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miniwiki - 利用者の投稿記録 [ja]
2024-05-04T20:27:24Z
利用者の投稿記録
MediaWiki 1.31.0
ローマの休日
2018-07-19T05:43:55Z
<p>126.113.51.102: /* 「ローマの休日」を題材にした作品 */ ミュージカルの加筆</p>
<hr />
<div>{{Infobox Film<br />
| 作品名 = ローマの休日<br />
| 原題 = {{Lang|en|Roman Holiday}}<br />
| 画像 = Audrey Hepburn in Roman Holiday trailer.jpg<br />
| 画像サイズ = 200px<br />
| 画像解説 = 主演のオードリー・ヘプバーン<br />
| 監督 = [[ウィリアム・ワイラー]]<br />
| 脚本 = [[ダルトン・トランボ]]<br />ジョン・ダイトン<br />
| 原案 = ダルトン・トランボ<br />
| 原作 = <br />
| 製作 = ウィリアム・ワイラー<br />
| 製作総指揮 = <br />
| ナレーター = <br />
| 出演者 = [[グレゴリー・ペック]]<br />[[オードリー・ヘプバーン]]<br />[[エディ・アルバート]]<br />
| 音楽 = [[ジョルジュ・オーリック]]<br />
| 主題歌 = <br />
| 撮影 = [[アンリ・アルカン]]<br />フランク・F・プラナー<br />
| 編集 = [[ロバート・スウィンク]]<br />
| 製作会社 = <br />
| 配給 = [[パラマウント映画]]<br />
| 公開 = {{flagicon|USA}} 1953年8月27日<br />{{flagicon|JPN}} 1954年4月21日([[佐世保市|佐世保]])<br />
| 上映時間 = 118分<br />
| 製作国 = {{USA}}<br />
| 言語 = [[英語]]<br />
| 製作費 = $1,500,000(見積値)<ref name="imdbboxoffice">{{cite web|url=http://www.imdb.com/title/tt0046250/business|title=Roman Holiday (1953) - Box office / business|publisher=[[インターネット・ムービー・データベース|IMDb]]|language=英語 |accessdate=2011年5月18日 }}</ref><br />
| 興行収入 = {{flagicon|USA}} $5,000,000<ref name="imdbboxoffice" /><br />{{flagicon|World}} $12,000,000<ref name="imdbboxoffice" /><br />
| 配給収入 = 2億8404万円<ref>『キネマ旬報ベスト・テン85回全史 1924-2011』(キネマ旬報社、2012年)113頁</ref> {{flagicon|JPN}}<br />
| 前作 = <br />
| 次作 = <br />
}}<br />
『'''ローマの休日'''』(ローマのきゅうじつ、原題:''Roman Holiday'')は、[[1953年]]製作の[[アメリカ合衆国の映画|アメリカ映画]]。<br />
<br />
== 概要 ==<br />
[[Image:Audrey Hepburn and Gregory Peck on Vespa in Roman Holiday trailer.jpg|220px|left|thumb|ローマ市内をベスパで走るシーン]]<br />
[[ウィリアム・ワイラー]]が製作・監督した。[[イタリア]]の[[ローマ]]を表敬訪問した某国の王女と、彼女が滞在先から飛び出し一人でローマ市内に出て知り合った新聞記者との、切ない24時間の恋を描いている。[[トレヴィの泉|トレビの泉]]や[[真実の口]]など、ローマの名だたる観光スポットを登場させていることでも有名である。<br />
<br />
新聞記者を[[グレゴリー・ペック]]、王女を[[オードリー・ヘプバーン]]が演じている。当時新人だったヘプバーンは、本作により[[第26回アカデミー賞|1953年のアカデミー賞]][[アカデミー主演女優賞|最優秀主演女優賞]]を受賞している。<br />
<br />
この他に、衣裳の[[イーディス・ヘッド]]が「[[アカデミー衣装デザイン賞|最優秀衣裳デザイン賞]]」を、また脚本の[[イアン・マクレラン・ハンター]]が「[[アカデミー原案賞|最優秀原案賞]]」をそれぞれ受賞した。<br />
<br />
ただし、本作の脚本は実際には[[ダルトン・トランボ]]が執筆したものである。当時の[[マッカーシズム]]による[[赤狩り]]でトランボはハリウッドを追われていたため、名義を借用したものであった<ref>映画製作50周年を記念したデジタル・ニューマスター版(2003年)では、ダルトン・トランボの名前がクレジットされた。</ref>。アカデミー賞選考委員会は、[[1993年]]にトランボへ改めて「1953年最優秀原案賞」を贈呈している<ref>本人が亡くなっていたため、未亡人が代わりに受賞した。そしてハンターの名前は削除されている。</ref>。<br />
<br />
監督のワイラーと脚本のトランボが、男女の出会いと別れという月並みなテーマを、フレームに映る全ての事実の積み上げと互いの細かい感情のやり取りから、普遍的なお伽話にまで昇華させた映画となった。<br />
<br />
== ストーリー ==<br />
ヨーロッパきっての古い歴史と伝統を持つ某国の'''王女アン'''は、ヨーロッパ各国を表敬訪問中であった。最後の滞在国である[[イタリア]]の[[ローマ]]で、過密なスケジュール、疲労感と自由のない生活への不満により、ついにアンはヒステリーを起こしてしまう。<br />
<br />
その夜、密かに城を抜けだした王女は、直前に打たれていた鎮静剤のせいで、無防備にも路傍のベンチでうとうとし始める。そこに通りかかったのが、アメリカ人新聞記者の'''ジョー・ブラッドレー'''だった。見かねて介抱するうち、いつの間にか王女はジョーのアパートまでついて来てしまう<ref>ラジオから聞こえてくる静かなピアノ曲は[[フランツ・リスト]]の『[[巡礼の年]]』の「ゴンドラをこぐ女」である。</ref>。眠くて仕方のない王女は、詩を朗読して寝てしまう<ref>''Arethusa arose / From her couch of snows / In the Acroceraunian mountains, --'' で王女は[[ジョン・キーツ|キーツ]]と言う。ジョーに[[パーシー・ビッシュ・シェリー|シェリー]]と言われ、キーツと言い返すが、シェリーの ''Arethusa'' である。</ref>。<br />
<br />
翌日の昼になって、彼女の素性に気づいたジョーは、王女の秘密のローマ体験という大スクープをものにしようと、職業を偽り、友人のカメラマンである'''アーヴィング'''の助けを得て、どうにか王女を連れ歩くことに成功する。<br />
<br />
アンは、市場での散策を楽しむ。まずサンダルを買い、美容院で髪の毛を短くし、[[スペイン広場 (ローマ)|スペイン広場]]で[[ジェラート]]を食べる。その後ジョーと[[ベスパ]]に2人乗りしてローマ市内を廻り、[[真実の口]]を訪れ、[[サンタンジェロ城]]前の[[テヴェレ川]]でのダンスパーティーに参加する。その様子をアーヴィングが次々とスクープ写真を撮っていくうち、永遠の都・ローマで、自由と休日を活き活きと満喫するアン王女と新聞記者のジョーの男女仲は、次第に近づいていくのであった。<br />
<br />
== キャスト ==<br />
* ジョー・ブラッドレー - [[グレゴリー・ペック]]<br />
* アン王女(アーニャ・スミス) - [[オードリー・ヘプバーン]]<br />
* アービング・ラドビッチ - [[エディ・アルバート]]<br />
* 大使 - [[ハーコート・ウィリアムズ]]<br />
* ヴィアルバーグ伯爵夫人 - [[マーガレット・ローリングス]]<br />
* マリオ・デラーニ - [[パオロ・カルリーニ]]<br />
* プロブノ将軍 - [[トゥリオ・カルミナティ]]<br />
* ヘネシー支局長 - [[ハートリー・パワー]]<br />
<br />
== 日本初公開 ==<br />
『ローマの休日』の日本初公開は、1954年4月27日(東京地区)であったことになっているが、正確にはそれより6日早く、4月21日に[[長崎県]][[佐世保市]]の「佐世保富士映画劇場」で先行して公開されている。なぜ東京より遥か離れた長崎県で最初の公開となったか、その事情は詳らかではない。また4月23日には[[名古屋市]]の「名古屋ミリオン座」で封切られ、28日間の興行で名古屋地区洋画興行界始まって以来の大入りとなった。他の地方都市でも、東京よりも早く公開されている。ほぼ4週間のロードショーの後に、東京では6月21日から早くも一般公開(いわゆる二番館での上映)している。この一般公開も東京よりも各地方都市の方が早かったようで、ヘップバーン旋風は必ずしも東京から地方へ流れていったのではなく、全国同時現象として1954年春に起こった<ref>吉村英夫『ローマの休日〜ワイラーとヘップバーン〜』(朝日文庫、1994年10月発行)77-79P</ref>。<br />
<br />
== 評価 ==<br />
2002年に[[アメリカン・フィルム・インスティチュート]] (AFI) がアメリカ映画の GREATEST LOVE STORY を集めて行った「[[情熱的な映画ベスト100]]」において、『ローマの休日』は『[[カサブランカ (映画)|カサブランカ]]』『[[風と共に去りぬ (映画)|風とともに去りぬ]]』『[[ウエスト・サイド物語 (映画)|ウエスト・サイド物語]]』に次いで第4位で、『[[めぐり逢い (1957年の映画)|めぐり逢い]]』『[[追憶 (1973年の映画)|追憶]]』『[[ドクトル・ジバゴ (1965年の映画)|ドクトルジバゴ]]』『[[素晴らしき哉、人生!]]』『[[ある愛の詩]]』より上位となった。<br />
<br />
また、同じAFIが2008年に行った[[10ジャンルのトップ10|ロマンティック・コメディ映画]]の部門でも第4位(トップは『[[街の灯]]』)となっている。<br />
<br />
== 製作 ==<br />
=== 製作決定 ===<br />
本作の脚本家である[[ダルトン・トランボ]]がこの可愛い王女の独創的な物語を書き上げたのは[[1940年代]]半ば頃で、当時の映画製作会社リバティ社がこの脚本の映画化権を取得したが、取得に当たって映画監督の[[フランク・キャプラ]]が大きな役割を果たしている。1948年にリバティ社がパラマウント社に買収された後に、キャプラを監督にして製作に入ることになった。この時、キャプラが[[エリザベス・テイラー]]と[[ケーリー・グラント]]での配役を提示したが、映画製作費で会社側と折り合えず、結局キャプラは降りてしまった<ref>ベルトラン・メイエ=スタブレ著、藤野邦夫訳『オードリー・ヘップバーン〜妖精の秘密〜』(風媒社、2003年2月発行)66P</ref>。<br />
<br />
その後、この企画はしばらく宙に浮いたままだったが、1951年初めに[[ウィリアム・ワイラー]]がこの脚本を知り、ローマでの撮影を条件に強い関心を示して、ワイラー監督でパラマウント社は製作に入ることとなった。<br />
<br />
製作時にアメリカ本国では、[[ジョセフ・マッカーシー]][[アメリカ合衆国上院|上院]]議員らによる「[[赤狩り]]」と呼ばれる[[マッカーシズム]]が吹き荒れ、非米活動調査委員会での共産主義者排斥運動が行われ、映画産業でも「[[ハリウッド・テン]]」と呼ばれた人物たちがパージされた。本作の脚本家であるトランボもその一人であったため、友人の脚本家[[イアン・マクレラン・ハンター]]が、本作の脚本にその名前をクレジットした。<br />
<br />
ワイラーがローマへ携えた草稿は、トランボの脚本をハンターが手直ししたものであった。ワイラーは、イギリスの作家{{仮リンク|ジョン・ダイトン|en|John Dighton}}を雇い、その草稿に磨きをかけて製作中に新たなシーンを書き加えさせた。そのため、1953年に映画が公開された時には、画面に出された脚本家のクレジットはハンターとダイトンが共有した<ref>ピーター・ハンソン著、松枝愛訳『ローマの休日を仕掛けた男〜不屈の映画人ダルトン・トランボ〜』(中央公論新社、2013年10月発行)186p</ref>。<br />
<br />
=== 撮影地 ===<br />
1950年代から、アメリカ映画はハリウッドを離れてヨーロッパなどで撮影するケースが増えていた。本作の舞台がローマであったことから、ワイラー監督は最初から撮影場所を現地ローマとして、スタジオを[[チネチッタ]]撮影所にする決定をした<ref>当時のアメリカの俳優や監督が、赤狩りで国内の監視を逃れて外国での撮影を好む傾向があったとする向きもあるが、主な理由は人件費の節約と現地での観光産業の協力の良さである。</ref>。<br />
<br />
これは、製作費が低く抑えられたために、人件費が安く、また当時イタリア映画も好調で優秀なスタッフが揃っており、人材面での不安がなく<ref>これは別の面から言えば、ハリウッドの撮影現場で専門技術者の組合の力が極めて強く、映画製作に経費がかかり過ぎて、製作コストを抑えるには国外で製作することが多くなっていった背景があった。この後に『[[慕情]]』『[[戦場にかける橋]]』『[[ベン・ハー (1959年の映画)|ベン・ハー]]』『[[スパルタカス (映画)|スパルタカス]]』などがアメリカ国外で製作され、1960年代に入るとそれが当たり前になっていった(大場正明+編集部 著『アメリカ映画主義〜もうひとつのUSA〜』(フィルムアート社、2002年10月発行)184-186P)</ref><ref>経済面からの理由としては次のような経緯もある。第二次世界大戦終戦後、アメリカ合衆国がヨーロッパの[[西側諸国|西側陣営諸国]]を支援する見地から、アメリカ映画の上映によりヨーロッパ諸国で獲得した興業収益を移出すること(すなわち、ヨーロッパ諸国から外貨を持ち出すこと)が制限された。このためハリウッドの映画会社は、ヨーロッパでの収益を通貨持ち出し以外の手段でアメリカ本国に還流させる必要が生じ、プールされたヨーロッパでの収益をヨーロッパ現地ロケの費用として消費することで「現地制作した映画作品を持ち出す」手法を活用したのである。</ref>、またアメリカの観客がヨーロッパの文化を受容しやすかった点なども海外ロケの要因にある。イタリア側も映画産業に対し協力的であった。これは観光産業が目的で、本作で紹介される名所は[[スペイン広場 (ローマ)|スペイン広場]]、[[パンテオン (ローマ)|パンテオン]]、[[コロッセオ]]、[[真実の口]]など枚挙に暇がない<ref>映画が製作された当時、一般のアメリカ人にはこれらのローマの名所は知られていなかった。この作品で初めて知られるようになったと言われている。</ref>。またヨーロッパの工業製品としてスクーターの[[ベスパ]]、小型車の[[フィアット]]を登場させている。<br />
<br />
何より大きな影響を持ったのは、ファッションモードが世界へ発信された点にある。繊維産業により外貨を稼ぎたかった欧米のメッセージは大きな反響を呼び、ヘプバーンも「ヘプバーンと言えば[[ジバンシィ]]」とされるほど、映画のみならずファッション革命のヒロインに成長していく。日本でもヘプバーン・サンダルなどの名前が残っている。<br />
<br />
この作品の撮影に入ったのは1952年夏であったが、この年の夏はローマにおいて20世紀で最も暑い夏の一つとして記録されるほどの「地獄の夏」であった。出演者はメイクが流れ落ち、頻繁にメイクアップをしていた。街は湿気でサウナに変わったと言われている。<br />
<br />
=== オードリー・ヘプバーンの起用 ===<br />
[[Image:Audrey Hepburn screentest in Roman Holiday trailer.jpg|200px|left|thumb|スクリーン・テストを受けるオードリー・ヘプバーン。]]<br />
この作品で最初にヒロイン候補に挙がっていたのは[[エリザベス・テイラー]]であった。しかし、監督の[[フランク・キャプラ]]が高額の製作費を要求したため、スタジオはキャプラを降板させ、代わりに[[ウィリアム・ワイラー]]に白羽の矢が立った。ヒロイン候補には[[ジーン・シモンズ]]の名前も挙がっていたが、ワイラーは「主役はスターである必要はない。アメリカ訛りのない、王女の風格のある女性が欲しい」として主役を自由にキャスティングできることを条件に、監督を引き受けた<ref>『オードリー・ヘップバーン〜妖精の秘密〜』66-67P</ref>。そしてヒロイン探しに頭を悩ませて、ロンドンに行き、何人かの志願者に会っている。<br />
<br />
この時、オードリー・ヘプバーンはまだロンドンにいてワイラーに会っていた。この後にワイラーは、パラマウント社ロンドン支社のリチャード・ミーランド製作部長<ref>ミーランドはこのすぐ後で、彼女に[[キャサリン・ヘプバーン]]と混同されるので改名してはどうかと打診している。その時彼女は「私をお望みなら、名前も採用してください」と答えている。</ref>にオードリーの写真と報告書をニューヨークに送らせている。1951年7月頃のことであった<ref>『オードリー・ヘップバーン〜妖精の秘密〜』67-68P</ref>。<br />
<br />
当時、オードリーは映画界では無名に近い存在で、体型も女優としては痩せすぎであったが、その彼女をロンドンのパインウッド撮影所に呼んでスクリーン・テスト<ref>1951年9月18日に行い、監督はオードリーの希望でソロルド・ディキンソン。他に俳優でライオネル・マートンとキャスリーン・ネズビットが出演し、『ローマの休日』の2つのシーンと対話を撮影した(『オードリー・ヘップバーン〜妖精の秘密〜』68P)</ref>を受けさせ、そのフィルムを見たワイラーがヒロインに抜擢することを決めた。この時、緊張気味にフィルムに収まっていた彼女がテスト終了を告げられて、破顔した時の笑顔がとびきり良くて魅了されたと後に語っている<ref>『シネマの手帖〜250本の名作ガイド〜』(暮しの手帖社、2009年12月発行)163P</ref>。[[グレゴリー・ペック]]も彼女の才能を認め、新人であるにもかかわらず自分と同等の[[クレジットタイトル|クレジット]]を与えることに同意した。<br />
<br />
しかし、彼女にはそれ以前に声がかかって[[ブロードウェイ]]で上演される『ジジ』の主役に抜擢されており、この直後に船でニューヨークに向かった。そしてブロードウェイでおよそ6か月の公演が続き、『ローマの休日』の撮影に入ったのは主演に決まってから8か月後の1952年6月であった。<br />
<br />
=== 撮影 ===<br />
ワイラーの演出は非常に凝っており、同じシーンの撮影に何回も繰り返すことで有名であった。スタジオでの撮影ではワイラーの要求が多すぎて、何度もテイクを繰り返すことが多い。ところがこの作品ではローマ市内での屋外ロケが多く、制約が多すぎて、カットをわずかな回数に限定せざるを得なかった。これはオードリーにとっては幸運であった。しかし市内の観光名所や公共施設で撮影するので、騒音対策、交通整理、パパラッチ問題に悩まされて、移動のたびに見物するファンの群れにも対応せざるを得ず、暑い夏で大変な作業を要したと言われている<ref>『オードリー・ヘップバーン〜妖精の秘密〜』82-83P</ref>。<br />
<br />
ペックとワイラーは新人ヘプバーンの女優としての力量を引き出すために腐心した。真実の口のシーンの撮影では、2人は一計を案じ、本番で真実の口に手を突っ込んだペックは、本当に手を噛みちぎられたように演じた。ヘプバーンは驚きのあまり、本気で叫び声を上げ、素のリアクションを見せた。この自然な演技は、2人を十分満足させるものであり、1テイクでOKが出た。<br />
<br />
ローマ市内を2人がスクーターで走る場面は、この映画の代表的なシーンになったが、わずか3分のシーンであるのに撮影には6日間を要した。しかしペックの運転するスクーターの後ろに横座りして首にスカーフを巻いたヘプバーンの姿は、1950年代を象徴するイメージとして記憶されて映画の伝説になった<ref>『オードリー・ヘップバーン〜妖精の秘密〜』83-85P</ref>。<br />
<br />
=== スペイン広場の時計 ===<br />
[[Image:Audrey Hepburn and Gregory Peck in Roman Holiday trailer.jpg|300px|left|thumb|後景の教会の時計は11時25分を指している。]]<br />
[[File:Audrey Hepburn and Gregory Peck in Roman Holiday trailer 2.jpg|thumb|200px|スペイン広場でのシーン]]<br />
映画の中盤に、アン王女が市内に出て美容院で髪を短く切り、尾行してきた新聞記者ジョー・ブラッドレーが、[[スペイン広場]]で「偶然の再会」を装って、2人が語り合う場面がある。<br />
<br />
上映時間にして2分にも満たないが、その時に階段下から撮ったカットで、後景に教会の鐘楼の下の時計が映っている。カットのたびに時計の針が大きく動いており、それぞれカットが何時何分に撮影されたかがわかり、ここからスペイン広場の撮影に3時間以上も費やしていたことが割り出せる。<br />
<br />
まず、アン王女が広場の階段の端に座っている時にジョーが声をかける最初のカットでの時計の針は8時10分で、9秒後に同じアングルでジョーがアンの横に座ろうとしたカットでは9時15分を指し、ジョーがアンの横に座った後にアップしたカットでは11時25分、そして一緒に市内観光に行こうと合意して立ち上がったカットでは10時20分を指している。<br />
<br />
同じ位置から撮影するので、この場面の最初と最後のカットをまず撮って2時間以上を要し、2人が横並びに座って会話する場面を階段下からと階段上からの2方向から撮影したので<ref>この時、ペックの肩に太陽の日差しで頭の影が映るが、階段下からだとペックの右側に影が映っているのに、階段上からのカットではペックの左側に影が映っている。</ref>、後方の時計が11時25分を指す時刻まで撮影していたことになる。<br />
<br />
かつて『ローマの休日』を語る時に、必ず映画ファンの間で話題になった「スペイン広場の時計」であるが、[[デジタルリマスター]]された際にこの時計の針は修正されており、以上のことを直接には確認できなくなっている<ref>『ローマの休日〜ワイラーとヘップバーン〜』133-138P:著者は当時ビデオテープで確認したようであるが、最初の8時10分を13時40分、9時15分を14時45分、10時20分を15時50分として説明して、途中の11時25分はそのまま11時25分として述べている。そして「時計の長針短針の正確な確認がしにくい。13時40分と見ているのは8時10分かも知れない」と断っている。今日[[ハイビジョン]]で見ると、少しアップして時計の針が見やすい11時25分は正確であるが、他の時刻は長短が逆さまになっている。</ref>。<br />
{{-}}<br />
<br />
== 著作権問題 ==<br />
本作は作品中(オープニングタイトル、エンドロールなど)に[[著作権]]表記がなかったため、公開当時のアメリカ合衆国における著作権に関する法律(方式主義)により、著作権の権利放棄とみなされ、[[パブリックドメイン]]となった。なお、同じくヘプバーン主演の『[[シャレード (1963年の映画)|シャレード]]』も同様にパブリックドメインとなった<ref>このため、[[ウィキコモンズ]]に高解像度のスクリーンショットが収録されている。</ref>。<br />
<br />
[[日本]]においては、1953年([[昭和]]28年)上映の映画作品は、[[2003年]]([[平成]]15年)[[12月31日]]をもって「[[著作権法]]による[[著作権の保護期間]]が終了したもの」と解釈されたことから、[[2004年]](平成16年)1月1日以降、いくつかの会社から[[パブリックドメインDVD|格安DVD]]としてリリースされた。パラマウント・ピクチャーズは、日本では著作権が存続していると主張して、販売差し止めと損害賠償を求めて[[民事訴訟]]を起こした。[[2005年]](平成17年)7月11日、一審の[[東京地方裁判所]]民事47部は、『ローマの休日』について「著作権の保護期間は終了した」としてパラマウント・ピクチャーズの主張を全面的に退け、パラマウント側の敗訴となった。パラマウントはこの東京地裁判決を不服として、[[東京高等裁判所]]に控訴したが「戦術の見直し」を理由に、東京高裁への控訴を取り下げ、東京地裁判決が確定判決となり、『ローマの休日』は、日本でもパブリックドメインとして扱われることになった。<br />
<br />
なおパラマウントが、同じ著作権の存続を理由に裁判で争っていた西部劇『[[シェーン]]』についても、一審・二審ともパラマウントは敗訴して最高裁に上告したが、[[2007年]](平成19年)[[12月18日]]、[[最高裁判所 (日本)|最高裁]]が、パラマウント側の主張を退け、著作権は消滅しているとの[[確定判決]]が下されて、この著作権問題は決着した。<br />
{{main|1953年問題}}<br />
<br />
== 日本語吹替 ==<br />
{| class="wikitable" style="text-align:center"<br />
|-<br />
!役名<br />
!1972年4月7日<br />21:00-22:56<br />初回放送<br />[[フジテレビジョン|フジテレビ]]<br />『[[ゴールデン洋画劇場]]』<br />正味約95分<br />
!1979年11月11日<br />21:00-22:54<br />初回放送<br />[[テレビ朝日]]<br />『[[日曜洋画劇場]]』<br />正味約90分<br />
!1992年12月23日<br />21:00-22:54<br />初回放送<br />[[TBSテレビ|TBS]]<br />『[[水曜ロードショー (TBS)|水曜ロードショー]]』<br />
!1994年1月15日<br />21:02-23:24<br />初回放送<br />フジテレビ<br />『ゴールデン洋画劇場』<br />本編ノーカット<br />
!1994年1月21日発売<br />[[ビデオグラム|ソフト]]版<br />
!2004年10月29日<br />21:03-23:24<br />初回放送<br />[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]<br />『[[金曜ロードSHOW!|金曜ロードショー]]』版<br />本編ノーカット放送<br />
![[パブリック・ドメイン]]DVD版<br />
|-<br />
|アン王女||colspan="2"|[[池田昌子]]||[[笠原弘子]]||[[鈴鹿千春]]||池田昌子||[[すずきまゆみ]]||[[岡村明美]]<br />
|-<br />
|ジョー||colspan="2"|[[城達也]]||[[津嘉山正種]]||[[小川真司]]||城達也||津嘉山正種||[[てらそままさき|寺杣昌紀]]<br />
|-<br />
|アーヴィング||[[山内雅人]]||[[木村幌]]||[[大塚明夫]]||[[山野史人]]||大塚明夫||[[内田直哉]]||[[小形満]]<br />
|-<br />
|大使||[[千葉順二]]||[[槐柳二]]||[[大木民夫]]||[[松岡文雄]]||北村弘一||[[宮田光]]||<br />
|-<br />
|伯爵夫人||金子亜矢子||[[幸田弘子]]||[[池本小百合]]||[[浅井淑子 (声優)|浅井淑子]]||[[荘司美代子]]||[[谷育子]]||[[定岡小百合]]<br />
|-<br />
|マリオ||colspan="2"|[[広川太一郎]]||[[安原義人]]||[[江原正士]]||[[山寺宏一]]||[[清水明彦]]||<br />
|-<br />
|将軍||colspan="2"|[[大久保正信]]||[[北村弘一]]||大木民夫||[[丸山詠二]]||[[石森達幸]]||<br />
|-<br />
|支局長||colspan="2"|{{Nowrap|(登場シーンはカット)}}|| colspan="2"| [[上田敏也]] || [[中庸助]] || [[富田耕生]] || [[楠見尚己]]<br />
|-<br />
!colspan="8"|制作スタッフ<br />
|-<br />
|演出||colspan="2"|小林守夫||[[佐藤敏夫 (音響監督)|佐藤敏夫]]||松川睦||佐藤敏夫||小山悟||間瀬博美<br />
|-<br />
|翻訳||colspan="3"|[[木原たけし]]||森みさ||木原たけし||森みさ||岩崎純子<br />
|-<br />
|効果|| ||遠藤尭雄|| || || ||サウンドボックス||諸橋一男<br />
|-<br />
|調整||山下欽也||平野富夫|| ||荒井孝||オムニバス・<br />ジャパン||田中和成||清本百合子<br />
|-<br />
|選曲||colspan="2"|重秀彦|| || || || ||<br />
|-<br />
|スタジオ|| || || || || ||オムニバス・<br />ジャパン||<br />
|-<br />
|制作担当|| || || || || ||稲毛弘之||<br />
|-<br />
|プロデューサー|| || ||上田正人||山形淳二|| ||宮崎啓子<br />北島有子||<br />
|-<br />
|解説||[[前田武彦]]||[[淀川長治]]||[[宮島秀司]]||[[高島忠夫]]|| || ||<br />
|-<br />
|日本語版制作||colspan="2"|[[東北新社]]||東北新社<br />TBS||colspan="3"|東北新社||<br />
|-<br />
|{{Nowrap|再放送年}}||フジテレビ<br />1974年4月19日<br />1976年3月5日<br />2005年12月24日<br />2009年3月21日(深夜)||日本テレビ<br />1986年5月9日<br />テレビ朝日<br />1996年12月8日<br />テレビ朝日<br />2007年9月8日(深夜)||フジテレビ<br />2000年5月6日|| || || || <br />
|}<br />
<br />
== エピソード ==<br />
* 原題の{{Lang|en|"Roman Holiday"}}とは、[[ローマ帝国]]時代、休日に奴隷の[[剣闘士]]を戦わせる見世物を市民たちが楽しんだことから「他人を犠牲にして楽しむ」<ref>{{Cite web<br />
|date=2006-08-26<br />
|url=http://f.chiba-u.jp/english/documents/2006extension-handout.pdf<br />
|title=千葉大学言語教育センター公開講座「生徒がこんな質問をしてきたら」<br />
|format=PDF<br />
|publisher=[[千葉大学]]<br />
|accessdate=2009-07-23<br />
}}<br />
</ref>といった意味がある。したがって、設定そのものを表すのと併せて、[[ダブル・ミーニング]]となっているとする説がある<ref>{{Cite book|和書<br />
|author=[[呉智英]]<br />
|year=2001<br />
|title=ロゴスの名はロゴス<br />
|publisher=双葉社<br />
|isbn=4-575-71199-3<br />
}}</ref>。そして、ダブル・ミーニングこそが、本作に通底するテーマである。それは、1つの科白や1つの動作が2つの意味を持っていたり、見かけと実態が異なるということが、全編を通して頻発するからである。<br />
* イギリスの女王[[エリザベス2世]]の妹[[マーガレット (スノードン伯爵夫人)|マーガレット王女]]に関して、王女と民間人との恋の主人公として『ローマの休日』公開前に話題となったが、この恋は成就しなかった。そのため『ローマの休日』はこのことをモデルにしたのではと思われることもあるが、この映画のプロデューサーであったパラマウント社のライルズは明確に否定している。ただし、映画のプロモーションとしてこの事件が功を奏したことは否定していない。<br />
* 映画の中で、[[エディ・アルバート]]が演じるカメラマンが使用する、ライターで[[紙巻きたばこ]]に火をつけるように見せかけて写真を撮る「ライター型写真機」は、日本製の「[[エコー8]]」である。<br />
* グレゴリー・ペック演じる新聞記者ジョー・ブラッドレーと、支局長とのやりとりの中で、特ダネの代名詞として[[宋美齢]]の名前が挙げらている。(マダム・チャン・カイ・シェック)<br />
<br />
== リメイク ==<br />
1987年にはアメリカで、リメイク版のテレビ映画『[[新・ローマの休日]]』が[[キャサリン・オクセンバーグ]]を主演にして放映された。日本でも映画製作50周年を記念した2003年にデジタル・ニューマスター版のスペシャルDVDが販売された。<br />
<br />
== 映画に登場した名所 ==<br />
[[File:Audrey Hepburn and Gregory Peck at the Mouth of Truth Roman Holiday trailer.jpg|thumb|250px|「真実の口」:ここでのペックの演技は撮影時に全く台本にない、オードリーを驚かせるアドリブであったと言われる。]]<br />
[[Image:Palazzo_Barberini,_Roma.jpg|thumb|200px|バルベリーニ宮殿<br />(クアットロ・ファンターネ通りに面した門)]]<br />
[[Image:Roma - palazzo della galleria colonna.jpg|thumb|200px|コロッナ宮殿]]<br />
* [[フォルム・ロマヌム]]([[セプティミウス・セウェルスの凱旋門|セプティミウス凱旋門]])<br />
* [[トレヴィの泉]]<br />
* [[スペイン広場 (ローマ)|スペイン広場]]<br />
* [[パンテオン (ローマ)|パンテオン]]([[G.ロッカ]])<br />
* [[コロッセオ]]<br />
* [[真実の口]](劇中で、グレゴリー・ペックが手を差し入れた一連の演技はアドリブである)<br />
* [[サンタンジェロ城]]<br />
* [[テヴェレ川]]<br />
* [[コロンナ宮殿]](2階:[[勝利の柱の部屋]])<br />
* [[バルベリーニ宮殿]](現国立絵画館、クアットロ・ファンターネ通りに面した門)<br />
* [[ヌオーヴァ教会修道院時計塔]]<br />
* [[トラヤヌスの記念柱]]<br />
* [[ヴィットリオ・エマヌエーレ2世記念堂]]<br />
* [[ヴェネツィア広場]]<br />
* [[ボッカ・ディ・レオーネ通り]](青空市場)<br />
* [[ポポロ広場]]<br />
* [[サンタ・マリア・イン・モンテサント教会]]<br />
* [[サンタ・マリア・イン・ミラーコリ教会]]<br />
* [[ポポロ門]](フラミニオ門)<br />
* [[共和国広場]]<br />
* [[サンタ・マリア・イン・コスメディン教会]]<br />
* [[フォルトゥーナの神殿]]<br />
* [[サン・ピエトロ大聖堂]]([[バチカン市国]])<br />
* [[パラッツォ・ブランカッチョ]](現国立オリエント博物館)<br />
<br />
== 「ローマの休日」を題材にした作品 ==<br />
* '''ドラマ'''<br />
** 『ローマの休日』([[1993年]](平成5年)、[[TBSテレビ|TBS]][[Japan News Network|系列]]スペシャルドラマ、出演:[[田村正和]]、[[安田成美]]ほか)<br />
* '''漫画'''<br />
** 『ローマの休日』[[水野英子]]([[1963年]](昭和38年)発表の漫画化作品。祥伝社より単行本発売)<br />
** 『[[9番目のムサシ#その他の人物|9番目のムサシ]]』[[高橋美由紀]]<br />
*** 第2シリーズ「ミッション・ブルー」第4巻・「MISSION3」西アジア ダージェ王国皇太子アラム・アーレイ・アージェリア<br />
** 『[[COMBINATION]]』[[聖りいざ]]<br />
*** 第1巻・「FILE3」パミス国第1王女 プリンセス・アーリエ・ヤスコ・エレオノーラ<br />
** 『[[シティハンター]]』[[北条司]](週刊少年ジャンプにて連載。集英社)<br />
*** 第15巻「ハーレム地獄の巻」「TOKYOデート・スクランブルの巻」「王女誘拐!?の巻」「告白のエアポートの巻」セリジナ公国アルマ王女<br />
** 『[[パタリロ]]』<br />
*** 「王女様の一日」パタリロ!93、23巻6話目<br />
* アニメ<br />
** 『[[サイボーグ009 (アニメ)|サイボーグ009]]』(1979年版)<br />
*** 第27話「美しく生きよ! 愛しき王女」モナミ王国キャサリン王女<br />
** 『[[シティーハンター2]]』<br />
*** 第10話・第11話「モッコリ殺し!? 王女の高貴なオーラ 前編・後編」セリジナ公国アルマ王女(原作15巻収録エピソードのアニメ化)<br />
** 『[[ストライクウィッチーズ2]]』<br />
*** 第5話「私のロマーニャ」 ロマーニャ公国第一公女 マリア・ピア・ディ・ロマーニャ(Maria Pier Di Romagna) :[[米澤円]]<br />
* '''舞台'''<br />
** ミュージカル『ローマの休日』初演:1998年10月1日~10月28日・[[青山劇場]]ほか、脚本:堀越真、演出:[[山田和也]]、アン王女:[[大地真央]] ジョー・ブラッドレー:[[山口祐一郎]]ほか、1998年度[[芸術祭]]賞受賞<ref>2018年5月1日中日劇場(中日新聞文化芸能局)発行「中日劇場全記録」</ref>。<br />
** 演劇「ローマの休日」初演:2010年4月27日~5月9日・天王洲銀河劇場(東京)ほか、脚本・演出:[[マキノノゾミ]] 脚本:鈴木哲也。<br />
::{| class="wikitable"<br />
|+主要キャスト<br />
!&nbsp;!!2010年!!2012年!!2017年<br />
|-<br />
!アン王女<br />
|[[朝海ひかる]]||[[荘田由紀]]・[[秋元才加]]||朝海ひかる<br />
|-<br />
!ジョー・ブラッドレー<br />
|colspan='3'|[[吉田栄作]]<br />
|-<br />
!アーヴィング<br />
|colspan='3'|[[小倉久寛]]<br />
|}<br />
:* タカラヅカ・シネマティック『ローマの休日』初演:2016年6月 - 8月・[[中日劇場]]、[[赤坂ACTシアター]]、[[梅田芸術劇場]]メインホール、<br />
::* [[宝塚歌劇団]][[雪組]]公演として、選抜メンバーにて上演。脚本・演出は[[田渕大輔]]、主演は[[早霧せいな]]<ref name="natalie160226">{{cite web|url=http://natalie.mu/stage/news/177645|title=宝塚歌劇団雪組「ローマの休日」の主な配役が発表|publisher=ステージナタリー|date=2016-02-26|accessdate=2016-02-26}}</ref>。<br />
:::; キャスト<br />
:::* ジョー・ブラドリー - [[早霧せいな]]<br />
:::* アン王女 - [[咲妃みゆ]]<br />
:::* アービング・ラドビッチ - [[彩凪翔]]・[[月城かなと]](梅田芸術劇場公演のみ<ref name="natalie160226"/>)<br />
:::* マリオ・デ・ラーニ - 月城かなと・彩凪翔(梅田芸術劇場公演のみ<ref name="natalie160226"/>)<br />
* '''戯曲'''<br />
** 『[[レディ・アンをさがして]]』([[1989年]](平成元年))<br />
* パロデイ<br />
** ウッチャンナンチャンのやるならやらねば! 「ナン魔くん」で原田知世をアン王女役にしパロデイにした。<br />
** とんねるずのみなさんのおかげです 石橋がペック、木梨がカメラマン、中山美穂がアンでパロデイにした。<br />
<br />
== 脚注 ==<br />
<references/><br />
<br />
== 外部リンク ==<br />
{{Commonscat|Roman Holiday (film)}}<br />
* {{Wayback<br />
| url = http://www.roman-holiday.jp/<br />
| date = 20130203020112<br />
| title = 公式サイト<br />
}}{{ja icon}}<br />
* {{Allcinema title|25599|ローマの休日}}<br />
* {{Kinejun title|9840|ローマの休日}}<br />
* {{Movie Walker|mv33398|ローマの休日}}<br />
* {{Eigacom title|50969|ローマの休日}}<br />
* {{Eigacom title|76248|ローマの休日 製作50周年記念デジタル・ニューマスター版}}<br />
* [http://www.ntv.co.jp/kinro/before200805/before200602/lineup/2004/1029/index.html ローマの休日] - [[金曜ロードSHOW!|金曜ロードショー]](2006年8月4日放送分)<br />
* {{Amg movie|41976|Roman Holiday}}<br />
* {{imdb title|id=0046250|title=Roman Holiday}}<br />
<br />
{{ウィリアム・ワイラー監督作品}}<br />
<br />
{{DEFAULTSORT:ろおまのきゆうしつ}}<br />
[[Category:1953年の映画]]<br />
[[Category:アメリカ合衆国のロマンティック・コメディ映画]]<br />
[[Category:王女を主人公にした物語]]<br />
[[Category:身分違いの恋愛を扱った映画作品]]<br />
[[Category:ローマを舞台とした映画作品]]<br />
[[Category:パラマウント映画の作品]]<br />
[[Category:ウィリアム・ワイラーの監督映画]]<br />
[[Category:アメリカ合衆国の白黒映画]]<br />
[[Category:ニュー・シネマ・パラダイスに登場する映画作品]]<br />
[[Category:アメリカ国立フィルム登録簿に登録された作品]]</div>
126.113.51.102
山瀬まみ
2018-07-19T05:21:52Z
<p>126.113.51.102: /* ミュージカル */ DORAの演出・振付加筆</p>
<hr />
<div>{{存命人物の出典明記|date=2009年7月18日 (土) 12:43 (UTC)}}<br />
{{ActorActress<br />
| 芸名 = 山瀬 まみ<br />
| ふりがな = やませ まみ<br />
| 画像ファイル = <br />
| 画像サイズ = <br />
| 画像コメント = <br />
| 本名 = {{要出典範囲|date=2017年9月|中上 真巳子<br />山瀬 真巳子(旧姓)}}<br />
| 別名義 = <!-- 別芸名がある場合に記載。愛称の欄ではありません --><br />
| 愛称 = <br />
| 出生地 = {{JPN}} [[埼玉県]][[浦和市]]<br />
| 出身地 = {{JPN}} [[神奈川県]][[平塚市]]<br />
| 死没地 = <br />
| 国籍 = <!--「出生地」からは推定できないときだけ --><br />
| 民族 = <!-- 民族名には信頼できる情報源が出典として必要です --><br />
| 身長 = 167 [[センチメートル|cm]]<br />
| 血液型 = [[ABO式血液型|O型]]<br />
| 生年 = 1969<br />
| 生月 = 10<br />
| 生日 = 2<br />
| 没年 = <br />
| 没月 = <br />
| 没日 = <br />
| 職業 = [[歌手]]・[[タレント]]・[[司会者]]<br />
| ジャンル = <!-- 映画、テレビドラマ、舞台など女優活動のジャンルを記入 -->[[アイドル歌謡曲]]・[[テレビドラマ]]・[[映画]]・[[バラエティ番組|バラエティ]]<br />
| 活動期間 = [[1986年]] -<br />
| 活動内容 = [[1986年]]:歌手デビュー<br />
| 配偶者 = [[中上雅巳]]([[1999年]] - )<br />
| 著名な家族 = <!-- 『著名活動をしている人物』で記事対象の家族として公開されている人物がいる場合に記載。単にメディアで紹介された新生児の名前などは書かないように注意。 --><br />
| 所属劇団 = <br />
| 事務所 = [[ホリプロ]]<br />
| 公式サイト = [http://www.horipro.co.jp/talent/PF007/ 公式プロフィール]<br />
| 主な作品 = <!-- 主演映画・主演テレビドラマなど。脇役の場合、大ヒットした作品で重要な役割であった、またはその出演功績を認められたもの。例えば、日本アカデミー賞優秀助演男優(女優)賞を受賞したような役の作品を入力 -->'''バラエティー番組など'''<br>『[[ためしてガッテン]]』<br>『[[新婚さんいらっしゃい!]]』<br>『[[世界ウルルン滞在記]]』<br>『[[天才!志村どうぶつ園]]』<hr>'''CM'''<br>[[大日本除虫菊|金鳥]]<br />
| アカデミー賞 = <br />
| AFI賞 = <br />
| 英国アカデミー賞 = <br />
| エミー賞 = <br />
| グラミー賞 = <br />
| ゴールデングローブ賞 = <br />
| ゴールデンラズベリー賞 = <br />
| ゴヤ賞 = <br />
| ジェミニ賞 = <br />
| セザール賞 = <br />
| 全米映画俳優組合賞 = <br />
| トニー賞 = <br />
| 日本アカデミー賞 = <br />
| ブルーリボン賞 = <br />
| ローレンス・オリヴィエ賞 = <br />
| その他の賞 = <br />
| 備考 = 第10回[[ホリプロタレントスカウトキャラバン]] グランプリ<br />
}}<br />
'''山瀬 まみ'''(やませ まみ、[[1969年]][[10月2日]] - )は、[[日本]]の[[バラエティーアイドル]]、[[歌手]]、[[タレント]]、[[司会|司会者]]<ref>{{Cite web |url=http://www.vip-times.co.jp/?talent_id=W93-3123 |title=山瀬 まみ |work=[[日本タレント名鑑]] |publisher=VIPタイムズ社 |accessdate=2017-10-01}}</ref>。80年代アイドル。本名、{{要出典範囲|date=2017年9月|'''中上 真巳子'''(なかがみ まみこ)}}。<br />
<br />
[[神奈川県]][[平塚市]]出身。[[ホリプロ]]所属。夫は[[俳優]]の[[中上雅巳]]。第10回[[ホリプロタレントスカウトキャラバン]]グランプリを受賞して歌手デビューし、[[アイドル]]として活動。タレントに転身後[[バラエティーアイドル|バラドル]]として[[バラエティ番組]]で活躍、『[[新婚さんいらっしゃい!]]』などで[[司会|MC]]を務める<ref>{{Cite web |url=https://www.talent-databank.co.jp/search/t2000010102 |title=山瀬まみ |work=プロフィール詳細 |publisher=[[タレントデータバンク]] |accessdate=2017-10-01}}</ref>。身長167cm、血液型はO型。<br />
<br />
== 来歴 ==<br />
=== 生い立ち ===<br />
[[1969年]][[10月2日]]、[[埼玉県]][[浦和市]]の病院で生まれる。長女で、4歳下の弟がいる。父が[[転勤族]]だったため、幼児期を[[東京都]][[文京区]][[大塚 (文京区)|大塚]]、[[埼玉県]][[浦和市]]、東京都[[豊島区]][[駒込]]、[[江東区]][[亀戸]]、小学生時代を[[福島県]][[いわき市]]、埼玉県[[上尾市]]、中学生時代を[[長野県]][[松本市]]、[[秋田県]][[秋田市]]でそれぞれ過ごす<ref>『近代映画ハロー 山瀬まみSPECIAL』近代映画社</ref>。[[1984年]]11月、15歳の時に[[神奈川県]][[平塚市]]に転居して以後は父の転勤生活も終わり、現在も実家が平塚市にある。そのため、出身地は平塚市とされる。[[神奈川県立神田高等学校]]を経て[[堀越高等学校]]卒業。[[書道]]は小学5年生の時点で二段の腕前であった。<br />
<br />
幼少期からアイドルを志し、中学生の頃には既に頻繁に路上([[原宿]]など)でスカウトマンから声を掛けられるようになり、それをことごとく断ることで有名な少女だった。これは山瀬本人が「どうせ芸能界入りするなら、信頼できる大手事務所と契約する方が良い」と考えていたためだったという。[[1983年]]、中学1年生の時にホリプロタレントスカウトキャラバンに応募したが書類選考で落選。[[1985年]]、2度目の応募で『第10回[[ホリプロタレントスカウトキャラバン]]』に出場、見事優勝した。この時の最終審査には[[中村由真]]、[[我妻佳代]]らがいた。<br />
<br />
=== 歌手デビュー ===<br />
翌[[1986年]]3月に[[松任谷由実]]作曲(クレジットは呉田軽穂名義)のシングル『メロンのためいき』でアイドル歌手デビュー。当初の[[キャッチコピー]]は「国民のおもちゃ新発売」だった。デビュー前の特技はクラシック[[バレエ]]で、タレントスカウトキャラバンで用いられたイメージVTRではバレエを踊る映像がある。同期歌手デビューで現在も芸能界で活動中の人物には[[少年隊]]、[[西村知美]]、[[杉浦幸]]、[[木村一八]]、[[湯江健幸]]、[[勇直子]]、[[相原勇]]、[[斉藤さおり]]などがいる。<br />
<br />
同年、アニメ映画『[[スーパーマリオブラザーズ ピーチ姫救出大作戦!]]』で[[ピーチ (ゲームキャラクター)|ピーチ姫]]の[[声優]]にも挑戦した。テレビアニメ『[[ホワッツマイケル]]』(1988年)では主題歌を歌い、声優としても出演している。<br />
<br />
歌唱力に定評はあったが、アイドル歌手としては大成しなかった(山瀬本人は後年になって「アイドルとしては背が高すぎた」と自ら評している<ref name="asahi51">[[週刊朝日]] 2009年5月1日号 p.54~58「マリコのゲストコレクション」</ref>)。<br />
<br />
=== タレント・司会者として ===<br />
1986年10月よりレギュラー出演した『[[テレビ探偵団]]』([[TBSテレビ|TBS]])をきっかけに[[バラエティ番組]]で活躍。[[1989年]]には『[[森田一義アワー 笑っていいとも!]]』([[フジテレビジョン|フジテレビ]])のレギュラーに抜擢される<ref name="gokujou">{{Cite web |url=http://www.bs-asahi.co.jp/gokujou/prg_062.html |title=6月23日(土) 第62回ゲスト:井森美幸×山瀬まみ |work=[[極上空間|SUZUKI presents 極上空間 小さなクルマ、大きな未来。]] |publisher=[[BS朝日]] |accessdate=2017-10-01}}</ref>など、のちに[[井森美幸]]・[[森口博子]]・[[松本明子]]らともに「'''[[バラエティーアイドル|バラドル]]'''」と称されるようになる。<br />
<br />
[[1991年]]から情報番組『[[ブロードキャスター]]』(TBS)に約18年間にわたってレギュラー出演し、「[[お父さんのためのワイドショー講座]]」コーナーを担当<ref name="gokujou"/>。[[1997年]]7月より『[[新婚さんいらっしゃい!]]』([[朝日放送テレビ]])のアシスタントを務めており、[[2008年]]1月に事務所の先輩・[[片平なぎさ]]が持っている10年半の記録を塗り替え、アシスタント最長記録保持者となる。この記録はなおも更新されており、[[2017年]]7月9日放送分で20年に到達した。<br />
<br />
[[1990年代]]後半には[[大日本除虫菊|金鳥]](キンチョウリキッド)のCMで、[[河童]]の着ぐるみ(当初のロケは[[ニュージーランド]]で行われたが、最近は日本でロケを敢行)と[[関西弁]]風の台詞「'''油とちゃうちゃう'''」のセリフで有名になる。<br />
<br />
ラジオでは1996年秋以降、[[ニッポン放送]]でレギュラー番組を持ち続けていた。特に同局の[[上柳昌彦]]アナウンサーと番組で共演することが多く、一時期は名コンビともリスナーから評判だったが、2015年3月を持ってニッポン放送のラジオ番組を降板し18年半の歴史にピリオドをうった。<br />
<br />
2008年夏の時点でテレビ・ラジオのレギュラーを数多く抱えている。『ブロードキャスター』は1991年春の番組開始から2008年秋の番組終了まで唯一出演し続けた(メイン司会の[[福留功男]]の出演は番組開始半年後からである)。なお出演番組の長寿ぶりについては「仕事を選んできてくれるマネジャーさんの力量ですかね」と語っている<ref>[https://web.archive.org/web/20090717024137/http://sankei.jp.msn.com/entertainments/entertainers/090712/tnr0907120800006-n1.htm 【TVクリップ】山瀬まみ 「週4の顔」ウィットに] - MSN産経ニュース 2009年7月12日(2009年7月17日時点の[[インターネットアーカイブ|アーカイブ]])</ref>。<br />
<br />
料理の本も何冊か出版している。<br />
<br />
2012年3月18日に自らの出身地としている神奈川県平塚市から、『ひらつか観光大使』に任命された<ref>[http://www.city.hiratsuka.kanagawa.jp/press/pres20110439.htm 山瀬まみさんが「ひらつか観光大使」に決定]{{リンク切れ|date=April 2018}} 神奈川県平塚市オフィシャルサイト・プレスリリース 2012年3月18日閲覧</ref><ref>[http://mainichi.jp/area/kanagawa/news/20120320ddlk14040183000c.html ひらつか観光大使:山瀬まみさんも 岩崎さんに続き委嘱- -平塚/神奈川] 毎日新聞神奈川県版 2012年3月20日閲覧{{リンク切れ|date=2013年2月}}</ref>。<br />
<br />
[[2017年]][[9月21日]]、東京・[[麹町]]の[[日本テレビ]]のスタジオで『[[天才!志村どうぶつ園]]』の収録前に転倒し、右[[膝蓋骨]]と左足第5[[中足骨]]の骨折で全治3か月と診断される<ref>{{Cite news|url= http://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2017/09/22/kiji/20170921s00041000425000c.html |title= 山瀬まみ骨折、全治3カ月…「志村どうぶつ園」収録前に転倒 |newspaper= Sponichi Annex |publisher= スポーツニッポン新聞社 |date= 2017-09-22 |accessdate= 2017-09-26 }}</ref>。当初は自宅で療養する予定だったが、両足骨折のため治療や[[日常生活困難|日常生活に困難]]をきたし、22日に都内の病院に入院した<ref>{{Cite news|url= http://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2017/09/26/kiji/20170926s00041000157000c.html |title= 両足骨折の山瀬まみがメッセージ「やっちゃいました。ごめんなさい」 都内病院に入院中 |newspaper= Sponichi Annex |publisher= スポーツニッポン新聞社 |date= 2017-09-26 |accessdate= 2017-09-26 }}</ref>。[[10月20日]]放送の『[[有馬隼人とらじおと山瀬まみと]]』(TBSラジオ)で、1か月ぶりに仕事復帰<ref>{{Cite news|url= https://www.daily.co.jp/gossip/2017/10/20/0010658954.shtml |title= 山瀬まみ 車いすで仕事復帰「うわっ!ただいま!」「顔がデカいおむすび」 |newspaper= デイリースポーツ online |publisher= 株式会社デイリースポーツ |date= 2017-10-20 |accessdate= 2017-10-23 }}</ref>。『[[新婚さんいらっしゃい!]]』には、同月24日の収録([[11月12日]]放送分)から復帰<ref>{{Cite news|url= https://www.nikkansports.com/entertainment/news/201710230000510.html |title= 山瀬まみ「新婚さん-」は11・12放送分から復帰 |newspaper= 日刊スポーツ |publisher= 日刊スポーツ新聞社 |date= 2017-10-23 |accessdate= 2017-10-23 }}</ref>。<br />
<br />
=== 私生活 ===<br />
[[1999年]][[6月26日]]に俳優の[[中上雅巳]]と[[結婚]]。[[6月|ジューンブライド]]に憧れ、レギュラー番組の『ブロードキャスター』で真っ先に結婚報告をするために[[六曜#大安|大安]]の土曜日を選んだ結果、この日の[[婚姻届]]提出となった。本人が語るところによると、「お試し期間」として実際に夫婦としてやっていけるかどうかを試すため、結婚前に3年ほど同棲生活を送っており、写真週刊誌などにスクープされるだろうと思っていたが、結局は自ら結婚報告を行った。ふたりの間に子供はいない。<br />
<br />
== 音楽 ==<br />
=== シングル ===<br />
#メロンのためいき (作詞:[[松本隆]]/作曲:[[松任谷由実|呉田軽穂]]/編曲:[[松任谷正隆]] 1986年3月21日)<br />
#セシリア・Bの片想い (作詞:松本隆/作曲:[[宮城伸一郎]]/編曲:[[船山基紀]] 1986年6月21日)<br />
#Heartbreak Cafe (作詞:松本隆/作曲:[[南佳孝]]/編曲:[[鈴木茂 (ギタリスト)|鈴木茂]] 1986年9月24日)<br />
#Strange Pink (作詞:松本隆/作曲:南佳孝/編曲:鈴木茂 1987年1月1日)<br />
#怪傑ぶんぶんガール (作詞:[[森雪之丞]]/作曲:浅沼正人/編曲:[[若草恵]] 1987年4月21日)<br />
#可愛いゝひとよ (作詞:[[阿久悠]]/作曲・編曲:大野克夫 1987年7月21日)<br />
#スターライト・セレナーデ (作詞:森雪之丞/作曲:[[井上大輔]]/編曲:[[大谷和夫]] 1987年9月5日)[[名古屋テレビ放送|名古屋テレビ]]系・[[サンライズ (アニメ制作会社)|日本サンライズ]]制作アニメ『[[機甲戦記ドラグナー]]』後期オープニング。[[スターチャイルド]]レーベルでの発売。<br />
#星空のエトランゼ (作詞:[[魚住勉]]/作曲・編曲:[[馬飼野康二]] 1988年5月5日)[[テレビ東京]]系テレビアニメ「[[ホワッツマイケル]]」エンディング<br />
#サヨナラの仔猫 (作詞:魚住勉/作曲・編曲:馬飼野康二 1988年10月21日)<br />
#あ 不思議な気持ち (作詞:[[まさごろ]]/作曲:羽田一郎 1993年10月21日)<br />
#Heart Candle (作詞:[[松井五郎]]/作曲:[[後藤次利]] 桂三枝(現・[[桂文枝 (6代目)|六代目桂文枝]])とのユニットであるポンヌフ名義 1997年9月21日)<br />
<br />
=== オリジナル・アルバム ===<br />
# [[RIBBON (山瀬まみのアルバム)|RIBBON]](1986年7月21日)<br />
# リセ(ミニアルバム)(1986年12月5日)<br />
# [[親指姫 (山瀬まみのアルバム)|親指姫]](1989年11月21日)<br />
# [[親指姫ふたたび…]](1990年12月31日)<br />
# Might Baby(1993年10月21日)<br />
<br />
===ベスト・アルバム===<br />
# PRIVATE EDITION(1987年12月5日)<br />
# 山瀬まみ アーティスト・コレクション(1999年11月26日)<br />
# 山瀬まみ 25th Anniversary Best Album - DVD付 (2011年4月20日)<br />
# 山瀬まみ パーフェクト・ベスト (2013年10月2日)<br />
<br />
=== ビデオ作品 ===<br />
# CANDY<br />
# 親指姫 LIVE (at) TERADA SOKO F GO(1990年)<br />
# メイジ ミュージカライヴ 宇宙少女マミ(1990年)<br />
# ライブ・ツアー 1991 At POWER STATION(1991年)<br />
<br />
== 出演 ==<br />
=== バラエティ ===<br />
==== 現在 ====<br />
* [[新婚さんいらっしゃい!]]([[1997年]]7月6日 -、[[朝日放送テレビ|朝日放送]])<br />
* [[天才!志村どうぶつ園]]([[2004年]]4月15日 -、[[日本テレビ放送網|日本テレビ]])<br />
* [[火曜サプライズ]]([[2009年]]4月7日 -、日本テレビ)<br />
* 明日いきいき ジョシゴト([[2012年]] -、[[東海テレビ放送|東海テレビ]]、ナレーション)<br />
* [[珍種目No.1は誰だ!? ピラミッド・ダービー]](不定期)([[2016年]] - 、[[TBSテレビ|TBS]])<br />
* [[名医のTHE太鼓判!]]([[2017年]]10月9日 -、TBS)<br />
<br />
==== 過去 ====<br />
* [[テレビ探偵団]] (1986年10月12日〜89年、[[TBSテレビ|TBS]])<br />
* [[志村けんの失礼しまぁーす!]](1986年 - 1987年、[[日本テレビ放送網|日本テレビ]])<br />
* [[タモリのいたずら大全集]](1986年 - 1989年、日本テレビ)<br />
* [[やる気マンマン日曜日]](1987年10月 - 1989年4月2日、[[MBSテレビ|毎日放送]])<br />
* [[姫TV]](1988年 - 1993年、[[テレビ朝日]])<br />
* [[クイズダービー]]ゲスト解答者(1988年6月11日、TBS)<br />
* [[森田一義アワー 笑っていいとも!]](1988年 - 1990年、[[フジテレビジョン|フジテレビ]])<br />
* [[素敵にドキュメント]](1988年 - 1992年9月25日、[[朝日放送テレビ|朝日放送]])<br />
* [[スター課外授業]](1989年、[[テレビ東京]]、司会)<br />
* [[土曜だエブリバディ!]](1989年4月1日 - 1990年3月31日、朝日放送)<br />
* [[所ジョージのおとなのにほへ]](1989年4月〜1990年3月、日本テレビ)<br />
* [[山瀬まみのフリーアルバイター物語]](1989年4月25日、テレビ朝日)<br />
* [[アッコのかるーく見てみたい]] (1989年10月13日 - 1990年9月14日、TBS)<br />
* [[丹波・山瀬のパニックTV]](1990年 - 1991年、[[讀賣テレビ放送|読売テレビ]]、[[丹波哲郎]]と司会)<br />
* [[とことんニホン語]](1990年 - 1991年、テレビ東京、[[澤村藤十郎 (2代目)|澤村藤十郎]]と司会)<br />
* [[世界の超豪華・珍品料理]](1990年 - 1995年頃、フジテレビ)<br />
* [[三枝の愛ラブ!爆笑クリニック]](1991年4月 - 1993年3月、[[関西テレビ放送|関西テレビ]]・8代目アシスタント)<br />
* [[山瀬まみ・藤田朋子のおませなふたり]](1991年10月16日 - 1992年9月16日、テレビ朝日)<br />
* [[パンティ・パーティ]](1991年10月3日 - 1992年6月24日、フジテレビ)<br />
* [[パンティ・パーティ快楽版]](1992年7月3日 - 1992年12月29日、フジテレビ、月1回の2時間番組)<br />
* 幾三・譲二・前川の爆笑ふるさと自慢(1992年、[[名古屋テレビ放送|NBN]])<br />
* [[クイズ!超選択]](1992年4月 - 1992年9月、フジテレビ、[[須田哲夫]](フジテレビアナウンサー)と司会)<br />
* [[クイズ!純粋男女交遊]](1992年10月13日 - 1993年3月16日、テレビ朝日、解答者)<br />
* [[おしえて!ガリレオ]](1992年10月25日 - 1993年、読売テレビ)<br />
* [[タブロイドTV]](1993年10月 - 1994年6月28日、テレビ朝日)<br />
* [[爆裂!異種格闘技TV]] (1994年1月 - 1994年3月24日、TBS)<br />
* [[世界とんでも!?ヒストリー]](1994年4月17日 - 1994年9月25日、テレビ朝日、解答者)<br />
* [[象印ニュースクイズ パンドラタイムス]](1994年10月23日 - 1995年3月19日、テレビ朝日、解答者)<br />
* [[ものまねバトル]](1995年 - 1996年、日本テレビ、司会)<br />
* [[ぱふぉぱふぉ]](1995年4月6日 - 1996年3月28日)<br />
* [[ビリビリさせて]](1997年10月2日 - 1998年3月26日、日本テレビ)<br />
* [[ビデオあなたが主役]](不定期)(テレビ朝日)<br />
* [[超次元タイムボンバー]](テレビ朝日)<br />
* [[ゴールデンタイム (テレビ番組)|ゴールデンタイム]](フジテレビ)<br />
* [[いきなり!クライマックス]] (TBS)<br />
* [[まっ昼ま王!!|まっ昼ま王!!ダイナミック商会]](1994年10月5日 - 1995年3月29日の水曜日、テレビ朝日) <br />
* [[アイデア対決・全国高等専門学校ロボットコンテスト]](1995年第8回、大会司会を担当)<br />
* [[オールスター感謝祭]] (TBS)<br />
* [[ブロードキャスター]] (TBS)<br />
* [[世界ウルルン滞在記]]([[MBSテレビ|毎日放送]])<br />
** [[世界ウルルン滞在記2008|世界ウルルン滞在記"ルネサンス"→ウルルン2008]](毎日放送・TBS系)<br />
* [[あっぱれ!ニッポン国民遺産]](2012年1月9日、2013年1月19日、[[九州朝日放送]])<br />
* [[ゲストとゲスト]]([[2012年]]4月2日 - 9月24日、テレビ朝日、ナレーション)<br />
* [[クイズ世界はSHOW by ショーバイ!!]](日本テレビ)<br />
* [[文珍・山瀬のグルメコメディ/炎のチューボー物語]](テレビ朝日、司会)<br />
* [[タモリのネタでNIGHTフィーバー!]](フジテレビ)<br />
* [[世界超密着TV!ワレワレハ地球人ダ!!]](フジテレビ)<br />
* [[クイズところ変われば]]([[テレビ東京]])<br />
* [[ららら日記]](日本テレビ)※ナレーション<br />
* [[突撃!イドバタ7]](テレビ東京)<br />
* [[爛漫!モトどる3人娘]](テレビ東京)<br />
* [[SUPER SURPRISE|1億人が選ぶ!今夜知りたいランキング]](日本テレビ)<br />
* [[週刊オリラジ経済白書]](日本テレビ)※準レギュラー解答者<br />
* [[ザ・大年表]](日本テレビ)パイロット版、第一回のみ司会<br />
* [[アッコにおまかせ!]] (TBS) 司会の[[和田アキ子]]が休養時に代理で出演<br />
* [[快脳!マジかるハテナ]](不定期)(日本テレビ)<br />
* [[芸能人格付けチェック|芸能人格付けチェック 主婦芸能人に品格はあるのかスペシャル!!]](2013年10月4日(第11弾)、朝日放送)<br />
* [[若大将のゆうゆう散歩]]([[2015年]]4月2日 - 9月24日、テレビ朝日 木曜日「若大将のゆうゆう料理」)<br />
* [[ためしてガッテン]]([[1995年]][[3月29日]] - [[2016年]][[3月16日]]、[[日本放送協会|NHK]])<br />
<br />
=== テレビドラマ ===<br />
* [[同級生は13歳]]([[1987年]]、フジテレビ)<ref>別冊宝島2611『80年代アイドルcollection』p.73.</ref><br />
* [[オレの妹急上昇]](1987年11月 - [[1988年]]1月、フジテレビ) - 東ひかり 役<br />
* [[熱っぽいの!]]([[1988年]]4月 - 7月、フジテレビ) - 石毛英子 役<br />
* [[弁護士・今田一平]](1988年 - 1989年、朝日放送) - 相原純子 役<br />
* [[いじわるばあさん#スペシャル版|傑作 意地悪ばあさん・抱腹絶倒!意地悪ギャグ決定版]]([[1989年]]1月、フジテレビ)<br />
* [[ツヨシしっかりしなさい#テレビドラマ|ツヨシしっかりしなさい]]([[1989年]]2月 - 7月、日本テレビ) - 井川典子 役<br />
* [[なまいきスチュワーデス物語]]([[1989年]]、TBS)<br />
* [[愛してるよ!先生]]([[1990年]]、TBS)<br />
* [[外科病棟女医の事件ファイル]]([[1991年]]、テレビ朝日)<br />
* [[SALE!]]([[1995年]]、ABC)<br />
* [[はなまるマーケット殺人事件]]([[2000年]]、TBS)<br />
<br />
=== 映画 ===<br />
* [[釣りバカ日誌]](1988年、久美子役)<br />
* 丹波哲郎の大霊界2 死んだらおどろいた!!(1990年 丹波企画 / 松竹富士、天使役)<br />
* 白い手(1990年、ソロバン塾の先生役)<br />
* [[Jリーグを100倍楽しく見る方法!!]](1994年)<br />
<br />
=== テレビアニメ ===<br />
* [[ホワッツマイケル]](1988年) - 加世子 役<br />
<br />
=== 劇場アニメ ===<br />
* [[ブレイブ・リトル・トースター]]シリーズ([[ウォルト・ディズニー・スタジオ|ブエナビスタ ホーム エンターテイメント]] トースターのブレイブ役)<br />
* [[スーパーマリオブラザーズ ピーチ姫救出大作戦!]](ピーチ姫役)<br />
* [[チスト みどりのおやゆび]](チスト役)<br />
<br />
=== ミュージカル ===<br />
* 宇宙少女マミ ([[1990年]])<br />
* [[DORA〜100万回生きたネコ]] ([[1996年]]、主演:[[沢田研二]]、演出・振付:[[フィリップ・ドゥクフレ]]<ref>2018年5月1日中日劇場(中日新聞文化芸能局)発行「中日劇場全記録」</ref>)<br />
<br />
=== ラジオ ===<br />
: ※特記のないものはニッポン放送。若手時代より、ニッポン放送の編成の長年変わらない意向かそれとも山瀬の所属するホリプロの意向かは不明だが1988年以降、1990年代前半に一時途切れたことがあったものの、継続してレギュラー出演し続けていたが、2015年3月の「ごごばん!」終了で再び途切れ、2016年4月から[[TBSラジオ]]でレギュラーを持っている。<br />
* [[圓蔵・まみのお昼だヨイショ!]](1988年4月 - 1989年3月)<br />
* [[あとちゃん・山瀬の歌のギャップ10]](1996年10月 - 1998年9月)<br />
* [[うえちゃん・山瀬の涙の電話リクエスト]](1998年10月 - 2002年9月、2004年4月 - 2006年3月)<br />
* そーぐち・山瀬の涙の電話リクエスト(2002年10月 - 2004年3月)<br />
* [[うえやなぎまさひこのサプライズ!|うえちゃん・山瀬のサプライズ!フライデースペシャル]](2006年4月 - 2007年3月)<br />
* [[高橋克実と山瀬まみ おしゃべりキャッチミー]](2007年4月 - 2010年6月)<br />
* [[上柳昌彦 ごごばん!|上柳昌彦・山瀬まみ ごごばん!フライデースペシャル]](2010年7月 - 2015年3月、金曜メインパーソナリティ)<br />
* [[サウンドコレクション|ナイタースペシャル]]『高橋克実と山瀬まみ ニッポンを救う!?スゴすぎる女性グランプリ』(2011年9月23日、[[全国ラジオネットワーク|NRN]]系列全国ネット)<br />
* [[有馬隼人とらじおと山瀬まみと]](TBSラジオ、2016年4月 - ) - 金曜パートナー <ref>{{cite web|url=http://natalie.mu/owarai/news/177089|title=伊集院光のTBSラジオ新番組「伊集院光とらじおと」詳細発表「JUNK」は続投|publisher=お笑いナタリー|date=2016-02-22|accessdate=2016-02-23}}</ref><br />
<br />
=== CM ===<br />
* [[富士通]] [[OASYS]]<br />
* [[大塚食品]] [[ボンカレー|街角レストラン ボンカレービーフ]](「ボンビー山瀬」篇)<br />
* [[モービル石油]](現・[[JXTGエネルギー]])<br />
* 三楽→[[メルシャン]] ピーチツリーフィズ<br />
* [[住友金属工業]](現・[[新日鐵住金]])<br />
* [[レナウン (企業)|レナウン]] IN.EXPRESS<br />
* [[資生堂]] しなやか恋コロン<br />
* [[JFTD|日本生花通信配達協会]] 花キューピット(1991年)<br />
* [[大日本除虫菊|金鳥]] キンチョウリキッド(1997年 - 2012年)、[[キンチョール]](2013年 - 2016年)<br />
<br />
== 書籍 ==<br />
* 安売り王女さま(1990年9月20日、[[マガジンハウス]]) ISBN 978-4-8387-0166-7<br />
* 山瀬ごはん亭のおいしい12ヶ月(2000年5月1日、[[幻冬舎]]) ISBN 978-4-87728-954-6<br />
* まみ&マロン たれとソースの本(2003年7月17日、[[角川・エス・エス・コミュニケーションズ]]) ISBN 978-4-8275-4126-7<br />
* 山瀬まみのおウチが好き。毎日が好き。(2006年4月1日、[[扶桑社]]) ISBN 978-4-594-60433-2<br />
* 山瀬まみのおいしく暮らそっ(2008年4月1日、扶桑社) ISBN 978-4-594-60524-7<br />
<br />
=== 写真集 ===<br />
* 近代映画ハロー 山瀬まみ SPECIAL(1986年9月25日、[[近代映画社]])<br />
* 夢中遊泳(1987年11月9日、[[リイド社]]、撮影:鯨井康雄)<br />
<br />
== 脚注 ==<br />
{{脚注ヘルプ}}<br />
{{Reflist}}<br />
<br />
== 外部リンク ==<br />
* [http://www.horipro.co.jp/talent/PF007/ ホリプロオフィシャルサイト -山瀬まみ-]<br />
*[http://www.nhk.or.jp/archives/search/special/detail/?d=selection014 特集 テレビとともに60年!『ためしてガッテン』スペシャル座談会 NHKアーカイブス]<br />
<br />
{{Normdaten}}<br />
{{山瀬まみ}}<br />
{{ホリプロ}}<br />
{{ホリプロタレントスカウトキャラバン}}<br />
{{新婚さんいらっしゃい!歴代女性司会者|7代目,1997年 - 現在}}<br />
{{ブロードキャスター歴代総合司会・進行役ほか}}<br />
{{散歩シリーズ}}<br />
<br />
{{DEFAULTSORT:やませ まみ}}<br />
[[Category:日本のアイドル]]<br />
[[Category:日本のタレント]]<br />
[[Category:日本の司会者]]<br />
[[Category:日本の女性歌手]]<br />
[[Category:日本の女性声優]]<br />
[[Category:日本のラジオパーソナリティ]]<br />
[[Category:ホリプロ]]<br />
[[Category:キングレコードのアーティスト]]<br />
[[Category:ソニー・ミュージックレコーズのアーティスト]]<br />
[[Category:神奈川県出身の人物]]<br />
[[Category:1969年生]]<br />
[[Category:存命人物]]</div>
126.113.51.102
相原勇
2018-07-19T04:48:26Z
<p>126.113.51.102: /* 来歴・人物 */ 3代目ピーターパンはピンチヒッター</p>
<hr />
<div>{{ActorActress<br />
| 芸名 = 相原 勇<br />
| ふりがな = あいはら ゆう<br />
| 画像ファイル = <br />
| 画像サイズ = <br />
| 画像コメント = <br />
| 本名 = 小原 靖子<br />
| 別名義 = YASUKO<br />
| 出生地 = {{JPN}}・[[広島県]][[広島市]][[安佐南区]]<br />
| 死没地 = <br />
| 国籍 = <!--「出生地」からは推定できないときだけ --><br />
| 民族 = <!-- 民族名には信頼できる情報源が出典として必要です。 --><br />
| 身長 = 156 [[センチメートル|cm]]<br />
| 血液型 = [[ABO式血液型|A型]]<br />
| 生年 = 1967<br />
| 生月 = 4<br />
| 生日 = 1<br />
| 没年 = <br />
| 没月 = <br />
| 没日 = <br />
| 職業 = [[俳優|女優]]、[[歌手]]<br />
| ジャンル = <br />
| 活動期間 = [[1986年]] -<br />
| 活動内容 = <br />
| 配偶者 = あり<br />
| 著名な家族 = <br />
| 所属劇団 = <br />
| 事務所 = [http://www.bold7.jp/ ボールド]<br />
| 主な作品 = '''舞台'''<br />『[[ピーター・パン (ミュージカル)|ピーター・パン]]』<br />
| アカデミー賞 = <br />
| AFI賞 = <br />
| 英国アカデミー賞 = <br />
| エミー賞 = <br />
| グラミー賞 = <br />
| ゴールデングローブ賞 = <br />
| ゴールデンラズベリー賞 = <br />
| ゴヤ賞 = <br />
| ジェミニ賞 = <br />
| セザール賞 = <br />
| 全米映画俳優組合賞 = <br />
| トニー賞 = <br />
| 日本アカデミー賞 = <br />
| ブルーリボン賞 = <br />
| ローレンス・オリヴィエ賞 = <br />
| その他の賞 = <br />
| 備考 = <br />
| 公式ブログ = [http://ameblo.jp/you-aihara/ I Can Fly!!]<br />
}}<br />
'''相原 勇'''(あいはら ゆう、[[1967年]][[4月1日]] - )は、[[日本]]の[[タレント]]、[[俳優|女優]]、[[歌手]]。本名、'''小原 靖子'''(おばら やすこ)<ref name="bold7">{{Cite web |author= |date= |url=http://www.bold7.jp/aihara-you.html |title=公式プロフィール |publisher=ボールド |accessdate=2014-7-31}}</ref>。<br />
<br />
[[広島県]][[安佐郡]][[祇園町]](現・[[広島市]][[安佐南区]])出身<ref>[http://www.j-wave.co.jp/original/makingsense/contents/2156/ ]MAKING SENSE</ref>。[[ボールド (芸能事務所)|ボールド]]所属。<br />
<br />
== 来歴・人物 ==<br />
[[広島修道大学附属鈴峯女子中学校・高等学校|鈴峯女子高等学校]]卒業{{要出典|date=2014年7月}}。<br />
<br />
中学生の時にミュージカル『[[ピーター・パン (ミュージカル)|ピーター・パン]]』で、[[榊原郁恵]]の演ずるピーターパンが観客の上を飛ぶのを観て感動し、「ピーター・パンを演じるために芸能界に入った」と語っている<ref name="typ11">{{cite interview |subject=相原勇 |interviewer=新田哲嗣 |title=やりたいことを貫くには夢が必要。それは自分の夢でもあり、社会の夢、世の中の夢でもあるんです |url=http://www.companytank.jp/interviewer_eye/vol5/ |program=注目企業.COM |date=2012-6 |accessdate=2014-7-31}}</ref>。<br />
<br />
1984年、ピーター・パンを演じるためには芸能界に入る必要があると考え、高校生の時、第9回[[ホリプロタレントスカウトキャラバン]]に応募。中国・四国地区代表として応募総数12万人の中から決勝まで残る<ref>この時の優勝者は[[井森美幸]]であった。他に決勝に残った中に[[鈴木保奈美]]がいる。</ref>。<br />
<br />
1985年4月、[[西村知美]]が優勝した「第1回ミス・モモコクラブ」で準優勝をし、芸能プロダクション原プランニングにスカウトされる。父親から「東京の大学に送ったと思って4年間は待ってやるから、4年経っても成功出来なかったらあきらめて帰って来い」と言われ<ref name="typ11"/>、芸能界デビューのため上京。その後、[[おニャン子クラブ]]のオーディションを受け、合格ももらっていたが「専属のレコード会社、雑誌も全て決まっているから仕事の幅が狭くなってしまう」という事務所の判断でおニャン子クラブへの加入を辞退し、ソロデビューを選択することになった<ref name="typ11"/>。<br />
<br />
[[1986年]]4月、原プランニングから、本名の小原靖子名義で「ちょっとHENSHIN」([[ワーナーミュージック・ジャパン|ワーナーパイオニア]])という曲で[[アイドル歌手]]として念願の芸能界デビューを果たす。[[秋元康]]のプロデュースで、当時秋元が手掛けていたおニャン子クラブの「[[おっとCHIKAN!]]」に見せかけた企画モノで、相原自身「間違えて買ってくれる人がいないかなって」と思っていた。弱小事務所だったため、テレビ出演は少なかった。その後、当初デビュー曲予定だった、同じ秋元プロデュースで[[広島弁]]「ぶち」を題名に使い「じゃけぇ」や「たいぎぃ」などの広島弁を随所に散りばめた「恋はBUCHIBUCHI!」という曲を同年8月に出すも、事務所の倒産もあり、芸能界での活動は一時制限された<ref>2006年9月28日付 [[東京スポーツ]]</ref>。<br />
<br />
1987年、[[小学館]]の雑誌『[[GORO]]』の[[激写]]で[[篠山紀信]]撮影のヌードを披露。それが縁でGOROで一時期小さいコラムを持ったり編集部の手伝いをしていた。<br />
<br />
1989年2月、[[TBSテレビ|TBS]]『[[平成名物TV]]』内の1コーナー「[[三宅裕司のいかすバンド天国]]」(通称「イカ天」)の司会者に抜擢され<ref name="d0714">{{Cite web |url=http://datazoo.jp/tv/%E4%B8%96%E7%95%8C%E3%81%AE%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%BA%BA%E5%A6%BB%E3%81%AF%E8%A6%8B%E3%81%9F%EF%BC%81/874020 |title=世界の日本人妻は見た!|2015/07/14(火)放送 |work=TVでた蔵 |publisher=ワイヤーアクション |accessdate=2015-07-15}}</ref>、明るく元気な女の子といったキャラクターで大ブレイク。この年の4月が、前述のように父親に言われていた4年間のタイムリミットだった。「もし「イカ天」に抜擢されていなかったら、広島に帰っていた」と本人も語っている<ref>「イカ天年鑑 平成元年編」([[ワニブックス]])より。</ref>。この番組出演を機に芸名を'''相原 勇'''に変えての再スタートであった。なお、この芸名は「『相』には“私=I”と“愛”をいっぱい込めた意味、『勇』は男子にも女子にも通用する名前、“あなた=YOU”、自分に勇気を奮い立たせて励ますといった意味で、IとYOUを両方入れて“自分は一人じゃない”ということを込めた」由来であるといったことを語っている<ref name="typ11"/>。<br />
<br />
1990年は、女優として4月に映画『香港パラダイス』に、10月に[[フジテレビジョン|フジテレビ]][[フジテレビ月曜9時枠の連続ドラマ|月9]]ドラマ『[[すてきな片想い (テレビドラマ)|すてきな片想い]]』に出演し、7月には歌手としてシングル「ボクはパワー」で相原勇として歌手デビュー、また4月から10月まで[[文化放送]]のラジオ番組『相原勇のBEBOP YOU』に出演する他、CM出演や番組司会でも活躍した。<br />
<br />
1992年8月3日~27日の[[中日劇場]]『ピーター・パン』公演を白紙にとホリプロが劇場へ申し入れたが、交渉の末に[[沖本富美代]]・[[沖本美智代]]を東京・大阪公演に、相原勇が名古屋公演で中日劇場のピンチヒッターで劇場スケジュールに穴があかずに済んだ<ref>2018年5月1日中日劇場(中日新聞文化芸能局)発行「中日劇場全記録」</ref>。<br />
<br />
1993年から1995年まで3年連続で、芸能界に入るきっかけとなったミュージカル『ピーター・パン』で主役のピーター・パンに抜擢され夢を叶えた<ref name="d0714" /><ref>舞台『ピーター・パン』はホリプロ所属のタレントが演じるのが通例だが、ホリプロ以外のタレントが演じたのは現時点では相原だけである。</ref>。<br />
<br />
1996年5月、[[横綱]]として活躍していた[[曙太郎|曙]]と交際宣言。1997年5月、突然破局したことで大きくマスコミに取り上げられた<ref>破局疑惑報道のさなか、記者のインタビュー(横綱とご結婚なさいますか?)に対し、「I hope!」(したいです)と答えたこともあった。</ref>。それを機に人気が急激に低迷、芸能活動を休止して[[ニューヨーク]]に渡った<ref name="d0714" />。<br />
<br />
1998年に芸名を'''YASUKO'''に改名し芸能活動を再開。その後、'''相原 勇'''に再改名。<br />
<br />
2001年12月、英語と演劇を学んでいる時に出会ったアイルランド人の画商と[[アメリカ同時多発テロ事件]]をきっかけに結婚。<br />
<br />
[[2006年]]8月、ニューヨークで歌とダンスの稽古を積み、16年ぶりのアルバム『Thank You』(デビュー20周年記念アルバム)をリリースした。<br />
<br />
2011年9月、前夫と離婚。<br />
<br />
2013年3月、現在の夫と再婚していたことが2013年5月13日に明らかになった。所属[[芸能事務所]]によると、再婚相手はハワイに住む一般男性で、相原もハワイに居住しているという。<br />
<br />
== 音楽 ==<br />
=== シングル ===<br />
# ちょっとHENSHIN (1986年4月10日) - 小原靖子名義<br />
#:(c/w) 嫌い<br />
# 恋はBUCHIBUCHI! (1986年8月11日) - 小原靖子名義<br />
#:(c/w) ミラージュ ドリーム -蜃気楼の中へ-<br />
# ボクはパワー (1990年7月21日)<br />
#:(c/w) [[フジヤマ・ママ]] <br />
# 約束するよ (1991年3月21日) - [[NHK総合テレビジョン|NHK総合]]テレビアニメ[[おばけのホーリー]]テーマソング <br />
#:(c/w) あ・そ・ぼ・ぜ<br />
# 恋愛シネマシアター (1992年1月21日)<br />
#:(c/w) 雨とファニー・フェイス<br />
<br />
=== アルバム ===<br />
* Hello, Good-Day!!(1990年11月)<br />
* Thank You(2006年8月)<br />
<br />
=== NHK みんなのうた ===<br />
* [[魔法のクレヨン]] (放送時期:1992年6月~1992年7月期) 作詞:YU・KA・RI 、作曲:大堀薫、編曲:大堀薫、アニメーション:[[大井文雄]]<br />
<br />
=== NHK教育 [[あしたもげんきくん]] ===<br />
* 主題歌 作詞:織田ゆり子、作曲:上条はじめ <br />
<br />
<br />
== 出演 ==<br />
=== テレビドラマ ===<br />
* [[ザ・ハングマン|ザ・ハングマン6]](1987年4月10日、[[朝日放送テレビ|テレ朝]]系)第7話 =小原靖子名義<br />
* [[光戦隊マスクマン]](1987年、[[テレビ朝日|テレ朝]]系)第11話 ユウ 役 =小原靖子名義<br />
* [[仮面ライダーBLACK]](1987年、[[TBSテレビ|TBS]]系)第9話 かおる 役 =小原靖子名義<br />
* 連続テレビ小説「[[青春家族]]」(1989年、NHK)<br />
* ドラマチック22「[[めざせ!イカ天 ロックンOL物語]]」(1990年、TBS系) - 本人 役<br />
* [[愛しあってるかい!#愛しあってるかい!スペシャル|愛しあってるかい!スペシャル]](1990年 フジテレビ) - スキー場で出会う女子大生 役<br />
* [[すてきな片想い (テレビドラマ)|すてきな片想い]](1990年 フジテレビ) - 落合妙子 役<br />
* [[ヴァンサンカン・結婚]](1991年、フジテレビ)- 宮原七重 役<br />
* ジャック&ベティ物語(1992年)<br />
* ドラマシティー'92「本気でオンリー・ユー」(1992年、NTV系)<br />
* [[振り返れば奴がいる]](1993年、フジテレビ)- 田村のえ 役<br />
* [[世にも奇妙な物語|世にも奇妙な物語 春の特別編]]「笑いの天才」(1993年、フジテレビ)<br />
* [[幕末高校生]](1994年、フジテレビ)<br />
<br />
=== バラエティ ===<br />
* カウチポテトクラブ(1988年)<br />
* [[いかす!!バンド天国|平成名物TV]](1989年 - 1990年、TBS)<br />
* チキチキバンバン(1989年 - 1990年、フジテレビ)<br />
* [[何だ?こりゃ]](1992年 - 1993年、フジテレビ)<br />
* [[どちら様も!!笑ってヨロシク]](1989年 - 1993年、日本テレビ)<br />
* [[クイズダービー]](TBS)<ref>1990年1月20日、1990年6月2日、1991年11月23日放送分</ref><br />
* [[わくわく動物ランド]](末期、TBS)<br />
* [[噂の!東京マガジン]](TBS)<br />
* [[さんまのからくりTV]]・[[さんまのSUPERからくりTV]](1992年10月 - 1997年3月、TBS)<br />
* [[オールスター感謝祭]](期首特番・1992年秋 - 1996年秋、TBS)<br />
* [[関口宏の東京フレンドパークII]](1994年4月 - 1995年9月、TBS・1993年にゲストとして出演)<br />
* 超絶叫遊戯(1992年、TBS)<br />
* [[地球SOS それいけコロリン]](1992年 - 1993年、NHK)<br />
* [[セイシュンの食卓]](1992年 - 1994年、テレビ朝日)<br />
* [[笑っていいとも!]](1990年代に何度か出演、フジテレビ)<br />
* [[田舎に泊まろう!]](2006年7月30日、テレビ東京) - [[徳島県]][[東祖谷山村|旧東祖谷山村]]にお泊り<br />
* [[世界バリバリ★バリュー]](2007年4月11日、TBS)<br />
* [[英語でしゃべらナイト]](2007年9月10日、NHK)<br />
* [[ジャンプ!○○中]](2007年、フジテレビ)<br />
* イカ天2007復活祭(2007年12月30日、TBS)<br />
* [[ズバリ言うわよ!]](2008年2月26日)<ref>交際していた曙とのなれ初めから破局まで赤裸々に語った。当時の結婚条件は「優勝すること」。しかし、1997年の5月場所で優勝した時の[[記者会見]]では、相原との約束を破って結婚を公言しなかった。曙との結婚は消滅したことを悟って、呆然とする相原へ曙から頼まれた[[小錦八十吉 (6代)|小錦]]が破局の旨を伝えに来たという。小錦は、落ち込む相原を「靖子、お前は自分の人生を生きなさい」と慰め、精神的にどん底だった相原の側に24時間付き人が交代で監視する処置を取った。そんな小錦を細木は「彼はものすごい人格者で良い人間」、相原は「ものすごく温かくて良い人」と評した。相原は[[細木数子]]が好きで、ニューヨークでも[[DVD]]で『ズバリ言うわよ!』を見ていると話した。この時の視聴率は16.0%(関東地区・[[ビデオリサーチ]]調べ)。</ref><br />
* [[クイズ☆タレント名鑑]](2011年1月23日、TBS)<br />
* [[さんま&SMAP!美女と野獣のクリスマススペシャル]](2013年に出演、日本テレビ)<br />
* [[有吉反省会]](2014年1月5日、日本テレビ)<br />
* [[ヨソで言わんとい亭〜ココだけの話が聞ける(秘)料亭〜]](2015年11月12日、テレビ東京)<br />
* [[今夜解禁!ザ・因縁]](2017年3月31日、TBS)<br />
<br />
=== 映画 ===<br />
* 香港パラダイス(1990年、東宝)- 水沢かおり 役<br />
<br />
=== ラジオ ===<br />
* 相原勇・人生の達人(1991年4月-1993年3月 TBSラジオ) - DJ<br />
* 相原勇のBEBOP YOU(1991年4月 文化放送) - DJ <br />
* 今日は一日“バブル世代”三昧(2013年8月11日、NHK-FM) - MC<br />
<br />
=== CM ===<br />
* パフィ([[不二家]]、1985年)<br />
* [[ダイハツ・ロッキー]] - 「ボクはパワー」が[[コマーシャルソング|CMソング]]に使用された。(1990年)<br />
* サッポロ一番[[カップスター]]([[サンヨー食品]]、1993年)<br />
* [[愛知県]]麻薬・覚せい剤乱用防止キャンペーンCM(1993年)<br />
<br />
== 脚注・出典 ==<br />
{{脚注ヘルプ}}<br />
{{Reflist}}<br />
<br />
== 外部リンク ==<br />
* [http://ameblo.jp/you-aihara/ I Can Fly!!]-オフィシャルBlog<br />
* [http://www.bold7.jp/ BOLD] - 所属事務所<br />
<br />
{{先代次代|3代目[[ピーター・パン (ミュージカル)|ピーター・パン]]|(1993年〜1995年)|[[沖本富美代]]・[[沖本美智代]]|[[宮本裕子 (女優)|宮本裕子]]|}}<br />
{{三宅裕司のいかすバンド天国}}<br />
{{関口宏の東京フレンドパーク女性従業員}}<br />
{{DEFAULTSORT:あいはら ゆう}}<br />
[[Category:日本の女優]]<br />
[[Category:日本の女性歌手]]<br />
[[Category:日本のタレント]]<br />
[[Category:モモコクラブ]]<br />
[[Category:広島市出身の人物]]<br />
[[Category:1967年生]]<br />
[[Category:存命人物]]</div>
126.113.51.102
有吉佐和子
2018-07-19T04:16:16Z
<p>126.113.51.102: /* 人物 */ 油屋おこんの舞台化エピソード</p>
<hr />
<div>{{Infobox 作家<br />
| name = 有吉 佐和子<br />(ありよし さわこ)<br />
| image = Ariyoshi Sawako.jpg<br />
| caption = <small>主婦と生活社『主婦と生活』4月号(1960)より</small><br />
| birth_date = [[1931年]][[1月20日]]<br />
| birth_place = [[和歌山県]][[和歌山市]]真砂丁<br />
| death_date = {{死亡年月日と没年齢|1931|1|20|1984|8|30}}<br />
| death_place = [[東京都]][[杉並区]]<br />
| resting_place = [[小平霊園]]<br />
| occupation = [[小説家]]、[[劇作家]]、[[演出家]]<br />
| nationality = {{JPN}}<br />
| education = [[準学士]]<br />
| alma_mater = [[東京女子大学短期大学部]]英語科<br />
| period = [[1954年]] - [[1984年]]<br />
| genre = [[小説]]、[[戯曲]]・[[脚本]]<br />
| subject = <br />
| movement = <br />
| notable_works = 『[[紀ノ川 (小説)|紀ノ川]]』(1959年)<br />『[[華岡青洲の妻]]』(1967年)<br />『[[出雲の阿国 (小説) |出雲の阿国]]』(1969年-1972年)<br />『[[恍惚の人]]』(1972年)<br />
| awards = [[小説新潮賞]](1963年)<br />[[女流文学賞]](1967年)<br />[[文藝春秋読者賞]](1968年)<br />[[芸術選奨]](1970年)<br />[[日本文学大賞]](1970年)<br />[[毎日芸術賞]](1979年)<br />
| debut_works = 『落陽の賦(落陽)』<br />
| spouse = [[神彰]]([[1962年]] - [[1964年]])<br />
| children = [[有吉玉青]]<br />
}}<br />
'''有吉 佐和子'''(ありよし さわこ、[[1931年]]([[昭和]]6年)[[1月20日]] - [[1984年]](昭和59年)[[8月30日]])は、[[日本]]の[[小説家]]、[[劇作家]]、[[演出家]]。[[和歌山県]][[和歌山市]]出身。日本の歴史や古典芸能から現代の社会問題まで広いテーマをカバーし、読者を惹きこむ多くの[[ベストセラー]]小説を発表した。[[カトリック教会|カトリック]]教徒で、洗礼名はマリア=マグダレーナといった。代表作は『[[紀ノ川 (小説)|紀ノ川]]』、『[[華岡青洲の妻]]』、『[[恍惚の人]]』など。娘にエッセイストの[[有吉玉青]]がいる。正確には「吉」の字は下が長いのだが、小説を書いていた頃には活字がなかった<ref name="sobochan">有吉玉青『ソボちゃん』([[平凡社]][[2014年]])。</ref>。<br />
<br />
== 経歴 ==<br />
[[長州藩]]士[[有吉熊次郎]]は曽祖父にあたる。<br />
<br />
佐和子の母・秋津は明治37年([[1904年]])に和歌山の庄屋の家に生まれ、旧姓は木本といい、父親は政治家だった。たいそうな大女で結婚条件は自分より背が高いことだった。こうして[[横浜信用金庫]]に勤めていた180cmの[[東男]]・有吉眞次に嫁ぎ、お手伝いを連れて上京した。佐和子の身長は165cmあった<ref name="sobochan">有吉玉青『ソボちゃん』([[平凡社]][[2014年]])。</ref>。横浜正金銀行勤務の父の赴任に伴い、小学校時代を旧[[オランダ領東インド]]の[[バタヴィア]]および[[スラバヤ]]で過ごした。<br />
<br />
[[1941年]]に帰国後、東京市立第四高女(現・[[東京都立竹台高等学校|都立竹台高校]])から[[疎開]]先の和歌山高女(現・[[和歌山県立桐蔭中学校・高等学校|和歌山県立桐蔭高校]])へ。その後、[[光塩女子学院|光塩高女]]を経て、府立第五高女(現・[[東京都立富士高等学校|都立富士高校]])卒業。[[東京女子大学]]英文学科に入学したが休学後[[1952年]]同短期大学部英語学科卒業。[[大蔵省]]外郭団体の職員を経て舞踊家[[吾妻徳穂]]の秘書となる。<br />
<br />
大学在学中から演劇評論家を志望し、雑誌『[[演劇界]]』嘱託となる。同人誌『白痴群』、第15次『[[新思潮]]』に参加。[[1956年]]に『[[地唄 (小説)|地唄]]』が[[文學界新人賞]]候補、ついで[[芥川龍之介賞|芥川賞]]候補となり一躍[[文壇]]デビューを果たした。初期には主として日本の[[古典芸能]]を題材とした短編が多いが[[1959年]]、自らの家系をモデルとした長編『紀ノ川』で小説家としての地位を確立した。<br />
<br />
[[1962年]]、[[神彰]](興行師。有吉との離婚後、居酒屋チェーン「北の家族」経営者となる)と[[結婚]]。長女として[[有吉玉青]]をもうけるが神の事業の失敗により[[1964年]]に[[離婚]]した。[[1970年代]]に入ると代表作となる『[[恍惚の人]]』や『[[複合汚染]]』が大きな反響を呼び、いわゆる「社会派」的イメージが定着した。その流れの中で、第10期[[中央教育審議会]]委員に任命されたほか、[[参議院議員通常選挙|参院選]][[全国区]]に出馬した[[市川房枝]]の応援や、[[四畳半襖の下張事件|「四畳半襖の下張」裁判]]の弁護側[[証人]]として[[東京地方裁判所|東京地裁]]で証言するなどの社会的活動も行った。<br />
<br />
また有吉はしばしば国内外へ取材旅行に出かけ1959年から[[1960年]]にかけて[[ロックフェラー財団]]の奨学金を得て[[ニューヨーク州]]の[[サラ・ローレンス大学]]に9か月間留学、[[1970年]] - [[1971年]]には[[ハワイ大学システム|ハワイ大学]]で半年間「江戸後期の戯曲文学」を講義している。特に[[中国]]との縁が深く(後述)、[[1961年]]には[[亀井勝一郎]]らと国交回復前の[[中華人民共和国]]を訪問し、以後たびたび招待された。[[1965年]]には天主教(中国におけるカトリックを指す)調査のため半年滞在し<ref>[http://iss.ndl.go.jp/books/R000000004-I277290-00?locale=en 中国天主教--1965年の調査より]</ref>、[[1978年]]には『有吉佐和子の中国レポート』執筆のため[[人民公社]]に入っている。<br />
<br />
この他[[1968年]]には友人の[[文化人類学者]][[畑中幸子]]が調査中だった[[ニューギニア島|ニューギニア]]山中の村を訪れて『女二人のニューギニア』という爆笑エッセイを書いた。しかし、帰国後に[[マラリア]]に罹った。<br />
<br />
[[1984年]][[8月30日]]未明、急性[[心不全]]<ref name="higuchi">[[樋口毅宏]]、「[http://www.shinchosha.co.jp/shinkan/nami/other/610527.html 「笑っていいとも!」と有吉佐和子、三十年目の真実]」『[[新潮45]]』2014年1月号、[[新潮社]]、2014年1月18日閲覧。</ref><ref>[[山田風太郎]](『人間臨終図巻I』徳間書店、初版1986年、1996年再版、P304)と[[関川夏央]](「サーモスタットのない人生」角川ソフィア文庫版、P36)は死因について疑問を呈している。主治医の村嶋英世(現、医療法人ファミリー会村島医院院長)は取材に応じて病死としている</ref>のため東京都杉並区内の自宅で死去した。53歳没。[[東京都監察医務院]]で[[行政解剖]]され、「病死」と断定され、警察も「自殺などの事件性はないと断定」した。病名も「心機能不全による病死と断定」したことが翌日の新聞で報じられたが、「それでも、無責任な記事が出ます」という。祖父の眠る墓に入ったがただ一人キリスト教徒だったので、墓石の戒名のところに「マリア・マグダレナ」と洗礼名を刻むことになった<ref name="sobochan">有吉玉青『ソボちゃん』([[平凡社]][[2014年]])。</ref>。<br />
<br />
有吉の死後、[[妙法寺 (杉並区)|妙法寺]]([[東京都]][[杉並区]][[堀ノ内 (杉並区)|堀ノ内]])に『有吉佐和子の碑』が建立され、命日の8月30日に『有吉忌』と題する追善法要が執り行われている<ref>{{PDFLink|[http://www2.city.suginami.tokyo.jp/library/file/sg1689.pdf 妙法寺の碑]}} 広報すぎなみ(2004年8月21日号/No.1689) 7頁『散歩道』有吉玉青</ref>。<br />
<br />
== 主な作品 ==<br />
ストーリーテラーとしての才能と旺盛な好奇心をもち、多分野に亘る長期間の綿密な取材に基づいた作品を次々に発表して、同世代の女性を中心とする多くの読者を獲得した。主な作品をテーマ別に大きく分類すると以下の通りになる。<br />
<br />
; 出発点である古典芸能や[[花街|花柳界]]を扱った作品<br />
: 『断弦』『香華』『連舞』『乱舞』『一の糸』『芝桜』『木瓜の花』<br />
; 歴史に題材を取った作品<br />
: 『助左衛門四代記』『華岡青洲の妻』『出雲の阿国』『真砂屋お峰』『和宮様御留』<br />
; 特に激動の近代を生き抜いた女性の一生をたゆまず流れる川のイメージにオーバーラップさせる一連の「川もの」<br />
: 『紀ノ川』『有田川』『日高川』『鬼怒川』<br />
; 現代の社会矛盾に鋭い目を向けた作品<br />
: 現代化にゆれる離島の生活を採り上げた『私は忘れない』や『海暗』、人種差別問題に深く切り込んだ『非色』などから、[[認知症]]老人とその[[介護]]を描いた『[[恍惚の人]]』、化学合成物質が人体へ与える悪影響に警鐘を鳴らした『[[複合汚染]]』を経て、『有吉佐和子の中国レポート』『日本の島々、昔と今。』のような後期ルポルタージュにつながる。<br />
; 現代人の人間関係の機微をテーマにした作品<br />
: 夫の死後に正妻、妾と小姑の三人が一つ屋根の下に暮らすことになって起こるドタバタを通して老いを見つめた『三婆』、不倫を楽しむ男性の破滅を描く『不信のとき』、社宅団地に住む「奥さま」たちの生活を喜劇的に描いた『夕陽カ丘三号館』、次々と人手に渡っていく青磁の壺の持ち主の人間模様をオムニバス形式で追う『青い壺』、27人の関係者へのインタビューという形式によって一女性の虚実を浮かび上がらせる『悪女について』、演劇界のどろどろした内情をミステリータッチに描いた『開幕ベルは華やかに』などがある。<br />
<br />
有吉は演劇に造詣が深く、『ふるあめりかに袖はぬらさじ』などいくつかの戯曲作品があり、また自作小説を中心に脚本化や舞台演出も数多く手がけた。ベストセラーが多いため、作品はしばしば映画化・ドラマ化されている。<br />
<br />
== 文壇の評価と研究史 ==<br />
デビュー当初、有吉はマスコミからは[[曾野綾子]]とならぶ「才女」ともてはやされたが、[[芥川龍之介賞|芥川賞]]、[[直木三十五賞|直木賞]]とも候補に終わった(「才女」には才能のある女の意味だけでなく、それ以前の女性作家のような人生経験に基づいた作品ではなく、頭だけで書いている、という揶揄も含まれていた<ref>{{cite news|url=http://www.nhk.or.jp/r2bunka/ |publisher =NHKラジオアーカイブス 元文芸誌編集長大村彦次郎談}}</ref>)。『[[群像]]』編集長を務めた[[大久保房男]]は在任中有吉の作品を一度も掲載しなかった。また[[武田友寿]]や[[千頭剛]]など一部を除き、同時代の批評家をはじめとする文壇からは敬遠されていた。有吉本人の激しい気性も理由の一つであろうが、文学的にはその物語性の強さが私小説的純文学の気風に合わなかったことが早くから指摘されている。また、一見古風なテーマを好む伝統主義者のように見えるが、実際には伝統を外部から客観的に、時にはエキゾチシズムをもってながめる「外地育ち」「エトランゼ(異邦人)」の視線があるという評価も確立している。一方、歴史を題材とした作品(特に『華岡青洲の妻』『真砂屋お峰』)では史実と矛盾したところが多く見られるとして、歴史小説家からの評価は今なお厳しい。<br />
<br />
こうした中、1984年有吉の死去に際して[[橋本治]]は有吉文学に通底するモチーフを「女性があっけらかんと生きるのって素敵じゃない?」、つまり筋を通して働くことで男性の束縛から自立した女性の自由と誇りの擁護であると喝破し、これまでの批評家に見られない新しい筆致で肯定的に論じた<ref>橋本は同年『母子変容』[[講談社]]文庫版解説で初めて有吉作品を評し、最晩年の有吉はこの書評に感激して橋本と対談したが、公表された対談はこれが最後となった(「人生、見せ場づくり」『潮』1984年11月)。[[村上春樹]]との生前最後の対談は公表されていない。</ref>。<br />
<br />
没後、[[半田美永]]、[[宮内淳子]]をはじめ、学界の中で有吉を研究対象にする近代文学研究者が増えている。<br />
<br />
没後20年を記念して2004年に出版された井上謙・半田美永・宮内淳子編『有吉佐和子の世界』は複数の文学研究者が集まり、[[ポストコロニアル理論|ポストコロニアル批評]]などの新しいアプローチによって正面から有吉とその文学を追究した初めての単行本である。特に巻末の年譜と関連文献目録はこれまでで最も詳細である。<br />
<br />
1994年と2005年に[[関川夏央]]は有吉を論じ、その生き急いだ感のある一生を「サーモスタットのない人生」と評した。関川は後期作品(『複合汚染』『悪女について』『開幕ベルは華やかに』)に構成の破綻が見られると指摘しているほか、紀行文『女二人のニューギニア』と『有吉佐和子の中国レポート』を対比して、前者の明るさ、おもしろさと後者の焦燥感との落差の原因を「老い」に求め、また有吉の非私小説的作風が畑中幸子を描いた前者と自分自身の奮闘を描いた後者のできばえの差にあらわれていると書いている。<br />
<br />
これと関連して関川は、そもそも有吉には自分自身の内面を書く能力も意志もなく、自分と似た性格を持つ他の女性を外から観察して描くことにおいて卓抜さを発揮したのだと評している<ref>内面描写排除という評価自体は早くから(例えば進藤純孝「郷愁と脱皮の間〈有吉佐和子〉 『紀ノ川』をめぐって」『De Luxeわれらの文学15 阿川弘之・有吉佐和子』解説、講談社、1969年。宮内淳子『作家の自伝109 有吉佐和子』解説、2000年)あるが、それが能力の問題だと断定した論者は関川が初めてである。しかし『作家の自伝109 有吉佐和子』所収の初期随筆には生い立ちについて自己の内面的な観察を語る部分が見られる。一方後期の随筆には「理解は誤解だ」という評論家日沼倫太郎のことばがたびたび引用されており、内面的理解を言語化することへの懐疑がかいまみえる。</ref>が、有吉のこうした傾向は有吉の持つ「外地育ちの視線」と呼応している。「お嬢さま」「才女」「外地育ち」という有吉の位置は、いずれも対象を外部から分析的にとらえるアプローチに結びついており、精神の内省的な把握を重視する姿勢からは遠かった。しかし同時に、そうした「外部」からの視角をもったがゆえに、それまで「内部」では気付かれなかった斬新な論点を世に先駆けて提起することができたのである。<br />
<br />
== 人物 ==<br />
長州人エリートを父方に紀州の名家を母方にもつ「お嬢さま」で幼い頃から病弱であり、学校は休みがちで家で蔵書を乱読した。『孝経』の素読を受け、[[漢籍]]の素養があったことはあまり知られていない。理知的で頭の回転が速く、ものおじしない一方、喜怒哀楽と感情の起伏が激しかった。このような直情径行型の性格は、デビュー当時は「老人キラー」として肯定的に受け入れられていたが、中年期以降高名なベストセラー作家として丁重に扱われるようになると逆にマイナスに働き、ときに周囲との摩擦や衝突を引き起こした。また小説家として早くから成功したこと、その作風が文壇主流に認められなかったことから、心中には常にベストセラーを世に送ることで実績を誇示しつづけなければならないプレッシャーがあったと考えられる。<br />
<br />
[[藪内流]][[茶道]]をたしなみ、「青庵」の茶名をもっていた。[[和服]]を好み、外国訪問時には華やかな和装でしばしば周囲の注目を集めた。国交回復前の中国に日本の作家団として招待されたときにも、派手な服装の自粛をすすめられたにもかかわらず、華やかな着物で訪問して歓迎され、[[周恩来]]に「今日の私の着物の柄が牡丹(中国の国花)でなくて残念です」と言ったところ、周から「牡丹はあなた自身ですね」と返されている。しかしこうした日本文化への造詣は主として大学在学中に[[歌舞伎]]界への出入りを始めてからわずかの間に身につけたものである。<br />
<br />
『三婆』『恍惚の人』をはじめ、「老い」をとりあげた作品が多いが、自らの「老化」を語るとき「以前は一度辞書を引けばすぐ覚えられた英単語を忘れるようになった」ことを挙げている。その聡明さがしのばれる。<br />
<br />
なお、有吉の作品と人物を考える上で不可欠なのは母親秋津の存在である。代表作となった『紀ノ川』は秋津(文緒)と有吉(華子)自身との関係を含む母方の家系をモデルとした小説であるが、執筆のきっかけとなったのはマスコミの寵児であった有吉に秋津が言った「あなたが何を書いたというのか」のひとことであり、これを発表してすぐにアメリカへ留学したのも、マスコミから脱出して自分を見つめなおすためであった。また実生活でも、有吉の離婚後から生まれたばかりの孫の養育のために同居した秋津は、その後有吉の死まで実質的な秘書役を務め、作品の批評から資料の整理、常用薬の管理までを引き受けるなど、公私に亘ってその生活に大きな影響力をもっていた。<ref>玉青を含む3人の関係については丸川賀世子『有吉佐和子とわたし』に詳しい描写がある。</ref>「四畳半襖の下張裁判」に触発され、「ポルノグラフィーを書く」と宣言して連載を始めた『油屋おこん』が実質的な中断に終わった理由のひとつは、主人公の年齢が娘と同年であったこととならんで、秋津の反対があったからだといわれている。<br />
<br />
『油屋おこん』の新聞連載を[[小幡欣治]]が読み、有吉佐和子に舞台化を申し出ると「あれはミカンの小説。自分の著作集にも入れていないので困る。」と言われ、その後の話し合いで、「おこんとお鹿の設定を使いたいのなら、私(有吉)の名前は出さなくていいから自由におやりになって」と返事があり舞台化された<ref>2018年5月1日中日劇場(中日新聞文化芸能局)発行「中日劇場全記録」</ref>。<br />
<br />
== 『笑っていいとも!』テレビジャック事件 ==<br />
活躍の裏では、長く[[不眠症]]に苦しみ長編を書き終わる毎に体力を消耗して入院し、特に中年期以降の健康状態は心身共に安定していなかった。なおテレビにはデビュー当初、[[日本放送協会|NHK]]で放映された『[[私だけが知っている]]』にレギュラー出演していた事があるがそれ以降は執筆活動を優先して極力出演を避けていた。<br />
<br />
死の約2か月前である[[1984年]][[6月22日]]の[[金曜日]]、「[[森田一義アワー 笑っていいとも!|笑っていいとも!]]」の「[[テレフォンショッキング]]」に前日[[6月21日]]の木曜日に[[俳優]]の[[有島一郎]]から紹介され同番組に生涯唯一の出演を果たす。なお出演を承諾した理由の一つに「『テレフォンショッキング』に出ていないと娘([[有吉玉青]])に莫迦にされるから」だった<ref name=B>「誰が彼女を殺したか」</ref>。<br />
<br />
その同番組の本番中に発生した「『笑っていいとも!』テレビジャック事件」は大きな話題となった<ref name="higuchi" />。しかし、前日有吉に番組出演を依頼した有島を初め、橋本治(有吉の紹介で翌週の月曜出演)<ref name=B>「誰が彼女を殺したか」</ref>、[[池田満寿夫]]<ref name=A>「有吉佐和子ちょっといい話」『文藝春秋』1984年11月号。</ref>、[[筒井康隆]]<ref>『笑犬樓よりの眺望』新潮文庫、1996年7月。</ref>らはいずれも「痛々しくて見ていられなかった」と評している。また同番組で[[タモリ]]とのトーク中に有吉自身「不眠症が続いて毎日誘眠剤([[睡眠薬]])を服用しないと寝られないの」とも語っていた<ref name="higuchi" />。更にその後、有吉の訃報を伝えたマスコミは揃ってこの事件を有吉の奇行として大きく採り上げた。<br />
<br />
『[[爆笑問題の日曜サンデー]]』(2010年1月10日放送回)で有吉の特集が組まれ娘の玉青がゲスト出演した。その際に玉青は、この「テレビジャック事件」は番組側から頼まれてやった演出であった事を明かした。「母は一生懸命で真面目な人だから頑張った。途中でお客さんから[[ブーイング]]があったみたいだけど母は頼まれた事だからとやり通した」と振り返りその時の有吉の様子を「本当に可哀相だった」と述べている。また玉青は2013年に出版された『タモリ論』の中でこの出来事が取り上げられた際、事実誤認があると著者の[[樋口毅宏]]に抗議している。樋口は番組内での有吉を「みるからにイッちゃって」いたとし、その「暴走」ぶりに激高した[[明石家さんま]]がついには「死ねババア」とまで口走ったと記していたが、抗議を受けて映像を入手し検証したところ、番組内容が演出だったことの証拠となる箇所があり、また有吉は終始冷静かつ穏やかで、明石家さんまも「死ねババア」などという発言はしておらず、番組のエンディングにも登場した佐和子に対し「私きょう出てきてね、喋ったの『帰ってよ!』だけですよ。先生についていきます」と述べていた<ref name="archive">樋口毅宏[https://web.archive.org/web/20140201101303/http://www.shinchosha.co.jp/shinkan/nami/other/610527.html 「笑っていいとも!」と有吉佐和子、三十年目の真実](新潮45)</ref>。樋口は「全部、長い歳月を経ての妄想、そして幻想だった」として佐和子、玉青、さんまに謝罪し、「『有吉いいとも!事件』はなかったのだと、伝説を打ち止めにしたい」と述べた<ref name="archive" />。<br />
<br />
番組ジャックは有吉の数ヶ月前に[[黒柳徹子]]がやっていて、それも番組の演出だったと、のちに明かしているが、有吉の場合は時をおかずに亡くなったことがあり、「ネットでは人々の妄想が妄想をよび、事件と異なる情報が流布していることが、私としては悔しくてなりません」<ref name="sobochan">有吉玉青『ソボちゃん』([[平凡社]][[2014年]])。</ref>と述べている。<br />
<br />
== 交友関係 ==<br />
有吉は著名作家として交友関係は広かった。特に劇作家・演出家として[[水谷八重子 (初代)]]、[[山田五十鈴]]、[[草笛光子]]、[[宮城まり子]]、[[司葉子]]など演劇界・芸能界とは深い交流があった。また青年期の[[石原慎太郎]]は同世代作家([[芥川龍之介賞|芥川賞]]候補(その後受賞)となったのが有吉より1期前)として有吉に親愛感を抱いており、有吉の死去に際して「若い頃一緒にナイトクラブに行ったとき口説こうと思ったが彼女がニンニクを食べた後だったので辟易してあきらめた」と書いている<ref name=A>「有吉佐和子ちょっといい話」『文藝春秋』1984年11月号。</ref>。[[秦野章]]はマージャン友達で、有吉は秦野の著書<ref>秦野章『何が権力か。― マスコミはリンチもする』(講談社、1984年7月)ISBN 4062013762</ref>の帯に「彼は知恵の壺から出てきた男だ。かつて一度も間違ったことはない」という推薦文を寄せた。[[菅直人]]元首相は市川房枝の若者応援団のリーダーとして『複合汚染』冒頭に登場しているが、有吉は菅元首相が自分を房枝の代わりとして勝手に候補者にかつぎあげようとも考えていたと聞いてゾッとし、「ハンサムだけど嫌われなければならない」と思いつめてことさらにガミガミ怒鳴りつけたと記している。[[阿川弘之]]とは古くから親交があり、二人を一巻にまとめて収録している文学全集が複数あるが、阿川自身は有吉の生前からエッセイでかなり手厳しい人物評を書いており、娘の[[阿川佐和子]]の名を有吉からとったという風評をくりかえし否定している。<br />
<br />
国外で関係の深かった中国では[[老舎]]や[[夏衍]]、[[謝冰心]]など作家の他、政府要人、特に[[廖承志]]と親しく、また[[唐家セン|唐家{{Lang|zh|璇}}]]は1965年の有吉滞在時に通訳を務め、『有吉佐和子の中国レポート』では「唐少年」と呼ばれている。[[老舎]]の妻と娘は『[[人民日報]]』に有吉の追悼文を寄稿している<ref>{{lang|zh|胡絜青、舒乙《有吉佐和子,你走得太早}}(有吉佐和子、あなたは逝くのが早すぎた){{lang|zh|》}}『人民日報』1984年10月9日。</ref>。<br />
<br />
== 受賞歴 ==<br />
* 1957年 「石の庭」(テレビドラマ脚本/日本放送協会/大阪中央放送局)で第12回[[芸術祭 (文化庁)|芸術祭]]テレビ部門奨励賞<ref>[http://www.bunka.go.jp/seisaku/geijutsubunka/jutenshien/geijutsusai/pdf/s31_s40.pdf 文化庁芸術祭賞受賞一覧 昭和31年度(第11回)~昭和40年度(第20回)]</ref><br />
* 1958年 「ほむら」([[義太夫節|義太夫]]の作詞/日本放送協会大阪中央放送局)で第13回芸術祭音楽部門芸術祭賞<br />
* 1963年 『香華』で第1回婦人公論<ref>[http://www.chuko.co.jp/fujinkoron/ 婦人公論]</ref>([[中央公論新社]])読者賞、第10回[[小説新潮賞]]<ref>[http://prizesworld.com/prizes/novel/sssc.htm 小説新潮賞受賞作・候補作一覧1-14回]</ref><br />
* 1964年 『香華』で第1回マドモアゼル([[小学館]]/9巻3号(1968.3)以後休刊)<ref>[https://ci.nii.ac.jp/ncid/AA11428005 マドモアゼル 小学館]</ref>読者賞<br />
* 1967年 『華岡青洲の妻』で第6回[[女流文学賞]]<br />
* 1968年 『海暗』で第29回[[文藝春秋読者賞]]<ref>[http://prizesworld.com/prizes/etc/bsdk.htm 文藝春秋読者賞]</ref><br />
* 1968年 『出雲の阿国』で第6回婦人公論読者賞<br />
* 1970年 『出雲の阿国』で第20回[[芸術選奨文部大臣賞]]<ref>[http://prizesworld.com/prizes/various/snsh_bngk.htm 芸術選奨文部大臣賞(文学部門)受賞者一覧]</ref><br />
* 1970年 『出雲の阿国』で第2回[[日本文学大賞]]<ref>[http://prizesworld.com/prizes/various/nbug.htm 日本文学大賞受賞作候補作一覧]</ref><br />
* 1979年 『和宮様御留』で第20回[[毎日芸術賞]]<br />
<br />
== 作品・著書 ==<br />
* 落陽の賦(1954年、処女作。1961年に「落陽」と改題)<br />
* [[地唄 (小説)|地唄]](1956年。本来は長編『断弦』の一部)<br />
* 処女連祷 三笠書房 1957 のち集英社文庫<br />
* まつしろけのけ 文藝春秋社 1957<br />
* 断弦 大日本雄弁会講談社 1957 のち文春文庫<br />
* 花のいのち 小説・[[林芙美子]] 中央公論社 1958<br />
* ずいひつ 新制社 1958<br />
* 美っつい庵主さん 新潮社 1958 のち文庫<br />
* げいしゃわるつ・いたりあの 中央公論社 1959<br />
* 江口の里 中央公論社 1959 のち文庫<br />
* [[紀ノ川 (小説)|紀ノ川]] 中央公論社 1959 のち文庫、角川文庫、新潮文庫<br />
* こぶとりじいさん 伊東万燿絵 講談社 1959 (講談社の絵本)<br />
* 私は忘れない 中央公論社 1960 のち新潮文庫<br />
* 祈祷 講談社 1960<br />
* 新女大学 中央公論社 1960<br />
* 有吉佐和子集 筑摩書房 1961 (新鋭文学叢書)<br />
* [[三婆]] 新潮社 1961 のち文庫、「地唄・三婆」講談社文芸文庫<br />
* ほむら 講談社 1961<br />
* 女弟子 中央公論社 1961<br />
* 更紗夫人 集英社 1962 のち文庫<br />
* 閉店時間 講談社 1962<br />
* 雛の日記 文藝春秋新社 1962<br />
* 脚光 講談社 1962<br />
* [[香華]] 中央公論社 1962 のち新潮文庫<br />
* 若草の歌 集英社 1963<br />
* [[連舞]] 集英社 1963 のち文庫<br />
* 助左衛門四代記 文藝春秋新社 1963 のち新潮文庫<br />
* 有田川 講談社 1963 のち角川文庫<br />
* 仮縫 集英社 1963 のち文庫<br />
* つるの恩返し 講談社 1964 (講談社のマザー絵本)<br />
* [[非色]] 中央公論社 1964 のち角川文庫<br />
* [[ぷえるとりこ日記]] 文藝春秋新社 1964 のち角川文庫、岩波文庫<br />
* 女館 講談社 1965<br />
* [[一の糸]] 新潮社 1965 のち文庫<br />
* [[日高川 (小説)|日高川]] 文藝春秋新社 1966<br />
* ライオンのめがね 熊田千佳慕絵 講談社 1966 (講談社の絵本)<br />
* 乱舞 集英社 1967 のち文庫<br />
* [[華岡青洲の妻]] 新潮社 1967 のち文庫<br />
* 地唄 新潮文庫 1967<br />
* [[不信のとき]] 新潮社 1968 のち文庫<br />
* 海暗 文藝春秋 1968 のち新潮文庫<br />
* 新潮日本文学 有吉佐和子集 新潮社 1968<br />
* かみながひめ [[秋野不矩]]絵 ポプラ社 1969 (むかしむかし絵本)<br />
* 女二人のニューギニア 朝日新聞社 1969 のち文庫<br />
* [[出雲の阿国 (小説)|出雲の阿国]] 中央公論社 1969-72 のち文庫<br />
* ふるあめりかに袖はぬらさじ 中央公論社 1970 のち文庫<br />
* [[芝桜]] 新潮社 1970 のち文庫<br />
* [[夕陽カ丘三号館|夕陽ヵ丘三号館]] 新潮社 1971 のち文春文庫<br />
* 針女 新潮社 1971 のち文庫<br />
* [[恍惚の人]] 新潮社 1972 のち文庫<br />
* 日本の文学 阿川弘之・庄野潤三・有吉佐和子 中央公論社 1973<br />
* 孟姜女考 新潮社 1973<br />
* [[木瓜の花]] 新潮社 1973 のち文庫<br />
* 真砂屋お峰 中央公論社 1974 のち文庫<br />
* 母子変容 講談社 1974 のち文庫<br />
* [[複合汚染]] 新潮社 1975 のち文庫<br />
* [[鬼怒川 (小説)|鬼怒川]] 新潮社 1975 のち文庫<br />
* 筑摩現代文学大系 芝木好子・有吉佐和子集 筑摩書房 1976<br />
* 青い壷 文藝春秋 1977 のち文庫<br />
* 複合汚染その後 潮出版社 1977<br />
* [[和宮様御留]] 講談社 1978 のち文庫<br />
* [[悪女について]] 新潮社 1978 のち文庫<br />
* 有吉佐和子の中国レポート 新潮社 1979 のち文庫<br />
* 日本の島々、昔と今 集英社 1981 のち文庫、中公文庫、岩波文庫<br />
* [[開幕ベルは華やかに]] 新潮社 1982 のち文庫<br />
* 有吉佐和子と七人のスポーツマン エキサイティングなヒーローたちの語りは男のアンソロジー 潮出版社 1984<br />
<br />
=== 戯曲・脚本 ===<br />
* 石の庭(1957年): テレビドラマ:1957年NHK大阪<br />
* ふるあめりかに袖はぬらさじ -亀遊の死(1970年)<br />
* 山彦ものがたり(1975年)<br />
<br />
=== 翻訳 ===<br />
* ダニエル・ベリガン『[[ケイトンズヴィル事件の九人]]』(戯曲、エリザベス・ミラーと共訳、1972年)<br />
* ブノワット・グルー『最後の植民地』(カトリーヌ・カドゥと共訳、1979年)<br />
<br />
=== 選集 ===<br />
* 有吉佐和子選集(全13巻、新潮社、1970-71年)<br />
* 有吉佐和子選集第二期(全13巻、新潮社、1977-78年)<br />
<br />
=== 外国語訳 ===<br />
* 暗流(海暗)梅韬譯 香港 七十年代雜誌社 1974<br />
* 有吉佐和子小说选 文洁若 叶渭渠译 北京 人民文学出版社 1977<br />
* 恍愡的人 秀豐 渭慧譯 香港 朝陽出版社 1978<br />
* The Doctor’s Wife(華岡青洲の妻)[[広中和歌子]]、Ann Siller Kostant訳、講談社インターナショナル、1978<br />
* The River Ki(紀ノ川)Mildred Tahara訳、講談社インターナショナル、1980<br />
* The Twilight Years(恍惚の人)Mildred Tahara訳、講談社インターナショナル 1984<br />
* The Kabuki Dancer(出雲の阿国)James R. Brandon訳 講談社インターナショナル 1994<br />
<br />
== 映画化・テレビドラマ化リスト ==<br />
''注:初出発表年順''<br />
<br />
; 処女連祷(1957年)<br />
: テレビドラマ:1958年日本テレビ系<br />
; 美っつい庵主さん(うっついあんじゅさん)(1957年)<br />
: 映画:1958年日活「美しい庵主さん」<br />
; 更紗夫人(1958年)<br />
: テレビドラマ:1967年NHK<br />
; [[紀ノ川 (小説)|紀ノ川]](1959年)<br />
: 映画:1966年松竹「紀ノ川 ─花の巻・文緒の巻」<br />
: テレビドラマ:1964年NHK<br />
; 私は忘れない(1959年)<br />
: 映画:1960年松竹<br />
; 新女大学(1959年)<br />
: 映画:1960年東宝「新・女大学」<br />
; [[香華]](1961-62年)<br />
: 映画:1964年松竹<br />
: テレビドラマ:1965年NET系、1969年フジテレビ系<br />
; [[三婆]](さんばば)(1961年)<br />
: テレビドラマ:1961年TBS系、1974年NET系、1978年TBS系、1985年フジテレビ系、1989年TBS系、1991年-93年テレビ東京系<br />
; 閉店時間(1961年)<br />
: 映画:1962年大映<br />
; 助左衛門四代記(1962年)<br />
: テレビドラマ:1968年TBS系<br />
; 仮縫(1963年)<br />
: 映画:1969年東宝「華麗なる闘い」<br />
: テレビドラマ:1977年NHK<br />
; [[一の糸]](1964-65年)<br />
: テレビドラマ:1969年NHK<br />
; 日高川(1965年)<br />
: テレビドラマ:詳細不明<br />
; 乱舞(みだれまい)(1966-67年)<br />
: テレビドラマ:1969年フジテレビ系<br />
; [[華岡青洲の妻]](1966年)<br />
: 映画:1967年大映 監督:[[増村保造]] 脚本:[[新藤兼人]]<br />
: テレビドラマ:1967年NET系、1973年TBS系、2005年NHK「[[木曜時代劇]]」<br />
; [[出雲の阿国 (小説)|出雲の阿国]](1967-69年)<br />
: テレビドラマ:1973年NET系、1980年日本テレビ系、2006年NHK「出雲の阿国」<br />
; [[不信のとき]](1967年)<br />
: 映画:1968年大映<br />
: テレビドラマ:1968年TBS系、1978年フジテレビ系、1984年フジテレビ系、2006年フジテレビ系『[[不信のとき〜ウーマン・ウォーズ〜]]』<br />
; 海暗(うみくら)(1967年)<br />
:<br />
; [[芝桜 (小説)|芝桜]](1969-70年)<br />
: テレビドラマ:1970年フジテレビ系<br />
; 針女(しんみょう)(1969-70年)<br />
: テレビドラマ:1972年NHK<br />
; [[夕陽カ丘三号館]](1970年)<br />
: テレビドラマ:1971年TBS系<br />
; [[恍惚の人]](1972年)<br />
: 映画:1973年東宝<br />
: テレビドラマ:2006年日本テレビ系<br />
; [[木瓜の花]](ぼけのはな)(1972-73年)<br />
: テレビドラマ:1983年日本テレビ系<br />
; 母子変容(1973年)<br />
: テレビドラマ:1989年フジテレビ系<br />
; [[和宮様御留]](かずのみやさまおとめ)(1977-78年)<br />
: テレビドラマ:1981年フジテレビ系、1991年テレビ朝日系<br />
; [[悪女について]](1978年)<br />
: テレビドラマ:1978年テレビ朝日系、2012年TBS系<br />
; 開幕ベルは華やかに(1982年)<br />
: テレビドラマ:1983年テレビ朝日系、2002年テレビ東京系<br />
<br />
== 脚注 ==<br />
{{脚注ヘルプ}}<br />
{{reflist|2}}<br />
<br />
== 参考文献 ==<br />
* 千頭剛『有吉佐和子 『家』に生きる人々を書く作家』(汐文社、1975年1月)<br />
* 『面白半分7月臨時増刊号 全特集有吉佐和子』(1976年6月)<br />
* 橋本治「誰が彼女を殺したか」(初出『月刊カドカワ』1984年11月号)『恋愛論』(講談社文庫、1986年)所収 ISBN 4061837907<br />
* 有吉玉青『身がわり 母・有吉佐和子との日日(にちにち)』(初出1989年。新潮社文庫、1992年3月)ISBN 4101132704<br />
* 丸川賀世子『有吉佐和子とわたし』(文藝春秋、1993年7月) ISBN 4163477802<br />
* 宮内淳子・橋本治寄稿『有吉佐和子 新潮日本文学アルバム71』(新潮社、1995年5月) ISBN 4106206757<br />
* 関川夏央「サーモスタットのない人生」荒俣宏編『知識人99人の死に方』(初出1994年。角川ソフィア文庫、2000年10月)所収 ISBN 404169034X<br />
* 佐伯彰一・松本健一監修、有吉佐和子著、宮内淳子編『作家の自伝109 有吉佐和子』(日本図書センター、2000年11月)ISBN 4820595555<br />
* 井上謙・半田美永・宮内淳子編『有吉佐和子の世界』(翰林書房、2004年10月) ISBN 4877371931<br />
* 関川夏央「有吉佐和子的人生」(初出2005-06年)『女流 林芙美子と有吉佐和子』(集英社、2006年9月)所収 ISBN 4087748189<br />
<br />
== 外部リンク ==<br />
* [http://www.lib.city.wakayama.wakayama.jp/wkclib_doc/ariyoshi.htm 有吉佐和子文庫] - [[和歌山市民図書館]]には蔵書の一部を寄贈した「有吉佐和子文庫」がある。<br />
* [http://www.yakuyoke.or.jp/p_facilities.html 妙法寺諸堂案内] - 杉並区の[[妙法寺 (杉並区)|堀之内妙法寺]]境内に「有吉佐和子の碑」があり、命日には「有吉忌」が営まれる。<br />
<br />
{{毎日芸術賞}}<br />
{{normdaten}}<br />
{{DEFAULTSORT:ありよし さわこ}}<br />
[[Category:有吉佐和子|*]]<br />
[[Category:日本の小説家]]<br />
[[Category:日本の劇作家]]<br />
[[Category:日本の演出家]]<br />
[[Category:帰国子女]]<br />
[[Category:日本のカトリック教会の信者]]<br />
[[Category:東京女子大学出身の人物]]<br />
[[Category:和歌山県出身の人物]]<br />
[[Category:1931年生]]<br />
[[Category:1984年没]]</div>
126.113.51.102
ハムレット
2018-07-19T03:24:32Z
<p>126.113.51.102: /* 日本における舞台化 */ ミュージカル脚本の加筆</p>
<hr />
<div>{{Otheruses}}<br />
[[ファイル:William Shakespeare.JPG|thumb|right|250px|舞台とされたデンマークの[[クロンボー城]]内に掲げられている「ハムレット」の石版(2005.08)]]<br />
{{Portal 文学}}<br />
<br />
『'''ハムレット'''』(''Hamlet'')は、[[ウィリアム・シェイクスピア|シェイクスピア]]作の[[悲劇]]。5幕から成り、1600年から1602年頃に書かれたと推定される。正式題名は「デンマークの王子ハムレットの悲劇」(''The Tragedy of Hamlet, Prince of Denmark'')。4000行を超え、シェイクスピアの[[戯曲]]の中で最も長い。<br />
<br />
[[デンマーク]]王子[[ハムレット (キャラクター)|ハムレット]]が、父を殺し母を奪い王位を簒奪した叔父を討ち、復讐を果たす。シェイクスピアの四大悲劇の一つ。[[サミュエル・テイラー・コールリッジ|コールリッジ]]による「悩める知識人」像が一般的だが、近年では「行動人ハムレット」という解釈も有力である。<br />
<br />
ハムレットの話は、同時代に[[トマス・キッド]]が『スペインの悲劇』という似た話を書いており、少なからずその影響を受けたといわれている。また、この話は北欧伝説が下敷きになっており、[[12世紀]]末に[[サクソ・グラマティクス]]が編纂した『[[デンマーク人の事績]]』(''Gesta Danorum'')に、モデルになった[[アムレート]](''Amleth''<!--ラテン名Amletus-->)の武勇が伝えられている。<!--また『デンマーク人の事績』が書かれた経緯と、彼の登場するエピソードを伝説の成立は更に時代を遡ると考えられる。--><br />
<br />
== 登場人物 ==<br />
*ハムレット(Hamlet):デンマーク王国の王子。<br />
*ガートルード(Gertrude):ハムレットの母。クローディアスと再婚している。<br />
*クローディアス(Claudius):ハムレットの叔父。ハムレットの父の急死後にデンマーク王位についている。<br />
*先王ハムレットの亡霊(King Hamlet, the Ghost):先代のデンマーク王。ハムレットの父。クローディアスの兄。<br />
*ポローニアス(Polonius):デンマーク王国の侍従長。王の右腕。<br />
*レアティーズ(Laertes):ポローニアスの息子。オフィーリアの兄。<br />
*[[オフィーリア]](Ophelia):ハムレットの恋人。ポローニアスの娘。<br />
*ホレイショー(Horatio):ハムレットの親友。<br />
*[[ローゼンクランツとギルデンスターン]](Rosencrantz and Guildenstern):ハムレットの学友。<br />
*フォーティンブラス(Fortinbras):[[ノルウェー]]王国の王子。<br />
*オズリック(Osric):廷臣。ハムレットとレアティーズの剣術試合で審判を務める。<br />
<br />
== あらすじ ==<br />
デンマーク王が急死する。王の弟クローディアスは王妃と結婚し、跡を継いでデンマーク王の座に就く。父王の死と母の早い再婚とで憂いに沈む王子ハムレットは、従臣から父の亡霊が夜な夜な[[ヘルシンゲル|エルシノア]]の城壁に現れるという話を聞き、自らも確かめる。父の亡霊に会ったハムレットは、実は父の死はクローディアスによる毒殺だったと告げられる。<br />
<br />
復讐を誓ったハムレットは狂気を装う。王と王妃はその変貌ぶりに憂慮するが、宰相ポローニアスは、その原因を娘オフィーリアへの実らぬ恋ゆえだと察する。父の命令で探りを入れるオフィーリアを、ハムレットは無下に扱う。やがて、王が父を暗殺したという確かな証拠を掴んだハムレットだが、母である王妃と会話しているところを隠れて盗み聞きしていたポローニアスを、王と誤って刺殺してしまう(「ねずみかな」という台詞があるが、本当にねずみと思っていたわけではない)。オフィーリアは度重なる悲しみのあまり狂い、やがて溺死する。ポローニアスの息子レアティーズは、父と妹の仇をとろうと怒りを燃やす。<br />
<br />
ハムレットの存在に危険を感じた王はレアティーズと結託し、毒剣と毒入りの酒を用意して、ハムレットを[[西洋剣術|剣術]]試合に招き、秘かに殺そうとする。しかし試合のさなか、王妃が毒入りとは知らずに酒を飲んで死に、ハムレットとレアティーズ両者とも試合中に毒剣で傷を負う。死にゆくレアティーズから真相を聞かされたハムレットは、王を殺して復讐を果たした後、事の顛末を語り伝えてくれるよう親友ホレイショーに言い残し、死んでいく。<br />
<br />
== 構成 ==<br />
[[ファイル:Sir John Everett Millais 003.jpg|thumb|300px|[[オフィーリア (絵画)|オフィーリア]] [[ジョン・エヴァレット・ミレー]]画([[1852年]]・[[テート・ギャラリー]]収蔵)]]<br />
*第一幕<br />
** 第一場 - [[クロンボー城|エルシノア城]]。その前の防壁の上。<br />
** 第二場 - 城内。国務の間。<br />
** 第三場 - ポローニアスの館。その一室。<br />
** 第四場 - 防壁の上。<br />
** 第五場 - 防壁の上、別の場所。<br />
*第二幕 <br />
** 第一場 - ポローニアスの館。その一室<br />
** 第二場 - 城内の一室。<br />
* 第三幕<br />
** 第一場 - 城内の一室。<br />
** 第二場 - 城内の大広間。<br />
** 第三場 - 城内の一室。<br />
** 第四場 - ガートルード妃の部屋。<br />
* 第四幕<br />
** 第一場 - ガートルード妃の部屋。<br />
** 第二場 - 城内の一室。<br />
** 第三場 - 城内の、別の一室。<br />
** 第四場 - ガートルード妃の部屋。<br />
** 第五場 - 城内の一室。<br />
** 第六場 - 城内の、別の一室。<br />
** 第七場 - 城内の、別の一室。<br />
* 第五幕<br />
** 第一場 - 墓地。<br />
** 第二場 - 城内の大広間。<br />
<br />
== 原書 ==<br />
ハムレットには三つの異なる印刷原本が存在しており、二つの四折版(quatro)をQ1とQ2、もう一つの[[ファースト・フォリオ|二折版]](folio)をF1と呼ぶ。<br />
*Q1(1603年、約2150行):短縮版を役者の記憶に基づき再現(マーセラス役の俳優を買収か?)した海賊版とされているが、現在では真正であり、Q2の原型ではないかと考えられている([[安西徹雄]]の訳により[[光文社]] から[[2010年]]に出版されている(ISBN 4334752012))。<br />
*Q2(1604年 - 1605年、約3700行):草稿版。真正かつ完全なる原稿であり、海賊版に対抗して(現在の説ではQ1の改訂版として)出版された。<br />
*F1(1623年、Q2の230行を削り、80行追加):演出台本版。劇団保管の演出台本にQ2を参考にして制作された。<br />
<br />
== 有名な台詞 ==<br />
;{{lang|en|Frailty, thy name is woman.}}<br />
:これは、ハムレットが夫の死後すぐに義理の弟であるクローディアスと再婚した母・ガートルードに対する批難の台詞である。日本語では、[[坪内逍遥]]などが「弱き者よ、汝の名は女」と訳したものが有名である。しかし、この訳文では弱き者とは即ち保護すべき対象を指し、[[レディーファースト]]の意と誤解をしばしば招くことがあり、坪内も後に「弱き者」を「脆(もろ)き者」と再翻訳している。なお、この台詞は当時の男性中心社会の中で、女性の貞操観念のなさ、社会通念への不明(当時のキリスト教社会では、義理の血縁との結婚は[[近親相姦]]となり[[タブー]]であった)などがどのように捉えられていたかを端的に表す言葉としても有名である。また、語呂の良さから、様々な場所で引用の対象とされる(例:[[松原正]]作の戯曲『脆きもの、汝の名は日本』)。<br />
;{{lang|en|To be, or not to be}}<br />
:これは劇中で最も有名な台詞である。明治期に『ハムレット』が日本に紹介されて以来、この台詞は様々に訳されてきた。『ハムレット』は、読む者の視点によって多様に解釈できる戯曲であるが、この現象はその特徴を端的に現していると言える。この台詞は有名ではあるが、訳すのが非常に困難だとされている。「{{lang|en|To be or not to be, that is the question.}}」という文は、この劇全体からすれば、「(復讐を)すべきかすべきでないか」というようにもとれる。しかし、近年の訳では「生きるべきか死ぬべきか」という訳が多い。初期の日本語訳の代表的なものには、坪内逍遥の「世にある、世にあらぬ、それが疑問ぢゃ」(1926年)などがある<ref>上記、河合祥一郎訳の角川文庫版巻末に添えられた解説にこの台詞の諸訳が年代順に40近く列挙されている。<!-- 注意! 著作権の問題を避けるため近年の訳を掲載しないようにしてください。 --><!-- 疑問? この程度の短い引用は許されるはずだと思いますが…… by 注の加筆者 --><!--他に、「生きるべきか、死ぬべきか、それが問題だ」2003年、河合祥一郎(『新訳 ハムレット』角川文庫)などがあり、To be, or not to be: that is the question.というたった一文に対して、翻訳者ごとに異なった40以上もの翻訳文が提示されている。上記脚注と内容が重複--><!--最も適した解釈と翻訳は、どの様であるかが、ノートハムレットで議論されています。ノートページの話を直接本文に書いてはいけません--></ref>。<br />
;{{lang|en|Get thee to a nunnery!}}<br />
:これは、ハムレットがオフィーリアに向かって言った台詞であり、特に論議を呼ぶ場面を構成する。大きく分けて二つの解釈がある。<br />
:*当時、尼寺では[[売春]]が行われており、[[隠語]]で淫売屋を表現する言葉だった。ハムレットはオフィーリアに単に「世を捨てろ」と言っただけでなく、「[[娼婦|売春婦]]にでもなれ」と罵ったのである。<br />
:*文字通り、俗世間を離れ女子[[修道院]](尼僧院)に入ってほしいと願った。この場面では、ポローニアスがハムレットを背後で伺っているが、オフィーリアには穢れた政治に関わらず昔のままに清らかな存在でいて欲しいと願った。<br />
:尼寺を単純に「売春宿」と解釈するかしないか、については研究者の間でも議論があり、決着がついているわけではない。ただし、「尼寺」を「売春宿」と解釈する研究者は少数派と言われている。<br />
<br />
== 映画 ==<br />
;[[ハムレット (1948年の映画)|1948年版]]<br />
:[[ローレンス・オリヴィエ]]が監督し、自らハムレットを演じている。[[モノクロ]]で重厚な雰囲気。不朽の名作と言われる。共演は[[ジーン・シモンズ (女優)|ジーン・シモンズ]]、[[ベイジル・シドニー]]、[[アイリーン・ハーリー]]、[[ピーター・カッシング]]、[[クリストファー・リー]]。音楽は[[ウィリアム・ウォルトン]]。<br />
;[[悪い奴ほどよく眠る]](1960年)<br />
:[[黒澤明]]監督作品。厳密には別の映画だが、ハムレットの内容を下地にしているのは明らかである。日本の昭和時代が舞台。<br />
;[[ハムレット (1964年の映画)|1964年版]]<br />
:[[グレゴリー・コージンツェフ]]監督による[[ソビエト連邦|ソ連]]映画。[[ヴェネツィア国際映画祭]]で審査員特別賞を受賞し、イギリス版をしのぐと評判になった。日本では長い間観ることが難しかったが、現在はDVDが発売されている。音楽は[[ドミートリイ・ショスタコーヴィチ]]による。<br />
;[[ハムレット (1969年の映画)|1969年版]] [[ヒロイン]]に[[マリアンヌ・フェイスフル]]を起用<br />
;[[ハムレット (1990年の映画)|1990年版]]<br />
:[[フランコ・ゼフィレッリ]]監督。ハムレットを演じたのは[[メル・ギブソン]]。[[ヘレナ・ボナム=カーター]]、[[グレン・クローズ]]、[[イアン・ホルム]]、[[ピート・ポスルスウェイト]]共演。<br />
; [[ハムレット (1996年の映画)|1996年版]]<br />
:[[ケネス・ブラナー]]が監督し、自らハムレットを演じている。舞台は中世ではなく19世紀のデンマーク王国に置き換えられ、劇中では[[産業革命]]の産物である蒸気機関車が出てくるシーンがあるものの、シェイクスピアの世界を豪華に、また台詞を1つもカットせずに4時間にわたって描き出した。共演は[[ケイト・ウィンスレット]]他、豪華キャストが出演。<br />
; [[ハムレット (2000年の映画)|2000年版]]<br />
:[[マイケル・アルメレイダ]]監督作品。舞台を現代の[[ニューヨーク]]に移し、デンマーク王国も[[マルチメディア]]企業に置き換えられているが、台詞はそのままとなっている。ハムレットは[[イーサン・ホーク]]が演じている。[[ジュリア・スタイルズ]]、[[カイル・マクラクラン]]共演。<br />
; [[女帝 [エンペラー]]](2006年)<br />
:馮小剛監督による香港・中国の合作映画。[[チャン・ツィイー]]主演で中国王朝時代に置き換え、主人公をガートルート側に置いている。<br />
<br />
== クラシック音楽==<br />
* [[ドメニコ・スカルラッティ]]:オペラ『ハムレット』<br />
* [[アンブロワーズ・トマ]]:オペラ『[[ハムレット (オペラ)|ハムレット]]』([[1868年]])<br />
* [[フランツ・リスト]]:交響詩『ハムレット』<br />
* [[ピョートル・チャイコフスキー|チャイコフスキー]]:幻想序曲『[[ハムレット (チャイコフスキー)|ハムレット]]』、劇付随音楽『ハムレット』<br />
* [[セルゲイ・プロコフィエフ|プロコフィエフ]]:劇付随音楽『ハムレット』<br />
* [[ドミートリイ・ショスタコーヴィチ|ショスタコーヴィチ]]:劇付随音楽『ハムレット』<br />
* [[アルフレッド・リード]]:「ハムレット」への音楽<br />
* [[フランコ・ファッチョ]]:『アムレット』<br />
<br />
== 漫画 ==<br />
* [[みなもと太郎]]:『ハムレット』<br />
**{{Jコミ|43841}}(外部リンク)<br />
* [[聖悠紀]]:『ハムレット』新書館 ペーパームーンコミックス<br />
<br />
== 日本における舞台化 ==<br />
{{節スタブ}}<br />
* 人形劇団クラルテ公演「ハムレット」(2001年初演・2017年再演)<br />
<br />
* [[宝塚歌劇団]]公演『[[ハムレット (宝塚歌劇)|ハムレット]]』([[1949年]]初演)<br />
** [[堀正旗]]の作・演出にて、[[雪組]]と[[花組]]で上演。<br />
** 花組の上演では、ハムレット役を[[越路吹雪]]、オフィーリア役を[[新珠三千代]]が務めた。<br />
** [[鴨川清作]]の作・演出にて、[[1969年]]に[[雪組]]で上演。<br />
** 鴨川版では、ハムレット役を[[真帆志ぶき]]、オフィーリア役を[[大原ますみ]]が務めた。<br />
* [[劇団四季]]公演『ハムレット』([[1968年]]初演)<br />
** [[福田恆存]]が翻訳、[[浅利慶太]]が演出を担当。オフィーリアの歌の作詞に[[岩谷時子]]が担当。<br />
** 1968年に初演。以降、たびたび再演されている、劇団四季の演目の一つ。<br />
* [[蜷川幸雄]]演出『ハムレット』([[1978年]]初演)<br />
** 蜷川は、1978年にハムレットの演出を手掛けて以降、脚本・演出を替えて再演されている。<br />
** [[1998年]]の再演では、ハムレット役を[[真田広之]]、オフィーリア役を[[松たか子]]が務めた。<br />
** [[2001年]]の再演では、ハムレット役を[[市村正親]]、オフィーリア役を[[篠原涼子]]が務めた。<br />
** [[2003年]]・[[2004年]]の再演では、ハムレット役を[[藤原竜也]]、オフィーリア役を[[鈴木杏]]が務めた。<br />
** [[2015年]]の再演では、ハムレット役を藤原竜也、オフィーリア役を[[満島ひかり]]が務めた。<br />
<br />
* [[ク・ナウカ]]公演『ハムレット』([[1990年]])<br />
** [[宮城聰]]が演出。[[青山円形劇場]]で上演された。<br />
<br />
* ROCK OPERA『HAMLET』-To be or not to be -([[1993年]])<br />
** ハムレット役を[[TOSHI]]、オフィーリア役を[[守谷香|守純かほり]]、他に[[ローリー寺西]]、[[デーモン小暮]]、[[聖飢魔II]]、[[劇団☆新感線]]、[[松岡英明]]、[[若松武]]、[[山本リンダ]]、[[深沢敦]]、[[畠山久]]。<br />
*[[ジャイルス・ブロック]]脚本・演出『ハムレット』([[1995年]]初演)<br />
** ハムレット役を[[麻実れい]]、オフィーリア役を[[羽野晶紀]]が務めた。<br />
**[[1997年]]・[[1998年]]の再演では、オフィーリア役を[[高橋かおり]]が務めた。<br />
** 脚本・作詞[[ナイジェル・フリス]]、訳[[小田島雄志]]・[[吉田美枝]]、訳詞[[岩谷時子]]<br />
<br />
* [[静岡県舞台芸術センター|SPAC]]公演『ハムレット』([[2008年]])<br />
** [[宮城聰]]が演出。[[静岡県舞台芸術センター|静岡芸術劇場]]で上演された。<br />
<br />
*[[宝塚歌劇団]][[月組]]公演『[[HAMLET!!]]』([[2010年]])<br />
**[[藤井大介]]の脚本・演出にて、[[宝塚バウホール]]と[[日本青年館]]で上演された。<br />
** ハムレット役を[[龍真咲]]、オフィーリア役を[[蘭乃はな]]が務めた。<br />
* ミュージカル『ハムレット』([[2012年]]日本版初演)<br />
**[[ヤネック・レデツキー]]の脚本・作詞・作曲、ロバート・ヨハンソン脚本によるミュージカル版。[[チェコ]]にて初演後、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]と[[大韓民国|韓国]]にて上演される。<br />
** 日本版は[[栗山民也]]が演出を担当し、2012年に[[シアタークリエ]]で上演された。<br />
** ハムレット役を[[井上芳雄]]、オフィーリア役を[[昆夏美]]が務めた。<br />
<br />
* [[鮭スペアレ]]公演『ハムレット』([[2017年]])<br />
**[[中込遊里]]が演出。山梨県小菅村・[[箭弓神社]]で上演された。<br />
<br />
== 備考 ==<br />
*英語で演技の下手な役者のことを「ハム」と呼ぶ。これには諸説あり、OEDによると19世紀後半のアメリカで黒人の低レベルな役者を指してhamfatterと呼んだことにちなんでいる。これを短縮して、hamが下手な役者、あるいは素人を意味するようになった。hamfatterとは当時のあるミンストレルのタイトルThe Ham-Fat Manに由来しており、ハムレットとは関係が無いと言ってよい。<br />
また、俗説として「ハムレット」に関係しているとするものがある。それは、<br />
#下手でもハムレット役を演じれば人気が出るから<br />
#下手な役者はこの役を解釈しきれずオーバーに演じることから<br />
#下手な役者ほどハムレット役をやりたがる<br />
などである。<br />
*[[ウラジーミル・ナボコフ]]の『[[ロリータ]]』の主人公であるハンバート・ハンバートは、小説の本編において自らを何度も「ハム」と呼んでいる。<br />
*毎年夏、デンマーク東端にある[[クロンボー城]]内ではHAMLET SOMMER(ハムレット演劇)が上演されている。<br />
*オリジナルの上演では、シェイクスピア自身が、亡霊(父ハムレット)を演じたと言われている。<br />
*[[ジョージ・ゴードン・バイロン|バイロン]]の詩劇『[[マンフレッド]]』の冒頭に、『ホレイショーよ、天と地の間にはお前の哲学が夢見る以上のものがあるのだ。』(There are more things in heaven and earth, Horatio, than are dreamt of in your philosophy.)という第1幕、第5場166-167行のハムレットの台詞の引用がある。<br />
*日本の音楽グループである[[P-MODEL]]の曲に「To be, or not to be」に因んだ『2D OR NOT 2D』という曲が有る。<br />
<br />
== 参考文献 ==<br />
=== 主要校訂本 ===<br />
* ([[アーデン版シェイクスピア|アーデン版]])、"Hamlet"(Third Series)、Ed. by Ann Thompson & Neil Taylor、[[2006年]]、ISBN 1904271332<br />
* ([[オックスフォード版シェイクスピア全集|オックスフォード版]])、"Hamlet"、Ed. by G.R.Hibbard、Clarendon Pr.、[[1987年]]、 ISBN 0198129106<br />
* ([[ニュー・ケンブリッジ版シェイクスピア|新ケンブリッジ版]])、"Hamlet, Prince of Denmark"、 Ed, by Philip Edwads、Cambridge University Pr.、[[2003年]]、ISBN 0521532523<br />
<br />
=== 註解書 ===<br />
* [[久保井一雄]]、『ハムレット注釈』、近代文芸社、 [[1996年]]、ISBN 4773351527<br />
* [[高橋康也]]、[[河合祥一郎]](編集)、『ハムレット』、[[大修館書店]]、[[2001年]]、ISBN 4469142522<br />
* [[大場建治]]、『ハムレット』、研究社、[[2004年]]、ISBN 4327180084<br />
<br />
=== 日本語訳テキスト ===<br />
題名は特記したもの以外は全て『ハムレット』<br />
* [[安西徹雄]]訳、『ハムレットQ1』、[[光文社古典新訳文庫]]、2010年2月、ISBN 4334752012<br />
* [[市河三喜]]、[[松浦嘉一]]訳、旧[[岩波文庫]]、1957年<br />
* [[小田島雄志]]訳、[[白水社]]、のち[[白水Uブックス]]、1983年、ISBN 4560070237<br />
* [[河合祥一郎]]訳、『新訳 ハムレット』、[[角川文庫]]、2003年、ISBN 4042106145<br />
* [[木下順二]]訳、「シェイクスピア. 5」[[講談社]]、1988年、ISBN 4061800655<br />
* [[坪内逍遥]]訳、『ザ・シェークスピア 愛蔵新版―全戯曲』、第三書館、[[2007年]]、ISBN 4807407104<br />
* [[永川玲二]]訳、[[集英社文庫]]、[[1998年]]、ISBN 408752051X<br />
* [[並河亮]]訳、建設社、[[1950年]]<br />
* [[野島秀勝]]訳、[[岩波文庫]]、[[2002年]]、ISBN 4003220498<br />
* [[福田恆存]]訳、[[新潮文庫]]、[[1967年]]、改版1991年、ISBN 4102020039<br />
* [[本多顕彰]]訳、旧角川文庫、[[1966年]]改版<br />
* [[松岡和子]]訳、[[ちくま文庫]]、[[1996年]]、ISBN 4480033017<br />
* [[三神勲]]訳、河出書房、[[1953年]]<br />
* [[横山有策]]訳、大泉書店、[[1949年]]<br />
<br />
== 関連項目 ==<br />
*[[復讐悲劇]]<br />
*[[原ハムレット]]<br />
*[[新ハムレット]]<br />
*[[ローゼンクランツとギルデンスターンは死んだ]]<br />
*[[藤村操]]<br />
*[[アムレート]]<br />
*[[モスクワ芸術座版『ハムレット』]] - [[コンスタンチン・スタニスラフスキー]]と[[エドワード・ゴードン・クレイグ]]が組んだ上演<br />
<br />
== 脚注 ==<br />
<references /><br />
<br />
== 外部リンク ==<br />
{{Commonscat|Hamlet}}<br />
* http://www.shakespeare-literature.com/Hamlet/<br />
* [http://homepage3.nifty.com/nada/Hamlet.html ハムレットの翻訳史]<br />
* [http://www.hyperhamlet.unibas.ch/ HyperHamlet] - research project at the University of Basel (English)<br />
* [https://web.archive.org/web/20040812150027/http://www.sm.rim.or.jp/~osawa/AGG/hamlet/hamlet-toc.html 坪内逍遙訳 ハムレット] - [[物語倶楽部]]の[[インターネットアーカイブ]]。<br />
<br />
{{シェイクスピア}}<br />
{{Normdaten}}<br />
{{DEFAULTSORT:はむれつと}}<br />
[[Category:ハムレット|*]]<br />
[[Category:シェイクスピアの戯曲]]<br />
[[Category:17世紀の戯曲]]<br />
[[Category:デンマークを舞台とした作品]]<br />
[[Category:城を舞台にした作品]]<br />
[[Category:歴史を題材とした作品]]<br />
[[Category:王子を主人公にした物語]]<br />
[[Category:劇団四季の上演作品]]</div>
126.113.51.102
平和的生存権
2018-05-01T05:34:43Z
<p>126.113.51.102: /* 裁判規範性はあるか */ 判決文で、「平和的生存権は現代において、憲法の保障する基本的人権が、平和の基盤なしには存立し得ないことからして、全ての基本的人権の基礎にあって、…</p>
<hr />
<div>'''平和的生存権'''(へいわてきせいぞんけん)とは、1962年、憲法学者である[[星野安三郎]]の「平和的生存権論序論」で初めて提唱された[[日本国憲法]]より導き出されるとされる[[人権]]の1つで、[[平和]]のうちに生活する権利である。<br />
== 根拠 ==<br />
[[日本国憲法前文|日本国憲法の前文]]には「われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、'''平和のうちに生存する権利'''を有することを確認する」とあり、平和的生存権は主にここから導き出されるとする。また、[[日本国憲法第9条|第9条]](戦争の放棄)、[[日本国憲法第13条|第13条]]([[幸福追求権]])を根拠とする説も有力であり、実際にはこの3つの条文を絡めた形で主張・検討される。<br />
<br />
== 肯定的意見 ==<br />
憲法学者などの間には、平和的生存権を積極的に捉えようとする向きがある。[[制定史]]の観点から大戦後の歴史的背景も検討すれば、平和主義への強調から積極的に認められるとの主張もある。<br />
特に自衛隊訴訟などで主張される事が多い。<br />
<br />
== 批判 ==<br />
否定的意見として、上述の文の「全世界の国民が」という文言から解るように、憲法が"日本国民に対し"保障する他の人権と違い、前文の当該箇所そのものには何らの権利を保障する効力がない、とする見方がある。また、平和的生存権自体の定義があいまいであり、権利として保障されるほどの具体性に欠けているとの主張もある。<br />
<br />
== 裁判規範性はあるか ==<br />
平和的生存権を「権利」と言うためには、裁判上でこの権利を行使できる論拠を求めなければならないが、そもそも前文は努力目標や理念を示したに過ぎず裁判規範性はないとの意見も多く、実際に認めてしまえば条文に明記された他の権利の地位が相対的に低下する(権利の[[インフレ]]化)を招くとも批判される。一方で、前文の重要性や第9条などの他の条文との兼ね合いから肯定する意見もある。現在のところ判例上は長沼事件1審判決が裁判規範性を肯定したものの、その後の控訴審で否定されている。最近では自衛隊イラク派兵差止訴訟における名古屋高裁違憲判決ではこれを明確に肯定している。判決文で、「平和的生存権は現代において、憲法の保障する基本的人権が、平和の基盤なしには存立し得ないことからして、全ての基本的人権の基礎にあって、その享有を可能ならしめる基本的権利であるということができ、単に憲法の基本的精神や理念を表明したに留まるものではない。」と示された。<br />
<br />
== 判例 ==<br />
* [[長沼ナイキ事件]]第一審は平和的生存権を基礎に[[原告適格]]を認めたが、控訴審でこの判断は覆され、上告審も控訴審を支持した。<br />
<br />
== 関連項目 ==<br />
* [[平和主義]]<br />
* [[良心的兵役拒否]]<br />
* [[幸福追求権]]<br />
<br />
{{law-stub}}<br />
<br />
{{デフォルトソート:へいわてきせいそんけん}}<br />
[[Category:日本の人権]]</div>
126.113.51.102
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