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miniwiki - 利用者の投稿記録 [ja]
2024-05-04T23:19:40Z
利用者の投稿記録
MediaWiki 1.31.0
オリバー・ストーン
2018-10-07T08:12:43Z
<p>122.214.146.170: </p>
<hr />
<div>{{存命人物の出典明記|date=2012年9月1日 (土) 03:30 (UTC)}}<br />
{{ActorActress<br />
| 芸名 = Oliver Stone<br />
| ふりがな = オリバー・ストーン<br />
| 画像ファイル =Oliver Stone Cannes 2010.jpg<br />
| 画像サイズ = <br />
| 画像コメント = <br />
| 本名 = William Oliver Stone<br />
| 別名義 = <br />
| 出生地 = {{USA}} [[ニューヨーク州]][[ニューヨーク]]<br />
| 死没地 =<br />
| 国籍 = <br />
| 身長 =<br />
| 血液型 =<br />
| 生年 = 1946<br />
| 生月 = 9<br />
| 生日 = 15<br />
| 没年 = <br />
| 没月 = <br />
| 没日 = <br />
| 職業 = 映画監督<br />
| ジャンル = <br />
| 活動期間 = 1974-<br />
| 活動内容 = <br />
| 配偶者 ={{flag|Lebanon}}Najwa Sarkis (1971-1977)<ref>https://www.theguardian.com/film/2010/jul/18/oliver-stone-chavez-wall-street</ref><br> {{USA}} Elizabeth Stone (1981-1993)<br>{{flag|South Korea}}チョン・ソンジョン (1996-)<br />
| 著名な家族 = <br />
| 事務所 =<br />
| 公式サイト = <br />
| 主な作品 = 『[[プラトーン]]』<br />『[[ウォール街 (映画)|ウォール街]]』<br />『[[7月4日に生まれて]]』<br />『[[ドアーズ (映画)|ドアーズ]]』<br />『[[JFK (映画)|JFK]]』<br />『[[ナチュラル・ボーン・キラーズ]]』<br />『[[ワールド・トレード・センター (映画)|ワールド・トレード・センター]]』<br />『[[スノーデン (映画)|スノーデン]]』<br />
| アカデミー賞 = '''[[アカデミー監督賞|監督賞]]'''<br />[[第59回アカデミー賞|1986年]]『[[プラトーン]]』<br />[[第62回アカデミー賞|1989年]]『[[7月4日に生まれて]]』<br />'''[[アカデミー脚色賞|脚色賞]]'''<br />[[第51回アカデミー賞|1978年]]『[[ミッドナイト・エクスプレス (映画)|ミッドナイト・エクスプレス]]』<br />
| ヴェネツィア国際映画祭 = '''[[ヴェネツィア国際映画祭 審査員特別賞|審査員特別賞]]'''<br /> [[第51回ヴェネツィア国際映画祭|1994年]]『[[ナチュラル・ボーン・キラーズ]]』<br />
| ベルリン国際映画祭 = '''[[銀熊賞 (監督賞)|銀熊賞(監督賞)]]'''<br />[[第37回ベルリン国際映画祭|1987年]]『[[プラトーン]]』<br />'''[[名誉金熊賞]]'''<br />[[第40回ベルリン国際映画祭|1990年]]<br />
| 英国アカデミー賞 = '''[[英国アカデミー賞 監督賞|監督賞]]'''<br />[[第41回英国アカデミー賞|1987年]]『[[プラトーン]]』<br />
| エミー賞 = <br />
| ゴールデングローブ賞 = '''[[ゴールデングローブ賞 監督賞|監督賞]]'''<br />[[第44回ゴールデングローブ賞|1986年]]『[[プラトーン]]』<br />[[第47回ゴールデングローブ賞|1989年]]『[[7月4日に生まれて]]』<br />[[第49回ゴールデングローブ賞|1991年]]『[[JFK (映画)|JFK]]』<br />'''[[ゴールデングローブ賞 脚本賞|脚本賞]]'''<br />[[第38回ゴールデングローブ賞|1978年]]『[[ミッドナイト・エクスプレス (映画)|ミッドナイト・エクスプレス]]』<br />[[第47回ゴールデングローブ賞|1989年]]『[[7月4日に生まれて]]』<br />
| ゴールデンラズベリー賞 = <br />
| その他の賞 = <br />
| 備考 = <br />
| 愛称 = <br />
}}<br />
'''オリバー・ストーン'''({{lang|en|Oliver Stone,}} [[1946年]][[9月15日]] - )は、[[アメリカ合衆国]]の[[映画監督]]、[[映画プロデューサー]]、[[脚本家]]。<br />
<br />
[[ベトナム帰還兵]]である自身の1年間の実体験を活かし、[[ベトナム戦争]]とそれが人間に与えた影響を描いた『[[プラトーン]]』で一躍有名になった。多くの作品の傾向として、[[アメリカ合衆国連邦政府]]やアメリカ政治を強く批判している。<br />
<br />
== 経歴 ==<br />
[[ニューヨーク州]][[ニューヨーク|ニューヨーク市]]出身<ref>[http://info.movies.yahoo.co.jp/detail/typs/id188/ アメリカ/ニューヨーク州ニューヨーク出身 Yahoo!映画]</ref>。父ルイスは[[ユダヤ系]]の株式仲買人で、母はフランス系の[[カトリック教会|カトリック教徒]]であった。折衷案として[[米国聖公会]]で育つ<ref>[http://www.adherents.com/people/ps/Oliver_Stone.html The religion of director Oliver Stone<!-- Bot generated title -->]</ref><ref>http://www.washingtonpost.com/wp-srv/style/longterm/movies/review97/foliverstone.htm</ref>(しかし、のちに仏教徒となった)。[[イェール大学]]で1年間学ぶが、中退して[[ベトナム共和国]]に赴き、[[英語]]を教えるなどして半年程過ごす。帰国後復学するが、再び中退している。<br />
<br />
[[1967年]]から[[アメリカ合衆国陸軍]]に従軍し、[[ベトナム戦争]]を経験。[[空挺部隊]]に所属し、[[アメリカ陸軍特殊部隊群|LRRP]]と呼ばれる偵察隊に加わっていた。この任務は[[特殊部隊]]的な側面を持ち、死傷率がもっとも高かった部隊のひとつである。<br />
<br />
除隊後に[[ニューヨーク大学]]で[[マーティン・スコセッシ]]に師事し映画制作を学んだが、しばらくはシナリオが売れないなど[[スランプ]]の時期が続いた。[[1974年]]に[[ホラー映画]]『{{仮リンク|邪悪の女王|en|Seizure (film)}}』(日本未公開、原題:''Seizure''、あるいは''Queen of Evil'')で長編監督デビュー<ref>[http://info.movies.yahoo.co.jp/detail/typs/id188/ 74年にカナダで「邪悪の女王」というホラー映画で監督デビューを果たした Yahoo!映画]</ref>。脚本を担当した[[1978年]]の『[[ミッドナイト・エクスプレス (映画)|ミッドナイト・エクスプレス]]』で、[[アカデミー脚色賞]]を受賞。<br />
<br />
『[[プラトーン]]』『[[7月4日に生まれて]]』の2作品で[[アカデミー監督賞]]を2度受賞する。その他代表作には『[[ウォール街 (映画)|ウォール街]]』『[[JFK (映画)|JFK]]』『[[天と地]]』『[[ナチュラル・ボーン・キラーズ]]』『[[ニクソン (映画)|ニクソン]]』など。<br />
<br />
特に『プラトーン』は、自身のベトナム戦争での体験がベースになっていると言われ、戦争という異常な状況下で人間はいかに醜く残酷になるか、そしていかに戦争が非人道的なものであるかを痛烈に訴えている。これらの作品についてはアメリカ国内では賛否が大きく、特にオリバー・ストーンと同じ世代ではその傾向が顕著である。<br />
<br />
最近では、次の時代を担う世代への教育的見地から、[[ドキュメンタリー]]を通じて、アメリカ現代史を問い直す作業に取り組み、その成果が[[2012年]]の映像作品『''[[:en:The Untold History of The United States|The Untold History of The United States]]''』に結実した。これを[[日本放送協会]]が[[放映権]]を取得して、[[NHK-BS1]]の[[BS世界のドキュメンタリー]]により『オリバー・ストーンが語る もうひとつのアメリカ史』というタイトルで、50分番組を10回に分けて、3週にわたり放送された。この[[ドキュメンタリー番組]]への反響が大きかったため、2013年8月25日に『オリバー・ストーンと語る “原爆×戦争×アメリカ”』という、ストーン監督に加え、脚本を担当した[[歴史学者]]の[[ピーター・カズニック]]を[[NHK放送センター|NHKスタジオ]]に招き、2氏へのインタビューをメインに据えた2時間番組が放送された。来日した際には、オリバー・ストーンは[[広島市]]・[[長崎市]]・[[沖縄県]]を訪れ、原爆資料館や米軍基地反対の沖縄住民の元を訪れた。<br />
<br />
== 人物 ==<br />
現夫人は[[韓国人]]のチョン・ソンジョンである。一緒に[[釜山]]を訪れて、自身の映画の中で韓国を登場させたことについて問われると「妻が韓国人なので言及したのではない」、「当時は[[リーマンショック]]で韓国関連の記録があった」と答えた。さらに、「貯蓄して熱心に働き、賢く行動しなければならないかをアメリカ合衆国に教えてくれる国が韓国だという点を、妻を通じて知った」と韓国は見本になる偉大な国家だと絶賛した<ref>[http://travel.innolife.net/innoreport/list.php?ac_id=2&ai_id=7508> コリアムービーナウ > オリバー・ストーン監督韓国人の夫人と来韓、「韓国は驚くべき国」]</ref>。<br />
<br />
『[[JFK (映画)|JFK]]』『[[ニクソン (映画)|ニクソン]]』『[[ブッシュ (映画)|ブッシュ]]』と[[アメリカ合衆国大統領の一覧|現職・元アメリカ合衆国大統領]]をテーマにした映画を3本製作している。<br />
<br />
映画監督を志す前は、19歳の時に小説を書いたりもした。<br />
<br />
私生活では3度の[[結婚]]歴があり、2度目の妻エリザベス(1993年に[[離婚]])は『トーク・レディオ』『ドアーズ』『JFK』および『天と地』で {{en|"Naijo no Ko}}(内助の功)"とクレジットされた。[[1984年]]に生まれた息子は、俳優となって父の作品に出演している。<br />
<br />
[[2008年アメリカ合衆国大統領選挙]]では[[民主党 (アメリカ)|民主党]]候補の[[バラク・オバマ]]候補を支持していた。[[2012年アメリカ合衆国大統領選挙]]の時は[[共和党 (アメリカ)|共和党]]から出馬していた[[リバタリアン]]の[[ロン・ポール]]候補を支持していたが、[[ミット・ロムニー]]が共和党指名を勝ち取った為、オバマ支持に回った。[[2016年]]は[[バーニー・サンダース]]と[[ジル・スタイン]]を支持した。<br />
<br />
[[ピーター・カズニック]]とともに、アメリカ社会で広く知られている「[[日本への原子爆弾投下|原爆投下]]によって、戦争を早く終わらせ、100万人のアメリカ兵の生命が救われた」という「[[ヘンリー・スティムソン|原爆神話]]」に対して、反論をしている。『語られない米国史』のプロジェクトを始めたのは、ストーンの娘の高校教科書の広島・長崎についての記述が原爆投下を正当化するひどいものだったことがきっかけだという<ref>「インタビュー 核といのちを考える:米国で原爆神話に挑む ピーター・カズニックさん」、『朝日新聞』2015年06月02日(火)付。</ref>。<br />
<br />
==逮捕==<br />
1967年にベトナム戦争に志願し、翌1968年に除隊した後、メキシコで麻薬におぼれ、[[ヘロイン]]所持で逮捕されたが父親に保釈金2500ドルを出してもらって釈放してもらった<ref>http://soe006.tm.land.to/cinema/stone01.html</ref>。<br />
<br />
[[1999年]]に[[マリファナ]]所持で逮捕、[[2005年]]にもマリファナ所持と[[飲酒運転]]で再び逮捕されている<ref>http://eiga.com/news/20050531/14/</ref><ref>http://gqjapan.jp/culture/movie/20110506/%E3%82%AA%E3%83%AA%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%BC%E3%83%B3%E7%9B%A3%E7%9D%A3%E3%80%81%E6%96%B0%E4%BD%9C%E3%81%AF%E3%83%9E%E3%83%AA%E3%83%95%E3%82%A1%E3%83%8A%E3%82%92%E3%82%81</ref>。2008年には自身の映画を撮影中に自身のスタッフ三人と俳優二人が喧嘩して逮捕されている<ref>http://www.mtvjapan.com/news/cinema/10534</ref>。<br />
<br />
== 主な作品 ==<br />
=== 監督 ===<br />
*邪悪の女王 ''Seizure'' (1974) 兼脚本<br />
*キラーハンド ''The Hand'' (1981) 兼脚本<br />
*[[サルバドル/遥かなる日々]] ''Salvador'' (1986) 兼製作、脚本<br />
*[[プラトーン]] ''Platoon'' (1986) 兼脚本<br />
*[[ウォール街 (映画)|ウォール街]] ''Wall Street'' (1987) 兼脚本<br />
*[[トーク・レディオ]] ''Talk Radio'' (1988) 兼脚本<br />
*[[7月4日に生まれて]] ''Born on the Fourth of July'' (1989) 兼製作、脚本<br />
*[[ドアーズ (映画)|ドアーズ]] ''The Doors'' (1991) 兼脚本<br />
*[[JFK (映画)|JFK]] ''JFK'' (1991) 兼脚本<br />
*[[天と地]] ''Heaven & Earth'' (1993) 兼製作、脚本<br />
*[[ナチュラル・ボーン・キラーズ]] ''Natural Born Killers'' (1994) 兼脚本<br />
*[[ニクソン (映画)|ニクソン]] ''Nixon'' (1995) 兼製作、脚本<br />
*[[Uターン (映画)|Uターン]] ''U Turn'' (1997)<br />
*[[エニイ・ギブン・サンデー]] ''Any Given Sunday'' (1999) 兼製作総指揮、脚本<br />
*[[コマンダンテ]] ''Comandante'' (2003) ドキュメンタリー映画、兼製作、インタビュアーとして出演<br />
*[[アレキサンダー (映画)|アレキサンダー]] ''Alexander'' (2004) 兼製作、脚本<br />
*[[ワールド・トレード・センター (映画)|ワールド・トレード・センター]]''World Trade Center'' (2006) 兼製作<br />
*[[ブッシュ (映画)|ブッシュ]] ''W.'' (2008) 兼製作<br />
*国境の南 ''South of Border.'' (2009) 102分 日本未公開<br />
*[[ウォール・ストリート (映画)|ウォール・ストリート]] ''Wall Street: Money Never Sleeps'' (2010)<br />
*[[野蛮なやつら/SAVAGES]] ''Savages'' (2012) 兼脚本<br />
*オリバー・ストーンが語る もうひとつのアメリカ史 ''The Untold History of the United States'' (2012 [[Showtime]]) [[ドキュメンタリー番組]]、兼製作、脚本<br />
*[[スノーデン (映画)|スノーデン]] ''Snowden'' (2016) 兼脚本(キーラン・フィッツジェラルドと共同脚本)<ref>{{cite news|url=http://natalie.mu/eiga/news/201909|title=スノーデンはなぜ告発を決めたのか?オリヴァー・ストーン最新作が公開決定|newspaper=映画ナタリー|date=2016-09-15|accessdate=2016-09-15}}</ref><br />
*[[オリバー・ストーン オン プーチン]] ''The Putin Interviews'' (2017 [[Showtime]]) [[ドキュメンタリー番組]]、兼製作、脚本<br />
<br />
=== 製作・製作総指揮 ===<br />
*[[ブルースチール (1990年の映画)|ブルースチール]] ''Blue Steel'' (1990)<br />
*[[運命の逆転]] ''Reversal of Fortune'' (1990)<br />
*[[アイアン・メイズ/ピッツバーグの幻想]] ''Iron Maze'' (1991)<br />
*サウス・セントラル ''South Central'' (1992)<br />
*ゼブラヘッド ''Zebrahead'' (1992) 日本未公開<br />
*[[ジョイ・ラック・クラブ]] ''The Joy Luck Club'' (1993)<br />
*ワイルド・パームス第1章~第3章 ''Wild Palms'' (1993) テレビドラマ<br />
*ニュー・エイジ ''The New Age'' (1994)<br />
*KILLER/第一級殺人 ''Killer: A Journal of Murder'' (1995)<br />
*[[誘導尋問 (映画)|誘導尋問]] ''Indictment: The McMartin Trial'' (1995) テレビ映画<br />
*連鎖犯罪/逃げられない女(新DVD邦題:フリーウェイ) ''Freeway'' (1996) 日本未公開<br />
*[[ラリー・フリント (映画)|ラリー・フリント]] ''The People vs. Larry Flynt'' (1996)<br />
*コールド・ハート ''Cold Around The Heart'' (1997)<br />
*[[セイヴィア]] ''Savior'' (1998)<br />
*[[NYPD15分署]] ''The Corruptor'' (1999)<br />
*レーガン/大統領暗殺未遂事件 ''The Day Reagan Was Shot'' (2001) テレビ映画<br />
*すべての政府は嘘をつく ''All Governments Lie: Truth, Deception, and the Spirit of I.F. Stone'' (2016)<br />
<br />
=== 脚本 ===<br />
*[[ミッドナイト・エクスプレス (映画)|ミッドナイト・エクスプレス]] ''Midnight Express'' (1978)<br />
*[[コナン・ザ・グレート]] ''Conan the Barbarian'' (1982)<br />
*[[スカーフェイス (映画)|スカーフェイス]] ''Scarface'' (1983)<br />
*[[イヤー・オブ・ザ・ドラゴン]] ''Year of the Dragon'' (1985)<br />
*[[800万の死にざま]] ''8 Million Ways to Die'' (1986)<br />
*[[エビータ (映画)|エビータ]] ''Evita'' (1996)<br />
<br />
=== 自作への出演 ===<br />
*『キラーハンド』 バム役<br />
*『プラトーン』 爆死する司令官役<br />
*『ウォール街』 トレーダー役<br />
*『7月4日に生まれて』 レポーター役<br />
*『ドアーズ』 UCLAの教授<br />
*『ニクソン』 ナレーター<br />
*『エニイ・ギブン・サンデー』 タグ<br />
<br />
他にも俳優としての出演作が有る。『JFK』以降「政府の陰謀」というと引き合いに出されるようになり、『[[メン・イン・ブラック2]]』でも陰謀に関連付けられビデオ店の等身大パネルで顔を見せている。また『[[デーヴ (映画)|デーヴ]]』では自らオリバー・ストーンを演じ、陰謀説を唱えて[[ラリー・キング]]に窘められるというパロディもこなした。<br />
<br />
== 著作 ==<br />
* 『オリバー・ストーンが語る もうひとつのアメリカ史 1 二つの世界大戦と原爆投下』 2013年、[[早川書房]]、ISBN 4152093676<br />
* 『オリバー・ストーンが語る もうひとつのアメリカ史: 2 ケネディと世界存亡の危機』 2013年、[[早川書房]]、ISBN 4152093722<br />
* 『オリバー・ストーンが語る もうひとつのアメリカ史: 3 帝国の緩やかな黄昏』 2013年、[[早川書房]]、ISBN 415209379X<br />
<br />
== 脚注 ==<br />
{{脚注ヘルプ}}<br />
{{Reflist|1}}<br />
<br />
== 関連文献 ==<br />
*[http://www.nytimes.com/books/first/s/stone-dream.html The first chapter of ''A Child's Night Dream'' by Oliver Stone] at the ''New York Times'' site.<br />
*[http://democracynow.jp/submov/20100621-1 オリバー・ストーンが中南米の政治変動に取り組んだ新作『国境の南』] 動画 日本語字幕付 (デモクラシーナウ!ジャパン 2010.06.21)<br />
*[http://democracynow.jp/video/20121116-3/ オリバー・ストーンの「語られざる米国史」前篇] 動画 日本語字幕付 (デモクラシーナウ!ジャパン 2012.11.16)<br />
*[http://democracynow.jp/video/20121126-9/ オリバー・ストーンの「語られざる米国史」後篇] 動画 日本語字幕付 (デモクラシーナウ!ジャパン 2012.11.26)<br />
<br />
== 外部リンク ==<br />
{{Commonscat|Oliver Stone}}<br />
*{{allcinema name|188|オリヴァー・ストーン}}<br />
*{{Kinejun name|379|オリヴァー・ストーン}}<br />
*{{IMDb name|0000231|Oliver Stone}}<br />
<br />
{{オリヴァー・ストーン監督作品}}<br />
{{アカデミー賞監督賞 1981-2000}}<br />
{{アカデミー賞脚色賞 1961-1980}}<br />
{{英国アカデミー賞監督賞}}<br />
{{ゴールデングローブ賞 監督賞}}<br />
{{ベルリン国際映画祭銀熊賞(監督賞) 1980-1999}}<br />
{{Normdaten}}<br />
{{DEFAULTSORT:すとおん おりはあ}}<br />
[[Category:アメリカ合衆国の映画監督]]<br />
[[Category:アメリカ合衆国の映画プロデューサー]]<br />
[[Category:アメリカ合衆国の脚本家]]<br />
[[Category:アカデミー賞受賞者]]<br />
[[Category:英国アカデミー賞受賞者]]<br />
[[Category:ゴールデングローブ賞受賞者]]<br />
[[Category:ハリウッド・ウォーク・オブ・フェーム]]<br />
[[Category:ベトナム戦争の人物]]<br />
[[Category:ニューヨーク市出身の人物]]<br />
[[Category:フランス系アメリカ人]]<br />
[[Category:ユダヤ系アメリカ人]]<br />
[[Category:1946年生]]<br />
[[Category:存命人物]]</div>
122.214.146.170
アンソニー・ホプキンス
2018-10-07T04:30:41Z
<p>122.214.146.170: </p>
<hr />
<div>{{Otheruses|イギリス出身の俳優|同名のイギリス出身の歴史学者|A・G・ホプキンズ}}<br />
{{ActorActress<br />
| 芸名 = Sir Anthony Hopkins<br />
| ふりがな = アンソニー・ホプキンス<br />
| 画像ファイル = AnthonyHopkins10TIFF.jpg<br />
| 画像サイズ = <br />
| 画像コメント = 2010年の[[トロント国際映画祭]]にて。<br />
| 本名 = <br />
| 別名義 = <!-- 別芸名がある場合記載。愛称の欄ではありません。 --><br />
| 出生地 = {{WAL}} ポート・タルボット<br />
| 死没地 = <br />
| 国籍 = {{GBR}}<br />{{USA}}<br />
| 民族 = <!-- 民族名には信頼できる情報源が出典として必要です。 --><br />
| 身長 = 174 cm<br />
| 血液型 = <br />
| 生年 = 1937<br />
| 生月 = 12<br />
| 生日 = 31<br />
| 没年 = <br />
| 没月 = <br />
| 没日 = <br />
| 職業 = [[俳優]]、[[作曲家]]、[[画家]]<br />
| ジャンル = [[映画]]、[[舞台]]、[[テレビ]]<br />
| 活動期間 = 1965年 -<br />
| 活動内容 = 1991年:[[アカデミー主演男優賞]]<br />
| 配偶者 = Petronella Barker(1967年 - 1972年)<br>Jennifer Lynton(1973年 - 2002年)<br>Stella Arroyave(2003年 - )<br />
| 著名な家族 = {{仮リンク|アビゲイル・ホプキンス|en|Abigail Hopkins}}(娘、歌手・女優)<br />
| 事務所 = <br />
| 公式サイト = <br />
| 主な作品 = '''映画'''<br />『[[冬のライオン#1968年 映画版|冬のライオン]]』『[[エレファント・マン (映画)|エレファント・マン]]』<br />『[[羊たちの沈黙 (映画)|羊たちの沈黙]]』『[[ハワーズ・エンド]]』<br />『[[日の名残り (映画)|日の名残り]]』『[[ニクソン (映画)|ニクソン]]』<br />『[[サバイビング・ピカソ]]』『[[アミスタッド]]』<br />『[[ジョー・ブラックをよろしく]]』<br />『[[ハンニバル (映画)|ハンニバル]]』『[[レッド・ドラゴン (映画)|レッド・ドラゴン]]』<br />『[[マイティ・ソー (映画)|マイティ・ソー]]』シリーズ<br />『[[ヒッチコック (映画)|ヒッチコック]]』『[[REDリターンズ]]』<hr />'''テレビドラマ'''<br />『[[ウエストワールド (テレビドラマ)|ウエストワールド]]』<br />
| アカデミー賞 = '''[[アカデミー主演男優賞|主演男優賞]]'''<br />[[第64回アカデミー賞|1991年]]『[[羊たちの沈黙 (映画)|羊たちの沈黙]]』<br />
| ニューヨーク映画批評家協会賞 = '''[[ニューヨーク映画批評家協会賞 主演男優賞|主演男優賞]]'''<br />[[1991年]]『羊たちの沈黙』<br />
| ロサンゼルス映画批評家協会賞 = '''[[ロサンゼルス映画批評家協会賞 主演男優賞|主演男優賞]]'''<br />[[1993年]]『[[日の名残り (映画)|日の名残り]]』『[[永遠の愛に生きて]]』<br />
| 放送映画批評家協会賞 = '''[[放送映画批評家協会賞|助演男優賞]]'''<br/>[[1997年]]『[[アミスタッド]]』<br />
| AFI賞 = '''[[アメリカ映画100年のヒーローと悪役ベスト100]]'''<br />[[2004年]]『羊たちの沈黙』<br />
| 英国アカデミー賞 = '''[[英国アカデミー賞|主演男優賞]]'''<br />[[1991年]]『羊たちの沈黙』<br />[[1993年]]『永遠の愛に生きて』<br />'''[[英国アカデミー賞|主演男優賞(テレビ部門)]]'''<br />[[1972年]]『戦争と平和』<br />'''[[英国アカデミー賞|アカデミー友愛賞]]'''<br />[[2008年]] 長年の功績に対して<br />'''[[英国アカデミー賞|ブリタニア賞]]'''<br />1995年<br />
| エミー賞 = '''[[プライムタイム・エミー賞|主演男優賞(ミニシリーズ・テレビ映画部門)]]'''<br />[[1976年]]『リンドバーグ2世誘拐事件』<br />[[1981年]]『ヒトラー最期の日』<br />
| グラミー賞 = <br />
| ゴールデングローブ賞 = '''[[ゴールデングローブ賞 セシル・B・デミル賞|セシル・B・デミル賞]]'''<br />[[2006年]] 生涯功労賞<br />
| ゴールデンラズベリー賞 = <br />
| ゴヤ賞 = <br />
| ジェミニ賞 = <br />
| 全米映画俳優組合賞 = <br />
| トニー賞 = <br />
| 日本アカデミー賞 = <br />
| ブルーリボン賞 = <br />
| ローレンス・オリヴィエ賞 = <br />
| その他の賞 = '''[[ナショナル・ボード・オブ・レビュー|ナショナル・ボード・オブ・レビュー賞]]'''<br />'''主演男優賞'''<br />[[1993年]]『日の名残り』『永遠の愛に生きて』<br />'''助演男優賞'''<br />[[1991年]]『羊たちの沈黙』<hr />'''[[ハリウッド名声の歩道]]'''<br />[[2003年]] 映画産業への貢献、映画・演劇業界への業績に対して<br />
| 備考 = [[ハンニバル・レクター]]<br />
}}<br />
'''アンソニー・ホプキンズ [[大英帝国勲章|CBE]]'''(Anthony Hopkins, CBE, [[1937年]][[12月31日]] - )は、[[イギリス]]出身の[[俳優]]、[[作曲家]]、[[画家]]。『[[羊たちの沈黙 (映画)|羊たちの沈黙]]』(1991年)で演じた[[精神病質]]の[[ハンニバル・レクター]]博士の役が高く評価され、この作品で[[アカデミー主演男優賞]]を受賞した。その後も続編である『[[ハンニバル (映画)|ハンニバル]]』(2001年)、『[[レッド・ドラゴン]]』(2002年)で同じレクター役を演じている。<br />
<br />
== 経歴・人物 ==<br />
[[ウェールズ]]地方ウェスト・グラモーガン州の港町ポート・タルボットで生まれる。[[パン]]屋の一人息子<ref name="actors">Stated in interview on ''Inside the Actors Studio'', 2007</ref>だったが、十代の頃から演じることに興味があった。ウェールズの演劇学校で学んだあと、[[陸軍]]に入隊。除隊後に再び[[ロンドン]]のロイヤル・アカデミー・オブ・ドラマティック・アートで演技を学び、舞台俳優としてキャリアをスタートさせた。「演技というものは絵空事であって、その要素はすべて[[シナリオ]]の中にある」というのが持論で、どのような役であっても特別にリサーチして演じることはないとされる。これは役柄の徹底的なリサーチに基づいたリアリティを追求する[[ロバート・デ・ニーロ]]などの演技スタイルと対極にあるともいえ、デ・ニーロ等のアプローチを批判し「馬鹿げている」と罵ったことでも有名。その持論ゆえ、台本のチェック・暗記は徹底的に行い、撮影の際にはきわめて自然で役柄本人になりきっているかのような卓越した演技力を発揮する。<br />
<br />
舞台で培われた卓越した重厚感、気品と知性溢れる存在感は映画においても遺憾なく発揮され、1968年『[[冬のライオン]]』、1974年『人形の家』、1978年『インター・ナショナル・ベルベット』などが代表作となる。1980年には、[[デヴィッド・リンチ|デイヴィッド・リンチ]]監督作品『[[エレファント・マン (映画)|エレファント・マン]]』にドクター役で主演。<br />
<br />
『[[羊たちの沈黙 (映画)|羊たちの沈黙]]』で演じた[[ハンニバル・レクター]]博士役の名演技が高く評価され、この作品で[[アカデミー主演男優賞]]を受賞した。その後も続編である『[[ハンニバル (映画)|ハンニバル]]』、『[[レッド・ドラゴン]]』で同じレクター役を演じている。<br />
<br />
ハンニバル・レクターのイメージに反し、アンソニー本人は[[ベジタリアン]]である。また、アルコールも飲まない(アルコール依存症のため、断酒した)。<br />
<br />
『8月の誘惑』では監督業にも進出した。<br />
<br />
=== 私生活 ===<br />
3度結婚していて、最初の妻との間に娘が1人いる。イギリスから1987年に[[大英帝国勲章|コマンダー]]に、1993年には[[ナイト]]に叙勲されており、名実ともに現代を代表する名優の一人となった。<br />
<br />
現在は[[ロサンゼルス]]に住み、2000年にはアメリカの市民権を得ている。<br />
<br />
何月何日が何曜日だったかという、日付と曜日を即座に計算できる特技を持つ。<br />
<br />
== 主な出演作品 ==<br />
=== 映画 ===<br />
{| class="wikitable sortable" style="font-size:85%;"<br />
|-<br />
!公開年!!邦題<br />原題!!役名!!備考<br />
|-<br />
| 1968 || [[冬のライオン#1968年 映画版|冬のライオン]]<br />''The Lion in Winter'' || [[リチャード1世 (イングランド王)|リチャード]] || 英国アカデミー賞 助演男優賞ノミネート<br />
|-<br />
| 1969 || [[鏡の国の戦争 (小説)|鏡の国の戦争]]<br />''The Looking Glass War'' || ジョン・エイヴリー ||<br />
|-<br />
| 1971 || [[八点鐘が鳴るとき]]<br />''When Eight Bells Toll'' || フィリップ・カルバート ||<br />
|-<br />
| 1974 || [[ジャガーノート (映画)|ジャガーノート]]<br />''Juggernaut'' || ジョン・マクロード || <br />
|-<br />
| 1976 || [[エンテベの勝利]]<br />''Victory at Entebbe'' || イツハク・ラビン || <br />
|-<br />
|rowspan="2"| 1976 || [[オードリー・ローズ]]<br />''Audrey Rose'' || エリオット・フーバー ||<br />
|-<br />
| [[遠すぎた橋]]<br />''A Bridge Too Far'' || ジョン・フロスト || <br />
|-<br />
| 1978 || [[マジック]]<br />''Magic'' || コーキー || 英国アカデミー賞 主演男優賞ノミネート<br />
|-<br />
| 1980 || [[エレファント・マン (映画)|エレファント・マン]]<br />''The Elephant Man'' || フレデリック・トリーブス ||<br />
|-<br />
| 1980 || [[LOVEシーズン]]<br />''A Change of Seasons'' || アダム・エヴァンズ ||<br />
|-<br />
| 1981 || [[ヒトラー最期の日]]<br />''The Bunker'' || アドルフ・ヒトラー || テレビ映画<br />
|-<br />
| 1984 || [[バウンティ/愛と反乱の航海]]<br />''Where the Heart Is''|| ウィリアム・ブライ || <br />
|-<br />
| 1986 || [[チャーリング・クロス街84番地]]<br />''84 Charing Cross Road'' || フランク || ビデオ発売<br />
|-<br />
| 1988 || [[青い夜明け (映画)|青い夜明け]]<br />''The Dawning'' || カシアス / アンガス・バリー ||<br />
|-<br />
| 1989 || [[浮気なシナリオ]]<br />''A Chorus of Disapproval'' || ルウェーリン || ビデオ発売<br />
|-<br />
| 1990 || [[逃亡者 (1990年の映画)|逃亡者]]<br />''Desperate Hours'' || ティム || <br />
|-<br />
|rowspan="2"| 1991 || [[羊たちの沈黙 (映画)|羊たちの沈黙]]<br />''The Silence of the Lambs'' || [[ハンニバル・レクター]] || [[アカデミー賞]] [[アカデミー主演男優賞|主演男優賞]]<br />[[ニューヨーク映画批評家協会賞]] [[ニューヨーク映画批評家協会賞 主演男優賞|主演男優賞]]<br />
|-<br />
| [[スポッツウッド・クラブ]]<br />''Spotswood''|| ウォレス || <br />
|-<br />
|rowspan="3"| 1992 || [[ハワーズ・エンド]]<br />''Howards End'' || ヘンリー・J・ウィルコックス || <br />
|-<br />
| [[ドラキュラ (映画)|ドラキュラ]]<br />''Dracula'' || [[ヴァン・ヘルシング]] ||<br />
|-<br />
| [[チャーリー (映画)|チャーリー]]<br />''Chaplin'' || ジョージ・ヘイデン || <br />
|-<br />
|rowspan="3"| 1993 || [[トライアル/審判]]<br />''The Trial'' || 神父 || <br />
|-<br />
| [[日の名残り (映画)|日の名残り]]<br />''The Remains of the Day'' || ジェイムズ・スティーヴンス || ゴールデングローブ賞 主演男優賞ノミネート<br />[[ロサンゼルス映画批評家協会賞]] [[ロサンゼルス映画批評家協会賞 主演男優賞|主演男優賞]]<br />
|-<br />
| [[永遠の愛に生きて]]<br />''Shadowlands'' || [[C・S・ルイス]] || [[ロサンゼルス映画批評家協会賞]] [[ロサンゼルス映画批評家協会賞 主演男優賞|主演男優賞]]<br />
|-<br />
| 1993 || [[愛の果てに]]<br />''The Innocent'' || グラス || 自作の即興演奏も<br />
|-<br />
| 1994 || [[ケロッグ博士]]<br />''The Road to Wellville'' || ケロッグ || <br />
|-<br />
|rowspan="2"| 1995 || [[ニクソン (映画)|ニクソン]]<br />''Nixon'' || [[リチャード・ニクソン]] || ゴールデングローブ賞 主演男優賞ノミネート<br />
|-<br />
|[[レジェンド・オブ・フォール 果てしなき想い]]<br />''Legend of Fall'' || ウィリアム・ラドロー || <br />
|-<br />
|rowspan="2"| 1996 || [[8月の誘惑]]<br />''August'' || ヤーヤン || 監督/音楽/主演《[[叔父ヴァーニャ]]》の脚色<br />
|-<br />
| [[サバイビング・ピカソ]]<br />''Surviving Picasso'' || [[パブロ・ピカソ]] || <br />
|-<br />
|rowspan="2"| 1997 || [[アミスタッド]]<br />''Amistad'' || ジョン・クインシー・アダムズ || ゴールデングローブ賞 助演男優賞ノミネート<br />放送映画批評家協会賞 助演男優賞<br />
|-<br />
| [[ザ・ワイルド]]<br />''The Edge'' || チャールズ・モース || <br />
|-<br />
|rowspan="2"| 1998 || [[マスク・オブ・ゾロ]]<br />''The Mask of Zorro'' || ドン・ディエゴ・デ・ラ・ベガ || <br />
|-<br />
| [[ジョー・ブラックをよろしく]]<br />''Meet Joe Black'' || ウィリアム・パリッシュ || <br />
|-<br />
|rowspan="2"| 1999 || [[ハーモニーベイの夜明け]]<br />''Instinct'' || イーサン・パウエル ||<br />
|-<br />
| [[タイタス]]<br />''Titus'' || タイタス・アンドロニカス ||<br />
|-<br />
| 2000 || [[ミッション:インポッシブル2|M:I-2]]<br />''Mission: Impossible II'' || スワンベック || <br />
|-<br />
|rowspan="2"| 2001 || [[ハンニバル (映画)|ハンニバル]]<br />''Hannibal'' || ハンニバル・レクター || [[MTVムービー・アワード]] キス・シーン賞、悪役賞ノミネート<br />
|-<br />
| [[アトランティスのこころ]]<br />''Hearts in Atlantis'' || テッド・プローディガン || <br />
|-<br />
|rowspan="2"| 2002 || [[レッド・ドラゴン (映画)|レッド・ドラゴン]]<br />''Red Dragon'' || ハンニバル・レクター ||<br />
|-<br />
| [[9デイズ]]<br />''Bad Company'' || オークス || <br />
|-<br />
| 2003 || [[白いカラス]]<br />''The Human Stain'' || コールマン・シルク ||<br />
|-<br />
| 2004 || [[アレキサンダー (映画)|アレキサンダー]]<br />''Alexander'' || [[プトレマイオス1世]] ||<br />
|-<br />
|rowspan="2"| 2005 || [[プルーフ・オブ・マイ・ライフ]]<br />''Proof'' || ロバート ||<br />
|-<br />
| [[世界最速のインディアン]]<br />''The World's Fastest Indian'' || [[バート・マンロー]] || <br />
|-<br />
|rowspan="2"| 2006 || [[オール・ザ・キングスメン (2006年の映画)|オール・ザ・キングスメン]]<br />''All the King's Men'' || アーウィン判事 || <br />
|-<br />
| [[ボビー (映画)|ボビー]]<br />''Bobby'' || ジョン・ケイシー || <br />
|-<br />
|rowspan="3"| 2007 || [[ベオウルフ/呪われし勇者]]<br />''Beowulf'' || フロースガール ||<br />
|-<br />
| ''Fracture'' || テッド || 日本未公開<br />
|-<br />
| [[最終目的地 (映画)|最終目的地]]<br />''The City of Your Final Destination'' || アダム・グント || 自作のピアノ即興演奏も<br />
|-<br />
|rowspan="2"| 2010 || [[ウルフマン (2010年の映画)|ウルフマン]]<br />''The Wolfman'' || ジョン・タルボット ||<br />
|-<br />
| [[恋のロンドン狂騒曲]]<br />''You Will Meet a Tall Dark Stranger'' || アルフィ・シェプリッジ ||<br />
|-<br />
|rowspan="2"| 2011 || [[ザ・ライト -エクソシストの真実-]]<br />''The Rite'' || ルーカス・トレヴァント神父 || <br />
|-<br />
| [[マイティ・ソー (映画)|マイティ・ソー]]<br />''Thor'' || オーディン || <br />
|-<br />
|rowspan="2"| 2012 || [[ヒッチコック (映画)|ヒッチコック]]<br />''Hitchcock'' || [[アルフレッド・ヒッチコック]] || <br />
|-<br />
| [[360 (映画)|360]]<br />''360'' || ジョン || <br />
|-<br />
|rowspan="2"| 2013 || [[REDリターンズ]]<br />''RED 2'' || エドワード・ブラッドリー || <br />
|-<br />
| [[マイティ・ソー/ダーク・ワールド]]<br />''Thor: The Dark World'' || オーディン || <br />
|-<br />
| 2014 || [[ノア 約束の舟]]<br />''Noah'' || [[メトセラ]] || <br />
|-<br />
|rowspan="3"| 2015 || [[ハイネケン誘拐の代償]]<br />''Kidnapping Freddy Heineken'' || {{仮リンク|フレディ・ハイネケン|en|Freddy Heineken}} || <br />
|-<br />
| [[DEMON デーモン]]<br />''Blackway'' || レスター || <br />
|-<br />
| [[ブレイン・ゲーム]]<br />''Solace'' || ジョン・クランシー || 製作総指揮 || <br />
|-<br />
|rowspan="2"| 2016 || [[アウトバーン (映画)|アウトバーン]]<br />''Collide'' || ハーゲン・カール || <br />
|-<br />
| [[ブラック・ファイル 野心の代償]]<br />''Misconduct'' || アーサー・デニング || <br />
|-<br />
|rowspan="2"| 2017 || [[トランスフォーマー/最後の騎士王]]<br />''Transformers: The Last Knight'' || エドマンド・バートン || <br />
|-<br />
| [[マイティ・ソー バトルロイヤル]]<br />''Thor: Ragnarok'' || オーディン || <br />
|-<br />
|}<br />
<br />
=== テレビシリーズ ===<br />
{| class="wikitable sortable" style="font-size:85%;"<br />
|-<br />
!放映年!!邦題<br />原題!!役名!!備考<br />
|-<br />
| 2016- || [[ウエストワールド (テレビドラマ)|ウエストワールド]]<br />''Westworld'' || ロバート・フォード博士 || 計10話出演<br />第69回プライムタイム・エミー賞ドラマシリーズ部門主演男優賞ノミネート<br />
|-<br />
|}<br />
<br />
== 日本語吹き替え ==<br />
吹き替えは[[石田太郎]]が声を当てる事が多いが、複数作品では[[稲垣隆史]]や石田の没後は[[浦山迅]]が担当することが多い。<br />
<br />
== 参考文献 ==<br />
{{reflist}}<br />
<br />
== 外部リンク ==<br />
{{Commonscat|Anthony Hopkins}}<br />
* {{allcinema name|38530|アンソニー・ホプキンス}}<br />
* {{kinejun name|8539|アンソニー・ホプキンス}}<br />
* {{amg name|94812|Anthony Hopkins}}<br />
* {{tcmdb name|88825|Anthony Hopkins}}<br />
* {{imdb|0000164|Anthony Hopkins}}<br />
* {{ibdb name|82349|Anthony Hopkins}}<br />
* [http://www.filmreference.com/film/91/Anthony-Hopkins.html Film Reference]<br />
<br />
{{アカデミー賞主演男優賞 1981-2000}}<br />
{{英国アカデミー賞主演男優賞}}<br />
{{ニューヨーク映画批評家協会賞 主演男優賞}}<br />
{{ロサンゼルス映画批評家協会賞 主演男優賞}}<br />
{{トニー賞授賞式の司会者}}<br />
{{Normdaten}}<br />
<br />
{{DEFAULTSORT:ほふきんす あんそに}}<br />
[[Category:ウェールズの俳優]]<br />
[[Category:アメリカ合衆国の男優]]<br />
[[Category:悪役俳優]]<br />
[[Category:アカデミー賞受賞者]]<br />
[[Category:ハリウッド・ウォーク・オブ・フェーム]]<br />
[[Category:大英帝国勲章]]<br />
[[Category:アメリカ合衆国帰化市民]]<br />
[[Category:ウェールズ系アメリカ人]]<br />
[[Category:ニース・ポート・タルボット出身の人物]]<br />
[[Category:1937年生]]<br />
[[Category:存命人物]]<br />
[[Category:菜食主義者]]<br />
[[Category:ハンニバル・レクター|+ほふきんす]]</div>
122.214.146.170
マーティン・スコセッシ
2018-10-06T15:04:49Z
<p>122.214.146.170: </p>
<hr />
<div>{{ActorActress<br />
| 芸名 = Martin Scorsese<br />
| ふりがな = マーティン・スコセッシ<br />
| 画像ファイル = Martin Scorsese by David Shankbone.jpg<br />
| 画像サイズ = 240px<br />
| 画像コメント = 2007年 [[トライベッカ映画祭]]にて<br />
| 本名 = <br />
| 別名義 = <br />
| 愛称 = <br />
| 出生地 = [[ニューヨーク]]<br />
| 死没地 = <br />
| 国籍 = {{USA}}<br />
| 民族 = <!-- 民族名には信頼できる情報源が出典として必要です。 --><br />
| 身長 = <br />
| 生年 = 1942<br />
| 生月 = 11<br />
| 生日 = 17<br />
| 没年 = <br />
| 没月 = <br />
| 没日 = <br />
| 職業 = [[映画監督]]、[[脚本家]]、[[映画プロデューサー]]<br />
| ジャンル = [[映画]]<br />
| 活動期間 = <br />
| 活動内容 = <br />
| 配偶者 = Laraine Brennan (m. 1965)<br />Julia Cameron (m. 1975)<br />[[イザベラ・ロッセリーニ]](1979年 – 1983年)<br />Barbara De Fina (1985 – 1991)<br />Helen Morris (1999 – )<br />
| 著名な家族 = <br />
| 事務所 = <br />
| 公式サイト = <br />
| 主な作品 = <!--皆が認める代表作品を入力-->'''映画'''<br />『[[タクシードライバー (1976年の映画)|タクシードライバー]]』<br />『[[レイジング・ブル]]』<br />『[[キング・オブ・コメディ]]』<br />『[[グッドフェローズ]]』<br />『[[カジノ (映画)|カジノ]]』<br />『[[ギャング・オブ・ニューヨーク]]』<br />『[[アビエイター]]』<br />『[[ディパーテッド]]』<br />『[[ヒューゴの不思議な発明]]』<br />『[[ウルフ・オブ・ウォールストリート]]』<br />『[[沈黙 -サイレンス-]]』<hr />'''テレビドラマ'''<br />『[[ボードウォーク・エンパイア 欲望の街]]』<br />
| アカデミー賞 = '''[[アカデミー監督賞|監督賞]]'''<br />[[第79回アカデミー賞|2006年]]『[[ディパーテッド]]』<br />
| カンヌ国際映画祭 = '''[[パルム・ドール]]'''<br />[[第29回カンヌ国際映画祭|1976年]]『[[タクシードライバー (1976年の映画)|タクシードライバー]]』<br />'''[[カンヌ国際映画祭 監督賞|監督賞]]'''<br />[[第39回カンヌ国際映画祭|1986年]]『[[アフター・アワーズ (映画)|アフター・アワーズ]]』<br />
| ヴェネツィア国際映画祭 = '''[[銀獅子賞]]'''<br />[[1990年]]『[[グッドフェローズ]]』<br />'''[[栄誉金獅子賞]]'''<br />[[1995年]]<br />
| エミー賞 = '''監督賞(ドラマシリーズ)'''<br />[[2011年]]『ボードウォーク・エンパイア 欲望の街』<br />'''作品賞(ドキュメンタリー/ノンフィクションスペシャル)'''<br />[[2012年]]『[[ジョージ・ハリスン/リヴィング・イン・ザ・マテリアル・ワールド]]』<br />'''監督賞(ドキュメンタリー/ノンフィクションスペシャル)'''<br />2012年『ジョージ・ハリスン/リヴィング・イン・ザ・マテリアル・ワールド』<br />
| AFI賞 = '''生涯功労賞'''<br />1997年<br />
| グラミー賞 = '''最優秀ミュージック・フィルム賞'''<br />[[2006年]]『ノー・ディレクション・ホーム』<br />
| 東京国際映画祭 = '''特別賞'''<br />[[2016年]] 長年の功績に対して<br />
| 全米映画批評家協会賞 = '''監督賞'''<br />[[1976年]]『タクシードライバー』<br />[[1980年]]『[[レイジング・ブル]]』<br />[[1990年]]『グッドフェローズ』<br />'''特別賞'''<br />[[2001年]]『Il Mio viaggio in Italia』<br />
| ニューヨーク映画批評家協会賞 = '''[[ニューヨーク映画批評家協会賞 監督賞|監督賞]]'''<br />[[第56回ニューヨーク映画批評家協会賞|1990年]]『グッドフェローズ』<br />[[第72回ニューヨーク映画批評家協会賞|2006年]]『ディパーテッド』<br />
| ロサンゼルス映画批評家協会賞 = '''[[ロサンゼルス映画批評家協会賞 監督賞|監督賞]]'''<br />[[第16回ロサンゼルス映画批評家協会賞|1990年]]『グッドフェローズ』<br />'''ニュー・ジェネレーション賞'''<br />[[第2回ロサンゼルス映画批評家協会賞|1976年]]<br />
| 放送映画批評家協会賞 = '''[[放送映画批評家協会賞 監督賞|監督賞]]'''<br />[[第10回放送映画批評家協会賞|2004年]]『[[アビエイター]]』<br />[[第12回放送映画批評家協会賞|2006年]]『[[ディパーテッド]]』<br />
| 英国アカデミー賞 = '''[[英国アカデミー賞 作品賞|作品賞]]'''<br />[[1974年]]『[[アリスの恋]]』<br />1990年『グッドフェローズ』<br />'''[[英国アカデミー賞 監督賞|監督賞]]'''<br />[[1990年]]『グッドフェローズ』<br />'''[[英国アカデミー賞 脚色賞|脚色賞]]'''<br />1990年『グッドフェローズ』<br />''''アカデミー友愛賞'''<br />[[2011年]] 長年の功績に対して<br />
| ゴールデングローブ賞 = '''[[ゴールデングローブ賞 監督賞|監督賞]]'''<br />[[第60回ゴールデングローブ賞|2002年]]『[[ギャング・オブ・ニューヨーク]]』<br />[[第64回ゴールデングローブ賞|2006年]]『ディパーテッド』<br />[[第69回ゴールデングローブ賞|2011年]]『ヒューゴの不思議な発明』<br />'''[[ゴールデングローブ賞 セシル・B・デミル賞|セシル・B・デミル賞]]'''<br />[[第67回ゴールデングローブ賞|2009年]] 長年の功績に対して<br />
| 日本アカデミー賞 = '''優秀外国作品賞'''<br />[[1976年]]『タクシードライバー』<br />[[1990年]]『グッドフェローズ』<br />[[2002年]]『ギャング・オブ・ニューヨーク』<br />[[2004年]]『アビエイター』<br />[[2006年]]『ディパーテッド』<br />[[2011年]]『ヒューゴの不思議な発明』<br />[[2013年]]『ウルフ・オブ・ウォールストリート』<br />
| ブルーリボン賞 = '''外国作品賞'''<br />[[1976年]]『タクシードライバー』<br />
| セザール賞 = '''名誉賞'''<br />[[2000年]] 長年の功績に対して<br />
| その他の賞 = '''[[全米監督協会賞]]'''<br />'''監督賞(長編映画部門)'''<br />[[2006年]]『ディパーテッド』<br />'''監督賞(ドラマ部門)'''<br />[[2011年]]『ボードウォーク・エンパイア 欲望の街』<br />'''生涯功労賞'''<br />2003年<br />
| 備考 = [[レジオンドヌール勲章]]<br />[[高松宮殿下記念世界文化賞]]<br />[[ハリウッド名声の歩道]]<br />
}}<br />
'''マーティン・スコセッシ'''<ref>日本での表記はスコセッシで、本人の発音に基づく物(元をただせば[[イタリア語]][[シチリア]]方言の読み方)。英語での発音はしばしば、スコシージ、スコセージなどになる([[ジョン・ミリアス]]はスコシージと発音していた)。</ref>(Martin Scorsese /skɔːrˈsɛsi/, [[1942年]][[11月17日]] - )は、[[アメリカ合衆国]]の[[映画監督]]、[[脚本家]]、[[映画プロデューサー]]。<br />
<br />
== 人物 ==<br />
シチリア系イタリア移民の家に生まれ、[[マフィア]]の支配するイタリア移民社会で育ったため、その人格形成と作品の双方にはその出自が深く影響し、腐敗した矛盾に満ちた現実のなかでいかに人間としての倫理と善良さを実践できるか、それがしばしば不可能であることの苦悩を追求する映画が多い。また、そのなかでは人間の人間に対する無理解と不寛容の直接的表現として、リアルな暴力描写が重要な位置を占める。<br />
<br />
極端な映画マニアでもあり、[[黒澤明]]の映画を名画座に通い続け鑑賞し、実際にフィルムを手にし、カットの構成を研究し尽くしたという。<br />
<br />
ロックの最盛期に青春時代を過ごしたこともあり、[[ザ・バンド]]、[[ローリング・ストーンズ]]、[[ヴァン・モリソン]]、[[ボブ・ディラン]]、[[エリック・クラプトン]]などの楽曲をしばしば作中に使用する。1972年、『エルビス・オン・ツアー』の分割画面モンタージュ映像の監督を務めた。その他、ザ・バンドの解散コンサートを撮った『[[ラスト・ワルツ]]』、ローリング・ストーンズを撮った『[[ザ・ローリング・ストーンズ シャイン・ア・ライト]]』などの音楽関係の映像作品も多数手がけた。特に、[[マイケル・ジャクソン]]のヒットナンバー『[[バッド (曲)|Bad]]』のミュージック・ビデオは、約16分間の短編映画のような構成となっている。また、映画に関するドキュメンタリーも多数監督している他、古典映画の復元や再公開にも尽力している。<br />
<br />
[[アカデミー賞]]では、6度目のノミネート『[[ディパーテッド]]』により[[第79回アカデミー賞]][[アカデミー監督賞|監督賞]]・[[アカデミー作品賞|作品賞]]を受賞。また、監督賞発表の際には、親交の深い[[フランシス・フォード・コッポラ]]、[[ジョージ・ルーカス]]、[[スティーヴン・スピルバーグ]]がプレゼンターとして揃って登場するという演出がなされた。<br />
<br />
[[2011年]]、テレビドラマ『[[ボードウォーク・エンパイア 欲望の街]]』で第63回[[エミー賞]]ドラマ部門最優秀監督賞を受賞。<br />
<br />
== 略歴 ==<br />
[[イタリア]]([[シチリア]])移民1世の父と移民2世の母の次男として、[[ニューヨーク]]市[[クイーンズ区]]にて生まれ、同市[[リトル・イタリー (マンハッタン)|リトル・イタリー]]で育つ。喘息持ちで外で遊べなかったせいで子供の頃から映画に親しみ、[[ハリウッド]]映画の古典だけでなく、イタリアの[[ネオレアリズモ]]映画(とくに[[ロベルト・ロッセリーニ]])や、[[ジャン・ルノワール]]監督などのフランス映画、イギリス映画の巨匠[[マイケル・パウエル (映画監督)|マイケル・パウエル]]監督の『[[赤い靴 (映画)|赤い靴]]』、日本の[[溝口健二]]監督の『[[雨月物語 (映画)|雨月物語]]』など、世界の映画の古典を見て育つ。だが少年時代は、映画監督ではなく[[カトリック教会|カトリック]]の[[司祭]]を目指していたという。<br />
<br />
[[ベトナム戦争]]の[[徴兵]]を逃れ、[[ニューヨーク大学]]の映画学部で学びつつ短編映画を監督、修士課程の卒業制作を基に撮りたした初の長編映画『[[ドアをノックするのは誰?]]』([[1967年]])で注目される。同じ頃、『[[豚と軍艦]]』を含む[[今村昌平]]の監督作を何作か見てその感性に共感した(スコセッシ曰く「今村の作品は血となり肉となった」)他、[[小林正樹]]監督の『[[切腹 (映画)|切腹]]』、『[[上意討ち 拝領妻始末]]』に深い感銘を受けたという。<br />
<br />
1970年代に入ってから、[[フランシス・フォード・コッポラ]]や[[ジョージ・ルーカス]]、[[スティーヴン・スピルバーグ]]、[[ブライアン・デ・パルマ]]といった若手監督たちと親交を深めるようになる。ブライアン・デ・パルマはスコセッシに[[ロバート・デ・ニーロ]]を紹介し、二人はその後多くの作品(2012年現在で8作品)を共に制作することになる。スコセッシはデ・ニーロが出演した自身の監督作の中で彼が最高の演技をしたのは『[[キング・オブ・コメディ]]』であると語っている。<br />
<br />
[[1972年]]、[[ロジャー・コーマン]]の元で『[[明日に処刑を…]]』を監督。続けてデ・ニーロ、[[ハーヴェイ・カイテル]]出演で『[[ミーン・ストリート]]』を監督。<br />
<br />
[[1976年]]、デ・パルマに紹介された[[ポール・シュレイダー]]の脚本『[[タクシードライバー (1976年の映画)|タクシードライバー]]』を映画化、[[カンヌ国際映画祭]]の[[パルム・ドール]]を受賞した。<br />
<br />
[[1980年]]、デ・ニーロが熱望したボクシングのミドル級元チャンピオン、[[ジェイク・ラモッタ]]の自伝『[[レイジング・ブル]]』を監督(脚本は[[ポール・シュレイダー]])、無骨なまでに妥協のないスタイルで主人公の病理を突き詰めたこの映画は公開当時、批評は賛否両論に激しく別れたが、デ・ニーロが[[アカデミー賞]]の[[アカデミー主演男優賞|主演男優賞]]を受賞し、今日では「1980年代最高のアメリカ映画」と高く評価される。<br />
<br />
1970年代初頭から熱望していたギリシャの哲学者・小説家[[ニコス・カザンザキス]]の『[[キリスト最後のこころみ (小説)|キリスト最後のこころみ]]』の映画化『[[最後の誘惑]]』を[[1988年]]に実現(脚本は[[ポール・シュレイダー]])するが、[[キリスト教右派]]からの猛烈な抗議と暴力的な脅迫・上映妨害を受けることになる。<br />
[[1987年]]発売の、[[マイケル・ジャクソン]]のヒットナンバー『[[バッド (曲)|Bad]]』の、約16分にも及ぶ[[プロモーションビデオ]]を手がけ、もはやPVではなく映画とも言われた完成度の映像を作り上げる。<br />
<br />
[[1990年]]に発表した、アメリカのイタリア系マフィアの実態を描いた『[[グッドフェローズ]]』で、名実共に現代アメリカ映画で最も尊敬される映画作家としての地位に上り詰める。なお、同年には映画人として尊敬する[[黒澤明]]監督の『[[夢 (映画)|夢]]』に[[フィンセント・ファン・ゴッホ|ヴァン・ゴッホ]]役として出演した。翌年には『[[恐怖の岬]]』をリメイクしたスリラー『[[ケープ・フィアー]]』([[1991年]])で初めての商業的な成功も納め、続いて[[ピュリツァー賞]]受賞作家[[イーディス・ウォートン]]の『[[無垢の時代]]』を忠実に映画化した『[[エイジ・オブ・イノセンス/汚れなき情事]]』([[1993年]])を発表、粗暴な男たちの身体的暴力の描写を得意とするというイメージを払拭し、社交界を舞台にした精神的な暴力に満ちあふれる偽善的世界をシャープな演出であぶり出し、その評価を不動のものにする。『[[グッドフェローズ]]』と同じ原作者[[ニコラス・ピレッジ]]のノンフィクションに基づき[[ラスヴェガス]]における組織犯罪のギャンブル支配を描く『[[カジノ (映画)|カジノ]]』([[1995年]])を監督、続いてまったく正反対の世界として、[[チベット仏教]]の最高指導者[[ダライ・ラマ14世]]の前半生を忠実に映画化した『[[クンドゥン]]』([[1997年]])を、ハリウッド資本ながらも低予算、出演者ほぼ全員を素人の亡命[[チベット人]]キャストで監督。自身が「私の監督作品なかで唯一、本当に愛することができる映画」と述べる。少年時代から悩まされていた持病の[[喘息]]が、この映画の製作中に治ってしまったという。<br />
<br />
[[2002年]]の『[[ギャング・オブ・ニューヨーク]]』以降、それまでのスコセッシ作品とは比較にならない制作費をつぎ込んだ映画を発表するようになり、その3作品全てで主演を張ったのが[[レオナルド・ディカプリオ]]である。『ギャング・オブ・ニューヨーク』はスコセッシ自らが1970年代から温めていた念願の企画で、ディカプリオが参加することで興行価値を見込まれてやっと出資が実現した。その後の『[[アビエイター]]』は逆にディカプリオ自身のプロダクションの旗揚げ作品で、スコセッシに監督を依頼して制作した。スコセッシがこの作品と『[[ディパーテッド]]』を監督した背景には『ギャング・オブ・ニューヨーク』の興行不振があったものと見られるが、皮肉にも自身の企画では無いこれら2作品が、アメリカ国内での興収1億ドルを突破した。2013年の『[[ウルフ・オブ・ウォールストリート]]』では自身の監督作で歴代最高の全世界興行収入を記録した。2016年の『[[沈黙 -サイレンス-]]』はハリウッド色の無い低予算で製作された。<br />
<br />
[[2011年]]、テレビドラマ『[[ボードウォーク・エンパイア 欲望の街]]』で、第63回[[エミー賞]]ドラマ部門最優秀監督賞を受賞した。<br />
<br />
== 作風 ==<br />
* 作品の開始が、ストーリー全体の中盤・終盤から、または主人公が子供の頃からスタートすることも多い。<br />
* 主人公が精神的に病んでおり、社会に受け入れられることを望んでいる<br />
* [[ニューヨーク]]を舞台とする<br />
* 主人公がナレーションを行う<br />
* 常連キャストに[[ロバート・デ・ニーロ]]、[[ハーヴェイ・カイテル]]、[[レオナルド・ディカプリオ]]、ヴィクター・アルゴ、[[ジョー・ペシ]]などがいる<br />
* [[スローモーション]]<br />
* [[ストップモーション]]<br />
* 強い白光<br />
* 生々しくリアルな暴力描写<br />
* やや[[長回し]]の、登場人物を後ろから追う移動撮影<br />
* 上空から撮影されるシーン(「God's Point of View(神の視点)」と呼ばれている)<br />
(IMDb Martin Scorsese http://www.imdb.com/name/nm0000217/bio より)<br />
<br />
2013年には「Sight and Sound マガジン」にて、好きな映画として以下の12本を挙げている。<br />
# [[2001年宇宙の旅]](1968年)<br />
# [[8 1/2]](1963年)<br />
# [[灰とダイヤモンド (映画)|灰とダイヤモンド]](1958年)<br />
# [[市民ケーン]](1941年)<br />
# [[山猫 (映画)|山猫]](1963年)<br />
# [[戦火のかなた]](1946年)<br />
# [[赤い靴 (映画)|赤い靴]](1948年)<br />
# [[河 (1951年の映画)|河]](1951年)<br />
# [[シシリーの黒い霧]](1962年)<br />
# [[捜索者]](1956年)<br />
# [[雨月物語 (映画)|雨月物語]](1953年)<br />
# [[めまい (映画)|めまい]](1958年)<br />
<br />
== 私生活 ==<br />
女優の[[イザベラ・ロッセリーニ]]やプロデューサーのバーバラ・デ・フィーナを含め、5度の結婚歴がある。<br />
<br />
現在も[[ニューヨーク]]を活動の拠点としている。<br />
<br />
== 作品 ==<br />
=== 監督作品 ===<br />
{| class="wikitable sortable" style="font-size:85%;"<br />
|-<br />
!公開年!!邦題!!原題!!備考<br />
|-<br />
|{{Nowrap|1963年}}||[[君のような素敵な娘がこんなところで何してるの?]]||''What's a Nice Girl Like You Doing in a Place Like This?''||<br />
|-<br />
|1964年||It's Not Just You, Murray!(邦題不明)||''It's Not Just You, Murray!''||<br />
|-<br />
|rowspan="2"|1967年||The Big Shave(邦題不明)||''The Big Shave''||<br />
|-<br />
|[[ドアをノックするのは誰?]]||''Who's That Knocking at My Door''||兼 脚本・出演<br />
|-<br />
|1970年||Street Scenes(邦題不明)||''Street Scenes''||<br />
|-<br />
|1972年||[[明日に処刑を…]]||''Boxcar Bertha''||兼 カメオ出演(娼館の客)<br />
|-<br />
|1973年||[[ミーン・ストリート]]||''Mean Streets''||兼 脚本・製作・出演<br />
|-<br />
|rowspan="2"|1974年||Italianamerican(邦題不明)|| ''Italianamerican''||<br />
|-<br />
|[[アリスの恋]]||''Alice Doesn't Live Here Anymore''||兼 出演<br />
|-<br />
|1976年||[[タクシードライバー (1976年の映画)|タクシードライバー]]|| ''Taxi Driver''||兼 出演(タクシー客)<br />[[カンヌ国際映画祭]] [[パルム・ドール]] 受賞<br />
|-<br />
|1977年||[[ニューヨーク・ニューヨーク]]|| ''New York, New York''||<br />
|-<br />
| rowspan="2"|1978年||American Boy: A Profile of Steven Prince(邦題不明)||''American Boy: A Profile of Steven Prince''||ドキュメンタリー映画<br />
|-<br />
|[[ラスト・ワルツ]]|| ''The Last Waltz''||兼 出演<br />ドキュメンタリー映画<br />
|-<br />
|1980年||[[レイジング・ブル]]|| ''Raging Bull''||兼 脚本・出演<br />
|-<br />
|1983年||[[キング・オブ・コメディ]]|| ''The King of Comedy''||兼 出演<br />
|-<br />
|1985年||[[アフター・アワーズ (映画)|アフター・アワーズ]]|| ''After Hours''||[[カンヌ国際映画祭 監督賞]] 受賞<br />[[インディペンデント・スピリット賞]] 作品賞 受賞<br />
|-<br />
| rowspan="2"|1986年|| [[ハスラー2]]|| ''The Color of Money''||<br />
|-<br />
| [[世にも不思議なアメージング・ストーリー]]([[オムニバス]]作品)|| ''Amazing Stories''||<br />
|-<br />
| 1988年||[[最後の誘惑]]|| ''The Last Temptation of Christ''||兼 脚本<br />
|-<br />
| 1989年|| [[ニューヨーク・ストーリー]]([[オムニバス]]作品)|| ''New York Stories''||<br />
|-<br />
| 1990年|| [[グッドフェローズ]]|| ''Goodfellas''||兼 脚本・製作<br />[[ヴェネツィア国際映画祭]] [[銀獅子賞]] 受賞<br />
|-<br />
|1991年||[[ケープ・フィアー]]|| ''Cape Fear''||<br />
|-<br />
|1993年|| [[エイジ・オブ・イノセンス/汚れなき情事]]|| ''The Age of Innocence''||兼 脚本・出演<br />
|-<br />
| rowspan="2"|1995年||[[カジノ (映画)|カジノ]]|| ''Casino''||兼 脚本<br />
|-<br />
|[[マーティン・スコセッシ 私のアメリカ映画旅行]](仮題)||''A Personal Journey with Martin Scorsese<br /> Through American Movies''||ドキュメンタリー映画<br />
|-<br />
|1997年||[[クンドゥン]]||''Kundun''||<br />
|-<br />
| rowspan="2"|1999年||[[マーティン・スコセッシ 私のイタリア映画旅行]]||英語:''My Voyage to Italy''<br />イタリア語:''Il mio viaggio in Italia''||ドキュメンタリー映画<br />
|-<br />
|[[救命士 (映画)|救命士]]|| ''Bringing Out the Dead''||<br />
|-<br />
|2002年||[[ギャング・オブ・ニューヨーク]]|| ''Gangs of New York''||兼 出演<br />[[ゴールデングローブ賞 監督賞]] 受賞<br />
|-<br />
| rowspan="2"|2003年||[[フィール・ライク・ゴーイング・ホーム]]||''Feel Like Going Home''||<br />
|-<br />
| [[:en:The Blues (film)|The Blues]]|| ''The Blues''||ドキュメンタリー映画<br />
|-<br />
|2004年||[[アビエイター]]|| ''The Aviator''||兼 出演<br />
|-<br />
|2005年||[[ボブ・ディラン ノー・ディレクション・ホーム]]|| ''No Direction Home: Bob Dylan''||ドキュメンタリー映画<br />
|-<br />
|2006年||[[ディパーテッド]]|| ''The Departed''||[[アカデミー監督賞]] 受賞<br />ゴールデングローブ賞 監督賞 受賞<br />
|-<br />
|2007年|| The Key to Reserva(邦題未定)||''The Key to Reserva''||短編映画<br />
|-<br />
|2008年||[[ザ・ローリング・ストーンズ シャイン・ア・ライト]]||''Shine a Light''||兼 出演<br />ドキュメンタリー映画<br />
|-<br />
|2009年||[[シャッター アイランド]]||''Shutter Island''||兼 製作<br />
|-<br />
|2010年|| [[:en:Public Speaking (film)|Public Speaking]] ||''Public Speaking''||ドキュメンタリー映画<br />
|-<br />
| rowspan="2"|2011年||[[ジョージ・ハリスン/リヴィング・イン・ザ・マテリアル・ワールド]]|| ''George Harrison: Living in the Material World''||ドキュメンタリー映画<br />
|-<br />
|[[ヒューゴの不思議な発明]]||''Hugo''||兼 製作・出演(カメラマン)<br />ゴールデングローブ賞 監督賞 受賞<br />初の3D映画<br />
|-<br />
| 2013年||[[ウルフ・オブ・ウォールストリート]]||''The Wolf of Wall Street''||兼 製作<br />
|-<br />
| 2016年||[[沈黙 -サイレンス-]]||''Silence'' ||<br />
|-<br />
| 2019年||[[ジ・アイリッシュマン|The Irishman]]|| ''The Irishman''||<br />
|-<br />
| 未定 || ''Sinatra''|| ||<br />
|-<br />
|}<br />
<br />
=== プロデュースのみ ===<br />
* [[グリフターズ/詐欺師たち]] ''The Grifters'' (1990)<br />
* [[恋に落ちたら…]] ''Mad Dog and Glory'' (1993)<br />
* [[クロッカーズ]] ''Clockers'' (1995)<br />
* [[グレイス・オブ・マイ・ハート]] ''Grace of My Heart'' (1996)<br />
* ステューピッド・イン・ニューヨーク ''Kicked in the Head'' (1997)<br />
* [[ハイロー・カントリー]] ''The Hi-Lo Country'' (1998)<br />
* [[ユー・キャン・カウント・オン・ミー]] ''You Can Count on Me'' (2000)<br />
* ソウル・オブ・マン ''The Soul of a Man'' (2003)<br />
* [[ヴィクトリア女王 世紀の愛]] ''The Young Victoria'' (2009)<br />
* [[マラヴィータ]] ''The Family / Malavita'' (2013)<br />
* [[ビニー/信じる男]] ''Bleed for This'' (2016)<br />
<br />
=== 出演のみ ===<br />
* [[ラウンド・ミッドナイト (映画)|ラウンド・ミッドナイト]] ''Round Midnight'' (1986) - 興行師<br />
* [[夢 (映画)|夢]] ''Yume'' (1990) - ゴッホ<br />
* [[真実の瞬間 (1991年の映画)|真実の瞬間]] ''Guilty by Suspicion'' (1991)<br />
* [[クイズ・ショウ]] ''Quiz Show'' (1994) - 製薬会社社長<br />
* [[ハリウッド・ミューズ]] ''The Muse'' (1999)<br />
* [[シャーク・テイル]] ''Shark Tale'' (2004) - サイクス ※声の出演<br />
* [[ヒッチコック/トリュフォー]] ''Hitchcock/Truffaut'' (2015) - 本人 ※ドキュメンタリー作品<br />
* [[健さん]] (2016) - 本人 ※ドキュメンタリー作品<br />
<br />
== 主な受賞 ==<br />
* [[アカデミー賞]]<br />
** 2006年度 [[アカデミー監督賞|監督賞]] 『[[ディパーテッド]]』<br />
* [[ゴールデングローブ賞]]<br />
** 2002年度 [[ゴールデングローブ賞 監督賞|監督賞]] 『[[ギャング・オブ・ニューヨーク]]』<br />
** 2006年度 監督賞 『ディパーテッド』<br />
** 2011年度 監督賞 『ヒューゴの不思議な発明』<br />
* [[英国アカデミー賞]]<br />
** 1990年度 監督賞 『[[グッドフェローズ]]』<br />
** 1990年度 脚色賞 『グッドフェローズ』<br />
* [[カンヌ国際映画祭]]<br />
** 1976年度 [[パルム・ドール]] 『[[タクシードライバー (1976年の映画)|タクシードライバー]]』<br />
** 1986年度 [[カンヌ国際映画祭 監督賞|監督賞]] 『[[アフター・アワーズ (映画)|アフター・アワーズ]]』<br />
* [[ヴェネツィア国際映画祭]]<br />
** 1990年度 銀獅子賞『グッドフェローズ』<br />
* [[セザール賞]]<br />
** 1999年度 名誉賞<br />
* [[グラミー賞]]<br />
** 2005年度 Best Long Form Music Video 『No Direction Home』<br />
* [[エミー賞]]<br />
** 2011年度 ドラマ部門最優秀監督賞『[[ボードウォーク・エンパイア 欲望の街]]』<br />
* [[高松宮殿下記念世界文化賞]]<br />
** 2016年 第28回 演劇・映像部門<ref>{{cite news|url=http://www.sankei.com/life/news/160913/lif1609130028-n1.html|title=第28回世界文化賞に5氏 米映画監督のマーティン・スコセッシ氏ら|newspaper=産経新聞|date=2016-09-13|accessdate=2016-09-14}}</ref><ref>{{cite web |url=http://www.praemiumimperiale.org/ja/laureate/laureates/scorsese|title=高松宮殿下記念世界文化賞 2016年 第28回 演劇・映像部門 マーティン・スコセッシ|accessdate=2016-09-18}}</ref><ref>{{cite web |url=https://www.youtube.com/watch?v=ke4rCsAeoog|title=Martin Scorsese, 2016 Laureate of Theatre/Film|accessdate=2016-09-18}}</ref><br />
* [[東京国際映画祭]]<br />
** [[第29回東京国際映画祭|2016年(第29回)]] SAMURAI賞 <ref>{{cite news|url=http://natalie.mu/eiga/news/205114|title=マーティン・スコセッシと黒沢清が東京国際映画祭SAMURAI賞に決定|newspaper=映画ナタリー|date=2016-10-12|accessdate=2016-10-13}}</ref><br />
* [[アストゥリアス皇太子賞]]<br />
** 2018年度 芸術部門<br />
<br />
== 脚注 ==<br />
<references /><br />
<br />
== 外部リンク ==<br />
{{Commonscat|Martin Scorsese}}<br />
* {{allcinema name|2585|マーティン・スコセッシ}}<br />
* {{Kinejun name|4210|マーティン・スコセッシ}}<br />
* {{IMDb name|0000217|Martin Scorsese}}<br />
<br />
{{マーティン・スコセッシ監督作品}}<br />
{{アカデミー賞監督賞 2001-2020}}<br />
{{英国アカデミー賞監督賞}}<br />
{{ゴールデングローブ賞 監督賞}}<br />
{{カンヌ国際映画祭監督賞 1980-1999}}<br />
{{ヴェネツィア国際映画祭銀獅子賞(監督賞) 1987-1999}}<br />
{{ニューヨーク映画批評家協会賞 監督賞}}<br />
{{ロサンゼルス映画批評家協会賞 監督賞}}<br />
{{Normdaten}}<br />
<br />
{{DEFAULTSORT:すこせつし まあていん}}<br />
[[Category:アメリカ合衆国の映画監督]]<br />
[[Category:アメリカ合衆国の映画プロデューサー]]<br />
[[Category:アカデミー賞受賞者]]<br />
[[Category:セザール賞受賞者]]<br />
[[Category:グラミー賞受賞者]]<br />
[[Category:エミー賞受賞者]]<br />
[[Category:ゴールデングローブ賞受賞者]]<br />
[[Category:英国アカデミー賞受賞者]]<br />
[[Category:高松宮殿下記念世界文化賞受賞者]]<br />
[[Category:アメリカ芸術科学アカデミー会員]]<br />
[[Category:ハリウッド・ウォーク・オブ・フェーム]]<br />
[[Category:ニューヨーク市出身の人物]]<br />
[[Category:シチリア系アメリカ人]]<br />
[[Category:レジオンドヌール勲章受章者]]<br />
[[Category:1942年生]]<br />
[[Category:存命人物]]</div>
122.214.146.170
アラン・レネ
2018-10-05T08:46:19Z
<p>122.214.146.170: </p>
<hr />
<div>{{ActorActress<br />
| 芸名 = Alain Resnais<br />
| ふりがな = アラン・レネ<br />
| 画像ファイル =Vous n'avez encore rien vu 2 Cannes 2012.jpg<br />
| 画像サイズ =<br />
| 画像コメント = [[2012年]]、[[第65回カンヌ国際映画祭]]にて<br />
| 本名 =Alain Pierre Marie Jean Georges Resnais <br />
| 別名義 = アレックス・レヴァル<br />
| 出生地 = {{FRA1870}} [[ヴァンヌ]]<br />
| 死没地 = {{FRA}} [[パリ]]<br />
| 国籍 = {{FRA}}<br />
| 身長 = 191 cm<br />
| 血液型 =<br />
| 生年 =1922<br />
| 生月 =6<br />
| 生日 =3<br />
| 没年 =2014<br />
| 没月 =3<br />
| 没日 =1<br />
| 職業 = 映画監督<br />
| ジャンル = 映画<br />
| 活動期間 =1936年 - 2014年<br />
| 配偶者 =フロランス・マルロー(1969年 - ? )※離婚<br />[[サビーヌ・アゼマ]](1998年 - 2014年)<br />
| 著名な家族 =<br />
| 事務所 =<br />
| 公式サイト =<br />
| 主な作品 = 『[[夜と霧 (映画)|夜と霧]]』<br />『[[二十四時間の情事]]』 <br /> 『[[去年マリエンバートで]]』 <br />
| カンヌ国際映画祭 = '''[[カンヌ国際映画祭 審査員特別グランプリ|審査員特別グランプリ]]'''<br />[[第33回カンヌ国際映画祭|1980年]]『アメリカの伯父さん』 <br />'''[[カンヌ国際映画祭 FIPRESCI賞|国際映画批評家連盟賞]]'''<br />[[第12回カンヌ国際映画祭|1959年]]『[[二十四時間の情事]]』<br />[[第19回カンヌ国際映画祭|1966年]]『戦争は終った』<br />1980年『アメリカの伯父さん』<br />
| ヴェネツィア国際映画祭 = '''[[金獅子賞]]'''<br />1961年『[[去年マリエンバートで]]』<br />'''[[銀獅子賞]]'''<br />[[第63回ヴェネツィア国際映画祭|2006年]]『六つの心』<br />'''[[栄誉金獅子賞]]'''<br />[[第52回ヴェネツィア国際映画祭|1995年]]<br />
| ベルリン国際映画祭 = '''[[銀熊賞 (芸術貢献賞)|銀熊賞 (貢献賞)]]''' <br />[[第44回ベルリン国際映画祭|1994年]]『スモーキング/ノースモーキング』<br />[[第48回ベルリン国際映画祭|1998年]]『恋するシャンソン』<br />'''[[アルフレード・バウアー賞]]'''<br />[[第64回ベルリン国際映画祭|2014年]]『Aimer, boire et chanter』<br />
| ニューヨーク映画批評家協会賞 = '''[[ニューヨーク映画批評家協会賞 外国語映画賞|外国語映画賞]]'''<br />[[1960年]]『[[二十四時間の情事]]』<br />
| セザール賞 = '''[[セザール賞|作品賞]]'''<br />[[セザール賞|1978年]]『プロビデンス』<br />[[セザール賞|1994年]]『スモーキング/ノースーモーキング』<br />[[セザール賞|1998年]]『恋するシャンソン』<br />'''[[セザール賞|監督賞]]'''<br />1978年『プロビデンス』<br />1994年『スモーキング/ノースモーキング』 <br />'''[[セザール賞|名誉賞]]'''<br />1981年<br />
| アカデミー賞 = <br />
| 備考 =<br />
}}<br />
'''アラン・レネ'''(Alain Resnais, [[1922年]][[6月3日]] - [[2014年]][[3月1日]] )は、[[フランス]]・[[ヴァンヌ]]出身の[[映画監督]]。<br />
<br />
== 来歴・人物 ==<br />
<br />
[[1922年]][[6月3日]]、[[フランス]]・[[ヴァンヌ]]で生まれる。父親は薬剤師<ref>エマ・ウィルソン著『Alain Resnais』(2006年)P.2より</ref>。持病の喘息が原因で学校にはあまり通うことが出来ず、家庭で教育を受ける<ref>ジェイムズ・モナコ著『Alain Resnais: the Rôle of Imagination』(1978年)P.15より</ref>。漫画から古典まで読み漁る読書家だったが、10歳の頃から映画に興味を持ち始め、12歳の誕生日に両親から貰った8ミリカメラで短編映画を製作するようになる<ref>ロベール・ブナイヨン著『Alain Resnais: arpenteur de l'imagination』(2008年)P.22~25より</ref>。次第に俳優になることを志すようになり、[[1939年]]にはテアトル・デ・マチュラン劇場内にある俳優ジョルジュ・ピトエフの会社で働くために[[パリ]]に移住。[[1940年]]から演技の勉強をしていたが、映画編集技術を学ぶために[[1943年]]にフランスの[[高等映画学院]](通称IDHEC)に入学<ref>ジェイムズ・モナコ著『Alain Resnais: the Rôle of Imagination』(1978年)P.17より</ref>。講師の一人だった映画監督の[[ジャン・グレミヨン]]から最も影響を受ける<ref>ジャン=ルイ・ルトラ、シュザンヌ・リアンドラ=ギゲス共著『Alain Resnais: liaisons secrètes, accords vagabonds』(2006年)P.180より</ref>。<br />
<br />
[[1945年]]には兵役に就いたが<ref>ニコラス・トーマス編『International Dictionary of Films and Filmmakers: Directors v. 2』P.689~692より</ref>、[[1946年]]にパリに戻ると映画編集者として働き始め、同時に短編映画の製作も始めた。『Schéma d'une identification』という作品を製作する際には俳優[[ジェラール・フィリップ]]に出演のオファーを出した<ref>ロベール・ブナイヨン著『Alain Resnais: arpenteur de l'imagination』(2008年)P.42より</ref>。数本の短編ドキュメンタリー映画を製作した後、[[1948年]]に画家[[ヴァン・ゴッホ]]をテーマにした短編映画の製作を始める。最初は16ミリで撮影していたが、フィルムを見た映画プロデューサーのピエール・ブロンベルジェから35ミリでのリメイクを依頼される。完成した作品は[[1950年]]の[[第22回アカデミー賞]]で[[アカデミー短編映画賞|短編映画賞]]を受賞<ref>[http://www.imdb.com/title/tt0040930/awards Van Gogh won an Oscar Best Short Subject] IMDB 2014年3月5日閲覧</ref>。絵画に関する映画製作は1950年の『ゲルニカ』や『ゴーガン』と続き、[[1953年]]にはフランスの植民地政策によるアフリカ芸術の破壊についての短編映画『彫刻もまた死す』を[[クリス・マルケル]]と共同で製作している<ref>ジェフリー・ノエル=スミス著『The Oxford History of World Cinema』(1996年)P.332より</ref>。<br />
<br />
[[1955年]]の『[[夜と霧]]』は[[ナチス]]による[[アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所|アウシュヴィッツ強制収容所]]を扱った最初の映画の一つと言われている。[[1956年]]の[[第9回カンヌ国際映画祭]]への出品の際には、[[西ドイツ]]大使の要請を受けたフランス外務省から「友好国を侮辱する恐れのある作品」として出品を取り下げるよう命令され、コンペティション部門外での上映となった<ref>樋口泰人編『カンヌ映画祭の50年』(1998年)P.73より</ref>。<br />
<br />
[[1959年]]、初の長編劇映画『[[二十四時間の情事]] (別題『ヒロシマ、モナムール』)』を[[日本]]の[[広島市|広島]]を舞台に製作する。「フランス人である我々が日本人が体験した原爆被害をどこまで知ることが出来るのか」という思考を元に[[ヌーヴォー・ロマン|ヌーヴォー・ロマン派]]の作家[[マルグリット・デュラス]]に脚本の執筆を依頼。フランス人女優[[エマニュエル・リヴァ]]と日本人の俳優[[岡田英次]]を起用し、他国人同士の恋愛を体裁に取りつつ、戦争を背景とした異国文化・価値観の交流の可能性を模索した<ref>『二十四時間』では「人間の記憶の不確定性というテーマを全面的に展開」し、『去年』では時間と記憶という主題とわかちがたく結びついたレネの独創的な美学がすでに開花」している([[中条省平]]『フランス映画史の誘惑』[[集英社新書]] [[2003年]]pp.194f)。</ref>。[[第12回カンヌ国際映画祭]]への出品は『夜と霧』と同じ理由で見送られたが、フランス文化大臣[[アンドレ・マルロー]]の尽力でコンペティション部門外で上映され、『フィガロ・リテレール』誌の映画批評家クロード・モーリアックは「この年最大の衝撃作」と称し<ref>樋口泰人編『カンヌ映画祭の50年』(1998年)P.90より</ref>、映画史家ジョルジュ・サドゥールも「時代を画する作品」と絶賛し、現在では「[[ヌーヴェル・ヴァーグ]]の最も重要な作品の一つ」と位置づけられている<ref>ジェフリー・ノエル=スミス著『The Oxford History of World Cinema』(1996年)P.577より</ref>。本作をきっかけにレネは[[アニエス・ヴァルダ]]、クリス・マルケルらとともに「ヌーヴェル・ヴァーグのセーヌ[[左岸派]]」と呼ばれるようになる。<br />
<br />
[[1961年]]に製作された長編第2作目『[[去年マリエンバートで]]』は「対象とする観客が少なすぎる」とのアンドレ・マルローの判断から[[第14回カンヌ国際映画祭]]への出品を拒否されたが<ref>樋口泰人編『カンヌ映画祭の50年』(1998年)P.98より</ref>、同年開催された第22回[[ヴェネツィア国際映画祭]]では[[金獅子賞]]を受賞し<ref>[http://www.imdb.com/title/tt0054632/awards?ref_=tt_awd L'année dernière à Marienbad won the Golden Lion at the Venice Film Festival] IMDB 2014年3月5日閲覧</ref>、難解と称される作風とともに大きな注目を集めた。脚本を執筆した作家[[アラン・ロブ=グリエ]]によれば、本作は[[黒澤明]]監督の『[[羅生門 (1950年の映画)|羅生門]]』に触発されて製作されたという。衣装は[[ココ・シャネル]]が手がけている。<br />
<br />
以後も『ミュリエル』([[1963年]])、『戦争は終った』([[1966年]])といった戦争とそれが個人の精神や記憶にもたらす影響を扱った作品を制作。[[1968年]]の『ジュ・テーム、ジュ・テーム』からは作風を変え、[[第33回カンヌ国際映画祭]]で[[カンヌ国際映画祭 審査員特別グランプリ|審査員特別グランプリ]]を受賞した『アメリカの伯父さん』([[1980年]])や台詞の代わりにシャンソンを用いて物語を進行させることを試みた『恋するシャンソン』([[1997年]])などのコメディーやミュージカルのような作品も手がけている。[[1977年]]の『プロビデンス』と[[1993年]]の『スモーキング/ノースモーキング』で[[セザール賞]]監督賞を2度受賞。[[ルイ・デリュック賞]]はこれまでに3度受賞している。[[2006年]]には『六つの心』で[[第63回ヴェネツィア国際映画祭]][[銀獅子賞]](監督賞)を受賞。クリスチャン・ガイイの小説を映画化した[[2009年]]の『[[風にそよぐ草]]』は『[[カイエ・デュ・シネマ]]』誌の2009年度の映画年間ベストテンの第1位に選出された<ref>[http://alumnus.caltech.edu/~ejohnson/critics/cahiers.html 2009 Cahiers du Cinema Top 10] 2014年3月10日閲覧</ref>。<br />
<br />
[[2014年]]の『愛して飲んで歌って』が遺作となった。同年2月に開催された[[第64回ベルリン国際映画祭]]に出品され、通常若手監督が受賞する[[アルフレッド・バウアー賞]]を、「常にイノベーティブで新しい境地を開拓している」という理由で91歳にして受賞した。<br />
<br />
[[2014年]][[3月1日]]、パリ市内で死去<ref>[http://www.yomiuri.co.jp/entertainment/news/20140302-OYT1T00536.htm 映画「二十四時間の情事」アラン・レネ監督死去] 読売新聞 2014年3月3日閲覧</ref>。91歳没。<br />
<br />
== 作品 ==<br />
* ヴァン・ゴッホ ''Van Gogh'' (1948年) 短編<br />
* ゲルニカ ''Guerunica'' (1950年) 短編<br />
* ゴーギャン ''Gauguin'' (1950年) 短編<br />
* 彫像もまた死す ''Les Statues meurent aussi'' (1953年) 短編。[[クリス・マルケル]]と共同監督<br />
* [[夜と霧 (映画)|夜と霧]] ''Nuit et brouillard'' (1955年) 短編<br />
* 世界のすべての記憶 ''Toute la Memoire du Monde'' (1956年) 短編<br />
* アトリエ15の記憶 ''Le Mystere de l'Atelier 15'' (1958年) 短編<br />
* スティレンの唄 ''Le Chant du Styrene'' (1958年) 短編<br />
* [[二十四時間の情事]] ''Hiroshima mon amour'' (1959年) 別題『ヒロシマ・モナムール』<br />
* [[去年マリエンバートで]] ''L'Année dernière à Marienbad'' (1961年)<br />
* [[ミュリエル]] ''Muriel ou Le temps d'un retour'' (1963年)<br />
* [[戦争は終った]] ''La Guerre est finie'' (1966年) <br />
* [[ベトナムから遠く離れて]] ''Loin du Vietnam'' (1967年) オムニバス<br />
* ジュ・テーム、ジュ・テーム ''Je t'aime, Je t'aime'' (1968年)[[TV5MONDE]]放映<br />
* 西暦01年 ''L'An 01 '' (1972年/[[ジャック・ドワイヨン]]作品、部分監督) 特殊上映<br />
* [[薔薇のスタビスキー]] ''Stavisky...'' (1974年)<br />
* [[プロビデンス (映画)|プロビデンス]] ''Providence'' (1977年) <br />
* [[アメリカの伯父さん]] ''Mon oncle d'Amérique'' (1980年) <br />
* 人生は小説 ''La Vie est un roman'' (1983年)特殊上映<br />
* 死に至る愛 ''L'amour à mort'' (1984年)特殊上映、[[TV5MONDE]]放映<br />
* [[メロ]] ''Melo'' (1986年)<br />
* [[お家へ帰りたい]] ''I Want to Go Home'' (1989年)<br />
* [[忘却に抗って - 命のための30通の手紙]] Contre l'oubli(1991/オムニバス)映画祭上映<br />
* ''Gershwin'' (1992/TV)<br />
* スモーキング/ノースモーキング ''Smoking/No Smoking'' (1993年/連作)特殊上映<br />
* [[恋するシャンソン]] ''On connaît la chanson'' (1997年)<br />
* [[巴里の恋愛協奏曲]] ''Pas sur la bouche'' (2003年)<br />
* [[六つの心]] ''Cœurs'' (2006年)<br />
* [[風にそよぐ草]] ''Les Herbes folles'' (2009年)<br />
* あなたはまだ何も見ていない ''[[:fr:Vous n'avez encore rien vu|Vous n'avez encore rien vu]]'' (2012年)特殊上映<br />
* [[愛して飲んで歌って]] ''Aimer, boire et chanter'' (2014年)<br />
<br />
== 参考文献 ==<br />
{{脚注ヘルプ}}<br />
{{Reflist}}<br />
<br />
== 外部リンク ==<br />
{{Commonscat|Alain Resnais}}<br />
* {{allcinema name|3566|アラン・レネ}}<br />
* {{Kinejun name|53814|アラン・レネ}}<br />
* {{IMDb name|0720297|Alain Resnais}}<br />
<br />
{{ヴェネツィア国際映画祭銀獅子賞(監督賞) 2000-2019}}<br />
{{Normdaten}}<br />
{{DEFAULTSORT:れね あらん}}<br />
[[Category:フランスの映画監督]]<br />
[[Category:ヌーヴェルヴァーグの映画監督]]<br />
[[Category:ドキュメンタリー映画の監督]]<br />
[[Category:ヴァンヌ出身の人物]]<br />
[[Category:1922年生]]<br />
[[Category:2014年没]]</div>
122.214.146.170
マイケル・キートン
2018-09-30T15:01:10Z
<p>122.214.146.170: </p>
<hr />
<div>{{ActorActress<br />
| 芸名 = Michael Keaton<br />
| ふりがな = マイケル・キートン<br />
| 画像ファイル = Michael Keaton by Gage Skidmore.jpg<br />
| 画像サイズ = 250<br />
| 画像コメント = <br />
| 本名 = <br />
| 別名義 = <br />
| 出生地 = {{USA}} [[ペンシルベニア州]]コラオポリス<br />
| 死没地 =<br />
| 国籍 = [[アメリカ]](スコット・アイリッシュ)<br />
| 身長 =<br />
| 血液型 =<br />
| 生年 = 1951<br />
| 生月 = 9<br />
| 生日 = 5<br />
| 没年 = <br />
| 没月 = <br />
| 没日 = <br />
| 職業 = [[俳優]]・[[コメディアン]]・[[映画監督]]・[[映画プロデューサー|プロデューサー]]<br />
| 活動期間 = [[1977年]] - 活動中<br />
| 配偶者 = キャロライン・マクウィリアムス(1982年-1990年)<br />
| 主な作品 = 『[[ビートルジュース]]』<br />『[[バットマン (映画)|バットマン]]』<br />『[[バットマン リターンズ]]』<br />『[[ジャッキー・ブラウン]]』<br />『[[バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)]]』<br />『[[スポットライト 世紀のスクープ]]』<br />『[[スパイダーマン:ホームカミング]]』<br />
| アカデミー賞 = <br />
| AFI賞 =<br />
| 全米映画批評家協会賞 = '''主演男優賞'''<br />1988年『[[ビートルジュース]]』『偽りのヘブン』<br />
| ニューヨーク映画批評家協会賞 = '''[[ニューヨーク映画批評家協会賞 主演男優賞|主演男優賞]]'''<br />[[第81回ニューヨーク映画批評家協会賞|2015年]]『[[スポットライト 世紀のスクープ]]』<br />
| 英国アカデミー賞 = <br />
| セザール賞 = <br />
| エミー賞 = <br />
| ジェミニ賞 = <br />
| ゴールデングローブ賞 = '''[[ゴールデングローブ賞 主演男優賞 (ミュージカル・コメディ部門)|主演男優賞(ミュージカル・コメディ部門)]]'''<br />[[第72回ゴールデングローブ賞|2014年]]『[[バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)]]』<br />
| 放送映画批評家協会賞 = '''[[放送映画批評家協会賞 主演男優賞|主演男優賞]]'''<br />2014年『[[バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)]]』<br />'''アンサンブル演技賞'''<br />2014年『[[バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)]]』<br />2015年『[[スポットライト 世紀のスクープ]]』<br />
| ゴールデンラズベリー賞 = <br />
| ゴヤ賞 = <br />
| グラミー賞 = <br />
| ブルーリボン賞 = <br />
| ローレンス・オリヴィエ賞 = <br />
| 全米映画俳優組合賞 = '''[[全米映画俳優組合賞 キャスト賞|キャスト賞]]'''<br />2014年『[[バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)]]』<br />2015年『[[スポットライト 世紀のスクープ]]』<br />
| トニー賞 = <br />
| 日本アカデミー賞 = <br />
| その他の賞 = <br />
| その他 = <br />
}}<br />
'''マイケル・キートン'''(Michael Keaton, [[1951年]][[9月5日]]<!-- 9月9日? --> - )は、[[アメリカ合衆国]][[ペンシルベニア州]]出身の[[俳優]]である。<br />
<br />
== 来歴 ==<br />
[[俳優]]として知られるキートンは、7人兄弟の末っ子として[[ペンシルベニア州]]コラオポリスに生まれた<ref>{{Cite web | url = http://www.biography.com/articles/Michael-Keaton-9361519 | title = Michael Keaton Biography | accessdate =2010-12-31 | work = The Biography Channel | publisher = A&E Television Networks | quote = Actor, director. Born Michael Douglas on September 9, 1951, in Coraopolis, Pennsylvania.}}</ref>。父親は[[測量]]技師だった<ref>{{Cite web|url=http://www.filmreference.com/film/22/Michael-Keaton.html |title=Michael Keaton Biography (1950–) |publisher=Filmreference.com |accessdate=2012-01-24}}</ref><ref>[http://www.highbeam.com/doc/1P1-22609987.html A LEADING MAN WITHOUT PAUSE - The Record (Bergen County, NJ) | HighBeam Research<!-- Bot generated title -->]</ref><ref name=ette>{{Cite news|last=Vancheri|first=Barbara|title=Obituary: Leona Douglas / Actor Michael Keaton's mother doted on her seven children|publisher=Pittsburgh Post-Gazette|date=2002-11-13|url=http://old.post-gazette.com/obituaries/20021113douglas3.asp|accessdate=2010-07-11}}</ref><ref name="ref1">{{Cite news|title=Actor Michael Keaton is another who insists he is half-Scottish|publisher=Express on Sunday|date=2005-09-25|url=http://moreresults.factiva.com/results/index/index.aspx?ref=THEXSU0020050926e19p0002m|accessdate=2007-12-12}}</ref>。スコットランドおよびアイルランド系で、敬虔なカトリックの家庭で育つ<ref>and went to St. Malachy Church [http://www.whas11.com/sharedcontent/features/printwire/010705cccamovieskeaton.8911fd2a.html ENTERTAINMENT NEWS | WHAS11.com | News for Louisville, Kentucky<!-- Bot generated title -->]</ref><ref>{{Cite news|url=http://www.dailyrecord.co.uk/showbiz/celebrity-interviews/2010/06/11/michael-keaton-i-dropped-my-phone-in-surprise-when-i-was-offered-the-role-of-ken-in-toy-story-3-86908-22325958/|title=Michael Keaton: I dropped my phone in surprise when I was offered the role of Barbie's Ken in Toy Story 3|publisher=[[:w:Daily Record (Scotland)|Daily Record]]|date=2010-06-11|accessdate=2010-09-19|first=Rick|last=Fulton}}</ref><ref>http://jam.canoe.ca/Movies/Artists/K/Keaton_Michael/2008/01/25/4793291-sun.html</ref>。地元の高校を卒業後、[[ケント州立大学]]へ進学するが中退して[[ピッツバーグ]]へ移り住む。<br />
<br />
芸能界にはスタンダップ・コメディアンとして出発。その頃、ピッツバーグの地元公共テレビ局においてカメラマンとしても働いていた。その後、テレビ番組のプロダクション・アシスタントを経て[[ロサンゼルス]]に渡り、全国放送のコメディ番組などに出演。[[ジェームズ・ベルーシ]]らとも共演して、徐々に知名度を上げていく。<br />
<br />
1982年に駆け出しの[[ロン・ハワード]]が監督した『[[ラブ IN ニューヨーク]]』で正式な映画デビュー。後に出演したハワード監督の『[[ガン・ホー]]』では、日系企業の米国進出に翻弄されるアメリカ人ビジネスマンを演じており、日本人俳優の[[山村聡]]とも共演している。同映画の冒頭では実際に[[東京]]ロケを敢行しており、キートンも[[秋葉原]]の電気街や地下鉄の構内、田舎の田んぼなどの撮影に参加している<br />
<br />
後に[[ティム・バートン]]監督の『[[ビートルジュース]]』に出演し、ハイテンションな霊界のバイオ・エクソシストである“ビートルジュース”を演じ、人気を得ると同時に映画俳優としても認知されるようになった。さらにはバートン監督の『[[バットマン (映画)|バットマン]]』では、[[バットマン (架空の人物)|ブルース・ウェイン]]役(初代)で演技派俳優として人気を不動のものにする。以降、『[[バットマン リターンズ]]』でも引き続き担当していたが、ティム・バートンの監督降板と共にブルース・ウェイン役(二代目)を[[ヴァル・キルマー]]に譲った。『ビートルジュース』のイメージが強烈だった事から製作当初、キートンのブルース・ウェイン役にスタジオの重役やバットマンファンは異議を唱えたが、作品が公開されてからはそういった非難も落ち着き、好意的に受け入れられた経緯がある。<br />
<br />
シリーズものへの出演はよほど内容がよく出来ていない限り断っているようで、イギリスの映画雑誌のインタビューでは、ヒット作に必ず続編を提案するハリウッドのシステムに疑問を呈したこともある<ref>{{Cite news|url=http://www.cinematoday.jp/page/N0025114|title=『バットマン』のマイケル・キートン、『アイアンマン2』などの続編ものはロクなものがないとコメント|publisher=シネマトゥデイ|date=2010-06-26|accessdate=2013-05-18}}</ref>。これまで3つの賞を受賞しており、[[ゴールデングローブ賞]]や[[エミー賞]]にもノミネートされている。<br />
<br />
[[声優]]としても活躍しており、[[宮崎駿]]の[[アニメーション]]映画『[[紅の豚]]』の英語版では主人公ポルコ・ロッソの声優にも抜擢され、[[ピクサー]]製作の『[[トイ・ストーリー3]]』では、[[バービー人形]]のボーイフレンドであるケン役を担当した。<br />
<br />
また製作や監督業にも進出しており[[2009年]]には『クリミナル・サイト/ 運命の暗殺者』の監督・主演も務めた。<br />
<br />
2014年、[[アレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥ]]監督作品『[[バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)]]』に主演し、[[ゴールデングローブ賞 主演男優賞 (ミュージカル・コメディ部門)]]など数々の映画賞を受賞し、[[第87回アカデミー賞|アカデミー]][[アカデミー主演男優賞|主演男優賞]]にもノミネートされた。<br />
<br />
== 私生活 ==<br />
[[1982年]]に女優だったキャロライン・マクウィリアムスと結婚して[[1983年]]には一人息子のショーン・マックスウェルも生まれた。だが[[1990年]]に離婚。[[1989年]]から[[1995年]]までは同じく女優の[[コートニー・コックス]]と付き合っていた<ref>{{Cite web|url=http://herndon1.sdrdc.com/cgi-bin/fecimg/?24961466800 |title=PAGE REPORT DISPLAY FOR 24961466800 |publisher=Herndon1.sdrdc.com |accessdate=2012-01-24}}</ref>。なお、[[2010年]][[2月11日]]にキャロラインは他界した。<br />
<br />
== 主な出演作品 ==<br />
=== 映画 ===<br />
{| class="wikitable sortable" style="text-align:left; font-size:small"<br />
|-<br />
!公開年!!邦題<br />原題!!役名!!備考<br />
!吹替え<br />
|-<br />
| 1982 || [[ラブ IN ニューヨーク]]<br />''Night Shift'' || ビル・ブラゼホフスキ || [[カンザスシティ映画批評家協会賞]]助演男優賞受賞<br />
|<br />
|-<br />
| 1983 || ミスター・マム<br />''Mr. Mom'' || ジャック || <br />
|<br />
|-<br />
| 1984 || [[暗黒街の人気モノ/マシンガン・ジョニー]]<br />''Johnny Dangerously'' || ジョニー・ケリー || <br />
|[[中尾隆聖]](日本テレビ版)<br />
|-<br />
|rowspan="3"|1986 || [[ガン・ホー]]<br />''Gung Ho'' || ハント・スティーヴンソン || <br />
|[[山寺宏一]]<br />
|-<br />
| シカゴ・ラプソディー<br />''Touch and Go'' || ボビー || <br />
|<br />
|-<br />
| マンハッタンミステリー/消えた黒い箱<br />''The Squeeze'' || ハリー・バーグ || <br />
|<br />
|-<br />
|rowspan="2"|1988 || [[ビートルジュース]]<br />''Beetlejuice'' || ビートルジュース || [[全米映画批評家協会賞]]主演男優賞受賞<br />
|[[西川のりお]]<br />
|-<br />
| 偽りのヘブン<br />''Clean and Sober'' || ダリル・ペインター || 全米映画批評家協会賞主演男優賞受賞<br />
|<br />
|-<br />
|rowspan="2"|1989 || ドリーム・チーム<br />''The Dream Team'' || ビリー || <br />
|<br />
|-<br />
| [[バットマン (映画)|バットマン]]<br />''Batman'' || [[バットマン (架空の人物)|ブルース・ウェイン / バットマン]] || <br />
|[[渡辺裕之]](ソフト版)<br />[[堀勝之祐]](TBS版)<br />山寺宏一(テレビ朝日版)<br />
|-<br />
| 1990 || [[パシフィック・ハイツ]]<br />''Pacific Heights'' || カーター・ヘイズ || <br />
|[[谷口節]](ソフト版・フジテレビ版共通)<br />
|-<br />
| 1991 || ニューヨーク・ジャスティス/ 許された犯罪<br />''One Good Cop'' || アーティー・ルイス || <br />
|<br />
|-<br />
| 1992 || [[バットマン リターンズ]]<br />''Batman Returns'' || ブルース・ウェイン / バットマン || <br />
|渡辺裕之(ソフト版)<br />山寺宏一(テレビ朝日版)<br />
|-<br />
|rowspan="2"|1993 || [[から騒ぎ (1993年の映画)|から騒ぎ]]<br />''Much Ado About Nothing'' || ドッグベリー || <br />
|[[伊藤和晃]]<br />
|-<br />
| [[マイ・ライフ (映画)|マイ・ライフ]]<br />''My Life'' || ボブ・ジョーンズ || <br />
|[[磯部勉]](ソフト版)<br />[[山寺宏一]](日本テレビ版)<br />
|-<br />
|rowspan="2"|1994 || [[ザ・ペーパー]]<br />''The Paper'' || ヘンリー・ハケット || <br />
|[[谷口節]]<br />
|-<br />
| 眠れない夜はあなたと<br />''Speechless'' || ケヴィン・ヴァリック || <br />
|<br />
|-<br />
| 1996 || [[クローンズ]]<br />''Multiplicity'' || ダグ・キニー || <br />
|[[安原義人]]<br />
|-<br />
| 1997 || [[ジャッキー・ブラウン]]<br />''Jackie Brown'' || レイ・ニコレット || <br />
|山寺宏一<br />
|-<br />
|rowspan="3"|1998 || [[絶体×絶命]]<br />''Desperate Measures'' || ピーター・マッケイブ || <br />
|[[山路和弘]](ソフト版)<br />磯部勉(テレビ朝日版)<br />
|-<br />
| [[アウト・オブ・サイト]]<br />''Out of Sight'' || レイ・ニコレット || クレジットなし<br />
|[[平田広明]](ソフト版)<br />[[楠大典]](日本テレビ版)<br />
|-<br />
| ジャックフロスト パパは雪だるま<br />''Jack Frost'' || ジャック・フロスト || <br />
|<br />
|-<br />
| 2000 || スコットランド・カップの奇跡<br />''A Shot at Glory'' || ピーター・キャメロン || <br />
|<br />
|-<br />
| 2002 || [[ライブ・フロム・バグダッド 湾岸戦争最前線]]<br />''Live from Baghdad'' || ロバート・ウィナー || テレビ映画<br />[[第60回ゴールデングローブ賞|ゴールデングローブ賞]]男優賞(ミニシリーズ・テレビ映画部門)ノミネート<br />
|[[手塚秀彰]]<br />
|-<br />
| 2003 || 逃亡者<br />''Quicksand'' || マーティン || <br />
|<br />
|-<br />
| 2004 || [[ホワイト・プリンセス (2004年の映画)|ホワイト・プリンセス]]<br />''First Daughter'' || ジョン・マッケンジー || <br />
|<br />
|-<br />
|rowspan="4"|2005 || [[ライフ・イズ・ベースボール]]<br />''Game 6'' || ニック・ローガン || <br />
|<br />
|-<br />
| [[サイレントノイズ]]<br />''White Noise'' || ジョナサン・リバース || <br />
|[[江原正士]]<br />
|-<br />
| [[ハービー/機械じかけのキューピッド]]<br />''Herbie Fully Loaded'' || レイ・ペイトン・シニア || <br />
|[[井上和彦 (声優)|井上和彦]]<br />
|-<br />
| [[紅の豚]]<br />''Porco Rosso'' || ポルコ・ロッソ || 声の出演(英語版)<br />
|<br />
|-<br />
|rowspan="2"|2006 || [[カーズ (映画)|カーズ]]<br />''Cars'' || チック・ヒックス || 声の出演<br />
|[[内田直哉]]<br />
|-<br />
| ラストタイム 欲望が果てるとき<br />''Last time'' || テッド・ライカー || <br />
|<br />
|-<br />
|rowspan="2"|2009 || クリミナル・サイト/ 運命の暗殺者<br />''The Merry Gentleman'' || フランク・ローガン || 兼監督<br />
|<br />
|-<br />
| [[恋する履歴書]]<br />''Post Grad'' || ウォルター・マルビー || <br />
|[[大川透]]<br />
|-<br />
|rowspan="2"|2010 || [[トイ・ストーリー3]]<br />''Toy Story3'' || [[トイ・ストーリーシリーズの登場人物一覧#サニーサイドのおもちゃ|ケン]] || 声の出演<br />
|[[東地宏樹]]<br />
|-<br />
| [[アザー・ガイズ 俺たち踊るハイパー刑事!]]<br />''The Other Guys'' || ジーン・マウチ警部 || <br />
|[[岡哲也]]<br />
|-<br />
| 2011 || [[ハワイアン・バケーション]]<br />''Hawaiian Vacation'' || ケン || 短編<br />声の出演<br />
|[[東地宏樹]]<br />
|-<br />
| 2013 || [[ブラインド・フィアー]]<br />''Penthouse North'' || ホランダー || 兼製作総指揮<br />
|[[菅生隆之]]<br />
|-<br />
|rowspan="3"|2014 || [[ロボコップ (2014年の映画)|ロボコップ]]<br />''RoboCop'' || レイモンド・セラーズ || <br />
|[[牛山茂]]<br />
|-<br />
| [[ニード・フォー・スピード (映画)|ニード・フォー・スピード]]<br />''Need for Speed'' || モナーク ||<br />
|大川透<br />
|-<br />
| [[バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)]]<br />''Birdman or The Unexpected Virtue of Ignorance'' || リーガン・トムソン / バードマン || [[第87回アカデミー賞|アカデミー]][[アカデミー主演男優賞|主演男優賞]]ノミネート<br />[[英国アカデミー賞 主演男優賞]]ノミネート<br />[[第72回ゴールデングローブ賞|ゴールデングローブ賞]][[ゴールデングローブ賞 主演男優賞 (ミュージカル・コメディ部門)|主演男優賞(ミュージカル・コメディ部門)]]受賞<br />[[第21回全米映画俳優組合賞|全米映画俳優組合賞]][[全米映画俳優組合賞主演男優賞|主演男優賞]]ノミネート<br />[[放送映画批評家協会賞]]主演男優賞・コメディ男優賞受賞<br />[[第30回インディペンデント・スピリット賞|インディペンデント・スピリット賞]]主演男優賞受賞<br />[[ナショナル・ボード・オブ・レビュー賞 (2014年)|ナショナル・ボード・オブ・レビュー賞]][[ナショナル・ボード・オブ・レビュー賞 男優賞|男優賞]]受賞<br />[[第35回ボストン映画批評家協会賞|ボストン映画批評家協会賞]]主演男優賞受賞<br />[[第27回シカゴ映画批評家協会賞|シカゴ映画批評家協会賞]]主演男優賞受賞<br />[[第8回デトロイト映画批評家協会賞|デトロイト映画批評家協会賞]]主演男優賞受賞<br />[[ダラス・フォートワース映画批評家協会賞]]主演男優賞受賞<br />[[フロリダ映画批評家協会賞]]主演男優賞受賞<br />アイオワ映画批評家協会賞主演男優賞受賞<br />[[カンザスシティ映画批評家協会賞]]主演男優賞受賞<br />ノースカロライナ映画批評家協会賞主演男優賞受賞<br />[[第9回オクラホマ映画批評家協会賞|オクラホマ映画批評家協会賞]]主演男優賞受賞<br />[[第18回オンライン映画批評家協会賞|オンライン映画批評家協会賞]]主演男優賞受賞<br />フェニックス映画批評家サークル賞主演男優賞受賞<br />[[第15回フェニックス映画批評家協会賞|フェニックス映画批評家協会賞]]主演男優賞受賞<br />[[サウスイースタン映画批評家協会賞]]主演男優賞受賞<br />[[第13回サンフランシスコ映画批評家協会賞|サンフランシスコ映画批評家協会賞]]主演男優賞受賞<br />[[第19回サテライト賞|サテライト賞]]主演男優賞受賞<br />[[ラスベガス映画批評家協会賞]]主演男優賞受賞<br />[[第10回ユタ映画批評家協会賞|ユタ映画批評家協会賞]]主演男優賞受賞<br />[[第13回ワシントンD.C.映画批評家協会賞|ワシントンD.C.映画批評家協会賞]]主演男優賞受賞<br />[[ロンドン映画批評家協会賞#男優賞|ロンドン映画批評家協会賞]]主演男優賞受賞<br />[[オーストラリア映画協会賞]]主演男優賞受賞<br />[[第24回ゴッサム・インディペンデント映画賞|ゴッサム・インディペンデント賞]]男優賞<br />サンタバーバラ国際映画祭モダン・マスター賞受賞<br />オンライン&テレビジョン協会賞主演男優賞受賞<br />
|[[牛山茂]]<br />
|-<br />
|rowspan="2"|2015 || [[ミニオンズ]]<br />''Minions'' || ウォルター・ネルソン || 声の出演<br />
|[[設楽統]]<br />
|-<br />
| [[スポットライト 世紀のスクープ]]<br />''Spotlight'' || ウォルター・“ロビー”・ロビンソン || [[第81回ニューヨーク映画批評家協会賞|ニューヨーク映画批評家協会賞]][[ニューヨーク映画批評家協会賞 主演男優賞|主演男優賞]]受賞<br />[[第10回オクラホマ映画批評家協会賞|オクラホマ映画批評家協会賞]]助演男優賞受賞<br /><br />
|牛山茂<br />
|-<br />
| 2016 || [[ファウンダー ハンバーガー帝国のヒミツ]]<br />''The Founder'' || [[レイ・クロック]] || <br />
|<br />
|-<br />
|rowspan="2"| 2017 || [[スパイダーマン:ホームカミング]]<br />''Spider-Man: Homecoming'' || [[ヴァルチャー (キャラクター)|エイドリアン・トゥームス / バルチャー]] || <br />
|大川透<br />
|-<br />
| [[アメリカン・アサシン]]<br />''American Assassin'' || スタン・ハーリー || <br />
|<br />
|-<br />
|rowspan="3"| 2019 || ''[[:en:Dumbo (2019 film)|Dumbo]]'' || V. A. Vandevere || <br />
|<br />
|-<br />
| [[トイ・ストーリー4]]<br />''Toy Story 4'' || ケン || 声の出演<br />
|<br />
|-<br />
| [[スパイダーマン:ファー・フロム・ホーム]]<br />''Spider-Man: Far From Home'' || エイドリアン・トゥームス / バルチャー || <br />
|<br />
|-<br />
|}<br />
<br />
=== テレビシリーズ ===<br />
{| class="wikitable sortable" style="text-align:left; font-size:small"<br />
|-<br />
!放映年!!邦題<br />原題!!役名!!備考<br />
|-<br />
| 2001 || [[ザ・シンプソンズ]]<br />''The Simpsons'' || ジャック・クローリー || 声の出演<br />第12シーズン第10話「Pokey Mom」<br />
|-<br />
| 2002 || [[そりゃないぜ!? フレイジャー]]<br />''Fraisier'' || ブレイン || 第9シーズン第16話「Wheels of Fortune」<br />
|-<br />
| 2003 || [[キング・オブ・ザ・ヒル]]<br />''King of the Hill'' || トリップ・ラーセン || 声の出演<br />第7シーズン第9話「Pigmalion」<br />
|-<br />
| 2007 || CIA/ザ・カンパニー<br />''The Company'' || ジェームズ・ジーザス・アングルトン || ミニシリーズ<br />
|-<br />
| 2011 || [[30 ROCK/サーティー・ロック]]<br />''30 Rock || トム || 計2話出演<br />
|-<br />
|}<br />
<br />
== 参照 ==<br />
{{Reflist}}<br />
<br />
== 外部リンク ==<br />
{{Commonscat|Michael Keaton}}<br />
* {{allcinema name|41692|マイケル・キートン}}<br />
* {{Kinejun name|33955|マイケル・キートン}}<br />
* {{IMDb name|0000474|Michael Keaton}}<br />
* {{Twitter|MichaelKeaton|Michael Keaton}}<br />
<br />
{{ゴールデングローブ賞 主演男優賞 (ミュージカル・コメディ部門)}}<br />
{{ニューヨーク映画批評家協会賞 主演男優賞}}<br />
{{Normdaten}}<br />
{{DEFAULTSORT:きいとん まいける}}<br />
[[Category:アメリカ合衆国の男優]]<br />
[[Category:アメリカ合衆国の男性声優]]<br />
[[Category:ゴールデングローブ賞受賞者]]<br />
[[Category:アクション俳優]]<br />
[[Category:ペンシルベニア州アレゲニー郡出身の人物]]<br />
[[Category:スコットランド系アメリカ人]]<br />
[[Category:アイルランド系アメリカ人]]<br />
[[Category:1951年生]]<br />
[[Category:存命人物]]</div>
122.214.146.170
トム・ハンクス
2018-09-30T04:25:11Z
<p>122.214.146.170: </p>
<hr />
<div>{{otheruses|映画俳優|天体|トム・ハンクス (小惑星)}}<br />
{{ActorActress<br />
| 芸名 = Tom Hanks<br />
| ふりがな = トム・ハンクス<br />
| 画像ファイル = Tom Hanks 2014.jpg<br />
| 画像サイズ = 220px<br />
| 画像コメント = [[ケネディ・センター名誉賞]]授賞式にて (2014年12月)<br />
| 本名 = Thomas Jeffrey Hanks<br />
| 別名義 = <br />
| 出生地 = {{USA}}[[カリフォルニア州]][[コンコード (カリフォルニア州)|コンコード]]<br />
| 死没地 = <br />
| 民族 = <!-- 民族名には信頼できる情報源が出典として必要です。 --><br />
| 身長 = 185cm<br />
| 血液型 = <br />
| 生年 = 1956<br />
| 生月 = 7<br />
| 生日 = 9<br />
| 没年 = <br />
| 没月 = <br />
| 没日 = <br />
| 職業 = [[俳優]]<br />[[プロデューサー]]<br />[[映画監督]]<br />[[脚本家]]<br />
| ジャンル = <br />
| 活動期間 = <br />
| 配偶者 = サマンサ・ルイス(1978年 - 1987年)<br />[[リタ・ウィルソン]](1988年 - )<br />
| 著名な家族 = [[ジム・ハンクス]](弟)<br />[[コリン・ハンクス]]<br />
| 事務所 = <br />
| 公式サイト = <br />
| 主な作品 = 『[[スプラッシュ (映画)|スプラッシュ]]』『[[ビッグ (映画)|ビッグ]]』<br />『[[フィラデルフィア (映画)|フィラデルフィア]]』『[[めぐり逢えたら]]』<br />『[[フォレスト・ガンプ/一期一会]]』<br />『[[アポロ13]]』『[[トイ・ストーリーシリーズ|トイ・ストーリー]]』シリーズ<br />『[[プライベート・ライアン]]』<br />『[[グリーンマイル (映画)|グリーンマイル]]』『[[キャスト・アウェイ]]』<br />『[[ロード・トゥ・パーディション]]』<br />『[[キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン]]』<br />『[[ターミナル (映画)|ターミナル]]』『[[ポーラー・エクスプレス#映画|ポーラー・エクスプレス]]』<br />『[[ロバート・ラングドン]]』シリーズ<br />『[[キャプテン・フィリップス]]』<br />『[[ブリッジ・オブ・スパイ]]』<br />『[[ハドソン川の奇跡 (映画)|ハドソン川の奇跡]]』<br />『[[ペンタゴン・ペーパーズ/最高機密文書]]』<br />
| アカデミー賞 = '''[[アカデミー主演男優賞|主演男優賞]]'''<br />[[第66回アカデミー賞|1993年]]『[[フィラデルフィア (映画)|フィラデルフィア]]』<br />[[第67回アカデミー賞|1994年]]『[[フォレスト・ガンプ/一期一会]]』<br />
| ベルリン国際映画祭 = '''[[銀熊賞 (男優賞)]]'''<br />[[第44回ベルリン国際映画祭|1994年]]『フィラデルフィア』<br />
| 全米映画批評家協会賞 = <br />
| ニューヨーク映画批評家協会賞 = '''[[ニューヨーク映画批評家協会賞 主演男優賞|主演男優賞]]'''<br />[[第67回ニューヨーク映画批評家協会賞|2000年]]『[[キャスト・アウェイ]]』<br />
| ロサンゼルス映画批評家協会賞 = '''[[ロサンゼルス映画批評家協会賞 主演男優賞|主演男優賞]]'''<br />[[第14回ロサンゼルス映画批評家協会賞|1988年]]『[[ビッグ (映画)|ビッグ]]』『[[パンチライン (映画)|パンチライン]]』<br />
| 放送映画批評家協会賞 = '''[[放送映画批評家協会賞|作品賞(ミニシリーズ)]]'''<br />[[2015年]]『オリーヴ・キタリッジ』<br />
| MTVムービー・アワード = '''[[MTVムービー・アワード 演技賞|男優賞]]'''<br />[[1994年]]『フィラデルフィア』<br />
| AFI賞 = '''[[アメリカン・フィルム・インスティチュート|作品賞(ミニシリーズ)]]'''<br />[[2001年]]『[[バンド・オブ・ブラザース]]』<br />'''生涯功労賞'''<br />2002年<br />
| 英国アカデミー賞 = '''特別賞'''<br />2004年<br />
| エミー賞 = '''[[プライムタイム・エミー賞|作品賞(ミニシリーズ)]]'''<br />[[1998年]]『[[フロム・ジ・アース/人類、月に立つ]]』<br />[[2002年]]『バンド・オブ・ブラザース』<br />[[2008年]]『ジョン・アダムズ』<br />[[2010年]]『[[ザ・パシフィック]]』<br />[[2012年]]『[[ゲーム・チェンジ 大統領選を駆け抜けた女]]』<br />[[2015年]]『オリーヴ・キタリッジ』<br />'''[[プライムタイム・エミー賞|監督賞(ミニシリーズ)]]'''<br />[[2002年]]『バンド・オブ・ブラザース』<br />
| グラミー賞 = <br />
| ゴールデングローブ賞 = '''[[ゴールデングローブ賞 主演男優賞 (ドラマ部門)|主演男優賞(ドラマ部門)]]'''<br />[[1993年]]『フィラデルフィア』<br />[[1994年]]『フォレスト・ガンプ/一期一会』<br />[[2000年]]『キャスト・アウェイ』<br />'''[[ゴールデングローブ賞 主演男優賞 (ミュージカル・コメディ部門)|主演男優賞(ミュージカル・コメディ部門)]]'''<br />[[1988年]]『ビッグ』<br />'''作品賞(ミニシリーズ)'''<br />[[1998年]]『フロム・ジ・アース/人類、月に立つ』<br />[[2002年]]『バンド・オブ・ブラザース』<br />[[2008年]]『ジョン・アダムズ』<br />[[2012年]]『ゲーム・チェンジ 大統領選を駆け抜けた女』<br />
| ゴールデンラズベリー賞 = <br />
| ゴヤ賞 = <br />
| ジェミニ賞 = <br />
| セザール賞 = <br />
| 全米映画俳優組合賞 = '''[[全米映画俳優組合賞主演男優賞|主演男優賞]]'''<br />[[第1回全米映画俳優組合賞|1994年]]『フォレスト・ガンプ/一期一会』<br />'''[[全米映画俳優組合賞 キャスト賞|キャスト賞]]'''<br />[[第2回全米映画俳優組合賞|1995年]]『[[アポロ13]]』<br />
| トニー賞 = <br />
| 日本アカデミー賞 = <br />
| ブルーリボン賞 = <br />
| ローレンス・オリヴィエ賞 = <br />
| その他の賞 = '''[[ハリウッド映画賞]]'''<br />'''主演男優賞'''<br />[[第20回ハリウッド映画賞|2016年]]『[[ハドソン川の奇跡 (映画)|ハドソン川の奇跡]]』<hr />'''[[大統領自由勲章]]'''<br />2016年<hr />'''[[ケネディ・センター名誉賞]]'''<br />2014年<br />
| 備考 = [[ハリウッド名声の歩道]]<br />
}}<br />
'''トーマス・ジェフリー・"トム"・ハンクス'''('''Thomas Jeffrey "Tom" Hanks'''、[[1956年]][[7月9日]] - )は、[[アメリカ合衆国]][[カリフォルニア州]]出身の[[俳優]]、[[映画監督]]、[[映画プロデューサー|映画]]・[[テレビプロデューサー]]。身長185cm。<br />
<br />
== 来歴 ==<br />
全米長寿バラエティ番組『[[サタデー・ナイト・ライブ]]』や、『[[スプラッシュ (映画)|スプラッシュ]]』『[[メイフィールドの怪人たち]]』『[[ビッグ (映画)|ビッグ]]』といった軽妙なコメディ映画を得意とする若手コメディアンとして活躍していた。<br />
<br />
[[カリフォルニア州]][[コンコード (カリフォルニア州)|コンコード]]生まれ。父親は料理人<ref name=tca>Stated on ''Inside the Actors Studio'', 1999</ref>、母親は病院職員<ref>リンカーンの母ナンシーの出身一族ハンクス家の子孫。Fenster, Bob. ''They Did What!? The Funny, Weird, Wonderful, and Stupid Things Famous People Have Done'', Andrews Publishing, 2002. p. 55.この縁で、リンカーンのドキュメンタリー映画のナレーターを請け負った。</ref>。両親は1960年代に離婚し、トムは兄ラリー(現在は昆虫学者<ref>[http://www.life.uiuc.edu/hanks/hanks.html Lawrence M. Hanks, Associate Professor]&nbsp;– University of Illinois at Urbana-Champaign.</ref>)と姉サンドラ(現在は著述家<ref>{{cite web|title=Female Nomad and Friends Interview: Sandra Hanks Benoiton|url=http://mexicoinsmallbytes.com/mexicoblog/?cat=10|accessdate=10 July 2012|archiveurl=https://web.archive.org/web/20130523170357/http://mexicoinsmallbytes.com/mexicoblog/?cat=10|archivedate=2013年5月23日|deadurldate=2017年9月}}</ref>)と共に父親の元で育つ。末っ子の弟ジムは母親の元で育った<ref name="Tom Hanks biography">[http://www.biography.com/people/tom-hanks-9327661 Tom Hanks biography]</ref>。<br />
<br />
カリフォルニア州ヘイワードの[[:w:Chabot College|Chabot College]]で演劇を学んだ後、[[カリフォルニア州立大学サクラメント校]]に編入。<br />
<br />
1979年にニューヨークに移り、翌年『血ぬられた花嫁』で映画デビュー<ref name=tca/>。<br />
<br />
[[1993年]]に[[後天性免疫不全症候群|エイズ]]を取り扱ったシリアスなドラマ『[[フィラデルフィア (映画)|フィラデルフィア]]』、そして[[1994年]]に『[[フォレスト・ガンプ/一期一会]]』で2年連続、[[アカデミー主演男優賞]]を受賞、ライトコメディ俳優から一躍オスカー常連の名優へと成長し、以降は数々の話題作・大作に立て続けに主演を重ねていった。<br />
<br />
[[1996年]]には、監督作『[[すべてをあなたに (映画)|すべてをあなたに]]』を発表、[[映画監督]]としても高い評価を得た。自身の本分は役者であるとの意向から、以後は長らく監督業を手がけていなかったが、[[2011年]]の『幸せの教室』にて15年ぶりにメガホンをとった(ただし、ドラマ『[[バンド・オブ・ブラザース]]』では第5話『岐路(Crossroads)』のみ監督を担当している)。<br />
<br />
[[2001年]]公開した第二次世界大戦が舞台の戦争ドラマ『バンド・オブ・ブラザース』では[[スティーヴン・スピルバーグ]]と共に製作指揮を行い、息子の[[コリン・ハンクス]]も出演していることで話題になった。<br />
<br />
[[2014年]]、初の短編小説が米文芸誌『[[ザ・ニューヨーカー|ニューヨーカー]]』の10月27日号に掲載。タイトルは『アラン・ビーン、ほか四名』<ref>{{cite news|url=http://eiga.com/news/20141024/9/|title=トム・ハンクス、初の短編小説を「ニューヨーカー」誌に発表|publisher=映画.com|date=2014-10-24|accessdate=2014-10-24}}</ref>。同12月、母国の栄誉である『[[ケネディ・センター名誉賞]]』を受賞<ref>[http://www.billboard-japan.com/d_news/detail/22323/2 米国家賞“ケネディ・センター名誉賞”にスティング、トム・ハンクスら] billboard-JAPAN 2014/09/05</ref>。<br />
<br />
[[2016年]]、母国の最高位勲章『[[大統領自由勲章]]』を受章<ref>{{cite news|url=http://this.kiji.is/171754995940409350?c=39546741839462401|title=米大統領自由勲章にデニーロさん|newspaper=共同通信 47NEWS|date=2016-11-17|accessdate=2016-11-17}}</ref>。<br />
<br />
=== 来日 ===<br />
映画のプロモーションでは数回来日しており、近年では『[[ポーラー・エクスプレス]]』、『[[ターミナル (映画)|ターミナル]]』、『[[ダ・ヴィンチ・コード (映画)|ダ・ヴィンチ・コード]]』プロモーションで、それぞれ[[ジャン・レノ]]や[[ロバート・ゼメキス]]監督らと共に来日している。『ポーラー・エクスプレス』の来日でインタビューを受けた際には、[[タイプライター]]集めに凝っていると語っていた。また、自身が監督も務めた『[[すべてをあなたに (映画)|すべてをあなたに]]』の来日の際には、出演者らと共に[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]系の歌番組『[[THE夜もヒッパレ]]』にゲスト出演。ハンクスはその際に歌(曲は、[[抱きしめたい|I want hold your hand]])も披露した。[[2009年]]5月に『[[天使と悪魔 (映画)|天使と悪魔]]』のプロモーションのために、プロデューサーのブライアン・グレイザー、監督の[[ロン・ハワード]]、そして共演の[[アイェレット・ゾラー]]らと来日した際には、[[東京ドーム]]で行われた[[読売ジャイアンツ|巨人]]対[[中日ドラゴンズ|中日]]戦の始球式に登場した。そして、監督である[[原辰徳]]との対面も果たした。[[2016年]]9月、新作『[[ハドソン川の奇跡 (映画)|ハドソン川の奇跡]]』(2016年9月24日日本公開)プロモーションのために20回目の来日をした<ref>[http://lenon.tokyo/warai/8683/2 トム・ハンクスが東京の居酒屋で自撮り→馴染みすぎているうえに、ジャパニーズヨッパライが全世界に拡散されてしまう!(笑)]</ref>。<br />
<br />
== 私生活 ==<br />
サマンサ・ルイスとの間に1977年11月、現在俳優として活躍する[[コリン・ハンクス]]誕生。翌年、サマンサと結婚<ref>{{cite news |url=http://www.guardian.co.uk/film/2001/jan/12/culture.awardsandprizes |title=Desert island risks |work=The Guardian |location=UK |author=Danny Leigh |date=January 12, 2001 |accessdate=October 9, 2010}}</ref>。1982年、長女エリザベス誕生<ref>{{cite web|url=http://www.usmagazine.com/fe_dev.php/celebrities/tom-hanks|title=tom hanks|work=US magazine|accessdate=2012-09-15}}</ref><ref>[http://www.eonline.com/celebrities/profile/index.jsp?uuid=4ddc31be-a18f-4c2e-b0bf-54a91910c86d Tom Hanks], [[E!|E! Entertainment Television]].</ref>。1987年、離婚。1988年、[[リタ・ウィルソン]]と再婚。一時期ラッパーとして活動した[[チェスター・ハンクス]]を含む2人の子供をもうける。(チェスターは[[インディ・ジョーンズ/クリスタル・スカルの王国]]に学生役の端役としても出演している。)<br />
<br />
[[エイブラハム・リンカーン]]と遠縁である(リンカーンの母親{{仮リンク|ナンシー・リンカーン|en|Nancy Lincoln|label=ナンシー・ハンクス}}の曾祖父の兄弟がトム・ハンクスの先祖、8代前)<ref>{{cite web|url=http://www.imdb.com/name/nm0000158/bio|title=Biography for Tom Hanks|work=imdb.com|accessdate=2012-09-15}}</ref>。<br />
<br />
[[民主党 (アメリカ)|民主党]]を支持しており、2008年の大統領選の際には[[バラク・オバマ]]を支持した<ref>[http://vids.myspace.com/index.cfm?fuseaction=vids.individual&videoid=33546997 Beware: Celebrity Endorsement par Tom Hanks] from Vidéos MySpaceTV</ref>。<br />
<br />
『[[幸せの教室]]』で共演している[[ジュリア・ロバーツ]]とは長年の友人で、家族ぐるみの付き合いだという<ref>[http://www.moviecollection.jp/interview_new/detail.html?id=53 『幸せの教室』トム・ハンクス&ジュリア・ロバーツ インタビュー] 2012年5月11日 ''[[ムービーコレクション]]''</ref>。<br />
<br />
2013年にトーク番組「デヴィッド・レターマン・ショウ」で[[2型糖尿病]]と診断されたことを公表。『[[プリティ・リーグ]]』、『[[キャスト・アウェイ]]』などで体重の増減量を行うことが多かったことが一因であるという。<br />
<br />
=== 経済面 ===<br />
[[2001年]]4月、1974年に卒業した母校である高校の古くなった劇場を復旧させるため、約1500万円を寄付した。この劇場は彼が俳優になる下地を作った思い出深い場所で、寄付の見返りとしてこの講堂に当時ハンクスが所属した演劇部の顧問だったラウリー・ファンズワースにちなんで名前をつけるよう頼んでいる<ref>{{cite web|url=http://www.cinematoday.jp/page/N0000405|title=T・ハンクス、母校に1500万円寄付|date=2001年4月11日|accessdate=2012-09-15|work=シネマトゥデイ}}</ref>。<br />
<br />
[[2010年]]2月、『ヴァニティ・フェア』誌が「2009年に最も稼いだハリウッドの稼ぎ手」のランキングを発表し、3,600万ドル(日本円で約32億4,000万円)を稼いで8位にランクインした。この金額は映画のギャラだけでなく、商品のロイヤリティ収入なども含んでいる<ref>{{cite web|url=http://www.cinematoday.jp/page/N0022297|title=2009年「最も稼いだ監督」はマイケル・ベイ「最も稼いだ俳優」はダニエル・ラドクリフ|date=2010年2月5日|accessdate=2012-09-15|work=シネマトゥデイ}}</ref>。<br />
<br />
[[2011年]]8月、経済誌『[[フォーブス (雑誌)|フォーブス]]』が2010年の5月1日から2011年5月1日の1年間で「最も稼いだハリウッド俳優」のランキングを発表し、推定3,500万ドル(日本円で約28億円)を稼いで5位にランクインした<ref>{{cite web|url=http://www.cinematoday.jp/page/N0034259|title=レオナルド・ディカプリオ、最も稼いでいるハリウッド俳優に!2位にはジョニー・デップ!-米フォーブス誌|date=2011年8月2日|accessdate=2012-09-15|work=シネマトゥデイ}}</ref><ref>{{cite news|url=http://news.walkerplus.com/2011/0803/3/|title=ハリウッド男優の所得番付トップ10発表!|publisher=MovieWalker|date=2011年8月3日|accessdate=2012-09-15}}</ref>。<br />
<br />
== 出演作品 ==<br />
=== 出演 ===<br />
{| class="wikitable sortable" style="font-size:85%;"<br />
|-<br />
!公開年!!邦題<br />原題!!役名!!備考<br />
|-<br />
| 1980 || 血ぬられた花嫁<br />''He Knows You're Alone'' || エリオット || <br />
|-<br />
| 1982 || [[トム・ハンクスの大迷宮]]<br />''Rona Jaffe's Mazes and Monsters'' || ロビー || <br />
|-<br />
|rowspan="2"|1984 || [[スプラッシュ (映画)|スプラッシュ]]<br />''Splash'' || アレン・バウアー || <br />
|-<br />
| [[独身SaYoNaRa! バチェラー・パーティ]]<br />''Bachelor Party'' || リック・ガスコ || <br />
|-<br />
| 1985 || 赤い靴をはいた男の子<br />''The Man with One Red Shoe'' || リチャード || <br />
|-<br />
|rowspan="2"|1986 || [[マネー・ピット]]<br />''Money Pit'' || ウォルター・フィールディング・Jr || <br />
|-<br />
| [[恋のじゃま者]]<br />''Nothing in Common'' || デイヴィッド・バズナー ||<br />
|-<br />
| 1987 || [[ドラグネット 正義一直線]]<br />''Dragnet'' || ペップ・ストリーベック || <br />
|-<br />
|rowspan="2"|1988 || [[ビッグ (映画)|ビッグ]]<br />''Big'' || ジョシュ・バスキン || <br />
|-<br />
| [[パンチライン (映画)|パンチライン]]<br />''Punchline'' || スティーヴン・ゴールド || <br />
|-<br />
|rowspan="2"|1989 || [[ターナー&フーチ/すてきな相棒]]<br />''Turner & Hooch'' || スコット・ターナー || <br />
|-<br />
| [[メイフィールドの怪人たち]]<br />''The Burbs'' || レイ・ピーターソン ||<br />
|-<br />
|rowspan="2"|1990 || [[ジョー、満月の島へ行く]]<br />''Joe Versus the Volcano'' || ジョー・バンクス || <br />
|-<br />
| [[虚栄のかがり火]]<br />''The Bonfire of the Vanities'' || シャーマン・マッコイ ||<br />
|-<br />
|rowspan="3"|1992|| [[ハリウッド・ナイトメア]]<br />''Tales from the Crypt'' || || テレビ映画、エピソード『永遠に愛して』の監督・出演<br />
|-<br />
| [[プリティ・リーグ]]<br />''A League of Their Own'' || ジミー・ドゥーガン || <br />
|-<br />
| [[ラジオ・フライヤー]]<br />'' Radio Flyer'' || 大人のマイク || クレジットなし<br />
|-<br />
|rowspan="2"|1993 || [[めぐり逢えたら]]<br />''Sleepless in Seattle'' || サム・ボールドウィン || <br />
|-<br />
| [[フィラデルフィア (映画)|フィラデルフィア]]<br />''Philadelphia'' || アンドリュー・ベケット || <br />
|-<br />
| 1994 || [[フォレスト・ガンプ/一期一会]]<br />''FORREST GUMP'' || フォレスト・ガンプ || <br />
|-<br />
|rowspan="3"|1995 || [[アポロ13]]<br />''Apollo 13'' || [[ジム・ラヴェル]] || <br />
|-<br />
| [[セルロイド・クローゼット]]<br />''The Celluloid Closet'' || || ドキュメンタリー<br />
|-<br />
| [[トイ・ストーリー]]<br />''Toy Story'' || [[ウッディ・プライド]] || アニメ映画、声の出演<br />
|-<br />
| 1996 || [[すべてをあなたに (映画)|すべてをあなたに]]<br />''That Thing you Do!'' || ミスター・ホワイト ||監督・脚本・出演<br />
|-<br />
|rowspan="2"|1998 || [[ユー・ガット・メール]]<br />''You've Got Mail'' || ジョー・フォックス || <br />
|-<br />
| [[プライベート・ライアン]]<br />''Saving Private Ryan'' || ジョン・H・ミラー大尉 || <br />
|-<br />
|rowspan="2"|1999 || [[トイ・ストーリー2]]<br />''Toy Story 2'' || ウッディ・プライド || アニメ映画、声の出演 <br />
|-<br />
| [[グリーンマイル (映画)|グリーンマイル]]<br />''The Green Mile'' || ポール・エッジコム ||<br />
|-<br />
| 2000 || [[キャスト・アウェイ]]<br />''Cast Away'' || チャック・ノーランド ||製作・出演<br />
|-<br />
|rowspan="2"|2002 || [[ロード・トゥ・パーディション]]<br />''ROAD TO PERDITION'' || マイケル・サリヴァン || <br />
|-<br />
| [[キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン]]<br />''Catch me if you can'' || カール・ハンラティ || <br />
|-<br />
|rowspan="3"|2004 || [[レディ・キラーズ]]<br />''Lady killers'' || 教授 || <br />
|-<br />
| [[ターミナル (映画)|ターミナル]]<br />''The Terminal'' || ビクター・ナボルスキー || <br />
|-<br />
| [[ポーラー・エクスプレス]]<br />''THE POLAR EXPRESS'' || ヒーロー・ボーイ / 父親 / 車掌 / ホーボー / サンタ || 兼製作総指揮、声の出演<br />
|-<br />
|rowspan="3"|2006 || [[ダ・ヴィンチ・コード (映画)|ダ・ヴィンチ・コード]]<br />''The Da Vinci Code'' || [[ロバート・ラングドン]] || <br />
|-<br />
| [[チャーリー・ウィルソンズ・ウォー]]<br />''Charlie Wilson's War'' || [[チャールズ・ネスビット・ウィルソン|チャーリー・ウィルソン]] || 兼製作<br />
|-<br />
| [[カーズ (映画)|カーズ]]<br /> ''Cars'' || ウッディ・カー || アニメ映画、声の出演<br />
|-<br />
| 2007 || [[ザ・シンプソンズ MOVIE]]<br />''The Simpsons Movie'' || 本人役 || アニメ映画、声の出演<br />
|-<br />
| 2008 || [[ザッツ★マジックアワー ダメ男ハワードのステキな人生]]<br />''The Great Buck Howard'' || ミスター・グレイブ || 兼製作<br />
|-<br />
| 2009 || [[天使と悪魔 (映画)|天使と悪魔]]<br /> ''Angels & Demons'' || ロバート・ラングドン || <br />
|-<br />
| 2010 || [[トイ・ストーリー3]]<br />''Toy Story 3'' || ウッディ・プライド || アニメ映画、声の出演<br />
|-<br />
|rowspan="2"|2011 || [[幸せの教室]]<br />''Larry Crowne'' || ラリー・クラウン || 監督・製作・脚本・主演<br />
|-<br />
| [[ものすごくうるさくて、ありえないほど近い (映画)|ものすごくうるさくて、ありえないほど近い]]<br />''Extremely Loud & Incredibly Close'' || トーマス・シェル・Jr || <br />
|-<br />
|rowspan="2"|2012 || [[クラウド アトラス]]<br />''Cloud Atlas'' || ヘンリー・グース医師 / 安ホテル支配人 / アイザック・サックス博士 / <br />ダーモット・"ダスター"・ホギンズ / キャヴィンディッシュ役の俳優 / ヴァリーズマン・ザクリー || <br />
|-<br />
| [[レックスはお風呂の王様]]<br />''Partysaurus Rex'' || ウッディ・プライド || <br />
|-<br />
|rowspan="4"|2013 || ラッキー・ガイ<br />''Lucky Guy'' || マイク・マカラリー|| 舞台<br />
|-<br />
| [[リンカーンを殺した男]]<br />''Killing Lincoln'' || ナビゲーター / ナレーター || テレビ映画<br />
|-<br />
| [[キャプテン・フィリップス]]<br />''Captain Phillips'' || リチャード・フィリップス || <br />
|-<br />
| [[ウォルト・ディズニーの約束]]<br />''Saving Mr. Banks'' || [[ウォルト・ディズニー]] || <br />
|- <br />
| 2015 || [[ブリッジ・オブ・スパイ]]<br />''Bridge of Spies'' || [[ジェームス・ドノバン|ジェームズ・ドノヴァン]] ||<br />
|-<br />
|rowspan="3"|2016 || [[王様のためのホログラム]]<br/>''A Hologram for the King''|| アラン・クレイ || 日本公開は2017年2月<ref>{{cite news|url=http://natalie.mu/eiga/news/208053|title=トム・ハンクス×トム・ティクヴァのコメディ公開、ベン・ウィショーも出演|newspaper=映画ナタリー|date=2016-11-08|accessdate=2016-11-08}}</ref><br />
|-<br />
| [[ハドソン川の奇跡 (映画)|ハドソン川の奇跡]]<br />''Sully'' || [[チェズレイ・サレンバーガー|チェスリー・"サリー"・サレンバーガー]] || <br />
|-<br />
| [[インフェルノ (2016年の映画)|インフェルノ]]<br />''Inferno'' || ロバート・ラングドン || <br />
|-<br />
|rowspan="2"| 2017 || [[ザ・サークル (映画)|ザ・サークル]]<br />''The Circle'' || イーモン・ベイリー || <br />
|-<br />
| [[ペンタゴン・ペーパーズ/最高機密文書]]<br />''The Post'' || [[ベン・ブラッドリー]] || <br />
|-<br />
|}<br />
<br />
=== 製作他 ===<br />
{| class="wikitable" style="font-size:85%;"<br />
|-<br />
!公開年!!邦題<br />原題!!担当!!備考<br />
|-<br />
| 1998 || [[フロム・ジ・アース/人類、月に立つ]]<br />''From the Earth to the Moon'' || 製作総指揮 || テレビシリーズ<br />
|-<br />
| 2002 || [[マイ・ビッグ・ファット・ウェディング]]<br />''My Big Fat Greek Wedding'' || 製作 || <br />
|-<br />
| 2004 || connie & carla コニー&カーラ<br />''Connie and Carla'' || 製作 || <br />
|-<br />
| 2005 || [[ウォーキング・オン・ザ・ムーン 3D]]<br />''Magnificent Desolation: Walking on the Moon 3D'' || 共同脚本、プロデューサー、ナレーター ||<br />
|-<br />
| 2006-2011 || [[ビッグ・ラブ]]<br />''Big Love'' || 製作総指揮 || テレビシリーズ<br />
|-<br />
|rowspan="2"|2008 || [[マンマ・ミーア! (映画)|マンマ・ミーア!]]<br />''Mamma Mia!'' || 製作総指揮 || <br />
|-<br />
| [[エンバー 失われた光の物語]]<br />''City of Ember'' || 製作 || <br />
|-<br />
|rowspan="2"|2009 || マイ・ビッグ・ファット・ドリーム<br />''My Life in Ruins'' || 製作総指揮 || <br />
|-<br />
| [[かいじゅうたちのいるところ (映画)|かいじゅうたちのいるところ]]<br />''Where the Wild Things Are'' || 製作 || <br />
|-<br />
| 2010 || [[ザ・パシフィック]]<br />''The Pacific'' || 製作総指揮、ナレーター || テレビシリーズ<br />
|-<br />
| 2013 || [[パークランド ケネディ暗殺、真実の4日間]]<br />''Parkland'' || 製作 || <br />
|-<br />
| 2017 || [[ザ・シークレットマン]]<br />''Mark Felt: The Man Who Brought Down the White House'' || 製作 || <br />
|-<br />
|}<br />
<br />
== 受賞 ==<br />
; [[アカデミー賞]]<br />
{|class="wikitable"<br />
!年<br />
!タイトル<br />
!部門<br />
!結果<br />
|-<br />
| 1988<br />
|''[[ビッグ (映画)|ビッグ]]''<br />
| [[アカデミー主演男優賞|主演男優賞]]<br />
|{{nom}}<br />
|-<br />
|1993<br />
|''[[フィラデルフィア (映画)|フィラデルフィア]]''<br />
| 主演男優賞<br />
|{{won}}<br />
|-<br />
| 1994<br />
|''[[フォレスト・ガンプ/一期一会]]''<br />
| 主演男優賞<br />
|{{won}}<br />
|-<br />
|1998<br />
|''[[プライベート・ライアン]]''<br />
| 主演男優賞<br />
|{{nom}}<br />
|-<br />
|2000<br />
|''[[キャスト・アウェイ]]''<br />
| 主演男優賞<br />
|{{nom}}<br />
|-<br />
|}<br />
<br />
; [[ゴールデン・グローブ賞]]<br />
{|class="wikitable"<br />
!年<br />
!タイトル<br />
!部門<br />
!結果<br />
|-<br />
| 1988<br />
|''ビッグ''<br />
| [[ゴールデングローブ賞 主演男優賞 (ミュージカル・コメディ部門)|主演男優賞 (ミュージカル・コメディ部門)]]<br />
|{{won}}<br />
|-<br />
| 1993<br />
|''[[めぐり逢えたら]]''<br />
| 主演男優賞 (ミュージカル・コメディ部門)<br />
|{{nom}}<br />
|-<br />
|1993<br />
|''フィラデルフィア''<br />
| 主演男優賞 (ドラマ部門)<br />
|{{won}}<br />
|-<br />
| 1994<br />
|''フォレスト・ガンプ/一期一会''<br />
| 主演男優賞 (ドラマ部門)<br />
|{{won}}<br />
|-<br />
|1998<br />
|''プライベート・ライアン''<br />
| 主演男優賞 (ドラマ部門)<br />
|{{nom}}<br />
|-<br />
|2000<br />
|''キャスト・アウェイ''<br />
| 主演男優賞 (ドラマ部門)<br />
|{{won}}<br />
|-<br />
|2007<br />
|''[[チャーリー・ウィルソンズ・ウォー]]''<br />
| 主演男優賞 (ミュージカル・コメディ部門)<br />
|{{nom}}<br />
|-<br />
|}<br />
<br />
== 脚注 ==<br />
{{脚注ヘルプ}}<br />
{{reflist}}<br />
<br />
== 関連項目 ==<br />
*[[トム・ハンクス (小惑星)]]<br />
*[[江原正士]] - ハンクスの日本語吹き替え担当声優。<br />
<br />
== 外部リンク ==<br />
{{Commonscat|Tom Hanks}}<br />
* {{allcinema name|8309|トム・ハンクス}}<br />
* {{Kinejun name|17047|トム・ハンクス}}<br />
* {{IMDb name|0000158|Tom Hanks}}<br />
<br />
{{アカデミー賞主演男優賞 1981-2000}}<br />
{{ゴールデングローブ賞 主演男優賞 (ドラマ部門)}}<br />
{{ゴールデングローブ賞 主演男優賞 (ミュージカル・コメディ部門)}}<br />
{{ニューヨーク映画批評家協会賞 主演男優賞}}<br />
{{ロサンゼルス映画批評家協会賞 主演男優賞}}<br />
{{全米映画俳優組合賞主演男優賞}}<br />
{{Normdaten}}<br />
<br />
{{DEFAULTSORT:はんくす とむ}}<br />
[[Category:アメリカ合衆国の映画俳優]]<br />
[[Category:アメリカ合衆国の映画監督]]<br />
[[Category:アメリカ合衆国の映画プロデューサー]]<br />
[[Category:アメリカ合衆国のテレビプロデューサー]]<br />
[[Category:ポルトガル系アメリカ人]]<br />
[[Category:カリフォルニア州コンコード出身の人物]]<br />
[[Category:クリエイティヴ・アーティスツ・エージェンシー]]<br />
[[Category:アメリカ芸術科学アカデミー会員]]<br />
[[Category:アカデミー賞受賞者]]<br />
[[Category:ゴールデングローブ賞受賞者]]<br />
[[Category:大統領自由勲章受章者]]<br />
[[Category:1956年生]]<br />
[[Category:存命人物]]</div>
122.214.146.170
ロバート・レッドフォード
2018-09-29T12:45:46Z
<p>122.214.146.170: </p>
<hr />
<div>{{ActorActress<br />
| 芸名 = ロバート・レッドフォード<br />
| ふりがな = Robert Redford<br />
| 画像ファイル =Robert Redford (cropped).jpg<br />
| 画像サイズ = 240px<br />
| 画像コメント = <br />
| 本名 = Charles Robert Redford Jr.<br />
| 別名義 = <br />
| 出生地 = {{USA}} [[カリフォルニア州]][[サンタモニカ]]<br />
| 死没地 =<br />
| 国籍 = {{USA}}<br />
| 民族 = <br />
| 身長 =<br />
| 血液型 = <br />
| 生年 = 1936<br />
| 生月 = 8<br />
| 生日 = 18<br />
| 没年 = <br />
| 没月 = <br />
| 没日 = <br />
| 職業 = [[俳優]]、[[映画監督]]、[[プロデューサー]]<br />
| ジャンル = [[映画]]<br />
| 活動期間 = 1959年 -<br />
| 活動内容 = 1959年:舞台初出演<br />1962年:映画初出演<br />1980年:初監督『[[普通の人々]]』で[[アカデミー賞]]受賞<br />2002年:[[アカデミー名誉賞]]<br />
| 配偶者 = ローラ・ヴァン・ワーグネン(1958年 – 1985年)<br />シビル・ザガーズ(2009年 - )<br />
| 著名な家族 = <br />
| 事務所 =<br />
| 公式サイト = <br />
| 主な作品 = '''監督'''<br />『[[普通の人々]]』<br />『[[リバー・ランズ・スルー・イット]]』<br />『[[クイズ・ショウ]]』<br />『[[モンタナの風に抱かれて]]』<hr />'''製作総指揮'''<br />『[[舞台よりすてきな生活]]』<br />『[[ニューヨーク 最後の日々]]』<br />『[[モーターサイクル・ダイアリーズ]]』<hr />'''出演'''<br />『[[明日に向って撃て!]]』『[[スティング (映画)|スティング]]』<br />『[[大統領の陰謀]]』『[[遠すぎた橋]]』<br />『[[ナチュラル (映画)|ナチュラル]]』『[[愛と哀しみの果て]]』<br />『[[スパイ・ゲーム]]』『二重誘拐』<br />『[[オール・イズ・ロスト 〜最後の手紙〜]]』<br />
| アカデミー賞 = '''[[アカデミー監督賞|監督賞]]'''<br/>[[第53回アカデミー賞|1980年]]『[[普通の人々]]』<br />'''[[アカデミー名誉賞|名誉賞]]'''<br/>[[第74回アカデミー賞|2001年]] 長年の映画界への功績に対して<br />
| ヴェネツィア国際映画祭 = '''[[ヴェネツィア国際映画祭|ヴィットリオ・ヴェネト賞]]'''<br/>[[2012年]]『[[ランナウェイ/逃亡者]]』<br />'''[[ヴェネツィア国際映画祭|オープニング・プライズ]]'''<br/>2012年『ランナウェイ/逃亡者』<br />'''[[栄誉金獅子賞]]'''<br />[[2017年]] 長年の功績に対して<br />
| AFI賞 = '''[[アメリカ映画100年のヒーローと悪役ベスト100]]'''<br />[[2004年]]『[[明日に向って撃て!]]』『[[大統領の陰謀]]』<br />
| 英国アカデミー賞 = '''[[英国アカデミー賞 主演男優賞|主演男優賞]]'''<br />[[1970年]]『明日に向って撃て!』『白銀のレーサー』『夕陽に向って走れ』<br />
| ゴールデングローブ賞 = '''[[ゴールデングローブ賞 監督賞|監督賞]]'''<br />[[1980年]]『普通の人々』<br/>'''[[ゴールデングローブ賞|有望若手男優賞]]'''<br />[[1965年]]『サンセット物語』<br />'''[[セシル・B・デミル賞]]'''<br/>[[1993年]] 生涯功労賞<br/>'''[[ゴールデングローブ賞|ヘンリエッタ賞]]'''<br/>[[1975年]] 世界で最も好かれた俳優<br />[[1977年]] 世界で最も好かれた俳優<br />[[1978年]] 世界で最も好かれた俳優<br />
| ニューヨーク映画批評家協会賞 = '''[[ニューヨーク映画批評家協会賞 主演男優賞|主演男優賞]]'''<br />[[第79回ニューヨーク映画批評家協会賞|2013年]]『[[オール・イズ・ロスト 〜最後の手紙〜]]』<br />
| 全米映画俳優組合賞 = '''[[全米映画俳優組合賞 生涯功労賞|生涯功労賞]]'''<br />[[第2回全米映画俳優組合賞|1995年]] 長年の功績に対して<br />
| その他の賞 = '''[[全米監督協会|全米監督協会賞]]'''<br />'''長編映画監督賞'''<br />[[1980年]]『普通の人々』<br />
| 備考 = <br />
}}<br />
'''チャールズ・ロバート・レッドフォード・ジュニア'''({{en|'''Charles Robert Redford Jr.'''}}, [[1936年]][[8月18日]] - )<ref name=CalBirth>{{Cite web|url=http://search.ancestry.com/cgi-bin/sse.dll?ti=0&indiv=try&db=cabirth1905&h=2165883|title=Charles Robert Redford|work=California Birth Index, 1905–1995|publisher=Ancestry.com|accessdate=June 16, 2011|quote=Name: Charles Robert Redford; Birth Date: 18 Aug 1936; Gender: Male; Mother's Maiden Name: Hart; Birth County: Los Angeles}} {{subscription required}}</ref><ref>{{Cite news|title=Monitor|newspaper=Entertainment Weekly|date=Aug 17–24, 2012|issue=1220/1221|page=28}}</ref>は、[[カリフォルニア州]][[サンタモニカ]]出身の[[アメリカ合衆国]]の[[俳優]]、[[映画監督]]、[[映画プロデューサー]]。{{仮リンク|サンダンス・インスティテュート|en|Sundance Institute}}主宰。[[左利き]]。[[1970年代]]に、[[ハリウッド]]屈指の美男俳優として数多くの映画に出演。[[1980年]]、自身が監督した映画『[[普通の人々]]』で[[アカデミー作品賞]]、[[アカデミー監督賞]]を受賞し、ハリウッドで初めて「演技と製作の双方で地位を確立した映画人」となった。<br />
<br />
== 経歴 ==<br />
[[カリフォルニア州]][[サンタモニカ]]出身。父親の仕事の都合でバンナイズ(Van Nuys)に移る<ref name=tca>Stated on ''Inside the Actors Studio'', 2005</ref>。バンナイズ高校に入学。クラスメイトにメジャーリーグ投手の[[ドン・ドライスデール]]がいた<ref name=tca />。<br />
<br />
高校を卒業後、[[野球]]の[[特待生]]として[[コロラド大学]]に進学。[[投手]]として活躍するも、未成年での[[飲酒]]が発覚し特待生の資格を失ったことを機に中退<ref name=tca/>。その後[[画家]]の道を志し[[ヨーロッパ]]に渡り放浪生活を送る<ref name=tca/>も挫折しアメリカに戻る。[[ユタ州]]に移住して[[アメリカ演劇アカデミー]]で舞台美術を学ぶ<ref name=tca/>が途中から俳優に転向し[[1959年]]に[[ブロードウェイ]]でデビューした。<br />
<br />
[[テレビドラマ]]や[[舞台]]で小さな役を経験し[[1962年]]には初の映画出演を果たすも大きな役に恵まれず長年に及ぶ下積み生活を余儀なくされた。[[1969年]]、[[アメリカン・ニューシネマ]]の傑作『[[明日に向って撃て!]]』に出演。興業的に大成功を収め、レッドフォード自身も知的で信頼性があり、時に冷淡な雰囲気を醸し出す俳優として一躍スターダムに上り詰めた。[[1970年代]]には[[ハリウッド]]屈指の美男俳優として数多くの映画に出演。<br />
<br />
[[1980年]]には初めて監督した映画『[[普通の人々]]』で[[アカデミー監督賞]]を受賞。ハリウッドで初めて「演技と製作の双方で成功を収めた映画人」の地位を確立した。翌[[1981年]]、[[ユタ州]]の[[パークシティ (ユタ州)|パークシティ]]に若手映画人の育成を目的としてサンダンス・インスティテュートを設立。優秀な[[インディペンデント映画]]とその製作者を世に送り出すために[[サンダンス映画祭]]を開催。現在は出演、監督、製作の面から映画に携わっている。<br />
<br />
2013年、[[第66回カンヌ国際映画祭]]のコンペティション外で上映された『[[オール・イズ・ロスト 〜最後の手紙〜]]』([[J・C・チャンダー]]監督)における演技が批評家と観客の双方から絶賛された。<br />
<br />
同年、サンタバーバラ映画祭においてアメリカン・リヴィエラ賞を受賞した<ref>{{Cite web|url=http://www.hollywoodreporter.com/race/all-is-lost-star-robert-666140?utm_source=Sailthru&utm_medium=email&utm_term=hollywoodreporter_therace&utm_campaign=THR%20Race%20Alerts_2013-12-17%2006:30:00%20America/Los_Angeles_schan|title=Santa Barbara Film Fest: 'All Is Lost' Star Robert Redford to Receive Special Honor|accessdate=2013-12-17}}</ref>。<br />
<br />
2016年、[[大統領自由勲章]]を受章<ref>{{Cite news|title=米大統領自由勲章にデニーロさん|newspaper=共同通信 47NEWS|date=2016-11-17|url=http://this.kiji.is/171754995940409350?c=39546741839462401|accessdate=2016-11-17}}</ref>。<br />
<br />
2018年8月6日、俳優を引退すると表明したと報じられた<ref>{{Cite web|url=https://www.cinematoday.jp/news/N0102712|title=ロバート・レッドフォードが俳優業からの引退を表明|publisher=シネマトゥデイ|accessdate=2018-08-07|date=2018年8月6日21時12分}}</ref>。<br />
<br />
== 私生活 ==<br />
[[1959年]]に結婚し4人の子供をもうけるが(一人は乳児の時に死去)1985年に離婚。1990年代から同棲していた<ref>[http://www.telegraph.co.uk/news/newstopics/celebritynews/5836472/Robert-Redford-marries-long-term-girlfriend.html Robert Redford marries long-term girlfriend] Telegraph 2009年7日15日公開 2012年1月6日閲覧</ref>女性と[[2009年]]に再婚した。<br />
<br />
== 代表作品 ==<br />
=== 出演 ===<br />
{| class="wikitable sortable" style="font-size:85%;" <br />
|-<br />
!公開年!!邦題<br />原題!!役名!!備考<br />
|-<br />
| 1962 || [[戦争狩り]]<br />''Warhunt'' || ロイ || <br />
|-<br />
|rowspan="2"|1965 || [[サンセット物語]] <br />''Inside Daisy Clover'' || ウエイド・ルイス || <br />
|-<br />
| [[戦場はどこだ!]]<br />''Situation Hopeless but not serious'' || ハンク・ウィルソン || <br />
|-<br />
|rowspan="2"|1966 || [[雨のニューオリンズ]]<br />''This Property is Condemned'' || オーウェン || <br />
|-<br />
| [[逃亡地帯]]<br />''The Chase'' || チャーリー・リーヴス || <br />
|-<br />
| 1967 || [[裸足で散歩]]<br />''Barefoot in The Park'' || ポール || <br />
|-<br />
|rowspan="3"|1969 || [[明日に向って撃て!]]<br />''Butch Cassidy and the Sundance Kid'' || [[サンダンス・キッド]] || [[英国アカデミー賞 主演男優賞]] 受賞<br />
|-<br />
| [[夕陽に向って走れ]]<br />''Tell Them Willie Boy Is Here'' || クリストファー・クーパー(クープ) ||<br />
|-<br />
| [[白銀のレーサー]]<br />''Downhill Racer'' || デヴィッド || <br />
|-<br />
| 1970 || [[お前と俺]]<br />''Little Fauss and Big Halsy '' || ハルシー・ノックス || <br />
|-<br />
|rowspan="3"| 1972 || [[大いなる勇者]]<br />''Jeremiah Johnson'' || ジェレマイア・ジョンソン || <br />
|-<br />
| [[候補者ビル・マッケイ]]<br />''The Candidate'' || ビル・マッケイ ||<br />
|-<br />
| [[ホット・ロック]]<br />''The Hot Rock'' || ジョン || <br />
|-<br />
|rowspan="2"|1973 || [[スティング (映画)|スティング]]<br />''Sting'' || ジョニー・フッカー || <br />
|-<br />
| [[追憶 (1973年の映画)|追憶]]<br />''The Way We Were'' || ハベル・ガードナー || <br />
|-<br />
| 1974 || [[華麗なるギャツビー]]<br />''The Great Gatsby'' || ジェイ・ギャツビー|| <br />
|-<br />
|rowspan="2"|1975 || [[華麗なるヒコーキ野郎]]<br />''The Great Waldo Pepper'' || ウォルド・ペッパー|| <br />
|-<br />
| [[コンドル (映画)|コンドル]]<br />''The three days of the Condor'' || ジョー・ターナー(コンドル)|| <br />
|-<br />
| 1976 || [[大統領の陰謀]]<br />''All the President's Men'' || [[ボブ・ウッドワード]] || <br />
|-<br />
| 1977 || [[遠すぎた橋]]<br />''A Bridge Too Far'' || クック少佐|| <br />
|-<br />
| 1979 || [[出逢い (映画)|出逢い]]<br />''The Electric Horseman '' || ノーマン・スティール(サニー) || <br />
|-<br />
| 1980 || [[ブルベイカー]]<br />''Brubaker'' || ヘンリー・ブルベイカー || <br />
|-<br />
| 1984 || [[ナチュラル (映画)|ナチュラル]]<br /> ''The Natural'' || ロイ・ホブス || <br />
|-<br />
| 1985 || [[愛と哀しみの果て]]<br />''Out of Africa'' || デニス・フィンチ・ハットン || <br />
|-<br />
| 1986 || [[夜霧のマンハッタン]]<br />''Legal Eagles'' || トム・ローガン || <br />
|-<br />
| 1990 || [[ハバナ (映画)|ハバナ]]<br />''Havana'' || ジャック・ウェイル || <br />
|-<br />
|rowspan="2"| 1992 || [[スニーカーズ]]<br />''Sneakers'' || マーティン・ビショップ || <br />
|-<br />
| [[リバー・ランズ・スルー・イット]]<br />''A River Runs Through It'' || ナレーター || ノンクレジット<br />
|-<br />
| 1993 || [[幸福の条件]]<br />''Indecent Proposal'' || ジョン・ゲージ || <br />
|-<br />
| 1996 || [[アンカーウーマン (映画)|アンカーウーマン]]<br />''Up Close & Personal'' || ウォーレン || <br />
|-<br />
| 1998 || [[モンタナの風に抱かれて]]<br />''The Horse Whisperer'' || トム・ブッカー || 監督・製作・主演<br />
|-<br />
|rowspan="2"|2001 || [[スパイ・ゲーム]]<br />''Spy Game'' || ネイサン・D・ミュアー || <br />
|-<br />
| [[ラスト・キャッスル]]<br />''The Last Castle'' || アーウィン陸軍中将 || <br />
|-<br />
| 2004 || [[二重誘拐]]<br />''The Clearing'' || ウェイン・ヘイズ || <br />
|-<br />
| 2005 || [[アンフィニッシュ・ライフ (2005年の映画)|アンフィニッシュ・ライフ]]<br />''An Unfinished Life'' || アイナー || <br />
|-<br />
| 2006 || [[シャーロットのおくりもの (2006年の映画)|シャーロットのおくりもの]]<br />'' Charlotte's Web '' || 馬のアイク || 声の出演<br />
|-<br />
| 2007 || [[大いなる陰謀]] <br />''Lions for Lambs'' || スティーブン・マレー教授 || 監督・製作・主演<br />
|-<br />
| 2012 || [[ランナウェイ/逃亡者]]<br />''The Company You Keep''|| ジム・グラント / ニック・スローン || 監督・製作・主演<br />
|-<br />
| 2013 || [[オール・イズ・ロスト 〜最後の手紙〜]]<br />''All Is Lost''|| 我らの男 || [[ゴールデングローブ賞 主演男優賞 (ドラマ部門)]]ノミネート<br />
|-<br />
| 2014 || [[キャプテン・アメリカ/ウィンター・ソルジャー]]<br />''Captain America: The Winter Soldier'' || アレクサンダー・ピアース || <br />
|-<br />
|rowspan="2"|2015 || [[ロング・トレイル!]] <br />''A Walk in the Woods'' || [[ビル・ブライソン]] || 製作・主演<br />
|-<br />
| [[ニュースの真相]]<br />''[[:en:Truth (2015 film)|Truth]]'' || [[ダン・ラザー]] || 日本公開は2016年8月 <ref>{{Cite web|url=http://natalie.mu/eiga/news/191954|title=米大統領の経歴詐称は誤報だった!?ケイト・ブランシェット出演社会派ドラマ新予告|work=映画ナタリー|publisher=ナターシャ|accessdate=2016-06-24|date=2016-06-24}}</ref><br />
|-<br />
|rowspan="2"|2016 || [[アメリカ・ワイルド]]<br />''National Parks Adventure'' || ナレーター || <br />
|-<br />
| [[ピートと秘密の友達]]<br />''Pete's Dragon'' || ミーチャム || <br />
|-<br />
|rowspan="2"|2017 || [[ザ・ディスカバリー]]<br />''The Discovery'' || トーマス・ハーバー || <br />
|-<br />
| [[夜が明けるまで]]<br />''Our Souls at Night'' || ルイス・ウォーター || 製作・出演<br />
|-<br />
|2018<br />
|''[[ザ・オールドマン・アンド・ザ・ガン|The Old Man and the Gun]]'' || フォレスト・タッカー || 製作・出演<br />
|}<br />
=== 監督・製作 ===<br />
{| class="wikitable" <br />
|-<br />
!公開年!!邦題<br />原題!!担当!!備考<br />
|-<br />
| 1980 || [[普通の人々]]<br />''Ordinary People'' || 監督 || [[アカデミー監督賞]] 受賞<br />[[ゴールデングローブ賞 監督賞]] 受賞<br />
|-<br />
|1987|| プロミスト・ランド/青春の絆<br />''The Promised Land'' || 製作総指揮 || <br />
|-<br />
|rowspan="2"|1988 || [[ミラグロ/奇跡の地]]<br />''The Milagro Beanfield War'' || 監督 || <br />
|-<br />
| [[ダルク家の三姉妹]]<br />''Some Girls'' || 製作総指揮 || <br />
|-<br />
|1991|| ダーク・ウィンド<br />''The Dark Wind'' || 製作総指揮 || <br />
|-<br />
|rowspan="2"|1992 || [[リバー・ランズ・スルー・イット]]<br />''A River Runs Through It'' || 監督・製作・出演 ||出演はノンクレジット <br />
|-<br />
| インシデント・アット・オグララ<br />'' Incident At Oglala'' || 製作総指揮 || ドキュメンタリー<br />
|-<br />
| 1994 || [[クイズ・ショウ]]<br />''Quiz Show'' || 監督・製作 || <br />
|-<br />
| 1996 || [[彼女は最高]]<br />''She's the One'' || 製作 || <br />
|-<br />
|rowspan="2"|1998 || [[モンタナの風に抱かれて]]<br />''The Horse Whisperer'' || 監督・出演 || <br />
|-<br />
| [[Fカップの憂うつ]]<br />''Slums of Beverly Hills'' || 製作総指揮 || <br />
|-<br />
|rowspan="2"|1999 || [[ノー・ルッキング・バック]]<br />''No Looking Back'' || 製作 || <br />
|-<br />
| [[シビル・アクション]]<br />''A Civil Action'' || 製作 || <br />
|-<br />
|rowspan="2"|2000 || [[バガー・ヴァンスの伝説]]<br />''The Legend of Bagger Vance'' || 監督・製作 || <br />
|-<br />
| [[舞台よりすてきな生活]]<br />''How to Kill Your Neighbor's Dog'' || 製作 || <br />
|-<br />
| 2002|| [[ニューヨーク 最後の日々]]<br />''People I Know'' || 製作総指揮 || <br />
|-<br />
| 2003 || [[モーターサイクル・ダイアリーズ]]<br />''Diarios de motocicleta'' || 製作総指揮 || <br />
|-<br />
| 2007 || [[大いなる陰謀]]<br />''Lions for Lambs'' || 監督・製作・出演 || <br />
|-<br />
| 2010 || [[声をかくす人]]<br />''The Conspirator'' || 監督・製作 || <br />
|-<br />
| 2012 || [[ランナウェイ/逃亡者]]<br />''The Company You Keep'' || 監督・製作・出演 || <br />
|-<br />
| 2015 || [[サスペクツ・ダイアリー すり替えられた記憶]]<br />''The Adderall Diaries'' || 製作総指揮 ||<br />
|-<br />
|}<br />
<br />
== 受賞歴 ==<br />
=== アカデミー賞 ===<br />
;受賞<br />
:[[第53回アカデミー賞|1980年度]] [[アカデミー監督賞]]:『[[普通の人々]]』<br />
:[[第74回アカデミー賞|2001年度]] [[アカデミー名誉賞]]<br />
;ノミネート<br />
:[[第46回アカデミー賞|1973年度]] [[アカデミー主演男優賞]]:『[[スティング (映画)|スティング]]』<br />
:[[第67回アカデミー賞|1994年度]] [[アカデミー作品賞]]、アカデミー監督賞:『[[クイズ・ショウ]]』<br />
=== 英国アカデミー賞 ===<br />
;受賞<br />
:[[1971年]] [[英国アカデミー賞 主演男優賞|主演男優賞]]:『[[明日に向って撃て!]]』、『[[白銀のレーサー]]』、『[[夕陽に向って走れ]]』<br />
;ノミネート<br />
:[[1995年]] [[英国アカデミー賞 作品賞|作品賞]]:『[[クイズ・ショウ]]』<br />
=== ゴールデングローブ賞 ===<br />
;受賞<br />
:[[1966年]] 有望若手男優賞:『[[サンセット物語]]』<br />
:[[1975年]] ヘンリエッタ賞<br />
:[[1977年]] ヘンリエッタ賞<br />
:[[1978年]] ヘンリエッタ賞<br />
:[[1981年]] [[ゴールデングローブ賞 監督賞|監督賞]]:『[[普通の人々]]』<br />
:[[1994年]] [[ゴールデングローブ賞 セシル・B・デミル賞|セシル・B・デミル賞]]<br />
;ノミネート<br />
:[[1993年]] 監督賞:『[[リバー・ランズ・スルー・イット]]』<br />
:[[1995年]] 監督賞:『[[クイズ・ショウ]]』<br />
:[[1999年]] 監督賞:『[[モンタナの風に抱かれて]]』<br />
:[[2013年]] [[ゴールデングローブ賞 主演男優賞 (ドラマ部門)|主演男優賞(ドラマ部門)]]:『[[オール・イズ・ロスト 〜最後の手紙〜]]』<br />
<br />
== 関連書籍 ==<br />
* アンドリュー・アルバネーゼ/ブランドン・トリスラー編/佐々田雅子訳『グラデュエーションデイ ~未来を変える24のメッセージ』2007年4月。ISBN 9784903825007。本書にスピーチが収録。<br />
<br />
== 脚注 ==<br />
{{Reflist}}<br />
<br />
== 参考文献 ==<br />
* [http://life.time.com/icons/robert-redford-rare-photos-1969/#1 ROBERT REDFORD: RARE PHOTOS, 1969] Life.Time.com 2013年9月9日閲覧<br />
<br />
== 関連項目 ==<br />
* [[ブラッド・ピット]] - {{要出典範囲|date=2012年12月|レッドフォードを尊敬しており、「師匠であり、もう一人の父親のような存在」と語っている。}}{{独自研究範囲|date=2012年12月|また容姿も若い頃のレッドフォードに酷似しているといわれている。}}<br />
* [[ダン・クエール]] - [[共和党 (アメリカ)|共和党]]所属の元[[アメリカ合衆国副大統領]]。レッドフォードと酷似している容姿が話題になり、クエール自身も選挙運動に利用した。レッドフォードは[[民主党 (アメリカ)|民主党]]支持者であるため苦情を申し出た。<br />
<br />
== 外部リンク ==<br />
{{Commonscat|Robert Redford}}<br />
* {{allcinema name|12250|ロバート・レッドフォード}}<br />
* {{Kinejun name|1010|ロバート・レッドフォード}}<br />
* {{IMDb name|0000602|Robert Redford}}<br />
<br />
{{ロバート・レッドフォード}}<br />
{{アカデミー賞監督賞 1961-1980}}<br />
{{アカデミー名誉賞}}<br />
{{英国アカデミー賞主演男優賞}}<br />
{{ゴールデングローブ賞 監督賞}}<br />
{{ニューヨーク映画批評家協会賞 主演男優賞}}<br />
{{全米映画俳優組合賞生涯功労賞}}<br />
{{Normdaten}}<br />
<br />
{{DEFAULTSORT:れつとふおおと ろはあと}}<br />
[[Category:アメリカ合衆国の男優]]<br />
[[Category:アメリカ合衆国の映画監督]]<br />
[[Category:アメリカ合衆国の映画プロデューサー]]<br />
[[Category:サンタモニカ出身の人物]]<br />
[[Category:イングランド系アメリカ人]]<br />
[[Category:スコットランド系アメリカ人]]<br />
[[Category:アイルランド系アメリカ人]]<br />
[[Category:アカデミー賞受賞者]]<br />
[[Category:ゴールデングローブ賞受賞者]]<br />
[[Category:英国アカデミー賞受賞者]]<br />
[[Category:レジオンドヌール勲章受章者]]<br />
[[Category:1936年生]]<br />
[[Category:存命人物]]</div>
122.214.146.170
伊丹十三
2018-09-24T09:38:39Z
<p>122.214.146.170: </p>
<hr />
<div>{{Otheruses||小惑星|伊丹十三 (小惑星)}}<br />
{{未検証|date=2009年9月}}<br />
{{ActorActress|<br />
| 芸名 = 伊丹 十三<br />
| ふりがな = いたみ じゅうぞう<br />
| 画像ファイル = Itami Juzo.jpg<br />
| 画像サイズ = <br />
| 画像コメント = <small>婦人生活社『婦人生活』2月号(1966)より</small><br />
| 本名 = 池内 義弘(いけうち よしひろ)<br />
| 別名義 = 池内 岳彦(いけうち たけひこ)<br />伊丹 一三(いたみ いちぞう)<br />
| 出生地 = {{JPN}} [[京都府]][[京都市]][[右京区]]鳴滝泉谷町<br />
| 死没地 = {{JPN}} [[東京都]][[港区 (東京都)|港区]][[麻布台]]<br />
| 国籍 = <!--「出生地」からは推定できないときだけ --><br />
| 民族 = <!-- 民族名には信頼できる情報源が出典として必要です --><br />
| 身長 =<br />
| 血液型 =<br />
| 生年 = 1933<br />
| 生月 = 5<br />
| 生日 = 15<br />
| 没年 = 1997<br />
| 没月 = 12<br />
| 没日 = 20<br />
| 職業 = [[映画監督]]、[[俳優]]、[[エッセイスト]]、[[グラフィックデザイナー|商業デザイナー]]、[[イラストレーター]]、[[CMクリエイター]]、[[ドキュメンタリー]]映像作家<br />
| ジャンル = [[映画]]<br />
| 活動期間 = [[1959年]] - [[1997年]]<br />
| 活動内容 =<br />
| 配偶者 = [[川喜多和子]]([[川喜多長政]]長女)<br />([[1960年]] - [[1966年]])<br />[[宮本信子]]<br />([[1969年]] - )<br />
| 著名な家族 = [[伊丹万作]](父)<br />伊丹キミ(母)<br />[[池内万作]](長男)<br />池内万平(次男)<br />
| 事務所 =<br />
| 公式サイト = <br />
| 主な作品 = '''映画'''<br />『[[お葬式]]』<br />『[[マルサの女]]』シリーズ<br />『[[ミンボーの女]]』<br />『[[スーパーの女]]』<br />『[[マルタイの女]]』<br />
| アカデミー賞 = <br />
| AFI賞 =<br />
| 英国アカデミー賞 =<br />
| セザール賞 =<br />
| エミー賞 = <br />
| ジェミニ賞 =<br />
| ゴールデングローブ賞 = <br />
| ゴールデンラズベリー賞 = <br />
| ゴヤ賞 =<br />
| グラミー賞 = <br />
| ブルーリボン賞 = '''監督賞'''<br />[[1984年]]『お葬式』<br />
| ローレンス・オリヴィエ賞 = <br />
| 全米映画俳優組合賞 = <br />
| トニー賞 = <br />
| 日本アカデミー賞 = '''最優秀監督賞''' '''最優秀脚本賞'''<br />[[1984年]]『[[お葬式]]』<br />[[1987年]]『[[マルサの女]]』<br />
| その他の賞 =<br />
| 備考 = <br />
}}<br />
'''伊丹 十三'''(いたみ じゅうぞう、[[1933年]][[5月15日]] - [[1997年]][[12月20日]])は、日本の[[映画監督]]、[[俳優]]、[[エッセイスト]]、[[グラフィックデザイナー|商業デザイナー]]、[[イラストレーター]]、[[CMクリエイター]]、ドキュメンタリー映像作家。[[戸籍]]名は池内 義弘(いけうち よしひろ)だが、家庭では岳彦(たけひこ)と呼ばれて育ったため、本名・池内岳彦とされる場合もある。映画監督の[[伊丹万作]]は父。[[俳優|女優]]の[[宮本信子]]は妻。長男は[[池内万作]](俳優)。次男は池内万平(伊丹プロダクション取締役)<ref>[http://itami-kinenkan.jp/foundation/index.html 伊丹十三記念館HP 公益財団法人ITM伊丹記念財団役員名簿]</ref>。[[ノーベル賞]]作家の[[大江健三郎]]は妹ゆかりと結婚したので義弟。ギタリストの[[荘村清志]]は従弟<ref>『伊丹十三の本』p.233(新潮社、2005年)</ref>。料理通としても知られた。身長180cm<ref>[[安田雅企]]『襲撃 伊丹十三監督傷害事件』p.41(三一書房、1995年)</ref>。<!--本人の特集番組や特集本の“誇張表現”は一般論にはなりません。一般的には有名とまでは言えません。[[バイオリン]]等の演奏や[[画家]]<ref name = "example">日本映画専門チャンネル特別番組『13の顔を持つ男・伊丹十三の軌跡』より</ref>。--><br />
<br />
== 来歴・人物 ==<br />
=== 幼少 - 青年期 ===<br />
[[京都市]][[右京区]][[鳴滝 (京都市右京区)|鳴滝]]泉谷町に生まれる。池内家の[[通字]]が「義」だったため、祖父の強い意向で義弘と命名されたが、父は岳彦と命名する予定だったため、家庭では父の意向により「岳彦」「タケチャン」と呼ばれて育った。<br />
<br />
生後7か月で京都市右京区[[嵯峨野]]神ノ木町に転居。2歳の時、妹ゆかり(長じてのち1960年に[[大江健三郎]]と結婚)が誕生。<br />
<br />
[[1938年]]4月末、父の[[東宝]]東京撮影所移籍に伴い[[東京市]][[世田谷区]][[祖師谷]]に転居。[[1940年]]、世田谷区立桜第一小学校<ref>東京市桜尋常高等小学校(現・世田谷区立桜小学校)もしくは東京市第二桜尋常小学校(現・世田谷区立桜丘小学校)とみられる。</ref>入学。<br />
<br />
[[1940年]]末の父の東宝退社に伴い、[[1941年]]、京都市[[上京区]](現・[[北区 (京都市)|北区]])[[小山]]北大野町に転居、京都師範男子部附属国民学校(現・[[京都教育大学附属京都小学校]])に転校。[[1944年]]、同校の[[特別科学学級|特別科学教育学級]]に編入される。この学級では、戦時中としては例外的な早期英語教育を受ける。級友に[[湯川秀樹]]の長男[[湯川春洋]]や、[[貝塚茂樹]]の長男で経済学者の[[貝塚啓明]]、日本画家の[[上村淳之]]がいる。[[1946年]]、京都府立第一中学校(現・[[京都府立洛北高等学校]])入学の年に父が死去。同窓に[[共同通信]]労組の[[林直久]]がいた。[[1947年]]10月、京都府立洛北高等学校併設中学校に転校。[[1948年]]10月、[[京都府立山城高等学校]]併設中学校に転校。[[1949年]]4月、京都府立山城高等学校に入学。この頃、[[スクリプター]][[野上照代]]が「飯炊き係」として約1年余り同居し世話をした<ref>「天気待ち 監督・黒澤明とともに」</ref>。[[1950年]]1月以降は休学。<br />
<br />
[[1950年]]、[[愛媛県]][[松山市]]小坂町の寺院・多聞院の一室に移り、母や妹と同居を開始。[[1950年]][[4月14日]]、1学年遅れで[[愛媛県立松山東高等学校]]に転入。同校では文藝部誌「掌上」第1号に'''黒田匡'''の筆名で創作「気分」を発表。また、巻末の「編輯雑感」にも[[池内義弘]]の名で執筆。[[1951年]]、2年次から転入した[[大江健三郎]]と親交を結ぶ。同年[[8月1日]]、同校演劇部の「彦一ばなし」「[[夕鶴]]」などの公演に裏方として参加。同年10月から休学。[[1952年]]4月、[[愛媛県立松山南高等学校]]2年次に転入。<br />
<br />
[[1954年]]3月、20歳で同校を[[卒業]]後、大阪大学理工学部<ref>当時の大阪大学には理学部と工学部はあったが「理工学部」という名の学部は存在せず、真相は不明である。</ref>を受験するも失敗。上京し、[[新東宝]]編集部に就職。<br />
<br />
=== 商業デザイナー時代 ===<br />
同年、新東宝での映画編集の仕事を経て商業デザイナーとなり、車内の吊り広告や目次のデザインなどを手がける。この頃[[山口瞳]]と出会い、のちに山口の小説『人殺し』の[[タイポグラフィ]]を手がけるなど、生涯にわたる親交を結ぶ。デザイナーとしての手腕は晩年まで活かされ、自著をはじめとする本の装丁、ブックカバー、ポスター、宮本信子の楽屋暖簾などもデザインした。とくにレタリングには定評があり、映画監督の[[山本嘉次郎]]によれば「伊丹十三さんの[[明朝体]]は、日本一である。いや世界一である」と評するほどだった。<ref>DVD『13の顔を持つ男 伊丹十三の肖像』より</ref><br />
<br />
=== マルチタレントとして活躍 ===<br />
[[舞台芸術学院]]に学び、1960年1月、26歳の時[[大映 (映画)|大映]]に入社、父伊丹万作と[[小林一三]]の名に因み「'''伊丹 一三'''」という芸名を[[永田雅一]]にもらい[[俳優]]となる。[[1960年]][[5月]]にスクリプター[[野上照代]]より、日本映画界の巨人である[[川喜多長政]]・[[川喜多かしこ]]の娘の[[川喜多和子]]を紹介され、同年[[7月]]に結婚。<ref>「天気待ち 監督・黒澤明とともに」野上照代より</ref><ref>「記憶のちぎれ雲 我が半自伝」草森紳一より</ref><ref>ただし、大江健三郎の初期作品「性的人間」に登場するプレイボーイの芸能人のモデルは伊丹であり、伊丹の行状についての噂より川喜多家からはこの結婚には反対の声も強かったという。シナリオ別冊「脚本家[[白坂依志夫]]の世界 書いた!跳んだ!遊んだ!」より。</ref>同じ年に作家であり友人の大江が妹ゆかりと結婚する。<br />
<br />
[[1961年]]、[[大映 (映画)|大映]]を退社する。その後『[[北京の55日]]』([[1963年]])『[[w:Lord Jim (1965 film)|ロード・ジム]]』([[1965年]])などの外国映画に出演し、話題となる<ref>「大スターたちとの共演であったが、残念ながら映画史に残るような作品とはならなかった。その意味で、出演が決まっていた[[アンドレ・マルロー]]原作、[[デヴィッド・リーン]]監督『人間の条件』の企画流産が惜しまれる」([[関川夏央]])『文学は、たとえばこう読む』[[岩波書店]]p.191</ref>。<br />
<br />
[[1962年]]に妻・和子と自主短編作品『ゴムデッポウ』を制作、[[1963年]]に[[勅使河原宏]]監督の「[[砂の女]]」と同時上映された。<br />
<br />
[[1965年]]には、外国映画に出演した際のロケ道中をまとめたエッセイ『[[ヨーロッパ退屈日記]]』を出版しヒット。その後も『女たちよ!』など軽妙なエッセイを次々と発表し、文筆業にも活動の場を広げた<ref>「これらエッセイにおける、気障に映りながらも、物事の本質をその細部にいたるまで理詰めで探求していく独自のスタイルは、その後の多くのエッセイストに影響を与えた」『伊丹十三の本』(「考える人」編集部) ISBN 410474901X</ref>。[[1966年]][[10月26日]]、川喜多和子と[[協議離婚]]。<br />
<br />
[[大島渚]]監督作品「日本春歌考」([[1967年]])で、共演者の一人であった[[俳優|女優]]の[[宮本信子]]と出会う<ref>「新・酒のかたみに 酒で綴る亡き作家の半生史」監修 高山恵太郎より</ref>。同年、「マイナスをプラスに変える」意味で<ref>[http://www.1101.com/itami/muramatsu/2009-06-25.html ほぼ日刊イトイ新聞 - 1000円の消しゴムの男。村松友視+糸井重里]</ref>「'''伊丹 十三'''」と改名し、映画とテレビドラマで存在感のある脇役として活躍した。<br />
[[1969年]]に[[山口瞳]]の媒酌で宮本と再婚。結婚式は東京都国立市にある[[谷保天満宮]]であげる。そして子供を二人もうける(長男は俳優の[[池内万作]]、次男は池内万平)。家事や子育てにも関心が深く、著書訳書もある。ちなみに長男の万作は父の筆名から名前をそのまま取って命名された。<br />
<br />
[[1970年代]]に入るとテレビ番組制作会社[[テレビマンユニオン]]に参加し、『[[遠くへ行きたい (テレビ番組)|遠くへ行きたい]]』等のドキュメンタリー番組の制作に関わり、自らレポートする。この時培った[[ドキュメンタリー]]的手法は、その後の映画制作にも反映している。また『日本世間噺大系』『小説より奇なり』に見られる、独特の聞き書き文体はこの時代の経験を反映している。また70年代後半には『[[アフタヌーンショー]]』のレポーターを務め、“緻密な画力”で犯罪現場を生放送のスタジオで描いてみせた。<br />
<br />
[[岸田秀]]の『[[ものぐさ精神分析]]』([[1977年]])を読み、彼の主張する[[唯幻論]]に傾倒する。[[1978年]]12月、岸田との共著『哺育器の中の大人 精神分析講義』(朝日出版社)を上梓。また、1982年に刊行された『ものぐさ精神分析』[[中公文庫]]版の解説を書く。<br />
<br />
[[1981年]]、岸田らを中心に取り上げた[[現代思想]]の雑誌『モノンクル』(フランス語で“僕のおじさん”の意)をに創刊、編集主幹を務めた。しかし、6号で終刊となる。伊丹の関わった記事のいくつかは、『自分たちよ!』に収録されている。<br />
<br />
俳優活動としては、『[[家族ゲーム]]』(1983年)、『[[細雪 (1983年の映画)|細雪]]』(1983年)で、キネマ旬報賞助演男優賞、報知映画賞助演男優賞を受賞している。<br />
この一方で、文化人達が伊丹の周辺に集まり、一種の[[サロン]]を形成している。[[コピーライター]]の[[糸井重里]]、自称「ゲージツ家」の[[篠原勝之]]、作家の[[村松友視]]などである。<!--発言者不明の個人研究の記述です。伊丹より直接の影響は受けていないかも知れないが、[[1970年代]]においてマイナーな分野を掘り下げていく作業において伊丹の精神を利用していると見えなくもない。この意味で高踏的文化人と見られていた伊丹が批評家や大衆と直接向き合い、時に罵声を浴びる覚悟で映画製作に乗り出したのは衝撃的でもあった。 --><br />
<br />
=== 映画監督への転身 ===<br />
[[1984年]]、51歳で、『[[お葬式]]』で[[映画監督]]としてデビューし、日本国内で高い評価をうける<ref>「伊丹に決定的影響を与えたのは、当時の映画評論家が最新流行のフランス思想から借用してきた引用理論であった。『お葬式』には[[カール・テオドア・ドライヤー|ドライヤー]]から[[小津安二郎]]までの、先行する実に多くのフィルムからの引用がこっそり隠されている([[四方田犬彦]]『日本映画史110年』[[集英社新書]] [[2014年]]p.216)。</ref>。この作品で受賞した映画賞は、[[日本アカデミー賞]]、[[芸術選奨新人賞]]を始めとして30を超えた。この映画は信子の父の葬式がきっかけであり、わずか一週間でシナリオを書き上げた。なお、本作はその著作を読み漁り講演などには必ず駆けつけるほど傾倒していた[[蓮實重彦]]の「理論」を強烈に意識して制作されたものであり、事実、主に30年代 - 40年代に至る[[ハリウッド映画]]の[[シーン]]、[[ショット]]の引用が多数ちりばめられている。しかし、試写会に訪れた蓮實に対し伊丹は歩み寄り声を掛けたが、蓮實は無下に「ダメです」と返答しただけだった。伊丹は蓮實からの予想外な酷評にひどく失望したと言われているが、その影響からか二作目以降は「引用の織物」による「芸術的」な側面は姿を消し、もっぱらエンターテインメントに徹した作風となっている。また、この作品で伊丹はその前歴の俳優・エッセイスト・ドキュメンタリー作家・CM作家・イラストレーター・商業デザイナーとしての全ての経験が活かせる事を発見し、その後も[[食欲]]と[[性欲]]の未分化な人びとを喜劇的に描いた『[[タンポポ (映画)|タンポポ]]』や国税局査察部・通称「マルサ」に対する徹底した取材を元にした『[[マルサの女]]』、[[ヤクザ]]の[[民事介入暴力]]と戦う女弁護士を描いた『[[ミンボーの女]]』など、日本の社会に対する強い問題意識をもちながら、かつエンターテインメント性に富み、[[映画史]]的引用や細部にこだわった映画作品を作り、一躍当時の日本を代表する映画監督となり、「伊丹映画」という[[ブランド]]を築くことに成功する。<br />
<br />
[[1992年]]、特に『[[ミンボーの女]]』では、[[ゆすり]]をやる[[暴力団]]は市民が勇気を持って賢く行動すれば引き下がることを描き、観客は大喜びした。これまで日本では、映画でヤクザ(暴力団員)をヒーローとして扱い礼賛していた(「[[ヤクザ映画]]」という一ジャンルが存在する)。公開1週間後の5月22日夜に、自宅の近くで刃物を持った5人組に襲撃され、顔や両腕などに全治三ヶ月の重傷を負うが、「私はくじけない。映画で自由をつらぬく。」と宣言した(病院に搬送された際に取材陣から「大丈夫ですか!?」と声をかけられて、声こそ出なかったもののピースサインで応えた)。警察は現場の車より[[山口組]]([[稲川組]])系[[後藤組]]の犯行であることを突き止めた。5人の組員が4年から6年の懲役刑となった。<br />
<br />
[[1993年]]5月には自称[[右翼]]の男が『[[大病人]]』公開中の映画館のスクリーンを切り裂く事件が起こるなど数々の被害や[[脅迫]]・嫌がらせを受ける事となったが、襲撃事件により身辺警護を受けた。<br />
<br />
[[1997年]]、身辺警護の経験は『[[マルタイの女]]』で映画化された。『[[タンポポ (映画)|タンポポ]]』はアメリカでも配給され評判となった。{{要出典範囲|[[1993年]]『[[大病人]]』以後の作品は[[批評家]]の評価が厳しいものとなり、また『マルサの女』において、登場人物(権藤)を障害者とする設定を行ったことに対して、倫理的観点から厳しい社会的批判を受けた。|date=2014年5月}}{{誰2|date=2014年5月}}<br />
<br />
演出面での特徴は、俳優に対して一言一句のアドリブも許さず、画面に映る全ての小道具に一切の妥協を許さないという厳格なものであった。しかし、俳優が[[NG (放送用語)|NG]]を出しても決して怒鳴り散らしたりしなかったため、俳優にとっては非常にやり易かったという<ref>『伊丹十三の映画』(「考える人」編集部)ISBN 4104749028</ref>。また、『[[お葬式]]』以降、一貫して死にこだわり続け、端役が死ぬような場面でも、演出には熱がこもっていた。全体が食にまつわる気楽なコメディである『[[タンポポ (映画)|タンポポ]]』にも、死のイメージは挿入され、本筋と何の関係なく登場し続ける白服ヤクザは最後に銃弾を浴びて落命する。<br />
<br />
=== 突然の死 ===<br />
[[1997年]]12月20日、伊丹プロダクションのある東京麻布のマンション下で遺体となって発見された。当初から、経緯について様々な説が飛び交った。<br />
<br />
かつて『ミンボーの女』(1992年)公開後に襲撃事件があった経緯から、当初から[[暴力団]]の関与を疑う声はあった。ただ、事務所に[[ワードプロセッサ|ワープロ]]印字の遺書らしきものが(別途関係者宛にも)残されていて、そこに「身をもって潔白を証明します。何もなかったというのはこれ以外の方法では立証できないのです」との文言があったことから、[[写真週刊誌]]『[[FLASH (写真週刊誌)|フラッシュ]]』により[[SMクラブ]]通いや[[不倫]]疑惑が取り沙汰されたことに対する抗議の[[飛び降り|投身]][[自殺]]か、とも推測されるようになった<ref>[https://web.archive.org/web/19980703172045/http://www1.zakzak.co.jp/geino/n_February98/nws1887.html 宮本信子が連ドラで復帰]</ref>。だが、伊丹はレタリングデザイナーとして日本有数と自負する存在であり、書き文字には人一倍の愛着とこだわりを持っていたことから、遺書が手書きでなくワープロで打たれていた点が不自然とされた。また、死の直前、FLASHの記者から不倫疑惑について問われた際、伊丹は笑いながら「妻に聞いてみればいいよ」「(不倫疑惑は)いつものことだから」と軽口で答え、その様子がFLASH誌面に掲載されている。また死の5日前まで[[医療廃棄物]]問題の取材も続けていた<ref>『伊丹十三が見た医療廃棄物の闇〜病院の裏側を追った伊丹監督最後の3カ月間』 [[NHK総合テレビジョン|NHK総合テレビ]] 1998年3月31日放送</ref>。「飛び降り自殺」はまさにその直後のことであり(インタビュー、FLASH発売直後)、自殺直前の様子との不自然さから、その「自殺」には強い疑惑が持たれ続けている。[[ジェイク・エーデルスタイン]]の著書によれば、伊丹は当時[[後藤組]]と[[創価学会]]の関係を題材にした映画の企画を進めており、後藤組組長の[[後藤忠政]]がそれを快く思わず、後藤配下の5人が伊丹の体をつかんで銃を突きつけ屋上から飛び降りさせたと、自身が取材した人物が語ったという<ref>Jake Adelstein『Tokyo Vice』 Pantheon Books 2009年</ref><ref>[https://cpj.org/blog/2010/02/erase-it-or-be-erased-life-on-a-japanese-mafia-hit.php 'Erase it, or be erased': Life on a Japanese mafia hit list] [[ジャーナリスト保護委員会|CPJ]] Blog - Press Freedom News and Views 2010年2月24日</ref>。また[[大島渚]]や[[立川談志]]など古くから伊丹十三を知る人物も、警察が死因を「自殺」と断定した後も「不倫報道ぐらいのことで、あいつは自殺しない」「飛び降り自殺は絶対に選ばない」と話し自殺を否定した<ref>{{Cite news |url=http://www.sponichi.co.jp/entertainment/special/calender/calender_200912/KFullNormal20091220000.html |title=日めくり芸能界 12月【97年12月20日】伊丹十三監督が自殺 不倫報道に「死をもって潔白を証明」 |newspaper=スポニチ Sponichi Annex |publisher=スポーツニッポン新聞社 |date=2009-12-20 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20091223091129/http://www.sponichi.co.jp/entertainment/special/calender/calender_200912/KFullNormal20091220000.html |archivedate=2009-12-23}}</ref>。<br />
<br />
宮本信子は2002年12月20日、「感謝の会」における挨拶では「本人が決めたことですから仕方がないですけれども」<ref>『伊丹十三の本』p.206(新潮社、2005年)</ref>と語っており、伊丹の死後、プロデューサーの[[玉置泰]]に伊丹の遺書が渡されている<ref>『伊丹十三の映画』p.41(新潮社、2007年)</ref>。<br />
<br />
2005年1月、インターネットの掲示板上で、伊丹の死が創価学会によるものという風評が掲載された。創価学会は事実無根として掲示板の管理者に対し訴訟を起こす。2009年2月、東京地裁は原告創価学会の主張を認め、被告に80万円の損害賠償を命じた<ref>「東京地方裁判所判決平成19年(ワ)第35314号</ref>。<br />
<br />
=== 死後 ===<br />
[[2000年]]、大江健三郎の小説『[[取り替え子 (小説)|取り替え子]]』に伊丹十三を思わせる人物が描かれ、話題となった。<br />
<br />
[[2007年]]5月、少年時代の一時期を過ごした[[愛媛県]][[松山市]]に妻・[[宮本信子]]が、「[[伊丹十三記念館]]」をオープンさせた。晩年になって東京から移り住んだ[[湯河原町|湯河原]]の家などから遺品を集め、展示している。<br />
<br />
[[2008年]]、伊丹十三記念館を運営している[[ITM]]伊丹記念財団理事長兼[[一六本舗]]代表取締役社長[[玉置泰]]が、[[伊丹十三賞]]を創設した。[[2009年]]から「言語表現を主軸としたもの」および「映像・ビジュアル表現を主軸としたもの」を毎年交互に選出し賞を贈っている。<br />
<br />
== 出演作品 ==<br />
=== テレビドラマ ===<br />
* あしたの家族(1965年4月 - 1967年3月、[[日本放送協会|NHK]]) ※妻・宮本信子と初共演<br />
* [[源氏物語]](1965年、[[毎日放送]]) - [[光源氏]] 役<br />
* [[東京警備指令 ザ・ガードマン|ザ・ガードマン]] 第84話「ハートで盗め」(1966年、[[大映テレビ|大映テレビ室]] / [[TBSテレビ|TBS]])<br />
* [[レモンのような女]] 第3話「燕がえしのサヨコ」(1967年、[[国際放映]] / TBS)<br />
* [[コメットさん]](1967年 - 1968年、国際放映 / TBS) - パパ 役<ref>{{Cite web | url = https://mediaarts-db.bunka.go.jp/an/anime_series/395| title = コメットさん| publisher = メディア芸術データベース |accessdate = 2016-11-26}}</ref><br />
* [[キイハンター]] 第4話「顔のない男」(1968年、[[東映]] / TBS)) - ジョニーこと橋爪徹 役<br />
* [[無用ノ介]] 第2話「無用ノ介の首500両也」(1969年、国際放映 / [[日本テレビ放送網|日本テレビ]])<br />
* 悪一代(1969年、[[朝日放送テレビ|朝日放送]])<br />
* すばらしき罠(1969年、NHK)<br />
* [[戦国艶物語#第三部・千姫編|戦国艶物語 第三部・千姫編]](1969年 - 1970年、TBS) - [[本多忠刻]] 役<br />
* [[江戸川乱歩シリーズ 明智小五郎]](1970年、東映 / [[テレビ東京|東京12チャンネル]])<br />
* [[裁きの家#1970年版|裁きの家]](1970年、[[関西テレビ放送|関西テレビ]]) - 吉井学 役<br />
* [[大河ドラマ]](NHK)<br />
** [[国盗り物語 (NHK大河ドラマ)|国盗り物語]](1973年) - [[足利義昭]] 役<br />
** [[峠の群像]](1982年) - [[吉良義央|吉良上野介]] 役<br />
** [[春の波涛]](1985年) - [[伊藤博文]] 役<br />
* [[新書太閤記]](1973年、[[テレビ朝日]]) - [[荒木村重]] 役<br />
* [[天皇の世紀]]<br />
** 第1部・第4話「地熱」・第8話「降嫁」(1973年、国際放映 / 朝日放送) - [[岩倉具視]] 役<br />
** 第2部(1974年、製作者同上) - ドキュメント編レポーター<br />
* [[必殺仕置人]] 第19話「罪も憎んで人憎む」(1973年、[[松竹]] / 朝日放送)- 秋山但馬守 役<br />
* [[助け人走る]] 第25話「逃亡大商売」(1974年、松竹 / 朝日放送) - 弥平次役<br />
* [[新・座頭市]] 第9話「見ない涙に虹を見た」(1976年、[[勝新太郎|勝プロ]] / [[フジテレビジョン|フジテレビ]]) - 為吉 役<br />
* 戦後最大の誘拐・吉展ちゃん事件(1979年、S.H.P / テレビ朝日) - ナレーター<br />
* 死にたがる子<ref>[http://cgi2.nhk.or.jp/archives/tv60bin/detail/index.cgi?das_id=D0009040164_00000 土曜ドラマ-サスペンスロマンシリーズ 死にたがる子 - NHK名作選(動画・静止画) NHKアーカイブス]</ref>(1979年、NHK)<br />
* [[風神の門]](1980年、NHK) - [[大野治長]] 役<br />
* [[本郷菊坂赤門通り]](1981年、フジテレビ)<br />
* [[北の国から]](1981年、フジテレビ) - 吉野信次 役<br />
* [[横溝正史]]の[[鬼火 (横溝正史)|鬼火]] 仮面の男と湖底の女(1983年、テレビ朝日)<br />
* [[日本の面影]](1984年、NHK) - 佐久間信恭 役<br />
<br />
=== 映画 ===<br />
* 嫌い嫌い嫌い(1960年、[[大映]])<br />
* 銀座のどら猫(1960年、大映)<br />
* 偽大学生(1960年、大映)<br />
* [[黒い十人の女]](1961年、大映)<br />
* [[北京の55日]](1963年、アライド・アーティスト) ※日本公開1964年<br />
* [[執炎]](1964年、[[日活]])<br />
* [[:en:Lord Jim (1965 film)|ロード・ジム]](1965年、[[コロンビア映画]])<br />
* 男の顔は履歴書(1966年、[[松竹]])<br />
* [[日本春歌考]](1967年、松竹)<br />
* 懲役十八年 仮出獄(1967年、[[東映]])<br />
* [[人間魚雷 あゝ回天特別攻撃隊]](1968年、東映)<br />
* 昭和元禄 TOKYO196X年(1968年、製作=東京映画 配給=東宝)<br />
* あゝ予科練(1968年、東映)<br />
* [[栄光への5000キロ]](1969年、[[石原プロ]])<br />
* ごろつき部隊(1969年、東映)<br />
* やさしいにっぽん人(1971年、[[東陽一|東プロ]])<br />
* [[修羅雪姫|修羅雪姫 怨み恋歌]](1974年、[[東宝]])<br />
* [[吾輩は猫である (映画)#1975年版|吾輩は猫である]](1975年、東宝)<br />
* [[草迷宮 (映画)|草迷宮]](1978年、人力飛行機舎) ※日本公開1983年<br />
* [[もう頬づえはつかない|もう頰づえはつかない]](1979年、[[日本アート・シアター・ギルド|ATG]])<br />
* 夕暮まで(1980年、東宝)<br />
* [[仕掛人・藤枝梅安#映画|仕掛人梅安]](1981年、東映)<br />
* [[悪霊島]](1981年、[[角川ヘラルド・ピクチャーズ|日本ヘラルド映画]])<br />
* [[スローなブギにしてくれ]](1981年、東映) <br />
* [[細雪 (1983年の映画)|細雪]](1983年、東宝)<br />
* [[家族ゲーム]](1983年、ATG)<br />
* [[居酒屋兆治]](1983年、東宝)<br />
* [[迷走地図]](1983年、松竹)<br />
* [[瀬戸内少年野球団]](1984年、日本ヘラルド映画) <br />
* [[ドレミファ娘の血は騒ぐ]](1985年、ディレクターズ・カンパニー)<br />
* [[スウィートホーム (映画)|スウィートホーム]](1989年、東宝) - 山村健一 役 ※制作総指揮<br />
* C(コンビニエンス)ジャック(1992年、日本ビクター) - 研修の講師 役<br />
<br />
=== オリジナルビデオ ===<br />
* [[白百合女学園洋弓部 白銀の標的]](1991年)<br />
<br />
=== 劇場アニメ ===<br />
* [[星のオルフェウス]](1979年) - ナレーション<br />
<br />
=== バラエティ ===<br />
* [[2時ですこんにちは#正式タイトルの変遷|奥さまワイドショー 2時ですこんにちは]](1966年11月21日 - 、[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]) - 司会<br />
* [[遠くへ行きたい (テレビ番組)|遠くへ行きたい]](日本テレビ)<br />
** 伊丹十三の日の出撮影大作戦(1972年1月2日) <br />
** 伊丹十三の“[[奈良]]・お習字の旅”(1974年4月21日) <br />
** 伊丹十三の“明解古座川図鑑”[[和歌山県]][[古座川]](1975年10月12日) <br />
* [[夢と冒険!アメリカ大横断]](1976年、日本テレビ) - [[ナビゲーター]]<br />
* [[伊丹十三の古代への旅]](1977年10月3日 - 12月26日、[[テレビ東京|東京12チャンネル]]) - 司会<br />
* [[アフタヌーンショー]]「未解決事件シリーズ」(1977年 - 1978年、[[テレビ朝日|NETテレビ]]) - レポーター<br />
<br />
=== CM ===<br />
* [[ハウス食品]] ジャワカレー(1970年)<br />
* [[味の素|味の素マヨネーズ]](1980年代)<br />
* [[一六本舗|一六タルト]]<br />
* [[日産自動車]] [[日産・サニー|サニー]](1990年)<br />
* [[ツムラ]] 日本の名湯(1990年)<br />
* [[麒麟麦酒]] キリンプレミアムビール(1991年)<br />
* [[宝ホールディングス|宝酒造]] タカラcanチューハイ(1995年)<br />
* 亜楽-ARAKU-(1997年)<br />
<br />
== 監督 ==<br />
* ゴムデッポウ(1962年) ※伊丹一三名義の初監督作品、第24回[[東京国際映画祭]]特別上映<ref>[http://2011.tiff-jp.net/news/ja/?p=1048 第24回東京国際映画祭 2011年10月22日JUZO AGAIN]</ref> <ref>[http://www.itami-filmcollection.com/ 伊丹十三 FILM COLLECTION Blu-ray BOX I]</ref><br />
* [[お葬式]](1984年)<br />
* [[タンポポ (映画)|タンポポ]](1985年)<br />
* [[マルサの女]](1987年)<br />
* [[マルサの女2]](1988年)<br />
* [[あげまん (映画)|あげまん]](1990年)<br />
* [[ミンボーの女]](1992年)<br />
* [[大病人]](1993年)<br />
* [[静かな生活]](1995年)<br />
* [[スーパーの女]](1996年)<br />
* [[マルタイの女]](1997年)<br />
<br />
== デザイン ==<br />
* 「伊丹万作全集」([[筑摩書房]]、1961年) - タイポグラフィ<br />
* [[長沼弘毅]]「シャーロック・ホームズの紫烟」(文藝春秋、1966年) - 装丁<br />
* 「[[漫画讀本]]」(文藝春秋、1967年) - 車内吊り広告イラスト<br />
* 山口瞳「人殺し」(文藝春秋、1972年)- タイポグラフィ<br />
* 山本嘉次郎「日本三大洋食考」(昭文社出版部、1973年) - 装丁<br />
* [[日本アート・シアター・ギルド]] - ロゴマーク<br />
ほか<br />
<br />
== 書籍 ==<br />
=== 自著 ===<br />
* [[ヨーロッパ退屈日記]](文芸春秋新社、1965年)のち文庫 のち新潮文庫<br />
* 女たちよ!([[文藝春秋]]、1968年)のち文庫 のち新潮文庫<br />
* 問いつめられたパパとママの本([[中央公論社]]、1969年)のち中公文庫 のち新潮文庫 のち中公文庫で再刊<br />
* 再び女たちよ!(文藝春秋、1972年)のち文庫 のち新潮文庫<br />
* 小説より奇なり(文藝春秋、1973年)のち文庫<br />
* 日本世間噺大系(文藝春秋、1976年)のち文庫 のち新潮文庫<br />
* 女たちよ!男たちよ!子供たちよ!(文藝春秋、1980年)のち文庫<br />
* 自分たちよ!(文藝春秋、1983年)のち文庫<br />
* 「お葬式」日記(文藝春秋、1985年)<br />
* フランス料理を私と(文藝春秋、1987年)<br />
* 「マルサの女」日記 (文藝春秋、1987年)<br />
* 「大病人」日記(文藝春秋、1993年)<br />
* 伊丹十三の本(「考える人」編集部 編,伊丹十三 著 新潮社 2005年)<br />
* ぼくの伯父さん : 単行本未収録エッセイ集(つるとはな 2017年)<br />
<br />
=== 共著 ===<br />
* 愛猫記([[吉行淳之介]]ほか、番町書房、1977年)<br />
* 哺育器の中の大人:精神分析講義([[岸田秀]]、[[朝日出版社]]、1978年)のち文春文庫 のちちくま文庫<br />
* 快の打ち出の小槌:日本人の精神分析講義([[佐々木孝次]]、朝日出版社、1980年)<br />
* 倒錯 - 幼女連続殺人事件と妄想の時代([[福島章]]、岸田秀、ネスコ、1990年)<br />
<br />
=== 翻訳 ===<br />
* ポテト・ブック(マーナ・デイヴィス著、[[ブックマン社]]、1976年 / 再版:[[河出書房新社]]、2014年)<br />
* パパ・ユーア クレイジー([[ウィリアム・サローヤン]]作、ワーク・ショップ ガルダ、1979年 / 再版:[[新潮文庫]]、1988年)<br />
* 主夫と生活(マイク・マグレディ著、[[学陽書房]]、1983年 / 学陽書房 (女性文庫) 1995年 / 再版:アノニマ・スタジオ、2014年)<br />
* ザ・ロイヤル・ハント・オブ・ザ・サン([[ピーター・シェーファー]]作、劇書房、1985年)<br />
* 中年を悟るとき(ジャンヌ・ハンソン著、[[飛鳥新社]]、1996年)<br />
<br />
== その他 ==<br />
* 「伊丹十三です。みんなでカンツォーネを聴きながらスパゲッティを食べよう。」 ([[CD]]:[[ウルトラ・ヴァイヴ]]、2002年)<br />
:伊丹が高梨木聖とイタリア料理について語ったサウンド・エッセイで、[[大野雄二]]などが音楽を担当した。初発売時のタイトルは 「伊丹十三です。スパゲティの作り方教えます。」 ([[LP盤|レコード]]:[[日本コロムビア]]、1971年)。<br />
<br />
== 脚注・出典 ==<br />
{{脚注ヘルプ}}<br />
{{Reflist|2}}<br />
<br />
== 外部リンク ==<br />
*[http://itami-kinenkan.jp/ 伊丹十三記念館]<br />
*{{allcinema name|65067|伊丹十三}}<br />
*{{Kinejun name|86325|伊丹十三}}<br />
*{{jmdb name|0029550|伊丹十三}}<br />
*{{Tvdrama-db name}}<br />
*{{IMDb name|0411631|Jûzô Itami}}<br />
<br />
{{歴代の新語・流行語大賞の受賞者 (年間大賞選定以前)}}<br />
{{キネマ旬報ベスト・テン日本映画監督賞}}<br />
{{キネマ旬報ベスト・テン助演男優賞}}<br />
{{キネマ旬報ベスト・テン脚本賞}}<br />
{{ブルーリボン賞監督賞}}<br />
{{毎日映画コンクール監督賞}}<br />
{{ヨコハマ映画祭脚本賞}}<br />
{{ヨコハマ映画祭助演男優賞}}<br />
{{報知映画賞助演男優賞}}<br />
{{日本アカデミー賞最優秀監督賞}}<br />
{{日本アカデミー賞最優秀脚本賞}}<br />
{{Normdaten}}<br />
{{DEFAULTSORT:いたみ しゆうそう}}<br />
[[Category:伊丹十三|*]]<br />
[[Category:日本の男優]]<br />
[[Category:日本の随筆家]]<br />
[[Category:日本の映画監督]]<br />
[[Category:悪役俳優]]<br />
[[Category:京都市出身の人物]]<br />
[[Category:1933年生]]<br />
[[Category:1997年没]]<br />
[[Category:自殺した人物]]<br />
[[Category:伊丹万作|+いたみ しゆうそう]]</div>
122.214.146.170
木村大作
2018-09-16T13:06:10Z
<p>122.214.146.170: </p>
<hr />
<div>{{画像提供依頼|顔写真|date=2018-04-30|cat=人物}}<br />
{{存命人物の出典明記|date=2012年12月29日 (土) 07:36 (UTC)}}<br />
{{ActorActress<br />
| 芸名 = 木村 大作<br />
| ふりがな = きむら だいさく<br />
| 画像ファイル = <br />
| 画像サイズ = <br />
| 画像コメント = <br />
| 本名 = 木村 大作(同じ)<br />
| 別名義 = <br />
| 出生地 = {{JPN}} [[東京府]]<br />
| 死没地 = <br />
| 国籍 = {{JPN}}<br />
| 民族 = <br />
| 身長 = <br />
| 血液型 = <br />
| 生年 = 1939<br />
| 生月 = 7<br />
| 生日 = 13<br />
| 没年 = <br />
| 没月 = <br />
| 没日 = <br />
| 職業 = [[撮影技師]]、[[映画監督]]<br />
| ジャンル = [[映画]]<br />
| 活動期間 = <br />
| 活動内容 = <br />
| 配偶者 = <br />
| 著名な家族 = <br />
| 事務所 =<br />
| 公式サイト = <br />
| 主な作品 = '''映画'''<br />『[[単騎、千里を走る。]]』([[撮影監督]])<br />『[[憑神]]』(撮影監督)<br />『[[劒岳 点の記]]』([[監督]]・[[脚本]]・[[撮影]])<br />『劔岳 撮影の記――標高3000メートル、激闘の873日』(出演)<br />
----<br />
'''テレビ'''<br />『[[笑う犬の冒険]]』(出演)<br />『木村大作の春夏秋冬』(出演)<br />
| アカデミー賞 = <br />
| AFI賞 = <br />
| 英国アカデミー賞 = <br />
| セザール賞 = <br />
| エミー賞 = <br />
| ジェミニ賞 = <br />
| ゴールデングローブ賞 = <br />
| ゴールデンラズベリー賞 = <br />
| ゴヤ賞 = <br />
| グラミー賞 = <br />
| ブルーリボン賞 = '''新人賞'''<br />2009年『[[剱岳 点の記]]』<br />
| ローレンス・オリヴィエ賞 = <br />
| 全米映画俳優組合賞 = <br />
| トニー賞 = <br />
| 日本アカデミー賞 = '''最優秀監督賞'''<br />2009年『[[剱岳 点の記]]』<br />'''最優秀撮影賞'''<br />1986年『[[火宅の人]]』<br />1997年『[[誘拐 (映画)|誘拐]]』<br />1999年『[[鉄道員 ぽっぽや]]』<br />2009年『[[剱岳 点の記]]』<br />2012年『[[北のカナリアたち]]』<br />
| その他の賞 = <br />
| 備考 = <br />
}}<br />
'''木村 大作'''(きむら だいさく、[[1939年]][[7月13日]] - )は、[[日本]]の[[撮影技師]]、[[映画監督]]。<br />
<br />
== 来歴 ==<br />
[[東京都]]出身。<br />
<br />
自分の師匠は撮影助手として付いていた[[宮川一夫]]や[[斉藤孝雄]]ではなく[[黒澤明]]だとしており、その影響を強く受けたことを自認している。黒澤からも、そのピント合わせのうまさから一目置かれており、本人から「撮影助手で名前を憶えているのは大ちゃんくらいだ」と言われた事もあるという。黒澤は『[[用心棒]]』で犬が人の手首をくわえて歩いて来るカットをビデオで見るたびに、周りの人間に必ず「これ、ピント合わせてるの、大ちゃんだよ。うまいね」と言っていたというエピソードもある(特になんでもない場面のように見えるが、ピントの合う範囲が狭い望遠レンズを使用しているにも拘らず、カメラの方に向かって歩いて来る犬をぼけることなく完璧に撮影している)。<br />
<br />
また黒澤は、木村が一本立ちして[[東宝]]を離れてからも、自分の現場でピント合わせで手こずるような事があると「木村大作を呼んで来い。こんなのあいつなら、一発だよ」と冗談交じりに言ったとも言う。『用心棒』で助手として付いていた宮川一夫からも「日本一のフォーカスマン(撮影助手)」と激賞されていることからもわかるように、ピント合わせにおいては、木村は超一流である。<br />
<br />
特に東宝は、口径の大きなアナモフィクレンズ([[シネマスコープ]]に変換するレンズ)とスタンダードな(写真用35mmレンズと同等)口径のレンズを両手で自分の目でピン送りしていたので、熟達した技能者を必要としていた。特に対象が、キャメラに向かい(騎馬など)、キャメラが[[トロッコ]]等で対象に向かっている場合のそれをドンピシャに合わせられたのが木村だった。ただし当然ジャジャボケの時もあり、「泣きの大作」の所以でもあった。なお、黒澤作品にはすべて撮影助手としての参加である。<br />
<br />
1973年に[[須川栄三]]監督の『[[野獣狩り]]』でカメラマンとして一本立ちするが、この作品では木村の発案でオールシーンを手持ちカメラで撮影している。また、撮影用の照明を使わず全て自然照明で撮影することを監督に提案し、撮影中、仕事を奪われた形になった照明技師(黒澤作品などにも携わったベテランの[[森弘充]])がこっそりライトを当てた時は、木村よりもかなりの年長である森を怒鳴りつけたとも語っている。この作品の撮影中に片腕を骨折するが、もう片方の腕だけでカメラを担いで撮影を続行したり、[[藤岡弘、|藤岡弘]]がビルの屋上から隣のビルにジャンプして飛び移る非常に危険なシーンでは、戸惑う藤岡を前に木村が実際にやって見せて、「俺ができるんだからお前もできるだろう」と発破をかけたエピソードもある。<br />
<br />
その後は、主に[[森谷司郎]]監督や[[岡本喜八]]監督とのコンビで名を高めていった。しかし森谷は若くして世を去り、岡本に対しては人柄や才能に最大限の敬意を払いながらも、そのコンテ主義のためにカメラマンの裁量が少なすぎるとして仕事を断るようになる。折しも東宝が実質的に製作撤退しつつあった時期でもあり、同社の専属を離れて[[深作欣二]]、[[降旗康男]]ら他社出身監督の仕事もふくめ、幅広い活動を行うようになっていく。<br />
<br />
木村を侮蔑に近い表現で批判した[[蓮實重彦]]のように、評価しない人もいる。<br />
<br />
== テレビ出演 ==<br />
一時期、テレビ出演を積極的に行ったことがある。<br />
<br />
『[[平成日本のよふけ]]』への出演がきっかけで[[南原清隆]]との交流が始まり、『[[笑う犬の冒険]]』にてコントのキャラクターの素材とされ、本人もコントに出演することとなった。しかし、ただコントに出演するだけではなく、木村のコーナーとも言える「ラスト・シーン」では本業のキャメラマンとして35ミリキャメラを回している。<br />
<br />
また、『[[新春かくし芸大会]]』に[[2000年]]・[[2001年]]と2年連続で審査員を勤め、過激なまでの[[毒舌]]批評で嵐を巻き起こした。[[2002年]]には演者としてアダルトチーム「おじさまメルヘンワールド2002・世界はひとつ!みんな仲良く!」に出演した。<br />
<br />
木村の毒舌ぶりは業界内では知る人ぞ知る事柄であったが、一般視聴者の不評という結果となり、以降は地上波テレビのレギュラー出演は行っていない。ただし、[[衛星劇場]]では冠のトーク番組「木村大作の春夏秋冬」を持っていて、当時の映画産業や黒澤明をはじめとする映画人の裏話などを披露している。<br />
<br />
また、地上波でも映画の宣伝などのインタビューには現在も出演しており、テレビ出演が一般認知度を上げるきっかけにはなった。<br />
<br />
『[[情熱大陸]]』([[毎日放送]])にも取り上げられ、2008年9月21日に放送された。<br />
<br />
2010年5月20日より[[RKB毎日放送]]の『[[豆ごはん。]]』にコメンテーターとしてレギュラー出演している。<br />
<br />
== 人物 ==<br />
「撮影者」を自称している。映画には[[監督]]は一人だけという認識から、[[撮影監督]]という名前は嫌っている。<br />
<br />
== 略歴 ==<br />
*[[1958年]]、[[東京都立蔵前工業高等学校]]を卒業後、[[東宝]]撮影部にカメラ助手として入社し、[[黒澤明]]監督の組に配属される。<br />
*[[1973年]]、『[[野獣狩り]]』でカメラマンデビュー。<br />
*[[2009年]]、初監督作品『[[劒岳 点の記]]』が公開された。<br />
<br />
== 賞歴 ==<br />
* 1978年4月 - [[第1回日本アカデミー賞]]優秀技術賞。<br />
* 1981年2月 - [[第4回日本アカデミー賞]]優秀撮影賞。<br />
* 1982年2月 - [[第5回日本アカデミー賞]]優秀撮影賞。<br />
* 1983年2月 - [[第6回日本アカデミー賞]]優秀撮影賞。<br />
* 1986年2月 - [[第9回日本アカデミー賞]]優秀撮影賞。<br />
* 1987年2月 - [[第10回日本アカデミー賞]]最優秀撮影賞。<br />
* 1988年2月 - [[第11回日本アカデミー賞]]優秀撮影賞。<br />
* 1989年3月 - [[第12回日本アカデミー賞]]優秀撮影賞。<br />
* 1990年2月 - [[第13回日本アカデミー賞]]優秀撮影賞。<br />
* 1993年3月 - [[第16回日本アカデミー賞]]優秀撮影賞。<br />
* 1994年3月 - [[第17回日本アカデミー賞]]優秀撮影賞。<br />
* 1997年3月 - [[第20回日本アカデミー賞]]優秀撮影賞。<br />
* 1998年3月 - [[第21回日本アカデミー賞]]最優秀撮影賞。<br />
* 2000年3月 - [[第23回日本アカデミー賞]]最優秀撮影賞。<br />
* 2002年3月 - [[第25回日本アカデミー賞]]優秀撮影賞。<br />
* 2005年2月 - [[第28回日本アカデミー賞]]優秀撮影賞。<br />
* 2008年2月 - [[第31回日本アカデミー賞]]優秀撮影賞。<br />
* 2010年1月 - [[ブルーリボン賞 (映画)#第52回(2009年度)|第52回ブルーリボン賞]]作品賞(『劒岳 点の記』)・新人賞。<br />
* 2010年2月 - [[毎日映画コンクール#第64回(2009年)|第64回毎日映画コンクール]]日本映画優秀賞(『劒岳 点の記』)。<br />
* 2010年2月 - [[天草映画祭]]風の賞(『劒岳 点の記』)。<br />
* 2010年3月 - [[第33回日本アカデミー賞]]最優秀監督賞・最優秀撮影賞・優秀作品賞(『劒岳 点の記』)・優秀脚本賞。<br />
* 2010年3月 - おおさかシネマフェスティバル監督賞・撮影賞。<br />
* 2013年3月 - [[第36回日本アカデミー賞]]最優秀撮影賞。<br />
* 2014年10月 - 第1回[[京都国際映画祭]]・牧野省三賞<ref>{{Cite news|url=http://eiga.com/news/20141016/19/|title=京都国際映画祭開幕!牧野省三賞は木村大作が受賞「あと5年は頑張る」|publisher=映画.com|date=2014-10-16|accessdate=2014-10-17}}</ref>。<br />
<br />
== 栄典 ==<br />
* 2003年 - [[紫綬褒章]]。<br />
<br />
== 映画キャメラマンとしての代表作 ==<br />
{{節stub}}<br />
*[[野獣狩り]](1973年)<br />
*[[日本沈没]](1973年)<br />
*[[青葉繁れる]](1974年)<br />
*[[野獣死すべし 復讐のメカニック]](1974年)<br />
*[[吶喊]](1975年)<br />
*[[阿寒に果つ]](1975年)<br />
*[[八甲田山 (映画)|八甲田山]](1977年)<br />
*[[姿三四郎 (映画)|姿三四郎]](1977年)<br />
*[[聖職の碑]](1978年)<br />
*[[ブルークリスマス]](1978年)<br />
*[[金田一耕助の冒険]](1979年) - フォトスタジオのシーンで[[姫田真佐久]]と共にカメオ出演もしている<br />
*[[復活の日#映画|復活の日]](1980年)<br />
*[[駅 STATION]](1981年)<br />
*[[海峡 (映画)|海峡]](1982年)<br />
*[[小説吉田学校]](1983年)<br />
*[[居酒屋兆治]](1984年)<br />
*[[魔の刻]](1985年)<br />
*[[夜叉 (映画)|夜叉]](1985年)<br />
*[[火宅の人]](1986年)<br />
*[[夜汽車 (映画)|夜汽車]](1987年)<br />
*[[別れぬ理由]](1987年)<br />
*[[花園の迷宮#映画|花園の迷宮]](1988年)<br />
*[[華の乱]](1988年)<br />
*[[姐御]](1988年)<br />
*[[あ・うん]](1989年)<br />
*[[極道の妻たち 三代目姐]](1989年)<br />
*[[女帝 春日局]](1990年)<br />
*[[極道の妻たち 最後の戦い]](1990年)<br />
*[[遺産相続 (映画)|遺産相続]](1990年)<br />
*[[新極道の妻たち]](1991年)<br />
*[[略奪愛 (映画)|略奪愛]](1991年)<br />
*[[天国の大罪]](1992年)<br />
*[[新極道の妻たち 覚悟しいや]](1993年)<br />
*[[わが愛の譜 滝廉太郎物語]](1993年)<br />
*[[新極道の妻たち 惚れたら地獄]](1994年)<br />
*[[極道の妻たち 赫い絆]](1995年)<br />
*[[日本一短い「母」への手紙]](1995年)<br />
*[[霧の子午線]](1996年)<br />
*[[極道の妻たち 危険な賭け]](1996年)<br />
*[[わが心の銀河鉄道 宮沢賢治物語]](1996年)<br />
*[[誘拐 (映画)|誘拐]](1997年)<br />
*[[時雨の記]](1998年)<br />
*[[おもちゃ (映画)|おもちゃ]](1999年)<br />
*[[鉄道員 (小説)#映画|鉄道員(ぽっぽや)]](1999年)<br />
*[[ホタル (映画)|ホタル]](2001年)<br />
*[[陽はまた昇る (映画)|陽はまた昇る]](2002年)<br />
*[[赤い月]](2004年)<br />
*[[単騎、千里を走る。]](2006年、日本パート撮影)<br />
*[[憑神]](2007年)<br />
*[[北のカナリアたち]](2012年)<br />
*[[追憶 (2017年の映画)|追憶]](2017年)<br />
<br />
== 監督作品 ==<br />
*[[劒岳 点の記]](2009年、撮影兼務)<br />
*[[春を背負って]](2014年、撮影兼務)<br />
*[[散り椿]](2018年予定、撮影兼務)<br />
<br />
== 出演作品 ==<br />
*[[金田一耕助の冒険]](1979年) - フォトスタジオのスタッフ 役<br />
*[[ゴジラ FINAL WARS]](2004年) - テレビ討論会のパネラー 役<br />
<br />
== 著書==<br />
=== 共著 ===<br />
* 金澤誠『誰かが行かねば、道はできない-木村大作と映画の映像-』(2009年6月19日、[[キネマ旬報社]])ISBN 978-4873763132<br />
<br />
== 脚注 ==<br />
{{脚注ヘルプ}}<br />
{{Reflist}}<br />
<br />
== 関連文献 ==<br />
* {{cite web|url=http://www.mbs.jp/jounetsu/2008/09_21.shtml|title=木村大作|work=情熱大陸|date=2008-09-21|access-date=2016-06-16}}<br />
* {{cite web|url=http://www.kouenirai.com/kakeru/magazine/ma_interview/2878|title=木村大作 - 人生は徒労の積み重ね。 徒労を信じてこそ、人生がある。|work=講演依頼.com|date=2012-03-01|access-date=2016-06-16}}<br />
<br />
== 外部リンク ==<br />
* {{allcinema name|34675|木村大作}}<br />
* {{Kinejun name}}<br />
* {{JMDb name|0360360|木村大作}}<br />
* {{IMDb name|0454075|Daisaku Kimura}}<br />
* [https://www.kouenirai.com/profile/4419 講演依頼.com 木村大作プロフィール]<br />
<br />
{{キネマ旬報ベスト・テン日本映画監督賞}}<br />
{{ブルーリボン賞新人賞}}<br />
<br />
{{Normdaten}}<br />
<br />
{{Film-bio-stub}}<br />
{{DEFAULTSORT:きむら たいさく}}<br />
[[Category:日本の映画監督]]<br />
[[Category:日本の撮影監督]]<br />
[[Category:日本の映像技術者]]<br />
[[Category:撮影技師]]<br />
[[Category:特撮スタッフ]]<br />
[[Category:東宝の人物]]<br />
[[Category:紫綬褒章受章者]]<br />
[[Category:東京都出身の人物]]<br />
[[Category:1939年生]]<br />
[[Category:存命人物]]</div>
122.214.146.170
ロマン・ポランスキー
2018-09-12T14:35:13Z
<p>122.214.146.170: </p>
<hr />
<div><!-- 2009年9月の逮捕について、一時は重複した情報が3カ所に同時に記載されていました。拙速な編集はさけてください。--><br />
{{ActorActress<br />
| 芸名 = Roman Polanski<br />
| ふりがな = ロマン・ポランスキー<br />
| 画像ファイル =Roman Polanski at Cannes in 2013 cropped and brightened.jpg<br />
| 画像サイズ = <br />
| 画像コメント = 2013年<br />
| 本名 = Rajmund Roman Liebling<br />
| 別名義 = <br />
| 愛称 = <br />
| 出生地 = {{FRA}} [[パリ]]<br />
| 死没地 =<br />
| 国籍 = {{POL}}<br />{{FRA}}([[多重国籍|二重国籍]]) <br />
| 身長 =<br />
| 血液型 =<br />
| 生年 = 1933<br />
| 生月 = 8<br />
| 生日 = 18<br />
| 没年 = <br />
| 没月 = <br />
| 没日 = <br />
| 職業 = <br />
| ジャンル = <br />
| 活動期間 = <br />
| 活動内容 = <br />
| 配偶者 = Barbara Lass (1959-1962)<br />[[シャロン・テート]] (1968-1969)<br />[[エマニュエル・セニエ]] (1989-)<br />
| 著名な家族 = <br />
| 事務所 =<br />
| 公式サイト = <br />
| 主な作品 = 『[[ローズマリーの赤ちゃん]]』<br/>『[[チャイナタウン (映画)|チャイナタウン]]』<br/>『[[戦場のピアニスト]]』<br/>『[[ゴーストライター (映画)|ゴーストライター]]』<br />
| アカデミー賞 = '''[[アカデミー監督賞|監督賞]]'''<br />[[第75回アカデミー賞|2002年]]『[[戦場のピアニスト]]』<br />
| カンヌ国際映画祭 = '''[[パルム・ドール]]'''<br />[[第55回カンヌ国際映画祭|2002年]]『[[戦場のピアニスト]]』<br />
| ベルリン国際映画祭 = '''[[金熊賞]]'''<br />[[第16回ベルリン国際映画祭|1966年]]『[[袋小路]]』<br />'''[[銀熊賞 (審査員グランプリ)|銀熊賞(審査員グランプリ)]]'''<br />[[第15回ベルリン国際映画祭|1965年]]『[[反撥]]』<br />'''[[銀熊賞 (監督賞)|銀熊賞(監督賞)]]'''<br />[[第60回ベルリン国際映画祭|2010年]]『[[ゴーストライター (映画)|ゴーストライター]]』<br/>'''国際映画批評家連盟賞'''<br/>1965年『反撥』<br />
| ヴェネツィア国際映画祭 = '''国際映画批評家連盟賞'''<br/>1962年『[[水の中のナイフ]]』<br/>'''イタリア批評家賞'''<br/>1966年『[[袋小路 (映画)|袋小路]]』<br/>'''[[栄誉金獅子賞]]'''<br/>1993年<br />
| ロサンゼルス映画批評家協会賞 = '''[[ロサンゼルス映画批評家協会賞 監督賞|監督賞]]'''<br />[[第6回ロサンゼルス映画批評家協会賞|1980年]]『[[テス (映画)|テス]]』<br />
| 全米映画批評家協会賞 = '''監督賞'''<br />2002年『[[戦場のピアニスト]]』<br />
| 英国アカデミー賞 = '''[[英国アカデミー賞 作品賞|作品賞]]'''<br/>2002年『[[戦場のピアニスト]]』<br />'''[[英国アカデミー賞 監督賞|監督賞]]'''<br />1974年『[[チャイナタウン (映画)|チャイナタウン]]』<br />2002年『戦場のピアニスト』<br />
| ゴールデングローブ賞 = '''[[ゴールデングローブ賞 監督賞|監督賞]]'''<br />1974年『[[チャイナタウン (映画)|チャイナタウン]]』<br>'''[[ゴールデングローブ賞 外国語映画賞|外国語映画賞]]'''<br>1980年『[[テス (映画)|テス]]』<br />
| ヨーロッパ映画賞 = '''[[ヨーロッパ映画賞 作品賞|作品賞]]'''<br/>2010年『[[ゴーストライター (映画)|ゴーストライター]]』<br/>'''[[ヨーロッパ映画賞 監督賞|監督賞]]'''<br/>2010年『ゴーストライター』<br/>'''[[ヨーロッパ映画賞 脚本賞|脚本賞]]'''<br/>2010年『ゴーストライター』<br/>'''世界的功績賞'''<br/>1999年『[[ナインスゲート]]』<br/>'''功労賞'''<br/>2006年<br />
| セザール賞 = '''作品賞'''<br />1979年『[[テス (映画)|テス]]』<br />2002年『[[戦場のピアニスト]]』<br />'''監督賞'''<br />1979年『テス』<br />2002年『戦場のピアニスト』<br />[[第36回セザール賞|2010年]]『[[ゴーストライター (映画)|ゴーストライター]]』<br />2014年『[[毛皮のヴィーナス]]』<br/>'''脚色賞'''<br />2010年『ゴーストライター』<br />[[第37回セザール賞|2011年]]『[[おとなのけんか]]』<br />
| 日本アカデミー賞 = '''最優秀外国語作品賞'''<br />[[第27回日本アカデミー賞|2004年]]『戦場のピアニスト』 <br />
}}<br />
'''ロマン・ポランスキー'''('''Roman Polanski''', [[1933年]][[8月18日]] - )は、[[ポーランド]]出身の[[映画監督]]。<br />
<br />
== プロフィール ==<br />
=== 生い立ち ===<br />
[[ユダヤ人|ユダヤ教徒]]の[[ポーランド人]]の父親と[[カトリック教会|カトリック]]教徒で[[ロシア]]生まれのポーランド人の母親の間に[[フランス]]の首都[[パリ]]で生まれる<ref>[http://www.guardian.co.uk/international/story/0,,1528830,00.html The Guardian profile: Roman Polanski | The Guardian | Guardian Unlimited<!-- Bot generated title -->]</ref><ref>[http://www.adherents.com/people/pp/Roman_Polanski.html The religion of director Roman Polanski<!-- Bot generated title -->]</ref><ref>[https://archive.is/20120712135843/findarticles.com/p/articles/mi_gx5221/is_2005/ai_n19142619 Roman Polanski | UXL Newsmakers | Find Articles at BNET.com<!-- Bot generated title -->]</ref><ref>[http://www.crisismagazine.com/december2005/films.htm Crisis Magazine<!-- Bot generated title -->]</ref>。出生時の名前はライムント・ロマン・リープリンク(Rajmund Roman Liebling)。3歳のとき一家は[[ポーランド]]の[[クラクフ]]に引越し、そこで幼少期を過ごした。異父兄妹の姉がおり、のちにアウシュビッツに連行されたが、生き延び、その後、パリで暮らしたという。<br />
<br />
[[第二次世界大戦]]時は[[ナチス・ドイツ|ドイツ]]がクラクフに作った[[ゲットー|ユダヤ人ゲットー]]に押し込められた。ゲットーのユダヤ人が一斉に逮捕される直前、父親はゲットーの[[有刺鉄線]]を切って穴を作り、そこから息子を逃がした。父母はドイツ人に別々に連行された。母親は[[アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所|アウシュビッツ]]でドイツ人に虐殺された。また、母親はこの時、妊娠していたとポランスキーは証言している。父親はドイツ人により[[採石場]]で強制労働をさせられ、終戦まで生き残った。<br />
<br />
また自身も、ドイツに占領されたフランスの[[ヴィシー政権]]下における「ユダヤ人狩り」から逃れるため転々と逃亡した。この体験がポランスキーの作品に深く影響を与えることとなった。<br />
<br />
=== 俳優 ===<br />
第二次世界大戦終結後にポーランドへ戻り、生き延びた父親と再会した。その後は映画に興味を持ち、[[ウッチ映画大学]]で学んだ後、[[冷戦]]下の[[1950年代]]にポーランドで俳優として活動を始める。いくつかのポーランド映画に出演後、自由な表現活動を求めてフランスに移った。<br />
<br />
=== 映画監督 ===<br />
[[1962年]]に『[[水の中のナイフ]]』で監督デビューする。共産党一党独裁体制の[[ポーランド人民共和国|ポーランド]]では黙殺されたが、[[西側諸国]]で絶賛された。その評判に惹かれるように[[1963年]]に[[イギリス]]へ渡り、映画『吸血鬼』などを製作する一方で、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の[[ヒューストン]]に居を構える。<br />
<br />
=== シャロン・テートとの結婚と悲劇 ===<br />
『吸血鬼』に出演した女優[[シャロン・テート]]と1968年に結婚する(2度目の結婚)。しかし翌1969年8月9日、テートは友人らとロサンゼルスの自宅でパーティーの最中、[[チャールズ・マンソン]]率いるカルト教団に襲われ惨殺された。当時、テートはポランスキーの子を身ごもっており、妊娠8ヶ月だった。<br />
<br />
ポランスキーはロンドンで映画の脚本執筆中に悲報を受け、アメリカに帰国した。ロバート・エヴァンズの著書「くたばれ!ハリウッド」によると、ポランスキーは憔悴しきっており、医師による鎮静剤の投与が必要だったという。この事件でポランスキーは、当初マスコミの餌食となり、根拠のない中傷を受けた。<br />
<br />
しかも、この悲劇は人違い殺人であった。事件が起きた邸宅は、ポランスキー夫妻が借りる前は、[[ドリス・デイ]]の息子でミュージシャンの{{ill2|テリー・メルチャー|en|Terry Melcher}}が居住していた。ミュージシャン志望だったマンソンがメルチャーを訪ねたが、プロへの道に繋がらず、その逆恨みが襲撃の動機であった。<br />
<br />
事件当夜、[[スティーブ・マックイーン]]、パラマウントの重役だったロバート・エヴァンズ、ポランスキーの格闘技の師匠であった[[ブルース・リー]]などもパーティーに招かれていたが、行かなかったことで惨劇を免れた。<br />
<br />
=== 少女への淫行容疑 ===<br />
[[File:Mug shot of Roman Polanski.png|thumb|180px|<center>1977年撮影</center>]]<br />
ポランスキーはアメリカに絶望するが立ち直り、作品を撮り続けた。しかし[[1977年]]に[[ジャック・ニコルソン]]邸で、当時13歳の子役モデルに性的行為([[強姦]]・[[アナルセックス]])をした嫌疑をかけられ逮捕、裁判では[[司法取引]]により[[法定強姦]]の有罪の判決(実刑 懲役50年以上という換算)を受ける。ポランスキーは法廷の外では無実を主張し、「これは冤罪であり、本人は少女とその母親による恐喝の対象になっていた」と述べている<ref>{{cite book<br />
| last = Polanski<br />
| first = Roman<br />
| title = Roman by Polanski<br />
| publisher = William Morrow & Co.<br />
| year = 1984<br />
| isbn = 978-0688026219 }}<br />
</ref>。<br />
<br />
ポランスキーは42日間の勾留後、釈放されている。しかし、事件の担当判事がポランスキーを投獄後、国外追放にすることを示唆、再び収監する旨を地方検事と彼の弁護士に告げた。保釈中に逃亡したことが通説となっているが、正確には釈放後の国外脱出である。彼は出廷を拒否。アメリカを捨てることを決意し、有効だったパスポートを手にロンドンへ渡航、その後パリへと移住した。以後、アメリカへ一度も入国していない。しかし、この件はアメリカの司法当局に遺恨を残し、チューリッヒでの身柄拘束に繋がることとなる。<br />
<br />
[[1978年]]にフランスに移り、市民権を取得した。1979年の作品『[[テス (映画)|テス]]』で主演をつとめることになる[[ナスターシャ・キンスキー]]とは、彼女が15歳の頃から性的関係を結んでいた<ref>Leaming, Barbera ''Polanski, A Biography: The Filmmaker as Voyeur'', New York: Simon and Schuster (1981), p. 155.</ref><ref>''Roman Polanski: Wanted and Desired'' (directed by Marina Zenovich), HBO in 2008.</ref>。[[2010年]]に女優の[[シャーロット・ルイス]]が「わたしもロマン・ポランスキーの被害者のひとり。彼は16歳のわたしに最悪の方法で性的虐待を加えた」と記者会見で公表、監督のアパートで虐待を受けたことを明らかにした。[[1989年]]に女優の[[エマニュエル・セニエ]]と3度目の結婚をしている。<br />
<br />
=== 現在 ===<br />
アメリカ脱出後は欧州を活動拠点にし、『[[フランティック]]』や『[[赤い航路]]』『[[死と処女]]』『[[ナインスゲート]]』など意欲的に作品を発表。[[2002年]]公開の『[[戦場のピアニスト]]』で[[第55回カンヌ国際映画祭]][[パルムドール]]及び[[アカデミー監督賞]]を受賞した(上記の問題により逮捕・収監の可能性があるため授賞式には参加せず)。この受賞当時ポランスキーは69歳7ヶ月で、同賞の最年長受賞者となった。この記録は[[クリント・イーストウッド]]が74歳で受賞した[[2005年]]に破られた。また、自身が墓まで持っていきたい作品を問われ、『戦場のピアニスト』と回答している。<br />
<br />
2009年9月、チューリッヒ映画祭の「生涯功労賞」授与式に出席するためスイスに滞在中、前述の少女への淫行容疑に関連してスイス司法当局に身柄を拘束された<ref>{{cite web|url=http://edition.cnn.com/2009/SHOWBIZ/Movies/09/27/zurich.roman.polanski.arrested/|title=Polanski arrested in connection with sex charge|accessdate=2009-09-27}}</ref>。アメリカは身柄引き渡しを要求したが、最終的にスイスはこれを拒否、[[2010年]][[7月12日]]に釈放を決定した<ref>{{Cite news<br />
|url=http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20100713-OYT1T00011.htm<br />
|title=ポランスキー監督釈放、米への移送はスイス拒否<br />
|work=YOMIURI ONLINE<br />
|newspaper=[[読売新聞]]<br />
|date=2010-07-13<br />
|accessdate=2010-07-13<br />
|language={{ja icon}}<br />
}}</ref>。<br />
<br />
2010年には『[[ゴーストライター (映画) |ゴーストライター]]』で[[第60回ベルリン国際映画祭]]監督賞を受賞した。<br />
<br />
2018年5月に前述の性的行為を理由として[[ビル・コスビー|ビル・コズビー]]とともに[[映画芸術科学アカデミー]]から除名された。<ref>{{Cite news|title=米アカデミー、コズビー氏とポランスキー氏を除名 過去の性的暴行で|date=2018-05-04|url=http://www.bbc.com/japanese/44000361|accessdate=2018-06-10|language=en-GB|work=BBCニュース}}</ref><br />
<br />
== その他 ==<br />
*[[ポーランド語]]、[[ロシア語]]、[[英語]]、[[フランス語]]、[[スペイン語]]、[[イタリア語]]に堪能。ただし英語には強い訛りがある。<br />
*日本では慣用的にポランスキーと呼ばれているが、ポーランド語ではPolańskiと綴り[pɔˈlaɲskʲi](ポラィンスキィ)と読む。<br />
*[[1976年]]に[[香港]]で開催された[[ミス・ユニバース]]世界大会で、バレリーナの[[マーゴ・フォンテイン]]、女優の[[ブリット・エクランド]]らと共に審査員を務めた。<br />
<br />
== 主な作品 ==<br />
=== 監督 ===<br />
* [[タンスと二人の男]] ''DWAJ LUDZIE Z SZAFA'' / ''TWO MEN AND A WARDROBE''(1958年)…短編(18')<br />
* [[水の中のナイフ]] ''Nóz w wodzie'' (1962年)<br />
* [[世界詐欺物語]] ''Le plus belles escroqueries du monde'' (1964年)<br />
* [[反撥]] ''Repulsion'' (1965年)<br />
* [[袋小路 (映画)|袋小路]] ''Cul-de-sac'' (1966年)<br />
* [[吸血鬼 (1967年の映画)|吸血鬼]] ''The Fearless Vampire Killers'' (1967年)<br />
* [[ローズマリーの赤ちゃん]] ''Rosemary's Baby'' (1968年)<br />
* [[マクベス (1971年の映画)|マクベス]] ''Macbeth'' (1971年)<br />
* [[ポランスキーの 欲望の館]] ''What?'' (1972年)<br />
* [[チャイナタウン (映画)|チャイナタウン]] ''Chinatown'' (1974年)<br />
* [[テナント/恐怖を借りた男]] ''The Tenant'' / ''Le Locataire'' (1976年)<br />
* [[テス (映画)|テス]] ''Tess'' (1979年)<br />
* [[ポランスキーの パイレーツ]] ''Pirates'' (1986年)<br />
* [[フランティック]] ''Frantic'' (1988年)<br />
* [[赤い航路]] ''Bitter Moon'' (1992年)<br />
* [[死と処女]] ''Death and the Maiden'' (1994年)<br />
* [[ナインスゲート]] ''The Ninth Gate'' (1999年)<br />
* [[戦場のピアニスト]] ''The Pianist'' (2002年)<br />
* [[オリバー・ツイスト (2005年の映画)|オリバー・ツイスト]] ''Oliver Twist'' (2005年)<br />
* [[それぞれのシネマ]] ''To Each His Own Cinema'' (2007年)<br />
* [[ゴーストライター (映画)|ゴーストライター]] ''The Ghost Writer'' (2010年)<br />
* [[おとなのけんか]] ''Carnage'' (2011年)<br />
* [[毛皮のヴィーナス]] ''La Vénus à la fourrure'' (2013年)<br />
* [[告白小説、その結末]] ''D'après une histoire vraie'' (2017年)<br />
<br />
=== 出演 ===<br />
* [[世代 (映画)|世代]] ''Pokolenie'' (1954年)<br />
* [[マジック・クリスチャン (映画)|マジック・クリスチャン]] ''The Magic Christian'' (1969年)<br />
* [[処女の生血]] ''Blood for Dracula'' (1974年)<br />
* [[バック・イン・ザ・USSR (映画)|バック・イン・ザ・USSR]] ''Back in the U.S.S.R.'' (1992年)<br />
* 他人のそら似 ''Grosse fatigue'' (1994年)<br />
* 記憶の扉 ''Pura formalità, Una'' (1994年)<br />
* [[ラッシュアワー3]] ''Rush Hour 3'' (2007年)<br />
<br />
== 主な受賞 ==<br />
*[[アカデミー賞]]<br />
**2002年度 [[アカデミー監督賞|監督賞]]『[[戦場のピアニスト]]』<br />
*[[ゴールデングローブ賞]]<br />
**1974年度 [[ゴールデングローブ賞 監督賞|監督賞]]『[[チャイナタウン (映画)|チャイナタウン]]』<br />
*[[英国アカデミー賞]]<br />
**1974年度 監督賞『チャイナタウン』<br />
**2002年度 監督賞『戦場のピアニスト』<br />
*[[セザール賞]]<br />
**1979年度 監督賞『[[テス (映画)|テス]]』<br />
**2002年度 監督賞『戦場のピアニスト』<br />
*[[ヨーロッパ映画賞]]<br />
**1999年度 世界的功績賞『[[ナインスゲート]]』<br />
**2006年度 功労賞<br />
**2010年度 監督賞、脚本賞『[[ゴーストライター (映画)|ゴーストライター]]』<br />
*[[カンヌ国際映画祭]]<br />
**2002年度 [[パルム・ドール]]『戦場のピアニスト』<br />
*[[ヴェネツィア国際映画祭]]<br />
**1962年度 国際映画評論家連盟賞『[[水の中のナイフ]]』<br />
**1966年度 イタリア批評家賞『[[袋小路]]』<br />
**1993年度 金獅子賞・特別功労賞、経歴賞<br />
*[[ベルリン国際映画祭]]<br />
**1965年度 [[銀熊賞 (審査員グランプリ)|銀熊賞]]『[[反撥]]』<br />
**1966年度 [[金熊賞]]『袋小路』<br />
**2010年度 [[銀熊賞 (監督賞)|銀熊賞]]『[[ゴーストライター (映画)|ゴーストライター]]』<br />
<br />
== 脚注 ==<br />
{{reflist}}<br />
<br />
== 関連項目 ==<br />
*[[タキ・テオドラコプロス]]<br />
*[[ブルース・リー]]<br />
<br />
== 外部リンク ==<br />
{{commons|Roman Polański}}<br />
*{{official|http://www.rp-productions.com/roman.html}}{{en icon}}{{リンク切れ|date=2012年12月}}<br />
*{{imdb name|id=0000591|name=Roman Polanski}}<br />
*{{Allcinema_name|1544}}<br />
*{{kinejun name|16636}}<br />
<br />
{{ロマン・ポランスキー監督作品}}<br />
{{アカデミー賞監督賞 2001-2020}}<br />
{{英国アカデミー賞監督賞}}<br />
{{ゴールデングローブ賞 監督賞}}<br />
{{ベルリン国際映画祭銀熊賞(監督賞) 2000-2019}}<br />
{{ロサンゼルス映画批評家協会賞 監督賞}}<br />
{{Normdaten}}<br />
{{DEFAULTSORT:ほらんすきい ろまん}}<br />
[[Category:ポーランドの映画監督]]<br />
[[category:ポーランドの反共主義者]]<br />
[[Category:フランスの映画監督]]<br />
[[Category:アカデミー賞受賞者]]<br />
[[Category:セザール賞受賞者]]<br />
[[Category:ゴールデングローブ賞受賞者]]<br />
[[Category:英国アカデミー賞受賞者]]<br />
[[Category:パリ出身の人物]]<br />
[[Category:クラクフ出身の人物]]<br />
[[Category:ユダヤ系ポーランド人]]<br />
[[Category:ユダヤ系フランス人]]<br />
[[Category:ポーランド系フランス人]]<br />
[[Category:ホロコースト生還者]]<br />
[[Category:1933年生]]<br />
[[Category:存命人物]]</div>
122.214.146.170
熊井啓
2018-09-12T12:57:49Z
<p>122.214.146.170: </p>
<hr />
<div>{{ActorActress|<br />
| 芸名 = 熊井 啓<br />
| ふりがな = くまい けい<br />
| 画像ファイル = Kei Kumai.jpg<br />
| 画像サイズ = 250px<br />
| 画像コメント = <small>キネマ旬報社『キネマ旬報』第407号(1966)より</small><br />
| 本名 = <br />
| 別名義 = <br />
| 出生地 = {{JPN}}・[[長野県]][[南安曇郡]][[豊科町]]<br />(現:[[安曇野市]])<br />
| 死没地 =<br />
| 国籍 = <br />
| 民族 = <br />
| 身長 =<br />
| 血液型 = <br />
| 生年 = 1930<br />
| 生月 = 6<br />
| 生日 = 1<br />
| 没年 = 2007<br />
| 没月 = 5<br />
| 没日 = 23<br />
| 職業 = [[映画監督]]、[[脚本家]]<br />
| ジャンル = [[映画]]<br />
| 活動期間 = [[1954年]] - [[2007年]]<br />
| 活動内容 =<br />
| 配偶者 = [[熊井明子]]<br />
| 著名な家族 = <br />
| 事務所 =<br />
| 公式サイト = <br />
| 主な作品 = 『[[サンダカン八番娼館 望郷]]』<br />『[[海と毒薬 (映画)|海と毒薬]]』<br />『[[千利休 本覺坊遺文]]』<br />
| アカデミー賞 = <br />
| AFI賞 = <br />
| 英国アカデミー賞 = <br />
| セザール賞 = <br />
| エミー賞 = <br />
| ジェミニ賞 = <br />
| ゴールデングローブ賞 = <br />
| ゴールデンラズベリー賞 = <br />
| ゴヤ賞 = <br />
| ブルーリボン賞 = '''監督賞'''<br />[[1986年]]『[[海と毒薬 (映画)|海と毒薬]]』<br />'''新人監督賞'''<br />1965年 『日本列島』<br />
| ローレンス・オリヴィエ賞 = <br />
| 日本アカデミー賞 = '''会長特別賞'''<br />[[2008年]]<br />
| ベルリン国際映画祭 = '''OCIC賞'''<br />[[第25回ベルリン国際映画祭|1975年]]『[[サンダカン八番娼館 望郷]]』<br />'''[[銀熊賞 (審査員グランプリ)]]'''<br />[[第36回ベルリン国際映画祭|1986年]]『[[海と毒薬 (映画)|海と毒薬]]』<br />'''[[:de:Berlinale Kamera|功労賞]]'''<br />[[第51回ベルリン国際映画祭|2001年]]<br />
| ヴェネツィア国際映画祭 = '''[[銀獅子賞]]'''<br />[[第46回ヴェネツィア国際映画祭|1989年]]『[[千利休 本覺坊遺文]]』<br />
| その他の賞 =<br />
'''[[シカゴ国際映画祭]]銀賞'''<br />[[1989年]]『千利休 本覺坊遺文』<br />'''[[アジア太平洋映画祭]]最優秀作品賞'''<br />[[1974年]]『[[サンダカン八番娼館 望郷]]』<br />'''[[香港国際映画祭]]優秀映画'''<br />[[1978年]]『お吟さま』<br />'''[[日本映画監督協会新人賞]]'''<br />1965年 『日本列島』<br />'''[[日本映画批評家大賞]]'''<br />[[2001年]]『[[日本の黒い夏─冤罪]]』<br />'''[[芸術選奨文部大臣賞]]'''<br />1972年 『[[忍ぶ川]]』<br />
-----<br />
1995年 '''[[紫綬褒章]]'''<br />2003年 '''[[旭日章|勲四等旭日小綬章]]'''<br />
| 備考 = <br />
}} <br />
'''熊井 啓'''(くまい けい、[[1930年]][[6月1日]] - [[2007年]][[5月23日]])は、日本の[[映画監督]]。[[長野県]][[南安曇郡]][[豊科町]](現[[安曇野市]])生まれ<ref name=prof>[https://www.city.azumino.nagano.jp/site/kibo/1526.html 熊井啓年譜]</ref>。田町小学校<ref name=prof/>、県立松本中学校(現[[長野県松本深志高等学校]])<ref name=prof/>、[[松本高等学校 (旧制)]]<ref name=prof/>、[[信州大学]][[文理学部]]卒業<ref name=prof/>。妻は[[エッセイスト]]で[[ポプリ]]研究家の[[熊井明子]]。多くの監督作が『[[キネマ旬報]]』ベスト・テンに選出され、[[ベルリン国際映画祭]]や[[ヴェネツィア国際映画祭]]の各賞を受賞した。日本を代表する社会派映画の巨匠である。<br />
<br />
==経歴・人物==<br />
大学時代は演劇と映画の日々を送っていたが、[[関川秀雄]]監督の誘いで卒業後は独立プロの助監督へ。さらに[[1954年]][[日活]]撮影所監督部に入社する。そこで[[久松静児]]、[[田坂具隆]]、[[阿部豊]]、[[牛原陽一]]などの助監督に付くかたわら[[脚本家]]としての仕事もこなす。<br />
<br />
[[1962年]]に明子夫人と結婚。[[1964年]]、[[帝銀事件]]について、綿密な調査と考証をもとに被疑者であった[[平沢貞通]]画伯を無罪とする立場から事件経過をドキュメンタリー・タッチで描いた『[[帝銀事件 死刑囚]]』で監督デビュー(脚本も務めている)。監督2作目の『日本列島』では、戦後の日本で起こった謎の多い諸事件を米国の謀略と関連付けて追及し、[[日本映画監督協会新人賞]]を受賞。骨太の社会派監督として注目されるようになった。<br />
<br />
[[1968年]]には、[[三船プロダクション]]と[[石原プロモーション]]が共同制作した大作『[[黒部の太陽]]』の監督に抜擢され、当時の映画界に厳然として存在していた[[五社協定]]の圧力にも負けず、[[三船敏郎]]、[[石原裕次郎]]、[[佐野周二]]、[[滝沢修]]、[[高峰三枝子]]ら豪華なスター共演によって[[黒四ダム]]の建設を見事に描き、成功を収める。[[1969年]]に[[日活]]を退社し、退職金を投入して『地の群れ』を製作。以後フリーの映画監督して活躍し、[[三浦哲郎]]原作の[[芥川龍之介賞|芥川賞]]受賞作を白黒で美しく撮影した『[[忍ぶ川]]』(1972年)で[[キネマ旬報ベストテン]]ベストワン及び監督賞、[[芸術選奨文部大臣賞]]などを受賞。<br />
<br />
[[1974年]]に、東南アジアに娼婦として売られた「[[からゆきさん]]」に題材をとった[[田中絹代]]出演『[[サンダカン八番娼館 望郷]]』で[[ベルリン国際映画祭]][[銀熊賞]]、[[キネマ旬報ベストテン]]ベストワン及び監督賞を受賞し、[[アカデミー外国語映画賞日本代表作品の一覧|アカデミー外国語映画賞ノミネート]]など、重いテーマを扱いながら、重厚な人間ドラマを完成させ、海外からも高い評価を得た。なおこの時期、[[吉永小百合]]の母・和枝の面前で泥酔して暴れ、和枝の著書『母だから女だから』([[立風書房]]、[[1976年]])において名指しで痛烈に批判された。<br />
<br />
その後も初の時代劇『[[千利休|お吟さま]]』([[今東光]]原作)、戦後の日本映画で初の中国ロケを敢行した『天平の甍』([[井上靖]]原作)などを経て、[[1986年]]には戦時中に九州で起きた米軍捕虜生体解剖事件をもとに医師の戦争責任を問うた[[遠藤周作]]原作の『[[海と毒薬 (映画)|海と毒薬]]』を発表し、[[ベルリン国際映画祭]][[銀熊賞 (審査員グランプリ)]]、[[毎日映画コンクール]]大賞、3度目の[[キネマ旬報ベストテン]]ベストワン及び監督賞を受けるなど国内外で評価された。<br />
<br />
社会性の強い[[テーマ]]を内包した作品を制作し、独自な世界観を確立、[[昭和]]を代表する社会派映画監督として知られた。<br />
[[1989年]]、三船敏郎出演の『[[千利休 本覚坊遺文]]』で[[ヴェネツィア国際映画祭]][[銀獅子賞]]を受賞。[[2001年]]には[[松本サリン事件]]を描いた『[[日本の黒い夏─冤罪]]』で[[ベルリン国際映画祭]]に特別招待され、[[:de:Berlinale Kamera|ベルリナーレ・カメラ]](特別国際功労賞)を授けられた。<br />
<br />
[[1995年]]、[[紫綬褒章]]を受章。<br />
<br />
[[2003年]]、[[旭日章|勲四等旭日小綬章]]を受章。<br />
<br />
[[2007年]][[5月18日]]早朝、自宅敷地内で倒れているところを発見され、搬送先の病院で一時意識を回復したが、5月23日午前9時51分、[[クモ膜下出血]]のため死去。{{没年齢|1930|6|1|2007|5|23}}。新作の準備に意欲を持ち、模索していた中であった。<br />
<br />
2007年[[7月11日]]、[[東京]]・[[青山葬儀所]]に於いて『お別れの会』が催された。<br />
<br />
==映画作品==<br />
*[[帝銀事件 死刑囚]](1964年)<br />
*日本列島(1965年)[[モスクワ国際映画祭]]招待作品<br />
*[[黒部の太陽]](1968年)<br />
*地の群れ(1970年)[[ベルリン国際映画祭]]コンペティション参加<br />
*[[忍ぶ川]](1972年)モスクワ国際映画祭コンペティション参加<br />
*朝やけの詩(1973年)ベルリン国際映画祭コンペティション参加<br />
*[[サンダカン八番娼館 望郷]](1974年)ベルリン国際映画祭コンペティション参加、[[アカデミー外国語映画賞日本代表作品の一覧|アカデミー外国語映画賞ノミネート]]<br />
*[[北の岬 (映画)|北の岬]](1976年)<br />
*お吟さま(1978年)<br />
*[[天平の甍]](1980年)<br />
*[[日本の熱い日々 謀殺・下山事件]](1981年)ベルリン国際映画祭コンペティション参加<br />
*[[海と毒薬 (映画)|海と毒薬]](1986年)ベルリン国際映画祭コンペティション参加<br />
*[[千利休 本覺坊遺文]](1989年)[[ヴェネツィア国際映画祭]]コンペティション参加<br />
*[[かさぶた式部考#映画|式部物語]](1990年)<br />
*[[ひかりごけ]](1992年)ベルリン国際映画祭コンペティション参加<br />
*[[深い河]](1995年)<br />
*[[愛する (映画)|愛する]](1997年)<br />
*[[日本の黒い夏─冤罪]](2001年)ベルリン国際映画祭特別招待<br />
*[[海は見ていた]](2002年)<br />
<br />
== 主な受賞歴 ==<br />
*1965年 [[日本映画監督協会新人賞]]、[[キネマ旬報#第39回(1965年度)|第39回キネマ旬報ベスト・テン]]脚本賞(『日本列島』)、[[ブルーリボン賞 (映画)#第16回(1965年度)|第16回ブルーリボン賞]]新人賞(『日本列島』)<br />
*1972年 [[キネマ旬報#第46回(1972年度)|第46回キネマ旬報]]ベストワン・日本映画監督賞・脚本賞(『[[忍ぶ川]]』)、[[毎日映画コンクール#第27回(1972年)|第27回毎日映画コンクール]]大賞(『忍ぶ川』)、[[芸術選奨文部大臣賞]]<br />
*1974年 [[キネマ旬報#第48回(1974年度)|第48回キネマ旬報]]ベストワン・日本映画監督賞(『[[サンダカン八番娼館 望郷]]』)、[[ベルリン国際映画祭]]OCIC賞、[[アカデミー外国語映画賞日本代表作品の一覧|アカデミー外国語映画賞ノミネート]]<br />
*1981年 [[毎日映画コンクール#第36回(1981年)|第36回毎日映画コンクール]] 日本映画優秀賞(『[[日本の熱い日々 謀殺・下山事件]]』)<br />
*1986年 [[キネマ旬報#第60回(1986年度)|第60回キネマ旬報]]ベストワン・監督賞(『[[海と毒薬 (映画)|海と毒薬]]』)、[[毎日映画コンクール#第41回(1986年)|第41回毎日映画コンクール]]大賞・監督賞(『海と毒薬』)、[[ブルーリボン賞 (映画)#第29回(1986年度)|第29回ブルーリボン賞]]監督賞(『海と毒薬』)<br />
*1987年 ベルリン国際映画祭[[銀熊賞 (審査員グランプリ)]](『海と毒薬』)<br />
*1989年 [[ベネチア国際映画祭]][[銀獅子賞]](『[[千利休・本覚坊遺文]]』)<!-- 、[[キネマ旬報#第63回(1989年度)|第63回キネマ旬報ベスト・テン]] --><br />
*2001年 ベルリン国際映画祭[[:de:Berlinale Kamera|ベルリナーレ・カメラ]]、[[日本映画批評家大賞]]作品賞<br />
*2007年 [[毎日映画コンクール#第62回(2007年)|第62回毎日映画コンクール]]特別賞<br />
<br />
=== 勲章 ===<br />
*[[紫綬褒章]]<br />
*[[旭日章|勲四等旭日小綬章]]<br />
<br />
== テレビドキュメンタリー作品 ==<br />
*われらの主役(1976年、[[テレビ東京|東京12チャンネル]])<br />
:『不世出の大打者・[[王貞治]]』([[1976年]][[10月18日]]・[[10月25日]])<br />
<br />
== テレビ出演 ==<br />
*[[ウチくる!?]]([[フジテレビジョン|フジテレビ]]) - [[奥田瑛二]]の回の特別ゲスト<br />
<br />
== 著書 ==<br />
*『映画と毒薬』 [[キネマ旬報社]]、1987年<br />
*『映画の深い河』 近代文芸社、1996年<br />
*『映画を愛する』 近代文芸社、1997年、ISBN 9784773362008<br />
*『日本の黒い夏 冤罪・松本サリン事件』 [[岩波書店]]、2001年、ISBN 9784000242028<br />
*『黒部の太陽』 [[新潮社]]、2005年、ISBN 9784104746019<br />
*『映画「黒部の太陽」全記録』 [[新潮文庫]]、2009年、ISBN 9784101369518<br />
*『私の信州物語』 [[岩波現代文庫]] 2010年、ISBN 9784006021627 <br />
<br />
== 伝記 ==<br />
*[[西村雄一郎]] 『ぶれない男 熊井啓』 [[新潮社]]、2010年、ISBN 9784103039334<br />
<br />
== 参考文献 ==<br />
*「訃報」『キネマ旬報』2007年8月上旬号、キネマ旬報社<br />
*「蓋棺録」『[[文藝春秋 (雑誌)|文藝春秋]]』2007年8月号、[[文藝春秋]]<br />
<br />
==脚注==<br />
{{reflist}}<br />
<br />
==外部リンク==<br />
*[https://www.city.azumino.nagano.jp/site/kibo/1524.html 熊井啓記念館]<br />
*[https://www.city.azumino.nagano.jp/site/kibo/1527.html 熊井啓作品紹介]<br />
*[https://www.city.azumino.nagano.jp/site/kibo/1526.html 熊井啓年譜]<br />
* {{Kinejun name|87963}}<br />
<br />
{{熊井啓監督作品}}<br />
{{ブルーリボン賞監督賞}}<br />
{{ブルーリボン賞新人賞}}<br />
{{キネマ旬報ベスト・テン日本映画監督賞}}<br />
{{キネマ旬報ベスト・テン脚本賞}}<br />
{{毎日映画コンクール監督賞}}<br />
{{ヴェネツィア国際映画祭銀獅子賞(監督賞) 1987-1999}}<br />
<br />
{{Normdaten}}<br />
<br />
{{DEFAULTSORT:くまい けい}}<br />
[[Category:日本の映画監督]]<br />
[[Category:勲四等旭日小綬章受章者]]<br />
[[Category:紫綬褒章受章者]]<br />
[[Category:日活の人物]]<br />
[[Category:信州大学出身の人物]]<br />
[[Category:長野県出身の人物]]<br />
[[Category:1930年生]]<br />
[[Category:2007年没]]<br />
[[Category:帝銀事件]]</div>
122.214.146.170
ジョン・ヒューストン
2018-09-11T16:06:57Z
<p>122.214.146.170: </p>
<hr />
<div>{{ActorActress<br />
| 芸名 = John Huston<br />
| ふりがな = ジョン・ヒューストン<br />
| 画像ファイル = John Huston - publicity.JPG<br />
| 画像サイズ = 200<br />
| 画像コメント = 1974年撮影<br />
| 本名 = John Marcellus Huston<br />
| 別名義 = <br />
| 愛称 = <br />
| 出生地 = [[ミズーリ州]]<br />
| 死没地 =<br />
| 国籍 = {{USA}}<br />
| 身長 =<br />
| 血液型 =<br />
| 生年 = 1906<br />
| 生月 = 8<br />
| 生日 = 5<br />
| 没年 = 1987<br />
| 没月 = 8<br />
| 没日 = 28<br />
| 職業 = 映画監督、脚本家、俳優<br />
| ジャンル = <br />
| 活動期間 = <br />
| 活動内容 = <br />
| 配偶者 = Dorothy Harvey (1925-1926)<br>Lesley Black (1937-1945)<br>[[イヴリン・キース]](1946-1950)<br>リッキー・ソマ(1950-1969)<br>Celeste Shane (1972-1977)<br />
| 著名な家族 = [[アンジェリカ・ヒューストン]](娘)<br>[[ダニー・ヒューストン]](息子)<br />
| 事務所 =<br />
| 公式サイト = <br />
| 主な作品 = <!--皆が認める代表作品を入力--><br />
| アカデミー賞 = '''[[アカデミー監督賞|監督賞]]'''<br />[[第21回アカデミー賞|1948年]]『[[黄金 (1948年の映画)|黄金]]』<br />'''[[アカデミー脚色賞|脚色賞]]'''<br />[[第21回アカデミー賞|1948年]]『黄金』<br />
| 東京国際映画祭 = '''特別功労賞'''<br />1987年『[[ザ・デッド/「ダブリン市民」より]]』<br />
| ヴェネツィア国際映画祭 = '''[[銀獅子賞]]'''<br />[[1953年]]『[[赤い風車]]』<br />'''[[栄誉金獅子賞]]'''<br />[[1985年]]<br />
| ゴールデングローブ賞 = '''[[ゴールデングローブ賞 監督賞|監督賞]]'''<br />[[第6回ゴールデングローブ賞|1948年]]『黄金』<br />[[1985年]]『[[女と男の名誉]]』<br />'''[[ゴールデングローブ賞 助演男優賞|助演男優賞]]'''<br />[[1963年]]『[[枢機卿 (映画)|枢機卿]]』<br />
| ニューヨーク映画批評家協会賞 = '''[[ニューヨーク映画批評家協会賞 監督賞|監督賞]]'''<br />[[第14回ニューヨーク映画批評家協会賞|1948年]]『黄金』<br />[[第22回ニューヨーク映画批評家協会賞|1956年]]『[[白鯨 (映画)|白鯨]]』<br />[[第51回ニューヨーク映画批評家協会賞|1985年]]『女と男の名誉』<br />
| 英国アカデミー賞 = '''特別賞'''<br />[[1979年]]<br />
| 全米映画批評家協会賞 = '''[[全米映画批評家協会賞 監督賞|監督賞]]'''<br />[[1985年]]『女と男の名誉』<br />
| AFI賞 = '''生涯功労賞'''<br />[[1983年]]<br />
}}<br />
'''ジョン・ヒューストン'''('''John Huston''', 本名: John Marcellus Huston, [[1906年]][[8月5日]] - [[1987年]][[8月28日]])は、[[アメリカ合衆国]]の[[映画監督]]・[[脚本家]]・[[俳優]]。<br />
<br />
== 生涯 ==<br />
[[File:JohnHustoninPV.jpg|thumb|200px|right|メキシコの[[:en:Puerto Vallarta]]にあるヒューストン像]]<br />
父親は俳優の[[ウォルター・ヒューストン]]。[[ミズーリ州]]にて俳優一家に生まれ、3歳の時から舞台に立つ。ティーンエイジャーの頃は[[ボクシング]]に熱中し、その後各地を放浪して様々な職業に就いた。<br />
<br />
後にハリウッドに落ち着いて脚本を書くようになり、『[[モルグ街の殺人]]』や『[[黒蘭の女]]』などの脚本を手がけて実績を積んだ後、1941年に[[ハンフリー・ボガート]]主演の『[[マルタの鷹 (1941年の映画)|マルタの鷹]]』で監督としてデビューした。ボガートとは生涯親交が深く、多くの主演作品を撮っている。<br />
<br />
男性的で骨太なタッチの作品が多く、また、目的を持って行動する主人公たちが徒労の果てに挫折していくというストーリーをしばしば取り上げることも特徴である。その典型である1948年の作品『[[黄金 (1948年の映画)|黄金]]』は[[アカデミー監督賞]]と[[アカデミー脚色賞|脚色賞]]を受賞した。<br />
<br />
[[赤狩り]]の時代にはアメリカを嫌って[[メキシコ]]に移住した。このためアメリカ国外で企画・製作した作品も多い。<br />
<br />
俳優としては壮年期以降、個性的なバイプレイヤーとしていくつかの作品に出演している。1963年の『[[枢機卿 (映画)|枢機卿]]』では[[アカデミー助演男優賞]]にノミネートされ、自作の『[[天地創造 (映画)|天地創造]]』では自ら[[ノア (聖書)|ノア]]を演じた。1970年代にはイタリアの[[B級映画]]に多く出演したが、もっとも有名な助演作品は、ロサンゼルス政界の非情かつ外道な黒幕ノア・クロスを演じた1974年の『[[チャイナタウン (映画)|チャイナタウン]]』([[ロマン・ポランスキー]]監督)であろう。<br />
<br />
生涯で5回結婚している。そして1度の死別を除いた4回はすべて離婚した。「人間、5回も結婚すべきでない」と晩年に反省の弁を残している。2人目までは映画界と無縁の女性だが、3人目は女優[[イヴリン・キース]](『[[風と共に去りぬ (映画)|風と共に去りぬ]]』で[[スカーレット・オハラ]]の妹役を演じた。イヴリンの名は偶然にも『チャイナタウン』で[[フェイ・ダナウェイ]]が演じたノア・クロスの娘イヴリン・モウレーと同じ)。4人目がバレリーナ、リッキー・ソマ。リッキーの事故死後、5人目の妻は[[メキシコ]]人女性。70歳を過ぎても、自分の子供のような年齢のメキシコ人女性と同棲していた。<br />
<br />
その他の私生活も豪快で、[[エロール・フリン]]と骨折沙汰の殴り合いを起こし、アフリカでのロケーション中には狩猟に熱中して映画撮影を放り出してしまうなど、奇想天外なエピソードを多く残している。<br />
<br />
[[シャトー・ムートン]]のラベルデザインを手掛けた。ヴィンテージは1982年。<br />
<br />
リッキー・ソマとの間の娘[[アンジェリカ・ヒューストン]]、俳優ゾーイ・サリスとの子[[ダニー・ヒューストン]]は俳優となった。<br />
<br />
== 主な監督作品 ==<br />
* [[マルタの鷹 (1941年の映画)|マルタの鷹]] ''[[:en:The Maltese Falcon (1941 film)|The Maltese Falcon]]'' (1941)<br />
* [[パナマの死角]] ''[[:en:Across the Pacific|Across the Pacific]]'' (1942) ※日本未公開<br />
* [[黄金 (1948年の映画)|黄金]] ''[[:en:The Treasure of the Sierra Madre (film)|The Treasure of the Sierra Madre]]'' (1948)<br />
* [[キー・ラーゴ (映画)|キー・ラーゴ]] ''[[:en:Key Largo (film)|Key Largo]]'' (1948)<br />
* [[アスファルト・ジャングル]] ''[[:en:The Asphalt Jungle|The Asphalt Jungle]]'' (1950)<br />
* [[アフリカの女王]] ''[[:en:The African Queen (film)|The African Queen]]'' (1951)<br />
* [[赤い風車]] ''[[:en:Moulin Rouge (1952 film)|Moulin Rouge]]'' (1952)<br />
* [[悪魔をやっつけろ]] ''[[:en:Beat the Devil (1953 film)|Beat the Devil]]'' (1953)<br />
* [[白鯨 (映画)|白鯨]] ''[[:en:Moby Dick|Moby Dick]]'' (1956)<br />
* [[許されざる者 (1960年の映画)|許されざる者]] ''[[:en:The Unforgiven (1960 film)|The Unforgiven]]'' (1960)<br />
* [[荒馬と女]] ''[[:en:The Misfits (film)|The Misfits]]'' (1961)<br />
* [[イグアナの夜]] ''[[:en:The Night of the Iguana|The Night of the Iguana]]'' (1964)<br />
* [[天地創造 (映画)|天地創造]] ''[[:en:The Bible|The Bible]]'' (1966) ※出演も<br />
* [[007 カジノロワイヤル (1967年の映画)|007 カジノロワイヤル]] ''[[:en:Casino Royale|Casino Royale]]'' (1967) ※出演も<br />
* [[ロイ・ビーン (映画)|ロイ・ビーン]] ''[[:en:The Life and Times of Judge Roy Bean|The Life and Times of Judge Roy Bean]]'' (1972) ※出演も<br />
* [[マッキントッシュの男]] ''[[:en:The MacKintosh Man|The MacKintosh Man]]'' (1972)<br />
* [[王になろうとした男 (映画)|王になろうとした男]] ''[[:en:The Man Who Would Be King|The Man Who Would Be King]]'' (1975)<br />
* [[勝利への脱出]] ''[[:en:Escape to Victory|Escape to Victory]]''(1980)<br />
* [[アニー (1982年の映画)|アニー]] ''[[:en:Annie|Annie]]'' (1982)<br />
* [[火山のもとで]] ''[[:en:Under the Volcano (film)|Under the Volcano]]'' (1984)<br />
* [[女と男の名誉]] ''[[:en:Prizzi's Honor|Prizzi's Honor]]'' (1985)<br />
* [[ザ・デッド/「ダブリン市民」より]] ''[[:en:The Dead|The Dead]]'' (1987)<br />
<br />
== その他の作品 ==<br />
=== 脚本 ===<br />
* [[ヨーク軍曹]] -''[[:en:Sergeant York|Sergeant York]]'' (1941)<br />
*[[オーソン・ウェルズINストレンジャー]]- The Stranger (1946)<br />
<br />
== 主な出演作品 ==<br />
* [[枢機卿 (映画)|枢機卿]] ''[[:en:The Cardinal|The Cardinal]]'' (1963)<br />
* [[キャンディ (1968年の映画)|キャンディ]] - ''[[:en:Candy (1968 film)|Cindy]]'' (1968)<br />
* [[マイラ]] ''[[:en:Myra Breckinridge|Myra Breckinridge]]'' (1970)<br />
* [[チャイナタウン (映画)|チャイナタウン]] ''[[:en:Chinatown|Chinatown]]'' (1974)<br />
* [[風とライオン]] ''[[:en:The Wind and the Lion|The Wind and the Lion]]'' (1975)<br />
* [[テンタクルズ]] - ''[[:en:Tentacles (film)|Tentacles]]'' (1977)<br />
* [[モモ (1986年の映画)|モモ]] ''[[:en:Momo (film)|Momo]]'' (1986)<br />
<br />
== 受賞歴 ==<br />
=== アカデミー賞 ===<br />
;受賞<br />
:[[第21回アカデミー賞|1949年]] [[アカデミー監督賞]]、[[アカデミー脚色賞]]:『[[黄金 (1948年の映画)|黄金]]』<br />
<br />
;ノミネート<br />
:[[第13回アカデミー賞|1941年]] [[アカデミー脚本賞]]:『[[偉人エーリッヒ博士]]』<br />
:[[第14回アカデミー賞|1942年]] アカデミー脚本賞:『[[ヨーク軍曹]]』<br />
:1942年 アカデミー脚色賞:『[[マルタの鷹 (1941年の映画)|マルタの鷹]]』<br />
:[[第23回アカデミー賞|1951年]] アカデミー監督賞、アカデミー脚色賞:『[[アスファルト・ジャングル]]』<br />
:[[第24回アカデミー賞|1952年]] アカデミー監督賞、アカデミー脚本賞:『[[アフリカの女王]]』<br />
:[[第25回アカデミー賞|1953年]] [[アカデミー作品賞]]、アカデミー監督賞:『[[赤い風車]]』<br />
:[[第30回アカデミー賞|1958年]] アカデミー脚色賞:『[[白い砂]]』<br />
:[[第36回アカデミー賞|1964年]] [[アカデミー助演男優賞]]:『[[枢機卿 (映画)|枢機卿]]』<br />
:[[第48回アカデミー賞|1976年]] アカデミー脚色賞:『[[王になろうとした男]]』<br />
:[[第58回アカデミー賞|1986年]] アカデミー監督賞:『[[女と男の名誉]]』<br />
<br />
=== 英国アカデミー賞 ===<br />
;受賞<br />
:[[第33回英国アカデミー賞|1980年]]:アカデミーフェローシップ賞<br />
<br />
;ノミネート<br />
:[[第28回英国アカデミー賞|1975年]] [[英国アカデミー賞 助演男優賞|助演男優賞]]:『[[チャイナタウン (映画)|チャイナタウン]]』<br />
<br />
=== ゴールデングローブ賞 ===<br />
;受賞<br />
:[[第6回ゴールデングローブ賞|1949年]] [[ゴールデングローブ賞 監督賞|監督賞]]:『[[黄金 (1948年の映画)|黄金]]』<br />
:[[第21回ゴールデングローブ賞|1964年]] [[ゴールデングローブ賞 助演男優賞|助演男優賞]]:『[[枢機卿 (映画)|枢機卿]]』<br />
:[[第43回ゴールデングローブ賞|1986年]] 監督賞:『[[女と男の名誉]]』<ref>ただし、ヒューストン本人はこの[[第43回ゴールデングローブ賞]]の式典に出席しておらず、代理人として彼の娘である[[アンジェリカ・ヒューストン]]が受賞している。</ref><br />
<br />
;ノミネート<br />
:[[第8回ゴールデングローブ賞|1951年]] 監督賞、[[ゴールデングローブ賞 脚本賞|脚本賞]]:『[[アスファルト・ジャングル]]』<br />
:[[第20回ゴールデングローブ賞|1963年]] 監督賞:『[[フロイド/隠された欲望]]』<br />
:[[第22回ゴールデングローブ賞|1965年]] 監督賞:『[[イグアナの夜]]』<br />
:[[第32回ゴールデングローブ賞|1975年]] 助演男優賞:『[[チャイナタウン (映画)|チャイナタウン]]』<br />
<br />
=== ニューヨーク映画批評家協会賞 ===<br />
;受賞<br />
:[[第14回ニューヨーク映画批評家協会賞|1948年]] [[ニューヨーク映画批評家協会賞 監督賞|監督賞]]:『[[黄金 (1948年の映画)|黄金]]』<br />
:[[第22回ニューヨーク映画批評家協会賞|1956年]] 監督賞:『[[白鯨 (映画)|白鯨]]』 <br />
:[[第51回ニューヨーク映画批評家協会賞|1986年]] 監督賞:『[[女と男の名誉]]』<br />
<br />
;ノミネート<br />
:[[第16回ニューヨーク映画批評家協会賞|1950年]] 監督賞:『[[アスファルト・ジャングル]]』<br />
:[[第17回ニューヨーク映画批評家協会賞|1951年]] 監督賞:『[[アフリカの女王]]』<br />
:1956年 [[ニューヨーク映画批評家協会賞|作品賞]]:『白鯨』<br />
:[[第53回ニューヨーク映画批評家協会賞|1988年]] 監督賞:『[[ザ・デッド/「ダブリン市民」より]]』<br />
<br />
== 関連書籍 ==<br />
*ジョン・ヒューストン『王になろうとした男』 [[清流出版]]、2006年、ISBN 4860291530<br />
<br />
== 脚注 ==<br />
{{脚注ヘルプ}}<br />
{{Reflist}}<br />
<br />
== 外部リンク ==<br />
{{Commonscat|John Huston|John Huston}}<br />
*{{allcinema name|541|ジョン・ヒューストン}}<br />
*{{Kinejun name|1067|ジョン・ヒューストン}}<br />
*{{IMDb name|0001379|John Huston}}<br />
<br />
{{ジョン・ヒューストン}}<br />
{{アカデミー賞監督賞 1941-1960}}<br />
{{アカデミー賞脚色賞 1941-1960}}<br />
{{ゴールデングローブ賞 監督賞}}<br />
{{ゴールデングローブ賞 助演男優賞}}<br />
{{ニューヨーク映画批評家協会賞 監督賞}}<br />
{{アカデミー賞授賞式の司会者}}<br />
{{ジェームズ・ボンド映画スタッフ}}<br />
{{Normdaten}}<br />
{{DEFAULTSORT:ひゆうすとん しよん}}<br />
[[Category:アメリカ合衆国の映画監督]]<br />
[[Category:西部劇映画の監督]]<br />
[[Category:007シリーズ映画の監督]]<br />
[[Category:アメリカ合衆国の脚本家]]<br />
[[Category:アメリカ合衆国の男優]]<br />
[[Category:アメリカ合衆国の映画俳優]]<br />
[[Category:アカデミー賞司会者]]<br />
[[Category:アカデミー賞受賞者]]<br />
[[Category:ゴールデングローブ賞受賞者]]<br />
[[Category:ハリウッド・ウォーク・オブ・フェーム]]<br />
[[Category:ミズーリ州の人物]]<br />
[[Category:ウェールズ系アメリカ人]]<br />
[[Category:スコットランド系アメリカ人]]<br />
[[Category:イングランド系アメリカ人]]<br />
[[Category:アイルランド系アメリカ人]]<br />
[[Category:1906年生]]<br />
[[Category:1987年没]]</div>
122.214.146.170
スパイク・リー
2018-09-11T15:03:41Z
<p>122.214.146.170: </p>
<hr />
<div>{{存命人物の出典明記|date=2014年11月18日 (火) 07:59 (UTC)}}<br />
{{ActorActress<br />
| 芸名 = Spike Lee<br />
| ふりがな = スパイク・リー<br />
| 画像ファイル =Spike Lee at the 2009 Tribeca Film Festival.jpg<br />
| 画像サイズ =200px<br />
| 画像コメント =2009年の[[トライベッカ映画祭]]にて<br />
| 本名 =Shelton Jackson Lee<br />
| 出生地 = {{USA}} [[ジョージア州]][[アトランタ]]<br />
| 死没地 = <br />
| 国籍 = <br />
| 身長 =<br />
| 血液型 =<br />
| 生年 =1957<br />
| 生月 =3<br />
| 生日 =20<br />
| 没年 =<br />
| 没月 =<br />
| 没日 =<br />
| 職業 =<br />
| 活動期間 =<br />
| 配偶者 =トーニャ・ルイス(1993年- )<br />
| 著名な家族 =<br />
| 事務所 =<br />
| 公式サイト =<br />
| 主な作品 = 『[[ドゥ・ザ・ライト・シング (映画)|ドゥ・ザ・ライト・シング]]』<br>『[[マルコムX (映画)|マルコムX]]』<br/>『[[25時]]』<br />
| アカデミー賞 = '''[[アカデミー名誉賞|名誉賞]]'''<br/>2015年<br />
| カンヌ国際映画祭 = '''[[カンヌ国際映画祭審査員特別グランプリ|グランプリ]]'''<br />[[第71回カンヌ国際映画祭|2018年]]『[[ブラッククランズマン]]』<br />'''[[エキュメニカル審査員賞]]'''<br/>[[第44回カンヌ国際映画祭|1991年]]『[[ジャングル・フィーバー]]』<br/>'''ユース賞(海外作品)'''<br/>[[第39回カンヌ国際映画祭|1986年]]『[[シーズ・ガッタ・ハヴ・イット]]』<br />
| ヴェネツィア国際映画祭 = '''[[監督・ばんざい!賞]]'''<br />[[第69回ヴェネツィア国際映画祭|2012年]]『''[[BAD 25]]''』<br />
| ロサンゼルス映画批評家協会賞 = '''[[ロサンゼルス映画批評家協会賞 監督賞|監督賞]]'''<br />[[第15回ロサンゼルス映画批評家協会賞|1989年]]『[[ドゥ・ザ・ライト・シング (映画)|ドゥ・ザ・ライト・シング]]』<br/>'''ニュー・ジェネレーション賞'''<br/>[[第12回ロサンゼルス映画批評家協会賞|1986年]]<br />
| エミー賞 = '''ノンフィクション番組賞'''<br />2007年『ウェン・ザ・リーブス・ブローク』<br />'''監督賞 (ノンフィクション番組部門)'''<br />2007年『ウェン・ザ・リーブス・ブローク』<br />
| 英国アカデミー賞 = '''特別賞'''<br/>[[第55回英国アカデミー賞|2001年]]<br />
| セザール賞 = '''名誉賞'''<br/>2003年<br />
| 備考 = <br />
}}<br />
'''“スパイク”シェルトン・ジャクソン・リー'''(Shelton Jackson "Spike" Lee, [[1957年]][[3月20日]] - )は、[[ジョージア州]][[アトランタ]]出身の[[映画監督]]、[[プロデューサー]]、[[作家]]、[[俳優]]である。発表する作品ごとに社会的・政治的な問題を扱い、論争を巻き起こす事で有名である。現在[[ニューヨーク大学]]と[[コロンビア大学]]、[[ハーバード大学]]で[[常勤]]の[[教授]]として[[映画]]について[[教鞭]]を執っている他、[[母校]]である[[モアハウス大学]]でも時折教壇に立っている。彼が設立した映画制作会社[[40エーカー・アンド・ア・ミュール・フィルムワークス]]は[[1983年]]以来35本の映画を公開している。<br />
<br />
== 経歴 ==<br />
[[ジョージア州]][[アトランタ]]で、[[ジャズ]]・ミュージシャンである父ウィリアム・ジェームス・エドワーズ・リー三世、通称[[ビル・リー (ミュージシャン)|ビル・リー]]と[[教師]]であると同時に作家でもある母ジャクリーン・シェルトンの間に生まれた。幼い頃に家族で[[ニューヨーク]]の[[ブルックリン区|ブルックリン]]に転居している。ブルックリンのフォート・グリーン地区は、彼が設立した映画製作会社である40エーカー・アンド・ア・ミュール・フィルムワークスが運営されている場所で、他にリー自身が所有するビジネス、リーに関連するビジネスの多くも同地区を本拠地にしている。リーは幼少期に母親に「スパイク」というあだ名をつけられた。ブルックリンのジョン・デウェイ高校に通った後、最初の作品『ラスト・ハッスル・イン・ブルックリン』を製作した頃には、アトランタの[[モアハウス大学]]で学んでいた。彼は[[クラーク・アトランタ大学]]でも映画のコースを取り、モアハウス・カレッジで[[マスメディア|マスコミ]][[学士]]の[[学位]]を取得した。その後[[ニューヨーク]]に戻り、[[ニューヨーク大学]]の[[ティッチ・スクール・オブ・アート]]に入学し、[[1982年]]に[[ファインアート|ファインアーツ]]の[[修士]]を得て卒業している。<br />
<br />
彼が大学院卒業課題のために製作した[[映画]]は『[[ジョーズ・バーバー・ショップ]]』で、学生が製作した映画として初めて[[リンカーン・センター]]でのニュー・ディレクター・ニュー・フィルム・フェスティバルに出品された。この映画は全米の大学生・大学院生を対象にした学生アカデミー賞でも大賞を受賞している。[[1985年]]、スパイク・リーは初めての商業映画に挑戦した。『[[シーズ・ガッタ・ハヴ・イット]]』は予算16万ドルで製作され公開期間はわずかに2週間という悪条件にもかかわらず、翌[[1986年]]に公開された時には700万ドルを超える興行成績を残しスパイク・リーの才能のほどを世間に知らしめた。<br />
<br />
『シーズ・ガッタ・ハヴ・イット』の成功が、スパイク・リーの[[コマーシャルメッセージ|CM]][[監督]]としての新たな[[経歴|キャリア]]につながっていく。『シーズ・ガッタ・ハヴ・イット』を見たスポーツシューズ・メーカー[[ナイキ]]のマーケティング部門が、ナイキのCM撮影を彼に依頼したのである。ナイキは、『シーズ・ガッタ・ハヴ・イット』に登場する[[マイケル・ジョーダン]]狂のキャラクター、マーズ・ブラックモン(リー本人が演じた)を[[エア・ジョーダン]]のCMでジョーダン本人と共演させようと考えたのだった。<br />
<br />
その後、エア・ジョーダンを巡って、暴力事件が[[インナーシティ]]で多発する事態になると、スパイク・リーは批判の矢面に立たされることになる。リーは、責められるべきは[[アパレル]]メーカー側でなく、「インナーシティーの若者がスニーカーとジャケットと金細工のアクセサリーくらいにしか価値を見出せない状況こそが改善されなければならないのだ」と反論している。リーは自身の製作会社の広告制作部門で[[コンバース]]、[[ジャガー (自動車)|ジャガー]]、[[タコベル]]、[[ベン・アンド・ジェリーズ]]のCMを制作した。<br />
<br />
スパイク・リーの映画は人間や場所を描き出すものである。[[人種]]間の関係、現代におけるメディアの役割、都市部の犯罪と貧困、そして政治的な問題を見据える。彼は多くの作品で特徴ある音楽の使い方をしている。彼の父親ビルは著名なジャズ・ベーシストで、スパイク・リーのいくつかの作品で音楽を担当している。例を挙げると、後にスパイク・リーと盟友関係を築く事になる[[デンゼル・ワシントン]]主演の[[ジャズ]]映画『[[モ'・ベター・ブルース]]』があり、ビル・リーは終盤の結婚式のシーンで花嫁の父親役として出演もしている。花嫁役のインディゴ・ダウンズ演じる[[ジョイ・リー]]はビル・リーの娘でありスパイクの実妹である。<br />
<br />
[[1989年]]、スパイク・リーは自身の監督作『[[ドゥ・ザ・ライト・シング (映画)|ドゥ・ザ・ライト・シング]]』で[[アカデミー脚本賞]]にノミネートされた。また[[1997年]]、ドキュメンタリー映画『''4 Little Girls''』では[[アカデミー長編ドキュメンタリー映画賞]]にノミネートされた。<br />
<br />
[[2015年]]、第7回ガバナーズ賞・[[アカデミー賞]]名誉賞を受賞<ref>{{cite web|url=http://eiga.com/news/20151117/7/|title=ガバナーズ賞授賞式にアカデミー賞候補が結集|publisher=映画.com|date=2015-11-17|accessdate=2015-11-17}}</ref>。しかし後述の理由のとおり、アカデミー賞授賞式には出席しない意向を示した。<br />
<br />
== 論争 ==<br />
スパイク・リーは今までどんな論争にさらされようとも、[[人種]]間の関係について語ることを恐れたことはない。[[1992年]]、自身が制作した映画『[[マルコムX (映画)|マルコムX]]』を観るために学校を抜け出したとして糾弾されていた数名の黒人生徒を擁護した。その10年後には、[[ミシシッピ州]]上院議員で[[右派]]の[[トレント・ロット]]が「[[1948年]]に[[ストロム・サーモンド]]が大統領候補者に当選していれば良かった」と語った事件([[ストロム・サーモンド#晩年|サーモンドの項]]を参照)が紙面を騒がせた後、リーは[[アメリカン・ブロードキャスティング・カンパニー|ABCテレビ]]の看板番組『[[グッド・モーニング・アメリカ]]』でロットが正真正銘の[[クー・クラックス・クラン|KKK]]メンバーであると非難した<ref>[http://abcnews.go.com/Entertainment/story?id=101153&page=1 "Spike Lee Blasts Trent Lott" ABC News; December 19, 2002.]</ref>。<br />
<br />
スパイク・リーは[[1995年]]公開の映画『[[ニュージャージー・ドライブ]]』で[[エグゼクティブプロデューサー]]を勤めた。この映画では[[ニュージャージー州]]に住む[[アフリカ系アメリカ人]]の[[自動車]][[窃盗]]について描いている。当時、同州[[ニューアーク (ニュージャージー州)|ニューアーク]]では全米で最も多く自動車泥棒が発生しており、当時のニューアーク[[市長]]シャープ・ジェームスはニューアーク市内でこの映画の撮影を許可しなかった。数年後の[[2002年]]、スパイク・リーはニューアーク市市長選でジェームスの敵対候補者コリー・ブーカーの支持を表明した。<br />
<br />
[[1999年]]5月、[[カンヌ国際映画祭]]でスパイク・リー初の非黒人映画『[[サマー・オブ・サム]]』が公開され、リーは[[コロンバイン高校銃乱射事件]]について[[ハリウッド]]が受けている非難について質問された。リーは映画とテレビが問題だとは思わないと答えた。映画とテレビが青少年に与える影響についてインタビューされたリーは、米国の銃の問題が解決していないことについて語り、例として[[全米ライフル協会]]の名を挙げた。リーはこの件について詳しく語っている。<br />
<br />
「彼らが『じゃあ[[チャールトン・ヘストン]]についてはどうなんだ?』って訊いたから、『奴を撃て!』と言ったのさ。でもすぐに笑いながら『冗談だよ』って言ったんだよ。暴力が暴力を呼ぶことに対する単なる皮肉な[[ジョーク]]だったのさ」。メジャーなマスコミに以前から誤った解釈をされてきたため、リーはさらに続けて周りに集まったリポーター達に冗談を言った。「明日の朝は起きたくないな。朝刊の一面には俺がどれほどチャールストン・ヘストンを撃ってやりたいと思っているかって書かれるだろうからさ」<br />
<br />
皮肉なことに、それは現実のものになった。[[保守派]]の擁護者である[[ルパート・マードック]]が所有している有力紙『[[ニューヨーク・ポスト]]』は、状況説明を省いてまるでリーが実際にへストンの死を望んでいるかのように書いた。この話は[[アメリカ議会]]にまで届き、[[共和党 (アメリカ合衆国)|共和党]]の代表ディック・アーメイは、リーは「教育現場における暴力問題についてより多くの暴力とより強い憎しみ以外に何も提供するものがない」と非難する声明を出した。リーが何度もメディアに出たり新聞社に話して訂正をしたにもかかわらず、実際の引用よりも誤った引用のほうが広く知られたままになっている<ref>[http://www.salon.com/ent/log/1999/05/28/spike/index.html "Living foot to mouth"; salon.com; May 28, 1999.] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20080623115810/https://www.salon.com/ent/log/1999/05/28/spike/index.html |date=2008年6月23日 }}</ref>。<br />
<br />
さらに最近では、リーは[[2005年]]にアメリカ中西部を襲った[[ハリケーン・カトリーナ]]災害に対する[[連邦政府 (アメリカ)|連邦政府]]の対応について意見を述べている。[[CNN]]の[[ニュースキャスター]]が連邦政府はハリケーン・カトリーナの災害で苦境にある黒人を見捨てたと思うかと訊ねると、リーは「ありえない話というわけでもない。俺はアメリカ政府を信用していないから。彼らが黒人全員を[[ニューオーリンズ]]から移動させようとしているとしてもありえない話じゃないと思う」と答えている<ref>[http://youtube.com/watch?v=R7j0SqSn14A Clip of Lee expressing his views of the Hurricane Katrina and Tuskegee matters on ''Real Time with Bill Maher'']</ref>。この後、スパイク・リーはハリケーン・カトリーナの[[災害]]を主題にした[[ドキュメンタリー]]『ウェン・ザ・リーヴス・ブローク』を監督している。<br />
<br />
また[[2006年]]に公開された[[クリント・イーストウッド]]の映画『[[父親たちの星条旗]]』、『[[硫黄島からの手紙]]』について、黒人俳優が出演していない事を理由にイーストウッドを人種差別主義者と決め付け、イーストウッドがそれに反論したことから両者とも激しい舌戦を繰り広げたが、[[スティーヴン・スピルバーグ]]が両者の仲介を引き受ける形で間に立ち[[和解]]した、とスパイク・リーは最新作『[[セントアンナの奇跡]]』が公開された後の[[インタビュー]]で答えていると同時に、舌戦を後悔した、とも語っている。現在では両者とも良好な関係を維持している(なお、[[人種差別]]が当然のように行われていた当時の[[アメリカ軍]]において、黒人兵が戦闘兵科に付いたのは前年12月[[ヨーロッパ]]戦線における[[バルジの戦い]]前後からのことであり、[[硫黄島の戦い|硫黄島攻略戦]]当時においても黒人兵はアメリカ軍上陸部隊の1%に満たなかった)。<br />
<br />
2015年には[[アカデミー賞]]名誉賞を受賞したが、俳優部門候補者(20人)が2年連続で白人のみとなったことを理由として、2016年2月に開催されるアカデミー賞授賞式には出席しない意向を表明。アカデミー賞を狙えるような役柄に[[社会的少数者|マイノリティー]]の役者が配役されないのは映画会社の責任と非難した<ref>{{Cite news<br />
| url=http://jp.reuters.com/article/academy-boycott-idJPKCN0UX0SN<br />
| title=アカデミー賞候補「白人独占」に抗議、リー監督らボイコット表明<br />
| work=ロイター<br />
| publisher=[[ロイター]]<br />
| date=2016-01-19<br />
| accessdate=2016-01-23<br />
}}</ref><ref>{{Cite news<br />
| url=http://www.afpbb.com/articles/-/3073657<br />
| title=白人独占のアカデミー賞、スパイク・リー監督がボイコット表明<br />
| work=AFPBB News<br />
| publisher=[[フランス通信社]]<br />
| date=2016-01-19<br />
| accessdate=2016-01-23<br />
}}</ref>。<br />
<br />
== 私生活 ==<br />
スパイク・リーは[[1993年]][[10月3日]]、[[ハーレム (ニューヨーク市)|ハーレム]]のリバーサイド教会で[[弁護士]]のトーニャ・ルイス(現在は[[トーニャ・ルイス・リー]])と結婚。彼女とは、1992年9月の黒人政党支部会の年次総会があった週末、[[ワシントンD.C.]]で出会った。2人は支部の晩餐会に出席しており、彼女は妹のトレイシーと出席していた。彼女は、サラ・ローレンスからバージニア大学の法学部を卒業していた。スパイクは、著書『スパイク・リーのバスケットボール・ダイアリー』の中で、「彼女のはっとするような美しさに思わずのけぞった」と語っている。2人の結婚式には数百人の招待客が詰め掛け、親友の[[デンゼル・ワシントン]]は勿論、[[NBA]]選手の[[パトリック・ユーイング]]など、親交の深い著名な人物が多く出席し、[[スティーヴィー・ワンダー]]が2人を祝福して歌った。<br />
<br />
[[1994年]][[12月2日]]に第一子である女の子サッチェル<ref name="timesatchel">{{cite news |title= Milestones |url= |publisher=''Time Magazine'' |date=1994-12-19 |accessdate=2007-07-22 }}</ref>、[[1997年]]には息子のジャクソンを授かった。<br />
<!--ニューヨーク・フィルム・スクールで映画学を教えており、自分の論評を注意して聞くよう生徒に教えている。--><br />
<br />
自身とバスケットボールについて何冊も本を出版している程のバスケ好きで、特に[[NBA]]の[[ニューヨーク・ニックス]]の熱狂的ファンとして有名である。ニックスの試合はいつも最前列で観戦し、相手チームの選手に野次を飛ばすことも多い。[[1994年]]の[[NBAカンファレンスファイナル|東部カンファレンスファイナル]]の第5試合で[[インディアナ・ペイサーズ]]に93対86でニックスが負けたとき、リーはペイサーズの[[レジー・ミラー]]に対して第4クォーターの間じゅう罵倒嘲弄を繰り返し、それに応酬する形でミラーが次々とシュートして25点も加算したため、翌日の『ニューヨーク・デイリー・ニュース』紙の一面には皮肉たっぷりに「どうもありがとう、スパイク」と書かれていた、ということもあった。<br />
<br />
== エピソード ==<br />
* [[マイケル・ムーア]]監督の問題作『[[ボウリング・フォー・コロンバイン]]』が[[2002年]]で一番気に入った映画だった。<br />
* 車の[[免許]]を取得した事は一度もない。<br />
* 自身の監督作の多くに[[カメオ出演]]している。<br />
* 自分の作品を常に「ア・スパイク・リー・ジョイント(A Spike Lee Joint)」と表記している。<br />
* 彼の映画に出演する俳優は「プレイヤー(players)」と表記されている。<br />
* 結婚前、モデルの[[ヴェロニカ・ウェブ]]とデートをしている。<br />
* 母方の祖母ジミー・シェルトンは[[1929年]]に名門女子大学の[[スペルマン・カレッジ]]を卒業している。<br />
* [[1986年]]に初の長編映画『[[シーズ・ガッタ・ハヴ・イット]]』を製作する時、ジミー・シェルトンは資金面で全面的に援助した。<br />
* 映画プロデューサーで映画監督の[[モンティ・ロス]]とはしばしば一緒に仕事をしており、2人は[[ジョージア州]]の[[モアハウス大学]]を一緒に[[卒業]]している。<br />
* [[イギリス]]のサッカークラブ、[[アーセナルFC]]のファンである。<br />
<br />
== 主な映画作品 ==<br />
=== 監督 ===<br />
* [[ジョーズ・バーバー・ショップ]] ''Joe's Bed-Stuy Barbershop: We Cut Heads'' (1982年)<br />
* [[シーズ・ガッタ・ハヴ・イット]] ''She's Gotta Have It'' (1986年)<br />
* [[スクール・デイズ (映画)|スクール・デイズ]] ''School Daze'' (1988年) <br />
* [[ドゥ・ザ・ライト・シング (映画)|ドゥ・ザ・ライト・シング]] ''Do the Right Thing'' (1989年)<br />
* [[モ'・ベター・ブルース]] ''Mo' Better Blues'' (1990年)<br />
* [[ジャングル・フィーバー]] ''Jungle Fever'' (1991年)<br />
* [[マルコムX (映画)|マルコムX]] ''Malcolm X'' (1992年)<br />
* [[クルックリン]] ''Crooklyn'' (1994年)<br />
* [[クロッカーズ]] ''Clockers'' (1995年)<br />
* [[キング・オブ・フィルム/巨匠たちの60秒]] ''Lumiere et Compagnie'' (1995年) オムニバス作品<br />
* [[ガール6]] ''Girl 6'' (1996年)<br />
* [[ゲット・オン・ザ・バス]] ''Get on the Bus'' (1996年)<br />
* ''[[:en:4 Little Girls|4 Little Girls]]'' (1997年) 日本未公開<br />
* [[ラストゲーム]] ''He Got Game'' (1998年)<br />
* [[サマー・オブ・サム]] ''Summer of Sam'' (1999年)<br />
* [[キング・オブ・コメディ (2000年の映画)|キング・オブ・コメディ]] ''The Original Kings of Comedy'' (2000年)<br />
* [[バンブーズルド]] ''[[:w:Bamboozled|Bamboozled]]'' (2000年)<br />
* [[25時]] ''25th Hour'' (2002年)<br />
* [[10ミニッツ・オールダー|10ミニッツ・オールダー 人生のメビウス「ゴアVSブッシュ」]] ''Ten Minutes Older: The Trumpet'' (2002年) オムニバス作品<br />
* [[セレブの種]] ''She Hate Me'' (2004年)<br />
* [[それでも生きる子供たちへ]] ''Les Enfants Invisibles'' (2005年) オムニバス作品<br />
* [[インサイド・マン]] ''Inside Man'' (2006年)<br />
* [[セントアンナの奇跡]] ''Miracle at St. Anna'' (2008年)<br />
* ''[[:en:Red Hook Summer|Red Hook Summer]]'' (2012年) 日本未公開<br />
* ''[[:en:Bad 25|Bad 25]]''(2012年) 日本未公開<br />
* [[オールド・ボーイ (2013年の映画)|オールド・ボーイ]] ''Oldboy'' (2013年)<br />
* {{仮リンク|シャイラク|en|Chi-Raq}} ''Chi-Raq'' (2015年)<br />
* [[ロドニー・キング (映画)|ロドニー・キング]] ''Rodney King'' (2017年)<br />
<br />
=== テレビスペシャル ===<br />
* ドゥ・イット・アカペラ<ref>http://www.discogs.com/Various-Spike-Co-Do.../638244</ref>(1990,公共放送PBS)<br />
<br />
=== 製作・製作総指揮 ===<br />
* [[ドロップ・スクワッド]] ''Drop Squad''(1994年)<br />
* [[ニュージャージー・ドライブ]] ''New Jersey Drive''(1995年)<br />
* [[ベストマン]] ''The Best Man''(1999年)<br />
* [[ワン・オン・ワン ファイナル・ゲーム]] ''Love & Basketball''(2000年)<br />
* [[ヴァニシング・チェイス]] ''3 A.M''(2001年)<br />
* [[アリーケの詩]] ''Pariah''(2011年)<br />
<br />
=== 重要なサウンド・トラック ===<br />
* [[スクール・デイズ (映画)|スクール・デイズ]](1988年):EUなどを収録 <br />
* [[ドゥ・ザ・ライト・シング (映画)|ドゥ・ザ・ライト・シング]](1989年):パブリック・エネミー、ガイなどを収録<br />
<br />
=== 出演 ===<br />
* [[モハメド・アリ かけがえのない日々]] ''When We Were Kibgs''(1996年)<br />
<br />
== 脚注 ==<br />
{{reflist}}<br />
<br />
== 関連項目 ==<br />
* [[マルコムX]]<br />
* [[マーティン・ルーサー・キング]]<br />
* [[40エーカーとラバ1頭]]<br />
* [[ヒップホップ]]<br />
* [[ニュー・ジャック・スウィング]]<br />
* [[R&B]]<br />
* [[ジャズ]]<br />
* [[テレンス・ブランチャード]] - 多数のスパイク・リー監督作品のサウンドトラックを作曲。<br />
<br />
== 関連文献 ==<br />
* [http://eiga.com/buzz/20080911/5/ スパイク・リーがクリント・イーストウッドとの舌戦を後悔!]<br />
<br />
== 外部リンク ==<br />
{{Commonscat|Spike Lee|Spike Lee}}<br />
* {{allcinema name|12836|スパイク・リー}}<br />
* {{Kinejun name|24832|スパイク・リー}}<br />
* {{IMDb name|0000490|Spike Lee}}<br />
* [http://www.tonyalewislee.com/ スパイク・リーの妻トーニャが運営しているホームページ]{{en icon}}<br />
<br />
{{スパイク・リー監督作品}}<br />
{{アカデミー名誉賞}}<br />
{{ロサンゼルス映画批評家協会賞 監督賞}}<br />
{{Normdaten}}<br />
{{Film-director-stub}}<br />
{{DEFAULTSORT:りい すはいく}}<br />
[[Category:アメリカ合衆国の映画監督]]<br />
[[Category:アメリカ合衆国の脚本家]]<br />
[[Category:アメリカ芸術科学アカデミー会員]]<br />
[[Category:ニューヨーク大学の教員]]<br />
[[Category:コロンビア大学の教員]]<br />
[[Category:ハーバード大学の教員]]<br />
[[Category:アフリカ系アメリカ人]]<br />
[[Category:アトランタ出身の人物]]<br />
[[Category:1957年生]]<br />
[[Category:存命人物]]</div>
122.214.146.170
小林正樹
2018-09-08T08:44:52Z
<p>122.214.146.170: </p>
<hr />
<div>{{Otheruses|映画監督の小林正樹|演出家|小林正樹 (演出家)|[[内山田洋とクール・ファイブ]]のメンバー|内山田洋とクール・ファイブ|俳優|小林正樹 (俳優)}}<br />
{{ActorActress<br />
| 芸名 = 小林 正樹<br />
| ふりがな = こばやし まさき<br />
| 画像ファイル = Masaki Kobayashi.jpg<br />
| 画像サイズ = 250px<br />
| 画像コメント = 新潮社『芸術新潮』3月号(1953)より<br />
| 別名義 = <br />
| 出生地 = {{JPN}}・[[北海道]]小樽区(現・[[小樽市]])<br />
| 死没地 =<br />
| 国籍 = <br />
| 民族 = <br />
| 身長 =<br />
| 血液型 = <br />
| 生年 = 1916<br />
| 生月 = 2<br />
| 生日 = 14<br />
| 没年 = 1996<br />
| 没月 = 10<br />
| 没日 = 4<br />
| 職業 = [[映画監督]]<br />
| ジャンル = <br />
| 活動期間 = <br />
| 活動内容 = <br />
| 配偶者 = <br />
| 著名な家族 = <br />
| 事務所 =<br />
| 公式サイト = <br />
| 主な作品 =[[人間の條件 (映画)|人間の條件]]<br/>[[切腹 (映画)|切腹]]<br/>[[怪談 (1965年の映画)|怪談]]<br/>[[上意討ち 拝領妻始末]]<!--皆が認める代表作品を入力--><br />
| カンヌ国際映画祭 = '''[[カンヌ国際映画祭 審査員特別グランプリ|審査員特別賞]]'''<br />[[第16回カンヌ国際映画祭|1963年]] 『[[切腹 (映画)|切腹]]』<br />[[第18回カンヌ国際映画祭|1965年]] 『[[怪談 (1965年の映画)|怪談]]』<br />
| ヴェネツィア国際映画祭 = '''[[ヴェネツィア国際映画祭 FIPRESCI賞|国際映画批評家連盟賞]]'''<br />1967年 『[[上意討ち 拝領妻始末]]』<br />'''[[サン・ジョルジョ賞]]'''<br />1960年 『[[人間の條件 (映画)|人間の條件]]』<br />
| ベルリン国際映画祭 = '''国際映画批評家連盟賞'''<br />[[第35回ベルリン国際映画祭|1985年]] 『東京裁判』<br />
| 日本アカデミー賞 = '''会長特別賞'''<br />[[第20回日本アカデミー賞|1996年]]<br />
}}<br />
'''小林 正樹'''(こばやし まさき、[[1916年]][[2月14日]] - [[1996年]][[10月4日]])は日本の[[映画監督]]。<br />
<br />
==人物・来歴==<br />
[[北海道]]小樽区(現・[[小樽市]])に会社員の息子として生まれる。女優[[田中絹代]]の[[はとこ|又従弟]]<ref>[http://www.aa.alpha-net.ne.jp/kinuyo21/kyoukai/kyoukai.htm NPO法人 田中絹代メモリアル協会とは] [http://www.aa.alpha-net.ne.jp/kinuyo21/top.htm NPO法人田中絹代メモリアル協会公式サイト]内</ref><ref>[[倉本聰]]『愚者の旅 わがドラマ放浪』[[理論社]]、2002年、p.137.</ref>に当たる。[[早稲田大学]][[文学部]]哲学科で東洋美術を専攻し、[[会津八一]]に師事する。在学中に田中絹代に誘われて映画『桑の實は紅い』([[清水宏 (映画監督)|清水宏]]監督)のロケ現場に1ヶ月参加する。[[1941年]](昭和16年)[[早稲田大学]]卒業。卒業論文は「[[室生寺]]建立年代の研究」。<br />
<br />
同年に[[松竹大船撮影所]][[助監督 (映画スタッフ)|助監督]]部に入社する。同期には[[野村芳太郎]]がいた。入社試験に際しては、親しい間柄であった田中絹代に紹介を頼んだが、「映画界は実力がなければ通用しない」と諭され、田中の縁者であることを隠し通したという。同年、『暁の合唱』(清水宏監督)、『風薫る庭』([[大庭秀雄]]監督)に助監督として就いたのち、応召する。満州においてソ連国境線の警備にあたる。軍務の合間を縫ってシナリオ『防人』を執筆。[[1944年]](昭和19年)に[[宮古島]]へ移動、[[飛行場]]建設作業に従事する。<br><br />
[[1945年]](昭和20年)、宮古島で終戦を迎えるが、労働要員として沖縄本島嘉手納捕虜収容所に収容される。<br />
<br />
[[1946年]](昭和21年)に復員して[[松竹]]大船撮影所に戻り、[[1947年]](昭和22年)助監督として[[木下恵介]]監督につく。<br><br />
[[1948年]](昭和23年)の『[[破戒 (小説)#1948年版|破戒]]』から『日本の悲劇』まで11作品でチーフを務め、木下門下の優等生と呼ばれた。[[1952年]](昭和27年)、中編『息子の青春』を監督し、[[1953年]](昭和28年)木下が脚本を手がけた『まごころ』で正式に監督に昇進。同年[[安部公房]]の脚本により、無実の罪で投獄された[[BC級戦犯]]を描いた重厚な作品『壁あつき部屋』を監督するが、アメリカ合衆国への配慮から[[1956年]](昭和31年)まで公開が見送られた。その後、[[プロ野球]]の内幕を暴露した『[[あなた買います]]』や、基地の町の退廃を描写した[[1957年]](昭和32年)『[[黒い河]]』などが評価される。<br />
<br />
[[1959年]](昭和34年)から[[1961年]](昭和36年)の3年間にかけて公開された『[[人間の條件 (映画)|人間の條件]]』は、[[五味川純平]]原作の大長編反戦小説「[[人間の條件 (小説)|人間の條件]]」の映画化で、長きに渡る撮影期間と莫大な製作費をつぎ込み、6部作、9時間31分の超大作となった。完成した作品は、戦時中の[[日本軍]]の暴虐と、それに反抗した[[インテリ]]兵の逆境と敗戦、逃亡、死を見事に描ききり、毎日芸術賞、[[毎日映画コンクール]]監督賞、[[ヴェネツィア国際映画祭]][[サン・ジョルジョ賞]]を受賞する。続く[[1962年]](昭和37年)、[[滝口康彦]]の小説「異聞浪人記」を原作にした[[橋本忍]]の脚本を得、自身でも「自作の中で最も密度が高い」と豪語した初の時代劇『[[切腹 (映画)|切腹]]』で[[カンヌ国際映画祭]]審査員特別賞を受賞。続いて[[小泉八雲]]の原作『[[怪談 (小泉八雲)|怪談]]』を[[オムニバス]]方式で映画化した初のカラー作品『[[怪談 (1965年の映画)|怪談]]』は3時間の大作で、2度目のカンヌ国際映画祭審査員特別賞を受けたほか、[[アカデミー賞]]外国語映画賞にノミネートされ、日本映画史上屈指の傑作と絶賛された。撮影は廃屋となっていた航空機の格納庫に大規模なセットを組んで行われ、ホリゾントに描かれた空の絵などに、美術を担当した[[戸田重昌]]の才気が光り、[[武満徹]]による音楽は、画や演技との掛け合いを行う音響のような効果を存分に発揮し、幻想的な世界を作り上げた。しかし、大規模なセット、長期に亘る撮影、スタッフ・キャストほか800名にもおよぶ大編成のため、製作費が大幅に膨らみ、多くの名作を世に送ってきた独立プロダクション「[[文芸プロダクションにんじんくらぶ]]」は、多額の負債を抱えて倒産するという憂き目に合う。<br />
<br />
[[1965年]](昭和40年)松竹を退社して[[東京映画]]と契約し、[[1967年]](昭和42年)[[三船プロ]]第1作となる『[[上意討ち 拝領妻始末]]』を監督して、ヴェネツィア国際映画祭で国際映画批評家連盟賞を受賞、[[キネマ旬報#キネマ旬報ベスト・テン|キネマ旬報ベスト・ワン]]となった。[[1968年]](昭和43年)の『日本の青春』のあとフリーとなり、[[1969年]](昭和44年)には[[黒澤明]]、木下恵介、[[市川崑]]とともに「[[四騎の会]]」を結成。[[1971年]](昭和46年)にはカンヌ国際映画祭で25周年記念として世界10大監督の1人として功労賞を受賞。同年から俳優座映画放送製作『[[いのちぼうにふろう]]』を監督や[[井上靖]]の長編小説をテレビドラマ化と同時に映画も製作した[[1975年]](昭和50年)の『化石』などといった話題作を発表。<br />
<br />
[[1982年]](昭和57年)には足掛け5年の歳月をかけて米国国防総省の保管フィルムや内外のニュース映像などをつなぎ合わせ、[[極東国際軍事裁判]]の長編記録映画『[[東京裁判 (映画)|東京裁判]]』を完成させた。『東京裁判』は、[[立花隆]]などから肯定的な評価を得た一方、[[南京大虐殺|南京事件]]に関する映像に中国・国民政府が作成した信憑性の低い『[[中国之怒吼]]』のフィルムを挿入した事が批判を受けるなど、評価が分かれた(ただし作品中では『これは中国側のフィルムである』というクレジットを表記し、中立性に配慮を行っている)。この間、井上靖原作の「[[敦煌 (小説)|敦煌]]」の映画企画を長年温め、脚本も完成していたが、製作を決定した新生[[大映]]社長の[[徳間康快]]とのあいだで方針の食い違いを生じ、断念せざるをえなかった。[[1985年]](昭和60年)[[円地文子]]原作の[[連合赤軍]]事件を題材にした『[[食卓のない家]]』を監督。これが最後の映画監督作品になる。<br />
<br />
小林は、癌を患っていた又従姉である女優・田中絹代の晩年の面倒を看た。身寄りがない田中は借金をしており、邸宅が抵当に入っていた。そのため、小林は、田中の法的な相続権もなく賃貸借の証文もないまま、田中のために奔走し、小林自らが借金をして抵当権を解除、田中の入院費をも負担した<ref>倉本聰『愚者の旅 わがドラマ放浪』理論社、2002年、pp.137-139.</ref>。田中の死後の1985年(昭和60年)に小林自身が病気で倒れた際には急遽、彼の働きで[[毎日映画コンクール]]に[[田中絹代賞]]が創設され、[[日本映画]]界の発展に貢献した女優に授与されることとなった。晩年は大学時代の恩師会津八一の[[伝記映画]]の準備をしていたが、[[1996年]](平成8年)10月4日、[[心筋梗塞]]のため[[東京都]][[世田谷区]]の自宅で80歳で死去。遺骨は、[[神奈川県]][[鎌倉市]]の[[円覚寺]]と、絹代の出生地であり墓がある[[山口県]][[下関市]]の市営下関中央霊園に分骨されている。<br />
<br />
== 作品 ==<br />
=== 監督作品 ===<br />
* [[息子の青春]](1952年)<br />
* [[まごころ (1953年の映画)|まごころ]](1953年)<br />
* [[この広い空のどこかに]](1954年)<br />
* [[三つの愛]](1954年)<br />
* [[美わしき歳月]](1955年)<br />
* [[壁あつき部屋]](1956年)<br />
* [[あなた買います]](1956年)<br />
* [[泉 (1953年の映画)|泉]](1956年)<br />
* [[黒い河]](1957年)<br />
* [[人間の條件 (映画)|人間の條件]]・第一・第二部(1959年)<br />
* 人間の條件・第三・第四部(1959年)<br />
* 人間の條件・完結篇(1961年)<br />
* [[からみ合い]](1962年)<br />
* [[切腹 (映画)|切腹]](1962年)<br />
* [[怪談 (1965年の映画)|怪談]](1965年)<br />
* [[上意討ち 拝領妻始末]](1967年)<br />
* [[日本の青春]](1968年)<br />
* [[いのちぼうにふろう]](1971年)<br />
* [[化石 (四騎の会ドラマシリーズ)|化石]](1975年)<br />
* [[燃える秋]](1978年)<br />
* [[東京裁判 (映画)|東京裁判]](1983年)<br />
* [[食卓のない家]](1985年)<br />
<br />
=== その他の映像作品 ===<br />
* [[破れ太鼓]]([[1949年]][[12月7日]]公開、[[木下惠介]]監督、[[松竹]]) - 脚本<br />
* [[どですかでん]]([[1970年]][[10月31日]]公開、[[黒澤明]]監督、[[東宝]]) - 企画<br />
* [[どら平太]]([[2000年]][[5月13日]]公開、[[市川崑]]監督、東宝) - 脚本<br />
<br />
== 評伝 ==<br />
* 『映画監督 小林正樹』(小笠原清・梶山弘子編、[[岩波書店]]、2016年12月<ref>東京の[[世田谷文学館]]で「小林正樹展」が開催された(2016年7月16日-9月15日)</ref>)<ref>{{cite news|url=http://natalie.mu/eiga/news/214165|title=小林正樹の全貌に迫る書籍発売、木下惠介による講演や仲代達矢の寄稿文も収録|newspaper=映画ナタリー|date=2016-12-21|accessdate=2016-12-22}}</ref><br />
** 知人の回想、本人へのインタビュー、戦時中の日記などを収録。<br />
<br />
== 脚注 ==<br />
{{Reflist}}<br />
<br />
== 外部リンク ==<br />
* {{allcinema name|120245|小林正樹}}<br />
* {{Kinejun name|90102|小林正樹}}<br />
* {{jmdb name|0181910|小林正樹}}<br />
* {{IMDb name|0462030|Masaki Kobayashi}}<br />
* [http://aizuyaichi.or.jp/person/532/ 小林正樹 | 新潟市會津八一記念館]<br />
* [http://www.cinemaclassics.jp/kobayashi_masaki/ 映画監督小林正樹オフィシャルサイト(松竹公式)]<br />
<br />
{{毎日芸術賞}}<br />
{{毎日映画コンクール監督賞}}<br />
{{キネマ旬報ベスト・テン日本映画監督賞}}<br />
{{Normdaten}}<br />
<br />
{{デフォルトソート:こはやし まさき}}<br />
[[Category:日本の映画監督]]<br />
[[Category:松竹の人物]]<br />
[[Category:東宝の人物]]<br />
[[Category:早稲田大学出身の人物]]<br />
[[Category:太平洋戦争の人物]]<br />
[[Category:捕虜となった人物]]<br />
[[Category:北海道出身の人物]]<br />
[[Category:1916年生]]<br />
[[Category:1996年没]]</div>
122.214.146.170
ポール・トーマス・アンダーソン
2018-09-08T08:39:59Z
<p>122.214.146.170: </p>
<hr />
<div>{{Otheruses|『マグノリア』『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』等の映画監督|その他の近い名前の人物|ポール・アンダーソン}}<br />
{{ActorActress<br />
| 芸名 = ポール・トーマス・アンダーソン<br />
| ふりがな = Paul Thomas Anderson<br />
| 画像ファイル = Paul_Thomas_Anderson 2007 crop.jpg<br />
| 画像サイズ = 250px<br />
| 画像コメント = 2007年<br />
| 本名 = <br />
| 別名義 = P.T. Anderson<br />
| 出生地 = {{Flagcountry|USA}}・[[カリフォルニア州]][[ロサンゼルス]]<br />
| 死没地 = <br />
| 国籍 = {{USA}}<br />
| 民族 = <!-- 民族名には信頼できる情報源が出典として必要です。 --><br />
| 身長 = <br />
| 血液型 = <br />
| 生年 = 1970<br />
| 生月 = 6<br />
| 生日 = 26<br />
| 没年 = <br />
| 没月 = <br />
| 没日 = <br />
| ジャンル = [[映画監督]]・[[脚本家]]・[[映画プロデューサー|プロデューサー]]<br />
| 活動期間 = [[1988年]]-<br />
| 配偶者 = [[マーヤ・ルドルフ]]<br />
| 主な作品 = 『[[ブギーナイツ]]』<br />『[[マグノリア (映画)|マグノリア]]』<br />『[[パンチドランク・ラブ (映画)|パンチドランク・ラブ]]』<br />『[[ゼア・ウィル・ビー・ブラッド]]』<br />『[[ザ・マスター]]』<br/>『[[ファントム・スレッド]]』<br />
| カンヌ国際映画祭 = '''[[カンヌ国際映画祭 監督賞|監督賞]]'''<br />[[第55回カンヌ国際映画祭|2002年]]『[[パンチドランク・ラブ (映画)|パンチドランク・ラブ]]』<br />
| ヴェネツィア国際映画祭 = '''[[銀獅子賞]]'''<br />[[第69回ヴェネツィア国際映画祭|2012年]]『[[ザ・マスター]]』<br />'''[[ヴェネツィア国際映画祭 FIPRESCI賞|国際批評家連盟賞]]'''<br />2012年『ザ・マスター』<br />
| ベルリン国際映画祭 = '''[[金熊賞]]'''<br />[[第50回ベルリン国際映画祭|2000年]]『[[マグノリア (映画)|マグノリア]]』<br />'''[[銀熊賞 (監督賞)|銀熊賞(監督賞)]]'''<br />[[第58回ベルリン国際映画祭|2008年]]『[[ゼア・ウィル・ビー・ブラッド]]』<br />
| 全米映画批評家協会賞 = '''[[全米映画批評家協会賞 監督賞|監督賞]]'''<br />2007年『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』<br />
| ニューヨーク映画批評家協会賞 = '''[[ニューヨーク映画批評家協会賞 脚本賞|脚本賞]]'''<br/>[[第83回ニューヨーク映画批評家協会賞|2017年]]『[[ファントム・スレッド]]』<br />
| ロサンゼルス映画批評家協会賞 = '''[[ロサンゼルス映画批評家協会賞 監督賞|監督賞]]'''<br />[[第33回ロサンゼルス映画批評家協会賞|2007年]]『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』<br />[[第38回ロサンゼルス映画批評家協会賞|2012年]]『ザ・マスター』<br/>'''新人賞'''<br/>[[第23回ロサンゼルス映画批評家協会賞|1997年]]『[[ブギー・ナイツ]]』『[[ハードエイト]]』<br />
| その他の賞 = '''[[ボストン映画批評家協会賞]]'''<br />'''作品賞'''<br />[[第38回ボストン映画批評家協会賞|2017年]]『ファントム・スレッド』<br />'''監督賞'''<br />2017年『ファントム・スレッド』<br />
| その他 = <br />
}}<br />
<br />
'''ポール・トーマス・アンダーソン'''('''Paul Thomas Anderson''', [[1970年]][[6月26日]] - )は、[[アメリカ合衆国]]の[[映画監督]]、[[脚本家]]、[[映画プロデューサー]]である。[[世界三大映画祭]]すべてで監督賞を受賞している。<br />
<br />
== プロフィール ==<br />
=== 来歴 ===<br />
[[カリフォルニア州]][[ロサンゼルス]]出身。父親は俳優・司会者のアーネスト・アンダーソン。9人兄弟の3番目で父と特に仲が良く、12歳でビデオカメラを買ってもらい、映画監督になる夢を支援されていた。ティーンエイジャーの頃から脚本を書き始め、[[ニューヨーク大学]]に入るがすぐに中退。テレビ番組のプロダクション・アシスタントなどを経て短編映画を製作するようになる。<br />
<br />
[[1992年]]に撮った短編『シガレッツ&コーヒー』が[[サンダンス映画祭]]で注目され、ハリウッドから声がかかる。初監督作品は『[[ハードエイト]]』([[1996年]])で、[[第49回カンヌ国際映画祭]]の[[ある視点]]部門に出品された。<br />
<br />
監督2作目は10代の頃に書いた短編『''The Dirk Diggler Story''』を長編に作り直し、[[ポルノ]]業界で生きる人々の光と影を描いた『[[ブギーナイツ]]』([[1997年]])。このスマッシュヒットで一躍名を知られる存在となり、[[アカデミー脚本賞]]にノミネートされる。<br />
<br />
3作目の『[[マグノリア (映画)|マグノリア]]』([[2000年]])では[[トム・クルーズ]]らスターを起用し、一風変わった10人の主人公の24時間を描く群像劇を演出。興行的にはやや振るわなかったものの批評家には高い評価を受け、[[ベルリン国際映画祭]][[金熊賞]]を受賞。<br />
<br />
4作目の『[[パンチドランク・ラブ (映画)|パンチドランク・ラブ]]』([[2002年]])は[[アダム・サンドラー]]を主演に迎え、悲壮感を抱えた男をシリアスに演じさせて新たな一面を引き出し、[[カンヌ国際映画祭]]監督賞を受賞した。<br />
<br />
5作目の『[[ゼア・ウィル・ビー・ブラッド]]』([[2007年]])は[[ベルリン国際映画祭]][[銀熊賞 (監督賞)|監督賞]]、[[全米映画批評家協会賞]]監督賞などを受賞。石油王を演じた[[ダニエル・デイ=ルイス]]はこの年の米国の主要映画賞を総なめにした。[[第80回アカデミー賞]]最多8部門にノミネートされ、作品賞・監督賞は『[[ノーカントリー]]』に奪われたが、英国のトータル・フィルム誌など「00年代最高の映画」と推す批評家も多かった。<br />
<br />
6作目の『[[ザ・マスター]]』([[2012年]])では新興宗教の教祖とそのカリスマ性に引き寄せられていく男を描いて[[ヴェネツィア国際映画祭]][[銀獅子賞|監督賞]]を受賞し、[[ホアキン・フェニックス]]と[[フィリップ・シーモア・ホフマン]]が同男優賞を獲得。わずか6本のフィルモグラフィで[[世界三大映画祭]]すべてで監督賞に輝いた稀有な映画監督である。<br />
<br />
7作目に、アメリカ最高の文学者のひとりとして知られる[[トマス・ピンチョン]]の小説『[[LAヴァイス]]』の映画製作に取り掛かり、[[2014年]]に『[[インヒアレント・ヴァイス]]』という題名で全米公開。主演は前作に続き[[ホアキン・フェニックス]]。ピンチョンが自作の映画化を許可したのはこれが初めてである<ref name="ew preview">{{cite web |author=Brooks, Brian |url=http://www.filmlinc.com/nyff2014/blog/new-york-film-festival-2014-main-slate-lineup |title=New York Film Festival to Debut 30 Features in 2014 Main Slate |work= |publisher=[[Film Society of Lincoln Center]] |date=August 24, 2014 |accessdate=2018/07/02}}</ref><ref name="NYTimes">{{cite web |first=Dennis |last=Lim |title=A Director Continues His Quest |publisher=[[:en:The New York Times Company]] |work=[[The New York Times|NYTimes.com]] |date=December 27, 2012 |url=http://www.nytimes.com/2012/12/30/movies/awardsseason/paul-thomas-anderson-on-preparing-for-and-following-up-the-master.html?pagewanted=all&_r=1& |accessdate=2018/07/02}}</ref>。<br />
<br />
8作目には、『[[ゼア・ウィル・ビー・ブラッド]]』でタッグを組んだ[[ダニエル・デイ=ルイス]]を主演に、1950年代のファッション業界を描いた『[[ファントム・スレッド]]』を監督した。本作は[[第90回アカデミー賞]]において6部門ノミネート、自身も[[アカデミー監督賞|監督賞]]にノミネートされた<ref>{{cite web|url=https://news.walkerplus.com/article/135849/|title=アカデミー賞に3度輝く名優が電撃引退。最後の主演作『ファントム・スレッド』を目に焼き付けろ!|publisher=NewsWalker|dat=2018-01-21|accessdate=2018-02-01}}</ref>。<br />
<br />
=== 私生活 ===<br />
歌手の[[フィオナ・アップル]]と交際し、彼女のPVを何本か手がけたが、現在は女優の[[マーヤ・ルドルフ]](歌手[[ミニー・リパートン]]の娘)と事実婚関係にあり、ふたりの間には4子がある。<br />
<br />
== 特徴 ==<br />
家族の機能不全、社会からの疎外や孤独、擬似的な父子関係といったテーマを扱うことが多い。手持ちカメラによる常に移動しながらの撮影など大胆な視覚効果が特徴。<br />
<br />
全作品で自ら脚本も手がけ、多くの作品で製作にも名を連ねている。<br />
<br />
[[マーティン・スコセッシ]]、[[ロバート・アルトマン]]、[[ジョナサン・デミ]]、[[スタンリー・キューブリック]]、[[オーソン・ウェルズ]]といった映画監督からの影響を挙げている。特にジョナサン・デミの『[[メルビンとハワード]]』は『[[ハードエイト]]』のインスパイア元となり、『[[ザ・マスター]]』ではバイクで疾走するシーンがオマージュされている。<br />
<br />
特定の俳優を複数回にわたって起用することが多い。5作に出演している[[フィリップ・シーモア・ホフマン]]を始め、[[メローラ・ウォルターズ]]、[[ジョン・C・ライリー]]、[[フィリップ・ベイカー・ホール]]、[[ルイス・ガスマン]]らが3作以上で仕事を共にしている常連俳優である。<br />
<br />
== フィルモグラフィ ==<br />
* [[ハードエイト]] ''Sydney'' (1996年) 監督・脚本<br />
* [[ブギーナイツ]] ''Boogie Nights'' (1997年) 監督・脚本・製作<br />
* [[マグノリア (映画)|マグノリア]] ''Magnolia'' (1999年) 監督・脚本<br />
* [[パンチドランク・ラブ (映画)|パンチドランク・ラブ]] ''Punch-Drunk Love'' (2002年) 監督・脚本・製作<br />
* [[ゼア・ウィル・ビー・ブラッド]] ''There Will Be Blood'' (2007年) 監督・脚本・製作<br />
* [[ザ・マスター]] ''The Master'' (2012年) 監督・脚本・製作<br />
* [[インヒアレント・ヴァイス]] ''Inherent Vice'' (2014年) 監督・脚本・製作<br />
* [[ファントム・スレッド]] ''Phantom Thread'' (2017年) 監督・脚本・製作・撮影<br />
<br />
== 脚注 ==<br />
<references/><br />
<br />
== 外部リンク ==<br />
{{commons|Paul Thomas Anderson|ポール・トーマス・アンダーソン}}<br />
* {{Official blog|cigsandredvines.blogspot.jp|オフィシャルブログ"Cigarettes & Red Vines"}} {{en icon}}<br />
* {{allcinema name|83460|ポール・トーマス・アンダーソン}}<br />
* {{Kinejun name|143651|ポール・トーマス・アンダーソン}}<br />
* {{IMDb name|0000759|Paul Thomas Anderson}}<br />
<br />
{{ポール・トーマス・アンダーソン監督作品}}<br />
{{カンヌ国際映画祭監督賞 2000-2019}}<br />
{{ベルリン国際映画祭銀熊賞(監督賞) 2000-2019}}<br />
{{ヴェネツィア国際映画祭銀獅子賞(監督賞) 2000-2019}}<br />
{{ロサンゼルス映画批評家協会賞 監督賞}}<br />
{{Normdaten}}<br />
{{DEFAULTSORT:あんたあそん ほおる とおます}}<br />
[[Category:アメリカ合衆国の映画監督]]<br />
[[Category:アメリカ合衆国の脚本家]]<br />
[[Category:アメリカ合衆国の映画プロデューサー]]<br />
[[Category:エンデヴァー・タレント・エージェンシー]]<br />
[[Category:ロサンゼルス出身の人物]]<br />
[[Category:1970年生]]<br />
[[Category:存命人物]]</div>
122.214.146.170
是枝裕和
2018-09-04T09:25:44Z
<p>122.214.146.170: /* 受賞歴 */</p>
<hr />
<div>{{ActorActress<br />
| ふりがな = これえだ ひろかず<br />
| 芸名 = 是枝 裕和<br />
| 画像ファイル = Hirokazu Kore-eda Cannes 2015.jpg<br />
| 画像サイズ = 220px<br />
| 画像コメント = 2015年、[[第68回カンヌ国際映画祭]]にて<br />
| 本名 = <br />
| 出生地 = {{flagicon|JPN}} [[東京都]][[練馬区]]<br />
| 死没地 = <br />
| 国籍 = <br />
| 民族 = <!-- 民族名には信頼できる情報源が出典として必要です --><br />
| 身長 = <br />
| 血液型 = <br />
| 生年 = 1962<br />
| 生月 = 6<br />
| 生日 = 6<br />
| 没年 = <br />
| 没月 = <br />
| 没日 = <br />
| 職業 = [[映画監督]]、[[テレビ]][[ドキュメンタリー]]演出家<br />
| ジャンル = [[映画]]、テレビ<br />
| 活動期間 = 1995年 -<br />
| 活動内容 = <br />
| 配偶者 = 既婚<ref name="cinema20110924">{{Cite web| title = 是枝裕和監督、加瀬亮主演のテレビドラマ「後の日」が第59回サンセバスチャン国際映画祭で招待上映| publisher = シネマトゥデイ| date = 2011-09-24| url = http://www.cinematoday.jp/page/N0035615| accessdate = 2014-05-18}}</ref><br />
| 著名な家族 = <br />
| 事務所 = [[分福]]<br />
| 公式サイト = [http://www.kore-eda.com/ KORE-EDA.com]<br />
| 主な作品 = '''映画'''<br />『[[ワンダフルライフ (映画)|ワンダフルライフ]]』<br />『[[誰も知らない]]』<br />『[[歩いても 歩いても]]』<br />『[[そして父になる]]』<br/>『[[海街diary#映画|海街diary]]』<br />『[[三度目の殺人]]』<br />『[[万引き家族]]』<hr />'''ドラマ'''<Br />『[[ゴーイング マイ ホーム]]』<br />
| ブルーリボン賞 = '''監督賞'''<br/>2004年『誰も知らない』<br/>2008年『[[歩いても 歩いても]]』<br />
| ヴェネツィア国際映画祭 = '''[[金オゼッラ賞|監督賞]]'''<br />[[第52回ヴェネツィア国際映画祭|1995年]]『[[幻の光]]』<br />
| 日本アカデミー賞 = '''最優秀監督賞'''<br/>[[第39回日本アカデミー賞|2015年]]『[[海街diary#映画|海街diary]]』<br/>[[第41回日本アカデミー賞|2017年]]『[[三度目の殺人]]』<br/>'''最優秀脚本賞'''<br/>[[第41回日本アカデミー賞|2017年]]『[[三度目の殺人]]』<br/>'''最優秀編集賞'''<br/>[[第41回日本アカデミー賞|2017年]]『[[三度目の殺人]]』<br />
| カンヌ国際映画祭 = '''[[パルム・ドール]]'''<br />[[2018年]]『[[万引き家族]]』<br />'''[[カンヌ国際映画祭 審査員賞|審査員賞]]'''<br />[[第66回カンヌ国際映画祭|2013年]]『[[そして父になる]]』<br />
| その他の賞 = [[#受賞歴|受賞歴]]参照<br />
| 備考 = <br />
}}<br />
'''是枝 裕和'''(これえだ ひろかず、[[1962年]][[6月6日]]<ref name="KINENOTE">{{Cite web| title = 是枝裕和| publisher = [[KINENOTE]]| url = http://www.kinenote.com/main/public/cinema/person.aspx?person_id=128841| accessdate = 2016-07-06}}</ref> - )は、[[日本]]の[[映画監督]]、[[脚本家]]、[[ドキュメンタリー]][[ディレクター]]、[[映画プロデューサー]]。[[東京都]][[練馬区]]出身<ref name="Twitter">是枝裕和公式Twitter{{Twitter status|hkoreeda|104847170456395776|2011年8月20日の発言}}</ref>。[[東京都立武蔵高等学校]]<ref>{{Cite interview|subject=是枝裕和|interviewer=鈴木あづさ|url=http://www.yomiuri.co.jp/kyoiku/ichiran/20151110-OYT8T50164.html|title=多様な意見を認める先生…是枝裕和さん|date=2015-11-09|program=[[読売新聞|YOMIURI ONLINE]]|accessdate=2017-05-05|archiveurl=https://archive.is/GF4Nc |archivedate=2017年5月4日}}</ref>、[[早稲田大学第一文学部]][[文芸学科]]卒業<ref name="KORE-EDA">{{Cite web| title = PROFILE & WOARKS| work = KORE-EDA.com| url = http://www.kore-eda.com/works.html| accessdate = 2016-07-06}}</ref>。[[早稲田大学理工学術院|早稲田大学基幹理工学部表現工学科]]教授<ref>{{Cite web| title = 映画監督・是枝裕和氏、理工学術院教授に就任へ 映画に関係する講義を担当| publisher = [[早稲田大学]]| date = 2014-01-16| url = https://www.waseda.jp/top/news/6542| accessdate = 2015-10-15}}</ref>、[[立命館大学]][[産業社会学部]][[客員教授]]<ref>{{Cite web| title = 是枝裕和客員教授 | プロフェッショナルに学ぶ | 教育内容 | 産業社会学部 | 立命館大学| publisher = [[立命館大学]]| url = http://www.ritsumei.ac.jp/ss/education/professional/koreeda.html/| accessdate = 2018-06-18}}</ref>。<br />
<br />
ドキュメンタリー出身の映画監督として知られ、国内外で高い評価を受ける日本人監督の一人である<ref name="KINENOTE" />。<br />
<br />
==来歴==<br />
=== 生い立ち ===<br />
[[東京都]]の[[練馬区]]に生まれ<ref name="Twitter" />、9歳から[[清瀬市]]の[[旭が丘 (清瀬市)|清瀬旭が丘団地]]で過ごす(旭が丘団地は『[[海よりもまだ深く]]』の主人公の実家として撮影場所にも使われた)<ref>{{Cite web |url=http://cinema.pia.co.jp/news/0/65325/|title=是枝裕和監督の新作『海よりもまだ深く』が公開決定。主演は阿部寛|date=2015-12-25 |publisher=ぴあ映画生活 |accessdate=2018-06-17}}</ref>。母親が映画好きだったため、幼いころから[[池袋]]の映画館でさまざまな映画を鑑賞<ref name="locationjapan" />。TV作品では[[ウルトラマン]]や[[ウルトラセブン]]に描かれた怪獣や宇宙人に差別や戦争のメタファーを託した名作たちに影響を受ける<ref>[[映画秘宝]]2018年9月号での[[町山智浩]]との対談「独占12000字対談!「モンスター映画が撮りたい!」 『万引き家族』是枝裕和VS町山智浩!」での発言。この対談では他に『[[ジェイムズ・ホエール]]『[[フランケンシュタイン]]』と『[[フランケンシュタインの花嫁]]』が大好きでフランケンシュタインなどの怪物のフィギアを多く所有しているや大学時代に『[[自転車泥棒]]』や『[[無防備都市]]』などのイタリアン[[ネオレアリズモ]]に衝撃を受けた、[[チャールズ・チャップリン]]『[[キッド]]』や[[アメリカン・ニューシネマ]]『[[ペーパー・ムーン]]』が『万引き家族』に与えた影響、悪の魅力を描いた作品が作りづらくなっている咋今の状況などを語り、ウルトラシリーズからの影響は[[社会学者]]の[[宮台真司]]からの指摘で気づいたという。</ref>。[[1972年ミュンヘンオリンピック]]の[[男子バレーボール]]の金メダル獲得に感動し、中学・高校とバレーボールに没頭し部活では部長を務めていた<ref>{{Cite web |url=http://daigakushinbun.com/post/views/853|title=第30号(平成28年4月30日発行)映画監督 是枝裕和さん|date=2016-05-10 |publisher=大學新聞 |accessdate=2018-06-17}}</ref>。物書きになろうと、[[早稲田大学第一文学部]]文芸学科に進学するが<ref name="specialissue-koreeda2">{{Cite web| title = 「誰も知らない“是枝先生”」インタビューVol.1 いかにして監督は先生になったか| publisher = 早稲田ウィークリー| url = https://www.waseda.jp/inst/weekly/features/specialissue-koreeda2/| accessdate = 2018-06-17}}</ref>、大学に入学してすぐに[[フェデリコ・フェリーニ]]の映画を観て衝撃を受け、大学よりも映画館に足を運ぶ日々が続く<ref name="bunroku">{{Cite web| title = 是枝裕和監督単独インタビュー| publisher = ブンロク| url = https://hizen.nagoya/news/1678| accessdate = 2018-06-17}}</ref>。特に早稲田の近くにあった[[ACTミニ・シアター]]は年会費1万円でフリーパスで映画が観れたため毎日通っていた<ref name="bunroku" />。[[シナリオ文学]]にも熱中し、ビルの警備や[[福武書店]]のバイトを掛け持ちでやりながら、バイト代は[[倉本聰]]、[[向田邦子]]、[[山田太一 (脚本家)|山田太一]]、[[市川森一]]のシナリオ集を揃えるのに当てていた<ref>{{Cite web| title = 「是枝監督が挑んだ心理サスペンス『三度目の殺人』、かつてない法廷劇を生み出した斬新な創作術とは!?| url = https://otocoto.jp/interview/sandome/3/| date = 2017-09-05 | accessdate = 2018-06-17}}</ref>。大学では[[岩本憲児]]に師事し、卒論は創作脚本を書いた<ref name="specialissue-koreeda2" />。<br />
<br />
=== ドキュメンタリーディレクターとして ===<br />
将来的に監督業を目指すことも視野に入れながら1987年に番組制作会社[[テレビマンユニオン]]へ入社<ref name="logmi188061">{{Cite web| title = 「ただの落ちこぼれだった」映画監督・是枝裕和氏が20代の下積み時代を振り返る| publisher = ログミー| url = https://logmi.jp/188061| accessdate = 2018-06-18}}</ref>。『[[遠くへ行きたい (テレビ番組)|遠くへ行きたい]]』、『[[アメリカ横断ウルトラクイズ]]』や『[[日立 世界ふしぎ発見!]]』等のテレビ番組のADとして毎日怒られる生活を続けながら、企画を考え一人で作れるものを模索した結果、90年代、[[フジテレビ]]の『[[NONFIX]]』でドキュメンタリー番組を多く手掛けるようになる<ref name="yidff">[http://www.yidff.jp/docbox/13/box13-1.html 山形国際ドキュメンタリー映画祭 日本のドキュメンタリー作家インタビュー No. 12]</ref><ref name = "specialissue-koreeda3">{{Cite web| title = 誰も知らない“是枝先生”」インタビューVol.2 是枝監督が“記述した世界”の軌跡| publisher = 早稲田ウィークリー| url = https://www.waseda.jp/inst/weekly/features/specialissue-koreeda3/| accessdate = 2018-06-17}}</ref>。ドキュメンタリー1作目となった『しかし… 福祉切り捨ての時代に』では、生活保護を打ち切られた難病の女性の自死と福祉に尽力しながらも[[水俣病]]和解訴訟の国責との板挟みで追い込まれたエリート官僚の自死、別々に起きた2人の死の背景にある福祉の問題を追い[[ギャラクシー賞]]優秀作品賞を受賞<ref name="locationjapan">{{Cite interview|subject=是枝裕和|url=http://locationjapan.net/interview/20180521_koreedahirokazu/|title=監督クローズアップ 是枝裕和監督|date=2018-05-21|program=LOCATION JAPAN.net|accessdate=2018-06-10}}</ref>。すぐに次の番組作りの声がかかると、是枝が3年前から密かに一人でホームビデオ片手に密着を続けていた[[長野県]]の小学校のドキュメンタリー『もう一つの教育〜伊那小学校春組の記録〜』の放送が決まる<ref name="yidff" />。この作品は教科書を使わない総合学習に取り組む小学校の子供たちが仔牛の飼育をする3年間の成長記録で[[ATP賞]]優秀賞を受賞<ref>{{Cite web|title=もう一つの教育~伊那小学校春組の記録~|url=https://www.nihon-eiga.com/program/detail/nh10001877_0001.html|date=2018-05-21|program=日本映画専門チャンネル|accessdate=2018-06-18}}</ref>。映画監督となった後も、これらドキュメンタリー制作の経験によって、映画でも一般の人たちの暮らしに寄り添うものを作りたいと考えるようになる<ref name = "specialissue-koreeda3" />。<br />
<br />
=== 映画監督として ===<br />
テレビマンユニオン在籍中の1995年に『[[幻の光]]』で映画監督デビューすると、第52回[[ヴェネチア映画祭]]で金のオゼッラ賞を受賞<ref name="KINENOTE" />。続く2作目の『[[ワンダフルライフ (映画)|ワンダフルライフ]]』では[[ナント三大陸映画祭]]でグランプリを受賞、世界30ヶ国、全米200館で上映されインディペンデント映画ながら国際的にも異例のヒットとなった<ref name="KORE-EDA" />。[[相米慎二]]とタッグを組んでいた[[安田匡裕]]が『ワンダフルライフ』からプロデューサーとなり、亡くなる2009年まで是枝作品をサポートし続けた<ref name="logmi188061" />。<br />
<br />
2001年、『[[DISTANCE (映画)|DISTANCE]]』で[[カンヌ国際映画祭]]のコンペティション部門に初出品<ref name="KINENOTE" />。2004年、『[[誰も知らない]]』で[[柳楽優弥]]が[[第57回カンヌ国際映画祭]]において史上最年少・日本人初にして最優秀男優賞を受賞すると日本国内でも大きなニュースとなる<ref name="KINENOTE" />。この作品は[[巣鴨子供置き去り事件]]を題材に是枝が20代の頃から脚本を書き15年かけて映画化に至った作品で数々の作品賞も受賞<ref name="logmi188061" />。まだ[[ネグレクト]]という言葉が知られていない時代に育児放棄された子どもたちが生きる姿を映し世間に衝撃を与えた<ref>{{Cite web| title = 是枝裕和 監督 「#2ドキュメンタリー制作時代から学ぶ完成への輪郭」動画書き起こし配信!| publisher = SHORT SHORTS| url = http://www.shortshorts.org/learn/detail/ja/482| date = 2015-05-21 | accessdate = 2018-06-18}}</ref>。<br />
<br />
2008年、『[[歩いても 歩いても]]』では亡くなった自身の母を反映させた普通の家族のとある日常を描き出すが、海外のエージェントには「ローカル過ぎて理解されないだろう」と言われてしまう<ref name="jungle">{{Cite web| title = 【シアトル発】世界で評価される理由 – 是枝裕和監督インタビュー| publisher = JUNGLE CITY.com | url = https://www.junglecity.com/jcommunity/jc-news/interview-hirokazu-koreeda-2017/| date = 2017-05 | accessdate = 2018-06-18}}</ref>。さらに30館スタートの小規模上映のうえに、配給会社の[[シネカノン]]が倒産してしまい収益も回収ゼロに見舞われるが<ref>{{Cite web| title = 「リベンジを果たせた最新作」是枝裕和監督インタビュー | publisher = Forbs JAPAN | url = https://forbesjapan.com/articles/detail/13433/2/1/1 |date = 2016-09-03 | accessdate = 2018-06-18}}</ref>、公開された各国で「あれは自分の母親だ」と評され、国境を越えて多くの映画ファンから高い支持を受ける作品となった<ref name="jungle" />。<br />
<br />
オリジナル作品を作り続けてきたが、[[業田良家]]の漫画『ゴーダ哲学堂 空気人形』を見て、主人公の空気人形に吹き込まれる「息」をメタファーにした官能的な世界を描き出したいと映画化を熱望し、2009年に『[[空気人形]]』を制作<ref>{{Cite web|url=https://eiga.com/news/20090907/7/|title=是枝裕和監督作「空気人形」の原作者・業田良家が9年ぶり続編漫画を発表|accessdate=2018-06-19|date=2009-09-07|publisher=eiga.com}}</ref>。初めて原作漫画を映画化しファンタジーに挑戦した<ref>{{Cite web|url=是枝裕和監督「空気人形」撮了。ぺ・ドゥナの演技は「パーフェクト」|title=是枝裕和監督作「空気人形」の原作者・業田良家が9年ぶり続編漫画を発表|accessdate=2018-06-19|date=2009-02-13|publisher=eiga.com}}</ref>。<br />
<br />
2013年には『[[そして父になる]]』は[[第66回カンヌ国際映画祭]]で審査員賞を受賞し、業績で2013年度[[芸術選奨]]文部科学大臣賞を受賞<ref>{{Cite web| title =芸術選奨に映画監督の是枝さんら29人| publisher =[[日本経済新聞]]| date = 2014-03-14| url = https://www.nikkei.com/article/DGXNZO68261320U4A310C1CR8000/ | accessdate = 2018-6-10}}</ref>。<br />
<br />
2018年、『[[万引き家族]]』が[[第71回カンヌ国際映画祭]]で最高賞となる[[パルム・ドール]]を受賞した<ref>{{Cite web|url=https://eiga.com/news/20180606/20/|title=是枝裕和監督「万引き家族」は「誰か1人に向けて作っている」 取材先の女児との交流明かす|accessdate=2018-06-19|date=2018/06/06|publisher=eiga.com}}</ref>。日本人監督としては、『[[地獄門]]』の[[衣笠貞之助]]、『[[影武者 (映画)|影武者]]』の[[黒澤明]]、『[[楢山節考 (1983年の映画)|楢山節考]]』、『[[うなぎ (映画)|うなぎ]]』の[[今村昌平]]に続き、史上4人目、21年ぶりの受賞となった<ref>{{Cite web|url=https://www.cinematoday.jp/news/N0100948|title=是枝裕和『万引き家族』に最高賞パルムドール!日本人21年ぶり|date=2018-05-20|accessdate=2018/06/19|publisher=シネマトゥデイ}}</ref>。<br />
<br />
== 作風・手法 ==<br />
海外の批評家や記者からは、[[小津安二郎]]と比較されることが多く、「小津の孫」と称される事もあるが、是枝本人はどちらかというと小津よりも[[成瀬巳喜男]]の影響を強く受けている<ref>{{Cite web|url=https://natalie.mu/eiga/news/150825|title=是枝裕和が語る「海街diary」と小津安二郎作品の共通点とは|date=2015-06-16|accessdate=2018/06/19|publisher=映画ナタリー}}</ref>。<br />
作品の中では記憶と想像と観察力のバランスを重視し、「誰かを悪者として描くことをしない」というスタンスを一貫している<ref>{{Cite web|url=https://www.waseda.jp/inst/sgu/news/2017/11/16/2823/|title=言語や環境を超えて訴える-是枝裕和監督映画イベント ロサンゼルスにてUCLAと共催|date=2016-11-16|accessdate=2018/06/19|publisher=早稲田大学}}</ref>。<br />
テレビのドキュメンタリーディレクター時代から映画監督になった今も企画、脚本、監督、編集、すべて自らが行うスタイルを貫き<ref>{{Cite web|url=https://www.cinematoday.jp/news/N0100948|title=是枝裕和『万引き家族』に最高賞パルムドール!日本人21年ぶり|accessdate=2018/05/20|publisher=シネマトゥデイ}}</ref>、日頃から常に手帳を持っていてアイデアが思いついたら手帳に記している<ref name="locationjapan" />。撮影現場で発見した事を大事にし、役者のリアクションによってはその場で脚本を書き換え<ref>{{Cite web| title = 「ドキュメンタリー制作者は皆、悪人である」 是枝裕和&想田和弘が背負う“被写体への責任”| publisher = eiga.com| url = https://eiga.com/news/20180601/19/| date= 2018-06-01 |accessdate = 2018-06-17}}</ref>、役者同士の会話に耳を傾け、そのやりとりを脚本に加えることもある<ref>{{Cite web| title = 是枝裕和(Hirokazu Kore-eda)氏: 第71回カンヌ国際映画祭でパルムドールを受賞!| publisher = クリエイターズ ステーション| url = http://www.creators-station.jp/seehim/37809| date= 2018-05-21 |accessdate = 2018-06-17}}</ref>。子どもたちの日常を描くときには、[[独白]](モノローグ)ではなく[[対話]](ダイアローグ)を用いる<ref>{{Cite web|url=https://shinsho-plus.shueisha.co.jp/interview/%E6%98%AF%E6%9E%9D%E8%A3%95%E5%92%8C%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%82%BF%E3%83%93%E3%83%A5%E3%83%BC/2130|title=ディレクター目線で自分を取材|date=2018-05-01|accessdate=2018/06/19|publisher=集英社新書プラス}}</ref>。映画に出演する子役には台本は渡さず、現場で口頭で台詞を説明し、子ども自身の言葉で台詞を言ってもらう<ref>{{Cite web|url=https://eiga.com/news/20131001/10/|title=大ヒット!「そして父になる」是枝裕和監督、米リメイク決定でスピルバーグ監督と対談|accessdate=2018-06-19|date=2013-10-01|publisher=eiga.com}}</ref>。<br />
<br />
==監督作品==<br />
===長編映画===<br />
*[[幻の光]](1995年)<br />
*[[ワンダフルライフ (映画)|ワンダフルライフ]](1999年)<br />
*[[DISTANCE (映画)|DISTANCE]](2001年)<br />
*[[誰も知らない]](2004年)<br />
*[[花よりもなほ]](2006年)<br />
*[[歩いても 歩いても]](2008年)<br />
*大丈夫であるように -Cocco 終らない旅-(2008年) - 2015年に再上映<ref>{{Cite web| title = 是枝裕和×Cocco「大丈夫であるように」、米軍基地問題を受け全国で再上映| publisher = [[映画.com]]| date = 2015-08-06| url = http://eiga.com/news/20150806/4/| accessdate = 2015-10-15}}</ref><br />
*[[空気人形]](2009年)<br />
*[[奇跡 (2011年の映画)|奇跡]](2011年)<br />
*[[そして父になる]](2013年)<ref>{{Cite web| author = 渡邊玲子| title = 是枝裕和監督インタビュー 福山雅治主演『そして父になる』 父とは何かを考える。| publisher = dacapo the web-magazine| date = 2013-10-10| url = http://dacapo.magazineworld.jp/cinema/120626/| accessdate = 2014-05-18}}</ref><br />
*[[海街diary#映画|海街diary]](2015年)<br />
*[[海よりもまだ深く]](2016年)<ref>{{cite web|url=http://natalie.mu/eiga/news/170330|title=是枝裕和の新作で阿部寛&樹木希林が親子に、「海よりもまだ深く」公開決定|publisher=映画ナタリー|date=2015-12-25|accessdate=2015-12-25}}</ref><br />
*[[三度目の殺人]](2017年)<br />
*[[万引き家族]](2018年)<ref>{{Cite web|url=https://www.cinra.net/news/20180214-manbikikazoku|title=是枝裕和の新作に池松壮亮、高良健吾、池脇千鶴ら タイトルは『万引き家族』|accessdate=2018/2/14|publisher=CINRA.NET}}</ref><br />
<br />
===テレビドラマ===<br />
*[[妖しき文豪怪談#後の日|妖しき文豪怪談]] 第4回「後の日」(2010年、[[NHKデジタル衛星ハイビジョン|NHK-BShi]])<ref name="cinema20110924" /><br />
*[[ゴーイング マイ ホーム]](2012年10月 - 12月、[[関西テレビ放送|関西テレビ]])<ref>{{Cite interview|subject=是枝裕和|interviewer=中山治美|url=http://www.cinematoday.jp/page/N0050768|title=「ゴーイング マイ ホーム」は是枝監督、人生の総括 両親の死が作品に与えた影響明かす|date2013-03-04|program=シネマトゥデイ|accessdate=2015-07-10}}<br />
</ref><br />
<br />
===テレビドキュメンタリー===<br />
*[[NONFIX]]([[フジテレビジョン|フジテレビ]])<br />
**しかし… 福祉切り捨ての時代に(1991年)<br />
**もう一つの教育〜伊那小学校春組の記録〜(1991年)<br />
**公害はどこへ行った…(1991年)<br />
**日本人になりたかった…(1992年)<br />
**侯孝賢とエドワード・ヤン(1993年)<br />
**彼のいない八月が(1994年)<br />
**全身落語家宣言(1996年)<br />
**シリーズ憲法 〜第9条・戦争放棄「忘却」〜(2006年)<br />
*心象スケッチ それぞれの宮沢賢治(1993年、[[テレビ東京]]『[[ドキュメンタリー人間劇場]]』)<br />
*記憶が失われた時…〜ある家族の2年半の記録〜(1996年、[[日本放送協会|NHK]])<br />
*歩くような速さで〜37,319人のオーディション(2002年、[[日本テレビ放送網|日本テレビ]])<br />
*私がこどもだった頃 谷川俊太郎篇(2008年、NHK)<br />
*あの時だったかもしれない 〜テレビにとって「私」とは何か〜(2008年、[[BS-TBS|BS-i]]、TBS『[[報道の魂]]』)<br />
*悪いのはみんな萩本欽一である(2010年、フジテレビ『[[チャンネルΣ]]』)<br />
*[[未来への手紙2014〜あれから3年たちました〜]](2014年、NHK)<ref>{{Cite web| title = 是枝裕和が初めて震災をテーマに…『未来への手紙2014〜あれから3年たちました〜』| publisher = [[テレビドガッチ]]| date = 2014-02-28| url = http://dogatch.jp/news/nhk/23233| accessdate = 2017-05-04|archiveurl= https://web.archive.org/web/20161014071038/http://dogatch.jp/news/nhk/23233|archivedate= 2016-10-14}}</ref><br />
*きょうの、あきない(2015年4月11日 - 、TBS)<ref>{{Cite web |url=http://www.tbs.co.jp/kyounoakinai/ |title=「きょうの、あきない」 |publisher=[[TBSテレビ|TBS]] |accessdate=2015-04-12}}</ref><br />
*[[いしぶみ#2015年版|いしぶみ〜忘れない。あなたたちのことを〜]](2015年8月1日、[[広島テレビ放送|広島テレビ]])<ref>{{Cite web| title = 広島出身・綾瀬はるか、戦後特番で遺族手記を朗読 是枝監督と再タッグ | publisher = [[オリコン|ORICON STYLE]]| date = 2015-07-10| url = http://www.oricon.co.jp/news/2055726/full/| accessdate = 2015-07-10}}</ref><ref>{{Cite web| title = 戦後70年特別番組「いしぶみ〜忘れない。あなたたちのことを〜」| publisher = [[広島テレビ放送|広島テレビ]]| date = 2015| url = http://www.htv.jp/ishibumi/index.html| accessdate = 2017-05-04|archiveurl= https://web.archive.org/web/20160304091052/http://www.htv.jp/ishibumi/index.html|archivedate= 2016-05-04}}</ref><br />
<br />
===CM===<br />
*[[日産自動車|日産]] [[日産・セレナ|ニューセレナ]]「モノより思い出」シリーズ(1999年-2003年)<br />
*[[サントリー]] [[なっちゃん]]「3年目のなっちゃん」<br />
*[[ポッカ]]「じっくりコトコト煮込んだスープ」<br />
*[[Sony Music Audition]]シリーズ(2001年-2002年)<br />
*[[フジテレビジョン|フジテレビ]]・キャンペーン「きっかけはフジテレビ」(2002年)<br />
*[[ソニー・コンピュータエンタテインメント|ソニー]] [[PlayStation 2|PS2]]ソフト『[[アークザラッド 精霊の黄昏]]』(2003年)<br />
*[[ネスカフェ]]「朝のリレー 寝顔篇」(2004年)<br />
*[[ダイハツ]] [[ダイハツ・ミラ|ミラ・カスタム]](2006年)※[[柳楽優弥]]と[[YOU (タレント)|YOU]]が親子役で再共演<br />
*[[ミツカン]] [[金のつぶ]](2007年)<br />
*[[サッポロビール]](2012年1月2日、1月3日)※小説家の[[村上春樹]]がナレーションを執筆<ref>[http://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000001.000004472.html サッポロビール2012年企業広告特別篇について 〜 村上春樹さんが初めてCMナレーションを執筆、監督は是枝裕和さん 〜]サッポロビール株式会社</ref><br />
*[[JCBグループ]](2015年) ※[[福山雅治]]が出演<ref>{{cite web|url=http://www.oricon.co.jp/news/2053096/full/|title=福山雅治、是枝監督と再びタッグ 映画『そして父になる』以来|publisher=[[オリコン|ORICON]]|date=2015-05-21|accessdate=2015-05-21}}</ref><br />
*[[大日本除虫菊|KINCHO]]「虫コナーズ」(2016年) ※[[長澤まさみ]]・[[高畑淳子]]が出演<ref>{{Cite web| title = 長澤まさみ「海街diary」是枝裕和監督と再タッグ 関西弁&コミカルな演技で魅せる| publisher = [[モデルプレス]]| date = 2016-03-31| url = http://mdpr.jp/news/detail/1574619| accessdate = 2016-04-01}}</ref><br />
*[[大塚製薬]]「ファイブミニ」(2017年)<ref>{{Cite web| title = 広瀬すず×是枝裕和監督による初CMが完成、等身大の葛藤を描く| work = ORICON NEWS | publisher = [[オリコン]]| date = 2017-05-19| url = http://www.oricon.co.jp/news/2090975/full/| accessdate = 2017-05-20}}</ref><br />
*[[住友林業]]「住友林業の家」(2017年) ※長澤まさみ・[[加瀬亮]]が出演<ref>{{Cite web| title = 長澤まさみと加瀬亮が夫婦に 是枝裕和監督の新CMが話題| work = DWANGO.JP NEWS| publisher = [[ドワンゴ]]| date = 2017-11-03| url = https://news.dwango.jp/2017/11/03/154961/news/| accessdate = 2017-11-21}}</ref><br />
<br />
===ミュージック・ビデオ===<br />
*[[Cocco]]<br />
**「水鏡」(2000年)<br />
**「陽の照りながら雨の降る」(2006年)<br />
*[[Cheri]]「ためいき」(2003年)<br />
*[[タテタカコ]]「宝石」(2004年)<br />
*[[スネオヘアー]]「やさしいうた」(2007年)<br />
*[[AKB48]]<br />
**「[[桜の木になろう]]」(2011年)<br />
**「[[Green Flash (AKB48の曲)|Green Flash]]」(2015年)<ref>{{Cite news | title = AKB48:ぱるる、珠理奈が“本気の涙” 新曲MVは4年ぶり是枝作品| newspaper = [[毎日新聞|MANTANWEB]]| date = 2015-02-13| url = http://mantan-web.jp/2015/02/13/20150213dog00m200044000c.html| accessdate = 2015-02-14}}</ref><br />
*[[高橋優]] 「さくらのうた」(2016年) ※監修<ref>{{cite web|url=http://natalie.mu/eiga/news/175261|title=門脇麦がバレエ披露、是枝裕和監修の高橋優MV「さくらのうた」完成|publisher=映画ナタリー|date=2016-02-06|accessdate=2016-02-08}}</ref><br />
*[[ハナレグミ]]「深呼吸」(2016年)<br />
<br />
==プロデュース作品==<br />
*[[カクト]](2002年、監督:[[伊勢谷友介]])<br />
*[[蛇イチゴ]](2003年、監督:[[西川美和]])<br />
*扉の向こう 〜エレファントカシマシ・宮本浩次という生き方〜(2004年、フジテレビ『NONFIX』、ディレクター:[[千切谷知子]])<ref>[http://www.fujitv.co.jp/nonfix/library/2004/415.html NONFIX : 扉の向こう 〜エレファントカシマシ・宮本浩次という生き方〜 - フジテレビ]</ref><br />
*[[ゆれる]](2006年、監督:[[西川美和]])<br />
*[[ビューティフル アイランズ]](2010年、ドキュメンタリー、監督:[[海南友子]])<br />
*[[エンディングノート]](2011年、監督:[[砂田麻美]])<br />
* [[十年 Ten Years Japan]](2018年11月3日公開予定、監督:早川千絵、監督:木下雄介、監督:津野愛、監督:[[藤村明世]]、監督:[[石川慶]])<ref>{{Cite news|url= http://eiga.com/news/20180504/1/ |title= 是枝裕和総合監修「十年」に杉咲花、太賀、川口覚、池脇千鶴、國村隼! |newspaper=[[映画.com]]|publisher=[[カカクコム]]|date= 2018-05-04 |accessdate= 2018-05-04 }}</ref><br />
<br />
==出演==<br />
; ドキュメンタリー映画<br />
:* The Two Directors: A Flame in Silence(2015年、監督:海南友子)<ref>{{Cite web| title = 山田洋次監督&是枝裕和監督に追るドキュメンタリー、釜山で上映| publisher = [[映画.com]]| date = 2015-10-10| url = http://eiga.com/news/20151010/11/| accessdate = 2015-10-15}}</ref><br />
<br />
==書籍==<br />
*しかし…-ある福祉高級官僚 死への軌跡(1992年、あけび書房)ISBN 978-4900423664<br />
*小説ワンダフルライフ(1999年、ハヤカワ文庫)ISBN 978-4150306113<br />
*官僚はなぜ死を選んだのか-現実と理想の間で(2001年、日経ビジネス人文庫)ISBN 978-4532190682<br />
*DISTANCE 〜映画が作られるまで〜(2001年、スイッチパブリッシング)ISBN 978-4884180003<br />
*あの頃のこと-Every day as a child(共著、2004年、ソニーマガジンズ)ISBN 978-4789723398<br />
*花よりもなほ(2006年、角川書店)ISBN 978-4048737029<br />
*歩いても 歩いても(2008年、幻冬舎)ISBN 978-4344015142<br />
*それでもテレビは終わらない(共著、2010年、岩波ブックレット)ISBN 978-4002707976<br />
*奇跡(2011年、文藝春秋)ISBN 978-4163301402<br />
*クーナ(2012年、イースト・プレス、絵:大塚いちお)ISBN 978-4781608693<br />
*ゴーイング マイ ホーム シナリオ(2012年、ポプラ社)ISBN 978-4591132173<br />
*そして父になる(2013年、宝島社文庫)ISBN 978-4800215154<br />
*歩くような速さで(2013年、ポプラ社)ISBN 978-4591136720<br />
*雲は答えなかった 高級官僚 その生と死(2014年、PHP文庫)ISBN 978-4569761558<br />
*是枝裕和 対談集「世界といまを考える 1」(2015年、PHP文庫)ISBN 978-4569763507<br />
*是枝裕和 対談集「世界といまを考える 2」(2016年、PHP文庫)<ref>{{cite web|url=http://natalie.mu/eiga/news/174194|title=是枝裕和の対談集「世界といまを考える」第2弾、岸田繁やスガシカオら多彩な顔ぶれ|publisher=映画ナタリー|date=2016-02-02|accessdate=2016-02-02}}</ref> ISBN 978-4569764474<br />
*海よりもまだ深く(2016年、幻冬舎文庫)ISBN 978-4344424739<br />
*公園対談 クリエイティブな仕事はどこにある?([[樋口景一]]と共著、2016年、廣済堂出版)ISBN 978-4331520284<br />
*映画を撮りながら考えたこと(2016年、[[ミシマ社]])<ref>{{cite news|url=http://natalie.mu/eiga/news/188158|title=是枝裕和が“映画を撮りながら考えたこと”とは?構想8年、400P超の著書が発売|newspaper=映画ナタリー|date=2016-06-06|accessdate=2016-06-06}}</ref> ISBN 978-4903908762<br />
*是枝裕和 対談集「世界といまを考える 3」(2016年、PHP文庫)<ref>{{cite news|url=http://natalie.mu/eiga/news/204162|title=是枝裕和の対談集第3弾が発売、ゲストは細田守、三谷幸喜、蜷川幸雄、森達也ら|newspaper=映画ナタリー|date=2016-10-04|accessdate=2016-10-05}}</ref> ISBN 978-4569765693<br />
*僕たちが何者でもなかった頃の話をしよう(共著、2017年、文春新書)ISBN 978-4166611188<br />
*三度目の殺人(2017年、宝島社文庫)ISBN 978-4800273475<br />
*是枝裕和(2017年、文藝別冊)ISBN 978-4309979274<br />
*映画の言葉を聞く(早稲田大学「マスターズ・オブ・シネマ」講義録)(共編、2018年、フィルムアート社)ISBN 978-4845917105<br />
<br />
==受賞歴==<br />
ドキュメンタリー作品において、[[ギャラクシー賞]]や[[ATP賞]]などを数多く受賞。<br />
*個人として<br />
** 第8回[[伊丹十三賞]](2016年)<ref>{{cite web|url=http://natalie.mu/eiga/news/179784|title=是枝裕和が伊丹十三賞受賞、映像作家としての姿勢を評価され喜びのコメント|work=映画ナタリー|publisher=ナターシャ|date=2016-03-14|accessdate=2016-03-14}}</ref><br />
*幻の光<br />
**[[ヴェネツィア国際映画祭]] [[金オゼッラ賞|監督賞]]<br />
**バンクーバー映画祭 グランプリ<br />
**シカゴ映画祭 グランプリ<br />
**第10回[[高崎映画祭]] 若手監督グランプリ<br />
**第69回[[キネマ旬報#キネマ旬報ベスト・テン|キネマ旬報ベスト・テン]] 日本映画ベスト・テン第4位<br />
**[[新藤兼人賞]]金賞<br />
*ワンダフルライフ<br />
**[[ナント三大陸映画祭]] グランプリ<br />
**トリノ映画祭 最優秀脚本賞<br />
**ブエノスアイレス映画祭 グランプリ、最優秀脚本賞<br />
**[[サン・セバスティアン国際映画祭]] 国際批評家連盟賞<br />
**第14回高崎映画祭 最優秀作品賞<br />
**第73回キネマ旬報ベスト・テン 読者選出日本映画ベスト・テン第9位<br />
*DISTANCE<br />
**第16回高崎映画祭 最優秀作品賞<br />
*誰も知らない<br />
**[[第77回アカデミー賞]][[アカデミー外国語映画賞|外国語映画賞]]部門・日本代表作品<br />
**フランダース国際映画祭 グランプリ<br />
**シカゴ国際映画祭 金のプラーク賞<br />
**第29回[[報知映画賞]]作品賞<br />
**第26回[[ヨコハマ映画祭]] 日本映画ベストテン第3位<br />
**第78回キネマ旬報ベスト・テン 日本映画ベスト・ワン、読者選出日本映画監督賞、読者選出日本映画ベスト・テン第1位<br />
**第47回[[ブルーリボン賞 (映画)|ブルーリボン賞]] 作品賞・監督賞<br />
**第19回高崎映画祭 最優秀監督賞<br />
*花よりもなほ<br />
**第21回高崎映画祭 最優秀作品賞<br />
*歩いても 歩いても<br />
**第56回サン・セバスティアン国際映画祭 脚本家協会賞<br />
**第4回ユーラシア国際映画祭 最優秀監督賞<br />
**第23回[[マール・デル・プラタ国際映画祭]] 最優秀作品賞<br />
**第30回ヨコハマ映画祭 日本映画ベストテン第3位<br />
**第23回高崎映画祭 最優秀監督賞<br />
**第82回キネマ旬報ベスト・テン 日本映画ベスト・テン第5位、読者選出日本映画ベスト・テン第3位<br />
**第51回ブルーリボン賞 監督賞<br />
**第59回[[毎日映画コンクール]] 日本映画優秀賞<br />
**第18回[[東京スポーツ映画大賞]] 作品賞<br />
**第3回[[アジア・フィルム・アワード]] 監督賞<br />
*空気人形<br />
**第24回高崎映画祭 最優秀作品賞<br />
**第83回キネマ旬報ベスト・テン 日本映画ベスト・テン第6位、読者選出日本映画ベスト・テン第7位<br />
*奇跡<br />
**第59回サン・セバスティアン国際映画祭 最優秀脚本賞・カトリックメディア協議会(SIGNIS)賞<br />
**第3回[[TAMA CINEMA FORUM|TAMA映画賞]] 最優秀作品賞<br />
**[[おおさかシネマフェスティバル|おおさかシネマフェスティバル2012]] 日本映画ベストテン第5位<br />
**第26回イスファハーン国際青少年映画祭(イラン) 最優秀作品賞<br />
*エンディングノート<br />
**第31回[[藤本賞]]・奨励賞<br />
*ゴーイング マイ ホーム<br />
**第75回[[ザテレビジョンドラマアカデミー賞]] 監督賞<br />
**第50回[[ギャラクシー賞]] テレビ部門 奨励賞<br />
*そして父になる<br />
**[[第66回カンヌ国際映画祭]] [[カンヌ国際映画祭 審査員賞|審査員賞]]・エキュメニカル賞特別表彰<br />
**第61回サン・セバスティアン国際映画祭 観客賞(PEARLS部門)<br />
** 第32回バンクーバー国際映画祭 観客賞(Rogers People’s Choice Award)<br />
**第7回アブダビ国際映画祭 Child Protection Award 脚本賞(Child Protection Award for Best Script)<br />
**第37回[[サンパウロ国際映画祭]] 観客賞<br />
**第35回ヨコハマ映画祭 日本映画ベストテン第4位・脚本賞<br />
**第26回[[日刊スポーツ映画大賞・石原裕次郎賞|日刊スポーツ映画大賞]] 監督賞<br />
**第87回キネマ旬報ベスト・テン 日本映画ベスト・テン第6位、読者選出日本映画ベスト・テン第2位<br />
**おおさかシネマフェスティバル2014 日本映画ベストテン第8位<br />
**{{仮リンク|第56回アジア太平洋映画祭|zh|第56屆亞太影展}} 最優秀作品賞・最優秀監督賞<br />
**[[第37回日本アカデミー賞]] 優秀作品賞・優秀監督賞ほか<br />
**[[芸術選奨文部科学大臣賞]]映画部門<br />
**クロトゥルーディス賞 監督賞<br />
**第23回東京スポーツ映画大賞 監督賞<br />
*海街diary<br />
**第63回サン・セバスティアン国際映画祭 観客賞(PEARLS部門)<br />
**第7回TAMA映画賞 最優秀作品賞<ref>{{Cite web| title = 是枝裕和、塚本晋也、綾瀬はるか、綾野剛らがTAMA映画賞授賞式で喜び噛みしめる| publisher = 映画ナタリー| date = 2015-11-21| url = http://natalie.mu/eiga/news/166774| accessdate = 2016-07-06}}</ref><br />
**第39回[[山路ふみ子映画賞]] 山路ふみ子映画賞<br />
**第37回ヨコハマ映画祭 作品賞・監督賞<br />
**第89回キネマ旬報ベスト・テン 日本映画ベスト・テン第4位、読者選出日本映画監督賞、読者選出日本映画ベスト・テン第1位<br />
**第57回[[毎日芸術賞]]特別賞<br />
**第25回東京スポーツ映画大賞{{Refnest|group="注"|第25回東京スポーツ映画大賞発表時には監督賞は[[北野武]](『龍三と七人の子分たち』)とされていた。ところが、授賞式で同賞の審査委員長を務める北野が「是枝監督に監督賞をあげようかな」と自身が受け取ったトロフィーを会場に来ていた是枝に対して手渡し、これにより『海街diary』は1冠増えて、主演女優賞、助演女優賞、新人賞、監督賞と4冠に輝くことになった<ref>{{cite web|url=http://mantan-web.jp/2016/02/29/20160228dog00m200033000c.html|title=海街diary:たけしの思い付きで「東スポ映画大賞」1冠増え4冠に 綾瀬、長澤、すずがコマネチ|publisher=まんたんウェブ|date=2016-02-29|accessdate=2016-03-01}}</ref>。主催者である東京スポーツの授賞式記事(受賞者一覧)では「監督賞:北野武(「龍三と七人の子分たち」)→是枝裕和(「海街diary」)」となっている<ref>{{cite web|url=http://www.tokyo-sports.co.jp/entame/entertainment/511622/|title=【東スポ映画大賞】授賞式、受賞者一覧|publisher=東京スポーツ|date=2016-02-29|accessdate=2016-03-01}}</ref>。}} 監督賞<br />
**[[第39回日本アカデミー賞]] 最優秀監督賞<ref>{{Cite web| title = 【第39回日本アカデミー賞】是枝裕和が最優秀監督賞!| publisher = [[映画.com]]| date = 2016-03-04| url = http://eiga.com/news/20160304/26/| accessdate = 2016-04-02}}</ref>、最優秀作品賞、優秀脚本賞、編集賞<br />
* 海よりもまだ深く<br />
**第26回フィルムズ・フロム・ザ・サウス映画祭 シルバー・ミラー賞(最高賞)<ref>{{Cite news|url= http://www.hochi.co.jp/entertainment/20161017-OHT1T50143.html |title= 是枝監督の「海よりもまだ深く」がノルウェー映画祭で最高賞を獲得「とてもうれしい」 |newspaper= スポーツ報知 |publisher= 報知新聞社 |date= 2016-10-17 |accessdate= 2017-11-21|archiveurl= https://archive.is/g2hRJ|archivedate= 2016-10-26}}</ref><br />
* 三度目の殺人<br />
**[[第41回日本アカデミー賞]] 作品賞、監督賞、脚本賞、編集賞<br />
*万引き家族<br />
**第71回カンヌ国際映画祭 [[パルム・ドール]]<br />
<br />
==脚注==<br />
{{脚注ヘルプ}}<br />
===注釈===<br />
{{Reflist|group="注"}}<br />
===出典===<br />
{{Reflist|2}}<br />
<br />
==関連文献==<br />
{{参照方法|date=2016年7月}}<br />
*{{cite web|url=http://www.public-image.org/interview/2009/09/25/hirokazu-koreeda-2.html|title=HIROKAZU KOREEDA|是枝裕和|Film Director|publisher= PUBLIC-IMAGE.ORG|date=2009-09-25|accessdate=2018-06-10}}{{Wayback|http://www.public-image.org/interview/2009/09/25/hirokazu-koreeda-2.html|date=20120308060348}}<br />
*{{cite web|url=http://www.cinra.net/interview/2009/09/18/000000.php|title=映画『空気人形』是枝裕和監督インタビュー|publisher=CINRA.NET|date=2009-09-18|accessdate=2018-06-10}}<br />
*{{cite web|url=http://www.cinra.net/interview/2009/12/30/000000.php|title=『映画の未来へ』黒沢清×是枝裕和|publisher=CINRA.NET|date=2009-12-30|accessdate=2018-06-10}}<br />
*{{cite web|url=http://www.cinra.net/interview/2010/01/01/000000.php|title=『映画の未来へ』黒沢清×是枝裕和×西島秀俊×寺島進|publisher=CINRA.NET|date=2010-01-01|accessdate=2018-06-10}}<br />
*{{videonews.com|451460|001326|456|2010年01月06日|新年映画特集 映画監督・是枝裕和がまだテレビにこだわる理由|是枝裕和氏(映画監督・テレビディレクター)}}<br />
*{{cite web|url=http://www.1101.com/hirokazu_koreeda/2015-07-24.html|title=ぼくはなぜ物語を書くのか。-是枝裕和監督に訊く『海街diary』とその周辺-|publisher=[[ほぼ日刊イトイ新聞]]|date=2015-07-24|accessdate=2018-06-10}}<br />
<br />
==外部リンク==<br />
{{Commonscat|Hirokazu Koreeda}}<br />
*{{Official|www.kore-eda.com}}<br />
*{{Twitter|hkoreeda}}<br />
*{{allcinema name|274104|是枝裕和}}<br />
*{{Kinejun name|128841|是枝裕和}}<br />
*{{jmdb name|0467480|是枝裕和}}<br />
*{{IMDb name|0466153|Hirokazu Koreeda}}<br />
<br />
{{是枝裕和監督作品}}<br />
{{日本アカデミー賞最優秀監督賞}}<br />
{{日本アカデミー賞最優秀脚本賞}}<br />
{{ブルーリボン賞監督賞}}<br />
{{日刊スポーツ映画大賞監督賞}}<br />
{{ヨコハマ映画祭監督賞}}<br />
{{ヨコハマ映画祭脚本賞}}<br />
{{毎日芸術賞}}<br />
{{Normdaten}}<br />
{{DEFAULTSORT:これえた ひろかす}}<br />
[[Category:日本の映画監督]]<br />
[[Category:テレビディレクター]]<br />
[[Category:ドキュメンタリー]]<br />
[[Category:テレビマンユニオンの人物]]<br />
[[Category:アメリカ横断ウルトラクイズ]]<br />
[[Category:立命館大学の教員]]<br />
[[Category:早稲田大学の教員]]<br />
[[Category:早稲田大学出身の人物]]<br />
[[Category:東京都区部出身の人物]]<br />
[[Category:1962年生]]<br />
[[Category:存命人物]]</div>
122.214.146.170
ジーン・ハックマン
2018-08-29T10:04:32Z
<p>122.214.146.170: </p>
<hr />
<div>{{ActorActress<br />
| 芸名 = ジーン・ハックマン<br />
| ふりがな = Gene Hackman<br />
| 画像ファイル = GeneHackmanJun08.jpg<br />
| 画像サイズ =<br />
| 画像コメント = <br />
| 本名 = Eugene Allen Hackman<br />
| 別名義 = <br />
| 愛称 = <br />
| 出生地 = [[サンバーナーディーノ (カリフォルニア州)|サン・バーナディノ]]<br />
| 死没地 =<br />
| 国籍 = {{USA}}<br />
| 身長 =<br />
| 血液型 =<br />
| 生年 = 1930<br />
| 生月 = 1<br />
| 生日 = 30<br />
| 没年 = <br />
| 没月 = <br />
| 没日 = <br />
| 職業 = [[俳優]]<br />
| ジャンル = [[映画]]<br />
| 活動期間 = 1960年代 - 2004年<br />
| 活動内容 = <br />
| 配偶者 = Fay Maltese (1956 – 1986)<br />Betsy Arakawa (1991 - )<br />
| 著名な家族 = <br />
| 事務所 =<br />
| 公式サイト = <br />
| 主な作品 = 『[[俺たちに明日はない]]』<br />『[[フレンチ・コネクション]]』<br />『[[ポセイドン・アドベンチャー]]』<br />『[[スケアクロウ]]』<br />『[[スーパーマンの映画作品|スーパーマン]]』シリーズ<br />『[[ミシシッピー・バーニング]]』<br />『[[許されざる者 (1992年の映画)|許されざる者]]』<br />『[[ザ・ロイヤル・テネンバウムズ]]』<br />
| アカデミー賞 = '''[[アカデミー主演男優賞|主演男優賞]]'''<br />[[第44回アカデミー賞|1971年]]『[[フレンチ・コネクション]]』<br />'''[[アカデミー助演男優賞|助演男優賞]]'''<br />[[第65回アカデミー賞|1992年]]『[[許されざる者 (1992年の映画)|許されざる者]]』<br />
| ベルリン国際映画祭 = '''[[銀熊賞 (男優賞)|銀熊賞(男優賞)]]'''<br />[[第39回ベルリン国際映画祭|1989年]]『[[ミシシッピー・バーニング]]』<br />
| 全米映画批評家協会賞 = '''主演男優賞'''<br />2001年『[[ザ・ロイヤル・テネンバウムズ]]』<br />'''助演男優賞'''<br />1967年『[[俺たちに明日はない]]』<br />1992年『[[許されざる者 (1992年の映画)|許されざる者]]』<br />
| ニューヨーク映画批評家協会賞 = '''[[ニューヨーク映画批評家協会賞 主演男優賞|主演男優賞]]'''<br />[[第37回ニューヨーク映画批評家協会賞|1971年]]『[[フレンチ・コネクション]]』<br />'''[[ニューヨーク映画批評家協会賞 助演男優賞|助演男優賞]]'''<br />[[第58回ニューヨーク映画批評家協会賞|1992年]]『[[許されざる者 (1992年の映画)|許されざる者]]』<br />
| ロサンゼルス映画批評家協会賞 = '''[[ロサンゼルス映画批評家協会賞 助演男優賞|助演男優賞]]'''<br />[[第18回ロサンゼルス映画批評家協会賞|1992年]]『[[許されざる者 (1992年の映画)|許されざる者]]』<br />
| 英国アカデミー賞 = '''[[英国アカデミー賞 主演男優賞|主演男優賞]]'''<br />1972年『[[フレンチ・コネクション]]』『[[ポセイドン・アドベンチャー]]』<br />'''[[英国アカデミー賞 助演男優賞|助演男優賞]]'''<br />1992年『[[許されざる者 (1992年の映画)|許されざる者]]』<br />
| ゴールデングローブ賞 = '''[[ゴールデングローブ賞 主演男優賞 (ドラマ部門)|主演男優賞(ドラマ)]]'''<br />1971年『[[フレンチ・コネクション]]』<br />'''[[ゴールデングローブ賞 主演男優賞 (ミュージカル・コメディ部門)|主演男優賞(ミュージカル・コメディ)]]'''<br />[[第59回ゴールデングローブ賞|2001年]]『[[ザ・ロイヤル・テネンバウムズ]]』<br />'''[[ゴールデングローブ賞 助演男優賞|助演男優賞]]'''<br />1992年『[[許されざる者 (1992年の映画)|許されざる者]]』<br /> '''[[ゴールデングローブ賞_セシル・B・デミル賞|セシル・B・デミル賞]]'''<br />[[第60回ゴールデングローブ賞|2002年]] 長年の功績に対して<br />
| 全米映画俳優組合賞 = '''[[全米映画俳優組合賞 キャスト賞|アンサンブル演技賞]]'''<br />[[第3回全米映画俳優組合賞|1996年]]『[[バードケージ]]』<br />
| 備考 = <br />
}}<br />
'''ジーン・ハックマン'''('''Gene Hackman''', [[1930年]][[1月30日]] - )は、[[アメリカ合衆国]]の[[映画俳優]]。1971年に主演した『[[フレンチ・コネクション]]』の名演技で知られる。<br />
<br />
== 来歴 ==<br />
[[カリフォルニア州]][[サンバーナーディーノ (カリフォルニア州)|サン・バーナディノ]]生まれ。本名は'''ユージーン・アレン・ハックマン''' ('''Eugene Allen Hackman''')。[[イングランド]]系の血を引く<ref>[http://www.hellomagazine.com/profiles/genehackman/ Profiles - Gene Hackman - hellomagazine.com<!-- Bot generated title -->]</ref>。16歳のとき、年齢を詐称して[[アメリカ海兵隊|海兵隊]]に入隊。[[中華民国|中国]]の[[駐屯地]]で[[ラジオ放送]]の[[ディスクジョッキー|DJ]]を務めた<ref name=tca>Stated on ''Inside the Actors Studio'', 2001</ref>ことから演技に興味を持つようになる。除隊後様々な職を経験。その後[[イリノイ大学]]でジャーナリズムなどを学んだ。<br />
<br />
30歳を過ぎてから俳優を志すようになり、[[パサディナ・プレイハウス]]<ref name=tca/>や[[リー・ストラスバーグ]]主催の[[アクターズ・スタジオ]]で[[ダスティン・ホフマン]]とともに演技を学んだ<ref name=tca/>のち、[[ニューヨーク]]へ渡る。ホフマンが多数の[[映画]]に出演しスターダムへ上り詰める一方、ハックマンは[[舞台]]や[[テレビドラマ]]で端役しか与えられず、鳴かず飛ばずの状態が続いた。<br />
<br />
[[ブロードウェイ]]での公演を観た[[ロバート・ロッセン]]監督に見出され『リリス』で映画デビュー。[[1967年]]に[[アーサー・ペン]]監督の『[[俺たちに明日はない]]』に主人公クライドの兄バック役で出演。映画出演3作目で第2回[[全米批評家協会賞]]の助演男優賞を受賞。第40回[[アカデミー助演男優賞]]にもノミネートされ、37歳にしてようやく脚光を浴びた。<br />
<br />
[[1970年]]に『父の肖像』で再度アカデミー助演男優賞にノミネートされると、翌[[1971年]]に出演した[[ウィリアム・フリードキン]]監督の『[[フレンチ・コネクション]]』での演技が認められ、第44回[[アカデミー主演男優賞]]を獲得。一躍世界中の知るところとなった。同作品で演じた粗暴なコワモテ刑事ドイルの愛称'''ポパイ'''は、現在に至るまで彼の愛称として親しまれている。<br />
<br />
その後も『[[ポセイドン・アドベンチャー]]』、『[[スケアクロウ]]』、『[[ミシシッピー・バーニング]]』といった大作・名作に立て続けに出演。主演から脇役まで、また悪役から三枚目まで幅広い役柄をこなす俳優としてアメリカを代表するトップスターに上り詰めた。中でも『[[スーパーマン (1978年の映画)|スーパーマン]]』で演じた悪役・[[スーパーマン#代表的な悪役(ヴィラン)|レックス・ルーサー]]は、[[2006年]]に公開されたリメイク版の『[[スーパーマン リターンズ]]』で[[ケヴィン・スペイシー]]がハックマンと見まがうほど役に入り込んで演じたことで、話題が再燃した。<br />
<br />
[[1990年]]には心臓発作を起こして引退も考えたが、その後も映画に出演。病を克服して自分でも忘れるほど多くの映画に出演したことで'''タフガイ'''の名をほしいままにした(しかし[[2004年]]のインタビューで俳優業の引退を公言<ref>{{Cite web|url=http://in.reuters.com/article/lifestyleMolt/idINN0429553020080605|title=Just a Minute With: Gene Hackman on his retirement|author=Blair, Iain|publisher=Reuters|date=2008-06-05|accessdate=2008-07-19}}</ref>)。[[1992年]]に出演した[[クリント・イーストウッド]]監督の映画『[[許されざる者 (1992年の映画)|許されざる者]]』で第65回[[アカデミー助演男優賞]]を獲得。[[2002年]]には[[ゴールデン・グローブ賞]]の功労賞にあたるセシル・B・デミル賞を受賞した。<br />
<br />
また、考古学者のDaniel Lenihanと共にこれまで3冊の小説を出版している。また、2010年には単独で小説''Payback at Morning Peak''を出版した。<br />
<br />
『ポセイドン・アドベンチャー』日本公開時に来日しており、[[淀川長治]]と対談した(淀川著『映画と共に歩んだわが半世紀』)。<br />
<br />
日本語吹き替えは元々[[小池朝雄]]であったが、小池の死後は主に声質が近い[[石田太郎]]が演じていた。<br />
<br />
===私生活===<br />
プライベートでは1986年に30年連れ添った最初の妻と離婚。1991年に再婚している。子供は3人。<br />
<br />
== 主な出演作品 ==<br />
=== 映画 ===<br />
{| class="wikitable sortable" style="font-size:85%;" <br />
|-<br />
!公開年!!邦題<br />原題!!役名!!備考<br />
|-<br />
| 1964 || [[リリス (映画)|リリス]]<br />''Lilith'' || ノーマン || <br />
|-<br />
| 1966 || [[ハワイ (映画)|ハワイ]]<br />''Hawaii'' || ジョン・ウィップル博士 || <br />
|-<br />
|rowspan="2"|1967 || 体当り決死隊<br />''First to Fight'' || ツイード ||<br />
|-<br />
| [[俺たちに明日はない]]<br />''Bonnie and Clyde'' || バック・バロウ || 5人の強盗団一員でウォーレン・ベイティの兄、メインキャスト、出世作<br />
|-<br />
|rowspan="2"|1968 || 汚れた七人<br />'' The Split'' || ウォルター・ブリル || <br />
|-<br />
| 戦慄の第四帝国<br />'' Shadow on the Land'' || トーマス・デヴィス || テレビ映画<br />
|-<br />
|rowspan="4"|1969 || 暴動<br />'' Riot'' || レッド || <br />
|-<br />
| さすらいの大空<br />'' The Gypsy Moths'' || ジョー || スカイダイバー、16歳年長のバート・ランカスターと同世代の設定<br />
|-<br />
| 白銀のレーサー <br />''Downhill Racer'' || ユジーン || <br />
|-<br />
| [[宇宙からの脱出]] <br />''Marooned'' || バズ・ロイド || グレゴリー・ペック他オールスター映画、メイン3人宇宙飛行士一員<br />
|-<br />
| 1970 || 父の肖像<br /> ''I Never Sang for My Father'' || ジーン・ギャリソン || <br />
|-<br />
|rowspan="2"|1971 || さらば荒野<br />''The Hunting Party'' || ブランド || <br />
|-<br />
| [[フレンチ・コネクション]]<br />''The French Connection'' || ジミー・ドイル (ポパイ) || [[アカデミー主演男優賞]] 受賞<br />[[英国アカデミー賞 主演男優賞]] 受賞<br />[[ゴールデングローブ賞 主演男優賞 (ドラマ部門)]] 受賞<br />
|-<br />
|rowspan="2"|1972 || ブラック・エース<br />''Prime Cut'' || メリー・アン || <br />
|-<br />
| [[ポセイドン・アドベンチャー]] <br /> ''The Poseidon Adventure'' || フランク・スコット牧師 || 1970年代パニック映画の代表作<br />
|-<br />
| 1973 || [[スケアクロウ]] <br /> ''Scarecrow'' || マックス・ミラン || 出所後アル・パチーノと呉越同舟の旅<br />
|-<br />
|rowspan="3"|1974 || [[カンバセーション…盗聴…]] <br /> ''The Conversation'' || ハリー・コール || <br />
|-<br />
| [[西部に来た花嫁]]<br />''Zandy's Bride'' || ザンディ・アレン || <br />
|-<br />
| [[ヤング・フランケンシュタイン]] <br />''Young Frankenstein'' || 盲目の男 || <br />
|-<br />
|rowspan="4"|1975 || [[フレンチ・コネクション2]] <br />''French Connection II'' || ジミー・ドイル (ポパイ) || <br />
|-<br />
| [[ナイトムーブス]]<br />''Night Moves'' || ハリー・モーズビー || <br />
|-<br />
| [[弾丸を噛め]] <br /> ''Bite the Bullet'' || サム・クレイトン || <br />
|-<br />
| [[ラッキー・レディ]]<br />''Lucky Lady'' || キビー || <br />
|-<br />
|rowspan="3"|1977 || [[ドミノ・ターゲット]]<br /> ''The Domino Principle'' || ロイ・タッカー || <br />
|-<br />
| [[遠すぎた橋]] <br /> ''A Bridge Too Far'' || [[スタニスラウ・ソサボフスキー]]准将 ||<br />
|-<br />
| 外人部隊フォスター少佐の栄光<br />''March or Die'' || フォスター少佐 || <br />
|-<br />
| 1978 || [[スーパーマン (1978年の映画)|スーパーマン]] <br /> ''Superman'' || [[レックス・ルーサー]] || <br />
|-<br />
|rowspan="4"|1981 || [[スーパーマンII|スーパーマンII 冒険篇]] <br /> ''Superman II'' || レックス・ルーサー || <br />
|-<br />
| [[恋のドラッグストア・ナイト]]<br />''All Night Long'' || ジョージ || <br />
|-<br />
| [[レッズ (映画)|レッズ]] <br /> ''Reds'' || ピート || <br />
|-<br />
| [[錆びた黄金]]<br />''Eureka'' || ジャック || <br />
|-<br />
|rowspan="2"|1983 || [[アンダー・ファイア]] <br /> ''Under Fire'' || アレックス・グレイザー || <br />
|-<br />
| [[地獄の7人]]<br /> ''Uncommon Valor'' || ジェイソン・ローズ大佐 || <br />
|-<br />
| 1984 || [[ウィンター・ローズ]]<br />''Misunderstood'' || ネッド || <br />
|-<br />
|rowspan="2"|1985 || 燃えてふたたび<br />''Twice in a Lifetime'' || ハリー・マッケンジー || <br />
|-<br />
| [[ターゲット (1985年の映画)|ターゲット]]<br /> ''Target'' || ウォルター・ロイド / ダンカン・ポッター ||<br />
|-<br />
|rowspan="2"|1986 || [[キングの報酬]]<br />''Power'' || ウィルフレッド・バックリー || <br />
|-<br />
| [[勝利への旅立ち]]<br />''Hoosiers'' || ノーマン・デイル ||<br />
|-<br />
|rowspan="2"|1987 || [[スーパーマンIV|スーパーマン4 最強の敵]] <br /> ''Superman IV: The Quest For Peace'' || レックス・ルーサー || <br />
|-<br />
| [[追いつめられて]] <br /> ''No Way Out'' || デヴィッド・ブライス || <br />
|-<br />
|rowspan="5"|1988 || [[バット★21]] <br /> ''Bat 21'' || アイシール・ハンブルトン中佐 || <br />
|-<br />
| [[私の中のもうひとりの私]]<br /> ''Another Woman'' || ラリー・ルイス || <br />
|-<br />
| [[傷だらけの青春]]<br />''Split Decisions'' || ダン || <br />
|-<br />
| [[ブルーウォーターで乾杯]]<br />''Full Moon in Blue Water'' || フロイド || <br />
|-<br />
| [[ミシシッピー・バーニング]]<br />''Mississippi Burning'' || ルパート・アンダーソン || [[ベルリン国際映画祭]] [[銀熊賞 (男優賞)]] 受賞<br />
|-<br />
| 1989 || [[ザ・パッケージ/暴かれた陰謀]]<br /> ''The Package'' || ジョニー・ギャラガー || <br />
|-<br />
|rowspan="3"|1990 || [[キャノンズ]] <br /> ''Loose Cannons'' || マック・スターン刑事 || <br />
|-<br />
| [[ハリウッドにくちづけ]] <br /> ''Postcards from the Edge'' || ローウェル・コルチェク || <br />
|-<br />
| [[カナディアン・エクスプレス]] <br /> ''Narrow Margin'' || ロバート・コールフィールド || <br />
|-<br />
|rowspan="2"|1991 || [[訴訟 (映画)|訴訟]] <br /> ''Class Action'' || ジェデダイア・タッカー・ウォード || <br />
|-<br />
| [[ロシアン・ルーレット (映画)|ロシアン・ルーレット]]<br /> ''Company Business'' || サム・ボイド || <br />
|-<br />
|rowspan="2"|1992 || [[許されざる者 (1992年の映画)|許されざる者]]<br />''Unforgiven'' || リトル・ビル・ダゲット || [[アカデミー助演男優賞]] 受賞<br />[[英国アカデミー賞 助演男優賞]] 受賞<br />[[ゴールデングローブ賞 助演男優賞]] 受賞<br />
|-<br />
| [[ザ・ファーム 法律事務所]] <br />''The Firm'' || エイヴァリー・トラー || <br />
|-<br />
| 1993 || [[ジェロニモ (1993年の映画)|ジェロニモ]] <br />''Geronimo: An American Legend'' || ジョージ・クルーク || <br />
|-<br />
| 1994 || [[ワイアット・アープ (1994年の映画)|ワイアット・アープ]] <br />''Wyatt Earp'' || ニコラス・アープ || <br />
|-<br />
|rowspan="3"|1995 || [[クイック&デッド]] <br /> ''The Quick and the Dead'' || ジョン・ヘロッド || <br />
|-<br />
| [[クリムゾン・タイド]] <br />''Crimson Tide'' || フランク・ラムゼイ || <br />
|-<br />
| [[ゲット・ショーティ]] <br /> ''Get Shorty'' || ハリー・ジム || <br />
|-<br />
|rowspan="3"|1996 || [[バードケージ]]<br /> ''The Birdcage'' || ケヴィン・キーリー上院議員 || <br />
|-<br />
| [[ボディ・バンク]] <br /> ''Extreme Measures'' || ローレンス・マイリック医師 || <br />
|-<br />
| [[チェンバー/凍った絆]] <br /> ''The Chamber'' || サム・ケイホール || <br />
|-<br />
| 1997 || [[目撃 (映画)|目撃]] <br />''Absolute Power'' || アレン・リッチモンド大統領 || <br />
|-<br />
|rowspan="3"|1998 || [[トワイライト 葬られた過去]] <br />''Twilight'' || ジャック・エイムズ || <br />
|-<br />
| [[アンツ (アニメ映画)|アンツ]]<br />''Antz'' || マンディブル将軍 || アニメ映画、声の出演<br />
|-<br />
| [[エネミー・オブ・アメリカ]] <br /> ''Enemy of the State'' || ブリル / エドワード・ライル || <br />
|-<br />
|rowspan="2"|2000 || [[アンダー・サスピション]] <br />''Under Suspicion'' || ハリー・ハースト || <br />
|-<br />
| [[リプレイスメント]] <br /> ''The Replacements'' || ジミー・マクギンティー || <br />
|-<br />
|rowspan="5"|2001 || [[ザ・メキシカン]] <br /> ''The Mexican'' || アーノルド・マルゴリース || クレジットなし<br />
|-<br />
| [[ハートブレイカー (2001年の映画)|ハートブレイカー]] <br /> ''Heartbreaker'' || ウィリアム・B・テンシー || <br />
|-<br />
| [[ザ・プロフェッショナル]] <br /> ''Heist'' || ジョー・ムーア || <br />
|-<br />
| [[ザ・ロイヤル・テネンバウムズ]] <br />''The Royal Tenenbaums'' || ロイヤル・テネンバウム || [[ゴールデングローブ賞 主演男優賞 (ミュージカル・コメディ部門)]] 受賞<br />
|-<br />
| [[エネミー・ライン]] <br /> ''Behind Enemy Lines'' || レスリー・マクマホン・レイガート司令官 || <br />
|-<br />
| 2003 || [[ニューオーリンズ・トライアル]] <br /> ''Runaway Jury'' || ランキン・フィッチ || <br />
|-<br />
| 2004 || [[ムースポート]] <br /> ''Welcome to Mooseport'' || モンロー・コール || <br />
|-<br />
|}<br />
<br />
=== 広告・CM ===<br />
* [[麒麟麦酒]]「[[キリンドライ]]」(1988年)<br />
<br />
== 受賞歴 ==<br />
*[[アカデミー賞]]<br />
**1967年『[[俺たちに明日はない]]』 助演男優賞(ノミネーション)<br />
**1970年『父の肖像』 助演男優賞(ノミネーション)<br />
**1971年『[[フレンチ・コネクション]]』 主演男優賞(受賞)<br />
**1988年『[[ミシシッピー・バーニング]]』 主演男優賞(ノミネーション)<br />
**1992年『[[許されざる者 (1992年の映画)|許されざる者]]』 助演男優賞(受賞)<br />
<br />
== 参照 ==<br />
{{Reflist}}<br />
<br />
== 外部リンク ==<br />
{{Commonscat|Gene Hackman}}<br />
* {{allcinema name|41845|ジーン・ハックマン}}<br />
* {{Kinejun name|7153|ジーン・ハックマン}}<br />
* {{IMDb name|0000432|Gene Hackman}}<br />
* {{IBDB name|43623|Gene Hackman}}<br />
* {{iobdb name|name=Gene Hackman}}<br />
<br />
{{アカデミー賞主演男優賞 1961-1980}}<br />
{{アカデミー賞助演男優賞 1981-2000}}<br />
{{英国アカデミー賞主演男優賞}}<br />
{{英国アカデミー賞助演男優賞}}<br />
{{ゴールデングローブ賞 主演男優賞 (ドラマ部門)}}<br />
{{ゴールデングローブ賞 主演男優賞 (ミュージカル・コメディ部門)}}<br />
{{ゴールデングローブ賞 助演男優賞}}<br />
{{ニューヨーク映画批評家協会賞 主演男優賞}}<br />
{{ニューヨーク映画批評家協会賞 助演男優賞}}<br />
{{ロサンゼルス映画批評家協会賞 助演男優賞}}<br />
<br />
{{Normdaten}}<br />
{{DEFAULTSORT:はつくまん しいん}}<br />
[[Category:アメリカ合衆国の男優]]<br />
[[Category:悪役俳優]]<br />
[[Category:アカデミー賞受賞者]]<br />
[[Category:ゴールデングローブ賞受賞者]]<br />
[[Category:英国アカデミー賞受賞者]]<br />
[[Category:イングランド系アメリカ人]]<br />
[[Category:サンバーナーディーノ出身の人物]]<br />
[[Category:イリノイ州ヴァーミリオン郡出身の人物]]<br />
[[Category:アクション俳優]]<br />
[[Category:1930年生]]<br />
[[Category:存命人物]]</div>
122.214.146.170
ピーター・ユスティノフ
2018-08-22T10:50:03Z
<p>122.214.146.170: </p>
<hr />
<div>{{出典の明記|date=2017-10-20}}<br />
{{ActorActress<br />
| 芸名 = Sir Peter Alexander Ustinov<br />
| ふりがな = ピーター・ユスティノフ<br />
| 画像ファイル = Sir Peter Ustinov Allan Warren.jpg<br />
| 画像サイズ = 230px<br />
| 画像コメント = 1986年撮影<br />
| 本名 = Peter Alexander Baron von Ustinov<br />
| 別名義 = <br />
| 出生地 = {{ENG}} [[ロンドン]]<br />
| 死没地 = {{SUI}} [[ヴォー州]] ニヨン郡 [[:w:Genolier|ジェノリエ]]<br />
| 国籍 = {{GBR}}<br />
| 身長 =<br />
| 血液型 =<br />
| 生年 = 1921<br />
| 生月 = 4<br />
| 生日 = 16<br />
| 没年 = 2004<br />
| 没月 = 3<br />
| 没日 = 28<br />
| 職業 = [[俳優]]、[[脚本家]]、[[プロデューサー]]、[[監督]]、[[舞台演出家]]、[[小説家]]、[[コメディアン]]<br />
| ジャンル = [[映画]]、[[舞台]]、[[テレビドラマ]]<br />
| 活動期間 = 1940年 - 2004年<br />
| 活動内容 = 1957年:[[エミー賞]]受賞<br />1960年:[[アカデミー賞]]受賞<br />1960年:[[グラミー賞]]受賞<br />1964年:2度目のアカデミー賞受賞<br />1967年:2度目のエミー賞受賞<br />1970年:3度目のエミー賞受賞<br />
| 配偶者 = Isolde Denham(1940年 – 1950年)<br>シュザンヌ・クルーティエ(1954年 – 1971年)<br>Hélène du Lau d'Allemands(1972年 – 2004年)<br />
| 著名な家族 = <br />
| 事務所 =<br />
| 公式サイト = <br />
| 主な作品 = 映画<br />『[[クォ・ヴァディス (映画)|クォ・ヴァディス]]』<br />『[[スパルタカス (映画)|スパルタカス]]』<br />『びっくり大将』<br />『[[トプカピ]]』<br />『[[2300年未来への旅]]』<br />『[[ロレンツォのオイル/命の詩]]』<hr />エルキュール・ポアロシリーズ<br />『[[ナイル殺人事件]]』<br />『[[地中海殺人事件]]』<br />『[[死海殺人事件]]』<br />
| アカデミー賞 = '''[[アカデミー助演男優賞|助演男優賞]]'''<br />[[第33回アカデミー賞|1960年]]『[[スパルタカス (映画)|スパルタカス]]』<br />[[第37回アカデミー賞|1964年]]『[[トプカピ]]』<br />
| ベルリン国際映画祭 = '''[[ベルリン国際映画祭|銀熊賞芸術貢献賞]]'''<br />[[1972年]]『[[:en:Hammersmith Is Out|Hammersmith Is Out]]』<br />
| AFI賞 = '''助演男優賞'''<br />[[1960年]]『スパルタカス』<br />
| 英国アカデミー賞 = '''[[英国アカデミー賞|生涯功労賞]]'''<br />[[1992年]] 映画界、演劇界への長年の貢献に対して<br />
| エミー賞 = '''[[:en:Primetime Emmy Award for Outstanding Lead Actor – Miniseries or a Movie|主演男優賞(ミニシリーズ/テレビ映画部門)]]'''<br />[[1957年]]『[[:en:The Life of Samuel Johnson (TV film)|The Life of Samuel Johnson]]』<br />[[1967年]]『[[:en:Barefoot in Athens|Barefoot in Athens]]』<br />[[1970年]]『[[:en:A Storm in Summer|A Storm in Summer]]』<br />
| ゴールデングローブ賞 = '''[[ゴールデングローブ賞 助演男優賞|助演男優賞]]'''<br />[[1951年]]『[[クォ・ヴァディス (映画)|クォ・ヴァディス]]』<br />
| ローレンス・オリヴィエ賞 = <br />
| 全米映画俳優組合賞 = <br />
| トニー賞 = <br />
| グラミー賞 = '''[[グラミー賞|子供のための録音賞]]'''<br />[[1960年]]『[[ピーターと狼]]』<br />
| その他の賞 = '''[[大英帝国勲章]]'''<br />1975年<br />
| 備考 = <br />
}}<br />
'''ピーター・アレクサンダー・ユスティノフ'''(Sir Peter Alexander Ustinov, [[1921年]][[4月16日]] - [[2004年]][[3月28日]])は、[[英国]]の[[アカデミー賞]]受賞俳優で、[[小説家]]、[[脚本家]]、[[劇作家]]、[[映画監督]]。[[大英帝国勲章|CBE]]受勲者。[[アカデミー助演男優賞]]を『[[スパルタカス (映画)|スパルタカス]]』(1960年)と『[[トプカピ]]』(1964年)の2作品で獲得した。<br />
<br />
== 生涯 ==<br />
ピーター・アレクサンダー・フォン・ユスティノフ (Peter Alexander Baron von Ustinov) として、[[ロンドン]]市内で生まれる。<br />
<br />
フォン・ユスティノフの父親[[:w:Jona von Ustinov|Jona von Ustinov]]は[[ロシア]]系の[[ドイツ]]人。第1次世界大戦中はドイツ軍の空軍で活躍し、1930年代[[イギリス|英国]]に移住してドイツ大使館に勤めた後、ドイツの新聞社の特派員を経て[[イギリス|英国]]の[[MI5]]で働き、[[第二次世界大戦]]前は対ドイツの諜報を専門に行っていた。ユスティノフ自身の回顧録によると、自宅で英国とドイツの上級官僚が密談していたという。ユスティノフの母親は[[フランス]]、[[イタリア]]、[[エチオピア]]王室の血脈を受け継いだロシア人の画家兼バレエのステージデザイナーであった。彼女の父親は著名なロシアの建築家であり、また兄は[[イーゴリ・ストラヴィンスキー|ストラヴィンスキー]]と[[ディアギレフ]]と共に働いたステージデザイナーであった。<br />
<br />
このような家庭環境のためか、フォン・ユスティノフは[[英語]]、[[フランス語]]、[[ドイツ語]]、[[イタリア語]]、[[ロシア語]]、[[スペイン語]]を流ちょうに操り、また[[トルコ語]]や[[現代ギリシア語]]も喋った。<br />
<br />
フォン・ユスティノフは[[ウェストミンスター・スクール]]で教育を受け、在学中は[[ドイツ国]]の駐イギリス大使の[[ヨアヒム・フォン・リッベントロップ|ウルリヒ・フリードリヒ・ヴィルヘルム・ヨアヒム・フォン・リッベントロップ]]の息子の[[ルドルフ・フォン・リッベントロップ]]の同級生であった。その後中退し、1938年に早くも17歳でロンドンのプレイヤーズ・シアターで舞台デビューを、翌年には自作の戯曲の主演を務めるようになる。第2次世界大戦中は、一兵卒として陸軍に配属されるが、[[デヴィット・ニーブン]]と共に軍での[[プロパガンダ]]映画の中で俳優として演じるようになった。この時、すでに映画の脚本も書いていた。<br />
<br />
フォン・ユスティノフの最初の成功は "The Love of Four Colonels" (1951年)という作品である。また、自作自演で出演した『びっくり大将』"Romanoff and Juliet"(1956年)は最も良く知られた作品である。出演作品には、『[[クォ・ヴァディス]]』(1951年)での皇帝[[ネロ]]や『[[スパルタカス (映画)|スパルタカス]]』(1960年)のバタイアタス役、SF映画『2300年未来への旅』での老人役、[[アガサ・クリスティ]]原作の『ナイル殺人事件』(1978年)をはじめとする6本の[[エルキュール・ポアロ]]役などがある。また、俳優や脚本のみならず、映画監督もつとめた作品も何本かある。<br />
<br />
アカデミー賞助演男優賞を『スパルタカス』(1960年)と『[[トプカピ]]』(1964年)の2作品で獲得した。ゴールデングローブ賞の助演男優賞も『クォ・ヴァディス』(1951年)で獲得している。1957年と1967年、1970年に[[エミー賞]]を受賞している。<br />
<br />
1952年から1955年にかけてBBCのラジオ・コメディにも出演し、とても愛されるキャラクターを演じた。また、テレビでも巧みな話術でお茶の間の人気者になった。博識な語学力を生かし、ドイツ人から見た英国人などのようにとてもユーモアにあふれたジョークを連発していた。また、文壇界でも活躍しており、長編小説を3作、短編集も2冊出版している。<br />
<br />
1969年から亡くなるまでの間、[[国際連合児童基金|ユニセフ]]の友好親善大使と基金発案者を兼務していたが、これは明るいキャラクターと人を笑わせる話術の賜物であった。1991年から世界連邦運動の推進委員を務めていたほか、中華人民共和国のよき理解者であった。2000年には、「世界中の人々は、多くの人権を蹂躙している[[中国共産党]]政府のやりかたにイライラしている。しかし、膨大な人口を抱えるためになかなか問題は解決しない」と、ダラム大学の講演で述べている。<br />
<br />
ほかに[[ドキュメンタリー]]への出演や[[司会]]役・[[インタビュアー]]も多く、[[1984年]][[10月31日]]には[[インド]]の[[デリー]]で[[インディラ・ガンディー]][[インドの首相|首相]]へのインタビュー中、彼女の[[暗殺]]現場に居合わせたこともある。<br />
<br />
[[ベルギー]]の[[ブリュッセル]]の大学から名誉博士号を授けられた。1960年代後半には税金から逃れようと[[スイス]]に移住し、1990年にナイト爵を授けられた。1970年代後半からダンディー大学の総長として、また1992年からはダラム大学の大学総長の任務にあたった。2003年にダンディー大学が移転した際には、名称をユスティノフ大学と改名した。また、最晩年は[[世界連邦運動]]の会長を務めた。<br />
<br />
2004年に晩年を過ごしたスイスで心臓疾患により亡くなった際には、国連総長の[[コフィ・アナン]]の代理として、[[国際連合児童基金|ユニセフ]]の理事キャロル・ベラミーが弔辞を述べた。遺体は、[[ニヨン (スイス)|ニヨン]]のブルサン墓地に埋葬されている。<br />
<br />
== 主な出演作品 ==<br />
{| class="wikitable" <br />
|-<br />
!公開年!!邦題<br />原題!!役名!!備考<br />
|-<br />
| 1942 || わが一機未帰<br />''One of Our Aircraft Is Missing'' || 司祭 || <br />
|-<br />
| 1944 || 最後の突撃<br />''The Way Ahead'' || リスポリ || 脚本・出演<br />
|-<br />
|rowspan="2"|1951 || 極楽ホテル<br />''Hotel Sahara'' || || <br />
|-<br />
| [[クォ・ヴァディス (映画)|クォ・ヴァディス]] <br />''Quo Vadis'' || [[ネロ]] || [[ゴールデングローブ賞 助演男優賞]] 受賞<br />
|-<br />
|rowspan="2"|1954 || [[エジプト人 (映画)|エジプト人]] <br />''The Egyptian'' || カプタ || <br />
|-<br />
| 騎士ブランメル<br />''Beau Brummell'' || プリンス・オブ・ウェールズ ||<br />
|-<br />
| 1955 || [[俺たちは天使じゃない (1955年の映画)|俺たちは天使じゃない]]<br />''We're No Angels'' || ジュールズ || <br />
|-<br />
| 1956 || [[歴史は女で作られる]]<br />''Lola Montès'' || サーカス団長 || <br />
|-<br />
| 1957 || スパイ<br />''Les Espions'' || マイケル || <br />
|-<br />
|rowspan="2"|1960|| [[スパルタカス (映画)|スパルタカス]]<br />''Spartacus'' || レンチュラス・バタイアタス || [[アカデミー助演男優賞]] 受賞<br />
|-<br />
| [[サンダウナーズ]] <br />''The Sundowners'' || ルパート || <br />
|-<br />
| 1961 || びっくり大将<br />''Romanoff and Juliet'' || 将軍 || 監督・製作・脚本・出演<br />
|-<br />
| 1962 || 奴隷戦艦<br />''Billy Budd''<ref name=PYustinov>原作: [[ハーマン・メルヴィル]]{{cite video|title=Billy Budd|people=出演: [[ロバート・ライアン]]、[[メルヴィン・ダグラス]]、[[:en:Paul Rogers|ポール・ロジャーズ <small>(英語版)</small>]]、[[ジョン・ネヴィル]]、ピーター・ユスティノフ. 監督: P・ユスティノフ. 脚本: P・ユスティノフ. 原作: [[ハーマン・メルヴィル]]|medium=DVD PAL|studio=Allied Artists|language=英語|asin=B000GI3KHQ|accessdate=2017-01-07|date=2016-03-18}}</ref> || エドウィン・フェアファクス・ヴェラ || 監督・製作・脚本・出演<br />
<br />
|-<br />
| 1964 || [[トプカピ]]<br />''Topkapi'' || アーサー・サイモン・シンプソン || [[アカデミー助演男優賞]] 受賞<br />
|-<br />
| 1965 || レディL<br />''Lady L'' || || 監督 /脚本<br />
|-<br />
| 1967|| 危険な旅路<br />''The Comedians'' || マヌエル・ピネダ || <br />
|-<br />
| 1968 || 黒ひげ大旋風<br />''Blackbeard's Ghost'' || 黒ひげ || <br />
|-<br />
| 1972|| ''HAMMERSMITH IS OUT'' || ドクター || 監督・出演<br />[[ベルリン国際映画祭]] [[銀熊賞]](芸術貢献賞) 受賞<br />
|-<br />
| 1973|| ロビン・フッド<br />''Robin Hood'' || プリンス・ジョン/キング・リチャード || アニメ映画、声の出演<br />
|-<br />
|rowspan="2"|1976 || [[2300年未来への旅]]<br />''Logan's Run'' || オールドマン || <br />
|-<br />
| マタクンベの黄金<br />''Treasure of Matecumbe'' || ||<br />
|-<br />
|rowspan="3"|1977 || ナザレのイエス<br />''Jesus of Nazareth'' || [[ヘロデ大王]] || テレビ・ミニシリーズ<br />
|-<br />
| 男と女のアヴァンチュール/紫のタクシー<br />''Un taxi mauve'' || || <br />
|-<br />
| Oh!外人部隊<br />''The Last Remake of Beau Geste'' || || <br />
|-<br />
|rowspan="2"|1978|| [[ナイル殺人事件]] <br />''Death on the Nile'' || [[エルキュール・ポワロ]] ||<br />
|-<br />
| バグダッドの盗賊<br />''The Thief of Baghdad'' || || テレビ映画 <br />
|-<br />
| 1979 || アシャンティ<br />''Ashanti'' || スレイマン || <br />
|-<br />
| 1980 || オリエンタル探偵殺人事件<br />''Charlie Chan and the Curse of the Dragon Queen'' || チャーリー・チャン || <br />
|-<br />
| 1981 || マペットの大冒険/宝石泥棒をつかまえろ! <br />''The Great Muppet Caper'' || トラック運転手 || <br />
|-<br />
| 1982 || [[地中海殺人事件]] <br />''Evil Under the Sun'' || エルキュール・ポワロ || <br />
|-<br />
| 1985 || 名探偵ポワロ/エッジウェア卿殺人事件<br />'' Thirteen at Dinner'' || エルキュール・ポワロ || テレビ映画<br />
|-<br />
|rowspan="2"|1986 || 名探偵ポアロ/死者のあやまち<br />''Dead Man's Folly'' || エルキュール・ポワロ || テレビ映画<br />
|-<br />
| 名探偵ポアロ/三幕の殺人<br />''Murder in Three Acts'' || エルキュール・ポワロ || テレビ映画<br />
|-<br />
| 1988 || [[死海殺人事件]]<br />''Appointment with Death'' || エルキュール・ポワロ || <br />
|-<br />
| 1989|| 新80日間世界一周<br />''Around the World in 80 Days'' || ウィルバー・フィクス探偵 || テレビ・ミニシリーズ<br />
|-<br />
| 1990 || [[ドッグ・イン・パラダイス]]<br />''C'era un castello con 40 cani'' || 獣医 ムジョーネ || <br />
|-<br />
| 1992 || [[ロレンツォのオイル/命の詩]]<br />''Lorenzo's Oil'' || ニコラス教授 || <br />
|-<br />
| 1995 || チャールズ・ディケンズの骨董屋<br />''The Old Curiosity Shop'' || 祖父 || テレビ映画<br />
|-<br />
|rowspan="3"|1999|| アリス・イン・ワンダーランド/不思議の国のアリス<br />''Alice in Wonderland'' || セイウチ || テレビ映画、声の出演<br />
|-<br />
| アニマルファーム<br />''Animal Farm '' || || 声の出演 <br />
|-<br />
| [[プロポーズ (1999年の映画)|プロポーズ]] <br />''The Bachelor'' || ジェームズ・シャノン ||<br />
|-<br />
|}<br />
<br />
== 出典 ==<br />
{{Reflist}}<br />
<br />
== 外部リンク ==<br />
{{Commonscat|Peter Ustinov}}<br />
* {{imdb|0001811|Peter Ustinov}}<br />
* {{iBDB name|8131|Peter Ustinov}}<br />
* {{allcinema name|15386|ピーター・ユスティノフ}}<br />
* {{Find a Grave|8571055}}<br />
<br />
{{アカデミー賞助演男優賞}}<br />
{{ゴールデングローブ賞 助演男優賞}}<br />
{{Normdaten}}<br />
{{DEFAULTSORT:ゆすていのふ ひいたあ}}<br />
[[Category:イギリスの映画監督]]<br />
[[Category:イギリスの劇作家]]<br />
[[Category:イングランドの男優]]<br />
[[Category:アカデミー賞受賞者]]<br />
[[Category:エミー賞受賞者]]<br />
[[Category:ゴールデングローブ賞受賞者]]<br />
[[Category:大英帝国勲章]]<br />
[[Category:ダンディー大学の教員]]<br />
[[Category:カムデン区出身の人物]]<br />
[[category:ロシア系イギリス人]]<br />
[[category:ドイツ系イギリス人]]<br />
[[category:フランス系イギリス人]]<br />
[[Category:ウェストミンスター・スクール出身の人物]]<br />
[[Category:1921年生]]<br />
[[Category:2004年没]]<br />
[[Category:エルキュール・ポアロ]]</div>
122.214.146.170
ビル・マーレイ
2018-08-17T14:59:41Z
<p>122.214.146.170: </p>
<hr />
<div>{{otheruses|[[コメディアン]]、[[俳優]]のビル・マーレイ|ビリー・マレー|ビリー・マレー}}<br />
{{ActorActress<br />
| 芸名 = Bill Murray<br />
| ふりがな = ビル・マーレイ<br />
| 画像ファイル = Bill Murray Deauville 2011.jpg<br />
| 画像サイズ = 250px<br />
| 画像コメント = 2011年<br />
| 本名 = <br />
| 別名義 = <br />
| 出生地 = {{USA}} [[イリノイ州]][[シカゴ]]<br />
| 死没地 =<br />
| 国籍 = <br />
| 民族 = <br />
| 身長 =<br />
| 血液型 =<br />
| 生年 = 1950<br />
| 生月 = 9<br />
| 生日 = 21<br />
| 没年 = <br />
| 没月 = <br />
| 没日 = <br />
| 職業 = コメディアン・俳優<br />
| ジャンル = テレビ・映画<br />
| 活動期間 = 1969年 - <br />
| 活動内容 = 1969年:デビュー<br />1979年:映画デビュー<br />
| 配偶者 = <br />
| 著名な家族 = <br />
| 事務所 =<br />
| 公式サイト = <br />
| 主な作品 = 『[[サタデー・ナイト・ライブ]]』<br/>『[[ゴーストバスターズ]]』<br/>『[[3人のゴースト]]』<br/>『[[ロスト・イン・トランスレーション]]』<br />
| 全米映画批評家協会賞 = '''主演男優賞'''<br />[[2003年]]『[[ロスト・イン・トランスレーション]]』<br />'''助演男優賞'''<br />[[1998年]]『[[天才マックスの世界]]』<br />
| ニューヨーク映画批評家協会賞 = '''[[ニューヨーク映画批評家協会賞 主演男優賞|主演男優賞]]'''<br />[[第69回ニューヨーク映画批評家協会賞|2003年]]『[[ロスト・イン・トランスレーション]]』<br />'''[[ニューヨーク映画批評家協会賞 助演男優賞|助演男優賞]]'''<br />[[第64回ニューヨーク映画批評家協会賞|1998年]]『[[天才マックスの世界]]』<br />
| ロサンゼルス映画批評家協会賞 = '''[[ロサンゼルス映画批評家協会賞 主演男優賞|主演男優賞]]'''<br />[[第29回ロサンゼルス映画批評家協会賞|2003年]]『[[ロスト・イン・トランスレーション]]』<br />'''[[ロサンゼルス映画批評家協会賞 助演男優賞|助演男優賞]]'''<br />[[第24回ロサンゼルス映画批評家協会賞|1998年]]『[[天才マックスの世界]]』<br />
| 英国アカデミー賞 = '''[[英国アカデミー賞 主演男優賞|主演男優賞]]'''<br />2003年『[[ロスト・イン・トランスレーション]]』<br />
| エミー賞 = '''脚本賞(バラエティー部門)'''<br />1977年『[[サタデー・ナイト・ライブ]]』<br />'''助演男優賞 (ミニシリーズ・テレビ映画部門)'''<br />2015年『''Olive Kitteridge''』<br />
| ゴールデングローブ賞 = '''[[ゴールデングローブ賞 主演男優賞 (ミュージカル・コメディ部門)|主演男優賞(ミュージカル・コメディ部門)]]'''<br />2003年『[[ロスト・イン・トランスレーション]]』<br />
| ゴールデンラズベリー賞 = <br />
| 全米映画俳優組合賞 = <br />
| トニー賞 = <br />
| ブルーリボン賞 = <br />
| ローレンス・オリヴィエ賞 = <br />
| その他の賞 = <br />
| 備考 = <br />
}}<br />
'''ビル・マーレイ'''(Bill Murray, [[1950年]][[9月21日]] - )は、[[アメリカ合衆国]]の[[コメディアン]]、[[俳優]]、映画監督、脚本家。<br />
<br />
== 生い立ち ==<br />
[[イリノイ州]][[シカゴ]]にて、[[アイルランド系アメリカ人|アイルランド系]]の家庭に、9人兄弟の5番目として生まれる。彼を含めて4人が俳優になった。父親は木材のセールスマンで、母親は郵便室係だった<ref name="biography">{{cite news |title=Bill Murray profile at FilmReference.com|url=http://www.filmreference.com/film/24/Bill-Murray.html|publisher=Film Reference|accessdate=2007-11-12}}</ref>。17歳の時に父親が亡くなり<ref name="nyt7">''[[The New York Times]]'' article: "[http://www.nytimes.com/1988/11/20/magazine/the-rumpled-anarchy-of-bill-murray.html?pagewanted=7 The Rumpled Anarchy of Bill Murray]", page 7.</ref><ref name="yahoo">Yahoo Movies: [http://movies.yahoo.com/movie/contributor/1800022908/bio Bill Murray profile at Yahoo! Movies]</ref>、高校時代はキャディのアルバイトに勤しみ<ref name="cinderella">{{cite book|last=Murray|first=Bill|coauthors=George Peper|title=Cinderella Story: My Life in Golf|year=1999|publisher=[[:w:Doubleday (publisher)|Doubleday]]|isbn=0-385-49571-4}}</ref>、教育資金を受けながらカトリック系の高校へ進学。医学を学ぶために[[コロラド州]][[デンバー]]の[[レジス大学]]に入学したが、後に退学した<ref name="nyt10">''The New York Times'' article: [http://www.nytimes.com/1988/11/20/magazine/the-rumpled-anarchy-of-bill-murray.html?pagewanted=10 "The Rumpled Anarchy of Bill Murray"], p. 10</ref>。1971年頃、シカゴの空港にて[[マリファナ]]所持にて[[逮捕]]された<ref name="cinderella"/><ref name="nyt10" />。<br />
<br />
=== キャリア ===<br />
兄の[[ブライアン・ドイル=マーレイ]]に勧められて即興劇団[[セカンド・シティ]]に参加、そこで[[ジョン・キャンディ]]らと出会った。その後、[[ジョン・ベルーシ]]からの誘いで生活の拠点を[[ニューヨーク]]へ移し、1977年から1980年まで、[[NBC]]の人気バラエティ番組『[[サタデー・ナイト・ライブ]]』に出演し人気を得る。日本では『[[ゴースト・バスターズ|ゴーストバスターズ]]』のピーター・ベンクマン博士役で知名度も上がる。その後もコンスタントに俳優として映画に出演しているが、エージェントやマネージャーを持っておらず、コンタクトが難しいとして映画の製作陣からはオファーが出しづらい俳優として認識されている<ref>{{cite web|url=http://rodcorp.typepad.com/rodcorp/2005/02/how_we_work_bil.html|title=How we work: Bill Murray, actor|publisher=rodcorp|accessdate=2008-01-11|archiveurl=https://web.archive.org/web/20080107192513/http://rodcorp.typepad.com/rodcorp/2005/02/how_we_work_bil.html|archivedate=2008年1月7日|deadurl=no|deadurldate=2017年9月}}</ref>。<br />
<br />
これまで様々な役柄で打診されたことがあり、例に挙げると[[ピクサー]]製作の『[[モンスターズ・インク]]』で[[ジョン・グッドマン]]が声を担当したサリーや、『[[トイ・ストーリー]]』のバズ・ライトイヤー役。[[ティム・バートン]]監督の『[[バットマン (映画)|バットマン]]』のブルース・ウェイン役や『[[チャーリーとチョコレート工場]]』のウィリー・ウォンカ役<ref>{{cite web|url=http://hotlist.uk.msn.com/actors_and_film/bill_murray_gets_lost_in_transportation.aspx|title=MSN Hotlist|publisher=Microsoft|accessdate=2008-01-11|archiveurl=https://web.archive.org/web/20080107030906/http://hotlist.uk.msn.com/actors_and_film/bill_murray_gets_lost_in_transportation.aspx|archivedate=2008年1月7日|deadurl=no|deadurldate=2017年9月}}</ref>。『[[キンダガートン・コップ]]』のキンブル刑事役や『[[ロジャー・ラビット]]』で[[ボブ・ホスキンス]]演じた私立探偵のエディー役に、『[[スター・ウォーズ]]』のハン・ソロ役、[[ジョン・バダム]]監督の『[[ブルーサンダー (映画)|ブルーサンダー]]』のリチャード・ライマングッド役や『[[ショート・サーキット]]』のニュートン・クロスビー役や『[[ハード・ウェイ]]』のジョン・モス役などがある。近年では[[ティム・バートン]]、[[ジム・ジャームッシュ]]、[[ソフィア・コッポラ]]、[[ウェス・アンダーソン]]など、個性的な監督の作品に出て高い評価を得ている。また、[[アート・リンソン]]監督『バッファローの棲むところ』で、アメリカを代表するジャーナリスト、[[ハンター・トンプソン]]を演じたこともある。<br />
<br />
2003年に[[東京]]を舞台にした[[ソフィア・コッポラ]]監督の『[[ロスト・イン・トランスレーション]]』では、CM撮影の為に[[日本]]へやってきた中年のハリウッドスター、ボブ・ハリスをユーモラスに演じて[[アカデミー主演男優賞]]にノミネートされ、[[ゴールデングローブ賞 主演男優賞 (ミュージカル・コメディ部門)|ゴールデングローブ賞(ミュージカル・コメディ部門)]]など多数の映画賞を受賞した。<br />
<br />
=== 私生活 ===<br />
1981年1月25日に女優の[[ミッキー・ケリー]]と結婚<ref name="white">''[[The New York Times]]'' article: [http://www.nytimes.com/1988/11/20/magazine/the-rumpled-anarchy-of-bill-murray.html "The Rumpled Anarchy of Bill Murray"].</ref><ref name="chase">{{cite news|last=Chase|first=Chris|title=Bill Murray, A Black Sheep Now in ''Stripes''|work=[[The New York Times]]|date=1981-07-03}}</ref>。2人の子供が誕生するが、1994年に離婚。1997年7月4日に女優の[[ジェニファー・バトラー]]と再婚。4人の子供が誕生するが、2008年6月13日に離婚<ref>{{cite web |url=http://www.postandcourier.com/news/2008/may/29/bill_murray_sued_divorce42566/ |title=The Post and Courier&nbsp;— Bill Murray sued for divorce&nbsp;— Charleston SC&nbsp;— postandcourier.com |publisher=Charleston.net |date=2008-05-29 |accessdate=2010-03-09 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20100324181037/http://www.postandcourier.com/news/2008/may/29/bill_murray_sued_divorce42566/ |archivedate=2010年3月24日 |deadurl=no |deadurldate=2017年9月 }}</ref>。<br />
<br />
ゴルフには熱心で、有名人のゴルフトーナメントなどには多く参加している。[[1999年]]にはゴルフに関するエッセイなどを載せた本も出版した。[[2007年]]に[[スウェーデン]]を訪れた際、ゴルフトーナメントの帰り道の公道でゴルフカートを運転していて[[ストックホルム]]の警察に職務質問を受ける騒ぎも起きている<ref>{{cite news|url=http://www.cinematoday.jp/page/N0011328|title=ビル・マーレイ、ゴルフ・カートに乗ってご機嫌?|publisher=シネマトゥデイ|date=2007年8月30日|accessdate=2013年2月3日}}</ref>。シカゴのプロスポーツチームが好きで、プロ野球チームの[[シカゴ・カブス]]やプロフットボールチームの[[シカゴ・ベアーズ]]などの大ファンである。<br />
<br />
== 主な出演作品 ==<br />
{| class="wikitable sortable" <br />
|-<br />
!公開年!!邦題<br />原題!!役名!!備考<br />
|-<br />
|1979|| ミートボール<br />''Meatballs'' || トリッパー || <br />
|-<br />
|rowspan="2"|1980|| [[ボールズ・ボールズ]]<br />''Caddyshack'' || カール・スパックラー || <br />
|-<br />
| アメリカ発 珍作映画情報 <br />''Loose Shoes'' || レフティ・シュワルツ || <br />
|-<br />
|1981|| [[パラダイス・アーミー]]<br />''Stripes'' || ジョン || <br />
|-<br />
|1982|| [[トッツィー]]<br />''Tootsie'' || ジェフ || <br />
|-<br />
|rowspan="2"|1984|| [[ゴーストバスターズ]]<br />''Ghost Busters'' || ピーター・ヴェンクマン博士 || <br />
|-<br />
| 剃刀の刃<br />''The Razor's Edge'' || ラリー・ダレル || 出演・脚本<br />
|-<br />
|1986|| [[リトル・ショップ・オブ・ホラーズ (1986年の映画)|リトル・ショップ・オブ・ホラーズ]]<br />''Little Shop of Horrors'' || アーサー・デントン || <br />
|-<br />
|1988|| [[3人のゴースト]]<br />''Scrooged'' || フランク・クロス || <br />
|-<br />
|1989|| [[ゴーストバスターズ2]]<br />''Ghostbusters II'' || ピーター・ヴェンクマン博士 || <br />
|-<br />
|1990|| [[クイック・チェンジ]]<br />''Quick Change'' || グリム || 監督・製作・出演<br />
|-<br />
|1991|| [[おつむて・ん・て・ん・クリニック]]<br />''What About Bob?'' || ボビー・ワイリー || <br />
|-<br />
|rowspan="2"|1993|| [[恋はデジャブ]]<br />''Groundhog Day'' || フィル || <br />
|-<br />
| [[恋に落ちたら…]]<br />''Mad Dog and Glory'' || フランク・マイロ || <br />
|-<br />
|1994|| [[エド・ウッド (映画)|エド・ウッド]]<br />''Ed Wood'' || バニー・ブレッキンリッジ || <br />
|-<br />
|rowspan="3"|1996|| [[キングピン/ストライクへの道]]<br />''Kingpin'' || アーニー・マクラケン || <br />
|-<br />
|[[スペース・ジャム]]<br/>''Space Jam''||ビル・マーレイ||<br />
|-<br />
| [[小さな贈りもの]]<br />''Larger Than Life'' || ジャック・コークラン || <br />
|-<br />
|1997|| [[知らなすぎた男]]<br />''The Man Who Knew Too Little'' || ウォレス・リッチー || <br />
|-<br />
|rowspan="2"|1998|| [[ワイルドシングス]]<br />''Wild Things'' || ケン・ボーデン || <br />
|-<br />
| [[天才マックスの世界]]<br />''Rushmore'' || ハーマン・ブルーム || [[全米映画批評家協会賞]]助演男優賞 受賞<br />[[ニューヨーク映画批評家協会賞]] 助演男優賞 受賞<br />[[ロサンゼルス映画批評家協会賞]] 助演男優賞 受賞<br />[[インディペンデント・スピリット賞]] 助演男優賞 受賞<br />
|-<br />
|1999|| [[クレイドル・ウィル・ロック]]<br />''Cradle Will Rock'' || トミー・クリックショー || <br />
|-<br />
|rowspan="2"|2000|| [[ハムレット (2000年の映画)|ハムレット]]<br />''Hamlet'' || ポロニウス || <br />
|-<br />
| [[チャーリーズ・エンジェル (映画)|チャーリーズ・エンジェル]]<br />''Charlie's Angels'' || ジョン・ボスレー || <br />
|-<br />
|rowspan="2"|2001|| [[ザ・ロイヤル・テネンバウムズ]]<br />''The Royal Tenenbaums'' || ラレイ・シンクレア || <br />
|-<br />
| スピーキング・オブ・セックス<br />''Speaking of Sex'' || エズリ・ストヴァル || <br />
|-<br />
|rowspan="2"|2003|| [[ロスト・イン・トランスレーション]]<br />''Lost in Translation'' || ボブ・ハリス || [[英国アカデミー賞 主演男優賞]] 受賞<br />[[ゴールデングローブ賞 主演男優賞 (ミュージカル・コメディ部門)]] 受賞<br />[[全米映画批評家協会賞]]主演男優賞 受賞<br />[[ニューヨーク映画批評家協会賞]] 主演男優賞 受賞<br /> [[ロサンゼルス映画批評家協会賞]]男優賞 受賞<br />[[インディペンデント・スピリット賞]] 主演男優賞 受賞<br />
|-<br />
| [[コーヒー&シガレッツ]]<br />''Coffee and Cigarettes'' || ビル・マーレイ || <br />
|-<br />
|2004|| ガーフィールド<br />''Garfield || ガーフィールド || 声の出演<br />
|-<br />
|rowspan="2"|2005|| [[ライフ・アクアティック]]<br />''The Life Aquatic with Steve Zissou'' || スティーヴ・ズィスー || <br />
|-<br />
| [[ブロークン・フラワーズ]]<br />''Broken Flowers'' || ドン・ジョンストン || <br />
|-<br />
|2006|| ガーフィールド2<br />''Garfield: A Tail of Two Kitties || ガーフィールド || 声の出演<br />
|-<br />
|2007|| [[ダージリン急行]]<br />''The Darjeeling Limited'' || ビジネスマン || <br />
|-<br />
|rowspan="2"|2008|| [[ゲット スマート]]<br />''Get Smart'' || エージェント13 || <br />
|-<br />
| [[エンバー 失われた光の物語]]<br />''City of Ember'' || コール市長 || <br />
|-<br />
|rowspan="3"|2009|| [[リミッツ・オブ・コントロール]]<br />''The Limits of Control'' || アメリカ人 || <br />
|-<br />
| [[ゾンビランド]]<br />''Zombieland'' || 本人役 || カメオ出演<br />
|-<br />
| [[ファンタスティック Mr.FOX]]<br />''Fantastic Mr. Fox'' || バジャー || ストップモーション・アニメ、声の出演<br />
|-<br />
| 2010 || [[パッション・プレイ]]<br />''Passion Play'' || ハッピー・シャノン || <br />
|-<br />
|rowspan="3"|2012|| [[ムーンライズ・キングダム]]<br />''Moonrise Kingdom'' || ウォルト・ビショップ || <br />
|-<br />
| [[私が愛した大統領]]<br />''Hyde Park on Hudson'' || [[フランクリン・ルーズベルト]] ||<br />
|-<br />
| [[チャールズ・スワン三世の頭ン中]]<br />''A Glimpse Inside the Mind of Charles Swan III'' || サウル || 日本劇場未公開だが[[WOWOW]]で放送<br />
|-<br />
|rowspan="4"| 2014 || [[ミケランジェロ・プロジェクト]]<br />''The Monuments Men'' ||リチャード・キャンベル|| <br />
|-<br />
|[[グランド・ブダペスト・ホテル]]<br />''The Grand Budapest Hotel''||M.アイヴァン||<br />
|-<br />
|[[ヴィンセントが教えてくれたこと]]<br />''St. Vincent''||ヴィンセント・マッケンナ||<br />
|-<br />
|[[帰ってきたMr.ダマー バカMAX!]]<br/>''Dumb and Dumber To'' || アイス・ピック || カメオ出演<ref>{{cite web|url=http://eiga.com/news/20151009/15/|title=ジム・キャリー主演「帰ってきたMr.ダマー」に“あの大物俳優”がカメオ出演!|publisher=映画.com|date=2015-10-09|accessdate=2015-10-09}}</ref><br />
|-<br />
|rowspan="2"| 2015 || [[ロック・ザ・カスバ!]]<br />''Rock the Kasbah'' || リッチー・ランツ || <br />
|-<br />
|ビル・マーレイ・クリスマス<br />''A Very Murray Christmas''||本人役||TV<br />
|-<br />
|rowspan="2"| 2016 || [[ジャングル・ブック (2016年の映画)|ジャングル・ブック]]<br />''The Jungle Book'' || バルー || 声の出演<br />
|-<br />
| [[ゴーストバスターズ (2016年の映画)|ゴーストバスターズ]]<br/>''Ghostbusters'' || マーティン・ハイス博士 || カメオ出演<ref>{{cite news|url=http://www.oricon.co.jp/news/2072754/full/|title=ビル・マーレイ、新『ゴーストバスターズ』に出演していた|newspaper=ORICON STYLE|date=2016-06-03|accessdate=2016-06-03}}</ref><br />
|-<br />
| 2018 || [[犬ヶ島]]<br />''Isle of Dogs'' || || 声の出演<br />
|-<br />
|}<br />
<br />
== 主な受賞 ==<br />
* [[ゴールデングローブ賞]]<br />
** 2003年度 [[ゴールデングローブ賞 主演男優賞 (ミュージカル・コメディ部門)|主演男優賞(ミュージカル・コメディ部門)]] 『[[ロスト・イン・トランスレーション]]』<br />
* [[英国アカデミー賞]]<br />
** 2003年度 [[英国アカデミー賞 主演男優賞|主演男優賞]] 『ロスト・イン・トランスレーション』<br />
* [[全米映画批評家協会賞]]<br />
** 1998年度 助演男優賞 『[[天才マックスの世界]]』<br />
** 2003年度 男優賞 『ロスト・イン・トランスレーション』<br />
* [[ニューヨーク映画批評家協会賞]]<br />
** 1998年度 助演男優賞『天才マックスの世界』<br />
** 2003年度 男優賞『ロスト・イン・トランスレーション』<br />
* [[ロサンゼルス映画批評家協会賞]]<br />
** 1998年度 助演男優賞 『天才マックスの世界』<br />
** 2003年度 男優賞 『ロスト・イン・トランスレーション』<br />
* [[インディペンデント・スピリット賞]]<br />
** 1998年度 助演男優賞 『天才マックスの世界』<br />
** 2003年度 主演男優賞 『ロスト・イン・トランスレーション』<br />
<br />
==脚注==<br />
<references /><br />
<br />
== 外部リンク ==<br />
{{Commonscat|Bill Murray}}<br />
*{{allcinema name|10009|ビル・マーレイ}}<br />
*{{Kinejun name|22295|ビル・マーレイ}}<br />
*{{IMDb name|0000195|Bill Murray}}<br />
*{{amg name|103861|Bill Murray}}<br />
*{{iobdb name|name=Bill Murray}}<br />
*{{DMOZ|Arts/People/M/Murray%2C_Bill/|Bill Murray}}<br />
*{{Guardiantopic|film/bill-murray|Bill Murray}}<br />
*{{NNDB|537/000024465|Bill Murray}}<br />
<br />
{{英国アカデミー賞主演男優賞}}<br />
{{ゴールデングローブ賞 主演男優賞 (ミュージカル・コメディ部門)}}<br />
{{ニューヨーク映画批評家協会賞 主演男優賞}}<br />
{{ロサンゼルス映画批評家協会賞 主演男優賞}}<br />
{{ロサンゼルス映画批評家協会賞 助演男優賞}}<br />
{{Normdaten}}<br />
{{DEFAULTSORT:まあれい ひる}}<br />
[[Category:アメリカ合衆国の男優]]<br />
[[Category:アメリカ合衆国の男性コメディアン]]<br />
[[Category:サタデー・ナイト・ライブ]]<br />
[[Category:エミー賞受賞者]]<br />
[[Category:ゴールデングローブ賞受賞者]]<br />
[[Category:英国アカデミー賞受賞者]]<br />
[[Category:イリノイ州エバンストン出身の人物]]<br />
[[Category:アイルランド系アメリカ人]]<br />
[[Category:1950年生]]<br />
[[Category:存命人物]]</div>
122.214.146.170
メル・ギブソン
2018-08-15T16:47:12Z
<p>122.214.146.170: </p>
<hr />
<div>{{ActorActress<br />
| 芸名 = Mel Gibson<br />
| ふりがな = メル・ギブソン<br />
| 画像ファイル = Mel Gibson Cannes 2016 3.jpg <br />
| 画像サイズ = 220px<br />
| 画像コメント = メル・ギブソン<br />
| 本名 = Mel Colm-Cille Gerard Gibson<br />
| 別名義 = <br />
| 出生地 = {{flagcountry|USA1959}} [[ニューヨーク州]]<br />
| 死没地 =<br />
| 民族 = <br />
| 身長 =<br />
| 生年 = 1956<br />
| 生月 = 1<br />
| 生日 = 3<br />
| 没年 = <br />
| 没月 = <br />
| 没日 = <br />
| 職業 = [[俳優]]、[[映画監督]]、[[プロデューサー]]、[[脚本家]]<br />
| ジャンル = [[映画]]<br />
| 活動期間 = [[1977年]] - <br />
| 活動内容 = [[1978年]]:映画初出演<br />[[1995年]]:[[アカデミー賞]]受賞<br />
| 配偶者 = <br />
| 著名な家族 = [[ドナル・ギブソン]](弟)<br />
| 事務所 =<br />
| 公式サイト =<br />
| 主な作品 = '''出演'''<br />『[[マッドマックス]]』シリーズ<br />『[[リーサル・ウェポン]]』シリーズ<br />『[[ブレイブハート]]』<br />『[[ハート・オブ・ウーマン]]』『[[サイン (映画)|サイン]]』<br />『[[エクスペンダブルズ3 ワールドミッション]]』<hr />'''監督'''<br />『ブレイブハート』<br />『[[パッション (2004年の映画)|パッション]]』<br />『[[ハクソー・リッジ]]』<br />
| アカデミー賞 = '''[[アカデミー作品賞|作品賞]]'''<br />[[第68回アカデミー賞|1995年]]『[[ブレイブハート]]』<br />'''[[アカデミー監督賞|監督賞]]'''<br />[[第68回アカデミー賞|1995年]]『ブレイブハート』<br />
| 放送映画批評家協会賞 = '''[[放送映画批評家協会賞 監督賞|監督賞]]'''<br />[[1995年]]『ブレイブハート』<br />
| ゴールデングローブ賞 = '''[[ゴールデングローブ賞 監督賞|監督賞]]'''<br />[[第53回ゴールデングローブ賞|1995年]]『ブレイブハート』<br />
| その他の賞 = '''[[ハリウッド映画賞]]'''<br />'''監督賞'''<br />[[2016年]]『[[ハクソー・リッジ]]』<hr />'''[[オーストラリア映画協会賞]]'''<br />'''作品賞'''<br />[[2016年]]『ハクソー・リッジ』<br />'''監督賞'''<br />[[2016年]]『ハクソー・リッジ』<br />'''主演男優賞'''<br />[[1979年]]『ティム』<br />[[1981年]]『[[誓い (映画)|誓い]]』<br />'''特別賞'''<br />[[2002年]] 世界の映画界、演劇界への貢献に対して<br />
| 備考 = アメリカ生まれだが、[[1968年]]に[[オーストラリア]]に移住。<br />
}}<br />
'''メル・ギブソン'''('''Mel Gibson''', 本名:Mel Colm-Cille Gerard Gibson, [[1956年]][[1月3日]] - )は、[[アメリカ合衆国]]の[[ニューヨーク州]][[w:Peekskill, New York|ピークスキル]]生まれの[[映画俳優]]、[[映画監督]]、[[脚本家]]、[[映画プロデューサー]]。身長177cm。<br />
<br />
== 経歴 ==<br />
アメリカ生まれだが、父親の事業の失敗で[[1968年]]に家族で[[オーストラリア]]に移住した。11人兄弟で育つ。[[ジェフリー・ラッシュ]]とは大学時代のルームメイトだという。[[ジュディ・デイヴィス]]らと共に[[オーストラリア国立演劇学院]]で学び、[[1979年]]にアクション映画『[[マッドマックス]]』の主役で脚光を浴びスターの座をつかんだ。オーストラリア映画で活躍した後、[[1982年]]にアメリカ映画初出演。『[[リーサル・ウェポン]]』シリーズなどで人気を確たるものにした。監督業にも乗り出しており、[[1995年]]の『[[ブレイブハート]]』で[[アカデミー監督賞]]を受賞している。[[2004年]]には、私財30億円を投じてイエス・[[キリスト]]の最期を描いた『[[パッション (2004年の映画)|パッション]]』を製作。作品への評価は賛否が分かれたが、興行的には空前の大ヒットとなった。<br />
<br />
しかし、[[2010年]]7月、下記の恋人に対する[[ドメスティックバイオレンス|DV]]騒動によりハリウッド大手の「ウィリアム・モリス・エンデヴァー・エンターテイメント(WME)」はメルの代理人業を辞めることを発表。また、この影響で予定されていた『[[ハングオーバー!! 史上最悪の二日酔い、国境を越える]]』への出演が中止になった<ref>{{cite news|url=http://www.cinematoday.jp/page/N0027805|title=メル・ギブソン、映画界復帰は絶望的!『ハングオーバー2』への出演はナシ!キャストが大反対!|publisher=シネマトゥデイ|date=2010年10月22日|accessdate=2013年3月1日}}</ref>。<br />
<br />
歴史スペクタクルを監督する際は、あまり知られていない役者を起用し、当時使われていた言語や衣装、時代考察に徹底的にこだわって制作をすることで知られるが、そのこだわりは歴史的リアリティよりも彼の個人的な[[イデオロギー]]を表現することに注がれる。そのため、『[[アポカリプト]]』を製作した際は、[[マヤ文明]]の研究家や関係者から激しい非難を受けた。<br />
<br />
== 私生活 ==<br />
熱心な[[カトリック教会|カトリック]]教徒であり[[純潔運動家]]としても知られており、[[避妊]]や[[妊娠中絶]]への反対をメディアに公言している。<br />
<br />
1979年に看護師の[[ロビン・ムーア]]と結婚し、男の子6人、女の子1人の計7人の子供がいる。[[2006年]]から別居し、[[2011年]]12月離婚<ref>{{cite news|url=http://www.cinematoday.jp/page/N0038082|title=メル・ギブソン、2006年に別居した28年連れ添った妻との離婚がようやく成立|publisher=シネマトゥデイ|date=2011年12月24日|accessdate=2013年3月1日}}</ref>。その間、2009年5月、ロシア人の歌手{{仮リンク|オクサナ・グリゴリエヴァ|ru|Григорьева, Оксана Петровна}}との間に子供ができたことが発表された。2010年7月、オクサナへの暴言・暴行を行ったとされるテープが流出し<ref>{{cite news|url=http://www.cinematoday.jp/page/N0025402|title=メル・ギブソン、暴言テープ流出!「黒人集団にレイプされてもお前自身の責任だ」元恋人オクサナを脅す|publisher=シネマトゥデイ|date=2010年7月4日|accessdate=2013年3月1日}}</ref>、警察が[[ドメスティック・バイオレンス]](DV)として捜査を始めた。RaderOnline.comによると、オクサナの弁護士は元妻ロビンが「メルは絶対、暴力なんて振るっていないわ。結婚の最中も別れた後もね」と7月に証言したことに対して、法廷への出廷を求めているという。また、TMZ.comによると、[[ロサンゼルス]]地方検事は、メルのドメスティックバイオレンス疑惑とグリゴリエヴァのメルへの恐喝罪をセットで調査を行なう予定<ref>{{cite news|url=http://www.cinematoday.jp/page/N0026338|title=メル・ギブソンのDV事件、泥沼劇はいよいよ佳境へ|publisher=シネマトゥデイ|date=2010年8月20日|accessdate=2013年3月1日}}</ref>。<br />
<br />
また、2006年7月28日には、[[カリフォルニア州]][[ロサンゼルス]]近郊にあるマリブの幹線道路で[[レクサス・LS|レクサスLS430]]を運転中に[[飲酒運転]]および67km/h以上の速度超過などの疑いで[[逮捕]]されている。この際に警官に対し「糞ユダヤ人ども…世界の戦争は全部ユダヤ人どものせいだ」("Fucking Jews...Jews are responsible for all the wars in the world")などと[[反ユダヤ]]的な差別発言をしたとされる([[:en:Mel Gibson DUI incident|Mel Gibson DUI incident]]を参照)<ref>{{cite news|url=http://www.cinematoday.jp/page/N0008799|title=メル・ギブソン、逮捕時にユダヤ人を差別する発言|publisher=シネマトゥデイ|date=2006年8月2日|accessdate=2013年3月1日}}</ref>。逮捕後、ABCのTV番組に出演し「とても恥ずかしく思う。酒が入ると、物を見るときのバランスが悪くなって、間違いを犯してしまう。もう誰かを失望させるようなことはしたくない」と公式に謝罪した。なお、ギブソンは『[[パッション (2004年の映画)|パッション]]』製作時にユダヤ団体から強烈な抗議を受けていた。<br />
<br />
[[双極性障害]]に罹っている。<ref>[http://www.imdb.com/name/nm0000154/bio]</ref><br />
<br />
=== 資産・金銭 ===<br />
[[2010年]]12月、BANG Media Internationalによると、プライバシーが足りないとの理由から[[コスタリカ]]に所有している豪邸を3,500万ドル(日本円で約28億7,000万円)で売りに出した。メルが所有している500エーカー(約61万2,000坪)の土地にはスタッフが常駐しており、ベッドルームが7部屋ある母屋のほか、2ベッドルームの家が2軒ある。それぞれの建物にはプライベート・プールが完備されており、ジャングルに囲まれた土地は一部ビーチにも面しているためバケーションには最適だったが、最近は[[パパラッチ]]がコスタリカまでついてくるようになったという。この土地は2007年に2,580万ドル(約21億1,560万円)で購入した土地で不動産エージェントは「当初は保養地として購入したのですが、最近ではパパラッチが追ってくるようになってしまったんです」とコメントしている。メルはこの家以外にも[[マリブ (カリフォルニア州)|マリブ]]の邸宅を1,450万ドル(約11億8,900万円)で6月に売りに出している<ref>{{cite news|url=http://www.cinematoday.jp/page/N0029246|title=メル・ギブソンが約28億円の豪邸を売りに出す!仕事を干されてお金がない?|publisher=シネマトゥデイ|date=2010年12月26日|accessdate=2013年3月1日}}</ref>。<br />
<br />
==『パッション』に関する論議==<br />
{{仮リンク|教皇空位論|la|Sedevacantismus}}を信奉する、超伝統主義カトリック教徒としても知られ、その信仰の篤さは自宅近くの丘にチャペルを建設してしまったほどである。2004年2月公開の『[[パッション (2004年の映画)|パッション]]』(日本公開は2004年5月)では、[[イエス・キリスト]]の処刑までの12時間をリアルに描いて物議を醸した。<br />
<br />
== 出演作品 ==<br />
吹き替えは主に[[磯部勉]]と[[安原義人]]が担当している。<!--日本での公開順、未公開・ドラマなどは制作国に準じる。賞歴は主なものだけに。--><br />
{| class="wikitable sortable" <br />
|-<br />
! 公開年 !! 邦題<br />原題 !! 役名 !! 備考 <br />
|-<br />
| rowspan="1" style="vertical-align: middle;"| 1977 || 青春グラフィティ<br />''Summer City'' || スカロップ || 日本未公開<br />
|-<br />
| rowspan="2" style="vertical-align: middle;"| 1979 || ティム<br />''Tim'' || ティム || 日本未公開 <br />
|-<br />
| [[マッドマックス]]<br />''Mad Max'' || マックス・ロカタンスキー || <br />
|-<br />
| rowspan="2" style="vertical-align: middle;"| 1981 || [[誓い (映画)|誓い]]<br />''Gallipoli'' || フランク ||<br />
|-<br />
| [[マッドマックス2]]<br />''Mad Max 2: The Road Warrior'' || マックス・ロカタンスキー || <br />
|-<br />
| rowspan="2" style="vertical-align: middle;"| 1982 || [[危険な年]]<br />''[[:en:The Year of Living Dangerously (film)|The Year of Living Dangerously]]'' || ガイ・ハミルトン || <br />
|-<br />
| 特別奇襲戦隊・Z<br />''Attack Force Z'' || ポール || 日本未公開 <br />
|-<br />
| rowspan="3" style="vertical-align: middle;"| 1984 || [[ザ・リバー (1984年の映画)|ザ・リバー]]<br />''The River'' || トム・ガーベイ || <br />
|-<br />
| [[燃えつきるまで]]<br />''Mrs. Soffle'' || エド・ビドゥル || <br />
|-<br />
| [[バウンティ/愛と反乱の航海]]<br />''The Bounty'' || [[フレッチャー・クリスチャン]] || <br />
|-<br />
| rowspan="1" style="vertical-align: middle;"| 1985 || [[マッドマックス/サンダードーム]]<br />''Mad Max Beyond Thunderdome'' || マックス・ロカタンスキー ||<br />
|-<br />
| rowspan="1" style="vertical-align: middle;"| 1987 || [[リーサル・ウェポン]]<br />''Lethal Weapon'' || マーティン・リッグス ||<br />
|-<br />
| rowspan="1" style="vertical-align: middle;"| 1988 || [[テキーラ・サンライズ (映画)|テキーラ・サンライズ]]<br />''Tequila Sunrise'' || マック<br />(デイル・マキュージック) || <br />
|-<br />
| rowspan="1" style="vertical-align: middle;"| 1989 || [[リーサル・ウェポン2/炎の約束]]<br />''Lethal Weapon 2'' || マーティン・リッグス || <br />
|-<br />
| rowspan="3" style="vertical-align: middle;"| 1990 || [[ハムレット (1990年の映画)|ハムレット]]<br />''Hamlet'' || [[ハムレット (キャラクター)|ハムレット]] || <br />
|-<br />
| [[バード・オン・ワイヤー]]<br />''Bird on a Wire'' || リック・ジャーミン || <br />
|-<br />
| [[エア★アメリカ]]<br />''Air America'' || ジーン・リアック ||<br />
|-<br />
| rowspan="2" style="vertical-align: middle;"| 1992 || [[リーサル・ウェポン3]]<br />''Lethal Weapon 3'' || マーティン・リッグス || <br />
|-<br />
| [[フォーエヴァー・ヤング 時を越えた告白]]<br />''Forever Young'' || ダニエル || <br />
|-<br />
| rowspan="1" style="vertical-align: middle;"| 1993 || [[顔のない天使]]<br />''The Man Without a Face'' || ジャスティン・マクラウド || 兼監督 <br />
|-<br />
| rowspan="1" style="vertical-align: middle;"| 1994 || [[マーヴェリック (1994年の映画)|マーヴェリック]]<br />''Maverick'' || ブレット・マーヴェリック || <br />
|-|<br />
| rowspan="3" style="vertical-align: middle;"| 1995 || [[キャスパー (映画)|キャスパー]]<br />''Casper'' || 本人役 || [[カメオ]]出演<br />
|-<br />
| [[ポカホンタス (映画)|ポカホンタス]]<br />''Pocahontas'' || [[ジョン・スミス (探検家)|ジョン・スミス]] || 声の出演<br />
|-<br />
| [[ブレイブハート]]<br />''Braveheart'' || [[ウィリアム・ウォレス]] || 兼監督・製作<br />[[アカデミー監督賞]]受賞<br />
|-<br />
| rowspan="1" style="vertical-align: middle;"| 1996 || [[身代金 (映画)|身代金]]<br />''Ransom'' || トム・ミューレン || <br />
|-<br />
| rowspan="3" style="vertical-align: middle;"| 1997 || [[ファーザーズ・デイ]]<br />''Father's Day'' || ピアス店の男 || カメオ出演<br />
|-<br />
| [[フェアリーテイル (映画)|フェアリーテイル]]<br />''[[:en:FairyTale: A True Story|Fairy Tale: A True Story]]'' || フランシスの父 || カメオ出演<br />
|-<br />
| [[陰謀のセオリー]]<br />''Conspiracy Theory'' || ジェリー・フレッチャー || <br />
|-<br />
| rowspan="1" style="vertical-align: middle;"| 1998 || [[リーサル・ウェポン4]]<br />''Lethal Weapon 4'' || マーティン・リッグス || <br />
|-<br />
| rowspan="2" style="vertical-align: middle;"| 1999 || [[ペイバック]]<br />''Pay Back'' || ポーター || <br />
|-<br />
| [[ザ・シンプソンズ]]<br />''The Simpsons'' || 本人役 || 声の出演<br />
|-<br />
| rowspan="4" style="vertical-align: middle;"| 2000 || [[ハート・オブ・ウーマン]]<br />''What Women Want'' || ニック・マーシャル || [[ゴールデングローブ賞 主演男優賞 (ミュージカル・コメディ部門)|ゴールデングローブ 賞主演男優賞]]ノミネート <br />
|-<br />
| [[パトリオット (2000年の映画)|パトリオット]]<br />''The Patriot'' || ベンジャミン・マーティン || <br />
|-<br />
| [[ミリオンダラー・ホテル]]<br />''The Million Dollar Hotel'' || スキナー刑事 || <br />
|-<br />
| [[チキンラン]]<br />''Chicken Run'' || ロッキー || 声の出演<br />
|-<br />
| 2001 || [[インビンシブル (2001年の映画)|インビンシブル]]<br />''Invincible'' || - || 製作総指揮<br />
|-<br />
| rowspan="2" style="vertical-align: middle;"| 2002 || [[ワンス・アンド・フォーエバー]]<br />''We Were Soldiers'' || ハル・ムーア || 兼製作<br />
|-<br />
| [[サイン (映画)|サイン]]<br />''Signs'' || グラハム・ヘス || <br />
|-<br />
| rowspan="1" style="vertical-align: middle;"| 2003 || [[歌う大捜査線]]<br />''The Singing Detective'' || ギボン医師 || 兼製作<br />
|-<br />
| rowspan="2" style="vertical-align: middle;"| 2004 || [[パパラッチ (2004年の映画)|パパラッチ]]<br />''Paparazzi'' || - || 製作・カメオ出演<br />
|-<br />
| [[パッション (2004年の映画)|パッション]]<br />''Passion of the Christ'' || {{n/a}} || 監督<br />
|-<br />
| rowspan="1" style="vertical-align: middle;"| 2006 || [[アポカリプト]]<br />''Apocalypto'' || {{n/a}} || 監督<br />
|-<br />
| 2010 || [[復讐捜査線]]<br />''Edge Of Darkness'' || トーマス・クレイヴン ||<br />
|-<br />
| 2011 || [[それでも、愛してる]]<br />''The Beaver'' || ウォルター・ブラック ||<br />
|-<br />
| 2012 || [[キック・オーバー]]<br />''Get the Gringo'' || ドライバー || 兼脚本<br />
|-<br />
| 2013 || [[マチェーテ・キルズ]]<br />''Machete Kills'' || ルター・ヴォズ ||<br />
|-<br />
| rowspan="2" style="vertical-align: middle;"| 2014 || [[エクスペンダブルズ3 ワールドミッション]]<br />''The Expendables 3'' || コンラッド・ストーンバンクス || <br />
|-<br />
| アサイラム 監禁病棟と顔のない患者たち<br />''Stonehearst Asylum'' || {{n/a}} || 製作<br />
|-<br />
| rowspan="2" style="vertical-align: middle;"| 2016 || [[ブラッド・ファーザー]]<br />''Blood Father'' || ジョン・リンク || <br />
|-<br />
| [[ハクソー・リッジ]]<br />''Hacksaw Ridge'' || {{n/a}} || 監督<br />アカデミー監督賞ノミネート<br />
|-<br />
| || "Boss Level" || ||<br />
|-<br />
|}<br />
<br />
== 脚注 ==<br />
<references /><br />
<br />
== 外部リンク ==<br />
{{Commonscat|Mel Gibson}}<br />
* {{allcinema name|9381|メル・ギブソン}}<br />
* {{Kinejun name|10393|メル・ギブソン}}<br />
* {{IMDb name|0000154|Mel Gibson}}<br />
<br />
{{アカデミー賞監督賞 1981-2000}}<br />
{{ゴールデングローブ賞 監督賞}}<br />
{{Normdaten}}<br />
<br />
{{DEFAULTSORT:きふそん める}}<br />
[[Category:アメリカ合衆国の映画俳優]]<br />
[[Category:アメリカ合衆国の映画監督]]<br />
[[Category:オーストラリアの男優]]<br />
[[Category:アクション俳優]]<br />
[[Category:アカデミー賞受賞者]]<br />
[[Category:ゴールデングローブ賞受賞者]]<br />
[[Category:反ユダヤ的虚報]]<br />
[[Category:置換神学]]<br />
[[Category:アメリカ合衆国のカトリック教会の信者]]<br />
[[Category:アイルランド系アメリカ人]]<br />
[[Category:スコットランド系アメリカ人]]<br />
[[Category:アメリカ系オーストラリア人]]<br />
[[Category:アイルランド系オーストラリア人]]<br />
[[Category:ニューヨーク州ウエストチェスター郡出身の人物]]<br />
[[Category:プロライフ活動家]]<br />
[[Category:マッドマックス|+きふそん]]<br />
[[Category:1956年生]]<br />
[[Category:存命人物]]</div>
122.214.146.170
ウォルト・ディズニー
2018-08-07T12:19:25Z
<p>122.214.146.170: </p>
<hr />
<div>{{加筆|ミッキーマウス登場以後、ディズニーランド以前のディズニーの動き(アイワークスの引き抜きや配給会社の変遷、「シリー・シンフォニーシリーズ」や「白雪姫」など他のアニメ作品を生み出す過程について|date=2017年2月}}<br />
{{参照方法|date=2015年9月5日 (土) 12:28 (UTC)}}<br />
{{Otheruses|人物|企業と映画|ウォルト・ディズニー・カンパニー}}<br />
{{ActorActress<br />
| 芸名 = Walt Disney<br />
| ふりがな = ウォルト・ディズニー<br />
| 画像ファイル =Walt disney portrait.jpg<br />
| 画像サイズ =250px<br />
| 画像コメント =ウォルト・ディズニー(1954年1月1日)<br />
| 本名 =Walter Elias Disney<br />
| 出生地 =[[イリノイ州]][[シカゴ]]<br />
| 死没地 =[[カリフォルニア州]][[バーバンク]]<br />
| 国籍 =[[アイルランド系アメリカ人]]<br />
| 身長 =175<br />
| 生年 =1901<br />
| 生月 =12<br />
| 生日 =5<br />
| 没年 =1966<br />
| 没月 =12<br />
| 没日 =15<br />
| 職業 =[[アニメーター]]<br>[[映画監督]]<br>[[プロデューサー]]<br>[[脚本家]]<br>[[声優]]<br>[[実業家]]<br>[[エンターテイナー]]<br />
| 活動期間 =1920–1966<br />
| 配偶者 ={{仮リンク|リリアン・バウンズ|en|Lillian Disney}}<br />
| 著名な家族 =長女: [[ダイアン・ディズニー・ミラー|ダイアン]]<br>次女: シャロン<br />
| 事務所 =<br />
| 受賞 = [[アカデミー短編アニメ賞]]<br>[[アカデミー短編映画賞]]<br />[[アカデミー長編ドキュメンタリー映画賞]]<br />[[アカデミー短編ドキュメンタリー映画賞]]<br />[[アカデミー名誉賞]]<br />[[アービング・G・タルバーグ賞|アカデミーアービング・G・タルバーグ賞]]<br />[[セシル・B・デミル賞|ゴールデングローブ賞 セシル・B・デミル賞]]<br />[[セザール賞]]名誉賞<br />[[エミー賞]]<br />
| 公式サイト =<br />
| 主な作品 = [[ディズニー作品]]を参照<br />
| 備考 =<br />
}}<br />
{{Portal ディズニー}}<br />
'''ウォルト・ディズニー'''(Walt Disney, [[1901年]][[12月5日]] - [[1966年]][[12月15日]])は、[[アメリカ合衆国]]・[[イリノイ州]][[シカゴ]]に生まれた[[アニメーター]]、[[プロデューサー]]、[[映画監督]]、[[脚本家]]、[[声優]]、[[実業家]]、[[エンターテイナー]]である。世界的に有名な[[アニメーション]][[キャラクター]]「[[ミッキーマウス]]」の生みの親であり、兄の[[ロイ・O・ディズニー]]と共同で設立した[[ウォルト・ディズニー・カンパニー]]は数々の倒産を繰り返すも、350億ドル以上の収入を持つ国際的な大企業に発展した。<br />
<br />
本名は'''ウォルター・イライアス・ディズニー''' (Walter Elias Disney)。一族は[[アイルランド]]からの移民であり、姓の「ディズニー」は、[[フランス]]の[[ノルマンディ]]地方の[[カルヴァドス県]]の'''イズニー'''から11世紀にイギリスやアイルランドに渡来したノルマン人の末裔であることに由来し、後に英語風に直された。イライアスは父名。[[共和党]]を支持し[[右派]]として知られていた。<br />
<br />
== 人物 ==<br />
=== 生い立ち ===<br />
[[ユニオン・パシフィック鉄道]]の鉄道員でカナダ生まれのイライアス・ディズニーと、ドイツ人とイギリス人の血を引くフローラ・コールの4番目の子としてシカゴで生まれた。父イライアスは元々[[カルフォルニア州]]で金鉱を探して暮らしていたが、妻のフローラのために定職を求めてカンザスや[[フロリダ州]]に移り、後に仕事の関係で[[イリノイ州]]シカゴへと移住していた。しかしウォルトが幼い時に一家は叔父のロバート・ディズニーの住む[[ミズーリ州]]マーセリーンへ更に引っ越して農業を始めたので、結局の所はミズーリ州で少年期を過ごす事になった。しかし父親のイライアスはこの地においても農業に失敗して数年後に家族を連れて同地を去った。イライアスとフローラは息子4人と娘1人を儲けたが、父親のイライアスは子供達に対して愛情に欠けた厳格な態度で接しており、ウォルトとロイが1920年代に成功をおさめても、彼らに対して冷やかな態度は変わらなかった為、ディズニー親子は長年距離を置いて交流はしなかった。イライアスはリタイアするまで転職を重ねたが、結局結婚する前に金鉱で働いて小金を得た以外は、どの仕事に就いても成功出来ず、妻のフローラに苦労を掛けていたが、1930年代後半にウォルトやロイが破格の成功をおさめた後に、彼らが両親を呼び寄せロサンゼルスに豪邸をプレゼントするまでは貧しい生活を送っていた。<br />
<br />
ディズニー一家の畑の近くには[[アッチソン・トピカ・アンド・サンタフェ鉄道|サンタ・フェ・パシフィック鉄道]]が走っており、その鉄道の走る音が好きだった。アルバイトで、鉄道構内で新聞や[[ポップコーン]]を売る仕事をしていたこともある。後に持ったウォルト自身の家では、8分の1スケールのミニチュア鉄道を庭に走らせていた<ref>ウォルトは[[鉄道マニア]]で、後に彼が作った[[ディズニーランド]]には必ず鉄道が走っている</ref>が、そのミニチュアの汽車に乗って遊ぶのがウォルトの一番の趣味だった<ref>『ネズミの罠、ディズニーの夢のマシンの中で(“The Mousetrap”Inside Disney's dream machine)』(『[[w:New Internationalist|NI]]』誌、1998年12月号)</ref>。<br />
<br />
少年時代から絵を描くことやアートそのものに大変興味があり、7歳の時には自分の描いた小さなスケッチを近所の人たちに売っていたこともあった。学校では勉強をしながらも、動物や自然などの様々な絵を描いていた。<br />
<br />
アニメ界、映画界の大成功者であり、世界的企業の創業者であるにも関わらず借入が多かった事と倹約家だった為、人々が想像する程裕福でも無く、娘達曰く「家も車も人より少し良い程度」の質素な暮らしを送っていたという。<br />
<br />
=== 青年期 ===<br />
<br />
父のイライアスがシカゴで工場経営に加わり、再び一家はシカゴに舞い戻る事になった。青年期を迎えていたウォルトも地元のマッキンリー高校に通いながら、[[シカゴ美術館附属美術大学|アカデミー・オブ・ファインアーツ]]夜間部で絵を学ぶ生活を送っていた。学校では学級新聞の漫画欄を担当してその才能の片鱗を見せていたが、その内容は[[愛国主義]]に沿った内容だった。当時、不安定な国際情勢の中でアメリカでも愛国心が国民の間で高まっていた。そして[[サラエボ事件]]を切っ掛けに[[第一次世界大戦]]が勃発、アメリカが未曾有の大戦争に参戦すると、愛国心に駆られたウォルトは高校と美術学校を退学し陸軍に志願した(兄のロイも同様に志願して兵士となっている)。実はこの時ウォルトは16歳であり軍に志願するには年齢が1歳足らなかったが、受付の列に並んでいる途中でこっそりとペンで生年月日を書き換えて誤魔化した。しかし兄と違い若年であったために軍に説得され、兵士としての勤務の代わりに[[赤十字社]]の[[衛生兵]]として負傷した兵士の治療や輸送に従事した。同じ衛生隊には[[レイ・クロック]]も居た。大戦終結時、廃墟となった[[フランス]]に居たウォルトは一年振りに故郷のアメリカに帰国した。<br />
<br />
帰国後、父の経営する工場以外で仕事を見つける事を望んだウォルトは家を出て、単身カンザスシティーへ戻った。漫画家としての活躍を目指したウォルトは、取りあえず新聞で漫画を書く仕事を請け負った。だが当時は一介の新人に過ぎないウォルトへの仕事の依頼は多くはなく、成功どころか日々の生活にも困る苦しい時代を過ごしていた。見かねた兄のロイ(地元銀行の職員として働いていた)が知人に頼み、ペスマン=ルービン・コマーシャル・アート・スタジオでの広告デザインの仕事をウォルトに紹介した。ウォルトはここで生涯の友人となる[[アブ・アイワークス]]と知り合った。アイワークスとウォルトは翌年にアート・スタジオから契約更新を打ち切られて失業すると、二人で新しい創作活動を始める計画を立てた。<br />
<br />
=== 漫画からアニメーターへの転身 ===<br />
[[File:Newman Laugh-O-Gram (1921).webm|thumb|thumbtime=2|upright=1.5|''Newman Laugh-O-Gram'' (1921)]]<br />
1920年1月、ウォルトとアイワークスはデザイン会社「ウォルト・アイワークス・カンパニー」を創立して共同経営者となった。だが設立早々にウォルトはアイワークスを置いてカンザスフィルム社に[[アニメーター]]として雇用されてしまったので、会社は長続きしなかった。初めは生活の為に雇われたウォルトだったが、短編アニメの作画を担当する中でアニメーターとしての資質に目覚めていき、漫画からアニメへと興味が移っていった。社員としての仕事の傍らで映像制作の為の機材を借り入れてアニメーション制作に没頭、それまでの切り抜き手法から[[セルアニメ]]に高い可能性がある事を確信した。<br />
<br />
[[1920年]]、独立して個人事務所を設立したウォルトは、フリーランスの製作者として仕事を募集、カンザスシティーの事業家フランク・L・ニューマンからの出資で初のオリジナルアニメ作品『ニューマン劇場のお笑い漫画』を制作した。質の高い娯楽作品は良い評価を得て、ウォルトの元にはアニメ制作の仕事が順調に舞い込む様になった。個人製作では事業の拡大に追いつかないと判断したウォルトは個人事務所からアニメ制作会社へと会社を拡張するべく、アブ・アイワークスを初め、[[ヒュー・ハーマン]]や、[[ルドルフ・アイジング]]、[[カーマン・マックスウェル]]などの数人のアニメーター仲間を呼び寄せた。弱冠20歳のウォルトにとってこのLaugh O'Gram Studio社は最初の成功となったが、制作に没頭する余りに資金のやり繰りが乱雑になり、最終的にスタジオは倒産してしまった。これはウォルトに経営面のサポート役を立てる事の必要性を痛感させた。倒産後の整理を終えたウォルトは再起を図って映画産業の本場ハリウッドへと移住した。<br />
<br />
=== ディズニー社設立 ===<br />
[[ファイル:Walt Disney Molina Campos.jpg|300px|left|thumb|[[モリナ・カンポス]]とウォルト([[1941年]])]]<br />
ハリウッドでは兄のロイ・ディズニーと共にカンザス時代に一本だけ制作した「アリスの不思議の国」シリーズの続編商品を販売する会社「ディズニー・ブラザーズ社」を興した。事業の過程でアリスシリーズのアニメを再度制作する機会を得たウォルトは以前の様にアニメーター仲間を集めた。そこには、Laugh O'Gram studios時代のスタッフだけでなく、[[バート・ジレット]]、[[フリッツ・フレレング]]といった新人アニメーターを雇った。ディズニー・ブラザーズ社はアニメ製作会社へと転進した。これが実質的な「ディズニー社」の設立であると考えられ、ロスアンジェルス市ダウンタウンの北側:シルバーレーク地区ハイペリオン通りに開設された制作スタジオは1939年のバーバンクへの移転による閉鎖までディズニーアニメを世に送り出し続けた。<br />
<br />
少女子役の実写にアニメーションを織り交ぜた「アリスコメディシリーズ」は人気を博し、ディズニー社の経営は軌道に乗っていった。[[1925年]]、会社の従業員だったリリアン・バウンズ([[:en:Lillian Disney|Lillian Bounds]])と結婚し流産を経て実娘の[[ダイアン・ディズニー・ミラー|ダイアン]](Diane)儲けた後に、養女のシャロン(Sharon)を迎え、忙しい生活を送りつつも、父親に愛されなかった反動もあり(後年、長期の南米旅行中ということで、彼は父親の葬儀にも出席しなかった)二人の娘を溺愛しながら育てた。1927年、興行師チャールズ・B・ミンツの紹介で[[ユニバーサル・ピクチャーズ]]と繋がりを得たウォルトは、自社キャラクターとして「[[オズワルド・ザ・ラッキー・ラビット]]」を考案、オズワルドを主人公にしたアニメをユニバーサル配給で制作した。オズワルドはシリーズスタートと同時に子供の間で大ヒットを飛ばし、一躍ディズニー社躍進の切っ掛けを作った。ウォルトはカンザスフィルム時代の旧友達を次々に会社へと誘って、ディズニー社はアメリカでも屈指のアニメ製作会社に急成長した。<br />
<br />
だが1928年2月、チャールズ・B・ミンツと契約料の取引に臨んだウォルトはそこで大きな悲劇に見舞われた。ミンツはユニバーサル社に法外な配給手数料を支払う様に要求、ウォルトがこれを拒否すると露骨な社員への引き抜き工作を仕掛けた。ウォルトを二重に落胆させたのは、この引き抜き工作にアイワークスを除く殆どのアニメーター達が応じてしまった事だった。(その例がハーマン=アイジングである)。契約書上、オズワルドが配給会社の管理下に置かれていた事も不利に働き、ディズニー社は配給元と自社キャラクター、そしてスタッフの大半を失って倒産寸前に追い込まれた。しかし、諦めきれなかったウォルトはその後も頑張って仕事を続けた。<br />
<br />
=== 従業員との関係 ===<br />
ウォルトは優秀なアニメーターには厚遇する事もあったが、アシスタントに対しては「誰にでも出来る仕事をしている人間に何故、高い報酬を支払わないといけない」と下に見て薄給でコキ使い、アシスタント達を中心としてストライキを起こされた事もある。ウォルトはウォルト・ディズニー・カンパニーの創業者で、ミッキーマウスの生みの親であるが、ウォルトが自分で原画を書いて映画を作っていたのは初期の頃であり、後世に名を遺すディズニー映画の大作のほぼ全ては脚本家とアニメーターが制作しており、ウォルトは金と口を出すのが仕事だった。映画を製作する際は何度も意見が分かれ、ウォルトと制作陣が衝突・喧嘩にも似た喧々諤々の議論をする事は日常茶飯事だったという。<br />
<br />
=== ミッキーマウス ===<br />
再建するにあたって、オズワルドに代わる新たな自社キャラクターを必要と感じたウォルトは、それまでにもうさぎのオズワルドやアリスコメディの中でライバルとして度々登場させていた敵役のねずみを主役に抜擢することを決定する(デザインはルドルフ・アイジング)。アブ・アイワークスのスケッチではオズワルドそっくりのキャラクターとなった。カンザスフィルム時代に飼っていた[[マウス]]に思い当たり、幾つかのラフスケッチを制作したというのは権利処理の問題をクリアするために後年の後付け設定である。すでにアリスコメディには当時高い人気を集めていた[[フィリックス・ザ・キャット]]に似せたジュリアス・ザ・キャットも登場させており、フェリックス側のプロデューサーであるパット・サリバンから何度も警告されていた。これに当時、監督や演出に専念し始めていたウォルトから作画監督を委ねられたアイワークスが、ウォルトの原案に動かす事を念頭に置いたアレンジを加えた。かくして世に知られる「ミッキーマウス」は完成した。後にディズニー社の従業員は「ミッキーの動きはアイワークスが、魂はウォルトが生み出した」と語っている。{{要出典範囲|date=2018年1月|因みに当初名前は「モーティマー」とされる予定だったが、妻のリリアン・ディズニーが悔しがる、恥をかくの動詞であるモーティファイと似ているため猛反対し「ミッキーマウス」と変更された。}}モーティマーの名は後に初期作品でのミッキーのライバルキャラクターに用いられた。<br />
<br />
ミッキーマウス・シリーズの初期作品において、秀逸な動きの描写をアイワークスが書き出す一方で、ウォルトは演出面で高い才能を発揮した。ミッキーマウスの登場第一作『[[プレーン・クレイジー]]』(『飛行機狂』)および第二作『[[ギャロッピン・ガウチョ]]』はサイレント映画として作られたが、第三作『蒸気船ウィリー』で効果音や声を吹き込んで[[トーキー|トーキー映画]]の短編アニメとしての制作が行われると、場面の転換や物語のテンポに合わせて効果的に音や音楽を使用し、また自らもミッキーマウス・ミニーマウスの声を演じた。この演出技法は長らくディズニー映画の象徴とも言うべき手法となり、優れた作画と共にミッキーマウス・シリーズのヒットに貢献した。対照的にウォルトの演出とアイワークスの作画を失ったオズワルドは次第に人気を失い、1930年代には完全にミッキーに取って代わられる事になる。ミッキーはオズワルドを凌ぐ人気キャラクターとなり、世界的な知名度を得てディズニー社の再建に大きな力を発揮した。<br />
{{節スタブ|1=<nowiki /><br />
* ミッキーマウス登場以後のディズニーの動き(アイワークスの引き抜きや配給会社の変遷、「シリー・シンフォニーシリーズ」や「白雪姫」など他のアニメ作品を生み出す過程について)<br />
|date=2017年2月}}<br />
<br />
== ディズニーリゾート ==<br />
[[ファイル:Walt_Disney_and_Dr._Wernher_von_Braun_-_GPN-2000-000060.jpg|200px|thumb|ディズニーと[[ヴェルナー・フォン・ブラウン]](右)]]<br />
ディズニーは1948年ごろから、テーマパークの建設を具体化させていく。ディズニーがいつからテーマパーク建設の意図を持っていたかははっきりせず、娘たちを遊園地に連れてベンチに座ったときに手持ち無沙汰な親の姿を見て大人も楽しめる遊園地の建設を思い立ったとも、趣味である[[鉄道模型]]の製作が高じて大規模なテーマパークの制作を思い立ったとも言われている<ref>ニール・ゲイブラー著/中谷和男訳『創造の狂気 : ウォルト・ディズニー』(ダイヤモンド社)p425-426 2007年7月26日第1刷</ref>。いずれにせよ、このころからディズニーはアニメーションの制作に代わってテーマパークの建設計画に熱中するようになっていった。1951年3月にはスタジオのある[[バーバンク (カリフォルニア州)|バーバンク]]市にテーマパーク建設計画を提出したが、これは遊園地建設による騒音などの住環境悪化を懸念した市当局によって拒否された<ref>ニール・ゲイブラー著/中谷和男訳『創造の狂気 : ウォルト・ディズニー』(ダイヤモンド社)p439 2007年7月26日第1刷</ref>。また、このころには計画は当初のものを大きく超えた大規模なものとなっていたため、ディズニーは広大な土地の確保できる代替地の確保に乗り出し、1953年9月にはカリフォルニア州[[アナハイム]]に160エーカー(730,000m2)の土地を購入し用地を確保した。しかしこれほどの大規模な建設計画を行う資金はディズニーにはなかったため、彼はこの時期に登場した新たなメディアである[[テレビ]]との連携を考え付いた。<br />
<br />
こうして、新たなテーマパークの建設計画を各企業や市民に売り込むために、[[1954年]]には「[[ディズニーランド (テレビ番組)|ディズニーランド]]」というTV番組を[[アメリカン・ブロードキャスティング・カンパニー|ABC]]で放映し、ディズニー自らが出演してアトラクションやアニメ作品の紹介などを行った。この番組は大好評となり、ディズニーランド建設後も変遷を経ながら[[2008年]]まで54年間にわたって放映され続ける長寿番組となった。ABCはこの成功によって業績を大幅に向上させ、またこの成功を見た大企業がこの計画に次々と資金提供や資本参加を申し出るようになった。<br />
<br />
こうして無事に資金を調達したディズニーランドは、1954年7月21日に着工された。実際の建設においてはカリフォルニア州オークランドに[[1950年]]に作られた、最初の子供用遊園地「チルドレンズ・フェアリーランド」や、[[デンマーク]]に[[1843年]]に作られた遊園地[[チボリ公園]]など既存のさまざまな遊園地を参考としていたものの、ディズニーはこの遊園地を既存のものとは全く異なる小さな新しい世界にしようと考えていた。彼はこのテーマパークの建設に熱中し、日夜建設現場に足を運んでは様々な指示を行った<ref>ニール・ゲイブラー著/中谷和男訳『創造の狂気 : ウォルト・ディズニー』(ダイヤモンド社)p464 2007年7月26日第1刷</ref>。<br />
<br />
[[1955年]]7月17日に[[ディズニーランド]]は正式にオープンし、上記の「ディズニーランド」番組内で全米にその様子が中継された。ディズニーランドは瞬く間に大成功をおさめ、ディズニー社の経営の柱の一つとなり、現在まで続く多面的な経営の基盤を作った。<br />
<br />
ウォルトはディズニーランド開設前に「いつでも掃除が行き届いていて、おいしいものが食べられる。そんな夢の世界を作りたい」と語っていた。無論これは現在のディズニーランドの土台となっている大事な思想であり、現に他のテーマパークでは何の変哲も無く行われている地面の掃除も、ディズニーランド内ではまるで1つのショーであるかの如く行われている。また、ウォルトはディズニーランドのオープン時のスピーチの中で、「'''私はディズニーランドが人々に幸福を与える場所、大人も子供も、共に生命の驚異や冒険を体験し、楽しい思い出を作ってもらえる様な場所であって欲しいと願っています。'''」と言った。その「誰もが楽しめる」というファミリーエンターテイメントの理念は、今も各ディズニーのパークで受け継がれている。<br />
<br />
ディズニーランドの成功は、ディズニーに二つ目のテーマパーク建設を構想させるのに十分なものだった。二つ目のテーマパーク予定地には[[セントルイス]]などいくつかの場所が挙げられていたが、やがて[[フロリダ州]]の中心部、[[オーランド]]に目をつけた。ここに着目したのは湿地帯が広がっていて土地代が安く広大な土地が確保できたことや、アメリカ西端のカリフォルニアにあるディズニーランドに加え、ディズニーブランドを広める拠点が東部に求められたことによる。[[1965年]]、ディズニーはフロリダに二つ目のディズニーパークを作ることを公表した。この新たなパークはアメリカ都市の生活の質を問題とし、アメリカ産業の創造性を見せるための[[エプコット]]という名のパークを中心としており、マンハッタン島の2倍程にもなる広大な土地を買い、エプコットの他、ディズニーランド、ホテル等を取り入れた[[ウォルト・ディズニー・ワールド・リゾート]]を作り始めた。<br />
<br />
ウォルトの訪日が幾度か検討されたが、多忙のため実現しなかったという<ref>『ディズニーリゾート物語』第9巻 2002年 講談社</ref>。<br />
<br />
== 死去 ==<br />
[[1966年]]12月15日、[[肺癌]]による[[肺炎]]で、ウォルト・ディズニー・ワールド・リゾートの完成を見ないまま亡くなった。満65歳没(享年66)。生前は大変なヘビースモーカーで、禁煙を勧められても「ヘビースモーカーでも長生きした人はいくらでもいる」と言ってとりあわなかった。翌年、遺作となる『[[ジャングル・ブック (1967年の映画)|ジャングル・ブック]]』が公開された。晩年は酒に溺れ、朝食はドーナッツをスコッチ・ウィスキーに浸けて食すのが一番のお気に入りだった<ref>『ネズミの罠、ディズニーの夢のマシンの中で』(『NI』誌、1998年12月号)</ref>。<br />
<br />
{{要出典|範囲=直後に発行されたフランスの週刊誌パリマッチでは表紙にミッキーマウスを用いた。ミッキーマウスは誕生からこれまでの38年間滅多に見せなかった涙を流した。 |date=2018年5月}}<br />
<br />
== 政治との関係 ==<br />
=== プロパガンダ映画の制作 ===<br />
1941年12月8日の[[太平洋戦争]]の開戦と第二次世界大戦へ参戦したアメリカは戦時体制への協力を国内産業へ求めた。映画産業に対しても協力を要請するが当初は成功しなかった<ref>『ハリウッド帝国の興亡―夢工場の1940年代』(オットー・フリードリック著、文藝春秋)</ref>。検閲や行政指導ができない上に高度に資本化された映画産業は政府の要請よりも利潤追求を優先させている。<br />
<br />
しかし、ディズニーは大衆がヨーロッパに関心を持ちはじめていると気づくと「反ドイツ」の色を薄めた「反[[ナチス]]」の形で戦意高揚の[[プロパガンダ]]映画を制作した。大衆文化史の研究者にはディズニーが孤立主義から友邦の援助へ大衆の意識が変わっていたのを見抜いた上で統合の象徴としてミッキーを選択させた点や、彼が没した今日でもミッキーマウスは「アメリカの象徴」として自己増殖を続けている旨を指摘するものもいる。<br />
<br />
政治家や政府のプロパガンダにより大衆を説得することは難しい(出典『心理戦争』)。しかし'''大衆自身が願う形へミッキーを作り変える'''作業を続けることでディズニーは成功を収め、同時にアメリカ政府を顧客とすることにも成功した。当時のウォルトディズニー社は白雪姫の大ヒットで得た莫大な収益を注ぎ込んで製作したピノキオやファンタジアがヒットしなかったせいで、あっという間に膨大な借金を抱える羽目になり、さらにヨーロッパも戦争中で映画の輸出も出来なくなり、株価も1株が25ドルから4ドルまで大暴落し倒産の危機に陥ったが、プロパガンダ映画の制作により、ある程度の収益を得て経営を建て直すことが出来た為、戦後も引き続きディズニーは経営の安定させる理由で政府の核実験、原子力開発キャンペーンのために[[:en:Our Friend the Atom]](我が友原子力)という映画を作成するなど[[プロパガンダ]]に参加している。<br />
<br />
大戦当時に同スタジオで製作された以下のアニメ映画には、ミッキーマウスが戦闘機で[[日本軍]]の[[零戦]]を撃墜するシーン、アニメ映画「総統の顔」には[[東條英機]]を風刺するシーンがあるが、これらは国の要請や強制を受けたものでもなく、ウォルトが積極的に自ら制作したものである。<ref>帽子を取ったシーンで髪の毛が無いことから、昭和天皇ではなく東條英機だとわかる。</ref><br />
<br />
*[[空軍力の勝利]] Victory Through Airpower(1943年) <br />
*新しい精神 The New spirit(1943年)<br />
<br />
=== 反共姿勢 ===<br />
第二次世界大戦後、生前の[[セルゲイ・エイゼンシュテイン]]と親友だったことなどから、当時吹き荒れていた[[ジョセフ・マッカーシー]]の「[[マッカーシズム]]([[赤狩り]])」の嵐に巻き込まれる。彼は公聴会に出頭し、「([[冷戦]]前の)ソ連に『三匹の子ぶた』(1933年)を売ったことがある。非常に好評だった」と証言している。最終的には無実とされた。この様な形で赤狩りにこそ巻き込まれたが、戦時中や冷戦中、自らが版権を持つキャラクターを軍や政府に無償で提供したり、自社の[[労働組合]]と激しく対立していた事から、当人はむしろ熱烈な保守派、[[右派]]、[[反共主義]]者と考えられている。マッカーシーの赤狩りでは、[[チャーリー・チャップリン]]、[[ジョン・ヒューストン]]、[[ウィリアム・ワイラー]]らも対象となった。委員会への召喚や証言を拒否した10人の映画産業関係者([[ハリウッド・テン]])は議会侮辱罪で訴追され有罪判決を受け、業界から追放された([[ハリウッド・ブラックリスト]])。[[グレゴリー・ペック]]、[[ジュディ・ガーランド]]、[[ヘンリー・フォンダ]]、[[ハンフリー・ボガート]]、[[カーク・ダグラス]]、[[バート・ランカスター]]、[[ベニー・グッドマン]](バンド・リーダー)、[[キャサリン・ヘプバーン]]らは赤狩りに対する反対運動を行った。グレゴリー・ペックは、リベラルの代表格だった<ref>http://www.english.illinois.edu/maps/mccarthy/blacklist.html</ref>。一方でウォルト・ディズニーとともに、政治家の[[リチャード・ニクソン]]や、[[ロナルド・レーガン]](B級俳優)、[[ゲイリー・クーパー]]、[[ロバート・テイラー (俳優)|ロバート・テイラー]]、[[エリア・カザン]]らは告発者として協力した。<br />
<br />
この様な指摘に関連して、『闇の王子ディズニー』を著したマーク・エリオットは、「赤狩りの時代に、ウォルトはハリウッド内の映画人達の思想について[[連邦捜査局|FBI]]への熱心な密告者であった」と指摘している他、ディズニーランドのモノレールの開通時に、アナハイムの近隣のヨーバリンダ出身で、赤狩り時代にマッカーシーに近い[[反共主義]]者で知られた共和党選出の[[リチャード・ニクソン]]元[[副大統領]](後に[[大統領]])を招待している。<br />
<br />
なお、7年に及ぶ調査とディズニー社の事前チェック無しに出版されたゲイブラーの執筆による伝記、「Walt Disney」(邦題:創造の狂気)の中では、大戦中のプロパガンダへの協力姿勢は、当時、労働組合との争いや大戦による海外市場の縮小により、経営が圧迫されていたスタジオの生き残りのための方策の一環であったこと、彼にとっても政府への協力には意義を見出していなかったことが記述されている。同時に、戦後の赤狩り時代、彼の反共的な姿勢は、労働組合によりスタジオが壊滅的打撃を受けたことにたいする嫌悪感であったことを指摘している。ともあれ、ウォルトは最晩年の1964年には、右派の共和党員として、大統領選に出馬したタカ派の[[バリー・ゴールドウォーター]]を熱心に支持していた<ref>『ネズミの罠、ディズニーの夢のマシンの中で』(『NI』誌、1998年12月号)</ref> 。<br />
<br />
== 人種・性差別姿勢 ==<br />
ゲイブラーは、ウォルトが製作したミュージカル映画『[[南部の唄]]』での[[黒人]]の描かれ方から、ウォルトが[[人種差別|人種差別主義者]]のレッテルを貼られたことについては、「製作に熱中するあまり、人種に関する配慮に欠けていたのだ」と主張している。ウォルト自身は読書をほとんどせず、世相に対して鈍感な面を持ち合わせていたというのである。<br />
この『[[南部の唄]]』は、公開直後から「[[全米黒人地位向上協会]]」([[w:National Association for the Advancement of Colored People|NAACP]])の激しい抗議を受け続けており、アメリカ本国では再上映やビデオ化が阻止され、「幻の作品」となっている(日本でビデオ発売が実現したが、廃盤)。<br />
<br />
しかし、ウォルトに対する「[[白人至上主義]]者」、「人種差別主義者」との批判は、彼が死ぬまで浴びせられ続けたものであって、別に『南部の唄』に限ったことではない。ウォルトは『南部の唄』では封切りイベントに主演の黒人俳優を出席させなかったほか、『南部の唄』の以前にも<ref>『MICKEY MOUSE ANNUAL』(1932年)</ref>その二年後にも<ref>『Thursday from Mickey Mouse and the Boy Thursday』(1948年)</ref>、ミッキーマウスやミニーマウスがアフリカで野蛮で猿のように描かれた黒人を差別的に扱う民族侮辱的な漫画を出版しており、現在も批判の対象となっている。また、彼は亡くなるまでウォルト・ディズニー社の要所に黒人と女性を雇い入れなかった。彼の制作した作品群のほとんどすべてに、様々な民族に対する彼の白人中心視点から成る[[人種差別]]、および男尊女卑的な[[性差別]]が指摘されている<ref>『子供映画における[[ステレオタイプ]]と[[人種差別]](Stereotypes & Racism in Children's Movies)』(Libby Brunette、Claudette Mallory & Shannon Wood共著、「児童教育のための全米協会([[w:National Association for the Education of Young Children|NAEYC]])」刊)</ref><ref>『The 9 Most Racist Disney Characters』([[w:Cracked|Cracked]])</ref><ref>『ネズミの罠、ディズニーの夢のマシンの中で』(『NI』誌、1998年12月号)</ref>。<br />
<br />
== 主な製作作品 ==<br />
*[[プレーン・クレイジー]] - ''[[:en:Plane Crazy|Plane Crazy]]''(1929年)<br />
*[[ギャロッピン・ガウチョ]]<br />
*[[蒸気船ウィリー]] - ''[[:en:Steamboat Willie|Steamboat Willie]]''(1928年)<br />
*[[白雪姫 (1937年の映画)|白雪姫]] - ''[[:en:Snow White and the Seven Dwarfs (1937 film)|Snow White And The Seven Dwarfs]]'' (1937年)<br />
*[[ピノキオ (1940年の映画)|ピノキオ]] - ''[[:en:Pinocchio (1940 film)|Pinocchio]]'' (1940年)<br />
*[[ファンタジア (映画)|ファンタジア]] - ''[[:en:Fantasia (1940 film)|Fantasia]]'' (1940年)<br />
*[[ダンボ]] - ''[[:en:Dumbo|Dumbo]]'' (1941年)<br />
*[[バンビ (映画)|バンビ]] - ''[[:en:Bambi|Bambi]]'' (1942年)<br />
*[[ラテン・アメリカの旅]] - ''[[:en:Saludos Amigos|Saludos Amigos]]'' (1942年)<br />
*[[三人の騎士]] - ''[[:en:The Three Caballeros|The Three Caballeros]]'' (1944年)<br />
*[[メイク・マイン・ミュージック]] - ''[[:en:Make Mine Music|Make Mine Music]]'' (1946年)<br />
*[[ファン・アンド・ファンシーフリー]] - ''[[:en:Fun and Fancy Free|Fun and Fancy Free]]'' (1947年)<br />
*[[メロディ・タイム]] - ''[[:en:Melody Time|Melody Time]]'' (1948年)<br />
*[[シンデレラ (1950年の映画)|シンデレラ]] - ''[[:en:Cinderella (1950 film)|Cinderella]]'' (1950年)<br />
*[[ふしぎの国のアリス]] - ''[[:en:Alice in Wonderland (1951 film)|Alice in Wonderland]]'' (1951年)<br />
*[[ピーター・パン (1953年の映画)|ピーター・パン]] - ''[[:en:Peter Pan (1953 film)|Peter Pan]]'' (1953年)<br />
*[[わんわん物語]] - ''[[:en:Lady and the Tramp|Lady and the Tramp]]'' (1955年)<br />
*[[眠れる森の美女 (1959年の映画)|眠れる森の美女]] - ''[[:en:Sleeping Beauty (1959 film)|Sleeping Beauty]]'' (1959年)<br />
*[[101匹わんちゃん]] - ''[[:en:One Hundred and One Dalmatians|One Hundred and One Dalmatians]]'' (1961年)<br />
*[[王様の剣]] - ''[[:en:The Sword in the Stone (film)|The Sword in the Stone]]'' (1963年)<br />
*[[ジャングル・ブック (1967年の映画)|ジャングル・ブック]] - ''[[:en:The Jungle Book (1967 film)|The Jungle Book]]'' (1967年)<br />
<br />
== 受賞歴 ==<br />
=== アカデミー賞 ===<br />
<br />
[[ファイル:Disney1968.jpg|thumb|right|120px|1968年の米国の切手]]<br />
[[ファイル:Walt Disney 1942 signature.svg|thumb|right|230px|ディズニーのサイン]]<br />
<br />
[[アカデミー賞]]の個人受賞最多記録をもつ。<br />
<br />
*1931年 - 1932年 [[アカデミー短編アニメ賞|短編アニメ賞]] 『[[花と木]]』<br />
*1932年 名誉賞 ミッキーマウスの創造に対して<br />
*1932年 - 1933年 短編アニメ賞 『[[三匹の子ぶた (1933年の映画)|三匹の子ぶた]]』<br />
*1934年 短編アニメ賞 『[[うさぎとかめ]]』<br />
*1935年 短編アニメ賞 『三匹の親なし子ねこ』<br />
*1936年 短編アニメ賞 『田舎のねずみ』<br />
*1937年 短編アニメ賞 『[[風車小屋のシンフォニー]]』<br />
*1939年 名誉賞 『[[白雪姫 (1937年の映画)|白雪姫]]』<br />
*1938年 短編アニメ賞 『牡牛のフェルナンド』<br />
*1939年 短編アニメ賞 『みにくいアヒルの子』<br />
*1942年 名誉賞 『[[ファンタジア (映画)|ファンタジア]]』<br />
*1941年 短編アニメ賞 『プルートのなやみ』<br />
*1941年 [[アービング・G・タルバーグ賞]]<br />
*1942年 短編アニメ賞 『[[総統の顔]]』<br />
*1948年 短編二巻賞 『あざらしの島』<br />
*1950年 短編二巻賞 『ビーバーの谷』<br />
*1951年 短編二巻賞 『大自然の片隅』<br />
*1952年 短編二巻賞 『水鳥の生態』<br />
*1953年 [[アカデミー長編ドキュメンタリー映画賞|長編ドキュメンタリー映画賞]] 『[[砂漠は生きている]]』<br />
*1953年 [[アカデミー短編ドキュメンタリー映画賞|短編ドキュメンタリ映画賞]] 『民族と自然/アラスカのエスキモー』<br />
*1953年 短編二巻賞 『熊の楽園』<br />
*1953年 短編アニメ賞 『プカドン交響曲』<br />
*1954年 長編ドキュメンタリー映画賞 『滅びゆく大草原』<br />
*1954年 短編ドキュメンタリー映画賞 『民族と自然/北極圏の人々』<br />
*1958年 短編実写賞 『グランドキャニオン』<br />
*1968年 短編アニメ賞 『プーさんと大あらし』<br />
<br />
== 参考文献 ==<br />
*グリーン夫妻著/山口和代訳 『魔法の仕掛人ウォルト・ディズニー』(ほるぷ出版) 1994年 ISBN 4-593-53360-0<br />
*マーク・エリオット著/古賀林幸訳 『闇の王子ディズニー(上、下)』(草思社) 1994年 ISBN 4-7942-0576-7 ISBN 4-7942-0577-5<br />
*ラッセル・シュローダー著/スタジオジブリ編集/田畑正儀訳 『Walt Disney : 伝記・映像の魔術師』(徳間書店) 1998年 ISBN 4-19-860860-1<br />
*ボブ・トーマス著/山岡洋一, 田中志ほり訳『ディズニー伝説 : 天才(ウォルト)と賢兄(ロイ)の企業創造物語』(日経BP社)1998年 ISBN 4-8222-4138-6<br />
*ニール・ゲイブラー著/中谷和男訳『創造の狂気 : ウォルト・ディズニー』(ダイヤモンド社)<br />
*ボブ・トマス著『ウォルト・ディズニー』(講談社)1995年 (日本図書館協会選定図書・全国学校図書館議会選定図書)<br />
<br />
== 脚注 ==<br />
<references /> <br />
<br />
== 関連項目 ==<br />
{{Commons|Walt Disney}}<br />
* [[ディズニーアニメーターのストライキ]]<br />
* [[右派]]<br />
* [[極右]]<br />
* [[ジョセフ・マッカーシー]]<br />
* [[リチャード・ニクソン]]<br />
* [[ロナルド・レーガン]]<br />
* [[共和党]]<br />
* [[人種差別主義]]<br />
<br />
== 外部リンク ==<br />
* {{imdb name|id=0000370|name=Walt Disney}}<br />
*[http://homepage1.nifty.com/gon2/cartoon/cartoon06.html ウォルト・ディズニー:世界でもっとも成功したアニメスタジオ] - ジャンナルベルト・ベンダッツィ著『カートゥーン:アニメーション100年史』第6章。1930年代末までのウォルト・ディズニーの伝記を、彼が生み出したアニメーション作品を中心にして語っている。<br />
<br />
{{先代次代|[[ミッキーマウス]]原語版声優|初代(1928年~1947年)|-|[[ジム・マクドナルド]]}}<br />
{{ウォルト・ディズニー・カンパニー}}<br />
{{ミッキーマウスの映画}}<br />
{{アービング・G・タルバーグ賞}}<br />
{{アカデミー名誉賞}}<br />
{{Normdaten}}<br />
<br />
{{DEFAULTSORT:ていすにい うおると}}<br />
[[Category:ディズニーの人物|*]]<!--DEFAULTSORTの例外--><br />
[[Category:アメリカ合衆国のアニメーション監督]]<br />
[[Category:アメリカ合衆国のアニメーター]]<br />
[[Category:アメリカ合衆国の実業家]]<br />
[[Category:アカデミー賞受賞者]]<br />
[[Category:大統領自由勲章受章者]]<br />
[[Category:議会名誉黄金勲章受章者]]<br />
[[Category:ディズニーのアニメ作品の声優]]<br />
[[Category:冷戦]]<br />
[[Category:アメリカ合衆国の反共主義者]]<br />
[[Category:イングランド系アメリカ人]]<br />
[[Category:アイルランド系アメリカ人]]<br />
[[Category:フランス系アメリカ人]]<br />
[[Category:シカゴ出身の人物]]<br />
[[Category:ミズーリ州の人物]]<br />
[[Category:1901年生]]<br />
[[Category:1966年没]]</div>
122.214.146.170
松本幸四郎 (10代目)
2018-08-07T08:56:09Z
<p>122.214.146.170: /* 受賞歴 */</p>
<hr />
<div>{{混同|武幸四郎}}<br />
{{存命人物の出典明記|date=2015年2月}}<br />
{{歌舞伎役者<br />
| 芸名 = 十代目 松本幸四郎<br />
| ふりがな = じゅうだいめ まつもと こうしろう<br />
| 画像ファイル = <br />
| 画像サイズ = 180px<br />
| 画像コメント =<br />
| 屋号 = [[高麗屋]]<br />
| 定紋 = 四つ花菱 [[File:Yotsu Hana-bishi inverted.jpg|50px]]<br />
| 生年 = 1973<br />
| 生月 = 1<br />
| 生日 = 8<br />
| 没年 = <br />
| 没月 = <br />
| 没日 = <br />
| 本名 = 藤間 照薫(ふじま てるまさ)<br />
| 血液型 = AB型<br />
| 襲名歴 = 1. 三代目松本金太郎<br />2. 七代目市川染五郎<br /> 3. '''十代目松本幸四郎'''<br />
| 俳名 = <br />
| 別名 = 松本錦升(舞踊)<br />
| 出身地 = [[東京都|東京]]<br />
| 父 = [[松本白鸚 (2代目)|二代目松本白鸚]]<br />
| 母 = [[藤間紀子]]<br />
| 兄弟 = [[松本紀保]](女優、姉)<br />[[松たか子]](女優、妹)<br />
| 妻 = 藤間園子<br />
| 子 = [[市川染五郎 (8代目)|八代目市川染五郎]](長男)<br />松田美瑠(長女)<br />
| 当たり 役 =<br />
}}<br />
'''十代目 松本 幸四郎'''(じゅうだいめ まつもと こうしろう、[[1973年]]([[昭和]]48年)[[1月8日]] - )は、[[日本]]の[[歌舞伎]]役者。[[名跡|歌舞伎名跡]]「[[松本幸四郎]]」の当代。[[屋号]]は[[高麗屋]]。[[家紋|定紋]]は[[:File:Yotsu Hana-bishi inverted.jpg|四つ花菱]]、替紋は[[:File:Fuse-chō inverted.jpg|浮線蝶]]。<br />
<br />
[[日本舞踊]][[松本流]]の三世[[家元]]としての[[名取]]は'''松本 錦升'''(まつもと きんしょう)。本名は'''藤間 照薫'''(ふじま てるまさ)。<br />
<br />
== 概要 ==<br />
豊かな演技力で古典から復活狂言、[[新作歌舞伎]]まで挑戦し、[[二枚目]]から実悪、色悪、[[女方]]までつとめる。また、『[[アマデウス]]』や[[劇団☆新感線]]の舞台など、歌舞伎以外の演劇でも幅広い活躍を見せ、テレビ俳優としても知られる。<br />
<br />
[[2008年]](平成20年)には[[江戸川乱歩]]の推理小説『[[人間豹]]』の歌舞伎化を企画。父・[[九代琴松]](=九代目幸四郎)演出のもとで『江戸宵闇妖鉤爪<small>(えどの やみ あやしの かぎつめ)</small>』を[[国立劇場]]で上演した。原作の時代背景である昭和初期の東京を[[幕末]]の江戸に置き換えたこの新作歌舞伎で、染五郎は神谷芳之助と「人間豹」こと恩田乱学の二役を演じた。[[同心|隠密廻り同心]]・[[明智小五郎]]は父・九代目幸四郎が演じている。<br />
<br />
若手の歌舞伎役者を中心とした[[草野球]]チームを結成しており、染五郎は投手を務めている。このチームのメンバーには染五郎のほか、[[中村獅童 (2代目)|二代目中村獅童]]、[[市川海老蔵 (11代目)|十一代目市川海老蔵]]、[[尾上松也 (2代目)|二代目尾上松也]]などが名を連ねている。<br />
<br />
[[1997年]]、18歳のときに交際していた6歳年上の元女優との間に、女子をもうけていたことが発覚した。記者会見で、すでに認知していると明かした。<br />
<br />
[[2003年]]に、高校時代からの友人である関園子と結婚した。[[2005年]]に長男の[[市川染五郎 (8代目)|齋(いつき)]]、[[2007年]]には長女の薫子(かおるこ)が生まれている。[[2009年]]に長男・齋は四代目松本金太郎を襲名して[[歌舞伎座]]で初舞台を踏み、[[2012年]]には長女・薫子が芸名・[[松田美瑠]](まつだ みる)として[[舞踊]]の初舞台を踏んだ。<br />
<br />
なお、美瑠の初舞台の公演(日本舞踊[[松本流]]「第十回松鸚会」宗家松本幸四郎古希記念舞踊公演、東京・[[国立劇場|国立劇場大劇場]]、2012年8月)で、舞踊劇に出演中の染五郎が舞台の[[迫|迫(せり)]]から[[奈落]]に転落し、右手首複雑骨折などの大けがを負った。この負傷により、しばらく休業を余儀なくされたが、同年10月には復帰会見を行い<ref>{{Cite news |author=|title=市川染五郎 復帰会見で謝罪「基本的なミスでご迷惑をおかけした」|newspaper=スポニチ|publisher=スポーツニッポン新聞|date=2012-10-17|url=http://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2012/10/17/kiji/K20121017004348950.html|accessdate=2015-03-14}}</ref>、翌[[2013年]]2月に[[日生劇場]]で行われた2月公演で歌舞伎舞台に復帰した<ref>{{Cite news |author=上村以和於|title=日生劇場2月公演 染五郎復帰、再生の早春 |newspaper=日本経済新聞|publisher=日本経済新聞|date=2013-02-13|url=http://www.nikkei.com/article/DGXDZO51655100T10C13A2BE0P01/|accessdate=2015-03-14}}</ref>。<br />
<br />
2016年12月、2018年1月に父が二代目[[松本白鸚]]を襲名することに伴い、自らも[[松本幸四郎]]を十代目として襲名し、同時に長男に染五郎の名を譲ることを発表した<ref name="Koshiro">{{Cite news|title=歌舞伎 松本幸四郎さんが白鸚に…親子孫3代で同時襲名へ|newspaper=毎日新聞デジタル|date=2016-12-08|url=http://mainichi.jp/articles/20161209/k00/00m/040/018000c|agency=毎日新聞社|accessdate=2016-12-08}}</ref>。<br />
<br />
2018年1月2日、高麗屋三代襲名披露公演『壽 初春大歌舞伎』(歌舞伎座)初日にて、十代目松本幸四郎を襲名した<ref name="Shumei">{{Cite news|url=http://www.hochi.co.jp/entertainment/20180102-OHT1T50116.html |title= 松本白鸚「父も喜んでいると思います」高麗屋が3代同時襲名|newspaper= スポーツ報知 |agency= 報知新聞社 |date= 2018-1-2 |accessdate= 2018-1-3 }}</ref>。<br />
<br />
== 年譜 ==<br />
* 1973年1月<!--8日--> - [[松本白鸚_(2代目)|六代目市川染五郎]](当時の芸名)の長男として[[東京都]]に生まれる。姉は[[松本紀保]]、妹は[[松たか子]]。<br />
* 1978年12月 - 父が主演した[[日本放送協会|NHK]][[大河ドラマ]] 『[[黄金の日日]]』の最終回に子役で出演。<br />
* 1979年3月 - [[歌舞伎座]] 『[[助六|侠客春雨傘]]』で三代目[[松本金太郎 (歌舞伎)|松本金太郎]]を[[襲名]]して初舞台。<br />
* 1981年10月 - 歌舞伎座 『[[仮名手本忠臣蔵]]』七段目の[[大石良金|大星力弥]]ほかで七代目[[市川染五郎]]を襲名。<br />
* 1991年 - [[暁星中学校・高等学校|暁星高等学校]]卒業後[[國學院大學]][[文学部]]日本文学科入学(のち中退)。<br />
* 1997年 - 18歳のとき交際していた6歳年上の女性との間に、女子をもうけていたことが発覚([[認知]]済み)。<br />
* 2003年11月<!--26日--> - 高校時代からの友人・関園子と結婚。<br />
* 2005年3月<!--27日--> - 長男・[[市川染五郎 (8代目)|藤間齋]](ふじま いつき)誕生。<br />
* 2007年2月<!--11日--> - 長女・藤間薫子(ふじま かおるこ)誕生。<br />
* 2007年6月 - 歌舞伎座『侠客春雨傘』で藤間齋が初お目見え。父・九代目幸四郎と共に高麗屋三代の顔見世。<br />
* 2009年6月 - 歌舞伎座『門出祝寿連獅子』で齋が四代目松本金太郎を襲名して初舞台。<br />
* 2012年8月27日 - 国立劇場『第十回松鸚会 宗家松本幸四郎古希記念舞踊公演』にて、長女・薫子が芸名・松田美瑠(まつだ みる)としてデビューした。この舞台での共演の途中、染五郎が舞台の[[迫]]から[[劇場#用語|奈落]]に転落し重傷を負う<ref>[http://www.nikkansports.com/entertainment/news/p-et-tp0-20120828-1007517.html 染五郎大けが 舞台から3メートル転落] 日刊スポーツ 2012年8月28日</ref>。<br />
* 2016年12月8日 - 十代目松本幸四郎襲名を発表<ref name="Koshiro" />。<br />
* 2018年1月2日 - 歌舞伎座『壽 初春大歌舞伎』にて、松本幸四郎を十代目として襲名<ref name="Shumei"/><br />
<br />
== 受賞歴 ==<br />
* 1987年 『[[元禄忠臣蔵|大石最後の一日]]』で[[眞山青果賞]]新人賞<br />
* 1989年 『熊野』で眞山青果賞奨励賞<br />
* 1990年 『[[京人形 (歌舞伎)|京人形]]』で[[松竹永山会長賞]]<br />
* 1993年 『おちくぼ物語』『[[菅原伝授手習鑑]]・寺子屋』『[[天衣紛上野初花]]』(河内山)で[[歌舞伎座賞]]<br />
* 1995年 『[[アマデウス]]』で松竹永山会長賞<br />
* 1996年 『[[三番叟|松壽操り三番叟]]』で歌舞伎座賞、『[[将軍頼家]]』で眞山青果賞奨励賞<br />
* 1999年 『マトリョーシカ』で[[紀伊国屋演劇賞]]個人賞<br />
* 2003年 [[芸術選奨新人賞]]<br />
* 2005年 『[[阿修羅城の瞳]]』『[[蝉しぐれ]]』で[[日本アカデミー賞]]優秀主演男優賞、[[報知映画賞]]主演男優賞、[[日刊スポーツ映画大賞]]主演男優賞<br />
* 2015年 第6回 ラティーノ JAPAN賞<ref>[http://www.webchronos.net/news_event/3379/ クエルボ・イ・ソブリノスが「第6回 ラティーノ JAPAN賞」を開催]</ref>、[[浅草芸能大賞]]奨励賞<br />
<br />
== 出演 ==<br />
=== 歌舞伎 ===<br />
* [[女殺油地獄]]の河内屋与兵衛<br />
* [[好色芝紀嶋物語]](怪談敷島譚)の傾城敷島・藤代屋十三郎・女房お玉<br />
* [[一谷嫩軍記]](熊谷陣屋)の小次郎・敦盛<br />
* [[三番叟|操り三番叟]]<br />
* [[勧進帳]]の富樫左衛門<br />
* [[恋飛脚大和往来]](封印切・新口村)の亀屋忠兵衛<br />
* [[染模様恩愛御書]](細川の男敵討)の大川友右衛門<br />
* [[椿説弓張月]]の源為朝<br />
<br />
=== 新作歌舞伎 ===<br />
* [[葉武列土倭錦絵]](ハムレット)の葉叢丸・実刈屋姫 役<br />
* [[決闘! 高田馬場]]([[PARCO劇場|パルコ]]歌舞伎)の[[堀部武庸|中山安兵衛]]・中津川祐範 役<br />
* [[江戸宵闇妖鉤爪]](豹人間)の神谷芳之助・恩田乱学 役<br />
* [[陰陽師 (小説)|新作 陰陽師 滝夜叉姫]]の[[安倍晴明]] 役<br />
* [[アテルイ (劇団☆新感線の舞台)#歌舞伎版|阿弖流為]](アテルイ)<ref>2002年の[[劇団☆新感線]]の舞台『[[アテルイ (劇団☆新感線の舞台)|アテルイ]]』の歌舞伎化</ref>の[[阿弖流為]] 役<ref>{{Cite web|url= http://www.sanspo.com/geino/news/20150705/geo15070516290026-n1.html |title= 市川染五郎、アテルイ歌舞伎化「完璧です」 |publisher= SANSPO.COM |date= 2015-07-05 |accessdate= 2015-07-05 }}</ref><br />
* [[沙門空海唐の国にて鬼と宴す|幻想神空海 沙門空海唐の国にて鬼と宴す]]の[[空海]] 役<ref>{{Cite news|url= http://www.sanspo.com/geino/news/20160310/geo16031005030002-n1.html |title= 空海演じる染五郎、高野山で成功祈願「力をください」 |newspaper= SANSPO.COM |publisher= 株式会社 産経デジタル |date= 2016-03-10 |accessdate= 2016-03-10 }}</ref><br />
<br />
=== テレビドラマ ===<br />
==== NHK ====<br />
* [[大河ドラマ]]<br />
** [[黄金の日日]](1978年) - 少年助左 役<br />
** [[八重の桜]](2013年) - [[孝明天皇]] 役<br />
* [[父の詫び状]](1986年) - 吉岡少年 役<br />
* [[龍-RON-]](1995年) - 押小路龍 役<br />
* [[美しき夢追い人達]](1995年)<br />
* [[ヒマラヤの桜 華道家 安達瞳子の夢]](1995年)<br />
* [[妻は、くノ一#テレビドラマ|妻は、くノ一]](2013年) - 雙星彦馬 役<br />
** 妻は、くノ一 〜最終章〜(2014年)<br />
<br />
==== 日本テレビ ====<br />
* [[父子鷹 (1994年のテレビドラマ)|父子鷹]](1994年) - [[勝海舟|勝麟太郎]] 役<br />
* [[フードファイト]](2000年) - 坂下陽一 役<br />
<br />
==== TBS ====<br />
* [[源氏物語 上の巻・下の巻]](1991年) - [[冷泉帝]] 役<br />
* [[ヨイショの男]](2002年) - 白石英二 役<br />
* [[猟奇的な彼女 (テレビドラマ)|猟奇的な彼女]](2008年) - 野々村俊介 役<br />
<br />
==== フジテレビ ====<br />
* [[天皇陛下の野球チーム]](1990年) - [[昭和天皇|摂政宮裕仁親王]] 役<br />
* [[悪霊島]](1991年) - 越智竜平(回想) 役<br />
* [[学校の怪談 (テレビドラマ)|学校の怪談 春のたたりスペシャル]](1999年)- [[吸血鬼]] 役<br />
* [[古畑任三郎|古畑任三郎 若旦那の犯罪]] (1999年) - 気楽家雅楽 役<br />
* [[ブランド (テレビドラマ)|BRAND]](2000年) - 神崎宗一郎 役<br />
* [[ロケット・ボーイ|ロケットボーイ]](2001年) - 田中武徳 役<br />
* [[世にも奇妙な物語]] 春の特別編「株式男」(2001年) - 高桑喜一郎 役<br />
* [[プライド (テレビドラマ)|プライド]](2004年) - 池上友則 役<br />
* [[鬼平犯科帳スペシャル 引き込み女]](2008年) - 井上玄庵 役<br />
* [[鬼平犯科帳スペシャル 盗賊婚礼]](2011年) - 弥太郎 役<br />
<br />
==== テレビ朝日 ====<br />
* [[吉田剛|大型時代劇スペシャル 忍者がえし水の城]](1996年) - 高月彦四郎 役<br />
* [[敵は本能寺にあり]](2007年)- [[明智光春|明智佐馬助]] 役<br />
* [[陰陽師 (2015年のテレビドラマ)|陰陽師]](2015年) - [[安倍晴明]] 役<ref>{{Cite web|url= http://mantan-web.jp/2015/06/03/20150603dog00m200000000c.html |title= 市川染五郎:ドラマ「陰陽師」で堂本光一と初共演 |publisher= まんたんウェブ |date= 2015-06-03 |accessdate= 2015-06-03 }}</ref><br />
<br />
==== テレビ東京 ====<br />
* [[新春ワイド時代劇]]<br />
** [[大忠臣蔵 (1989年のテレビドラマ)|大忠臣蔵]](1989年) - [[大石良金|大石主税]] 役<br />
** [[竜馬がゆく#2004年版|竜馬がゆく]](2004年) - [[坂本龍馬|坂本竜馬]] 役<br />
** [[忠臣蔵〜その義その愛]](2012年) - [[浅野長矩|浅野内匠頭]] 役<br />
<br />
=== 映画 ===<br />
* [[遥かなる走路]](1980年) - [[トヨタ自動車|豊田喜一郎]](少年時代) 役<br />
* [[ラヂオの時間]](1997年) - 斎明寺公彦 役<br />
* [[四月物語]](1998年) - 兄 役<br />
* [[恋の門#映画版|恋の門]](2004年) - 本屋の店員 役<br />
* [[阿修羅城の瞳]](2005年) - 病葉出門 役<br />
* [[蝉しぐれ]](2005年) - 牧文四郎 役<br />
* [[今度の日曜日に]](2009年) - 松元茂 役<br />
* [[鑑識・米沢の事件簿#映画|相棒シリーズ 鑑識・米沢守の事件簿]](2009年) - 天野達之 役<br />
* [[天地明察#映画|天地明察]](2012年) - 宮栖川友麿 役<br />
<br />
=== 舞台 ===<br />
* [[バイ・マイセルフ]]<br />
* [[マトリョーシカ]]<br />
* [[アマデウス]] - [[ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト|モーツァルト]] 役<br />
* [[阿修羅城の瞳|阿修羅城の瞳 BLOOD GETS IN YOUR EYES]] 再演・再々演(2000年・2003年) - 病葉出門 役<br />
* [[アテルイ (劇団☆新感線の舞台)|アテルイ]](2002年) - アテルイ 役<br />
<!--*[[阿修羅城の瞳|阿修羅城の瞳 BLOOD GETS IN YOUR EYES]]再々演(2003年) - 病葉出門 役--><br />
* [[髑髏城の七人|髑髏城の七人〜アオドクロ]](2004年) - 玉ころがしの捨之介 / 天魔王 役<br />
* [[朧の森に棲む鬼]](2007年) - ライ 役<br />
* [[女教師は二度抱かれた]](2008年) - 天久六郎 役<br />
<br />
=== 劇場アニメ ===<br />
* [[ポケモン・ザ・ムービーXY&Z ボルケニオンと機巧のマギアナ]](2016年) - [[ボルケニオン]] 役<br />
<br />
=== ゲーム ===<br />
* [[決戦II]](2001年) - [[諸葛亮|諸葛亮孔明]] 役<br />
<br />
=== 教育番組 ===<br />
* [[からだであそぼ]](2006年、[[NHK教育テレビジョン|NHK教育]])<br />
* [[謎解き!江戸のススメ]](2012年4月 - 9月、[[BS-TBS]])<br />
<br />
=== CM ===<br />
* [[三井不動産]](2017年) - 三井不動産ストーリー「福徳の森で」編 [[松本幸四郎 (4代目)|初代市川染五郎]]と一人二役<br />
<br />
== 脚注 ==<br />
{{脚注ヘルプ}}<br />
{{Reflist}}<br />
<br />
== 外部リンク ==<br />
* [http://ameblo.jp/someiro 市川染五郎オフィシャルブログ そめいろ]<br />
* [http://www.kabuki.ne.jp/meikandb/meikan/actor/178 歌舞伎俳優名鑑 現在の俳優篇 / 松本幸四郎(十代目) - (歌舞伎 on the web)]<br />
<br />
{{松本幸四郎|now}}<br />
{{報知映画賞主演男優賞}}<br />
{{日本映画批評家大賞主演男優賞}}<br />
{{日刊スポーツ映画大賞主演男優賞}}<br />
{{デフォルトソート:まつもと こうしろう10}}<br />
[[Category:歌舞伎役者]]<br />
[[Category:日本の男優]]<br />
[[Category:日本舞踊家]]<br />
[[Category:東京都出身の人物]]<br />
[[Category:1973年生]]<br />
[[Category:存命人物]]</div>
122.214.146.170
本木雅弘
2018-08-07T02:08:46Z
<p>122.214.146.170: </p>
<hr />
<div>{{存命人物の出典明記|date=2017-01-02}}<br />
{{ActorActress<br />
| 芸名 = 本木 雅弘<br />
| ふりがな = もとき まさひろ<br />
| 画像ファイル = <br />
| 画像サイズ =<br />
| 画像コメント =<br />
| 本名 = 内田 雅弘(うちだ まさひろ)<br />旧姓・本木<br />
| 別名義 = <br />
| 出生地 = [[埼玉県]][[桶川市]](旧・[[北足立郡]]桶川町)<br />
| 死没地 =<br />
| 国籍 = {{JPN}}<br />
| 民族 =<br />
| 身長 = 174 cm<ref>{{Cite web |url=http://www.vip-times.co.jp/?talent_id=M93-3302 |title=本木雅弘 |work=日本タレント名鑑 |publisher=VIPタイムズ社 |accessdate=2017-01-02}}</ref><br />
| 血液型 = [[ABO式血液型|A型]]<br />
| 生年 = 1965<br />
| 生月 = 12<br />
| 生日 = 21<br />
| 没年 =<br />
| 没月 =<br />
| 没日 =<br />
| 職業 = [[俳優]]<br />
| ジャンル = [[テレビドラマ]]、[[映画]]など<br />
| 活動期間 = [[1982年]] - 現在<br />
| 活動内容 = 1982年:シブがき隊としてデビュー<br />[[1988年]]:シブがき隊解散、俳優に転身<br />
| 配偶者 = [[内田也哉子]]([[1995年]] - 現在)<br />
| 著名な家族 = [[内田伽羅]](長女)<br />
| 事務所 = [[フロム・ファーストプロダクション|メンズアート]]<br />
| 公式サイト =<br />
| 主な作品 = '''テレビドラマ'''<br />『[[恋のパラダイス]]』<br />『[[徳川慶喜 (NHK大河ドラマ)|徳川慶喜]]』<br />『[[幸福の王子 (テレビドラマ)|幸福の王子]]』<br />『[[坂の上の雲 (テレビドラマ)|坂の上の雲]]』<br />
----<br />
'''映画'''<br />『[[ファンシィダンス|ファンシイダンス]]』<br />『[[シコふんじゃった。]]』<br />『[[双生児 (1999年の映画)|双生児]]』<br/>『[[おくりびと]]』<br />『[[日本のいちばん長い日#2015年版|日本のいちばん長い日]]』<br />『[[天空の蜂#映画|天空の蜂]]』<br />『[[永い言い訳]]』<br />
| アカデミー賞 =<br />
| AFI賞 =<br />
| 英国アカデミー賞 =<br />
| セザール賞 =<br />
| エミー賞 =<br />
| ジェミニ賞 =<br />
| ゴールデングローブ賞 =<br />
| ゴールデンラズベリー賞 =<br />
| ゴヤ賞 =<br />
| グラミー賞 =<br />
| ブルーリボン賞 = '''主演男優賞'''<br />[[ブルーリボン賞 (映画)#第35回(1992年度)|1992年]]『シコふんじゃった。』<br />[[ブルーリボン賞 (映画)#第51回(2008年度)|2008年]]『おくりびと』<br />'''助演男優賞'''<br />[[2015年]]『日本のいちばん長い日』『[[天空の蜂#映画|天空の蜂]]』<br />
| ローレンス・オリヴィエ賞 =<br />
| 全米映画俳優組合賞 =<br />
| トニー賞 =<br />
| 日本アカデミー賞 = '''最優秀主演男優賞'''<br />[[1992年]]『[[シコふんじゃった。]]』<br />[[2008年]]『[[おくりびと]]』<br />'''最優秀助演男優賞'''<br />[[2015年]]『[[日本のいちばん長い日#2015年版|日本のいちばん長い日]]』<br />'''新人俳優賞'''<br />[[第13回日本アカデミー賞|1989年]]『[[226]]』『[[べっぴんの町]]』<br />
| 東京国際映画祭 = '''男優賞'''<br />[[第6回東京国際映画祭|1993年]]『[[ラストソング (映画)|ラストソング]]』<br />
| その他の賞 = '''[[キネマ旬報ベスト・テン]]'''<br />'''主演男優賞'''<br />[[キネマ旬報#第82回(2008年度)|2008年]]『おくりびと』<br />'''助演男優賞'''<br />[[キネマ旬報#第89回(2015年度)|2015年]]『日本のいちばん長い日』『天空の蜂』<hr />'''[[毎日映画コンクール]]'''<br />'''男優主演賞'''<br />[[毎日映画コンクール#第53回(1998年)|1998年]]『[[中国の鳥人]]』<br />[[毎日映画コンクール#第71回(2016年)|2016年]]『[[永い言い訳]]』<hr />'''[[アジア・フィルム・アワード]]'''<br />'''主演男優賞'''<br />[[第3回アジア・フィルム・アワード|2008年]]『おくりびと』<br />
| 備考 = [[シブがき隊]]のメンバー<br />
}}<br />
'''本木 雅弘'''(もとき まさひろ、[[1965年]][[12月21日]] - )は、[[日本]]の[[俳優]]、元[[歌手]]。本名・'''内田 雅弘'''(うちだ まさひろ)旧姓・'''本木'''。[[愛称]]は「'''モックン'''」「'''すばる'''」。[[埼玉県]][[桶川市]](旧・[[北足立郡]]桶川町)出身。<br />
<br />
[[ジャニーズ事務所]]所属の3人組アイドル「[[シブがき隊]]」の元メンバー。所属[[芸能事務所]]は[[ジャニーズ事務所]] → 個人事務所「[[フロム・ファーストプロダクション|メンズアート]]」。<br />
<br />
== 人物・来歴 ==<br />
{{出典の明記|date=2017年1月|section=1}}<br />
[[1965年]]、埼玉県桶川市に誕生。実家は15代続く農家。兄と弟の3人兄弟の次男。父が農業高校時代の卒業文集を眺めていてたまたま目に留まった名(雅弘)を命名した<!--http://mytown.asahi.com/saitama/news.php?k_id=11000000902250002-->。<br />
<br />
[[1981年]]、[[TBSテレビ|TBS]]ドラマ『[[2年B組仙八先生]]』でデビュー。他に[[薬丸裕英]]、[[布川敏和]]、[[三田寛子]]も、このドラマでデビューしている。<br />
<br />
[[1982年]]、アイドルグループ「[[シブがき隊]]」のメンバー「モックン」として、布川敏和(フックン)・薬丸裕英(ヤックン)とともに、シングル『NAI・NAI 16』で[[歌手]]デビューし、[[たのきんトリオ]]に続く三人組のトップ[[アイドル]]に。同期に、[[小泉今日子]]・[[堀ちえみ]]・[[松本伊代]]・[[三田寛子]]・[[中森明菜]]・[[石川秀美]]・[[新田純一]]。<br />
<br />
[[浦和学院高等学校]]1年在学中の途中から[[明治大学付属中野高等学校]]定時制に編入するが2年の途中で中退した。<br />
<br />
[[1988年]]シブがき隊を“解隊”後、俳優活動を開始。翌年、『[[ファンシィダンス#映画版|ファンシイダンス]]』で役に合わせて坊主頭で挑み、映画初出演ながらシブがき隊のイメージを覆す演技を見せた。<br />
<br />
[[1991年]]、[[篠山紀信]]撮影による[[ヘアヌード]]写真集『white room』を出版する。また[[1992年]]、ソロとして初出場した[[第43回NHK紅白歌合戦]](曲は[[井上陽水]]の[[カバー]]「東へ西へ」)で、[[コンドーム]]を首からぶら下げた衣装や臀部を見せるパフォーマンスをサプライズで行い、物議を醸した。しかし、この演出は[[後天性免疫不全症候群|エイズ(後天性免疫不全症候群)]]撲滅のメッセージが込められていたという<ref>[http://tvtopic.goo.ne.jp/program/nhk/30459/817685/],goo</ref>。<br />
<br />
[[1995年]]、現在は[[エッセイスト]]などとして活躍する[[内田也哉子]]と結婚。本木が海外の映画賞を取材する番組に、内田が通訳として同行していて知り合う。彼女が17歳の時にプロポーズした。[[婿養子]]<ref>妻・也哉子は一人娘で兄弟がいないため、義母・樹木希林に「内田家を残したいから婿養子になって欲しい」と頼まれたため、内田家の婿養子となる。</ref>となり、[[1997年]]に長男・雅樂(うた)、[[1999年]]に長女・伽羅(きゃら)、[[2010年]]に次男・玄兎(げんと)の3児を儲け、長女の[[内田伽羅]]は『[[奇跡 (2011年の映画)|奇跡]]』などの映画に子役として出演しているほかモデルとして活動している<ref name="msn1105">{{cite web|url=http://sankei.jp.msn.com/entertainments/news/110506/ent11050612550004-n1.htm|title=樹木希林「無理やり」初共演 孫・内田伽羅と映画で|date=2011-05-06|accessdate=2015-04-20|work=[[MSN産経ニュース]]|archiveurl=https://web.archive.org/web/20120207212105/http://sankei.jp.msn.com/entertainments/news/110506/ent11050612550004-n1.htm|archivedate=2012-02-07}}</ref>。[[義父]]は[[ロック (音楽)|ロック]][[ミュージシャン]][[内田裕也]]、[[義母]]は[[俳優|女優]]の[[樹木希林]]。岳父が長年主催している「ニューイヤーロックフェスティバル」には直接・間接的に毎年協力している。<br />
<br />
俳優として本格的に活動し、映画『シコふんじゃった。』、[[大河ドラマ]]『[[徳川慶喜 (NHK大河ドラマ)|徳川慶喜]]』など主演した作品がヒットする。<br />
<br />
企画を自ら持ち込み、主演も務めた『[[おくりびと]]』が[[2009年]]に[[アカデミー賞]]外国語映画賞を受賞している。アカデミー賞のレッドカーペットではインタビューに英語で答えた。この映画での活躍により2009年[[3月20日]]、[[栄誉章|埼玉県民栄誉章]]を受章した。<br />
<br />
シブガキ隊解散後出演した『[[4時ですよーだ]]』で共演者である[[東野幸治]]から様々な仕打ちを受けたという<ref>[http://www.daily.co.jp/gossip/2016/10/16/0009587300.shtml 本木雅弘 27年前に東野幸治から受けた仕打ち 「人間のおぞましさを見た」],[[デイリースポーツ]],2016年10月16日</ref>。また本人も同番組の放送作家であった[[高須光聖]]に、打ち合わせで高須を無視する、という無礼な行為をしていた。高須本人がラジオでこのエピソードを語ったところ、本木から直接謝罪されたと語っている。<ref>[https://www.excite.co.jp/News/column_g/20161113/TokyoFm_wEOmSv2vgn.html?_p=2]</ref><br />
<br />
== 出演作品 ==<br />
=== テレビドラマ ===<br />
* [[2年B組仙八先生]] (1981年4月17日 - 1982年3月26日、[[TBSテレビ|TBS]])- 森田すばる 役<br />
* [[女7人あつまれば]] (1982年 - 1983年、TBS) - 黒蜥蜴のメンバー 役<br />
* [[源さん]] (1983年5月16日 - 9月26日、[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]、[[月曜スター劇場]]) - 本村雅弘 役<br />
* [[噂のポテトボーイ]](1983年10月13日 - 1984年3月29日)<br />
* オールスターアイドルドラマ「走れ青春42.195キロ」 (1984年4月11日、[[テレビ東京]])<br />
* ふたりの恋人・殺し屋から愛をこめて!〜ロマンチック連続殺人 (1984年8月18日、TBS)<br />
* シブがき隊の[[スシ食いねェ!]](1986年5月5日、[[フジテレビジョン|フジテレビ]]、[[月曜ドラマランド]])<br />
* [[ひみつのアッコちゃん]](1987年2月9日、フジテレビ・月曜ドラマランド) - 結城純 役<br />
* [[アナウンサーぷっつん物語]] (1987年、フジテレビ)<br />
* [[キスより簡単]] (1987年5月7日 - 7月30日、フジテレビ) - 進藤鈴也 役<br />
* [[抱きしめたい!]] (1988年4月12日 - 6月28日、フジテレビ) - 山下純 役<br />
* [[カッ飛び!ヤンヤン姫]] 第1話「黄門さまとワル者退治」(1988年10月4日、テレビ東京) - [[渥美格之進]] 役<br />
* さよならは一度だけ…(1988年11月4日、フジテレビ、[[男と女のミステリー]])<br />
* [[三毛猫ホームズシリーズ (テレビ朝日系列のテレビドラマ)#三浦洋一版|三毛猫ホームズの結婚披露宴]](1989年9月26日、[[テレビ朝日]]・[[火曜スーパーワイド]])<br />
* 危険な女ともだち (1989年12月5日、テレビ朝日・火曜スーパーワイド)<br />
* [[恋のパラダイス]] (1990年4月12日 - 6月28日、フジテレビ) - 柴崎天 役<br />
* [[世にも奇妙な物語]] 秋の特別編 「ミッドナイト・コール」(1990年10月4日、フジテレビ) - '''主演'''<br />
* [[太平記 (NHK大河ドラマ)|太平記]] (1991年1月6日 - 12月8日、[[日本放送協会|NHK]]・[[大河ドラマ]]) - [[千種忠顕]] 役<br />
* [[ママってきれい!?]] (1991年1月11日 - 3月22日、TBS) - 朝日進 役<br />
* [[中上健次#長編小説|日輪の翼]](1991年9月2日、NHK)<ref>[http://cgi2.nhk.or.jp/archives/tv60bin/detail/index.cgi?das_id=D0009040345_00000 ハイビジョンドラマ 日輪の翼 - NHK名作選(動画・静止画) NHKアーカイブス]</ref> - ツヨシ 役<br />
* [[あなただけ見えない]] (1992年1月13日 - 3月23日、フジテレビ) - 山根光彦 役<br />
* [[ニュースなあいつ]] (1992年7月4日 - 9月19日、[[讀賣テレビ放送|読売テレビ]]) - '''中島孝平''' 役<br />
* [[いつか好きだと言って]] (1993年1月5日 - 3月23日、TBS) - '''佐伯流星''' 役<br />
* [[西遊記 (1978年のテレビドラマ)#西遊記(1993年)|西遊記]] (1993年3月28日、日本テレビ) - '''[[孫悟空]]''' 役<br />
* [[坊つちやん (テレビドラマ)#1994年版|坊っちゃん -人生損ばかりのあなたに捧ぐ-]](1994年1月1日、NHK) - '''[[坊っちゃん]]''' 役<br />
* [[ラッキィ (テレビドラマ)|ラッキィ]] (1994年1月13日、NHK-BS2) - '''ファミリーレストランの副店長''' 役<br />
* [[お玉・幸造夫婦です]] (1994年7月7日 - 9月22日、よみうりテレビ) - 音無サトル 役<br />
* [[最高の片想い]] WHITE LOVE STORY (1995年1月11日 - 3月22日、フジテレビ) - '''青木公介''' 役<br />
* 涙たたえて微笑せよ〜明治の息子・島田清次郎(1995年4月15日、NHK・[[土曜ドラマ (NHK)|土曜ドラマ]]) - '''[[島田清次郎]]''' 役<br />
* [[君と出逢ってから]] (1996年4月12日 - 7月5日、TBS)- '''戸川誠二''' 役<br />
* [[徳川慶喜 (NHK大河ドラマ)|徳川慶喜]] (1998年1月4日 - 12月13日、NHK・大河ドラマ) - '''[[徳川慶喜]]''' 役<br />
* [[恍惚の人#ドラマ(1999年)|恍惚の人 ボケた父を誰が介護するの?]](1999年1月1日、テレビ東京・初春ドラマスペシャル)<br />
* [[隣人は秘かに笑う]] (1999年10月13日 - 12月15日、日本テレビ) - '''高木洪一''' 役<br />
* [[ブラック・ジャック (実写版)|ブラック・ジャック]]シリーズ(2000年 - 2001年、TBS) - '''[[ブラック・ジャック (架空の人物)|ブラック・ジャック]]''' 役<br />
** ブラック・ジャックI(2000年3月31日)<br />
** ブラック・ジャックII(2000年8月26日)<br />
** ブラック・ジャックIII(2001年9月29日)<br />
* [[スタイル!]] (2000年10月12日 - 12月14日、テレビ朝日) - '''都筑カオル''' 役 <br />
* [[聖徳太子 (テレビドラマ)|聖徳太子]] (2001年1月10日、NHKドラマ) - '''[[聖徳太子]]''' 役<br />
* [[水曜日の情事]] (2001年10月10日 - 12月19日、フジテレビ) - '''佐倉詠一郎''' 役<br />
* [[幸福の王子 (テレビドラマ)|幸福の王子]] (2003年7月2日〜9月10日、日本テレビ) - '''鳴川周平''' 役<br />
* 夏目家の食卓(2005年1月5日、TBS) - '''[[夏目漱石]]''' 役<br />
* [[87%]] (2005年1月12日 - 3月16日、日本テレビ) - '''黒木陽平''' 役<br />
* [[今夜ひとりのベッドで]] (2005年10月20日 - 12月22日、TBS) - '''友永明之''' 役<br />
* [[坂の上の雲 (テレビドラマ)|坂の上の雲]] (2009年11月29日 - 2011年12月25日、NHK) - '''[[秋山真之]]''' 役<br />
* [[運命の人 (小説)#テレビドラマ|運命の人]](2012年1月15日 - 3月18日、TBS) - '''弓成亮太''' 役<br />
<br />
=== 映画 ===<br />
* [[シブがき隊 ボーイズ & ガールズ]](1982年、【主演:シブがき隊】) - '''大輔''' 役<br />
* [[三等高校生]](1982年) - シブがき隊として出演<br />
* [[ヘッドフォン・ララバイ]] (1983年、【主演:シブがき隊】) - '''風間黎''' 役<br />
* [[バロー・ギャングBC]] (1985年、【主演:シブがき隊】) - '''染谷瞬''' 役<br />
* [[226 (映画)|226]] (1989年) - [[河野寿]] 役<br />
* ラッフルズホテルRaffles Hotel (1989年) - 結城岳夫 役<br />
* [[ファンシィダンス#映画版|ファンシイダンス]] (1989年) - '''塩野陽平''' 役<br />
* [[べっぴんの町]] (1989年) - 左山集司 役<br />
* [[ふうせん (映画)|ふうせん]](1990年)- 長内徹 役(友情出演)<br />
* 陽炎 (1991年) - 小杉市太郎 役<br />
* [[遊びの時間は終らない]] (1991年) - '''平田道夫''' 役<br />
* [[シコふんじゃった。]] (1992年) - '''山本秋平''' 役<br />
* [[魚からダイオキシン!!]] (1992年) - KENJI 役<br />
* [[ラストソング (映画)|ラストソング]] (1994年) - '''八住修吉''' 役<br />
* [[RAMPO]] (1994年) - '''[[明智小五郎]]''' 役<br />
* [[GONIN]] (1995年) - 三屋純一 役<br />
* [[トキワ荘の青春]] (1996年) - '''[[寺田ヒロオ]]''' 役<br />
* [[Shall we ダンス?]] (1996年) - 木本弘雅 役<br />
* 中国の鳥人(1998年)<br />
* [[双生児 (1999年の映画)|双生児]] (1999年)- '''大徳寺雪雄/捨吉''' 役(2役)<br />
* [[スパイ・ゾルゲ]] (2003年) - '''[[尾崎秀実]]''' 役<br />
* 巌流島 GANRYUJIMA (2003年) - '''[[宮本武蔵]]''' 役<br />
* [[夜の上海]](2007年) - '''水島直樹''' 役<br />
* [[おくりびと]](2008年) - '''小林大悟''' 役<br />
* [[矢島美容室 THE MOVIE 〜夢をつかまネバダ〜]](2010年) - 矢島徳次郎 役<br />
* [[日本のいちばん長い日]](2015年) - [[昭和天皇]] 役<ref>{{Cite web | url = http://www.tv-asahi.co.jp/nichiyou/contents/title/0003/| title = 日本のいちばん長い日| publisher = 日曜洋画劇場| accessdate = 2016-08-27}}</ref><br />
* [[天空の蜂#映画|天空の蜂]](2015年) - 三島 役<br />
* [[永い言い訳]](2016年) - '''衣笠幸夫(津村啓)''' 役<ref>{{cite web|url=http://natalie.mu/eiga/news/157335|title=本木雅弘「永い言い訳」で西川美和監督と初タッグ、共演は深津絵里&竹原ピストル|publisher=映画ナタリー|date=2015-08-19|accessdate=2015-08-19}}</ref><br />
<br />
=== 日本語版吹替 ===<br />
* [[ライフ・オブ・パイ/トラと漂流した227日]](2013年) - 大人のパイ 役<ref>{{Cite web|publisher=映画「ライフ・オブ・パイ / トラと漂流した227日」オフィシャルサイト|url=http://blog.foxjapan.com/movies/lifeofpi/news/2012/11/fukikae.html|title=〈アカデミー賞×アカデミー賞〉の奇跡のコラボ実現!! 本木雅弘さんが初の実写洋画吹き替えに挑戦!|accessdate=2013-01-07}}</ref><br />
<br />
=== 劇場アニメ ===<br />
* [[鉄コン筋クリート]] (2006年) - 蛇役<br />
<br />
=== 司会 ===<br />
*[[少女雑貨専門TV エクボ堂|少女雑貨専門 エクボ堂]](1987年4月 - 1989年3月、テレビ東京)<br />
*君といつまでも(1991年4月 - 1993年9月、[[テレビ朝日]])<br />
*鎌倉恋愛委員会(1991年10月 - 1991年12月、[[TBSテレビ|TBS]])<br />
*[[ポップジャム|ポップジャム'93]] (1993年4月 - 1994年3月、[[NHK総合テレビジョン|NHK総合]])初代司会者<br />
*[[4時ですよーだ]] ([[MBSテレビ|毎日放送]])[[ダウンタウン (お笑いコンビ)|ダウンタウン]]の代理で番組後期の金曜日に担当<br />
*[[料理の鉄人]] (フジテレビ)美食アカデミー2代目主宰、2002年1月の正月特番<br />
<br />
=== バラエティ ===<br />
*[[わいわいスポーツ塾]](TBS)レギュラー<br />
*[[とんねるずのみなさんのおかげでした]][[新・食わず嫌い王決定戦]]に出演(2007年9月20日、フジテレビ)<br />
*[[ボクらの時代]](2008年9月21、28日、フジテレビ) <br />
*[[土曜スタジオパーク]](2009年12月5日、NHK)<br />
*[[にっぽん紀行]](2010年12月21日、NHK)案内人・ナレーション<br />
<br />
=== NHK紅白歌合戦出場歴 ===<br />
出演順は「出演順/出場者数」で表す。<br />
<br />
{| class="wikitable"<br />
|-<br />
! 年度/放送回!! 回!! 曲目!! 出演順!! 対戦相手<br />
|-<br />
|[[1992年]](平成4年)/[[第43回NHK紅白歌合戦|第43回]]||初||東へ西へ||06/28||[[荻野目洋子]]<br />
|}<br />
<br />
=== CM ===<br />
* [[DDIセルラーグループ]] [[cdmaOne]]<br />
* [[大塚ベバレジ]] ジャワティストレート<br />
* [[サントリー]] 「[[サントリーリザーブ]]」<br />
* [[スズキ自動車]]<br />
* [[TEPCOひかり]]/[[東京電力]]「TEPCOひかり」 <br />
* [[サントリーフーズ]] 「[[伊右衛門]]」<br />
* [[富士銀行]](現:[[みずほ銀行]])<br />
* [[財務省 (日本)|財務省]] [[個人向け国債]]<br />
* [[日立製作所]]<br />
* [[エヌ・ティ・ティ・ドコモ北海道|NTTドコモ北海道]]<br />
* [[マンダム]] 「ギャツビー」<br />
* [[トヨタ自動車]] <br />
**「[[トヨタ・コロナEXiV|コロナEXiV(1995年)]]」<br />
**「[[トヨタ・プログレ|プログレ(1998年5月〜2001年3月)]]」<br />
**「[[トヨタ・アルファード|アルファード(2015年〜 )]]」<!-- - 余談だが、TOYOTOWNバージョンのCMではナレーションを務める樹木希林(つまり、本木の義母)から「この男、他人ではない」と言われている。--><br />
* [[日産自動車]] 「[[日産・ローレル|ローレル]](C34)」<br />
* [[リコー]]<br />
* [[日本中央競馬会]]<br />
* [[キリンビバレッジ]]<br />
* [[レオパレス21]]<br />
* [[シャープ]]「[[発光ダイオード|LED]] [[アクオス|AQUOS]]」<br />
* [[全日本空輸]](ANA)<br />
* [[富士フイルム]]「[[FinePix|FinePix F550EXR]]」、「F600EXR」、「F770EXR」、「F800EXR」、「FUJIFILM X10」、「お正月を映そう2012(東京上空でお正月・X10編/フォトブック編)」、「FUJIFILM XF1」、「FUJIFILM X-E1」<br />
* [[三共 (製薬会社)|三共]](現:[[第一三共ヘルスケア]])『[[リゲイン]]』<!-- - 先述の『東へ西へ』がCMソングに使われた。--><br />
* [[トヨタホーム]]<br />
* [[パナソニック|Panasonic]]「パナソニック アルカリ乾電池」<br />
* [[マイクロソフト]] 「[[Microsoft Windows 3.x|Windows 3.1]]」<br />
* [[Yahoo! JAPAN]] <br />
**「Yahoo! JAPANアプリ」(2016年)<ref>{{cite web|url=http://www.narinari.com/Nd/20160336378.html|title=本木雅弘“備える”大切さ訴える、「Yahoo! JAPANアプリ」新CMで。|publisher=ナリナリドットコム|date=2016-03-01|accessdate=2016-03-01}}</ref><br />
**「全国統一防災模試」(2018年)<br />
<br />
== ディスコグラフィー ==<br />
=== シングル ===<br />
* 真夏の夜にタンゴ(1991年6月1日)<br />
* 東へ西へ(1992年5月22日)<br />
* 最後に涙はみたくない(1992年7月25日)<br />
* 時の神話(1993年8月25日)<br />
* グルグル(1996年1月17日)<br />
* 夏の雪(1997年7月24日)<br />
<br />
=== アルバム ===<br />
* [[LIZARD -dream after nightmare-]](1990年6月25日)<br />
* [[WATER DRAGON]](1991年2月25日)<br />
* D+F+M〜東へ西へ(1992年7月25日)<br />
* BEST 14 TRACKS(1994年1月25日)<br />
* 月の窓(1996年2月21日)<br />
* イカルスの恋人〜rambling boat〜(1997年8月8日)<br />
* 泣かないで〜小さな旅人へ(1999年4月16日)<br />
* [[ゴールデン☆ベスト|GOLDEN☆BEST]](2004年11月25日)<br />
<br />
== 受賞歴 ==<br />
=== 映画 ===<br />
*'''1989年度'''<br />
** [[第13回日本アカデミー賞]] 新人俳優賞(『[[226 (映画)|226]]』『[[べっぴんの町]]』『ラッフルズホテル』)<br />
<br />
*'''1991年度'''<br />
** 第1回[[日本映画プロフェッショナル大賞]] 主演男優賞(『[[遊びの時間は終らない]]』)<br />
<br />
*'''1992年度'''<br />
** 第17回[[報知映画賞]] 主演男優賞(『[[シコふんじゃった。]]』)<br />
** [[ブルーリボン賞 (映画)#第35回(1992年度)|第35回ブルーリボン賞]] 主演男優賞(『シコふんじゃった。』)<br />
** [[第16回日本アカデミー賞]] 最優秀主演男優賞(『シコふんじゃった。』)<br />
<br />
*'''1993年度'''<br />
** [[第6回東京国際映画祭]] 男優賞(『[[ラストソング (映画)|ラストソング]]』)<br />
<br />
*'''1994年度'''<br />
** [[第18回日本アカデミー賞]] 優秀主演男優賞(『ラストソング』)<br />
<br />
*'''1998年度'''<br />
** 第13回[[高崎映画祭]] 最優秀主演男優賞(『中国の鳥人』)<br />
** [[毎日映画コンクール#第53回(1998年)|第53回毎日映画コンクール]] 男優主演賞(『中国の鳥人』)<br />
<br />
*'''1999年度'''<br />
** 第12回[[日刊スポーツ映画大賞]] 主演男優賞(『[[双生児 (映画)|双生児]]』)<br />
** [[第23回日本アカデミー賞]] 優秀主演男優賞(『双生児』) <br />
<br />
*'''2008年度'''<br />
** [[ブルーリボン賞 (映画)#第51回(2008年度)|第51回]]ブルーリボン賞 主演男優賞(『[[おくりびと]]』)<br />
** [[キネマ旬報#第82回(2008年度)|第82回]]キネマ旬報ベスト・テン 主演男優賞(『おくりびと』)<br />
** [[東京スポーツ映画大賞#第18回(2009年)|第18回東京スポーツ映画大賞]] 主演男優賞(『おくりびと』)<br />
** [[日本インターネット映画大賞#第13回(2008年)|第13回日本インターネット映画大賞]] 主演男優賞(『おくりびと』)<br />
** [[第32回日本アカデミー賞]] 最優秀主演男優賞(『おくりびと』)<br />
** [[第3回アジア・フィルム・アワード]] 主演男優賞(『おくりびと』)<br />
** 第3回[[アジア太平洋映画賞]] 男優賞(『おくりびと』)<br />
** 第28回[[藤本賞]](『おくりびと』)<br />
<br />
*'''2015年度'''<br />
** 第40回報知映画賞(『[[日本のいちばん長い日#2015年版|日本のいちばん長い日]]』『[[天空の蜂#映画|天空の蜂]]』)<br />
** 第28回日刊スポーツ映画大賞 助演男優賞(『日本のいちばん長い日』『天空の蜂』)<br />
** [[キネマ旬報#第89回(2015年度)|第89回]]キネマ旬報ベスト・テン 助演男優賞(『日本のいちばん長い日』『天空の蜂』)<br />
** [[第39回日本アカデミー賞]] 最優秀助演男優賞(『日本のいちばん長い日』)<br />
** 第39回日本アカデミー賞 優秀助演男優賞(『天空の蜂』)<br />
** [[ブルーリボン賞 (映画)#第58回(2015年度)|第58回]]ブルーリボン賞 助演男優賞(『日本のいちばん長い日』『天空の蜂』)<br />
<br />
* '''2016年度'''<br />
** 第71回毎日映画コンクール 男優主演賞(『[[永い言い訳#映画|永い言い訳]]』)<ref>{{cite news|url=http://natalie.mu/eiga/news/217340|title=毎日映画コンクールで「シン・ゴジラ」が大賞ほか3冠獲得、「君の名は。」は2冠|newspaper=映画ナタリー|date=2017-01-19|accessdate=2017-01-19}}</ref><br />
<br />
=== テレビドラマ ===<br />
*'''2011年度'''<br />
** 第38回[[放送文化基金賞]] 演技賞(『坂の上の雲』)<br />
<br />
=== その他 ===<br />
*'''1989年度'''<br />
** [[エランドール賞]] 新人賞<br />
<br />
== 脚注 ==<br />
{{脚注ヘルプ}}<br />
{{Reflist}}<br />
<br />
== 関連項目 ==<br />
* [[埼玉県出身の人物一覧]]<br />
* [[鴻巣七騎]]<br />
<br />
== 外部リンク ==<br />
* [http://www.from1-pro.jp/talent/detail.php?id=1 メンズアート]<br />
* [http://www.jellyfishcafe.com/ JELLYFISH CAFE-本木雅弘 Information(出演情報など)]<br />
* {{Kinejun name|88996}}<br />
* {{Tvdrama-db name}}<br />
<br />
{{シブがき隊}}<br />
{{ポップジャム司会者|1993年4月 - 1994年3月}}<br />
{{日本アカデミー賞最優秀主演男優賞}}<br />
{{日本アカデミー賞最優秀助演男優賞}}<br />
{{キネマ旬報ベスト・テン主演男優賞}}<br />
{{キネマ旬報ベスト・テン助演男優賞}}<br />
{{ブルーリボン賞主演男優賞}}<br />
{{ブルーリボン賞助演男優賞}}<br />
{{毎日映画コンクール男優主演賞}}<br />
{{報知映画賞主演男優賞}}<br />
{{報知映画賞助演男優賞}}<br />
{{ヨコハマ映画祭主演男優賞}}<br />
{{日刊スポーツ映画大賞主演男優賞}}<br />
{{日刊スポーツ映画大賞助演男優賞}}<br />
{{エランドール賞新人賞}}<br />
{{大河ドラマ主演俳優}}<br />
{{Authority control}}<br />
{{DEFAULTSORT:もとき まさひろ}}<br />
[[Category:日本の男優]]<br />
[[Category:シブがき隊]]<br />
[[Category:NHK紅白歌合戦出演者]]<br />
[[Category:大河ドラマ主演俳優]]<br />
[[Category:菊池寛賞受賞者]]<br />
[[Category:フロム・ファーストプロダクション]]<br />
[[Category:過去のジャニーズ所属者]]<br />
[[Category:埼玉県出身の人物]]<br />
[[Category:1965年生]]<br />
[[Category:存命人物]]<br />
[[Category:にっぽんプレミアム|人]]</div>
122.214.146.170
カトリーヌ・ドヌーヴ
2018-08-06T04:23:51Z
<p>122.214.146.170: </p>
<hr />
<div>{{ActorActress<br />
| 芸名 = Catherine Deneuve<br />
| ふりがな = カトリーヌ・ドヌーヴ<br />
| 画像ファイル = Catherine deneuve2.jpg<br />
| 画像サイズ = 200px<br />
| 画像コメント = カトリーヌ・ドヌーヴ<br />
| 本名 = カトリーヌ・ファビエンヌ・ドルレアック<br>Catherine Fabienne Dorleac<br />
| 別名義 = <br />
| 愛称 = <br />
| 出生地 = {{FRA}} [[パリ]]<br />
| 死没地 =<br />
| 国籍 = <br />
| 身長 =<br />
| 血液型 =<br />
| 生年 = 1943<br />
| 生月 = 10<br />
| 生日 = 22<br />
| 没年 = <br />
| 没月 = <br />
| 没日 = <br />
| 職業 = [[女優]]<br />
| ジャンル = [[映画]]<br />
| 活動期間 = 1957年 -<br />
| 活動内容 = <br />
| 配偶者 = デビッド・ベイリー(1965年 - 1972年)<br />
| 著名な家族 = <br />
| 事務所 =<br />
| 公式サイト = <br />
| 主な作品 = 『[[シェルブールの雨傘]]』(1963年)<br />『[[ロシュフォールの恋人たち]]』(1967年)<br />『[[昼顔 (1967年の映画)|昼顔]]』(1967年)<br />『[[哀しみのトリスターナ]]』(1970年)<br />『[[終電車 (映画)|終電車]]』(1980年)<br />『[[インドシナ (映画)|インドシナ]]』(1992年)<br />『[[ダンサー・イン・ザ・ダーク]]』(2000年)<br />『[[クリスマス・ストーリー]]』(2008年)<br />
| アカデミー賞 = <br />
| AFI賞 = <br />
| カンヌ国際映画祭 = '''[[パルム・ドール名誉賞]]'''<br />[[第58回カンヌ国際映画祭|2005年]] フランス映画界への長年の功績に対して<br />'''[[カンヌ国際映画祭|第65回記念名誉賞]]'''<br>[[第61回カンヌ国際映画祭|2008年]] 長年の功績に対して<br />
| ヴェネツィア国際映画祭 = '''[[ヴェネツィア国際映画祭_女優賞|女優賞]]'''<br />[[1998年]]『ヴァンドーム広場』<br />
| ベルリン国際映画祭 = '''[[銀熊賞 (芸術貢献賞)]]''' <br />[[2002年]]『[[8人の女たち]]』<br>'''[[名誉金熊賞]]'''<br />[[1998年]] 長年の功績に対して<br />
| ヨーロッパ映画賞 = '''[[ヨーロッパ映画賞 女優賞|女優賞]]''' <br />[[2002年]]『8人の女たち』<br>'''[[ヨーロッパ映画賞 生涯貢献賞|生涯貢献賞]]'''<br>[[2013年]] 長年の映画界への貢献に対して<br />
| セザール賞 = '''[[セザール賞|主演女優賞]]'''<br />[[1980年]]『[[終電車_(映画)|終電車]]』<br />[[1992年]]『インドシナ』<br />
| 備考 = <br />
}}<br />
'''カトリーヌ・ドヌーヴ'''('''Catherine Deneuve''', [[1943年]][[10月22日]] - )は、[[フランス]]・[[17区 (パリ)|パリ17区]]出身の[[俳優|女優]]である。1950年から[[16区 (パリ)|パリ16区]]ミュラ大通り界隈に一家で暮らした<!--当ミュラ大通りフランス語版(fr:Boulevard Murat)参照。パリ17区生まれに関しては、当人フランス語版、同17区シテ・デ・フルー(ル)フランス語版(fr:Cité des Fleurs)参照。但し、ミュラ大通りと共にシテ・デ・フルー記事中出典は未だ付いていない。-->。<br />
<br />
本名はカトリーヌ・ファビエンヌ・ドルレアック (Catherine Fabienne Dorleac)。「ドヌーヴ」は母の旧姓。<br />
<br />
父モーリス・ドルレアック ([[:fr:Maurice Dorléac|fr]])と母ルネ・シモノ ([[:fr:Renée Simonot|fr]])、4人姉妹のうちドヌーヴと1967年に夭折した姉[[フランソワーズ・ドルレアック]]は<ref name = "Yahoo! Movies">[http://movies.yahoo.com/movie/contributor/1800021971 Catherine Deneuve] at Yahoo! Movies</ref>俳優であり、子供の[[クリスチャン・ヴァディム]]と[[キアラ・マストロヤンニ]]も俳優の道に進んでいる。<br />
<br />
== 来歴 ==<br />
10代のころから映画に出始める。ミュージカル映画『[[シェルブールの雨傘]]』のヒットで世界的スターの座をつかむ。<br />
<br />
1992年の『[[インドシナ (映画)|インドシナ]]』で[[アカデミー主演女優賞|米国アカデミー賞主演女優賞]]にノミネート。1998年の『[[ヴァンドーム広場 (映画)|ヴァンドーム広場]]』で[[ヴェネツィア国際映画祭 女優賞]]を受賞。<br />
<br />
プライベートでは1961年から交際を始めた映画監督の[[ロジェ・ヴァディム]]との間に息子[[クリスチャン・ヴァディム|クリスチャン]](1963年生まれ)を儲けたが、1965年に[[イギリス]]の[[写真家]][[デビッド・ベイリー]]と結婚した。しかしベイリーとの結婚はヴァディムが[[ジェーン・フォンダ]]の元に走ったことにショックを受け、自暴自棄になり衝動的に行ったもので、ベイリーへの愛情は持っておらず、結局結婚生活を維持できなくなり1972年に離婚した。[[File:Catherine Deneuve 1968.jpg|thumb|200px|right|『幸せはパリで "The April Fools"』 (1969年, 米映画)]]<br />
<br />
その後に俳優の[[マルチェロ・マストロヤンニ]]との間に、娘キアラを儲けている。ヴァディム、マストロヤンニと正式な婚姻関係になることは諸事情のためいずれもかなわなかった。しかし、マストロヤンニとは晩年までキアラ共々交流があり、[[1996年]]のマストロヤンニの臨終の時にもキアラと共に立会った<ref name = "Yahoo! Movies"/>。<br />
<br />
フランスの世界的ブランドである[[イヴ・サン=ローラン]]の顧客としても有名。<br />
<br />
2007年2月25日(日本時間26日)、[[第79回アカデミー賞|第79回米国アカデミー賞]]授賞式に出席し、日本の[[渡辺謙]]と2人で非英語圏俳優代表として舞台に立ち、賞が設定されて50周年を迎えた[[アカデミー外国語映画賞|外国語映画賞]]の歴史を紹介した。そして、アカデミー賞から約2週間後の[[3月14日]]に、[[フランス映画祭]]2007の代表団長として10年ぶりに来日した。<ref>{{cite news|url=http://eiga.com/news/20070316/13/|title=フランス映画祭開幕。カトリーヌ・ドヌーブが10年ぶりに来日|date=2007年3月16日|accessdate=2012年10月02日|publisher=eiga.com}}</ref><br />
<br />
[[2010年]][[2月]]、3年ぶりに来日。同年[[10月]]にも第23回[[東京国際映画祭]]のため来日している<ref>{{cite news|url=http://news.walkerplus.com/2010/1025/17/|title=『しあわせの雨傘』主演のカトリーヌ・ドヌーヴ「何があってもポジティブに前向きに」|date=2010年10月25日|accessdate=2012年10月02日|publisher=MovieWalker}}</ref>。<br />
<br />
2018年、[[高松宮殿下記念世界文化賞]]受賞。<br />
<br />
== 主な出演作品 ==<br />
=== 映画 ===<br />
{| class="wikitable sortable" <br />
|-<br />
!年!!日本語題<br />''原題''!!役名!!備考<br />
|-<br />
|1962|| パリジェンヌ<br /> ''Les Parisiennes '' || ソフィー || <br />
|-<br />
|1963|| [[悪徳の栄え (1963年の映画)|悪徳の栄え]] <br />''Vice and Virtue'' || || <br />
|-<br />
|rowspan="5"|1964 || [[シェルブールの雨傘]]<br /> ''Les Parapluies de Cherbourg'' || ジュヌヴィエーヴ・エムリ || <br />
|-<br />
| 世界詐欺物語<br /> ''Les plus belles escroqueries du monde '' || || <br />
|-<br />
| 男を追って<br /> ''La chasse à l'homme '' || デニス || <br />
|-<br />
| ピストン野郎<br /> ''Un monsieur de compagnie'' || イザベル || <br />
|-<br />
| かげろうの詩<br /> ''La Costanza della ragione'' || ロリ || <br />
|-<br />
|rowspan="2"|1965 || [[反撥]] <br /> ''Repulsion'' || キャロル・ルドゥー || <br />
|-<br />
| 世界の歌<br /> ''Le chant du monde'' || クレア || <br />
|-<br />
|1966|| 城の生活<br /> ''La vie de château '' || マリー || <br />
|-<br />
|rowspan="2"|1967|| [[ロシュフォールの恋人たち]]<br />''Les Demoiselles de Rochefort'' || デルフィーヌ || <br />
|-<br />
| [[昼顔 (1967年の映画)|昼顔]] <br /> ''Belle de jour'' || セブリーヌ || <br />
|-<br />
|rowspan="4"|1968 || [[めざめ (1968年の映画)|めざめ]]<br /> ''Benjamin ou Les mémoires d'un puceau'' || アン || <br />
|-<br />
| [[恋のマノン]]<br /> ''Manon 70'' || マノン || <br />
|-<br />
| [[うたかたの恋 (1968年の映画)|うたかたの恋]] <br /> ''Mayerling'' || [[マリー・フォン・ヴェッツェラ|マリア]] || <br />
|-<br />
| [[別離 (1968年の映画)|別離]]<br /> ''La chamade'' || ルシル || <br />
|-<br />
|rowspan="2"|1969|| [[幸せはパリで]]<br /> ''The April Fools'' || カトリーヌ || <br />
|-<br />
| [[暗くなるまでこの恋を]] <br />''Le Sirene du Mississippi'' || マリオン(ユリー) || <br />
|-<br />
|rowspan="2"|1970 || [[哀しみのトリスターナ]] <br /> ''Tristana'' || トリスターナ || <br />
|-<br />
| ロバと王女<br />''Peau d'âne'' || 王女 || <br />
|-<br />
|rowspan="2"|1971 || [[哀しみの終るとき]] <br />'' Ça n'arrive qu'aux autres '' || カトリーヌ || <br />
|-<br />
| ひきしお<ref>[[四方田犬彦]]「四つん這いになる」(『犬たちの肖像』[[集英社]] 2015年pp.93-111)に詳しい。</ref><br />''[[:en:Liza (1972 film)|Liza]]'' || リサ ||<br />
|-<br />
| 1972 || [[リスボン特急]] <br />''Un flic'' || カティ || <br />
|-<br />
| 1973 || モン・パリ<br />''Mon Paris'' || イレーヌ || <br />
|-<br />
|rowspan="2"|1974 || [[哀しみの伯爵夫人]]<br /> ''Fatti di gente perbene'' || リンダ || <br />
|-<br />
| 赤いブーツの女<br /> ''La femme aux bottes rouges'' || オデット || <br />
|-<br />
|rowspan="4"|1975 || [[恋のモンマルトル]] <br /> ''Zig Zig'' || マリー || <br />
|-<br />
| ヘルバスター<br /> ''L'agression'' || サラ || <br />
|-<br />
| うず潮<br /> ''Le sauvage'' || ネリー || <br />
|-<br />
| [[ハッスル (1975年の映画)|ハッスル]]<br /> ''Hustle'' ||ニコール || <br />
|-<br />
| 1976 || 愛よもう一度<br /> ''Si c'était à refaire'' || カトリーヌ || <br />
|-<br />
|rowspan="2"|1977|| 外人部隊フォスター少佐の栄光<br /> ''March or Die '' || シモーヌ || <br />
|-<br />
| ジョディ・フォスター/避暑地のラブ・ストーリー<br /> ''Casotto'' || ||<br />
|-<br />
|1978|| 銀行<br /> ''L'argent des autres'' || セシル || <br />
|-<br />
|1979|| [[夢追い]]<br /> ''À nous deux'' || フランソワーズ || <br />
|-<br />
| 1980 || [[終電車 (映画)|終電車]] <br /> ''Le dernier métro'' || マリオン・シュタイナー || [[セザール賞]] 主演女優賞 受賞<br />
|-<br />
| 1981 || 海辺のホテルにて<br /> ''Hôtel des Amériques'' || エレーヌ || <br />
|-<br />
|1982|| 最後の標的<br /> ''Le choc'' || クレア || <br />
|-<br />
| 1983 || [[ハンガー (1983年の映画)|ハンガー]] <br /> ''The Hunger'' || ミリアム・ブレイロック || <br />
|-<br />
|rowspan="2"|1984 || [[フォート・サガン]]<br /> ''Fort Saganne'' || ルイーズ || <br />
|-<br />
| [[残火]]<br /> ''Paroles et musique'' || マーゴ || <br />
|-<br />
|1986|| [[女たちのテーブル]]<br /> ''Speriamo che sia femmina'' || クラウディア || <br />
|-<br />
|1986|| 夜を殺した女<br /> ''Le lieu du crime'' || リリー || <br />
|-<br />
| 1988 || [[夜のめぐり逢い]]<br /> ''Drôle d'endroit pour une rencontre'' || || <br />
|-<br />
| 1991 || [[恋路]] <br /> ''La Reine blanche'' || リリアン || <br />
|-<br />
| 1992 || [[インドシナ (映画)|インドシナ]] <br /> ''Indochine'' || ドュブリー || [[セザール賞]] 主演女優賞 受賞<br />
|-<br />
| 1993 || [[私の好きな季節]] <br /> ''Ma saison préférée'' || || <br />
|-<br />
| 1994 || [[百一夜]] <br /> ''Les cent et une nuits de Simon Cinéma'' || || <br />
|-<br />
| 1995 || [[メフィストの誘い]] <br />''O Convento'' || エレーヌ || <br />
|-<br />
| 1996 || [[夜の子供たち]] <br />''Les Voleurs'' || マリー・レブラン || <br />
|-<br />
|1997|| [[犯罪の系譜]]<br /> ''Généalogies d'un crime'' || ジャンヌ / ソランジェ || <br />
|-<br />
| 1998 || [[ヴァンドーム広場 (映画)|ヴァンドーム広場]] <br /> ''Place Vendôme'' || マリアンヌ || [[ヴェネチア国際映画祭]] 女優賞 受賞<br />
|-<br />
|rowspan="4"|1999 || [[夜風の匂い]]<br /> ''Le vent de la nuit '' || エレーヌ || <br />
|-<br />
| [[ポーラX]] <br /> ''Pola X'' || マリー(母親) || <br />
|-<br />
| [[見出された時-「失われた時を求めて」より-]]<br /> ''Le Temps retrouvé'' || オデット || <br />
|-<br />
| [[イースト/ウエスト 遙かなる祖国]]<br />''Est - Ouest'' || ガブリエル || <br />
|-<br />
| 2000 || [[ダンサー・イン・ザ・ダーク]] <br />''Dancer In The Dark'' || キャシー || <br />
|-<br />
|rowspan="3"|2001|| [[家路 (映画)|家路]]<br />''Je rentre à la maison'' || 王妃マルグリット || <br />
|-<br />
| [[ヤング・ブラッド]]<br /> ''The Musketeer'' || フランス王妃 ||<br />
|-<br />
| プセの冒険 真紅の魔法靴<br />'' Le petit poucet'' || 女王 || <br />
|-<br />
|rowspan="2"|2002|| [[8人の女たち]]<br />''8 femmes'' || ギャビー || [[ベルリン国際映画祭]] [[銀熊賞 (女優賞)|銀熊賞]] 受賞(8人の女優に対して)<br />[[ヨーロッパ映画賞 女優賞]] 受賞(8人の女優に対して)<br />
|-<br />
| 逢いたくて<br /> '' Au plus près du paradis'' || ファネット || <br />
|-<br />
| 2003 || [[永遠(とわ)の語らい]]<br /> ''Um Filme Falado'' || デルフィーヌ ||<br />
|-<br />
|2004|| [[キングス&クイーン]]<br /> ''Rois et reine'' || ヴァッセ || <br />
|-<br />
|2005|| [[ストーン・カウンシル]]<br /> ''Le Concile de Pierre'' || シビル・ヴェベール || <br />
|-<br />
| 2006 || [[輝ける女たち]] <br />''Le héros de la famille'' || アリス || <br />
|-<br />
| 2007 || [[ペルセポリス (映画)|ペルセポリス]] <br /> ''Persepolis'' || マルジの母、タージ || 声の出演<br />
|-<br />
| 2008 || クリスマス・ストーリー<br />''Un conte de Noël'' || ジュノン || <br />
|-<br />
| 2009 || [[隠された日記 母たち、娘たち]] <br /> ''Mères et filles'' || マルティーヌ(母) || <br />
|-<br />
|rowspan="2"|2010 || [[しあわせの雨傘]]<br /> ''Potiche'' || スザンヌ・ピュジョル || <br />
|-<br />
| [[ビッグ・ピクチャー 顔のない逃亡者]]<br /> '' L'homme qui voulait vivre sa vie '' || アンヌ || <br />
|-<br />
| 2011 || [[愛のあしあと]]<br /> ''Les Bien-Aimes'' || マドレーヌ || <br />
|-<br />
|rowspan="2"|2012 || [[皇帝と公爵]]<br />''Linhas de Wellington'' || || <br />
|-<br />
| [[アステリックスの冒険〜秘薬を守る戦い]]<br />''Astérix et Obélix : Au service de Sa Majesté'' || [[ブリテン]]の女王コーデリア || <br />
|-<br />
|2013<br />
|ミス・ブルターニュの恋<br />
<br />
''Elle s'en va''<br />
|ベティ<br />
|<br />
|-<br />
| rowspan="2"|2015 ||[[神様メール]]<br/>''Le Tout Nouveau Testament'' || マルティーヌ || 日本公開は2016年5月公開 <ref>{{cite news|url=http://natalie.mu/eiga/news/188202|title=カトリーヌ・ドヌーヴがゴリラとベッドイン「神様メール」オファー受けた理由とは|newspaper=映画ナタリー|date=2016-05-24|accessdate=2016-05-24}}</ref> <br />
|-<br />
|[[太陽のめざめ]]<br />''La tête haute'' || フローランス || <br />
|}<br />
<br />
=== テレビシリーズ ===<br />
{| class="wikitable" <br />
|-<br />
!年!!日本語題<br />''原題''!!役名!!備考<br />
|-<br />
| 2003 || 危険な関係<br /> '' Les liaisons dangereuses '' || メルトイユ侯爵夫人 || ミニシリーズ <br />
|-<br />
| 2006 || [[NIP/TUCK マイアミ整形外科医]]<br />''Nip/Tuck '' || ディアナ || 第4シーズン第12話「ダイアナ・ルベイ」<br />
|-<br />
|}<br />
<br />
== 日本の主なテレビ番組出演 ==<br />
<!-- 単発のゲスト出演は不要。レギュラー番組のみ記述をお願いします。「Wikipedia:ウィキプロジェクト 芸能人」参照 --><br />
*[[すばらしき仲間]]([[CBCテレビ|中部日本放送]])<br />
*[[徹子の部屋]]([[テレビ朝日]])<br />
ほか多数<br />
<br />
== 日本でのCM出演 ==<br />
*[[ブルボン]]<br />
<br />
== 備考 ==<br />
*「カトリーヌ・ドヌーヴ」という品種名の[[バラ|薔薇]]がある。<br />
<br />
== 参照 ==<br />
{{Reflist}}<br />
<br />
== 外部サイト ==<br />
{{Commonscat|Catherine Deneuve}}<br />
* {{allcinema name|38711|カトリーヌ・ドヌーヴ}}<br />
* {{Kinejun name|9419|カトリーヌ・ドヌーヴ}}<br />
* {{IMDb name|0000366|Catherine Deneuve}}<br />
<br />
{{Normdaten}}<br />
{{DEFAULTSORT:とぬうう かとりいぬ}}<br />
[[Category:フランスの女優]]<br />
[[Category:セザール賞受賞者]]<br />
[[Category:高松宮殿下記念世界文化賞受賞者]]<br />
[[Category:パリ出身の人物]]<br />
[[Category:1943年生]]<br />
[[Category:存命人物]]</div>
122.214.146.170
ショーン・コネリー
2018-08-05T04:54:32Z
<p>122.214.146.170: </p>
<hr />
<div>{{ActorActress<br />
| 芸名 = Sir Sean Connery<br />
| ふりがな = ショーン・コネリー<br />
| 画像ファイル = SeanConneryJune08 crop.jpg<br />
| 画像サイズ = 200px<br />
| 画像コメント = 2008年<br />
| 本名 = Thomas Sean Connery<br />
| 別名義 = <!-- 別芸名がある場合記載。愛称の欄ではありません。 --><br />
| 出生地 = {{SCO}} [[エディンバラ]]<br />
| 死没地 = <br />
| 国籍 = {{GBR}}<br />
| 民族 = <!-- 民族名には信頼できる情報源が出典として必要です。 --> <br />
| 身長 = 188 cm<br />
| 生年 = 1930<br />
| 生月 = 8<br />
| 生日 = 25<br />
| 没年 = <br />
| 没月 = <br />
| 没日 = <br />
| 職業 = [[俳優]]、[[プロデューサー]]<br />
| ジャンル = [[映画]]<br />
| 活動期間 = 1954年 - 2006年<br />
| 活動内容 = 1962年:『[[007 ドクター・ノオ]]』<br />1987年:[[アカデミー賞]]受賞<br />1999年:[[ナイト]]叙任<br />2006年:引退宣言<br />
| 配偶者 = Diane Cilento(1962年 - 1973年)※離婚<br />Micheline Roquebrune(1975年 - )<br />
| 公式サイト = [http://www.seanconnery.com/ SeanConnery.com]<br />
| 主な作品 = 『007』シリーズ<br />『[[史上最大の作戦]]』<br />『[[オリエント急行殺人事件 (1974年の映画)|オリエント急行殺人事件]]』<br />『[[遠すぎた橋]]』<br />『[[薔薇の名前 (映画)|薔薇の名前]]』<br />『[[アンタッチャブル (映画)|アンタッチャブル]]』<br />『[[インディ・ジョーンズ/最後の聖戦|インディ・ジョーンズ]]』<br />『[[レッド・オクトーバーを追え!#映画|レッド・オクトーバーを追え!]]』<br />『[[ザ・ロック (映画)|ザ・ロック]]』<br />『[[リーグ・オブ・エクストラオーディナリー・ジェントルメン|リーグ・オブ・レジェンド]]』<br />
| アカデミー賞 = '''[[アカデミー助演男優賞|助演男優賞]]'''<br />[[第60回アカデミー賞|1987年]]『[[アンタッチャブル (映画)|アンタッチャブル]]』<br />
| MTVムービー・アワード = '''[[MTVムービー・アワード|最優秀スクリーン・デュオ]]'''<br />[[1996年]]『[[ザ・ロック (映画)|ザ・ロック]]』<br />
| AFI賞 = '''[[アメリカ映画協会|生涯功労賞]]'''<br />2006年<br />
| ヨーロッパ映画賞 = '''[[ヨーロッパ映画賞|観客賞 (男優賞)]]'''<br />[[1999年]]『[[エントラップメント]]』<br />'''[[ヨーロッパ映画賞|生涯功労賞]]'''<br />2005年<br />
| 英国アカデミー賞 = '''[[英国アカデミー賞|主演男優賞]]'''<br />[[1986年]]『[[薔薇の名前 (映画)|薔薇の名前]]』<br />'''[[英国アカデミー賞|アカデミー友愛賞]]'''<br />1998年<br />
| ゴールデングローブ賞 = '''[[ゴールデングローブ賞 助演男優賞|助演男優賞]]'''<br />[[第45回ゴールデングローブ賞|1987年]]『アンタッチャブル』<br />'''[[ゴールデングローブ賞 セシル・B・デミル賞|セシル・B・デミル賞]]'''<br />[[1996年]] 映画界、演劇界への長年に渡る貢献に対して<br />'''[[ゴールデングローブ賞|ヘンリエッタ賞]]'''<br />1972年 <br />
| トニー賞 = '''[[トニー賞 演劇作品賞|演劇作品賞]]'''<br />[[1998年]]『[[:en:'Art' (play)|'Art']]』<br />
| その他の賞 = '''[[ナショナル・ボード・オブ・レビュー賞]]'''<br />'''助演男優賞'''<br />[[1987年]]『アンタッチャブル』<br />'''生涯功労賞'''<br />1993年<br />
| 備考 = 初代[[ジェームズ・ボンド]]<br />
}}<br />
'''サー・トマス・ショーン・コネリー'''({{Lang-en-short|'''Sir Thomas Sean Connery'''}}、[[1930年]][[8月25日]] - )は、[[スコットランド]]出身の[[俳優|映画俳優]]。『[[ジェームズ・ボンド|007]]』シリーズの初代[[ジェームズ・ボンド]]役で一躍有名となり、その他の[[アメリカ合衆国の映画|アメリカ映画]]にも多数出演している。公称身長188cm。<br />
<br />
== 来歴 ==<br />
[[File:ConneryKilt.jpg|thumb|left|200px|キルトを着たコネリー([[ワシントンD.C.]]、2004年)]]<br />
<br />
スコットランド・[[エディンバラ]]で[[アイルランド]]系の家庭に職工、トラック運転手の父ジョセフと、洗濯女の母、ユーフェミアのとの間に生まれる<ref>{{cite web|url=http://www.filmreference.com/film/58/Sean-Connery.html|title=Sean Connery Biography|publisher=filmreference.com|accessdate=29 September 2007}}</ref><ref>{{cite web|title=<br />
Case Study 1-Sean Connery-James Bond|url=http://www.familyrelatives.com/information/info_detail.php?id=103|work=familyrelatives.com|accessdate=6 August 2012}}</ref>。先祖の地はアイルランド東部[[ウェックスフォード州]]<ref>英語版より</ref>。<br />
<br />
義務教育修了後最初に得た仕事は牛乳配達であった<ref>{{cite web|url=http://heritage.scotsman.com/greatscots.cfm?id=2275262005|title=From the Co-op with love.. the days Sir Sean earned £1 a week|publisher=The Scotsman|accessdate=2007年9月29日|date=2005年11月21日}}</ref><ref name='AFP'>{{cite news|url=http://www.afpbb.com/article/entertainment/news-entertainment/2511787/3264951|title=英俳優ショーン・コネリー、78歳の誕生日に自伝を発表|publisher=[[フランス通信社|AFPBB News]]|date=2008-8-27|accessdate=2009-7-16}}</ref>。その後[[イギリス海軍]]に従軍するも、健康上の理由で除隊し、トラック運転手、労働者、美術モデル<ref>{{cite web|url=http://news.scotsman.com/entertainment.cfm?id=924382003|title=Even as an unknown, Sean was still a draw|publisher=The Scotsman|accessdate=2007年9月29日|date=2003年8月22日}}</ref><ref>{{cite news|url=http://www.afpbb.com/article/life-culture/culture-arts/2303222/2281578|title=青年ショーン・コネリーの油彩画発見、美術モデル時代の半裸像|publisher=[[フランス通信社|AFPBB News]]|date=2007-10-26|accessdate=2009-7-16}}</ref>や[[ライフガード]]など種々の仕事をしながらボディビルジムに通う。1953年には[[ミスター・ユニバース・コンテスト]]の重量上げ部門で3位入賞したが、その時に出場者の一人に演技の道に進むように勧められる。1954年からテレビや劇団に出演するようになる。<br />
<br />
スコットランド人としての矜持が強く、その独特のアクセントを矯正したことは一度もなく、ジェームズ・ボンド役を引き受ける際もアクセントを矯正しないことを絶対条件とした。このため、ボンドは原作に於いてスコットランド出身という設定が付け加えられた。ボンド以外の役柄もスコットランド出身という設定に変更したものが多い(『[[風とライオン]]』等)。<br />
<br />
1961年、ジェームズ・ボンド役として[[イオン・プロ]]と5本の作品に出演する契約を交わし、翌1962年の『[[007 ドクター・ノオ]]』で知名度は世界的に上昇した。5作出演の契約遂行後も2度の返り咲きで計7本の作品でボンド役を務める。自己紹介の台詞「''The name is Bond, James Bond.''」を初めて使い、以来2作を除く<ref>『007は二度死ぬ』『慰めの報酬』のみ出て来ていない</ref>全作で使われるようにした張本人でもある。ボンド、或いはボンドのパロディ的役どころ(例:『[[インディ・ジョーンズ/最後の聖戦]]』、『[[ザ・ロック]]』等)を演じることには積極的であるが、プロデューサーである[[アルバート・R・ブロッコリ]]や[[ハリー・サルツマン]]との仲は芳しくなく、シリーズへの復帰には消極的であった。『[[ネバーセイ・ネバーアゲイン]]』は彼らの干渉を受けずに自ら製作した作品である。<br />
<br />
直接の後任俳優の一人、[[ロジャー・ムーア]]とは無名時代からの友人であり、ともに共演を望んだほどの仲良しである。<br />
<br />
歴代のジェームズボンド俳優では1度引退して2度ジェームズボンド役に復帰している。これは2016年現在ショーン・コネリーのみである。<br />
<br />
『007』降板後も様々なジャンルの映画に出演し、[[1987年]]には『[[アンタッチャブル (映画)|アンタッチャブル]]』で[[アカデミー助演男優賞]]を受賞。<br />
<br />
1998年に[[ブロードウェイ (ニューヨーク)|ブロードウェイ]]で『[[:en:'Art' (play)|'Art']]』を製作し、[[トニー賞 演劇作品賞]]を受賞。<br />
<br />
[[2000年]]にイギリスの[[エリザベス2世]]女王から[[ナイト]]の称号を与えられたが、スコットランドの分離独立を主張する[[スコットランド国民党]]の熱烈な支持者でもある。授与式には、民族衣装[[キルト (衣装)|キルト]]で正装して現れた。なお、彼は「スコットランドが独立するまで私は死んでもスコットランドに帰らない」とまで明言している<ref name='AFP'/>。<br />
<br />
[[2006年]]に[[アメリカ映画協会]](AFI:American Film Institute)の生涯功労賞を受賞したのを機に、俳優業引退を宣言した<ref>{{cite web|url=http://cinematoday.jp/page/N0008195|title=ショーン・コネリー、俳優を引退|date=2006年4月18日|accessdate=2009年1月11日|author=シネマトゥデイ}}</ref>。<br />
<br />
[[2008年]]、78歳の誕生日にエディンバラ国際ブックフェスティバルで自伝<ref>{{cite book|first=Sean|last=Connery|title=Being a Scot|publisher=Weidenfeld & Nicolson|date=2008-8-21|isbn=9780297855408|language=英語}}</ref>を発表し、発表会見にはスコットランド国民党の[[アレックス・サモンド]]党首も出席した<ref name='AFP'/>。<br />
<br />
[[2010年]]、『[[007 スカイフォール]]』で監督[[サム・メンデス]]は、当初キンケイド役にコネリーを考えていたが、実現はしなかった<ref>{{cite web | url=http://www.empireonline.com/movies/news/sean-connery-considered-skyfall/| title=Sam Mendes says cameo was discussed | publisher=empireonline | date=2012-11-07 | accessdate= 2017-06-10}}</ref><ref>{{cite web | title = Sam Mendes, 'Skyfall' Director, on Bringing Humor Back to James Bond & Flirting with the Idea of Casting Sean Connery | url=http://www.huffingtonpost.com/2012/11/04/sam-mendes-skyfall_n_2074239.html | publisher=[[The Huffington Post]] | accessdate = 2017-06-10 | date = 5 November 2012 | archivedate = 28 November 2012 | archiveurl = http://www.webcitation.org/6CXh4jwwE | deadurl = no}}</ref>。<br />
<br />
== 私生活 ==<br />
1962年に女優のダイアン・シレント(Diane Cilento)<ref>{{imdb name|id=0162284|name=Dianne Cilento}}</ref>と結婚し、息子の[[ジェイソン・コネリー]](後に俳優となる)<ref>{{imdb name|id=0001064|name=Jason Connery}}</ref>をもうけるが、1973年に離婚。1975年にはフランス人アーティストのMicheline Roquebruneと再婚している。<br />
<br />
1965年の『[[PLAYBOY]]』のインタビューで、「女性を殴るのは別に悪いとは思わない」と発言し、シレントへの暴力疑惑が起こるが、コネリーはこれを否定した。シレントはこの件に関して沈黙を守ってきたが、2005年になって、翌年出版の自伝<ref>{{cite book|first=Dianne|last=Cilento|title=My Nine Lives|publisher=Michael Joseph Ltd|date=2006-5-4|isbn=9780718149253|language=英語}}</ref>の中で、11年間の結婚期間中、肉体的・精神的に虐待されてきたと暴露した<ref>{{cite news|url=http://www.upi.com/Entertainment_News/2005/09/24/Diane-Cilento-says-Sean-Connery-abused-her/UPI-80841127618681/|title=Diane Cilento says Sean Connery abused her|publisher=[[UPI通信社|UPI.com]]|date=2005-9-4|accessdate=2009-8-1|language=英語}}</ref>。1965年には、[[アルメニア]]で撮影中、現地の結婚式に招かれ、酔って帰ったところを先に帰っていた夫に殴られたという<ref>{{cite news|url=http://www.timesonline.co.uk/tol/news/uk/scotland/article710646.ece|title=The pain of Mrs Bond|publisher=[[タイムズ|Times Online]]|date=2006-4-30|accessdate=2009-8-1|language=英語}}</ref><ref>{{cite news|first=Joan|last=Clark|url=http://www.dailymail.co.uk/femail/article-400436/Yes-Connery-em-did-em-beat-unconscious.html|title=Yes, Connery ''did'' beat me unconscious|publisher=[[デイリー・メール|Mail Online]]|date=2006-8-14|accessdate=2009-8-1|language=英語}}</ref>。2008年、シレントは、コネリーが一人息子のジェイソンに対して、自立して生計を立てるよう、8千5百万ポンドの財産のうち1ペニーたりとも相続させないと言ったと語った<ref>{{cite news|url=http://www.timesonline.co.uk/tol/news/uk/article4364310.ece|title=Sean Connery: you’re on your own, 003½|publisher=[[タイムズ|Times Online]]|date=2008-7-20|accessdate=2009-8-1|language=英語}}</ref><ref>{{cite news|first=Liz|last=Hull|url=http://www.dailymail.co.uk/tvshowbiz/article-1036798/Tight-Bond-You-wont-penny-millions-Sean-Connery-told-son.html|title=Tight Bond: You won't get a penny of my millions, Sean Connery told son|publisher=[[デイリー・メール|Mail Online]]|date=2008-7-21|accessdate=2009-8-1|language=英語}}</ref>。しかし、コネリーはこれを否定し、息子との関係は良好であると語り、暴力疑惑についても争う用意があることを明らかにした。また、離婚した際にジェイソンおよびシレントの娘の教育費として8万5千ポンドの信託財産を設けたが、今日では当然もっと増えているはずだと主張した<ref>{{cite news|first=Simon|last=Cable|url=http://www.dailymail.co.uk/tvshowbiz/article-1037254/Sean-Connery-brands-ex-wife-insane-woman-claims-snubbed-son-will.html|title=Sean Connery brands ex-wife 'insane woman' after claims he snubbed son in will|publisher=[[デイリー・メール|Mail Online]]|date=2008-7-20|accessdate=2009-8-1|language=英語}}</ref>。ジェイソン本人も、父は暴君ではなく、父が稼いだ金をどうしようと父次第だと述べた<ref>{{cite news|first=Sophie|last=Borland|url=http://www.dailymail.co.uk/tvshowbiz/article-1038968/My-father-NOT-tyrant-says-Sean-Connerys-son.html|title='My father is NOT a tyrant,' says Sean Connery's son|publisher=[[デイリー・メール|Mail Online]]|date=2008-7-27|accessdate=2009-8-1|language=英語}}</ref>。しかし、シレントはコネリーが34歳のとき、セラピーで(当時は合法だった)[[LSD (薬物)|LSD]]を使い、それが虐待を引き起こしたと主張した<ref>{{cite news|first=Paul|last=Scott|url=http://www.dailymail.co.uk/news/article-1043053/Sean-Connery-The-story-brilliant-deeply-flawed-man.html|title=Sean Connery: The story of a brilliant but deeply flawed man|publisher=[[デイリー・メール|Mail Online]]|date=2008-8-8|accessdate=2009-8-1|language=英語}}</ref><ref>{{cite news|url=http://www.upi.com/Entertainment_News/2008/08/09/Connery-ex-wife-alleges-LSD-use-violence/UPI-78761218299617/|title=Connery ex-wife alleges LSD use, violence|publisher=[[UPI通信社|UPI.com]]|date=2008-8-9|accessdate=2009-8-1|language=英語}}</ref><ref>{{cite news|url=http://www.cinematoday.jp/page/N0014856|title=女は殴ってもいい!と妻をボコボコ?…封印されたショーン・コネリーの過去|publisher=シネマトゥデイ|date=2008-8-13|accessdate=2009-8-5}}</ref>。<br />
<br />
== 主な出演作品 ==<br />
{|class="wikitable sortable" style="font-size: 85%;" border="2" cellpadding="4" background: #f9f9f9;<br />
|-<br />
! style="white-space:nowrap;" |公開年!!邦題/原題!!役名!!備考<br />
|-<br />
|rowspan="2"|1957|| 地獄特急<br />''Hell Drivers'' || ジョニー ||<br />
|-<br />
| 虎の行動<br />''Action of the Tiger'' || マイク ||<br />
|-<br />
|rowspan="2"|1959 || [[四つの願い]] <br />''Darby O'Gill and the Little People'' || マイケル・マクブライド || <br />
|-<br />
| [[ターザンの決斗]] <br />''Tarzan's Greatest Adventure'' || オバニオン ||<br />
|-<br />
|rowspan="2"|1961 || ダイナミック作戦<br />''On the Fiddle'' || ペドラー・パスコー ||<br />
|-<br />
| [[殴り込み愚連隊]] <br />''The Frightend City'' || パディ・ダミオン ||<br />
|-<br />
|rowspan="2"|1962 || [[史上最大の作戦]] <br />''The Longest Day'' || フラナガン一等兵 || 声 日高晤郎(日本テレビ版) 内海賢二(NET版) 宮本 充(テレビ東京版)<br />
|-<br />
| [[007 ドクター・ノオ]] <br />''Dr. No'' || [[ジェームズ・ボンド]] || 『007は殺しの番号』改題 声 若山弦蔵(TBS版/ソフト版)<br />
|-<br />
| 1963 || [[007 ロシアより愛をこめて]] <br />''From Russia with Love'' || [[ジェームズ・ボンド]] || 『007 / 危機一発』改題 声 日高晤郎(TBS初回版/ソフト版) 若山弦蔵(TBS再放送版/ソフト版)<br />
|-<br />
|rowspan="3"|1964|| [[マーニー (映画)|マーニー]]<br />''Marnie'' || マーク・ラトランド || 声 若山弦蔵(NET版) てらそままさき(ソフト版)<br />
|-<br />
| [[わらの女]] <br />''Woman of Straw'' || アンソニー・リッチモンド || 声 近藤洋介(テレビ朝日版)<br />
|-<br />
| [[007 ゴールドフィンガー]] <br />''Goldfinger'' || [[ジェームズ・ボンド]] || 声 日高晤郎(NET版/ソフト版) 若山弦蔵(日本テレビ版/ソフト版)<br />
|-<br />
|rowspan="2"|1965 || [[丘 (映画)|丘]] <br />''The Hill'' || ジョー・ロバーツ || <br />
|-<br />
| [[007 サンダーボール作戦]] <br />''Thunderball'' || [[ジェームズ・ボンド]] || 声 若山弦蔵(TBS版/ソフト版)<br />
|-<br />
|1966|| [[素晴らしき男]]<br />''A Fine Madness'' || サムソン・シリトウ ||<br />
|-<br />
| 1967 || [[007は二度死ぬ]] <br />''You Only Live Twice'' || [[ジェームズ・ボンド]] || 声 若山弦蔵(TBS版/ソフト版) <br />
|-<br />
| 1968 || [[シャラコ]]<br />''Shalako'' || シャラコ || <br />
|-<br />
| 1969 || [[SOS北極... 赤いテント]] <br />''La tenda rossa'' || [[ロアール・アムンセン]] || DVDでは『SOS北極 レッドテント』と表記<br />
|-<br />
|1970|| [[男の闘い]]<br />''The Molly Maguires'' || ジャック・キーオ || 声 小林清志(東京12チャンネル版)<br />
|-<br />
|rowspan="2"|1971 || [[007 ダイヤモンドは永遠に]] <br />''Diamonds Are Forever'' || [[ジェームズ・ボンド]] || 声 若山弦蔵(TBS初回版/ソフト版) 内海賢二(TBS再放送版/ソフト版)<br />
|-<br />
| [[ショーン・コネリー/盗聴作戦]]<br />''The Anderson Tapes'' || ジョン・アンダーソン || 声 若山弦蔵(テレビ東京版)<br />
|-<br />
|1972|| [[怒りの刑事]]<br />''The Offence'' || ジョンソン巡査部長 ||<br />
|-<br />
|rowspan="2"|1974 || [[未来惑星ザルドス]]<br />''Zardoz'' ||ゼッド|| 声 北村和夫(日本テレビ版/ソフト版)<br />
|-<br />
| [[オリエント急行殺人事件 (1974年の映画)|オリエント急行殺人事件]]<br />''Murder on the Orient Express'' ||アーバスノット大佐|| 声 近藤洋介(テレビ朝日版/ソフト版)<br />
|-<br />
|rowspan="3"|1975 || オスロ国際空港/ダブル・ハイジャック<br />''Ransom'' || ニルス・タルヴィク保安部長 || <br />
|-<br />
| [[風とライオン]] <br />''Wind and the Lion'' || ライズリー || 声 近藤洋介(テレビ朝日版) 大塚明夫(ソフト版)<br />
|-<br />
| [[王になろうとした男 (映画)|王になろうとした男]] <br />''The Man Who Would Be King'' || ダニエル・ドレイボット || <br />
|-<br />
|rowspan="2"|1976 || [[ロビンとマリアン]]<br />''Robin and Marian'' || [[ロビン・フッド]] || <br />
|-<br />
| [[いとしき暗殺者]]<br />''The Next Man'' || ||<br />
|-<br />
| 1977 || [[遠すぎた橋]]<br />''A Bridge Too Far'' || ロイ・アーカート少将 || 声 瑳川哲朗(TBS版/DVD版) 長 克巳(BD版)<br />
|-<br />
|rowspan="3"|1979 || [[大列車強盗]]<br />''The Great Train Robbery'' || エドワード・ピアース/ジョン・シムズ/ジェフリー || 声 若山弦蔵(TBS版)<br />
|-<br />
| [[メテオ (映画)|メテオ]]<br />''Meteor'' || ポール・ブラッドリー博士 || 声 若山弦蔵(フジテレビ版) 石田太郎(ビデオ版)<br />
|-<br />
| [[さらばキューバ]]<br />''Cuba'' || ロバート・ダプス少佐 ||<br />
|-<br />
|rowspan="2"|1981|| [[アウトランド]] <br />''Outland'' || ウィリアム・T・オニール保安官 || 声 近藤洋介(テレビ朝日版)<br />
|-<br />
| [[バンデットQ]]<br />''Time Bandits'' || アガメムノン王/消防士 || 声 石田太郎(テレビ朝日版/ソフト版)<br />
|-<br />
|rowspan="2"|1982 || [[氷壁の女]]<br />''Five Days One Summer'' || ダグラス・メレディス || <br />
|-<br />
| [[シークレット・レンズ]] <br />''Wrong Is Right'' || パトリック・ヘイル ||<br />
|-<br />
| 1983 || [[ネバーセイ・ネバーアゲイン]]<br />''Never Say Never Again'' || [[ジェームズ・ボンド]] || 声 若山弦蔵(機内版/フジテレビ版/ソフト版)<br />
|-<br />
|1984|| [[勇者の剣]]<br />''Sword of the Valiant'' || 緑の騎士 ||<br />
|-<br />
|rowspan="2"|1986 || [[ハイランダー 悪魔の戦士]] <br />''Highlander'' || フアン・ラミレス || 声 井上孝雄(テレビ朝日版)<br />
|-<br />
| [[薔薇の名前 (映画)|薔薇の名前]] <br />''Der Name der Rose'' || バスカヴィルのウィリアム || 声 石田太郎(テレビ朝日版)<br />
|-<br />
| 1987 || [[アンタッチャブル (映画)|アンタッチャブル]]<br />''The Untouchables'' || ジム・マローン || [[アカデミー助演男優賞]] 受賞<br />[[ゴールデングローブ賞 助演男優賞]] 受賞<br />
|-<br />
| 1988 || [[プレシディオの男たち]] <br />''The Presidio'' || アラン・コルドウェル || 声 若山弦蔵(フジテレビ版) 瑳川哲朗(ソフト版)<br />
|-<br />
|rowspan="2"|1989 || [[インディ・ジョーンズ/最後の聖戦]] <br />''Indiana Jones and the Last Crusade'' ||ヘンリー・ジョーンズ教授|| 声 若山弦蔵(日本テレビ版/フジテレビ版) 坂口芳貞(テレビ朝日版) 銀河万丈(WOWOW版/ソフト版) 宮川洋一(ソフト版)<br />
|-<br />
| [[ファミリービジネス (映画)|ファミリービジネス]] <br />''Family Business'' || ジェシー・マクマレン || <br />
|-<br />
|rowspan="3"|1990 || [[レッド・オクトーバーを追え!#映画|レッド・オクトーバーを追え!]] <br />''The Hunt for Red October'' ||マルコ・ラミウス艦長|| 声 若山弦蔵(TBS版) 坂口芳貞(テレビ朝日版) 小林清志(ソフト版)<br />
|-<br />
| [[ロシア・ハウス]] <br />''The Russia House'' || バーソロミュー・スコット・ブレア || <br />
|-<br />
| [[ハイランダー2 甦る戦士]]<br />''Highlander II: The Quickening'' || ラミレス || 声 若山弦蔵(日本テレビ版/ソフト版)<br />
|-<br />
|rowspan="2"|1991 || [[ロビン・フッド (1991年のアメリカ映画)|ロビン・フッド]] <br />''Robin Hood: Prince of Thieves'' || [[リチャード1世 (イングランド王)|リチャード1世]] ||<br />
|-<br />
| [[ザ・スタンド]] <br />''Medicine Man'' || ロバート・キャンベル博士 || 兼製作総指揮 <br />
|-<br />
| 1993 || [[ライジング・サン]] <br />''Rising Sun'' || ジョン・コナー || 兼製作総指揮<br />
|-<br />
| 1994 || [[グッドマン・イン・アフリカ]] <br />''A Goodman in Africa'' || アレックス・マーレイ || <br />
|-<br />
|rowspan="2"|1995 || [[理由 (1995年の映画)|理由]] <br />''Just Cause'' || ポール・アームストロング || <br />
|-<br />
| [[トゥルーナイト]] <br />''First Knight'' || アーサー王 || <br />
|-<br />
|rowspan="2"|1996 || [[ドラゴンハート (映画)|ドラゴンハート]] <br />''Dragonheart'' || ドレイコ || 声の出演<br />
|-<br />
| [[ザ・ロック (映画)|ザ・ロック]]<br />''The Rock'' ||ジョン・パトリック・メイソン|| 兼製作総指揮<br />
|-<br />
|rowspan="2"|1998 || [[アベンジャーズ (1998年の映画)|アベンジャーズ]] <br />''The Avengers'' || オーガスト・デ・ウィンター卿 || <br />
|-<br />
| [[マイ・ハート、マイ・ラブ]] <br />''Playing by Heart'' || ポール || <br />
|-<br />
| 1999 || [[エントラップメント]] <br />''Entrapment'' || ロバート・“マック”・マクドゥガル || 兼製作<br />
|-<br />
| 2000 || [[小説家を見つけたら]]<br />''Finding Forrester'' ||ウィリアム・フォレスター|| 兼製作<br />
|-<br />
| 2003 || [[リーグ・オブ・レジェンド/時空を超えた戦い]] <br />''The League of Extraordinary Gentlemen'' || アラン・クォーターメイン || 兼製作総指揮<br />
|-<br />
| 2005 || [[ビリー・ザ・ヴェット]]<br />''Sir Billi The Vet'' || || 声の出演<br />
|-<br />
|}<br />
<br />
=== テレビCMなど ===<!-- 日本国内のみなら「日本の~」に変更した方がよいかも --><br />
* [[ブリヂストン]]のタイヤ「レグノ」 - 初代イメージキャラクター<br />
* [[マツダ・センティア]] - 2代目・HE型イメージキャラクター<br />
* [[伊藤ハム]]<br />
* [[サントリー]]のウイスキー「クレスト12年」<br />
* [[フィリップモリス]]のたばこ「[[ラーク (たばこ)|ラーク]]」<br />
* [[クレディ・アグリコル]]<br />
<br />
==吹替声優==<br />
; [[日高晤郎]]<br />
: [[007 ゴールドフィンガー]]の初回放送で吹替を担当。'''事実上、日本初のボンド声優である。'''その後、[[007 ロシアより愛をこめて]]でもコネリーの声を担当するも、後にコネリーの声を吹替ることになった若山弦蔵によれば、放送局が期待するほどの視聴率が取れなかったこと、評判も芳しくなかったことなどから降板、日高コネリーはこの2作と[[史上最大の作戦]]のみとなった。<br />
; [[若山弦蔵]]<br />
: [[マーニー (映画)|マーニー]]で初めてコネリーを担当、その後、[[007 ロシアより愛をこめて]]の再放送からコネリーをほぼ専任で担当し、最も認知度の高い吹替声優である。TV放送時のコネリーも大半は務めているものの、若山の仕事に対する姿勢<ref>[[新スパイ大作戦]]終了後、「下手な芝居が聞こえてくるのが気に入らない」という考えから、若手との共演を拒み、別録りを出演条件に加えること</ref>から、それを良しとしない洋画枠やビデオメーカーから敬遠され、(主に[[日曜洋画劇場]])一時期はコネリーを担当する機会が減った。しかし90年代以降は担当する機会が増え、媒体は違えどコネリー出演作品はほぼ全て担当している(これは、洋画枠のスタッフが若山コネリーに思い入れがある世代に世代交代したことや、ソフト版ではハリウッドのシステムが導入され、若山が望む環境が受け入れられるようになったことも関係している)。<br />
; [[瑳川哲朗]]<br />
: 初担当は[[遠すぎた橋]]の初回放送。その後、[[プレシディオの男たち]]のソフト版を機にソフト版のコネリーを多く担当しているが、ソフト版にも先述の若山の起用が増えたことなどから[[エントラップメント]]を最後にコネリーの吹替は担当していない。<br />
; [[坂口芳貞]]<br />
: 主に[[日曜洋画劇場]]での吹替を担当、だが、他局の洋画枠では先述の若山による新録、あるいは過去に放送されたものを使い回すことが多いため、一時期、坂口の吹替が放送されることはほぼ皆無であった。近年ではHD用の放送マスターに坂口版の音源が採用されることが多くなっている(先述の若山の音源がCATVなどの有料放送で使用されるようになったため)。<br />
<br />
== 脚注 ==<br />
{{脚注ヘルプ}}<br />
{{Reflist|2}}<br />
<br />
== 関連項目 ==<br />
* [[ショーン・コネリー (小惑星)|ショーン・コネリー(小惑星)]]<br />
* [[極真会館]] - [[極真会館#映画|名誉参段を允許された。]]<br />
<br />
== 外部リンク ==<br />
{{Commonscat|Sean Connery}}<br />
* {{Official website|www.seanconnery.com}}{{en icon}}<br />
* {{allcinema name|15729|ショーン・コネリー}}<br />
* {{Kinejun name|44641|ショーン・コネリー}}<br />
* {{IMDb name|0000125|Sean Connery}}<br />
* {{ibdb name|23802|Sean Connery}}<br />
<br />
{{アカデミー賞助演男優賞 1981-2000}}<br />
{{英国アカデミー賞主演男優賞}}<br />
{{ゴールデングローブ賞 助演男優賞}}<br />
{{ジェームズ・ボンド}}<br />
{{Normdaten}}<br />
{{DEFAULTSORT:こねりい しよおん}}<br />
[[Category:スコットランドの俳優]]<br />
[[Category:ジェームズ・ボンド]]<br />
[[Category:アカデミー賞受賞者]]<br />
[[Category:ゴールデングローブ賞受賞者]]<br />
[[Category:英国アカデミー賞受賞者]]<br />
[[Category:アクション俳優]]<br />
[[Category:ハリウッド・ウォーク・オブ・フェーム]]<br />
[[category:アイルランド系スコットランド人]]<br />
[[Category:エディンバラ出身の人物]]<br />
[[Category:レジオンドヌール勲章受章者]]<br />
[[category:イギリスの亡命者]]<br />
[[Category:1930年生]]<br />
[[Category:存命人物]]</div>
122.214.146.170
深作欣二
2018-07-23T14:55:27Z
<p>122.214.146.170: </p>
<hr />
<div>{{出典の明記|date=2015年10月12日 (月) 15:32 (UTC)|ソートキー=人2003年没}}<br />
{{ActorActress<br />
|芸名 = 深作 欣二<br />
|ふりがな = ふかさく きんじ<br />
|画像ファイル = Fukasaku Kinji.jpg<br />
|画像サイズ = 200px<br />
|画像コメント = <small>映画芸術社『映画芸術』12月号(1964)より</small><br />
|本名 = 深作 欣二<br />
|別名義 = <br />
|出生地 = [[茨城県]][[東茨城郡]][[緑岡村]]<br />(現・[[水戸市]])<br />
|死没地 = [[東京都]]<br />
|国籍 = {{JPN}}<br />
|民族 = [[日本人]]<br />
|身長 =<br />
|血液型 = <br />
|生年 = 1930<br />
|生月 = 7<br />
|生日 = 3<br />
|没年 = 2003<br />
|没月 = 1<br />
|没日 = 12<br />
|職業 = [[映画監督]]・[[脚本家]]<br />
|ジャンル = [[映画]]・[[テレビドラマ]]・[[演劇]]<br />
|活動期間 = [[1961年]] - [[2003年]]<br />
|活動内容 = <br />
|配偶者 = [[中原早苗]]([[1965年]] - [[2003年]])<br />
|著名な家族 = [[深作健太]](長男)<br />
|事務所 =<br />
|公式サイト = <br />
|主な作品 = <!--皆が認める代表作品を入力--><br />
|アカデミー賞 = <br />
|AFI賞 = <br />
|英国アカデミー賞 = <br />
|エミー賞 = <br />
|グラミー賞 = <br />
|ゴールデングローブ賞 = <br />
|ゴールデンラズベリー賞 = <br />
|ゴヤ賞 = <br />
|ジェミニ賞 = <br />
|セザール賞 = <br />
|全米映画俳優組合賞 = <br />
|トニー賞 = <br />
|日本アカデミー賞 = '''優秀脚本賞'''<br />[[第2回日本アカデミー賞|第2回]] 『[[柳生一族の陰謀]]』 ([[1979年]])<hr />'''最優秀監督賞'''<br>[[第6回日本アカデミー賞|第6回]] 『[[蒲田行進曲]]』 ([[1983年]])<hr>'''最優秀監督賞・最優秀脚本賞'''<br>[[第10回日本アカデミー賞|第10回]] 『[[火宅の人]]』([[1987年]])<br />[[第18回日本アカデミー賞|第18回]] 『[[忠臣蔵外伝 四谷怪談]]』([[1995年]])<hr>'''優秀監督賞'''<br>[[第24回日本アカデミー賞|第24回]]『[[バトル・ロワイアル (映画)|バトル・ロワイアル]]』 ([[2001年]])<br />
|ブルーリボン賞 = '''監督賞'''<br>第18回 『[[仁義の墓場]]』<br>『[[県警対組織暴力]]』 ([[1975年]]) <br />第25回 『蒲田行進曲』 ([[1982年]])<br />
|ローレンス・オリヴィエ賞 = <br />
|その他の賞 = '''第11回[[ゴールデン・アロー賞]] 映画賞'''<br>『[[仁義なき戦い]]』 ([[1973年]])<hr />'''第56回[[キネマ旬報賞|キネマ旬報ベスト・テン]]<br>日本映画監督賞'''<br>'''第37回[[毎日映画コンクール]] 監督賞'''<br>『蒲田行進曲』 ([[1982年]])<hr />'''第7回[[日刊スポーツ映画大賞・石原裕次郎賞|日刊スポーツ映画大賞]] 監督賞'''<br/>『[[忠臣蔵外伝 四谷怪談]]』 ([[1994年]])<hr>'''第20回[[おおさか映画祭]] 監督賞'''<br>『忠臣蔵外伝 四谷怪談』(1995年)<br />
|備考 = '''受章'''<br>'''[[紫綬褒章]]''' ([[1997年]])<br />'''[[旭日章|勲四等旭日小綬章]]''' ([[2003年]])<br />
}}<br />
'''深作 欣二''' (ふかさく きんじ、[[1930年]]〈昭和5年〉[[7月3日]] - [[2003年]]〈平成15年〉[[1月12日]]) は、[[日本]]の[[映画監督]]・[[脚本家]]。<br />
<br />
[[茨城県]][[緑岡村]](現・[[水戸市]])出身。愛称は'''サクさん'''。<br />
<br />
妻は女優の[[中原早苗]]。長男は映画監督の[[深作健太]]。<br />
<br />
== 生涯 ==<br />
[[茨城大学教育学部附属中学校]]・[[水戸第一高等学校]]・[[日本大学芸術学部]]卒業。<br />
<br />
[[1953年]](昭和28年)に[[東映]]へ入社。<br />
<br />
[[1961年]](昭和36年)、[[千葉真一]]の初主演作品となる『[[風来坊探偵 赤い谷の惨劇]]』で監督デビュー。千葉とはこののち17作品でコンビを組み、ヒットを連発していく<ref name = "日刊スポーツ">{{Cite news |title = 千葉真一インタビュー <日曜のヒーロー> - 第355回 |newspaper = [[日刊スポーツ]] |date = 2003-3-30 |url = http://www.nikkansports.com/ns/entertainment/interview/2003/sun030330.html |accessdate = 2011-11-13 |format = |agency = |publisher = [[nikkansports.com]] <!--|archiveurl = http://megalodon.jp/2011-1224-1459-23/www.nikkansports.com/ns/entertainment/interview/2003/sun030330.html |archivedate = 2011-12-24--> }}</ref>。千葉を主演に据え置き演出した映画『[[風来坊探偵シリーズ]]』『[[ファンキーハットの快男児シリーズ]]』、1966年(昭和41年)の映画『[[カミカゼ野郎 真昼の決斗]]』は、[[テレビドラマ]]『[[キイハンター]]』 (1968年 - 1973年) の土台となった作品で、『キイハンター』の企画にも関わり、第1,2,157,158,178話を演出した<ref name = "サムライ140141">[[#千葉2010|千葉流 サムライへの道]]、140 - 141頁。</ref><ref>{{Cite journal |和書 |author = 菅原文太 |authorlink = 菅原文太 |coauthors = ほか |year = 2003 |month = |title = 映画監督 深作欣二の軌跡 |journal = キネマ旬報 臨時増刊 |volume = |issue = 1380 |page = 154 |publisher = [[キネマ旬報社]] }}</ref><ref name = "深作欣二">{{Cite web |date = 2012-11-27 |url = http://www.asagei.com/9361 |title = 千葉真一、深作欣二の初監督の怒号に驚いた |work = [[アサヒ芸能|アサ芸+]] |publisher = [[徳間書店]] |accessdate = 2012-12-5 <!--|archiveurl = http://liveweb.archive.org/http://www.asagei.com/9361 |archivedate = 2012-12-3--> }}</ref>。日米合作映画『[[トラ・トラ・トラ!]]』の日本側監督を[[黒澤明]]が降板したため、後任となった[[舛田利雄]]から懇願され共同監督を引き受けたりしていたが、当時の深作は創りたい映画を東映になかなか認めてもらえず、東映に籍を置きながら[[文芸プロダクションにんじんくらぶ|にんじんプロダクション]]の國光影業の共作映画『カミカゼ野郎 真昼の決斗』を監督していた<ref>{{Cite journal |和書 |author = 黒田邦雄 |date = 1982-08-01 |title = ザ・インタビュー [[千葉真一]] |journal = KINEJUN [[キネマ旬報]] |volume = 1655 |issue = 841 |page = 131 |publisher = キネマ旬報社 }}1982年、8月上旬号。</ref>。<br />
<br />
[[1973年]](昭和48年)から公開された『[[仁義なき戦いシリーズ]]』は邦画史に残るヒットを記録。映画『[[柳生一族の陰謀]]』『[[復活の日]]』『[[魔界転生#1981年|魔界転生]]』『[[蒲田行進曲#映画|蒲田行進曲]]』『[[里見八犬伝 (1983年の映画)|里見八犬伝]]』『[[忠臣蔵外伝 四谷怪談]]』『[[バトル・ロワイアル (映画)|バトル・ロワイアル]]』など、発表する作品の多くが大ヒット・話題作となった。テレビドラマでは前述の『キイハンター』ほか、『[[傷だらけの天使]]』、『[[必殺シリーズ]]<ref group = "注釈">第一作の必殺仕掛人の他、続編の企画に参加し中村主水を生む。</ref>』、『[[影の軍団II]]』などを演出している。<br />
<br />
[[1997年]](平成9年)、[[紫綬褒章]]受章<ref name = "Fuhou">{{Cite news |title = 「仁義なき戦い」シリーズの深作欣二監督が死去 |newspaper = 日刊スポーツ |date = 2003-1-13 |url = http://www.nikkansports.com/jinji/2003/seikyo030113.html |accessdate = 2014-10-31 |format = |agency = |publisher = nikkansports.com |archiveurl = http://web.archive.org/web/20030206060523/http://www.nikkansports.com/jinji/2003/seikyo030113.html |archivedate = 2003-2-6 }}</ref>。[[2002年]](平成14年)には[[カプコン]]のプレイステーション2用ゲームソフト『[[クロックタワー3]]』のイベントCGムービーの監督を務め([[モーションキャプチャ]]収録)、これが撮影終了まで関わった最後の作品となった。<br />
<br />
2002年9月25日、[[前立腺癌|前立腺ガン]]の[[脊椎]][[転移]]を公表し<ref name = "Fuhou"/>、『[[バトル・ロワイアルII 鎮魂歌]]』の製作を発表。{{要出典範囲|date=2015年10月|副作用による男性機能の低下を懸念し、[[抗癌剤]]の投与を拒んだ。}}12月16日からクランクインするが、21日にがんの骨転移の痛みから、放射線治療のため予定より2日早く入院。23日に定期の放射線治療、29日に体力の低下による風邪から肺炎を併発、31日に自力呼吸が困難になり、人工呼吸器を装着し、一時危篤状態になった。<br />
<br />
2003年1月初頭、小康状態に回復。5日に同作のプロデューサーで息子の[[深作健太]]が監督を代行することとなった。7日、東映の社長である[[岡田茂 (東映)|岡田茂]]と健太が会見。岡田は深作を2月初頭に復帰させたいと説明するが、11日の夕方から容態が悪化。妻の[[中原早苗]]と健太、[[菅原文太]]<ref name = "Fuhou"/>、健太から連絡を貰った[[渡瀬恒彦]]や[[藤原竜也]]<ref>{{Cite book |和書 |editor = [[金箱隆二]] |others = [[川田修]] |title = 追悼! 菅原文太 仁義なき戦い COMPLETE |origdate = 2015-1-10 |series = [[ムック (出版)|TOWN MOOK]] |isbn = 4197103964 |page = 83 |chapter = 『仁義なき戦い』の役者インタビューII 渡瀬恒彦 }}</ref>、らが臨終に立ち会い12日の午前1時、死去。{{没年齢|1930|7|3|2003|1|12}}。<br />
<br />
1月16日の午後、[[築地本願寺]]で葬儀・告別式。[[ロサンゼルス]]から駆けつけた千葉真一と<ref name = "日刊スポーツ"/><ref name = ZAK030116>{{Cite web |date = 2003-1-16 |url = http://www.zakzak.co.jp/geino/n-2003_01/g2003011606.html |title = 深作監督通夜、来ては困る女優の名前 |work = |publisher = [[ZAKZAK]] <!--|archiveurl = https://web.archive.org/web/20150504070907/http://www.zakzak.co.jp/geino/n-2003_01/g2003011606.html |archivedate = 2014-10-31--> |accessdate = 2015-10-12 }}</ref>、菅原文太がそれぞれ弔辞を述べた<ref name = ZAK030116/><ref>{{Cite web |date = 2014-10-30 |url = http://plaza.rakuten.co.jp/kk0411/diary/201410300000/ |title = 千葉真一、見参! |work = 加瀬健治のブログ |publisher = [[楽天ブログ]] <!--|archiveurl = http://web.archive.org/web/20141031132838/http://plaza.rakuten.co.jp/kk0411/diary/201410300000/ |archivedate = 2014-10-31--> |accessdate = 2014-10-31 }}</ref>。弔問客には[[ビートたけし]]・[[梅宮辰夫]]・[[緒形拳]]・[[津川雅彦]]・[[富司純子]]・[[三田佳子]]・[[藤真利子]]・[[渡哲也]]・[[小林稔侍]]・[[永島敏行]]・[[風間杜夫]]・[[平田満]]・藤原竜也・[[安藤政信]]・[[八名信夫]]・[[前田愛]]・[[前田亜季]]・[[竹内力]]・[[高岡早紀]]・[[薬師丸ひろ子]]・[[夏木マリ]]・[[宮本真希]]・[[柴咲コウ]]・[[加藤夏希]]・[[南果歩]]・[[渡辺えり子]]・[[松田美由紀]]・[[美輪明宏]]・[[山田洋次]]・[[崔洋一]]・[[降旗康男]]・[[沢井信一郎]]・[[奥山和由]]<ref name = ZAK030116/>、{{要出典範囲|date=2015年10月|ファンら約1,100人参列し、[[ジョン・ウー]]など弔電は約1,000通あった。}}会場では『仁義なき戦い』『蒲田行進曲』『バトル・ロワイアル』のテーマ曲や、深作の好きな[[越路吹雪]]の「[[バラ色の人生]]」、[[THE BLUE HEARTS]]の「[[1001のバイオリン]]」が流された<ref name = ZAK030116/>。2月7日に[[勲四等]][[旭日小綬章]]を追贈され、1シーンしか撮れなかった遺作『バトル・ロワイアルII 鎮魂歌』は健太とともに監督としてクレジットされている。<br />
<br />
== 作風 ==<br />
[[アクション映画]]や[[ヤクザ映画]]以外でも、『柳生一族の陰謀』『魔界転生』などの[[時代劇]]、『[[火宅の人]]』『[[おもちゃ (映画)|おもちゃ]]』のような文芸、『[[ガンマー第3号 宇宙大作戦]]』『[[宇宙からのメッセージ]]』『復活の日』などの[[サイエンス・フィクション|SF]]、『忠臣蔵外伝 四谷怪談』のような[[ホラー映画]]、と幅広い作品を残している。文芸作品に取り組んでも「文芸アクション」と呼ぶ深作にとって、荒唐無稽やウソの物語をいかにリアルに仕上げるかを真骨頂にし、そのような作品では実に楽しそうに撮っていた<ref name = "観客">{{Cite journal |和書 |date = 2012-11-29 |title = 深作欣二「千葉ちゃん、ウソって観客に思わせたら負け」 |journal = アサ芸+ |publisher = 徳間書店 |url = http://www.asagei.com/9406 |accessdate = 2013-1-1 <!--|archiveurl = http://liveweb.archive.org/http://www.asagei.com/9406 |archivedate = 2013-1-1--> }}</ref>。「いい監督にとって、役者は単なる色、絵の具でしかないという感じがするときがある。僕はそれは違うと思う。どんなに日にちがかかろうと、金が掛かろうと、芸術映画ならばいいという巨匠もいるが、僕は映画を衰退させたのは、そういう巨匠にも責任があると思う」と語っている<ref name = "Fuhou"/>。<br />
<br />
日本のみならず世界でも劇場公開されており、[[クエンティン・タランティーノ]]や[[ジョン・ウー]]らは崇拝していることを明言している。全作品のうち『[[ファンキーハットの快男児]]』と『おもちゃ』以外のすべての作品で人の死を描いているが、戦争という巨大な暴力を体験したことで「暴力を描くことで暴力を否定しよう」という考えが根底にあり、決して暴力を肯定していた訳でなく、だからこそ様々な批判を受けても最後まで作風を変えなかった。「私も戦中派のしっぽにぶら下がっているが、今の人間のありようには、エネルギーのようなものが感じられない。平和は結構なことだが、その中で人間が衰弱してしまっているのではないか」と最後の作品でも暴力描写にこだわり、闇市の中で自ら体験した「生きることへの希望」を、再び現代社会に訴えようとした<ref name = "Fuhou"/>。<br />
<br />
== 人物 ==<br />
深作作品には欠かせない存在だった[[千葉真一]]にとって<ref>{{Cite web |url = http://www.toeich.jp/?act=program-detail&info_id=1T0000006385 |title = 必殺4 恨みはらします |publisher = [[東映チャンネル]] |archiveurl = http://megalodon.jp/2013-0206-1646-05/www.toeich.jp/?act=program-detail&info_id=1T0000006385 |archivedate = 2013-2-6 |accessdate = 2013-2-6 }}</ref>、深作はかけがえのない師匠であり盟友だった<ref name = "日刊スポーツ"/><ref name = "観客"/>。千葉が[[1990年代]]から[[ハリウッド]]に拠点を移していた際に「(千葉が)まだ独りで[[ロサンゼルス]]に住んでいたころにわざわざ来てくれてね。そのころまだ自炊をしていたので、自分で作った料理を食べてもらったんです。『おい、いつの間にこんなに料理がうまくなったんだ(笑い)』って言われましたよ。滞在中は映画の話をたくさんしました」と述懐している<ref name = "日刊スポーツ"/><ref name = "観客"/>。千葉はインタビューの際、最も尊敬する[[映画監督]]である深作を世界で活躍してほしかったこともあり、'''キンジ・フカサク'''と敬意をこめて呼んでいる<ref>[[#千葉2010|千葉流 サムライへの道]]、132頁。</ref>。<br />
<br />
干されていた[[室田日出男]]、大部屋でくすぶっていた[[川谷拓三]]・[[志賀勝]]らを抜擢し、[[ピラニア軍団]]として知らしめた<ref name = "深作欣二"/>。[[福本清三]]は「監督は大部屋俳優の名前を覚えてくれず、『そこ』、『おい』程度でしか呼ばれないが、深作監督はわしら大部屋俳優でも名前で呼んでくれた」と証言している<ref name = "福本清三">{{Cite book |和書 |author = 福本清三 |authorlink = 福本清三 |coauthors = 小田豊二 |date = 2001-11-30 |title = どこかで誰かが見ていてくれる 日本一の斬られ役・福本清三 |publisher = [[集英社]] |pages = 211 - 215 |isbn = 4420310030 }}</ref>。初めて[[東映京都撮影所]]で演出した際には殺陣師・擬斗師がいるにも関わらず、自ら[[殺陣]]や[[擬斗]]を細かく指示し、福本ら大部屋俳優のシーンにも綿密に[[リハーサル]]をしたので大部屋俳優たちに驚かれた<ref name = "福本清三"/>。映画の打ち上げ時に福本は「スターさんにあまり言わないで、なぜわしら(大部屋俳優)に細かく指示するのか? 自分たちは撃たれる時も殺される時も、かっこよくできる」と思わず質問<ref name = "福本清三"/>。深作は「(大部屋俳優には)台本も渡されてないから、なぜ殺されるのか、殺された後、組がどうなるか、状況や背景を説明してるんだよ。映画はスターだけじゃなく、映っているみんなが主役なんだ。スターさんがどんなに一生懸命でも、スクリーンの片隅にいる奴が遊んでいたら、その絵は死んでしまう。だから同じ子分でも、それぞれが個性を出して殺されてほしいから、うるさいだろうけど、細かく指示を出すんだよ」と諭した<ref name = "福本清三"/>。福本は「この人、ただもんでないわ」と唸り、それまで大部屋俳優として幾度となく殺されてきたため、慣れ・自信・奢りがあったかもしれないと、反省したという<ref name = "福本清三"/>。福本はこれ以降、与えられた役をとにかく一生懸命にやろうと転機になったと述べている<ref name = "福本清三"/>。<br />
<br />
苗字をなぞらえて「深夜作業組」と呼ばれるほどテストやリハーサルが長く<ref>{{Cite journal |和書 |date = 2012-12-7 |title = 西郷輝彦「現場が凍った萬屋錦之介と深作欣二の衝突」 |journal = アサ芸+ |publisher = 徳間書店 |url = http://www.asagei.com/10828 |accessdate = 2013-1-1 <!--|archiveurl = http://liveweb.archive.org/http://www.asagei.com/10828 |archivedate = 2013-1-1--> }}</ref>、映画『[[ファンキーハットの快男児]]』から始めた手持ちカメラはその後の数々の作品で導入され<ref name = "Fuhou"/>、ストップモーションやナレーションを効果的に使った作品を生み出してきた<ref>{{Cite journal |和書 |date = 2012-11-28 |title = 「仁義なき戦い」40年目の壮絶秘話(1)「顔のシワ作り」に励んだ松方 |journal = アサ芸+ |publisher = 徳間書店 |url = http://www.asagei.com/3678 |accessdate = 2012-11-29 <!--|archiveurl = http://liveweb.archive.org/http://www.asagei.com/3678 |archivedate = 2012-11-29 -->}}</ref>。時に[[脚本]]を変えてしまうことから、映画『[[仁義なき戦い]]』では[[笠原和夫 (脚本家)|笠原和夫]] から監督登用に拒まれたこともあった{{Refnest |group = "注釈" |深作は一切、脚本に手を入れないことを約束している<ref>{{Cite journal |和書 |date = 2012-12-25 |title = 深作欣二「仁義なき戦い」の脚本に一目惚れ |journal = アサ芸+ |publisher = 徳間書店 |url = http://www.asagei.com/11138 |accessdate = 2013-2-2 <!--|archiveurl = http://megalodon.jp/2013-0202-1901-35/www.asagei.com/11138 |archivedate = 2013-2-6--> }}</ref>。}}。<br />
<br />
自主製作的なことは一切行わなず、門下の[[中田新一]]は著書『奔れ!助監督』で、監督は自分の金を映画に一銭も出してはいけないと教えられたと記している。どうしても撮りたい企画があった場合は、東映の外で出資してくれるプロダクションを探すという姿勢だった。その関係で、1970年前後に[[共産党]]系のプロダクションで何本か監督しているが、党員ではなく特にシンパ活動的なことも行っていない。『仁義なき戦い』などはむしろ[[山田和夫]]ら共産党系の評論家に叩かれたぐらいである。<br />
<br />
{{要出典範囲|date=2018年1月 |国内では作風などの類似性から「日本の[[サム・ペキンパー]]」と呼んだ}}。深作組の常連であり、ペキンパーファンである役者の[[川谷拓三]]。ペキンパーが『[[戦争のはらわた]]』のプロモーションのために[[ジェームズ・コバーン]]と共に来日し、日本のテレビ番組にゲスト出演している時に川谷は泥酔して乱入し、「[[ゲッタウェイ]]!!!」と叫びペキンパーと握手をして、「ペキンパー、深作欣二と勝負せんかい!」と叫んだ<ref>[[小林信彦]]「映画×東京とっておき雑学ノート」(文藝春秋)P.193</ref><ref>なお、番組は『[[独占!男の時間]]』である。[[伊藤彰彦]]「映画の奈落 [[北陸代理戦争]]事件」p.227</ref>。深作自身もペキンパーのファンであり雑誌インタビューや著書などで『[[ガルシアの首]]』や『[[ビリー・ザ・キッド/21才の生涯]]』を好きな映画に挙げている<ref>深作欣二 『映画監督 深作欣二』 [[山根貞男]]、[[ワイズ出版]](原著2003年7月){{要ページ番号|date=2018年1月17日 }}。</ref>。<br />
<br />
晩年には[[町山智浩]]のインタビューで「『[[SLAM DUNK|スラムダンク]]』と『[[ザ・ワールド・イズ・マイン]]』が好き」と語っていた<ref>故・深作欣二監督インタビュー【ウエイン町山のモンドUSA2003年2月配信】、2016年8月11日</ref>{{出典無効|date=2018年1月17日 |title=i666.blog.fc2.comはスパムフィルターが発動し保存できないため、他の出典にしてください。}}。{{要出典範囲|date=2016年10月|深作健太によれば、晩年は『[[新世紀エヴァンゲリオン|エヴァンゲリオン]]』を絶賛し、[[ドラゴンアッシュ]]を愛聴していたという。}}<br />
<br />
<!--<br />
徹底的なリアリティにこだわり、TVゲーム「[[クロックタワー3]]」の制作中、ファンタジー風のデザインを提案する映画監督の[[雨宮慶太]]と意見が衝突し、最終的に大半が深作の意見で押し通された。また、撮影セットの縮尺の狂いを良しとするスタッフに激怒し、階段から窓まで全て作り直させている<ref>講談社BOOK倶楽部「ゲームの神様が舞い降りて」(雨宮慶太、pp.146)</ref>。<br />
↑<br />
リアリティにこだわる姿勢は深作が関わった映画・ドラマ全てにあてはまるので、「クロックタワー3」の記事に載せるほうがいい内容。<br />
== 漫画 ==<br />
* '''[[宮崎克]]'''・'''[[高岩ヨシヒロ]]'''著『'''[[松田優作物語]]'''』第4巻'''legend of you;35.'''「'''The festival.'''」では、映画監督:'''[[深作欣二]]'''がインタビューに登場し、'''[[松田優作]]'''('''[[有島武郎]]役''')が出演した映画『'''[[華の乱]]'''』で優作との思い出について語られている。<br/> '''legend of you;36.'''「'''Illusion'''」では、深作が優作と撮る予定であった作品('''口のきけないヤクザの話''')について語られ、その内容を'''漫画で再現'''した挿話が描かれており、配役は口のきけないヤクザを'''[[松田優作]]'''、組長を'''[[渡哲也]]'''が演じている。<br/> 劇中では組長の渡に従順に仕えるヤクザの優作が幼なじみで組長の情婦である女性との逢引きをマンションの外で待っていたところ、ベランダからヒットマンが侵入するのを目撃し、それを電話で渡に伝えようとするも伝える事ができずにマンションに響く凶弾を耳にして慟哭に咽ぶ優作の姿が描かれている。<br />
* '''[[島崎譲]]'''著『'''[[THE STAR(漫画)|THE STAR]]'''』第19巻で主人公・'''長瀬優也'''が出演する'''東都映画最新作『狼たちの仁義』'''にかつて東都ヤクザ映画の黄金期を生み出した立役者として'''映画監督・深草欣二'''が登場する。カメリハなしの本番で深草演出には台本がなく、せりふはシーンごとに監督から口うつしで伝えられる。大部分は役者のアドリブ!!出来のいいフィルムをどんどん使っていく方針で「'''ヤクザ映画ってもんはな、スタッフも役者も命懸けでやらなけりゃあ、客の喜ぶもんができねえんだよ'''」をモットーとしている。<br />
* '''[[平松伸二]]'''著『'''[[そしてボクは外道マンになる]]'''』第2巻第7話「結婚してください!」で平松本人と担当編集者の後藤が映画『'''[[ドーベルマン刑事]]'''』の撮影現場に訪れ、監督である深作に挨拶を交わすも「『ドーベルマン刑事』もいいんだが…その後に撮る『'''[[柳生一族の陰謀]]'''』ってのがこれまた面白くなりそうでねえ~!」と『ドーベルマン』よりも『柳生一族』の話ばかり熱く語って帰っていった印象を語っている。<br />
↑<br />
当該漫画の記事や、漫画内で挙げられている映画の記事に載せるほうがいい内容。--><br />
<br />
== 作品 ==<br />
<small>※は脚本兼。☆は脚本のみ。★は編集兼。*は構成兼。</small><br />
=== 映画 ===<br />
* [[風来坊探偵シリーズ]] (1961年、[[ニュー東映]])<br />
** [[風来坊探偵 赤い谷の惨劇]] <!--(1961年6月9日)--><br />
** [[風来坊探偵 岬を渡る黒い風]] <!--(1961年6月23日)--><br />
* [[ファンキーハットの快男児シリーズ]] (1961年、ニュー東映)<br />
** [[ファンキーハットの快男児]] <!--(1961年8月5日)--><br />
** [[ファンキーハットの快男児 二千万円の腕]] <!--(1961年9月13日)--><br />
* [[白昼の無頼漢]] (1961年<!--11月1日-->、ニュー東映<!--東京-->)<br />
* [[誇り高き挑戦]](1962年<!--3月28日-->、[[東映]]<!--東京-->)<br />
* [[ギャング対Gメン]] (1962年<!--11月2日-->、東映<!--東京-->)<br />
* [[ギャング同盟]] (1963年<!--7月31日-->、東映<!--東京-->)<br />
* [[ジャコ萬と鉄]] (1964年<!--2月8日-->、東映<!--東京-->)<br />
* [[狼と豚と人間]](1964年<!--8月26日-->、東映<!--東京-->) <small>※</small><br />
* [[脅迫 (おどし)]] (1966年<!--2月17日-->、東映<!--東京-->) <small>※</small><br />
* [[顔役]] (1965年<!--1月3日-->、東映<!--東京-->) <small>☆</small><br />
* [[カミカゼ野郎 真昼の決斗]] (1966年<!--6月4日-->、[[にんじんプロダクション]] / 國光影業) <small>※</small><br />
* [[北海の暴れ竜]] (1966年<!--10月25日-->、東映<!--東京-->)<br />
* [[解散式 (映画)|解散式]] (1967年<!--4月1日-->、東映<!--東京-->) <small>※</small><br />
* [[博徒解散式]] (1968年<!--2月9日-->、東映<!--東京-->)<br />
* [[黒蜥蜴]] (1968年<!--8月14日-->、[[松竹]]<!--大船-->) <small>※</small><br />
* [[恐喝こそわが人生]] (1968年<!--10月26日-->、松竹<!--大船-->)<br />
* [[ガンマー第3号 宇宙大作戦]] (1968年<!--12月19日-->、東映<!--東京--> / ラム・フィルム)<br />
* [[黒薔薇の館]] (1969年<!--1月25日-->、松竹<!--大船-->) <small>※</small><br />
* [[日本暴力団 組長]] (1969年<!--7月8日-->、東映<!--東京-->) <small>※</small><br />
* [[血染の代紋]] (1970年<!--1月31日-->、東映<!--東京-->) <small>※</small><br />
* [[君が若者なら]] (1970年<!--5月27日-->、新星映画 / [[文学座]]) <small>※</small><br />
* [[トラ・トラ・トラ!]] (1970年<!--9月25日-->、[[20世紀フォックス]])<br />
* [[博徒外人部隊]] (1971年<!--1月12日-->、<!--東映東京-->) <small>※</small><br />
* [[軍旗はためく下に]] (1972年<!--3月12日-->、[[東宝]] / 新星映画) <small>※</small><br />
* [[現代やくざ 人斬り与太]] (1972年<!--5月6日-->、東映<!--東京-->) <small>※</small><br />
* [[人斬り与太 狂犬三兄弟]] (1972年<!--10月25日-->、東映<!--東京-->)<br />
* [[仁義なき戦い|仁義なき戦いシリーズ]] (東映)<br />
** [[仁義なき戦い]] (1973年<!--1月13日-->)<br />
** [[仁義なき戦い 広島死闘篇]] (1973年<!--4月28日-->)<br />
** [[仁義なき戦い 代理戦争]] (1973年<!--9月29日-->)<br />
** [[仁義なき戦い 頂上作戦]] (1974年<!--1月15日-->)<br />
** [[仁義なき戦い 完結篇]] (1974年<!--6月29日-->)<br />
** [[仁義なき戦い]] 総集篇 (1980年<!--4月5日-->) <small>★</small><br />
* 新仁義なき戦いシリーズ (東映)<br />
** [[新仁義なき戦い]] (1974年<!--12月28日-->)<br />
** [[新仁義なき戦い 組長の首]] (1975年<!--11月1日-->)<br />
** [[新仁義なき戦い 組長最後の日]] (1976年<!--4月24日-->)<br />
* [[仁義の墓場]] (1975年<!--2月15日-->、東映<!--東京-->)<br />
* [[県警対組織暴力]] (1975年<!--4月26日-->、東映<!--京都-->)<br />
* [[資金源強奪]] (1975年<!--6月21日-->、東映<!--京都-->)<br />
* [[暴走パニック 大激突]] (1976年<!--2月28日-->、東映<!--京都-->) <small>※</small><br />
* [[やくざの墓場 くちなしの花]] (1976年<!--10月30日-->、東映<!--京都-->)<br />
* [[北陸代理戦争]] (1977年<!--2月26日-->、東映<!--京都-->)<br />
* [[ドーベルマン刑事]] (1977年<!--7月2日-->、東映<!--京都-->)<br />
* [[柳生一族の陰謀]] (1978年<!--1月21日-->、東映<!--京都[[東映太秦映画村]]-->) <small>※</small><br />
* [[宇宙からのメッセージ]] (1978年<!--4月29日-->、東映<!--京都--> / [[東北新社]]<!--(協力:東映太秦映画村)-->)<br />
* [[赤穂城断絶]] (1978年<!--10月28日-->、東映<!--京都=東映太秦映画村-->)<br />
* [[復活の日]] (1980年<!--6月6日-->、[[角川映画|角川春樹事務所]] / [[TBSテレビ|TBS]]) <small>※</small><br />
* [[青春の門]] (1981年<!--1月15日-->、東映<!--京都-->)<br />
* [[魔界転生 (1981年の映画)|魔界転生]] (1981年<!--6月6日-->、東映<!--京都-->) <small>※</small><br />
* [[道頓堀川 (映画)|道頓堀川]] (1982年<!--6月12日-->、松竹<!--大船-->) <small>※</small><br />
* [[蒲田行進曲]] (1982年<!--10月9日-->、松竹 / 角川春樹事務所)<br />
* [[人生劇場 (1983年の映画)|人生劇場]] (1983年<!--1月29日-->、東映<!--京都-->) <small>※</small><br />
* [[里見八犬伝 (1983年の映画)|里見八犬伝]] (1983年<!--12月13日-->、角川春樹事務所) <small>※</small><br />
* [[上海バンスキング#1984年版|上海バンスキング]] (1984年<!--10月6日-->、松竹 / [[西武流通グループ]] / [[シネセゾン]] / [[テレビ朝日|ANB]]) <small>※</small><br />
* [[火宅の人#映画|火宅の人]] (1986年<!--4月12日-->、東映<!--京都-->) <small>※</small><br />
* [[必殺4 恨みはらします]] (1987年<!--6月6日-->、松竹 / [[朝日放送|ABC]]) <small>※</small><br />
* [[華の乱]] (1988年<!--10月1日-->、東映<!--京都-->) <small>※</small><br />
* [[いつかギラギラする日]] (1992年<!--9月12日-->、[[日本テレビ放送網|NTV]] / [[バンダイ]] / 松竹第一興行)<br />
* [[忠臣蔵外伝 四谷怪談]] (1994年<!--10月22日-->、松竹) <small>※</small><br />
* [[おもちゃ (映画)|おもちゃ]] (1999年<!--1月15日-->、東映 / [[ライジングプロダクション]])<br />
* [[バトル・ロワイアル (映画)|バトル・ロワイアルシリーズ]]<br />
** [[バトル・ロワイアル (映画)|バトル・ロワイアル]] (2000年<!--12月16日-->、バトル・ロワイアル製作委員会)<br />
** [[バトル・ロワイアル (映画)|バトル・ロワイアル【特別篇】]] (2001年<!--4月7日-->、バトル・ロワイアル製作委員会)<br />
** [[バトル・ロワイアルII 鎮魂歌]] (2003年<!--7月5日-->、東映)<br />
<br />
=== テレビ ===<br />
;ドラマ<br />
* [[スパイキャッチャーJ3]] (1965年、[[テレビ朝日|NET]])<br />
** 第3話 「SOSポラリス潜水艦 前編」<!--(10月21日--><br />
** 第4話 「SOSポラリス潜水艦 後編」<!--(1965年10月28日--><br />
* [[泣いてたまるか]] ([[TBSテレビ|TBS]])<br />
** 第48話 「先生週刊誌にのる」(1967年<!--7月2日-->)<br />
* [[キイハンター]] (TBS)<br />
** 第1話「裏切りのブルース」(1968年<!--4月6日-->)<br />
** 第2話「非常の唇」(1968年<!--4月13日-->)<br />
** 第157話「キイハンター 皆殺し作戦」(1971年<!--4月3日-->)<br />
** 第158話「現金と舌を切られた女」(1971年<!--4月10日-->)<br />
** 第178話「南の国へヌードで新婚珍道中」(1971年<!--8月28日-->)<br />
* [[東京警備指令 ザ・ガードマン|ザ・ガードマン]] 第326話「年上の妻の華麗な犯罪」(1971年、TBS)<br />
* [[必殺仕掛人]] ([[朝日放送|ABC]])<br />
** 第1話「仕掛けて仕損じなし」(1972年<!--9月2日-->)<br />
** 第2話「暗闘仕掛人殺し」(1972年<!--9月9日-->)<br />
** 第24話「士農工商大仕掛け」(1973年<!--2月10日-->)<br />
* [[アイフル大作戦]] 第31話「メロメロお色気大作戦」(1973年<!--11月10日-->、TBS)<br />
* [[バーディ大作戦]] 第1話「連続ピストル強盗団」 (1974年<!--5月11日-->、TBS)<br />
* [[傷だらけの天使]] (1974年、[[日本テレビ放送網|NTV]])<br />
** 第1話「宝石泥棒に子守唄を」 (1974年<!--10月5日-->)<br />
** 第3話「ヌードダンサーに愛の炎を」 (1974年<!--10月19日-->)<br />
* [[影同心]] 第18話「濡れた女の殺し節」 (1975年<!--8月2日-->、[[MBSテレビ|MBS]])<br />
* [[Gメン'75]] (TBS)<br />
** 第16話「Gメン皆殺しの予告」(1975年<!--9月6日-->)<br />
** 第20話「背番号3長島対Gメン」(1975年<!--10月4日-->)<br />
** 第85話「'77元旦 デカ部屋ぶっ飛ぶ!」(1977年<!--1月1日-->)<br />
** 第354話「吾輩は人喰猫である」 (1982年<!--3月27日-->)<br />
* [[柳生一族の陰謀#連続ドラマ|柳生一族の陰謀]] 第1話「将軍毒殺」(1978年<!--10月3日-->、[[関西テレビ放送|KTV]])<br />
* [[影の軍団II]] 第1話「眼には眼を」(1981年<!--10月6日-->、KTV)<br />
* [[黒い館の女]] (1982年<!--2月25日-->、[[テレビ朝日|ANB]])<br />
* [[ダブル・パニック'90 ロス警察大捜査線]](1990年、ANB)<br />
* [[阿部一族 (1995年のテレビドラマ)|阿部一族]] (1995年、[[フジテレビジョン|CX]])<br />
<br />
;ドキュメンタリー<br />
* 20世紀末黙示録 もの食う人びと (1997年<!--2月23日-->、[[名古屋テレビ放送|NBN]])<br />
<br />
=== 演劇・ゲーム ===<br />
;演劇<br />
* [[仁義なき戦い]] 金子信雄プロデュース新演劇公演 (1974年<!--10月24日 - 11月2日-->、[[紀伊國屋ホール]])<br />
* バラエティショウ ピラニア十六匹大行進 [[ピラニア軍団]]公演 (1977年<!--5月5日-->、[[御堂会館]]) <small>*</small><br />
* [[柳生十兵衛 魔界転生]] (1981年<!--7月3日 - 28日-->、[[新宿コマ劇場]])<br />
<br />
;ゲーム<br />
* [[クロックタワー3]] (2002年、ムービー演出)<br />
<br />
=== 企画・監修 ===<br />
* [[ゆかいな海賊大冒険]] (1982年<!--8月7日 - 9月12日-->、[[新宿コマ劇場]] / 1983年<!--3月25日 - 4月14日-->、[[梅田コマ劇場]] / 1984年<!--3月24日 - 4月17日-->、新宿コマ劇場)<br />
* [[酔いどれ公爵]] (1985年<!--4月1日 - 29日-->、新宿コマ劇場)<br />
* [[リメインズ 美しき勇者たち]] (1990年、[[松竹]] / [[サニー千葉|サニー千葉エンタープライズ]] / [[ジェイティービー|JTB]] / [[松竹京都撮影所 (企業)|京都映画]])<br />
<br />
== 出演 ==<br />
* [[人間の証明#映画|人間の証明]] (1977年、[[角川映画|角川春樹事務所]]) - 渋江警部補<br />
* [[柳生一族の陰謀#連続ドラマ|柳生一族の陰謀]] 第34話「やわ肌の秘密」(1979年、[[関西テレビ|KTV]]) - 深海欣十郎<br />
* CM エステdeミロード <small>※[[樹木希林]]・[[藤谷美紀]]・[[渋谷琴乃]]と共演</small><br />
* [[RAMPO#映画|RAMPO 奥山バージョン]](1994年、[[松竹]]) - 巨匠<br />
<br />
== 受賞・受章 ==<br />
;受賞<br />
* 第11回[[ゴールデン・アロー賞]] 映画賞 『[[仁義なき戦い]]』 ([[1973年]])<br />
* 第18回[[ブルーリボン賞]] 監督賞 『[[仁義の墓場]]』 『[[県警対組織暴力]]』 ([[1975年]])<br />
* [[第2回日本アカデミー賞]] 優秀脚本賞 『[[柳生一族の陰謀]]』 ([[1979年]])<br />
* 第56回[[キネマ旬報賞|キネマ旬報ベスト・テン]] 日本映画監督賞 『[[蒲田行進曲]]』 ([[1982年]])<br />
* 第25回ブルーリボン賞 監督賞 『蒲田行進曲』 (1982年)<br />
* 第37回[[毎日映画コンクール]] 監督賞 『蒲田行進曲』 (1982年)<br />
* [[第6回日本アカデミー賞]] 最優秀監督賞 『[[蒲田行進曲]]』 ([[1983年]])<br />
* [[第10回日本アカデミー賞]] 最優秀監督賞・最優秀脚本賞 『[[火宅の人]]』 ([[1987年]])<br />
* 第7回[[日刊スポーツ映画大賞・石原裕次郎賞|日刊スポーツ映画大賞]] 監督賞 『[[忠臣蔵外伝 四谷怪談]]』 ([[1994年]])<br />
* [[第18回日本アカデミー賞]] 最優秀監督賞・最優秀脚本賞 『忠臣蔵外伝 四谷怪談』 ([[1995年]])<br />
* 第20回[[おおさか映画祭]] 監督賞 『忠臣蔵外伝 四谷怪談』 (1995年)<br />
<br />
;受章<br />
* [[紫綬褒章]] ([[1997年]])<br />
* [[旭日章|勲四等旭日小綬章]] ([[2003年]])<br />
<br />
== 脚注 ==<br />
{{脚注ヘルプ}}<br />
=== 注釈 ===<br />
{{notelist}}<br />
=== 出典 ===<br />
{{Reflist}}<br />
<br />
== 著書・参考文献 ==<br />
;著書<br />
* {{Cite book |和書 |author = 深作欣二 |coauthors = [[高野育郎]] |title = 仁義なきバトル・ロワイアル |origdate = 2000-12 |publisher = [[アスペクト (企業)|アスペクト]] |isbn = 4757208103 }}<br />
* {{Cite book |和書 |author = 深作欣二 |editor = [[山根貞男]] |title = 映画監督 深作欣二 |origdate = 2003-7 |publisher = [[ワイズ出版]] |isbn = 489830155X }}<br />
* {{Cite book |和書 |author = 深作欣二 |editor = [[映像塾プロジェクト]] |title = 深作欣二 ラスト・メッセージ |origdate = 2005-1-15 |publisher = [[シネマハウス]] |isbn = 4434055011 }}<br />
<br />
;参考文献<br />
* {{Cite journal |和書 |author = 中原早苗 |authorlink = 中原早苗 |date = |year = 2003 |month = 3 |title = 夫・深作欣二 最後の戦い |journal = [[文藝春秋 (雑誌)|文藝春秋]] |volume = |issue = |pages = |publisher = [[文藝春秋社]] }}<br />
* {{Cite book |和書 |author = JJサニー千葉 |authorlink = 千葉真一 |year = 2010 |title = 千葉流 サムライへの道 |publisher = [[ぶんか社]] |isbn = 4821142694 |ref = 千葉2010 }}<br />
<br />
== 外部リンク ==<br />
*[http://www.dgj.or.jp/about/prof/ 日本映画監督協会 深作欣二プロフィール]<br />
* {{allcinema name|10594|深作欣二}}<br />
* {{Kinejun name|86006|深作欣二}}<br />
* {{jmdb name|0200890|深作欣二}}<br />
* {{IMDb name|0297935|Kinji Fukasaku}}<br />
* {{Tvdrama-db name}}<br />
* [http://cinema-rank.net/s-kantoku/10594 深作欣二監督の映画ランキング]<br />
<br />
{{深作欣二}}<br />
{{日本映画監督協会理事長|第6代:[[1996年]]-[[2003年]]}}<br />
{{ブルーリボン賞監督賞}}<br />
{{毎日映画コンクール監督賞}}<br />
{{キネマ旬報ベスト・テン日本映画監督賞}}<br />
{{日本アカデミー賞最優秀脚本賞}}<br />
{{日刊スポーツ映画大賞監督賞}}<br />
<br />
{{Normdaten}}<br />
<br />
{{DEFAULTSORT:ふかさく きんし}}<br />
[[Category:日本の映画監督]]<br />
[[Category:日本の脚本家]]<br />
[[Category:紫綬褒章受章者]]<br />
[[Category:勲四等旭日小綬章受章者]]<br />
[[Category:東映の人物]]<br />
[[Category:東映時代劇]]<br />
[[Category:ヤクザ映画の監督]]<br />
[[Category:SF映画監督]]<br />
[[Category:ピラニア軍団|+ふ]]<br />
[[Category:仁義なき戦い|+ふ]]<br />
[[Category:日本大学出身の人物]]<br />
[[Category:茨城県出身の人物]]<br />
[[Category:1930年生]]<br />
[[Category:2003年没]]</div>
122.214.146.170
宮崎駿
2018-07-21T12:59:05Z
<p>122.214.146.170: </p>
<hr />
<div>{{Otheruses|映画監督|野球選手|宮崎駿 (野球)}}<br />
{{記事名の制約|title=宮﨑駿}}<br />
{{JIS2004}}<br />
{{ActorActress<br />
| 芸名 = 宮﨑 駿<br />
| ふりがな = みやざき はやお<br />
| 画像ファイル = Hayao Miyazaki.jpg<br />
| 画像サイズ = 250px<br />
| 画像コメント = [[2008年]]、[[ヴェネツィア国際映画祭]]にて<br />
| 別名義 = 秋津 三朗(あきつ さぶろう)<br />照樹 務(てるき つとむ 又は てれこむ)<br />
| 出生地 = {{JPN}} [[東京府]][[東京市]]<br />
| 死没地 =<br />
| 国籍 = {{JPN}}<br />
| 民族 =<br />
| 身長 =<br />
| 血液型 = O型<ref>{{Cite web |url=http://www.d-aiba.com/top-page/%E6%96%87%E5%8C%96%E4%BA%BA%E7%B3%BB/%E5%AE%AE%E5%B4%8E%E9%A7%BF/ |title=宮﨑駿 |publisher=タレントデータベース deta house aiba |accessdate=2014-10-04 }}</ref><br />
| 生年 = 1941<br />
| 生月 = 1<br />
| 生日 = 5<br />
| 没年 =<br />
| 没月 =<br />
| 没日 =<br />
| 職業 = [[映画監督]]<br>[[アニメーション]][[作家]]<br>[[漫画家]]<br />
| ジャンル = [[映画]]、[[テレビアニメ]]<br />
| 活動期間 = [[1963年]] -<br />
| 活動内容 =<br />
| 配偶者 = [[大田朱美|宮﨑朱美]]([[妻]])<br />
| 著名な家族 = [[大田耕士]](義父)<br />[[宮崎吾朗|宮﨑吾朗]]([[長男]])<br />[[宮崎敬介|宮﨑敬介]]([[二男]])<br />[[堤大介]]([[義甥]])<br />
| 事務所 = [[スタジオジブリ]]<br />
| 公式サイト = [http://www.ghibli.jp/ スタジオジブリ]<br />
| 主な作品 = <!--皆が認める代表作品を入力--><br />
'''アニメーション映画'''<br />
* 『[[パンダコパンダ]]』([[原案]]・[[脚本]])<br />
* 『[[ルパン三世 カリオストロの城]]』(脚本・[[監督]])<br />
* 『[[風の谷のナウシカ (映画)|風の谷のナウシカ]]』([[原作]]・脚本・監督)<br />
* 『[[天空の城ラピュタ]]』(原作・脚本・監督)<br />
* 『[[となりのトトロ]]』(原作・脚本・監督)<br />
* 『[[魔女の宅急便 (1989年の映画)|魔女の宅急便]]』(脚本・[[プロデュース]]・監督)<br />
* 『[[紅の豚]]』(原作・脚本・監督)<br />
* 『[[もののけ姫]]』(原作・脚本・監督)<br />
* 『[[千と千尋の神隠し]]』(原作・脚本・監督)<br />
* 『[[ハウルの動く城]]』(脚本・監督)<br />
* 『[[崖の上のポニョ]]』(原作・脚本・監督)<br />
* 『[[風立ちぬ (2013年の映画)|風立ちぬ]]』(原作・脚本・監督)<br />
----<br />
'''実写映画'''<br />
* 『[[柳川堀割物語]]』([[製作]])<br />
----<br />
'''テレビアニメ'''<br />
* 『[[未来少年コナン]]』([[演出]])<br />
----<br />
'''漫画'''<br />
* 『[[風の谷のナウシカ]]』(作)<br />
* 『[[宮崎駿の雑想ノート]]』(作)<br />
* 『[[風立ちぬ (宮崎駿の漫画)|風立ちぬ]]』(作)<br />
----<br />
'''絵物語'''<br />
* 『[[シュナの旅]]』(作)<br />
* 『[[もののけ姫]]』(作)<br />
----<br />
'''小説'''<br />
* 『[[天空の城ラピュタ]]』(原作・[[絵]])<br />
----<br />
'''音楽'''<br />
* 『[[君をのせて (井上あずみの曲)|君をのせて]]』([[作詞]])<br />
* 『[[となりのトトロ (曲)|となりのトトロ]]』(作詞)<br />
* 『[[もののけ姫 (曲)|もののけ姫]]』(作詞)<br />
* 『[[崖の上のポニョ (曲)|崖の上のポニョ]]』(補作詞)<br />
| アカデミー賞 = '''[[アカデミー長編アニメ映画賞|長編アニメ映画賞]]'''<br />[[第75回アカデミー賞|2002年]]『[[千と千尋の神隠し]]』<br />'''[[アカデミー名誉賞|名誉賞]]'''<ref name="movie">[[宮崎駿#外部リンク|外部リンクに映像]]</ref><br /> [[第87回アカデミー賞|2014年]]<br />
| ヴェネツィア国際映画祭 = '''[[金オゼッラ賞]]'''<br />[[第61回ヴェネツィア国際映画祭|2004年]]『[[ハウルの動く城]]』<br />'''ミンモ・ロテッラ財団賞'''<br />[[第65回ヴェネツィア国際映画祭|2008年]]『[[崖の上のポニョ]]』<br />'''[[栄誉金獅子賞]]'''<br />[[第62回ヴェネツィア国際映画祭|2005年]]<br />
| ベルリン国際映画祭 = '''[[金熊賞]]'''<br />[[第52回ベルリン国際映画祭|2002年]]『[[千と千尋の神隠し]]』<br />
| ニューヨーク映画批評家協会賞 = '''[[ニューヨーク映画批評家協会賞 アニメ映画賞|アニメ映画賞]]'''<br />[[第68回ニューヨーク映画批評家協会賞|2002年]]『[[千と千尋の神隠し]]』<br />[[第71回ニューヨーク映画批評家協会賞|2005年]]『[[ハウルの動く城]]』<br />[[第79回ニューヨーク映画批評家協会賞|2013年]]『[[風立ちぬ]]』<br />
| 英国アカデミー賞 = <br />
| セザール賞 =<br />
| ロサンゼルス映画批評家協会賞 = '''[[ロサンゼルス映画批評家協会賞 アニメ映画賞|アニメ映画賞]]'''<br />[[第28回ロサンゼルス映画批評家協会賞|2002年]]『[[千と千尋の神隠し]]』<br />
| 放送映画批評家協会賞 = '''[[放送映画批評家協会賞 アニメ映画賞|アニメ映画賞]]'''<br />[[第8回放送映画批評家協会賞|2002年]]『[[千と千尋の神隠し]]』<br />
| ゴールデングローブ賞 =<br />
| ゴールデンラズベリー賞 =<br />
| ゴヤ賞 =<br />
| グラミー賞 =<br />
| ローレンス・オリヴィエ賞 =<br />
| 全米映画俳優組合賞 =<br />
| ブルーリボン賞 = '''特別賞'''<br />[[1988年]]『[[となりのトトロ]]』<br />[[1997年]]『[[もののけ姫]]』<br />'''作品賞'''<br />[[2002年]]『[[千と千尋の神隠し]]』<br />
| 日本アカデミー賞 = '''話題賞'''<br />[[第13回日本アカデミー賞|1989年]] 『[[魔女の宅急便 (1989年の映画)|魔女の宅急便]]』<br />'''最優秀作品賞'''<br />[[第21回日本アカデミー賞|1997年]]『[[もののけ姫]]』<br />[[第25回日本アカデミー賞|2002年]]『[[千と千尋の神隠し]]』<br />'''最優秀アニメーション作品賞'''<br />[[第32回日本アカデミー賞|2008年]]『[[崖の上のポニョ]]』<br />[[第37回日本アカデミー賞|2013年]]『[[風立ちぬ (2013年の映画)|風立ちぬ]]』<br />'''会長功労賞'''<br />[[第25回日本アカデミー賞|2002年]] <br />
|その他の賞 = '''[[アニー賞]]'''<br />'''{{仮リンク|ウィンザー・マッケイ賞|en|Winsor McCay Award}}'''(生涯功労賞)<br />[[1998年]]<br />'''長編アニメ作品賞 監督賞 脚本賞'''<br />[[2002年]]「[[千と千尋の神隠し]]」<br />'''長編アニメ脚本賞'''<br />[[2013年]]「[[風立ちぬ (2013年の映画)|風立ちぬ]]」<ref name="Annie2013">{{cite news|url=https://www.cinematoday.jp/news/N0060188|title=『風立ちぬ』宮崎駿監督、アニー賞脚本賞を受賞!も…授賞式には誰も現れず|newspaper=シネマトゥデイ|date=2014-02-02|accessdate=2017-10-10}}</ref><br /><br />
----第34・39・41・43・56・63回[[毎日映画コンクール]][[大藤信郎賞]]<br />第43・52・56回[[毎日映画コンクール]]日本映画大賞<br />第44・47・52・56回毎日映画コンクールアニメーション映画賞<br />第52・56・59回毎日映画コンクール日本映画ファン賞<br />第56回毎日映画コンクール監督賞<br />第2・6回[[日本アニメ大賞]]作品賞<br />第4回日本アニメ大賞特別賞<br />第6回日本アニメ大賞脚本賞<br />第6回日本アニメ大賞主題歌賞<br />第16・20回[[星雲賞]]メディア部門<br />第26回星雲賞コミック部門<br />第23回[[日本漫画家協会賞]]大賞<br />第12回[[山路ふみ子映画賞]]<br />第13・26回[[報知映画賞]]監督賞<br />第22回報知映画賞特別賞<br />第39回[[芸術選奨]]文部大臣賞<br />第39回芸術選奨芸術作品賞<br />第5・10回[[日刊スポーツ映画大賞・石原裕次郎賞|日刊スポーツ映画大賞]][[日刊スポーツ映画大賞・石原裕次郎賞|石原裕次郎賞]]<br />第14回日刊スポーツ映画大賞作品賞<br />1993年[[アヌシー国際アニメーション映画祭]]長編作品部門[[グランプリ]]<br />第1・5回[[文化庁メディア芸術祭]]アニメーション部門大賞<br />第5回文化庁メディア芸術祭特別賞<br />第37回[[シッチェス・カタロニア国際映画祭]]観客賞<br />2007年[[ネビュラ賞]]スクリプト部門賞<br />第2回[[バークレー日本賞]]<br />
| 備考 =<br />
}}<br />
'''宮﨑 駿'''(みやざき はやお、[[1941年]][[1月5日]] - )は、[[日本]]の[[映画監督]]、[[アニメーター]]、[[漫画家]]。別名として'''秋津 三朗'''(あきつ さぶろう)、'''照樹 務'''(てれこむ)がある。映画などの[[クレジットタイトル]]では'''宮崎 駿'''(みやざき はやお)と表記されることもある。<br />
<br />
[[株式会社]][[スタジオジブリ]][[取締役]]、[[公益財団法人]][[徳間記念アニメーション文化財団]][[理事長]]、[[三鷹市立アニメーション美術館]]([[三鷹の森ジブリ美術館]])館主。<br />
<br />
== 概要 ==<br />
[[東京府]][[東京市]]出身({{要出典範囲|出生地は現在の[[墨田区]]、[[文京区]]という説もある|date=2017年5月}})。[[学習院大学]][[政経学部]]<ref>「政治経済学部」としている場合が多い。</ref>卒業。[[東京都]][[小金井市]]<ref>[https://www.city.koganei.lg.jp/smph/shisei/gaiyou/meiyoshimin.html 名誉市民]</ref>、[[三鷹市]]名誉市民。アニメーション制作会社[[スタジオジブリ]]に映画監督として所属し、[[2005年]]4月より取締役。また、自身が企画開発した[[三鷹市立アニメーション美術館]]([[三鷹の森ジブリ美術館]])の館主である。個人の事務所は株式会社[[二馬力]]で、主に宮﨑の[[著作権]]関連の管理を行っており、かつては自身が代表取締役社長を務めていた。[[愛煙家]]としても知られている。<br />
<br />
== 来歴 ==<br />
===生い立ち===<br />
数千人の従業員を擁した一族が経営する「宮崎航空興学」の[[役員]]を務める一家の4人[[兄弟]]の二男として、[[東京市]]で生まれる。幼児期に[[宇都宮市|宇都宮]]に疎開、小学校3年生まで暮らしていた<ref>会社が[[中島飛行機]]の下請けとして軍用機の部品を生産していたことが、軍事用[[兵器]]に対する相矛盾する感情を生むことになった。宮崎が回想した戦争体験としては、宇都宮が[[空襲]]を受け、親類の運転する[[貨物自動車|トラック]]で4歳の駿を含む宮崎一家が避難した際、子供を抱えた近所の男性が「助けてください」と駆け寄ってきた。しかし、トラックは既に宮崎の家族でいっぱい。車はそのまま走り出した。その時に「乗せてあげて」と叫べなかった事が重い負い目となって、後々の人生や作品に大きく影響を与えた、と語っている。(宮崎駿「アニメーション罷り通る」(大泉実成『宮崎駿の原点――母と子の物語』潮出版社、2002年、pp.24-28))</ref>。1950年、小学校4年に進級時に東京都[[杉並区]][[永福|永福町]]に転居。<br />
<br />
幼少時は身体が弱かった<ref>医者からは20歳まで生きられないと言われ、これは後の創作に影響を与えた、と言う。(『[[プロフェッショナル 仕事の流儀]]』2008年8月5日)</ref>ので運動は苦手だったが、絵はずば抜けて上手かった。熱心な読書家であり、[[手塚治虫]]や[[杉浦茂]]の漫画、特に[[福島鉄次]]の[[絵物語]]『[[沙漠の魔王]]』のファンという“漫画少年”でもあった。当時の進学校である[[東京都立豊多摩高等学校]]在学中の3年生の時に観た[[東映アニメーション|東映動画]]製作『[[白蛇伝 (1958年の映画)|白蛇伝]]』に感動し<ref>宮崎駿「日本のアニメーションについて」『日本映画の現在』岩波書店、1988年。宮崎駿『出発点 1979〜1996』徳間書店、1996年にも所収</ref>、[[アニメーション]]にも関心を持つようになる。学生時代にデッサンを独学で学び、[[ポール・セザンヌ]]のような印象派に影響されている<ref>『復刻版 ロマンアルバム 天空の城ラピュタ ガイドブック』p.142</ref>。<br />
<br />
===アニメ業界での活躍===<br />
[[学習院大学]]に進学し、[[児童文学]]サークル(児童文化研究会)に所属する。幾つかの[[人形劇]]を企画しつつ、[[漫画家]]を志し漫画を描き続けていたが<ref>この時期、何本かの社会主義革命の漫画を執筆して持込みをした事もあったが、「ウチは時代劇扱ってないんですけど」と編集者に門前払いされている。『風の帰り道』(pp.251)</ref>、アニメーションの世界へ進む事を決断する<ref>「劇画の世界と、アニメーションの世界と、どちらが表現方法として優れているかというので、ずいぶん自分でも悩み続けて、結局、アニメーションの方が優れているという結論を、自分なりに出してしまったんです」(『THIS IS ANIMATION 1』小学館、1982年)</ref>。[[学習院大学]]を卒業し、[[アニメーター]]として[[東映アニメーション|東映動画]]に定期採用で入社し、動画などを手がける。当初は東映動画で制作されていた作品に魅力を感じることが出来ず、漫画家への未練を断ち切れずにいたが、入社1年後に観た[[ソビエト連邦|ソ連]]製作長編アニメーション映画『[[雪の女王]]』に強い感銘を受け<ref>「これほどのことがアニメーションでできるなら、いつか自分もやってみたい、アニメーターになっていてよかったと思って、はっきりと腰が座った」(『THIS IS ANIMATION 1』小学館、1982年)なお、実線を描かずに白で目を表現するという手法は、この作品の影響である。</ref>、アニメーションを一生の仕事にしようと決意した。『[[ガリバーの宇宙旅行]]』のラストシーンが宮崎のアイディアで変更されるなど、早くから才能を現した。結成間も無い[[東映アニメーション|東映動画]]労働組合の書記長に就任し、アニメーターの待遇の改善に尽力する。1965年秋には、24歳で同じ東映のアニメーターの女性と結婚し、その後2人の男児をもうける。[[高畑勲]]・[[森康二]]・[[大塚康生]]らと共に3年がかりの大作、『[[太陽の王子 ホルスの大冒険]]』(1965 - 1968年)を作り上げた。、<!--不遇だったのは監督の高畑で宮崎は後の長靴をはいた猫やどうぶつ宝島でもメインスタッフでした。興行的には不振で、以後は社内で不遇をかこつ。--><br />
<br />
1971年、高畑勲、[[小田部羊一]]と共に東映動画を退社し、新企画『[[長くつ下のピッピ]]』を制作するために[[Aプロダクション]]に移籍したが、原作者の許諾を得られず立ち消えになってしまう。その後、宮崎と高畑は大塚康生に誘われ、視聴率が低調だったTVアニメ『[[ルパン三世 (TV第1シリーズ)|ルパン三世]]』の演出の仕事を引き受ける。半年間で放送は終了したが、その後の『ルパン』の基礎となる部分を作り上げた(詳しくは[[ルパン三世 (TV第1シリーズ)|ルパン]]の項を参照)。「ピッピ」の経験を活かし、大塚、高畑、小田部らと子供向け映画『[[パンダコパンダ]]』(1972年、1973年)を2本作る(脚本、場面設定、美術、原画などを担当)。<br />
<br />
高畑、小田部とともに[[ズイヨー映像]](のちの[[日本アニメーション]])に移籍し、『[[アルプスの少女ハイジ (アニメ)|アルプスの少女ハイジ]]』の準備に入る。1974年TVアニメ、『[[アルプスの少女ハイジ (アニメ)|アルプスの少女ハイジ]]』で全カットの場面設定・画面構成(レイアウト)を担当。この作品は最高平均[[視聴率]]が26.9%となるなど大ヒットとなり、宮崎としても初の大きな成功であった。<br />
<br />
=== 『未来少年コナン』から『ナウシカ』まで ===<br />
[[1978年]]、『[[未来少年コナン]]』([[日本放送協会|NHK]])で事実上の初監督を務める。名義上は演出であり監督ではないが、他に監督はいなかった。毎週放送という厳しいスケジュールの中で、演出を行いながら、オリジナルスケッチ(ストーリーボード)・設定・キャラクターデザイン・メカデザインを全話担当し、大半の[[絵コンテ]]、レイアウトを描いた上、スタッフの作った[[脚本]]・絵コンテ・レイアウト・原画を、高畑勲応援分を除き全て1人でチェックするという、前代未聞の超人的な作業量をこなした<ref>NHK-BS『BSアニメ夜話/未来少年コナン』(2005年6月27日放送)での大塚康生の証言。及び大塚康生『作画汗まみれ 増補改訂版』168頁</ref>。持ち前の高度な作家性を発揮して、原作「[[残された人びと]]([[:en:The Incredible Tide|The Incredible Tide]])」の悲壮なイメージを大幅に改変し、オリジナルといってもよい作品を作り上げた。後に宮崎アニメと呼ばれる作品群の原点とも言える。視聴率は低調だったが、この作品に衝撃を受け、後に[[アニメーター]]やアニメ[[演出家]]となった者はかなり多い([[未来少年コナン#本作の影響]]を参照)。<br />
<br />
その後、リニューアルされ人気を博していた『[[ルパン三世]]』の映画を一緒にやろうと大塚に持ちかけられ、当初は「もうルパンは古臭い」と宮崎は乗り気ではなかったが最終的に了承。その為[[テレコム・アニメーションフィルム]]([[トムス・エンタテインメント|東京ムービー新社]]内)に移籍し、映画『[[ルパン三世 カリオストロの城]]』([[1979年]])で映画作品の監督デビューをした。宮崎は「カリオストロではじめて体力の限界を知った」というほど、監督として映画製作に尽力し、4ヵ月半という短い期間で作り上げた<ref>[https://web.archive.org/web/20130907032313/http://mainichi.jp/enta/news/20130906mog00m200014000c6.html 宮崎駿監督:ナウシカ続編「ありません」 2013年09月06日 毎日新聞]</ref><ref>[http://www.peeep.us/aeff9dc3 (「アニメーションは世界の秘密をのぞき見ること」 2013年09月06日 産経新聞]</ref><ref>[https://web.archive.org/web/20130907065017/http://news.mynavi.jp/articles/2013/09/07/miyazaki/007.html 宮崎駿監督引退会見・一問一答、全文書き起こし 2013年09月07日 マイナビニュース]</ref>。しかし、当時の『2ndルパン』のイメージと違う作風<!--第一シリーズの後半(水色FIATに乗るルパン)は、宮崎・高畑コンビの影響をモロうけた作品なので、違う作風ってのはちょっとありえないんじゃないかな?-->や、[[サイエンス・フィクション|SF]]アニメ全盛の時代ということもあって、大衆受けはせず、興行的には[[ルパン三世 ルパンVS複製人間|前作]]に及ばなかった。むしろ興行的不振のために、しばらくの間映画に携われない不遇の時を過ごすことになった。しかし後に、再放送されては高視聴率をあげるなど、アニメーションの金字塔的作品として高い評価を受けている。この直後には、『[[ルパン三世 (TV第2シリーズ)|ルパン三世]]』で最終回含め2話の制作に脚本、絵コンテ、演出として携わっている。後の『[[風の谷のナウシカ]]』に登場する巨神兵や飛行船など、この頃から構想があったとみられる。『カリオストロの城』制作時に、当時『[[アニメージュ]]』副編集長で取材に訪れた[[鈴木敏夫]]と出会っている。<br />
<br />
『ルパン三世 PartIII』放送にあわせ、劇場版第3作の製作が決定した際は監督としてまず前作の監督であった宮崎駿に再度依頼がなされたが、宮崎は参加を拒否。宮崎の推薦により、当時宮崎の事務所にいた[[押井守]]が監督を務めることになった。<br />
<br />
テレコム・アニメーションフィルムによる日米合作映画『[[NEMO/ニモ|リトル・ニモ]]』の準備に大塚康生や高畑勲らと共に携わり、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]との間を行き来したが、企画への疑問から降板。この時期、『[[となりのトトロ]]』『[[もののけ姫]]』『[[風の谷のナウシカ]]』『[[天空の城ラピュタ]]』などの原型となるオリジナル企画を構想しているが実現には至らなかった。宮崎の才能に惚れ込んだ鈴木敏夫は『風の谷のナウシカ』の映画化を目論み、徳間書店の企画会議に持ち込んだ。しかし、「原作のないものは、無理」という理由で却下された。『コナン』の時より宮崎に注目していた[[徳間書店]]の『アニメージュ』誌編集長・[[尾形英夫]]は、オリジナル企画実現のため「原作付き」のハクをつけることを考案、『アニメージュ』1982年2月号より『[[風の谷のナウシカ]]』の連載が始まり、やがて多くの読者の支持を集めるようになる<ref>。漫画版『風の谷のナウシカ』は、アニメ公開後も断続的に描き継ぎ、アニメ公開10年後の[[1994年]]に完結。アニメ版の結末の思想を、自ら否定するような内容となった。</ref>。さらに自社イベントの為の特別短編アニメーション企画を彼に持ち掛ける。企画は短編の筈だったが次第に拡大、尾形の尽力により、当時映画事業に意欲的だった[[徳間書店]]の[[徳間康快]]社長(当時)が劇場アニメーション化を決断し<ref>尾形英夫「あの旗を撃て!―『アニメージュ』血風録」オークラ出版、2004年</ref>、宮崎の弟が勤務する[[博報堂]]がこれに乗る形でプロジェクトが結成され、[[1984年]]にアニメーション映画として製作・公開された。映画『[[風の谷のナウシカ (映画)|風の谷のナウシカ]]』は、『ルパン三世 カリオストロの城』がテレビ放映され、その面白さが広く社会に認知されたことや、[[エコロジー]]・ブームの中にあったことと相俟ってヒット作となり、作家としての宮崎駿が広く認知されることとなった<ref>初のオリジナル長編映画だった『風の谷のナウシカ』製作中、宮崎が6歳の時から病気で寝たきりの母が亡くなり、非常に悔やんだと話している。この後、宮崎の作品には自身の母をモチーフにしたキャラクターが頻出するようになる。(『プロフェッショナル 仕事の流儀』2008年8月5日)</ref>。<br />
<br />
=== スタジオジブリ設立 ===<br />
1985年に徳間書店の出資を得て[[スタジオジブリ]]を設立し、以後の制作の基盤とした。[[1986年]]の『[[天空の城ラピュタ]]』と[[1988年]]の『[[となりのトトロ]]』では興行成績はそれほど振るわなかったが、その後両作の人気は著しく高まり、ぬいぐるみなどのグッズの販売やビデオ販売の収入により、ジブリの経営を支えた。<br />
<br />
また1986年頃、宮崎が推薦した[[押井守]]による[[ルパン三世]]劇場版第3作の頓挫後にはスタジオジブリで押井守を監督に据え、宮崎の脚本による作品『アンカー』を準備するなどしている<ref>宮崎駿は1987年公開『紅い眼鏡』のパンフレットに自分が脚本で押井が監督するはずだったアニメ映画がつぶれてスケジュールが空いたときに二人で知床まで自動車旅行をした話、「押井さんについて」を寄稿している。</ref>。<br />
<br />
『[[魔女の宅急便 (1989年の映画)|魔女の宅急便]]』(1989年)は、当初は[[片渕須直]]監督により進められていたがスポンサーの意向により降板し宮崎が後を継いだ。本作はその年の興行トップとなる大ヒットとなる。これを受けてジブリの労働環境を整えるため社員化を決定する。<br />
<br />
『[[紅の豚]]』(1992年)は、もともと[[日本航空]]の機内で上映される中編として企画されたが、次第に構想が膨らみ、長編作品として公開された。<br />
<br />
[[1997年]]に公開された『[[もののけ姫]]』は、ジブリ史上最大の製作費、宮崎の監督引退説などが話題になった事もあり、『[[E.T.]]』が持っていた日本の映画[[興行成績|興行記録]]を15年ぶりに塗り替える大ヒット作となった。宮崎駿は完成後の打ち上げの際、これが最後の作品となると発言し大きく報道されたが、翌年に引退宣言は撤回した。<br />
<br />
[[2001年]]に発表した『[[千と千尋の神隠し]]』は興行記録をさらに塗り替え、観客動員2350万人、興行収入308億円<ref>{{cite web|url=http://www.kogyotsushin.com/archives/alltime/|accessdate=2016-09-28|title=歴代ランキング - CINEMAランキング通信|date=2016-09-26}}</ref>と、日本における映画史上第1位の新記録を作った。日本国外からの評価も非常に高く、翌年の[[ベルリン国際映画祭]]では日本としては39年ぶり、アニメーションとしては史上初の[[金熊賞]]を受賞し、[[2003年]]には[[アカデミー賞]]'''[[アカデミー長編アニメ賞|長編アニメ賞]]'''を受賞した。『千と千尋の神隠し』の完成記者会見でも「もう長編アニメ映画は無理ですね」と引退を宣言している。<br />
<br />
[[2004年]]公開の『[[ハウルの動く城]]』は、もともと[[細田守]]監督作品として進められていたが降板し、宮崎が後を継いだ。公開2日目で観客動員数110万人、興行収入14億8,000万円と日本映画歴代最高のオープニングを飾り、映画史上第2位の大ヒットを記録。さらに[[ヴェネツィア国際映画祭]]のオゼッラ賞、[[ニューヨーク映画批評家協会]]最優秀アニメーション賞を受賞し、その年の米[[アカデミー賞]]の長編アニメ部門に再びノミネートするなど前作同様、日本国外においても高く評価された。[[2005年]]には、[[ヴェネツィア国際映画祭]]において優れた世界的映画人に贈られる[[栄誉金獅子賞]]を受賞。[[2006年]]には、アカデミー賞の選考委員に選ばれ、招待状が送付された。宮崎はこれ以前に2度選ばれているが、創作活動に専念したいなどの理由から就任を辞退した。<br />
<br />
[[2008年]][[7月19日]]に、新作『[[崖の上のポニョ]]』を公開。公開後1か月で興行収入100億円を突破する興行成績を挙げた。『崖の上のポニョ』製作中、体力的にも本作が最後の長編になるだろうと述べていた<ref>監督のインタビューコメント 『プロフェッショナル 仕事の流儀』 2007年3月28日</ref>。しかし、映画公開後に宮崎が『崖の上のポニョ』の観客動員数より、『ハウルの動く城』の方が高かった事実を知ってショックを受け、「もう一本作る」とやる気を出し始めたという<ref>(東京FM『ジブリ汗まみれ』 2008年12月10日)</ref><ref>映画公開後、鈴木敏夫に対し「72歳で死ぬことに決めた、あと5年なら一本しか作れない」と発言(東京FM『ジブリ汗まみれ』 2008年8月26日)</ref>。今後の作画に関しては『崖の上のポニョ』のように手描きでいくとの意向であるが、以前のような作画に戻る可能性もあると示唆した<ref>第65回[[ヴェネツィア国際映画祭]] 記者会見時のインタビュー</ref>。最新作の内容は、自伝のアニメーションであるという<ref>「フレデリック・バック展」のトークイベント「話をする二人」での、鈴木敏夫の発言</ref>。マスコミの前に出ることを嫌う時期もあったが、『崖の上のポニョ』の製作時に[[日本放送協会|NHK]]によって2度、「[[プロフェッショナル 仕事の流儀]]」にて密着ドキュメントが作られた。アニメ作りに苦悩奮闘する素の宮崎駿の姿が放送され、大きな反響を呼んだ。また、2008年11月20日の[[日本外国特派員協会]]に招かれ、アニメ界の危惧も含め、熱く論弁した。[[2012年]]には、[[文化功労者]]に選ばれた。<br />
<br />
[[2013年]]に、自身の『[[風立ちぬ (宮崎駿の漫画)]]』を原作とした、アニメーション映画『[[風立ちぬ (2013年の映画)|風立ちぬ]]』を公開。同年[[9月1日]]、宮崎が長編映画の製作から引退することをスタジオジブリ社長[[星野康二]]が発表<ref name="mainichi130901">{{cite news|url=http://mainichi.jp/mantan/news/20130901dyo00m200036000c.html|title=宮崎駿:長編映画製作から引退へ 「風立ちぬ」が最後の作品に|newspaper=毎日jp(毎日新聞)|date=2013-09-01|accessdate=2013-09-02}}</ref>。<br />
<br />
=== 長編監督引退後 ===<br />
2013年、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]を舞台にした漫画を執筆中であると『[[月刊モデルグラフィックス]]』2014年1月号で発表された。しかし時代考証を重ねるうちに手が止まってしまったことを理由に同誌2015年6月号ならびに『[[アーマーモデリング]]』2015年5月号で中止または無期限延期が発表された。予定されていた作品の題名は『鉄砲侍』であった。<br />
<br />
[[2014年]]、『思い出のマーニー』を最後の作品として、スタジオジブリの制作部門が解体される。三鷹の森ジブリ美術館の企画展示「クルミわり人形とネズミの王さま展」の企画・制作・監修を手がけた<ref>「やっぱり宮崎さんはメルヘンが好きなんだ」『AERA』2014年8月11日号、朝日新聞出版、18p。</ref>。同年11月、第87回[[アカデミー名誉賞]]<ref name="movie">[[宮崎駿#外部リンク|外部リンクに映像]]</ref>を受賞。日本人としては[[黒澤明]]以来2人目の快挙となる<ref>[http://www.nikkei.com/article/DGXLASFK29H05_Z20C14A8000000/ 宮崎駿監督にアカデミー名誉賞 「クロサワ」以来]時事通信(2014年8月)</ref>。同時受賞となった女優の[[モーリン・オハラ]]は長年のファンで、会えたことに感動した<ref>{{cite news |language = | author = | url =http://www.cinematoday.jp/page/N0068020| title =宮崎駿監督にアカデミー名誉賞授与 「やれることをやっていく」笑顔で会見| publisher =| date= 2014-11-09| accessdate =2014-11-23}}</ref>。同年11月、一人芝居「うつ神楽」を考案。[[京都府]][[八幡市]]の[[石清水八幡宮]]の本殿で奉納された。<br />
<br />
[[2015年]]、鈴木敏夫が講演会で、ジブリ美術館用の新作短編アニメ『[[毛虫のボロ]]』を制作中であることを明らかにした<ref>[http://www.asahi.com/articles/ASH7B5RS5H7BUCVL01G.html]</ref>。宮崎にとっては初の3DCGアニメーション作品となる。制作部門が解体されたスタジオジブリに代わり、アニメーション制作は[[スティーブンスティーブン]]が担当している<ref>[http://www.stst.co.jp/?p=791]</ref>。<br />
<br />
2015年5月8日、[[沖縄]]・[[在日米軍]]基地再編における[[普天間飛行場]]の[[辺野古]]移転計画に反対する[[辺野古基金]]の共同代表<ref>[[石川文洋]]、[[呉屋守將]]、[[佐藤優 (作家)|佐藤優]]、[[菅原文子]]、[[鳥越俊太郎]]、[[長濱徳松]]、[[宮城篤実]]らとの共同就任</ref>に就任した<ref>[http://www.huffingtonpost.jp/2015/05/07/miyazaki-hayao-henoko-okinawa_n_7238168.html 「辺野古基金」とは? 宮崎駿氏が共同代表に就任へ]The Huffington Post(2015年5月)</ref>。同年7月13日、[[日本外国特派員協会]]の要請に応じて[[東京都]][[小金井市]]にあるスタジオジブリで記者会見を開き、基地移転だけでなく沖縄に負担が集中している状態そのものを批判し、かつて[[鳩山由紀夫内閣]]が提案した県外移設の実現を強く求めた<ref name="blo">[http://blogos.com/article/122316/?p=1 「世界がもっと根元の方でみしみしと悪くなっていくようです」〜宮﨑駿監督が会見][[BLOGOS]]編集部(2015年7月)</ref>。<br />
<br />
=== 引退撤回 ===<br />
[[2016年]][[11月13日]]午後9時から[[日本放送協会|NHK]]で放送された[[特別番組]]「終わらない人 宮崎駿」の番組内で、宮崎が「長編企画 覚書」と書かれた書類を鈴木敏夫に提示する場面が放送された。書類の内容は[[モザイク処理|モザイク]]で隠されていたが、「[[2019年]]完成」と記されていたことから、新作長編が2019年に公開されると予想された。3か月後の[[2017年]][[2月24日]]、鈴木敏夫が「Oscar Week 2017」で、長編映画の制作に復帰したことを公表し、事実上の引退撤回となった<ref>[https://news.biglobe.ne.jp/entertainment/0224/nlb_170224_0638344981.html 宮崎駿監督が長編復帰へ 鈴木敏夫プロデューサー「一生懸命、東京で作ってます」] - BIGLOBE 2017年2月24日閲覧。</ref><ref>[http://www.sankei.com/entertainments/news/170224/ent1702240022-n1.html 宮崎駿監督が新作長編の準備に 事実上の「引退」撤回] - 産経ニュース 2017年2月24日閲覧。</ref>。5月19日、新作のスタッフを公式サイトで募集開始し、本格的に制作がスタートした<ref>[https://www.cinematoday.jp/news/N0091692 宮崎駿監督の新作、始動!ジブリがスタッフ募集を開始 今度こそ本当に最後の監督作品に…] - シネマトゥデイ 2017年5月19日閲覧。</ref>。10月28日に早稲田大学で開催されたイベントで新作の題名が『君たちはどう生きるか』であると明かされた<ref>[http://www.asahi.com/articles/ASKBX5T4ZKBXUCLV008.html 宮崎駿監督、新作タイトルは「君たちはどう生きるか」] - 朝日新聞 2017年10月29日閲覧。</ref>。<br />
<br />
[[2018年]][[5月15日]]、高畑勲のお別れ会に出席し、開会の辞を読み上げた。<ref>[https://news.yahoo.co.jp/pickup/6282575 宮崎監督、号泣・・・高畑勲監督お別れ会] - スポーツ報知、2018/5/15閲覧</ref><br />
<br />
== 略歴 ==<br />
[[ファイル:HayaoMiyazakiCCJuly09.jpg|thumb|200px|[[2009年]][[7月28日]]、[[ジョン・ラセター]]との対談にて]]<br />
* [[1941年]] - [[1月5日]]、東京府東京市に生まれる。同年生まれのアニメ監督に、[[りんたろう]]、[[芝山努]]、[[富野由悠季]]、[[鳥海永行]]がいる。<br />
* [[1945年]] - [[7月12日]]、[[宇都宮空襲]]に遭遇。<br />
* [[1950年]] - 杉並区[[永福|永福町]]に転居。[[杉並区立永福小学校]]、[[杉並区立大宮中学校]]、[[東京都立豊多摩高等学校]]卒。<br />
* [[1963年]] - [[学習院大学]]政経学部卒業。[[東映アニメーション|東映動画]]入社。なお、同年の政経学部卒業生には、[[麻生太郎]](元[[内閣総理大臣]])、[[高島肇久]]([[東京倶楽部]]理事長、元NHK解説委員長)、[[三枝輝行]]([[阪神百貨店]]元社長)、[[有薗憲一]]([[ベスト電器]]元社長)らがいる。<br />
* [[1964年]] - 東映動画[[労働組合]]の第2代[[書記長]]に就任。なお、初代書記長は大塚康生。<br />
* [[1965年]] - 同僚の[[太田朱美]]と結婚<ref>なお、妻の朱美には著書『ゴローとケイスケ―お母さんの育児絵日記』がある。</ref>。なお、式の司会は大塚康生。<br />
* [[1967年]] - 長男([[宮崎吾朗]]・(財)[[徳間記念アニメーション文化財団]]理事)誕生。<br />
* [[1970年]] - [[所沢市]]に自宅を移す。次男([[宮崎敬介]]・木口木版画家)誕生。<br />
* [[1971年]] - [[高畑勲]]、[[小田部羊一]]と共に[[Aプロダクション]](現[[シンエイ動画]])に移籍。<br />
* [[1973年]] - [[高畑勲]]、[[小田部羊一]]と共に[[瑞鷹 (アニメ制作会社)|ズイヨー映像]](後に[[日本アニメーション]]に改組)に移籍。<br />
* [[1978年]] - 『[[未来少年コナン]]』で演出家に転向。<br />
* [[1979年]] - [[東京ムービー]]の子会社[[テレコム・アニメーションフィルム]]に移籍。<br />
* [[1982年]] - 1月より『アニメージュ』誌上で『風の谷のナウシカ』連載開始。日米合作劇場アニメーション映画『[[リトル・ニモ]]』の準備に携わったが企画への疑問から製作から降り、[[11月22日]]、[[テレコム・アニメーションフィルム]]を退社。<br />
* [[1984年]] - 4月、個人事務所[[二馬力]]を設立。<br />
* [[1985年]] - [[スタジオジブリ]]を設立。<br />
* [[1990年]] - 東京都民文化栄誉章を受章。<br />
* [[1996年]] - [[淵の森]]保全連絡協議会を結成し、会長に就任。<br />
* [[1998年]] - スタジオジブリを退社し、「[[豚屋]]」を設立。第26回[[アニー賞]]・生涯功労賞、[[山路ふみ子]]文化賞、[[淀川長治]]賞を受賞。<br />
* [[1999年]] - スタジオジブリに所長として復帰。<br />
* [[2000年]] - 第3回[[司馬遼太郎賞]]を受賞。<br />
* [[2001年]] - [[三鷹の森ジブリ美術館]]を創立し、初代館主に就任。第49回[[菊池寛]]賞を受賞。<br />
* [[2002年]] - [[朝日賞]]、[[フランス]]国家功労賞、[[パリ]]市勲章を受章。『Business Week』誌のStar of Asia・イノベーター部門に選出。<br />
* [[2003年]] - [[埼玉県]]民栄誉賞を受賞。『[[TIME]]』誌アジア電子版の「アジアの英雄20人」に選出。<br />
* [[2004年]] - 12月、[[パリ造幣局美術館]]にて、初の個展となる「MIYAZAKI-MOEBIUS」展を開催。<br />
* [[2005年]] - [[徳間書店]]より独立した、株式会社スタジオジブリの取締役に就任。第62回[[ヴェネツィア国際映画祭]]・[[栄誉金獅子賞]]、[[国際交流基金]]賞を受賞。『[[TIME]]』誌の「世界で最も影響力のある100人」に選出。<br />
* [[2006年]] - [[日本テレビ放送網|日本テレビ]]2階・[[マイスタジオ|マイスタ]]外壁に設置される巨大時計のデザインを手掛ける。『TIME』誌アジア版の「60年間のアジアの英雄」に選出。<br />
* [[2008年]] - スタジオジブリ社内[[保育園]]『3匹の熊の家』を竣工し、初代園長に就任。東京都[[小金井市]]名誉市民に選出。長男に息子が生まれ、初孫を授かる。<br />
* [[2009年]] - 第2回[[バークレー日本賞]]を受賞。『Fast Company Magazine』の「ビジネスシーンで最もクリエイティブな世界の100人」の31位に選出。<br />
* [[2010年]] - 東京都[[三鷹市]]の名誉市民に選出。<br />
* [[2012年]] - [[文化功労者]]。<br />
* [[2013年]] - 9月、長編映画製作から引退すると発表<ref name="mainichi130901" />。<br />
* [[2014年]] - 第87回[[アカデミー名誉賞]]<ref name="movie">[[宮崎駿#外部リンク|外部リンクに映像]]</ref>を受賞。<br />
* [[2015年]] - [[辺野古基金]]共同代表就任。<br />
* [[2017年]] - 2月、長編映画制作に復帰すると発表。<br />
<br />
== 作風 ==<br />
; 子供の視点<br />
: 一貫して子供に向けて作品を作り続けている。これについて、「厳しい現実世界からの、子供の一時の逃げ場が必要だ」という趣旨の発言をしている<ref>富沢洋子編『また、会えたね!』[[アニメージュ#アニメージュ文庫|アニメージュ文庫]] 徳間書店、1983年</ref>。[[児童文学]]を愛読し、「アニメーションは基本的に子供の物」と公言し、その作品はほぼ一貫して子供の視点に立ち、[[悪役]]を大人にすることが多い。ただし宮崎作品では悪役もまた、多くの場合重層的で複雑なキャラクターであり、どこかしら憎めない存在として描かれる<ref>『天空の城ラピュタ』の[[ムスカ]]は例外。</ref>が、『千と千尋の神隠し』以降の作品ではそうした悪役が登場することもなくなっている。<br />
: 宮崎は、自分の息子が子供だった頃には、その年代に合わせて、成長するにつれて対象年齢を上げて作品を作り<ref>宮崎駿『出発点 1979〜1996』岩波書店、1996年、pp.83,88</ref>、息子が成長しきると今度は友人などの子供を対象にしており、『千と千尋の神隠し』の公開時にはガールフレンドである友人の娘のために作った作品だと説明している<ref>「宮崎駿ロングインタビュー この映画が作れて僕は幸せでした」『千尋と不思議の町 千と千尋の神隠し徹底攻略ガイド』ニュータイプ編、角川書店、2001年、p.35</ref>。スタジオジブリについても、子供向けのいい映画を作るスタジオにしたいと語っていた<ref>宮崎駿『出発点 1979〜1996』岩波書店、1996年、p.123</ref>。<br />
: 主人公が少女であることが多いが、この理由は同性であると対象化しきれず、元気な女の子の方がやる気が出るからのとのこと。同性だと自身と重ね合わせすぎて悲観的な物語にしかならないとも語っている。<br />
: 最も本人の趣味が反映された『[[紅の豚]]』に関しては製作後も「道楽でくだらない物を作ってしまった」と罪悪感に囚われ続け、次回作が完成して漸く「呪い」から解放されたと述べている<ref>CUT誌2009/11/19号</ref>。<br />
; 脚本なしでの制作<br />
: 制作の準備段階でイメージボードを大量に描いて作品の構想を練り、[[脚本]]なしで[[絵コンテ]]と同時進行で作品を制作していくという手法で知られる。これは、周囲から「日本アニメーション界の[[ウォルト・ディズニー]]」「制作要らずの宮さん」と呼ばれる程の超人的制作管理能力を持つ宮崎にして初めて可能な手法である。また漫画作品においても、一コマ単位で下書き・ペン入れ・仕上げを行うという独特のスタイルで執筆されている。ただし、まったくの白紙の状態から絵コンテを描くわけではなく、ノートにストーリーの構成やアイディアを書いている。本人によれば、「一日中文字を書いていることもある」ということである<ref>宮崎駿『折り返し点 1997〜2008』岩波書店、2008年、p389。</ref>。<br />
; 軍事マニア<br />
: [[軍事史|戦史]]・[[兵器]]マニアとして知られ、[[第二次世界大戦]]から前の[[甲冑]]・鎧兜や兵器([[装甲戦闘車両]]、[[軍用機]]など)に造詣が深い。作中で登場する武器や乗り物にはその知識が十全に活かされている。この方面の趣味が発揮されている作品としてはアートボックス社『月刊[[モデルグラフィックス]]』誌の『[[宮崎駿の雑想ノート]]』という虚実織り交ぜた架空戦記物の超不定期連載漫画がある。連載初期は珍兵器を描いた数ページの絵物語だったが、次第にコマが割られてストーリー漫画に変貌していった。漫画の形態に変わった後の特徴として、作中に登場する女性は普通の人間だが、男性は欧米を舞台とした作品の場合は擬人化された動物になっている<ref>一応国ごとに動物が割り当てられており、ドイツ=豚、イギリス=犬(自ら手がけた『名探偵ホームズ』と同じデザイン)、アメリカ=ゴリラとなっている(ソ連にも豚を用いた例あり)。アジア人が登場する作品では動物化はされていない。</ref>。2009年から2010年にかけて『[[モデルグラフィックス]]』誌に[[零式艦上戦闘機]]の開発者である[[堀越二郎]]の若き日をフィクションも入れて描く『風立ちぬ』を連載し、前記の通りこれをベースとしてアニメ映画が制作された(2015年に単行本化)。また、[[一式戦闘機|一式戦闘機「隼」]]の活躍と[[大日本帝国陸軍|陸軍]][[エース・パイロット]]の戦果を記録した、戦史家[[梅本弘]](市村弘)の著作『第二次大戦の隼のエース』の刊行に際して、アートボックス編集部に対し本書を読んだうえで賞賛・激励の文書を送っている<ref>[http://www.modelkasten.com/book/osprey/230285.html MODELKASTEN 第二次大戦の隼のエース]</ref>。ジブリ内の会議中でも、暇さえあれば今でも戦車の落書きを描いているという。また『天空の城ラピュタ』や『崖の上のポニョ』の劇中、[[モールス符号]]での通信シーンが登場するが、あの符号は全て実在し、言葉としてきちんと成り立っている。<br />
; 声優の起用方針<br />
:『[[もののけ姫]]』以降の作品では、主要なキャストに[[声優|職業声優]]の起用を避ける傾向がある。<br />
:ジブリにおいても、[[斯波重治]]が録音監督を担当した『[[風の谷のナウシカ]]』『[[天空の城ラピュタ]]』『[[となりのトトロ]]』および、斯波の跡を継いだ[[浅梨なおこ]]による『[[魔女の宅急便 (1989年の映画)|魔女の宅急便]]』『[[紅の豚]]』では職業声優を中心に起用していた(『魔女の宅急便』のキャストは同時期に斯波が録音演出を担当していたテレビアニメ『[[らんま1/2]]』とほぼ被っている)。一方で、『[[天空の城ラピュタ]]』の[[寺田農]]や『[[となりのトトロ]]』の[[糸井重里]]のように、俳優、タレント、文化人などを重要な役柄に声優として起用していた。『[[もののけ姫]]』以降は、主役・準主役に声優を本業としない[[俳優]]や[[女優]]を起用することが多い。キャスティングは主にプロデューサーの[[鈴木敏夫]]の管轄であり、『[[ハウルの動く城]]』の[[木村拓哉]]なども鈴木の発案である<ref>一部の報道記事では「木村が自らジブリ側に連絡を入れて出演を志願した」としているものもある。</ref>。<br />
: これに関して宮崎は、外国メディアからのインタビューの中で「日本の女性声優は男性を惹きつけるコケティッシュな声を持っているが、それは私達の望むものではない」と述べている<ref>{{cite news|url=http://film.guardian.co.uk/interview/interviewpages/0,6737,1569689,00.html|publisher=guardian.co.uk|title=A god among animators|accessdate=2010-09-03}}</ref>。また[[2008年]]の[[ヴェネツィア国際映画祭]]では、「アニメとかじゃなく、映画を作っていると思ってます。」と語っている。<br />
: 宮崎が初期に関わった東映動画作品(『[[太陽の王子 ホルスの大冒険]]』等)でも、舞台や映画の俳優が多く出演している事でも分かるように、アニメーション映画の声の配役においては、宣伝効果を狙い知名度の高い俳優を起用することは変わったことではない。とは言え、ジブリにおいても主役以外のキャストはもっぱら職業声優によって占められている。『[[となりのトトロ]]』の続編である「メイとネコバス」を制作する際、サツキとメイのキャストを変更する案もあったが、結局オリジナルの声優を起用している。<br />
; 作品名の共通点<br />
: 監督を担当した長編アニメーション映画のほとんどの作品名に、千と千尋'''の'''神隠し、崖の上'''の'''ポニョなど、平仮名の「[[の]]」が含まれている<ref>[[世界一受けたい授業]]より{{出典無効|date=2015年9月}}。[[「の」の法則]]も参照。</ref>。<br />
: ただし、必ずしも本人の意図ではなく、『もののけ姫』では『アシタカ𦻙記』<ref>「𦻙記」の読みは「せっき」。「𦻙」(草冠の旧字体の下に耳を二つ)は宮崎による「正史には残らずに耳から耳へ伝えられた物語」を意味する創作であり日本の漢字には存在しない。これに相当するものが台湾の漢字に存在し、[[Unicode]]ではU+26ED9(CJK統合漢字拡張B)に収録されている。「聶」(耳を三つ)は誤記あるいは代用表記。</ref>を題名にしたかったという宮崎の意に反して鈴木敏夫により『もののけ姫』で既成事実化されたといい、宮崎本人は必ずしも拘ってはいない<ref>鈴木敏夫『仕事道楽 スタジオジブリの現場』岩波新書、2008年、p.86</ref>。<br />
; 作風の変化<br />
:作品には常に新しい試みを盛り込み、「昔のような作品を観たいなら、昔のやつを観てればいい。同じものを作って何の意味がある?」という旨の発言を度々行っている。特に『千と千尋の神隠し』以降からは劇的に作風が変化し、ストーリーの一貫性を放棄したとも見える[[プロット (物語)|プロット]]を用いている。彼自身も『崖の上のポニョ』制作の過程を追った『ポニョはこうして生まれた』で「僕はもう既成の起承転結のよくできたストーリーの映画なんか作りたくない」「自分の作品の大衆性が低くなっている」と発言している。<br />
<br />
== 高畑勲との関係 ==<br />
<p>アニメーション作家・映画監督の[[高畑勲]]は[[東映アニメーション|東映動画]](現・[[東映アニメーション]])時代の先輩であり宮﨑に多大な影響を与えた。東映動画の[[労働組合]]に[[書記長]]として従事した際、高畑は副委員長として宮﨑を支え交流を深めていった。</p>高畑の初監督作品・映画『[[太陽の王子 ホルスの大冒険]]』(1968年)の制作がスタート、当時新人だった宮崎だったが次々とイメージボードを描きアニメーター(兼 [[場面設定]])として大抜擢された。人間の深層心理を描いた初のアニメーション映画でありアニメ作品としての構成、作画クオリティは当時として最高峰であり、児童向けアニメながら、高畑が注入した職人[[ギルド]]・[[コミューン]]の形成と[[善悪]]の[[彼岸]]を描いた思想背景、労働者コミュニティの連帯感、[[ベトナム戦争]]が影を落とした社会情勢も加味して作品作りに反映させ、強烈な“作家性”に宮崎が傾倒。含蓄ある知識と主義思想を物語に落とし込み、大胆な[[レイアウト]]で魅せる高畑の演出も宮﨑にとっては憧れの的だった<ref name=":0">{{Cite web |date=2018-04-08 |url =https://www.oricon.co.jp/special/50964/ |title =「監督・宮崎駿」を生み出した高畑勲の功績 肉親以上の関係だった2人の天才 |work= |publisher =ORICON |accessdate =2018-05-20 }}</ref>。{{要出典範囲|date=2018年5月|奥行きのあるリアルな世界観を構成したい高畑にとっても天才的な空間把握能力を持つ宮崎の能力はなくてはならないものとなった。}}<br />
<br />
[[ルパン三世 (TV第1シリーズ)|ルパン三世第一シリーズ]](共同演出)、[[パンダコパンダ]](高畑が監督、宮崎が脚本、画面設計)、[[アルプスの少女ハイジ]]、[[母をたずねて三千里]](高畑が監督、宮崎が画面設定)などを共に手掛け、高畑の演出テクニックを吸収した<ref name=":0" />。『[[風の谷のナウシカ (映画)|風の谷のナウシカ]]』・『[[天空の城ラピュタ]]』では高畑は[[プロデューサー]]を務める。宮崎は[[音楽]]には疎いため、音楽的知識が豊富で[[ピアノ]]が弾けて自ら[[作曲]]も行う高畑は献身的にサポートした<ref name=":0" />。{{要出典範囲|date=2018年5月|当時無名だった久石譲をスカウトしてきたのも高畑である}}。<br />
<br />
ハイジや三千里で共に仕事をした[[富野由悠季]](絵コンテ担当)は「世情的には、『ラピュタ』以後の二人が袂を分かったという声も聞きますが、全くそんなことはありません。高畑さんの訃報の後、改めてお二人の関係性を考えて結論が出ました。高畑さんがいなければ、宮崎駿という“映画監督”は生まれませんでした!」 「宮崎さんも、高畑さんについて『僕が読めない本を読んでる』と言っていました。そういう部分を容認するのか、乗り越えるのか、どうやったら高畑さんを黙らせられるのか、それを絶えず考えていた結果が、宮崎アニメだと思っています」「世間は宮崎さんがアカデミー賞を取ったこと(2002年、『千と千尋の神隠し』がアカデミー賞長編アニメ賞を受賞)から、高畑より宮崎の方が上、なんて気分があるのかもしれません。でも、高畑さんがいなければ、宮崎さんはアカデミー賞を取れなかったと断言できます」<ref name="oricon51017">{{Cite news|title=富野由悠季が語る『ガンダム』のリアルを生んだ“高畑勲イズム” 「高畑さんは僕にとっても師匠」|url=https://www.oricon.co.jp/special/51017/|accessdate=2018-05-18|language=ja-JP|work=ORICON NEWS}}</ref>。<br />
<br />
その後、[[ファンタジー]]や[[リアリティ]]の考えの違いから2人は別個に創作するようになるが常に2人は相手のことを気にかけていた。互いに強烈な負けず嫌いという共通点もあるが、高畑に対する宮﨑の畏敬の念は特別だった。『[[千と千尋の神隠し]]』の制作の際、宮﨑は視点がずっと千尋を追うことに対し「パクさん(高畑)に怒られるな」とぼやいていた。これは演出に際し、そういうことだけは絶対にやるなと高畑さんに教わったためである<ref name=":0" />。<br />
<br />
ふたりの巨匠を支えてきた鈴木敏夫プロデューサーは「宮さん(宮崎駿)はじつはただひとりの観客を意識して、映画を作っている。宮崎駿がいちばん作品を見せたいのは高畑勲」と語っている<ref name=":0" />。<br />
<br />
宮崎監督自身もインタビューで「宮崎さんは夢を見るんですか?」という問いに、「見ますよ。でもぼくの夢はひとつしかない、いつも登場人物は高畑さんです」と答えたことがある。<ref>{{Cite web|url=http://lite-ra.com/2018/04/post-3937.html|title=高畑勲監督の死に宮崎駿監督は…鈴木敏夫Pは「宮崎駿はただひとりの観客、高畑勲を意識して映画を作っている」と - 本と雑誌のニュースサイト/リテラ|accessdate=2018-05-18|website=本と雑誌のニュースサイト/リテラ|language=ja-JP}}</ref><br />
<br />
== アニメ界への意見 ==<br />
<br />
; 日本のアニメ界への危機感<br />
: 以前から、短時間・低予算で量産される日本のアニメーションに対して危機感を抱き続けており、[[1985年]]2月号のアニメ雑誌『[[アニメージュ]]』の[[押井守]]、[[河森正治]]との対談や、[[1986年]]『天空の城ラピュタ』製作中に行ったアニメーション雑誌記者との会見にて<ref>『[[コミックボックス]]』に全録、『[[月刊OUT]]』みのり書房、1986年8月号に抄録で掲載。</ref>「セーラー服が機関銃撃って走り回っているアニメーションを作っていちゃダメなんです」「女の子がバズーカ振り回すような作品はいいかげんやめてほしい」と発言していた。2002年の[[ベルリン映画祭]]金熊賞受賞の際の記者会見のインタビューでは「今の日本のアニメーションはどん詰まり」などと語り、イギリスの[[英国放送協会|BBC]]など、日本国内外の様々なメディアで伝えられ、日本国内のみならず日本国外のアニメーションファンを含めて様々な反響があった<ref>『アニメージュ』2002年5月号において、宮崎の発言に対する5人のアニメ業界人のコメントを掲載。久美薫『宮崎駿の仕事 1979〜2004』(鳥影社、2004年)では宮崎発言が「反響が大きかった」とし、久美自身も8ページをかけて宮崎発言を論じる。</ref>。<br />
; 手塚治虫の評価<br />
: [[1989年]]、[[手塚治虫]]が亡くなった時、漫画では自分も影響を強く受けた、と全面的に肯定した上で、アニメーション作家としての手塚治虫を、店子(たなこ)を集めてムリやり義太夫を聴かせる落語の長屋の大家と同じであると、痛烈に批判した。同じインタビューの中では、手塚治虫作品の悲劇性についても否定的な見解を示し、その文脈から「ある街角の物語」「しずく」などの、手塚が自主制作していたアニメ作品に対しても、否定的評価を下した<ref>「手塚治虫に「神の手」をみた時、ぼくは彼と決別した」『[[コミックボックス]]』ふゅーじょん・ぷろだくと、1989年5月号(宮崎駿『出発点 1979〜1996』に所収)</ref>。<br />
: それ以降は、手塚について語る事はほとんど無かったが、[[2009年]]に行われたインタビューでは、7歳の時に手塚の「[[新宝島]]」を読み「いわく言い難いほどの衝撃」を受けたことや、初期のSF三部作の虜になっていたことを明かした。その一方で、アニメ作品に対しての評価は変わらず、「しかし、僕は手塚さんがひどいアニメーションを作ったことに、ホッとしたのかもしれません。これで太刀打ちできると」と述べた<ref>[http://www.yomiuri.co.jp/entertainment/ghibli/cnt_eventnews_20090414b.htm 宮崎駿さんの手塚体験 「原点だから崇拝しない」](2009年4月)</ref>。<br />
:宮崎は1963年に東映動画で手塚治虫原案の「わんわん忠臣蔵」にアニメーターの一人として参加し、1977年には手塚治虫原案の「草原の子テングリ」でレイアウトを務めた。また1981年には手塚と宮﨑との合作アニメ映画「ロルフ」も企画されていた<ref>徳間書店「アニメージュ」1981年8月号</ref>。この合作は作られなかったがロルフの企画は名前を変え「風の谷のナウシカ」の原案になった<ref>徳間書店「The art of Nausica」1984年6月20日</ref>。<br />
; ディズニーの評価<br />
: 前述の手塚治虫に対する批判の1年程前に[[ディズニー]]に対しても批判をおこなっている。「ぼくはディズニーの作品がキライだ。入口と出口が同じ低さと広さで並んでいる。ぼくには観客蔑視としか思えないのである」<ref>岩波書店『講座日本映画』第7巻『日本映画の現在』宮崎駿『日本のアニメーションについて』1988年1月</ref>。その一方で配給やスタジオジブリの社長をディズニー日本法人の社長が務めるなどディズニーとジブリは密接な提携を結んでおり、近年では賞賛の発言が見られる。スタジオジブリが協力したディズニー・アート展の特集番組では「芸の力」、「本当に驚きましたね」、「尊敬の念は消えません」など賛辞を述べている<ref>日本テレビ系『知られざるディズニーの魔法〜ディズニー・アート展を100倍楽しく見る方法〜』2006年7月15日</ref>。<br />
<br />
== 政治的・思想的スタンス ==<br />
=== 反戦 ===<br />
: 著名なミリタリーマニアである一方、現実の[[戦争]]行為には断固として反対している。大学時代には「戦争がいかに経済的に不合理であるか」という経済学の講義に感銘を受け、収集していた軍事関係の書籍を全て捨てた経験もある。作品中では『[[未来少年コナン]]』『[[風の谷のナウシカ]]』『[[もののけ姫]]』などに見られるように、侵略者や圧制に対する武力抵抗を肯定するような描写もあり、そのスタンスは単純な非暴力・反戦というわけでもない。しかし一貫して戦争の悲惨さや愚かさを描き、兵器や戦争が登場する作品でそれらを安易に美化する事はない。『風の谷のナウシカ』など複数の作品に登場する戦火にのまれる街の描写などは堀田善衛の方丈記私記をイメージしたものだという<ref>『[[NEWS ZERO]]』([[日本テレビ系]])ZERO CULTURE 宮崎アニメの原点(2008年11月24日)</ref>。[[湾岸戦争]]に対しては米国政府の方針に反対の立場を表明して、[[小田実]]を中心とする市民グループ「市民の意見30の会」による、「[[ニューヨーク・タイムズ]]に湾岸戦争を批判した意見広告を掲載しよう」という呼びかけに応じている他<ref>「「それでも戦争は正しくない」 文化人ら市民が米紙に意見広告計画」『[[朝日新聞]]』[[1991年]][[3月16日]]朝刊31面</ref>、同時期に製作した『[[紅の豚]]』も湾岸戦争に対する反感が作風に反映されているという<ref>『CUT』誌2009年11月19日号</ref>。<br />
; 第二次世界大戦<br />
:『[[風立ちぬ (2013年の映画)|風立ちぬ]]』製作時には作品テーマもあって、[[第二次世界大戦]]における日本の戦争責任について積極的に発言している。「自分は若い頃は戦争責任があるかないかと言う見方をしていた。しかし後の世から断罪するのは簡単。一方で、零戦を作った優秀な技師として[[堀越二郎|二郎]]を祭り上げる動きもあります。いずれも、あの時代の空気を肌で感じようとしていない」「一つの時代を遠くから見て、灰色だとか決め付けることは間違っている」<ref>2013年7月16日 朝日新聞</ref>としつつも、堀越二郎を祭り上げる動きに関しては「零戦、零戦と騒ぐマニアの大半は、コンプレックスで凝り固まり、何かに誇りを持たないとやっていけない人間です。思考力や技術力を超えた堀越二郎の天才的なひらめきの成果を、愛国心やコンプレックスのはけ口にして欲しくはない。僕は今度の映画で、そういう人々から堀越二郎を取り戻したつもりです」<ref>[http://www.asahi.com/shimen/articles/TKY201307190544.html (インタビュー)零戦設計者の夢 映画監督・宮崎駿さん 2013年7月20日 朝日新聞DIGITAL]</ref>「二郎や自分の父親が無罪だなんて思っていません」<ref>2013年8月11日号 しんぶん赤旗</ref>と述べている。<br />
:同時期にスタジオジブリ出版の小冊子『熱風』の寄稿文で、日本が第二次世界大戦に参加したことについては子どもの頃に「本当に愚かな戦争をした」「実際情けない戦争だったんだ」と感じたと述べている<ref name="n">[http://www.ghibli.jp/shuppan/np/009348/ 小冊子『熱風』2013年7月号の特集は「憲法改正」です。]</ref><ref name="npdf">[http://www.ghibli.jp/docs/0718kenpo.pdf 『熱風』2013年7月号特集「憲法改正」]</ref>。この他にも「日本だけが悪人ということではないと思いますけど、そうかといって「最後に入っただけなのに、俺はなぜ捕まるんだ?」と言うのもおかしい」「非武装中立ということは現実にはあり得ないです。だからリアリズムで考えても、一定の武装はしなきゃいけない。ただ、それ以上は「ちょっと待て」っていうのがやっぱり正しいと思うんです」「慰安婦の問題も、それぞれの民族の誇りの問題だから、きちんと謝罪してちゃんと賠償すべきです」とも述べている<ref name="n"/><ref name="npdf"/>。<br />
:こうした姿勢は当事者国の一つである[[東アジア]]諸国で広い賞賛を受けており、中国の「[[人民日報]]」は[[微博]](国営[[SNS]])を通じて「記憶にとどめておくべき良識ある日本人」として宮崎の名を挙げている<ref>[http://www.recordchina.co.jp/a114194.html 戦後70年、中国メディアが選んだ「良識ある日本人」に宮崎監督ら9人](2015年7月16日 [[Record China]])</ref>。韓国でも『[[風立ちぬ (2013年の映画)|風立ちぬ]]』公開時に意図を説明する為の記者会見を行うなどの姿勢もあり<ref>[http://www.recordchina.co.jp/a108450.html 宮崎駿、新作映画に対する韓国での批判を受け記者会見](2014年7月31日 blouinartinfo)</ref>、「日本の生ける良心」と賞賛されている<ref>[http://jp.blouinartinfo.com/news/story/934266/gong-qi-jun-xin-zuo-ying-hua-nidui-suruhan-guo-denopi-pan 宮崎駿さん、辺野古移設に反対する基金の共同代表に=韓国ネット「生ける良心、尊敬する」「日本では反政府的と批判されるんだろうな」](2015年5月10日 [[Record China]])</ref>。<br />
; 憲法改正<br />
:2013年に[[憲法改正論議]]が加熱した際、スタジオジブリ出版の小冊子『熱風』2013年7月号での特集「憲法改正」で憲法改正への反対声明を行った。声明の中で宮崎は「憲法を変えるなどもってのほか」という題の寄稿文で宮崎は憲法改正に反対の立場であることを闡明にした<ref name="n"/><ref name="npdf"/>。寄稿文の中で憲法を議論する環境として「得票率も投票率も低い、そういう政府がどさくさに紛れて、思いつきのような方法で憲法を変えようなんて、もってのほか」であるとしている。特に[[日本国憲法第9条|憲法9条]]と[[自衛隊]]については「憲法9条と照らし合わせると、自衛隊はいかにもおかしい。おかしいけれど、そのほうがいい。国防軍にしないほうがいい。」と述べ、自衛隊は専守防衛に徹するべきであり、「そうしないと、本当にこの国の人たちは国際政治に慣れてないからすぐ手玉に取られてしまいます。もし戦争になるとしても、そのほうがまだましだと考えます」としている。同寄稿文では現行憲法下での自衛隊についても好意的に評価している。災害時の活動について「やっぱりこれはいいものだと思います。隊員たちはよくやっていて、礼儀正しい。」とし、イラク戦争で行われた海外派遣については「イラクに行かざるを得なくなっても一発も撃たず、ひとりも殺しもせず帰って来ました」「僕は立派だったと思います」と戦地でも専守防衛を貫いた自衛隊を高く評価をしている<ref>http://www.ghibli.jp/10info/009354.html 2013年7月18日小冊子『熱風』7月号特集 緊急PDF配信のお知らせ</ref>。<br />
:また憲法96条を先に改正する案についても「条項を変えて、その後にどうこうするというのでも成り立つ」が、それは「詐欺」で「やってはいけないこと」であるから、国の将来を決定するには「できるだけ多数の人間たちの意見を反映」させ「変えるためにはちゃんとした論議をしなければいけない」と述べている。<br />
; 集団的自衛権<br />
: 憲法改正論議が沈静化した後、海外活動を円滑化する為に[[憲法解釈]]を用いた[[集団的自衛権]]の整備が[[第2次安倍内閣]]で推進されると、[[日本外国特派員協会]]での[[記者会見]]で[[安倍晋三]]首相を「偉大な男として歴史に残りたいと思っているんだと思います」「でも残らないでしょう」と厳しく批判した<ref name="blo"/>。現行憲法は[[十五年戦争|15年間にわたる戦争]]とその戦禍を生き延びた人々にとって「光が差し込むような体験」であったと高く評価している。いわゆる「[[押し付け憲法論]]」であるという批判に対しても、1928年の[[不戦条約]](戦争抛棄ニ関スル条約)の精神を引き継いだものであり、特異な内容でもなければ決して押し付けでもないと述べている<ref name="blo"/>。<br />
<br />
=== 生命倫理・反差別 ===<br />
: 2016年[[1月28日]]に東京都港区で開かれた「[[ハンセン病]]の歴史を語る人類遺産世界会議」で宮崎は、「もののけ姫」の一場面でハンセン病患者を描いた経緯について、自宅から歩いて15分程にある[[国立療養所多磨全生園|全生園]]を訪問し、園内資料館で展示されていた脱走防止用の「[[ハンセン病療養所の特殊通貨|園内通用券]]」などを見て衝撃を受け、「おろそかに生きてはいけない。作品を真正面からやらなければならない」と語った<ref name="asa20160129">{{Cite news |title=宮崎駿監督、生への思い 「もののけ姫」ハンセン病患者 |newspaper=朝日新聞 |date=2016-01-29 |author=朝日新聞デジタル |authorlink=http://www.asahi.com/ |url=http://www.asahi.com/articles/ASJ1X4TX2J1XUTIL01N.html |accessdate=2017-04-27 |location=東京都 |publisher=株式会社朝日新聞社 |language=日本語 |archiveurl=http://www.jinken.ne.jp/flat_topics/2016/01/post_2764.html |archivedate=2016-01-30 }}</ref><ref name="kinyoubi20160219">{{Cite journal |和書 |author=西川伸一 |title=西川伸一の政治時評 終わらない人権犯罪 ハンセン病家族が提訴 |date=2016-02-19 |publisher=株式会社金曜日 |journal=週刊金曜日 |volume=1076 |page=10 |accessdate=2017-04-27 }}</ref>。<br />
<br />
=== 左翼・社会主義 ===<br />
: 学習院大学時代に社会主義や共産主義などの[[左翼]]運動を知り、大学で過ごした4年間で少しずつ傾倒していったという。東映動画入社の志望動機書には「米帝[[ディズニー]]に対抗しうる国産アニメを作る」と書かれていたと[[岡田斗司夫]]が著書で述べている<ref>「オタク学入門」(太田出版、1996年)後に[[新潮文庫]]</ref>が事実かは不明。実際に[[高畑勲]]らと入社後に激しい組合活動を行っている。宮崎は理論や理屈で物事を語る事を嫌っており(本を読む事も本来は好きではないと語っている)、政治についても経済学部出身ながら[[資本論]]などの理論書は読んでいないと率直に述べている<ref name="kaze1">宮﨑駿『風の帰る場所』([[文藝春秋]]社、[[2013年]])収録、「風が吹き始めた場所([[1990年]][[11月]]収録)」</ref><ref>宮﨑駿『本へのとびら――岩波少年文庫を語る』(岩波新書・2011年)</ref>。宮崎は「社会主義っていうのは、そんなに難しい問題じゃないんじゃないかと思いましたからね。[[希望]]ということなんじゃないかって思いましたから」と述べている<ref name="kaze1" />。ただし後年に「[[カール・マルクス|マルクス]]的な見方を完全にしなくなった訳ではない」とする趣旨の発言や<ref>『CUT』誌2009年11月19日号</ref>、「今は[[プロレタリアート]]がいない代わりに、良い人と悪い人がいるって思ってるだけでね」と語るなど影響を受けている事は認めている<ref name="kaze3">宮﨑駿『風の帰る場所』([[文藝春秋]]社、[[2013年]])収録、「風の谷から油屋まで([[2001年]][[11月]]収録)」</ref>。<br />
; 思想転向があったとする意見<br />
:その後も[[左翼]]的思想を保ち続けていたが、冷戦崩壊期の[[1989年]]に起きた[[六四天安門事件|天安門事件]]および[[東欧革命]]に大きな衝撃を受け、社会主義陣営の歴史的敗北という現実を前に思想的修正を余儀なくされたとする向きもある<ref>これら及び“社会主義への傾倒から照葉樹林文化論への転向”(後述)といった宮崎の精神的変遷に関しては久美薫『宮崎駿の仕事 1979〜2004』(鳥影社、2004年)、井上静著『宮崎駿は左翼なんだろう?』(世論時報社・1998年)、評論集『宮崎駿の着地点をさぐる』(青弓社・1997年)等で詳説されている</ref>。<!--また[[昭和天皇]]の自然観に対して共感を示したこともある{{要出典|date=2009年8月}}-->宮崎の強権的「[[国家]]」に対する批判的姿勢は、宮崎が尊敬崇拝する作家の[[堀田善衛]]や[[司馬遼太郎]]らからの影響から、人間の実相を「もっと長いスタンスで、もっと遠くを見る」ように凝視する、宮崎が"澄んだニヒリズム"と呼ぶところの姿勢に転換していく。例えば漫画版『風の谷のナウシカ』のラストなどに、その人間観・世界観の変化の影響が見受けられる。<br />
; 思想転向はしていないという意見<br />
:しかしこうした「左翼から転向した」という言説については宮崎自身が再三にわたって否定する発言をしている。宮崎はもともと統制的・強権的な[[ソ連型社会主義]]には懐疑的で、ソ連や中国の「間違った社会主義」に対する批判は以前から行っており、「ソ連も嫌いな国ですが、中国も嫌いだし、アメリカも嫌いです。日本も嫌いだけどね」と発言している<ref name="kaze1" />。[[ニューヨーク近代美術館]]での会見で中国の[[毛沢東]]の語録を引用して若手アニメ作家に向けて助言したこともあったが<ref>{{cite web<br />
| url = http://www.asahi.com/culture/entertainment/dvd/news/TKY200506110162.html | title = 宮崎監督、毛語録引用し若手に助言 MoMAで会見 | publisher = [[朝日新聞]]| accessdate = 2005-06-11}}</ref>、後に「かつて毛沢東の写真を最初に見た時、なんて嫌な顔だろう、と思いました。周囲が『大きな温かい人だ』と言うから、たまたま写りが悪かったんだ、と思おうとしたけど、その勘を信じればよかった」と述べている<ref>『(インタビュー)零戦設計者の夢 映画監督・宮崎駿さん』朝日新聞2013年7月20日</ref>。冷戦崩壊直前の[[1990年]][[11月]]には[[ソ連]]と対峙する[[ラトビア]]の独立運動で「[[人民戦線]]」という用語が使用されている事に触れながら、「[[社会主義]]が[[自由主義]]っていう形に、軍門に降ったなんて喜んでいる奴がいるけど。[[西ドイツ]]の現状はどうなんですか?[[西ベルリン]]が健康的な街なんですか?違いますよね」と述べている<ref name="kaze1" />。天安門事件で改革派の学生達がアメリカのような国を目標にしていると語っている事についても「その理想の底の浅さに愕然としますよ」と厳しく批判した上で、こうした冷戦末期の情勢を「人間の解放っていう問題よりも、みんな同じように大量消費の生活をしたいんだっていうね」と述べている<ref name="kaze1" />。『紅の豚』を制作した時には共産政権の解体後に起きた[[ユーゴスラビア紛争]]に触れ、民主化による[[民族主義]]の台頭に絶望感を覚えたという。そのユーゴスラビア付近を舞台にした作品中で孤独に生きる主人公の姿と自分が重なり、「俺は最後の[[共産主義者|赤]]になるぞって感じで、一人だけで飛んでる豚になっちゃった」と発言している<ref name="kaze2">宮﨑駿『風の帰る場所』([[文藝春秋]]社、[[2013年]])収録、「豚が人間に戻るまで([[1992年]][[7月]]収録)」</ref>。<br />
:宮崎は「左翼思想の根源にあったものっていうのは、時代を超えてもね、違う形をとっても同じだと思っています」と述べている<ref name="kaze1" />。<br />
<br />
===環境主義===<br />
; 自然保護運動<br />
: 世界観の描き方から、メディアではエコロジーの視点で評価されることが多い。また多くの作品で空を舞うシーンが描かれることが多いが、宮崎もそれを意識している(観客に作品世界の[[空間]]の広がりを意識させるためだという)。私生活で[[環境主義]]や自然保護運動に取り組んでいる事も広く知られており、[[民主党 (日本 1998-2016)|民主党]]の[[鳩山由紀夫内閣]]における在日米軍基地移転構想や[[菅内閣|菅直人内閣]]の[[再生可能エネルギー特別措置法]]などを高く評価している。<br />
: ただし宮崎は自身やその作風が環境主義的と定義される事は好ましく思っていないとも述べている。宮崎によれば公的な活動ではなく、早朝のゴミ拾いなど自分の目にする範囲内で環境に気遣う事にしていると述べている。沖縄・[[辺野古]]の自然を守る辺野古基金の共同代表に就任した際にも、自身にその資格があるのか要請を引き受ける直前まで悩んだという。<br />
; 反原発<br />
: スタジオジブリの小冊子『熱風』2011年8号で、宮崎が「NO! 原発」と書いたプラカードをぶら下げて歩く写真が表紙を飾った。表紙の説明には「6月11日、宮崎駿監督は[[小金井市|東小金井]]で小さなデモをした」と書かれてある。6月11日は同年3月に発生した[[東日本大震災]]の[[福島第一原子力発電所事故]]に関連して全国一斉にデモなどが呼びかけられた「6・11脱原発100万人アクション」の一環として新宿では約2万人が参加した大規模な反原発デモが行われた日であった。この号の特集「スタジオジブリは原発ぬきの電気で映画をつくりたい」には、宮崎駿、[[鈴木敏夫]]、[[河野太郎]]、[[大西健丞]]、[[川上量生]]による特別座談会が掲載され、宮崎は原発をなくすことに賛成と語っている。座談会では他に、1年前の2010年夏ごろ福島原発の施設内(福島県双葉郡富岡町の「エネルギー館」)に知らないうちに[[となりのトトロ|トトロ]]などのキャラクター商品を販売する店が置かれていたことが発覚し撤去させたことや、ジブリとしては原発に反対であることなども語られている<ref>スタジオジブリ『熱風』2011年8号</ref>。また、2011年6月16日からは、東京都小金井市のスタジオジブリの屋上に、宮崎の考案で「スタジオジブリは原発ぬきの電気で映画をつくりたい」と書かれた横断幕が掲げられている<ref>[http://www.alterna.co.jp/5932 ジブリ屋上に幕「原発抜きで映画を」 - ビジネス情報誌オルタナ]</ref><ref>[http://www.cinematoday.jp/page/N0033141 ジブリ横断幕は宮崎駿監督が考案!「攻撃的な意味はありません」とスタジオジブリがコメント - シネマトゥデイ]</ref>。<br />
<br />
=== ナショナリズムへの批判 ===<br />
: 閉塞感漂う日本の現状について尋ねられた際、「ナショナリズムからの解放」を主張するなど民族主義への批判を展開しており<ref>「[http://bizmakoto.jp/makoto/articles/0811/27/news004_2.html 宮崎駿監督、映画哲学を語る]」</ref>、「世界の問題は多民族にある」とも語っている。<!--最近では、問題になった[[新しい歴史教科書をつくる会]]の[[教科書]]を、「[[民族]]の『誇り』は、歴史を歪曲することで得られるものではない」と語ったことがある{{要出典|date=2008年10月}}。一方で司馬遼太郎や堀田善衛との鼎談で日本の被害国にもナショナリズムの行き過ぎが見られると批判しており{{要出典|date=2009年2月}}、コスモポリタン的な立場で各国の偏狭なナショナリズムを批判しているという主張もある{{要出典|date=2009年2月}}。--><br />
<br />
=== 風刺画 ===<br />
: [[シャルリー・エブド襲撃事件]]をめぐる[[風刺画]]問題について、「まずもって自国の政治家にやるべきであって、他国の政治家にやるのはうさんくさくなるだけ」と指摘。その上で、他の文明が崇拝しているものを対象にすることは「やめた方がいい」と話した<ref>{{cite news |language = | author = | url =http://www.huffingtonpost.jp/2015/02/16/hayao-miyazaki-ebudo_n_6694840.html| title=宮崎駿さん「異質文明が崇拝するものを風刺するのは間違い」ラジオで語る | publisher =| date= 2015-02-17| accessdate =2015-02-18}}</ref>。<br />
<br />
=== 欧米世界への批判 ===<br />
: [[J・R・R・トールキン]]の作品『[[指輪物語]]』が[[ピーター・ジャクソン]]監督により映画化された際、悪の勢力に味方するために象をつれて登場した人々が“アジア的”に描かれていたため、宮崎はこれを「黄人差別映画」であると批判した。また原作についても同様の批判を展開し、西洋ファンタジーの古典にそうした側面がある事を理解しない風潮を「馬鹿なんです」とも語った<ref name="フィギュア王">2002年10月号『[[フィギュア王]]』でのインタビュー。</ref>。また上述の流れからアメリカ映画(ハリウッド)全体に対しても「アメリカ人はダーッと撃ったらドイツが爆発したとか、相変わらずそんな映画ばかり作っている」「[[アフガニスタン戦争]]での[[誤爆]]と同じ理屈」など痛烈な批判を行い、(作り手の欧米人はともかく)日本人が一緒になって喜んでいる事を「信じられないぐらい恥ずかしい事」と評した<ref name="フィギュア王"/>。<br />
<br />
== 影響を受けた作家・作品 ==<br />
20世紀のなかで最も影響を受けたものとして、[[ブルース・スプリングスティーン]]、映画『[[イージー・ライダー]]』、そして[[ジョン・フォード]]の監督作品、とりわけ『[[荒野の決闘]]』を挙げている<ref name="cut">{{cite journal|和書|title=さよなら、20世紀|journal=[[Cut (雑誌)|Cut]]|publisher=[[ロッキング・オン]]|month=1|year=2001|page=64-81}}</ref>。そのほかに、[[エーリッヒ・フロム]]の『[[自由からの逃走]]』、[[ノーマン・メイラー]]の『[[裸者と死者]]』、[[デヴィッド・リースマン]]の『[[孤独な群衆]]』、フリッツ・パペンハイムの『''The Alienation of Modern Man''』といった本からも影響を受けたと述べている<ref name="cut"/>。<br />
<br />
=== アーシュラ・K・ル=グウィン ===<br />
{{see also|アーシュラ・K・ル=グウィン|ゲド戦記}}<br />
:ファンタジーの要素が含まれた作品を作る上で『[[指輪物語]]』を厳しく批判する一方、[[アーシュラ・K・ル=グウィン]]の『[[ゲド戦記]]』からの影響をしばしば公言し、「[[シュナの旅]]」などの作品に現れている。1976年に翻訳版が出た直後から読み始めて以降、片時も手放さず、何時でも読める様に寝るときも枕元に『[[ゲド戦記]]』を置いていたという。後年にル=グウィンと面会した時には自分が今まで作ってきた作品には全て『[[ゲド戦記]]』から影響された部分があると語っている<ref>「[http://www.ghibli.jp/20special/000283.html 世界一早い「ゲド戦記」インタビュー(完全版)]」[[スタジオジブリ]]</ref>。<br />
<br />
=== サン=テグジュペリ ===<br />
{{see also|アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリ}}<br />
:[[フランス]]の作家、[[アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリ]]の愛読者であり、とくに『[[人間の土地]]』を何度も読んでいる。様々な著名人が思い入れのある土地を旅するNHKの番組『[[世界・わが心の旅]]』(1998年放送分)の企画で宮崎は、サン=テグジュペリの時代の飛行機で航空郵便のパリから[[トゥールーズ]]、さらにスペイン経由でサン=テグジュペリが所長を務めたカップ・ジュピー飛行場跡([[モロッコ]])まで訪れており、この中で「サン=テグジュペリに一番影響を受けている」と発言している。サン=テグジュペリが当時危険だった航空郵便の飛行機乗りとしての経験を通じ作品の中で「生命より尊いものがある」と断言したことなどに共感をしめしている。その時に描かれた絵がのちに新潮文庫の「[[夜間飛行]]」「[[人間の土地]]」の表紙に使用されているほか「人間の土地」の解説を書いている。<br />
<br />
=== 中尾佐助 ===<br />
{{see also|中尾佐助|照葉樹林文化論}}<br />
: 宮崎に深く影響を与えた思想に、[[植物学者]][[中尾佐助]]による「[[照葉樹林文化論]]」がある。[[ヒマラヤ山脈]]南麓から[[中華人民共和国|中国]]南部・[[日本]][[本州]]南半分までを含む地域が、茶・酒・柑橘類などの特色を持つ共通の農耕文化圏に含まれるとするこの学説に、[[国家]]の枠を乗り越える視点を与えられ、「呪縛からの解放」感を味わったという。この影響は特に『もののけ姫』に強く表れており、その後も宮崎はインタビュー・対談など事ある毎に中尾佐助を引き合いに出している。<br />
<br />
=== 網野善彦 ===<br />
{{see also|網野善彦}}<br />
: 『もののけ姫』には、従来の日本の中世史ではあまり語られてこなかった、[[たたら]](鑪・鈩)製鉄技術者集団、[[馬子]]運送業者、[[ハンセン病]]患者が登場し、女性が産業を担い発言権を持っている描写や、「[[天皇|天朝]]さまとはなんぞや。」とうそぶく女性を登場させるなど、[[網野善彦]]の[[中世]][[史観]]の影響が強く窺える。この作品については、網野自身も自著において「ずいぶん勉強した上でつくられている」と高く評価する<ref>網野善彦『「忘れられた日本人」を読む』([[岩波書店]]、[[2003年]])p.31 - 34</ref>。{{要出典範囲|date=2017年4月|もっとも、いわゆる「網野[[史観]]」に全面的に依拠しているわけではなく、大規模な定着化した踏鞴場の描写など、技術者集団等の非定着性に注目した網野と対立する観点も散見される。ただし、蒸気機関等の動力が存在しない環境で周囲を禿山にした踏鞴場を維持し続けることは不可能で、資源の採取が困難になれば踏鞴場の移転もありうる。物語の都合上割愛されているわけだが、この点をもって網野の世界と対立するとは言い切れない}}。<br />
<br />
== 作品 ==<br />
=== 長編映画 ===<br />
※監督作のみ太字<br />
{| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:smaller;"<br />
|-<br />
!colspan="2" style="white-space: nowrap;"|公開年<br />
!style="white-space: nowrap;"|作品名<br />
!style="white-space: nowrap;"|制作(配給)<br />
!style="white-space: nowrap;"|役職<br />
|-<br />
|[[1963年]]<br />
|[[12月21日]]<br />
|[[わんわん忠臣蔵]]<br />
|rowspan="7"|[[東映動画]]<br />([[東映]])<br />
|動画<br />
|-<br />
|[[1965年]]<br />
|[[3月20日]]<br />
|[[ガリバーの宇宙旅行]]<br />
|原画<br />動画<br />ラストの演出<br />
|-<br />
|[[1968年]]<br />
|[[7月21日]]<br />
|[[太陽の王子ホルスの大冒険]]<br />
|場面設計<br />原画<br />
|-<br />
|rowspan="2"|[[1969年]]<br />
|[[3月18日]]<br />
|[[長靴猫シリーズ|長靴をはいた猫]]<br />
|原画<br />
|-<br />
|[[7月20日]]<br />
|[[空飛ぶゆうれい船]]<br />
|原画<br />
|-<br />
|rowspan="2"|[[1971年]]<br />
|[[3月20日]]<br />
|[[どうぶつ宝島]]<br />
|アイデア構成<br />原画<br />
|-<br />
|[[7月18日]]<br />
|[[アリババと40匹の盗賊]]<br />
|原画<br />
|-<br />
|[[1972年]]<br />
|[[12月17日]]<br />
|[[パンダコパンダ]]<br />
|rowspan="2"|[[東京ムービー]]<br />([[東宝]])<br />
|原案<br />脚本<br />場面設定<br />原画<br />
|-<br />
|[[1973年]]<br />
|[[3月17日]]<br />
|[[パンダコパンダ 雨ふりサーカスの巻]]<br />
|脚本<br />美術設定<br />画面構成<br />原画<br />
|-<br />
|[[1979年]]<br />
|[[12月15日]]<br />
|'''[[ルパン三世 カリオストロの城]]'''<br />
|[[東京ムービー新社]]<br />(東宝)<br />
|脚本([[山崎晴哉]]と共同)<br />'''監督'''<br />
|-<br />
|[[1984年]]<br />
|[[3月11日]]<br />
|'''[[風の谷のナウシカ (映画)|風の谷のナウシカ]]'''<br />
|[[徳間書店]]<br />[[博報堂]]<br />[[トップクラフト]]<br />(東映)<br />
|原作<br />脚本<br />'''監督'''<br />
|-<br />
|[[1986年]]<br />
|[[8月2日]]<br />
|'''[[天空の城ラピュタ]]'''<br />
|徳間書店<br />[[スタジオジブリ]]<br />(東映)<br />
|原作<br />脚本<br />'''監督'''<br />EDテーマ『[[君をのせて (井上あずみの曲)|君をのせて]]』作詞<br />
|-<br />
|[[1987年]]<br />
|[[8月15日]]<br />
|[[柳川堀割物語]]<br />
|[[二馬力]]<br />
|製作<br />
|-<br />
|[[1988年]]<br />
|[[4月16日]]<br />
|'''[[となりのトトロ]]'''<br />
|徳間書店<br />スタジオジブリ<br />(東宝)<br />
|原作<br />脚本<br />'''監督'''<br />EDテーマ『[[となりのトトロ (曲)|となりのトトロ]]』作詞<br />
|-<br />
|[[1989年]]<br />
|[[7月29日]]<br />
|'''[[魔女の宅急便 (1989年の映画)|魔女の宅急便]]'''<br />
|徳間書店<br />[[ヤマト運輸]]<br />[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]<br />スタジオジブリ<br />(東映)<br />
|プロデューサー<br />脚本<br />絵コンテ([[近藤喜文]]と共同)<br />'''監督'''<br />
|-<br />
|[[1991年]]<br />
|[[7月20日]]<br />
|[[おもひでぽろぽろ]]<br />
|徳間書店<br />日本テレビ<br />博報堂<br />スタジオジブリ<br />(東宝)<br />
|製作プロデューサー<br />
|-<br />
|[[1992年]]<br />
|[[7月18日]]<br />
|'''[[紅の豚]]'''<br />
|徳間書店<br />[[日本航空|JAL]]<br />日本テレビ<br />スタジオジブリ<br />(東宝)<br />
|原作<br />脚本<br />'''監督'''<br />
|-<br />
|[[1994年]]<br />
|[[7月16日]]<br />
|[[平成狸合戦ぽんぽこ]]<br />
|rowspan="3"|徳間書店<br />日本テレビ<br />博報堂<br />スタジオジブリ<br />(東宝)<br />
|企画<br />
|-<br />
|rowspan="2"|[[1995年]]<br />
|rowspan="2"|[[7月15日]]<br />
|[[耳をすませば]]<br />
|製作プロデューサー<br />脚本<br />絵コンテ([[近藤喜文]]と共同)<br />EDテーマ『[[カントリー・ロード (本名陽子の曲)|カントリー・ロード]]』補作<br />
|-<br />
|'''[[On Your Mark]]〜ジブリ実験劇場'''<br />
|原作<br />脚本<br />'''監督'''<br />
|-<br />
|[[1997年]]<br />
|[[7月12日]]<br />
|'''[[もののけ姫]]'''<br />
|徳間書店<br />日本テレビ<br />[[電通]]<br />スタジオジブリ<br />(東宝)<br />
|原作<br />脚本<br />'''監督'''<br />主題歌『もののけ姫』作詞<br />
|-<br />
|[[1999年]]<br />
|[[7月17日]]<br />
|[[ホーホケキョ となりの山田くん]]<br />
|徳間書店<br />スタジオジブリ<br />[[ウォルト・ディズニー・カンパニー]]<br />日本テレビ<br />博報堂<br />([[松竹]])<br />
|制作<br />
|-<br />
|[[2001年]]<br />
|7月20日<br />
|'''[[千と千尋の神隠し]]'''<br />
|徳間書店<br />スタジオジブリ<br />ウォルト・ディズニー・カンパニー<br />日本テレビ<br />電通<br />[[東北新社]]<br />[[三菱商事]]<br />(東宝)<br />
|原作<br />脚本<br />'''監督'''<br />
|-<br />
|[[2002年]]<br />
|7月20日<br />
|[[猫の恩返し]]<br />
|徳間書店<br />スタジオジブリ<br />ウォルト・ディズニー・カンパニー<br />日本テレビ<br />博報堂<br />三菱商事<br />(東宝)<br />
|企画<br />
|-<br />
|[[2004年]]<br />
|[[11月20日]]<br />
|'''[[ハウルの動く城]]'''<br />
|徳間書店<br />スタジオジブリ<br />ウォルト・ディズニー・カンパニー<br />日本テレビ<br />電通<br />三菱商事<br />(東宝)<br />
|企画<br />脚本<br />'''監督'''<br />
|-<br />
|[[2006年]]<br />
|[[7月29日]]<br />
|[[ゲド戦記 (映画)|ゲド戦記]]<br />
|rowspan="2"|スタジオジブリ<br />ウォルト・ディズニー・カンパニー<br />日本テレビ<br />電通<br />[[博報堂DYメディアパートナーズ]]<br />三菱商事<br />(東宝)<br />
|原案<br />
|-<br />
|[[2008年]]<br />
|[[7月19日]]<br />
|'''[[崖の上のポニョ]]'''<br />
|原作<br />脚本<br />'''監督'''<br />OPテーマ『海のおかあさん』作詞(共同)<br />EDテーマ『[[崖の上のポニョ (曲)|崖の上のポニョ]]』補作詞<br />
|-<br />
|rowspan="2"|[[2010年]]<br />
|[[6月18日]]<br />
|[[トイ・ストーリー3]]<br />
|[[ピクサー・アニメーション・スタジオ]]<br />
|スペシャルサンクス<br />
|-<br />
|7月17日<br />
|[[借りぐらしのアリエッティ]]<br />
|スタジオジブリ<br />ウォルト・ディズニー・カンパニー<br />日本テレビ<br />電通<br />博報堂DYメディアパートナーズ<br />三菱商事<br />[[ワイルドバンチ]]<br />(東宝)<br />
|企画<br />脚本<br />美術設定<br />
|-<br />
|[[2011年]]<br />
|[[7月16日]]<br />
|[[コクリコ坂から]]<br />
|スタジオジブリ<br />ウォルト・ディズニー・カンパニー<br />日本テレビ<br />電通<br />博報堂DYメディアパートナーズ<br />三菱商事<br />(東宝)<br />
|企画<br />脚本<br />
|-<br />
|[[2013年]]<br />
|7月20日<br />
|'''[[風立ちぬ (2013年の映画)|風立ちぬ]]'''<br />
|スタジオジブリ<br />ウォルト・ディズニー・カンパニー<br />日本テレビ<br />電通<br />博報堂DYメディアパートナーズ<br />三菱商事<br />[[KDDI]]<br />(東宝)<br />
|原作<br />脚本<br />'''監督'''<br />
|-<br />
|}<br />
<br />
=== 短編映画 ===<br />
{| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:smaller;"<br />
|-<br />
!colspan="2" style="white-space: nowrap;"|公開年<br />
!style="white-space: nowrap;"|作品名<br />
!style="white-space: nowrap;"|制作(配給)<br />
!style="white-space: nowrap;"|役職<br />
|-<br />
|[[1977年]]<br />
|[[4月23日]]<br />
|[[草原の子テングリ]]<br />
|[[雪印乳業]]<br />[[桜映画社]]<br />[[シンエイ動画]]<br />
|レイアウト<br />
|-<br />
|rowspan="2"|[[2001年]]<br />
|rowspan="2"|[[10月1日]]<br />
|[[フィルムぐるぐる]]<br />
|rowspan="13"|[[スタジオジブリ]]<br />
|絵コンテ<br />監督<br />
|-<br />
|[[くじらとり]]<br />
|脚本<br />監督<br />
|-<br />
|rowspan="4"|[[2002年]]<br />
|[[1月3日]]<br />
|[[コロの大さんぽ]]<br />
|原作<br />脚本<br />監督<br />
|-<br />
|[[10月2日]]<br />
|[[空想の機械達の中の破壊の発明]]<br />
|企画<br />
|-<br />
|[[9月29日]]<br />
|[[めいとこねこバス]]<br />
|原作<br />脚本<br />監督<br />トトロ役<br />
|-<br />
|<br />
|[[空想の空飛ぶ機械達]]<br />
|原作<br />脚本<br />監督<br />ナレーション<br />
|-<br />
|rowspan="3"|[[2006年]]<br />
|rowspan="3"|1月3日<br />
|[[水グモもんもん]]<br />
|rowspan="2"|原作<br />脚本<br />監督<br />
|-<br />
|[[やどさがし]]<br />
|-<br />
|[[星をかった日]]<br />
|脚本<br />監督<br />
|-<br />
|rowspan="2"|[[2010年]]<br />
|1月3日<br />
|[[ちゅうずもう]]<br />
|企画<br />脚本<br />
|-<br />
|[[11月20日]]<br />
|[[パン種とタマゴ姫]]<br />
|原作<br />脚本<br />監督<br />
|-<br />
|[[2011年]]<br />
|[[6月4日]]<br />
|[[たからさがし]]<br />
|企画<br />構成<br />
|-<br />
|[[2018年]]<br />
|[[3月21日]]<br />
|[[毛虫のボロ]]<br />
|原作<br />脚本<br />監督<br />
|}<br />
<br />
=== テレビ ===<br />
{| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:smaller;"<br />
|-<br />
!colspan="2"|期間!!番組名!!制作(放送局)!!役職!!放送タイトル<br />
|-<br />
![[1964年]][[6月7日]]!![[1965年]][[8月31日]]<br />
|[[少年忍者風のフジ丸]]||rowspan="3"|[[テレビ朝日|NETテレビ]]<br />[[東映アニメーション]]||rowspan="3"|原画(手伝い)||rowspan="3"|<br />
|-<br />
![[1966年]][[4月23日]]!![[1967年]][[3月24日]]<br />
|[[レインボー戦隊ロビン]]<br />
|-<br />
![[1969年]][[1月6日]]!![[1970年]][[10月26日]]<br />
|[[ひみつのアッコちゃん]]<br />
|-<br />
!1969年[[10月5日]]!!1970年[[12月27日]]<br />
|[[ムーミン]]||[[フジテレビジョン|フジテレビ]]<br />[[瑞鷹 (アニメ制作会社)|瑞鷹]]<br />[[シンエイ動画]]<br />[[トムス・エンタテインメント]]||原画||第23話「チビのミー大作戦」<br />
|-<br />
!rowspan="2"|[[1971年]][[10月24日]]!!rowspan="2"|[[1972年]][[3月26日]]<br />
|rowspan="2"|[[ルパン三世 (TV第1シリーズ)|ルパン三世]]||rowspan="2"|[[讀賣テレビ放送|よみうりテレビ]]<br />トムス・エンタテインメント||演出([[高畑勲]]と共同)||第4話以降<br />
|-<br />
|原画||第9話「殺し屋はブルースを歌う」<br />第14話「エメラルドの秘密」<br />第15話「ルパンを捕まえてヨーロッパへ行こう」<br />第16話「宝石横取り作戦」<br />第17話「罠にかかったルパン」<br />第18話「美人コンテストをマークせよ」<br />第19話「どっちが勝つか三代目」<br />第21話「ジャジャ馬娘を助けだせ!」<br />第23話「黄金の大勝負!」<br />
|-<br />
!1972年[[4月5日]]!![[1973年]][[3月28日]]<br />
|[[赤胴鈴之助]]||フジテレビ<br />トムス・エンタテインメント||絵コンテ||第26話「やったぞ!赤胴真空斬り」<br />第27話「大暴れ!真空斬り」<br />第41話「キリシタンの秘宝」<br />
|-<br />
!1973年[[3月2日]]!!1973年[[9月28日]]<br />
|[[ジャングル黒べえ]]||[[MBSテレビ|毎日放送]]<br />トムス・エンタテインメント||キャラクター原案||全話<br />
|-<br />
!1973年[[10月7日]]!![[1974年]][[9月29日]]<br />
|[[侍ジャイアンツ]]||よみうりテレビ<br />トムス・エンタテインメント||原画||第1話「ほえろ!バンババン」<br />
|-<br />
!1974年[[1月6日]]!!1974年[[12月29日]]<br />
|[[アルプスの少女ハイジ (アニメ)|アルプスの少女ハイジ]]||フジテレビ<br />[[瑞鷹 (アニメ制作会社)|瑞鷹]]||場面設定<br />画面構成||全話<br />
|-<br />
![[1975年]][[1月5日]]!!1975年[[12月28日]]<br />
|[[フランダースの犬 (アニメ)|フランダースの犬]]||フジテレビ<br />[[瑞鷹 (アニメ制作会社)|瑞鷹]]<br />[[日本アニメーション]]||原画||第15話「古い帳簿」<br />
|-<br />
!rowspan="2"|[[1976年]][[1月4日]]!!rowspan="2"|1976年[[12月26日]]<br />
|rowspan="2"|[[母をたずねて三千里]]||rowspan="3"|フジテレビ<br />日本アニメーション||場面設定<br />レイアウト||全話<br />
|-<br />
|rowspan="2"|原画||第2話「ジェノバの少年マルコ」<br />
|-<br />
![[1977年]][[1月2日]]!!1977年[[12月25日]]<br />
|[[あらいぐまラスカル]]||第4話「ミルウォーキーのお月さま」<br />第5話「オスカーへの贈り物」<br />第6話「さようならスカンクたち」<br />第10話「はじめての探検」<br />第12話「本と1セント銅貨」<br />第13話「夏休みの第一日」<br />第14話「母のない子」<br />第15話「アリスと友達になれたらなあ」<br />第16話「楽しいパーティの夜」<br />第17話「ラスカルの冒険」<br />第18話「森で会った不思議な青年」<br />第19話「ラスカルとトウモロコシ」<br />第20話「スターリングの悲しみ」<br />第21話「あぶないラスカル」<br />第22話「森と湖と動物たち」<br />第24話「走れ走れぼくらのカヌー」<br />第25話「森で見つけた仔鹿」<br />第26話「森と湖の夏まつり」<br />第28話「檻の中」<br />
|-<br />
!1977年[[10月3日]]!![[1980年]][[10月6日]]<br />
|[[ルパン三世 (TV第2シリーズ)|ルパン三世]]||日本テレビ<br />トムス・エンタテインメント||脚本<br />絵コンテ<br />演出||第145話「[[死の翼アルバトロス]]」<br />第155話「[[さらば愛しきルパンよ]]」<br />
|-<br />
!rowspan="2"|[[1978年]][[4月4日]]!!rowspan="2"|1978年[[10月31日]]<br />
|rowspan="2"|[[未来少年コナン]]||rowspan="2"|[[日本放送協会|NHK]]<br />日本アニメーション||キャラクターデザイン<br />メカニックデザイン<br />場面設定<br />演出<br />監督||全話<br />
|-<br />
|絵コンテ||第1話「のこされ島」<br />第2話「旅立ち」<br />第3話「はじめての仲間」<br />第4話「バラクーダ号」<br />第8話「逃亡」<br />第15話「荒地」<br />第16話「二人の小屋」<br />第17話「戦闘」<br />第18話「ガンボート」<br />第19話「大津波」<br />第22話「救出」<br />第23話「太陽塔」<br />第24話「ギガント」<br />第25話「インダストリアの最期」<br />第26話「大団円」<br />
|-<br />
![[1979年]][[1月7日]]!!1979年[[12月30日]]<br />
|[[赤毛のアン (アニメ)|赤毛のアン]]||フジテレビ<br />日本アニメーション||場面設定<br />画面構成||第1話「マシュウ・カスバート驚く」<br />第2話「マリラ・カスバート驚く」<br />第3話「グリーン・ゲイブルズの朝」<br />第4話「アン・生立ちを語る」<br />第5話「マリラ決心する」<br />第6話「グリーン・ゲイブルズのアン」<br />第7話「レイチェル夫人恐れをなす」<br />第8話「アン日曜学校へ行く」<br />第9話「おごそかな誓い」<br />第10話「アン・心の友と遊ぶ」<br />第11話「マリラ・ブローチをなくす」<br />第12話「アン・告白をする」<br />第13話「アン・学校へ行く」<br />第14話「教室騒動」<br />第15話「秋の訪れ」<br />
|-<br />
!1980年[[10月3日]]!![[1981年]][[9月25日]]<br />
|[[太陽の使者 鉄人28号]]||日本テレビ<br />トムス・エンタテインメント||原画(Aパート担当)||第8話「恐怖の殺人合体ロボ」<br />
|-<br />
!rowspan="3"|[[1984年]][[11月6日]]!!rowspan="3"|[[1985年]][[5月20日]]<br />
|rowspan="3"|[[名探偵ホームズ]]||rowspan="3"|テレビ朝日<br />トムス・エンタテインメント<br />[[RAI]]<br />[[REVER]]||脚本||第3話「小さなマーサの大事件!?」<br />
|-<br />
|絵コンテ<br />演出||第3話「小さなマーサの大事件!?」<br />第4話「ミセス・ハドソン人質事件」<br />第5話「青い紅玉」<br />第9話「海底の財宝」<br />第10話「[[ドーバー海峡]]の大空中戦!」<br />
|-<br />
|監督||第3話「小さなマーサの大事件!?」<br />第5話「青い紅玉」<br />第9話「海底の財宝」<br />第11話「ねらわれた巨大貯金箱」<br />
|-<br />
|}<br />
<br />
=== 実写作品 ===<br />
*[[2002年]] オーニソプター物語〜飛べ!ひよどり天狗号(出演)<br />
*[[2012年]] [[巨神兵東京に現わる]](巨神兵)<br />
*[[2013年]] [[夢と狂気の王国]](出演)<br />
<br />
== その他の作品 ==<br />
=== 漫画・絵物語・イメージボードなど ===<br />
*[[長靴猫シリーズ|長靴をはいた猫]]<br />
*砂漠の民(秋津三朗名義)<br />
*[[どうぶつ宝島]] ※以上は初期作品<br />
*妹へ(「宮崎駿・大塚康生の世界」に収む)<br />
*[[風の谷のナウシカ]](全7巻)、※第23回[[日本漫画家協会賞]]・大賞作品<br />
*[[シュナの旅]] 徳間書店[[アニメージュ]]文庫(原話は、[[君島久子]]の書いた[[チベット]]の民話「[[犬になった王子]]」、[[岩波書店]])<br />
*駆けろ二馬力 風より疾く(『[[NAVI]]』1989年12月号、『[[CAR GRAPHIC]]』2010年8月号、各[[二玄社]])<br />
*空中でお食事(日本航空のJALWINDS、1994年6月号に収む)<br />
*風の谷のナウシカ-宮崎駿水彩画集 徳間書店<br />
*もののけ姫 徳間書店<br />
*飛行艇時代 「紅の豚」原作 (大日本絵画 1992年、増補改訂版2004年)<br />
*[[宮崎駿の雑想ノート]] (大日本絵画 1992年、増補改訂版1997年)<br />
**知られざる巨人の末弟<br />
**甲鉄の意気地<br />
**多砲塔の出番<br />
**農夫の眼<br />
**竜の甲鉄<br />
**九州上空の重轟炸機<br />
**高射砲塔<br />
**Q.ship<br />
**特設空母安松丸物語<br />
**ロンドン上空1918年<br />
**最貧前線<br />
**飛行艇時代<br />
**豚の虎<br />
*宮崎駿の妄想ノート(大日本絵画 2002年8月)<br />
**ハンスの帰還<br />
**泥まみれの虎<br />
*『[[ブラッカムの爆撃機]]』 [[ロバート・ウェストール]]・作、宮崎駿・編、[[金原瑞人]]訳(児童書、[[岩波書店]]、[[2006年]])<br />
**「ブラッカムの爆撃機」「チャス・マッギルの幽霊」「ぼくを作ったもの」の3編を収録に加え、宮崎の描き下ろしで「ウェストール幻想 タインマスへの旅 前・後編」(コマ漫画、カラー24頁分)を併収。<br />
*『水深五尋』 ロバート・ウェストール・作、金原瑞人・[[野沢佳織]]訳(岩波書店、[[2009年]]3月)<br />
**続篇、チャス・マッギルのもう1つの物語<br />
*風立ちぬ 宮崎駿の妄想カムバック(大日本絵画、2015年11月)、『[[モデルグラフィックス]]』に連載<br />
<br />
=== デザインワーク ===<br />
*TVCM『[[日立マクセル]]・ニューゴールド・ビデオテープ』の「'''ワンダーシップ号'''」<br />
*TVCM『日立パソコンH2』の「'''ポシェット竜'''」<br />
*実写映画『赤いカラスと幽霊船』の幽霊船<br />
*[[日本テレビ放送網]]のシンボルキャラクター「'''なんだろう'''」(TVCMのアニメでは演出も担当)<br />
*[[神奈川県]]「[[第53回国民体育大会|かながわ・ゆめ国体]]」のマスコットキャラクター「'''かなべえ'''」<br />
*[[三鷹の森ジブリ美術館]]<br />
** 「[[幽霊塔]]へようこそ展 通俗文化の王道」 展示漫画描き下ろし<ref>{{cite web|url=http://eiga.com/news/20150405/8/|title=宮崎駿が紐解く江戸川乱歩の世界 新企画「幽霊塔へようこそ展」5月から開催|publisher=映画.com|date=2015-04-05|accessdate=2015-04-08}}</ref><br />
*[[三鷹市]]のみたかモールのマスコットキャラクター「'''POKI'''」<br />
*[[江戸東京たてもの園]]のシンボルキャラクター「'''えどまる'''」<br />
*[[読売新聞]]のシンボルキャラクター「'''どれどれ'''」<br />
*[[中日ドラゴンズ]]公式ファンクラブのマスコットキャラクター「'''ガブリ'''」<br />
**[[1991年]]、映画宣伝用に自主的に作ったキャラクターを、球団創設70年にあたる[[2006年]]、ファンクラブ設立にあたり起用したもの。熱心な中日ファンとして知られるスタジオジブリプロデューサー・[[鈴木敏夫]]の橋渡しによって採用されることとなった。<br />
*[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]社屋外壁([[マイスタジオ]]上)の大からくり時計「'''日テレ大時計'''」<br />
*広島県福山市鞆町の[[坂本龍馬]]のゆかりの宿「'''御舟宿いろは'''」<br />
*[[小金井市]]のイメージキャラクター「'''こきんちゃん'''」<br />
*[[日本アニメ(ーター)見本市]]のロゴ(題字)<br />
<br />
=== 作詞 ===<br />
*『[[君をのせて (井上あずみの曲)|君をのせて]]』(『天空の城ラピュタ』主題歌)<br />
*『[[となりのトトロ (曲)|となりのトトロ]]』(『となりのトトロ』主題歌)<br />
*『風のとおり道』(『となりのトトロ』挿入歌)<br />
*『[[カントリー・ロード (本名陽子の曲)|カントリー・ロード]]』(『耳をすませば』主題歌)※補作<br />
*『バロンのうた』(『耳をすませば』イメージアルバム より)<br />
*『[[もののけ姫 (曲)|もののけ姫]]』 (『もののけ姫』 主題歌)<br />
*『タタラ踏む女達』 (『もののけ姫』 挿入歌)<br />
*『千と千尋の神隠し』イメージアルバム<br />
**『神々さま』<br />
**『[[油屋 (千と千尋の神隠し)|油屋]]』<br />
**『さみしい さみしい』<br />
**『[[白い竜]]』<br />
*『崖の上のポニョ』イメージアルバム<br />
**『[[崖の上のポニョ (曲)|崖の上のポニョ]]』(『崖の上のポニョ』主題歌)※補作詞<br />
**『いもうと達』<br />
**『ポニョの子守唄』<br />
**『ひまわりの家の輪舞曲』<br />
*『お母さんの写真』(CMソング)<br />
<br />
=== 著書(対談・インタビュー・共著も含む) ===<br />
*『トトロの住む家』 (画文集/写真和田久士) [[朝日新聞社]](1991年)/増補改訂版 [[岩波書店]](2011年1月)<br />
*『時には昔の話を』([[加藤登紀子]]との共著、絵本、対談) 徳間書店(1992年)<br />
*『時代の風音』([[司馬遼太郎]]、[[堀田善衛]]との鼎談) UPU(1992年)。 [[朝日文庫|朝日文芸文庫]](1997年)<br />
*『何が映画か―「[[七人の侍]]」と「[[まあだだよ]]」をめぐって』([[黒澤明]]との対談集) [[スタジオジブリ]](1993年)<br />
*『巨樹を見に行く―千年の生命との出会い』(共著) 講談社カルチャーブックス(1994年)<br />
*『出発点 1979〜1996』(エッセイ・発言集) 徳間書店(1996年)<br />
*『教育について』(共著、インタビュー集) 旬報社(1998年)<br />
*『虫眼とアニ眼』([[養老孟司]]との対談) スタジオジブリ(2002年)。[[新潮文庫]](2008年2月)<br />
*『風の帰る場所―ナウシカから千尋までの軌跡』([[渋谷陽一]]によるインタビュー集)ロッキング・オン(2002年)。文春ジブリ文庫(2013年11月)<br />
*『折り返し点 1997〜2008』(エッセイ・発言集) 岩波書店(2008年)<br />
*『本へのとびら―岩波少年文庫を語る』(お薦め本50冊の紹介) [[岩波新書]]カラー版(2011年10月)<br />
*『腰ぬけ愛国談義』([[半藤一利]]との対談)、文春ジブリ文庫 (2013年8月)<br />
*『続・風の帰る場所―映画監督・宮崎駿はいかに始まり、いかに幕を引いたのか』([[渋谷陽一]]によるインタビュー集)ロッキング・オン(2013年)<br />
<br />
=== 表紙イラスト ===<br />
*『チェスタトンの1984年/新ナポレオン奇譚』([[ギルバート・ケイス・チェスタートン|ギルバート・チェスタトン]])、[[春秋社]](1984年)<br />
*『惑星カレスの魔女』([[ジェイムズ・ヘンリー・シュミッツ]])、[[新潮文庫]](1987年)、[[創元推理文庫]](1996年)<br />
*『[[夜間飛行]]』([[アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリ|サン=テグジュペリ]])、新潮文庫 (1993年、改版2012年)※新装カバー<br />
*『[[人間の土地]]』(サン=テグジュペリ)、新潮文庫(1998年、改版2012年)※新装カバー<br />
*『真夜中の電話』([[ロバート・ウェストール]])、徳間書店(2014年)<br />
*『遠い日の呼び声』(ロバート・ウェストール)、徳間書店(2014年)<br />
*『[[幽霊塔]]』([[江戸川乱歩]])、岩波書店(2015年)<br />
<br />
== 絵コンテ集 ==<br />
=== 劇場用アニメーション映画 ===<br />
*パンダコパンダ/パンダコパンダ雨降りサーカスの巻 スタジオジブリ絵コンテ全集第II期(徳間書店)<br />
*ルパン三世カリオストロの城 スタジオジブリ絵コンテ全集第II期(徳間書店)<br />
*風の谷のナウシカ スタジオジブリ絵コンテ全集1(徳間書店)<br />
*天空の城ラピュタ スタジオジブリ絵コンテ全集2(徳間書店)<br />
*となりのトトロ スタジオジブリ絵コンテ全集3(徳間書店)<br />
*魔女の宅急便 スタジオジブリ絵コンテ全集5(徳間書店)<br />
*紅の豚 スタジオジブリ絵コンテ全集7(徳間書店)<br />
*耳をすませば スタジオジブリ絵コンテ全集10(徳間書店)<br />
*もののけ姫 スタジオジブリ絵コンテ全集11(徳間書店)<br />
*千と千尋の神隠し スタジオジブリ絵コンテ全集13(徳間書店)<br />
*ハウルの動く城 スタジオジブリ絵コンテ全集14(徳間書店)<br />
*崖の上のポニョ スタジオジブリ絵コンテ全集16(徳間書店)<br />
*風立ちぬ スタジオジブリ絵コンテ全集19(徳間書店)<br />
**これら「絵コンテ全集」の出版とは別に、『風の谷のナウシカ』についてはアニメージュ文庫にて、『天空の城ラピュタ』『となりのトトロ』『魔女の宅急便』についてはロマンアルバムにて(いずれも徳間書店)、映画公開から程なくして出版されたものの、いずれも現在は絶版である。<br />
<br />
=== テレビアニメーション ===<br />
*ルパン三世 死の翼アルバトロス/さらば愛しきルパンよ スタジオジブリ絵コンテ全集第II期(徳間書店)<br />
*名探偵ホームズ 小さなマーサの大事件!?/ミセス・ハドソン人質事件/青い紅玉 スタジオジブリ絵コンテ全集第II期(徳間書店)<br />
*名探偵ホームズ 海底の財宝/ドーバー海峡の大空中戦!/ねらわれた巨大貯金箱 スタジオジブリ絵コンテ全集第II期(徳間書店)<br />
<br />
== 幻の作品一覧 ==<br />
宮崎駿が関与・企画・構想するも諸般の事情で幻に終わった、もしくは実現していない作品のリスト。なお、いくつかのタイトルは便宜上付けられた仮題である。<br />
; サイン・コサイン・シータ<br />
: 大学時代の子供向け人形劇用の脚本。舞台は精神病院、少年アルファ何号と、少女シータ何号による物語。上演は実現しなかった<ref>『映画天空のラピュタGUIDEBOOK』徳間書店、1986年、p.79)</ref>。<br />
; [[長くつ下のピッピ]]<br />
: 1971年頃、[[アストリッド・リンドグレーン]]原作の児童文学作品、宮崎らAプロダクションのスタッフたちはスウェーデンまでロケハンに行ったが原作者から映画化の承諾を得られなかった。そのイメージは後に『[[パンダコパンダ]]』や『[[魔女の宅急便]]』で活かされている。『幻の「長くつ下のピッピ」』がある(岩波書店、2014年10月。高畑勲・小田部羊一共著、宮崎によるイメージとストーリーボードを収録)。<br />
; ユキの太陽<br />
: [[ちばてつや]]の漫画。パイロットフィルムのみ製作された。(2013年12月から全国のイオンシネマで期間限定で上映)<br />
; もののけ姫<br />
: 1980年頃、『[[美女と野獣]]』&戦国時代をモチーフとしているが、1997年に映画化された『[[もののけ姫]]』とは題名が共通なだけで、物語もデザインも全く異なる作品である。イメージボードは1993年に[[スタジオジブリ]](後に徳間書店)から大型絵本として出版されている。<br />
; ルパンの娘<br />
: 1981年頃、アニメ評論家の岡田英美子との対談で語ったもの。主人公であるルパン三世の娘が、頭の弱い不二子の姪とコンビを組む学園物。<br />
; ロルフ<br />
: 1981年頃、リチャード・コーベン原作のアングラコミック。イメージボードが作成されている。舞台設定やデザインは『[[風の谷のナウシカ]]』の原型とも言える作品。<br />
; 戦国魔城<br />
: 1981年頃、日本の戦国時代を舞台にしたSFオリジナル作品。イメージボードが作成されている。ここで『ナウシカ』や『ラピュタ』へ繋がる設定が多く生み出された。<br />
; [[NEMO/ニモ|NEMO]]<br />
: 1981-1982年、[[ウィンザー・マッケイ]]原作の『[[リトル・ニモ]]』の企画に[[テレコム・アニメーションフィルム]]のスタッフとして当初から関わって大量のイメージボードを作成していたが、制作発表前に降板して退社。フリーになっている。映画自体は1989年に公開されている。<br />
; 風の谷の一日<br />
: 1983年頃、ナウシカの幼年時代を、風の谷の日常を通して描くというもの。徳間書店の「アニメグランプリ」イベント用に宮崎が提案した。<br />
; アンカー<br />
: 1980年代半ば、[[夢枕獏]]との対談で宮崎が提案した。『ラピュタ』完成後、原作夢枕、脚本宮崎、監督[[押井守]]、プロデューサー[[高畑勲]]で検討されるが、企画段階で中止される。宮崎の構想によると舞台は当時の東京、お姫様のような不思議な女の子が何者かに追われて、偶然に出会った男の子がその子を逃がすためにある場所まで送り届けると、また違う人間が別の場所まで送り届けるという恋愛要素を含んだ冒険ものであるという。しかし、美少女を出そうとする宮崎と、鼻垂れ小僧のような汚い少女を出そうとする押井の間で企画は消滅した<ref>ラジオ「押井守の世界 2008年2月16日」、これは押井の説明であるが、以前から宮崎は美少女ではいけないと語っているので矛盾がある。</ref>。この話は、若き日の[[庵野秀明]]にも製作依頼しているが、「未来少年コナンを実写でやろうとしている」として、庵野も辞退している<ref>岡田斗司夫『遺言』(p.62)</ref>。<br />
; 突撃!アイアンポーク<br />
: 1985年頃、「[[宮崎駿の雑想ノート]]」から派生したOVA作品の企画で、これも監督に押井守が予定されていた。<br />
; 大東京物語<br />
: [[ふくやまけいこ]]の漫画。後に現代には合わないと判断している。<br />
; [[墨攻]]<br />
: 古代中国が舞台の[[酒見賢一]]原作の歴史小説。構想では、敵に包囲された都市を1人の墨者が防衛するというもの。押井守の監督で検討されたが宮崎と話が食い違い、消滅する。<br />
; 東京汚穢合戦<br />
: 宮崎が1997年、NHK番組『[[トップランナー]]』に出演した時に語ったもの。<br />
; ゴチャガチャ通りのリナ<br />
: [[柏葉幸子]]原作の児童文学『霧のむこうのふしぎな町』<br />
; 煙突描きのリン<br />
: 架空の震災後の東京を舞台に、大阪からやってきたリンが風呂屋に住み込み、煙突に絵を描くという話。[[三鷹の森ジブリ美術館]]でそのプロットが見られる。かなり具体的に構想され、約1年間の検討の末にボツとなった。この物語のために作られた[[木村弓]]の『[[いつも何度でも]]』が、後に『[[千と千尋の神隠し]]』の主題歌となり、主人公の「リン」の名は同映画の登場人物に再使用されている。<br />
; 毛虫のボロ<br />
: 長年宮崎が温めてきた「虫の視点から世界を描く」という企画。長編化困難として『もののけ姫』の前に一旦ボツになったが、ジブリ美術館用の短編として完成した。<br />
; [[旅のラゴス]]<br />
: [[筒井康隆]]原作のSFファンタジー小説<br />
; ジョナサンと宇宙クジラ<br />
: [[ロバート・F・ヤング]]のSF小説<br />
; 名探偵[[芥川龍之介]]対[[夏目漱石]]<br />
: 明治の文豪が出てくる探偵モノ。<br />
; ポルコ・ロッソ 最後の出撃<br />
: [[紅の豚]]の続編<br />
; 宮﨑駿版[[ゲド戦記]]<br />
: 宮崎は本作の古くからのファンであり、1980〜90年代に出版社および原作者に対し、二度映画化の打診を行い断られている。その後2000年代に入り宮崎の映画が原作者にも知られることとなり、「もし「ゲド戦記」を映像化するとしたら、OKを出せるのはあの人だけ」と言わしめるが当の宮崎は既に本作に対する当時の情熱を失っており、紆余曲折の末宮崎の息子の吾朗により[[ゲド戦記 (映画)|映画化]]された。<br />
<br />
== 受賞歴 ==<br />
*[[アカデミー賞]]<br />
**[[第75回アカデミー賞|第75回]] [[アカデミー長編アニメ映画賞|長編アニメーション映画賞]]<br />
**第87回 [[アカデミー名誉賞]]<ref name="movie">[[宮崎駿#外部リンク|外部リンクに映像]]</ref><br />
*[[ヴェネツィア国際映画祭]]<br />
**[[第61回ヴェネツィア国際映画祭|第61回]] 金のオゼッラ賞<br />
**[[第62回ヴェネツィア国際映画祭|第62回]] [[栄誉金獅子賞]]<br />
*[[第52回ベルリン国際映画祭]] [[金熊賞]]<br />
*[[アニー賞]]<br />
**第26回 ウィンザー・マッケイ賞(功労賞)<br />
**第30回 長編アニメ映画賞 監督賞 脚本賞 音楽賞<br />
**第41回 長編アニメ部門脚本賞<ref>2014年2月3日中日新聞朝刊27面</ref><ref name="Annie2013">{{cite news|url=https://www.cinematoday.jp/news/N0060188|title=『風立ちぬ』宮崎駿監督、アニー賞脚本賞を受賞!も…授賞式には誰も現れず|newspaper=シネマトゥデイ|date=2014-02-02|accessdate=2017-10-10}}</ref><br />
*[[日本アカデミー賞]]<br />
**[[第21回日本アカデミー賞|第21回]]、[[第25回日本アカデミー賞|第25回]] 最優秀作品賞<br />
**[[第32回日本アカデミー賞|第32回]] 最優秀アニメーション作品賞<br />
**[[第25回日本アカデミー賞|第25回]] 会長功労賞<br />
*[[毎日映画コンクール]]<br />
**第43回、第52回、第56回 日本映画大賞<br />
**第52回、第56回、第59回 日本映画ファン賞<br />
**第34回、第39回、第41回、第43回、第56回、第63回 [[大藤信郎賞]]、<br />
**第44回、第47回、第52回、第56回 アニメーション映画賞<br />
**第56回 監督賞<br />
*第13回、第26回[[報知映画賞]] 監督賞<br />
*第7回、第10回、第19回、第26回[[ゴールデングロス賞]] 日本映画部門 マネーメイキング監督賞<br />
*[[日刊スポーツ映画大賞]]<br />
**第5回、第10回 [[石原裕次郎賞]]<br />
**第10回 監督賞<br />
**第14回 作品賞<br />
*第39回[[芸術選奨]] 芸術作品賞 文部大臣賞<br />
*第12回[[山路ふみ子映画賞]]<br />
*[[アヌシー国際アニメーション映画祭]]| 長編部門賞<br />
*[[アニメーション神戸]]<br />
**第2回部門賞 演出部門<br />
**第7回部門賞 作品部門<br />
*第1回、第5回[[文化庁メディア芸術祭]] アニメーション部門大賞<br />
*第68回、第71回[[ニューヨーク]]映画批評家協会 最優秀アニメ賞<br />
*[[ボストン]]映画批評家協会 特別賞<br />
*第37回[[シッチェス・カタロニア国際映画祭]] 観客賞<br />
*第16回[[ザグレブ]]国際アニメーションフェスティバル 功労賞<br />
*第9回[[ハリウッド]]映画祭・ベストアニメーション賞<br />
*アメリカSFファンタジー作家協会 (SFWA) [[ネビュラ賞]](脚本部門)<br />
*第8回ミンモ・ロテッラ財団賞<br />
*フューチャー・フィルム・フェスティバル・デジタル・アワード特別表彰<br />
*[[東京国際アニメフェア]]2009 第8回東京アニメアワード・アニメーションオブザイヤー・国内劇場部門優秀作品賞・原作賞・監督賞<br />
*[[アイズナー賞]] 漫画家の殿堂<ref>[http://www.cinematoday.jp/page/N0065375 「宮崎駿「漫画のアカデミー賞」で殿堂入り!日本人5人目」]シネマトゥデイ(2014年8月)</ref><br />
<br />
== 脚注 ==<br />
{{脚注ヘルプ}}<br />
{{Reflist|2}}<br />
<br />
== 参考文献 ==<br />
=== 関連書籍 ===<br />
*[[高畑勲]]<br />
**『映画を作りながら考えたこと』([[徳間書店]]、1991年/文春ジブリ文庫(改訂版)、2014年)、ISBN 4-16-812203-4<br />
**『映画を作りながら考えたことII 1991~1999』([[徳間書店]]、1999年)、ISBN 4-19-861047-9<br />
*[[大塚康生]]<br />
**『作画汗まみれ』(徳間書店(増補版)、2001年/文春ジブリ文庫(改訂版)、2013年)、ISBN 4-16-812200-X<br />
**『リトル・ニモの野望』([[徳間書店]]、2004年)、ISBN 4-19-861890-9<br />
*[[大泉実成]]『宮崎駿の原点 母と子の物語』([[潮出版社]]、2002年)、ISBN 4-267-01653-4<br />
*[[尾形英夫]]『あの旗を撃て! 「アニメージュ」血風録』([[オークラ出版]]、2004年)、ISBN 4-7755-0480-0<br />
*[[鈴木敏夫]]<br />
**『映画道楽』([[ぴあ]]、2005年/角川文庫、2012年)、ISBN 4041005663<br />
**『仕事道楽 スタジオジブリの現場』([[岩波新書]]、2008年、新版2014年)、ISBN 4004314860<br />
**『ジブリの仲間たち』([[新潮新書]]、2016年)、ISBN 4106106744<br />
*[[叶精二]]『宮崎駿全書』(フィルムアート社、2006年)、ISBN 4845906872<br />
*久美薫『宮崎駿の時代 1941〜2008』([[鳥影社]]、2008年)、ISBN 4862651542<br />
<br />
=== 関連DVD ===<br />
*『「もののけ姫」はこうして生まれた。』([[ウォルト・ディズニー・スタジオ|ブエナビスタ]]ホームエンターテイメント、2001年)<br />
*『[[柳川堀割物語]]』(ブエナビスタホームエンターテイメント、2003年)<br />
*『[[ジョン・ラセター|ラセター]]さんありがとう』(ブエナビスタホームエンターテイメント、2003年)<br />
*『世界・わが心の旅(2巻セット)』(ブエナビスタホームエンターテイメント、2004年)<br />
*『宮崎駿プロデュースの1枚のCDは、こうして生まれた。』(ブエナビスタホームエンターテイメント、2004年)<br />
*『宮崎駿とジブリ美術館』(ブエナビスタホームエンターテイメント、2005年)<br />
*『ポニョはこうして生まれた。 〜宮崎駿の思考過程〜』(ブエナビスタホームエンターテイメント、2009年)<br />
<br />
== 関連項目 ==<br />
{{Commonscat|Hayao Miyazaki}}<br />
{{ウィキプロジェクト アニメ}}<br />
*[[久石譲]]<br />
*[[スタジオジブリ]]<br />
*[[男鹿和雄]]<br />
*[[山本二三]]<br />
*[[押井守]]<br />
*[[トトロの森]]<br />
*[[世界名作劇場]]<br />
*[[東京ムービー]]<br />
*[[「の」の法則]]<br />
*[[宇都宮空襲]]<br />
<!--[[WP:ALSO]] 「わずかでも関連のありそうな事柄を手当たり次第に列挙するものではありません。」--><br />
<br />
== 外部リンク ==<br />
* {{jmdb name|0081660}}<br />
* {{allcinema name|128132}}<br />
* {{kinejun name|91156}}<br />
* {{imdb name|id=0594503|name=Hayao Miyazaki}}<br />
* [http://movie.walkerplus.com/person/86034/ 宮崎駿 Movie Walker]<br />
* [[ジョン・ラセター]]:{{YouTube|93-gRTUrHa8|プレゼンター映像(宮﨑駿 アカデミー名誉賞)}}([[鈴木敏夫]])<br />
* {{YouTube|9ZIG14mxB9w|宮﨑駿 アカデミー名誉賞}} 受賞スピーチ映像<br />
* [http://www.ghibli.jp/ スタジオジブリ]<br />
<br />
{{Start box}}<br />
{{S-bus}}<br />
{{Succession box<br />
|title = [[二馬力|二馬力社長]]<br />
|years = [[1984年]] -<br />
|before = (新設)<br />
|after = (現職)<br />
}}<br />
{{S-culture}}<br />
{{Succession box<br />
|title = [[徳間記念アニメーション文化財団|徳間記念アニメーション文化財団理事長]]<br />
|years = [[2011年]] -<br />
|before = [[氏家齊一郎]]<br />
|after = (現職)<br />
}}<br />
{{Succession box<br />
|title = [[三鷹市立アニメーション美術館|三鷹市立アニメーション美術館館主]]<br />
|years = [[2001年]] -<br />
|before = (新設)<br />
|after = (現職)<br />
}}<br />
{{End box}}<br />
{{宮崎駿}}<br />
{{スタジオジブリ}}<br />
{{Fantasy fiction}}<br />
{{毎日映画コンクール監督賞}}<br />
{{日刊スポーツ映画大賞監督賞}}<br />
{{毎日芸術賞}}<br />
{{アカデミー名誉賞}}<br />
{{Normdaten}}<br />
<br />
{{DEFAULTSORT:みやさき はやお}}<br />
[[Category:宮崎駿|*]]<br />
[[Category:日本のアニメーター]]<br />
[[Category:日本の映画監督]]<br />
[[Category:日本の脚本家]]<br />
[[Category:日本の漫画家]]<br />
[[Category:日本の作詞家]]<br />
[[Category:日本の実業家]]<br />
[[Category:日本のアニメーション監督]]<br />
[[Category:SF漫画家]]<br />
[[Category:キャラクターデザイナー]]<br />
[[Category:アニメ音楽の作詞家]]<br />
[[Category:日本の映画プロデューサー]]<br />
[[Category:東映アニメーションの人物]]<br />
[[Category:シンエイ動画の人物]]<br />
[[Category:日本アニメーションの人物]]<br />
[[Category:スタジオジブリの人物]]<br />
[[Category:徳間記念アニメーション文化財団の人物]]<br />
[[Category:アカデミー賞受賞者]]<br />
[[Category:アニー賞受賞者]]<br />
[[Category:菊池寛賞受賞者]]<br />
[[Category:朝日賞受賞者]]<br />
[[Category:文化功労者]]<br />
[[Category:日本の反原発活動家]]<br />
[[Category:学習院大学出身の人物]]<br />
[[Category:東京都区部出身の人物]]<br />
[[Category:1941年生]]<br />
[[Category:存命人物]]</div>
122.214.146.170
クリント・イーストウッド
2018-07-21T03:12:58Z
<p>122.214.146.170: </p>
<hr />
<div>{{Otheruses|俳優|同名の歌手|クリント・イーストウッド (歌手)}}<br />
{{ActorActress<br />
| 芸名 = Clint Eastwood<br />
| ふりがな = クリント・イーストウッド<br />
| 画像ファイル = ClintEastwoodCannesMay08.jpg<br />
| 画像サイズ = 200px<br />
| 画像コメント = <br />
| 本名 = Clinton Eastwood Jr.<br />クリントン・イーストウッド・ジュニア<br />
| 別名義 =<br />
| 出生地 = {{USA1912}}<br> [[カリフォルニア州]][[サンフランシスコ]]<br />
| 死没地 =<br />
| 民族 = <!-- 民族名には信頼できる情報源が出典として必要です。 --><br />
| 身長 =<br />
| 生年 = 1930<br />
| 生月 = 5<br />
| 生日 = 31<br />
| 没年 =<br />
| 没月 =<br />
| 没日 =<br />
| ジャンル = 映画([[俳優]]、[[映画監督|監督]]、[[製作]]、[[音楽]])<br />
| 活動期間 = [[1954年]]-<br />
| 活動内容 = [[1954年]]:初出演<br />[[1967年]]:製作会社設立<br />[[1971年]]:映画初監督<br />[[1992年]]:[[アカデミー監督賞]]受賞<br />[[2004年]]:2度目の[[オスカー像|オスカー]]受賞<br />[[2006年]]:『硫黄島二部作』監督<br />
| 配偶者 = Dina Eastwood(旧姓Luis)<br />
| 主な作品 = '''監督兼出演'''<br />『[[恐怖のメロディ]]』『[[ガントレット (1977年の映画)|ガントレット]]』<br />『[[センチメンタル・アドベンチャー]]』<br />『[[許されざる者 (1992年の映画)|許されざる者]]』<br />『[[パーフェクト・ワールド]]』<br />『[[マディソン郡の橋 (映画)|マディソン郡の橋]]』<br />『[[スペース カウボーイ]]』<br />『[[ミリオンダラー・ベイビー]]』<br />『[[グラン・トリノ]]』<hr />'''監督のみ'''<br />『[[バード (映画)|バード]]』『[[ミスティック・リバー]]』<br />『[[父親たちの星条旗]]』<br />『[[硫黄島からの手紙]]』<br />『[[アメリカン・スナイパー]]』<br /> 『[[ジャージー・ボーイズ]]』<hr />'''出演のみ'''<br />『[[ローハイド]]』『[[荒野の用心棒]]』<br />『[[夕陽のガンマン]]』『[[真昼の死闘]]』<br />『[[アルカトラズからの脱出]]』<br />『[[ザ・シークレット・サービス]]』<br />『[[ダーティハリー]]』シリーズ<hr /><br />
| アカデミー賞 = '''[[アカデミー作品賞|作品賞]]'''<br />[[第65回アカデミー賞|1992年]]『[[許されざる者 (1992年の映画)|許されざる者]]』<br />[[第77回アカデミー賞|2004年]]『[[ミリオンダラー・ベイビー]]』<br />'''[[アカデミー監督賞|監督賞]]'''<br />[[第65回アカデミー賞|1992年]]『[[許されざる者 (1992年の映画)|許されざる者]]』<br />[[第77回アカデミー賞|2004年]]『[[ミリオンダラー・ベイビー]]』<br />'''[[アービング・G・タルバーグ賞]]'''<br />[[第67回アカデミー賞|1994年]]<br />
| カンヌ国際映画祭 = '''[[パルム・ドール・ドヌール]]'''<br />[[第62回カンヌ国際映画祭|2009年]]<br />
| ニューヨーク映画批評家協会賞 = '''[[ニューヨーク映画批評家協会賞 監督賞|監督賞]]'''<br />[[第70回ニューヨーク映画批評家協会賞|2004年]]『[[ミリオンダラー・ベイビー]]』<br />
| ロサンゼルス映画批評家協会賞 = '''[[ロサンゼルス映画批評家協会賞 監督賞|監督賞]]'''<br />[[第18回ロサンゼルス映画批評家協会賞|1992年]]『[[許されざる者 (1992年の映画)|許されざる者]]』<br />'''[[ロサンゼルス映画批評家協会賞 主演男優賞|主演男優賞]]'''<br />[[第18回ロサンゼルス映画批評家協会賞|1992年]]『[[許されざる者 (1992年の映画)|許されざる者]]』<br />
| 放送映画批評家協会賞 = '''外国語映画賞'''<br />[[第12回放送映画批評家協会賞|2006年]]『[[硫黄島からの手紙]]』<br />
| 英国アカデミー賞 = '''特別賞'''<br >[[2006年]]<br />
| ヴェネツィア国際映画祭 = '''[[栄誉金獅子賞]]'''<br />[[第57回ヴェネツィア国際映画祭|2000年]]<br />
| セザール賞 = '''外国語映画賞'''<br />2003年『[[ミスティック・リバー]]』<br />2005年『[[ミリオンダラー・ベイビー]]』<br />2009年『[[グラン・トリノ]]』<br />'''名誉賞'''<br />[[1998年]]<br />
| 全米映画批評家協会賞 = '''[[全米映画批評家協会賞 監督賞|監督賞]]'''<br />1992年『[[許されざる者 (1992年の映画)|許されざる者]]』<br />2003年『[[ミスティック・リバー]]』<br />
| エミー賞 = <br />
| 日本アカデミー賞 = '''[[日本アカデミー賞|最優秀外国語作品賞]]'''<br />[[第30回日本アカデミー賞|2006年]]『[[父親たちの星条旗]]』<br />[[第31回日本アカデミー賞|2007年]]『[[硫黄島からの手紙]]』<br />[[第39回日本アカデミー賞|2015年]]『[[アメリカン・スナイパー]]』<br />[[第40回日本アカデミー賞|2016年]]『[[ハドソン川の奇跡 (映画)|ハドソン川の奇跡]]』<br />
| ゴールデングローブ賞 = '''[[ゴールデングローブ賞 作品賞 (ドラマ部門)|作品賞 (ドラマ部門)]]'''<br />[[第50回ゴールデングローブ賞|1992年]]『[[許されざる者 (1992年の映画)|許されざる者]]』<br />[[第62回ゴールデングローブ賞|2004年]]『[[ミリオンダラー・ベイビー]]』<br />'''[[ゴールデングローブ賞 監督賞|監督賞]]'''<br />[[第46回ゴールデングローブ賞|1988年]]『[[バード (映画)|バード]]』<br />[[第50回ゴールデングローブ賞|1992年]]『[[許されざる者 (1992年の映画)|許されざる者]]』<br />[[第62回ゴールデングローブ賞|2004年]]『[[ミリオンダラー・ベイビー]]』<br />'''[[ゴールデングローブ賞 外国語映画賞|外国語映画賞]]'''<br />[[第64回ゴールデングローブ賞|2006年]]『[[硫黄島からの手紙]]』<br />'''[[セシル・B・デミル賞]]'''<br />[[第45回ゴールデングローブ賞|1987年]] 長年の功績に対して<br />
| 全米映画俳優組合賞 = '''[[全米映画俳優組合賞 生涯功労賞|生涯功労賞]]'''<br />[[2002年]]<br />
| その他の賞 = [[レジオンドヌール勲章]]<br />[[旭日中綬章]]<br />
| その他 = [[ハリウッド名声の歩道]]<br />[[カーメル・バイ・ザ・シー|カーメル]]市長([[1986年]]-[[1988年]])<br />
}}<br />
'''クリント・イーストウッド'''(Clint Eastwood(本名:Clinton Eastwood Jr.('''クリントン・イーストウッド・ジュニア''')), [[1930年]][[5月31日]] - )は、[[アメリカ合衆国]][[カリフォルニア州]]、[[サンフランシスコ]]出身の[[映画俳優]]、[[映画監督]]、[[映画プロデューサー]]、[[作曲家]]、[[政治活動家]]。公称身長193 cm(6フィート4インチ)。<br />
<br />
俳優として数多くの[[西部劇]]や[[アクション映画]]に出演。自身最大の当たり役である[[ハリー・キャラハン (架空の人物)|ハリー・キャラハン]]役を演じた『[[ダーティハリー]]』シリーズでスーパースターの地位を不動のものとした。監督としても『[[許されざる者 (1992年の映画)|許されざる者]]』『[[ミリオンダラー・ベイビー]]』で[[アカデミー作品賞]]と[[アカデミー監督賞]]を2度受賞するなど、[[ハリウッド]]で長年活躍してきた俳優、映画監督である。一方、[[カリフォルニア州]][[カーメル・バイ・ザ・シー|カーメル市]]市長を1期(2年間)務めた。<br />
<br />
== 来歴 ==<br />
=== 生い立ち ===<br />
==== 幼少期 ====<br />
[[File:Oakland Tech High School.jpg|thumb|240px|オークランド・テクニカル・ハイスクール]]<br />
[[カリフォルニア州]][[サンフランシスコ]]の{{仮リンク|サンフランシスコ記念病院|en|Saint Francis Memorial Hospital}}で、クリントン・イーストウッド・シニアとマーガレット・ルースの息子として生まれる。体重が5.16キログラムの大きな赤ん坊だったため、看護師たちから「[[サムソン]]」と名付けられた{{sfn|Schickel|1996|p=21}}<ref>[https://www.theguardian.com/film/2008/nov/02/clint-eastwood-drama guardian.co.uk Gentle man Clint, November 2, 2008].</ref><ref>McGilligan (1999), p. 22</ref>。イーストウッドは[[イングランド]]・[[アイルランド]]・[[スコットランド]]・[[オランダ]]の血を引いている<ref name="bookref1">{{cite book|last=Smith|first=Paul|authorlink=|title=Clint Eastwood a Cultural Production|publisher=University of Minnesota Press|year=1993|location=Minnesota|pages=|url=|isbn=0-8166-1958-1}}</ref>。国勢調査の記録によると、父クリントン・シニアは1930年代に[[アメリカ合衆国西海岸|西海岸]]の各地で、セールスマンや探偵などの仕事を転々としながら家族を養っていたという<ref>[http://www.adherents.com/people/pe/Clint_Eastwood.html adherents.com The Religious Affiliation of actor/director Clint Eastwood].</ref><ref>Zmijewsky, p. 13</ref><ref>[http://www.cbsnews.com/stories/2005/02/03/Sunday/main671541.shtml CBS Evening News interview, February 6, 2005].</ref>。1940年にイーストウッド家はサンフランシスコ郡ピートモンドに移住し、イーストウッドが成人するまで同地で生活した<ref name="McGilliganp34">McGilligan (1999), p. 34</ref>。イーストウッドはインタビューで、[[世界恐慌]]を引き合いに出して幼少期の生活が苦しかったことを度々示唆しているが、[[ソンドラ・ロック]]はこれに対して「彼の家は決して貧しくはありませんでした。イーストウッド家は町の豊かな地区に暮らし、家にはプールがあり、家族一人一人が車を所有しており、カントリークラブにも加入していました」と主張している<ref name="autobio">{{cite book|last=Locke|first=Sondra|title= The Good, the Bad, and the Very Ugly – A Hollywood Journey|publisher= [[William Morrow and Company]]|year= 1997|ISBN=978-0-688-15462-2}}</ref>。<br />
<br />
イーストウッドは、成績不良でサマースクールに通う必要があったという<ref name="McGilliganp34"/>。彼は運動能力と音楽の才能は高く評価されていたが、成績不振のために転校を余儀なくされている<ref name="McGilliganp34"/>。学校ではバスケットボール選手としての能力を期待されるほどだったが、イーストウッド自身はテニスやゴルフなどの個人競技に興味があり、現在でもこれらを趣味としている<ref name="McGilliganp34"/>。{{仮リンク|オークランド・テクニカル・ハイスクール|en|Oakland Technical High School}}に転校したイーストウッドは、そこで教師から演劇サークルに参加するように勧められたが、彼は演劇に興味がなかったため断っている。イーストウッドは、この頃は「速い車と尻軽女にしか興味がなかった」と語っている<ref>McGilligan (1999), p. 35</ref><ref name="McGilligan37">McGilligan (1999), p. 37</ref>。ハイスクールでは自動車整備コースを受講し、自動車と航空機のエンジンの組み立てと航空機のメンテナンスを研究していた<ref name="McGilligan37"/>。イーストウッドは1949年1月に卒業する予定だったが、実際に卒業したかは不明である<ref name="McGilligan40">McGilligan (1999), p. 40</ref>。伝記作家の{{仮リンク|パトリック・マクギリガン|en|Patrick McGilligan (biographer)}}は、「卒業記録は厳格な守秘義務に守られている」と述べている<ref name="McGilligan40"/>。イーストウッドの友人たちも「彼が学校の中で過ごしていたとは思わない。彼は他の場所で楽しい時間を過ごしていた」「彼が卒業したとは思えない」と語っている<ref name="McGilligan40"/>。<br />
<br />
==== 青年期 ====<br />
1949年にクリント・シニアは[[シアトル]]の工場で働き始める。イーストウッドは[[マリブ (カリフォルニア州)|マリブ]]のハウス・パーティーに参加した際に映画監督の[[ハワード・ホークス]]と[[ジョン・フォード]]に出会い、その後の彼に大きな影響を与えた<ref>McGilligan (1999), p.41</ref>。その後、イーストウッドはシアトルに移住し、[[オレゴン州]][[スプリングフィールド (オレゴン州)|スプリングフィールド]]のパルプ工場で父と共に働き始める<ref>The King of Western Swing - Bob Wills Remembered. Rosetta Wills. 1998. p. 165 {{ISBN|0-8230-7744-6}}.</ref>。また、[[ライフガード]]としても働いている<ref>McGilligan (1999), p.43</ref>。1951年に[[アメリカ陸軍]]に召集されてフォート・オードに派遣され、訓練時のライフガードとして勤務する<ref name="McGilligan49">McGilligan, p. 49</ref>。同年9月30日、イーストウッドの搭乗していた[[A-1 (航空機)|A-1]]が、サンフランシスコ近郊の海に墜落する事故が発生した{{sfn|Schickel|1996|pp=51–55}}<ref name=Warner>{{cite web |publisher=U.S. Navy |url=https://www.flickr.com/photos/northbaygeographer/albums/72157629225279927 |title=Accident Report: AD-1Q BU#409283 Eastwood |year=1951 |accessdate=2017-06-21}}</ref>。イーストウッドとパイロットは無傷で海岸に辿り着いたが、彼はこの事故を振り返り「死ぬかもしれないと思った。しかし、私は海岸のライトを見ながら泳ぎ続けた」と語っている<ref name="Z16">Zmijewsky (1982), p. 16</ref>{{sfn|Schickel|1996|pp=51–55}}。彼は陸軍に在籍中に、後に俳優として成功する{{仮リンク|リチャード・ロング (俳優)|en|Richard Long (actor)|label=リチャード・ロング}}、[[マーティン・ミルナー]]、[[デビッド・ジャンセン]]と友人になっている{{sfn|Schickel|1996|p=50}}。<br />
<br />
1952年春にシアトルに戻りライフガードの仕事をするが、生活費に乏しく友人もいなかったため[[ロサンゼルス]]に移住し、[[ビバリーヒルズ]]でアパート経営をしながら夜間はガソリンスタンドで働いた<ref>McGilligan (1999), p.54</ref><ref name="McGilligan55">McGilligan (1999), p. 55</ref><ref name="Z17">Zmijewsky (1982), p. 17</ref>。1953年6月に[[ブラインドデート]]で22歳の秘書マーガレット・ネヴィル・ジョンソンと出会う。二人はクリスマスの直前に結婚し、[[カーメル・バイ・ザ・シー]]にハネムーンに向かった<ref name="McGilligan55"/><ref>McGilligan (1999), p. 56</ref>。その後、イーストウッドは映画に出演する傍ら、短期間[[ロサンゼルス・シティー・カレッジ]]に通い、住宅用プールの土台を掘る仕事をしながら生活していた<ref name="Z17"/><ref>Zmijewsky (1982), p. 19</ref>。<br />
<br />
=== 俳優人生の出発 ===<br />
==== 映画界への進出 ====<br />
[[ユニバーサル・スタジオ|ユニバーサル映画]]の記録によると、フォート・オードでの撮影中にイーストウッドを見かけたエージェントが、監督に会うように勧めたとされるが、彼の伝記では同地に滞在していたチャック・ヒルという人物が[[ハリウッド]]に彼を紹介したとされる<ref name="McGilligan52">McGilligan (1999), p. 52</ref>。ヒルはロサンゼルスでイーストウッドと出会って以降親しい関係となり、彼の才能を見込んでカメラマンの{{仮リンク|アーヴィング・グラスバーグ|en|Irving Glassberg}}に紹介した<ref name="McGilligan52"/>。グラスバーグは、イーストウッドに対して「伝統的に映画で成功していったハンサムな若者の一種」と好感を抱き、監督の{{仮リンク|アーサー・ルビン|en|Arthur Lubin}}に、イーストウッドのアルバイト先のガソリンスタンドで彼に会うように依頼した<ref name="McGilligan52"/>。イーストウッドに会ったルビンも、グラスバーグと同様に「背が高く身体が細く、とてもハンサムだ」と好印象を抱いた<ref name="McGilligan60">McGilligan (1999), p. 60</ref>。<br />
<br />
ルビンは早速オーディションの手配をするが、「彼は素人だ。どの道に進み、何をするのか分かっていなかった」と述べており、イーストウッドの売り込みにそれほど熱心ではなかった<ref name="McGilligan60"/>。それでもルビンは希望を持つようにイーストウッドを励ましてドラマの養成コースに参加させ、イーストウッドは1954年4月に週給100ドルでユニバーサルと契約を結んだ<ref name="McGilligan60"/>。イーストウッドの妻マーガレットを含むハリウッド業界の人間は、「ルビンは同性愛者で、イーストウッドと性的な関係を持っていた」と疑っていた<ref name="McGilligan84">McGilligan (1999), p.84</ref>。ユニバーサルとの契約後、イーストウッドは端役として役をこなすが、時にはスタッフの前で全裸で演技をすることもあった<ref>McGilligan (1999), p.61</ref>。仕事を始めた当初、イーストウッドは素っ気ない演技しかできず、スタッフからの評判は芳しくなかった<ref>McGilligan (1999), p. 62</ref>。俳優仲間の[[ジョン・サクソン]]は、「一種の干し草のようなもの……薄い[[喉頭隆起|喉仏]]で、台詞を言うのが遅く、非常に不気味だった」と述べている<ref name="McGilligan63">McGilligan (1999), p. 63</ref>。イーストウッドはユーモアのセンスがあり、女優が出演しない映画では演技できたが、主役に選ばれることはなく、初期の活動の成功には結び付かなかった<ref name="McGilligan63"/>。<br />
<br />
==== 駆け出し時代 ====<br />
[[File:Revenge creature.jpg|thumb|200px|俳優デビュー作『半魚人の逆襲』のポスター]]<br />
1954年5月、イーストウッドは『{{仮リンク|六つの橋を渡る男|en|Six Bridges to Cross}}』の強盗役のオーディションに参加したが、監督の{{仮リンク|ジョゼフ・ペフニー|en|Joseph Pevney}}は彼の演技に感銘を受けず、結果は落選となった<ref name="McGilligan63"/>。その後、立て続けに『{{仮リンク|ブリガドーン (映画)|en|Brigadoon|label=ブリガドーン}}』『''The Constant Nymph''』『{{仮リンク|進め!ベンガル連隊|en|Bengal Brigade}}』『[[七年目の浮気]]』『{{仮リンク|異教徒の旗印|en|Sign of the Pagan}}』『''Smoke Signal''』『{{仮リンク|Abbott and Costello Meet the Keystone Kops|en|Abbott and Costello Meet the Keystone Kops}}』のオーディションを受けるが、全て落選している<ref name="McGilligan63"/>。最終的に[[ジャック・アーノルド]]の『[[大アマゾンの半魚人]]』の続編である『[[半魚人の逆襲]]』で端役をもらい映画デビューを果たした<ref name="McGilligan64">McGilligan (1999), p. 64</ref>。イーストウッドに与えられた役は「研究員ジェニングス」という役で、1954年7月30日にユニバーサル映画第16スタジオで撮影が行われたが、彼が出演しない主要シーンは[[フロリダ州]]マリネランドで撮影された<ref>http://www.marineland.net/history/php</ref>。その後、イーストウッドはマーガレットと共にアパートを引き払い、ユニバーサル通りのアパートに引っ越したが、このアパートには女優の{{仮リンク|ギア・スカラ|en|Gia Scala}}とリリー・カーデルも住んでいた<ref name="McGilligan65-6">McGilligan (1999), pp. 65–66</ref>。このアパートには[[アニタ・エクバーグ]]が水着の写真撮影を行ったプールがあり、イーストウッドは水泳で身体を鍛えた<ref name="McGilligan65-6"/>。<br />
<br />
1955年2月、イーストウッドはルビンの『{{仮リンク|Francis in the Navy|en|Francis in the Navy}}』に端役として出演して週給が300ドルに上がり、9月には『{{仮リンク|Lady Godiva of Coventry|en|Lady Godiva of Coventry}}』に端役として3週間撮影に参加した<ref>McGilligan (1999), p. 79</ref>。その後、再びアーノルドが監督した『{{仮リンク|世紀の怪物 タランチュラの襲撃|en|Tarantula (film)}}』に戦闘機隊長役で出演した<ref>McGilligan (1999), p. 80</ref>。同年5月には『{{仮リンク|ネバー・セイ・グッドバイ (1956年の映画)|label=ネバー・セイ・グッドバイ|en|Never Say Goodbye (1956 film)}}』の撮影に4時間参加し、8月には『''Star in the Dust''』に牧童役として[[西部劇]]映画に初出演した<ref name="McGilligan81">McGilligan (1999), p. 81</ref>。7月2日にはテレビドラマ『''Allen in Movieland''』に初出演したが、10月25日にディレクターのロバート・パーマーによってユニバーサル映画から解雇された。イーストウッドはパーマーの仕打ちを忘れず、後に{{仮リンク|マルパソ・プロダクション|en|Malpaso Productions}}を設立した際に、入社を求めたパーマーを門前払いしている<ref name="McGilligan86">McGilligan (1999), p.86</ref><ref>McGilligan (1999), pp. 82–3</ref>。<br />
<br />
イーストウッドは俳優仲間のベティ・ジェーン・ハウワースからの助言を受け、[[アダム・ウェスト]]やリチャード・ロングの代理人を務めていたマーシュ・エージェンシーの広報担当者に接触した<ref name="McGilligan84"/>。同時期、イーストウッドはルビンの『{{仮リンク|The First Traveling Saleslady|en|The First Traveling Saleslady}}』に出演している<ref name="McGilligan85">McGilligan (1999), p. 85</ref>。イーストウッドとルビンの関係はその後も続き、『[[二人の可愛い逃亡者]]』や1960年代に彼が製作したテレビドラマに度々出演しているが、彼が俳優として成功した後は疎遠となり、『[[許されざる者 (1992年の映画)|許されざる者]]』でオスカーを受賞した時まで再会することはなかった<ref name="McGilligan85"/>。この時期、ルビンからの出演依頼がイーストウッドの生活を支えていた<ref name="McGilligan85"/>。1956年1月には[[アメリカン・ブロードキャスティング・カンパニー|ABC]]のテレビドラマ『''Reader's Digest''』に出演し、同年後半からはテレビドラマ『ハイウェイ・パトロール』にギャング役で出演している<ref name="McGilligan85"/>。1957年のテレビドラマ『ウェストポイント』に士官学校生徒役で出演し、同時期に『{{仮リンク|Wagon Train|en|Wagon Train}}』『{{仮リンク|Death Valley Days|en|Death Valley Days}}』にも出演している<ref name="McGilligan87">McGilligan (1999), p. 87</ref>。1958年に『{{仮リンク|Navy Log|en|Navy Log}}』に海軍士官役で出演し、1959年には『[[マーベリック (テレビドラマ)|マーベリック]]』に出演した<ref name="McGilligan87"/>。<br />
<br />
この間、イーストウッドはプール工事など複数の仕事をしながらジムに通いトレーニングをしていた<ref name="McGilligan87">McGilligan (1999), p. 87</ref>。また、[[ニック・アダムス]]、{{仮リンク|アイリッシュ・マッカラ|en|Irish McCalla}}、{{仮リンク|ジェイミー・ファー|en|Jamie Farr}}などの俳優仲間と共にジャック・コスリンの主催する演技教室に通い指導を受けた。この頃、イーストウッドは妻や友人たちと共に夕食に出かけた際に、レストランの前で銃を持った強盗に襲われている。友人たちは逃げようとしたが、イーストウッドはその場に留まり、「引き金を引け。その前にお前たちを殺してやる」と威嚇し、強盗を追い払ったという<ref name="McGilligan90">McGilligan (1999), p. 90</ref>。別の日には、友人とバーにいた際に船乗りのグループと喧嘩になり、「ハリウッドの馬鹿野郎」と罵られたうえに殴られたため、イーストウッドは船乗りたちに反撃して二人を病院送りにしている<ref name="McGilligan90"/><ref>McGilligan (1999), p. 91</ref>。<br />
<br />
イーストウッドは『[[翼よ! あれが巴里の灯だ]]』の主演オーディションに参加するが、結果は[[ジェームズ・ステュアート (俳優)|ジェームズ・ステュアート]]が主演に起用され落選した。しかし、彼は『{{仮リンク|壮烈! 外人部隊|en|Lafayette Escadrille (film)}}』でパイロット役として出演し、『{{仮リンク|Ambush at Cimarron Pass|en|Ambush at Cimarron Pass}}』では元奴隷キース・ウィリアムズ役として出演した。『''Ambush at Cimarron Pass''』ではリーガル・フィルムのスタジオで9日間撮影に参加したが、彼はこの映画には不満を感じており、映画が公開された際には「本当に落ち込んだ」と語り、俳優を辞めることを考えたという<ref name="McGilligan93">McGilligan (1999), p. 93</ref>。<br />
<br />
==== 『ローハイド』でのブレイク ====<br />
[[File:Clint Eastwood-Rawhide publicity.JPG|thumb|left|200px|『ローハイド』出演時のイーストウッド]]<br />
イーストウッドの代理人であるビル・シフリンは、[[CBS]]が1時間の西部劇ドラマを製作する話を聞き、彼にスタジオに顔を出すように助言した。イーストウッドは脚本家のソニア・チェルノスと会い、その際に[[ハンドボール]]選手の{{仮リンク|ロバート・スパークス|en|Robert Sparks}}に出会う。スパークスは「あなたの身長はどれくらいですか」と尋ね、イーストウッドは「6フィート4インチです」と返答した<ref name="McGilligan94">McGilligan (1999), p. 94</ref>。プロデューサーは事務所にイーストウッドを呼び、後に[[チャールズ・マーキス・ウォーレン]]に紹介され、彼の目の前で『[[牛泥棒]]』で主演を演じた[[ヘンリー・フォンダ]]の台詞を暗唱させられた<ref name="McGilligan95">McGilligan (1999), p. 95</ref>。その1週間後、イーストウッドはウォーレンがプロデューサーを務める西部劇テレビシリーズ『[[ローハイド]]』への出演が決定し、彼の俳優としてのキャリアの転機となった<ref name="McGilligan95"/>。<br />
<br />
撮影は1958年から[[アリゾナ州]]で始まり、イーストウッドは[[エリック・フレミング (俳優)|エリック・フレミング]]が演じるギル・フェイバー隊長の補佐役ロディ・イェーツ副隊長を演じた。二人の間には確執があったとされているが、イーストウッドはこれを否定しており、フレミングが事故死した際には「彼を尊敬していた」とコメントしている<ref>McGilligan (1999), p. 100</ref>。また、イーストウッドはキャリアの転機となった作品自体には満足しているが、ロディ・イェーツというキャラクターについては不満を抱いていた。撮影当時、イーストウッドは28歳近で、自身よりも若いロディを演じることに抵抗を感じており、ボーイッシュな彼について「平野の馬鹿」と呼んでいた<ref>[http://www.readersdigest.com.au/content/rd-face-to-face-clint-eastwood/ Reader's Digest Australia: RD Face to Face: Clint Eastwood<!-- Bot generated title -->] {{webarchive |url=https://web.archive.org/web/20080726000000/http://www.readersdigest.com.au/content/rd-face-to-face-clint-eastwood/ |date=July 26, 2008 }}.</ref>。共演者の{{仮リンク|ポール・ブラインガー|en|Paul Brinegar}}も、「彼(イーストウッド)は10代の青年を演じることに非常に不満を抱いていた」と語っている<ref>McGilligan (1999), p.102</ref>。<br />
<br />
イーストウッドはシフリンとの契約を終了させ、1961年から1963年までの間はレスター・サルコウと代理人契約を結んでいた。サルコウとの契約に関しては、{{仮リンク|アーヴィング・レナード|en|Irving Leonard (financial adviser)}}と[[フランク・ウェルズ]]が重要な役割を果たし、彼らは1話当たり750ドルの給与をイーストウッドに約束した<ref>McGilligan (1999), p.104</ref>。イーストウッドは手に入れた給与ですぐに高級車を買おうとしたため、浪費を懸念したレオナルドによって預金を厳しく管理されていた<ref>McGilligan (1999), p.105</ref>。イーストウッドとマーガレットは質素に暮らしていたが、後にビバリーグレンに家を買い引っ越した。<br />
<br />
[[File:Clint Eastwood Paul Brinegar Eric Fleming Rawhide 1961.jpg|thumb|200px|『ローハイド』出演時のイーストウッド、フレミング、ブラインガー]]<br />
『ローハイド』は放送開始から3週間で番組ランキングのトップ20にランクインする人気番組となった<ref name="McGilligan110">McGilligan (1999), p. 110</ref>。その後も人気は上昇し、1960年10月から1961年4月までの番組ランキングで6位となっている<ref name="McGilligan110"/>。しかし、撮影はハードで、イーストウッドは最初の年の4月から7月の間は週6日間、1日平均12時間撮影に参加していた<ref name="McGilligan110"/>。また、一部のディレクターからは「外見頼りで十分な演技が出来ていない」という批判も受けた<ref name="McGilligan111">McGilligan (1999), p. 111</ref>。ジャーナリストの{{仮リンク|ジーン・ファウラー・ジュニア|en|Gene Fowler Jr.}}からは「演技が不自然」、共演者のトミー・カーは「彼は怠け者だ。毎朝30分から1時間は遅刻して来るので、朝一の撮影を一緒に演じたことがない」と語っている<ref name="McGilligan111"/>。この遅刻癖について、共演者の{{仮リンク|カレン・シャープ|en|Karen Sharpe}}は「女性関係が原因の可能性がある」と語っており、彼女によるとイーストウッドは既婚女性と共にトレーラーの中に引きこもり、疲れた様子で午後の撮影に参加していたという<ref name="McGilligan111"/>。イーストウッドは『ローハイド』の出演を通して俳優としての素質を開花させ、ユーモアと情緒的ニュアンスのバランスの取れた演技を習得したが、スタッフや共演者からは、その成長を気付かれることはなかった<ref>McGilligan (1999), p. 113</ref>。<br />
<br />
イーストウッドは多忙なスケジュールの中で『ローハイド』の曲「''A Drover's Life''」「''Beyond the Sun''」のレコーディングを行い、音楽にも熱意を見せた。彼は[[ジャズ]]の他に、カントリーソングやウェスタンソングにも関心を持っていた<ref name="McGilligan114">McGilligan (1999), p. 114</ref>。1963年に作詞家の{{仮リンク|カル・マン|en|Kal Mann}}は、「歌手としては大した成功はしない」と述べたが、イーストウッドは撮影のオフシーズン中にブラインガー、{{仮リンク|シェブ・ウーリー|en|Sheb Wooley}}と共に音楽フェスティバルに参加し、1万5,000ドルを稼いでいる<ref name="McGilligan115">McGilligan (1999), p. 115</ref>。<br />
<br />
第3シーズンの撮影が始まった頃、ハリウッドの記者たちは、「イーストウッドに疲れが見えている」と憶測し始めたが、イーストウッドはこの間も様々なテレビドラマに精力的に出演している。『ローハイド』は[[ロン・チェイニー・ジュニア]]、[[メアリー・アスター]]、[[ラルフ・ベラミー]]、[[バージェス・メレディス]]、[[ディーン・マーティン]]、[[バーバラ・スタンウィック]]などの人気俳優が出演し人気を維持したが、1963年末には脚本に新鮮味が薄れ人気に陰りが見え始めた<ref>McGilligan (1999), p. 125</ref>。シリーズは1965年まで続いたが、イーストウッドのキャリアは1963年後半に転換することになる。<br />
<br />
=== ドル箱三部作 ===<br />
==== 『荒野の用心棒』 ====<br />
[[File:Clint Eastwood - 1960s.JPG|thumb|left|240px|『荒野の用心棒』出演時のイーストウッド]]<br />
1963年後半、当時は無名に近かった映画監督[[セルジオ・レオーネ]]から、フレミングに対して[[スペイン]]で撮影する西部劇映画『''The Magnificent Stranger''』(『[[荒野の用心棒]]』の前段階の題名)への出演がオファーされる。しかし、出演料が安かったことや、ハリウッドの大作映画への出演を望んでいたことから、フレミングはオファーを断った<ref name="McGillagan126">McGillagan (1999), p.126</ref>。レオーネは、フレミングの他に[[チャールズ・ブロンソン]]、[[スティーヴ・リーヴス]]、{{仮リンク|リチャード・ハリソン|en|Richard Harrison (actor)}}、{{仮リンク|フランク・ウォルフ|en|Frank Wolff (actor)}}、[[ヘンリー・フォンダ]]、[[ジェームズ・コバーン]]、{{仮リンク|タイ・ハーディン|en|Ty Hardin}}にも主演のオファーをしたが、いずれも断られている<ref>[http://www.tahoebonanza.com/article/20040618/News/106180001/-1/NEWS Relive the thrilling days of the Old West in film | TahoeBonanza.com<!-- Bot generated title -->].</ref><ref>[http://www.sensesofcinema.com/2003/cteq/fistful_of_dollars/ A Fistful of Dollars<!-- Bot generated title -->].</ref>。プロデューサーはより出演料の安い俳優のリストを作成してハリソンに助言を求め、彼は[[カウボーイ]]を演じ切れる人物としてイーストウッドを推薦した。ハリソンは後に「私の映画界への最大の貢献は、『荒野の用心棒』に出演しなかったことと、イーストウッドを推薦したことです」と述べている<ref>[http://www.nanarland.com/interview/interview.php?id_interview=richardharrisonvo&vo=1&page=2 Richard Harrison interview].</ref>。レオーネは、[[ローマ]]のウィリアム・モリス・エージェンシーのエージェントであるクラウディオ・サルトリの助言を受けて『ローハイド』第91話を視聴した<ref name="McGillagan126"/>。レオーネはフレミングの演技を見ようとしたが、イーストウッドの演技を見て「私を何よりも魅了したのは、クリントの外見でした。彼はフレミングから演技の全てを盗み、その怠惰な姿はハッキリと見えました」とコメントした<ref name="McGillagan126"/>。<br />
<br />
出演オファーは、レナードを通じてイーストウッドに伝えられた。しかし、レナードは出演に反対したため、1950年代からイーストウッドを支援してきたマーシュ・エージェンシーのルース・マーシュとマーガレットは、レナードを出し抜こうと計画し、マーシュ・エージェンシーの[[イタリア]]仲介業者であるジョリー・フィルムに連絡を取った<ref name="McGillagan127">McGillagan (1999), p.127</ref>。当初、イーストウッドは『ローハイド』の出演に疲れ果てており、数か月間休暇を取りゴルフをして気分転換をしたいと考えていたため、出演に難色を示した<ref name="McGillagan127"/>。しかし、イーストウッドは脚本を10ページ読んだところで、映画が[[黒澤明]]の『[[用心棒]]』をモデルにしていることに気付き、脚本は残酷であるが非常に知的であるという感想を抱いた<ref name="McGillagan127"/>。映画の可能性を感じたレナードも出演を許可し、イーストウッドには11週間の撮影期間と渡航費用1万5,000ドルが与えられた<ref name="McGillagan128">McGillagan (1999), p.128</ref>。イーストウッドは映画出演を「『ローハイド』の撮影から逃れて休暇を楽しむ機会」と捉えており、アメリカを出国する前には出演料を当て込んで[[メルセデス・ベンツ]]の購入契約を結んでいる<ref name="McGillagan128"/>。<br />
<br />
[[File:Almeria 4.jpg|thumb|240px|レオーネがスペイン・[[アルメリア]]に作った西部劇映画のセット]]<br />
1964年5月、イーストウッドはローマに到着して映画スタッフや記者と会うが、その場にレオーネはいなかった<ref name="McGillagan128"/>。その日の午後にレオーネと対面するが、彼はイーストウッドに感銘を受けたものの、アメリカンスタイルの服装には嫌悪感を抱いたという。しかし、レオーネは後に「クリントはアメリカの学生と同じような趣味の悪い服装でやって来たが、私はあまり気にしなかった。私が興味を抱いたのは、彼の顔と、彼が歩む道でした」と述べている<ref name="McGillagan129">McGillagan (1999), p.129</ref>。イーストウッドは{{仮リンク|ハリウッド・ブルーバード|en|Hollywood Boulevard}}で購入した黒のジーンズ、[[サンタモニカ]]で購入した帽子、ブレスレットを身に付けて撮影に臨んだ<ref name="McGillagan129"/><ref name="McGillagan131">McGillagan (1999), p.131</ref>。また、トレードマークの黒い葉巻はビバリーヒルズから取り寄せたものだが、イーストウッドは煙草を吸わないため煙の臭いを嫌っていた<ref>McGillagan (1999), p.132</ref>。レオーネはこの姿を「[[名無しの男]]」のイメージとして強調した。製作にはイタリア・スペイン・[[西ドイツ]]が参加していたため、現場では複数の言語が飛び交う状況だった。その中で、イーストウッドはイタリア人キャストやスタントマンの{{仮リンク|ベニート・ステファネリ|en|Benito Stefanelli}}の通訳を担当した。撮影の大半はスペインで行われ、その間、マーガレットは[[トレド]]・[[マドリード]]・[[セゴビア]]を観光して過ごした<ref>McGillagan (1999), p.137</ref>。<br />
<br />
配給会社は、無名の監督であるレオーネの映画には関心を抱かず、映画の売り上げが悪い9月に映画を公開させた。『荒野の用心棒』はイタリアの批評家からは酷評されたが、人気は徐々に高まりイタリアで400万ドルの収益を上げた。しかし、レオーネたちが[[東宝]]から「無許可によるリメイク」として訴訟を起こされたため、アメリカでは1967年まで公開されなかった<ref name="McGillagan144">McGillagan (1999), p.144</ref>。このため、アメリカではイーストウッドの知名度には変化が見られず、また、ハリウッドではイタリア映画への出演に偏見があったため、彼のキャリアも一段低いものに見られていた<ref name="McGillagan144"/>。<br />
<br />
==== 『夕陽のガンマン』 ====<br />
[[File:Clint Eastwood1.png|thumb|280px|『夕陽のガンマン』出演時のイーストウッド]]<br />
レオーネは再びイーストウッドを主演に雇い、『[[夕陽のガンマン]]』を製作した。しかし、前作の製作会社ジョリー・プロダクションと資金を巡りトラブルになったため、レオーネは{{仮リンク|アルベルト・グリマルディ|en|Alberto Grimaldi}}と共に製作を進めた<ref name="McGillagan144"/>。グリマルディは製作費として35万ドルを支出し、[[ルチアーノ・ヴィンチェンツォーニ]]は9日間かけて「麻薬中毒者の銀行強盗犯を追う二人の賞金稼ぎ」という内容の脚本を書き上げた<ref name="McGillagan145">McGillagan (1999), p.145</ref>。イーストウッドには5万ドルとファーストクラスの航空券が支給されたが、彼は前作で葉巻を吸って気分が悪くなったこともあり、再び映画で葉巻を吸うことになるのを嫌がったという<ref name="McGillagan145"/>。撮影は1965年の春から夏にかけて行われ、ローマの映画スタジオで撮影した後、スペインに向かい撮影を続けた。撮影中、イーストウッドはヴィンチェンツォーニと親しくなり、イタリア料理を楽しみながら女性客から注目を浴びる日々を過ごしていた<ref>McGillagan (1999), p.146</ref>。ヴィンチェンツォーニは英語が堪能で、レオーネを連れてローマの映画館に向かい、そこでアメリカ映画界の重鎮である{{仮リンク|アーサー・クリム|en|Arthur B. Krim}}と{{仮リンク|アーノルド・ピッカー|en|Arnold Picker}}に売り込んだ。二人は映画の内容に満足し、『夕陽のガンマン』と構想中の次回作の権利を買い取り90万ドルの契約を結び、前金として50万ドルを渡した<ref name="McGillagan148">McGillagan (1999), p.148</ref><ref name="Frayling">{{cite book| last =Frayling| first =Christopher| title =Sergio Leone: Something To Do With Death| publisher =Faber & Faber| year =2000| location =| pages =| isbn =0-571-16438-2}}</ref>。<br />
<br />
同じ頃、『ローハイド』はフレミングが降板し、番組自体も『[[コンバット!]]』の人気に押されて放送が終了した。放送終了後、イーストウッドは[[ディノ・デ・ラウレンティス]]と会い、彼の妻[[シルヴァーナ・マンガーノ]]が主演を務める『[[華やかな魔女たち]]』への出演契約を結んだ<ref name="McGillagan150">McGillagan (1999), p.150</ref>。1966年後半にローマを訪れたイーストウッドは、2万ドルの出演料を受け取り、新しい[[フェラーリ]]を購入している<ref name="McGillagan150"/>。映画は短編で、イーストウッドが出演したのは第5話「またもやいつもの通りの」の自堕落な夫役であり、[[ニューヨーク・タイムズ]]からは「パフォーマンスが全くない」と批判された<ref name="McGillagan151">McGillagan (1999), p.151</ref>。この後、イーストウッドは[[パリ]]を訪れ、「またもやいつもの通りの」で監督を務めた[[ヴィットリオ・デ・シーカ]]と共に『夕陽のガンマン』の宣伝を行った。彼は[[フランス]]での人気を確立しており、「新しい[[ゲイリー・クーパー]]」と呼ばれていた<ref name="McGillagan151"/>。パリでは俳優のピエール・ルシエントや[[カトリーヌ・ドヌーヴ]]と交流した<ref name="McGillagan151"/>。<br />
<br />
==== 『続・夕陽のガンマン』 ====<br />
[[File:Almeria 3.jpg|thumb|200px|レオーネがスペイン・アルメリアに作った西部劇映画のセット]]<br />
『夕陽のガンマン』公開の2か月後、イーストウッドは[[ドル箱三部作]]の最終作『[[続・夕陽のガンマン]]』の撮影に入った。主要キャストには前作で共演した[[リー・ヴァン・クリーフ]]の他に[[イーライ・ウォラック]]が起用され、レオーネが引き続き監督を務めた<ref name="McGillagan152">McGillagan (1999), p.152</ref>。当初、イーストウッドは脚本に不満を感じ、ウォラックの方が活躍するという懸念を抱いており、レオーネに対して「最初の映画で私は一人でした。次の映画では二人、ここでは三人です。このままいくと、私はいずれ騎兵隊と出演することになるでしょう」と伝えている<ref name="McGillagan152"/>。最終的に、イーストウッドは出演料25万ドル、フェラーリの新車1台、アメリカ国内収益の10%を受け取ることで出演に同意したが、同時期に彼の広報戦略を巡り、三部作への出演を支援していたマーシュと、彼の影響力を削ごうとするウィリアム・モリス・エージェンシーとレオナルドとの間に対立が起きた<ref name="McGillagan152"/>。これに対し、イーストウッドはウェルズの助言を受けてマーシュの仕事をマネージャーの職務に限定して影響力を排除し、今後の広報をガットマン&パムのジェリー・パムに任せた<ref name="McGillagan153">McGillagan (1999), p.153</ref>。<br />
<br />
1966年5月中旬から撮影は始まり、ローマのスタジオで行われた<ref name="McGillagan153"/>。その後はスペインに移動し、[[ブルゴス]]近くの高原とアルメリアで撮影が行われた<ref name="McGillagan154">McGillagan (1999), p.154</ref>。この映画では、砲撃にさらされる町や広大な刑務所、[[南北戦争]]の戦場など、前二作よりも大規模なセットが必要となり、数百人の[[スペイン軍]]兵士がクライマックスシーンの墓地建設のために動員された<ref name="McGillagan154"/>。撮影監督は{{仮リンク|トニーノ・デルリ・コリ|en|Tonino Delli Colli}}が務め、彼は光に注意を払うようにレオーネに促された。橋を爆破するシーンの撮影中、イーストウッドとウォラックは橋の側に隠れている設定だったが、イーストウッドは爆発に巻き込まれる危険性を訴え、「私はこれらのことをよく知っています。爆発物から離れましょう」とウォラックに伝えた<ref name="McGillagan156">McGillagan (1999), p.156</ref>。数分後、橋は爆破されたがスタッフがカメラを回していなかったため、レオーネは激怒し、橋も新たに作り直す必要があった<ref name="McGillagan156"/>。スペイン軍の協力で橋は作り直されたが、この一件で製作費が30万ドル余分にかかってしまった。撮影の合間、イーストウッドはウォラックを連れてマドリードを訪れ、ゴルフの練習をして過ごした<ref name="McGillagan155">McGillagan (1999), p.155</ref>。また、『[[ガンマン無頼]]』を撮影中だった[[フランコ・ネロ]]と出会い、交流を深めている<ref name="Nero">{{cite video | title = Texas, Adios (Franco Nero: Back In The Saddle)| medium = DVD| publisher = [[Blue Underground]]| location = Los Angeles, California | date = 1966}}</ref>。<br />
<br />
[[File:Sergio Leone 1975.jpg|thumb|left|220px|セルジオ・レオーネ]]<br />
レオーネは様々な角度から同じシーンを何度も撮影することが多く、細部にまでこだわる完璧主義者だったが、そのために出演者は大変な疲労感を味わった<ref name="McGillagan155"/>。レオーネは大食漢であり、撮影のストレスを食事で癒していた。イーストウッドは、レオーネの大食漢振りを見て「{{仮リンク|ヨセミテ・サム|en|Yosemite Sam}}」とあだ名を付け、彼をジョークのネタにすることで日々のストレスを発散していた<ref name="McGillagan155"/>。レオーネの映画に出演したのはこれが最後であり、『[[ウエスタン (映画)|ウエスタン]]』への出演依頼が来た際には断っている。レオーネはイーストウッドの自宅に脚本を持って訪れ交渉したが、彼は出演を辞退したため、代わりに[[チャールズ・ブロンソン]]が起用された<ref name="McGillagan158">McGillagan (1999), p.158</ref>。数年後、レオーネは『[[ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ]]』の撮影中に、主演の[[ロバート・デ・ニーロ]]に対して「クリントは爆発と銃撃の間を夢遊病患者のように歩き回り、まるで大理石のように冷静だった。ボビー(デ・ニーロ)は俳優だが、クリントはスターだ。ボビーは苦しむが、クリントは欠伸をする」と語っている<ref name="McGillagan159">McGillagan (1999), p.159</ref>。<br />
<br />
ドル箱三部作は、1967年までアメリカでは公開されず、三部作は同年に続けて公開された<ref name="McGillagan157">McGillagan (1999), p.157</ref>。『続・夕陽のガンマン』はヴァン・クリーフの出演シーンが20分ほどカットされたものの、三部作は興行的に成功し、イーストウッドの俳優としての名声はアメリカ国内でも確立された<ref name="McGillagan157"/>。しかし、興行的な成功にも関わらず、三部作は批評家からは酷評された<ref name="McGillagan158"/>。ニューヨーク・タイムズの{{仮リンク|レナータ・アドラー|en|Renata Adler}}は『続・夕陽のガンマン』を「その独特の映画の中で、最も高価で敬虔な忌まわしい映画」と批評し、バラエティは「攻撃的でサディスティックな映画」と批評した<ref name="McGillagan158"/>。しかし、酷評の中でも{{仮リンク|ヴィンセント・キャンビー|en|Vincent Canby}}や[[ボズレー・クラウザー]]は、名無しの男を演じるイーストウッドの孤独や涼やかさを表現した演技力を評価している<ref name="McGillagan158"/>。<br />
<br />
=== 人気俳優の仲間入り ===<br />
==== アメリカへの凱旋 ====<br />
[[File:Clint Eastwood.jpg|thumb|220px|イーストウッドのポートレート]]<br />
1966年と1967年に三部作の英語吹替えに参加したが、イーストウッドはインタビューの中で不満を吐露している<ref name="McGillagan159"/>。一方、イーストウッドには三部作を通して「タフガイ」のイメージが定着し、レナードは『ローハイド』とレオーネ映画の要素を取り入れた西部劇映画『[[奴らを高く吊るせ!]]』の仕事を彼に持ち込んだ<ref name="McGillagan159"/>。しかし、ウィリアム・モリス・エージェンシーは、より大きな収益が見込める『[[マッケンナの黄金]]』に出演させようと考えていたが、イーストウッドは『奴らを高く吊るせ!』の脚本を気に入り、こちらへの出演を希望した。イーストウッドは出演料40万ドルと収益の25%を受け取る契約を結び、牛泥棒の濡れ衣を着せられ殺させそうになるカウボーイ・クーパー役を演じた<ref name="McGillagan162">McGillagan (1999), p.162</ref>。<br />
<br />
1967年、イーストウッドは三部作で得た資金を基に、レナードの助けを借りて長年憧れていた映画製作会社を設立した。社名は、[[モントレー郡 (カリフォルニア州)|モントレー郡]]にあるイーストウッドの邸宅の側を流れる川の名前にちなみ、「{{仮リンク|マルパソ・プロダクション|en|Malpaso Productions}}」と名付けられた<ref name="McGillagan162">McGillagan (1999), p.162</ref>。社長にはレナードが就任し、彼は[[ユナイテッド・アーティスツ]]と交渉して『奴らを高く吊るせ!』を共同製作することを実現させた<ref name="McGillagan162"/>。イーストウッドは{{仮リンク|インガー・スティーヴンス|en|Inger Stevens}}にヒロイン役をオファーし、彼に好感を抱いた彼女は出演を快諾した<ref name="McGillagan163">McGillagan (1999), p.163</ref>。主要キャストには[[エド・ベグリー]]、[[パット・ヒングル]]、[[ベン・ジョンソン (俳優)|ベン・ジョンソン]]などを起用し、6月から[[ニューメキシコ州]][[ラスクルーセス]]で撮影が開始された<ref name="McGillagan163"/>。イーストウッドは製作にも関与し、脚本の一部を変更している<ref name="McGillagan164">McGillagan (1999), p.164</ref>。映画は1968年に公開され、[[ボルチモア]]では初日の興行収入が5,241ドルを記録し、当時の[[ジェームズ・ボンド|007シリーズ]]を上回る興行成績を記録した<ref name="McGillagan165">McGillagan (1999), p.165</ref>。また、バラエティの映画ランキングでは5位となり、公開2週間で製作費を回収した<ref name="McGillagan165"/>。[[ニューヨーク・ポスト]]などの批評家からも絶賛され、「質、勇気、危険、興奮を兼ね備えた西部劇」と評価された<ref name="McGillagan164"/>。<br />
<br />
==== ドン・シーゲルとの出会い ====<br />
[[File:Clint Eastwood-Susan Clark in Coogan's Bluff trailer.jpg|thumb|240px|『マンハッタン無宿』出演時のイーストウッド、[[スーザン・クラーク]]]]<br />
『奴らを高く吊るせ!』が公開する前に、イーストウッドは次回作『[[マンハッタン無宿]]』の撮影に入っている。この映画は、駆け出し時代に解雇されて以来険悪な関係だったユニバーサル映画からのオファーであり、ユニバーサル側は100万ドルの出演料を提示して和解を求めた<ref name="McGillagan165"/>。イーストウッドとの交渉は{{仮リンク|ジェニングス・ラング|en|Jennings Lang}}が担当し、彼はイーストウッドと監督の[[ドン・シーゲル]]との会談をセッティングした。イーストウッドはシーゲルの映画三作を見て、彼の能力に感銘を受けてオファーを快諾し、これ以降二人は友人となり、映画製作におけるパートナーとなった<ref name="McGillagan167">McGillagan (1999), p.167</ref>。出演を決めたイーストウッドは、{{仮リンク|ハーマン・ミラー|en|Herman Miller (writer)}}が書いた脚本に難色を示し、シーゲルが監督を務めた『{{仮リンク|Stranger on the Run|en|Stranger on the Run}}』で脚本を務めた{{仮リンク|ディーン・リーズナー|en|Dean Riesner}}を脚本チームに迎え入れた。イーストウッドとシーゲルの映画製作は10年以上にわたり、この映画は『[[ダーティハリー]]』の原型になった。また、音楽を担当した[[ラロ・シフリン]]も、後にダーティハリー・シリーズに参加している。<br />
<br />
1968年、『[[荒鷲の要塞]]』の製作費として85万ドルを支出している<ref name="McGillagan172">McGillagan (1999), p.172</ref>。イーストウッドは[[アリステア・マクリーン]]の脚本について、「恐ろしい脚本」と述べている<ref name="McGillagan172"/>。映画はドイツ軍の捕虜となった将軍を救出する連合軍部隊を描き、イーストウッドは[[リチャード・バートン]]演じるジョン・スミス少佐の補佐役シェイファー中尉を演じている。1969年には、生涯唯一の[[ミュージカル映画]]となる『{{仮リンク|ペイチャーワゴン|en|Paint Your Wagon (film)}}』に出演したが、映画は悪天候が原因で撮影が難航した<ref name="McGillagan173">McGillagan (1999), p.173</ref>。同年のクリスマス直前、長年イーストウッドを支えたレナードが死去し、イーストウッドは彼の死にショックを受けた。マルパソ・プロダクションはレナードの遺言によりボブ・デイリーが経営を引き継ぎ、ロイ・カウフマンとハワード・バーンスタインが財務を引き継いだ<ref>McGillagan (1999), p.177</ref>。<br />
<br />
==== 相次ぐヒット作への出演 ====<br />
[[File:ClintEastwood1970.jpg|thumb|left|180px|[[フォートローダーデール]]のテニス・トーナメントでのイーストウッド(1970年)]]<br />
1970年、シーゲル監督作品の『[[真昼の死闘]]』で[[シャーリー・マクレーン]]と共演した。この映画は、イーストウッド演じる流れ者ホーガンと[[メキシコ第二帝政]]に抵抗する革命派の娼婦サラを描いた西部劇である<ref>Frayling (1992), p. 7</ref><ref>Smith (1993), p.76</ref>。[[バッド・ベティカー]]が書き上げた原案を{{仮リンク|アルバート・マルツ|en|Albert Maltz}}が手を加えている<ref>Schickel (1996), p.225</ref>。イーストウッド演じるホーガンはタバコを吸いベストを着るなど、彼の演じた名無しの男の再現を意図して設定されている<ref>Schickel (1996), p.226</ref>。また、レオーネ映画を模したヒスパニック系だが、彼の映画よりも粗悪で冷淡に描かれている<ref name="McGilligan179">McGilligan (1999), p.179</ref>。サラ役は当初は[[エリザベス・テイラー]]にオファーを出していたが、夫[[リチャード・バートン]]に同行して他の映画の撮影でスペインに行くことになっていたため、断られている<ref name="McGilligan179"/>。最終的にマクレーンが起用されたが、サラはメキシコ人の設定だったため、スタッフたちは薄い肌の彼女に難色を示した<ref name="McGilligan181">McGilligan (1999), p. 181</ref>。シーゲルとイーストウッドも同様に感じており、シーゲルは「彼女に暖かさを感じることは困難です。彼女はあまりにも素直で、とてもハードです」と不満を述べている<ref name="McGilligan182">McGilligan (1999), p. 182</ref>。<br />
<br />
撮影には4か月間かかり、製作費は400万ドル投じられた<ref name="McGilligan183">McGilligan (1999), p.183</ref>。ニューヨーク・タイムズの{{仮リンク|ロジャー・グリーンスパン|en|Roger Greenspun}}は、「私には、この映画が素晴らしいかはわかりません。しかし、それは非常に良いものであり、教養のある映画がそうであるように心に残る映画です」と批評した<ref name="McGilligan182"/>。{{仮リンク|スタンリー・カウフマン|en|Stanley Kauffmann}}は「古いハリウッドを維持しようとする試み…娼婦が修道女に変装できる場所。ヒーローは、ベストの下にダイナマイトの棒を隠し持つことができます。全ての物語が一つではなく、二つのキュートな仕上げをしています。それは『[[アフリカの女王]]』の西部劇版のようです」と批評している<ref>{{cite news|author=Kauffman, Stanley|title=Stanley Kauffman on Films|work=[[The New Republic]]|date=August 1, 1970}}</ref><ref>Schickel (1996), p. 227</ref>。また、ニューヨーク・タイムズの「ベスト映画1,000」の一本に選ばれている<ref>Canby, Maslin & Nichols (1999)</ref>。<br />
<br />
[[File:Vizinada Croatia (Kelly's Heroes).jpg|240px|thumb|『戦略大作戦』撮影に使用された[[ヴィジナダ]]の教会前広場]]<br />
同年には[[テリー・サバラス]]、[[ドナルド・サザーランド]]と共演した『[[戦略大作戦]]』でも主演を務めた。映画では、イーストウッド演じるアメリカ軍兵士が、仲間と共に[[国家社会主義ドイツ労働者党|ナチス]]の金塊を強奪するアクション・コメディとなっている。また、イーストウッドが出演した最後のマルパソ・プロダクション非参加作品でもある<ref name="McGilligan184">McGilligan (1999), p. 184</ref>。1969年7月から[[ユーゴスラビア]]と[[ロンドン]]で撮影が行われ<ref name="McGilligan183"/>、数百人のエキストラや爆薬などの危険な特殊効果が導入された。映画のクライマックスでは、ドル箱三部作のエコーが響き、[[ラロ・シフリン]]が作曲した[[エンニオ・モリコーネ]]風の音楽が流れる中で[[ティーガーI]]と対決する<ref name="McGilligan183"/>。映画は高い評価を受けると同時に反戦感情を認められ<ref name="McGilligan184"/>、[[Rotten Tomatoes]]では83%の支持率を得ている<ref>[http://uk.rottentomatoes.com/m/kellys_heroes ''Kelly's Heroes''], rottentomatoes.com; accessed June 16, 2014.</ref>。<br />
<br />
1969年末から1970年初頭にかけて、イーストウッドはシーゲルと共に『[[白い肌の異常な夜]]』の製作を進めた。この映画は、ラングが{{仮リンク|トーマス・カリナン|en|Thomas P. Cullinan}}の小説をイーストウッドに渡して、映画化の話が進んだ<ref name="McGilligan185">McGilligan (1999), p. 185</ref>。また、イーストウッドが女性の好意の的となる物語に出演した最初の映画でもある<ref name="McGilligan185"/>。脚本はマルツが担当していたが、内容を巡りイーストウッドと意見の相違があったため、クロード・トラヴァースが脚本を改訂し、マルツは別名義でクレジットされた<ref name="McGilligan187">McGilligan (1999), p. 187</ref>。シーゲルによると、映画は「セックス、暴力、復讐」をテーマとし、「男性を骨抜きにする女性の本能的な欲求」を扱っているという<ref name="McGilligan186">McGilligan (1999), p.186</ref>。映画は[[カンヌ国際映画祭]]で高い評価を受け、{{仮リンク|ピエール・リシエント|fr|Pierre Rissient}}がフランス各地で上映するように提案したが、イーストウッドとシーゲルの同意を得たものの、製作側の合意が得られなかった<ref name="McGilligan189">McGilligan (1999), p. 189</ref>。映画は後にフランス各地で公開され、イーストウッドの傑作の一つに数えられている<ref name="McGilligan190">McGilligan (1999), p. 190</ref>。しかし、アメリカでは振るわず、興行収入は100万ドルを切った<ref name="McGilligan189"/>。<br />
<br />
1970年7月21日、イーストウッドの父が心臓発作を起こし、64歳で急死した<ref name="McGilligan192">McGilligan (1999), p. 192</ref>。イーストウッドの祖父は92歳まで生きたため、父の死にショックを受けたという。父の死は「イーストウッドの人生の中で唯一の悪い出来事」と言われ、彼はこれ以降飲酒を控えフィットネスに励むなど体調管理に注意を払い、緊張感をもって暮らすようになった<ref name="McGilligan193">McGilligan (1999), p. 193</ref>。この頃、イーストウッドは[[ショーン・コネリー]]の後任として[[ジェームズ・ボンド]]役のオファーを受けたが、「ジェームズ・ボンドは英国人俳優が演じなければならない」としてオファーを断ったという<ref>{{cite web|url=http://herocomplex.latimes.com/movies/clint-eastwood-as-superman-or-james-bond-it-could-have-happened-he-says/|title=Clint Eastwood as Superman or James Bond? ‘It could have happened,’ he says [updated]|first=Geoff|last=Boucher|date=7 September 2010|accessdate=2017-07-23}}</ref>。<br />
<br />
[[File:Oldtucsonbank.jpg|thumb|240px|オールド・トゥーソン・スタジオ]]<br />
1972年にイーストウッドは『[[シノーラ]]』に出演した。脚本は[[エルモア・レナード]]が担当し、白人地主とメキシコ人農民の荒そうに巻き込まれるガンマンの活躍を描いている。監督には『[[荒野の七人]]』の[[ジョン・スタージェス]]が起用され、1971年11月から{{仮リンク|オールド・トゥーソン・スタジオ|en|Old Tucson Studios}}で撮影が開始されたが、同時期に『[[ロイ・ビーン (映画)|ロイ・ビーン]]』の撮影とブッキングしている<ref name="McGilligan218">McGilligan (1999), p. 218</ref>。6月からは[[ヨセミテ国立公園]]で湖のシーンが撮影された<ref name="McGilligan218"/>。撮影中、「イーストウッドが馬アレルギーになり、気管支感染の可能性があるなど健康状態が芳しくない」という誤報が流れた<ref name="McGilligan219">McGilligan (1999), p. 219</ref>。<br />
<br />
1973年、イーストウッドは[[ジェフ・ブリッジス]]とダブル主演となる『[[サンダーボルト (1974年の映画)|サンダーボルト]]』の製作に参加した。映画のアイディアはウィリアム・モリス・エージェンシーのスタン・ケイマンが考案したものだが、元々は『ダーティハリー2』のために[[マイケル・チミノ]]が描いたものだった<ref name="McGilligan237">McGilligan (1999), p. 237</ref>。イーストウッドはベテラン犯罪者サンダーボルト役、ブリッジスは若手の泥棒ライトフット役でコンビを組み、悪役には[[ジョージ・ケネディ]]とジェフリーールイスが起用された。ワーナーのフランク・ウェルズがマルパソが製作に参加することを拒否したため、イーストウッドは[[ユナイテッド・アーティスツ]]と共同製作した。1974年に公開された映画は悲劇と喜劇が混ざり合った内容が高く評価され、イーストウッド自身も「今回の演技はオスカー賞を受賞する価値がある」と確信するほどの自信を持っていた<ref name="McGilligan240">McGilligan (1999), p.240</ref>。しかし、実際にオスカーを受賞したのは[[アカデミー助演男優賞]]に選ばれたブリッジスのみであり、イーストウッドは結果を聞いて憮然としたという<ref name="McGilligan240"/>。興行収入も3,240万ドルと振るわず、イーストウッドはユナイテッド・アーティスツの製作手法に不満を感じ、「二度とユナイテッド・アーティスツとは仕事をしない」と激怒して契約していた2本の映画製作を取り消している<ref name="McGilligan241">McGilligan (1999), p. 241</ref>。<br />
<br />
1978年に『[[ダーティファイター]]』に出演し、コメディタッチな主役を演じる。当初、{{仮リンク|ジェレミー・ジョー・クロンズバーグ|en|Jeremy Joe Kronsberg}}の脚本はハリウッドの大手製作会社から相手にされず、マルパソの代理店も映画化には難色を示していた<ref name="McGilligan293">McGilligan (1999), p. 293</ref>。イーストウッドの秘書ジュディ・ホイトと、イーストウッドの友人フリッツ・マネズを通して、最終的にワーナーが企画を買い取るように説得している。ヒロインには恋人のソンドラ・ロック、主要キャストにはジェフリー・ルイスが起用された。映画に登場する曲は{{仮リンク|スナッフ・ギャレット|en|Snuff Garrett}}が作曲している<ref name="McGilligan299">McGilligan (1999), p. 299</ref>。映画は当時のイーストウッド出演映画の中で最高の収益を上げ、同時にそれまでのキャリアの中で最も高い評価を受けた<ref name="McGilligan302">McGilligan (1999), p. 302</ref>。<br />
<br />
{{double image|left|Alcatraz.jpg|240|Malpaso prod (bench).jpg|240|舞台になったアルカトラズ刑務所と撮影用に作られたベンチ}}<br />
1979年、イーストウッドは1962年に発生した[[フランク・モリス]]の[[アルカトラズ島]]脱獄を映画化した『[[アルカトラズからの脱出]]』に出演した。脚本は、J・キャンベル・ブルースが執筆した小説に基き{{仮リンク|リチャード・タークル|en|Richard Tuggle}}が書き上げている<ref name="McGilligan 1999, p.304">McGilligan (1999), p. 304</ref>。製作はマルパソが担当し、監督にはシーゲルが起用された。しかし、シーゲルは映画を「自分の作品」と主張して映画の権利を10万ドルで買い取ったため、これをきっかけにイーストウッドとシーゲルは決裂してしまう<ref name="McGilligan 1999, p.304"/>。最終的に映画は「シーゲルとマルパソの共同作品」という形で合意が成立したが、シーゲルはこれ以降イーストウッドと共同で映画を製作することはなくなった。舞台となったアルカトラズ刑務所は50万ドルの費用をかけて復元され現地で撮影されたが、署長室などの一部のシーンはスタジオで撮影されている。映画はアメリカ国内だけで3,400万ドルの収益を上げ、批評家からも高い評価を受けた。タイム誌のフランク・リッチは「クールで映画的な優雅さ」、The New Republicのスタンリー・カウフマンは「映画の結晶」と評価している<ref>McGilligan (1999), p. 307</ref>。<br />
<br />
=== ダーティハリー・シリーズ ===<br />
==== 『ダーティハリー』 ====<br />
[[File:Pinball Dirty Harry.jpg|thumb|200px|left|ハリー・キャラハンが描かれた[[ピンボール]]]]<br />
『[[ダーティハリー]]』は、ハリー・ジュリアンとリタ・フィンクの二人が書いた脚本が元になっており、主人公[[ハリー・キャラハン (架空の人物)|ハリー・キャラハン]]は[[ニューヨーク市警察]]の警官という設定だった<ref name="McGilligan205">McGilligan (1999), p. 205</ref>。ラングが二人の脚本をイーストウッドに提示し、[[ワーナー・ブラザース]]が映画化の権利を取得した。当初、監督には[[アーヴィン・カーシュナー]]、キャラハン役には[[フランク・シナトラ]]が予定されていたが、二人とも脚本に不満を感じ、オファーを断っている<ref name="McGilligan205"/>。イーストウッドは『恐怖のメロディ』撮影直後の1970年12月に契約を結び、ワーナーと共同製作することに同意した<ref name="McGilligan206">McGilligan (1999), p. 206</ref>。製作決定後に脚本の多くが変更され、舞台もサンフランシスコに変更された。ある日、イーストウッドとシーゲルは{{仮リンク|カザール・スタジアム|en|Kezar Stadium}}で[[サンフランシスコ・フォーティナイナーズ]]の試合を観戦し、キャラハンと犯人が対峙するシーンとして最適な場所だと判断した<ref name="McGilligan206"/>。また、イーストウッドが観賞した演劇に出演していた[[アンドリュー・ロビンソン]]が、病的な殺人鬼スコーピオン役に起用された<ref name="McGilligan207">McGilligan (1999), p. 207</ref>。音楽担当にはシフリンが起用され、多くのジャズトラックを作曲した。衣装デザイナーのグレン・ライトは、『ローハイド』からイーストウッドの衣装を担当しており、犯罪を追及する強い意志を強調するために茶色と黄色のチャックジャケットをデザインした<ref name="McGilligan207"/>。撮影は1971年4月から始まり、夜間に多くの撮影を行い、サンフランシスコ市街の他、スタントシーンが撮影された<ref name="McGilligan207"/>。<br />
<br />
『ダーティハリー』はその後の映画・ドラマに登場する「大型拳銃を持つ型破りな刑事」の先駆けとなり、キャラハンのタフな描写も犯罪を嫌悪する人々の興味を引いた。映画は警察の不祥事が相次ぎ、[[ミランダ警告]]が適用された時代に人々が犯罪に立ち向かうヒーローを求めていた中で公開された<ref name="McGilligan209">McGilligan (1999), p. 209</ref>。1971年12月に公開され、シーゲルにとって最高額の収益を上げた作品となり、イーストウッドにとっては当たり役の「ダーティハリー・シリーズ」の始まりとなった。タイム誌のジェイ・コックスなどの批評家からは「イーストウッドの最高のパフォーマンス」と絶賛された<ref name="McGilligan210">McGilligan (1999), p. 210</ref>。一方で、キャラハンの冷酷な人物描写には批判の声も挙がった。特に[[フェミニズム|フェミニスト]]からは「ダーティハリーは腐った豚」と激しい批判を受けた<ref name="McGilligan211">McGilligan (1999), p. 211</ref>。この他にも多くの批評家が「偏見」と判断したものを批判し、[[ニューズウィーク]]は「右翼のファンタジー」、バラエティは「警察の野蛮な偽りの栄光をスーパーヒーローを登場させて描いた風刺」、ザ・ニューヨーカーの[[ポーリン・ケイル]]は「自由的価値観に対するイーストウッドの片思い」と批判した<ref name="McGilligan211"/>。また、「[[アフリカ系アメリカ人]]を銀行強盗役にキャスティングしたのは人種差別」という批判も受けた<ref name="McGilligan212">McGilligan (1999), p. 212</ref>。これらの批判に対し、イーストウッドは「キャラハンはより高い道徳心に従っているだけ」と反論し、「一部の人々は政治的感性が強い。ボウルにコーンフレークが入っているのを見ただけで複雑な解釈をする」とコメントしている<ref name="McGilligan212"/>。<br />
<br />
==== 『ダーティハリー2』 ====<br />
[[File:S&W Model 29-2.jpg|thumb|240px|キャラハンの愛銃[[S&W M29]]]]<br />
『[[愛のそよ風]]』の撮影終了後、ワーナーは『ダーティハリー』の続編製作を発表した。脚本家の[[ジョン・ミリアス]]は、犯罪者を不当に殺害するサンフランシスコ市警察の若手警官とキャラハンが対峙するストーリーを書き上げた<ref name="McGilligan233">McGilligan (1999), p.233</ref>。キャラハンと対峙する非道な警官役には[[デヴィッド・ソウル]]、[[ロバート・ユーリック]]、[[ティム・マシスン]]、キップ・ニーヴェンが起用された<ref name="McGilligan234">McGilligan (1999), p.234</ref>。ミリアスは銃を愛好する保守主義者であり、映画には彼の嗜好を反映した銃撃戦が描かれている<ref name="McGilligan234"/>。また、映画の原題はテーマ性に合わせ、キャラハンが愛用する[[.44マグナム弾]]に敬意を表して「''Magnum Force''」と名付けられた。ミリアスが『[[デリンジャー (映画)|デリンジャー]]』の撮影に入った後、[[マイケル・チミノ]]が脚本の一部を書き直している。撮影監督にはスタンリー、音楽にはシフリンが再び起用され、1973年4月から撮影が開始された<ref name="McGilligan234"/>。撮影中、イーストウッドは監督の[[テッド・ポスト]]と度々意見が衝突し、撮影期間と経費の節減のために彼が指示した重要な二つのシーンの撮影を拒否した<ref name="McGilligan235">McGilligan (1999), p. 235</ref>。イーストウッドとの意見対立は、その後のポストの監督人生に大きな影響を与えたという<ref name="McGilligan236">McGilligan (1999), p. 236</ref>。<br />
<br />
映画はアメリカ国内で5,810万ドルの興行収入を記録した。ニューヨーク・タイムズの{{仮リンク|ノラ・セイヤー|en|Nora Sayre}}などの批評家は映画の矛盾した道徳性を批判し、{{仮リンク|フランク・リッチ|en|Frank Rich}}は「古いものだ」と批判した<ref name="McGilligan236"/>。ケイルは「イーストウッドは俳優ではないので、彼を悪い俳優と呼ぶことはありません。彼はそのことを悪く思う前に、何かをしなければなりません。そして、『ダーティハリー2』で演技する必要はありません」と酷評した<ref name="McGilligan236"/>。<br />
<br />
==== 『ダーティハリー3』 ====<br />
[[File:Alcatraz-tower.JPG|thumb|200px|アルカトラズ刑務所の監視塔。監視塔に逃げ込んだテロリストをキャラハンがロケット弾で吹き飛ばすクライマックスシーンで登場する。]]<br />
『[[アウトロー (1976年の映画)|アウトロー]]』撮影終了後、イーストウッドは[[フランシス・フォード・コッポラ]]から『[[地獄の黙示録]]』のベンジャミン・ウィラード役のオファーを受けたが、[[フィリピン]]での長期間の撮影に拘束されることを嫌がったため、オファーを辞退した<ref name="McGilligan268">McGilligan (1999), p.268</ref>。また、ポストからコッポラ同様に[[ベトナム戦争]]を題材にした『{{仮リンク|戦場 (1978年の映画)|label=戦場|en|Go Tell the Spartans}}』の主演のオファーが来たが、これも断っている<ref name="McGilligan268"/>。イーストウッドは『ダーティハリー』第3作を製作することに決めた。[[スターリング・シリファント]]は、[[サンフランシスコ湾]]を舞台に[[シンバイオニーズ解放軍]]系の過激派とキャラハンが[[アルカトラズ島]]で対決する構想を提案した<ref name="McGilligan285">McGilligan (1999), p.273</ref>。イーストウッドはレストランでシリファントと会談し、彼の脚本に賛意を示した。特に女性パートナーを迎えたキャラハンの戸惑い、互いにいがみ合う関係から信頼、愛情に昇華する関係と終盤で彼女を失う悲しみについて絶賛した<ref name="McGilligan274">McGilligan (1999), p.274</ref>。<br />
<br />
シリファントは1975年後半から1976年初頭にかけて脚本を書き上げ、1976年2月に脚本をイーストウッドに提示した。イーストウッドは脚本を受け入れたが、彼はアクションよりも女性パートナー・ケイトとの関係を重点に置きたかったため、ファンの期待を裏切るのではないかと感じていた。彼の懸念を払拭するためにリーズナーが脚本を書き直し、基本的な内容を維持しつつキャラハンの出番を減らし、代わりに過激派に誘拐される市長を登場させた<ref name="McGilligan274"/>。監督はジェームズ・ファーゴが務め、1976年夏からサンフランシスコ湾で撮影が開始した。イーストウッドは当初、レオーネの撮影手法に慣れていたこともあり、ファーゴの撮影手法に疑問を抱いていた<ref name="McGilligan276">McGilligan (1999), p.276</ref>。映画は前2作よりも30分ほど短い96分の作品として完成した<ref name="McGilligan277">McGilligan (1999), p.277</ref>。<br />
<br />
1976年12月に公開され、1億ドルの興行収入を記録するなど、それまでのイーストウッド映画の中で最大のヒット作となった<ref name="McGilligan278">McGilligan (1999), p. 278</ref>。しかし、ヒットにも関わらず批評家からは暴力描写が批判の対象となり、イーストウッドは{{仮リンク|The Harvard Lampoon|en|The Harvard Lampoon}}の「ワースト・アクター・オブ・ザ・イヤー」に選ばれてしまう<ref name="McGilligan278"/>。こうした批判も、強い意志を持つ女性警官ケイト・ムーアを演じた[[タイン・デイリー]]の演技が高く評価されたことで覆された<ref name="McGilligan277"/>。特にフェミニストの批評家は「マルパソは鋼鉄のヒロインを生み出した」と好意的な評価を与え、ハリウッド・リポーターのジェーン・ホルスチャーは強い女性をキャスティングしたとして、イーストウッドを称賛した<ref name="McGilligan278"/>。<br />
<br />
==== 『ダーティハリー4』 ====<br />
シリーズで唯一イーストウッドが監督を務めた『[[ダーティハリー4]]』は、シリーズの中で最も暗く暴力的な作品とされている。また、[[ソンドラ・ロック]]がイーストウッドと共演した最後の映画作品でもある。脚本は{{仮リンク|ジョゼフ・スティンスン|en|Joseph Stinson}}が担当し、強姦被害を受け廃人になった妹の復讐のために、加害者グループを殺す女性が題材になっている。[[パット・ヒングル]]と[[ブラッドフォード・ディルマン]]が共演し、撮影は1983年春から夏にかけて行われた。映画でキャラハンが発した「''Go ahead, make my day''」(「{{仮リンク|さあ、撃たせろ|en|Go ahead, make my day}})という台詞はキャラハンの代名詞になり、[[ロナルド・レーガン]]が使用したことで有名になった。映画はシリーズで最高額の7,000万ドルの興行収入を記録し、批評家からは強姦被害を受けた女性の身体的・心理的影響を描いた点を評価された<ref>McGilligan (1999), p.352</ref>。<br />
<br />
=== 監督業の成功 ===<br />
==== 『恐怖のメロディ』 ====<br />
{{Quote box|quote=私が決してオスカー賞を受賞できない理由を知っていますか?まず第一に、私がユダヤ人ではないから。第二に、アカデミーの古臭い奴らのために金を作り過ぎるから。そして最も重要な理由は、私が審査員と寝ていないからです。|width=33%|source=1970年代のクリント・イーストウッドのアカデミー賞レースについてのコメント<ref name="McGilligan260">McGilligan (1999), p. 260</ref>}}<br />
1971年はイーストウッドの映画キャリアにとって大きな転機となった<ref name="McGilligan196">McGilligan (1999), p.196</ref>。彼は生前のレナードと最後に語った映画の製作に取り組み、『[[恐怖のメロディ]]』として実現させた<ref name="McGilligan192"/>。脚本はジョー・ヘインズが書き、その後ディーン・リーズナーが手を加えた<ref name="McGilligan192"/>。映画はラジオ番組の人気DJデイブに異常な愛情を向ける女性イブリンを中心に描かれ、デイブに関係を断られた彼女が異常性を増して殺人鬼になっていく<ref name="McGilligan193"/>。脚本のコンセプトは、イーストウッドが『ローハイド』に起用された際に居合わせたスタッフのソニア・チャーナスが提案した脚本が元になっている<ref name="McGilligan193"/>。舞台はロサンゼルスの設定だったが、イーストウッドの提案でカーメルに変更され、同地のラジオ局やバー、レストラン、さらにイーストウッドの友人宅で撮影された<ref name="McGilligan193"/>。<br />
<br />
1970年9月から[[モントレー]]で撮影が始まった。イーストウッドにとって監督デビュー作となり、撮影監督[[ブルース・サーティース]]、編集カール・パイジンダー、音楽{{仮リンク|ディー・バートン|en|Dee Barton}}などシーゲル作品の撮影スタッフが製作に協力している<ref name="McGilligan194">McGilligan (1999), p. 194</ref>。イーストウッドの綿密な撮影計画と効率的な撮影により、撮影は予定よりも4日から5日早く終了した<ref name="McGilligan194"/>。映画は1971年10月に[[サンフランシスコ国際映画祭]]でプレミア上映された後、11月に公開された<ref name="McGilligan195">McGilligan (1999), p.195</ref>、[[アンドリュー・サリス]]や{{仮リンク|アーチャー・ウィンステン|en|Archer Winsten}}などの批評家から高い評価を得た<ref name="McGilligan195"/>。<br />
<br />
==== 『荒野のストレンジャー』 ====<br />
[[File:Tuffa at Mono Lake with Sierra Nevada in background-1000px.jpeg|240px|thumb|left|モノ湖]]<br />
1973に監督第2作となる『[[荒野のストレンジャー]]』を製作した。マルパソとワーナーの共同製作となり、脚本には『[[フレンチ・コネクション]]』で[[アカデミー脚色賞]]を受賞した{{仮リンク|アーネスト・タイディマン|en|Ernest Tidyman}}が起用された<ref name="McGilligan221">McGilligan (1999), p. 221</ref>。脚本にはレイスナーも協力し、背の高い正体不明の男が西部の町で無法者を迎え撃つために住民たちに雇われる話を書き上げた。映画に描かれるブラックユーモアは、レオーネの影響を強く受けている<ref name="McGilligan221"/>。撮影は[[モノ湖]]で行われ、バートンは[[ホラー映画]]風の音楽を作曲している。また、イーストウッドの友人[[ジェフリー・ルイス (俳優)|ジェフリー・ルイス]]は、この映画への出演がきっかけとなりイーストウッド映画の常連俳優となった。{{仮リンク|サタディ・レビュー|en|Saturday Review (U.S. magazine)}}の{{仮リンク|アーサー・ナイト|en|Arthur Knight (film critic)}}は、「イーストウッドはシーゲルとレオーネの作り方を吸収し、映画はレオーネと彼の独特の社会観が融合している」と批評した<ref name="McGilligan223">McGilligan (1999), p. 223</ref>。<br />
<br />
==== 『愛のそよ風』 ====<br />
[[File:Kay-lenz-trailer.jpg|thumb|200px|『愛のそよ風』出演時のケイ・レンツ]]<br />
脚本家のエルモア・レナードは、犯罪組織の脅迫に立ち向かう農家の戦いを書き上げてイーストウッドに企画を持ち込んだ。脚本はカーメルを舞台にしたものだったが、イーストウッドは企画を却下した<ref name="McGilligan228">McGilligan (1999), p. 228</ref>。イーストウッドはレナードの脚本に代わり、中年男と10代のヒッピー少女の恋愛を書いたジョー・ヘイムズの脚本に興味を抱き、『[[愛のそよ風]]』として映画化した。ヘインズは当初、イーストウッドが主役の中年男フランクを演じることを想定していたが、イーストウッド自身は「フランクを演じるには、自分は若過ぎる」と感じていた<ref name="McGilligan229">McGilligan (1999), p. 229</ref>。<br />
<br />
最終的にイーストウッドよりも12歳年上の[[ウィリアム・ホールデン]]が主役に起用された。また、映画のキャスティングを通じてイーストウッドは[[ソンドラ・ロック]]と出会い、彼女はこの後イーストウッドと交際を始め、彼の映画で重要な役を演じることになる<ref name="McGilligan229"/>。ただし、当時29歳だったロックはヒロイン役としては成熟し過ぎていたため起用されず、代わりに[[ケイ・レンツ]]が起用された。イーストウッドの友人によると、彼は撮影中にレンツに夢中になっていたという<ref name="McGilligan230">McGilligan (1999), p. 230</ref>。撮影は1972年11月からロサンゼルスで開始され、撮影監督には{{仮リンク|フランク・スタンリー|en|Frank Stanley (cinematographer)}}が起用された<ref name="McGilligan230"/>。映画は興行的に成功せず、批評家のリチャード・シュニッケルは「これはセクシー映画ではない。イーストウッドはエロティシズムに対して、あまりにも丁寧だった」と批評した<ref name="McGilligan231">McGilligan (1999), p.231</ref>。<br />
<br />
==== 『アイガー・サンクション』 ====<br />
[[File:Film shoot for The Eiger Sanction in Zurich (03).jpg|thumb|240px|『アイガー・サンクション』出演時のイーストウッド]]<br />
[[トレヴェニアン]]の同名小説を原作とした『[[アイガー・サンクション]]』を製作した。小説が出版された1972年にユニバーサルが映画化の権利を取得し、[[リチャード・D・ザナック]]と[[デイヴィッド・ブラウン (映画プロデューサー)|デイヴィッド・ブラウン]]がプロデューサーを務める予定で企画が進んでいた<ref name="McGilligan241"/>。主演のヘムロック役には[[ポール・ニューマン]]が検討されていたが、彼は暴力的な内容を嫌悪して出演を辞退した<ref name="McGilligan241"/>。代わりにイーストウッドにオファーがきたため、彼は、1974年2月に小説家の[[ウォーレン・マーフィー]]の元を訪れ意見を求めた<ref name="McGilligan242">McGilligan (1999), p. 242</ref>。小説を読んだマーフィーは映画の脚本を書くことに同意したが、小説の内容には不満を感じていたという<ref name="McGilligan242"/>。脚本の第一稿は3月下旬に書き上がり、4月には完成した<ref name="McGilligan243">McGilligan (1999), p. 243</ref>。<br />
<br />
製作には、登山家のマイク・フーバーが登山場面の撮影監督と技術顧問として参加した。彼は撮影に先立つ1974年夏に[[ヨセミテ国立公園]]で数週間イーストウッドに登山トレーニングを行い、8月12日からアメリカ・ドイツ・イギリス・[[スイス]]・[[カナダ]]の登山家チームが参加して[[グリンデルヴァルト]]で撮影が開始された<ref name="McGilligan244">McGilligan (1999), p. 244</ref>。イーストウッドが決めた勇敢な登山のシーンについて、国際登山学校の{{仮リンク|ドゥガル・ハストン|en|Dougal Haston}}は「撮影のために世界で最も危険な山である[[アイガー]]を登る必要はない。クライマーだけではなく撮影監督のスタンレーも死なせることになる」と警告した<ref name="McGilligan245">McGilligan (1999), p. 245</ref>。カメラマンのレックスフォード・メッツによると、登山のシーンにこだわったのはイーストウッドの少年時代からの夢であり、彼の英雄的マッチョイムズの現れでもあったという<ref name="McGilligan248">McGilligan (1999), p. 248</ref>。<br />
<br />
[[File:Film shoot for The Eiger Sanction in Zurich (10).jpg|thumb|left|240px|『アイガー・サンクション』出演時のイーストウッド]]<br />
イーストウッドは警告を無視して撮影を行い、その結果撮影スタッフは多くの事故に見舞われた。27歳のイギリス人登山家のデヴィッド・ノウルズは撮影中に事故死し、フーバーも危うく死にかけている。ノウルズの死はイーストウッドに衝撃を与えたが、彼はノウルズの死を無駄にすることを望まなかったため、撮影を続行した<ref name="McGilligan247">McGilligan (1999), p. 247</ref>。イーストウッドは死と隣り合わせの状況にも関わらず自身が登山シーンのスタントをすることを主張した。また、撮影中にスタンレーが滑落し奇跡的に助かったものの、怪我のため車椅子が必要になり撮影に支障をきたすようになった<ref name="McGilligan249">McGilligan (1999), p.249</ref>。スタンレーはイーストウッドに催促されて予定を遅れながらも撮影を完了させたが、完了後に「滑落事故はイーストウッドの準備不足が原因」として訴訟を起こし、イーストウッドを「彼は撮影の計画をろくにしない、あるいは宿題を全くしない本当に気楽な男だ」と非難した<ref name="McGilligan250">McGilligan (1999), p. 250</ref>。訴訟は「撮影は一般的な知識に保護された状態の中で行われたもの」と結論が出され、これ以降スタンレーはイーストウッドやマルパソが参加する映画に呼ばれなくなった<ref name="McGilligan247"/>。<br />
<br />
批評家はイーストウッドの演じたヘムロックを洗練さに欠けるキャラクターとして、「ジェームズ・ボンドの出来損ない」と酷評した<ref name="McGilligan253">McGilligan (1999), p. 253</ref>。[[ウォール・ストリート・ジャーナル]]のジョイ・グールド・ボイムは、「この映画の悪役は同性愛者と身体障害者のような男だ」と批評した<ref name="McGilligan253"/>。映画の興行収入は2,380万ドルの結果に終わり、批評家からは「駄作」のレッテルを張られた<ref name="McGilligan253"/>。イーストウッドは映画の失敗を共同製作したユニバーサルに原因があると考え、再びユニバーサルと決別した。その後は[[フランク・ウェルズ]]を通じてワーナーとの間に長期契約を結び、新たなパートナーに選んだ<ref name="McGilligan256">McGilligan (1999), p.256</ref>。<br />
<br />
==== 『アウトロー』 ====<br />
{{Quote box| quote =イーストウッドは、彼が多くの映画を監督しているということ、そして教養のある映画を製作しているということを見過ごされがちな、あまりにも軽薄で行動型のパフォーマーです。この映画では、ブルース・サーティースの一風変わった美しい風景を背景にして、壮大な西部劇の感覚を描き出しています。|width=33%|align=right|source=ロジャー・イーバート、[[シカゴ・サンタイムズ]]、1976年1月1日<ref>{{cite web|url=http://rogerebert.suntimes.com/apps/pbcs.dll/article?AID=/19760101/REVIEWS/601010306/1023|author=Ebert, Roger|title=The Outlaw Josey Wales|publisher=[[Chicago Sun-Times]]|date=January 1, 1976|accessdate=January 29, 2010}}</ref>}}<br />
1975年に[[アサ・アール・カーター]]の小説を原作とした『[[アウトロー (1976年の映画)|アウトロー]]』を製作した。マルパソとイーストウッドが映画化の権利を取得し、ソニア・シャーナスが脚本を担当した<ref name="McGilligan257"/>。[[フィリップ・カウフマン]]が新たに脚本に参加し、彼は映画を小説に基いた内容にすることを望んでいた<ref name="McGilligan257">McGilligan (1999), p.257</ref>。撮影監督のサーティースや製作総指揮のジェームズ・ファーゴは脚本が完成する前にロケーション現場の下見を始めた<ref name="McGilligan258">McGilligan (1999), p. 258</ref>。チェロキー族のウェイティ役には、『[[小さな巨人 (映画)|小さな巨人]]』で[[第43回アカデミー賞]]助演男優賞にノミネートされた[[チーフ・ダン・ジョージ]]が起用され、ヒロインのローラ役にはイーストウッドの希望で[[ソンドラ・ロック]]が起用された<ref name="McGilligan261">McGilligan (1999), p.261</ref>。イーストウッドとロックは、この映画をきっかけに交際を始め、彼女は1980年代のイーストウッド作品で度々ヒロインを演じるようになった。また、息子[[カイル・イーストウッド]]も冒頭のシーンに出演している。編集には{{仮リンク|フェリス・ウェブスター|en|Ferris Webster}}、音楽は{{仮リンク|ジェリー・フィールディング|en|Jerry Fielding}}が担当し、1975年下旬から撮影が開始された<ref name="McGilligan261"/>。<br />
<br />
撮影中、イーストウッドとカウフマンはローラの描写を巡り対立し、二人の関係に亀裂が生じた<ref name="McGilligan262">McGilligan (1999), p.262</ref>。二人の関係は悪化し、カウフマンは1975年10月24日に解雇され、製作が終了間近にも関わらず解雇したことで[[全米監督協会]]はイーストウッドを激しく非難した<ref name="McGilligan264">McGilligan (1999), p.264</ref>。イーストウッドとワーナーはカウフマンの解雇取り消しを拒否したため、罰金として6万ドルを支払うことになったという<ref name="McGilligan264"/>。これを機に、全米監督協会は「クリント・イーストウッド・ルール」と呼ばれる規則を定め、不当な解雇に対して製作サイドに罰金を科す権利を持った<ref name="McGilligan264"/>。<br />
<br />
1976年6月に映画が公開され、批評家から高く評価された。彼らはイーストウッドが演じたジョージー・ウェールズを祖先たちの過去と南北戦争の運命を結び付ける象徴的な存在と見なした<ref name="McGilligan266">McGilligan (1999), p. 266</ref>。<br />
<br />
==== 1980年代 ====<br />
1980年、{{仮リンク|ワイルド・ウェスト・ショー|en|Wild West shows}}を題材にした『[[ブロンコ・ビリー]]』を製作した。映画には息子カイルと娘[[アリソン・イーストウッド]]が孤児院の子供として出演している<ref>Munn (1992)</ref>。撮影は1979年に[[アイダホ州]]南西部の[[ボイシ]]で6週間行われ、予定よりも2週間から4週間早く撮影が終了した<ref>Schickel (1996), p.361</ref><ref>McGilligan (1999), p.318</ref>。イーストウッドはこの映画を「自分のキャリアの中で最も魅力的な作品の一つ」として挙げており、伝記作者のリチャード・シーケルは「ビリーのキャラクターはイーストウッド自身の性格を反映している」と指摘している<ref>Schickel (1996), p.362</ref><ref>Schickel (1996), p.365</ref>。『ブロンコ・ビリー』『アウトロー』は「壊れた家族」というモチーフ、疑似家族を得ることで人生の輝きを取り戻すストーリー<ref>『ゼロ年代アメリカ映画100』([[芸術新聞社]])p.126f。</ref>という共通した要素が見い出せる。<br />
<br />
1982年には『[[センチメンタル・アドベンチャー]]』を製作し、[[グランド・オール・オプリ]]に挑む歌手レッド・ストーバルを演じた。撮影は同年夏に6週間以内で終了した<ref>McGilligan (1999), p.345</ref>。冒頭の農家のシーンはカリフォルニア州バート・ランディングで撮影され、それ以外の大半のシーンは[[カラベラス郡 (カリフォルニア州)|カラベラス郡]]で撮影された。同年、[[冷戦]]を題材にした[[クレイグ・トーマス]]の小説を映画化した『[[ファイヤーフォックス (映画)|ファイヤーフォックス]]』を製作した。冷戦下のため[[ソビエト連邦]]での撮影は不可能だったため、[[グリーンランド]]と[[オーストラリア]]空軍基地で撮影が行われた<ref>McGilligan (1999), p.337</ref>。『センチメンタル・アドベンチャー』よりも先に撮影されたが、公開は同作よりも早い6月となっている。<br />
<br />
==== その他 ====<br />
監督業に進出した他の役者と違い、いわゆる「大作」や[[映画の賞|賞レース]]に関わる作品には出演せず、自らのプロダクションで製作した小規模ともB級とも呼べる作品でのみ主演し、監督業と俳優業を両立しながら地位を確立した。1987年の第45回[[ゴールデングローブ賞]]で、[[ゴールデングローブ賞 セシル・B・デミル賞|セシル・B・デミル賞]]を受賞。<br />
<br />
1992年、師であるセルジオ・レオーネとドン・シーゲルに捧げた“最後の西部劇”『[[許されざる者 (1992年の映画)|許されざる者]]』を監督兼主演で制作。[[第65回アカデミー賞]][[アカデミー作品賞|監督賞]]、[[アカデミー作品賞|作品賞]]を受賞、第50回[[ゴールデングローブ賞]]監督賞を受賞した。この頃から『[[マディソン郡の橋 (映画)|マディソン郡の橋]]』『[[ミスティック・リバー]]』といった文芸性の高い作品も手がけている。<br />
<br />
2004年の『[[ミリオンダラー・ベイビー]]』で2度目の[[アカデミー作品賞]]/[[アカデミー監督賞]]のダブル受賞を果たす。74歳という、最高齢での受賞記録を樹立したバイタリティは、アクション映画で培われたものであろうと驚嘆の元に迎えられた。アカデミー主演男優賞はノミネートにとどまったが、「単に監督もできる俳優」ではなく、「アクション映画から文芸映画まで幅広くこなせる、優れた監督兼俳優」という評価を確立した。<br />
<br />
2006年に『[[父親たちの星条旗]]』『[[硫黄島からの手紙]]』の2部作を発表。これはアメリカがかつての[[太平洋戦争|日米戦争]]において最大級の痛手を受けた「[[硫黄島の戦い]]」を、日米双方の視点から2作に分けて描くという方法で製作されている(同じような日米双方の視点による映画には真珠湾攻撃を扱った『[[トラ・トラ・トラ!]]』があるが、こちらは1本の映画の中に入れている)。『硫黄島からの手紙』は、[[ナショナル・ボード・オブ・レビュー]]賞作品賞・[[第32回ロサンゼルス映画批評家協会賞]]最優秀作品賞を受賞し、同年の賞レース最大の目玉として注目を浴びていたが、[[アカデミー賞]]では[[アカデミー音響編集賞|音響編集賞]]のみの受賞にとどまった。2007年1月、『[[硫黄島からの手紙]]』でゴールデン・グローブ賞最優秀外国語映画賞を受賞。<br />
<br />
2006年1月ごろ、[[南京事件 (1937年)]]を題材とする[[中国]]映画『南京・クリスマス・1937』の監督にイーストウッドが抜擢されたという中国官僚の発言が報道されたが、イーストウッド側がすぐに否定するという一幕があった。<br />
<br />
=== 今後の俳優活動について ===<br />
2008年の『[[グラン・トリノ]]』をもって「もう積極的に役は探さない。いまの映画の役は、みんな若い役者向けに書かれているから。」と語り、実質的な俳優引退宣言を行った。今後は監督業をメインに活動すると[[スポーツニッポン]]のインタビューで語った<ref>[http://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2009/03/30/02.html イーストウッド俳優引退宣言、監督専念へ]</ref>。<br />
<br />
しかし後に[[日刊スポーツ]]のインタビューでは「演じたい役があれば(俳優に)戻ってくるかもしれない」ので、自身からは“ 引退 ”という発言は積極的に用いないという趣旨の発言もしており、揺れ動く心情を吐露している<ref>{{cite news|url=http://www.nikkansports.com/entertainment/cinema/news/p-et-tp1-20100118-586794.html|title=イーストウッド監督「引退」は使わない|publisher=[[nikkansports.com]]|date=2010-01-18|accessdate=2010-01-19}}</ref>。<br />
<br />
2012年には上記の発言を裏付ける様に、『[[人生の特等席]]』で老いたメジャーリーグスカウトマン役として、4年ぶりに映画に出演した(監督兼務ではない出演者としては19年ぶり)。<br />
<br />
== 政治 ==<br />
=== 立場 ===<br />
1950年代から、古くは共和党支持者であった。大統領選挙では、1952年に[[ドワイト・D・アイゼンハワー]]に投票し、68年と72年には[[リチャード・ニクソン]]を支持し、投票している<ref>http://www.inquisitr.com/.../clint-eastwood-awaits-true-crime-praises...</ref>。74年には政治的に穏健派であり、中庸であると自称している。現在は政府の極小化を主張する[[リバタリアニズム]]を支持し、[[朝鮮戦争]](1950-53年)・[[ヴェトナム戦争]](1965年には50万人の大軍を派遣、73年撤退)・[[テロとの戦い]]・[[イラク戦争]]などの外征戦争に反対している。都会人であるので、[[人工妊娠中絶|妊娠中絶]]・[[同性結婚]]の選択権も擁護している。成立しなかった、[[アメリカ合衆国憲法|憲法]]の男女平等修正条項案も支持している。なお、イーストウッドは共和党候補のみを支持してきたわけではなく、90年代からは、しばしば民主党候補者を支持してきている。2002年には下院議員候補の民主党リベラル・環境保護派のサム・ファーを支持し、1000ドルを寄付している。ライターはイーストウッドのことを、フリードマンとチョムスキーを合わせたような人物と評している。<br />
<br />
=== 経歴 ===<br />
[[1986年]]に[[カリフォルニア州]]西海岸にある[[カーメル・バイ・ザ・シー|カーメル市]]市長に当選、1期2年間務めた。また、自ら資金を調達し、かつて支持していた第37代カリフォルニア州知事[[グレイ・デイヴィス]]([[民主党 (アメリカ)|民主党]])へ退陣を迫る投票を行い、民主的な政治家の政治への参加を求めるテレビCMを製作した。2003年5月には、当時開戦したばかりの[[イラク戦争]]と、開戦を敢行した国家の双方を「極めて重大な過ちを犯した」と批判。同じく政治論争に積極的で『ミスティック・リバー』で主演に起用した[[ショーン・ペン]]が[[バグダード]]へ向かうのを説得して止めた。<br />
<br />
[[2008年アメリカ合衆国大統領選挙|2008年大統領選挙]]では共和党[[ジョン・マケイン]]候補を支持した。<br />
<br />
[[2012年アメリカ合衆国大統領選挙|2012年大統領選挙]]では、共和党予備選で当選確実となって久しい[[ミット・ロムニー]]に対して2012年8月3日に支持表明した<ref>{{cite news|author=|url=http://www.cnn.co.jp/usa/35020092.html|title=俳優イーストウッド氏がロムニー氏支持を表明 米大統領選|publisher=|date=2012-08-05|accessdate=2012-08-13}}</ref>。[[フロリダ州]][[タンパ]]で行われた[[共和党大会]]では、無人の椅子にオバマ大統領が座っているものと見立てて一人芝居を展開した<ref>{{Cite web |url=http://eiga.com/news/20120905/6/|title=クリント・イーストウッド監督の米共和党大会での一人芝居が賛否両論|publisher= |date=2012-9-5|accessdate=2012-9-12}}</ref>。<br />
<br />
[[2016年アメリカ合衆国大統領選挙|2016年大統領選挙]]では、共和党の[[ドナルド・トランプ]]候補に対して正式な支持を表明しなかったが、民主党の[[ヒラリー・クリントン]]候補による[[オバマ]]政権の継承を阻止し、現状を打破できる人物と評した<ref>[http://www.daily.co.jp/gossip/2016/08/06/0009358464.shtml C・イーストウッド トランプ氏を「建前」打破できる人物と評価]</ref>。トランプの舌禍については両候補とも問題のある発言をしていると指摘しつつ、メディアの[[言葉狩り]]に疑問を呈している。[[ポリティカル・コレクトネス]]を強制する風潮について「みんなとても注意深くなっている。今はそんなご機嫌取りの時代だ」「軟弱な時代になった」と批判的にコメントしている<ref>[http://www.huffingtonpost.jp/2016/08/05/-clint-eastwood-donald-trump_n_11345598.html クリント・イーストウッドがトランプ氏支持 「軟弱な時代だ。誰もが発言に細心の注意を払う」]</ref><ref>[http://www.daily.co.jp/gossip/2016/08/06/0009358464.shtml C・イーストウッド トランプ氏を「建前」打破できる人物と評価]</ref>。<br />
<br />
== 叙勲 ==<br />
2007年2月17日、監督としての功績が認められ、[[フランスの大統領|フランス大統領]][[ジャック・シラク]]から[[レジオンドヌール勲章]]を授与された<ref name="eiga09430">{{Cite web | url = http://eiga.com/news/20090430/1/| title = クリント・イーストウッドが日本政府から「旭日中綬章」を叙勲| publisher = 映画.com| date = 2009-04-30| accessdate = 2017-06-16}}</ref>。また[[2009年]][[4月29日]]、「春の外国人叙勲」で[[日本国政府]]より「映画製作を通じた日本とアメリカ合衆国との相互理解の促進に寄与」とした功績により、[[旭日中綬章]]を授与された<ref name="eiga09430"/><ref>{{Cite web | url = http://www.oricon.co.jp/news/65707/full/| title = クリント・イーストウッド監督に春の叙勲、渡辺謙、二宮和也らも祝福| publisher = オリコンスタイル| date = 2009-04-29| accessdate = 2017-06-16}}</ref>。<br />
<br />
== 私生活、その他 ==<br />
* 1997年にファッションブランド「[[テハマ]]」([[インディアン|アメリカ・インディアン]]の言語で「大自然」の意と宣伝しているが、由来については異論もある)を共同経営者名義で設立。同名の[[ゴルフコース]]も所有している。<br />
* 自分の監督作品で、2年連続で[[アカデミー賞]]・[[アカデミー助演男優賞|助演男優賞]]受賞者を輩出した。『ミスティック・リバー』の[[ティム・ロビンス]](第76回・2003年)と、『ミリオンダラー・ベイビー』の[[モーガン・フリーマン]](第77回・2004年)である。<br />
* 1953年に結婚したマギー・ジョンスン(1985年離婚)との間に1男1女をもうけ(兄の[[カイル・イーストウッド]]はジャズミュージシャン、妹の[[アリソン・イーストウッド]]はモデル・女優)、ほかに[[フランシス・フィッシャー]]との間に1女、二度目の妻ディナ・ルイス(2013年離婚)<ref>{{cite web|title=Clint Eastwood: Wife of actor-director files for divorce|url=http://www.washingtontimes.com/news/2013/oct/24/clint-eastwoods-wife-files-divorce|publisher=Washington Times|accessdate=24 October 2013}}</ref><ref>{{cite web|url=http://www.cnn.co.jp/showbiz/35038989.html|title=クリント・イーストウッドさんの妻、離婚を申請|work=CNN.co.jp|date=2013.10.25|accessdate=2014.06.06|}}</ref>との間に1女、婚外子として1男2女(息子は俳優の[[スコット・イーストウッド|スコット・リーヴス]])、と合計5人の女性との間に7人の子供がいるとされる。1996年のディナ・ルイスとの再婚の際は、初婚のときに生まれた娘と同年代だということで話題になった。愛人だった[[ソンドラ・ロック]]から慰謝料を求める訴訟を起こされたり、誹謗に満ちた自伝を出版されたりしたこともマスコミを賑わせた。<br />
* また健康に関して熱心であり、これまでの人生で映画の役柄以外では一切タバコを吸わない。1970年頃から[[超越瞑想]](TM瞑想)を毎日行っている。また食事では野菜類を用いたダイエットを長年継続しており、[[スプラウト]]など、多種類の野菜や果物や豆腐、その他大豆製品を多く摂ることを心がけているという。<br />
* 2013年に離婚した二度目の妻であるディナ・イーストウッド(旧姓ルイス)は、父がアフリカ系アメリカ人と日本人の、母がアイルランド・イングランド・ドイツの血を引く。<br />
* [[カンヌ国際映画祭]]で[[黒澤明]]監督の『[[夢 (映画)|夢]]』の上映の際、会場に入ろうとした黒澤に対し突然群衆の中から現れ、「ミスタークロサワ」と言いながらほおにキスをし、「あなたがいなかったら、今の私はなかった」と感謝の言葉を告げたという。これはデビュー作となった『[[荒野の用心棒]]』が『[[用心棒]]』の非公式なリメイクであったことが関係している。<br />
*2012年、イーストウッド一家を追ったリアリティ番組''Mrs. Eastwood & Company''が放映された<ref>{{cite web|url=http://www.tvgroove.com/news/article/ctg/1/nid/6083.html|title=なんでOKしたの? クリント・イーストウッドがリアリティ番組出演で私生活を公開|work=TV Groove|date=2011年12月16日|accessdate=2014年06月06日}}</ref>。<br />
* [[ジャズ]]に対する造詣が深く、ジャズの巨匠である[[チャーリー・パーカー]]を題材とした『[[バード (映画)|バード]]』を監督、プロデューサーとして『[[セロニアス・モンク]] ストレート・ノー・チェイサー』を製作している。イーストウッド家は代々ジャズを嗜好しており、クリントの祖母の代から始まり、クリントの息子[[カイル・イーストウッド]]はジャズ・[[ベーシスト]]として活躍している。また彼は、キャリア初期から時折ではあるが、歌手としてレコードを出したり、出演作品の中で、その歌声を披露している。1984年頃からは、彼が作曲したスコアを自身の映画で使用しており、『[[ミスティック・リバー]]』、『[[ミリオンダラー・ベイビー]]』『[[父親たちの星条旗]]』などでは、音楽担当のクレジットにもその名を連ねている。『[[さよなら。いつかわかること]]』では初めて音楽のみを担当した。<br />
* ''[[:en:Clint Eastwood discography|クリント・イーストウッド・ディスコグラフィ]]''<br />
<br />
== 主な出演、監督、製作作品 ==<br />
★印は[[セルジオ・レオーネ]]監督作品。☆印は[[ドン・シーゲル]]監督作品。<br />
{| class="wikitable sortable" style="font-size:85%;" <br />
! rowspan="2" |公開年<br />
! rowspan="2" |日本語題<br />
! rowspan="2" |原題<br />
! colspan="4" |役職<br />
! rowspan="2" |備考<br />
|-<br />
! style="white-space:nowrap;" |[[映画監督|監督]]<br />
! style="white-space:nowrap;" |[[映画プロデューサー|製作]]<br />
! style="white-space:nowrap;" |[[映画音楽|音楽]]<br />
! style="white-space:nowrap;" |[[俳優|出演]]<br />
|-<br />
| 1959-1965<br />
| [[ローハイド]]<br />
| ''Rawhide''<br />
|<br />
|<br />
|<br />
| ○<br />
| [[テレビドラマ]]<br />
|-<br />
| 1964<br />
| [[荒野の用心棒]]<br />
| ''A Fistful of Dollars''<br>伊語版 ''Per un pugno di Dollari''<br />
|<br />
|<br />
|<br />
| ○<br />
| ★<br />
|-<br />
| 1965<br />
| [[夕陽のガンマン]]<br />
| ''For a Few Dollars More''<br>伊語版 ''Per qualche Dollaro in più''<br />
|<br />
|<br />
|<br />
| ○<br />
| ★<br />
|-<br />
| 1966<br />
| [[続・夕陽のガンマン|続・夕陽のガンマン/地獄の決斗]]<br />
| ''The Good, The Bad and The Ugly''<br>伊語版 ''Il buono, il brutto, il cattivo''<br />
|<br />
|<br />
|<br />
| ○<br />
| ★<br />
|-<br />
| 1967<br />
| [[華やかな魔女たち]]<br />
| ''Le Streghe''<br />segment ''"Una serata come le altre"''<br />
|<br />
|<br />
|<br />
| ○<br />
|オムニバス: 第5話「またもやいつもの通りの夜」<br />[[ヴィットリオ・デ・シーカ]]篇<br />
|-<br />
| rowspan=3|1968<br />
| [[奴らを高く吊るせ!]]<br />
| ''Hang 'em High''<br />
|<br />
|<br />
|<br />
| ○<br />
|<br />
|-<br />
| [[マンハッタン無宿]]<br />
| ''Coogan's Bluff''<br />
|<br />
|<br />
|<br />
| ○<br />
| ☆<br />
|-<br />
| [[荒鷲の要塞]]<br />
| ''Where Eagles Dare''<br />
|<br />
|<br />
|<br />
| ○<br />
|<br />
|-<br />
| 1969<br />
| [[ペンチャーワゴン]]<br />
| ''[[:en:Paint Your Wagon|Paint Your Wagon]]''<br />
|<br />
|<br />
| ○{{ref label |Performer|I|I}}<br />
| ○<br />
|<br />
|-<br />
| rowspan=2|1970<br />
| [[真昼の死闘]]<br />
| ''[[:en:Two Mules for Sister Sara|Two Mules for Sister Sara]]''<br />
|<br />
|<br />
|<br />
| ○<br />
| ☆<br />
|-<br />
| [[戦略大作戦]]<br />
| ''Kelly's Heroes''<br />
|<br />
|<br />
|<br />
| ○<br />
|<br />
|-<br />
| rowspan=3|1971<br />
| [[白い肌の異常な夜]]<br />
| ''The Beguiled''<br />
|<br />
|<br />
|<br />
| ○<br />
| ☆<br />
|-<br />
| [[恐怖のメロディ]]<br />
| ''Play Misty for Me''<br />
| ○<br />
|<br />
|<br />
| ○<br />
|<br />
|-<br />
| [[ダーティハリー]]<br />
| ''Dirty Harry''<br />
|<br />
|<br />
|<br />
| ○<br />
| ☆<br />
|-<br />
| 1972<br />
| [[シノーラ]]<br />
| ''Joe Kidd''<br />
|<br />
|<br />
|<br />
| ○<br />
|<br />
|-<br />
| rowspan=3|1973<br />
| [[荒野のストレンジャー]]<br />
| ''High Plains Drifter''<br />
| ○<br />
|<br />
|<br />
| ○<br />
|<br />
|-<br />
| [[愛のそよ風]]<br />
| ''[[:en:Breezy|Breezy]]''<br />
| ○<br />
|<br />
|<br />
| ○<br />
| クレジットなし<br />
|-<br />
| [[ダーティハリー2]]<br />
| ''Magnum Force''<br />
|<br />
|<br />
|<br />
| ○<br />
|<br />
|-<br />
| 1974<br />
| [[サンダーボルト (1974年の映画)|サンダーボルト]]<br />
| ''Thunderbolt and Lightfoot''<br />
|<br />
|<br />
|<br />
| ○<br />
|<br />
|-<br />
| 1975<br />
| [[アイガー・サンクション]]<br />
| ''The Eiger Sanction''<br />
| ○<br />
|<br />
|<br />
| ○<br />
|<br />
|-<br />
| rowspan=2|1976<br />
| [[アウトロー (1976年の映画)|アウトロー]]<br />
| ''The Outlaw Josey Wales''<br />
| ○<br />
|<br />
|<br />
| ○<br />
|<br />
|-<br />
| [[ダーティハリー3]]<br />
| ''The Enforcer''<br />
|<br />
|<br />
|<br />
| ○<br />
|<br />
|-<br />
| 1977<br />
| [[ガントレット (1977年の映画)|ガントレット]]<br />
| ''The Gauntlet''<br />
| ○<br />
|<br />
|<br />
| ○<br />
|<br />
|-<br />
| 1978<br />
| [[ダーティファイター]]<br />
| ''Every Which Way But Loose''<br />
|<br />
|<br />
|<br />
| ○<br />
|<br />
|-<br />
| 1979<br />
| [[アルカトラズからの脱出]]<br />
| ''Escape from Alcatraz''<br />
|<br />
|<br />
|<br />
| ○<br />
| ☆<br />
|-<br />
| rowspan=2|1980<br />
| [[ダーティファイター 燃えよ鉄拳]]<br />
| ''[[:en:Any Which Way You Can|Any Which Way You Can]]''<br />
|<br />
|<br />
| ○{{ref label |Performer|I|I}}<br />
| ○<br />
| 挿入歌「Beers to You」 [[レイ・チャールズ]]とのデュエット<br />
|-<br />
| [[ブロンコ・ビリー]]<br />
| ''Bronco Billy''<br />
| ○<br />
|<br />
| ○{{ref label |Performer|I|I}}<br />
| ○<br />
| 挿入歌「バールーム・バディーズ」 [[マール・ハガード]]とデュエット<br />
|-<br />
| rowspan=2|1982<br />
| [[ファイヤーフォックス (映画)|ファイヤーフォックス]]<br />
| ''Firefox''<br />
| ○<br />
| ○<br />
|<br />
| ○<br />
|<br />
|-<br />
| [[センチメンタル・アドベンチャー]]<br />
| ''Honkytonk Man''<br />
| ○<br />
| ○<br />
| ○{{ref label |Performer|I|I}}<br />
| ○<br />
|<br />
|-<br />
| 1983<br />
| [[ダーティハリー4]]<br />
| ''Sudden Impact''<br />
| ○<br />
| ○<br />
|<br />
| ○<br />
| イメージソング「Go Ahead Make My Day」 (T.G.シェパードとのデュエット)<br />
|-<br />
| rowspan=2|1984<br />
| [[タイトロープ (映画)|タイトロープ]]<br />
| ''Tightrope''<br />
|<br />
| ○<br />
|<br />
| ○<br />
|<br />
|-<br />
| [[シティヒート]]<br />
| ''City Heat''<br />
|<br />
|<br />
| ○{{ref label |Performer|I|I}}<br />
| ○<br />
|<br />
|-<br />
| rowspan=2|1985<br />
| [[世にも不思議なアメージング・ストーリー]]<br />
| ''Amazing Stories'' : segment ''"Vanessa in the Garden"''<br />
| ○<br />
|<br />
|<br />
|<br />
| TVシリーズ シーズン1 第12話「ヴァネッサの肖像」<br />
|-<br />
| [[ペイルライダー]]<br />
| ''Pale Rider''<br />
| ○<br />
| ○<br />
|<br />
| ○<br />
|<br />
|-<br />
| 1986<br />
| [[ハートブレイク・リッジ 勝利の戦場]]<br />
| ''Heartbreak Ridge''<br />
| ○<br />
| ○<br />
| ○{{ref label |Song|II|II}}<br />
| ○<br />
|<br />
|-<br />
<br />
| rowspan=3|1988<br />
| [[ダーティハリー5]]<br />
| ''The Dead Pool''<br />
|<br />
|<br />
|<br />
| ○<br />
|<br />
|-<br />
| [[バード (映画)|バード]]<br />
| ''Bird''<br />
| ○<br />
| ○<br />
|<br />
|<br />
|<br />
|-<br />
| [[セロニアス・モンク ストレート・ノー・チェイサー]]<br />
| ''[[:en:Thelonious Monk: Straight, No Chaser|Thelonious Monk: Straight, No Chaser]]''<br />
|<br />
| ○<br />
|<br />
|<br />
| [[セロニアス・モンク]]の記録映画<br />
|-<br />
| 1989<br />
| [[ピンク・キャデラック]]<br />
| ''Pink Cadillac''<br />
|<br />
|<br />
|<br />
| ○<br />
|<br />
|-<br />
| rowspan=2|1990<br />
| [[ホワイトハンター ブラックハート]]<br />
| ''White Hunter Black Heart''<br />
| ○<br />
| ○<br />
|<br />
| ○<br />
|<br />
|-<br />
| [[ルーキー (映画)|ルーキー]]<br />
| ''The Rookie''<br />
| ○<br />
|<br />
|<br />
| ○<br />
|<br />
|-<br />
| 1992<br />
| [[許されざる者 (1992年の映画)|許されざる者]]<br />
| ''Unforgiven''<br />
| ○<br />
| ○<br />
|<br />
| ○<br />
|<br />
|-<br />
| rowspan=2|1993<br />
| [[ザ・シークレット・サービス]]<br />
| ''In the Line of Fire''<br />
|<br />
|<br />
|<br />
| ○<br />
| <br />
|-<br />
| [[パーフェクト・ワールド]]<br />
| ''A Perfect World''<br />
| ○<br />
|<br />
| ○{{ref label |Composer|III|III}}<br />
| ○<br />
|<br />
|-<br />
| rowspan=3|1995<br />
| [[キャスパー (映画)|キャスパー]]<br />
| ''Casper''<br />
|<br />
|<br />
|<br />
| ○<br />
| カメオ出演<br />
|-<br />
| [[マディソン郡の橋 (映画)|マディソン郡の橋]]<br />
| ''The Bridges of Madison County''<br />
| ○<br />
| ○<br />
| ○{{ref label |Composer|III|III}}<br />
| ○<br />
|<br />
|-<br />
| [[ヘンリエッタに降る星]]<br />
| ''[[:en:The Stars Fell on Henrietta|The Stars Fell on Henrietta]]''<br />
|<br />
| ○<br />
|<br />
|<br />
|<br />
|-<br />
| rowspan=2|1997<br />
| [[真夜中のサバナ (映画)|真夜中のサバナ]]<br />
| ''Midnight in the Garden of Good and Evil''<br />
| ○<br />
| ○<br />
|<br />
|<br />
|<br />
|-<br />
| [[目撃 (映画)|目撃]]<br />
| ''Absolute Power''<br />
| ○<br />
| ○<br />
| ○{{ref label |Composer|III|III}}<br />
| ○<br />
|<br />
|-<br />
| 1999<br />
| [[トゥルー・クライム (1999年の映画)|トゥルー・クライム]]<br />
| ''True Crime''<br />
| ○<br />
| ○<br />
| ○{{ref label |Song|II|II}}<br />
| ○<br />
| 主題歌「ホワイ・シュッド・アイ・ケア」作曲<br />
|-<br />
| 2000<br />
| [[スペース カウボーイ]]<br />
| ''Space Cowboys''<br />
| ○<br />
| ○<br />
|<br />
| ○<br />
|<br />
|-<br />
| 2002<br />
| [[ブラッド・ワーク]]<br />
| ''Blood Work''<br />
| ○<br />
| ○<br />
|<br />
| ○<br />
|<br />
|-<br />
| rowspan=2|2003<br />
| [[ミスティック・リバー]]<br />
| ''Mystic River''<br />
| ○<br />
| ○<br />
| ○{{ref label |Score|IV|IV}}<br />
|<br />
|<br />
|-<br />
| [[ピアノ・ブルース]]<br />
| ''[[:en:The Blues (film)#Piano Blues|Piano Blues]]''<br />
| ○<br />
| ○<br />
|<br />
|<br />
| TVミニ・シリーズ<br />
|-<br />
| 2004<br />
| [[ミリオンダラー・ベイビー]]<br />
| ''Million Dollar Baby''<br />
| ○<br />
| ○<br />
| ○{{ref label |Score|IV|IV}}<br />
| ○<br />
|<br />
|-<br />
| rowspan=2|2006<br />
| [[父親たちの星条旗]]<br />
| ''Flags of Our Fathers''<br />
| ○<br />
| ○<br />
| ○{{ref label |Song|II|II}}{{ref label |Score|IV|IV}}<br />
|<br />
|<br />
|-<br />
| [[硫黄島からの手紙]]<br />
| ''Letters from Iwo Jima''<br />
| ○<br />
| ○<br />
|<br />
|<br />
|<br />
|-<br />
| 2007<br />
| [[さよなら。いつかわかること]]<br />
| ''Grace is Gone''<br />
|<br />
|<br />
| ○{{ref label |Song|II|II}}{{ref label |Score|IV|IV}}<br />
|<br />
| 音楽・主題歌のみ担当<br />
|-<br />
| rowspan=2|2008<br />
| [[チェンジリング (2008年の映画)|チェンジリング]]<br />
| ''Changeling''<br />
| ○<br />
| ○<br />
| ○{{ref label |Score|IV|IV}}<br />
|<br />
|<br />
|-<br />
| [[グラン・トリノ]]<br />
| ''Gran Torino''<br />
| ○<br />
| ○<br />
| ○{{ref label |Song|II|II}}<br />
| ○<br />
|<br />
|-<br />
| 2009<br />
| [[インビクタス/負けざる者たち]]<br />
| ''Invictus''<br />
| ○<br />
| ○<br />
|<br />
|<br />
|<br />
|-<br />
| 2010<br />
| [[ヒア アフター]]<br />
| ''Hereafter''<br />
| ○<br />
| ○<br />
| ○<br />
|<br />
|<br />
|-<br />
| 2011<br />
| [[J・エドガー]]<br />
| ''J. Edgar''<br />
| ○<br />
| ○<br />
| ○<br />
|<br />
|<br />
|-<br />
| 2012<br />
| [[人生の特等席]]<br />
|''Trouble with the Curve''<br />
|<br />
|○<br />
|<br />
|○<br />
|<br />
|-<br />
|rowspan="2"| 2014<br />
| [[ジャージー・ボーイズ (映画)|ジャージー・ボーイズ]]<br />
|''Jersey Boys''<br />
|○<br />
|<br />
|<br />
|<br />
|<br />
|-<br />
|[[アメリカン・スナイパー]]<br />
|''American Sniper''<br />
|○<br />
|○<br />
|○{{ref label |Composer|III|III}}<br />
|<br />
|<br />
|-<br />
| 2016<br />
|[[ハドソン川の奇跡 (映画)|ハドソン川の奇跡]]<br />
|''Sully''<br />
|○<br />
|○<br />
|○{{ref label |Composer|III|III}}<br />
|<br />
|<br />
|-<br />
| 2017<br />
|[[15時17分、パリ行き]]<br />
|''The 15:17 to Paris''<br />
|○<br />
|○<br />
|<br />
|<br />
|「[[タリス銃乱射事件]]」の映画化<br />
|-<br />
| 2018<br />
|<br />
|''The Mule''<br />
|○<br />
|○<br />
|<br />
|○<br />
|<br />
|-<br />
|}<br />
<br />
<br />
* {{note label |Performer|I|I}} [[演奏者]]で参加<br />
* {{note label |Song|II|II}} [[作詞]]で参加<br />
* {{note label |Composer|III|III}} [[作曲]]で参加<br />
* {{note label |Score|IV|IV}} [[映画音楽|音楽]]を担当<br />
<br />
== 端役出演作品 ==<br />
1954年<br />
* 『[[半魚人の逆襲]]/REVENGE OF THE CREATURE』...研究員ジェニングス役(uncredited)◇俳優デビュー <DVD化><br />
1955年<br />
* TV.movie『Allen in Movieland』...Orderly役<br />
* 『Francis in the Navy』...水夫ジョネシー役<br />
* 『Lady Godiva of Coventry』...サクソン人役(uncredited)<br />
* 『[[世紀の怪物 タランチュラの襲撃]]/TARANTULA!』...空軍戦闘機の隊長役(uncredited) <DVD化><br />
1956年<br />
* 『Never Say Goodbye』...X線研究所の助手役(uncredited)<br />
* TV『[[ハイウェイ・パトロール]] Season1:#27.Motorcycle A』<br />
* 『Star in the Dust』...牧童役(uncredited)<br />
* 『[[最初の女セールスマン]]/THE FIRST TRAVELING SALESLADY』...兵隊ジャック・ライス役<br />
* 『[[全艦発進せよ]]/Away All Boats』軍医兵役(uncredited)<br />
* TV『Death Valley Days Season5:#07.The Last Letter』<br />
* 『[[底抜け西部へ行く]]/PARDNERS』...町の青年役 ◇「夕陽のガンマン」コンビ、リーバン・V・クリーフも脇役出演。<br />
1957年<br />
* TV『West Point Season1:#22.White Fury』<br />
* 『[[二人の可愛い逃亡者]]/ESCAPADE IN JAPAN』...パイロット:ダンボ役<br />
<br />
* TV『Navy Log Season3:#17.The Lonely Watch』<br />
1958年<br />
* 『[[壮烈!外人部隊]]/LAFAYETTE ESCADRILLE』...パイロット役<br />
* 『Ambush at Cimarron Pass』...キース・ウィリアムズ役<br />
1959年<br />
* TV『[[マーベリック (テレビドラマ)|マーベリック]] Season2:#19.Duel at Sundown』<br />
1962年<br />
* TV『[[ミスター・エド]] Season2:#25.Clint Eastwood Meets Mister Ed』<br />
<br />
== 主な受賞 ==<br />
; [[アカデミー賞]]<br />
: 1992年: [[アカデミー監督賞|監督賞]] / 『[[許されざる者 (1992年の映画)|許されざる者]]』<br />
: 1994年: [[アービング・G・タルバーグ賞]] <br />
: 2004年: 監督賞 / 『[[ミリオンダラー・ベイビー]]』(74歳の史上最年長受賞)<br />
; [[ゴールデングローブ賞]]<br />
: 1971年: 世界人気男優賞<br />
: 1987年: [[セシル・B・デミル賞]]<br />
: 1988年: [[ゴールデングローブ賞 監督賞|監督賞]] / 『[[バード (映画)|バード]]』<br />
: 1992年: 監督賞 / 『許されざる者』<br />
: [[第64回ゴールデングローブ賞|2006年]]: 最優秀[[ゴールデングローブ賞 外国語映画賞|外国語映画賞]] / 『硫黄島からの手紙』<br />
: 2004年: 監督賞 / 『ミリオンダラー・ベイビー』<br />
; [[ニューヨーク映画批評家協会賞|NY映画批評家協会賞]]<br />
: [[第70回ニューヨーク映画批評家協会賞|2004年]]: [[ニューヨーク映画批評家協会賞 監督賞|監督賞]] / 『ミリオンダラー・ベイビー』<br />
; [[ロサンゼルス映画批評家協会賞|LA映画批評家協会賞]]<br />
: [[第18回ロサンゼルス映画批評家協会賞|1992年]]: [[ロサンゼルス映画批評家協会賞 監督賞|監督賞]]・[[ロサンゼルス映画批評家協会賞 主演男優賞|主演男優賞]] / 『許されざる者』<br />
: [[第32回ロサンゼルス映画批評家協会賞|2006年]]:作品賞 /『硫黄島からの手紙』<br />
; [[カンヌ国際映画祭]]<br />
: 1988年: フランス映画高等技術委員会賞 / 『バード』<br />
: 2003年: ゴールデン・コーチ賞(功労賞)<br />
: 2008年: 第61回記念特別賞 / 『[[チェンジリング (2008年の映画)|チェンジリング]]』<br />
: 2009年: [[パルム・ドール名誉賞]]<br />
; [[ヴェネツィア国際映画祭]]<br />
: 2000年: [[栄誉金獅子賞]]・特別功労賞<br />
; [[京都国際映画祭]]<br />
: 2014年:モスト・リスペクト賞<ref>{{Cite news|url=http://eiga.com/news/20141016/19/|title=京都国際映画祭開幕!牧野省三賞は木村大作が受賞「あと5年は頑張る」|publisher=映画.com|date=2014-10-16|accessdate=2014-10-17}}</ref><br />
; [[ナショナル・ボード・オブ・レビュー賞]]<br />
: [[ナショナル・ボード・オブ・レビュー賞 (2006年)|2006年]]:作品賞 / 『[[硫黄島からの手紙]]』<br />
: [[ナショナル・ボード・オブ・レビュー賞 (2014年)|2014年]]:監督賞 / 『[[アメリカン・スナイパー]]』<ref>{{cite news|url=http://eiga.com/news/20141203/15/|title=ナショナル・ボード・オブ・レビュー賞発表|publisher=映画.com|date=2014-12-03|accessdate=2014-12-04}}</ref><br />
; [[キネマ旬報ベスト・テン]]<br />
: 1993年度(第67回):外国映画監督賞 / 『許されざる者』『[[パーフェクト・ワールド]]』<br />
: 1995年度(第69回):外国映画監督賞 / 『[[マディソン郡の橋 (映画)|マディソン郡の橋]]』<br />
: 2004年度(第78回):外国映画監督賞・読者選出外国映画監督賞 / 『[[ミスティック・リバー]]』<br />
: 2005年度(第79回):外国映画監督賞・読者選出外国映画監督賞 / 『ミリオンダラー・ベイビー』<br />
: 2006年度(第80回):外国映画監督賞 / 『[[父親たちの星条旗]]』『[[硫黄島からの手紙]]』・読者選出外国映画監督賞 / 『硫黄島からの手紙』<br />
: 2009年度(第83回):外国映画監督賞 / 『[[グラン・トリノ]]』『チェンジリング』・読者選出外国映画監督賞 / 『グラン・トリノ』<br />
: 2014年度(第88回):外国映画監督賞・読者選出外国映画監督賞 / 『[[ジャージー・ボーイズ (映画)|ジャージー・ボーイズ]]』<ref>{{Cite web |url=http://www.kinenote.com/main/kinejun_best10/2014/award/kojin.aspx |title=2014年 第88回キネマ旬報ベスト・テン |publisher=[[KINENOTE]] |accessdate=2015-01-08}}</ref><ref>{{Cite news |title=「そこのみにて光輝く」が日本映画1位…キネマ旬報ベスト・テン |newspaper=[[スポーツニッポン]] |date=2015-01-08 |url=http://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2015/01/08/kiji/K20150108009593960.html |accessdate=2015-01-08}}</ref><br />
: 2016年度(第90回):外国映画ベスト・ワン、外国映画監督賞・読者選出外国映画監督賞 / 『[[ハドソン川の奇跡 (映画)|ハドソン川の奇跡]]』<br />
; [[日本アカデミー賞]]<br />
: [[第31回日本アカデミー賞|2006年度(第31回)]] : 最優秀外国作品賞 / 『硫黄島からの手紙』 <br />
: 2016年度(第40回):最優秀外国作品賞 / 『ハドソン川の奇跡』<br />
; [[毎日映画コンクール]]<br />
: 2006年度(第61回):外国映画ベストワン賞 / 『父親たちの星条旗』<br />
: 2016年度(第71回):外国映画ベストワン賞 / 『ハドソン川の奇跡』<br />
他多数<br />
<br />
== 日本語吹き替え ==<br />
日本語吹き替え版ではローハイド出演以降からは[[山田康雄]]が専任で担当しており、イーストウッド来日時には本人からフィックスとして公認されており、VHSの吹替も初期から担当していた、これはイーストウッド主演映画の多くを配給するワーナーの吹替制作に山田の所属する[[テアトル・エコー]]が関与していたこともあると思われる。しかし、95年に山田が死去し、『[[パーフェクト・ワールド]]』が山田の最後の吹き替えとなった<!---『ハートブレイク・リッジ 勝利の戦場』のテレビ朝日吹き替え版が『パーフェクト・ワールド』ソフト版発表よりも初放映が後なのを確認しました。本当に『パーフェクト・ワールド』が山田氏の最後の吹き替えなのでしょうか?--->。その後、[[野沢那智]]がテレビ放送時に山田の後任として『[[ザ・シークレット・サービス]]』で吹き替えを務める際、山田の声にそっくり真似てほしいと要求され、困惑したという逸話がある。それからはほとんどの作品で野沢が吹き替えを担当していた。映像ソフトでは、生前山田と親交の深かった[[小林清志]]や[[納谷悟朗]]などが交代で担当していたが、正式な専属吹き替え声優は決められなかった。2010年に野沢も死去し、現在のところイーストウッドの吹き替えは作品ごとに全く異なる声優が担当する状況へとなっている。2009年の『[[夕陽のガンマン]]』日本語吹替完声版で山田に声質の似る[[多田野曜平]]が作品のテレビ放送時にカットされた部分の代役に抜擢され、以降『[[続・夕陽のガンマン]]』、『[[ダーティハリー]]』(カット部分がある4作目まで)、『[[荒野の用心棒]]』でも起用され、『[[白い肌の異常な夜]]』では初めて全編の吹き替えを担当した。<br />
<br />
== 参考資料 ==<br />
*{{cite book |last= McGilligan |first= Patrick |title= Clint: The Life and Legend |publisher= [[Harper Collins]] |year= 1999|isbn=0-00-638354-8 }}<br />
*{{cite book |last=Schickel |first=Richard |title=Clint Eastwood: A Biography |publisher=Knopf |year=1996 |isbn=978-0-679-42974-6 |location=New York}}<br />
*{{cite book|last=Zmijewsky|first=Boris|author2=Lee Pfeiffer|title=The Films of Clint Eastwood|publisher=Citadel Press|year=1982|isbn=0-8065-0863-9|location=Secaucus, New Jersey}}<br />
*{{cite book |last= Avery |first= Kevin |title= Conversations with Clint: Paul Nelson's Lost Interviews with Clint Eastwood, 1979 - 1983 |publisher= [[Continuum Books]] |year= 2011|isbn=144116586X}}<br />
* 『クリント・イーストウッド アウト・オブ・シャドー』[[ドキュメンタリー]]作品(ワーナー・ブラザース、監督ブルース・リッカー、2000年)<br />
<br />
=== インタビュー・伝記 === <br />
* 『クリント・イーストウッド レトロスペクティブ』序文はイーストウッド自身、公認本<br />
** リチャード・シッケル、新藤純子訳、[[キネマ旬報社]]、2010年<br />
* 『クリント・イーストウッド 孤高の騎士 映画作家が自身を語る』イーストウッドの自伝インタビュー<br />
** マイケル・ヘンリー・ウィルソン編、石原陽一郎訳、フィルムアート社、2008年<br />
* マーク・エリオット『クリント・イーストウッド ハリウッド最後の伝説』笹森みわこ・早川麻百合訳、[[早川書房]]、2010年<br />
* [[中条省平]]『クリント・イーストウッド アメリカ映画史を再生する男』[[朝日新聞社]]、2001年/[[ちくま文庫]]、2007年<br />
<br />
== 出典 ==<br />
{{脚注ヘルプ}}<br />
{{Reflist|2}}<br />
<br />
== 関連項目 ==<br />
* [[ドン・シーゲル]]:『[[ダーティハリー]]』の監督。「監督イーストウッド」に最も影響を与えた人物。<br />
* [[セルジオ・レオーネ]]:イーストウッドの出世作・[[ドル箱三部作]]の監督。<br />
* [[ハリー・キャラハン (架空の人物)]]:ダーティハリー・シリーズの主人公。イーストウッドの演じた最も著名な役。<br />
<br />
== 外部リンク ==<br />
{{Commonscat|Clint Eastwood}}<br />
* {{allcinema name|219|クリント・イーストウッド}}<br />
* {{Kinejun name|428|クリント・イーストウッド}}<br />
* {{IMDb name|0000142|Clint Eastwood}}<br />
<br />
{{クリント・イーストウッド監督作品}}<br />
{{アカデミー賞監督賞}}<br />
{{アービング・G・タルバーグ賞}}<br />
{{ゴールデングローブ賞 監督賞}}<br />
{{ニューヨーク映画批評家協会賞 監督賞}}<br />
{{ロサンゼルス映画批評家協会賞 監督賞}}<br />
{{ロサンゼルス映画批評家協会賞 主演男優賞}}<br />
{{全米映画俳優組合賞生涯功労賞}}<br />
{{Normdaten}}<br />
{{DEFAULTSORT:いいすとうつと くりんと}}<br />
[[Category:クリント・イーストウッド|*]]<br />
[[Category:アメリカ合衆国の映画俳優]]<br />
[[Category:アメリカ合衆国の映画監督]]<br />
[[Category:アメリカ合衆国の通常自治体の首長]]<br />
[[Category:西部劇映画の監督]]<br />
[[Category:アクション俳優]]<br />
[[Category:アカデミー賞受賞者]]<br />
[[Category:ゴールデングローブ賞受賞者]]<br />
[[Category:セザール賞受賞者]]<br />
[[Category:ハリウッド・ウォーク・オブ・フェーム]]<br />
[[Category:レジオンドヌール勲章受章者]]<br />
[[Category:旭日中綬章受章者]]<br />
[[Category:アメリカ芸術科学アカデミー会員]]<br />
[[Category:マカロニ・ウェスタン|+いいすとうつと]]<br />
[[Category:ダーティハリー|+]]<br />
[[Category:スコットランド系アメリカ人]]<br />
[[Category:イングランド系アメリカ人]]<br />
[[Category:アイルランド系アメリカ人]]<br />
[[Category:ドイツ系アメリカ人]]<br />
[[Category:サンフランシスコ出身の人物]]<br />
[[Category:1930年生]]<br />
[[Category:存命人物]]</div>
122.214.146.170
武田鉄矢
2018-07-20T09:21:32Z
<p>122.214.146.170: </p>
<hr />
<div>{{ActorActress<br />
| 芸名 = 武田 鉄矢<br />
| ふりがな = たけだ てつや<br />
| 画像ファイル = 武田鉄矢さん(写真は65歳).jpg<br />
| 画像サイズ = 220px<br />
| 画像コメント = 65歳当時の武田鉄矢<br />
| 本名 = '''武田 鉄矢'''(たけだ てつや)<br />
| 別名義 = '''片山蒼'''<br />
| 出生地 = {{JPN}} [[福岡県]][[福岡市]][[博多区]]<br />
| 死没地 = <br />
| 国籍 = <!--「出生地」からは推定できないときだけ --><br />
| 民族 = <!-- 民族名には信頼できる情報源が出典として必要です。 --><br />
| 身長 = 165 [[センチメートル|cm]]<ref>[http://www.takedatetsuya.com/takeda/takeda_profile.html 武田鉄矢 公式サイト プロフィール]</ref><br />
| 血液型 = [[ABO式血液型|O型]]<br />
| 生年 = 1949<br />
| 生月 = 4<br />
| 生日 = 11<br />
| 没年 = <br />
| 没月 = <br />
| 没日 = <br />
| 職業 = [[俳優]]<br />[[歌手]]<br />[[作詞家]]<br />[[タレント]]<br />
| ジャンル = <br />
| 活動期間 = [[1972年]] -<br />
| 活動内容 = <br />
| 配偶者 = 既婚<br />
| 著名な家族 = <br />
| 所属劇団 = <br />
| 事務所 = <br />
| 公式サイト = [http://www.takedatetsuya.com/ 武田鉄矢 公式サイト]<br />
| 主な作品 = '''ドラマ'''<br />『[[3年B組金八先生]]』シリーズ<br />『[[教習所物語]]』<br />『[[華麗なる一族 (2007年のテレビドラマ)|華麗なる一族]]』 <br />『[[夫婦道]] 』シリーズ <br />『[[JIN-仁-#テレビドラマ(日本)|JIN-仁-]] 』シリーズ<hr />'''映画'''<br />『[[幸福の黄色いハンカチ]]』<br />『[[刑事物語]]シリーズ』<br />『[[プロゴルファー織部金次郎]]シリーズ』<br />
| アカデミー賞 = <br />
| AFI賞 = <br />
| 英国アカデミー賞 = <br />
| セザール賞 = <br />
| エミー賞 = <br />
| ジェミニ賞 = <br />
| ゴールデングローブ賞 = <br />
| ゴールデンラズベリー賞 = <br />
| ゴヤ賞 = <br />
| グラミー賞 = <br />
| ブルーリボン賞 = <br />
| ローレンス・オリヴィエ賞 = <br />
| 全米映画俳優組合賞 = <br />
| トニー賞 = <br />
| 日本アカデミー賞 = '''最優秀助演男優賞'''<br />[[第1回日本アカデミー賞|1977年]]『[[幸福の黄色いハンカチ]]』<br />
| その他の賞 = '''[[キネマ旬報]]<br />助演男優賞'''<br />[[1977年]]『[[幸福の黄色いハンカチ]]』<br />
| 備考 = <br />
}}<br />
{{Infobox Musician <!--Wikipedia:ウィキプロジェクト 音楽家を参照--><br />
| Name = 武田鉄矢<br />
| Img = <br />
| Img_capt = <br />
| Img_size = 150px<!-- サイズが250ピクセルに満たない場合のみ記入 --><br />
| Landscape = <!-- 画像の横幅が広く、高さが小さい場合に“yes”を記入 --><br />
| Background = singer<!-- singer/group/bandなど --><br />
| Birth_name = <!-- 個人のみ --><!-- 出生時の名前が公表されている場合のみ記入 --><!--tmp:ActorActressに記載済み--><br />
| Alias = <br />
| School_background = <!-- 個人のみ -->[[福岡教育大学]][[教育学部]]障害児教育教員養成課程聴覚障害児教育専攻中退(2008年名誉学士号)<br />
| Born = <!-- 個人のみ --><!--tmp:ActorActressに記載済み--><br />
| Died = <!-- 個人のみ --><br />
| Origin = <!--tmp:ActorActressに記載済み--><br />
| Instrument = [[ボーカル]]<br />[[三味線]]<br />
| Genre = [[J-POP]]<br />[[フォークソング|フォーク]]<br />[[ニューミュージック]]<br />
| Occupation = <!-- 個人のみ --><!--tmp:ActorActressに記載済み--><br />
| Years_active = [[1972年]] - [[1982年]]<br />[[1994年]] -<br />([[海援隊 (フォークグループ)|海援隊]])<br />[[1983年]] -<br />(ソロ)<!--ミュージシャンとしての活動のみ記載--><br />
| Label = [[ポリドール・レコード]]<br />[[ユニバーサルミュージック (日本)|ユニバーサルミュージック]]<!--ソロとしての活動のみ記載--><br />
| Production = ネクストワン<br />
| Associated_acts = [[海援隊 (フォークグループ)|海援隊]]<br />[[芦川よしみ]]<br />
| Influences = [[早川義夫]]・[[吉田拓郎]]<br />
| URL = [http://www.takedatetsuya.com/ 武田鉄矢 公式サイト]<br />
| Current_members = <!-- グループのみ --><br />
| Past_members = <!-- グループのみ --><br />
| Notable_instruments =<br />
}}<br />
'''武田 鉄矢'''(たけだ てつや、[[1949年]]〈昭和24年〉[[4月11日]] - )は、日本の[[歌手]]・[[俳優]]・[[タレント]]・[[作詞家]]。フォークグループ・[[海援隊 (フォークグループ)|海援隊]]のボーカル・リーダー。本名は同じで、自身が出演する映画・ドラマの脚本を'''片山蒼'''の名義で執筆することもある。<br />
<br />
代表曲に「[[母に捧げるバラード]]」、「[[贈る言葉]]」、「あんたが大将」、「[[思えば遠くへ来たもんだ]]」<ref group="注釈">「武田鉄矢(海援隊)」名義で、映画に合わせて海援隊名義で再リリースした。双方では、キーなど若干の違いがある。</ref>(いずれも海援隊)などがある。<br />
<br />
[[名誉学位]]・[[称号]]は[[名誉学士]]([[福岡教育大学]])。名誉漢字教育士([[立命館大学]])。[[長崎市]][[亀山社中記念館]][[名誉館長]]<ref>長崎市亀山社中記念館ウェブサイト「[http://www.city.nagasaki.lg.jp/kameyama/kameyama_news/meiyokanchou.html 就任のことば]」参照。</ref>。<br />
<br />
== 来歴・人物 ==<br />
[[1949年]](昭和24年)、[[福岡県]][[福岡市]][[博多区]]生まれ。母・武田イクと父・嘉元は[[熊本県]][[阿蘇郡]][[南小国町]]中原<ref group="注釈">(なかばる、旧中原村)</ref><small>字</small>樋ノ口の出身。両親は博多で結婚し、父親が天涯孤独となっていた母親の家に婿養子に入った<ref>{{Cite web |url=http://datazoo.jp/tv/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%83%9F%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%92%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%AA%E3%83%BC/806654 |title=ファミリーヒストリー|2014/11/21(金)放送 |work=TVでた蔵 |publisher=ワイヤーアクション |accessdate=2014-11-22}}</ref>。{{要出典範囲|母方は[[武田氏]]の末裔と伝わる<ref>(九州には[[肥前武田氏]]、[[肥後武田氏]]、ほかに[[岡藩]]をはじめ豊後、筑前など)</ref>|date=2014年11月}}。家紋は丸に割[[菱紋|菱]]<ref>[http://www.ippongi.com/2011/12/23/hishi-2/ ippongi.com]</ref>。<br />
福岡市中央区大濠に在する[[福岡大学附属大濠中学校・高等学校|福岡大学附属大濠高等学校]]を受験するも不合格であったものの、歴史も古い当時筑紫郡の2番手高校(福岡県立筑紫丘高校が1番難関で現在も福岡3大名門校である)[[福岡県立筑紫中央高等学校]]に合格、高校時代は生徒会長にも選出された。卒業後は[[坂本龍馬]]の研究を志し、当時[[国立旧一期校・二期校|一期校]]だった[[高知大学]]文理学部(現:人文学部)を現役、浪人時と2年に渡り挑戦した。また坂本の墓所の近隣に位置していた[[立命館大学]]も受験したが不合格。さらに、[[早稲田大学]]も受験し不合格となっている<ref>{{Cite news|date=2017-01-10|url=http://www.daily.co.jp/gossip/2017/01/10/0009818019.shtml|title=海援隊 受験生を生ライブで激励 武田鉄矢、受験生の悩みに珍回答|newspaper=デイリースポーツ|accessdate=2017-01-10}}</ref>。結局、[[国立旧一期校・二期校|二期校]]で合格した[[福岡教育大学]][[教育学部]][[特別支援教育|障害児教育]]教員養成課程に入学。しかし、7年在籍するも中退。芸能界で失敗しても大学に戻れるよう母・イクが休学手続きをして学費を払い続けていたという<ref>{{Cite web |url=http://datazoo.jp/tv/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%83%9F%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%92%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%AA%E3%83%BC/806654 |title=ファミリーヒストリー|2014/11/21(金)放送 |work=TVでた蔵 |publisher=ワイヤーアクション |accessdate=2014-11-22}}</ref>。<br />
<br />
なお、福岡教育大学は中退になったものの、武田の『金八先生』シリーズでの長年の活動を評価し、[[2008年]](平成20年)に、国立大学法人理事会で特別に[[名誉学士|名誉学士号]](6月に制定。第一号)を授与することを決め、武田本人も了承した。[[9月12日]]に、授与式と学生とのトークイベントが行われた。名誉学士号授与の条件として、福岡県の教職員の卵達に人生で学んだことを話す機会を随時設けることを求められ、本人も快諾した<ref>[[徹子の部屋]]2010年3月19日出演時に本人語る</ref>。[[2010年]](平成22年)[[5月12日]]には福岡教育大学の特命教授<ref group="注釈">大学活性化の為に、学長の任命で無償での教育研究活動に従事できる。</ref>に就任し、『[[風の又三郎]]』をテーマに90分の「賢治の小説は童話ではなくミステリーだ」と論じる講義を行なった<ref>「金八教授「鉄学」講義 武田鉄矢さんの母校・福岡教育大学で就任」2010年[[5月13日]]付『[[西日本新聞]]』朝刊</ref>。<br />
<br />
[[1972年]](昭和47年)[[10月25日]]に、[[千葉和臣]]・[[中牟田俊男]]らと[[海援隊 (フォークグループ)|海援隊]]でデビュー。当初は全く売れなかったが、武田が母・イクに向けた詫び状を歌にした「[[母に捧げるバラード]]」([[1973年]](昭和48年))がヒットし、翌年の[[第25回NHK紅白歌合戦]]に出場。しかし、その翌年には、夫婦揃って[[大晦日]]の夜に皿洗いのバイトをしなければならないほど、人気が低迷したと言い、テレビから流れる[[NHK紅白歌合戦]]を横目で見て、「俺はこんな所で何をやっているんだろう」と落ち込んでいたと後年語っている。<br />
<br />
その後、映画『[[幸福の黄色いハンカチ]]』([[1977年]](昭和52年))でのさえない青年役が高い評価を得て、俳優としての新境地を開拓。海援隊としても再び注目され、ドラマ『[[3年B組金八先生]]』([[1979年]](昭和54年))のヒットとともに主題歌の「[[贈る言葉]]」も大ヒットした。[[1982年]](昭和57年)12月の海援隊解散後は、ソロ歌手・俳優・作家として活動。歌手活動としては、「男と女のはしご酒」([[芦川よしみ]]とのデュエット)([[1987年]](昭和62年))、「声援」(『3年B組金八先生』第3シリーズ主題歌)(1988年)などのヒット曲がある。海援隊は[[1993年]](平成5年)[[4月10日]]の「ドリームライブ in [[福岡ドーム]]」のために1日だけ再結成され、翌[[1994年]](平成6年)に本格的にグループとしての活動を再開し、現在に至る。<br />
<br />
また、[[漫画原作者]]として『[[お〜い!竜馬]]』(画:[[小山ゆう]]。[[テレビアニメ]]版では武田が主題歌を担当)と『[[プロゴルファー織部金次郎]]』(画:[[高井研一郎]]。武田主演で実写映画化)の2作を手掛けている。<br />
<br />
== エピソード ==<br />
{{雑多な内容の箇条書き|date=2008年8月|}}<br />
=== 音楽面 ===<br />
「[[母に捧げるバラード]]」([[1973年]](昭和48年))の「今も聞こえるあのお袋の声」の部分のメロディは[[美輪明宏|丸山明宏]]の「[[ヨイトマケの唄]]」の「今も聞こえるヨイトマケの唄」を模倣したと、[[2007年]](平成19年)放送の『[[国分太一・美輪明宏・江原啓之のオーラの泉|オーラの泉]]』で美輪本人に告白している。<br />
<br />
海援隊の楽曲『節子への手紙』は武田鉄矢の妻・節子へ届いた、彼女の母親からの手紙にモチーフを得たもの。<br />
<br />
[[BS-TBS|BS-i]]連続テレビドラマ『[[恋する日曜日]]』セカンドシリーズで『僕の部屋から』というドラマが制作された際に、主題歌「僕の部屋から」の作詞を担当した。<br />
<br />
別項にあるように[[坂本龍馬]]を敬愛しているため、武田は龍馬が亡くなった年齢(33歳)と同じになった年(1982年)に海援隊を解散(後に再結成)した。ただし龍馬の「33歳」が'''[[数え年]]'''であったのに対し、武田の「33歳」は'''[[満年齢]]'''である(龍馬は満31歳だった)。<br />
<br />
==== 映画ドラえもんの主題歌 ====<br />
映画『[[ドラえもん映画作品|ドラえもん]]』の[[ドラえもん のび太の恐竜|第1作目]] - [[ドラえもん のび太と銀河超特急|第17作目]]([[ドラえもん のび太の魔界大冒険|第5作目]]を除く)のエンディングテーマ曲の[[作詞]]を務めた。[[ドラえもん のび太の宇宙小戦争|第6作]],[[ドラえもん のび太とアニマル惑星|11作]],[[ドラえもん のび太と雲の王国|第13作]],[[ドラえもん のび太と夢幻三剣士|第15作]]<ref group="注釈">「武田鉄矢一座」として歌唱</ref>,[[ドラえもん のび太の創世日記|第16作目]]<ref group="注釈">「海援隊」として歌唱</ref>は武田が歌っている。『[[ドラえもん のび太と銀河超特急]]』も海援隊が歌を担当しているがこの作品のみ千葉和臣、中牟田俊男が歌っている。[[西田敏行]]が歌唱した『[[ドラえもん のび太の日本誕生]]』の主題歌「[[時の旅人 (西田敏行の曲)|時の旅人]]」は後にアルバム『昭和24年 〜いつか見た青い空〜』で[[セルフカバー]]。かねてより原作者の[[藤子・F・不二雄]]を尊敬していたが、藤子の逝去に伴って「藤子先生が亡くなった今、僕は『ドラえもん』の映画の作詞を引退します」と宣言し、同劇場版シリーズの楽曲参加を勇退した。その後、映画『ドラえもん』30周年を記念し、[[2010年]](平成22年)の劇場版『[[ドラえもん のび太の人魚大海戦]]』で14年ぶりに挿入歌を手掛けた。<br />
<br />
音楽担当となった当初、藤子スタジオに娘を連れて行ったことがあり、その時に娘が「ドラえもんはどこ?」と尋ねたところ、藤子は「今[[テレビ局]]の仕事に行っているんだよ」と答え、武田は彼のやさしさに深い感銘を受けた。<br />
<br />
後に[[藤子・F・不二雄大全集]]で本人が明かしたところによると、藤子の存命中に一度だけ「映画ドラえもんのテーマ担当から武田を降板させる」という案が藤子に提案されたことがあったが、それを聞いた藤子は普段では考えられないようなほど激怒し<ref group="注釈">藤子は普段温厚な人物として知られ、滅多な事では怒ることはないといわれている。</ref>、「映画ドラえもんのテーマソングは武田でなければならない」という強い意志を感じ取ったスタッフは、以後二度とそういった話を藤子に持ちかけることは無くなったとのことである。それ以前に武田から「これ以上続けるとマンネリになるから」とテーマ担当の辞退を自ら申し出たときも藤子から強く引き留められたという([[ぼく、ドラえもん]]より)。<br />
<br />
=== 俳優業 ===<br />
最も影響を受けた俳優には[[高倉健]]と[[渥美清]]を挙げている。<br />
<br />
俳優としては[[山田洋次]]監督の[[映画]]『幸福の黄色いハンカチ』(1977年 [[松竹]])がスタートであり、デビュー作ながら[[日本アカデミー賞]]最優秀助演男優賞を受賞する演技を見せた。同監督作品の『[[男はつらいよ 寅次郎わが道をゆく]]』([[1978年]](昭和53年) 松竹)にも出演。『[[刑事物語]]』シリーズ(1982年 - 1987年 [[東宝]])の片山刑事役で、本格的な[[中国拳法]]、秘門派「[[蟷螂拳]]」や自ら考案した「ハンガーヌンチャクによるアクションシーン」を披露したり、個性派俳優としても活躍。ハンガーヌンチャクを使う殺陣上ではハンガーを振り回している最中、指から摩擦で煙が出てきた逸話をもつ。<br />
<br />
一時期[[ジャッキー・チェン]]の髪型を真似た程の自他共に認めるジャッキー・ファンとして有名で、「刑事物語3・潮騒の詩」ではジャッキーとの共演を熱望していたらしいが、ギャラの折り合いがつかず断念したという話がある。なお本作のオープニングのビルからの落下は「[[プロジェクトA]]」でジャッキーが時計台から落下する場面のパロディで、またラストのヒットマンとの野原での対決は「[[ヤングマスター 師弟出馬]]」のラストの死闘のパロディである。<br />
<br />
[[テレビドラマ]]への進出について武田は「ボクは[[吉田拓郎]]さんみたいな歌手になりたかった。でも、どうあがいてもなれなかった。それで仕方なく横に流れたんですね。それはテレビに出るということです。もう、今はなんてことないけど、当時はテレビに出ないというのが[[日本のフォークシンガー|フォークシンガー]]のステータスでね。[[松任谷由実|荒井由実]]、[[小椋佳]]、吉田拓郎、[[井上陽水]]..といった主流がテレビに出るのを拒否していたんです。そんな時にボクがテレビに出たもんだから風当たりが強くてね、当時は相当キツかった」などと話している<ref>『プレイボーイの人生相談 1966-2006』 [[週刊プレイボーイ|週刊プレイボーイ編集部]] [[集英社]] 2006年 123頁</ref>。[[1970年代]]は『[[あこがれ共同隊]]』(TBS、1975年)のように[[ニューミュージック]]系歌手がゲスト出演したり[[端役]]で出るというケースはあったが主役級で出演するようなことはなかった。[[1979年]](昭和54年)6月に[[土曜ワイド劇場]]枠『戦後最大の誘拐 吉展ちゃん事件』([[テレビ朝日]])で犯人役を演じて話題を呼んだ[[泉谷しげる]]と共に、同年の10月からスタートした『3年B組金八先生』(TBS)の主役に抜擢された武田は、俳優兼ニューミュージック系歌手の先駆けといえる<ref name = "対談の七人">[[爆笑問題]]『対談の七人』 [[新潮社]] 2000年 30、31頁</ref>。やはり『[[2年B組仙八先生]]』(TBS、1981年)から、早めにテレビに進出した[[なぎら健壱]]は「テレビ出演拒否はもういいと、わりあい早い時期に気づいた武田や泉谷なんかが今も生き残っている」と話している<ref name = "対談の七人" />。<br />
<br />
テレビドラマは、[[1979年]](昭和54年)にスタートした『3年B組金八先生』([[TBSテレビ|TBS]])の[[坂本金八]]役を担当。2007年までシリーズ化され、一番のハマり役となった。[[大河ドラマ]]『[[徳川家康 (NHK大河ドラマ)|徳川家康]]』([[1983年]](昭和58年))での[[豊臣秀吉]]役、『[[太平記 (NHK大河ドラマ)|太平記]]』([[1991年]](平成3年))での[[楠木正成]]役、『[[101回目のプロポーズ]]』(1991年 [[フジテレビジョン|フジテレビ]])でのさえない中年・星野達郎役など、印象深い役を数多く演じている。<br />
<br />
[[2006年]](平成18年)、大河ドラマ『[[功名が辻 (NHK大河ドラマ)|功名が辻]]』で主人公・[[山内一豊]]の古参の家来・[[五藤為浄|五藤吉兵衛]]役のオファーがあったが、『竜馬がゆく』の敵役([[上士|土佐藩上士]])の先祖を演じることに抵抗があり、当初は拒否したという。後に[[日本放送協会|NHK]]側から「[[土佐国|土佐]]に入る前に死んでしまう役ですから」と説得され、出演することとなった。共演の[[前田吟]]とともに、「これが最後の大河出演」と決めていたらしいが、『[[龍馬伝]]』で前言を撤回、龍馬の師の[[勝海舟]]を演じている(なお、後に前田も前言を撤回し『[[おんな城主 直虎]]』に出演している)。NHKでのハイライト放送では勝役を「俳優業の集大成」、そして「先生冥利に尽きる」と語っている。<br />
<br />
『金八先生』シリーズの各卒業式で生徒に贈る言葉は最初は3行の台本を20分掛けて喋るというが、直近のシリーズではスタッフがわざと台本の台詞部分を空白にして全て武田のオリジナルで語っている。<br />
<br />
また、同作品中で「人と言う漢字は、人と人が互いに支え合っている」と説明する場面は有名である。しかし、漢文学者で古代漢字学の第一人者である[[白川静]]の著書で「人と言う字は支えあっていない」と事を知り、深く衝撃を受けたという<ref >2015年3月12日放送[[BS日テレ]]「[[木曜スペシャル]]」「武田鉄矢の思えば遠くへ来たもんだ」</ref>。<br />
<br />
2017年に『[[水戸黄門 (BS-TBS版)|水戸黄門]]』で水戸黄門シリーズにおける6代目の水戸黄門を演じるが、その役どころを「いたわりを強要したり、老いのずるさもあって完璧なご老公じゃない。助さんも『この、くそじじい』と言うしね」と明かしている<ref>日刊スポーツ 2017年8月3日</ref>。また武田は6代目に抜擢される20年前に[[東洋水産]]の『[[マルちゃん赤いきつねと緑のたぬき]]』のCMで既に水戸黄門を演じており、役柄も散々な目にあうという本編と変わらないキャラクターとなっている。<br />
<br />
=== 脚本家 ===<br />
'''片山蒼'''の名義で、映画、ドラマ、舞台の脚本を執筆している。<br />
*[[幕末青春グラフィティ 坂本竜馬]] 1982年<br />
*[[幕末青春グラフィティ 福沢諭吉]] 1985年<br />
*[[幕末青春グラフィティ Ronin 坂本竜馬]] 1986年<br />
*[[刑事物語]]シリーズ<br />
*:片山蒼名義で原作を、武田鉄矢名義で脚本を担当している。<br />
**刑事物語 1982年<br />
**刑事物語2 りんごの詩 1983年<br />
**刑事物語3 潮騒の詩 1984年<br />
**刑事物語 くろしおの詩 1985年 - 原案のみで、脚本には参加していない<br />
**刑事物語5 やまびこの詩 1987年 - 脚本も片山蒼名義<br />
*[[3年B組金八先生#『3年B組金八先生 -夏休みの宿題-』|3年B組金八先生 -夏休みの宿題-]] 2003年、2005年<br />
<br />
=== 趣味、嗜好 ===<br />
高校時代に読んだ[[司馬遼太郎]]の[[竜馬がゆく]]の影響からバンド名に「海援隊」と名付けるほど、坂本龍馬を敬愛しており、龍馬役や龍馬に関連する人物の役をすることがある<ref group="注釈">'''片山蒼'''の名義で脚本家を担当した『[[幕末青春グラフィティ]]』3作品以外では、『[[奇兵隊 (テレビドラマ)|奇兵隊]]』(1989年)など。</ref>。金八先生の名字の「坂本」は龍馬の姓に、金八の娘の「乙女」は龍馬の姉の名にちなんだものである。また、[[ソフトバンクモバイル]]のCMでは「坂本龍馬かぶれ」と揶揄される内容で出演。なお、「高校時代に最初に買った本はかなりボロボロになっていますが、大事に持っています。」とのこと<ref name=doraku>[http://doraku.asahi.com/hito/interview/html/120227_03.html ひとインタビュー 歌も芝居も本性をさらしてきた 病気を自身の老いのスタートに 第二百十回 武田鉄矢さん] どらく 2012年2月27日付</ref>。<br />
<br />
[[谷村新司]]と並ぶ[[ニューミュージック]]界の二大[[ビニ本]]マニアとして知られ、『3年B組金八先生』第2シリーズの収録終了時に、卒業記念として男子生徒役の役者に自分のコレクションをプレゼントしていたが、[[直江喜一]]と[[沖田浩之]]は当時既に18歳だったため、「お前ら二人は自分で買え」とのことで武田のコレクションは貰えなかった<ref>『[[FOCUS]]』1995年12月12日号による。</ref>。<br />
<br />
プロ野球は[[福岡ソフトバンクホークス]]のファンである。ちなみに、幼少時は[[埼玉西武ライオンズ|西鉄ライオンズ]]のファンだった。セ・リーグでは[[読売ジャイアンツ]]ファンと掛け持ちである。<br />
<br />
語ることが好きである。NHK大河ドラマ『[[功名が辻 (NHK大河ドラマ)|功名が辻]]』の収録では本番直前まで、共演者であり同じく話好きである[[前田吟]]とずっと話し続け、本番の際にセリフを忘れることがあった<ref>『NHK大河ドラマ・ストーリー功名が辻 前編』(NHK出版) 102ページ</ref>。<br />
<br />
=== 本名 ===<br />
「鉄矢」は本名であるが、大学生の時まで「鉄也」だと思い込んでいた。これは親が「鉄也」と教えていたためであり、試験の際に記入した氏名に対して、担当教官から「ペンネームを使うな」と指摘されたことで発覚した。両親も届け通りの本名を指摘されるまで忘れていたという<ref group="注釈">名前の由来は『鉄砲でも矢でも飛んで来い!』という理由だという記載がある</ref>。本名発覚当初は困惑していたが段々と受け入れ、使用するようになった<ref>自著『母に捧げるバラード』より</ref>。既婚者で娘が二人いるが一般人のため、個人情報の取り扱いが厳格になった現在は公表していない<ref group="注釈">海援隊時代には、妻や長女の名前を冠した楽曲も発表している上、過去の著書でも度々家族の名前を記していた。「ふられ虫の唄」(講談社)には、カバー部分に長女と次女の名前が記載されている。楽曲「家族」の歌詞中にも長女・次女の名前が出てくる。絵本として発表された著作「雲の物語」の絵は、長女・次女が描いたため、共著者として名前が掲載されている</ref>。妻は[[熊本県|熊本]]の[[農家]]の娘で元[[銀行員]]。<br />
<br />
=== 大阪嫌い ===<br />
母親譲りの大阪嫌いとして有名で、2007年(平成19年)4月4日に[[TBSテレビ|TBS]]系列で放送された『[[笑福亭鶴瓶のメインキャスト!]]』において、「数を数える時に節を付けるのがおかしい」「大阪は他人に頼ってきたから主体性が無い」「大阪人は信用できん」「すぐに人を騙す」などと発言。また、ドラマの控え室で大阪府に居住歴のある[[木村拓哉]]にずっと大阪に対する悪口を吹き込んでいたため[[笑福亭鶴瓶]]が止めに入ったが、武田はそれに対して「大阪のどぶ鼠が!」と切り返した。笑福亭鶴瓶は、テレビ東京系列で放送されている『[[きらきらアフロ]]』で「根に持っている」と、『[[ヤングタウン日曜日]]』でも一連のやり取りを発言するなど不満を表明している。[[2007年]](平成19年)[[7月6日]]放送の[[武田鉄矢・今朝の三枚おろし]]内で[[森喜朗]]元総理の失言(大阪に対する悪口)を具体的に紹介、隣にいた[[水谷加奈]]を大笑いさせた。これらの笑福亭鶴瓶とのやり取りに対し、武田本人は「笑福亭鶴瓶とのケンカみたいに、芸能人の営業のうちだよ」と答えており、「芸能人の営業」のために大阪や大阪人を揶揄しているともとれる発言をしている<ref>[http://www.bunshun.co.jp/mag/shukanbunshun/shukanbunshun081225.htm 週刊文春 2008年12月25日号 『新バトル 武田鉄矢が小倉智昭に「ウソツキの目だ!」』]{{リンク切れ|date=2012年3月}}</ref>。その一方で、『[[白夜行#テレビドラマ|白夜行]]』の大阪府警・笹垣潤三役([[神戸弁]])<ref>[http://www.tbs.co.jp/byakuyakou/inter11_12.html] TBS「白夜行」インタビュー #11 武田鉄矢</ref>や『[[純と愛]]』の狩野善行役など、[[近畿方言|関西弁]]で話す役柄を演じることが度々あり、『[[JIN-仁-]]』で[[緒方洪庵]]役を演じた際には、緒方の[[大阪|大坂]]居住歴が長いことに着目し、当初共通語であった台詞を上方言葉に改めて演じた<ref>[http://www.tbs.co.jp/jin2009/interview/interview_05.html] TBS 日曜劇場『JIN -仁-』 インタビュー Vol.5 武田鉄矢さん(緒方洪庵役)</ref>。<br />
<br />
なお、[[大阪弁]]は現在でも苦手で、苦手になった理由については「昔、[[フランス]]の[[パリ]]へ旅行に行った時に、[[エッフェル塔]]の展望台に登ったんです。そこでパリの風景を堪能していたところ、日本人の旅行グループに遭遇して、彼らが大阪弁をやかましくしゃべっていたんです。それを聞いた瞬間に今まで見ていたパリの風景が壊れてしまった」という趣旨の発言をしている。<br />
<br />
=== その他 ===<br />
[[日本の運転免許|運転免許]]を取得したのがかなり遅く、[[1996年]]に取得した<ref name=doraku/>。本人曰く「取得に20年かかった」という<ref>その模様は「[[花王ファミリースペシャル]]武田鉄矢 絶対取るぞ運転免許」で放送された。</ref>。そのため、『幸福の黄色いハンカチ』では運転するシーンは[[牽引自動車|トレーラー]]でけん引しながら撮影された<ref group="注釈">ただし「[[花王ファミリースペシャル]]武田鉄矢 絶対取るぞ運転免許」では「当時は[[仮運転免許|仮免許]]は持っていた」と本人が主張している。</ref>。この免許取得の経験が、ドラマ『[[教習所物語]]』の原案に繋がっている。<br />
<br />
[[西田敏行]]とは、『[[みごろ!たべごろ!笑いごろ!]]』で[[コント]]共演をして以来、家族ぐるみの付き合いをしている。「西やん」、「鉄ちゃん」と呼び合うほどの親友である。[[2010年]](平成22年)には[[NHK衛星第2テレビジョン|NHK-BS2]]の[[BSエンターテイメント]]「西田・武田の笑モード」で久しぶりに共演している。<br />
<br />
ファンに対しての対応が冷たいことでも有名であり、街中で[[サイン (有名人の署名)|サイン]]や[[写真]]を求められても拒否し、[[握手]]すら拒否をする。この武田のファンに対しての姿勢に[[上沼恵美子]]は「ファンと一緒に写真を撮るのはありがたいこと。何言うてるの武田!いい加減にせなあかんで!」「私はサイン頼まれたら箸袋の裏にでもサインする。何が金八先生や!」と『[[上沼・高田のクギズケ!]]』の番組内で武田を痛烈に批判している。<br />
<br />
== ディスコグラフィー ==<br />
=== シングル ===<br />
{| class="wikitable" border="1" style="font-size:smaller;"<br />
! !! 発売日 !! タイトル !! c/w !! 規格品番<br />
|-<br />
| '''1st''' || [[1983年]][[12月10日]] || '''未だ僕の旅''' || 夢飛行 || 7DX-1274<br />
|-<br />
| '''2nd''' || [[1985年]][[1月25日]] || '''如月の風の中で''' || もう春なんだなあ || 7DX-1350<br />
|-<br />
| '''3rd''' || [[1985年]][[3月1日]] || '''[[少年期 (武田鉄矢の曲)|少年期]]''' || 夢は荒野を || 7DX-1360<br />
|-<br />
| '''4th''' || [[1985年]][[9月1日]] || '''コスモス''' || [[唇をかみしめて]] || 7DX-1384<br />
|-<br />
| '''5th''' || [[1986年]][[7月25日]] || '''浪漫''' || 明日を越える旅 || 7DX-1437<br />
|-<br />
| rowspan="2" | '''6th''' || rowspan="2" | [[1988年]][[9月1日]] || rowspan="2" | '''声援''' || rowspan="2" | おやすみなさい || 7DX-1579 ([[レコード|EPレコード]]盤)<br />
|-<br />
| H10P-40004 ([[8センチCD|8cmシングル]]盤)<br />
|-<br />
| rowspan="2" | '''7th''' || [[1989年]][[2月1日]]|| rowspan="2" | '''[[贈る言葉]]''' || rowspan="2" | 声援 || H10P-40011<br />
|-<br />
| [[1992年]][[2月1日]] || PODH-1101<br />
|-<br />
| rowspan="2" | '''8th''' || rowspan="2" | [[1989年]][[11月10日]] || rowspan="2" | '''伝言(メッセージ)''' || rowspan="2" | がんばれ俺 || 0DX-1602 (EPレコード盤)<br />
|-<br />
| H00P-40040 (8cmシングル盤)<br />
|-<br />
| rowspan="2" | '''9th''' || rowspan="2" | [[1990年]][[3月7日]] || rowspan="2" | '''天までとどけ''' || rowspan="2" | 海の叙情詩 || H00P-40047 (8cmシングル盤)<br />
|-<br />
| DDI-5025 (非売品EPレコード盤)<br />
|-<br />
| '''10th''' || [[1991年]][[4月1日]] || '''十年早いぞッ''' || 幸福ノススメ || PODH-1036<br />
|-<br />
| '''11th''' || [[1992年]][[5月25日]] || '''くそったれの涙''' || 風の一歩 || PODH-1075<br />
|-<br />
| '''12th''' || [[1992年]][[12月2日]] || '''硬派''' || 涙 || PODH-1100<br />
|-<br />
| '''13th''' || [[1994年]][[4月25日]] || '''君は拍手をくれないか''' || こっちこい || PODH-1195<br />
|-<br />
| '''14th''' || [[2010年]][[3月3日]] || '''遠い海から来たあなた''' || 雲の物語 || UPCH-80167<br />
|}<br />
<br />
=== デュエット曲 ===<br />
{| class="wikitable" border="1" style="font-size:smaller;"<br />
! 発売日 !! タイトル !! c/w !! 規格品番<br />
|-<br />
!colspan=5|武田鉄矢・[[芦川よしみ]] 名義<br />
|-<br />
| [[1987年]][[11月11日]] || '''男と女のはしご酒''' || 男と女のラブゲーム || 7DX-1536<br />
|-<br />
| [[1992年]][[7月1日]] || '''男と女のラブゲーム''' || 男と女のはしご酒 || PODH-1121<br />
|-<br />
!colspan=5|武田鉄矢・[[水前寺清子]] 名義<br />
|-<br />
| [[2000年]][[3月7日]] || '''いきてゆく物語''' || 親父のためのRock'n Roll (武田鉄矢) || UPDH-1004<br />
|-<br />
!colspan=5|水前寺清子・武田鉄矢 名義<br />
|-<br />
| [[2000年]][[3月7日]] || '''いきてゆく物語''' || 夕暮れのララバイ (水前寺清子) || CRDN-713<br />
|}<br />
<br />
=== 武田鉄矢一座 ===<br />
{| class="wikitable" border="1" style="font-size:smaller;"<br />
! 発売日 !! タイトル !! c/w !! 規格品番<br />
|-<br />
| [[1994年]][[3月9日]] || '''[[世界はグー・チョキ・パー]]''' || 夢の人 || PODH-1188<br />
|}<br />
<br />
=== 参加作品 ===<br />
{| class="wikitable" border="1" style="font-size:smaller;"<br />
! 発売日 !! タイトル !! 規格品番 !! 概要<br />
|-<br />
| rowspan="2" | [[2011年]][[11月16日]] || rowspan="2" | '''緑のたけだ''' || UPCH-89106 (初回限定盤) || rowspan="2" | [[GReeeeN]]とのコラボレーションで、'''緑とたけだ'''名義。<br />GReeeeNのシングル「[[恋文〜ラブレター〜]]」のc/wに収録。<br />
|-<br />
| UPCH-80252<br />
|-<br />
| [[2015年]][[10月1日]] || '''ひとり ひとつ''' || SLCL-9010 || '''16 Voices'''名義。<br />[[青年海外協力隊]]50周年ソングのイメージソングのために結成された期間限定ユニット<ref>{{cite web|url=http://natalie.mu/music/news/161539|title=青年海外協力隊50周年ソングを川嶋あい、乙武洋匡、倉木麻衣、宮沢和史ら16組歌う|publisher=音楽ナタリー|date=2015-10-01|accessdate=2015-10-01}}</ref>。<br />
|}<br />
<br />
=== アルバム ===<br />
==== スタジオ・アルバム ====<br />
{| class="wikitable" border="1" style="font-size:smaller;"<br />
! !! 発売日 !! タイトル !! 規格品番<br />
|-<br />
| rowspan="3" | '''1st''' || rowspan="3" | [[1984年]][[2月1日]] || rowspan="3" | '''今度の旅は長くなりそうです''' || 28MX-1160 ([[レコード|LPレコード]]盤)<br />
|-<br />
| 28CX-1237 ([[コンパクトカセット|カセット]]盤)<br />
|-<br />
| 3113-16 ([[コンパクトディスク|CD]]盤)<br />
|-<br />
| rowspan="3" | '''2nd''' || rowspan="3" | [[1985年]][[5月25日]] || rowspan="3" | '''風に聞いた話''' || 28MX-1207 (LPレコード盤)<br />
|-<br />
| 28CX-1310 (カセット盤)<br />
|-<br />
| H33P-20022 (CD盤)<br />
|-<br />
| rowspan="3" | '''3rd''' || rowspan="3" | [[1986年]][[12月1日]] || rowspan="3" | '''遠い幻燈''' || 28MX-1256 (LPレコード盤)<br />
|-<br />
| 28CX-1403 (カセット盤)<br />
|-<br />
| H33P-20124 (CD盤)<br />
|-<br />
| rowspan="3" | '''4th''' || rowspan="3" | [[1987年]][[12月21日]] || rowspan="3" | '''夢口上''' || 28MX-1289 (LPレコード盤)<br />
|-<br />
| 28CX-1489 (カセット盤)<br />
|-<br />
| H33P-20230 (CD盤)<br />
|-<br />
| '''4th''' || [[1990年]][[3月25日]] || '''昭和24年 〜いつか見た青い空〜''' || POCH-1002<br />
|-<br />
| '''5th''' || [[1992年]][[10月25日]] || '''我田引水''' || POCH-1156<br />
|}<br />
<br />
==== ライブ・アルバム ====<br />
{| class="wikitable" border="1" style="font-size:smaller;"<br />
! !! 発売日 !! タイトル !! 規格品番<br />
|-<br />
| '''1st''' || [[1984年]][[10月25日]] || '''今、僕、元気です''' || 28MX-1193<br />
|}<br />
<br />
==== ベスト・アルバム ====<br />
{| class="wikitable" border="1" style="font-size:smaller;"<br />
! !! 発売日 !! タイトル !! 規格品番<br />
|-<br />
| rowspan="2" | '''1st''' || rowspan="2" | [[1988年]][[11月25日]] || rowspan="2" | '''武田鉄矢 全曲集''' || H32P-20296 (CD盤)<br />
|-<br />
| 35CX-1560 (カセット盤)<br />
|-<br />
| '''2nd''' || [[1989年]][[12月25日]] || '''“The Best” TETSUYA TAKEDA''' || H29P-20373<br />
|-<br />
| rowspan="2" | '''3rd''' || rowspan="2" | [[1990年]][[12月5日]] || rowspan="2" | '''Tetsuya Takeda Collection''' || POCH-1039 (CD盤)<br />
|-<br />
| POTH-1039 (カセット盤)<br />
|-<br />
| '''4th''' || [[1991年]][[12月21日]] || '''TETSUYA TAKEDA BEST SELECTION''' || POCH-1114<br />
|-<br />
| '''5th''' || [[1992年]][[12月12日]] || '''武田鉄矢大全集''' || POCH-1177/9<br />
|-<br />
| '''6th''' || [[1993年]][[12月22日]] || '''スーパー・ベスト3〜贈る言葉''' || POCH-1316<br />
|}<br />
<br />
=== 企画アルバム ===<br />
{| class="wikitable" border="1" style="font-size:smaller;"<br />
! !! 発売日 !! タイトル !! 規格品番<br />
|-<br />
| '''1st''' || [[1988年]][[12月1日]] || '''雲の物語''' || H28P-20286<br />
|-<br />
| '''2nd''' || [[1988年]][[11月1日]] || '''夏のクリスマス・ツリー''' || POCH-1030<br />
|-<br />
| '''3rd''' || [[1992年]][[3月1日]] || '''雲がゆくのは''' || POCH-1129<br />
|-<br />
| '''4th''' || [[1995年]][[3月1日]] || '''ドラえもん映画主題歌集''' || POCH-1489<br />
|-<br />
| '''5th''' || [[2010年]][[5月5日]] || '''ドラえもん 映画主題歌集+挿入歌''' || UPCH-20194<br />
|}<br />
<br />
==== CD-BOX ====<br />
{| class="wikitable" border="1" style="font-size:smaller;"<br />
! !! 発売日 !! タイトル !! 規格品番<br />
|-<br />
| '''1st''' || [[2011年]][[5月11日]] || '''武田鉄矢 & 海援隊 REUNION WORKS''' || UPCH-20231/42<br />
|}<br />
<br />
=== タイアップ一覧 ===<br />
{| class="wikitable" style="font-size:small;" style="font-size:smaller"<br />
|-<br />
!楽曲<br />
!タイアップ<br />
|-<br />
| 如月の風の中で<br />
| [[TBSテレビ|TBS]]系『[[花田春吉なんでもやります]]』主題歌<br />
|-<br />
| 少年期<br />
| 映画『[[ドラえもん のび太の宇宙小戦争]]』主題歌<br />
|-<br />
| コスモス<br />
| 映画『[[刑事物語|刑事物語 くろしおの詩]]』挿入歌<br />
|-<br />
| 男と女のラブゲーム<br />
| [[タケダ胃腸薬|タケダ胃腸薬21]] CMソング<br />
|-<br />
| 浪漫<br />
| [[1986年|'86]][[公共広告機構]] イメージソング<br />
|-<br />
| 男と女のはしご酒<br />
| タケダ胃腸薬21 CMソング<br />
|-<br />
| 声援<br />
| TBS系『[[3年B組金八先生|3年B組金八先生③]]』主題歌<br />
|-<br />
| 伝言(メッセージ)<br />
| TBS系『[[愛し方がわからない]]』主題歌<br />
|-<br />
| 天までとどけ<br />
| 映画『[[ドラえもん のび太とアニマル惑星]]』主題歌<br />
|-<br />
| 十年早いぞッ<br />
| [[パナソニック|ナショナル]]“パーシャル冷蔵庫”CMソング<br />
|-<br />
| 幸福ノススメ<br />
| [[1991年|'91]][[朝日生命保険|朝日生命]]TV-CMイメージソング<br />
|-<br />
| 雲がゆくのは<br />
| 映画『[[ドラえもん のび太と雲の王国]]』主題歌<br />
|-<br />
| くそったれの涙<br />
| [[NHK総合テレビジョン|NHK総合]][[テレビアニメ]]『[[お〜い!竜馬]]』オープニングテーマ<br />
|-<br />
| 風の一歩<br />
| NHK総合テレビアニメ『お〜い!竜馬』エンディングテーマ<br />
|-<br />
| 硬派<br />
| [[テレビ東京]][[新春ワイド時代劇|12時間ドラマ]]『[[徳川武芸帳 柳生三代の剣]]』主題歌<br />
|-<br />
| 世界はグー・チョキ・パー<br />
| 映画『[[ドラえもん のび太と夢幻三剣士]]』主題歌<br />
|-<br />
| 夢の人<br />
| 映画『ドラえもん のび太と夢幻三剣士』挿入歌<br />
|-<br />
| 君は拍手をくれないか<br />
| 映画『[[プロゴルファー織部金次郎|プロゴルファー織部金次郎2 〜パーでいいんだ〜]]』主題歌<br />
|-<br />
| いきてゆく物語<br />
| TBS系『[[教習所物語]]』主題歌<br />
|-<br />
| 遠い海から来たあなた<br />
| 映画『[[ドラえもん のび太の人魚大海戦]]』挿入歌<br />
|-<br />
| 緑のたけだ<br />
| [[東洋水産]]『[[マルちゃん赤いきつねと緑のたぬき]]』CMソング<br />
|-<br />
| ひとり ひとつ<br />
| [[青年海外協力隊]]50周年イメージソング<br />
|}<br />
<br />
== NHK紅白歌合戦出場歴 ==<br />
{| class="wikitable"<br />
|-<br />
! 年度/放送回!! 回!! 曲目!! 出演順!! 対戦相手!! 備考<br />
|-<br />
|[[1989年]](平成元年) / [[第40回NHK紅白歌合戦|第40回]]||初||声援||01/20||[[内藤やす子]]||白組司会も務めた<br />
|-<br />
|[[1998年]](平成10年) / [[第49回NHK紅白歌合戦|第49回]]||2||母に捧げるバラード||16/25||[[Kiroro]]||<br />
|}<br />
;注意点<br />
<br />
* 出演順は「出演順/出場者数」で表す。<br />
<br />
== 提供曲(作詞) ==<br />
{| class="wikitable sortable" style="margin:0 auto; font-size:small; width:100%;"<br />
! 歌手名<br />
! 曲名<br />
! 収録(初出のみ)<br />
! 年<br />
! 作曲<br />
! 備考<br />
! align="center" | セルフカバー<br />
|-<br />
| rowspan="3" | [[岩渕まこと]]<br />
| 心をゆらして<br />
| シングル「[[心をゆらして]]」<br />
| 1981年<br />
| rowspan="5" | [[菊池俊輔]]<br />
| 映画『[[ドラえもん のび太の宇宙開拓史]]』主題歌<br />
| <br />
|-<br />
| だからみんなで<br />
| シングル「[[だからみんなで]]」<br />
| 1982年<br />
| 映画『[[ドラえもん のび太の大魔境]]』主題歌<br />
| <br />
|-<br />
| 海はぼくらと<br />
| シングル「心をゆらして」<br />
| 1983年<br />
| 映画『[[ドラえもん のび太の海底鬼岩城]]』主題歌<br />
| <br />
|-<br />
| [[大杉久美子]]<br />
| わたしが不思議<br />
| シングル「[[わたしが不思議]]」<br />
| 1986年<br />
| 映画『[[ドラえもん のび太と鉄人兵団]]』主題歌<br />
| <br />
|-<br />
| rowspan="2" | [[大山のぶ代]]<br />
| ポケットの中に<br />
| シングル「[[ポケットの中に]]」<br />
| 1980年<br />
| 映画『[[ドラえもん のび太の恐竜]]』主題歌<br />
| <br />
|-<br />
| 友達だから<br />
| シングル「[[友達だから]]」<br />
| 1987年<br />
| [[山木康世]]<br />
| 映画『[[ドラえもん のび太と竜の騎士]]』主題歌<br />
| <br />
|-<br />
| [[熊木杏里]]<br />
| 私をたどる物語<br />
| シングル「[[私をたどる物語]]」<br />
| 2004年<br />
| 熊木杏里<br />
| TBS系『[[3年B組金八先生]]第7シリーズ』劇中挿入歌<br />
| <br />
|-<br />
| [[島崎和歌子]]<br />
| 何かいい事きっとある<br />
| シングル「[[何かいい事きっとある]]」<br />
| 1993年<br />
| [[芹澤廣明]]<br />
| 映画『[[ドラえもん のび太とブリキの迷宮]]』主題歌<br />
| <br />
|-<br />
| [[白鳥英美子]]<br />
| 夢のゆくえ<br />
| シングル「[[夢のゆくえ]]」<br />
| 1991年<br />
| 白鳥澄夫<br />
| 映画『[[ドラえもん のび太のドラビアンナイト]]』主題歌<br />
| <br />
|-<br />
| [[西田敏行]]<br />
| 時の旅人<br />
| シングル「[[時の旅人 (西田敏行の曲)|時の旅人]]」<br />
| 1989年<br />
| [[堀内孝雄]]<br />
| 映画『[[ドラえもん のび太の日本誕生]]』主題歌<br />
| アルバム『昭和24年 〜いつか見た青い空〜』<br />
|-<br />
| [[堀江美都子]]<br />
| 君がいるから<br />
| シングル「[[君がいるから (堀江美都子・こおろぎ'73の曲)|君がいるから]]」<br />
| rowspan="2" | 1988年<br />
| 山木康世<br />
| 映画『[[ドラえもん のび太のパラレル西遊記]]』主題歌<br />
| <br />
|-<br />
| [[夏川りみ|星美里]]<br />
| 恋予報<br />
| シングル「[[しほり (曲)|しほり]]」<br />
| [[平尾昌晃]]<br />
| のちの夏川りみのデビュー曲<br />
| <br />
|}<br />
<br />
== 出演作品 ==<br />
=== テレビドラマ ===<br />
* [[せい子宙太郎‐忍宿借夫婦巷談]](1977年 - 1978年、TBS)<br />
* [[雲を翔びこせ]](1978年、TBS) - [[渋沢成一郎|渋沢喜作]] 役<br />
* [[大河ドラマ]](NHK)<br />
** [[草燃える]](1979年) - [[安達盛長]] 役<br />
** [[徳川家康 (NHK大河ドラマ)|徳川家康]](1983年) - [[豊臣秀吉]] 役<br />
** [[太平記 (NHK大河ドラマ)|太平記]](1991年) - [[楠木正成]] 役<br />
** [[功名が辻 (NHK大河ドラマ)|功名が辻]](2006年) - [[五藤為浄|五藤吉兵衛]] 役<br />
** [[龍馬伝]](2010年) - [[勝海舟]] 役<br />
* [[3年B組金八先生]](1979年 - 2011年、TBS) - 主演・坂本金八(先生) 役<br />
** 第1シリーズ(1979年10月26日 - 1980年3月28日)<br />
** 第2シリーズ(1980年10月3日 - 1981年3月27日)<br />
** スペシャル1「贈る言葉」(1982年10月2日)<br />
** スペシャル2「イレ墨をした教え子」(1983年10月7日)<br />
** スペシャル3「小さな嘘」(1984年10月5日)<br />
** スペシャル4「イジメられっ子金八先生」(1985年12月17日)<br />
** スペシャル5「先生の暴力・生徒の暴力」(1986年12月26日)<br />
** スペシャル6「新・十五歳の母」(1987年12月27日)<br />
** 第3シリーズ(1988年10月10日 - 12月26日)<br />
** スペシャル7「卒業スペシャル」(1989年3月29日)<br />
** スペシャル8「卒業アルバム」(1990年12月18日)<br />
** 第4シリーズ(1995年10月12日 - 1996年3月28日)<br />
** スペシャル9「子供を救え!大人達よ立ち上がれ」(1998年4月2日)<br />
** 第5シリーズ(1999年10月14日 - 2000年3月30日)<br />
** スペシャル10「お前死んだらオレ泣くぞ・3B一年ぶり大集合」(2001年4月5日)<br />
** 第6シリーズ(2001年10月11日 - 2002年3月28日)<br />
** 第7シリーズ(2004年10月15日 - 2005年3月25日)<br />
** スペシャル11「未来へつなげ 3B友情のタスキ〜たった一人の卒業式…3Bの絆は再び迫る薬物依存の魔の手から仲間を救い出せるのか!?」(2005年12月30日)<br />
** 第8シリーズ(2007年10月11日 - 2008年3月20日)<br />
** 3年B組金八先生ファイナル〜「最後の贈る言葉」(2011年3月27日)<br />
* [[幕末青春グラフィティ 坂本竜馬]](1982年、日本テレビ、【原案・脚本も兼任】) - [[坂本龍馬|坂本竜馬]] 役<br />
* [[西部警察 PART-III]]「最終話 大門死す!男たちよ永遠(とわ)に…」(1984年、テレビ朝日) - 本人 役<br />
* [[花の吉原 雪の旅]](1984年、TBS) <br />
* [[花田春吉なんでもやります]](1985年、TBS) - 花田春吉 役<br />
* [[幕末青春グラフィティ 福沢諭吉]](1985年、TBS) - 坂本竜馬 役<br />
* ハロー!グッバイ(1985年、TBS)<br />
* [[泣いてたまるか]] 第2話「目の上のたんこぶ」(1986年、TBS) - 山下 役<br />
* [[橋の上の霜]](1986年、NHK)<br />
* [[ボクらの疎開戦争!]](1989年、テレビ朝日)<br />
* 愛し方がわからない(1989年、TBS)<br />
* 宅配屋さん 逃げた女房(1989年、関西テレビ)<br />
* 社長さんは脱獄囚(1989年、TBS)<br />
* [[奇兵隊 (テレビドラマ)|奇兵隊]](1989年、日本テレビ) - 坂本竜馬 役<br />
* [[兄貴に乾杯]](1991年、TBS)<br />
* [[水戸黄門 (第14-21部)#第20部|水戸黄門 第20部]] 第16話「男意気地の博多節-福岡-」(1991年、TBS) - 丑松 役<br />
* [[101回目のプロポーズ]](1991年7月1日 - 9月16日、[[フジテレビジョン|フジテレビ]]、【W主演:[[浅野温子]]】) - 主演・星野達郎 役<br />
* [[並木家の人々]](1993年1月14日 - 3月25日、フジテレビ、木曜劇場) - 主演・並木公平 役<br />
* [[ウルトラマンになりたかった男]](1993年、TBS)<br />
* [[仰げば尊し (1994年のテレビドラマ)|仰げば尊し]]『さよなら…先生』(1994年、フジテレビ)<br />
* [[おれはO型・牡羊座]](1994年、[[日本テレビ放送網|日本テレビ]])<br />
* [[バージンロード (テレビドラマ)|バージンロード]](1997年、フジテレビ) - 桜井光 役<br />
* 二十六夜参り(1998年、TBS、【原作も兼任】)<br />
* [[ソムリエ (漫画)|ソムリエ]](1998年、[[関西テレビ放送|関西テレビ]]・フジテレビ)<br />
* [[プリズンホテル]](1999年、[[テレビ朝日]])<br />
* [[パーフェクトラブ!]](1999年、フジテレビ)<br />
* [[教習所物語]](1999年〈単発ドラマ〉・2000年〈連続ドラマ〉、TBS、【原案も兼任】)【W主演:[[水前寺清子]]】) - 主演・阿部玲児 役<br />
* [[麻婆豆腐の女房]](2003年、[[日本放送協会|NHK総合]]) - 孝孫民([[陳建民]]がモデル)役<br />
* [[乱歩R]](2004年、[[讀賣テレビ放送|読売テレビ]]・日本テレビ) - 佐藤幸造 役※ゲスト出演<br />
* [[積木くずし]]真相(2005年、フジテレビ) - 高橋順 役<br />
* 仕置き代理人 鏡俊介の痛快事件簿(2005年、フジテレビ) - 鏡俊介 役<br />
* [[里見八犬伝 (2006年のテレビドラマ)|里見八犬伝]](2006年、TBS) - 籠山逸東太 役<br />
* [[白夜行#テレビドラマ|白夜行]](2006年、TBS) - 笹垣潤三 役<br />
* どケチ弁護士 山田播磨の温泉事件簿(2006年、TBS) - 山田播磨 役<br />
* [[華麗なる一族 (2007年のテレビドラマ)|華麗なる一族]](2007年、TBS) - 大亀専務 役<br />
* [[太郎と次郎〜反省ザルとボクの夢〜]](2007年、フジテレビ) - 村崎政男 役<br />
* [[夫婦道]](2007年、TBS)- 主演・高鍋康介 役<br />
** 夫婦道 第2シリーズ(2009年)<br />
* [[ひまわり〜夏目雅子27年の生涯と母の愛〜]](2007年、TBS) - 監督 役※特別出演<br />
* [[BOSS (テレビドラマ)|BOSS]] 第1話・最終話(2009年、フジテレビ) - 野垣泰造 役<br />
* [[刑事の現場|リミット-刑事の現場2]] (2009年、NHK、[[土曜ドラマ (NHK)|土曜ドラマ]]) - 梅木拳 役<br />
* [[JIN-仁-#テレビドラマ|JIN-仁-]](2009年10月 - 12月、TBS) - [[緒方洪庵]] 役※特別出演<br />
* [[Wの悲劇#テレビドラマ(2010年版)|Wの悲劇]](2010年1月11日、TBS) - 相浦克平 役<br />
* [[ナサケの女 〜国税局査察官〜]](2010年10月 - 12月、テレビ朝日) - 鉄子 役<br />
* [[ストロベリーナイト (テレビドラマ)|ストロベリーナイト]](フジテレビ) - 勝俣健作 役<br />
** スペシャルドラマ「ストロベリーナイト」(2010年11月13日)<br />
** ストロベリーナイト(2012年1月 - 3月) <br />
** ストロベリーナイト アフター・ザ・インビジブルレイン(2013年1月26日)<br />
***「沈黙怨嗟 / サイレントマーダー」<br />
***「推定有罪 / プロバブリィギルティ」 - 主演・勝俣健作 役<br />
* [[月曜ゴールデン]]・[[人間再生・工場長 岡田岩児]](2011年7月11日、TBS) - 岡田岩児 役<br />
* [[幸福の黄色いハンカチ#日本テレビドラマ版|幸福の黄色いハンカチ]](2011年10月10日、日本テレビ) - 渡辺署長 役<br />
* [[純と愛]](2012年10月 - 2013年、NHK、[[連続テレビ小説]]) - 狩野善行 役<br />
* [[MONSTERS (テレビドラマ)|MONSTERS]] 第1話(2012年10月21日、TBS) - 西崎達三 役<br />
* 約1回目のプロポーズ 第5話(2013年8月4日、フジテレビ、[[FNS27時間テレビ (2013年)|FNS27時間テレビ]]) - 本人役<br />
* 日本・ベトナム国交樹立40周年スペシャルドラマ [[The Partner 〜愛しき百年の友へ〜]](2013年9月29日、TBS) - [[犬養毅]] 役<br />
* [[LINK (テレビドラマ)|LINK]](2013年10月 - 11月、[[WOWOW]]、[[ドラマW]]) - 松岡孝典 役※特別出演<br />
* [[宮本武蔵 (2014年のテレビドラマ)|宮本武蔵]](2014年3月15日・16日、テレビ朝日) - [[柳生宗厳|柳生石舟斎]] 役<br />
* [[極悪がんぼ#テレビドラマ|極悪がんぼ]] 第10話(2014年6月16日、フジテレビ) - 銭山貞夫 役<br />
* [[天皇の料理番#2015年版|天皇の料理番]] &nbsp;&nbsp;(2015年4月 - 7月、TBS) &nbsp; - 桐塚尚吾 役<ref>{{Cite news|url=http://mdpr.jp/news/detail/1451247|title=佐藤健、坊主頭で連ドラ主演 豪華共演陣も発表|date=2014-12-05|accessdate=2014-12-05|work=modelpress}}</ref><br />
* [[死の臓器#テレビドラマ|死の臓器]](2015年7月 - 8月、WOWOW、[[ドラマW|連続ドラマW]]) - 日野誠一郎 役<br />
* スペシャルドラマ・[[経世済民の男]] 第一部「高橋是清」(2015年8月22日・29日、NHK) - 南校教官 役<br />
* [[釣りバカ日誌#テレビドラマ|釣りバカ日誌〜新入社員 浜崎伝助〜]] 第1話(2015年10月23日、テレビ東京) - 朝本信一郎 役<ref>{{Cite news|url=http://www.oricon.co.jp/news/2060692/full/|title=武田鉄矢、テレ東の“金8”ドラマ『釣りバカ日誌』出演|date=2015-10-14|accessdate=2015-10-17|publisher=オリコン}}</ref><br />
* [[連続テレビ小説]] [[あさが来た]]第74回 - 76回・78回(2015年12月22日 - 24日・26日、NHK) - [[福澤諭吉]] 役<ref>{{Cite news|url=http://www.nikkansports.com/entertainment/news/1562175.html|title=武田鉄矢が朝ドラ「あさが来た」福沢諭吉役で出演|date=2015-11-05|accessdate=2015-11-05|publisher=日刊スポーツ}}</ref><ref>{{Cite web |date=2015-11-05 |url=http://www2.nhk.or.jp/pr-movie/detail/index.cgi?id=01_0022#1499|title=武田鉄矢さん出演決定 |work=コレ見て!ムービー あさが来た |publisher=NHK|archiveurl=http://web.archive.org/web/20151109013042/http://www2.nhk.or.jp/pr-movie/detail/index.cgi?id=01_0022 |archivedate=2015-11-09 |accessdate=2015-11-08}}</ref><br />
* [[トットてれび]](2016年4月30日 - 6月18日、NHK総合) - 大岡龍男 役<ref>{{Cite web|url= http://www.nhk.or.jp/dramatopics-blog/6000/234832.html |title= 黒柳徹子さんのエッセイをドラマ化!『トットてれび』制作開始!|土曜ドラマ|ドラマトピックスブログ:NHKブログ |publisher= NHK |date= 2016-02-26 |accessdate= 2016-02-26 }}</ref><br />
* ドラマスペシャル・[[叡古教授の事件簿]](2016年5月21日、テレビ朝日) - 五十嵐修 役<ref>{{Cite news|url=http://www.oricon.co.jp/news/2069642/full/|title=藤木直人&ココリコ田中、文系の天才教授&ダメ刑事でドラマ初共演|date=2016-04-05|accessdate=2016-04-06|publisher=オリコン}}</ref><br />
* [[最後のレストラン]] 第5 - 6回(2016年5月24日 - 31日、[[NHK BSプレミアム]]) - ナポレオン 役<br />
* [[A LIFE〜愛しき人〜]] 第5話(2017年2月12日、TBS) - 山本 輝彦 役<ref>{{cite news|url=http://s.news.mynavi.jp/news/2017/02/05/012/ |title=武田鉄矢、浅野忠信と『金八』以来の共演! 木村拓哉ドラマにゲスト出演 |newspaper=マイナビニュース |date=2017-02-05|accessdate=2017-02-07}}</ref><br />
* [[リバース (湊かなえの小説)|リバース]](2017年4月 - 6月、TBS) - 小笠原俊雄 役<br />
* 放送90年 大河ファンタジー「[[守り人シリーズ#テレビドラマ|精霊の守り人]]」最終章(2017年11月 - 、NHK総合) - ラルーグ 役<ref>{{cite news|url=https://www.nhk.or.jp/dramatopics-blog/20000/260801.html|title=「精霊の守り人 最終章」 出演者発表!|newspaper=NHKドラマトピックス|date=2017-01-15|accessdate=2017-01-16}}</ref><br />
* [[水戸黄門 (BS-TBS版)|水戸黄門]](2017年10月8日 -、[[BS-TBS]])[[徳川光圀|水戸光圀]] 役<br />
<br />
=== 映画 ===<br />
* [[幸福の黄色いハンカチ]](1977年、松竹) - 花田欽也 役<br />
* [[男はつらいよ 寅次郎わが道をゆく]](1978年、松竹) - 後藤留吉 役<br />
* [[俺たちの交響楽]](1979年、松竹) - 主演・新田徳次郎 役 ※映画初主演作<br />
* [[遙かなる山の呼び声]](1980年、松竹) - 勝男 役<br />
* [[思えば遠くへ来たもんだ]](1980年、松竹) - 主演・青田喜三郎 役<br />
* [[マイ・ロード]](1980年、東宝) - 完二 役<br />
* [[俺とあいつの物語]](1981年、松竹) -主演・南原幸四郎 役<br />
* [[駅 STATION]](1981年、東宝) - 列車の客 役<br />
* [[刑事物語]]シリーズ(1982年 - 1987年、東宝) - 主演・片山元 役 ※原作・脚本も兼任<br />
** 刑事物語(1982年)<br />
** 刑事物語2 りんごの詩(1983年)<br />
** 刑事物語3 潮騒の詩(1984年)<br />
** 刑事物語 くろしおの詩(1985年)<br />
** 刑事物語5 やまびこの詩(1987年)<br />
* [[えきすとら]](1982年、松竹) - 主演・水越修五郎 役<br />
* [[だいじょうぶマイ・フレンド]](1983年、東宝) - 看護人 役<br />
* [[居酒屋兆治]](1983年、東宝) - アベックの男 役<br />
* [[ヨーロッパ特急 (映画)|ヨーロッパ特急]](1984年、東宝) - 主演・森田次郎 役<br />
* [[パンツの穴]](1984年、[[ジョイパックフィルム]]) - UFO 役 ※ナレーション<br />
* [[ゴジラ (1984年の映画)|ゴジラ]](1984年、東宝) - 浮浪者 役 ※特別出演<br />
* [[幕末青春グラフィティ Ronin 坂本竜馬]](1986年、東宝) - 主演・坂本竜馬 役<br />
* [[子象物語 地上に降りた天使]](1986年、東宝) - 主演・田辺正太 役<br />
* あいつに恋して(1987年、東宝) - ガソリンスタンドマン 役<br />
* [[二十四の瞳 (映画)#1987年版|二十四の瞳]](1987年、松竹) - 大石正吉 役<br />
* [[プロゴルファー織部金次郎]]シリーズ(1993年 - 1998年、[[東映]]) - 主演・織部金次郎 役 ※原作・脚本・監督も兼任<br />
** プロゴルファー織部金次郎(1993年)<br />
** プロゴルファー織部金次郎2 パーでいいんだ(1994年)<br />
** プロゴルファー織部金次郎3 飛べバーディー(1995年)<br />
** プロゴルファー織部金次郎4 シャンク シャンク シャンク(1997年)<br />
** プロゴルファー織部金次郎5 愛しのロストボール(1998年)<br />
* [[とられてたまるか!?]](1994年、東宝) - 主演・唯野一太郎 役<br />
* [[ヒーローインタビュー (映画)|ヒーローインタビュー]](1994年、東宝) - [[東京ヤクルトスワローズ|ヤクルトスワローズ]]の監督 役<br />
* [[バースデイプレゼント]](1995年、東宝) - 福田福太郎 役<br />
* [[緑の街 (映画)|緑の街]](1998年、ファーイーストクラブ) - 朝妻 役<br />
* 博多ムービー [[ちんちろまい]](2000年、[[ソニー・ピクチャーズ エンタテインメント (日本)|ソニー・ピクチャーズ・エンタテインメント]]) - 主演・貝原善哉 役<br />
* [[星になった少年]] Shining Boy & Little Randy(2005年、東宝) - ドラマの俳優 役<br />
* [[MAKOTO (映画)|MAKOTO]](2005年、松竹) - 高見耕一 役<br />
* [[青春ばかちん料理塾]](2003年、東映) - 関根銀三 役<br />
* [[私は貝になりたい]](2008年、東宝) - 竹内 役<br />
* [[降りてゆく生き方]](2009年) - 主演・川本五十六 役<br />
* [[ストロベリーナイト (映画)|ストロベリーナイト]](2013年、東宝) - 勝俣健作 役<br />
* [[101回目のプロポーズ 〜SAY YES〜]](2013年、ポニーキャニオン) - 星野達郎 役<br />
* [[くじけないで]](2013年、松竹) - 柴田健一 役<br />
* [[振り子 (映画)|振り子]](2015年) - 橋本梅吉 役<br />
* [[セーラー服と機関銃#2016年版|セーラ服と機関銃 -卒業-]](2016年、KADOKAWA) - 土井 役<ref>{{Cite news | url = http://sk-movie.jp/cast/| title = キャスト| newspaper = | publisher = 映画「セーラー服と機関銃 -卒業-」公式サイト| date = | accessdate = 2016-04-27}}</ref><br />
* [[花筐/HANAGATAMI]] (2017年12月16日公開) - 一条医師 役<br />
<br />
=== 劇場アニメ ===<br />
* [[豆富小僧]](2011年) - 達磨 役<br />
* [[映画 妖怪ウォッチ エンマ大王と5つの物語だニャン!]](2015年) - 妖怪・巨大サンタ 役<br />
<br />
=== Webドラマ ===<br />
* [[上地雄輔|神児遊助]]のげんきのでる恋 ([[NTTドコモ]]携帯電話放送、[[BeeTV]])(2009年8月)<br />
<br />
=== 舞台 ===<br />
* 母に捧げるバラード(明治座・御園座・博多座他で公演)<br />
* 3年B組金八先生〜夏休みの宿題〜(明治座・御園座で公演)<br />
* 舞台版 3年B組金八先生<br />
** 『3年B組金八先生』の原作者[[小山内美江子]]が運営するボランティア団体「特定非営利活動法人 JHP・学校をつくる会」主催のチャリティーイベントで上演された、JHPの活動内容を生徒達に話して聞かせる形で紹介する作品(2001年)及び、パート7のオンエア済みの一教室シーンを再現する作品(2004年)。歴代の卒業生代表と放送中の現役生が「制服姿」で登場した。ほぼ即興の舞台だったため、金八先生が出席簿に書かれた台本を読みながら物語を進行している。『夏休みの宿題』とは別物。<br />
* 母に捧げるラストバラード(明治座・博多座他で公演)<br />
* 時代劇版 101回目のプロポーズ(博多座で公演)<br />
* [[博多座]]リニューアル記念公演(2016年、博多座)『梅と桜と木瓜の花』- おかん 役 <ref>{{cite news|url=http://natalie.mu/stage/news/193247|title=武田鉄矢、29年ぶりハンガーヌンチャク復活に「封印解いて振ってみた」|newspaper=ステージナタリー|date=2016-07-04|accessdate=2016-07-05}}</ref><br />
<br />
=== ラジオ ===<br />
* [[オールナイトニッポン]]([[ニッポン放送]])<br />
* [[ペパーミントストリート 青春大通り]]([[文化放送]])<br />
* [[青春キャンパス]]([[文化放送]])<br />
* [[武田鉄矢 人生真ん中あたり]]([[TBSラジオ]]・[[RKBラジオ]])<br />
* [[チャレンジ名作ライブラリー]]([[文化放送]])<br />
* [[夢口上 武田鉄矢商店]](文化放送)<br />
** スタート当初は土曜午後3時台の放送だったが土曜日午後4時台→土曜日夕方5時台→土曜日夜10時→土曜日夜9時30分と半年ないし1年ごとに放送時間が変更されていた。<br />
* [[武田鉄矢・今朝の三枚おろし]](文化放送)<br />
* [[明日への伝言板]](2011年10月 - 2012年3月 [[RKBラジオ]]・[[KBCラジオ]]・[[CROSS FM]]) - 木曜日担当<br />
<br />
=== バラエティ・情報番組 ===<br />
<!-- 単発のゲスト出演は不要。レギュラー番組のみ記述をお願いします。「プロジェクト:芸能人」参照 --><br />
* [[武田鉄矢の週刊鉄学]]([[朝日ニュースター]])<br />
* [[武田鉄矢・タモリスペシャル]](テレビ朝日)<br />
* [[鉄矢のとんからりん]](テレビ朝日)<br />
* [[みごろゴロゴロ大放送]](テレビ朝日)<br />
* [[武田鉄矢の泣いて笑って武者修行]]([[テレビ東京]])<br />
* [[すばらしい味の世界]](テレビ東京)<br />
* [[鉄矢のびっくり外報部]](テレビ朝日)<br />
* [[鉄矢のにっぽん人国記]](テレビ朝日)<br />
* [[ゆく年くる年 (民間放送テレビ)]](テレビ朝日制作・1983-84年版の司会)<br />
* [[ウッチャンナンチャンの誰かがやらねば!]](フジテレビ)<br />
* [[なっとくデータマップ]](フジテレビ)<br />
* [[武田鉄矢のぐるり日本!三度笠]](テレビ東京)<br />
* [[鉄矢と熊のひたすら日曜日]](日本テレビ)<br />
* [[解決!クスリになるテレビ]](テレビ東京)<br />
* [[新すぃ日本語]](TBS)<br />
* [[新すぃ○○!]](TBS)<br />
* [[オールスター感謝祭]](TBS)<br />
** 2004年10月2日放送の「オールスター感謝祭'04秋」では[[島田紳助]]の代役で司会を務めた。<br />
* [[小川宏のなんでもカンでも!]](フジテレビ)<br />
* [[題名のない音楽会|新・題名のない音楽会]](1997年10月 - 2000年3月、テレビ朝日)<br />
* [[FNSスーパースペシャル1億人のテレビ夢列島|FNSスーパースペシャル1億2000万人のテレビ夢列島'91]] [[FNNスーパータイム|スーパータイムSP]]<br />
* [[奥さまは外国人]](テレビ東京)<br />
* [[世界一受けたい授業]](日本テレビ)<br />
** 先生役として国語の授業を担当。生徒として出演した回もある。<br />
* [[九州沖縄スペシャル]]「ただいま!」ホスト([[NHK福岡放送局]]制作、NHK総合 九州・沖縄ブロックネット)<br />
* [[いのちの響]](TBS)<br />
* [[おふくろ、もう一杯]](2008年 - 、フジテレビ)ナレーション<br />
* [[天才じゃなくても夢をつかめる10の法則]](2010年、日本テレビ)司会<br />
* [[熱血!オヤジバトル|第14回 熱血!オヤジバトル]]「東日本ブロック予選」(2011年2月11日、NHK総合)審査員<br />
* [[ショータイム (NHKの番組)|武田鉄矢のショータイム]](NHK [[NHK BSプレミアム|BSプレミアム]])<br />
* [[昭和は輝いていた|武田鉄矢の昭和は輝いていた]]([[BSジャパン]])司会<br />
* [[ワイドナショー]](2013年 - 、フジテレビ)コメンテーター<br />
* [[ももち浜ストア|ももち浜ストア 夕方版]](2015年 - 、[[テレビ西日本]])コメンテーター<br />
* [[ももち浜ストア|鉄矢がゆく!]](2016年 - 、[[テレビ西日本]]、不定期)<br />
* くりぃむクイズミラクル9(テレビ朝日)<br />
<br />
=== その他 ===<br />
* 母に捧げるバラード(武田鉄矢の母・イクの半生を綴ったエッセイで、NHKで『[[コラ!なんばしよっと]]』のタイトルでドラマ化された)<br />
* [[お〜い!竜馬]]([[小山ゆう]]作画の漫画の原作を担当。[[日本放送協会|NHK]]で[[テレビアニメ]]化され、主題歌も担当した)<br />
* バカチンたちに捧げるバラード(「[[週刊プレイボーイ]]」に連載中の人生相談)<br />
* 心が風邪をひいたら(1980年頃、文庫本で人生相談が内容)<br />
* [[FNNスーパーニュースアンカー]]([[関西テレビ放送|関西テレビ]]で平日夕方に[[関西ローカル]]で放送されている[[報道番組]]。金曜日の企画「あんたがアンカー」のタイトルコールを担当)<br />
* 日本青年会議所(JC)主催、全国会員大会・沖縄大会(2009年10月17日)卒業式で温かい言葉と贈る言葉を贈り、最後は卒業生全員とステージ上で贈る言葉の大合唱をした<br />
* [[日本民主青年同盟]]の機関誌<br />
* 武田鉄矢のさすらい青春記『ふられ虫の唄』(1975年、講談社)<br />
<br />
=== CM ===<br />
* [[マルちゃん赤いきつねと緑のたぬき]](1979年 - 、[[東洋水産]])※ラジオCMもあり<br />
* パソコン PC-6001・PC-6601・PC-8801・N5200各シリーズ(1980年代、[[日本電気|NEC]])<br />
* [[大日本除虫菊]](金鳥コックローチS)※海援隊のメンバー3人で出演<br />
* [[富士甚醤油]](家伝つゆ、味噌)※九州地区のみ<br />
* [[パナソニック|松下電器産業]](1984年、1991年、パーシャル冷蔵庫)<br />
* [[ACジャパン|公共広告機構]](1986年、青少年非行防止啓発)<br />
* [[QTnet|九州通信ネットワーク]](九州電話)※九州地区のみ<br />
* [[朝日生命保険]](ロイヤルワイド、人生倶楽部)<br />
* [[亀田製菓]](柿の種)<br />
* [[武田薬品工業]](タケダ胃腸薬21)<br />
* [[日本盛]]※CMソングは中牟田俊男が担当<br />
* [[サントリー]]([[サントリーオールド]])<br />
* [[アサヒビール]](アサヒ生ビール『ほろにが』)<br />
* [[メルシャン]](三楽[[焼酎]]ホワイトパック)<br />
* [[メガネトップ]](1998年)<br />
* [[デンコードー]](2007年 -)<br />
* アジア太平洋こども会議・イン福岡([[特定非営利活動法人]]アジア太平洋こども会議・イン福岡広報親善大使)(2007年 -)<br />
* [[つまりぬき24]](2008年 -)<br />
* [[ソフトバンク|ソフトバンクモバイル]](2009年、2012年 竜馬かぶれの人の役)<br />
* 言葉の力×ラジオのチカラ ことバリュー([[文化放送]]、2010年)※ラジオCM<br />
* [[サントリー]] [[BOSSコーヒー|BOSSレインボーマウンテンブレンド]]([[トミー・リー・ジョーンズ|宇宙人ジョーンズ]] 新米教師編)<br />
* JA熊本経済連(熊本県産農畜産物のイメージキャラクター)<br />
* 埼玉県自動車整備振興会(2012年)※ラジオCM<br />
* [[ファイザー]]&[[エーザイ]] [[神経障害性疼痛]]啓発キャンペーン(2013年 - )<br />
* [[サントリーフーズ]]([[オランジーナ]])(2016年5月 - ) - 校長先生役<br />
<br />
== 受賞 ==<br />
* 1977年 第2回[[報知映画賞]]新人賞(『[[幸福の黄色いハンカチ]]』)<br />
<br />
== 脚注 ==<br />
{{脚注ヘルプ}}<br />
=== 注釈 ===<br />
{{Reflist|group="注釈"}}<br />
=== 出典 ===<br />
{{Reflist|2}}<br />
<br />
== 関連項目 ==<br />
* [[雑餉隈駅]]<br />
* [[福岡教育大学]]<br />
<br />
== 外部リンク ==<br />
*[http://www.takedatetsuya.com/ 武田鉄矢公式サイト]<br />
*[http://www.nippon-p.org/ 武田鉄矢 主演 映画「降りてゆく生き方」]<br />
*[http://www.jmdb.ne.jp/person/p0336340.htm 日本映画データベース 武田鉄矢]<br />
*[http://www.city.nagasaki.lg.jp/kameyama/kameyama_news/meiyokanchou.html 長崎市亀山社中記念館名誉館長就任のことば]」<br />
<br />
{{海援隊 (フォークグループ)}}<br />
{{エランドール賞新人賞}}<br />
{{日本アカデミー賞最優秀助演男優賞}}<br />
{{キネマ旬報ベスト・テン助演男優賞}}<br />
{{NHK紅白歌合戦 白組司会}}<br />
{{題名のない音楽会歴代司会}}<br />
{{ザテレビジョンドラマアカデミー賞助演男優賞}}<br />
{{ドラえもん映画作品}}<br />
{{パナソニックドラマシアター 水戸黄門 主要キャスト}}<br />
<br />
{{Authority control}}<br />
{{DEFAULTSORT:たけた てつや}}<br />
[[Category:武田鉄矢|*]]<br />
[[Category:日本のフォークシンガー]]<br />
[[Category:日本の作詞家]]<br />
[[Category:日本の男優]]<br />
[[Category:日本のタレント]]<br />
[[Category:日本の司会者]]<br />
[[Category:日本のラジオパーソナリティ]]<br />
[[Category:日本の脚本家]]<br />
[[Category:日本の漫画原作者]]<br />
[[Category:海援隊 (フォークグループ)]]<br />
[[Category:NHK紅白歌合戦出演者]]<br />
[[Category:南小国町]]<br />
[[Category:福岡教育大学の教員]]<br />
[[Category:福岡市出身の人物]]<br />
[[Category:1949年生]]<br />
[[Category:存命人物]]</div>
122.214.146.170
篠田正浩
2018-06-05T11:50:45Z
<p>122.214.146.170: </p>
<hr />
<div>{{存命人物の出典明記|date=2012年10月}}<br />
{{ActorActress|<br />
| 芸名 = 篠田 正浩<br />
| ふりがな = しのだ まさひろ<br />
| 画像ファイル = <br />
| 画像サイズ = <br />
| 画像コメント = <br />
| 本名 = <br />
| 別名義 = <br />
| 出生地 = {{JPN}} [[岐阜県]][[岐阜市]]<br />
| 死没地 = <br />
| 国籍 = <br />
| 身長 =<br />
| 血液型 =<br />
| 生年 = 1931<br />
| 生月 = 3<br />
| 生日 = 9<br />
| 没年 = <br />
| 没月 = <br />
| 没日 = <br />
| 職業 = 元[[映画監督]]<br/>株式会社表現社[[代表取締役]]<br/>[[早稲田大学]]特命教授<br/>日本中国文化交流協会代表理事<br/>[[城西国際大学]]客員教授<br />
| ジャンル = [[映画]]<br />
| 活動期間 = [[1960年]] - [[2003年]] (映画監督)<br />
| 活動内容 =<br />
| 配偶者 =[[白石かずこ]]<br/>[[岩下志麻]] ([[1967年]] - )<br />
| 著名な家族 = [[篠田桃紅]] (従姉)<br />
| 事務所 = <br />
| 公式サイト = <br />
| 主な作品 = <!-- 皆が認める代表作品を入力 -->『[[心中天網島 (映画)|心中天網島]]』<br />『[[はなれ瞽女おりん]]』<br />『[[少年時代]]』<br />『[[写楽 (映画)|写楽]]』<br />
| アカデミー賞 = <br />
| AFI賞 =<br />
| 英国アカデミー賞 =<br />
| セザール賞 =<br />
| エミー賞 = <br />
| ジェミニ賞 =<br />
| ゴールデングローブ賞 = <br />
| ゴールデンラズベリー賞 = <br />
| ゴヤ賞 =<br />
| グラミー賞 = <br />
| ブルーリボン賞 = '''作品賞'''<br />1985年 『[[瀬戸内少年野球団]]』<br />1991年 『少年時代』<br />'''監督賞'''<br />1991年 『少年時代』<br />
| ローレンス・オリヴィエ賞 = <br />
| 全米映画俳優組合賞 = <br />
| トニー賞 = <br />
| 日本アカデミー賞 = '''作品賞'''<br />[[第14回日本アカデミー賞|1990年]]『[[少年時代]]』<br />'''監督賞'''<br />[[第14回日本アカデミー賞|1990年]] 『[[少年時代]]』<br />'''編集賞'''<br />[[第19回日本アカデミー賞|1995年]]『[[写楽 (映画)|写楽]]』<br />
| ベルリン国際映画祭 = '''[[銀熊賞 (芸術貢献賞)]]'''<br />[[第36回ベルリン国際映画祭|1986年]] 『[[鑓の権三]]』<br />
| その他の賞 = '''[[京都国際映画祭]]'''<br/>2016年 '''[[牧野省三]]賞'''<br />
| 備考 = <br />
}}<br />
'''篠田 正浩''' (しのだ まさひろ、[[1931年]][[3月9日]] - ) は、[[日本]]の[[映画監督]]。株式会社表現社代表取締役、[[早稲田大学]]特命教授<ref name = "宇宙船106">{{Cite journal |和書|date=2003-05-01 |title=監督・篠田正浩インタビュー |journal=[[宇宙船 (雑誌)|宇宙船]] |volume=Vol.106 |issue=(2003年5月号) |page=27 |publisher=[[朝日ソノラマ]] |id=雑誌コード:01843-05}}</ref>、[[日本中国文化交流協会]]代表理事、[[城西国際大学]]メディア学部客員教授<ref>[http://www.jiu.ac.jp/media/professor.html 城西国際大学メディア学部 教授陣] </ref>。<br />
<br />
== 経歴 ==<br />
[[1931年]][[3月9日]]、[[岐阜県]][[岐阜市]]で生まれた<ref name = "宇宙船106" />。[[岐阜県立加納高等学校]]を卒業後、早稲田大学[[第一文学部]]に進学<ref name = "宇宙船106" />。卒業後、[[松竹大船撮影所|松竹]]に入社した<ref name = "宇宙船106" />。<br />
<br />
[[1960年代]]にかけて[[大島渚]]、[[吉田喜重]]とともに[[日本ヌーヴェルヴァーグ#松竹ヌーヴェルヴァーグ|松竹ヌーベルバーグ]]の旗手と呼ばれた<ref name="mainichi">勝田友己によるインタビュー、[[山田洋次]]「時代を駆ける:山田洋次:YOJI YAMADA (4)」 『[[毎日新聞]]』 2010年1月25日、13版、5面。</ref>。早々に会社と衝突して独立した二人と異なり、篠田は松竹にしばらく残った後、[[1966年]]にフリーになり、翌[[1967年]]に独立プロダクションの表現社を設立した。前衛的作品も辞さない大島や吉田に比べ、篠田は平易なサービス精神も持ち合わせており、独立後の60年代後半から[[1970年代|70年代]]前半は『[[心中天網島 (映画)|心中天網島]]』([[1969年]])や『[[無頼漢 (映画)|無頼漢]]』([[1970年]])などの先鋭的な作品を独立プロから連発したが、70年代後半からは『[[はなれ瞽女おりん]]』([[1977年]])や『[[鑓の権三]]』([[1986年]])などの大手映画会社配給の大作が多い。[[1990年]]、『[[少年時代]]』で[[第14回日本アカデミー賞]]の作品賞・監督賞を受賞。[[カンヌ国際映画祭]]のコンペティション部門へは『[[写楽 (映画)|写楽]]』([[1995年]])など3度の出品を果たした。[[2003年]]、大作『[[スパイ・ゾルゲ]]』を最後に映画監督からの引退を発表した。<br />
<br />
また、1986年から[[1987年]]の[[TBSテレビ|TBS]]系列番組『[[日本が知りたい]]』ではキャスターも務めた。<br />
<br />
2016年、[[京都国際映画祭]]2016で[[牧野省三]]賞を受賞<ref>{{cite news|url=http://eiga.com/news/20161013/23/|title=篠田正浩監督、京都国際映画祭「牧野省三賞」を受賞|newspaper=映画.com|date=2016-10-13|accessdate=2016-10-17}}</ref>。<br />
<br />
== 人物 ==<br />
妻は[[俳優|女優]]の[[岩下志麻]]で、[[美術家]]の[[篠田桃紅]]は従姉に当たる。先妻に早稲田大学時代のクラスメートだった詩人の[[白石かずこ]]がいる。[[広島東洋カープ|広島カープ]]のファンである。<br />
<br />
高校時代は400m走の選手だったこともあり、大学入学時に[[早稲田大学競走部|早大競走部]]に入部。当時の早大競走部の長距離コーチで、後に[[近代オリンピック|オリンピック]][[マラソン]]代表の[[瀬古利彦]]を育てた[[中村清]]に長距離転向を促され、1年生で[[1950年]]の[[東京箱根間往復大学駅伝競走|箱根駅伝]]に出場し、「花の2区」を走った。翌[[1951年]]に足の故障で陸上選手を断念した<ref>「私の奈良 篠田正浩3」『[[週刊新潮]]』2011念6月16日号、p.150</ref>(ただし、当時は3区がエース区間で、2区は現在でいうエースクラスが集う区間ではなかった)。<!--{{いつ範囲|date=2012年10月|以前に箱根駅伝の[[シンポジウム]]で}}、「箱根駅伝は箱根の山を目指し、その先には[[富士山]]がある。だから箱根駅伝とは、若者が正月から日本の[[霊峰]]を目指して走る[[神事]]だ」とのコメントを残している。-->大学駅伝に対しては強い思い入れを持っており、毎年シーズンになると熱心に観入っているという。特に箱根駅伝については「箱根駅伝は一種の神事だと思うんだ。お正月から、若者たちが箱根の山に向かって走るわけだ。たすきは各校の御輿でね。」とインタビューで答えている<ref>{{Cite news |title=特集:箱根駅伝:お正月の「神事」 篠田正浩さん(映画監督) |url=http://www.yomiuri.co.jp/sports/ekiden/2014/feature/20131119-OYT8T00517.htm |newspaper=[[読売新聞|YOMIURI ONLINE]] |date=2013-11-19 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20140621012435/http://www.yomiuri.co.jp/sports/ekiden/2014/feature/20131119-OYT8T00517.htm |archivedate=2014-06-21 |accessdate=2014-06-21 }}</ref>。<br />
<br />
== 監督作品 ==<br />
* [[恋の片道切符 (映画)|恋の片道切符]] ([[1960年]])<br />
* [[乾いた湖]] (1960年) 原作:[[榛葉英治]]、脚本:[[寺山修司]]<br />
* [[三味線とオートバイ]] ([[1961年]]) 原作:[[川口松太郎]]<br />
* [[わが恋の旅路]] (1961年) 原作:[[曽野綾子]]、脚本:寺山修司<br />
* [[夕陽に赤い俺の顔]] (1961年) 脚本:寺山修司<br />
* [[涙を、獅子のたて髪に]] ([[1962年]]) 脚本:寺山修司・水沼一郎・篠田正浩<br />
* [[山の讃歌 燃ゆる若者たち]] (1962年) 脚本:[[白坂依志夫]]<br />
* [[私たちの結婚]] (1962年) 脚本:[[松山善三]]・篠田正浩<br />
* [[乾いた花 (映画)|乾いた花]] (1964年) 原作:[[石原慎太郎]]<br />
* [[暗殺 (映画)|暗殺]] ([[1964年]]) 原作:[[司馬遼太郎]]<br />
* [[美しさと哀しみと]] ([[1965年]]) 原作:[[川端康成]]<br />
* [[異聞猿飛佐助]] (1965年)<br />
* [[処刑の島]] ([[1966年]]) 原作:[[武田泰淳]]、脚本:石原慎太郎<br />
* [[あかね雲 (小説)|あかね雲]] ([[1967年]])<br />
* [[心中天網島 (映画)|心中天網島]] ([[1969年]]) 原作:[[近松門左衛門]]、脚本:[[富岡多恵子]]・[[武満徹]]・篠田正浩<br />
* [[無頼漢 (映画)|無頼漢]] ([[1970年]]) 脚本:寺山修司<br />
* [[沈黙 (遠藤周作)#映画版|沈黙 SILENCE]] ([[1971年]]) 原作:[[遠藤周作]]<br />
* [[札幌オリンピック (映画)|札幌オリンピック]] ([[1972年]]) ドキュメンタリー<br />
* [[化石の森 (石原慎太郎)#映画|化石の森]] ([[1973年]]) 原作:[[石原慎太郎]]<br />
* [[卑弥呼 (映画)|卑弥呼]] ([[1974年]])<br />
* [[桜の森の満開の下]] ([[1975年]]) 原作:[[坂口安吾]]<br />
* [[はなれ瞽女おりん]] ([[1977年]]) 原作:[[水上勉]]<br />
* [[夜叉ヶ池 (戯曲)#映画|夜叉ヶ池]] ([[1979年]]) 原作:[[泉鏡花]]<br />
* [[悪霊島#映画|悪霊島]] ([[1981年]]) 原作:[[横溝正史]]<br />
* [[瀬戸内少年野球団]] ([[1984年]]) 原作:[[阿久悠]]<br />
* [[ALLUSION 転生譚]] (1985年) 脚本:[[岸田理生]]<br />
* [[鑓の権三]] ([[1986年]]) 原作:近松門左衛門<br />
* [[舞姫]] ([[1989年]]) 原作:[[森鷗外]]<br />
* [[少年時代]] ([[1990年]]) 原作:[[藤子不二雄A]]<br />
* [[写楽 (映画)|写楽]] ([[1995年]]) 原作:[[皆川博子]]<br />
* [[瀬戸内ムーンライト・セレナーデ]] ([[1997年]]) 原作:阿久悠<br />
* [[梟の城|梟の城 owl's castle]] ([[1999年]]) 原作:[[司馬遼太郎]]<br />
* [[スパイ・ゾルゲ]] ([[2003年]])<br />
<br />
== 主な著書 ==<br />
*『闇の中の安息 篠田正浩評論集』 ([[フィルムアート社]]、1979年)<br />
*『[[エイゼンシュテイン]] 20世紀思想家文庫』 ([[岩波書店]]、1983年)<br />
*『[[日本語]]の語法で撮りたい』 ([[NHKブックス]]:[[日本放送出版協会]]、1995年)<br />
*『監督、撮らずに観る 映画館では見えてこない映画の話』 (ステレオサウンド、1997年)<br />
*『私が生きたふたつの「日本」』 ([[五月書房]]、2003年)<br />
*『河原者ノススメ 死穢と修羅の記憶』 (幻戯書房、2009年)<br />
*『路上の[[源義経|義経]]』 ([[幻戯書房]]、2013年)<br />
<br />
== 出演 ==<br />
=== テレビ ===<br />
* [[日本が知りたい]] (キャスターとして。TBS、1986-1987年)<br />
* [[私の履歴書]] (第18回シリーズ主人公・同名コラム原作 BSジャパン)<br />
<br />
=== CM ===<br />
* [[塩野義製薬]] シオノギS胃腸薬 (1983年)<br />
* [[サンヘルス]] 肝元(1988年)※声のみ<br />
<br />
== 受賞・ノミネート ==<br />
* [[1969年]] [[ヴェネツィア国際映画祭]]出品、[[ロンドン映画祭]]出品 (『[[心中天網島 (映画)|心中天網島]]』)<br />
* [[1970年]] [[キネマ旬報]]作品賞・監督賞受賞 (『心中天網島』)<br />
* 1970年 [[毎日映画コンクール]]作品賞受賞 (『心中天網島』)<br />
* 1970年 アデレード映画祭批評家賞受賞 (『無頼漢』)<br />
* [[1972年]] [[第25回カンヌ国際映画祭]]コンペティション部門出品 (『[[沈黙 (遠藤周作)#映画版|沈黙 SILENCE]]』)<br />
* 1972年 毎日映画コンクール作品賞・監督賞受賞 (『沈黙 SILENCE』)<br />
* [[1973年]] [[ゴールデングローブ賞]]長編ドキュメンタリー映画賞ノミネート (『[[札幌オリンピック (映画)|札幌オリンピック]]』)<br />
* [[1974年]] [[第27回カンヌ国際映画祭]]コンペティション部門出品 (『[[卑弥呼 (映画)|卑弥呼]]』)<br />
* [[1977年]] [[アジア太平洋映画祭]]監督賞受賞 (『[[はなれ瞽女おりん]]』)<br />
* [[1978年]] [[第1回日本アカデミー賞]]作品賞・監督賞ノミネート (『はなれ瞽女おりん』)<br />
* [[1984年]] ヒューストン映画祭外国語映画賞受賞 (『[[瀬戸内少年野球団]]』)<br />
* [[1985年]] [[第8回日本アカデミー賞]]作品賞・監督賞ノミネート (『瀬戸内少年野球団』)<br />
* 1985年 [[ブルーリボン賞 (映画)|ブルーリボン賞]]作品賞受賞 (『瀬戸内少年野球団』)<br />
* [[1986年]] [[第36回ベルリン国際映画祭]][[銀熊賞 (芸術貢献賞)]]受賞 (『[[鑓の権三]]』)<br />
* [[1991年]] [[第14回日本アカデミー賞]]作品賞・監督賞受賞 (『[[少年時代]]』)<br />
* 1991年 ブルーリボン賞作品賞・監督賞受賞 (『少年時代』)<br />
* 1991年 毎日映画コンクール作品賞受賞 (『少年時代』)<br />
* [[1995年]] [[第48回カンヌ国際映画祭]]コンペティション部門出品 (『[[写楽 (映画)|写楽]]』)<br />
* [[1996年]] [[第19回日本アカデミー賞]]編集賞受賞、作品賞・監督賞・脚本賞ノミネート (『写楽』)<br />
* [[1997年]] [[第47回ベルリン国際映画祭]]コンペティション部門出品 (『[[瀬戸内ムーンナイト・セレナーデ]]』)<br />
* [[1999年]] [[富川国際ファンタスティック映画祭]]監督賞受賞 (『[[梟の城|梟の城 owl's castle]]』)<br />
* [[2000年]] [[第23回日本アカデミー賞]]作品賞・監督賞ノミネート (『梟の城 owl's castle』)<br />
* [[2004年]] [[第27回日本アカデミー賞]]作品賞・監督賞・脚本賞ノミネート (『[[スパイ・ゾルゲ]]』)<br />
* [[2010年]] 第38回[[泉鏡花文学賞]]受賞 (『河原者ノススメ―死穢と修羅の記憶』)<br />
<br />
== 関連人物 ==<br />
<!--どういう関連なのか記載してください。--><br />
* [[碓井優]]<br />
* [[寺山修司]]<br />
* [[富岡多恵子]]<br />
* [[武満徹]]<br />
* [[司馬遼太郎]]<br />
* [[遠藤周作]]<br />
<br />
== 脚注 ==<br />
{{Reflist}}<br />
<br />
== 外部リンク ==<br />
* {{jmdb name |0160070 }}<br />
* {{allcinema name |117012 }}<br />
* {{kinejun name |87676 }}<br />
* {{URL |movie.walkerplus.com/person/82732/ |篠田正浩(シノダマサヒロ,Masahiro Shinoda)|Movie Walker}}<br />
* {{imdb name |id=0793983 }}<br />
<br />
{{篠田正浩監督作品}}<br />
{{ブルーリボン賞監督賞}}<br />
{{毎日映画コンクール監督賞}}<br />
{{キネマ旬報ベスト・テン日本映画監督賞}}<br />
{{日本アカデミー賞最優秀監督賞}}<br />
{{日本映画批評家大賞監督賞}}<br />
{{泉鏡花文学賞|第38回}}<br />
{{Normdaten}}<br />
<br />
{{DEFAULTSORT:しのた まさひろ}}<br />
[[Category:篠田正浩|*]]<br />
[[Category:日本の映画監督]]<br />
[[Category:日本の実業家]]<br />
[[Category:松竹の人物]]<br />
[[Category:早稲田大学の教員]]<br />
[[Category:城西国際大学の教員]]<br />
[[Category:箱根駅伝の人物]]<br />
[[Category:日本の男子長距離走の選手]]<br />
[[Category:早稲田大学出身の人物]]<br />
[[Category:岐阜県出身の人物]]<br />
[[Category:1931年生]]<br />
[[Category:存命人物]]</div>
122.214.146.170
ウォルター・ヒューストン
2018-06-04T10:05:47Z
<p>122.214.146.170: </p>
<hr />
<div>{{ActorActress<br />
| 芸名 = ウォルター・ヒューストン<br />
| ふりがな = Walter Huston<br />
| 画像ファイル = Walter Huston in The Treasure of the Sierra Madre trailer.jpg<br />
| 画像サイズ = 200px<br />
| 画像コメント = 『[[黄金 (1948年の映画)|黄金]]』([[1948年]])<br />
| 本名 = Walter Houghston<br />
| 出生地 = {{CAN1868}} [[オンタリオ州]][[トロント]]<br />
| 死没地 =<br />
| 国籍 = {{CAN1921}}<br />
| 身長 =<br />
| 血液型 =<br />
| 生年 = 1883<br />
| 生月 = 4<br />
| 生日 = 5<br />
| 没年 = 1950<br />
| 没月 = 4<br />
| 没日 = 7<br />
| 職業 = [[俳優]]<br />
| 活動期間 = <br />
| 配偶者 =Rhea Gore (1904-1912)<br />Bayonne Whipple (1915-1924)<br />Ninetta Sunderland (1931-1950)<br />
| 著名な家族 = <br />
| 事務所 =<br />
| 公式サイト = <br />
| 主な作品 = <br />
| アカデミー賞 = '''[[アカデミー助演男優賞|助演男優賞]]'''<br />[[1948年]]『[[黄金 (1948年の映画)|黄金]]』<br />
| ゴールデングローブ賞 ='''[[ゴールデングローブ賞 助演男優賞|助演男優賞]]'''<br />1948年『黄金』<br />
| 備考 = <br />
}}<br />
'''ウォルター・ヒューストン'''('''Walter Huston''', [[1883年]][[4月5日]] - [[1950年]][[4月7日]])は、[[カナダ]]生まれ、[[アメリカ合衆国]]の[[俳優]]、歌手<ref>[http://www.imdb.com/name/nm0404158/?ref_=fn_al_nm_1 Walter Huston] IMDb 2017年9月7日閲覧。</ref>。<br />
<br />
== 生涯 ==<br />
ウォルター・ヒューストンはWalter Houghstonとして[[オンタリオ州]][[トロント]]で生まれた。父親は[[アイルランド]]系、母親は[[スコットランド]]系。エンジニアとして働いていたが俳優を志、1924年から[[ブロードウェイ]]の舞台に立ち、1929年に映画デビュー。以後、実力派俳優として[[ハリウッド]]で活躍した。<br />
<br />
1948年、息子の[[ジョン・ヒューストン]]が監督した『黄金』で[[アカデミー助演男優賞]]及び[[ゴールデングローブ賞 助演男優賞]]を受賞した。<br />
<br />
== 主な出演作品 ==<br />
ウォルター・ヒューストン<br />
{| class="wikitable" <br />
|-<br />
!公開年!!邦題<br>原題!!役名!!備考 <br />
|-<br />
|rowspan="2"|1929|| 新聞記者<br>'' Gentlemen of the Press'' || ウィックランド・スネル || <br />
|-<br />
| ヴァージニアン<br>'' The Virginian'' || トランパス || <br />
|-<br />
|1930|| ''Abraham Lincoln || [[エイブラハム・リンカーン]] || <br />
|-<br />
|rowspan="3"|1931|| 光に叛く者<br>''The Criminal Code'' || マーク || <br />
|-<br />
| 都会の世紀末<br>''The Star Witness'' || ウィトロック検事 || <br />
|-<br />
| 北海の漁<br>''A House Divided'' || セス・ロウ || <br />
|-<br />
|rowspan="4"|1932|| 街の野獣<br>''The Beast of the City'' || ジム・フィッツパトリック || <br />
|-<br />
| 聖ジョンソン<br>''Law and Order'' || セント・ジョンソン || <br />
|-<br />
| 狂乱のアメリカ<br>''American Madness'' || ディクソン || <br />
|-<br />
| [[雨 (1932年の映画)|雨]]<br>''Rain'' || アルフレッド・デヴィッドソン || <br />
|-<br />
|rowspan="3"|1933|| 獨裁大統領<br>'' Gabriel Over the White House'' || ジャドソン・ハモンド || <br />
|-<br />
| ヘル・ビロウ<br>'' Hell Below'' || T.J. Toler USN || <br />
|-<br />
| 世界拳闘王<br>'' The Prizefighter and the Lady'' || 教授 || <br />
|-<br />
|1934|| 名馬物語<br>''Keep 'Em Rolling'' || ベンジャミン・ウォルシュ || <br />
|-<br />
|1937|| [[孔雀夫人]]<br>''Dodsworth'' || サム・ダズワース || <br />
|-<br />
|1939|| 消えゆく灯<br>''The Light That Failed'' || Torpenhow || <br />
|-<br />
|rowspan="4"|1941|| [[マルタの鷹 (1941年の映画)|マルタの鷹]]<br>''The Maltese Falcon'' || ジャコビ || クレジットなし<br />
|-<br />
| 悪魔の金<br>''All That Money Can Buy'' || スクラッチ || <br />
|-<br />
| スワンプ・ウォーター<br>''Swamp Water'' || サーズデー・レーガン || <br />
|-<br />
| 上海ジェスチャー<br>''The Shanghai Gesture'' || Guy Charteris || <br />
|-<br />
|rowspan="2"|1942|| 我が心の歌<br>''Always in My Heart'' || マック・スコット || <br />
|-<br />
| [[ヤンキー・ドゥードゥル・ダンディ]]<br>''Yankee Doodle Dandy'' || ジェリー・コーハン || <br />
|-<br />
|rowspan="4"|1943|| 真珠湾攻撃<br>''December 7th'' || アンクル・サム || <br />
|-<br />
| [[ならず者 (1943年の映画)|ならず者]]<br>''The Outlaw'' || [[ドク・ホリデイ]] || <br />
|-<br />
| 暴力に挑む男<br>''Edge of Darkness'' || マーティン・ステンスガード || <br />
|-<br />
| 北極星<br>''The North Star'' || Dr. Kurin || <br />
|-<br />
|1945|| そして誰もいなくなった<br>''And Then There Were None'' || エドワード・G・アームストロング || <br />
|-<br />
|1946|| 呪われた城<br>''Dragonwyck'' || ウェルズ || <br />
|-<br />
|rowspan="2"|1948|| [[黄金 (1948年の映画)|黄金]]<br>''The Treasure of the Sierra Madre'' || ハワード || [[アカデミー助演男優賞]] 受賞<br>[[ゴールデングローブ賞]]助演男優賞 受賞<br />
|-<br />
| サマー・ホリデイ<br>''Summer Holiday'' || ナット・ミラー || <br />
|-<br />
|1950|| 復讐の荒野<br>''The Furies'' || ジェフォーズ || <br />
|-<br />
|}<br />
<br />
== 受賞歴 ==<br />
=== アカデミー賞 ===<br />
;受賞<br />
:[[第21回アカデミー賞|1949年]] [[アカデミー助演男優賞]]:『[[黄金 (1948年の映画)|黄金]]』<br />
<br />
;ノミネート<br />
:[[第9回アカデミー賞|1937年]] [[アカデミー主演男優賞]]:『[[孔雀夫人]]』<br />
:[[第14回アカデミー賞|1942年]] アカデミー主演男優賞:『[[悪魔の金]]』<br />
:[[第15回アカデミー賞|1943年]] アカデミー助演男優賞:『[[ヤンキー・ドゥードゥル・ダンディ]]』<br />
<br />
=== ゴールデングローブ賞 ===<br />
;受賞<br />
:[[第6回ゴールデングローブ賞|1949年]] [[ゴールデングローブ賞 助演男優賞|助演男優賞]]:『[[黄金 (1948年の映画)|黄金]]』<br />
<br />
=== ニューヨーク映画批評家協会賞 ===<br />
;受賞<br />
:[[第2回ニューヨーク映画批評家協会賞|1937年]] [[ニューヨーク映画批評家協会賞 主演男優賞|主演男優賞]]:『[[孔雀夫人]]』<br />
<br />
== 参照 ==<br />
{{Reflist}}<br />
<br />
== 外部リンク ==<br />
{{Commonscat|Walter Huston}}<br />
*{{allcinema name|39684|ウォルター・ヒューストン}}<br />
*{{Kinejun name|3076|ウォルター・ヒューストン}}<br />
*{{IMDb name|0404158|Walter Huston}}<br />
*{{IBDB name|24054|Walter Huston}}<br />
<br />
{{アカデミー賞助演男優賞 1941-1960}}<br />
{{ゴールデングローブ賞 助演男優賞}}<br />
{{ニューヨーク映画批評家協会賞 主演男優賞}}<br />
{{Normdaten}}<br />
{{DEFAULTSORT:ひゆうすとん うおるたあ}}<br />
[[Category:カナダの男優]]<br />
[[Category:アメリカ合衆国の男優]]<br />
[[Category:アカデミー賞受賞者]]<br />
[[Category:ゴールデングローブ賞受賞者]]<br />
[[Category:ハリウッド・ウォーク・オブ・フェーム]]<br />
[[Category:トロント出身の人物]]<br />
[[Category:スコットランド系カナダ人]]<br />
[[Category:1883年生]]<br />
[[Category:1950年没]]</div>
122.214.146.170
緒方明
2018-05-20T11:55:43Z
<p>122.214.146.170: </p>
<hr />
<div>{{ActorActress<br />
| 芸名 = 緒方 明<br />
| ふりがな = おがた あきら<br />
| 画像ファイル = <br />
| 画像サイズ = <br />
| 画像コメント = <br />
| 本名 = <br />
| 別名義 = <!-- 別芸名がある場合に記載。愛称の欄ではありません --><br />
| 出生地 = {{JPN}} [[佐賀県]]<br />
| 死没地 = <br />
| 国籍 = <!--「出生地」からは推定できないときだけ --><br />
| 民族 = <!-- 民族名には信頼できる情報源が出典として必要です --><br />
| 身長 = <br />
| 血液型 = <br />
| 生年 = 1959<br />
| 生月 = <br />
| 生日 = <br />
| 没年 = <br />
| 没月 = <br />
| 没日 = <br />
| 職業 = [[映画監督]]、[[演出家]]<br />
| ジャンル = [[映画]]、[[テレビドラマ]]<br />
| 活動期間 = <br />
| 活動内容 = <br />
| 配偶者 = <br />
| 著名な家族 = <!-- 『著名活動をしている人物』で記事対象の家族として公開されている人物がいる場合に記載。単にメディアで紹介された新生児の名前などは書かないように注意。 --><br />
| 所属劇団 = <br />
| 事務所 = <br />
| 公式サイト = <br />
| 主な作品 = <!-- 主演映画・主演テレビドラマなど。脇役の場合、大ヒットした作品で重要な役割であった、またはその出演功績を認められたもの。例えば、日本アカデミー賞優秀助演男優(女優)賞を受賞したような役の作品を入力 --><br />
| アカデミー賞 = <br />
| AFI賞 = <br />
| 英国アカデミー賞 = <br />
| セザール賞 = <br />
| エミー賞 = <br />
| ジェミニ賞 = <br />
| ゴールデングローブ賞 = <br />
| ベルリン国際映画祭 = '''[[アルフレッド・バウアー賞]]'''<br />[[第50回ベルリン国際映画祭|2000年]]『[[独立少年合唱団]]』<br />
| ゴヤ賞 = <br />
| グラミー賞 = <br />
| ブルーリボン賞 = <br />
| ローレンス・オリヴィエ賞 = <br />
| 全米映画俳優組合賞 = <br />
| トニー賞 = <br />
| 日本アカデミー賞 = <br />
| その他の賞 = <br />
| 備考 = <br />
}}<br />
'''緒方 明'''(おがた あきら、[[1959年]] - )は、[[日本]]の[[映画監督]]、[[演出家]]である。[[佐賀県]]出身。[[日本映画大学]]教授。<br />
<br />
== 来歴 ==<br />
1959年、佐賀県に生まれる<ref>{{cite web|url=http://kansai.pia.co.jp/interview/cinema/2014-04/tomodachito.html|title=『友だちと歩こう』緒方明監督インタビュー|work=ぴあ関西版WEB|date=2014|accessdate=2015-08-16}}</ref>。その後、[[長崎市]]で過ごす。[[福岡大学]]在学中に[[石井聰亙]]監督と出会い、石井作品の助監督を務めるようになる。1981年、監督作品の『東京白菜関K者』が第4回[[ぴあフィルムフェスティバル]]で入選を果たした<ref>{{cite web|url=http://pff.jp/jp/award/1981.html|title=1981年 第4回ぴあフィルムフェスティバル 一般公募部門 入選作品|work=ぴあフィルムフェスティバル|accessdate=2015-08-16}}</ref>。<br />
<br />
その後は[[高橋伴明]]、[[大森一樹]]の助監督を経て、フリーのテレビディレクターとしてCM、ミュージック・ビデオ、ドラマ、ドキュメンタリーなどを多数演出。<br />
<br />
2000年に『独立少年合唱団』で劇場映画デビューし、[[第50回ベルリン国際映画祭]]にて[[アルフレッド・バウアー賞]]を受賞した。2013年より[[日本映画大学]]の教授として教壇でも活動している。<br />
<br />
== フィルモグラフィー ==<br />
=== 映画 ===<br />
*[[東京白菜関K者]](1980年) - 監督・脚本<br />
*[[狂い咲きサンダーロード]](1980年) - 助監督<br />
*シャッフル(1981年) - 助監督<br />
*トランジスタ・ラブ 姦骨墮胎(1981年) - 監督・脚本<br />
*[[爆裂都市 BURST CITY]](1982年) - 助監督<br />
*BLOOD is SEX ハーレム・バレンタイン・デイ(1982年) - 助監督<br />
*ワールド・アパートメント・ホラー(1991年) - 助監督<br />
*独立少年合唱団(2000年) - 監督・原案<br />
*[[いつか読書する日]](2004年) - 監督・原案<br />
*饗宴(2006年) - 監督<br />
*[[映画監督って何だ!]](2006年) - 出演<br />
*その山を崩せ(2007年) - 監督<br />
*靴ヶ浜温泉コンパニオン控室(2008年) - 監督<br />
*[[のんちゃんのり弁]](2009年) - 監督・脚本<br />
*[[死刑台のエレベーター (2010年の映画)|死刑台のエレベーター]](2010年) - 監督<br />
*石にも風にもなれない(2013年) - 監督<br />
*友だちと歩こう(2014年) - 監督・製作<br />
*[[シン・ゴジラ]](2016年) - 出演<ref>{{cite news|url=http://shin-godzilla.jp/cast/|title=キャスト|publisher=映画「シン・ゴジラ」公式サイト|accessdate=2016-04-16}}</ref><br />
<br />
=== テレビ ===<br />
*[[驚きももの木20世紀]](1993年 - 1999年) - 演出<br />
*[[私立探偵 濱マイク]](2002年) - 監督<br />
*[[怪奇大作戦 ミステリー・ファイル]]「地を這う女王」(2013年) - 演出<br />
<br />
== 脚注 ==<br />
{{Reflist}}<br />
<br />
== 外部リンク ==<br />
*{{allcinema name|250910|緒方明}}<br />
*{{Kinejun name}}<br />
*{{jmdb name|0169570|緒方明}}<br />
*{{IMDb name|0644517|Akira Ogata}}<br />
<br />
{{毎日映画コンクール監督賞}}<br />
{{ヨコハマ映画祭監督賞}}<br />
{{Normdaten}}<br />
<br />
{{デフォルトソート:おかた あきら}}<br />
[[Category:日本の映画監督]]<br />
[[Category:日本の演出家]]<br />
[[Category:日本映画大学の教員]]<br />
[[Category:福岡大学出身の人物]]<br />
[[Category:佐賀県出身の人物]]<br />
[[Category:1959年生]]<br />
[[Category:存命人物]]</div>
122.214.146.170
周防正行
2018-05-06T14:35:15Z
<p>122.214.146.170: </p>
<hr />
<div>{{ActorActress<br />
| 芸名 = 周防 正行<br />
| ふりがな = すお まさゆき<br />
| 画像ファイル = <br />
| 画像サイズ = <br />
| 画像コメント = <br />
| 本名 = <br />
| 別名義 = <br />
| 出生地 = {{JPN}}・[[東京都]]<br />
| 死没地 = <br />
| 国籍 = <br />
| 民族 = <br />
| 身長 = <br />
| 血液型 = <br />
| 生年 = 1956<br />
| 生月 = 10<br />
| 生日 = 29<br />
| 没年 = <br />
| 没月 = <br />
| 没日 = <br />
| 職業 = [[映画監督]]、[[脚本家]]<br />
| ジャンル = [[映画]]<br />
| 活動期間 = [[1982年]] -<br />
| 活動内容 = <br />
| 配偶者 = [[草刈民代]]<br />
| 著名な家族 = 従兄:[[周防義和]]<br />
| 事務所 = <br />
| 公式サイト = <br />
| 主な作品 = 『[[ファンシィダンス#映画|ファンシイダンス]]』(1989年)<br />『[[シコふんじゃった。]]』(1991年)<br />『[[Shall we ダンス?]]』(1996年)<br />『[[それでもボクはやってない]]』(2007年)<br />『[[終の信託#映画|終の信託]]』(2012年)<br />『[[舞妓はレディ]]』(2014年)<br />
| アカデミー賞 = <br />
| 放送映画批評家協会賞 = '''[[放送映画批評家協会賞|外国語映画賞]]'''<br />[[1997年]]『[[Shall we ダンス?]]』<br />
| AFI賞 = <br />
| 英国アカデミー賞 = <br />
| エミー賞 = <br />
| グラミー賞 = <br />
| ゴールデングローブ賞 = <br />
| ゴールデンラズベリー賞 = <br />
| ゴヤ賞 = <br />
| ジェミニ賞 = <br />
| セザール賞 = <br />
| 全米映画俳優組合賞 = <br />
| トニー賞 = <br />
| 日本アカデミー賞 = '''最優秀作品賞'''<br />[[第16回日本アカデミー賞|1992年]]『[[シコふんじゃった]]』<br />[[第20回日本アカデミー賞|1996年]]『Shall we ダンス?』<br />'''優秀作品賞'''<br />[[第31回日本アカデミー賞|2007年]]『[[それでもボクはやってない]]』<br />'''最優秀監督賞'''<br />1992年『シコふんじゃった』<br />1996年『Shall we ダンス?』<br />'''優秀監督賞'''<br />2007年『それでもボクはやってない』<br />'''最優秀脚本賞'''<br />1992年『シコふんじゃった』<br />1996年『Shall we ダンス?』<br />'''優秀脚本賞'''<br />2007年『それでもボクはやってない』<br />
| ブルーリボン賞 = '''作品賞'''<br />[[1992年]]『シコふんじゃった』<br />'''監督賞'''<br />1992年『シコふんじゃった』<br />[[2007年]]『それでもボクはやってない』<br />
| ローレンス・オリヴィエ賞 = <br />
| その他の賞 = '''[[ナショナル・ボード・オブ・レビュー賞]]'''<br />'''外国語映画賞'''<br />[[1996年]]『Shall we ダンス?』<hr />'''[[キネマ旬報賞]]'''<br />'''作品賞'''<br />[[1992年]]『シコふんじゃった』<br />[[1996年]]『Shall we ダンス?』<br />[[2007年]]『それでもボクはやってない』<br />'''監督賞'''<br />1992年『シコふんじゃった』<br />2007年『それでもボクはやってない』<br />[[2012年]]『[[終の信託#映画|終の信託]]』<br />'''脚本賞'''<br />1996年『Shall we ダンス?』<br />2007年『それでもボクはやってない』<hr />'''[[毎日映画コンクール]]'''<br />'''グランプリ'''<br />[[1992年]]『シコふんじゃった』<br />[[1996年]]『Shall we ダンス?』<br />[[2007年]]『それでもボクはやってない』<br />[[2012年]]『終の信託』<br />'''監督賞'''<br />1996年『Shall we ダンス?』<br />2007年『それでもボクはやってない』<br />'''脚本賞'''<br />1996年『Shall we ダンス?』<hr />'''[[日刊スポーツ映画大賞・石原裕次郎賞|日刊スポーツ映画大賞]]'''<br />'''作品賞'''<br />[[1992年]]『シコふんじゃった』<br />[[1996年]]『Shall we ダンス?』<br />[[2007年]]『それでもボクはやってない』<br />[[2012年]]『終の信託』<br />'''監督賞'''<br />2007年『それでもボクはやってない』<hr />'''[[山路ふみ子映画賞]]'''<br />'''作品賞'''<br />[[2007年]]『それでもボクはやってない』<br />[[2012年]]『終の信託』<hr />'''[[報知映画賞]]'''<br />'''作品賞'''<br />[[1992年]]『シコふんじゃった』<br />[[1996年]]『Shall we ダンス?』<br />[[2007年]]『それでもボクはやってない』<hr />'''[[高崎映画祭]]'''<br />'''作品賞'''<br />[[1992年]]『シコふんじゃった』<br />'''監督賞'''<br />1992年『シコふんじゃった』<br />[[1996年]]『Shall we ダンス?』<hr />'''[[ヨコハマ映画祭]]'''<br />'''作品賞'''<br />[[1992年]]『シコふんじゃった』<br />[[2007年]]『それでもボクはやってない』<br />'''監督賞'''<br />1992年『シコふんじゃった』<br />[[1996年]]『Shall we ダンス?』<br />2007年『それでもボクはやってない』<br />
| 備考 = [[紫綬褒章]](2016年)|<br />
}}<br />
'''周防 正行'''(すお まさゆき<ref>{{cite web|url=http://dic.yahoo.co.jp/dsearch?enc=UTF-8&p=%E5%91%A8%E9%98%B2%E6%AD%A3%E8%A1%8C&dtype=0&dname=0ss&stype=0&pagenum=1|title=大辞泉|accessdate=2013年6月22日|archiveurl=https://archive.is/20120707184212/http://dic.yahoo.co.jp/dsearch?enc=UTF-8&p=%E5%91%A8%E9%98%B2%E6%AD%A3%E8%A1%8C&dtype=0&dname=0ss&stype=0&pagenum=1|archivedate=2012年7月7日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref>、[[1956年]][[10月29日]] - )は、[[日本]]の[[映画監督]]、[[脚本家]]。[[太田出版]]監査役<ref>[http://www.ohtabooks.com/info/company.html 会社概要] - 太田出版</ref><ref name=bunkatsushin />。<br />
<br />
== 来歴 ==<br />
幼少時は[[野球]]好きで、野球をするために中学はわざわざ[[越境入学]]してまで[[東京都市大学付属中学校・高等学校|武蔵工業大学附属中学校・高等学校]]に進学した。しかし中学2年生の時に肘を痛めて野球の道は断念した<ref name=nhk-bs>[http://www.nhk.or.jp/bs-blog/200/101008.html 渡辺支配人のおしゃべりシネマ館「周防正行監督・Shall we ダンス?」] - NHK BSコラム・2011年11月14日</ref>。高校卒業後に2年間浪人生活を送る<ref name=nhk-bs />。<br />
<br />
[[1981年]]、[[立教大学]][[文学部]][[仏文科]]在学中に非常勤講師として来ていた[[蓮實重彦]]の講義「映画表現論」に出会い、卒業後映画監督を目ざす<ref>[http://www.rikkyo.ac.jp/feature/rirekisyo/message01.html 立教大学]</ref>。その後[[イメージフォーラム映像研究所]]に進みながら、[[高橋伴明]]・[[若松孝二]]・[[井筒和幸]]といった監督のもとで助監督として修行を積む<ref name=nhk-bs />。<br />
<br />
[[1984年]]に[[小津安二郎]]へのオマージュを含んだ[[ピンク映画]]『[[変態家族 兄貴の嫁さん]]』で監督デビュー。『[[朝日新聞]]』で蓮實がその年のベスト5にあげた。その後、矢島周平名義にてピンク映画にかかわるが、[[1989年]]の『[[ファンシィダンス|ファンシイダンス]]』で一般映画に進出。[[1992年]]『[[シコふんじゃった。]]』、[[1998年]]『[[Shall we ダンス?]]』で[[日本アカデミー賞]]。1992年には[[山路ふみ子映画賞|山路ふみ子文化財団特別賞]]も受賞。<br />
<br />
[[1993年]]には[[アルタミラピクチャーズ]]の設立に参加<ref>[http://altamira.jp/suo.html 周防正行(SUO MASAYUKI)] - アルタミラピクチャーズ</ref>。[[1997年]]7月、「Shall we ダンス?」の全米配給で関係の生まれた[[ミラマックス]]と、以後の映画製作に関する[[ファーストルック契約]]を結ぶ<ref>『「Shall we ダンス?」アメリカを行く』p.365</ref>(現在は失効)。[[2007年]]に太田出版の監査役に就任<ref name=bunkatsushin>[http://www.bunkanews.jp/news/news.php?id=4589 太田出版、監査役に周防正行監督 売上高8億6657万円で増収] - 文化通信・2007年12月19日</ref>。映画「[[マルサの女]]」のメイキングビデオの演出を行った関係で故・[[伊丹十三]]監督の名前を冠した[[伊丹十三賞]]の選考委員を行っている。<br />
<br />
2008年、『[[それでもボクはやってない]]』が2007年度[[キネマ旬報]]ベスト・テン日本映画部門の1位に選ばれる<ref>{{cite web|url=http://www.asahi.com/culture/movie/TKY200801100276.html|title=日本映画1位「それでもボクはやってない」 キネマ旬報|publisher=[[朝日新聞]]|date=2008年1月10日|accessdate=2013年6月22日}}</ref>。[[2009年]]、[[草刈民代]]とともに第2回プラチナ夫婦アワードを受賞<ref>{{cite web|url=http://beauty.oricon.co.jp/news/70750/full/|work=eltha|publisher=オリコン|title=周防正行監督、妻・草刈民代に頭あがらず? 『プラチナ夫婦アワード』受賞|date=2009年11月17日|accessdate=2013年6月22日}}</ref>。<br />
<br />
[[2011年]]6月に発足した新時代の刑事司法制度特別部会の委員に選ばれ「取り調べの全面可視化」「証拠の全面開示」「[[人質司法]]改善すること」を主張<ref>2014年4月23日中日新聞朝刊33面「冤罪の危険省みられていない〜捜査側可視化骨抜きの恐れ」</ref>。<br />
<br />
[[2013年]]、『[[終の信託#映画|終の信託]]』で[[毎日映画コンクール]]日本映画大賞を受賞した<ref>{{cite web|url=http://mainichi.jp/opinion/news/20130118k0000m070164000c.html|title=ひと:周防正行さん 毎日映画コンクールで大賞受賞|publisher=[[毎日新聞]]|date=2013年1月18日|accessdate=2013年6月22日|archiveurl=https://archive.is/20130625032819/http://mainichi.jp/opinion/news/20130118k0000m070164000c.html|archivedate=2013年6月25日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref>。翌2014年、[[山路ふみ子映画賞]]において第31回文化賞を受賞した<ref>[http://www18.ocn.ne.jp/~yamaji/movieaward/prizelist.html 受賞者一覧]、山路ふみ子文化財団、2014年11月20日閲覧。</ref>。<br />
<br />
[[2016年]]、春の[[紫綬褒章]]を受章<ref>{{cite news|url=http://www.sankei.com/life/news/160428/lif1604280007-n2.html|title=704人26団体 紫綬褒章に映画監督の周防正行さん、囲碁棋士の石田芳夫さんら|newspaper=産経新聞|date=2016-04-28|accessdate=2016-04-28}}</ref>。<br />
<br />
[[2018年]]3月13日より、[[立教大学相撲部]]の名誉監督に就任している<ref>{{Cite web|url=http://www.rikkyo.ne.jp/sgrp/sumo/interview.html|title=周防監督立教大学相撲部就任インタビュー|publisher=立教大学相撲部|accessdate=2018-03-22}}</ref>。<br />
<br />
幼少の頃の野球好きから、現在でも[[東京ヤクルトスワローズ]]の熱狂的ファンである<ref name=nhk-bs />。<br />
<br />
== 作品 ==<br />
=== 監督 ===<br />
==== 映画 ====<br />
* [[変態家族 兄貴の嫁さん]](1984年)<br />
* マルサの女をマルサする(1987年)<br />
* マルサの女IIをマルサする(1988年)<br />
* [[ファンシイダンス]](1989年)<br />
* [[シコふんじゃった。]](1991年)<br />
* [[Shall we ダンス?]](1996年)<br />
* [[それでもボクはやってない]](2007年)<br />
* [[ダンシング・チャップリン]](2011年)<br />
* [[終の信託#映画|終の信託]](2012年)<br />
* [[舞妓はレディ]](2014年)<br />
<br />
==== テレビドラマ ====<br />
* [[サラリーマン教室]](1986年)<br />
<br />
==== オリジナルビデオ ====<br />
* 大災難(1995年)<br />
<br />
==== ミュージックビデオ ====<br />
* [[有頂天 (バンド)|有頂天]]「カラフルメリィが降った日」(1990年)<br />
<br />
=== 製作 ===<br />
* [[がんばっていきまっしょい#映画|がんばっていきまっしょい]](1998年)<br />
<br />
=== 出演 ===<br />
* [[神田川淫乱戦争]](1983年) - マンションの管理人 役<br />
* [[お墓と離婚]](1993年)<br />
* [[119 (映画)|119]](1994年) - 波楽里駐在所巡査 役<br />
* [[東京日和 (映画)|東京日和]](1997年) - 郵便屋 役<br />
<br />
== 著書 ==<br />
=== 小説 ===<br />
* シコふんじゃった。(1991年12月、[[太田出版]])<br />
* Shall we ダンス?(1996年9月、[[幻冬舎]])<br />
<br />
=== エッセイ・ノンフィクション ===<br />
* 『Shall weダンス?』アメリカを行く(1998年2月、太田出版)<br />
* スタジアムへ行こう!―周防正行のスポーツ観戦記(2000年9月、[[角川書店]]) <br />
* インド待ち(2001年3月、[[集英社]])<br />
* アメリカ人が作った『Shall we dance?』(2005年4月、太田出版)<br />
* それでもボクはやってない―日本の刑事裁判、まだまだ疑問あり!(2007年1月、[[幻冬舎]])<br />
* 周防正行のバレエ入門(2011年4月、太田出版)<br />
* それでもボクは会議で闘う―ドキュメント刑事司法改革(2015年4月、岩波書店)<br />
<br />
=== 対談・インタビュー ===<br />
* 古田式(2001年5月、太田出版) - [[古田敦也]]との共著<br />
* ファンの皆様おめでとうございます(2002年4月、[[大巧社]]) - [[若松勉]]との共著<br />
<br />
== 脚注 ==<br />
{{脚注ヘルプ}}<br />
{{Reflist|2}}<br />
<br />
== 外部リンク ==<br />
* {{IMDb name|id=0839397|name=Masayuki Suo}}<br />
* {{jmdb name|0164700}}<br />
* {{Allcinema name|132830}}<br />
* {{kinejun name|91048}}<br />
<br />
{{周防正行監督作品}}<br />
{{キネマ旬報ベスト・テン日本映画監督賞}}<br />
{{キネマ旬報ベスト・テン脚本賞}}<br />
{{ブルーリボン賞監督賞}}<br />
{{毎日映画コンクール監督賞}}<br />
{{ヨコハマ映画祭監督賞}}<br />
{{ヨコハマ映画祭脚本賞}}<br />
{{日刊スポーツ映画大賞監督賞}}<br />
{{日本アカデミー賞最優秀監督賞}}<br />
{{日本アカデミー賞最優秀脚本賞}}<br />
<br />
{{Normdaten}}<br />
<br />
{{DEFAULTSORT:すお まさゆき}}<br />
[[Category:周防正行|*]]<br />
[[Category:日本の映画監督]]<br />
[[Category:日本の脚本家]]<br />
[[Category:紫綬褒章受章者]]<br />
[[Category:立教大学出身の人物]]<br />
[[Category:東京都出身の人物]]<br />
[[Category:1956年生]]<br />
[[Category:存命人物]]</div>
122.214.146.170
降旗康男
2018-04-25T12:00:46Z
<p>122.214.146.170: </p>
<hr />
<div>{{ActorActress<br />
| 芸名 = 降旗 康男<br />
| ふりがな = ふるはた やすお<br />
| 画像ファイル = <br />
| 画像サイズ = <br />
| 画像コメント = <br />
| 本名 = 降旗 康男<br />
| 別名義 = <br />
| 出生地 = [[長野県]][[松本市]]<br />
| 死没地 = <br />
| 国籍 = {{JPN}}<br />
| 民族 = <br />
| 身長 =<br />
| 血液型 = <br />
| 生年 = 1934<br />
| 生月 = 8<br />
| 生日 = 19<br />
| 没年 = <br />
| 没月 = <br />
| 没日 = <br />
| 職業 = [[映画監督]]<br />
| ジャンル = <br />
| 活動期間 = [[1963年]] -<br />
| 活動内容 = <br />
| 配偶者 = <br />
| 著名な家族 = <br />
| 事務所 =<br />
| 公式サイト = <br />
| 主な作品 = 網走番外地シリーズ・[[鉄道員 (小説)|鉄道員]]<br />
| アカデミー賞 = <br />
| AFI賞 = <br />
| 英国アカデミー賞 = <br />
| セザール賞 = <br />
| エミー賞 = <br />
| ジェミニ賞 = <br />
| ゴールデングローブ賞 = <br />
| ゴールデンラズベリー賞 = <br />
| ゴヤ賞 = <br />
| グラミー賞 = <br />
| ブルーリボン賞 = <br />
| ローレンス・オリヴィエ賞 = <br />
| 全米映画俳優組合賞 = <br />
| トニー賞 = <br />
| 日本アカデミー賞 = 最優秀監督賞 最優秀脚本賞(2000年)<br />『[[鉄道員 (小説)|鉄道員]]』<br />
| その他の賞 = <br />
| 備考 = <br />
}}<br />
<br />
'''降旗 康男'''(ふるはた やすお、[[1934年]][[8月19日]] - )は、日本の[[映画監督]]である。[[長野県]][[松本市]]出身。<br />
<br />
==経歴==<br />
[[長野県松本深志高等学校]]、[[東京大学]][[文学部]][[フランス文学]]科卒業後、1957年[[東映]]入社。1978年に東映を退社しフリーとなり、1999年、『[[鉄道員 (小説)|鉄道員]]』で[[日本アカデミー賞]]監督賞・脚本賞を受賞。 2008年[[旭日小綬章]]受章。80歳を越えた現在もなお、映画界の第一線で活動を続けている。<br />
<br />
[[高倉健]]は「夜叉」など、降旗作品に出演が多いが、寡黙で撮影現場ではほとんど声を張り上げて指示を出さない降旗に対し、コンビを組むことの多いカメラマンの[[木村大作]]が大変なおしゃべりで現場を仕切るため、初めて呼ばれる役者は木村が監督だと勘違いすることもしばしばあると、自身のエッセイ「あなたに褒められたくて」でユーモラスに紹介している。一見すると頼りないようにも思えるが、木村のような個性の強いカメラマンに撮影された作品でも、必ず降旗の個性の出た降旗作品に仕上がる。と語っている。<br />
<br />
[[1978年]]には、東映の[[吉川進]][[映画プロデューサー|プロデューサー]]から「『[[スパイダーマン (東映)|スパイダーマン]]』の監督をやってみないか?」と声をかけられたことがあり、しばらく後になって「いつになったら俺に『スパイダーマン』を監督させてくれるんだ」と意外な返答をしたこともあったという<ref>スパイダーマン 東映TVシリーズDVD-BOX付録冊子「スパイダーマン大検証」</ref>。<br />
<br />
[[日本共産党]]の[[シンパ|支持者]]としても知られる。<br />
<br />
== 監督作品 ==<br />
=== 劇場作品 ===<br />
*1963年 [[陸軍残虐物語]](東映東京、助監督)<br />
*1965年 昭和残侠伝(東映東京、助監督) <br />
*1966年<br />
**非行少女ヨーコ(東映東京)<br />
**地獄の掟に明日はない(東映東京)<br />
*1967年<br />
**ギャングの帝王(東映東京)<br />
**懲役十八年 仮出獄(東映東京)<br />
*1968年<br />
**獄中の顔役(東映東京)<br />
**裏切りの暗黒街(東映東京)<br />
*1969年<br />
**現代やくざ 与太者の掟(東映東京)<br />
**現代やくざ 与太者仁義(東映東京)<br />
**[[網走番外地 (東映)|新網走番外地]] 流人岬の血斗(東映東京)<br />
*1970年<br />
**日本女侠伝 真赤な度胸花(東映京都)<br />
**任侠興亡史 組長と代貸(東映東京)<br />
**[[捨て身のならず者]](東映東京)<br />
**新網走番外地 大森林の決斗(東映東京)<br />
**新網走番外地 吹雪のはぐれ狼(東映東京)<br />
*1971年<br />
**[[ごろつき無宿]](東映東京)<br />
**新網走番外地 嵐を呼ぶ知床岬(東映東京)<br />
**新網走番外地 吹雪の大脱走(東映東京)<br />
*1972年<br />
**日本暴力団 殺しの盃(東映京都)<br />
**新網走番外地 嵐呼ぶダンプ仁義(東映東京)<br />
*1973年 色魔狼(東映東京)<br />
*1974年 夜の演歌 しのび恋(東映東京)<br />
*1978年 [[冬の華]](東映京都)<br />
*1979年<br />
**本日ただいま誕生(新世映画新社)<br />
**わが青春のイレブン(家城プロ)<br />
**[[日本の黒幕]](東映京都)<br />
*1981年<br />
**[[仕掛人・藤枝梅安#映画|仕掛人梅安]](東映=東映太秦映画村)<br />
**[[駅 STATION]](東宝映画)<br />
*1983年 [[居酒屋兆治]](田中プロ)<br />
*1985年<br />
**[[魔の刻]]([[東映セントラルフィルム]])<br />
**[[夜叉 (映画)|夜叉]](東宝=グループ・エンカウンター)<br />
*1987年 [[別れぬ理由]](東映東京)<br />
*1989年<br />
**[[将軍家光の乱心 激突]](東映京都)<br />
**[[極道の妻たち]] 三代目姐(東映京都)<br />
**[[あ・うん]](東宝映画=フィルムフェイス)<br />
*1990年<br />
**[[タスマニア物語]](フジテレビ)<br />
**[[遺産相続 (映画)|遺産相続]](東映京都)<br />
*1991年 [[首領になった男]](松プロ)<br />
*1992年 [[寒椿 (宮尾登美子)#映画|寒椿]](東映京都)<br />
*1994年 新極道の妻たち 惚れたら地獄(東映京都撮影所) <br />
*1995年 [[藏]](東映=松プロ )<br />
*1997年 現代仁侠伝(東映京都撮影所) <br />
*1999年 [[鉄道員 (小説)#映画|鉄道員]](東映・「鉄道員」製作委員会 )<br />
*2001年 [[ホタル (映画)|ホタル]](東映・「ホタル」製作委員会) <br />
*2004年 [[赤い月]](「赤い月」製作委員会)<br />
*2006年 [[単騎、千里を走る。]](日本編監督)<br />
*2007年 [[憑神]](東映・「憑神」製作委員会)<br />
*2012年 [[あなたへ]](東宝・「あなたへ」製作委員会)<br />
*2013年 [[少年H#映画|少年H]](東宝・「少年H」製作委員会)<br />
*2017年 [[追憶 (2017年の映画)|追憶]](東宝・「追憶」製作委員会)<br />
<br />
=== テレビドラマ ===<br />
*[[刑事さん]]<br />
*[[泣いてたまるか]]([[TBSテレビ|TBS]]、[[国際放映]])<br />
*[[水許伝]]<br />
*[[大盗賊]]<br />
*[[TOKYO DETECTIVE 二人の事件簿]]([[ABCテレビ|朝日放送]]、[[大映テレビ]])<br />
*[[俺たちの勲章]]([[日本テレビ放送網|日本テレビ]]、東宝)<br />
*[[夜明けの刑事]](大映テレビ、[[フジテレビジョン|フジテレビ]])<br />
*[[新・二人の事件簿 暁に駆ける!]]<br />
*[[赤い迷路]](大映テレビ、TBS)<br />
*[[大都会 闘いの日々]](日本テレビ、[[石原プロモーション]])<br />
*[[赤い疑惑]](大映テレビ、TBS)<br />
*[[新・夜明けの刑事]]<br />
*[[赤い運命]]<br />
*[[赤い衝撃]]<br />
*[[赤い絆]]<br />
*[[大空港 (テレビドラマ)|大空港]](フジテレビ、松竹)<br />
*[[87分署シリーズ|87分署シリーズ 裸の街]](フジテレビ、松竹)<br />
*[[牟田刑事官事件ファイル]]シリーズ([[テレビ朝日]])<br />
*[[徳川家康 (1988年のテレビドラマ)|徳川家康]](東映 TBS)<br />
*[[もう一つの旅路]]<br />
*[[スナーク狩り (宮部みゆき)#1992年|運命の銃口]]<br />
*[[逃げたい女]]<br />
* 四匹の用心棒 (5) かかし半兵衛無頼旅 (1993年、テレビ朝日 / 東映) <br />
*[[刑事追う!]]([[テレビ東京]]、東映)<br />
*[[忍者返し水の城]](朝日放送)<br />
*[[家康が最も恐れた男、真田幸村]]<br />
<br />
== 脚本 ==<br />
*1967年 懲役十八年 仮出獄 (東映東京)<br />
*1971年 新網走番外地 吹雪の大脱走(東映東京)<br />
*1999年 鉄道員(「鉄道員」製作委員会)<br />
*2001年 ホタル(「ホタル」製作委員会)<br />
*2004年 赤い月(「赤い月」製作委員会)<br />
*2007年 憑神<br />
<br />
== 脚注 ==<br />
<references/><br />
<br />
== 外部リンク ==<br />
* {{jmdb name |0372180 }}<br />
* {{allcinema name |127587 }}<br />
* {{kinejun name |86556 }}<br />
* {{URL |movie.walkerplus.com/person/81677/ |降旗康男(フルハタヤスオ,Yasuo Furuhata)|Movie Walker}}<br />
* {{imdb name |id=0299175 |name=降旗康男 }}<br />
* {{URL |www.matsusen.jp/myway/furihata/frt00.html |信濃毎日新聞松本専売所WEB / 降旗康男・私の半生 }}<br />
<br />
{{降旗康男監督作品}}<br />
{{日本アカデミー賞最優秀脚本賞}}<br />
{{Normdaten}}<br />
{{DEFAULTSORT:ふるはた やすお}} <br />
[[Category:日本の映画監督]]<br />
[[Category:ヤクザ映画の監督]]<br />
[[Category:東映の人物]]<br />
[[Category:東京大学出身の人物]]<br />
[[Category:長野県出身の人物]]<br />
[[Category:旭日小綬章受章者]]<br />
[[Category:1934年生]]<br />
[[Category:存命人物]]</div>
122.214.146.170
崔洋一
2018-04-13T15:22:54Z
<p>122.214.146.170: </p>
<hr />
<div>{{存命人物の出典明記|date=2015年4月28日 (火) 04:04 (UTC)}}<br />
{{ActorActress<br />
| 芸名 = 崔 洋一<br />
| ふりがな = さい よういち<br />
| 画像ファイル = <br />
| 画像サイズ = <br />
| 画像コメント = <br />
| 本名 = 崔洋一(チェ・ヤンイル、{{Lang|ko|최양일}})<br />
| 別名義 = <br />
| 出生地 = {{JPN}} [[長野県]][[佐久市]]<br />
| 死没地 = <br />
| 国籍 = [[朝鮮籍|朝鮮]] ⇒ {{KOR}}<br />
| 民族 = [[朝鮮民族]]<br />
| 身長 =<br />
| 血液型 = <br />
| 生年 = 1949<br />
| 生月 = 7<br />
| 生日 = 6<br />
| 没年 = <br />
| 没月 = <br />
| 没日 = <br />
| 職業 = [[映画監督]]、[[脚本家]]、[[俳優]]、[[大学教授]]<br />
| ジャンル = [[映画]]、[[テレビ映画]]<br />
| 活動期間 = 1969年 - <br />
| 活動内容 = 1969年 照明助手<br />1975年 チーフ助監督<br />1981年 監督昇格<br />2004年 [[日本映画監督協会]]第8代理事長に就任<br />2007年 [[宝塚大学|宝塚造形芸術大学(現: 宝塚大学)]]教授に就任<br />
| 配偶者 = <br />
| 著名な家族 = <br />
| 事務所 =<br />
| 公式サイト = <br />
| 主な作品 = 『[[十階のモスキート]]』<br />『[[月はどっちに出ている]]』<br />『[[血と骨]]』<!--皆が認める代表作品を入力--><br />
| アカデミー賞 = <br />
| AFI賞 = <br />
| 英国アカデミー賞 = <br />
| セザール賞 = <br />
| エミー賞 = <br />
| ジェミニ賞 = <br />
| ゴールデングローブ賞 = <br />
| ゴールデンラズベリー賞 = <br />
| ゴヤ賞 = <br />
| グラミー賞 = <br />
| ブルーリボン賞 = 1984年 作品賞<br />『[[月はどっちに出ている]]』<br />2004年 監督賞<br />『[[刑務所の中]]』<br />
| ローレンス・オリヴィエ賞 = <br />
| 全米映画俳優組合賞 = <br />
| トニー賞 = <br />
| 日本アカデミー賞 = [[第28回日本アカデミー賞|2005年]]最優秀監督賞 / 最優秀脚本賞<br />『[[血と骨]]』<br />
| その他の賞 = 1983年 [[ヴェネツィア国際映画祭]] <small>ノミネート</small><br />1984年 [[毎日映画コンクール]]スポニチグランプリ新人賞<br />『[[十階のモスキート]]』<br />1990年 [[ヨコハマ映画祭]]脚本賞<br />『[[Aサインデイズ]]』<br />1994年 [[日本映画プロフェッショナル大賞]]作品賞<br />1994年 [[キネマ旬報|キネマ旬報賞]]脚本賞 / 作品賞 / 監督賞<br />『[[月はどっちに出ている#ドラマ|<small>J・MOVIE・WARS</small> 月はどっちに出ている]]』<br />[[1993年]] [[報知映画賞]]作品賞<br />1993年 日刊スポーツ映画賞監督賞<br />1994年 毎日映画コンクール脚本賞 / 監督賞<br />1994年 ヨコハマ映画祭監督賞<br />1995年 キネマ旬報賞脚本賞 / 監督賞<br />『[[月はどっちに出ている]]』<br />[[1999年]] 第52回[[ロカルノ国際映画祭]]<br />ドンキホーテ賞 / 国際シネクラブ賞<br />『[[豚の報い]]』<br />2003年 報知映画賞作品賞<br />2004年 毎日映画コンクール監督賞<br />『[[刑務所の中]]』<br />2004年 報知映画賞監督賞<br />2005年 毎日映画コンクール作品賞<br />『[[血と骨]]』<br />
| 備考 = <br />
}}<br />
{{朝鮮の人物<br />
|title=崔洋一<br />
|hangeul=최양일<br />
|hanja=崔洋一<br />
|katakana=チェ・ヤンイル<br />
|hiragana=さい よういち<br />
|latin=Choe Yang-il([[文化観光部2000年式|2000年式]])<br />Ch'oe Yang'il([[マッキューン&#65309;ライシャワー式|MR式]])<br />Sai Yōichi([[ローマ字|ヘボン式]])<br />
}}<br />
{{Portal|映画}}<br />
'''崔 洋一'''(さい よういち、{{Lang-ko-short|최양일}}、男性、[[1949年]](昭和24年)[[7月6日]] - )は、日本の[[映画監督]]、[[脚本家]]、[[俳優]]。[[日本映画監督協会]]理事長、[[宝塚大学]][[教授]]、株式会社[[ネクステップ]]顧問、[[民間放送教育協会]]理事<ref>[http://www.minkyo.or.jp/04/002/ 民間放送教育協会 役員名簿]、2017年1月31日閲覧</ref>を歴任。[[在日韓国・朝鮮人|在日韓国人]]2世。<br />
<br />
== 経歴 ==<br />
父は[[水原市]]出身の[[在日韓国・朝鮮人|在日朝鮮人]]1世で、勉学のため10代で来日<ref name="この母ありて">木村隆『この母ありて』 青蛙房 2010年 128-129頁</ref>。東京で[[熊本県]]出身の日本人の母と結婚したが、[[日本共産党]]系の朝鮮人労働組合の運動にのめり込みしばしば逮捕され、釈放後移り住んだ[[長野県]][[佐久市]]で洋一が生まれた<ref name="この母ありて" />。[[1968年]](昭和43年)、[[東京朝鮮中高級学校]]高級部を卒業。[[東京綜合写真専門学校]]中退後、照明助手として映画界に入り、小道具を経てまもなく演出部に転向、[[1976年]](昭和51年)、『[[愛のコリーダ]]』(監督[[大島渚]]、主演[[藤竜也]])、[[1978年]](昭和53年)、『[[最も危険な遊戯]]』(監督[[村川透]]、主演[[松田優作]])の[[助監督 (映画スタッフ)|チーフ助監督]]を務める。<br />
<br />
[[1981年]](昭和56年)、[[テレビ映画]]『[[プロハンター]]』(主演[[草刈正雄]]、藤竜也)で監督デビュー。同作のプロデューサーであった[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]の[[山口剛 (プロデューサー)|山口剛]]、[[セントラルアーツ]]の[[黒澤満 (映画プロデューサー)|黒澤満]]のプロデュースのもと、「[[火曜サスペンス劇場]]」を2作撮り、満を持して1983年(昭和58年)、『[[十階のモスキート]]』(主演[[内田裕也]])でスクリーンに本格的にデビューする。同作は[[ヴェネツィア国際映画祭]]にも出品され、1984年(昭和59年)、[[毎日映画コンクール]]スポニチグランプリ新人賞を受賞した。<br />
<br />
[[1993年]](平成5年)、日本衛星放送(現[[WOWOW]])のプロデューサー[[仙頭武則]]が立ち上げた「J・MOVIE・WARS」シリーズでのテレビ映画『[[月はどっちに出ている#ドラマ|J・MOVIE・WARS 月はどっちに出ている]]』(主演[[石橋凌]])にひきつづき、[[シネカノン]]の[[李鳳宇]]のプロデュースのもとに手がけた『[[月はどっちに出ている]]』(主演[[岸谷五朗]])で[[報知映画賞]]、[[ブルーリボン賞 (映画)|ブルーリボン賞]]、毎日映画コンクールほかの各賞、各部門賞受賞のほか、第17回[[日本アカデミー賞]]最優秀監督賞、最優秀脚本賞にノミネートされる。<br />
<br />
[[1994年]](平成6年)、[[朝鮮籍]]から韓国籍に変更した。[[李鳳宇]]と共に韓国を初訪問。[[1996年]](平成8年)には[[文化庁]]新進芸術家在外研修員として単身韓国の[[延世大学]]に留学、同国の[[映画人]]たちとの交流をはかる。<br />
<br />
[[1999年]](平成11年)、映画『[[豚の報い]]』(主演[[小澤征悦]])で第52回[[ロカルノ国際映画祭]][[ロカルノ国際映画祭#金豹賞|金豹賞]]にノミネートされ、ドンキホーテ賞(国際シネクラブ賞)を受賞した<ref>[http://www.imdb.com/name/nm0756406/awards Awards for Yoichi Sai]によれば「ドンキホーテ賞 ''Don Quixote Award''」、[http://www.dgj.or.jp/modules/contents1/index.php?id=2 日本映画監督協会 - 理事長]の「プロフィール」には「国際シネクラブ賞」とあるので併記した。</ref>。また自作のWOWOW版『月はどっちに出ている』に「タクシー会社の課長」役で出演以来、俳優としての活動も頻繁になり、ついに同年、俳優として『[[御法度 (映画)|御法度]]』(監督[[大島渚]])に[[近藤勇]]役で出演、翌[[2000年]](平成12年)の[[第53回カンヌ国際映画祭]]の地を大島監督、[[ビートたけし]]、[[松田龍平]]とともに踏んだ。<br />
<br />
[[2004年]](平成16年)、初の外国人の理事長として[[日本映画監督協会]]第8代理事長に就任。2005年(平成17年)、ビートたけし主演の映画『[[血と骨]]』(2004年)で第28回日本アカデミー賞最優秀監督賞、最優秀脚本賞を受賞。また同年、かつてTBSテレビの「[[男と女のミステリー]]」で手がけた[[大沢在昌]]原作の『探偵冴木涼介 十番街の殺人』(主演[[山崎努]]、1989年)以来、ひさびさに「[[大沢在昌#アルバイト探偵シリーズ|アルバイト探偵シリーズ]]」(『帰ってきたアルバイト探偵』)を原作に、WOWOWの「[[ドラマW]]」で『[[アルバイト探偵(アイ) 100万人の標的]]』(主演[[椎名桔平]])を演出した。<br />
<br />
2006年(平成18年)、初の韓国資本の映画『[[ス (映画)|ス SOO]]』(主演[[チ・ジニ]])の撮影を開始し、[[2007年]](平成19年)[[3月22日]]韓国国内で公開、同年[[ドイツ]]の「[[ミュンヘン・アジアフィルムフェスト]]」で上映された。2008年1月25日にはドイツで早くもDVDが発売され、2008年(平成20年)夏、日本でも公開されDVD発売された。<br />
<br />
2007年4月、[[宝塚大学|宝塚造形芸術大学(現: 宝塚大学)]]教授に就任。同年秋、[[白土三平]]原作、[[宮藤官九郎]]脚本、[[松山ケンイチ]]主演による映画『[[カムイ外伝]]』の撮影を開始、2009年(平成21年)9月19日公開された<ref name="カムイ公式" />。<br />
<br />
== 思想 ==<br />
ドキュメンタリー映画『[[ザ・コーヴ]]』に上映中止運動が起こった際には、他の[[ジャーナリスト]]や[[文化人]]とともに「表現の自由を守れ」と上映中止に反対する声明を発表した<ref>[https://web.archive.org/web/20100612120750/http://thecove.sblo.jp/article/38821286.html 映画「ザ・コーブ」オフィシャルサイト](アーカイブ)に崔らの上映中止に対する反対声明は掲載された</ref><ref>{{Cite news | url = http://www.47news.jp/CN/201006/CN2010060701000888.html | title = 映画監督らが反対アピール ザ・コーヴの上映中止で | newspaper = [[47NEWS]] | publisher = [[共同通信社]] | date = 2010-06-07 | accessdate = 2011-08-20 }}</ref>。<br />
<br />
[[2010年]]8月14日放送の[[日本放送協会|NHK]]の討論番組『[[日本の、これから]]』にパネリストとして出演した。この時、日本と韓国の[[歴史認識]]の違いについて討論。参加者の一人([[古谷経衡]])が「当時の日本人は韓国人が憎くて併合したわけではない。当時、世界は帝国主義列強の時代であり、植民地支配はあたり前だった。日本が韓国を併合したことはやむを得なかった」という趣旨の発言に対し、崔は「36年間にわたる[[植民地]]支配がそれによって肯定されるという考え方の人は、基本的に歴史を語る資格がない」と発言した。これに対し、京都大学准教授の[[小倉紀蔵]]は、「歴史というのは、どんな考え方もあり得る。どんな考え方を持ってもいい。それが間違った事実にもとづいて、自分の歴史観を構築したら、それは正していかなければならないけれども『歴史を語る資格はない』という言い方は、間違っていると思う」「歴史問題というのは、権力者があなたの考えは完全に間違い、と言論封鎖してはいけない」と崔の発言を正す場面が見られた<ref>{{Cite web|url=http://www.j-cast.com/2010/08/16073583.html?p=all|title=「韓国併合肯定なら歴史語るな」崔洋一監督の「言論封殺」|publisher=Jcastニュース|date=2010-08-16|accessdate=2015-04-29}}</ref>。<br />
<br />
==フィルモグラフィ==<br />
=== 監督 ===<br />
==== 映画 ====<br />
* [[1983年]] 『[[十階のモスキート]]』([[ニュー・センチュリー・プロデューサーズ]])<br />
* 1983年 『[[性的犯罪]]』([[日活|にっかつ]])<br />
* [[1984年]] 『[[いつか誰かが殺される]]』([[東映]]、[[角川映画#角川春樹時代|角川春樹事務所]])<br />
* [[1985年]] 『[[友よ、静かに瞑れ]]』(角川春樹事務所)<br />
* [[1987年]] 『[[黒いドレスの女]]』(角川春樹事務所)<br />
* [[1988年]] 『[[花のあすか組!]]』(角川春樹事務所)<br />
* [[1989年]] 『[[Aサインデイズ]]』([[大映 (映画)|大映]])<br />
* [[1991年]] 『[[襲撃 BURNING DOG]]』([[東映ビデオ]])<br />
* [[1993年]] 『[[月はどっちに出ている#ドラマ|J・MOVIE・WARS 月はどっちに出ている]]』([[日本衛星放送]]、ヒルヴィラ、東映)<br />
* 1993年 『[[月はどっちに出ている]]』([[シネカノン]])<br />
* [[1995年]] 『[[平成無責任一家 東京デラックス]]』([[アミューズ]]、シネカノン、[[テレビ東京]])<br />
* 1995年 『[[マークスの山]]』([[松竹]]、アミューズ、[[丸紅]])<br />
* [[1998年]] 『[[犬、走る。DOG RACE]]』(東映ビデオ)<br />
* [[1999年]] 『[[豚の報い]]』([[サンセントシネマワークス]])<br />
* [[2002年]] 『[[刑務所の中]]』([[ビーワイルド]]、[[衛星劇場]]) <br />
* [[2004年]] 『[[盲導犬クイールの一生|クイール]]』(松竹、テレビ東京、[[テレビ大阪]]、衛星劇場ほか)<br />
* 2004年 『[[血と骨]]』(「血と骨」製作委員会)<br />
* [[2007年]] 『[[ス (映画)|ス SOO]]』(原題『<span lang="ko">수</span>』、製作TrizCLUB) ※初の韓国映画<br />
* [[2009年]] 『[[カムイ外伝]]』(配給:[[松竹]]、製作プロダクション:ビーワイルド<ref name="カムイ公式">[http://www.shochiku.co.jp/kamui/ 映画「カムイ外伝」]公式サイトを参照した。2007年11月21日閲覧。2009年6月25日閲覧分では「ビーワイルド」のクレジットはない。</ref>)<br />
<br />
==== テレビドラマ ====<br />
;1980年代<br />
* [[1981年]] 『[[プロハンター]]』(テレビ映画、[[セントラルアーツ]]・日本テレビ)<br />
**第15話 『狙われた罠』<br />
**第16話 『悪い女』<br />
**第25話 『ロング・グッドバイ』(最終回)<br />
* [[1982年]] [[火曜サスペンス劇場]]『孤独な狩人』(テレビ映画、セントラルアーツ・日本テレビ)<br />
* [[1983年]] 火曜サスペンス劇場『恐怖』(テレビ映画、セントラルアーツ・日本テレビ)<br />
* 1983年 [[土曜ワイド劇場]]『[[断線 (テレビドラマ)|松本清張の断線]]』(テレビ映画、東映・[[テレビ朝日]])<br />
* [[1985年]] 『[[特命刑事ザ・コップ]]』(テレビ映画、[[テレキャスト]]・[[ABCテレビ|朝日放送]])<br />
**第5話 『死刑の街に罠をはれ!』<br />
**第6話 『ため死い旅をとめろ!』<ref>[http://www.geocities.co.jp/Hollywood-Theater/7601/tokucop.html 「特命刑事ザ・コップ」放送リスト]を参照。</ref> <br />
* [[1986年]] [[水曜ドラマスペシャル]]『亜樹子・哀しみ色の罠』(テレビ映画、[[テレパック]]・TBS)<br />
* 1986年 水曜ドラマスペシャル『恋物語』(テレビ映画、角川春樹事務所・TBS)<br />
* [[1987年]] 火曜サスペンス劇場『あなたに似た人』(テレビ映画、[[ヴァンフィル]]・日本テレビ)<br />
* [[1988年]] [[関西テレビ制作・月曜夜10時枠の連続ドラマ|乱歩賞作家サスペンス]]『罠の中の七面鳥』(テレビ映画、東映・[[関西テレビ放送|関西テレビ]])<br />
* [[1989年]] [[男と女のミステリー]]『探偵冴木涼介 十番街の殺人』(テレビ映画、フジテレビ)<br />
<br />
;1990年代<br />
* [[1990年]] [[水曜グランドロマン]]『最後の結婚詐欺』(テレビ映画、[[ギャラクシー・ワン]]・日本テレビ)<br />
* [[1991年]] 水曜グランドロマン『他人にいえない職業の男』(テレビ映画、ギャラクシーワン・日本テレビ)<br />
<br />
;2000年代<br />
* [[2005年]] [[ドラマW]]『[[アルバイト探偵(アイ) 100万人の標的]]』(テレビ映画、ビーワイルド・[[WOWOW]])<br />
* [[2009年]] 『貴族の夫婦喧嘩』([[テレビ朝日]]『芸能人格付けチェック!2009』)<br />
<br />
=== 助監督 ===<br />
* [[1973年]] 『[[風雲ライオン丸]]』([[ピー・プロダクション]]、[[フジテレビジョン|フジテレビ]]){{efn|サード助監督として参加していたが、現場でチーフ助監督と殴り合いの喧嘩をしたため解雇された<ref>{{Cite journal |和書 |auther=但馬オサム |date =2016-03-13<!--奥付表記--> |publisher =[[洋泉社]] |title=INTERVIEW 『[[スペクトルマン]]』ほか製作 [[篠原茂]] |journal =別冊[[映画秘宝]] 特撮秘宝 |volume =vol.3 |pages=pp.82 |isbn=978-4-8003-0865-8 }}</ref>。}}<br />
* [[1975年]] [[ブラザー劇場]]『[[刑事くん]]』(第3部、[[テレビ映画]]、[[東映]]・[[TBSテレビ|TBS]])<br />
* [[1975年]] 『[[新宿警察]]』(テレビ映画、東映・フジテレビ)<br />
* 1975年 『[[告発 在日韓国人政治犯レポート]]』 監督[[岡本愛彦]](統一社プロ)<br />
* [[1976年]] 『[[愛のコリーダ]]』 監督[[大島渚]](大島渚プロダクション、[[アルゴス・フィルム]])<br />
* [[1977年]] 『[[北村透谷 わが冬の歌]]』 監督[[山口清一郎]](三映社、[[日本アート・シアター・ギルド|ATG]])<br />
* [[1978年]] 『[[皮ジャン反抗族]]』 監督[[長谷部安春]]([[東映セントラルフィルム]]、[[東映ビデオ|東映芸能ビデオ]])<br />
* 1978年 『[[最も危険な遊戯]]』 監督[[村川透]](東映セントラルフィルム)<br />
* 1978年 『[[殺人遊戯]]』 監督村川透(東映セントラルフィルム)<br />
* [[1979年]] 『[[俺達に墓はない]]』 監督[[澤田幸弘]](東映セントラルフィルム)<br />
* 1979年 『[[さらば映画の友よ インディアンサマー]]』 監督[[原田眞人]]([[キティ・フィルム|キティ・フィルム・コーポレーション]])<br />
* 1979年 『[[探偵物語]]』(テレビ映画、東映芸能ビデオ・[[日本テレビ放送網|日本テレビ]])<br />
* [[1980年]] 『[[戒厳令の夜 (映画)|戒厳令の夜]]』 監督[[山下耕作]](白夜プロダクション)<br />
* 1980年 『[[不良少年 (1980年の映画)|不良少年]]』 監督[[後藤幸一]](東映)<br />
<br />
=== 出演 ===<br />
* [[1999年]] 『[[御法度 (映画)|御法度]]』 脚本・監督 [[大島渚]](松竹、角川書店)[[近藤勇]]役<br />
<br />
== 舞台演出 ==<br />
* [[2004年]]『崔版 [[女殺油地獄]]』(シアターアプル)<br />
<br />
== ビブリオグラフィ ==<br />
*『月はどっちに出ている - 崔洋一の世界』([[鄭義信]]・[[木村立哉]]らと共著、[[日本テレビ放送網|日本テレビ出版部]]、1993年 ISBN 4820394169)<br />
*『東京デラックス - 平成無責任一家』(鄭義信と共著、[[扶桑社]]、1994年 ISBN 459401609X)<br />
*『映画「血と骨」の世界』([[梁石日]]、鄭義信と共著、[[新幹社]]、2004年 ISBN 4884000420)<br />
<br />
== 出演番組 ==<br />
<!-- 単発のゲスト出演は不要。レギュラー番組のみ記述をお願いします。「Wikipedia:ウィキプロジェクト 芸能人」参照 --><br />
*[[情報ライブ ミヤネ屋]]([[讀賣テレビ放送|読売テレビ]]、月曜日)<br />
*[[午後は○○おもいッきりテレビ]]([[日本テレビ放送網|日本テレビ]]、不定期)<br />
ほか多数<br />
<br />
==註==<br />
=== 注釈 ===<br />
{{Notelist}}<br />
=== 出典 ===<br />
{{Reflist|2}}<br />
<br />
==関連項目==<br />
*[[日本の映画監督一覧]]<br />
*[[在日韓国・朝鮮人の一覧]]<br />
*[[BATTLE TALK RADIO アクセス]]([[TBSラジオ&コミュニケーションズ|TBSラジオ]]。2003年9月ごろまでコメンテーターとして出演、不定期)<br />
*[[若松孝二]]<br />
*[[山口剛 (プロデューサー)]]<br />
*[[岡田裕]]([[ニュー・センチュリー・プロデューサーズ]])<br />
*[[アナーキー (バンド)]]<br />
*[[角川春樹]]<br />
*[[榎望]]<br />
*[[成田裕介]]<br />
*[[嫌韓]]<br />
<br />
== 外部リンク ==<br />
* {{allcinema name|120154|崔洋一}}<br />
* {{Kinejun name}}<br />
* {{jmdb name|0380580|崔洋一}}<br />
* {{IMDb name|0756406|Yoichi Sai}}<br />
* [http://www.dgj.or.jp/ 日本映画監督協会] - 同協会の公式サイト<br />
* {{Tvdrama-db name}}<br />
<br />
{{崔洋一監督作品}}<br />
{{日本映画監督協会理事長|第8代:[[2004年]]-現在}}<br />
{{キネマ旬報ベスト・テン日本映画監督賞}}<br />
{{キネマ旬報ベスト・テン脚本賞}}<br />
{{ブルーリボン賞監督賞}}<br />
{{毎日映画コンクール監督賞}}<br />
{{日刊スポーツ映画大賞監督賞}}<br />
{{日本アカデミー賞最優秀監督賞}}<br />
{{ヨコハマ映画祭新人監督賞}}<br />
{{ヨコハマ映画祭監督賞}}<br />
{{ヨコハマ映画祭脚本賞}}<br />
{{日本映画批評家大賞監督賞}}<br />
{{花のあすか組!}}<br />
<br />
{{Normdaten}}<br />
<br />
{{DEFAULTSORT:さい よういち}}<br />
[[Category:日本の映画監督]]<br />
[[Category:日本の脚本家]]<br />
[[Category:日本の男優]]<br />
[[Category:宝塚大学の教員]]<br />
[[Category:在日韓国・朝鮮人]]<br />
[[Category:長野県出身の人物]]<br />
[[Category:1949年生]]<br />
[[Category:存命人物]]</div>
122.214.146.170
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