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http:///mymemo.xyz/wiki/api.php?action=feedcontributions&user=126.151.10.200&feedformat=atom miniwiki - 利用者の投稿記録 [ja] 2024-05-02T15:31:22Z 利用者の投稿記録 MediaWiki 1.31.0 ドイツ人 2018-07-14T07:43:36Z <p>126.151.10.200: </p> <hr /> <div>{{infobox 民族|<br /> |民族 = {{flagicon|Germany}} ドイツ人<br /> |民族語名称 = Deutsche<br /> |画像 = [[File:Germans collage.jpg|300px]]<br /> |画像の説明 = 1行目: [[マルティン・ルター]]、[[オットー・フォン・ビスマルク]]、[[ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン]]、[[イマヌエル・カント]]、[[ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ]]&lt;br /&gt;<br /> 2行目: [[ヨハネス・グーテンベルク]]、[[ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト]]、[[ヨハン・ゼバスティアン・バッハ]]、[[リヒャルト・ワーグナー]] • [[ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル]]&lt;br /&gt;<br /> 3行目: [[フリードリヒ・フォン・シラー]]、[[カール・マルクス]]、[[グリム兄弟]]、[[コンラート・アデナウアー]]、[[アルブレヒト・デューラー]]&lt;br /&gt;<br /> 4行目: [[ゴットフリート・ライプニッツ]]、[[カール・ベンツ]]、[[コンラート・ツーゼ]]、[[マレーネ・ディートリヒ]]、[[マックス・プランク]]&lt;br /&gt;<br /> 5行目: [[クラウディア・シファー]]、[[アルベルト・アインシュタイン]]、[[ヨハネス・ケプラー]]、[[フリードリヒ・ニーチェ]]、[[ハイディ・クルム]]&lt;br /&gt;<br /> 6行目: [[ヴィリー・ブラント]]、[[オットー・ハーン]]、[[ヴェルナー・フォン・ブラウン]]、[[エカチェリーナ2世]]、[[カール・フリードリヒ・ガウス]]<br /> |人口 = 約1億5000万人(ドイツ系含む)ドイツ本国 7500万人、アメリカ合衆国 5000万人、ブラジル 1500万人、アルゼンチン 350万人、中央アジア地域 150万人(ヴォルガ・ドイツ人)、バルト三国 20万人(バルト・ドイツ人)|居住地 = [[中央ヨーロッパ|中欧]]([[ドイツ]]、[[オーストリア]]、[[ポーランド]]、[[ハンガリー]]など)、[[北アメリカ|北米]]([[アメリカ合衆国|アメリカ]]中西部など[[ドイツ系アメリカ人]]が多い地域)、[[南アメリカ|南米]]([[ブラジル]]や[[アルゼンチン]]などのドイツ系移民が多い地域)、[[アフリカ]]([[ナミビア]]などの旧ドイツ領地域)<br /> |宗教 = [[カトリック教会|カトリック]]、[[福音主義#福音主義evangelisch|福音主義教会]]<br /> |言語 = [[ドイツ語]]([[低ザクセン語]]、[[バイエルン・オーストリア語|バイエルン語]]、[[アレマン語]]も含む)<br /> |関連 = [[ゲルマン系]]、[[ケルト系]]、[[スラブ系]]、[[バルト系]]<br /> }}<br /> &#039;&#039;&#039;ドイツ人&#039;&#039;&#039;(ドイツじん、{{Lang-de-short|Deutsche}})は、[[ドイツ]]を中心として[[ヨーロッパ]]に分布する住民の定義である。文脈により以下の三つの定義を有する。<br /> <br /> * [[ドイツ|ドイツ連邦共和国]](あるいは歴史上の[[ドイツ国]]、[[ドイツ民主共和国]]、[[西ベルリン]])の[[国民]]、[[国籍]]保有者、またはそれに準ずる人。過去においては「ドイツ人の神聖ローマ帝国」「ドイツ連邦」(現在のドイツ連邦とは異なる)「ドイツ王国」「ドイツ帝国」と称する国家は存在したが、たとえば前二者の盟主であったオーストリアや、初期に属したスイス、ルクセンブルク、リヒテンシュタインなどの国民は、ここからは外して二番目(出自によっては三番目)の定義で考えられることが多い。また、神聖ローマ帝国に長年属した(首都が置かれたこともある)が民族的に異なりドイツ語もほぼ放棄したチェコ、スロバキアなどの国民はいずれの定義においてもドイツ人とは呼ばれない。<br /> * &#039;&#039;&#039;ドイツ民族&#039;&#039;&#039;(ドイツみんぞく)に帰属すると考えている、または考えられている人。<br /> * [[ドイツ語]]を[[母語]]とする人。<br /> <br /> == 「国民」としてのドイツ人 ==<br /> 「ドイツ」を自称する国家の国籍を保有する人([[国民]])。現代においては、ドイツ連邦共和国の国籍を保有する場合を指すのが一般的である。この場合の「ドイツ人」は帰化した他国人・他民族も内包する為、民族主義的なドイツ人からは否定的に取られやすい。一方で[[ドイツ統一]]の中心となった[[プロイセン王国]]のあった[[ベルリン]]を中心とする「[[ブランデンブルク]]地域」は、[[スラブ]]系の[[ポーランド人]]及び[[ソルブ人]]との雑居地であり、同王国では多くの「ポーランド系」プロイセン人が活躍([[戦争論]]で著名な[[カール・フォン・クラウゼヴィッツ|クラウゼヴィッツ]]もポーランド系である)した。彼らの多くは[[ポーランド系ドイツ人]]として独自のアイデンティティを残しながらも国籍を取得しており、そういう意味では帰化人の存在自体はドイツにおいて珍しい存在ではないと言える。また、[[フランス王国]]から迫害されて、ドイツに逃れてプロイセン王国の[[フリードリヒ2世 (プロイセン王)|フリードリヒ2世]]に受け入れられ帰化し、[[ベルリン]]や[[フランクフルト・アム・マイン|フランクフルト]]などに定住した[[ユグノー|ユグノー派]]([[カルヴァン主義|カルヴァン派]])の[[フランス人|フランス系]]の人々も、「国民」としてのドイツ人に該当する。<br /> <br /> このようにドイツの[[国籍]]保持者には、[[西スラヴ語群]]の[[ソルブ語]]を話す[[少数民族]]である[[ソルブ人]](例:サッカー選手の[[ミヒャエル・バラック]])や、[[ポーランド人|ポーランド系]](代表的なのは、現在の[[サッカードイツ代表]]のエースである[[ミロスラフ・クローゼ]]、[[ルーカス・ポドルスキ]]、かつてのドイツ代表[[ピエール・リトバルスキー]]など)、[[デンマーク人|デンマーク系]]、[[オランダ人|オランダ系]](ベートーヴェンなど)、フランス系のユグノーの子孫([[ドイツ民主共和国|東ドイツ]]最後の[[ドイツの首相|首相]][[ロタール・デメジエール]]や[[ドイツ連邦軍総監]][[ウルリッヒ・デメジエール]]らを輩出したデメジエール家など)、[[ナチス]]による[[ホロコースト]]の影響で数は減ったが[[ユダヤ人]](例:[[フェリックス・メンデルスゾーン]]、[[ハインリヒ・ハイネ]]など。数千年の[[混血]]を経た[[ユダヤ教徒]]を人種的にドイツ人と区別する考え方は否定されているが、ドイツ人と異なる民族集団として独自のアイデンティティを築いてきた)などがおり、国籍は有していない者が多いが[[トルコ人]](例:サッカー選手の[[イルハン・マンシズ]])など様々な民族が居住している&lt;ref&gt;ただし、こうした状況は特にドイツに限ったことではない。[[島国]]であり[[鎖国]]が長かったため、比較的他民族の交流が薄い[[日本]]においても純粋な[[単一民族国家]]ではない。[[ヨーロッパ|欧州]]の他国は英仏をはじめ、ドイツ以上に複雑である。地球上にはかなりの僻地を除いては、純粋な血統の民族はほぼ存在しないといえる。&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> == 「民族」としてのドイツ人 ==<br /> === 歴史 ===<br /> [[ファイル:GermanenAD50.png|thumb|250px|古代ゲルマニア]]<br /> [[ファイル:Heiliges Römisches Reich 1400.png|thumb|250px|領邦国家時代]]<br /> [[ファイル:HRR 1648.png|thumb|250px|[[ヴェストファーレン体制]]]]<br /> そもそも「ドイツの歴史」(ドイツ史)について語る時、しばしばドイツ史の「ドイツ」が何を意味するのかが議論となる。それは語源についての話題ではなく、&#039;&#039;&#039;ドイツ地方の歴史&#039;&#039;&#039;という意味なのか、&#039;&#039;&#039;ドイツ人の歴史&#039;&#039;&#039;という意味なのかという事についての議論である。<br /> <br /> 前者の場合はドイツ地方はその領域が未だに確定されていない不安定な物に過ぎない(直近の例では[[ドイツ民主共和国|東ドイツ]]の統合が挙げられる)点や、ドイツ人の存在を必ずしも前提とする必要がない以上、古代ゲルマニアの諸民族から今日のドイツ住民について記述する事も可能となってしまい、ドイツ民族の[[アイデンティティ]]に支障が生じる点で物議を醸してしまう。しかしドイツ人の歴史と銘打ったところで「文化集団としてのドイツ人」が形成されたのはせいぜい[[15世紀]]・[[16世紀]]からの事でしかないし、更にそこに「国民意識を持った」という前提を加えれば19世紀からの歴史しか記載できないことになってしまう。「&#039;&#039;&#039;ドイツ人、それがどこにいるのか私にはわからない&#039;&#039;&#039;」([[ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ]])、あるいは「&#039;&#039;&#039;我々をドイツ人として纏めようとする事は無駄な努力である&#039;&#039;&#039;」([[フリードリヒ・フォン・シラー]])という言葉が象徴していると伝わる。<br /> <br /> また、オーストリアの著名な音楽家の[[フランツ・シューベルト]]は[[チェコ]]西部[[モラビア]]地方の[[ドイツ系モラビア人]]の家系で、[[ハンガリー]]の[[フランツ・リスト]]はオーストリアとハンガリーの国境にある[[ライディング]]出身の[[ドイツ系ハンガリー人]](オーストリア系ハンガリー人)である。<br /> <br /> こうした問題点については多かれ少なかれ他の欧州主要民族にも言えることではあるが、取り分けドイツは地方としての領域が近代以降も変動を続けているという点で、他国よりも複雑な事情を抱えている。<br /> <br /> ==== 古代ゲルマニア ====<br /> 「民族としてのドイツ人」を定義づけるのは至難である。それはドイツが[[単一民族]]による[[統一国家]]を持ったことがない、また[[国境線]]が[[第二次世界大戦]]のすぐ後まで頻繁に変更されてきたこと、あるいは[[ヨーロッパ]]にあっては人の移動は比較的簡易、自由であるなどの理由による。そもそもドイツ民族という概念自体が比較的近年になって形成された物であり、中世自体の時点では単に「ドイツ人」は[[ドイツ]]地方に住む人間の総称でしかなかった。古代の時点においてはドイツ(ローマからは[[ゲルマニア]]と呼ばれた)の住人は複数の小規模な民族([[部族]])に分かれていて盛んに争っていた([[ゲルマン人]]を参照)。<br /> <br /> 50以上の勢力に分かれていた彼らはいずれも独自の[[文字]]を持っていなかったので、その存在は他者(概ね[[ギリシャ人]]や[[ローマ人]])の記述以外に知る方法は無い。その為、ゲルマニアの諸民族は客観性を欠く、偏見やイメージの先行する理解のされ方をしてきた。ゲルマニアの住民が単一の集団と見なされたり、身体的特徴が強調されて伝わったのもそうした要素が背景にある。<br /> <br /> ==== フランク王国と神聖ローマ帝国 ====<br /> 古代の終わりに[[フランク王国]]により、ローマ亡き後のヨーロッパが統一される。[[フランク族]]は今日的に言う所の多民族の共同体で、母胎とされるゲルマン系民族の他にも[[スラブ系]]・[[ケルト系]]・[[ラテン系]]に属する様々な住民グループを統合して勢力を伸ばした。異民族を同胞として吸収していくという部分は、[[ラテン人]]を中核としつつも様々な勢力を同化していった[[ローマ帝国]]に似通っており、彼らは[[キリスト教]]を共通の価値観とする事で欧州を再度統合しようと試みた。その過程で非キリスト教徒であったゲルマン系民族のザクセン人とバイエルン人は激しく抵抗したが、カール大帝率いるフランク軍はザクセン人を大量に虐殺することでこれを鎮めた。こうした点からも古代ゲルマニアの住民が文化的・民族的に一枚岩でなかったこと、そしてフランク族が特定の文化グループに拘らない[[コスモポリタン]]的な思想を抱いていた事が伺える。<br /> <br /> フランク王国が僅かな統治期間で分裂・消滅すると、その後裔国の一つである東フランク帝国がゲルマニアを支配するようになる。東フランクは名を[[神聖ローマ帝国]]に改め(より正確には君主号を「神聖なる皇帝([[アウグストゥス]])」から「神聖なるローマ人の皇帝」とした)、フランク帝国の果たせなかった世界帝国の再建を目指して国内の諸民族を押さえつけつつ、積極的な対外戦争に打って出た。しかし帝国は[[オットー2世 (神聖ローマ皇帝)|オットー2世]]の代にシチリアのイスラム帝国との戦いに敗れるなど[[イタリア遠征]]で敗北を繰り返し、またバルトスラブ人の蜂起などの反乱運動に忙殺され次第にその権威を失っていく。当時の帝国はかつてフランク人に弾圧された地方民族であるザクセン人の大公家が支配しており([[ザクセン朝]])、彼らはザクセン人としての立場をかなぐり捨ててまでローマという世界帝国の再建を目指したが、オットー3世の代にはローマを訪れた際に地元貴族による反乱に直面する。<br /> <br /> この時、[[オットー3世 (神聖ローマ皇帝)|オットー3世]]は「汝らは余のローマ人ではないのか(中略)…余は汝らの為にドイツ人もザクセン人も捨て、余の血を拒絶したのだ」と、各民族の対立の深さを嘆いたと言われる。因みにこの際用いられた「ドイツ人」は民族を指す用語ではなく、単に「(ドイツ地方の)民衆語」を話す人々という意味であった。こうした用法は9世紀ごろにイタリアの知識人層で使われ、後に東フランク人を指す言葉に転じたが、中世時代を通してあまり一般的な用法ではなかった。<br /> <br /> その後、帝国は各地の有力者に権利が分散され、住民の郷土愛を後ろ盾にした[[領邦国家]]からなる「[[連邦]]」へと弱体化した。この領邦国家時代はドイツ地方の歴史で最も長く、ドイツの人間は中世時代の殆どをこの体制の下で暮らし、[[三十年戦争]]とその後の[[ナポレオン戦争]]で連合としての帝国すら崩壊するまで続いた。<br /> <br /> ==== ドイツ帝国 ====<br /> [[ファイル:German Peasant Costumes - Altenburg by Boston Public Library.jpg|サムネイル|ドイツ人農民の民族衣装。19世紀]]<br /> 近代に入って欧州各地で[[民族主義]]の元に各地域を統合しようとする運動が過熱すると、ドイツでも三十年戦争などの教訓から地域の統合が必要であるとする論が広がり、その原動力としてドイツ地方の人間を取りまとめる「ドイツ民族({{lang-de|Deutsches Volk}})」の概念が形成された。自由主義者がドイツの統合を目指して開催した1848年の[[フランクフルト国民議会]]ではドイツに住む非ドイツ民族はドイツ人かという問題が大きなテーマの一つとなった{{sfn|山田欣吾|1993|pp=648}}。<br /> <br /> 一方で領邦時代に確立された各地方の[[郷土愛]]は完全には消えず、領邦国家は既にそれぞれの国民意識を育て[[国民国家]]へと発展しつつあった&lt;ref&gt;『バイエルン王国の誕生』より&lt;/ref&gt;。ドイツ系諸民族には文化的・政治的疎隔が大きく、{{仮リンク|ヨアヒム・ハインリヒ・カンペ|de|Joachim Heinrich Campe}}に、統一された「ドイツ民族(Deutsches Volk)」は未だ存在せず、「{{lang-de|völkerschaft}}(諸民族体)」が存在するのみであると言わしめた{{sfn|山田欣吾|1993|pp=142-143}}。<br /> <br /> 民意しかも統一を果たしたのは前述のプロイセン帝国で、一種の開拓団として東欧の地に入植し、地元民と同化していた彼らは地理的にも文化的にドイツから大きく離れた位置に居た。統一の立役者で、[[ドイツ帝国]]の初代首相となった[[オットー・フォン・ビスマルク|ビスマルク]]は民族主義の元、また強力な統一国家として周辺国に対抗するために「国家」としての統一を進めたが、民族的な統一を強制する事はなかった。彼が目指したのはドイツ地方の諸民族・諸国家が緩やかな連合として信頼を寄せていた中期~後期の[[神聖ローマ帝国]]であり、「帝国」としての[[中央集権]]的な体裁を整えながらも、実態としては領邦国家の存続を認めた[[連邦制]]国家であった。ビスマルクらによる国作りがドイツ地方全体の経済や威信を向上させた為、多くのドイツ人は「国家としてのドイツ人」としての立ち位置に有用性を認め、国家に忠誠を誓った。しかし統一の原動力となったドイツ民族意識は国家主義者を除けば余り深く浸透したとは言い難く、取り分け[[バイエルン人]]は連邦制にすら満足せずに度々反旗を翻し、公然と[[バイエルン語]]を[[ドイツ語]]の方言ではなく「別言語」だと主張していた。<br /> <br /> ==== ヴァイマル ====<br /> [[第一次世界大戦]]でドイツ帝国が敗戦すると、帝国は解体され新たに[[ヴァイマル共和政|ヴァイマル共和国]]が樹立される。ヴァイマル政府は帝国という建前すらも無くなった状況下で盛んに分権を進め、地方政府はそれまで以上に強大な権限を有するようになった。しかし肝心の国家運営自体は巨額の賠償金や[[極右]]・[[極左]]双方との対立による政治的混乱から暗礁に乗り上げていた。混乱はフランス軍による[[ルール占領]]で頂点に達し、特に[[バイエルン州]]では独立論者にして[[保守]]政治家でもあった[[グスタフ・フォン・カール]]が中央政府の対外政策を弱腰と非難し、首相命令を無視して独自の政治行動を取る状態に陥った。ドイツから分離すべきと考えていたバイエルンの右翼勢力の不満が、中央政府の左翼的な政策への不満を呼び水として表面化した事で起きたこの事件は、同州に駐屯する[[ドイツ国防軍]]部隊までもが呼応して&#039;&#039;&#039;バイエルン国防軍&#039;&#039;&#039;と名を改めるなど深刻な状況へと進展していった。この頃、後世で最も強硬なドイツの[[民族主義]]・[[国家主義]]勢力と評される事の多い[[ナチス]]はバイエルンの一地方政党に過ぎず、右翼としての立場からカールの路線と共闘していたが、[[ヒトラー]]の[[大ドイツ主義]]とカールのバイエルン民族主義は根本的に相容れない概念であった。<br /> <br /> カールら独立派からなる州政府は、「バイエルン独立」と「中央政府の刷新」を同時に達成すべく、バイエルン軍がベルリンを占領する事で強硬派に[[政権]]を与え、その見返りとしてバイエルン独立を承認させる計画を実行しようとしていた。だがヒトラーは中央政府を強硬派に塗り替える事には同意したが、バイエルン独立についてはドイツ統一を揺るがす行為であると恐れ、カールらを説得しようと幹部の集まるビアホールを占拠し、大ドイツ主義的な[[革命]]への賛同を求めた。不意を突かれて[[突撃隊]]に拘束されていた手前、カールらは一端は従う素振りを見せたが後に集会場から脱出し、バイエルン軍と警察隊を動員して逆にナチスを鎮圧した([[ミュンヘン一揆]])。このバイエルン民族主義と大ドイツ主義、急進的左派と急進的右派が複雑に入り乱れた騒乱は、ドイツ国民が一枚岩では無い事を示した一件でもあった。<br /> <br /> ==== ナチスによるドイツ人の定義 ====<br /> {{see also|ナチズムと人種}}<br /> [[ナチズム]]の人種論の先駆者とされる[[ハンス・ギュンター]]は、1922年に著した「ドイツ民族の人種学」において、19世紀以降多く見られた[[人種]]と[[民族]]の混同を批判し、「ゲルマン人種」や「[[アーリア人]]」といった名称を否定していた{{sfn|原田一美|2012|pp=162}}。ギュンターはドイツ人が[[北方人種]]等複数のヨーロッパ人種の混血の産物であるとしながらも、ドイツ性の本質は北方人種の血によって規定されているとした。このため最も優れた北方人種の血をドイツ民族に取り入れ、保存するべきであると唱えた{{sfn|原田一美|2012|pp=168-169}}。ギュンターの書籍は爆発的に売れ、ナチス・ドイツ政権下でも大いに読まれた。ナチズムにおけるドイツ人の定義はこれらから大きく外れた物ではなく、北方人種の精神性を受け継ぐ「種と運命の同質性に立脚する」[[民族共同体]]として定義された{{sfn|南利明|1998|pp=4、11}}。<br /> <br /> [[ナチス・ドイツ]]時代においては民族ドイツ人({{lang-de|Volksdeutsche}})という用語が出現した。これはドイツの市民権を持つドイツ人を指す{{仮リンク|帝国ドイツ人|de|Reichsdeutsche}}({{lang-de|Reichsdeutsche}})とは異なり、1937年以前にドイツとオーストリアの国外に居住していた、ドイツ系とその類縁の血を持つ人種概念であった{{sfn|足立芳宏|2012|pp=40、71}}。この概念による「民族ドイツ人」はドイツ国外に多数存在しており、[[ベッサラビア]](現在の[[ルーマニア]]・[[モルドバ]])や[[ヴォルィーニ]](現在の[[ウクライナ]])にも定住していた。[[独ソ戦]]の最中行われた[[東部総合計画]]や[[ポーランド総督府]]による東方植民政策には、こうした「民族ドイツ人」が動員され{{sfn|足立芳宏|2012|pp=46}}、戦後には[[ドイツ人追放]]の憂き目にあった。<br /> <br /> [[全体主義]]の体系的研究で知られる政治学者の[[ハンナ・アーレント]]は、ナチズムが最も強く志向したのは[[民族主義]]ではなく[[人種主義]]であったとしている。アーレントは人種主義は民族主義と全く主旨の異なる概念であるばかりかむしろ&#039;&#039;&#039;対立する事の多い概念&#039;&#039;&#039;だと指摘しており、実際にヒトラーの腹心として人種政策の陣頭指揮を執った[[ハインリヒ・ヒムラー]]は[[大ゲルマン帝国]]」なるものを夢想し、ドイツ人はその中で主導的な役割を果たすものだと考えていた。これはヒムラー特有の認識ではなく親衛隊全体の認識と言った方が正しく、占領地オランダの高等弁務官を務めた[[アルトゥル・ザイス=インクヴァルト|ザイス・インクヴァルト]]は「(大ゲルマン帝国は)ドイツ国民国家理念の実現ではなく、人種全体のために形成される秩序である」と発言している&lt;ref&gt;『白人とは何か』藤川隆男編 p71-80「ヒムラーのアーリア人種観とその帰結」原田一美著&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> ==== 現代のドイツ人 ====<br /> その上で、細部をごまかしつつも、なお新旧ドイツ国家、[[ドイツ語]]、およびそれらに長くかかわってきた血筋といった漠然としたイメージの総体が「ドイツ人」と呼ばれている。それは他の国々と同様であるが、特にドイツ語の比重が大きい点(ほぼドイツ民族でしか母語化しなかった。その点日本語と立場が似ている)、国家の領域がまったく安定していない(現在の版図は十数年の歴史しか持たず、六百年間ドイツ国家の枢要を担った[[オーストリア]]はその中に含まれていない)点が大きな特徴といえるだろう。<br /> <br /> ドイツ人追放以後、東欧におけるドイツ人の人口は激減したが、現在でもポーランドに153,000人、ハンガリーに132,000人、[[ルーマニア]]に37,000人、[[チェコ]]に19,000人、[[スロヴァキア]]に6,000人、[[セルビア]]に4,000人のドイツ人が存在し、各国における少数民族となっている。&lt;!--https://en.wikipedia.org/wiki/Template:Germans の各リンク先参考--&gt;<br /> <br /> == 「ドイツ語話者」としてのドイツ人 ==<br /> もともと、ドイツ人は自らのことを&quot;Teutsch&quot;(トイチュ)と呼んでいた。これは「民衆 (people) 」の意である。しかし、南方の古代ローマ人はこのトイチュ人を「ゲルマン人」と呼称していた(古くは[[チュートン族]](テウトニー族)が語源であるとする説もあったが、現在では棄却されている)。これが現在の[[英語]]のGermanに相当する。初めて紹介された&quot;聖書&quot;の記述によるゲルマン人は、不名誉にも、「争いを好む民」を意味する「ゲルマニア」なのである。また、オランダのことを英語で「ダッチ」と表現するが、これはもともとトイチュが訛った表現であり、オランダが「ドイツ」地域に含まれている時代にイギリスにて広まった、侮蔑を含む語句である。<br /> <br /> 通常「ドイツ民族」と言われる、ドイツ語を母語とするゲルマン系住民はドイツのほか、&lt;!--[[オランダ]]国民、--&gt;[[オーストリア]]国民、[[リヒテンシュタイン]]の国民の大半、[[スイス]]国民の七割がそうであり、[[イタリア]]の[[ティロル|南チロル]]地方の住民、[[ベルギー]]国民の一部もそうである。また、フランス語化が進行しているとはいえ、[[ルクセンブルク]]国民、フランス東部の[[アルザス]]と[[ロレーヌ]]の住民も基本的にはドイツ系である。18世紀以降[[エカチェリーナ2世]]の招きで[[ロシア]]に移住したドイツ人([[ヴォルガ・ドイツ人]])&lt;ref&gt;経済的貧困およびプロテスタントの中での宗教的少数派などの理由で移住した。&lt;/ref&gt;も多く、第二次世界大戦前には[[ヴォルガ河]]畔に[[ヴォルガ・ドイツ人自治ソヴィエト社会主義共和国|ヴォルガ・ドイツ自治共和国]]を築いたが、大戦勃発後に[[カザフスタン]]などに強制移住させられた。旧ソヴィエト連邦内に住むドイツ系住民は200万人近くいると推定されている。しかしソ連崩壊後、旧ソ連各国で民族主義が台頭し、ドイツ系住民は迫害されて祖国ドイツへ帰国する人も増えている。しかし同じ民族ながら(標準)ドイツ語を解さないドイツ人として新たな難民問題となっている。<br /> <br /> ドイツ国民以外の人々を「ドイツ人」と呼べるかどうかは微妙なところである。特にオーストリアは約600年間ドイツ国家である[[神聖ローマ帝国]]の中枢であったため、自らをドイツ人の主流とみなす考え方が根強かった。また、[[帝国クライス|神聖ローマ帝国内の地方自治制度(郡制度)]]が確立した[[1512年]]より神聖ローマ帝国は「&#039;&#039;&#039;ドイツ人の&#039;&#039;&#039;神聖ローマ帝国(Heiliges Römisches Reich Deutscher Nation)」と呼ばれてきた。このため、[[ハプスブルク家]]による帝政の崩壊後の一時期は「ドイツ・オーストリア共和国(Republik Deutschösterreich)」という国号を使用していた(国号は短期間だったが、「ドイツ人の国オーストリア」という国歌歌詞は十数年用いられ続けた)のほどで、[[オーストリア第一共和国]]時代は左派・右派を問わずドイツとの合併を望む声が強かった。[[オーストリア人]][[アドルフ・ヒトラー]]による[[アンシュルス|オーストリア併合]]はこれを背景にしているが、併合後二流市民扱いされ、連合軍の爆撃などで惨憺たる目にあったオーストリア国民は、ナチスの崩壊後、ドイツ人とは異なるオーストリア人という意識が強くなっている。オーストリア民族という概念は根拠薄弱であり、本来イギリスや北欧も包括するゲルマン民族という言葉も漠然としすぎているため、なおドイツ人という言葉にこだわる人も一部にいる。近年の右派連立政権に加わっていた右翼政党はそうしたドイツ民族主義者の流れを汲んでいる。<br /> <br /> 「ドイツ」のアイデンティティは意識の上でも歴史の上でも、まずドイツ語、次いでこれを話すドイツ民族、最後にそれらを統べるドイツ国家という順序をたどる傾向がある。特に[[アフリカ]]や新大陸など世界中に広く拡散した[[英語]]や[[フランス語]]、[[スペイン語]]等とは異なり、[[第一次世界大戦]]の敗戦により[[ドイツ植民地帝国]]が潰えたことから域外に定着するに至らず、ドイツ語がほぼドイツ周辺の同民族にまとまっているだけに、この三者の結びつきは強い。ほとんど民族的共通性のない英語圏やスペイン語圏、地域的連続性に欠けるフランス語圏とは明らかに事情が異なる。オーストリアが近年ふたたびドイツ民族主義に傾斜しているのは、[[欧州連合|EU]]という連合国家の傘のもとでの「ドイツ人(ドイツ語使用者)」というまとまりが強く意識され始めたためともいえる。それだけにEU未加盟で、なおかつ大部分がドイツ語圏にふくまれる[[スイス]]の立場は微妙である。<br /> <br /> なお、[[中央ヨーロッパ|中欧]]や[[東ヨーロッパ|東欧]]の地名の中には「ニェメツキー~ Německý-」「ネーメト~ Német-」という前置きを持つ地名がある&lt;ref&gt;チェコのニェメツキー・ブロト Německý Brod(現[[ハヴリーチクーヴ・ブロト]] Havlíčkův Brod)と[[チェスキー・ブロト]] Český Brod など。ドイツ人のブロト(浅瀬)と[[チェコ人]]のブロト、という意味である&lt;/ref&gt;。意味は、「(中欧や東欧の[[原住民]]である)われわれ([[スラヴ人]])の言語([[スラヴ語]])が話せない[[唖|唖(おし)]]の人々(つまりドイツ人)の~」という意味である。これらの町はドイツ人によって作られたか、ドイツ人が多かったため、同じ名前の隣町と区別するためである。<br /> <br /> ちなみに、ロシア語では「民族的な意味でのドイツ人」をニミェーツキー(немецкий)と呼び、「ドイツ国民(ドイツ国籍を持つ者)」をギルマーニツ(германец)と呼ぶ。また、「ドイツ語」はニミェーツキー・イズィーク(Немецкий язык)と呼ぶ。ちなみに、アメリカの俳優[[レナード・ニモイ]]のニモイ(Nimoy = немой)も「唖|唖(おし)の」というロシア語に由来する。<br /> <br /> == 関連項目 ==<br /> * [[ドイツの歴史]]<br /> * [[ドイツ語]]<br /> * [[オーストリア人]]<br /> * [[バイエルン人]]<br /> * [[サクソン人]]<br /> * [[フランク人]]<br /> * [[ドイツ系アメリカ人]]<br /> * [[ドイツ系キューバ人]]<br /> * [[ユダヤ系ドイツ人]]<br /> * [[ドイツ植民]]([[東方植民]]) - [[北方十字軍]]<br /> ** [[ザクセン人]]<br /> ** [[バルト・ドイツ人]]<br /> * [[ドイツ人追放]]<br /> * [[ヴォルガ・ドイツ人]]<br /> * [[アラマンニ人]]<br /> * [[アルザス人]]<br /> * [[アーリア人]]<br /> * [[アーリアン学説]]<br /> * [[汎ゲルマン主義]]<br /> * [[小ドイツ主義]] - [[ドイツ統一]]<br /> * [[大ドイツ主義]] - [[アンシュルス]]<br /> <br /> * [[ゲルマン人]]<br /> * [[ドイツ人の一覧]]<br /> * [[ドイツ人一覧 (分野別)]]<br /> <br /> == 脚注 ==<br /> &lt;references /&gt;<br /> <br /> == 参考文献 ==<br /> *[[木村靖二]]『新版世界各国史 ドイツ史』[[山川出版社]]、2001年<br /> *『ケンブリッジ版世界史 ドイツ』<br /> *[[藤川隆男]]『白人とは何か?』刀水書房、2005年<br /> *『バイエルン王国の誕生』<br /> *{{Cite journal|和書|author=[[山田欣吾]] |title=一八世紀の「ドイツ民族」? : 事典・辞典類の記述を素材として|date=1993 |publisher=一橋大学 |journal=一橋論叢 |volume=110(4) |naid=110000315800 |pages=639-654|ref=harv}}<br /> * {{Cite journal|和書|author=足立芳宏 |title=「民族ドイツ人」移住農民の戦時経験 : ナチス併合地ポーランド入植政策から東ドイツ土地改革へ|date=2012 |publisher=京都大学大学院生物資源経済学専攻 |journal=生物資源経済研究|volume=17 |naid=40019253417 |pages=39-76|ref=harv}}<br /> * {{Cite journal|和書|author=原田一美 |title=ハンス・F・K・ギュンターの人種論|date=2010 |publisher=大阪産業大学 |journal=大阪産業大学人間環境論集 |volume= 9|naid=110007571916 |pages=157-175|ref=harv}}<br /> * {{Cite journal|和書|author=南利明 |title=民族共同体と法(1) : NATIONALSOZIALISMUSあるいは「法」なき支配体制|date=1988|publisher=大阪産業大学 |journal=靜岡大学法経研究 |volume= 37(3)|naid=110007571916 |pages=1-45|ref=harv}}<br /> <br /> {{Normdaten}}<br /> {{DEFAULTSORT:といつしん}}<br /> [[Category:ドイツ人|*]]<br /> [[Category:ドイツ系人|*]]<br /> [[Category:ドイツの民族|*]]<br /> [[Category:オーストリアの民族]]<br /> [[Category:ヨーロッパの民族]]</div> 126.151.10.200 かんべむさし 2018-07-14T01:32:09Z <p>126.151.10.200: /* 経歴 */</p> <hr /> <div>&#039;&#039;&#039;かんべ むさし&#039;&#039;&#039;([[1948年]][[1月16日]] - )は、[[兵庫県]]出身の[[小説家]]、[[SF作家]]、エッセイスト。本名は、阪上順(さかがみ じゅん)。<br /> <br /> == 経歴 ==<br /> [[日本興亜損害保険|興亜火災海上保険]]に勤務した父親の赴任先[[石川県]][[金沢市]]生まれ&lt;ref name=&quot;私の父、私の母Ⅱ&quot; &gt;『私の父、私の母PartⅡ』[[中央公論社]]、1996年、63-頁&lt;/ref&gt;。小学校入学と同時に[[新潟県]][[新潟市]]に転居、小学校5年の時、[[大阪府]][[豊中市]]へ転居した&lt;ref name=&quot;私の父、私の母Ⅱ&quot; /&gt;。父親の本籍地が兵庫県[[西宮市]]&lt;ref name=&quot;私の父、私の母Ⅱ&quot; /&gt;。かつては[[プロフィール]]には石川県生まれ、金沢生まれと記していたが、現在は兵庫県出身で統一。本人としては金沢の記憶が薄い(むしろ新潟育ちの意識がある。また、金沢生まれという表現にはある種のインパクトがある)こともあり、こうした記述になった。<br /> <br /> 第一志望の[[大阪市立大学]]に落ちて[[同志社大学]][[法学部]]と[[関西学院大学]][[社会学部]]に合格、後者に入学し卒業&lt;ref&gt;『上ヶ原・爆笑大学 <新版むさしキャンパス記>』&lt;/ref&gt;。大学時代から広告マンにあこがれており、広告代理店に入社。途中で別の代理店に転職しており、二つの会社でそれぞれ嫌い抜いていた上司は、その後くりかえし作品に登場する二大キャラクターのモデルとなっている。<br /> <br /> 二社目に勤務中の[[1974年]]に、『[[決戦・日本シリーズ]]』を『[[SFマガジン]]』のSF三大コンテスト小説部門(のちの[[ハヤカワ・SFコンテスト]])に応募。選外佳作に選ばれ、同誌に掲載されたことより、作家へと歩み始める。かんべは、SF的発想は持っていたが、SFについての知識があまりなかったので、勉強のために[[筒井康隆]]主催の[[サイエンス・フィクション|SF]][[同人誌]]『ネオ・ヌル』に参加。その後、1年ほど会社勤めの傍ら執筆を続けたが、1975年末より作家専業となる。<br /> <br /> 1977年、『サイコロ特攻隊』で第8回[[星雲賞]]受賞。[[1986年]]、登場人物たちが、笑いについての分析に終始する、異色長編『笑い宇宙の旅芸人』で第7回[[日本SF大賞]]受賞。<br /> <br /> なお、広告代理店に入社して、作家となり、そして作家としても新たな道を探る過程は、自伝的作品『第二次脱出計画』に描かれている。<br /> また、かんべは、作品の発想作法として、広告代理店時代に身につけた方法が、おおいに役立っているとも、書いている。<br /> <br /> 同じ関西在住の先輩作家である、[[小松左京]]、[[筒井康隆]]から目をかけられ、小松からは[[桂米朝|米朝]]一門に、筒井からは[[山下洋輔]]トリオに紹介され、それぞれ交流が始まった。また、関西出身の同世代のSF作家であるが、科学をテーマとした[[ハードSF]]を主力とするなど方向性が全く異なる[[堀晃]]との交友も知られ、いくつかの共著もある。<br /> <br /> [[上方噺家]]との交友も深く、長編『泡噺とことん笑都』に出てくる「桂朝之助」は2代目[[桂歌之助]]がモデルである。<br /> <br /> 『課長の厄年』は、[[TBSテレビ|TBS]]にて『[[課長サンの厄年]]』というタイトルでドラマ化されたが、ドラマは原作のモチーフを借りただけであり、内容はまったく異なるものであった(原作は、「[[厄年]]の危機」に対処する方法を、主人公が自身での内面で、延々と[[ブレインストーミング]]するという、異色の内容であった。ドラマは普通のサラリーマン物ドラマである)。<br /> <br /> また、短編『車掌の本分』は、中学生向け国語の教科書に収録されていた。<br /> <br /> 次女、三女は双子であり、夫人とともに体験したその子育ての過程を「婦人公論」に連載し、『フタゴサウルスの襲来』として刊行している。<br /> <br /> 2005年4月より2008年6月まで、『[[むさし・ふみ子の朝はミラクル!]]』([[大阪放送|ラジオ大阪]]・平日6:15 - 8:52)メーンパーソナリティーを務めていた。<br /> <br /> 2006年9月20日、日経関西版サイトのコラムにて[[おたく]]を「顔や人相が異様」と批判し、ネットで物議をかもした。<br /> <br /> かつて「クイズの甲子園」というネタを思いついたが、あまりにもくだらないのでボツにした。すると後日、[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]系にて『[[全国高等学校クイズ選手権]]』(高校生クイズ)が放送され、それに驚いた旨、エッセイに書いていた。<br /> <br /> [[日本SF作家クラブ]]会員だったが、2013年、他のベテラン作家らとともに、名誉会員に&lt;ref&gt;『日本SF短篇50(1)』早川書房&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> == 作風 ==<br /> 初期は、独自の言語感覚で奇想と笑いにあふれる短編を連発した。『遠からず、「本家ドタバタSF」の看板は奪われてしまうに違いない。』とは、[[筒井康隆]]編のアンソロジー『&#039;75日本SFベスト集成』に収録された短篇版「サイコロ特攻隊」に筒井が付けた解説の中の一言である。<br /> <br /> その後、幻想的な未来小説、世代論的なテーマなどに作風を広げ、近年は、日常に即した設定の中に、軽妙な笑いと辛辣な風刺を込めたサラリーマン小説が多い。<br /> <br /> 活動初期の1982年の時点で既に、「擬似イベント物」のサラリーマン小説の傑作、『38万人の仰天』を書いており、結末の解釈が読者に任されているものの基本的には日常に即した内容である。かんべが初期に書いたいくつかの擬似イベント物と、筒井の『48億の妄想』等との&lt;ref&gt;『みだれ撃ち瀆書ノート』(筒井)の『サイコロ特攻隊』(こちらは長編版)の評に、かんべの短篇デビュー作「決選・日本シリーズ」を「東海道戦争」に対応させるならば、『サイコロ特攻隊』は「48億の妄想」に対応する、とある&lt;/ref&gt;類似点と相違点を検討すると、かんべ作品にはサラリーマンが描かれていることが挙げられる。<br /> <br /> 長編、『黙せし君よ』は、[[全学共闘会議|全共闘]]世代としてのかんべの、同世代の鎮魂歌的な異色作である。<br /> <br /> 近刊である『理屈は理屈 神は神』で[[金光教]]への入信をカミングアウトしたが、布教臭は皆無で、信者でありながら第三者的視点をまったく失わないという異例の書である。ホームページなどでも関連したコーナーを設けながらも「片足をこちら側に残した身としては」などの記述があり、同教団の性格も関係しているとは思われるが、他の新・新宗教入信作家とはかなり傾向を異にしている。<br /> <br /> == 作品リスト ==<br /> === 長編(連作短編集を含む) ===<br /> *サイコロ特攻隊 [[早川書房]]、1976 のち文庫  <br /> *俺は[[ロンメル]]だ [[いんなあとりっぷ社]]、1976 のち[[講談社文庫]] <br /> *笑撃空母アルバトロス [[角川書店]]、1978/4<br /> *居候浮始末(いそうろううかれのしまつ)角川書店、1978/8<br /> *38万人の仰天 [[朝日新聞社]]、1982/11 のち[[中公文庫]] <br /> *すっとび晶子の大跳躍 [[中央公論社]]、1983/10 のち文庫 <br /> *大江戸馬鹿草子 [[講談社]]、1986/1<br /> *孤冬黙示録 中央公論社、1986/5<br /> *笑い宇宙の旅芸人 [[徳間書店]]、1986/9 のち文庫 <br /> *同姓同名逆人生 [[光文社文庫]]、1987/6<br /> *太平放送24時 [[集英社]]、1988/4<br /> *第二次脱出計画 徳間書店、1988/8 のち文庫 <br /> *日の本一の果報者 父親達の物語 [[双葉社]]、1989/5<br /> *ざぶとん太郎空をゆく! [[ペップ出版]]、1989/11<br /> *トラウム映画公社 [[白水社]](物語の王国)1989/11<br /> *黙せし君よ 双葉社、1990/10 のち文庫 <br /> *片隅の決着 双葉社、1991/10 <br /> *課長の厄年 光文社文庫、1992/6<br /> *東京B・B計画 足で描いたレポート・コメディ [[双葉ノベルス]]、1993/1<br /> *虹の架け橋3時のおやつ 光文社文庫、1993/7<br /> *就職ゴリラ塾 光文社文庫、1994/10<br /> *急がば渦巻き 徳間書店、1995/8<br /> *泡噺とことん笑都 [[岩波書店]]、1998/6<br /> *ナルナルかぼちゃを守れ!―みかたシスターズの大冒険 [[国土社]]、1998/11<br /> *人事部長極秘ファイル 光文社文庫、1999/8<br /> *奮戦!リストラ三銃士 [[徳間文庫]]、2000/2<br /> *重役追放 人事部長極秘ファイル2 光文社文庫、2000/7<br /> *こちらFM遊々です! 光文社文庫、2001/12<br /> *笑撃☆ポトラッチ大戦 講談社[[青い鳥文庫]]、2003/10<br /> *強烈☆イジョーシキ大笑乱 講談社青い鳥文庫、2004/11<br /> *ミラクル三年、柿八年 [[小学館文庫]]、2010/1<br /> <br /> === 短編集 ===<br /> *[[決戦・日本シリーズ]] 早川文庫 1976/6<br /> *ポトラッチ戦史 講談社、1977/4 のち文庫 <br /> *建売住宅温泉峡 [[文藝春秋]]、1977/11 のち文庫 <br /> *宇宙の坊っちゃん 徳間書店、1978/12 のち文庫 <br /> *社長室直属遊撃課 講談社、1979/4 のち文庫 <br /> *スパイの内幕 [[実業之友社]]、1979/6 のち徳間文庫 <br /> *公共考査機構 徳間書店、1979/7 のち文庫 <br /> *言語破壊官 朝日新聞社、1980/6<br /> *集中講義 文藝春秋、1980/10<br /> *原魚ヨネチ 講談社、1981/5 のち文庫 <br /> *ベルゴンゾリ旋盤 徳間書店、1981/1 「メイド・イン…」文庫<br /> *かんちがい閉口坊 文藝春秋、1982/10 のち文庫 <br /> *お爺さんの宇宙 講談社、1983/09<br /> *妄想特急 中央公論社、1988/10<br /> *遠い街・恋の街 [[大陸書房]]、1990/11<br /> *トロッコ ふしぎ文学館 [[出版芸術社]]、1994/12 - 短編から、シュールな設定のものを集めて再構成したもの。<br /> *ひとりおきの犯人 光文社文庫、1996/8<br /> *百の眼が輝く 光文社文庫、1997/11<br /> <br /> === ショートショート集 ===<br /> *[[水素製造法]] 徳間書店、1978/6 のち文庫 <br /> *巡回洗脳班 中公文庫、1985/6<br /> *環状0号線―むさしのミラクル・ワールド [[新潮文庫]]、1986/10<br /> *遊覧飛行 徳間書店、1990/7<br /> <br /> === エッセイ・その他 ===<br /> *むさし走査線 [[奇想天外社]]、1979/3 のち徳間文庫 <br /> *むさしキャンパス記 角川書店、1979/11 のち徳間文庫、「上ヶ原 爆笑大学―新版むさしキャンパス記」 [[ヒューマガジン]]<br /> *むさし片眼鏡 講談社、1981/11<br /> *ひらめきの技術―20奇譚による発想教室 光文社[[カッパ・ブックス]]、1984/7<br /> *むさし日曜笑図鑑 新潮文庫、1985/10<br /> *フタゴサウルスの襲来 中央公論社、1995/4<br /> *理屈は理屈 神は神 講談社、2005/4<br /> <br /> === 堀晃と共著 ===<br /> *SF街道二人旅 徳間書店、1981/8 のち文庫 <br /> *時空いちびり百景 [[毎日新聞社]]、1989/6<br /> <br /> === 小松左京と編著 ===<br /> *さようなら、[[ロビンソン・クルーソー]](海外SF傑作選1) [[集英社文庫]]、1978/11<br /> *気球に乗った[[異端]]者(海外SF傑作選2) 集英社文庫、1979/10<br /> <br /> === アンソロジー収録作 ===<br /> 「」内がかんべむさしの作品<br /> *[[異形コレクション]] 侵略! [[廣済堂出版|廣済堂]]文庫、1998/2 「地獄の始まり」<br /> *人工知能の見る夢は AIショートショート集 [[文春文庫]]、2017/5 「202X年のテスト」<br /> <br /> == ラジオ出演 ==<br /> *阪神サタデーインクローバー([[大阪放送|ラジオ大阪]])<br /> *おしゃべりトリップ([[MBSラジオ|毎日放送]])<br /> *[[むさし・ふみ子の朝はミラクル!]](ラジオ大阪、2005年~2008年)<br /> *[[むさし・ふみ子の朝はミラクル!|別冊 ミラクル!]](ラジオ大阪、2005年)<br /> <br /> == 脚注 ==<br /> &lt;div class=&quot;references-small&quot;&gt;&lt;references/&gt;&lt;/div&gt;<br /> <br /> == 外部リンク ==<br /> * [http://www.ne.jp/asahi/kanbe/musashi/ 公式サイト]<br /> * [http://www.sf-fantasy.com/magazine/interview/110901.shtml かんべむさしインタビュー]<br /> * [http://www.sf-fantasy.com/magazine/column/20110827.shtml かんべむさし講演会(2011年8月27日)]<br /> <br /> {{日本SF大賞|第7回}}<br /> {{星雲賞日本長編部門|第8回}}<br /> {{Normdaten}}<br /> {{デフォルトソート:かんへ むさし}}<br /> [[Category:日本の小説家]]<br /> [[Category:日本のSF作家]]<br /> [[Category:1948年生]]<br /> [[Category:存命人物]]<br /> [[Category:関西学院大学出身の人物]]<br /> [[Category:兵庫県出身の人物]]</div> 126.151.10.200
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