Warning: Undefined variable $type in /home/users/1/sub.jp-asate/web/wiki/extensions/HeadScript/HeadScript.php on line 3

Warning: "continue" targeting switch is equivalent to "break". Did you mean to use "continue 2"? in /home/users/1/sub.jp-asate/web/wiki/includes/json/FormatJson.php on line 297

Warning: Trying to access array offset on value of type bool in /home/users/1/sub.jp-asate/web/wiki/includes/Setup.php on line 660

Warning: session_name(): Session name cannot be changed after headers have already been sent in /home/users/1/sub.jp-asate/web/wiki/includes/Setup.php on line 834

Warning: ini_set(): Session ini settings cannot be changed after headers have already been sent in /home/users/1/sub.jp-asate/web/wiki/includes/session/PHPSessionHandler.php on line 126

Warning: ini_set(): Session ini settings cannot be changed after headers have already been sent in /home/users/1/sub.jp-asate/web/wiki/includes/session/PHPSessionHandler.php on line 127

Warning: session_cache_limiter(): Session cache limiter cannot be changed after headers have already been sent in /home/users/1/sub.jp-asate/web/wiki/includes/session/PHPSessionHandler.php on line 133

Warning: session_set_save_handler(): Session save handler cannot be changed after headers have already been sent in /home/users/1/sub.jp-asate/web/wiki/includes/session/PHPSessionHandler.php on line 140

Warning: "continue" targeting switch is equivalent to "break". Did you mean to use "continue 2"? in /home/users/1/sub.jp-asate/web/wiki/languages/LanguageConverter.php on line 773

Warning: Cannot modify header information - headers already sent by (output started at /home/users/1/sub.jp-asate/web/wiki/extensions/HeadScript/HeadScript.php:3) in /home/users/1/sub.jp-asate/web/wiki/includes/Feed.php on line 294

Warning: Cannot modify header information - headers already sent by (output started at /home/users/1/sub.jp-asate/web/wiki/extensions/HeadScript/HeadScript.php:3) in /home/users/1/sub.jp-asate/web/wiki/includes/Feed.php on line 300

Warning: Cannot modify header information - headers already sent by (output started at /home/users/1/sub.jp-asate/web/wiki/extensions/HeadScript/HeadScript.php:3) in /home/users/1/sub.jp-asate/web/wiki/includes/WebResponse.php on line 46

Warning: Cannot modify header information - headers already sent by (output started at /home/users/1/sub.jp-asate/web/wiki/extensions/HeadScript/HeadScript.php:3) in /home/users/1/sub.jp-asate/web/wiki/includes/WebResponse.php on line 46

Warning: Cannot modify header information - headers already sent by (output started at /home/users/1/sub.jp-asate/web/wiki/extensions/HeadScript/HeadScript.php:3) in /home/users/1/sub.jp-asate/web/wiki/includes/WebResponse.php on line 46
http:///mymemo.xyz/wiki/api.php?action=feedcontributions&user=153.125.1.34&feedformat=atom miniwiki - 利用者の投稿記録 [ja] 2024-05-21T17:48:13Z 利用者の投稿記録 MediaWiki 1.31.0 火葬場 2018-08-07T09:06:33Z <p>153.125.1.34: /* 火葬炉の構造 */</p> <hr /> <div>[[File:Doi-saien 土居斎苑 4200321.JPG|thumb|240px|近代的な装備・設備をもつ[[四国]]の火葬場[[土居斎苑]](竣工:2005年、富士建設工業製)]]<br /> &#039;&#039;&#039;火葬場&#039;&#039;&#039;(かそうば、crematory)とは、[[死体]]を[[火葬]]するための[[施設]]。本項では主として[[日本]]の火葬場について記す。<br /> <br /> 法的には、&#039;&#039;&#039;[[墓地、埋葬等に関する法律]]&#039;&#039;&#039;(昭和二十三年五月三十一日法律第四十八号、最終改正:平成二三年一二月一四日法律第一二二号)の第二条7において&#039;&#039;&#039;「この法律で「火葬場」とは、火葬を行うために、火葬場として都道府県知事の許可をうけた施設をいう。」&#039;&#039;&#039;と、規定されている。<br /> <br /> 現代では&#039;&#039;&#039;[[斎場]]&#039;&#039;&#039;(さいじょう)とも称されるが、これは本来、祭祀儀礼を行う場所および、祭祀儀礼を行う施設全般を指す呼称であり、火葬設備を有せず通夜・告別式のみ行う施設で斎場と称するものも多い。また、「斎苑」、「葬斎場」を名乗る施設も多いが、火葬場ではない葬儀施設である場合もあるので、混同しない注意が必要である。[[2015年]]現在、日本の火葬率は99.986%に上る{{refnest|group=注|name=kasouritu2015|[[厚生労働省]] 平成27年度衛生行政報告例&lt;ref name=&quot;mhlw2015data&quot;&gt;{{cite web|url=http://www.mhlw.go.jp/toukei/saikin/hw/eisei_houkoku/15/|title=平成27年度衛生行政報告例の概況|publisher=厚生労働省|accessdate=2017-5-17|date=2016-11-17}}&lt;/ref&gt;、 第4章 生活衛生 「6 埋葬及び火葬の死体・死胎数並びに改葬数」による。これによると、平成27年度の死体取扱数は1,323,473体で、うち火葬は1,323,288体となっている。この割合はこの火葬数/死体取扱数を求めたものである。}}。<br /> <br /> == 歴史 ==<br /> === 古代 ===<br /> 火葬は、日本では宗教的要請から発生したとする説が有力である。当初は恒久的な「火葬場」は設けられず、高貴な身分層の火葬では周囲に幕や板塀などを巡らせた火床をその都度仮設して火葬が行われていた&lt;ref&gt;玉腰芳夫『古代日本のすまい』ナカニシャ出版、昭和55年)178頁&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 奈良時代後半から平安時代まで、天皇の火葬を行う場所は「山作所」と呼ばれていた。これは天皇の火葬を行った跡地は陵墓に準ずる「火葬塚」を築造することが多く、皇族御用の林野作業所や陵墓営繕工事現場を表す「山作所」の呼称をあてたものと思われる。また、同じころ天皇家以外では火葬を行う場所を「三昧」(さんまい)または「三昧場」と呼ぶようになった。<br /> <br /> 中世に近づくと庶民にも火葬を行う者が現れ、人里離れた野原で木薪を組み上げてその上に遺体を載せてで焚焼していた。このように火葬を行うための建物や炉などの恒久的設備を設けず野外で行う火葬は「野焼き」と呼ばれており、江戸時代末までは大多数の火葬場が「野焼き場」だった。野焼き場は明治時代より急速に減少するが、地域によっては県知事から正式な火葬場としての許可を受けて、平成に入ってからも存続しており、極わずかだが使用されている野焼き場もある&lt;ref group=&quot;注&quot;&gt;特に新潟県や広島県に多く現存している。厚生労働者衛生行政報告例統計、両県の衛生統計資料より&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> === 中世 ===<br /> 中世になってからは[[墓地]]の傍らなどに、棺桶より一回り大きい程度の浅い溝を掘って石や土器などで枠組みするなどした恒久的な火床を設けて、そこで火葬が行われることが増えてきた。<br /> <br /> 平安時代になると、皇族や貴族、僧侶では火葬が主流になった&lt;ref&gt;東京大学史料編纂所編『大日本古記録』小右記、藤原実資著&lt;/ref&gt;。また、一般庶民では浄土真宗の普及に伴って、浄土真宗門徒を中心に火葬を行うものが多くなり、各地に野焼場が設けられた。ただ、浄土真宗門徒以外の庶民の間では、鎌倉時代ころまでは、風葬も広く行われ、遺体を墓地や山林に放置していた。鎌倉時代以降は仏教の普及に伴って、庶民の間に念仏講や無常講、葬式組などの葬式互助組織が普及し始めたと考えられ、風葬は徐々に減少して土葬や火葬が行われるようになった。浄土宗が普及した地域では、集落や講組の共有施設として庶民が自力設営した火葬場が目立つ。<br /> <br /> 京都や大阪の市街では宗教教義に従って火葬を選ぶ者のほかに、墓地の狭隘化や無秩序な風葬(要するに屍体遺棄)対策として火葬を奨励する向きもあり、有力寺院が設営した火葬場が多い。鎌倉時代には、禅宗僧侶も一般火葬を行うようになって、武士層の火葬も増えている&lt;ref&gt;浅香勝輔=八木澤壮一『火葬場』(大明堂、昭和58年)44-45頁、48-50頁&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;水藤真『中世の葬送・墓制』(吉川弘文館、平成3年)31頁~&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 京都、大阪などは都市の形成に伴って火葬場の数を増やしていったが、京都では秀吉廟の建造の際に鳥辺野の火葬場の臭気が疎まれて移転させられた。<br /> <br /> === 近世 ===<br /> 江戸(東京)では徳川家が幕府を開き市街が形成されるに伴って寺院や墓地に火葬場が設けられるようになり、徐々にその数を増やしていった。都市部では寺院が経営するものが多く、古地図に「火葬寺」や「○○寺火屋」などの表示が見られる。<br /> <br /> 1650年ごろには江戸市中の浅草や下谷のほとんどの寺院が境内に火葬場を有していた。寛文7年(1667年)には4代将軍[[徳川家綱]]が[[上野]][[寛永寺]]へ墓参に赴いた際に、火葬の臭煙が及んだことが問題になって、浅草や下谷に散在していた20数ケ寺の境内火葬場を[[小塚原刑場]]近くに設けた幕府指定地へ集合移転させた。小塚原火葬場が開業するときには火葬料金を届け出て明示する事や明示された料金以外の金品受け取りを禁止する事、昼間火葬の禁止、日没後に役人が叩く鐘を合図に点火する等の規則が定められている&lt;ref&gt;『続江戸砂子』享保20年(1735年)&lt;/ref&gt;。小塚原火葬場はその後明治20年(1887年)に操業停止するまでの220年間に亘り江戸最大の火葬場として存続する。&lt;ref&gt;葬送文化研究会『葬送文化論』(古今書院、1993年3月)121-124頁&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;八木澤壯一『火葬場及び関連施設に関する建築計画的研究』(昭和57年)38-40頁&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;浅香勝輔=八木澤壮一『火葬場』(大明堂、昭和58年)55-58頁&lt;/ref&gt;<br /> &lt;!--(現在の[[東京博善]][[町屋斎場]]は、立地にその名残を留めている)←小塚原(千住宿南組)火葬場は現在の町屋斎場とは別地であり、東京博善社は日暮里で起業の後、町屋へ移転したものであり、何ら小塚原には関与していませんので「立地に名残を留める」とは言い難いと思います。荒川区史に紛らわしい記述があり誤解したものと思います。なのでコメントアウトしました--&gt;<br /> [[画像:Cremation in Japan-J. M. W. Silver.jpg|thumb|240px|江戸時代の火葬、『日本の礼儀と習慣のスケッチ』より、1867年出版]]<br /> <br /> 京都市中では、有力寺院が設けた規模の大きな火葬場が多く、檀信徒、門徒以外の者や他宗派の者も火葬していた。鳥辺野や狐塚の火葬場は特に有名で、1700年ごろの西本願寺文献では火葬場を支配する者を煙亡(オンボウ)&lt;ref group=&quot;注&quot;&gt;「オンボウ」については地域や時代によってその実状は大きく異なっており、固定された職業身分呼称である他に、僧侶の身分を有さず寺院雑務を行う者を指していたり、寺院に定住せず葬祭実務全般を請負う事を業とした者を指していた地域もある。中世大阪では寺社奉行支配の一端に属し、火葬埋葬の役に従事しながら変死者や異常屍体を検査して届け出る役目を負っていた例もある。また記述に関しては文献により「煙亡」「煙坊」「隠亡」「隠坊」「御坊」などと一定しておらず、時代変化も大きい。その他に火葬業務従事者を指す呼称としては「聖」(ヒジリ)や「三昧聖」(サンマイヒジリ)を多用していた地域もある。「オンボウ」も「ヒジリ」も身分差別や職業差別の意図を持って称呼された歴史が長く、現代では宗教学、民俗学、歴史学において必要な場合以外の実生活では用いるべきではない。&lt;/ref&gt;と称し、西本願寺内の花畠町に住宅を与えていて、この地が「煙亡町」と呼ばれていた事や煙亡の業務内容の詳細を記している&lt;ref&gt;浅香勝輔=八木澤壮一『火葬場』(大明堂、昭和58年)85-86頁&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;『史料京都の歴史』第一三巻「南区」&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;『京都坊目誌』より&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 大阪市中では、河内七墓または大阪七墓と称される有名墓地&lt;ref group=&quot;注&quot;&gt;梅田、南濱、葭原、蒲生、小橋、千日、鳶田&lt;/ref&gt;があり火葬場を有していて、これらを記した小説や古書が数多い。江戸時代には「土一升、金一升」と言われるほど土地が貴重であり、庶民は墓地を得るのが難しかったので、火葬が普及したとする説もある&lt;ref&gt;宮本又次『大阪の風俗 毎日放送文化双書8』(毎日放送 昭和48年)335頁&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 江戸時代中期ごろになると、硬質良土を敷き込んで整地した上に火床を作り、火床より数尺離れた四隅に柱を建てて簡易な屋根を掛けたものや、積雪地帯では切出石を積み上げた強固な壁の上に本格的な瓦屋根を載せた4-6畳ほどの小屋を造り、その中心に溝形火床を掘り込むなどした「建築物」と呼べる火葬場が現れてきた。<br /> <br /> この頃から火葬場は、「三昧」「[[荼毘]]場」と共に「火屋」「火家」「龕屋」(いずれも「ひや」と読む)と呼ばれるようになった。<br /> <br /> 1800年ごろになると、貴族や武家など支配階級を中心に火葬率が低下して土葬に回帰している。これは、儒教や神道の普及、天皇や将軍の土葬化に倣ったものと考えられている。しかし、都市部の庶民層や浄土真宗が普及した地域では、火葬率低下は見られず、火葬率は上昇していった&lt;ref&gt;浅香勝輔=八木澤壮一『火葬場』(大明堂、昭和58年)46頁&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;谷川章雄『近世火葬墓の考古学的研究』平成17年(2005年)3月、早稲田大学・研究成果報告書7-9頁&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 江戸時代終末までは常設の「火葬場」と言っても何ら設備の無い平地火床であったり、地面に掘り込んだ溝形火床の縁に石や土器などを用いて耐火性の枠を巡らせた程度の開放構造が多く、「炉」とは呼び難いものであったが、明治時代に入るころ火葬習慣が普及した地域の一部で、切出石&lt;ref group=&quot;注&quot;&gt;栃木県や、栃木から水運の便が良かった埼玉、東京では大谷石を用いた火葬炉や焼却炉、竈が多く見られた。&lt;/ref&gt;や煉瓦を用いてトンネル状燃焼室と煙突を構築し、金属製炉扉(燃焼室の蓋)を備えた「火葬炉」が築造されるようになった。同時期に外国から導入した製鉄用反射炉や煉瓦焼成窯の技術を応用したものと思われる。この炉室と煙突を備えた火葬炉は、点火して炉扉を閉じれば吸気孔と煙突以外に開口部を有しない閉鎖構造なので燃焼室内の高温維持が容易であり、開放状態で燃焼させる「野焼き」や「溝形火床」と比べて、少ない燃料(木薪や木炭)で火葬完了出来る、準備と片付けに要する人員が少なくて済む、火葬作業従事者が燃焼中の遺体を直視しないで済む、遺体の燃え残りや残炭が少ない、煙突効果で地上に降散する臭気や煤煙を低減できるなど、喪家の金銭的負担や火葬作業従事者の苦渋を大いに緩和すると共に近隣住民に及ぼす臭煙も低減できたので、東京市内や京都では明治初期に新規開業した大規模火葬場&lt;ref group=&quot;注&quot;&gt;明治9年(1876年)、東京府・小塚原火葬場全面改築操業再開。明治11年(1878年)、京都府・東西両本願寺花山火葬場新規開業(各本願寺とも松薪炉14基、計28基)&lt;/ref&gt;で採用されて重油焚きの火葬炉に置き換わる昭和初期まで使用された。また、火葬率が高かった近畿・北陸・中国地方&lt;ref group=&quot;注&quot;&gt;大阪・奈良・三重・岐阜・石川・福井・広島・岡山など&lt;/ref&gt;では、明治から昭和中期にかけての長きに亘り個人所有または集落や自治会が所有する簡易な火葬場へも普及した。<br /> <br /> この煙突と炉扉を備えた燃焼室型の木薪炉は明治時代初期から後期にかけて築造されたものは座棺専用が大多数であり、およそ明治時代後期以降に築造されたものでは、座棺と寝棺の兼用あるいは寝棺専用のものが見られる。<br /> <br /> この頃、近畿以西では「火屋」と「三昧」の2つの呼称が定着していたが、関東以北では「火屋」と「三昧」の呼称を用いる地域が減少して、「焼き場」や「竃場」(かまば)と言った呼称が多用されるようになっていた。<br /> <br /> === 近現代 ===<br /> ==== 明治時代 ====<br /> [[明治時代]]に至るまでは、火葬が増えてきたと言っても、火葬を奨励する仏教宗派の門徒や信者が多い地域や、人口密度が高く土地が逼迫したごく一部の地域に限ったことで、全国的に見れば日本の葬送儀礼として火葬は決して主流ではなかった。明治時代に入ると故郷を離れて進学したり就業する者が激増するが、このような者が亡くなった場合、火葬して焼骨にすれば持ち運びが可能になり故郷の家族墓に葬る事が可能になる事や、&lt;!--[[土葬]]のように数年単位で墓地の面倒を見る必要がない・--&gt;墓地の新設や拡張を厳しく制限する法令が施行されたため、焼骨にすれば[[墓地]]の土地面積が節約できるなどのメリットが徐々に浸透して火葬が普及していった。また、伝染病屍体の火葬を義務付ける法令規則の施行、江戸時代より人口増加が著しい市街地では明治時代以降、埋葬(土葬)を禁止して既存墓地へ焼骨を埋蔵することのみ許可される土葬禁止区域が設定された事も火葬普及の一因である。火葬の普及と共に仏教者以外の者や自治体による経営が増えて、墓地とは無関係に独立した火葬専門の施設が設置されることが多くなる。<br /> <br /> 明治時代に入ると新政府は東京の市街地に近接する火葬場の臭気や煤煙が近隣住民の健康を害している問題&lt;ref group=&quot;注&quot;&gt;火葬禁止布告は、警保寮(当時、保健・衛生・墓地埋葬に関する許認可事務・取締は警視庁の前身である警保寮が担当していた)が「東京の深川と千住(小塚原)の火葬場が排出する煤煙と悪臭が付近の市街に蔓延して堪え難き状態かつ健康を害しているので、人家近くの火葬を禁止して、人家に悪臭や煤煙が届かない場所へ火葬場を移転できないか検討して欲しい」と、司法省に伺いを出したことに端を発する。警保寮には宗教的意図は無く、純粋に公衆衛生問題からの伺いであった。伺いを受けた司法省は太政官に上申し、太政官は神道派が主張する「火葬は仏教葬法であり廃止すべき」との主張を採って「火葬禁止を布告したい」と教部省へ諮問したところ、教部省は土葬用墓地の不足を心配して東京府・京都府・大阪府に調査を下命し、東京府・京都府から「土葬用墓地枯渇の虞は低い」、大阪府からは「土葬可能な墓地用地は逼迫しているが火葬が禁止されても40~50日は差し支え無い。引続き調査する」との回答を得られたことから、急ぎ火葬禁止を布告するに至ったものである。&lt;/ref&gt;に際し、政府内神道派の主義主張を取り入れて、明治6年(1873年)7月18日に一般火葬の禁止を布告&lt;ref&gt;「火葬ノ儀自今禁止候条此旨布告候事」太政官布告第253号 明治6年(1873年)7月18日&lt;/ref&gt;するが、都市部では埋葬(土葬)用墓地の地代が急騰したり、火葬率が高かった地域では、そもそも焼骨埋蔵用墓地へ埋蔵するか所属寺納骨堂へ収蔵するのが主であり、墓地自体を設けていない地区が多かったり、埋葬(土葬)用墓地が極端に少なかったため、新たな埋葬受け入れは不可能となる墓地も出てきて埋葬用墓地の許可を受けていない墓地以外の地所に死体を不法遺棄する例も多発して混迷を極めた。しかし、衛生上人道上の問題があまりにも深刻かつ、都市部で埋葬用墓地が増加することは高税地が無税地化することであり、埋葬墓地が増加すれば、将来 都市計画上大きな問題を起こすと大蔵省も火葬禁止令に反対し、仏教指導者や大学者からも火葬再開を訴える建白書が相次いだことから、この火葬禁止布告は2年後の明治8年(1875年)5月23日に廃止&lt;ref&gt;「火葬禁止ノ布告ハ自今廃シ候条此旨布告候事」太政官布告89号 明治8年(1875年)5月23日&lt;/ref&gt;され、その後明治政府は火葬場問題から宗教的視点を排して公衆衛生的観点から火葬場を指導するようになり、火葬を推進するようになった。この火葬禁止期間は多くの人々に火葬の必要性を再認識させることになり、火葬禁止布告が廃止されると、今まで寺付属や集落または個人所有の簡易な火葬場しかなかった町村の長をはじめ、多くの財閥や資産家からも火葬場建設請願(火葬場新設許可申請)が出された。<br /> <br /> 新政府や地方行政府は明治時代初頭から「火葬」「火葬場」という呼称を用い始めたが、暫くは「梵焼」「火屋」とか「焼屍爐」などの記述もあって混用していたようである。明治17年(1884年)に布告された「墓地及埋葬取締規則」&lt;ref&gt;「墓地及び埋葬取締規則」太政官布達第25号 明治17年10月4日&lt;/ref&gt; の第一条では「墓地及ヒ火葬場ハ管轄帳ヨリ許可シタル区域ニ限ルモノトス」と規定しており、これ以降の公文書では一貫して「火葬場」と記述するようになり、同時期に新聞や書籍でも「火葬場」という記述が一般化した。また、政府は同年11月18日に「墓地及埋葬取締規則ヲ施行スル方法(細目)ヲ警視総監・府知事・県令デ定メテ内務卿へ届ケ出ルベシ」とし、細目標準を各府県に提示した&lt;ref&gt;「墓地及び埋葬取締規則施行方法細目標準」内務省達乙第40号 明治17年(1884年)11月18日&lt;/ref&gt;。細目標準の第6条・第7条では火葬場に関する規制を定めており、人家や人民輻輳地(人が集まる場所、交通量の多い場所)から百二十間(218m)以上離れた風上以外の場所を選べ、炉筒(耐火物で囲われた燃焼室)と烟筒(煙突)を備えて臭煙害を防げ、周囲に塀または柵を設けて敷地境界を明確にせよ、火葬はなるべく日没後に行え、と規定していた。<br /> <br /> 火葬場に関する規則を定めていなかった各県ではこれを受けて、具体的な離隔距離、操業を許可する時間&lt;ref group=&quot;注&quot;&gt;火葬開始(点火)時刻は20時以降、火葬終了(消火)時限は翌朝5時または8時までとした自治体が多い&lt;/ref&gt;、炉の構造概要など、ほぼ細目標準に準じた内容の取締細目を定めて施行した。<br /> <br /> 防疫衛生面では、明治時代初頭から度々伝染病が流行していて、政府はその度に、伝染病屍体の埋葬(土葬)に制限を附して伝染病屍体は原則火葬としなければならないとする旨の法律&lt;ref&gt;伝染病予防法・明治30年(1897年)4月1日・法律第36号、廃止・平成11年(1999年)4月1日&lt;/ref&gt;や規則を布告したので、火葬習慣の無かった地域では自治体主導で火葬場の新設が進むようになった。<br /> <br /> 明治19年(1888年)のコレラ大流行時に病屍体の火葬が渋滞し、樽桶に収めて野積みされた病屍体が腐乱するなど処置に混乱をきたした東京府は、火葬場臭煙害の防止と伝染病流行時の火葬能力維持および、墓地及び埋葬取締規則施行方法細目標準と東京府火葬場取締規則の相違点を整合させる目的から、明治20年(1887年)4月に東京府火葬場取締規則を改正&lt;ref&gt;東京府火葬場取締規則・警察令第5号・警視廳警視総監 明治20年(1887年)4月11日(官報第1131号)&lt;/ref&gt;し、操業時間を20時から翌朝5時までとする事、火葬炉は25基以上備える事、煙突高さを60尺(約18m)以上とする事、人家より百二十間(218m)以上隔てる事、伝染病患者排泄物用焼却炉と消毒所を併設する事などを定めた&lt;ref group=&quot;注&quot;&gt;東京府火葬場取締規則・警察令第5号・明治20年4月は全18条から成る詳細かつ厳しいもので、その条文の一部は「墓地、埋葬等に関する法律」昭和23年(1948年)5月31日法律第48号に引き継がれて、現在も全国に適用されている&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 他府県でも東京府の火葬場取締規則改正に倣って、操業時間、煙突高さ、伝染病患者排泄物用焼却炉や産褥物胞衣汚物&lt;ref group=&quot;注&quot;&gt;産褥物胞衣とは、胎盤、臍帯、卵膜、悪露およびそれらが付着した衣類など。産汚物とは産婦の排泄物およびそれらが付着した衣類・紙類など。&lt;/ref&gt;用火葬炉の併設を追加規定した自治体が多い。<br /> <br /> 江戸時代から220年に亘り江戸最大規模を誇っていた小塚原火葬場は、明治8年(1875年)の火葬禁止令廃止後、当時最新の木薪火葬炉と煙突、西洋式煉瓦建屋を備えた火葬場へと改築して明治9年(1876年)6月より操業していたが、この明治20年・火葬場取締規則改正により、第七条ノ一「人家より百二十間以上隔てる」の項目で不適格となってしまって操業停止に追い込まれた。これにより東京(江戸)にて最大かつ最長の歴史を持つ火葬地が消えることになった。小塚原火葬場営業人は、その後移転先を求めるが見つからず、明治21年(1887年)12月14日・東京市区改正設計(都市計画)委員会にて北豊島郡町屋村内に火葬場用地が定められたのを受け、町屋火葬会社を設立して、明治26年(1893年)に操業開始した&lt;ref group=&quot;注&quot;&gt;火葬場取締規則改正では東京の火葬場定数を5から8箇所と増やしており、明治20年7月、新たに許可された日暮里に火葬場を新設開業するために東京博善会社が設立されて、東京博善会社日暮里火葬場として操業開始した。しかし、開業すると同時に近隣住民から激しい苦情を受けるようになり、明治21年(1887年)12月14日・東京市区改正設計委員会決定でも日暮里は否定された事から、明治22年(1889年)に移転命令を受けた。その後、しばらく移転計画は難航して15年後の明治37年(1904年)8月に町屋火葬場の隣地に移転する希望案が許可され、町屋で先行操業していた町屋火葬場会社と並んでしばらく操業した後、両社は合併して東京博善町屋斎場となった&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;東京都編『東京市史稿』市街篇第五七(東京都、1965年)&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;荒川区編『荒川区史』上(荒川区、1989年)&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 都市部では明治時代後期頃より、宗教団体や民間が所有または経営する火葬場や野焼き場を統廃合して自治体や行政組合の経営および、無煙化無臭化の新案を凝らした近代的火葬炉を備えた火葬場が増えていくことになる&lt;ref group=&quot;注&quot;&gt;大阪市は明治40年(1907年)に民営の天王寺、長柄、岩崎、浦江の各火葬場を買収、市営化した。&lt;/ref&gt;&lt;ref group=&quot;注&quot;&gt;京都市は昭和6年(1931年)3月に東西両本願寺が経営する花山火葬場を買収して全面改築、昭和7(1932)11月、最新重油炉18基を備える市営花山火葬場を開業した&lt;/ref&gt;。ただし、東京府(現在の23区に該当する区域)は例外であり、公営火葬場の設営が進まぬ中、一株式会社が合併吸収を繰り返して多数の火葬場を経営していくことになる。また、同じ頃から製材技術の進歩や葬祭業界の発展により、寝棺の価格が下がり一般庶民でも入手容易になるにつれ、座棺用火葬炉が減少して寝棺用火葬炉を備える火葬場が増えていく。<br /> <br /> ==== 大正時代 ====<br /> 明治時代までの主たる火葬燃料は、[[藁]]・木薪・[[木炭]]であり、日没後に火葬開始(点火)して翌朝に拾骨するのが普通(多くの自治体で日中火葬を禁止していた)であったが、[[大正時代]]後半には、電気式火葬炉&lt;ref&gt;『読売新聞』電気式火葬場操業開始の記事・大正8年(1919年)4月28日&lt;/ref&gt;、[[石炭]]・[[コークス]]を用いる火葬炉、電動送風機と[[重油]][[バーナー]]を併用する火葬炉&lt;ref&gt;『時事新報』無煙無臭重油火葬炉実験成功に関する記事・大正12年(1923年)6月25日&lt;/ref&gt;が出現して燃焼速度が飛躍的に速まり、即日拾骨が可能になった。また、即日拾骨が可能になると、火葬場内に会葬者用控室や休憩室を設ける施設が増えていく。<br /> <br /> ==== 昭和時代 ====<br /> [[画像:kasouba.jpg|right|240px|thumb|[[昭和時代]]の火葬場(上:三重県の古い火葬場。右の煉瓦造りのものが火葬炉。&lt;br/&gt;下:新鋭の東京臨海斎場。)]]<br /> 昭和に入ると、重油焚き火葬炉と高煙突を設備した火葬場は、木薪や木炭を燃料とする火葬炉と比べて短時間&lt;ref group=&quot;注&quot;&gt;明治期の簡易木薪炉では6~10時間程度、設計の優れた木薪炉でも4時間程度。初期の重油炉では2時間程度であった。&lt;/ref&gt;で火葬可能かつ煤煙や臭気の排出が少ないとして、昼間操業を許可される火葬場が増えていく&lt;ref&gt;大正14年(1925年)3月、日新起業株式会社堀之内葬祭場昼間火葬開業。昭和2年(1927年)、東京博善株式会社町屋斎場日中火葬許可&lt;/ref&gt;。この頃より、都市部では火葬場内に通夜、告別式を行える式場を併設したり、施設名称に「&#039;&#039;&#039;葬斎場&#039;&#039;&#039;」「&#039;&#039;&#039;斎場&#039;&#039;&#039;」「&#039;&#039;&#039;斎苑&#039;&#039;&#039;」を用いる火葬場が増えてくる。<br /> <br /> 昭和初期から中期にかけては、現代の火葬炉とほぼ同様な「台車式」と「ロストル式」の炉構造が確立して普及すると共に煙突の長大化が進んだ&lt;ref group=&quot;注&quot;&gt;昭和初期から中期に建設された重油を燃料とする火葬場では、高さ18~30メートル程度の[[煙突]]が多い。昭和47年(1972年)改築の群馬県前橋市営斎場では高さ50メートルの煙突を備えていた。&lt;/ref&gt;。それと、全国的に寺院風デザインの火葬場建屋が新築されていることが目立つ。仏教系組織が経営する火葬場では当然と言えるが、自治体直営の施設にも多数の例があり、中には迎え地蔵や六地蔵を設置した自治体も有る&lt;!--ことは一考を要する--&gt;。<br /> <br /> 太平洋戦争(第二次世界大戦)開戦から、昭和20年代末にかけては、石油系燃料の入手が困難になったり、一部地域で葬儀資材節約の目的から座棺の復活などがあり、石炭炉または石炭重油兼用炉を設置したり、廃止または休止していた木薪炉や座棺用火葬炉を復活させる火葬場もあった。<br /> <br /> 昭和30年代になり石油系燃料の流通が安定して入手容易になると、多くの火葬場で木薪炉や石炭炉を廃止して寝棺用重油炉を新設する改装工事が行われたが、[[北海道]]・東北・[[九州]]の[[炭鉱]]地帯やそれに近接する地域では、昭和後期まで石炭炉や石炭重油兼用炉を用いていた火葬場もある。<br /> <br /> 古くから火葬が普及していた地域の個人所有または集落や自治会が所有する簡易な火葬場では、露天野焼き場を耐火レンガ製溝形火床へ改良して屋根を掛けたり、藁・木薪・木炭を燃料とする旧式簡易炉から灯油バーナーを用いる寝棺炉へ改良したりした例が多く見られる。<br /> <br /> 昭和40年頃から昭和50年代にかけては、都市部の火葬場設営者や火葬場建設を得意とする業者を中心に火葬場から排出される煤煙や臭気を抑制する研究開発が活発になり、集合煙道途中に再燃焼炉を設けたり、煙突直前に電気集塵機やバグ(繊維膜)フィルターを挿入するなどの煤煙除去努力が試みられて、現在の1基ごとに独立した火葬炉の直上に再燃焼炉を一体化した方式へと発展した。再燃焼炉の技術的進歩と共に、木薪や重油より煤煙や悪臭の原因となる物質含有量が少ない灯油や都市ガス・液化石油ガス(LPG)を火葬燃料に用いるようになって排煙が透明化され臭気の排出も僅少になると、火葬場の象徴とも言える高い煙突を廃して火葬場敷地外からは視認し難い短煙突や非定型排煙口を採用した設計が主流になった。火葬炉に接する職員の労働環境安全衛生の向上と作業負荷軽減の面では、電気計装盤からの間接操作、基本的操作手順の自動制御化、電動耐火扉や炉内台車用電動運搬車が導入され始めた。火葬場利用者のためには火葬炉から漏れる臭気や燃焼騒音を遮蔽し、焼け爛れた炉内を見せない配慮から火葬炉前室が開発された。このように火葬場の低公害化近代化が進む中、一部の火葬場では建設費低減と1炉/1日あたりの火葬可能数を増やして経営効率を上げることを優先したのか、直上再燃焼炉を設けず高煙突と重油ガンバーナー付ロストル炉を採用し、前室も制御装置も設けていない火葬場を新築した例も散見され、火葬場設営者の思想格差が大きい。<br /> <br /> 明治から昭和末期までの間に設置された火葬場で、少数特殊な例としては、[[日本軍]]施設の火葬場、避病院(伝染病患者隔離病舎)の敷地内または隣地に設置された火葬場、鉱山や炭鉱経営者が事業所に設置した火葬場、工期の長いトンネルやダム工事現場付近に事業者が仮設した火葬場、ハンセン病療養所内に国が設置した火葬場、国立大学医学部構内に設置された火葬炉などがある。これら火葬場のほとんどは事業の完了または、廃止に伴って解体撤去されているが、[[国立ハンセン病療養所]]内に設置された火葬場は廃止された後でも多くが現存しており、一部には保存展示、一般公開されている火葬場(炉)もある。<br /> <br /> 昭和後期以降、およそ昭和50年頃からは 公害物質の排出抑制や排煙の透明化の必要性、火葬場近隣住民への配慮、火葬場利用者へのサービス向上の目的から火葬炉構造の他、排煙装置・火葬場建築・立地造成の何れも大きく改良改善され進歩している。詳しくは次節「現代の火葬場」へ譲る。<br /> <br /> なお、平成も20年を過ぎて高度に機械化されて[[コンピュータ]]が燃焼制御する火葬炉も当たり前となりつつあるが、[[中国地方]]山間部の一部では簡単な煉瓦火床に稲藁を積み上げて一昼夜かけて焚焼するという、江戸時代中後期と同等な方法で火葬を行なっている集落も現存している。<br /> <br /> 冒頭で述べたとおり、[[2015年]]現在、日本の火葬率は99.986%に上るが、60%を超えたのは[[1960年代]]で、[[東北地方]]では、土葬を尊び、土葬が可能な地域が多い[[奥会津]]地方では[[1990年代]]後半まで[[土葬]]が残っていた&lt;ref name=&quot;sogi&quot;&gt;[http://www.sogi.co.jp/sub/zuiso/skar.htm 表現文化社「火葬と埋葬―東日本大震災の仮埋葬」]&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> == 現代の火葬場 ==<br /> === 概要 ===<br /> [[画像:網走市八坂火葬場.jpg|240px|thumb|旧式の火葬場(網走市八坂(旧)火葬場(2010年11月に新しい火葬場に建て替えられており画像の建物は現存しない) [[北海道]][[網走市]])]]<br /> 都市部以外の農村漁村地帯や山間部で恒久的火葬炉を備えた初期の火葬場は「三昧(さんまい)」等と呼ばれる木材や藁を燃料とした簡易な火葬炉があるだけ、あるいは集落の墓地に付属する火葬炉といった素朴・単純なものだった。この三昧は無くなったわけではなく、北陸、近畿、中国地方では、個人所有または集落や自治会所有でありながら、府県知事または保健所長の許可を受けた正式な火葬場として多数現存している。但し、管理放棄されて実用不可能となった施設や長期間使用されていない施設が大多数である。これは、近隣住民同士で葬儀や火葬埋葬の作業に協力する「講(こう)」や「組(くみ)」等の互助組織の衰退が著しいこと、三昧で火葬を行うための知識技術を持った者が激減してしまったことと、多少遠方でも新しい公営火葬場を利用した方が手間や費用を小さくできるようになったためである。<br /> <br /> およそ[[昭和]]中期以降に建設された火葬場では、従前多用されていた仏教色の強いデザインを排して宗教色を感じさせないデザインが主流となった。また、火葬炉と炉前ホールの他に、[[骨上げ]]を行う収骨室や最後の別れをする告別室が備えられていることが多い。一部の大規模な火葬場は[[通夜]]・[[葬儀]]が行えるように式場と親族控室、遺体用[[冷蔵庫]]を備えた[[霊安室]]を併設しており、売店や骨上げまでの待合室として喫茶室やレストランなどが設けられている総合[[斎場]]もある。<br /> [[画像:Daisya shiki.JPG|240px|thumb|right|台車式火葬炉の前室(土居斎苑 [[愛媛県]][[四国中央市]])]]<br /> [[画像:白樺斎場.jpg|240px|thumb|right|建物は既存のままで、再燃炉付きの火葬炉に更新した火葬場の例]]<br /> <br /> === 火葬炉の構造 ===<br /> 現在の[[火葬炉]]は、大きく「&#039;&#039;&#039;台車式&#039;&#039;&#039;」と「&#039;&#039;&#039;ロストル式&#039;&#039;&#039;」の2種類に分けることができる。いずれも異なる長所と短所を有しており、火葬場設置者の判断によって選択される。[[平成]]に入ってから建設された火葬場では、97%以上の施設で台車式が採用されており、ロストル式を採用した施設は3%未満である。また、これまでロストル式を使用してきた施設でも、老朽化で改築した際に台車式に変更した例もある。<br /> <br /> 点火に先立ち火葬場職員押すボタンは(施設によっては火遺族押す場合もある)直接の点火ボタンではく、作業員に合図を送るためのボタンである。この合図を受けた作業員は安全確認後、点火する。台車式が60分を要するのに対し、ロストル式は40分で焼ける。火葬終了後、30分程度の冷却を経て遺族に遺骨を引き渡す。火葬時間を短縮するだけであれば、火力の設定を高くすればよいのだが(現在の火葬炉は1500℃まで設定可能)、温度が高すぎると[[骨]]まで焼けて[[遺骨]]がきれいに残らない。遺骨をきれいに残すには設定温度を低めに設定し時間をかけて火葬すればいいのだが、仮に[[頭蓋骨]]や[[骨盤]]はきれいに残っても、[[骨壺]]には入りきらない。かつ、800℃以下の場合は[[ダイオキシン]]、1000℃以上の場合は[[窒素酸化物]]の発生が懸念される。火葬炉も[[大気汚染防止法]]や[[ゴミ焼却炉]]などの規制による数値をもとにした[[地方自治体]]独自の規制に則している。また、ダイオキシンに関しては国のガイドラインも遵守しなければならない&lt;ref name=&quot;MIURA&quot;&gt;「週刊ポスト」(小学館)連載 みうらじゅん「死に方上手」第35回 火葬炉工場へ行ってきた(富士建設工業)&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> ==== 台車式 ====<br /> 車輪を有する鉄製枠の上面に[[耐火レンガ]]または耐火キャスタブル製の床板を張った台車が炉室床の機能を有しており、その台車上に、[[五徳]]などを挟んで[[棺]]を置き、台ごと火葬炉に入れて焼く方式である。焼却開始直後は棺の下側からも[[バーナー]]の炎にさらされるが、棺が燃え尽きた後の遺体下面にはバーナー炎が廻り難いので、骨化するまで時間がかかる。ロストル式が約40分に対し、台車式の場合は約60分を要する&lt;ref name=&quot;MIURA&quot; /&gt;。しかしながら、骨はあまり落差のない台車上に落ちるためにばらばらに散乱することがなく、ほぼ人体形状を保ったまま きれいに残るという特徴がある。遺体がほぼ骨化した後は台車面にもバーナー炎が到達するので、汚汁や難燃部位の[[不完全燃焼]]は生じにくく悪臭が少ない。ロストル式はもともとは、遺骨に対する扱いが全く違う海外から来た方式である。遺骨を残さない海外に対し、日本では[[釈迦]]が[[荼毘]]に付された時の遺骨を残す燃やし方である当時の[[インド]]の習慣から発生しているため遺骨が大切にされる。このため、現在の日本の火葬炉は台車式が主流になりつつある&lt;ref name=&quot;MIURA&quot; /&gt;。<br /> <br /> 遺族参会者が立ち入る炉前ホールと火葬炉本体の間に「前室」を設けるのが最近の傾向であり、前室有りの場合は遺族参会者の目に触れることなく炉内工事や清掃、台車整備、火葬後の台車と焼骨の冷却、残骨灰の処理を行うことが可能であり、炉前ホールに漏れる燃焼音、熱気、臭気を極めて小さくできる。建設費はロストル式と比して高額になる。<br /> <br /> 火葬場により異なるが、1炉/1日あたりの火葬可能数は2~3体としている施設が多い。これは台車の冷却・清掃に要する時間に余裕をもたせたり、炉前ホールや収骨室で他家の参会者同士が輻輳したりしないように動線時間に余裕をもたせるなど、参会者の安全衛生確保と心情に配慮した運用上の事由に因るもので、技術的には1炉/1日あたり4体以上も可能である。<br /> <br /> ==== ロストル式 ====<br /> 炉内にかけ渡した数本の金属棒で作られた格子の上に棺を直接載せて焼くという方式である。「ロストル」とは、食品を焼く[[網]]や[[ストーブ]]等の火床格子を指す[[オランダ語]]の「rooster」が語源である。<br /> <br /> 人体のうち腹部の[[大腸]]、[[小腸]]などの[[内臓]]部分は水分が多くここだけは焼けにくい。しかし、ロストルと炉底部の骨受皿の間は数十センチの空間があるため、棺が燃え尽きた後も炎は遺体の下にも回り、台車式より短時間で骨化することができる&lt;ref name=&quot;MIURA&quot; /&gt;。しかしながら、骨は格子から落差がある骨受皿に落ちるため、多くの場合位置関係はばらばらになる。ロストルは間隔の広い格子状なので、遺体下面の燃焼が促進されるが汚汁や難燃部位が骨受皿へ落下しやすい。骨受皿は構造上バーナー炎をあまり当てられないのでロストル位置より温度が低く、落下した汚汁や難燃部位が残りやすいので悪臭を生じやすい。<br /> <br /> 前室を設けるのは骨受皿を炉前ホール側へ引き出すタイプでは技術的に困難であり、炉前ホールに漏れる燃焼音、熱気、臭気が大きい。建設費は台車式と比して低廉である。また、骨受皿を入れ替えれば炉内を冷却する事なく次の火葬を開始可能なので熱効率が高い上に1炉/1日当たりの火葬回数を多く出来る。東京や京都の大規模火葬場ではロストル式を採用している施設が多い。ホールで他家の参会者同士が輻輳することが避けられないが、京都中央斎場の様に1炉/1日あたり最大5体の火葬を実施している施設がある。<br /> <br /> ==== 骨上げ ====<br /> 火葬後には骨が残される。骨上げでは、[[西日本]]は主要な骨のみを[[骨壺]]に収める部分拾骨のため骨壺も小さく、拾骨されなかったものは後に残される。部分拾骨は富山県、岐阜県、愛知県を含む西日本側が部分拾骨である。[[東日本]]では基本的にすべての骨を骨壺に収める全骨拾骨で骨壺も大きい。多少の残灰が残される場合がある。骨壺に入れられなかった残骨灰の処理は火葬場により多様であるが、場内の慰霊墳墓や公営墓地で合葬される例が多い。一部では専門業者が回収し、[[コバルト]]・[[ニッケル]]・[[チタン]]など[[希少金属]]や[[貴金属]]の選別回収を経て合葬または埋め立て処分されている。<br /> <br /> === 近年における火葬場の変遷 ===<br /> 昭和初期から末期にかけては高い[[煙突]]が火葬場の象徴ともなっていたが、およそ[[1990年代]]以降に新設された火葬場において煙突が見られることはほとんどない。これは[[1970年代]]後半から燃料の[[灯油]]化・[[ガス燃料|ガス]]化により煤煙が減少したこと、火葬炉排煙の[[再燃焼装置|再燃焼]]処理や集塵装置の普及により排煙の透明化や臭気の除去が進んだことにより極端に短い煙突(施設によっては煙突すらなく排気口となっているところもある)でも悪影響が無いこと、社会的には火葬場がそばにあるということへの近隣住民の拒否感に配慮して「火葬場らしくない」意匠を取り入れるように設計思想が進歩したものによるものである。<br /> <br /> 昭和初期から後期にかけての主たる燃料は、[[重油]]、[[薪]]、産炭地では[[石炭]]や[[コークス]]などであったが、昭和後期以降からは白灯油、特に[[2000年]]頃からは[[都市ガス]]・[[液化石油ガス]](LPG)が増加しつつある。[[大正]]から昭和中期には極少数ながら[[電気]]炉も存在したが、保守・清掃に非常に手間が掛かることや[[石油]]系燃料費と比して電気料金が相当高額になるため衰退した。<br /> <br /> 火葬場は[[迷惑施設]]の一例として新設・改築・移転には当該地域の住民による反対運動が起こりやすい。そこでいくつかの自治体が集まって広域行政組合を設立し、広域斎場を設けることで、そのリスクを低減することを図る傾向がある。同様の事情から、住宅地から離れた場所に立地しようとするのが一般的だが、日本の都市事情を考慮すると、必ずしもそのような場所に作れるとは限らない。そのため都市部のような場所においては、周辺を樹木で囲む・ぱっと見ただけでは火葬場とはわからない外観など、周辺地域に配慮した立地となっている。[[霊柩車]]についても、宮型のものは使用・乗り入れの自粛を要請したり禁止したりする場合がある&lt;ref&gt;[http://www.tokyo-sports.co.jp/nonsec/social/342787/ 最近見かけなくなった「宮型霊柩車」どこへ行った?][[東京スポーツ]]2014年[[12月13日]]9時0分配信&lt;/ref&gt;。また、名称も「~斎場」「~聖苑」などが多く、「~火葬場」とする施設は激減している(もっとも、「××斎場」を名乗る火葬場でも、式場を併設する場合はこちらを「斎場棟」と呼ぶことが多い)。長大な煙突を有していたり、可視煙を排出するような旧式の火葬場は、改装・移転にともなって、急速に姿を消しつつある。<br /> <br /> なお、現行の[[都市計画法]]においては、[[都市施設]]の一つとして「火葬場」が規定されており、[[建築基準法]]第51条により、[[都市計画区域]]内に火葬場を新築または増築する場合は、原則[[都市計画]]決定が必要である。<br /> <br /> 火葬場経営は、主に各[[市町村]]の清掃・衛生関連部署による運営や、複数の市町村が[[一部事務組合]]を結成して共同運営しているものが多いが、一部民営・業務委託・半官半民(PFI)といった形態で設置・運営しているものもある。また宗教団体や株式会社が経営する民営火葬場は全国に約21施設が定常的に営業している。特に[[東京都]][[特別区|区]]部では、[[江戸時代]]末期から[[明治]]に寺院や匿名出資者が経営していた火葬場や民間企業が経営していた火葬場を統合合併した株式会社経営の火葬場が主であり、[[2014年]][[5月]]現在、他地域の公営火葬場主流に対して、公営が2施設(炉数計30基)、民営が2社7施設(炉数計76基)である。<br /> <br /> === 火葬から収骨まで ===<br /> [[画像:Kotsuage.JPG|240px|thumb|骨上げの様子(土居斎苑 愛媛県四国中央市)]]<br /> [[日本]]では、火葬後に骨上げを行い骨壷に収めるという流れになっているため、炉前で遺体を見送り、火葬後に拾骨するというところまでがセットになっている。また、骨上げをする関係から骨をきれいに残すことが重視されるため、火葬技術者には独特の高度な技術が求められている。<br /> <br /> === 火葬による環境破壊 ===<br /> [[厚生労働省]]による研究費補助の対象となった調査で、棺を乗せる[[ステンレス]]台が長く高温に晒されることにより、焼却灰中に[[六価クロム]]などの有害な物質が発生することが明らかとなった&lt;ref&gt;[[読売新聞]]2009年[[1月19日]]報道&lt;/ref&gt;。調査にあたった研究者は、有害物質を出さない材質のものに変えるなどの措置をとる必要があるとしている。<br /> <br /> またこれとは別に、[[ダイオキシン]]発生を抑止する観点から、多くの火葬場において、副葬品の内容に制限を加えている。<br /> <br /> === 廃熱利用 ===<br /> [[中華民国]]([[台湾]])の[[台北市]]第二葬儀場は火葬炉の廃熱で[[発電]]([[火力発電]]、[[汽力発電]])を行っている&lt;ref&gt;[http://www.epochtimes.com/b5/9/10/7/n2680592.htm 二殯綠建築 燒大體發電][[大紀元]][[2009年]][[10月6日]]21時44分11秒&lt;/ref&gt;。また、[[グレートブリテンおよび北部アイルランド連合王国|英国]][[イングランド]]の[[レディッチ]]の区議会は[[2011年]][[2月8日]]、火葬場の廃熱を[[暖房]]や[[温水プール]]に利用することを承認した&lt;ref&gt;[http://www.afpbb.com/articles/-/2784940?pid=6795587 エコ?不謹慎?火葬場の熱を温水プールに再利用][[AFP通信]]2011年[[2月10日]]12時36分配信&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;[http://jp.reuters.com/article/2011/02/09/idJPJAPAN-19469120110209 火葬場の熱を温水プールに再利用する計画、英地元当局が承認][[ロイター通信]]2011年[[2月9日]]16時31分&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> === 大災害と火葬場 ===<br /> ==== 東日本大震災の場合 ====<br /> 2011年[[3月11日]]発生した[[東日本大震災]]([[東北地方太平洋沖地震]])では、[[東北地方]]を中心に死者15,891人(行方不明者2,579人)を出したが、[[津波]]による死者など[[海岸線]]での遺体捜索や収容作業が難航、同時に被災地の火葬場は小規模なものが多く、[[停電]]、燃料不足、火葬場自体の津波被害などで機能が停止し、多くの遺体が遠方の火葬場へ送られた&lt;ref&gt;[http://www.tomamin.co.jp/2011t/t11033001.html ひつぎの数に衝撃 遺体搬送を手伝った宮川さん][[苫小牧民報]]2011年[[3月30日]]&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;[http://www.tama-100.or.jp/cmsfiles/contents/0000000/470/5.pdf 火葬場における災害対策と広域火葬について][[公益財団法人]]東京市町村自治調査会&lt;/ref&gt;。しかし火葬は遅れ、公衆衛生上保全が困難な遺体は2年を期限に[[宮城県]]の約2000体が[[土葬]]による仮埋葬された&lt;ref&gt;[http://www.sponichi.co.jp/society/news/2011/03/17/kiji/K20110317000447010.html 宮城県が遺体の土葬容認…燃料不足で火葬場稼働せず][[スポーツニッポン]]2011年[[3月17日]]23時18分配信&lt;/ref&gt;。火葬の進捗により、その後仮埋葬は中止され、一旦は埋葬された遺体も掘り返され再納棺の後、火葬されたがこの作業は盛[[夏]]の[[8月]]半ばまで続いた。しかし現代日本で使用される[[棺]]は火葬に適すように軽く燃えやすい構造となっているために、1mより深く埋葬される土の重みや[[湿度|湿気]]に耐えられず、掘り起こされた棺は既に崩壊状態であり、遺体は腐敗が激しい状態であったため、この腐敗した遺体を洗浄し再納棺するなど過酷な作業となった。この作業を行ったのは[[葬祭業者]]や[[建設業]]者などであった&lt;ref&gt;[http://www.nhk.or.jp/ohayou/marugoto/2014/03/0302.html 知られざる死の記録][[日本放送協会|NHK]]2014年[[3月2日]]放送&lt;/ref&gt;。それまで、東北は火葬化が遅れ土葬に親和性がある地域と考えられていたが、ようやく火葬された際には、「火葬できた」と喜んで泣く遺族の姿もみられた。しかし、同じ避難所にまだ行方不明の家族を抱えている人たちも多くいたため、避難所内では火葬できたことの喜びや、遺体が発見されたことの喜びの感情を表出できずにいる者が多かった&lt;ref name=&quot;sogi&quot; /&gt;。<br /> <br /> == 日本国外の火葬場 ==<br /> {{節スタブ}}<br /> <br /> === インド ===<br /> [[File:Benares (Varanasi, India) - 1922.jpg|thumb|240px|[[ワーラーナシー]]]]<br /> [[ヒンズー教徒]]が80%を占める[[インド]]では[[ヒンドゥー教]]の習慣に基づき、火葬が好まれる。火葬場は、河原などの野外に設けられており、薪を積み上げてその上に遺体を置いて点火する、いわゆる「野焼き」が主である。ヒンズー教では人々は生まれ変わるつど、苦しみに耐えねばならないとされるが、[[ワーラーナシー]]の[[ガンガー]]近くで死んだ者は、この苦しみの[[輪廻]]から[[解脱]]できると考えられている。ワーラーナシーは別名「&#039;&#039;&#039;大いなる火葬場&#039;&#039;&#039;」とも呼ばれており、年中煙の絶えることはない。インド各地から多い日は100体近い[[遺体]]があでやかな布にくるまれ運び込まれる。あるいは、死期が近づくとこの地に集まりひたすら[[死]]を待つ人々もいる。彼らは[[ムクティ・バワン]](解脱の館)で家族に見守られながらひたすら[[死]]を待つ。ムクティ・バワンでは四六時中絶えることなくヒンズー教の神の名が唱えられる。亡くなる者が最後の瞬間に神の名が聞こえるようにとの配慮である。南北6キロガンジスの岸辺のほぼ中央に位置し、数千年の歴史を持つマニカルニカー(「宝石の耳飾り」の意)・[[ガート]]は、沐浴場以外に&#039;&#039;&#039;火葬場&#039;&#039;&#039;としての機能も併せ持ち、死者はここでガンガーに浸されたのちにガートで[[荼毘]]に付され、遺灰はガンガーへ流される。金が無い者、[[乳児]]、[[妊婦]]、[[蛇]]に噛まれて死んだ人は火葬されずにそのまま水葬される。町には[[ハリシュチャンドラ・ガート]]と呼ばれる、もう1つの火葬場があり、2つの火葬場はドームという同じ一族が取り仕切っており、働く人々も共通で、交代勤務で約650人が働いている。火葬場を見下ろす一角には、2つの火葬場を取り仕切ってきたドーム一族の長の座る場所があり、そこには聖なる火と呼ばれる[[種火]]が焚かれ、人々はこの火より火葬にする火種をもらう。火葬場の写真撮影は厳格に禁止されており、万が一見つかった場合は親族に殺されかかる場合や金品を要求されるトラブルもある。火葬場を中心に町には巡礼路が設けられ、インドの多くヒンズー教徒は一生に一度この巡礼路を歩くことを夢みている&lt;ref name=&quot;chikyu&quot;&gt;『地球の歩き方 ガイドブック』 D28 インド2013年~2014年版&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> かつて、[[イギリス]]とインドの価値観(主にヒンズー教と[[キリスト教]]の死に対するもの)の違いや生理的嫌悪感から、イギリス人による火葬場の郊外への移転が企てられた。ベナレスの人々は強い異議を唱えた。火葬論争は30年にわたって続いた。この際の記録が[[ベナレス市公文書館]]に残されている。「ベナレス市制報告書(1925年)」がそれであるが、ここにはこう記されている。「&#039;&#039;&#039;火葬場が町のために存在するのではない。町が火葬場のために存在するのである&#039;&#039;&#039;」。イギリスが認めざるを得なかった、ベナレスの死の伝統である&lt;ref&gt;[http://www.youtube.com/user/snakecameraman#p/u/12/p0E9H4PYkUE アジア古都物語 NHKスペシャル]&lt;/ref&gt;&lt;ref name=&quot;Varanasi1925&quot;&gt;ベナレス市制報告書(1925年)&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 近年に至り、燃料としての木材伐採が環境破壊につながるとして深刻な問題となっており、また薪が高騰していることもあって、日本の技術を使った「近代的な」火葬炉も設置されている。しかしながら、上記の事情から古来からの伝統的野焼きにこだわる人がまだまだ多く、野焼きが続けられている。<br /> <br /> === ネパール ===<br /> [[File:Bagmati River, Pashupatinath, Nepal バグマティ川とパシュパティナート火葬場 5752.JPG|thumb|240px|パシュパティナート火葬場]]<br /> [[ネパール]]はインド同様のヒンドゥー教主流の国であり、[[首都]]の[[カトマンズ]]には[[パシュパティナート]](Pashupatinath)という[[インド亜大陸]]の[[4大シヴァ寺院]]のひとつに数えられるネパール最大のヒンドゥー寺院があり、その裏側には[[ガンジス川]]の支流でもある[[パグマティ川]]が流れており、河原の[[ガート]]では一日中火葬の煙が絶えることはない。カトマンズの朝霧は、火葬場の[[煙]]といわれるほどである。上流階級の者ほど上流側のガートで焼かれる。[[輪廻転生]]を信じるヒンドゥー教徒は[[墓]]は作らない。焼かれた灰は箒とバケツの水でパグマティ川に無造作に流される。また、火葬の際には、親族の男性は火葬の傍らで髪を剃る習慣がある。河原では、火葬台の脇で人々が沐浴をしたり少年が[[遺体]]から流された供物を盗もうとして咎められたりする光景が始終見られる。寺院自体はヒンドゥー教徒以外は立ち入れないが、火葬場は有料ながら誰でも見学できる。<br /> <br /> === 欧米 ===<br /> 欧米では、火葬場に遺体を預け、後日遺骨を受け取るという流れが多い。また、骨上げという習慣がなく、火葬後の骨は顆粒状に粉砕してさまざまな形をした[[遺骨]]入れに収めて引き渡すため、日本と比べると比較的高温で焼くことが多い。骨壷の形も、顆粒状の骨を入れられればいいため形にはあまり制約がなく、故人の趣味などに合わせた多様なものが準備されている。近年{{いつ|date=2013年10月}}&lt;!-- See [[WP:DATED]] --&gt;は日本にも、欧米流の遺骨を顆粒状に粉砕する装置を備えた火葬場も登場してきている。<br /> <br /> === 韓国 ===<br /> [[大韓民国|韓国]]では、土葬が主流だったが、近年{{いつ|date=2013年10月}}&lt;!-- See [[WP:DATED]] --&gt;火葬が増加してきており、2004~2005年にかけて火葬件数が土葬件数を上回るようになった&lt;ref&gt;[http://www.chosunonline.com/article/20070603000004 朝鮮日報記事]&lt;/ref&gt;。そもそも、[[儒教]]国である韓国では伝統的に火葬は先祖に対する不孝であり[[禁忌]]とされていたものの、現代、特に[[ソウル特別市|ソウル]][[都市圏]]においての墓地逼迫は社会問題化し、ソウルは元より他の大都市圏においても火葬は一般化しつつある。しかし、2007年段階で火葬場は韓国全土で47ヶ所・220炉程度に過ぎず、火葬場不足が深刻となっている。また、過去に土葬された遺体を改めて火葬するという事例も増えているが、改葬遺骨の火葬についてドラム缶などを使った違法な火葬が跋扈し社会問題となっている。<br /> <br /> [[2012年]]竣工の[[ソウル市火葬場]]は、竣工まで近隣住民の反対のため14年を要したが、巨大な[[美術館]]のような外観で最新のデザインを取り入れ、実際にミュージアムを併設している。住民の納得を得るためもあって、徹底的に環境問題に配慮し、火葬炉も最新鋭技術によりコンピューター制御され、焼いた骨は[[ロボット]]が運ぶなど世界でも最新の設備を誇る施設となっている&lt;ref&gt;[[一条真也]] HEARTFUL BLOG 2012年4月25日[http://d.hatena.ne.jp/shins2m/20120425/1335364245]&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> == 建築物としての火葬場 ==<br /> 建築物としての火葬場は、デザイン性や機能性を追及したものがあり、日本の火葬場においては著名な[[建築家]]が設計したものがある。ここでは一例を挙げる。<br /> * [[前川國男]]:[[弘前市]]斎場([[青森県]]弘前市)<br /> * [[槇文彦]]:[[風の丘葬斎場]]([[大分県]][[中津市]]、第39回[[BCS賞]]・[[2003年]][[グッドデザイン賞]]金賞受賞)<br /> * [[伊東豊雄]]:瞑想の森 市営斎場([[岐阜県]][[各務原市]]、第49回BCS賞受賞)<br /> <br /> == 火葬炉メーカー ==<br /> * [[富士建設工業株式会社]] ([[新潟市]]) - 特許多数保有し、日本国外へも進出&lt;ref name=&quot;fuji&quot;&gt;[http://www.fuji-kasouro.co.jp/ 富士建設工業株式会社公式サイト]&lt;/ref&gt;。<br /> * [[宮本工業所 (富山市)]] - 無臭火葬炉で特許をもつ&lt;ref name=&quot;miyamoto&quot;&gt;[http://www.miyamoto-k.co.jp/company/outline.html 宮本工業所公式サイト]&lt;/ref&gt;<br /> * [[太陽築炉工業]] - 火葬炉本体とコントロールシステムのハード・ソフトともに自社開発製品である&lt;ref name=&quot;taiyochikuro&quot;&gt;[http://www.taiyochikuro.jp/product/product.htm 太陽築炉工業公式サイト]&lt;/ref&gt;。<br /> * [[高砂炉材工業]]([[東京都]]中央区)&lt;ref name=&quot;takasago&quot;&gt;[http://www.takasago-rozai.co.jp/index.htm 高砂炉材工業公式サイト]&lt;/ref&gt;<br /> * [[開邦工業]]([[沖縄県]][[うるま市]])&lt;ref name=&quot;kaiho&quot;&gt;[http://www.kaiho-k.co.jp/ 株式会社開邦工業公式サイト]&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> == 脚注 ==<br /> === 注釈 ===<br /> {{reflist|group=&quot;注&quot;|2}}<br /> === 出典 ===<br /> {{reflist|2}}<br /> <br /> == 参考文献 ==<br /> * [[浅香勝輔]]・[[八木沢壮一]]『火葬場』([[大明堂]]、[[1983年]]6月)<br /> * 火葬研究協会立地部会編『火葬場の立地』([[日本経済評論社]]、[[2004年]]12月)<br /> * 勝田至『日本中世の墓と葬送』([[吉川弘文館]]、[[2006年]]4月)<br /> * {{Cite journal|和書|editor=歴史民俗学研究会|date=2001-03|title=特集 極楽行きのノウハウ|journal=[[歴史民俗学 (雑誌)|歴史民俗学]]|issue=19|publisher=[[批評社]]|isbn=4-8265-0326-1|url=http://www.hihyosya.co.jp/ISBN978-4-8265-0326-6.html|ref={{harvid|批評社|2001}}}} - [[前沢町]]〔現・[[奥州市]]〕営火葬場についてインタビュー記事あり。<br /> * [[横田睦]]『お骨のゆくえ』([[平凡社]]新書/平成12年)<br /> * 京都府総合資料館編『京都府百年の資料』昭和47年刊<br /> * 林英一『近代火葬の民俗学』佛教大学 2010年04月<br /> * 警視庁史編纂委員会『警視廳史 明治編』、『警視庁史 大正編』、『警視庁史 昭和前編』<br /> * 明治政府内閣官報局『法令全書』明治二十二年版<br /> * 官版『太政官布告書』明治十三年版<br /> * 官報『太政官布達』明治十七年版<br /> * 大阪市史編纂所『新修大阪市史 本文編』第三巻、第四巻、第五巻、第六巻 平成8年<br /> * 大阪市『大阪市事業年表』 明治6年~平成20年<br /> * 葬送文化研究会『葬送文化論』(古今書院、1993年3月)<br /> * 八木澤壯一『火葬場及び関連施設に関する建築計画的研究』(昭和57年)<br /> * 東京都編『東京市史稿』市街篇第五七(東京都、1965年)<br /> * 東京博善編『東京博善株式会社五十年史』(東京博善社、1971年)<br /> <br /> == 関連項目 ==<br /> * [[日本の火葬場一覧]]<br /> * [[火葬]]<br /> * [[移動火葬車]]<br /> * [[葬儀]]<br /> * [[友引]]<br /> * [[墓地]]<br /> <br /> == 外部リンク ==<br /> * [http://www.mhlw.go.jp/bunya/kenkou/seikatsu-eisei24/index.html 厚生労働省 全国火葬場データベース]<br /> * [http://www.j-sec.jp/ NPO法人 日本環境斎苑(火葬場)協会]<br /> <br /> {{葬制}}<br /> {{日本の火葬場 (斎場)}}<br /> <br /> {{DEFAULTSORT:かそうは}}<br /> [[Category:火葬場|*]]<br /> [[Category:死に関する慣習]]<br /> [[Category:死]]<br /> [[Category:慰霊施設]]<br /> [[Category:炉・燃焼機器]]</div> 153.125.1.34 未成年者喫煙禁止法 2018-07-22T08:46:14Z <p>153.125.1.34: </p> <hr /> <div>{{law}}<br /> {{日本の法令<br /> |題名= 未成年者喫煙禁止法<br /> |通称= 未喫法<br /> |番号= 明治33年3月7日法律第33号<br /> |効力= 現行法<br /> |種類=<br /> |内容= 「未成年者」に対する喫煙禁止<br /> |関連= [[未成年者飲酒禁止法]]、[[たばこ事業法]]<br /> |リンク= [http://law.e-gov.go.jp/htmldata/M33/M33HO033.html 総務省法令データ提供システム]<br /> |ウィキソース=未成年者喫煙禁止法<br /> }}<br /> <br /> &#039;&#039;&#039;未成年者喫煙禁止法&#039;&#039;&#039;(みせいねんしゃきつえんきんしほう、明治33年3月7日法律第33号)は、満20歳未満の者(以下「[[未成年者]]」という。)の[[喫煙]]の[[禁止]]を目的とする日本の[[法律]]である。明治33年3月7日[[公布]]、同年4月1日[[施行]]。<br /> <br /> == 来歴 ==<br /> [[1899年]](明治32年)12月、[[根本正]]ほか4名は「幼者喫煙禁止法案」を衆議院に提出した。法案は4つの条文と附則からなっており、第1条は「十八歳未滿ノ幼者ハ煙草ヲ喫スルコトヲ得ス」と規定していた。[{{NDLDC|784070/214}} 委員会審議]&lt;ref&gt;[{{近代デジタルライブラリーURL|40020452}} 衆議院委員会会議録 附・両院協議会会議録 第2−10,12,14回]のうち第11冊。&lt;/ref&gt;を経て、法案は衆議院の段階で修正が行われ、「十八歳未満ノ幼者」が「未成年者」(提出・制定当時は20歳以上)と改められ、法案の名称も「未成年者喫煙禁止法」となり、[[1900年]](明治33年)未成年者喫煙の対策として制定された。<br /> <br /> 法が独自に年齢を定めているので、民法の成年年齢に依存しない(民法改正の影響を受けない)、独立規定型の法律となっている。[[1947年]](昭和22年)には日本国憲法施行に合わせた民法改正に伴い、第1条の「未成年者」が「満二十年ニ至ラサル者」と改められた。その後は、長らく改正がなかったが、未成年者の喫煙は飲酒と並び、青少年の非行の温床になるという懸念などを背景に、取締りを強化することを目的に、[[未成年者飲酒禁止法]]と共に[[2000年]](平成12年)、[[2001年]](平成13年)に、相次いで改正された。<br /> <br /> 2000年に制定された「未成年者喫煙禁止法及び未成年者飲酒禁止法の一部を改正する法律」(平成12年法律第134号) では、罰金の最高額が50万円に引き上げられ、対象が販売行為者のみから、経営者、経営法人、役員、従業員などへと拡大され、さらに、販売者は未成年者の喫煙の防止に資するために、年齢の確認その他必要な措置を講じるものとされた。<br /> <br /> == 条文 ==<br /> この法律は、満20歳未満の者の喫煙を禁止し(1条)、親権者やその他の監督者、煙草を販売した者に罰則を科すことを定めている。<br /> ; 第1条<br /> : 満20歳未満の者の喫煙を禁止している。<br /> ; 第2条<br /> : 未成年者が第1項に違反した場合、喫煙のために所持する煙草およびその器具について、[[行政処分]]としての[[没収]]が行われる。<br /> ; 第3条<br /> : 未成年者の喫煙を知りつつも制止しなかった[[親権者]]やその代わりの監督者は、刑事罰である[[科料]](1万円末満)に処せられる。<br /> ; 第4条<br /> : 煙草又は器具の販売者は満20歳未満の者の喫煙の防止に資するために年齢の確認その他必要な措置を講ずるものとする。努力義務という規定のされ方である。<br /> ; 第5条<br /> : 満20歳未満の者が自ら喫煙することを知りながらたばこや器具を販売した者は、50万円以下の[[罰金]]に処せられる。<br /> ; 第6条<br /> : [[法人]]の代表者や営業者の代理人、[[使用人]]その他の従業者が、法人ないし営業者の業務に関して満20歳未満の者に煙草を販売した場合には、行為者とともに法人ないし営業者を前条と同様に罰する(両罰規定)。<br /> <br /> == 所轄 ==<br /> 本法の所管庁は、たばこを所管している関係上、[[財務省 (日本)|財務省]]とされるものの、青少年の保健・保護育成など観点を含めると、[[厚生労働省]]や[[内閣府]]など、多数の関係省庁や都道府県警察や[[地方公共団体]]、さらに担当する内部[[部局]]が縦横無尽に存在しているが、本法の実施に関して主務官庁は定まっていない。業界団体についても、目的は同一でも所管庁や設立の根拠法が異なるため、統一的団体が結成不可能な状況である。未成年者の喫煙禁止に関するポスターやチラシ、[[本|書籍]]について、必ず2 - 100の多数の官公庁・団体名・部局名が掲載されるのは、このためである。<br /> &lt;!--{{要出典|範囲=前記のような問題が生じているのは、[[日本国政府]]や業界団体の見解・解釈の統一化がなされておらず、本法の仕組みについての正確な広報・周知がされていない結果、本法が未成年者への煙草の販売を一律に禁止するものであるとの印象を与えているためではないかとも思われる|date=2015年12月}}。--&gt;<br /> <br /> == 業界の対応 ==<br /> 未成年者の[[飲酒]]と同様、未成年者の喫煙は後を絶たず、喫煙防止対策は不十分であるとされてきた。本法では、販売業者が未成年者への販売を避けるために年齢確認を行おうとしても、その法的根拠がなかった為、[[2000年]](平成12年)の法改正により4条が新設。購入者に対する年齢確認等の未成年者喫煙防止対策が明文で規定、また[[taspo]]の登場により自動販売機において身分証明をより円滑に行えるようになった。<br /> <br /> 日本内外での公共スペースでの[[禁煙]]対策の広がり、国内における未成年者の喫煙に対する防止対策への要求の高まりなどから、業界団体では、[[1996年]](平成8年)4月より自主規制として、深夜・早朝(23時から5時)の自動販売機での販売を停止する対策を行ってきた。なお、[[2008年]](平成20年)8月より[[taspo]]による自動販売機認証が全国に導入された事から、自主規制が販売店の判断によって廃止される事が委ねられ、taspo搭載のたばこ[[自動販売機]]では、24時間稼働の自動販売機での販売が開始されている。<br /> <br /> [[厚生労働省]]、[[財務省 (日本)|財務省]]、[[警察庁]]など関係各[[省庁]]は、それぞれ、年齢確認以外にも、未成年者の喫煙防止のための措置([[ポスター]]・[[POP広告|ポップ]]の掲示、年齢確認機能付きの新型[[自動販売機]]([[成人識別自動販売機]])の設置など)を行うことなど、[[コンビニエンスストア]]、[[百貨店]]、[[スーパーマーケット]]などの業界団体に対して、指導を続けている。これを受けて、それぞれの業界団体は未成年者の喫煙防止の各種キャンペーンを行っている。<br /> <br /> == 法律の不備・不足の指摘 ==<br /> 本法は、法律自体の不備・不足として、日本学術会議から次のような指摘を受けている&lt;ref&gt;[http://www.scj.go.jp/ja/info/kohyo/pdf/kohyo-20-t51-4.pdf 脱タバコ社会の実現に向けて]2008年3月4日 日本学術会議&lt;/ref&gt;。<br /> *第2条について、法律に違反した満20歳未満の者が所持するタバコ及びその器具を没収する手続きに関する法令の整備が必要であること(現状では、現認した警察官・教職員等によるタバコやライター等の任意提出のみが行なわれている)。未成年者飲酒禁止法でも同様の問題がある。<br /> **第2条の[[行政処分]]としての「没収」については、現行憲法、法令下においては、[[行政刑罰]]としての[[刑罰]]、または行政上の秩序罰としての[[過料]]しか認められておらず、本条においては刑罰としての規定もなく、また[[没収]]は刑罰の付加刑としてしか執行できず、また[[少年法]]の適用年齢である少年についても、家庭裁判所による同法の「没取」は刑罰法令に関する物のみ可能であることから、未成年者の単純喫煙に対しては実効性を持たない。ただし、第3条、第5条または第6条に該当する場合は、刑罰の付加刑としての没収(犯罪組成物件としての没収)は可能である。また、少年法の適用年齢である少年については虞犯少年として[[保護処分]](身柄送致)に付することは可能であり、また、未成年者自身による任意提出や廃棄を妨げるものではない。例として、喫煙未成年者の保護者等を呼び出して未成年者に指導さしめ、保護者等が非協力的な場合にその保護者等を検挙することも可能である。<br /> *第3条について、未成年者の喫煙を知りつつ制止しなかった親権者等は科料に処せられるが、同様に監督者としての学校の責任について法令の整備が必要であること<br /> *また、法令を執行する上での通達等に関しても、文部科学省学習指導要領に基づく喫煙防止教育を徹底させる必要があること。具体的には、小学校低学年から受動喫煙、三次喫煙を含むタバコによる健康障害とその予防に関する教育を行うよう要領に定めることなどが掲げられている。<br /> <br /> == その他 ==<br /> [[コンビニエンスストア]]の[[販売時点情報管理|POSレジ]]に設けられた[[タッチパネル]]式[[年齢確認システム]]で「20歳以上」と答えた少年に対し、店員が煙草を販売した件について、[[2014年]](平成26年)[[10月]]に、[[丸亀簡易裁判所]]が同法違反で罰金10万円の判決を言い渡したが、同様に起訴されていた店については「システムを導入していた」として無罪とした&lt;ref&gt;[http://www.asahi.com/articles/ASH5Q7GG1H5QPTIL029.html 15歳にたばこ販売 ローソン元店員に罰金、店は無罪] [[朝日新聞]] 2015年5月23日&lt;/ref&gt;。その後[[2015年]](平成27年)[[9月15日]]に[[高松高等裁判所]]が、被告の店員に対し逆転無罪の判決を言い渡したが&lt;ref&gt;[http://www.asahi.com/articles/ASH9C3D32H9CPLXB008.html 15歳にたばこ販売、コンビニ店員に逆転無罪 高松高裁] 朝日新聞 2015年9月15日&lt;/ref&gt;、年齢確認を巡るトラブルの多発も背景にある&lt;ref&gt;[http://www.asahi.com/articles/ASH9B5S0FH9BPLXB00N.html 年齢確認、トラブル多発 「タッチパネル無意味」の声も] 朝日新聞 2015年9月15日&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> == 法令外の処分 ==<br /> 本法の範囲外であるが、児童生徒、学生、被用労働者、契約芸能人等である未成年者が喫煙をした場合には、それぞれ所属する学校、企業、事務所などから停退学、処分や解雇、謹慎や契約解除などの厳しい処置が行われる事が多い。法的には学校の教育指導処分権、あるいは自由契約に基いておりそのような処置は合法とされる。&lt;!-- 判例を探してます --&gt;<br /> <br /> == 関連項目 ==<br /> {{Wikisource|未成年者喫煙禁止法}}<br /> * [[未成年者飲酒禁止法]]<br /> * [[日本たばこ産業]]<br /> <br /> == 脚注 ==<br /> {{reflist}}<br /> {{日本の喫煙|state=collapsed}}<br /> {{Law-stub}}<br /> <br /> {{DEFAULTSORT:みせいねんしやきつえんきんしほう}}<br /> [[Category:日本の法律]]<br /> [[Category:日本のたばこ対策関連法規]]<br /> [[Category:1900年の法]]</div> 153.125.1.34 オリエント・エクスプレス '88 2018-07-22T00:56:14Z <p>153.125.1.34: /* 具体的検討へ */</p> <hr /> <div>{{Infobox 列車名<br /> |列車名=&#039;&#039;&#039;日立オリエント・エクスプレス &#039;88&#039;&#039;&#039;<br /> |ロゴ=<br /> |ロゴサイズ=<br /> |画像=EF65 1136 ORIENTEXPRESS&#039;88.jpg<br /> |画像サイズ=300px<br /> |画像説明=日本を走行するオリエント急行<br /> |国={{CHE}}&lt;br/&gt;{{FRA}}&lt;br/&gt;{{BEL}}&lt;br/&gt;{{BRD}}(当時)&lt;br/&gt;{{DDR}}(当時)&lt;br/&gt;{{flagicon|POL}} [[ポーランド人民共和国]](当時)&lt;br/&gt;{{SSR}}(当時)&lt;br/&gt;{{PRC}}&lt;br/&gt;{{flagicon|HKG1959}} [[香港|英領香港]](当時)&lt;br/&gt;{{JPN}}<br /> |種類=[[急行列車]]([[団体列車]])<br /> |現況=運行終了<br /> |地域=<br /> |前身=<br /> |運行開始=[[1988年]][[9月7日]]<br /> |運行終了=[[1988年]][[12月25日]]<br /> |後継=<br /> |運営者=&#039;&#039;&#039;リヨン駅〜東京駅間の列車の運営者&#039;&#039;&#039;&lt;br/&gt;[[フジテレビジョン]](フジテレビ)&lt;br&gt;[[フランス国鉄]](SNCF)&lt;br&gt;[[ベルギー国鉄]](NMBS)&lt;br&gt;[[ドイツ連邦鉄道]](DB)&lt;br&gt;[[ドイツ国営鉄道 (東ドイツ)|ドイツ国営鉄道]](DR)&lt;br&gt; [[ポーランド国鉄]](PKP)&lt;br&gt;[[ロシア鉄道|ソ連国鉄]]&lt;br&gt;[[中華人民共和国鉄道部|中国鉄道部]]&lt;br/&gt;[[九広鉄路]](KCR)&lt;br/&gt;[[西日本旅客鉄道]](JR西日本)&lt;br&gt;[[東海旅客鉄道]](JR東海)&lt;br&gt;[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)&lt;br&gt;&#039;&#039;&#039;以下の運営者は列車回送のみ&#039;&#039;&#039;&lt;br&gt;[[スイス連邦鉄道]](SBB)&lt;br&gt;&#039;&#039;&#039;以下の運営者は団体列車の運行のみ&#039;&#039;&#039;&lt;br/&gt;[[北海道旅客鉄道]](JR北海道)&lt;br&gt;[[九州旅客鉄道]](JR九州)&lt;br&gt;[[四国旅客鉄道]](JR四国)&lt;br&gt;[[日本貨物鉄道]](JR貨物)<br /> |旧運営者=<br /> |平均乗客数=<br /> |起点=[[リヨン駅|パリ・リヨン駅]]<br /> |停車地点数=<br /> |終点=[[紅カン駅|九龍駅]]・[[東京駅]]<br /> |営業距離=15,494km(17,997km)<br /> |平均所要時間=<br /> |運行間隔=<br /> |列車番号=<br /> |使用路線=<br /> |クラス=[[A寝台]]<br /> |身障者対応=<br /> |座席=<br /> |就寝=A寝台(1人用個室、2人用個室)<br /> |車運車=<br /> |食事=[[食堂車]]「コート・ダジュール」・「プレジデンシャル」<br /> |展望=<br /> |娯楽=ピアノ・バー車<br /> |荷物=荷物車 <br /> |その他=シャワー車<br /> |車両=Lx16型、Lx20型他&lt;br&gt;(JR東日本[[品川運転所]])<br /> |軌間=1,067 [[ミリメートル|mm]]<br /> |電化=[[直流電化|直流]]1,500[[ボルト (単位)|V]]&lt;br /&gt;[[交流電化|交流]]20,000V・50/60[[ヘルツ|Hz]]<br /> |最高速度=95 [[キロメートル毎時|km/h]]<br /> |線路所有者=<br /> |ルート番号=<br /> |備考=<br /> |路線図=<br /> |路線図表示=&lt;!--collapsed--&gt;<br /> }}<br /> &#039;&#039;&#039;オリエント・エクスプレス &#039;88&#039;&#039;&#039; (ORIENT EXPRESS &#039;88) は、[[フジテレビジョン]](フジテレビ)の開局30周年を記念して、[[1988年]]に行われた[[イベント]]である。<br /> <br /> [[ヨーロッパ]]を走行する[[オリエント急行]]を[[日本]]まで走らせるという企画内容で、[[日立製作所]]が協賛し&lt;ref name=&quot;rp513-64&quot;/&gt;、[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)の特別協力と[[JR#JRグループ|JRグループ]]各社の協力により&lt;ref name=&quot;rp513-64&quot;/&gt;、総事業費として約30億円を投じて実施された&lt;ref name=&quot;rj268-142&quot;/&gt;。このため、この企画の正式な名称は「&#039;&#039;&#039;日立オリエント・エクスプレス’88&#039;&#039;&#039;」と言っていた。<br /> <br /> 「[[ノスタルジー・イスタンブール・オリエント急行|ノスタルジー・イスタンブール・オリエント・エクスプレス]]」 (NIOE) を保有する車両を保有する会社名の表記は文献によって異なり、「イントラフルック」「イントラフルーク」「イントラフラッグ」「イントラフラグ」とまちまちであるが、本項では「イントラフルーク」という表記で統一する。また、本項では、「[[ベニス・シンプロン・オリエント・エクスプレス]]」 (VSOE) を保有する[[ベルモンド (企業)|オリエント・エクスプレス・ホテルズ]]を「VSOE社」、「ベニス・シンプロン・オリエント・エクスプレス」を &quot;VSOE&quot; 、「ノスタルジー・イスタンブール・オリエント・エクスプレス」を &quot;NIOE&quot; と表記する。また、国名は全て当時の名称で統一する。<br /> <br /> ==構想段階==<br /> === 企画の発端 ===<br /> フジテレビでは、[[1982年]]にオリエント急行を題材とした[[特別番組]]『夢のオリエント急行 ロンドン - イスタンブール華麗なる3500キロの旅』を制作していた。この番組は、1977年に運行を終了したオリエント急行が、VSOE社によって定期的な運行を再開することを機として制作が決定した&lt;ref name=&quot;rj268-144&quot;/&gt; もので、VSOE社の保有するVSOEだけではなく、イントラフルークの保有するNIOEも組み合わせた内容であった&lt;ref name=&quot;rj268-140&quot;/&gt;。<br /> <br /> この時に製作を担当した、フジテレビのエグゼクティブプロデューサー[[沼田篤良]]は、番組準備としてオリエント急行について調査するうちに、オリエント急行に対する興味をふくらませていったという&lt;ref name=&quot;rj268-144&quot;/&gt;。かつてオリエント急行の終点だった[[シルケジ駅]]は[[トルコ]]の[[イスタンブール]]に位置し、そこが洋の東西を分ける町とされていたが、沼田が興味を抱いたのは、[[東洋]]を意味する「オリエント」と称しているにもかかわらず、実際にはオリエント急行は東洋には乗り入れていないということであった&lt;ref name=&quot;rf335-75&quot;/&gt;。そこから沼田が考えたのは「オリエント急行を東洋まで、それも東洋の奥の日本まで走らせよう」というものであった&lt;ref name=&quot;rf335-75&quot;/&gt;。沼田は、ただ日本に運んできて走らせるだけでは「ヨーロッパを走っている豪華列車」というだけで終わってしまうと考えたのである&lt;ref name=&quot;NIOE-122&quot;/&gt;。ただし、この時点では夢の域を出るものではなかったという&lt;ref name=&quot;rj268-144&quot;/&gt;。<br /> <br /> 折しも、イントラフルークの社長であるアルベルト・グラットは、[[パリ]]から[[モスクワ]]・[[ナホトカ]]行きの列車を走らせたいと考え、その企画を沼田にも話していた&lt;ref name=&quot;rj268-144&quot;/&gt; が、沼田が「オリエント急行をそのまま走らせては?」と問いかけると、グラットは「本当はそれをやりたい」と述べたという&lt;ref name=&quot;rj268-144&quot;/&gt;。<br /> <br /> === 実現の可能性の調査 ===<br /> [[1984年]]ごろ、沼田はオリエント急行を日本へ走らせることについて真剣に考えるようになった&lt;ref name=&quot;rj268-144&quot;/&gt;。[[英国放送協会]] (BBC) の友人や[[イギリス]]の[[鉄道ファン]]に相談すると「理論的には可能」という答えが返ってきた&lt;ref name=&quot;rj268-145&quot;/&gt;。しかし、日本ではそうではなかった。制作スタッフやプロダクションにも相談したが、荒唐無稽と受け取られてしまったという&lt;ref name=&quot;rj268-144&quot;/&gt;。形だけの準備委員会は設置された&lt;ref name=&quot;NIOE-124&quot;/&gt; が、社内でも沼田を変人扱いする者すらいた&lt;ref name=&quot;NIOE-124&quot;/&gt;。また、日本の鉄道評論家や鉄道ファンにも話をしてみたものの、「なぜできないか」ということを丁寧に説明される有様であった&lt;ref name=&quot;rj268-145&quot;/&gt;。<br /> <br /> そんな中で、初めて「大変おもしろい」と沼田の相談内容について興味を示した鉄道関係者が、当時[[日本国有鉄道]](国鉄)で運転局長の職にあった[[山之内秀一郎]]であった&lt;ref name=&quot;rj268-146&quot;/&gt;。山之内は、パリの[[国際鉄道連合]] (UIC) の事務局へ[[1969年]]から3年間赴任した経験があった&lt;ref name=&quot;NIOE-125&quot;/&gt; 上、帰国後もオリエント急行について調査しており&lt;ref name=&quot;NIOE-125&quot;/&gt;、1982年の特別番組の制作時にも協力していた&lt;ref name=&quot;NIOE-125&quot;/&gt;。山之内は「難しいかもしれませんよ」とは言ったものの&lt;ref name=&quot;rj268-138&quot;/&gt;、オリエント急行が日本を走れるか検討することを約束し&lt;ref name=&quot;rj268-138&quot;/&gt;、国鉄内部から専門家を集めて検討を開始した&lt;ref name=&quot;rj268-140-141&quot;/&gt;{{refnest|group=&quot;注釈&quot;|山之内は、オリエント急行の日本走行について「不可能とは思わなかった」と述べている&lt;ref name=&quot;NIOE-125&quot;/&gt;。}}。フジテレビを通じて車両の図面を取り寄せて検討した結果、「主要幹線なら走れそうだ」と見当をつけるまでに至った&lt;ref name=&quot;rj268-141&quot;/&gt;。<br /> <br /> 一方、沼田も[[1985年]]にVSOE社を訪れ、社長のデビット・ベンソンや技術部長のジョン・スキナーとも相談した。社長のベンソンは「技術的な問題が解決すれば、パブリシティと割り切っても構わない」と肯定的で&lt;ref name=&quot;rj268-145&quot;/&gt;、技術部長のスキナーも「鉄道技術は融通性がある」「最大の課題はシベリア通過と、対応する[[鉄道車両の台車|台車]]の製作」と述べた&lt;ref name=&quot;rj268-145&quot;/&gt;。また、時期の問題については、春先はVSOE社にとって繁忙期、オリエント急行の客車には[[食堂車]]以外には[[エア・コンディショナー|冷房装置]]がないので夏の日本運行は不可能、[[暖房]]装置も真冬の[[シベリア鉄道]]通過には耐えられないという事情から、「日本に行くのであれば秋」ということになった&lt;ref name=&quot;rj268-145&quot;/&gt;。<br /> <br /> [[1986年]]になると、フジテレビ社内の対応にも変化が見られるようになった。当時沼田が所属する編成局の局長が企画に理解を示し、[[1988年]]のフジテレビ開局30周年の記念事業として検討するように指示を出したのである&lt;ref name=&quot;rj268-146&quot;/&gt;。最初の構想から時間がかかったことが、結果的にフジテレビの記念事業の時期と重なり、莫大な費用の捻出も可能となったのである&lt;ref name=&quot;NIOE-137&quot;/&gt;。沼田はこれを受けて、VSOE社から[[ソビエト連邦]](ソ連)への列車通過について確認を依頼したが、その結果は「オリエント急行のシベリア鉄道通過について、ソ連政府は拒否することはない」というものであった&lt;ref name=&quot;rj268-146&quot;/&gt;。同年5月にはVSOE社からベンソンが営業担当者とともに来日し、山之内と具体的な相談をするに至った&lt;ref name=&quot;rj268-141&quot;/&gt;。しかし、この時期は[[国鉄分割民営化|国鉄の分割民営化]]が間近になっていた頃で、フジテレビ側でも検討中ということもあり、いったん国鉄側での動きは中断した&lt;ref name=&quot;rj268-141&quot;/&gt;。<br /> <br /> 同年10月22日、フジテレビからは沼田とともに編成局長と部長が常務理事に就任していた山之内を訪れ、1988年秋に開局30周年記念事業として行いたいので、具体的な検討を進めるように依頼があった&lt;ref name=&quot;rj268-141&quot;/&gt;。これを受けて、同年10月30日には国鉄の関係者を集めて、翌[[1987年]]1月までに検討結果をまとめた&lt;ref name=&quot;rj268-141&quot;/&gt;。その結果は「技術的にはオリエント急行は日本を走れそうだ」というものであった&lt;ref name=&quot;rj268-141&quot;/&gt;。また、この段階で、国鉄が分割民営化されたあとはJR東日本が中心となって計画を進めることと決めていた&lt;ref name=&quot;rj268-142&quot;/&gt;。山之内は「ヨーロッパに行って実際に車両を見ないと細かいことが分からない」と考えていた&lt;ref name=&quot;rj268-141&quot;/&gt; が、この時期は分割民営化の準備のためそのような余裕はなく、国鉄側での動きは再度中断することになった&lt;ref name=&quot;rj268-141&quot;/&gt;。<br /> <br /> === 具体的検討へ ===<br /> [[ファイル:VSOE 01.jpg|thumb|当初日本に来る予定だったVSOEの車両]]<br /> 国鉄分割民営化から間もない1987年4月16日、フジテレビの幹部がJR東日本の副社長となっていた山之内を訪れ、オリエント急行の日本運行についての計画は予定通りに進めるように依頼があった&lt;ref name=&quot;rj268-141&quot;/&gt;。折りしも、民営化直後のJR東日本では、「国鉄時代にできなかったことをやってみたい」と考えていた&lt;ref name=&quot;rj268-141&quot;/&gt;。これを機に再度計画が進められることになり、VSOE社からの車両の借り入れや、オリエント急行が通過する各国の運行についてはフジテレビが責任を持ち、JRグループでは日本国内での運行と乗客募集・販売を担当することになった&lt;ref name=&quot;rj268-142&quot;/&gt;。フジテレビ側では[[スポンサー]]獲得のための営業説明が社内で行われるようになっていた&lt;ref name=&quot;rj268-146&quot;/&gt;。<br /> <br /> 同年10月にはオリエント急行の運行について、JRグループ6社が集まって会議が開催された&lt;ref name=&quot;rj268-142&quot;/&gt;。オリエント急行が日本に来るのは10月上旬で、日本からヨーロッパに返却されるのは12月下旬となるため、車両の改造についてはできるだけ短期間で行い、一日でも多く日本国内での運行ができるように検討が重ねられた&lt;ref name=&quot;rj268-142&quot;/&gt;。また、運行計画についても、国鉄時代の検討では4往復程度の運行で考えていたが、日本一周以外にも[[金沢市|金沢]]・[[広島市|広島]]・[[京都市|京都]]などの観光都市へ何度も往復する「シャトル列車」を運行することになった&lt;ref name=&quot;rj268-142&quot;/&gt;。その後も運行計画や沿線警備、さらに販売と宣伝について検討が重ねられた&lt;ref name=&quot;rj268-142&quot;/&gt;。なお、この時点で技術的な課題についても検討、調整が行われていたが、まとめて後述する。<br /> <br /> === 紆余曲折の末の契約 ===<br /> ところが、この時期にVSOE社の社長が交代することになった&lt;ref name=&quot;rj268-146&quot;/&gt;。ベンソンが[[スカウト (勧誘)|ヘッドハンティング]]により航空会社の社長に就任することになったためである&lt;ref name=&quot;rj268-146&quot;/&gt;。技術部長のスキナーは「フジテレビには迷惑をかけない」と言った&lt;ref name=&quot;rj268-147&quot;/&gt; ものの、実際に契約する段になり、VSOE社の会長であるシャーウッドは、車両保護の観点から「船で運べば安全で確実ではないか」と主張した&lt;ref name=&quot;rj268-147&quot;/&gt;。また、提示された車両のリース料も非常に高額となった&lt;ref name=&quot;rj268-142&quot;/&gt;。1987年の年末にシャーウッドが来日した際に、再度フジテレビから交渉したが、結局「VSOE社の提案する内容ではこの企画は実行できない」という結論に達した&lt;ref name=&quot;rj268-147&quot;/&gt;。<br /> <br /> やむを得ず、沼田はイントラフルークとの交渉に切り替え、イントラフルークのグラット社長に相談した&lt;ref name=&quot;rj268-147&quot;/&gt;。グラットは沼田に対して「なぜ真っ先に相談してくれなかったのか」と怒ったという&lt;ref name=&quot;rj268-147&quot;/&gt;。グラットの対応は早く、1988年1月には正式にオリエント急行の日本運行の実施が決定&lt;ref name=&quot;rj268-142&quot;/&gt;、同年3月にはフジテレビとイントラフルークの間で正式に契約が結ばれた&lt;ref name=&quot;rj268-146&quot;/&gt;。<br /> <br /> ==運行への準備==<br /> こうして、オリエント急行を日本で走らせるための契約は成立した。しかし、短期間の間に各国の通過交渉や技術的課題の解決、さらに放送計画やイベントの計画、スポンサーや代理店に対する説明などを行わなければならなかった&lt;ref name=&quot;rj268-147&quot;/&gt;。特に、収支予測については前例がないことで、沼田をはじめとするフジテレビ関係者を悩ませた&lt;ref name=&quot;rj268-147&quot;/&gt;。<br /> <br /> ===通過各国との交渉===<br /> 前述のとおり、通過各国との交渉はフジテレビが担当した。ただし、[[フランス]]から[[ポーランド]]まではイントラフルークが交渉を担当した&lt;ref name=&quot;NIOE-128&quot;/&gt;。<br /> <br /> 当初は日本へ車両の船積みは[[上海市|上海]]から行う予定であった&lt;ref name=&quot;rj505-107&quot;/&gt; が、折り悪く1988年3月24日に[[上海列車事故]]が発生したため、[[中華人民共和国|中国]]との交渉に悪影響を及ぼした&lt;ref name=&quot;rf335-76&quot;/&gt;。結局、港湾施設の事情もあって&lt;ref name=&quot;rf335-76&quot;/&gt;、日本への船積みは[[香港]]で行うように変更した&lt;ref name=&quot;rf335-76-77&quot;/&gt;。しかし、香港側も、最初のうちは「そんな列車が来るはずはない」と信用せず&lt;ref name=&quot;rj268-143&quot;/&gt;、交渉は困難を極めた&lt;ref name=&quot;rf335-76&quot;/&gt;。また、[[フランス国鉄]] (SNCF) の交渉も、最初の頃は「そんな列車を本気で走らせようとする人間がいるとは思えない」と取り合ってもらえなかったという&lt;ref name=&quot;rf335-76&quot;/&gt;。<br /> <br /> 一方、最も困難な交渉が予想されていた[[ソビエト連邦|ソ連]]は、[[ミハイル・ゴルバチョフ|ゴルバチョフ書記長]]の政権下で[[ペレストロイカ]]と称する改革方針を打ち出した直後であったため&lt;ref name=&quot;NIOE-128&quot;/&gt;、比較的簡単に了解を得られた&lt;ref name=&quot;NIOE-128&quot;/&gt; のみならず、[[グラスノスチ]]政策によって列車の[[空撮]]まで認められた&lt;ref name=&quot;NIOE-128&quot;/&gt;。[[ドイツ民主共和国]](東ドイツ)や[[ポーランド人民共和国]]の対応も好意的であったという&lt;ref name=&quot;rj505-107&quot;/&gt;。<br /> <br /> ===技術的課題の解決===<br /> ヨーロッパ内であれば、古い車両を国境を越えて運転する機会は多く、技術的・法的な問題はほとんどなかった&lt;ref name=&quot;tr168-16&quot;/&gt;。一方日本国外の車両を日本で運行するには、確認申請を[[運輸省]](当時)に提出し、許可を受ける必要がある&lt;ref name=&quot;rj268-142&quot;/&gt;。しかし、島国である日本の法律は、そもそも国外から列車が走ってくることを想定していなかった&lt;ref name=&quot;rf335-77&quot;/&gt; ため、JR東日本では運輸省の許可を得るために1年以上も話し合いや指導を受けた&lt;ref name=&quot;rf335-77&quot;/&gt;。またイントラフルークでは車両の図面も満足に整備されておらず、JR東日本の技術者を困惑させた&lt;ref name=&quot;rf332-86&quot;/&gt; が、イントラフルークのルネ・ブーベンドルフ技術部長によれば、製造から60年近くたち、その間に戦争もあったため仕方のないことであるという&lt;ref name=&quot;tr168-16&quot;/&gt;。JR東日本では同年5月から6月にかけて、[[スイス]]へ現地調査団を送り、実際に車両の調査を開始した&lt;ref name=&quot;rj268-142&quot;/&gt;。<br /> <br /> ;車両の規格:オリエント急行の[[客車]]は、車体の幅については幅2.9mでJRの車両よりも狭かった&lt;ref name=&quot;rj267-95&quot;/&gt; が、長さは23.5mと長い&lt;ref name=&quot;rj267-95&quot;/&gt; ため、日本での走行については曲線の通過時に[[車両限界]]を抵触する可能性がある&lt;ref name=&quot;rj505-104&quot;/&gt;{{refnest|group=&quot;注釈&quot;|ソ連や中国の通過においては問題は生じなかった&lt;ref name=&quot;rj505-104&quot;/&gt;。}}。このため、[[建築限界#鉄道|建築限界]]測定用の車両を運行を予定している区間に走行させて確認した&lt;ref name=&quot;NIOE-133&quot;/&gt;。その結果、支障箇所は約800箇所にも上り&lt;ref name=&quot;rj268-143&quot;/&gt;、そのうち約300箇所については線路の移設を行うことで対応させることになった&lt;ref name=&quot;rj268-143&quot;/&gt;。また、ヨーロッパでは[[プラットホーム|ホーム]]高さが低いために出入台には昇降用のステップが設けられているが、日本国内では取り外すことになった&lt;ref name=&quot;NIOE-132&quot;/&gt; ほか、各種装備品についても移設や交換を行うことになった&lt;ref name=&quot;rj505-104&quot;/&gt; が、[[荷物車]]の監視用の窓の[[キューポラ (建築)|小さなドーム]]については、オリエント急行のデザインに役立っていると考えられた&lt;ref name=&quot;NIOE-132-133&quot;/&gt; ことから、日本の規格に収まる大きさの監視窓を製作して取り付けることになった&lt;ref name=&quot;NIOE-133&quot;/&gt;。<br /> ;[[軌間]]:ヨーロッパと中国では、軌間(レールとレールの間の幅)は[[標準軌|国際的な標準軌間]]である1,435mmである&lt;ref name=&quot;rj505-104&quot;/&gt; のに対し&lt;ref name=&quot;rj505-104&quot;/&gt;、日本の国内では[[狭軌]]の1,067mmであり&lt;ref name=&quot;rj505-104&quot;/&gt;、途中通過するソ連では逆に1,524mmの[[広軌]]である&lt;ref name=&quot;rj505-104&quot;/&gt;。これに対して、ソ連を通過するために必要な広軌用の台車は30個を準備することになり&lt;ref name=&quot;rj268-147&quot;/&gt;、日本国内では[[旧型客車]]に使用していた[[国鉄TR37形台車|TR47形台車]]を改造して22個用意した&lt;ref name=&quot;rj505-104&quot;/&gt;。日本での台車の準備はJR東日本[[大宮総合車両センター|大宮工場]]が担当し&lt;ref name=&quot;rj505-104&quot;/&gt;、台車の交換は協賛企業の日立製作所が担当することになった&lt;ref name=&quot;rj505-104&quot;/&gt;。なお、オリエント急行の客車は日本の客車よりも1両あたり約10t重いため&lt;ref name=&quot;rp513-64&quot;/&gt;、台車の軸ばねと[[枕バネ|枕ばね]]を交換し&lt;ref name=&quot;rp504-67&quot;/&gt;、強度試験が行われた&lt;ref name=&quot;rp513-64&quot;/&gt;。<br /> ;[[連結器]]:オリエント急行の連結器はヨーロッパでの標準である[[連結器#ねじ式連結器|ねじ式連結器]]である&lt;ref name=&quot;rj505-104&quot;/&gt; が、ソ連・中国・日本では[[連結器#自動連結器|自動連結器]]が使用されている&lt;ref name=&quot;rj505-104&quot;/&gt; ため、その国での客車の片側をねじ式連結器に変更した車両を用意し&lt;ref name=&quot;rj505-104&quot;/&gt;、[[控車]]として[[機関車]]との間に連結することにした&lt;ref name=&quot;NIOE-133&quot;/&gt;。日本国内の控車については[[#運行された車両|巻末の車両一覧]]を参照。<br /> ;防火:日本の普通鉄道構造規則では、当時は内装に[[木材]]を使用することは火災対策上認めておらず&lt;ref name=&quot;rj505-105&quot;/&gt;、暖房や調理用に[[石炭]]を焚くことも禁止されていた&lt;ref name=&quot;rj505-105&quot;/&gt;。しかし、オリエント急行は内装に木材を多用している&lt;ref name=&quot;rj268-142&quot;/&gt; ばかりでなく、食堂車では[[焜炉#石炭焜炉・かまど(固体燃料)|石炭レンジ]]が使用され&lt;ref name=&quot;rj268-142&quot;/&gt;、各車両の暖房は小型の石炭焚き[[ボイラー]]を使用していた&lt;ref name=&quot;rj268-142&quot;/&gt;。これでは日本の防火基準には全く合わない&lt;ref name=&quot;rj268-142&quot;/&gt;。これに対して、各車両に放送装置と[[火災報知機|火災報知器]]を設置し&lt;ref name=&quot;rj505-105&quot;/&gt;、防火専任の保安要員を乗務させるという条件で特認を受けることになった&lt;ref name=&quot;rj505-105&quot;/&gt;。<br /> ;照明用電源:オリエント急行では、各車両の台車に[[車軸発電機]]を設けることで照明用の電源を確保していたが、台車を交換することによって発電機の位置が合わず使用できなくなる&lt;ref name=&quot;rp504-67&quot;/&gt;。このため、荷物車両に[[ディーゼルエンジン]]駆動の発電機を搭載し、各車両へ供給することになった&lt;ref name=&quot;rp504-67&quot;/&gt;。プルマン車とバー車は[[直流]]24[[ボルト (単位)|V]]&lt;ref name=&quot;rp504-65&quot;/&gt;、食堂車は直流48V&lt;ref name=&quot;rp504-65&quot;/&gt;、寝台車は直流72V&lt;ref name=&quot;rp504-65&quot;/&gt; と、使用電圧はまちまちであり、荷物車からは380V[[三相交流]]を供給し、各車両に[[整流器]]を設置した&lt;ref name=&quot;tr168-28&quot;/&gt;。<br /> ;[[鉄道のブレーキ|ブレーキ]]:列車の運行において最も重要であるブレーキについては、通過する各国とも[[自動空気ブレーキ]]で統一されており&lt;ref name=&quot;rj505-105&quot;/&gt;、しかもブレーキ圧力も全ての国で揃っていた&lt;ref name=&quot;rj505-105&quot;/&gt;。このため、ブレーキに関しては空気指令の読み替えなどを行う必要は全くなく&lt;ref name=&quot;rj505-107&quot;/&gt;、ブレーキ管の接続部分の種類と位置を合わせるだけで対応できることになった&lt;ref name=&quot;rj505-105&quot;/&gt;。<br /> ;その他:シベリアを横断するという長距離運行に対応させるべく、荷物車については冷凍冷蔵庫の増強と厨房用水タンクの容量増大が施工された&lt;ref name=&quot;rj505-105&quot;/&gt;。<br /> <br /> 車両の改造を担当する日立製作所では、JR東日本とともに設計検討を行ったが、図面だけでは分からない部分が多かった。このため、検証のために[[日立製作所笠戸事業所|笠戸事業所]]へ車両1両{{refnest|group=&quot;注釈&quot;|イントラフルーク社が保有していたレストア途上だった廃車同様の寝台車を使用した&lt;ref name=&quot;rp513-64&quot;/&gt;。}}を先に送ってもらい&lt;ref name=&quot;rp513-64&quot;/&gt;、イントラフルークとJR東日本の立会いの下で、1988年8月4日から実際の車両を使用して作業項目の把握と技術的な見通しの検証を行った&lt;ref name=&quot;rp513-64&quot;/&gt;。<br /> <br /> 一方、ソ連を通過するために必要な広軌用の台車については製作が間に合わず&lt;ref name=&quot;rj268-147&quot;/&gt;、当初は9月2日に予定していたパリの出発日を9月7日に変更せざるを得なくなった&lt;ref name=&quot;rj268-147&quot;/&gt;。ソ連用広軌台車はオリエント・エクスプレス&#039;88での使用後もイントラフルーク社で保管されていた&lt;ref name=&quot;tr179-10&quot;/&gt;。<br /> <br /> ==運行開始==<br /> ===パリから香港まで===<br /> [[ファイル:Orient Express 88 Paris-Tokyo.svg|thumb|350px|パリから香港までの運行ルート]]<br /> 1988年9月5日、NIOEの車両は本拠地のスイス・[[チューリッヒ]]を出発し、パリまで[[回送]]された&lt;ref name=&quot;rf332-87&quot;/&gt;。9月6日にはパリで乗客と関係者を招待して出発記念パーティーが行われた&lt;ref name=&quot;1992-a-103&quot;/&gt;。<br /> <br /> 9月7日、フランスの[[リヨン駅|パリ・リヨン駅]]の発車案内には「オリエント急行東京行き」と表示され&lt;ref name=&quot;1998-y-247&quot;/&gt;、構内アナウンスもオリエント急行の東京行きと告げていた&lt;ref name=&quot;NIOE-138&quot;/&gt;。そして、オリエント急行の先頭には、映画『[[オリエント急行殺人事件 (1974年の映画)|オリエント急行殺人事件]]』にも登場した230G形[[蒸気機関車]]が連結されていた&lt;ref name=&quot;rj505-105&quot;/&gt;。この蒸気機関車は博物館に保存されていた&lt;ref name=&quot;NIOE-156&quot;/&gt; が、この列車のためにフランス国鉄が用意したのである&lt;ref name=&quot;1998-y-247&quot;/&gt;。<br /> <br /> 山之内は、現地でのテレビ局のインタビューに対して、フランス国鉄が蒸気機関車を牽引機として用意したことについて「粋な計らい」と評した上で、「日本でも蒸気機関車がこの列車を引くでしょう」と発言した&lt;ref name=&quot;2012-a-169&quot;/&gt;。日本でテレビ中継を視聴していたJR東日本の社員は、副社長である山之内のこの発言に驚いた&lt;ref name=&quot;2012-a-169&quot;/&gt;。当時、JR東日本では[[国鉄D51形蒸気機関車|D51形蒸気機関車]]の復元作業に着手していたが、当初の目的であった[[横浜博覧会]]での運行が取りやめとなり、作業の進捗は遅くなっていたのである&lt;ref name=&quot;2012-a-169&quot;/&gt;。JR東日本では急遽会議を行い、「日本でのオリエント急行の運行の最終期にD51形に牽引させる」という方向性が決まり&lt;ref name=&quot;2012-a-170&quot;/&gt;、突貫作業でD51形の復元作業が進められることになった&lt;ref name=&quot;2012-a-170&quot;/&gt;。<br /> <br /> ともあれ、東京行きのオリエント急行は、パリ・リヨン駅を予定より5分遅れの9時40分に発車した&lt;ref name=&quot;rj505-105&quot;/&gt;。パリから香港までは約14,600kmあり&lt;ref name=&quot;NIOE-138&quot;/&gt;、無事に到着した場合は「ひとつの列車が乗り継ぎなしで走った最長距離」として[[ギネス世界記録|ギネスブック]]にも掲載されることになっていた&lt;ref name=&quot;NIOE-138&quot;/&gt;。<br /> <br /> パリから香港・東京までの乗客は、[[阪急交通社]]主催のツアーとして募集された&lt;ref name=&quot;1992-a-104&quot;/&gt;。参加したのは37名&lt;ref name=&quot;NIOE-9&quot;/&gt;(資料により36名&lt;ref name=&quot;1992-a-103&quot;/&gt;&lt;ref name=&quot;1998-y-247&quot;/&gt; あるいは39名&lt;ref name=&quot;TVG27-42-29&quot;/&gt;)で{{refnest|group=&quot;注釈&quot;|乗客の内訳は、フジテレビ出版『これがオリエント急行だ』によれば日本人23名、アメリカ人6名、フランス人5名、香港人2名、イギリス人1名&lt;ref name=&quot;NIOE-9&quot;/&gt;。安部譲二『大列車旅行』によれば日本人21名、アメリカ人7名、フランス人5名、中国系カナダ人2名、イギリス人1名&lt;ref name=&quot;1992-a-103&quot;/&gt;。}}、その中には作家の[[安部譲二]]が含まれる&lt;ref name=&quot;rf333-28&quot;/&gt;。このほかフジテレビの撮影班&lt;ref name=&quot;1992-a-130&quot;/&gt; と、リポーターとして[[上月晃]]が同乗した&lt;ref name=&quot;1992-a-125&quot;/&gt;。<br /> <br /> 蒸気機関車による牽引は[[モー (フランス)|モー]]までであった&lt;ref name=&quot;NIOE-156&quot;/&gt;。[[ベルギー]]と[[西ドイツ]]は夜間に通過し、東西ドイツの国境である[[マリエンボルン]]からは[[ドイツ国営鉄道 (東ドイツ)|ドイツ国営鉄道 (DR)]] の保有する[[ドイツ国鉄01形蒸気機関車|01形蒸気機関車]]が重連でオリエント急行を牽引した&lt;ref name=&quot;rj505-105&quot;/&gt;。途中、乗客の観光のため[[ポツダム]]では6時間停車したほか、[[東ベルリン]]の[[リヒテンベルク区|リヒテンベルク]]ではこの列車の乗客を招待した[[晩餐会]]が開かれた&lt;ref name=&quot;rj505-105&quot;/&gt;。東ベルリンを9月8日の深夜に発車したオリエント急行はポーランドに入国したが、ポーランドの[[クトノ]]からは[[ポーランド国鉄]]のPt47形・Ty51形蒸気機関車が[[重連運転|重連]]でオリエント急行を牽引した&lt;ref name=&quot;rj505-105&quot;/&gt;。東ドイツ・ポーランドとも、日中の運転区間がほとんど蒸気機関車による牽引であった&lt;ref name=&quot;rj505-105&quot;/&gt;。なお、乗客は[[ソハチェフ]]から[[ワルシャワ]]まではバスに乗り換えて、[[フレデリック・ショパン]]の生家を訪れている&lt;ref name=&quot;rj505-105-106&quot;/&gt;。<br /> <br /> 9月10日にワルシャワを出発したオリエント急行はソ連に入国し、[[ブレスト中央駅|ブレスト]]で台車の交換作業を行い&lt;ref name=&quot;rj505-106&quot;/&gt;、同時に前3両、後1両の控車が連結された&lt;ref name=&quot;rj505-106&quot;/&gt;。4時間停車の予定であったが、作業が遅れたために1時間遅れでブレストを発車することになり、ここから[[モスクワ]]までは[[ロシア鉄道|ソ連国鉄]]のP36形蒸気機関車がオリエント急行を牽引した&lt;ref name=&quot;rj505-106&quot;/&gt;。ここからはソ連人のシェフが乗り込み、[[食堂車]]でロシア料理を提供した&lt;ref name=&quot;NIOE-27&quot;/&gt;。途中、モスクワで1日半、[[ノボシビルスク]]で半日、[[イルクーツク]]で2日ほどの停車時間が確保されていたが、これは乗客の観光や車両のメンテナンスを行うだけではなく、ブレストで交換した標準軌用の台車をオリエント急行よりも先に中国との国境に近い[[ザバイカリスク駅|ザバイカリスク]]に輸送しなければならないための時間稼ぎでもあった&lt;ref name=&quot;rj505-106&quot;/&gt;。標準軌用の台車は[[貨車]]で輸送され&lt;ref name=&quot;NIOE-131&quot;/&gt;、途中でオリエント急行を追い抜いている&lt;ref name=&quot;rj505-106&quot;/&gt;。<br /> <br /> ザバイカリスクで再び台車を交換したオリエント急行は、9月20日に[[満州里駅|満州里]]から中国に入国、控車も中国の車両(前2両、後1両)に交換された&lt;ref name=&quot;rj505-106&quot;/&gt;。この時に連結された控車は食堂車が含まれており、この食堂車で調理した中国料理をオリエント急行の食堂車に運んで提供した&lt;ref name=&quot;rj505-106&quot;/&gt;。中国国内では[[安達市|安達]]から[[ハルビン駅|ハルビン]]までの区間で[[中国国鉄前進型蒸気機関車|前進型蒸気機関車]]がオリエント急行を牽引した&lt;ref name=&quot;rj505-106&quot;/&gt;。[[北京市|北京]]では2日間ほど停車し、その後は[[京広線]]・[[広深線]]・[[九広鉄路]]を経由し、9月26日午後2時45分に香港の[[紅カン駅|九龍駅]]に到着した&lt;ref name=&quot;rj505-106&quot;/&gt;。<br /> <br /> オリエント急行の客車は9月27日から28日にかけて&lt;ref name=&quot;rj266-41&quot;/&gt;[[パナマ]]船籍の貨物船「せき・まつやま号」に積み込まれ&lt;ref name=&quot;rj267-86&quot;/&gt;、9月29日に日本へ出港した&lt;ref name=&quot;rj266-41&quot;/&gt;。<br /> <br /> ===日本での整備===<br /> 日立製作所笠戸事業所では、オリエント急行の改造作業に向けて準備が進められた。<br /> <br /> 短期間に10数両の改造を行うための広い場所が必要であった&lt;ref name=&quot;rp513-64&quot;/&gt; が、生産ライン上には場所が確保できなかったため、やむを得ず別の場所に軌道の仮設やリフティング[[ジャッキ]]の整備などが行われた&lt;ref name=&quot;rp513-64&quot;/&gt;。また、オリエント急行の客車は[[重要文化財]]に相当する物件であると考えられた&lt;ref name=&quot;rp513-65&quot;/&gt; ため、[[綜合警備保障]]の[[警備員|ガードマン]]を24時間体制で配置し&lt;ref name=&quot;rp513-65&quot;/&gt;、作業者や立入者は特定の[[腕章]]と[[ヘルメット]]を着用することを義務付け&lt;ref name=&quot;rp513-65&quot;/&gt;、夜間照明の増設や[[鉄条網]]の新設を行う&lt;ref name=&quot;rp513-65&quot;/&gt; など、作業場所の警備対策を強化した。これらの準備が全て完了し、イントラフルークからも作業内容の承認を得られたのは、1988年10月4日であった&lt;ref name=&quot;rp513-65&quot;/&gt;。<br /> <br /> オリエント急行の客車を載せた貨物船「せき・まつやま号」が日本の[[徳山下松港]]に入港したのは同年10月6日早朝で、[[台風]]の影響で1日遅れの到着であった&lt;ref name=&quot;rp513-65&quot;/&gt;。客車は[[艀]]によって陸揚げと工場内への搬入が開始された&lt;ref name=&quot;rp513-65&quot;/&gt;。<br /> <br /> 陸揚げされた車両はすぐに改造工事が実施されたが、同じ車両でも1両ごとに細部が異なっており、図面も揃っていなかった&lt;ref name=&quot;rp513-65&quot;/&gt; ため、実際の車両をチェックしながら行われた&lt;ref name=&quot;rp513-65&quot;/&gt;。客室に木材が多用されているだけでなく、調度品も大部分が可燃物であったため、火気取扱いには特に注意が必要であった&lt;ref name=&quot;rp513-65&quot;/&gt;。また、食堂車については事前情報よりも重量が重く、日本走行用の台車に車体を載せたところ、枕ばねが密着状態になってしまった&lt;ref name=&quot;rp513-65&quot;/&gt;。これではばねの役目を果たせない。やむを得ず、運行時期を考えれば不要と考えられる冷房装置を撤去することで対処した&lt;ref name=&quot;rj505-106&quot;/&gt;。<br /> <br /> 日本国内での運行にあたり、オリエント急行はJR東日本の[[品川運転所]]所属となった&lt;ref name=&quot;rj267-89&quot;/&gt;。各車両の連結面には、日本で運行するために必要な表記が[[日本語]]で表記された&lt;ref name=&quot;rj267-91&quot;/&gt;。イントラフルークのグラット社長は、この日本語表記については「日本に来た証として、ヨーロッパに戻った後もそのままにする」と表明した&lt;ref name=&quot;rj267-94&quot;/&gt;。<br /> <br /> 同年10月14日には全ての改造が完了し&lt;ref name=&quot;rp513-66&quot;/&gt; 工場内で編成単位では初の[[試運転]]が行われた&lt;ref name=&quot;tr168-12&quot;/&gt;。10月15日には報道陣や市民に公開され&lt;ref name=&quot;rp513-65&quot;/&gt;、10月16日には[[山陽本線]][[下松駅 (山口県)|下松駅]]から[[新下関駅]]まで本線上での試運転が行われた後、[[広島駅]]へ[[回送]]された&lt;ref name=&quot;rj505-106&quot;/&gt;&lt;ref name=&quot;tr168-12&quot;/&gt;。客車の前後には、控車として客車が1両ずつ連結された。<br /> <br /> ===日本国内運行===<br /> [[ファイル:Orient Express 88 in Japan 1 ja.svg|thumb|広島から東京までの運行ルート]]<br /> [[File:170721 Lalique Museum Hakone Japan18n.jpg|thumb|日本国内運行時に使用された[[行先標]]&lt;br /&gt;表記の駅名は主に一般公開が催されたところを示している&lt;ref name=&quot;train410&quot;&gt;「特集 来日20周年 オリエント・エクスプレス &#039;88」『とれいん』2009年2月号(No.410)、エリエイプレス・アイゼンバーン、22頁。&lt;/ref&gt;&lt;br /&gt;[[箱根ラリック美術館]]にて展示]]<br /> 1988年10月17日午後6時15分、オリエント急行は[[国鉄EF65形電気機関車|EF65形電気機関車]]に牽引され&lt;ref name=&quot;rj267-79&quot;/&gt;、広島駅7番ホームに入線した&lt;ref name=&quot;rj267-81&quot;/&gt;。パリからの乗客17名&lt;ref name=&quot;rf333-31&quot;/&gt; に加え、フジテレビから招待された広島からの乗客(報道陣とJRグループ、フジテレビ、日立製作所などの関係者約60名&lt;ref name=&quot;rf333-31&quot;/&gt;)がこの列車に乗り込んだが、出発当日は[[服装規定|ドレスコード]]により「ブラックタイ着用」が指定されていた&lt;ref name=&quot;rj267-80&quot;/&gt;。午後6時36分、オリエント急行は広島駅を定刻に発車した&lt;ref name=&quot;rj267-80&quot;/&gt;。これが、オリエント急行にとっては初めての日本での営業運行であった&lt;ref name=&quot;rj267-80&quot;/&gt;。翌日の10月18日午前10時30分、パリから約15,494&amp;nbsp;km&lt;ref name=&quot;rf333-35&quot;/&gt;{{refnest|group=&quot;注釈&quot;|航送距離も含めると約17,997km&lt;ref name=&quot;NIOE-138&quot;/&gt;。}}を走り、オリエント急行は定刻通りに[[東京駅]]9番ホームに到着した&lt;ref name=&quot;rj267-94&quot;/&gt;。東京駅到着後には、地下コンコースにおいて「世界最長距離列車」としてギネスブックへの認定式が行われた&lt;ref name=&quot;rf333-35&quot;/&gt;。またパリからの全区間を乗車した乗客17人に記念証が贈られた&lt;ref name=&quot;asahi19881018&quot;/&gt;。<br /> <br /> 10月19日には、招待客を乗せて東京駅から[[山手貨物線]]経由で[[大宮駅 (埼玉県)|大宮駅]]まで試乗会が行われた&lt;ref name=&quot;rj267-94&quot;/&gt;。<br /> <br /> オリエント急行を利用した日本国内ツアーはJR東日本または[[西日本旅客鉄道]](JR西日本)・[[九州旅客鉄道]](JR九州)が主催し、合計70コースが設定された&lt;ref name=&quot;rj267-95&quot;/&gt;。10月24日からの日本一周ツアーは、9泊10日(うち車中4泊)で1人88万8千円という高額旅行商品であった&lt;ref name=&quot;rj267-126&quot;/&gt; が、ツアー定員74名に対して約13倍の951名の申し込みがあり&lt;ref name=&quot;yomiuri19881006&quot;/&gt;、抽選となるほどの人気であった&lt;ref name=&quot;rj267-95&quot;/&gt;。このほかの69コースは2泊3日で片道のみオリエント急行に乗車するもので、東京・上野から函館や金沢、長崎、京都、神戸など、大阪から東京、横浜など、博多から熱海、鎌倉などへ往復した。定員は各々40名から80名で、費用は1人16万2千円から26万8千円と、国内旅行としては異例の高額であった&lt;ref name=&quot;yomiuri19880830&quot;/&gt; が、平均で定員の5.2倍の申し込みがあり&lt;ref name=&quot;yomiuri19881006&quot;/&gt;、すぐに満員となった&lt;ref name=&quot;rj267-95&quot;/&gt;。中高年の夫妻に人気があったという&lt;ref name=&quot;rj366-57&quot;/&gt;。最も高倍率となったのは、上野から函館を片道は[[寝台列車|寝台]][[特別急行列車|特急]]「[[北斗星 (列車)|北斗星]]」利用で往復するコース(「ロマンチック函館」、16万7千円&lt;ref name=&quot;nikkei19881017&quot;/&gt;)で、23倍に達した&lt;ref name=&quot;yomiuri19881006&quot;/&gt;。ツアーの総定員は約2900名で&lt;ref name=&quot;asahi19880830&quot;/&gt;、総売上は約6億7千万円となった&lt;ref name=&quot;yomiuri19880830&quot;/&gt;。<br /> <br /> 日本一周ツアーでは、[[青函トンネル]]を通過して[[北海道]]を[[札幌駅]]まで走行した&lt;ref name=&quot;rj267-95&quot;/&gt; ほか、[[関門トンネル (山陽本線)|関門トンネル]]を抜けて[[九州]]の[[熊本駅]]まで&lt;ref name=&quot;rj267-95&quot;/&gt;、また[[瀬戸大橋]]を渡って[[四国]]の[[高松駅 (香川県)|高松駅]]まで乗り入れた&lt;ref name=&quot;rj267-95&quot;/&gt;。各ツアーで乗客が観光のため下車している間には、駅でオリエント急行の客車の一般公開も行われた&lt;ref name=&quot;rj267-95&quot;/&gt;。<br /> <br /> 日本国内運行でのオリエント急行は、[[ダイヤグラム|ダイヤ]]設定上は[[急行列車]]として扱われた&lt;ref name=&quot;rf334-94&quot;/&gt; が、これは日本国内で使用する台車では最高速度が95[[キロメートル毎時|km/h]]に限られたためである&lt;ref name=&quot;rf334-94&quot;/&gt;。また、オリエント急行の車内サービスでは大量の水を消費するため、担当するイントラフルーク側からは運行途中での給水を要求されていた&lt;ref name=&quot;rf333-22&quot;/&gt; が、日本の鉄道では途中駅での給水は一般的ではなくなっていたため、給水設備のある駅での停車時間確保に苦労したという&lt;ref name=&quot;rj505-105&quot;/&gt;。客車の改造内容のうち、厨房用水タンクの容量増大が施工されたのはこうした理由もある&lt;ref name=&quot;rf333-22&quot;/&gt;。また、日本国内の運行においてはホーム[[有効長]]の関係から前後の控車を含めて13両編成とした&lt;ref name=&quot;rp504-65&quot;/&gt; ものの、編成重量は650[[トン|t]]近くになる&lt;ref name=&quot;rf333-16&quot;/&gt;{{refnest|group=&quot;注釈&quot;|13両編成での[[換算両数#計算法|積車換算両数]]は63.5にも及ぶ&lt;ref name=&quot;rf334-93&quot;/&gt;。参考までに、寝台特急「[[カシオペア (列車)|カシオペア]]」は[[JR東日本E26系客車|E26系客車]]12両で500t&lt;ref name=&quot;cassiopeia&quot;&gt;鉄道ジャーナル 通巻396号 鶴通孝『カシオペア神話はこうして作られた』 p.27&lt;/ref&gt;、積車換算両数は50である&lt;ref name=&quot;cassiopeia&quot;/&gt;。}}ため、勾配の急な区間では機関車を重連運用にして対応した&lt;ref name=&quot;rf333-16&quot;/&gt;{{refnest|group=&quot;注釈&quot;|例えば、山陽本線の[[瀬野駅]]から[[八本松駅]]までの上り勾配([[瀬野八]])には、EF65形電気機関車1000番台(PF形)の重連&lt;ref name=&quot;rf333-16&quot;/&gt;、青函トンネル区間では[[JR北海道ED79形電気機関車|ED79形電気機関車]]の重連&lt;ref name=&quot;rf333-14&quot;/&gt;、上越線の水上駅と[[長岡駅]]の間では[[国鉄EF64形電気機関車|EF64形電気機関車1000番台]]の重連で対応した&lt;ref name=&quot;rf333-13&quot;/&gt;。}}。<br /> <br /> 日本国内走行時は、NIOE固有の乗員は、列車長、技術者、清掃担当、各寝台車の乗客掛などイントラフルーク社所属の15名と、食堂やバーを担当する[[国際寝台車会社|ワゴン・リ社]]の11名{{refnest|group=&quot;注釈&quot;|[[松本謙一]]の同乗ルポによれば、イントラフルークが14名、ワゴン・リが12名&lt;ref name=&quot;tr168-25&quot;/&gt;。}}の計26名である。ただし後半のシャトル走行時には23名程度となった。このほかJR各社からは通常の[[運転士]]、[[車掌]]に加え、火災対策のための保安要員1名、[[通訳]]1名、ツアー[[添乗員]]2名が乗り込んだ。列車運行の最終的な責任者はJRの車掌であるが、[[車内放送]]は緊急時を除き行わないことになっていた&lt;ref name=&quot;rf333-26&quot;/&gt;。<br /> <br /> 日本での運行中には小さなトラブルも続出した&lt;ref name=&quot;rf335-112&quot;/&gt;。部品の劣化によりブレーキが緩まなくなったり&lt;ref name=&quot;rf335-111&quot;/&gt;、乗客が[[列車便所|トイレ]]の便器に[[ペーパータオル]]を投げ込んだために詰まりが生じたり&lt;ref name=&quot;rf335-112&quot;/&gt; する事象が発生した。また、[[車両基地]]での給水では水圧が強すぎて反対側の給水口から水が漏れてしまい、不完全な給水になってしまったりすることもあった&lt;ref name=&quot;rf335-113&quot;/&gt;。しかし、こうしたトラブルも、運行終了の頃には収まるようになっていた&lt;ref name=&quot;rf335-112&quot;/&gt;。<br /> <br /> 12月19日20時55分頃には、[[新潟県]]内の[[上越線]]上で、2両目と3両目の間の連結器が外れる事故が発生した&lt;ref name=&quot;asahi19881220&quot;/&gt;。列車は5時間後に運転を再開し、目的地の京都には約35分遅れで到着した&lt;ref name=&quot;asahi19881220e&quot;/&gt;。<br /> &lt;gallery&gt;<br /> File:Orient Express 88 in Japan 2 ja.svg|日本一周ツアーの運行経路<br /> File:Orient Express 88 in Japan 3 ja.svg|11月2日から14日までの運行経路<br /> File:Orient Express 88 in Japan 4 ja.svg|11月14日から24日までの運行経路<br /> File:Orient Express 88 in Japan 5 ja.svg|11月28日から12月25日までの運行経路<br /> &lt;/gallery&gt;<br /> [[ファイル:D51498 19881223.jpg|thumb|最後のツアーでオリエント急行を牽引したD51形498号機]]<br /> 足掛け3ヶ月にわたったオリエント急行の日本国内運行の最後のツアーとなったのは、[[上野駅]]から[[京都駅]]へ往復するツアーであった&lt;ref name=&quot;rj269-109&quot;/&gt; が、このツアーの出発日である12月23日、上野駅を発車するオリエント急行の先頭には、この日が初の営業運行となる[[国鉄D51形蒸気機関車498号機|D51形蒸気機関車498号機]]が連結されていた&lt;ref name=&quot;rj269-109&quot;/&gt;。この蒸気機関車は、パリで山之内が「日本でも蒸気機関車がこの列車を引く」と発言して以来、突貫作業で復元工事が行われ&lt;ref name=&quot;2012-a-170&quot;/&gt;、11月22日には復元作業の完成式が行われていた&lt;ref name=&quot;rj268-117&quot;/&gt;。D51形はオリエント急行を[[大宮駅 (埼玉県)|大宮駅]]まで牽引した&lt;ref name=&quot;rj269-109&quot;/&gt;。また、上野駅から[[水上駅]]まで{{refnest|group=&quot;注釈&quot;|上野駅から大宮駅まではD51形498号機の次位に連結されていた&lt;ref name=&quot;rj269-109&quot;/&gt;。}}と、翌々日の水上駅から上野駅までは、「[[お召し列車]]」専用の[[電気機関車]]である[[国鉄EF58形電気機関車|EF58形電気機関車]]61号機がオリエント急行を牽引した&lt;ref name=&quot;rj269-110&quot;/&gt;。この列車は同年12月25日午前10時45分に上野駅に到着し&lt;ref name=&quot;rj269-110&quot;/&gt;、オリエント急行の日本国内の営業運行は全て終了した&lt;ref name=&quot;rf335-76&quot;/&gt;。<br /> <br /> ===ヨーロッパへ返却===<br /> 運行終了後、オリエント急行の客車は回送され、12月27日に下松駅に到着した&lt;ref name=&quot;rp513-67&quot;/&gt;。直ちに復元作業が行われ、翌[[1989年]]1月6日には[[通関|通関手続き]]も完了し、1月7日から9日にかけて貨物船「プロジクト・アメリカ号」に積み込まれた&lt;ref name=&quot;rp513-67&quot;/&gt;。同年1月9日午後5時50分、沼田をはじめとして、オリエント急行の日本国内運行に携わった関係者が見送る中&lt;ref name=&quot;rp513-67&quot;/&gt;、「プロジクト・アメリカ号」は西ドイツの[[ハンブルク港]]へ向けて出港した&lt;ref name=&quot;rp513-67&quot;/&gt;。<br /> <br /> == 終了後 ==<br /> フジテレビでは1989年に新年の[[スローガン]]が発表されたが、その内容は「しろうとのくろうと 時代を作るフジテレビ」であった&lt;ref name=&quot;rf335-78&quot;/&gt;。これは、フジテレビの社長が[[関西テレビ放送]]の社長と[[ゴルフ]]をした際に「オリエント急行を日本で走らせるという発想は鉄道の専門家からは出てこない」という指摘を受けたことによるものであった&lt;ref name=&quot;rf335-78&quot;/&gt;{{refnest|group=&quot;注釈&quot;|当時の関西テレビの社長は[[阪急電鉄]]出身であった&lt;ref name=&quot;rf335-78&quot;/&gt;。}}。<br /> <br /> その後、イントラフルークの経営難のため、車両は他社に売却された。日本を走った車両のうち、プルマン車No.4158DEは2004年以降は日本の[[箱根ラリック美術館]]にて公開されている&lt;ref name=&quot;letrain&quot;/&gt;。<br /> <br /> == 関連製品 ==<br /> このオリエント急行来日に際して、特別デザインの[[写ルンです]]、[[オレンジカード]]、シールなど多くの記念品が作られた&lt;ref name=&quot;train410&quot; /&gt;。<br /> <br /> === 模型化 ===<br /> 1988年の来日時に[[青島文化教材社]]が機関車・客車を[[HOスケール]]の[[プラモデル|プラスチック製組み立てキット]]として、レストラン・カー、プルマン・カー、ドイツ形蒸気機関車を発売している&lt;ref name=&quot;train410&quot; /&gt;。また、スポンサーであった日立製作所が家電購入者向けに展示ケース入りのディスプレイモデルを配布している&lt;ref name=&quot;train410&quot; /&gt;。これは4158号車を模したものだが、車両番号が企画の行われた年を示す&quot;No.1988&quot;になっている&lt;ref name=&quot;train410&quot; /&gt;。<br /> <br /> 2008年に[[関水金属|KATO]]により[[Nゲージ]]サイズで日本での運行時の13両編成が、2014年にはパリ~香港間を走破した大陸走破時の15両編成が、同年箱根ラリック美術館展示のプルマン車No.4158DEも単品で相次いでモデル化されている。<br /> <br /> == データ ==<br /> ===パリ→東京の運行経路===<br /> ; 凡例 : ●…6時間以上停車、◎…24時間以上停車、★…台車交換<br /> <br /> [[リヨン駅|パリ(リヨン)]]&lt;ref name=&quot;NIOE-156&quot;/&gt;→[[モー (フランス)|モー]]&lt;ref name=&quot;NIOE-156&quot;/&gt;→[[ランス]]&lt;ref name=&quot;NIOE-13&quot;/&gt;→[[ケルン]]&lt;ref name=&quot;rj505-106&quot;/&gt;→[[:en:Marienborn|マリエンボルン]]&lt;ref name=&quot;NIOE-155&quot;/&gt;→●[[ポツダム]]&lt;ref name=&quot;rj505-106&quot;/&gt;→●[[リヒテンベルク区|リヒテンベルク(東ベルリン)]]&lt;ref name=&quot;rj505-106&quot;/&gt;→クトノ&lt;ref name=&quot;NIOE-17&quot;/&gt;→[[ソハチェフ]]&lt;ref name=&quot;rj505-106&quot;/&gt;→●[[ワルシャワ]]&lt;ref name=&quot;NIOE-20&quot;/&gt;→[[テレスポル駅|テレスポル]]&lt;ref name=&quot;rj505-106&quot;/&gt;→★[[ブレスト中央駅|ブレスト]]&lt;ref name=&quot;NIOE-23&quot;/&gt;→◎[[モスクワ]]&lt;ref name=&quot;NIOE-23&quot;/&gt;→キーロフ&lt;ref name=&quot;rj505-106&quot;/&gt;→ペルミ&lt;ref name=&quot;rj505-106&quot;/&gt;→[[エカテリンブルク|スベルドロフスク]]&lt;ref name=&quot;rj505-106&quot;/&gt;→オムスク&lt;ref name=&quot;rj505-106&quot;/&gt;→●[[ノヴォシビルスク駅|ノヴォシビルスク]]&lt;ref name=&quot;NIOE-29&quot;/&gt;→[[クラスノヤルスク]]&lt;ref name=&quot;rj505-106&quot;/&gt;→◎[[イルクーツク]]&lt;ref name=&quot;rj505-106&quot;/&gt;→●チタ&lt;ref name=&quot;rj505-106&quot;/&gt;→★[[ザバイカリスク駅|ザバイカリスク]]&lt;ref name=&quot;NIOE-141&quot;/&gt;→[[満州里駅|満州里]]&lt;ref name=&quot;NIOE-146&quot;/&gt;→[[安達市|安達]]&lt;ref name=&quot;rj505-106&quot;/&gt;→[[ハルビン駅|ハルビン]]&lt;ref name=&quot;rj505-106&quot;/&gt;→◎[[北京市|北京]]&lt;ref name=&quot;NIOE-148&quot;/&gt;→[[広州市|広州]]&lt;ref name=&quot;rj505-106&quot;/&gt;→[[深セン駅|深圳]]&lt;ref name=&quot;rj505-106&quot;/&gt;→[[紅カン駅|香港(九龍)]]&lt;ref name=&quot;rj505-106&quot;/&gt;→(船舶で輸送)→★[[下松市|下松]]&lt;ref name=&quot;rj505-106&quot;/&gt;→(回送)→[[広島駅|広島]]&lt;ref name=&quot;rj267-81&quot;/&gt;→[[東京駅|東京]]&lt;ref name=&quot;rj267-94&quot;/&gt;<br /> <br /> なお、書籍やインターネット上の「[[モンゴル国|モンゴル]]を経由した」「[[フランクフルト中央駅]]を経由した」という情報は誤りである&lt;ref name=&quot;rj505-106&quot;/&gt;。<br /> <br /> ===運行された車両===<br /> {{see also|ノスタルジー・イスタンブール・オリエント急行#各車の詳細}}<br /> <br /> パリ発車時点では客車15両に郵便車を増結していた&lt;ref name=&quot;rp504-65&quot;/&gt; が、日本運行ではホーム有効長の関係から客車は11両とし、前後に控車を連結した13両の編成とした&lt;ref name=&quot;rp504-65&quot;/&gt;。下記の車両のほか、日立製作所笠戸事業所で作業の検証のために寝台車(Lx形 3540号車&lt;ref name=&quot;tr179-10&quot;/&gt;)が1両日本に運び込まれた&lt;ref name=&quot;rp513-64&quot;/&gt;。<br /> <br /> 日本国内を走行した客車は以下の通り。順序は広島 - 東京間走行時の東京方からの連結順である&lt;ref name=&quot;tr168-41&quot;/&gt;。諸元は日本国内走行用に改造後のものである。<br /> {| class=&quot;wikitable&quot; style=&quot;text-align:left&quot;<br /> |+<br /> !colspan=&quot;2&quot;| 車両番号&lt;ref name=&quot;rp504-65&quot;/&gt; !! 形式&lt;ref name=&quot;rp504-65&quot;/&gt;!! 車両の種類&lt;ref name=&quot;rp504-65&quot;/&gt; !! 定員&lt;ref name=&quot;rp504-65&quot;/&gt; !! 空車重量&lt;ref name=&quot;rp504-65&quot;/&gt; !! 積車重量&lt;ref name=&quot;rp504-65&quot;/&gt; !! 製造年&lt;ref name=&quot;rp504-65&quot;/&gt; !! 備考<br /> |-<br /> |オニ23 1 ||[[ファイル:Hi vision theater car oni23 1 ORIENTEXPRESS&#039;88.jpg|80px]]||[[国鉄20系客車#オニ23形|オニ23]]||控車||&amp;nbsp;||&amp;nbsp;||&amp;nbsp;||1968年||廃車後に[[国鉄清算事業団]]の所有となっていたナハネフ23形[[寝台車 (鉄道)|寝台車]]を改造した。ナハネフ23は内装をすべて撤去した上で、「オニ23形」という新形式車両として使用された。当時日立製作所が開発していた[[ハイビジョン]]装置を備えた上映室に改装し、車内でオリエント急行の映像を上映する「日立パビリオンカー」として使用&lt;ref name=&quot;rp513-65&quot;/&gt;。列車の運行終了後は用途を失い、廃車となっている。<br /> |-<br /> |3909 ||[[ファイル:Carrozza con letti No.3909 A ORIENTEXPRESS&#039;88.jpg|80px]]||WLA YU||スタッフ車||26名||51t||53t||1949年||スタッフ専用[[寝台車 (鉄道)|寝台車]]{{refnest|group=&quot;注釈&quot;|内装が新しく「オリエント急行にはふさわしくない」とされたため、スタッフ専用車両として使用&lt;ref name=&quot;rp504-67&quot;/&gt;。}}<br /> |-<br /> |1286 ||[[ファイル:Luggage No.1286 M ORIENTEXPRESS&#039;88.jpg|80px]]||D||[[荷物車]]||&amp;nbsp;||40t||45t||1928年||冷蔵室、調理準備室、皿洗い室、予備部品倉庫、工作室を設置&lt;ref name=&quot;tr168-39&quot;/&gt;。日本国内運行ではキューボラを交換し、発電機を搭載&lt;ref name=&quot;rp504-67&quot;/&gt;&lt;ref name=&quot;tr168-39&quot;/&gt;。<br /> |-<br /> |3354 ||[[ファイル:Voiture restaurant No.3354 ORIENTEXPRESS&#039;88.jpg|80px]]||WR||[[食堂車]]||30名||55t||57t||1927年||元[[共和国大統領 (フランス)|フランス大統領]]専用車「プレジデンシャル」&lt;ref name=&quot;tr168-50&quot;/&gt;。日本運行では冷房装置を撤去&lt;ref name=&quot;rp513-65&quot;/&gt;。<br /> |-<br /> |4158 ||[[ファイル:Pullman No.4158 DE ORIENTEXPRESS&#039;88.jpg|80px]]||WSP||プルマン車||28名||51t||53t||1929年||食堂車として使用&lt;ref name=&quot;tr168-46&quot;/&gt;。食事は3354号車から提供&lt;ref name=&quot;tr168-50&quot;/&gt;。。<br /> |-<br /> |4164 ||[[ファイル:Voiture saron bar No.4164 E ORIENTEXPRESS&#039;88.jpg|80px]]||ARP||ピアノバー車||28名||51t||53t||1929年||&amp;nbsp;<br /> |-<br /> |3551 ||[[ファイル:Schlafwagen No.3551 A ORIENTEXPRESS&#039;88.jpg|80px]]||WLA LX20||寝台車||20名||51t||53t||1929年||2人個室×10部屋<br /> |-<br /> |3542 ||[[ファイル:Voiture saron bar No.4164 E ORIENTEXPRESS&#039;88.jpg|80px]]||WLA LX16||寝台車||16名||51t||53t||1929年||1人個室×4部屋・2人個室×6部屋<br /> |-<br /> |3480 ||[[ファイル:Schlafwagen No.3480 A ORIENTEXPRESS&#039;88.jpg|80px]]||WLA LX16||寝台車||16名||51t||53t||1929年||1人個室×4部屋・2人個室×6部屋<br /> |-<br /> |3537 ||[[ファイル:Schlafwagen No.3537 A ORIENTEXPRESS&#039;88.jpg|80px]]||WLA LX16||寝台車||16名||51t||53t||1929年||1人個室×4部屋・2人個室×6部屋<br /> |-<br /> |3472 ||[[ファイル:Schlafwagen No.3472 A ORIENTEXPRESS&#039;88.jpg|80px]]||WLA LX16||寝台車||16名||51t||53t||1929年||1人個室×4部屋・2人個室×6部屋<br /> |-<br /> |3487 ||[[ファイル:Schlafwagen No.3487 A ORIENTEXPRESS&#039;88.jpg|80px]]||WLA LX16||寝台車||16名||51t||53t||1929年||1人個室×4部屋・2人個室×6部屋<br /> |-<br /> |マニ50 2236 ||[[ファイル:Mani50 2236 ORIENTEXPRESS&#039;88.jpg|80px]]||[[国鉄50系客車#郵便・荷物車|マニ50]]||控車||&amp;nbsp;||&amp;nbsp;||&amp;nbsp;||1981年||郵便・荷物輸送列車の廃止によって余剰となっていたマニ50形荷物車を、元来の車体色である青15号に加え、幕板部分のロゴと側面窓下に金色のストライプが施された。ワゴン・リの客車と連結する車端部の連結幌と連結器は、イントラフルーク社から提供を受けた部品を使用していた。リネン用倉庫として使用。列車の運行終了後は用途を失い、廃車となっている。<br /> |}<br /> <br /> またパリ発車時に連結されていたが、日本国内では運行されなかった客車は以下である&lt;ref name=&quot;rp504-65&quot;/&gt;。<br /> {| class=&quot;wikitable&quot; style=&quot;text-align:left&quot;<br /> |+<br /> ! 車両番号&lt;ref name=&quot;rp504-65&quot;/&gt; !! 形式&lt;ref name=&quot;rp504-65&quot;/&gt;!! 車両の種類&lt;ref name=&quot;rp504-65&quot;/&gt; !! 製造年 !! 備考<br /> |-<br /> |&amp;nbsp;||&amp;nbsp;||郵便車||&amp;nbsp;||テレビスタッフ用&lt;ref name=&quot;rp504-65<br /> &quot;/&gt;<br /> |-<br /> |4149 ||WSP&lt;ref name=&quot;1977-b-205&quot;/&gt; ||プルマン車||1929年&lt;ref name=&quot;1977-b-202&quot;/&gt;||食堂車として使用。食事は3354号車から提供&lt;ref name=&quot;tr168-50&quot;/&gt;。<br /> |-<br /> |3475 ||WLA Lx&lt;ref name=&quot;1977-b-202&quot;/&gt;||寝台車||1929年&lt;ref name=&quot;1977-b-202&quot;/&gt;||&amp;nbsp;<br /> |-<br /> |4013 ||&amp;nbsp;||シャワー車||1926年&lt;br /&gt;(1967年改造)&lt;ref name=&quot;tr168-54&quot;/&gt;||&amp;nbsp;<br /> |-<br /> |3851 ||WLA Yb&lt;ref name=&quot;tr168-54&quot;/&gt;||スタッフ車||1941年&lt;ref name=&quot;tr168-54&quot;/&gt;||&amp;nbsp;<br /> |}<br /> なおイントラフルーク社は旧[[ミトローパ]]の「[[ラインゴルト (列車)|ラインゴルト]]」用サロン車(No. 24507)も保有していたが、ソ連通過用の台車が作れなかったためオリエント・エクスプレス&#039;88には加わっていない&lt;ref name=&quot;tr179-7&quot;/&gt;。<br /> <br /> === 車両公開 ===<br /> 日本国内では、以下の各地で車両の一般公開が行われた。<br /> {| class=&quot;wikitable&quot;<br /> ! 日時 !! 場所<br /> |-<br /> | 1988年10月15日 || [[日立製作所笠戸事業所]]&lt;ref name=&quot;tr168-12&quot;/&gt;<br /> |-<br /> | 10月21日 - 23日 || [[品川駅]]&lt;ref name=&quot;dj61-116&quot;/&gt;<br /> |-<br /> | 10月25日 13:00 - 20:00 || [[白石駅 (JR北海道)|白石駅]]&lt;ref name=&quot;dj61-116&quot;/&gt;<br /> |-<br /> | 10月26日 9:00 - 12:00 || 白石駅&lt;ref name=&quot;dj61-116&quot;/&gt;<br /> |-<br /> | 10月27日 9:00 - 12:00 || [[五稜郭駅]]&lt;ref name=&quot;dj61-116&quot;/&gt;<br /> |-<br /> | 10月29日 11:00 - 14:30 || [[京都駅]]&lt;ref name=&quot;dj61-116&quot;/&gt;<br /> |-<br /> | 10月30日 13:30 - 15:45 || [[熊本駅]]&lt;ref name=&quot;dj61-116&quot;/&gt;<br /> |-<br /> | 11月1日 14:20 - 16:30 || [[高松駅 (香川県)|高松駅]]&lt;ref name=&quot;dj61-117&quot;/&gt;<br /> |-<br /> | 11月3日 10:30 - 16:00 || [[仙台駅]]&lt;ref name=&quot;dj61-117&quot;/&gt;<br /> |-<br /> | 11月5日 14:15 - 16:15 || [[大阪駅]]&lt;ref name=&quot;dj61-117&quot;/&gt;<br /> |-<br /> | 11月6日 10:00 - 16:15 || 大阪駅&lt;ref name=&quot;dj61-117&quot;/&gt;<br /> |-<br /> | 11月7日 11:00 - 15:00 || [[広島駅]]&lt;ref name=&quot;dj61-117&quot;/&gt;<br /> |-<br /> | 11月8日 10:15 - 16:30 || [[箱崎駅]]&lt;ref name=&quot;dj61-117&quot;/&gt;<br /> |-<br /> | 11月9日 10:30 - 17:30 || [[門司駅]]&lt;ref name=&quot;dj61-117&quot;/&gt;<br /> |-<br /> | 11月10日 7:00 - 19:00 || [[新倉敷駅]]&lt;ref name=&quot;dj61-117&quot;/&gt;<br /> |-<br /> | 11月11日 10:30 - 15:30 || [[静岡駅]]&lt;ref name=&quot;dj61-117&quot;/&gt;<br /> |-<br /> | 11月12日 9:00 - 20:00 || [[熱田駅]]&lt;ref name=&quot;dj61-117&quot;/&gt;<br /> |-<br /> | 11月15日 12:00 - 16:00 || [[青森駅]]&lt;ref name=&quot;dj61-117&quot;/&gt;<br /> |-<br /> | 11月17日 13:40 - 16:00 || [[秋田駅]]&lt;ref name=&quot;dj62-111&quot;/&gt;<br /> |-<br /> | 11月19日 10:00 - 14:30 || 大阪駅&lt;ref name=&quot;dj62-111&quot;/&gt;<br /> |-<br /> | 11月21日 12:30 - 16:00 || [[金沢駅]]&lt;ref name=&quot;dj62-111&quot;/&gt;<br /> |-<br /> | 11月23日 10:00 - 14:30 || 大阪駅&lt;ref name=&quot;dj62-112&quot;/&gt;<br /> |-<br /> | 11月29日 14:15 - 16:15 || [[博多駅]]&lt;ref name=&quot;dj62-112&quot;/&gt;<br /> |-<br /> | 12月1日 13:00 - 15:00 || 広島駅&lt;ref name=&quot;dj62-112&quot;/&gt;<br /> |-<br /> | 12月3日 14:15 - 16:15 || 博多駅&lt;ref name=&quot;dj62-113&quot;/&gt;<br /> |}<br /> また、日本国内運行に加わらなかったプルマン車、寝台車、シャワー車の3両が11月3日から12月4日まで[[汐留駅 (国鉄)|汐留駅]]跡地で展示された&lt;ref name=&quot;TVG27-42-32&quot;/&gt;。<br /> <br /> === テレビ放送 ===<br /> 放送日時は東京の[[フジテレビジョン]]のもの。<br /> {| class=&quot;wikitable&quot;<br /> ! 放送日時 !! タイトル<br /> |-<br /> | 9月7日 16:00-16:55 || オリエント急行 パリ・リヨン駅出発衛星生中継&lt;ref name=&quot;TVG27-36-123&quot;/&gt;<br /> |-<br /> | 9月15日 15:00 - 16:30 || オリエント急行との出会いから出発・ノボシビルスク到着まで&lt;ref name=&quot;TVG27-37-100&quot;/&gt;<br /> |-<br /> | 10月19日 19:30 - 20:54 || オリエント急行&#039;88 史上初! 華麗なる冒険の旅・愛と感動の1万8千キロ{{refnest|group=&quot;注釈&quot;|世界最長・ユーラシア大陸横断運転(世界最長運転)の終着駅・東京駅への到着を記念して製作された特番。東京駅で行われたギネスブック授賞式、並びに放送当日に行われた試乗会も収録した&lt;ref name=&quot;TVG27-42-28&quot;/&gt;}}<br /> |-<br /> | 11月16日 1:00 - 2:00&lt;br /&gt;(11月15日深夜) || オリエントエクスプレス&#039;88スペシャル&lt;ref name=&quot;TVG27-46-128&quot;/&gt;<br /> |-<br /> | 12月19日 1:00 - 1:55&lt;br /&gt;(12月18日深夜) || パリ発東京行きオリエント急行裏話&lt;ref name=&quot;TVG27-51-112&quot;/&gt;<br /> |-<br /> | 12月25日 16:05 - 17:30 || オリエントエクスプレス&#039;88 さよなら!オリエント急行{{refnest|group=&quot;注釈&quot;|今回の世界最長・ユーラシア大陸横断運転、並びに日本一周を含む日本ツアーの運行実現に携わったJRの工場関係者、及び世界最長運転・日本一周ツアーの参加者らをスタジオに招いて、[[土居まさる]]らとともに、取材映像を交えて振り返った番組&lt;ref name=&quot;TVG28-1-258&quot;/&gt;}}<br /> |}<br /> <br /> ===イメージソング===<br /> ;[[松田聖子]]「[[旅立ちはフリージア]]」:作詞…Seiko/作曲…[[タケカワユキヒデ]]<br /> <br /> == 脚注 ==<br /> {{脚注ヘルプ}}<br /> <br /> === 注釈 ===<br /> {{Reflist|group=&quot;注釈&quot;}}<br /> <br /> === 出典 ===<br /> {{Reflist|2|refs=<br /> &lt;ref name=&quot;NIOE-9&quot;&gt;[[#NIOE88|フジテレビ出版『これがオリエント急行だ』 p.9]]&lt;/ref&gt;<br /> &lt;ref name=&quot;NIOE-13&quot;&gt;[[#NIOE88|フジテレビ出版『これがオリエント急行だ』 p.13]]&lt;/ref&gt;<br /> &lt;ref name=&quot;NIOE-17&quot;&gt;[[#NIOE88|フジテレビ出版『これがオリエント急行だ』 p.17]]&lt;/ref&gt;<br /> &lt;ref name=&quot;NIOE-20&quot;&gt;[[#NIOE88|フジテレビ出版『これがオリエント急行だ』 p.20]]&lt;/ref&gt;<br /> &lt;ref name=&quot;NIOE-23&quot;&gt;[[#NIOE88|フジテレビ出版『これがオリエント急行だ』 p.23]]&lt;/ref&gt;<br /> &lt;ref name=&quot;NIOE-27&quot;&gt;[[#NIOE88|フジテレビ出版『これがオリエント急行だ』 p.27]]&lt;/ref&gt;<br /> &lt;ref name=&quot;NIOE-29&quot;&gt;[[#NIOE88|フジテレビ出版『これがオリエント急行だ』 p.29]]&lt;/ref&gt;<br /> &lt;ref name=&quot;NIOE-122&quot;&gt;[[#NIOE88|フジテレビ出版『これがオリエント急行だ』 p.122]]&lt;/ref&gt;<br /> &lt;ref name=&quot;NIOE-124&quot;&gt;[[#NIOE88|フジテレビ出版『これがオリエント急行だ』 p.124]]&lt;/ref&gt;<br /> &lt;ref name=&quot;NIOE-125&quot;&gt;[[#NIOE88|フジテレビ出版『これがオリエント急行だ』 p.125]]&lt;/ref&gt;<br /> &lt;ref name=&quot;NIOE-128&quot;&gt;[[#NIOE88|フジテレビ出版『これがオリエント急行だ』 p.128]]&lt;/ref&gt;<br /> &lt;ref name=&quot;NIOE-131&quot;&gt;[[#NIOE88|フジテレビ出版『これがオリエント急行だ』 p.131]]&lt;/ref&gt;<br /> &lt;ref name=&quot;NIOE-132&quot;&gt;[[#NIOE88|フジテレビ出版『これがオリエント急行だ』 p.132]]&lt;/ref&gt;<br /> &lt;ref name=&quot;NIOE-132-133&quot;&gt;[[#NIOE88|フジテレビ出版『これがオリエント急行だ』 pp.132-133]]&lt;/ref&gt;<br /> &lt;ref name=&quot;NIOE-133&quot;&gt;[[#NIOE88|フジテレビ出版『これがオリエント急行だ』 p.133]]&lt;/ref&gt;<br /> &lt;ref name=&quot;NIOE-137&quot;&gt;[[#NIOE88|フジテレビ出版『これがオリエント急行だ』 p.137]]&lt;/ref&gt;<br /> &lt;ref name=&quot;NIOE-138&quot;&gt;[[#NIOE88|フジテレビ出版『これがオリエント急行だ』 p.138]]&lt;/ref&gt;<br /> &lt;ref name=&quot;NIOE-141&quot;&gt;[[#NIOE88|フジテレビ出版『これがオリエント急行だ』 p.141]]&lt;/ref&gt;<br /> &lt;ref name=&quot;NIOE-146&quot;&gt;[[#NIOE88|フジテレビ出版『これがオリエント急行だ』 p.146]]&lt;/ref&gt;<br /> &lt;ref name=&quot;NIOE-148&quot;&gt;[[#NIOE88|フジテレビ出版『これがオリエント急行だ』 p.148]]&lt;/ref&gt;<br /> &lt;ref name=&quot;NIOE-155&quot;&gt;[[#NIOE88|フジテレビ出版『これがオリエント急行だ』 p.155]]&lt;/ref&gt;<br /> &lt;ref name=&quot;NIOE-156&quot;&gt;[[#NIOE88|フジテレビ出版『これがオリエント急行だ』 p.156]]&lt;/ref&gt;<br /> &lt;ref name=&quot;1998-y-247&quot;&gt;[[#山之内1998|山之内秀一郎『新幹線がなかったら』 p.247]]&lt;/ref&gt;<br /> &lt;ref name=&quot;2012-a-169&quot;&gt;[[#青田2012|青田孝『蒸気機関車の動態保存』 p.169]]&lt;/ref&gt;<br /> &lt;ref name=&quot;2012-a-170&quot;&gt;[[#青田2012|青田孝『蒸気機関車の動態保存』 p.170]]&lt;/ref&gt;<br /> &lt;ref name=&quot;letrain&quot;&gt;{{cite web||url=http://www.lalique-museum.com/letrain/index.html|title=ラリックの手がけたオリエント急行|publisher=[[箱根ラリック美術館]]|language=日本語|accessdate=2013-09-06}}&lt;/ref&gt;<br /> &lt;ref name=&quot;rf333-13&quot;&gt;[[#曽我333|鉄道ファン 通巻333号 『特別企画 オリエント急行日本一周』 p.13]]&lt;/ref&gt;<br /> &lt;ref name=&quot;rf333-14&quot;&gt;[[#曽我333|鉄道ファン 通巻333号 『特別企画 オリエント急行日本一周』 p.14]]&lt;/ref&gt;<br /> &lt;ref name=&quot;rf333-16&quot;&gt;[[#曽我333|鉄道ファン 通巻333号 『特別企画 オリエント急行日本一周』 p.16]]&lt;/ref&gt;<br /> &lt;ref name=&quot;rf333-22&quot;&gt;[[#曽我333|鉄道ファン 通巻333号 曽我祐行『”オリエント急行”の車両と乗り組む人たち』 p.22]]&lt;/ref&gt;<br /> &lt;ref name=&quot;rf333-35&quot;&gt;[[#吉村333|鉄道ファン 通巻333号 吉村光夫『スーパージョイフルトレイン ”オリエント急行”東京へ』 p.35]]&lt;/ref&gt;<br /> &lt;ref name=&quot;rf334-93&quot;&gt;[[#曽我334|鉄道ファン 通巻334号 曽我祐行『”オリエント急行”運行奮戦記』 p.93]]&lt;/ref&gt;<br /> &lt;ref name=&quot;rf334-94&quot;&gt;[[#曽我334|鉄道ファン 通巻334号 曽我祐行『”オリエント急行”運行奮戦記』 p.94]]&lt;/ref&gt;<br /> &lt;ref name=&quot;rf335-111&quot;&gt;[[#曽我335|鉄道ファン 通巻335号 曽我祐行『”オリエント急行”裏方日記』 p.111]]&lt;/ref&gt;<br /> &lt;ref name=&quot;rf335-112&quot;&gt;[[#曽我335|鉄道ファン 通巻335号 曽我祐行『”オリエント急行”裏方日記』 p.112]]&lt;/ref&gt;<br /> &lt;ref name=&quot;rf335-113&quot;&gt;[[#曽我335|鉄道ファン 通巻335号 曽我祐行『”オリエント急行”裏方日記』 p.113]]&lt;/ref&gt;<br /> &lt;ref name=&quot;rf335-75&quot;&gt;[[#沼田335|鉄道ファン 通巻335号 沼田篤良『”オリエント急行”のプロジェクトを完遂して』 p.75]]&lt;/ref&gt;<br /> &lt;ref name=&quot;rf335-76&quot;&gt;[[#沼田335|鉄道ファン 通巻335号 沼田篤良『”オリエント急行”のプロジェクトを完遂して』 p.76]]&lt;/ref&gt;<br /> &lt;ref name=&quot;rf335-76-77&quot;&gt;[[#沼田335|鉄道ファン 通巻335号 沼田篤良『”オリエント急行”のプロジェクトを完遂して』 pp.76-77]]&lt;/ref&gt;<br /> &lt;ref name=&quot;rf335-77&quot;&gt;[[#沼田335|鉄道ファン 通巻335号 沼田篤良『”オリエント急行”のプロジェクトを完遂して』 p.77]]&lt;/ref&gt;<br /> &lt;ref name=&quot;rf335-78&quot;&gt;[[#沼田335|鉄道ファン 通巻335号 沼田篤良『”オリエント急行”のプロジェクトを完遂して』 p.78]]&lt;/ref&gt;<br /> &lt;ref name=&quot;rj266-41&quot;&gt;[[#RJ266|鉄道ジャーナル 通巻266号 『オリエント急行 東洋への旅』 p.41]]&lt;/ref&gt;<br /> &lt;ref name=&quot;rj267-126&quot;&gt;[[#種村267|鉄道ジャーナル 通巻267号 『1988年10月のできごと』 p.126]]&lt;/ref&gt;<br /> &lt;ref name=&quot;rj267-79&quot;&gt;[[#南267|鉄道ジャーナル 通巻267号 南正時『オリエントエクスプレス イン ジャパン』 p.79]]&lt;/ref&gt;<br /> &lt;ref name=&quot;rj267-80&quot;&gt;[[#南267|鉄道ジャーナル 通巻267号 南正時『オリエントエクスプレス イン ジャパン』 p.80]]&lt;/ref&gt;<br /> &lt;ref name=&quot;rj267-81&quot;&gt;[[#南267|鉄道ジャーナル 通巻267号 南正時『オリエントエクスプレス イン ジャパン』 p.81]]&lt;/ref&gt;<br /> &lt;ref name=&quot;rj267-86&quot;&gt;[[#南267|鉄道ジャーナル 通巻267号 南正時『オリエントエクスプレス イン ジャパン』 p.86]]&lt;/ref&gt;<br /> &lt;ref name=&quot;rj267-89&quot;&gt;[[#南267|鉄道ジャーナル 通巻267号 南正時『オリエントエクスプレス イン ジャパン』 p.89]]&lt;/ref&gt;<br /> &lt;ref name=&quot;rj267-91&quot;&gt;[[#南267|鉄道ジャーナル 通巻267号 南正時『オリエントエクスプレス イン ジャパン』 p.91]]&lt;/ref&gt;<br /> &lt;ref name=&quot;rj267-94&quot;&gt;[[#南267|鉄道ジャーナル 通巻267号 南正時『オリエントエクスプレス イン ジャパン』 p.94]]&lt;/ref&gt;<br /> &lt;ref name=&quot;rj267-95&quot;&gt;[[#南267|鉄道ジャーナル 通巻267号 南正時『オリエントエクスプレス イン ジャパン』 p.95]]&lt;/ref&gt;<br /> &lt;ref name=&quot;rj268-117&quot;&gt;[[#RJ268|鉄道ジャーナル 通巻268号 『RAILWAY TOPICS』 p.117]]&lt;/ref&gt;<br /> &lt;ref name=&quot;rj268-138&quot;&gt;[[#山之内268|鉄道ジャーナル 通巻268号 山之内秀一郎『オリエント急行の国内運転実現まで』 p.138]]&lt;/ref&gt;<br /> &lt;ref name=&quot;rj268-140&quot;&gt;[[#山之内268|鉄道ジャーナル 通巻268号 山之内秀一郎『オリエント急行の国内運転実現まで』 p.140]]&lt;/ref&gt;<br /> &lt;ref name=&quot;rj268-140-141&quot;&gt;[[#山之内268|鉄道ジャーナル 通巻268号 山之内秀一郎『オリエント急行の国内運転実現まで』 pp.140-141]]&lt;/ref&gt;<br /> &lt;ref name=&quot;rj268-141&quot;&gt;[[#山之内268|鉄道ジャーナル 通巻268号 山之内秀一郎『オリエント急行の国内運転実現まで』 p.141]]&lt;/ref&gt;<br /> &lt;ref name=&quot;rj268-142&quot;&gt;[[#山之内268|鉄道ジャーナル 通巻268号 山之内秀一郎『オリエント急行の国内運転実現まで』 p.142]]&lt;/ref&gt;<br /> &lt;ref name=&quot;rj268-143&quot;&gt;[[#山之内268|鉄道ジャーナル 通巻268号 山之内秀一郎『オリエント急行の国内運転実現まで』 p.143]]&lt;/ref&gt;<br /> &lt;ref name=&quot;rj268-144&quot;&gt;[[#沼田268|鉄道ジャーナル 通巻268号 沼田篤良『”夢の企画”の舞台裏で』 p.144]]&lt;/ref&gt;<br /> &lt;ref name=&quot;rj268-145&quot;&gt;[[#沼田268|鉄道ジャーナル 通巻268号 沼田篤良『”夢の企画”の舞台裏で』 p.145]]&lt;/ref&gt;<br /> &lt;ref name=&quot;rj268-146&quot;&gt;[[#沼田268|鉄道ジャーナル 通巻268号 沼田篤良『”夢の企画”の舞台裏で』 p.146]]&lt;/ref&gt;<br /> &lt;ref name=&quot;rj268-147&quot;&gt;[[#沼田268|鉄道ジャーナル 通巻268号 沼田篤良『”夢の企画”の舞台裏で』 p.147]]&lt;/ref&gt;<br /> &lt;ref name=&quot;rj269-109&quot;&gt;[[#RJ269|鉄道ジャーナル 通巻269号 『RAILWAY TOPICS』 p.109]]&lt;/ref&gt;<br /> &lt;ref name=&quot;rj269-110&quot;&gt;[[#RJ269|鉄道ジャーナル 通巻269号 『RAILWAY TOPICS』 p.110]]&lt;/ref&gt;<br /> &lt;ref name=&quot;rj505-104&quot;&gt;[[#辻村505|鉄道ジャーナル 通巻505号 『オリエント急行来日のはなし』 p.104]]&lt;/ref&gt;<br /> &lt;ref name=&quot;rj505-105&quot;&gt;[[#辻村505|鉄道ジャーナル 通巻505号 『オリエント急行来日のはなし』 p.105]]&lt;/ref&gt;<br /> &lt;ref name=&quot;rj505-105-106&quot;&gt;[[#辻村505|鉄道ジャーナル 通巻505号 『オリエント急行来日のはなし』 pp.105-106]]&lt;/ref&gt;<br /> &lt;ref name=&quot;rj505-106&quot;&gt;[[#辻村505|鉄道ジャーナル 通巻505号 『オリエント急行来日のはなし』 p.106]]&lt;/ref&gt;<br /> &lt;ref name=&quot;rj505-107&quot;&gt;[[#辻村505|鉄道ジャーナル 通巻505号 『オリエント急行来日のはなし』 p.107]]&lt;/ref&gt;<br /> &lt;ref name=&quot;rp504-65&quot;&gt;[[#松本504|鉄道ピクトリアル 通巻504号 松本禎夫『オリエントエキスプレスの車両と運転』 p.65]]&lt;/ref&gt;<br /> &lt;ref name=&quot;rp504-67&quot;&gt;[[#松本504|鉄道ピクトリアル 通巻504号 松本禎夫『オリエントエキスプレスの車両と運転』 p.67]]&lt;/ref&gt;<br /> &lt;ref name=&quot;rp513-64&quot;&gt;[[#秋山513|鉄道ピクトリアル 通巻513号 秋山勲『オリエント急行始末記』 p.64]]&lt;/ref&gt;<br /> &lt;ref name=&quot;rp513-65&quot;&gt;[[#秋山513|鉄道ピクトリアル 通巻513号 秋山勲『オリエント急行始末記』 p.65]]&lt;/ref&gt;<br /> &lt;ref name=&quot;rp513-66&quot;&gt;[[#秋山513|鉄道ピクトリアル 通巻513号 秋山勲『オリエント急行始末記』 p.66]]&lt;/ref&gt;<br /> &lt;ref name=&quot;rp513-67&quot;&gt;[[#秋山513|鉄道ピクトリアル 通巻513号 秋山勲『オリエント急行始末記』 p.67]]&lt;/ref&gt;<br /> &lt;ref name=&quot;1977-b-202&quot;&gt;[[#Behrend1977|George Behrend &quot;Histoire des Trains de Luxe&quot; p.202]]&lt;/ref&gt;<br /> &lt;ref name=&quot;1977-b-205&quot;&gt;[[#Behrend1977|George Behrend &quot;Histoire des Trains de Luxe&quot; p.205]]&lt;/ref&gt;<br /> &lt;ref name=&quot;1992-a-103&quot;&gt;[[#安部1992|安部譲二『大列車旅行』 p.103]]&lt;/ref&gt;<br /> &lt;ref name=&quot;1992-a-104&quot;&gt;[[#安部1992|安部譲二『大列車旅行』 p.104]]&lt;/ref&gt;<br /> &lt;ref name=&quot;1992-a-125&quot;&gt;[[#安部1992|安部譲二『大列車旅行』 p.125]]&lt;/ref&gt;<br /> &lt;ref name=&quot;1992-a-130&quot;&gt;[[#安部1992|安部譲二『大列車旅行』 p.130]]&lt;/ref&gt;<br /> &lt;ref name=&quot;dj61-116&quot;&gt;[[#ダイヤ情報61|鉄道ダイヤ情報 通巻61号 『ORIENT EXPRESS運転計画表 10/16〜11/15』 p.116]]&lt;/ref&gt;<br /> &lt;ref name=&quot;dj61-117&quot;&gt;[[#ダイヤ情報61|鉄道ダイヤ情報 通巻61号 『ORIENT EXPRESS運転計画表 10/16〜11/15』 p.117]]&lt;/ref&gt;<br /> &lt;ref name=&quot;dj62-111&quot;&gt;[[#ダイヤ情報62|鉄道ダイヤ情報 通巻62号 『ORIENT EXPRESS運転計画表 11/15〜12/26』 p.111]]&lt;/ref&gt;<br /> &lt;ref name=&quot;dj62-112&quot;&gt;[[#ダイヤ情報62|鉄道ダイヤ情報 通巻62号 『ORIENT EXPRESS運転計画表 11/15〜12/26』 p.112]]&lt;/ref&gt;<br /> &lt;ref name=&quot;dj62-113&quot;&gt;[[#ダイヤ情報62|鉄道ダイヤ情報 通巻62号 『ORIENT EXPRESS運転計画表 11/15〜12/26』 p.113]]&lt;/ref&gt;<br /> &lt;ref name=&quot;rj366-57&quot;&gt;[[#種村366|鉄道ジャーナル 通巻366号 種村直樹『”夜行列車”の生きる道をさぐる』 p.57]]&lt;/ref&gt;<br /> &lt;ref name=&quot;rf332-86&quot;&gt;[[#曽我332|鉄道ファン 通巻332号 曽我祐行『”オリエント急行”がパリを発車するまで』 p.86]]&lt;/ref&gt;<br /> &lt;ref name=&quot;rf332-87&quot;&gt;[[#曽我332|鉄道ファン 通巻332号 曽我祐行『”オリエント急行”がパリを発車するまで』 p.87]]&lt;/ref&gt;<br /> &lt;ref name=&quot;rf333-26&quot;&gt;[[#曽我333|鉄道ファン 通巻333号 曽我祐行『”オリエント急行”の車両と乗り組む人たち』 p.26]]&lt;/ref&gt;<br /> &lt;ref name=&quot;rf333-28&quot;&gt;[[#吉村333|鉄道ファン 通巻333号 吉村光夫『スーパージョイフルトレイン ”オリエント急行”東京へ』 p.28]]&lt;/ref&gt;<br /> &lt;ref name=&quot;rf333-31&quot;&gt;[[#吉村333|鉄道ファン 通巻333号 吉村光夫『スーパージョイフルトレイン ”オリエント急行”東京へ』 p.31]]&lt;/ref&gt;<br /> &lt;ref name=&quot;tr168-12&quot;&gt;[[#松本168|とれいん 通巻168号 松本謙一『フジテレビジョン開局30周年記念特別企画 オリエント・エクスプレス&#039;88同乗ルポ ルネ・ブーベンドルフの挑戦』 p.12]]&lt;/ref&gt;<br /> &lt;ref name=&quot;tr168-16&quot;&gt;[[#松本168|とれいん 通巻168号 松本謙一『フジテレビジョン開局30周年記念特別企画 オリエント・エクスプレス&#039;88同乗ルポ ルネ・ブーベンドルフの挑戦』 p.16]]&lt;/ref&gt;<br /> &lt;ref name=&quot;tr168-25&quot;&gt;[[#松本168|とれいん 通巻168号 松本謙一『フジテレビジョン開局30周年記念特別企画 オリエント・エクスプレス&#039;88同乗ルポ ルネ・ブーベンドルフの挑戦』 p.25]]&lt;/ref&gt;<br /> &lt;ref name=&quot;tr168-28&quot;&gt;[[#松本168|とれいん 通巻168号 松本謙一『フジテレビジョン開局30周年記念特別企画 オリエント・エクスプレス&#039;88同乗ルポ ルネ・ブーベンドルフの挑戦』 p.28]]&lt;/ref&gt;<br /> &lt;ref name=&quot;tr168-39&quot;&gt;[[#とれいんNIOE168|とれいん 通巻168号 『ノスタルジー・イスタンブール・オリエント・エクスプレスの客車たち』 p.39]]&lt;/ref&gt;<br /> &lt;ref name=&quot;tr168-41&quot;&gt;[[#とれいんNIOE168|とれいん 通巻168号 『ノスタルジー・イスタンブール・オリエント・エクスプレスの客車たち』 p.41]]&lt;/ref&gt;<br /> &lt;ref name=&quot;tr168-46&quot;&gt;[[#とれいんNIOE168|とれいん 通巻168号 『ノスタルジー・イスタンブール・オリエント・エクスプレスの客車たち』 p.46]]&lt;/ref&gt;<br /> &lt;ref name=&quot;tr168-50&quot;&gt;[[#とれいんNIOE168|とれいん 通巻168号 『ノスタルジー・イスタンブール・オリエント・エクスプレスの客車たち』 p.50]]&lt;/ref&gt;<br /> &lt;ref name=&quot;tr168-54&quot;&gt;[[#とれいんNIOE168|とれいん 通巻168号 『ノスタルジー・イスタンブール・オリエント・エクスプレスの客車たち』 p.54]]&lt;/ref&gt;<br /> &lt;ref name=&quot;tr179-7&quot;&gt;[[#佐々木・島野179|とれいん 通巻169号 佐々木直樹、島野崇文『オリエント急行来日1周年 NIOEはいま』 p.7]]&lt;/ref&gt;<br /> &lt;ref name=&quot;tr179-10&quot;&gt;[[#佐々木・島野179|とれいん 通巻169号 佐々木直樹、島野崇文『オリエント急行来日1周年 NIOEはいま』 p.10]]&lt;/ref&gt;<br /> &lt;ref name=&quot;TVG27-36-123&quot;&gt;[[#TVガイド|週刊TVガイド 27巻36号 p.123]]&lt;/ref&gt;<br /> &lt;ref name=&quot;TVG27-37-100&quot;&gt;[[#TVガイド|週刊TVガイド 27巻37号 p.100]]&lt;/ref&gt;<br /> &lt;ref name=&quot;TVG27-42-28&quot;&gt;[[#TVガイド|週刊TVガイド 27巻42号 『”青い貴婦人”がいよいよ日本を走る』 p.28]]&lt;/ref&gt;<br /> &lt;ref name=&quot;TVG27-42-29&quot;&gt;[[#TVガイド|週刊TVガイド 27巻42号 『”青い貴婦人”がいよいよ日本を走る』 p.29]]&lt;/ref&gt;<br /> &lt;ref name=&quot;TVG27-42-32&quot;&gt;[[#TVガイド|週刊TVガイド 27巻42号 『”青い貴婦人”がいよいよ日本を走る』 p.32]]&lt;/ref&gt;<br /> &lt;ref name=&quot;TVG27-46-128&quot;&gt;[[#TVガイド|週刊TVガイド 27巻46号 p.128]]&lt;/ref&gt;<br /> &lt;ref name=&quot;TVG27-51-112&quot;&gt;[[#TVガイド|週刊TVガイド 27巻51号 p.112]]&lt;/ref&gt;<br /> &lt;ref name=&quot;TVG28-1-258&quot;&gt;[[#TVガイド|週刊TVガイド 28巻1号 p.258]]&lt;/ref&gt;<br /> &lt;ref name=&quot;asahi19880830&quot;&gt;朝日新聞 1988年8月30日朝刊 30頁 『豪華オリエント急行国内ツアー JR東日本』&lt;/ref&gt;<br /> &lt;ref name=&quot;asahi19881018&quot;&gt;[[朝日新聞]] 1988年10月18日夕刊 12頁『欧州の豪華列車”オリエント急行”が東京着』&lt;/ref&gt;<br /> &lt;ref name=&quot;asahi19881220&quot;&gt;朝日新聞 1988年12月20日朝刊 27頁 『オリエント急行が新潟で立往生 連結部分が外れる』&lt;/ref&gt;<br /> &lt;ref name=&quot;asahi19881220e&quot;&gt;朝日新聞 1988年12月20日夕刊 12頁 『企画列車”オリエント急行”復旧』&lt;/ref&gt;<br /> &lt;ref name=&quot;yomiuri19880830&quot;&gt;読売新聞 1988年8月30日朝刊 30頁 『88万円 究極の日本一周ツアー JRが”オリエント急行の旅”募集』&lt;/ref&gt;<br /> &lt;ref name=&quot;yomiuri19881006&quot;&gt;[[読売新聞]] 1988年10月6日朝刊 31頁『”オリエント急行”の国内ツアーに約13倍の応募』&lt;/ref&gt;<br /> &lt;ref name=&quot;nikkei19881017&quot;&gt;[[日本経済新聞]] 1988年10月17日朝刊 35頁 『JR東日本 万歳 オリエント急行人気』&lt;/ref&gt;<br /> }}<br /> <br /> == 参考文献 ==<br /> === 書籍 ===<br /> * {{Cite book|和書|author = 青田孝|authorlink = |coauthors = |year = 2012|title = 蒸気機関車の動態保存 地方私鉄の救世主になりうるか |publisher = [[交通新聞社]]|ref = 青田2012|id = |isbn = 978-4330300122}}<br /> * {{Cite book|和書|author = [[安部譲二]] |authorlink = |coauthors = |year = 1992 |title = 大列車旅行 |publisher = [[文藝春秋]] |ref = 安部1992 |id = |isbn = 4163465308}}<br /> * {{Cite book|和書|author = [[山之内秀一郎]]|authorlink = |coauthors = |year = 1998|title = 新幹線がなかったら |publisher = [[東京新聞]]出版局|ref = 山之内1998|id = |isbn = 4808306581}}<br /> * {{Cite book|和書|author = |authorlink = |coauthors = |year = 1988|title = これがオリエント急行だ 「ブルーのプリマドンナ」のすべて|publisher = フジテレビ出版|ref = NIOE88|id = |isbn = 4594003575}}<br /> * {{Cite book|last= Behrend|first= George|year= 1977|title= Histoire des Trains de Luxe|publisher=Office du Livre|location=Fribourg|language= フランス語|ref=Behrend1977}}<br /> <br /> === 雑誌記事 ===<br /> * {{Cite journal|和書|author=秋山勲 |year=1989 |month=6 |title=オリエント急行始末記 |journal= [[鉄道ピクトリアル]]|issue=513 |pages= 64-67 |publisher= [[電気車研究会]]|ref = 秋山513}}<br /> * {{Cite journal|和書|author=佐々木直樹 |coauthor=島野崇文| year= 1989|month=11 |title= オリエント急行来日1周年 NIOEはいま |journal=[[とれいん (雑誌)|とれいん]] |issue=179 |pages= 6-11 |publisher=[[エリエイ|プレス・アイゼンバーン]] |ref = 佐々木・島野179}}<br /> * {{Cite journal|和書|author=曽我祐行 |year= 1988|month=12 |title=”オリエント急行”がパリを発車するまで |journal=[[鉄道ファン (雑誌)|鉄道ファン]] |issue=332 |pages= 84-87 |publisher=[[交友社]] |ref = 曽我332}}<br /> * {{Cite journal|和書|author=曽我祐行 |year= 1989|month=1 |title=”オリエント急行”の車両と乗り組む人たち |journal=鉄道ファン |issue=333 |pages= 22-26 |publisher=[[交友社]] |ref = 曽我333}}<br /> * {{Cite journal|和書|author=曽我祐行 |year= 1989|month=2 |title=”オリエント急行”運行奮戦記 |journal=鉄道ファン |issue=334 |pages= 92-94 |publisher=交友社 |ref = 曽我334}}<br /> * {{Cite journal|和書|author=曽我祐行 |year= 1989|month=3 |title=”オリエント急行”裏方日記 |journal=鉄道ファン |issue=335 |pages= 111-113 |publisher=交友社 |ref = 曽我335}}<br /> * {{Cite journal|和書|author=[[種村直樹]] |year= 1997|month= 4 |title=”夜行列車”の生きる道をさぐる |journal=鉄道ジャーナル |issue=366 |pages= 53-58 |publisher=鉄道ジャーナル社 |ref = 種村366}}<br /> * {{Cite journal|和書|author=床下の仕掛人(辻村功) |year= 2008|month= 11 |title=電車まんだら 21 オリエント急行来日のはなし |journal=[[鉄道ジャーナル]] |issue=505 |pages=104-107 |publisher=鉄道ジャーナル社 |ref = 辻村505}}<br /> * {{Cite journal|和書|author=沼田篤良 |year= 1989|month= 2 |title=”夢の企画”の舞台裏で |journal=鉄道ジャーナル |issue=267 |pages= 143-147 |publisher=鉄道ジャーナル社 |ref = 沼田268}}<br /> * {{Cite journal|和書|author=沼田篤良 |year= 1989|month=3 |title=”オリエント急行”のプロジェクトを完遂して |journal=鉄道ファン |issue=335 |pages= 72-78 |publisher=交友社 |ref = 沼田335}}<br /> * {{Cite journal|和書|author=[[松本謙一]] |year= 1988 |month=12 |title= フジテレビジョン開局30周年記念特別企画 オリエント・エクスプレス&#039;88同乗ルポ ルネ・ブーベンドルフの挑戦 |journal=とれいん |issue=168 |pages= 12-37 |publisher=プレス・アイゼンバーン |ref = 松本168}}<br /> * {{Cite journal|和書|author=松本禎夫 |year=1989 |month=6 |title=オリエントエキスプレスの車両と運転 |journal= 鉄道ピクトリアル|issue=504 |pages= 64-67 |publisher= 電気車研究会|ref = 松本504}}<br /> * {{Cite journal|和書|author=[[南正時]] |year= 1989|month= 1 |title=オリエントエクスプレス イン ジャパン |journal=鉄道ジャーナル |issue=267 |pages= 79-95 |publisher=鉄道ジャーナル社 |ref = 南267}}<br /> * {{Cite journal|和書|author=山之内秀一郎 |year= 1989|month= 2 |title=オリエント急行の国内運転実現まで |journal=鉄道ジャーナル |issue=267 |pages= 138-143 |publisher=鉄道ジャーナル社 |ref = 山之内268}}<br /> * {{Cite journal|和書|author=[[吉村光夫]] |year= 1989|month=1 |title=スーパージョイフルトレイン ”オリエント急行”東京へ |journal=鉄道ファン |issue=333 |pages= 27-35 |publisher=交友社 |ref = 吉村333}}<br /> * {{Cite journal|和書|author=|year= 1988|month= 12 |title=オリエント急行 東洋への旅 |journal=鉄道ジャーナル |issue=266 |page= 40-42 |publisher=鉄道ジャーナル社 |ref = RJ266}}<br /> * {{Cite journal|和書|author= |year= 1989|month=1 |title=特別企画 オリエント急行日本一周 |journal=鉄道ファン |issue=333 |pages= 9-19 |publisher=交友社 |ref = RF333}}<br /> * {{Cite journal|和書|author= |year= 1988 |month=12 |title= ノスタルジー・イスタンブール・オリエント・エクスプレスの客車たち |journal=とれいん |issue=168 |pages= 38-54 |publisher=プレス・アイゼンバーン |ref = とれいんNIOE168}}<br /> * {{Cite journal|和書|author=|year= 1989|month= 1 |title=1988年10月のできごと |journal=鉄道ジャーナル |issue=267 |page= 126 |publisher=鉄道ジャーナル社 |ref = 種村267}}<br /> * {{Cite journal|和書|author= |year= 1988|month= 11 |title=ORIENT EXPRESS運転計画表 10/16〜11/15 |journal=[[鉄道ダイヤ情報]] |issue=61 |pages= 116-117 |publisher=[[交通新聞社]] |ref = ダイヤ情報61}}<br /> * {{Cite journal|和書|author= |year= 1988|month= 12 |title=ORIENT EXPRESS運転計画表 11/15〜12/26 |journal=鉄道ダイヤ情報 |issue=62 |pages= 111-115 |publisher=交通新聞社 |ref = ダイヤ情報62}}<br /> * {{Cite journal|和書|author=|year= 1989|month= 2 |title=RAILWAY TOPICS |journal=鉄道ジャーナル |issue=268 |page= 117-123 |publisher=鉄道ジャーナル社 |ref = RJ268}}<br /> * {{Cite journal|和書|author=|year= 1989|month= 3 |title=RAILWAY TOPICS |journal=鉄道ジャーナル |issue=269 |page= 109-115 |publisher=鉄道ジャーナル社 |ref = RJ269}}<br /> * {{Cite journal|和書|journal=[[週刊TVガイド]] |publisher= [[東京ニュース通信社]]|ref=TVガイド}} 各号<br /> <br /> == 関連項目 ==<br /> {{Commons|Category:Orient Express &#039;88}}<br /> *[[オリエント急行]]<br /> *[[ベニス・シンプロン・オリエント・エクスプレス]]<br /> *[[ノスタルジー・イスタンブール・オリエント急行]]<br /> {{フジテレビジョン}}<br /> {{JR東日本の車両リスト}}<br /> {{Good article}}<br /> <br /> {{デフォルトソート:おりえんとえくすふれす88}}<br /> [[Category:フジテレビのイベント]]<br /> [[Category:かつて存在した日本のイベント]]<br /> [[Category:フジテレビの歴史]]<br /> [[Category:JRグループの歴史]]<br /> [[Category:日立グループの歴史]]<br /> [[Category:1988年の鉄道]]<br /> [[Category:1988年のフランス]]<br /> [[Category:1988年のベルギー]]<br /> [[Category:1988年の西ドイツ]]<br /> [[Category:1988年の東ドイツ]]<br /> [[Category:1988年のポーランド]]<br /> [[Category:1988年のソビエト連邦]]<br /> [[Category:1988年の中華人民共和国]]<br /> [[Category:1988年の香港]]<br /> [[Category:1988年の日本]]<br /> [[Category:1988年9月]]<br /> [[Category:1988年10月]]<br /> [[Category:1988年11月]]<br /> [[Category:1988年12月]]<br /> [[Category:臨時列車]]<br /> [[Category:東日本旅客鉄道の列車|廃おりえんとえくすふれす]]<br /> [[Category:西日本旅客鉄道の列車|廃おりえんとえくすふれす]]<br /> [[Category:東海旅客鉄道の列車|廃おりえんとえくすふれす]]<br /> [[Category:北海道旅客鉄道の列車|廃おりえんとえくすふれす]]<br /> [[Category:九州旅客鉄道の列車|廃おりえんとえくすふれす]]<br /> [[Category:四国旅客鉄道の列車|廃おりえんとえくすふれす]]</div> 153.125.1.34 ユズ 2018-07-16T11:20:19Z <p>153.125.1.34: /* 日本の主な産地 */</p> <hr /> <div>{{Otheruseslist|果実|同名の音楽グループ|ゆず (音楽グループ)|その他の用法|ゆず (曖昧さ回避)}}<br /> {{生物分類表<br /> |色 = 植物界<br /> |名称 = ユズ<br /> |画像 = [[ファイル:Yuzu oranges (6459456959).jpg|250px|ユズの果実]]<br /> |画像キャプション = ユズの果実(2004年11月4日)<br /> |界 = [[植物界]] {{Sname||Plantae}}<br /> |門階級なし = [[被子植物]] {{Sname||angiosperms}}<br /> |綱階級なし = [[真正双子葉類]] {{Sname||eudicots}}<br /> |目 = [[ムクロジ目]] {{Sname||Sapindales}}<br /> |科 = [[ミカン科]] {{Sname||Rutaceae}}<br /> |属 = [[ミカン属]] {{Snamei||Citrus}}<br /> |種 = &#039;&#039;&#039;ユズ&#039;&#039;&#039; {{Snamei|C. junos}}<br /> |学名 = {{Snamei|Citrus junos}}&lt;br /&gt;({{AU|Makino}}) {{AU|[[フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト|Siebold]]}} ex {{AU|Tanaka}}&lt;ref name=&quot;YList&quot;&gt;{{YList<br /> |id = 9559<br /> |taxon = Citrus junos (Makino) Siebold ex Tanaka<br /> |accessdate = 2014-11-30<br /> |ref = YList<br /> }}&lt;/ref&gt;<br /> |シノニム = &#039;&#039;C. ichangensis x C. reticulata&#039;&#039; var.austera<br /> |英名 = [[:en:Yuzu|Yuzu]]<br /> |下位分類名 = <br /> |下位分類 = <br /> }}<br /> &#039;&#039;&#039;ユズ&#039;&#039;&#039;(柚子、[[学名]]:{{Snamei|Citrus junos}})は[[ミカン属]]の[[常緑]][[小高木]]。[[柑橘類]]の1つ。&#039;&#039;&#039;ホンユズ&#039;&#039;&#039;とも呼ばれる。消費量・生産量ともに[[日本]]が最大である。<br /> <br /> [[果実]]が小形で早熟性の&#039;&#039;&#039;[[ハナユ]]&#039;&#039;&#039;(ハナユズ、一才ユズ、{{Snamei|Citrus hanayu}})とは別種である。日本では両方をユズと言い、混同している場合が多い。また、獅子柚子(鬼柚子)は果実の形状からユズの仲間として扱われることがあるが、分類上は[[ザボン]]や[[ブンタン]]の仲間であり、別種である。<br /> <br /> == 名称 ==<br /> 日本では古くから「柚」、「由」、「柚仔」といった表記や、「いず」、「ゆのす」といった呼び方があった。学名のjunosは、四国・九州地方で使われた「ゆのす」に由来する&lt;ref name=yoshi&gt;吉岡照高「ユズ」、『週刊朝日百科植物の世界』31、3-214頁。&lt;/ref&gt;。柚子は中国での古い名だが、今の中国語で柚や柚子は[[ブンタン]]を指している&lt;ref name=yoshi&gt;&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;商務印書館・小学館・共同編集『中日事典』第2版、2003年、1824頁。&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> == 形態・生態 ==<br /> 直立して大木になる&lt;ref name=yoshi&gt;&lt;/ref&gt;。果実は比較的大きく、[[果皮]]の表面はでこぼこしている。[[種子]]の多いものが多い。[[酸味]]は強く、[[香り]]もある。<br /> <br /> [[ミカン属]]の中でもっとも[[耐寒性]]が強く、年平均気温12度から15度の涼しい気候を適地とする&lt;ref name=yoshi&gt;&lt;/ref&gt;。柑橘類に多い[[そうか病]]、[[カンキツかいよう病|かいよう病]]への耐久があるため、ほとんど[[消毒]]の必要がなく、他の柑橘類より手が掛からないこと、[[無農薬栽培]]が比較的簡単にできることも特徴のひとつである。<br /> <br /> 成長が遅いことでも知られ、「桃栗3年柿8年、ユズの大馬鹿18年」などと呼ばれることがある。このため、栽培に当たっては、種子から育てる[[実生]]栽培では、結実まで10数年掛かってしまうため、結実までの期間を短縮するため、[[カラタチ]]への[[接ぎ木]]により、数年で収穫可能にすることが多い。<br /> &lt;gallery&gt;<br /> ファイル:Citrus junos1.jpg|[[樹皮]]<br /> ファイル:Citrus junos2.jpg|[[葉]]<br /> &lt;!-- ファイル:|[[花]] --&gt;<br /> ファイル:Citrus junos&#039;s green fluit.JPG|若い[[果実]]<br /> ファイル:Citrus junos fruits 3.jpg|収穫した果実<br /> &lt;/gallery&gt;<br /> {{節スタブ}}<br /> <br /> == 原産地 ==<br /> &#039;&#039;&#039;本ユズ&#039;&#039;&#039;は、[[中華人民共和国]]中央および西域、[[揚子江]]上流の原産であると言われる。日本の[[歴史書]]に[[飛鳥時代]]・[[奈良時代]]に栽培していたという記載がある&lt;ref&gt;{{Cite web<br /> |author = 高知県農業振興部<br /> |date = 2012-11-02<br /> |url = http://www.nogyo.tosa.pref.kochi.lg.jp/info/dtl.php?ID=2420<br /> |title = ユズ<br /> |work = こうち農業ネット<br /> |publisher = <br /> |accessdate = 2012-12-12<br /> }}&lt;/ref&gt;。&lt;!--(これは何を指しているのでしょうか?)[[九州]]の山地に自生するものがあるが、おそらく人間が捨てた種から実生したものであろう。[[ウンシュウミカン|ミカン]]のような果実をつけるが大きさは小さい。--&gt;<br /> <br /> &#039;&#039;&#039;花ユズ&#039;&#039;&#039;は日本原産とも言われるが、詳しいことは判っていない。<br /> == 分布・栽培 ==<br /> 海外では、[[大韓民国|韓国]]最南部の[[済州島]]や[[全羅南道]][[高興郡]]など、中華人民共和国の一部地域で栽培されている。<br /> <br /> <br /> <br /> 現在の日本で栽培されるユズには主に3系統あり、本ユズとして「木頭系」・早期結実品種として「山根系」・無核(種無し)ユズとして「多田錦&lt;ref&gt;{{Cite web<br /> |author = 高知県農業振興部<br /> |date = 2012-10-26<br /> |url = http://www.nogyo.tosa.pref.kochi.lg.jp/info/dtl.php?ID=2417<br /> |title = 多 田 錦 <br /> |work = こうち農業ネット<br /> |publisher = <br /> |accessdate = 2012-12-12<br /> }}&lt;/ref&gt;」がある。「多田錦」は本ユズと比較して果実がやや小さく、香りが僅かに劣るとされているが、トゲが少なくて種もほとんどなく、果汁が多いので、本ユズよりも多田錦の方が栽培しやすい面がある(長いトゲは強風で果実を傷つけ、商品価値を下げてしまうため)。<br /> <br /> なお、収穫時にその実をすべて収穫しない[[カキノキ]]の「木守柿」の風習と同様に、ユズにも「木守柚」という風習がある地方もある{{どこ|date=2012年12月12日 (水) 20:35 (UTC)}}。<br /> <br /> === 日本の主な産地 ===<br /> 農林水産省の統計によると昭和40年代までは[[埼玉県]]が主な産地であったが、1970年以降は[[高知県]]、[[徳島県]]などが主要な産地となっている。特に1990年以後から大幅に収穫量が伸びており、今日では四国地方(高知県、徳島県、愛媛県)の3県で国産ユズの8割近くを占める。また、四国山地を初め、九州山地、中国山地、紀伊山地といった山間部に産地が集中しているが、これは1965年頃から、それまでの主産業であった農耕馬生産、林業、木炭製造、和紙原料栽培の衰退やそれに伴う過疎化に対し、活性化策として産地形成されたものが多いためである。西日本の産地が大規模化する一方で、東日本の産地は相対的に規模縮小しており、関東地方全都県を合わせても300トン程度(鹿児島県の半分未満)に過ぎない。<br /> *茨城県<br /> :*常陸太田市<br /> *栃木県<br /> :*茂木町<br /> *埼玉県<br /> :*毛呂山町、越生町、ときがわ町(旧都幾川村)<br /> *東京都<br /> :*青梅市<br /> *山梨県<br /> :*富士川町(旧増穂町)、上野原市(旧上野原町)<br /> *静岡県<br /> :*川根本町(旧中川根町)<br /> *岐阜県<br /> :*関市(旧上之保村)<br /> *京都府<br /> :*京丹波町(旧瑞穂町)<br /> *大阪府<br /> :*箕面市<br /> *兵庫県<br /> :*神河町(旧神崎町)、姫路市(旧安富町)、養父市(旧八鹿町)など<br /> *和歌山県 …国内生産量7-10位。2000年以降から生産量を伸ばしており、2015年は山口県、熊本県を凌ぎ、生産量7位となっている。古座川町平井地区はユズによる地域活性化で注目を浴びた。<br /> :*紀美野町(旧野上町)、古座川町、有田川町(旧清水町)、田辺市(旧龍神村)など<br /> *島根県 …国内生産量7-10位。美都はユズの一大産地。<br /> :*益田市(旧美都町)、大田市、出雲市など<br /> *岡山県<br /> :*井原市(旧芳井町)、美作市(旧作東町)、高梁市(旧成羽町)<br /> *広島県 <br /> :*三次市(旧作木村)、安芸高田市(旧高宮町)<br /> *山口県 …国内生産量は7-10位。※近年生産量を増やしている長門ゆずきち産地は含まない。<br /> :*萩市(旧川上村、旧旭村)<br /> *徳島県 …国内生産量2位。古くから自生のユズが点在していた。スダチとともに加工品需要が大きく、また木頭ユズが知られる。<br /> :*那賀町(旧木頭村)、美馬市(旧木屋平村)、上勝町、つるぎ町(旧一宇村)など<br /> *愛媛県 …国内生産量3位。県南部の鬼北、宇和に大規模な産地がある。<br /> :*鬼北町(旧日吉村、旧広野町)、松野町、西予市(城川町)、内子町など<br /> *高知県 …国内生産量1位で、生産量1万トン以上。国内シェアの40%~50%を占め、四国山地一帯に産地が点在する。1960年代から林業や和紙原料製造に代わる山村集落の活性化策として産地が相次いで形成され、県を取り囲むようにユズ産地が展開する。馬路村、北川村などの商業的成功を受け、他自治体も追随するようになり、年々栽培面積を増やしている。<br /> :*香美市(旧物部村、旧香北町、旧土佐山田町)、安芸市、北川村、馬路村、高知市(旧土佐山村)、大豊町、四万十町(旧大正町)、四万十市(旧西土佐村)、三原村など<br /> *福岡県<br /> :*八女市(旧矢部村)、上毛町(旧新吉富村)、東峰村(旧宝珠山村)<br /> *熊本県 …国内生産量は7-10位。<br /> :*山都町(旧矢部町)、熊本市、八代市(旧泉村)など<br /> *大分県 …国内生産量4-5位。院内や津江の産地が知られる。県内消費が多いため、出荷量は相対的に少ない。<br /> :*宇佐市(旧院内町)、日田市(旧中津江村、旧上津江村)、杵築市(旧山香町)など<br /> *宮崎県 …国内生産量4-5位。九州山地の山間部はユズの一大産地となっている。<br /> :*西都市、小林市(旧須木村)、日之影町、西米良村など<br /> *鹿児島県 …国内生産量は生産量6位。大隅半島の山間部が主産地となっている。<br /> :*曽於市(旧末吉町)、大崎町、伊佐市(旧大口市)など<br /> <br /> == 人間との関わり ==<br /> === 食材 ===<br /> [[File:Soi yakizakana.JPG|thumb|[[メバル属|ソイ]]の塩焼き[[マイタケ|舞茸]]と[[ネギ|葱]]に&#039;&#039;&#039;ユズ&#039;&#039;&#039;(右上)を添えて]]<br /> [[File:Yujacha.jpg|thumb|韓国の柚子茶]]<br /> ユズの果汁は、[[日本料理]]等において[[調味料]]として、香味・酸味を加えるために用いられる。また、果肉部分だけでなく皮も[[七味唐辛子]]に加えられるなど、[[香辛料]]・[[薬味]]として使用される。いずれも、青い状態・熟れた状態の両方とも用いられる。九州地方では、[[柚子胡椒]]と呼ばれる調味料としても使用される。これは柚子の皮に、皮が青い時は青[[唐辛子]]、黄色く熟している時は赤唐辛子と[[塩]]を混ぜて作るもので、緑色または赤色をしている。[[幽庵焼き]]にも用いられる。<br /> <br /> 熟したユズでも酸味が非常に強いため、普通は直接食用とすることはない。薬味としてではなくユズ自体を味わう調理例としては、保存食としての[[ゆべし]]の他、[[大韓民国|韓国]]の[[韓国の茶|柚子茶]]のように果皮ごと薄く輪切りにして[[砂糖]]や[[蜂蜜]]に漬け込む方法などがある。ユズの果汁を砂糖と無発泡水で割った[[レモネード]]のような飲み物もある。果汁は[[チューハイ]]等にも用いられ、ユズから作られた[[ワイン]]もある。<br /> <br /> 柚子の果実のうち果肉の部分をくりぬいて器状にしたものは「柚子釜」と呼ばれ、料理の盛りつけなどに用いられる。<br /> <br /> 近年では[[スペイン]]の著名なレストランであった[[エル・ブジ]]が柚子を大々的に喧伝したのが発端となり、[[フランス料理]]を始めとした[[西洋料理]]にも柚子の使用が広まりつつある。<br /> <br /> === 利用 ===<br /> 独特の爽やかな香りのため、様々な[[香水]]に使用されている。最近{{いつ|date=2013年12月}}&lt;!-- See [[WP:DATED]] --&gt;、日本の植物から[[精油]]を精製する日本国内メーカーが増えており、果皮を圧搾することにより精油を採油している。その他、多彩な方法で利用されている。果汁搾汁後の残滓に含まれる精油が残滓を[[堆肥]]にする時の[[生物活性]]を低下させる要因になっていることから、精油を商品価値のある状態で取り除く方法として、超音波減圧水蒸気蒸留法が開発されている&lt;ref&gt;{{Cite journal|和書<br /> |author = 沢村正義<br /> |coauthors = 柏木丈拡<br /> |year = 2008<br /> |title = 柚子搾汁後残滓のエココンシャスな精油抽出・処理技術の開発<br /> |journal = 高知大学国際・地域連携センター年報2008<br /> |volume = <br /> |issue = <br /> |pages = 64-66<br /> |publisher = 国立大学法人高知大学 国際・地域連携センター<br /> |issn = <br /> |doi = <br /> |naid = &lt;!-- NII論文ID --&gt;<br /> |pmid = <br /> |id = <br /> |url = http://www.ckkc.kochi-u.ac.jp/report/2008.html<br /> |format = PDF<br /> |accessdate = 2012-12-12<br /> }}&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> === 柚子湯 ===<br /> {{Main|柚子湯}}<br /> 収穫時期の冬場に、果実全体または果皮を布袋にいれて[[風呂|湯船]]に浮かべる。薬効の成分は特定されていないが、[[血行]]を促進させることにより[[体温]]を上昇させ、[[風邪]]を引きにくくさせる効果があるとされている。<br /> <br /> 京都市右京区嵯峨[[水尾]]では、柚子の栽培農家9軒が、柚子風呂付きで鶏料理を提供している。<br /> <br /> === 種子 ===<br /> ユズの[[種子]]油には、[[メラニン]]の生成抑制や[[アレルギー性皮膚炎]]の症状緩和の効果があるとする研究報告もなされてる&lt;ref&gt;馬路村農協 [http://www.yuzu.or.jp/_cosme/faq/vilavo/index.html 高知大学 沢村正義名誉教授および溝渕俊二教授の研究]&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> === 季語 ===<br /> [[俳句]]においては秋の[[季語]]。これは実を指し、その花は夏の季語になる。また、柚子湯は冬の季語となる。<br /> <br /> == 参考文献 ==<br /> * {{Cite book|和書<br /> |author = 茂木透写真<br /> |others = 高橋秀男・勝山輝男監修<br /> |title = 樹に咲く花 離弁花2<br /> |year = 2000<br /> |publisher = [[山と溪谷社]]<br /> |series = 山溪ハンディ図鑑<br /> |isbn = 4-635-07004-2<br /> |page = 231<br /> }}<br /> *吉岡照高「ユズ」、『週刊朝日百科植物の世界』31(ライム レモン オレンジ)、朝日新聞社、1994年11月13日発行。<br /> *山田彬雄「ブンタン」、『週刊朝日百科植物の世界』31(ライム レモン オレンジ)、朝日新聞社、1994年11月13日発行。<br /> <br /> == 脚注 ==<br /> {{脚注ヘルプ}}<br /> {{Reflist}}<br /> <br /> == 関連項目 ==<br /> {{Wikispecies|Citrus junos}}<br /> {{Commons&amp;cat|Citrus junos}}<br /> {{ウィキポータルリンク|果物|[[画像:Illustration des fruits en pays Bassa.jpg|50px|Portal:果物]]}}<br /> * [[柑橘類]]<br /> * [[柚子胡椒]]<br /> * [[ゆべし]]<br /> * [[柚子湯]]<br /> <br /> == 外部リンク ==<br /> * {{NCBI|135197|&#039;&#039;Citrus junos&#039;&#039;}} {{En icon}}<br /> * {{EOL|2886163|&#039;&#039;Citrus junos&#039;&#039;}} {{En icon}}<br /> * {{Cite web<br /> |author = [[波田善夫]]<br /> |date = <br /> |url = http://had0.big.ous.ac.jp/plantsdic/angiospermae/dicotyledoneae/choripetalae/rutaceae/yuzu/yuzu.htm<br /> |title = ユズ<br /> |work = 植物雑学事典<br /> |publisher = [[岡山理科大学]]生物地球学部<br /> |accessdate = 2012-12-12<br /> |ref = zatsugakujiten<br /> }}<br /> *{{Kotobank|2=日本大百科全書(ニッポニカ)}}<br /> <br /> {{柑橘類}}<br /> {{茶}}<br /> {{Normdaten}}<br /> {{Fruits-stub}}<br /> <br /> {{DEFAULTSORT:ゆす}}<br /> [[Category:ミカン属]]<br /> [[Category:日本の調味料]]<br /> [[Category:精油]]<br /> [[Category:秋の季語]]<br /> [[Category:京都府の食文化]]<br /> [[Category:高知県の食文化]]<br /> [[Category:高知県の農業]]</div> 153.125.1.34 札幌市営地下鉄 2018-07-11T12:44:39Z <p>153.125.1.34: </p> <hr /> <div>{{Infobox 公共交通機関<br /> |名称=札幌市営地下鉄<br /> <br /> <br /> |ロゴ=ST Logo.svg<br /> |ロゴサイズ=<br /> |画像=<br /> |画像サイズ=<br /> |画像説明=<br /> |国={{JPN}}<br /> |所在地=[[北海道]][[札幌市]]<br /> |運行範囲=<br /> |種類=[[地下鉄]]<br /> |開業={{Start date|1971|12|16|df=y}}<br /> |廃止=<br /> |所有者=[[札幌市交通局]]<br /> |運営者=札幌市交通局<br /> |ウェブサイト=[http://www.city.sapporo.jp/st/ 札幌市交通局公式ウェブサイト]<br /> |総延長距離=48.0 [[キロメートル|km]]<br /> |路線数=3路線<br /> |駅数=<br /> |停留所数=<br /> |輸送人員=<br /> |1日利用者数=<br /> |保有車両数=<br /> |軌間=<br /> |電化方式=[[直流電化|直流]]750 [[ボルト (単位)|V]] [[第三軌条方式]](南北線)&lt;br /&gt;直流1,500 V [[架空電車線方式]](東西線・東豊線)<br /> |最高速度=<br /> |通行方向=<br /> |備考=<br /> |路線図=<br /> }}<br /> [[File:ST SN5000 20061102 001.jpg|thumb|250px|南北線の高架部分を走行中の5000形車両(2006年11月2日、[[南平岸駅]])]]<br /> [[File:Sapporo Subway 8922 20071010 t19.jpg|thumb|250px|ホームドア設置前の東西線を走行する8000形車両(2007年10月10日、[[新さっぽろ駅]])]]<br /> [[ファイル:SapporoSubway ec9000.jpg|サムネイル|250x250ピクセル|2015年より運行を開始した最新車両・東豊線の9000形車両(2016年9月14日、[[大通駅]])]]<br /> &#039;&#039;&#039;札幌市営地下鉄&#039;&#039;&#039;(さっぽろしえいちかてつ)は[[北海道]][[札幌市]]が経営する[[地下鉄]]である。市の条例・規則等では「&#039;&#039;&#039;鉄道事業&#039;&#039;&#039;」及び「&#039;&#039;&#039;高速電車&#039;&#039;&#039;」としている。市内で3路線が展開され、全線が[[タイヤ|ゴムタイヤ]]を用いた[[案内軌条式鉄道]]([[ゴムタイヤ式地下鉄]])である。<br /> <br /> 「札幌市交通事業の設置等に関する条例」(昭和41年札幌市条例第53号)&lt;ref&gt;[http://www.city.sapporo.jp/reiki/reiki_honbun/a0020545001.html 札幌市交通事業の設置等に関する条例]&lt;/ref&gt;を根拠として[[軌道 (鉄道)|軌道]]事業([[札幌市電]])と共に設置されている市営交通で、[[地方公営企業]]である市営交通事業は当該管理者(交通局長)が業務を執行&lt;ref&gt;[[地方公営企業法]]第二章&lt;/ref&gt;し、その権限下の事務を処理する[[札幌市交通局|交通局]]&lt;ref&gt;[http://www.city.sapporo.jp/reiki/reiki_honbun/a0020545001.html 札幌市交通事業の設置等に関する条例]&lt;/ref&gt;が置かれている。<br /> <br /> == 事業所 ==<br /> * 札幌市交通局高速電車部<br /> : 日本 北海道札幌市厚別区大谷地東2丁目4-1(交通局本局内)<br /> <br /> == 概要 ==<br /> [[File:Tentetsuki.JPG|thumb|250px|[[転轍機]]。切り替えは案内軌条の昇降で行う([[自衛隊前駅]]・2008年11月)<br /> ]]<br /> 走行路面上を[[新交通システム]]のように主輪の[[タイヤ|ゴムタイヤ]]で駆動して、走行路面中央にある1本の[[線路 (鉄道)|レール]]を[[案内軌条式鉄道|案内軌条]]とする。<br /> <br /> 現在運行されている路線は[[札幌市営地下鉄南北線|南北線]]、[[札幌市営地下鉄東西線|東西線]]、[[札幌市営地下鉄東豊線|東豊線]]の3路線であり、南北線と東西線・東豊線では下記のような違いがある。<br /> * [[集電装置|集電方法]](南北線は[[集電装置#第三軌条集電方式|第三軌条方式]]、東西線・東豊線は[[架空電車線方式]])<br /> * 案内軌条の形状(南北線はT字型、東西線・東豊線はI字型)<br /> * 走行路面の材質<br /> ** 樹脂:南北線、東西線(琴似 - 白石)<br /> ** 鉄板:東西線(宮の沢 - 琴似・白石 - 新さっぽろ)、東豊線<br /> * ゴムタイヤ(南北線は[[ダブルタイヤ]]、東西線・東豊線はシングルタイヤ)<br /> [[ゴムタイヤ式地下鉄]]は[[メトロ (パリ)#設備、車輌|パリ地下鉄]]等でも見られるが、札幌市営地下鉄は独特の形式であり、「&#039;&#039;&#039;札幌方式&#039;&#039;&#039;」&lt;!--「SAPPORO方式」 ←ノート参照 --&gt;と呼ばれることがある。<br /> *運行システム<br /> 札幌市営地下鉄では全線で[[ATO]](自動列車運転装置)を使用している。そのため、営業運転では東西線で2009年にワンマン運転を開始、南北線では2013年にワンマン運転を開始した。また、深夜の回送運転は無人制御で行っている。<br /> === 札幌方式(中央案内軌条方式)の特徴 ===<br /> 通常の鉄車輪式と比較して、札幌市営地下鉄のゴムタイヤ方式には以下のような特徴がある。<br /> <br /> * 加速・減速性能に優れている。<br /> * 粘着性が比較的高いため、急勾配における登攀性に優れている。<br /> * 乗り心地が良く、[[保線]]の必要が少ない。<br /> * 騒音が少ない。ただし、全車非冷房車のため、夏場は窓を開けることから車内ではトンネル内の走行音が大きくなる傾向がみられる。<br /> * タイヤの磨耗が激しくタイヤ保守費用が嵩む。<br /> * 惰性走行時の速度低下が鉄車輪式よりも激しいために[[力行]]が多くなり、消費電力が大きくなりがちである。<br /> * 車両が完全に独自規格のため、他社との基本設計の共通化によるコスト削減が困難。<br /> * トンネル断面積が大きいことで、キロメートル当たりの建設費用が必然的に割高となる。<br />  [[リニアモーターカー|リニアメトロ]]の普及によりゴムタイヤ方式のメリットは低くなりつつある。<br /> <br /> == 路線 ==<br /> [[ファイル:Sapporo subway map.gif|thumb|right|250px|札幌市営地下鉄路線図]]<br /> <br /> 路線と[[日本の鉄道ラインカラー一覧|ラインカラー]]の関係を次の表に示す。<br /> {| class=&quot;wikitable&quot; style=&quot;text-align:center;&quot;<br /> |-<br /> ! style=&quot;background:#efefef;&quot; | 色<br /> ! style=&quot;background:#efefef;&quot; | 記号<br /> ! style=&quot;background:#efefef;&quot; | 路線名<br /> ! style=&quot;background:#efefef;&quot; | 区間<br /> ! style=&quot;background:#efefef;&quot; | 営業キロ<br /> |-<br /> | style=&quot;background:green; color:white;&quot;| グリーン || N || [[札幌市営地下鉄南北線|南北線]] || [[麻生駅]] (N01) - [[真駒内駅]] (N16) || 14.3<br /> |-<br /> | style=&quot;background:orange; color:black;&quot; | オレンジ || T || [[札幌市営地下鉄東西線|東西線]] || [[宮の沢駅]] (T01) - [[新さっぽろ駅]] (T19) || 20.1<br /> |-<br /> | style=&quot;background:#0080ff; color:white;&quot; | スカイブルー || H || [[札幌市営地下鉄東豊線|東豊線]] || [[栄町駅 (北海道札幌市)|栄町駅]] (H01) - [[福住駅]] (H14) || 13.6<br /> |}<br /> <br /> 計画路線・未成線などについては「[[#整備計画|整備計画]]」の節を参照。<br /> <br /> 各路線間の相互乗り換えは[[大通駅]]ではホーム同士を結ぶ連絡通路を、[[さっぽろ駅]]では一旦改札を出場し、30分以内に再度改札を通過する形で行う&lt;ref&gt;{{Cite news|title=地下鉄さっぽろ駅 東西連絡柵9月撤去|newspaper=北海道新聞 朝刊(札幌版)|date=2017-06-07|page=19|publisher=北海道新聞社}}&lt;/ref&gt;。大通駅において改札を出る、さっぽろ駅において一旦改札を出場して30分が経過、又はさっぽろ駅~大通駅を重複乗車すると、途中下車として取り扱われるため切符は回収または精算が必要となり、[[SAPICA]]は精算される。そのため、改札口には乗り換えの際の注意事項が記載された大きな掲示が見られる。&lt;br&gt;<br /> <br /> === 駅ナンバリング ===<br /> [[2006年]][[1月26日]]から、各路線を表すために記号([[アルファベット]])と[[駅ナンバリング|駅番号]]が導入された。路線記号とその由来は次の通り。<br /> * 南北線 (N):&#039;&#039;&#039;南&#039;&#039;&#039;北 (&#039;&#039;&#039;N&#039;&#039;&#039;amboku) 線の頭文字から<br /> * 東西線 (T):&#039;&#039;&#039;東&#039;&#039;&#039;西 (&#039;&#039;&#039;T&#039;&#039;&#039;ozai) 線の頭文字から<br /> * 東豊線 (H):東&#039;&#039;&#039;豊&#039;&#039;&#039; (To&#039;&#039;&#039;h&#039;&#039;&#039;o) 東西線のTとの重複を避けるため、&#039;&#039;&#039;豊&#039;&#039;&#039;の&#039;&#039;&#039;H&#039;&#039;&#039;を採用した<br /> <br /> === 駅施設・プラットホーム ===<br /> * 電車が発車する際、発車案内放送の後にホームのスピーカーから鳴動する発車ブザーが独特の音色(「ゲー」とも表現されることがある)であった。ホーム柵設置によるワンマン運転開始後、東西線(2009年4月1日から)、南北線(2013年4月1日から)では車両の外側に備え付けられた車外ブザーのみで対応するようになったためにこの発車ブザーが無くなり、東豊線は2017年4月1日をもってホーム柵設置によるワンマン運転を開始したため、ホームのブザー音は全廃した。<br /> * 東西線[[西11丁目駅]]と東豊線[[さっぽろ駅]]の間には、東豊線車両を西車両基地に回送するための[[連絡線]]がある。<br /> * 各路線の終端駅はすべて[[島式ホーム]]に統一されている。また、東豊線延長部以降に延伸された区間では建設費を抑えるため途中駅もすべて島式ホームとなった。<br /> * [[2000年]]4月より駅業務は[[財団法人]][[札幌市交通事業振興公社]]へ順次[[鉄道駅#業務委託駅|委託]]され、2007年度には全駅の業務委託化が完了。将来的には運転業務も含めた全業務を委託する計画。<br /> * 東豊線の栄町 - 豊水すすきの間は当初から8両編成に対応できるようにホームを建設したが、学園前 - 福住間は4両編成の現状に合わせてホームを6両分しか完成させなかった。ただし、残り2両分の基礎工事は既にされており、今後追加工事を行うことで8両化にも対応できるようになっている。<br /> <br /> == 車両 ==<br /> [[ファイル:Sapporo-subway 6000.jpg|thumb|240px|right|東西線6000形車内(2002年9月)。手前左側の青色の座席は高齢者等専用席]]<br /> [[ファイル:Tenji shi-ru Sapporo subway 20080302 10.jpg|thumb|240px|right|ドアに貼り付けられた点字プレート(2008年3月)。写真は南北線3000形で、札幌市営地下鉄で唯一の「8号車」表記。]]<br /> [[ファイル:女性とこどもの安心車両.jpg|thumb|240px|女性とこどもの安心車両(東西線)]]<br /> <br /> === 現在の営業車両 ===<br /> * 南北線<br /> ** [[札幌市交通局5000形電車|5000形]](北海道初にして唯一の4扉車)<br /> * 東西線<br /> ** [[札幌市交通局8000形電車|8000形]]<br /> ** [[札幌市交通局8000形電車#8300形|8300形]] - 6000形・8000形への増結用車両<br /> * 東豊線<br /> ** [[札幌市交通局9000形電車|9000形]]&lt;ref&gt;[http://www.khi.co.jp/news/detail/20130522_1.html 札幌市交通局向け地下鉄電車を受注]川崎重工業プレスリリース 2013年5月22日&lt;/ref&gt;<br /> <br /> === 構造 ===<br /> {{独自研究|section=1|date=2015-11-3}}<br /> * 開業以来、すべての車両が[[アルミニウム合金|アルミ合金]]製車体である。車体幅は3,080mmで、2010年現在日本国内で営業中の鉄道車両では最大([[新幹線]]はのぞく)。過去の例を合わせても、[[名古屋市交通局協力会東山公園モノレール|名古屋東山モノレール]]の3,100mmに次ぐ大きさである。<br /> * 貫通扉のない、六角断面の広い連結部を持った車両が多いのが特徴&lt;ref group=&quot;注&quot;&gt;同局の2000形は2両を1ユニットとした連接構造で、ユニット間は楕円形の広い貫通路、ユニット端は長方形の狭い貫通路が交互に連なっていた。2両編成であった1000形の両端と、4両編成用の2000形初期車ではユニットの片側は運転台となり、連結時の貫通路は狭い。&lt;/ref&gt;。ただし、[[大邱地下鉄放火事件]]を教訓とした[[2005年]]12月の[[法令]]改正により、[[2006年]]度に落成した新車(東西線用8000形)からは強化ガラス製の[[貫通扉]]が設置されている&lt;ref group=&quot;注&quot;&gt;これは火災発生の際に隣の車両に煙が流出するのを防ぐためである&lt;/ref&gt;。2015年から導入された東豊線9000形車両からは、車椅子でも通過できる幅を確保した長方形の通路となっている。<br /> * 開業以来、すべての車両で座席上に荷棚([[網棚]])が設置されていない。これは乗客の忘れ物防止や、乗車時間(駅間隔)が比較的短いことなどが理由とされている&lt;ref&gt;<br /> [http://www.hbc.co.jp/radio/oshiete/o-020301.html 北海道放送『直子の教えてランド』2002年3月1日放送]&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;<br /> [https://web.archive.org/web/20060222085804/http://www.hkt.mlit.go.jp/sapporo/info/info_021.htm 国土交通省北海道運輸局札幌運輸支局 平成15年度第2回交通アドバイザー会議議事概要]&lt;/ref&gt;。通常の鉄道車両で荷棚となる位置には立客用の掴み棒が設置されていたため、一見荷棚があるかのように錯覚しやすい。このため、旅行者など不慣れな乗客が、荷棚があると思い込んで載せようとした荷物を着席している乗客の頭上に落としてしまうことがある。また、大きな荷物も床に置かざるを得ないため、限られた車内スペースの有効活用や利用者へのサービスの観点からも問題視されることがある。現在は配布用の安全報告書などにも「札幌市営地下鉄の車両には網棚がありません」と注意を呼び掛けている。<br /> * かつては、2000形や[[ローレル賞]]を受賞した6000形のように内外装ともに個性的で斬新なデザインの車両が多かったが、1993年(平成5年)に策定された市交通局イメージアップ計画で、市民からの[[アンケート]]結果を基に、市交通局とデザイン専門家の検討の結果に決定したカラーリングが採用されるようになった。従来の札幌市章に代わって、「STマーク」(札幌市交通局の英称&quot;Sapporo city Transportation bureau&quot;の頭文字)が前面と側面にあしらわれ、白色の車体に側面ドアと前面非常口をラインカラーとする塗り分けであり、「STカラー」とも呼ばれている&lt;ref group=&quot;注&quot;&gt;ただし採用されたカラーリングは、前述のアンケートでは最下位のものであった&lt;/ref&gt;。1994年(平成6年)に投入された東豊線7000形3次車を皮切りに、3路線ともにイメージの近い車両(5000形・8000形・9000形)が投入された。<br /> <br /> === 車内設備・バリアフリー ===<br /> *全車両、[[エア・コンディショナー|冷房装置]]は搭載していない。これは札幌は比較的冷涼な気候であるほか、南北線の一部区間を除き地下のみを走行するためである。夏は送風装置や窓からの風と、車内に取付けられる[[風鈴]]で暑さをしのぐ(そのため風鈴取付け用のフックが車内天井に設置されている)。<br /> *他の鉄道事業者の[[優先席]]に相当する席を「&#039;&#039;&#039;専用席&#039;&#039;&#039;」と呼んでいる。1974年4月に導入した当初は「優先席」と称したが、当時は若い健常者がこの席に座り優先対象者に席を譲らないことが多かったため、1975年4月に「専用席」に改めた&lt;ref&gt;{{Cite web|title=市営交通のよくあるご質問と回答|url=http://www.city.sapporo.jp/st/faq/faq.html#sharyouekisetubia5|publisher=札幌市交通局|accessdate=2018-02-01}}&lt;/ref&gt;。専用席であるため、混雑時に周囲に[[高齢者]]など席を必要とする乗客がいない場合でも常に空いている場合が多い。また、首都圏等のJR・私鉄・地下鉄ではこうした席の付近の吊革にオレンジ色のものが採用されていく中、札幌市営地下鉄には長らく導入されていなかった。2013年に市電で採用され始め、地下鉄車両にも導入された。<br /> *2007年7月から、すべての車両の乗降ドアの内側に、視覚障害者向けに号車とドア位置を示す[[点字]]プレートが設置されている。&lt;ref group=&quot;注&quot;&gt;ただし、この当時まだ営業運転を行っていた東西線6000形第1編成はドア窓の大きさの関係で設置されなかった。&lt;/ref&gt;この点字プレートはホームドアにも設置された。<br /> *車椅子スペースは全編成に確保されており&lt;ref group=&quot;注&quot;&gt;当初設置されていなかった3000形、6000形などの旧型車両は、連結部付近の座席を削って確保していた&lt;/ref&gt;、9000形からは編成の全車両に1ヶ所ずつ確保されるようになった。<br /> *1994年に増備された東豊線7000形第3次車両から、聴覚障害者にもわかりやすいLED式車内案内表示器が導入され、文字による次駅案内やマナー啓発が行われている。以降に増備された南北線5000形・東西線8000形車両にもLED式(5000形第18編成以降と、東豊線9000形はLCDモニター式)車内案内表示器を設置している。<br /> *2006年の法令改正後に導入された車両からは先述の連結部の仕切り扉、低い吊り革、座席の着席区分を兼ねたスタンションポール等を設置している。<br /> *バリアフリー整備ガイドライン&lt;ref&gt;{{PDFLink|[http://www.mlit.go.jp/common/001089597.pdf バリアフリー整備ガイドライン(車両等編)全体版]}} - 国土交通省、2015年3月21日閲覧&lt;/ref&gt;に記載のある視覚障害者向けのドアチャイムは全車両において現在&lt;ref group=&quot;注&quot;&gt;2016年9月現在、最後に導入された東豊線9000形第20編成まで&lt;/ref&gt;まで採用されていない。{{要出典範囲|交通局車両課によると「ホームドアのチャイム音と混ざり、煩雑になる」という理由で設置を見送っている|date=2015-11-3}}が、バリアフリー法における鉄道車両ガイドラインでは「視覚障害者が円滑に乗降できるように、戸の位置及び戸の開閉が車内及び車外の乗降位置から分かるようなチャイムを戸の内側上部等に設置し、戸の開閉動作に合わせてチャイム音を鳴動させる」ことが明記されているため、閉戸時に車外向けにのみ各車両1ヶ所のスピーカーから鳴動させる現在のブザー方式&lt;ref group=&quot;注&quot;&gt;東西線6000形より導入。単音で「プー」と鳴動する。&lt;/ref&gt;と、原則として車外向けに位置づけられるホームドアのチャイム音だけではガイドラインに適合しない。全国の公営地下鉄において全車両にドアチャイムがないのは札幌市営地下鉄だけである。<br /> <br /> === その他 ===<br /> *「[[女性専用車両]]」に関しては、「&#039;&#039;&#039;女性とこどもの安心車両&#039;&#039;&#039;」としている。これは[[2008年]]8月18日から9月12日までの間、南北線での導入実験が行われたが、「女性専用車」という名称では「乗車可能な男性([[小学生]]以下の男児、[[障害者]]と[[介護]]者)が利用しにくい」と理由があったためである。現在は南北線・東西線で導入されている。<br /> <br /> === 過去の営業車両・試験車両 ===<br /> [[ファイル:Sapporo Subway 6102 20050717 t01.jpg|thumb|240px|right|[[ローレル賞]]を受賞した東西線6000形(2005年7月)。写真の6102号車に受賞プレートが取り付けられていた([[宮の沢駅]])。]]<br /> [[File:Sapporo Subway 7119 20071014 h14.jpg|thumb|250px|東豊線の7000形車両(2007年10月14日、[[福住駅]])]]<br /> <br /> ==== 営業車両 ====<br /> * 南北線<br /> ** [[札幌市交通局2000形電車|1000形 / 2000形]]<br /> *** 1000形は2両編成、2000形は4両編成(後6両編成 / 8両編成)。<br /> *** 2両 (1001+1002) が[[自衛隊前駅]]そばの[[札幌市交通資料館]]に静態保存されている。<br /> ** [[札幌市交通局3000形電車|3000形]](固定軸を廃し、[[ボギー台車|ボギー式]]に変更)<br /> * 東西線<br /> ** [[札幌市交通局6000形電車|6000形]](初のボギー車。ローレル賞受賞)<br /> *** 試作車である6001編成のみ、前面形状などが異なる。<br /> * 東豊線<br /> ** [[札幌市交通局7000形電車|7000形]]<br /> <br /> <br /> ==== 試験車両 ====<br /> [[ファイル:Sapporo subway harunire.JPG|thumb|150px|第3次試験車「はるにれ」]]<br /> [[ファイル:Sapporo subway suzukake.JPG|thumb|150px|第4次試験車「すずかけ」]]<br /> * 第1次試験車<br /> ** 廃車されたボンネット型の[[バス (車両)|バス]]を改造した実験車両。走行試験終了後、ブルーム式試験除雪車に改造された。<br /> * 第2次試験車<br /> ** 第1次試験車と同様の、廃車となったリアエンジン型のバスを改造した実験車両。現存しない。<br /> * 第3次試験車「はるにれ」<br /> ** 車体および座席配置がマイクロバス型の[[気動車|ガソリンカー]]。札幌市東区の[[札苗実験場]]で走行試験を行った。現在、札幌市交通資料館に静態保存されている。<br /> * 第4次試験車「すずかけ」<br /> ** 営業車両(1000形)と同等の足回りにトレーラーのような仮設の車体を載せた試作車。札苗実験場で走行試験を行った。現在、札幌市交通資料館に静態保存されている。<br /> * 東西線試験車両01<br /> ** 1973年製。前面は6000形試作車に類似で非貫通、足回りは2000形と共通の試験車両。塗色は黄色一色だった。近年まで石狩市花畔で倉庫として利用されていた。 <br /> * 試験除雪車<br /> ** ブルーム式 - [[ササラ電車]]と同様の方式で車体後部に除雪装置を持つ[http://img-cdn.jg.jugem.jp/a45/478026/20111216_1084803.jpg][http://blog.goo.ne.jp/komume1973/e/134d90d82770868372e40bcef0ebcbee]。上記の第1次試験車を改造した物。<br /> ** 真空式 - 掃除機の原理で雪を吸い込む方式。<br /> *** 当初の計画より高架区間が短縮され、かつ[[シェルター]]で覆われることになったため不要となった。2種類とも札幌市交通資料館に静態保存されていたが、状態不良のため2006年に撤去、処分された。ブルーム式除雪車は、展示末期は車体を撤去しておりシャーシが剥き出しの姿だった。<br /> <br /> == 乗車料金 ==<br /> 札幌市交通局では『[[運賃]]』を『乗車料金』と称している。<br /> <br /> 大人普通乗車料金(小児半額・10円未満切り上げ)。[[2017年]]4月1日改定&lt;ref&gt;[http://www.city.sapporo.jp/st/josyaken/ryokin/ryoukin.html 乗車料金] - 札幌市、2015年1月18日閲覧&lt;/ref&gt;。“電車”とは[[札幌市電]]を指す。(2) 区は各種運賃表等では2の丸囲みまたは「マル2区」と表現される。&lt;!-- 他の文字環境への引用を考慮し丸付き数字は使わないで下さい。[[Wikipedia:日本語環境#文字の選択]]などを参照。--&gt;<br /> {| class=&quot;wikitable&quot; style=&quot;text-align:center;&quot;<br /> |-<br /> ! style=&quot;background:#efefef;&quot; | 区数<br /> ! style=&quot;background:#efefef;&quot; | 乗車料金(円)<br /> ! style=&quot;background:#efefef;&quot; | 乗継乗車料金&lt;br /&gt;[[札幌市電|電車]]<br /> ! style=&quot;background:#efefef;&quot; | 乗継乗車料金&lt;br /&gt;バス1区<br /> ! style=&quot;background:#efefef;&quot; | 乗継乗車料金&lt;br /&gt;バス2区<br /> |-<br /> | 1区 ( - 3 km) || 200 || 320 || 330 || 360<br /> |-<br /> | (2) 区 ( - 5 km) ||rowspan=2| 250 ||rowspan=2| 370 || 360 || 390<br /> |-<br /> | 2区 ( - 7 km) || 380 || 410<br /> |-<br /> | 3区 ( - 11 km) || 290 || 410 || 420 || 450<br /> |-<br /> | 4区 ( - 15 km) || 320 || 440 || 450 || 480<br /> |-<br /> | 5区 ( - 19 km) || 350 || - || 480 || 510<br /> |-<br /> | 6区 ( - 21 km) || 370 || - || 500 || 530<br /> |}<br /> <br /> === 乗継割引 ===<br /> [[のりかえ券|乗継割引]]の適用は対象路線の札幌市内相互間で、現金・[[SAPICA]]([[Kitaca]]や[[Suica]]などSAPICAに片乗り入れしているICカード乗車券も含む)で支払うと80円引き(一部100円引き:後述)となる。SAPICAについては、一部導入していないバス事業者もある。乗継に時間制限は設けられていないが当日に限り有効。乗継先が0時を過ぎた場合でも、最終便まで当日の乗継とみなされる。<br /> : (2) 区のみ100円引きなのは、かつて「バスから地下鉄への乗り継ぎに限り、(2) 区は1区と同じ運賃とする(逆の場合は2区と同じ運賃)」という制度が存在していたためで、1997年(平成9年)4月1日の運賃制度改正で1区と2区の中間額となった。この制度は電車との乗継には適用されなかったため、電車との乗継運賃は (2) 区・2区とも同じである。<br /> <br /> : 乗継割引の内訳は地下鉄分が60円(一部80円)、バス・市電分が20円であったが、利用者減少や燃料費高騰を理由にジェイ・アール北海道バス、じょうてつ、北海道中央バスの3社が連名で見直しを申し入れた。検討の結果、2011年(平成23年)4月1日より利用者側の割引は80円(一部100円)のままで、バス分の割引を解消し全額地下鉄分とすることで継続している。市電についても市電会計分20円を解消し全額地下鉄会計分となった&lt;ref&gt;{{Cite web|date=2010-10-29|url=http://www.city.sapporo.jp/st/bukai/documents/bukai-h22_2_01.pdf|format=PDF|title=乗継割引制度の見直しについて|publisher=札幌市交通局|accessdate=2018-05-05}}&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;{{Cite web|date=2010-10-29|url=http://www.city.sapporo.jp/st/bukai/documents/bukai-h22_2_02.pdf|format=PDF|title=地下鉄と乗継割引制度におけるバス事業者負担の見直しについて|publisher=札幌市交通局|accessdate=2018-05-05}}&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;{{Cite web|date=|url=http://www.city.sapporo.jp/st/bukai/documents/bukai_h23_1_01_03.pdf|format=PDF|title=乗継割引制度の見直しについて|publisher=札幌市交通局|accessdate=2018-05-05}}&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 地下鉄から電車・バスへ乗り継ぐ場合は、地下鉄駅で購入した乗継券のみでそのまま乗り継ぎが可能。バスの乗車区間が2区や対キロ乗車料金となる場合はバス車内で差額を精算する。電車・バスから地下鉄へ乗り継ぐ場合は、通常乗車料金に120円を加えた額を払って乗継券を受け取る。地下鉄の乗車区間が1区を超えた場合は下車駅で精算する。各種ICカード乗車券を使用しての乗継は自動的に適用される。電車またはバス降車時に残額不足となった場合はICカードにチャージするか現金で差額精算となる。各バス事業者発行のカード乗車券や紙式[[回数乗車券]]との併用はできない。乗継[[定期乗車券]]は札幌市交通局の定期券販売所でのみ取り扱う。<br /> <br /> 1つのバス路線が複数の地下鉄駅を経由する場合は、原則として最も郊外側にある駅かつ郊外側に向かうバスに乗り継ぐ場合のみ適用される。[[1990年代]]後半以降に当時札幌市営バスとして運行されていた路線に対しては大幅に緩和され、札幌都心を含め地下鉄駅、バス利用方向にかかわらず適用となった。<br /> <br /> {{Main2|乗継割引適用バス路線・区間などの詳細は「[[#外部リンク]]」を}}<br /> <br /> ==== 乗継可能なバス会社 ====<br /> * [[ジェイ・アール北海道バス]]<br /> * [[じょうてつ]]<br /> * [[北海道中央バス]]<br /> * [[札幌ばんけい]](SAPICA利用不可)<br /> * [[夕張鉄道]](SAPICA利用不可)<br /> <br /> === 各種乗車券 ===<br /> [[ファイル:Sapporo City Subway ticket gate machine.JPG|thumb|right|200px|各種乗車カードが使用できる改札機(新さっぽろ駅にて)]]<br /> <br /> ==== ICカード ====<br /> * [[SAPICA]]<br /> ** [[2009年]]1月30日より利用を開始した&lt;ref&gt;[http://mainichi.jp/hokkaido/seikei/news/20080329ddlk01020242000c.html ICカード乗車券:名前は「SAPICA」 2009年1月、サービス開始 /北海道] 毎日新聞 2008年3月29日&lt;/ref&gt;非接触型[[ICカード]]乗車券。詳細は当該項目を参照。<br /> <br /> ==== 磁気カード ====<br /> <br /> ===== 乗車カード =====<br /> 以下のカードは、2014年5月31日をもって発売を終了し、2015年3月31日をもって利用終了となった。<br /> * [[共通ウィズユーカード]]<br /> ** 詳細は当該項目を参照。<br /> * 昼間割引カード(地下鉄専用)<br /> ** 発売額:2000円(2,500円分乗車可能)<br /> ** 利用時間:入場時刻を基準として午前10時 - 午後4時の間に使用可能。出場時は時間制限はない。<br /> ** 自動券売機で地下鉄乗車券購入にも使えるが、購入した乗車券は昼間割引カード同様の有効時間制限がある。<br /> <br /> ===== 一日乗車券 =====<br /> &#039;&#039;&#039;地下鉄のみ利用可能&#039;&#039;&#039;<br /> * 地下鉄専用1DAYカード(830円)<br /> * [[ドニチカキップ]](520円)<br /> ** 詳細は当該項目を参照。<br /> <br /> ==== 過去に発売していた乗車カード ====<br /> * [[エコキップ]](地下鉄・市電・バス、700円)<br /> ** 2010年11月20日をもって、発売および利用を終了<br /> ** 詳細は当該記事を参照。<br /> <br /> * 共通1DAYカード(地下鉄・市電・バス、1,000円)<br /> ** 2015年3月31日をもって、発売および使用を終了&lt;ref&gt;[http://www.city.sapporo.jp/st/subway/1day-card.html 共通1DAYカードの発売・利用終了及び払戻しについて] - 札幌市&lt;/ref&gt;。<br /> ** 共通ウィズユーカード導入事業者で利用できた。バスは札幌市内特殊運賃区間のみ適用。<br /> <br /> == 経営状況 ==<br /> 2015年度の経営状況は以下の通り&lt;ref&gt;[http://www.city.sapporo.jp/st/zaimu/kessan/kessan-kousoku.html 平成27年度決算の概要(高速電車)] - 札幌市&lt;/ref&gt;。<br /> * 乗車料収入は、396.2億円。<br /> ** 経常損益は、98.9億円の黒字。<br /> * 企業債残高は3,070億円。<br /> * 補助金は39.6億円。<br /> <br /> [[1980年代]]初頭から赤字が続き、[[2004年|2004]](平成16)年度には単年度[[黒字と赤字|赤字]]約71億1,000万円、累積赤字も同年度末で4,400億円という(当時の札幌市全体の[[歳入]]は年間8,000億円弱)危機的な状況となっていた。赤字の主な要因は建設費の償還とその[[利息]]負担で、特に[[バブル景気]]の最中に建設された東豊線北部の分が大きいとされる。<br /> <br /> 2004年(平成16年)から[[2013年|2013]](平成25)年度にかけて、収支の改善を掲げた「札幌市営地下鉄事業10か年経営計画」を実施中である。沿線人口の[[高齢化社会|高齢化]]に伴う利用客の減少が見込まれ、苦しい経営が予想されていたが、計画より5年も早く[[2006年|2006]](平成18)年度には25年ぶりに経常収支ベースでの単年度黒字を達成した。累積欠損金や企業債も減少傾向にあり、経営計画を上方修正するまでに至った。これは補助金の増額(2001〈平成13〉年度以降増額され続け、2005〈平成17〉年度は2001年度と比べ約60億円の増額)と支払利息の減少・人件費の大幅なカットによるところが大きいが、企業債及びその利息の削減に伴い現在は補助金も減らし続けている。<br /> <br /> 輸送統計によると[[2008年|2008]](平成20)年度の1日平均乗車人員は、3路線合計で571,847人であった。[[1990年代]]をピークに利用客数が減っていったが、現在は一定幅内での増減が繰り返されており、ほぼ横ばいの状態と言える。ただしこれは東豊線の利用客数増加によるものが大きく、南北線や東西線の利用客数は減少傾向にある。ちなみに現在は[[1日乗車券]]などの普及により[[定期乗車券|定期]]外客が増加している一方、定期客は1990年代前半の約2分の1まで落ち込んでいる。1990年代前半までは定期客と定期外客の比率がほぼ50対50であったが、2008(平成20)年度では26対74となっており、そのため運賃収入は横ばいの状態が続いている。<br /> <br /> 2015(平成27)年度収支上では南北線47.56億円、東西線26.91億円、東豊線24.42億円と3線とも黒字扱いとされているが、補助金を中心とした営業外利益収入が南北線6.19億円、東西線14.15億円、東豊線57.12億円発生しており、東豊線に関しては実質的には赤字経営状態と考えられる。しかしながら東西線においては営業外収入を省いても2013(平成25)年度において開業以来初めての純利益計上を達成したものと考えられ、この影響もあって地下鉄事業そのものにおいても単年度ベースにおいての黒字化を達成したものと推測される。<br /> <br /> == 人身事故対策 ==<br /> [[ファイル:Sapporo subway T14 Nango 7chome station platform screen door 20080714 17.jpg|thumb|right|240px|東西線[[南郷7丁目駅]]に設置された札幌市営地下鉄初の可動式ホーム柵]]<br /> 開業以来、ホームから人が転落する事故が多く問題となっている。交通局では運行障害の元にもなる[[自殺#飛び込み|飛び込みによる自殺]]を減らそうと、ホームに投身防止を呼び掛けるプレートや、飛び込もうとする自分の姿を見て思いとどまってもらうべく「鏡」を設置したり、相談を受け付ける「[[いのちの電話]]」へ協賛するなどの対策を講じてきた。<br /> <br /> [[2006年]]には全駅へ[[列車非常停止警報装置|列車非常停止装置]]の設置を完了したほか、[[2008年]]度から[[2016年]]度にかけて[[ホームドア#可動式ホーム柵|可動式ホーム柵]]を全駅に設置した。以降、列車への接触事故は皆無だったが、2018年1月9日に南北線大通駅でホーム端部の(可動式ホーム柵ではない)高さの低い鉄柵を乗客が飛び越えて列車に接触する事故が発生&lt;ref&gt;[https://response.jp/article/2018/01/10/304520.html ホームドア設置後初 1月9日に発生した札幌市営地下鉄の人身事故]&lt;/ref&gt;。同様の事故が2018年3月2日に東西線南郷18丁目駅でも発生している。<br /> * &#039;&#039;&#039;東西線&#039;&#039;&#039; : 2008年2月に南郷7丁目駅中線で先行設置。その後、訓練等が行われた後に同年9月から新さっぽろ駅から西にかけて設置が行われ、2009年3月に宮の沢駅に設置されたことにより、全駅へ可動式ホーム柵の設置が完了&lt;ref&gt;{{PDFlink|[http://www.city.sapporo.jp/st/homusaku/kadoshiki_homusaku_kaishi3.pdf 東西線での設置状況と今後の設置予定]}}&lt;/ref&gt;し、2009年4月1日よりワンマン運転を開始&lt;ref&gt;{{PDFlink|[http://www.city.sapporo.jp/st/oneman/tozai_line_oneman_kaishi.pdf ワンマン運転開始のお知らせ]}}&lt;/ref&gt;。<br /> * &#039;&#039;&#039;南北線&#039;&#039;&#039; : 2012年7月に麻生駅に設置。以降北34条駅から南にかけて設置が行われ、2013年3月に真駒内駅に設置されたことにより全駅へ可動式ホーム柵の設置が完了し、2013年4月1日よりワンマン運転を開始&lt;ref&gt;[http://www.city.sapporo.jp/st/movable-safety-fences-namboku/namboku_oneman_drive.html 札幌市交通局プレスリリース(2013年2月4日)]&lt;/ref&gt;。<br /> * &#039;&#039;&#039;東豊線&#039;&#039;&#039; : 2016年7月に栄町駅に設置。以降福住駅から東にかけて設置が行われ、2017年3月に新道東駅に設置されたことにより全駅へ可動式ホーム柵の設置が完了&lt;ref name=&quot;anzen2013&quot;&gt;{{Cite web|url=http://www.city.sapporo.jp/st/anzenhoukoku/documents/h25anzenhoukoku_full.pdf|title=安全報告書2013|publisher=札幌市交通局|accessdate=2014-06-02|format=PDF}}&lt;/ref&gt;し、2017年4月1日よりワンマン運転を開始&lt;ref&gt;[http://www.city.sapporo.jp/st/touhou_oneman_drive/touhou_oneman.html 交通局からのお知らせ(2016年2月21日)]&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> == 開業前のエピソード ==<br /> [[1960年代]]、急速な[[モータリゼーション]]の進行によって、特に積雪期の交通渋滞に悩まされていた札幌市では、市内交通の中心だった[[札幌市電|市電]]とバスによる輸送が限界に近づいていた。さらに[[札幌オリンピック]]が[[1972年]](昭和47年)に開催されることが決定し、選手や観客を輸送するためには市電やバスの輸送力では到底対応しきれないことから、高速・大量輸送が可能な新しい軌道系交通機関建設への機運が高まっていった。<br /> <br /> 市は[[1964年]](昭和39年)に『札幌市における将来の都市交通計画』に関する調査書を民間に委託して作成させ、翌[[1965年]](昭和40年)から[[札苗実験場]]&lt;!--試験場?--&gt;(現[[東区 (札幌市)|東区]])でゴムタイヤ方式の試験車両による各種試験を開始した。なお、[[モノレール]]、鉄車輪とゴムタイヤを併用する[[メトロ (パリ)#設備、車輌|パリ方式]]、あるいは[[ブリュッセル地下鉄]]の{{仮リンク|プレメトロ|en|Premetro}}を参考にした路面電車を都心部のみ地下に潜らせる「路下電車」なども検討された。<br /> <br /> 札幌市がゴムタイヤ方式に固執した理由は、高速電車と入れ替わりに廃止が予想される市電と同等の利便性を確保するため、高速電車の駅間隔を当初、[[路面電車停留場|電停]]並みの300メートル程度と想定していたことによる。走行実験の開始直後、[[除雪]]についての具体策もはっきりしない時期{{いつ|date=2015-11-3}}、「広報さっぽろ」(同市の広報誌)には、「短い駅間隔での高加減速運転には鉄輪は不向きで、ゴムタイヤこそが最適」との趣旨の記述がある。<br /> <br /> 当時人口が80万人規模だった札幌&lt;ref group=&quot;注&quot;&gt;札幌市は、[[1970年]](昭和45年)[[国勢調査]]で初めて[[法定人口]]が100万人を突破した。[[政令指定都市]]移行は1972年(昭和47年)[[4月1日]]。&lt;/ref&gt;での地下鉄建設には、当時の[[運輸省]]が難色を示していたという。「札幌に地下鉄を作って赤字になったらどうするんだ、熊でも乗せるのか」という[[大蔵省]]職員の冗談に、当時の市交通局長(交通事業管理者)で後に「札幌地下鉄の生みの親」と呼ばれた大刀豊(だいとう ゆたか)が「&#039;&#039;&#039;料金を払えば熊でも乗せる&#039;&#039;&#039;」と言ったという逸話が残っている。<br /> <br /> [[1967年]](昭和42年)12月の定例市議会で南北線真駒内 - 北24条間の建設が可決され、直ちに免許が申請された。当時の[[地方鉄道法]]には、鉄[[軌条]]でも、モノレールでもない「札幌方式」に関する規定がなく、関係省令を一部改正して「[[案内軌条式鉄道]]」の項目を設けた上で認可された。日本モノレール協会では、「札幌方式」がモノレールに関する[[特許]]に抵触していないかどうか公開質問状を送付し、また調査員を派遣した。<br /> <br /> [[1971年]](昭和46年)2月の[[プレオリンピック]]開催時には、南北線の[[試運転]]車両に当時の[[明仁|皇太子明仁]]と皇太子妃[[皇后美智子|美智子]]が試乗した&lt;ref&gt;[http://mytown.asahi.com/hokkaido/news.php?k_id=01000201202060003 【白銀の祭典 札幌五輪から40年】(3)地下鉄 突貫で通す] - [[朝日新聞デジタル]](2012年2月5日)&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> これに限らず、市民を対象にした試乗会は完成検査前の同年1月頃から実施されていたが、9月3日には[[真駒内駅]]で試乗列車が[[列車脱線事故|脱線]]して[[運転士]]2名と試乗客3名が負傷する事故が起きている。{{See also|日本の鉄道事故 (1950年から1999年)#札幌市営地下鉄南北線脱線事故}}<br /> <br /> == 整備計画 ==<br /> 札幌市が[[1965年]]に発表した『札幌市都市交通機関計画資料』では、昭和60年(1985年)までに地下鉄を南北線&lt;!--が茨戸 - 藤野{{要出典}}--&gt;・東西線&lt;!--がひばりが丘 - 勤労者団地(現・宮の沢付近){{要出典}}--&gt;の計45km、また、都心および沿線各地区にバスターミナルを建設するとしており、このうち第一次計画として昭和50年(1975年)までに地下鉄20kmと[[バスセンター前駅|都心バスターミナル]]を建設することになっていた。<br /> <br /> 最初期の計画では、地下区間は都心部の約6km(南北線:北11条付近 - 南8条付近、東西線:西18丁目付近 - 東5丁目付近)のみで、残りはすべて[[高架橋|高架]]とする予定だった。また、東西線については[[千歳線]]の経路変更に伴う廃線区間(現:[[北海道道1148号札幌恵庭自転車道線]])に高架を建設する案もあった。<br /> <br /> [[1973年]]、自治省が札幌市の要請に基いて編成した調査団によって、札幌市の将来あるべき交通体系に関する調査が行われた。翌[[1974年]]3月に提出された報告書『最適交通体系の選択と投資順位の研究』では、地下鉄について<br /> * (1) 昭和49年(1974年)既設及工事中の路線<br /> * (2) 昭和55年(1980年)以前建設提案路線<br /> * (3) 昭和55年 - 60年(1985年)建設提案路線<br /> * (4) 昭和60年 - 65年(1990年)建設提案路線<br /> * (5) 昭和65年以降建設提案路線<br /> の5段階で、4路線計81.3kmの建設が提案されている。内訳は以下の通り。<br /> ; 南北線<br /> : 北24条 - 真駒内:12.1km (1)&lt;!--以下、実際に建設された区間の営業キロとは必ずしも一致しない--&gt;<br /> : 北24条 - 麻生町:2km (2)<br /> : 麻生町 - 新札幌団地&lt;ref group=&quot;注&quot;&gt;現在の[[石狩市]]花川南付近。&lt;/ref&gt;:9.0km (5)<br /> : 麻生町 - 茨戸:6.2km (5)<br /> : 真駒内 - 藤の沢:7.0km (5)<br /> ; 東西線<br /> : 琴似 - 白石:10.0km (1)<br /> : 白石 - 厚別副都心:8.1km (3)<br /> : 琴似 - 木工団地:2.8km (4)<br /> : 木工団地 - 手稲:4.2km (5)<br /> ; 三号線<br /> : 新川通 - 南34条西11丁目:9.0km (5)<br /> ; 四号線(現:東豊線)<br /> : 元町 - 月寒:11.0km (5)<br /> 札幌市では、これを基に3路線、約50kmを建設する構想、いわゆる「地下鉄50キロ計画」を定めた。&lt;!--* 東豊線が現在のルートに決定する前は東区から大通を経由して、[[山鼻]]方面へ延ばす案もあった。また、新川方面から大通を経由して、山鼻方面への4号線や環状線を建設する案があった。--&gt;現在までに、そのうちの48kmが建設され、他にも以下のような区間について延伸が検討、もしくは要望されているが、交通局や札幌市自体の財政状況からこれ以上の延伸は難しい情勢にある。<br /> * 東豊線:清田方面へ<br /> ** 地下鉄50キロ計画にも含まれているが、福住駅付近の[[線形 (路線)|線形]]の問題で、そこから先のルートが決まっていない。また、公共交通機関の利用者が低迷している中で、新たに膨大な投資を必要とする地下鉄についてはなかなか厳しい判断をせざるを得ないとの考え方が示されている&lt;ref&gt;平成21年第一部予算特別委員会-03月16日-07号における札幌市長答弁&lt;/ref&gt;。<br /> * 南北線:石山・藤野方面、新琴似・屯田方面へ<br /> ** 南側は真駒内まで建設時に将来の延伸に備えて旧・[[定山渓鉄道線]]の跡地を一括取得していたが、一部は道路などに転用された。<br /> * 東西線:JR[[森林公園駅 (北海道)|森林公園駅]]・[[発寒駅]]へ<br /> ** 宮の沢延伸工事中には、後述するJRとの相互乗り入れに関連して、発寒駅への延伸も検討されたが、「乗り入れ自体は不可能ではないが、きわめて困難&lt;!--主としてコスト的に--&gt;」とされたことから見送られている。<br /> なお、これらの区間には、地下鉄ではなく[[ライトレール]]で、という意見もある。また、札幌から石狩市へ鉄道ないしはモノレールを建設する計画があるが、その起点を麻生駅か栄町駅とする案がある。<br /> <br /> == JR北海道(旧日本国有鉄道)との関係 ==<br /> {{未検証|section=1|date=2010年9月}}<br /> ゴムタイヤ方式を採用した札幌市営地下鉄は、[[北海道旅客鉄道]](JR北海道)の路線との[[直通運転]](相互乗り入れ)が困難である。乗り換えを強いられるため、アクセスが悪く不便である一方、雪の影響を全く受けないというメリットもある。<br /> <br /> 市営地下鉄の建設が始まった昭和40年代前半の頃は、現在の[[札幌都市圏]]のように通勤や通学の範囲も広くなかったことに加え、JR北海道の前身である当時の[[日本国有鉄道]](国鉄)は駅間隔も長く[[普通列車]]の運行本数も地方都市並みであり、通勤・通学に利用しやすい存在ではなかった。当時、市民の足は主に市電・バスであり、同じく通勤・通学輸送を目的とした札幌市営地下鉄にとって、鉄軌道方式による相互乗り入れの必要性は低かったと考えられる。<br /> <br /> しかし[[国鉄分割民営化]]と前後して、国鉄や民営化により発足したJR北海道は札幌近郊輸送を重視するようになり、列車の大幅な増発や駅の増設、また[[函館本線]]の高架化や[[札沼線]](学園都市線)の[[複線]]高架化を行った。結果、現在ではJR線も通勤・通学路線としての役割を担っている。そのため、路線が市内東西に並行するJR函館本線・[[千歳線]]と[[札幌市営地下鉄東西線|東西線]]、南北に並行するJR札沼線と[[札幌市営地下鉄南北線|南北線]]北部・[[札幌市営地下鉄東豊線|東豊線]]北部が競合状態にある。<br /> <br /> JR線との相互乗り入れの可能性については、[[1995年]]から札幌市とJR北海道の部・課長クラスで「JRと地下鉄連携に関する研究会」を設けて検討され、[[鉄道総合技術研究所]]に調査委託した。翌[[1996年]]の研究所からの報告書では「両軌道に対応できる車両を開発する案が有力で、技術的には可能」とされた。しかし、その開発費は数百億円から1千億円程度に上るとのことで、その後の市総合交通対策調査審議会により、採算を理由に見送られた経緯がある。<br /> <br /> JR線、地下鉄線ともに利用可能な相互連絡乗車券や定期券は期間・数量限定の「[[YOSAKOIソーランパス]]」以外発売されていない。また運行障害が発生しても[[振替輸送]]は従来行われなかったが、[[2008年]]11月からはJR線で2時間以上の運行障害が発生した場合、地下鉄線への振替輸送を行うことになった。これは2007年12月に札幌周辺のJR線が[[列車防護無線装置]]の誤発報で長時間に渡って運行が乱れた際、その対応でJR北海道に厳しい批判が寄せられたことから札幌市交通局との間で協議が進められていたものである。<br /> <br /> [[ICカード]]の導入時も共通化を図る方向で[[2005年]]より協議が進められていたが、[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)の「[[Suica]]」との共通化を優先するJR北海道と、バスや市電など市内交通機関との共通化を主張する市交通局との間で意見が分かれ、当面の間共通化は見送られることになった。結果、2008年10月より導入された[[Kitaca]](JR北海道)と、[[2009年]]1月より導入された[[SAPICA]](札幌市交通局)の2枚を使い分ける必要が生じている。2013年6月22日からJR東日本のSuicaと相互利用が可能なカードが利用可能となった(ただし逆にSAPICAはJR東日本等SAPICA以外の地域では利用不可&lt;ref&gt;{{PDFlink|[http://www.jreast.co.jp//press/2012/20130309.pdf 札幌市交通局等におけるSuicaのサービス開始について]}} - 東日本旅客鉄道&lt;/ref&gt;)。<br /> <br /> JR北海道と札幌市営地下鉄は同じ北海道の鉄道事業者でありながら、対応やサービスの異なる面が多い。サービス面での違いは以下の通り。2009年3月31日までは、携帯電話のルールに関しても違いがあった。<br /> * 車内の冷房装置<br /> ** JR北海道:あり<br /> ** 札幌市営地下鉄:冷房はなし、暖房はあり{{refnest|group=&quot;注&quot;|ただし、[[北海道電力]]の電気料金再値上げと国からの節電協力要請を受け、2014年12月1日から2015年3月31日まで始発から午前8時を除き原則暖房を停止する&lt;ref&gt;[http://mainichi.jp/select/news/20141129k0000e040246000c.html 札幌地下鉄:来月から地下鉄暖房停止 北電再値上げで節電] - [[毎日新聞]] 2014年11月29日&lt;/ref&gt;。}}。<br /> * 駅ナンバリング<br /> ** JR北海道:導入は地下鉄より遅れたが、[[車内案内表示装置|車内LED案内表示器]]でもナンバリング表示<br /> ** 札幌市営地下鉄:先に導入したが、車内案内表示器についてはLED式は非対応(路線図への表記のみ)、5000形18編成以降と9000形のLCD式は対応済み。<br /> * ホームでの乗車待ち整列<br /> ** JR北海道:2列<br /> ** 札幌市営地下鉄:4列<br /> * 携帯電話<br /> ** JR北海道:優先席と周辺部のみ電源OFF、それ以外の場所は[[マナーモード]]に設定のうえ通話は禁止<br /> ** 札幌市営地下鉄:2013年12月2日より専用席とその前のつり革の位置(黄色のつり革)は電源OFFか電波を発信しない状態に設定の上使用は禁止、それ以外の場所は[[マナーモード]]に設定のうえ通話は禁止(2009年12月1日以前はJRと同様で、2009年3月31日までは全面禁止で電源OFFであった)<br /> <br /> == 技術 ==<br /> * ゴムタイヤが走行する走行路面は、南北線と東西線(琴似 - 白石間)が耐磨レジン(樹脂)、東西線(宮の沢 - 琴似間、白石 - 新さっぽろ間)と東豊線が鉄板となっている。このため、南北線では各所で走行路面の補修が行われており、走行中の揺れが大きい。<br /> * 通常の鉄道では車輪からレールに[[接地|アース]](帰電)しているが、ゴムタイヤ方式ではそのための[[第三軌条方式|集電靴]](シュー)を必要とする。東西線や東豊線では、集電靴をI字型の案内軌条の両側から挟むように擦りつけているため、案内軌条のつなぎ目、駅の直前、カーブなどで一瞬離れてまた接触する時に、[[スズメ]]の鳴き声に例えられる特有の走行音が発生する&lt;ref&gt;[https://pucchi.net/hokkaido/closeup/subway-chun.php 札幌の地下鉄はなぜ「ちゅんちゅん」鳴くの?音の正体に迫る!(石簾マサ)動画あり] - [[北海道ファンマガジン]](2017/07/22更新)2018年7月11日閲覧&lt;/ref&gt;。東西線と東豊線は逆T字形(天地逆の[[形鋼#T形鋼|T形鋼]])の案内軌条を左右からシューで挟むため、板状で反響しやすく、南北線はエの字形([[形鋼|H形鋼]])の案内軌条の天面に擦りつける方式のため、この音はほとんど発生しない。<br /> * 駅停車中は、車体裾のコンタクターとホーム端面の鉄板を導通させ、[[静電気]]の滞留を防止している。<br /> <br /> == 乗車制度 ==<br /> * 多くの鉄道会社局で券売機が[[2000円紙幣]]入金対応なのにも関わらず札幌市営地下鉄は全ての券売機が非対応である。その理由について市交通局は「普及していない上に客からの不満が全くないので今後も対応する気はない」と説明している。なお、[[日本の地下鉄]]で2000円紙幣が使えないのは2015年現在、札幌市営地下鉄のみである。<br /> * 札幌市交通局の発行する[[定期乗車券|定期券]]は、地下鉄の定期券である場合「高」(高速電車)という記号が印字される([[札幌市電|市電]]の場合は「電」)。<br /> * 磁気乗車券を使用した[[自動改札機]]を本格的に全面採用したのは札幌市営地下鉄が日本で初めて&lt;!--([[1960年代]]後半に国鉄・近鉄・東急に試験導入後、1971年1月に阪急北千里駅で運用開始。全面採用は札幌が初)--&gt;である。なお、札幌市営地下鉄で使用されている自動改札機は、開業時のものから現在の最新型まで、切符・カード・定期券の裏側(磁気面)を上にした投入ができず、そのまま投入した場合は『「裏入れ」表を上にして入れ直してください』と表示され、扉が閉まる。<br /> * 2011年(平成23年)2月28日に[[不正乗車]]検知システムを導入。入場の際に乗車券(定期券)に入場履歴が書き込まれ、出場の際に入場と異なる乗車券で改札を利用するとエラーとなり、扉が閉まる。<br /> <br /> == サービス ==<br /> * [[携帯電話]]の車内での利用に関しては、2009年4月1日より「専用席付近は電源OFF それ以外の場所ではマナーモード」という一般的なルールに移行された。それまでは、車内での携帯電話の使用は全面的に禁止されており、電源を切るように呼びかけていた。[[2012年]]からは東豊線で[[docomo Wi-Fi]]が利用できるようになった&lt;ref&gt;[http://plusd.itmedia.co.jp/mobile/articles/1205/01/news058.html docomo Wi-Fiが札幌市営地下鉄東豊線、横浜市営地下鉄グリーンラインなどでサービス開始]&lt;/ref&gt;。<br /> * 案内板などに用いられる各路線の[[ピクトグラム]]は当初、それぞれのラインカラーを地色に、[[札幌市交通局2000形電車|2000形]]、[[札幌市交通局6000形電車|6000形]]、[[札幌市交通局7000形電車|7000形]](前期)電車を模したデザインが使われていた。現在は最新の営業車両である[[札幌市交通局5000形電車|5000形]]、7000形(後期)、[[札幌市交通局8000形電車|8000形]]電車がほぼ同形状であるためデザインを改めて各線とも共通化し、ラインカラーで区別するものが使われている。2015年には国土交通省の関係公益法人である公益財団法人交通エコロジー・モビリティ財団が制定した「標準案内図記号」を用いたピクトグラムを採用したものへの更新が一部の駅で進められている。<br /> * 駅売店は、他都市のような交通局の外郭団体ではなく、JR北海道の子会社である[[北海道キヨスク]]が運営している。<br /> * 1971年の開業後、比較的早い時期より、各駅にそれぞれ異なる[[駅スタンプ]]が設置されている。色はラインカラー(緑・橙・青)に合わせたものとなっている(さっぽろ駅・大通駅は路線毎にデザインが異なる)。サタデーテーリングのスタンプとは異なるが、数年に一度、地下鉄駅のスタンプラリーも行われることがある。開業以来のSマークの頃と、STマークに変更となった後は、一部の駅のデザインが変更となっている(例・東豊線さっぽろ駅:時計台→JRタワー)。開業記念のスタンプ(シェルター断面図と1000系車両を模したもの)は近年までさっぽろ駅に設置されていた。駅スタンプは[[2014年]]よりリニューアルされ、各駅のイニシャル(例:さっぽろ駅→S、大通駅→O)のアルファベットの中に各駅近隣の名所が描かれたものになった(例:南北線さっぽろ駅→[[北海道庁旧本庁舎]]、南北線大通駅→[[札幌市時計台]])。<br /> * 開業以来、[[元日]]は始発時刻が遅く市民から批判の声もあったが、[[2006年]]以降は元日も通常と同様の始発時刻に改められた&lt;ref group=&quot;注&quot;&gt;始発と終発時刻は通常通りだが、日中の運行間隔を通常より間引きした特別ダイヤとなっている。&lt;/ref&gt;。<br /> * 駅舎のバリアフリーに関しては、[[交通バリアフリー法]]施行前の1988年の東豊線開業時より栄町-豊水すすきのの全駅にエレベーターやエスカレーターを備えるなど、積極的である。駅構造の関係でバリアフリー化が難しいとされていた北12条駅には3基のエレベーターを設置、地上用地の確保が遅れた東札幌駅(1番ホーム側){{refnest|group=&quot;注&quot;|平成21年度第3回定例会(札幌市議会)で予算計上、質疑の中で「地権者とダイエー東札幌店の協力が得られた」と、設置に向けた準備が進められた&lt;ref&gt;広報さっぽろ(平成21年11月号)&lt;/ref&gt;}}・中の島駅(1番ホーム側)などにも設置が完了し、全駅において車椅子で乗車するワンルートを確保した。<br /> * 札幌市役所のホームページにおいて、教材として利用できる地下鉄の写真を公開している&lt;ref&gt;[http://www.city.sapporo.jp/sogokotsu/gakusyu/subway-ph.html 写真素材集(地下鉄)]&lt;/ref&gt;。この中には開業前の南北線や東西線での試運転の様子、引退した車両、車両基地での様子など貴重な写真が揃っている。<br /> <br /> == 節電の取り組み ==<br /> * [[2012年]]夏季、[[北海道電力]][[泊発電所|泊原子力発電所]]の稼働停止による電力需要逼迫への対策として、駅構内及び電車内で照明の間引きなどの[[節電]]が行われた。駅構内では一部の電照式案内サインを消灯するなどの対策が行われたが、札幌市営地下鉄では黒地の電照式案内サインのために文字が見難くなる(特に東豊線)状態となったため、一部のサインには上から貼り紙が貼られる措置がとられた。なお、冬季の節電時ではこのような対策は行われなかった。<br /> * 2015年より、従来の黒地から白または黄色(出口案内など)をベースにした非電照式の案内表示に順次切り替わっている。<br /> * 2014年12月1日から2015年3月31日までの4ヶ月間、車内の暖房を原則停止とした。地下鉄内は暖房を入れなくても外気温より気温が高く、乗客は外気温に合わせた服装のため、従来から暑さを指摘する声があり、過度に寒くなることはないと判断して実施された&lt;ref&gt;[http://www.itmedia.co.jp/smartjapan/articles/1412/08/news018.html 暖房を止めた札幌市の地下鉄、電気料金の再値上げで節電拡大]&lt;/ref&gt;。暖房停止期間中である2月10日に乗客に対して聞き取り調査が実施され、約8割が車内温度が適切、9割が車内暖房停止に賛成であると回答した&lt;ref&gt;[https://www.city.sapporo.jp/st/documents/kikitorityousakekka.pdf 車内暖房停止に関するお客様への聴取調査の実施結果について]&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> == フィクションへの登場 ==<br /> {{独自研究|section=1|date=2015年3月}}<br /> {{出典の明記|date=2015年3月|section=1}}<br /> === 映画 ===<br /> * [[ガメラ2 レギオン襲来]]<br /> ** 南北線の真駒内行始発電車([[札幌市交通局2000形電車|2000形]]だった)が大通駅 - すすきの駅間でソルジャー[[レギオン (架空の怪獣)|レギオン]]に襲われ、多数の犠牲者を出すというストーリーである。また、描写されていないがすすきの駅自体もレギオン草体によって大ダメージを受けたと推測される。ただし、実際にはこの区間は一直線の上、ホームから隣の駅の灯りが見えるほどに近接しており、やや現実とそぐわない場面も見られた。<br /> * [[交渉人 真下正義]]<br /> ** 東豊線大通駅構内および東車両基地の出入庫線でロケが行われた。設定では東京の地下鉄が舞台のため、[[架空電車線方式]]でデザインにクセがない[[札幌市交通局8000形電車|8000形]]・[[札幌市交通局7000形電車|7000形]]が使用され、ゴムタイヤ部分は[[コンピュータグラフィックス|CG]]加工された。しかし車体部分はほぼ実物のままなので、本編中で容易に発見することができる。8000形に至っては札幌市交通局のロゴマークが判別できるシーンがある。<br /> <br /> * その他、[[鈴井貴之]]監督の映画作品でも登場している。<br /> <br /> === テレビドラマ ===<br /> * [[雅楽戦隊ホワイトストーンズ]]([[北海道テレビ放送|北海道テレビ]])<br /> * [[四国R-14]]水曜どうでしょうProject 2000(北海道テレビ)<br /> * [[ドラバラ鈴井の巣]](同上) - 東西線がよく登場する。<br /> <br /> === 漫画 ===<br /> * [[動物のお医者さん]] - 静電気体質の菱沼聖子が自動改札を通過できないシーンがある。<br /> <br /> == 脚注・出典 ==<br /> {{脚注ヘルプ}}<br /> === 注釈 ===<br /> {{Reflist|group=注}}<br /> <br /> === 出典 ===<br /> {{Reflist}}<br /> <br /> == 参考書籍 ==<br /> * 『さっぽろ文庫11 札幌の駅』(編:札幌市教育委員会、発行:北海道新聞社)<br /> ** 第5章第1節「地下鉄誕生」(筆者:大刀豊)<br /> *「北海道鉄道なんでも事典」(著:田中和夫、発行:北海道新聞社)<br /> <br /> == 関連項目 ==<br /> {{Commons|Sapporo Subway}}<br /> {{Multimedia|札幌市交通局の画像}}<br /> * [[札幌市の交通]]<br /> * [[地下鉄]]<br /> * [[日本の地下鉄]]<br /> * [[SUPER BELL&quot;Z]] - 走行音やアナウンスをモチーフにした楽曲がCDアルバムに収録されている<br /> * [[メトロ (パリ)|パリ地下鉄]]<br /> * [[札幌市交通資料館]]<br /> <br /> == 外部リンク ==<br /> * [http://www.city.sapporo.jp/st/ 札幌市交通局 公式サイト]<br /> * [http://ekibus.city.sapporo.jp/ 札幌市公共交通情報提供システム] - 札幌市内一部バス路線をのぞくすべての交通機関の情報を提供している。<br /> * [http://www.city.sapporo.jp/reiki/ 札幌市例規集]<br /> <br /> {{日本の地下鉄}}<br /> <br /> {{DEFAULTSORT:さつほろしえいちかてつ}}<br /> [[Category:日本の地下鉄]]<br /> [[Category:札幌市交通局の鉄軌道事業|*]]</div> 153.125.1.34 通信教育 2018-05-11T09:00:26Z <p>153.125.1.34: </p> <hr /> <div>{{出典の明記|date=2015年4月14日 (火) 11:14 (UTC)}}<br /> &#039;&#039;&#039;通信教育&#039;&#039;&#039;(つうしんきょういく)は、[[教室]]などの場で講師が対面して[[教育活動]]を実施することが難しい場合に、[[郵便]]や[[情報通信]]などの[[通信]]手段を使用して行う[[教育]]のことである。<br /> <br /> == 概説 ==<br /> 通信教育には、[[大学通信教育]]から、[[簿記]]、[[手芸]]、[[ペン習字]]、[[漢字]]などさまざまな[[社会教育]]の通信教育(社会通信教育)、[[不登校]]にある[[児童]]・[[在籍者 (学習者)|生徒]]などのための通信教育、[[離島]]や[[山村]]など[[家]]々の[[距離]]があまりにも離れすぎた遠隔地における教育手段として通信を用いるもの([[遠隔教育]])&lt;!-- 、[[インターネット大学]]、--&gt;などがある。通信教育を行うための手段については、[[情報技術|情報通信技術]]の発展により、郵便から[[インターネット]]をはじめとする[[コンピュータネットワーク]]への一部の移行も試みられており、[[2000年代]]以降における[[技術]]的な進化・進歩は顕著になってきているといわれている。<br /> <br /> 児童・生徒・[[在籍者 (学習者)|学生]]や[[受験生]]向けの通信教育としては、[[テレビ]]・[[ラジオ]]を活用して学習する[[NHK学園高等学校]]や[[放送大学]]が、また[[添削]]式のものとして[[進研ゼミ]]や[[Z会]]などがある。また本来通塾制の[[日本公文教育研究会|公文式]]も通信教育に対応している。<br /> <br /> == 歴史 ==<br /> [[国文学]]の[[賀茂真淵]]と[[本居宣長]]は生涯において直接対面したのは[[松阪の一夜]]限りだったが、以後[[手紙]]のやり取りで師弟として[[学問]]の継承、発展に寄与した。これもまた通信教育の一例とすれば通信教育の幅はかなり広いと考えられる。<br /> <br /> [[明治時代]]になると東京専門学校(現早稲田大学)が『[[早稲田大学#早稲田大学出版部|早稲田講義録]]』を発行し、貧しくて高等教育を受けられない人々に大いに活用された&lt;ref name=kougiroku&gt;[http://www.maboroshi-ch.com/ata/ord_14.htm まぼろし通販百科 第14回「懐かしき「講義録」の世界」の巻] まぼろしチャンネル 2005年6月2日 [[串間努]]{{リンク切れ|date=2014年3月}}「[https://web.archive.org/web/20101104202416/http://maboroshi-ch.com/ata/ord_14.htm アーカイブ(2010/11/04)]」&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> [[大正時代]]末期には、[[日本女子大学|日本女子大学校]]は、同校内の女子大学講義発行所から「日本女子大学校通信教授、女子大学講義」を発行。「僅か一ヵ年半で家庭にて女子大学卒業の学力を得られる」、「学校で先生から学ぶのと少しも変わりはありません。解らぬ所は質問にお答え致します。毎日、些少の時間を割いて御勉強になれば僅か一ヵ年半の短日月にしかも最も低廉な学費で、家庭に居ながら大学卒業と同等の学力を得られ、教養ある当代の女性として立派に立つことができます。卒業者には卒業証書授与。」と宣伝した。<br /> <br /> [[第二次世界大戦]]前は中学講義録や英語講義録、電気講義録、囲碁講義録など様々な講義録が発行され中等・高等教育の大衆化に大いに寄与した&lt;ref name=kougiroku/&gt;。<br /> <br /> == 日本の法律に基づく通信教育 ==<br /> * [[大学]]([[大学院]]を含む)と[[短期大学]]における「通信による教育」 ⇒ [[大学通信教育]] - [[短期大学通信教育]]<br /> * 「[[高等学校]]」「[[中等教育学校]]の後期[[課程]]」における「通信制の課程」 ⇒ [[高等学校通信教育]]<br /> * [[特別支援学校]]の[[高等部]]における「通信による教育」<br /> * [[中学校]]の「通信による教育」 ⇒ [[中学校通信教育]]<br /> * [[社会教育法]]第7章に基づく「通信教育」 ⇒ 社会通信教育<br /> <br /> === 社会通信教育と民間通信講座 ===<br /> ==== 社会通信教育の概要 ====<br /> 文部科学省認定通信教育には、[[学校教育法]]に基づき大学・高校が行う学校通信教育とは別に、社会教育法に基づいて学校又は[[一般社団法人]]若しくは[[一般財団法人]]が非営利目的で行う社会通信教育があり、社会通信教育基準と社会通信教育規程によって執り行われる。社会通信教育は社会教育上奨励すべきものとして文部科学省に認定されているもので、これを認定社会通信教育と呼び、旧[[文部省]]時代から古く生涯学習の施策として実施されてきた。専門知識や生活や健康維持に役立つ、[[教養]]や[[趣味]]の[[講座]]も多く認定され、各種社会通信教育の普及活動等を通じて、生涯学習から職業能力養成まで幅広く推進推奨している。社会通信教育では通常[[学歴]]、性別を問わず、入学試験も課さないが、[[年齢]]については講座によって制限がある。<br /> 文部科学省は、認定した社会通信教育の実施者を指導し[[監督]]する。実施団体は実施要領などを定めなければならない。<br /> 方法は、学校通信教育と基本的に変わりなく、第四種郵便も適用される。また、情報通信による手段も取り入れつつある。<br /> <br /> 文部科学省認定社会通信教育は、平成22年1月現在で42団体技術系31課程、事務系42課程、生活技術・教養系48課程で行われている。<br /> <br /> ==== 社会通信教育協会 ====<br /> 社会通信教育の関連団体に財団法人社会通信教育協会があり、これは文部科学省認定社会通信教育課程を設置する学校法人、財団法人、社団法人など公益法人によって、文部科学省認定社会通信教育の振興を図ることを目的に設置されている。<br /> <br /> 大学などが実施しているものについては、[[大学通信教育#社会通信教育を実施している大学・大学設置法人]]も参照。<br /> <br /> 以前は、札幌情報技術学院インターネットカレッジ、[[自衛隊]]援護協会、財団法人日本通信美術学園、なども社会通信教育を行っていた。<br /> <br /> ==== 民間企業による通信講座 ====<br /> 現在の通信教育の講座については、[[厚生労働省]]所管の教育訓練給付制度指定講座など、他省庁や公的機関が認定する講座も多数あるが、通信教育の市場については、学校教育の通信教育では横ばいか増加傾向となっているが、社会通信教育については数年にわたり減少傾向である。<br /> <br /> 一方で、民間企業による通信講座も幾つか存在し、文部科学省への認可申請等の手続きは不要である。通信の方法により一定の教育計画の下に教材ならびに補助教材等を受講者に送付し、これに基づき設問解答と添削指導、質疑応答などを行う事業所とされ、文部科学省認定通信教育とスタイルは同じであるが、職業分類では学校教育法による通信教育とは別分類とされている。<br /> 通信教育に関する[[学会]]には、日本通信教育学会がある。<br /> <br /> == 脚注 ==<br /> {{脚注ヘルプ}}<br /> &lt;references /&gt;<br /> <br /> == 参考文献 ==<br /> {{参照方法|date=2015年4月14日 (火) 11:14 (UTC)|section=1}}<br /> * 『すぐに役立つ通信教育全ガイド がんばる人を応援する』 ... 文部科学省認定社会通信教育(新ミドル・マネジメントコース ミドル・マネジメントコース実践編 ほか)、民間通信教育(経営・マネジメント・ビジネス)<br /> * 『ラーニング・アロン 通信教育のメディア学』 佐藤卓己・井上義和編、新曜社、2008年、ISBN 978-4788510913<br /> * 『各種 通信教育案内―自己啓発に!』 一ツ橋書店編集部<br /> <br /> == 関連項目 ==<br /> * [[遠隔教育]]<br /> * [[大学通信教育]]<br /> * [[高等学校通信教育]]<br /> ** [[サポート校]]<br /> * [[中学校通信教育]]<br /> * [[技能連携校]]<br /> * [[放送教育]]・[[教育放送]]<br /> * [[Massive open online course]]<br /> <br /> {{DEFAULTSORT:つうしんきよういく}}<br /> [[Category:成人教育]]<br /> [[Category:遠隔教育]]<br /> [[Category:教育の手法]]<br /> [[Category:日本の遠隔教育|*つうしん]]</div> 153.125.1.34 高雄・京北線 2018-05-04T02:49:29Z <p>153.125.1.34: </p> <hr /> <div>{{出典の明記|date=2015年8月 参考文献発行(1996年)以後の事柄について。}}<br /> {{参照方法|date=2015年8月}}<br /> [[ファイル:NISHINIHON JR BUS KYOTO ERGA.JPG|280px|thumb|right|高雄・京北線の車両(2016年1月)]]<br /> <br /> &#039;&#039;&#039;高雄・京北線&#039;&#039;&#039;(たかお・けいほくせん)は、[[西日本ジェイアールバス]](西日本JRバス)が運行している[[路線バス]](自動車路線)である。<br /> <br /> 1995年4月2日までは&#039;&#039;&#039;京鶴線&#039;&#039;&#039;(けいかくせん)と称していた。西日本JRバスの公式の配布物では&#039;&#039;&#039;京北線&#039;&#039;&#039;と略して記述している場合もある。<br /> <br /> 本項では、支線として開設された&#039;&#039;&#039;山国線&#039;&#039;&#039;(やまぐにせん)、かつて直通運転を行なっていた&#039;&#039;&#039;名田庄線&#039;&#039;&#039;(なたしょうせん)、2009年より運行を開始した&#039;&#039;&#039;立命館大学線&#039;&#039;&#039;(りつめいかんだいがくせん)および、運行を担当する&#039;&#039;&#039;京都営業所&#039;&#039;&#039;(きょうとえいぎょうしょ)、路線の拠点([[バスターミナル]]、[[自動車駅]])として機能している&#039;&#039;&#039;周山駅&#039;&#039;&#039;(しゅうざんえき)についても記述する。<br /> <br /> == 概要 ==<br /> 1937年に[[鉄道省]]が路線を開設して以来、一貫して同省およびその事業を承継する法人によって運行されている(鉄道省→[[運輸省]]鉄道総局→[[日本国有鉄道]]自動車局([[国鉄バス]])→[[西日本旅客鉄道]](JR西日本、[[JRバス]])→西日本JRバス)。<br /> <br /> 1937年3月25日に[[京都駅]]と鶴ヶ岡75kmを結ぶ省営バス京鶴線として開業し、同時に京都自動車区が開設された。改正[[鉄道敷設法別表一覧|鉄道敷設法別表]]第79号の「京都府殿田附近ヨリ福井県小浜ニ至ル鉄道」の予定線([[小鶴線]])があり、本路線は&#039;&#039;&#039;鉄道線の先行&#039;&#039;&#039;という使命の下に開設された路線である。1938年に周山駅から井戸を結ぶ支線として山国線が開業、その後も支線形成が活発化したが、まもなく戦時体制に入ったため拡大は一時中断となった。<br /> <br /> 終戦間もない1946年に、[[小浜駅]]から納田終・小屋を結ぶ合計36kmの路線として名田庄線が開業した。長距離急行路線の開設が全国的に多くなった1960年代に入ると、京鶴線と名田庄線の直通運転も行なわれ、京都から小浜までの110kmが国鉄バス路線で結ばれるようになった。しかし、途中の経過地である[[堀越峠]]が自然災害で不通になることが多く、利用者数の減少もあって1970年代までに直通運行は廃止された。<br /> <br /> その後、一部の支線が廃止された程度であったが、[[国鉄分割民営化]]およびその後に実施された西日本JRバスへの分社化後に行なわれた大幅な路線の整理は、支線だけではなく京鶴本線の末端区間にも及ぶことになり、1994年には丹波上川以北の路線が[[南丹市営バス|美山町営バス(当時)]]に移管された。2002年3月31日には名田庄線が全廃されたほか、その他の支線区も2003年4月までに[[きょうと京北ふるさと公社|京北町営バス(当時)]]へ移管されたため、京都駅と周山駅を結ぶ1路線だけが残った。この時に路線名称を「高雄・京北線」に変更している。2005年4月1日に旧・[[京北町]]が[[京都市]][[右京区]]に編入されて以降は、京都市内だけで完結する路線となった。<br /> [[ファイル:JR west bus Takao Keihoku line at Yamashiro Takao bus stop.jpg|thumb|right|紅葉シーズンには臨時バスも運行される(山城高雄バス停)]]<br /> 当路線は京北地区の生活路線としての使命のみならず、京都市街地の沿線に[[立命館大学]]があり通学に用いられる&lt;ref group=注釈&gt;但し[[京都市営バス]]の定期券が使用できない等の理由から、市営バスの各並行路線と比較して通学利用者は限られる。&lt;/ref&gt;など市内交通として機能するとともに、著名な寺社や[[紅葉]]の名所として知られる[[高雄 (京都市)|高雄]]・槇ノ尾・栂ノ尾(三尾)などが沿線に点在することから、観光路線としての一面も持ち合わせている。紅葉の時期には観光客の利用に対応して臨時便も運行されるが、その際は京都営業所だけでは車両が不足するため、金沢営業所、福知山営業所、近江今津営業所からも車両と乗務員が集められて運行されている。&lt;!--1997年頃までは終着停留所に到着する前に終着を知らせる車内メロディが放送されていた。(西日本JRバスの路線では行われていたことであり、特記するほどではないので保留)--&gt;<br /> <br /> 2008年3月{{要出典|date=2015年8月}}より高雄・京北線車両の[[方向幕]]が交換され、英文入りの黒地に白抜き文字の方向幕に変更された。<br /> <br /> == 沿革 ==<br /> * [[1937年]][[3月25日]] - 京鶴線京都 - 鶴ヶ岡間開業&lt;ref&gt;[{{NDLDC|2959549/3}} 「鉄道省告示第67号」『官報』1937年3月25日] - 国立国会図書館デジタルコレクション&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;記念スタンプ[{{NDLDC|2959545/2}} 「逓信省告示第712号」『官報』1937年3月20日] - 国立国会図書館デジタルコレクション&lt;/ref&gt;。京都自動車区・周山支区開設。<br /> *: 【新設停車場】四条大宮、二条(既設)、千本丸太町、下ノ森、北野、妙心寺裏門、福王子、高鼻町、平岡八幡、梅ヶ畑奥殿町、御経坂、山城高雄、栂ノ尾、亀石町、山城中川、杉坂口、川登橋、小野郷口、小野上ノ町、笠峠、餘野谷橋、滝又口、宮ノ辻、栗尾峠、魚ヶ淵、周山下町、周山、卯瀧橋、出口橋、清田、下中、筒江口、上弓削、丹波下川、丹波上川、千谷口、男鹿谷、深見峠、佐賀山、深見、下深見、丹波長尾、平屋、下平屋口、九鬼ヶ坂、静原、今宮橋、栃原橋、丹波高野、砂木、棚村橋、鶴ヶ岡<br /> * [[1938年]][[7月1日]] - 山国線周山 - 井戸間開業&lt;ref&gt;記念スタンプ[{{NDLDC|2959936/30}} 「逓信省告示第2084号」『官報』1938年6月29日] - 国立国会図書館デジタルコレクション&lt;/ref&gt; 及び京鶴線を「京鶴本線」に改称&lt;ref&gt;[{{NDLDC|2959935/3}} 「鉄道省告示第136・137号」『官報』1938年6月28日] - 国立国会図書館デジタルコレクション&lt;/ref&gt;。<br /> *: 【新設停車場】森ヶ坪、島崎、丹波鳥居、山国、最玄寺、野上橋、山国御陵前、井戸<br /> * [[1940年]][[5月31日]] - 【廃止停車場】妙心寺裏門、福王子、平岡八幡、梅ヶ畑奥殿町<br /> * 1940年[[6月1日]] - 【新設停車場】御室仁和寺、鳴瀧本町(北野・高鼻町間)、梅ヶ畑清水町、高雄小学校前(高鼻町・御経坂)<br /> * [[1946年]] - 名田庄線(小浜駅 - 納田終・谷口 - 小屋)が開業。<br /> * [[1951年]][[11月6日]] - 京鶴本線鶴ヶ岡 - 堀越峠間延伸。<br /> :* 【新設停車場】林、蛇ヶ原、大吸、堀越峠<br /> * [[1952年]][[3月10日]] - 京都 - 祇園 - 四条大宮間の支線開業&lt;ref&gt;[{{NDLDC|2964101/9}} 「日本国有鉄道公示第72号」『官報』1952年3月7日] - 国立国会図書館デジタルコレクション&lt;/ref&gt;。<br /> :* 【新設停車場】祇園(京都・四条大宮間)<br /> * [[1953年]][[1月20日]] - 小野郷 - 山城大森間の支線開業。<br /> :* 【新設停車場】雲月、山城大森<br /> * 1953年[[5月1日]] - 停車場新設及び田土 - 丹波福居間の支線開業。<br /> :* 【新設停車場】田土(鶴ヶ岡・林間)、熊壁、丹波福居<br /> * 1953年[[5月20日]] - 塩田口停車場、下弓削停車場に改称。<br /> * 1953年[[7月15日]] - 二条 - 北野間に千本丸太町停車場新設。<br /> * 1953年[[9月1日]] - 停車場新設及び出口橋 - 矢代間の支線並びに下平屋口 - 宮脇 - 静原間の支線開業。<br /> :* 【新設停車場】清田(下弓削・下中間)、上熊田、矢代中、矢代(出口橋・矢代間)、宮脇、丹波宮島(下平屋口・静原間)<br /> * [[1954年]][[6月5日]] - 下平屋口停車場、上平屋停車場に改称。<br /> * [[1955年]][[3月21日]] - 京都 - 祇園 - 四条大宮間の支線を廃止し、京都 - (烏丸通)- 千本丸太町間の支線開業。<br /> * [[1960年]][[5月20日]] - 停車場新設、廃止及び改称。<br /> :* 【新設停車場】安掛(深見・平屋間)、栃原橋、砂木(静原・鶴ヶ岡間)、花ノ木、下又林(平屋・宮脇間)、下吉田、佐本橋(宮脇・静原間)<br /> :* 【廃止停車場】丹波高野<br /> :* 【停車場改称】宇多野→福王子<br /> * [[1961年]][[3月20日]] - 宮ノ辻停車場、細野停車場に改称。<br /> * [[1963年]][[6月20日]] - 杉坂口 - 杉坂間の支線開業、停車場廃止及び新設並びに改キロ実施。<br /> :* 【廃止停車場】夫婦橋、栃原橋、砂木、花ノ木、下又林<br /> :* 【新設停車場】栂ノ尾、毘沙門橋(山城高雄・山城中山間)、杉坂口(山城中山・四本目間)、鴨瀬田(丹波川上・深見峠間)、下深見(深見・安掛間)、今宮橋、高野、棚村橋(静原・鶴ヶ岡間)、天理教前(熊田・矢代中間)、又林(平屋・宮脇間)<br /> * [[1994年]] - 京鶴線の丹波上川以北を廃止、美山町営バスに移管。<br /> * [[1995年]][[4月3日]] - 山国線全廃、京北町営バスに移管。京鶴線の路線名称を「高雄・京北線」に変更。<br /> * [[2002年]][[4月1日]] - 名田庄線全廃。<br /> * [[2006年]] - 千本三条停留所を千本三条・朱雀立命館前に改称。<br /> * [[2008年]][[3月]] - 千本丸太町 - 丸太町七本松間に丸太町御前通停留所を新設。<br /> * [[2009年]][[11月1日]] - バス停新設(御室東)。循環バス(京都駅→四条大宮→円町→立命館大学→一条通→円町→四条大宮→京都駅)の運行を開始。一部便は円町から逆回り。水色一色塗りである中型車を導入&lt;ref group=&quot;注釈&quot;&gt;この車両は廃止された平城山線の車両を転用したもの。&lt;/ref&gt;。<br /> * [[2012年]][[3月14日]] - 七条大宮停留所を七条大宮・[[京都水族館]]前に改称。<br /> * [[2013年]]<br /> **[[3月23日]] - 出世稲荷前停留所を千本旧二条に改称。<br /> **[[12月21日]] - 京北トンネル開通に伴い経路変更。愛宕道・細野・栗尾峠の各停留所を廃止し、細野口停留所を新設。<br /> * [[2015年]][[10月23日]] - 高雄・京北線において[[PiTaPa]]を導入、[[ICOCA]]/[[Suica]]をはじめとする「[[交通系ICカード全国相互利用サービス|全国相互利用ICカード乗車システム]]」にも対応&lt;ref&gt;[http://www.nishinihonjrbus.co.jp/news/show/id/279?jrb_usr=3ff357deeab537dfd86bccbf7703abc6 ICカードサービスを開始!&lt;高雄・京北線&gt;(京都駅~周山)] - 2015年10月19日 西日本JRバス公式サイト&lt;/ref&gt;。<br /> * [[2016年]][[1月7日]] - 京北地域住民の利便性向上及び地域活性化を目的とした社会実験を行うことを発表&lt;ref&gt;[http://www.nishinihonjrbus.co.jp/news/show/id/299 「周山 - 京都駅」間の経路変更のお知らせ] - 2016年1月7日 西日本ジェイアールバス公式サイト&lt;/ref&gt;。2016年1月18日~3月31日の期間限定で、周山駅 - 京都駅間1日14往復のうち2往復を[[太秦天神川駅]]経由に変更&lt;ref&gt;[http://www.nishinihonjrbus.co.jp/topics/timetable/information.pdf JRバスの社会実験中] - 2016年1月7日 西日本ジェイアールバス公式サイト&lt;/ref&gt; する。これに伴い、西小路御池・太秦天神川駅前・黒橋・福王子(上り)の各停留所が新設&lt;ref&gt;[http://www.nishinihonjrbus.co.jp/topics/timetable/takao_keihoku_20160118_2.pdf JRバス高雄・京北線路線図] - 2016年1月7日 西日本ジェイアールバス公式サイト&lt;/ref&gt; された。<br /> <br /> == 路線一覧 ==<br /> 本節では旧称である「京鶴線」と記載する。<br /> <br /> === 京鶴線 ===<br /> 京都営業所が運行を担当する。<br /> * 京鶴本線<br /> ** 京都駅 - 四条大宮(一条通経由京都駅行きの一部便は四条烏丸) - 千本丸太町 - 円町 - 北野 - 立命館大学前(一部便は一条通) - 御室仁和寺 - 山城高雄 - 栂ノ尾 - 杉阪口 - 山城中川 - 北山グリーンガーデン前 - 小野郷 - 周山駅<br /> ** 京都駅 - 四条烏丸 - 千本丸太町 - 円町 - 北野 - ( → 立命館大学前 → 御室仁和寺 → 一条通、又はこの逆経路)- 循環<br /> ** 周山駅 - 下中 - 丹波上川 - 安掛 - 静原 - 鶴ヶ岡 - 丹波福居(廃止)<br /> ** 安掛 - 宮脇 - 静原(廃止)<br /> ** 周山駅 - 下中 - ゼミナールハウス(廃止)<br /> ** 周山駅 - 出口橋 - 矢代(廃止)<br /> ** 周山駅 - 細野 - 下長野(廃止)<br /> * 山国線<br /> ** 周山駅 - 山国 - 井戸 - 上黒田 - 灰屋(廃止)<br /> ** 山国 - 三明院前 - 下中(廃止)<br /> ** 井戸 - 小塩(廃止)<br /> <br /> === 名田庄線 ===<br /> 近江今津営業所小浜支所が運行を担当していた。2002年4月1日に[[大和交通 (福井県)|大和交通]]へ移管。 <br /> * 名田庄線<br /> ** 小浜駅 - 湯岡 - 湯岡橋 - 須縄 - 上中井 - 谷口 - 名田庄中学前 - 井上 - 納田終(廃止)<br /> ** 谷口 - 小屋(廃止)<br /> ** 湯岡 - 谷田部 - 上中井(廃止)<br /> <br /> == 京都営業所 ==<br /> [[ファイル:NishinihonJR bus Kyoto depot.jpg|right|thumb|京都営業所]]<br /> &#039;&#039;&#039;西日本ジェイアールバス京都営業所&#039;&#039;&#039;(きょうとえいぎょうしょ)は、京都市[[南区 (京都市)|南区]]吉祥院三ノ宮町にある西日本JRバスの営業所である。<br /> <br /> 開設当初は京鶴線・山国線を担当する一般路線の営業所であったが、1964年の名神高速線開業、さらに1969年の[[ドリーム号 (高速バス)|夜行高速バス「ドリーム号」]]運行開始に伴い、高速バス車両が多数配置され、規模は大幅に拡大された&lt;ref&gt;バスジャパン・ハンドブック3「西日本ジェイアールバス」 p.23&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> === 所在地 ===<br /> * 京都営業所 : 京都市南区吉祥院三ノ宮町120番地<br /> :※かつては京都市下京区塩小路通堀川東入にあった。跡地は[[オムロン]]本社が入居するオムロン京都センタービルとなっている。<br /> ;かつて存在した事業所。<br /> * 周山出張所 : 京都市右京区京北周山町西丁田20-2(周山駅)<br /> <br /> === 所管路線 ===<br /> * [[ドリーム号 (東京 - 京阪神)|ドリーム号]]<br /> * [[東海道昼特急号]]<br /> * [[名神ハイウェイバス]]<br /> * [[津山エクスプレス京都号]]<br /> * [[鳥取エクスプレス京都号]]<br /> * [[米子エクスプレス京都号]]<br /> * [[出雲エクスプレス京都号|出雲エクスプレス京都号・出雲縁結びドリーム京都号]]<br /> * [[高松エクスプレス京都号]]<br /> * [[阿波エクスプレス京都号]]<br /> * [[びわこドリーム号]]<br /> * [[大阪 - 広島線|山陽道昼特急(大阪発)青春ドリーム広島号・青春昼特急広島号]]<br /> * [[若狭舞鶴エクスプレス京都号]]<br /> * 高雄・京北線<br /> <br /> === 所属車両 ===<br /> [[三菱ふそうトラック・バス|三菱]]車・[[いすゞ自動車|いすゞ]]車が主体で、高速車に[[日野自動車|日野]]車が少数在籍する。[[2015年]][[12月]]には、高雄・京北線向けに初めて大型ノンステップバス([[いすゞ・エルガ]])が3台投入された。&lt;!--早朝に周山駅を発車する便の運行の必要から、周山出張所にも車両が常駐する。--&gt;<br /> <br /> == 周山駅 ==<br /> [[ファイル:JR west bus shuzan bus station2.jpg|thumb|right|周山駅]]<br /> &#039;&#039;&#039;周山駅&#039;&#039;&#039;(しゅうざんえき)は、京都府京都市右京区京北周山町町西丁田にある[[バスターミナル]]の通称である。1937年3月25日の京鶴線開業と同時に[[自動車駅]]として開設された。2008年9月30日までは、京都営業所周山出張所を併設していた。<br /> <br /> 乗り場は4バースある。当駅から山国線が発着していたほか、京鶴線の運転系統が一部を除いて当バスターミナルで分割されていたこともあり乗り継ぎ拠点として機能していた。なお、支線区が廃止された後も代替バスが乗り入れており、乗り継ぎ拠点としての機能を失っていない。<br /> <br /> 2008年10月1日以降{{要出典|date=2015年8月}}は、[[きょうと京北ふるさと公社]]が窓口業務(定期券、京都市域共通回数券の発売など)を行っている&lt;ref&gt;外部リンク「きょうと京北ふるさと公社」参照。(2015年8月6日閲覧)&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 近年は従来の自動車駅に見られたような特段の機能は持っていないが、2008年現在でも駅舎には「JRバス周山駅」と掲示されているほか、公共施設などの交通案内では「周山駅」の記載が散見される&lt;ref&gt;一例として、[http://www.f-machi.jp/searches/detail/885 あうる京北(京都府立ゼミナールハウス)]・[http://www.kamikatsura.info/map/ 上桂川漁業協同組合] に記載がある(いずれも2015年8月6日閲覧)。&lt;/ref&gt; など通称として用いられる。なお、かつて当駅前に発着していた[[京都交通 (亀岡)|京都交通]]では停留所名を「周山駅前」と称していた。<br /> <br /> == 注釈 ==<br /> &lt;references group=&quot;注釈&quot;/&gt;<br /> <br /> == 出典 ==<br /> &lt;references/&gt;<br /> <br /> == 参考文献 ==<br /> * バスジャパン・ハンドブックシリーズ3「西日本ジェイアールバス」(1996年、BJエディターズ)<br /> <br /> == 関連項目 ==<br /> * [[小鶴線]]<br /> * [[京都市営バス梅津営業所#8号系統]](京都市街地より、当路線とおおむね同一経路で高雄へ至る路線。)<br /> <br /> == 外部リンク ==<br /> * [http://www.nishinihonjrbus.co.jp/local_bus/kyoto/ 京都市内〔高雄・京北線〕] - 西日本ジェイアールバス<br /> * [http://fuw.jp/furusatobus/ 京北ふるさとバス] - 公益財団法人きょうと京北ふるさと公社<br /> * [http://www.city.nantan.kyoto.jp/www/kurashi/101/011/005/ 南丹市営バス] - 南丹市<br /> <br /> {{DEFAULTSORT:たかおけいほくせん}}<br /> [[Category:近畿地方のバス路線]]<br /> [[Category:日本国有鉄道の自動車路線]]<br /> [[Category:西日本ジェイアールバスの路線]]<br /> [[Category:京都府の交通]]<br /> <br /> <br /> {{Bus-stub}}</div> 153.125.1.34 左京区 2018-04-23T08:54:37Z <p>153.125.1.34: </p> <hr /> <div>{{日本の行政区<br /> |自治体名=左京区<br /> |画像=File:Ginkakuji Kyoto04-r.jpg<br /> |画像の説明=東山慈照寺<br /> |都道府県=京都府<br /> |支庁=<br /> |市=京都市<br /> |コード=26103-3<br /> |隣接自治体・行政区=&#039;&#039;京都市&#039;&#039;([[右京区]]、[[北区 (京都市)|北区]]、[[上京区]]、&lt;br /&gt;[[中京区]]、[[東山区]]、[[山科区]])&lt;br /&gt;[[南丹市]]&lt;br /&gt;[[滋賀県]]:[[大津市]]、[[高島市]]<br /> |木=<br /> |花=<br /> |シンボル名=他のシンボル<br /> |鳥など=<br /> |郵便番号=606-8511<br /> |所在地=左京区松ケ崎堂ノ上町7番地の2&lt;br /&gt;&lt;small&gt;{{ウィキ座標度分秒|35|2|55|N|135|46|43|E|region:JP-26_type:adm3rd|display=inline,title}}&lt;/small&gt;&lt;br /&gt;[[File:Sakyo Ward General Office Building of Kyoto City, Kyoto Prefecture, Japan 05.JPG|220px|左京区役所]]<br /> |外部リンク=[http://www.city.kyoto.lg.jp/sakyo/ 京都市左京区役所]<br /> |位置画像={{行政区位置図|26|103}}<br /> |特記事項=<br /> |}}<br /> &#039;&#039;&#039;左京区&#039;&#039;&#039;(さきょうく)は、[[京都市]]を構成する11区のうちのひとつ。<br /> <br /> ==概要==<br /> [[1929年]]([[昭和]]4年)に[[上京区]]から分区して成立。<br /> <br /> 京都市の東北部を占め、区域は南北に長い。東は[[滋賀県]][[大津市]]に接し、南は[[三条通]]をはさんで[[東山区]]、[[山科区]]に、北は[[南丹市]]、[[滋賀県]][[高島市]]に接している。このほか隣接はしていないものの、区の最北端部と[[福井県]][[大飯郡]][[おおい町]]は5km程度しか離れていない(但し直通する道路は無い)。<br /> 区南部には[[川端通]]、[[東大路通]]、[[白川通]]などの通りが南北に走っている。<br /> <br /> 区南部は住宅地や文教地区になっている一方([[岩倉 (京都市)|岩倉地区]]などの北寄りの地域は[[市街化調整区域]]に指定されているため、高層建築物などの大規模開発が制限されている影響で、田畑も多く残る)、区北部は山間地で[[林業]]が盛んである。<br /> <br /> 有名な寺社としては東山[[慈照寺]](銀閣寺)・[[南禅寺]]・[[下鴨神社]]・[[平安神宮]]がある。また北部には[[鞍馬寺]]・[[貴船神社]]・[[三千院]]・[[岩倉具視#岩倉具視幽棲旧居|岩倉具視幽閉跡]]・[[修学院離宮]]などがある。<br /> 八瀬[[大原 (京都市)|大原]]から[[大原女]]と呼ばれる山菜売りの女性が行商に来ることもあった。また、[[北白川]]には花の行商を生業とする[[北白川#白川女|白川女]]が存在していたが、現在は存続していない模様である。他に北白川の山間部には、[[北白川#白川砂|白川砂]]と言う特産品もある。<br /> <br /> ==庁舎==<br /> 旧庁舎は[[1931年]]建設で[[吉田_(京都市)|吉田]]中阿達町1番地に所在していたが、老朽化に加えて手狭となった事から、2011年5月22日に旧京都簡易保険会館跡地となる現在地へ移転となった。その際に別に立地していた左京区保健センターも新庁舎に入居している&lt;ref&gt;[http://mizuhara.jp/25.pdf 左京区総合庁舎が5月に松ケ崎へ移転します !] 左京区役所 2011年3月3日、2015年4月21日閲覧。&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> ==左京と左京区==<br /> 「左京」とは、[[天皇]]の在所すなわち[[京都御所|御所]]から見て左側の意。天皇は南面して[[高御座]]に座っていたので左は東になる。そのため地図上では右にありながら左京と呼ばれる。本来左京と言えば[[平安京]]のうちの東側(洛陽または洛中)のことであったが、京都市の行政区として生まれた左京区は[[鴨川_(淀川水系)|鴨川]]左岸の洛東(洛外)地域にあたる。現在はその後の市町村の統廃合により、更に外縁の旧[[愛宕郡]]部を中心としたかなり大きなものとなっている([[右京区]]が旧[[京北町]]と合併するまでは、京都市全11区の中で最も大きい面積の区であった。また当区の面積だけで[[大阪市]]全域よりも広い)。<br /> <br /> ==地理==<br /> ===河川===<br /> *[[鴨川_(淀川水系)|鴨川]](高野川との合流点より北は賀茂川。)<br /> *[[高野川 (京都市)|高野川]]<br /> *[[白川 (淀川水系)|白川]]<br /> *[[琵琶湖疏水]]<br /> <br /> === 地域区分 ===<br /> {{See also|京都市左京区の町名}}<br /> 左京区基本計画&lt;ref&gt;[http://www.city.kyoto.lg.jp/sakyo/page/0000009778.html 左京区基本計画] - 左京区役所&lt;/ref&gt;などでは区全体を北部、中部北、中部南、南部の4地区に区分している。北部地区(または北部山間地域)は[[北山]]の農山村である。中部北地区は[[京都盆地]]の北に点在する小盆地の集合である。中部南地区は京都盆地の北東角にあたり、かつては近郊農村だったが近代以降は住宅地化している。南部地区は[[鴨川 (淀川水系)|鴨川]]の東岸であり、古くから京都中心部と密接な関わりを持つ地域である。<br /> <br /> より細かい地域区分としては[[京都の元学区|元学区]]に基づくものがある。[[国勢統計区]]もほぼ元学区に基づいている。また南部の一部を除いて京都市に合併する以前の旧村名、字名などが公称町名の一部として残っており、これに基づいて区分されることもある。これらの区分を比較すると以下のようになる。<br /> <br /> {| class=&quot;wikitable&quot;<br /> ! rowspan=&quot;2&quot; | 4区分&lt;ref name=&quot;chiku_table&quot;&gt;「京都市行政区別地区割一覧」『史料 京都の歴史 1概説』 pp.655 - 669&lt;/ref&gt;<br /> ! colspan=&quot;2&quot; | [[住民基本台帳]]の元学区&lt;ref&gt;[http://www.city.kyoto.jp/sogo/toukei/Population/Resident/code_table.pdf 元学区コード一覧] - 京都市&lt;/ref&gt;&lt;ref name=&quot;daicho&quot;&gt;[http://www.city.kyoto.jp/sogo/toukei/Population/Resident/index.html 住民基本台帳人口] より「町別人口」 - 京都市&lt;/ref&gt;<br /> ! colspan=&quot;2&quot; | 国勢統計区&lt;ref&gt;[http://www.city.kyoto.jp/sogo/toukei/Area/Name/Name14.html 国勢統計区名称一覧/左京区] - 京都市&lt;/ref&gt;<br /> ! colspan=&quot;2&quot; | 旧村名など<br /> ! rowspan=&quot;2&quot; | 公称町名&lt;ref name=&quot;daicho&quot; /&gt;<br /> |-<br /> ! style=&quot;width:3em&quot; |コード<br /> ! 名称<br /> ! 番号<br /> ! 名称<br /> ! 『京都府地誌』([[1881年]]頃)&lt;ref name=&quot;chiku_table&quot; /&gt;<br /> ! 市町村制施行時([[1889年]])&lt;ref name=&quot;chiku_table&quot; /&gt;<br /> |-<br /> ! rowspan=&quot;9&quot; | 南<br /> | style=&quot;text-align:right&quot; |11 ||新洞<br /> | style=&quot;text-align:right&quot; |16 ||新洞<br /> |上京三十三組<br /> |上京三十三組<br /> | 新東洞院町など<br /> |-<br /> | style=&quot;text-align:right&quot; |12 ||川東<br /> | style=&quot;text-align:right&quot; |17 ||川東<br /> | rowspan=&quot;2&quot; |聖護院村<br /> | rowspan=&quot;8&quot; |上京三十四組<br /> | 東丸太町など<br /> |-<br /> | style=&quot;text-align:right&quot; |13 ||聖護院<br /> | style=&quot;text-align:right&quot; |18 ||聖護院<br /> | 聖護院○○町<br /> |-<br /> | style=&quot;text-align:right&quot; |14 ||岡崎<br /> | style=&quot;text-align:right&quot; |15 ||岡崎<br /> |岡崎村<br /> | 岡崎○○町など<br /> |-<br /> | style=&quot;text-align:right&quot; rowspan=&quot;3&quot; |15<br /> | rowspan=&quot;3&quot; |錦林東山<br /> | style=&quot;text-align:right&quot; rowspan=&quot;3&quot; |14<br /> | rowspan=&quot;3&quot; |錦林東山<br /> |粟田口村&lt;ref group=&quot;注釈&quot;&gt;江戸時代の粟田口村の南部はこのとき下京八組(後に[[東山区]]粟田学区)となっている。&lt;/ref&gt;<br /> | 粟田口○○町<br /> |-<br /> |南禅寺村<br /> | 南禅寺○○町など<br /> |-<br /> |鹿ケ谷村<br /> | 鹿ケ谷○○町など<br /> |-<br /> | style=&quot;text-align:right&quot; |16 ||[[吉田_(京都市)|吉田]]<br /> | style=&quot;text-align:right&quot; |19 ||吉田<br /> |吉田村<br /> |吉田○○町<br /> |-<br /> | style=&quot;text-align:right&quot; |17 ||浄楽<br /> | style=&quot;text-align:right&quot; |13 ||浄楽<br /> |浄土寺村<br /> |浄土寺○○町など<br /> |-<br /> ! rowspan=&quot;11&quot; | 中南<br /> | style=&quot;text-align:right&quot; |18 ||[[北白川]]<br /> | style=&quot;text-align:right&quot; |12 ||北白川<br /> |白川村<br /> |[[白川村 (京都府)|白川村]]<br /> |北白川○○町<br /> |-<br /> | style=&quot;text-align:right&quot; |19 ||養正<br /> | style=&quot;text-align:right&quot; |20 ||養正<br /> | rowspan=&quot;2&quot; | 田中村<br /> | rowspan=&quot;3&quot; | [[田中村 (京都府)|田中村]]<br /> | rowspan=&quot;2&quot; | 田中○○町<br /> |- style=&quot;height:1em&quot;<br /> | style=&quot;text-align:right&quot; rowspan=&quot;2&quot; |20<br /> | rowspan=&quot;2&quot; |養徳<br /> | style=&quot;text-align:right&quot; rowspan=&quot;2&quot; |21<br /> | rowspan=&quot;2&quot; |養徳<br /> |-<br /> |高野河原村<br /> | 高野○○町<br /> |-<br /> | style=&quot;text-align:right&quot; |21 ||[[下鴨]]<br /> | style=&quot;text-align:right&quot; |22 ||下鴨<br /> | rowspan=&quot;2&quot; | 下鴨村<br /> | rowspan=&quot;2&quot; | [[下鴨村]]<br /> | rowspan=&quot;2&quot; | 下鴨○○町<br /> |-<br /> | style=&quot;text-align:right&quot; |22 ||葵<br /> | style=&quot;text-align:right&quot; |23 ||葵<br /> |-<br /> | style=&quot;text-align:right&quot; |23<br /> | rowspan=&quot;4&quot; |修学院&lt;ref group=&quot;注釈&quot;&gt;修学院学区には4つのコードが割り振られており、住民基本台帳人口の元学区別集計では各地区が「修学院 1/4」のように表記される。&lt;/ref&gt;<br /> | style=&quot;text-align:right&quot; |11 ||修学院第二<br /> |一乗寺村<br /> | rowspan=&quot;4&quot; | [[修学院村]]<br /> | 一乗寺○○町<br /> |-<br /> | style=&quot;text-align:right&quot; |24<br /> | style=&quot;text-align:right&quot; rowspan=&quot;2&quot; |10<br /> | rowspan=&quot;2&quot; |修学院第一<br /> | rowspan=&quot;2&quot; | 修学院村<br /> | 修学院○○町<br /> |-<br /> | style=&quot;text-align:right&quot; |25<br /> | 山端○○町<br /> |-<br /> | style=&quot;text-align:right&quot; |26<br /> | style=&quot;text-align:right&quot; |9 ||上高野<br /> |高野村<br /> | 上高野○○町<br /> |-<br /> | style=&quot;text-align:right&quot; |27 ||松ケ崎<br /> | style=&quot;text-align:right&quot; |24 ||松ケ崎<br /> |松ケ崎村<br /> |[[松ヶ崎村 (京都府)|松ヶ崎村]]<br /> |松ケ崎○○町<br /> |-<br /> ! rowspan=&quot;3&quot; | 中北<br /> | style=&quot;text-align:right&quot; |28 ||[[岩倉 (京都市)|岩倉]]<br /> | style=&quot;text-align:right&quot; |1 ||岩倉<br /> |岩倉村など5村<br /> |[[岩倉村 (京都府)|岩倉村]]<br /> |岩倉○○町<br /> |-<br /> | style=&quot;text-align:right&quot; |29 ||八瀬<br /> | style=&quot;text-align:right&quot; |8 ||八瀬<br /> |八瀬村<br /> |八瀬村<br /> |八瀬○○町<br /> |-<br /> | style=&quot;text-align:right&quot; |30 ||[[大原 (京都市)|大原]]<br /> | style=&quot;text-align:right&quot; |7 ||大原<br /> |草生村など11村<br /> |大原村<br /> |大原○○町<br /> |-<br /> ! rowspan=&quot;5&quot; | 北<br /> | style=&quot;text-align:right&quot; |31 ||静市<br /> | style=&quot;text-align:right&quot; |2 ||静市<br /> |静原村、市原村、野中村<br /> |静市野村<br /> |静市○○町<br /> |-<br /> | style=&quot;text-align:right&quot; |32 ||鞍馬<br /> | style=&quot;text-align:right&quot; |3 ||鞍馬<br /> |鞍馬村、二之瀬村、貴船村<br /> |鞍馬村<br /> |鞍馬○○町<br /> |-<br /> | style=&quot;text-align:right&quot; |33 ||花脊<br /> | style=&quot;text-align:right&quot; |4 ||花脊<br /> |別所村など4村<br /> |花脊村<br /> |花脊○○町<br /> |-<br /> | style=&quot;text-align:right&quot; |34 ||広河原<br /> | style=&quot;text-align:right&quot; |6 ||広河原<br /> |<br /> |黒田村(大字広河原)&lt;ref group=&quot;注釈&quot;&gt;江戸時代の広河原村&lt;/ref&gt;<br /> | 広河原〇〇町<br /> |-<br /> | style=&quot;text-align:right&quot; |35 ||久多<br /> | style=&quot;text-align:right&quot; |5 ||久多<br /> |宮谷村など5村<br /> |久多村<br /> | 久多○○町<br /> |}<br /> <br /> == 人口 ==<br /> {|style=&quot;font-size:smaller&quot;<br /> |-<br /> |style=&quot;text-align:center;&quot;|左京区の人口の推移<br /> |-<br /> |{{人口統計/fluctuation_2015|188434|189307|185645|182201|173282|172030|171556|169587|168802|168266|2}}<br /> |-<br /> |style=&quot;text-align:right&quot;|[[総務省]][[統計局]] [[国勢調査 (日本)|国勢調査]]より<br /> |}<br /> <br /> == 交通 ==<br /> 左京区は京都における北陸への玄関である。古来より[[鯖街道]]と呼ばれる海産物の運送ルートが何本も走っていた。現在でも[[国道367号|国道367号線]]は京都と福井を結ぶ幹線道路である。&lt;br /&gt;<br /> <br /> 鉄道網としては、[[1989年]]([[平成]]元年)[[10月5日]]の[[京阪鴨東線]]開業により、区内のほぼ全体から[[大阪]]方面へのアクセスが格段に良くなったほか、[[1997年]](平成9年)[[6月3日]]には[[京都市営地下鉄烏丸線]][[国際会館駅]]が延伸開業し、主に岩倉・松ヶ崎地区から[[京都駅]]をはじめ市内中心部、及び[[近鉄京都線]]沿線へ結ばれるようになった。<br /> <br /> 一方、区内のバス路線網は[[京都市営バス]](区内には[[京都市営バス烏丸営業所錦林出張所|烏丸営業所錦林出張所]]あり)または[[京都バス]](区内には[[京都バス高野営業所|高野営業所]]あり)が主に担当している。<br /> <br /> ===鉄道===<br /> *[[京阪電気鉄道|京阪]][[京阪鴨東線|鴨東線]]<br /> :[[出町柳駅]] - [[神宮丸太町駅]] <br /> *[[叡山電鉄]][[叡山電鉄叡山本線|叡山本線]](全線区内)<br /> :出町柳駅 - [[元田中駅]] - [[茶山駅 (京都府)|茶山駅]] - [[一乗寺駅]] - [[修学院駅]] - [[宝ヶ池駅]] - [[三宅八幡駅]] - [[八瀬比叡山口駅]]<br /> *叡山電鉄[[叡山電鉄鞍馬線|鞍馬線]](全線区内)<br /> :宝ヶ池駅 - [[八幡前駅 (京都府)|八幡前駅]] - [[岩倉駅 (京都府)|岩倉駅]] - [[木野駅]] - [[京都精華大前駅]] - [[二軒茶屋駅]] - [[市原駅]] - [[二ノ瀬駅]] - [[貴船口駅]] - [[鞍馬駅]]<br /> *[[京都市営地下鉄]][[京都市営地下鉄烏丸線|烏丸線]]<br /> :[[国際会館駅]] - [[松ヶ崎駅 (京都府)|松ヶ崎駅]]<br /> *[[京福電気鉄道]][[京福電気鉄道鋼索線|鋼索線]](叡山ケーブル)<br /> :[[ケーブル八瀬駅]] - ケーブル比叡駅<br /> *[[宗教法人]][[鞍馬寺]][[鞍馬山鋼索鉄道]]<br /> :[[山門駅]] - [[多宝塔駅]]<br /> <br /> ===道路===<br /> ;一般国道<br /> *[[国道367号]]<br /> *[[国道477号]]<br /> ;主要地方道<br /> *[[京都府道・滋賀県道30号下鴨大津線]]<br /> *[[京都府道32号下鴨京都停車場線]]<br /> *[[京都府道38号京都広河原美山線]]<br /> *[[京都府道40号下鴨静原大原線]]<br /> *[[京都府道61号京都京北線]]<br /> *[[京都市道181号京都環状線]]<br /> *[[京都市道182号蹴上高野線]]<br /> *[[京都市道187号鹿ヶ谷嵐山線]]<br /> ;一般府道<br /> *[[京都府道101号銀閣寺宇多野線]]<br /> *[[京都府道103号上賀茂山端線]]<br /> *[[京都府道104号高野修学院山端線]]<br /> *[[京都府道105号岩倉山端線]]<br /> *[[京都府道106号神山岩倉停車場線]]<br /> *[[京都府道108号草生上野線]]<br /> *[[京都府道110号久多広河原線]]<br /> *[[京都府道361号上黒田貴船線]]<br /> *[[滋賀県道783号・京都府道781号麻生古屋梅ノ木線]]<br /> ;その他<br /> *[[比叡山ドライブウェイ|奥比叡ドライブウェイ]]<br /> <br /> ==区役所==<br /> *左京区役所<br /> :〒606-8511 京都市左京区松ケ崎堂ノ上町7-2<br /> :2011年4月15日、左京区松ヶ崎の旧京都簡易保険会館跡地に左京区総合庁舎竣工、同年5月6日より区役所、福祉事務所が、同月9日より保健センターが移転、業務を開始した。<br /> *岩倉出張所<br /> :〒606-0025 京都市左京区岩倉中町403<br /> *八瀬出張所<br /> :〒601-1252 京都市左京区八瀬秋元町578<br /> *大原出張所<br /> :〒601-1242 京都市左京区大原来迎院町10-2<br /> *静市出張所<br /> :〒601-1123 京都市左京区静市市原町36-3<br /> *花脊出張所<br /> :〒601-1104 京都市左京区花脊大布施町196<br /> *久多出張所<br /> :〒520-0463 京都市左京区久多宮の町3<br /> <br /> ==教育==<br /> ===小学校===<br /> [[久多]]地区の児童・生徒は2000年度より「区域外就学生」として、滋賀県大津市にある大津市立葛川小学校・大津市立葛川中学校に通学している&lt;ref&gt;[http://www.otsu.ed.jp/ktr-j/shoukai.html 校区紹介] - 大津市立葛川中学校(2013年5月22日閲覧)&lt;/ref&gt;。<br /> ; 公立<br /> &lt;div style=&quot;float: left; vertical-align: top; white-space: nowrap; margin-right: 1em;&quot;&gt;<br /> * [[京都市立明徳小学校]]<br /> * [[京都市立岩倉南小学校]]<br /> * [[京都市立岩倉北小学校]]<br /> * [[京都市立八瀬小学校]]<br /> * [[京都大原学院]]<br /> * [[京都市立市原野小学校]]<br /> * [[京都市立静原小学校]]<br /> * [[京都市立鞍馬小学校]]<br /> &lt;/div&gt;&lt;div style=&quot;float: left; vertical-align: top; white-space: nowrap; margin-right: 1em;&quot;&gt;<br /> * [[京都市立花脊小中学校]]<br /> * 京都市立錦林小学校<br /> * 京都市立第三錦林小学校<br /> * 京都市立第四錦林小学校<br /> * [[京都市立新洞小学校]]<br /> * [[京都市立北白川小学校]]<br /> * 京都市立養正小学校<br /> &lt;/div&gt;&lt;div style=&quot;float: left; vertical-align: top; white-space: nowrap; margin-right: 1em;&quot;&gt;<br /> * 京都市立養徳小学校<br /> * [[京都市立下鴨小学校]]<br /> * 京都市立葵小学校<br /> * 京都市立修学院小学校<br /> * 京都市立上高野小学校<br /> * 京都市立修学院第二小学校<br /> * [[京都市立松ヶ崎小学校]]<br /> &lt;/div&gt;{{clear|left}}<br /> ; 私立<br /> * [[ノートルダム学院小学校]]<br /> * [[京都文教短期大学附属小学校]]<br /> * [[同志社小学校]]<br /> <br /> === 中学校 ===<br /> ; 公立<br /> * 京都市立岡崎中学校<br /> * 京都市立高野中学校<br /> * [[京都市立下鴨中学校]]<br /> * 京都市立近衛中学校<br /> * 京都市立修学院中学校<br /> * 京都市立洛北中学校<br /> * [[京都大原学院]]<br /> * [[京都市立花脊小中学校]]<br /> * [[京都府立洛北高等学校・附属中学校|京都府立洛北高等学校附属中学校]]※中高併設<br /> ; 私立<br /> * [[同志社中学校・高等学校|同志社中学校]]※中高併設<br /> * [[ノートルダム女学院中学校・高等学校|ノートルダム女学院中学校]]※中高併設<br /> * [[東山中学校・高等学校|東山中学校]]※中高併設<br /> * [[京都精華学園中学校・高等学校|京都精華学園中学校]]※中高併設<br /> * [[京都文教中学校・高等学校|京都文教中学校]]※中高併設<br /> <br /> ===高等学校===<br /> *[[京都府立洛北高等学校・附属中学校|京都府立洛北高等学校]]※中高併設<br /> *[[京都府立北稜高等学校]]<br /> *[[同志社中学校・高等学校|同志社高等学校]]※中高併設<br /> *[[東山中学校・高等学校|東山高等学校]]※中高併設<br /> *[[京都精華学園中学校・高等学校|京都精華学園高等学校]]※中高併設<br /> *[[京都文教中学校・高等学校|京都文教高等学校]]※中高併設<br /> *[[ノートルダム女学院中学校・高等学校|ノートルダム女学院高等学校]]※中高併設<br /> <br /> ===大学===<br /> ; 国立<br /> *[[京都大学]]<br /> *[[京都工芸繊維大学]]<br /> ; 公立<br /> *[[京都府立大学]]<br /> ; 私立<br /> *[[京都精華大学]]<br /> *[[京都造形芸術大学]]<br /> *[[京都ノートルダム女子大学]]<br /> *[[京都情報大学院大学]]<br /> <br /> ===特別支援学校===<br /> *[[京都市立白河総合支援学校]]<br /> <br /> ==名所・旧跡==<br /> &lt;gallery&gt;<br /> ファイル:Kyoto Nanzenji01s5s4272.jpg|南禅寺三門<br /> ファイル:Kamomioya-jinja romon.jpg|賀茂御祖神社楼門<br /> ファイル:Kibune Kawadoko01s5s4272.jpg|貴船の[[納涼床|川床]]<br /> ファイル:Kyoto Botanical Garden - conservatory.JPG|京都市植物園<br /> ファイル:Kyoto Prefectural Library 20161002.jpg|京都府立図書館<br /> ファイル:Takaragaike Park Kyoto01s3s4500.jpg|宝が池公園と[[比叡山]]<br /> &lt;/gallery&gt;<br /> {{Div col||18em}}<br /> *東山[[慈照寺]](銀閣寺)<br /> *[[平安神宮]]<br /> **[[平安神宮神苑]]<br /> *[[南禅寺]]<br /> *[[吉田神社]]<br /> *[[賀茂御祖神社|下鴨神社]]<br /> *[[詩仙堂]]<br /> *[[曼殊院]]<br /> *[[修学院離宮]]<br /> *[[赤山禅院]]<br /> *[[宝ヶ池公園]]<br /> *[[国立京都国際会館]]<br /> *[[実相院|岩倉実相院]]<br /> *[[三千院]]<br /> *[[寂光院]]<br /> *[[阿弥陀寺 (京都市左京区)|古知谷 阿弥陀寺]]<br /> *[[鞍馬寺]]<br /> *[[貴船神社]]<br /> *[[哲学の道]]<br /> *[[京都府立植物園]]<br /> *[[京都府立陶板名画の庭]]<br /> *[[岡崎公園 (京都市)|岡崎公園]] <br /> *[[京都市勧業館]](みやこめっせ)<br /> *[[京都市美術館]]<br /> *[[京都国立近代美術館]]<br /> *[[京都府立図書館]]<br /> *[[京都市動物園]]<br /> *[[無鄰菴]]<br /> *[[永観堂]]<br /> *[[京都工芸繊維大学]]美術工芸資料館<br /> *[[並河靖之七宝記念館]]<br /> *[[ロームシアター京都]]<br /> *[[川島織物セルコン]] [[織物文化館]]<br /> *[[ガーデンミュージアム比叡]]<br /> *[[思古渕社|思古渕社(志古淵神社)]]<br /> *[[南禅寺界隈別荘]]<br /> {{Div col end}}<br /> <br /> == 国の行政機関 ==<br /> *国土交通省京都営繕事務所<br /> *[[大阪入国管理局]]京都出張所<br /> *[[大阪税関]]京都税関支署<br /> *[[近畿財務局]]京都財務事務所<br /> *大阪[[国税不服審判所]]京都支所<br /> *京都[[少年鑑別所]]<br /> *左京[[税務署]]<br /> <br /> == 外国公館 ==<br /> *[[在京都フランス総領事館]]<br /> <br /> ==出身有名人==<br /> *[[与謝野鉄幹]] - [[歌人]]<br /> *[[沢田研二]] - [[歌手]]<br /> *[[つじあやの]] - [[シンガーソングライター]]<br /> *[[左京未知子]] - [[俳優]]<br /> *[[中村玉緒]] - [[俳優]]<br /> *[[中野英雄]] - [[俳優]]<br /> *[[彦惣弘]] - [[弁護士]]、[[立命館大学]]教授<br /> *[[古河市兵衛]] - [[実業家]]<br /> *[[前原誠司]] - [[政治家]]<br /> *[[チュートリアル (お笑いコンビ)|チュートリアル]]([[徳井義実]]・[[福田充徳]])- [[芸人]]<br /> *[[大井文雄]] - [[アニメーター]]<br /> *[[上岡龍太郎]] - 元[[タレント]]<br /> <br /> ==その他==<br /> *左京区の担当集配[[郵便局]]は[[久多]]地区([[堅田郵便局]])を除いて、[[左京郵便局]]の管轄となっている。<br /> **[[左京郵便局]] - 606-xxxx、601-11xx、601-12xx<br /> **[[堅田郵便局]]([[滋賀県]][[大津市]]) - 520-02xx、520-03xx、520-04xx、520-05xx<br /> <br /> == 脚注 ==<br /> {{脚注ヘルプ}}<br /> === 注釈 ===<br /> {{Reflist|group=&quot;注釈&quot;}}<br /> <br /> === 出典 ===<br /> &lt;!-- 文献、参照ページ --&gt;<br /> {{Reflist}}<br /> <br /> == 参考文献 ==<br /> &lt;!-- 実際に参考にした文献一覧 --&gt;<br /> * {{cite book|和書<br /> |editor=[[京都市]]<br /> |title=史料京都の歴史<br /> |volume=1 概説<br /> |publisher=[[平凡社]]<br /> |year=1991<br /> |month=3<br /> |isbn=4-582-47701-1<br /> }}<br /> <br /> ==外部リンク==<br /> {{Commonscat|Sakyo-ku, Kyoto}}<br /> * [http://www.city.kyoto.jp/sakyo/ 左京区役所] - 京都市情報館(公式サイト)<br /> <br /> {{京都府の自治体}}<br /> {{Normdaten}}<br /> {{Japan-area-stub}}<br /> {{DEFAULTSORT:さきようく}}<br /> [[Category:左京区|*]]<br /> [[Category:京都市の区]]</div> 153.125.1.34 運転手 2018-04-14T11:24:43Z <p>153.125.1.34: /* トラック運転手 */</p> <hr /> <div>{{混同|運転士}}<br /> {{複数の問題<br /> |出典の明記 = 2011年6月<br /> |独自研究 = 2018年1月<br /> }}<br /> [[File:Japanese chauffeur.jpg|thumb|right|220px|職業運転手の一例&lt;br /&gt;[[京都市]]内の[[ハイヤー]]]]<br /> &#039;&#039;&#039;運転手&#039;&#039;&#039;(うんてんしゅ)とは、[[自動車]]などを[[運転]]する[[人]]のこと。また運転を[[職業]]とする人&lt;ref name=&quot;ko_5&quot;&gt;広辞苑 第五版 p.277 運転 - 運転手&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> == 日本における運転手 ==<br /> {{出典の明記|date=2017年7月|section=1}}<br /> [[営業車|営業用の自動車]]を運転する場合、[[運転免許証]]は[[第二種運転免許]]以上の免許が必要であり、[[旅客輸送]]が仕事となる。ドライバーやプロドライバー、運転士とも呼ばれる。また、親しみを込めて「運ちゃん」とも呼ばれる。<br /> <br /> 自家用の[[貨物自動車]]や乗用車(企業なら社長・会長を、官公庁では[[国務大臣]]・副大臣・政務官・長官・官房長など要人を乗せる。企業であっても専務や常務級、ましてヒラの[[取締役]]の場合は専用車をもらえる事は少ない)、[[自家用バス]]を運転する者も運転手と呼ばれるが、自家用車であれば、[[第二種運転免許|二種免許]]は必要ではない。[[貨物自動車]]は[[日本のナンバープレート|営業ナンバー]]で有償で運送を行っている場合でも、一種免許で運転できる。運転技量はもちろん、同乗者全員への[[シートベルト]]着用の呼びかけの他、道路や地理にも明るくなければならない。<br /> <br /> [[鉄道]]や[[軌道]]では、機関士や[[運転士]]と呼ばれ、それぞれの[[動力車|動力方式]]に応じた免許が必要である([[動力車操縦者]]を参照)。一部の鉄道・軌道業者では運転手を社内呼称として用いる業者もある。<br /> <br /> [[クレーン]]などの操縦者は、運転士あるいは[[オペレーター]]と呼ばれる。<br /> <br /> [[旅客輸送]]に従事するかつての職業には、[[人力車]]の「車夫」や、[[駕篭]]をかつぐ「駕篭かき」、[[馬車]]を御す「御者」などもあったが、現在では[[観光]]用など、極一部を除いて存在しない。<br /> <br /> === バス運転手 ===<br /> {{出典の明記|date=2017年7月|section=1}}<br /> {{節スタブ}}<br /> ==== 営業用バス ====<br /> [[日本のナンバープレート|ナンバープレート]]が緑色の[[日本のバス#.E7.8F.BE.E6.B3.81|営業用バス]]を運転する場合、営業運転であれば[[第二種運転免許]]が必要である。[[大型自動車]]に該当するバスを運転する場合は大型自動車第二種免許、小型バスなどの[[中型自動車]]に該当するバスを運転する場合は大型自動車第二種免許もしくは中型自動車第二種免許を取得している必要がある。回送など営業運転でない場合は大型/中型第一種運転免許を持つ者でも運転できる。<br /> <br /> 主に、[[路線バス|路線バス(乗合バス)]]、[[観光バス|貸切バス(観光バス)]]、特定輸送(送迎バス)があり、運転手はそれらを運行する事業者に属する者が多い。&lt;!--ダイヤ通りに運行する必要がある。--&gt;<br /> <br /> 日本の一般路線バスは[[乗務員]]として運転手のみが乗車する[[ワンマン運転]]であることがほとんどである。ワンマン運転の場合、運転手は運転操作のほか、[[車内放送]](自身による肉声放送もしくは車内放送用機器の操作)、乗客が乗降する[[自動ドア]]の開閉操作なども行う。<br /> <br /> ==== 自家用バス ====<br /> ナンバープレートが白色の[[自家用バス]]を運転する際は、大型自動車第二種免許あるいは中型自動車第二種免許は必要なく、大型自動車第一種免許あるいは中型自動車第一種免許を所持していればよい。主に[[企業]]・[[学校]]・[[幼稚園]]・[[宿泊施設|宿泊]]・[[レジャー]]の各施設やレストラン・官公庁などが所有する法人自家用のバスであり、運転手はそれらの団体に属する者または専門の会社より派遣される。<br /> <br /> [[道路運送法]]78条(旧80条)に基づくいわゆる「[[廃止代替バス#80条バス|80条バス]]」の路線バスを運転する場合も大型/中型第一種運転免許で運転できる。<br /> <br /> === タクシー運転手 ===<br /> {{出典の明記|date=2017年7月|section=1}}<br /> {{Main|タクシー|日本のタクシー|個人タクシー}}<br /> {{節スタブ}}<br /> <br /> === トラックの運転手 ===<br /> {{出典の明記|date=2017年7月|section=1}}<br /> トラック運転手は、乗務する車ごとに積載量で25t超・10t・8t・4t・3t半・2tなどの[[貨物自動車]]を運転する。運転する車ごとに、[[大型自動車|大型]]一種、[[牽引自動車|けん引]]一種、大型[[特殊自動車|特殊]]一種免許などが必要となる。大手運送会社では、入社時に過去数年間の運転記録証明などを提出されるよう求められることがある(銀や金の[[SDカード (運転免許)|SDカード]]が取れれば更によい)。<br /> <br /> ==== トラック運転手による交通事故 ====<br /> 業務用車で事故を起こした場合運転手は労働災害となり、[[労働基準監督署]]に必ず届けなければならない。<br /> また治療を受ける場合であっても[[労働災害保険]]を使うことになる。事業主責任が発生し、大規模な事故を起こすと事業所は捜索を受け、場合によっては[[運行管理者]]・会社代表が身柄拘束される場合がある。また運輸局による事業停止処分など厳しい処罰規定がもうけられている。対物損害・人身損害を含めると何億円を超える場合であっても、事業主がこれを負担しなければならない。<br /> <br /> ==== 反則金・罰金と大型トラック運転手 ====<br /> 通常車体が大きくなればなるほど罰金の額は、増えていき普通車より大型車の方が刑罰処分が重くなる。反則金の場合普通車より1000円~3000円ほど高い.<br /> <br /> === トレーラーの運転手 ===<br /> {{出典の明記|date=2017年7月|section=1}}<br /> [[牽引自動車]]とは、トレーラーとも呼ばれ、牽引車と被牽引車(積載部分)が切り離し可能で、なおかつ牽引(連結)状態にある車両を指す。<br /> <br /> トレーラーにも、[[セミトレーラー]]と[[フルトレーラー]]とがあり、セミトレーラーは、[[トラクタ]]とトレーラーに分かれるものであって、フルトレーラーは、大型トラック、もしくは、大型バスの後ろに、もう一台、トレーラーを付けたものである。<br /> <br /> [[サファリパーク]]や[[遊園地]]などのランドトレイン([[列車]]状の遊具)もフルトレーラーである。[[空港]]内では[[プッシュバック]]が該当する。<br /> <br /> 牽引車両の[[ブレーキ]]ホース、電装系の切り離し作業は運転手が主に行い、[[コンテナ]]などの荷役作業は主に到着先の会社の社員が行う。このため、トレーラー運転手のうち、工場や配送関係でない輸送の場合は、運転のみの軽作業であり、労働時間も比較的決まっているため、女性運転手の進出も見られる。<br /> <br /> 牽引式[[タンクローリー]]を運転するには、大型一種、けん引一種の他、積荷に応じ、[[危険物取扱者]]、[[高圧ガス移動監視者]]、[[毒物劇物取扱責任者]]などの[[国家資格]]が必要となる。<br /> * 関連企業<br /> ** 日本フレートライナー株式会社<br /> ** トヨタ輸送株式会社<br /> <br /> === 自家用自動車の運転手 ===<br /> {{出典の明記|date=2017年7月|section=1}}<br /> 職業ドライバーでなくても自家用自動車を運転していると運転手ということになる(法律上の「業務」)。従って営業車でなくても車を運転している人は、&#039;&#039;&#039;運転手&#039;&#039;&#039;という呼び名が正しい。<br /> <br /> 自家用自動車の運転手が人身事故を起こしたとき業務上過失になるのは、車を運転すること自体社会的には、業務の一環として仕事である為とされている。従って交通ルールを守り円滑な社会貢献を図らなければならない。<br /> <br /> === 緊急自動車の運転手 ===<br /> {{出典の明記|date=2017年7月|section=1}}<br /> {{Main|緊急自動車#免許要件|緊急自動車#緊急自動車の走行}}<br /> [[消防車]]や[[救急車]]、警察の[[パトロールカー]]などの運転手は特に「機関員」と呼ばれる(この場合の「機関」はorganisationではなくengine)。助手席には消防であれば隊長、パトロールカーであれば車長が座り、安全のための広報(拡声器で「緊急車両が通行します、道を空けて下さい」と呼びかけ)を行なったり、無線で状況報告をし応援を求めたりする。<br /> <br /> === 自動車運転手を主に収容する日本の刑務所 ===<br /> {{出典の明記|date=2017年7月|section=1}}<br /> 交通事故を起こして実刑判決を受けた人を収監する。これらは「[[交通刑務所]]」とも称されている。<br /> * 千葉県にある[[市原刑務所]]<br /> * 兵庫県にある[[加古川刑務所]]<br /> <br /> == 欧州における運転手 ==<br /> [[File:London - London cabbie - 3843.jpg|right|thumb|160px|ロンドンのタクシー運転手]]<br /> === トラック運転手 ===<br /> 貨物自動車の運転免許についてEU指令では、車両総重量3.5t未満の自動車に係る運転免許をB免許(普通免許に相当)、車両総重量3.5t以上7.5t未満の貨物自動車に係る運転免許をC1免許(準中型免許に相当)として区分しており、C1免許は基本的に18歳になれば取得できる&lt;ref name=&quot;report02&quot;&gt;{{Cite web |url=https://www.npa.go.jp/koutsuu/menkyo/kamotsu_menkyo/report/02_report.pdf|title=貨物自動車に係る運転免許制度 の在り方に関する報告書|publisher=[[警察庁]] |accessdate=2018-01-14}}&lt;/ref&gt;。さらにEU指令では車両総重量7.5t以上の貨物自動車に係る運転免許をC免許とし21歳になれば取得できるとしている([[アイルランド]]や[[オランダ]]などではEU指令とは異なり18歳でC免許を取得できる)&lt;ref name=&quot;report02&quot; /&gt;。<br /> <br /> C1免許はB免許取得後に取得手続を開始できる&lt;ref name=&quot;report02&quot; /&gt;。C免許とは別にC1免許を設けて18歳で取得できることとしている理由は、若年での大型車の運転の危険性を踏まえつつ、若年労働者の確保などの社会的必要性に配慮するためである&lt;ref name=&quot;report02&quot; /&gt;。<br /> <br /> EUでは貨物運送事業等を主たる業務として運送を行うためには一定の講習や試験を受けることが義務付けられており、免許も5年ごとの更新制で健康診断の受診や35時間以上の講習が義務付けられている&lt;ref name=&quot;report02&quot; /&gt;。<br /> <br /> === タクシー運転手 ===<br /> <br /> {{Main|タクシー}}<br /> <br /> == 米国における運転手 ==<br /> [[File:Metro Transit-University Avenue-20081002.JPG|right|thumb|160px|米国、ミネソタ、[[ミネアポリス]]付近のバス運転手]]<br /> === トラック運転手 ===<br /> アメリカ合衆国では州ごとに運転免許制度が異なる&lt;ref name=&quot;report02&quot; /&gt;。多くは車両総重量11.7t(2万6,000ポンド)以上が大型に区分されるが、大型を中心とする商用自動車については年齢等の諸規制が設けられている&lt;ref name=&quot;report02&quot; /&gt;。<br /> <br /> === タクシー運転手 ===<br /> {{Main|タクシー}}<br /> <br /> == お抱え運転手 ==<br /> {{出典の明記|date=2017年7月|section=1}}<br /> 近世、近代には[[家事使用人]]として、&#039;&#039;&#039;お抱え運転手&#039;&#039;&#039;([[:en:Chauffeur|Chauffeur]] ショーファー)という職業があった。主人のための[[馬車]]や[[自動車]]の運転者として屋敷に住み込んでいる者である。運転をしない時は、車の整備や洗車・ワックスがけ、馬の世話などをする一種の専門職である。現在でも、[[リムジン]]の呼称の一種である「ショーファードリブン(カー)」に名を残す。またショーファーは車内という極めて限られた空間において主人の私的事項を知り得たため、場合によっては[[尚書]]・[[祐筆]]のように振舞う者もいた。<br /> <br /> 現代では、[[大使館]]や大企業で専門の要員を確保し、重役に専用車を与えている場合はこれに近いが、運転手が住み込みの個人的な使用人でない、あくまで企業の従業員である点が異なる。社によってはタクシー会社や車両管理会社と契約し[[ハイヤー]]で送迎を行なっている例もある。白ナンバー車(自家用車)を運転するため、普通二種免許は法的には必要としない。<br /> <br /> ホテル正面、都心部繁華街の路上、巨大地下駐車場や車寄せなどで見かける黒塗りの白ナンバーセダンは、お抱え運転手により運行されている車両である場合が多い。<br /> <br /> ===アメリカにおけるショーファー===<br /> 米国ではChauffeurをDriverと区別して『単に運転だけをする者ではない(顧客や雇い主の世話をする者)』と認識される。<br /> つまり、バスやタクシーの運転手はDriverと呼ばれ、お抱え運転手(Private Chauffeur)に限らず、[[リムジン]](ストレッチリムジンに限らず)の運転手などはChauffeurと呼ばれる。<br /> タクシーの運転手はショーファーではないが、日本の地方都市でタクシーを借り切って観光などをする場合の運転手はショーファーに近い業務内容をこなしている。<br /> アメリカでタクシーを借り切って観光をしても運転手はショーファーとはほど遠い。<br /> <br /> 米国では1都市に各種のリムジン会社が存在し多様な車種を揃えているので、必要な時に必要なタイプの車を手配する方がはるかに経済的である為、Private Chauffeur(専従のお抱え運転手)を雇い入れている個人雇用主の多くは、運転手に[[ボディーガード]]を兼務させる(逆の意味ではボディガードに『運転もさせる』)意図が強いので、都市によってはPrivate Chauffeurは“ボディー”(警護対象者)を守るための拳銃を携帯している確率が高い。<br /> <br /> アメリカでは日本のように[[ナンバープレート]]で営業用・自家用の区別が付けられない(公用と一般車の区別のみがある)為、前後のバンパーに業務用ステッカーが貼ってあるかどうかで、Private(自家用)・Commercial(営業用)の区別をする。<br /> <br /> ===サウジアラビアの運転手===<br /> [[サウジアラビア]]では、女性が自動車を運転することを禁止しており、多くの家庭で運転手を雇用してきた。政府の統計によれば運転手は約140万人に及び、その多くは[[南アジア]]などから来た[[出稼ぎ労働者]]であった。なお[[2018年]]、[[サウジアラビアにおける女性の人権]]が見直される中で、女性の自動車運転も認められることとなったため、将来的に職業的な運転手の数は減少する見込みである&lt;ref&gt;[https://www.cnn.co.jp/business/35107962.html?tag=mcol;relStories 男性運転手が大量失職か、女性の車運転解禁で] CNN(2017年9月28日)2018年1月12日閲覧&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> == その他 ==<br /> {{出典の明記|date=2017年7月|section=1}}<br /> * [[台湾]]で話される[[台湾語]]には&#039;&#039;&#039;ウンチャン&#039;&#039;&#039;([[白話字]]:{{Unicode|ùn-chiàng}})という語彙があり、「運将」、「運匠」等と表記される。語源は[[日本統治時代の台湾|日本統治時代]]の台製和語「運ちゃん」(運転手の愛称)であるという説が有力である。日本語と異なり、[[侮蔑]]の意は無くかつ[[差別用語]]などにも指定されておらず、ニュース報道等でも一般的に使用される。<br /> <br /> == 脚注 ==<br /> &lt;references/&gt;<br /> <br /> == 関連項目 ==<br /> * [[操縦士]] - [[船舶]]・[[航空機]]・[[宇宙船]]などを運転する人<br /> * [[運転士]] - [[電車]]・[[船舶]]・[[機械]]などを運転する人<br /> * [[機関士]] - 分野により(また歴史的には)運転手を「機関士」としていることがある。運転業務のうち、機械(主機)を担当するのが「機関士」のこともある。<br /> * [[交通安全協会]]<br /> * [[アルコール検査]]<br /> <br /> {{DEFAULTSORT:うんてんしゆ}}<br /> [[Category:道路交通に関する職業]]<br /> [[Category:操縦技術]]<br /> [[Category:バス]]<br /> [[Category:タクシー]]<br /> [[Category:サービス関連の職業]]</div> 153.125.1.34
Warning: Cannot modify header information - headers already sent by (output started at /home/users/1/sub.jp-asate/web/wiki/extensions/HeadScript/HeadScript.php:3) in /home/users/1/sub.jp-asate/web/wiki/includes/WebResponse.php on line 46