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miniwiki - 利用者の投稿記録 [ja]
2024-05-14T18:57:39Z
利用者の投稿記録
MediaWiki 1.31.0
有沢広巳
2018-12-04T00:17:33Z
<p>153.174.40.13: </p>
<hr />
<div>{{Infobox 学者<br />
|名前=有沢 広己<br />
|画像=<br />
|画像サイズ=<br />
|画像代替説明=<br />
|画像説明=<br />
|全名=<br />
|別名=<br />
|誕生名=<br />
|生年月日={{生年月日と年齢|1896|2|16|no}}<br />
|生誕地=<br />
|没年月日={{死亡年月日と没年齢|1896|2|16|1988|3|7}}<br />
|死没地=<br />
|死因=<br />
|居住=<br />
|市民権=<br />
|国籍={{JPN}}<br />
|出身校=[[東京帝国大学]]<br />
|配偶者=<br />
|両親=<br />
|子供=<br />
|時代=<br />
|活動地域=<br />
|出身地=<br />
|学派=<br />
|研究分野=[[統計学]] [[経済学]]<br />
|研究機関=<br />
|博士課程指導教員=<br />
|他の指導教員=<br />
|博士課程指導学生=<br />
|主な指導学生=<br />
|学位=<br />
|称号=東京大学名誉教授 法政大学名誉教授<br />
|特筆すべき概念=<br />
|主な業績=<br />
|主要な作品=<br />
|影響を受けた人物=<br />
|影響を与えた人物=<br />
|学会=<br />
|主な受賞歴=<br />
|署名=<br />
|公式サイト=<br />
|脚注=<br />
}}<br />
<br />
'''有沢 広巳'''(ありさわ ひろみ、有澤 廣巳、[[1896年]][[2月16日]] - [[1988年]][[3月7日]])は、日本の[[統計学|統計学者]]、[[経済学者]]。[[法政大学]]元総長。<br />
[[東京大学]][[名誉教授]]、[[法政大学]]名誉教授。[[統計学]]が専門分野で実証に徹した。<br />
<br />
== 来歴・人物 ==<br />
[[高知県]]出身。[[高知県立高知追手前高等学校|高知中学]]を経て、[[第二高等学校 (旧制)|第二高等学校]][[卒業]]。[[東京大学|東京帝国大学]]では[[法学部]]から独立したばかりの[[経済学部]]の第一期生として統計学を[[糸井靖之]]の演習にて学ぶ。また[[河合栄治郎]]の講義を熱心に聴いた。在学中に[[森戸事件]]が起こる。[[大内兵衛]]に師事し、マルクス経済学を学ぶ。1922年に同大学を卒業後、[[助手 (教育)|助手]]を経て1924年に同大経済学部統計学講座の[[准教授|助教授]]となる。同年、同大[[講師 (教育)|講師]]の[[猪間驥一]]を大学から追放した。1926年 - 1928年までは、同大学医学部助教授で同志の[[国崎定洞]]とともに[[ドイツ]]に留学。そこで[[ヴァイマル共和政|ワイマール共和制]]に感銘を受け、帰国後、共和制打倒を掲げ台頭した[[アドルフ・ヒトラー]]率いる[[ナチス]]を激しく批判した。<br />
<br />
[[ファシズム]]の波が社会を覆った時代にあって、1938年、有沢は[[人民戦線事件]]により大内らと共に[[治安維持法]]違反で起訴され、東大を休職処分となる。しかし結果として1944年9月に、二審で無罪となる。戦時中は[[昭和研究会]]で「日本経済再編成試案」を作成したところ財界から反対され、[[大日本帝国陸軍|陸軍]]の機関である[[秋丸機関]]に所属し、欧米と日本の経済比較を行った。敗戦後の1945年、東大経済学部に教授として復帰すると、[[吉田茂]]の私的ブレーンや[[エネルギー]]問題の専門家として活躍。[[石炭小委員会]]委員長を務め、[[再生産表式]]から着想を得て戦後復興期における政府の[[傾斜生産方式]](石炭・鉄鋼等、主要産業の復興を優先する方式)の立案者となる。1950年 経済学博士 「日本工業統制論」 1956年に東大を退官。退官後は、[[法政大学]]経営学部教授・総長(1956年 - 1962年)、[[原子力委員会]]委員長代理、[[産業計画会議]]委員(議長・[[松永安左ヱ門]])、[[日本原子力産業協会|日本原子力産業会議]]会長(第3代、1973年-1988年)、[[学士会]]理事長(第5代、1974年-1988年)などを務めた。1985年、[[中国社会科学院]]より[[名誉博士|名誉博士号]]を授与された。<br />
<br />
1966年叙[[勲等|勲一等]]授[[瑞宝章]]。1975年授[[旭日章|旭日大綬章]]。1981年[[文化功労者]]。1988年叙[[正三位]]。<br />
<br />
研究者としては、「[[ダグラス・有沢の法則]]」(家計の主要労働力の所得水準と、付随する労働力の就業率との間には負の相関関係があるという経験則)を実証したことで有名。<br />
<br />
[[藤岡由夫]]、[[湯川秀樹]]、[[正力松太郎]]、[[石川一郎]]とともに創立当初からの原子力委員会委員であり、原子力委員会委員長代理への就任以来は日本の原子力政策の推進者としても知られ、[[1986年]]4月8日の日本原子力産業会議年次大会では、「安全確保に役立っていない過重な付属設備は除去すべきである」と語り、その例として[[軽水炉]]の[[緊急炉心冷却装置]]をあげ、その設計が「オーバー・デザイン」ではないか、配管の瞬時破断は実際には起こりえない、などとし、「ある面だけ丈夫にしても安全上意味がなく、無駄な投資だ」と述べた。<ref>『朝日新聞』1986年4月8日付け夕刊</ref><br />
<br />
[[日本銀行]]の理事で、[[名古屋市|名古屋]]支店長を歴任した[[有沢滋]]は実兄である。<br />
<br />
== 著書 ==<br />
=== 単著 ===<br />
* 『日本工業統制論』([[有斐閣]] 1937年)<br />
* 『学問と思想と人間と―忘れ得ぬ人々の思い出』([[毎日新聞社]] 1957年)<br />
* 『有沢広巳 戦後経済を語る』([[東京大学出版会]] 1989年)<br />
* 『ワイマール共和国物語 上・下』(東京大学出版会 1994年)<br />
<br />
=== 共著 ===<br />
* ([[内藤勝]])『統計学』([[弘文堂]]、1956年)<br />
* ([[脇村義太郎]])『カルテル・トラスト・コンツェルン』([[御茶の水書房]]、1977年)<br />
<br />
=== 編著 ===<br />
* 『日本の生活水準』(東京大学出版会 1954年)<br />
* 『日本のエネルギー問題』([[岩波書店]] 1963年)<br />
<br />
=== 監修 ===<br />
* 『資料・戦後日本の経済政策構想 全3巻』(東京大学出版会 1990年)<br />
* 『日本産業史1・2』([[日経文庫]])<br />
* 『日本証券史1・2』(日経文庫)<br />
* 『昭和経済史上・中・下』(日経文庫)<br />
<br />
== 脚注 ==<br />
{{脚注ヘルプ}}<br />
{{Reflist}}<br />
<br />
{{先代次代|[[法政大学]]総長|1959年 - 1963年|[[大内兵衛]]|[[谷川徹三]]}}<br />
{{日本学士院院長}}<br />
{{学士会理事長}}<br />
{{Normdaten}}<br />
<br />
{{DEFAULTSORT:ありさわ ひろみ}}<br />
[[Category:日本の経済学者]]<br />
[[Category:日本の統計学者]]<br />
[[Category:マルクシアン経済学者]]<br />
[[Category:勲一等旭日大綬章受章者]]<br />
[[Category:勲一等瑞宝章受章者]]<br />
[[Category:文化功労者]]<br />
[[Category:日本学士院会員|*ありさわ]]<br />
[[Category:労農派の人物]]<br />
[[Category:人民戦線事件の人物]]<br />
[[Category:法政大学総長]]<br />
[[Category:東京大学の教員]]<br />
[[Category:法政大学の教員]]<br />
[[Category:高知県出身の人物]]<br />
[[Category:1896年生]]<br />
[[Category:1988年没]]<br />
[[Category:日本の原子力関連人物]]</div>
153.174.40.13
オレンジ計画
2018-08-07T06:12:37Z
<p>153.174.40.13: </p>
<hr />
<div>'''オレンジ計画'''(オレンジけいかく、オレンジプラン、{{Lang-en-short|War Plan Orange}})とは、[[戦間期]]の[[1920年代]]から[[1930年代]]において立案された、将来起こり得る[[大日本帝国|日本]]との戦争へ対処するための[[アメリカ海軍]]の戦争計画である。[[カラーコード戦争計画]]のひとつであり、これ自体は交戦可能性のある全ての国を網羅してそれぞれ色分けされ計画されたもので、日本だけを特別敵視していたわけではない。計画は1906年の非公式の調査から始まり、当時は様々な想定がされていた<ref>Holwitt, Joel I. ''"Execute Against Japan"'', Ph.D. dissertation, Ohio State University, 2005, p.131.</ref>。最終的な案は[[1911年]]に{{仮リンク|レイモンド・P・ロジャーズ|en|Raymond P. Rodgers}}によって考案された<ref>Holwitt, p.131; Vlahos, Michael. ''The Blue Sword'' (Newport, RI: Naval War College Press, 1980), p.163.</ref>。[[1924年]](大正13年)初頭に[[アメリカ統合参謀本部|陸海軍合同会議]](Joint Army and Navy Board)において採用された<ref name="Miller">{{Harvnb|Miller|1991}}</ref><ref name="ミラー">{{Harvnb|ミラー|1994}}</ref>。<br />
<br />
== 概要 ==<br />
カラーコード戦争計画は[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]対[[枢軸国]]を仮定した[[レインボー・プラン]]に先行した計画であり、オレンジ計画は[[アメリカ合衆国]]が日本のみと戦う場合に基づいて研究され続けていた。<br />
<br />
[[米西戦争]]により[[フィリピン]]、[[グアム]]を獲得したアメリカが西[[太平洋]]をそのまま西進して行き着く方向には、日本が[[日清戦争]]により[[朝鮮半島]]含め[[中国大陸|大陸]]へと進出し始めていた。わずか半世紀前に[[マシュー・ペリー]]率いる自国の[[東インド艦隊 (アメリカ海軍)|東インド艦隊]]が訪問して開国させた日本が、富国強兵策を取って中国へ進出してきたことは、米西戦争を終えたアメリカにとって潜在的な警戒すべき問題となっていた。この頃からアメリカは対日本戦争計画の研究作業を開始する。<br />
<br />
[[日露戦争]]が終結すると中国問題が日米間で重要問題化しだし、両国間の緊張が高まりだす。アメリカは日本を仮想敵国とした戦争計画の策定に本腰を入れ始め、一連のカラーコード戦争計画の一つであるオレンジ計画が誕生する。これら各カラーコード戦争計画は、後のレインボー・プランとは違い基本的に一国対一国の戦争を想定しており、外交関係や集団安全保障に関して考慮されていなかったのだが、オレンジ計画では初期の頃より『日本が先制攻撃により攻勢に出て、消耗戦を経てアメリカが反攻に移り、海上封鎖されて日本は経済破綻して敗北する』という日米戦争のシナリオを描いてシミレーションされ、実際の[[太平洋戦争]]もこれに近い経緯を辿っていく。日露戦争の最中、[[第一次世界大戦]]といった日本と協調関係にあった時期でも、対日本戦争計画、オレンジ計画は研究され続けていた。<br />
<br />
[[1919年]](大正8年)、海軍内で立案された頃のオレンジ計画は、まだ大きく分けて3つの案に分れていた。<br />
#第1案は、西太平洋におけるフィリピン、グアムなど[[アメリカ合衆国の海外領土|海外領土]]を要塞化し、[[アメリカ陸軍|陸軍]]と[[アメリカ海軍|海軍]]の兵力を前方展開する案だった。この案は、要塞化に莫大な費用がかかること、兵力の前方展開により日本との関係が悪化するであろうことから、[[ワシントン海軍軍縮条約]]締結に向かっていた日米外交の時流に合わなくなって次第に忘れられていく。<br />
#第2案は、緒戦では日本軍の攻勢に対し西太平洋のアメリカ領土が持ちこたえることを想定していた。[[カリフォルニア]]基地での[[太平洋艦隊 (アメリカ海軍)|太平洋艦隊]]の編成(平時は、艦船はその乗組員の半分のみ保持している)と、日本軍の[[パナマ運河]]への攻撃に対して防衛することが重視され、その間フィリピンや他の領土では物資の供給停止を予期した(これらの地域では、アメリカ本土からの応援は期待できないため独力で持ちこたえるとされた)。次の段階では、兵士動員とカリフォルニアでの艦隊編成を完了させた海軍が、グアムとフィリピンのアメリカ軍を救援するために、西太平洋に出動する。その後、艦隊は[[大日本帝国海軍|日本海軍]]との決戦のために真北の日本列島近海へ進み、日本艦隊と決戦を行いこれを倒す。最終段階では、制海権を握ったアメリカ艦隊が日本本土を[[海上封鎖]]し、中国からの物資に頼る日本の産業や軍事力を圧迫して降伏へ追い込む<ref name="Kato2002.p=216">{{Harvnb|加藤|2002|pp=216f}}</ref>。この兵站無視、戦術重視の短期決戦案は、オレンジ計画が立案された当時、最有力案であり「フィリピンを見殺しにするな」という[[アメリカ軍]]部内の一部から熱烈に支持され続けた。アメリカ側の想定では、日本海軍はアメリカ艦隊の太平洋横断を許すものの、途中で[[潜水艦]]、[[航空母艦|空母]][[機動部隊]]、[[駆逐艦]]や[[巡洋艦]]などの補助艦による攻撃でアメリカ艦隊の戦力を削るという対抗策(日本ではこれを『[[漸減邀撃作戦|漸減邀撃]]』と呼んだ)を作成していると考えられた。そのような消耗を与えた後で日本艦隊は日本近海の「決戦海域」へ艦隊を誘い込みアメリカとの戦いを挑むとした。これは、300年以上にわたりそうであったように、戦争は敵対する国家が保有する海上艦隊同士の交戦によって決する<ref>{{Harvnb|Mahan|1949}}</ref><ref>{{Harvnb|マハン|2008}}</ref>とした[[アルフレッド・セイヤー・マハン]]の理論(あらゆる主要海軍が[[第二次世界大戦]]の前に支持した学説)に合わせている。しかし日本軍の軍備が大幅に拡張されてきて、アメリカ艦隊が来援するまでアメリカ領土が持ち堪える公算が少なくなるにつれ、この案への支持も少なくなっていった。<br />
#第3案は、[[1909年]](明治42年)から大規模な[[真珠湾|海軍基地建設]]が始まったハワイを起点に、一旦は日本軍が侵略するであろう[[ミクロネシア]]の島嶼を、艦隊戦力をもって飛び石伝いに占領しながら反攻していき、グアムとフィリピンを奪回するという兵站重視の長期戦案であった。そしてアメリカ海軍がミクロネシアの地理的重要性に気付き始めたとき、第一次世界大戦においてアメリカと同じ[[連合国 (第一次世界大戦)|連合国]]として参戦した日本は、[[赤道]]以北の[[南洋諸島|ドイツ領ニューギニア各諸島]]を占領した(その後[[ヴェルサイユ条約]]によって正式にこの地域は日本に[[委任統治]]されることとなる)。日本が急速に発展膨張して旧ドイツ領ニューギニア地域にまで進出してきたことはアメリカにとって、もはや潜在的な警戒すべき問題ではなく脅威となり始めていた。そこで、創設以来絶えず海軍や陸軍へ解体吸収されそうになっていた[[アメリカ海兵隊]]が、アメリカ軍部内における組織としての存在価値を自ら新たに明示するため、[[1921年]](大正10年){{仮リンク|アール・H・エリス|en|Earl Hancock Ellis}}海兵隊少佐が日本本土侵攻作戦についての論文「ミクロネシア前進基地作戦行動(Advanced Base Operations in Micronesia)」を7ヶ月で書き上げる。この論文は既に海軍内で非公式に立案されていたオレンジ計画を肉付けし、海兵隊は中部太平洋での飛び石伝いの島嶼攻撃に重要な役割、つまり敵前強行上陸を果たしていくこととなる。<br />
<br />
== 日本側の想定 ==<br />
日本でもアメリカの第2案での日本側想定と同様な戦争計画を構想していた。第一次世界大戦後の[[1923年]](大正12年)に改定された[[帝国国防方針]]では仮想敵の第一にアメリカが挙げられ、[[総力戦]]を戦うための物資の供給地として中国を確保し、アメリカ軍とは「漸減邀撃作戦」、つまり諸外国に比べて異例の大きさと航続力を持つ潜水艦や、太平洋の島嶼基地に展開した長大な航続力が特徴の(そのため爆弾搭載量や防御力を犠牲にした)[[陸上攻撃機]]によって、優勢なアメリカ艦隊が太平洋を西進してくる間に徐々にその戦力を低下せしめ、日本近海に至って戦力的に互角となってから主力艦隊同士での艦隊決戦に持ち込んで、最後には[[大和型戦艦]]など兵器の質的優位により勝利するというのが対米戦の方針であった<ref name="Kato2002.pp210">{{Harvnb|加藤|2002|pp=210-212, 224-227}}</ref>。<br />
<br />
[[ロンドン海軍軍縮会議]]において日本が求めた海軍比率70%(米10:[[イギリス|英]]10:日7)の根拠も、太平洋を横断するアメリカ艦隊を漸減邀撃で削るために必要な補助艦の戦力であり、この比率が「決戦海域」における日本艦隊の優越性をもたらすものと日本側は考えていた。アメリカも、日本側にとって70%の優位性は攻撃の成功にあたり必須であるだろうと考え日本側に対し60%の比率を主張している<ref name="Miller" /><ref name="Kato2002.pp210" />。<br />
<br />
== 誤算 ==<br />
アメリカの戦争立案者たちは潜水艦と航空活動の技術進歩がマハンの学説を時代遅れにしていることを正しく評価することができなかった。特にアメリカの立案者たちは航行中の回避行動が取れる[[戦艦]]を航空機で沈められる可能性や、日本の空母機動部隊がアメリカ艦隊の戦力を削るどころか[[真珠湾攻撃]]でなされたように遠路、戦列である艦隊を一挙に活動不能に陥らせるほどの打撃力を持つことについて、理解しなかった。<br />
<br />
アメリカの計画は、真珠湾攻撃を受けて変更された。しかし緒戦のアメリカをはじめとする連合国軍の敗北と[[ミッドウェー海戦]]での日本の敗北、そしてその後も続いたアメリカをはじめとする連合国軍の敗北の中でさえ、米艦隊は秩序立った「[[アイランド・ホッピング|島から島へ]]」の前進を好み、陸上基地からの航空支援という範囲を大きく越えることは全くなかった<ref>{{Harvnb|Willmott|1983}}</ref>。<br />
<br />
一方、日本海軍も[[日本海海戦]]さながらの「艦隊決戦」に執着し、[[対潜戦|対潜水艦戦]]の必要性と通商路確保の持つ死活的な役割を無視した<ref>{{Harvnb|Parillo|1993}}</ref>。対潜水艦戦の必要性は、[[ドイツ]]の連合国船団に対する、およびアメリカの日本[[護送船団]]に対する、潜水艦による通商破壊作戦でまざまざと示されることになった。1943年(昭和18年)半ば以降に体勢を立て直したアメリカやイギリスの作戦によりその後日本の船団は壊滅的な打撃を受け、最終的に日本の工業生産は阻害された。日本は反[[通商破壊]]作戦を用意することにも明らかに失敗した。<br />
<br />
== オレンジ計画の登場する作品 ==<br />
=== 小説 ===<br />
*{{Cite book|和書|author=[[青山智樹]]|authorlink=|date=1994-03-15|title=米国東海岸強襲 第五航空戦隊奮戦録3|series=ケイブンシャノベルス V‐50|publisher=勁文社|page=213|isbn=4-7669-1966-1|ref={{Harvid|青山|1994}}}} - [[架空戦記]]。<br />
<br />
=== 映像作品 ===<br />
* NHK特集「ドキュメント昭和~世界への登場」(5)-オレンジ作戦- ~軍縮下の日米太平洋戦略~, 1986年(昭和61年)10月6日 NHK総合<br />
<br />
=== [[ウォー・シミュレーションゲーム|ボードゲーム]] ===<br />
* M.Bennighof,『プラン・オレンジ--日本侵攻計画--』,"[[:en:Great War at Sea series|en:U.S. Navy Plan Orange]]",[[:en:Avalanche Press]]),1998、[[コマンドマガジン日本版|国際通信社]]、(Command Magazine 別冊第11号)<br />
<br />
== 脚注 ==<br />
{{脚注ヘルプ}}<br />
{{reflist|2}}<br />
<br />
== 参考文献 ==<br />
*{{Citation|last=Willmott|first=H.P.|date=1983-10|title=The Barrier and the Javelin: Japanese and Allied Pacific Strategies, February to June 1942|publisher=Naval Institute Press|location=Annapolis, MD: United States|isbn=978-0-87021-092-1}}<br />
*{{Cite book|和書|editor=NHK“ドキュメント昭和”取材班 編|date=1986-10|title=オレンジ作戦 軍縮下の日米太平洋戦略|series=ドキュメント昭和 世界への登場 5|publisher=角川書店|page=225|isbn=4-04-521605-7|ref={{Harvid|NHK“ドキュメント昭和”取材班|1986}}}}<br />
**{{Cite book|和書|editor=NHK取材班 編|date=1995-07|title=日本の選択〈5〉対日仮想戦略「オレンジ作戦」|series=角川文庫|publisher=角川書店|isbn=4-04-195407-X|ref={{Harvid|NHK取材班|1995}}}} - 注記:『[[#CITEREFNHK“ドキュメント昭和”取材班1986|ドキュメント昭和 5]]』の改訂。<br />
*{{Cite book|和書|author=鹿島守之助|editor=鹿島平和研究所 編|date=1971|title=日本外交史〈13〉ワシントン会議及び移民問題|publisher=鹿島研究所出版会|ref={{Harvid|鹿島|1971}}}}<br />
*{{Cite book|和書|author=[[加藤陽子]]|authorlink=|date=2002-03|title=戦争の日本近現代史 東大式レッスン! 征韓論から太平洋戦争まで|series=講談社現代新書|publisher=講談社|isbn=4-06-149599-2|ref={{Harvid|加藤|2002}}}}<br />
*{{Citation|last=Stinnett|first=Robert|origyear=1999|date=2001-05-08|title=Day Of Deceit: The Truth About FDR and Pearl Harbor|publisher=Free Press|location=NY|edition=paperback|series=Truth about FDR and Pearl Harbor|isbn=978-0-7432-0129-2}}<br />
**{{Cite book|和書|author=[[ロバート・スティネット]]|others=[[妹尾作太男]] 監訳、[[荒井稔]]・[[丸田知美]] 共訳|date=2001-06|title=真珠湾の真実 ルーズベルト欺瞞の日々|publisher=文藝春秋|isbn=4-16-357530-8|ref={{Harvid|スティネット|2001}}}} - 原タイトル:''[[#CITEREFStinnett2001|Day of deceit]]''。<br />
*{{Cite book|和書|author=[[前野徹]]|date=2005-03|title=新歴史の真実 混迷する世界の救世主ニッポン|series=講談社+α文庫|publisher=講談社|page=217|isbn=4-06-256921-3|ref={{Harvid|前野|2005}}}}<br />
*{{Citation|last=Parillo|first=Mark P.|date=1993-04|title=The Japanese Merchant Marine in World War II|publisher=Naval Institute Press|location=Annapolis, MD: United States|edition=1st|isbn=978-1-55750-677-1}}<br />
*{{Citation|last=Mahan|first=Alfred Thayer|author-link=アルフレッド・セイヤー・マハン|origyear=1890|date=1949|title=[[:en:The Influence of Sea Power upon History|The Influence of Seapower on History, 1660–1783]]|publisher=Little, Brown and Co.|location=Boston|edition=13th reprinted}}<br />
**{{Cite book|和書|author=アルフレッド・セイヤー・マハン|others=[[北村謙一]] 訳|date=2008|title=マハン[[海上権力史論]]|edition=新装版|publisher=[[原書房]]|isbn=978-4-562-04164-0|ref={{Harvid|マハン|2008}}}}<br />
*{{Citation|last=Miller|first=Edward S.|title=War Plan Orange: The U.S. Strategy to Defeat Japan, 1897–1945|location=Annapolis, MD: United States|publisher=Naval Institute Press|date=1991|isbn=0-87021-759-3}}<br />
**{{Cite book|和書|author=[[エドワード・ミラー]]|others=[[沢田博]] 訳|date=1994-06|title=オレンジ計画 アメリカの対日侵攻50年戦略|publisher=新潮社|isbn=978-4-10-528401-5|ref={{Harvid|ミラー|1994}}}} - 原タイトル:''[[#CITEREFMiller1991|War plan orange]]''。<br />
<br />
== 関連項目 ==<br />
{{Div col}}<br />
*[[海上権力史論]]<br />
*[[カラーコード戦争計画]]<br />
*[[太平洋戦争]]<br />
*[[レッド計画]] - 対イギリス戦争計画<br />
{{Div col end}}<br />
<br />
== 外部リンク ==<br />
*[http://dl.ndl.go.jp/view/download/digidepo_1282968_po_forum_j2008_04.pdf?contentNo=1&alternativeNo= 「オレンジ計画」から真珠湾まで : アメリカの東アジア・太平洋大戦略の発展 1939~1941年 ]マーク・A・ストーラー、戦争史研究国際フォーラム報告書第7回(防衛省, 2009-03-31) <br />
<br />
{{デフォルトソート:おれんしけいかく}}<br />
[[Category:アメリカ合衆国の軍事]]<br />
[[Category:アメリカ合衆国の計画]]<br />
[[Category:戦争計画]]<br />
[[Category:太平洋戦争]]</div>
153.174.40.13
安倍晋太郎
2018-07-26T01:55:52Z
<p>153.174.40.13: </p>
<hr />
<div>{{政治家<br />
|人名 = 安倍 晋太郎<br />
|各国語表記 = あべ しんたろう<br />
|画像 = Shintarō Abe with his oldest son Hironobu in 1956.jpg<br />
|画像説明 = 長男の寛信と、1956年(昭和31年)<br />
|国略称 = {{JPN}}<br />
|生年月日 = [[1924年]][[4月29日]]<br />
|出生地 = {{JPN}} [[東京府]][[東京市]]<br />
|没年月日 = {{死亡年月日と没年齢|1924|4|29|1991|5|15}}<br />
|死没地 = {{JPN}} [[東京都]][[文京区]]<br />
|出身校 = [[東京大学]][[東京大学大学院法学政治学研究科・法学部|法学部]][[政治学部|政治学科]]卒業<br />
|前職 = [[毎日新聞]]記者<br />[[内閣総理大臣秘書官]]<br />
|現職 = <br />
|所属政党 = [[自由民主党 (日本)|自由民主党]]([[清和政策研究会|清和会]])<br />
|称号・勲章 = [[従二位]]<br />[[勲一等旭日桐花大綬章]]<br />衆議院永年在職議員<br />[[学士(法学)|法学士]](東京大学・[[1949年]])<br />
|世襲の有無 = 2世<br />
|親族(政治家) = 大伯父・[[安倍慎太郎]]<br />父・[[安倍寛]](衆議院議員)<br />異父弟・[[西村正雄]](みずほホールディングス会長)<br />岳父・[[岸信介]](内閣総理大臣)<br />次男・[[安倍晋三]](内閣総理大臣)<br />三男・[[岸信夫]](衆議院議員)<br />
|配偶者 = [[安倍洋子]](岸信介長女)<br />
|サイン = <br />
|ウェブサイト = <br />
|サイトタイトル = <br />
|国旗 = 日本<br />
|職名 = 第112-113代 [[外務大臣 (日本)|外務大臣]]<br />
|内閣 = [[第1次中曽根内閣]]<br />[[第2次中曽根内閣]]<br />[[第2次中曽根内閣 (第1次改造)|第2次中曽根第1次改造内閣]]<br />[[第2次中曽根内閣 (第2次改造)|第2次中曽根第2次改造内閣]]<br />
|選挙区 = <br />
|当選回数 = <br />
|就任日 = 1982年11月27日<br />
|退任日 = 1986年7月22日<br />
|退任理由 = <br />
|元首職 = <br />
|元首 = <br />
|国旗2 = 日本<br />
|職名2 = 第42代 [[経済産業大臣|通商産業大臣]]<br />
|内閣2 = [[鈴木善幸内閣 (改造)|鈴木善幸改造内閣]]<br />
|選挙区2 = <br />
|当選回数2 = <br />
|就任日2 = 1981年11月30日<br />
|退任日2 = 1982年11月27日<br />
|退任理由2 = <br />
|元首職2 = <br />
|元首2 = <br />
|国旗3 = 日本<br />
|職名3 = 第41代 [[内閣官房長官]]<br />
|内閣3 = [[福田赳夫内閣 (改造)|福田赳夫改造内閣]]<br />
|選挙区3 = <br />
|当選回数3 = <br />
|就任日3 = 1977年11月28日<br />
|退任日3 = 1978年12月7日<br />
|退任理由3 = <br />
|元首職3 = <br />
|元首3 = <br />
|国旗4 = 日本<br />
|職名4 = 第46代 [[農林水産大臣|農林大臣]]<br />
|内閣4 = <br />
|選挙区4 = [[三木内閣]]<br />
|当選回数4 = <br />
|就任日4 = 1974年12月9日<br />
|退任日4 = 1976年9月15日<br />
|退任理由4 = <br />
|元首職4 = <br />
|元首4 = <br />
|国旗5 = 日本<br />
|職名5 = [[衆議院議員]]<br />
|内閣5 = <br />
|選挙区5 = [[山口県第1区 (中選挙区)|旧山口1区]]<br />
|当選回数5 = 11回(途中1回の落選を挟む)<br />
|就任日5 = 1958年5月23日<br />
|退任日5 = 1963年10月23日<br />1967年1月29日 - 1991年5月15日<br />
|退任理由5 = <br />
|元首職5 = <br />
|元首5 = <br />
}}<br />
'''安倍 晋太郎'''(あべ しんたろう、[[1924年]]([[大正]]13年)[[4月29日]] - [[1991年]]([[平成]]3年)[[5月15日]])は、[[日本]]の[[政治家]]。<br />
[[衆議院議員]]、[[農林水産大臣|農林大臣]]、[[内閣官房長官|官房長官]]、[[経済産業大臣|通産大臣]]、[[外務大臣 (日本)|外務大臣]]、[[自由民主党国会対策委員長|自民党国対委員長]]、[[自由民主党政務調査会長|自民党政調会長]]、[[自由民主党総務会長|自民党総務会長]]、[[自由民主党幹事長|自民党幹事長]]を歴任。<br />
<br />
[[衆議院|衆議院議員]]の[[安倍寛]]の長男。岳父に[[内閣総理大臣]]の[[岸信介]]、義理の叔父は[[内閣総理大臣]]の[[佐藤栄作]]、次男は[[内閣総理大臣]]の[[安倍晋三]]である。'''政界のプリンス'''と呼ばれ、[[竹下登]]、[[宮澤喜一]]と並び、'''ニューリーダー'''の一人に数えられて将来を嘱望された。[[清和政策研究会|派閥の領袖]]となり、総理[[自由民主党総裁|総裁]]を確実視されるまでに至ったが、それを目前にして病死。'''悲運のプリンス'''と呼ばれた。<br />
<br />
== 来歴・人物 ==<br />
=== 生い立ち ===<br />
政治家・[[安倍寛]]、静子夫妻の長男として東京に生まれる。寛とは、誕生日が同じである。生後間もなく郷里の山口に戻り幼少期を過ごす。山口県大津郡日置村(後に油谷町に分割→現[[長門市]])の安倍家は、[[江戸時代]]、[[大庄屋]]をつとめ、[[酒]]や[[醤油]]の[[醸造業]]を営み、やがて大津郡きっての名家として知られるようになり{{Sfn|野上忠興|2004|p=44}}、明治以降は晋太郎の大伯父[[安倍慎太郎]]や父安倍寛が地元の名士として山口県議会議員や衆議院議員を務めるようになった家柄である{{Sfn|山際澄夫|2003|p=116-118}}。<br />
<br />
晋太郎が生まれて80日後に両親が離婚した{{Sfn|神一行|2002|p=217}}。<br />
<br />
=== 学生時代 ===<br />
旧制山口中学校(現[[山口県立山口高等学校]])に進学<ref>[https://kotobank.jp/word/%E5%AE%89%E5%80%8D%E6%99%8B%E5%A4%AA%E9%83%8E-1050455 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典]</ref>。母親の再婚を知り、上京して居所を探すも、再会は叶わなかった。<br />
<br />
一年間浪人した後、[[1943年]](昭和18年)に[[岡山県]]の[[第六高等学校 (旧制)|第六高等学校]]に入学。翌年9月、わずか1年半で繰り上げ卒業となり[[東京大学|東京帝国大学]]に[[推薦入学]]する。同時に海軍滋賀航空隊に[[海軍予備員#海軍予備学生・海軍予備生徒|予備学生]]として入隊{{Sfn|神一行|2002|p=218}}。<br />
<br />
[[太平洋戦争]]終結後、改称された東京大学[[東京大学大学院法学政治学研究科・法学部|法学部]]に復学、[[1949年]](昭和24年)に卒業し[[毎日新聞社]]に入社。その間[[1946年]](昭和21年)1月29日父寛が[[心臓麻痺]]で倒れ、翌年には“育ての親”ともいえる大伯母ヨシが死去した{{Sfn|神一行|2002|p=218}}。<br />
<br />
=== 政治家として ===<br />
[[1951年]](昭和26年)、[[岸信介]]の長女・洋子と結婚し、[[1956年]](昭和31年)、岸が[[石橋内閣|石橋湛山内閣]]の[[外務大臣 (日本)|外相]]として入閣したのを機に毎日新聞を退職し、外務大臣[[秘書官]]となって岸に仕えた。[[第1次岸内閣|岸内閣]]が成立すると、[[内閣総理大臣秘書官]]に就任。外相秘書官になった頃から、総選挙に出馬を考えていたが、岸も岸の実弟の[[佐藤栄作]]も時期尚早と反対する中、「岸に迷惑がかかるなら、妻を離縁してでも」と決意し、[[1958年]](昭和33年)の[[第28回衆議院議員総選挙]]に、郷里の[[山口県第1区 (中選挙区)|旧山口1区]]<ref>なお、岸信介と佐藤栄作はともに、[[山口県第2区 (中選挙区)|旧山口2区]]</ref>から自民党公認も得て出馬、2位で初当選する(この時の総選挙では竹下登、[[金丸信]]が初当選しており、新人時代からの盟友関係が後の「安竹同盟」まで繋がった)。<br />
<br />
[[1963年]](昭和38年)の[[第30回衆議院議員総選挙]]では落選し、支持母体流動化など選挙区の情勢から政界への復帰が危ぶまれていたが、二回連続落選しては復活の目途が立たなくなるため、義父である岸信介元首相および叔父である佐藤栄作首相二人から異例の仲介が為され、同選挙区選出議員で地盤も重なる、[[吉田茂]]直系の大物議員[[周東英雄]]の後援会長を務めていた山口県水産業会の重鎮、[[藤本万次郎]]を後援会長に迎えることによって[[1967年]](昭和42年)の[[第31回衆議院議員総選挙]]で衆議院議員に返り咲いた。このため、周東が政界引退する遠因となった。以降、安倍は死去するまで連続当選を続け、地盤は次男の[[安倍晋三]]へと引き継がれた。<br />
<br />
選挙区後援会の集会に於いては、「藤本万次郎さんは私にとってかけがえのない恩人であります」との一節を必ず演説に盛り込み、「郷土に恩を返す為にも、日本の舵取りを目指す所存であります」と締めるのが常であった。[[本籍地]]が[[熊毛郡 (山口県)|熊毛郡]][[田布施町]]の岸と対岸の熊毛郡[[上関町]][[祝島]]出身の藤本は、共に幼少時は「熊毛の[[神童]]」とうたわれ交流があったが、長じて二歳年上の岸に藤本が畏敬の念を持つ事となり、この交誼が期せずも岸の娘婿となった安倍の将来に関わることとなった。岸、佐藤、安倍はこの功績に報いるため、[[1968年]](昭和43年)の[[第8回参議院議員通常選挙]]では、藤本に[[山口県選挙区|山口選挙区]]から自由民主党公認で出馬を要請したが、藤本は辞退した。<br />
<br />
その後の参議院山口県選挙区は、勇退予定であった[[二木謙吾]]が[[参議院議員]]を引き続き務めることとなり、[[1974年]](昭和49年)も再出馬。[[1980年]](昭和55年)の[[第12回参議院議員通常選挙]]では、安倍が推し[[藤本万次郎]]が後援会長を務める[[江島淳]]に地盤を[[禅譲#転用|禅譲]]する事となったが、[[1987年]](昭和62年)二期目途中の江島の死去により、7月12日補選で二木の子息である[[二木秀夫]]に地盤は戻り、[[1998年]]([[平成]]10年)の[[第18回参議院議員通常選挙]]では二木の地盤は後継者[[合志栄一]]へ引き継がれるも落選、無所属の[[松岡満寿男]]が当選する。[[2004年]](平成16年)の[[第20回参議院議員通常選挙]]では、安倍の実子で岸家へ[[養子]]へ入った[[岸信夫]]が当選した。この議席には、岸信夫の衆議院鞍替えによる[[2013年]](平成25年)の[[2013年日本の補欠選挙|参議院山口県選挙区補欠選挙]]で江島淳の子息である元[[下関市]]市長の[[江島潔]]が就くこととなった。<br />
<br />
自民党では、岸派とそれを継承した[[清和政策研究会|福田派]]に所属し、派閥領袖であった[[福田赳夫]]を支え、[[田中派]]との党内抗争「[[角福戦争]]」を争った。安倍は岸の全面的支援を背景として、福田派における世代交代の旗手と位置づけられていった。<br />
<br />
行政面では、自民党農林・外交・国防各部会の副部会長、農林政務次官を務めるなど、農政を得意としながら外交などでも研鑽を積む。衆議院大蔵委員長を経て[[1974年]](昭和49年)、[[三木内閣|三木武夫内閣]]において[[農林水産大臣|農林大臣]]として初入閣。以後、[[1976年]](昭和51年)に[[自由民主党国会対策委員会|自民党国会対策委員長]]を務め、[[1977年]](昭和52年)、[[福田内閣改造内閣|福田改造内閣]]の[[内閣官房長官]]となり、[[日中平和友好条約]]締結などに関与<ref>{{cite web|url=http://jp.jnocnews.jp/news/show.aspx?id=52533 |title=日中の架け橋 在日華人の広場父の志を継いで日中友好を |publisher=日本新華僑報 |date=2012-11-29 |accessdate=2016-07-19 }}</ref>。1978年(昭和53年)には福田の[[自由民主党総裁|自民党総裁]]再選への流れを作るためには[[衆議院解散]]が有効と考えた安倍は「解散風」を煽るが、[[金丸信]]防衛庁長官が解散反対を公言する<ref>[http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/084/0020/08406060020022a.html 衆議院会議録情報 第084回国会 内閣委員会 第22号] 1978年6月6日 衆議院内閣委員会議事録</ref>などして解散は頓挫。同年暮れの[[自由民主党総裁選挙|総裁選]]で福田は[[大平正芳]]に敗れ、福田内閣は退陣する。<br />
<br />
[[1979年]](昭和54年)から[[1981年]](昭和56年)まで大平総裁の下で[[自由民主党政務調査会|政調会長]]を務めるが、福田派が大平と対立する中で、それぞれ籍をおく執行部と福田派の板ばさみになる。[[ハプニング解散]]の際には、政調会長と党執行部の一員でありながら[[内閣不信任決議]]採決直前に福田派議員によって議場から連れ出される一幕もあった。<br />
<br />
政調会長退任直後に[[鈴木善幸内閣]]で[[経済産業大臣|通商産業大臣]]に就任。この時期までに内閣・党の要職を次々と歴任し、総裁候補としての地歩を固めたが、当時の派閥会長であった福田が政局の節目で再登板に意欲を示したため派閥の継承は遅れる形になった。安倍は派内の若手から支持を得ていたものの、長老たちを掌握しきれていなかったのである。<br />
<br />
[[1982年]](昭和57年)、[[鈴木善幸]]の首相退陣表明後、田中派の支援する総裁候補[[中曽根康弘]]に対抗すべく、福田は安倍の総裁選出馬への支持を表明。総裁予備選開催に必要な4人の立候補者を出した上で[[河本敏夫]]を総理総裁とする反田中派政権を樹立する目論見<ref>党所属国会議員による本選挙だけでは中曽根を支持する田中派・鈴木派・中曽根派の主流三派の優位を動かせなかったが、1978年(昭和53年)の総裁選で予備選の結果を受けて福田が本選挙辞退に追い込まれた前例があった。河本、あるいは安倍・中川を含む非主流派候補の得票が中曽根を上回れば政局で優位に立てるという思惑があった。</ref>であったが、安倍への党員の支持が伸び悩み、[[泡沫候補]]と思われていた[[中川一郎]]にも脅かされ最下位に転落する可能性も見えた。岸は最悪の場合、安倍の将来に関わると考え、立候補取りやめを要求したが容れられなかった。予備選の結果は3位だったが、中曽根が過半数を大きく上回る得票で1位につけたため、河本以下の候補は本選挙を辞退し、ここに福田派の目論見も潰えた。<br />
<br />
中曽根は安倍に[[閣僚]]人事の相談をするなど、安倍重視の姿勢を見せる。[[第1次中曽根内閣|中曽根康弘内閣]]では外務大臣として入閣し、連続4期務めた。安倍は必ずしも国際派というわけでもないが、義父・岸信介の米国[[人脈]]を生かし、韓国など[[アジア]]諸国との外交にも尽力したこともあり、[[マスメディア]]などでは「外交の安倍」という評価を受けるようになった。一方でパフォーマンスに長けた中曽根の陰に隠れ、外相としても新機軸を打ち出せずに終わったとも言われ、ポスト中曽根を目指して打ち出した政策である「グローバル・ニューディール」も、国民世論の理解を得たとは言い難かった。また、長きに渡って激務である外相を任されたことが、[[寿命]]を縮めた面も否めない。<br />
<br />
[[1986年]](昭和61年)、衆参同日選挙となった[[第38回衆議院議員総選挙]]で自民党が大勝し、[[第3次中曽根内閣]]で、安倍は党総務会長に就任。同時に派閥会長の座も禅譲された。中曽根の総裁任期満了により、後継総裁候補として[[安竹宮|安倍、竹下、宮沢]]が出馬するが、中曽根の巧妙な戦略と[[ニューリーダー]]たちのひ弱さにより、結局は中曽根に指名権が握られ、世論などでは雰囲気として安倍有利とされたが、結局、中曽根は竹下を後継総裁に指名した([[中曽根裁定]])。この際竹下が自分を総裁にするのに協力すれば次は安倍に譲ると禅譲を持ちかけたという説もあるが、当時彼の[[秘書]]であった次男の晋三ら関係者は否定している。後継総裁を逃したことで、当時安倍派の中堅議員だった[[小泉純一郎]]が激怒し、他の議員たちの前で安倍を叱咤したという。<br />
<br />
[[1987年]](昭和62年)に[[竹下内閣]]が成立し、安倍は[[自由民主党幹事長|自民党幹事長]]に就任。[[消費税]]導入などで[[自由民主党国会対策委員会|国会対策]]の先頭に立ち、「ポスト竹下」の最有力候補として自他共に認める存在であった。<br />
<br />
=== 発病・死去 ===<br />
[[1988年]](昭和63年)、自身の秘書がリクルートコスモス(現「[[コスモスイニシア]]」)の[[未公開株|非公開株]]を譲り受けていたため[[リクルート事件]]に巻き込まれたが、その最中に[[膵癌|膵臓癌]]が判明し、緊急入院を余儀なくされた(当時は、リクルート事件のほとぼりを冷ますための避難入院と見る政治[[評論家]]もいた)。[[1989年]](平成元年)5月、表向きには「[[総胆管]]結石治療」と称して手術を受けた。[[1990年]](平成2年)1月には[[ソビエト連邦]]を訪問。総理・総裁就任に向けて、全国各地で安倍派の新人議員を擁立し、同年2月に行われた[[第39回衆議院議員総選挙]]では、自派から若手議員を大量に当選させた<ref>この時当選した1年生議員に[[福田康夫]]、[[石原伸晃]]、[[河村建夫]]、[[松岡利勝]]などがいる</ref>。同年6月に訪米するも8月に病状が悪化し入院。9月に予定されていた訪ソを断念したが、病身を押してソ連邦初代大統領[[ミハイル・ゴルバチョフ]]の来日に尽力、ゴルバチョフとの会談を行ったがこれが安倍にとって最後の政治活動となった。<br />
<br />
1990年(平成2年)9月に再入院した。この際に次男の晋三から「[[癌]]です」と告げられた時、「ああ、やっぱりそうか」と反応しただけだったという<ref>『気骨 <small>安倍晋三のDNA</small>』 169頁</ref>。<br />
<br />
1991年(平成3年)5月15日、入院先の[[東京都]][[文京区]]の[[順天堂大学医学部附属順天堂医院]]で死去した。{{没年齢|1924|4|29|1991|5|15}}。<br />
<br />
== 年譜 ==<br />
* [[1924年]]4月29日:[[東京市]]四谷区(現・[[新宿区]])に生まれる<br />
** [[本籍地]]は[[山口県]][[大津郡]][[油谷町]]大字蔵小田(現・[[長門市]])<br />
* [[1949年]]3月:[[東京大学]][[東京大学大学院法学政治学研究科・法学部|法学部]][[政治学部|政治学科]]卒業<br />
* 1949年4月:[[毎日新聞社]]入社<br />
* [[1956年]]12月:毎日新聞社退社、外相秘書官に就任<br />
* [[1957年]]2月:首相秘書官に就任( - [[1958年]])<br />
* [[1958年]]5月:衆議院議員に当選<br />
* [[1967年]]11月:農林政務次官( - [[1968年]]11月)<br />
* [[1973年]]衆議院大蔵委員長( - [[1974年]])<br />
* [[1974年]]12月:農林大臣に就任( - [[1976年]]9月)<br />
* [[1976年]]12月:[[自由民主党国会対策委員会|自民党国会対策委員長]]に就任( - [[1977年]]11月)<br />
* [[1977年]]11月:内閣官房長官に就任( - [[1978年]]12月)<br />
* [[1979年]]11月:自民党政調会長に就任( - [[1981年]]11月)<br />
* [[1981年]]11月:通商産業大臣に就任( - [[1982年]]11月)<br />
* [[1982年]]11月:外務大臣に就任( - [[1986年]]7月)<br />
* [[1986年]]7月:自民党総務会長( - [[1987年]]10月)<br />
* [[1987年]]10月:自民党幹事長に就任( - [[1989年]]6月) 次男の[[安倍晋三|晋三]]が幹事長秘書となる<br />
* [[1991年]]5月15日:死去<br />
**墓所は山口県長門市油谷、[[静岡県]][[駿東郡]][[小山町]]の[[冨士霊園]]にある<br />
<br />
== 吉田松陰記念館の安倍晋太郎人形 ==<br />
地元・山口県[[萩市]]の[[松陰神社]]境内にある[[吉田松陰]]記念館には、山口県出身の歴代総理大臣の蝋人形が展示されている。1985年、将来の「安倍総理誕生」を見越して、安倍の蝋人形が作られ展示された。他の歴代総理大臣の近くに並べられた等身大の安倍の蝋人形は、ひときわ背が高く目立っていた。安倍が総理大臣になった暁には、一つ前に山口県から選出された佐藤栄作の隣に移す手筈であったが、総理にならないまま安倍は他界した。記念館では、歴代総理と安倍の蝋人形を並べて展示するわけにはいかず、脚部を改造し椅子に座る姿に変えた上で「郷土の政治家」として片隅に展示することになった。<br />
<br />
== 韓国や統一教会との関係 ==<br />
義父・岸信介は「[[国際勝共連合]]」・「統一教会」([[世界基督教統一神霊協会]])と友好的な協力関係を持っていたが、晋太郎も同じく、関連が深いとの見方がたびたび取り沙汰されていた。「自民党内部の統一教会シンパとしてさかんに議員に統一教会員を秘書として紹介し、セミナーへの勧誘をしていた<ref name=sgendai1999027>『週刊現代』(1999年2月27日号)」</ref>」と言われており、[[1999年]]には『[[週刊現代]]』が統一教会と国会議員の繋がりを暴いた記事で「安倍晋太郎氏がセミナー等への勧誘を行っていた」と報じた(参考:[http://www.asyura2.com/07/senkyo36/msg/411.html スクープ! 公安の極秘資料入手現職国会議員128人の「勝共連合・統一教会」関係度リスト(週刊現代, 99年2月27日号)] 阿修羅掲示板より記事原文画像<ref name=sgendai1999027/>)。事実、統一教会は晋太郎を総理大臣にするべく応援<ref name=touitusekai>「統一教会」の教祖、[[文鮮明]]は「日本の今度の選挙だけでも、私たちが推してあげたのが百八議席当選した。」、「派閥で見れば、中曽根派は六十二議席にもなって、安倍派は八十三議席。私が全部そういうふうに作ってあげた。」と述べている(韓国の『統一教会』機関紙『統一世界』1990年4月号)</ref>してきており、当時、竹下を後継指名した中曽根を強く非難していた。<br />
<br />
[[2006年]]には、息子の晋三(当時は官房長官)が「統一教会」の関連団体[[天宙平和連合]]のイベントに祝電を寄せたことが報道され、岸信介、安倍晋太郎の代からの深い関係があるのではと見られ波紋を呼んだ。この件に関し晋三は、「秘書が行った行為で、誤解を招く行為であった」という旨のコメントをした。<ref>[http://www.47news.jp/CN/200606/CN2006061901002993.html 統一教会系集会に祝電 「担当者注意」と安倍長官]</ref><br />
<br />
晋太郎は当時反共独裁体制だった韓国政界と太いパイプを持っていたので、親韓派と言われることが多い。晋太郎の福岡事務所が入っていたビルは[[パチンコ]]事業で成功を収めた[[在日韓国・朝鮮人|在日コリアン]]の実業家の経営する本社のビルであり、[[1980年代]]末には、その実業家との癒着に疑惑がもたれたこともあった<ref>[http://megalodon.jp/2008-1001-0529-46/www.chosunonline.com/article/20060921000027 自民党新総裁・安倍晋三氏ってどんな人?]</ref>。<br />
<br />
==系譜==<br />
山口県大津郡日置村(後に油谷町に分割、現:長門市)の安倍家は、[[江戸時代]]には地元の大[[庄屋]]を務め、[[酒]]や[[醤油]]の[[醸造]]を営み、やがて大津郡きっての[[名門|名家]]と知られるようになった家柄である{{Sfn|野上忠興|2004|p=44}}。[[明治時代]]になると[[安倍慎太郎]]が地元の名士として山口県議会議員になった。彼は「安倍家中興の祖」と呼ばれる。慎太郎は地元の名門椋木家から婿養子[[安倍彪助|彪助]]を迎え入れ、その子である[[安倍寛]]は山口県議会議員を経て、[[1937年]](昭和12年)に衆議院議員に当選して中央政界へ進出、以降安倍家は政治家一家となる{{Sfn|神一行|2002|p=216-217}}。寛は1942年(昭和17年)の[[翼賛選挙]]で[[大政翼賛会]]の推薦なしで当選を果たした議員の一人として知られる。その息子が安倍晋太郎であった{{Sfn|山際澄夫|2003|p=116-118}}。<br />
<br />
安倍家の[[ルーツ]]については、[[共同通信社]]出身のジャーナリスト[[古沢襄]]によれば、安倍晋太郎自身が[[安倍氏 (奥州)|奥州安倍氏]]であり、[[安倍宗任]]の末裔にあたると語っていたという。安倍宗任は[[1051年]]の[[前九年の役]]にて[[源頼義]]、[[源義家]]率いる[[源氏]]に破れ、[[大宰府]]に配流された[[陸奥国]]の[[豪族]]である。『閨閥 改訂新版 <small>特権階級の盛衰の系譜</small>』216-217頁に「家系図をひもとくと安倍家は、[[鎌倉時代]]以前の奥州征伐などで名高い[[阿倍比羅夫]]、前九年の役の[[安倍貞任]]にまで繋がる歴史ある[[名門]]である」とある。安倍家の元[[家政婦]]は東北地方に飛び、奥州安倍氏の関係地と言われた[[岩手県]]など地域の市町村役場などを丹念に回りながら、各地に古くから伝わる[[家系図]]を調べ歩き、その結果、油谷町に住み着いた一族が宗任の流れをくむ者たちであること、[[青森県]][[五所川原]]の石搭山荒覇吐(あらはばき)神社に始祖である宗任が眠っているらしいことを調べ上げたという。元家政婦からの報告を聞いた晋太郎は昭和62年(1987年)7月末、出馬表明した総裁選の全国遊説の折、妻洋子と晋三夫妻を伴い同神社に出向き、参拝した。なお案内役を兼ねて晋太郎たちに同行したのが画家の[[岡本太郎]]であり、岡本もまた安倍一族の流れをくむ一人として、自らのルーツに関心を持って調べたことがあったという{{Sfn|野上忠興|2004|pp=41-44}}。だが、この石搭山荒覇吐神社は[[偽書]]『[[東日流外三郡誌]]』に基づいて、同書の「発見者」・[[和田喜八郎]]が昭和55年([[1980年]])に創建した神社であり、同社所蔵の[[安倍頼時]]の遺骨と称する物は後に鑑定の結果、[[クジラ]]の骨の化石と判明した<ref>斉藤光政『偽書「東日流外三郡誌」事件』</ref>。[[平成]]元年(1989年)に発刊された『安倍一族』(盛岡タイムス社編纂)という一冊に晋太郎は『わが祖は「宗任」』と題する、次の序文を寄せている。「宗任より四十一代末裔の一人として自分の志した道を今一度省みながら華咲かしてゆく精進を続けられたら、と願うことしきりです」{{sfn|野上忠興|2004|p=44}}。但し、晋太郎にとり宗任は女系の祖先にあたり、父系は[[平氏]]の平知貞の系譜をひき、平家滅亡により源氏による迫害を恐れ女系の安倍姓を称したという。<br />
<br />
== 家族 親族 ==<br />
=== 安倍家 ===<br />
;(山口県[[長門市]]、[[東京都]])<br />
* 祖父・'''彪助'''(椋木家からの婿養子)<br />
:生年不詳 - [[1895年]]([[明治]]28年)没<ref>[[AERA]] NO.35「安倍家三代 世襲の果てに」</ref><br />
* 祖母・'''タメ'''(政治家[[安倍慎太郎]]の妹)<br />
:生年不詳 - [[1898年]](明治31年)没<ref>[[AERA]] NO.35「安倍家三代 世襲の果てに」</ref><br />
* 父・'''[[安倍寛|寛]]'''(政治家)<br />
:[[1894年]](明治27年)[[4月]]生 - [[1946年]]([[昭和]]21年)[[1月]]没<br />
* 母・'''静子'''(山口県、[[大日本帝国陸軍|陸軍]][[軍医|軍医監]][[本堂恒次郎]]の長女、陸軍[[大将]][[子爵]][[大島義昌]]の孫娘。出生直後に生別。)<br />
* 妻・'''[[安倍洋子|洋子]]'''(山口県、官僚でのちの首相[[岸信介]]の長女)<br />
:[[1928年]](昭和3年)[[6月]]生 -<br />
* 長男・'''[[安倍寛信|寛信]]'''([[三菱商事パッケージング]]社長)<br />
:[[1952年]](昭和27年)[[5月]]生 -<br />
: 同妻・'''幸子'''([[ウシオ電機]]社長[[牛尾治朗]]の長女)<br />
: 同長男・'''寛人<ref>http://www.news-postseven.com/archives/20160113_374441.html</ref>'''([[三菱商事]]2017年入社<ref>https://www.news-postseven.com/archives/20170628_566714.html</ref>)<br />
* 二男・'''[[安倍晋三|晋三]]'''(政治家、第90・96・97・98代[[内閣総理大臣]])<br />
:[[1954年]](昭和29年)[[9月]]生 -<br />
: 同妻・'''[[安倍昭恵|昭恵]]'''([[森永製菓]]社長[[松崎昭雄]]の長女)<br />
:[[1962年]](昭和37年)6月生 -<br />
* 三男・'''[[岸信夫|信夫]]'''(政治家、岸家へ養子)<br />
:[[1959年]](昭和34年)4月生 -<br />
* 異父弟・'''[[西村正雄]]'''([[銀行家]]、[[日本興業銀行]][[頭取]])<br />
:[[1932年]](昭和7年)[[11月]]生 - [[2006年]]([[平成]]18年)[[8月]]没<br />
<br />
== 参考文献 ==<br />
* [[秦郁彦]] 『日本近現代人物履歴事典』 東京大学出版会、[[2002年]]<br />
* 野上忠興 『気骨 <small>安倍晋三のDNA</small>』 [[講談社]]、[[2004年]]<br />
* {{Cite book|和書|author=[[山際澄夫]]|title=安倍晋三物語|publisher=[[恒文社21]]|date=2003-09|isbn=978-4770411020|ref=harv}}<br />
* {{Cite book|和書|author=[[神一行]]|title=閨閥-特権階級の盛衰の系譜|publisher=[[角川書店]]|series=角川文庫|date=2002-03|pages=62、212-228頁|edition=改訂新版|isbn=978-4043533060|ref=harv}}<br />
*{{Cite book|和書|author=[[野上忠興]]|title=安倍晋三 沈黙の仮面 ―その血脈と生い立ちの秘密―|publisher=[[小学館]]|date=2015-11-12|isbn=978-4093884471|ref=harv}}<br />
<br />
== 演じた俳優 ==<br />
* [[瀬戸山功]](『[[小説吉田学校]]』、[[1983年]])<br />
* [[大山高男]](『[[いしいひさいちの大政界]]』、[[1991年]])※OVA<br />
* [[平泉成]](『安倍晋三が号泣した日』、[[2006年]])<br />
<br />
== 脚註 ==<br />
{{脚注ヘルプ}}<br />
{{Reflist}}<br />
<br />
== 関連項目==<br />
* [[安倍氏 (奥州)|安倍氏]]<br />
* [[安倍派四天王]]<br />
* [[飯塚洋]]<br />
* [[中村長芳]]、[[重光武雄]]<br />
* [[河村建夫]]、[[田中龍夫]]<br />
<br />
== 外部リンク ==<br />
* {{kotobank|2=デジタル版 日本人名大辞典+Plus}}<br />
* [http://www.kajika.net/furusawa/20060709-2.htm 安倍宗任と安倍晋三]<br />
{{-}}<br />
{{start box}}<br />
{{s-off}}<br />
{{succession box<br />
| title = {{Flagicon|日本}} [[外務大臣 (日本)|外務大臣]]<br />
| before = [[櫻内義雄]]<br />
| years = 第112・113代:1982年 - 1986年<br />
| after = [[倉成正]]<br />
}}<br />
{{succession box<br />
| title = {{Flagicon|日本}} [[経済産業大臣|通商産業大臣]]<br />
| before = [[田中六助]]<br />
| years = 第42代:1981年 - 1982年<br />
| after = [[山中貞則]]<br />
}}<br />
{{succession box<br />
| title = {{Flagicon|日本}} [[内閣官房長官]]<br />
| before = [[園田直]]<br />
| years = 第41代:1977年 - 1978年<br />
| after = [[田中六助]]<br />
}}<br />
{{succession box<br />
| title = {{Flagicon|日本}} [[農林水産大臣|農林大臣]]<br />
| before = [[倉石忠雄]]<br />
| years = 第46代:1974年 - 1976年<br />
| after = [[大石武一]]<br />
}}<br />
{{s-par}}<br />
{{succession box<br />
| title = {{Flagicon|日本}} [[財務金融委員会|衆議院大蔵委員長]]<br />
| before = [[鴨田宗一]]<br />
| years = 1973年 - 1974年<br />
| after = [[上村千一郎]]<br />
}}<br />
{{s-ppo}}<br />
{{succession box<br />
| title = [[自由民主党幹事長]]<br />
| before = [[竹下登]]<br />
| years = 第24代:1987年 - 1989年<br />
| after = [[橋本龍太郎]]<br />
}}<br />
{{succession box<br />
| title = [[自由民主党総務会長]]<br />
| before = [[宮澤喜一]]<br />
| years = 第29代:1986年 - 1987年<br />
| after = [[伊東正義]]<br />
}}<br />
{{succession box<br />
| title = [[自由民主党政務調査会長]]<br />
| before = [[河本敏夫]]<br />
| years = 第29代:1979年 - 1981年<br />
| after = [[田中六助]]<br />
}}<br />
{{succession box<br />
| title = [[自由民主党国会対策委員長]]<br />
| before = [[海部俊樹]]<br />
| years = 第22代:1976年 - 1977年<br />
| after = [[三原朝雄]]<br />
}}<br />
{{succession box<br />
| title = [[清和政策研究会|清和会会長]]<br />
| before = [[福田赳夫]]<br />
| years = 第2代:1986年 - 1991年<br />
| after = [[三塚博]]<br />
}}<br />
{{end box}}<br />
{{衆議院大蔵委員長}}<br />
{{外務大臣}}<br />
{{経済産業大臣||通商産業大臣}}<br />
{{内閣官房長官}}<br />
{{農林水産大臣||農林大臣}}<br />
{{自由民主党幹事長}}<br />
{{自由民主党政調会長}}<br />
{{自由民主党総務会長}}<br />
{{自由民主党国会対策委員長}}<br />
{{清和政策研究会会長}}<br />
{{Normdaten}}<br />
<br />
{{DEFAULTSORT:あへ しんたろう}}<br />
[[Category:安倍晋太郎|*]]<br />
[[Category:勲一等旭日桐花大綬章受章者]]<br />
[[Category:日本の閣僚経験者]]<br />
[[Category:日本の外務大臣]]<br />
[[Category:日本の農林大臣]]<br />
[[Category:日本の通商産業大臣]]<br />
[[Category:自由民主党幹事長]]<br />
[[Category:自由民主党の衆議院議員]]<br />
[[Category:山口県選出の衆議院議員]]<br />
[[Category:内閣総理大臣秘書官]]<br />
[[Category:毎日新聞社の人物]]<br />
[[Category:大日本帝国海軍予備員]]<br />
[[Category:岡山大学出身の人物]]<br />
[[Category:東京大学出身の人物]]<br />
[[Category:東京都区部出身の人物]]<br />
[[Category:田布施岸家]]<br />
[[Category:長門市の歴史]]<br />
[[Category:安倍家|しんたろう]]<br />
[[Category:リクルート事件の人物]]<br />
[[Category:1924年生]]<br />
[[Category:1991年没]]</div>
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