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http:///mymemo.xyz/wiki/api.php?action=feedcontributions&user=180.197.52.159&feedformat=atom miniwiki - 利用者の投稿記録 [ja] 2024-03-28T21:03:16Z 利用者の投稿記録 MediaWiki 1.31.0 マハトマ・ガンディー 2018-06-30T15:04:37Z <p>180.197.52.159: ページ番号</p> <hr /> <div>{{Infobox 革命家<br /> |名前=モーハンダース・カラムチャンド・&lt;br&gt;ガーンディー&lt;br /&gt;મોહનદાસ કરમચંદ ગાંધી<br /> |画像=[[ファイル:MKGandhi.jpg|250px]]<br /> |説明=インド独立の象徴であるマハトマ・ガンディー<br /> |通称=マハトマ・ガンディー<br /> 現地の発音に近づけるため、近年ではガンディーと呼ぶのが主流。<br /> |生年=[[1869年]][[10月2日]]<br /> |生地={{IND1885}}、&lt;br /&gt;[[グジャラート州]]、[[ポールバンダル]]<br /> |没年={{死亡年月日と没年齢|1869|10|2|1948|1|30}}<br /> |没地={{flagicon|IND}}[[インド連邦 (ドミニオン)|インド連邦]]、[[ニューデリー]]<br /> |活動=[[アパルトヘイト|公民権運動]]&lt;br/&gt;[[インド独立運動]]<br /> |組織=[[インド国民会議]]<br /> }}<br /> <br /> [[File:Mohandas_K._Gandhi_signature.svg|thumb|ガンディーの署名]]<br /> &#039;&#039;&#039;モーハンダース・カラムチャンド・ガーンディー&#039;&#039;&#039;([[グジャラーティー文字]]表記:{{lang|gu-Gujr|મોહનદાસ કરમચંદ ગાંધી}}、[[デーヴァナーガリー文字]]表記: {{lang|gu-Deva|मोहनदास करमचन्द गांधी}}、[[ラテン文字]]表記:{{lang|gu-Latn|Mohandas Karamchand Gandhi}}、[[1869年]][[10月2日]] - [[1948年]][[1月30日]])は、[[インド]]の[[グジャラート州|グジャラート]]出身の[[弁護士]]、[[宗教家]]、政治指導者である。<br /> <br /> &#039;&#039;&#039;マハトマ・ガンディー&#039;&#039;&#039;(=マハートマー・ガーンディー)として知られるインド独立の父。「[[マハートマー]]({{lang|gu-Deva|महात्मा}})」とは「偉大なる魂」という意味で、インドの詩聖[[ラビンドラナート・タゴール|タゴール]]から贈られたとされているガンディーの尊称である(自治連盟の創設者、[[アニー・ベザント]]が最初に言い出したとの説もある&lt;ref&gt;ベザントは「[[神智学協会]]」の2代目会長でもある。[[神智学]]におけるマハトマは「[[智恵の大師]]」を参照の事。&lt;/ref&gt;)。また、インドでは親しみをこめて「[[バープー]]」({{lang|gu-Deva|बापू}}:「父親」の意味)とも呼ばれている。なお、インディラ・ガンジーとの血縁性は一切無い。&lt;ref&gt;[https://www.jiji.com/jc/article?k=2017122400207&amp;g=tha]&lt;/ref&gt;。<br /> [[1937年]]から[[1948年]]にかけて、計5回[[ノーベル平和賞]]の候補になったが&lt;ref&gt;[http://nobelprize.org/nobel_prizes/peace/nomination/database.html nobel_prizes/peace/nomination/database]のSimple Searchで「Gandhi」と入力して検索すると確認することができる。&lt;/ref&gt;、受賞には至っていない&lt;ref&gt;[http://nobelprize.org/nobel_prizes/peace/articles/gandhi/index.html Mahatma Gandhi, the Missing Laureate](英語)にノーベル財団の説明がある。内容については[[ノーベル平和賞#ガンディーが受賞しなかった理由]]を参照。&lt;/ref&gt;。ガンディーの誕生日にちなみ、インドで毎年10月2日は「ガンディー記念日」({{lang|gu-Deva|गांधी जयंती}}、ガーンディー・ジャヤンティー)という[[国民の休日]]となっており、[[2007年]]6月の国連総会では、この日を[[国際非暴力デー]]という[[国際デー]]とすることが決議された。<br /> <br /> == 人物 ==<br /> [[南アフリカ共和国|南アフリカ]]で[[弁護士]]をする傍らで[[公民権運動]]に参加し、帰国後はインドの[[イギリス]]からの独立運動を指揮した。民衆[[暴動]]や[[ゲリラ戦]]の形をとるものではなく、「[[非暴力]]、不服従」を提唱した(よく誤解されるような「[[無抵抗主義]]」ではない)。<br /> <br /> この思想(彼自身の造語で「[[サティヤーグラハ]]」、すなわち「真理の把握」と名付けられた)はインド独立の原動力となり、[[イギリス帝国]]を[[イギリス連邦]]へと転換させた。さらに政治思想として[[植民地]]解放運動や[[人権]]運動の領域において、[[平和主義]]的手法として世界中に大きな影響を与えた。特にガンディーに倣ったと表明している指導者に[[マーティン・ルーサー・キング・ジュニア]]、[[ダライ・ラマ14世]]等がいる。<br /> <br /> 性格的には自分に厳しく他人に対しては常に公平で寛大な態度で接したが、親族に対しては極端な[[禁欲]]を強いて反発を招くこともあったという。なお、インドの政治家一族として有名な「[[ネルー・ガーンディー・ファミリー]]」([[インディラー・ガーンディー]]ら)との血縁関係はない。<br /> <br /> == 経歴 ==<br /> === 生い立ち ===<br /> {{出典の明記|date=2016年9月|section=1}}<br /> [[イギリス領インド帝国]]、現在の[[グジャラート州]]の港町[[ポールバンダル]]で、当時の[[ポールバンダル藩王国]]の[[宰相]][[カラムチャンド・ガーンディー]]と、その夫人[[プタリーバーイー]]の子として生まれた。ポールバンダルの小学校に入学後、[[ラージコート]]の小学校に入りなおす。成績は悪く、融通もきかない面があった。<br /> <br /> 小学校時代は素行も悪く、悪友にそそのかされて、[[ヒンドゥー教]]の戒律で禁じられている[[肉食]]を繰り返していただけでなく、[[タバコ]]にも手を出し、タバコ代を工面する為に召し使いの金を盗み取ったこともあった。<br /> <br /> その後、12歳でアルフレッドハイスクールに入学。13歳の若さ(インド幼児婚の慣習による)で生涯の妻となる[[カストゥルバ]]と結婚した。18歳で[[宗主国]]イギリスの首都[[ロンドン]]に渡り、[[インナー・テンプル]][[法曹院]]に入学。[[法廷弁護士]]となるために勉強する。<br /> <br /> === 弁護士に ===<br /> {{出典の明記|date=2016年9月|section=1}}<br /> [[ファイル:Gandhi_South-Africa.jpg|thumb|200px|南アフリカ時代のガンディー ([[1895年]])]]<br /> 卒業後、[[1893年]]にはイギリス領南アフリカ連邦(現在の[[南アフリカ共和国]])で[[弁護士]]として開業した。しかし、[[白人]]優位の[[アパルトヘイト|人種差別政策]]下で、[[鉄道]]の一等車への乗車を拒否され荷物もろとも放り出されるといった強烈な[[人種差別]]を体験した。こうしたことから、イギリス領南アフリカ連邦の人種差別政策に反対し、[[インド系移民]]の法的権利を擁護する活動に従事するようになる。<br /> <br /> [[1880年代]]以降、ガンディーはインドの宗教的[[叙事詩]]『[[バガヴァッド・ギーター]]』と、[[ロシア]]の[[小説家]][[レフ・トルストイ]]の影響を受けていた。『[[新約聖書]]』の「[[山上の垂訓]]」など[[ナザレのイエス|イエス]]の思想にも洞察を深め、「非所有」の生涯を決意。後の非暴力運動思想を形成していく。<br /> <br /> [[20世紀]]初頭には、[[南アフリカ連邦]]となり、[[1913年]]に原住民土地法が制定されるなど人種差別政策の体制化が進んだ南アフリカにおいて、インド系移民の[[差別]]に対する権利回復運動を行った。<br /> <br /> [[1908年]]に初めて逮捕された。その後、[[1913年]]に[[トランスバール]]の行進を企画して初めて投獄された。しかし、不正を追及して撤廃させ、初めて勝利を手にした。<br /> <br /> [[ダーバン]]近郊でアーシュラマ共同農園を創設。そこで、禁欲、[[断食]]、清貧、純潔を実践して精神面を強化し、イギリスからの独立を展望している&lt;ref&gt;フランソワ・トレモリエール、カトリーヌ・リシ編著、樺山紘一日本語版監修『ラルース 図説 世界史人物百科』Ⅱ ルネサンスー啓蒙時代 原書房 2004年 102-103ページ&lt;/ref&gt;。<br /> 南アフリカでの経験は、[[1915年]]にインドに帰国してからの民族運動にも生かされている。<br /> <br /> === イギリスによる裏切り ===<br /> {{出典の明記|date=2016年9月|section=1}}<br /> [[1914年]]に[[第一次世界大戦]]が起こると、イギリスは将来の自治を約束して、[[植民地]]統治下のインド人に協力を求めた。ガンディーはこの約束を信じ、インド人へ[[英印軍|イギリス植民地軍]]への志願を呼びかける運動を行った。<br /> <br /> しかし戦争がイギリスの勝利に終わっても、自治の拡大は、インド人が期待したほどの速度では進行しなかった。また第一次世界大戦でイギリスと戦った[[ドイツ]]からの援助を受けていた一派による蛮行を抑えるため、インド帝国政府は強圧的な「[[ローラット法]]」を制定するにいたる。<br /> <br /> さらに[[1919年]][[4月13日]]には、[[パンジャーブ地方]][[アムリットサル]]([[シク教]]の聖地)で[[スワデーシー]](「自分の国」の意で、国産品愛用運動)の要求と、ローラット法発布に対する抗議のために集まった非武装の市民を、[[グルカ族]]および[[ムスリム|イスラーム教徒]]からなるインド軍部隊が無差別に射撃して数百人を虐殺した「[[アムリットサル事件]]」が発生した。この一連のインド帝国政府の態度は、ガンディーに「イギリスへの協力は独立へとつながらない」という信念を抱かせるようになった。<br /> <br /> === 不服従運動 ===<br /> [[File:Gandhi spinning.jpg|thumb|インドの[[糸車]]を廻すガンディー。但、本葉はライフ誌を飾った有名なCongress Party &amp; Gandhiではない]]<br /> <br /> 第一次世界大戦後は、独立運動をする[[インド国民会議]]に加わり、不服従運動で世界的に知られるようになる。またイギリス製品の綿製品を着用せず、伝統的な手法によるインドの綿製品を着用することを呼びかけるなど、不買運動を行った。「インドの[[糸車#チャルカ|糸車]]を廻すガンディー」の写真はこの歴史的背景による&lt;ref&gt;余談だが、『{{lang|en|Congress Party &amp; Gandhi}}』を撮影した『[[ライフ (雑誌)|ライフ]]』誌の[[マーガレット・バーク=ホワイト]]は勝手に人の家に入ってきて光源のための戸を閉めたり、執拗に[[フラッシュ]]を浴びせたりするなど、事実上の暴行ともいえる行動を行った。だが本葉は大きな感銘を世界へ与えた。被害を受けたガンディーは文句は言わなかったが「彼女は私の目を焼こうとしている」と漏らしたという。&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> こうした一連の運動のために、ガンディーは度々投獄された。例えば[[1922年]][[3月18日]]には、2年間の不服従運動のために、6年間の[[懲役]]刑の判決を受けている。第一次の不服従運動は、1922年にインド民衆が警察署を襲撃して20人ほどの警官を焼死させる事件が起きて中止されたが、[[1930年]]より不服従運動は再開された。とりわけ、「[[塩の行進]]」と称されるイギリスの[[塩]]税に抗議した運動は有名である。<br /> <br /> ガンディーが不服従運動のための協力者の要員を募集する際のその条件は、やはり多くの人と信頼を構築でき、その協力を得られるような人格者であったが、この「非暴力運動」に参加すること自体でも、暴力で運動を止めさせようとする兵士に対して反撃を行わず、逃げもしないという非常な勇気が必要とされ、真の強さと忍耐が求められた。<br /> <br /> 非暴力の思想はインドと距離的に近い西アジアなどでも見られ、アジアで生まれた[[ヒンドゥー教]]、[[イスラーム教]]、[[仏教]]、[[キリスト教]]&lt;ref&gt;この宗教は中東地域人の[[イエス・キリスト|イエス]]から始まる宗教である。ヨーロッパで広まったキリスト教と[[原始キリスト教]]では質が異なる。[[中東]]やその他[[中国]]などのアジア地域では昔から[[ネストリウス派]]や[[マロン派]]が他のイスラーム教徒や[[ユダヤ教徒]]と共存してきた。&lt;/ref&gt;で、それは当てはまるとガンディーは考えた。アジアの思想に共通するという考えから、ガンディーは「自分はヒンドゥー教徒であり、イスラム教徒でもあり、また、原始キリスト教という意味ではキリスト教に賛同する」として、宗教グループ間や世界の人々に対話を呼びかけた。<br /> <br /> === ガンディーとカースト制度 ===<br /> {{出典の明記|date=2016年9月|section=1}}<br /> ガンディーは[[カースト制度]]を、職業の分担という観点から肯定的にとらえており、カースト制度そのものの制度廃止には賛成しなかった。<br /> <br /> このような「カースト制度は容認しても、カーストによる社会的差別に反対する」姿勢は、同時期の政治指導者に多く見られる。このため、[[インドにおける仏教革新運動]]の指導者である[[ビームラーオ・アンベードカル|B・R・アンベードカル]]と意見を対立させている。<br /> <br /> === 第二次世界大戦 ===<br /> [[File:Gandhi and Nehru 1942.jpg|thumb|ネルーと語るガンディー(1942年)]]<br /> 第一次世界大戦後、[[日英同盟|イギリスとの同盟]]が解消された[[日本]]は、[[満州]]・[[中国]]問題などでイギリスや[[アメリカ合衆国]]と対立。イギリスからの独立運動を行っていた[[ラース・ビハーリー・ボース]]や[[A.M.ナイル]]の亡命を受け入れ、その後「欧米帝国主義国の植民地からの解放」を掲げ、[[1941年]]12月に英米との間で開戦した([[太平洋戦争]])。<br /> <br /> 日本軍は瞬く間に[[香港]]や[[マレー半島]]、[[ビルマ]]などの[[東南アジア]]一帯のイギリス植民地から、イギリス軍や[[オーストラリア軍]]を駆逐した。[[インド国民会議]]派元議長でインド国外でイギリスに対する独立闘争を続けていた[[スバス・チャンドラ・ボース]]やビハーリー・ボース、ナイルなどの独立運動家は、日本の支援を受けて[[インド国民軍]]を組織し、インドの外側から軍事的にイギリスに揺さぶりをかけようとした。しかしインド国内、つまりイギリスの植民地に留まっていたガンディーは、この様な動きに連携することはなかった。<br /> <br /> ただし、日本軍がイギリスやアメリカ、[[オランダ]]をはじめとする連合国軍を撃破し続け、[[インド洋の戦い (第二次世界大戦)|インド洋]]で[[イギリス海軍]]に打撃を与えてインドに迫った[[1942年]]初頭から[[1943年]]中盤の時期には、日本との連携を模索する姿勢を見せていたことが指摘されている&lt;ref&gt;[[#長崎1989|長崎 1989]]&lt;/ref&gt;。実際に1942年には、日本軍のインドへの接近に慌てたイギリスが「インドをイギリス連邦内自治領として認める」という条件でインド人の懐柔を図った。イギリスの魂胆を見抜いたガンディーはこれを拒否し、民衆は「クイット・インディア」([[:en:Quit India Movement|Quit India]]、つまり「インドから出ていけ」)を掲げ、その結果2年間投獄されることとなった&lt;ref&gt;フランソワ・トレモリエール、カトリーヌ・リシ編著、樺山紘一日本語版監修『ラルース 図説 世界史人物百科』Ⅱ ルネサンスー啓蒙時代 原書房 2004年 105ページ&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> しかし、同時にガンディーは「すべての日本人に」と題された声明を発表し、「欧米帝国主義国の植民地からの解放」を掲げつつも、強権的かつ人種差別を明確に掲げる[[ナチス・ドイツ]]や[[ファシスト政権]]下の[[イタリア]]と組み、[[覇権主義]]的な行動を見せつつある日本の姿勢に対する疑問を明らかにした。<br /> <br /> === 独立 ===<br /> {{出典の明記|date=2016年9月|section=1}}<br /> [[ファイル:Nehru Gandhi 1937 touchup.jpg|thumb|250px|インド初代首相となった[[ジャワハルラール・ネルー]](左)とガンディー]]<br /> [[1945年]]8月に日本が降伏し、[[第二次世界大戦]]が終結した。イギリスは戦勝国となったが、日独との戦いで国力は衰退し、本国から遠く離れている上に独立運動が根強く続けられてきたインドを植民地として支配し続けることはもはや困難であった。<br /> <br /> さらにはチャンドラ・ボースやラース・ビハーリー・ボース、A.M.ナイルらが設立したインド国民軍の一員として、これを支援した日本軍とともにイギリス軍や[[アメリカ軍]]、オーストラリア軍などと戦ったインド人将官が、イギリス植民地政府により「反逆罪」として裁判にかけられることとなった。これに対してガンジーは「インドのために戦った彼らを救わなければならない」と、インド国民へ独立運動の号令を発した。<br /> <br /> この運動をきっかけに再びインド全体へ独立運動が広がり、これに耐えることができなくなったイギリスはインドの独立を受け入れた。[[1947年]][[8月15日]]、[[デリー]]の[[赤い城]]にて[[ジャワハルラール・ネルー]]が[[ヒンドゥー教]]徒多数派地域の独立を宣言し、[[イギリス国王]]を元首に戴く[[英連邦王国]]であるインド連邦が成立した(その後[[1950年]]には[[共和制]]に移行し、[[イギリス連邦]]内の[[共和国]]となった)。<br /> <br /> なお、ガンディーの「ヒンドゥーと[[イスラーム]]が融合したインド」との思い通りにはいかず、最終的に[[イスラーム教]]国家の[[パキスタン]]&lt;ref&gt;独立当時は西パキスタンと東パキスタンの[[飛地]]国家で、東パキスタンは後に[[バングラデシュ]]として独立した。&lt;/ref&gt;との[[インド・パキスタン分離独立|分離独立]]となった。<br /> <br /> === 暗殺 ===<br /> {{出典の明記|date=2016年9月|section=1}}<br /> 1947年8月のインドとパキスタンの分離独立の前後、宗教暴動の嵐が全土に吹き荒れた。ガンディーは何度も[[断食]]し、身を挺してこれを防ごうとした。しかし、ヒンドゥー[[原理主義]]者からは「[[ムスリム]](イスラーム教徒)に対して譲歩し過ぎる」として敵対視された。<br /> <br /> [[1948年]][[1月30日]]、ガンディーは[[ニューデリー]]のビルラー邸で[[ヒンドゥー原理主義]]集団[[民族義勇団]]の一人{{仮リンク|ナートゥーラーム・ゴードセー|en|Nathuram Godse}}({{lang|gu-Deva|नाथूराम गोडसे}})らによって[[暗殺]]された。<br /> {{要出典|date=2018年3月}}<br /> 3発の[[ピストル]]の弾丸を胸に撃ち込まれた時、ガンディーは自らの額に手を当てた。これはイスラーム教で「あなたを許す」という意味の動作である。そして、ガンディーは「おお、神よ」(「ヘー ラーム {{lang|gu-Deva|हे राम}}」)とつぶやいてこの世を去った。{{要出典|date=2018年3月}}78歳であった。[[国葬]]が行われ、遺灰は[[ヤムナー川]]と[[ガンジス川]]と南アフリカの海に撒かれた。<br /> <br /> == 主義・信条 ==<br /> === 真理 ===<br /> {{出典の明記|date=2016年9月|section=1}}<br /> ガンディーは自分の人生を何よりも真理(Satya)探究という目的のために捧げた。彼は、自分の失敗や自分自身を使った実験などから学ぶことを通して、この目的の達成を試みた。実際、彼は自叙伝に『真理を対象とした私の実験について({{lang-en|The Story of My Experiments with Truth}})』という題をつけている。<br /> <br /> ガンディーは「非暴力運動において一番重要なことは、自己の内の臆病や不安を乗り越えることである」と主張した。ガンディーは自分の理念をまとめ、初めは「神は真理である」と述べていたが、後になると「真理は神である」という言葉に変えている。よって、ガンディー哲学における真理(Satya)とは「神」を意味する。<br /> <br /> === 非暴力 ===<br /> {{出典の明記|date=2016年9月|section=1}}<br /> [[非暴力]]([[アヒンサー]];{{lang|gu-Deva|अहिंसा}})の概念はインド宗教史上長い歴史を持ち、ヒンドゥー教、仏教([[仏陀]]に代表される)、[[ジャイナ教]]の伝統において何度も甦った。また、彼の非暴力抵抗の思想は、『新約聖書』や『[[バガヴァッド・ギーター]]』の教えに特に影響されている。自らの思想と生き方を、ガンディーは自叙伝の中で書いている。以下にガンディーが語った言葉からの引用を列記する。<br /> <br /> * 「私は失望したとき、歴史全体を通していつも真理と愛が勝利をしたことを思い出す。暴君や殺戮者はそのときには無敵に見えるが、最終的には滅びてしまう。どんなときも、私はそれを思うのだ」。<br /> * 「狂気染みた破壊が、全体主義の名のもとで行われるか、自由と民主主義の聖なる名のもので行われるかということが、死にゆく人々や孤児や浮浪者に対して、一体何の違いをもたらすのであろうか」。<br /> * 「“[[同害報復|目には目を]]”は全世界を盲目にしているのだ」。<br /> * 「私には人に命を捧げる覚悟がある。しかし、人の命を奪う覚悟をさせる大義はどこにもない」。<br /> また、ガンディーは自分の非暴力の信条を実行に移すとき、彼は極限まで論理的につきつめることを辞さなかった。1940年にナチス・ドイツ軍がイギリス本土に侵入しようとした時、ガンディーはイギリス国民に次のように助言した。<br /> {{Quotation|持っている武器を下に置いてほしい。武器はあなた方を、ないしは人類を、救う役には立たないのだから。あなた方はヘル・[[アドルフ・ヒトラー|ヒトラー]]とシニョール・[[ベニート・ムッソリーニ|ムッソリーニ]]を招きいれることになるだろう。あなた方の国、あなた方が自分たちのものと称している国から、かれらは欲しいものを持っていってしまうだろう。もしこの紳士たちがあなた方の故郷を占領したなら、あなた方は立ち退くことになる。もし、かれらが脱出を許さなかったなら、あなた方は男も女も子どもも、虐殺されることになる。しかしあなた方は、かれらに忠誠を尽くすことは拒むだろう}}<br /> <br /> また、1946年6月、ガンディーは伝記作者[[:en:Louis_Fischer|ルイ・フィッシャー]]にこう語っている。&lt;ref&gt;Fischer, Louis (1950). &#039;&#039;[https://books.google.co.jp/books?id=pHcGAQAAIAAJ&amp;pg=PA348&amp;redir_esc=y&amp;hl=ja The life of Mahatma Gandhi]&#039;&#039;. Harper. p. 348.&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;{{Cite book|author=|title=新装版 オーウェル評論集2 水晶の精神|url=https://www.worldcat.org/oclc/838853531|date=2009|year=|accessdate=|publisher=Heibonsha|isbn=4582766889|location=Tōkyō|author2=|author3=|author4=|author5=|author6=|author7=|author8=|author9=|others=平凡社 p214-216|oclc=838853531}}&lt;/ref&gt;<br /> {{Quotation|ヒトラーは500万人のユダヤ人を殺した。これは我々の時代において最大の犯罪だ。しかしユダヤ人は、自らを屠殺人のナイフの下に差しだしたのだ。かれらは崖から海に身投げすべきだった。英雄的な行為となっただろうに。}}<br /> <br /> ガンディーはこうも言っている。<br /> {{Quotation|わたしの信念によると、もし、臆病と暴力のうちどちらかを選ばなければならないとすれば、わたしはむしろ暴力をすすめるだろう。インドがいくじなしで、はずかしめに甘んじて、その名誉ある伝統を捨てるよりも、わたしはインドが武器をとってでも自分の名誉を守ることを望んでいる。しかし、わたしは非暴力は暴力よりもすぐれており、許しは罰よりも、さらに雄雄しい勇気と力がいることを知っている。しかし、許しはすべてにまさるとはいえ、罰をさしひかえ、許しを与えることは、罰する力がある人だけに許されたことではないだろうか。}}<br /> <br /> === カースト制度 ===<br /> 当初ガンディーはカースト制度を「ヒンドゥー教の根本的な制度」&lt;ref&gt;[[#ドリージュ2002|ドリージュ 2002]]、157頁&lt;/ref&gt;として擁護し、称賛した。<br /> 彼によれば「カーストは人間の本性であり、ヒンドゥー教徒はそれを「科学」に仕立てただけ」であり&lt;ref&gt;M・K・ガンジー「ヒンドゥー・ダルマ」、9-10頁。[[#ドリージュ2002|ドリージュ 2002]]の157頁より重引。&lt;/ref&gt;、<br /> 同じカーストとしか結婚できないという制限も「自己抑制を深める優れた方法」&lt;ref name=&quot;jitsuzou&quot;&gt;[[#ドリージュ2002|ドリージュ 2002]]、六章&lt;/ref&gt;であった。<br /> <br /> 彼にとってカースト制度は「分離されているが平等」&lt;ref name=&quot;jitsuzou&quot; /&gt;なのである&lt;ref&gt;「[[プレッシー対ファーガソン裁判|分離すれど平等]]」というのは[[アメリカ合衆国|アメリカ]]で[[黒人]]を隔離・差別するために持ち出されたレトリックで、黒人用施設が白人用施設と平等であった例などほとんどなかった。&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> そのうちガンディーは自分がある種の自己矛盾に陥っている事に気付き、カースト制度と[[ヴァルナ (種姓)|ヴァルナ]]を区別し、ヴァルナを好むようになった。<br /> ヒンドゥー教徒を[[バラモン]]、[[クシャトリヤ]]、[[ヴァイシャ]]、[[シュードラ]]の四階層に区分するヴァルナの法則は、彼によれば人が両親に似て生まれてくるのと同じ「[[遺伝]]の問題」&lt;ref name=&quot;jitsuzou&quot; /&gt;であった。<br /> <br /> またヴァルナによって両親の職業を選べば、「精神的な目的の為専念する時間が増える」&lt;ref name=&quot;jitsuzou&quot; /&gt;ので、「幸福と深い宗教的生活の為の最上の保証」&lt;ref&gt;M・K・ガンジー「ヒンドゥー・ダルマ」、48頁。[[#ドリージュ2002|ドリージュ 2002]]の154-155頁より重引。&lt;/ref&gt;であった。<br /> ただしガンディーは、ヴァルナを「神の創造物全体における絶対平等の法則」&lt;ref name=&quot;jitsuzou&quot; /&gt;ととらえており、ヴァルナの階層間に上下は無く平等なものだと考えていた。<br /> <br /> 一方ヴァルナをさらに細分化するカースト制度に関しては「宗教と何の関係もなく、起源不明の習俗に過ぎない」&lt;ref name=&quot;jitsuzou&quot; /&gt;と考えるようになり、後年『カーストはなくなれ』という小冊子を発行するに至った。<br /> <br /> === 菜食主義 ===<br /> ガンディーはインドを初めて離れた時こそ肉食を試みたが、後に厳格な[[菜食主義|菜食主義者]]になった。英国では菜食主義者協会 ([[:en:Vegetarian Society|Vegetarian Society]]) の集会に参加して菜食主義運動家[[ヘンリー・ソールト]]([[:en:Henry Stephens Salt|Henry Stephens Salt]])に出会い、この問題についてロンドン滞在中に何冊かの本を著した。菜食主義の思想はインドのヒンドゥー教およびジャイナ教の伝統、そして彼の故郷グジャラートに深く根づいており、ヒンドゥー教徒のほとんどが菜食主義者であった。彼は様々な飲食物を試した後、「菜食は体に必要な最低限度を満たす」という結論に達した。そして、日常の食事は[[穀物]]、[[豆]]類、[[果実]]、[[ヤギ]]乳、[[蜂蜜]]に限定していた&lt;ref name=&quot;tabemonotokenkouomoshirozatsugaku_p66-67&quot;&gt; 落合敏監修 『食べ物と健康おもしろ雑学』 p.66-67 梧桐書院 1991年&lt;/ref&gt;。ガンディーの菜食主義は「殺されるのを嫌がっているものは食べない」という信念に基づいており、「自ら実をつけて熟して実を落とすものをとるべき」という徹底されたものであった&lt;ref name=&quot;tabemonotokenkouomoshirozatsugaku_p67&quot;&gt; 落合敏監修 『食べ物と健康おもしろ雑学』 p.67 梧桐書院 1991年&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> === 個人資産 ===<br /> ガンジーは金融資産も[[不動産]]も全く持っていなかった。個人的な所有物は、以下のものだけだった。<br /> *一冊の『[[バガヴァッド・ギーター]]』。<br /> *インド綿布の衣と[[ぞうり]]。<br /> *[[眼鏡]]と[[入れ歯]]。<br /> *[[竹]]の杖。<br /> *[[糸車]]。毎日これで糸を紡ぎ「働かない日に食べる[[パン]]は、盗んだパンである」という信条を実践した。<br /> *いわゆる「見ざる言わざる聞かざる」の[[三猿]]の像。日本人から貰ったものという。<br /> *人と会う約束の時間に遅れないための、[[インガーソル]]の[[懐中時計]]。紐で首にかけていた。<br /> *携帯用[[便器]]。インドの衛生状態の不備を憂慮し、ガンジーがいかに衛生を重んじているかを示す意味があった。<br /> *食事のための乳をとるヤギが1匹。<br /> *習字用の[[鉛筆]]と、古い[[封筒]]を切り開いた練習用紙。<br /> <br /> 彼はこれを側近に持たせ、ガンジーの行くところには必ず携帯便器を担ぎ、ヤギを曳いた弟子が従った。<br /> <br /> === 西洋文明批判 ===<br /> {{出典の明記|date=2016年9月|section=1}}<br /> 「[[鉄道]]によって欲望が加速するため邪悪が広げられる」「病院があるせいで体に注意を払わなくなる」「(自身が弁護士であるのに)弁護士などいらない」と西洋近代文明に対しても批判を繰り返した。船旅で出会ったドイツ人の持っている[[望遠鏡]]に対して「そのようなものがあるから欲望が止まらないので捨てるべきである」として言い争いになったが、最終的には「望遠鏡がなかったら、そもそもこのような言い争いになることはなかった」と説き伏せて、海に望遠鏡を放り投げた。<br /> <br /> === ブラフマチャリヤ ===<br /> ガンディーが16歳の時に、父が末期の病気にかかった。ガンディーは、父の臨床の場において精力的に看病に励んでいたが、ある夜、叔父が来て看病を交代してくれるよう言ってくれた。ガンディーはそれを快く引き受け、感謝の意を表し、寝室へと戻った。そこで、ガンディーは、部屋で寝ていた妻を起こし[[同衾]]している隙に、下僕がやって来て父の死を告げた。このため、ガンディーは、父の死に目に会えなかったのである。ドイツの心理学者[[エリク・H・エリクソン]]は、ガンディーの禁欲主義的傾向や、特に36歳の時、結婚したまま一切の[[性行為]]を断って[[禁欲]]を開始するなどの[[ブラフマチャリヤ]]の誓いを果たしたことには、この経験が大きく関係していると指摘する。<br /> <br /> このような禁欲主義や苦行と密接な関連を持った[[ブラフマチャリヤ]](心と行為の浄化、[[ブラフマン]]すなわち宇宙の最高原理の探求)は、[[ヒンドゥー教]]の[[苦行者]]の間で昔から行われていた。ガンディーのユニークな点は、結婚と家庭を維持したまま禁欲生活を送ったことである。ガンディーはこのブラフマチャリヤを自らの指導する非暴力不服従運動の基礎であると考えていた。また、それは神に近づくための手段であり、自己の完成のための重要な土台であるとも捉えていた。<br /> <br /> 彼は13歳の若さでカストゥルバと結婚したが、自叙伝において、当時における性欲や過激な嫉妬などに対する戦いを語っている。彼は独身者でいることを自分の義務と感じたので、欲情によらずに愛することを学ぶことができるのだと考えた。ガンディーによれば、ブラフマチャリヤは「思想・言葉・行為の抑制」を意味する。<br /> <br /> ガンディーはブラフマチャリヤを生涯追求し、1948年に78歳で暗殺される直前まで「ブラフマチャリヤの実験」を行っていた。しかしガンディーの弟子であったニルマール・クマール・ボースは『ガンディーとの日々({{lang-en|My days with Gandhi}})』において、ノーアカーリーにおけるガンディーの晩年のブラフマチャリヤの実験に関して、批判的見解が述べられている。このことは、ヴェド・メータの『ガンディー&lt;!--(このガンディーは書物名の部分であるため、ガーンディーにもガンジーにもしない事)--&gt;と使徒たち』の中にも引用されている。彼らによれば晩年のガンディーは裸体の若い女性たちをぴったり体にくっつけて、ベッドを共にするのが常だった。こうした件を問い詰められたガンジーは、最初は裸の女性を横にして眠ると言うことを公然と否定し、その後「それはブラフマチャリヤの実験である」と言った&lt;ref&gt;[[#ドリージュ2002|ドリージュ 2002]]、154頁&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> しかし、ガンディーの姪アバ・ガンディーはボーズの主張を認め、「結婚してからも彼と寝ていた」と証言したし&lt;ref&gt;ヴェド・メータの『ガンディーと使徒たち』、200-201頁。[[#ドリージュ2002|ドリージュ 2002]]の154-155頁より重引。&lt;/ref&gt;、もう一人の姪であるマヌや女医(厚生大臣であった時期もある)のスシラ・ナヤルも「ガンジーを暖めた女性であった」&lt;ref&gt;[[#ドリージュ2002|ドリージュ 2002]]、155頁&lt;/ref&gt;。<br /> またある女性は「裸になり、ガンジー&lt;!--引用元が「ガンジー」な為「ガンディー」に代えるべからず--&gt;の腕に抱かれた」と証言した&lt;ref&gt;ヴェド・メータの『ガンディーと使徒たち』、213頁。[[#ドリージュ2002|ドリージュ 2002]]の154-156頁より重引。&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> ボースや弟子たちはそのことに関して、ガンディーを批判したが、ガンディーは聞き入れようとしなかったようである。ボースの本の中には、ガンディーとボースとの手紙のやり取りの中でこのように述べていると書かれている。<br /> <br /> {{Quotation|私にとっては女性に触れぬことがブラフマチャリヤなのではない。今していることは私には新しいことではない。……実験の前提に女性の劣等性があるとお考えになるとは驚かざるを得ない。もし私が色情を持ちあるいは相手の同意なく女性を見れば、そのとき女性は劣等者であろう。私の妻は私の欲望の対象だったとき、劣等者であった。私の隣に裸で妹として寝るようになってからは、彼女はもはや劣等者ではなかった。かつてのように妻ではなく他の妹であっても同じことではないか。隣に裸で寝る女性に対して私がみだらなことを考えるなどと思わないでいただきたい。AあるいはB(ボースによる匿名)のヒステリーは私の実験とは関わりがないと思う。彼女たちはこの実験の前から多かれ少なかれヒステリーだったのだ。&lt;ref&gt;[[#メータ2004|メータ 2004]]、249頁引用。&lt;/ref&gt;}}<br /> <br /> あるドイツの精神医学的人名辞典は、ガンディーのためにあてられた全8行ばかりの記事のうちの1行を割いて、彼が「一つのベッドで数人の女性使用人と眠った」という情報―――そのような習慣の時期や期間は明確にしないで―――を提供している。同様に[[アーサー・ケストラー]]は『{{lang|en|The Lotus and The Robot}}』( London:Hutchinson, 1996)の脚注において、老年のガンディーは一人の若い裸の女性とベッドにいるところを英国の官憲にみつけられたが、彼らは賢明にもそれを公表しなかったと述べている。<br /> <br /> しかし、エリク・エリクソン著『ガンディーの真理2』を翻訳した[[星野美賀子]]は、脚注の中で、これらの情報を以下のように批判している。「このゴシップは以下の事実を無視している。つまり、伝えられる事件のおりにはもう英国の官憲がガンディーを夜中に急襲することはなかったこと。インドの寝室のつくりにはベッドもドアもないこと、熱帯地方においては裸体は特別なものではないこと、そして、その事件全体は秘密ではなかったこと、を」&lt;ref name=&quot;Erikson&quot;&gt;[[#エリクソン2002b|エリクソン 2002b]]、xxiii頁参照。&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 晩年の女性とのブラフマチャリヤの実験に関しては、どこからどこまでが事実なのかを明確に判断することは難しい。しばしば、これらの実験が、ガンディーの他の莫大な業績に先行して指摘されるのは、エリクソンによると、「結局のところ、偉大な混乱は偉大さのしるしでもありうる」&lt;ref name=&quot;Erikson&quot;/&gt;からであろう。<br /> <br /> === 沈黙の日 ===<br /> {{出典の明記|date=2016年9月|section=1}}<br /> ガンディーは週に一度を沈黙して過ごした。話すのを控えることで、心の平穏が得られると信じたのである。これは モウナ({{lang|gu-Deva|मौन}}:沈黙)と シャーンティ({{lang|gu-Deva|शांति}}:平穏) というヒンドゥー教の理念から来るものであった。沈黙を守る日には、筆談によって他人と意思疎通した。ガンディーは37歳からの3年半、「騒然とした世界情勢は心の平穏ではなく混乱をもたらす」として、[[新聞]]を読むことを拒んだ。<br /> <br /> === 現代におけるガンディー ===<br /> 現代においてもガンディーは世界的に敬慕の対象となっている。[[アーメダバード]]には、ガンディーが1930年まで修行・活動した施設「サバルマティ・[[アーシュラマ#転義|アシュラム]]」が現存しており、インド国内外から多くの来訪者がある。2017年6月の創設100周年記念式典には、インドの[[ナレンドラ・モディ]]首相が出席した&lt;ref&gt;【[[Nikkei Asian Review|NIKKEI ASIAN REVIEW]]より】インド/ガンジーの道場 今も活気『[[日経産業新聞]]』2018年3月15日(グローバル面)&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 首都[[ニューデリー]]には、ガンディーが[[火葬|荼毘]]に付された場所に廟(ラージ・ガート)が建てられており、2018年1月30日の没後70年追悼行事にはモディ首相らが参列した。また、これらの顕彰施設代表者らでつくるガンディー研究評議会が活動している&lt;ref&gt;暗殺70年 ガンジーの「寛容」今こそ/インド イスラムを襲撃 増加『[[読売新聞]]』朝刊2018年1月31日(国際面)&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> このガンディー廟には日本からは[[明仁|今上天皇]]・[[皇后美智子|皇后]]が[[皇太子]]夫妻時代を含めて二度訪問している&lt;ref&gt;[https://www.nikkei.com/article/DGXNASDG0203L_S3A201C1CR8000/ 両陛下、ガンジー廟に53年ぶり供花]日本経済新聞ニュースサイト(2013年12月3日)&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> ただ独立から半世紀以上経ち、ガンディーならびに彼の思想はインドの社会一般において、往時のような無批判な賞賛という扱いは受けなくなってきている。<br /> <br /> 独立後20年近くの期間にも渡って[[インド国民会議|国民会議]]がインド全土で政権の座を握り続けていられたのは「独立の父」ガンディーの威光によるところも大きく、それゆえ独立後間も無く暗殺されたガンディーは殊更に神格化されてきたとも言える。しかしながら、ガンディーの後継者とされた独立後初代首相の[[ジャワハルラール・ネルー|ネルー]]は、経済政策の上ではガンディー主義(Gandhism)に真っ向から対立するネルー主義(Nehruvism)開発経済体制を導入し、生前ガンディーが反対していた産業の機械化・工業化を積極的に推し進めた。<br /> <br /> このため、インドで多くの人々がガンディーを「国家を独立に導いた偉大な人物」として表向きには称える一方、その反面では彼の人物像やその思想に対して「時代遅れで非現実的」という評価を下す風潮が顕在化してきた&lt;ref&gt;もちろん、独立前〜直後の時期においてもガンディーに対するその様な評価は少なからず存在していた。独立運動においてガンディーは多数の支持を得た指導者かもしれないが、彼の方針に同調しない様々な思想を掲げた運動家およびその支持者は当時から各地に多数存在していた。&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> ネルーが独立直後にイギリス政府高官に「ガンディーはあくまでインドを引き裂いてはならないという。しかしイスラーム教徒は我々がいかなる妥協を示しても自分達の国家をつくると言って譲らない。インド各地で起きている血塗れの惨劇はエスカレートするばかりである。我々は敢えて頭痛から逃れる為に、頭を切り落とさなければならない。最早ガンディーのような中道的な立場は非現実的であり、残念ではあるが、ガンジーは今政治の中心から逸れてしまっている」と述べたように、当時から現在までイスラム教徒と他教徒との争いは顕在化しており、そうした実態を結果的に無視する形となった宥和政策も、民衆感情に反するものであった。<br /> <br /> また、暗殺犯のゴードセーを英雄視するヒンドゥー原理主義者もいる&lt;ref&gt;[https://mainichi.jp/articles/20180129/k00/00m/030/074000c ガンジー 没後70年/インド 根強い差別/暗殺者「復権」広がる]『毎日新聞』朝刊2018年1月29日(国際面)&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> そのような状況の中、新たな形でのガンディー再考の試みが映画や演劇などの分野でなされてきている。なかでも現在インドで最も注目を集めているのが、2006年にインドで公開された『[[Lage Raho Munna Bhai]]』({{lang|gu-Deva|लगे रहो मुन्नाभाई}}, {{lang|gu-Kana|ラゲー・ラホー・ムンナー・バーイー}})というヒンディー語映画である。作品中ガンディーは、主人公である街のヤクザ者にだけ見える存在として登場し、DJとしてラジオで電話相談をする事になった主人公の口を通して街の人々に様々なアドバイスを与えている。<br /> <br /> この作品は、いくつもの批判を呼び起こしながらも、人々が新たな角度からガンディーについて考え直す大きな契機を作り出す事に成功し、娯楽作品としての大ヒットも合わせて大きな注目を浴びた。特にこの映画中で提唱された「{{lang|gu-Kana|ガーンディーギリー}}」({{lang|gu-Deva|गांधीगिरी}}, [[Gandhigiri]])という言葉は、ガンディー主義を意味する旧来の「{{lang|gu-Kana|ガーンディーヴァード}}」({{lang|gu-Deva|गांधीवाद}})という言葉が帯びていた、「理念的過ぎて現実的ではない」というイメージを払拭する役割を果たし、にわかにインドでの流行語ともなっている&lt;ref&gt;ちなみに、この「〜ギリー」というのは、[[ムンバイヤー・ヒンディー]](ムンバイで話される特徴的なヒンディー語の口語)において用いられる「〜に特徴的な一連の行動」というような意味の接尾辞である。&lt;/ref&gt;。<br /> &lt;!--(英語版記事<br /> {http://en.wikipedia.org/wiki/Lage_Raho_Munna_Bhai#Social_and_cultural_impact}<br /> や<br /> {http://en.wikipedia.org/wiki/List_of_artistic_depictions_of_Mahatma_Gandhi}<br /> などを参考に、この部分の整理・拡充を計画中)--&gt;<br /> <br /> ==創作上におけるガンディー==<br /> * 『[[ガンジー (映画)|ガンジー]]』([[1982年]]公開の映画)<br /> * 『[[シヴィライゼーション]]』シリーズ - シミュレーションゲーム。[[シヴィライゼーション#Sid_Meier.27s_Civilization|第1作目]]からインド文明の指導者として登場。イギリスの[[エリザベス1世]]、ギリシャの[[アレキサンダー大王]]、モンゴルの[[チンギス・ハーン]]、そしてズールー王国の[[シャカ・ズールー|シャカ]]とともに、ナンバリングタイトルで第5作目の[[%E3%82%B7%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%82%BC%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%B3#Sid_Meier.27s_Civilization_V.28.E3.82.B7.E3.83.B4.E3.82.A3.E3.83.A9.E3.82.A4.E3.82.BC.E3.83.BC.E3.82.B7.E3.83.A7.E3.83.B3V.29|Civilization 5]]まで皆勤の指導者&lt;ref&gt;https://www.youtube.com/watch?v=0soMly08EZQ&lt;/ref&gt;である上で、最新作の[[シヴィライゼーション#Sid_Meier.27s_Civilization_VI.28.E3.82.B7.E3.83.89.E3.83.9E.E3.82.A4.E3.83.A4.E3.83.BC.E3.82.BA.E3.80.80.E3.82.B7.E3.83.B4.E3.82.A3.E3.83.A9.E3.82.A4.E3.82.BC.E3.83.BC.E3.82.B7.E3.83.A7.E3.83.B3.E2.85.A5.29|Civilization 6]]にも続投。<br /> ** なお、シリーズを通してガンディーが「非暴力」のイメージとは正反対に、(AI指導者として)&#039;&#039;&#039;[[核兵器]]の生産および使用&#039;&#039;&#039;を非常に好む性格になっている&lt;ref&gt;http://civilization.wikia.com/wiki/Gandhi_(Civ5)#AI_Traits&lt;/ref&gt;事が一部ユーザーの間で話題になっている&lt;ref&gt;http://joke-battles.wikia.com/wiki/Nuclear_Gandhi Nuclear Gandhi&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;https://www.youtube.com/watch?v=HXVc050Nank Dropping the Bomb in Civilization 6&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;https://civ6wiki.info/?FAQ/%CD%D1%B8%EC%BD%B8#ua0950d6 Civilization6 Wiki - 用語集&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> == 著作 ==<br /> *{{Cite book|和書|author=マハトマ・ガンディ|others=[[安島健]]訳|year=1922|title=逮捕下獄前後の手記|series=世界パンフレット通信 108|publisher=世界思潮研究会}}<br /> *{{Cite book|和書|author=ガンデイ|others=[[岩下三良]]訳|year=1922|title=ガンデイ論集|publisher=日本評論社}}<br /> *ガンヂー「ガンヂー論文集」[[高田雄種]]訳 、{{Cite book|和書|year=1929|title=世界大思想全集|volume=第39巻|publisher=春秋社}}<br /> *{{Cite book|和書|author=ガンヂー|others=[[高田雄種]]訳|date=1927年-1930年|title=ガンヂー全集|volume=第1-5篇|publisher=春秋社}}<br /> *{{Cite book|和書|author=マハートマ・ガンヂー|others=[[日立九馬]]訳|year=1939|title=ガンヂー死闘の叫び 不協力編|publisher=和光社}}<br /> *{{Cite book|和書|author=マハートマ・ガンヂー|others=日立九馬訳|year=1940|title=印度独立運動編|publisher=光融館書店}}<br /> *{{Cite book|和書|author=ガンヂー|others=[[金井為一郎]]訳|year=1942|title=ガンヂー自叙伝|publisher=鄰友社}}<br /> *{{Cite book|和書|author=ガンヂー|others=[[木暮義雄]]訳編|year=1942|title=ガンヂー自叙伝|publisher=羽田書店}}<br /> *{{Cite book|和書|author=ガンヂー|others=[[福永渙]]訳|year=1942|title=ガンヂーは叫ぶ|publisher=アルス}}<br /> *{{Cite book|和書|author=ガーンディー|others=[[エルベール]]編、[[蒲穆]]訳|year=1950|title=ガーンディー聖書|series=岩波文庫|publisher=岩波書店}}<br /> *{{Cite book|和書|author=ガンジー|others=[[関忠志]]訳、[[松村三冬]]絵|year=1959|title=ガンジー自伝|series=少年少女世界の本 27|publisher=実業之日本社}}<br /> *{{Cite book|和書|author=ガンジー|others=[[上笙一郎]]訳編、[[松井行正]]絵|year=1966|title=ガンジー|series=世界偉人自伝全集 5|publisher=小峰書店}}<br /> *{{Cite book|和書|author=ガンジー|others=[[K・クリパラーニー]]編、[[古賀勝郎]]訳|year=1970|title=抵抗するな・屈服するな ガンジー語録|publisher=朝日新聞社}}<br /> *{{Cite book|和書|author=マハトマ・ガンディ|others=[[森本達雄]]訳|year=1970|title=わたしの非暴力|volume=1|series=みすず叢書|publisher=みすず書房}}<br /> **{{Cite book|和書|author=マハトマ・ガンディー|others=森本達雄訳|year=1997|month=9|title=わたしの非暴力|volume=1|series=みすずライブラリー|publisher=みすず書房|isbn=4-622-05017-X}}<br /> *{{Cite book|和書|author=マハトマ・ガンディー|others=森本達雄訳|year=1971|title=わたしの非暴力|volume=2|series=みすず叢書|publisher=みすず書房}}<br /> **{{Cite book|和書|author=マハトマ・ガンディー|others=森本達雄訳|year=1997|month=9|title=わたしの非暴力|volume=2|series=みすずライブラリー|publisher=みすず書房|isbn=4-622-05018-8}}<br /> *{{Cite book|和書|author=M・K・ガンジー|others=[[岡芙三子]]訳|year=1982|month=11|title=ガンジーの健康論|publisher=編集工房ノア}}<br /> *{{Cite book|和書|author=ガンジー|others=[[蝋山芳郎]]訳|year=1983|month=6|title=ガンジー自伝|series=中公文庫|publisher=中央公論社}}<br /> **{{Cite book|和書|author=マハトマ・ガンジー|others=蝋山芳郎訳|year=2004|month=2|title=ガンジー自伝|edition=改版|series=中公文庫|publisher=中央公論新社|isbn=4-12-204330-1}}<br /> *{{Cite book|和書|author=ガンディー|coauthors=[[タゴール]]|others=[[弘中和彦]]著訳|year=1990|month=6|title=万物帰一の教育|series=世界新教育運動選書 30|publisher=明治図書出版|isbn=4-18-044000-8}}<br /> *{{Cite book|和書|author=マハトマ・ガンディー|others=[[竹内啓二]]ほか訳|year=1991|month=7|title=私にとっての宗教|publisher=新評論|isbn=4-7948-0100-9}}<br /> *{{Cite book|和書|author=M・K・ガンディー|others=[[森本達雄]]ほか訳|year=1994|month=6|title=不可触民解放の悲願|series=インドー解放の思想と文学 第6巻|publisher=明石書店|isbn=4-7503-0599-5}}<br /> *{{Cite book|和書|author=モハンダス・カラムチャンド・ガンジー|others=[[池田運]]訳|year=1998|month=1|title=ガンジー自叙伝 真理の実験|publisher=講談社出版サービスセンター|isbn=4-87601-431-0}}<br /> *{{Cite book|和書|author=M・K・ガンジー|editor=[[田畑健]]編|others=[[片山佳代子]]訳|year=1999|month=6|title=ガンジー・自立の思想 自分の手で紡ぐ未来|publisher=地湧社|isbn=4-88503-146-X}}<br /> *{{Cite book|和書|author=M・K・ガーンディー|others=[[田中敏雄]]訳注|year=2000|month=6|title=ガーンディー自叙伝 真理へと近づくさまざまな実験|volume=1|series=東洋文庫|publisher=平凡社|isbn=4-582-80671-6}}<br /> *{{Cite book|和書|author=M・K・ガーンディー|others=田中敏雄訳注|year=2000|month=6|title=ガーンディー自叙伝 真理へと近づくさまざまな実験|volume=2|series=東洋文庫|publisher=平凡社|isbn=4-582-80672-4}}<br /> *{{Cite book|和書|author=ガンディー|others=[[森本達雄]]訳|year=2001|month=3|title=わが非暴力の闘い|series=レグルス文庫 237|publisher=第三文明社|isbn=4-476-01237-X}}<br /> *{{Cite book|和書|author=ガンディー|others=森本達雄訳|year=2001|month=9|title=非暴力の精神と対話|series=レグルス文庫 238|publisher=第三文明社|isbn=4-476-01238-8}}<br /> *{{Cite book|和書|author=M・K・ガーンディー|others=田中敏雄訳|year=2001|month=9|title=真の独立への道 ヒンド・スワラージ|series=岩波文庫|publisher=岩波書店|isbn=4-00-332612-1}}<br /> *{{Cite book|和書|author=マハトマ・ガンディー|others=[[竹内啓二]]ほか訳|year=2002|month=12|title=私にとっての宗教|series=Shinhyoron selection 36|publisher=新評論|isbn=4-7948-9964-5}}<br /> *{{Cite book|和書|author=マハートマー・ガンディー|others=[[横川秀夫]]翻訳・監修|year=2003|month=9|title=神よ マハートマーガンディー詩集|publisher=インド大使館}}<br /> *{{Cite book|和書|author=M・K・ガーンディー|others=田中敏雄訳注|year=2005|month=3|title=南アフリカでのサッティヤーグラハの歴史|volume=1(非暴力不服従運動の誕生)|series=東洋文庫 736|publisher=平凡社|isbn=4-582-80736-4}}<br /> *{{Cite book|和書|author=M・K・ガーンディー|others=田中敏雄訳注|year=2005|month=5|title=南アフリカでのサッティヤーグラハの歴史|volume=2(非暴力不服従運動の展開)|series=東洋文庫 738|publisher=平凡社|isbn=4-582-80738-0}}<br /> *{{Cite book|和書|author=モーハンダース・カラムチャンド・ガンディー|others=[[森本達雄]]編訳|year=2008|month=3|title=ガンディー「知足」の精神|publisher=人間と歴史社|isbn=978-4-89007-168-5}}<br /> *{{Cite book|和書|author=M・K・ガンジー|others=[[片山佳代子]]編訳|year=2009|month=9|title=ガンジーの教育論|publisher=ブイツーソリューション|isbn=978-4-434-13513-2}}<br /> *{{Cite book|和書|author=ガンディー|others=森本達雄訳|year=2010|month=7|title=獄中からの手紙|series=岩波文庫 33-261-1|publisher=岩波書店|isbn=978-4-00-332611-4}}<br /> *{{Cite book|和書|author=ガンディー|others=[[浅井幹雄]]監修|year=2011|month=9|title=ガンディー 魂の言葉|series=太田出版|publisher=太田出版|isbn=978-4-77-831276-3}}<br /> <br /> == 脚注 ==<br /> {{脚注ヘルプ}}<br /> {{Reflist|2}}<br /> <br /> == 参考文献 ==<br /> *{{Cite book|和書|author=エリク・H・エリクソン|authorlink=エリク・H・エリクソン|others=[[星野美賀子]]訳|year=1973|title=ガンディーの真理 戦闘的非暴力の起原|volume=1|publisher=みすず書房|ref=エリクソン1973}}<br /> **{{Cite book|和書|author=エリク・H・エリクソン|others=星野美賀子訳|year=2002|month=11|title=ガンディーの真理 戦闘的非暴力の起原|edition=新装版|volume=1|publisher=みすず書房|isbn=4-622-07021-9|url=http://www.msz.co.jp/book/detail/07021.html|ref=エリクソン2002a}}<br /> *{{Cite book|和書|author=エリク・H・エリクソン|others=星野美賀子訳|year=1974|title=ガンディーの真理 戦闘的非暴力の起原|volume=2|publisher=みすず書房|ref=エリクソン1974}}<br /> **{{Cite book|和書|author=エリク・H・エリクソン|others=星野美賀子訳|year=2002|month=11|title=ガンディーの真理 戦闘的非暴力の起原|edition=新装版|volume=2|publisher=みすず書房|isbn=4-622-07022-7|url=http://www.msz.co.jp/book/detail/07022.html|ref=エリクソン2002b}}<br /> *{{Cite book|和書|author=ロベール・ドリージュ|authorlink=ロベール・ドリージュ|others=[[今枝由郎]]訳|year=2002|month=12|title=ガンジーの実像|sereis=文庫クセジュ|publisher=白水社|series=文庫クセジュ|isbn=4-560-05858-X|ref=ドリージュ2002}}<br /> *{{Cite book|和書|author=長崎暢子|authorlink=長崎暢子|year=1989|month=10|title=インド独立 逆光の中のチャンドラ・ボース|publisher=朝日新聞社|isbn=4-02-256048-7|ref=長崎1989}}<br /> *{{Cite book|和書|author=ヴェド・メータ|authorlink=ヴェド・メータ|others=[[植村昌夫]]訳|year=2004|month=12|title=ガンディーと使徒たち 「偉大なる魂」の神話と真実|publisher=新評論|isbn=4-7948-0648-5|ref=メータ2004}}<br /> *{{Cite book|和書|author=ドミニク・ラピエール|authorlink=ドミニク・ラピエール|coauthors=[[ラリー・コリンズ]]|others=[[杉辺利英]]訳|year=1981|month=12|title=今夜、自由を インド・パキスタンの独立|series=ハヤカワ文庫 NF 74|volume=上|publisher=早川書房|isbn=4-15-050074-6|ref=ラピエール1981a}}<br /> *{{Cite book|和書|author=ドミニク・ラピエール|coauthors=ラリー・コリンズ|others=杉辺利英訳|year=1981|month=12|title=今夜、自由を インド・パキスタンの独立|series=ハヤカワ文庫 NF 75|volume=下|publisher=早川書房|isbn=4-15-050075-4|ref=ラピエール1981b}}<br /> <br /> == 関連項目 ==<br /> {{commons&amp;cat|Mohandas K. Gandhi|Mohandas K. Gandhi}}<br /> {{Wikiquote|マハトマ・ガンジー}}<br /> * [[ガンディー主義]]([[:en:Gandhism]])<br /> * [[菜食主義]]<br /> * [[著名なベジタリアンの一覧]]<br /> * [[ジャワハルラール・ネルー]]<br /> * [[ラース・ビハーリー・ボース]]<br /> * [[スバス・チャンドラ・ボース]]<br /> * [[ムハンマド・アリー・ジンナー]]<br /> * [[ルイス・マウントバッテン]]<br /> * [[ビームラーオ・アンベードカル]] ({{Lang|en|B. R. Ambedkar}})<br /> * [[自由インド仮政府]]<br /> * [[アジア主義]]<br /> * [[フィリップ・グラス]](彼の生涯を[[オペラ]]化した、[[アメリカ合衆国]]の[[作曲家]])<br /> * [[糸車#インドのチャルカ|糸車 (チャルカ)]]<br /> * [[ボノ]]([[U2]])<br /> <br /> == 外部リンク ==<br /> * {{青空文庫著作者|1277|ガンジー マハトマ}}<br /> <br /> {{社会哲学と政治哲学}}<br /> {{Normdaten}}<br /> {{Portal bar|アジア|イギリス|政治学|哲学|平和|ヒンドゥー教|人物伝}}<br /> {{デフォルトソート:かんていい まはとま}}<br /> [[Category:マハトマ・ガンディー|*]]<br /> [[Category:非暴力]]<br /> [[Category:インド史の人物]]<br /> [[Category:インドの政治家]]<br /> [[Category:インドの弁護士]]<br /> [[Category:インドの人権活動家]]<br /> [[Category:暗殺された政治家]]<br /> [[Category:インドの紙幣の人物]]<br /> [[Category:菜食主義者]]<br /> [[Category:トルストイアン]]<br /> [[Category:ガンディー主義者|*]]<br /> [[Category:反出生主義者]]<br /> [[Category:死刑廃止論者]]<br /> [[Category:現代インドの哲学者]]<br /> [[Category:19世紀の哲学者]]<br /> [[Category:20世紀の哲学者]]<br /> [[Category:グジャラート州出身の人物]]<br /> [[Category:1869年生]]<br /> [[Category:1948年没]]</div> 180.197.52.159 家族 2018-06-26T18:07:42Z <p>180.197.52.159: ミス修正</p> <hr /> <div>{{Otheruses}}<br /> {{独自研究|date=2016年5月4日 (水) 23:35 (UTC)}}<br /> [[ファイル:Condon family portrait in Greece 1895.jpg|thumb|right|200px|19世紀のある[[ギリシャ人]]一家([[1895年]])]]<br /> [[File:Basankusu_-_typical_fired_brick_house.jpg|thumb|right|200px|[[コンゴ]]の家族。(2007年)]]<br /> [[File:FamiliaOjeda.JPG|thumb|right|200px|両親の50回目の[[結婚記念日]]を祝うために2007年9月に[[スペイン]]の修道院前に集い写真をとった、11人の子供と20人の孫。[[大家族]]。]]<br /> {{人間関係}}<br /> 本項目では&#039;&#039;&#039;家族&#039;&#039;&#039;(かぞく、独: Familie、仏: famille、英: family)について解説する。<br /> <br /> == 概説 ==<br /> 「家族」や「family」 といった言葉には、いくつかの意味がある。<br /> <br /> 以下、辞書類の解説から紹介する。<br /> <br /> Oxford Dictionaries では、英語の「family」に関して、大きく分けて3つの意味を挙げている。<br /> :1 ふた[[親]]とその[[子]]たちで、ひとまとまり(ひとつの単位)として一緒に暮らしているものたち<br /> ::1.1 血縁や結婚によって関係づけられた人々<br /> :2 共通の[[先祖]]を持つ全ての人々<br /> :3 関連性のあるものごと<br /> 広辞苑では「家族」の解説文としては、「夫婦の[[婚姻|配偶関係]]や 親子・兄弟の[[血縁]]関係によって結ばれた親族関係を基礎にして成立する小集団」としている。<br /> <br /> 大辞泉では、「[[夫婦]]とその血縁関係者を中心に構成され、共同生活の単位となる集団」としている。<br /> <br /> 家族とは、[[婚姻]]によって結びつけられている夫婦、およびその夫婦と血縁関係のある人々で、ひとつのまとまりを形成した集団のことである。婚姻によって生じた夫婦関係、「産み、産まれる」ことによって生じた親と子という血縁関係、血縁関係(など)によって(直接、間接に)繋がっている親族関係、また[[養子]]縁組などによって出来た人間関係 等々を基礎とした小規模な[[共同体]]が、家族である。<br /> <br /> ひとくちに「家族」や「family」と言っても、上記の辞書類の説明でも分かるように、同居していることを家族の要件に挙げている場合もあれば、そうでない場合(つまり、同居は要件でない場合)もある。<br /> <br /> 「家族」の指す範囲がかなり広くて人数が数十人以上におよぶ地域や国がある。(ちょっとした事情で)自分の子を自分の兄弟や叔父・叔母などに預けて育ててもらうといったことなどが当たり前のように頻繁に行われていて相互に人的交流があり、従兄弟でも([[又従兄弟]]などでも)人間関係が濃厚で 互いに助け合い、広い人間関係がひとつの強い共同体として機能している国・地域もある。こうした人間関係のありかたの場合、「家族」の人数は数十人、場合によっては百人を越える規模になる。[[中東]]などはそうである。また中国でも、[[客家]]のように、ひとつの大きな(円形の)家屋に数百人の親族や夫婦が共同生活を送っていて、そこにいる大人 全員で子供の生育を見守るなど、ひとつの大きな家族として機能している場合もある。<br /> <br /> == 家族の類型 ==<br /> === 形態によるもの ===<br /> *単一家族 - ひとつの世帯家族だけのもの<br /> *複合家族 - 複数の世帯からなる家族<br /> <br /> === 家族の一員による分類 ===<br /> *[[核家族]] - 夫婦+その子供<br /> *直系家族 - 長男など家系を継ぐ子供の家族に親が同居 <br /> *複合家族 - 親戚や子供の配偶者とその子供(おじ・おばやいとこ等)と同居<br /> <br /> === リヒターによる病的な家族 ===<br /> ドイツの[[精神科医]]ホルスト・エバーハルト・リヒター([[:de:Horst-Eberhard Richter]])はその著『病める家族―家族をめぐる神経症の症例と治療』(佑学社 [[1976年]])において、患者の家族を以下のように類型化した。<br /> *劇場家族 - よい家族をお芝居のように演じている家族<br /> *要塞家族 - 自分たち以外はすべて敵とみなし、対抗することで絆を確認する家族<br /> *サナトリウム家族 - 互いに傷を舐めあうような家族<br /> <br /> === 小此木啓吾による家族 ===<br /> 精神科医の[[小此木啓吾]]は家族の心的問題に焦点を当てて次のように類型化している(『家族のない家庭の時代』ちくま文庫 [[1992年]])。<br /> *コンテナ家族 - 容量が大きく、社会のストレス、不満を持ち帰っても、それを受容し、癒してくれるような家族<br /> *ホテル家族- みんながそれぞれにお客のつもりで、サービスされることだけを求め、他人のために汗を流そうとしない家族<br /> <br /> === その他の家族分類概念 ===<br /> *生殖家族(family of procreation) - 人間が選択(配偶者や子供数の)によって構成した家族 <br /> *定位家族(family of orientation) - 子供を社会に送り出す側面に注目した家族概念<br /> <br /> == 西欧における家族 ==<br /> &lt;!--[[File:Carl_J._Sandberg,_Emma_Jävert_Sandberg_%26_family_c_1902.jpg|thumb|right|200px|スウェーデンの一家族。1902年]]--&gt;<br /> [[キリスト教]]の成立とその広まりとともに、[[教会]]を介在した[[結婚]]や、聖母マリア像に象徴される[[育児]]などが教えの中核をなしていった。<br /> <br /> 「家族のきずなが強調された」、「外で働く男たちとは対照的に[[主婦]]がその暮らしの中心をなしていた。」<br /> <br /> 現在の西欧文化においても、「家族」は市民生活の中でもっとも重要なテーマとなっている。<br /> <br /> ;イタリア<br /> 一般に、[[イタリア]]の家庭ではマンマ(=「母ちゃん」、母親)が一家の中心に位置しており、一家の最重要人物だ、と考えられている。[[台所]]や[[洗濯場]]はマンマの「[[城]]」だと考えられており、料理は(たとえ男のほうがしたがったとしても)絶対に男には手出しさせない(男たちは、マンマの城である台所や洗濯場に自分がしゃしゃり出て入ったりしてはいけないものなのだ、と子供のころから母親や父親によって教え込まれ、そう考えている。)。イタリアでは家族は、できるだけ定期的に集い、テーブルを囲み、マンマ自慢の料理(トマト味の[[パスタ]]や[[ニョッキ]] 等々)を家族で堪能し、「やっぱりマンマの味は世界一だ」と家族全員で褒める。<br /> マンマが絶対で、男たちは(夫も息子たちも)マンマには頭があがらない。たとえば、、一般の人々には恐れられている、こわもてのマフィアの男、警察のことすら恐れない男ですら、マンマのことだけは恐れている、マンマにだけは逆らえない、としばしば言われている。お嫁さんは、マンマの味(調理法、料理の味付け)を教わることで、姑と嫁の関係を結び、次世代のマンマとして息子の家庭で君臨することになる。<br /> <br /> ;フランス<br /> [[フランス人]]は、家族の人間関係の中であくまで &lt;u&gt;夫婦関係が最優先事項&lt;/u&gt;と考える傾向がある。たとえ夫婦となり家族となっても、男と女の関係、特に [[恋愛]]めいた男女の心の関係をもつこと、が最重要事項と考えるのである。フランス人は、子供を家族の中心事項にはしない。あくまで夫婦を最重要とし、子供の優先順位はその下である。子供は、赤ちゃんの時点から、夫婦とは別室で寝させ、絶対に夫婦が寝ている部屋では寝させない。子供に対しては、赤ちゃんの時から、独りでいることに慣れてもらうべきで、そのほうが幸せになれる、と考えており、《個》つまり個人としてのしっかりした人格が確立することを望む&lt;ref group=&quot;注&quot; name=&quot;:0&quot;&gt;フランスでは、日本のように親子が「川の字」で寝る、などという概念はフランス人には、はなから、まったく無い。もしも、フランス人が日本で親子がひと部屋で「川の字」で寝ている、などという実態を聞くような機会があると、非常に驚き、「そんなことをしては絶対にダメだ(ダメよ)」と、真剣に、猛烈に反対する。&lt;/ref&gt;。 家族の中での料理の担当者に関しては、18~19世紀のフランスでは女性がするのが当然視されていたが、近年のフランスでは(イタリアの典型的夫婦とは異なり)夫がキッチンに立って調理に参加したり、また、夫のほうが主導して料理をするような夫婦はそれなりにいる。<br /> <br /> ;類型をめぐる学問的対立<br /> <br /> M・アンダーソン&lt;!--詳細なプロフィールは以下のページにあるhttps://www.ed.ac.uk/history-classics-archaeology/about-us/staff-profiles/profile_tab1_academic.php?uun=anderson&amp;search=3&lt;nowiki/&gt;、[https://www2.le.ac.uk/offices/press/for-journalists/graduation-ceremonies-1/july-2014/biographies/professor-michael-anderson-doctor-of-letters https://www2.le.ac.uk/offices/press/for-journalists/graduation-ceremonies-1/july-2014/biographies/professor-michael-anderson-doctor-of-letters--&gt;は「今日の[[社会学]]では、たとえば「[[家父長制]]」という概念を説明するために、『些細な事実』を集積してきて類型化してしまいがちである。しかし単一の家族制度などは現実には存在せず、どの地域でも、あるいは歴史上のどの時点でも、家族類型などは存在しない」と説いた&lt;ref&gt;M・アンダーソン著『家族の構造・機能・感情』&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> [[エマニュエル・トッド]]は[[:fr:Frédéric_Le_Play|フレデリック・ル・プレー]]&lt;nowiki/&gt;によって見出された家族類型というものがブリコラージュ(やっつけ仕事)であること認めつつ、完璧に一貫性ある類型体系を先験的に定義するのは不可能でもあれば無用でもあり、ほかの変数との対応関係に置くことができる形で記述するのを可能にする限りにおいて、類型化に意義があるとした。&lt;ref&gt;家族システムの起源(上) 〔I ユーラシア〕p108&lt;/ref&gt;<br /> <br /> == 日本 ==<br /> [[ファイル:Hosokawa family 1957.jpg|thumb|right|200px|日本の とある家族 ([[1957年]])]]<br /> 日本では[[明治時代|明治]]・[[大正時代|大正]]期は、夫婦が多くの子をつくり(「子沢山」)、親たちと同居し、大家族の割合が高かったが、[[昭和]]期には夫婦とその子だけで成る[[核家族]]、小家族の割合が増えた(つまり、ある夫婦から見て夫や妻の親とは住まない割合、あるいはある夫婦から見て、孫と一緒に暮らさない割合が増えた)。その後、そうした形態の家族の様々な弊害が認識されるようになり、ひとつの家屋の1階2階に分かれて微妙な「近さ」と「距離」を保ちつつ暮らす人々も増えるなど、家族の多様化や 家族の線引きの曖昧化が進んでいる。<br /> <br /> ;家族団欒、一家団欒<br /> &lt;!--[[File:Awaji_Minshuku_1980_Funase_Img345.jpg|thumb|right|200px|民宿に泊まり、一緒に食事をする家族。(1980年)]]--&gt;<br /> 広辞苑では「集まってなごやかに楽しむこと」と説明されている。家族で、一緒に[[食事]]をしたり、談笑するなどして、なごやかに、楽しくすごすことである。「なごやかに」とあるように、[[喧嘩]]をしている状態や険悪な雰囲気では「家族団欒」ではないわけである。たとえば、冬には一緒に炬燵に入り、ひとつの[[鍋]]を家族でつつく、などといったイメージがある。<br /> 日本では昭和期・平成期に核家族や独身者が増え、ひとりひとりの生活リズムもバラバラになり、[[孤食]]化も進み、家族団欒が失われた。[[正月]]や[[彼岸]]には帰省して、ほんの数日間(普段はしていない)「家族団欒」を意識的に作り出そう、などということが行われるようになっている。<br /> <br /> ;家族旅行<br /> 戦前から家族旅行は比較的裕福な市民において行われていたが、戦後の[[高度成長期]]には裾野が広がり、[[庶民]]の家庭においても家族で旅行することが定着した。社団法人日本旅行業協会が公表した統計では、『成人するまでに20回以上、つまり平均して年に1回以上[[家族旅行]]に行った人は、「我慢強い」「思いやりがある」「協調性がある」「社交的である」等、周囲とのコミュニケーションや気配りに長けている傾向が強い』という結果となっている[http://www.jata-net.or.jp/tokei/anq/010709kizuna/index.htm]。<br /> <br /> === 家族に関するメディア報道 ===<br /> 一部の家族が[[機能不全家庭|機能不全状態]]にあるという意識の広まりと共に、家庭での[[ドメスティックバイオレンス]]、[[児童虐待]]などの事件がマスメディアを賑わすことが日常化している。これらの問題はどの時代にもあり、件数的には現代ではむしろ減少しているが、報道は増加している。近年は家庭内の暴力を人権問題として社会問題ととらえる傾向がある。増加する高齢者人口と在宅での[[高齢者看護]]などと共に、家族をめぐる社会問題が報道されている。<br /> <br /> 家族をめぐるメディア報道においては、現代の離婚件数が昔より増加しているかのような言論や(明治期の離婚は現代の1.5倍の件数であった)、「家族の終焉」といった、歴史的に見て適切ではない言説がなされる場合がある[http://mazzan.at.infoseek.co.jp/lesson1.html](参考文献:湯沢雍彦著『明治の結婚 明治の離婚―家庭内ジェンダーの原点』)。<br /> <br /> === フェミニズムの視点から見た日本の家族形態の変化 ===<br /> 特に[[フェミニズム]]においては、[[家父長制]]という概念を通して家族の歴史がたどられる。[[リサ・タトル]](米国、1952年生)著『フェミニズム事典』([[明石書店]])では「家族は、家父長制と女性に対する[[抑圧]]を存続させる主要な[[制度]]である」との説明を採用している。<br /> <br /> ;戦前から終戦までの歴史と変容<br /> [[戦前]]の日本の家族は[[家制度]]に基盤をおき、地域社会はもとより国家とつながる「イエ」を形作っていた。「家制度」は「家」と「[[家父長制]]」の二つを大きな要素としていた。「イエ」という親族集団の一体的結合と継続的発展を重視し、家族の人々を「イエ」に従属する存在とみなした。家父長権の相続(家督相続)、本家・分家などの階層性、それらを対外部的にひとまとまり(ウチ)としてとらえる心性・制度であった。なお、日本では戦前から比較的小規模な[[核家族]]が最も一般的な家族形態であり、戦前の農村では[[大家族]]制度が主流であったという認識は(一部の地域を除き)誤りである。<br /> <br /> ;終戦から1950年代まで<br /> [[太平洋戦争]]の終戦を機に民法の改正により家制度は廃止された。経済復興と給与労働者の増加により家庭は家内労働の場という側面が薄まり、家庭の教育的役割が強調されていく。<br /> <br /> ;現代<br /> [[1950年代]]以降(高度経済成長期)の家族変動の最も顕著なものは同居親族数が減少したこと、および共同体の力の減退に伴って家族の基盤に変容が生じたこと、の二つの特徴があげられる。多数の人口が農村から都市へ移動し、兄弟の数も減った。戦後社会で育った子供たちはすでに中年から高齢にさしかかり、不況の中で社会から孤立する者が急速に増え[[無縁社会]]という言葉まで生まれた。<br /> <br /> 1980年代以降は、夫婦の[[共働き]]も一般化しつつある。それによって[[育児]]や[[子育て]]が保育園や[[学童クラブ]]、地域の野球やサッカー、[[スイミングスクール]]などの[[スポーツクラブ]]、[[学習塾]]などに一時的に委託されることも増え、[[性別役割分業]]の見直しが進みつつある。また、[[高齢化社会]]に伴う老親の[[扶養]]の問題も深刻化してきた。<br /> <br /> また、女性の社会進出にともない、女性が旧姓を通称として用いることが多くなってきたほか、選択的[[夫婦別姓]]制度導入などを求める声も大きくなって来ている。<br /> <br /> {{see also|夫婦別姓}}<br /> <br /> == 動物の家族 ==<br /> 家族に類する集団を作る[[動物]]もある。ある動物が次のような集団を作っている場合、それを家族と呼ぶことがある。<br /> #配偶ペアがある程度以上の期間にわたって維持されること。<br /> #この組がそれらの子の世話をある程度以上行うこと。<br /> <br /> 配偶ペアが長期にわたって維持される例はあるが、それだけを以て家族ということはない。また、単独の親が子育てする例もこれを家族と言わない。もちろん、より文学的表現でそれらをも家族という語を使う例はままある。<br /> <br /> 上記のような範囲で家族を構成する動物は[[鳥類]]に例が多い。[[哺乳類]]では[[タヌキ]]や[[キツネ]]などいくつかの例がある。いくつかの鳥類では前年の雛が巣に残って子育てを手伝う。これを[[ヘルパー]]と言う。<br /> <br /> [[節足動物]]にもかなり例がある。いわゆる[[社会性昆虫]]は実のところ一頭ないし一組の生殖個体とその子で構成されており、非常に巨大ながら家族集団である。ただし[[ハチ]]と[[アリ]]の場合、雌が単独で巣作りをするから先の定義から外れる。[[シロアリ]]は夫婦で巣作りするのでこれは家族扱いできる。他に家族的集団や親子集団を形成するものもあり、それらは社会性昆虫の[[進化]]との関連でも注目される。<br /> <br /> == 家族をテーマにした作品 ==<br /> === 映画 ===<br /> 家族を描いた作品は数多く存在する。その中でも映画史に残る名作や問題作として以下の4作がある。<br /> {| class=&quot;wikitable&quot;<br /> |-bgcolor=azure<br /> !題名<br /> !制作年<br /> !内容<br /> |-<br /> |[[東京物語]]<br /> |1953<br /> |独立した子供とその親の絆の喪失<br /> |-<br /> |[[ゴッドファーザー]]<br /> |1972<br /> |強い父とその家督を継ぐ三男<br /> |-<br /> |[[クレイマー、クレイマー]]<br /> |1979<br /> |離婚した男女とその一人息子<br /> |-<br /> |[[アメリカン・ビューティー]]<br /> |1999<br /> |娘の友人に恋する無様な父<br /> |}<br /> <br /> ;日本<br /> * [[家族ゲーム]] - [[森田芳光]]監督([[1983年]])<br /> * [[家族 (映画)|家族]] - [[山田洋次]]監督<br /> * [[異人たちとの夏]] - [[大林宣彦]]監督<br /> * [[折り梅]] - [[松井久子]]監督<br /> * [[萌の朱雀]] - [[河瀬直美]]監督<br /> <br /> === テレビドラマ ===<br /> *『[[パパは何でも知っている]]』(原題:Father Knows Best)全203話([[1954年]]-[[1960年]])アメリカのNBC放送とCBS放送で放送され、人気を博した[[ロバート・ヤング]][[主演]]のテレビドラマ。<br /> *『[[奥さまは魔女 (テレビドラマ)|奥様は魔女]]』全254話([[1964年]]-[[1972年]])[[エリザベス・モンゴメリー]]主演で放送され、大ヒットした[[コメディー]][[テレビドラマ]]。<br /> *『[[大草原の小さな家]]』([[1974年]]-[[1982年]]。アメリカ合衆国のテレビドラマシリーズ)<br /> *『[[ファミリータイズ]]』全176話([[1982年]]-[[1989年]])主演の[[マイケル・J・フォックス]]はこのシリーズでエミー賞のコメディー部門主演男優賞を[[1986年]]から3年連続受賞した。<br /> <br /> ;日本<br /> *『[[七色とんがらし]]』([[1976年]]) [[千葉真一]]主演で[[東京]]・[[下町]]の鉄工所を舞台に家族の人間模様・絆を描いている。<br /> * 『[[北の国から]]』(1981年から2002年)[[北海道]][[富良野市]](主に麓郷地区)を舞台にした[[フジテレビジョン]]制作のテレビドラマ。アメリカ合衆国のテレビドラマ『大草原の小さな家』をヒントにしたものと言われる。<br /> <br /> === 漫画 ===<br /> *[[長谷川町子]]『[[サザエさん]]』(漫画:[[1946年]]~[[1974年]]、テレビ放映:フジテレビにて[[1969年]]から現在まで)<br /> *[[深見じゅん]]『[[ぽっかぽか]]』集英社 [[1995年]]8月 ISBN 4087850013<br /> *[[柴門ふみ]]『[[家族の食卓]]』<br /> *[[けらえいこ]]『[[あたしンち]]』(漫画:[[1994年]]~[[2013年]]、テレビ放映:テレビ朝日にて[[2002年]]から[[2009年]]まで)<br /> *[[臼井儀人]]『[[クレヨンしんちゃん]]』(漫画:[[1990年]]~[[2010年]]:テレビ朝日にて[[1992年]]から現在まで)<br /> *[[松本ぷりっつ]]『[[うちの3姉妹]]』(漫画:[[2005年]]から現在:テレビ東京、USF局にて[[2007年]]から[[2010年]]まで)<br /> *さくらももこ『ちびまる子』<br /> <br /> == 多言語との関連 ==<br /> 江戸時代末期以降、日本人によって欧米語が翻訳・考案された和製熟語(和製漢語)は、明治時代前後から近代語彙の不足していた朝鮮語に多く取り入れられた。和製熟語である「家族」に相当する言葉が無かった朝鮮語に取り入れられ、現在の韓国においても家族(カジョク)と発音され使用されるに至っている。中国語においても同様に、和製熟語は中国語の近代語彙の不足を補った。多くの和製熟語と同様に「家族」も中国語として使用されている。<br /> <br /> == 脚注 ==<br /> {{脚注ヘルプ}}<br /> === 注釈 ===<br /> {{Reflist|group=&quot;注&quot;}}<br /> === 出典 ===<br /> {{Reflist}}<br /> <br /> == 関連文献 ==<br /> *[[岩村暢子]]著『&quot;現代家族&quot;の誕生―幻想系家族論の死』勁草書房(2005-06-27)ISBN 4326653051<br /> *[[八杉竜一]]著『岩波生物学辞典 第4版』岩波書店(1996/03)ISBN 4000800876<br /> * 比較文明学会・編 『比較文明14--文明と家族』 刀水書房(1998/11)ISBN 9784887082342<br /> <br /> == 関連項目 ==<br /> {{Commonscat|Family}}<br /> {{wiktionary}}<br /> === 家族に関連する用語・概念 ===<br /> * [[家庭]] - [[食生活]] - [[就寝形態]]<br /> <br /> ;法規、法規上の概念<br /> * [[親族法]] - [[相続法]] (-[[家族法]])<br /> * [[婚姻]]、[[親族]] - [[戸籍]] -[[世帯]]<br /> * [[親権]] -[[扶養義務]]<br /> <br /> ;社会学やジェンダー論などの概念<br /> * [[家制度]] - [[家父長制]] - [[系譜|家系]] <br /> * [[母性]] - [[父性]]<br /> <br /> === 家族にかかわる出来事 ===<br /> * [[結婚]] - [[婚約]] - [[結婚式]] - [[披露宴]] - [[新婚旅行]] <br /> <br /> ;家庭経済、収入<br /> * [[家計]]<br /> * [[主婦]]/[[主夫]] - [[専業主婦]]/[[専業主夫]]<br /> * [[共働き]] - [[DINKs]] - [[ワーキングプア]]<br /> <br /> ;子供<br /> * [[しつけ]]<br /> * [[待機児童]] - [[保活]] -[[保育所]] - [[幼稚園]]<br /> * [[教育]] -[[家庭教育]] [[ホームスクーリング]] -[[学校]] - [[学芸会]] - [[運動会]] - [[PTA]]<br /> <br /> ;老人<br /> * [[老化]]、[[介護]]<br /> <br /> ;[[年中行事]]<br /> *[[正月]] - [[雛祭り]] - [[端午の節句]] -[[七五三]] - [[お盆]] - [[クリスマス]]<br /> <br /> === 家族にかかわる問題 ===<br /> * [[晩婚化]] - [[少子化]]<br /> * [[家庭内暴力]] - [[ドメスティックバイオレンス]] - [[児童虐待]] - [[非行]] - [[少年犯罪]] - [[近親相姦]]<br /> * [[事実婚]] - [[シングルマザー]] - [[婚外子]] <br /> * [[不倫]] - [[愛人]]<br /> * [[親子喧嘩]]<br /> * [[単身赴任]] <br /> * [[夫婦喧嘩]] - [[セックスレス夫婦]]<br /> * [[夫婦別姓]]<br /> * [[三歳児神話]] - [[公園デビュー]] - [[お受験]] <br /> * [[高齢者介護]]<br /> <br /> === 家族に関連する研究 ===<br /> {{人類学}}<br /> * [[教育学]] - [[教育心理学]]<br /> * [[心理学]] - [[青年心理学]] - [[発達心理学]] - [[家族心理学]] - [[家族療法]] <br /> * [[社会学]] - [[家族社会学]] - [[女性学]]/[[男性学]]<br /> * [[経済学]]<br /> * [[文化人類学]]- [[就寝形態]]<br /> <br /> == 外部リンク ==<br /> [[ファイル:Family by Edwina Sandys.JPG|thumb|right|100px|「Family」と題された像]]<br /> * [http://wdc-jp.com/jsfs/ 日本家族社会学会]<br /> {{家族}}<br /> {{デフォルトソート:かそく}}<br /> [[Category:家族|*]]<br /> [[Category:家庭]]<br /> [[Category:人の一生]]<br /> [[Category:人間関係]]</div> 180.197.52.159
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