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http:///mymemo.xyz/wiki/api.php?action=feedcontributions&user=14.10.64.0&feedformat=atom miniwiki - 利用者の投稿記録 [ja] 2024-05-15T04:20:48Z 利用者の投稿記録 MediaWiki 1.31.0 ズデーテン地方 2018-09-04T01:51:08Z <p>14.10.64.0: /* 和解の動き */</p> <hr /> <div>[[ファイル:Mnichov.jpg|thumb|right|250px|黄緑色の地域がズデーテン地方。]]<br /> &#039;&#039;&#039;ズデーテン地方&#039;&#039;&#039;([[チェコ語]]、{{lang-sk|Sudety}}、{{lang-de|Sudetenland}}、{{lang-pl|Kraj Sudetów}}、&#039;&#039;&#039;ズデーテンラント&#039;&#039;&#039;)は、[[ボヘミア]]・[[モラヴィア]]・[[シレジア]](現在の[[チェコ共和国]]の領域)の外縁部にあたる、[[ドイツ人]]が多く居住していた区域。[[チェコスロバキア]]では国境地帯({{lang-cs|[[:cs:Pohraničí|Pohraničí]]}})とも呼ばれる。北西部の{{仮リンク|エーガーラント|en|Egerland}}、北東部のズデーテン({{lang-de-short|Sudeten}})、南部の{{仮リンク|ベーマーヴァルトガウ|en|Bohemian Forest Region}}({{lang-de-short|Böhmerwaldgau}})と[[ズノイモ|ツナイム]]({{lang-de-short|Znaim}})で構成される。本来のズデーテンは北モラヴィアの[[ズデーテン山地]]付近を指す呼称であったが、[[コンラート・ヘンライン]]の運動により、チェコのドイツ人居住区域を指すようになった&lt;ref&gt;[[#矢田部(1998)|矢田部(1998)、124p]]&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> [[オーストリア=ハンガリー帝国]]の一部であったが、[[第一次世界大戦]]後の[[ヴェルサイユ条約]]と[[サン=ジェルマン条約]]によって[[チェコスロバキア]]の一部となった。しかしこの地域をめぐって[[ナチス・ドイツ]]とチェコスロバキアが対立し、[[ミュンヘン会談|ミュンヘン協定]]によってドイツへの編入が認められた。[[第二次世界大戦]]後は再びチェコスロバキアに復帰し、現在はチェコの一部分となっている。<br /> <br /> == 歴史 ==<br /> === 第一次世界大戦以前 ===<br /> [[ファイル:Germans in western Austro-Hungaria.gif|thumb|right|250px|1911年時点でのオーストリア=ハンガリー帝国の人種分布図。赤がドイツ人、青がチェコ人、緑が[[マジャール人]]が優勢な地域]]<br /> ボヘミア・モラビアに建設された[[チェコ人]]国家は、西方からの[[ドイツ人]]移民([[東方植民]])を積極的に受け入れたため、次第にドイツ人の居住が増加していった&lt;ref name=&quot;kaku200340&quot;&gt;[[#加来(2003)|加来(2003)、40p]]&lt;/ref&gt;。しかし[[三十年戦争]]によってチェコ人[[貴族]]が敗れ、ボヘミアにおけるドイツ人の支配権が確立されると、ドイツ人とチェコ人の間には対立関係が生まれた&lt;ref name=&quot;kaku200340&quot;/&gt;。[[アウスグライヒ]]以降はチェコ人も[[ハンガリー]]と同様の権利を望み、一時はオーストリア=ハンガリー=ボヘミアの三重帝国が成立する可能性もあったが、ドイツ人と[[マジャール人]](ハンガリー)の反対によって潰えた。<br /> <br /> [[1880年]]にはチェコ人の帝国[[宰相]][[エドゥアルト・ターフェ]]がシュトレマイヤー言語令(ターフェ言語令)を出し、ドイツ人とチェコ人の言語的平等を定めたが、[[既得権]]を侵されると感じたドイツ人とチェコ人の対立はますます激化した。[[1897年]]には[[カジミール・フェリクス・バデーニ]]による、ボヘミアとモラビアの[[官吏]]に[[ドイツ語]]と[[チェコ語]]両方の習得を義務づけた[[バデーニ言語令]]が発せられると、帝国内のドイツ人がいっせいに反発・[[暴動]]を起こした。[[1899年]]にバデーニ言語令は正式に撤回されたが、今度はチェコ人の暴動が頻発した&lt;ref&gt;[[#加来(2003)|加来(2003)、41p]]&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> === 分離運動の失敗 ===<br /> [[File:Der Aufbau der Republik Deutschösterreich.png|thumb|250px|ドイツ=オーストリア共和国が設定した州。&lt;span style=&quot;color:Yellow;&quot;&gt;■&lt;/span&gt;がズデーテンラント州、&lt;span style=&quot;color:SaddleBrown;&quot;&gt;■&lt;/span&gt;がドイツボヘミア州、&lt;span style=&quot;color:DarkOrange;&quot;&gt;■&lt;/span&gt;がオーバーエスターライヒ州]]<br /> 第一次世界大戦で[[連合国 (第一次世界大戦)|連合国]]側で戦い、チェコスロバキアの成立を目指していた[[エドヴァルド・ベネシュ]]らが率いるチェコスロバキア独立派は、戦後の[[国土]]として「[[ボヘミア王冠領|ボヘミア王冠領(聖ヴァーツラフの王冠諸邦)]]」であるボヘミア・モラヴィア・シレジアの領域を要求していた。しかしボヘミア・モラヴィア・シレジアのドイツ人はドイツないしはオーストリアの内部に留まることを要求していた。1917年9月16日にはこの地域の[[オーストリア社会民主党|社会民主労働党]]が分離の動きに反対する集会を行っている&lt;ref&gt;[[#相馬(2004)|相馬(2004)、126-128p]]&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 1918年10月28日に国内のチェコスロバキア独立派が独立宣言を行うと、翌10月29日にはドイツ人帝国議会議員が中心となって、エーガラントと北ボヘミアに「{{仮リンク|ドイツ系ボヘミア州|de|Provinz Deutschböhmen|cs|Německé Čechy|en|Province of German Bohemia}}」の成立が宣言された。さらに10月30日には[[シレジア]]、北モラヴィア、東部ボヘミアに「{{仮リンク|ズデーテンラント州|de|Sudetenland (Provinz)|cs|Sudetenland (provincie, 1918)|en|Province of the Sudetenland}}」が形成され、11月には南部ボヘミアと南部モラビアでベーマーヴァルトガウとツナイム(Zneim、[[:en:German South Moravia|en]])の両自治政府が建設された&lt;ref name=&quot;kaku200344&quot;&gt;[[#加来(2003)|加来(2003)、44p]]&lt;/ref&gt;。これらドイツ系諸政府は地域の正式な確定が行われるまで、チェコスロバキア政府との間で行政に関する暫定協定を結ぼうとしたが、チェコスロバキア側は「反逆者とは交渉しない」とこれを拒否した&lt;ref name=&quot;kaku200344&quot;/&gt;。11月20日には[[チェコ軍団]]がドイツ系諸政府域への侵攻を開始し、12月18日までにドイツ系諸政府は解体・亡命を余儀なくされた。一方で1918年11月に成立した[[第一共和国 (オーストリア)|ドイツ=オーストリア共和国]]政府は、ドイツ系地域をドイツボヘミア州([[:de:Deutschböhmen und Deutschmährer]])、{{仮リンク|ズデーテンラント州|de|Sudetenland (Provinz)}}、[[オーバーエスターライヒ州]]に区分し、領有権を主張していた。<br /> <br /> [[パリ講和会議]]が始まるとオーストリア政府はドイツ人居住地域のチェコスロバキアへの編入に反対し、もし行う場合でも住民投票を行うよう要求した。一方でチェコスロバキア政府も[[実効支配]]の追認を要求した&lt;ref name=&quot;kaku200344&quot;/&gt;。[[アメリカ]]は[[民族自決]]の観点からドイツへの編入を主張したが、[[安全保障]]の観点からチェコスロバキアの強化を狙うフランスの要求が通り、ドイツ人居住地域はチェコスロバキアの領土となることが確定した&lt;ref&gt;[[#加来(2003)|加来(2003)、45p]]&lt;/ref&gt;。こうして310万におよぶドイツ人はチェコスロバキアにおける「最大の[[少数民族]]」となった&lt;ref&gt;[[#矢田部(1998)|矢田部(1998)、123p]]&lt;/ref&gt;。しかしサン=ジェルマン条約と同じ日にチェコスロバキア政府と連合国の間で、チェコスロバキア国内の民族平等を定めた「少数民族保護条約」が締結され、ドイツ人を含めた諸民族の権利保護が求められた&lt;ref&gt;[[#加来(2004)|加来(2004)、19-20p]]&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> === チェコスロバキア時代 ===<br /> ドイツ人居住域は正式なチェコスロバキア領となり、北東部の[[:cs:Krkonošsko-jesenická subprovincie|Krkonošsko-jesenická subprovincie]]などが設置された。<br /> <br /> 1920年9月20日、チェコスロバキア政府は憲法の不可分の構成部分として言語法を定めた。これはチェコ語とスロバキア語を同一のものとする「チェコスロバキア語」を唯一の公用語とし、ドイツ語が公的機関などで使えるのは住民の20%以上がドイツ語を話す地域に限られた。またチェコ人がほとんどいない地域にもチェコ語の地名表記が行われるようになったほか、ドイツ人学校は次々に閉鎖へと追い込まれた。これらの政策は二重帝国時代から見ても後退であり、{{仮リンク|チェコスロバキア共和国ドイツ人社会民主党|en|German Social Democratic Workers Party in the Czechoslovak Republic}}などのドイツ人諸政党はこぞって反対した&lt;ref&gt;[[#加来(2004)|加来(2004)、24p]]&lt;/ref&gt;。しかしチェコ人も「われわれのドイツ人 (naši Němci)」とドイツ人を呼ぶようになり、一般の住民同士の関係は比較的良好であった&lt;ref&gt;[[#矢田部(1998)|矢田部(1998)、124p]]&lt;/ref&gt;。一方でチェコスロバキア政府はドイツを警戒して{{仮リンク|チェコスロバキア国境要塞線|label=強固な要塞線|en|Czechoslovak border fortifications}}を築いていた。<br /> <br /> [[世界恐慌]]が発生すると、ドイツ人居住域の状況は深刻なものになった。この地域の産業は鉱山・ガラス・製陶・繊維など輸出頼りであり、零細企業が多かったため、失業者の割合も他の地域の2倍以上に達した。さらにドイツ人よりチェコ人の雇用が優先されているとして、ドイツ人の間でチェコ人に対する不満が高まった&lt;ref&gt;[[#相馬(2005)|相馬(2005)、116-117p]]&lt;/ref&gt;。さらに隣国ドイツにおける[[ナチス・ドイツの経済|ヒトラー政権下の経済回復]]が、ドイツ民族の[[民族共同体]]を目指すという、非民主的なコンラート・ヘンライン率いる「ズデーテン・郷土戦線」の勢力拡大につながった。1935年に郷土戦線は[[ズデーテン・ドイツ人党]]と改称し、同年の選挙で最多得票を獲得し、第二党となったが政府には参加しなかった。1937年9月16日に[[ミラン・ホジャ]]首相とヘンラインの会談が行われ、ヘンラインは将来における自治権と、それに至るまでの「自決権」を要求した。しかし10月18日にズデーテン・ドイツ人の集会が禁止され、同党幹部[[カール・ヘルマン・フランク]]らが警察による暴行を受けるという事件が発生した&lt;ref name=&quot;soma2007154&quot;&gt;[[#相馬(2007)|相馬(2007)、154p]]&lt;/ref&gt;。ヘンラインは公開書簡で早急な自治権設定を要求し、ドイツ公使も支持した。ここにいたってズデーテン地方のドイツ人問題は国際問題化し、ヘンラインも自治権要求から「ズデーテンのみならず全ボヘミア・モラヴィア・シレジア地方のドイツへの編入」に目標を切り替え、ドイツの支援を要請した&lt;ref name=&quot;soma2007154&quot;/&gt;。<br /> <br /> === ドイツへの併合 ===<br /> [[File:Bundesarchiv Bild 183-H13160, Beim Einmarsch deutscher Truppen in Eger.jpg|thumb|250px|進駐するドイツ軍を迎えるズデーテンラントの住民。1938年10月5日]]<br /> {{see also|ミュンヘン会談|ナチス・ドイツによるチェコスロバキア解体}}<br /> チェコスロバキア大統領ベネシュはドイツとの交渉を拒否していたものの、ドイツ[[総統]][[アドルフ・ヒトラー|ヒトラー]]はたびたび声明でズデーテン問題解決を訴えた。さらにヘンラインとフランクに「チェコスロバキア政府が受け入れられない要求」を行うよう指示した&lt;ref&gt;[[#相馬(2007)|相馬(2007)、155p]]&lt;/ref&gt;。ホジャ首相とヘンラインはたびたび交渉を行ったが、ヘンラインはその都度拒否を行った。1938年5月にはドイツ軍がチェコ国境に展開しているという誤報が流れ、チェコスロバキア側は対抗して軍の動員を行っている。また同時期の地方選挙ではズデーテン・ドイツ人党がドイツ人居住域における9割の票を獲得している&lt;ref name=&quot;soma2007156&quot;&gt;[[#相馬(2007)|相馬(2007)、156p]]&lt;/ref&gt;。選挙後の8月14日にはベネシュ大統領が交渉に参加し、自治権を認める譲歩を行ったものの、ヘンラインはドイツに亡命して交渉を決裂させた&lt;ref name=&quot;soma2007156&quot;/&gt;。<br /> <br /> 1938年9月30日の[[ミュンヘン会談]]では宥和政策を取るイギリスの[[ネヴィル・チェンバレン]]首相、フランスの[[エドゥアール・ダラディエ]]首相がズデーテン地方のドイツ編入を容認した。ズデーテン地方のチェコ人やユダヤ人、軍官吏は退去を余儀なくされ、1939年7月1日までに約22万人の難民(うち1万人はドイツ系)が併合地域からチェコに逃れ&lt;ref name=&quot;soma2008154&quot;&gt;[[#相馬(2008)|相馬(2008)、154p]]&lt;/ref&gt;、多くの財産を置き去りにせざるを得なくなった。一方で共産党員やチェコスロバキア共和国ドイツ人社会民主党員の一部はチェコ官憲によって送還され、終戦までの期間を含めて7677人がドイツによって逮捕された&lt;ref name=&quot;soma2008154&quot;/&gt;。<br /> <br /> === ドイツ時代 ===<br /> [[File:Reichsgau Sudetenland Coat of Arms.svg|thumb|200px|ズデーテンラント帝国大管区の紋章]]<br /> ミュンヘン会談後の10月1日、ヘンラインがズデーテンラント担当[[国家弁務官]]に任ぜられ、軍政が敷かれた。1939年3月25日には北部のエーガーラントとズデーテンが「{{仮リンク|ズデーテンラント帝国大管区|de|Reichsgau Sudetenland}}」とされ、ヘンラインが[[大管区指導者]]となった&lt;ref name=&quot;soma200912163&quot;&gt;[[#相馬(2009-12)|相馬(2009-12)、163p]]&lt;/ref&gt;。また南部はバイエリッシュ=オストマルク大管区(1942年にバイロイト大管区に名称変更)、上ドナウ帝国大管区、下ドナウ帝国大管区に分割編入された。ズデーテンラントに対する[[強制的同一化]]が進む中でチェコスロバキア共和国ドイツ人社会民主党などの抵抗組織は弾圧され、[[強制収容所 (ナチス)|強制収容所]]に送られた。<br /> <br /> [[1939年]][[3月1日]]にはチェコスロバキアも解体され、ボヘミアとモラビアは[[ベーメン・メーレン保護領]]となり、フランクが[[親衛隊及び警察指導者]]となった。保護領ではチェコ人に激しい弾圧が加えられ、チェコ人の間でドイツ人に対する報復感情が高まった。このため反ナチス運動・亡命政府・[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]では、ドイツ系住民の国外追放が重要な政治問題となった&lt;ref name=&quot;soma200912163&quot;/&gt;。<br /> <br /> === 亡命運動 ===<br /> {{see also|ドイツ人追放}}<br /> ズデーテン割譲後のチェコスロバキアに対するドイツの圧力が強まるなかで、チェコスロバキア共和国ドイツ人社会民主党指導者は亡命を選択した。彼らは[[ドイツ社会民主党]]の亡命組織{{仮リンク|ソパーデ|en|Sopade}}と連携をとろうとしたが交渉は決裂した。<br /> <br /> [[1939年]][[5月30日]]にチェコスロバキア共和国ドイツ人社会民主党の{{仮リンク|ヴェンツェル・ヤークシュ|en|Wenzel Jaksch}}は[[ロンドン]]で「ズデーテン・ドイツ社会民主党亡命組織」を設立し、ズデーテン地方を代表する民主主義勢力として活動を再開した。[[9月30日]]、ドイツが[[ポーランド侵攻]]を開始し、[[第二次世界大戦]]が開始されるとベネシュは[[チェコスロバキア亡命政府]]を設立して、ミュンヘン協定の無効化を目指して動き出した。ヤークシュはイギリスとも接触したが、彼らがズデーテン住民を代表していないとして拒絶された&lt;ref&gt;[[#相馬(2009-7)|相馬(2009-7)、157p]]&lt;/ref&gt;。ベネシュとヤークシュは抵抗運動の一本化のため何度も折衝を重ねたが、ボヘミア・モラヴィアの枠にとらわれない連邦制を構想していたヤークシュに対し、ベネシュは戦前と同じ単一のチェコスロバキア共和国の再現を目指していた。さらに国境線の維持のため、ドイツ人の強制移住をも視野に入れていた。<br /> <br /> [[1940年]]3月にズデーテン・ドイツ社会民主党亡命組織は、ズデーテン・ドイツ人の自治権を求めるとともに、強制住民交換や移動に反対する「ホルムハースト宣言」を策定した&lt;ref&gt;[[#相馬(2009-12)|相馬(2009-12)、160p]]&lt;/ref&gt;。しかしベネシュとの交渉は難航し、一部の幹部はヤークシュを見限って亡命政府側に合流した&lt;ref&gt;[[#相馬(2009-12)|相馬(2009-12)、167-168p]]&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> [[1941年]]に[[独ソ戦]]が開始され、[[ソビエト連邦]]が連合国側に加わった。12月、ソ連指導者[[ヨシフ・スターリン]]は戦後構想として、[[ベッサラビア]]等の領土要求とともに、[[東プロイセン]]や[[ダンツィヒ自由都市|ダンツィヒ]]の編入や東部のソ連への割譲を含む[[ポーランド]]国境の変更、ズデーテンを含むチェコスロバキアの再建を提案した&lt;ref&gt;[[#相馬(2010-12)|相馬(2010-12)、248p]]&lt;/ref&gt;。ソ連の提案はドイツ人居住域からのドイツ人強制移住を前提とするものであり、アメリカやイギリスでもドイツ人移住が本格的に討議されるきっかけとなった&lt;ref&gt;[[#相馬(2010-12)|相馬(2010-12)、249p]]&lt;/ref&gt;。この動きはベネシュ等亡命政府側にとっては好都合であったが、ズデーテン・ドイツ社会民主党亡命組織側にとっては自己の存立を脅かされる事態であった。[[1942年]]8月5日、イギリスはついにミュンヘン協定の無効を宣言し、亡命政府の目標がひとつ達せられた&lt;ref&gt;[[#相馬(2010-12)|相馬(2010-12)、253-254p]]&lt;/ref&gt;。以降ベネシュのチェコスロバキア亡命政府はヤークシュ等と関係を断絶し、連邦制は実現性を失った。<br /> <br /> [[1945年]]2月の[[ヤルタ会談]]では国境線に関するソ連の要求がほぼ貫徹され、戦後のドイツ人強制移住方針が固まった。<br /> <br /> === 戦後 ===<br /> [[ファイル:Vertreibung.jpg|thumb|ドイツ人追放]]<br /> {{see also|チェコスロバキアからのドイツ人追放}}<br /> [[1945年]]5月の[[欧州戦線における終戦 (第二次世界大戦)|ドイツ降伏]]後、亡命政府を母体とするチェコスロバキア臨時政府はドイツ系住民の[[資産凍結]]、市民権の制限などの布告([[ベネシュ布告]])を発した&lt;ref name=&quot;yatabe1998125&quot;&gt;[[#谷田部(1998)|谷田部(1998)、125p]]&lt;/ref&gt;。しかしドイツの権力が消滅し、チェコスロバキア政府も十分に支配権を持っていない状況で、報復的殺戮や強制労働などが行われた。8月2日の[[ポツダム協定]]でドイツ人追放が正式決定されたことで、混沌状態は一応終結し、250万人におよぶドイツ人の公式移送が始まった。しかしこの過程でも25万人の老人や子供が死亡したという、ズデーテン・ドイツ人側の主張がある&lt;ref name=&quot;yatabe1998125&quot;/&gt;。1950年までにチェコ在住ドイツ人の大半は自主的、あるいは強制的に東西ドイツやオーストリアに去り、チェコスロバキア国内に残留したドイツ人は16万5千人に過ぎなかった&lt;ref name=&quot;yatabe1998125&quot;/&gt;。<br /> <br /> 追放ドイツ人の4割は[[西ドイツ]]([[ドイツ|ドイツ連邦共和国]])の[[バイエルン州]]に移住し、チェコスロバキアに対してベネシュ布告の廃棄と補償を求める活動を開始した。ズデーテン・ドイツ人団体の中でも最大の組織が{{仮リンク|ランツマンシャフト|de|Sudetendeutsche Landsmannschaft}}(郷党会)であり、1990年には会員数14万人を数えている&lt;ref&gt;[[#谷田部(1998)|谷田部(1998)、126p]]&lt;/ref&gt;。これら諸団体は協議機関として{{仮リンク|ズデーテン・ドイツ人評議会|de|Sudetendeutscher Rat}}を結成している。ランズゲマインシャフトはバイエルン州の保守勢力と結びつき、西ドイツ政界にも影響を与える存在となった&lt;ref&gt;[[#谷田部(1998)|谷田部(1998)、127p]]&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 東ドイツ([[ドイツ民主共和国]])首相[[ヴァルター・ウルブリヒト]]は1950年にチェコスロバキアを訪問し、「両国の間に懸案や未解決の問題は存在しない」としてドイツ人追放やズデーテン地方の所属に異論がないとした&lt;ref&gt;[[#谷田部(1998)|谷田部(1998)、128p]]&lt;/ref&gt;。一方で西ドイツ側は東ドイツと国交を結んでいる国とは外交関係を結ばない方針をとっていたため、チェコスロバキアとの交渉が行われるのは1970年代の[[ヴィリー・ブラント]]政権による「[[東方外交]]」開始以降であった。[[1973年]]12月11日に「チェコスロバキア社会主義共和国とドイツ連邦共和国間の相互関係条約」({{仮リンク|プラハ条約 (1973年)|label=プラハ条約|de|Prager Vertrag (1973)}})が締結され、ミュンヘン協定の無効と領土的要求が相互に存在しないことを確認したが、ドイツ人追放問題については触れられなかった&lt;ref&gt;[[#谷田部(1998)|谷田部(1998)、130p]]&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> === 和解の動き ===<br /> [[1989年]]に[[ビロード革命]]が起こり、[[ヴァーツラフ・ハヴェル]]がチェコスロバキア大統領となると、チェコスロバキアと西ドイツの関係改善がすすめられ始めた。ハヴェル大統領は集団的罪の観点でズデーテン・ドイツ人を戦後断罪したことは許されることではないとして、ドイツ人追放について初めて謝罪した&lt;ref&gt;[[#谷田部(1998)|谷田部(1998)、131p]]&lt;/ref&gt;。[[1990年]]からはチェコスロバキアでズデーテン・ドイツ人問題解決のため、個人ではなくドイツ連邦共和国政府のみを相手に行うと発表した。この背景にはランツマンシャフトがベネシュ布告の廃止と財産の返還、さらに故郷に対する完全な権利回復を求めてきたことがあったという&lt;ref&gt;[[#谷田部(1998)|谷田部(1998)、132p]]&lt;/ref&gt;。チェコスロバキア政府はベネシュ布告の廃止には反対し続けており、その後の基本方針となった。<br /> <br /> 1990年10月3日に[[ドイツ再統一]]が行われてドイツが統一されると、関係正常化の動きが加速された。ドイツ人が正式な手続きによる「移送」がなされたとするチェコスロバキアと、ドイツ人は「追放」されたとするドイツの立場は異なっていたが、2月27日に締結された[[ドイツ・チェコ善隣友好条約]]では「追放」が採用された。これにはドイツ側がチェコスロバキア側の表現の隙を突いてミュンヘン協定の有効性を議題に持ち込み、協定問題で譲歩するかわりに補償問題が存在することと「追放」表現を勝ち取ったとも言われている&lt;ref&gt;[[#谷田部(1998)|谷田部(1998)、134-135p]]&lt;/ref&gt;。[[1993年]]の[[ビロード離婚]]によって成立したチェコ共和国も善隣友好条約を引き継いだが、ランツマンシャフトをはじめとするズデーテン・ドイツ人団体は補償とチェコ政府との直接交渉を要求し続けていた。<br /> <br /> === ドイツ=チェコ和解宣言 ===<br /> このためドイツ政府とチェコ政府は政治的な「ジェスチャー」を行う必要性を感じ、1995年には両国間の共同宣言を検討し始めた。しかしランツマンシャフトと[[ドイツキリスト教民主同盟]]が共同宣言は時期尚早であるとして反対したため、交渉は中断した&lt;ref&gt;[[#谷田部(1998)|谷田部(1998)、137-138p]]&lt;/ref&gt;。[[1996年]]8月から交渉が水面下で再開され、「{{仮リンク|ドイツ=チェコ和解宣言|de|Deutsch-Tschechische Erklärung}}」が合意された。宣言は12月20日に仮調印、[[1997年]]1月21日に正式調印が行われた。<br /> <br /> ;和解宣言の概要<br /> * ドイツとチェコは善隣友好条約と友好関係を想起し、平和的友好関係を構築する。行われた不法行為は覆せないが、和らげることは可能である。<br /> * ドイツはチェコの[[欧州連合]] (EU)・[[北大西洋条約機構]] (NATO) 加盟を支持する。<br /> * ドイツ人追放の遠因はナチス政権の行動にある<br /> * ドイツ人追放とベネシュ布告のうち「1946年5月8日付法律118号」によって是認された「行き過ぎ」についてチェコは「[[遺憾]]」の意を表明する<br /> * 両国は不法行為は過去のものであり、未来志向で関係を構築することに合意する。<br /> * 「チェコ=ドイツ未来基金」を設立し、両国の共通の利益となるプロジェクト、特にナチス・ドイツの犠牲となった人々に支出する。ドイツは1億4000万[[ドイツマルク|マルク]]、チェコは4億4000万[[チェコ・コルナ|コルナ]]を拠出する([[:en:Foundation &quot;Remembrance, Responsibility and Future&quot;|en]])。<br /> * チェコ=ドイツ間で行われている、歴史共同研究を支持する([[:de:Deutsch-tschechische Historikerkommission]])。<br /> <br /> ドイツはこれまでチェコ側に体系的な補償を行ってこなかったが、この和解宣言によって補償への道が開かれた。一方でランツマンシャフトなどのズデーテン・ドイツ人団体は1996年5月18日に共同宣言を受け入れないと発表している&lt;ref&gt;[[#谷田部(1998)|谷田部(1998)、147p]]&lt;/ref&gt;。調印に参加したチェコ外相{{仮リンク|ヨゼフ・ジェレニッツ|en|Josef Zieleniec}}は「宣言は[[終止符|ピリオド]]ではなく[[コロン (記号)|コロン]]だ」と述べ、関係改善は今後の課題となった&lt;ref&gt;[[#谷田部(1998)|谷田部(1998)、148p]]&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> その後もドイツのランツマンシャフトは人権上の問題からベネシュ布告の不法性を主張している。チェコはベネシュ布告の正当性を主張し続けており、2002年には[[ミロシュ・ゼマン]]首相が「ズデーテン・ドイツ人はヒトラーの[[第五列]]([[スパイ]])」であったと発言し、ドイツやオーストリアから激しい非難を受けた&lt;ref&gt;[[#谷田部(2011)|谷田部(2011)、39-40p]]&lt;/ref&gt;。2009年にはベネシュ布告が違法となりかねない[[リスボン条約]]への加盟反対運動が起こっている&lt;ref&gt;[[#谷田部(2011)|谷田部(2011)、26-27p]]&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> == 脚注 ==<br /> {{脚注ヘルプ}}<br /> {{reflist|2}}<br /> <br /> == 参考文献 ==<br /> * {{Cite journal|和書|author=[[加来浩]]|title=ズデーテン問題の発生|url=http://ci.nii.ac.jp/naid/110001899625|format=PDF|journal=弘前大学教育学部紀要|publisher=弘前大学教育学部|year=2003|issue=90|pages=pp.39-48|ref=加来(2003)}}<br /> * {{Cite journal|和書|author=加来浩|title=第一次大戦後のチェコスロヴァキアの言語法|url=http://ci.nii.ac.jp/naid/110001042077|format=PDF|journal=弘前大学教育学部紀要|publisher=弘前大学教育学部|year=2004|issue=92|pages=pp.19-26|ref=加来(2004)}}<br /> * {{Cite journal|和書|author=[[相馬保夫]]|title=離散と抵抗 : ヴェンツェル・ヤークシュ覚書(1)|url=http://ci.nii.ac.jp/naid/110002338049|format=PDF|journal=東京外国語大学論集|publisher=東京外国語大学|year=2004|issue=69|pages=pp.118-135|ref=相馬(2004)}}<br /> * {{Cite journal|和書|author=相馬保夫|title=離散と抵抗 : ヴェンツェル・ヤークシュ覚書(2)|url=http://ci.nii.ac.jp/naid/110004071807|format=PDF|journal=東京外国語大学論集|publisher=東京外国語大学|year=2005|issue=71|pages=pp.107-126|ref=相馬(2005)}}<br /> * {{Cite journal|和書|author=相馬保夫|title=離散と抵抗 : ヴェンツェル・ヤークシュ覚書(3)|url=http://ci.nii.ac.jp/naid/120000992913|format=PDF|journal=東京外国語大学論集|publisher=東京外国語大学|year=2007|issue=75|pages=pp.153-170|ref=相馬(2007)}}<br /> * {{Cite journal|和書|author=相馬保夫|title=離散と抵抗:ズデーテン・ドイツ社会民主党亡命組織 (4)|url=http://ci.nii.ac.jp/naid/120001316632|format=PDF|journal=東京外国語大学論集|publisher=東京外国語大学|year=2008|issue=77|pages=pp.153-172|ref=相馬(2008)}}<br /> * {{Cite journal|和書|author=相馬保夫|title=離散と抵抗:ズデーテン・ドイツ社会民主党亡命組織 (5)|url=http://ci.nii.ac.jp/naid/120001493976|format=PDF|journal=東京外国語大学論集|publisher=東京外国語大学|year=2009|month=7|issue=78|pages=pp.151-172|ref=相馬(2009-7)}}<br /> * {{Cite journal|和書|author=相馬保夫|title=離散と抵抗:ズデーテン・ドイツ社会民主党亡命組織 (6)|url=http://ci.nii.ac.jp/naid/120001905047|format=PDF|journal=東京外国語大学論集|publisher=東京外国語大学|year=2009|month=12|issue=79|pages=pp.159-176|ref=相馬(2009-12)}}<br /> * {{Cite journal|和書|author=相馬保夫|title=離散と抵抗:ズデーテン・ドイツ社会民主党亡命組織 (7)|url=http://ci.nii.ac.jp/naid/120002647990|format=PDF|journal=東京外国語大学論集|publisher=東京外国語大学|year=2010|month=7|issue=80|pages=pp.105-122|ref=相馬(2010-7)}}<br /> * {{Cite journal|和書|author=相馬保夫|title=離散と抵抗:ズデーテン・ドイツ社会民主党亡命組織 (8)|url=http://ci.nii.ac.jp/naid/120002808424|format=PDF|journal=東京外国語大学論集|publisher=東京外国語大学|year=2010|month=12|issue=81|pages=pp.243-260|ref=相馬(2010-12)}}<br /> * {{Cite journal|和書|author=[[矢田部順二]]|title=「チェコ=ドイツ和解宣言」の調印に見る戦後の清算 : ズデーテン・ドイツ人の「追放」をめぐって|url=http://ci.nii.ac.jp/naid/110004533697|format=PDF|journal=修道法学|publisher=広島修道大学|year=1998|issue=20(1)|pages=pp.119-155|ref=矢田部(1998)}}<br /> * {{Cite journal|和書|author=矢田部順二|title=リスボン条約とチェコ共和国 -アイデンティティを問う契機としての歴史問題 -|url=http://ci.nii.ac.jp/naid/110008431855|format=PDF|journal=修道法学|publisher=広島修道大学|year=2011|issue=33(2)|pages=pp.119-155|ref=矢田部(2011)}}<br /> <br /> == 関連項目 ==<br /> {{commonscat|Sudetenland}}<br /> * [[ドイツ人追放]]<br /> * [[サン=ジェルマン条約]]<br /> * [[ナチス・ドイツによるチェコスロバキア解体]]<br /> * {{仮リンク|ズデーテン・ドイツ人|de|Sudetendeutsche}}<br /> * {{仮リンク|ズデーテンラントからのチェコ人追放|cs|Vyhnání Čechů ze Sudet v roce 1938}}<br /> * {{仮リンク|チェコスロバキアからのドイツ人追放|en|Expulsion of Germans from Czechoslovakia}}<br /> * {{仮リンク|チェコスロバキアにおけるドイツ人 (1918年-1938年)|en|Germans in Czechoslovakia (1918–1938)}}<br /> <br /> {{DEFAULTSORT:すててんちほう}}<br /> {{Central-europe-stub}}<br /> [[Category:チェコの地理]]<br /> [[Category:チェコの歴史]]<br /> [[Category:オーストリアの歴史的地域]]<br /> [[Category:チェコスロバキア]]<br /> [[Category:ズデーテン・ドイツ人|*]]<br /> [[Category:ナチス・ドイツ]]<br /> [[Category:ドイツの歴史的地域]]</div> 14.10.64.0 アルベール・カミュ 2018-08-25T03:47:32Z <p>14.10.64.0: /* ジャーナリズムと創作 */</p> <hr /> <div>{{Infobox 作家<br /> | name = アルベール・カミュ&lt;br/&gt;Albert Camus<br /> | image = Albert Camus, gagnant de prix Nobel, portrait en buste, posé au bureau, faisant face à gauche, cigarette de tabagisme.jpg<br /> | imagesize = 180px<br /> | caption = 1957年<br /> | pseudonym =<br /> | birth_name = <br /> | birth_date = {{birth date|1913|11|7|df=y}}<br /> | birth_place = {{flagicon|France}} [[フランス領アルジェリア]]・モンドヴィ<br /> | death_date = {{death date and age|1960|1|4|1913|11|7|df=y}}<br /> | death_place = {{FRA}}・[[ブルゴーニュ地域圏|ブルゴーニュ]][[ヨンヌ県]]ヴィルブルヴァン<br /> | occupation = [[小説家]]、[[劇作家]] 、[[思想家]]<br /> | nationality = {{FRA}}<br /> | period = 1935年 - 1960年<br /> | genre = <br /> | subject = [[倫理]]、[[幸福]]、[[正義]]、[[愛]]、[[不条理]]、[[反抗]]<br /> | movement =<br /> | notable_works = 『[[異邦人 (小説)|異邦人]]』(1942年)&lt;br&gt;『[[シーシュポスの神話]]』(1942年)&lt;br&gt;『[[カリギュラ (戯曲)|カリギュラ]]』(1944年)&lt;br&gt;『[[ペスト (小説)|ペスト]]』(1947年)&lt;br&gt;『{{仮リンク|反抗的人間|fr|L&#039;Homme révolté|en|The Rebel (book)}}』(1952年)『転落』(1956年)』<br /> | awards = [[ノーベル文学賞]]([[1957年]])<br /> | debut_works = 『裏と表』(1935年、エッセイ)<br /> | spouse = シモーヌ・イエ&lt;br&gt;フランシーヌ・フォール <br /> | children = <br /> | relations = [[セイン・カミュ]](大甥&lt;!--兄の娘の息子--&gt;)<br /> | influences = <br /> | influenced = <br /> }}<br /> {{thumbnail:begin}}<br /> {{thumbnail:ノーベル賞受賞者|1957年|ノーベル文学賞|「この時代における人類の道義心に関する問題点を、明確な視点から誠実に照らし出した、彼の重要な文学的創作活動に対して」[http://nobelprize.org/nobel_prizes/literature/laureates/1957/]}}<br /> {{thumbnail:end}}<br /> <br /> &#039;&#039;&#039;アルベール・カミュ&#039;&#039;&#039;(Albert Camus、{{IPA-fr|albɛʁ kamy|lang|Fr-Albert Camus.oga}}、[[1913年]][[11月7日]] - [[1960年]][[1月4日]])は、[[フランス]]の[[小説家]]、[[劇作家]]、[[哲学者]]。[[フランス領アルジェリア]]出身。[[第二次世界大戦]]中に刊行された小説『[[異邦人 (小説)|異邦人]]』、エッセイ『[[シーシュポスの神話]]』などで注目され、戦後はレジスタンスにおける戦闘的なジャーナリストとして活躍した。また『[[カリギュラ (戯曲)|カリギュラ]]』『[[誤解 (戯曲)|誤解]]』などを上演し、劇作家としても活動した。戦後に発表した小説『[[ペスト (小説)|ペスト]]』はベストセラーとなったが、エッセイ『{{仮リンク|反抗的人間|fr|L&#039;Homme révolté|en|The Rebel (book)}}』において左翼全体主義を批判し、反響を呼んだ。小説『転落』発表の翌年、[[1957年]]、史上2番目の若さで[[ノーベル文学賞]]を受賞した。<br /> <br /> 1960年、交通事故により急死し、未完に残された小説『最初の人間』が1994年に刊行された。<br /> <br /> カミュの著作は「[[不条理]]」という概念によって特徴付けられている。カミュの言う不条理とは、明晰な理性を保ったまま世界に対峙するときに現れる不合理性のことであり、そのような不条理な運命を目をそむけず見つめ続ける態度が「反抗」と呼ばれる。そして人間性を脅かすものに対する反抗の態度が人々の間で連帯を生むとされる。<br /> <br /> カミュの文学的営為は、病気、死、災禍、殺人、テロ、戦争、全体主義など、人間を襲う不条理な暴力との闘いだった。それに対して、彼は一貫してキリスト教や左翼革命思想のような上位審級を拒否し、超越的価値に依存することなく、人間の地平にとどまって生の意味を探しもとめた。彼は「父」としての「神」も、その代理人としての「歴史」も拒否した。<br /> <br /> カミュは何よりも時代の妥協しない証言者であった。彼は絶えずあらゆるイデオロギーと闘い、実存主義、マルクス主義と対立した。ソビエト全体主義に対する批判は、彼をコミュニストたちと対立させ、サルトルと絶交するに至った。彼の著作のヒューマニズムは、歴史の最悪の時期における経験のなかで鍛えられたものであり、この意味で、彼は20世紀のもっとも高いモラルを体現した人物のひとりである&lt;ref&gt;[http://archive.wikiwix.com/cache/?url=http%3A%2F%2Fwww.france.fr%2Fhommes-et-femmes-dexception%2Falbert-camus-1913-1960%3Fback%3D%252Ffr-search%252Ffr-content%252Fcamus Albert Camus (1913-1960) archive, sur france.fr (consulté le 28 novembre 2013).] 2017年1月30日閲覧。&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> [[タレント]]の[[セイン・カミュ]]は従孫(兄の孫)にあたる&lt;ref&gt;[https://www.nhk.or.jp/kokokoza/tv/sekaishi/archive/resume024.html NHK高校講座 | 世界史 | 第24回 アメリカの独立とフランス革命] 2014年2月13日閲覧。&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> == 生涯 ==<br /> === 形成期 ===<br /> [[1913年]]、[[フランス領アルジェリア]]のモンドヴィ(現{{仮リンク|ドレアン|en|Dréan}})近郊に生まれる。父リュシアン・オーギュスト・カミュは、農場労働者であったが、19世紀初め彼の祖父がフランスからアルジェリアに渡ってきた。父リュシアンは[[スペイン人|スペイン系]]の大家族の娘であるカトリーヌ・サンテスと結婚、リュシアンとカミュの二人の息子をもうけている。しかしカミュが生まれた翌年、この父は[[マルヌ会戦]]で戦死した。以後母と2人の息子は[[アルジェ]]市内のベルクール地区にある母の実家に身を寄せた。この家には祖母のほかに叔父が一人同居していたが、[[聴覚障害]]のあった母親も含め、読み書きできるものは一人もいなかった。カミュはこの家で、貧しくはあったが地中海の自然に恵まれた幼少期を過ごした。<br /> <br /> [[1918年]]に公立小学校に入学。貧しいサンテス家ではもともと高等学校へ進学する希望はなかったが、この学校の教諭ルイ=ジェルマンはカミュの才能を見抜いて彼の家族を説得し、おかげで[[1924年]]に、[[奨学金]]を受けながらアルジェの高等中学校[[リセ]]=ビジョーに進学することができた(カミュは彼から受けた恩を生涯忘れず、ノーベル賞記念講演の出版の際に「ルイ=ジェルマン先生へ」との献辞を添えている)。リセ時代のカミュは[[サッカー]]に打ち込み、ときにアルバイトなどしながらも優秀な成績を取っている。しかし[[1930年]]より[[結核]]の徴候が現れやがて[[喀血]]、病院を退院後もしばらく叔父の家で療養生活を送った。この結核は以後生涯を通じてカミュの健康をおびやかすことになる。<br /> <br /> またリセ時代にカミュはリセの教員{{仮リンク|ジャン・グルニエ|fr|Jean Grenier (écrivain)}}と出会っており、彼の著書『孤島』や{{仮リンク|アンドレ・ド・リショー|fr|André de Richaud}}の『苦悩』などに触発されながら文学への志望を固めていった。グルニエとは卒業後も書簡を通じて交流を保ち、のちにグルニエは『回想 アルベール・カミュ』を著している。<br /> <br /> [[1932年]]、[[バカロレア (フランス)|バカロレア]]に合格し[[アルジェ大学]]文学部に入学、在学中の[[1934年]]、カミュは[[眼科医]]の娘であったシモーヌ・イエと学生結婚するが、これをきっかけに結婚に反対していた叔父と疎遠になり、カミュはアルバイトやイエの母親からの支援を受けながら学生生活を続けた。しかし奇矯で派手好きなシモーヌとの生活はやがて破綻し、後に離婚にいたることになる。カミュは[[1935年]]にグルニエの勧めもあって[[フランス共産党|共産党]]に入党している。カミュは[[共産主義]]の思想自体にはそれほど共感を寄せていなかったが([[カール・マルクス|マルクス]]も[[フリードリヒ・エンゲルス|エンゲルス]]もほとんど読んでいなかった)、党の文化活動の一環として劇団「労働座」の創設に関わり、[[アンドレ・マルロー]]の『侮蔑の時代』を翻案し舞台にあげるなどした。しかし党幹部と[[アラブ人]]活動家たちとの間で板ばさみになり、最終的に党から除名処分を受けている。<br /> <br /> === ジャーナリズムと創作 ===<br /> [[1936年]]5月、学位論文「キリスト教形而上学とネオプラトニズム」を提出しアルジェ大学を卒業。[[1937年]]5月には処女作となるエッセイ集『裏と表』を出版するが、生活の安定のため12月からアルジェ大学付属の気象学・地球物理学研究所でデータ整理の職に就く。[[1938年]]、パスカル・ピアに誘われ人民戦線寄りの新聞『アルジェ・レピュブリカン』(のち夕刊紙『ソワール・レピュブリカン』となる)の記者となり、冤罪事件や植民地経営の不正を暴く記事を書いた。平行して『[[異邦人 (小説)|異邦人]]』の原型となった小説『[[幸福な死]]』を書き上げるが、これは完成度に不満があったため出版を見合わせている。<br /> <br /> [[1939年]]、第二次世界大戦の開始にともない徴兵を志願するも、健康上の理由で拒否される。戦争開始前後より、カミュは『ソワール・レピュブリカン』紙上で、当局の厳しい[[検閲]]を受けながらで[[平和主義]]を唱え続けており、[[1940年]]、このために同紙は発行停止処分となった。同紙から責任を問われ解雇されたカミュは、しかしまたもパスカル・ピアの助力で『パリ・ソワール』紙の編集部に雇われ、ここで印刷関係の仕事をしつつ、その傍らで[[不条理]]をテーマにした三部作『[[異邦人 (小説)|異邦人]]』『[[シーシュポスの神話]]』『[[カリギュラ (戯曲)|カリギュラ]]』を書き進めていった。<br /> <br /> [[1940年]]、[[ナチスドイツ]]によりパリが占領されると、『パリ・ソワール』紙編集部の移動に伴って自由地区のクレルモン・フェラン、ついでリヨンへと移り、占領体制下の1940年12月に同地にて[[オラン]]出身の女性フランシーヌ・フォールとの婚姻届を提出した。しかし物資の不足と読者の減少から『パリ・ソワール』紙でも人員整理が進み、失業したカミュは妻の実家のある北アフリカのオランに一時身を寄せた。この地で前述の三部作を完成、さらに『ペスト』の執筆に着手するが、[[1942年]]に喀血し、療養のため夫妻でフランス自由地区シャンボン・シュール・リニョン付近の小村ル・パヌリエに移る。そして6月に小説『異邦人』、12月にエッセイ『シーシュポスの神話』を刊行した。[[1943年]]からは非合法誌『コンバ(戦闘)』の発行に関わり、また占領下のパリで[[サルトル]]、[[ボーヴォワール]]らとも知り合い親交を深めている。<br /> <br /> [[1944年]]8月の[[パリ解放]]後は、それまで地下発行であった『コンバ』を公刊し同紙の編集長となった。なお同紙でカミュは対独協力派([[コラボ]])に対しては厳しい姿勢を取り、極刑もやむなしという意見を示して寛容派の[[フランソワ・モーリヤック]]と対立したが、後に自説を修正し死刑には反対するようになる。終戦前後にはまた『[[カリギュラ (戯曲)|カリギュラ]]』『[[誤解 (戯曲)|誤解]]』が上演され、[[1946年]]にはアメリカの[[コロンビア大学]]に招かれて講演を行い、現代に蔓延する物質崇拝に警鐘を鳴らした。同年、[[ガリマール社]]の企画審査委員会のポストにつき、ここで無名の思想家だった[[シモーヌ・ヴェイユ (哲学者)|シモーヌ・ヴェイユ]]を発見し彼女の叢書を企画、彼女の「永久反抗論」に影響を受ける&lt;ref&gt;[[#井上2000|井上 2000]]、117-118頁&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> [[1947年]]、極限状態での市民の連帯を描いた小説『[[ペスト (小説)|ペスト]]』を刊行、復興期のフランス社会で幅広い読者を得てその文名を高めた。しかし、[[1952年]]に刊行されたエッセイ『{{仮リンク|反抗的人間|fr|L&#039;Homme révolté|en|The Rebel (book)}}』は毀誉褒貶を受け、特にサルトルは一切の政治的暴力を斥けるその「反抗」の論理を、[[革命]]へと踏み出さない曖昧な態度だとして徹底的に批判した([[カミュ=サルトル論争]])。さらにカミュは故郷で起こった[[アルジェリア戦争]]に対しても、フランスとアラブの共同体という考えを捨てきれずに曖昧な態度を取って批判を受け、これらによってフランスでのカミュの立場はしだいに孤立を深めていった。<br /> <br /> === ノーベル賞とその死 ===<br /> [[1956年]]、現代人の二重性と罪の意識をテーマにした中編『[[転落 (小説)|転落]]』を発表、翌年6篇からなる短編集『[[追放と王国]]』を発表した。同年、彼の「この時代における人類の道義心に関する問題点を、明確な視点から誠実に照らし出した、彼の重要な文学的創作活動に対して」&lt;ref&gt;{{Cite web|date=|url=http://nobelprize.org/nobel_prizes/literature/laureates/1957/|title=The Nobel Prize in Literature 1957|publisher=Nobelprize.org|language=英語|accessdate=2011-02-10}}&lt;/ref&gt;[[ノーベル文学賞]]が贈られた。当時カミュは43歳であり、これは戦後では最年少の受賞である(史上最年少は[[ラドヤード・キプリング|キプリング]])。<br /> [[File:20041113-002 Lourmarin Tombstone Albert Camus.jpg|thumb|カミュの墓]]<br /> 受賞後、カミュはプロヴァンス地方の田園地帯ルールマランに家を構え、しばしばパリとの間を往復する生活を送っていた。1960年、友人ミシェル・ガリマール([[ガストン・ガリマール]]の甥)が運転する自動車([[ファセル|ファセル・ヴェガ]])でパリに向かう途中、[[ヨンヌ県]]ヴィルブルヴァンにおいてタイヤがパンクし、立ち木に衝突し事故死した(カミュは即死、ガリマールも手術中に死亡。同乗していたガリマールの妻子は怪我だけで済んだ)。当時の報道&lt;ref&gt;http://www.ina.fr/video/CAF90037025/accident-albert-camus-video.html&lt;/ref&gt;では、スピード超過(時速180km)や運転していたガリマールのてんかんの発作(並木模様によって引き起こされた)、それにいっそう可能性が高いものとしてタイヤのパンクが指摘されているが、イタリアの大学人であるジョヴァンニ・カテッリGiovanni Catelli は、2011年、『[[コリエーレ・デラ・セラ]]』で仮説を進め、KGBによって暗殺されたとしている。これは、カミュが『Franc-Tireurs』紙(1957年3月)で発表した記事において、[[ハンガリー動乱]](1956年)制圧でソ連外相[[ドミトリー・シェピーロフ]]を非難したことから、シュピーロフがKGBに指令を出したというものである&lt;ref&gt;« Mort d&#039;Albert Camus : le KGB impliqué ? » http://www.lefigaro.fr/flash-actu/2011/08/08/97001-20110808FILWWW00451-mort-d-albert-camus-le-kgb-implique-a.php Figaro,8 août 2011 &lt;/ref&gt;。作家のルネ・エチアンブルは「ずっと調査してきて、このファセル・ヴェガが棺であったという証拠を握っているが、私の記事を公表したいという新聞は探したものの見つからなかった」と発言している。<br /> <br /> 未完の自伝的小説『[http://www.zaziefilms.com/ningen/ 最初の人間]』が遺稿として残された。<br /> <br /> == 思想 ==<br /> カミュはその思想的な近さから[[実存主義|実存主義者]]に数えられることがしばしばあるが、カミュ自身は実存主義との関係をはっきり否定していた。『[[シーシュポスの神話]]』の中でも[[キルケゴール]]、[[シェストフ]]、[[ヤスパース]]ら実存主義哲学者の名を挙げ、その思想が不条理から発していながら最終的に不条理の世界から飛躍し、理性の否定へと向かってしまう「哲学上の自殺」だとして批判している&lt;ref&gt;[[#カミュ2006|カミュ 2006]]、75頁&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> カミュによれば、「[[不条理]](absurde)」という感情は単にあるものの感覚や印象の検討から生じるものではなく、馬鹿げた計画と明白な現実との比較、理に合わない結果と当然予想される結果との比較というように、「事実としてのある状態と、ある種の現実との比較から、ある行動とそれを超える世界との比較から噴出してくる」ものであり、したがってそれは人間のなかにあるものでも世界にあるものでもなく「両者の共存のなかにあるもの」「両者を結ぶ唯一のきずな」である&lt;ref&gt;[[#カミュ2006|カミュ 2006]]、56-57頁&lt;/ref&gt;。そしてカミュは[[自殺]]を不条理な運命を見つめない態度として退け、逆に不条理を明晰な意識のもとで見つめ続ける態度を「反抗」と言い表し、それが生を価値あるものにするものだとして称揚している&lt;ref&gt;[[#カミュ2006|カミュ 2006]]、96-97頁&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 『{{仮リンク|反抗的人間|fr|L&#039;Homme révolté|en|The Rebel (book)}}』でカミュはこの「反抗」に対する考察をさらに深めていく。「反抗」とは、例えば長く虐げられてきた奴隷が突然主人に対して「否(ノン)」を突きつける態度である。このときこの「否」には、「これ以上は許すことができない」という境界線の存在が含意されている。つまり境界線の外側のものを「否」として退け、内にあるものを「諾(ウイ)」として守ろうとすることであり、言い換えれば自分の中にある価値に対する意識である&lt;ref&gt;[[#カミュ1973|カミュ 1973]]、17-18頁&lt;/ref&gt;。そして不条理の体験が個人的な苦悩に終わるのに対して、他者に対する圧迫を見ることからも起こりうる反抗は超個人的なものであり、そこから連帯が生まれる&lt;ref&gt;[[#カミュ1973|カミュ 1973]]、20頁&lt;/ref&gt;。また『反抗的人間』ではかなりのページを割いて[[革命]]を中心とした歴史の記述に当てられており、そこでは「無垢への郷愁」であるところの反抗から起こったあらゆる革命が必然的に自由を縛る恐怖政治と全体主義へと変貌していく様子が考察される。<br /> <br /> しかし革命に必要な政治的暴力を批判するカミュのこのような態度は、上述のように([[コミュニスト]]でもある)サルトルとの間の論争を呼び起こすことになった([[カミュ=サルトル論争]])。論争の直接のきっかけはフランシス・ジャンソンがサルトルの雑誌『レ・タン・モデルヌ(近代)』に『反抗的人間』に対する批判的書評を載せたことで、これに対してカミュがサルトル宛に反論、さらにジャンソンとサルトルが反論するという形で起こったが、ここでサルトルはカミュの思想を曖昧な態度と見なし、彼が[[道徳主義|モラリスム]]に陥り「美徳の暴力をふるっている&lt;ref&gt;[[#カミュ・サルトル2006|カミュ・サルトル 2006]]、94頁&lt;/ref&gt;」として徹底的に批判している。{{独自研究範囲|この論争ではカミュの文章が文学的な曖昧さを持つこともあり、論理の明晰さにおいてサルトルのほうが優勢なのは明らかだが、カミュの思想もまた革命や党派性の限界を示すものとしてその意義を失っていないばかりか、左翼革命の幻想が潰えた今日ますます価値を高めている。|date=2017年1月}}<br /> <br /> == 作品リスト ==<br /> === 小説 ===<br /> * 1942年 - 『[[異邦人 (小説)|異邦人]]』<br /> * 1947年 - 『[[ペスト (小説)|ペスト]]』<br /> * 1956年 - 『[[転落]]』<br /> * 1957年 - 『[[追放と王国]]』(短編集)<br /> * 1971年 - 『[[幸福な死]]』 ※『異邦人』の初期草稿で、1936年から1938年にかけて執筆された。大筋は完成していたが放棄され、カミュの死後に刊行された。<br /> * 1994年 - 『[[最初の人間]]』 ※1950年代半ばに構想し、1959年から執筆を開始したが、翌1960年にカミュが交通事故により早世したため未完に終わった遺作。<br /> <br /> === 戯曲 ===<br /> * 1936年 - 『アストゥリアスの反乱』 ※3人の友人との合作。<br /> * 1944年<br /> ** 『[[カリギュラ (戯曲)|カリギュラ]]』<br /> ** 『[[誤解 (戯曲)|誤解]]』<br /> * 1948年 - 『戒厳令』<br /> * 1949年 - 『[[正義の人びと]]』<br /> * 1953年<br /> ** 『十字架への献身』 ※スペインの作家[[ペドロ・カルデロン・デ・ラ・バルカ]]の神秘劇の翻訳。<br /> ** 『精霊たち』 ※16世紀の劇作家[[ピエール・ドゥ・ラリヴェイ]]作の[[コメディア・デラルテ]]の翻案。<br /> * 1955年 - 『ある臨床例』 ※[[ディーノ・ブッツァーティ]]作の小説の翻案。<br /> * 1956年 - 『尼僧への鎮魂歌』 ※[[ウィリアム・フォークナー]]作の小説の翻案。<br /> * 1957年 - 『オルメドの騎士』 ※16-17世紀スペインの劇作家[[ローペ・デ・ベーガ]]作の戯曲の翻訳。<br /> * 1959年 - 『悪霊』 ※[[フョードル・ドストエフスキー|ドストエフスキー]]の小説の翻案。<br /> <br /> === エッセイ、評論など ===<br /> * 1936年 - 『キリスト教形而上学とネオプラトニズム』 - 学位論文<br /> * 1937年 - 『裏と表』<br /> * 1939年 - 『結婚』<br /> * 1942年 - 『[[シーシュポスの神話]]』<br /> * 1943・1944年 - 『ドイツ人の友への手紙』<br /> * 1951年 - 『{{仮リンク|反抗的人間|fr|L&#039;Homme révolté|en|The Rebel (book)}}』<br /> * 1954年 - 『夏』<br /> * 1957年 - 『ギロチン』<br /> <br /> == 脚注 ==<br /> {{脚注ヘルプ}}<br /> {{reflist}}<br /> <br /> == 参考文献 ==<br /> &lt;!--参照したもの--&gt;<br /> *{{Cite book|和書|author=井上正|authorlink=井上正 (文学者)|year=2000|month=2|title=アルベール=カミュ|series=Century books 人と思想 167|publisher=清水書院|isbn=4-389-41167-5|ref=井上2000}}<br /> *{{Cite book|和書|author=アルベール・カミュ|others=[[佐藤朔]]・[[白井浩司]]訳|year=1973|title=反抗的人間|series=カミュ全集 6|publisher=新潮社|ref=カミュ1973}}<br /> *{{Cite book|和書|author=アルベール・カミュ|others=[[窪田啓作]]訳|year=1995|title=異邦人|edition=改版|series=新潮文庫|publisher=新潮社|isbn=4-10-211401-7|ref=カミュ1995|url=http://www.shinchosha.co.jp/book/211401/}}<br /> *{{Cite book|和書|author=アルベール・カミュ|others=[[清水徹]]訳|year=2006|month=9|title=シーシュポスの神話|edition=60刷改版|series=新潮文庫|publisher=新潮社|isbn=4-10-211402-5|ref=カミュ2006|url=http://www.shinchosha.co.jp/book/211402/}}<br /> *{{Cite book|和書|author=カミュ|coauthors=[[ジャン=ポール・サルトル|サルトル]]|year=2006|month=|title=革命か反抗か――カミュ=サルトル論争――|edition=改版|series=新潮文庫|publisher=新潮社|isbn=978-4-10-211409-4|ref=カミュ・サルトル2006|url=http://www.shinchosha.co.jp/book/211409/}}<br /> *{{Cite book|和書|author=三野博司|authorlink=三野博司|year=2016|month=6|title=カミュを読むー評伝と全作品|publicher=大修館書店||isbn=978-4-469-25085-5}}<br /> <br /> == 関連項目 ==<br /> {{Commonscat|Albert Camus}}<br /> * [[アルジェリア文学]]<br /> <br /> == 外部リンク ==<br /> *[http://www.biblioweb.org/-CAMUS-Albert-.html 伝記。 書誌学] (フランス語)<br /> *[http://www.incipitblog.com/index.php/2006/06/17/albert-camus-la-chute-1956/ Audio book (mp3) :]incipit of the Fall (La Chute)<br /> * [http://nobelprize.org/literature/laureates/1957/ Nobel Prize in Literature (1957) Link]<br /> * [http://www.tameri.com/csw/exist/camus.shtml Existentialism and Albert Camus]<br /> * [http://archive.salon.com/books/feature/2004/11/01/camus/print.html &quot;The Rebel&quot; at Salon.com]<br /> * [http://www.che-lives.com/home/modules.php?name=News&amp;file=article&amp;sid=125 The Absurd Hero &amp; The Ruthless Critic]<br /> * [http://www.thenation.com/doc.mhtml?i=20040405&amp;s=jacoby&amp;c=1 &quot;Accidental Friends&quot; the story of the Camus-Sartre friendship and very public breakup]<br /> * http://www.romanistik.info/camus.html (in German)<br /> * http://www.religion-online.org/showarticle.asp?title=2013 (Conversations about Christianity)<br /> * [http://kitoba.com/pedia/Camus%20Choice.html Camus&#039; Choice: An Existential Antiplot]<br /> * [http://www.3ammagazine.com/litarchives/2003/jan/interview_catherine_camus.html Interview with daughter Catherine - 3AM]<br /> * [http://www.spikemagazine.com/0397camu.php Another interview with daughter Catherine - Spike] <br /> * [http://www.anselm.edu/homepage/dbanach/sisyphus.htm The Myth of Sisyphus]<br /> * [http://atheisme.free.fr/Biographies/Camus_e.htm Biography and quotes of Albert Camus]<br /> * [http://journal.ilovephilosophy.com/Article/The-Logic-of-Existential-Meaning/90 The Logic of Existential Meaning]<br /> * [http://www.citedulivre-aix.com/Typo3/fileadmin/documents/Expositions/centrecamus/index.htm Fonds Albert Camus - Cité du livre d&#039;Aix en Provence]<br /> * [http://www.camus-society.com Albert Camus Society UK]<br /> * [http://www.lesjustes.co.uk Lesjustes.co.uk : English synopsis of &quot;Les Justes&quot; for students]<br /> * {{Find A Grave|2232}}<br /> * [http://www.the-ledge.com/flash/ledge.php?book=47&amp;lan=UK Camus &#039;Bookweb&#039; on literary website The Ledge, with suggestions for further reading.]<br /> * [http://www.albertcamus.jp/ 獨協インターナショナルフォーラム「アルベール・カミュ:現在への感受性」]<br /> * [http://d.hatena.ne.jp/camus-ken/ 日本カミュ研究会]<br /> {{IEP|camus|Albert Camus}}<br /> <br /> {{ノーベル文学賞受賞者 (1951年-1975年)}}<br /> {{Normdaten}}<br /> <br /> {{DEFAULTSORT:かみゆ あるへえる}}<br /> [[Category:アルベール・カミュ|*]]<br /> [[Category:フランスの小説家]]<br /> [[Category:フランスの劇作家]]<br /> [[Category:ノーベル文学賞受賞者]]<br /> [[Category:フランスのノーベル賞受賞者]]<br /> [[Category:実存主義者]]&lt;!--本人は否定していると記述されていますが、実存主義者です。--&gt;<br /> [[Category:ピエ・ノワール]]<br /> [[Category:フランスの死刑廃止論者]]<br /> [[Category:フランスの無神論者]]<br /> [[Category:無神論の哲学者]]<br /> [[Category:フランスのレジスタンス運動家]]<br /> [[Category:平和主義アナキスト]]<br /> [[Category:フランスのアナキスト]]<br /> [[Category:アナルコ・サンディカリスト]]<br /> [[Category:アナルコ・コミュニスト]]<br /> [[Category:アメリカ芸術科学アカデミー会員]]<br /> [[Category:エル・タルフ県出身の人物]]<br /> [[Category:アルジェ出身の人物]]<br /> [[Category:スペイン系フランス人]]<br /> [[Category:交通事故死した人物]]<br /> [[Category:フランスの引揚者]]<br /> [[Category:1913年生]]<br /> [[Category:1960年没]]</div> 14.10.64.0 ポーランド・リトアニア共和国 2018-07-29T14:25:02Z <p>14.10.64.0: </p> <hr /> <div>{{基礎情報 過去の国<br /> |略名 = ポーランド・リトアニア共和国<br /> |日本語国名 =ポーランド王国およびリトアニア大公国<br /> |公式国名=&#039;&#039;{{lang|pl|Królestwo Polskie i Wielkie Księstwo Litewskie}}&#039;&#039;<br /> |建国時期 =1569年<br /> |亡国時期 =1795年<br /> |先代1=ポーランド王国<br /> |先旗1=Herb Polska (Alex K).svg<br /> |先旗1縁=no<br /> |先代2=リトアニア大公国<br /> |先旗2=Herb Lytwa (Alex K).svg<br /> |先旗2縁=no<br /> |次代1=ガリツィア・ロドメリア王国<br /> |次旗1=Flag galicia to1849.jpg<br /> |次代2=ロシア帝国<br /> |次旗2=Flag of Russia.svg<br /> |次代3=プロイセン王国<br /> |次旗3=Flag of the Kingdom of Prussia (1750-1801).svg<br /> |変遷年月日1=1569年7月1日<br /> |変遷1=&lt;small&gt;[[ルブリン合同]]&lt;/small&gt;<br /> |変遷年月日2=1772年8月5日<br /> |変遷2=&lt;small&gt;[[ポーランド分割|第1次分割]]&lt;/small&gt;<br /> |変遷年月日3=1791年5月3日<br /> |変遷3=&lt;small&gt;[[5月3日憲法]]制定&lt;/small&gt;<br /> |変遷年月日4=1793年1月23日<br /> |変遷4=&lt;small&gt;[[ポーランド分割|第2次分割]]&lt;/small&gt;<br /> |変遷年月日5=1795年10月24日<br /> |変遷5=&lt;small&gt;[[ポーランド分割|第3次分割]]&lt;/small&gt;<br /> |国旗画像=Chorągiew królewska króla Zygmunta III Wazy.svg<br /> |国旗縁=no<br /> |国章画像=Coat of Arms of the Polish-Lithuanian Commonwealth.svg<br /> |国章リンク=[[:en:Coat of arms of the Polish-Lithuanian Commonwealth|国章]]<br /> |位置画像=Polish-Lithuanian Commonwealth (orthographic projection).svg<br /> |元首等肩書=[[ポーランド君主一覧|ポーランド王]]・[[リトアニアの統治者の一覧|リトアニア大公]]<br /> |元首等年代始1 =1569年<br /> |元首等年代終1 =1573年<br /> |元首等氏名1 =&lt;small&gt;[[ジグムント2世|ジグムント2世アウグスト]]&lt;/small&gt;<br /> |元首等年代始2 =1764年<br /> |元首等年代終2 =1795年<br /> |元首等氏名2 =&lt;small&gt;[[スタニスワフ・アウグスト・ポニャトフスキ]]&lt;/small&gt;<br /> |首都=&lt;small&gt;[[1596年]]まで[[クラクフ]]、[[ワルシャワ]](1673年から[[フロドナ]]と共有)&lt;/small&gt;<br /> |面積値1 =815,000<br /> |人口値1=6,500,000<br /> |面積測定時期1=1582年<br /> |人口測定時期1=1582年<br /> |面積値2 =990,000<br /> |人口値2=10,500,000<br /> |面積測定時期2=1618年<br /> |人口測定時期2=1618年<br /> |標語=&lt;small&gt;Si Deus Nobiscum quis contra nos&lt;br /&gt;([[ラテン語]]: &#039;&#039;神が我らと共にあるならば、誰が我らに逆らうか&#039;&#039;)&lt;br /&gt;[[:en:Pro Fide, Lege et Rege|Pro Fide, Lege et Rege]]&lt;br /&gt;([[ラテン語]]: &#039;&#039;信仰、法、そして国王のために&#039;&#039;)(18世紀から)&lt;/small&gt;<br /> |公用語=&lt;small&gt;[[ポーランド語]]、[[ラテン語]]、[[ルーシ語]]&lt;ref&gt;Daniel Z Stone, &#039;&#039;[http://books.google.com/books?vid=ISBN0295980931&amp;id=LFgB_l4SdHAC&amp;pg=PA46&amp;lpg=PA46&amp;dq=%22official+language%22+Poland+Lithuania&amp;sig=vUDl2wB7wuTLJuBYjxX2KuKxpNs The Polish-Lithuanian State, 1386‐1795]&#039;&#039;, p46&lt;/ref&gt;、[[ドイツ語]]&lt;/small&gt;<br /> }}<br /> {{ポーランドの歴史}}<br /> {{リトアニアの歴史}}<br /> {{ベラルーシの歴史}}<br /> &#039;&#039;&#039;ポーランド・リトアニア共和国&#039;&#039;&#039;(ポーランド・リトアニアきょうわこく)、正式国称&#039;&#039;&#039;ポーランド王国およびリトアニア大公国&#039;&#039;&#039;(ポーランドおうこくおよびリトアニアたいこうこく、{{lang-pl|Królestwo Polskie i Wielkie Księstwo Litewskie}})&lt;ref&gt;[[ルーシ語]]: {{lang|sla|Королѣвъство Польское и Великое князство Литовское}}、{{lang-lt|Lenkijos Karalystė ir Lietuvos Didžioji Kunigaikštystė}}、{{lang-la|Regnum Poloniae Magnique Ducatus Lithuaniae}}(18世紀以前)&lt;/ref&gt;は、[[ポーランド王国]]と[[リトアニア大公国]]の制度的国家合同([[ルブリン合同]])によって[[1569年]]から[[1795年]]まで存在した[[同君連合|複合君主制]]国家。18世紀後半には対外的な国称として&#039;&#039;&#039;最も静穏なるポーランド共和国&#039;&#039;&#039;&lt;ref&gt;({{lang-pl|Najjaśniejsza Rzeczpospolita Polska}}、{{lang-la|Serenissima Res Publica Poloniae}})[http://pl.wikisource.org/wiki/Traktat_przyja%C5%BAni_i_przymierza_pomi%C4%99dzy_Prusami_i_Rzecz%C4%85pospolit%C4%85_(1790) Polish‐Prussian alliance of 1790]&lt;/ref&gt;、国内では&#039;&#039;&#039;ジェチュポスポリタ&#039;&#039;&#039;({{lang-pl|Rzeczpospolita}}、共和国&lt;ref&gt;ルーシ語: {{lang|sla|Рѣч Посполита}}、{{lang-lt|Žečpospolita}}&lt;/ref&gt;)と呼ばれた。また、&#039;&#039;&#039;二民族の共和国&#039;&#039;&#039;&lt;ref&gt;({{lang-pl|Rzeczpospolita Obojga Narodów}}、{{lang-uk|Річ Посполита Двух Народів}}、{{lang-be|Рэч Паспалітая Абодвух Народаў}}、{{lang-lt|Abiejų tautų respublika}}&lt;/ref&gt;という呼称もあるが、1967年のパヴェウ・ヤシェニツァによる造語である&lt;ref&gt;/Paweł Jasienica. &#039;&#039;Rzeczpospolita Obojga Narodów&#039;&#039;. 1967‐1972; Paweł Jasienica. &#039;&#039;&#039;The Commonwealth of Both Nations&#039;&#039;&#039;. Miami: American Institute of Polish Culture, 1987.「共和国 (Rzeczpospolita) 」および「二民族 (Oba Narody) 」という言葉は当時から広く用いられていたが、ポーランド民族とリトアニア民族の「二民族の共和国」という呼称は共和国が存在していた時期に使われたことはない。日本語では「両民族の共和国」「二国民の共和国」「両国民の共和国」とも訳される。&lt;/ref&gt;。[[歴史学]]では「貴族の共和国 (Rzeczpospolita szlachecka) 」や「第一共和国 (I Rzeczpospolita) 」という用語も用いられる。<br /> <br /> 16・17世紀のヨーロッパ世界において[[オスマン帝国]]に次いで広大な国の1つであった&lt;ref&gt;[http://www.britannica.com/EBchecked/topic/466681/Poland &quot;Poland.&quot; Encyclopædia Britannica. 2009. Encyclopædia Britannica Online. Retrieved 20 Feb. 2009]&lt;/ref&gt;&lt;ref name=&quot;pbs map&quot;&gt;[http://www.pbs.org/wnet/heritage/episode5/atlas/map3.html# Heritage: Interactive Atlas: Polish-Lithuanian Commonwealth]. Retrieved March 19, 2006: &#039;&#039;At its apogee, the Polish-Lithuanian Commonwealth comprised some {{convert|400000|sqmi|km2}} and a multi-ethnic population of 11 million.&#039;&#039; For population comparisons, see also those maps: [http://homepage.interaccess.com/%7Enetpol/POLISH/historia/MAPY/1618.jpg] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20130217222629/http://homepage.interaccess.com/~netpol/POLISH/historia/MAPY/1618.jpg |date=2013年2月17日 }}, [http://homepage.interaccess.com/%7Enetpol/POLISH/historia/MAPY/1717.jpg] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20130217222634/http://homepage.interaccess.com/~netpol/POLISH/historia/MAPY/1717.jpg |date=2013年2月17日 }}.&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;Norman Davies, &#039;&#039;Europe: A History&#039;&#039;, Pimlico 1997, p. 554: &#039;&#039;Poland-Lithuania was another country which experienced its &#039;Golden Age&#039; during the sixteenth and early seventeenth centuries. The realm of the last Jagiellons was absolutely the largest state in Europe&#039;&#039;.&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;[http://books.google.com/books?id=2Y8GNIp42ysC&amp;pg=PR1&amp;dq=from+da+to+yes Yale Richmond, &#039;&#039;From Da to Yes: Understanding the East Europeans&#039;&#039;], Intercultural Press, 1995, p. 51&lt;/ref&gt; 。<br /> <br /> == 政治形態 ==<br /> この連合国家の政治システムは、法と貴族階級([[シュラフタ]])によって支配される立法府([[セイム]])が王権を著しく制限するという特異な性質を備えていたため、しばしば&#039;&#039;&#039;[[貴族共和国]]&#039;&#039;&#039;ないし&#039;&#039;&#039;[[黄金の自由]]&#039;&#039;&#039;とも呼ばれる(以下、国称を共和国と略称)。この政治システムは、現代的な概念を当てはめれば[[民主制]]&lt;ref name=&quot;Janowski&quot;&gt;Maciej Janowski, &#039;&#039;Polish Liberal Thought&#039;&#039;, Central European University Press, 2001, ISBN 963-9241-18-0, Google Print: [http://books.google.com/books?ie=UTF-8&amp;vid=ISBN9639241180&amp;id=ieF7NYaEqQYC&amp;pg=PA3&amp;lpg=PA3&amp;dq=Polish+Lithuanian+Commonwealth+federation&amp;vq=4&amp;sig=ePKU45u4CTs4btOI8KKxV4nwxA4 p3], [http://books.google.com/books?ie=UTF-8&amp;vid=ISBN0887068332&amp;id=8keIXDyF_EoC&amp;pg=PA13&amp;lpg=PA13&amp;dq=Polish+Lithuanian+Commonwealth+federation&amp;sig=7scGhSOWNHxZm7xKeUimB9Cr4D0 p12]&lt;/ref&gt;、[[立憲君主制]]&lt;ref name=&quot;Schroeder&quot;&gt;Paul W. Schroeder, &#039;&#039;The Transformation of European Politics 1763‐1848&#039;&#039;, Oxford University Press, 1996, ISBN 0-19-820654-2, [http://books.google.com/books?ie=UTF-8&amp;vid=ISBN0198206542&amp;id=BS2z3iGPCigC&amp;pg=PA84&amp;lpg=PA84&amp;dq=Poland+%22constitutional+monarchy%22&amp;sig=VDTkfWKi5PAqIlCIKlGa6tha6lw Google print p84]&lt;/ref&gt;&lt;ref name=&quot;Ludwikowski&quot;&gt;Rett R. Ludwikowski, &#039;&#039;Constitution-Making in the Region of Former Soviet Dominance&#039;&#039;, Duke University Press, 1997, ISBN 0-8223-1802-4, [http://books.google.com/books?ie=UTF-8&amp;vid=ISBN0822318024&amp;id=qw8o0_c0m74C&amp;pg=PA34&amp;lpg=PA34&amp;dq=Poland+%22constitutional+monarchy%22&amp;sig=tFj2eSPXILPkUodrTTGxQtj7X4w Google Print, p34]&lt;/ref&gt;&lt;ref name=&quot;Sanford&quot;&gt;George Sanford, &#039;&#039;Democratic Government in Poland: Constitutional Politics Since 1989&#039;&#039;, Palgrave, 2002, ISBN 0-333-77475-2, [http://books.google.com/books?ie=UTF-8&amp;vid=ISBN0333774752&amp;id=tOaXi0hX1RAC&amp;pg=PA11&amp;lpg=PA11&amp;dq=Poland+%22constitutional+monarchy%22&amp;sig=lnh18en73lGnEOdO0GkC-mh42z0 Google print p11—constitutional monarchy], [http://books.google.com/books?ie=UTF-8&amp;vid=ISBN0333774752&amp;id=tOaXi0hX1RAC&amp;pg=PA3&amp;lpg=PA3&amp;dq=Poland+anarchy&amp;sig=wQoLBVyfoT7MaBQ_66fD0LS_Nf4 p3—anarchy]&lt;/ref&gt;、[[連邦制]]&lt;ref name=&quot;Gella&quot;&gt;Aleksander Gella, &#039;&#039;Development of Class Structure in Eastern Europe: Poland and Her Southern Neighbors&#039;&#039;, SUNY Press, 1998, ISBN 0-88706-833-2, [http://books.google.com/books?ie=UTF-8&amp;vid=ISBN0887068332&amp;id=8keIXDyF_EoC&amp;pg=PA13&amp;lpg=PA13&amp;dq=Polish-Lithuanian+Commonwealth+%22federation%22+Gella&amp;sig=7scGhSOWNHxZm7xKeUimB9Cr4D0 Google Print, p13]&lt;/ref&gt;の先駆的存在と言える。二つの構成国は公的には平等な関係にあったが、実際にはポーランドがリトアニアの支配国であった&lt;ref name=&quot;EB_Lublin&quot;&gt;&quot;Formally, Poland and Lithuania were to be distinct, equal components of the federation… But Poland, which retained possession of the Lithuanian lands it had seized, but Poland had greater representation in the Diet and became the dominant partner.&quot;{{cite encyclopedia | ency=Encyclopædia Britannica| edition= | year=2006| article=Lublin, Union of|url=http://www.britannica.com/eb/article-9049222}}[http://www.britannica.com/eb/article?tocId=9049222]&lt;/ref&gt;。しかし、これについてはポーランド民族がリトアニア民族を支配したというような現代的な[[民族主義]]の解釈をするべきではなく、多民族のポーランド王国の[[立法]]・[[行政]]・[[司法]]の決定事項が同じく多民族のリトアニア共和国のそれらに対して優位であり、万が一両者の決定が対立した時にはポーランド王国の決定が優先された、という制度的な意味である。[[ポーランド国王]]が[[リトアニア大公]]を兼位しており、共和国は両国を中心に[[コモンウェルス]]の体制を形成していた。共和国の人口構成は民族的、宗教的な多様性がきわめて顕著であり、時期によって程度の差はあるものの、同時代にあって異例といえる[[信教の自由|宗教的寛容]]が実現していた&lt;ref name=&quot;Stephan&quot;&gt;Halina Stephan, &#039;&#039;Living in Translation: Polish Writers in America&#039;&#039;, Rodopi, 2003, ISBN 90-420-1016-9, [http://books.google.com/books?ie=UTF-8&amp;vid=ISBN9042010169&amp;id=y6DiiTcheBsC&amp;pg=PA373&amp;lpg=PA373&amp;dq=%22Polish-Lithuanian+Commonwealth%22+%22religious+tolerance%22&amp;sig=7jfUlvptDx-pgOMmctVSJPY7i9s Google Print p373]. Quoting from Sarmatian Review academic journal mission statement: &#039;&#039;Polish-Lithuanian Commonwealth was […] characterized by religious tolerance unusual in premodern Europe&#039;&#039;&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;This quality of the Commonwealth was recognized by its contemporaries. Robert Burton, in his &#039;&#039;The Anatomy of Melancholy&#039;&#039;, first published in 1621, writes of Poland: &quot;Poland is a receptacle of all religions, where Samosetans, Socinians, Photinians [...], Arians, Anabaptists are to be found&quot;; &quot;In Europe, Poland and Amsterdam are the common sanctuaries [for Jews]&quot;.&lt;/ref&gt;&lt;ref name=&quot;Feliks Gross&quot;&gt;Feliks Gross, &#039;&#039;Citizenship and Ethnicity: The Growth and Development of a Democratic Multiethnic Institution&#039;&#039;, Greenwood Press, 1999, ISBN 0-313-30932-9, [http://books.google.com/books?ie=UTF-8&amp;vid=ISBN0313309329&amp;id=I6wM4X9UQ8QC&amp;pg=PA122&amp;lpg=PA122&amp;dq=Polish-Lithuanian+Commonwealth+religious+tolerance&amp;sig=4DfNp5W5HoFxS_dc6gt3Jo8B4NQ Google Print, p122 (notes)]&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 黄金期であった初期の数十年間&lt;ref&gt;[http://www.britannica.com/EBchecked/topic/466681/Poland &quot;Poland.&quot; Encyclopædia Britannica. 2009. Encyclopædia Britannica Online. Retrieved 20 Feb. 2009]&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;{{en icon}} {{cite book |author=Francis Dvornik |coauthors= |title=The Slavs in European History and Civilization |year=1992 |editor= |page=300 |pages= |chapter= | chapterurl = |publisher=Rutgers University Press |location= |isbn=08-13507-99-5 |url=http://books.google.com/books?id=LACpYP-g1y8C&amp;printsec=frontcover&amp;hl=pl |format= |accessdate=}}&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;{{en icon}} {{cite book |author=Salo Wittmayer Baron |coauthors= |title=A social and religious history of the Jews |year=1976 |editor= |pages= |chapter= | chapterurl = |publisher=Columbia University Press |location= |isbn=02-31088-53-1 |url= |format= |accessdate=}}&lt;/ref&gt;&lt;ref name=&quot;Sanford&quot;/&gt;&lt;ref name=&quot;Republicanism&quot;&gt;Martin Van Gelderen, Quentin Skinner, &#039;&#039;Republicanism: A Shared European Heritage&#039;&#039;, Cambridge University Press, 2002, ISBN 0-521-80756-5 [http://books.google.com/books?ie=UTF-8&amp;vid=ISBN0521807565&amp;id=sLO_aRQiDwgC&amp;pg=PA54&amp;lpg=PA54&amp;dq=Polish+anarchy&amp;sig=J0EJ6ZkLpycczRPDZ0brNKijzsM Google Print: p54]&lt;/ref&gt;を過ぎると、共和国は17世紀中葉以後は政治的、軍事的、経済的&lt;ref name=&quot;Domar&quot;&gt;[http://www.j-bradford-delong.net/movable_type/2003_archives/001447.html The Causes of Slavery or Serfdom: A Hypothesis], discussion and full online text of Evsey Domar (1970) &quot;The Causes of Slavery or Serfdom: A Hypothesis&quot;, Economic History Review &#039;&#039;&#039;30&#039;&#039;&#039;:1 (March), pp18‐32&lt;/ref&gt;な衰退を続け、1795年には強大化した近隣の絶対主義国家[[ロシア帝国|ロシア]]、[[プロイセン王国|プロイセン]]、[[ハプスブルク君主国|オーストリア]]による[[ポーランド分割|領土分割]]によって国家自体が消滅するに至った。その消滅までの期間は急速なものだったにもかかわらず、末期の共和国は政治的な大改革を成し遂げ、世界で最も古い[[民主主義]][[成文憲法]]の一つである「[[5月3日憲法|1791年5月3日憲法]]」を生みだすこととなった&lt;ref name=&quot;Markoff&quot;&gt;John Markoff describes the advent of modern codified national constitutions and states that &quot;The first European country to follow the U.S. example was Poland in 1791.&quot; John Markoff, &#039;&#039;Waves of Democracy&#039;&#039;, 1996, ISBN 0-8039-9019-7, [http://books.google.com/books?ie=UTF-8&amp;vid=ISBN0803990197&amp;id=-EWi759F4PoC&amp;pg=PA121&amp;lpg=PA121&amp;dq=Markoff+Waves+of+Democracy+Poland&amp;vq=Poland&amp;sig=WMYISRDHaXXLAeQg3RJNRccP7jc Google Print, p121]&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> == 地理 ==<br /> {{出典の明記|date=2016年9月|section=1}}<br /> [[Image:Poland1764physical.jpg|thumb|共和国の地勢図(1764年)]]<br /> 16世紀、ポーランドの[[司教]]で[[地図学|地図学者]]だった[[マルチン・クロメル]]は、ラテン語の地図帳『ポーランド:その地理、民族、文化およびポーランド共和国の官職』を出版したが、これは当時の最も分かりやすい共和国の案内ガイドだと言われていた。クロメルの著作と[[ゲラルドゥス・メルカトル]]が製作した同時代の地図は、共和国の国土の大部分を平野として描いている。<br /> <br /> 共和国南部の[[クレスィ]]は、[[ステップ (植生)|ステップ地帯]]として有名であった。[[タトラ山脈]]をその最高部とする[[カルパチア山脈]]は南部国境を形成し、[[バルト海]]が北部の自然国境となっていた。当時の大部分のヨーロッパ諸国家と同じく、共和国は広大な森林地帯に覆われており、その傾向は東部において顕著だった。歴代国王の公的な狩猟場であった[[ビャウォヴィエジャの森]]の今日に残留する部分は、無傷で残っているヨーロッパの原生林としては最後のものである。<br /> <br /> == 人口 ==<br /> <br /> [[1569年]]、[[ルブリン合同]]後の人口は&lt;ref&gt;Total and Jewish population based on Frazee; others are estimations from Pogonowski (se following reference). Charles A. Frazee, World History the Easy Way, Barron&#039;s Educational Series, ISBN 0-8120-9766-1&lt;/ref&gt;<br /> <br /> 総合人口 約700万人<br /> <br /> * [[ポーランド人]] - 450万人<br /> * [[リトアニア人]]([[リーヴ人]]) - 75万人<br /> * [[ユダヤ人]] - 70万人<br /> * [[ルーシー人]] - 20万人<br /> <br /> <br /> 1618年[[デウリノの和約]]後、共和国は領土拡大に伴い人口も増加した&lt;ref&gt;Based on 1618 population map (p115), 1618 languages map (p119), 1657–67 losses map (p128) and 1717 map (p141) from Iwo Cyprian Pogonowski, Poland a Historical Atlas, Hippocrene Books, 1987, ISBN 0-88029-394-2&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 総合人口 約1200万人<br /> <br /> * ポーランド人 - 450万人<br /> * ウクライナ人(ルーシー人) - 350万人<br /> * ベラルーシ人(ルーシー人) - 150万人<br /> * リトアニア人 - 75万人<br /> * [[プルーセン人]] - 50万人<br /> * ユダヤ人 - 50万人<br /> * リーヴ人(リトアニア人) - 50万人<br /> * [[タタール人]]( [[リプカ・タタール人]]) - 10万人<br /> * [[ロシア人]] - 10万人<br /> <br /> == 地方行政区画 ==<br /> {{出典の明記|date=2016年9月|section=1}}<br /> ポーランド・リトアニア共和国は、大きく分けて二つの部分に分けられる:<br /> <br /> *[[ポーランド王冠領]](原ポーランド、口語では「王冠領」)<br /> **大ポーランド州([[ヴィエルコポルスカ]])<br /> ***ブジェシチ・クヤフスキ県(県都[[ブジェシチ・クヤフスキ]])<br /> ***グニェズノ県(県都[[グニェズノ]])<br /> ***イノヴロツワフ県(県都[[イノヴロツワフ]])<br /> ***カリシュ県(県都[[カリシュ]])<br /> ***ウェンチツァ県(県都[[ウェンチツァ]])<br /> ***マゾフシェ県(県都[[ワルシャワ]])<br /> ***ポズナン県(県都[[ポズナン]])<br /> ***プウォツク県(県都[[プウォツク]])<br /> ***ラヴァ県(県都[[ラヴァ]])<br /> ***シェラズ県(県都[[シェラズ]])<br /> ***[[ヴァルミア]]司教区<br /> **小ポーランド州([[マウォポルスカ]])<br /> ***ベウズ県(県都[[ベウズ]])<br /> ***[[ブラツワフ県]](県都[[ブラツワフ]])<br /> ***[[チェルニフフ県]](県都[[チェルニフフ]])<br /> ***[[キエフ県 (1471年-1793年)|キユフ県]](県都[[キエフ|キユフ]])<br /> ***クラクフ県(県都[[クラクフ]])<br /> ***ルブリン県(県都[[ルブリン]])<br /> ***ポドラシェ県(県都[[ドロヒチン]])<br /> ***ポドレ県(県都[[カームヤネツィ=ポジーリシクィイ|カミェニェツ]])<br /> ***[[ルーシ県]](県都[[リヴィウ|ルヴフ]])<br /> ***サンドミェシュ県(県都[[サンドミェシュ]])<br /> ***ヴォウィン県(県都ウツク)<br /> ***シェヴィエシュ公国<br /> **[[ポーランド王領プロシア]](大ポーランド州に含まれる)<br /> ***[[クルマーラント|ヘウムノ]]県(県都[[ヘウムノ]])<br /> ***マルボルク県(県都[[マルボルク]])<br /> ***[[ポメラニア|ポモージェ]]県(県都[[スカルシェヴィ]])<br /> **[[ハンガリー王国]]領の一部<br /> ***スピシュ郡([[スピシュスキー城|スピシュ城]]を除く一帯の13都市)・・・[[1412年]]にポーランド王国がハンガリー王国へ資金を融資した際([[ルボフラ条約]])の[[担保]]として、ポーランド王国の管理下にあった<br /> *[[リトアニア大公国]](リトアニア州)(口語では「リトアニア」)<br /> **大リトアニア地方([[原リトアニア]])<br /> ***トロキ県(県都[[トラカイ|トロキ]])<br /> ****[[グロドノ県 (ポーランド・リトアニア共和国)|グロドノ県]](県都[[フロドナ|グロドノ]]) - 1793年トロキ県より分離<br /> ***ヴィルノ県(県都[[ヴィリニュス|ヴィルノ]])<br /> ***ジムジ公国(首都[[ヴァルニアイ|ヴォルニェ]])<br /> ****[[ブラスワフ県]](県都[[ブラスラウ (ヴィーツェプスク州)|ブラスワフ]]) - 1793年形成<br /> **小リトアニア地方など<br /> ***ブジェシチ・リテフスキ県(県都[[ブレスト (ベラルーシ)|ブジェシチ・リテフスキ]])<br /> ***[[ミンスク県 (ポーランド・リトアニア共和国)|ミンスク県]](県都[[ミンスク]])<br /> ***[[ムシチスワフ県]](県都[[ムスツィスラウ|ムシチスワフ]])<br /> ***[[ノヴォグルデク県 (ポーランド・リトアニア共和国)|ノヴォグルデク県]](県都[[ナヴァフルダク|ノヴォグルデク]])<br /> ***[[ポウォツク県]](県都[[ポラツク|ポウォツク]])<br /> ***[[ヴィテプスク県 (ポーランド・リトアニア共和国)|ヴィテプスク県]](県都[[ヴィーツェプスク|ヴィテプスク]])<br /> ***[[スモレンスク県 (ポーランド・リトアニア共和国)|スモレンスク県]](県都[[スモレンスク]])<br /> *[[インフランティ公国|リヴォニア公国]]<br /> **ドルパート県(県都[[ドルパート]])<br /> **パルナヴァ県(県都[[パルナヴァ]])<br /> **ヴェンデン県(県都[[ヴェンデン]])<br /> **インフランティ県(県都[[ディネブルク]])<br /> <br /> 共和国は[[県 (ポーランド)|ヴォイェヴツトフォ]](県)という地方行政区画でさらに細かく分けられて、各県は[[ヴォイェヴォダ]](県知事または宮中伯)によって統治されていた。各県はさらに[[スタロストフォ]](王領地 / 代官統治地域)によって区分されており、[[スタロスタ]](代官)がこれを治めた。都市には[[カシュテラン]](城代)により治められた。ただし、都市はしばしば[[ジェミャ]]のような地域行政単位を組み入れることで、頻繁に代官の統治を避けていた。<br /> <br /> {|width=&quot;100%&quot; align=&quot;center&quot;<br /> |-<br /> |width=&quot;30%&quot;|<br /> |<br /> {{1648年の東欧}}<br /> |width=&quot;30%&quot;|<br /> |}<br /> <br /> かつて共和国に属していた地域は、[[中欧]]から[[東欧]]にかけて現存する複数の国家の中に、広範に分布している。ポーランド、ベラルーシ、リトアニア、ウクライナ(東縁部と南縁部を除く)、ラトビア南部を中核に、[[モルドヴァ]]([[沿ドニエストル共和国|トランスニストリア]])、ロシア、エストニアである。そして[[ハンガリー王国]]の一部だった[[スロヴァキア]]のいくつかの都市も、[[ルボフラ条約]]でポーランドの一部となっていた。とくに、共和国の南西部国境は、黒海沿岸部を除き現在のポーランドとスロバキアおよびルーマニア・モルドヴァ国境とほぼ一致している。<br /> <br /> 共和国の主要な地域は以下の通り(行政区域では分けていない):<br /> <br /> *[[マウォポルスカ]]…ポーランド南部、主都は[[クラクフ]]。<br /> *[[ヴィエルコポルスカ]]…[[ポズナン]]と[[ヴァルタ川]]水系に囲まれた、ポーランド中西部。<br /> *[[マゾフシェ]]…ポーランド中央部、主都は[[ワルシャワ]]。<br /> *[[原リトアニア]]…リトアニア大公国のカトリック地域、または民族的リトアニア人の居住地域。大公国の北西部を占めた。<br /> *[[ジェマイティヤ公国|ジェマイティヤ]]…リトアニア大公国内の[[自治領]]、大公国の西部の大部分を占める原リトアニアの西部地域に当たる。<br /> *[[ポーランド王領プロシア|王領プロイセン]]…[[バルト海]]南岸地域、[[第2次トルニの和約]]によって自治領となった。1569年の[[ルブリン合同]]に際し王冠領に組み込まれた。<br /> **[[ポメレリア]]…[[グダニスク]]近郊の[[ポモジェ]]地方、王領プロイセンの西部地域。<br /> *[[プロイセン公領|プロイセン公国]]…[[ドイツ騎士団]]総長が[[カトリック教会|ローマ・カトリック]]から[[ルター派]]に改宗して世俗のプロイセン公となり、[[封建領主]]として共和国君主であるポーランド王に臣従したもので、共和国のうちの[[ポーランド王国]]の[[従属国]]。[[ケーニヒスベルク (プロイセン)|ケーニヒスベルク]](ポーランド語クルレヴィエツ)を中心とする旧[[ドイツ騎士団]]領。[[1660年]]にポーランドの[[宗主権]]から離れて独立。<br /> *[[プロイセン連合]]の諸都市…[[ドイツ騎士団]]との抗争を経て、ポーランド王の庇護を得て発展した、[[グダニスク|グダニスク(ダンツィヒ)]]、[[トルニ|トルニ(トルン)]]、[[エルブロンク|エルブロンク(エルビング)]]をはじめとした27の自治都市群。[[1466年]]にはポーランド王を各都市の君主とし、[[1569年]]のポーランド・リトアニア共和国発足と同時に共和国に加盟。<br /> *[[ルーシ]]…共和国の東部、ロシアとの隣接地域。[[ベラルーシ]]・[[ウクライナ]]のほぼ全域に相当。<br /> *{{仮リンク|リヴォニア公国|en|Duchy of Livonia}}…王冠領とリトアニア大公国の共同領有地域。後にラトガレとリーフランドに分離。<br /> *{{仮リンク|インフランティ公国|en|Inflanty Voivodeship}}…王冠領とリトアニア大公国の共同領有地域。1620年代および1660年にスウェーデンの侵攻を受けた。[[1621年]]に[[ラトガレ]]地域に発足。1660年に正式に北部リヴォニアが{{仮リンク|スウェーデン領リヴォニア|en|Swedish Livonia}}(リーフランド)として離脱。<br /> *[[クールラント公国]]…共和国の北部に位置する[[レーエン|封土]]。1637年[[トバゴ島]]に、1651年[[ガンビア川]]の[[クンタ・キンテ島|聖アンドレ島]]にそれぞれ植民地を建設した([[クールラントによるアメリカ大陸の植民地化]])。<br /> *[[シレジア|シロンスク]]…共和国には属していなかったが、小規模な地域が共和国の国王に属した。特に、[[ヴァーサ王朝|ヴァーサ家]]の諸王は1645年から1666年まで[[オポーレ公国]]の君主となった。<br /> <br /> 共和国の国境は戦争や条約によって変化し、時には10年の間に数度も変わる場合があった。国境の変動は特にロシアと接する東部およびオスマン帝国と接する南部で激しかった。[[ヤム・ザポルスキの和約]](1582年)が結ばれた後の共和国は、およそ815,000 km²の領土に約650万人の人口を抱えていた。[[デウリノの和約]](1618年)の後では、共和国の領土はおよそ990,000 km²に拡大し、人口も倍近い1000万から1100万人程度に増加した(うち民族ポーランド人は400万人程度)。<br /> <br /> == 歴史 ==<br /> {{出典の明記|date=2016年9月|section=1}}<br /> [[ファイル:Great Chorąży of the Polish Crown.jpg|thumb|upright|ポーランド王・スウェーデン王[[ジグムント3世]]の結婚式における、[[ホロンジィ|王国大旗手]]スタニスワフ・ソビエスキ(1605年頃)]]<br /> <br /> 1569年の[[ルブリン合同]]に始まる共和国の創出は、[[ヤギェウォ朝]]最後の国王・大公であった[[ジグムント2世|ジグムント2世アウグスト]]による、世襲王権を[[選挙君主制|選挙王制]]から守るための戦略の一環という性格を持っていた。ジグムンドが1572年に崩御した後に続いた3年間の混乱期にこの連合体制の調整がなされ、貴族階級([[シュラフタ]])の権力を強化する立憲体制および完全な選挙王制が機能するようになった。共和国の名目的な最大版図は、1592年に[[スウェーデン]]と[[同君連合]]を組んだ[[ヴァーサ王朝|ヴァザ朝]]を共和国の王朝として迎え入れた時であった。[[ジグムント3世]]ヴァザは、母方からヤギェウォ家の血筋を引き、1587年に共和国の国王・大公となり、さらに父王からもスウェーデン国王を継承し、名目的ながらその版図は[[北欧]]にも拡大した。しかしジグムント3世は、[[専制政治|専制君主]]的で、[[対抗宗教改革]]を共和国に導入した。これは本来の共和国の宗教的寛容精神にそぐわないばかりか、[[宗教改革]]を推し進めるスウェーデンとの軋轢を招き、わずか数年でスウェーデンとの連合は終了した(この問題は、王位継承問題として両国の関係を悪化させ、最終的に共和国に[[大洪水時代]]を招来し、ヴァザ朝の終焉に繋がった)。<br /> <br /> 共和国の黄金期は17世紀前半に訪れた。貴族たちに支配された強力な議会(セイム)は[[三十年戦争]]への参加を見合わせることによって、ヨーロッパ世界の大部分が巻き込まれた深刻な宗教戦争による惨事から自国を防衛することに成功した。共和国は[[スウェーデン]]、[[モスクワ大公国|ロシア]]そして[[オスマン帝国]]の属国から自国を守りぬいたばかりか、近隣諸国への積極的な拡張政策を開始した。17世紀初頭にはモスクワの民主派貴族とツァーリ派貴族が対立して[[動乱時代]]に陥り、{{仮リンク|ロシア飢饉 (1601年-1603年)|en|Russian famine of 1601‐1603|label=ロシア大飢饉}}で弱体化したロシアへ[[ロシア・ポーランド戦争 (1605年-1618年)|ロシア・ポーランド戦争]]で進出、モスクワの民主派貴族と連帯した共和国の軍勢は[[1610年]][[9月27日]]から[[1612年]][[11月4日]]に陥落するまで[[モスクワ]]を占領統治していた。{{仮リンク|ポーランド・オスマン戦争 (1620年-1621年)|en|Polish‐Ottoman War (1620‐21)|label=ポーランド・オスマン戦争}} ([[1620年]] - [[1621年]])。[[スモレンスク戦争]]([[1632年]] - [[1634年]])。スモレンスク戦争は、ロシアによる[[スモレンスク]]奪回を目的とした戦争であったが、共和国は領土確定と引き替えに[[ツァーリ]]称号と[[レガリア]]をロシアに返還した。また共和国は、[[1618年]]のロシアとの[[デウリノの和約]]で連合の歴史上で最大の領土を実現させたが、1620年代の[[スウェーデン・ポーランド戦争]]で1629年に北部[[リヴォニア]]を事実上、失っている。この時はスウェーデンの[[ワルシャワ]]侵攻を阻止し、その勢威を示したが、共和国としては、[[アルトマルク休戦協定|停戦条約]]の結果、リヴォニアの分割を余儀なくされている。ロシアとスウェーデンは、軍事的には敗北したものの、外交上の勝利を得たと言える。この頃、共和国は相次ぐ戦争により、[[軍事費]]が増大し、国家財政上の懸念が生じることとなった。そして表面的には磐石に見えた共和国の国家経済は疲弊し始めていた。そして共和国の巨大化によって様々な文化的背景を持つ勢力を取り込んでしまったために、共和国の社会制度に政治的な混乱をもたらすこととなった。また、ポーランドのヴァザ王家は、スウェーデンのヴァーサ王家を[[仮想敵国]]とし、王権の強化と海軍増強計画を目論んだが、議会(セイム)によって破棄された。この時代の共和国は、なおも[[地域大国]]として君臨していたが、これらのことから[[海洋国家|海洋大国]]として[[バルト海]]での覇権争いに食い込むまでには至らなかった。<br /> <br /> 共和国の勢威は、1648年以後に受けた2度の衝撃によって衰えを見せ始めた。最初の衝撃とは、歴史的に最も大規模だった[[ウクライナ・コサック]]による反乱である。東部国境の[[クレスィ]]で起きたこの[[フメリニツキーの反乱]]は、[[クリミア・ハン国]]の援護を受けたものであった。さらに反乱者が1654年にはロシアのツァーリに支援を求める事態に至り([[ペラヤースラウ会議 (1654年)|ペレヤスラフ条約]])、ポーランドはウクライナに対する影響力をモスクワ・ロシアに奪われることになった。もう一つの衝撃は、1655年のスウェーデンによる侵略「[[大洪水時代|大洪水]]」([[トランシルヴァニア]]の支配者ラーコーツィ・ジェルジ2世、[[ブランデンブルク辺境伯|ブランデンブルク選帝侯]][[フリードリヒ・ヴィルヘルム (ブランデンブルク選帝侯)|フリードリヒ・ヴィルヘルム]]の軍事的支援を受けていた)である。この侵略は[[ヴァーサ王朝|ヴァザ家]]出身の選挙王たちが続けていた、スウェーデンへの敵対政策が引き起こしたものだった。1667年に共和国は侵攻国を撃退することに成功したが、東の[[ロシア・ツァーリ国|ロシア]]、北の[[バルト帝国|スウェーデン]]の影響力が増していった。共和国は、北西の[[プロシア公領]]及び北東の{{仮リンク|スウェーデン領リヴォニア|en|Swedish Livonia}}を共和国版図から正式に喪失した。前年の[[1660年]]には[[プロイセン公国]]が漁夫の利を得て、スウェーデン王国との対ポーランド枢軸を図らないという条件でポーランド王国からの独立をポーランド王から承認されている。のちにこの新興独立国家は[[プロイセン王国]]を経て、現代欧州最強の軍事独裁国家「[[ドイツ帝国]]」となっていくのである。さらには主権下にあったウクライナの[[ヘーチマン国家]]が独立し、のちにモスクワに吸収されてしまう。<br /> <br /> [[ファイル:Polish-Lithuanian_Commonwealth_1635.png|thumb|[[ヴワディスワフ4世 (ポーランド王)|ヴワディスワフ4世]]統治期の共和国の版図(1635年)。ただし北部リヴォニアは事実上、名目的な版図]]<br /> 17世紀後半に入ると、弱体化した共和国は[[神聖ローマ皇帝]][[レオポルト1世 (神聖ローマ皇帝)|レオポルト1世]]と同盟した[[ヤン3世 (ポーランド王)|ヤン3世ソビエスキ]]のもとで、[[オスマン帝国]]に壊滅的な打撃を与えることに成功した。1683年の[[第二次ウィーン包囲|ウィーンの戦い]]は、250年にわたって続いた[[キリスト教]]世界=[[ヨーロッパ]]と、[[イスラーム]]世界=オスマン帝国との長い抗争の歴史における、最終的な転換点となった。何世紀にもわたった[[ムスリム]]側の脅威にさらされ続けたため、共和国は「キリスト教世界の防波堤(Antemurale Christianitatis)」の称号を得ることになった。続いて起きた16年にわたる[[大トルコ戦争]]の結果、オスマン帝国の国境は永久的に[[ドナウ川]]以南に押しとどめられ、再び[[中央ヨーロッパ]]に脅威を及ぼすことはなかった。ヤン3世ソビエスキ王は宿敵であるはずのオスマン帝国からも「レヒスタンの獅子」(「レヒスタン」はトルコ語でポーランドを指し、ポーランド人の古名である「レフ族」(ポラン族)にちなんで「レフ族の国」を意味する)として尊敬された。この時代は共和国にとっては最後の栄光であり、中興の時代であった。しかしこの結果、オスマン帝国を撃破した共和国は、欧州内の近隣諸国の警戒を引き起こし、緊張関係が生じることとなった。そして1701年に[[プロイセン王国]]として承認されることとなる[[ブランデンブルク=プロイセン]]が次第にバルト海南岸に勢力を強め、さらにロシアは東ヨーロッパの覇権国としての地位を不動のものとしたが、これは共和国とロシアとの同盟政策において起ったものであり、ヤン3世が犯した失策でもあった。[[ハプスブルク君主国|オーストリア]]も旧オスマン帝国領への勢力圏を拡大し、ロシア、オーストリア、プロイセンという18世紀の[[中東欧]]における3列強国のパワー・バランスが成立し、17世紀の覇権国だった共和国とオスマン帝国は共倒れすることとなった。共和国は、17年間もオスマン帝国と戦い続けた結果、物質的に疲弊し、内政にも手が回らず、バルト海世界での共和国の地位を改善する努力は完全に忘れ去られた。<br /> <br /> 1700年に始った[[大北方戦争]]において共和国は完全な守勢に立たされ、強国として最後の活躍をすることとなった[[バルト帝国|スウェーデン・バルト帝国]]に蹂躙された。共和国はこのスウェーデンの下で[[傀儡政権|傀儡国王]]を押しつけられた。この強引な君主のすげ替えは、のちの[[ポーランド継承戦争]]でも行われ、没落した共和国は大国となった[[プロイセン王国|プロイセン]]、[[ハプスブルク君主国|オーストリア]]、[[ロシア帝国|ロシア]]の[[緩衝国]]として扱われるようになった。<br /> <br /> 18世紀までに、共和国は数多くの国内問題に直面し、また諸外国の影響力にさらされるようになった。1768年には、共和国は法的に[[ロシア帝国]]の[[保護国]]となり&lt;ref&gt;Andrzej Jezierski, Cecylia Leszczyńska, Historia gospodarcza Polski, 2003, s. 68.&lt;/ref&gt;、ロシアは外交的、軍事的戦略をポーランドへと集中させるようになった&lt;ref&gt;[http://www.historytoday.com/MainArticle.aspx?m=13698&amp;amid=13698 Russia&#039;s Rise as a European Power, 1650-1750], Jeremy Black, History Today, Vol. 36 Issue: 8, August 1986&lt;/ref&gt;。{{要出典|date=2016年9月|範囲=政治体制のぐらつきは共和国を[[無政府状態]]の淵にまで追い込んだ。[[5月3日憲法]]の制定をその頂点とする、[[4年議会]](1788年 - 1792年)などの改革の試みは遅きに失したものであり、共和国は近隣諸国であるロシア、プロイセン、オーストリアによる3度の[[ポーランド分割|領土分割]]を通じて統治すべき国土を失った。[[1794年]][[3月24日]]、軍人の[[タデウシュ・コシチュシュコ]]が{{仮リンク|コシチュシュコの蜂起|en|Kościuszko Uprising}}を起こしたが、ロシアの[[アレクサンドル・スヴォーロフ]]に鎮圧され、1795年にポーランド・リトアニア共和国はヨーロッパの地図上から姿を消した。}}ポーランドとリトアニアが独立を再び手にするのは1918年、それも[[ポーランド第二共和国]]と[[リトアニア|リトアニア共和国]]という別個に独立した国家としてであった。<br /> <br /> == 国家組織と政治 ==<br /> === 黄金の自由 ===<br /> [[ファイル:Unia Lubelska.JPG|thumb|「1569年の[[ルブリン合同]]」[[ヤン・マテイコ]]画(1869年)]]<br /> {{main|黄金の自由}}<br /> 共和国の政治原則は「我が国は国王の統轄の下にある共和国である」というものである。[[カンツレシュ|大法官]][[ヤン・ザモイスキ]]はこの原則を「国王は君臨すれども統治せず {{lang|la|&quot;Rex regnat et non gubernat&quot;}} 」と要約する。共和国は選挙王、[[元老院]](セナト)のほか、代議制の議会であるセイムを有していた。国王は[[ヘンリク条項]]および選出時に取りきめられる[[パクタ・コンヴェンタ]]により規定された共和国市民(=[[シュラフタ]])の諸権利を尊重することを義務付けられた。<br /> <br /> 王権は強大な貴族階級の権力のために制限を受けていた。歴代の国王はポーランドの政治システム(およびほぼ前例のない[[宗教的寛容]])の根幹をなすヘンリク条項に署名せねばならなかった。時代が下るにつれ、ヘンリク条項はパクタ・コンヴェンタと組み合わされていき、選挙王が誓うべき明確な誓約という性格をもった。その結果、国王は常に[[元老院]]の監督を受けるようになった。のちにヨーロッパ初の[[成文憲法]]で本格的な近代[[民主主義]]憲法である[[5月3日憲法|1791年5月3日ポーランド憲法]]が成立すると、国王は「国家の所有者」や「国民の支配者」ではなく、「国民が所有する国家」に対して無限の責任を負う「国家の代表者」(近代的な[[立憲君主]])であると規定された。<br /> <br /> 共和国の政治システムとしての「黄金の自由」([[ポーランド語]]表記:Zlota Wolność,この語は[[1573年]]から使われ始めた)は、以下の諸要素をその基礎とした。<br /> <br /> *[[国王自由選挙]]…国王選出は投票を希望する全てのシュラフタによる自由選挙によって行う。<br /> *セイム…国王によって2年ごとに召集される共和国の代議制議会。<br /> *[[パクタ・コンヴェンタ]]…即位時に国王が共和国政府との間で取り決める統治契約。諸権利の請願も行われる。国王の政治行動を束縛し、初期の[[ヘンリク条項]]に由来する。<br /> *[[ロコシュ]]([[抵抗権]])…貴族に保障されている諸特権が国王によって脅かされた場合、反乱を起こすことを法的に認められる権利。<br /> *[[リベルム・ヴェト]]…セイムでの決議において多数派の決定を、代議員一人の反対によって否決出来る権利。セイムの会期中、全ての法案を廃案にしてきた「無制限の拒否権」として悪名高い。17世紀後半の危機の時代に入ると、リベルム・ヴェトは地方議会([[セイミク]])にも適用された。<br /> *[[連盟_(ポーランド)|連盟]]…共通の政治目的のために団体を結成する権利。<br /> <br /> [[Image:Potęga Rzeczypospolitej u zenitu. Złota wolność. Elekcja R.P. 1573.jpg|thumb|共和国の権力の頂点をなす1573年の[[国王自由選挙]]、[[ヤン・マテイコ]]画]]<br /> 3地域(後述)のみが共和国内の[[自治領]]としての権利を享受していた&lt;ref name=Pacy_and_Hughes_2001&gt;{{cite book |last=Pacy |first=James S. |coauthors=James T. McHugh |title=Diplomats Without a Country: Baltic Diplomacy, International Law, and the Cold War |origdate=[[2001-08-30]] |url=http://books.google.com/books?ie=UTF-8&amp;visbn=0313318786&amp;id=wRbdAwtxVIAC&amp;pg=PA18&amp;lpg=PA18&amp;dq=Union+of+Lublin&amp;vq=autonomy&amp;sig=gX3YrDKVd16OrwDC8RHYcz8UyVE |accessdate=2006-09-03 |edition=1st Edition |publisher=Greenwood Press |location=Post Road West, Westport, Connecticut |isbn= 0-313-31878-6 |doi = 10.1336/0313318786 }}&lt;/ref&gt;。各県にはそれぞれに地方議会(セイミク)が置かれていた。セイミクは国家立法府(セイム)に送り込む代議員を選出し、指示書によって代議員に様々な要望・提案をする権利を有していた。[[リトアニア大公国]]はポーランド王国(王冠領と呼ばれた)とは別個に軍隊、国庫、官職体系を組織していた&lt;ref&gt;{{cite book |last=Bardach |first=Juliusz |authorlink=Juliusz Bardach |title=O Rzeczpospolitą Obojga Narodów |year=1998 |location=Warszawa}}&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 黄金の自由は当時としては国家に特異な性格を与えたが、同時代には[[ヴェネツィア共和国]]のような[[都市国家]]が類似した政治システムを採用していた&lt;ref name=&quot;Olk&quot;&gt;Joanna Olkiewicz, &#039;&#039;Najaśniejsza Republika Wenecka&#039;&#039; (Most Serene Republic of Venice), Książka i Wiedza, 1972, Warszawa&lt;/ref&gt;(両国は「[[最も静穏なる共和国]]」を自称した点でも共通していた&lt;ref name=&quot;Notes&quot;&gt;Joseph Conrad, &#039;&#039;Notes on Life and Letters: Notes on Life and Letters&#039;&#039;, Cambridge University Press, 2004, ISBN 0-521-56163-9, [http://books.google.com/books?ie=UTF-8&amp;vid=ISBN0521561639&amp;id=x8oAq189BcwC&amp;pg=PA422&amp;lpg=PA422&amp;dq=autonomy+Polish-Lithuanian+Commonwealth&amp;sig=NamslH94ra0LUsjcr8FSOPMNmzo Google Print, p422 (notes)]&lt;/ref&gt;)。ヨーロッパ諸国が[[中央集権化]]、絶対主義、宗教戦争や王朝による争いに直面している時期、共和国は[[地方分権]]&lt;ref name=&quot;Gella&quot;/&gt;、[[国家連合]]と[[連邦制]]、民主政治、[[宗教的寛容]]さらには[[平和主義]]までも経験していた&lt;ref name=&quot;Frost&quot;&gt;{{cite book|title=The Northern Wars: War, State and Society in northeastern Europe, 1558‐1721 |first=Robert I.|last= Frost|publisher=Longman&#039;s|location= Harlow, England; New York}} 2000. Especially pp9‐11, 114, 181, 323.&lt;/ref&gt;。シュラフタがしばしば国王による戦争計画を廃案にしたことは、[[民主的平和論]]に関する論議に相当するものとさえ見なされる。<br /> <br /> この政治システムは他の階級と王権に立脚した政治システムに対するシュラフタ貴族階級の独占的な勝利に由来する。この時代、シュラフタは[[ニヒル・ノヴィ]](1505年)を始めとして十分すぎる特権を蓄積し、どの王も彼らの支配を力で捩じ伏せることは出来なかった。共和国の政治システムは単純なカテゴライズには適しないが、一応は以下のような定義付けが混ざり合う状態にあるといえる:<br /> <br /> [[Image:Anonymous_Elżbieta_Sieniawska_as_Minerva.png|thumb|right|男性用外套[[デリア (衣服)|デリア]]を纏い、「[[サルマティズム|サルマタイ人]]」のいで立ちをした[[エルジュビェタ・シェニャフスカ]]]]<br /> *広大な自治領を領域内に含む[[国家連合]]ないし[[連邦]]。共和国を国家連合か連邦体制にあったかは限定しにくい。<br /> *[[寡頭制]]&lt;ref name=&quot;Gella&quot;/&gt;。[[シュラフタ]]のみが参政権を持ったといっても、彼らの階層は人口の約10%を占めていたのであり、少数者による支配というイメージとはずれがある。<br /> *全てのシュラフタに等しい権利と特権が与えられる民主政治。彼らの拠るセイムが[[立法]]、[[外交]]、[[宣戦布告]]、[[租税|課税]](既存の税制の変更、新しい税の制定)といった重要な事項について国王に反対出来る。共和国は当時のヨーロッパ諸国の中で最も高い、約10%の[[参政権]]者を抱えていた&lt;ref&gt;{{en icon}} {{cite book |author=David Sneath |coauthors= |title=The headless state: aristocratic orders, kinship society, &amp; misrepresentations of nomadic inner Asia |year=2007|editor= |page=188 |pages= |chapter= | chapterurl = |publisher=Columbia University Press |location= |isbn=02-31140-54-1 |url=http://books.google.com/books?id=OR14qaApQbgC&amp;printsec=frontcover&amp;hl=pl |format= |accessdate=}}&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;{{en icon}} {{cite book |author=M. L. Bush |coauthors= |title=Rich noble, poor noble |year=1988 |editor= |page=8-9 |pages= |chapter= | chapterurl = |publisher=Manchester University Press ND |location= |isbn=07-19023-81-5 |url=http://books.google.com/books?id=TIG7AAAAIAAJ&amp;printsec=frontcover&amp;hl=pl |format= |accessdate=}}&lt;/ref&gt;。[[フランス]]では[[1831年]]の時点で人口の約1%、[[1867年]]の[[イギリス]]では約3%に参政権が与えられているに過ぎなかったのとは対照的である。<br /> *[[選挙王制]]。シュラフタによって選出される国王、つまり世襲君主でない国王が国家の首長であること。<br /> *[[立憲君主制]]、つまり君主が[[パクタ・コンヴェンタ]]やその他の法律によって誓約されており、シュラフタは国王が法的に不正な行為をしている場合は従う義務はないとされた。<br /> <br /> === 参政権者 ===<br /> 共和国の主要な参政権者は以下の通り。各人一人一票の原則は共和国の滅亡まで守られた:<br /> <br /> *[[国王]]…王権の拡大のために奮闘し、[[絶対王政]]の創出を試みていた&lt;ref name=&quot;wandycz&quot;&gt;{{en icon}} {{cite book |author=Piotr Stefan Wandycz |coauthors= |title=The United States and Poland |year=1980 |editor= |page=17 |pages= |chapter= | chapterurl = |publisher= Harvard University Press|location= |isbn=06-74926-85-4 |url=http://books.google.com/books?id=_XaFaNshCrkC&amp;printsec=frontcover&amp;hl=pl |format= |accessdate=}}&lt;/ref&gt;。<br /> *[[僧侶]]…平民出身者であっても僧籍に入ることで参政権を得ることがあった。<br /> *[[マグナート]]…シュラフタのうち最も裕福な階層、日本の[[幕藩体制]]のごとく特権的な[[寡頭政治]]によって国家を統治し、国王と貧窮シュラフタを統御しようとしていた&lt;ref name=&quot;wandycz&quot; /&gt;。特に大きな財産を持つマグナートは[[オルディナト]]と呼ばれ、彼らはそれぞれがヨーロッパの大国の君主たちに匹敵する財産を持っていた。<br /> *中小[[シュラフタ]]…セイムの権限を拡大し、シュラフタによる民主政治で国家を統治しようとしていた&lt;ref name=&quot;wandycz&quot; /&gt;。<br /> [[Image:Allegory of the 1st partition of Poland.jpg|thumb|「国王たちのケーキ」第1次ポーランド分割の寓意、[[ジャン・ミシェル・モリュー]]画]]<br /> マグナートと中小シュラフタが一つの貴族階級として連帯することはなく、多くの党派が国王ないし大勢のマグナートをばらばらに支援していた。<br /> <br /> === 共和国の制度的欠陥 ===<br /> 1572年に[[ヤギェウォ家]]の統治者がいなくなると、(共和国の唯一かつ最大の制度的欠陥であるとのちに指摘されることになった)「&#039;&#039;&#039;[[リベルム・ヴェト]](任意拒否権)&#039;&#039;&#039;」が濫用され、かろうじて均衡を保っていた共和国政府は崩壊した。権力は徐々に中央政府から地方のシュラフタ達へと移っていった。<br /> <br /> 周期的に空になる王座を埋める機会が訪れるたび、シュラフタ達は共和国内に強大な新[[王朝]]を築く心配のない外国人の候補者を好んで探し求めた。この政策によって王位についた人物は皆、影響力を持たないか、シュラフタとの恒常的な抗争によって力を衰えさせることとなった。さらには、有名な例外といえる[[トランシルヴァニア]]の支配者[[ステファン・バートリ (ポーランド王)|ステファン・バートリ]](在位1576年 - 1586年)を除けば、外国出身の国王はすべて自国あるいは出身家門の利害に共和国の利害関心を従属させようとする傾向があった。この傾向は特に[[ヴァーサ王朝|ヴァザ家]]出身の最初の選挙王2人の統治期の政策と軍事行動に顕著であり、彼らの政治方針は共和国とスウェーデンとの間に抗争を引き起こし、それは[[大洪水時代]](1648年)において頂点に達した。そしてこの動乱こそが、共和国を黄金期から衰退期へと転換させることになった。<br /> <br /> [[ゼブジドフスキの反乱]](1606年 - 1607年)を転機として[[マグナート]]は権力を増長させ、シュラフタ民主政はマグナート寡頭政にとって代わられた。共和国の政治システムは国外からの干渉に弱く、諸外国から[[賄賂]]を受け取ったセイム代議員がリベルム・ヴェトを乱発して改革の試みを潰すべくを行使することも珍しくなかった&lt;ref name=&quot;Bullitt&quot;&gt;William Bullitt, &#039;&#039;The Great Globe Itself: A Preface to World Affairs&#039;&#039;, Transaction Publishers, 2005, ISBN 1-4128-0490-6, [http://books.google.com/books?ie=UTF-8&amp;vid=ISBN1412804906&amp;id=guYU3I5f2ZgC&amp;pg=PA42&amp;lpg=PA42&amp;dq=bribe+Polish+parliament&amp;sig=9dk5sNNNWL-pfBwoOCP1CCKPW6c Google Print, pp42‐43]&lt;/ref&gt;&lt;ref name=&quot;Adams&quot;&gt;John Adams, &#039;&#039;The Political Writings of John Adams&#039;&#039;, Regnery Gateway, 2001, ISBN 0-89526-292-4, [http://books.google.com/books?ie=UTF-8&amp;vid=ISBN0895262924&amp;id=zwKs6Wf2NUEC&amp;pg=PA242&amp;lpg=PA242&amp;dq=May+Constitution+reason+for+partitions+of+Poland&amp;sig=MSPWv6t3GdmfHUFcblV6VLt_Vf0 Google Print, p.242]&lt;/ref&gt;。こうした弱みは独立国家としての共和国を掘り崩し、近隣諸国が国内を安定させて軍事力を付けていた17世紀半ばから18世紀半ばまでの100年以上もの間、共和国はリベルム・ヴェトが濫用され政治的な麻痺状態・無政府状態においたのである。<br /> <br /> === 後期の諸改革 ===<br /> [[Image:Wojniakowski_Passing_of_the_3rd_of_May_Constitution.jpg|thumb|[[4年議会]]による[[5月3日憲法]]の採択、1791年]]<br /> 共和国は政治システムの改革のために大変な労力を費やし、1791年に近代ヨーロッパでは初めての成文国家憲法&lt;ref name=&quot;Markoff&quot;/&gt;である[[5月3日憲法]]を制定した。これはその2年前に制定されていた[[アメリカ合衆国憲法]]についで、世界で2番目に早く誕生した成文憲法である。革命憲法は旧来のポーランド・リトアニア連合国家を[[世襲君主制|世襲王制]]のポーランド・リトアニア連邦国家へと変貌させ、古いシステムが持つ有害な特徴を排除していった。新しい憲法では以下のように取りきめられた:<br /> <br /> *[[リベルム・ヴェト]]を廃止し、シュラフタの[[連盟_(ポーランド)|連盟]]結成を禁止する。<br /> *政府では[[立法権]]、[[行政権]]、[[司法権]]の[[三権分立]]が導入される。<br /> *「[[国民主権]]」を創出し、[[貴族]]だけでなく[[ブルジョワジー]]にも[[参政権]]を拡張する。<br /> *[[小作農]]の権利を向上させる。<br /> *[[宗教的寛容]]を保障する(ただし[[カトリック教会|カトリック教徒]]の[[棄教]]は罪に問われる)。<br /> <br /> 共和国を弱体な[[緩衝国]]の地位に留めておきたい近隣列強によって全国境から攻め込まれることになったために、これらの改革は手遅れとなった。しかし、国王[[スタニスワフ・アウグスト・ポニャトフスキ]]とその他の改革者たちによる強国化政策は国内に大きな反響を生んだ&lt;ref name=Pacy_and_Hughes_2001/&gt;。ロシアは[[5月3日憲法]]の政治改革による革命の波及と、共和国がヨーロッパ列強国の地位を取り戻す可能性を恐れた。[[エカチェリーナ2世]]は5月憲法を自身の命取りになる&lt;ref name=&quot;Bourne&quot;&gt;Henry Eldridge Bourne, &#039;&#039;The Revolutionary Period in Europe 1763 to 1815&#039;&#039;, Kessinger Publishing, 2005, ISBN 1-4179-3418-2, [http://books.google.com/books?ie=UTF-8&amp;vid=ISBN1417934182&amp;id=dgYqPfGuNy8C&amp;pg=PA161&amp;lpg=PA161&amp;dq=feared+the+Polish+May+Constitution&amp;sig=ioOXFOCWjTK765FD8YKK0SbAmg4 Google Print p161]&lt;/ref&gt;、憲法は[[ジャコバン派]]の影響を受けたものだと述べていた&lt;ref name=&quot;Menzel&quot;&gt;Wolfgang Menzel, &#039;&#039;Germany from the Earliest Period Vol. 4&#039;&#039;, Kessinger Publishing, 2004, ISBN 1-4191-2171-5, [http://books.google.com/books?ie=UTF-8&amp;vid=ISBN1419121715&amp;id=E6YFqBUYecoC&amp;pg=PA33&amp;lpg=PA33&amp;dq=feared+the+Polish+May+Constitution&amp;sig=urESknTUAHC3AjxGW_iCaBCIVD0 Google Print, p33]&lt;/ref&gt;。[[グリゴリー・ポチョムキン|グリゴリー・ポチョムキン公爵]]は[[タルゴヴィツァ連盟]]結成のための文書を起草し、憲法については「民主主義理念とやらの伝染病」だと切り捨てた&lt;ref name=&quot;Madariaga&quot;&gt; Isabel de Madariaga, &#039;&#039;Russia in the Age of Catherine the Great&#039;&#039;, Sterling Publishing Company, Inc., 2002, ISBN 1-84212-511-7, [http://books.google.com/books?ie=UTF-8&amp;vid=ISBN1842125117&amp;id=OA0yDoVBW0QC&amp;vq=%223+May%22&amp;dq=feared+the+Polish+May+Constitution&amp;lpg=PA432&amp;pg=PA431&amp;sig=dFgzUbGba8mmMMgWzYGOz8tppYw Google Print p431]{{リンク切れ|date=2017年9月|bot=InternetArchiveBot}}&lt;/ref&gt;。また一方で、やはりプロイセンとオーストリアもポーランドの強国化を憂慮しており、これを領土拡大の口実にしようとしていた&lt;ref name=&quot;Menzel&quot;/&gt; 。プロイセンの宰相[[エヴァルト・フォン・ヘルツベルク]]は「プロイセンの王政に対する打撃」と述べ&lt;ref name=&quot;Buffalo&quot;&gt;Carl L. Bucki, [http://info-poland.buffalo.edu/classroom/constitution.html The Constitution of May 3, 1791], Text of a presentation made at the Polish Arts Club of Buffalo on the occasion of the celebrations of Poland&#039;s Constitution Day on May 3, 1996. Retrieved March 20, 2006&lt;/ref&gt;、かつてはプロイセンを従属させていたポーランドの再強国化に強い警戒心をもって臨んだ&lt;ref name=&quot;Bourne&quot;/&gt;&lt;ref name=&quot;Wandycz&quot;&gt;Piotr Stefan Wandycz, &#039;&#039;The Price of Freedom: A History of East Central Europe from the Middle Ages to the Present&#039;&#039;, Routledge (UK), 2001, ISBN 0-415-25491-4, [http://books.google.com/books?ie=UTF-8&amp;vid=ISBN0415254914&amp;id=vdS_WBHGBcYC&amp;pg=PA130&amp;lpg=PA130&amp;dq=feared+the+Polish+May+Constitution&amp;sig=5GVTwb6gx1v4BlMebzrAA91tMMQ Google Print p131]&lt;/ref&gt;。結局、共和国が憲法制定後4年間のうちに完全に消滅したため、5月3日憲法は発効したものの、特に「クレシ」と呼ばれる東部辺境地域では[[タルゴヴィツァ連盟]]などの抵抗勢力が結集して憲法への反対闘争を繰り広げた。<br /> <br /> === 軍隊 ===<br /> {{出典の明記|date=2016年9月|section=1}}<br /> [[Image:Husarz, Józef Brandt, 1890.jpg|thumb|right|「共和国の[[ユサール|フサール]]」[[ユゼフ・ブラント]]画]]<br /> 共和国軍は2人の大[[ヘトマン]]および2人の野戦ヘトマンによって統率された。軍は以下の軍団から構成されていた:<br /> <br /> *[[ヴォイスコ・クファルツィアエ]]…国税によって賄われる[[常備軍]]。後にヴォイスコ・コンプトヴェと合体した。<br /> *[[ヴォイスコ・コンプトヴェ]]…戦時に創設される半常備軍。1652年以降、ヴォイスコ・クヴァルツィアエと共に新型軍を構成した。<br /> *[[ポスポリテ・ルシェニェ]]…シュラフタの[[総動員]]による軍。<br /> *[[ピェホタ・ワノヴァ]]および[[ピェホタ・ヴィブラニェツカ]]…農民の新兵を基盤とした軍。<br /> *[[登録コサック]]の軍…[[ウクライナ・コサック]]で構成された軍勢、大抵は歩兵の銃士兵だが、まれに[[荷車要塞]]を引く騎兵として使われる。<br /> *[[近衛軍]]…国王その家族を護衛するのが主な目的の小部隊。<br /> *[[傭兵|傭兵軍]]…通常軍隊の補充のために雇われ、他の多くの軍とともに戦う。[[ドイツ人]]、[[スコットランド人]]、[[ヴラフ人|ワラキア人]]、[[セルビア人]]、[[ハンガリー人]]、ボヘミア人、モラヴィア人、シロンスク人など。<br /> *[[私兵|私兵軍]]…平常時には、たいてい小規模な連隊(数百人程度)として[[マグナート]]や都市に養われている。しかし戦時には国家から給金をもらい、その規模も格段に大きくなる(数千人規模)。<br /> <br /> 共和国にはいくつかの部隊も存在した:<br /> <br /> *[[ユサール|フサリア(フサーシュ)]]…重装備騎兵。[[槍]]、[[コンツェシュ]](剣)、サーベル、斧、[[弓 (武器)|弓]]、鎚矛、後にはピストルを装備した。彼らの戦闘力は、17世紀後半に入り[[銃]]が普及して銃歩兵連隊が登場してからにおいても長い間きわめて頼りにされていた。フサリアは約200年もの間、無敗であった。メンバーは[[トヴァシシュ・フサルスキ]]と呼ばれ、3-4人の[[ポチェト|ポチュトヴィ]]を率いていた。<br /> *[[軽騎兵|コサック騎兵]]…共和国における軽騎兵の一般的呼称である。[[オスマン帝国]]の騎士軍団のように速く機動性に富む。17世紀後半の[[フメリヌィーツィクィイの反乱]]以後は、[[ウクライナ・コサック]]と区別するため、「パンツェールニ」(鎖帷子の騎兵)と呼ばれるようになった。<br /> *[[荷車要塞|タボル]]…補充用の兵を[[荷車]]に乗せて戦場へ馬に引かせ運ぶ要塞。その防御陣形は登録コサックによって熟達したものになったが、他の部隊と比べ数が少なかった。<br /> <br /> 共和国海軍は共和国の歴史の中ではさほど大きな役割を果たしていないが、スウェーデンの[[海上封鎖]]を破った[[オリヴァの海戦]]では勝利を収めた。[[黒海]]では、コサック達がオスマン帝国やその属国に対し、[[チャイカ_(舟)|チャイカ]]と呼ばれる小型の舟に乗って[[掠奪]]行為を続けていた。彼らは帝国の首都[[イスタンブール]]郊外に火を放ったこともある。しかし共和国の海軍は、陸軍とは異なり規模的に周辺国に見劣っており、国王による海軍増強計画も議会によって破棄されたため、それ以上の発展をすることはなかった。<br /> <br /> == 経済 ==<br /> [[Image:Zboze Placi.jpg|thumb|left|「穀物が高く売れるとき…」]]<br /> [[Image:Zboze Nie Placi.jpg|thumb|left|「…そして売れないとき」二つの絵は、共和国の貴族階級に長く利益をもたらしてきた農業が、17世紀後半から衰退を始めたことを示す]]<br /> [[Image:StefanBatory.jpg|thumb|[[ステファン・バートリ (ポーランド王)|ステファン・バートリ]]の治世中に鋳造された貨幣]]<br /> [[Image:Lublin Kamienica Konopniców.jpg|thumb|[[ルブリン]]にあるコノプシツァの共同住宅、1575年再建]]<br /> [[Image:Oboz flisakow nad Wisla.jpg|thumb|「[[ヴィスワ川]]の河川輸送商人の野営」[[ヴィルヘルム・アウグスト・ストリョフスキ]]画、1858年]]<br /> 共和国の経済は[[農奴制]]を基盤とする[[封建制]]農業生産によって支えられていた。[[奴隷制度]]はポーランドでは15世紀には禁止されたが、リトアニアでは1588年になってようやく廃止されている&lt;ref&gt;{{cite web|url=http://www.britannica.com/blackhistory/article-24160 |title=Welcome to Encyclopædia Britannica&#039;s Guide to History |publisher=Britannica.com |date=1910-01-31 |accessdate=2009-02-01}}&lt;/ref&gt;。もっとも、奴隷制度が廃止され一時的に小作農がその大幅な自由を謳歌し経済的恩恵を享受したものの、のちに国際的な構造が大転換をして共和国の経済が衰退期に入ると再版農奴制に取って代わられていった&lt;ref&gt;http://books.google.com/books?ie=UTF-8&amp;vid=ISBN086091710X&amp;id=EhtMbM1Z8BkC&amp;dq=Union+of+Lublin&amp;lpg=PA284&amp;pg=PA285&amp;sig=Iz4vVbE7WIYY8AI-_UNKwB6C7wY&lt;/ref&gt;。貴族達が所有する[[フォルヴァルク]]と呼ばれる大規模農場では、国外へ大量に輸出するための余剰農作物が、小作農たちによって生産されていた。この経済体制は、穀物生産が最も好調な時期に当たっていた共和国の初期においては、支配階級、農民、都市民の誰にも都合よく機能し、共和国の黄金時代を支えていた&lt;ref&gt;http://books.google.com/books?ie=UTF-8&amp;vid=ISBN086091710X&amp;id=EhtMbM1Z8BkC&amp;dq=Union+of+Lublin&amp;lpg=PA284&amp;pg=PA285&amp;sig=Iz4vVbE7WIYY8AI-_UNKwB6C7wY&lt;/ref&gt;。しかしながら17世紀後半になると、[[新大陸]]から安価な穀物が大量に欧州市場に流入するようになり、穀物相場が下落していくにつれて国内の経済状況は悪化の一途をたどる。小作農は資金繰りが悪くなって地主であるシュラフタへの[[負債]]を増やしていき、シュラフタたちは利潤の落ち込みを埋め合わせるべく小作農たちに重労働を課したことで、小作農たちの生活や身分は再度地主に依存し隷属する状態、すなわち[[再版農奴制]]と呼ばれるようになった状況に陥ったのである。<br /> <br /> 共和国の経済が農業、とりわけ生産物の輸出に依存したままだったことは、[[ブルジョワジー]]に対するシュラフタの圧倒的優位と結びついたばかりか、農産物の市場価格の大幅な下落は国内の資本蓄積を遅らせ、共和国内での都市化と産業における発展をかなり阻害する結果となった。地主貴族と都市ブルジョワの社会階級間での葛藤はヨーロッパ世界全体に共通する現象だったが、経済を穀物という市場の変動の影響を受けやすい物品の輸出に過度に偏って依存していた共和国のように、貴族階級が勝利を収めたという事態は同時代の他地域にはあまり見られない現象であった(のちに[[プロイセン王国]]や[[ロシア帝国]]ではまったく同じ現象が見られた)。しかし、17世紀中葉の戦争と相次ぐ危機が襲うまでは、共和国の諸都市の規模や富は西側諸国の諸都市のそれ比べて遜色なく、その危機の時代が都市の成長阻害に甚大な影響を及ぼしたのだ、という主張もあり、その是非は歴史家たちの間で今も争われている。共和国には[[マクデブルク法]]に基づいた[[都市]]や町を多く抱えていた。共和国で最も大規模な[[市場]]は[[ルブリン]]で開かれていた。<br /> <br /> 共和国はヨーロッパ最大の穀物生産国だったが、共和国は人口が多く穀物の量の面から言えば大部分は国内で消費されていた。1560年から1570年までのポーランド王冠領(元々のポーランド領地域)とポーランドの[[領邦]]である[[プロイセン公領|プロイセン]]をあわせたポーランド国内の[[小麦]]の消費量を見積もるとおよそ11万3000トンに及ぶ。16世紀に共和国で生産されていた穀物量は約12万トン、うち6%が輸出され、19%が都市部で消費され、残りは農村部の消費となる。共和国が輸出した穀物は[[西ヨーロッパ]]の需要の約2%程度を賄っていたと思われる。共和国の穀物は、1590年代から1620年代にかけてヨーロッパ中が不作に悩み、南欧諸国が体制安定のために競って穀物輸入を行ったような時期には、ポーランドが輸出する穀物はきわめて重要なもので、その状況が相場を支えたのである。<br /> <br /> 共和国において穀物は最大の輸出品だったが、[[フォルヴァルク]]の所有者たちはたいてい、国内での穀物取引の80%を扱い、[[バルト海]]の[[海港]]に向けて穀物を輸送する[[グダニスク]]の商人たちと契約を交わしていた&lt;ref&gt;{{en icon}} {{cite book| author =Krzysztof Olszewski| coauthors =| title =The Rise and Decline of the Polish-Lithuanian Commonwealth due to Grain Trade| year =2007| editor =| page =7| pages =| chapter =| chapterurl =| publisher =| location =| isbn =| url =http://venus.unive.it/olszewski/Polish%20Grain%20Trade%20-%20Krzysztof%20Olszewski.pdf| format =| accessdate =2009-04-22}}{{リンク切れ|date=2017年9月 |bot=InternetArchiveBot }}&lt;/ref&gt;。共和国を流れる多くの河川が輸送に利用されていた。[[ヴィスワ川]]、[[ピリツァ川]]、[[ブク川]]、[[サン川]]、[[ニダ川]]、[[ヴィエプシュ川]]、[[ネマン川]]などである。それらの川は比較的インフラ整備がなされており、港湾や穀倉を備えていた。多くの川ではさほど利益にならない輸送業に携わる人々が南北を行き交い、平底荷船やいかだはグダニスクで材木を売り捌くために北へと向かった。グダニスクから、船は[[アントウェルペン]]や[[アムステルダム]]のような大都市に穀物を輸送するため[[ネーデルラント]]や[[フランドル]]へと向かった。穀物に加え、海上貿易の輸出品には材木や木材から作れる[[タール]]のようなものがあった。<br /> <br /> 陸上での貿易では、共和国は皮革、毛皮、麻、絹(大半は[[ヴィエルコポルスカ]]産)やリネンを、[[ライプツィヒ]]や[[ニュルンベルク]]といった[[神聖ローマ帝国]]のドイツ人居住地域に輸出していた。5万頭ものウシが[[シロンスク]]経由で商品を運んだ。共和国はまた、香辛料や嗜好品、衣服、魚、ビールや、産業のために使われる鉄や様々な道具などを輸入していた。グダニスクから南へと向かってくる船は少なかったが、ワインや果物、香辛料、ニシンを運んできた。ところが[[新大陸]]からの安価な農産物が大量に欧州市場に流入するようになった16・17世紀の間に、共和国の収支バランスは黒字から赤字に転落した。<br /> <br /> [[大航海時代]]の始まりとともに、[[琥珀の道]]のような数多くの古い貿易ルートが消滅するとともに、新しいルートが次々と築かれた。ヨーロッパとアジアを繋ぐ隊商貿易路としてのポーランドの重要性は薄れ、一方でポーランドとロシアとの間には新しい交易路が開かれた。しかし共和国の造船技術が改善して海上貿易に目が向けられた後も、西洋と東洋との結節点としての重要性は消えず、数多くの商品や生産物が共和国を通過して様々な地域に運ばれた。たとえば、[[イスファハーン絨毯]]は[[ペルシア]]から共和国に輸入されていたが、西欧では「ポーランド絨毯」の名前で知られていた。共和国の通貨には[[ズウォティ]]や[[グロシュ]]などがあった。[[グダニスク]]には独自の貨幣を鋳造する特権が与えられていた。<br /> <br /> == 文化 ==<br /> [[Image:Alchemik Sedziwoj Matejko.JPG|thumb|「錬金術師[[ミハウ・センジヴイ|ミカエル・センディヴォギウス]]」[[ヤン・マテイコ]]画]]<br /> [[Image:Counsellor, Goslicki.jpg|thumb|right|1598年に[[イングランド]]で出版された[[ヴァヴジニェツ・グジマワ・ゴシリツキ|ゴシリツキ]]の著書『最善の元老院議員について』の中で、共和国は「ポーランド人の帝国」と翻訳されている]]<br /> === 政治思想 ===<br /> 共和国は近代的な政治・社会思想の発展においてヨーロッパの重要な中心地の一つであり、[[エラスムス]]が称賛したように、当時としては稀な民主的な政治システムを備えていた。また[[対抗宗教改革]]の時代にあっても、やはり特異であった[[宗教的寛容]]を実現させ、[[ユダヤ教]]、[[東方正教]]、[[プロテスタント]]、[[イスラーム]]が国教であるカトリックとともに平和的に共存していた。ただし時期によってはカトリックを強制する動きが強まった事もあった。<br /> {{Main|ブレスト合同}}<br /> <br /> 共和国はまた、[[イギリス]]と[[アメリカ合衆国]]の[[ユニテリアン主義]]の先駆者であるキリスト教セクト、[[ポーランド兄弟団]]を生んだ。<br /> <br /> その政治システムの影響もあり、共和国は[[アンジェイ・フリチュ・モドジェフスキ]](1503年‐ 1572年)、[[ヴァヴジニェツ・グジマワ・ゴシリツキ]](1530年 ‐ 1607年)、[[ピョトル・スカルガ]](1536年 ‐ 1612年)といった[[政治思想家]]たちを生み、[[スタニスワフ・スターシツ]](1755年 ‐ 1826年)や[[フーゴ・コウォンタイ]](1750年 ‐ 1812年)はヨーロッパで最も早くに成立した近代的な成文憲法・国家憲法であり、大陸で最初の革命的な政治原則を打ち立てた、[[5月3日憲法]]の完成させるための道筋を示した。<br /> <br /> [[クラクフ]]の[[ヤギェウォ大学]]はヨーロッパで最も古い総合大学の一つであり、[[ヴィリニュス大学]]とともに共和国における人文科学・自然科学の中心であった。1773年に創設された[[国民教育委員会]]は、世界最初の教育省であった&lt;ref&gt;{{en icon}} {{cite book |author=[[ノーマン・デイヴィス|Norman Davies]] |coauthors= |title=God&#039;s Playground: A History of Poland |year=2005 |editor= |page=167 |pages= |chapter= | chapterurl = |publisher= Columbia University Press |location= |isbn=02-31128-19-3 |url=http://books.google.com/books?id=EBpghdZeIwAC&amp;hl=pl |format= |accessdate=}}&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 共和国は多くの[[テクノロジー|科学技術者]]を輩出した:<br /> <br /> *[[アルベルト・ブルゼフスキ]](1445年 - 1497年)…[[天文学者]]、[[数学者]]、[[哲学者]]、[[文学者]]、[[外交官]]<br /> *[[ベルナルド・ヴァポフスキ]](1450年 - 1535年)…[[地図学|地図学者]]、数学者<br /> *[[ニコラウス・コペルニクス]](1473年 - 1543年)…天文学者、宗教家<br /> *[[マルチン・クロメル]](1512年 ‐ 1589年)…歴史家、[[地図学|地図学者]]<br /> *[[ミハウ・センジヴイ|ミカエル・センディヴォギウス]](1566年 ‐ 1636年)…[[錬金術師]]、化学者<br /> *[[クシシュトフ・アルツィシェフスキ]](1592年 ‐ 1656年)…軍人、[[技術者]]、[[民族学者]]<br /> *[[カジミェシュ・シェミェノヴィチ]](1600年 ‐ 1651年)…軍事技術者、[[砲術]]の専門家、多段式[[ロケット砲]]開発者<br /> *[[ヨハネス・ヘヴェリウス]](1611年 ‐ 1687年)…[[天文学者]]、[[月]][[地誌学]]の創始者<br /> *[[ミハウ・ボイム]]([[漢名]]:卜弥格,1612年 ‐ 1659年)…[[東洋学者]]、地図学者、[[博物学者]]、[[南明]]政権に仕えた外交官<br /> *[[アダム・アダマンディ・コハニスキ]](1631年 ‐ 1700年)…[[数学者]]、技術者<br /> <br /> また共和国は以下のような古典作家たちをも生んだ:<br /> <br /> *[[ヤン・コハノフスキ]](1530年 ‐ 1584年)…作家、劇作家、[[詩人]]<br /> *[[ヴァツワフ・ポトツキ]](1621年 ‐ 1696年)…作家、詩人<br /> *[[イグナツィ・クラシツキ]](1735年 ‐ 1801年)…作家、詩人、[[寓話]]作家、ポーランド最初の小説家<br /> *[[ユリアン・ウルシン・ニェムツェヴィチ]](1758年 ‐ 1841年)…作家、劇作家、詩人<br /> <br /> また多くの[[シュラフタ]]たちが[[回想録]]や[[日記]]を残している。おそらく最も有名なのは[[アルブレフト・スタニスワフ・ラジヴィウ]](1595年 ‐ 1656年)の『ポーランドの歴史に関する回想』、[[ヤン・フリゾストム・パセク]](1636年頃 ‐ 1701年頃)の『回想録』であろう。<br /> <br /> [[マグナート]]たちは自らの権威づけのために様々な建設計画に着手した。[[大統領宮殿 (ワルシャワ)|ワルシャワ大統領宮殿]]やポーランド大ヘトマンであった[[スタニスワフ・コニェツポルスキ]]が建てた[[ピドヒルツィ城|ポドホルツァヒ城]]のような、[[教会]]、[[聖堂]]、[[宮殿]]などである。最大の建設計画は都市全体を建設するというものだったが、大概は途中でうやむやになり結局は廃棄されている。建設された都市の名前の多くは出資したマグナートの名前にちなんだ。これらの都市のうち最も有名なのは、[[ヤン・ザモイスキ]]によって建設され、イタリア人[[建築家]][[ベルナルド・モランド]]が設計を担当した[[ザモシチ]]である。<br /> <br /> &lt;gallery style=&quot;margin:2px auto; text-align:center&quot;&gt;<br /> Image:Zamosc pierzeja polnocna.jpg|[[ザモシチ]]の市庁舎とアルメニア人の共同住宅、16世紀<br /> Image:Ossolinski Kazanowski Palace.jpg|[[ワルシャワ]]にある[[カザノフスキ宮殿]](右)と[[ブリュール宮殿 (ワルシャワ)|オッソリンスキ宮殿]](左)&#039;&#039;<br /> Image:Pazaislis.jpg|[[パジェイスリス修道院]]、1674年完成<br /> Image:Palac Branickich pn-wsch.jpg|[[ブラニツキ宮殿 (ビャウィストク)|ブラニツキ宮殿]]、[[ビャウィストク]]、1726年完成&#039;&#039;<br /> &lt;/gallery&gt;<br /> <br /> === サルマティズム ===<br /> [[Image:Rembrandt. A Polish Nobleman. 1637.PNG|thumb|upright|「ポーランドの貴族男性」[[レンブラント・ファン・レイン]]画]]<br /> シュラフタの間で普及していた[[イデオロギー]]は、「[[サルマティズム]]」と呼ばれた。貴族階級が自らを東欧から中央アジアにかけて活動し多文化主義の社会([[チェルニャコフ文化]])を構成していた古代スラブの地に定住した遊牧民「サルマタイ人」の出自との確信から、東方地域に影響された特異な文化を形成した&lt;ref&gt;Tadeusz Sulimirski, The Sarmatians (New York: Praeger Publishers 1970) at 167&lt;/ref&gt;。サルマタイは[[トルコ]]が[[起源]]ともされている&lt;ref&gt;Dan D.Y. Shapira. (2009) &quot;Turkism&quot;, Polish Sarmatism and Jewish Szlachta Some reflections on a cultural context of the Polish-Lithuanian Karaites Karadeniz Arastirmalari pp. 29–43&lt;/ref&gt;。この信条体系は[[シュラフタ]]文化の重要な部分を占め、彼らの生活領域の全面に浸透した。サルマティズムはシュラフタ階級のあいだでの母語(民族)・宗教宗派・職業・家柄を超えた平等意識、彼らの騎馬趣味、伝統重視、地方での田園生活、[[平和主義]]を奨励したし、[[オリエント]]に影響された服飾の流行を生みだした。丈長のジャケットの{{仮リンク|ジュパン|en|Żupan}}や{{仮リンク|スクマナ|pl|Sukmana}}を着て{{仮リンク|コントシュ|en|Kontusz}}というマントを広幅のベルトの{{仮リンク|パス・コントショヴィ|en|Pas kontuszowy}}でとめ、冬には{{仮リンク|デリア (衣服)|en|Delia (clothing)}}というコートを重ねた。筒の太いズボンの{{仮リンク|シャラヴァルィ|en|Sirwal}}を履くなどである(腰に{{仮リンク|シャブラ (刀剣)|en|Szabla|label=シャブラ}}を佩&lt;small&gt;(は)&lt;/small&gt;く)。さらには、多民族で構成された共和国の貴族階級に[[ナショナリズム|単一民族意識]]に近い連帯感を、シュラフタの「黄金の自由」に正統性をそれぞれ付与した。<br /> <br /> 初期のサルマティズムは理想主義的な文化運動として理解できるもので、信仰心、誠実さ、愛国心、勇敢、平等と自由を鼓吹した。しかし、そうした性格は徐々に歪んでいく。後期に現れた過激なサルマティズムは、信心を狂信に、誠実さを政治的無知に、誇りを傲慢さに、勇敢を頑迷に、自由を無秩序に変容させてしまった&lt;ref name=&quot;Wasko&quot;&gt;Andrzej Wasko, Sarmatism or the Enlightenment: &lt;space&gt;The Dilemma of Polish Culture, Sarmatian Review XVII.2, [http://www.ruf.rice.edu/~sarmatia/497/wasko.html online]&lt;/ref&gt;。サルマティズムは18世紀後半に起きた国家の消滅に責任があったとして非難を受けている。サルマティズムに対する批判は、ラディカルな変革を志向する改革者たちによって、しばしば偏った見地からなされた。この自己批判はまた、ポーランドの消滅は自己崩壊が招いたものだと証明しようとした、[[ロシア帝国|ロシア]]、[[プロイセン王国|プロイセン]]、[[オーストリア帝国|オーストリア]]の歴史家たちの著作に同調したものでもあった。<br /> <br /> しかしサルマティズムにあるのは否定的な側面ばかりではない。サルマティズムは多元文化主義を機能させるための政治的手段でもあった。サルマティズムにおいて、シュラフタ同士では民族、宗教、宗派、職業、家柄によって政治的に差別されることはなく、誰もが平等に参政権を有した。ここでは共和国におけるシュラフタは共和国市民であり、古代の共和政ローマにおけるローマ市民に相当した。この市民主義は後にポーランドで確立する立憲政治や民主主義の基盤となったものであり、近代の市民はここに生まれたのである。ヨーロッパ初の近代成文憲法である[[5月3日憲法|1791年5月3日憲法]]および当時の一連の改革(世界初の教育省である国民教育委員会の設立を含む)はその内容から、非シュラフタだった階級の人々をシュラフタに引き上げる意味があった。すなわち共和国に住むすべての人々を共和国市民にしようとした試みであり、明らかにサルマティズムの流れに沿ったものであった。<br /> <br /> === 使用言語 ===<br /> [[Image:Daniel Schultz d. J. 004.jpg|thumb|「[[ヤン2世 (ポーランド王)|ヤン2世カジミェシュ]]に仕える[[クリミア|クリミア人]]の[[鷹匠]]とその家族」[[ダニエル・シュルツ]]画、1664年]]<br /> [[Image:Anniversary anthem of Constitution of May 3 1791.jpg|thumb|ヘブライ語・ポーランド語・ドイツ語・フランス語による[[5月3日憲法]]1周年記念賛歌(1792年)]]<br /> *[[ポーランド語]]:公認言語&lt;ref name=&quot;Lieven&quot;/&gt;、公用語、支配的言語。共和国の貴族階級の大部分&lt;ref name=&quot;Lieven&quot;&gt;Anatol Lieven, &#039;&#039;The Baltic Revolution: Estonia, Latvia, Lithuania and the Path to Independence&#039;&#039;, Yale University Press, 1994, ISBN 0300060785, [http://books.google.com/books?id=iz3NACNOpCAC&amp;pg=PA48&amp;dq=Polish+Latin+Ruthene+German+Armenian+Hebrew&amp;as_brr=3&amp;ei=0IQrR7LJOo7O7gL3rfiWBQ&amp;sig=ASA_slGMGPCgz3f-2qnpzzsx-v8 Google Print, p.48]&lt;/ref&gt;&lt;ref name=&quot;Barbour&quot;&gt;Stephen Barbour, Cathie Carmichael, &#039;&#039;Language and Nationalism in Europe&#039;&#039;, Oxford University Press, 2000, ISBN 0199250855, [http://books.google.com/books?id=1ixmu8Iga7gC&amp;pg=PA194&amp;dq=Polish-Lithuanian+%22Polish+language%22&amp;as_brr=3&amp;ei=SZArR_qUNIPy6wKV6JiCCA&amp;sig=HTmhBejbDqk578fZP4xFdzf7umU Google Print p.184]&lt;/ref&gt;&lt;ref name=&quot;DahlB&quot;&gt;Östen Dahl, Maria Koptjevskaja-Tamm, &#039;&#039;The Circum-Baltic Languages: Typology and Contact&#039;&#039;, John Benjamins Publishing Company, 2001, ISBN 9027230579, [http://books.google.com/books?id=CsesLE3efLwC&amp;pg=PA45&amp;dq=Polish-Lithuanian+%22Polish+language%22&amp;as_brr=3&amp;ei=SZArR_qUNIPy6wKV6JiCCA&amp;sig=FOEhKdQoJB72pcLgnmYCU1jjbiA Google Print, p.45]&lt;/ref&gt;&lt;ref name=&quot;Price&quot;&gt;Glanville Price, &#039;&#039;Encyclopedia of the Languages of Europe&#039;&#039;, Blackwell Publishing, 1998, ISBN 0631220399, [http://books.google.com/books?id=CPX2xgmVe9IC&amp;pg=PA30&amp;dq=Polish-Lithuanian+%22Polish+language%22&amp;as_brr=3&amp;ei=QJErR8OEMJSq7ALlwKWWBQ&amp;sig=djnVUBSLAYmg5elnR9Tyr8yexyE Google Print, p.30]&lt;/ref&gt;、および王冠領の農民層が使用していた&lt;ref name=&quot;Teich&quot;&gt;Mikulas Teich, &#039;&#039;The National Question in Europe in Historical Context&#039;&#039;, Cambridge University Press, 1993, ISBN 0521367131, [http://books.google.com/books?id=Hu2SnETtV3kC&amp;pg=PA295&amp;vq=variety+of+languages&amp;dq=%22Golden+Liberty%22&amp;as_brr=3&amp;sig=aecSY6mWpqFzXjuQsZ5w09vtZvY Google Print, p.295]&lt;/ref&gt;。1697年からはリトアニア大公国の官庁言語として使用された&lt;ref name=&quot;OConnor&quot;&gt;Kevin O&#039;Connor, &#039;&#039;Culture And Customs of the Baltic States&#039;&#039;, Greenwood Press, 2006, ISBN 0313331251, [http://books.google.com/books?id=IpR0-OrrwssC&amp;pg=PA115&amp;vq=Lithuanian+language+commonwealth&amp;dq=Lithuanian+language+commonwealth&amp;sig=FAxU-v9CFWQ8df833WOLM0qiEUY Google Print, p.115]&lt;/ref&gt;。また共和国の都市部における支配的言語でもあった.&lt;ref name=&quot;Teich&quot;/&gt;。<br /> *[[ラテン語]]:公認言語&lt;ref name=&quot;Lieven&quot;/&gt;&lt;ref name=&quot;Stone&quot;/&gt;、公用語。外交分野で主流であり&lt;ref name=&quot;OConnor&quot;/&gt;、貴族階級の間では第2言語として一般的に使用されていた&lt;ref name=&quot;OConnor&quot;/&gt;&lt;ref name=&quot;Friedrich&quot;&gt;Karin Friedrich et al., &#039;&#039;The Other Prussia: Royal Prussia, Poland and Liberty, 1569-1772&#039;&#039;, Cambridge University<br /> Press, 2000, ISBN 0521583357, [http://books.google.com/books?id=qsBco40rMPcC&amp;pg=PA88&amp;dq=Latin+language+szlachta&amp;as_brr=3&amp;ei=J44rR5_XFZXC7AK4xeGVBQ&amp;sig=3ecP0DjPuCLnTaEdVI76Ck8xSE8 Google Print, p.88]&lt;/ref&gt;。<br /> *[[フランス語]]:非公認言語。18世紀初めにワルシャワの宮廷において、外交分野の主流言語として、ラテン語に取って代わった。科学や文学の言語、貴族階級の間での第2言語として一般的に使用されるようになった。&lt;ref&gt;&#039;&#039;They were the first Catholic schools in which one of the main languages of instruction was Polish. [...] Although he followed Locke in attaching weight to the native language, in general Latin lost ground to French rather than Polish.&#039;&#039; {{en icon}} {{cite book | author = Richard Butterwick| coauthors = | title = Poland&#039;s last king and English culture: Stanisław August Poniatowski, 1732-1798| year = 1998| editor = | page =70 | pages = | chapter = | chapterurl = | publisher =Oxford University Press| location = | isbn = 0-19-820701-8| url = | format = | accessdate = }}&lt;/ref&gt;<br /> *[[ルーシ語]]:公認言語&lt;ref name=&quot;Lieven&quot;/&gt;、公用語。官庁スラヴ語としても知られる&lt;ref name=&quot;OConnor&quot;/&gt;。1697年まではリトアニア大公国の官庁における標準言語であり&lt;ref name=&quot;OConnor&quot;/&gt;&lt;ref name=&quot;Stone&quot;&gt;Daniel. Z Stone, &#039;&#039;[http://books.google.com/books?vid=ISBN0295980931&amp;id=LFgB_l4SdHAC&amp;pg=PA46&amp;lpg=PA46&amp;dq=%22official+language%22+Poland+Lithuania&amp;sig=vUDl2wB7wuTLJuBYjxX2KuKxpNs A History of East Central Europe]&#039;&#039;, p.46&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;Piotr Eberhardt, Jan Owsinski, &#039;&#039;Ethnic Groups and Population Changes in Twentieth-century Central-Eastern Europe: History, Data, Analysis&#039;&#039;, M.E. Sharpe, 2003, ISBN 0765606658, [http://books.google.com/books?id=jLfX1q3kJzgC&amp;pg=RA1-PA177&amp;vq=language+replaced&amp;dq=demographics+%22Grand+Duchy+of+Lithuania%22&amp;as_brr=3&amp;source=gbs_search_s&amp;cad=0 Google Print, p.177]&lt;/ref&gt;、時として外交分野で使われた(その後はポーランド語となった)。ルーシ語の口語(派生言語である[[ウクライナ語]]および[[ベラルーシ語]])はリトアニア大公国および王冠領の東部で、広く使用されていた。<br /> *[[リトアニア語]]:&#039;&#039;&#039;非公認言語&#039;&#039;&#039;&lt;ref name=&quot;Lieven&quot;/&gt;&lt;ref name=&quot;Dahl&quot;&gt;Östen Dahl, Maria Koptjevskaja-Tamm, &#039;&#039;The Circum-Baltic Languages: Typology and Contact&#039;&#039;, John Benjamins Publishing Company, 2001, ISBN 9027230579, [http://books.google.com/books?id=CsesLE3efLwC&amp;pg=PA41&amp;dq=Lithuanian+language+commonwealth&amp;sig=mVaZQjGYtrpEQfvrn1fn6ZVP8u0#PPA44,M1 Google Print, p.41]&lt;/ref&gt;。リトアニア大公国の北西部([[原リトアニア]])および[[王領プロイセン]]北部([[小リトアニア]])で話されていた&lt;ref name=&quot;Stone2&quot;&gt;Daniel. Z Stone, &#039;&#039;[http://books.google.com/books?id=LFgB_l4SdHAC&amp;pg=PA4&amp;vq=Lithuanian&amp;dq=%22official+language%22+Poland+Lithuania&amp;source=gbs_search_s&amp;cad=0 A History of East Central Europe]&#039;&#039;, p.4&lt;/ref&gt;。また大公国の公文書の一部にも使用された&lt;ref name=Zigmas&gt;{{cite book | last = Zinkevičius | first = Z. | authorlink = | coauthors = | title = Rytų Lietuva praeityje ir dabar | publisher = Vilnius: Mokslo ir enciklopedijų leidykla | year = 1993 | location = | page = 70|quote= Official usage of Lithuanian language in the 16th century Lithuania&#039;s cities proves magistrate&#039;s decree of Vilnius city, which was sealed by Žygimantas Augustas&#039; in 1552...//Courts juratory were written in Lithuanian language. In fact, such [courts juratory written in Lithuanian] survived from the 17th century...| url = | doi = | id = | isbn = 5-420-01085-2 }}&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;{{cite web | url = http://i34.photobucket.com/albums/d101/no_name_2/Edt1458.jpg | title = &quot;Mes Wladislaus...&quot; &#039;&#039;a letter from Wladyslaw Vasa issued in 1639 written in Lithuanian language&#039;&#039;| accessdate=2006-09-03}}&lt;/ref&gt;&lt;!--comment: it is not a letter by Wladislaus IV. It&#039;s only a notarially certified translation of Wladislaus&#039;s document without state seal. http://litvin.org/site/argumentas.htm --&gt;&lt;ref&gt;{{cite book | last = Ališauskas | first = V. | authorlink = | coauthors = L. Jovaiša, M. Paknys, R. Petrauskas, E. Raila and others | title = Lietuvos Didžiosios Kunigaikštijos kultūra. Tyrinėjimai ir vaizdai | publisher = | year = 2001 | location = Vilnius| page = 500 | quote= In 1794 Government&#039;s declarations were carried out and in Lithuanian.| url = | doi = | id = | isbn = 9955-445-26-2 }}&lt;/ref&gt;。<br /> *[[ドイツ語]]:公認言語&lt;ref name=&quot;Lieven&quot;/&gt;、公用語。[[ポーランド王領プロシア|王領プロイセン]]および都市部の少数派住民が使用していた&lt;ref name=&quot;Teich&quot;/&gt;&lt;ref name=&quot;Milosz&quot;&gt;Czesław Miłosz, &#039;&#039;The History of Polish Literature&#039;&#039;, University of California Press, 1983, ISBN 0520044770, [http://books.google.com/books?id=11MVdBYUX5oC&amp;pg=PA108&amp;dq=languages+Polish-Lithuanian+German&amp;as_brr=3&amp;ei=cI8rR6rOD4Hc7QLG4emWBQ&amp;sig=AhSypZxLsBVG-l0yCFDnusO6R5M Google Print, p.108]&lt;/ref&gt;。外交分野で使われる場合もあった&lt;ref name=&quot;OConnor&quot;/&gt;。<br /> *[[ヘブライ語]]:公認言語&lt;ref name=&quot;Lieven&quot;/&gt;。[[ユダヤ人]]が使用していた。[[イディッシュ語]]も使われた&lt;ref name=&quot;Teich&quot;/&gt;が公認されていはいなかった&lt;ref name=&quot;Ostrowski&quot;&gt;Jan K. Ostrowski, &#039;&#039;Land of the Winged Horsemen: Art in Poland, 1572-1764&#039;&#039;, Yale University Press, 1999, ISBN 0300079184, [http://books.google.com/books?id=ucOZCQMVMNIC&amp;pg=PA27&amp;dq=Polish-Lithuanian+Hebrew+Armenian&amp;as_brr=3&amp;ei=h5IrR_ntH4qA6wLWveyWBQ&amp;sig=WEs5wRUJzc46Oy_QHC0GtfT3zXM#PPA27,M1 Google Print, p.27]&lt;/ref&gt;&lt;ref name=autogenerated1&gt;{{en icon}} {{cite book |author=Joanna B. Michlic |coauthors=|title=Poland&#039;s threatening other: the image of the Jew from 1880 to the present |year=2006 |editor= |page=42 |pages= |chapter= | chapterurl = |publisher=U of Nebraska Press |location= |isbn=08-03232-40-3 |url=http://books.google.com/books?id=t6h2pI7o_zQC&amp;printsec=frontcover&amp;hl=pl |format= |accessdate=}}&lt;/ref&gt;。<br /> *[[イタリア語]]:非公認言語。都市のイタリア系の少数派住民が外交関係で使用する場合があった。&lt;ref&gt;{{pl icon}} {{cite book |author=Karol Zierhoffer, Zofia Zierhoffer|coauthors=|title=Nazwy zachodnioeuropejskie w języku polskim a związki Polski z kulturą Europy|year=2000|editor= |page=79|pages= |chapter= |chapterurl= |publisher=Wydawnictwo Poznańskiego Towarzystwa Przyjaciół Nauk|location= |isbn=83-7063-286-6|url=|format= |accessdate=}} &#039;&#039;Podobną opinię przekazał nieco późnej, w 1577 r. Marcin Kromer &quot;Za naszej pamięci weszli [...] do głównych miast Polski kupcy i rzemieślnicy włoscy, a język ich jest także częściowo w użyciu, mianowicie wśród wytworniejszych Polaków, którzy chętnie podróżują do Włoch&quot;.&#039;&#039;&lt;/ref&gt;<br /> *[[アルメニア語]]:公認言語&lt;ref name=&quot;Lieven&quot;/&gt;。アルメニア系の少数派住民が使用した&lt;ref name=autogenerated1 /&gt;&lt;ref&gt;{{en icon}} {{cite book |author=Rosemary A. Chorzempa |coauthors= |title=Polish roots |year=1993 |editor= |pages= |chapter= | chapterurl = |publisher= Genealogical Pub. |location= |isbn=08-06313-78-1 |url= |format= |accessdate=}}&lt;/ref&gt;。<br /> *[[アラビア語]]:非公認言語。外交分野で使用する場合&lt;ref name=&quot;Ostrowski&quot;/&gt;や宗教行事で[[タタール]]が使用する場合があった。また、タタールはアラビア文字でルーシ語を記した。<br /> <br /> == 遺産 ==<br /> 1807年に建国された[[ワルシャワ公国]]は、共和国をその原点としていた。同様の発想は、[[11月蜂起]](1830年 - 1831年)や[[1月蜂起]](1863年 - 1864年)のような祖国回復運動や、[[ユゼフ・ピウスツキ]]が提唱したが失敗に終わった、[[リトアニア]]、[[ウクライナ人民共和国|ウクライナ]]を組み込むポーランド主導の[[ミェンズィ・モジェ]](Mięzy morze/英訳Between the seas)連邦構想([[バルト海]]〜[[黒海]]間の多民族連邦共和国構想)にも継承されていた。今日のポーランド共和国はポーランド・リトアニア連合国家の後継者を自任している&lt;ref name=&quot;Constitution&quot;&gt;A. stated, for instance by the preamble of the Constitution of the Republic of Poland of 1997.&lt;/ref&gt;。{{要出典|範囲=[[1918年]]に成立したポーランド共和国(いわゆる「[[ポーランド第二共和国|第二共和国]]」)はポーランド=リトアニア共和国の継承国家で、[[ナチス・ドイツ]]と[[ソビエト連邦|ソ連]]に国家が蹂躙された[[1939年]]から[[1989年]]までは行政の実権が奪われていたものの、[[イギリス]]の[[ロンドン]]に[[ポーランド亡命政府]]を設け、大統領や首相を置いて活動し、ポーランド第二共和国を法的に継承している。1989年に民主化を果たして以来存続している現在のポーランド共和国政府は[[レフ・ヴァウェンサ]]大統領が就任するときにロンドン亡命政府の大統領[[リシャルト・カチョロフスキ]]より法的に政権を継承した。したがって、現在のポーランド共和国(第三共和国)はポーランド=リトアニア共和国の継承国家である。|date=2016年9月}}<br /> <br /> 一方で[[第一次世界大戦]]の終結後に再独立したリトアニア共和国は、当初は[[:en:Anti-Polish sentiment|反ポーランド主義]]を国是としており、かつての連合国家であるポーランド共和国(第二共和国)へのリトアニア国家の参加を長い間否定的に見ていた&lt;ref&gt;Alfonsas Eidintas, Vytautas Zalys, &#039;&#039;Lithuania in European Politics: The Years of the First Republic, 1918‐1940&#039;&#039;, Palgrave, 1999, ISBN 0-312-22458-3. [http://books.google.com/books?id=0_i8yez8udgC&amp;pg=PA78&amp;vq=Polish-Lithuanian+Commonwealth+negative&amp;dq=Polish+Lithuanian+Commonwealth+federation&amp;sig=Oj-weSmBvRh3KbgJWgsNGfobd8AGoogle Print, p78]&lt;/ref&gt;。この反ポーランド主義の一端は、リトアニア人の[[民族自決]]によるものもあったが、何よりもポーランドとの軍事衝突、そして首都[[ヴィリニュス]]をポーランドに併合された事が影響している。1939年にドイツ、スロヴァキア、ソ連の3ヶ国による[[ポーランド侵攻|ポーランド侵略]]に乗じて奪還するが、戦後ソ連に併合された。以後、[[冷戦]]を経て[[東欧革命]]で[[ラトビア]]、[[エストニア]]などと連携して独立運動を進めた事が、よりバルト三国間の絆を深めさせたと言える。一方で[[1991年]]の[[ソ連崩壊]]後もしばらくは激しい反ポーランド主義を貫いた(リトアニアは、中欧諸国の国家間連携である[[ヴィシェグラード・グループ]]ではなく、ポーランドもリトアニアも共に中欧と北欧の橋渡しをする[[バルト海諸国理事会]]に加盟しているにもかかわらず、[[バルト三国]]の他国とともに[[北欧理事会]]への加盟希望の表明をしている。これはエストニアとラトビアが北欧との関係が深い事もあるが、近代はそれにリトアニアも含まれ、三国が共同歩調を取って親米・親西欧の経済・外交政策を展開している事も影響している)が、[[2004年]]の[[欧州連合]](EU)加盟と[[2008年]]からの[[世界金融危機]]によるリトアニアの経済危機・財政危機と、金融危機の影響を食い止めて景気後退を回避したポーランド経済の力強い発展と安定した財政力を受けて、リトアニアのポーランドに対する敵対的な態度は近年になって徐々に変わりつつある、と言われる&lt;ref&gt;{{cite web|url=http://www.rp.pl/artykul/180354.html |title=&quot;Zobaczyć Kresy&quot;. Grzegorz Górny. Rzeczpospolita 23-08-2008 (in Polish) |language={{pl icon}} |publisher=Rp.pl |date=2008-08-23 |accessdate=2009-02-01}}&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> == 脚注 ==<br /> {{Reflist}}<br /> <br /> == 関連項目 ==<br /> {{commons|Polish-Lithuanian Commonwealth}}<br /> * [[ポーランド・リトアニア合同]]<br /> * [[ポーランドの歴史]]<br /> * [[リトアニアの歴史]]<br /> * [[ウクライナの歴史]]<br /> * [[ベラルーシの歴史]]<br /> * [[マウント&amp;ブレード ファイア&amp;ソード]]<br /> <br /> == 外部リンク ==<br /> * [http://www.commonwealth.pl Commonwealth of Diverse Cultures: Poland&#039;s Heritage]<br /> * [http://viduramziu.lietuvos.net/ History of Lithuania in the Middle Ages]<br /> * {{pl icon}} [http://rzecz-pospolita.com/ The Polish‐Lithuanian Commonwealth‐Maps, history of cities in Poland, Ukraine, Belarus and Lithuania]<br /> <br /> {{ウクライナの歴史}}<br /> {{Good article}}<br /> {{デフォルトソート:ほおらんとりとあにあきようわこく}}<br /> [[Category:ポーランド・リトアニア共和国|*]]<br /> [[Category:ポーランド・リトアニア関係]]<br /> [[Category:1795年に廃止された国家・領域]]</div> 14.10.64.0 畠田理恵 2018-05-31T10:47:17Z <p>14.10.64.0: /* 略歴 */</p> <hr /> <div>{{出典の明記|date=2015年5月}}<br /> {{ActorActress<br /> | 芸名 = 畠田 理恵<br /> | ふりがな = はただ りえ<br /> | 画像ファイル = <br /> | 画像サイズ = <br /> | 画像コメント = <br /> | 本名 = 羽生 理恵<br /> | 別名義 = <br /> | 出生地 = {{JPN}} [[大阪府]][[堺市]]<br /> | 死没地 = <br /> | 国籍 = <br /> | 民族 = <br /> | 身長 = 155cm<br /> | 血液型 = [[ABO式血液型|A型]]<br /> | 生年 = 1970<br /> | 生月 = 11<br /> | 生日 = 10<br /> | 没年 = <br /> | 没月 = <br /> | 没日 = <br /> | 職業 = 元[[歌手]]、元[[俳優|女優]]<br /> | ジャンル = <br /> | 活動期間 = [[1986年]] - [[1996年]]<br /> | 活動内容 =<br /> | 配偶者 = [[羽生善治]]<br /> | 著名な家族 = <br /> | 事務所 =<br /> | 公式サイト = <br /> | 主な作品 = <br /> | その他の賞 =<br /> | 備考 = <br /> }}<br /> &#039;&#039;&#039;畠田 理恵&#039;&#039;&#039;(はただ りえ、[[1970年]][[11月10日]] - )は、[[日本]]の元[[歌手]]、元[[俳優|女優]]。[[戸籍]]名、&#039;&#039;&#039;羽生 理恵&#039;&#039;&#039;(はぶ りえ)。[[旧姓]]、&#039;&#039;&#039;畠田&#039;&#039;&#039;。「恵」の右上に「`」をつけた表記(本名で本来の表記)だった時期がある。<br /> <br /> == 略歴 ==<br /> [[大阪府]][[堺市]]に生まれて、大阪府[[和泉市]]に育ち、地元の[[和泉市立伯太小学校]]に通う。中学は[[箕面市立第二中学校]]卒業。<br /> <br /> その後、何度かの転居を経て[[大阪市]][[福島区]]に居住。福島区では、祖父が[[ラーメン]]屋「たつみや」(現在はちゃんこ屋「たつみ」として兄夫婦が引継ぐ)を経営、週末に手伝いをしていた&lt;ref&gt;[https://twitter.com/usaginoheso 本人のTwitterより]&lt;/ref&gt;。近所で美人看板娘として有名だった。芸能界入りした後は、店内にさりげなく[[ポスター]]が貼られていた。<br /> <br /> [[1985年]]10月26日、オーディション「&#039;86ミスヘアコロン・イメージガール・コンテスト」に応募しMomoco賞を受賞。<br /> <br /> [[1986年]]4月29日、[[好文学園女子高等学校|大阪福島女子高等学校]]在学中に、[[学研ホールディングス|学研]]発行の月刊雑誌「[[Momoco]]」主催のイベント「&#039;86 MOMOCO PARTY」において開催された「第2回ミスモモコクラブ」オーディションで「ミスMomoco」グランプリを受賞(桃組出席番号1404番)。[[ビッグアップル (港区)|ビッグアップル]]にスカウトされ、芸能界入りのため同校を中退して上京。「Momoco」グラビアや、[[TBSテレビ]]の「[[モモコクラブ]]」にレギュラー出演する。(その後、家族も上京)<br /> <br /> [[1987年]][[3月3日]]、[[ワーナーミュージック・ジャパン|ワーナー・パイオニア(現:ワーナーミュージック・ジャパン)]]の[[リプリーズ・レコード|リプリーズ]]レーベルより「ここだけの話 〜オフレコ〜」で[[アイドル歌手]]としてもデビュー。当時未成年ながらも大胆な歌詞を歌いこなし話題になった。<br /> <br /> 人形のような容姿の正統派[[美少女]]キャラクターが売りだったが([[文化放送]]「[[青春キャンパス]]」に出演した際、[[谷村新司]]に「&#039;&#039;&#039;ガラスケースに入れて飾って置きたくなるような子だ&#039;&#039;&#039;」と評された)、自身のサイン会イベントで自ら[[司会]]を務めてマニアックなファンへの対応をこなしてみせる等の才能ものぞかせた。[[バーニングプロダクション]]一押しの新人アイドル歌手で、デビュー当時は同じレコード会社の同期でデビューした[[森高千里]]よりもプロモーション等に力を入れてもらっていた。同年の賞レースにも多く参加し、[[第29回日本レコード大賞]]では、その年にデビューした歌手のTOP5にも選ばれるなど好調な1年目だった。<br /> <br /> [[1988年]]、1年目の[[中森明菜]]路線から[[菊池桃子]]の路線へと変更したシングル「Kissよりつねって」を発売。また、同年、秋に発売されたシングル「ソノ気にさせて」は当初同じ系列事務所、[[渡辺美奈代]]がシングルとして発売する予定の曲だった。その後歌手中心の活動から女優メインの活動へ転向してゆく。<br /> <br /> [[1990年]] - [[1991年|91年]]に放送された[[日本放送協会|NHK]]の[[連続テレビ小説]]「[[京、ふたり]]」で、ダブルヒロイン(主人公)の一人(もう一人は[[山本陽子]])として漬物屋の若女将役を務める。また、この時期デビュー当時から所属していた事務所[[ビッグアップル (港区)|ビッグアップル]]を辞め、[[アップフロントプロモーション|アップフロントエージェンシー]](現:アップフロントプロモーション)に移籍し、更に[[1992年]]にレコード会社を[[ポリスター]]に移籍し、“Rie”としてシングル「ミ・ディオス 〜RAILA〜」で再活動した。また、数多くのドラマに出演した。<br /> <br /> [[1996年]][[2月19日]]、[[東京駅]]八重洲中央口で46歳の[[ホームレス]]に襲われた。腰のあたりを蹴られたため、救急車で[[聖路加国際病院]]に運ばれ、そのまま入院した。<br /> <br /> 1996年[[3月28日]]、[[棋士 (将棋)|将棋棋士]]の[[羽生善治]]と結婚し、芸能活動を引退。[[1997年]]7月に第一子となる女児を、[[1999年]]11月には第二子となる女児を出産。<br /> <br /> [[1998年]]8月、[[目黒区]][[自由が丘]]に完全無農薬のおにぎり店「リトルキッチン」を開いたが、手伝っていた実母が[[C型肝炎]]を発症し、看病に専念するため、[[1999年]]3月に閉店した。当時はC型肝炎に対する偏見も根強く、客の心理を考え、閉店の理由を「経営不振のため」とした(実際は利益も出ていた&lt;ref&gt;[https://twitter.com/usaginoheso 本人のTwitterより]&lt;/ref&gt;)。<br /> <br /> [[1997年]]にはNHKの連続テレビ小説『[[ふたりっ子]]』に夫婦揃って特別ゲスト出演した。<br /> <br /> == 所属事務所経歴 ==<br /> ビッグアップル → アップフロントエージェンシー(現:アップフロントプロモーション) → [[エムアール]]<br /> <br /> == ディスコグラフィー ==<br /> === シングル ===<br /> {| class=&quot;wikitable&quot; style=&quot;font-size:smaller;&quot;<br /> |- style=&quot;background:#e5e5e5;&quot;<br /> !No.<br /> !タイトル<br /> !発売日<br /> !最高位<br /> !作者<br /> !備考<br /> |-<br /> |rowspan=&quot;2&quot;|1st<br /> |rowspan=&quot;2&quot;|ここだけの話 〜オフレコ〜<br /> |rowspan=&quot;2&quot;|1987年3月3日<br /> |rowspan=&quot;2&quot;|13位<br /> |rowspan=&quot;2&quot;|作詞: [[麻生圭子]]&lt;br /&gt;作曲: [[山本達彦]]&lt;br /&gt;編曲: [[中村哲 (作曲家)|中村哲]]<br /> | ―<br /> |-<br /> |&#039;&#039;&#039;B/W - 1 : 風のアフロディテ&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;B/W - 2 : 理恵3.3.クイズ解答&lt;br /&gt;作詞:[[田口俊]] 作曲:[[安藤正容|安藤まさひろ]] 編曲:中村哲&lt;br /&gt;(CDシングル『ここだけの話 〜オフレコ〜』 c/w: ター&lt;br /&gt;ミナル(10SL-107)は1988年3月25日発売)<br /> |-<br /> |rowspan=&quot;2&quot;|2nd<br /> |rowspan=&quot;2&quot;|ターミナル<br /> |rowspan=&quot;2&quot;|1987年6月17日<br /> |rowspan=&quot;2&quot;|12位<br /> |rowspan=&quot;2&quot;|作詞: [[亜蘭知子]]&lt;br /&gt;作曲: [[松岡直也]]&lt;br /&gt;編曲: 松岡直也<br /> | ―<br /> |-<br /> |&#039;&#039;&#039;B/W : ミスコンセプト 〜思いちがい〜&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;作詞:[[佐藤純子]] 作曲:[[和泉常寛]] 編曲:中村哲&lt;br /&gt;(CDシングル『ここだけの話 〜オフレコ〜』 c/w: ター&lt;br /&gt;ミナル(10SL-107)は1988年3月25日発売)<br /> |-<br /> |rowspan=&quot;2&quot;|3rd<br /> |rowspan=&quot;2&quot;|人見知り<br /> |rowspan=&quot;2&quot;|1987年9月22日<br /> |rowspan=&quot;2&quot;|21位<br /> |rowspan=&quot;2&quot;|作詞: 麻生圭子&lt;br /&gt;作曲: [[飛鳥涼]]&lt;br /&gt;編曲: [[瀬尾一三]]<br /> |「[[第29回日本レコード大賞]]」新人賞ノミネート曲<br /> |-<br /> |&#039;&#039;&#039;B/W : テロップ&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;作詞:[[松本一起]] 作曲:[[斉藤英夫]] 編曲:[[椎名和夫]]&lt;br /&gt;(CDシングル『Kissよりつねって』 c/w: 人見知り(10&lt;br /&gt;SL-111)は1988年3月25日発売)<br /> |-<br /> |rowspan=&quot;2&quot;|4th<br /> |rowspan=&quot;2&quot;|Kissよりつねって<br /> |rowspan=&quot;2&quot;|1988年1月25日<br /> |rowspan=&quot;2&quot;|28位<br /> |rowspan=&quot;2&quot;|作詞: [[芹沢類]]&lt;br /&gt;作曲: [[井上玲乙奈]]&lt;br&gt;編曲: 瀬尾一三<br /> |[[テレビ朝日]]系ドラマ『[[あぶない雑居カップル]]』挿入歌<br /> |-<br /> |&#039;&#039;&#039;B/W : 春はあけぼの&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;作詞:麻生圭子 作曲・編曲:[[佐藤準]]&lt;br /&gt;(CDシングル『Kissよりつねって』 c/w: 人見知り(10&lt;br /&gt;SL-111)は1988年3月25日発売)<br /> |-<br /> |rowspan=&quot;2&quot;|5th<br /> |rowspan=&quot;2&quot;|ソノ気にさせて<br /> |rowspan=&quot;2&quot;|1988年9月25日<br /> |rowspan=&quot;2&quot;|72位<br /> |rowspan=&quot;2&quot;|作詞: [[文園千津子]]&lt;br /&gt;作曲: [[鈴木慶一]]・[[渚十吾]]&lt;br /&gt;編曲: [[かしぶち哲郎]]<br /> |&#039;&#039;&#039;01. ソノ気にさせて&#039;&#039;&#039;<br /> |-<br /> |&#039;&#039;&#039;02. Public Telephone&#039;&#039;&#039;<br /> |-<br /> |rowspan=&quot;2&quot;|6th<br /> |rowspan=&quot;2&quot;|花と小父さん<br /> |rowspan=&quot;2&quot;|1989年12月10日<br /> |rowspan=&quot;2&quot;| 位<br /> |rowspan=&quot;2&quot;|作詞: [[浜口庫之助]]&lt;br /&gt;作曲: [[浜口庫之助]]&lt;br /&gt;編曲: [[若草恵]]<br /> |&#039;&#039;&#039;01. 花と小父さん&lt;br /&gt;&#039;&#039;&#039;[[フジテレビジョン|フジテレビ]]系ドラマ『花と小父さん』主題歌。[[伊東きよ子]]のカバー。<br /> |-<br /> |&#039;&#039;&#039;02. ゆめ旅人&#039;&#039;&#039;<br /> |-<br /> |rowspan=&quot;2&quot;|7th<br /> |rowspan=&quot;2&quot;|ミ・ディオス 〜RAILA〜<br /> |rowspan=&quot;2&quot;|1992年7月25日<br /> |rowspan=&quot;2&quot;| 位<br /> |rowspan=&quot;2&quot;|作詞: Rie&lt;br /&gt;作曲: [[辻畑鉄也]]&lt;br /&gt;編曲: [[萩田光雄|萩田光男]]<br /> |[[ポリスター]]移籍第1弾シングル&lt;br /&gt;2曲とも本人(&#039;&#039;&#039;Rie&#039;&#039;&#039; 名義)による作詞&lt;br /&gt;&#039;&#039;&#039;01. ミ・ディオス 〜RAILA〜&#039;&#039;&#039;<br /> |-<br /> |&#039;&#039;&#039;02. 意味深DRIVE★&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;作詞:Rie 作曲:[[谷本新]] 編曲:[[水島康貴]]&lt;br /&gt;03. ミ・ディオス 〜RAILA (オリジナル・カラオケ)〜&lt;br /&gt;04. 意味深DRIVE★ (オリジナル・カラオケ)<br /> |-<br /> |rowspan=&quot;2&quot;|8th<br /> |rowspan=&quot;2&quot;|冬のひまわり<br /> |rowspan=&quot;2&quot;|1993年1月25日<br /> |rowspan=&quot;2&quot;| 位<br /> |rowspan=&quot;2&quot;|作詞: Rie&lt;br /&gt;作曲: [[都志見隆]]&lt;br /&gt;編曲: 萩田光男<br /> |ラストシングル&lt;br /&gt;アーティスト名&#039;&#039;&#039;Rie&#039;&#039;&#039;での作品&lt;br /&gt;2曲とも本人(Rie)による作詞&lt;br /&gt;&#039;&#039;&#039;01. 冬のひまわり&#039;&#039;&#039;<br /> |-<br /> |&#039;&#039;&#039;02. 地球が今こわれても…&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;作曲:[[岩田雅之]] 編曲:佐藤準&lt;br /&gt;03. 冬のひまわり (オリジナル・カラオケ)&lt;br /&gt;04. 地球が今こわれても… (オリジナル・カラオケ)<br /> |-<br /> |}<br /> <br /> === アルバム ===<br /> {| class=&quot;wikitable&quot; style=&quot;font-size:smaller;&quot;<br /> |- style=&quot;background:#e5e5e5;&quot;<br /> ! <br /> !タイトル<br /> !発売日<br /> !最高位<br /> !収録曲<br /> |-<br /> |1st<br /> |PREMIER(プルミエ)<br /> |1987年5月1日<br /> |29位(LP)<br /> |01. いっそあなたに&lt;br /&gt;02. 渚のスカウト&lt;br /&gt;03. 七夕の夜に&lt;br /&gt;04. 夜明けの月に悲しみを&lt;br /&gt;05. プラス・マイナス・ゼロ&lt;br /&gt;06. SATISFACTION&lt;br /&gt;07. ここだけの話 〜オフレコ〜&lt;br /&gt;08. 季節にブレイク&lt;br /&gt;09. &lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;反&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;(&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;アンチ&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;)&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;レトロ&lt;br /&gt;10. マグネティック・トワイライト<br /> |-<br /> |Mini Best<br /> |Liaison ―RIE HATADA MINI BEST+1―<br /> |1988年10月25日<br /> |59位(LP)&lt;br /&gt;69位(CD)<br /> |01. ここだけの話 〜オフレコ〜&lt;br /&gt;02. ターミナル&lt;br /&gt;03. 人見知り&lt;br /&gt;04. Kissよりつねって&lt;br /&gt;05. ソノ気にさせて&lt;br /&gt;06. KA・TA・KU・NA<br /> |-<br /> |2nd<br /> |PUR<br /> |1993年2月25日<br /> |<br /> |01. 冬のひまわり&lt;br /&gt;02. l&#039;air pur&lt;br /&gt;03. 紫陽花&lt;br /&gt;04. Libra&lt;br /&gt;05. 星月夜 〜Starlit night〜&lt;br /&gt;06. ミ・ディオス 〜RAILA〜&lt;br /&gt;07. 心の休日&lt;br /&gt;08. 嘘つきが好きよ&lt;br /&gt;09. 誕生日の魔法&lt;br /&gt;10. 地球が今こわれても…&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;全曲本人(Rie名義)による作詞&lt;br&gt;アーティスト名Rieによる作品<br /> |-<br /> |再発廉価盤<br /> |[[Q盤 音泉1500 SERIES]]&lt;br /&gt; PREMIER +5<br /> |1996年4月25日<br /> |<br /> |01. いっそあなたに&lt;br /&gt;02. 渚のスカウト&lt;br /&gt;03. 七夕の夜に&lt;br /&gt;04. 夜明けの月に悲しみを&lt;br /&gt;05. プラス・マイナス・ゼロ&lt;br /&gt;06. SATISFACTION&lt;br /&gt;07. ここだけの話 〜オフレコ〜&lt;br /&gt;08. 季節にブレイク&lt;br /&gt;09. &lt;ruby&gt;&lt;rb&gt;反&lt;/rb&gt;&lt;rp&gt;(&lt;/rp&gt;&lt;rt&gt;アンチ&lt;/rt&gt;&lt;rp&gt;)&lt;/rp&gt;&lt;/ruby&gt;レトロ&lt;br /&gt;10. マグネティック・トワイライト&lt;br /&gt;11. ターミナル&lt;br /&gt;12. Kissよりつねって&lt;br /&gt;13. 人見知り&lt;br /&gt;14. 花と小父さん&lt;br /&gt;15. ゆめ旅人<br /> |-<br /> <br /> |}<br /> <br /> == 出演 ==<br /> === 映画 ===<br /> * [[この胸のときめきを (1988年の映画)|この胸のときめきを]](1988年)<br /> <br /> === テレビドラマ ===<br /> * [[ママはアイドル]] &lt;small&gt;第1話オープニング直後&lt;/small&gt;([[1987年]]、[[TBSテレビ|TBS]]系) - 畠田理恵として[[カメオ出演]]<br /> * [[月曜ドラマランド]]『[[バケルくん#ドラマ版|藤子不二雄のバケルくん]]』(1987年[[5月4日]]、フジテレビ系)主演 - 須方カワリ / バケ田バケル(二役) 役<br /> * あぶない雑居カップル(1988年、ANB)<br /> * [[隠密・奥の細道]] 第8話「松島の波に砕けた母子舟」(1988年、[[テレビ東京|TX]])<br /> * [[火曜スーパーワイド]] (ANB)<br /> ** 「親分の後妻は聖女」(1989年3月21日)<br /> ** 「(秘)桜荘のあぶない女たち2 東京下町レディース旅館 桃色吐息なみだがホロリ」(1989年6月20日)<br /> ** 「霊界捜査II 日本ロマンチック街道殺人事件」(1989年8月8日)<br /> * [[土曜ワイド劇場]](ANB)<br /> ** 「OL潜入!ニッポン風俗名所 新宿-道頓堀-中洲 危険旅行」(1989年6月17日)<br /> ** 「[[新・赤かぶ検事奮戦記]]」(1994年 - 1995年) - 柊葉子 役<br /> ** 「[[終着駅シリーズ]] 誇りある被害者 新宿-白馬、L特急あずさが結ぶ複合殺人」(1996年1月27日) - 川岸由紀子 役<br /> * 親分の後妻は聖女(1989年、ANB)<br /> * 男と女のミステリー (CX)<br /> ** 「花と小父さん」(1990年1月12日)<br /> ** 「花とおじさん」 (1990年2月16日)<br /> * [[水曜グランドロマン]] 「風紋」 (1990年7月11日、NTV)<br /> * [[名奉行 遠山の金さん]] 第3シリーズ 第2話「お婆ちゃんの隠し財産を狙え!」(1990年7月12日、ANB / 東映) - お妙 役<br /> * 春のドラマスペシャル 「Y殺人事件 湯けむりスキーと女子大生!?」(1990年3月29日、TBS)<br /> * [[野望の国|花燃える日日 野望の国・第二部]](1990年、[[日本テレビ放送網|NTV]])<br /> * [[連続テレビ小説]] (NHK)<br /> ** 「[[京、ふたり]]」(1990年 - 1991年) - 中村愛子 役<br /> ** 「[[ふたりっ子]]」(1996年 - 1997年)※特別ゲスト<br /> * [[火曜ミステリー劇場]] 「逃亡者 十年目のめぐり逢い」(1991年7月30日、ANB)<br /> * [[世にも奇妙な物語]](CX)<br /> ** 第2シリーズ 「ルームメイト」(1991年5月15日)<br /> ** 第2シリーズ 「毛皮が脱げない」(1991年12月5日)<br /> * [[しゃぼん玉 (テレビドラマ)|しゃぼん玉]](1991年、[[フジテレビジョン|CX]]系)<br /> * 花王ファミリースペシャル (KTV)<br /> ** 「[[千代の富士物語]] 第2部 青春編」(1992年)<br /> ** [[裸の大将放浪記]] &lt;small&gt;第61話「清のお見合い縁結び」&lt;/small&gt; (1993年5月15日)<br /> * [[関西テレビ制作・月曜夜10時枠の連続ドラマ|不思議サスペンス]] 「たった一人」(1992年8月17日、KTV) - 永井梨恵子<br /> * 新選組 池田屋の血闘 (1992年10月2日、TBS)<br /> * 領収書物語 (1993年1月3日、KTV)<br /> * 結婚 私が好きですか (1993年4月 - 9月、ABC)<br /> * 結婚・私が好きですか 「夢を破る赤い衝撃!」(1993年5月18日、ABC)<br /> * 孤臣 お命守り申し候(1993年10月1日、[[テレビ東京|TX]]) - 菊姫 役<br /> * 父子鷹(1993年、NTV)<br /> * 時代劇スペシャル 「[[闇の狩人#テレビドラマ|闇の狩人]]」 (1994年4月1日、TX / 松竹) - おみち / お順(二役)<br /> * 大江戸風雲伝(1994年、NHK)<br /> * [[水戸黄門 (第22-28部)#第23部|水戸黄門 第23部]] &lt;small&gt;第13話「姫様狙う悪の罠・福井」&lt;/small&gt; (1994年、TBS系) - 福姫 役<br /> * [[大河ドラマ|NHK大河ドラマ]] 「[[八代将軍吉宗|八代将軍 吉宗]]」(1995年、[[日本放送協会|NHK]]) - [[増子女王|比宮培子]](家重正室)<br /> ** 第39話「自由にて候」<br /> ** 第40話「都鳥あわれ」<br /> * [[味いちもんめ#味いちもんめ (テレビドラマ)|味いちもんめ]]([[1995年]]、[[テレビ朝日]]系) - 奈美 役<br /> * 高橋英樹特選時代劇 「お助け信兵衛人情子守唄」(1995年7月25日、NTV) - おぶん<br /> <br /> === バラエティ ===<br /> &lt;!-- 単発のゲスト出演は不要。レギュラー番組のみ記述をお願いします。「プロジェクト:芸能人」参照 --&gt;<br /> * [[モモコクラブ]]([[TBSテレビ]])<br /> <br /> === CM ===<br /> * [[BMB|日光堂]] 「カラオケBMB」<br /> * [[国税庁]] 確定申告PR<br /> * [[メガネスーパー]]<br /> * [[昭和産業]] 「SHOWAギフトセット」<br /> <br /> == 脚注 ==<br /> {{Reflist}}<br /> <br /> == 外部リンク ==<br /> * {{Twitter|usaginoheso|羽生理恵}}<br /> <br /> {{連続テレビ小説主演俳優}}<br /> {{24時間テレビメインパーソナリティー}}<br /> <br /> {{DEFAULTSORT:はたた りえ}}<br /> [[Category:日本の女優]]<br /> [[Category:日本のアイドル]]<br /> [[Category:モモコクラブ]]<br /> [[Category:過去のバーニングプロダクション系列所属者]]<br /> [[Category:連続テレビ小説主演俳優]]<br /> [[Category:堺市出身の人物]]<br /> [[Category:1970年生]]<br /> [[Category:存命人物]]</div> 14.10.64.0 ヴィル・ヴァルゲ・ウォッカ 2017-03-13T14:56:08Z <p>14.10.64.0: /* 外部リンク */</p> <hr /> <div>&#039;&#039;&#039;ヴィル・ヴァルゲ・ウォッカ&#039;&#039;&#039;(Viru Valge Vodka)は、[[エストニア]]産の[[ウォッカ]]である。リビコ(Liviko)社が生産している。[[アルコール度数]]は、38%、40%、80%がある。なお、スイカ味やイチゴ味などのフレーバード・ウォッカもあり、こちらのアルコール度数は38%である。<br /> <br /> [[File:Viru Valge 1L.jpg|サムネイル|100px|ヴィル・ヴァルゲの瓶。]]<br /> <br /> この他、同じくリビコ社が生産しているスイカ・青りんごやピンク・グレープフルーツなどの果汁とヴィル・ヴァルゲ・ウォッカを混合した混成酒のヴィル・ヴァルゲ・クーラー(Viru Valge Cooler)と言う製品もある。<br /> <br /> == 外部リンク ==<br /> * [http://www.viruvalge.ee 公式サイト] {{et icon}} {{en icon}}<br /> <br /> {{DEFAULTSORT:ういるうあるけうおつか}}<br /> {{North-europe-stub}}<br /> {{Sake-substub}}<br /> <br /> [[Category:ウォッカ]]<br /> [[Category:ヨーロッパの食文化]]<br /> [[Category:エストニアの食文化]]</div> 14.10.64.0
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