/math&gt; まで取れば、ヘルメルトの提示した近似式が得られる&lt;ref&gt;平成23年版の理科年表から、それまで掲載されていたドランブルの近似式に取って代わり、河瀬の一般式とヘルメルトの近似式が掲載されている。&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;&lt;!-- 以降の記述は冗長でしょう。 --&gt;同じ考え方に立てば、ベッセルが1825年に得た &lt;math&gt;S(\beta)&lt;/math&gt; 及び1837年に得た &lt;math&gt;S(\varphi)&lt;/math&gt; を次のように書き下すこともできる。<br /> <br /> :&lt;math&gt;<br /> \begin{align}<br /> S(\beta)&amp;=\frac{a}{1+n}\sum_{j=0}^\infty\left(\prod_{k=1}^j\bar{\varepsilon}_k\right)^2\left(\beta+\sum_{l=1}^{2j}\frac{\sin 2l\beta}{l}\prod_{m=1}^{l}\bar{\varepsilon}_{j+(-1)^m\lfloor m/2\rfloor}^{(-1)^m}\right) ,\\<br /> S(\varphi)&amp;=\frac{a(1-n^2)^2}{1+n}\sum_{j=0}^\infty\left(\prod_{k=1}^j \delta_k\right)^2\left(\varphi+\sum_{l=1}^{2j}\frac{\sin 2l\varphi}{l}\prod_{m=1}^{l}\delta_{j+(-1)^m\lfloor m/2\rfloor}^{(-1)^m}\right) .<br /> \end{align}<br /> &lt;/math&gt;<br /> <br /> ただし、&lt;math&gt;\bar{\varepsilon}_i=-\varepsilon_i=n-3n/2i&lt;/math&gt; 及び &lt;math&gt;\delta_i=-n/2i-n&lt;/math&gt; である。<br /> &lt;/ref&gt;。級数を &lt;math&gt;j=J\,&lt;/math&gt; で打ち切れば、&lt;math&gt;n\,&lt;/math&gt; について &lt;math&gt;2J\,&lt;/math&gt; 次までで打ち切った近似式が得られることになる。<br /> <br /> == 脚注 ==<br /> {{脚注ヘルプ}}<br /> {{Reflist}}<br /> <br /> == 参考文献 ==<br /> * {{cite journal<br /> |ref = harv |year = 1755<br /> |last = Euler |first = L.<br /> |title = Élémens de la trigonométrie sphéroïdique tirés de la méthode des plus grands et plus petits<br /> |journal = Mémoires de l&#039;Académie Royale des Sciences de Berlin 1753<br /> |pages = 258&amp;ndash;293<br /> |volume = 9<br /> |url = http://books.google.com/books?id=QIIfAAAAYAAJ&amp;pg=PA258<br /> |postscript = . [http://books.google.com/books?id=QIIfAAAAYAAJ&amp;pg=PA362-IA1 Figures].<br /> }}<br /> * Delambre, J. B. J. (1799): [http://echo.mpiwg-berlin.mpg.de/ECHOdocuView/ECHOzogiLib?pn=92&amp;ws=1.5&amp;ww=1&amp;wh=1&amp;mode=imagepath&amp;url=/mpiwg/online/permanent/library/YTQVS0WC/pageimg &#039;&#039;Méthodes Analytiques pour la Détermination d&#039;un Arc du Méridien&#039;&#039;; précédées d&#039;un mémoire sur le même sujet par A. M. Legendre], De L&#039;Imprimerie de Crapelet, Paris, 72–73<br /> * Bessel, F. W. (1825): [http://articles.adsabs.harvard.edu/cgi-bin/nph-iarticle_query?db_key=AST&amp;bibcode=1825AN......4..241B&amp;letter=0&amp;classic=YES&amp;defaultprint=YES&amp;whole_paper=YES&amp;page=241%2F242&amp;epage=241%2F242&amp;send=Send+PDF&amp;filetype=.pdf Ueber die Berechnung der geographischen Längen und Breiten aus geodätischen Vermessungen], Astronomische Nachrichten &#039;&#039;&#039;4&#039;&#039;&#039;, 241–254<br /> * Bessel, F. W. (1837): [http://articles.adsabs.harvard.edu/cgi-bin/nph-iarticle_query?1837AN.....14..333B&amp;amp;data_type=PDF_HIGH&amp;amp;whole_paper=YES&amp;amp;type=PRINTER&amp;amp;filetype=.pdf Bestimmung der Axen des elliptischen Rotationssphäroids, welches den vorhandenen Messungen von Meridianbögen der Erde am meisten entspricht], Astronomische Nachrichten, &#039;&#039;&#039;14&#039;&#039;&#039;, 333–346<br /> * Helmert, F. R. (1880): [http://books.google.co.jp/books?id=0l0OAAAAYAAJ&amp;ots=vxcdkrFb0M&amp;dq=Die%20mathematischen%20und%20physikalischen%20Theorieen%20der%20h%C3%B6heren%20Geod%C3%A4sie&amp;pg=PA44#v=onepage&amp;q&amp;f=false &#039;&#039;Die mathematischen und physikalischen Theorieen der höheren Geodäsie&#039;&#039;, Einleitung und 1 Teil], Druck und Verlag von B. G. Teubner, Leipzig, 44–48<br /> * Krüger, L. (1912): &#039;&#039;[http://dx.doi.org/10.2312/GFZ.b103-krueger28 Konforme Abbildung des Erdellipsoids in der Ebene]&#039;&#039;, Veröffentlichung Königlich Preuszischen geodätischen Institutes, Neue Folge, &#039;&#039;&#039;52&#039;&#039;&#039;, Druck und Verlag von B. G. Teubner, Potsdam, 12<br /> * {{cite book |title=L&#039;épopée du méridien terrestre (Le procès des étoiles)|last=Florence |first=Trystram |year= 2001 |publisher= |location= |isbn=978-2277220138 |oclc= |url= |accessdate=}}<br /> * {{cite book |title=地球を測った男たち|last=Florence |first=Trystram |year= 1983/07 |publisher= リブロポート|location= |isbn=978-4845700974 |oclc= |url= |accessdate=}} <br /> * 河瀬和重 (2009): [http://www.gsi.go.jp/common/000054736.pdf 緯度を与えて赤道からの子午線弧長を求める一般的な計算式], [[国土地理院]]時報, &#039;&#039;&#039;119&#039;&#039;&#039;, 45–55<br /> * 飛田幹男, 河瀬和重, 政春尋志 (2009): [https://www.jstage.jst.go.jp/article/sokuchi/55/3/55_3_315/_pdf 赤道からある緯度までの子午線長を計算する3つの計算式の比較], 測地学会誌, &#039;&#039;&#039;55&#039;&#039;&#039;(3), 315–324<br /> <br /> == 関連項目 ==<br /> &lt;!-- {{Commonscat|Meridian arc}} --&gt;<br /> * [[弧 (幾何学)]]<br /> * [[大圏コース]]<br /> * [[シュトルーヴェの測地弧]]<br /> * [[トルネ谷]]<br /> * [[フランス科学アカデミーによる測地遠征]]<br /> * [[緯度#求長緯度 (rectifying latitude)|求長緯度]]<br /> * [[経緯度]]<br /> * [[地球半径]]<br /> <br /> == 外部リンク ==<br /> * [http://www.junko-k.com/collo/collo236.htm#1747 Weekend Mathematics: コロキウム室 No.1747]<br /> <br /> {{デフォルトソート:しこせんこ}}<br /> [[Category:測地学]]<br /> [[Category:地球物理学]]<br /> [[Category:測量]]<br /> [[Category:測定]]<br /> [[Category:経線]]<br /> [[Category:曲線]]<br /> [[Category:科学史]]<br /> [[Category:天文学に関する記事]]</div> 218.33.128.160 ボルドー 2018-02-24T12:20:09Z <p>218.33.128.160: /* トラム */</p> <hr /> <div>{{Communefra <br /> |nomcommune=ボルドー<br /> |image=[[ファイル:Coat of Arms of Bordeaux (Variant with grapes).svg|130px]]&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;[[ファイル:Montage Bordeaux 1.jpg|300px]]<br /> |région=[[ヌーヴェル=アキテーヌ地域圏]]&lt;br /&gt;(地域圏首府)<br /> |département=[[File:Flag of Gironde.svg|border|25px]] [[ジロンド県]]&lt;br /&gt;(県庁所在地)<br /> |arrondissement=ボルドー&lt;br /&gt;(郡庁所在地)<br /> |canton=8小郡庁所在地<br /> |insee=33063<br /> |cp=33000, 33100, 33200, 33300, 33800<br /> |gentilé=Bordelais, Bordelaise<br /> |devise=<br /> |maire=[[アラン・ジュペ]]<br /> |mandat=[[2014年]]-[[2020年]]<br /> |intercomm=[[ボルドー・メトロポール]]<br /> |longitude=-0.578333<br /> |latitude=44.838611<br /> |alt moy=6&amp;nbsp;m<br /> |alt mini=1&amp;nbsp;m<br /> |alt maxi=42&amp;nbsp;m<br /> |hectares=<br /> |km2=49.36<br /> |sans=239,399<br /> |date-sans=[[2011年]]<br /> |dens=4,850<br /> |}}<br /> &#039;&#039;&#039;ボルドー&#039;&#039;&#039;(Bordeaux)は、[[フランス]]南西部の中心的な都市で、[[ヌーヴェル=アキテーヌ地域圏]]の首府、[[ジロンド県]]の県庁所在地である&lt;ref&gt;[[フランス革命]]期には[[ジロンド派]]の地盤であった。&lt;/ref&gt;。[[アキテーヌ公国]]の首府だった。&lt;!--ボルドーは9番目大きい町です。--&gt;<br /> <br /> == 概要 ==<br /> ボルドーは、[[ガロンヌ川]]に面した[[港町]]で、市街地は川の湾曲部にそって三日月形に形成され、[[月の港ボルドー|月の港]]と呼ばれる。河口にも近い。[[ボルドーワイン]]の産地として世界的に有名。中心部から北側にかけては、都市計画による大通りがある。市の南側は18世紀に建設されたが、狭くてまがった通りのある古い一画である。<br /> <br /> 2007年にボルドーの市街区域1810ヘクタールが世界遺産に登録された。18〜19世紀の都市計画によって生まれた調和のある街並みと、近年のガロンヌ河岸の[[歩行者空間]]と一体となった歴史的な再開発が評価された。&lt;!--登録名の「月の港」は、三日月型に蛇行するガロンヌ川を中心に発展したボルドーの通称。--&gt;<br /> <br /> == 地理 ==<br /> === 位置 ===<br /> [[画像:Gironde map routes villes.png|thumb|[[ジロンド県]]におけるボルドー]]<br /> ボルドーはフランス南西部の大西洋の近くに位置する。<br /> 直線距離でパリから498km、[[ポー]]から172km、[[トゥールーズ]]から220km、[[ビアリッツ]]から170km、[[サン・セバスティアン]]([[スペイン]])から201km、[[アルカション]]から51kmの地点に位置する。<br /> <br /> === 概論 ===<br /> 街を[[ガロンヌ川]]が横切っている。<br /> 外洋船舶が接岸可能な港があるが、その大多数は[[ジロンド川]]下流の港、主に[[ル・ヴェルドン=シュル=メール]]を利用する。<br /> ボルドーにはガロンヌ川最下流の橋である[[アキテーヌ橋]]([[:fr:pont d&#039;Aquitaine]])がある。&lt;!--ガロンヌ川はその先で、フェリー以外では渡河不能の[[ジロンド川|ジロンド三角江]]に流れ込む。--&gt;<br /> <br /> 都市圏は急速に発展し、特に西方で強度の[[スプロール現象]]をもたらした。この現象は、特に、ボルドー都市圏の住居が3階建てを越えることがほとんどなく、その上、4階建ては市街地中心部に隣接した城郭外に存在するという事実と結びついている。<br /> <br /> 中心市街地においては、1960〜1970年代に行われたメリアデック(Mériadeck)地区の改造作戦が、人と自動車の通行を切り離すことを狙って行われ、道路の上に歩行者用の歩道が建設された。<br /> この事業の成果については論争がある。<br /> <br /> 2000年代初頭から、中心市街地再開発の現場のリズムの中で「眠った美女(la belle endormie)」が目を覚まし、路面電車の復活&lt;ref&gt;[http://www.salondesentrepreneurs.com/bordeaux-une-renaissance-urbaine-economique-290.html Une renaissance urbaine et économique]&lt;/ref&gt;以来、非常に大きく変化した。<br /> <br /> ====隣接コミューン====<br /> *北 [[ブランクフォール]](Blanquefort)<br /> *北東 [[ロルモン]](Lormont)<br /> *東 [[スノン]](Cenon)<br /> *南東 [[ベグル]](Bègles)<br /> *南 [[タランス]](Talence)<br /> *南西 [[ペサック]](Pessac)<br /> *西 [[メリニャック]](Mérignac)<br /> *北西 [[ル・ブスカ]](Le Bouscat)<br /> <br /> === 地質と地形 ===<br /> [[画像:Topographie de bordeaux.jpg|thumb|ボルドーの地形]]<br /> <br /> ボルドー市街地の大部分が位置するガロンヌ川左岸は、ボルドー湖(Bordeaux-Lac)周辺のように多くの場合湿地である大平原を構成する。いくつかの丘があるにも関わらず、左岸の平均標高はとても低い。この草原は主に砂利(gravier)が堆積したものである。<br /> 都市圏西部は[[ランド砂平野]](plaine sableuse des Landes、[[:fr:Landes de Bordeaux]])上に一部重なる。そこでは土壌はやせ、水を透過し、熱を容易に貯蔵する。その土壌は完全にブドウ栽培に適合している。ボルドーの街は地質面で極めて類似する[[メドック]](下流)と[[グラーヴワイン|グラーヴ]](上流)の間に位置する。<br /> <br /> ガロンヌ川右岸は平原から[[石灰岩]]台地にかわるので、全く違う様相である。標高は崖で90m近く上昇する。この台地上には、世界で最も高いワインを産する[[サン=テミリオン]]、[[ポムロール]]、[[フロンサック]]といった世界的ブドウ園が、ボルドーから約20kmにわたって存在する。<br /> <br /> === 気候 ===<br /> アキテーヌの気候は[[海洋性気候|海洋性]]であり、冬はとても穏やかで、夏は暑いボルドーの特徴に表れている。降水は頻繁にあり、年間820mmの降水量が多い年で年150日、一年を通じて降る。夏には降水は暑さによる雷雨によって頻繁になる。1883年7月、フランスで最も多くかつてない30分間降水量を記録した降雨が、ボルドーで観測された。<br /> <br /> 平均気温は1月の6.4℃から8月の20.9℃で、年間平均気温は13.3℃である。ボルドーでは夏に15〜20日程度、気温が摂氏30度を超える日がある。最高気温は2003年夏に観測され、摂氏41度に達した。その夏、気温が摂氏35度を超える日が過去最高の12日間続いた。<br /> ボルドーはしばしば年間2000時間を越えて2200時間にも達する沿岸部の長い日照時間の恩恵を享受している。<br /> <br /> ボルドーは[[1985年]]と[[1987年]]の厳冬、そして[[1988年]]から[[1992年]]にかけての乾燥でも知られる。より最近では、[[2002年]]から[[2005年]]の深刻な乾燥で知られている。<br /> <br /> ボルドーは1892年8月16日観測の41.9度の最高記録気温と、1985年1月16日観測の-16.4度の最低記録気温と言った記録を持ち、Cfb(西岸海洋性気候)の気候区分に属する。年平均気温は13.3度である。<br /> <br /> {{Weather box<br /> |location = ボルドー・メリニャック (1971-2000)<br /> |metric first = Yes<br /> |single line = Yes<br /> |Jan high C = 10.0<br /> |Feb high C = 11.7<br /> |Mar high C = 14.5<br /> |Apr high C = 16.5<br /> |May high C = 20.5<br /> |Jun high C = 23.5<br /> |Jul high C = 26.4<br /> |Aug high C = 26.6<br /> |Sep high C = 23.7<br /> |Oct high C = 18.8<br /> |Nov high C = 13.4<br /> |Dec high C = 10.7<br /> |year high C = 18.1<br /> |Jan mean C = 6.4<br /> |Feb mean C = 7.6<br /> |Mar mean C = 9.6<br /> |Apr mean C = 11.6<br /> |May mean C = 15.4<br /> |Jun mean C = 18.3<br /> |Jul mean C = 20.8<br /> |Aug mean C = 20.9<br /> |Sep mean C = 18.1<br /> |Oct mean C = 14.2<br /> |Nov mean C = 9.4<br /> |Dec mean C = 7.3<br /> |year mean C = 13.3<br /> |Jan low C = 2.8<br /> |Feb low C = 3.4<br /> |Mar low C = 4.6<br /> |Apr low C = 6.6<br /> |May low C = 10.3<br /> |Jun low C = 13.0<br /> |Jul low C = 15.1<br /> |Aug low C = 15.2<br /> |Sep low C = 12.5<br /> |Oct low C = 9.5<br /> |Nov low C = 5.5<br /> |Dec low C = 3.8<br /> |year low C = 8.5<br /> |Jan precipitation mm = 92<br /> |Feb precipitation mm = 83<br /> |Mar precipitation mm = 70<br /> |Apr precipitation mm = 80<br /> |May precipitation mm = 84<br /> |Jun precipitation mm = 64<br /> |Jul precipitation mm = 55<br /> |Aug precipitation mm = 60<br /> |Sep precipitation mm = 90<br /> |Oct precipitation mm = 94<br /> |Nov precipitation mm = 107<br /> |Dec precipitation mm = 107<br /> |year precipitation mm = 984.2<br /> |Jan sun = 107<br /> |Feb sun = 114<br /> |Mar sun = 180<br /> |Apr sun = 177<br /> |May sun = 222<br /> |Jun sun = 225<br /> |Jul sun = 243<br /> |Aug sun = 243<br /> |Sep sun = 183<br /> |Oct sun = 134<br /> |Nov sun = 91<br /> |Dec sun = 72<br /> |year sun = 1992<br /> |source 1 = [http://france.meteofrance.com/france/climat_france?CLIMAT_PORTLET.path=climatstationn%2F33281001 Météo France]<br /> |date=August 2010<br /> }}<br /> <br /> === 交通 ===<br /> ==== 道路 ====<br /> &lt;!--{{article détaillé|Rocade de Bordeaux}}--&gt;<br /> ボルドーはヨーロッパ大西洋側の道路交通の要所であり、[[パリ]]および北ヨーロッパから、スペイン大西洋岸へ行くためには通らなければならない経路にある。ボルドーからパリへは[[オートルート A10]]を通じて、[[ペリグー]]、[[リモージュ]]、[[ブリーヴ=ラ=ガイヤルド|ブリーヴ]]、[[クレルモン=フェラン]]へは[[オートルート A89]]を通じて、[[トゥールーズ]]へは[[オートルート A62]]を通じて、[[モン=ド=マルサン]]、[[ポー]]へは[[オートルート A65]]を通じて、[[バイヨンヌ]]やスペインへは[[オートルート A63]]を通じて、それぞれ結ばれている&lt;ref&gt;ボルドー大バイパスの研究が2003年より開始された。これは国際的な自動車交通を迂回させる目的でA10とA63を[[ブライ]]とボルドー西部に位置する[[メドック]]を経由して結ぶ計画だった。&lt;!--料金所無しで、大西洋軸上の大型長距離トラックの交通を容易にする目的をもっていた。しかしながら、その目的で着想されなかったこの高速道路プロジェクトは、地域交通と都市近郊交通飽和状態のボルドーのロカードの交通量を緩和することはない ref voir rapport CNDP 2003 p.37 /ref 。<br /> プロジェクトは2007年3月の地方裁判所決定により無効とされ、プロジェクトがその発案者によって再提出された場合には完全な公開討論の手続がとられる必要がある。この可能性において、また増大するこの種の貨物交通を優遇する解決策への拒絶の前に、今回、ボルドー都市圏は、ロカードの全線片道三車線化の仮定の後であっても、交通全体を熟考する構造をつくることはできないであろう。<br /> 原文Le projet a été invalidé par une décision du Tribunal Administratif en [[mars 2007]] et la procédure de Débat Public devra être entièrement reprise si le projet est un jour représenté par ses promoteurs. Dans cette éventualité, et devant le refus grandissant de ce type de solution favorisant le transport routier de marchandises, l&#039;agglomération bordelaise ne fera pas cette fois-ci l&#039;économie d&#039;une réflexion globale sur les transports, même après l&#039;éventuelle mise à 2x3 voies de la totalité de sa rocade.--&gt;&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> ボルドーは45kmに亘る自動車専用環状道路を備えている([[オートルート A630]]、ロカード(rocade)と呼ばれている)。フランスの都市環状道路として最長のもので、他都市へ向かう[[オートルート]]につながっている。夏季、[[バカンス]]、通勤時間帯には頻繁に渋滞する。西側区間では片側2車線、東側区間では片側3車線となっている。現在、西側区間の一部(A63と10番出口の間)で片側3車線化の再整備が行われており、長期的には全区間において片側3車線化が計画されている。約30の可変案内標識が、ドライバーに対して、都市圏内で問題が発生している箇所とは異なる経路や、交通障害や事故の発生が想定される箇所を避ける経路を案内している。また、料金所は一箇所も存在しない。最高速度は90km/h(2007年6月21日午前6時以降、それ以前は110km/h)、重量車両は80km/hである。<br /> &lt;!--原文<br /> Une trentaine de [[panneaux à messages variables]] informe en temps réel les automobilistes des temps de parcours vers différents points névralgiques de l&#039;agglomération ainsi que des éventuels bouchons ou incidents. Il n&#039;y a aucun [[péage]]. La vitesse maximale est de {{Unité|90|km/h}} (depuis le 21 juin 2007 à 6 heures du matin, auparavant {{Unité|110|km/h}}) et de {{Unité|80|km/h}} pour les poids lourds.<br /> --&gt;<br /> <br /> 市内中心のサン・クロワ通り付近から南へロカードへつながる自動車専用放射道がある。<br /> <br /> 中心市街地は[[ブールバール]]によって囲まれている。また中心市街地で、自動車無しの日「ボルドーの日曜日(« Dimanche à Bordeaux »)」が毎月第一日曜日に行なわれている&lt;ref&gt;[http://www.bordeaux.fr/ebx/LinkResolverServlet?classofcontent=presentationStandard&amp;id=1272 Bordeaux&gt;Cadre de vie &gt;Circuler, stationner &gt;En véhicule particulier &gt;Restrictions de circulation]&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> ===== ガロンヌ川渡河 =====<br /> ガロンヌ川には長い間、橋が架かっておらず、ボルドーの市民は、敵に対する自然の防御とみなしていた。<br /> *[[1821年]]のピエール橋([[:fr:pont de pierre (Bordeaux)|pont de pierre]])が初の架橋となった。&lt;!--建設以降、都市開発は最重要課題の一つとなった。--&gt;<br /> *[[1860年]]にエッフェル鉄道橋([[:fr:passerelle Eiffel]])が開通した。<br /> *[[1965年]]に&lt;!--3番目の橋となる--&gt;サン=ジャン橋が開通した。&lt;!--架かるまでは1世紀以上待たねばならなかった。また、続いて--&gt;<br /> *[[1967年]]に[[アキテーヌ橋]]([[:fr:pont d&#039;Aquitaine]])が開通し、市中心の北で環状道路(ロカード)が通り、[[ロルモン]]([[:fr:Lormont]])と結んだ。<br /> *[[1993年]]にフランソワ・ミッテラン橋([[:fr:Pont François-Mitterrand (Bordeaux)]])が開通し&lt;ref&gt;[http://www.33-bordeaux.com/ponts-de-bordeaux.htm Les ponts de Bordeaux]&lt;/ref&gt;、環状道路(ロカード)の一周が完成した。<br /> *2008年に新しい鉄道橋が建設され老朽化したエッフェル橋に取って代わった。しかし、エッフェル橋はその建築上及び歴史上の価値から保存されることとなった&lt;ref&gt;&#039;&#039;Bordeaux : un tour de ville en 101 monuments&#039;&#039;, Édition Le Festin, juillet 2008.&lt;/ref&gt;。<br /> *2013年に[[:fr:Pont Jacques-Chaban-Delmas]] 橋が開通し、[[シャルトロン]]地区と[[スノン]]地区とが結ばれた。<br /> &lt;!--近い将来、2つの新しい橋が計画されている、2009年に着工し2012年開通に向けて建設されているバカラン=バスティド橋([[:fr:pont Bacalan-Bastide]])などである。--&gt;<br /> <br /> ==== 鉄道 ====<br /> [[画像:Bordeaux passerelle Eiffel.jpg|thumb|1900年頃のエッフェル橋]]<br /> <br /> &lt;!--{{Article détaillé|Gare de Bordeaux-Saint-Jean}}--&gt;<br /> ボルドーにおける鉄道は[[1841年]]に、[[ボルドー - ラ・テスト鉄道]]によって[[ラ・テスト=ド=ビュック]] との間で開業したのが始まりである。この時ボルドー最初の駅(ボルドー=セギュール駅)が開業し、&lt;!--この駅は兵舎によって移転させられ、--&gt;現在のペサック通りに面した位置にあった。<br /> <br /> [[1852年]]、[[パリ・オルレアン鉄道]]はボルドーと[[アングレーム]]を結ぶ路線を開通させ、ボルドーとパリ間が鉄道で結ばれた。ボルドーではガロンヌ川右岸に開業したボルドー=オルレアン(Bordeaux-Orléans)駅(ボルドー=バスティード(Bordeaux-Bastide)駅)を発着した。<br /> <br /> [[1853年]]、ボルドー - ラ・テスト鉄道は[[ミディ鉄道]](Compagnie des chemins de fer du Midi)に統合される。[[1855年]]にはボルドー=セギュール駅は廃止され、[[ボルドー=サン=ジャン駅]]に取って代わられた。このとき、2つの異なる鉄道会社に所属する異なる2つの主要駅を発着する2つの路線網が存在した。&lt;!--この状態は、ガロンヌ川を渡ることの出来る鉄道橋が存在しなかったという事実から説明された。--&gt;パリを旅立ちアキテーヌ南部へ赴こうとする旅客は、ボルドー=オルレアン駅で列車を降り、ピエール橋を通ってガロンヌ川を渡り、サン=ジャン駅で再び列車に乗らなければならなかった。<br /> <br /> [[1860年]]に、この2つの駅を連絡するエッフェル鉄道橋(2線)が[[ギュスターヴ・エッフェル]]とポール・レニョール(Paul Régnauld)によって建設された。しかしながら、オルレアン駅は[[クレルモン=フェラン]]、[[リヨン]]、パリへ向かうパリ=オルレアン鉄道の起終点として残された。[[1898年]]、より多くの旅客を迎えるため、サン=ジャン駅の現在の駅舎が建設された。<br /> <br /> オルレアン駅は、徐々にその価値を失い、[[1934年]]の2会社の合併(パリ=オルレアン鉄道とミディ鉄道)と[[1938年]]の[[フランス国鉄]](SNCF)設立は、オルレアン駅の決定的な終焉を告げた。廃止されてから長い間、幾度もの計画中止と[[ノワール・デジール]] ([[:fr:Noir Désir]])のコンサートの後、オルレアン駅の建物は映画館へと転用された。<br /> <br /> [[画像:Bordeaux - Gare Saint-Jean 1.jpg|thumb|upright=1.0|[[ボルドー=サン=ジャン駅]]]]<br /> 今日ボルドーは、パリとスペインの間における鉄道の要所となっている。ボルドーの中心駅([[ボルドー=サン=ジャン駅]])は[[TGV]]によって[[モンパルナス駅]](パリ)、トゥールーズ、[[イルン]]、[[ダクス]]、[[アンダイエ]]、[[ポー]]と結ばれている。また[[コライユ (鉄道車両)#列車種別としてのコライユ|コライユ]]や[[TER]]、「ヴェンタドゥール」([[:fr:Ventadour (train)|Ventadour]])によって、[[ナント]]、[[ペリグー]]、[[モン=ド=マルサン]]、[[リモージュ]]、[[リヨン]]、[[クレルモン=フェラン]]とも結ばれている。<br /> <br /> 2008年に、通行容量を増強するために、それまでのエッフェル鉄道橋に隣接して新たなガロンヌ川鉄道橋(4線)が建設され、2線の供用が開始された。また[[LGV南ヨーロッパ大西洋線]](TGV高速新線)がボルドー駅まで乗り入れた(2017年7月2日開業)&lt;ref&gt;[http://www.bouchonferbordeaux.com/index.php?page=BFBLayout Site internet officiel consacré à ce sujet] et administré par [[Réseau ferré de France|RFF]]&lt;/ref&gt;。[[モンパルナス駅]](パリ)から最短で2時間10分でボルドー駅へ到着する。<br /> <br /> [[メドック]]へ向うTER路線へは、トラムC線がCracovie駅から分岐しBlanquefort駅まで乗り入れている(2016年12月17日開業、[[:fr:Tram-train du Médoc]])。<br /> &lt;!--<br /> また、ボルドーにはTERが停車する次の駅も存在している:<br /> * コデラン=メリニャック([[:fr:gare de Caudéran-Mérignac|Caudéran-Mérignac]])駅、コデラン([[:fr:Caudéran]])地区と[[メリニャック]]市の間に位置する。<br /> <br /> 廃止されたTERの駅として、<br /> * ラヴジ([[:fr:gare de Ravezies|Ravezies]])駅(旧サン=ルイ(Saint-Louis)駅)。グラン・パルク(Grand-Parc、大公園)、オービール、ボルドー湖([[:fr:Bordeaux-Lac|lac de Bordeaux]])に程近いボルドーの北地区に位置する。2012年に営業停止した。<br /> <br /> * ボルドー=ブノージュ(Bordeaux-Benauge)駅。路線改修(サン=ジャン駅からスノン(Cenon)分岐点までの区間を2線から4線化)に伴い近年解体された。このことはトラムA線が直接乗り入れるスノン駅([[:fr:gare de Cenon]])の再開をもたらし、TERとトラムの連絡が図られた。--&gt;<br /> <br /> ==== 航空 ====<br /> ボルドー空港は市中心部から西へ約10km離れた[[メリニャック]]に位置し、フランスで5番目の地方空港である(2010年には370万人の旅客利用があった)。毎日140便以上がボルドーと世界60都市を結んでいる。&lt;br/ &gt;<br /> 空港には、ロカード11b出口からアクセスできる。またバス路線が市内中心部と結んでいる(サン=ジャン駅直行シャトルバスJet&#039;Bus、もしくはTBCのバス1系統)。<br /> <br /> ==== 市内公共交通 ====<br /> ボルドーとその都市圏(ボルドー都市共同体(CUB))は重要な公共交通路線網を保持している。Tram et Bus de la CUB(CUBのトラムとバス)の略称であるTBCの名称の下、運営されている。その事業は公共サービス委託契約によって、ケオリ・グループの企業であるケオリ・ボルドー(Keolis Bordeaux)により経営されている。TBCは2004年7月3日に、トラムB線の開業に伴う路線再編後の[[2004年]][[7月3日]]にCGFTE([[:fr:CGFTE|フランス語版]])を置き換えた。<br /> <br /> TBCの路線網は次の通り:<br /> * トラム3路線(A線、B線、C線)<br /> * ボルドー及びその都市圏における定期路線バス65路線<br /> ** Flexoサービス<br /> ** Resagoサービス<br /> * ButCUBサービス(船)<br /> 路線網はボルドー都市共同体内の27コミューン(基礎自治体)において、午前5時から翌午前1時まで運行している。<br /> <br /> ===== トラム =====<br /> [[File:Bordeaux-aps-overhead-wire-transition.jpg|thumb|left|[[:fr:Tramway de Bordeaux|Tramway de Bordeaux]]]]<br /> ボルドーでは[[2003年]][[12月21日]]開業のA線を皮切りに[[路面電車|トラム]]が運行されている。地表集電方式(APS)を採用し、歴史地区には架線を張っていない。<br /> <br /> トラム導入が決まる以前は、&lt;!--[[アラン・ジュペ]]市長とCUBにより、--&gt;[[新交通システム#VAL|VAL方式]]軽量自動地下鉄によるメトロ建設計画([[1986年]]発表)があった。しかし調査の結果、建設費は計画された15.7kmと6.3kmの2路線のみで70億フラン近いものであり、市負担分も3億フランと著しく高くボルドーに適合していなかった。&lt;!--[[アラン・ジュペ]]は社会主義者の野党支持者とともにトラム計画を決定することにより、メトロ計画を終わらせた。--&gt;<br /> <br /> A線は2003年12月21日に、[[ジャック・シラク]]とアラン・ジュペ市長の臨席の下、メリアデック(Mériadeck)と[[ロルモン]]及び[[スノン]](Cenon)の間で開通した。APSの故障に起因する多数の技術的問題は2004年春に予定されていたB線及びC線の開業の遅れをもたらした。最終的にC線は[[2004年]][[4月24日]]にカンコンス(Quinconces)とサン=ジャン駅(gare Saint-Jean)の間で開業した。B線は同年5月15日にカンコンスとサン=ニコラ(Saint-Nicolas)間、2.2kmの区間で部分的に開業した。キャンパス及び[[ペサック]]方面の残りの区間はTBCが他のトラムを再編した同年7月3日まで開業しなかった。<br /> <br /> 近年、開業済三路線は末端部で延長が続けられている。また北西のCantinolleへ延びる新たなD線が計画されている([[:fr:Ligne D du tramway de Bordeaux|Ligne D du tramway de Bordeaux]])。&lt;!--2008年末まで第二段階は完了しなかった。現在、第三段階のトラム整備へと向けて、開業済三路線の末端部延伸と現在トラムの路線網から外れている都市圏北西部(特に、コデランとル・ブスカ(Le Bouscat))への4番目の路線建設について、議論と研究が開始されている。--&gt;<br /> &lt;!--<br /> ==== Promenades fluviales ====<br /> Au départ du [[Quais de Bordeaux|quai]] [[Louis XVIII]], en face des [[place des Quinconces|Quinconces]], les bateaux [[Aliénor]], [[Burdigala]], Ville de Bordeaux et bien d’autres proposent des promenades fluviales et des [[croisière]]s longeant les [[façade (architecture)|s]] du {{s-|XVIII|e}}.<br /> --&gt;<br /> <br /> ==== 自転車 ====<br /> 2001年6月、ボルト―市長は4500台以上の自転車を無償で配置した&lt;ref&gt;[http://www.bordeaux.fr/ebx/portals/ebx.portal?_nfpb=true&amp;_pageLabel=pgPresStand8&amp;classofcontent=presentationStandard&amp;id=1248 Voir le site de la mairie]&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> レンタサイクルシステムは2010年2月20日よりボルドー都市共同体により運営されている。VCUBは合計1545台の自転車がボルドー市内において300m間隔で配置されている99箇所を含めた、合計139箇所のステーションに配置されている。<br /> <br /> == 歴史 ==<br /> [[ファイル:Edouard Manet 026.jpg|thumb|200px|left|[[エドゥアール・マネ|マネ]]作「ボルドーの港」(1871年)]]<br /> <br /> ボルドーの町は[[紀元前300年]]に[[ケルト人|ケルト]]系ガリア人によって創設され、ブルティガラと呼ばれた。紀元前1世紀には[[古代ローマ|ローマ]]に占領されて主要な交易港となり、ワイン生産が盛んで商業地としてさかえた。4世紀には、[[アクイタニア・セクンダ]]属州の州都となり、[[大司教座]]がおかれた。[[5世紀]]にローマ帝国が崩壊した後に[[ゲルマン民族]]の一派である[[ゴート人]]に支配された。[[732年]]にはイベリア半島から来たアブド・アル・ラフマーンの[[イスラム]]軍に占領されている。[[10世紀]]には[[ノルマン人]]の[[ヴァイキング]]の侵略を受けた。10世紀後半にポワトゥー伯家が[[アキテーヌ公]]となった。1154年、アキテーヌ女公[[アリエノール・ダキテーヌ|エリアノール]]がやがてイングランド王となる[[ヘンリー2世 (イングランド王)|ヘンリー2世]]と結婚したため、イングランド王([[プランタジネット家]])が[[アキテーヌ公]]となり、アキテーヌ公爵領およびボルドーは[[12世紀]]から[[15世紀]]にかけて[[イングランド]]の支配下に入った([[アンジュー帝国]])。<br /> <br /> イングランドとフランスとの戦い([[百年戦争]])で、フランス王はアキテーヌ公爵領をイングランドから奪い、イングランドは1453年に撤退した。ボルドーはイングランドの支配である程度の自治を享受し支持していたため、1548年から1675年にかけてフランス王の支配に対して反逆した。ボルドーは[[18世紀]]に[[西インド諸島]]との貿易で黄金時代を迎える。[[フランス革命]]時には、穏健共和派である[[ジロンド派]]の本拠地であった。[[ジャコバン派]]による恐怖政治の時代には、ボルドーのジロンド派に対して報復が何度もなされた。1871年、[[普仏戦争]]が敗勢に陥る中、ボルドーで国民議会が開催され、ボルドーにフランス政府が置かれた。この時に、[[アドルフ・ティエール|ティエール]]が行政長官に選ばれた。1880年ごろから、ブドウの[[べと病]]を防ぐ[[ボルドー液]]が使われ始めた。<br /> <br /> [[第一次世界大戦]]中にも、ドイツ軍が[[パリ]]近郊まで迫ったため、フランス政府が[[トゥール (アンドル=エ=ロワール県)|トゥール]]を経てボルドーに遷された。[[第二次世界大戦]]でも1940年6月にパリ陥落を前に一時期政府が置かれたが、間もなくドイツ軍に占領され、政府は[[ヴィシー]]に遷る。その後もドイツの占領下に置かれたが、1945年4月、連合軍の手によって解放された。当時、[[レジスタンス運動]]の指導者だった[[ジャック・シャバン・デルマス]]が戦後の[[1947年]]から[[1995年]]まで長期にわたってボルドー市長を務めた。ボルドー市長の座は[[1995年]]から[[2004年]]まで[[アラン・ジュペ]]が占めた。<br /> <br /> ==人口==<br /> {| class=&quot;wikitable&quot; style=&quot;font-size:100%&quot;<br /> |-<br /> ! 1962年<br /> ! 1968年<br /> ! 1975年<br /> ! 1982年<br /> ! 1990年<br /> ! 1999年<br /> ! 2006年<br /> ! 2012年<br /> |-<br /> | 249 688<br /> | 266 662<br /> | 223 131<br /> | 208 159<br /> | 210 336<br /> | 215 363<br /> | 232 260<br /> | 241 287<br /> |}<br /> source=1999年までLdh/EHESS/Cassini&lt;ref&gt;http://cassini.ehess.fr/cassini/fr/html/fiche.php?select_resultat=4923&lt;/ref&gt;、2004年以降INSEE&lt;ref&gt;http://www.statistiques-locales.insee.fr&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;http://www.insee.fr&lt;/ref&gt;<br /> <br /> == 観光 ==<br /> {{main|月の港ボルドー}}<br /> [[ファイル:Bordeaux Tour Pey Berland statue.jpg|thumb|left|サン・タンドレ大聖堂]]<br /> 3ヶ所が[[フランスのサンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路]]のモニュメントとして1998年に[[世界遺産]]に登録されている。<br /> * サン・タンドレ大聖堂<br /> * サン・スラン大寺院<br /> * サン・ミッシェル大寺院<br /> <br /> また、市内の歴史地区が「[[月の港ボルドー]]」の名で、2007年に世界遺産に登録された。<br /> <br /> == 教育 ==<br /> [[1441年]]に開学した[[ボルドー大学]]を始め、ボルドー政治学院など[[グラン・ゼコール]]などの[[高等教育機関]]が多く、[[国立司法学院]]も置かれている。町全体の学生数は7万人で、[[ヨーロッパ]]最大の[[学生街]]となっている。<br /> <br /> == スポーツ ==<br /> *[[FCジロンダン・ボルドー]]が地元住民の人気を集めている。<br /> *[[ラグビーユニオン]]クラブの[[ユニオン・ボルドー・ベグル]]は国内最高峰の[[トップ14]]に所属している。<br /> <br /> == 姉妹都市・提携都市 ==<br /> {{Col-begin}}<br /> {{Col-3}}<br /> * {{flagicon|ENG}}[[ブリストル]] [[イギリス]] 1947年<br /> * {{flagicon|PER}}[[リマ]] [[ペルー]] 1957年<br /> * {{flagicon|CAN}}[[ケベック・シティー]] [[カナダ]] 1962年<br /> * {{flagicon|GER}}[[ミュンヘン]] [[ドイツ]] 1964年<br /> * {{flagicon|USA}}[[ロサンゼルス]] [[アメリカ合衆国]] 1968年<br /> {{Col-3}}<br /> * {{flagicon|POR}}[[ポルト]] [[ポルトガル]] 1978年<br /> * {{flagicon|JPN}}[[福岡市|福岡]] [[日本]] 1982年<br /> * {{flagicon|ESP}}[[マドリード]] [[スペイン]] 1984年<br /> * {{flagicon|ISR}}[[アシュドッド]] [[イスラエル]] 1984年<br /> * {{flagicon|MAR}}[[カサブランカ]] [[モロッコ]] 1988年<br /> {{Col-3}}<br /> * {{flagicon|CHN}}[[武漢]] [[中華人民共和国]] 1998年<br /> * {{flagicon|POL}}[[クラクフ]] [[ポーランド]]<br /> * {{flagicon|RUS}}[[サンクトペテルブルク]] [[ロシア]]<br /> {{Col-end}}<br /> <br /> == 出身有名人 ==<br /> {{main|Category:ボルドー出身の人物}}<br /> <br /> *[[ジャン・アヌイ]] - 劇作家<br /> *[[ジャック・エリュール]] - 哲学者・神学者<br /> *[[ルネ・クレマン]] - 映画監督<br /> * {{仮リンク|ジェルメーヌ・セイエ|fr|Germaine Cellier|en|Germaine Cellier}}(またはジェルメーヌ・セリエ) - [[調香師]]。[[第二次世界大戦]]後、[[6区 (パリ)|パリ6区]]モンパルナス大通りや[[8区 (パリ)|8区]]ボカドー通り等に居住<br /> &lt;!--当人フランス語版より「dessinateur Jean Oberlé(vivant dans son appartement du 19 rue de Lille) puis du joueur de tennis Christian Boussus (avec qui elle vit après-guerre 23boulevard du Montparnasse puis en 1955 8rue du Boccador).」--&gt;<br /> *[[ダニエル・ダリュー]] - 女優<br /> *[[ミシェル・ド・モンテーニュ]] - 哲学者<br /> *[[シャルル・ド・モンテスキュー]] - 哲学者、[[啓蒙思想家]]<br /> *[[フランソワ・モーリアック]] - 作家<br /> *[[リチャード2世 (イングランド王)|リチャード2世]] - イングランド王<br /> *[[ピエール・ロード]] - ヴァイオリニスト<br /> <br /> ==出典==<br /> &lt;references/&gt;<br /> <br /> == 関連項目 ==<br /> *[[ボルドーワイン]]<br /> *[[ボルドー液]] - 古典的な殺菌剤([[農薬]])<br /> *[[FCジロンダン・ボルドー]] - ボルドーを本拠地とするサッカークラブ。<br /> *[[カヌレ]] - ボルドーを発祥の地とする菓子。<br /> <br /> == 外部リンク ==<br /> {{Commons&amp;cat|Bordeaux|Bordeaux}}<br /> ; 公式<br /> * [http://www.mairie-bordeaux.fr/ ボルドー市公式サイト] {{fr icon}}<br /> <br /> ; メディア<br /> * [http://www.tv7.com/ TV7 ボルドー・インターネット放送] {{fr icon}}<br /> <br /> ; 観光<br /> * [http://www.bordeaux-tourisme.com/ ボルドー観光局公式サイト] {{ja icon}}<br /> * [http://jp.rendezvousenfrance.com/cities/rubric/43823/%E3%83%9C%E3%83%AB%E3%83%89%E3%83%BC%E3%81%A7rendez フランス観光開発機構 - ボルドー] {{ja icon}}<br /> <br /> {{Normdaten}}<br /> <br /> {{DEFAULTSORT:ほるとお}}<br /> [[Category:ボルドー|*]]<br /> [[Category:フランスの地域圏首府]]<br /> [[Category:県庁所在地 (フランス)]]<br /> [[Category:ヨーロッパの港町]]<br /> [[Category:フランスのローマ都市]]<br /> [[Category:ジロンド県のコミューン]]<br /> [[Category:フランスの都市]]<br /> [[Category:サンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路]]<br /> [[Category:世界歴史都市連盟]]</div> 218.33.128.160 Turing 2018-02-16T12:18:20Z <p>218.33.128.160: </p> <hr /> <div>&#039;&#039;&#039;Turing&#039;&#039;&#039;({{IPA-en|tjúǝrɪŋ}}(&#039;&#039;&#039;テュァリング&#039;&#039;&#039;))は[[プログラミング言語]]のひとつであり、[[Pascal]]よりも汎用的で簡潔に記述でき学習しやすい言語を目指して設計された。言語名称は[[計算機科学|計算機科学者]]として著名な[[アラン・チューリング]] (Alan M. Turing) からきている。<br /> <br /> 資金難により開発は解散したため2008年にフリーソフトウェア化された。<br /> <br /> == 他のプログラミング言語との関係 ==<br /> Turingは[[Euclid]]の研究で得られた多くの概念を引き継いでいる。EuclidとはPascalの苦手としていた可変長文字列、動的配列、アサーションといった機能を追加してPascalをより実用的に拡張したものである。<br /> <br /> == 参考文献 ==<br /> * Richard C. Holt, Philip A. Matthews, J. Alan Rosselet and James R. Cordy &#039;&#039;THE TURING PROGRAMMING LANGUAGE - Design and Definition -&#039;&#039;, Prentice-Hall, 1987. ISBN 0139331360.<br /> ** 湯浅太一(監訳) 松田元彦・三好博之・竹丘尚三(訳)『プログラミング言語 Turing - 言語仕様の基礎理論と設計技法 -』 啓学出版、1990年、ISBN 4766510755<br /> <br /> == 外部リンク ==<br /> * [http://www.holtsoft.com/ Turing Programming Language Home Page]<br /> * [http://compsci.ca/blog/download-turing-411/ Download Turing 4.1.1 | CompSci.ca/blog]<br /> * [http://sourceforge.net/projects/tntide/ Turing To C Compiler (TTCC) ]<br /> * [http://sourceforge.net/projects/s-engine/ S-Engine for Turing]<br /> * [http://code.google.com/p/opent/ OpenT Programming Language (Google Code) ]<br /> * [http://plg.uwaterloo.ca/~holt/ Richard C. &quot;Ric&quot; Holtのサイト]<br /> <br /> {{Computer-stub}}<br /> [[Category:プログラミング言語]]</div> 218.33.128.160
Warning: Cannot modify header information - headers already sent by (output started at /home/users/1/sub.jp-asate/web/wiki/extensions/HeadScript/HeadScript.php:3) in /home/users/1/sub.jp-asate/web/wiki/includes/WebResponse.php on line 46