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http:///mymemo.xyz/wiki/api.php?action=feedcontributions&user=163.44.28.161&feedformat=atom miniwiki - 利用者の投稿記録 [ja] 2024-05-22T07:12:00Z 利用者の投稿記録 MediaWiki 1.31.0 グレゴリウス15世 (ローマ教皇) 2017-02-08T20:57:06Z <p>163.44.28.161: </p> <hr /> <div>{{出典の明記|date=2016-10-09}}<br /> {{infobox 教皇<br /> | 日本語名 = グレゴリウス15世<br /> | タイトル = 第234代 ローマ教皇<br /> | 画像 = [[ファイル:Guercino - Pope Gregory XV (ca. 1622-1623) - Google Art Project.jpg|150px|グレゴリウス15世]]<br /> | 画像説明 = <br /> | 就任 = 1621年2月9日<br /> | 離任 = 1623年7月8日<br /> | 先代 = [[パウルス5世 (ローマ教皇)|パウルス5世]]<br /> | 次代 = [[ウルバヌス8世 (ローマ教皇)|ウルバヌス8世]]<br /> | 司祭 = <br /> | 司教 = <br /> | その他 = <br /> | 本名 = Alessandro Ludovisio<br /> | 生年月日 = 1554年1月9日<br /> | 生地 = [[教皇領]]、[[ボローニャ]]<br /> | 没年月日 = 1623年7月8日<br /> | 没地 = 教皇領、[[ローマ]]<br /> | 埋葬地 = <br /> | 原国籍 = <br /> | 宗派 = <br /> | 居住地 = <br /> | 親 = <br /> | 妻 = <br /> | 子 = <br /> | 母校 = <br /> | 署名 = <br /> | 曖昧 = グレゴリウス<br /> }}<br /> <br /> &#039;&#039;&#039;グレゴリウス15世&#039;&#039;&#039;(&#039;&#039;&#039;Gregorius XV&#039;&#039;&#039;, [[1554年]][[1月9日]] - [[1623年]][[7月8日]])は[[教皇|ローマ教皇]](在位:[[1621年]] - 1623年)。本名は&#039;&#039;&#039;アレッサンドロ・ルドヴィシオ&#039;&#039;&#039;(&#039;&#039;&#039;Alessandro Ludovisio&#039;&#039;&#039;)。<br /> <br /> [[ボローニャ]]出身のグレゴリウス15世は前任者達と異なり、[[プロテスタント]]に対する[[神聖ローマ帝国]]皇帝の支援や、[[オスマン帝国]]に対する[[ポーランド王国|ポーランド]]王の支援などのわずかな例外を除いてヨーロッパの政治に対してはほとんど干渉しようとしなかった。彼は学問を好み、教会改革の意欲にあふれた有徳の聖職者であった。在位中の事跡で特に有名なものは、[[フランシスコ・ザビエル]]、[[イグナチオ・デ・ロヨラ]]、[[アビラのテレサ]]、[[フィリッポ・ネリ]]といった聖徳の誉れ高い人々を[[列聖]]したことであった。1623年7月に亡くなると、[[ウルバヌス8世 (ローマ教皇)|ウルバヌス8世]]がその後を継いだ。<br /> <br /> == 関連項目 ==<br /> * [[バチカン図書館]]<br /> <br /> {{ローマ教皇|第234代:1621年 - 1623年}}<br /> {{デフォルトソート:くれこりうす15}}<br /> [[Category:教皇]]<br /> [[Category:ボローニャ出身の人物]]<br /> [[Category:1554年生]]<br /> [[Category:1623年没]]</div> 163.44.28.161 ダニエル・ベルヌーイ 2017-02-08T20:55:23Z <p>163.44.28.161: /* 生涯 */</p> <hr /> <div>{{Infobox scientist<br /> |name = ダニエル・ベルヌーイ<br /> |image = Danielbernoulli.jpg<br /> |image_width = <br /> |alt = <br /> |caption = <br /> |birth_name = <br /> |birth_date = {{生年月日と年齢|1700|2|8|no}}<br /> |birth_place = {{NLD1581}} [[フローニンゲン]]<br /> |death_date = {{死亡年月日と没年齢|1700|2|8|1782|3|17}}<br /> |death_place = {{CHE}} [[バーゼル]]<br /> |death_cause = <br /> |residence = &lt;!-- 居住 --&gt;<br /> |citizenship = &lt;!-- 市民権 --&gt;<br /> |nationality = &lt;!-- 国籍 --&gt;<br /> |field = [[数学]]、[[植物学]]、[[物理学]]、[[医学]]<br /> |workplaces = [[ロシア科学アカデミー|サンクトペテルブルク科学アカデミー]]、[[バーゼル大学]]<br /> |alma_mater = [[バーゼル大学]]<br /> |doctoral_advisor = &lt;!-- 博士課程指導教員 --&gt;<br /> |academic_advisors = &lt;!-- 他の指導教員 --&gt;<br /> |doctoral_students = &lt;!-- 博士課程指導学生 --&gt;<br /> |notable_students = &lt;!-- 他の指導学生 --&gt;<br /> |known_for = [[ベルヌーイの定理]]&lt;br /&gt;[[気体分子運動論]]の先駆&lt;br /&gt;[[熱力学]]<br /> |influences = &lt;!-- 影響を受けた者 --&gt;<br /> |influenced = &lt;!-- 影響を与えた者 --&gt;<br /> |awards = &lt;!-- 主な受賞歴 --&gt;<br /> |author_abbreviation_bot = &lt;!-- 命名者名略表記(植物学) --&gt;<br /> |author_abbreviation_zoo = &lt;!-- 命名者名略表記(動物学) --&gt;<br /> |signature = Daniel Bernoulli Signature.svg<br /> |signature_alt = <br /> |footnotes = 父:[[ヨハン・ベルヌーイ]]。[[伯父]]:[[ヤコブ・ベルヌーイ]]。<br /> }}<br /> &#039;&#039;&#039;ダニエル・ベルヌーイ&#039;&#039;&#039;(&#039;&#039;&#039;Daniel Bernoulli&#039;&#039;&#039;, [[1700年]][[2月8日]] - [[1782年]][[3月17日]])は、[[スイス]]の[[数学者]]・[[物理学者]]。<br /> <br /> == 生涯 ==<br /> スイス・[[バーゼル]]出身の数学者・物理学者である父の[[ヨハン・ベルヌーイ]]が、[[オランダ]]・[[フローニンゲン大学]]在任中に、同地で生まれた。<br /> <br /> 3人兄弟の2番目で、兄ニコラウス2世、弟ヨハン2世も後、数学者・物理学者となった。ダニエルが5歳のとき、[[バーゼル大学]]にいた伯父の数学者[[ヤコブ・ベルヌーイ]]が死去し、父ヨハンがその後任となり、家族でバーゼルへ帰って来た。<br /> <br /> ダニエルは[[ベルヌーイ家]]の中では最も才能があり有望であった。そのためか彼と父との関係には緊張が絶えなかった。ヨハンは当初ダニエルを実業家にしようとしたが、ダニエルは数学・物理学に強い関心を持ち、13歳でバーゼル大学へ入り、15歳で学士試験に受かり、16歳で修士号を取得した。<br /> <br /> しかし、ヨハンの反対で数学へ進むことができず、[[ハイデルベルク]]、[[ストラスブール|シュトラスブルク]]、バーゼルで医学を学んで、1721年に、エネルギー保存則を応用した呼吸のメカニズムについて博士論文をまとめた。<br /> <br /> ダニエルは[[バーゼル大学]]ではポストが得られず、医学の実務的な研修のために[[ヴェネツィア]]へ移った。ヴェネツィアでは、1724年に最初の著作「数学演習」を[[クリスティアン・ゴルトバハ]]の協力を得て出版し、また航海用の砂時計を設計した。その航海用砂時計は、[[1725年]]に[[パリ・アカデミー賞]]を受賞した。<br /> <br /> これらの実績をもとに、ダニエルは兄ニコラウス2世とともに、[[ロシア]]・[[ロシア科学アカデミー|サンクトペテルブルク科学アカデミー]]の数学のポストを得て、1725年からロシアの[[サンクトペテルブルク]]へ移ったが、兄はその8ヵ月後に死去した。<br /> <br /> その後[[1727年]]に、父ヨハンの手配でヨハンの弟子であった同郷の[[レオンハルト・オイラー]]が同科学アカデミーへ移り、1733年まで助け合いながら生産的な研究を行った。<br /> <br /> この間のダニエルの研究は、カテナリ(懸垂)曲線、弦の振動、経済理論への確率の応用、および著書流体力学執筆(後年に出版)等々であった。ダニエルは[[1733年]]にサンクトペテルブルクを去り、翌[[1734年]]に植物学のポストを得て故郷のバーゼル大学へ帰った。<br /> その一方、オイラーはサンクトペテルブルク(一時期に[[ベルリン]])に留まったが、両者は終生親しく交流を続けた。<br /> <br /> 1734年にダニエルはパリ・アカデミー大賞に応募したところ、父ヨハンと同時受賞となった。息子と同等と評価されたことにヨハンは強く立腹し、これを機に父との関係が一層悪化し、ダニエルは父によってベルヌーイ家への出入りを禁止された。<br /> <br /> ダニエルはサンクトペテルスブルクでの草稿をもとに、[[1738年]]に『Hydrodynamica』(『[[流体力学]]』)を出版した。それに対して、父ヨハンはその内容を盗用して、翌[[1739年]]に『Hydraulica』と表題を変え、発行年を1732年と偽って出版した。そのため、ダニエルの関係改善の努力もむなしく、父は死ぬまで一方的に息子を逆恨みしていた。<br /> <br /> ダニエルはバーゼル大学で植物学、生理学を教えていたが、[[1750年]]から念願の物理学のポストを得て、[[1766年]]まで16年間物理学を教えた。この間の研究対象は天文学や海洋学に広がり、パリ・アカデミー大賞の受賞も10回に及んだ。<br /> <br /> ダニエルの力学への貢献の特徴は、ニュートン理論とライプニッツの強力な微積分法を組み合わせて、運動方程式のエネルギー積分(エネルギー保存則)を強力に活用したことにある。特に、海洋・船舶への応用を含めた流体力学に大きく貢献した。<br /> <br /> == 業績 ==<br /> [[File:HYDRODYNAMICA, Danielis Bernoulli.png|thumb|right|200px|&#039;&#039;Hydrodynamica&#039;&#039;(1738)の標題紙]]<br /> 初期の数学上の業績は、[[ヤコポ・リッカチ|リッカチ]]によって提出された[[微分方程式]]の解決法をふくんだ &#039;&#039;Exercitationes&#039;&#039; ([[英語|英]]:&#039;&#039;Mathematical Exercises&#039;&#039;, [[1724年]])であった。<br /> <br /> [[1738年]]に出版された最も重要な著書は、&#039;&#039;Hydrodynamica&#039;&#039; (『[[流体力学]]』)である。すべての結果が一つの原則(この場合は[[エネルギー保存の法則]])に結びついていくところなどは、[[ジョゼフ=ルイ・ラグランジュ|ラグランジュ]]の &#039;&#039;Mechanique Analytique&#039;&#039; (『[[解析力学]]&lt;!--力学分析--&gt;』)に似ている。「空気や水の流れがはやくなると、そのはやくなった部分は圧力が低くなる。はやく流れるほど圧力は下がる。」という[[ベルヌーイの定理]]は、流線や渦線に沿ってベルヌーイ関数が保存されるという形に友人のオイラーが洗練して今日の流体力学の基礎を築いた。<br /> <br /> [[潮汐]]に関する彼の論文は、[[レオンハルト・オイラー|オイラー]]と[[コリン・マクローリン|マクローリン]]とによる論文と合同で[[アカデミー・フランセーズ]]に表彰された。3人の論文は、[[アイザック・ニュートン|ニュートン]]の『プリンキピア』出版と[[ピエール=シモン・ラプラス|ラプラス]]の業績までの間に、この主題について論議されたすべての問題を含んでいる。<br /> <br /> また、ベルヌーイは弦の[[振動]]に関して[[微分方程式]]の解を[[三角関数]]で展開する方法で、振動弦の式を求めた。彼は気体運動論の先駆者であり、[[ロバート・ボイル|ボイル]]と[[エドム・マリオット|マリオット]]の名がついた法則を解釈した。反動によって船舶を推進させる着想もある。<br /> <br /> ===リスクの測定に関する新しい理論===<br /> 自然科学の分野以外で特記すべきは、経済理論へのベルヌーイの先駆的な貢献である。[[1738年]]に、「リスクの測定に関する新しい理論」というラテン語で書かれた論文が、学術雑誌『ペテルブルク帝国アカデミー論集』に掲載された。<br /> #歪みのないコインを表が出るまで投げ続ける、というゲームを想定する。表が初めて出るときが第1回目なら2[[ルーブリ]]、第2回目ならば4ルーブリ、第3回目ならば8ルーブリ…というふうに賞金は幾何級数的に増大する、と仮定せよ。ただし、ゲーム参加料は100万ルーブリである。果たしてこのゲームに参加することで、利益を得られると期待できるだろうか。ここで、通常の感覚ならば、ゲームには参加しないだろう。しかし、利得の期待値は無限大となり、参加料の100万ルーブリを上回る。したがって「ゲームに参加すべし」という結論が出てしまう。これを[[サンクトペテルブルクのパラドックス|サンクトペテルブルクの逆説]]と呼ぶ。<br /> #ベルヌーイはこのパラドックスを、「ごくわずかな富の増加から得られる満足度(効用)はそれまで保有していた財の数量に反比例する」という、現在では&#039;&#039;&#039;〈[[限界効用]]逓減の法則〉&#039;&#039;&#039;と呼ばれる論理で解決した。その発想は、同じ1ルーブリ獲得といっても、所得がゼロの状態からの獲得と、所得10ルーブリからのそれでは、その効用(価値)は同じではない、という点から始まる。上述のコイン投げゲームにおいて、人が「利益」として勘定に入れるべきなのは、各賞金額の期待値を総計することではなくて、各賞金額から得られる「効用」の期待値を総計することである。すると、もし限界効用の低下が著しい場合には、ゲーム参加の期待効用の総量が有限値となり、参加料から獲得可能な効用量を下回るだろう。<br /> <br /> かかった費用ではなく限界効用に重きをおくこの考え方は、100年以上たって[[ウィリアム・スタンレー・ジェヴォンズ|ジェヴォンズ]]によってベルヌーイとは別に確立された。期待効用理論が完全に復権するのは、200年後に出版された数学者[[ジョン・フォン・ノイマン|フォン・ノイマン]]と経済学者[[オスカー・モルゲンシュテルン|モルゲンシュテルン]]の大著『ゲーム理論と経済行動』(1944年)においてである。<br /> <br /> == 関連項目 ==<br /> * [[ベルヌーイの定理]]<br /> * [[サンクトペテルブルクのパラドックス]]<br /> <br /> {{Normdaten}}<br /> <br /> {{DEFAULTSORT:へるぬうい たにえる}}<br /> [[Category:スイスの数学者]]<br /> [[Category:スイスの物理学者]]<br /> [[Category:スイスの経済学者]]<br /> [[Category:数値解析研究者]]<br /> [[Category:18世紀の学者]]<br /> [[Category:18世紀の数学者|-000209]]<br /> [[Category:サンクトペテルブルク科学アカデミー正会員]]<br /> [[Category:バーゼル大学の教員]]<br /> [[Category:数学に関する記事]]<br /> [[Category:ベルヌーイ家|たにえる]]<br /> [[Category:フローニンゲン出身の人物]]<br /> [[Category:1700年生]]<br /> [[Category:1782年没]]</div> 163.44.28.161 デヴィッド・ファラガット 2017-02-07T10:51:15Z <p>163.44.28.161: </p> <hr /> <div>{{基礎情報 軍人<br /> | 氏名 = デヴィッド・グラスゴー・ファラガット<br /> | 各国語表記 = David Glasgow Farragut<br /> | 生年月日 = [[1801年]][[7月5日]]<br /> | 没年月日 = [[1870年]][[8月14日]]<br /> | 画像 = Admiral Farragut2.jpg<br /> | 画像サイズ = <br /> | 画像説明 = ファラガット海軍大将<br /> | 渾名 = <br /> | 生誕地 = [[テネシー州]][[キャンベルズ・ステーション]](現在はファラガット)<br /> | 死没地 = [[ニューハンプシャー州]][[ポーツマス (ニューハンプシャー州)|ポーツマス]](現在は[[メイン州]][[キタリー (メイン州)|キタリー]])<br /> | 所属政体 = <br /> | 所属組織 = [[アメリカ海軍]]<br /> | 軍歴 = 1810年 &amp;ndash; 70年<br /> | 最終階級 = [[海軍大将]]<br /> | 指揮 = <br /> | 部隊 = ヨーロッパ戦隊<br /> | 戦闘 = [[米英戦争]]&lt;br&gt;[[南北戦争]]<br /> | 戦功 = <br /> | 賞罰 = <br /> | 除隊後 = <br /> | 署名 = [[ファイル:Appletons&#039; Farragut David Glasgow signature.png|200px]]<br /> | 廟 = [[ニューヨーク]]市[[ブロンクス]]区[[ウッドローン墓地 (ニューヨーク市ブロンクス)|ウッドローン墓地]]<br /> }}<br /> &#039;&#039;&#039;デヴィッド・グラスゴー・ファラガット&#039;&#039;&#039;(&#039;&#039;&#039;David Glasgow Farragu&#039;&#039;&#039;t、[[1801年]][[7月5日]] - [[1870年]][[8月14日]])は、[[アメリカ合衆国]][[海軍]]の[[軍人]]である。[[アメリカ海軍]]では初の海軍少将、同中将、同大将に昇った&lt;ref&gt;[[#Farragut79|Farragut, 1879]] p.3&lt;/ref&gt;&lt;ref name=&quot;Hickman2&quot;&gt;[[#Hickman|Hickman, 2010]], p.216&lt;/ref&gt;。[[南北戦争]]の[[モービル湾の海戦]]で「機雷がなんだ。全速前進!」という命令を出したことで、大衆文化の中でも記憶されている&lt;ref&gt;[[#Stein|Stein, 2005]] p.5&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;[[#Spears|Spears, 1905]] p.328&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> == 初期の経歴 ==<br /> ファラガットは1801年に、[[テネシー州]]ホルストン川(現在の[[テネシー川]])沿いのロウズフェリで&lt;ref name=&quot;Schouler170&quot;/&gt;、父{{仮リンク|ジョージ・ファラガット|en|George Farragut}}、母エリザベス・シャイン(1765年-1808年)の息子として生まれた。父は[[スペイン]]の[[メノルカ島]]生まれであり、母はスコットランド系アイルランド人の子孫で、[[ノースカロライナ州]]出身だった。その出生地は[[テネシー州]][[ノックスビル (テネシー州)|ノックスビル]]に近く、キャンベルズステーションの数マイル南東にあった&lt;ref name=&quot;Admiral David Farragut2&quot;&gt;{{cite web |url=http://www.sonofthesouth.net/union-generals/farragut/admiral-david-farragut.htm |title=Admiral David Farragut |publisher=Son of the South |accessdate=11 November 2010}}&lt;/ref&gt;。父は渡し船を運航し、テネシー州民兵隊の騎兵士官も務めていた&lt;ref name=&quot;Hickman2&quot;/&gt;。父のスペイン名はジョルディ・ファラグート・メスキーダ(Jordi Farragut Mesquida、父姓はFerragutとも)であり、メノルカ島のスペイン商船船長となった父アントーニ・ファラグートと母ホアナ・メスキーダのもとに生まれていた。1766年にアメリカに渡って、名をジョージに変えた&lt;ref name=&quot;Admiral David Farragut2&quot;/&gt;。[[アメリカ独立戦争]]ではアメリカ側に付いた。戦中に海軍大尉となり、初めはサウスカロライナ州海軍、後に[[大陸海軍]]に勤めた。戦後西のテネシー州に移住した。<br /> <br /> 1805年、父は[[ニューオーリンズ]]港での役職を引き受けた。父が先ずニューオーリンズに旅立ち、家族がその後に続いた。雇った川水夫の助けを借りた[[平底船]]での1,700マイル (2,700 km) に及ぶ冒険旅行であり、当時4歳のファラガットにとって初めての旅だった。家族がニューオーリンズで暮らしているときに、母が[[黄熱病]]で死んだ。父は幼い子供達を友人の家族に預けて、世話をしてもらう計画を立てた。<br /> <br /> デヴィッド・ファラガットの生まれた時の名前はジェイムズだった。母の死後の1808年、父親同士が友人だった海軍士官デヴィッド・ポーターと暮らし、養子にされることになった&lt;ref&gt;[[#Houston|Houston, Blaine, Mellette, 1916]] p.438&lt;/ref&gt;。1812年養父の名を貰ってデヴィッドと名を変え、1810年後半には父と共に船に乗るようになった。養父の家は海軍一家だった。養家で兄弟になった中には後の[[南北戦争]]で海軍提督[[デイビッド・ディクソン・ポーター]]や海軍代将のウィリアム・D・ポーターがいた。<br /> <br /> == 結婚と家族 ==<br /> ファラガットはUSS&#039;&#039;フェレット&#039;&#039;の副官に任命され、最初の巡航を終えた後、1823年9月24日にスーザン・キャロライン・マーチャントと結婚した&lt;ref&gt;[[#Mahan|Mahan, 1892]] p.67&lt;/ref&gt;。スーザンは数年間病気を患った後の1840年12月27日に死亡した。ファラガットは妻の病気療養中にその面倒を良くみたことで知られている&lt;ref name=Hearn&gt;{{cite book|last=Hearn|first=Chester G.|title=Admiral David Glasgow Farragut: The Civil War Years|year=1998|publisher=Naval Institute Press|location=Annapolis, MD|isbn=1-55750-384-2|pages=xxi+385}}&lt;/ref&gt;。3年後の1843年12月26日にバージニア・ロイアルと再婚し、1844年10月12日に息子のロイアルが生まれた。<br /> <br /> == 海軍での任務 ==<br /> [[ファイル:David Farragut at National Portrait Gallery IMG 4516.JPG|thumb|right|[[ワシントンD.C.]]の国立肖像画ギャラリーにあるファラガットの肖像画]]<br /> ファラガットの海軍での経歴は9歳のときに士官候補生として乗り組んだことに始まり、40年以上の間に幾つかの戦争に従軍した。特に南北戦争では幾つかの海戦で決定的な勝利を挙げたことで知られている。<br /> <br /> === 米英戦争 ===<br /> ファラガットは1810年12月17日、9歳の時に養父の影響力でアメリカ海軍の士官候補生となった&lt;ref&gt;[[#Spears|Spears, 1905]] p.11&lt;/ref&gt;{{#tag:ref|Some sources place the age at eleven.&lt;ref name=&quot;Schouler170&quot;&gt;[[#Schouler1899|Schouler, 1899]] p.170&lt;/ref&gt;|group=&quot;note&quot;}}。12歳で捕獲品管理者となり、[[米英戦争]]ではデヴィッド・ポーター海軍大佐の下で戦った。USS&#039;&#039;エセックス&#039;&#039;に乗り組んでいた1812年8月13日、イギリス海軍のHMS&#039;&#039;アラート&#039;&#039;捕獲の現場にいた&lt;ref&gt;[[#Mahan|Mahan, 1892]] pp.27-28&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;[[#Barnes&#039;09|Barnes, 1909]] pp.36-38&lt;/ref&gt;。この後、捕獲した&#039;&#039;アラート&#039;&#039;を安全な港まで回航する任務を与えられた&lt;ref name=&quot;Memorial&quot;&gt;[http://militaryhistory.about.com/od/naval/p/farragut.htm Kennedy Hickman, &quot;Admiral David G. Farragut: Hero of the Union Navy&quot;; About.com], Retrieved March 28, 2007&lt;/ref&gt;。1813年、ヌークヒバ作戦で[[太平洋]]に向かい、太平洋ではアメリカ初の海軍基地と植民地建設に関わり、マディソンビルと名付けた。このとき島の敵対的な部族と戦闘になったが、同盟したテ・アイイ族の協力も得た。<br /> <br /> 1814年3月28日、[[チリ]]の[[バルパライソ]]湾でイギリス艦と戦った時に、ファラガットは負傷し、捕虜になった&lt;ref&gt;[[#Spears|Spears, 1905]] pp.74-80&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> === 西インド諸島 ===<br /> 1822年、ファラガットは海軍大尉に昇進した。[[西インド諸島]]の[[西インド諸島海賊掃討作戦|海賊に対する作戦]]を実行中だった。[[カリブ海]]で[[海賊]]と戦うために艤装された艦船の「モスキート艦隊」で任務に就いた。昔の艦長であるポーター准将が艦隊指揮を執ることを知ると、ポーターの弟であるジョン・ポーターが指揮する小艦の1つ&#039;&#039;グレイハウンド&#039;&#039;乗艦を求め、認められた。1823年2月14日、艦隊は西インド諸島に向けて出帆し、その後の6か月で、海賊をカリブ海から追い出し、様々な島の隠れ家から駆逐した&lt;ref&gt;[[#Mahan|Mahan, 1892]] pp.63-64&lt;/ref&gt;。この作戦では&#039;&#039;エクスペリメント&#039;&#039;の副艦長になった&lt;ref&gt;[[#Spears|Spears, 1905]] pp.32-33&lt;/ref&gt;。1824年、USS&#039;&#039;フェレット&#039;&#039;の指揮を任され、初めて指揮する艦となった&lt;ref&gt;[[#Spears|Spears, 1905]] pp.123, 126&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> === メア島海軍造船所 ===<br /> 1853年、[[アメリカ合衆国海軍長官]][[ジェイムズ・コクラン・ドビン (1世)|ジェイムズ・C・ドビン]]が、サンパブロ湾の[[サンフランシスコ]]近くに[[メア・アイランド海軍造船所|メア島海軍造船所]]を造る役目にファラガット海軍中佐を選んだ。1854年8月、[[バージニア州]][[ノーフォーク (バージニア州)|ノーフォーク]]の兵站部検査官補を努めていたファラガットがワシントンから呼び戻された。[[フランクリン・ピアース]]大統領がファラガットの海軍での経歴を顕彰し、新しい任務に付けさせたものだった。1854年9月16日、ファラガットは[[カリフォルニア州]][[ヴァレーホ (カリフォルニア州)|ヴァレーホ]]のメア島海軍造船所の指揮官に就任した。この造船所は[[アメリカ合衆国西海岸|アメリカ西海岸]]で艦船を修繕する港になった。ファラガットは1858年7月16日に海軍大佐としてメア島任務を命じられ、1859年8月11日に英雄としての出迎えを受けて戻った&lt;ref&gt;[[#Spears|Spears, 1905]] p.143.&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;[[#Farragut79|Farragut, 1879]] pp.168-169.&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> === 南北戦争 ===<br /> [[ファイル:Admiral David G Farragut.jpg|thumb|ファラガット提督、1863年頃]]<br /> ファラガットは南北戦争前にノーフォークに住んでいたが、知人にはアメリカ合衆国からの脱退は反逆と見なすという考えを明らかにしていた。開戦の直前にバージニア生まれの妻と共に、[[ニューヨーク]]市からすぐ郊外にある小さな町、ヘイスティングス・オン・ハドソンに移転した&lt;ref name=&quot;Schouler170&quot;/&gt;&lt;ref name=Winters/&gt;。<br /> <br /> [[北軍]]での就役を申し出たが、最初は海軍退役兵局での任務を与えられた。養家の兄弟であるデイビッド・ディクソン・ポーターから特殊任務の指揮を提案されたが、その標的がノーフォークになる可能性があることを知ると躊躇した。そこには友人や親戚が住んでいたので、標的が子供時代を過ごしたニューオーリンズに変更されたことを知って安心した。ファラガットは南部の生まれであり、その妻もそうだったので、海軍はファラガットの北軍に対する忠誠心をいくらか疑っていた。ポーターがファラガットの肩を持ち、ファラガットはニューオーリンズ攻撃の主要任務を担うことになった&lt;ref name=Winters&gt;John D. Winters, &#039;&#039;The Civil War in Louisiana&#039;&#039;, Baton Rouge, Louisiana: Louisiana State University Press, 1963, ISBN 0-8071-0834-0, p. 56&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 1862年2月3日、メキシコ湾封鎖戦隊の指揮官に指名され、秘密任務を受けた。その旗艦とした大砲25門搭載蒸気艦USS&#039;&#039;ハートフォード&#039;&#039;に、17隻の艦艇からなる艦隊を従え、[[ハンプトン・ローズ]]を出港した。[[ミシシッピ川]]の河口に到着すると、その両岸には[[南軍]]のセントフィリップ砦とジャクソン砦があり、2つ合わせて100門以上の重砲があり、守備隊は700名がいた。ファラガットの艦隊が接近したことを知ると、南軍はニューオーリンズ港の外に16隻の砲艦艦隊を集合させた&lt;ref&gt;[[#Schouler1899Schouler, 1899]] pp.171-172&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 4月18日、ファラガットはポーターの指揮する迫撃砲艦隊に2つの砦への砲撃開始を命令し、そこそこの損害を与えたが、降伏を強いるところまでは至らなかった。2日間にわたる激しい砲撃戦の後で、ファラガットはジャクソン砦とセントフィリップ砦の下を通り過ぎ、さらにシャルメット砲台の下も過ぎて、4月29日にはニューオーリンズ市と港を占領した。この戦争では決定的な出来事になった&lt;ref&gt;[[#Rhodes1917|Rhodes, 1917]] pp.119-120&lt;/ref&gt;。[[アメリカ合衆国議会]]は1862年7月16日に海軍少将(リア・アドミラル)の位を創設してファラガットに与えその栄誉を称えた。この階級はそれまでのアメリカ海軍には無かった。この時までアメリカ海軍は「フラッグオフィサー」という言葉を好み、アドミラル(提督)という階級を使わないようにしていた。これはヨーロッパ諸国海軍の階級に関する伝統とは区別するためだった。この年の7月、ファラガットは[[ミシシッピ州]][[ヴィックスバーグ (ミシシッピ州)|ヴィックスバーグ]]を守る砲台の下も通過したが、この時は成果を挙げられなかった。間に合わせの南軍[[装甲艦]]がファラガットの38艦の戦隊を後退させた。<br /> <br /> ファラガットは好戦的な指揮官として、常に他者と協調できるわけではなかった。[[ポートハドソンの包囲戦]]では、当初の作戦が、[[ナサニエル・バンクス]]将軍指揮する[[メキシコ湾岸軍]]による陸からの陽動攻撃に支援されて、南軍の堅い要塞の下をファラガットの戦隊が通過することになっていた。行動開始は1863年3月15日午前8時と決められていた。ファラガットは3月14日に、行動開始時刻をその日の午後9時に勝手に繰り上げ、北軍陸上部隊が配置に付く前に砲台下の通過を始めさせた。北軍の協調が取られていなければ、南軍はファラガットの戦隊に攻撃を集中でき、その艦船に大きな損傷を与えた。<br /> <br /> [[ファイル:DavidFarragutonUSSHartford.jpg|thumb|left|&#039;&#039;ハートフォード&#039;&#039;艦上のファラガット]]<br /> ファラガット戦隊は後退を強いられ、2艦のみが南軍の砲台下を通過できただけだった。ファラガットは砲撃を免れた後、ポートハドソンの戦闘には参加できず、バンクス将軍は海軍の支援という利点無しに包囲を続けることになった。北軍は砦に対して2度総攻撃を掛けたが、2度とも大きな損失を出して跳ね返された。ファラガットの戦隊は分裂していたが、残った2艦で[[レッド川 (ミシシッピ川水系)|レッド川]]河口を封鎖することはできた。ポートハドソンとヴィックスバーグの間のミシシッピ川を効率よくパトロールするのはできなかった。ファラガットの判断がアメリカ海軍と北軍陸上部隊にとって高いものにつき、このポートハドソンでは戦争全体の中でも高い損失率を出した。<br /> <br /> 7月4日に[[ビックスバーグの包囲戦|ヴィックスバーグ要塞が降伏し]]、ポートハドソンはミシシッピ川で南軍最後の要塞となった。7月9日、南軍守備隊から降伏の意思表示があり、バンクス将軍はこれを受け入れた。アメリカ軍事史で最も長い包囲戦が終わった。ミシシッピ川を支配することは北軍戦略にとって最重要事であり、ポートハドソンの降伏によって南軍の支配地は2つに分けられてしまった。<br /> <br /> 1864年8月5日、ファラガットは[[モービル湾の海戦]]で大きな勝利を挙げた。[[モービル (アラバマ州)|モービル]]は南軍にとって[[メキシコ湾]]に開いた最後の港だった。湾は多くの[[機雷]]で埋められていた。当時は係留された機雷を魚雷(トーピードウ)と呼んでいた&lt;ref&gt;{{citation | contribution = &quot;DAMN THE TORPEDOES!&quot; &quot;Full speed ahead!&quot; | title = Vicksburg | publisher = Vicksburg National Military Park| id = | contribution-url = http://www.nps.gov/vick/forteachers/upload/Torpedoes.pdf | format = PDF | accessdate = 2012-01-30}}&lt;/ref&gt;。ファラガットはその艦隊に湾突入を命じた。偵察艦USS&#039;&#039;テクムセ&#039;&#039;が機雷に触れて沈んだとき、その他の艦は後退を始めた。<br /> <br /> [[ファイル:Farragut&amp;Granger.jpg|thumb|ファラガット提督(左)とゴードン・グレンジャー将軍]]<br /> ファラガットはその高い指揮台から艦船が戻ってきているのが見えた。ファラガットは旗艦USS&#039;&#039;ハートフォード&#039;&#039;の索具に自身の体を縛り付けていた。その旗艦の拡声器からUSS&#039;&#039;ブルックリン&#039;&#039;に向かって「何があったんだ?」と叫んだ。「機雷です!」という返事が返ってきた。「機雷がなんだ!」とファラガットは叫び、「鐘4打。ドレイトン艦長、前進! ジューエット、全速!」と続けた&lt;ref&gt;[[#Spears|Spears, 1905]] p.359&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;[[#Farragut79|Farragut, 1879]] pp.416–17&lt;/ref&gt;。艦隊の大半が湾の内に入ることに成功した。ファラガットはモーガン砦とゲインズ砦の砲台からの抵抗を乗り越え、[[フランクリン・ブキャナン]]提督の戦隊を破った。<br /> <br /> 1864年12月21日、[[エイブラハム・リンカーン]]大統領はファラガットを海軍中将に昇進させた。戦後の1866年7月25日には海軍大将に昇進した&lt;ref name=&quot;Hickman2&quot;/&gt;。最後の任務は1867年から1868年まで、スクリュー推進[[フリゲート]]艦USS&#039;&#039;フランクリン&#039;&#039;を旗艦とするヨーロッパ戦隊を指揮したことだった。ファラガットは生涯現役に留まっていた。このような海軍士官は他に6人しかいない&lt;ref&gt;The others were his foster brother David Dixon Porter, George Dewey, William D. Leahy, Ernest King, Chester Nimitz, and William Halsey.&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> === ファラガットの海軍における年譜 ===<br /> * 1810年12月17日、士官候補生に任官 <br /> * 1812年、&#039;&#039;エセックス&#039;&#039;乗り組み<br /> * 1815年 &amp;ndash; 1817年、&#039;&#039;インディペンデンス&#039;&#039;と&#039;&#039;マケドニアン&#039;&#039;で[[地中海]]任務<br /> * 1818年、[[チュニス]]で9か月間陸上勤務<br /> * 1819年、USS&#039;&#039;シャーク&#039;&#039;の副官<br /> * 1823年、USS&#039;&#039;フェレット&#039;&#039;指揮官<br /> * 1825年1月13日、フリゲート艦&#039;&#039;ブランディワイン&#039;&#039;で海軍大尉に昇進<br /> * 1826年 &amp;ndash; 1838年、様々な艦で従属任務<br /> * 1838年、スループ艦&#039;&#039;エリー&#039;&#039;指揮官<br /> * 1841年9月8日、海軍中佐に昇進<br /> * [[米墨戦争]]、スループ・オブ・ウォー&#039;&#039;サラトガ&#039;&#039;指揮官<br /> * 1848年 &amp;ndash; 1853年、バージニア州[[ノーフォーク海軍基地]]勤務、兵站部検査官補<br /> * 1852年9月 &amp;ndash; 1853年8月、バージニア州[[モンロー砦]]のオールドポイントコンフォートで、海軍砲台の耐久性試験監督&lt;ref&gt;Farragut, Commander D.L.. Report from the Naval Testing Battery at Old Point Comfort Va, a journal book filed with the Bureau of Ordnance &amp; Hydrography on August 31, 1853.&lt;/ref&gt;<br /> * 1853年 &amp;ndash; 1854年、[[ワシントンD.C.]]勤務<br /> * 1855年9月14日、海軍大佐に昇進<br /> * 1854年 &amp;ndash; 1858年、[[サンフランシスコ湾]]でメア島海軍基地建設任務<br /> * 1858年 &amp;ndash; 1859年、スループ・オブ・ウォーUSS&#039;&#039;ブルックリン&#039;&#039;指揮官 <br /> * 1860年 &amp;ndash; 1861年、ノーフォーク海軍基地勤務<br /> * 1862年1月、USS&#039;&#039;ハートフォード&#039;&#039;指揮、17艦を率いて西メキシコ湾封鎖戦隊指揮<br /> * 1862年4月、占領した[[ニューオーリンズ]]市の指揮<br /> * 1862年7月16日、海軍少将に昇進<br /> &lt;!-- these two are not in chronological order, but I don&#039;t know which is correct --&gt;<br /> * 1862年6月23日、ミシシッピ州ヴィックスバーグで負傷<br /> * 1863年5月、USS&#039;&#039;モノンガヘラ&#039;&#039;指揮<br /> * 1863年5月、USS&#039;&#039;ペンサコーラ&#039;&#039;指揮<br /> * 1863年7月、USS&#039;&#039;テネシー&#039;&#039;指揮<br /> * 1864年9月5日、北大西洋封鎖戦隊の指揮を提案されたが辞退<br /> * 1864年12月21日、海軍中将に昇進<br /> * 1865年4月、[[エイブラハム・リンカーン]]大統領葬儀の儀仗兵を務めた<br /> * 1866年7月25日、海軍大将に昇進<br /> * 1867年6月、USS&#039;&#039;フランクリン&#039;&#039;指揮<br /> * 1867年 &amp;ndash; 1868年、ヨーロッパ戦隊指揮<br /> * 1870年8月12日、死去<br /> <br /> [[ファイル:Admiral David Farragut Monument 1024.jpg|thumb|ブロンクス区[[ウッドローン墓地 (ニューヨーク市ブロンクス)|ウッドローン墓地]]にあるファラガットの記念碑]]<br /> <br /> == 死 ==<br /> ファラガットは1870年8月12日、休暇中の[[ニューハンプシャー州]][[ポーツマス (ニューハンプシャー州)|ポーツマス]]で心臓発作のために死去した。69歳だった。ニューヨーク市[[ブロンクス区]][[ウッドローン墓地 (ニューヨーク市ブロンクス)|ウッドローン墓地]]に埋葬された&lt;ref&gt;[[#Shorto|Shorto, 1991]] p.306&lt;/ref&gt;。その墓所は[[アメリカ合衆国国家歴史登録財]]に指定されている。<br /> {{clear}}<br /> <br /> == 遺産 ==<br /> [[ファイル:David Farragut 1903 issue-$1.jpg|thumb|160px|left|&lt;center&gt;1903年発行の切手&lt;/center&gt;]]<br /> [[ファイル:Farragut Porter 1937 Issue-3c.jpg|thumb|252px|&lt;center&gt;1937年発行の切手&lt;/center&gt;]]<br /> アメリカ海軍の将校ではこれまでに4人が郵便切手の図案に使われたが、ファラガットは1回にとどまらず採用される栄誉に浴した。最初は1903年に発行された1ドル黒単色のものだった。2回目は1937年に発行された海軍切手であり、5種シリーズの1つだった。3セント紫単色であり、左にファラガット、右にデヴィッド・ポーター、中央に帆走航海中の戦艦を配した。最近のものでは1995年6月29日に[[ペンシルベニア州]][[ゲティスバーグ (ペンシルベニア州)|ゲティスバーグ]]で発行された32セント切手がある&lt;ref&gt;[http://arago.si.edu/index.asp?con=5&amp;cmd=2&amp;q=david+farragut&amp;f=1&amp;f=2&amp;d_start=&amp;d_end=&amp;c=&amp;lf=3 Smithsonian National Postal Museum]&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;Scott&#039;s U.S. Stamp Catalogue&lt;/ref&gt;。<br /> {{clear}}<br /> ファラガットの子孫では1人だけが海軍に勤めた。6代後の甥ブレット・ヒンチ(オーストラリア人)が1985年から1995年まで[[オーストラリア]]海軍に勤め、海軍中佐になった。<br /> <br /> &lt;div style=&quot;background-color:white; border:solid 2px SteelBlue&quot;&gt;<br /> {| class=&quot;navbox collapsible collapsed&quot; style=&quot;text-align: left; border: 3px; margin-top: 0.0em;&quot;<br /> ! style=&quot;background-color:LightSteelBlue; text-align: center&quot; |&#039;&#039;&#039;ファラガットに因むもの&#039;&#039;&#039;<br /> |-<br /> |<br /> &lt;div style=&quot;background-color:WhiteSmoke; border:solid 1px steelblue; padding:1em&quot;&gt;<br /> [[ファイル:David Farragut statue at Farragut Square.jpg|thumb|ファラガット提督の彫像(右)、1881にその旗艦のプロペラから制作、[[ワシントンD.C.]]中心街のファラガット広場、手前は[[アメリカ合衆国国立公園局|国立公園局]]の解説盤、その有名な命令が伝えられている]]<br /> [[ファイル:David Farragut WWI poster.jpg|thumb|right|第一次世界大戦のポスター、[[モービル湾の海戦]]で「機雷がなんだ。全速前進!」と叫んでいるファラガットを描いてある]]<br /> [[ファイル:Admiral Farragut statue in Madison Square Park.jpg|thumb|[[ニューヨーク]]市[[5番街 (マンハッタン)|五番街]][[マディソン・スクエア]]公園のファラガット記念碑]]<br /> [[ファイル:Muskegon Farragut statue.jpg|thumb|[[ミシガン州]]マスキゴンにあるファラガットの彫像背面]]<br /> 多くの場所や物がファラガットに因んで名付けられている。<br /> * アドミラル・ファラガット・アカデミーは、ニュージャージー州ピンビーチで1933年に海軍提督達によって設立された海軍の訓練を行うカレッジ準備校である。1945年に現在唯一となっているキャンパスが[[フロリダ州]][[セントピーターズバーグ (フロリダ州)|セントピーターズバーグ]]に開かれた。1946年にアメリカ合衆国議会によって海軍栄誉学校に指定された&lt;ref&gt;[http://www.farragut.org/ Admiral Farragut Academy website]&lt;/ref&gt;<br /> * [[テネシー州]]ファラガット、ファラガット提督の故郷であるキャンベルズステーションがある。1982年に法人化されたときにファラガットに改名された。事実はこの町の南東数マイル、ホルストン川沿いのロウズフェリーで生まれたが、当時はキャンベルズステーションが最も近い開拓地だった。<br /> * [[ワシントンD.C.]]中心街のファラガット広場、近くには[[ワシントンメトロ|地下鉄]]のファラガット北駅と西駅がある<br /> * ファラガット高校は1904年にファラガット提督の故郷であるキャンベルズステーションに建設された。今日では生徒数2,500人近くを誇り、テネシー州最大級である。スクールカラーは青と白であり、スポーツチームは「ジ・アドミラルズ」と呼ばれている<br /> * ブルックリン区のファラガット地区<br /> * ファラガット・フィールド、[[海軍兵学校 (アメリカ合衆国)|アメリカ海軍兵学校]]の運動場<br /> * ファラガット・キャリア・アカデミー、[[イリノイ州]][[シカゴ]]市の高校、1894年設立、この学校のスポーツチームも「ジ・アドミラルズ」と呼ばれている。1896年にグランド・アーミー・オブ・ザ・レパブリックのファラガット・ポストが贈呈した提督の油絵がある。[[NBA]]のスター選手[[ケビン・ガーネット]]がこの高校を卒業した<br /> * アイオワ州ファラガット、アイオワ州南西部の小さな農業町。町の外れにある看板からファラガットの有名なスローガンが訪問者を出迎える。地元のファラガット・コミュニティ高校のスポーツチームは「アドミラル」と「セイラー」と呼ばれる。ファラガットの名前を冠する船から得た記念品を収蔵している<br /> * アメリカ海軍の[[駆逐艦]]歴代の5隻、USS &#039;&#039;ファラガット&#039;&#039;、2艦は艦級の第一<br /> * アメリカ海軍の[[リバティ船]]、SS&#039;&#039;デヴィッド・G・ファラガット&#039;&#039;<br /> * 3つの記念切手(上記)<br /> * 100ドルの中期国債、コイン国債とも呼ばれる。1890年と1891年のシリーズであり、表面にファラガットの肖像を描いている。1890年の国債は、裏面の大きなゼロがスイカの縞に似ているので、収集家から西瓜国債と呼ばれている<br /> * アメリカ海軍兵学校礼拝堂のステンドグラス窓、モービル湾でUSS&#039;&#039;ハートフォード&#039;&#039;の索具に立つファラガットの姿を描いている<br /> * デヴィッド・グラスゴー・ファラガット高校、[[アメリカ合衆国国防総省]]の高校、スペインの[[ロタ (スペイン)|ロタ]]にある[[ロタ海軍基地|海軍基地]]にある。そのスポーツチームも「ジ・アドミラルズ」と呼ばれている。<br /> * ファラガット・パークウェイ、ニューヨーク州ヘイスティングス・オン・ハドソン<br /> * ファラガット中学校、ニューヨーク州ヘイスティングス・オン・ハドソン<br /> * デヴィッド・ファラガット学校、フィラデルフィア市<br /> * [[プエルトリコ]]、[[マヤグエス]]の小学校<br /> * ブロンクス区の小学校<br /> * ファラガット州立公園、[[アイダホ州]]、[[第二次世界大戦]]時に海軍の基礎訓練に使われた<br /> * メノルカ島カラン・フォーキャットのホテル<br /> * [[テネシー州会議事堂]]最上階の海軍儀礼服を着たファラガットの胸像<br /> * フロリダ州コーラルゲイブルスの水路沿いにある集合住宅<br /> * [[カリフォルニア州]]バレホにある小学校、メア島ゲイトのすぐ外にある<br /> * テネシー州コンコードのノースショア・ドライブ近くにある記念碑、碑銘には「ファラガット提督の生誕地、1801年7月5日生、[[ジョージ・デューイ|デューイ]]提督謹呈、1900年5月15日」と記されている&lt;ref&gt;Neely, Jack. Knoxville&#039;s Secret History, page 17. Scruffy City Publishing, 1995.&lt;/ref&gt;<br /> * [[マサチューセッツ州]][[ボストン]]市にあるデヴィッド・ファラガット小学校<br /> * マサチューセッツ州サウスボストン市にあるバーとレストラン、ファラガット・ハウス<br /> * マサチューセッツ州サウスボストン市海浜近くにある等身大より大きな彫像<br /> * アラスカ州ファラガット湾、1887年にトマスによる、座標は [Latitude: 57.11889 : Longitude: -133.23056]<br /> * メア島海軍基地にあるトゥーロ大学カリフォルニアのファラガット・イン<br /> &#039;&#039;&#039;記念碑&#039;&#039;&#039;<br /> * ニューヨーク市マディソンスクエア公園、オーガスタス・セント・ゴーデンス制作、1882年、1994年にニューハンプシャー州コーニッシュにレプリカ<br /> * ワシントンD.C.中心街のファラガット広場、ビニー・リーム制作、1881年<br /> * マサチューセッツ州ボストン市マリーンパーク、ヘンリー・ハドソン・キットソン制作、1881年<br /> * ミシガン州マスキゴンのハックリー公園、チャールズ・ニーハウス制作、1900年<br /> {{clear}}<br /> &lt;/div style&gt;<br /> |}<br /> {| class=&quot;navbox collapsible collapsed&quot; style=&quot;text-align: left; border: 3px; margin-top: 0.0em;&quot;<br /> ! style=&quot;background-color:LightSteelBlue; text-align: center&quot; |&#039;&#039;&#039;芸術や文学での引用&#039;&#039;&#039;<br /> |-<br /> |<br /> &lt;div style=&quot;background-color:WhiteSmoke; border:solid 1px steelblue; padding:1em&quot;&gt;<br /> * [[ジュール・ヴェルヌ]]が1870年に著した小説『[[海底二万里]]』の登場人物「ファラガット准将」<br /> * テレビ映画『[[スター・トレック]]』、多くの[[スタートレックに登場した宇宙船のクラス一覧|宇宙船]]がファラガットと名付けられている&lt;ref&gt;Memory Alpha, [http://en.memory-alpha.org/wiki/USS_Farragut_(NCC-60597) USS Farragut (NCC-60597)] mentions the fictional starships commissioned under the name Farragut.&lt;/ref&gt;<br /> * [[トム・ペティ|トム・ペティ・アンド・ハートブレーカーズ]]のアルバム『[[破壊 (アルバム)|ダム・ザ・トーピートウズ]]』はファラガットの有名な台詞から取られている<br /> * バンドMDFMKのアルバム&#039;&#039;MDFMK&#039;&#039;には「ダム・ザ・トーピートウズ」という歌が収録されている<br /> * 喜劇映画『[[ギャラクシー・クエスト]]』で、[[ティム・アレン]]の演じる人物が「諦めるな! 降伏するな! 共鳴大砲がなんだ! 全速前進」と叫んでいる<br /> * 1952年の映画『Yankee Buccaneer』では、ファラガットの役をスコット・ブラディが演じた<br /> * オリビア・ヘドリックが2010年に発売した朗読デビュー作では「私がどんなに貴方を愛しているか、ファラガットさん」という台詞がある<br /> * 1943年の映画『The More the Merrier』で、[[チャールズ・コバーン]]が彫像にある台詞を見て、それをモットーにする、それがその後の筋書きで生きてくる<br /> &lt;/div style&gt;<br /> |}<br /> &lt;/div style&gt;<br /> <br /> == 脚注 ==<br /> {{Reflist|2}}<br /> {{clear}}<br /> <br /> == 原註 ==<br /> {{Reflist|2|group=note}}<br /> <br /> == 参考文献 ==<br /> <br /> * {{cite book |last=&#039;&#039;&#039;Adelson&#039;&#039;&#039; |first=Bruce |title=David Farragut:Union Admiral |ref=Adelson |authorlink= |publisher=&lt;br&gt;Infobase Publishing |year=2001 |pages=80 |isbn=0791064174 }} [http://books.google.com/books?id=TKsyXESGC-gC&amp;dq=David+Farragut&amp;source=gbs_navlinks_s Url]<br /> * {{cite book |last=&#039;&#039;&#039;Barnes&#039;&#039;&#039; |first=James |title=David G. Farragut |ref=Barnes |authorlink= |publisher=&lt;br&gt;Small, Maynard &amp; Company, |year=1899 |pages=132 |isbn=1592963838 }} [http://books.google.com/books?id=ieyHmxhP4NYC&amp;source=gbs_navlinks_s Url]<br /> * {{cite book |last=&#039;&#039;&#039;Barnes&#039;&#039;&#039; |first=James |title=Midshipman Farragut |ref=Barnes&#039;09 |authormask=2 |publisher=&lt;br&gt;D. Appleton and Company, New York |year=1909 |pages=151 |isbn= }} [http://books.google.com/books?id=PSMwAAAAYAAJ&amp;source=gbs_navlinks_s Url]<br /> * {{cite book |last=&#039;&#039;&#039;Farragut&#039;&#039;&#039; |first=Loyall |title=The life of David Glasgow Farragut, first admiral of the United States navy: embodying his journal and letters |ref=Farragut79 |authorlink= |publisher=&lt;br&gt;D. Appleton and Company, New York |year=1879 |pages=586 |isbn= }} [http://books.google.com/books?id=ch1CAAAAIAAJ&amp;source=gbs_navlinks_s Url]<br /> * {{cite web |url=http://militaryhistory.about.com/od/naval/p/farragut.htm |title=Admiral David G. Farragut: Hero of the Union Navy |author=&#039;&#039;&#039;Hickman&#039;&#039;&#039;, Kennedy US Military History Institute |ref=Hickman |publisher=&lt;br&gt;New York Times; about.com |accessdate=11 November 2010}}<br /> * {{cite book |last=&#039;&#039;&#039;Houston&#039;&#039;&#039; |first=Florence Amelia Wilson |last2=&#039;&#039;&#039;Blaine&#039;&#039;&#039; |first2=Laura Anna Cowan |last3=&#039;&#039;&#039;Mellette&#039;&#039;&#039; |first3=Ella Dunn |title=&lt;br&gt;Maxwell History and Genealogy: Including the Allied Families of |ref=Houston |authorlink= |publisher=&lt;br&gt;Press of C.E. Pauley, Indianapolis Engraving Company |year=1916 |pages=642 |isbn= }} [http://books.google.com/books?id=9aU0AAAAMAAJ&amp;vq=farragut&amp;source=gbs_navlinks_s Url]<br /> * {{cite book |last=&#039;&#039;&#039;Mahan&#039;&#039;&#039; |first=Alfred Thayer |title=Admiral Farragut |ref=Mahan |authorlink= |publisher=&lt;br&gt;D. Appleton and Company, New York |year=1892 |pages=333 |isbn= }} [http://books.google.com/books?id=vuMAXGkQjUYC&amp;source=gbs_navlinks_s Url]<br /> * {{cite book |last=&#039;&#039;&#039;Rhodes&#039;&#039;&#039; |first=James Ford |title=History of the Civil War |ref=Rhodes1917 |authorlink= |publisher=MacMillian &amp; Co., New York, Boston, London |year=1917 |pages=467 |isbn= }} [http://books.google.com/books?id=FbQTAAAAYAAJ&amp;vq=farragut&amp;source=gbs_navlinks_s E&#039;Book] &lt;!-- <br /> &lt;ref&gt;[[#Rhodes1917|Rhodes, 1917]] p.467 &lt;/ref&gt; --&gt;<br /> * {{cite book |last=&#039;&#039;&#039;Schouler&#039;&#039;&#039; |first=James |title=History of the Civil War: being vol. VI of History of the United States of America, under the constitution, 1861-1865 |ref=Schouler1899 |authorlink=|publisher=Dodd, Meade &amp; Co., New York |year=1899 |pages=699 |isbn= }} [http://books.google.com/books?id=eNA4TeIfMFwC&amp;vq=naval&amp;source=gbs_navlinks_s E&#039;Book]<br /> * {{cite book |last=&#039;&#039;&#039;Shorto&#039;&#039;&#039; |first=Russell |title=David Farragut and the Great Naval Blockade |ref=Shorto |authorlink= |publisher=&lt;br&gt;Silver Burdett Press |year=1991 |pages=128 |isbn=0382240502 }} [http://books.google.com/books?id=YatF6BDzGfAC&amp;source=gbs_navlinks_s Url]<br /> * {{cite book |last=&#039;&#039;&#039;Soley&#039;&#039;&#039; |first=James Russell |title=Admiral Porter |ref=Soley03 |authorlink=|publisher=&lt;br&gt;D. Appleton, New York |year=1903 |pages=499 |isbn= }} [http://books.google.com/books?id=h7lEAAAAIAAJ&amp;source=gbs_navlinks_s Url]<br /> * {{cite book |last=&#039;&#039;&#039;Spears&#039;&#039;&#039; |first=John Randolph |title=David G. Farragut |ref=Spears |authorlink= |publisher=&lt;br&gt;G.W. Jacobs, Philadelphia |year=1905 |pages=407 }} [http://books.google.com/books?id=QdNEAAAAIAAJ&amp;source=gbs_navlinks_s Url]<br /> * {{cite book |last=&#039;&#039;&#039;Stein&#039;&#039;&#039; |first=R. Conrad |title=David Farragut: first admiral of the U.S. Navy |ref=Stein |authorlink= |publisher=&lt;br&gt;Chelsea House Publishers |year=2005 |pages=40 |isbn=1592963838 }} [http://books.google.com/books?id=ieyHmxhP4NYC&amp;source=gbs_navlinks_s Url]<br /> <br /> *{{DANFS}}<br /> <br /> == 関連図書 ==<br /> * {{cite book |last=&#039;&#039;&#039;Anderson&#039;&#039;&#039; |first=Bern |title=By Sea And By River |ref=Anderson |authorlink= |publisher=&lt;br/&gt;Da Capo Press, USA |isbn=0-306-80367-4 |pages=342 |year=1989, 7th printing}} [http://books.google.com/books?id=hoCK_yzA8xkC&amp;vq=blockade+runner&amp;source=gbs_navlinks_s Url]<br /> * {{cite book |last=&#039;&#039;&#039;Fowler&#039;&#039;&#039; |first=William M. Fowler |title=Under Two Flags: The American Navy in the Civil War |ref=Fowler90 |authorlink= |publisher=&lt;br&gt;Naval Institute Press |year=1990 |pages=352 |isbn=9781557502896 }} [http://books.google.com/books?id=bd92u6dinXUC&amp;source=gbs_navlinks_s Url]<br /> * &#039;&#039;&#039;Hearn&#039;&#039;&#039;, Chester G. (1995) &#039;&#039;The Capture of New Orleans 1862&#039;&#039;&lt;br&gt; Louisiana State University Press, Baton Rouge, Louisiana, pp.&amp;nbsp;292 ISBN = 0-8071-1945-8, [http://books.google.com/books?id=M1Z0-hnvy8QC&amp;vq=navy&amp;source=gbs_navlinks_s Url]<br /> * &#039;&#039;&#039;Nash&#039;&#039;&#039;, Howard Pervear (1972). &#039;&#039;A naval history of the Civil War&#039;&#039;&lt;br&gt;A. S. Barnes, p.&amp;nbsp;375, ISBN 9780498078415, [http://books.google.com/books?id=eUQaAQAAIAAJ&amp;source=gbs_navlinks_s Url]<br /> * {{cite book |last=&#039;&#039;&#039;Tenney&#039;&#039;&#039; |first=W. J. |title=The Military and Naval History of the Rebellion in the United States: |ref=Tenney |authorlink= |publisher=&lt;br&gt;D. Appleton, New York |year=1867 |pages=843 |isbn= }} [http://books.google.com/books?id=wZw6AAAAcAAJ&amp;source=gbs_navlinks_s Url]<br /> <br /> == 外部リンク ==<br /> {{Commonscat|David Farragut}}<br /> {{Appletons&#039; poster|year=1900|Farragut, David Glasgow|デヴィッド・ファラガット}}<br /> * {{Internet Archive short film|id=gov.dod.dimoc.24448|name=&quot;Naval Heritage Part 2 – Farragut Story, the (1962)&quot;}}<br /> <br /> {{南北戦争|collapsed}}<br /> {{アメリカ海軍2|collapsed}}<br /> {{Normdaten}}<br /> &lt;!-- ============================================== --&gt;<br /> {{DEFAULTSORT:ふあらかつと てういつと}}<br /> [[Category:アメリカ合衆国海軍の軍人]]<br /> [[Category:南北戦争の人物]]<br /> [[Category:テネシー州の人物]]<br /> [[Category:スペイン系アメリカ人]]<br /> [[Category:1801年生]]<br /> [[Category:1870年没]]</div> 163.44.28.161 ジョン・プロヒューモ 2017-02-06T18:08:02Z <p>163.44.28.161: </p> <hr /> <div>&#039;&#039;&#039;ジョン・デニス・&quot;ジャック&quot;・プロヒューモ [[大英帝国勲章|CBE]]&#039;&#039;&#039;(&#039;&#039;&#039;John Dennis &quot;Jack&quot; Profumo CBE&#039;&#039;&#039;, [[1915年]][[1月30日]] - [[2006年]][[3月9日]])は、[[イギリス]]の[[政治家]]。[[ハロルド・マクミラン]]の[[保守党 (イギリス)|保守党]]政権に大打撃を与えた、[[1963年]]の[[プロヒューモ事件]]での中心人物であった。<br /> <br /> == プロフィール ==<br /> === 生い立ち ===<br /> プロヒューモは[[ロンドン]]の[[ケンジントン|ケンジントン地区]]で、[[イタリア]]が起源の家系に生まれる。父親の[[w:Albert Profumo|アルバート・プロヒューモ]]は著名な[[弁護士]]であり、第四代[[w:Baron Profumo|プロヒューモ男爵]]([[サルデーニャ王国]]から叙勲)の爵位を保持した。1940年に父親が死去し、プロヒューモはその爵位を継承したが、使用しなかった。プロヒューモはハーロウ・スクールおよび[[オックスフォード]]のブラセノーズ大学で学び、文学修士号を得る。1939年には陸軍に入隊し、最終的には[[准将]](Brigadier)にまで昇進した。戦後には[[連合国軍最高司令官総司令部]]英国連絡事務所長(UKLM)のサー・[[チャールズ・ガードナー]]中将の参謀長として東京で勤務している。<br /> <br /> === 政治経歴 ===<br /> [[1940年]]3月、[[第二次世界大戦]]中の[[イギリス軍]]で勤務している間にプロヒューモはノースハンプシャー州ケータリングの補欠選挙に保守党からの候補として当選し、下院議員となる。[[ノルウェー]]のナルヴィクでイギリス軍が敗北した直後、プロヒューモは国会で[[ネヴィル・チェンバレン|チェンバレン]]内閣に対して反対票を投じた。彼は当時最も若い議員であった。また、1940年の下院議員の中でもっとも長命であった。<br /> <br /> [[1945年]]2月に行われた総選挙でプロヒューモは[[労働党 (イギリス)|労働党]]候補、[[ギルバート・ミッチソン]]に敗れる。終戦後の1945年末より、プロヒューモはイギリス軍([[イギリス連邦占領軍]])の[[日本]]占領軍の首席補佐官として日本に滞在した。<br /> <br /> [[1950年]]にプロヒューモは軍を退役し、同年の選挙でウォーウィックシャーのストラトフォード・オン・エイボンから選出される。プロヒューモは容貌も良く弁舌が巧みで、良い血縁関係を持ち軍での経歴も有ったため、保守党では重視され、1951年に成立した保守党政権内での地位も上昇していった。<br /> <br /> [[1952年]]11月には民間航空省の政務次官に就任、[[1953年]]11月には民間航空・運輸省の政務次官、[[1957年]]1月には植民地省の政務次官、[[1958年]]11月には外務省の政務次官、1959年1月には外務大臣と要職を歴任した。[[1960年]]7月にはマクミラン内閣で陸軍大臣に就任し、枢密院のメンバーに任命される。なお[[1954年]]には[[俳優|女優]]の[[ヴァレリー・ホブソン]]と結婚している。<br /> <br /> === 「プロヒューモ事件」 ===<br /> [[1961年]]1月にビル・アスター邸である[[クリーヴデン]]で行われたパーティーで、プロヒューモは高級[[売春婦]]の[[クリスティーン・キーラー]]と出会う。プロヒューモとキーラーの関係は数週間で終わったが、その一件に関する噂が広がり始めた。<br /> <br /> 当初[[マスメディア|マスコミ]]はこの噂をプライバシーにかかわる問題としてあえて報じなかったものの、[[1962年]]12月にロンドンで発生した、キーラーと関係した他の2人の男性が銃撃された事件をきっかけに、マスコミがキーラーについての調査を始め、その中でキーラーとプロヒューモの関係に関する噂が再び浮かび上がって来ることとなった。その後の[[1963年]][[3月21日]]に、[[労働党 (イギリス)|労働党]]選出の[[下院議員]]のジョージ・ウィッグが「ある傷害事件の証人として出廷を命じられたキーラーと閣僚の1人が関係があり、国家の安全のために事件を追究すべし」とし、噂の真相究明を要求した。疑いをもたれたプロヒューモは「その女性は知っているが、不品行な関係はない」と下院で身の潔白を主張した。<br /> <br /> しかしこの前後にマスコミが、現役の陸軍[[大臣]]であるプロヒューモと関係していたキーラーが、当時イギリスと[[冷戦]]下で対立していた[[ソビエト連邦]]の駐イギリス[[大使館]]付きの海軍上級武官である、[[エフゲニー・イワノフ]]とも同時期に関係していたことを報じ始めた。このため「プロヒューモ事件」は、単なる閣僚の女性スキャンダルから、軍事機密情報の漏洩という国家安全に関わる問題となる。<br /> <br /> その後プロヒューモは、[[ハロルド・マクミラン]][[首相]]宛の手紙の中で、「議会での発言が嘘であり、キーラーと親密な関係については認めたが、軍事機密情報の漏洩はなかった」と告白、謝罪して[[6月5日]]に辞任した。なお、プロヒューモは辞任したもののマクミラン首相も責任を取って辞任するばかりか、翌年の選挙で保守党は敗北を喫し政権から下野することになるなどプロヒューモ事件は「[[20世紀]]のイギリス政界における最大のスキャンダル」と呼ばれる事になった。<br /> <br /> === 事件後 ===<br /> 辞任後のプロヒューモは社会福祉活動に注力し、[[ロンドン]]の福祉事業、[[トインビー・ホール]]の支援のために働き、資金調達のためその政治的影響力や関係を使用した。プロヒューモは同事業への功績が認められて1975年に[[大英帝国勲章]]を授与された。[[バッキンガム宮殿]]で行われた授与式でプロヒューモは[[エリザベス2世]]から勲章を受け取り、プロヒューモに対する人々の尊敬は回復した。<br /> <br /> 名声を回復したプロヒューモはしばしば公の席に姿を現した。プロヒューモは1995年に行われた[[マーガレット・サッチャー]]70歳の誕生日夕食会にも招かれ、女王の隣の席に座った。最後にプロヒューモが参加したのは2005年7月に行われたサー・[[エドワード・ヒース]]の追悼式であった。社会運動家でもあった[[ロングフォード卿]]は「(プロヒューモは)私が生涯知り合った全ての人の中で最も多くの称賛を受けた(人物である)」と語っている。<br /> <br /> === 病気と死 ===<br /> 2006年3月7日、プロヒューモは発作でロンドンのチェルシー・アンド・ウェストミンスター病院へ入院する。その2日後プロヒューモは家族に囲まれて死去した。プロヒューモの死後多くのコメンテーターは、「プロヒューモは1963年のスキャンダルより、その後の社会貢献の功績で記憶されるべきである」と語っている。<br /> <br /> == 外部リンク ==<br /> * [http://politics.guardian.co.uk/politicspast/story/0,9061,471383,00.html &#039;&#039;The Guardian&#039;&#039;: The Profumo Affair]<br /> * [http://www.spartacus.schoolnet.co.uk/PRprofumo.htm Spartacus information]<br /> <br /> {{先代次代|イギリス陸軍大臣|1960 - 1963|[[クリストファー・ソアムズ]]|[[ジョーゼフ・ゴッバー]]}}<br /> <br /> {{DEFAULTSORT:ふろひゆも しよん}}<br /> [[Category:イギリス保守党の政治家]]<br /> [[Category:大英帝国勲章]]<br /> [[Category:イタリア系イギリス人]]<br /> [[Category:ケンジントン・アンド・チェルシー区出身の人物]]<br /> [[Category:1915年生]]<br /> [[Category:2006年没]]</div> 163.44.28.161
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