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http:///mymemo.xyz/wiki/api.php?action=feedcontributions&user=153.188.171.24&feedformat=atom miniwiki - 利用者の投稿記録 [ja] 2024-05-04T12:44:11Z 利用者の投稿記録 MediaWiki 1.31.0 クバーニ・コサック軍 2018-07-13T06:48:57Z <p>153.188.171.24: </p> <hr /> <div>{{軍隊資料<br /> |名称 =クバーニ・コサック軍<br /> |画像 =[[ファイル:Flag of Kuban People&#039;s Republic.svg|180px]]<br /> |画像説明 =[[クバーニ人民共和国]]の国旗(1918年)&lt;ref&gt;赤は「黒海衆」、青は「防衛線衆」、緑は「カフカースの軍人」を象徴している。&lt;/ref&gt;<br /> |創設 = [[1860年]]<br /> |廃止 = [[1920年]]<br /> |再編成 = 1936年(ソ連の赤コサック軍)<br /> |再廃止 = <br /> |国籍 = [[ロシア帝国]]、[[クバーニ人民共和国]]<br /> |所属 = <br /> |規模 = [[総軍]]<br /> |兵科 = コサック軍<br /> |兵種 = <br /> |人員 =9万人(1918年)<br /> |所在地 =[[クバーニ]]地方<br /> |編成地 = <br /> |通称号 = <br /> |愛称 = <br /> |標語 = <br /> |補充担任 = <br /> |上級部隊 = <br /> |最終上級部隊 = <br /> |担当地域 =[[タマン半島]]、[[クバーニ川]]の流域<br /> |最終位置 =<br /> |主な戦歴 = [[1812年ロシア戦役|仏露戦争]]&lt;br /&gt;[[カフカース戦争]]&lt;br /&gt;[[クリミア戦争]]&lt;br /&gt;[[露土戦争]]&lt;br /&gt;[[第一次世界大戦]]&lt;br /&gt;[[ロシア内戦]]<br /> }}<br /> <br /> &#039;&#039;&#039;クバーニ・コサック軍&#039;&#039;&#039;([[ウクライナ語]]:{{lang|uk|&#039;&#039;Кубанське козаче військо&#039;&#039;}};[[ロシア語]]:{{lang|ru|&#039;&#039;Кубанское казачье войско&#039;&#039;}}&lt;ref&gt;&#039;&#039;&#039;クバーニ・コサック&#039;&#039;&#039;(ウクライナ語:{{lang|uk|&#039;&#039;Кубанські козаки&#039;&#039;}};ロシア語:{{lang|ru|&#039;&#039;Кубанские казаки&#039;&#039;}})、&#039;&#039;&#039;クバーニ衆&#039;&#039;&#039;(ウクライナ語:{{lang|uk|&#039;&#039;Кубанці&#039;&#039;}};ロシア語:{{lang|ru|&#039;&#039;Кубанцы&#039;&#039;}})。&#039;&#039;&#039;クバン・コサック軍&#039;&#039;&#039;とも。&lt;/ref&gt;)は、[[1860年]]から[[1920年]]まで[[クバーニ]]地方に存在した[[コサック]]軍の一つ。[[ザポロージャ・コサック]]の系統を受け継ぐ[[ウクライナ]]系[[黒海コサック]]、[[ドン・コサック]]の系統を受け継ぐ[[ロシア]]系[[カフカース防衛線コサック]]、並びに[[カフカース]]の諸民族出身の軍人から編成されていた。[[ロシア帝国]]によるカフカース地方の[[植民地]]化において先導的役割を果たした。<br /> <br /> == 構成 ==<br /> <br /> === 黒海衆 ===<br /> [[ファイル:Kubanskie kazaki 2.jpg|250px|thumb|19世紀末のクバーニ・コサック。皆はクバーニ・コサックの軍服を着ているが、真ん中のコサック長老だけが18世紀のウクライナの黒海衆の軍服にこだわっている。]]<br /> [[ファイル:CossackPyramid.jpg|250px|thumb|コサックのピラミッド。[[ウクライナ・コサック]]に遡る騎馬術。]]<br /> クバーニ・コサック軍の中枢をなしていたのは、ザポロージャ・コサックの末裔、「黒海衆」とよばれるコサックであった。本来のザポロージャ・コサックは、[[ドニエプル川|ドニプロー川]]の下流、[[ウクライナ]]中部に在住しており、18世紀初に自治権を保ちながら、[[ロシア帝国]]の保護下に置かれていた。しかし、18世紀後半にロシアが[[ポーランド・リトアニア共和国]]と[[クリミア・ハン国]]を滅ぼすと、ロシア政府はコサックの自治権を侵害しつつウクライナ中部・南部の[[植民地]]化政策を実行しはじめた。ロシアの政策に対してコサックは反発したものの、[[1775年]]にロシア女帝[[エカチェリーナ2世]]はザポロージャ・コサックの[[シーチ|本拠地]]を占領し、コサックの自治権を廃止した。コサックの大部分は帰農させられたが、3割のコサック(5千人)は[[オスマン帝国]]の領内、[[ドナウ川]]の川口へ逃亡し、[[1778年]]にオスマン帝国の保護を受けて[[ドナウ・コサック軍]]を創立した。[[1787年]]に[[露土戦争 (1787年)|露土戦争]]が勃発すると、[[アンチン・ホロヴァーティイ]]、[[ザハーリイ・チェプィーハ]]、[[スィーヂル・ビールィイ]]といったコサック長老をはじめ、数千人のコサックは、ロシアによるウクライナ・コサック復帰の約束を受け入れてロシア側に寝返り、ロシア政府は彼らをもって「忠義なるザポロージャ・コサック軍」を編成した。翌年、そのコサック軍は「[[黒海コサック軍]]」に改名され、[[1792年]]に[[ノガイ・タタール人]]ならびに[[チェルケス人]]の居住地域、[[北カフカース]]と接している[[クバーニ]]地方へ移住させられ、クバーニ西部の防衛と開発を任された。コサック軍は常にウクライナからの移民によって強化されており、[[1860年]]にクバーニにおけるウクライナ系コサックの人口は20万人まで達した。彼らはクバーニ地方の西部と中部(イェセーイ地区、エカテリノダール地区、テムリューク地区)を中心に居住し、[[ウクライナ語]]をはじめ、多くのウクライナの風習を守っていた。<br /> <br /> === 防衛線衆 ===<br /> クバーニ・コサック軍における二番目の要員は、[[ドン川]]の支流、[[ホピョール川]]の周辺に居住した、[[ドン・コサック]]の一派とされる[[ホピョール・コサック]]であった。彼らは[[1696年]]、[[露土戦争]]で[[ロシア・ツァーリ国|ロシア]]の[[ピョートル1世]]のために戦ったが、[[1708年]]に反ロシアの[[ブラーヴィンの乱]]に参加にしたことによってピョートル1世から[[弾圧]]を受けて滅亡した。[[18世紀]]半ばにホピョール・コサックはロシア帝国によって再編成されてカフカースへ移住され、[[スタヴロポリ]]要塞を建設してカフカースの現地民と戦った。更に、このコサックは[[1828年]]にクバーニ地方、[[クバーニ川]]の上流へ移住され、[[1832年]]にカフカース防衛線コサック軍に改名され、「防衛線衆」と呼ばれるようになった。[[1860年]]に彼らは黒海コサック軍と共にクバーニ・コサック軍へ再編成され、クバーニ東部(カフカース地区、ラビン地区、マイコープ地区、バタルパシャー地区)を中心に住んでいた。<br /> <br /> === その他 ===<br /> クバーニ・コサック軍には「黒海衆」と「防衛線衆」の他に「付加コサック」という両グループに属さない人たちもいた。彼らの中には、自由農民、陸軍の旧将兵、カフカースの諸民族の代表([[チェルケス人]]、[[チェチェン人]]など)などが含まれていた。<br /> <br /> == 組織 ==<br /> [[ファイル:Cossaks Imperator Bodyguard.jpg|250px|thumb|クバーニ・コサックからなるロシア皇帝の親衛隊。]]<br /> ロシア帝国におけるクバーニ・コサックは、他のコサックと同様に[[農業]]を営み、[[軍役]]の義務がある非課税[[階級]]をなしていた。クバーニ・コサック軍の棟梁はコサックが選挙する軍の[[アタマン|オタマン]]([[大将]])であったが、[[19世紀]]後半には[[ツァーリ|ロシア皇帝]]が任命する任命オタマン兼[[クバーニ州]]知事となった。その任命オタマンは州内の地区のオタマンたちを任命し、地区のオタマンたちはコサック集落([[スタヌィーツャ]]と[[フーチル]])の選任オタマンたちを部下にしていた。集落の最高機関は集落会であり、その集落会でオタマン・副オタマン・[[裁判官]]・[[書記官]]・大蔵官といった集落役員が選ばれた。コサックは軍役の他に交代制で郵便役、道路・橋の修理役、警備役、警察役などを務めた。<br /> <br /> [[1914年]]の直前には、クバーニ・コサック軍の人口は、約500の集落に居住する130万人のコサックとコサックの家族の一員(クバーニの人口の4割)からなっていた。また、クバーニ・コサック軍はクバーニ州とともに7つの地区(オトデール)に分かれていた。<br /> *イェセーイ地区<br /> *エカテリノダール地区<br /> *テムリューク地区<br /> *カフカース地区<br /> *ラビン地区<br /> *マイコプ地区<br /> *バタルパシャー地区<br /> <br /> == 関連年表 ==<br /> [[ファイル:AKubanCossack.jpg|250px|thumb|クバーニ・コサックの軍服はカフカースの山民の民族衣装に由来する。このような軍服は、カフカースに住むクバーニと[[テレク・コサック軍|テレク]]のコサックのみが身に着けることが許されていた。]]<br /> [[ファイル:Roubaud._Scene_from_Caucasian_war.jpg|250px|thumb|カフカース戦争。クバーニ・コサック対チェチェン人。]]<br /> <br /> [[ファイル:Bundesarchiv Bild 146-1975-099-15A, Russland, Kosaken in der Wehrmacht.jpg|250px|thumb|ドイツ軍下のクバーニ・コサック。]]<br /> [[ファイル:KubanCossacks1945.jpg|250px|thumb|モスクワでの第二次世界大戦戦勝パレードで整列する赤コサック。]]<br /> *[[1792年]]:黒海衆が[[クバーニ]]の[[タマン半島]]に移住する<br /> *[[1793年]]:黒海衆が[[クラスノダール|エカテリノダール]]を創立する。<br /> *[[1794年]]:黒海衆は[[ポーランド人]]による[[タデウシュ・コシチュシュコ|コシチュシュコ]]の蜂起の弾圧に参加する。<br /> *[[1796年]]:黒海衆は[[ペルシア遠征]]に参加する。コサック軍の過半数は病死・餓死する。<br /> *[[1797年]]:黒海衆は独断でペルシア遠征から帰陣する。<br /> *[[1806年]] - [[1812年]]:黒海衆(4つの連隊)は[[露土戦争 (1806年)|ロシア・トルコ戦争]]に参加する。<br /> *[[1812年]] - [[1814年]]:黒海衆(第9[[歩兵]][[連隊]]、第1混合[[騎兵]]連隊、黒海[[親衛]][[百人隊]])は[[ナポレオン戦争]]に参加する。<br /> *[[1826年]] - [[1828年]]:黒海衆(2つの騎兵連隊、1つの騎馬砲兵中隊、1つの特別五百人隊)は[[ロシア・ペルシャ戦争 (1826年-1828年)|ロシア・ペルシア戦争]]に参加する。<br /> *[[1828年]] - [[1829年]]:黒海衆は[[露土戦争 (1828年)|ロシア・トルコ戦争]]に参加し、[[アナパ]]要塞を攻撃する。<br /> *[[1830年]] - [[1831年]]:黒海衆(2つの騎兵連隊)はポーランド人による蜂起の弾圧に参加する。<br /> *[[1832年]]:[[カフカース防衛線コサック軍]](防衛線衆)が編成される<br /> *[[1832年]] - [[1853年]]:黒海衆・防衛線衆が[[カフカーズ戦争]]に参加する。<br /> *[[1853年]] - [[1856年]]:黒海衆は[[クリミア戦争]]に参加し、英仏軍によるクバーニ占領の防止に成功する。黒海衆の2つの歩兵大隊は[[セバストポリ]]防衛戦に参加する。<br /> *[[1856年]] - [[1864年]]:黒海衆・防衛線衆はカフカーズ戦争に参加する。<br /> *[[1860年]]:黒海衆・防衛線衆は再編成され、クバーニ・コサック軍となる。軍の構成は、22の騎兵連隊、3つの騎兵中隊、13の歩兵大隊、5つの砲兵大隊。<br /> *[[1865年]]:クバーニ・コサック軍はカフカース戦争に参加したことの褒章としてりゲオルギー軍旗を賜る。<br /> *[[1873年]]:クバーニ・コサック軍は[[中央アジア]]の[[ヒヴァ・ハン国|ヒヴァ汗国]]の討伐に参加する。<br /> *[[1877年]] - [[1878年]]:クバーニ・コサック軍は[[露土戦争 (1877年-1878年)|ロシア・トルコ戦争]]に参加する({{仮リンク|シプカ峠の戦い|en|Battle of Shipka Pass}}、{{仮リンク|ドグバヤゼット|en|Doğubeyazıt|label=バヤゼット防衛戦}}-{{lang-en-short|Defence of Doğubeyazıt}}、{{仮リンク|カルスの戦い|en|Battle of Kars}}、アブハジアにおける諸戦)。<br /> *[[1881年]]:クバーニ・コサック軍(3つの連隊)は[[トルクメン人]]のギョクデペ要塞を陥落させる。([[ギョクデペの戦い]])<br /> *[[1904年]] - [[1905年]]:クバーニ・コサック軍は[[日露戦争]]に参加した。<br /> :軍は6142人の[[騎兵]]、2132人の[[歩兵]]、300人の[[砲兵]]をロシア側に出した。<br /> :1904年12月にクバーニ・コサックはA・ネポクープヌィイ[[大佐]]が率いる第1[[エカテリノダール]]・コサック[[連隊]]と、V・アクーロフ大佐が率いる第1[[ウーマニ]]・コサック連隊に編成され、カフカス・コサック混合[[師団]]に加えられた。また、師団の他に6つの大隊からなる第2クバーニ歩兵[[旅団]]も編成された。この旅団はM・マルティーノフ大将が指揮した。<br /> :1905年2月にクバーニ・コサックは満州へ出発し、4月に目的地に達した。到着後、いくつかの小競り合いに参加した。<br /> *[[1914年]]:クバーニ・コサック軍は1万9千人のコサックまで達する。軍の構成は、11の騎兵連隊と1つの騎兵小軍団、2つの親衛百人隊、6つの歩兵大隊、5つの砲兵大隊、12つの小隊と1つの警察百人隊。<br /> *[[1914年]] - [[1918年]]:クバーニ・コサック軍は[[第一次世界大戦]]に参加する。4年間の内に約9万人のコサックは、37の騎兵連隊、1つの特別コサック軍団、2つの親衛百人隊、24の歩兵大隊、24つの特別歩兵大隊、6つの砲兵大隊、51の混合百人隊、12つの小隊を構成し、軍役に服した。<br /> *[[1917年]] - [[1918年]]:[[ロシア革命]]とロシア帝国崩壊に伴い、クバーニ・コサック軍内の分裂が生じる。黒海衆は[[クバーニ・ラーダ]]を設置してクバーニの[[独立]]を目指す。一方、防衛線衆はロシアの[[白軍]]となって大ロシアの復帰を求める。<br /> *[[1918年]] - [[1920年]]:クバーニ・コサック軍が支配するクバーニ州において、クバーニ・ラーダはクバーニの独立を宣言し、エカテリノダールを首都とする[[クバーニ人民共和国]]が成立する。[[ウクライナ国]]との[[連邦]]案を宣言する。<br /> *[[1920年]]:クバーニ人民共和国は[[赤軍]]によって滅ぼされ、クバーニ・コサック軍は廃止される。クバーニ・コサックの富裕層は[[欧米]]へ逃亡する。<br /> *[[1920年]] - [[1933年]]:[[ソビエト連邦共産党|共産党]]政権によるコサック根絶政策が実行される。[[ソビエト連邦|ソ連]]の[[秘密警察]]によって数万人のコサックとコサックの家族が射殺され、あるいはシベリア[[収容所]]へ移される。<br /> *[[1932年]] - [[1933年]]:[[ホロドモール]]。共産党政権が人工的な[[飢饉]]により多数のコサックの餓死させる。クバーニにおけるウクライナ系共同体が強い打撃を受ける。<br /> *[[1936年]]:共産党政権は非コサック人口(赤軍の将兵、秘密警察の将兵、現地の[[農民]]など)より赤クバーニ・コサック軍を編成し始める。入隊条件によると、ロシア革命期に赤軍と戦ったコサックとその子孫は赤コサック軍に加わることが厳禁。<br /> *[[1941年]] - [[1945年]]:[[第二次世界大戦]]においてクバーニ・コサックは[[ドイツ国防軍|ナチス・ドイツ軍]]に味方し、ドイツ軍の下に二つのコサック騎兵軍団に編成される。一方、ソ連側はコサックの寝返りを防止するために赤クバーニ・コサック軍団を編成して戦争で活躍させる。<br /> *[[1990年]]:[[ソ連崩壊]]期にクバーニ地域においてコサック復帰運動が始まる。クバーニ郷史研究会を中心に「クバーニ・コサック軍」という民間組織が成立する。当組織のメンバーは[[1990年代]]以後に勃発した[[チェチェン紛争]]や[[南オセチア紛争 (2008年)|ロシア・グルジア戦争]]などで[[ロシア連邦軍|ロシアの正規軍]]を援助している。[[2008年]]から組織の「軍長」は[[クラスノダル地方]]の副[[知事]]となっている。<br /> <br /> == 脚注 ==<br /> &lt;references /&gt;<br /> <br /> == 参考文献 ==<br /> *{{uk icon}} [http://www.cossackdom.com/articles/m/malenko_kubkoz.htm {{lang|uk|Маленко Л.М. Кубанське козацтво // Українського козацтва. Мала енциклопедія українського козацтва}}]<br /> *{{en icon}} Ukraine and Ukrainians Throughout the World, edited by A.L. Pawliczko, University of Toronto Press, 1994.<br /> *{{ru icon}} [http://www.cossackdom.com/book/bookkuban.html {{lang|ru|Малакуло А. Н. Кубанское казачье войско в 1860—1914 гг. Екатеринодар, 2003.}}]<br /> *{{ru icon}} {{lang|ru|Щербина Ф. История Кубанского казачьего войска: В 2-х т. — Екатеринодар, 1910-1913}}.<br /> <br /> == 外部リンク ==<br /> {{Commonscat|Kuban Cossacks}}<br /> *{{uk icon}}、{{ru icon}} [http://www.cossackdom.com/troopsu.html#kuban クバーニ・コサックに関する文献目録]<br /> *{{ru icon}} [http://www.kkx.ru/about/ クバーニ・コサック合唱団]<br /> *{{uk icon}} [http://www.youtube.com/watch?v=1wPgXqD-F_s&amp;feature=channel_page クバーニ・コサックの軍歌]<br /> <br /> {{デフォルトソート:くはあにこさつくくん}}<br /> [[Category:コサック軍]]<br /> [[Category:ロシア帝国の軍事]]<br /> [[Category:クバーニ|こさつくくん]]</div> 153.188.171.24 クバーニ 2018-07-13T06:44:56Z <p>153.188.171.24: </p> <hr /> <div>{{脚注の不足|date=2012年2月}}<br /> <br /> [[ファイル:Map of Kuban Oblast (1916).jpg|thumb|[[クバン州]]の地図(1916年)。]]<br /> <br /> &#039;&#039;&#039;クバーニ&#039;&#039;&#039;([[ロシア語]]:&#039;&#039;{{lang|ru|Кубань}}&#039;&#039;;[[ウクライナ語]]:&#039;&#039;{{lang|uk|Кубань}}&#039;&#039;;[[アディゲ語]]:&#039;&#039;{{lang|ady|Пшызэ}}&#039;&#039;)は、[[ロシア]]南部、[[クバン川|クバーニ川]]流域から、現在の[[クラスノダール地方]]、[[アディゲ共和国]]、[[スタヴロポリ地方|スターヴロポリ地方]]、[[ロストフ州]]、[[カラチャイ・チェルケス共和国]]に当たる地域を指す。<br /> <br /> == 名称 ==<br /> [[ロシア]]および[[ウクライナ]]の歴史的地名であり、[[日本語]]では、&#039;&#039;&#039;クバン&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;クバニ&#039;&#039;&#039;、あるいは&#039;&#039;&#039;クバーニ地方&#039;&#039;&#039;などとも書かれる。<br /> <br /> == 歴史 ==<br /> [[紀元前6世紀]]頃、[[レスボス島]]からやって来た[[ギリシャ人]]によって&#039;&#039;&#039;ヘルモナッサ&#039;&#039;&#039;([[英語]]:Hermonassa, [[ギリシャ語]]:{{lang|gr|Ερμώνασσα}})が作られ&lt;ref&gt;[http://2012over.ru/drevnee-serdce-tmutarakani-obrushivaetsja-v-more.html Древнее сердце Тмутаракани обрушивается в море]&lt;/ref&gt;、[[紀元前5世紀]]頃に[[ボスポロス王国]]の一部となった。<br /> <br /> [[6世紀]]頃、ボスポロス王国が[[東ローマ帝国|ビザンツ帝国]]([[ユスティニアヌス1世]]の治世)の支配下に入った。<br /> <br /> ビザンツ帝国の[[500年]]から[[600年]]の頃に、初めて[[ドニエプル地方]]&lt;!-- ドニプローウヤ --&gt;から[[ルーシ族]]が現れる。[[965年]]には{{仮リンク|トムタラカン|en|Tmutarakan}}を占領し、[[トムタラカニ公国|トムタラカン公国]]を建国した。<br /> <br /> 山岳地方から{{仮リンク|カソーグ|ru|Касоги|label=カソーグ人}}が[[ドニエプル川]]はナドニプリャーンシュチナ(現在の[[チェルカースィ州]]辺り)に移住し、現在の[[チェルカースィ]]の基礎を築く。カソーグ人(あるいは[[アディゲ人|チェルカース人]])は現代の[[チェルケス人]]に近い種族で、古代のトムタラカンの住民の子孫であり、のちに[[コサック]]の原型となったと考えられている。<br /> <br /> [[1792年]]には、[[黒海コサック軍]]がウクライナより移住した。クバーニは彼らによって開拓され、彼らは[[クバーニ・コサック軍]]を編成した。<br /> <br /> ロシア帝国が崩壊しつつあった[[1917年]][[4月30日]]から[[5月3日]]にかけて、カテルィノダール(現在の[[クラスノダール]])でコサックの集会が開かれ、コサック政府となる[[クバーニ軍ラーダ]]([[ラーダ|議会]])が結成され、[[1918年]][[2月16日]]には立法ラーダ(議会)が[[クバーニ人民共和国]]の建国を宣言。また、同年[[4月3日]]にはクバーニ人民共和国に反発する形で[[クバーニ・ソビエト共和国]]が建国されるなど、混乱が続いた。<br /> <br /> その後、それら諸国家は[[ソビエト連邦]]により併合されるも、ソ連政府によるコサックへの弾圧、[[ホロドモール]]などが続き、[[第二次世界大戦]]においては枢軸国とのソ連との戦場となった([[ブラウ作戦]])。<br /> <br /> ==農業と観光==<br /> <br /> 比較的温暖な気候を利用した農業・観光業が盛んである。農業は[[ソ連]][[映画]]『[[クバンのコサック]]』(1949年)によく描かれている。[[2014年]]には南部の都市[[ソチ]]にて[[ソチオリンピック|オリンピック]]が開催された。<br /> <br /> == 脚注 ==<br /> &lt;references/&gt;<br /> <br /> == 主要な都市 ==<br /> 名称は、現在のものに準拠する。<br /> *[[クラスノダール]]<br /> *[[エイスク]]<br /> *[[ノヴォロシースク]]<br /> *[[ソチ]]<br /> *[[テムリューク]]<br /> *[[スロヴャンスク=ナ=クバーニ]]<br /> *[[アルマヴィール_(ロシア)|アルマヴィール]]<br /> *[[ネヴィンノムイスク|ネヴィンノムィースク]]<br /> *[[トゥアプセ]]<br /> *[[アナパ]]<br /> <br /> == 関連項目 ==<br /> この名称を持つものには、以下のようなものがある。<br /> *[[クバン川|クバーニ川]] - [[スタヴロポリ地方|スターヴロポリ地方]]および[[クラスノダール地方]]を流れる[[川]]。<br /> *[[FCクバン・クラスノダール]] - [[ロシア]]の[[サッカー]]クラブ。[[ソビエト連邦|ソ連]]時代の[[1928年]]に設立された。<br /> *[[クバン州]] - [[ロシア帝国]]の行政区の一つ。<br /> *[[クバーニ_(航洋砲艦)|航洋砲艦クバーニ]] - ロシア帝国で建造された[[砲艦]]。<br /> <br /> == 参考文献 ==<br /> *{{ja icon}} 『ポーランド・ウクライナ・バルト史 』/ 伊東孝之,井内敏夫,中井和夫. 山川出版社, 1998.12. (新版世界各国史 ; 20)<br /> <br /> == 外部リンク ==<br /> * {{uk icon}} [http://history.franko.lviv.ua/IIIch.htm {{lang|uk|&#039;&#039;Довідник з історії України&#039;&#039;. За ред. І. Підкови та Р. Шуста. — Київ: Генеза, 1993.}}]<br /> <br /> <br /> {{ウクライナの歴史的地域}}<br /> <br /> {{DEFAULTSORT:くはあに}}<br /> [[Category:クバーニ|*]]</div> 153.188.171.24 クバーニ人民共和国 2018-07-13T06:37:51Z <p>153.188.171.24: </p> <hr /> <div>{{基礎情報 過去の国<br /> |略名 = クバーニ共和国<br /> |日本語国名 = クバーニ人民共和国<br /> |公式国名 = &#039;&#039;&#039;{{lang|uk|Кубанська Народна Республіка}}&#039;&#039;&#039;<br /> |建国時期 = [[1918年]]<br /> |亡国時期 = [[1920年]]<br /> |先代1 = ロシア帝国<br /> |先旗1 = Flag_of_Russia.svg<br /> |次代1 = ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国<br /> |次旗1 = Flag_RSFSR_1918.svg<br /> |国旗画像 = Flag_of_Kuban_People&#039;s_Republic.svg<br /> |国旗リンク = <br /> |国旗説明 = 国旗<br /> |国旗幅 = <br /> |国旗縁 = <br /> |国章画像 = Herb Kubanskoyi Narodnoyi Respubliky.svg<br /> |国章リンク = <br /> |国章説明 = 国章<br /> |国章幅 = <br /> |標語 = <br /> |国歌 = クバーニ、汝は我らが故郷!<br /> |国歌名 =  <br /> |国歌追記 = <br /> |位置画像 = Map of Kuban Oblast (1916).jpg<br /> |位置画像説明 = [[1916年]]における[[ロシア帝国]]、[[クバン州]]地図。クバーニ人民共和国領域と一致する。<br /> |公用語 = [[ウクライナ語]]・[[ロシア語]]<br /> |首都 = [[クラスノダール|カテルィノダール]]<br /> |元首等肩書 = 議長<br /> |元首等年代始1 = [[1917年]]<br /> |元首等年代終1 = [[1918年]]、[[1919年]]<br /> |元首等氏名1 = [[ルカー・ブィーチ]]<br /> |元首等年代始2 = 1918年<br /> |元首等年代終2 = 1919年<br /> |元首等氏名2 = [[ムィコーラ・リャボヴィール]]<br /> |元首等年代始3 = 1919年<br /> |元首等年代終3 = [[1920年]]<br /> |元首等氏名3 = [[フェージル・スシュコーウ]]<br /> |首相等肩書 = [[アタマン|オタマン]]<br /> |首相等年代始1 = 1917年<br /> |首相等年代終1 = 1919年<br /> |首相等氏名1 = [[オレクサンドル・フィリモーノウ]]<br /> |首相等年代始2 = 1919年<br /> |首相等年代終2 = 1919年<br /> |首相等氏名2 = [[ムィコーラ・ウスペーンシクィイ]]<br /> |首相等年代始3 = 1919年<br /> |首相等年代終3 = 1920年<br /> |首相等氏名3 = [[ムィコーラ・ブクレートウ]]<br /> |面積測定時期1 = 1918年<br /> |面積値1 = 94,360<br /> |人口測定時期1 = 1918年&lt;ref&gt;{{lang|1=en|2={{cite book|title=One Europe, Many Nations: A Historical Dictionary of European National|last=Minahan|first=James|year=2000|publisher=Greenwood Press|isbn=0313309841}}}}&lt;/ref&gt;<br /> |人口値1 = 3500000<br /> |変遷1 = ラーダ(議会)設置<br /> |変遷年月日1 = 1917年3月<br /> |変遷2 = 成立<br /> |変遷年月日2 = 1918年[[1月28日]]<br /> |変遷3 = 独立宣言<br /> |変遷年月日3 = 1918年[[2月16日]]<br /> |変遷4 = 国土喪失、消滅<br /> |変遷年月日4 = 1920年[[5月17日]]<br /> |通貨 = [[クバーニ・ルーブリ]]<br /> |時間帯 = <br /> |夏時間 = <br /> |時間帯追記 = <br /> |ccTLD = <br /> |ccTLD追記 = <br /> |国際電話番号 = <br /> |国際電話番号追記 = <br /> |注記 = <br /> }}<br /> &#039;&#039;&#039;クバーニ人民共和国&#039;&#039;&#039;({{lang-uk|&#039;&#039;&#039;Кубанська Народна Республiка&#039;&#039;&#039;}};{{lang-ru|&#039;&#039;&#039;Кубанская Народная Республика&#039;&#039;&#039;}})は、現在の[[クバーニ]]地方に[[コサック]]が建国した[[国家]]である。反[[ボリシェヴィキ]]の[[共和国]]であったが、[[ロシア内戦]]で[[共産主義]]政権に敗れて滅亡した。<br /> <br /> [[1918年]][[1月28日]]、国の政府機関となる[[クバーニ・ラーダ]](クバーニ議会)で樹立が宣言され、同年[[2月16日]]に独立が宣言された。クバーニ人民共和国は、[[ロシア帝国]]時代の[[クバン州|クバーニ州]]の全領土を領有していた。<br /> <br /> == 歴史 ==<br /> <br /> === 背景 ===<br /> ロシア帝国時代、クバーニ地方は[[クバーニ・コサック軍]]の所領であった。多くの似た地域のように、この地域も人口統計学的にロシア政府の直轄地とは幾つかの違いがあった。西部と中部の地域は[[ウクライナ]]から[[1792年]]に移住した[[黒海コサック軍]]の子孫が広く居住していた。南部と北部では、[[ドン・コサック軍]]の子孫の[[カフカース防衛線コサック軍]]が人口を構成していた。<br /> <br /> 歴史的には、クバーニ・コサック軍は[[中央アジア]]の山岳民からロシアの国境を防衛する任務を司っていた。山岳民族の襲撃は、[[1860年]]までおよそ60年間続いた[[カフカーズ戦争]]に直接の原因を持っていた。クバーニ・コサック軍は、長きにわたる戦争のあいだ、[[ロシア帝国軍]]のために大きな兵力を送っていた。また、クバーニ・コサック軍からは[[ツァーリ]]の個人的護衛も送り出されていた。これらの忠誠心に対する報奨として、クバーニ・コサック軍には[[税]]を免除されるなど様々な特権が与えられ、半ば独立した立場を保障されていた。彼らの生活の軍事的性質は、[[スタニーツァ]]あるいは[[クーリニ]]と呼ばれるコサックの伝統的な社会組織を中心に構成されており、地域の[[アタマン|オタマン]]や指揮官の選挙など、大きな自治権を持っていた。<br /> <br /> しかしながら[[アレクサンドル2世]]の治世になって、平和になったクバーニ地域は投資対象として重視されるようになり、ロシア、[[アルメニア]]、ウクライナなどから[[農業]]を行うために[[農家|農民]]の大規模な移住が行われた。土地の所有権の問題が農民とコサックの間に大きな摩擦を起こしたが、当時の国策にかなう移民側の利権が優先されることがしばしばであった。<br /> <br /> === 二月革命 ===<br /> [[ファイル:Luka Lavrentievich Bych.JPG|thumb|初代共和国議長ルカー・ブィーチ]]<br /> <br /> [[サンクトペテルブルク|ペトログラード]]で[[2月革命_(1917年)|二月革命]]で成立した[[ロシア臨時政府|臨時政府]]は、[[第一次世界大戦]]の継続を決定した。軍部隊では厭戦気分が高まっており、この決定に失望したクバーニ・コサックの部隊は前線を見捨て、[[オスマン帝国]]の南部からの侵攻に脅かされる故郷を守るために故郷へ戻った。<br /> <br /> 帝政時代、クバーニはツァーリに直接任命された任命オタマンに直接統治されていた。任命オタマンは、多くの場合、非コサックの老練な将軍が務めていた。二月革命で皇帝[[ニコライ2世]]が退位すると、すぐさまクバーニ・ラーダ(議会)が議会をクバーニにおける唯一の政府体制として1917年3月に宣言し、クバーニ全土を統治する軍事政府を作った。同年[[6月17日]]には新しい[[ロシア共和国|ロシア民主共和国]]の枠内でクバーニ人民共和国の建国が宣言された。<br /> <br /> === クバーニ共和国の独立 === <br /> ボリシェヴィキによる[[十月革命]]でロシア共和国が倒されたのち、クバーニの人々のあいだではグループ間の不一致が顕著になっていった。多数の非コサック系農民はボリシェヴィキ政権と[[クバーニ・ソビエト共和国]]に感化された。[[1918年]][[2月16日]]、ラーダはクバーニ人民共和国のロシアからの独立を宣言する。<br /> <br /> 1918年3月、[[ラーヴル・コルニーロフ]]指揮する[[義勇軍_(白軍)|義勇軍]]がボリシェヴィキ系の[[赤軍]]を撃破すると、クバーニ・ラーダは再建され、その下に入ることになった。以前ロシア帝国に忠誠を持っていたコサックは、[[白軍]]派を支援することになった。義勇軍がクバーニにいた[[ボリシェヴィキ]]勢力の掃討に成功したすぐ後に、前線は北の[[ドン全大軍]]の領域まで動いた。<br /> <br /> 戦線の拡大はラーダに大きな影響を与え、1918年6月には指導部とコサックの不和が大きくなり始めた。主な焦点は[[ウクライナ・コサック|ウクライナ系コサック]]の「黒海衆」とロシア系の「防衛線衆」の不和であった。前者は外部に頼った自治権の保持に失望して完全なるクバーニの独立を指向するようになり、後者は「大ロシア国家」の再建の夢を信じ続けたのである。<br /> <br /> === ロシア内戦 ===<br /> 大ロシア主義を掲げる白軍はクバーニ・コサックを分離主義者と見なした。コルニーロフのあと白軍の司令官となった[[アントーン・デニーキン]]将軍は、徐々にクバーニ・ラーダに不満を募らすようになった。結局、ラーダは[[パウロー・スコロパードシクィイ]]の[[ウクライナ国]]との[[連邦同盟]]結成を目指すようになり、ウクライナ国崩壊ののちは、[[グルジア民主共和国]]との良く似た連合に参加した。しかし、[[フランス]]にいた外国使節が独立を宣言すると、火花は飛び散った。幾らかのコサック兵は政府を離れ、その他は[[赤軍]]に亡命した。<br /> <br /> 1918年12月、議会は第一委員長[[ルカー・ブィーチ]]の率いるクバーニ代表団を[[1919年]]の[[パリ平和会議]]に向かわせた。4月までに、まず国際社会がボリシェヴィキからの防衛のためクバーニを独立国家として昇任するよう要求した。同時に、デニーキンの白軍との協力拒否も宣言された。ところが、このいずれも[[連合国_(第一次世界大戦)|連合国]]を満足させることができなかった。しかしながらクバーニ人民共和国は、ウクライナ人民共和国、[[ドイツ帝国]]、[[オスマン帝国]]、[[グルジア民主共和国]]、[[北カフカース山岳共和国]]とともに[[デ・ジュリ|法律上では]]承認された&lt;ref name=&quot;Kubiyovych&quot;&gt;{{lang|1=en|2={{cite book|author=Kubijovyč, Volodymyr|title=Ukraine: A Concise Encyclopedia|location=Toronto|publisher=University of Toronto Press|year=1963|pages=pgs. 790-793}}}} {{en icon}}&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> デニーキンは、1919年[[11月6日]]にこの「裏切り」を知ると、ラーダの庁舎を包囲するよう命じた。そしてオタマンであった[[オレクサンドル・フィリモーノウ]]とその同志であるラーダのメンバー10人を逮捕した。この中に含まれた[[パウロー・クルハーンシクィイ]]は、反逆罪によって公的に[[絞首刑]]となった。ロシア系「防衛線衆」はデニーキンの側に付き、義勇軍兵士として戦った。1919年12月の後にはデニーキンは敗北し、赤軍のクバーニ侵攻が予想されるようになった。幾つかのウクライナ系「黒海衆」のグループはラーダを再建して義勇軍を脱走し、独立することを志向していたウクライナ人民共和国やグルジア民主共和国とボリシェヴィキに対する共同戦線を張ることを試みた。しかしながら、[[1920年]]初頭には赤軍がクバーニの大半を占領し、議会もデニーキンも追い立てられた。<br /> <br /> == 遺事 ==<br /> [[ソビエト連邦|ソ連]]と、それを継承する[[ロシア|ロシア連邦]]の歴史家たちは、白軍と断絶するというクバーニ人民共和国の決定は、ロシア内戦における決定的な「裏切り」であったと見ている。この行為こそが、ボリシェヴィキの最終的な勝利を呼んだターニングポイントの一つとして考えている。<br /> <br /> 一方、ウクライナの歴史家は、クバーニ・ラーダの同盟の推移を見てクバーニ人民共和国はクバーニ・コサックによるウクライナとの連合の試みだったと主張している。最後の首相となった[[ヴァスィーリ・イヴァニス]]はスコロパードシクィイがもっと毅然と振る舞っていたら、また[[ズラーブ・ナチーイウ|ナチーイウ]]将軍の率いる[[ウクライナ人民共和国軍]]師団がクバーニに送られていたら、ウクライナは反ボリシェヴィキ運動の中心になっていたであろうと主張している。イヴァニスは[[中央同盟国]]の助けがあり、[[アレクサンドル・コルチャーク]]が東部で同時に行動したら、彼らが早期にロシアを再度取り戻すことができたかも知れないと述べている。<br /> <br /> == 関連項目 ==<br /> *[[クバーニ]]<br /> *[[クバーニ・コサック軍]]<br /> *[[クバーニ・ソビエト共和国]]<br /> *[[クバーニ=黒海ソビエト共和国]]<br /> <br /> == 脚注 ==<br /> {{脚注ヘルプ}}<br /> {{reflist}}<br /> <br /> == 文献 ==<br /> * {{cite web|url=http://www.vesna.org.ua/txt/donvisn/t1/14.html|title={{lang|en|Ukraine and Kuban in 1917-1921. United in conflict}}|accessdate=2008-04-04|last={{lang|en|Bilyi}}|first={{lang|en|Dmytro}}|year={{lang|en|2005}}|work={{lang|en|Virtualna Rus&#039;}}|language=ウクライナ語}}<br /> * {{cite web|url=http://www.haidamaka.org.ua/0005.html|title={{lang|en|Ukrainian Kuban}}|accessdate=2008-04-04|work={{lang|en|Haidamaka}}|language=ウクライナ語}}<br /> <br /> {{ウクライナの歴史}}<br /> {{ロシア革命後の国家}}<br /> <br /> {{DEFAULTSORT:くはあにしんみんきようわこく}}<br /> [[Category:ロシア内戦期の北コーカサス]]<br /> [[Category:ロシア内戦期の国家]]<br /> [[Category:かつてカフカスに存在した国家]]<br /> [[Category:かつてウクライナに存在した国家]]<br /> [[Category:クバーニ|しんみんきようわこく]]<br /> [[Category:かつて存在したヨーロッパの共和国]]<br /> [[Category:1918年に成立した国家・領域]]<br /> [[Category:1920年に廃止された国家・領域]]</div> 153.188.171.24 シベリア出兵 2018-07-13T06:25:33Z <p>153.188.171.24: </p> <hr /> <div>{{Battlebox<br /> |battle_name=シベリア出兵<br /> |campaign=<br /> |colour_scheme=background:#cccccc<br /> |image=[[ファイル:4 U.S. Wolfhounds on parade in Vladavostock, August 1918.jpg|300px|]]<br /> |caption=1918年、ウラジオストクでパレードを行う各国の干渉軍<br /> |conflict=[[ロシア内戦]]<br /> |date=[[1918年]]8月 &amp;ndash; [[1922年]]10月<br /> |place=[[シベリア]]東部<br /> |result=連合軍の撤退。<br /> |combatant1={{Flagicon|RUS}} [[白軍]]&lt;br /&gt;{{JPN1889}}&lt;br /&gt;{{USA1912}}&lt;br /&gt;{{UK}}&lt;br /&gt;{{Flagicon|FRA}} [[フランス第三共和政|フランス共和国]]&lt;br /&gt;{{CAN1868}}&lt;br /&gt;{{ITA1861}}&lt;br /&gt;{{CHN1912}}<br /> |combatant2=[[ファイル:Flag RSFSR 1918.svg|25px]] [[ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国|ロシア社会主義連邦ソヴィエト共和国]]&lt;br /&gt;[[ファイル:Flag Far Eastern Republic.svg|25px]] [[極東共和国]]<br /> |commander1={{Flagicon|RUS}} [[アレクサンドル・コルチャーク]]&lt;br /&gt;{{Flagicon|RUS}} [[グリゴリー・セミョーノフ]]&lt;br /&gt;{{Flagicon|RUS}} {{仮リンク|パベル・イワノフ-リノウ|ru|Иванов-Ринов, Павел Павлович|label=パベル・イワノフ-リノウ}}&lt;br /&gt;{{Flagicon|RUS}} {{仮リンク|ゲオルギー・ロマノフスキー|ru|Романовский, Георгий Дмитриевич}}&lt;br /&gt;{{Flagicon|RUS}} {{仮リンク|ドミトリー・ホルワット|ru|Хорват, Дмитрий Леонидович}}&lt;br /&gt;{{flagicon2|大日本帝国|army}} [[大谷喜久蔵]]&lt;br /&gt;{{Flagicon|USA1912}} [[ウィリアム・シドニー・グレーヴス]]([[:en:William S. Graves|en]])&lt;br /&gt;{{flagicon|CHN1912}} 宋煥章&lt;br /&gt;{{flagicon|CHN1912}} [[林建章]]&lt;br&gt;{{Flagicon|ITA1861}} Vittorio Filippi di Baldissero<br /> |commander2=[[ミハイル・トゥハチェフスキー]]&lt;br /&gt;[[ミハイル・フルンゼ]]&lt;br /&gt;[[ヴァシーリー・ブリュヘル]]&lt;br /&gt;[[イワン・コーネフ]]&lt;br /&gt;[[ダムディン・スフバートル]]<br /> |strength1=白軍400,000人&lt;br /&gt;日本軍73,000人&lt;br /&gt;アメリカ7,950人&lt;br /&gt;イタリア2,400人&lt;br /&gt;イギリス1,500人&lt;br /&gt;カナダ4,192人&lt;br /&gt;フランス800人&lt;br /&gt;中国2,000人<br /> |strength2= 600,000人<br /> |casualties1= 200,000人<br /> |casualties2= 400,000人<br /> |}}<br /> <br /> &#039;&#039;&#039;シベリア出兵&#039;&#039;&#039;(シベリアしゅっぺい、{{lang-en-short|Siberian Intervention}})とは、[[1918年]]から[[1922年]]までの間に、[[連合国 (第一次世界大戦)|連合国]]([[大日本帝国]]・[[イギリス帝国]]・[[アメリカ合衆国]]・[[フランス]]・[[イタリア]]など)が「革命軍によって囚われた[[チェコ軍団]]を救出する」という大義名分で[[シベリア]]に出兵した、[[ロシア革命]]に対する干渉戦争の一つ。[[社会主義]]を封じるという説明は抽象的である。より具体的には帝国時代の[[外債]]と、[[露清銀行|露亜銀行]]などのさまざまな[[外資]]を保全する狙いがあった。<br /> <br /> 日本は兵力7万3,000人(総数)、4億3,859万円から約9億円(当時)という巨額の戦費を投入。3,333人から5,000人の死者を出し撤退した。アメリカが7,950人、イギリスが1,500人、カナダが4,192人、イタリアが1,400人の兵力を投入。ソビエト・ロシア側の兵力・死者・損害は現在まで不明(後述する1920年「四月四・五事件」だけでも5,000名以上が殺害されたとされる&lt;ref&gt;[[原暉之]]『シベリア出兵:革命と干渉1917&amp;ndash;1922』1989年 [[筑摩書房]]、572頁&lt;/ref&gt;)。また別資料では、死傷者8万人、6億ルーブル以上の被害とされる&lt;ref&gt;[http://www.a-saida.jp/images/shuppei.htm 斎田章『ロシア革命の貨幣史(シベリア異聞)』]&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> == 背景 ==<br /> [[File:Bolshveki_killed_at_Vladivostok.jpg|thumb|350px|赤軍に殺害された[[チェコスロバキア]]軍団]]<br /> [[第一次世界大戦]]で[[ヨーロッパ]]は、[[ドイツ帝国]]・[[オーストリア・ハンガリー帝国]]などの[[中央同盟国|同盟国]]と、フランス・[[ロシア帝国]]・イギリスなどの[[連合国 (第一次世界大戦)|協商国]]が争っていた。戦争が長期化するにつれ、近代化の遅れていたロシアは敗走を重ね、経済は破綻した。[[1917年]]2月に[[2月革命 (1917年)|2月革命]]、11月には[[ウラジーミル・レーニン|レーニン]]の指導する[[ボリシェヴィキ]]により世界最初の[[社会主義]]革命である[[10月革命]]が起き、[[1918年]]に帝国は崩壊した。<br /> <br /> ボリシェヴィキ政権は単独でドイツ帝国と講和条約([[ブレスト=リトフスク条約]])を結んで戦争から離脱した。このため、ドイツは[[東部戦線 (第一次世界大戦)|東部戦線]]の兵力を[[西部戦線 (第一次世界大戦)|西部戦線]]に集中することができ、フランス・イギリスは大攻勢をかけられて苦戦した。連合国はドイツの目を再び東部に向けさせ、同時にロシアの革命政権を打倒することも意図した干渉戦争を開始し、ロシア極東の[[ウラジヴォストーク]]に「[[チェコスロバキア|チェコ]]軍捕囚の救出」を大義名分に出兵した。<br /> <br /> すでに西部戦線で手一杯になっているイギリス・フランスに大部隊をシベリアへ派遣する余力はなかった。そのため必然的に地理的に近く、本大戦に陸軍主力を派遣していない日本とアメリカに対して、シベリア出兵の主力になるように打診した。日本政府のシベリア出兵に対する態度は、出兵という点では一致していた。しかし積極的な出兵論と消極的なそれの2つが存在し対立していた。積極的な出兵論とは、イギリスおよびアメリカの考え方に関係なく日本は主体的かつ大規模に出兵を断行せよという立場である。これが参謀本部および外相[[本野一郎]]ならびに内相[[後藤新平]]達の出兵論である。対して、これと比較するとやや消極的な出兵論すなわち対米協定の出兵論が、[[元老]][[山県有朋]]および[[憲政会]]総裁の[[加藤高明]]ならびに[[立憲政友会]]総裁の[[原敬]]達によって唱えられた。対米協定にもとづく妥協案が形成され、出兵に踏み切った。<br /> <br /> [[レオナード・ハンフリーズ]] ({{en|Leonard Humphreys}}) は<br /> {{Cquote|当時の日本側の事情として、領土獲得への野心、[[日露戦争]]後に失った利権の奪還、地政学的な理由(日本はロシアと地理的に近く、さらに日本の利権が絡んだ[[満州]]、日本統治下の[[朝鮮半島]]は直接ロシアと国境を接していた)等のみならず、政治的・イデオロギー的な理由もあった。すなわち、日本の[[政体]](国体)である[[天皇制]]と革命政権のイデオロギーは相容れない以上、[[共産主義]]が日本を含めた同地域に波及することをなんとしても阻止する必要があったのである&lt;ref&gt;Humphreys, Leonard A.:&#039;&#039;The Way of the Heavenly Sword: The Japanese Army in the 1920&#039;s.&#039;&#039; Stanford University Press. 1996. ISBN 0-8047-2375-3.&lt;/ref&gt;}}<br /> としている。<br /> <br /> そこで[[寺内正毅|寺内首相]]は同地域において日本の息のかかった傀儡政権を樹立する事を参謀本部第二部長[[中島正武]]少将に命じた。&lt;ref&gt;『シベリア出兵―革命と干渉 1917~1922』原 暉之 1989年 筑摩書房 ISBN 978-4480854865 p. 177-178&lt;/ref&gt;<br /> <br /> == 経過 ==<br /> 大日本帝国軍は単独で進軍せず兵力も米国と同等の8000人に抑えるとの約束を大日本帝国と交わしたアメリカは、漸く1918年の夏に出兵を決定した。上記のようにアメリカと共同歩調を取ることを課されていた大日本帝国は直ちに[[ウラジヴォストーク]]へ上陸し、続いて他国軍も到着した。連合軍の中核であるイギリスやフランスは西部戦線に兵力を割かれていたのでそれ程兵力は多くなく、兵力の大半は米国との協定を破り3万7千の大軍を送り込んだ大日本帝国軍であった。出兵に使われた軍用艦船は、日本の[[朝日 (戦艦)|朝日]]やアメリカの[[ブルックリン (装甲巡洋艦)|ブルックリン]]やイギリスの{{仮リンク|HMSサフォーク (1903)|en|HMS Suffolk (1903)|label=HMSサフォーク}}や中華民国の[[海容級防護巡洋艦|海容]]であった&lt;ref&gt;『西伯利事変 写真帖 第一篇』 町田幸左衛門 1920年&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 1918年11月にドイツ帝国で革命が起こって停戦すると、連合国はシベリア介入の目的を失い、1920年には相次いで撤兵したが、日本軍は単独で駐留を続行した。<br /> <br /> 日本陸軍は当初の[[ウラジヴォストーク]]より先に進軍しないという規約を無視し、ボリシェヴィキが組織した[[赤軍]]や労働者・農民から組織された非正規軍のパルチザンと戦闘を繰り返しながら、[[樺太|北樺太]]、[[沿海州]]や[[満州]]を[[鉄道]]沿いに侵攻。シベリア奥地の[[バイカル湖]]東部までを占領し、最終的にバイカル湖西部の[[イルクーツク]]にまで占領地を拡大した。各国よりも数十倍多い兵士を派遣し、各国が撤退した後もシベリア駐留を続けたうえ、占領地に傀儡国家の建設を画策。日本はロシアのみならず、イギリスやアメリカ、フランスなどの連合国からも領土的野心を疑われた。<br /> {| class=&quot;wikitable&quot;<br /> |[[ファイル:Vladivostok intervention.jpg|thumb|none|250px|シベリア出兵を伝える日本の画報(救露討独遠征軍画報)]]<br /> |[[ファイル:The_Illustration_of_The_Siberian_War,_No._16.__The_Japanese_Army_Occupied_Vragaeschensk_(Blagoveshchensk).jpg|thumb|none|250px|1918年、[[ブラゴヴェシチェンスク]]に入城する日本軍と日の丸を振って出迎える市民などを描いた作品。空からは航空隊により布告文が撒かれた。『救露討獨遠征軍画報』より]]<br /> |[[ファイル:Khabarovsk intervention.jpg|thumb|none|250px|「我軍空中及水陸挟撃し西伯利の敵軍を掃討す」。国民を奮起させるためのプロパガンダ版画。『救露討獨遠征軍画報』より(1919年2月1日に描かれたもの)]]<br /> |}<br /> <br /> === 日本 ===<br /> ==== パルチザン(ゲリラ)戦争 ====<br /> 1919年1月から、[[労働者]]・[[農民]]などで組織されたパルチザンによる[[遊撃戦]]に苦戦。次第に交通の要所を確保するのが精一杯の状態に陥った。日本軍はパルチザンが潜む可能性が有る村落への懲罰攻撃を行った。<br /> <br /> 1919年2月中旬、歩兵第十二旅団長[[山田四郎]]少将は「師団長の指令に基き」次のような通告を発している。<br /> {{Cquote|第一、日本軍及び露人に敵対する過激派軍は付近各所に散在せるが日本軍にては彼等が時には我が兵を傷け時には良民を装い変幻常なきを以て其実質を判別するに由なきに依り今後村落中の人民にして猥りに日露軍兵に敵対するものあるときは日露軍は容赦なく該村人民の[[過激派]]軍に加担するものと認め其村落を焼棄すべし}}<br /> またウラジヴォストーク派遣軍政務部長[[松平恒雄]]の[[内田康哉|内田外相]]宛の電報「別電一五九号」には次のように記されている。<br /> {{Cquote|最近州内各地に於いて過激派赤衛団は現政府及日本軍に対し州民を煽動し向背常なく我軍隊にして其何れが過激派にして何れが非過激派なるかの識別に苦ましめ秩序回復を不可能ならしめつつあるが斯くの如き状態は到底之を容すべからざるものと認め全黒竜州人に対し左の通り通告す一、各村落に於て過激派赤衛団を発見したる時は広狭と人口の多寡に拘らず之を焼打して殲滅すべし}}<br /> <br /> 同年1月アムール州「マザノヴォ」という村で日本軍「現地守備隊」の掃討作戦に耐えかねたパルチザンが蜂起し、近隣の村落も巻き込んで大規模な戦闘が始まった。日本軍は零下42℃という過酷な気象条件のため撤兵、村は一時[[赤軍]]パルチザンにより解放された。しかし「守備隊長マエダ大尉(前田多仲大尉)の率いる討伐隊が再度来襲し、道すがら手当たりしだい村々を焼き、農民を虐殺し、蜂起民が逃げ散った「マサノヴォ」を再占領。さらに「ソハチノ」という近隣の村に到着するや、女子供も含む逃げ遅れた村民全てを銃殺し、村を徹底的に焼き払った。&lt;ref&gt;『シベリア出兵―革命と干渉 1917~1922』原 暉之 1989年 筑摩書房 ISBN 978-4480854865 p. 470-471&lt;/ref&gt;<br /> <br /> この内、日本軍の『出兵史』に<br /> {{Cquote|同地には我が守備隊よりの掠奪品を隠匿しありしを以て懲膺の為過激派に関係せし同村の民家を焼夷せり}}<br /> とあり、掠奪、ゲリラ作戦への懲膺を理由として村の全民家を焼夷したと記されている。<br /> <br /> 同年2月13日インノケンチェフスカヤ村における掃討作戦で、「同日第12師団第3大隊第8中隊は同村を早暁襲撃し、パルチザンが逃亡したのち、女子供を含めた無抵抗の村民をパルチザンのシンパとみなして手当たり次第に100名以上刺殺・銃殺し、他方で将校や下士官は日本刀による据え者切りなどを行った。その後、物品略奪・食料徴発・家屋放火などの蛮行を行った」とし、「組織的な虐殺・略奪はパルチザンに対する報復措置であると同時に、敵愾心にももとづく」とする意見がある&lt;ref name=&quot;kasahara&quot;&gt;[[笠原十九司]]{{PDFlink|[http://www.cgs.c.u-tokyo.ac.jp/pdf/2004_09_05/Kasahara%20Paper%202004.09.05.pdf 『東アジア近代史における虐殺の諸相』]}} 2004年&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> また同年3月22日にはイワノフカ村「過激派大討伐」を敢行([[イワノフカ事件]])。同村はもともと[[ボリシェヴィキ]]派の勢力が強く、反革命派の武装解除要求にも従わなかった。そこでロシアの反革命派は日本軍の応援を頼み、この村を強制的に捜索し、武器の押収、革命分子の逮捕・銃殺を行った。しかしこうした抑圧政策は村民を憤激させ、逆にボリシェヴィキ派勢力をより深く浸透させる結果となり、この情勢を察知した日本軍「討伐部隊」は1919年2月25日に襲撃を再開したが、地形を熟知したパルチザン部隊によって追い詰められ、田中勝輔少佐率いる[[歩兵第72連隊]]第三大隊は同月26日「最後の一兵に至るまで全員悉く[[戦死]]」したとされる&lt;ref name=&quot;kasahara&quot;/&gt;。<br /> <br /> アムール州中部地方第12師団歩兵第12旅団(師団長[[大井成元]]中将)は不名誉な敗北の汚名をそそぐべく「過激派大討伐」作戦を敢行。しかしパルチザンに対する数度の作戦は全て失敗し損害を拡大させて終わった。そこで同旅団は「村落焼棄」へと作戦を変更。ウラジヴォストーク派遣軍政務部が事件後村民に対して行なった聞き取り調査にもとづく報告書の一節には<br /> {{Cquote|本村が日本軍に包囲されたのは三月二十二日午前十時である。其日村民は平和に家業を仕て居た。初め西北方に銃声が聞へ次で砲弾が村へ落ち始めた。凡そ二時間程の間に約二百発の砲弾が飛来して五、六軒の農家が焼けた。村民は驚き恐れて四方に逃亡するものあり地下室に隠るるもあった。間もなく日本兵と『コサック』兵とが現れ枯草を軒下に積み石油を注ぎ放火し始めた。女子供は恐れ戦き泣き叫んだ。彼等の或る者は一時気絶し発狂した。男子は多く殺され或は捕へられ或者等は一列に並べられて一斉射撃の下に斃れた。絶命せざるもの等は一々銃剣で刺し殺された。最も惨酷なるは十五名の村民が一棟の物置小屋に押し込められ外から火を放たれて生きながら焼け死んだことである。殺された者が当村に籍ある者のみで二百十六名、籍の無い者も多数殺された。焼けた家が百三十戸、穀物農具家財の焼失無数である。此の損害総計七百五十万留(ルーブル)に達して居る。孤児が約五百名老人のみ生き残って扶養者の無い者が八戸其他現在生活に窮して居る家族は多数である。&lt;ref&gt;『黒竜州『イワーノフカ』『タムホーフカ』村紀行』より。&lt;/ref&gt;}}<br /> とある。<br /> <br /> 翌年2月、同州にソビエト権力が復活すると同村において州都[[ブラゴヴェシチェンスク]]の某新聞社が再度調査を行なった。この結果、死者総数は291名(内中国人6名を含む)で、その中には1歳半の乳飲み子から96歳の老人まで含まれていたとされる(『赤いゴルゴタ』)。<br /> <br /> こうした作戦が招いた惨禍の中、1919年秋連合国が後押しをしていた反革命派の[[アレクサンドル・コルチャーク]]政権は赤軍との戦闘において敗北が決定的となり、1920年に崩壊。日本政府内にも白軍凋落を期に撤退機運が強まった。<br /> <br /> ==== ボグダットの戦い ====<br /> {{main|ボグダットの戦い}}<br /> {{節スタブ}}<br /> <br /> ==== 尼港事件 ====<br /> [[ファイル:Nikolayevsk Incident-1.jpg|thumb|焼け落ちたニコライエフスク日本領事館]]<br /> {{main|尼港事件}}<br /> 1920年(大正9年)3月から5月にかけて、ロシアのトリャピーチン率いるロシア人、朝鮮人、中国人4,000名から成る、[[パルチザン (ロシア内戦)|共産パルチザン]](遊撃隊)が黒竜江(アムール川)の河口にあるニコライエフスク港(尼港、現在の[[ニコラエフスク・ナ・アムーレ]])の日本陸軍守備隊(第14師団[[歩兵第2連隊]]第3大隊)および日本人居留民約700名、日本人以外の現地市民6,000人の一部を虐殺した上、町の一部に放火した。この事件を契機として、日本軍はシベリア出兵後も[[1925年]]に日ソが国交を結ぶまで石油産地の北樺太(サガレン州)を保障占領した。<br /> <br /> === 日本軍の宣撫工作 ===<br /> 日本軍は出兵当初から「露国領土の保全」と「内政不干渉」を謳った「1918年8月2日布告」の普及に努めたが、ロシア人住民の対日感情が芳しくないことを熟知すると、日本国内の宗教団体を利用する方式を採用し、[[日本正教会]]と[[西本願寺]]に白羽の矢が立った。前者からは、[[三井道朗]]、[[森田亮]]、[[瀬沼烙三郎]]、[[石川喜三郎]]、計4名の神父、後者からはウラジヴォストークの西本願寺布教場の[[大田覚眠]]師が工作員に指名された。<br /> <br /> 彼らの活動内容を伝える資料としては、[[外務次官]]・[[幣原喜重郎]]から[[陸軍次官]]・[[山田隆一]]に宛てた通牒(1918年8月22日付)などがある。そこには「表面全然政府ト関係ナキ体裁」をとることなど、工作を実施する上での規定が詳細に記されている。<br /> <br /> 日本軍[[特務機関]]および総領事と緊密な関係を保ちつつ、森田と瀬沼はウラジヴォストーク方面を中心に活動し、三井と石川は北満州・ザバイカル州方面、さらにはチタからイルクールクまで足を伸ばした。後者は遊説の傍らハルビンで購入した食料品や日用品の廉売に従事したとされる。西本願寺の大田もウラジヴォストークで宣撫活動に従事。しかし1919年頃まで続いた活動の成果は芳しくなかったとされる&lt;ref&gt;『シベリア出兵:革命と干渉1917&amp;ndash;1922』 415&amp;ndash;419頁&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> === 現地における日本軍将兵の実態 ===<br /> 一般兵士の間では戦争目的が曖昧だったことから、日本軍の士気は低調で、軍紀も頽廃していた。この現象は鉄道で戦地へ移動する段階から既に見られた。<br /> {{Cquote|一般ニ士気発揚シアラサルカ如シ 即チ戦争ノ目的ヲ了解シアラサルノミナラス官費満州旅行位ノ心得ニテ出征シアルモノ大部ヲ占ムルノ有様ナリ|4=朝鮮軍司令官兵站業務実施報告}}<br /> また、チェコ軍救済と称してウスリー鉄道沿いにシマノフカまで前進した日本軍先陣部隊が、その先には「ロシア人しかいないと言われて引き返し」、その後再び前線に送り出されるという「滑稽な一幕」もあったという&lt;ref&gt;『シベリア出兵:革命と干渉1917&amp;ndash;1922』 420頁&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 士官・幹部も同様で、ウラジヴォストークの某参謀将校が毎日「裸踊り」の観覧にうつつを抜かしていたことについての報告が残っている&lt;ref&gt;旧陸海軍記録、『西受大日記』、1919年3月&lt;/ref&gt;。戦線が泥沼化した1920年の段階でも同地の派遣軍首脳部は「三井、三菱に出入りして、玉突きや碁将棋に日を消し」ており、少壮将校は「酒楼に遊蕩」していたとされる&lt;ref&gt;『ハ杉貞利日記・ろしや路』([[図書新聞社]]、1967年) 122&amp;middot;124頁&lt;/ref&gt;。 <br /> <br /> このような状況を、匿名の投書で告発する兵士も出現した。黒竜会の機関紙『亜細亜時論』へ投書された告発書は、その内容ゆえに公表が一時憚られたが、「改革カ亡国カ 隊改良ニ関スル絶叫書」(以下「絶叫書」と略記)なるタイトルが付され「極秘トシテ当路扱ヒ少数識者ノ間ニ頒ツ」(同序文)こととされた(外務省記録、「出兵及撤兵」)。同「絶叫書」の内容は全8節からなる長大なものだった。以下内容の一部を紹介する。<br /> <br /> :「軍紀頽廃ノ実例」の節は、さらに「(イ)敬礼ヲ避ケル」「(ロ)社会主義ノ気分漲ル」「(ハ)殆ド盗ヲナサザルモノナシ」「(ニ)計手ハ皆泥棒」「(ホ)歩哨ノ無価値」の各小節に分かれている。<br /> <br /> :(ハ)の項では、村の民家から鵞鳥・鶏・豚・牛を盗んでは食べる兵士の不品行を糾弾している。このような事態を派遣軍司令部も把握しており、当時兵士に配布されていた「兵士ノ心得」にも不法行為を禁止する戒めの言葉が記されていたが、全く効果はなかった&lt;ref&gt;『シベリア出兵:革命と干渉1917&amp;ndash;1922』 422頁&lt;/ref&gt;。ロシア側の資料にも日本軍兵士による不法行為についての報告がある(「日本兵の亡状 州里駅より中東鉄道に達せる報告に日本兵は薪及鶏類を窃み又駅員其他の家屋に押入りて婦人を辱めたり」&lt;ref&gt;『マンチジューリヤ』紙(1918年12月29日付)&lt;/ref&gt;)。また、同「絶叫書」中「最高幹部の非常識」の項では、匿名投書子は大井師団長がブラゴヴェンシチェンスク市へ入ったときにロシア人住民に対して取った「敗戦国ノ住民ニ対スル」ような態度を糾弾している。<br /> <br /> :「(ロ)社会主義ノ気分漲ル」項目では、敵=過激派による感化の事実などではなく、無知な青年将校が理屈に合わない無茶なことを命令し、兵士を叱り飛ばす。これに少しでも不満を漏らそうものなら、すぐ「社会主義」だと決めつけ、のけものにするとし、指揮官の兵隊に対する非人間的な扱いと、それに起因する不満の鬱積を指摘している。<br /> <br /> 治安当局は「過激派」による「危険思想」の伝播にも神経を尖らせており、帰還兵士の言動にも厳重な監視の目を光らせた(軍も独自に調査を行ったとされる)が、治安当局が作成した内偵資料「秘 帰還兵ノ言動」では、「危険思想」浸潤の事実よりも、将校・下士官の横暴な振る舞いを指摘する内容が圧倒的多数を占めたとされる。また一方で、将校は「戦地」では「常ニ部下ノ機嫌ヲ取ッテ居ル」という声も相当数見られる。同資料によれば、戦地では将校は「歩兵隊式」と呼ばれた結党を伴う仕返し、集団的実力行使を恐れたからだとされる。たとえば、歩兵第72連隊の某帰還兵士の証言によれば、第二中隊では「中隊長ハ下士以下ニ対シテ圧制ナリ」として「下士以下全員著剣シ中隊事務室ニ押掛ケ」中隊長に詫びを入れさせたとされる。また、第一中隊では平素傲慢な態度をとる特務曹長が、機関銃隊では中隊長が、それぞれ「歩兵隊式」の洗礼をうけ全治1ヶ月の重傷を負った。いずれもウラジヴォストーク滞在中の事件だが、だからその程度で済んだ、と某帰還兵はつけ加える。「戦場ナラ彼等ハ命幾何アッテモ足ラン 弾丸ハ向フヘバカリ飛バンカラ」&lt;ref&gt;『シベリア出兵:革命と干渉1917&amp;ndash;1922』 426頁&lt;/ref&gt;。 <br /> <br /> 戦線が泥沼化した1920年頃には、前線の兵士は一日も早い帰国を望むようになったとされる(「他国の党派争ひに干渉して人命財産を損する、馬鹿馬鹿しき限りなり」)&lt;ref&gt;『八杉貞利日記・ろしや路』 146頁&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> === 白色テロへの日本軍の幇助 ===<br /> ロシア語学者の[[八杉貞利]](当時、[[東京外国語学校]]教授)は、1920年7月28日、アムール・ウスリー旅行を企てた。同旅行中の日記はシベリア戦争下の現地状況について記されており、その中には日本軍の白色テロに対する幇助の模様も含まれている。<br /> <br /> {{Cquote|日本下級軍人が、所謂殊勲の恩賞に預からんがために、而して他の実際討伐に従軍せる者を羨みて、敵無き所に事を起こし、無害の良民を惨殺する等の挙に出ること。而して「我部下は事無き故可哀相なり、何かやらせん」と豪語する中隊長あり&lt;ref&gt;『八杉貞利日記・ろしや路』 122頁&lt;/ref&gt;}}<br /> <br /> また、別の駅では以下の話を耳にする。<br /> <br /> {{Cquote|目下過激派の俘虜百名あり、漸次に解放したる残りにて、最も首謀と認めたるものは殺しつつあり、之を「ニコラエフスク行き」と唱えつつありといふ。&lt;ref&gt;『八杉貞利日記・ろしや路』 144頁&lt;/ref&gt;}}<br /> <br /> さらに、<br /> {{Cquote|各駅は日本兵によりて守備せらる。(中略)視察に来られる某少佐に対してシマコーフカ駅の一少尉が種々説明しつつありしところを傍聴すれば、目下も列車には常に過激派の密偵あり、列車着すれば第一に降り来たり注意する動作にて直ちに判明する故、常に捕らえて斬首その他の方法にて殺しつつあり、而して死骸は常に機関車内にて火葬す。半殺しにして無理に押し込みたることもあり。或時は両駅間を夜間機関車を幾回となく往復せしめて焼きたることあり。随分首切りたりなど、大得意に声高に物語るを聞く。而して報告は、単に抵抗せし故銃殺せりとする也という。浦塩にて聞きたることの偽ならぬをも確かめ得て、また言の出るところを知らず。&lt;ref&gt;『八杉貞利日記・ろしや路』 131&amp;ndash;132頁&lt;/ref&gt;}}<br /> <br /> === ポーランド孤児の救済 ===<br /> ロシア帝国は[[ポーランド]]人[[政治犯]]などを多数シベリアに流刑したため、ロシア革命当時のシベリアには相当数のポーランド人がいた。その後、ロシア革命の混乱と1918年11月のポーランドの独立によって、多数のポーランド孤児(シベリア孤児と言われることもある)がシベリアに取り残されたが、その保護のために力を貸す国はなかった。<br /> <br /> その惨状を知った日本側は[[日本赤十字社]]を中核としてシベリア出兵中にポーランド孤児を救出し、彼等を祖国に帰還させた&lt;ref&gt;[http://www.pl.emb-japan.go.jp/kultura/j_rocznica_epizody.htm 日本・ポーランド関係のエピソード(在ポーランド日本国大使館ホームページ)]&lt;/ref&gt;。1920年(大正9年)7月に第1次ポーランド孤児救済が、1922年(大正11年)8月に第2次ポーランド孤児救済がそれぞれ行われた。この活動によって約800名のポーランド孤児が祖国への帰還を果たした&lt;ref&gt;[http://www.tmo-tsuruga.com/kk-museum/polish-orhpans/polish-orhpans.html 人道の港 敦賀ムゼウム ポーランド孤児]&lt;/ref&gt;。シベリア出兵に従事し孤児を救った51名の日本軍[[士官|将校]]に対し、ポーランド政府は1925年に{{仮リンク|ヴィルトゥティ・ミリターリ勲章|en|Order Virtuti Militari}}を授与して、その功績に報いた。<br /> <br /> === シベリアからの撤兵 ===<br /> 日本では、[[寺内内閣]]のときに[[ロシア革命]]への干渉戦争として始められたシベリア出兵であったが、[[1921年]]の[[ワシントン会議 (1922年)|ワシントン会議]]開催時点で出兵を続けていたのは日本だけであった。会議のなかで、全権であった[[加藤友三郎]][[海軍大臣]]が、条件が整い次第、日本も撤兵することを約束した。こののち[[内閣総理大臣]]となった加藤は[[1922年]][[6月23日]]の[[閣議]]で、この年の10月末日までの[[沿海州]]からの撤兵方針を決定し、翌日、日本政府声明として発表。撤兵は予定通り進められた。<br /> <br /> [[加藤高明]]は日本のシベリア出兵について、「なに一つ国家に利益をも齎すことのなかった外交上まれにみる失政の歴史である」と評価している&lt;ref&gt;「太平洋戦争への道」第一巻&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> == 脚注 ==<br /> {{脚注ヘルプ}}<br /> {{Reflist}}<br /> <br /> == 参考文献 ==<br /> * [[E.H.カー]] 『ボリシェビキ革命1』1967年 [[みすず書房]]<br /> * [[松尾勝造]] 『シベリア出征日記』風媒社 1978年<br /> * [[細谷千博]] 『シベリア出兵の史的研究』2005年 岩波現代文庫<br /> * [[菊地昌典]] 『ロシア革命と日本人』1973年 筑摩書房<br /> <br /> == 関連項目 ==<br /> {{Commonscat|Siberian Intervention}}<br /> *[[ロシア内戦]]<br /> *[[日露関係史]]<br /> *[[黒島伝治]](シベリア出兵を題材にした作品の多い小説家)<br /> *[[浦塩派遣軍]]<br /> *[[サガレン州派遣軍]]<br /> *[[尼港事件]]<br /> *[[1918年米騒動]](シベリア出兵が一因となった)<br /> *[[臨時外交調査会]]<br /> *[[東方会議 (1921年)]]<br /> *[[極東共和国]]<br /> *[[イワノフカ事件]]<br /> *[[内政干渉]]<br /> *{{仮リンク|ガイダー・ラドラ|en|Radola Gajda}} (ガイダー事件)<br /> <br /> {{アメリカの戦争}}<br /> <br /> {{デフォルトソート:しへりあしゆつへい}}<br /> [[Category:シベリア出兵|*]]</div> 153.188.171.24 テンプレート:ロシア革命後の国家 2018-07-13T05:26:39Z <p>153.188.171.24: </p> <hr /> <div>{{Navbox <br /> |name = ロシア革命後の国家<br /> |title = ロシア革命後に誕生した国家組織(1917年 - 1922年)<br /> |state = {{{state&lt;includeonly&gt;|collapsed&lt;/includeonly&gt;}}} <br /> |image = <br /> |listclass = hlist<br /> |titlestyle = background:#03E; color:#FB0;<br /> |bodystyle =<br /> |abovestyle = background:#81A5DA; font-size:90%;<br /> |belowstyle = background:#81A5DA; color:#FFF; 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Verda}}}}<br /> * {{nowrap|{{仮リンク|カルムイク軍事政権|uk|Калмицький військовий уряд}}}}<br /> }}<br /> |group5 = [[ポヴォールジエ]]&lt;br /&gt;([[ヴォルガ川]]流域)&lt;br /&gt;[[ウラル川|ウラル]]&lt;br /&gt;[[シベリア]]&lt;br /&gt;[[極東ロシア|極東]]<br /> |list5 = {{Navbox subgroup<br /> | group1 = &#039;&#039;&#039;ボリシェヴィキ系&#039;&#039;&#039;<br /> | list1 = <br /> * {{nowrap|&#039;&#039;&#039;[[バシキール自治ソビエト社会主義共和国|バシキール自治社会主義ソビエト共和国]]&#039;&#039;&#039;}}<br /> * {{nowrap|&#039;&#039;&#039;[[タタール自治ソビエト社会主義共和国|タタール自治社会主義ソビエト共和国]]&#039;&#039;&#039;}}<br /> * {{nowrap|&#039;&#039;&#039;{{仮リンク|沿ヴォルガ・ドイツ人自治州|label= 沿ヴォルガ・ドイツ人州労働コミューン|ru|Автономная область немцев Поволжья}}&#039;&#039;&#039;}}<br /> * {{nowrap|&#039;&#039;&#039;[[ヤクート自治ソビエト社会主義共和国|ヤクート自治社会主義ソビエト共和国]]&#039;&#039;&#039;}}<br /> * {{nowrap|&#039;&#039;&#039;{{仮リンク|ヴォート自治州|ru|Вотская автономная область}}&#039;&#039;&#039;}}<br /> * {{nowrap|&#039;&#039;&#039;[[マリ自治州]]&#039;&#039;&#039;}}<br /> * {{nowrap|&#039;&#039;&#039;[[チュヴァシ自治州]]&#039;&#039;&#039;}}<br /> * 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{{nowrap|{{仮リンク|コドゥナイ・エルヒンジ・バルガサン|ru|Кодунай эрхидж балгасан}}}}<br /> * {{nowrap|[[憲法制定議会議員委員会]]}}<br /> * {{nowrap|{{仮リンク|ウファ国家会議|ru|Государственное совещание в Уфе}}}}<br /> * {{nowrap|{{仮リンク|ウラル臨時州政府|ru|Временное областное правительство Урала}}}}<br /> * {{nowrap|{{仮リンク|臨時シベリア政府 (デルベル派)|ru|Временное Сибирское правительство (Дербера)}}}}<br /> * {{nowrap|{{仮リンク|臨時シベリア政府 (ヴォロゴツキー派)|ru|Временное Сибирское правительство (Вологодского)}}}}<br /> * {{nowrap|{{仮リンク|ロシア国 (1918年-1920年)|label= ロシア国|ru|Российское государство (1918—1920)}}}}<br /> * {{nowrap|[[臨時全ロシア政府]]}}<br /> * {{nowrap|{{仮リンク|臨時全ロシア政府 (ヴォロゴツキー派)|ru|Временное Всероссийское правительство}}}}<br /> * {{nowrap|{{仮リンク|シベリア州議会|ru|Сибирская областная Дума}}}}<br /> * {{nowrap|[[ザバイカル共和国]]}}<br /> * {{nowrap|{{仮リンク|政治中央 (イルクーツク)|label=政治中央|ru|Политический центр}}}}<br /> * {{nowrap|{{仮リンク|沿海州ゼムストヴォ|ru|Приморская областная земская управа}}}}<br /> * {{nowrap|{{仮リンク|沿アムール地方自治会地方|label=沿アムール地方自治会地方|ru|Приамурский земский край}}}}<br /> * {{nowrap|[[緑ウクライナ|極東ウクライナ共和国]]}}<br /> * {{nowrap|[[ロシア東方辺境]]}}<br /> * {{nowrap|[[シベリア共和国]]}}<br /> * {{nowrap|{{仮リンク|オレンブルク・コサック軍|ru|Оренбургский Казачий Круг}}}}<br /> * {{nowrap|{{仮リンク|チュヴァシ中央会議|uk|Чуваська центральна рада}}}}<br /> * {{nowrap|{{仮リンク|沿ヴォルガ少数民族連合|uk|Союз малих народів Поволжя}}}}<br /> }}<br /> |group6 = [[南コーカサス|ザカフカージエ]]<br /> |list6 = {{Navbox subgroup<br /> | group1 = &#039;&#039;&#039;ボリシェヴィキ系&#039;&#039;&#039;<br /> | list1 = <br /> * {{nowrap|[[26人のバクー・コミッサール#背景|バクー・コミューン]]}}<br /> * {{nowrap|{{仮リンク|ムガン・ソビエト共和国|ru|Муганская Советская Республика}}}}<br /> * {{nowrap|&#039;&#039;&#039;[[アゼルバイジャン・ソビエト社会主義共和国|アゼルバイジャン社会主義ソビエト共和国]]&#039;&#039;&#039;}}<br /> * {{nowrap|&#039;&#039;&#039;[[グルジア・ソビエト社会主義共和国|グルジア社会主義ソビエト共和国]]&#039;&#039;&#039;}}<br /> * {{nowrap|&#039;&#039;&#039;[[アジャリア自治ソビエト社会主義共和国|アジャリスタン自治社会主義ソビエト共和国]]&#039;&#039;&#039;}}<br /> * {{nowrap|&#039;&#039;&#039;[[アブハジア社会主義ソビエト共和国]]&#039;&#039;&#039;}}<br /> * {{nowrap|&#039;&#039;&#039;[[南オセチア自治州]]&#039;&#039;&#039;}}<br /> * {{nowrap|&#039;&#039;&#039;[[アルメニア・ソビエト社会主義共和国|アルメニア社会主義ソビエト共和国]]&#039;&#039;&#039;}}<br /> * {{nowrap|&#039;&#039;&#039;[[ナヒチェヴァン自治ソビエト社会主義共和国|ナヒチェヴァン社会主義ソビエト共和国]]&#039;&#039;&#039;}}<br /> * {{nowrap|&#039;&#039;&#039;[[ザカフカース社会主義連邦ソビエト共和国]]&#039;&#039;&#039;}}<br /> | group2 = &#039;&#039;&#039;非ボリシェヴィキ系&#039;&#039;&#039;<br /> | list2 =<br /> * {{nowrap|{{仮リンク|南西カフカース共和国|en|South West Caucasian Government}}}}<br /> * {{nowrap|[[バトゥミ共和国]]}}<br /> * {{nowrap|[[カスピ海艦隊中央委員会独裁政権]]}}<br /> * {{nowrap|{{仮リンク|ザカフカース特別委員会|en|Special Transcaucasian Committee}}}}<br /> * {{nowrap|{{仮リンク|ザカフカース委員部|ru|Закавказский комиссариат}}}}<br /> * {{nowrap|[[ザカフカース民主連邦共和国]]}}<br /> * {{nowrap|[[グルジア民主共和国]]}}<br /> * {{nowrap|[[アゼルバイジャン民主共和国]]}}<br /> * {{nowrap|[[アルメニア第一共和国|アルメニア共和国]]}}<br /> * {{nowrap|[[山岳アルメニア共和国]]}}<br /> * {{nowrap|[[アラス共和国]]}}<br /> }}<br /> |group7 = [[中央アジア]]<br /> |list7 = {{Navbox subgroup<br /> | group1 = &#039;&#039;&#039;ボリシェヴィキ系&#039;&#039;&#039;<br /> | list1 = <br /> * {{nowrap|&#039;&#039;&#039;[[トルキスタン自治ソビエト社会主義共和国|トルキスタン自治社会主義ソビエト共和国]]&#039;&#039;&#039;}}<br /> * {{nowrap|&#039;&#039;&#039;{{仮リンク|キルギス自治社会主義ソビエト共和国 (1920年—1925年)|label=キルギス自治社会主義ソビエト共和国|ru|Киргизская_АССР_(1920—1925)}}&#039;&#039;&#039;}}<br /> * {{nowrap|&#039;&#039;&#039;[[ブハラ人民ソビエト共和国]]&#039;&#039;&#039;}}<br /> * {{Nowrap|&#039;&#039;&#039;[[ホラズム人民ソビエト共和国]]&#039;&#039;&#039;}}<br /> | group2 = &#039;&#039;&#039;非ボリシェヴィキ系&#039;&#039;&#039;<br /> | list2 =<br /> * {{nowrap|[[アラシュ自治国]]}}<br /> * {{nowrap|{{仮リンク|ザカスピ臨時政府|ru|Закаспийское временное правительство}}}}<br /> * {{nowrap|{{仮リンク|自治トルキスタン臨時政府|ru|Туркестанская автономия}}}}<br /> * {{nowrap|{{仮リンク|臨時フェルガナ政府|ru|Временное Ферганское правительство}}}}<br /> }}<br /> |group8 = 旧[[ロシア帝国]]領外<br /> |list8 = {{Navbox subgroup<br /> | group1 = &#039;&#039;&#039;ボリシェヴィキ系&#039;&#039;&#039;<br /> | list1 =<br /> * {{nowrap|{{仮リンク|ガリツィア社会主義ソビエト共和国|uk|Галицька Соціалістична Радянська Республіка}}}}<br /> * {{nowrap|{{仮リンク|ルーシ国|ru|Русская Краина}}}}<br /> * {{nowrap|[[ギーラーン共和国|イラン・ソビエト社会主義共和国]]}}<br /> * {{nowrap|&#039;&#039;&#039;[[トゥヴァ人民共和国]]&#039;&#039;&#039;}}<br /> * {{nowrap|[[バイエルン・レーテ共和国]]}}<br /> * {{nowrap|{{仮リンク|ブレーメン・レーテ共和国|de|Bremer Räterepublik}}}}<br /> * {{nowrap|[[アルザス=ロレーヌ共和国]]}}<br /> * {{nowrap|[[ハンガリー評議会共和国|ハンガリー社会主義連邦評議会共和国]]}}<br /> * {{nowrap|{{仮リンク|スロバキア・ソビエト共和国|en|Slovak Soviet Republic}}}}<br /> * {{nowrap|{{仮リンク|タルノブジェク共和国|en|Republic of Tarnobrzeg}}}}<br /> * {{nowrap|{{仮リンク|ラビン共和国|ru|Лабинская республика}}}}<br /> | group2 = &#039;&#039;&#039;非ボリシェヴィキ系&#039;&#039;&#039;<br /> | list2 =<br /> * [[オーストリア革命]]<br /> * [[ドイツ革命]]<br /> * [[トルコ革命]] などの影響を受けた諸政権<br /> }}<br /> <br /> |below = 比較的安定した組織を保ち、この時期を生き延びた国家については&#039;&#039;&#039;太字&#039;&#039;&#039;で示す。国家としての名称が存在しない場合は、統治機関の名称を記載する。<br /> }}&lt;noinclude&gt;<br /> {{Documentation|content=[[1917年]]の[[ロシア革命]]以降に、革命に関連して成立した国家や、統治機関のテンプレート。含める時間的範囲は[[ロシア内戦]]の終結した[[1922年]]までとする。<br /> <br /> テンプレートに使用する色は、以下のように決めている。<br /> <br /> *abovestyle背景(地の色)については、このテンプレートで扱う国家成立の地となった[[ロシア帝国]]の[[ロシアの国旗|国旗]]の青に因んでいる(赤や白は、見栄えの点、また以下の観点から採用しなかった)。文字の色は橙である。<br /> *特定の勢力を象徴する色を避けるため、以下の色は避けた。<br /> :*赤 - [[赤軍]]を象徴する。また、青地に赤文字は見づらいという欠点もあった。さらに、ウィキペディアではリンク先のない内部リンクが赤文字で表示される(デフォルト)ため、それとの混同の恐れもあった。<br /> :*白 - [[白軍]]を象徴する。<br /> :*青 - [[ポーランド]]軍を象徴する。また、青地なので青文字は使用不可。さらに、ウィキペディアではリンク先のある内部リンクが青文字で表示される(デフォルト)ため、それとの混同の恐れもあった。<br /> :*黒 - [[アナキズム|無政府主義]]者勢力を象徴する。<br /> :*緑 - [[農家|農民]][[パルチザン]]を象徴する。<br /> :*桃 - 非[[ボリシェヴィキ]]系[[社会主義]]者への蔑称。<br /> :*黄 - 青と黄の組み合わせは、[[ルーマニア]]を想起させる。<br /> }}<br /> <br /> {{DEFAULTSORT:ろしあかくめいこのこつか}}<br /> [[Category:ロシア関連のテンプレート|かくめいこのこつか]]<br /> [[Category:ロシア帝国の継承国家|*Template]]<br /> &lt;/noinclude&gt;</div> 153.188.171.24 中部リトアニア共和国 2018-07-13T05:18:53Z <p>153.188.171.24: </p> <hr /> <div>{{基礎情報 過去の国<br /> |略名 = 中部リトアニア<br /> |日本語国名 = 中部リトアニア共和国<br /> |公式国名 = &lt;small&gt;&#039;&#039;&#039;Republika Litwy Środkowej&#039;&#039;&#039;&lt;small&gt;([[ポーランド語]])&lt;/small&gt;&lt;br /&gt; &#039;&#039;&#039;Vidurio Lietuvos Respublika&#039;&#039;&#039;&lt;small&gt;([[リトアニア語]])&lt;/small&gt;&lt;br /&gt;&#039;&#039;&#039;Рэспубліка Сярэдняе Літвы&#039;&#039;&#039;&lt;small&gt;([[ベラルーシ語]])&lt;/small&gt;&lt;/small&gt;<br /> |建国時期 = 1920年<br /> |亡国時期 = 1922年<br /> |先代1 = リトアニア共和国 (1918年-1940年)<br /> |先旗1 = Flag of Lithuania 1918-1940.svg<br /> |先代2 = ポーランド第二共和国<br /> |先旗2 = Flag of Poland (1919-1928).svg<br /> |次代1 = ポーランド第二共和国<br /> |次旗1 = Flag of Poland (1919-1928).svg<br /> |国旗画像 = Flaga Litwy Środkowej.svg<br /> |国章画像 = Godło Litwy Środkowej.svg<br /> |標語 =<br /> |国歌名 =<br /> |国歌追記 =<br /> |位置画像 = Rzeczpospolita_Central_Lithuania.png<br /> |位置画像説明 = 中部リトアニア共和国の領土(緑)<br /> |公用語 =  <br /> |首都 = [[ヴィリニュス|ヴィルノ]](ヴィリニュス)<br /> |元首等肩書 = 将軍<br /> |元首等年代始1 = 1920年<br /> |元首等年代終1 = 1922年<br /> |元首等氏名1 = ジェリコフスキ (Lucjan Żeligowski)<br /> |面積測定時期1 =<br /> |面積値1 =<br /> |人口測定時期1 = 1922年&lt;ref&gt;&quot;[http://www.worldstatesmen.org/Lithuania.htm Lithuania].&quot; &#039;&#039;World Statesmen.org.&#039;&#039; 2000年. 2010年3月14日閲覧. &lt;/ref&gt;<br /> |人口値1 = 489,000<br /> |人口測定時期2 =<br /> |人口値2 =<br /> |変遷1 = ジェリコフスキによるヴィルノ侵攻<br /> |変遷年月日1 = [[1920年]][[10月12日]]<br /> |変遷2 = 中部リトアニア共和国総選挙<br /> |変遷年月日2 = [[1922年]][[3月24日]]<br /> |通貨 =<br /> |時間帯 =<br /> |注記 =<br /> }}<br /> <br /> &#039;&#039;&#039;中部リトアニア共和国&#039;&#039;&#039;({{lang-pl|Republika Litwy Środkowej}}、{{lang-lt|Vidurio Lietuvos Respublika}}、{{lang-be|Рэспубліка Сярэдняе Літвы}})あるいは単に&#039;&#039;&#039;中部リトアニア&#039;&#039;&#039;({{lang-pl|Litwa Środkowa}}, {{lang-lt|Vidurio Lietuva または Vidurinė Lietuva}}、{{lang-be|Сярэдняя Літва}})は、[[1920年代]]に[[東ヨーロッパ]]に存在していた国家(ただし国際承認はされていなかった)。日本語では&#039;&#039;&#039;中央リトアニア共和国&#039;&#039;&#039;などとも称される&lt;ref&gt;例えば、[[#鈴木, 2000|鈴木, 2000]]、[[#カセカンプ, 2014|カセカンプ, 2014]]. p. 176.&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 中部リトアニアは[[1920年]]、ジェリコフスキ将軍率いるポーランド軍第1リトアニア=ベラルーシ歩兵師団が[[ヴィリニュス|ヴィルノ]]に侵攻したことにより建国された(この侵攻はポーランド空軍や騎兵隊、砲兵隊なども援護していた)&lt;ref name=cepenas&gt;[[#Čepėnas, 1986|Čepėnas, 1986]].&lt;/ref&gt;。ヴィルノはかつての[[リトアニア大公国]]の首都([[リトアニア語]]で[[ヴィリニュス]])であったことから独立を果たしてすぐの[[リトアニア共和国 (1918年-1940年)|リトアニア共和国]]が自国の領土であると主張しており、そのため中部リトアニアは[[ポーランド]]と[[リトアニア]]の[[緩衝国]]として18ヶ月間存続していた&lt;ref name=&quot;von Rauch&quot;&gt;[[#Rauch, 1974|Rauch, 1974]].&lt;/ref&gt;。1922年1月8日、中部リトアニアで選挙が行われ、数でリトアニア住民を上回るポーランド人が勝利を果たし、その結果ポーランドへの編入が決定、4月20日にポーランド議会がそれを承認した&lt;ref&gt;[[#鈴木, 2000|鈴木, 2000]]. p. 73.&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> ポーランドが中部リトアニアを編入したことによってできた新たなポーランド=リトアニア間の国境は、[[日本]]を含む[[連合国 (第一次世界大戦)|協商国]]&lt;ref name=&quot;conference&quot;&gt;[[#Phipps et al., 1923|Phipps et al., 1923]].&lt;/ref&gt;&lt;ref name=&quot;LoN&quot;&gt;[[#League of Nations, 1923|League of Nations, 1923]]. pp. 261-265.&lt;/ref&gt;や[[国際連盟]]&lt;ref name=&quot;Miniotaite&quot;&gt;[[#Miniotaitė, 1999|Miniotaitė, 1999]]. p. 21.&lt;/ref&gt;からは承認されていたが、リトアニアはこれを認めなかった&lt;ref name=&quot;Vilna_problem&quot;&gt;[[#Lithuanian Information Bureau, 1922|Lithuanian Information Bureau, 1922]]. pp. 24-25.&lt;/ref&gt;。[[1931年]]、[[ハーグ]]の国際法廷は、ポーランドによる編入の経緯は([[満州国]]の際と同様に)[[国際法]]に反すると判断しているものの、編入自体は国際的に承認されている&lt;ref name=&quot;Miniotaite&quot;/&gt;(注:ポーランドは満州国をいち早く承認している)。なお、ポーランドとリトアニアの国交はその後[[1938年]]まで樹立されないままであった。<br /> <br /> == 法的地位 ==<br /> 中部リトアニアはポーランドからの支援によって成り立っていたと見られている。[[歴史家]]の中には、中部リトアニアは要件を満たしていない「国家」であったとする者&lt;ref&gt;例えば、[[#Snyder, 2003|Snyder, 2003]]. p.64.; [[#Shandler, 2002|Shandler, 2002]]. p. xlvii; [[#Kantautas and Kantautas, 1975|Kantautas and Kantautas, 1975]] p. 307.; [[#Romanucci-Ross, Vos, and Tsuda, 2006|Romanucci-Ross, Vos, and Tsuda, 2006]]. p. 75、など。&lt;/ref&gt;や、ポーランドの「[[傀儡国家]]」であったとする者&lt;ref name=Jerzy&gt;[[#Lerski, Wróbel, and Kozicki, 1996|Lerski, Wróbel, and Kozicki, 1996]]. p. 309.&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;Royal Institute of International Affairs. International Affairs.Vol.36, No. 3, 1960 p. 354.&lt;/ref&gt;、あるいは「傀儡共和国」&lt;ref&gt;[[#Kolarz, 1946|Kolarz, 1946]]. p. 109.&lt;/ref&gt;、「いわゆる国家」&lt;ref&gt;Polish Institute of Arts and Sciences of America.The Polish Review.1956. p. 67.&lt;/ref&gt;、「人工的に作られたもの」&lt;ref&gt;[[#Eidintas, 1999|Eidintas, 1999]]. p. 40.&lt;/ref&gt;、「偽の」国家&lt;ref&gt;{{Cite web | last = Vyšniauskas | first = Arūnas | url = http://www.genocid.lt/centras/lt/272/a/ | title = Pirmoji sovietinė okupacija ir genocidas Lietuvoje 1940–1941 m. | publisher = The Genocide and Resistance Research Center of Lithuania | accessdate=2007年12月16日}}{{lt icon}}&lt;/ref&gt;とまで表現する者もいる。<br /> <br /> == 歴史 ==<br /> === 民族構成 ===<br /> [[18世紀]]末、[[ポーランド分割]]に伴いそれまでの[[リトアニア大公国]]の領土の大半は[[ロシア帝国]]に支配されることとなった。ロシア帝国政府はポーランド分割によって獲得した領土においてロシア化政策を徐々に押し進めていき、[[1864年]]の[[1月蜂起]]を契機にさらに強めていった。こうした政策には[[ポーランド語]]、[[リトアニア語]]、[[ベラルーシ語]]、[[ウクライナ語]]の使用禁止なども含まれていた&lt;ref name=&quot;Roshwald24&quot;&gt;[[#Roshwald, 2001|Roshwald, 2001]]. p. 24.&lt;/ref&gt;&lt;ref name=&quot;Geifman116&quot;&gt;[[#Geifman, 1999|Geifman, 1999]]. p. 116.&lt;/ref&gt;。しかし、こうした中でもヴィリニュス文教地区ではポーランド人の愛国主義的指導者がポーランド化を押し進めていた&lt;ref name=Venc&gt;[[#Venclova, 1981|Venclova, 1981]].&lt;/ref&gt;&lt;ref name=Yla&gt;[[#Yla, 1981|Yla, 1981]].&lt;/ref&gt;。同様の取り組みは[[リトアニア人]]によっても行われており、彼らの民族覚醒運動はポーランド、ロシア双方の影響を少なくしようとする試みでもあった&lt;ref&gt;[[#Schmalstieg, 1989|Schmalstieg, 1989]].&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 中部リトアニアが建国された地域の民族構成に関しては当時の人口調査が確かなものではないために、長らく議論されている。[[1897年]]に行われたロシア帝国の調査によれば、ヴィルノ(ヴィリニュス)県({{lang-ru| Виленская губерния}})の民族構成は以下の通りであった&lt;ref name=&quot;Łossowski11&quot;&gt;[[#Łossowski, 1995|Łossowski, 1995]]. p. 11.&lt;/ref&gt;&lt;ref name=&quot;Demoskop&quot;&gt;http://demoscope.ru/weekly/ssp/rus_lan_97.php?reg=32 {{ru icon}}&lt;/ref&gt;。 <br /> <br /> * [[ロシア人]] — 4.9 %<br /> * [[ウクライナ人]] — 0.1 %<br /> * [[ベラルーシ人]] — 56.1 % ([[カトリック教会|カトリック教徒]]を含む)<br /> * [[ポーランド人]] — 8.2 %<br /> * [[リトアニア人]] — 17.6 %<br /> * [[ドイツ人]] — 0.2 %<br /> * [[ユダヤ人]] — 12.7 %<br /> * [[リプカ・タタール人|タタール人]] — 0.1 %<br /> * その他 — 0.1 %<br /> <br /> 他方、[[1916年]]にドイツによって行われたヴィリニュス地域の調査は上のものとは大きく異なっており、以下の通りであった&lt;ref name=&quot;Brensztejn&quot;&gt;[[#Brensztejn, 1919|Brensztejn, 1919]].&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> * ポーランド人 — 58.0 %<br /> * リトアニア人 — 18.5 %<br /> * ユダヤ人 — 14.7 %<br /> * ベラルーシ人 — 6.4 %<br /> * ロシア人 — 1.2 %<br /> * その他 — 1.2 %<br /> <br /> どちらの調査も、各民族をどのように分類するかという点で困難が伴うものであった。例えば[[1890年代]]には、自らをリトアニア人でもありポーランド人でもある、と答える者が多くいた&lt;ref&gt;[[#Davies, 1982|Davies, 1982]]. p. 69.&lt;/ref&gt;。リトアニアの上層階級の人々は「生まれはリトアニア人、国籍はポーランド人」と称していたとも言われる&lt;ref&gt;[[#伊東、井内、中井編, 1998|伊東、井内、中井編, 1998]]. p. 272.&lt;/ref&gt;。またドイツの調査に関しては、「民族の身分を客観的に決めることは非常に難しい」と分析されている&lt;ref&gt;[[#Liulevicius, 2000|Liulevicius, 2000]]. p. 34.&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> === 第一次世界大戦の結果 ===<br /> ==== 政策 ====<br /> [[ファイル:MWP Pilsudski odezwa.JPG|thumb|right|250px|[[ユゼフ・ピウスツキ]]による「旧リトアニア大公国住民に向けた宣言書」([[1919年]]4月)。[[ポーランド語]]と[[リトアニア語]]で書かれている。]]<br /> [[第一次世界大戦]]の結果、ポーランドとリトアニアはともに独立国家となった。両者はともにヴィリニュス(ポーランド名: ヴィルノ)の領有を主張、紛争が生じた。<br /> <br /> 人口比率から言えば、ヴィリニュスにはポーランド人とユダヤ人がそれぞれほぼ同数居住しており、リトアニア人の数は少なかった(1897年のロシアによる調査&lt;ref name=&quot;Łossowski11&quot;/&gt;&lt;ref name=&quot;Demoskop&quot;/&gt;、および1916年のドイツによる調査&lt;ref name=&quot;Brensztejn&quot;/&gt;では、約 17〜18 % という数字が出されている)が、リトアニア人にとってヴィリニュスは[[リトアニア大公国]]の歴史的首都でもあるため、彼らはヴィリニュスがポーランド人のものではなく自分たちのものであると信じていた&lt;ref name=&quot;MacQueen_context&quot;&gt;[[#MacQueen, 1998|MacQueen, 1998]].&lt;/ref&gt;。リトアニア当局は、住民の多くがリトアニア語を話さずポーランド人であると自認していたとしても、彼らはポーランド化(あるいはロシア化)されたリトアニア人であるのだと主張した&lt;ref name=&quot;Łossowski13-16&quot;&gt;[[#Łossowski, 1995|Łossowski, 1995]]. pp. 13-16.&lt;/ref&gt; 。リトアニア人[[ユゼフ・ピウスツキ]] (Józef Piłsudski) 率いるポーランドはポーランド主導の連邦を作り、そこにポーランド人以外の民族が多く住む地域も含めようとした。他方でリトアニアはヴィリニュス地域を自国領土として完全に独立することを目指した。<br /> <br /> このような状況から、ポーランド人の中にもポーランド近代国家建設に際して異なる意見が見られた。[[ロマン・ドモフスキ]] (Roman Dmowski) はポーランドをポーランド人の単一民族国家として構想し、ポーランド人以外の民族を漸次的に同化していくべきと主張した(ピアスト理念)のに対し、ユゼフ・ピウスツキは[[ポーランド分割|分割]]前のポーランドに住む諸民族から構成される連邦国家を目指した(ヤギェウォ理念)&lt;ref&gt;[[#伊東、井内、中井編, 1998|伊東、井内、中井編, 1998]]. p. 254.&lt;/ref&gt;&lt;ref name=&quot;Snyder64&quot;&gt;[[#Snyder, 2003|Snyder, 2003]]. p. 64.&lt;/ref&gt;。どちらもヴィリニュスのポーランド人を新国家に組み込むこととしていた。ピウスツキはリトアニア大公国を連邦の州として再建しようとした&lt;ref name=&quot;Snyder64&quot;/&gt;。構想されていた州はリトアニア語を公用語とする[[カウナス]]、リトアニア語とポーランド語を公用語とするヴィリニュス、[[ベラルーシ語]]を公用語とする[[ミンスク]]、といった具合であった。<br /> <br /> 最終的にピウスツキの計画はドモフスキ陣営およびリトアニア政府双方から反対されたため失敗に終わった。ドモフスキ陣営に属していた[[スタニスワフ・グラプスキ]] (Stanisław Grabski) は[[ポーランド・ソビエト・リガ平和条約|リガ平和条約]]締結に向けて[[ソビエト連邦|ソヴィエト連邦]]との交渉にあたっていたが、ここで新国境線の策定が議論された。グラプスキはポーランド領を極力小さく抑え、ポーランド人の割合が多く占める地域のみとするべきだと考えていたため、ポーランド人以外の民族が多く住むミンスクをポーランド領に組み込むことには否定的であった&lt;ref name=&quot;Snyder64&quot;/&gt;。<br /> <br /> ==== ポーランド・リトアニア戦争 ====<br /> [[第一次世界大戦]]が終わると、かつての[[リトアニア大公国]]の領土は[[ポーランド共和国]]、[[ベラルーシ人民共和国]]および[[リトアニア共和国]]に分かれることとなった。終戦の翌年には[[ポーランド・ソビエト戦争]]が勃発し、2年間にわたって続いたため、ヴィリニュスの支配権もめまぐるしく変わっていった。[[1919年]]、[[赤軍]]がポーランドのリトアニア・ベラルーシ自衛軍を敗ったことによりヴィリニュスは一時的に赤軍に占領されたが、その後すぐにポーランド軍によってソヴィエト・ロシアは追いやられることになる。[[1920年]]、ヴィリニュスは再び赤軍によって占領された。[[7月12日]]、ソヴィエト・ロシアとリトアニア共和国のあいだで講和条約が結ばれ、ソヴィエトはリトアニアのヴィリニュスに対する主権を認め、ヴィリニュス地域をリトアニア側に引き渡すことに合意した&lt;ref name=&quot;kasekamp175&quot;&gt;[[#カセカンプ, 2014|カセカンプ, 2014]]. p. 175.&lt;/ref&gt;&lt;ref name=&quot;ito278&quot;&gt;[[#伊東、井内、中井編, 1998|伊東、井内、中井編, 1998]]. p. 278.&lt;/ref&gt;。またリトアニアは、ソヴィエト・ロシアがポーランドとの紛争状態にあることを条件に、赤軍のリトアニア領内侵入に同意した&lt;ref name=&quot;kasekamp175&quot;/&gt;。ソヴィエト赤軍はこの同意を利用し、同意のわずか2日後にヴィリニュスを占領した&lt;ref name=&quot;kasekamp175&quot;/&gt;。8月、ヴィリニュスはリトアニアに返還された&lt;ref name=&quot;kasekamp175&quot;/&gt;。[[8月26日]]、ポーランド軍とリトアニア軍が[[スヴァウキ]]周辺で衝突、{{仮リンク|ポーランド・リトアニア戦争|pl|Konflikt polsko-litewski|lt|Lenkijos–Lietuvos karas|en|Polish–Lithuanian War}}に発展した。[[国際連盟]]が仲裁に乗り出し、スヴァウキに交渉の場を設けた。10月7日、ポーランドとリトアニアの間で合意文書が調印され、ヴィリニュスはリトアニア側に帰属することとなった&lt;ref name=&quot;ito278&quot;/&gt;&lt;ref name=Zigmas&gt;[[#Zinkevičius, 1993|Zinkevičius, 1993]]. p. 158.&lt;/ref&gt;。この合意は10月10日の12時に効力を発することとされていた。<br /> <br /> ところが10月9日、ソヴィエト赤軍を追撃していたジェリコフスキ (Lucjan Żeligowski) 将軍率いる[[ポーランド軍]]第1リトアニア=ベラルーシ歩兵師団が、現地の[[ポーランド人]]とともにリトアニア軍を急襲し、ヴィリニュスから撤退させた&lt;ref name=&quot;kasekamp175-6&quot;&gt;[[#カセカンプ, 2014|カセカンプ, 2014]]. pp. 175–6.&lt;/ref&gt;&lt;ref name=&quot;von Rauch&quot;/&gt;。ポーランド政府は、こうした行動はジェリコフスキが単独で行ったものであり政府に責任はないと主張した&lt;ref name=&quot;kasekamp176&quot;&gt;[[#カセカンプ, 2014|カセカンプ, 2014]]. p. 176.&lt;/ref&gt;&lt;ref name=&quot;von Rauch&quot;/&gt;。[[1923年]]8月にはジェリコフスキ本人もこの攻撃は自身が直接指示したものであったと語っている&lt;ref name=&quot;Venclova&quot;&gt;[[#Venclova, and Miłosz, 1999|Venclova, and Miłosz, 1999]]. p. 146.&lt;/ref&gt;。しかし実際のところ、ジェリゴフスキは、[[大ポーランド主義]]を掲げる[[ユゼフ・ピウスツキ]]の命令に従って行動していた&lt;ref name=&quot;kasekamp176&quot;/&gt;。ピウスツキの考えによれば、リトアニアがポーランドとの連邦に加わればヴィリニュスをリトアニアに帰属させることも可能であったが、リトアニアの民族主義者らはこの連邦案を拒否した&lt;ref name=&quot;kasekamp176&quot;/&gt;。ジェリコフスキは占拠した地域を直接ポーランドに編入するのではなく、そこに新たな国家を作り上げることにした。それが中部リトアニア共和国である。<br /> <br /> リトアニア政府はヴィリニュスから第二の都市である[[カウナス]]へと移された。カウナス政府と中部リトアニアの紛争は数週間にわたって続けられたが、どちらも著しく優勢になることはなかった。国際連盟による調停の結果、11月29日、休戦協定が結ばれた&lt;ref name=&quot;kasekamp176&quot;/&gt;。<br /> <br /> === 中部リトアニアの建国 ===<br /> [[1920年]][[10月12日]]、ジェリコフスキは[[臨時政府]]を設置する旨を発表した。[[1921年]][[1月7日]]の彼の布告により裁判所と警察が作られた。さらに[[1919年]][[1月1日]]の時点で中部リトアニア地域に住んでいた住民、および[[1914年]][[8月1日]]以前に5年以上住んでいた住民すべてに中部リトアニア共和国の[[市民権]]が与えられた。<br /> <br /> 国旗は、赤色を背景とし、ポーランドの象徴である[[ポーランドの国章|白鷲]]とリトアニアの象徴である[[リトアニアの国章|ヴィーティス]](あるいは[[パゴーニャ]]、白馬にまたがる騎士)をあしらったものを採用した。国章は、ポーランドとリトアニアの象徴を組み合わせたもので、[[ポーランド・リトアニア共和国]]の国章に似ている。<br /> <br /> === 調停 ===<br /> [[ファイル:Border-Lithuania-Poland-1919-1939.svg|thumb|right|330px|ポーランド・リトアニア国境の変遷([[1919年]]–[[1939年]])]]<br /> <br /> 和平交渉が[[国際連盟]]の後援を受けて行われた。1920年11月29日にポーランド、リトアニア両国によって和平交渉を行うことが決められ、1921年3月3日から話し合いが行われた。国際連盟はポーランドが提案した中部リトアニアでの[[住民投票]]の実施を支持した。両者による歩み寄りの結果「ハイマンズ・プラン」(&quot;Hymans&#039; Plan&quot;) が提案された(この名前は国際連盟総会議長のポール・ハイマンズ (Paul Hymans) に由来する)。このプランは15の提案が含まれており、<br /> * ポーランドとリトアニアは互いの独立を保証する。<br /> * リトアニア人による[[ジェマイティヤ]]地方と多民族([[ベラルーシ人]]、[[リプカ・タタール人|タタール人]]、[[ポーランド人]]、[[ユダヤ人]]および[[リトアニア人]])による[[ヴィリニュス]]地方の2つによって構成されるリトアニア連邦に、中部リトアニアを併合する。どちらの地方も独立した政府、議会、公用語を有し、連邦の首都はヴィリニュスとする&lt;ref name=&quot;Geouffre de Lapradelle&quot;&gt;[[#Lapradelle, Mandelstam, and Fur, 1929|Lapradelle, Mandelstam, and Fur, 1929]]. pp. 15–18.&lt;/ref&gt;。<br /> * リトアニア、ポーランド両政府は、外交、貿易、産業、地方政策などに関する国家間委員会を設置する。<br /> * ポーランドとリトアニアは防衛同盟条約を締結する。<br /> * ポーランドはリトアニアの港を利用することができる。<br /> などといった内容を含むものであった&lt;ref name=&quot;Moroz&quot;&gt;[[#Moroz, 2001|Moroz, 2001]].&lt;/ref&gt;。ポーランドは中部リトアニアからも代表団をブリュッセルに招待するよう要求したが、リトアニアがそれを拒否したため、和平交渉は中断された&lt;ref name=&quot;Moroz&quot;/&gt;。<br /> <br /> === 中部リトアニアの解体 ===<br /> [[ファイル:Celebration of incorporation of Vilnius Region to Poland 1922.PNG|thumb|right|266px|[[ヴィルノ県 (1923-1939)|ヴィルノ県]]編入の祝賀パレードの様子([[1922年]])]]<br /> ブリュッセルでの和平交渉が失敗に終わると、中部リトアニアの緊張は高まっていった。他の民族からの支持を得るために、ポーランド人・リトアニア人の双方によって選挙向けの[[プロパガンダ]]が展開された。ポーランド政府はまた、[[リトアニア語]]の新聞の発行停止&lt;ref name=cepenas/&gt;や選挙妨害&lt;ref name=&quot;Documents&quot;&gt;{{cite book | title=Documents diplomatiques. Conflit Polono-Lituanien. Questions de Vilna 1918-1924 |year=1924}}&lt;/ref&gt;など様々な形で強引な政策に訴えた。選挙は行われたものの、リトアニア人とユダヤ人の大半、そしてベラルーシ人の一部は選挙をボイコットした。他方、ポーランド人は大半が投票を行った&lt;ref name=vote&gt;[[#Kiaupa, 2004|Kiaupa, 2004]].&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> リトアニアは選挙結果を認めなかったが、1922年3月22日、ポーランド議会(セイム)は中部リトアニアのポーランドへの編入を承認し、最終的には、新しく設置された[[ヴィルノ県 (1923-1939)|ヴィルノ県]]に編入されることとなった。リトアニアはこれらの措置を認めず、いわゆるヴィリニュス地方を自国領土の一部として扱い、ヴィリニュスを憲法上の首都に規定、[[カウナス]]を臨時の首都とした。<br /> <br /> === その後 ===<br /> [[1939年]]の[[独ソ不可侵条約]]締結と[[ポーランド侵攻]]の結果、ヴィリニュス地域を含むポーランド東部はソ連に占領された&lt;ref name=&quot;kasekamp207-8&quot;&gt;[[#カセカンプ, 2014|カセカンプ, 2014]]. pp. 207–8.&lt;/ref&gt;。ソ連はリトアニアにヴィリニュスの返還を持ちかけ、10月10日に両国間で協定が調印され[[ヴィリニュス]]とその周囲30kmの地域はリトアニアに編入された&lt;ref name=&quot;kasekamp208&quot;&gt;[[#カセカンプ, 2014|カセカンプ, 2014]]. p. 208.&lt;/ref&gt;。また、中部リトアニアの別の地域はソ連下の[[白ロシア・ソビエト社会主義共和国|白ロシア]]領となった。こうして首都ヴィリニュスを取り戻すことができたリトアニアであったが、1940年6月14日、リトアニアはソ連に最後通牒をつきつけられ&lt;ref name=&quot;kasekamp210&quot;&gt;[[#カセカンプ, 2014|カセカンプ, 2014]]. p. 210.&lt;/ref&gt;、その後ソ連に編入され[[リトアニア・ソビエト社会主義共和国]]となった。その後、[[1990年]]にリトアニアが独立回復宣言を行い、その後ヴィリニュスがリトアニアの首都であることが国際的に承認されるようになった。<br /> <br /> == リトアニアの独立をめぐる仮説 ==<br /> ポーランドの歴史学者によれば、もしポーランドが[[ポーランド・ソビエト戦争|ソヴィエトとの戦争]]に勝利していなければ、リトアニアはソヴィエトに侵攻されており、戦間期の独立はなかっただろうと考えられている&lt;ref name=&quot;Senn&quot;&gt;&#039;&#039;&quot;A Bolshevik victory over the Poles would have certainly meant a move by the Lithuanian communists, backed by the Red Army, to overthrow the Lithuanian nationalist government... Kaunas, in effect, paid for its independence with the loss of Vilna.&quot;&#039;&#039; [[#Senn, 1962|Senn, 1962]]. pp. 500-507.; &#039;&#039;&quot;If the Poles didn&#039;t stop the Soviet attack, Lithuania would fell to the Soviets... Polish victory costs the Lithuanians the city of Wilno, but saved Lithuania itself.&quot;&#039;&#039; [[#Senas, 1992|Senas, 1992]]. p. 163.; &#039;&#039;&quot;In summer 1920 Russia was working on a communist revolution in Lithuania... From this disaster Lithuania was saved by the miracle at Vistula.&quot;&#039;&#039; [[#Rukša, 1982|Rukša, 1982]]. p. 417.; &#039;&#039;[Piłsudski] &quot;defended both Poland and Lithuanian from Soviet domination&quot;&#039;&#039;. Jonas Rudokas, [http://www.nasz-czas.lt/519/na_lamach.html Józef Piłsudski - wróg niepodległości Litwy czy jej wybawca?] &#039;&#039;Veidas.&#039;&#039; 2005年8月25日.&lt;/ref&gt;。つまり、リトアニアは1920年にソヴィエトと[[ソビエト・リトアニア平和条約|平和条約]]を結んではいたが、その年の夏にはソヴィエトに侵攻、編入される寸前にまで至っており、そうした計画を狂わせたのがポーランドの勝利であった、とされる&lt;ref name=&quot;Senn&quot;/&gt;。この考えは[[満州国]]を[[ソビエト連邦]]の拡大を食い止める防衛線と位置づけていた同時代の[[日本]]と酷似している。日本は中部リトアニア共和国をいちはやく承認している&lt;ref name=&quot;conference&quot;/&gt;。<br /> <br /> == 脚注 ==<br /> {{脚注ヘルプ}}<br /> {{reflist|2}}<br /> <br /> == 参考文献 ==<br /> ; [[英語]]文献<br /> * {{Cite book<br /> | last = Davies<br /> | first = Norman<br /> | title = God&#039;s Playground<br /> | year = 1982<br /> | ref = Davies, 1982}}<br /> * {{Cite book<br /> | last = Eidintas<br /> | first = Alfonsas<br /> | coauthors = Vytautas Žalys; Alfred Erich Senn<br /> | editor = Edvardas Tuskenis ed.<br /> | title = Lithuania in European Politics: The Years of the First Republic, 1918-1940<br /> | edition = Paperback <br /> | year = 1999 <br /> | month = September <br /> | publisher = St. Martin&#039;s Press <br /> | location = New York <br /> | isbn = 0312224583 <br /> | ref = Eidintas, 1999}}<br /> * {{Cite book<br /> | first = Anna <br /> | last = Geifman <br /> | title = Russia Under the Last Tsar: Opposition and Subversion, 1894-1917 <br /> | publisher = Blackwell Publishing <br /> | year = 1999 <br /> | isbn = 1557869952<br /> | ref = Geifman, 1999}}<br /> * {{Cite book<br /> | last = Kantautas<br /> | first = Adam<br /> | coauthors = Filomena Kantautas<br /> | title = A Lithuanian Bibliography: A Check-list of Books and Articles Held by the Major Libraries of Canada and the United States<br /> | year = 1975<br /> | publisher = The University of Alberta Press<br /> | ref = Kantautas and Kantautas, 1975}}<br /> * {{Cite book<br /> | first = Zigmantas<br /> | last = Kiaupa<br /> | title = The History of Lithuania<br /> | year = 2004<br /> | publisher = Baltos lankos<br /> | location = Vilnius<br /> | isbn = 9955584874<br /> | ref = Kiaupa, 2004}}<br /> * {{Cite book<br /> | first = Walter<br /> | last = Kolarz<br /> | title = Myths and Realities in Eastern Europe <br /> | year = 1946 <br /> | publisher = Lindsay Drummond <br /> | location = London<br /> | ref = Kolarz, 1946}}<br /> * {{Cite book<br /> | last = Lapradelle<br /> | first = Albert Geouffre de<br /> | coauthors = André Nicolayévitch Mandelstam; Louis Le Fur<br /> | title = The Vilna Question<br /> | year = 1929<br /> | publisher = Hazell, Watson &amp; Viney, ld.<br /> | location = London<br /> | ref = Lapradelle, Mandelstam, and Fur, 1929}}<br /> * {{Cite book<br /> | title = League of Nations, Treaty Series<br /> | year = 1923<br /> | author = League of Nations<br /> | volume = 15<br /> | ref = League of Nations, 1923}}<br /> * {{Cite book<br /> | first = Jerzy J.<br /> | last = Lerski<br /> | coauthors = Piotr Wróbel; Richard J. Kozicki<br /> | title = Historical Dictionary of Poland 966-1945<br /> | year = 1996<br /> | publisher = Greenwood Press<br /> | isbn = 0313260079<br /> | ref = Lerski, Wróbel, and Kozicki, 1996}}<br /> * {{Cite book<br /> | title = The Vilna problem<br /> | author = Lithuanian Information Bureau<br /> | location = London<br /> | year = 1922<br /> | ref = Lithuanian Information Bureau, 1922}}<br /> * {{Cite book<br /> | last = Liulevicius<br /> | first = Vejas Gabrielas<br /> | title = War Land on the Eastern Front: Culture, National Identity, and German Occupation in World War I <br /> | publisher = Cambridge University Press<br /> | year = 2000<br /> | isbn = 9780521661577<br /> | ref = Liulevicius, 2000}}<br /> * {{Cite journal<br /> | first = Michael<br /> | last = MacQueen<br /> | title = The Context of Mass Destruction: Agents and Prerequisites of the Holocaust in Lithuania<br /> | journal = Holocaust and Genocide Studies<br /> | volume = 12<br /> | issue = 1<br /> | pages = 27–48 <br /> | year = 1998 <br /> | doi = 10.1093/hgs/12.1.27<br /> | ref = MacQueen, 1998}}<br /> * {{Cite paper<br /> | last = Miniotaitė<br /> | first = Gražina<br /> | title = The Security Policy of Lithuania and the &#039;Integration Dilemma&#039;<br /> | publisher = NATO Academic Forum<br /> | year = 1999<br /> | url = http://www.nato.int/acad/fellow/97-99/miniotaite.pdf<br /> | format = pdf<br /> | accessdate = 2008年3月14日<br /> | ref = Miniotaitė, 1999}}<br /> * {{Cite book<br /> | first = Eric<br /> | last = Phipps<br /> | coauthors = Romano Avezzana; Raymond Poincaré; Maurycy Zamoyski; M. Matsuda<br /> | title = Decision Taken by the Conference of Ambassadors Regarding the Eastern Frontiers of Poland<br /> | year = 1923<br /> | publisher = League of Nations<br /> | url = http://www.forost.ungarisches-institut.de/pdf/19230315-1.pdf<br /> | format = pdf<br /> | accessdate = 2010年5月1日<br /> | ref = Phipps et al., 1923}}<br /> * {{Cite book <br /> | first = Georg von <br /> | last = Rauch <br /> | editor = Gerald Onn <br /> | title = The Baltic States: Years of Independence - Estonia, Latvia, Lithuania, 1917-40 <br /> | year = 1974 <br /> | pages = 100-102 <br /> | chapter = The Early Stages of Independence <br /> | publisher = C. Hurst &amp; Co<br /> | isbn = 0903983001 <br /> | ref = Rauch, 1974}}<br /> * {{Cite book<br /> | last = Romanucci-Ross<br /> | first = Lola<br /> | coauthors = George A. De Vos; Takeyuki Tsuda<br /> | title = Ethnic Identity: Problems And Prospects for the Twenty-first Century<br /> | edition = 4th ed.<br /> | publisher = AltaMira Press<br /> | year = 2006<br /> | isbn = 9780759109728<br /> | ref = Romanucci-Ross, Vos, and Tsuda, 2006}}<br /> * {{Cite book<br /> | first = Aviel <br /> | last = Roshwald<br /> | title = Ethnic Nationalism and the Fall of Empires: Central Europe, Russia and the Middle East, 1914-1923<br /> | publisher = Routledge<br /> | year = 2001<br /> | isbn = 0415178932<br /> | ref = Roshwald, 2001}}<br /> * {{Cite journal<br /> | url = http://www.lituanus.org/1989/89_4_06.htm |title=The Lithuanian Language and Nation Through the Ages: Outline of a History of Lithuanian in its Social Context<br /> | first = William R. <br /> | last = Schmalstieg<br /> | journal = Lituanus<br /> | date = Winter 1989<br /> | volume = 34<br /> | issue = 4<br /> | ref = Schmalstieg, 1989}}<br /> * {{Cite book<br /> | last = Senn<br /> | first = Alfred Erich<br /> | title = The Emergence of Modern Lithuania.<br /> | location = New York<br /> | publisher = Columbia University Press<br /> | year = 1959<br /> | ref = Senn, 1959}}<br /> * {{Cite journal<br /> | last = Senn<br /> | first = Alfred Erich<br /> | title = The Formation of the Lithuanian Foreign Office, 1918-1921<br /> | journal = Slavic Review<br /> | volume = 21<br /> | issue = 3<br /> | date = Sep., 1962<br /> | ref = Senn, 1962}}(リトアニア語版:[[#Senas, 1992|Senas, 1992]])<br /> * {{Cite book<br /> | last = Shandler<br /> | first = Jeffrey<br /> | title = Awakening Lives: Autobiographies of Jewish Youth in Poland Before the Holocaust<br /> | publishr = Yale University Press<br /> | year = 2002<br /> | isbn = 9780300092776<br /> | ref = Shandler, 2002}}<br /> * {{Cite book <br /> | authorlink = ティモシー・スナイダー <br /> | first = Timothy <br /> | last = Snyder <br /> | title = The Reconstruction of Nations: Poland, Ukraine, Lithuania, Belarus, 1569-1999 <br /> | publisher = Yale University Press <br /> | year = 2003 <br /> | isbn = 030010586X <br /> | ref = Snyder, 2003}}<br /> * {{Cite journal<br /> | first = Tomas<br /> | last = Venclova<br /> | url = http://www.lituanus.org/1981_2/81_2_01.htm<br /> | title = Four Centuries of Enlightenment. A Historic View of the University of Vilnius, 1579-1979<br /> | journal = Lituanus<br /> | volume = 27<br /> | issue = 1<br /> | date = Summer 1981<br /> | ref = Venclova, 1981}}<br /> * {{Cite book<br /> | last = Venclova<br /> | first = Tomas<br /> | coauthors = Czesław Miłosz<br /> | title = Winter Dialogue<br /> | year = 1999<br /> | publisher = Northwestern University Press<br /> | isbn = 0810117266<br /> | ref = Venclova, and Miłosz, 1999}}<br /> * {{Cite journal<br /> | first = Stasys<br /> | last = Yla<br /> | url = http://www.lituanus.org/1981_2/81_2_03.htm<br /> | title = The Clash of Nationalities at the University of Vilnius<br /> | journal = Lituanus<br /> | volume = 27<br /> | issue = 1<br /> | date = Summer 1981<br /> | ref = Yla, 1981}}<br /> <br /> ; [[ポーランド語]]文献<br /> * {{Cite book<br /> | last = Brensztejn<br /> | first = Michał Eustachy<br /> | year = 1919<br /> | title = Spisy ludności m. Wilna za okupacji niemieckiej od. 1 listopada 1915 r.<br /> | publisher = Biblioteka Delegacji Rad Polskich Litwy i Białej Rusi<br /> | location = Warsaw<br /> | ref = Brensztejn, 1919}}<br /> * {{Cite book<br /> | last = Łossowski<br /> | title = Konflikt polsko-litewski 1918-1920<br /> | location = Warsaw<br /> | publisher = Książka i Wiedza<br /> | year = 1995<br /> | isbn = 8305127699<br /> | ref = Łossowski, 1995}}<br /> * {{Cite book<br /> | last = Moroz<br /> | first = Małgorzata<br /> | title = Krynica. Ideologia i przywódcy białoruskiego katolicyzmu<br /> | year = 2001<br /> | chapter = Białoruski ruch chrześcijańsko—demokratyczny w okresie pierwszej wojny światowej<br /> | chapterurl = http://kamunikat.fontel.net/www/knizki/historia/moroz/krynica/krynica_02.htm<br /> | publisher = Białoruskie Towarzystwo Historyczne<br /> | location = Białystok<br /> | isbn = 8391502902<br /> | url = http://kamunikat.fontel.net/www/knizki/historia/moroz/krynica/krynica_spis.htm<br /> | ref = Moroz, 2001}}<br /> <br /> ; [[リトアニア語]]文献<br /> * {{Cite book<br /> | last = Čepėnas<br /> | first = Pranas<br /> | title = Naujųjų laikų Lietuvos istorija, vol. II<br /> | year = 1986<br /> | publisher = Dr. Griniaus fondas<br /> | location = Chicago<br /> | isbn = 5899570121<br /> | ref = Čepėnas, 1986}}<br /> * {{Cite book<br /> | last = Rukša<br /> | first = Antanas<br /> | title = Kovos dėl Lietuvos nepriklausomybės<br /> | volume = 3<br /> | year = 1982<br /> | location = Cleveland<br /> | publisher = Ramovė<br /> | ref = Rukša, 1982}}<br /> * {{Cite book<br /> | last = Senas<br /> | first = Alfredas Erichas<br /> | title = Lietuvos valstybės atkūrimas 1918 - 1920<br /> | year = 1992<br /> | location = Vilnius<br /> | publisher = Mokslo ir encyklopedijų leidykla<br /> | ref = Senas, 1992}}(原著:[[#Senn, 1959|Senn, 1959]])<br /> * {{Cite book<br /> | last = Zinkevičius<br /> | first= Zigmas<br /> | title = Rytų Lietuva praeityje ir dabar<br /> | publisher = Mokslo ir enciklopedijų leidykla<br /> | location = Vilnius<br /> | year=1993<br /> | isbn = 5420010852 <br /> | ref = Zinkevičius, 1993}}<br /> <br /> ; [[日本語]]文献<br /> * {{Cite book|和書<br /> |author = [[伊東孝之]]、井内敏夫、[[中井和夫]]編<br /> |year = 1998<br /> |title = ポーランド・ウクライナ・バルト史<br /> |series = 新版世界各国史20<br /> |publisher = [[山川出版社]]<br /> |isbn = 9784634415003<br /> |ref = 伊東、井内、中井編, 1998<br /> }}<br /> * {{Cite book|和書<br /> |author = [[アンドレス・カセカンプ]]<br /> |translator = [[小森宏美]]、[[重松尚]]<br /> |year = 2014<br /> |title = バルト三国の歴史<br /> |series = 世界歴史叢書<br /> |publisher = [[明石書店]]<br /> |isbn = 9784750339870<br /> |ref = カセカンプ, 2014<br /> }}<br /> * {{Cite book|和書<br /> |author = 鈴木徹<br /> |year = 2000<br /> |title = バルト三国史<br /> |publisher = [[学校法人東海大学出版会|東海大学出版会]]<br /> |isbn = 9784486015000<br /> |ref = 鈴木, 2000<br /> }}<br /> <br /> == 関連項目 ==<br /> * [[ヴィリニュス]]<br /> * [[リトアニアの歴史]]<br /> * [[ポーランドの歴史]]<br /> <br /> == 外部リンク ==<br /> * [http://www.crwflags.com/fotw/flags/lt-cent.html State symbols of Central Lithuania] {{en icon}}<br /> * [http://www.halgal.com/pur_home.html Repatriation and resettlement of Ethnic Poles] {{en icon}}<br /> * [http://www.ucis.pitt.edu/nceeer/2004_819-06g_Weeks.pdf From &quot;Russian&quot; to &quot;Polish&quot;: Vilnius-Wilno 1900-1925] {{en icon}}<br /> * [http://www.wsgn.euv-frankfurt-o.de/vc/2005_SS/sch_grenzen/Kampf_um_Wilna-Kurzfassung.PDF Kampf um Wilna - historische Rechte und demographische Argumente] {{de icon}}<br /> * [http://www.halgal.com/graphics/PUR/PUR_map_mixethnic1.jpg Mixed ethnic groups around Wilno / Vilnius during inter-war period], after Norman Davies, &#039;&#039;God&#039;s Playground: A History of Poland: Volume II, 1795 to the Present&#039;&#039;; Columbia University Press: 1982. {{en icon}}<br /> * [http://www.filatelija.lt/zem_vl.htm &quot;Vidurinės Lietuvos&quot; pašto ženklai] {{lt icon}} - 中部リトアニア共和国の切手が紹介されている。<br /> <br /> {{ロシア革命後の国家}}<br /> <br /> {{DEFAULTSORT:ちゆうふりとあにあきようわこく}}<br /> [[Category:ポーランドの歴史 (1918–1939)]]<br /> [[Category:リトアニアの歴史]]<br /> [[Category:ベラルーシの歴史]]<br /> [[Category:ポーランドの歴史的地域]]<br /> [[Category:ポーランド・リトアニア関係]]<br /> [[Category:ロシア内戦期の国家]]<br /> [[Category:かつて存在したヨーロッパの共和国]]<br /> [[Category:かつてベラルーシに存在した国家]]<br /> [[Category:かつてリトアニアに存在した国家]]<br /> [[Category:1920年に成立した国家・領域]]<br /> [[Category:1922年に廃止された国家・領域]]</div> 153.188.171.24 自由地区 2018-07-13T04:32:21Z <p>153.188.171.24: </p> <hr /> <div>{{Otheruses|ウクライナに存在したコミューン|中華民国の自由地区(台澎金馬)|台湾地区}}<br /> {{基礎情報 過去の国<br /> |略名 = <br /> |日本語国名 = 自由地区<br /> |公式国名 = {{lang|uk|Вільна територія}}<br /> |建国時期 = [[1918年]]<br /> |亡国時期 = [[1921年]]<br /> |先代1 = ウクライナ国<br /> |先旗1 = Flag of Ukraine.svg<br /> |先代2 = <br /> |先旗2 = <br /> |次代1 = ウクライナ社会主義ソビエト共和国<br /> |次旗1 = Flag of the Ukrainian SSR (1927-1937).svg<br /> |次代2 = <br /> |次旗2 = <br /> |国旗画像 = RPAU flag.svg<br /> |国旗リンク = &lt;!-- リンクを手動で入力する場合に指定 --&gt;<br /> |国旗幅 = &lt;!-- 初期値125px --&gt;<br /> |国旗縁 = &lt;!-- no と入力すると画像に縁が付かない --&gt;<br /> |国章画像 = &lt;!-- 画像ファイル名を入力 --&gt;<br /> |国章リンク = &lt;!-- リンクを手動で入力する場合に指定 --&gt;<br /> |国章幅 = &lt;!-- 初期値85px --&gt;<br /> |標語 = <br /> |標語追記 = <br /> |国歌 = <br /> |国歌追記 = <br /> |位置画像 = Makhnowia.png<br /> |位置画像説明 = <br /> |位置画像幅 = &lt;!-- 初期値250px --&gt;<br /> |公用語 = [[ウクライナ語]]&lt;br &gt;[[ロシア語]]<br /> |首都 = {{仮リンク|フリャイポーレ|uk|Гуляйполе}}<br /> |元首等肩書 = <br /> |元首等年代始1 = <br /> |元首等年代終1 = <br /> |元首等氏名1 = なし&lt;ref name=&quot;Skirda, Alexandre 2004, p. 86&quot;&gt;Skirda, Alexandre, &#039;&#039;Nestor Makhno: Anarchy&#039;s Cossack&#039;&#039;. AK Press, 2004, p. 86&lt;/ref&gt;<br /> |元首等年代始2 = <br /> |元首等年代終2 = <br /> |元首等氏名2 = <br /> |首相等肩書 = <br /> |首相等年代始1 = <br /> |首相等年代終1 = <br /> |首相等氏名1 = <br /> |首相等年代始2 = <br /> |首相等年代終2 = <br /> |首相等氏名2 = <br /> |面積測定時期1 = <br /> |面積値1 = <br /> |面積測定時期2 = <br /> |面積値2 = <br /> |人口測定時期1 = <br /> |人口値1 = 約700万<br /> |人口測定時期2 = <br /> |人口値2 = <br /> |変遷1 = 成立<br /> |変遷年月日1 = [[1918年]]<br /> |変遷2 = 赤軍の侵攻により消滅<br /> |変遷年月日2 = [[1921年]]<br /> |通貨 = <br /> |通貨追記 = <br /> |時間帯 = <br /> |夏時間 = <br /> |時間帯追記 = <br /> |ccTLD = <br /> |ccTLD追記 = <br /> |国際電話番号 = <br /> |国際電話番号追記 = <br /> |注記 = <br /> }}<br /> {{アナキズム}}<br /> &#039;&#039;&#039;自由地区&#039;&#039;&#039;(じゆうちく、{{lang-uk|Вільна територія}})とは、{{仮リンク|ウクライナ革命|label=革命|uk|Українська революція}}後の[[ウクライナ]]において[[1918年]]から[[1921年]]までの間存在した、[[アナキズム]]に基づく&lt;ref&gt;Noel-Schwartz, Heather.[http://web.archive.org/web/20080118074241/http://members.aol.com/ThryWoman/MRR.html The Makhnovists &amp; The Russian Revolution - Organization, Peasantry and Anarchism]. Archived on [http://web.archive.org/ Internet Archive]. Accessed October 2010.&lt;/ref&gt;[[自由主義|自由主義的]]な[[コミューン]]&lt;ref name=&quot;Skirda, Alexandre 2004, p. 86&quot;/&gt;の名称である。運動の指導者である[[ネストル・マフノ]]の名を取って&#039;&#039;&#039;マフノフシチナ&#039;&#039;&#039;({{lang-uk|Махновщина}})とも呼ばれる。[[ウクライナ革命蜂起軍]](黒軍)と[[ソビエト]]の保護の下で運営され、その領域にはおよそ700万人が暮らした&lt;ref&gt;Peter Marshall, &#039;&#039;Demanding the Impossible&#039;&#039;, PM Press (2010), p. 473.&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 一時期は[[アントーン・デニーキン]]の[[白軍]]に占領され[[南ロシア|南ロシア政府]]に支配されたが、黒軍と[[赤軍]]が連携した[[ゲリラ戦]]によって[[1920年]]に白軍は駆逐された。<br /> <br /> アナキストによって建設されたという性質上、このコミューンを「[[国家]]」や「[[政府]]」と見なすことについては異論がある。例えばマフノはこの「政府の指導者」と紹介されることがあるが、マフノ主義者によれば彼は純粋に軍事的な役割しか果たしていなかったという&lt;ref&gt;Skirda, Alexandre, &#039;&#039;Nestor Makhno: Anarchy&#039;s Cossack&#039;&#039;. AK Press, 2004, p. 34&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> == 歴史 ==<br /> === 建設 ===<br /> 1918年、「{{仮リンク|ナバト|en|Nabat}}」(&quot;{{lang|uk|Набат}}&quot;、警鐘の意)の名で知られる最初のアナキストの会議において決定されたのは次の5つの指針であった&lt;ref name=&quot;Cohn-Bendit&quot;&gt;Daniel Cohn-Bendit and Gabriel Cohn-Bendit, [http://www.nestormakhno.info/english/cohnbendit.htm The Makhno Movement and Opposition Within the Party]&lt;/ref&gt;。<br /> # すべての[[政党]]の停止<br /> # すべての[[独裁]]の排除<br /> # すべての国家の否定<br /> # すべての「過渡期」や「[[プロレタリア独裁]]」の否定<br /> # 評議会([[ソビエト]])によるすべての労働者の自己管理<br /> これらの目標は明らかに[[ボリシェヴィキ]]のそれとは対立するものだった。さらにアナキストたちは自身のシンボル・カラーとして伝統的な[[黒]]を採用し、[[白|白い]][[君主制|帝政主義者]]にも[[赤|赤い]]ボリシェヴィキにも反対を表明した。統治の原則は黒軍の文化教育部門によって発行された宣言文に示され、それには広く民衆が、とりわけ農民や労働者が関心を持った&lt;ref name=&quot;Cohn-Bendit&quot;/&gt;。<br /> <br /> === 発展と特徴 ===<br /> 1918年11月から[[1919年|翌年]]6月にかけ、マフノ主義者はウクライナの農民と労働者によって運営されるアナキズム社会の確立を成し遂げた。彼らの支配領域は[[ベルジャーンシク]]、[[ドネツィク]]、アレクサンドロフスク(現在の[[ザポリージャ]])、エカチェリノスラフ(現在の[[ドニプロペトロウシク]])まで広がった。<br /> <br /> マフノは[[1936年]]の著書『ウクライナのロシア革命』(«{{lang|ru|Русская революция на Украине}}»)で次のように述べている。<br /> {{quote|「村々の農業の大半は、労働者のことを理解した農民によってなされていた。コミューンは第一に平等と連帯に基いて組織され、メンバーの誰もが、男女問わず、完全な良心に基いて共に家事に勤しんでいた。(中略)作業計画は全員が出席する会議で決められ、彼らは自分たちがなすべきことを正確に知っていた」}}<br /> <br /> 黒軍の指導者たちによれば、マフノ主義者が自由を[[社会正義]]の到達点であるとして掲げた目標に則って、社会は再編されたという。教育はスペインの自由主義的[[教育者]]である{{仮リンク|フランシスコ・フェレル|es|Francisco Ferrer Guardia}}の原則を踏襲し、経済は作物や畜産物を農村と都市の間で自由に交易するという[[ピョートル・クロポトキン]]の理論に基づいていた。<br /> <br /> マフノ主義者は「自由労働者と農民のソビエト」&lt;ref name=&quot;RIAdeclaration&quot;&gt;[http://www.ditext.com/arshinov/appendix.html Declaration Of The Revolutionary Insurgent Army Of The Ukraine (Makhnovist)]. Peter Arshinov, [http://www.ditext.com/arshinov/makhno.html History of the Makhnovist Movement (1918-1921), 1923.] Black &amp; Red, 1974&lt;/ref&gt;への支持を表明し、ウクライナの中央政府を批判した。その一方でマフノはボリシェヴィキを独裁者と呼び、「[[チェーカー]](中略)やそれと同様の強制的で権威主義的な懲戒機関」にも反対し、さらに「言論、出版、集会、結社その他の自由」&lt;ref name=&quot;RIAdeclaration&quot; /&gt;を求めた。マフノ主義革命と[[秘密警察]]の連携は宣言によって禁じられ、それに類するすべての[[民兵]]組織や警察組織は自由地区の領内では非合法化された&lt;ref&gt;[http://books.google.com/books?id=pMji9s9WOlwC&amp;pg=PA187&amp;dq=makhno+had+two+secret+police+forces&amp;sig=WyxJTlPD5TL2jtXT8hbDO5ee5cM Nestor Makhno--anarchy&#039;s Cossack]&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;[http://www.ditext.com/arshinov/appendix.html Declaration Of The Revolutionary Insurgent Army Of The Ukraine (Makhnovist)]. Peter Arshinov, History of the Makhnovist Movement (1918-1921), 1923. Black &amp; Red, 1974&lt;/ref&gt;。歴史家のヘザー=ノエル・シュワルツ(Heather-Noël Schwartz)は「マフノは政治的な権威のための組織を容認しなかっただろうし、そのためにはボリシェヴィキの革命委員会を解体することもいとわなかっただろう」と述べている&lt;ref name=&quot;avrich1988&quot;&gt;Avrich, Paul. [http://books.google.com/books?id=hOd0-HITuhEC&amp;pg=PA111&amp;dq=%22anarchist+portraits%22+makhno&amp;sig=ArbmChwhT2xLIP0dWWO3CgpW-jc#PPA118,M1 Anarchist Portraits], 1988 Princeton University Press, p. 114, 121&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;{{citation |first=Heather-Noël |last=Schwartz |url=http://members.aol.com/ThryWoman/MRR.html |title=The Makhnovists &amp; The Russian Revolution: Organization, Peasantry, and Anarchism |archiveurl=http://web.archive.org/web/20080118074241/http://members.aol.com/ThryWoman/MRR.html |archivedate=2 Dec 98|date=January 7, 1920 |accessdate=January 18, 2008}}&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> しかし、ボリシェヴィキの側はマフノが2種類の秘密警察を持っていると非難していた&lt;ref&gt;Footman, David. [http://www.archive.org/details/civilwarinrussia000722mbp Civil War In Russia] Frederick A.Praeger 1961, page 287&lt;/ref&gt;。1919年6月4日の[[トロツキー]]の1824番指令によって、マフノは議会から排除され、その信用は毀損された。その指令では「黒軍は白軍を前にして退却を繰り返した。それは指導部の無能、犯罪的傾向、裏切り行為に起因している」とされた&lt;ref name=&quot;Cohn-Bendit&quot;/&gt;。<br /> <br /> === 崩壊 ===<br /> [[ペトログラード]]のボリシェヴィキ政権は当初はマフノと同盟し、その自由主義の実験場として独立した地域の存在を認めていた&lt;ref name=&quot;avrich1988&quot; /&gt;。しかし自由地区ですべての政党が禁止されるに至って、ボリシェヴィキはマフノ主義を脅威と見なすようになり&lt;ref&gt;Skirda, Alexandre, &#039;&#039;Nestor Makhno: Anarchy&#039;s Cossack&#039;&#039;. AK Press, 2004, p. 236&lt;/ref&gt;、自由地区は[[軍閥]]政権であると断定する[[プロパガンダ]]を再開した。ボリシェヴィキの新聞は、自由地区の指導者は民主的にではなくマフノの軍閥によって選出されたと宣伝した。さらに、マフノ派はソビエトの鉄道員と電報官への食糧の提供を拒否し、その体制の「特殊部門」によって密かに処刑と拷問を行い、赤軍の物資輸送部隊を襲撃し、ロシアの都市部で致死的な[[テロ]]を行った、などと無根拠に&lt;ref&gt;[http://www.nestormakhno.info/english/makfaq.html Nestor Makhno FAQ] at [http://www.nestormakhno.info/ The Nestor Makhno Archive]. Accessed October 2010.&lt;/ref&gt;非難した&lt;ref&gt;[http://www.isreview.org/issues/53/makhno.shtml &#039;The Makhno Myth&#039;], &#039;&#039;International Socialist Review&#039;&#039; #53, May–June 2007.&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 最終的にボリシェヴィキは自由地区との提携関係を破棄し、黒軍へ奇襲攻撃を行った&lt;ref&gt;Skirda, Alexandre, &#039;&#039;Nestor Makhno: Anarchy&#039;s Cossack&#039;&#039;. AK Press, 2004, p. 237-238&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> == 脚注 ==<br /> &lt;references /&gt;<br /> <br /> == 関連文献 ==<br /> * Peter Arshinov, [http://www.ditext.com/arshinov/makhno.html &#039;&#039;History of the Makhnovist Movement (1918-1921)&#039;&#039;], 1923. (下2冊は日本語訳)<br /> ** ピョートル・アルシーノフ 『マフノ叛乱軍史 ロシア革命と農民戦争』 奥野路介訳、鹿砦社、1973年。<br /> ** ピョートル・アルシノフ 『マフノ運動史 1918-1921 ウクライナの反乱・革命の死と希望』 郡山堂前訳、社会評論社、2007年。 ISBN 978-4784513031<br /> <br /> == 関連項目 ==<br /> * [[ネストル・マフノ]]<br /> * [[ウクライナ革命蜂起軍]]<br /> <br /> {{ウクライナの歴史}}<br /> {{ロシア革命後の国家}}<br /> <br /> {{デフォルトソート:しゆうちく}}<br /> [[Category:ネストル・マフノ]]<br /> [[Category:ロシア内戦期のウクライナ]]<br /> [[Category:1918年に成立した国家・領域]]<br /> [[Category:1921年に廃止された国家・領域]]</div> 153.188.171.24 ウクライナ・ソビエト戦争 2018-07-13T04:31:12Z <p>153.188.171.24: </p> <hr /> <div>{{Infobox Military Conflict<br /> |conflict=ウクライナ・ソビエト戦争<br /> |partof=[[ウクライナ・ロシア戦争]]<br /> |image= [[Image:Pic U N UNR Army (March 1918).jpg|300px]]<br /> |caption=[[キエフ]]の[[聖ムィハイール黄金ドーム修道院|聖ムィハイール大聖堂]]の前に立つウクライナ人民共和国の軍人<br /> |date=1917年‐1921年<br /> |place=[[ウクライナ]]<br /> |territory= ソビエト派によるウクライナ占領<br /> |result=ウクライナ人民共和国滅亡、[[ソ連]]結成。<br /> |status=<br /> |combatant1={{flagicon image|Flag of Ukrainian People&#039;s Republic 1917.svg}} [[ウクライナ人民共和国]]<br /> |combatant2={{flagicon image|Flag RSFSR 1918.svg}} [[ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国|ロシア社会主義共和国]] &lt;br /&gt; {{flagicon image|Flag_of_the_Ukrainian_SSR_(1919-1929).svg}} [[ウクライナ社会主義共和国]]<br /> |commander1=<br /> |commander2=<br /> |strength1= <br /> |strength2=<br /> |casualties1=<br /> |casualties2=<br /> |notes=<br /> }}<br /> &#039;&#039;&#039;ウクライナ・ソビエト戦争&#039;&#039;&#039;(ウクライナ語:&#039;&#039;Українсько-радянська війна&#039;&#039;)は、[[1917年]]12月から[[1921年]]11月にかけて[[ウクライナ]]の支配を巡って、[[キエフ]]を首都とする[[ウクライナ人民共和国]]と、[[ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国|ソビエトのロシア]]およびその[[傀儡政権]][[ウクライナ社会主義ソビエト共和国]]との間に行われた[[戦争]]である。[[ロシア革命]]後に起こった紛争の一つ。ソビエト派の勝利で終わった。戦争中にウクライナの人口が著しい被害を受け、10人に1人が死亡した。[[1922年]]12月にウクライナ社会主義ソビエト共和国はロシアが指導する[[ソ連邦]]へ取り込まれた。<br /> <br /> ==経緯==<br /> 海軍関係については[[ウクライナ海軍#ウクライナ革命]]も参照。<br /> ===第一ウクライナ・ソビエト戦争===<br /> *[[1917年]][[10月7日]]:[[10月革命]]により[[ロシア臨時政府]]が崩壊し、[[ボリシェビキ|ソビエト政権]]が成立。<br /> *[[1917年]][[11月20日]]:[[キエフ]]で[[ウクライナ中央ラーダ]]が[[ウクライナ人民共和国]]の樹立を宣言する。<br /> *[[1917年]][[12月17日]]:ソビエトのロシア政府がウクライナ中央ラーダに[[最後通牒]]を送信する。<br /> *[[1917年]][[12月25日]]:ソビエトのロシア軍がウクライナ人民共和国へ乱入。<br /> *[[1917年]][[12月26日]]:ソビエト軍が[[ハルキウ]]を占領し、ソビエト系ウクライナの[[傀儡政権]]を立てる。<br /> *[[1918年]][[1月9日]]:ソビエト軍が[[カテリノスラウ]]を占領する。<br /> *[[1918年]][[1月15日]]:ソビエト軍が[[ザポリージャ|アレクサンドロフスク]]を占領する。<br /> *[[1918年]][[1月16日]]:ソビエト軍が[[コノトープ]]を占領する。<br /> *[[1918年]][[1月19日]]:ソビエト軍が[[フルーヒウ]]を占領する。<br /> *[[1918年]][[1月28日]]:ソビエト軍のスパイがキエフで[[キエフ1月蜂起|蜂起]]を起こす。<br /> <br /> *[[1918年]][[1月29日]]:[[クルーティの戦い]]。ウクライナの300人の青年隊が4千人のソビエト軍に敗れる。<br /> *[[1918年]][[2月8日]]:ソビエト軍が[[キエフ]]を占領する。<br /> *[[1918年]][[2月8日]]:[[ブレスト (ベラルーシ)|ブレスト=リトフスク]]で、中央ラーダはウクライナの政府として[[ドイツ帝国]]・[[オーストリア・ハンガリー帝国]]と[[ブレスト=リトフスク条約|同盟]]を結ぶ。<br /> *[[1918年]][[2月24日]]:ドイツ・ウクライナの同盟軍がウクライナ解放を開始する。<br /> *[[1918年]][[2月27日]]:オーストリア・ウクライナの同盟軍がウクライナ解放を開始する。<br /> *[[1918年]][[3月1日]]:ドイツ・オーストリア・ウクライナの同盟軍がキエフを解放する。<br /> *[[1918年]][[3月14日]]:[[ウラジーミル・レーニン|レーニン]]の命令によりソビエト軍が部隊の[[ウクライナ化]]を始める。<br /> *[[1918年]][[4月29日]]:ウクライナの中央ラーダに代わって[[パウロー・スコロパードシクィイ|スコロパードシキー]]大将の政権が成立。国号は[[ウクライナ国]]となる。<br /> [[ファイル:Ukrainian State 1918.5-11.png|thumb|200px|{{legend|#D3F47B|ウクライナ国}}<br /> {{legend|#F5AAA5|ロシア}}{{legend-line|red dotted 2px|1918年の和議による境界}}]]<br /> *[[1918年]][[6月12日]]:ウクライナ国とソビエトのロシアが和議を結ぶ。<br /> <br /> ===第二ウクライナ・ソビエト戦争===<br /> *[[1918年]][[11月17日]]:[[第一次世界大戦]]においてドイツ・オーストリアの敗北に伴い、ロシアがウクライナ・ソビエト戦争の再開の準備を進める。モスクワでウクライナの傀儡政権「ウクライナ臨時労働農民政府」が成立する。<br /> *[[1918年]][[12月19日]]:スコロパードシキーの政権が倒され、[[ディレクトーリヤ|執政内閣]]政権が成立。国号は再び[[ウクライナ人民共和国]]。<br /> *[[1918年]][[12月20日]]:ソビエト軍が[[宣戦布告]]なしでウクライナへ攻め入る。<br /> *[[1918年]][[12月31日]]、[[1919年]][[1月3日]]、[[1月4日]]、[[1月9日]]:ウクライナの執政内閣が4度にわたりロシア政府に和解を提案するが、すべて無視される。<br /> *[[1919年]][[1月16日]]:ウクライナの執政内閣が一方的にロシア政府に対し戦争布告する。<br /> *[[1919年]][[1月6日]]:[[ハルキウ]]でソビエトの傀儡政権として[[ウクライナ社会主義ソビエト共和国]]樹立宣言。首都はハルキウ。<br /> *[[1919年]][[1月22日]]:[[キエフ]]で[[ウクライナ人民共和国]]と[[西ウクライナ人民共和国]]との併合を宣言する。<br /> *[[1919年]][[2月5日]]:ソビエト軍がキエフを占領する。ウクライナの執政内閣が[[右岸ウクライナ]]に避難する。<br /> *[[1919年]][[5月24日]]:ウクライナの執政内閣はポーランド軍と和議を結び、[[ポジーリャ]]地方で拠点を置く。<br /> *[[1919年]][[5月7日]]:ソビエト軍がポジーリャへ乱入。<br /> *[[1919年]][[7月16日]]:ウクライナ軍が反撃を開始し、ソビエト軍をポジーリャから追い出す。<br /> *[[1919年]][[8月12日]]:ウクライナ軍が[[ヴィーンヌィツャ]]を解放する。<br /> *[[1919年]][[8月21日]]:ウクライナ軍が[[ジトームィル]]を解放する。<br /> *[[1919年]][[8月31日]]:ウクライナ軍が[[キエフ]]を解放するが、[[白軍]]の前に撤退する。<br /> *[[1919年]][[11月6日]]:ウクライナ軍の一部が白軍に寝返る。ウクライナの執政内閣が再びポジーリャ地方へ撤退する。<br /> *[[1919年]][[12月4日]]:ウクライナの執政内閣が白軍・ソビエトの[[赤軍]]・[[ポーランド軍]]に囲まれる。ウクライナ軍が正式な軍事行動を止め、白軍・赤軍の支配地域において[[ゲリラ]]戦を開始する。<br /> <br /> *[[1919年]][[12月4日]]‐[[1920年]][[5月6日]]:ウクライナ軍がウクライナの中部で[[第一冬期作戦]]を実行する。<br /> <br /> ===ポーランドとの連携===<br /> *[[1920年]][[4月21日]]:ウクライナ人民共和国の亡命政府([[ペトリューラ]])がポーランド政府と攻守同盟を完結する。<br /> *[[1920年]][[4月25日]]:[[ポーランド・ソビエト戦争]]開始。ウクライナ軍がポーランド軍に味方する。<br /> *[[1920年]][[5月7日]]:ポーランド・ウクライナの同盟軍がキエフを解放する。<br /> *[[1920年]][[6月14日]]:ソビエト軍がキエフを奪い返す。<br /> *[[1920年]][[8月]]:ソビエト軍が西ウクライナを占領する。<br /> *[[1920年]][[8月15日]]:[[ワルシャワの戦い]]。ソビエト軍の進行が撤退へ交替する。<br /> *[[1920年]][[10月18日]]:ポーランド政府がソビエト政府と和議を結ぶ。ウクライナ軍が独断で戦闘を続け、ウクライナの中部で[[第二冬期作戦]]を実行する。<br /> *[[1920年]][[11月21日]]:ウクライナ軍がポーランド領へ撤退するが、ポーランド政府により[[強制収容所]]へ送られて抑留される。<br /> *[[1921年]][[3月18日]]:ポーランド、ソビエトの両政府が[[ポーランド・ソビエト・リガ平和条約|リガ条約]]を結び、ウクライナが分割される。西ウクライナはポーランド領、中部・東ウクライナはソビエト領となる。<br /> *[[1921年]][[4月]]:ウクライナ人民共和国の亡命政府がポーランドの首都[[ワルシャワ]]を離れて[[フランス]]の[[パリ]]へ移った。<br /> *[[1922年]][[12月30日]]:[[ソ連邦]]結成。[[ウクライナ社会主義ソビエト共和国]]はその一員となる。<br /> <br /> == 参考文献 ==<br /> *{{ja icon}} [[伊東孝之]], 井内敏夫, [[中井和夫]]編 『ポーランド・ウクライナ・バルト史』 (世界各国史; 20)-東京: [[山川出版社]], 1998年. ISBN 9784634415003<br /> *{{ja icon}} 黒川祐次著 『物語ウクライナの歴史 : ヨーロッパ最後の大国』 ([[中公新書]]; 1655)-東京 : [[中央公論]]新社, 2002年. ISBN 4121016556<br /> *{{ja icon}}[[中井和夫]]著 『ウクライナ・ナショナリズム』[[東京大学出版会]]、1998年.<br /> <br /> {{デフォルトソート:うくらいなそひえとせんそう}}<br /> [[Category:ウクライナの戦争|そひえとせんそう]]<br /> [[Category:ウクライナ人民共和国|そひえとせんそう]]<br /> [[Category:ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国]]<br /> [[Category:ウクライナ・ソビエト社会主義共和国]]</div> 153.188.171.24 category:ウクライナの都市 2018-07-12T10:09:08Z <p>153.188.171.24: </p> <hr /> <div>[[ウクライナ]]の[[都市]](Місто)に関するカテゴリ。<br /> <br /> 関連カテゴリ<br /> *[[:Category:ウクライナの州]](Область / [[オーブラスチ]])<br /> *[[:Category:ウクライナの地区]](Район / [[ラヨン]])<br /> *[[:Category:ウクライナの町]](Селище міського типу / [[都市型集落]])<br /> *[[:Category:ウクライナの村]](Село)<br /> <br /> {{commonscat|Cities and villages in Ukraine}}<br /> [[Category:ウクライナの地方行政区分|とし]]<br /> [[Category:各国の都市|うくらいな]]<br /> [[Category:ヨーロッパの都市|うくらいな]]</div> 153.188.171.24 ドネツィク 2018-07-12T09:42:58Z <p>153.188.171.24: </p> <hr /> <div>{{Infobox settlement<br /> |name = Donets&#039;k (Донецьк)&lt;br&gt;Donetsk (Доне́цк)<br /> |image_skyline = Donetsk montage (2015).png<br /> |image_caption = <br /> |image_flag = Flag of Donetsk.svg<br /> |image_shield = Большой_герб_Донецка.png<br /> |shield_size = 110px<br /> |image_map = Donetsk-Ukraine-map.png<br /> |mapsize = 225px<br /> |map_caption = ウクライナでのドネツィクの位置<br /> |image_map1 = Donetsk-Map2DownTown.jpg<br /> |mapsize1 = 225px<br /> |map_caption1 = ドネツィク中心部の地図<br /> |coordinates_display = inline,title<br /> |coordinates_region = UA<br /> |subdivision_type = 国<br /> |subdivision_name = {{flag|Ukraine}}&lt;br/&gt;[[File:Donetsk People&#039;s Republic flag.png|25x20px|border|ドネツク人民共和国の旗]] [[ドネツク人民共和国]]([[デ・ファクト]])<br /> |subdivision_type1 = [[オーブラスチ]]<br /> |subdivision_name1 = [[ドネツィク州]]<br /> |subdivision_type2 = [[ラヨン]]<br /> |subdivision_name2 = [[File:Flag of Donetsk.svg|22px|border]] ドネツィク自治体<br /> |parts_type = ラヨン<br /> |parts_style = list<br /> |parts = 9行政区<br /> |p1 = Budionivskyi Raion<br /> |p2 = Voroshylovskyi Raion<br /> |p3 = Kalininskyi Raion<br /> |p4 = Kyivskyi Raion<br /> |p5 = Kirovskyi Raion<br /> |p6 = Kuibyshevskyi Raion<br /> |p7 = Leninskyi Raion<br /> |p8 = Petrovskyi Raion<br /> |p9 = Proletarskyi Raion<br /> |leader_title = 市長<br /> |leader_name = Oleksandr Lukianchenko<br /> |established_title = 創設<br /> |established_date = 1869{{ref|1}}<br /> |established_title2 = 都市の権利<br /> |established_date2 = 1917<br /> |area_total_km2 = 358<br /> |population_as_of = 1 July 2011<br /> |population_total = 975959<br /> |population_metro = 2,009,700{{ref|2}}<br /> |population_density_km2 = auto<br /> |timezone = EET<br /> |utc_offset = +2<br /> |timezone_DST = EEST<br /> |utc_offset_DST = +3<br /> |latd=48 |latm=00 |lats=10 |latNS=N<br /> |longd=37 |longm=48 |longs=19 |longEW=E<br /> |elevation_m = 169<br /> |postal_code_type = 郵便番号<br /> |postal_code = 83000 — 83497<br /> |area_code = +380 622, 623<br /> |blank_name = ナンバープレート<br /> |blank_info = АН<br /> |blank1_name = <br /> |blank1_info = <br /> |website = <br /> |footnotes = {{note|1}}Donetsk was founded in 1869 as &#039;&#039;Yuzovka&#039;&#039;.&lt;br/&gt;{{note|2}}The population of the metropolitan area is from 2004.<br /> }}<br /> &#039;&#039;&#039;ドネツィク&#039;&#039;&#039; ({{lang-uk|Донецьк}} {{IPA-uk|doˈnɛt͡sʲk}}, ラテン文字表記 &#039;&#039;Donets’k&#039;&#039;; {{Lang-ru|Доне́цк, Donetsk}};&#039;&#039;&#039;ドネツク&#039;&#039;&#039; IPA: [dɐˈnʲet͡sk])は{{仮リンク|カルミウス川|uk|Кальміус|ru|Кальмиус|en|Kalmius}}河畔の[[ウクライナ]]の工業都市である。<br /> <br /> [[1924年]]まではユゾフカ &#039;&#039;&#039;Yuzovka&#039;&#039;&#039;、1924年から[[1961年]]はスターリノ&#039;&#039;&#039;Stalino&#039;&#039;&#039;などの名称だったドネツィクはドネツィク州の行政的な中心で、歴史的に[[ドンバス]]では大きな経済や文化など非公式ながら主都である。<br /> ドネツィクは隣接した他の大きな都市である[[マキイフカ]]や他の周辺部の都市と一緒に地域の大きな都市化したスプロールや[[コナベーション]]を形成している。ドネツィクはウクライナの主要な経済や工業、科学の中心で、企業や熟練した労働力が集中している。<br /> <br /> ドネツィクは[[ウェールズ]]の実業家[[ジョン・ヒューズ (実業家)|ジョン・ヒューズ]]により1869年に創設され、製鉄所やいくつかの炭鉱がこの地域に建設された。街の名称は創建に関わったジョン・ヒューズの役割を認め、ユゾフカ&#039;&#039;&#039;Yuzovka&#039;&#039;&#039; (Юзовка) と名付けられた。(&quot;Yuz&quot;はロシア語やウクライナ語でヒューズに近似。)[[ソビエト連邦|ソ連]]時代、ドネツィクでは製鉄業が拡大した。1924年に街の名称はスタリノ&#039;&#039;Stalino&#039;&#039; (Сталино) の改称され、1932年にはドネツィク地域の中心となった。1961年に街の名称はドネツィクに改称され、今日でもウクライナの炭鉱と重要な製鉄業の中心として残っている。<br /> <br /> ドネツィクの人口は2010年現在で982,000人 &lt;ref name=&quot;donetskstat.gov.ua&quot;&gt;{{cite web |url=http://donetskstat.gov.ua/statinform/chisl_ruh1.php |title=アーカイブされたコピー |accessdate=2010年4月22日 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20090422032814/http://donetskstat.gov.ua/statinform/chisl_ruh1.php |archivedate=2009年4月22日 |deadurldate=2017年9月 }}&lt;/ref&gt;で都市圏の人口は2011年現在で200万人を超える。[[2001年ウクライナ国勢調査]]によればドネツィクはウクライナでは5番目に大きな都市であった&lt;ref name=&quot;ukrcensus1&quot;&gt;{{cite web |url=http://www.ukrcensus.gov.ua/eng/results/general/city/ |title=Results / General results of the census / Number of cities |accessdate=28 August 2006 |work=[[Ukrainian Census (2001)|2001 Ukrainian Census]] |archiveurl=https://web.archive.org/web/20060109012020/http://ukrcensus.gov.ua/eng/results/general/city/ |archivedate=2006年1月9日 |deadurldate=2017年9月 }}&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 街には「100万の薔薇の街」と言う愛称が付いている&lt;ref&gt;{{cite web|url=http://www.adorableland.com/tag/the-city-of-a-million-roses |title=The City of a Million Roses |publisher=AdorableLand |date= |accessdate=2013-03-26}}&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 2014年以降、市内の大半の地域はウクライナ政府の管轄が及んでおらず、[[ドネツク人民共和国]]の支配下に置かれている。<br /> <br /> == 歴史 ==<br /> [[File:Школа детей английской администрации ЮМЗ 004.jpg|thumb|180px|left|ユゾフカ時代に英系の学校として使われていた建物]]<br /> [[File:1887. Новый свет. Базар.jpg|thumb|right|[[1887年]]当時のノヴィ・ソヴェトの通りに面した市場]]<br /> <br /> ドネツィクは[[1869年]]に創設され、[[ウェールズ]]の実業家[[ジョン・ヒューズ (実業家)|ジョン・ヒューズ]]は製鉄所といくつかの炭鉱を[[ロシア帝国]]の南のアレクサンドルフカ&#039;&#039;Aleksandrovka&#039;&#039;({{lang-uk|Олександрівка}})に建設した。街は当初、ユゾフカ(Yuzovka; {{lang-ru|Юзовка}}; {{lang-uk|Юзівка}})&lt;ref&gt;&#039;&#039;Yuz&#039;&#039; is a Russian or Ukrainian approximation of Hughes&lt;/ref&gt; と言う名が与えられていた&lt;ref&gt;&#039;&#039;Yuz&#039;&#039; is a Russian or Ukrainian approximation of Hughes&lt;/ref&gt;。初期には多くの移民をウェールズから受け入れており、特に[[マーサー・ティドビル]]からであった&lt;ref&gt;http://www.telegraph.co.uk/sport/football/competitions/euro-2012/9323465/Euro-2012-Donetsks-roots-have-more-in-common-with-Merthyr-Tydfil-than-Moscow.html&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 20世紀初め、ユゾフカの人口は約5万人で人口の大部分は近隣のロシア領からで、1917年には都市の地位に達した&lt;ref name=&quot;lukianchenko&quot;&gt;{{cite web |url=http://lukyanchenko.dn.ua/today/view.php?cat=7&amp;subcat=7&amp;type=1 |title=From the history of the city |accessdate=7 May 2007 |work=Head of Donetsk City |language=Russian |archiveurl=https://web.archive.org/web/20070127190501/http://lukyanchenko.dn.ua/today/view.php?cat=7&amp;subcat=7&amp;type=1 |archivedate=2007年1月27日 |deadurldate=2017年9月 }}&lt;/ref&gt;。主要な地区であるハイゲルゾフカ&quot;Hughezovka&quot; は英国コロニーと名付けられ、イギリスの起源は街並や建築物に反映されている。<br /> <br /> [[File:Flag of Donetsk Republic.svg|thumb|150px|right| [[ドネツク=クリヴォーイ・ローク・ソビエト共和国]]の国旗として使われていた旗。ドネツィクの親ロシア派分離主義者のシンボルとなっている。&lt;ref&gt;{{cite news|url=http://www.bbc.com/news/blogs-magazine-monitor-26465465|title=Ukraine crisis: What do the flags mean?|publisher=BBC News|date=2014-03-06|accessdate=2014-03-06}}&lt;/ref&gt;]]<br /> <br /> [[ロシア内戦]]が1918年2月12日に勃発するとユゾフカは[[ドネツク=クリヴォーイ・ローク・ソビエト共和国]]の一部となった。共和国は1918年3月20日に第2全ウクライナ議会でソビエト・ウクライナの独立が発表されると解体された。これは国際的にも[[ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国|ソ連]]にも認知を得ることが出来ず、[[ブレスト=リトフスク条約]]に応じて廃止された。<br /> 1924年にソ連の支配下になると街の名称はスターリンに改称された。当時の街の人口は 63,708人で翌年には80,085人となった。1929-31年には街の名称はスタリノ&#039;&#039;Stalino&#039;&#039;であった&lt;ref name=&quot;alldonetsk.info&quot;&gt;http://alldonetsk.info/en/history-city-donetsk The history of the city of Donetsk&lt;/ref&gt;。55.3 kmのシステムが敷設される1931年まで水道設備(飲み水用)は街にはなかった。<br /> <br /> 1933年7月には[[ウクライナ・ソビエト社会主義共和国]]の[[ドネツィク州]]の行政の中心都市となった&lt;ref name=&quot;lukianchenko&quot;/&gt;。1933年に最初の {{convert|12|km|0|abbr=on}} の下水道施設が導入され、翌年には市内では最初のガス開発が行われた。<br /> <br /> [[File:MonumentLenkom.JPG|130px|thumb|left|独ソ戦でナチスからドンバスを懸命に兵士が解放した。ドンバスの解放者のモニュメント。]]<br /> <br /> 第二次世界大戦の初め頃のスタリノの人口は507,000人で戦後は175,000人であった。第二次世界大戦中の[[ナチス・ドイツ]]の[[バルバロッサ作戦]]で街は完全に破壊され、大部分は戦後に再建された。ナチスは1941年10月16日から1943年9月5日まで街を占領していた。イタリアもスタリノの占領に参加していた。<br /> <br /> ナチス・ドイツが占領していた当時のドネツィクの領域は主に[[ユダヤ人]][[ゲットー]]{{enlink|Ghettos in Nazi-occupied Europe|a=on}}が構成され、3,000人のユダヤ人が死亡し[[強制収容所 (ナチス)|強制収容所]]では92,000人の人たちが殺された&lt;ref name=&quot;Was there a ghetto in Donetsk&quot;/&gt;。戦時中は連帯責任制度が適用されていた。<br /> 1945年には多くの17-35歳の若い男性や女性の強制労働者が{{仮リンク|ドナウ・シュヴァーベン人|en|Danube Swabians}}の[[ユーゴスラビア]]や[[ハンガリー]]、[[ルーマニア]]([[バチュカ]]や[[バナト]])のコミュニティから賠償強制労働として抑留され、極度の困難な中、スタリーノの再建や鉱山労働で働かされた。その多くは病気や栄養失調で死亡している&lt;ref&gt;{{cite web|url=http://www.hog-kernei.de/PDF/Internierung%20und%20Vertreibung.pdf |title=Das politische Bewusstsein |format=PDF |date= |accessdate=2013-03-26}}&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> [[ファイル:Donetsk in 1979 (03).jpg|thumb|ソ連時代のドネツィク(1979年)]]<br /> <br /> [[ニキータ・フルシチョフ]]の第二の[[非スターリン化]]の波で、元の指導者であった[[ヨシフ・スターリン]]と距離を置くため1961年11月に街の名称は[[ドン川]]の支流である[[ドネツ川]]にちなみ現在のドネツィクに改称された&lt;ref name=&quot;lukianchenko&quot;/&gt;。<br /> 1965年には[[ウクライナ国立学士院]]の組織の一部であるドネツィク科学アカデミーが設立された。<br /> <br /> 企業を支配するギャング戦争の中心であった1990年代の困難な時代を経験した後、ドネツィクは主に大企業の影響を受けて近年では急速に近代化した。<br /> <br /> [[2004年ウクライナ大統領選挙]]で、ドネツィクでは大部分が{{仮リンク|ウクライナ中央選挙委員会|en|Central Election Commission of Ukraine}}が勝者として発表していた[[ヴィクトル・ヤヌコーヴィチ]]候補に投票していたが、この投票結果は後に裁判により無効とされた。これにより再び選挙が行われ、ヤヌコーヴィッチは決選投票で落選する。<br /> <br /> === 2014年の出来事 ===<br /> {{See also|2014年ウクライナ内戦}}<br /> [[File:2014-03-01. Митинг в Донецке 0155.jpg|200px|thumb|left|ドネツィクのユーロマイダンに対して行政庁舎前に立つ人々(2014年1月)]]<br /> [[ファイル:Ruins of Donetsk International airport (16).jpg|thumb|240px|戦闘により荒廃した[[ドネツィク国際空港|ドネツィク空港]](2014年12月)]]<br /> <br /> [[ユーロマイダン]]後と[[クリミア]]の将来に関する{{仮リンク|クリミア議会|en|Supreme Council of Crimea}}の[[2014年クリミア住民投票]]の発表の影響を受け、[[ドネツィク州]]の州議会は州の将来を決定する為に住民投票を行うことを可決した&lt;ref&gt;{{cite web|url=http://gazeta.ua/ru/articles/politics/_doneckij-oblsovet-progolosoval-za-referendum/545215 |title=Донецкий облсовет проголосовал за референдум |publisher=Gazeta.ua |date= |accessdate=2014-03-03}}&lt;/ref&gt;。2014年3月3日には多くの人々がドネツィク州の行政庁舎に押し入りロシアの国旗がはためき、「ロシア!」や「{{仮リンク|ベルクト (特殊部隊)|label=ベルクト|en|Berkut (special police force)}}は英雄!」と叫んだ。警察は反撃しなかった&lt;ref&gt;{{cite web|url=http://gazeta.ua/ru/articles/politics/_v-donecke-neskolko-soten-radikalov-s-krikami-rossiya-shturmuyut-oga/545225 |title=В Донецке несколько сотен радикалов с криками &quot;Россия&quot; штурмуют ОГА |publisher=Gazeta.ua |date= |accessdate=2014-03-03}}&lt;/ref&gt; 。週の後半にドネツィクの当局は地域の地位に関する住民投票を非難し&lt;ref&gt;http://novosti.dn.ua/details/219796/&lt;/ref&gt; 、警察はドネツィク州庁舎を取り戻した&lt;ref&gt;[http://www.reuters.com/article/2014/03/06/us-ukraine-crisis-donetsk-idUSBREA250CW20140306 Ukrainian flag again flies over Donetsk regional HQ], [[Reuters]] (Mar 6, 2014)&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;[http://www.nytimes.com/2014/03/08/world/europe/ukrainian-officials-in-east-move-to-blunt-pro-russia-forces.html?hpw&amp;rref=world&amp;_r=0 Ukrainian Officials in East Act to Blunt Pro-Russian Forces], [[The New York Times]] (MARCH 7, 2014)&lt;/ref&gt; 。ドネツィクは{{仮リンク|2014年ウクライナ親ロシア派武力衝突|en|2014 pro-Russian conflict in Ukraine}}の中心の1つとなった。<br /> <br /> 2014年4月7日、親ロシア派の活動家がドネツィクの行政庁舎を制圧し、[[ドネツク人民共和国]]を宣言し&lt;ref&gt;{{Cite video|title=Russian Roulette: The Invasion of Ukraine (Dispatch Twenty Three) |date=Apr 11, 2014 |publisher=VICE News |url=https://www.youtube.com/watch?v=FpdCvuf-ZOk }}&lt;/ref&gt;、ロシアの介入を要請した&lt;ref&gt;{{cite web | url=http://www.thehindu.com/news/international/world/donetsk-proclaims-independence-from-ukraine/article5883598.ece | title=Donetsk proclaims independence from Ukraine | work=[[The Hindu]] | date=7 April 2014 | accessdate=7 April 2014 | author=Radyuhin, Vladimir}}&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 2014年5月11日に{{仮リンク|2014年ドネツィク・ルハンスク地位住民投票|en|Donetsk status referendum, 2014}}がドネツィクで行われ、投票者は政治的な独立を選択した。それはドネツィク地域で投票した90%以上の人たちがキエフからの政治的な独立を支持したと自称ドネツィク人民共和国選挙委員会の長であるロマン・リアキン&#039;&#039; Roman Lyagin&#039;&#039;が述べた。ウクライナはこの住民投票を認めず、アメリカや欧州連合も住民投票は違法と述べた&lt;ref&gt;{{Cite web|url = http://www.bbc.com/news/world-europe-27369500|title = Ukraine crisis: Eastern rebels claim &#039;self-rule&#039; poll victory|date = 12 May 2014|accessdate = 12 May 2014|website = BBC News|publisher = |last = |first = }}&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 6月の[[ペトロ・ポロシェンコ|ポロシェンコ]]政権の成立以後、奪還を目指す政府軍と親ロシア派との間で激しい戦闘が勃発。政府軍は一時[[ドネツィク国際空港|ドネツィク空港]]を制圧し市街に迫るもその後押し返され、[[2015年]]2月の停戦時点ではドネツィクは親ロシア派の勢力圏にある。&lt;ref&gt;{{Cite web|url=http://www.bbc.com/news/world-europe-27308526|title=Ukraine crisis in maps|publisher=[[BBC]]|language=英語|date=2015-02-18|accessdate=2015-05-17}}&lt;/ref&gt;<br /> <br /> == 地理 ==<br /> === 地勢 ===<br /> [[File:Kalmius 01.jpg|thumb|カリミウス近くのボタ山]]<br /> ドネツィクはウクライナの[[ステップ (植生)|ステップ]]の景色にあり、周辺には森林や丘陵地([[ボタ山]])、河川や湖が広がる。北郊は主に農業に利用されている。{{仮リンク|カルミウス川|en|Kalmius}}は街と[[アゾフ海]]を結んでいる。アゾフ海は南に {{convert|95|km|0|abbr=on}}離れた場所にあり、ドネツィク市民にとってはポピュラーな行楽地である。街の周辺には広大な農業地帯が広がる。<br /> 都市は南北 に{{convert|28|km|0|abbr=on}}、東西に{{convert|55|km|0|abbr=on}} に広がる。<br /> <br /> 近隣にはナイズネカルミウス&#039;&#039;Nyzhnekalmius&#039;&#039;とドネツティク湖(206ha)の貯水池があり、市内にはカルミス川を含めてアスモリフカ川&#039;&#039;Asmolivka &#039;&#039;、チェルパシュキナ川&#039;&#039;Cherepashkyna&#039;&#039;(23km)、スコモロシュカ川&#039;&#039;Skomoroshka&#039;&#039;、バクフムトカ川&#039;&#039; Bakhmutka&#039;&#039;の5つの河川が流れている。また市内には125のボタ山がある&lt;ref name=&quot;Was there a ghetto in Donetsk&quot;&gt;{{cite web |url=http://www.gorod.donbass.com/archive/html/1941252001.htm |title=Was there a ghetto in Donetsk? |accessdate=7 May 2007 |work=Newspaper &quot;Gorod&quot; |language=Russian |archiveurl=https://web.archive.org/web/20070903070923/http://www.gorod.donbass.com/archive/html/1941252001.htm |archivedate=2007年9月3日 |deadurldate=2017年9月 }}&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> === 気候 ===<br /> ドネツィクの気候は穏やかな[[大陸性気候]]&lt;ref name=&quot;rospogoda.ru&quot;&gt;{{cite web |url=http://www.rospogoda.ru/city3_48.html |title=Weather in Donetsk |accessdate=5 May 2007 |work=rospogoda.ru |language=Russian |archiveurl=https://web.archive.org/web/20070430133346/http://www.rospogoda.ru/city3_48.html |archivedate=2007年4月30日 |deadurldate=2017年9月 }}&lt;/ref&gt; で、[[ケッペンの気候区分]]では[[湿潤大陸性気候]](Dfb)に含まれる。平均気温は1月が-4.1℃、7月が21.6℃である。年間の降水日は162日で、年間降水量は556mmである&lt;ref name=&quot;rospogoda.ru&quot;/&gt;。<br /> <br /> {{Weather box|location = ドネツィク 1981–2010<br /> |metric first = Yes<br /> |single line = Yes<br /> | Jan record high C = 12.2<br /> | Feb record high C = 16.0<br /> | Mar record high C = 21.3<br /> | Apr record high C = 31.0<br /> | May record high C = 34.6<br /> | Jun record high C = 38.0<br /> | Jul record high C = 37.8<br /> | Aug record high C = 39.1<br /> | Sep record high C = 33.9<br /> | Oct record high C = 32.7<br /> | Nov record high C = 20.5<br /> | Dec record high C = 15.0<br /> |year record high C = 39.1<br /> | Jan high C = -1.3<br /> | Feb high C = -0.9<br /> | Mar high C = 5.3<br /> | Apr high C = 14.5<br /> | May high C = 20.9<br /> | Jun high C = 24.8<br /> | Jul high C = 27.3<br /> | Aug high C = 26.8<br /> | Sep high C = 20.7<br /> | Oct high C = 13.1<br /> | Nov high C = 4.7<br /> | Dec high C = -0.3<br /> |year high C = 13.0<br /> | Jan mean C = -4.1<br /> | Feb mean C = -4.1<br /> | Mar mean C = 1.3<br /> | Apr mean C = 9.4<br /> | May mean C = 15.4<br /> | Jun mean C = 19.3<br /> | Jul mean C = 21.6<br /> | Aug mean C = 20.8<br /> | Sep mean C = 15.1<br /> | Oct mean C = 8.5<br /> | Nov mean C = 1.6<br /> | Dec mean C = -2.9<br /> |year mean C = 8.5<br /> | Jan low C = -6.7<br /> | Feb low C = -7.0<br /> | Mar low C = -2.1<br /> | Apr low C = 4.6<br /> | May low C = 10.0<br /> | Jun low C = 13.8<br /> | Jul low C = 15.9<br /> | Aug low C = 15.0<br /> | Sep low C = 10.0<br /> | Oct low C = 4.5<br /> | Nov low C = -1.1<br /> | Dec low C = -5.4<br /> |year low C = 4.3<br /> | Jan record low C = -32.2<br /> | Feb record low C = -31.1<br /> | Mar record low C = -21.0<br /> | Apr record low C = -10.6<br /> | May record low C = -2.4<br /> | Jun record low C = 2.1<br /> | Jul record low C = 6.0<br /> | Aug record low C = 2.2<br /> | Sep record low C = -6.0<br /> | Oct record low C = -10.0<br /> | Nov record low C = -22.2<br /> | Dec record low C = -28.5<br /> |year record low C = -32.2<br /> | precipitation colour = green<br /> | Jan precipitation mm = 37<br /> | Feb precipitation mm = 32<br /> | Mar precipitation mm = 34<br /> | Apr precipitation mm = 38<br /> | May precipitation mm = 46<br /> | Jun precipitation mm = 65<br /> | Jul precipitation mm = 51<br /> | Aug precipitation mm = 37<br /> | Sep precipitation mm = 36<br /> | Oct precipitation mm = 37<br /> | Nov precipitation mm = 38<br /> | Dec precipitation mm = 41<br /> |year precipitation mm = 492<br /> | Jan humidity = 87<br /> | Feb humidity = 84<br /> | Mar humidity = 77<br /> | Apr humidity = 66<br /> | May humidity = 62<br /> | Jun humidity = 66<br /> | Jul humidity = 64<br /> | Aug humidity = 60<br /> | Sep humidity = 67<br /> | Oct humidity = 76<br /> | Nov humidity = 86<br /> | Dec humidity = 88<br /> |year humidity = 73<br /> | Jan rain days = 11<br /> | Feb rain days = 8<br /> | Mar rain days = 10<br /> | Apr rain days = 13<br /> | May rain days = 13<br /> | Jun rain days = 14<br /> | Jul rain days = 11<br /> | Aug rain days = 8<br /> | Sep rain days = 11<br /> | Oct rain days = 11<br /> | Nov rain days = 13<br /> | Dec rain days = 11<br /> |year rain days = 134<br /> | Jan snow days = 17<br /> | Feb snow days = 17<br /> | Mar snow days = 10<br /> | Apr snow days = 2<br /> | May snow days = 0<br /> | Jun snow days = 0<br /> | Jul snow days = 0<br /> | Aug snow days = 0<br /> | Sep snow days = 0<br /> | Oct snow days = 2<br /> | Nov snow days = 8<br /> | Dec snow days = 16<br /> |year snow days = 72 <br /> |source 1 = Pogoda.ru.net&lt;ref name=&quot;pogoda&quot;&gt;{{cite web<br /> |url = http://pogoda.ru.net/climate/34519.htm | title = Pogoda.ru.net| accessdate =4 October 2012<br /> |publisher = Weather and Climate| language = Russian|date=May 2011}}&lt;/ref&gt;<br /> |date=April 2012}}<br /> <br /> == 行政 ==<br /> [[File:Raions of Donetsk and Donetsk City Municipality.PNG|thumb|right|250px|ドネツィク市の行政区:<br /> {| style=&quot;width:100%;&quot;<br /> |valign=&quot;top&quot;| {{legend|#FFFF00|Bydionivskyi Raion}}{{legend|#00FFFF|Voroshylovskyi Raion}}{{legend|#FF00CC|Kalininskyi Raion}}{{legend|#34CE00|Kyivskyi Raion}}{{legend|#0032FF|Kirovskyi Raion}}<br /> |valign=&quot;top&quot;|{{legend|#FF0034|Kuibyshevskyi Raion}}{{legend|#FF9A00|Leninskyi Raion}}{{legend|#CC00FF|Petrovskyi Raion}}{{legend|#9CFF34|Proletarskyi Raion}}<br /> |}]]<br /> <br /> ドネツィクはドネツィク州の州都であり、ドネツィク市自治体の中心である。ドネツィクは州の下位の都市で市自体にあるドネツィク市自治体より直接的に州の影響を受ける。ドネツィク市域は9の行政区([[ラヨン]])に分けられている。それに加えて、それぞれのラヨンにはドネツィク市議会の下位の「地区議会」がある。<br /> <br /> {| style=&quot;background:none;&quot; cellspacing=&quot;2px&quot;<br /> |<br /> {| class=&quot;sortable wikitable&quot; style=&quot;text-align:left; font-size:90%&quot;<br /> |- style=&quot;font-size:100%; text-align:left&quot;<br /> ! style=&quot;width:25px;&quot;|# !! style=&quot;width:120px;&quot;| [[ラヨン]] !! style=&quot;width:120px;&quot;| [[ウクライナ語]] !! style=&quot;width:60px;&quot;| 面積 !! style=&quot;width:80px;&quot;| 人口<br /> |-<br /> |1 || Budionivskyi Raion || {{lang|uk|Будьонівський район}} || style=&quot;text-align:right&quot;|25&amp;nbsp;km²|| style=&quot;text-align:right&quot;|100,300<br /> |-<br /> |2 ||Voroshylovskyi Raion || {{lang|uk|Ворошилівський район}} || style=&quot;text-align:right&quot;|10&amp;nbsp;km²|| style=&quot;text-align:right&quot;|97,300<br /> |-<br /> |3 ||Kalininskyi Raion || {{lang|uk|Калінінський район}} ||style=&quot;text-align:right&quot;|19&amp;nbsp;km²|| style=&quot;text-align:right&quot;|109,700<br /> |-<br /> |4 ||Kyivskyi Raion || {{lang|uk|Київський район}} || style=&quot;text-align:right&quot;|33&amp;nbsp;km²|| style=&quot;text-align:right&quot;|143,700<br /> |-<br /> |5 ||Kirovskyi Raion || {{lang|uk|Кіровський район}} || style=&quot;text-align:right&quot;|68&amp;nbsp;km²|| style=&quot;text-align:right&quot;|171,700<br /> |-<br /> |6 ||Kuibyshevskyi Raion || {{lang|uk|Куйбишевський район}} || style=&quot;text-align:right&quot;|51&amp;nbsp;km²|| style=&quot;text-align:right&quot;|120,800<br /> |-<br /> |7 ||Leninskyi Raion || {{lang|uk|Ленінський район}} || style=&quot;text-align:right&quot;|37&amp;nbsp;km²|| style=&quot;text-align:right&quot;|107,800<br /> |-<br /> |8 ||Petrovskyi Raion || {{lang|uk|Петровський район}} || style=&quot;text-align:right&quot;|57&amp;nbsp;km²|| style=&quot;text-align:right&quot;|88,600<br /> |-<br /> |9 ||Proletarskyi Raion || {{lang|uk|Пролетарський район}} || style=&quot;text-align:right&quot;|58&amp;nbsp;km²|| style=&quot;text-align:right&quot;|102,800<br /> |}<br /> |}<br /> <br /> === 都市 ===<br /> * {{仮リンク|ホルリフカ|ru|Горловка}}<br /> <br /> <br /> == 人口動態 ==<br /> {{Historical populations<br /> |1897&lt;ref&gt;Statistics from the first All-[[Russian Empire Census]], conducted on {{OldStyleDate|28 January|1897|15 15 January}}&lt;/ref&gt;|28100<br /> |1926&lt;ref&gt;Statistics from the [[First All Union Census of the Soviet Union]], conducted on 17 December 1926.&lt;/ref&gt;|106000<br /> |1939&lt;ref&gt;Statistics are from the All Union Census of the Soviet Union, conducted on 17 January 1939.&lt;/ref&gt;|466300<br /> |1959&lt;ref&gt;Statistics are from the All Union Census of the Soviet Union, conducted on 15 January 1959.&lt;/ref&gt;|699200<br /> |1970&lt;ref&gt;Statistics are from the All Union Census of the Soviet Union, conducted on 15 January 1970.&lt;/ref&gt;|879000<br /> |1979&lt;ref&gt;Statistics are from the All Union Census of the Soviet Union, conducted on 17 January 1979.&lt;/ref&gt;|1020800<br /> |1989&lt;ref&gt;Statistics are from the All Union Census of the Soviet Union, conducted on 12 January 1989.&lt;/ref&gt;|1109100<br /> |1998&lt;ref&gt;Statistics are from the [[State Statistics Committee of Ukraine]], conducted on 1 January 1998.&lt;/ref&gt;|1065400<br /> |2006&lt;ref&gt;Statistics are from the [[State Statistics Committee of Ukraine]], conducted on 1 January 2006.&lt;/ref&gt;|993500<br /> }}<br /> ドネツィクの2010年現在の人口は982,000人を超え&lt;ref name=&quot;donetskstat.gov.ua&quot;/&gt;、都市圏の人口は2014年時点で1,566,000人である。ウクライナでは5番目に大きな都市である&lt;ref name=&quot;ukrcensus1&quot;/&gt;。2001年の国勢調査によればドネツィク地域には130を超える民族グループが居住している&lt;ref name=DonetskRegion2001EthicGroup&gt;[http://2001.ukrcensus.gov.ua/rus/results/general/nationality/donetsk/ 2001 Ukrainian Census], &#039;&#039;Численность и состав населения Донецкой области по итогам Всеукраинской переписи населения 2001 года [The size and composition of the population on the basis of the Donetsk region in the 2001 Census]&#039;&#039;.&lt;/ref&gt;。ドネツィク州の人口の56.9%(2,744,100人)はウクライナ人、38.2%(1,844,400人)はロシア人が占めている&lt;ref name=DonetskRegion2001EthicGroup/&gt;。地域の言語は人口の74.9%はロシア語を母語とし、ウクライナ語は24.1%を占める&lt;ref name=DonetskRegion2001Language/&gt;。58.7%のウクライナ人の人々はロシア語を母語としていると考えられる&lt;ref name=DonetskRegion2001Language&gt;[http://2001.ukrcensus.gov.ua/rus/results/general/language/donetsk/ 2001 Ukrainian Census], &#039;&#039;Численность и состав населения Донецкой области по итогам Всеукраинской переписи населения 2001 года, Языковой состав населения Донецкой области, по данным Всеукраинской переписи населения [The size and composition of the population on the basis of the Donetsk region in the 2001 Census, Linguistic composition of the population of the Donetsk region, according to the Census]&#039;&#039;&lt;/ref&gt;。ドネツィク地域の450万人のうち550人はロシアの市民である&lt;ref&gt;Financial Times, &#039;&#039;Donetsk governor battles to restore order&#039;&#039;, by John Reed, 26/27 April 2014, p5.&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> ドネツィク市自治体の現在の民族構成は以下の通り&lt;ref&gt;{{cite web |url=http://donetskstat.gov.ua/census/census.php?ncp=11&amp;ncp1=6 |title=Ukrainian Census (Donetsk Oblast) |accessdate=5 May 2007 |work=Head of the Donetsk Oblast Statistics |language=Ukrainian |archiveurl=https://www.webcitation.org/6CURge2tu?url=http://donetskstat.gov.ua/census/census.php?ncp=11 |archivedate=2012年11月27日 |deadurldate=2017年9月 }}&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> {{colbegin|2}}<br /> # [[ロシア人]]: 493,392 人, 48.15%<br /> # [[ウクライナ人]]: 478,041 人, 46.65%<br /> # [[ベラルーシ人]]: 11,769 人, 1.15%<br /> # [[ギリシャ人]]: 10,180 人, 0.99%<br /> # [[ユダヤ人]]s: 5,087 人, 0.50%<br /> # [[タタール人]]: 4,987 人, 0.49%<br /> # [[アルメニア人]]: 4,050 人, 0.40%<br /> # [[アゼルバイジャン人]]: 2,098 人, 0.20%<br /> # [[グルジア人]]: 2,073 人, 0.20%<br /> # その他: 13,001人, 1.27%<br /> {{colend}}<br /> :&#039;&#039;&#039;合計&#039;&#039;&#039;: 1,024,678 人, 100.00%<br /> <br /> 1991年には3分の1はロシア人、同じく3分の1はウクライナ人と明言し、残りの多数は自身を[[スラヴ人]]と明言していた&lt;ref name=school1991&gt;[http://books.google.com/books?id=HCZi--UtYdEC&amp;pg=PA216&amp;dq=%22Little+Russia%22+insulting&amp;hl=nl&amp;ei=4HrFTZCuJ4qBOsfUvaII&amp;sa=X&amp;oi=book_result&amp;ct=result&amp;resnum=2&amp;ved=0CDcQ6AEwATgK#v=onepage&amp;q=1804&amp;f=false Eternal Russia:Yeltsin, Gorbachev, and the Mirage of Democracy] by [[Jonathan Steele]], [[Harvard University Press]], 1988, ISBN 978-0-674-26837-1 (p. 218)&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> == 経済 ==<br /> {{update|section=1|date=June 2012}}<br /> <br /> [[ファイル:Вид с террикона возле ДМЗ 025.jpg|thumb|left|ドネツィクの街並み(2010年)]]<br /> [[File:Zasyadko Coal Mine1.JPG|thumb|ザスヤヅコ鉱山。2007年に大規模な事故を起こしている]]<br /> <br /> ドネツィク周辺はかなり都会化した人口が集中するコナベーションである。労働力は大きく[[重工業]]に関わっておりとくに{{仮リンク|石炭鉱業|en|coal mining}}は著しい。ドネツィクは[[ドンバス]]とウクライナの重工業や炭鉱の重要な中心である。直接的に炭鉱が都市にあり、最近では[[鉱山事故]]が増えて来ており、2007年に発生した[[2007年ザシャチコ炭鉱爆発事故|2007年ザスヤヅコ鉱山事故]]では100人の労働者が死亡している&lt;ref&gt;{{cite news|title=Another victim of Ukraine mine blast dies in hospital|url=http://en.rian.ru/world/20071130/90191552.html|work=[[RIA Novosti]]|date=30 November 2007|accessdate=2007-12-01}}&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> ドネツィクの経済は200の産業組織で構成され、合計の製品生産額は年間500億[[フリヴニャ]]を超え20,000を超える中小企業がある&lt;ref name=&quot;Donetsk&quot;&gt;{{lukyanchenko.dn.ua|language=Russian}}&lt;/ref&gt;。市内の石炭鉱業は17の炭鉱と2つの選鉱所があり、冶金産業は5つの冶金工場が市内にはある。エンジニアリング関連は67企業、食品関連は32企業ある&lt;ref name=&quot;Donetsk&quot;/&gt;。<br /> <br /> [[ソ連崩壊]]によってドネツィクや他の近隣のドンバスの都市では多数の工場が閉鎖されたり、多くの人々が仕事を失った&lt;ref&gt;{{cite book | title=Ukraine: A History | author=Subtelny, Orest | publisher=[[University of Toronto Press]] | year=2000 | isbn=0-8020-8390-0 | page=613 | authorlink=Orest Subtelny}}&lt;/ref&gt;。しかしながら、厳しい{{仮リンク|ウクライナの経済|en|Economy of Ukraine}}状況に関わらず、ドネツィクは発展した都市である&lt;ref name=&quot;Donetsk&quot;/&gt; 約412,000m2の生活空間、 {{convert|7.9|km|1|abbr=on}}のガス網、{{convert|15.1|km|1|abbr=on}}の水道網が1998-2001年に整備された&lt;ref name=&quot;Donetsk&quot;/&gt;。<br /> <br /> 市内にはまたドネツィク[[経済特区]]{{enlink|special economic zone|a=on}}があり&lt;ref name=&quot;356-14&quot;&gt;{{cite web|url=http://zakon1.rada.gov.ua/cgi-bin/laws/main.cgi?nreg=356-14|title=Special Economic Zones and Special Regime of Investment Activities in Donetsk Oblast|work=Order of Verhovna Rada|date=14 January 1999 |language=Ukrainian|accessdate=不明}}&lt;/ref&gt;、2007年現在9つの都市と[[姉妹都市]]の関係がある&lt;ref&gt;{{cite web |url=http://lukyanchenko.donetsk.ua/today/view.php?cat=7&amp;subcat=16&amp;type=1 |title=Sister cities of Donetsk |work=Head of Donetsk City |language=Russian |archiveurl=https://web.archive.org/web/20070630191841/http://lukyanchenko.donetsk.ua/today/view.php?cat=7&amp;subcat=16&amp;type=1 |archivedate=2007年6月30日 |accessdate=不明 |deadurldate=2017年9月 }}&lt;/ref&gt;。<br /> 1962-1996年にはドイツの[[マグデブルク]]とドネツィクは経済協力を結んでいた&lt;ref&gt;[http://www.seniorbook.de/themen/kategorie/reisen-und-abenteuer/artikel/17092/meine-reise-nach-donetsk-i-die-unbekannte-ukrainische-metropole &#039;&#039;Meine Reise nach Donetsk I: Die unbekannte ukrainische Metropole&#039;&#039;, seniorbook.de 05.11.2013.]&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;[http://books.google.de/books?id=BfgiAQAAMAAJ&amp;q The Daily Review, Volume 13, Michigan 1967.]&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 航空会社のドンバスアエロは本社を[[ドネツィク国際空港]]の敷地に置いている&lt;ref&gt;&quot;[http://www.donbass.aero/m1/en/contact/index Contacts] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20110531151527/http://www.donbass.aero/m1/en/contact/index |date=2011年5月31日 }}.&quot; [[Donbassaero]]. Retrieved on 27 April 2011. &quot;Headquarter The headquarter of our company is located at international airport “Donetsk”. Address: DONBASSAERO, 1«V», Vzlyotnaya str., Donetsk, 83021, Ukraine&quot;.&lt;/ref&gt;。<br /> 2012年に[[フォーブス]]ではウクライナでビジネスを行うために最高の都市と認められた。また、[[ヒューマン・キャピタル]]や[[購買力]]、インフラ、{{仮リンク|経済安定|en|economic stability}}、快適性の指標で高い位置にあった&lt;ref&gt;{{cite web |url=http://yellowpage.in.ua/en/archives/45318 |title=Forbes admitted Donetsk best city for business in Ukraine &amp;#124; Ukraine News |publisher=Yellowpage.in.ua |date=1 June 2012 |accessdate=2013-03-26 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20150415144059/http://yellowpage.in.ua/en/archives/45318 |archivedate=2015年4月15日 |deadurldate=2017年9月 }}&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> ドネツィクにはショッピングセンターの{{仮リンク|ドネツィクシティ|en|Donetsk City}}がある。<br /> <br /> == スポーツ ==<br /> ドネツィクは大きなスポーツの中心でインフラも発達しており、デビスカップやUEFAチャンピオンリーグなど国際的な大会も繰り返し開催されている。サッカーやホッケー、バスケットボール、ボクシング、テニス、陸上競技など様々なスポーツで国をリードし、代表する都市である。<br /> <br /> ドネツィクで最もポピュラーなスポーツはサッカーで、3つのメジャーなプロサッカークラブチームがある。[[FCシャフタール・ドネツク]]は[[ドンバス・アリーナ]]を、[[FCメタルルフ・ドネツィク]]は{{仮リンク|メタルフスタジアム|en|Metalurh Stadium (Donetsk)}}を、[[FCオリンピク・ドネツィク]]は{{仮リンク|RSCオリンピスキー|en|RSC Olimpiyskiy}}をそれぞれホームスタジアムとしている。この3つのクラブチームはウクライナのプロリーグの最上位[[ウクライナ・プレミア・ディビジョン]]に参加しており、FCシャフタール・ドネツクはウクライナチャンピオンシップ、ウクライナカップでは複数回優勝しており、2008-2009年のシーズンには[[UEFAヨーロッパリーグ]]で優勝している。ドネツィクにはまた[[女子サッカー]]の{{仮リンク|WFCドンチャンカ|en|WFC Donchanka}}があり、{{仮リンク|ウクライナ女子サッカーリーグ|en|Ukrainian Women&#039;s League}}では歴史的に最も成功したクラブチームの1つである。<br /> <br /> [[File:Ultras in the Donbas Arena, 2009.JPG|thumb|ドンバスアリーナのシャクタール・ドネツィクのファン]]<br /> <br /> ドネツィクにはサッカースタジアムの[[ドンバス・アリーナ]]があり、このスタジアムは2009年にオープンした。東ヨーロッパでは初めてUEFAの基準で&quot;Elite&quot;カテゴリーで設計、建築されたスタジアムである。[[UEFA EURO 2012]]の共同招致でポーランドとウクライナは招致に成功し、ドネツィクのドンバスアリーナは{{仮リンク|UEFA Euro 2012グループD|en|UEFA Euro 2012 Group D}}の3試合と準々決勝、準決勝の会場として選ばれている&lt;ref&gt;{{cite web |url=http://www2.e2012.org/en/7_1110.html#Donetsk |title=Stadiums / Donetsk |accessdate=7 May 2007 |work=[[UEFA Euro 2012]] |archiveurl=https://web.archive.org/web/20070503223011/http://www2.e2012.org/en/7_1110.html#Donetsk |archivedate=2007年5月3日 |deadurldate=2017年9月 }}&lt;/ref&gt; 。<br /> {{仮リンク|RSCオリンピスキー|en|RSC Olimpiyskiy}}は予備のスタジアムとして選ばれた&lt;ref&gt;{{cite web |url=http://www2.e2012.org/en/7_1110.html |title=Stadiums / Introduction |accessdate=7 May 2007 |work=[[UEFA Euro 2012]] |archiveurl=https://web.archive.org/web/20070503223011/http://www2.e2012.org/en/7_1110.html |archivedate=2007年5月3日 |deadurldate=2017年9月 }}&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> ドネツィクは近くの都市[[マリウポリ]]と共に{{仮リンク|2009 UEFAヨーロピアンアンダー19チャンピオンシップ|en|2009 UEFA European Under-19 Championship}}の共催都市であった。ドネツィクでの開催ではRSCオリンピスキーとメタルフスタジアムが使われた。<br /> <br /> ドネツィクには[[アイスホッケー]]のクラブチームである{{仮リンク|HCドンバス|en|HC Donbass}}が2011年以来、{{仮リンク|ドラズバアリーナ|en|Druzhba Arena}}でプレーをし、2011年には{{仮リンク|ウクライナホッケー選手権|en|Ukrainian Hockey Championship}}で優勝し、ウクライナでは唯一エリートレベルのクラブチームである。{{仮リンク|ロシアアイスホッケーメジャーリーグ|en|Vysshaya Liga (ice hockey)}}に1シーズン参加した後、クラブは[[KHL]]の規定にアリーナを改良して2012年のシーズンからリーグに参加している。2013年にはドネツィクで{{仮リンク|IIHFコンチネンタルカップ2013|en|IIHF Continental Cup 2013}}アイスホッケースーパーファイナルが開催されHCドンバスは優勝している。<br /> <br /> ドネツィクにはまたバスケットボールクラブの{{仮リンク|BCドネツィク|en|BC Donetsk}}があり、{{仮リンク|ウクライナバスケットボールスーパーリーグ|en|Ukrainian Basketball Super League}}でプレーしており、2012年には優勝しチャンピオンタイトルを得ている。クラブは{{仮リンク|ドルフバアリーナ|en|Druzhba Arena}}をホームとしている。<br /> 市内には他にも今は無き注目されたクラブチームもあった。{{仮リンク|MFCシャフタールドネツィク|en|MFC Shakhtar Donetsk}}は{{仮リンク|ウクライナフットサル選手権|en|Ukrainian Futsal Championship}}では5回優勝していたが、2011年1月にシーズンの途中で財政的な問題により解散した。ソ連のバーレーボールのトップチームの一つであった{{仮リンク|VCシャフタールドネツィク|en|VC Shakhtar Donetsk}}は1992年にソビエトバレーボーツチャンピオンシップで優勝した最後のクラブチームで、独立したウクライナのリーグでは1992年と1993年に最初の2回優勝し、1993年のウクライナカップでも優勝した。しかしながら、金融的な問題によって1997年に降格しその後のシーズンで解散した。<br /> <br /> [[File:РСК Олимпийский (008).jpg|thumb|180px|セルゲイ・ブブカの像]]<br /> <br /> ドネツィクでは1978、1979、1980年にソ連テニス選手権が開催され、2005年には[[デビスカップ]]のいくつかの試合が開催されている。2002-2008年に[[ATPチャレンジャーツアー]]の一部である{{仮リンク|アレクサンダー・コリャスキンメモリアル|en|Alexander Kolyaskin Memorial}}が開催され女子の[[ITF女子サーキット|ITFウーメンズサーキット]]に分類される{{仮リンク|ヴィコールトカップ|en|Viccourt Cup}}が2012年から始まっている。<br /> <br /> ドネツィクは常に[[陸上競技]]の中心で、様々な催しが開催されている。1978年と1980年にはソビエト陸上選手権が開催され、1984年には単独開催都市であった。また、{{仮リンク|1977年欧州陸上ジュニア選手権|en|1977 European Athletics Junior Championships}}が開催された。これらの陸上競技の大会はRSCオリンピスキー(当時はRSCロコモティフ)で開催された。別の陸上競技ではドネツィクは[[棒高跳]]で世界的にも有名なアスリートである[[セルゲイ・ブブカ]]を輩出している。<br /> <br /> ===プロスポーツクラブチーム===<br /> 既存のプロスポーツクラブと現在は解散したかつてタイトルを獲得したクラブ。<br /> <br /> {| class=&quot;wikitable&quot;<br /> |-<br /> !scope=&quot;col&quot; | クラブ<br /> !scope=&quot;col&quot; | リーグ<br /> !scope=&quot;col&quot; | スポーツ<br /> !scope=&quot;col&quot; | スタジアム<br /> !scope=&quot;col&quot; | 設立年<br /> !scope=&quot;col&quot; | 優勝回数<br /> |-<br /> !scope=&quot;row&quot; style=&quot;font-weight: normal; text-align: center;&quot; | [[FCシャフタール・ドネツク]]<br /> |[[ウクライナ・プレミアリーグ]]<br /> |[[サッカー]]<br /> |[[ドンバス・アリーナ]]<br /> |1936<br /> |9<br /> |-<br /> !scope=&quot;row&quot; style=&quot;font-weight: normal; text-align: center;&quot; | [[FCメタルルフ・ドネツィク]]<br /> |ウクライナ・プレミアリーグ<br /> |サッカー<br /> |メタルフスタジアム<br /> |1996<br /> |0<br /> |-<br /> !scope=&quot;row&quot; style=&quot;font-weight: normal; text-align: center;&quot; | [[FCオリンピク・ドネツィク]]<br /> |ウクライナ・プレミアリーグ<br /> |サッカー<br /> |{{仮リンク|オリンピックスポーツコンプレックス|en|Olimpik Sports Complex}}<br /> |2001<br /> |0<br /> |-<br /> !scope=&quot;row&quot; style=&quot;font-weight: normal; text-align: center;&quot; | WFCドンチャンカ<br /> |{{仮リンク|ウクライナ女子サッカーリーグ|en|Ukrainian Women&#039;s League}}<br /> |[[女子サッカー]]<br /> |TsPOR Donchanka Stadium<br /> |1992<br /> |5<br /> |-<br /> !scope=&quot;row&quot; style=&quot;font-weight: normal; text-align: center;&quot; | MFCシャクタール・ドネツィク (解散)<br /> |ウクライナ・フットサル選手権<br /> |[[フットサル]]<br /> |Pavilion<br /> |1998<br /> |5<br /> |-<br /> !scope=&quot;row&quot; style=&quot;font-weight: normal; text-align: center;&quot; | {{仮リンク|シャクタール・アカデミア|en|Shakhtar-Academiya}}<br /> |{{仮リンク|ウクライナハンドボールスーパーリーグ|en|Ukrainian Men&#039;s Handball Super League}}<br /> |[[ハンドボール]]<br /> |SC Tekstilshik<br /> |1983<br /> |3<br /> |-<br /> !scope=&quot;row&quot; style=&quot;font-weight: normal; text-align: center;&quot; | HCドンバス<br /> |[[KHL]]<br /> |[[アイスホッケー]] <br /> |ドラズバアリーナ<br /> |2005<br /> |ウクライナ: 3 (2 HC Donbass-2)<br /> |-<br /> !scope=&quot;row&quot; style=&quot;font-weight: normal; text-align: center;&quot; | BCドネツィク<br /> |{{仮リンク|ウクライナバスケットボールスーパーリーグ|en|Ukrainian Basketball SuperLeague}}<br /> |[[バスケットボール]]<br /> |ドラズバアリーナ<br /> |2006<br /> |1<br /> |-<br /> !scope=&quot;row&quot; style=&quot;font-weight: normal; text-align: center;&quot; | VCシャクタール・ドネツィク (解散)<br /> |{{仮リンク|ウクライナ男子バレーボールスーパーリーグ|en|Ukrainian Men&#039;s Volleyball Super League}}<br /> |[[バレーボール]] <br /> |ドラズバアリーナ<br /> |1983<br /> |ソ連時代: 1 ウクライナ: 2<br /> |-<br /> !scope=&quot;row&quot; style=&quot;font-weight: normal; text-align: center;&quot; | Skify-DonNTU<br /> |ウクライナ・アメリカンフットボール選手権<br /> |[[アメリカンフットボール]] <br /> |DonNTU<br /> |1990<br /> |13<br /> |-<br /> |}<br /> <br /> == 文化 ==<br /> <br /> === 名所 ===<br /> <br /> ==== アルトマ通り ====<br /> [[File:Театральная площадь 017.JPG|thumb|200px|アルトマ通りに面したドネツィクシェフチェンコ映画館]]<br /> ドネツィクの主要な区域で、この広い通りは市内を巡るあらゆる観光客の起点である。新旧様々な建築物や小さな公園、洒落たホテル、レストランなどが立地している。史跡は通りや、レーニン広場、オペラ・バレー劇場、炭坑夫のモニュメント、ドネツィク演劇場が含まれる。<br /> <br /> ==== アルテムの像 ====<br /> 壮大な6mのアルトマ通りにある像は{{仮リンク|フョードル・セルゲーエフ|en|Fyodor Sergeyev}}でソビエトでも最も著名な政治家の一人であった。1921年にドンボスでセルゲーエフが亡くなるとスターリンは彼の息子を選出した。<br /> <br /> ==== ドネツィクオペラ・バレー劇場====<br /> [[File:Donezk Zentrum Oper.JPG|thumb|200px|ドネツィクオペラ・バレー劇場(2002年)]]<br /> {{仮リンク|ドネツィクオペラ・バレー劇場|en|Donetsk State Academic Opera and Ballet Theatre named after A. Solovyanenko}}は1936年に建てられ、優美な外観と世界クラスの公演は擁する劇場である。ドネツィクには1946年から{{仮リンク|ドネツィクバレエカンパニー|en|Donetsk Ballet}}がある。<br /> <br /> ==== ドンバスパレス ====<br /> {{仮リンク|ドンバスパレス|en|Donbass Palace}}はドネツィク中心部にある五つ星ホテルで、ウクライナでは唯一[[ザ・リーディングホテルズ・オブ・ザ・ワールド]]に加盟している。建物は1938年にシュヴァロヴァ&#039;&#039;Shuvalova&#039;&#039;とリハニコフ&#039;&#039; Rechanikov&#039;&#039;の計画により1938年に建てられた。ナチスの占領期間にはドネツィク[[ゲシュタポ]]本部が旧ホテルに置かれ、戦時中に建物の一部は破壊された。2004年の再建後にホテルはオープンしている。<br /> <br /> ==== プーシキン大通り ====<br /> [[File:Pedestrianstreet.jpg|thumb|200px|プーシキン大通り]]<br /> 美しい緑の遊歩道が2kmにわたり続いている。噴水やオープンカフェ、[[タラス・シェフチェンコ]]など多くの興味を惹く彫像等が点在する。通りには鉄から鍛冶で作り出された植物の彫像もあり、もともとは1896年に地元の鍛冶屋であったアレクセイ・メエルトサロヴ&#039;&#039;Aleksei Mertsalov&#039;&#039;が1本のレールから作り出し展示されたもので技術力の高さを示している。<br /> <br /> ====ジョン・ヒューズのモニュメント ====<br /> 2001年からドネツィク国立工科大学の前に街の設立の功労者であるジョン・ヒューズの像がある。彼はドネツィクに産業の歴史を与え、ユゾフカの製鉄所に関わった。<br /> <br /> ==== フォージド・フィギアパーク ====<br /> [[File:Donetsk-09.JPG|thumb|150px|フォージド・フィギアパークに飾られている彫刻。薔薇はドネツィクのシンボルである]]<br /> <br /> フォージド・フィギアパークは2001年に開園し、1種につき1インチのオブジェである。国際鍛冶工芸祭が毎年、パークで開かれている。<br /> <br /> === 建築物 ===<br /> [[File:Donetsk britania 02.jpg|thumb|200px|left|グレート・ブリテン&#039;&#039;Velikobritaniya&#039;&#039;。1883年に建築されたドネツィクでは最も古い建物の1つ。]]<br /> <br /> ドネツィクはユゾフカ&#039;&#039;Yuzovka&#039;&#039;と呼ばれていた時代、街は北と南の2つの部分に分かれていた。市の南側は工場や鉄道駅、電報局、病院、学校があった&lt;ref name=&quot;RusWiki1&quot;&gt;{{cite web|url=http://ru.wikipedia.org/wiki/Архитектура_Донецка | title=Архитектура Донецка |work=[[Russian Wikipedia]] |language=Russian|accessdate=不明}}&lt;/ref&gt;。工場からそう遠くない場所は「イギリス人街」で、技術者や管理者が住んでいた。<br /> ジョン・ヒュースの家や様々な外国人労働者の建物群が建築された後、市の南部分は主に英国式に構築された。これらの建物は長方形や三角形の形をした[[ファサード]]や緑色の屋根、大きな窓でこれらは建物やバルコニーの大きな部分を占めていた&lt;ref name=&quot;RusWiki1&quot;/&gt;。街のこの部分は通りは広く舗装がされていた。ドネツィクの建物の形成に対して大きな影響を与えたのは[[ノヴォロシア]]の会社の「公式建築家」&#039;&#039;Moldingauyer&#039;&#039;であった&lt;ref name=&quot;RusWiki1&quot;/&gt;。当時のユゾコフ南部の建築物はジョン・ヒュースの家(1891年の物を一部保存)、ボルフール&#039;&#039;Bolfur&#039;&#039; (1889)、ボッセで構成されていた。<br /> <br /> ユゾフカの北側であったノヴィ・ソヴェト&#039;&#039;Novyi Svet&#039;&#039;には商人や職人、官僚が住んでいた&lt;ref name=&quot;RusWiki1&quot;/&gt;。そこには市場や警察本部、イエス変容大聖堂などが位置していた。ノヴィ・ソヴェトの中央の通りと近隣の通り際には主に1階か2階の民家や市場、レストラン、ホテル、オフィス、銀行があった。ユゾフカの北側部分で有名な保存されている建物にはホテルグレートブリテンがある。<br /> <br /> 最初のスタリノ時代での総合的な計画は1932年に[[オデッサ]]で建築家&#039;&#039;P. Golovchenko&#039;&#039;により作られ、1937年に計画の一部に手が加えられた。この計画は市の建設局の歴史では初めてのことであった&lt;ref name=&quot;RusWiki1&quot;/&gt;。ドネツィク市内の大部分の建築物は20世紀後半以降のもので、設計はドネツィク市の建築家パヴェル・ヴィグジェルゴーズ&#039;&#039;Pavel Vigdergauz&#039;&#039;で1978年に[[ソビエト連邦国家賞]]を受賞した&lt;ref name=&quot;RusWiki1&quot;/&gt;。<br /> {{Clearleft}}<br /> === 宗教 ===<br /> [[File:DonetskCathedral.jpg|thumb|180px|再建されたイエス変容大聖堂]]<br /> ドネツィクの住民はそれぞれ多くの異なった宗教に属しており、[[正教会]]&lt;ref&gt;{{cite web |url=http://www.ortodox.donbass.com/ |title=Main Page |accessdate=12 May 2007 |work=Donbass Pravoslavnyi |language=Russian |archiveurl=https://web.archive.org/web/20070629040340/http://www.ortodox.donbass.com/ |archivedate=2007年6月29日 |deadurldate=2017年9月 }}&lt;/ref&gt;、[[東方典礼カトリック教会]]、[[プロテスタント]]、[[カトリック教会]]、[[イスラム教]]のモスク、[[ユダヤ教]]の[[シナゴーグ]]など様々である。最も多くの信徒がいる宗教には[[ウクライナ正教会 (モスクワ総主教庁系)|ウクライナ正教会]](モスクワ総主教庁系、[[ウクライナ正教会・キエフ総主教庁|キエフ総主教庁系]])である。<br /> <br /> 2014年にドネツィク臨時政府議長&#039;&#039;Denis Pushilin&#039;&#039;の署名のビラがユダヤ人の[[過越]]で配布された。ビラにはドネツィクのユダヤ人の市民は彼ら自身や自分の財産、家族を親ロシア派の当局に登録するように伝えていた。ビラではその要求に従わなければ市民権の取り消しや財産の没収につながると主張していた。ビラの[[ホロコースト]]の影を見たドネツィクのユダヤ人には混乱と恐怖を引き起こした&lt;ref&gt;Margalit, Michal. [http://www.ynetnews.com/articles/0,7340,L-4510688,00.html &quot;Donetsk leaflet: Jews must register or face deportation.&quot;] &#039;&#039;Ynetnews&#039;&#039;. 16 April 2014.&lt;/ref&gt; 。しかしながら、ビラは[[ロシア・トゥデイ]]の報道によれば偽物であると判断された&lt;ref&gt;[https://www.youtube.com/watch?v=7mXsnttDvYc &quot;Fake Flyer Fury: &#039;Letter to Jews&#039; Kerry cited was forged.&quot;] &#039;&#039;RussiaToday/RT&#039;&#039; 19 April 2014.&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> === メディア ===<br /> 以下の5つのテレビ局がドネツィクにはある。<br /> <br /> * TRK Ukraina ({{lang-uk|ТРК Україна}})&lt;ref&gt;{{cite web|url=http://www.kanalukraina.tv/ | title=Main Page |work=TRK Ukraina |language=Russian|accessdate=不明}}&lt;/ref&gt;<br /> * KRT, Kyivska Rus&#039; ({{lang-ua|КРТ, Київська Русь}})&lt;ref&gt;{{cite web |url=http://kievruss.tv |title=Main Page |work=Kievska Rus |language=Russian |accessdate=不明 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20060402192408/http://kievruss.tv/ |archivedate=2006年4月2日 |deadurldate=2017年9月 }}&lt;/ref&gt;<br /> * First Municipal ({{lang-ru|Первый муниципальный}})&lt;ref&gt;{{cite web|url=http://www.12-ua.tv/site/main.php | title=Main Page |work=Pervyi munitsipal&#039;nyi kanal |language=Russian|accessdate=不明}}&lt;/ref&gt;<br /> * Kanal 27 ({{lang-ru|27 канал}})<br /> * TRK Donbass ({{lang-ru|ТРК Донбасс}})<br /> <br /> ドネツィクには360mの高さのテレビ塔があり、市内では最も高い建築物の1つで1992年に完成した。<br /> <br /> === 著名人 ===<br /> ドネツィクの市民は一般にダニチャニ &#039;&#039;Donechyani&#039;&#039; ({{lang-uk|Донеччани}})と呼ばれる。以下の人々は著名なドネツィク出身か市内で育った人々である。<br /> <br /> {{div col}}<br /> * [[エッマ・アンドリエーヴシカ]], ウクライナの詩人<br /> * [[ミコラ・アザロフ]], 元ウクライナ首相<br /> * [[セルゲイ・ブブカ]], 元陸上競技選手<br /> * [[ニキータ・クリーロフ]], ウクライナの総合格闘家<br /> * [[ニキータ・フルシチョフ]], ソビエト連邦の政治家、同国の第4代最高指導者<br /> * [[アナトリー・フォメンコ]], ロシアの数学者<br /> * [[ナタリア・マーマドワ]], アゼルバイジャン国籍の女子バレーボール選手<br /> * [[オレクシー・ペチェロフ]], ウクライナのプロバスケットボール選手<br /> * [[セルゲイ・レブロフ]], サッカー指導者<br /> * [[ナタン・シャランスキー]], ソビエト連邦の反体制運動家・作家・イスラエルの政治家<br /> * [[ナデジダ・トカチェンコ]], ソビエト連邦の陸上競技選手・オリンピック金メダリスト<br /> * [[ヴィクトル・ヤヌコーヴィチ]], [[ユーロマイダン]]が原因で失職させられた元ウクライナ大統領。&lt;ref&gt;http://www.abc.net.au/news/2014-02-28/ukraine-minister-accuses-russia-of-armed-invasion/5291986&lt;/ref&gt;<br /> * [[オレグ・ベルニャエフ]], [[体操選手]]・オリンピック金メダリスト<br /> {{div col end}}<br /> <br /> === 博物館 ===<br /> ドネツィクに約140の博物館や美術館があり、2つの地域の大きな博物館であるドネツィク地域歴史博物館、ドネツィク地域美術館が含まれる。ドネツィク地域歴史博物館はドネツィクの姿を明らかにし地域全体をカバーしている。1924年に開館し、12万の収蔵品には先史時代に遡る考古学的な発見からジョン・ヒューズの街の創設や炭鉱、第一次世界大戦、ソビエト時代などがある。<br /> <br /> FCsシャクタール博物館は2010年に開館しウクライナでは初めて{{仮リンク|ヨーロピアン・ミュージアム・オブ・ザ・イヤー賞|en|European Museum of the Year Award}}を受賞した&lt;ref&gt;{{cite web|url=http://donbass-arena.com/en/news/20139 |title=FC Shakhtar Museum nominated for an &#039;Oscar&#039; |publisher=Donbass-arena.com |date=19 May 2012 |accessdate=2013-03-26}}&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> == 交通 ==<br /> <br /> === 公共交通 ===<br /> [[File:TramLM2008.jpg|thumb|left|200px|トラム LM-2008]]<br /> [[File:Trolleybus Donezk.jpg|thumb|200px|トロリーバスと大聖堂]]<br /> ドネツィク市内の主な交通はトラム(路面電車)やトロリーバス、路線バス、私営のミニバスである[[マルシュルートカ]]である。市内の公共交通は自治体が統合して運営する企業&#039;&#039;Dongorpastrans&#039;&#039;により運行されている。市内には12のトラム路線(-130km)、17のトロリーバスの路線(-188km)、115の路線バス系統がある&lt;ref name=&quot;transport&quot;&gt;{{cite web |url=http://www.partner.donetsk.ua/transport/ |title=Transport |accessdate=11 May 2007 |work=Partner-Portal |language=Russian |archiveurl=https://web.archive.org/web/20070510133417/http://www.partner.donetsk.ua/transport/ |archivedate=2007年5月10日 |deadurldate=2017年9月 }}&lt;/ref&gt;。<br /> トラムとトロリーバスは市内に2つの駅がそれぞれある&lt;ref name=&quot;transport&quot;/&gt; 。他の市内の交通手段にはタクシーがあり、ドネツィクには32台が走っている。ドネツィクには市内と郊外にバスターミナルがあり、 &#039;&#039;Yuzhny&#039;&#039;は主に南方向の路線を扱い、&#039;&#039;Tsentr&#039;&#039; は{{仮リンク|マリンカ|en|Marinka, Ukraine}}や{{仮リンク|ヴヘルダル|en|Vuhledar}}の他、都市間路線、&#039;&#039;Krytyi rynok&#039;&#039;は主に北や東方向の路線を扱い、 &#039;&#039;Putilovsky&#039;&#039;は北や北西方向の路線を扱っている。<br /> <br /> 1992年に[[ドネツィク地下鉄]]の建設が始ったが、近年になって資金不足のため放棄された。路線や駅は完成していない&lt;ref&gt;[http://1tv.com.ua/uk/news/2012/01/18/14506 У Донецьку припиняють зводити метро] {{uk icon}}&lt;/ref&gt;。<br /> {{Clearleft}}<br /> <br /> === 鉄道 ===<br /> [[File:Donezk Bahnhof 2.JPG|thumb|ドネツィク中央駅]]<br /> ドネツィクの中央駅は年間700万人の旅客を扱い&lt;ref name=&quot;transport&quot;/&gt;、街の北側に位置する。中央駅の近くには博物館があり、この地域の鉄道の歴史について扱っている。他の駅には &#039;&#039;Rutchenkovo&#039;&#039;がキィフスキィ&#039;&#039;Kyivskyi&#039;&#039;地区にあり、&#039;&#039;Mandrykino&#039;&#039;はペトロフスキィ&#039;&#039;Petrovskyi&#039;&#039;地区、&#039;&#039;Mushketovo&#039;&#039;はブヂオニヴスキイィ&#039;&#039;Budionivskyi&#039;&#039;地区にある。<br /> 一部の旅客列車はドネツィク駅を避け、市内の&#039;&#039;Yasynuvata&#039;&#039;駅で扱っている。また市内には[[子供鉄道]]もある。ドネツィクは[[UEFA EURO 2012]]の開催都市であったので[[UEFA]]の必要条件に応じるため、新しい鉄道ターミナル施設が計画されていた&lt;ref&gt;[http://www.ukrinform.ua/eng/order/?id=170301 Construction of railway terminal in Donetsk for UEFA EURO 2012 worth UAH 414mln], [[Ukrinform]] (23 September 2009)&lt;/ref&gt;。<br /> ドネツィク州は重要なウクライナの交通のハブである。ドネツィクを基盤とする、ドネツィク鉄道はウクライナでは最大規模の鉄道部門の1つである。地域の農業や工業などの事業やドネツィクや[[ルハンスク]]、部分的に[[ドニプロペトロフスク]]、[[ザポリーニャ]]、[[ハルキウ州]]の人々に供されている。<br /> <br /> === 道路 ===<br /> ロシアのロストフ・ナ・ドヌへ続く[[欧州自動車道路]]の[[File:Tabliczka E50.svg|25px|link=European route E50]]が途中、ドネツィク市内を通っている。これに加えて、国際道路のM 04が市内を通る。ウクライナの国道N 15, N 20, N 21号線も市内を通っている。ドネツィクをバイパスする4期目の環状道路の工事は2014年に完成する&lt;ref&gt;[http://en.interfax.com.ua/news/economic/185414.html Building of fourth stage of Donetsk ring road to end in 2014], [[Interfax-Ukraine]] (11 January 2014)&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> === 航空 ===<br /> ドネツィクには[[ドネツィク国際空港]]がある&lt;ref&gt;{{cite web|url=http://www.vip-terminal.dn.ua/ |title= Service Center, International Airport &quot;Donetsk&quot; |accessdate=6 March 2007 |work=VIP-Terminal |language=Russian/English}}&lt;/ref&gt; 。1940年代の終わりに工事が終わり、1950年代に供用が始った。全ての空港施設は1973年に完成している。[[ドンバスアエロ]]はドネツィク国際空港をベースとして運航している。<br /> 2014年7月現在では親ロシア派とウクライナ軍の戦闘により空港は機能停止状態にある&lt;ref&gt;[http://www.airport.dn.ua/en/airport/news/?aid=341 Notice for passengers] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20140531105506/http://www.airport.dn.ua/en/airport/news/?aid=341 |date=2014年5月31日 }} International Airport Donetsk. 26 May 2014. Accessed 31 May 2014&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> == 教育 ==<br /> [[File:Donetsk df 2006 01.jpg|thumb|物理学の日の{{仮リンク|ドネツィク国立大学|en|Donetsk National University}}(2006年)]]<br /> ドネツィクにはいくつかの大学があり、5の国立大学と11の研究機関、3の[[アカデミー]]、技術学校{{仮リンク|テフニクム|en|Technikum (Polish education)}}、5の私立大学、6のカレッジが含まれる。最も有力で著名な教育機関は{{仮リンク|ドネツィク国立技術大学|en|Donetsk National Technical University}}で1921年に創設された&lt;ref&gt;{{cite web |url=http://donntu.edu.ua/english/inform/info.html |title=About DonNTU |accessdate=11 May 2007 |work=Donetsk National Technical University (DonNTU) |language=Russian |archiveurl=https://web.archive.org/web/20070430054651/http://donntu.edu.ua/english/inform/info.html |archivedate=2007年4月30日 |deadurldate=2017年9月 }}&lt;/ref&gt;。{{仮リンク|ドネツィク国立大学|en|Donetsk National University}}は1937年に創設された。国立技術大学とマグデブルクの大学は密接な関係を持っている。1970年以来、100人を超える東ドイツからの学生が2つのドネツィクの国立大学のどちらかで高等教育を修了している。ドネツィクにはまた1930年に創設された{{仮リンク|ドネツィク国立医科大学|en|Donetsk National Medical University}}があり、ソ連では最大規模の医科大学の1つであった。ドネツィクには科学研究機関やイスラム大学、1960年に創設された[[コンセルヴァトワール]]のプロコフィエフドネツィク国立ミュージックアカデミーがある。<br /> <br /> == 姉妹都市 ==<br /> ドネツィクは以下の都市と姉妹都市の関係にある。<br /> {| class=&quot;wikitable&quot;<br /> |- valign=&quot;top&quot;<br /> |<br /> *{{flagicon|GER}} [[ボーフム]], ドイツ, (1987)<br /> *{{flagicon|BEL}} [[シャルルロワ]], ベルギー<br /> *{{flagicon|POL}} [[カトヴィツェ]], ポーランド<br /> *{{flagicon|GEO}} [[クタイシ]], グルジア<br /> ||<br /> *{{flagicon|RUS}} [[モスクワ]], ロシア<br /> *{{flagicon|EST}} [[ナルヴァ]], エストニア<br /> *{{flagicon|USA}} [[ピッツバーグ]], アメリカ<br /> *{{flagicon|RUS}} [[ロストフ・ナ・ドヌ]], ロシア<br /> ||<br /> *{{flagicon|UK}} [[シェフィールド]], イギリス<br /> *{{flagicon|ITA}} [[ターラント]], イタリア (1984)<br /> *{{flagicon|LTU}} [[ヴィリニュス]], リトアニア<br /> *{{flagicon|AZE}} [[バクー]], アゼルバイジャン (2009)<br /> ||<br /> *{{flagicon|NIC}} [[マタガルパ]], ニカラグア(2004)<br /> |}<br /> <br /> == 脚注 ==<br /> {{Reflist|3}}<br /> <br /> == 脚注関連文献 ==<br /> * {{cite book | first=S. | last=Kilesso | year=1982 | title=Donetsk. Architectural-historical summary | publisher=Budivelnyk | location=Kiev | page=152}}<br /> * {{cite web|url=http://www.partner.donetsk.ua/|title=Partner-Portal — &#039;&#039;Everything about Donetsk&#039;&#039;|accessdate=28 August 2006|author=|last=|first=|authorlink=|coauthors=|date=|year=|month=|work=Partner-Portal|publisher=Интернет-агентство «Партнер»|pages=|language=Russian|archiveurl=https://web.archive.org/web/20060811205736/http://www.partner.donetsk.ua/|archivedate=2006年8月11日|deadurldate=2017年9月}}<br /> &lt;/div&gt;<br /> <br /> == 関連項目 ==<br /> <br /> ==外部リンク==<br /> {{Commons&amp;cat|Донецк|Donetsk}}<br /> &lt;div class=&quot;references-small&quot;&gt;<br /> &#039;&#039;&#039;総合&#039;&#039;&#039;<br /> * [https://web.archive.org/web/20100127133046/http://www.donetskcity.com/ A comprehensive Donetsk city guide for international travellers - English]<br /> * [https://web.archive.org/web/20090709062122/http://www.citylife.donetsk.ua/ Official Donetsk city guide - English]<br /> * [https://web.archive.org/web/20090621221708/http://www.welcome-to-donetsk.org.ua/ Traveller&#039;s guide, Welcome to Donetsk - English]<br /> * [http://www.sfdone.livejournal.com/ The Donetsk photoblog (is regularly updated) Russian]<br /> * [http://www.donetsk.org.ua/ donetsk.org.ua] — Donetsk city administration website {{uk icon}}/{{ru icon}}<br /> * [http://www.stroit.dn.ua/ stroit.dn.ua] — Construction site of Donetsk<br /> * {{ru icon}} [https://web.archive.org/web/20060811205736/http://www.partner.donetsk.ua/ partner.donetsk.ua] — Informational portal about Donetsk<br /> * [http://www.ukrtelecom.ua/ua/offers/web_cam/donetsk.html ukrtelecom.ua] — Ukrtelecom webcam of the &#039;&#039;Artema Street&#039;&#039;<br /> * [http://airport.dn.ua/ Official site of the Donetsk international airport]<br /> * [http://www.shakhtar.com/en Shakhtar Donetsk] official website of the Shakhtar football team {{en icon}}<br /> * [http://www.dntsk.net/photo/ dntsk.net] — old and recent photos of Donetsk {{ru icon}}<br /> <br /> &#039;&#039;&#039;歴史&#039;&#039;&#039;<br /> * [http://www.webcitation.org/query?url=http://www.geocities.com/abcuni_school/1about_donetsk1.htm&amp;date=2009-10-25+11:57:53 geocities.com] — History of Donetsk and the story of the founder John Hughes<br /> * [https://web.archive.org/web/20071014124244/http://ukrstor.com/ukrstor/yuzindex.html ukrstor.com] — Early history of Yuzovka<br /> * [http://www.bfcollection.net/cities/ukraine/donetsk/donetsk.html bfcollection.net] — Historic images of Donetsk<br /> * [http://alldonetsk.info/en/history-city-donetsk alldonetsk.info] - The history of the city of Donetsk<br /> <br /> &#039;&#039;&#039;地図&#039;&#039;&#039;<br /> * [http://citylife.donetsk.ua/main/info citylife.donetsk.ua] — City map in English language for foreigners<br /> * [http://maps.google.com/maps?ll=48.008415,37.809362&amp;spn=0.296322,0.648399&amp;t=k&amp;hl=en maps.google.com] — Google maps satellite view of Donetsk<br /> * [http://www.wikimapia.org/#y=48000000&amp;x=37820000&amp;z=13&amp;l=1&amp;m=a wikimapia.org] — Wikimapia view of Donetsk<br /> * [http://gorod.dn.ua/donmap/city/ gorod.dn.ua] — City map browsable and searchable by address<br /> &lt;/div&gt;<br /> <br /> {{ウクライナの都市}}<br /> {{Normdaten}}<br /> {{east-europe-stub}} <br /> <br /> {{DEFAULTSORT:とねついく}}<br /> [[Category:ドネツィク|*]]</div> 153.188.171.24 スームィ 2018-07-12T09:18:08Z <p>153.188.171.24: </p> <hr /> <div>{{世界の市<br /> |正式名称 =スームィ<br /> |公用語名称 ={{lang|uk|Суми}}<br /> |愛称 =<br /> |標語 =<br /> |画像 =Stamp of Ukraine s677.jpg<br /> |画像サイズ指定 =250px<br /> |画像の見出し =<br /> |市旗 =Flag of Sumy.jpg<br /> |市章 =Sumy-COA.PNG<br /> |位置図 =Sumy-Ukraine-Map.png<br /> |位置図サイズ指定 =<br /> |位置図の見出し =<br /> |位置図2 =<br /> |位置図サイズ指定2 =<br /> |位置図の見出し2 =<br /> |緯度度 =50 |緯度分 =55 |緯度秒 = |N(北緯)及びS(南緯) =N<br /> |経度度 =34 |経度分 =45 |経度秒 = |E(東経)及びW(西経) =E<br /> |成立区分 =建設<br /> |成立日 =[[1652年]]<br /> |成立区分1 =<br /> |成立日1 =<br /> |成立区分2 =<br /> |成立日2 =<br /> |旧名 =<br /> |創設者 =<br /> |下位区分名 ={{UKR}}<br /> |下位区分種類1 =[[ウクライナの地方行政区画|行政区画]]<br /> |下位区分名1 ={{Flagicon|Sumy}} [[スームィ州]]<br /> |下位区分種類2 =<br /> |下位区分名2 =<br /> |下位区分種類3 =<br /> |下位区分名3 =<br /> |下位区分種類4 =<br /> |下位区分名4 =<br /> |規模 =市 &lt;!--必須--&gt;<br /> |最高行政執行者称号 =市長<br /> |最高行政執行者名 =<br /> |最高行政執行者所属党派 =<br /> |総面積(平方キロ) =145<br /> |総面積(平方マイル) =<br /> |陸上面積(平方キロ) =<br /> |陸上面積(平方マイル) =<br /> |水面面積(平方キロ) =<br /> |水面面積(平方マイル) =<br /> |水面面積比率 =<br /> |市街地面積(平方キロ) =<br /> |市街地面積(平方マイル) =<br /> |都市圏面積(平方キロ) =<br /> |都市圏面積(平方マイル) =<br /> |標高(メートル) =<br /> |標高(フィート) =<br /> |人口の時点 =2004年<br /> |人口に関する備考 =<br /> |総人口 =283,700<br /> |人口密度(平方キロ当たり) =1,988<br /> |人口密度(平方マイル当たり) =<br /> |市街地人口 =<br /> |市街地人口密度(平方キロ) =<br /> |市街地人口密度(平方マイル) =<br /> |都市圏人口 =<br /> |都市圏人口密度(平方キロ) =<br /> |都市圏人口密度(平方マイル) =<br /> |等時帯 =[[東ヨーロッパ時間]]<br /> |協定世界時との時差 =+2<br /> |夏時間の等時帯 =[[東ヨーロッパ夏時間]]<br /> |夏時間の協定世界時との時差 =+3<br /> |郵便番号の区分 =郵便番号<br /> |郵便番号 =40000-40030<br /> |市外局番 =+380 542<br /> |ナンバープレート =АА<br /> |ISOコード =<br /> |公式ウェブサイト =http://www.meria.sumy.ua/ua/<br /> |備考 =<br /> }}<br /> <br /> &#039;&#039;&#039;スームィ&#039;&#039;&#039;({{Lang-uk|&#039;&#039;&#039;Су́ми&#039;&#039;&#039;}})は、北東[[ウクライナ]]に位置する都市で、[[スームィ州]]の州庁所在地である。<br /> <br /> == 地理 ==<br /> スームィは、スームィ州の東南、[[プセール川]]と[[スームカ川]]が合流する地域で位置している。スームィの中心地はプセール川の高い右岸に置かれてある。<br /> <br /> == 歴史 ==<br /> *[[2世紀]]‐[[8世紀]]:東スラヴ人の時代。<br /> *[[8世紀]]‐[[13世紀]]:[[シヴェリャーヌィ族]]の領土、後に[[チェルニーヒウ公国]]の領土となる。<br /> *[[13世紀]]:モンゴル人の侵略によって荒野に変わる。<br /> *[[15世紀]]‐[[17世紀]]:モスクワ大公国の領土となるが、ほぼ無人地である。<br /> *[[1652年]]:[[ウクライナ・コサック]]の連隊長、[[ヘラースィム・コンドラチエウ]]が[[チェルカースィ]]周辺から移民を引き連れてスームィ町を創建する。<br /> *[[1658年]]:スームィ要塞が築城される。<br /> *[[1658年]]‐[[1765年]]:ロシアに属するの[[スロボダ・ウクライナ]]の[[スームィ連隊]]の中央都市として栄える。<br /> *[[1765年]]‐[[1780年]]:[[スロボダ・ウクライナ県]]の県庁所在地。<br /> *[[1835年]]‐[[1923年]]:[[ハリコフ県]]内のスームィ郡の中心。<br /> *[[1939年]]:[[ウクライナ社会主義共和国]]のスームィ州の州庁所在地となる。<br /> *[[1991年]]:ウクライナが独立する。市は、スームィ州の州庁所在地となる。<br /> <br /> == 人口 ==<br /> [[画像:Stamp of Ukraine s362.jpg|thumb|150px|復活祭の教会]]<br /> *[[2001年]]:293,100人&lt;ref&gt;{{en icon}} {{uk icon}} [http://www.ukrcensus.gov.ua/eng/regions/reg_sums/ 2001年のウクライナ国勢調査]&lt;/ref&gt;<br /> **[[ウクライナ人]]は約88%、その他は9.5%。<br /> **母国語:[[ウクライナ語]]は約46%、[[ロシア語]]は54%以下<br /> **男性は47%、女性は53%<br /> <br /> == 観光 ==<br /> *座の合同庁(17世紀)<br /> *復活祭の教会(17世紀末)<br /> *救世主大聖堂(18世紀)<br /> <br /> == 姉妹都市 ==<br /> * {{flagicon|BGR}} [[ヴラツァ]]、[[ブルガリア]] <br /> * {{flagicon|DEU}} [[ツェレ]]、[[ドイツ]] <br /> * {{flagicon|POL}} [[ルブリン]]、[[ポーランド]] <br /> * {{flagicon|POL}} [[ゴジュフ・ヴィエルコポルスキ]]、[[ポーランド]] <br /> * {{flagicon|POL}} [[ザモシチ]]、[[ポーランド]] <br /> * {{flagicon|RUS}} [[クルスク]]、[[ロシア]] <br /> * {{flagicon|RUS}} [[ベルゴロド]]、[[ロシア]] <br /> * {{flagicon|RUS}} [[セヴェロドヴィンスク]]、[[ロシア]] <br /> <br /> == 注 ==<br /> &lt;references /&gt;<br /> <br /> == 参考文献 ==<br /> *{{ja icon}} 『ポーランド・ウクライナ・バルト史 』/ 伊東孝之,井内敏夫,中井和夫. 山川出版社, 1998.12. (新版世界各国史 ; 20)<br /> *{{uk icon}} {{lang|uk|Історія міст і сіл Укр. РСР. Чернігівська область - Київ, 1972.}}<br /> <br /> == 外部リンク ==<br /> {{commons|category:Sumy}}<br /> <br /> *{{uk icon}} [http://www.meria.sumy.ua/ua/ スームィ市の公式サイト]<br /> <br /> {{ウクライナの都市}}<br /> {{DEFAULTSORT:すうむい}}<br /> [[Category:スームィ州の都市]]</div> 153.188.171.24 テンプレート:ウクライナの都市 2018-07-12T08:08:12Z <p>153.188.171.24: </p> <hr /> <div>{{Navbox<br /> |name = ウクライナの都市<br /> |state = {{{state|autocollapse}}}<br /> |titlestyle = background:#efefef<br /> |title = {{UKR}}の[[県庁所在地|州庁所在地]]<br /> |imageleft =<br /> |imageright =<br /> |bodystyle = text-align:left;background:#f9f9f9;<br /> |groupstyle = text-align:right;background:#efefef;vertical-align:top;padding:0.125em 0.25em;<br /> |liststyle = width:auto;<br /> |oddstyle = background:#fcfcfc;<br /> |evenstyle =<br /> |abovestyle =<br /> |above =<br /> |group1 = 市<br /> |list1 = [[イヴァーノ=フランキーウシク]] &amp;#124; [[ヴィーンヌィツャ]] &amp;#124; [[ウージュホロド]] &amp;#124; [[オデッサ]] &amp;#124; [[キエフ]] &amp;#124; [[クロプィウヌィーツィクィイ]] &amp;#124; [[ザポリージャ]] &amp;#124; [[ジトームィル]] &amp;#124; [[スームィ]] &amp;#124; [[チェルカースィ]] &amp;#124; [[チェルニーヒウ]] &amp;#124; [[チェルニウツィー]] &amp;#124; [[テルノーピリ]] &amp;#124; [[ドニプロ]] &amp;#124; [[ドネツィク]] &amp;#124; [[ハルキウ]] &amp;#124; [[フメリヌィーツィクィイ]] &amp;#124; [[ヘルソン]] &amp;#124; [[ポルタヴァ]] &amp;#124; [[ムィコラーイウ]] &amp;#124; [[リヴィウ]] &amp;#124; [[リウネ]] &amp;#124; [[ルーツィク]] &amp;#124; [[ルハーンシク]]<br /> |belowstyle =text-align:left;background:#efefef;padding:0.125em 0.25em;<br /> |below =<br /> }}<br /> &lt;noinclude&gt;<br /> [[Category:ウクライナ関連のテンプレート|とし]]<br /> [[Category:ウクライナの都市|*]]<br /> &lt;/noinclude&gt;</div> 153.188.171.24 テンプレート:ウクライナの地方行政区画 2018-07-12T08:03:54Z <p>153.188.171.24: </p> <hr /> <div>{{Navbox with columns<br /> |name = ウクライナの地方行政区画<br /> |titlestyle = {{{titlestyle|background:#ddf;}}}<br /> |title = {{UKR}}の[[ウクライナの地方行政区画|行政区画]]<br /> |state = collapsed<br /> |padding = 0<br /> |col1width=16em<br /> |col1 = &lt;div&gt;<br /> {{nowrap|&#039;&#039;&#039;州&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;<br /> {{Flagicon|Vinnytsia|size=22px}} [[ヴィーンヌィツャ州|ヴィーンヌィツャ]]&lt;br /&gt;<br /> {{Flagicon|Volyn|size=22px}} [[ヴォルィーニ州|ヴォルィーニ]]&lt;br /&gt;<br /> {{Flagicon|Dnipropetrovsk|size=22px}} [[ドニプロペトロウシク州|ドニプロペトロウシク]]&lt;br /&gt;<br /> {{Flagicon|Donetsk|size=22px}} [[ドネツィク州|ドネツィク]]&lt;br /&gt;<br /> {{Flagicon|Zhytomyr|size=22px}} [[ジトームィル州|ジトームィル]]&lt;br /&gt;<br /> {{Flagicon|Zakarpattia|size=22px}} [[ザカルパッチャ州|ザカルパッチャ]]&lt;br /&gt;<br /> {{Flagicon|Zaporizhia|size=22px}} [[ザポリージャ州|ザポリージャ]]&lt;br /&gt;<br /> {{Flagicon|Ivano-Frankivsk|size=22px}} [[イヴァーノ=フランキーウシク州|イヴァーノ=フランキーウシク]]&lt;br /&gt;}}<br /> &lt;/div&gt;<br /> |col2width=16em<br /> |col2 = &lt;div&gt;<br /> {{nowrap|&lt;br /&gt;<br /> {{Flagicon|Kiev|size=22px}} [[キエフ州|キエフ]]&lt;br /&gt;<br /> {{Flagicon|Kirovohrad|size=22px}} [[キロヴォフラード州|キロヴォフラード]]&lt;br /&gt;<br /> {{Flagicon|Luhansk|size=22px}} [[ルハーンシク州|ルハーンシク]]&lt;br /&gt;<br /> {{Flagicon|Lviv|size=22px}} [[リヴィウ州|リヴィウ]]&lt;br /&gt;<br /> {{Flagicon|Mykolaiv|size=22px}} [[ムィコラーイウ州|ムィコラーイウ]]&lt;br /&gt;<br /> {{Flagicon|Odessa|size=22px}} [[オデッサ州|オデッサ]]&lt;br /&gt;<br /> {{Flagicon|Poltava|size=22px}} [[ポルタヴァ州|ポルタヴァ]]&lt;br /&gt;<br /> {{Flagicon|Rivne|size=22px}} [[リウネ州|リウネ]]&lt;br /&gt;}}<br /> &lt;/div&gt;<br /> |col3width=16em<br /> |col3 = &lt;div&gt;<br /> {{nowrap|&lt;br /&gt;<br /> {{Flagicon|Sumy|size=22px}} [[スームィ州|スームィ]]&lt;br /&gt;<br /> {{Flagicon|Ternopil|size=22px}} [[テルノーピリ州|テルノーピリ]]&lt;br /&gt;<br /> {{Flagicon|Kharkiv|size=22px}} [[ハルキウ州|ハルキウ]]&lt;br /&gt;<br /> {{Flagicon|Kherson|size=22px}} [[ヘルソン州|ヘルソン]]&lt;br /&gt;<br /> {{Flagicon|Khmelnytskyi|size=22px}} [[フメリヌィーツィクィイ州|フメリヌィーツィクィイ]]&lt;br /&gt;<br /> {{Flagicon|Cherkasy|size=22px}} [[チェルカースィ州|チェルカースィ]]&lt;br /&gt;<br /> {{Flagicon|Chernivtsi|size=22px}} [[チェルニウツィー州|チェルニウツィー]]&lt;br /&gt;<br /> {{Flagicon|Chernihiv|size=22px}} [[チェルニーヒウ州|チェルニーヒウ]]&lt;br /&gt;}}<br /> &lt;/div&gt;<br /> |col4width=13em<br /> |col4 = &lt;div&gt;<br /> {{nowrap|&#039;&#039;&#039;自治共和国&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;<br /> {{Flagicon|Crimea|size=22px}} [[クリミア自治共和国|クリミア]](*)&lt;br /&gt;<br /> &lt;br /&gt;<br /> &#039;&#039;&#039;特別市&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;<br /> {{Flagicon|Kiev City|size=22px}} [[キエフ]]&lt;br /&gt;<br /> {{Flagicon|Sevastopol|size=22px}} [[セヴァストポリ]](*)&lt;br /&gt;}}<br /> &lt;/div&gt;<br /> |below = (*)は事実上[[ロシア連邦]]の一部。<br /> }}&lt;noinclude&gt;<br /> [[Category:ウクライナ関連のテンプレート|ちほうきようせいくかく]]<br /> [[Category:ヨーロッパ諸国の地方区分のテンプレート|うくらいな]]<br /> [[Category:ウクライナの地方行政区分|*]]<br /> &lt;/noinclude&gt;</div> 153.188.171.24 category:トルクメニスタンの都市 2018-07-11T02:54:20Z <p>153.188.171.24: </p> <hr /> <div>{{Commonscat}}<br /> [[トルクメニスタン]]にある都市に関するカテゴリ。<br /> <br /> [[Category:トルクメニスタンの地方区分|とし]]<br /> [[Category:各国の都市|とるくめにすたん]]</div> 153.188.171.24 category:ウズベキスタンの都市 2018-07-11T02:48:38Z <p>153.188.171.24: </p> <hr /> <div>{{Commonscat|Cities in Uzbekistan}}<br /> <br /> [[Category:ウズベキスタンの地方行政区画|とし]]<br /> [[Category:各国の都市|うすへきすたん]]</div> 153.188.171.24 ブハラ 2018-07-11T02:39:09Z <p>153.188.171.24: </p> <hr /> <div>{{世界の市<br /> |正式名称 = ブハラ<br /> |公用語名称 = {{Lang|uz|Buxoro}}&lt;br&gt;{{flagicon|Uzbekistan}}<br /> |愛称 = <br /> |標語 = <br /> |画像 = bukhara03.jpg <br /> |画像サイズ指定 = 250px<br /> |画像の見出し =ミーリ・アラブのマドラサ<br /> |市旗 =<br /> |市章 = <br /> |位置図 =<br /> |位置図サイズ指定 = <br /> |位置図の見出し = <br /> |緯度度=39 |緯度分=46 |緯度秒= |N(北緯)及びS(南緯)= N<br /> |経度度=64 |経度分=26 |経度秒= |E(東経)及びW(西経)= E<br /> |成立区分 = <br /> |成立日 = <br /> |成立区分1 = <br /> |成立日1 = <br /> |成立区分2 = <br /> |成立日2 = <br /> |旧名 = <br /> |創設者 = <br /> |下位区分名 = <br /> |下位区分種類1 = <br /> |下位区分名1 = <br /> |下位区分種類2 = <br /> |下位区分名2 = <br /> |下位区分種類3 = <br /> |下位区分名3 = <br /> |下位区分種類4 = <br /> |下位区分名4 = <br /> |規模 = 市<br /> |最高行政執行者称号 = <br /> |最高行政執行者名 = <br /> |最高行政執行者所属党派 = <br /> |総面積(平方キロ) = <br /> |総面積(平方マイル) = <br /> |陸上面積(平方キロ) = <br /> |陸上面積(平方マイル) = <br /> |水面面積(平方キロ) = <br /> |水面面積(平方マイル) = <br /> |水面面積比率 = <br /> |市街地面積(平方キロ) = <br /> |市街地面積(平方マイル) = <br /> |都市圏面積(平方キロ) = <br /> |都市圏面積(平方マイル) = <br /> |標高(メートル) = <br /> |標高(フィート) = <br /> |人口の時点 = 1999年<br /> |人口に関する備考 = <br /> |総人口 = 237,900 <br /> |人口密度(平方キロ当たり) = <br /> |人口密度(平方マイル当たり) = <br /> |市街地人口 = <br /> |市街地人口密度(平方キロ) = <br /> |市街地人口密度(平方マイル) = <br /> |都市圏人口 = <br /> |都市圏人口密度(平方キロ) = <br /> |都市圏人口密度(平方マイル) = <br /> |等時帯 = GMT +5<br /> |協定世界時との時差 = <br /> |夏時間の等時帯 = <br /> |夏時間の協定世界時との時差 = <br /> |郵便番号の区分 = <br /> |郵便番号 = <br /> |市外局番 = <br /> |ナンバープレート = <br /> |ISOコード = <br /> |公式ウェブサイト = http://www.buxoro.uz/<br /> |備考 = <br /> }}<br /> {{世界遺産概要表|<br /> site_img =画像:Bukhara city skyline Bibi-Khanym Mosque.jpg|<br /> site_img_capt =ブハラの市街風景|<br /> site_img_width = 275px|<br /> ja_name = ブハラ歴史地区|<br /> en_name =Historic Centre of Bukhara|<br /> fr_name =Centre historique de Boukhara|<br /> country = ウズベキスタン|<br /> criterion_c = (2), (4), (6)|<br /> rg_year = 1993年|<br /> ex_rg_year = |<br /> remarks = |<br /> url_no = 602|<br /> map_img = 画像:LocMap of WH Bukhara.png|<br /> map_img_width = 275px<br /> }}<br /> &#039;&#039;&#039;ブハラ&#039;&#039;&#039;({{Lang-uz|&#039;&#039;&#039;Buxoro&#039;&#039;&#039;}};{{Lang-ru|&#039;&#039;&#039;Бухара́&#039;&#039;&#039;}})は、[[ウズベキスタン]]の[[都市]]で、[[ブハラ州]]の州都。[[ザラフシャン川]]下流域に[[古代]]より栄えた[[オアシス都市]]で、[[1993年]]には、旧市街地が[[国際連合教育科学文化機関|ユネスコ]]の[[世界遺産]]に登録されている。人口は約23万7千人([[1995年]])。<br /> <br /> 都市名は、[[ソグド語]]では、pwγ&#039;r/puχār と呼ばれていたようで、イスラーム時代以降、アミール国期までこの地域の伝統的な書写言語であった[[ペルシア語|近世ペルシア語]]・[[チャガタイ語]]では{{Lang|fa|بُخارا}} (Bukhārā; ブハーラー)と表記される。諸外国語による表記ではBukharaあるいはBokharaとされることが多く、古くは日本語でも&#039;&#039;&#039;ボハラ&#039;&#039;&#039;と書かれることがあった。「ブハーラー」とは元来[[サンスクリット語]]で「僧院」を意味する Vihāra ないし Vihāraḥ に由来すると考えられている。<br /> <br /> 古代から[[サマルカンド]]と並ぶいわゆる[[ソグディアナ]]の中心都市であり、イスラーム時代以降、特に[[サーマーン朝]]の首都となってからもイラン・中央アジアにおける最も重要な都市のひとつであった。また近代でも[[20世紀]]の初頭までブハラ・アミール国([[ブハラ・ハン国]])の首都が置かれ、[[西トルキスタン]]における政治・文化の中心都市であった。特にサーマーン朝にはじまる近世ペルシア語文学の発信源としてこの都市が残した足跡は大きい。また、[[シャイバーニー朝]]やジャーン朝においてはブハラの宮廷でペルシア語に加え、[[チャガタイ語]]文芸運動を隆盛させその中心都市としても発展した。このような歴史背景から、現在は住民の大多数が民族籍上[[ウズベク人]]とされているものの、住民の間ではペルシア語系の[[タジク語]]が広く話され、[[タジク人]]としてのアイデンティティを有する者も数多く存在する複雑な民族構成をもつ。<br /> <br /> == 地勢・産業 ==<br /> ブハラは、[[ザラフシャン川]]下流域のオアシス地帯に位置し、その中心都市である。約220キロ東に[[サマルカンド]]、450キロ北東にウズベキスタンの首都[[タシュケント]]が位置している。約85キロほど南西が[[トルクメニスタン]]との国境であり、トルクメニスタンの[[テュルクメナバート]]は約100キロ南西である。<br /> <br /> 産業は[[天然ガス]]を産出するほか、[[繊維]]、[[絨毯]]などの生産でも知られる。旧市街地が世界遺産に登録されて以降は観光産業にも力を入れている&lt;ref name=&quot;komatsu&quot;&gt;小松「ブハラ」『中央ユーラシアを知る事典』&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> == 歴史 ==<br /> 中央アジアの乾燥地帯の中に位置しながら水資源に恵まれたオアシスに位置するブハラに人々が集落を建築し始めたのはきわめて古く、[[考古学]]上の発見から[[紀元前5世紀]]には[[城壁]]を持つ要塞都市が成立していたことが明らかになっている。<br /> &lt;br /&gt;古代のこの地方では[[ペルシア帝国]]の影響を受けたイラン系の文明が発達し、紀元後のブハラでは[[ソグド人]]の[[都市国家]]が建設された。都市国家ブハラの商人たちは東西交易の仲介者として活躍し、[[隋]][[唐]]時代の[[中国]]の記録には「安国」という名称で登場する。[[1060年]]に成立した[[唐]]の歴史書[[新唐書]]西域伝には「安国は又の名を布豁、あるいは捕喝という」という意味の記載がある&lt;ref&gt;[[:s:zh:新唐書/卷221下|新唐書巻221下 列伝第146下 西域下]](ウィキソース中国語版)。&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> しかし[[8世紀]]初頭にはこの地方に[[イスラム帝国]]の勢力が及び、ブハラは[[709年]]に[[ウマイヤ朝]]の[[ホラーサーン]]総督[[クタイバ・イブン=ムスリム]]によって征服された。これ以後ブハラは[[イスラム教]]を奉ずる勢力の支配下に置かれ、次第にイスラム化が進む。<br /> <br /> 9世紀後半、土着のイラン系貴族が[[アッバース朝]]から自立して[[サーマーン朝]]が成立し、ブハラは10世紀の末まで続いた王朝の首都となった。サーマーン朝の時代には東方の草原地帯から[[イスラム世界]]に向かって送り込まれる[[テュルク]]系の[[マムルーク]](奴隷軍人)の交易が盛んに行われたことにより、マムルーク交易と結びついた商業都市として発展を遂げた。サーマーン朝時代に市域は大幅に拡張され、要塞と長大な市壁に囲まれた市街地、およびその周囲に発達した郊外地域からなる大都市となり、ブハラはサマルカンドにかわって[[マー・ワラー・アンナフル]]の中心都市に成長した。<br /> <br /> また文化的には、サーマーン朝の君主の保護のもと、イスラムによる[[サーサーン朝]]の征服以来衰退していたペルシア語による文化活動が興隆し、[[アラビア語]]の語彙を取り入れ[[アラビア文字]]で表記するようになった近世ペルシア語の文学活動の中心地となった。また君主の保護によってさまざまな施設が建設され、中でも第2代君主[[イスマーイール・サーマーニー]]を葬った[[イスマーイール・サーマーニー廟]]は、現在まで残されており貴重な文化遺産になっている。<br /> <br /> サーマーン朝の滅亡後はテュルク系の[[カラハン朝]]、[[ホラズム・シャー朝]]の支配下に入り、政治・経済・文化の中心ではなくなったが、依然として中央アジア屈指の大都市であった。しかし[[13世紀]]の前半には[[モンゴル]]の征服を受け、市街が破壊されていったんは荒廃した。その後の[[モンゴル帝国]]支配下で徐々に人口が回復し、同世紀の後半までに都市は復興したが、[[15世紀]]の[[ティムール朝]]まで政治的な中心はサマルカンドに奪われたこともあり、征服以前の繁栄には及ばなかった。[[15世紀]]初頭、[[明]]の[[永楽帝]]の命を受けた外交使節の[[陳誠 (明朝)|陳誠]]が陸路でこの地を訪れ、『[[西域番国志]]』に当時のブハラ(「卜花児」と記録されている)の様子を記録している。<br /> <br /> [[16世紀]]後半に至り、ウズベク人の[[シャイバーン朝]]がブハラを実質上の首都と定めるとともに、ブハラは再び拡大に転じた。[[アブドゥッラーフ2世]]([[1583年]] - [[1598年]])はブハラの再開発を推進し&lt;ref&gt;堀川「民族社会の形成」『中央アジア史』、p162-163&lt;/ref&gt;、王族、[[ナクシュバンディー教団]]、貴族によって[[モスク]]、[[マドラサ]]、公衆浴場、商店街が建設された。シャイバーン朝以来、アストラハン朝、マンギト朝とこの地方を支配した歴代の王朝はブハラを首都とし、このためこの政権は[[ブハラ・ハン国]](ブハラ・アミール国)と呼ばれている。ブハラ・ハン国の首都となったブハラは中央アジアにおけるイスラム教学の中心地としても重要な役割を果たし、「ブハーラーイ・シャリーフ(聖なるブハラ)」と呼ばれるようになったブハラは各地から多くの[[ムスリム]]が巡礼や修学に訪れる宗教都市の性格も帯びた。<br /> <br /> [[19世紀]]後半にブハラは南下政策を推進する[[ロシア帝国]]によって征服され、ブハラ・アミール国はロシアの[[保護国]]としてその[[植民地]]に組み込まれた。ロシア人たちはムスリムたちが住む旧市街を避け、その隣接地に新ブハラ(カガン)と呼ばれる近代都市を建設したため、ブハラは本来の都市構造と景観を維持できた&lt;ref name=&quot;komatsu&quot;/&gt;。また、新ブハラを起点としてロシアの各地とブハラを結ぶ[[鉄道]]の敷設が進められ、ブハラはロシア帝国と緊密に結び付けられた。カガン駅は現在もブハラの鉄道の玄関口になっている。<br /> <br /> ロシアの支配下に入っても、旧市街に住む[[アミール]](君主)をはじめとする支配者たちは一定の権限を残されて温存され、またブハラ人社会の指導的な階層は伝統的なイスラム教育を受けた宗教指導者たちが占めていた。20世紀初頭になると、ロシア帝国内のムスリムの間で起こっていた教育の西洋化改革を訴える啓蒙活動([[ジャディード運動]])の影響が[[タタール人|ヴォルガ・タタール人]]の手を経てブハラにまで及び、「[[青年ブハラ人]]」と呼ばれる若い知識人たちの活動が起こった。[[1910年代]]に入ると青年ブハラ人の運動は急進化し、アミール専制を批判し、国内改革を盛んに訴えた。<br /> <br /> [[1917年]]の[[ロシア革命]]の影響はブハラにも及び、[[1920年]]に[[赤軍]]の軍事介入でブハラで[[革命]]が成功、ブハラ・アミール国が滅んで[[ブハラ人民ソビエト共和国]]が成立した。しかし旧支配層から国外の[[汎トルコ主義|汎トルコ主義者]]まで巻き込んだ革命勢力に対する反抗([[バスマチ運動]])や、[[ボリシェヴィキ|ロシア共産党]]のソビエト政権による介入・粛清によって共和国の指導層は急速に瓦解した。最終的に[[1924年]]にブハラ人民ソビエト共和国は解体されて、民族の分布を基準とする境界線による新しい共和国が編成されることになった。<br /> <br /> 民族的境界策定にあたって旧来ブハラ・アミール国の領域に住んでいた住民は、テュルク語系のウズベク語を母語とする人々はウズベク人、ペルシア語系のタジク語を母語とする人々はタジク人とされたが、ブハラ市民の大多数はウズベク人と認定され、ブハラはウズベク・ソビエト社会主義共和国に編入された。しかし歴史的に中央アジアにおけるペルシア語文学の中心都市であったブハラではタジク語が日常的に話される割合も大きく、民族境界画定の恣意性が指摘されることもある。<br /> <br /> [[1991年]]に[[ソビエト連邦]]が崩壊してウズベキスタン共和国が独立すると、ブハラは新しいウズベク独立国家の優れた文化遺産として再評価されるようになった。1993年のユネスコ世界遺産登録を経て、観光都市としてのブハラの再開発が進んでいる。ユネスコの後援で開催された&lt;ref&gt;[http://www.uzbekistan-airways.co.jp/bukhara.html ウズベキスタン航空・観光情報ブハラの紹介]&lt;/ref&gt;[[1997年]]のブハラ建設2500周年の祭典をきっかけにブハラの歴史的建造物の修復が行われたが、建物が本来持つ特色が失われたという声もある&lt;ref&gt;帯谷知可「ブハラとサマルカンド」『中央アジアを知るための60章』、146頁&lt;/ref&gt;<br /> <br /> 一方ソビエトの崩壊によってタジキスタンとの間の境界は永続的な独立主権国家間の国境となり、ブハラでは多くのタジク語を話す住民、タジク人住民が存在するという矛盾が固定化された。現在も、タジク人住民の中には、ウズベキスタンよりもむしろ[[タジキスタン|タジキスタン共和国]]への共感を抱く者もいる&lt;ref name=&quot;komatsu&quot;/&gt;。<br /> <br /> == 世界遺産 ==<br /> === 登録基準 ===<br /> {{世界遺産基準|2|4|6}}<br /> &lt;center&gt;&lt;gallery widths=&quot;200&quot;&gt;<br /> ファイル:Bokhara1909.jpg|アルク(城塞)&lt;ref&gt;{{Cite web |url = https://kotobank.jp/word/アルク城-670194 |title = デジタル大辞泉の解説 |publisher = コトバンク |accessdate = 2018-05-13 }}&lt;/ref&gt;<br /> ファイル:Samaniden-Mausoleum 2006.jpg|ブハラのイスマーイール・サマニ廟<br /> ファイル:Bukhara poi kalon.jpg|カラーン・モスクとミナレット<br /> ファイル:Bukhara chor minor.jpg|チャハル・ミナール(「4本のミナレット」)<br /> &lt;/gallery&gt;&lt;/center&gt;<br /> <br /> == 気候 ==<br /> 典型的な大陸性気候にあり、昼夜の温度差は大きい。ブハラ付近の砂漠地帯では夏に最高気温49℃、冬に最低気温-32℃が観測されたことがある&lt;ref&gt;関『ウズベキスタン シルクロードのオアシス』、154頁&lt;/ref&gt;。<br /> {{Weather box<br /> |location = ブハラ<br /> |metric first = Y<br /> |single line = Y<br /> |Jan high C = 6.5<br /> |Feb high C = 8.5<br /> |Mar high C = 16.0<br /> |Apr high C = 24.0<br /> |May high C = 31.0<br /> |Jun high C = 34.0<br /> |Jul high C = 35.0<br /> |Aug high C = 33.5<br /> |Sep high C = 29.0<br /> |Oct high C = 23.5<br /> |Nov high C = 15.0<br /> |Dec high C = 7.5<br /> |Jan low C = −4.5<br /> |Feb low C = −3.5<br /> |Mar low C = 4.5<br /> |Apr low C = 11.0<br /> |May low C = 14.0<br /> |Jun low C = 18.0<br /> |Jul low C = 20.0<br /> |Aug low C = 18.0<br /> |Sep low C = 12.0<br /> |Oct low C = 8.0<br /> |Nov low C = 1.0<br /> |Dec low C = −3.0<br /> |source 1 = 関治晃『ウズベキスタン シルクロードのオアシス』(東方出版, 2000年10月)、155頁より<br /> |date=August 2000<br /> }}<br /> <br /> <br /> == 交通 ==<br /> 空路<br /> :[[ブハラ空港]]…市内中心部から5km離れた場所にある。[[タシュケント]]からは日曜日以外、毎日1-2便が運航されている&lt;ref name=&quot;chikyu&quot;&gt;「地球の歩き方」編集室編『中央アジア サマルカンドとシルクロードの国々(2011‐2012年版)』、73頁&lt;/ref&gt;。[[モスクワ]]への便もある。<br /> 陸路<br /> :[[カガン駅]]…[[1887年]]完成。市内中心部から12km離れた南東部に鉄道の駅がある&lt;ref name=&quot;komatsu&quot;/&gt;。ブハラ市内には鉄道駅はない。タシュケントとは、特急列車シャルク号と夜行列車によって結ばれ、どちらも毎日運行されている&lt;ref name=&quot;chikyu&quot;/&gt;。<br /> <br /> == 主な出身者 ==<br /> * [[ムハンマド・アル=ブハーリー]]([[:en:Muhammad al-Bukhari]])<br /> *: 9世紀に活躍したイラン系の[[ハディース]]学者。イスラム世界の各地をめぐって約60万のハディースを収集したとされる。彼が編纂した『[[サヒーフ・アル=ブハーリー|真正集]]』はスンナ派で最も権威あるハディース集成書の筆頭として現在でも重んじられている。<br /> <br /> * [[イブン・スィーナー]]<br /> *: 10世紀から11世紀にかけて活躍した[[医学]]者・[[哲学]]者。サーマーン朝末期に君主の侍医を務めた。著書である『[[医学典範]]』はヨーロッパの近代医学にまで影響を与えたとされる。<br /> <br /> == 姉妹都市 ==<br /> * {{flagicon|Uzbekistan}} [[サマルカンド]](ウズベキスタン)<br /> * {{flagicon|Tajikistan}} [[ドゥシャンベ]](タジキスタン)<br /> * {{flagicon|Tajikistan}} [[ホジェンド]](タジキスタン)<br /> * {{flagicon|Iran}} [[ニーシャープール]]([[イラン]])<br /> * {{flagicon|USA}} [[サンタフェ (ニューメキシコ州)|サンタフェ]]([[アメリカ合衆国]])<br /> * {{flagicon|France}} [[リュエイユ=マルメゾン]]([[フランス]])<br /> * {{flagicon|Spain}} [[コルドバ (スペイン)|コルドバ]]([[スペイン]])<br /> * {{flagicon|Turkey}} [[マラティヤ]]([[トルコ]])<br /> * {{flagicon|India}} [[ウエストカーンプル]]([[:en:West Kanpur]])([[インド]])<br /> <br /> == 注釈 ==<br /> {{脚注ヘルプ}}<br /> {{Reflist}}<br /> <br /> == 参考文献 ==<br /> * [[堀川徹]]「民族社会の形成」『中央アジア史』収録([[竺沙雅章]]監修、間野英二責任編集, アジアの歴史と文化8, [[同朋舎]], 1999年4月)<br /> * [[関治晃]]『ウズベキスタン シルクロードのオアシス』([[東方出版]], 2000年10月)<br /> * [[小松久男]]「ブハラ」『中央ユーラシアを知る事典』([[平凡社]], 2005年4月)<br /> * [[帯谷知可]]「ブハラとサマルカンド」『中央アジアを知るための60章』収録([[宇山智彦]]編著, [[明石書店]], 2010年2月)<br /> * 「地球の歩き方」編集室編『中央アジア サマルカンドとシルクロードの国々(2011‐2012年版)』([[地球の歩き方]], [[ダイヤモンド社]], 2011年4月)<br /> <br /> == 外部リンク ==<br /> {{commonscat|Bukhara}}<br /> * [http://www.ne.jp/asahi/arc/ind/2_meisaku/68_bukhara/bukhara.htm イスラーム建築の名作 「ブハラのカラーン・モスク」 (ウズベキスタン)]<br /> * [http://www.ne.jp/asahi/arc/ind/2_meisaku/65_samanid/samanid.htm イスラーム建築の名作 「ブハラのサーマン朝の廟」 (ウズベキスタン)]<br /> <br /> {{ウズベキスタンの世界遺産}}<br /> {{ウズベキスタンの都市}}<br /> {{昭武九姓}}<br /> <br /> {{DEFAULTSORT:ふはら}}<br /> [[Category:ブハラ|*]]</div> 153.188.171.24 テンプレート:ウズベキスタンの都市 2018-07-11T02:09:23Z <p>153.188.171.24: </p> <hr /> <div>{{Navbox<br /> |name =ウズベキスタンの都市<br /> |title = [[Image:Flag of Uzbekistan.svg|30px|ウズベキスタンの国旗]] [[ウズベキスタン|{{color|#FFFFFF|ウズベキスタン}}]]の[[ウズベキスタンの都市の一覧|{{color|#FFFFFF|都市}}]]<br /> |state = {{{state|autocollapse}}}<br /> |listclass = hlist<br /> |titlestyle = background:#0095B6;color:#FFFFFF;<br /> |groupstyle = background:#0095B6;color:#FFFFFF;<br /> |belowstyle = background::#0095B6;<br /> <br /> |group1=首都<br /> |list1 =[[タシュケント]]<br /> <br /> |group2= 州都<br /> |list2 =[[アンディジャン]] &amp;#124; [[ウルゲンチ]] &amp;#124; [[カルシ]] &amp;#124; [[グリスタン]] &amp;#124; [[サマルカンド]] &amp;#124; [[ジザフ]] &amp;#124; [[テルメズ]] &amp;#124; [[ナヴォイ]] &amp;#124; [[ナマンガン]] &amp;#124; [[ヌクス]] &amp;#124; [[フェルガナ]] &amp;#124; [[ブハラ]]<br /> <br /> |group3= 人口10万人以上の都市<br /> |list3 =[[アルマリク (ウズベキスタン)|アルマリク]] &amp;#124; [[アングレン]] &amp;#124; [[コーカンド]] &amp;#124; [[チルチク]] &amp;#124; [[デナウ]] &amp;#124; [[ベカバード]] &amp;#124; [[ホジェリ]] &amp;#124; [[マルギラン]]<br /> <br /> |group4= 人口5万人以上の都市<br /> |list4 =[[アサカ (ウズベキスタン)|アサカ]] &amp;#124; [[ウルグト]] &amp;#124; [[カガン (ウズベキスタン)|カガン]] &amp;#124; [[カッタクルガン]] &amp;#124; [[カサン]] &amp;#124; [[クングラド]] &amp;#124; [[ザラフシャン]] &amp;#124; [[シャフリサブス]] &amp;#124; [[シャフリハン]] &amp;#124; [[タヒアタシュ]] &amp;#124; [[チャルタク]] &amp;#124; [[チュスト]] &amp;#124; [[トゥルトクル]] &amp;#124; [[ヒヴァ]] &amp;#124; [[ベルニー (ウズベキスタン)|ベルニー]] &amp;#124; [[ヤンギユル]]<br /> }}&lt;noinclude&gt;<br /> {{collapsible option}}<br /> [[Category:ウズベキスタン関連のテンプレート|とし]]<br /> [[Category:ウズベキスタンの都市|*]]<br /> &lt;/noinclude&gt;</div> 153.188.171.24 テルメズ 2018-07-11T01:59:33Z <p>153.188.171.24: </p> <hr /> <div>{{Infobox settlement<br /> | official_name = テルメズ<br /> | native_name = {{lang|uz|Termiz / Термиз}}<br /> | image_skyline = Termez Sultan-Saodat.jpg<br /> | imagesize = 300px<br /> | image_caption =Sultan Saodat Ensemble<br /> | image_flag =<br /> | image_seal =<br /> | image_map =<br /> | map_caption =<br /> | pushpin_map = Uzbekistan<br /> | pushpin_label_position = <br /> | pushpin_map_caption = ウズベキスタン国内の位置<br /> | latd = 37 | latm = 13 | lats = | latNS = N<br /> | longd = 67 | longm = 17 | longs = | longEW = E<br /> | coordinates_type = region:UZ_type:city<br /> | coordinates_display = inline,title<br /> | subdivision_type = [[国の一覧|国]]<br /> | subdivision_name = [[Image:Flag of Uzbekistan.svg|25px]] [[ウズベキスタン]]<br /> | subdivision_type1 = [[ウズベキスタンの地方行政区画|州]]<br /> | subdivision_name1 = [[スルハンダリヤ州]]<br /> | subdivision_type2 = 地区<br /> | subdivision_name2 = テルメズ地区<br /> | established_title =設立年<br /> | established_date =1929年<br /> | government_type =市<br /> | leader_title =市長<br /> | leader_name =<br /> | area_magnitude =<br /> | area_total_sq_mi =<br /> | area_total_km2 =<br /> | area_land_sq_mi =<br /> | area_land_km2 =<br /> | area_urban_sq_mi =<br /> | area_urban_km2 =<br /> | area_metro_km2 =<br /> | area_metro_sq_mi =<br /> | population_as_of = 2012年<br /> | population_footnotes =<br /> | population_total = 144,219&lt;ref name=&quot;world gazetteer&quot;&gt;{{Cite web|url=http://population-statistics.com/wg.php?x=&amp;men=gcis&amp;lng=es&amp;des=wg&amp;geo=-225&amp;srt=npan&amp;col=abcdefghinoq&amp;msz=1500|title=Uzbekistán: Las ciudades más grandes con estadísticas de población|publisher=population-statistics.com|accessdate=2012-12-17}}&lt;/ref&gt;<br /> | population_urban =<br /> | population_metro =<br /> | population_density_sq_mi =<br /> | population_density_km2 =<br /> | timezone =ウズベキスタン標準時<br /> | utc_offset =+5<br /> | timezone_DST =<br /> | utc_offset_DST =<br /> | elevation_footnotes =<br /> | elevation_m =302<br /> | elevation_ft =<br /> | postal_code_type =[[郵便番号]]<br /> | postal_code =190100-190115&lt;ref&gt;[http://postcodesdb.com/AlphabeticSearch.aspx?country=Uzbekistan&amp;city=Termez Postal Code Search - Termez] postcodesdb.com、2012年12月17日閲覧。&lt;/ref&gt;<br /> | area_code =+998-7622<br /> | website =<br /> | footnotes =<br /> }}<br /> <br /> &#039;&#039;&#039;テルメズ&#039;&#039;&#039;([[ラテン文字]]:Termez、{{lang-uz|Termiz / Термиз}}、{{lang-ru|Термез}}、{{lang-fa|ترمذ}} 、{{lang-ar|ترمذ}})は[[ウズベキスタン共和国]]の都市であり、[[スルハンダリヤ州]]の州都である。[[アフガニスタン|アフガニスタン・イスラム共和国]]は[[アムダリヤ川]]を隔てた向こう側である。町の名前の由来は[[ギリシア語]]で「暑い所」を意味する&#039;&#039;thermos&#039;&#039;にあり、[[アレクサンドロス3世|アレクサンドロス大王]]の東征の時代にまで遡ることができるという説がある&lt;ref&gt;E. M. Pospelov, &#039;&#039;Geograficheskie nazvaniya mira&#039;&#039; (Moscow, 1998), p. 415: &quot;here in fact is found the hottest place in Central Asia (in June 1914 a temperature of 49.5 C was recorded in Termez.&quot;&lt;/ref&gt;。実際、ウズベキスタンで最も暑い都市である。{{仮リンク|イスラーム伝承学|en|Hadith studies}}において最も重要な書物の一つ『{{仮リンク|スナン・アッ=ティルミズィー|en|Jami` at-Tirmidhi|ar|سنن الترمذي}}』を著した{{仮リンク|アブー・イーサー・アッ=ティルミズィー|en|Al-Tirmidhi|label=ティルミズィー}}(824年生)や、イスラーム法学者の{{仮リンク|アル=ハキーム・アッ=ティルミズィー|en|Al-Hakim al-Tirmidhi}}(8世紀中葉生まれ)の出身地として知られる。後者は「ハキーム」のラカブが示すとおり諸学に秀でた人物であり、最初期のスーフィーの一人でもあった。ハキームは「テルメズの父」(Termiz Ota)と呼ばれ、テルメズには彼の名前を冠したモスクがある。<br /> <br /> == 歴史 ==<br /> [[バクトリア]]の時代には既に定住があったことが認められる。[[クシャーナ朝]]の時は[[仏教]]の盛んな土地になり、仏教遺跡が多く残っている。『[[大唐西域記]]』では「呾蜜」の漢字をあてて、伽藍が十余箇所あることを伝えている&lt;ref name=&quot;mizutani&quot;&gt;{{cite book|和書|author=[[玄奘]]|title=大唐西域記|translator=水谷真成|volume=1|year=1999|page=97|publisher=[[平凡社東洋文庫]]}}&lt;/ref&gt;。[[7世紀]]以降[[アラブ]]の進入で[[イスラム教]]の中心地となった。<br /> <br /> 13世紀に[[モンゴル]]によって破壊された後、旧市街の北2マイルに新市街が作られた&lt;ref name=&quot;mizutani&quot;/&gt;。[[ティムール]]の師であり哲学者であったSaid Barakaはこの町の出身であり、ティムールの治世には繁栄を極めた。<br /> [[17世紀]]に破壊されたが、[[1897年]]に[[ロシア帝国]]の要塞が造られ、歴史に再び登場する。[[アフガニスタン紛争]]では[[ソビエト連邦]]軍が駐留し、アフガニスタンへの重要な軍事地点となった。<br /> <br /> ==気候==<br /> [[ケッペンの気候区分]]では[[砂漠気候]]に属し、夏は長く気温は40度を超えることが多い。年間[[降水量]]も156mmと少ない。<br /> <br /> &lt;div style=&quot;width:70%&quot;&gt;<br /> {{Weather box<br /> |metric first= Yes<br /> |single line= Yes<br /> |location= テルメズ<br /> |Jan record high C = 23.8<br /> |Feb record high C = 28.4<br /> |Mar record high C = 34.4<br /> |Apr record high C = 38.7<br /> |May record high C = 43.6<br /> |Jun record high C = 46.5<br /> |Jul record high C = 47.0<br /> |Aug record high C = 46.3<br /> |Sep record high C = 41.5<br /> |Oct record high C = 37.0<br /> |Nov record high C = 32.4<br /> |Dec record high C = 26.7<br /> |year record high C = 47.0<br /> |Jan high C = 10.4<br /> |Feb high C = 13.3<br /> |Mar high C = 18.9<br /> |Apr high C = 26.6<br /> |May high C = 32.8<br /> |Jun high C = 38.0<br /> |Jul high C = 39.7<br /> |Aug high C = 38.0<br /> |Sep high C = 32.8<br /> |Oct high C = 25.8<br /> |Nov high C = 18.8<br /> |Dec high C = 12.1<br /> |year high C = 25.60<br /> |Jan mean C = 4.2<br /> |Feb mean C = 6.7<br /> |Mar mean C = 12.1<br /> |Apr mean C = 18.9<br /> |May mean C = 24.6<br /> |Jun mean C = 29.1<br /> |Jul mean C = 30.5<br /> |Aug mean C = 28.4<br /> |Sep mean C = 22.8<br /> |Oct mean C = 16.5<br /> |Nov mean C = 10.8<br /> |Dec mean C = 5.6<br /> |year mean C = 17.52<br /> |Jan low C = &amp;minus;0.3<br /> |Feb low C = 1.7<br /> |Mar low C = 6.5<br /> |Apr low C = 12.0<br /> |May low C = 16.5<br /> |Jun low C = 19.9<br /> |Jul low C = 21.4<br /> |Aug low C = 19.2<br /> |Sep low C = 13.9<br /> |Oct low C = 8.6<br /> |Nov low C = 4.7<br /> |Dec low C = 1.0<br /> |year low C = 10.43<br /> |Jan record low C = &amp;minus;19.7<br /> |Feb record low C = &amp;minus;17.5<br /> |Mar record low C = &amp;minus;7.9<br /> |Apr record low C = &amp;minus;2.0<br /> |May record low C = &amp;minus;0.1<br /> |Jun record low C = 11.4<br /> |Jul record low C = 12.9<br /> |Aug record low C = 9.3<br /> |Sep record low C = 2.8<br /> |Oct record low C = &amp;minus;4.2<br /> |Nov record low C = &amp;minus;11.0<br /> |Dec record low C = &amp;minus;18.4<br /> |year record low C = &amp;minus;19.7<br /> |rain colour=green<br /> |Jan rain mm = 24<br /> |Feb rain mm = 24<br /> |Mar rain mm = 36<br /> |Apr rain mm = 23<br /> |May rain mm = 9<br /> |Jun rain mm = 2<br /> |Jul rain mm = 0<br /> |Aug rain mm = 0<br /> |Sep rain mm = 2<br /> |Oct rain mm = 3<br /> |Nov rain mm = 12<br /> |Dec rain mm = 21 <br /> |Jan rain days = 7<br /> |Feb rain days = 10<br /> |Mar rain days = 11<br /> |Apr rain days = 8<br /> |May rain days = 5<br /> |Jun rain days = 1<br /> |Jul rain days = 1<br /> |Aug rain days = 0<br /> |Sep rain days = 1<br /> |Oct rain days = 3<br /> |Nov rain days = 5<br /> |Dec rain days = 8<br /> |Jan humidity = 77 <br /> |Feb humidity = 71<br /> |Mar humidity = 66<br /> |Apr humidity = 57<br /> |May humidity = 45<br /> |Jun humidity = 36<br /> |Jul humidity = 36<br /> |Aug humidity = 38<br /> |Sep humidity = 45<br /> |Oct humidity = 53<br /> |Nov humidity = 65<br /> |Dec humidity = 76 <br /> |source 1= {{lang|ru|Погода и Климат}} &lt;ref&gt;[http://pogoda.ru.net/climate/38927.htm {{lang|ru|КЛИМАТ ТЕРМЕЗА}}] {{ru icon}}&lt;/ref&gt;<br /> |date= 2012-05<br /> }}<br /> &lt;/div&gt;<br /> <br /> ==交通==<br /> [[アムダリヤ川]]が街の付近を流れており、街には[[中央アジア]]唯一の[[河川港]]がある。また、街の郊外には[[アフガニスタン]]の[[ハイーラターン]]とテルメズを結ぶ[[アフガニスタン=ウズベキスタン友好橋]]が架かっている。<br /> <br /> 街には[[テルメズ空港]]もあり、首都[[タシュケント]]への国内便が毎日発着している。<br /> <br /> ==観光名所==<br /> [[File:Termez, stallholders.JPG|thumb|テルメズの市場]]<br /> [[File:Khakim-at-Termezi-Komplex Gesamt.jpg|thumb|アル=ハキーム・アッ=テルミーズィー・[[モスク]]]]<br /> *キルク・キズ (9-14世紀)<br /> *[[テルメズ・ハン国]]宮殿 (11-12世紀)<br /> *アル=ハキーム・アッ=テルミズィー・モスクとその付属施設(10-15世紀)<br /> *{{仮リンク|スルターン・サアーダ・モスク|en|Sultan Saodat|fa|سلطان سعادت (مجموعه تاریخی)}} とその付属施設(10-18世紀)<br /> *コキルドラ=ハーナカ(Kokildora-Khanaka)の霊廟 (16世紀)&lt;ref&gt;[http://sheherazade-voyages.fr/ouzb%C3%A9kistan/termez sheherazade-voyages.fr]&lt;/ref&gt;<br /> *カラ・テペ遺跡の[[仏教寺院]] (2-4世紀)<br /> *ファヤズ・テペ遺跡の仏教寺院 (1-3世紀)<br /> *ズールマラ塔 (1-2世紀)<br /> *(伝承学者の)ティルミズィー廟(9世紀頃。テルメズより60km北東の[[シェラバード]]の郊外にある。<br /> <br /> ==戦争==<br /> [[File:The friendship bridge connects Mangusar, Uzbekistan and Hariatan, Afghanistan.jpg|thumb|300px|街の郊外にある[[アフガニスタン=ウズベキスタン友好橋]]]]<br /> <br /> [[第二次世界大戦]]後も[[ソビエト連邦軍]]は長きに渡ってテルメズに基地を置き、1978年から1989年までの[[アフガニスタン紛争 (1978年-1989年)|アフガニスタン紛争]]では100,000人以上の[[ソビエト連邦軍]]がテルメズに駐留した。その当時ソビエト連邦が使用した[[空軍基地の一覧|空軍基地]]は現在[[アフガニスタン]]の[[国際治安支援部隊]]と共同で作戦を展開する[[ドイツ連邦軍]]や[[オランダ軍]]の駐留基地となっている。<br /> <br /> ==脚注==<br /> {{commonscat|Termez}}<br /> {{reflist}}<br /> <br /> ==外部リンク==<br /> *[http://www.uzbek.jp/city/surkhandarya.html スルハンダリヤ散策 - テルメズ] ウズベク・フレンズ {{ja icon}}<br /> *[http://tam.uz/ Archaeological Museum Termez] {{uz icon}}{{en icon}}{{de icon}}{{ru icon}}<br /> *[https://web.archive.org/web/20060618082218/http://foto.rambler.ru/users/gmamedaliev/termez/ Termez Photos]<br /> *[http://www.uzbektourism.uz/en/ Uzbek Tourism]<br /> *[https://web.archive.org/web/20070907173939/http://k-saray.com/photogallery/ Karvon Saroy travel to Uzbekistan]<br /> *[http://www.exploguide.com/site/sultan-saodat-mausoleum-termez Travel tips to visit Termez]<br /> *[http://www.iguide.uz local information, guide and interpreter in Termez]<br /> <br /> {{ウズベキスタンの都市}}<br /> <br /> {{Coord|37|13|N|67|17|E|format=dms|region:UZ_type:city|display=title}}<br /> {{DEFAULTSORT:てるめす}}<br /> {{uzbekistan-stub}}<br /> [[Category:テルメズ|*]]</div> 153.188.171.24 サマルカンド 2018-07-11T01:44:54Z <p>153.188.171.24: </p> <hr /> <div>{{世界の市<br /> |正式名称 = サマルカンド<br /> |公用語名称 = {{lang|uz|Samarqand}} &lt;br /&gt;{{lang|uz|Самарқанд}}&lt;br/&gt;{{flagicon|Uzbekistan}}<br /> |愛称 = <br /> |標語 = <br /> |画像 = Samarkand 2015 (12).JPG<br /> |画像サイズ指定 = <br /> |画像の見出し = 2015年<br /> |市旗 =<br /> |市章 = Coat of arms of Samarkand.svg<br /> |位置図 =Uz-map-ja.png<br /> |位置図サイズ指定 = <br /> |位置図の見出し = <br /> |緯度度=39 |緯度分=39 |緯度秒=15 |N(北緯)及びS(南緯)= N<br /> |経度度=66 |経度分=57 |経度秒=35 |E(東経)及びW(西経)= E<br /> |成立区分 = 定住<br /> |成立日 = 紀元前5世紀<br /> |成立区分1 = <br /> |成立日1 = <br /> |成立区分2 = <br /> |成立日2 = <br /> |旧名 = <br /> |創設者 = <br /> |下位区分名 = {{UZB}}<br /> |下位区分種類1 = [[ウズベキスタンの地方行政区画|州]]<br /> |下位区分名1 = [[サマルカンド州]]<br /> |下位区分種類2 = <br /> |下位区分名2 = <br /> |下位区分種類3 = <br /> |下位区分名3 = <br /> |下位区分種類4 = <br /> |下位区分名4 = <br /> |規模 = 市<br /> |最高行政執行者称号 = <br /> |最高行政執行者名 = <br /> |最高行政執行者所属党派 = <br /> |総面積(平方キロ) = <br /> |総面積(平方マイル) = <br /> |陸上面積(平方キロ) = <br /> |陸上面積(平方マイル) = <br /> |水面面積(平方キロ) = <br /> |水面面積(平方マイル) = <br /> |水面面積比率 = <br /> |市街地面積(平方キロ) = <br /> |市街地面積(平方マイル) = <br /> |都市圏面積(平方キロ) = <br /> |都市圏面積(平方マイル) = <br /> |標高(メートル) = 702<br /> |標高(フィート) = 2,303<br /> |人口の時点 = 2015年<br /> |人口に関する備考 = <br /> |総人口 = 504,423<br /> |人口密度(平方キロ当たり) = <br /> |人口密度(平方マイル当たり) = <br /> |市街地人口 = <br /> |市街地人口密度(平方キロ) = <br /> |市街地人口密度(平方マイル) = <br /> |都市圏人口 = <br /> |都市圏人口密度(平方キロ) = <br /> |都市圏人口密度(平方マイル) = <br /> |等時帯 = [[UTC+5]]<br /> |協定世界時との時差 = <br /> |夏時間の等時帯 = <br /> |夏時間の協定世界時との時差 = <br /> |郵便番号の区分 = <br /> |郵便番号 = <br /> |市外局番 = <br /> |ナンバープレート = <br /> |ISOコード = <br /> |公式ウェブサイト = [https://samarkand.blog/ Самарканд.блог]<br /> |備考 = <br /> }}<br /> {{世界遺産概要表<br /> |site_img = ファイル:Registan square2014.JPG<br /> |site_img_capt = レギスタン広場<br /> |site_img_width = 275px<br /> |ja_name = サマルカンド‐文化交差路<br /> |en_name = Samarkand - Crossroad of Cultures<br /> |fr_name = Samarkand – carrefour de cultures<br /> |country = ウズベキスタン<br /> |criterion_c = (1),(2),(4)<br /> |rg_year = 2001年<br /> |ex_rg_year = <br /> |remarks = <br /> |url_no = 603<br /> |map_img = ファイル:LocMap of WH Samarkand.png<br /> |map_img_width = 275px<br /> |}}<br /> &#039;&#039;&#039;サマルカンド&#039;&#039;&#039;({{lang-en|Samarkand}}, {{lang-fa|سمرقند}} (Samarqand), {{lang-uz|Самарқанд}} (Samarqand))は、[[中央アジア]]、[[ウズベキスタン]]の古都。[[アムダリヤ川]]の支流である[[ザラフシャン川]]河岸にあり、[[機械]]・[[化学]]・[[綿花]]・[[絹]]・[[皮革]]関係の工業が行われる。[[人口]]約38万人([[2001年]])。ウズベキスタンの[[ウズベキスタンの大統領|初代大統領]][[イスラム・カリモフ]]はこの町の出身。<br /> <br /> [[ステップ気候]]から[[地中海性気候]]への移行部特有の抜けるような青空とモスクの色から「青の都」と呼ばれる。<br /> <br /> == 歴史 ==<br /> === マラカンダ ===<br /> [[紀元前10世紀]]ころから[[イラン系]]民族の[[オアシス]]都市として発展し、ギリシャ史料では[[紀元前4世紀]]に[[ソグド人]]の都市「&#039;&#039;&#039;マラカンダ&#039;&#039;&#039;」({{lang-grc|Μαρακάνδα}})は、[[アレクサンドロス3世]]率いる[[マケドニア王国]]遠征軍に近郊の &quot;Sogdian Rock&quot;({{lang-grc|βράχου της Σογδιανής}})で最後まで抵抗した([[:en:Sogdian Rock|Siege of the Sogdian Rock]])。<br /> <br /> === アフラシヤブ ===<br /> 『[[後漢書]]』などの[[漢文]]資料では&#039;&#039;&#039;康国&#039;&#039;&#039;として表れ、[[昭武九姓]]の一つに挙げられ、王族は[[月氏]]の子孫とされている。[[玄奘三蔵]]や後世のアラビア語、ペルシア語の地理書によれば[[ソグディアナ]]、[[マー・ワラー・アンナフル]]の中心と呼ばれている。[[都市国家]]の連合体であったソグディアナではサマルカンドの支配者が、時には都市国家連合全体の盟主となることがあり、8世紀初頭にはサマルカンド王デーワーシュティーチュが「ソグドの王」を名乗っている。<br /> <br /> [[712年]]に[[クタイバ・イブン・ムスリム]]によって[[ウマイヤ朝]]のアラブ連合軍に征服され、イスラーム化が始まった。イスラーム時代を通じて[[ブハラ]]と並びマーラワーアンナフルの中心都市として発展した。[[751年]]の[[タラス河畔の戦い]]で捕虜となった製紙職人によって、[[759年]]にイスラーム世界で最初の製紙工場が営まれたのもサマルカンドと伝えられる。<br /> <br /> [[1060年]]に成立した中国[[唐]]の歴史書[[新唐書]]西域伝には「康国は又の名を薩末鞬、あるいは颯秣建という」という意味の記載がある&lt;ref&gt;[[:s:zh:新唐書/卷221下|新唐書巻二百二十一下 列伝第一百四十六下 西域下]](ウィキソース中国語版)。&lt;/ref&gt;。以後[[サーマーン朝]]の支配を受け、11世紀に[[カラハン朝]]に征服されてからは[[テュルク]]化も始まる。カラハン朝時代は有力王族の所領として、[[1210年]]頃に[[ホラズム・シャー朝]]の[[アラーウッディーン・ムハンマド]]によって西カラハン朝が滅ぼされてからはその支配下となり、ムハンマドは[[首都]]を[[ウルゲンチ]]からこのサマルカンドへ移した。<br /> <br /> 商才に長けたソグド人の町としていくつもの王朝の支配を受けながらも数世紀にわたって繁栄を続けてきた。しかし、十字軍戦争の影響を受けてシリア経由路が閉鎖された結果、インドから黒海に至る交通路を占めたホラズム・シャー朝の首都として繁栄していたサマルカンドは[[1220年]]、[[モンゴル帝国|モンゴル]]によって徹底的に破壊され、人口の3/4が殺されたという。その当時の旧サマルカンドは、ラフマト川に南面するアフラースィヤーブないし[[アフラシヤブ (サマルカンド)|アフラシヤブ]](の丘)と呼ばれ、現在の市街地の北側にある。<br /> <br /> 後にティムール朝の王族たちの廟となったシャーヒ・ズィンダ廟はこのアフラシアブの丘の東南遇に位置する。その後モンゴル帝国の中央アジア総督府の管轄となり、[[カイドゥ]]の乱が終結してからは[[ドゥア]]家の[[チャガタイ・ハン国|チャガタイ・ウルス]]の所領として確定した。[[1333年]]、[[イブン・バットゥータ]]は北方の[[ジョチ・ウルス]]から[[ホラズム]]、[[ブハラ|ブハーラー]]を経由して[[タルマシリン]]が治めるチャガタイ・ウルスを訪れている。イブン・バットゥータはタルマシリンとの謁見を終えるとサマルカンドにも滞在しているが、市街地にあった宗教施設、宮殿、城壁、城門のたぐいは跡形も無く消滅して大部分が廃墟になっており、かつての町の内部はいくつも農園がある、と述べている。郊外にはアラブ征服時代の聖人廟があってサマルカンドの住民たちは頻繁に参詣に訪れているとも述べる。<br /> <br /> === 新市街地 ===<br /> [[14世紀]]末から[[15世紀]]にかけては[[ティムール朝]]の[[首都]]として繁栄。市街地の内部には[[ティムール]]の墓廟である[[グーリ・アミール廟]]や[[ビービー・ハーヌム・モスク|ビビ・ハヌム・モスク]]などが、アフラシヤブには[[シャーヒ・ズィンダ廟群]]が築かれ、郊外にはティムール朝の王族や[[アミール]]、廷臣らが大小さまざまな庭園や牧場、宿営地などを設けられた。[[西域番国志]]によると、[[15世紀]]初頭、[[明]]の[[永楽帝]]の命を受けた[[陳誠 (明朝)|陳誠]]が、陸路でこの地(「撒馬児罕」と記録されている)を訪れている。ティムールの孫[[ウルグ・ベク]]の時代に[[ウルグ・ベク天文台|天文台]]が築かれて、その当時の建物を含めて文化交差点として[[国際連合教育科学文化機関|ユネスコ]]の[[世界遺産]](文化遺産)になっている。<br /> <br /> ティムール朝後期は諸王家がサマルカンドを巡って争奪を繰り返すようになり、後の[[ムガル朝]]の始祖となった[[バーブル]]も故地の[[フェルガナ]]から度々自ら遠征してこの争奪戦に加わり幾度か領有している。その後、[[1500年]]に[[ジョチ・ウルス]]系のウズベク勢力である[[シャイバーニー朝]]の[[ムハンマド・シャイバーニー・ハン]]によって征服された。その後はジャーン朝など[[テュルク]]系の[[ウズベク人]]の国家[[ブハラ・ハン国]]に属し、首都の地位はブハラに奪われたが17世紀にはウルグ・ベクのマドラサと対になるシールダール・マドラサが追加されて現在のレギスタン広場が形成されるなど、中央アジアの主要都市のひとつとして機能した。<br /> <br /> しかし、18世紀中頃からはウズベク諸政権内部の対立や周辺の諸部族の抗争、さらに[[イラン]]から[[アフシャール朝]]の[[ナーデル・シャー]]の侵攻を受けるなどしたために荒廃が激しくなった。19世紀にはブハラ・アミール国の発展によって復興されたが、アミール・ナスルッラーが没してブハラからの支配が弱まると、[[1868年]]には[[ロシア]]軍に占領され、ロシア領[[トルキスタン]]に編入された。サマルカンドはもともと[[ブハラ]]と同様イラン系であるペルシア語話者、すなわち[[タージーク]]([[タジク人]])の多い都市であったが、[[ソビエト連邦]]時代の[[1924年]]、民族的境界画定により[[ウズベク・ソビエト社会主義共和国]]に区分され、[[1930年]]までその首都であった。<br /> &lt;!-- 元々はペルシア語話者が優勢な土地柄であったが、ティムール朝以降[[チャガタイ語]]が社会的ステータスを確立するようになると、王侯貴族だけでなく定住社会でも徐々にテュルク語話者が増大し、[[1500年]]にシャイバーニー朝のムハンマド・シャイバーニー・ハンによる[[ジョチ・ウルス]]系のウズベク勢力に征服されてからはその傾向がさらに顕著になった。今日のウズベク語話者の母体はもともとモンゴル帝国やそれ以前の遊牧社会を形成したテュルク系の人々に由来するものだが、シャイバーニー朝の征服以降、ジョチ・ウルス起源のテュルク系の人々の定住化もさらに増加し、都市部では[[ペルシア語]]と[[テュルク語]]双方を解す人口も多くなった。このような近代までの都市支配層のテュルク語の社会的ステータスの向上と中央アジア全域に見られるテュルク系の人々の定住化などが今日の[[ウズベク語]]話者層を形成する土壌となった。--&gt;<br /> <br /> == 気候 ==<br /> {{節スタブ}}<br /> 気候は大陸性で寒暖の差が激しい。夏は乾燥して日中は40度近い酷暑となるが、標高が702mと高い分、タシュケントよりは暑さは和らぎ、朝晩は比較的涼しい。冬は寒く積雪もあるが年によって違いが大きく、1月平均気温の0度前後を大幅に下回る寒さとなることもあり、過去には-25.4℃を記録している。<br /> <br /> {{Weather box<br /> |location = サマルカンド &lt;ref&gt;[http://www.pogoda.ru.net/climate/38696.htm Погода и климат]&lt;/ref&gt;<br /> |metric first = yes<br /> |single line = yes<br /> |Jan high C = 6.8<br /> |Feb high C = 9.1<br /> |Mar high C = 14.2<br /> |Apr high C = 21.1<br /> |May high C = 26.4<br /> |Jun high C = 32.2<br /> |Jul high C = 34.1<br /> |Aug high C = 32.9<br /> |Sep high C = 28.3<br /> |Oct high C = 21.6<br /> |Nov high C = 15.3<br /> |Dec high C = 9.1<br /> |year high C = 20.9<br /> |Jan mean C = 1.6<br /> |Feb mean C = 3.9<br /> |Mar mean C = 8.5<br /> |Apr mean C = 14.9<br /> |May mean C = 19.8<br /> |Jun mean C = 25.0<br /> |Jul mean C = 26.7<br /> |Aug mean C = 25.2<br /> |Sep mean C = 20.1<br /> |Oct mean C = 13.6<br /> |Nov mean C = 8.4<br /> |Dec mean C = 3.8<br /> |year mean C = 14.3<br /> |Jan low C = -1.7<br /> |Feb low C = -0.5<br /> |Mar low C = 4.0<br /> |Apr low C = 9.4<br /> |May low C = 13.5<br /> |Jun low C = 17.4<br /> |Jul low C = 18.9<br /> |Aug low C = 17.4<br /> |Sep low C = 12.7<br /> |Oct low C = 7.2<br /> |Nov low C = 3.4<br /> |Dec low C = -0.2<br /> |year low C = 8.5<br /> |Jan record high C = 22.8 <br /> |Feb record high C = 26.7<br /> |Mar record high C = 31.7<br /> |Apr record high C = 36.2<br /> |May record high C = 39.5<br /> |Jun record high C = 41.4<br /> |Jul record high C = 42.4<br /> |Aug record high C = 41.0<br /> |Sep record high C = 38.2<br /> |Oct record high C = 35.2<br /> |Nov record high C = 29.9<br /> |Dec record high C = 26.7<br /> |year record high C = <br /> |Jan record low C = -25.4<br /> |Feb record low C = -22.0<br /> |Mar record low C = -14.9<br /> |Apr record low C = -6.8<br /> |May record low C = -1.3<br /> |Jun record low C = 4.8<br /> |Jul record low C = 8.6<br /> |Aug record low C = 5.9<br /> |Sep record low C = 0.0<br /> |Oct record low C = -6.4<br /> |Nov record low C = -18.1<br /> |Dec record low C = -22.8<br /> |year record low C = <br /> |Jan precipitation mm = 44<br /> |Feb precipitation mm = 39<br /> |Mar precipitation mm = 71<br /> |Apr precipitation mm = 63<br /> |May precipitation mm = 33<br /> |Jun precipitation mm = 4<br /> |Jul precipitation mm = 4<br /> |Aug precipitation mm = 0<br /> |Sep precipitation mm = 4<br /> |Oct precipitation mm = 24<br /> |Nov precipitation mm = 28<br /> |Dec precipitation mm = 41<br /> |year precipitation mm = 355<br /> |source 1 = Hong Kong Observatory&lt;ref name= &quot;ПиК&quot; &gt;{{cite web<br /> |url=http://www.hko.gov.hk/wxinfo/climat/world/eng/asia/westasia/samarkand_e.htm <br /> |accessdate=2010-08-03<br /> |title= Climatological Normals of Samarkand}}&lt;/ref&gt;<br /> |date=August 2010<br /> }}<br /> <br /> {{climate chart|サマルカンド<br /> |-3.3|6.1|44.0<br /> |-1.4|7.9|39.0<br /> |3.2|13.5|71.0<br /> |8.9|20.8|63.0<br /> |12.7|26.4|33.0<br /> |16.4|32.0|4.0<br /> |17.8|33.8|4.0<br /> |15.9|32.2|0.0<br /> |11.2|27.9|4.0<br /> |6.0|21.0|24.0<br /> |2.0|14.9|28.0<br /> |-0.9|9.2|41.0<br /> |float=right<br /> |clear=both<br /> |source=climate-charts.com<br /> }}<br /> <br /> == 交通 ==<br /> 空路<br /> *[[サマルカンド国際空港]]があり、[[タシュケント]]や[[モスクワ]]との便がある。<br /> 陸路<br /> *タシュケントと結ぶ新型列車の[[レギスタン号]]が走っている。<br /> <br /> == 日本との関わり ==<br /> サマルカンドには[[日本語]]を学習する学生も多く、特に[[サマルカンド外国語大学]]に学習者が多い。<br /> <br /> [[1986年]]、[[吉田拓郎]]が『[[サマルカンド・ブルー]]』というタイトルのアルバムを発売している。<br /> <br /> ==教育==<br /> 次のような[[高等教育]]機関がある。<br /> *[http://www.samdu.uz/ サマルカンド国立大学] (ウズベク語、ロシア語、英語で)<br /> *[http://samdchti.uz/ サマルカンド国立外国語学院] (ウズベク語、ロシア語、英語で)<br /> *サマルカンド国立設計・建築学院<br /> *サマルカンド医学院<br /> *[http://sies.uz/ サマルカンド経済・サービス学院] (英語で)<br /> *[http://samqxi.uz/ サマルカンド農業学院] (ウズベク語、ロシア語で)<br /> など<br /> <br /> == 観光 ==<br /> {{main|ウズベキスタンの観光}}<br /> ;レギスタン広場<br /> [[レギスタン広場]]には[[ウルグ・ベク・マドラサ]]、シェル・ドル・マドラサ、ティリャー・コリーモスクマドラサの3つの[[マドラサ]]が建っている。<br /> <br /> {{Gallery<br /> |File:Registan - Gusjer.jpg|レギスタン広場<br /> |File:Rajasthan3.jpg|ウルグ・ベク・マドラサ<br /> |File:La madrasa et la mosquée Tilla Kari du Registan (Samarcande, Ouzbékistan) (5630693152).jpg|ティリャー・コリーモスクマドラサ<br /> |File:Registan, Samarkand, Uzbekistan.JPG|シェル・ドル・マドラサ<br /> |File:Торжествуют.jpg|シェル・ドル・マドラサ<br /> }}<br /> ;グーリ・アミール廟<br /> [[グーリ・アミール廟]]は[[ティムール]]及びその家族の霊廟である。<br /> {{Gallery<br /> |File:Mausoleum of Amir Temur (1).JPG|グーリ・アミール廟<br /> |File:Samarkand_Gur-Imir_Mausoleum.jpg|グーリ・アミール廟<br /> |File:Mausoleo Gur Emir - 10.jpg|緑にライトアップされたグーリ・アミール廟<br /> |File:Moon over Amir Timur.jpg|青にライトアップされたグーリ・アミール廟<br /> }}<br /> ;アクサライ廟<br /> [[アクサライ廟]]はグーリ・アミール廟の南東30mに位置する霊廟である。<br /> {{Gallery<br /> |File:Мавзолей Ак-Сарай.jpg|アクサライ廟<br /> }}<br /> ;ウルグ・ベク天文台<br /> [[ウルグ・ベク天文台]]は[[ウルグ・ベク]]により1420年代に建設された天文台である。<br /> {{Gallery<br /> |File:Samarkand observatoire ulugh beg.jpg|ウルグ・ベク天文台跡(全景)<br /> |File:Ulugh Beg observatory.JPG|[[ウルグ・ベク]]天文台跡の巨大[[象限儀|四分儀]](埋没部分内部)<br /> }}<br /> ;シャーヒ・ズィンダ廟群<br /> [[シャーヒ・ズィンダ廟群]]はサマルカンドの霊廟群である。<br /> {{Gallery<br /> |File:Samarkand Shah-i Zinda general view.JPG|シャーヒ・ズィンダ廟群<br /> |File:Mausolées du groupe central (Shah-i-Zinda, Samarcande) (6009956484).jpg|シャーヒ・ズィンダ廟群<br /> |File:Shah-i-Zinda upper group.JPG|シャーヒ・ズィンダ廟の中庭<br /> |File:Gorskii_03978u.jpg|シャーヒ・ズィンダ廟群<br /> }}<br /> ;ビービー・ハーヌム・モスク<br /> [[ビービー・ハーヌム・モスク]]はサマルカンドのモスクである。<br /> {{Gallery<br /> |File:Bibi-Khanym Mosque.jpg|ビービー・ハーヌム・モスクの遠景<br /> |File:Mosque Bibi Khanum (5).JPG|ビービー・ハーヌム・モスク<br /> }}<br /> ;アフラシヤブ <br /> [[アフラシヤブ (サマルカンド)]]はサマルカンドの北にある遺跡である。<br /> {{Gallery<br /> |File:Afrosiab (8145369219).jpg|アフラシヤブ<br /> |File:Samarqand Afrasiab cemetery1.jpg|アフラシヤブの墓<br /> }}<br /> <br /> == 世界遺産 ==<br /> === 登録基準 ===<br /> {{世界遺産基準|1|2|4}}<br /> <br /> == 姉妹都市 ==<br /> {{Col-begin}}<br /> {{Col-break}}<br /> *{{flagicon|IRN}} [[ニーシャープール]]、[[イラン]]<br /> *{{flagicon|UZB}} [[ブハラ]]、[[ウズベキスタン]]<br /> *{{flagicon|AFG}} [[バルフ]]、[[アフガニスタン]]<br /> *{{flagicon|TKM}} [[マル (都市)|メルブ]]、[[トルクメニスタン]]<br /> *{{flagicon|PER}} [[クスコ]]、[[ペルー]]<br /> *{{flagicon|PAK}} [[ラホール]]、[[パキスタン]]<br /> {{Col-break}}<br /> *{{flagicon|UKR}} [[リヴィウ]]、[[ウクライナ]]<br /> *{{flagicon|TUR}} [[イスタンブール]]、[[トルコ]]<br /> *{{flagicon|TUR}} [[イズミル]]、トルコ<br /> *{{flagicon|TUN}} [[ケルアン]]、[[チュニジア]]<br /> *{{flagicon|TJK}} [[ホジェンド]]、[[タジキスタン]]<br /> {{Col-end}}<br /> <br /> == 参考文献・注釈 ==<br /> *イブン・バットゥータ 『[[旅行記 (イブン・バットゥータ)|大旅行記]]』全8巻 [[家島彦一]]訳、[[平凡社]]〈[[平凡社東洋文庫]]〉、1996-2002年。<br /> {{Reflist}}<br /> <br /> == 関連項目 ==<br /> *[[トルコ・イスラーム文化]]<br /> <br /> == 外部リンク ==<br /> {{Commons|Samarqand}}<br /> * [http://www.virtourist.com/asia/samarkand/photoindex.html サマルカンド]<br /> * [http://www.ne.jp/asahi/arc/ind/2_meisaku/70_samarkand/samarkand.htm サマルカンドのレギスターン広場 複合体 (イスラーム建築の名作)]<br /> <br /> {{ウズベキスタンの世界遺産}}<br /> {{ウズベキスタンの都市}}<br /> {{昭武九姓}}<br /> {{Normdaten}}<br /> <br /> {{DEFAULTSORT:さまるかんと}}<br /> [[Category:サマルカンド|*]]</div> 153.188.171.24 category:アゼルバイジャンの都市 2018-07-11T01:18:05Z <p>153.188.171.24: </p> <hr /> <div>{{Commonscat|Cities in Azerbaijan}}<br /> [[アゼルバイジャン]]の[[都市]]に関するカテゴリ。<br /> <br /> [[Category:アゼルバイジャンの地方区分|とし]]<br /> [[Category:各国の都市|あせるはいしあん]]</div> 153.188.171.24 category:アルメニアの都市 2018-07-11T01:17:10Z <p>153.188.171.24: </p> <hr /> <div>{{Commonscat|Cities in Armenia}}<br /> [[アルメニア]]の都市に関するカテゴリ。<br /> <br /> [[Category:アルメニアの地方区分|とし]]<br /> [[Category:各国の都市|あるめにあ]]</div> 153.188.171.24 category:カザフスタンの都市 2018-07-11T00:36:58Z <p>153.188.171.24: </p> <hr /> <div>[[カザフスタン]]の都市に関するカテゴリ。<br /> {{Commonscat|Cities in Kazakhstan}}<br /> <br /> [[Category:各国の都市|かさふすたん]]<br /> [[Category:カザフスタンの地方区分|とし]]</div> 153.188.171.24 category:タジキスタンの都市 2018-07-11T00:30:44Z <p>153.188.171.24: </p> <hr /> <div>[[タジキスタン]]の都市に関するカテゴリ。<br /> {{Commonscat|Cities in Tajikistan}}<br /> <br /> [[Category:タジキスタンの地方区分|とし]]<br /> [[Category:各国の都市|たしきすたん]]</div> 153.188.171.24 ドゥシャンベ 2018-07-11T00:29:26Z <p>153.188.171.24: </p> <hr /> <div>{{世界の市<br /> |正式名称 =ドゥシャンベ &lt;!--必須--&gt;<br /> |公用語名称 ={{lang|tj|Душанбе}}&lt;br /&gt;Dushanbe &lt;!--必須--&gt;<br /> |愛称 =<br /> |標語 =<br /> |画像 =Dushanbe panorama 05.jpg<br /> |画像サイズ指定 =<br /> |画像の見出し =<br /> |市旗 =<br /> |市章 =Coat of Arms of Dushanbe.png<br /> |位置図 =Dushanbe in Tajikistan (special marker).svg<br /> |位置図サイズ指定 =<br /> |位置図の見出し =<br /> |位置図2 =Ti-map.gif<br /> |位置図サイズ指定2 =<br /> |位置図の見出し2 =ドゥシャンベ(Dushanbe)の位置<br /> |緯度度 =38 |緯度分 =32 |緯度秒 =12 |N(北緯)及びS(南緯) =N<br /> |経度度 =68 |経度分 =46 |経度秒 =48 |E(東経)及びW(西経) =E<br /> |成立区分 =建設<br /> |成立日 =[[1929年]]<br /> |成立区分1 =改名<br /> |成立日1 =[[1961年]]<br /> |成立区分2 =<br /> |成立日2 =<br /> |旧名 =スターリナバード<br /> |創設者 =<br /> |下位区分名 ={{TJK}} &lt;!--必須--&gt;<br /> |下位区分種類1 =[[タジキスタンの行政区画|行政区画]]<br /> |下位区分名1 =直轄市<br /> |下位区分種類2 =<br /> |下位区分名2 =<br /> |下位区分種類3 =<br /> |下位区分名3 =<br /> |下位区分種類4 =<br /> |下位区分名4 =<br /> |規模 =市 &lt;!--必須--&gt;<br /> |最高行政執行者称号 =<br /> |最高行政執行者名 =<br /> |最高行政執行者所属党派 =<br /> |総面積(平方キロ) =100<br /> |総面積(平方マイル) =<br /> |陸上面積(平方キロ) =<br /> |陸上面積(平方マイル) =<br /> |水面面積(平方キロ) =<br /> |水面面積(平方マイル) =<br /> |水面面積比率 =<br /> |市街地面積(平方キロ) =<br /> |市街地面積(平方マイル) =<br /> |都市圏面積(平方キロ) =<br /> |都市圏面積(平方マイル) =<br /> |標高(メートル) =706<br /> |標高(フィート) =<br /> |人口の時点 =2008年<br /> |人口に関する備考 =<br /> |総人口 =679,400<br /> |人口密度(平方キロ当たり) =<br /> |人口密度(平方マイル当たり) =<br /> |市街地人口 =<br /> |市街地人口密度(平方キロ) =<br /> |市街地人口密度(平方マイル) =<br /> |都市圏人口 =<br /> |都市圏人口密度(平方キロ) =<br /> |都市圏人口密度(平方マイル) =<br /> |等時帯 =UTC+5<br /> |協定世界時との時差 =+5<br /> |夏時間の等時帯 =なし<br /> |夏時間の協定世界時との時差 =<br /> |郵便番号の区分 =<br /> |郵便番号 =<br /> |市外局番 =<br /> |ナンバープレート =<br /> |ISOコード =<br /> |公式ウェブサイト =http://www.dushanbe.tj/<br /> |備考 =<br /> }}<br /> &#039;&#039;&#039;ドゥシャンベ&#039;&#039;&#039;(&#039;&#039;&#039;{{Lang|ru|Душанбе}}&#039;&#039;&#039;)は、[[タジキスタン|タジキスタン共和国]]の[[首都]]。[[2008年]]の人口は679,400人。都市名は[[タジク語]]で「[[月曜日]]」という意味である(元々は[[ペルシア語]]に由来し「[[土曜日]]の二日後」の意味)。月曜に[[市場]]が開かれた村から急成長したためである。[[1961年]]までは、「[[ヨシフ・スターリン|スターリン]]の町」を意味する&#039;&#039;&#039;スターリナバード&#039;&#039;&#039;(Stalinabad)という市名であった。<br /> <br /> == 歴史 ==<br /> ドゥシャンベの地は[[紀元前]]5世紀の[[遺跡]]も残る古くからの定住地であるが、[[19世紀]]まで町というより村という程度の規模でしかなかった。[[ロシア革命]]後、[[ボリシェヴィキ]]の影響が[[中央アジア]]に及んでくると、[[タジク人]]・[[ウズベク|ウズベク人]]反革命軍の拠点となる。[[ブハラ・ハン国|ブハラ・アミール国]](マンギト朝)の最後の[[アミール]]、[[アーリム・ハーン]]はこの地に逃げ込んだ。(その後、[[カーブル]]に亡命)。[[1922年]]、ドゥシャンベは[[赤軍]]の手に落ちた。[[1925年]]には村から町へ行政上、昇格し、[[タジク自治ソビエト社会主義共和国]]の行政府が置かれた。<br /> <br /> 中央アジアの[[ソビエト連邦]]領が民族境界によって各[[共和国]]に区分されると、[[1929年]]にドゥシャンベの一帯は[[タジク・ソビエト社会主義共和国]]となり、その首都に指定され、スターリンにちなんで「スターリナバード」となった。[[1961年]]、[[ニキータ・フルシチョフ]]の[[スターリン批判]]で、ドゥシャンベの名に戻される。<br /> <br /> ソ連時代、この地方は[[木綿|綿花]]や[[絹]]の大生産地に変えられ、ソ連中から人々が移住させられた。タジク人も地方から流入、人口が急速に増える。<br /> <br /> [[アゼルバイジャン]]で起きた反[[アルメニア]]暴動([[スムガイト]]ポグロム)から逃れた亡命[[アルメニア人]]がタジキスタンに移住する、という噂から、[[1990年]]、住宅難のタジク人の間で、ドゥシャンベ暴動が起こった。[[ミハイル・ゴルバチョフ]]の[[ペレストロイカ]]と時期を同じくしたため、[[南コーカサス]]や[[中央アジア]]での[[民族主義]]増大に繋がった。[[1992年]]からの[[タジキスタン内戦]]で、市は甚大な被害を受けるが、今日ではタジキスタンの首都として近代化が急速に進んでいる。<br /> <br /> ==民族構成==<br /> * [[タジク人]]: 83.4%<br /> * [[ウズベク人]]: 9.1%<br /> * [[ロシア人]]: 5.1%<br /> * その他: 2.4%<br /> <br /> ==気候==<br /> [[地中海性気候]](&#039;&#039;&#039;Csa&#039;&#039;&#039;)。<br /> 他の中央アジアの都市に較べると雨量が多い。しかし、夏は暑く乾燥する。冬は周囲の山脈の影響で[[シベリア]]からの寒気をさえぎり、寒さを多少緩和している。<br /> <br /> {{Weather box<br /> |location = ドゥシャンベ<br /> |metric first = Y<br /> |single line = Y<br /> |Jan record high C = 21.1<br /> |Feb record high C = 22.8<br /> |Mar record high C = 27.8<br /> |Apr record high C = 32.2<br /> |May record high C = 37.8<br /> |Jun record high C = 40.0<br /> |Jul record high C = 42.2<br /> |Aug record high C = 40.0<br /> |Sep record high C = 37.2<br /> |Oct record high C = 32.8<br /> |Nov record high C = 25.0<br /> |Dec record high C = 20.0<br /> |year record high C = 42.2<br /> <br /> |Jan high C = 9.4<br /> |Feb high C = 10.6<br /> |Mar high C = 15.6<br /> |Apr high C = 20.6<br /> |May high C = 26.1<br /> |Jun high C = 32.8<br /> |Jul high C = 35.6<br /> |Aug high C = 34.4<br /> |Sep high C = 30.0<br /> |Oct high C = 23.3<br /> |Nov high C = 15.6<br /> |Dec high C = 10.6<br /> |year high C = 22.1<br /> <br /> |Jan mean C=2.1<br /> |Feb mean C=3.8<br /> |Mar mean C=9.2<br /> |Apr mean C=15.4<br /> |May mean C=20<br /> |Jun mean C=25.3<br /> |Jul mean C=27.1<br /> |Aug mean C=24.9<br /> |Sep mean C=20.1<br /> |Oct mean C=14.3<br /> |Nov mean C=8.9<br /> |Dec mean C=4.8<br /> <br /> |Jan low C = −0.6<br /> |Feb low C = 1.7<br /> |Mar low C = 5.6<br /> |Apr low C = 9.4<br /> |May low C = 13.3<br /> |Jun low C = 17.8<br /> |Jul low C = 19.4<br /> |Aug low C = 17.2<br /> |Sep low C = 12.8<br /> |Oct low C = 7.8<br /> |Nov low C = 3.3<br /> |Dec low C = 0.6<br /> |year low C = 9.0<br /> <br /> |Jan record low C = −22<br /> |Feb record low C = −16<br /> |Mar record low C = −10.0<br /> |Apr record low C = 0.0<br /> |May record low C = 6.1<br /> |Jun record low C = 11.1<br /> |Jul record low C = 13.9<br /> |Aug record low C = 10.0<br /> |Sep record low C = 3.9<br /> |Oct record low C = −2.2<br /> |Nov record low C = −6.1<br /> |Dec record low C = −18<br /> |year record low C = −22<br /> <br /> |Jan precipitation mm = 66.3<br /> |Feb precipitation mm = 75.4<br /> |Mar precipitation mm = 107.5<br /> |Apr precipitation mm = 105.0<br /> |May precipitation mm = 66.0<br /> |Jun precipitation mm = 5.5<br /> |Jul precipitation mm = 3.2<br /> |Aug precipitation mm = 0.5<br /> |Sep precipitation mm = 3.1<br /> |Oct precipitation mm = 30.6<br /> |Nov precipitation mm = 44.7<br /> |Dec precipitation mm = 59.8<br /> <br /> |Jan precipitation days = 8.5<br /> |Feb precipitation days = 9.1<br /> |Mar precipitation days = 13.4<br /> |Apr precipitation days = 9.8<br /> |May precipitation days = 7.8<br /> |Jun precipitation days = 1.5<br /> |Jul precipitation days = 0.7<br /> |Aug precipitation days = 0.1<br /> |Sep precipitation days = 0.8<br /> |Oct precipitation days = 3.7<br /> |Nov precipitation days = 5.3<br /> |Dec precipitation days = 8.1<br /> |unit precipitation days = 1.0 mm<br /> <br /> |Jan sun = 120.9<br /> |Feb sun = 121.5<br /> |Mar sun = 155.0<br /> |Apr sun = 198.0<br /> |May sun = 282.1<br /> |Jun sun = 336.0<br /> |Jul sun = 353.4<br /> |Aug sun = 337.9<br /> |Sep sun = 288.0<br /> |Oct sun = 223.2<br /> |Nov sun = 165.0<br /> |Dec sun = 117.8<br /> |year sun = 2698.8<br /> <br /> |source 1 = Sistema de Clasificación Bioclimática Mundial&lt;ref name = Sistema &gt;<br /> {{cite web<br /> |url = http://www.ucm.es/info/cif/station/ta-dusha.htm<br /> |title = TAJIKISTAN - DUSHANBE<br /> |publisher = Centro de Investigaciones Fitosociológicas<br /> |accessdate = 10 November 2011<br /> }}&lt;/ref&gt;<br /> <br /> |source 2 = Hong Kong Observatory &lt;ref name = HKO &gt;<br /> {{cite web<br /> |url = http://www.hko.gov.hk/wxinfo/climat/world/eng/asia/westasia/dushanbe_e.htm<br /> |title = Climatological Normals of Dushanbe<br /> |publisher = [[Hong Kong Observatory]]<br /> |accessdate = 13 February 2014<br /> }}&lt;/ref&gt;<br /> <br /> |date=August 2010<br /> <br /> }}<br /> <br /> {{climate chart|ドゥシャンベ<br /> |-2.4|8.1|72<br /> |-0.8|9.3|85<br /> |4.4|15.1|138<br /> |9.8|21.9|115<br /> |12.9|26.8|79<br /> |16.8|33.0|11<br /> |18.3|35.7|2<br /> |16.0|34.4|1<br /> |11.3|29.9|3<br /> |7.1|23.2|30<br /> |3.3|16.5|48<br /> |0.3|10.6|69<br /> |float = right<br /> }}<br /> <br /> ==経済==<br /> 近郊に[[石炭]]、[[鉛]]、[[ヒ素]]の鉱脈がある。綿織物で有名なドゥシャンベはシルク、機械、電気製品、衣料品、革製品、トラクター部品、食糧も生産する。<br /> <br /> ==交通==<br /> 市内交通は[[トロリーバス]]が中心である。<br /> [[ドゥシャンベ空港]]がある。近年、近代化工事が行われている。[[タジキスタン航空]]の[[ハブ空港]]。<br /> <br /> ==観光==<br /> [[ファイル:Duschanbe Somonidenkmal.jpg|thumb|250px|[[イスマーイール・サーマーニー]]記念像]]<br /> * [[ハジ・ヤコブ・モスク]](Haji Yakoub Mosque)<br /> * 考古民族博物館(Museum of Ethnography)<br /> * 国立タジキスタン総合博物館(Tajikistan unified museum)<br /> <br /> == 姉妹都市 ==<br /> * {{flagicon|Zambia}} [[ルサカ]]([[ザンビア]])<br /> * {{flagicon|Yemen}} [[サナア]]([[イエメン]])<br /> * {{flagicon|Tunisia}} [[モナスティル (チュニジア)|モナスティル]]([[チュニジア]])<br /> * {{flagicon|Austria}} [[クラーゲンフルト]]([[オーストリア]])<br /> * {{flagicon|Pakistan}} [[ラホール]]([[パキスタン]])<br /> * {{flagicon|USA}} [[ボルダー (コロラド州)|ボルダー]]([[アメリカ合衆国]])<br /> * {{flagicon|Afghanistan}} [[マザーリシャリーフ]]([[アフガニスタン]])<br /> * {{flagicon|Germany}} [[ロイトリンゲン]]([[ドイツ]])<br /> * {{flagicon|Russia}} [[サンクトペテルブルク]]([[ロシア]])<br /> * {{flagicon|Iran}} [[シーラーズ]]([[イラン]])<br /> * {{flagicon|Belarus}} [[ミンスク]]([[ベラルーシ]])<br /> * {{flagicon|China}} [[ウルムチ市|ウルムチ]]([[中華人民共和国|中国]])<br /> * {{flagicon|Iran}} [[テヘラン]]([[イラン]])<br /> * {{flagicon|Turkey}} [[アンカラ]]([[トルコ]])<br /> * {{flagicon|Uzbekistan}} [[ブハラ]]([[ウズベキスタン]])<br /> <br /> == 脚注 ==<br /> {{reflist}}<br /> <br /> ==外部リンク==<br /> {{commonscat|Dushanbe}}<br /> * [http://www.wikimapia.org/#y=38570000&amp;x=68780000&amp;z=13&amp;l=0&amp;m=h ドゥシャンベ]([[wikimapia]])<br /> <br /> {{タジキスタンの行政区画}}<br /> {{アジアの首都}}<br /> <br /> {{DEFAULTSORT:とうしやんへ}}<br /> [[Category:ドゥシャンベ|*]]</div> 153.188.171.24 クリリスク 2018-07-10T06:14:10Z <p>153.188.171.24: </p> <hr /> <div>{{世界の市<br /> |正式名称 =クリリスク &lt;!--必須--&gt;<br /> |公用語名称 ={{lang-ru|Кури́льск}}&lt;!--必須--&gt;<br /> |愛称 =<br /> |標語 =<br /> |画像 =<br /> |画像サイズ指定 =<br /> |画像の見出し =<br /> |市旗 =Flag of Kurilsk (Sakhalin oblast).png<br /> |市章 =Coat of Arms of Kurilsk (Sakhalin oblast).png<br /> |位置図 =<br /> |位置図サイズ指定 =<br /> |位置図の見出し = <br /> |位置図2 =<br /> |位置図サイズ指定2 =<br /> |位置図の見出し2 =<br /> |緯度度 =45 |緯度分 =13 |緯度秒 =34 |N(北緯)及びS(南緯) =N<br /> |経度度 =147 |経度分 =52 |経度秒 =36 |E(東経)及びW(西経) =E<br /> |成立区分 =<br /> |成立日 =18世紀<br /> |成立区分1 =<br /> |成立日1 =<br /> |成立区分2 =<br /> |成立日2 =<br /> |旧名 =[[紗那村|シャナ]](1947年まで)<br /> |創設者 =<br /> |下位区分名 ={{RUS}} &lt;!--必須--&gt;<br /> |下位区分種類1 =[[連邦管区]]<br /> |下位区分名1 =[[極東連邦管区]]<br /> |下位区分種類2 =[[ロシア連邦の地方区分|行政区画]]<br /> |下位区分名2 ={{Flagicon|Sakhalin}} [[サハリン州]]<br /> |下位区分種類3 =管区<br /> |下位区分名3 =[[クリル管区]]<br /> |下位区分種類4 =<br /> |下位区分名4 =<br /> |規模 = &lt;!--必須--&gt;<br /> |最高行政執行者称号 =<br /> |最高行政執行者名 =<br /> |最高行政執行者所属党派 =<br /> |総面積(平方キロ) =<br /> |総面積(平方マイル) =<br /> |陸上面積(平方キロ) =<br /> |陸上面積(平方マイル) =<br /> |水面面積(平方キロ) =<br /> |水面面積(平方マイル) =<br /> |水面面積比率 =<br /> |市街地面積(平方キロ) =<br /> |市街地面積(平方マイル) =<br /> |都市圏面積(平方キロ) =<br /> |都市圏面積(平方マイル) =<br /> |標高(メートル) =30<br /> |標高(フィート) =<br /> |人口の時点 =2014年<br /> |人口に関する備考 =<br /> |総人口 =1,757<br /> |人口密度(平方キロ当たり) =1,666<br /> |人口密度(平方マイル当たり) =<br /> |市街地人口 =<br /> |市街地人口密度(平方キロ) =<br /> |市街地人口密度(平方マイル) =<br /> |都市圏人口 =<br /> |都市圏人口密度(平方キロ) =<br /> |都市圏人口密度(平方マイル) =<br /> |等時帯 =[[マガダン時間]]<br /> |協定世界時との時差 =+11<br /> |郵便番号の区分 =<br /> |郵便番号 =694530<br /> |市外局番 =+7 42454<br /> |ナンバープレート =65<br /> |ISOコード =<br /> |公式ウェブサイト =http://kurilsk.sakh.com/<br /> |備考 =自治体コード ([[OKATO]]) : 64220501<br /> }}<br /> <br /> &#039;&#039;&#039;クリリスク&#039;&#039;&#039;({{lang-ru|Кури́льск}})は[[サハリン州]]の[[択捉島]]に存在する都市の一つである。[[クリル管区]]の行政府の中心である。なお日本政府は当地を[[北海道]][[根室振興局]][[紗那郡]]に属する[[紗那村]]であるとして、領有権を主張している。<br /> <br /> == 地理 ==<br /> [[択捉島]]の[[オホーツク海]]沿岸部に位置する港町である。散布半島(ちりっぷはんとう)の西の付け根にあたる。当地から13km北北東には活火山の散布山がそびえ、往時の日本人には[[郷土富士|択捉富士]]の愛称で親しまれた。サケの養殖が盛ん。地震、気象、津波観測所がある。<br /> <br /> == 歴史 ==<br /> {{See also|紗那村|北方領土問題}}<br /> 現在のクリリスクの地には紀元前2千年紀より[[アイヌ民族]]が定住していたことが知られている。アイヌ人はこの土地を&#039;&#039;&#039;シャナ&#039;&#039;&#039;(アイヌ語で川の下流の集落の意味)と呼称していた。そしてロシア支配下でも&#039;&#039;&#039;シャナ&#039;&#039;&#039;({{lang-ru|Сяна}})と呼ばれた。ロシアの植民者が18世紀後半に初めて択捉島に訪れた。日本は測量等の目的で1800年に駐屯地を設置した。当地での日露の植民者間に走った緊張が[[日露和親条約]]という結果を生み、以降[[南千島]]は正式に日本の領土となり、この状態が[[第二次世界大戦]]の頃まで続いた。<br /> <br /> [[1945年]]に終わりを告げる日本統治下において、[[紗那村]]は択捉島の中心地であった。1945年8月15日、同村の人口は1,001人であった。&lt;ref&gt;{{Cite web | url = http://www.hoppou.go.jp/gakusyu/islands/index3.html | language = Japanese | author = Northern Territories Association | title = 北方領土の人口 | accessdate = 2007-04-07 }}&lt;/ref&gt;<br /> <br /> 1947年、ロシア人の占領後この町はクリリスクという名前になり、同時に町制を施行した。なお、全ての日本人は亡命していた。日本政府はこの町が合法的に成立したとは認めておらず、[[北海道]][[根室市]]役所では2015年現在も紗那村の[[戸籍]]の管理をしている。<br /> <br /> == 気候 ==<br /> ロシアの中では比較的低緯度だが、クリリスクは夏の気温を著しく下げる[[親潮]]の影響により[[亜寒帯気候]]([[ケッペンの気候区分]]では&#039;&#039;Dfc&#039;&#039;)である。多くの亜寒帯気候の地域と違い、冬の気候はかなりおだやかで、[[永久凍土]]もない。[[千島列島]]に位置することから、[[アリューシャン低気圧]]の影響で降水量は多い(もっとも、偏西風が太平洋由来の低気圧嵐を幾分防ぐので、[[ユジノ・クリリスク]]ほどではない)。クリリスクの気候はシベリア内部よりも、[[アリューシャン列島]]の[[海洋性気候|亜寒帯海洋性気候]]に類似している。年平均気温は-4.9°C、相対湿度は74.7%、平均風速は6.9m/sである。<br /> <br /> {{Weather box<br /> |location = クリリスク <br /> |metric first = yes<br /> |single line = yes<br /> |Jan mean C = &amp;minus;5<br /> |Feb mean C = &amp;minus;7<br /> |Mar mean C = &amp;minus;4<br /> |Apr mean C = 1<br /> |May mean C = 5<br /> |Jun mean C = 9<br /> |Jul mean C = 13<br /> |Aug mean C = 16<br /> |Sep mean C = 13<br /> |Oct mean C = 8<br /> |Nov mean C = 3<br /> |Dec mean C = &amp;minus;2<br /> |year mean C = 4<br /> |precipitation colour = green<br /> |Jan precipitation mm = 91<br /> |Feb precipitation mm = 53<br /> |Mar precipitation mm = 62<br /> |Apr precipitation mm = 70<br /> |May precipitation mm = 80<br /> |Jun precipitation mm = 64<br /> |Jul precipitation mm = 77<br /> |Aug precipitation mm = 96<br /> |Sep precipitation mm = 103<br /> |Oct precipitation mm = 120<br /> |Nov precipitation mm = 136<br /> |Dec precipitation mm = 109<br /> |year precipitation mm = <br /> |source 1 = Weatherbase&lt;ref&gt;{{cite web<br /> | url = http://www.weatherbase.com/weather/weather.php3?s=321651&amp;refer=&amp;units=metric weatherbase<br /> |title = KURILSK, RUSSIA | accessdate = 2011-12-05 <br /> }}&lt;/ref&gt;<br /> |date=August 2010<br /> }}<br /> <br /> == 人口統計 ==<br /> {| class=&quot;standard&quot;<br /> ! 1959年&lt;ref&gt;[http://www.webgeo.ru/db/1959/rus-2.htm Перепись населения СССР 1959 года]&lt;/ref&gt; || 1970年&lt;ref&gt;[http://www.webgeo.ru/db/1970/rus-dalv.htm Перепись населения СССР 1970 года]&lt;/ref&gt; || 1979年&lt;ref&gt;[http://www.webgeo.ru/db/1979/rus-dalv.htm Перепись населения СССР 1979 года]&lt;/ref&gt; || 1989年&lt;ref&gt;[http://demoscope.ru/weekly/ssp/rus89_reg2.php Всесоюзная перепись населения 1989 г. Численность городского населения РСФСР, ее территориальных единиц, городских поселений и городских районов по полу]&lt;/ref&gt; || 2002年&lt;ref&gt;[http://www.perepis2002.ru/ct/doc/1_TOM_01_04.xls Численность населения России, федеральных округов, субъектов Российской Федерации, районов, городских поселений, сельских населенных пунктов - райцентров и сельских населенных пунктов с населением 3 тысячи и более человек]&lt;/ref&gt; || 2010年&lt;ref&gt;[http://www.gks.ru/bgd/regl/b10_109/IssWWW.exe/Stg//%3Cextid%3E/%3Cstoragepath%3E::%7Ctabl-23-10.xls Численность постоянного населения Российской Федерации по городам, поселкам городского типа и районам на 1 января 2010 г.]&lt;/ref&gt;<br /> |-<br /> | 1,533 || 1,159 || 1,582 || 2,699 || 2,233 || 1,666<br /> |}{{население| Курильск |график}}<br /> <br /> 2002年国勢調査によると住民の83.2%が[[ロシア人]]、9.2%が[[ウクライナ人]]、1.5%が[[タタール人]]、1.3%が[[ベラルーシ人]]、0.7%が[[バシキール人]]、4.0%がその他となっている。<br /> <br /> == 脚注 ==<br /> &lt;references/&gt;<br /> <br /> {{Russia-geo-stub}}<br /> {{Pref-stub|pref=北海道}}<br /> <br /> {{サハリン州の市町}}<br /> <br /> {{デフォルトソート:くりりすく}}<br /> [[Category:サハリン州の都市]]<br /> [[Category:択捉島]]<br /> [[Category:クリル管区]]</div> 153.188.171.24 category:ロシアの都市 2018-07-10T05:40:24Z <p>153.188.171.24: </p> <hr /> <div>{{Catdiffuse}}<br /> {{Commonscat|Cities in Russia}}<br /> [[ロシア|ロシア連邦]]の都市に関するカテゴリ。<br /> <br /> [[Category:各国の都市|ろしあ]]<br /> [[Category:ヨーロッパの都市|ろしあ]]<br /> [[Category:ロシアの地方区分|とし]]</div> 153.188.171.24 ネストル・マフノ 2018-07-09T04:45:29Z <p>153.188.171.24: </p> <hr /> <div>[[Image:1921. Нестор Махно в лагере для перемещенных лиц в Румынии.jpg|right|thumb|200px|ネストル・マフノ]]<br /> &#039;&#039;&#039;ネストル・イヴァーノヴィチ・マフノ&#039;&#039;&#039;([[ウクライナ語]]:&#039;&#039;&#039;{{lang|uk|Нестор Іванович Махно}}&#039;&#039;&#039;&lt;small&gt;ネーストル・イヴァーノヴィチュ・マフノー&lt;/small&gt;、[[1888年]][[10月26日]] - [[1934年]][[7月25日]])は、[[ウクライナ]]の[[アナキスト]]の[[革命家]]。「&#039;&#039;&#039;バトゥコ&#039;&#039;&#039; батько」(父)と呼ばれた&lt;ref&gt;Alexandre Skirka,Nestor Makhno - Anarchy&#039;s Cossack, Translated by Paul Sharkey, (Oakland: AK Press, 2004), 9. &quot;The literal translation, &#039;little father&#039; does not quite capture the meaning that the word had in Ukrainian; ever since the days of the Zaporog warrior communities it had implied an elected and irrevocable military leader. At the same time when being so called, Makhno was only 29 and thus had nothing paternal or venerable about him; anyway there were other &#039;Batkos&#039; even in the Makhnovist movement and throughout the region.&quot;&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> == 概要 ==<br /> [[ロシア帝国]][[エカテリノスラフ県]](現在のウクライナ・[[ザポリージャ州]]){{仮リンク|フリアイポーレ|en|Huliaipole}}出身。貧農の家に生まれるが、生まれて間もなく父を亡くし、12歳で学校を中退して働きに出るなど辛酸をなめた。[[1906年]]にアナキズム運動に参画し、同年に逮捕。以降本格的な活動家となった。<br /> <br /> ウクライナにおいて革命的な農民層をパルチザン軍に組織して農民アナキズム運動を展開した。[[ロシア革命]]に対する「反革命」との攻防においてウクライナ地方から[[白軍]]を撃退する。当初は革命の一部として行動していたが、[[ボリシェヴィキ]]の独裁色が強くなるや徐々に独立的傾向を強める。その根拠は貧農の立場に立つマフノと、都市の工場労働者を重視し農民を軽視したボリシェヴィキとの対立が根本的な理由として挙げられる。マフノのパルチザン軍が[[アントーン・デニーキン|デニーキン]]の[[白衛軍]]を撃破した後、マフノ軍と赤軍の戦端が開かれ、最終的に、マフノのパルチザン軍は敗れ、マフノは[[パリ]]に亡命する。<br /> <br /> 現在、この赤軍によるマフノ・パルチザン軍への攻撃を「[[ヨシフ・スターリン|スターリン]]の恐怖政治の先駆」とする反スターリン主義的解釈と「小ブルジョア農民の権益のために革命政権を攻撃した者への正当な反撃」とするロシア共産党の史観に拠る解釈がある。<br /> <br /> [[File:Makhno Tomb.jpg|thumb|ペール・ラシェーズ墓地にあるマフノの墓]]<br /> 亡命後のマフノは亡命ロシア人アナーキストの雑誌に寄稿し、回想録を残す一方、大工として、また[[パリ国立オペラ|オペラ座]]、[[ルノー]]で働いた。[[1934年]]に[[結核]]のため死去し、遺体は荼毘に付されて[[ペール・ラシェーズ墓地]]に埋葬された。<br /> <br /> マフノの妻[[:ru:Кузьменко, Галина Андреевна|ガリーナ]]([[1892年]] - [[1978年]])と娘のエレナ([[1922年]] - [[1992年]])は[[第二次世界大戦]]時に[[ナチス・ドイツ]]に拘束され、戦後は[[NKVD]]に逮捕されて[[キエフ]]で懲役10年と8年の判決を受けた。[[1953年]]に釈放された後には[[カザフスタン]]で暮らした。<br /> <br /> == 脚注 ==<br /> {{reflist}}<br /> <br /> == 関連項目 ==<br /> *[[金佐鎮]] - しばしば朝鮮のマフノと喩えられる<br /> *[[ウクライナ革命反乱軍|黒軍]](アナキスト軍)<br /> *[[マフノフシチナ]] - 黒軍がつくった解放区の通称。または、[[フランス]]でつくられたマフノを称える曲。曲の旋律は「Partisanen von Amur」(日本版の題名は「野こえ山をこえ」)をそのまま使っている。現代では[[パンク・ロック]]バージョンなど、様々なアーティストにカバーされている。<br /> *[[タチャンカ]] - しばしばマフノが発明したと言及されている<br /> *[[大杉栄]] - マフノにちなみ、息子に「ネストル」と命名している(後に「栄」と改名)。<br /> <br /> == 外部リンク ==<br /> {{commons|Category:Nestor Makhno}}<br /> * [http://www.nestormakhno.info/ Nestor Makhno Archive]<br /> *{{Find a Grave|44171162}}<br /> <br /> {{DEFAULTSORT:まふの ねすとる}}<br /> [[Category:ネストル・マフノ|*]]<br /> [[Category:ロシア革命の人物]]<br /> [[Category:ヨーロッパのアナキスト]]<br /> [[Category:アナルコ・コミュニスト]]<br /> [[Category:アナキスト理論家]]<br /> [[Category:ウクライナの革命家]]<br /> [[Category:ウクライナの亡命者]]<br /> [[Category:結核で死亡した人物]]<br /> [[Category:ロシア帝国のウクライナ人]]<br /> [[Category:エカテリノスラフ県出身の人物]]<br /> [[Category:1888年生]]<br /> [[Category:1934年没]]<br /> <br /> {{people-stub}}<br /> {{Normdaten}}</div> 153.188.171.24 赤旗 2018-07-08T17:00:42Z <p>153.188.171.24: </p> <hr /> <div>{{Otheruses||日本共産党の機関紙|しんぶん赤旗|その他}}<br /> [[File:Red flag waving.svg|220px|thumb|赤旗]]<br /> [[File:Red flag.svg|220px|thumb|無地の赤旗]]<br /> [[File:Horace_Vernet-Barricade_rue_Soufflot.jpg|220px|thumb|[[1848年革命]]時の[[パリ]]での[[バリケード]]戦の様子を描いた絵画。]]<br /> [[File:Kustodiyev bolshevik.JPG|220px|thumb|[[ボリス・クストーディエフ]]の絵画「[[ボルシェヴィキ]]」([[1920年]])。]]<br /> <br /> &#039;&#039;&#039;赤旗&#039;&#039;&#039;(あかはた、せっき、{{lang-en-short|red flag}})とは、[[赤]]色の[[旗]]で、[[フランス革命]]以降は[[政治]]的には[[革命]]あるいは革命思想である[[社会主義]]や[[共産主義]]を象徴する旗である。特に[[共産主義]]や[[レーニン主義]]を表す[[鎌と槌|鍬とハンマー]]や[[赤い星]]などの図案と組み合わせて使用される場合も多い。<br /> <br /> 中国語では「&#039;&#039;&#039;[[紅旗|{{lang|zh|红旗}}]]&#039;&#039;&#039;」とよばれ、[[中国共産党]]理論誌の誌名や国産自動車のブランド名([[紅旗 (自動車)|紅旗]])にも用いられている。<br /> <br /> == 社会主義・共産主義の意味を持つ赤旗 ==<br /> === 起源・沿革 ===<br /> 本来は[[フランス王国]]において[[戒厳]]令が発動されていることを示す旗だったが、[[1791年]]、[[フランス革命]]において革命派の内部で急進派&lt;ref&gt;[[ルイ16世 (フランス王)|ルイ16世]]の廃位を請求運動したグループだが、まだ明確には共和派ではなく、別の国王を立てることも念頭にあった時期&lt;/ref&gt;を[[ラファイエット]]が軍隊を率いて弾圧した[[シャン・ド・マルスの虐殺]]事件を契機に、これに対する抗議として戒厳令旗である赤旗を革命旗に採用したとされる。この後も赤旗は革命を象徴する旗とされ、フランス革命の[[階級闘争]]の側面を引き継ぐことを自称する社会主義や共産主義団体、特に社会主義国家が団体旗や[[国旗]]に採用している。また、[[労働組合]]においても、資本家と労働者の階級闘争のシンボルとして赤旗が採用される。さらに[[国際主義]]から肌の色を問わない全人類の[[血液|血]]を象徴するともされた。<br /> <br /> === 主な例 ===<br /> 社会主義・共産主義の意味合いでの赤地の国旗を採用した例は、[[ソビエト連邦の国旗]]が代表的である。ソビエト連邦を構成していた各共和国の旗は、ソビエト連邦の国旗を基本に、下や左右の端に赤以外の色や民族特有の模様などをあしらったものが用いられた。<br /> {{see also|ソビエト連邦の旗一覧}}<br /> 現在用いられている国旗では、[[中華人民共和国の国旗]]、[[ベトナムの国旗]]などがある。また、[[ラトビア]]では[[1918年]]の独立以来、[[海老茶]]地に白で線のシルエットが描かれた[[ラトビアの国旗|国旗]]が、いられているが、[[ラトビア・ソビエト社会主義共和国|ソビエト連邦占領時代]]これに[[ラトビア・ソビエト社会主義共和国の国旗]](1940年 - 1990年)を描き加えたものが用いられた。 また、[[アルバニア]]では[[1912年]]の独立以来、赤地に黒で[[双頭の鷲]]のシルエットが描かれた[[アルバニアの国旗|国旗]]が用いられているが、[[アルバニア労働党]]政権下では、これに[[鎌と槌]](1944年 - 1946年)、[[赤い星]](1946年 - 1992年)を描き加えたものが用いられた。この時期には地色の赤にも社会主義・共産主義の意味合いが付加されていた可能性がある。&lt;ref&gt;{{Cite web|url=http://members.at.infoseek.co.jp/saikakuikai/kaiga/kaiga-top.htm|title=アルバニア革命画集|publisher=|language=日本語|archiveurl=http://web.archive.org/web/20080905113742/http://members.at.infoseek.co.jp/saikakuikai/kaiga/kaiga-top.htm|archivedate=2008-09-05|accessdate=2012-02-12}}&lt;/ref&gt;又、ソビエト連邦(1991年末日解体)やユーゴスラビア社会主義連邦共和国(1992年4月27日解体)は解体され、分離独立した[[キルギスの国旗]]や[[マケドニア共和国の国旗]]では赤地の旗を使用し続けていた。<br /> <br /> &lt;gallery&gt;<br /> Flag of Albania.svg|[[アルバニア]]現在の[[アルバニアの国旗|国旗]]<br /> Flag of Kyrgyzstan.svg|[[キルギス]]現在の[[キルギスの国旗|国旗]]<br /> Flag of the Republic of Macedonia 1992-1995.svg|{{FIAV|historical|n}}1992年から1995年まで使われた[[マケドニア共和国]]の[[マケドニアの国旗|国旗]]<br /> Flag of Macedonia.svg|マケドニア共和国現在の[[マケドニアの国旗|国旗]]<br /> Flag of Latvia.svg|[[ラトビア]]現在の[[ラトビアの国旗|国旗]]<br /> &lt;/gallery&gt;<br /> <br /> === 社会主義・共産主義の意味を持つ赤旗 ===<br /> &lt;gallery&gt;<br /> ファイル:Red_Army_flag.svg|{{FIAV|historical|n}} [[ロシア革命]]の[[赤軍]]の旗<br /> ファイル:Flag of the Soviet Union.svg|{{FIAV|historical|n}}[[ソビエト連邦の国旗]](1980年 - 1991年)<br /> ファイル:Flag of the People&#039;s Republic of China.svg|[[中華人民共和国の国旗]]<br /> ファイル:Flag of the People&#039;s Republic of Mongolia (1924-1940).svg|{{FIAV|historical|n}}[[モンゴルの国旗]](1924年 - 1940年、[[モンゴル人民共和国]])<br /> ファイル:Flag of Vietnam.svg|[[ベトナムの国旗]]<br /> 画像:Flag of the People&#039;s Army of Vietnam.svg|[[ベトナム人民軍]][[軍旗]]及び[[軍艦旗]]<br /> ファイル:Flag of Albania 1944.svg|{{FIAV|historical}}アルバニア民主政府の国旗(1944年 - 1946年)<br /> ファイル:Flag of Albania 1946.svg|{{FIAV|historical|n}}[[アルバニアの国旗]](1946年 - 1992年)<br /> ファイル:Flag_of_the_SR_Macedonia.svg|{{FIAV|historical|n}}[[マケドニア人民共和国]]や[[マケドニア社会主義共和国]]の国旗(1943年 - 1990年)<br /> ファイル:Flag of the People&#039;s Republic of Congo.svg|{{FIAV|historical|n}}[[コンゴ人民共和国]]の国旗(1970年 - 1991年)<br /> ファイル:Flag_of_Democratic_Kampuchea.svg|{{FIAV|historical|n}}[[民主カンボジア]]の国旗<br /> Flag of the People&#039;s Republic of Kampuchea.svg|{{FIAV|historical|n}}[[カンプチア人民共和国]]の国旗<br /> ファイル:Flag of Comecon.svg|{{FIAV|historical|n}}[[経済相互援助会議]](コメコン)の旗<br /> File:Flag of the Communist Party of Germany.svg|{{FIAV|historical|n}}[[ドイツ共産党]]の党旗<br /> File:Flag of the KSC.svg|{{FIAV|historical|n}}[[チェコスロバキア共産党]]の党旗<br /> File:Flagge der SED.svg|{{FIAV|historical|n}}[[ドイツ民主共和国]](東ドイツ) [[ドイツ社会主義統一党|社会主義統一党]]の党旗<br /> ファイル:Flag of PCR.svg|{{FIAV|historical|n}}[[ルーマニア共産党]]の党旗(「鎌と槌」の周囲に[[ムギ|麦]]の穂)<br /> File:League of Communists of Yugoslavia Flag.svg|{{FIAV|historical|n}}[[ユーゴスラビア共産主義者同盟]]の党旗<br /> File:Flag of the Communist Party of Chile.svg|[[チリ共産党]]の党旗<br /> ファイル:Naval Ensign of SFR Yugoslavia.svg|{{FIAV|historical}}[[ユーゴスラビア社会主義連邦共和国]]の軍艦旗<br /> ファイル:Naval Jack of SFR Yugoslavia.svg|{{FIAV|historical}}ユーゴスラビア社会主義連邦共和国の軍艦用国籍旗<br /> Flag of SR Bosnia and Herzegovina.svg|{{FIAV|historical|n}}[[ボスニア・ヘルツェゴビナ社会主義共和国]]の国旗(1945年 - 1992年)<br /> File:Banner of the Communist Party of Kampuchea.svg|{{FIAV|historical|n}}[[カンボジア共産党]]の党旗<br /> ファイル:Communist Party of Bhutan Flag.svg|[[ブータン共産党マルクス・レーニン・毛沢東主義派]]の党旗<br /> Flag of the Chinese Communist Party (Pre-1996).svg|{{FIAV|historical|}}[[中国共産党]]の党旗(1996年まで)<br /> ファイル:Flag of the Chinese Communist Party.svg|[[中国共産党]]の党旗<br /> ファイル:Flag of the ASALA.png|{{FIAV|historical|n}}[[アルメニア解放秘密軍]]の旗<br /> ファイル:Flag of PR of Macedonia.svg|{{FIAV|historical|n}}[[マケドニア人民解放反ファシスト会議]]が制定したマケドニア国家の旗(1944年-1946年)<br /> ファイル:National Flag of Chinese Soviet Republic.svg|{{FIAV|historical|n}}[[中華ソビエト共和国]](1931年 - 1934年)の国旗<br /> ファイル:中國工農紅軍軍旗.svg|{{FIAV|historical|n}}[[紅軍|中国工農紅軍]]の旗<br /> ファイル:Symbol of jcp.jpg|[[日本共産党]]の党章<br /> ファイル:Flag of the Workers&#039; Party of Korea.svg|[[朝鮮労働党]]の党旗([[鍬]]、[[筆]]、[[槌]]の三つの交差は、農民・知識人・労働者の団結と共産主義を表す)<br /> ファイル:Flag of the Communist Party of Vietnam.svg|[[ベトナム共産党]]の党旗<br /> ファイル:CPI-M-flag.svg|[[インド共産党]]の党旗 (1)<br /> ファイル:Hammer and Sickle symbol.png|[[インド共産党]]の党旗 (2)<br /> ファイル:South Asian Communist Banner.svg|[[インド共産党毛沢東主義派]]の党旗<br /> ファイル:Flag of the Communist Party of Nepal (Maoist).svg|[[ネパール共産党統一毛沢東主義派]]の党旗<br /> 画像:Flag of the Communist Party of Nepal (Unified Marxist-Leninist).svg|[[ネパール統一共産党]]の党旗<br /> Flag of Afghanistan (1978-1980).svg|{{FIAV|historical|n}}[[アフガニスタン民主共和国]]の国旗(1978年 - 1980年)<br /> ファイル:Flag of the People&#039;s Democratic Party of Afghanistan.svg|{{FIAV|historical|n}}[[アフガニスタン人民民主党]]の党旗([[ムギ|麦]]の穂と[[歯車]]の組み合わせは、農民と労働者の団結と共産主義を表す)<br /> ファイル:Dhkp.svg|[[トルコ]]の[[革命人民解放党]] ([[:en:Revolutionary People&#039;s Liberation Party–Front|en]]) の旗<br /> ファイル:Flag of Sendero Luminoso.svg|[[ペルー]]の[[センデロ・ルミノソ]]の党旗<br /> ファイル:KPRF Flag.png|[[ロシア連邦共産党]]の党旗<br /> ファイル:Flag of FRELIMO (1997-2004).svg|{{FIAV|historical|n}}[[モザンビーク解放戦線]]の党旗(1997年 - 2004年)([[鍬]]と[[槌]]の交差は、農民と労働者の団結と共産主義を表す)<br /> ファイル:Pin of the Flag of CPSU.png|{{FIAV|historical|n}}[[ソビエト連邦共産党]]の党員バッジ<br /> ファイル:Order of Red Banner of Labor thumb.png|{{FIAV|historical|n}}[[ソビエト連邦]] (СССР) の労働赤旗勲章<br /> ファイル:Flag of the Italian Partisan 63rd Brigade.svg|{{FIAV|historical|n}}[[パルチザン (イタリア)|イタリアのパルチザン]]の第63旅団の旗(1943年 - 1945年)<br /> ファイル:Flag of Brigate Rosse.svg|{{FIAV|historical|n}}[[イタリア]]の[[赤い旅団]]の旗<br /> &lt;/gallery&gt;<br /> <br /> === 派生した旗 ===<br /> ==== 赤・黒2色旗 ====<br /> [[ロシア革命]]後、[[1920年代]]には[[無政府主義]]者が共産主義側に共感を覚え、[[アナキズムのシンボル|無政府主義のシンボルカラー]]だった[[黒]]に、共産主義のシンボルカラーだった[[赤]]を組み合わせた無政府主義旗が生まれた。また[[第二次世界大戦]]後、[[アフリカ]]や[[ラテンアメリカ]]で、社会主義と[[民族主義]]・[[独立運動]]を結びつけた運動理念を掲げる組織の旗標としても用いられた。<br /> &lt;gallery&gt;<br /> ファイル:Anarchist_flag.svg|[[無政府主義]]の赤黒2色旗<br /> ファイル:M-26-7.svg|[[キューバ革命]]の「[[7月26日運動]]」旗<br /> ファイル:Flag_of_Angola.svg|[[アンゴラの国旗]]<br /> ファイル:Flag of the MIR - Chile.svg|チリの「[[左翼革命運動_(チリ)|左翼革命運動]]」旗<br /> ファイル:Flag_of_the_FSLN.png|ニカラグアの[[サンディニスタ民族解放戦線]]の旗(1927年 - 1933年の[[アウグスト・セサル・サンディーノ]]将軍の軍旗に由来)<br /> &lt;/gallery&gt;<br /> <br /> ==== その他 ====<br /> 社会主義や共産主義を意味する赤を部分的に使用した旗には以下がある。<br /> &lt;gallery&gt;<br /> ファイル:Flag_of_Hong_Kong.svg|[[香港特別行政区]]の旗([[中華人民共和国の国旗]]を基本にデザインされ、赤地が[[中華人民共和国]]を、白い花の意匠が香港を表し、紅白の組み合わせで[[一国二制度]]を表している)<br /> ファイル:Flag_of_Belarus.svg|[[ベラルーシの国旗]]([[ソビエト連邦]]時代の[[白ロシア・ソビエト社会主義共和国|白ロシア共和国]]旗から、[[鎌と槌]]と[[赤い星]]を取り除いた)<br /> Флаг белорусских национал-большевиков.png|ベラルーシ国家のボリシェヴィキ党の党旗<br /> ファイル:FNL_Flag.svg|[[南ベトナム解放民族戦線]]・[[南ベトナム共和国]]の旗([[ベトナムの国旗]](当時の「[[ベトナム民主共和国|北ベトナム]]」)を基本に、下半分を青色にした)<br /> ファイル:Flag of Nazi Germany (1933-1945).svg|[[国家社会主義ドイツ労働者党]]の党旗(赤は社会主義&lt;ref&gt;[[アドルフ・ヒトラー]]は『[[我が闘争]]』で旗の赤色を「赤色に我々は運動の社会的理念を見る」と記した(&#039;&#039;Mein Kampf,&#039;&#039; S.496-497)。&lt;/ref&gt;、白は[[国家主義]]、[[ハーケンクロイツ]]は[[アーリアン学説]]の[[アーリア人]]を意味し、[[国家社会主義]]と[[ドイツ人|ドイツ民族]]を表す)<br /> ファイル:National Bolshevik Party.svg|[[国家ボリシェヴィキ党]]の党旗(国家社会主義ドイツ労働者党の党旗に酷似している)<br /> ファイル:Flag Nashi.svg|[[ナーシ]]の旗<br /> &lt;/gallery&gt;<br /> <br /> == その他の赤旗 ==<br /> 社会主義や共産主義とは関係無い、主な赤地の旗には以下がある。<br /> &lt;gallery&gt;<br /> ファイル:Flag of Niigata Prefecture.svg|[[新潟県]]の[[新潟県旗|県旗]]<br /> ファイル:Flag of Tunisia.svg|[[チュニジアの国旗]](赤色は[[オスマン帝国]]時代の反抗勢力の色)<br /> Flag of French Tunisia.svg|{{FIAV|historical}}[[フランス領チュニジア]]の旗<br /> Pre-1999 Flag of Tunisia.svg|{{FIAV|historical}}1999年までの[[チュニジアの国旗]]<br /> ファイル:Flag of Morocco.svg|[[モロッコの国旗]](赤色は[[アラウィー朝]]が使用した赤旗に由来)<br /> ファイル:Flag of Samoa.svg|[[サモアの国旗]]<br /> Flag of Wallis and Futuna.svg|[[ウォリス・フツナ]]の旗<br /> ファイル:Flag of the Isle of Mann.svg|[[マン島の旗]]<br /> ファイル:Flag of Egypt (1882-1922).svg|{{FIAV|historical}}[[ムハンマド・アリー朝]]の旗(1882年 - 1922年)<br /> ファイル:Flag of Egypt (1793-1844).svg|{{FIAV|historical}} 19世紀、オスマン帝国支配下の[[エジプトの国旗|エジプト]]の旗<br /> ファイル:Flag of the Mutawakkilite Kingdom of Yemen.svg|{{FIAV|000010|n}} {{FIAV|historical|n}}北イエメン([[イエメン王国]])の国旗 (1927年 - 1962年)<br /> ファイル:Flag of the Turkish Republic of Northern Cyprus (1983).svg|{{FIAV|historical}}[[北キプロス]]の国旗(1983年 - 1984年)<br /> Flag of Fezzan-Ghadames.svg|{{FIAV|historical|}}フランス占領期の[[フェザーン]]の旗<br /> ファイル:Flag of Turkey.svg|[[トルコの国旗]](赤色は血の海など複数の伝説がある)<br /> ファイル:Flag of Trinidad and Tobago.svg|[[トリニダード・トバゴの国旗]]<br /> &lt;/gallery&gt;<br /> === 赤地に十字の旗 ===<br /> &lt;gallery&gt;<br /> Bandera de Blanes.svg|[[ブラナス]]の旗<br /> Flag of Como.svg|[[コモ]]の旗<br /> ファイル:Flag of Tonga.svg|[[トンガの国旗]]<br /> ファイル:Savoie flag.svg|[[サヴォワ]]の旗<br /> ファイル: Flag of Norway.svg|[[ノルウェーの国旗]]<br /> ファイル:Civil Ensign of the United Kingdom.svg|[[イギリス]]の[[商船旗]]([[レッド・エンサイン]])<br /> ファイル:Flag of Switzerland.svg|[[スイスの国旗]]([[シュヴィーツ州]]の旗を元に作られた)<br /> ファイル:Flag of the Sovereign Military Order of Malta.svg|[[マルタ騎士団の国旗]](ロードス及びマルタにおけるエルサレムの聖ヨハネ病院独立騎士修道会)の国旗<br /> ファイル:Smom.gif|[[聖ヨハネ騎士団]]の旗<br /> ファイル:Flag of Denmark.svg|[[デンマークの国旗]]<br /> &lt;/gallery&gt;<br /> <br /> == 脚注 ==<br /> {{Reflist}}<br /> <br /> == 関連項目 ==<br /> {{Commons|Red_flag}}<br /> * [[旗の一覧]]<br /> * [[赤い星]]<br /> * [[鎌と槌]]<br /> * [[赤旗事件]]<br /> * {{仮リンク|共産主義の記号体系|en|Communist symbolism}}<br /> * [[赤備え]]<br /> * [[黒旗]] - 政治的には[[アナキズム]]などを表す<br /> * [[白旗]] - 政治的には[[王党派]]などを表す<br /> <br /> == 外部リンク ==<br /> *{{Yahoo!百科事典|国旗/国旗のデザインと色/赤旗|エンコード=%E5%9B%BD%E6%97%97/%E5%9B%BD%E6%97%97%E3%81%AE%E3%83%87%E3%82%B6%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%81%A8%E8%89%B2/|author=吹浦忠正}}<br /> <br /> {{DEFAULTSORT:あかはた}}<br /> [[Category:ソビエト連邦の国の象徴]]<br /> [[Category:沿ドニエストル共和国の国の象徴]]<br /> [[category:社会主義の文化]]<br /> [[category:共産主義]]<br /> [[Category:旗のデザイン]]</div> 153.188.171.24 鎌と槌 2018-07-08T16:58:46Z <p>153.188.171.24: </p> <hr /> <div>[[ファイル:Hammer and sickle.png|130px|thumb|right|一般的な「鎌と槌」の図像]]<br /> [[ファイル:Hammer and sickle red on transparent.svg|130px|thumb|right|一般的な「鎌と槌」の図像]]<br /> [[ファイル:Hammer and sickle.svg|130px|thumb|right|1955年以降の[[ソビエト連邦の国旗]]に表された「鎌と槌」、鎌の形が若干違い、握りがより明確に描かれている]]<br /> &#039;&#039;&#039;鎌と槌&#039;&#039;&#039;(かまとつち、&#039;&#039;&#039;鎌と鎚&#039;&#039;&#039;とも)または&#039;&#039;&#039;鎌とハンマー&#039;&#039;&#039;若しくは&#039;&#039;&#039;ツチカマ&#039;&#039;&#039;とは、[[鎌]]と[[槌]]を組み合わせた標章。農民と労働者の団結を表し、[[マルクス・レーニン主義]]の[[共産主義]]や[[共産党]]のシンボルとして使われている。<br /> <br /> == 標章 ==<br /> この標章では、[[鎌]]は[[槌]](ハンマー)の上に重ねて置かれている。鎌は[[農民]]の、槌は[[プロレタリアート]](特に[[ブルーカラー|工員]])の象徴であり、これらを組み合わせて置くことは[[農業]]労働者と[[工業]]労働者の団結を表したものである。<br /> <br /> この標章は、[[ソビエト連邦の国旗]]において、[[赤旗]]の上に[[赤い星]]と組み合わせて使われていたため良く知られている。また、他の共産主義国家や他の国の共産党の旗や[[国章]]、党章としても使われている。<br /> <br /> この標章は共産主義運動の中で広く使われてきたが、正確には[[マルクス主義]]ではなく、[[レーニン主義]]を表した図案であり、このため特に[[コミンテルン]]を系譜とする各国の共産党やその国旗、国章などで使用されている。[[カール・マルクス]]は、革命はプロレタリアート(近代賃金労働者階級(一般的には工業労働者を指すが、小作農家も含む))の手によって起こされると考えた。これに対して[[ウラジーミル・レーニン]]は、当時のロシアの現状に合わせるため[[マルクス主義]]の形を変え、革命の原動力に農民を含めた。更に[[中華人民共和国]]における共産主義である[[毛沢東思想]]では、農民は労働者よりもむしろ中心的な位置を占めるようになった。<br /> <br /> [[Unicode|ユニコード]]では、「鎌と槌」のシンボル「☭」は、U+262Dで表される。<br /> <br /> == ソビエト連邦 ==<br /> {{USSR}}<br /> {{see also|ソビエト連邦の旗一覧}}<br /> <br /> [[ソビエト連邦]]は、「鎌と槌」の元祖であり、「鎌と槌」を国旗と国章としている国家で最も知られる国家である。<br /> <br /> 「鎌と槌」の前には、もともとは鎌と[[鋤]](すき)を組み合わせたシンボルが使われ、「鎌と槌」と同様に労働者と農民の団結を意味していた。鎌と槌は[[1917年]]から[[1918年]]の間から使われるようになったが、[[1922年]]までは鎌と鋤が公式のシンボルであり、[[赤軍]]などの[[軍服]]や帽子、[[勲章]]に用いられていた。<br /> <br /> [[1917年]]までに鎌と槌({{Lang-ru|серп и молот}})は[[ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国]] (RSFSR) の象徴の一つとなった。当初はRSFSRの[[国章]]にあしらわれ、労働者と農民の団結が国家の基礎であると宣言された。鎌と槌は[[1918年]]に創設された[[赤軍]]の象徴の一つにもなった。<br /> <br /> 鎌と槌は、[[1923年]]に[[ソビエト連邦の国旗]]案にも適用され、[[1924年]]に制定された[[ソビエト連邦憲法]]によって最終的に国旗のデザインの一部とされた。同年、[[ソビエト連邦構成共和国]]のおのおのの旗にも鎌と槌は適用された。これ以前は各共和国の旗は、1918年の最初のソビエト憲法で規定されたとおり[[赤旗]]の上に共和国の名を金色で書いただけのものが多かった。<br /> <br /> [[ソビエト連邦の国章]]、および連邦を構成する各共和国の[[国章]]も、鎌と槌をあしらっていた。赤軍の制帽の[[バッジ]]の「赤い星」にも鎌と槌のデザインが入っており、同様の「赤い星の中に鎌と槌」の標章は至る所に使われていた。また、鎌と槌に翼をあしらった標章は国営航空の[[アエロフロート・ロシア航空|アエロフロート]]に使われていた。大統領制時代(ロシア連邦)になっても、アエロフロートはこの標章を使い続けている。その他、鎌と槌({{Lang|ru|серп и молот}})は、ソビエト連邦各地の[[工場]](例えばロシア最古の「モスクワ冶金工場」社、別名「鎌と槌工場」)や[[鉄道]]の[[鉄道駅|駅]]の名前にも使われている。<br /> <br /> [[5月9日]]の[[ヨーロッパ戦勝記念日|対独勝戦記念日]]の軍事パレードでは、鎌と槌の紋章が登場し、[[第二次世界大戦]]当時の軍装をしたロシア兵が行進した([[ロシア連邦]]でも同様)。[[11月7日]]の[[ロシア革命]]記念日の軍事パレードでは、「鎌と槌の赤旗」の国旗が林立し、「地球の上に鎌と槌」を描いた国章も登場した&lt;ref&gt;[[1977年]]11月7日に開かれたロシア革命60周年の軍事パレードでは、「鎌と槌の赤旗」が林立した他にも、[[レオニード・ブレジネフ]]を描いたパネルと、「地球の上に鎌と槌」の国章を立体化させた模型が登場した。参照:朝日新聞 1977年11月8日付 1頁&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> [[コミンテルン]]や[[コミンフォルム]]に参加した世界の[[共産党]]も鎌と槌をシンボルに使うようになった。[[ソビエト連邦共産党]]以外にも、[[中国共産党]]など世界各地の共産党も鎌と槌を標章にしているため、[[冷戦]]下の[[中ソ対立]]で中国共産党に与した党も、鎌と槌を使っている。また、ソ連共産党にも中国共産党にも反対する共産主義政党ですら、鎌と槌を使っていた。それゆえ、鎌と槌は、傾向の差こそあれ多くの共産主義の標章となっている。<br /> <br /> &lt;gallery&gt;<br /> ファイル:Flag of the Soviet Union (1923-1955).svg|{{FIAV|historical|n}} [[ソビエト連邦の国旗]](1923年 - 1955年)<br /> ファイル:Flag of the Soviet Union (1955-1980).svg|{{FIAV|historical|n}} [[ソビエト連邦の国旗]](1955年 - 1980年)<br /> ファイル:Flag of the Soviet Union.svg|{{FIAV|historical|n}}[[ソビエト連邦の国旗]](1980年 - 1991年)<br /> ファイル:Naval Ensign of the Soviet Union.svg|{{FIAV|historical|n}} [[ロシア海軍|ソビエト海軍]]の[[軍艦旗]]<br /> ファイル:Naval Jack of the Soviet Union.svg|{{FIAV|historical|n}} [[ロシア海軍|ソビエト海軍]]の艦首旗<br /> ファイル:Coat of arms of the Soviet Union 1923–1936.svg|[[ソビエト連邦の国章]](1923年 - 1936年)<br /> ファイル:Coat of arms of the Soviet Union 1946-1956.svg|[[ソビエト連邦の国章]](1946年 - 1956年)<br /> ファイル:State Emblem of the Soviet Union.svg|[[ソビエト連邦の国章]](1958年 - 1991年)<br /> ファイル:Pin of the Flag of CPSU.png|[[ソビエト連邦共産党]]の党員バッジ<br /> &lt;!---ファイル:Kolkhoznitsa.jpg|モスクワの[[全ロシア博覧センター]](旧・全ソビエト展示センター、All-Soviet Exhibition Centre)の入口にある[[ヴェラ・ムーヒナ]]作の巨像『労働者とコルホーズの女性』(解体修復し2009年12月に再除幕)---&gt;<br /> ファイル:КПРФ Logo.png|[[ロシア連邦共産党]]の党章<br /> &lt;/gallery&gt;<br /> <br /> == ソビエト連邦以外 ==<br /> ソビエト連邦以外の共産党国家では、共産党の旗を「鎌と槌」として、国旗を「鎌と槌」以外の模様とする国家もある。<br /> <br /> [[中華人民共和国]]は、[[中国共産党]]の党旗が「鎌と槌」で、国旗は「[[中華人民共和国の国旗|五星紅旗]]」である。[[ベトナム|ベトナム社会主義共和国]]は、[[ベトナム共産党]]の党旗が「鎌と槌」で、国旗は「[[ベトナムの国旗|金星紅旗]]」である。[[ルーマニア社会主義共和国]]は、[[ルーマニア共産党]]の党旗が「鎌と槌」で、[[ルーマニアの国旗|国旗]]は三色旗に赤い星と黄色い太陽と緑の森林を組み入れた図案である。<br /> <br /> &lt;gallery&gt;<br /> &lt;!---ファイル:File:PCElogo.PNG|[[スペイン共産党]]の党旗---&gt;<br /> Flag of the Chinese Communist Party (Pre-1996).svg|{{FIAV|historical|}}[[中国共産党]]の党旗(1996年まで)<br /> ファイル:Flag of the Chinese Communist Party.svg|[[中国共産党]]の党旗(現行)<br /> ファイル:Flag of the Communist Party of Vietnam.svg|[[ベトナム共産党]]の党旗<br /> ファイル:Flag of LPRP.svg|[[ラオス人民革命党]]の党旗<br /> ファイル:Flag of Albania 1944.svg|{{FIAV|historical}}アルバニア民主政府の国旗(1944年 - 1946年)<br /> File:Banner of the Communist Party of Kampuchea.svg|{{FIAV|historical|n}}[[カンボジア共産党]]の党旗<br /> File:Flag of the KSC.svg|{{FIAV|historical|n}}[[チェコスロバキア共産党]]の党旗<br /> File:Emblem of the Communist Party of Czechoslovakia.svg|チェコスロバキア共産党の党章<br /> ファイル:CPI-M-flag.svg|[[インド共産党]]の党旗 (1)<br /> ファイル:Hammer and Sickle symbol.png|[[インド共産党]]の党旗 (2)<br /> Flag of the Communist Party of Germany.svg|{{FIAV|historical|n}}[[ドイツ共産党]]の党旗<br /> ファイル:Flag of the Communist Party of Nepal (Maoist).svg|[[ネパール共産党統一毛沢東主義派]]の党旗<br /> ファイル:Communist Party of Bhutan Flag.svg|[[ブータン共産党マルクス・レーニン・毛沢東主義派]]の党旗<br /> &lt;!---ファイル:Communist Party of Brazil Flag.gif|[[ブラジル共産党]]の党旗---&gt;<br /> ファイル:Flag of Sendero Luminoso.svg|[[ペルー]]の[[センデロ・ルミノソ]]の党旗<br /> League of Communists of Yugoslavia Flag.svg|{{FIAV|historical|n}}[[ユーゴスラビア共産主義者同盟]]の党旗<br /> ファイル:中國工農紅軍軍旗.svg|{{FIAV|historical|n}} [[紅軍|中国工農紅軍]]の旗<br /> ファイル:Dhkp.svg|[[トルコ]]の[[革命的人民解放党・戦線|革命人民解放党]]の旗<br /> ファイル:Flag of the Lebanese Communist Party.svg|[[レバノン共産党]]の党旗<br /> ファイル:KPD-logo.svg|[[ドイツ共産党]]の党章<br /> &lt;!--- ファイル:Psisymbol71-78.PNG|イタリア社会党---&gt;<br /> &lt;!--- ファイル:Old Labour Party Logo.gif|イギリス労働党の昔のロゴ ---&gt;<br /> ファイル:Flag of PCR.svg|{{FIAV|historical|n}} [[ルーマニア共産党]]の党旗(「鎌と槌」の周囲に[[ムギ|麦]]の穂)<br /> ファイル:Partido Comunista de Chile.svg|[[チリ共産党]]のロゴ(「鎌と槌」の周囲に[[ムギ|麦]]の穂)<br /> &lt;/gallery&gt;<br /> <br /> == 類似の標章 ==<br /> 「鎌と槌」以外の類似のシンボルには以下があり、複数の道具を交差させたシンボルはそれぞれの団結と共産主義を表すものが多いが、共産主義には無関係なものもある。いくつかのものは労働者と農民に加えて知識人または兵士の象徴を追加している。<br /> <br /> 以下の画像以外では、[[アメリカ共産党]]の赤い歯車・鎌・槌の組み合わせ、[[1983年]]までの[[イギリス]][[労働党 (イギリス)|労働党]]のロゴの[[鋤]] (spade)、[[鍬]]、[[たいまつ]]の組み合わせ、[[イギリス共産党]]の「鎚と鳩」などがある。また農民の象徴に[[農具]]ではなく[[農作物]]を使用する例には、[[稲穂]]と歯車を組み合わせた[[日本共産党]]の党章などがある&lt;ref&gt;[http://www.jcp.or.jp/publish/memory/index.html 日本共産党の党章 - 日本共産党]&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;[http://f.hatena.ne.jp/zarudora/20080429031135 日本共産党の党章 - hatenafotolife]&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> [[第四インターナショナル|第四インターナショナル(第四インター)]]は「[[反スターリン主義|反スターリニズム]]」を掲げているため、旧ソ連の物に対して鎌と槌の位置が裏返しになっている。日本では[[日本革命的共産主義者同盟 (JRCL)]](旧[[第四インターナショナル]][[日本革命的共産主義者同盟(第四インターナショナル日本支部)|日本支部]])とその青年組織・日本共産青年同盟(共青同)が党旗に使用しているほか、[[三里塚闘争|三里塚]]現闘団機関紙「槌と鎌」を発行していたことがあり、「鎌と槌」ではなく「槌と鎌」と読み方も逆であった。<br /> <br /> 類似の図案だが共産主義以外を表すものには、以下のものがある。[[キリスト教共産主義]]では、鎌と槌のかわりに、鎌と[[十字架]]を組み合わせたものが提案されている。[[1990年]]、[[ネルソン・マンデラ]]が監獄から釈放された後、[[ケープタウン]]での[[南アフリカ共和国|南アフリカ]]国民への演説において、彼の立つバルコニーからは鎌と槌の旗が掲げられていた。[[オーストリアの国章]]は[[西洋の冠|王冠]]をかぶった鷲が(交差していない)鎌と槌を両方の鉤爪に握っているデザインで、これは制定当時の[[第一次世界大戦]]直後のオーストリアの三つの主要な階級(農民、労働者、ブルジョワ)が共和国内で共存することを表したものである。また、日本国の[[五円玉]]は、稲穂(農業)、歯車(工業)、海(水産)、木の芽(林業)がデザインされているが、これは各産業の発達を表したものである。<br /> <br /> &lt;gallery&gt;<br /> File:Coat of arms of Hungary (1949-1956).svg|[[ハンガリー人民共和国]]の国章(1949~56年)。鎌の代わりに麦穂がハンマーと交差している<br /> ファイル:Coat of arms of East Germany.svg|[[ドイツ民主共和国の国章]]([[ムギ|麦]]の穂と[[槌]]と[[コンパス]]の組み合わせは、農民・労働者・知識人の団結と共産主義を表す)<br /> File:Coat of arms of Vietnam.svg|[[ベトナムの国章]]。稲穂と歯車が農民と労働者を表している。<br /> ファイル:Flag of the People&#039;s Democratic Party of Afghanistan.svg|{{FIAV|historical|n}} [[アフガニスタン人民民主党]]の党旗([[ムギ|麦]]の穂と[[歯車]]の組み合わせは、農民と労働者の団結と共産主義を表す)<br /> &lt;!---ファイル:L5I-LOGO-WORDS-RED.PNG|第五インターナショナルの党旗---&gt;<br /> &lt;!---ファイル:CP logo.png|[[アメリカ共産党]]の党章---&gt;<br /> File:Symbol of jcp.jpg|[[日本共産党]]の党章<br /> ファイル:Flag of FRELIMO (1997-2004).svg|{{FIAV|historical|n}} [[モザンビーク解放戦線]]の党旗(1997年 - 2004年)([[鍬]]と[[槌]]の交差は、農民と労働者の団結と共産主義を表す)<br /> ファイル:Flag of the People&#039;s Republic of Congo.svg|{{FIAV|historical|n}} [[コンゴ人民共和国|コンゴ人民共和国の国旗]]([[鍬]]と[[槌]]の交差は、農民と労働者の団結と共産主義を表す)<br /> ファイル:Flag of the Workers&#039; Party of Korea.svg|[[朝鮮労働党]]の党旗([[鍬]]、[[筆]]、[[槌]]の三つの交差は、農民・知識人・労働者の団結と共産主義を表す)<br /> &lt;!--- ファイル:RoterOktober.svg---&gt;<br /> ファイル:Logo of the Fourth International.svg|[[第四インターナショナル]]のシンボル・マーク (1)。「鎌と槌」の位置が逆になり「4」の文字が入る<br /> ファイル:ForthInternational.svg|[[第四インターナショナル]]のシンボル・マーク (2)<br /> &lt;!---ファイル:Hammer and dove.svg|[[イギリス共産党]]の党旗(ハンマーと鳩)---&gt;<br /> &lt;/gallery&gt;<br /> == その他の類似意匠 ==<br /> &lt;gallery&gt;<br /> ファイル:Austria Bundesadler 1919-1934.svg|1919年から1934年までの[[第一共和国 (オーストリア)|オーストリア第一共和国]]の国章(千切れた鎖が無い)<br /> ファイル:Austria Bundesadler.svg|[[オーストリアの国章]](王冠・鎌・槌は、ブルジョワ・農民・労働者を表しており、共産主義とは無関係)<br /> ファイル:Flag of Angola.svg|[[アンゴラの国旗]](1975年)([[歯車]]と[[鉈]]の交差は労働者と農業の団結と社会主義を表す)<br /> ファイル:Coa far east republic 1920.png|[[極東共和国]]の国章(1920年 - 1922年)([[錨]]と[[つるはし]]の交差は[[漁民]]と鉱山労働者の団結を表す)<br /> ファイル:Flag of Mozambique.svg|[[モザンビークの国旗]]([[鍬]]・[[小銃]]・[[本]]の交差は、農民・兵士・知識人の団結と社会主義を表す)<br /> ファイル:Aeroflot.svg|[[アエロフロート・ロシア航空]]のロゴ([[ソ連崩壊]]後も「鎌と槌」に翼を重ねたものを使用している)<br /> Flag of Belize.svg|[[ベリーズの国旗]]([[斧]]・[[櫂]]・[[鋸]]の交差は[[木材]]・[[造船]]の重要性を表す、共産主義とは無関係)<br /> Coat of arms of Belize.svg|[[ベリーズの国章]]<br /> Flag of Bryansk Oblast.svg|[[ブリャンスク州]]の旗<br /> Coat of Arms of Bryansk Oblast.svg|ブリャンスク州の紋章<br /> Flag of Oryol (city).svg|[[オリョール]]の旗<br /> Flag of Vladimirskaya Oblast.svg|[[ヴラジーミル州]]の旗<br /> Flag of Transnistria (state).svg|[[沿ドニエストルの国旗]](政府用旗)<br /> Coat of arms of Transnistria.svg|[[沿ドニエストルの国章]]<br /> ファイル:National Bolshevik Party.svg|[[国家ボリシェヴィキ党]]の党旗<br /> Флаг белорусских национал-большевиков.png|ベラルーシ国家のボリシェヴィキ党の党旗<br /> &lt;/gallery&gt;<br /> <br /> == 禁止運動 ==<br /> [[第二次世界大戦]]勃発から[[冷戦]]終結まで([[1939年]] - [[1989年]])の50年間、[[ソビエト連邦]]と[[共産党]][[一党独裁]]によって抑圧されてきた[[バルト三国]]や[[中央ヨーロッパ]]では、「鎌と槌」や「[[赤い星]]」などソビエト連邦や共産主義の標章に対する厭悪感も強い。<br /> <br /> このため、[[欧州連合|EU]]においてドイツやフランスなどと同じく「[[ハーケンクロイツ|鉤十字]]」など[[ナチスドイツ]]の標章を禁止しようという提案がなされた時、東欧の幾つかの国は同様にソビエト連邦と共産主義の標章を公の場で使用することも禁止しようと提案したことがある(→[[ヴィータウタス・ランズベルギス]])。しかし、西欧各国の共産党やロシア連邦の反発が強かった外、「鉤十字」の禁止と「鎌と槌」の禁止の提案自体が盛り上がらず、結局、「鉤十字」の禁止提案も「鎌と槌」の禁止提案も実現しなかった。<br /> <br /> [[ソ連崩壊|ソビエト連邦の崩壊]]を契機に「鎌と槌」を禁止した国として、[[1993年]]以後は[[ハンガリー|ハンガリー第三共和国]](1993年改正刑法)&lt;ref&gt;[http://src-h.slav.hokudai.ac.jp/hungary/tips/amulthet080706-12.html ハンガリー文化センター 2008年7月6日 - 12日のニュース]&lt;/ref&gt;で、[[2007年]]以後はバルト三国の一つ[[エストニア|エストニア共和国]]で、[[2008年]]以後はバルト三国の一つ[[リトアニア|リトアニア共和国]]と[[ラトビア共和国]]で、[[2009年]]以後は[[ポーランド|ポーランド第三共和国]]&lt;ref&gt;[http://www.foxnews.com/world/2009/11/27/poland-imposes-strict-ban-communist-symbols/ Fox News 2009年11月27日 ポーランドが共産主義の標章を禁止]&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;[http://www.epochtimes.jp/jp/2009/12/html/d93350.html 大紀元 2009年12月3日 東欧国家、共産主義への取締を強化]&lt;/ref&gt;で、[[2015年]]以降は[[ウクライナ]]&lt;ref&gt;[http://www.wsj.com/articles/ukraine-bans-soviet-era-symbols-1428606171 Ukraine Bans Soviet-Era Symbols]、[[ウォール・ストリート・ジャーナル]]、[[2015年]][[4月9日]]、[[2016年]][[6月21日]]閲覧&lt;/ref&gt;でそれぞれ、「鎌と槌」の使用と掲揚が法律により禁止されている。なお、ポーランド第三共和国で「鎌と槌」を禁止する法律は、「[[法と正義]]」の[[ヤロスワフ・カチンスキ]]党首が提案した。<br /> <br /> == 符号位置 == <br /> 鎌と槌の特殊文字はunicodeに存在する。<br /> {| class=&quot;wikitable&quot; style=&quot;text-align:center;&quot; <br /> !記号!![[Unicode]]!![[JIS X 0213]]!![[文字参照]]!!名称 <br /> {{CharCode|9773|262D|-|hammer and sickle|font=Unicode}} <br /> |}<br /> <br /> == 聖書における「鎚と鎌」 ==<br /> エレミヤ書 23章(口語訳聖書)<br /> <br /> 29 主は仰せられる、私の言葉は火のようではないか。また岩を打ち砕く鎚のようではないか。 <br /> <br /> エレミヤ書 51章(口語訳聖書)<br /> <br /> 20 おまえは私の鎚であり、戦いの武器である。私はおまえをもって全ての国を砕き、おまえをもって万国を滅ぼす。 <br /> <br /> 黙示録 14章(新改訳聖書)<br /> <br /> 14 また、私は見た。見よ。白い雲が起こり、その雲に人の子のような方が乗っておられた。頭には金の冠を被り、手には鋭い鎌を持っておられた。 <br /> <br /> 15 すると、もう一人の御使いが聖所から出て来て、雲に乗っておられる方に向かって大声で叫んだ。「鎌を入れて刈り取ってください。地の穀物は実ったので、取り入れる時が来ましたから。」 <br /> <br /> 16 そこで、雲に乗っておられる方が、地に鎌を入れると地は刈り取られた。 <br /> <br /> 17 また、もう一人の御使いが、天の聖所から出て来たが、この御使いも、鋭い鎌を持っていた。 <br /> <br /> 18 すると、火を支配する権威を持ったもう一人の御使いが、祭壇から出て来て、鋭い鎌を持つ御使いに大声で叫んで言った。「その鋭い鎌を入れ、地の葡萄の房を刈り集めよ。葡萄は既に熟しているのだから。」 <br /> <br /> 19 そこで御使いは地に鎌を入れ、地の葡萄を刈り集めて、神の激しい怒りの大きな酒舟に投げ入れた。 <br /> <br /> 20 その酒舟は都の外で踏まれたが、血は、その酒舟から流れ出て、馬のくつわに届くほどになり、千六百スタディオンに広がった。 <br /> <br /> == 参照 ==<br /> &lt;references /&gt;<br /> <br /> == 外部リンク ==<br /> * [http://news.bbc.co.uk/2/hi/europe/4234335.stm BBC報道:鎌とハンマーの禁止が計画されている件について]<br /> * [http://www.sim-st.com/ ロシア連邦の鎌と槌工場ウェブサイト(ロシア語)]<br /> <br /> == 関連項目 ==<br /> {{Commons category|Hammer and sickle}}<br /> * [[赤い星]]<br /> * [[赤旗]]<br /> * [[ソ連型社会主義]]<br /> * [[沿ドニエストル共和国]](現在、[[沿ドニエストル共和国の国旗|国旗]]や[[沿ドニエストル共和国の国章|国章]]の中で唯一、鎌と槌が用いられている。)<br /> <br /> {{DEFAULTSORT:かまとつち}}<br /> [[Category:社会主義の文化]]<br /> [[Category:共産主義]]<br /> [[Category:ソビエト連邦の国の象徴]]<br /> [[Category:沿ドニエストル共和国の国の象徴]]</div> 153.188.171.24 ソビエト連邦の国章 2018-07-08T16:51:23Z <p>153.188.171.24: </p> <hr /> <div>{{Infobox Coat of arms<br /> |color = #DE2929<br /> |name = ソビエト連邦の国章<br /> |image = State Emblem of the Soviet Union.svg<br /> |image_width = 250<br /> |caption =<br /> |middle = <br /> |middle_width = <br /> |middle_caption = <br /> |lesser = <br /> |lesser_width = <br /> |lesser_caption = <br /> |armiger = [[ソビエト連邦]]<br /> |year_adopted = [[1923年]][[7月6日]](初代)&lt;br&gt;[[1958年]][[4月1日]](最終版)<br /> |crest = 金色で縁取られた[[赤い星]] <br /> |torse = ソ連構成国15か国の言語によるモットーが書かれた赤いリボンで束ねられた[[コムギ]]<br /> |shield = [[鎌と槌]]、 [[地球儀]] 、 [[日の出]]<br /> |supporters = <br /> |compartment = <br /> |motto = {{lang-ru-short|Пролетарии всех стран, соединяйтесь!}}&lt;br&gt;「[[万国の労働者よ、団結せよ!]]」<br /> |orders = <br /> |other_elements = <br /> |earlier_versions = <br /> |use = <br /> }}<br /> <br /> &#039;&#039;&#039;[[ソビエト連邦]]の[[国章]]&#039;&#039;&#039;(ソビエトれんぽうのこくしょう、{{lang|ru|Государственный герб СССР}})は、「[[地球]]の上に[[鎌と槌]]」を描き、これを[[コムギ]]の穂の[[リース (紋章学)|リース]]で囲んだ国章である。<br /> <br /> [[1923年]]に制定され、[[1991年]]の[[ソ連崩壊]]まで使用された。この国章は、[[紋章学]]の体系に沿って作られていないため、[[紋章]]であるというより[[エンブレム]]という方が正確である([[ロシア]]の伝統的な紋章制定に使われた体系は、ロシア語で「ゲルブ」({{lang|ru|герб}})と呼ばれる。)<br /> <br /> == 変遷 ==<br /> ソビエト連邦の国章は、連邦を構成する共和国の数が大きく変わるたびに変更を繰り返した。<br /> <br /> === 1923年から1936年 ===<br /> [[File:Coat of arms of the Soviet Union 1923–1936.svg|thumb|right|200px|1923年から1936年までのソビエト連邦の国章]]<br /> [[ロシア革命]]後も[[双頭の鷲]]が使われていたが、ソビエト連邦建国の際に反動的ということで変更をすることになった。<br /> <br /> 最初の国章案は[[1923年]][[7月6日]]、[[ソビエト連邦中央執行委員会]]の第二回会合で赤地に国章が配置された[[ソビエト連邦の国旗#最初の国旗|最初のソビエト連邦の国旗]]とともに了承された。同年[[9月22日]]に最終案が作成され&lt;ref name=&quot;NiZh&quot;&gt;{{cite journal | last = Bolotina | first = S. | year = 1983 | month = November | title = How Our State Emblem Was Created | journal = Nauka i Zhizn | pages = pp. 20-24 | id = {{ISSN|0028-1263}} | language = Russian}}&lt;/ref&gt;、[[ソビエト社会主義共和国連邦憲法 (1924年)|憲法]]草案の条項に載せるため、さらに手直しされた。<br /> <br /> この案は翌[[1924年]]に成立した憲法では次のようになっている。<br /> : ソビエト連邦の国家のエンブレムは、地球の上に[[鎌と槌]]が描かれることで構成される。地球は下にある黄色い太陽の光線の中に描かれ小麦の穂で囲まれ、その穂は6つの言語 - [[ロシア語]]、[[ウクライナ語]]、[[ベラルーシ語|白ロシア語]]、[[グルジア語]]、[[アルメニア語]]、[[タタール語|トルコ・タタール語]] - で、「[[万国の労働者よ、団結せよ!|万国の労働者、団結せよ!]]」と書かれた赤いリボンで束ねられている。エンブレムの頂点には、[[赤い星|赤い五芒星]]が配される。&lt;br&gt;&#039;&#039;&#039;{{lang|ru|Государственный герб Союза Советских Социалистических Республик состоит из серпа и молота на земном шаре, изображенном в лучах солнца и обрамленном колосьями, с надписью на шести языках, упомянутых в ст. 34: «Пролетарии всех стран, соединяйтесь!» На верху герба имеется пятиконечная звезда.}}&#039;&#039;&#039;<br /> <br /> [[1936年]]の[[ソビエト社会主義共和国連邦憲法 (1936年)|ソビエト連邦憲法]]では[[ザカフカース社会主義連邦ソビエト共和国|<br /> ザカフカース連邦共和国]]の解体に伴う[[アゼルバイジャン・ソビエト社会主義共和国|アゼルバイジャン共和国]]、[[アルメニア・ソビエト社会主義共和国|アルメニア共和国]]、[[グルジア・ソビエト社会主義共和国|グルジア共和国]]の新設や、[[ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国|ロシア連邦共和国]]から[[中央アジア]]部分を分割したことにより、連邦構成共和国は11カ国に増えることになっていた。このため、国章も新しくされた。大きく変更された点は、リボンの上の「[[万国の労働者よ、団結せよ!|万国の労働者、団結せよ!]]」の文言が新たに[[アゼルバイジャン語]]、[[トルクメン語]]、[[ウズベク語]]、[[タジク語]]、[[カザフ語]]、[[キルギス語]](文言は[[ラテン文字]])を加えた11の言語で書かれるようになったことである。<br /> <br /> === 1946年から1956年 ===<br /> [[ファイル:Coat of arms of the Soviet Union (1946-1956).svg|thumb|right|200px|1946年から1956年までのソビエト連邦の国章]]<br /> [[第二次世界大戦]]の初期、[[独ソ戦]](「[[大祖国戦争]]」)が始まる前の[[1940年]]、ソビエト連邦は[[独ソ不可侵条約]]、[[ポーランド侵攻]]、[[バルト諸国占領]]、[[ベッサラビア]]進駐などを通じて西に大きく領土を広げており、連邦構成共和国は16カ国に増えた。しかし国章がこの変化を反映したのは戦後の[[1946年]]になってからである。<br /> <br /> {{仮リンク|ソビエト連邦最高会議幹部会|en|Presidium of the Supreme Soviet|label=ソビエト連邦最高会議幹部会}}の決定による1946年[[6月26日]]の決定では、全16カ国の構成共和国が国章の中に象徴されることとなった。「[[万国の労働者よ、団結せよ!|万国の労働者、団結せよ!]]」は、新たに[[エストニア語]]、[[ラトビア語]]、[[リトアニア語]]、[[モルドバ語]]、[[フィンランド語]]を加えた16の言語で書かれることになった。また、[[アゼルバイジャン語]]、[[トルクメン語]]、[[ウズベク語]]、[[タジク語]]、[[カザフ語]]、[[キルギス語]]の文言は[[ラテン文字]]から[[キリル文字]]への切り替えに伴い、新たに書き直された&lt;ref name=&quot;NiZh&quot;/&gt;。<br /> <br /> === 1956年から1991年 ===<br /> [[1956年]]、[[カレロ=フィン・ソビエト社会主義共和国|カレロ=フィン共和国]]は[[カレリア自治ソビエト社会主義共和国|<br /> カレリア自治共和国]](現在の[[カレリア共和国]])へと降格し、直ちに国章にも変更が行われた&lt;ref name=&quot;NiZh&quot;/&gt;。1956年[[9月12日]]のソビエト連邦最高会議幹部会の決定では、フィンランド語で「[[万国の労働者よ、団結せよ!|万国の労働者、団結せよ!]]」を書いたリボンは取り除かれることとなった&lt;ref name=&quot;Heraldicum&quot;&gt;{{ru icon}} [http://www.heraldicum.narod.ru/russia/ussr.htm Герб СССР] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20070817170818/http://www.heraldicum.narod.ru/russia/ussr.htm |date=2007年8月17日 }}&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> また、[[1958年]][[4月1日]]のソビエト連邦最高会議幹部会の決定では、ベラルーシ語による表記に若干の変更が行われ、これが1991年まで使われることとなる&lt;ref name=&quot;Heraldicum&quot;/&gt;。<br /> <br /> == 諸外国への影響 ==<br /> {{USSR}}<br /> === ソ連構成国 ===<br /> [[ソビエト連邦構成共和国]]や[[ソビエト連邦の自治共和国|自治共和国]]もそれぞれの国章を制定したが、ソビエト連邦の国章に大きく刺激されたほとんど同じ図柄だった。<br /> <br /> 1991年の[[ソ連崩壊]]後、かつてのソビエト連邦構成共和国の国章はそのほとんどがソ連時代のものとは全く異なるデザインの国章を採用している。<br /> <br /> 独立後の国章の制定においては、ソ連併合以前の国章を復活させる([[エストニア]]、[[ラトビア]]、[[リトアニア]])、[[ロシア革命]]から[[ロシア内戦|内戦]]期に樹立された短命の独立国家の国章を採用する([[ウクライナ]]、独立直後のベラルーシ、[[アルメニア]]、[[ジョージア (国)|ジョージア(グルジア)]]、[[アゼルバイジャン]])、ロシア革命前の国章をベースとした新国章を制定する([[ロシア連邦]])、民族の伝統にのっとった新国章を制定する([[モルドバ]])などの方法が取られた。<br /> <br /> 唯一の例外は[[ベラルーシ]](白ロシア)で、独立直後は[[ベラルーシ人民共和国]](1918年 - 1919年)で採用されていた国章を使用していたが、1995年に[[アレクサンドル・ルカシェンコ]]が大統領に就任してからは、[[白ロシア・ソビエト社会主義共和国|白ロシアSSR]]の国章に若干の変更がなされた国章が採用された&lt;ref&gt;国章の中心部の[[鎌と槌]]がベラルーシの国土の絵に変更されているが、それ以外はソ連時代と全く同じ。&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> === 構成共和国の国章 ===<br /> {| class=&quot;wikitable&quot; border=1 cellpadding=5 cellspacing=0<br /> ! style=&quot;background:#284D93&quot; | &lt;span style=&quot;color:white;&quot;&gt; ソビエト社会主義共和国&lt;/span&gt;<br /> ! style=&quot;background:#284D93&quot; | &lt;span style=&quot;color:white;&quot;&gt;国章&lt;/span&gt;<br /> ! colspan=2 style=&quot;background:#284D93&quot; | &lt;span style=&quot;color:white;&quot;&gt;国章の構成物&lt;/span&gt;<br /> ! style=&quot;background:#284D93&quot; | &lt;span style=&quot;color:white;&quot;&gt;現在の国章&lt;/span&gt;<br /> |-<br /> ! rowspan=4 |[[アゼルバイジャン・ソビエト社会主義共和国]]<br /> | rowspan=4 align=center | [[画像:Emblem of the Azerbaijan SSR.svg|100px|]]<br /> | 植物<br /> | [[綿花]]と[[小麦]]<br /> | rowspan=4 align=center width=&quot;95px&quot; | [[画像: Emblem of Azerbaijan.svg|50px|]] &lt;br&gt;&lt;small&gt;[[アゼルバイジャンの国章]]&lt;/small&gt;<br /> |-<br /> | 背景<br /> | [[太陽]]<br /> |-<br /> | 産業<br /> | [[鎌と槌]]、[[油井]]<br /> |-<br /> | 装飾<br /> | 赤い[[リボン]]、[[赤い星]]<br /> |-<br /> ! rowspan=4 | [[アルメニア・ソビエト社会主義共和国]]<br /> | rowspan=4 align=center | [[画像: Emblem of the Armenian SSR.svg|100px|]]<br /> | 植物<br /> | 小麦と[[葡萄]]<br /> | rowspan=4 align=center width=&quot;95px&quot; |[[画像: Coat of arms of Armenia.svg|50px|]] &lt;br&gt;&lt;small&gt;[[アルメニアの国章]]&lt;/small&gt;<br /> |-<br /> | 背景<br /> | [[アララト山]]<br /> |-<br /> | 産業<br /> | 鎌と槌<br /> |-<br /> | 装飾<br /> | 赤いリボン、赤い星が光を放射している<br /> |-<br /> ! rowspan=4 | [[ウクライナ・ソビエト社会主義共和国]]<br /> | rowspan=4 align=center | [[画像:Emblem of the Ukrainian SSR.svg|100px|]]<br /> | 植物<br /> | 小麦<br /> | rowspan=4 align=center width=&quot;95px&quot; |[[画像:Lesser Coat of Arms of Ukraine.svg|50px|]] &lt;br&gt;&lt;small&gt;[[ウクライナの国章]]&lt;/small&gt;<br /> |-<br /> | 背景<br /> | 太陽<br /> |-<br /> | 産業<br /> | 鎌と槌<br /> |-<br /> | 装飾<br /> | 赤いリボン、赤い星<br /> |-<br /> ! rowspan=4 | [[ウズベク・ソビエト社会主義共和国]]<br /> | rowspan=4 align=center | [[画像:Emblem of the Uzbek SSR.svg|100px|]]<br /> | 植物<br /> | 左側に綿花、右側に小麦<br /> | rowspan=4 align=center width=&quot;95px&quot; | [[画像:Coat of arms of Uzbekistan.svg|50px|]] &lt;br&gt;&lt;small&gt;[[ウズベキスタンの国章]]&lt;/small&gt;<br /> |-<br /> | 背景<br /> | 太陽と[[地球]]<br /> |-<br /> | 産業<br /> | 鎌と槌<br /> |-<br /> | 装飾<br /> | 赤いリボン、赤い星<br /> |-<br /> ! rowspan=4 | [[エストニア・ソビエト社会主義共和国]]<br /> | rowspan=4 align=center | [[画像: Emblem of the Estonian SSR.svg|100px|]]<br /> | 植物<br /> |左側に[[松]]の枝、右側に麦の束<br /> | rowspan=4 align=center width=&quot;95px&quot; | [[画像: Coat of arms of Estonia.svg|50px|]] &lt;br&gt;&lt;small&gt;[[エストニアの国章]]&lt;/small&gt;<br /> |-<br /> | 背景<br /> | 太陽<br /> |-<br /> | 産業<br /> | 鎌と槌<br /> |-<br /> | 装飾<br /> | 赤いリボン、赤い星<br /> |-<br /> ! rowspan=4 | [[カザフ・ソビエト社会主義共和国]]<br /> | rowspan=4 align=center | [[画像: Emblem of Kazakh SSR.svg|100px|]]<br /> | 植物<br /> | 小麦<br /> | rowspan=4 align=center width=&quot;95px&quot; | [[画像:Emblem of Kazakhstan.svg|50px|]] &lt;br&gt;&lt;small&gt;[[カザフスタンの国章]]&lt;/small&gt;<br /> |-<br /> | 背景<br /> | 太陽<br /> |-<br /> | 産業<br /> | 鎌と槌<br /> |-<br /> | 装飾<br /> | 赤いリボン、赤い星<br /> |-<br /> ! rowspan=4 | [[キルギス・ソビエト社会主義共和国]]<br /> | rowspan=4 align=center | [[画像:Emblem of the Kirghiz SSR.svg|100px|]]<br /> | 植物<br /> |左側に綿花の枝、右側に麦の束<br /> | rowspan=4 align=center width=&quot;95px&quot; | [[画像:National emblem of Kyrgyzstan.svg|50px|]] &lt;br&gt;&lt;small&gt;[[キルギスの国章]]&lt;/small&gt;<br /> |-<br /> | 背景<br /> | [[自然]]の[[景観]]、太陽<br /> |-<br /> | 産業<br /> | 鎌と槌<br /> |-<br /> | 装飾<br /> | 赤いリボン、赤い星<br /> |-<br /> ! rowspan=4 | [[グルジア・ソビエト社会主義共和国]]<br /> | rowspan=4 align=center | [[画像:Emblem of the Georgian SSR.svg|100px|]]<br /> | 植物<br /> | [[葡萄]]と小麦<br /> | rowspan=4 align=center width=&quot;95px&quot; | [[画像:Greater coat of arms of Georgia.svg|50px|]] &lt;br&gt;&lt;small&gt;[[ジョージアの国章]]&lt;/small&gt;<br /> |-<br /> | 背景<br /> | コーカサス山脈<br /> |-<br /> | 産業<br /> | 鎌と槌<br /> |-<br /> | 装飾<br /> | [[唐草模様]]、太陽に赤い星<br /> |-<br /> ! rowspan=4 | [[タジク・ソビエト社会主義共和国]]<br /> |rowspan=4 align=center | [[画像:Emblem of the Tajik SSR.svg|100px]]<br /> | 植物<br /> | 左側に綿花の枝、右側に麦の束<br /> | rowspan=4 align=center width=&quot;95px&quot; | [[画像:Emblem of Tajikistan.svg|50px|]] &lt;br&gt;&lt;small&gt;[[タジキスタンの国章]]&lt;/small&gt;<br /> |-<br /> | 背景<br /> | 太陽、赤い星<br /> |-<br /> | 産業<br /> | 鎌と槌<br /> |-<br /> | 装飾<br /> | 赤いリボン<br /> |-<br /> ! rowspan=4 | [[トルクメン・ソビエト社会主義共和国]]<br /> |rowspan=4 align=center | [[画像:Emblem of the Turkmen SSR.svg|100px]]<br /> | 植物<br /> | 綿花と小麦、葡萄<br /> | rowspan=4 align=center width=&quot;95px&quot; | [[画像:Emblem of Turkmenistan.svg |50px|]] &lt;br&gt;&lt;small&gt;[[トルクメニスタンの国章]]&lt;/small&gt;<br /> |-<br /> | 背景<br /> | 太陽<br /> |-<br /> | 産業<br /> | 鎌と槌、 [[石油リグ]]<br /> |-<br /> | 装飾<br /> | 赤いリボン、赤い星、絨毯模様<br /> |-<br /> ! rowspan=4 | [[モルダビア・ソビエト社会主義共和国]]<br /> |rowspan=4 align=center | [[画像:Emblem of the Moldavian SSR.svg|100px]]<br /> | 植物<br /> | [[トウモロコシ]]([[玉蜀黍]])、[[ジャガイモ]]([[馬鈴薯]])、コムギ([[小麦]])、[[リンゴ]]([[林檎]])、[[ブドウ]]([[葡萄]])<br /> | rowspan=4 align=center width=&quot;95px&quot; | [[画像: Coat of arms of Moldova.svg|50px|]] &lt;br&gt;&lt;small&gt;[[モルドバの国章]]&lt;/small&gt;<br /> |-<br /> | 背景<br /> | 太陽<br /> |-<br /> | 産業<br /> | 鎌と槌<br /> |-<br /> | 装飾<br /> | 赤いリボン、赤い星<br /> |-<br /> ! rowspan=4 | [[白ロシア・ソビエト社会主義共和国]]<br /> |rowspan=4 align=center | [[画像: Emblem of the Byelorussian SSR (1981-1991).svg|100px]]<br /> | 植物<br /> | [[トウモロコシ]]、アマ([[亜麻]])、コムギ(小麦)<br /> | rowspan=4 align=center width=&quot;95px&quot; | [[画像:Coat of arms of Belarus.svg|50px|]] &lt;br&gt;&lt;small&gt;[[ベラルーシの国章]]&lt;/small&gt;<br /> |-<br /> | 背景<br /> | 太陽と地球<br /> |-<br /> | 産業<br /> | 鎌と槌<br /> |-<br /> | 装飾<br /> | 赤いリボン、赤い星<br /> |-<br /> ! rowspan=4 | [[ラトビア・ソビエト社会主義共和国]]<br /> |rowspan=4 align=center | [[画像:Emblem of the Latvian SSR.svg|100px]]<br /> | 植物<br /> | 小麦<br /> | rowspan=4 align=center width=&quot;95px&quot; | [[画像:Coat of arms of Latvia.svg|50px|]]&lt;br&gt;&lt;small&gt;[[ラトビアの国章]]&lt;/small&gt;<br /> |-<br /> | 背景<br /> | [[海]]からの[[日の出]]<br /> |-<br /> | 産業<br /> | 鎌と槌<br /> |-<br /> | 装飾<br /> | 赤いリボン、赤い星<br /> |-<br /> ! rowspan=4 | [[リトアニア・ソビエト社会主義共和国]]<br /> |rowspan=4 align=center | [[画像:Emblem of the Lithuanian SSR.svg|100px]]<br /> | 植物<br /> | [[楢]]と小麦<br /> | rowspan=4 align=center width=&quot;95px&quot;|[[画像:Coat of arms of Lithuania.svg|50px|]]&lt;br&gt;&lt;small&gt;[[リトアニアの国章]]&lt;/small&gt;<br /> |-<br /> | 背景<br /> | 太陽<br /> |-<br /> | 産業<br /> | 鎌と槌<br /> |-<br /> | 装飾<br /> | 赤いリボン、赤い星<br /> |-<br /> ! rowspan=4 | [[ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国]]<br /> |rowspan=4 align=center | [[画像:COA Russian SFSR.svg|100px]]<br /> | 植物<br /> | 小麦<br /> | rowspan=4 align=center width=&quot;95px&quot;|[[画像:Coat of Arms of the Russian Federation.svg|50px|]]&lt;br&gt;&lt;small&gt;[[ロシアの国章]]&lt;/small&gt;<br /> |-<br /> | 背景<br /> | 太陽<br /> |-<br /> | 産業<br /> | 鎌と槌<br /> |-<br /> | 装飾<br /> | 赤いリボン、赤い星<br /> |-<br /> |}<br /> <br /> === 東ヨーロッパ ===<br /> 世界の[[社会主義国|共産党国家]]の国章にも大きな影響を与えている。<br /> <br /> 東欧だけでも[[ドイツ民主共和国]](東ドイツ)、[[ハンガリー人民共和国]]、[[ルーマニア社会主義共和国]]、[[ブルガリア人民共和国]]、[[アルバニア社会主義人民共和国]]、[[ユーゴスラビア社会主義連邦共和国]]の国章は「頂点に赤い星(東ドイツを除く)、中央にある国の象徴を円ないし楕円状に麦穂が囲み、麦穂の根元にリボン(色は国ごとに異なる)が取り巻く 」基本的デザインがソビエト連邦の国章と共通している&lt;ref&gt;[[チェコスロバキア]]及び[[ポーランド人民共和国]]は、共産化前から使用されていた国章を使い続けていたが、この場合でも共産主義の理念にそぐわない[[クラウン (紋章学)|王冠]]を取り外すなどのデザイン変更が行われている。&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> また、ドイツ民主共和国、ハンガリー人民共和国、ルーマニア社会主義共和国、ブルガリア人民共和国の国旗は、従来の国旗&lt;ref&gt;東ドイツの国旗の地の色は[[西ドイツ]]と同様に黒・赤・金の配色であるが、これは[[ヴァイマル共和政|ヴァイマル]]時代でも使用されていた。&lt;/ref&gt;にソビエト式の国章を配置したデザインであった。<br /> <br /> このため、1956年の[[ハンガリー動乱]]や1989年の[[ルーマニア革命 (1989年)|ルーマニア革命]]や1990年[[ドイツ再統一]]などでは、国旗の中心部に組み込まれている共産主義の国章を切り取ることで、反ソビエトや[[民主主義]]の意思を示す例もあった。<br /> <br /> 東欧諸国の国章も、[[1989年]]の[[東欧革命]]に伴い、その多くが共産化前の国章をベースに修正を加えた新国章に変更されたが、この時に共産党時代の「[[赤い星]]」や「[[鎌と槌]]」が削除された&lt;ref&gt;ポーランドの国章は、王冠を復活させた社会主義化以前のデザインに戻された。チェコスロバキアや東ドイツ、ユーゴスラビアは国章改定以前に国家そのものが消滅した。&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> == ギャラリー ==<br /> <br /> &lt;gallery perrow=3&gt;<br /> [[UssrDubasov1923.gif]]|1923年の国章<br /> ファイル:Coat of arms of the Soviet Union 1923–1936.svg|1923年-1936年の国章<br /> USSR Emblem 1936.png|1936年の国章 <br /> Znamya-GOZNAK-R.jpg|1936年-1946年の国章<br /> State Emblem of the Soviet Union (1936–1946).png|1936年-1946年の国章<br /> ファイル:Coat of arms of the Soviet Union (1946-1956).svg|1946年-1956年の国章<br /> ファイル:State Emblem of the Soviet Union.svg|1956年―1991年の国章<br /> &lt;/gallery&gt;<br /> <br /> == 脚注 ==<br /> {{Reflist}}<br /> <br /> == 関連項目 ==<br /> * [[国章]]<br /> * [[国章の一覧]]<br /> * [[ソビエト連邦の国旗]]<br /> * [[中華ソビエト共和国の国旗]]<br /> * [[鎌と槌]]<br /> * [[赤い星]]<br /> {{ヨーロッパの題材|国章}}<br /> {{アジアの題材|国章}}<br /> {{DEFAULTSORT:そひえとれんほうのこくしよう}}<br /> [[Category:ソビエト連邦の国の象徴|こくしよう]]<br /> [[Category:国章]]</div> 153.188.171.24 ソビエト連邦の国歌 2018-07-08T16:49:45Z <p>153.188.171.24: </p> <hr /> <div>{{未検証|date=2015年12月}}<br /> {{Infobox anthem<br /> |title = ソビエト連邦国歌&lt;br&gt;Государственный гимн СССР<br /> |transcription =<br /> |image = State Emblem of the Soviet Union.svg<br /> |image_size = <br /> |caption = &lt;br&gt;[[File:COA Russian SFSR.svg|150px]]<br /> |prefix = 国<br /> |country = {{SSR}}&lt;br&gt;{{Flagdeco|Russian SFSR}} [[ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国|ロシア連邦共和国]]<br /> |composer = [[アレクサンドル・アレクサンドロフ_(作曲家)|アレクサンドル・アレクサンドロフ]]<br /> |author = [[セルゲイ・ミハルコフ]]、[[ガブリエリ・エリ=レギスタン]]<br /> |adopted = 1944年1月1日&lt;small&gt;(初代の歌詞)&lt;/small&gt;&lt;br&gt;1977年9月1日&lt;small&gt;(2代目の歌詞)&lt;/small&gt;<br /> |until = 1991年12月26日&lt;small&gt;(ソビエト連邦)&lt;/small&gt;&lt;br&gt;1990年11月23日&lt;small&gt;(ロシア連邦共和国)&lt;/small&gt;<br /> |sound = Soviet Union national anthem instrumental 1977.ogg<br /> |sound_title = ソビエト連邦国歌<br /> }}<br /> <br /> {{USSR}}<br /> &#039;&#039;&#039;ソビエト連邦の国歌&#039;&#039;&#039;(ソビエトれんぽうのこっか)は、[[1922年]]のソビエト社会主義共和国連邦成立から[[1943年]]までの「&#039;&#039;&#039;[[インターナショナル (歌)|インターナショナル]]&#039;&#039;&#039;」([[ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国]][[国歌]]としては[[1918年]]から)と、[[1944年]]から[[1991年]]の[[ソ連崩壊]]までの[[ソビエト連邦]]の国歌である「&#039;&#039;&#039;ソビエト連邦国歌&#039;&#039;&#039;」({{lang-ru|Государственный гимн СССР}})がある。本稿では後者の「ソビエト連邦国歌」について記す。なお、日本では「&#039;&#039;&#039;[[祖国は我らのために]]&#039;&#039;&#039;」の通称が使われることがある。<br /> <br /> == 概要 ==<br /> 本来は[[1943年]]に全く新しい曲と歌詞で国歌を制定する予定で公募されたが、[[ヨシフ・スターリン]]の気に入るような作品が集まらず、結局[[アレクサンドル・アレクサンドロフ_(作曲家)|アレクサンドル・アレクサンドロフ]]が[[1936年]]に作曲した「&#039;&#039;&#039;[[ボリシェヴィキ党歌]]&#039;&#039;&#039;」({{lang|ru|Гимн партии большевиков}}、作詞は[[ヴァシーリイ・レーベヂェフ=クマチ]])の曲を流用し、児童文学作者であった[[セルゲイ・ミハルコフ]]の詩を元に[[ガブリエリ・エリ=レギスタン]]が補作するかたちで決定された。<br /> <br /> 1943年をもって国歌でなくなった「インターナショナル」は、翌年から代わりにボリシェヴィキの党歌となった。後継の[[ロシア連邦共産党]]においても同様である。<br /> <br /> 当初の歌詞の2番にはレーニンとともにスターリンを称える箇所があるが、スターリン死去後の[[1955年]]から歌詞なしで演奏され、[[1977年]]に新しい歌詞になった。新しい歌詞はミハルコフ自身が作詞をし直した。<br /> <br /> 1991年の[[ソ連崩壊]]とともにロシアの暫定的な国歌として[[愛国歌 (ロシア連邦)|愛国歌]]が選ばれたが、歌詞がないこともあり定着せず、国民からは旧ソ連国歌の復活を求める声もあった。2001年に制定された現行の[[ロシア連邦国歌]]では、ソビエト連邦国歌の旋律と歌詞の一部(&quot;{{lang|ru|Славься, Отечество наше свободное}}&quot;:讃えられて在れ、自由な我らが祖国よ)を転用している。その他のロシア連邦国歌の歌詞もやはりミハルコフが作詞している。<br /> <br /> {{要出典範囲|date=2015-12-08|近年、アレクサンドロフの作曲したこの国歌の冒頭と、作曲家[[ヴァシリー・カリンニコフ]]の初期の作品である序曲「[[ブィリーナ]]」の後半に現れる旋律との類似が指摘されるようになった。}}{{誰2|date=2015-12-08}}{{要出典範囲|date=2015-12-08|これに関する根拠は薄く、またなぜ似通ったものになったのかも定かではないが、一般にはただの偶然であろうと考えられている。}}{{誰2|date=2015-12-08}}<br /> <br /> {{要出典範囲|date=2015-12-08|勇壮なメロディーと[[共産主義]]の勝利を謳った歌詞が特徴である。}}{{要出典範囲|date=2015-12-08|ソ連時代の革命記念日の[[11月7日]]の軍事パレードで毎回流れるが、年によって歌の音調が違う。}}<br /> <br /> == 初代の歌詞 ==<br /> {{要出典|date=2015年12月}}<br /> 1944年から1955年までの初代歌詞は次の通り。3番は発表当時の[[独ソ戦]]を想起させる。[[アレクサンドル・アレクサンドロフ_(作曲家)#アレクサンドロフ・アンサンブル|アレクサンドロフ赤軍合唱団]]が最初に歌った。<br /> <br /> ; 1番<br /> : {{lang|ru|Союз нерушимый республик свободных&lt;br/&gt;Сплотила навеки Великая Русь&lt;br/&gt;Да здравствует созданный волей народов&lt;br/&gt;Единый, могучий Советский Союз!}}<br /> ; コーラス<br /> : {{lang|ru|Славься, Отечество наше свободное,&lt;br/&gt;Дружбы народов надёжный оплот!&lt;br/&gt;Знамя советское, знамя народное&lt;br/&gt;Пусть от победы к победе ведёт!}}<br /> ; 2番<br /> : {{lang|ru|Сквозь грозы сияло нам солнце свободы,&lt;br/&gt;И Ленин великий нам путь озарил:&lt;br/&gt;Нас вырастил Сталин-на верность народу,&lt;br/&gt;на труд и на подвиги нас вдохновил!}}<br /> ; コーラス<br /> : {{lang|ru|Славься, Отечество наше свободное,&lt;br/&gt;Счастья народов надёжный оплот!&lt;br/&gt;Знамя советское, знамя народное&lt;br/&gt;Пусть от победы к победе ведёт!}}<br /> ; 3番<br /> : {{lang|ru|Мы армию нашу растили в сраженьях&lt;br/&gt;Захватчиков подлых с дороги сметём!&lt;br/&gt;Мы в битвах решаем судьбу поколений,&lt;br/&gt;Мы к славе Отчизну свою поведём!}}<br /> ; コーラス<br /> : {{lang|ru|Славься, Отечество наше свободное,&lt;br/&gt;Славы народов надёжный оплот!&lt;br/&gt;Знамя советское, знамя народное&lt;br/&gt;Пусть от победы к победе ведёт!}}<br /> <br /> === 日本語訳 ===<br /> ; 1番<br /> : 自由な共和国の揺ぎ無い同盟を&lt;br/&gt;偉大な[[ルーシ]]は永遠に結びつけた&lt;br/&gt;人民の意思によって建設された&lt;br/&gt;団結した強力なソビエト同盟万歳!<br /> ; コーラス<br /> : 讃えられて在れ、自由な我々の祖国よ&lt;br/&gt;民族友好の頼もしい砦よ!&lt;br/&gt;ソビエトの旗よ、人民の旗よ&lt;br/&gt;勝利から勝利へと導きたまえ!<br /> ; 2番<br /> : 雷雨を貫いて自由の太陽は我々に輝き&lt;br/&gt;そして偉大な[[ウラジーミル・レーニン|レーニン]]は我々に進路を照らした&lt;br/&gt;スターリンは我々を育てた――人民への忠誠を&lt;br/&gt;労働へそして偉業へと我々を奮い立たせた!<br /> ; コーラス<br /> : 讃えられて在れ、自由な我々の祖国よ&lt;br/&gt;民族幸福の頼もしい砦よ!&lt;br/&gt;ソビエトの旗よ、人民の旗よ&lt;br/&gt;勝利から勝利へと導きたまえ!<br /> ; 3番<br /> : 我々の軍は戦いによって我々を成長させ&lt;br/&gt;卑劣な侵略者を道から一掃する!&lt;br/&gt;大戦によって我々は世代の運命を決定し&lt;br/&gt;我々が我が祖国に栄光をもたらそう!<br /> ; コーラス<br /> : 讃えられて在れ、自由な我々の祖国よ&lt;br/&gt;民族栄光の頼もしい砦よ!&lt;br/&gt;ソビエトの旗よ、人民の旗よ&lt;br/&gt;勝利から勝利へと導きたまえ!<br /> <br /> ;註釈<br /> :* {{lang|ru|Союз}}(ソユーズ/サユース)を日本では「[[連邦]]」と訳したが、本来は[[同盟]]という意味であるため、{{lang|ru|Советский Союз}}(サヴィェーツキイ サユース)は「ソビエト連邦」と訳すよりも「ソビエト同盟」と訳す方が原義に近い。実際、戦前は「ソ連邦」ではなく「ソ同盟」と和訳される場合が多かった。また、中文では「連盟」とされた。ここでも「自由な共和国の揺ぎ無い&#039;&#039;&#039;連邦&#039;&#039;&#039;を」とせず、「自由な共和国の揺ぎ無い&#039;&#039;&#039;同盟&#039;&#039;&#039;を」などとした。<br /> :* {{lang|ru|Славься}}(スラーフィスャ)は[[再帰動詞]]{{lang|ru|славиться}}の命令形なので、歌う側が讃えるのではなく、「讃えられて在れ」という国家に対する命令表現となっている。日本語話者には馴染みのない表現だが、ロシア語ではこうした再帰的命令形は通例表現である。ここでは直訳的に敢えて訳した。<br /> <br /> == 1977年以降の歌詞 ==<br /> [[File:Pripjaty-himnusz.JPG|thumb|[[ウクライナ]]・[[プリピャチ]]の高層アパートに書き残されたコーラス部分の一節]]<br /> フルシチョフによる[[スターリン批判]]およびその後のソ連内におけるスターリンの否定的再評価によって、スターリンを賞賛する部分は差し替えられた。<br /> ; 1番<br /> : {{lang|ru|Союз нерушимый республик свободных&lt;br/&gt;Сплотила навеки Великая Русь.&lt;br/&gt;Да здравствует созданный волей народов&lt;br/&gt;Единый, могучий Советский Союз!}}<br /> ; コーラス<br /> : {{lang|ru|Славься, Отечество наше свободное.&lt;br/&gt;Дружбы народов надёжный оплот!&lt;br/&gt;Партия Ленина - сила народная:&lt;br/&gt;Нас к торжеству коммунизма ведёт!}}<br /> ; 2番<br /> : {{lang|ru|Сквозь грозы сияло нам солнце свободы,&lt;br/&gt;И Ленин великий нам путь озарил:&lt;br/&gt;На правое дело он поднял народы,&lt;br/&gt;На труд и на подвиги нас вдохновил!}}<br /> : &#039;&#039;(コーラス)&#039;&#039;<br /> ; 3番<br /> : {{lang|ru|В победе бессмертных идей коммунизма&lt;br/&gt;Мы видим грядущее нашей страны,&lt;br/&gt;И Красному знамени славной Отчизны&lt;br/&gt;Мы будем всегда беззаветно верны!}}<br /> : &#039;&#039;(コーラス)&#039;&#039;<br /> <br /> === 日本語訳 ===<br /> ; 1番<br /> : 自由な共和国の揺ぎ無い同盟を&lt;br/&gt;偉大なルーシは永遠に結びつけた&lt;br/&gt;[[人民]]の意思によって建設された&lt;br/&gt;団結した強力なソビエト同盟万歳!<br /> ; コーラス<br /> : 讃えられて在れ、自由な我らが祖国よ&lt;br/&gt;民族友好の頼もしい砦よ!&lt;br/&gt;レーニンの党――人民の力は&lt;br/&gt;我々を共産主義の勝利へと導く<br /> ; 2番<br /> : 雷雨を貫いて自由の太陽は我々に輝き&lt;br/&gt;そして偉大なレーニンは我々に進路を照らした&lt;br/&gt;正義の事業に彼は人民を立ち上がらせ&lt;br/&gt;労働へそして偉業へと我々を奮い立たせた!<br /> : &#039;&#039;(コーラス)&#039;&#039;<br /> ; 3番<br /> : 不滅の共産主義の理想の勝利に&lt;br/&gt;我々は我が国の未来を見る&lt;br/&gt;そして名誉ある祖国の赤旗に&lt;br/&gt;我々は常に熱い忠誠心を持つだろう!<br /> : &#039;&#039;(コーラス)&#039;&#039;<br /> <br /> == ボリシェヴィキ党歌 ==<br /> {{Main|ボリシェヴィキ党歌}}<br /> 国歌になる前のボリシェヴィキの党歌。スターリン批判以前なので、レーニンと共にスターリンを称える箇所が存在する。<br /> <br /> == 音源 ==<br /> {{commonscat|National Anthem of the Soviet Union}}<br /> {{multi-listen start}}<br /> {{multi-listen item|filename=Gimn Sovetskogo Soyuza (1944 Stalinist lyrics).oga|title=ソビエト連邦国歌|description=赤軍合唱団(1944年)|format=[[Ogg]]}}<br /> {{multi-listen item|filename=Gimn Sovetskogo Soyuza (1977 Vocal).oga|title=ソビエト連邦国歌|description=ボリショイ劇場合唱団・オーケストラ(1977年)|format=[[Ogg]]}}<br /> {{multi-listen item|filename=Russian anthem instrumental.oga|title=ソビエト連邦国歌|description=米国海軍吹奏楽(演奏のみ)|format=[[Ogg]]}}<br /> {{multi-listen end}}<br /> <br /> == 前後の国歌 ==<br /> {{先代次代|{{SSR}}の[[国歌]]|2代目|[[インターナショナル (歌)|インターナショナル]]| - }}<br /> <br /> == 外部リンク ==<br /> *[https://web.archive.org/web/20160508070016/http://www.hymn.ru/anthem-sovietunion-1944-sheetmusic-olga_paul-en_ru.pdf 1944年版国歌]<br /> *[https://web.archive.org/web/20160508070016/http://www.hymn.ru/anthem-sovietunion-1977-sheetmusic_offic.pdf 1977年版国歌]<br /> <br /> {{ソビエト連邦の共和国の国歌}}<br /> <br /> == 関連項目 ==<br /> {{wikisourcelang|en|National Anthem of the Soviet Union|ソビエト連邦の国歌}}<br /> * [[神よツァーリを護り給え]](ロシア帝国の国歌)<br /> * [[愛国歌 (ロシア連邦)]](1991年 - 2000年)<br /> * [[ロシア連邦国歌]](2000年 - 現在)<br /> <br /> {{DEFAULTSORT:そひえとれんほうのこつか}}<br /> [[Category:ソビエト連邦の国の象徴|こつか]]<br /> [[Category:かつて演奏されていた国歌]]<br /> [[Category:ソビエト連邦の歌|こつか]]<br /> [[Category:アレクサンドル・アレクサンドロフの楽曲]]<br /> [[Category:1944年の楽曲]]<br /> [[Category:楽曲 そ|ひえとれんほうのこつか]]</div> 153.188.171.24 神よツァーリを護り給え 2018-07-08T16:43:13Z <p>153.188.171.24: </p> <hr /> <div>{{出典の明記|date=2012年12月5日 (水) 01:00 (UTC)}}<br /> {{Infobox anthem<br /> |題名= [[ロシア語|露]]:{{lang|ru|Боже, царя храни}}<br /> |翻字= Bozhe, Tsarya khrani!<br /> |和訳例= 神よツァーリを護り給え<br /> |画像= Боже, Царя храни (Anthem of Russian Empire).png<br /> |画像サイズ= 250px<br /> |画像代替= <br /> |画像説明= ロシア語の楽譜<br /> |採用対象= 国<br /> |採用共同体= {{RUS1883}}<br /> |別名= <br /> |別名和訳= <br /> |別名2= <br /> |別名2和訳= <br /> |作詞者= [[ヴァシーリー・ジュコーフスキー|ヴァシーリー・アンドレーエヴィチ・ジュコーフスキー]] <br /> |作詞時期= <br /> |作曲者= [[アレクセイ・リヴォフ|アレクセイ・フョードロヴィチ・リヴォフ]]<br /> |作曲時期= <br /> |採用時期= [[1833年]]<br /> |採用終了= [[1917年]]<br /> |試聴= Bozhe, tsarya khrani!.ogg<br /> |試聴タイトル= 神よツァーリを護り給え<br /> }}<br /> 『&#039;&#039;&#039;神よツァーリを護り給え&#039;&#039;&#039;』(かみよツァーリをまもりたまえ、{{lang-ru|&#039;&#039;&#039;Боже, царя храни&#039;&#039;&#039;}})は、[[ロシア帝国]]の[[国歌]]。<br /> <br /> == 概要 ==<br /> 歌は[[1833年]]に開かれたコンテストで、詩人[[ヴァシーリー・ジュコーフスキー|ヴァシーリー・アンドレーエヴィチ・ジュコーフスキー]]({{lang|ru|Василий Андреевич Жуковский}}; [[1783年]] - [[1852年]])作詞、バイオリン奏者[[アレクセイ・リヴォフ|アレクセイ・フョードロヴィチ・リヴォフ]]({{lang|ru|Алексей Фёдорович Львов}}; [[1799年]]? - [[1870年]])公の作曲したものが選ばれ、同年[[12月23日]]ボリショイ劇場で初めて公開され、30日に正式に国歌に制定された&lt;ref&gt;コムソモリスカヤ・プラヴダ紙1993年12月13日付、アレクサンドル・ガモフ記者署名記事より。&lt;/ref&gt;。[[1917年]]まで国歌として使われたが、[[ロシア革命]]により帝政が崩壊し[[2月革命 (1917年)|二月革命]]で廃止され、臨時政権下で[[労働者のラ・マルセイエーズ]]が国歌となり、1922年に[[ソビエト連邦]]が成立すると、[[インターナショナル (歌)|インターナショナル]]が新しい国歌となる。<br /> <br /> 楽曲は[[ピョートル・チャイコフスキー|チャイコフスキー]]作曲の「[[1812年 (序曲)|序曲1812年]]」のフィナーレや「[[スラヴ行進曲]]」に引用され、また、[[アメリカ合衆国|米国]][[ペンシルベニア州]]の州歌である「ペンシルベニア万歳 ({{lang|en|Hail, Pennsylvania!}})」や &quot;{{lang|en|God, the Omnipotent!}}&quot;、{{lang|en|Order of the Arrow}} の公式歌である &quot;{{lang|en|Firm Bound in Brotherhood}}&quot; では同じ楽曲を別の歌詞と共に使っている。なお、ロシア帝国を否定したソ連時代には、チャイコフスキーの上記の作品などにおいて、この曲の引用部分を削除して別の曲に差し替えた改竄版が作成されていた(現在は元に戻されている)。<br /> <br /> 当初の歌詞は違ったものが採用されており、[[1815年]]に制定された国歌では、曲は[[女王陛下万歳|イギリス国歌]]と同じで、歌詞は1833年版に於ける2番の歌詞が使用されていた。<br /> <br /> == 歌詞 ==<br /> {{Wikisource|ru:Боже, Царя храни!|ロシア語版の歌詞}}<br /> 全部で7番まであり、各節では前半と後半でそれぞれ2回繰り返す。<br /> <br /> === 日本語訳 ===<br /> 1番のみ。<br /> &lt;poem style=&quot;margin-left:2em&quot;&gt;<br /> 神よ、[[ツァーリ]]を護り給え!<br /> 力強い、偉大なる、<br /> 栄光のうちに君臨し給え、<br /> 栄光のうちに我らに!<br /> 恐怖のうちに敵に君臨せよ、<br /> [[正教会|正教]]のツァーリ、<br /> 神よ、ツァーリを、<br /> ツァーリを護り給え!<br /> &lt;/poem&gt;<br /> <br /> == 出典 ==<br /> {{Reflist}}<br /> <br /> == 外部リンク ==<br /> * [http://grandwar.kulichki.net/books/bozhe_carja_xrani.mp3 歌唱付きMP3ファイル] - [http://grandwar.kulichki.net/]より。<br /> <br /> == 関連項目 ==<br /> * [[ソビエト連邦の国歌]]<br /> * [[愛国歌 (ロシア連邦)]](1992年~2000年)<br /> * [[ロシア連邦国歌]](2000年~現在)<br /> * [[ヨハン・シュトラウス2世]](作品65の『ニコライ・カドリール』でメロディを引用している)<br /> *[[ピョートル・チャイコフスキー]](『[[大序曲1812年]]』『[[戴冠式祝典行進曲]]』でメロディを引用している)<br /> {{DEFAULTSORT:かみよつありをまもりたまえ}}<br /> [[Category:ロシアの国の象徴]]<br /> [[Category:かつて演奏されていた国歌]]<br /> [[Category:王室歌]]<br /> [[Category:ロシアの歌]]<br /> [[Category:ロシア帝室]]</div> 153.188.171.24 ボリス・エリツィン 2018-05-14T03:51:54Z <p>153.188.171.24: </p> <hr /> <div>{{大統領<br /> | 人名 = ボリス・ニコラエヴィチ・エリツィン<br /> | 各国語表記 = {{lang|ru|Борис Николаевич Ельцин}}<br /> | 画像 = Борис Николаевич Ельцин.jpg <br /> | 画像サイズ =<br /> | キャプション = <br /> | 国名 = {{Flagicon|RUS}} [[ロシア連邦]]<br /> | 代数 = 初<br /> | 職名 = [[ロシア連邦大統領|大統領]]<br /> | 就任日 = [[1991年]][[7月10日]]<br /> | 退任日 = [[1999年]][[12月31日]]<br /> | 副大統領 = [[アレクサンドル・ルツコイ]]&lt;br /&gt;([[1991年]] - [[1993年]]) <br /> | 副大統領職名 = 副大統領<br /> | 元首 = <br /> | 国名2 = {{RUSSR}}<br /> | 代数2 = 初<br /> | 職名2 = 最高会議議長<br /> | 就任日2 = [[1990年]][[5月29日]]<br /> | 退任日2 = [[1991年]][[7月10日]] <br /> | 副大統領2 = <br /> | 副大統領職名2 = <br /> | 元首2 = <br /> | 出生日 = {{生年月日と年齢|1931|2|1|死去}} <br /> | 生地 = {{SSR1923}}&lt;br /&gt;{{RUS1917}}&lt;!-- この旗は1937年まで使用されていた --&gt;{{仮リンク|ウラル州 (ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国)|label= ウラル州|ru|Уральская область (РСФСР)}}ブトカ地区{{仮リンク|ブトカ|ru|Бутка}}(ないしバスマノフスコエ)<br /> | 死亡日 = {{死亡年月日と没年齢|1931|2|1|2007|4|23}}<br /> | 没地 = {{RUS}}、[[モスクワ]]<br /> | 配偶者 = [[ナイーナ・エリツィナ]]<br /> | 政党 = [[ソビエト連邦共産党]](1961年 - 1990年)&lt;br /&gt;無所属<br /> | サイン = Yeltsin signature.jpg <br /> }}<br /> &#039;&#039;&#039;ボリス・ニコラエヴィチ・エリツィン&#039;&#039;&#039;({{Lang-ru|Борис Николаевич Ельцин}}、[[1931年]][[2月1日]] - [[2007年]][[4月23日]])は、[[ロシア|ロシア連邦]]の[[政治家]]で、同国の初代[[ロシア連邦大統領|大統領]](在任: [[1991年]] - [[1999年]])である。ロシア連邦閣僚会議議長(首相)も歴任した。<br /> <br /> 大統領在任中に[[ソ連8月クーデター]]に対する抵抗を呼びかけロシア連邦の民主化を主導した評価と共に、急速な市場経済移行に伴う市民生活の困窮、ロシアの国際的地位の低下、チェチェン紛争の泥沼化、強権・縁故政治への批判もあった。<br /> <br /> == 来歴・人物 ==<br /> === 青年期 ===<br /> [[ソビエト連邦]]内[[ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国|ロシア共和国]]、{{仮リンク|ウラル州 (ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国)|label= ウラル州|ru|Уральская область (РСФСР)}}ブトカ地区{{仮リンク|ブトカ|ru|Бутка}}村(あるいはバスマノフスコエ村&lt;ref&gt;{{lang|ru|{{cite web|title= Где родился Борис Ельцин?|publisher= newstube|date= 2011-02-01|accessdate= 2015-11-07|url= http://www.newstube.ru/media/gde-rodilsya-boris-elcin}}}}&lt;/ref&gt;)生まれ。家系は[[ウラル地方]]の独立農民。父は富農撲滅運動で無実の罪を着せられ収容所生活を送った。自伝によれば、エリツィンは共産主義をとったソビエト連邦時代において幼年期にロシア正教会でキリスト教の幼児洗礼を受けたという。[[第二次世界大戦]]中に武器庫から盗んだ手榴弾を分解している最中に、手榴弾が爆発し、左手の親指と人差し指が失われた。[[ベレズニキ]] (Berezniki) にあるプーシキン高校 (Pushkin High School) を卒業。[[1955年]]に[[スヴェルドロフスク]]の[[ウラル工科大学]]建築科を卒業する。その後、[[1968年]]までスヴェルドロフスク州にある建設企業に勤めた。<br /> <br /> === ソ連共産党 ===<br /> [[1961年]]、[[ソビエト連邦共産党]]に入党する。1968年に党の活動に専従し、[[1976年]]に[[スヴェルドロフスク州]]党[[第一書記]]に就任する。なお、[[1977年]]には党の指示により[[ニコライ2世]]一家殺害現場の[[イパチェフ館]]を取り壊している。スヴェルドロフスク州での働きぶりを[[レオニード・ブレジネフ]]に評価され、[[1981年]]に[[ソビエト連邦共産党中央委員会|党中央委員]]となる。<br /> <br /> [[ミハイル・ゴルバチョフ]]の書記長就任後、[[1985年]]に[[ソビエト連邦共産党政治局|党政治局員]]候補兼中央委員会書記に就任。ブレジネフ派の大物である[[ヴィクトル・グリシン]]がモスクワ党第一書記を解任されると、1985年12月に後任のモスクワ党第一書記に就任した。<br /> <br /> ゴルバチョフの下では改革派として行動したが、ゴルバチョフ政権における[[ペレストロイカ]]の遅れを強く非難したため、他の政治局員からのエリツィンに対する批判はゴルバチョフを驚かせるほど強いものとなる。[[1987年]]にブレジネフ派の大物[[エゴール・リガチョフ]]を公然と非難したため、そのリガチョフと対立し、[[モスクワ]]市の党第一書記を解任された。さらに[[1988年]]2月には政治局員候補からも解任される。<br /> <br /> === ロシア共和国大統領 ===<br /> [[ファイル:Boris Yeltsin 19 August 1991-1.jpg|thumb|200px|[[1991年]]、[[ソ連8月クーデター]]の際に[[ベールイ・ドーム|ロシア最高会議ビル]]の前で戦車の上に立ち演説を行うエリツィンら]]<br /> しかし、[[1989年]]3月の[[人民代議員大会]]選挙にモスクワ選挙区から出馬して当選して政界復帰、急進改革派の[[地域間代議員グループ]]に属し、民主綱領派のリーダーとなる。翌年の[[1990年]]5月にロシア共和国の{{仮リンク|ロシア連邦最高会議|label= 最高会議|ru|Верховный совет России}}議長(実質大統領)に就任。同年[[7月13日]]にはソ連共産党を離党した。[[1991年]][[6月12日]]に行われた[[1991年ロシア大統領選挙|ロシア共和国大統領選挙]]では57.3%の得票率を獲得して当選し、同年7月にロシア共和国大統領に就任。<br /> <br /> 同年8月にソ連副大統領[[ゲンナジー・ヤナーエフ]] を擁立する「保守派」が起こした[[ソ連8月クーデター]]の際には戦車の上からロシア国民に対し[[ゼネラル・ストライキ|ゼネスト]]を呼びかけるなど徹底抗戦した。ゼネストは不徹底であったものの、軍と治安機関の大勢はクーデター派を支持せず、結果として[[クーデター]]を失敗に終わらせた。<br /> <br /> この事件によりゴルバチョフの求心力が大きく失われ、代わってエリツィンの影響力が増大する。同年[[11月6日]]、エリツィンはソ連共産党系の[[ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国共産党|ロシア共産党]]が活動することを禁止した。[[12月8日]]、エリツィンは[[ウクライナ]]の[[レオニード・クラフチュク]]大統領、[[ベラルーシ]]の[[スタニスラフ・シュシケビッチ]]最高会議議長と秘密会談を行い、ロシア・ウクライナ・ベラルーシのソ連からの離脱と[[独立国家共同体]] (CIS) の樹立を宣言することで合意した([[ベロヴェーシ合意]])。[[ソ連崩壊]]は避けられなくなり、[[12月25日]]にゴルバチョフはソ連大統領を辞任。ソビエト連邦はその歴史に幕を下ろした。<br /> <br /> === ロシア連邦大統領として ===<br /> [[ファイル:George H. W. Bush and Boris Yeltsin 1993.jpg|thumb|200px|[[1993年]]、[[アメリカ合衆国大統領]]の[[ジョージ・H・W・ブッシュ]]と]]<br /> ロシア共和国大統領(任期5年)だったエリツィンはソ連崩壊後も引き続いてロシア連邦大統領としてロシアを主導した。<br /> <br /> ソ連の事実上の後継国家であるロシアでは、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]との関係改善が進み(連邦崩壊後も、ソ連時代の全ての核兵器をロシア共和国が所有することをウクライナやベラルーシに認めさせたのは、アメリカの助言によるところが大きい)、[[1993年]]には[[第二次戦略兵器削減条約]] (START II) に調印。<br /> <br /> エリツィンは[[エゴール・ガイダル]]と[[アナトリー・チュバイス]]に経済政策のイニシアティヴを取らせ、[[国際通貨基金]] (IMF) 等の国際機関の助言に従い「ショック療法」と呼ばれる急激な市場主義経済導入を図った。しかしこの急激な市場経済への移行は経済に混乱をもたらすことになる。市場経済化への一環として行われた価格自由化と中央銀行引受国債濫発は1992年に前年比2510%ものハイパー[[インフレーション|インフレ]]を引き起こし、民衆の貯蓄・資産に打撃を与えて多くの民衆を貧困に追いやった。また1992年の[[国内総生産]] (GDP) は前年比マイナス14.5%となってしまった。<br /> <br /> 背景は次のようなものであった。まず、同年2月に[[ゴールドマン・サックス]]が経済顧問に指名された。また、チュバイスが{{仮リンク|クレディ・スイス・ファースト・ボストン|en|Credit Suisse First Boston}}の銀行家を民営化顧問に迎えた&lt;ref name=&quot;広瀬&quot;&gt;[[広瀬隆]] 『一本の鎖』 [[ダイヤモンド社]] 2004年 P156,157&lt;/ref&gt;。エリツィンは6月にガイダルを首相代行に指名し、経済改革を推進しようとしたが、このような経済政策の失敗から人民代議員大会から信任を得られなかった。そのため、エリツィンはガイダルを解任し、代わりに[[ガスプロム]]社長の[[ヴィクトル・チェルノムイルジン]]を首相に指名した。12月、チェルノムイルジンは議会の信任を得、首相に就任した。一方、10月からバウチャー方式&lt;ref&gt;国民一人ひとりに国有企業の株式を与え、自由に売買をさせることで民営化を進める方式。&lt;/ref&gt;による民営化も行われていたが、これを上手く利用して国有資産だった企業を手に入れ、莫大な富を築き上げる者も出現した&lt;ref name=&quot;広瀬&quot;/&gt;。彼らは[[ロシアの新興財閥]]として政治的にも大きな影響力を及ぼしていくことになる。<br /> <br /> [[ファイル:ベールイドーム.jpg|200px|thumb|モスクワ騒乱事件で砲撃を受けたベールイ・ドーム。鎮火直後の1993年10月4日撮影。]]<br /> また、その過程で発生した[[アレクサンドル・ルツコイ]]副大統領、[[ルスラン・ハズブラートフ]]最高会議議長ら議会との対立は[[1993年]]9月の議会による大統領解任劇に発展。これをみたエリツィンは最高会議と人民代議員大会を強制解体し、両者の対立は頂点に達した。翌10月には反大統領派がたてこもる[[ベールイ・ドーム|最高会議ビル]]を戦車で砲撃し、議会側は降伏した([[10月政変]])。その後12月には大統領に強大な権限を与え、[[連邦会議 (ロシア)|連邦会議]]と[[ドゥーマ|国家会議]]から成る[[両院制]]議会、[[ロシア連邦議会]]にする事を定めた新しい[[ロシア連邦憲法]]が制定された。西側の主要国はエリツィンを支持した。<br /> <br /> === ロシアの威勢低下 ===<br /> [[ファイル:Boris Yeltsin with Bill Clinton-1.jpg|thumb|200px|[[1995年]]、アメリカ合衆国大統領の[[ビル・クリントン]]と]]<br /> [[ファイル:Boris Yeltsin 7 May 1996.jpg|thumb|200px|[[1996年]]、[[1996年ロシア大統領選挙|大統領選]]の選挙運動で[[モスクワ州]]ナロフォミンスク郡を訪問するエリツィン]]<br /> その後、[[1994年]]に[[デノミネーション|デノミ]]を行うなど経済の混乱が続き、また[[第一次チェチェン紛争|チェチェン侵攻]]が失敗した結果、エリツィンの支持率は低下した。さらにエリツィン自身、持病の心臓病の手術による過労がたたり、政権に不安定さが目立つようになる。<br /> <br /> [[1995年ロシア下院選挙|1995年の下院選挙]]ではソ連共産党の後身である[[ロシア連邦共産党]]が第一党となり、ソ連崩壊で過去のものとなったはずの[[共産主義]]が台頭した。続く[[1996年ロシア大統領選挙|1996年の大統領選挙]]ではそのロシア連邦共産党の[[ゲンナジー・ジュガーノフ]]議長に肉薄され、大苦戦する。劣勢を逆転させたい一念でアメリカから選挙キャンペーンのプロを呼び、また、テレビカメラの前で若者に混じりダンスを披露した&lt;ref&gt;しかしその後心臓発作を起こしたという。また、このダンスを収めた写真は翌年の[[1997年]]に[[ピューリッツァー賞 特集写真部門]]を受賞している。この頃から(各国で報じられて有名な)「&#039;&#039;&#039;[[酔っ払い]]&#039;&#039;&#039;」あるいは「白熊エリツィン」と呼ばれるようになった。&lt;/ref&gt;。そしてジュガーノフ当選による共産主義への回帰を恐れた[[ボリス・ベレゾフスキー]]、[[ウラジーミル・グシンスキー]]など新興財閥から巨額の選挙資金を捻出させ、新興財閥支配下のメディアにエリツィン支持のキャンペーンを張らせるなどしてなり振りかまわぬ選挙戦を展開した。第1回投票の得票数で僅差だったジュガーノフとの決選投票の前には、第1回投票で3位につけた[[アレクサンドル・レベジ]]退役大将を[[ロシア安全保障会議|安全保障会議]]書記に任命して取り込み、決選投票でエリツィンは53.8%を獲得し結果的に再選を果たした。<br /> <br /> しかし大統領選において新興財閥の力に大きく頼ったために第二次エリツィン政権では新興財閥の影響力が増した。また、大統領選前の[[1995年]]に株式担保型民営化&lt;ref&gt;政府による財政赤字の補填のため、エネルギー産業などの国営企業が株式を担保に金融機関から融資を受けられるようにした政策。&lt;/ref&gt;が行われていたことで、新興財閥は結果として石油産業ほか多くの国営企業を手に入れ、国有資産を私物化するようになっていた。彼ら新興財閥は「[[オリガルヒ]]」と呼ばれ、二女の[[タチアナ・ディアチェンコ]]らエリツィンの親族とともに「[[セミヤー]]」と呼ばれる側近集団を形成するようになる。このような「セミヤー」との癒着によりエリツィン政権は政治腐敗が蔓延していった。<br /> <br /> === 相次ぐ首相交代 ===<br /> [[ファイル:BorisYeltsin and BillClinton 1999-11-18.jpg|thumb|200px|[[1998年]]、アメリカ合衆国大統領のビル・クリントンと]]<br /> [[1998年]]5月、経済復興を実現するには力不足だとして、チェルノムイルジン首相を解任した。同首相は、5年間にわたる長期首相だったが、一説によると病身の大統領に代わり副大統領然として振舞っていたこと、あるいは経済界との腐れ縁を大統領が嫌っての解任とも言われる。後任には35歳の[[セルゲイ・キリエンコ]]第一副首相兼燃料エネルギー相が就任したが、[[8月17日]]に[[ロシア財政危機]]が発生。短期[[国債]]の取引を停止し、事実上の[[債務超過]]に陥った。就任直後の出来事だったが、責任をとらされ、解任された。<br /> <br /> キリエンコに替わって首相に任命されたのは諜報機関[[ソ連国家保安委員会|KGB]]出身の[[エフゲニー・プリマコフ]]であった。プリマコフは、ゴルバチョフ時代にソ連共産党政治局員候補で、ソ連崩壊後のロシアで初代[[ロシア対外情報庁|対外情報庁]]長官や[[ロシアの外相|外相]]を歴任した実力者であった。プリマコフ首相は、[[大統領]]よりも、議会重視のスタンスを打ち出し、キリエンコ内閣で産業貿易大臣だった共産党の[[ユーリ・マスリュコフ]](ソ連最後の[[ゴスプラン]]議長)を副首相に大抜擢したことで第一党の共産党を名実ともに[[与党]]にさせ、議会の支持に依拠する珍しい内閣であった。プリマコフは経済通のマスリュコフとともに経済統制を強めて[[金融危機]]を沈静化させた。また、外交政策でもプリマコフ首相は外相時代から[[アンドレイ・コズイレフ]]時代の[[NATO]]に融和的な路線を修正しており、[[コソボ紛争]]の際にはプリマコフ首相と軌を一にしてエリツィン大統領は「侵略者」であるとNATOを批判するようになった&lt;ref&gt;{{cite news| url=http://news.bbc.co.uk/2/hi/europe/303127.stm | work=BBC News | title=Russia condemns Nato at UN | date=1999-03-25}}&lt;/ref&gt;。さらにエリツィン大統領周辺の「セミヤー」「オリガルヒ」と呼ばれる側近グループの排除に乗り出し、共産党員&lt;ref&gt;[http://kprf.ru/party/structure/tsk Список членов Центрального Комитета КПРФ]&lt;/ref&gt;で[[検事総長]]の[[:ru:Скуратов, Юрий Ильич|ユーリ・スクラトフ]]に命じて汚職摘発を開始した。これによってプリマコフ首相の支持率は上昇したが、一方これに危機感を抱いた大統領によって1999年5月に解任された。<br /> <br /> さらに後任の[[セルゲイ・ステパーシン]]首相も僅か3ヶ月で解職し、1999年8月にプリマコフと同じKGB出身で対外情報庁と並ぶ諜報機関[[ロシア連邦保安庁]]の長官でスクラトフ検事総長を女性スキャンダルで解任に追い込んだ[[ウラジーミル・プーチン]]に首相を交代した。このように首相を短期間で次々に挿げ替え、自らの権力を維持するためになりふり構わぬようにも見える行動を繰り返し、相変わらず政敵の共産党が議会第一党であり続けるなど政権は[[レームダック]]の様相を呈し始めた。<br /> <br /> === 晩年 ===<br /> [[ファイル:Boris Yeltsin-2.jpg|thumb|150px|[[1999年]]、テレビ演説で辞任を表明するエリツィン]]<br /> 1999年[[12月31日]][[正午]]にテレビ演説を行い、電撃辞任を表明。後継の大統領として、自身が最後に首相として任命したプーチンを指名した。辞任演説では、国民の期待に応えられなかったことの許しを乞いたいと述べ、新しい時代のロシアには新しい指導者が求められていると語った。なおこの辞任表明は、ロシア史上において初の、最高権力者の存命中の自発的・平和的な政権[[禅譲]]であったという点でも話題となった。<br /> <br /> その後表舞台からは姿を消し、悠々自適の[[年金]]生活を送ったという&lt;ref&gt;AFPBB News「[http://www.afpbb.com/article/politics/2644731/4640228 故エリツィン大統領、『晩年はプーチン政権監視下』と露元首相]」&lt;br /&gt;プーチン大統領時代の1期目である2000年から4年間首相を務めたミハイル・カシヤノフによれば、エリツィンはプーチン監視下での隔離された生活であったという。&lt;/ref&gt;。プーチン政権については、[[2004年]]の[[ベスラン学校占拠事件]]発生後に[[知事]]を大統領による任命制に改めたことに対しては批判をする一方、[[2006年]]2月にプーチンはロシアにとって正しい選択だったと賞賛している。同年[[6月3日]]、[[パリ]]で開催されていた[[全仏オープン]]7日目を夫妻で観戦し、[[マリア・シャラポワ]]から帽子にサインしてもらう姿が撮られている。これが最後の公の姿となった。<br /> <br /> {{Wikinews|エリツィン前ロシア大統領の葬儀、行われる|date=2007年4月26日}}<br /> 2007年4月23日、長年の心臓疾患による[[多臓器不全]](一部報道では[[心血管不全症]]とも)によりモスクワの病院で死去。76歳だった。[[4月25日]]に[[救世主ハリストス大聖堂]]にて[[国葬]]が行われ、プーチンはこの日を「国民服喪の日」とすることを宣言した。葬儀にはプーチン、[[ジョージ・H・W・ブッシュ]]、[[ビル・クリントン]]らが参列した。なお、日本からは要人が派遣できなかった&lt;ref&gt;これは26日に[[安倍晋三]]首相の訪米が予定されていて[[日本国政府専用機|政府専用機]]のスケジュールがふさがっており、かつモスクワへ向かう便の確保が葬儀に間に合わなかった(連絡のあった24日午前の段階で特使を指名し、当該特使が準備を整えて当日のモスクワ直行便へ搭乗することは、時間的制約から困難であったと見られる)ことによるもの。このような経緯から、[[麻生太郎]]外相(当時)は後日の閣僚懇談会で小型政府専用機の導入を提唱している。ちなみにロシア側も葬儀に当たって公式な弔問団の招待は一切しないとの表明をしている。&lt;/ref&gt;。葬儀後、遺体は[[ノヴォデヴィチ女子修道院|ノヴォデヴィチ修道院]]の墓地に埋葬された。<br /> <br /> == エピソード ==<br /> 議員時代に、泥酔し足を滑らせて川に転落。危うく命を落としかけるところを通りがかった警官に保護されて一命を取り留めるという珍事件に遭遇している。後にこれが「エリツィン議員殺人未遂事件」として騒ぎになった。本人も後年回顧録で非常に恥らいながら回想している。<br /> <br /> == 著書 ==<br /> *『告白』([[草思社]]、1990年)<br /> *『エリツィンの手記――崩壊・対決の舞台裏〈上・下〉』([[同朋舎出版]]、1994年) <br /> *『ボリス・エリツィン最後の証言』([[NCコミュニケーションズ]]、2004年)<br /> <br /> == 脚注 ==<br /> {{Reflist}} <br /> <br /> {{Commons|Борис Николаевич Ельцин}}<br /> {{先代次代|[[ロシア国防省|ロシア連邦国防相]](代行)|[[1992年]]|コンスタンチン・コベッツ&lt;br /&gt;(代行)|[[パーヴェル・グラチョフ]]}}<br /> {{先代次代|[[ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国|ロシア共和国]]最高会議議長|[[1990年]] - [[1991年]]|[[ヴィタリー・ウォロトニコフ]]&lt;br /&gt;(最高会議幹部会議長)|[[ルスラン・ハズブラートフ]]}}<br /> {{ロシアの大統領}}<br /> {{Normdaten}}<br /> <br /> {{DEFAULTSORT:えりついん ほりす}}<br /> [[Category:ロシアの正教徒]]<br /> [[Category:ロシアの大統領]]<br /> [[Category:ロシア連邦の国防相]]<br /> [[Category:ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国最高会議議長]]<br /> [[Category:ソビエト連邦最高会議幹部会の人物]]<br /> [[Category:ソビエト連邦共産党中央委員会書記]]<br /> [[Category:ソビエト連邦共産党モスクワ市委員会第一書記]]<br /> [[Category:ソビエト連邦共産党スヴェルドロフスク州委員会第一書記]]<br /> [[Category:第10回ソビエト連邦最高会議の代議員]]<br /> [[Category:第11回ソビエト連邦最高会議の代議員]]<br /> [[Category:ロシアからのソビエト連邦人民代議員]]<br /> [[Category:レーニン勲章受章者]]<br /> [[Category:赤旗勲章受章者]]<br /> [[Category:名誉記章勲章受章者]]<br /> [[Category:切断障害を持つ人物]]<br /> [[Category:スヴェルドロフスク州出身の人物]]<br /> [[Category:1931年生]]<br /> [[Category:2007年没]]</div> 153.188.171.24 ヴャチェスラフ・モロトフ 2018-05-14T03:29:17Z <p>153.188.171.24: </p> <hr /> <div>{{政治家<br /> |人名=ヴャチェスラフ・モロトフ<br /> |各国語表記={{Lang|ru|Вячеслав Молотов}}<br /> |画像=Molotov.bra.jpg<br /> |画像サイズ=<br /> |画像説明=外務人民委員時代のモロトフ<br /> |国略称={{SSR1955}}<br /> |生年月日={{生年月日と年齢|1890|3|9|no}}<br /> |出生地={{RUS1883}}、ヴャトカ県ヤランスク市クカルカ村<br /> |没年月日={{死亡年月日と没年齢|1890|3|9|1986|11|8}}<br /> |死没地={{SSR}}&lt;br /&gt;{{RUSSR}}、[[モスクワ]]<br /> |出身校=[[サンクトペテルブルク工科大学|ペテルブルク高等専門学校]]<br /> |前職=[[革命家]]<br /> |現職=<br /> |所属政党=[[ロシア社会民主労働党]]&lt;br /&gt;ロシア共産党([[ボリシェヴィキ]])&lt;br /&gt;[[ソビエト連邦共産党]]<br /> |称号・勲章=<br /> |親族(政治家)=<br /> |配偶者=ポリーナ・ジェムチュジナ<br /> |サイン=Vyacheslav Molotov Signature 1944.png<br /> |国旗=SSR1923<br /> |職名=第3代[[ソビエト連邦の首相|ソビエト連邦人民委員会議議長]]<br /> |内閣=<br /> |就任日=[[1930年]][[12月19日]]<br /> |退任日=[[1941年]][[5月6日]]<br /> |元首職=書記長<br /> |元首=[[ヨシフ・スターリン]]<br /> |国旗2=SSR1923<br /> |職名2=[[ソビエト連邦]]外務人民委員<br /> |内閣2=<br /> |就任日2=[[1939年]][[5月3日]]<br /> |退任日2=[[1946年]][[3月15日]]<br /> |元首職2=首相<br /> |元首2=&#039;&#039;&#039;ヴャチェスラフ・モロトフ&#039;&#039;&#039;&lt;br&gt;[[ヨシフ・スターリン]]<br /> |国旗3=SSR1923<br /> |職名3=[[ソビエト連邦]]外務大臣<br /> |内閣3=<br /> |就任日3=[[1946年]][[3月19日]]<br /> |退任日3=[[1949年]][[3月4日]]<br /> |元首職3=首相<br /> |元首3=[[ヨシフ・スターリン]]<br /> |国旗4=SSR1955<br /> |職名4=[[ソビエト連邦]]外務大臣<br /> |内閣4=<br /> |就任日4=[[1953年]][[3月5日]]<br /> |退任日4=[[1956年]][[6月1日]]<br /> |元首職4=首相<br /> |元首4=[[ゲオルギー・マレンコフ]]&lt;br /&gt;[[ニコライ・ブルガーニン]]<br /> |国旗5=SSR1955<br /> |職名5=[[ソビエト連邦]]国家管理大臣<br /> |内閣5=<br /> |就任日5=[[1956年]][[11月21日]]<br /> |退任日5=[[1957年]][[6月29日]]<br /> |元首職5=首相<br /> |元首5=[[ニコライ・ブルガーニン]]<br /> }}<br /> &#039;&#039;&#039;ヴャチェスラフ・ミハイロヴィチ・モロトフ&#039;&#039;&#039;({{lang-ru|Вячеслав Михайлович Молотов}}、[[ラテン文字化|ラテン文字表記の例]]:{{lang|ru-Lat|Vyacheslav Mikhailovich Molotov}}、&lt;small&gt;ヴィチスラーフ・ミハーイラヴィチュ・モーラタフ&lt;/small&gt;、[[1890年]][[3月9日]]([[ユリウス暦]]2月25日) - [[1986年]][[11月8日]])は、[[ソビエト連邦]]の[[政治家]]、[[革命家]]。[[ソビエト連邦の首相|同国首相]]、{{仮リンク|ソビエト連邦の外相|label=外務人民委員、外相(1946年以後)|en|Ministry of Foreign Affairs (Soviet Union)}}を歴任し、[[第二次世界大戦]]前後の時代を通じて[[ヨシフ・スターリン]]の片腕としてソ連外交を主導した。「モロトフ」は{{Lang|ru|молот}}(モロト、ロシア語で「ハンマー」という意味)に由来するペンネーム&lt;ref&gt;かつては[[アレクサンドル・パルヴス]]も偽名として用いていた。&lt;/ref&gt;であり、本名は&#039;&#039;&#039;ヴャチェスラフ・ミハイロヴィチ・スクリャービン&#039;&#039;&#039;({{lang-ru|Вячеслав Михайлович Скрябин}})。[[作曲家]]の[[アレクサンドル・スクリャービン]]と直接の血縁関係はない&lt;ref name=&quot;Shimotomai&quot;&gt;[[下斗米伸夫]]『ソ連=党が所有した国家 1917-1991』[[講談社]]選書メチエ(2002年) ISBN 978-4-06-258248-3&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> [[1930年代]]以降唯一、スターリンに対して[[ロシア革命|革命]]時代の愛称「コーバ」を使うことの許された人物であり、スターリンも彼のことを「モロトシヴィリ」「モロトシュテイン」といったあだ名で呼んだ。妻は[[ユダヤ人]]の仕立屋の娘であり、[[ウクライナ共産党]]の書記や交通人民委員を務めた{{仮リンク|ポリーナ・ジェムチュジナ|en|Polina Zhemchuzhina}}。孫に[[ソ連国家保安委員会|KGB]]長官の補佐官を務めた政治評論家{{仮リンク|ヴャチェスラフ・ニコノフ|en|Vyacheslav Nikonov}}がいる。<br /> <br /> == 生涯 ==<br /> === 生い立ち ===<br /> [[1890年]][[3月9日]]、[[ロシア帝国]]の{{仮リンク|ヴャトカ県|en|Vyatka Governorate}}{{仮リンク|ヤランスク|en|Yaransk}}市クカルカ村(現在の[[キーロフ州]]{{仮リンク|ソヴィェツク (キーロフ州)|label=ソヴィェツク|en|Sovetsk, Kirov Oblast}})で生まれた。父ミハイルは領地管理人、母アンナは裕福な商家の出という裕福な家庭に育った。[[1906年]]に[[ロシア社会民主労働党]]に入党し、[[ボリシェヴィキ]]のメンバーとなった。[[1909年]]、[[カザン]]工業学校在学中に逮捕され、[[ヴォログダ]]に[[流罪|流刑]]となる。[[1911年]]、刑期を終えて[[サンクトペテルブルク工科大学|ペテルブルク高等専門学校]]に入学した後、再び[[イルクーツク州|イルクーツク県]]に流刑された。[[1912年]]に創刊された党機関紙『[[プラウダ]]』には編集書記として参加し、この頃から「モロトフ」の名を使い始める。このほか「ジャージャ」(伯父)や「ミハイロフ」というペンネームも用いた。<br /> <br /> === ロシア革命 ===<br /> [[ファイル:Molotov VM.jpg|250px|サムネイル|活動家時代のモロトフ]]<br /> [[1914年]]末には{{仮リンク|アレクサンドル・シリャプニコフ|en|Alexander Shliapnikov}}らと指導的活動組織「1915年ボリシェヴィキ集団」を結成する。[[1915年]]にイルクーツクから脱走し、地下活動に入る。[[1916年]]秋頃にはシリャプニコフらと[[サンクトペテルブルク|ペトログラード]]に潜伏し、ボリシェヴィキの国内組織である「党中央委員会ロシア・ビューロー」のメンバーとなった。[[1917年]]の[[ロシア革命|二月革命]]では[[ロシア臨時政府|臨時政府]]の支持に反対したため、しばらく党中央のメンバーから外された。しかし[[ウラジーミル・レーニン]]が反臨時政府の立場を明確にすると再び中央に復帰し、急進的な革命を主張するようになった。[[十月革命]]ではペトログラード・[[ソビエト]]軍事委員会委員を務め、次いで北ロシア、[[沿ヴォルガ連邦管区|ヴォルガ]]、[[ドネツ]]各地方で宣伝活動を行った。[[1919年]]末には[[ニジニ・ノヴゴロド]]県ソビエト執行委員会議長に就任した。<br /> <br /> === 中央委員会 ===<br /> &lt;gallery heights=&quot;220px&quot; widths=&quot;220px&quot;&gt;<br /> ファイル:Molotov, Stalin and Voroshilov, 1937.jpg|スターリン(中央)、[[クリメント・ヴォロシーロフ]](右)とともに(1937年)<br /> Kalinin, Enukidze and Molotov at a session of the 3rd All-Union Congress of Soviets (1925).jpeg|{{仮リンク|アヴェル・エヌキーゼ|en|Avel Enukidze}}(左)、[[ミハイル・カリーニン]](中央)と<br /> &lt;/gallery&gt;<br /> [[1921年]]には[[ソビエト連邦共産党中央委員会|党中央委員会]][[ソ連共産党書記局|書記局]]筆頭書記になり、[[ソ連共産党政治局|政治局]]員候補となる。この年、モロトフは[[ウクライナ・ソビエト社会主義共和国|ウクライナ]]の党書記であったポリーナ・ジェムチュジナと結婚した。翌[[1922年]]、レーニンは書記局の強化のために[[ソビエト連邦共産党書記長]]のポストを新設し、スターリンを書記長に任命した。以降の党内闘争ではモロトフはスターリン派として活動し、[[レフ・トロツキー]]、[[アレクセイ・ルイコフ]]といった政敵の排除に大きな役割を果たした。[[1926年]]には正式に政治局員となる。以降もスターリン路線の忠実な支持者であり、[[コルホーズ]]による農業集団化や[[大粛清]]でも大きな役割を果たした。[[1930年]]には[[ソビエト連邦の首相|人民委員会議議長(首相)]]に就任し、以降11年間にわたってその座を占め続けた。<br /> <br /> また、[[グリゴリー・ジノヴィエフ]]の失脚にともない[[1927年]]には[[コミンテルン]]執行委員会幹部会メンバーに選出され、[[1929年]]の[[ニコライ・ブハーリン]]失脚以後は、コミンテルンの事実上の指導者となった。<br /> <br /> === モロトフ外交 ===<br /> &lt;gallery heights=&quot;220px&quot; widths=&quot;220px&quot;&gt;<br /> ファイル:MolotovRibbentropStalin.jpg|独ソ不可侵条約に調印するモロトフ&lt;BR /&gt;(後列中央は[[ヨアヒム・フォン・リッベントロップ]]とスターリン)<br /> ファイル:Bundesarchiv Bild 183-1984-1206-523, Berlin, Verabschiedung Molotows.jpg|訪独してリッベントロップらドイツの首脳と会談するモロトフ(1940年11月)<br /> File:Matsuoka signs the Soviet–Japanese Neutrality Pact-2.jpg|日ソ中立条約の調印に立ち会うモロトフ&lt;BR /&gt;(調印しているのは[[松岡洋右]]、そのすぐ後ろがスターリン。スターリンの左後にモロトフ)<br /> &lt;/gallery&gt;<br /> [[1939年]]5月、[[ナチス・ドイツ]]との融和のため[[アドルフ・ヒトラー]]の歓心を買おうと企図したスターリンによってユダヤ人であった外務人民委員(外相)の[[マクシム・リトヴィノフ]]が解任された。モロトフは外務人民委員を兼務し、以降10年にわたってソビエト連邦における外交の長として活動することになる。一方、ユダヤ人であった妻のポリーナも交通人民委員を解任されている。8月には[[独ソ不可侵条約]](モロトフ=リッベントロップ協定)を締結し世界中を驚愕させ、これに基づいた9月の[[ポーランド侵攻]]は[[第二次世界大戦]]の口火を切った。この協定にはポーランドの分割と[[バルト三国]]の[[バルト諸国占領|ソ連による併合]]を取り決めた[[独ソ不可侵条約#秘密議定書|秘密議定書]]が付属しており、モロトフはこれにもサインしている。また、ポーランド侵攻後に起きた[[ポーランド軍]]将校の虐殺([[カティンの森事件]])には政治局の一員として賛成している。<br /> <br /> 1939年11月、[[カレリア]]の領有権をめぐって[[フィンランド]]との[[冬戦争]]が勃発した。スターリンとモロトフは開戦に積極的であり、[[オットー・クーシネン]]を首班とする[[フィンランド民主共和国]]の樹立を目論んでいた&lt;ref name=&quot;Shimotomai&quot;/&gt;。また、ソ連空軍はフィンランドの市街地を空爆した。フィンランド政府がこれに抗議すると、モロトフは「ソ連機は(民間人を攻撃しているのではなく)空からパンを投下しているのだ」と発言した。以後、フィンランド人はこれを皮肉って、焼夷弾のことを「&#039;&#039;&#039;モロトフのパン籠&#039;&#039;&#039;」と呼ぶようになった。さらにフィンランド軍は、対戦車兵器として用いた[[火炎瓶]]に「&#039;&#039;&#039;モロトフ・カクテル&#039;&#039;&#039;」とあだ名をつけ、「パン」への「返礼」とした。冬戦争では[[モスクワ講和条約]]によってフィンランドに領土割譲要求を呑ませることに成功し勝利したが、小国フィンランド相手に多大な損害を出し苦戦したソ連の威信は大いに傷つき、[[国際連盟]]からも追放された。<br /> {{see also|モロトフ火炎手榴弾#モロトフ・カクテル}}<br /> <br /> [[1940年]]11月に[[ベルリン]]を訪問したモロトフは、ヒトラー、[[ヨアヒム・フォン・リッベントロップ]]外相らと会談し、融和方針を確認した。11月13日、[[イギリス空軍]]による爆撃があったため防空壕に避難して会談を続けたが、リッベントロップが「[[イギリス]]の敗北は必至」と言ったところ、モロトフは「いま上空を飛んで爆弾を落としているのはどこの飛行機か」と応酬した&lt;ref name=&quot;通訳63&quot;&gt;ワレンチン・M・ベレズホフ『私は、スターリンの通訳だった』、63頁 (栗山洋児訳、同朋舎出版、1995年)。{{仮リンク|ヴァレンティン・ベレジュコフ|label=ベレズホフ|fr|Valentin Berezhkov}}はモロトフの通訳としてその場にいた。&lt;/ref&gt;。リッベントロップはやや面食らったがすぐに冷静さを取り戻し、[[日独伊三国同盟]]にソ連を加えて四国同盟にする計画を説明し始めたという&lt;ref name=&quot;通訳63&quot;/&gt;。この提案にスターリンも含めて同意したが、ドイツの最終的な返答は[[バルバロッサ作戦]]であった。<br /> <br /> [[1941年]]5月、スターリンに首相職を譲り、自らは外相専任となりソ連外交を指揮した。日本の[[松岡洋右]]外相と[[日ソ中立条約]]に調印する。[[6月22日]]にドイツ軍が侵攻し[[独ソ戦]]が勃発した。[[アナスタス・ミコヤン]]の回想によると、[[6月30日]]に[[ラヴレンチー・ベリヤ]]の提案で[[ソ連国家防衛委員会]]が組織されることが決まった。ミコヤンが議長としてスターリンの名を挙げると、モロトフは「スターリンはここ2日ほど脱力状態にある」と説明したという。また、ベリヤの回想ではスターリンの不在時に国家防衛委員会の設立を提案したのはモロトフであるとしている。この時期、スターリンは独ソ戦勃発に動揺したため指導力が弱まり、[[ニコライ・ヴォズネセンスキー]]はモロトフに権力掌握を薦めたという&lt;ref&gt;ただし、孫のニコノフや下斗米伸夫は否定的に見ている。&lt;/ref&gt;。ミコヤンによるとスターリンの別荘を訪れたモロトフは「逮捕される表情」を示したという&lt;ref name=&quot;Shimotomai&quot;/&gt;。<br /> <br /> 7月になるとスターリンは現場に復帰し、{{仮リンク|ソビエト連邦軍最高総司令官|ru|Верховный Главнокомандующий Вооружёнными Силами СССР}}および国家防衛委員会議長となった。モロトフは国家防衛委員会副議長としてスターリンを補佐した。海外ではスターリンの忠実な部下として知られており、「モール」(ボスの情婦)のあだ名で呼ばれた。<br /> <br /> 戦時中から戦後にかけて[[アメリカ合衆国|アメリカ]]・イギリスを相手にしたたかな外交交渉を展開し、スターリンとともにソ連の国益を十二分に実現し、[[冷戦]]期の[[東側諸国|共産圏]]の基礎を作った。<br /> <br /> === 戦後 ===<br /> 第二次世界大戦終了後の[[1945年]]10月に、スターリンは最初の発作を起こし、休養を余儀なくされた。そのためこの時期はモロトフが代理で政務を扱った。外国の新聞では後継者を巡る報道が行われ、モロトフに対するスターリンの警戒心は高まった。12月初め、復帰したスターリンはモロトフ批判を政治局で行った。政治局に対外委員会が設立され、外務人民委員部の役割とモロトフの権限は縮小された。外務人民委員代理には[[アンドレイ・ヴィシンスキー]]が就任し、モロトフと対立する場面もあった。<br /> <br /> [[1946年]]12月には[[ロシア科学アカデミー|ソビエト連邦科学アカデミー]]から「[[マルクス・レーニン主義|マルクス・レーニン学]]」の名誉会員に推挙された。しかしスターリンから「私はアカデミー会員だが、お前は名誉会員だ。賛成か」と電報が届いたため、辞退せざるを得なかった。スターリンは独裁を強め、ベリヤや[[アンドレイ・ジダーノフ]]といった側近を重用した。モロトフやミコヤンといった古参幹部は遠ざけられ、粛清の危険が迫っていた。<br /> <br /> [[1949年]]1月にポリーナは逮捕され、党を除名された上で[[カザフ・ソビエト社会主義共和国|カザフ]]に流刑となった。当時スターリンは[[イスラエル]]の建国や[[ユダヤ自治州|ソビエト・ユダヤ人共和国]]設立をめぐってユダヤ人への警戒心を強めており、ポリーナの粛清はイスラエルの駐ソ大使[[ゴルダ・メイア|ゴルダ・マイエルソン]]と[[ヘブライ語]]で会話したことが直接の引き金になったという。モロトフは妻の処分決定時には棄権したが、後にそのことについて[[自己批判]]せざるを得なかった。3月には外務人民委員を解任され、第一副首相となった。しかし第一副首相は閑職であり、幹部会のメンバーからも外された。<br /> <br /> モロトフ自身も[[ヒステリー]]の症状で口が開かず、薬を飲むのにも苦労したほどであった。後に「あと1年スターリンが生きていたら無事ではすまなかっただろう」と語っている&lt;ref name=&quot;Shimotomai&quot;/&gt;。<br /> <br /> [[1953年]][[3月5日]]、スターリンが死去した。指導部とも繋がりのあった作家[[コンスタンチン・シーモノフ]]の観察によると、モロトフは「スターリンの死を心から悼んだ唯一の政治局員」だったという&lt;ref name=&quot;Shimotomai&quot;/&gt;。<br /> <br /> === スターリンの死後 ===<br /> スターリンの死は新たな政治状況を作り出した。その日のうちにモロトフは外相に復帰した。またポリーナは収容所から解放され、その後も多くの囚人が釈放された。しかし改革に舵を切ったベリヤと対立し、[[ニキータ・フルシチョフ]]の提案するベリヤの逮捕と処刑に積極的に賛成した。[[ドミトリー・シェピーロフ]]の回想ではフルシチョフがベリヤの解任をほのめかした際には「除去するだけでいいのか」と答えたという。<br /> <br /> しかしその後の集団指導体制の中で、スターリン主義に固執するモロトフら保守派は孤立を深めていった。[[1956年]]2月にフルシチョフが[[スターリン批判]]を行い、[[非スターリン化]]を進めるとモロトフらは反発した。またスターリンの故郷[[グルジア・ソビエト社会主義共和国|グルジア]]で暴動が発生し、「モロトフを首相に」というスローガンが唱えられた。またモロトフは[[ユーゴスラビア社会主義連邦共和国|ユーゴスラビア]]との関係正常化に反対してフルシチョフと対立し、9月に外相を解任された。10月には[[ハンガリー人民共和国|ハンガリー]]で政変が起こり、[[ハンガリー動乱]]が発生した。モロトフは軍事介入に賛成し、融和を唱えるミコヤンと対立した。<br /> <br /> [[1957年]][[6月]]、幹部会において[[ゲオルギー・マレンコフ]]、[[ラーザリ・カガノーヴィチ]]らとともにフルシチョフ解任の動議を提出した。しかし書記局と軍の支持を得ていたフルシチョフは[[ソビエト連邦共産党中央委員会|中央委員会]]で逆襲を行った。モロトフら反フルシチョフ派は「反党グループ」であるとして政治局員から解任され、モロトフ自身は駐[[モンゴル人民共和国|モンゴル]]大使に左遷された([[反党グループ事件]])。この動議は反党グループと呼ばれた人々も賛成票を投じざるを得なかったが、モロトフは棄権した。しかし反対派の多くが自己批判や謝罪を行う中、モロトフだけは意見を変えなかった。<br /> <br /> その後、[[中ソ対立]]でモンゴルの重要性が高まると、モロトフは[[1960年]]に[[国際原子力機関]]ソ連代表に左遷された。しかしフルシチョフに体制批判の書簡を送ったことで、[[1961年]]10月の党大会で「モロトフとその同類の頑迷派」は激しく批判された。モロトフは共産党から除名され、年金生活に入った。<br /> <br /> === 晩年 ===<br /> モロトフは晩年をモスクワ郊外の[[ジューコフカ]]の別荘で送った。年金は月額120[[ルーブル]]という労働者並みの水準であったという。モロトフは『新しい課題を前に』という著書の執筆を行っていたが、出版される見込みはなかった。[[1970年]]には妻のポリーナが死去した。フルシチョフの失脚後、政権を握った[[レオニード・ブレジネフ]]の元でも復権は果たされず、20年以上の隠遁生活が続いた。<br /> <br /> [[1984年]]5月、政治局でモロトフの復権が決定され、共産党に復党した。モロトフには元首相としての多額の年金がさかのぼって支給され、孤児院に寄付を行った。彼は1985年に書記長となった[[ミハイル・ゴルバチョフ]]に期待しており、新聞に「この国の新しい変化にわくわくしている」という記事を寄稿した&lt;ref&gt;同じく古参幹部であったカガノーヴィチはジャーナリストの作文ではないかとしている。&lt;/ref&gt;。[[1986年]][[11月8日]]、十月革命69周年の日にモスクワで死去した。96歳。[[ノヴォデヴィチ墓地]]に埋葬された。<br /> <br /> == 人物 ==<br /> [[ジョン・フォスター・ダレス]]は「今世紀の偉大な国際政治家が活躍するのを見てきたが、モロトフほど完成された外交的技量を持った人物を見たことがない」と評している。モロトフ自身は、資本主義と共産主義との間に平和はありえないと考えており、「ミスター・ニェット」と呼ばれた[[アンドレイ・グロムイコ]]を高く評価し、[[アフガニスタン紛争 (1978年-1989年)|アフガニスタンへの介入]]などの対外政策を支持していた。1944年のフィンランドとの停戦交渉では、世界各国の大使を前に「この地上で赤軍を止められる軍隊などどこにもおらんのだ!ば、ば、ばかにされてなるものか」と、どもりながら激怒した。モロトフは護衛に抱えられて退出した。翌日、通訳からフィンランド代表や各国大使の反応を聞いて「上出来だ!申し分ない!」と叫んだ&lt;ref&gt;ベレズホフ『私は、スターリンの通訳だった』255頁&lt;/ref&gt;。先日の怒りは演技だったのである。やがて停戦協定が結ばれた。<br /> <br /> 対照的に、フルシチョフはその回想記の中でモロトフを「こんな無能力で、こんな視野の狭く、最も簡単なことを理解できない男が一体何年わが国の外相をしていたのか!」と酷評している。フルシチョフはさらにモロトフの頑固さを強く批判しており、たとえば日本との平和条約を締結できなかったのも、モロトフの頑迷さも一因であったと述べている。その一方で、モロトフの頑固さは時としてスターリンにすらニェット(ノー)と平然と言ってのけるようなものであり、モロトフがフルシチョフのためにスターリンに抗議してくれたことも一度や二度ではなかったという。<br /> <br /> フルシチョフが評したとおり、頑固で愛想がない性格の人物であり、部下にも妥協を許さなかった。基本的にはよそよそしいほど礼儀正しく接したが、一度怒らせると相手が気絶するまで叱った&lt;ref name=&quot;通訳241&quot;&gt;ベレズホフ『私は、スターリンの通訳だった』241頁&lt;/ref&gt;。気絶すると冷水をかけ、護衛を呼んで事務室まで運ばせた。しかし、それ以上の懲罰が下ることはなかったという&lt;ref name=&quot;通訳241&quot;/&gt;。通訳が金庫を開けっぱなしにしているのを見た時は、「腐った知識人がまた何もかもさらけだしているな。君達ロシアの知識人ときたら」と笑った&lt;ref&gt;ベレズホフ『私は、スターリンの通訳だった』244頁&lt;/ref&gt;。補佐官を務めた{{仮リンク|アレクサンドル・トロヤノフスキー|de|Alexander Antonowitsch Trojanowski}}は「モロトフほどうち解けにくい人間はいなかった」としている。<br /> <br /> ロシア革命、スターリン体制の最後の生き証人であったが、スターリンについてはほとんど胸中を明かさずに世を去った。晩年でもモロトフと妻ポリーナは一貫して[[スターリニズム|スターリン主義]]者であり、多くの犠牲者を出した1930年代の農業集団化や大粛清などを擁護している。しかし、レーニンについては晩年のインタビューで「スターリンよりも厳格だった」、「スターリンを『軟弱だ』と叱責したこともあった」など、貴重な証言を残している&lt;ref&gt;[http://www.hh.iij4u.or.jp/~iwakami/nakazawa.htm 中沢新一「レーニン礼賛」の驚くべき虚構] [[岩上安身]]公式サイト「WEB IWAKAMI」に掲載。『[[諸君!]]』1997年1月号掲載&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> == 日本との関係 ==<br /> 駐ソ大使も務めた[[東郷茂徳]]を「馬が合った」「私とやり合って祖国のために戦った」と評価しており、[[極東国際軍事裁判]]では東郷の減刑に動いたという説がある&lt;ref&gt;下斗米伸夫『ソ連=党が所有した国家 1917-1991』118P。歴史家[[アレクセイ・キリチェンコ (歴史家)|アレクセイ・キリチェンコ]]の説であるが、下斗米は疑問があるとしている。&lt;/ref&gt;。また、[[近衛文麿]]によるソ連を仲介者とした連合国との和平交渉「近衛工作」では駐ソ大使[[佐藤尚武]]と交渉を行い、[[1945年]][[8月8日]]には[[ソ連対日宣戦布告|宣戦布告]]文を手渡している([[ソ連対日参戦]])。<br /> <br /> == 脚注 ==<br /> {{reflist}}<br /> <br /> == 関連項目 ==<br /> {{Commons&amp;cat|Вячеслав Михайлович Молотов|Vyacheslav Molotov}}<br /> * [[ペルミ]] - 1940年から1957年までモロトフ市と呼ばれた。1945年から1953年頃まで、モロトフ市で犯罪が多発した現象は「モロトフ現象」と呼ばれた。<br /> * {{仮リンク|モロトフ線|en|Molotov Line}} - 独ソ不可侵条約におけるドイツとソ連の境界線。<br /> * [[モロトフ火炎手榴弾]] - ソ連で開発された焼夷手投げ弾の通称、制式呼称は「KS式手投げ弾」。<br /> * [[モロトフは駄目だ]] - フィンランドの軍歌。<br /> <br /> {{start box}}<br /> {{S-ppo}}<br /> {{Succession box<br /> | title = [[File:Flag of Russian SFSR (1918-1937).svg|border|25px]] ロシア共産党(ボリシェヴィキ)中央委員会責任書記<br /> | years = 1921年3月16日 - 1922年4月3日<br /> | before = [[ニコライ・クレスチンスキー]]<br /> | after = [[ヨシフ・スターリン]]<br /> }}<br /> {{Succession box<br /> | title = [[File:Flag of Russian SFSR (1918-1937).svg|border|25px]] 全連邦共産党(ボリシェヴィキ)モスクワ県委員会責任書記<br /> | years = 1928年11月27日 - 1929年4月6日<br /> | before = {{仮リンク|ニコライ・ウグラーノフ|ru|Угланов, Николай Александрович}}<br /> | after = {{仮リンク|カルル・バウマン|ru|Бауман, Карл Янович}}<br /> }}<br /> {{Succession box<br /> | title = [[File:Flag of Russian SFSR (1918-1937).svg|border|25px]] 全連邦共産党(ボリシェヴィキ)中央委員会中央工業州組織局議長<br /> | years = 1929年2月14日 - 4月1日<br /> | before = なし<br /> | after = [[カルル・バウマン]]<br /> }}<br /> {{Succession box<br /> | title = [[File:Flag of Ukrainian SSR (1919-1929).svg|border|25px]] ウクライナ共産党(ボリシェヴィキ)中央委員会第一書記<br /> | years = 1920年11月23日 - 1921年3月22日<br /> | before = なし<br /> | after = {{仮リンク|フェリクス・コーン|ru|Кон, Феликс Яковлевич}}<br /> | afternote = 責任書記<br /> }}<br /> {{Succession box<br /> | title = [[File:Flag of Ukrainian SSR (1919-1929).svg|border|25px]] ウクライナ共産党(ボリシェヴィキ)ドネツク県委員会責任書記<br /> | years = 1920年9月 - 11月<br /> | before = なし<br /> | after = タラス・ハレチュコ<br /> }}<br /> {{s-off}}<br /> {{Succession box<br /> | title = [[File:Flag of the Soviet Union (1936-1955).svg|border|25px]] [[ソビエト連邦の首相|ソビエト連邦人民委員会議議長]]<br /> | years = 1930年12月19日 - 1941年5月6日<br /> | before = [[アレクセイ・ルイコフ]]<br /> | after = [[ヨシフ・スターリン]]<br /> }}<br /> {{Succession box<br /> | title = [[File:Flag of the Soviet Union (1936-1955).svg|border|25px]] [[ロシアの外相|ソビエト連邦外務大臣]]<br /> | titlenote = 1946年まで外務人民委員<br /> | years = 1939年5月3日 - 1949年3月4日<br /> | before = [[マクシム・リトヴィノフ]]<br /> | after = [[アンドレイ・ヴィシンスキー]]<br /> }}<br /> {{Succession box<br /> | title = [[File:Flag of the Soviet Union (1955-1980).svg|border|25px]] [[ロシアの外相|ソビエト連邦外務大臣]]<br /> | years = 1953年3月5日 - 1956年6月1日<br /> | before = [[アンドレイ・ヴィシンスキー]]<br /> | after = [[ドミトリー・シェピーロフ]]<br /> }}<br /> {{Succession box<br /> | title = [[File:Flag of the Soviet Union (1955-1980).svg|border|25px]] ソビエト連邦国家統制大臣<br /> | years = 1956年11月21日 - 1957年6月29日<br /> | before = {{仮リンク|ヴァシリー・ジャヴォロンコフ|ru|Жаворонков, Василий Гаврилович}}<br /> | after = なし<br /> }}<br /> {{Succession box<br /> | title = [[File:Flag of Russian SFSR (1918-1937).svg|border|25px]] ロシア社会主義連邦ソビエト共和国ニジニ・ノヴゴロド県ソビエト執行委員会議長<br /> | years = 1919年11月 - 1920年6月<br /> | before = ミハイル・セルグシェフ<br /> | after = アレクサンドル・ハノフ<br /> }}<br /> {{S-dip}}<br /> {{Succession box<br /> | title = 国際原子力機関ソビエト連邦常任代表<br /> | years = 1960年 - 1962年<br /> | before = {{仮リンク|レオニード・ザミャーチン|ru|Замятин, Леонид Митрофанович}}<br /> | after = [[パンテレイモン・ポノマレンコ]]<br /> }}<br /> {{end box}}<br /> <br /> {{Normdaten}}<br /> {{DEFAULTSORT:もろとふ うやちえすらふ}}<br /> [[Category:コミンテルンの人物]]<br /> [[Category:ウクライナ共産党中央委員会第一書記]]<br /> [[Category:ソビエト連邦共産党中央委員会政治局の人物]]<br /> [[Category:全連邦共産党(ボリシェヴィキ)中央委員会組織局の人物]]<br /> [[Category:ロシア共産党(ボリシェヴィキ)中央委員会責任書記]]<br /> [[Category:ソビエト連邦共産党モスクワ州委員会第一書記]]<br /> [[Category:全連邦共産党(ボリシェヴィキ)モスクワ県委員会責任書記]]<br /> [[Category:ソビエト連邦中央執行委員会幹部会の人物]]<br /> [[Category:全ロシア中央執行委員会幹部会の人物]]<br /> [[Category:バシキール自治ソビエト社会主義共和国最高会議の代議員]]<br /> [[Category:カレリア自治ソビエト社会主義共和国最高会議の代議員]]<br /> [[Category:第2回ソビエト連邦最高会議の代議員]]<br /> [[Category:第3回ソビエト連邦最高会議の代議員]]<br /> [[Category:第4回ソビエト連邦最高会議の代議員]]<br /> [[Category:ソビエト連邦の外相]]<br /> [[Category:ソビエト連邦の首相]]<br /> [[Category:第二次世界大戦期の政治家]]<br /> [[Category:オールド・ボリシェヴィキ]]<br /> [[Category:ソビエト連邦の大使]]<br /> [[Category:在モンゴル大使]]<br /> [[Category:社会主義労働英雄]]<br /> [[Category:レーニン勲章受章者]]<br /> [[Category:名誉記章勲章受章者]]<br /> [[Category:ソビエト連邦科学アカデミー名誉会員]]<br /> [[Category:プラウダ編集者]]<br /> [[Category:ノモンハン事件の人物]]<br /> [[Category:菜食主義者]]<br /> [[Category:ヴャトカ県出身の人物]]<br /> [[Category:1890年生]]<br /> [[Category:1986年没]]</div> 153.188.171.24 レフ・ヴィゴツキー 2018-05-14T02:32:03Z <p>153.188.171.24: </p> <hr /> <div>&#039;&#039;&#039;レフ・セミョノヴィチ・ヴィゴツキー&#039;&#039;&#039;({{翻字併記|ru|Лев Семенович Выготский|Lev Semenovich Vygotsky}}、(生誕時は、{{翻字併記|ru|Лев Симхович Выгодский |Lev Simkhovich Vygodskiy}})、([[1896年]][[11月17日]](ユリウス暦11月5日)- [[1934年]][[6月11日]]))は[[ベラルーシ]]出身、旧[[ソビエト連邦]]の[[心理学者]]。<br /> <br /> [[唯物弁証法]]を土台として全く新しい心理学体系を構築し、当時支配的であった既存の心理学([[ジークムント・フロイト]]の[[精神分析学]]・[[ゲシュタルト心理学]]・[[行動主義心理学]]・[[人格主義心理学]]など)を鋭く批判した。<br /> ==業績==<br /> 10年ほどの短い研究活動の中で、[[発達心理学]]をはじめとする幅広い分野について数多くの実験的・理論的研究を行い、37歳の若さで世を去った。彼のあくなき研究意欲と旺盛な活動は、[[アレクサンドル・ルリヤ]]や[[アレクセイ・レオンチェフ (心理学者)|アレクセイ・レオンチェフ]]など多数の優秀な青年学生を集め、組織された研究集団を作りだした。彼の指導のもとに様々の具体的な心理学問題の実験的研究が実現し、青年学生らはのちのソビエト心理学界の重要な担い手となっている。「心理学のモーツァルト&lt;ref&gt;1978年、[[スティーヴン・トゥールミン]]が『高次精神機能の発達』に対する書評の中で使用した表現。&lt;/ref&gt;」とも称され、その思想は21世紀の今日も影響力を持ち続けている。<br /> ==生涯==<br /> 1896年、ベラルーシの[[ヴォルシャ]]の裕福な[[ユダヤ人]]家庭に生まれ、南部の[[ホメリ]]で育つ。8人きょうだいの2番目。一時期、家庭教師による教育を受ける。1913年、ラトネル中学を金メダルの成績で卒業。<br /> <br /> [[モスクワ大学]]に入学して[[法学]]を専攻するが、当時から哲学に興味を持っていた彼は法学だけでは飽き足らず、並行してシャニャフスキー人民大学にて[[歴史]]と[[哲学]]を学んだ&lt;ref&gt;[[パーヴェル・ブロンスキー|ブロンスキー]]から教育学と心理学の講義を受けた。柴田義松著『ヴィゴツキー入門』、子どもの未来社、2006年 p20&lt;/ref&gt;。さらに[[社会科学]]、[[心理学]]、[[言語学]]、[[文学]]、[[美術]]など、広大な領域の百科全書的知識を身につけ、これが後の心理学研究の基礎となる。在学中に[[ロシア革命]]を経験。1917年、モスクワ大学法学科及びシャニャフスキー人民大学歴史=哲学科を同時に卒業&lt;ref&gt;諸講義に出る傍ら、新聞『新しい道』の事務書記を務めた。イーゴリ・レイフ著『天才心理学者ヴィゴツキーの思想と運命』広瀬信雄訳、ミネルヴァ書房、2015年 p17-p18&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 1918年、ホメリに帰って文学と心理学担当の教師となり、同時に演劇学校で美学と美術史を講義。そのかたわら勉学を続ける。多くの中学校・師範学校・演劇学校に出かけ、学生たちの人気を集めた。この頃に、ゴメルスキー国民教育部の演劇課の主任を務め、また、師範学校に心理学実験室を設けた。<br /> <br /> 1918年から1920年にかけて「世紀と日々」と名付けられた出版事業を開始。2冊の本を出版するが、紙不足を理由に事業は中止される。この頃、[[結核]]を発病。1921年から1923年にかけて、のち(1926年)に『教育心理学』として出版されることになる一連の講義をホメリ師範学校において行う。<br /> <br /> 1924年1月、[[レニングラード]]での第2回全露精神神経病理学会において、[[ゴメリ県]]国民教育部の代表委員として&lt;ref&gt;イーゴリ・レイフ著『天才心理学者ヴィゴツキーの思想と運命』広瀬信雄訳、ミネルヴァ書房、2015年 p9&lt;/ref&gt;「反射学及び心理学研究の方法について」と題する発表を行う。この直後、[[コンスタンチン・コルニーロフ]]に招かれて[[モスクワ]]に舞い戻り、心理学研究所&lt;ref&gt;モスクワのマホーヴァヤ通りにあった。イーゴリ・レイフ著『天才心理学者ヴィゴツキーの思想と運命』広瀬信雄訳、ミネルヴァ書房、2015年 p11&lt;/ref&gt;に第二所員として勤務。本格的な研究活動を開始する。同時に教育人民委員部の障害児教育課主任を兼務する&lt;ref name=&quot;NnK&quot;&gt;レフ・ヴィゴツキー著『ヴィゴツキー障害児発達・教育論集』柴田義松・宮坂琇子訳、新読書社、2006年&lt;/ref&gt;。5月に「ドミナント反応の問題」を発表。11月に未成年者の社会的権利保障に関する第2回大会で、障害児教育の原理に関する報告を行う&lt;ref name=&quot;NnK&quot;&gt;レフ・ヴィゴツキー著『ヴィゴツキー障害児発達・教育論集』柴田義松・宮坂琇子訳、新読書社、2006年&lt;/ref&gt;。この年ローザ・スメホワと結婚。また、ルリヤ、レオンチェフらが同僚となり、心理学三人組がそろう。<br /> <br /> 1925年、[[意識]]の問題が[[唯物論]]心理学の確立に重要な意味を持つことを指摘。ゴメルスキー国民教育部の演劇課に勤務していたときに書いた論文、特に師範学校における一連の講義内容を集め、『[[芸術心理学 (ヴィゴツキー)|芸術心理学]]』を公にし、学位を得る。このとき結核の病状が重く、公開審査は免除される。これにより大学で講義する資格を得た彼は、クルプスカヤ名称共産主義アカデミー、リープクネヒト名称産業教育大学、第一モスクワ国立大学、国立音楽院、第二モスクワ国立大学、ゲルツェン名称レニングラード教育大学などから講師に招かれ、研究所を提供された。また、教育人民委員部の心身障害児教育課の指導にもあたった。さらに、10月に『行動心理学の問題としての意識』出版。<br /> <br /> 1926年、[[唯物弁証法]]の立場から現代心理学諸流派の批判的検討にとりかかり、『心理学の危機(心理学における危機の歴史的意義)』を執筆。『教育心理学』を出版。 また、ドミナント反応の実験結果を発表。1927年、『心理学の危機の歴史的意味』を完成させる&lt;ref&gt;同書出版は、著者没後。柴田義松著『ヴィゴツキー入門』、子どもの未来社、2006年 p22-p23&lt;/ref&gt;。1928年、「子どもの文化的発達の問題」を発表。通信教育用教科書『学童期の児童学』を刊行。なお、この年モスクワで行われた[[市川左團次 (2代目)|左團次]]による一週間の公演を毎日観る&lt;ref&gt;[[山下徳治]]「ヴィゴツキーの思い出」明治図書出版『ソビエト教育科学』第5号、1962年&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 1929年春から数ヶ月間、[[タシュケント|タシケント市]]の第一中央アジア州大学で、教師および心理学者に対する講義と訓練とを行う。また、モスクワにおける障害児に関する心理学研究機関組織の運動が、教育人民委員部における障害学研究所となって結実する。『児童期における随意的注意の発達』出版。「少数民族の児童学に関する科学的-研究活動計画についての問題」を発表。また失語症についての執筆もなされる。通信教育用教科書『青年期の児童学』を刊行。ロシア精神分析学協会に入会。<br /> <br /> 1930年、『行動の歴史に関する試論』をルリヤと共著。また、この年から1931年にかけて、通信教育用教科書『思春期の児童学』を刊行。1931年、さらに[[精神病理学]]の研究の必要性を感じ、心理学の教授兼[[医学]]部生となった。『障害児のための発達診断および育児相談』、『高次精神機能の発達』の執筆。『高次精神機能の発達』は筆者没後1960年に至って出版された。また、この年から1932年にかけて、ルリヤらとともにウズベキスタンで認識過程の形式の歴史性と構造変化を研究した。これは、のちにルリヤ著『認識過程の歴史的発展』(1973年)として発表される。ウクライナの神経心理学研究所に新設された心理学部門の要請に応じて、[[ハルキウ]]市に主な活動の拠点を移す。(自身は、医学部聴講などを理由に長期滞在せず。)<br /> <br /> 1932年、ピアジェの『児童の言語と思考』のロシア語訳版を編集し、これに編者前書きを寄せる。(この文章「ピアジェの心理学説における児童の言語と思考の問題」は、のちに『思考と言語』の第二章となる。) 1933年から1934年にかけて「年齢の問題」を執筆。<br /> <br /> 1934年、没後、名著『[[思考と言語]]』を刊行([[柴田義松]]訳)。また、この年『児童期における教授と認識の発達』、『精神分裂時の思考』も発表された。<br /> <br /> 1936年、論文「俳優の創造性についての心理学的問題」がペ・エム・ヤコブソン著『俳優の舞台感覚の心理学』の付録として掲載される。 <br /> <br /> 1956年、ソビエト共産党大会で復権承認される。<br /> <br /> &lt;ref&gt;カルル・レヴィチン著『ヴィゴツキー学派ーソビエト心理学の成立と発展ー』ナウカ、1984年&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;[[ジェームス・ワーチ]]著『ヴィゴツキーと心の社会的形成』&lt;/ref&gt;&lt;ref name=&quot;dowling&quot;&gt;[[アレクセイ・レオンチェフ (言語学者)|アレクセイ・A・レオンチェフ]]著『ヴィゴツキーの生涯』菅田洋一郎監訳、広瀬信雄訳、新読書社、2003年&lt;/ref&gt;<br /> <br /> ==関連項目==<br /> {{columns-list|3|<br /> * [[カール・マルクス]]<br /> * [[ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル]]<br /> * [[ボリス・チェプロフ]]<br /> * [[レオニード・サハロフ]]<br /> * [[アレクサンドル・ルリヤ]]<br /> * [[アレクセイ・レオンチェフ (心理学者)|アレクセイ・レオンチェフ]]<br /> * [[エドワード・ソーンダイク]]<br /> * [[クルト・コフカ]]<br /> * [[ジャン・ピアジェ]]<br /> * [[スティーヴン・トゥールミン]]<br /> * マイケル・コール<br /> * [[ジェームス・ワーチ]]<br /> * [[コンスタンチン・スタニスラフスキー]]<br /> * [[オシップ・マンデリシュターム]]<br /> * [[セルゲイ・エイゼンシュテイン]]<br /> * [[ローザ・レヴィナ]]<br /> * [[ボリス・ワルシャワ]]<br /> * [[自己中心性]] <br /> * [[子どもの発達]]<br /> * [[概念]]<br /> * [[活動理論]]<br /> * [[ヴィゴツキーテスト]]<br /> * [[ロシア・フォルマリズム]]<br /> }}<br /> <br /> == 脚注 ==<br /> &lt;div class=&quot;references-small&quot;&gt;&lt;references /&gt;&lt;/div&gt;<br /> <br /> ==外部リンク==<br /> *[http://www.marxists.org/archive/vygotsky/ Lev Vygotsky archive @ marxists.org]<br /> *[http://www.kolar.org/vygotsky/ Vygotsky Resources] <br /> *[http://webpages.charter.net/schmolze1/vygotsky/ The Vygotsky Project] <br /> *[http://www.massey.ac.nz/~alock/virtual/project2.htm Vygotsky Centennial Project] <br /> {{Normdaten}}<br /> {{DEFAULTSORT:ういこつきい れふ}}<br /> [[Category:レフ・ヴィゴツキー|*]]<br /> [[Category:ロシアの心理学者]]<br /> [[Category:ソビエト連邦の心理学者]]<br /> [[Category:発達心理学者]]<br /> [[Category:教育心理学者]]<br /> [[Category:ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国教育人民委員部の人物]]<br /> [[Category:モスクワ大学出身の人物]]<br /> [[Category:ロシア帝国のユダヤ人]]<br /> [[Category:モギリョフ県出身の人物]]<br /> [[Category:ヴォルシャ出身の人物]]<br /> [[Category:1896年生]]<br /> [[Category:1934年没]]</div> 153.188.171.24
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