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http:///mymemo.xyz/wiki/api.php?action=feedcontributions&user=125.15.56.184&feedformat=atom miniwiki - 利用者の投稿記録 [ja] 2024-04-25T07:06:57Z 利用者の投稿記録 MediaWiki 1.31.0 南北朝時代 (日本) 2018-01-29T05:01:51Z <p>125.15.56.184: </p> <hr /> <div>{{出典の明記|date=2017年11月}}<br /> <br /> {{日本の歴史|Kouyou of Yoshinoyama.JPG|画像説明=吉野山}}<br /> &#039;&#039;&#039;南北朝時代&#039;&#039;&#039;(なんぼくちょう じだい)は、[[日本の歴史]]区分の一つ。[[建武の新政]]の崩壊を受けて[[足利尊氏]]が新たに[[光明天皇]]([[北朝 (日本)|北朝]]側)を擁立したのに対抗して[[京都]]を脱出した[[後醍醐天皇]]([[南朝 (日本)|南朝]]側)が[[吉野行宮]]に遷った[[1336年]]([[延元]]元年/[[建武 (日本)|建武]]3年)から、南朝第4代の[[後亀山天皇]]が北朝第6代の[[後小松天皇]]に[[譲位]]するかたちで両朝が合一を見た[[1392年]]([[元中]]9年/[[明徳]]3年)までの、56年間をいう。また両朝の並立はひとえに後醍醐天皇の皇位に対する執念が生み出したものであることから、彼を中心に歴史が動いた南北朝時代の序章とでもいうべき1331年([[元弘]]元年)の[[元弘の乱]]から建武新政の終焉に至る5年間もまたこの時代に含めるのが一般的である。<br /> <br /> [[鎌倉時代]]の後半から半世紀にわたって[[両統迭立]]という不自然なかたちの[[皇位継承]]を繰り返した皇統は、すでに[[持明院統]]と[[大覚寺統]]という二つの相容れない系統に割れた状態が恒常化するという実質的な分裂を招いていた。それが倒幕と新政の失敗を経て、この時代になると両統から二人の天皇が並立し、それに伴い京都の[[北朝 (日本)|北朝]]と吉野の[[南朝 (日本)|南朝]]&lt;ref&gt;のちには大和国[[賀名生行宮|賀名生]]・摂津国[[住吉行宮|住吉]]・山城国[[石清水八幡宮|男山八幡]]・河内国[[金剛寺 (河内長野市)|金剛寺]]などを転々とする&lt;/ref&gt;の二つの[[朝廷]]が並存するという、王権の完全な分裂状態に陥った。両朝はそれぞれの正統性を主張して激突し、幾たびかの大規模な戦が起こった。また日本の各地でも[[守護]]や[[国人]]たちがそれぞれの利害関係から北朝あるいは南朝に与して戦乱に明け暮れた。<br /> <br /> こうした当時の世相を、奈良[[興福寺]][[大乗院]]の第20代[[門跡]]・[[尋尊]]は自らが編纂した『[[大乗院日記目録]]』の中で「&#039;&#039;&#039;一天両帝南北京&#039;&#039;&#039;也」と表現した。これを中国の[[南北朝時代 (中国)|魏晋南北朝]]の時代を模して南北朝時代と呼ぶようになったのはかなり後のことである。なお明治以後に南朝の天皇を正統とする史観が定着すると、この時代の名称が「北朝」の語を含むことが問題視されるようになったため、&#039;&#039;&#039;吉野朝時代&#039;&#039;&#039;(よしのちょう じだい)という新語が作られたが、[[第二次世界大戦後]]に[[皇国史観]]が影を潜めるとともに死語同然となった。<br /> <br /> ==天皇==<br /> {| class=&quot;wikitable&quot; style=&quot;text-align:center&quot;<br /> |+&#039;&#039;&#039;南北朝の天皇&#039;&#039;&#039;<br /> !暦<br /> !南朝<br /> !北朝<br /> |-<br /> |<br /> |colspan=&quot;2&quot;|{{sup|95}}[[花園天皇]](1308-1318)<br /> |-<br /> |文保2年([[1318年]])[[2月26日 (旧暦)|2月26日]]<br /> |colspan=&quot;2&quot;|{{sup|96}}[[後醍醐天皇]](1318-1331)<br /> |-<br /> |[[元徳]]3年([[1331年]])[[9月20日 (旧暦)|9月20日]]<br /> |rowspan=&quot;2&quot; style=&quot;background-color:#ddf&quot;|&lt;ref&gt;後醍醐天皇の記録としての在位期間は文保2年(1318年)2月26日 - 延元4年(1339年)8月15日&lt;/ref&gt;<br /> |{{sup|北1}}[[光厳天皇]](1331-1333)<br /> |-<br /> |[[正慶]]2年([[1333年]])[[5月25日 (旧暦)|5月25日]]<br /> |style=&quot;background-color:#ddf&quot;|<br /> |-<br /> |[[建武 (日本)|建武]]3年([[1336年]])<br /> |{{sup|南1}}後醍醐天皇(1336年12月-1339)<br /> |rowspan=&quot;2&quot;|{{sup|北2}}[[光明天皇]](1336年8月-1348)<br /> |-<br /> |延元4年([[1339年]])[[8月15日 (旧暦)|8月15日]]<br /> |rowspan=&quot;4&quot;|{{sup|南2}}{{sup|(97)}}[[後村上天皇]](1339-1368)<br /> |-<br /> |貞和4年(1348年)10月27日<br /> |{{sup|北3}}[[崇光天皇]](1348-1351)<br /> |-<br /> |[[観応|観應]]2年([[1351年]])[[11月7日 (旧暦)|11月7日]]<br /> |style=&quot;background-color:#ddf&quot;|<br /> |-<br /> |観應3年([[1352年]])[[8月17日 (旧暦)|8月17日]]<br /> |rowspan=&quot;2&quot;|{{sup|北4}}[[後光厳天皇]](1352-1371)<br /> |-<br /> |正平23年([[1368年]])[[3月11日 (旧暦)|3月11日]]<br /> |rowspan=&quot;3&quot;|{{sup|南3}}{{sup|(98)}}[[長慶天皇]](1368-1383)<br /> |-<br /> |應安4年([[1371年]])[[3月23日 (旧暦)|3月23日]]<br /> |{{sup|北5}}[[後円融天皇]](1371-1382)<br /> |-<br /> |[[永徳]]2年([[1382年]])[[4月11日 (旧暦)|4月11日]]<br /> |rowspan=&quot;2&quot;|{{sup|北6}}[[後小松天皇]](1382-1392)<br /> |-<br /> |弘和3年([[1383年]])[[10月 (旧暦)|10月]]<br /> |{{sup|南4}}{{sup|(99)}}[[後亀山天皇]] (1383-1392)<br /> |-<br /> |[[明徳]]3年([[1392年]])[[10月5日 (旧暦)|10月5日]]<br /> |colspan=&quot;2&quot;|&lt;sup&gt;100&lt;/sup&gt;後小松天皇(1392-1412)<br /> |}<br /> * 天皇の後の()内は在位期間<br /> <br /> === 系図 ===<br /> {{皇室鎌倉後期|next=1}}<br /> {{皇室南北朝}}<br /> <br /> <br /> == 歴史 ==<br /> === 南北朝成立まで ===<br /> 鎌倉時代半ばの[[寛元]]4年([[1246年]])、[[後嵯峨天皇]]の譲位後に皇統は皇位継承を巡って[[大覚寺統]]と[[持明院統]]に分裂した。そこで[[鎌倉幕府]]の仲介によって、大覚寺統と持明院統が交互に皇位につく事([[両統迭立]])が取り決められていた。<br /> <br /> [[1333年]]([[元弘]]3年/[[正慶]]2年)、大覚寺統の後醍醐天皇は全国の武士に討幕の綸旨を発した。これに応えた足利尊氏や[[新田義貞]]らの働きで鎌倉幕府は滅び、建武の新政と呼ばれる後醍醐天皇による親政がはじまった。政局の混乱が続き、恩賞の不公平により武士階級の支持を得ることはできなかった。公家も天皇による[[前例]]の軽視に不満を持ち、親政に失望した。北条氏の残党が引き起こした[[中先代の乱]]を討伐に向かった尊氏がそのまま新政から離反すると、不満を抱えた武士たちの多くが尊氏に従った。<br /> <br /> 後醍醐天皇は新田義貞や[[北畠顕家]]に尊氏討伐を命じる。新田軍は[[箱根・竹ノ下の戦い]]で敗北し、尊氏らは京都へ入るが、やがて[[陸奥国]]から下った北畠軍の活躍もあり駆逐された。尊氏らは九州へ下り、[[多々良浜の戦い]]に勝利して勢力を立て直したのちの翌年に、持明院統の[[光厳天皇|光厳上皇]]の[[院宣]]を掲げて東征する。迎え撃つ宮方は新田義貞・[[楠木正成]]が[[湊川の戦い]]で敗れ、[[比叡山]]に篭った。尊氏は後醍醐天皇との和解を図り、[[三種の神器]]を接収し持明院統の光明天皇を京都に擁立(北朝)した。その上で[[建武式目]]を制定し、施政方針を定め正式に幕府を開く。後醍醐天皇は京都を脱出して奈良の[[吉野]]へ逃れ、「北朝に渡した神器は贋物であり光明天皇の皇位は正統ではない」と主張して吉野に南朝(吉野朝廷)を開き、北陸や九州など各地へ自らの皇子を奉じさせて派遣する。<br /> <br /> === 観応の擾乱と南朝勢力の衰微 ===<br /> 南朝方は[[名和長年]]・[[結城親光]]・[[千種忠顕]]のほか、北畠顕家・新田義貞らが[[1338年]](延元3年/[[暦応]]元年)までに次々と戦死し、さらには翌年後醍醐天皇が崩御したことで軍事的に北朝方が圧倒的に優位に立つ。[[1348年]]([[正平 (日本)|正平]]3年/[[貞和]]4年)には[[四條畷の戦い]]で楠木正成の子[[楠木正行]]・[[楠木正時]]兄弟が足利方の[[高師直]]に討たれ、吉野[[行宮]]が陥落して[[後村上天皇]]ら南朝一行は[[賀名生]]([[奈良県]][[五條市]])へ逃れ、衰勢は覆い隠せなくなる。しかしその後、尊氏が政務を任せていた弟の[[足利直義]]と足利家の執事である高師直との対立が表面化し、[[観応]]年間には[[観応の擾乱]]とよばれる幕府の内紛が起こる。政争に敗れた直義は南朝に帰順し、尊氏の子で直義の養子になっていた[[足利直冬]]も養父に従い九州へ逃れて戦う。[[山名時氏]]など[[守護]]の一部も南朝に属して戦い、[[京都]]争奪戦が繰り広げられるなど南朝は息を吹き返すことになる。後村上天皇は南朝方の[[住吉大社]]の[[宮司]]家である[[津守氏]]の住之江殿(正印殿)に移り、そこを[[住吉行宮]]([[大阪市]][[住吉区]])とする。<br /> <br /> [[1351年]](正平6年/観応2年)には、尊氏が直義派に対抗するために一時的に南朝に降伏。年号を南朝の「正平」に統一する「[[観応の擾乱#正平一統|正平一統]]」が成立した。これにより、尊氏は[[征夷大将軍]]を解任された。南朝はこの機に乗じて京都へ進攻して[[足利義詮]]を追い、京都を占拠して神器も接収する。義詮は北朝年号を復活させ、再び京都を奪還するが、南朝は撤退する際に光厳・光明両[[太上天皇|上皇]]と、天皇を退位した直後の[[崇光天皇|崇光上皇]](光厳の皇子)を賀名生へ連れ去った。このため北朝は、光厳の皇子で崇光の弟の[[後光厳天皇]]を神器無しで即位させ、併せて公武の官位を復旧させ、尊氏も征夷大将軍に復帰した。<br /> <br /> 南朝の[[北畠親房]]は関東地方で南朝勢力の結集を図り、篭城した[[常陸国]][[小田城]]にて南朝の正統性を示す『[[神皇正統記]]』を執筆する。[[1339年]](延元4年/暦応2年)の後醍醐天皇崩御後、南朝の指導的人物となるが親房が[[1354年]](正平9年/[[文和]]3年)に死去すると南朝は再び衰微する。[[1358年]](正平13年/延文3年)4月足利尊氏が死去すると新田義貞の遺児[[新田義宗|義宗]]や出羽に逃れていた[[北畠顕信]]らが再起を試みるも、組織的な蜂起には至らなかった。逆に北朝側は南朝掃討の大攻勢に出て[[赤坂城]]([[河内国]])などを落とすが、[[1361年]](正平16年/康安元年)幕府内での抗争で失脚した[[細川清氏]]が南朝に帰順して、[[楠木正儀]](正成の子)らと共闘し一時は京都を占拠する。しかし、1月にも満たずに奪回され劣勢を覆すことはできなかった。足利義詮時代には[[大内弘世]]や山名時氏なども帰服し、[[1367年]](正平22年/[[貞治]]6年)和睦交渉を行うも北朝に拒絶され、以降は大規模な南朝の攻勢もなくなった。義詮の死後は、足利幕府は幼い将軍[[足利義満]]を補佐した[[管領]][[細川頼之]]の指導により、南朝方の中心的武将であった楠木正儀を帰順させるなど対南朝工作を行い、幕府体制を確立する。<br /> <br /> === 九州の情勢と南北朝合一まで ===<br /> [[九州地方]]では、[[多々良浜の戦い]]で足利方に敗れた[[菊池氏]]などの南朝勢力と、尊氏が残した[[一色範氏]]や[[仁木義長]]などの勢力が争いを続けていた。南朝は勢力を強化するために後醍醐天皇の皇子である[[懐良親王]]を征西将軍として派遣し、北朝勢力と攻防を繰り返した。観応の擾乱が起こると足利直冬が加わり、三勢力が抗争する鼎立状態となる。しかし、文和元年/正平7年([[1352年]])に足利直義が殺害されると、直冬は中国に去った。延文4年/正平14年([[1359年]])[[筑後川の戦い]](大保原の戦い)では、南朝方の懐良親王、[[菊池武光]]、[[赤星武貫]]、[[宇都宮貞久]]、[[草野永幸]]らと北朝方の[[少弐頼尚]]、[[少弐直資]]の父子、[[大友氏時]]、[[宇都宮冬綱|城井冬綱]]ら両軍合わせて約10万人が戦ったとされる。この戦いに敗れた北朝方は[[大宰府]]に逃れ、九州はこの後10年ほど南朝の支配下に入ることとなった。足利義詮の死に端を発して、九州の南朝勢力は正平23年/応安元年([[1368年]])2月に東征の軍を起こし長門・周防方面へ進軍を開始するものの、[[大内氏]]に阻まれ頓挫した。<br /> <br /> またこの頃、朝鮮半島や中国の沿岸などで[[倭寇]](前期倭寇)と呼ばれる海上集団が活動し始めており、[[1372年]]懐良親王は倭寇の取り締まりを条件に[[明]]朝から[[冊封]]を受け、「[[日本国王]]」となるものの、室町幕府は[[今川貞世]]を九州へ派遣して攻勢をかけ大宰府を奪回する。<br /> <br /> [[弘和]]/[[永徳]]・元中/[[至徳 (日本)|至徳]]年間に入ると、南朝は動乱初期からその支えとして活躍してきた懐良親王、[[北畠顕能]]、[[宗良親王]]の相次ぐ死と、対北朝強硬路線を通していた[[長慶天皇]]の譲位により、衰退を極める事となったが、明徳年間の足利義満による相次ぐ有力[[守護大名]]勢力削減により、北朝に抵抗する術を殆ど失うようになる。このような情勢の中で[[1392年]](元中9年/明徳3年)、足利義満の斡旋で、大覚寺統と持明院統の両統迭立と、全国の[[国衙領]]を大覚寺統の所有とすること&lt;ref&gt;実際には国衙領はわずかしかなかった&lt;/ref&gt;を条件に、南朝の[[後亀山天皇]]が北朝の[[後小松天皇]]に三種の神器を渡し、南北朝が合体した([[明徳の和約]])。<br /> <br /> 南北朝合一を機に、九州北部を制圧していた今川貞世は九州南部に拠る[[菊池武朝]]と和睦し、九州も幕府の支配するところとなった。その後、足利義満が新たに冊封されて「日本国王」となる。<br /> <br /> === 後南朝 ===<br /> 合一が行われるものの、両統迭立の約束が守られることはなく持明院統の皇統が続いたため、南朝の遺臣たちによる皇位の回復を目指しての反抗が[[15世紀]]半ばまで続き、[[後南朝]]と呼ばれる。彼らの抵抗は持明院統嫡流が断絶した[[1428年]]([[正長]]元年)以後、激化することとなる。<br /> <br /> [[1443年]]([[嘉吉]]3年)には南朝の遺臣や[[日野家|日野]]一族が御所に乱入し南朝皇族の[[通蔵主]]・[[金蔵主]]兄弟をかついで[[八尺瓊勾玉|神璽]]・[[天叢雲剣|宝剣]]を一時奪還する[[禁闕の変]]が起きる。宝剣はすぐに幕府の手で取り戻されたが、神璽は後南朝に持ち去られたままになる。<br /> <br /> 後南朝は、[[嘉吉の乱]]で滅亡した[[赤松氏]]の再興を目指す赤松遺臣によって、[[1457年]]([[長禄]]元年)に南朝後裔の[[自天王]]・[[忠義王]]なる兄弟が殺害され、神璽が奪還されることによって、実質的に滅亡した。<br /> <br /> 最後に史料に登場するのは、『[[勝山記]]』に[[1499年]]([[明応]]8年)霜月(11月)、[[伊豆国]][[三島市|三島]]に流された「王」を、[[北条早雲|早雲入道]]が諌めて相州([[相模国]])に退去させたというものがあり、これが後南朝の史料上の終焉とされている。<br /> <br /> == 土地支配の変化 ==<br /> 鎌倉時代初期には、[[国衙領]]や、[[荘園]]のうち天皇家・公家・寺社の領地には、武家の支配がおよんでいなかった。鎌倉時代を通じて、武家の統治機構である守護・[[地頭]]に属する武士が、[[地頭請]]や[[下地中分]]という形で国衙領や荘園を蚕食し始めるようになる。この傾向は南北朝時代に入ると顕著になり、荘園の[[年貢]]の半分を幕府に納める[[半済]]や、年貢の取立てを守護が請け負う[[守護請]]が一般化した。また、鎌倉時代の守護の権限であった[[大犯三ヶ条]](大番催促、謀反人・殺害人の検断)に加えて、[[刈田狼藉]]の取締も守護の役務となり、荘園領主は守護の立入を拒むことができなくなった。これらを通じて、土地支配上の武士の立場は、荘官・下司として荘園領主に代わって荘園を管理するだけの立場から実質的な領主へと変化していった。守護は、このような武士と主従関係を結ぶようになり、領国内への支配権を強め、&#039;&#039;&#039;守護大名&#039;&#039;&#039;と呼ばれるようになる。南北朝合一時に国衙領がほとんど残っていなかったのはこのような背景による。なお、[[荘園公領制]]が完全に崩壊するのは、南北朝時代よりも2世紀後の[[太閤検地]]によってであるが、この南北朝期に既に大きな転機を迎えていたのである。<br /> <br /> 戦乱により公家や朝廷の政治力が衰え、政治の主導は完全に武家へ移ることになった。また、武家社会でも、それまで当たり前だった全国に分散した[[所領]]の支配が難しくなり、分散した所領を売却・交換し、一箇所にまとめた所領の一円化傾向が顕著になる。これに伴い、関東の狭い「苗字の地」から新恩の広い地方へ移り住む例が多くなる。<br /> <br /> == 後年 ==<br /> 近世以来、南北朝のいずれが正統かをめぐって南北朝正閏論が行われてきた。[[明治時代]]には皇統は南朝が正統とされ、[[文部省]]は[[国定教科書]]で「吉野朝時代」の用語を使うよう命じた。[[東京大学史料編纂所]]は『[[大日本史料]]』で「南北朝時代」を引き続き使用したが、[[1937年]]([[昭和]]12年)、[[皇国史観]]で知られる[[平泉澄]]や[[宮内省]]の[[芝葛盛]]らの批判を受けた。所内の協議の結果、[[辻善之助]]所長の判断で、南北朝時代の第六編は編纂は続けるが、出版は中断することになった。<br /> <br /> 第二次世界大戦後、歴史の実態に合わせて再び「南北朝時代」の用語が主流になった。『大日本史料』出版も再開された。<br /> <br /> == 文化・社会風潮 ==<br /> [[連歌]]などの流行もあり、武士の間でも優雅な気風が生まれつつあった。政治的混乱が大きい時代でもあったので、[[ばさら]]や[[二条河原落書]]など既存の勢力への反攻や批判的風潮が強まった。<br /> <br /> == 人物 ==<br /> [[南北朝時代 (日本)の人物一覧]]<br /> <br /> == 南北朝時代の元号 ==<br /> {| border=1 cellspacing=0 style=&quot;text-align:center&quot;<br /> |- style=&quot;font-weight:bold;background-color:#CCCCCC;color:#000000&quot;<br /> |西暦||[[1330年]]||[[1331年]]||[[1332年]]||[[1333年]]||[[1334年]]||[[1335年]]||[[1336年]]||[[1337年]]||[[1338年]]||[[1339年]]<br /> |- style=&quot;background-color:#FFFFFF;&quot;<br /> |南朝||rowspan=2|[[元徳]]2年||[[元弘]]元年||元弘2年||元弘3年||rowspan=2|[[建武 (日本)|建武]]元年||rowspan=2|建武2年||[[延元]]元年||延元2年||延元3年||延元4年<br /> |- style=&quot;background-color:#FFFFFF;&quot;<br /> |北朝||&lt;!--元徳2年||--&gt;元徳3年||[[正慶]]元年||正慶2年||&lt;!-- 建武元年||建武2年|| --&gt;建武3年||建武4年||[[暦応]]元年||暦応2年<br /> |- style=&quot;background-color:#FFFFFF;&quot;<br /> |[[干支]]||[[庚午]]||[[辛未]]||[[壬申]]||[[癸酉]]||[[甲戌]]||[[乙亥]]||[[丙子]]||[[丁丑]]||[[戊寅]]||[[己卯]]<br /> |- style=&quot;font-weight:bold;background-color:#CCCCCC;color:#000000&quot;<br /> |西暦||[[1340年]]||[[1341年]]||[[1342年]]||[[1343年]]||[[1344年]]||[[1345年]]||[[1346年]]||[[1347年]]||[[1348年]]||[[1349年]]<br /> |- style=&quot;background-color:#FFFFFF;&quot;<br /> |南朝||[[興国]]元年||興国2年||興国3年||興国4年||興国5年||興国6年||[[正平 (日本)|正平]]元年||正平2年||正平3年||正平4年<br /> |- style=&quot;background-color:#FFFFFF;&quot;<br /> |北朝||暦応3年||暦応4年||[[康永]]元年||康永2年||康永3年||[[貞和]]元年||貞和2年||貞和3年||貞和4年||貞和5年<br /> |- style=&quot;background-color:#FFFFFF;&quot;<br /> |干支||[[庚辰]]||[[辛巳]]||[[壬午]]||[[癸未]]||[[甲申]]||[[乙酉]]||[[丙戌]]||[[丁亥]]||[[戊子]]||[[己丑]]<br /> |- style=&quot;font-weight:bold;background-color:#CCCCCC;color:#000000&quot;<br /> |西暦||[[1350年]]||[[1351年]]||[[1352年]]||[[1353年]]||[[1354年]]||[[1355年]]||[[1356年]]||[[1357年]]||[[1358年]]||[[1359年]]<br /> |- style=&quot;background-color:#FFFFFF;&quot;<br /> |南朝||正平5年||正平6年||正平7年||正平8年||正平9年||正平10年||正平11年||正平12年||正平13年||正平14年<br /> |- style=&quot;background-color:#FFFFFF;&quot;<br /> |北朝||[[観応]]元年||観応2年||[[文和]]元年||文和2年||文和3年||文和4年||[[延文]]元年||延文2年||延文3年||延文4年<br /> |- style=&quot;background-color:#FFFFFF;&quot;<br /> |干支||[[庚寅]]||[[辛卯]]||[[壬辰]]||[[癸巳]]||[[甲午]]||[[乙未]]||[[丙申]]||[[丁酉]]||[[戊戌]]||[[己亥]]<br /> |- style=&quot;font-weight:bold;background-color:#CCCCCC;color:#000000&quot;<br /> |西暦||[[1360年]]||[[1361年]]||[[1362年]]||[[1363年]]||[[1364年]]||[[1365年]]||[[1366年]]||[[1367年]]||[[1368年]]||[[1369年]]<br /> |- style=&quot;background-color:#FFFFFF;&quot;<br /> |南朝||正平15年||正平16年||正平17年||正平18年||正平19年||正平20年||正平21年||正平22年||正平23年||正平24年<br /> |- style=&quot;background-color:#FFFFFF;&quot;<br /> |北朝||延文5年||[[康安]]元年||[[貞治]]元年||貞治2年||貞治3年||貞治4年||貞治5年||貞治6年||[[応安]]元年||応安2年<br /> |- style=&quot;background-color:#FFFFFF;&quot;<br /> |干支||[[庚子]]||[[辛丑]]||[[壬寅]]||[[癸卯]]||[[甲辰]]||[[乙巳]]||[[丙午]]||[[丁未]]||[[戊申]]||[[己酉]]<br /> |- style=&quot;font-weight:bold;background-color:#CCCCCC;color:#000000&quot;<br /> |西暦||[[1370年]]||[[1371年]]||[[1372年]]||[[1373年]]||[[1374年]]||[[1375年]]||[[1376年]]||[[1377年]]||[[1378年]]||[[1379年]]<br /> |- style=&quot;background-color:#FFFFFF;&quot;<br /> |南朝||建徳元年||建徳2年||[[文中]]元年||文中2年||文中3年||[[天授 (日本)|天授]]元年||天授2年||天授3年||天授4年||天授5年<br /> |- style=&quot;background-color:#FFFFFF;&quot;<br /> |北朝||応安3年||応安4年||応安5年||応安6年||応安7年||[[永和 (日本)|永和]]元年||永和2年||永和3年||永和4年||[[康暦]]元年<br /> |- style=&quot;background-color:#FFFFFF;&quot;<br /> |干支||[[庚戌]]||[[辛亥]]||[[壬子]]||[[癸丑]]||[[甲寅]]||[[乙卯]]||[[丙辰]]||[[丁巳]]||[[戊午]]||[[己未]]<br /> |- style=&quot;font-weight:bold;background-color:#CCCCCC;color:#000000&quot;<br /> |西暦||[[1380年]]||[[1381年]]||[[1382年]]||[[1383年]]||[[1384年]]||[[1385年]]||[[1386年]]||[[1387年]]||[[1388年]]||[[1389年]]<br /> |- style=&quot;background-color:#FFFFFF;&quot;<br /> |南朝||天授6年||[[弘和]]元年||弘和2年||弘和3年||[[元中]]元年||元中2年||元中3年||元中4年||元中5年||元中6年<br /> |- style=&quot;background-color:#FFFFFF;&quot;<br /> |北朝||康暦2年||[[永徳]]元年||永徳2年||永徳3年||[[至徳 (日本)|至徳]]元年||至徳2年||至徳3年||[[嘉慶 (日本)|嘉慶]]元年||嘉慶2年||[[康応]]元年<br /> |- style=&quot;background-color:#FFFFFF;&quot;<br /> |[[干支]]||[[庚申]]||[[辛酉]]||[[壬戌]]||[[癸亥]]||[[甲子]]||[[乙丑]]||[[丙寅]]||[[丁卯]]||[[戊辰]]||[[己巳]]<br /> |- style=&quot;font-weight:bold;background-color:#CCCCCC;color:#000000&quot;<br /> |西暦||[[1390年]]||[[1391年]]||[[1392年]]||[[1393年]]<br /> |- style=&quot;background-color:#FFFFFF;&quot;<br /> |南朝||元中7年||元中8年||元中9年||rowspan=2|明徳4年<br /> |- style=&quot;background-color:#FFFFFF;&quot;<br /> |北朝||[[明徳]]元年||明徳2年||明徳3年&lt;!-- ||明徳4年 --&gt;<br /> |- style=&quot;background-color:#FFFFFF;&quot;<br /> |[[干支]]||[[庚午]]||[[辛未]]||[[壬申]]||[[癸酉]]<br /> |}<br /> <br /> == 脚注 ==<br /> {{脚注ヘルプ}}<br /> {{Reflist}}<br /> <br /> == 関連項目 ==<br /> {{Commons|Category:Nambokucho period}}<br /> *[[日本の歴史]]<br /> *[[日本史時代区分表]]<br /> *[[南北朝正閏論]]<br /> *[[太平記]]<br /> *[[対立王]]<br /> <br /> {{日本の歴史一覧|1333年-1392年}}<br /> <br /> {{デフォルトソート:なんほくちようしたい}}<br /> [[Category:日本の時代区分]]<br /> [[Category:室町時代]]<br /> [[Category:南北朝時代 (日本)|*]]</div> 125.15.56.184 ウィーン写本 2018-01-29T04:57:53Z <p>125.15.56.184: </p> <hr /> <div>[[File:ViennaDioscoridesPlant.jpg|thumb|250px|フォリオ 83r (&#039;&#039;Rubus tomentosus&#039;&#039;、ウーリーブラックベリー)]]<br /> &#039;&#039;&#039;ウィーン写本&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;ヴィンドボネンシス&#039;&#039;&#039;({{lang-la|Codex vindobonensis}})は、[[古代ローマ]]の医師[[ディオスコリデス]](40年頃 - 90年)による本草書『薬物誌』&lt;ref&gt;日本では『ギリシア本草』、『マテリア・メディカ』とも呼ばれる&lt;/ref&gt;の[[ギリシャ語]]の[[写本]]である。[[西ローマ帝国]]の[[皇女]]であった貴婦人{{仮リンク|アニキア・ユリアナ|en|Anicia Juliana}}(462年 - 527/528年)に捧げるために、512年から520年のいずれかの年に[[コンスタンティノープル]]で作成された&lt;ref name=&quot;大槻&quot;&gt;大槻真一郎 著 『ディオスコリデス研究』 1983年、エンタプライズ&lt;/ref&gt;。現在[[ウィーン]]の[[オーストリア国立図書館]]に収蔵されている。<br /> <br /> 所在地のウィーンにちなんで、ウィーン写本、ヴィンドボネンシスと呼ばれる。また、生まれた場所から&#039;&#039;&#039;ディオスクリデス・コンスタンティノポリタヌス&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;コンスタンティノポリタヌス写本&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;コンスタンティノープル写本&#039;&#039;&#039;とも呼ばれ、簡単に&#039;&#039;&#039;C写本&#039;&#039;&#039;といいならわされている&lt;ref name=&quot;大槻&quot;&gt;&lt;/ref&gt;。献呈者の名を冠し、&#039;&#039;&#039;アニキア・ユリアナ写本&#039;&#039;&#039;&lt;ref name=&quot;東京大学&quot;&gt;[http://www.um.u-tokyo.ac.jp/publish_db/1996Koishikawa300/12/1200.html 青柳正規 ディオスコリデスと植物園 東京大学]&lt;/ref&gt;とも称される。現在「ギリシア医学写本1」(&#039;&#039;Codex medicus graecus 1&#039;&#039;)という図書番号を持つ&lt;ref name=&quot;大槻&quot;&gt;&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 重要かつ貴重な[[古代末期]]のギリシャ語の[[写本]]で、現在は491枚の[[羊皮紙]]製のフォリオ&lt;ref&gt;1枚の紙を2つ折りにして4ページにしたもの。&lt;/ref&gt;からなる。その内、現存する古いフォリオは481枚である&lt;ref name=&quot;大槻&quot;&gt;&lt;/ref&gt;。その古さと素材、度重なる使用から保存状態は良いとはいえず、何度も修復されている。すばらしい大文字体で書かれ、多くの彩色図が収められている。彩色図には、古代ギリシャの医師・本草家クラテウアス(紀元前1世紀)の植物画をコピーした図のように、写実的・立体的な美しい図と、図式的・平面的な図があり、これには呪術的なものも含まれる&lt;ref name=&quot;大槻&quot;&gt;&lt;/ref&gt;。内容は、ディオスコリデスの『薬物誌』をアルファベット順に並べ替えたものに、他の人物の小著が取り入れられている。「ウィーン写本」には、合理的であった元々の『薬物誌』とは対照的に、呪術的・異教的な内容もみられる&lt;ref name=&quot;大槻&quot;&gt;&lt;/ref&gt;。植物のアラビア名、ラテン名、ギリシア名、ペルシア名が書き込まれており、他にも多様な言語で多くの書き込みがある&lt;ref name=&quot;大槻&quot;&gt;&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 9世紀に渡って失われていたが、15世紀前半に表舞台に表れ、コンスタンティノープルのプロドモス修道院の修道士によって製本し直された{{sfn|ホブハウス|2014|p=40}}。[[オスマン帝国]]皇帝[[スレイマン2世]]の侍医であったユダヤ人{{仮リンク|モーセ・ハモン|en|Moses Hamon}}のものであったが、[[神聖ローマ帝国]]皇帝フェルディナントによってオスマン帝国に派遣された大使で本草家の[[オージェ・ギスラン・ド・ブスベック]](Ogier Ghiselin de Busbecq)がウィーン写本を見つけ、ハモンの息子からブスベックの仲介で神聖ローマ帝国皇帝[[マクシミリアン2世 (神聖ローマ皇帝)|マクシミリアン2世]]に売却された&lt;ref name=&quot;大槻&quot;&gt;&lt;/ref&gt;{{sfn|ホブハウス|2014|p=40}}。これにより、1569年にウィーンの宮廷図書館にもたらされた&lt;ref name=&quot;大槻&quot;&gt;&lt;/ref&gt;。神聖ローマ皇帝の侍医で王室史編纂家のJ・サンブクスや、植物学者[[レンベルト・ドドエンス]]、[[カロルス・クルシウス]]らの関心を集めた&lt;ref name=&quot;大槻&quot;&gt;&lt;/ref&gt;{{sfn|ホブハウス|2014|p=40}}。<br /> <br /> == 由来 ==<br /> [[File:ViennaDioscoridesFolio3v7Physicians.jpg|thumb|right|240px|フォリオ 3v。『薬物誌』の写本であるにも関わらず、中央にガレノスが配されている。右上段がディオスコリデス。右中段ニカンドロス、右下段エフェソスのルフォス、左上段クラテウアス、左中段アレクサンドリアの{{仮リンク|アポロニオス・ミュス|en|Apollonius (physician)}}(優れた医薬書を著しガレノスらに評価された)、左下段アンドレアス(紀元前222 - 204年、薬物・毒物の権威)。[[ギリシャ七賢人]]にあやかって7人となっている。]]<br /> [[File:ViennaDioscoridesAuthorPortrait.jpg|thumb|right|240px|フォリオ 4v, ディオスコリデス。女性が人型の[[マンドレイク]]を持っている。足元に犬。当時はマンドレイクの悲鳴でショック死すると考えたため、犬に抜かせた。]]<br /> <br /> ウィーン写本が捧げられたアニキア・ユリアナは、西ローマ帝国の富裕な名門{{仮リンク|アニキア家|en|Anicia (gens)}}の出身で7カ月だけ西ローマ帝国皇帝であった[[オリブリオス|アニキウス・オリュブリウス]]と、西ローマ皇帝[[ウァレンティニアヌス3世]]の娘{{仮リンク|プラキディア|en|Placidia}}の間に生まれた。皇統の女性であり、西ローマ皇女であった。東ローマ帝国の名門出身の政治家{{仮リンク|アレオビンドゥス|en|Flavius Areobindus Dagalaiphus Areobindus}}と結婚し、西ローマ帝国滅亡後も、裕福な女性パトロンとして[[ビザンティン美術]]・[[ビザンティン建築]]の歴史に名を残した。アニキア・ユリアナは512年か513年に、コンスタンティノープル市のホノラタエ地区に[[聖母マリア|聖マリア]]教会を寄進した。同地区の市民たちは感謝のしるしとして、彼女にウィーン写本を献呈した&lt;ref name=&quot;大槻&quot;&gt;&lt;/ref&gt;。当時、一般に微細な彩色植物図葉に対する関心が高まっており、特に高貴な婦人たちに薬用植物の愛好者が多かった&lt;ref name=&quot;大槻&quot;&gt;&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> [[明治薬科大学]]の[[大槻真一郎]]は、ウィーン写本は、一定の美しい大文字体の様式と絵の具、その他から、ひとつのアトリエで作られたという見解を示している&lt;ref name=&quot;大槻&quot;&gt;&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> == 内容 ==<br /> 『薬物誌』の写本は、本来の形を再現した5巻本のものと、各項目をアルファベット順に並べ直した「アルファベティクス」があり、ウィーン写本はアルファベティクスの系統に属する&lt;ref name=&quot;大槻&quot;&gt;&lt;/ref&gt;。アルファベティクスは元のものと順序だけでなく文脈も異なっており、おそらく3世紀初めに作られた&lt;ref name=&quot;大槻&quot;&gt;&lt;/ref&gt;。ウィーン写本は、有名な写本である{{仮リンク|ナポリ写本|en|Naples Dioscurides}}(ナポリタヌス写本、7世紀)と同じ原本からつくられたと考えられている&lt;ref name=&quot;大槻&quot;&gt;&lt;/ref&gt;。原本自体がぞんざいに書き上げられたものであるため、ウィーン写本とナポリ写本のどちらが写本として優れているかは判別し難い。羊皮紙製で、フォリオの形はほぼ正方形であり、491枚からなる。現存する古いフォリオは全部で481枚である。原本は546枚であり、65枚が失われた&lt;ref name=&quot;大槻&quot;&gt;&lt;/ref&gt;。フォリオの素材は、山羊や子牛、その胎児の皮の羊皮紙である。古さと素材、[[インク]]による腐食、度重なる使用で傷みが激しく、何度も修繕された。元々の『薬物誌』に植物図は存在しないが、ウィーン写本には多くの図が収められている。<br /> <br /> 『薬物誌』の「アルファベティクス」に、クラテウアス(紀元前1世紀)の植物図やパンフィロス(1世紀)の植物の異名が混成され、他の人物の小著が取り入れられている&lt;ref name=&quot;大槻&quot;&gt;&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 構成は次のとおりである&lt;ref name=&quot;大槻&quot;&gt;&lt;/ref&gt;。<br /> * 「ディオスコリデスの植物図葉集(本草)」:薬用植物図383箇がアルファベット順に並べられている。内容は薬草の名前のリスト、医薬的な作用や処方の説明などで、説明の多くがディオスコリデス『薬物誌』に由来する。<br /> * 「(神に浄められた)植物の力についての詩」:作者は不明であるが、おそらく{{仮リンク|エフェソスのルフォス|en|Rufus of Ephesus}}(紀元前1世紀、トラヤヌス帝時代の医師・薬剤師)であると考えられている。5枚のフォリオに、16の植物とそれが捧げられた神々、植物の採取法や採取時期、薬効などを謳った、呪文めいた調子の216行のヘクサメーター(六脚韻)が収められている。<br /> * コロフォンの{{仮リンク|ニカンドロス|en|Nicander}}(紀元前2世紀、古代の有名な教訓詩人)の「蛇の毒に対する薬」({{仮リンク|テリアカ|en|Theriac}})に対するエウテクニオスによる解説。主に描かれた蛇の図は、単調で図式的なものである。<br /> * 同じくニカンドロスの「食中毒の薬」(アレクシファルマカ)についての詩に対するエウテクニオスの解説。<br /> * ギリシアの教訓詩人オッピアノス(2~3世紀)の「魚𢭐の詩」(ハリエウティカ)についての無名人物の解説。図はない。<br /> * ディオニシオス&lt;ref&gt;多くのディオニシオスの中のどの人物であるかははっきりしない。&lt;/ref&gt;「鳥と鳥捕獲についての詩」(オルニティア)に対する無名人物の解説。非常に貴重な史料であり、「ウィーン写本」に残された意義は大きい。鳥の図はかなり写実的に描かれている。<br /> 以上が薬物学的内容のグループで、この前に12枚、後ろに6枚のフォリオがある。<br /> <br /> 植物図は全て手本となった模範図があり、それを模写したものだと考えられている。大文字で書かれた旧インデックスの植物図は立体的・写実的であり、植物の美しさが鮮やかな色彩で表現されている&lt;ref name=&quot;大槻&quot;&gt;&lt;/ref&gt;。うち11の図はクラテウアスの植物図を模倣したものである。小文字で書かれた新しいインデックスのものは、平面的・図式的であり、写実性に乏しく、彩色も単調で精彩がない&lt;ref name=&quot;大槻&quot;&gt;&lt;/ref&gt;。これは画家の技量の問題だけでなく、模範図自体が旧インデックスの図の手本になったものより、かなり劣っていたとも考えられる&lt;ref name=&quot;大槻&quot;&gt;&lt;/ref&gt;。「鳥と鳥捕獲についての詩」(オルニティア)に対する解説には、鷹などさまざまな鳥の絵が添えられている&lt;ref name=&quot;大槻&quot;&gt;&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> &lt;gallery&gt;<br /> File:ViennaDioscoridesEndpaperPeacock.jpg|フォリオ 1v, 孔雀<br /> File:ViennaDioscoridesFolio5vAuthorPortrait.jpg|フォリオ 5v, ディオスコリデス<br /> File:ViennaDioscoridesFolio6vDonorPortrait.jpg|フォリオ 6v, {{仮リンク|献呈図|en|donor portrait}}(中央がアニキア・ユリアナ)<br /> File:Beifuß_(Wiener_Dioskurides).jpg|フォリオ 20v, ヨモギ <br /> File:ViennaDioscoridesPimpernel.gif|フォリオ 39v, ルリハコベ<br /> File:Iris_147v_Dioscoride_Vienne.png|フォリオ 147v, アヤメ<br /> File:ViennaDioscoridesFolio148vViolet.jpg|フォリオ 148v, スミレ<br /> File:ViennaDioscoridesCoral.jpg|フォリオ 391v, 珊瑚<br /> File:Thalassa_(Göttin).jpg|フォリオ 391v, 右下拡大図<br /> File:Salamander_(Wiener_Dioskurides).jpg|フォリオ423r, [[サラマンダー]]<br /> File:ViennaDioscoridesBirds.jpg|フォリオ 475r, 鳥<br /> File:ViennaDioscoridesBirds02.jpg|フォリオ 475r, [[コキンメフクロウ]](中段拡大図)<br /> File:ViennaDioscoridesFolio483vBirds.jpg|フォリオ 483v, 鳥<br /> File:Wiener_Dioskurides_fol_485r.jpg|フォリオ 485v。損傷がある。<br /> &lt;/gallery&gt;<br /> <br /> == 出典・脚注 ==<br /> {{Reflist}}<br /> <br /> == 参考文献 ==<br /> *大槻真一郎 著 『ディオスコリデス研究』 1983年、エンタプライズ<br /> *{{Cite book |和書 |last= |first= |author=ペネロピ・ホブハウス|authorlink=ペネロピ・ホブハウス |translator= 上原ゆうこ|others=高山宏 監修|year= 2014 |title=世界の庭園歴史図鑑 |publisher=原書房 |ref ={{SfnRef|ホブハウス|2014}} }}<br /> {{DEFAULTSORT:ういんしやほん}}<br /> [[Category:写本]]<br /> [[Category:ビザンティン芸術]]<br /> [[Category:ユネスコ記憶遺産]]<br /> [[Category:博物学に関する書籍]]<br /> [[Category:植物学]]<br /> [[Category:医療の歴史]]</div> 125.15.56.184 アカデミア・デル・チメント 2018-01-28T02:33:45Z <p>125.15.56.184: </p> <hr /> <div>&#039;&#039;&#039;アカデミア・デル・チメント&#039;&#039;&#039;(&#039;&#039;&#039;Accademia del Cimento&#039;&#039;&#039;, 実験のアカデミー)は、17世紀[[イタリア]]に作られた、科学の分野の先駆的な「学会」である。<br /> <br /> == 概要 ==<br /> [[File:Saggi di naturali esperienze fatte nell&#039;Accademia del Cimento (Firenze, 1666).tif|thumb|Saggi di naturali esperienze...の表紙]]<br /> [[File:Saggi di naturali esperienze fatte nell&#039;Accademia del Cimento (Firenze, 1666) Tavola 3.tif|thumb|Saggi di naturali esperienze...の図版]]<br /> メディチ家はその財力によって学者を保護し、[[ガリレオ・ガリレイ|ガリレオ]]の弟子の[[エヴァンジェリスタ・トリチェリ]]の活動も援助した。トリチェリは1647年に没するが、1657年、[[ヴィンチェンツォ・ヴィヴィアーニ]]らによって、[[メディチ家]]の援助でアカデミア・デル・チメントが[[フィレンツェ]]に設立された。[[ジョヴァンニ・ボレリ]]や[[ニコラウス・ステノ]]もメンバーであった。[[トスカーナ大公国|トスカーナ大公]][[フェルディナンド2世・デ・メディチ|フェルディナンド・デ・メディチ]]と[[レオポルド・デ・メディチ]]によって、自由な研究が保護、援助された。<br /> <br /> 活動は、科学の初期におけるさまざまな実験、推測の回避、実験道具の製作、測定基準の統一などを行った。<br /> <br /> フレンツェで[[1666年]]に出版された &#039;&#039;Saggi di naturali esperienze fatte nell&#039; Academia del cimento&#039;&#039; は[[1731年]]に[[ラテン語]]に翻訳され、18世紀の標準的な科学の手引き書となった。<br /> <br /> [[1670年]]、フェルディナンド・デ・メディチの死によって、コジモ3世がトスカーナ大公の地位を継ぐと、チメントは活力を失い、学問の中心の地位は[[1660年]]に設立された[[王立協会|ロンドン王立協会]]、1666年に創立された[[科学アカデミー (フランス)|フランス科学アカデミー]]などにをゆずっていくことになった。<br /> <br /> == 会員 ==<br /> ===正会員===<br /> * レオポルド・デ・メディチ - トスカーナ大公の弟<br /> * フェルディナンド2世・デ・メディチ - トスカーナ大公<br /> * ジョヴァンニ・ボレリ - 物理学者、数学者、生理学者<br /> * [[フランチェスコ・レディ]] - 医師、自然発生説を否定する実験を実施<br /> * カルロ・レナルディーニ (Carlo Renaldini) -<br /> * [[ヴィンチェンツォ・ヴィヴィアーニ]] - 数学者、科学者、晩年のガリレオの助手として働き、ガリレオの伝記を書いた。<br /> * ロレンツォ・マガロッチ (Lorenzo Magalotti) - 事務局長、アカデミーの出版に関与<br /> * アレッサンドロ・マルシリ (Alessandro Marsili) - ピサ大学論理学教授<br /> * アントニオ・オリーヴァ (Antonio Oliva)<br /> ===準会員===<br /> * [[ジョヴァンニ・カッシーニ]]<br /> * [[オノレ・ファブリ]]&lt;!--Honoré Fabri--&gt;<br /> * [[ロバート・フック]]<br /> * [[クリスティアーン・ホイヘンス]]<br /> * [[アタナシウス・キルヒャー]]<br /> * [[ヘンリー・オルデンバーグ]]<br /> * [[ミケランジェロ・リッチ]]&lt;!--Michelangelo Ricci--&gt;<br /> * [[ニコラウス・ステノ]]<br /> <br /> == 参考文献 ==<br /> *Luciano Boschiero &#039;&#039;Experiment and Natural Philosophy in Seventeenth-Century Tuscany: The History of the Accademia del Cimento&#039;&#039;, Springer Verlag 2007<br /> * W. E. Knowles Middleton &#039;&#039;The Experimenters: A Study of The Accademia del Cimento&#039;&#039;, Baltimore: The Johns Hopkins Press 1971 <br /> *Giorgio Strano, Marco Beretta (Herausgeber) &#039;&#039;The Accademia del Cimento and its European context&#039;&#039;, Watson Publishing 2009 (Beiträge von Rob Iliffe, Mordechai Feingold, Meli u.a.)<br /> <br /> {{Normdaten}}<br /> {{DEFAULTSORT:あかてみあてるちめんと}}<br /> [[category:科学史]]<br /> [[Category:イタリアの歴史]]<br /> [[Category:メディチ家]]<br /> [[Category:トスカーナ大公国]]</div> 125.15.56.184 フィレンツェ派 2018-01-28T02:30:26Z <p>125.15.56.184: /* 関連項目 */</p> <hr /> <div>&#039;&#039;&#039;フィレンツェ派&#039;&#039;&#039;とは、13~17[[世紀]]の[[イタリア]]で、[[フィレンツェ]]を中心に活躍した画派。[[ルネサンス美術]]は彼らが主導したことで発展し、その影響も[[ヨーロッパ]]各地に大きく及んだ。フィレンツェは、[[盛期ルネサンス]]の初期の中心地でもあった。<br /> <br /> == パトロンとの関わり ==<br /> === 社会的基盤 ===<br /> [[フィレンツェ]]や[[ヴェネツィア共和国|ヴェネツィア]]などの共和国において、パトロンは都市政府や同職組合([[ギルド]])のような公的パトロンが、宗教的パトロネージを展開する傾向にある。しかしこのパトロネージは公的から私的、宗教的から世俗的へと比重が変わり、これがルネサンスの特徴を成している。フィレンツェのパトロンは主に都市政府、同業組合、上層市民からなる&lt;ref&gt;[[#松本, 2007-04|松本, 2007]], p 5.&lt;/ref&gt;。1282年から250年に亘って執り行われた寡頭制政治の中で、プリオーレ制が廃止された1531年までに50回以上、かつ1302年以前にプリオーレに選ばれた名門の家が公的パトロンとしての都市政府を構成するが、後にそれから私的パトロンが生まれた&lt;ref&gt;[[#松本, 2007-04|松本, 2007]], p 19.&lt;/ref&gt;。パトロン階層を担ったギルドの中でも、七大組合は国際的金融業と商工業を経営する大商人層によって形成されており、フィレンツェの政治経済を牛耳っていた。彼らがパトロン層となった&lt;ref&gt;[[#松本, 2007-04|松本, 2007]], p 22.&lt;/ref&gt;。さらに13世紀から14世紀の都市間の争いによって下地が作られたものの、1333年の大洪水と1348年の[[黒死病]]によって深刻な被害を受けた。また政治的には白派黒派の抗争から外国人シニョーレの招来と追放、経済的には1346年におけるバルディとペルッツィの二大銀行の倒産によるフィレンツェ経済の危機があった&lt;ref&gt;[[#松本, 2007-04|松本, 2007]], pp. 25-27.&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> == 代表者 ==<br /> *[[ジョット・ディ・ボンドーネ]]<br /> *[[マサッチオ]]<br /> *[[フラ・アンジェリコ]]<br /> *[[フィリッポ・リッピ]]・[[フィリッピーノ・リッピ]]父子<br /> *[[サンドロ・ボッティチェッリ|ボッティチェリ]]<br /> *[[レオナルド・ダ・ヴィンチ]]<br /> *[[ミケランジェロ・ブオナローティ|ミケランジェロ]]<br /> *[[アンドレア・デル・サルト]]<br /> <br /> == 脚注 ==<br /> {{脚注ヘルプ}}<br /> === 出典 ===<br /> {{Reflist|2}}<br /> <br /> ==参考資料==<br /> === 文献 ===<br /> *{{Cite|和書|author=松本典昭|title=パトロンたちのルネサンス:フィレンツェ美術の舞台裏|publisher=日本放送出版協会|series=NHKブックス|volume=1083|date=2007-04|isbn=978-4-14-091083-2|ncid=BA81636151|ref=松本, 2007-04}}<br /> <br /> == 関連項目 ==<br /> *[[17世紀フィレンツェ派の画家]]<br /> <br /> {{Art-stub}}<br /> <br /> {{西洋の芸術運動}}<br /> <br /> {{DEFAULTSORT:ふいれんつえは}}<br /> [[Category:フィレンツェ派|*]]<br /> [[Category:ルネサンス美術]]<br /> [[Category:イタリアの画家|*]]<br /> [[Category:イタリアの美術]]<br /> [[Category:フィレンツェの文化]]<br /> [[Category:フィレンツェの歴史]]<br /> [[Category:フィレンツェ共和国]]</div> 125.15.56.184 フィレンツェ共和国 2018-01-28T02:13:48Z <p>125.15.56.184: </p> <hr /> <div>{{出典の明記|date=2015年7月}}<br /> {{基礎情報 過去の国<br /> |略名 =フィレンツェ<br /> |日本語国名 =フィレンツェ共和国<br /> |公式国名 =&#039;&#039;&#039;{{lang-la|Respublica Florentina}}&lt;br&gt;{{lang-it|Repubblica fiorentina}}&#039;&#039;&#039;<br /> |建国時期 =[[1115年]]<br /> |亡国時期 =[[1532年]]<br /> |先代1 =神聖ローマ帝国<br /> |先旗1 =Flag of the Holy Roman Empire (1200-1350).svg<br /> |先代2 =トスカーナ辺境伯<br /> |先旗2 =<br /> |次代1 =フィレンツェ公国<br /> |次旗1 =Medici Flag of Tuscany.png<br /> |国旗画像 =Flag of John the Baptist.svg<br /> |国旗リンク = &lt;!--「&quot;略名&quot;の国旗」以外を指定--&gt;<br /> |国旗説明 = <br /> |国旗幅 = &lt;!--初期値125px--&gt;<br /> |国旗縁 = &lt;!--no と入力すると画像に縁が付かない--&gt;<br /> |国章画像 =FlorenceCoA.svg<br /> |国章リンク =<br /> |国章説明 =<br /> |国章幅 = &lt;!--初期値85px--&gt;<br /> |標語 =<br /> |国歌名 =<br /> |国歌追記 =<br /> |位置画像 =RepublicofFlorence1494.png<br /> |位置画像説明 =フィレンツェ共和国の版図(1494年)<br /> |公用語 =[[トスカーナ語]]、[[イタリア語]]、[[ラテン語]]<br /> |首都 =[[フィレンツェ]]<br /> |元首等肩書 = [[トスカーナの支配者一覧#フィレンツェのシニョーレ 1434年 - 1531年|シニョーレ]]<br /> |元首等年代始1 = [[1434年]]<br /> |元首等年代終1 = [[1464年]]<br /> |元首等氏名1 = [[コジモ・デ・メディチ]]<br /> |元首等年代始2 = [[1464年]]<br /> |元首等年代終2 = [[1469年]]<br /> |元首等氏名2 = [[ピエロ・ディ・コジモ・デ・メディチ]]<br /> |元首等年代始3 = [[1469年]]<br /> |元首等年代終3 = [[1492年]]<br /> |元首等氏名3 = [[ロレンツォ・デ・メディチ]]<br /> |元首等年代始4 = [[1492年]]<br /> |元首等年代終4 = [[1494年]]<br /> |元首等氏名4 = [[ピエロ・ディ・ロレンツォ・デ・メディチ]]<br /> |元首等年代始5 = [[1530年]]<br /> |元首等年代終5 = [[1532年]]<br /> |元首等氏名5 = [[アレッサンドロ・デ・メディチ]]<br /> |面積測定時期1 =<br /> |面積値1 =<br /> |面積測定時期2 =<br /> |面積値2 =<br /> |面積測定時期3 =<br /> |面積値3 =<br /> |面積測定時期4 =<br /> |面積値4 =<br /> |面積測定時期5 =<br /> |面積値5 =<br /> |人口測定時期1 =<br /> |人口値1 =<br /> |人口測定時期2 =<br /> |人口値2 =<br /> |人口測定時期3 =<br /> |人口値3 =<br /> |人口測定時期4 =<br /> |人口値4 =<br /> |人口測定時期5 =<br /> |人口値5 =<br /> |変遷1 =成立<br /> |変遷年月日1 =[[1115年]]<br /> |変遷2 =<br /> |変遷年月日2 =<br /> |変遷3 =<br /> |変遷年月日3 =<br /> |変遷4 =<br /> |変遷年月日4 =<br /> |変遷5 =公国となる<br /> |変遷年月日5 =[[1532年]]<br /> |通貨 =[[フローリン]]<br /> |現在 = {{ITA}}<br /> |注記 =<br /> }}<br /> [[Image:Italy 1494 AD.png|thumb|right|150px|15世紀終盤のイタリア]]<br /> &#039;&#039;&#039;フィレンツェ共和国&#039;&#039;&#039;({{lang-it-short|Repubblica fiorentina, Repubblica di Firenze}})は、かつて[[イタリア]]に存在した国である。首都は[[フィレンツェ]]。<br /> <br /> [[13世紀]]頃[[共和制]]となる。当初は[[寡頭制|寡頭政治]]であったが、政争の末、[[メディチ家]]が台頭する。共和国との名ではあるが、15世紀に[[コジモ・デ・メディチ]]が支配して以降は、実質的には[[メディチ家]]が支配した[[シニョリーア]]制であった。[[1532年]][[アレッサンドロ・デ・メディチ]]がフィレンツェ公となるとともに&#039;&#039;&#039;[[フィレンツェ公国]]&#039;&#039;&#039;({{It|&#039;&#039;&#039;Ducato di Firenze&#039;&#039;&#039;}})となった。<br /> <br /> == 関連項目 ==<br /> * {{仮リンク|トスカーナ辺境伯|en|March of Tuscany}}<br /> * [[トスカーナ州]]<br /> * [[トスカーナ大公国]]<br /> * [[トスカーナの支配者一覧]]<br /> * [[フィレンツェのギルド]]<br /> * [[チョンピの乱]]<br /> * [[ジロラモ・サヴォナローラ]]<br /> * [[メディチ家]]<br /> * [[フローリン金貨]]<br /> <br /> == 外部リンク ==<br /> * [http://www.pbs.org/empires/medici/renaissance/republic.html More information about the Republic]<br /> <br /> {{Commonscat|Republic of Florence}}<br /> {{イタリアに存在した国}}<br /> {{italia-storia-stub}}<br /> <br /> {{DEFAULTSORT:ふいれんつえきようわこく}}<br /> [[Category:フィレンツェ共和国|*]]<br /> [[Category:トスカーナの歴史]]<br /> [[Category:フィレンツェの歴史]]<br /> [[Category:イタリアに存在した国]]<br /> [[Category:かつて存在した共和国]]<br /> [[Category:都市国家]]<br /> [[Category:神聖ローマ帝国の領邦国家]]<br /> [[Category:中世のイタリア]]<br /> [[Category:イタリア・ルネサンス]]</div> 125.15.56.184
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