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miniwiki - 利用者の投稿記録 [ja]
2024-05-03T13:21:01Z
利用者の投稿記録
MediaWiki 1.31.0
ナポレオン2世
2018-07-13T15:23:54Z
<p>122.197.105.12: /* 関連項目 */</p>
<hr />
<div>{{出典の明記|date=2009年8月13日 (木) 04:54 (UTC)|ソートキー=人1832年没}}<br />
{{基礎情報 君主<br />
| 人名 = ナポレオン2世<br />
| 各国語表記 = {{Lang|fr|Napoléon II}}<br />
| 君主号 = [[フランス皇帝]]<br />
| 画像 = Nap-receis 50.jpg<br />
| 画像サイズ = <br />
| 画像説明 = ナポレオン・フランツ([[モリッツ・ミヒャエル・ダフィンガー]]画)<br />
| 続柄 = [[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン1世]]第一皇子<br />
| 在位 = [[1815年]][[6月22日]] - [[1815年]][[7月7日]]<br />
| 戴冠日 = <br />
| 別号 = [[ローマ王]]<br>{{仮リンク|ライヒシュタット公爵|fr|Duc de Reichstadt}}<br>{{Lang|fr|L'Aiglon}}<br>レグロン<br>[[アンドラ君主一覧|アンドラ大公]]<br />
| 敬称 = [[陛下|皇帝陛下]]<br>[[殿下]]<br />
| 全名 = {{Lang|fr|Napoléon François Charles Joseph}}<br />ナポレオン・フランソワ・シャルル・ジョゼフ(フランス名)<br>{{Lang|de|Napoleon Franz Karl Joseph}}<br />ナポレオン・フランツ・カール・ヨーゼフ(ドイツ名)<br />
| 出生日 = {{生年月日と年齢|1811|3|20|no}}<br />
| 生地 = {{FRA1804}}、[[パリ]]、[[テュイルリー宮殿]]<br />
| 死亡日 = {{死亡年月日と没年齢|1811|3|20|1832|7|22}}<br />
| 没地 = {{AUT1804}}、[[ウィーン]]、[[シェーンブルン宮殿]]<br />
| 埋葬日 = [[1940年]][[12月15日]](改葬)<br />
| 埋葬地 = {{AUT1804}}、[[ウィーン]]、[[カプツィーナー納骨堂]]<br>{{flagicon|DEU1935}} [[ナチス・ドイツによるフランス占領|占領下フランス]]、[[パリ]]、[[オテル・デ・ザンヴァリッド]](改葬)<br />
| 配偶者1 = <br />
| 子女 = [[マクシミリアン (メキシコ皇帝)|フェルディナント・マクシミリアン]](異説あり)<br />
| 王家 = <br />
| 王朝 = [[ボナパルト朝]]<br />
| 王室歌 = <br />
| 父親 = [[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン1世]]<br />
| 母親 = [[マリア・ルイーザ (パルマ女公)|マリー・ルイーズ・ドートリッシュ]]<br />
| 宗教 = [[カトリック教会|ローマ・カトリック]]<br />
| サイン = <br />
}}<br />
{{commons&cat|Napoleon II|Napoleon II of France}}<br />
[[ファイル:Coat of Arms of the Duke of Reichstadt (Variant 2).svg|thumb|200px|ライヒシュタット公爵としての紋章。]]<br />
'''ナポレオン・フランソワ・シャルル・ジョゼフ・ボナパルト'''({{Lang-fr-short|Napoléon François Charles Joseph Bonaparte}}、[[1811年]][[3月20日]] - [[1832年]][[7月22日]])は、[[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン1世]]の嫡男(長男ではない)で、フランス帝国の[[皇太子]]、[[ローマ王]]。[[百日天下|第一帝政]]の[[フランス皇帝|皇帝]]としては、'''ナポレオン2世'''({{Lang-fr-short|Napoléon II}})。[[オーストリア帝国|オーストリア宮廷]]では'''ライヒシュタット公爵フランツ'''({{lang|de|Franz, Herzog von Reichstadt}})として知られた。<br />
<br />
2世の死によりナポレオン1世の直系は絶えたとされている。[[ナポレオン3世]]はナポレオン1世の甥であり、2世の子ではない。<br />
<br />
== 生涯 ==<br />
=== 孤独な幼年期 ===<br />
[[1811年]][[3月20日]]、[[フランス第一帝政|フランス]][[フランス皇帝|皇帝]]ナポレオン1世と[[ハプスブルク=ロートリンゲン家]]の[[マリア・ルイーザ (パルマ女公)|マリー・ルイーズ]](マリア・ルイーゼ)皇后の間に生まれた。生まれてすぐの[[6月9日]]に[[ローマ王]]とされた。[[1814年]][[4月6日]]にナポレオン1世が[[フォンテーヌブロー宮殿]]で退位すると、母マリー・ルイーズと共に、[[5月21日]]に[[オーストリア帝国|オーストリア]]に帰国した。フランソワ(ナポレオン2世)は、ナポレオンの残党による誘拐を恐れた[[クレメンス・フォン・メッテルニヒ]]によって、ほとんど監禁同然の身になった。<br />
<br />
[[1815年]]に、復位したナポレオン1世と[[ジョゼフ・フーシェ|フーシェ]]から後継者として指名され、叔父の[[リュシアン・ボナパルト|リュシアン]]によって議会上院に採択される。この措置によって一時的ではあるが、フランソワの即位は公的なものとなった。[[6月22日]]から[[7月7日]]までナポレオン2世は名目上のフランス皇帝であった。<br />
<br />
[[1816年]][[3月7日]]に、母マリア・ルイーゼが[[パルマ公国]]の統治を任され、パルマへと旅立っていった。その後、彼の生活は一変し、[[フランス語]]を話したり、フランス語の本を読む事を禁じられ、[[ドイツ語]]を学習する事を強制された。[[1817年]][[5月1日]]に、マリア・ルイーゼはナイペルク伯爵[[アダム・アルベルト・フォン・ナイペルク|アダム・アルベルト]]の娘アルベルティーヌを出産し、[[ウィーン]]でのフランツとの面会の約束を破ってしまった。母親に約束を破られた彼は、この時大変に悲しんだという。マリア・ルイーゼが重い腰を上げ、フランツに会いに行ったのは、それから2年も経った[[1818年]]の7月だった。それからパルマに戻ったマリア・ルイーゼは、[[1819年]][[8月9日]]にはナイペルク伯爵の息子のギヨームを生み、また彼との面会の約束を破った。その後、[[ロシア帝国|ロシア]][[ロシア皇帝|皇帝]][[アレクサンドル1世]]がフランツの許を訪れた事があり、その時「綺麗で賢く、好感の持てるなかなか良い少年ではないか」と言ったという。<br />
<br />
[[1821年]][[5月5日]]、幼い時に別れたまま一度も再会する事がなかった父ナポレオン1世が[[セントヘレナ|セントヘレナ島]]で死去した。父の死を知ったフランツは、椅子に身を投げ出し泣いたという。[[1822年]]の[[8月15日]]にマリア・ルイーゼは再びナイペルク伯爵の娘を出産し、9月上旬には正式にナイペルク伯爵と結婚した。この年と1825年に、マリア・ルイーゼはナイペルク伯爵の子供を出産し、この間にウィーンにいるフランツに会いに行ったのはたったの1回だった。<br />
<br />
=== 父への憧れ ===<br />
母がナイペルク伯と結婚した頃から、フランツは「{{仮リンク|ライヒシュタット公|fr|Duc de Reichstadt|label=ライヒシュタット公爵}}」(''{{lang|de|Herzog von Reichstadt}}'')と呼ばれる事になった。彼は歴史に熱中するようになっていた。ライヒシュタット公爵はフランス語に対する愛着を持ち続けた。それまでドイツ語によるナポレオン中傷に囲まれながら育ってきたライヒシュタット公爵は父の真の姿を知りたいと思い、フランス語を昼夜熱心に学んだ。ライヒシュタット公爵は宮殿内の図書館に入り込んでは、フランス語の本を貪るように読んだ。父の部下ラス・カスが発表した『セント・ヘレナ島の記録』も、モントロン伯爵の『回想録』も、彼を感動で包んだ。ライヒシュタット公は父ナポレオン1世が、常々オーストリア人達が言っているような「ヨーロッパの平和を乱した罪人」ではなく、偉大な英雄であった事を知った。ライヒシュタット公爵はこれ以降、父の事を深く尊敬し、強く憧れるようになった。[[結核]]にかかったのもこの頃だった。少しでも父に近づきたいと思ったライヒシュタット公爵は、耐寒訓練などの猛烈な軍事訓練に励むようになり、この事が病気を悪化させてしまったと言われている。<br />
<br />
そんな日々の中でライヒシュタット公爵は、母マリア・ルイーゼが父の存命中、秘密のうちにナイペルク伯爵との子供のアルベルティーヌとギヨームを出産していた事を知った。しかし、ただ1人の親となった母親の愛を失いたくないと知らないふりをし、前にもましてマリア・ルイーゼに宛てて優しい手紙を書いた。しかし、この事実を知ったライヒシュタット公爵の衝撃と、母の軽率さに対する嫌悪は強く、後に「母は父にふさわしくなかった」と書き残している。そのうち、ライヒシュタット公爵はプロケッシュというオーストリア人の青年に出会う。彼は『ワーテルロー戦記』という著書の中で、徹底的にナポレオン1世を擁護していた。ライヒシュタット公爵は感激し、それから2人は親友になった。<br />
<br />
その後、[[1832年]][[7月21日]]にプロケッシュは、[[ローマ]]にいたライヒシュタット公爵の祖母[[マリア・レティツィア・ボナパルト|マリア・レティツィア]]の許を訪れた。そして彼は、ライヒシュタット公爵はナポレオン1世の息子にふさわしく、立派に成長していると話して聞かせた。この話を聞いたレティツィアは喜び、「あの子に父の意志の全てを尊重するようにと伝えてください。いつか、あの子の時代が来るでしょう。あの子はフランスの玉座に上る事でしょう」と言った。<br />
<br />
しかしその同じ日、ライヒシュタット公爵は病の床に臥していた。教育係であるディートリヒ・シュタインの再三にわたる嘆願の手紙で、やっとウィーンに来たマリア・ルイーゼも、やつれ果てた息子の姿を見ると、さすがに良心の呵責に苛まれた。うとうととしていたライヒシュタット公爵は「馬の用意をしろ! 父の前方を行かなければならないのだ」と突然叫んだ。翌[[1832年]][[7月22日]]、ライヒシュタット公爵は21歳という若さで死去し、ハプスブルク家の墓地である[[カプツィーナー納骨堂]]に葬られた。妻子なく、ナポレオン1世の直系は途絶えたとされている。<br />
<br />
== 死後 ==<br />
死から100年と少し経った[[1940年]][[12月15日]]、ライヒシュタット公爵の棺はウィーンから父ナポレオン1世が眠るパリの[[オテル・デ・ザンヴァリッド]]へ移され、その[[地下墓所]]に改葬された。この命令を出したのは、ナポレオンを敬愛していた[[ナチス・ドイツ|ドイツ]][[総統]][[アドルフ・ヒトラー]]だった。(ヒトラーはオーストリア出身で、彼の率いる[[ナチス・ドイツ]]は当時フランスを占領していた)<br />
<br />
== 人物 ==<br />
[[ファイル:Stieler Archduchess 1832.jpg|thumb|200px|[[ゾフィー (オーストリア大公妃)|ゾフィー大公妃]]]]<br />
[[ファイル:Maximilian of Mexico bw.jpg|thumb|200px|[[マクシミリアン (メキシコ皇帝)|メキシコ皇帝マクシミリアン1世]]]]<br />
幼少の頃に父母と別れ、家庭的には不幸と言える境遇にあった一方、母方の実家ハプスブルク=ロートリンゲン家の人々は父ナポレオン1世については否定的であったものの、ライヒシュタット公爵自身には友好的に接した。外祖父[[フランツ2世|フランツ1世]]はライヒシュタット公爵のためにオーストリア軍の軍服を与え、執務中そばで遊ぶ事を許した事もあった。<br />
<br />
また、義理の叔母・[[ゾフィー (オーストリア大公妃)|ゾフィー大公妃]]とは仲が良く、従弟にあたる[[マクシミリアン (メキシコ皇帝)|マクシミリアン]]が誕生した際には、ライヒシュタット公爵とゾフィーの[[不倫]]が噂されるほどであった<ref>[https://m-repo.lib.meiji.ac.jp/dspace/bitstream/10291/5000/1/kyouyoronshu_225_137.pdf 悲劇のメキシコ皇帝マクシミリアン1世]</ref>。なお、マクシミリアンがライヒシュタット公爵の隠し子であった場合、マクシミリアンはナポレオン1世の孫、フランツ1世の曾孫になり、ナポレオン1世直系の血筋はマクシミリアンが処刑される[[1867年]]まで存続したことになる。<br />
<br />
== 脚注 ==<br />
{{Reflist}}<br />
<br />
== 関連項目 ==<br />
*[[ゾフィー (オーストリア大公妃)]]<br />
*[[マクシミリアン (メキシコ皇帝)]]<br />
<br />
{| class="navbox collapsible collapsed" style="width:100%; margin:auto;"<br />
|-<br />
! style="background:#ccf;"|地位の継承<br />
|-<br />
|<br />
{{s-start}}<br />
{{s-hou|[[ボナパルト朝]]|1811年|3月20日|1832年|7月22日}}<br />
|-<br />
{{s-off|}}<br />
|-<br />
{{s-bef|before=[[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン1世]]<br />''{{small|フランス皇帝}}''}}<br />
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{{s-aft|after=[[ルイ18世 (フランス王)|ルイ18世]]<br />''{{small|フランス国王}}''}}<br />
|-<br />
{{s-reg|}}<br />
|-<br />
{{s-bef|rows=3|before=[[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン1世]]}}<br />
{{s-ttl|title={{FRA}}[[フランス皇帝|皇帝]]([[百日天下]])|years=1815年}}<br />
{{s-aft|rows=2|after=[[ルイ18世 (フランス王)|ルイ18世]]}}<br />
|-<br />
{{s-ttl|title={{Flagicon|AND}} [[アンドラ]][[アンドラ君主一覧|共同大公]]|years=1815年|alongside=<br />[[:en:Francesc Antoni de la Dueña y Cisneros|フランセスク・アントニ・デ・ラ・ドゥエニャ・イ・シスネロス]]}}<br />
|-<br />
{{s-ttl|title=[[ボナパルト朝|ボナパルト家]]家長|years=1821年 - 1832年}}<br />
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|-<br />
{{s-reg|fr}}<br />
|-<br />
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{{s-ttl|title=[[ローマ王]]|years=1811年 - 1815年}}<br />
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|-<br />
{{s-reg|au}}<br />
|-<br />
{{s-new|rows=|reason=}}<br />
{{s-ttl|title={{仮リンク|ライヒシュタット公爵|fr|Duc de Reichstadt}}|years=1818年 - 1832年}}<br />
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{{end}}<br />
|}<br />
{{フランス君主}}<br />
{{Normdaten}}<br />
<br />
{{DEFAULTSORT:なほれおん2}}<br />
[[Category:ナポレオン・ボナパルト|+]]<br />
[[Category:フランス皇帝]]<br />
[[Category:フランスの幼君]]<br />
[[Category:オーストリアの公爵]]<br />
[[Category:フランス第一帝政の人物]]<br />
[[Category:ボナパルト家]]<br />
[[Category:ハプスブルク帝国の人物]]<br />
[[Category:パリ出身の人物]]<br />
[[Category:結核で死亡した人物]]<br />
[[Category:1811年生]]<br />
[[Category:1832年没]]</div>
122.197.105.12
テンプレート:聖書翻訳
2018-07-12T18:18:47Z
<p>122.197.105.12: </p>
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[[Category:翻訳聖書|-]]<br />
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122.197.105.12
キリスト友会婦人外国伝道協会
2018-07-12T12:22:25Z
<p>122.197.105.12: </p>
<hr />
<div>'''キリスト友会婦人外国伝道協会'''(キリストゆうかいがいこくでんどうきょうかい)は、[[クエーカー|フレンド派]]の海外宣教団体である。「フィラデルフィア・フレンド婦人外国伝道協会」とも言う。<br />
<br />
17世紀に[[イギリス]]で起こったフレンド派は1657年ごろ[[アメリカ合衆国の植民地時代|アメリカ]]に伝えられ、[[ペンシルバニア州]][[フィラデルフィア]]は[[クエーカー]]の都市として誕生した。<br />
<br />
1882年にクエーカーの都市であるフィラデルフィアでフィラデルフィア・フレンド婦人外国伝道協会が組織された。[[内村鑑三]]、[[新渡戸稲造]]と出会うことにより日本宣教が始まった。<br />
<br />
1885年に[[ジョセフ・コサンド]]を最初の[[宣教師]]として派遣して、日本宣教を始めた。[[津田仙]]、[[W・W・ホイットニー]]の協力で1887年に[[普連土女学校]]([[普連土学園中学校・高等学校|普連土学園]])が設立された。1888年に「月会」<ref>後に年会になった在日フレンド会員による日本フレンド派の組織。</ref>を開催して、1890年に最初のフレンド派の教会の芝普連土教会を建設した。<ref>高橋2003年,166-167頁</ref><br />
<br />
1892年に男子会員の入会を認めて、協会は年会の伝道局となり、日本委員会になった。1894年の[[日清戦争]]に際して平和の心情を守る宣教師と戦争の正当性を主張する日本人フレンドの間に対立が生じた。芝普連土教会の若い会員が戦争を義戦と位置づけて、「清韓事件基督教同士会」への参加が議論された。宣教師たちは[[非戦論]]を主張し、日清戦争開戦3ヵ月後の1894年10月31日に、「月会」を退会した。教会が混乱し、自然消滅した。宣教師たちは少数の日本人フレンド会員と共に教会を再組織した。<br />
<br />
1900年に宣教師の中心的人物コサンドが伝道協会と対立して辞職する。1917年に日本年会が組織される。1941年の[[日本基督教団]]の成立時、第3部に参加する。戦後、日本基督教団を離脱して、1947年に日本年会が復活した。<br />
<br />
== 脚注 ==<br />
<references /><br />
<br />
== 参考文献 ==<br />
*『日本キリスト教歴史大事典』[[教文館]]、1988年<br />
*[[高橋昌郎]]『明治のキリスト教』[[吉川弘文館]]、2003年<br />
<br />
{{明治時代の来日宣教師}}<br />
<br />
{{デフォルトソート:きりすとゆうかいふしんかいかいてんとうきようかい}}<br />
[[Category:アメリカ合衆国のクエーカー]]<br />
[[Category:明治時代のキリスト教]]<br />
[[Category:キリスト教の宣教団体]]<br />
[[Category:福音宣教]]</div>
122.197.105.12
河津祐邦
2018-07-12T12:20:30Z
<p>122.197.105.12: /* 関連項目 */</p>
<hr />
<div>[[Image:Kawadu Sukekuni.jpg|200px|thumb|河津祐邦]]<br />
'''河津 祐邦'''(かわづ すけくに、[[文政]]4年([[1821年]]) - [[明治]]6年([[1873年]]))は、[[江戸幕府]]の[[旗本]]。[[幕末]]に[[勘定奉行]]、[[関東郡代]]、[[長崎奉行]]、[[外国事務総裁]]などの重職を歴任した。家禄は100俵高。官職名は'''伊豆守'''。墓は東京谷中五林寺にある<ref name="『長崎県大百科事典』「河津伊豆守祐邦」">『長崎県大百科事典』 長崎新聞社 「河津伊豆守祐邦」(同書178頁)。</ref>。遠祖は[[伊豆国]]河津荘の[[地頭]]で<ref name="『長崎県大百科事典』「河津伊豆守祐邦」"/>、[[曾我兄弟の仇討ち]]で有名な[[工藤祐経]]の子孫<ref name="『長崎奉行 江戸幕府の耳と目』「長崎を脱出した河津伊豆守」">『長崎奉行 江戸幕府の耳と目』 外山幹夫著 中公新書 「長崎を脱出した河津伊豆守」(178 - 180頁)。</ref>。[[大津事件]]の際に刑事局長を務めた官僚の[[河津祐之]]は祐邦の女婿<ref>『国史大辞典』3巻 吉川弘文館 「河津祐之」(同書734頁)。</ref>、孫の[[河津暹|暹]]は経済学者(東京帝国大学経済学部教授)である。<br />
<br />
== 生涯 ==<br />
=== 幕臣としての経歴 ===<br />
[[嘉永]]3年([[1850年]])9月家督を継いで小普請入りし、同年12月に表火之番に就任。翌4年([[1851年]])8月に[[徒目付]]に就任。[[安政]]元年([[1854年]])7月28日、[[箱館奉行]]支配調役(150俵高)となって[[蝦夷地]]の開拓や[[五稜郭]]の築造に携わり、同年12月27日に箱館奉行支配組頭となり同時に[[御目見]]の身分となる。安政5年([[1858年]])2月27日に[[布衣]]を許され、家禄は100俵高となる。<br />
<br />
[[文久]]3年([[1863年]])4月11日に[[新徴組]]支配(1000石高)、同年9月28日には[[外国奉行]]に就任。同年、幕府は[[八月十八日の政変]]の後、攘夷の体面を保つ必要から[[横浜港|横浜]]を鎖港しようと図った。その交渉のため、河津は[[池田長発|池田筑後守長発]]と共にフランス公使と折衝。同年11月に欧米への差遣を命ぜられ、池田長発を正使とする遣欧使節団([[横浜鎖港談判使節団]])の副使として12月に出国。[[上海]]・[[スエズ]]・[[マルセイユ]]を経て[[パリ]]に入り、交渉に当ったが、開国の必要性を感じて横浜の鎖港を断念。[[パリ約定]]を調印して帰国。池田長発と共に幕府に建議したが、逆に咎められ[[元治]]元年([[1864年]])7月23日に免職、逼塞を命ぜられる<ref name="『長崎奉行 江戸幕府の耳と目』「長崎を脱出した河津伊豆守」"/>。<br />
<br />
同年12月に逼塞を解かれ、[[慶応]]2年([[1866年]])3月16日に歩兵頭並(1000石高)となり、[[関東郡代]]を同年8月26日から同3年([[1867年]])1月26日まで5ヶ月間務める。26日からは、関東の取締強化のために設置された[[関東在方掛]](勘定奉行並・在方掛)に同じく前関東郡代の[[木村勝教|木村飛騨守勝教]]とともに任命される<ref>関東在方掛は役高2,000石で、河津は[[安房国]]・[[上総国]]・[[下総国]]・[[常陸国]]を支配し、下総国[[相馬郡 (下総国)|相馬郡]]布佐村(現・[[千葉県]][[我孫子市]])を陣屋とした。なお関東郡代の廃止は同年2月5日であるが、河津の後任は無かった模様である。</ref>。同年8月15日に第124代目の長崎奉行に就任、同年10月11日(11月6日)に長崎に着任する<ref name="『長崎県大百科事典』「河津伊豆守祐邦」"/><ref name="『日本キリスト教史』">『日本キリスト教史』五野井隆史著 吉川弘文館 (253 - 255頁)。</ref>。<br />
<br />
慶応4年([[1868年]])正月、[[鳥羽・伏見の戦い]]で幕府軍が新政府軍に敗れたという報を聞いた後、同月15日早朝にイギリス船に乗って長崎を脱出し江戸に戻る<ref name="『長崎県大百科事典』「河津伊豆守祐邦」"/>。同月23日(または24日)、奉行職を罷免。同日、外国事務副総裁に就任し、同年2月6日に外国事務総裁となった<ref>前任者である[[小笠原長行]]が明治元年正月に外国事務総裁を免ぜられ、[[山口直毅]]が同月23日に同職に就任。その際に外国事務副総裁が置かれ、河津がこれに任命される。後に、河津が若年寄に転任して、外国事務総裁は廃止となった。</ref>。同月29日に[[若年寄]]に転任し、そのまま江戸幕府終焉の時を迎える。<br />
<br />
=== 長崎脱出 ===<br />
河津が奉行として着任した慶応3年当時、長崎の地には[[海援隊]]や全国各地からやってきた諸藩の[[浪人]]達が横行し、幕府の権威は失墜していた。同年11月6日に[[大政奉還]]の報が、同12月26日には[[王政復古の大号令]]が出されたことが長崎の地にも伝わってきた。そして翌慶応4年1月10日には、鳥羽・伏見の戦いでの幕府軍の敗戦の報が届いた。<br />
<br />
この報に接した河津は、正月13日、当時の長崎港守備当番の[[福岡藩]][[長崎聞役|聞役]]の粟田貢を奉行所に呼び、長崎からの退去の意思を告げ、平穏裡にことを運びたい旨を伝えた。これを聞いた粟田は、[[薩摩藩]]の聞役・松方助左衛門([[松方正義]])や土佐藩士佐々木三四郎([[佐々木高行]])を招き、事後について河津と共に打合わせをした。この際、河津は長崎奉行所西役所にあった金子も運び出そうとしたが、談判の上、残していくこととなった<ref name="『長崎奉行 江戸幕府の耳と目』「長崎奉行所の崩壊」">『長崎奉行 江戸幕府の耳と目』 外山幹夫著 中公新書 「長崎奉行所の崩壊」(180 - 183頁)。</ref>。<br />
<br />
翌14日、河津は、西役所は海岸に近く不用心であるから、立山役所にこれをまとめるために移転するという名目で、大掛かりな荷物の移動を行なった<ref>長崎奉行所の役所は、立山役所と[[出島]]に面した西役所の2つがあった。</ref>。引越し作業は早朝から夜まで続き、夜には引越しの祝いとして、立山役所から260人分の料理の注文が出された。しかし、この注文が突然取消されたため、立山役所の近所では大騒ぎとなった。同時に西役所近くの薩摩屋敷でも人の出入りが頻繁に行なわれていたため、町民の間で様々な憶測が飛び交った<ref name="『長崎奉行 江戸幕府の耳と目』「長崎奉行所の崩壊」"/>。<br />
<br />
翌15日朝、奉行所から長崎の地役人の主だった者たちに布告が伝えられた。それは「鳥羽・伏見の地で容易ならぬ事態が生じたので、奉行は長崎在勤の支配向を召連れ、江戸表へ戻ることとする。その方が当地の者のためにも良いと判断する。留守中のことは、筑前福岡藩主と肥前島原藩主に依頼しているので、この両人が取計らうことになっている」というものであった。そして、地元の調役に5,000石の米と6,000両の金を託して、これを地役人らへの当面の手当とし、町方掛に米5,000石を渡し、これを市中一同への当座の配当とする処置がとられていた<ref name="『長崎奉行 江戸幕府の耳と目』「長崎奉行所の崩壊」"/>。<br />
<br />
河津は、奉行所引越しの騒ぎに町民の眼を向けさせ、その間に密かに支度をし、身辺の品を港内に停泊中のイギリス船に運び、ついで守衛の村尾氏次という者1人を伴って西役所から出て、イギリス船に乗り込んだ。その時彼は、洋服に靴を履き、ピストルをズボンに隠し持っていたという。慶応4年1月14日夜11時頃のことであった。そして、翌15日早朝、その船で長崎を脱出した<ref name="『長崎奉行 江戸幕府の耳と目』「長崎奉行所の崩壊」"/>。<br />
<br />
河津が長崎を去った後、当時長崎にいた各藩藩士や長崎の地役人達が協議し、政府から責任者が派遣されるまで諸事を行なうための協議体を作り、[[長崎会議所]]と称して、長崎奉行所西役所をその役所とした。また、長崎奉行支配組頭の中台信太郎が長崎奉行並に昇任し、奉行所の残務整理をした。同年2月23日に中台はその役を免ぜられ(『柳営補任』<ref name="『長崎奉行 江戸幕府の耳と目』「長崎奉行所の崩壊」"/>)、長崎奉行所はその役目を終えた<ref name="『長崎奉行 江戸幕府の耳と目』「長崎奉行所の崩壊」"/>。<br />
<br />
後日、長崎で事後処理にあたった各藩士達は、河津の長崎脱出を「脱去之挙動、脱走同様の筋」であると酷評した(『長崎県史稿』国立公文書館蔵)<ref name="『長崎奉行 江戸幕府の耳と目』「長崎奉行所の崩壊」"/>。その一方、彼の行動は、長崎の地での幕府軍と新政府軍との武力衝突を回避するためのものだったとの評価もある<ref>外山幹夫著『長崎 歴史の旅』19 - 20頁、同著『長崎奉行 江戸幕府の耳と目』180頁。</ref>。<br />
<br />
== 浦上キリシタン問題 ==<br />
慶応3年(1867年)、長崎の浦上村の[[隠れキリシタン]]が、自らの[[キリスト教]]信仰を表明し、捕縛されるという事件が発生し([[浦上四番崩れ]])、河津は前任の長崎奉行である[[能勢頼文]]や[[徳永昌新]]からこの問題を引き継いだ。<br />
<br />
河津は、信徒達の中で、ただ1人転宗を拒んだ[[高木仙右衛門]]を密かに立山の奉行所に呼び出し、2人だけで対話した。河津は仙右衛門に転宗を穏やかに諭したが、彼はそれには従おうとはしなかった。河津は、自分は仙右衛門を殺すために呼んだのではないと言い、キリスト教は良い教えであるが、今は信仰の許しが無い、御許しが出るまで心の中でのみ信仰するに留め、表立った信仰はしないように、と伝えた。しかし仙右衛門は、心の内でだけ信じることはかないませぬと返答した。河津はさらに、キリストの教えの良いことは、フランスに行った自分はよく知っている。しかし、今の情勢下では信仰を許すわけにはいかないので、今日は家に帰りよくよく考えて返事をするようにと述べ、仙右衛門に金3分を紙に包んで与えたという(『仙右衛門覚書』<ref name="『長崎奉行 江戸幕府の耳と目』「長崎を脱出した河津伊豆守」"/>)。<br />
<br />
しかし、この問題を解決する前に河津は長崎を脱出したため、浦上の信徒達の処遇は維新政府が決めることになった<ref name="『日本キリスト教史』"/>。<br />
<br />
== 脚注 ==<br />
<references /><br />
<br />
== 参考文献 ==<br />
* 『「株式会社」長崎出島』 [[赤瀬浩]]著 [[講談社選書メチエ]] ISBN 4-06-258336-4<br />
* 『寛政譜以降旗本家百科事典』第2巻 [[小川恭一]]編著 [[東洋書林]] 1997.11.20 ISBN 4-88721-304-2<br />
* 『日本キリスト教史』 [[五野井隆史]]著 [[吉川弘文館]] ISBN 4-642-07287-X<br />
* 『長崎奉行 江戸幕府の耳と目』 [[外山幹夫]]著 [[中公新書]] ISBN 4-12-100905-3<br />
* 『長崎 歴史の旅』 外山幹夫著 [[朝日新聞社]] ISBN 4-02-259511-6<br />
* 『[[国史大辞典 (昭和時代)|国史大辞典]]』3巻 吉川弘文館 ISBN 978-4-642-00503-6<br />
* 『国史大辞典』10巻 吉川弘文館 ISBN 978-4-642-00510-4<br />
* 『国史大辞典』14巻 吉川弘文館 ISBN 978-4-642-00514-2<br />
* 『長崎県大百科事典』 [[長崎新聞社]]<br />
* 『長崎県の地名 日本歴史地名大系43』 [[平凡社]]<br />
* 『長崎県の歴史』 [[山川出版社]] ISBN 4-634-32420-2<br />
* 『街道の日本史50 佐賀・島原と長崎街道』 [[長野暹]]編 吉川弘文館 ISBN 4-642-06250-5<br />
* 『新版 日本外交史辞典』 [[外務省外交史料館]] [[山川出版社]]<br />
<br />
== 関連項目 ==<br />
* [[江戸開城]]<br />
<br />
{{DEFAULTSORT:かわつ すけくに}}<br />
[[Category:幕末の旗本]]<br />
[[Category:江戸幕府若年寄]]<br />
[[Category:江戸幕府勘定奉行]]<br />
[[Category:外国奉行]]<br />
[[Category:関東郡代]]<br />
[[Category:長崎奉行]]<br />
[[Category:箱館奉行所の人物]]<br />
[[Category:横浜鎖港談判使節団の人物]]<br />
[[Category:幕府陸軍の人物]]<br />
[[Category:新徴組隊士]]<br />
[[Category:戊辰戦争の人物]]<br />
[[Category:江戸時代のキリスト教]]<br />
[[Category:河津氏|すけくに]]<br />
[[Category:武蔵国の人物]]<br />
[[Category:1821年生]]<br />
[[Category:1873年没]]</div>
122.197.105.12
イギリス・バプテスト伝道会社
2018-07-12T12:15:15Z
<p>122.197.105.12: </p>
<hr />
<div>'''イギリス・バプテスト伝道会社'''([[英語|英]]:Baptist Missonary Society、略称:BMS)は、[[イギリス]]の[[バプテスト教会|バプテスト派]]の海外宣教の団体である。現在は、"BMS World Mission"である。<br />
<br />
1792年[[ウィリアム・ケアリー (宣教師)|ウィリアム・ケアリー]]によって[[パテキュラー・バプテスト]]独自の外国宣教の必要の訴えられて、海外宣教団体が組織される。これは、[[ロンドン宣教会]]に次ぐ大規模な組織になる。<br />
<br />
1809年に[[ビルマ]]に、1812年に[[セイロン島]]に、1813年に[[東インド諸島|東インド]]に、1845年に[[清|清国]]に、1878年に[[日本]]に[[宣教師]]を派遣する。そのほか、中南米、[[アフリカ]]などに宣教師を派遣する。<br />
<br />
日本へは1878年([[明治]]11年)に、[[ウィリアム・ホワイト|W・J・ホワイト]]を派遣した。アメリカ・バプテスト宣教連合と協力して[[福音伝道|伝道]]し、本所浸礼教会、1887年には栃木教会を設立した。<br />
<br />
1890年に本部がアフリカ伝道に力を入れるために、日本宣教を打ち切る。日本教区はアメリカ・バプテスト宣教連合に委任される。<br />
<br />
== 参考文献 ==<br />
*『日本キリスト教歴史大事典』[[教文館]]、2003年<br />
<br />
{{明治時代の来日宣教師}}<br />
<br />
{{デフォルトソート:いきりすはふてすとせんきようかいしや}}<br />
[[Category:バプテスト教派]]<br />
[[Category:明治時代のキリスト教]]<br />
[[Category:福音宣教]]<br />
[[Category:キリスト教の宣教団体]]</div>
122.197.105.12
愛隣学校
2018-07-12T12:13:56Z
<p>122.197.105.12: /* 関連項目 */</p>
<hr />
<div>'''愛隣学校'''(あいりんがっこう)は、[[登別市|幌別村]]及び[[函館]](元町・谷地頭)に存在した[[キリスト教]]系[[アイヌ]][[学校]]である。[[聖公会]]の[[ジョン・バチェラー]]の構想の下、アイヌ首長[[金成喜蔵]]によって幌別村に開設された私塾「相愛学校」を母体とした。[[日曜学校]]や仮の[[礼拝堂]]としても使用された。[[日英修好通商条約]]違反により閉鎖されると、その代わりとして新たに函館に開設された。明治37、8年頃、廃校となった。<br />
<br />
== 略歴 ==<br />
[[明治]]18年([[1885年]])、幌別村にて、アイヌにキリスト教教育・アイヌ語教育を行っていたジョン・バチェラーは、[[金成太郎]]を校主として、アイヌにキリスト教教育を施すアイヌ学校の設立を構想していた<ref>仁多見巌『ジョン・バチラー』大空社、1998年、65頁。</ref>。同年8月、アイヌであることを理由に教師を続けることができなくなった息子・太郎のことを不憫に思った父・喜蔵は、アイヌ学校設立を構想していたバチェラーの勧めもあって、自宅の傍に小屋を建て、これを私塾「相愛学校」とした<ref>仁多見巌『ジョン・バチラー』大空社、1998年、72頁。</ref>。ここで、太郎はアイヌ子弟に教育を行った。<br />
<br />
あくまで私塾という[[北海道庁 (1886-1947)|北海道庁]]から許可を得ていない不正式な教育であったため、明治21年([[1888年]])4月、太郎を校主として、正式な学校である「私立相愛学校」として開校届を提出するも、北海道庁によって不認可となる。同年8月、校主を太郎から[[片倉氏|片倉家]]の旧臣である西東勇吾へと変更する。9月5日、開校が許可される。9月8日、校名を「私立相愛学校」から「愛隣学校」へと変更。9月10日、開校式<ref name=john77>仁多見巌『ジョン・バチラー』大空社、1998年、77頁。</ref>。<br />
<br />
後に日曜学校も併設し、仮の礼拝堂としても使用された<ref name=john78>仁多見巌『ジョン・バチラー』大空社、1998年、78頁。</ref>。<br />
<br />
明治25年([[1892年]])、[[室蘭郡]][[郡長|長]]によって、日英修好通商条約違反として閉鎖された後、取り壊された<ref name=hakodate>函館市史編さん室編『函館市史』通史編第2巻、函館市、1990年、1251-1252頁。</ref>。<br />
<br />
その代わりとして、函館元町の聖公会聖堂・仮食堂内に開設された。同じ聖公会の宣教師で[[教育者]]であった[[ネトルシップ]]が校長となった<ref name=hakodate/>。明治26年([[1893年]])、谷地頭に校舎を新築した<ref name=hakodate/>。また、14歳以下の子どもを収容する付属育児院も併設された<ref name=hakodate/>。<br />
<br />
明治37、8年頃、廃校となった<ref name=hakodate/>。<br />
<br />
== 概略 ==<br />
=== 授業内容 ===<br />
*愛隣学校<br />
*:[[ローマ字]]・[[アイヌ語]]の読み書き<ref name=john78/><br />
*:[[フットボール]]の類(函館)<ref name=hakodate/><br />
*日曜学校<br />
*:[[祈祷]]・[[聖書]]<ref name=john78/><br />
<br />
=== 教師 ===<br />
校長(幌別):西東勇吾([[片倉氏|片倉家]]旧臣<ref>登別市役所編『[http://www.city.noboribetsu.lg.jp/pr/kouhou_old/1981/19810201.pdf 広報のぼりべつ]』No.318、登別市役所、1981年、6頁。</ref>)<br />
<br>教師(幌別):[[芥川清五郎]]<ref name=john77/><br />
<br>校長(函館):ネトルシップ<ref name=hakodate/><br />
<br />
=== 児童・生徒数 ===<br />
*愛隣学校(幌別)<br />
*:アイヌ児童:15名<ref name=john78/><br />
*:和人児童:1名<ref name=john78/><br />
*日曜学校<br />
*:アイヌ児童:11名<ref name=john78/><br />
*:和人児童:12名<ref name=john78/><br />
*愛隣学校(函館)<br />
*:予科:11名<ref name=hakodate/><br />
*:本科:4名<ref name=hakodate/><br />
*付属育児院<br />
*:14名<ref name=hakodate/><br />
<br />
=== 仮礼拝堂 ===<br />
アイヌ[[首長]]である金成喜蔵をはじめ十数名のアイヌクリスチャン、[[日本基督教会]]の信徒である[[片倉景光]]のほか和人のクリスチャン5、6名が熱心に教会に通った<ref>日本聖公会歴史編集委員会編『あかしびとたち―日本聖公会人物史』日本聖公会出版事業部、1974年、57頁。</ref>。<br />
<br />
==脚注==<br />
{{脚注ヘルプ}}<br />
{{Reflist}}<br />
<br />
== 参考文献 ==<br />
*日本聖公会歴史編集委員会編『あかしびとたち―日本聖公会人物史』日本聖公会出版事業部、1974年。<br />
*福島恒雄『北海道キリスト教史』日本基督教団出版局、1982年。<br />
*函館市史編さん室編『函館市史通史編第2巻』函館市、1990年。<br />
*仁多見巌『ジョン・バチラー』大空社、1998年。<br />
<br />
== 関連項目 ==<br />
* [[登別市郷土資料館]]<br />
<br />
{{Japanese-history-stub}}<br />
{{Christ-stub}}<br />
{{デフォルトソート:あいりんかつこう}}<br />
[[Category:日本の聖公会系学校]]<br />
[[Category:明治時代のキリスト教]]<br />
[[Category:明治時代の教育]]<br />
[[Category:函館市の歴史]]<br />
[[Category:函館市の学校]]<br />
[[Category:登別市の歴史]]<br />
[[Category:登別市の学校]]<br />
[[Category:アイヌ]]</div>
122.197.105.12
宣教開始50年記念会
2018-07-12T12:11:44Z
<p>122.197.105.12: </p>
<hr />
<div>'''宣教開始50年記念会'''(せんきょうかいし50ねんきねんかい)は、日本における[[プロテスタント]][[宣教]]開始50年を祝って、[[1909年]](明治42年)[[10月5日]]から[[10月10日]]に開催された記念大会。'''日本基督宣教開始五十年記念会'''ともいう<ref>『牧師植村正久』389頁</ref>。<br />
[[File:William Imbrie1909.jpg|right|250px|thumb|園遊会に出席する[[ウィリアム・インブリー]](1909年10月9日)]]<br />
== 歴史 ==<br />
[[1859年]][[5月]]に来日した[[聖公会]][[ジョン・リギンズ (宣教師)|ジョン・リギンズ]]、[[6月]]来日の[[チャニング・ウィリアムズ]]から起算している。この年は続いて[[10月17日]]に[[ジェームス・カーティス・ヘボン]]、また秋には[[オランダ改革派教会]]から[[サミュエル・ブラウン]]、[[グイド・フルベッキ]]が来日した。<br />
<br />
これから50年後の[[1959年]]には[[日本プロテスタント宣教100周年]]を記念して、[[エキュメニズム|エキュメニカル派]]([[自由主義神学|リベラル派]])が[[宣教百年記念運動]]を展開し、[[福音派]]([[聖書信仰]])は別に[[日本宣教百年記念聖書信仰運動]]を展開した<ref>[[中村敏]]『日本における福音派の歴史』いのちのことば社 p.205</ref><ref>[[尾山令仁]]『クリスチャンの和解と一致』地引網出版</ref>。<br />
<br />
100年後の[[2009年]]には[[日本プロテスタント宣教150周年]]を記念して、エキュメニカル派、福音派、[[聖霊派]]の三派の共同になる[[日本プロテスタント宣教150周年記念大会]]が開催された。<br />
<br />
== 宣教開始五十年記念会執行順序 ==<br />
===感謝会=== <br />
*開会演説・神学博士 [[ジェームス・バラ|ジー、エイチ、バラ]]宣教師。<br />
*感謝[[本多庸一]]監督<br />
*懐旧実験談[[村上俊吉]]<br />
*障害の除却・神学博士 [[ディビッド・タムソン]] <br />
*感話[[稲垣信]]<br />
<br />
===祝会===<br />
*五十年の回顧・[[小崎弘道]]<br />
*五十年の回顧・神学博士 [[ウィリアム・インブリー]]<br />
<br />
===第一講演会=== <br />
*基督教教育の結果・[[A・ビートルズ|エー、ビータルス]] <br />
*基督教教育の前途・神学博士 [[井深梶之助]] <br />
*教役者の養成 [[原田助]] <br />
*円満なる教役者の養成 [[深田直太郎]] <br />
*[[教役者]]の養成に就て・神学士 [[松本益吉]] <br />
*日本に於ける基督教教育の情態及結果 [[クレメント]] <br />
*神学校教育の理想・[[今井寿道]] <br />
*小規模の高等専門学校・[[F・N・スコット|エフ、エヌ、スコツト]] <br />
*基督教主義の大学・哲学博士 [[笹尾粂太郎]] <br />
*政府認可の基督教学校と宗教・[[C・H・B・ウード|シー、エイチ、ビー、ウード]]<br />
<br />
===第二講演会===<br />
*基督教文学・[[柏井園]] <br />
*基督教文学に関する吾人の問題及び計画・神学博士 [[シドニー・ギューリック|エス、エル、ギユリツク]] <br />
*基督教文学・神学博士 [[鵜崎庚午郎]] <br />
*聖書改訳意見・[[ジー、ブレスウエート]] <br />
*基督教文学・[[加藤直士]] <br />
*所感・[[別所梅之助]] <br />
*基督教文学の必要及其供給の方法・[[フランク・ムラー|フランク、ムラー]] <br />
*基督教文学に就て・[[竹崎八十雄]] <br />
*基督教文学に付て・[[田村直臣]]<br />
<br />
===第三講演会===<br />
*日本の倫理宗教思想及国民生活に及ぼせる基督教の感化・[[海老名弾正]] <br />
*日本の倫理宗教思想及国民生活に及ぼせる基督教の感化・農学博士法学博士 [[新渡戸稲造]] <br />
*日本の教育並に文明に及ぼしたる宣教師の功績・理学博士 [[藤沢利喜太郎]] <br />
<br />
===第四講演会===<br />
*婦人伝道学校・[[イライザ・タルカット|イー、タルカツト嬢]] <br />
*婦人伝道者に就て・バンペテン夫人 <br />
*教会に於ける婦人会・本多貞子([[本多庸一]]夫人) <br />
*婦人伝道者の地位と其事業・ハーグレーブ嬢 <br />
*女学校生徒の日曜学校事業・[[シャーロット・デフォレスト|デフオレスト嬢]] <br />
*未信者に対する伝道事業・稲垣末子 <br />
*未信者に対する伝道事業・[[ルイーズ・ピアソン|ピアソン夫人]] <br />
*ミツシヨン女学校・エヌ、ゲーンス嬢 <br />
*ミツシヨン女学校・エス、エー、ソール嬢 <br />
*ミツシヨン女学校に就て・エー、ジー、ルイス嬢 <br />
*開教五十年以来宗教事業としての幼稚園及び小学校の略史・[[和久山キソ子]] <br />
*普通女学校の学生間に於ける伝道事業・フイリツプス嬢 <br />
*基督教文学・ジー、ボーカス嬢<br />
<br />
===五講演会===<br />
*社会改良(イ)矯風会、救済、工場事業・[[小崎千代|小崎千代子]]([[小崎弘道]]夫人) <br />
*社会政良(ロ)病院、孤児院、小児預所・[[林歌子]]<br />
*矯風事業に就て・ストラウト嬢<br />
<br />
===第六講演会===<br />
*基督教と社会的観念・哲学博士 [[元田作之進]] <br />
*基督教と社会改良・監督 [[メリマン・ハリス|エム、シー、ハリス]] <br />
*基督教と社会改良・[[山室軍平]]<br />
*基督教と禁酒・[[安藤太郎 (外交官)|安藤太郎]]<br />
<br />
===第七講演会===<br />
*牧会事業・神学博士[[平岩愃保]]<br />
*牧会事業・[[多田素]] <br />
*牧会事業・[[植村正久]] <br />
*礼拝に就て・[[河合堯三]] <br />
*礼拝・[[ロバート・マカルピン|アル、イ、マカルピン]] <br />
*説教に就て・[[稲沼鋳代太]] <br />
*説教に就て・[[ギデオン・ドレーパー]] <br />
*個人伝道・[[石黒猛次郎]] <br />
*個人伝道・デー、ノルマン <br />
*日曜学校事業・[[鵜飼猛]] <br />
*日曜学校に付て・神学博士 デ、エ、モリ <br />
*財政の独立・エス、イー、ヘーガー<br />
<br />
===第八講演会===<br />
*伝道事業・[[星野光多]] <br />
*市内伝道・[[河合禎三]]<br />
*地方伝道・神学博士[[小方仙之助]] <br />
*田舎伝道・神学博士 [[アレクサンダー・ヘール|エー、デー、ヘール]] <br />
*集中伝道・[[波多野伝四郎]] <br />
*大挙伝道・[[貴山幸次郎]] <br />
*青年伝道・[[山本邦之助]] <br />
*内海島嶼に於ける伝道事業・[[F・C・ブリッグス|エフ、シー、ブリツグス]] <br />
*九州に於ける伝道開始と讃美歌に就て・[[瀬川浅]]<br />
<br />
===第九講演会===<br />
*基督教と慈善事業・[[留岡幸助]] <br />
*民権及信教自由に於ける基督教の影響・神学博士 [[ジョン・デフォレスト|デフオレスト]] <br />
*民権及信教自由に於ける基督教の影響・[[島田三郎]]<br />
<br />
===第十講演会===<br />
*過去及将来に於ける宣教師の事業・[[山本秀煌]] <br />
*将来に於ける宣教師の事業・[[ジョン・ダンロップ (宣教師)|ジエー、ジー、ダンロツブ]]<br />
*過去及将来に於ける宣教師の事業・[[綱島佳吉]] <br />
*過去及将来に於ける宣教師の事業・監督 [[本多庸一]] <br />
*過去及将来に於ける宣教師の事業・[[T・H・ヘーデン|テー、エイチ、ヘーデン]] <br />
*日本に於ける宣教師事業の将来・神学博士 [[J.D.デイヴィス|ジエー、デー、デビス]]<br />
*過去及将来に於ける宣教師の事業・植村正久<br />
<br />
===礼拝説教===<br />
*人を漁る者及び其漁り方・[[宮川経輝]]<br />
<br />
==決議文==<br />
12からなる決議文を採択。<br />
<br />
===決議文その一===<br />
本大会は日本における「プロテスタント」キリスト教宣教開始第五十年を祝するに当たりまず我等の主イエス・キリストの父なる全能の神に対し既往に於いて日本国民が享有したる恩を感謝す、就中 [[天皇]]陛下の大御心に由り憲法を欽定せられ以って貴重なる[[信教の自由]]を保障せられたるに対して特に神の聖名を頌讃す。<br />
<br />
過去五十年間に於いて欧米の諸キリスト教会は主イエス・キリストの大命を奉じ且つ其の模範に倣いて永生の福音を日本に宣教したり此事業に対して本大会は深厚なる謝意を表すると同時に今後日本の諸キリスト教会が確実に建立せられるるまで尚其の愛の勤労を継続せし切望す且つ斯く豊かに日本の為めに貢献したる諸教会に神の恩寵の益々豊かに加わらんを祈る。<br />
<br />
神の大智に由りて古より世界に於て特殊の重任を負わんが為めに召されたる国民あり思うに日本国民も亦た此の如き召を蒙りたるは年を逐うて明白なり是故に本大会は日本国民が其蒙りたる召と選びとを堅くし且日本の諸キリスト教会が此時代に在りて光の如く世に顕われんを祈り且つ欧米の諸教会も亦た常に我等と共に之が為に祈らんことを切望す。<br />
<br />
===決議文そのニ===<br />
本大会は欧米に於ける諸教会の伝道会社及び伝道局が送りたる兄弟の懇切なる祝詞に対して誠実なる謝意を表す 又既往多年の間彼等が日本の為に○したる其同情に対して深厚なる謝意を表すると同時に彼らが常に聖霊の指導に由りて其の重任を全うせんを祈る。<br />
<br />
==脚注==<br />
<references /><br />
<br />
==参考文献==<br />
*[[雨宮栄一 (神学者)|雨宮栄一]]『牧師植村正久』[[新教出版社]]、2009年<br />
*[{{NDLDC|824110/1}} 開教五十年記念講演集] 宣教開始五十年記念会事務所 鵜飼猛 1910<br />
<br />
{{日本キリスト教史}}<br />
{{明治時代の来日宣教師}}<br />
{{大正時代の来日宣教師}}<br />
<br />
{{DEFAULTSORT:せんきようかいしこしゆうねんきねんかい}}<br />
[[Category:日本プロテスタント宣教]]<br />
[[Category:戦前日本のキリスト教]]<br />
[[Category:1909年の日本]]</div>
122.197.105.12
パリ外国宣教会
2018-07-12T12:03:27Z
<p>122.197.105.12: </p>
<hr />
<div>[[File:MEP in Paris.jpg|thumb|パリ外国宣教会本部(パリ・バック通り128番地)]]<br />
'''パリ外国宣教会''' (パリがいこくせんきょうかい、{{lang|fr|Missions Étrangères de Paris}}; 略称:MEP) は、[[フランス]]の[[パリ]]に本部を置く[[カトリック教会]]の男子(司祭)の宣教会。[[1653年]]にフランソワ・パリューらによって設立された宣教会で、当初より[[東アジア]]の宣教を担当している。明治以降の日本のカトリック教会の再建に携わった。'''パリミッション会'''とも呼ばれ、「パリ外邦伝教会」と訳されることもある。現在の日本管区長は、アントワン・デ・モンジュロ。<br />
さいたま教区所沢教会の主任司祭との兼任である。<br />
<br />
== 会の概要 ==<br />
入会の条件は[[フランス語]]を[[母国語]]とするカトリック[[司祭]]であることで、会員にはフランス人の他[[ベルギー人]]、[[スイス人]]などがおり、近年は非フランス語圏の[[インド]]人、[[大韓民国|韓国]]人等アジア系の入会も認められ、現在日本において韓国人の司祭([[宣教師]])も活動している。現在、同会の日本管区本部は東京教区司教座聖堂の近くにあり、21世紀初頭の現在も40名余りの会員が北海道から九州までの日本全国で働いている。<br />
<br />
== 歴史 ==<br />
[[イエズス会]]士[[アレクサンドル・ドゥ・ロード]]は、[[教皇]][[アレクサンデル7世]]に支援されて、3人のフランス人司教「ピエール・ランベール・ド・ラ・モット」、「フランソワ・パリュー」、「イニャス・コトランディ」らを含む、総勢17名をアジア布教に出発させた。彼らが宣教会の事実上の創設者であった。<br />
<br />
宣教会の布教本部は[[タイ王国|タイ]]の[[アユタヤ]]にあった。当初は[[トンキン]]、[[コーチシナ]]、[[カンボジア]]、タイ、[[中国]]の一部で布教を行った。<br />
<br />
[[1663年]]、宣教師志願者を確保するために、パリのバック通りに「外国宣教神学校」が設立され、教皇アレクサンデル7世から承認され、フランス政府の法的認可をうけた。<br />
<br />
当初は修道会でも教団でもなく、会員である司祭は「[[福音宣教省]]」(1622年に教皇[[グレゴリウス15世]]によって設立)の枠組みのなかで、布教活動をするものであった。<br />
<br />
[[1710年]]、宣教会の規則が確立された。<br />
<br />
18世紀前半、イエズス会が[[インド]]布教の担当を禁止されると、宣教会が代わって担当した。[[1776年]]、イエズス会が南インド布教から解任されると、その布教を引き継ぐ。<br />
<br />
宣教会の布教活動は、[[インドシナ]]やインドにおけるフランスの商業活動の先兵でもあった。布教の成果はあがったが、[[フランス革命]]で一時頓挫した。<br />
<br />
19世紀に福音宣教省の財政支援で宣教会は活動を再開した。<br />
<br />
[[1840年]]、宣教師になれるのは司祭だけであったが、神学校生徒でも可能になった。<br />
<br />
教皇[[グレゴリウス16世]]は、[[1831年]]に[[朝鮮]]と[[日本]]、[[1838年]]に[[満州]]、[[1841年]]に[[マレー]]、[[1846年]]に[[チベット]]と[[アッサム]]における布教を宣教会に任せた。<br />
<br />
教皇[[ピウス9世]]は、[[1849年]]に中国のさらなる一部と[[1855年]]に[[ビルマ]]、教皇[[ピウス12世]]は、[[1952年]]に[[ハワイ]]と[[台湾]]における布教を命じた。<br />
<br />
しかし、布教の過程で、中国、ビルマ、ベトナム、カンボジア、ラオスからは追放された。殉教する者は多く、宣教師への迫害事件が、新聞、雑誌、書籍によって描かれ、ヨーロッパ諸国の国民感情に訴え、これがコーチシナと中国へのさらなる宗教的、商業的、軍事的介入を正当化し、侵略と植民地化への国民的な合意を形成することに貢献した。<br />
<br />
[[1917年]]、教会法が改正され、宣教会は司祭の「協会」であることをやめ、在俗司祭で構成された「宗教団体」となった。<br />
<br />
宣教会は17世紀以来、4500人の司祭をアジアに派遣している。<br />
<br />
=== 日本宣教史 ===<br />
[[File:MEP Fathers and Seminarists in Southern Japan 1881.jpg|thumb|right|1881年]]<br />
<br />
日本は17世紀以来、弾圧が徹底し布教の術がなかったが、状況が変わり始めたため、[[1831年]]に[[福音宣教省]]の委託により、パリ外国宣教会は[[日本]]へ再宣教の準備を開始した。[[1844年]](弘化元年)[[テオドール=オギュスタン・フォルカード]]神父が[[琉球]]に入り、日本語を勉強しながら日本入国の機会を狙った。[[1858年]](安政5年)、幕府は米・英・蘭・露・仏5か国と修好通商条約を締結し、外国人居留地内に限っての教会建設を認めた。これをうけて[[1859年]]9月、横浜に[[プリュダンス・セラファン=バルテルミ・ジラール|セラファン・ジラール]] 神父が上陸。1863年に[[ルイ・テオドル・フューレ]]神父が長崎に赴いた。[[1864年]](元治元年)[[12月29日]]、長崎に[[大浦天主堂]]を完成し、フューレ神父にかわって天主堂を完成させた[[ベルナール・プティジャン]]神父が初代主任司祭となった。<br />
<br />
その3ヵ月後の翌[[1865年]](慶応元年)イサベリナ杉本ゆりら長崎浦上村の[[隠れキリシタン]]たちがフランス寺と呼ばれた同天主堂を訪れて信仰を告白し、隠れキリシタンたちの存在が明らかになった。このニュースは250年間の迫害を超えたキリシタン発見として世界に大きな驚きをもって伝えられた。翌年、プティジャンは再宣教後初の日本[[司教]]となった。<br />
<br />
[[大浦天主堂]]は[[1933年]](昭和8年)に旧[[国宝保存法]]による国宝に指定され、[[1953年]](昭和28年)に日本最古の西洋建築として[[文化財保護法]]による[[国宝]]に指定された。<br />
<br />
=== 日本で活躍した主な宣教師 ===<br />
* [[ルイ・テオドル・フューレ]]<br />
* [[プリュダンス・セラファン=バルテルミ・ジラール]]<br />
* [[ピエール・ムニクウ]]<br />
* [[メルメ・カション]]<br />
* [[ピエール・マリー・オズーフ]]<br />
* [[ベルナール・プティジャン]]<br />
* [[ジョゼフ・ロケーニュ|ヨゼフ・ローカニュ]]<br />
* [[マルク・マリー・ド・ロ]]<br />
* [[アルフォンス・クーザン|ジュル=アルフォンス・クーザン]]<br />
* [[アンリ・アンブルステ]]<br />
* [[エメ・ヴィリヨン]]<br />
* [[ユルバン・ジャン・フォーリー]]<br />
* [[フランソワ・リギョール|フランソワ・アルフレ・デジレ・リギョール]]<br />
* [[ジョゼフ・マルマン]]<br />
* [[ドルワール・ド・レゼー|ルシアン・ドルワール・ド・レゼー]]<br />
* [[ジェルマン・レジェ・テストウィード]]<br />
* [[ピエール・ザヴィエ・ミュガビュール]]<br />
* [[アレクサンドル・ベルリオーズ]]<br />
* [[ジュスタン・バレット]]<br />
* [[エルネス・ツルペン|エルネス・オーギュスタン・ツルペン]]<br />
* [[エミール・ラゲ]]<br />
* [[フランソワ・ボンヌ]]<br />
* [[ジャン・フランソワ・マタラ]]<br />
* [[ミッシェル・シュタイシェン]]<br />
* [[ジャン・ルラーブ|ジャン・ルイ・ルラーブ]]<br />
* [[ジャン・ピエール・レイ]]<br />
* [[イポリット・カディヤック|イポリット・ルイ・カディヤック]]<br />
* [[エドモンド・パピノ|ジャック・エドモンド・パピノ]]<br />
* [[プラシド・メイラン|プラシド・アウグスチノ・メイラン]]<br />
* [[ジェレミー・セツール]]<br />
* [[クレマン・ルモアヌ|クレマン・ヨゼフ・ルモアヌ]]<br />
* [[ウジェーン・ジョリー|ウジェーン・クロドミル・ジョリー]]<br />
* [[ジャン・アレキシス・シャンボン]]<br />
* [[シルベン・ブスケ]]<br />
* [[マキシム・ボネ]]<br />
* [[ルネ・ドシエ|ルネ・フランソワ・フレデリク・ドシエ]]<br />
* [[アルベルト・ブルトン]]<br />
* [[ヨゼフ・フロジャック]]<br />
* [[ソーヴール・カンドウ|ソーヴール・アントワーヌ・カンドウ]]<br />
<br />
== 他国への宣教史 ==<br />
[[Image:Mep.JPG|thumb|right|]]<br />
[[ベトナム]]、[[李氏朝鮮]]、[[清]]などへも宣教師を送り出している。特に、[[ピニョー・ド・ベーヌ|ピエール・ピニョー]]は[[阮朝]]建国に関わったことで有名となったが、彼の死後誕生した阮朝ではキリスト教は弾圧され、多くの宣教師が殉教した。同様にキリスト教を弾圧していた李氏朝鮮、清においても多くの宣教師が殉教している([[丙寅教獄]]など)。<!--[[伊藤博文]]を暗殺した[[安重根]]がパリ外国宣教会の信者であったとする説がある。(←「会の概要」節にもあるとおり、入会条件はカトリックの司祭であることで、カトリックの司祭でない安重根がパリ外国宣教会の会員であったとは考えられません。パリ外国宣教会の司祭から洗礼を受けた信者だったというならわかりますが、その場合に「パリ外国宣教会の信者」とは言いません。)--><br />
<br />
== 参考文献 ==<br />
=== 日本語文献 ===<br />
* 浦川和三郎編『日本に於ける公敎會の復活 前篇』天主堂、1915年<br />
* 池田敏雄『人物による日本カトリック教会史』中央出版社、1968年<br />
* 中島昭子・小川早百合訳『フォルカード神父の琉球日記 幕末日仏交流記』中央公論新社、1993年 ISBN 4-12-201987-7<br />
* フランシスク・マルナス『日本キリスト教復活史』みすず書房、1985年 4-622-01258-8<br />
* 中島昭子「フォルカード神父とカトリックの日本再布教」、[[岸野久]]編『キリシタン史の新発見』(雄山閣、1996年)所収<br />
* 小川早百合「19世紀西欧における琉球情報と宣教師」、[[岸野久]]編『キリシタン史の新発見』(雄山閣、1996年)所収<br />
<br />
===欧語文献===<br />
* Augustin Fourcade, ''L'apparition à la grotte de Lourdes en 1858'', Institut des Sœurs de la Charité et de l’Instruction chrétienne de Nevers Paris, 1872.<br />
* Edmond Marbot, ''Nos Évêques. Vie de Mgr Forcade, archevêque d’Aix, Arles et Embrun'', Aix en Prevence, A. Makaire, 1889.<br />
* Franscisque Marnas, La "religion de Jésus" ressuscitée au Japon dans la seconde moitié du XIX e siècle, Paris, Delhomme et Briguet, 1896.<br />
* Gilles van Grasdorff, ''La belle histoire des Missinos étrangères 1658-2008'', Paris, Perrin, 2007.<br />
* Gilles van Grasdorff, À la découverte de l'Asie avec les Missions étrangères, Paris, Omnibus, 2008.<br />
<br />
== 関連項目 ==<br />
* [[シャルル・ダレ]]<br />
* [[テオドール=オギュスタン・フォルカード]]<br />
* [[カトリック長崎大司教区]]<br />
* [[カトリック東京大司教区]]<br />
<br />
== 外部リンク ==<br />
* [http://www.mepasie.org/ 本部公式サイト]<br />
<br />
{{明治時代の来日宣教師}}<br />
{{日本の聖書}}<br />
{{Normdaten}}<br />
<br />
{{DEFAULTSORT:はりかいこく}}<br />
[[Category:パリ外国宣教会|*]]<br />
[[Category:カトリック教会の組織]]<br />
[[Category:カトリック教会の修道会]]<br />
[[Category:日本のキリスト教史]]<br />
[[Category:パリの組織]]</div>
122.197.105.12
第三回在日宣教師会議
2018-07-12T12:00:17Z
<p>122.197.105.12: </p>
<hr />
<div>'''第三回在日宣教師会議'''(だいさんかいざいにちせんきょうしかいぎ)は、[[1900年]]([[明治]]33年)10月に[[東京市]]で開催された在日[[プロテスタント]][[宣教師]]のミッションの大会である。'''東京宣教師会議'''とも呼ばれる。<br />
<br />
1900年4月に開かれた[[福音同盟会]]大会に呼応して開催された。<br />
<br />
1900年10月24日から31日まで[[東京YMCA]]の[[東京キリスト教青年会会館|東京基督教青年会会館]](神田YMCA)で、在日プロテスタントの各派のミッションによる大会が開催された。[[横浜宣教師会議]](1872年(明治5年))、[[大阪宣教師会議]](1873年(明治16年))から通算で3回目の宣教師の会議になる。50のミッションから379名が参加した。さらに日本の教会の指導者20名に中国([[清]])などの宣教師たち50名を客員に加えた。<br />
<br />
日本宣教の諸問題を発題し、討論の形式で意見を交換した。[[二十世紀大挙伝道]]、[[讃美歌 (1903年版)|共通讃美歌]]編纂などについての協力について話し合われた。<br />
<br />
この会議の結果、各ミッションの協力態勢が進んで、[[駐日外国宣教師団]]の形成につながった。<br />
<br />
== 参考文献 ==<br />
*『日本キリスト教歴史大事典』[[教文館]]、2003年<br />
<br />
{{日本キリスト教史}}<br />
<br />
{{デフォルトソート:さいにちせんきようしかいき3}}<br />
[[Category:明治時代のキリスト教]]<br />
[[Category:在日宣教師|*さいにちせんきようしかいき3]]<br />
[[Category:日本のプロテスタント]]<br />
[[Category:戦前の東京]]<br />
[[Category:1900年の日本]]</div>
122.197.105.12
第二回在日宣教師会議
2018-07-12T11:59:47Z
<p>122.197.105.12: /* 関連項目 */</p>
<hr />
<div>'''第二回在日宣教師会議'''(だいにかい ざいにちせんきょうしかいぎ、英語:General Convention of the Protestant Missionaries in Japan)は、[[1883年]]4月16日から4月21日までの5日間、[[大阪市]]の川口で開催された、日本在住の外国人宣教師らによる会議。通称として'''大阪宣教師会議'''、また'''在日プロテスタント宣教師協議会'''とも訳される。<br />
<br />
[[第一回在日宣教師会議|第一回]]に引き続き、[[ジェームス・カーティス・ヘボン|J・C・ヘボン]]が議長を務め、各派から106名の宣教師が参加して、親睦を図り、伝道をみぐる共通課題について意見交換をした。「現地教会の自給」というメインテーマで開催され、諸宗教のキリスト教への影響、キリスト教教育、医療伝道を話し合った。<br />
<br />
新潟で医療伝道を続けていた[[スコットランド一致長老教会]]の医療宣教師[[セオボールド・パーム]]は「医療伝道の位置」というテーマで講演を行った。<br />
<br />
4日目の4月19日には「教会の自給」について議論された。その夜の集会に[[日本基督組合教会]]の[[金森通倫]]と[[沢山保羅]]が招かれて演説した。<br />
<br />
== 主な参加者 ==<br />
*[[ジェームス・カーティス・ヘボン]]<br />
*[[セオボールド・パーム]]<br />
*[[グイド・フルベッキ]]<br />
<br />
== 参考文献 ==<br />
*[[中島耕二]]、[[辻直人]]、[[大西晴樹]]『長老・改革教会来日宣教師事典』[[新教出版社]]、2003年<br />
*[[笠井秋生]]、[[佐野安仁]]、[[茂義樹]]『沢山保羅』日本基督教団出版局、1977年<br />
<br />
== 関連項目 ==<br />
*[[第一回在日宣教師会議]] (横浜宣教師会議)<br />
*[[第三回在日宣教師会議]] (東京宣教師会議)<br />
<br />
{{日本キリスト教史}}<br />
<br />
{{DEFAULTSORT:さいにちせんきようしかいき2}}<br />
[[Category:日本のプロテスタント]]<br />
[[Category:在日宣教師|*さいにちせんきようしかいき2]]<br />
[[Category:明治時代のキリスト教]]<br />
[[Category:大阪市西区の歴史]]<br />
[[Category:1883年の日本]]</div>
122.197.105.12
第一回在日宣教師会議
2018-07-12T11:59:27Z
<p>122.197.105.12: /* 関連項目 */</p>
<hr />
<div>'''第一回在日宣教師会議'''(だいいっかい ざいにちせんきょうしかいぎ)は、[[1872年]]9月20日から5日間、[[横浜市|横浜]]居留地39番の[[ジェームス・カーティス・ヘボン|J・C・ヘボン]]邸で開催された、[[長老派]]・[[改革派]]・[[会衆派]]・[[バプテスト派]]・[[聖公会]]・[[ユニオン・チャーチ]]代表・[[ミッション・ホーム]]・[[日本基督公会]]などの在日プロテスタント各教派のミッションの宣教師による最初の合同会議である。'''横浜宣教師会議'''ともいう。<br />
<br />
== 内容 ==<br />
当時来日していた宣教師たちが日本伝道の方策を練り、教派間の友好協力を深めるために行われた。<br />
<br />
会議では新約聖書の翻訳委員会の設置が決定され、聖書翻訳([[明治元訳聖書]])が開始された。また、日本の教会の組織についても話し合われ、[[サミュエル・ロビンス・ブラウン|S・R・ブラウン]]、[[ジェームス・ハミルトン・バラ|J・H・バラ]]などが、超教会の唯一のプロテスタント教会の設立を提唱した。しかし、ヘボンと[[クリストファー・カロザース]]は伝統的長老主義者として反対した。しかし、ヘボンは日本の事情を考慮して、教派主義には拘泥せず、会議の決議である長教派主義協会の建設努力には賛成票を投じた。<br />
<br />
日本人教会の設立は、各教派宣教師の主張が激しく対立して、激論の中で「一名一会説」さえ登場した。それは、すでに設立された日本基督公会が所属が不明確であったことが原因であった。<ref>小野静雄(1986)44-45</ref><br />
<br />
== 参加者 ==<br />
*[[ジェームス・カーティス・ヘボン|J・C・ヘボン]]<br />
*[[デイヴィッド・タムソン]]<br />
*[[クリストファー・カロザース]]<br />
*[[ヘンリー・ルーミス]]<br />
*[[エドワード・ローゼイ・ミラー|E・R・ミラー]]<br />
*[[サミュエル・ロビンス・ブラウン|S・R・ブラウン]]<br />
*[[ジェームス・ハミルトン・バラ|J・H・バラ]]<br />
*[[チャールズ・ウォルフ (宣教師)|チャールズ・ウォルフ]]<br />
*[[ヘンリー・スタウト]]<br />
*[[ダニエル・クロスビー・グリーン|D・C・グリーン]]<br />
*[[オラメル・ギューリック|O・H・ギューリック]]<br />
*[[ジェローム・デイヴィス|J・D・デイヴィス]]<br />
*[[マークウィス・ゴードン|M・L・ゴードン]]<br />
*サイル<br />
*ネルソン<br />
<br />
== 脚注 == <br />
<references /><br />
<br />
== 参考文献 ==<br />
*中島耕二、辻直人、[[大西晴樹]]『長老・改革教会来日宣教師事典』[[新教出版社]]、2003年<br />
*[[小野静雄]]『日本プロテスタント教会史』聖恵授産所、1986年 <br />
<br />
== 関連項目 ==<br />
*[[第二回在日宣教師会議]] (大阪宣教師会議)<br />
*[[第三回在日宣教師会議]] (東京宣教師会議)<br />
<br />
{{日本キリスト教史}}<br />
<br />
{{DEFAULTSORT:さいにちせんきようしかいき1}}<br />
[[Category:日本のプロテスタント]]<br />
[[Category:横浜市の歴史]]<br />
[[Category:明治時代のキリスト教]]<br />
[[Category:在日宣教師|*さいにちせんきようしかいき1]]<br />
[[Category:1872年の日本]]</div>
122.197.105.12
大正改訳聖書
2018-07-12T11:56:51Z
<p>122.197.105.12: </p>
<hr />
<div>{{日本語訳聖書}}<br />
[[File:Bible JRV Title.png|thumb|大正改訳の[[標題紙]]]]<br />
[[File:Bible JRV colophon.png|thumb|大正改訳の奥付]]<br />
'''大正改訳聖書'''(たいしょうかいやくせいしょ)は、それまで用いられた[[明治元訳聖書]]を[[大正]]時代に[[プロテスタント]]宣教師達が改訳した[[日本語訳聖書]]である。<br />
<br />
== 概要 ==<br />
[[明治元訳聖書]]は[[英国外国聖書協会]]などによる初の本格的な日本語聖書出版であったが、その不備も当事者たちには認識されていた。特に、それまでの標準的な英語訳聖書であった[[欽定訳聖書]]にとって変わる改正訳が現れたことなどから、日本語訳聖書の改訳が行われた。[[新約聖書]]が1917年に『改訳 新約聖書』として出版され、これが'''大正改訳聖書'''と呼ばれている。[[旧約聖書]]も改訳作業が行われていたが、完成しないまま戦後になって方針が口語訳に転換された。したがって、大正改訳には旧約聖書は含まれていない。<br />
<br />
== 経緯 ==<br />
=== 幻の改訳 ===<br />
欽定訳聖書が1885年に改訂されて以来、日本語訳でも改定の声が高まっていた。改訳の試みとして、警醒社がスポンサーになり、[[1905年]](明治38年)に、聖書の改訳を試みたことがある。1905年5月11日[[東京キリスト教青年会会館|東京基督教青年会館]]で改訳のための最初の会合が開かれ、[[内村鑑三]]、[[植村正久]]、[[小崎弘道]]のキリスト教会の重鎮と、新進気鋭の聖書学者[[柏井園]]を加えた4名が集まった。警醒社は改訳の期間として3年館を想定して毎月150円の経費負担を約束した。そして、翌週5月18日から毎週木曜日に集まり、ヨハネ伝から改訳事業を始めた。7月6日には業同作業に不満を覚えた内村が辞意を表明する。翌週7月13日から夏休みになり、9月14日に再開するが、小崎が渡米中で、内村、植村、柏井の3人で会合を持つが、11月6日付けで内村が植村に脱退の手紙を送り、翌1月10日に改めて3人に病気を理由に辞退届を送り、事実上改訳会は解散した。<ref>鈴木範久(2006年)p.117-118</ref><br />
<br />
=== 教会同盟 ===<br />
1906年6月12日東京で最初の新約聖書改訳常置委員会が開催された。委員はミッションの代表と米国と英国とスコットランドの聖書会社からなっていた。これにより、1910年1月11日に改訳委員会についての取り決めがなされた。<br />
:1.委員会により、議長1名、書記2名、会計1名が任命される。<br />
:2.初期のうち1名は日本人委員、1名は外国人委員とする。<br />
:3.テキストとしては英国聖書会社発行のネストレ版聖書を用い、問題箇所は[[改正英訳聖書]](Revised Version)を参考にし、ギリシア語のできる委員の3分の2によって決める。<br />
そして、改訳委員の氏名として、[[チャールズ・デヴィソン]](Charles S.Davison)、[[ヒュー・フォス]](Hugh J Foss)、[[ダニエル・クロスビー・グリーン|D・C・グリーン]]、[[チャールズ・ハリントン]](Charles K.Harrington)、別所梅之助、藤井寅一、川添、松山の8名が挙げられた。<br />
<br />
日本のプロテスタントの親睦組織である[[福音同盟会]]は、聖書改訳の特別委員を[[本多庸一]]、[[星野光多]]の2人に委嘱する。2人は宣教師と米国・英国の聖書会社との交渉と改訳委員の選定にあたった。<br />
<br />
[[1906年]](明治39年)に福音同盟会は解散する。新たに、[[日本基督教会同盟]]を発足させるたえめに最後の会合を行う。福音同盟会の会長により、本多庸一、星野光多、[[元田作之進]]、[[綱島佳吉]]、[[渡辺元]]の5名が選出される。<br />
<br />
聖書改訳の計画は日本基督教教会同盟に引き継がれ、翻訳委員が選ばれた。1910年(明治43年)1月20日に松山高吉は英国聖書会社のパロットから委員就任の依頼を受ける。<br />
<br />
3月12日に東京基督教青年会館で改訳委員会の第1回会堂が開催され、D・C・グリーン、[[ジョン・ダンロップ (宣教師)|ジョン・ダンロップ]](John G.Dunlop)、ヒュー・フォス、[[別所梅之助]]、松山高吉の5人が出席した。柏井園は辞退する。<br />
<br />
3月14日には第2回の会合では、[[ヘンリー・ルーミス]]が4月から出席することと、[[川添万寿得]]と[[藤井寅一]]が追加された。C・デヴィソンとC・ハリントンも加わる。第2回会合で松山高吉が改訳について10箇条になる意見を述べた。それは、4月13日に改訳委員会によりほぼ了承された。<br />
<br />
翻訳のために採用されたギリシア語の原典は[[ネストレ・アーラント|ネストレ版]]の原典かウエストコット-ホルト版(Westcott and Hort)に加えて、英語の「改訂訳」(Revised Version)を参考にしたと言われる。<ref>鈴木範久(2006年)p.127-128</ref><ref>田川健三(1997年)p.643</ref><br />
<br />
=== 改訳作業 ===<br />
改訳の作業は[[1910年]](明治43年)3月から行われた。改訳の作業は、まず分担して下訳が作成され小委員会の中でそれぞれを通して2、3回の検討が加えられ、最後に全体で決定する手順で行われた。小委員会は最初は委員の私宅や[[霊南坂教会]]で行われ、最終的に[[青山学院]]で行われた。小委員会は連日開催されたので、小委員会の継続のために委員のメンバーは専従になり俸給が支払われた。<br />
<br />
最初に改訂されたのは『マコ伝』で、完成した段階で試訳本として、聖書改訳委員会訳『マコ福音書』が印刷され、1911年(明治44年)6月22日、米国聖書会社、英国聖書会社から刊行された。これは、教会同盟委員本多庸一と星野光多の連盟による和文の序文と、翻訳委員グリーンの英文序文が付与されている。参考文献として、改正訳(Revised Version)、シェルシェウスキーの中国語訳聖書、ロシア正教会訳日本語聖書、[[ネイサン・ブラウン]]訳聖書、カトリック教会の[[ラゲ訳]]などが記されている。改訳の特徴としては。<br />
# 敬語の増加とそれにともなう代名詞の減少(もともと和訳で代名詞はあまり必要ではない)。<br />
# 歴史的現在形の使用による鮮明な表現<br />
<br />
『マコ伝』について、[[左近義弼]]、[[三並良]]、[[杉浦貞二郎]]らが細かい学術的な批判を展開したが、別所梅之助が反論する。川添は『マコ伝』でいいとしたが、別所は『マルコ伝』が良いとする。この結果最終的に改訳聖書では『マルコ伝』が採用される。<ref>鈴木範久(2006年)p.133-134</ref><br />
<br />
その後、[[1912年]]に藤井寅一が委員を辞退している。[[1913年]](明治2年)のグリーンの死後、代わりに[[同志社大学]]教授の[[ドウェイト・ウィットニー・ラーネッド|D・W・ラーネッド]]が委員に加わる。<br />
<br />
[[1917年]](大正6年)2月に7年の歳月をかけて完成し、1917年10月5日に『改訳 新約聖書』が刊行された。明治元訳の新約聖書から37年ぶりの改訳であった。<ref>鈴木範久(2006年)p.137</ref><br />
<br />
== 評価 ==<br />
明治元訳に比べて正確になったことに加えて、日本語として読みやすくなったことが評価されている。なによりもこの訳は教会外の人にも多く読まれ、日本におけるキリスト教理解に大きく貢献した。「目から鱗が落ちた」や「狭き門より入れ」のように日本語の成句として定着した言葉も多い。<br />
<br />
== 委員 ==<br />
[[File:Taicsho Version Translators.jpg|250px|thumb|文語新約改訳委員のメンバー、左からC・K・ハーリントン、別所梅之助、H・J・フォス、C・S・デビソン、松山高吉、川添万寿得、ラーネッド]]<br />
*H・J・フォス<br />
*[[松山高吉]]<br />
*J・C・グリーン<br />
*C・S・デビスン<br />
*[[別所梅之助]]<br />
*C・K・ハーリントン<br />
*[[藤井寅一]]<br />
*[[川添万寿得|川添万壽得]]<br />
<br />
== 脚注 ==<br />
<references /><br />
<br />
== 参考文献 ==<br />
*『日本キリスト教歴史大事典』[[教文館]]、1988年<br />
*[[田川健三]]『書物としての新約聖書』勁草書房、1997年<br />
*[[高橋昌郎]]『明治のキリスト教』吉川弘文館、2003年<br />
*[[鈴木範久]]『聖書の日本語』岩波書店、2006年<br />
<br />
== 関連項目 ==<br />
{{ウィキポータルリンク|キリスト教}}<br />
* [[日本語訳聖書]]<br />
* [[文語訳聖書]]<br />
<br />
== 外部リンク ==<br />
{{wikisource|聖書|大正改訳聖書}}<br />
{{Wiktionary|キリスト教}}<br />
<br />
{{日本の聖書}}<br />
{{christ-stub}}<br />
<br />
{{DEFAULTSORT:たいしようかいやくせいしよ}}<br />
[[Category:日本語訳聖書]]<br />
[[Category:日本のプロテスタント]]<br />
[[Category:大正時代の書籍]]<br />
[[Category:戦前日本のキリスト教]]</div>
122.197.105.12
祖国に対する信者のつとめ
2018-07-12T11:55:13Z
<p>122.197.105.12: /* 外部リンク */</p>
<hr />
<div>'''祖国に対する信者のつとめ'''(そこくにたいするしんじゃのつとめ)は、[[カトリック教会]]の当時の[[教皇庁]]布教聖省が、[[日本]]のカトリック教会あてに送った[[1936年]]5月26日付の「第一聖省訓令」で述べられている指針である。[[神社]]への参拝は、「愛国心と忠誠心の表現である」とし、[[靖国神社]]参拝も認めている。[[教皇庁]]が何らかの手違いや間違いでそう言ってしまったのではなく、1951年11月27日付の「第二聖省訓令」でも再び確認されている。<br />
<br />
== 内容 ==<br />
以下が、この指針の結論としてまとめられている部分である。<br />
{{Quotation|[[大日本帝国|日本帝国]]の[[司教]]たちは次のことを、信者たちに教えるべきである。政府によって国家神道の神社として管理されている神社において通常なされる儀式は(政府が数回にわたって行った明らかな宣言から確実に分かる通り)国家当局者によって、単なる愛国心のしるし、すなわち[[皇室]]や国の恩人たちに対する尊敬のしるしと見なされている。また、[[文化人]]たちの共通の見解も同様なものである。したがって、これらの儀式が単なる社会的な意味しかもっていないものになったので、カトリック信者がそれに参加し、他の国民と同じように振る舞うことが許される。ただし、自分の振る舞いにまちがった解釈を取り除く必要があると思われる場合には、信者たちは自分の意向を説明すべきである。|}}<br />
<br />
== 議論 ==<br />
この[[ローマ教皇庁]][[福音宣教省]]の公式見解に対し、現在の有効性を含めた議論が、日本の[[カトリック教会]]内部で存在している。<br />
<br />
=== 日本カトリック司教協議会(カトリック中央協議会) ===<br />
[[カトリック中央協議会]]は、教皇庁([[バチカン]])の出した、1936年の「第一聖省訓令」の中で、[[靖国神社]]への参拝は「愛国心と忠誠心の表現である」との理由でこれを認めており、以後、現在までこの見解に対する修正はなされていないとしている。しかしこのことを考えると同時に、この見解が出された当時の日本は、政権内の多くのポストを軍人が占め、また軍の意向が政権運営に大きく影響していた、いわゆる「[[軍国主義]]国家」であり、また、軍や[[文部省]]が神社参拝について「愛国心と忠誠を表すだけであり、教育上の理由として行い、宗教的慣行ではない」としていたこと、また、教会は、信者たちを軍国主義国家の政府による迫害から守ろうとして、いかに苦悩し努力したかなど、その「時代性」に十分留意して考える必要があるとしている。<br />
<br />
同協議会の発行する冊子「信教の自由と政教分離」<ref>信教の自由と政教分離</ref>では、この指針は、カトリック信者の学生たちが[[靖国神社]]への参拝を拒否した([[上智大生靖国神社参拝拒否事件]])ことから、各学校に配属されていた配属将校がこれに抗議して引き上げるという、当時としては大学および学生たちの将来において重大な影響を与えうる大事件に対してどう対応するか、ということについて教皇庁の指導を受けたものであって、今日[[国家神道]]は存在せず、神社参拝は国民の義務ではないことなど、指針の前提が大きく変わってしまった以上、そのまま適用することはできないことが述べられている。<br />
<br />
=== 日本カトリック司教団 ===<br />
日本のカトリック教会を指導する、日本カトリック司教団は公文書<ref>日本カトリック司教団 公文書一覧[http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/doc/doc_bsps.htm]</ref>において、この指針について、戦後に[[日本国憲法]]が制定されたこと、[[国家神道]]が解体され[[靖国神社]]が一[[宗教法人]]になったこと、教会も[[第二バチカン公会議]]を経たことなどから、当時の指針をそのまま現在に当てはめることはできないとの考えを表明している。<br />
<br />
{{Quotation|教会は当時の布教聖省の指針に基づいて、「学生が神社で行うように政府から命じられた儀式は宗教的なものではない」とし、天皇に対する忠誠心と愛国心を表す「社会的儀礼」であるとして、信徒の神社参拝を許容しました。こうして、あの戦争に協力する方向へと向かってしまったのです。しかし戦後に日本国憲法が制定されたこと、国家神道が解体され靖国神社が一宗教法人になったこと、教会も第二バチカン公会議を経たことなどから、当時の布教聖省の指針をそのままでは現在に当てはめることはできません。|}}<br />
<br />
== 脚註 ==<br />
{{reflist}}<br />
<br />
== 関連項目 ==<br />
*[[カトリック中央協議会]]<br />
<br />
== 外部リンク ==<br />
* [https://www.cbcj.catholic.jp/ カトリック中央協議会]<br />
<br />
{{日本キリスト教史}}<br />
<br />
{{デフォルトソート:そこくにたいするしんしやのつとめ}}<br />
[[Category:日本のカトリック教会]]<br />
[[Category:国家神道]]<br />
[[Category:靖国神社問題]]<br />
[[Category:戦前日本のキリスト教]]<br />
[[Category:1936年の日本]]</div>
122.197.105.12
日本基督教団より大東亜共栄圏に在る基督教徒に送る書翰
2018-07-12T11:54:46Z
<p>122.197.105.12: /* 関連項目 */</p>
<hr />
<div>'''日本基督教団より大東亜共栄圏にある基督教徒に送る書翰'''(にほんキリストきょうだんよりだいとうあきょうえいけんにあるキリストきょうとにおくるしょかん)は、[[日本基督教団]]を代表する公同的使徒的書翰の第一信として発表された、現代の[[使徒]][[書翰]]である<ref>日本基督教団統理者[[富田満]]による序文「教団を代表する公同的使徒的書翰」「日本基督教団の現代的使徒書翰は、本書が第一信であって、続いてしばしば書翰を送る計画である。望むらくは諸君がこれらの書翰を隔意なく迎えて、これを文字通りに解釈して、我らの志を理解し、信望愛を同じうせられんことである。」1945年復活節</ref><ref>『日本基督教団新報』論説「現代の使徒書翰」</ref>。<br />
<br />
のち1967年3月、この書翰を取り消す意味で、'''[[第二次大戦下における日本基督教団の責任についての告白]]'''が行われた。<br />
<br />
== 第1章 == <br />
神の恩寵によって、一国一教会となれる日本基督教団およびそれに属するもろもろの肢は、東亜共栄圏内に在る主にありて忠信なるキリスト者に挨拶を送る。<br />
<br />
日本基督教団と[[大東亜共栄圏]]のキリスト教徒とを一つに結ぶ鞏固なる紐帯が二つある。一つは、白人種の優越性という聖書に悖る思想の上に立って、アジア人を人種差別待遇の下に繋ぎ留め、東亜の諸民族に向かって王者のごとく君臨せんと欲する、共通の敵、米英に対する戦いである。もう一つはキリストを信じていることである。<br />
<br />
== 第2章 == <br />
全世界をまことに指導し救済しうるものは、世界に冠絶せる万邦無比なるわが日本の[[国体]]であるという事実を、信仰によって判断しつつ、日本基督教団を信頼するように求める。正義と共栄との美しい国土を東亜の天地に建設することによって[[神の王国|神の国]]をさながらに地上に出現させることは、われらキリスト者にしてこの東亜に生を享けし者の衷心の祈念であり、最高の義務であると信ずる。<br />
<br />
== 第3章 == <br />
[[内村鑑三]]は、「世界は畢竟キリスト教によりて救わるるのである。しかも[[武士道]]の上に[[接木]]せられたるキリスト教に由りて救われるのである」と喝破した。彼こそは、欧米の特に米国の宣教師が成功と称して勢力と利益と快楽とを追求する信仰を非信仰として排斥し、[[宣教師]]の一日も早く日本より退散して、日本人の手による日本国自生のキリスト教の必要を叫んだ先覚者である。<br />
<br />
大東亜には大東亜の伝統と歴史と民族性とに即した「大東亜のキリスト教」が樹立さるべきである。<br />
<br />
第一世代の[[沢山保羅]]、[[新島襄]]、[[本多庸一]]、[[植村正久]]、[[海老名弾正]]、[[小崎弘道]]等みな純然たる日本武士が、この教えを聴くに及んで、その中に日本武士道に通ずる深い奥義の秘められてあることを悟り、信仰と自覚との下に、御言葉をこの国土と同胞との間に持ち運ぼうと深く決意した。<br />
<br />
日本における『[[使徒行伝]]』は彼ら初代伝道者先覚者たちによって綴られていった。キリスト教は日本武士道に接樹され、[[儒教]]と[[仏教]]とによって最善の地ならしをされた日本精神の土壌に根を下ろし花を開き結実していったのである。<br />
<br />
第二、第三世代の後継者たちも、[[個人主義]]・[[自然主義]]・[[社会主義]]・[[無政府主義]]・[[共産主義]]などに戦いを挑み、キリストの真理を護り、肇国の大義に生き抜いた。<br />
<br />
そして遂に名実とも日本のキリスト教会を樹立するの日は来た、[[皇紀二千六百年奉祝全国基督教信徒大会]]の祝典の盛儀を前にしてわれら日本の[[キリスト教諸教派の一覧|キリスト教諸教会諸教派]]は東都の一角に集い、神と国との前にこれらの諸教派の在来の伝統、慣習、機構、教理一切の差別を払拭し、全く外国宣教師たちの精神的・物質的援助と羈絆から脱却、独立し、諸教派を打って一丸とする一国一教会となりて、世界教会史上先例と類例を見ざる驚異すべき事実が出来したのである。これはただ神の恵みの佑助にのみよるわれらの久しき祈りの聴許であると共に、わが国体の尊厳無比なる基礎に立ち、天業翼賛の皇道倫理を身に体したる日本人キリスト者にして初めてよくなしえたところである。<br />
<br />
このような経過を経て成立したものが、ここに諸君に呼びかけ語っている「日本基督教団」である。<br />
<br />
これは日本の国史に照らし合わせても一大盛事と謂うべきものであり、これを古より闘争に終始した西欧の教会史に照らし合わせても、まことに主の日の予兆の大なる標識というべきであろう。<br />
<br />
== 第4章 == <br />
日本基督教団は敬愛する兄弟に呼びかける。<br />
<br />
兄弟たちよ。われわれはこのキリストを証しする証人であり、彼の体であるということを銘記しようではないか。<br />
<br />
日本基督教団と大東亜の兄弟たちは、この慰めとこの希望とを一つにするがゆえに、同じ愛、同じ思念の中に一つとならなければならぬ。隣人愛の高き誡命の中にあの福音を聞き信じつつ大東亜共栄圏の建設という地上における次の目標に全人を挙げ全力を尽さなければならぬ。われらはこの信仰とこの愛とを一つにする者共であるから、同じ念い、共同の戦友意識、鞏固なる精神的靭帯に一つに結び合わされて、不義を挫き、正義と愛の共栄圏を樹立するためにこの戦争を最後まで戦いぬかなければならぬ。<br />
<br />
「汝らキリスト・イエスのよき兵卒としてわれらと共に苦難を忍べ」(テモテ後書二・三)。<br />
<br />
[[祝祷]]<br />
キリストの恩恵、父なる神の愛、聖霊の交際、われらがその現実の一日も早からんことを望みてやまざる大東亜共栄圏のすべての兄弟姉妹の上にあらんことを。アァメン。<br />
<br />
=== 第1章 === <br />
神の恩恵により、一国一教会となった日本基督教団は、東亜共栄圏内のキリスト者に挨拶を送る。日本基督教団と大東亜共栄圏のキリスト教徒を一つに結ぶ鞏固なる紐帯が二つあり、その一つは、白人種の優越性という聖書に悖る思想の上に立って、東亜の諸民族に向かって君臨しようと欲する共同の敵、米英に対する戦いである。もう一つは、キリストを信じていることである。<br />
<br />
=== 第2章 === <br />
全世界をまことに指導し救済しうるものは、世界に冠絶せる万邦無比なるわが日本の[[国体]]であるという事実を、信仰によって判断しつつ、日本基督教団を信頼するように訴える。<br />
<br />
正義と共栄との美しい国土を東亜の天地に建設することによって神の国をさながらに地上に出現させることは、われらキリスト者にしてこの東亜に生を享けし者の衷心の祈念であり、最高の義務であると信ずる。<br />
<br />
=== 第3章 === <br />
[[内村鑑三]]は、「世界は畢竟キリスト教によりて救わるるのである。しかも武士道の上に接木せられたるキリスト教に由りて救われるのである」と喝破した。彼こそは、欧米の特に米国の宣教師が成功と称して勢力と利益と快楽とを追求する信仰を非信仰として排斥し、宣教師の一日も早く日本より退散して、日本人の手による日本国自生のキリスト教の必要を叫んだ先覚者である。<br />
<br />
大東亜には大東亜の伝統と歴史と民族性とに即した「大東亜のキリスト教」が樹立さるべきである。<br />
<br />
「しかして遂に名実とも日本のキリスト教会を樹立するの日は来た、わが皇紀二千六百年の祝典の盛儀を前にしてわれら日本のキリスト教諸教会諸教派は東都の一角に集い、神と国との前にこれらの諸教派の在来の伝統、慣習、機構、教理一切の差別を払拭し、全く外国宣教師たちの精神的・物質的援助と羈絆から脱却、独立し、諸教派を打って一丸とする一国一教会となりて、世界教会史上先例と類例を見ざる驚異すべき事実が出来したのである。これはただ神の恵みの佑助にのみよるわれらの久しき祈りの聴許であると共に、わが国体の尊厳無比なる基礎に立ち、天業翼賛の皇道倫理を身に体したる日本人キリスト者にして初めてよくなしえたところである。かかる経過を経て成立したものが、ここに諸君に呼びかけ語っている「日本基督教団」である。」<br />
<br />
=== 第4章 === <br />
日本基督教団は敬愛する兄弟たちに呼びかける。「隣人愛の高き誡命の中にあの福音を聞き信じつつ大東亜共栄圏の建設という地上における次の目標に全人を挙げ全力を尽さなければならぬ。われらはこの信仰とこの愛とを一つにする者共であるから、同じ念い、共同の戦友意識、鞏固なる精神的靭帯に一つに結び合わされて、不義を挫き、正義と愛の共栄圏を樹立するためにこの戦争を最後まで戦いぬかなければならぬ。」<br />
祝祷「キリストの恩恵、父なる神の愛、聖霊の交際、われらがその現実の一日も早からんことを望みてやまざる大東亜共栄圏のすべての兄弟姉妹の上にあらんことを。アァメン。」<br />
== 現代の使徒書翰 ==<br />
この書翰は[[カール・バルト|バルト主義者]]の[[山本和]]、[[桑田秀延]]、[[熊野義孝]]が原案を作成し、[[1944年]]([[昭和]]19年)復活節の日に、日本基督教団教団統理者[[富田満]]の名前で、[[大東亜共栄圏]]の[[キリスト教徒]]のために贈られた。<br />
<br />
== 脚注 ==<br />
<references /><br />
<br />
== 出版 ==<br />
*『日本基督教団より大東亜共栄圏に在る基督教徒に送る書翰』日本基督教団 1944年11月25日発行、代表者:鈴木浩二、印刷所:日東印刷株式会社<br />
<br />
== 関連項目 ==<br />
{{Wikisource|日本基督教団より大東亜共栄圏に在る基督教徒に送る書翰 |日本基督教団より大東亜共栄圏に在る基督教徒に送る書翰 }}<br />
*[[日本基督教団]]<br />
*[[富田満]]<br />
{{日本キリスト教史}}<br />
<br />
{{DEFAULTSORT:にほんきりすときようたんよりたいとうあきようえいけんにあるきりすときようとにおくるしよかん}} <br />
[[Category:キリスト教の歴史]]<br />
[[Category:戦前日本のキリスト教]]<br />
[[Category:日本基督教団|たいとうあきようえいけんにあるしとに]]<br />
[[Category:書簡]]<br />
[[Category:日本のアジア主義]]<br />
[[Category:太平洋戦争]]<br />
[[Category:1944年の日本]]<br />
[[Category:1944年4月]]</div>
122.197.105.12
皇紀二千六百年奉祝全国基督教信徒大会
2018-07-12T11:53:17Z
<p>122.197.105.12: /* 参考文献 */</p>
<hr />
<div>[[Image:Koki2600.Church of Christ in Japan.JPG|thumb|right|150px|皇紀二千六百年奉祝全国基督教信徒大会]]<br />
[[Image:Mituru TOMITA.koki2600.JPG|thumb|right|140px|司会者[[富田満]]牧師]]<br />
[[Image:Koki2600 choir.JPG|thumb|right|150px|「祝祭讃歌」を歌う1500人の聖歌隊]]<br />
[[Image:Housyukusanka.JPG|thumb|right|150px|「祝祭讃歌」]]<br />
[[Image:Otimi Kubushiro.JPG|thumb|right|140px|[[久布白落実]]の奨励]]<br />
'''皇紀二千六百年奉祝全国基督教信徒大会'''(こうきにせんろっぴゃくねんほうしゅくぜんこくキリストきょうしんとたいかい)は、[[1940年]][[10月17日]]の[[神嘗祭]]の日に、[[神武天皇即位紀元]]2600年を記念するため、[[青山学院]]に2万人を集めて開かれた[[紀元二千六百年記念行事]]。<br />
<br />
大会は[[宮城遥拝]]の[[国民儀礼]]でもって開始され、この日のために創作された[[天皇]]を賛美する「讃美歌」が歌われた。その後集まった会衆はこぞって[[明治神宮]]まで参拝した。大会は「吾等は全基督教会の合同の完成を期す」と宣言し、この決議に基づいて[[日本基督教団]]が成立した。<br />
<br />
==大会プログラム==<br />
===午前の礼拝===<br />
*開会の宣言 司会者[[富田満]]<br />
*国歌斉唱([[君が代]])<br />
*[[宮城遥拝]]<br />
*黙祷<br />
*奉祝前奏曲 作曲[[木岡英三郎]]<br />
*開会の辞 司会者富田満<br />
皇統連綿という無比の歴史に意味があり、日本人の誇りはここにある。キリストの十字架の精神こそ滅私奉公という精神に最も近い。<br />
<br />
*讃美歌54番<br />
*聖書朗読 [[黙示録]]21章1節<br />
「我また新しき天と新しき地とを見たり」<br />
<br />
*祈祷 [[今泉真幸]]<br />
二千六百年の昔に、神武の御門が大和の国をはじめ、皇国の基をすえたまいしことを感謝し奉る。爾来二千六百年の間、列聖相継いで皇国を知し召し給い、大八洲の民草広く深くその御恩に与かりしことを感謝し奉る。将士に一死報国の精神をあたえ、真にあなたの息子息女となることを得しめ給え。斯くすることに由って大君の赤子にふさわしい者とし、皇国の民草としての忠誠を全うさせてくださるように。<br />
<br />
*讃美歌350番<br />
*説教 [[阿部義宗]]<br />
日本のキリスト教徒は[[新天新地]]の黙示を見ている。皇紀二千六百年の皇運を喜ぶ集まりであると共に、日本のキリスト教の歴史におけるペンテコステである。教会合同の黙示は、日本独自の神の恩寵である。<br />
<br />
*祈祷 [[千葉勇五郎]]の祈り<br />
一心一体祖国の使命達成のために、御国建設の為に、我らの身も魂も尽くすことをゆるしてくださるように。新しき天と新しき地を地上に実現する者となることができるように。<br />
<br />
*聖歌隊「祝祭讃歌」 作曲[[岡本敏明]]<br />
*奨励「献金の趣旨」 [[真鍋頼一]]<br />
日本においてキリスト教徒の為すべきことは、大東亜建設の事業である。<br />
<br />
*献金<br />
*感謝祈祷 [[白戸八郎]]<br />
東亜大陸における伝道事業の為に献金を用い、実を結ばせ給わんことを切に祈る。<br />
<br />
*[[頌栄]]566番<br />
*[[祝祷]] [[松井米太郎]]<br />
各種報告を持って午前の部終了。<br />
<br />
===午後の祝会===<br />
司会 [[小崎道雄 (牧師)|小崎道雄]]<br />
*讃美歌412番<br />
*祝祷 [[三浦豕]]<br />
*聖歌隊「二千六百年奉祝讃歌」<br />
*式辞 小崎道雄<br />
本日全国にあるキリスト信徒相会し、茲に皇紀ある二千六百年を慶祝するの機会を得たことを感謝する。我国が肇国の古より[[八紘一宇]]の精神に則り、親展に親展を重ね今日の隆盛を来たしましたことは、是れ偏えに天佑を保有し給う万世一系の天皇の御稜威と、尊厳無比の国体に基づくものであり、この聖代に生を受けたことは感激に堪えない。日本のキリスト教が宣教わずか70年にして今日の進歩を見るに至ったのは、信教の自由を保障したまいし明治天皇の恩による。東亜における指導者として責任を大きさを痛感し、この大使命を全うする為に人力の限りを尽くすのみならず、神に対する信仰を盛んならしめねばならぬと信じる。<br />
<br />
====皇紀二千六百年奉祝全国基督教信徒大会宣言====<br />
*宣言朗読 [[額賀鹿之助]]<br />
<br />
<poem><br />
神武天皇国を肇め給いしより茲に二千六百年 <br />
皇統連綿として禰々光輝を宇内に放つ此栄ある歴史を懐うて<br />
吾等転た感激に堪へざるものあり <br />
本日全国にある基督信徒相会し虔んで<br />
天皇陛下の万歳を寿ぎ奉る <br />
惟ふに現下の世界情勢は<br />
極めて波欄多く一刻の偸安を許さざるものあり<br />
西に欧洲の戦禍あり東に支那事変ありて末た其終結を見ず<br />
此渦中にありて我国は能く其針路を謬ることなく国運国力の進展を見つつあり <br />
是れ寔に天佑の然らしむる処にして<br />
一君万民尊厳無比なる我国体に基くものと信じて疑わず<br />
今や此世界の変局に処し国家は体制を新たにし<br />
大東亜新秩序の建設に邁進しつつあり<br />
吾等基督信徒も又之に即応し教会教派の別を棄て<br />
合同一致以って国民精神指導の大業に参加し<br />
進んで大政を翼賛し奉り尽忠報国の誠を致さんとす<br />
拠って茲に吾等は此記念すべき日に方り左の宣言を為す<br />
<br />
一、吾等は基督の福音を伝え救霊の使命を完うせんことを期す<br />
一、吾等は全キリスト教会合同を期す<br />
一、吾等は精神の作興道義の向上生活の刷新を期す。<br />
<br />
右宣言す 昭和15年10月17日<br />
</poem><br />
この歴史的な大宣言が朗読せられ、全会衆の拍手暫し鳴りも止まなかった。<br />
<br />
*祝辞 [[内閣総理大臣]] [[近衛文麿]](代読)<br />
*祝辞朗読 [[文部大臣 (日本)|文部大臣]]・[[東京都知事]]・[[東京市長]]<br />
*聖歌隊「祝祭賛歌」<br />
*奨励 <br />
<br />
[[松山常次郎]]の奨励。神武天皇が大和を御平定遊ばされましてより今日に至りまする迄、大陸の文化に接して我国独特の文化を建設し、王政維新の時には西洋の文明と接触して[[開国進取]]の国是を定め、明治天皇の御統率の下に国運隆々として今日に至った。東亜の諸国の指導的地位を確立するに至ったことは誠にお互いに喜ばしく存する所である。近衛内閣の新体制は精神運動であると見ている。明治以来の科学万能主義や功利主義は文明建設のために効果はあったが、弊害も現れてきた。そのため理想主義に対する要求が起こり、まず日本精神運動が起こり、次に新体制運動が起こった。これは精神運動であるからキリスト教は新たに重大なる任を負わされた。即ち、精神、真心がなければ、新体制運動は成功しないと思う。東亜の新秩序の建設、日満支三国の親善提携によって東洋の平和を確立するのであり、精神的紐帯としてキリスト教が必要である事を深く感じる。国内伝道の充実、東亜伝道の拡大にクリスチャンは大いに力を要する。全国三十万のクリスチャンがその力を結集して、この大いなる使命に向かって突進しなければならない。ここに我々は教会合同の必要を感じる。教会合同の力を以って新たにこの使命に向かって突進しなければならない。伝道報国の大いなる責任を感じており、皇紀二千六百年の大会において、伝道報国の一大決心をしたい。<br />
<br />
[[久布白落実]]は興亜奉公という偉大な精神は日本国民に対して火の柱、雲の柱であると信ずる、新体制は十字架の道である、と述べた。<br />
<br />
[[斉藤惣一]]は世界無比の国体である我国の歴史に対する感謝の心が湧くと述べた。青少年は、第一に若さを祖国に捧げ、純なる若き血、肉、全身を我国のために捧げねばならない。第二に、青少年は大日本帝国の希望である。第三に青少年は大日本帝国の良心であれ。日本帝国の礎となり、日本だけではなく、我らの目は東亜と世界に注がれなければならない。一つの大いなる望み、東亜に世界に新秩序建設の役割を果たさねばならない。<br />
<br />
[[金井為一郎]]の奨励。忠勇なるわが将兵が戦場に倒れる時には、天皇陛下万歳を唱えて喜んで死んでいくのである。この忠義の精神は万国に比類なきものであり、キリストにおいてさらに高いものとなり、永遠性を帯び、まことに宗教的になることは全世界に貢献すべきところの日本の偉大なる使命の一つである。紀元3世紀の間は教会は一つであり、信者は一致していたが、それより後には政争、戦争となり、教会が分裂し、教派がおこり、内部抗争によって弱り果てた歴史を繰り返してはならない。この機会に教会は一つなろうとする決意をもった。<br />
<br />
[[今井三郎]]。爆弾を抱いて敵陣に飛び込む自己犠牲も、友軍の突撃路を開く為に自爆するところの自己犠牲も、共に我が日本人の有する一つの特質である。力は上からの黙示によって得る。<br />
<br />
*祈祷 <br />
<br />
[[藤崎五郎]]の祈り。新しい天と新しい地の幻を仰がしめたもうてまことにありがたく感謝いたします。すべての教派、教会が全く一つになるという出来事を目前に仰がしめ給うてまことに感謝いたします。<br />
<br />
[[小原十三司]]の祈り。栄ある皇紀二千六百年奉祝全国キリスト教信徒大会を恩恵の中に終わらんとしていることを感謝いたします。ペンテコステの日のように、きよめ給わんことを伏して願い奉る。<br />
<br />
*頌栄 568番<br />
*祝祷 [[阿部義宗]]<br />
*万歳奉唱 発声 [[日匹信亮|日疋信亮]]<br />
<br />
==皇紀二千六百年奉祝全国基督教信徒大会の委員==<br />
*大会委員長:[[阿部義宗]]<br />
*大会副委員長:[[小崎道雄 (牧師)|小崎道雄]]<br />
*書記:[[都田恒太郎]]<br />
<br />
==日本基督教団==<br />
日本基督教団は現代の使徒書簡「[[日本基督教団より大東亜共栄圏に在る基督教徒に送る書翰]]」を[[大東亜共栄圏]]の[[キリスト教徒]]に送って呼びかけた。<br />
「しかして遂に名実とも日本のキリスト教会を樹立するの日は来た、わが皇紀二千六百年の祝典の盛儀を前にしてわれら日本のキリスト教諸教会諸教派は東都の一角に集い、神と国との前にこれらの諸教派の在来の伝統、慣習、機構、教理一切の差別を払拭し、全く外国宣教師たちの精神的・物質的援助と羈絆から脱却、独立し、諸教派を打って一丸とする一国一教会となりて、世界教会史上先例と類例を見ざる驚異すべき事実が出来したのである。これはただ神の恵みの佑助にのみよるわれらの久しき祈りの聴許であると共に、わが国体の尊厳無比なる基礎に立ち、天業翼賛の皇道倫理を身に体したる日本人キリスト者にして初めてよくなしえたところである。かかる経過を経て成立したものが、ここに諸君に呼びかけ語っている「日本基督教団」である。」<br />
<br />
==関連項目==<br />
*[[日本基督教団]]<br />
<br />
== 参考文献 ==<br />
*『皇紀二千六百年と教会合同』[[日本基督教連盟]]編纂<br />
*『キリスト者であることと日本人であること』井戸垣彰 いのちのことば社<br />
<br />
{{日本キリスト教史}}<br />
<br />
{{DEFAULTSORT:こうきにせんろつひやくねんほうしゆくせんこくきりすときようしんとたいかい}}<br />
[[Category:皇紀2600年]]<br />
[[Category:キリスト教の運動]]<br />
[[Category:戦前日本のキリスト教]]<br />
[[Category:日本基督教団]]<br />
[[Category:1940年10月]]</div>
122.197.105.12
アメリカ教会への感謝状
2018-07-12T11:51:55Z
<p>122.197.105.12: /* 参考文献 */</p>
<hr />
<div>'''アメリカ教会への感謝状'''(アメリカきょうかいへのかんしゃじょう、Formal Message of Appreciation to American Churches)は、日本のキリスト教会から、[[アメリカ合衆国]]のキリスト教会におくられた[[感謝状]]。<br />
<br />
感謝状は[[1941年]]4月20日から4月25日に[[カリフォルニア州]][[リバーサイド (カリフォルニア州)|リバーサイド]]で開催された、[[リバーサイド日米キリスト者会議]]で贈られた。この会議に遣米平和使節団として派遣されたのは、[[阿部義宗]]、[[小崎道雄 (牧師)|小崎道雄]]、[[松山常次郎]]、[[賀川豊彦]]と補佐の小川清澄、[[斉藤惣一]]、[[河井道]]、[[湯浅八郎]]、[[ウィリアム・アキスリング]]である。<br />
<br />
この感謝状は、アメリカがプロテスタント宣教の初期から日本に[[宣教師]]を派遣し、日本人をキリスト教信仰に導き、日本にキリスト教の基礎をおくことを可能とし、財政的援助、祈り、励ましを与えてくれたことに対し、心からの感謝を表明している。<br />
<br />
[[日本基督教団]]がこの3年後に「[[日本基督教団より大東亜共栄圏に在る基督教徒に送る書翰]]」を発表した理由は、アメリカ教会への感謝状をおくったのと同様に、日本基督教団がアメリカのキリスト教会を母教会とするアメリカ系の教会だからである<ref>『日本の神学』</ref>。<br />
<br />
== 脚注 ==<br />
<references /><br />
<br />
== 参考文献 ==<br />
*『日本の神学』[[古屋安雄]] ヨルダン社<br />
<br />
{{日本キリスト教史}}<br />
<br />
{{DEFAULTSORT:あめりかきようかいへのかんしやしよう}}<br />
[[Category:アメリカ合衆国のプロテスタント]]<br />
[[Category:戦前日本のキリスト教]]<br />
[[Category:日本基督教団]]<br />
[[Category:1941年のアメリカ合衆国]]<br />
[[Category:カリフォルニア州の歴史]]<br />
[[Category:リバーサイド (カリフォルニア州)]]<br />
[[Category:日米関係]]<br />
[[Category:書簡]]<br />
[[Category:1941年4月]]</div>
122.197.105.12
ナポレオン3世
2018-07-11T18:28:53Z
<p>122.197.105.12: </p>
<hr />
<div>{{Redirect|ルイ・ナポレオン|高橋陽一の漫画『キャプテン翼』のルイ・ナポレオン|キャプテン翼の登場人物#フランス}} <br />
{{基礎情報 君主<br />
| 人名 = ナポレオン3世<br />
| 各国語表記 = {{lang|fr|Napoléon III}}<br />
| 君主号 = [[フランス皇帝]]<ref>{{Cite web |url=http://www.conseil-constitutionnel.fr/conseil-constitutionnel/francais/la-constitution/les-constitutions-de-la-france/constitution-de-1852-second-empire.5107.html |title=Décret impérial du 2 décembre 1852 |trans-title=1852年12月2日の皇帝勅令 |accessdate=2016-02-23 |date=1852-12-02 |work=Constitution de 1852, Second Empire |publisher=Conseil constitutionnel |quote=Article 2. - Louis Napoléon Bonaparte est Empereur des Français sous le nom de Napoléon III |language=fr }}</ref><br />
| 画像 = Napoleón 3º (1865).jpg<br />
| 画像サイズ = 210px<br />
| 画像説明 = 1860年のナポレオン3世<br />
| 在位 = [[1852年]][[12月2日]] - [[1870年]][[9月4日]]<ref name="秦(2001)289">[[#秦(2001)|秦(2001)]] p.289</ref><br />
| 戴冠日 = <br />
| 別号 = [[フランス第二帝政|フランス国民]][[フランス皇帝|皇帝]](正式)<br />[[アンドラ君主一覧|アンドラ共同大公]]<br />
| 全名 = <span style="white-space:nowrap">シャルル・ルイ=ナポレオン・ボナパルト</span><br />
| 出生日 = [[1808年]][[4月20日]]<br />
| 生地 = {{FRA1804}}、[[パリ]]<br />
| 死亡日 = {{死亡年月日と没年齢|1808|4|20|1873|1|9}}<br />
| 没地 = {{ENG}}、[[ケント (イングランド)|ケント]]、チズルハースト<br />
| 埋葬日 = [[1888年]]<br />
| 埋葬地 = {{ENG}}、[[ハンプシャー]]、ファーンボロー、聖マイケル修道院<br />
| 継承者 = [[ナポレオン・ウジェーヌ・ルイ・ボナパルト|ナポレオン・ウジェーヌ]]<br />
| 継承形式 = [[皇太子]]<br />
| 配偶者1 = [[ウジェニー・ド・モンティジョ]]<br />
| 子女 = [[ナポレオン・ウジェーヌ・ルイ・ボナパルト|ナポレオン・ウジェーヌ]]<br />
| 王家 = [[ボナパルト家]]<br />
| 王朝 = [[ボナパルト朝]]([[フランス第二帝政]])<br />
| 父親 = [[ルイ・ボナパルト|ホラント王ルイ・ボナパルト]]<br />
| 母親 = [[オルタンス・ド・ボアルネ]]<br />
}}<br />
'''ナポレオン3世'''('''Napoléon III''', [[1808年]][[4月20日]] - [[1873年]][[1月9日]])は、[[フランス第二共和政]]の[[フランスの大統領|大統領]](在任:[[1848年]] - [[1852年]])、のち[[フランス第二帝政]]の[[フランス皇帝|皇帝]](在位:[[1852年]] - [[1870年]])。本名は'''シャルル・ルイ=ナポレオン・ボナパルト'''('''Charles Louis-Napoléon Bonaparte''')であり、皇帝に即位して「ナポレオン3世」を名乗る以前については一般に'''ルイ・ナポレオン'''と呼ばれている<ref name="ランツ(2010)14" />。本項でもそのように記述するものとする。<br />
<br />
[[ナポレオン・ボナパルト]]の甥にあたり、[[1815年]]のナポレオン失脚後、国外亡命生活と武装蜂起失敗による獄中生活を送ったが、[[1848年革命]]で王政が消えるとフランスへの帰国が叶い、同年の大統領選挙でフランス第二共和政の大統領に当選した。第二共和政の大統領の権力は弱く、はじめ共和派、のち王党派が牛耳るようになった国民議会から様々な掣肘を受けたが、[[1851年]]に国民議会に対するクーデタを起こし、独裁権力を掌握。[[1852年]]に皇帝に即位して「ナポレオン3世」となり、第二帝政を開始した。1850年代は「権威帝政」と呼ばれる強圧支配を敷いたが、1860年代頃から「自由帝政」と呼ばれる議会を尊重した統治へと徐々に移行した。内政面ではパリ改造計画、近代金融の確立、鉄道網敷設などに尽くした。外交では[[クリミア戦争]]によって[[ウィーン体制]]を終焉させ、ヨーロッパ各地の自由主義ナショナリズム運動を支援することでフランスの影響力を拡大を図った。また[[アフリカ]]・[[アジア]]にフランス植民地を拡大させた。しかし[[メキシコ出兵]]の失敗で体制は動揺。[[1870年]]に勃発した[[普仏戦争]]でプロイセン軍の捕虜となり、それがきっかけで第二帝政は崩壊し、フランスは[[フランス第三共和政|第三共和政]]へ移行した。<br />
<br />
以降[[2018年]]現在までフランスは共和政であるため、彼がフランスにおける最後の君主にあたる。<br />
<br />
== 概要 ==<br />
[[1808年]]に[[フランス第一帝政|フランス]][[フランス皇帝|皇帝]][[ナポレオン・ボナパルト]]の弟[[ルイ・ボナパルト]]とその妃[[オルタンス・ド・ボアルネ|オルタンス]]の三男として[[パリ]]に生まれる。兄に[[ナポレオン・ルイ・ボナパルト]]がいる。一説に母が愛人の男性との間に儲けた子ともいわれる(''→[[#生誕と出自をめぐる疑惑|生誕と出自をめぐる疑惑]]'')。<br />
<br />
[[1815年]]のナポレオン失脚で[[ブルボン家]]の[[フランス復古王政|復古王政]]によって家族とともに国を追われ、長きにわたる亡命生活を余儀なくされた(''→[[#ナポレオンの失脚|ナポレオンの失脚]]'')。母に引き取られ、[[スイス]]や[[バイエルン王国|バイエルン]]で育った(''→[[#アレネンベルク・アウクスブルクで育つ|アレネンベルク・アウクスブルクで育つ]]'')。[[1830年]]に復古王政が倒れて[[ルイ・フィリップ (フランス王)|ルイ・フィリップ]]の[[7月王政]]が樹立されるも、帰国は認められなかった(''→[[#7月革命をめぐって|7月革命をめぐって]]'')。<br />
<br />
1830年に[[ローマ]]へ移住し、[[イタリア統一運動]]に参加したが、[[教皇]]や[[オーストリア帝国|オーストリア]]に対する抵抗運動[[ボローニャ]]一揆の失敗によりスイスへ逃げ戻った(''→[[#イタリア統一運動への参加|イタリア統一運動への参加]]'')。その後文芸活動に精を出し、「[[空想的社会主義]]」の[[アンリ・ド・サン=シモン|サン=シモン主義]]に接近した(''→[[#文芸活動|文芸活動]]'')。<br />
<br />
またボナパルト家の帝政復古を目指して武装蜂起を策動し、[[1836年]]には[[ストラスブール]]からフランス軍に蜂起を呼びかけるストラスブール一揆を起こしたが、失敗して逮捕される(''→[[#ストラスブール一揆|ストラスブール一揆]]'')。この時は[[アメリカ合衆国|アメリカ]]へ国外追放だけで済んだが、フランス国内でナポレオン再評価が高まったのを好機として[[1840年]]に[[ブローニュ=シュル=メール|ブローニュ]]で再び一揆を起こした。やはり失敗して逮捕され、今度は終身刑に処せられた(''→[[#ブローニュ一揆|ブローニュ一揆]]'')。5年半に及ぶ{{仮リンク|アム要塞|fr|Forteresse de Ham}}での獄中生活を利用して政治研究に明け暮れ、[[1844年]]に著した『貧困の根絶』の中で労働者階級の保護を主張し、貧困層に新たなボナパルティズムをアピールした(''→[[#アム要塞服役時代|アム要塞服役時代]]'')。[[1846年]]の父の危篤に際してアム要塞を脱獄し、ベルギーを経てロンドンへ逃れた(''→[[#脱走|脱走]]'')。<br />
<br />
[[1848年革命|1848年2月の革命]]で7月王政が崩壊するとフランスへの帰国を果たし、憲法制定議会議員補欠選挙で当選した(''→[[#1848年革命をめぐって|1848年革命をめぐって]]、→[[#憲法制定議会の代議士|憲法制定議会の代議士]]'')。12月の大統領選挙にも出馬し、「ナポレオン」の名の高い知名度、豊富な資金力、両王党派([[レジティミスム|正統王朝派]]と[[オルレアニスム|オルレアン派]])の消極的な支持などで74%の得票率を得ての当選を果たす(''→[[#大統領に当選|大統領に当選]]'')。<br />
<br />
しかし第二共和政の大統領の権力は弱く、共和派が牛耳る国民議会によって帝政復古は掣肘を受けた。そのため当初は両王党派やカトリックから成る右翼政党{{仮リンク|秩序党|fr|Parti de l'Ordre (1848)}}との連携を目指した(''→[[#秩序党との連携期|秩序党との連携期]]'')。その一環で[[ローマ共和国 (19世紀)|ローマ共和国]]によってローマを追われていた教皇の帰還を支援すべくローマ侵攻を行った。これに反発した左翼勢力が蜂起するも鎮圧され、左翼勢力は壊滅的打撃を受けた。代わって秩序党が国民議会の支配的勢力となり、男子普通選挙の骨抜きなど保守的な立法が次々と行われ、ルイ・ナポレオンとの対決姿勢も強めてきた(''→[[#ローマ侵攻とその影響|ローマ侵攻とその影響]]、→[[#秩序党の支配|秩序党の支配]]'')。<br />
<br />
国民議会から政治主導権を奪う必要があると判断し、クーデタを計画。軍や警察の取り込みなど準備を慎重に進め、1851年12月にクーデタを決行した。秩序党幹部らを逮捕したのを皮切りに共和主義者にも逮捕の網を広げ、国内反対勢力を一掃した(''→[[#クーデターの準備|クーデターの準備]]、→[[#「ルイ・ボナパルトのブリュメール18日のクーデター」|「ルイ・ボナパルトのブリュメール18日のクーデター」]]'')。翌[[1852年]]1月には大統領に全権を認めた[[1852年憲法]]を制定して独裁体制を樹立する(''→[[#1852年憲法と独裁体制の樹立|1852年憲法と独裁体制の樹立]]'')。さらに同年12月には国民投票のうえで皇帝即位を宣言し、[[フランス第二帝政|第二帝政]]を樹立、「ナポレオン3世」と名乗るようになった(''→[[#皇帝に即位|皇帝に即位]]'')。その治世の前期は「権威帝政」と呼ばれる強圧的な統治だったが、1860年代には「自由帝政」と呼ばれる自由主義・議会主義的な統治へと徐々に転換していった(''→[[#権威帝政と自由帝政|権威帝政と自由帝政]]'')。<br />
<br />
内政面ではサン=シモン主義を背景にした経済政策を行った(''→[[#経済政策|経済政策]]'')。金融改革を起こして産業融資を行う近代的金融業の確立に努めた(''→[[#金融改革|金融改革]]'')。また各国と通商条約を結んで[[自由貿易]]の推進にも努めた(''→[[#自由貿易|自由貿易]]'')。国土整備も推し進め、[[ジョルジュ・オスマン]]に[[パリ改造]]計画を実施させて道路増設や都市衛生化を推進した(''→[[#パリ改造計画|パリ改造計画]]'')。また金融資本家の鉄道融資を煽ることで鉄道網整備にも尽くした(''→[[#鉄道建設|鉄道建設]]'')。しかしサン=シモン主義の自由放任主義から社会政策には不熱心だった(''→[[#社会保障の不十分|社会保障の不十分]]'')。<br />
<br />
外交は、彼の伯父を否定する[[ウィーン体制]]の改定、ヨーロッパ各国の自由主義ナショナリズム運動の擁護、[[アフリカ]]・[[アジア]]に植民地を拡大することを基本方針とした(''→[[#外交|外交]]'')。[[クリミア戦争]]では[[グレートブリテン及びアイルランド連合王国|イギリス]]と同盟して[[ロシア帝国|ロシア]]に対して勝利したことでフランスの国際的地位を高めた(''→[[#クリミア戦争|クリミア戦争]]'')。[[イタリア統一戦争]]では[[サルデーニャ王国|サルデーニャ]]とともにオーストリアと戦うも、サルデーニャに独断で早々にオーストリアと休戦協定を結び、以降[[教皇領]]の保護にあたるなどイタリア統一にブレーキをかけることでイタリアへの影響力を維持しようとした(''→[[#イタリア統一戦争|イタリア統一戦争]]'')。非ヨーロッパ諸国に対しては[[帝国主義]]政策をもってのぞみ、アフリカやアジアの諸国を次々とフランス植民地に組み込んでいった。その治世下に[[フランス植民地帝国]]は領土を3倍に拡張させた。サン=シモン主義の影響からとりわけアジア太平洋地域への進出に力を入れ、アジア諸国に不平等条約を結ばせたり、拒否した時には戦争を仕掛けたり、[[コーチシナ]]を併合したり、[[カンボジア]]保護国化するなど強硬政策をとった(''→[[#アジア太平洋地域植民地化|アジア太平洋地域植民地化]]'')。サハラ砂漠以南の「黒アフリカ」にも植民地を拡大していき、強圧的な植民地統治を行った(''→[[#サハラ以南アフリカの統治|サハラ以南アフリカの統治]]'')。一方[[アルジェリア]]では「アラブ王国」政策と呼ばれる先住民に一定の配慮をした植民地統治をおこなった(''→[[#アルジェリア統治|アルジェリア統治]]'')。<br />
<br />
ナポレオン3世の権力はこうした外交的成功によって支えられている面が多かったが、[[メキシコ出兵]]の失敗で国内的な地位を弱めた(''→[[#メキシコ出兵|メキシコ出兵]]'')。さらに[[小ドイツ主義]]統一を推し進める[[プロイセン王国|プロイセン]]と対立を深め、スペイン王位継承問題を利用したプロイセン宰相[[オットー・フォン・ビスマルク]]の策動により、1870年にプロイセンに対する宣戦布告に追い込まれ、何の準備も出来ていない状態で[[普仏戦争]]へ突入する羽目になった(''→[[#スペイン王位継承問題|スペイン王位継承問題]]'')。自ら前線に赴き、指揮をとったが、フランスは連敗を重ね、[[セダンの戦い]]においては彼自身がプロイセン軍の捕虜になった(''→[[#普仏戦争と破滅|普仏戦争と破滅]]'')。これにより求心力を決定的に落とし、パリではクーデターが発生して第二帝政は打倒され、フランスは[[フランス第三共和政|第三共和政]]へ移行した(''→[[#第二帝政崩壊|第二帝政崩壊]]'')。<br />
<br />
普仏戦争が終結してプロイセン軍から釈放された後、ナポレオン3世はイギリスへ亡命した。復位を諦めず、クーデターを起こすことを計画していたが、実行に移す前に1873年に同国で死去した(''→[[#イギリスでの晩年|イギリスでの晩年]]、→[[#死去|死去]]'')。<br />
<br />
皇后はスペイン貴族の娘[[ウジェニー・ド・モンティジョ|ウジェニー]]。彼女の政治面での影響力は大きかった。彼女との間に唯一の子である[[ナポレオン・ウジェーヌ・ルイ・ボナパルト|皇太子ルイ(ナポレオン4世)]]を儲けた(''→[[#ウジェニーを皇后に迎える|ウジェニーを皇后に迎える]]'')。<br />
<br />
まぶたの垂れ下がり、低身長、胴長短足など容姿には恵まれていなかったが、座高が高めだったので馬上の姿が映えたといい、「馬上のサン=シモン」とあだ名された(''→[[#容姿|容姿]]'')。身分の上下問わず数多くの女性と性交したので漁色家として知られた(''→[[#漁色家|漁色家]]'')。話下手で無口だったといわれ、「スフィンクス」と呼ばれた(''→[[#無口|無口]]'')。君主としての正統性の欠落を気にしていたという(''→[[#正統性の欠落|正統性の欠落]]'')。<br />
<br />
[[カール・マルクス]]は『[[ルイ・ボナパルトのブリュメール18日]]』や『[[フランスにおける内乱]]』などの中で第二帝政を「[[ルンペン・プロレタリア]]体制」「超国境的な金融詐欺師の祭典」として批判した。[[ヴィクトル・ユーゴー]]も〚小ナポレオン〛においてナポレオンと比ぶべくもない小物の独裁者として批判した(''→[[#マルクスとユーゴーの批判|マルクスとユーゴーの批判]]'')。ビスマルクもナポレオン3世の知性を低く見ていた(''→[[#ビスマルクによる評価|ビスマルクによる評価]]'')。[[ヘンリー・キッシンジャー|キッシンジャー]]はウィーン体制こそがフランスにとって対ドイツの最良の安全保障であるのにそれの破壊を目指したこと、国民世論を気にしすぎて近視眼的になったことが彼の外交が破綻した原因と分析した(''→[[#キッシンジャーの評価|キッシンジャーの評価]]'')。一方、パリ改造計画や経済政策など内政面には再評価論もある。また外交面でもフランスの植民地を拡大したこと、イギリスと協調して一時的とはいえフランスの国際的地位を上げたことなどに評価する声もある(''→[[#再評価論|再評価論]]'')。<br />
{{-}}<br />
== 生涯 ==<br />
=== 第一帝政の皇族 ===<br />
==== 生誕と出自をめぐる疑惑 ====<br />
1808年4月20日から21日にかけて[[ホラント王国|ホラント]][[オランダ君主一覧|王]][[ルイ・ボナパルト]]([[フランス第一帝政|フランス]][[フランス皇帝|皇帝]][[ナポレオン・ボナパルト]]の弟)とその王妃[[オルタンス・ド・ボアルネ|オルタンス]](ナポレオンの皇后[[ジョゼフィーヌ・ド・ボアルネ]]の前夫との間の娘)の三男として[[パリ]]の{{仮リンク|ラフィット通り|label=セリュッティ通り(現ラフィット通り)|fr|Rue Laffitte}}に生まれた<ref name="高村(2004)23" /><ref name="鹿島(2004)16">[[#鹿島(2004)|鹿島(2004)]] p.16</ref><ref name="ランツ(2010)14">[[#ランツ(2010)|ランツ(2010)]] p.14</ref>。つまりナポレオンの甥にしてジョゼフィーヌの孫にあたる<ref name="ランツ(2010)14" /><ref name="横張(1999)10">[[#横張(1999)|横張(1999)]] p.10</ref>。兄に{{仮リンク|ナポレオン・シャルル・ボナパルト|label=ナポレオン・シャルル|fr|Napoléon Louis Charles Bonaparte}}(5歳で薨去)と[[ナポレオン・ルイ・ボナパルト|ナポレオン・ルイ]]がいた。<br />
<br />
父ルイ・ボナパルトは1806年にナポレオンからホラント王位を与えられていたが、兄の傀儡になるつもりはなく、オランダ人の利益を優先する独自路線をとろうとしたため、ナポレオンの圧力で1810年に退位させられた<ref name="高村(2004)23">[[#高村(2004)|高村(2004)]] p.23</ref>。一方、母オルタンスは熱狂的なナポレオン崇拝者であり、ボナパルト家は常にヨーロッパ人民に依拠せねばならないと主張していた。ルイ・ナポレオンは母の影響を強く受けて育った<ref name="野村(2002)33">[[#野村(2002)|野村(2002)]] p.33</ref>。<br />
<br />
[[元老院 (フランス)|元老院]]は1804年5月18日に伯父[[ジョゼフ・ボナパルト]](男子がいなかった)と父ルイ・ボナパルトに皇位継承権を認めていたため、生誕時点ではルイ・ナポレオンは伯父、父、兄に次ぐ第4位の皇位継承権者であった。ただ1811年3月にはナポレオンが後妻である[[ハプスブルク=ロートリンゲン家|ハプスブルク家]]の皇女[[マリア・ルイーザ (パルマ女公)|マリー・ルイーズ]]との間に[[ナポレオン2世]]を儲けたため、それ以降はルイ・ボナパルトの2人の息子の重要性は下がった<ref name="ランツ(2010)16">[[#ランツ(2010)|ランツ(2010)]] p.16</ref><ref name="高村(2004)77">[[#高村(2004)|高村(2004)]] p.77</ref>。<br />
<br />
ルイ・ナポレオンの出生には疑惑がある。彼の父と母は仲が悪く、2人の男子を儲けた後に1807年まで別居状態になり、その間に母は何人かの男性と愛人関係を持っていたためである。ただ、1807年中にわずかな期間だが父と母が同居していた時期があり、懐胎の時期と符合するため、やはりルイ・ボナパルトが父親とする説の方が有力であるという<ref name="鹿島(2004)17">[[#鹿島(2004)|鹿島(2004)]] p.17</ref>。いずれにしてもルイ・ナポレオンはナポレオンと似ていなかったこともあり、この噂は後々まで付いて回った<ref name="鹿島(2004)17" />。但し、母オルタンスはナポレオンの継子である為、ルイ・ナポレオンはナポレオンの血の繋がらない義理の孫ではある。<br />
{{Gallery<br />
|ファイル:1778 Louis Napoleon.jpg|父ホラント王[[ルイ・ボナパルト]]<br />
|ファイル:Anne-Louis Girodet De Roucy-Trioson - Portrait of Queen Hortense - WGA09507.jpg|母[[オルタンス・ド・ボアルネ|オルタンス]]<br />
}}<br />
<br />
==== ナポレオンの失脚 ====<br />
[[ファイル:Napoleon at Fontainebleau, 31 March 1814 by Paul Hippolyte Delaroche (Paris 1797-1856).jpg|thumb|170px|パリが占領された1814年3月31日、[[フォンテーヌブロー]]で渋い顔をするナポレオンを描いた[[ポール・ドラローシュ]]の絵画。]]<br />
1814年3月31日に[[パリ]]は[[第六次対仏大同盟|反ナポレオン同盟]]軍によって陥落させられ、ナポレオンは廃位のうえ[[エルバ島]]の領主に左遷された。反ナポレオン同盟国はフランスを革命前の状態に戻すべく、5月に[[ブルボン朝|ブルボン家]]の[[ルイ18世 (フランス王)|ルイ18世]]による[[フランス復古王政|復古王政]]を樹立させた<ref name="柴田(1996)449-450">[[#柴田(1996)|柴田・樺山・福井(1996) 第2巻]] p.449-450</ref>。しかし母オルタンスは反ナポレオン同盟国総司令官であるロシア皇帝[[アレクサンドル1世]]に接近して身の保全を図り、ルイ18世から引き続きパリに滞在することを許されたため、この最初のナポレオンの失脚ではルイ・ナポレオンの生活にも大きな変化は生じなかった<ref name="ランツ(2010)18">[[#ランツ(2010)|ランツ(2010)]] p.18</ref>。<br />
<br />
1815年3月にエルバ島を脱出したナポレオンは「人民の権利」「反[[封建制]]」を掲げてパリの民衆や軍隊の支持を獲得し、人心を掌握できないでいたルイ18世をパリから追って「[[百日天下]]」と呼ばれる一時的な復権を果たした<ref name="柴田(1996)451">[[#柴田(1996)|柴田・樺山・福井(1996) 第2巻]] p.451</ref>。この時ナポレオンはオルタンスに対して「お前が私の大義を捨てるとは思わなかった」と述べて彼女がルイ18世やロシア皇帝にすり寄ったことを非難したが、罰せられる事はなかった。それどころかナポレオンの皇后マリアと皇太子ナポレオン2世がすでにオーストリアに引き取られていたため<ref name="高村(2004)25">[[#高村(2004)|高村(2004)]] p.25</ref><ref name="ランツ(2010)18">[[#ランツ(2010)|ランツ(2010)]] p.18</ref>、オルタンスとその子供らが代役を果たすことになり、ルイ・ナポレオンもナポレオンと一緒に暮らすようになった<ref name="ランツ(2010)18">[[#ランツ(2010)|ランツ(2010)]] p.18</ref>。<br />
<br />
1815年6月12日にナポレオンは再び結成された[[第七次対仏大同盟|反ナポレオン同盟]]軍と戦うためパリを発つことになり、ルイ・ナポレオンとの最後の別れの際に[[アンリ・ガティアン・ベルトラン]]大元帥に対して「この子を抱いてやってくれ。心根の優しい子だ。いつの日か我が一族の希望となるかもしれない。」と語ったという。もっともこの逸話は後年にナポレオン3世自身が語ったものであるため、事実かどうかは疑わしいとされる<ref name="ランツ(2010)18" />。<br />
<br />
結局ナポレオンは6月18日に[[ワーテルローの戦い]]においてイギリス軍とプロイセン軍に敗北を喫した。ナポレオンは再び廃位されてイギリス領[[セント・ヘレナ島]]へ流された。7月6日には再度ルイ18世がパリへ帰還し、復古王政を再開した。今回のルイ18世はオルタンスとその子供たちがパリに滞在することを許さず、7月19日に母子は国を追われ、亡命生活を送ることを余儀なくされた<ref name="高村(2004)25" /><ref name="ランツ(2010)18" />。<br />
{{Gallery<br />
|lines=6<br />
|ファイル:Louis XVIII of France.png|[[復古王政]]期のフランス国王[[ルイ18世 (フランス王)|ルイ18世]]。[[フランス革命]]で断頭台に送られた[[ルイ16世 (フランス王)|ルイ16世]]の弟にあたる。<br />
|ファイル:Hector Viger - L'impératrice Joséphine reçoit à la Malmaison la visite du Tsar Alexandre Ier.jpg|最初のナポレオン失脚後の1814年5月、[[マルメゾン城]]で反仏連合軍司令官ロシア皇帝[[アレクサンドル1世]]と会見する[[ウジェーヌ・ド・ボアルネ]](伯父)、[[ジョゼフィーヌ・ド・ボアルネ]](祖母)、[[オルタンス・ド・ボアルネ]](母)、[[ナポレオン・ルイ・ボナパルト|ナポレオン・ルイ]](兄)、ルイ・ナポレオンを描いた絵画。<br />
|ファイル:Andrieux - La bataille de Waterloo.jpg|[[ワーテルローの戦い]]を描いた{{仮リンク|クレマン=オーギュスト・アンドリュー|fr|Clément-Auguste Andrieux}}の絵画<br />
}}<br />
{{-}}<br />
=== 亡命生活 ===<br />
==== アレネンベルク・アウクスブルクで育つ ====<br />
兄は父のいる[[フィレンツェ]]に引き取られたが、ルイ・ナポレオンは母オルタンスとともに[[バーデン大公]][[カール (バーデン大公)|カール]]の庇護で[[コンスタンツ]]に身を隠した<ref name="ランツ(2010)19">[[#ランツ(2010)|ランツ(2010)]] p.19</ref>。オルタンスはバイエルン王女[[アウグステ・フォン・バイエルン|アウグステ]]と結婚した兄[[ウジェーヌ・ド・ボアルネ|ウジェーヌ]]のおかげで金銭的には裕福であり<ref name="ランツ(2010)19" />、[[スイス]]を中心に各地を転々として暮らした<ref name="高村(2004)25">[[#高村(2004)|高村(2004)]] p.25</ref>。最終的には[[スイス]]の{{仮リンク|アレネンベルク|de|Arenenberg}}と[[バイエルン王国]]の[[アウクスブルク]]に居を落ち着けた<ref name="高村(2004)60">[[#高村(2004)|高村(2004)]] p.60</ref>。<br />
<br />
ルイ・ナポレオンは母から甘やかされて育ったが、1820年6月から厳格な[[ピューリタン]]・[[共和主義者]]の{{仮リンク|フィリップ・ル・バ|fr|Philippe Le Bas}}が家庭教師に付き、朝6時から夜9時まで続く猛勉強の生活を送るようになった<ref>[[#鹿島(2004)|鹿島(2004)]] p.18-19</ref><ref>[[#高村(2004)|高村(2004)]] p.26/27</ref><ref name="ランツ(2010)19-20">[[#ランツ(2010)|ランツ(2010)]] p.19-20</ref>。<br />
<br />
1821年夏に母がアレネンベルクへ移住したが、ル・バの提言によりルイ・ナポレオンはアウクスブルクに残って同地の[[ギムナジウム]]に通う事になった<ref name="高村(2004)26">[[#高村(2004)|高村(2004)]] p.26</ref>。ギムナジウムでの成績は並みだった<ref name="鹿島(2004)19">[[#鹿島(2004)|鹿島(2004)]] p.19</ref>。この頃にドイツ語を身につけ、彼のフランス語は後々までドイツ語訛りになった<ref name="鹿島(2004)19" />。<br />
<br />
反ナポレオン同盟国はスイス政府に対してボナパルト一族の者を滞在させないよう圧力をかけていたが、1821年5月にナポレオンがセント・ヘレナ島で没した後には同盟国のボナパルト一族に対する警戒も弱まっていった<ref name="高村(2004)25">[[#高村(2004)|高村(2004)]] p.25</ref>。<br />
<br />
1827年9月にル・バが家庭教師から解任された。ルイ・ナポレオンが旅行に出たり、社交界で女性と親しくすることを許さなかったのが原因とされる<ref name="鹿島(2004)20">[[#鹿島(2004)|鹿島(2004)]] p.20</ref><ref name="高村(2004)27">[[#高村(2004)|高村(2004)]] p.27</ref>。<br />
<br />
==== 7月革命をめぐって ====<br />
ルイ・ナポレオンは1830年6月にスイス軍の砲兵隊に入隊した<ref name="ランツ(2010)21">[[#ランツ(2010)|ランツ(2010)]] p.21</ref>。その矢先にフランスで[[フランス7月革命|7月革命]]が発生し、ブルボン家の復古王政が打倒された。これに[[ボナパルティズム|ボナパルティスト]]は[[ナポレオン2世]]による帝政復古のチャンスと見て色めき立ち、ローマのボナパルト家もパリへ向かう準備をした<ref name="ランツ(2010)21">[[#ランツ(2010)|ランツ(2010)]] p.21</ref>。ルイ・ナポレオンも乗り気だったが、肝心のナポレオン2世がオーストリア宮廷に事実上幽閉されている身だった上、病を患っていたため、ボナパルト家復興の先頭に立つのは無理だった<ref name="鹿島(2004)22">[[#鹿島(2004)|鹿島(2004)]] p.22</ref><ref name="高村(2004)28">[[#高村(2004)|高村(2004)]] p.28</ref>。<br />
<br />
結局[[アドルフ・ティエール]]らがブルボン家の分家である[[オルレアン家]]の[[ルイ・フィリップ]][[オルレアン公|公爵]]をフランス王に擁立し、[[ブルジョワジー]]が支持する[[7月王政]]を樹立したため、帝政復古はならなかった<ref name="鹿島(2004)21">[[#鹿島(2004)|鹿島(2004)]] p.21</ref>。しかもルイ・フィリップ王は9月にボナパルト一族の追放を法律で確定させ、これにはルイ・ナポレオンも落胆したという<ref name="鹿島(2004)22-23">[[#鹿島(2004)|鹿島(2004)]] p.22-23</ref><ref name="ランツ(2010)22">[[#ランツ(2010)|ランツ(2010)]] p.22</ref>。<br />
{{Gallery<br />
|lines=3<br />
|ファイル:Révolution de 1830 - Combat de la rue de Rohan - 29.07.1830.jpg|1830年7月革命<br />
|ファイル:Louis-Philippe de Bourbon crop.jpg|[[7月革命]]でフランス王位に就いた[[オルレアン家]]の[[ルイ・フィリップ]]王。<br />
}}<br />
{{-}}<br />
<br />
==== イタリア統一運動への参加 ====<br />
1830年11月、母とともに[[ローマ]]へ移った<ref name="高村(2004)28">[[#高村(2004)|高村(2004)]] p.28</ref>。<br />
<br />
ここで[[イタリア統一]]{{#tag:ref|ナポレオンが創設したフランス衛星国[[イタリア王国 (1805年-1814年)|イタリア王国]]はナポレオンの敗退とともに崩壊。そのためこの当時イタリアという国家は存在せず、それは地域概念に過ぎなかった。[[ウィーン体制]]下では[[北イタリア]]の[[ロンバルディア]]と[[ヴェネト]]は[[オーストリア帝国]]が支配し([[ロンバルド=ヴェネト王国]])、[[ピエモンテ州|ピエモンテ]]と[[サルデーニャ島]]は[[サルデーニャ王国]]が支配、南イタリアは[[両シチリア王国]]が支配していた。それ以外の地域は復活した[[教皇領]]や小国の領土になっていた<ref name="鹿島(2004)23">[[#鹿島(2004)|鹿島(2004)]] p.23</ref>。|group=注釈}}、反[[教皇]]、反[[オーストリア帝国|オーストリア]]、共和主義の活動をしていた秘密結社[[カルボナリ]]の一団と接触した<ref name="鹿島(2004)22-23">[[#鹿島(2004)|鹿島(2004)]] p.22-23</ref><ref name="窪田(1991)47">[[#窪田(1991)|窪田(1991)]] p.47</ref><ref name="高村(2004)29">[[#高村(2004)|高村(2004)]] p.29</ref>。折しも教皇[[ピウス8世 (ローマ教皇)|ピウス8世]]が帰天し、また7月革命の影響でイタリア統一運動が高まりを見せていた時期だった<ref name="高村(2004)28">[[#高村(2004)|高村(2004)]] p.28</ref>。初代ナポレオンがイタリア統一運動に大きく貢献したことからイタリア・[[ナショナリスト]]のボナパルト家に対する信頼は非常に深かった<ref name="高村(2004)28-29">[[#高村(2004)|高村(2004)]] p.28-29</ref>。しかしこれが原因で1831年初頭に「ナポレオン2世をイタリア王に擁立しようとした」とされて教皇の官憲からローマ追放処分を受けた<ref name="窪田(1991)47" /><ref name="鹿島(2004)23">[[#鹿島(2004)|鹿島(2004)]] p.23</ref><ref name="ランツ(2010)22">[[#ランツ(2010)|ランツ(2010)]] p.22</ref>。<br />
<br />
やむなくローマを出てオーストリア領の[[フィレンツェ]]へ行き、同じくカルボナリの活動に関与していた兄ナポレオン・ルイと合流した<ref name="鹿島(2004)23" />。1831年2月には母や親族の反対を押して、教皇の支配に抵抗する[[ボローニャ]]一揆に参加した。しかし教皇がオーストリア帝国軍に鎮圧の助力を求めたのに対抗して一揆軍側もフランス王国軍に助力を求めた結果、ルイ・ナポレオンと兄は一揆軍から除名された(ルイ・フィリップ王の機嫌を取り結ぶため)<ref name="高村(2004)29-30">[[#高村(2004)|高村(2004)]] p.29-30</ref>。結局一揆はオーストリア軍によって鎮圧され、ボナパルト兄弟もオーストリア官憲に追われる身となり、[[フォルリ]]へ逃亡したが、そこで兄は[[麻疹]]により若くして死んだ<ref name="鹿島(2004)24">[[#鹿島(2004)|鹿島(2004)]] p.24</ref><ref name="ランツ(2010)22" />。<br />
<br />
母がフォルリまで迎えに来て、母とともにフランス(ルイ・フィリップ王が黙認した)やイギリスを経て1831年8月にスイス・アレネンベルクに帰った<ref name="高村(2004)31-32">[[#高村(2004)|高村(2004)]] p.31-32</ref><ref name="ランツ(2010)22">[[#ランツ(2010)|ランツ(2010)]] p.22</ref>。フランス滞在中に母がルイ・フィリップ王と秘密裏に会見しているが、母子のフランス永住許可は認められなかった<ref name="鹿島(2004)24" />。<br />
<br />
1832年にはスイス国籍を取得した<ref name="マルクス(2008)213">[[#マルクス(2008)|マルクス(2008)]] p.213</ref>。この時期のルイ・ナポレオンはいつの日かルイ・フィリップから王位を奪ったり、あるいはルイ・フィリップが自分を必要とするようになる光景を妄想して過ごしたという<ref name="ランツ(2010)23">[[#ランツ(2010)|ランツ(2010)]] p.23</ref>。<br />
<br />
==== 文芸活動 ====<br />
[[ファイル:Louis-Napoléon Bonaparte 1836.JPG|thumb|150px|1836年のルイ・ナポレオンを描いた絵]]<br />
イタリア統一運動の挫折後、文芸活動を中心とするようになり、1832年5月には『政治的夢想』(Les Rêveries politiques)を書き、その中で「自分は共和主義者だが、現在フランス人民の自由を保障できるのは人民の意思を執行する帝政のみである。皇帝となるべき人はナポレオン2世である。」と述べている<ref name="高村(2004)32">[[#高村(2004)|高村(2004)]] p.32</ref>。しかしそのナポレオン2世は1832年7月22日にウィーンで若くして死去した。イギリスで開催された親族会議出席のためルイ・ナポレオンも半年ほど訪英したが、親族会議で伯父[[ジョゼフ・ボナパルト]]によって「皇位継承権」をはく奪されてしまった<ref name="鹿島(2004)24">[[#鹿島(2004)|鹿島(2004)]] p.24</ref>。しかしそれでも彼は自分こそ「ナポレオン3世」と確信しており、めげることなく精力的に活動し、訪英を機にイタリアやポーランドの亡命[[ナショナリスト]]たちと接触した<ref name="ランツ(2010)23">[[#ランツ(2010)|ランツ(2010)]] p.23</ref>。<br />
<br />
またイギリスの[[産業革命]]に間近に触れたことで社会問題への関心を深め、スイスへ帰国した後、兄の家庭教師だった共和主義者{{仮リンク|ナルシス・ヴィエイヤール|fr|Narcisse Vieillard}}を通じて「[[空想的社会主義]]」の[[アンリ・ド・サン=シモン|サン=シモン主義]]に接近した<ref name="鹿島(2004)25">[[#鹿島(2004)|鹿島(2004)]] p.25</ref><ref name="野村(2002)33-34">[[#野村(2002)|野村(2002)]] p.33-34</ref>。サン=シモン主義は主権者を問わなかったが、ルイ・ナポレオンはこの頃すでに[[国民主権]]を確信していた。彼の中では帝政と国民主権は矛盾するものではなかったようである<ref name="鹿島(2004)27">[[#鹿島(2004)|鹿島(2004)]] p.27</ref><ref name="野村(2002)42-47">[[#野村(2002)|野村(2002)]] p.42-47</ref>。<br />
<br />
1833年に『スイスに関する政治的・軍事的考察』(Considérations politiques et militaires sur la Suisse)を著し、その中で彼は「民衆はあらゆる党派の中で最強であり、最も正しい。民衆は隷属と過激を嫌う。民衆は籠絡できない。民衆は自らにふさわしい者を常に感じ取る」と書いている{{#tag:ref|これについて老練な父ルイ・ボナパルトは「民衆は最強だが、しばしばあらゆる党派の中で最大の不正を犯す。民衆は過激になりやすく、容易に隷属する。民衆は簡単に籠絡され、己にふさわしい者を感じ取ることはまれである」と訂正してたしなめた<ref name="鹿島(2004)26">[[#鹿島(2004)|鹿島(2004)]] p.26</ref>。|group=注釈}}。更にその後『砲術論』(Manuel d'Artillerie)を著したが、これはフランス軍人に名を売るのが目的だった<ref name="高村(2004)33">[[#高村(2004)|高村(2004)]] p.33</ref>。<br />
<br />
==== ストラスブール一揆 ====<br />
[[ファイル:Tentative de Strasbourg.JPG|thumb|150px|1836年10月30日、ストラスブール一揆を起こすルイ・ナポレオンを描いた絵。]]<br />
1835年末に熱狂的な[[ボナパルティスト]]である[[ヴィクトール・ド・ペルシニー]]子爵と知り合った<ref name="高村(2004)33">[[#高村(2004)|高村(2004)]] p.33</ref><ref name="ランツ(2010)26">[[#ランツ(2010)|ランツ(2010)]] p.26</ref>。行動力のあるド・ペルシニーは夢想がちのルイ・ナポレオンにとって手足となる人材だった。ド・ペルシニーはすぐにもフランスの政権を手に入れるための行動を起こすようルイ・ナポレオンに求めた<ref name="鹿島(2004)29">[[#鹿島(2004)|鹿島(2004)]] p.29</ref>。二人は1836年夏までかけて蜂起計画を練りあげていった<ref name="高村(2004)34">[[#高村(2004)|高村(2004)]] p.34</ref>。<br />
<br />
同年、27歳のルイ・ナポレオンは[[ジェローム・ボナパルト]]の長女[[マチルド・ボナパルト|マチルド]](当時15歳)と婚約した。疎遠になりがちだったボナパルト家を結び付ける意味のある縁組であり、二人の相性も悪くはなかったが、結局ルイ・ナポレオンは結婚前に最初の反乱を起こすことになる<ref name="鹿島(2004)31-32">[[#鹿島(2004)|鹿島(2004)]] p.31-32</ref><ref name="ランツ(2010)24-25">[[#ランツ(2010)|ランツ(2010)]] p.24-25</ref>。<br />
<br />
ルイ・ナポレオンとド・ペルシニーはボナパルティストが多い[[アルザス]]の[[ストラスブール]]からパリ進撃を企てた。ド・ペルシニーがストラスブール駐屯地のフランス軍砲兵第4連隊の指揮官を引き込むなど手はずを整えたうえで、1836年10月30日に同駐屯地からルイ・フィリップの王政に対して蜂起した<ref name="鹿島(2004)32-33">[[#鹿島(2004)|鹿島(2004)]] p.32-33</ref><ref name="ランツ(2010)28-29">[[#ランツ(2010)|ランツ(2010)]] p.28-29</ref>。<br />
<br />
だがルイ・ナポレオンはもともとの蜂起計画にあった武力による威嚇を嫌がり、途中で計画を変更した。彼は兵士や民衆が自発的に自分の大義に従ってくれると思い込んでいた<ref name="高村(2004)34">[[#高村(2004)|高村(2004)]] p.34</ref>。しかし賛同する軍人や部隊は少なく、司令官の確保にも失敗し、一揆は二時間ほどで鎮圧された<ref name="鹿島(2004)33">[[#鹿島(2004)|鹿島(2004)]] p.33</ref><ref name="ランツ(2010)29">[[#ランツ(2010)|ランツ(2010)]] p.29</ref>。<br />
<br />
逮捕されたルイ・ナポレオンは11月9日まで[[ストラスブール]]の独房で過ごし、11日にはパリへ移送された<ref name="高村(2004)36">[[#高村(2004)|高村(2004)]] p.36</ref>。予審判事からの尋問に対して彼は軍事独裁政権樹立の意思を否定し、「普通選挙に基づく政権を樹立しようとした」「(政権を取ったら)国民議会を招集しようと思った。」「今回の件はすべて私が仕組んだことだ。他の者は従ったに過ぎない。最も重い罪を犯し、厳罰を受けるべきは私だ」と語ったという<ref name="鹿島(2004)34">[[#鹿島(2004)|鹿島(2004)]] p.34</ref>。<br />
<br />
ルイ・フィリップ王は一揆発生当初こそボナパルト家復活を警戒したが、一揆の惨めな失敗と世論の嘲笑を聞いて安堵し、寛大な処置をとった。ルイ・ナポレオンは裁判にかけられることなく、[[アメリカ合衆国]]に国外追放されるだけで済んだ<ref name="鹿島(2004)33">[[#鹿島(2004)|鹿島(2004)]] p.33</ref><ref name="高村(2004)36">[[#高村(2004)|高村(2004)]] p.36</ref><ref name="ランツ(2010)29">[[#ランツ(2010)|ランツ(2010)]] p.29</ref>。<br />
<br />
この一揆の失敗でマチルドとの婚約は破棄された。マチルドの父ジェロームはオルタンスに宛てて「あんなエゴイストの野心家と結婚させるぐらいなら農民と結婚させた方がマシ」と述べて怒りを露わにしている<ref name="窪田(1991)50">[[#窪田(1991)|窪田(1991)]] p.50</ref>。一方ルイ・ナポレオンは「確かに私の企ては失敗に終わりましたが、それによってフランス皇室はまだ死んでいない、我らには献身的な友がいるのだ、ということを訴えることができたのです。これは私がやったことです。それでも貴方は私を批判できますか。」とジェロームに反論している<ref name="高村(2004)53-54">[[#高村(2004)|高村(2004)]] p.53-54</ref>。<br />
{{Gallery<br />
|lines=4<br />
|ファイル:Persigny.jpg|ルイ・ナポレオン腹心の部下[[ヴィクトール・ド・ペルシニー]]。第二帝政では内務大臣を務めた。<br />
|ファイル:MathildeBonaparte.jpg|[[ジェローム・ボナパルト]]の長女[[マチルド・ボナパルト|マチルド]]。彼女と婚約するもストラスブール一揆によりお流れとなる。<br />
}}<br />
{{-}}<br />
==== ニューヨーク・ロンドンでの生活 ====<br />
ルイ・ナポレオンは1836年11月21日に船でフランスを離れ、[[ブラジル]]の[[リオ・デ・ジャネイロ]]、アメリカ・[[ヴァージニア州]][[ノーフォーク]]での一時滞在を経て1837年4月3日に[[ニューヨーク]]に到着した<ref name="鹿島(2004)36">[[#鹿島(2004)|鹿島(2004)]] p.36</ref><ref name="高村(2004)36-37">[[#高村(2004)|高村(2004)]] p.36-37</ref><ref name="ランツ(2010)29">[[#ランツ(2010)|ランツ(2010)]] p.29</ref>。<br />
<br />
ニューヨークでのルイ・ナポレオンはアメリカ社交界から歓迎されたが<ref name="鹿島(2004)36">[[#鹿島(2004)|鹿島(2004)]] p.36</ref><ref name="高村(2004)37">[[#高村(2004)|高村(2004)]] p.37</ref>、放蕩生活を送ったため、まもなくホテル代にも困って娼婦の所に身を寄せることになった<ref name="窪田(1991)50">[[#窪田(1991)|窪田(1991)]] p.50</ref>。<br />
<br />
しかしやがて母が[[子宮癌]]で危険な状態と知り、1837年8月初めにはスイス・アレネンベルクへ帰国、10月の母の死まで側に付き添った<ref name="鹿島(2004)36">[[#鹿島(2004)|鹿島(2004)]] p.36</ref><ref name="高村(2004)38">[[#高村(2004)|高村(2004)]] p.38</ref><ref name="ランツ(2010)30">[[#ランツ(2010)|ランツ(2010)]] p.30</ref>。<br />
<br />
母の死で莫大な財産を相続したルイ・ナポレオンは[[ロンドン]]の豪邸へ移住した。ド・ペルシニーも執事的存在としてルイ・ナポレオンの側近くで仕えた<ref name="鹿島(2004)37">[[#鹿島(2004)|鹿島(2004)]] p.37</ref><ref name="ランツ(2010)30-31">[[#ランツ(2010)|ランツ(2010)]] p.30-31</ref>。ロンドンの社交界にも参加するようになり、[[メルボルン子爵ウィリアム・ラム|メルバーン子爵]]や[[ベンジャミン・ディズレーリ|ディズレーリ]]らの知遇を得た<ref name="鹿島(2004)37" /><ref name="高村(2004)39">[[#高村(2004)|高村(2004)]] p.39</ref>。<br />
<br />
しかしロンドンでも女遊びの放蕩生活が目に余り<ref name="鹿島(2004)37">[[#鹿島(2004)|鹿島(2004)]] p.37</ref>、3年ほどで母の財産を全て使い果たしてしまった<ref name="山口(2007)165">[[#山口(2007)|山口(2007)]] p.165</ref>。<br />
<br />
1839年に『ナポレオン的観念』(Les Idées napoléoniennes)を著した。その中で王党派と共和派の不毛な対立を終わらせ、緊急に民衆の意思を政治に反映させてその生活を向上させる事ができる強力な指導者が必要であるとして「皇帝民主主義」の必要性を訴えた<ref name="鹿島(2004)38">[[#鹿島(2004)|鹿島(2004)]] p.38</ref><ref name="高村(2004)40">[[#高村(2004)|高村(2004)]] p.40</ref>。この本は4版まで刷られ、[[英語]]、[[ドイツ語]]、[[イタリア語]]、[[ロシア語]]、[[スペイン語]]、[[ポルトガル語]]の6か国語に翻訳された<ref name="高村(2004)40" />。<br />
<br />
一方フランス国内でもナポレオンとボナパルティズムが人気を博していた。ナポレオン関連の書籍が次々と出版され、ナポレオンは実像よりもかなり左翼的に美化されていった。7月王政の議会の代議士の中に公式にボナパルティストであることを表明している者はいなかったが、心情的ボナパルティズムは王党派左派を含めて代議士の中にもかなり蔓延していたと見られる<ref name="柴田(1996)472">[[#柴田(1996)|柴田・樺山・福井(1996) 第2巻]] p.472</ref>。<br />
<br />
1840年3月に首相職に返り咲いた[[アドルフ・ティエール]]も政権維持のためにナポレオン人気を利用しようとし、イギリスと交渉してナポレオンの遺骸の返還を実現した<ref name="柴田(1996)471">[[#柴田(1996)|柴田・樺山・福井(1996) 第2巻]] p.471</ref>。ルイ・フィリップ王はナポレオンを英雄化することを危険視していたが、ティエールは民衆に選挙権はないのだからボナパルト家復活につながる心配なしと考えていた<ref name="柴田(1996)471">[[#柴田(1996)|柴田・樺山・福井(1996) 第2巻]] p.471</ref>。1840年5月12日には内務大臣{{仮リンク|シャルル・ド・レミュザ|fr|Charles de Rémusat}}がナポレオンの遺骸がパリに帰還することを国民に発表し、ナポレオンを「正統なフランスの君主」と認めてその名誉を回復した<ref name="柴田(1996)471">[[#柴田(1996)|柴田・樺山・福井(1996) 第2巻]] p.471</ref>。<br />
<br />
この親ナポレオン・ムードを好機としてルイ・ナポレオンはド・ペルシニーとともに再度の武装蜂起計画を企てた<ref name="窪田(1991)51">[[#窪田(1991)|窪田(1991)]] p.51</ref><ref name="高村(2004)40" /><ref name="ランツ(2010)31">[[#ランツ(2010)|ランツ(2010)]] p.31</ref>。<br />
{{-}}<br />
==== ブローニュ一揆 ====<br />
[[ファイル:Tentative de Boulogne.JPG|thumb|150px|1840年8月4日のブローニュ一揆。]]<br />
1840年8月4日にルイ・ナポレオンは[[シャルル=トリスタン・ド・モントロン]]将軍以下54名の部下を率いて[[蒸気船]]で[[英仏海峡]]に面した都市[[ブローニュ=シュル=メール|ブローニュ]]に上陸した。[[税関]]職員に正体を見破られたが、職員たちを捕虜にして市内を案内させ、第42歩兵連隊の兵舎へ向かった。そこでルイ・ナポレオンは蜂起を呼びかける演説を行ったが、前回の一揆同様に応じる将兵はなかった<ref name="鹿島(2004)40">[[#鹿島(2004)|鹿島(2004)]] p.40</ref><ref name="高村(2004)41">[[#高村(2004)|高村(2004)]] p.41</ref><ref name="ランツ(2010)34">[[#ランツ(2010)|ランツ(2010)]] p.34</ref>。今回も前回の一揆もそうであるが、ルイ・ナポレオンには知名度はほとんどなく、たとえボナパルティズムが再評価されはじめようとそれが彼と結び付く事はなかったのである<ref name="鹿島(2004)41">[[#鹿島(2004)|鹿島(2004)]] p.41</ref>。<br />
<br />
ルイ・ナポレオンは部下たちから退却を進言されても拒否し、ブローニュのナポレオン記念柱のもとで玉砕すると言い張ったが、部下たちが無理やり彼を引きずって蒸気船に連れ戻そうとした。しかし結局退却することにも失敗してルイ・ナポレオン以下一揆勢は全員憲兵隊によって逮捕された<ref name="鹿島(2004)41">[[#鹿島(2004)|鹿島(2004)]] p.41</ref><ref name="ランツ(2010)34">[[#ランツ(2010)|ランツ(2010)]] p.34</ref>。<br />
<br />
この一揆はマスコミ各紙から否定的に捉えられた。『{{仮リンク|ル・コンスティチュショネル|fr|Le Constitutionnel}}』紙は「このキチガイじみた行動は、もし流血沙汰になっていなければ笑い話になっていたであろう」と評し、イギリスの『[[タイムズ]]』紙も「愚かな悪党」と評した<ref name="ランツ(2010)35">[[#ランツ(2010)|ランツ(2010)]] p.35</ref>。ルイ・フィリップ王もこの一揆を馬鹿げたものと考えていたが、二度目であるから今回は重罰に処すつもりであった。ルイ・ナポレオンは1840年9月28日から10月6日まで上院の裁判にかけられた<ref>[[#鹿島(2004)|鹿島(2004)]] p.42</ref><ref name="ランツ(2010)35">[[#ランツ(2010)|ランツ(2010)]] p.35</ref>。この裁判によってルイ・ナポレオンははじめてフランス国民から注目されることとなった<ref>[[#鹿島(2004)|鹿島(2004)]] p.42-42</ref>。<br />
<br />
9月28日の裁判でルイ・ナポレオンは「私は今ようやくフランス国民に語りかけることが許されました。(略)かつてナポレオンは『国民主権なく行われる全ての行為は非合法』と述べました。ですから私は個人的な利害によってフランスの意思に反して帝政を復古させようとしたのではありません。思い出していただきたいのは一つの原理、大義が敗北したということです。原理とは国民主権、大義とは帝国の大義、敗北とはワーテルローです。ワーテルローの敗北、貴方達もこの雪辱を期したいと考えているはずです。貴方達と私には何も不一致点はないのです。」と語りかけた<ref name="鹿島(2004)42-43">[[#鹿島(2004)|鹿島(2004)]] p.42-43</ref><ref name="高村(2004)42">[[#高村(2004)|高村(2004)]] p.42</ref>。<br />
<br />
裁判官たちも多くがナポレオンに爵位や地位を与えられた者たちであったため、ルイ・ナポレオンの主張に感心した様子だった<ref name="鹿島(2004)43">[[#鹿島(2004)|鹿島(2004)]] p.43</ref>。ルイ・ナポレオンは死刑を免れ[[終身刑]]を言い渡された<ref name="ランツ(2010)36">[[#ランツ(2010)|ランツ(2010)]] p.36</ref><ref name="鹿島(2004)43">[[#鹿島(2004)|鹿島(2004)]] p.43</ref>。<br />
{{-}}<br />
=== 獄中 ===<br />
==== アム要塞服役時代 ====<br />
[[ファイル:Université de Ham.JPG|thumb|150px|アム要塞で服役するルイ・ナポレオン。]]<br />
1840年10月7日、パリ北方の[[ソンム県]]{{仮リンク|アム (ソンム県)|label=アム|fr|Ham (Somme)}}にある{{仮リンク|アム要塞|fr|Forteresse de Ham}}に投獄された<ref name="鹿島(2004)43-44">[[#鹿島(2004)|鹿島(2004)]] p.43-44</ref><ref name="高村(2004)43">[[#高村(2004)|高村(2004)]] p.43</ref>。以降5年半にわたってここで暮らすことになる<ref name="ランツ(2010)38">[[#ランツ(2010)|ランツ(2010)]] p.38</ref>。<br />
<br />
要塞内は湿気が酷かったが、それ以外に不便な点はなく、手紙を送る事や書籍を取り寄せることも認められていた。従者を連れていくことも許され、さらに洗濯係という名目で{{仮リンク|エレオノール・ヴェレジョ|fr|Eléonore Vergeot}}という村娘を側に置いて性交渉することさえ許されていた<ref name="鹿島(2004)43-44">[[#鹿島(2004)|鹿島(2004)]] p.43-44</ref>。このエレオノールとの間に私生児を二人儲けている(長男{{仮リンク|ウージェーヌ・ビュール|fr|Eugène Bure}}と次男{{仮リンク|アレクサンドル・ビュール|fr|Alexandre Bure}}){{#tag:ref|ナポレオン3世はこの時にできた私生児の存在を長く隠していたが、結局1870年に私生児の長男ウージェーヌにオルクス伯爵、次男アレクサンドルにラボンヌ伯爵の爵位を与えている<ref name="鹿島(2004)44">[[#鹿島(2004)|鹿島(2004)]] p.44</ref>。|group=注釈}}。<br />
<br />
服役中ルイ・ナポレオンは読書と政治研究に明け暮れ、後世彼はこの時期を「アム大学」と称している<ref name="鹿島(2004)44">[[#鹿島(2004)|鹿島(2004)]] p.44</ref><ref name="ランツ(2010)40-41">[[#ランツ(2010)|ランツ(2010)]] p.40-41</ref>。[[アダム・スミス]]、[[ジャン=バティスト・セイ]]、[[ルイ・ブラン]]などの著作に影響を受けた<ref name="野村(2002)34">[[#野村(2002)|野村(2002)]] p.34</ref>。またいくつかの著作を書き、その一つが『{{仮リンク|貧困の根絶|fr|Extinction du paupérisme}}』(1844年)だった。その中でルイ・ナポレオンは労働者階級の保護の必要性を訴えた<ref name="鹿島(2004)46-47">[[#鹿島(2004)|鹿島(2004)]] p.46-47</ref><ref name="横張(1999)11">[[#横張(1999)|横張(1999)]] p.11</ref><ref name="ランツ(2010)43">[[#ランツ(2010)|ランツ(2010)]] p.43</ref>。都市に流入した余剰労働者を農村へ帰し、「農民コロニー」(後の[[ソ連]]の[[コルホーズ]]に似た制度)で働かせることなどを提言している<ref name="鹿島(2004)49">[[#鹿島(2004)|鹿島(2004)]] p.49</ref><ref name="松井(1997)113">[[#松井(1997)|松井(1997)]] p.113</ref>。ただし[[私有財産制]]は否定していないため、社会主義というよりは[[修正資本主義]]的な立場だった<ref name="鹿島(2004)49">[[#鹿島(2004)|鹿島(2004)]] p.49</ref>。本格的な産業化がはじまった時代にあってボナパルティズムの教義に社会主義的な要素を加えることで装いを新たにする物であった<ref name="ランツ(2010)43">[[#ランツ(2010)|ランツ(2010)]] p.43</ref>。<br />
<br />
この本は1848年までに6版も刷られ、ボナパルティストたちによって「労働者階級は何も持たない。彼らを所有者にしよう」「身分制による支配の時代はおわった。これからの政治は大衆とともにあらねばならない」といったワンフレーズで広く流布され、一般大衆がルイ・ボナパルトを理解するきっかけとなった<ref name="ランツ(2010)42">[[#ランツ(2010)|ランツ(2010)]] p.42</ref>。<br />
{{-}}<br />
==== 脱走 ====<br />
オーストリア領[[フィレンツェ]]にいる父ルイ・ボナパルトの死期が迫っていることを知ると、ルイ・フィリップ王に仮出獄を求めたが、認められなかった。脱走の大義名分を得たと考えたルイ・ナポレオンはかねてから計画していた脱走計画を実行に移した<ref name="鹿島(2004)50">[[#鹿島(2004)|鹿島(2004)]] p.50</ref><ref name="ランツ(2010)45-46">[[#ランツ(2010)|ランツ(2010)]] p.45-46</ref>。<br />
<br />
まず居室の自費での改築を申請し、その許可が下りると部下たちに職人の服を用意させた<ref name="鹿島(2004)51">[[#鹿島(2004)|鹿島(2004)]] p.51</ref>。そして1846年5月25日、ルイ・ナポレオンは髭を切り落として、職人の服を着て、また顔を隠すために板を肩に担いでアム要塞から脱走した<ref name="鹿島(2004)52">[[#鹿島(2004)|鹿島(2004)]] p.52</ref>。この際に歩哨の前で[[パイプ]]を落としてしまうミスがあったが、彼は慌てず自然な感じで割れたパイプを拾い集め、特に誰何されることなくそこを通過できた<ref name="鹿島(2004)52">[[#鹿島(2004)|鹿島(2004)]] p.52</ref>。<br />
<br />
この劇的な脱走劇を新聞が虚飾交じりに報じた結果、ルイ・ナポレオンの知名度は更に上がった<ref name="鹿島(2004)52">[[#鹿島(2004)|鹿島(2004)]] p.52</ref>。また父親の死に目に会うことも許さないルイ・フィリップ王の「無情」に対する批判が強まった<ref name="ランツ(2010)46">[[#ランツ(2010)|ランツ(2010)]] p.46</ref>。<br />
<br />
要塞を出た後、ベルギーの[[ブリュッセル]]へ逃れ、そこからロンドンへと渡った<ref name="鹿島(2004)52" /><ref name="ランツ(2010)46">[[#ランツ(2010)|ランツ(2010)]] p.46</ref><ref name="横張(1999)11">[[#横張(1999)|横張(1999)]] p.11</ref>。ロンドンのオーストリア大使館にフィレンツェへの渡航許可を求めたが、拒否されたため、結局父の最期を看取ることはできなかった<ref name="鹿島(2004)53">[[#鹿島(2004)|鹿島(2004)]] p.53</ref>。<br />
<br />
ロンドン滞在のまま、父の莫大な財産を一人で相続した。しかしルイ・ナポレオンは同志たちへの資金援助や女との交際費で激しく浪費し、あっという間に使い果たしてしまった<ref name="鹿島(2004)54">[[#鹿島(2004)|鹿島(2004)]] p.54</ref><ref name="高村(2004)47">[[#高村(2004)|高村(2004)]] p.47</ref>。金銭に困るようになったルイ・ナポレオンだったが、裕福な愛人{{仮リンク|ハリエット・ハワード|label=エリザベス=アン・ハリエット・ハワード(ミス・ハワード)|en|Harriet Howard}}から資金援助を受けて時節到来を待った<ref name="鹿島(2004)54-55">[[#鹿島(2004)|鹿島(2004)]] p.54-55</ref>。<br />
=== 転機 ===<br />
==== 1848年革命をめぐって ====<br />
[[ファイル:Lar9 philippo 001z.jpg|thumb|300px|1848年2月25日、パリの市庁舎前で演説する[[アルフォンス・ド・ラマルティーヌ]]({{仮リンク|アンリ・フェリックス・エマニュエル・フィリッポトー|fr|Henri Félix Emmanuel Philippoteaux}}画)]]<br />
1848年2月にフランス・パリで2月革命([[1848年革命]])が発生し、18年続いたルイ・フィリップの7月王政が打倒され、穏健な共和主義者らが中心となって臨時政府が樹立された<ref name="ランツ(2010)47">[[#ランツ(2010)|ランツ(2010)]] p.47</ref><ref name="柴田(1995)82-83">[[#柴田(1995)|柴田・樺山・福井(1995) 第3巻]] p.82-83</ref>。臨時政府は[[国立作業場]]の創設や男子普通選挙制度導入などの改革を行った<ref name="柴田(1995)83/86">[[#柴田(1995)|柴田・樺山・福井(1995) 第3巻]] p.83/86</ref>。<br />
<br />
チャンスの臭いをかぎつけたルイ・ナポレオンは2月27日にパリへ入り、臨時政府に対して自分の到着を知らせるとともに共和政に忠誠を誓う旨の宣言をした<ref name="鹿島(2004)55">[[#鹿島(2004)|鹿島(2004)]] p.55</ref>。しかし臨時政府外相[[アルフォンス・ド・ラマルティーヌ]]からクーデターの意図を疑われ、国内が平静を取り戻すまではロンドンにいるよう要請された<ref name="鹿島(2004)55-56">[[#鹿島(2004)|鹿島(2004)]] p.55-56</ref><ref name="ランツ(2010)47">[[#ランツ(2010)|ランツ(2010)]] p.47</ref>。<br />
<br />
刑務所から釈放されたばかりのド・ペルシニーとパリで再開し、彼から武装蜂起を求められたルイ・ナポレオンだったが、当時革命派によって唱えられた無数のユートピア思想の中にボナパルティズムを埋没させぬためにも2月革命の失敗まで待った方が良いと判断して臨時政府の勧告通りロンドンへ帰ることにした<ref name="鹿島(2004)56">[[#鹿島(2004)|鹿島(2004)]] p.56</ref><ref name="ランツ(2010)47">[[#ランツ(2010)|ランツ(2010)]] p.47</ref>。彼はロンドンからド・ペルシニーに宛てて書いた手紙の中で「目下、武装蜂起は論外だ。一時的にパリの市庁舎を制圧できるかもしれないが、1週間も政権を維持できないだろう。秩序の代表者が登場するのは、あらゆる幻想が消え去った後でなければならない」と分析している<ref name="鹿島(2004)57">[[#鹿島(2004)|鹿島(2004)]] p.57</ref>。<br />
<br />
ついでド・ペルシニーは1848年4月の憲法制定議会議員選挙に出馬するよう進言してきたが、ルイ・ナポレオンは共和派に警戒感を持たれることを嫌がり出馬を見送った<ref name="鹿島(2004)58">[[#鹿島(2004)|鹿島(2004)]] p.58</ref><ref name="高村(2004)49">[[#高村(2004)|高村(2004)]] p.49</ref><ref name="ランツ(2010)49">[[#ランツ(2010)|ランツ(2010)]] p.49</ref>。しかし6月4日の補欠選挙には出馬し、当選を果たした<ref name="高村(2004)49">[[#高村(2004)|高村(2004)]] p.49</ref>。もっとも共和派にルイ・ナポレオンへの恐怖が広がったため、ただちに議員辞職している<ref name="鹿島(2004)59">[[#鹿島(2004)|鹿島(2004)]] p.59</ref><ref name="柴田(1995)94">[[#柴田(1995)|柴田・樺山・福井(1995) 第3巻]] p.94</ref><ref name="高村(2004)50">[[#高村(2004)|高村(2004)]] p.50</ref>。<br />
<br />
この選挙の結果、総議席880議のうち王党派([[レジティミスム|正統王朝派]]および[[オルレアニスム|オルレアン王朝派]])が約280議席、ブルジョワ穏健共和派が約500議席、急進的共和派が100議席をそれぞれ獲得した<ref name="柴田(1995)88">[[#柴田(1995)|柴田・樺山・福井(1995) 第3巻]] p.88</ref>。左翼勢力にとっては面白くない結果であり、左翼暴動が増加した。5月15日にはポーランド支援を訴える左翼たちが議会を占拠する事件が発生した<ref name="柴田(1995)90-91">[[#柴田(1995)|柴田・樺山・福井(1995) 第3巻]] p.90-91</ref>。<br />
<br />
さらに6月には国立作業場の廃止決定に反発した労働者が蜂起したが、臨時政府の委任を受けた[[ルイ=ウジェーヌ・カヴェニャック]]将軍率いる軍によって容赦なく鎮圧された([[六月蜂起]])。この事件により労働者は共和国を支配するブルジョワに強い憎しみを持つようになった<ref name="鹿島(2004)59-60">[[#鹿島(2004)|鹿島(2004)]] p.59-60</ref><ref name="柴田(1995)90-91">[[#柴田(1995)|柴田・樺山・福井(1995) 第3巻]] p.90-91</ref><ref name="ランツ(2010)49">[[#ランツ(2010)|ランツ(2010)]] p.49</ref><ref name="横張(1999)172">[[#横張(1999)|横張(1999)]] p.172</ref>。<br />
<br />
ブルジョワはいよいよ右翼を頼りにするようになり、そうした流れの中で正統王朝派やオルレアン王朝派、カトリックなどの右翼勢力が合同して「{{仮リンク|秩序党|fr|Parti de l'Ordre (1848)}}」が結成された。保守化した議会は12月の大統領選挙までの一時的政権として6月24日にカヴェニャック将軍に全権を委任、一種の軍事独裁政権を樹立した<ref name="柴田(1995)91">[[#柴田(1995)|柴田・樺山・福井(1995) 第3巻]] p.91</ref><ref name="デュヴェルジェ(1995)96">[[#デュヴェルジェ(1995)|デュヴェルジェ(1995)]] p.96</ref>。<br />
<br />
労働者から2月革命への幻想が消え、ルイ・ナポレオンが割って入る隙が生まれたのだった。<br />
<br />
{{main|1848年のフランス革命}}<br />
{{-}}<br />
<br />
==== 憲法制定議会の代議士 ====<br />
[[ファイル:Napoleon-3.jpg|thumb|150px|1848年のルイ・ナポレオン]]<br />
時節到来とみたルイ・ナポレオンはロンドン滞在のまま、1848年9月の憲法制定議会議員補欠選挙に出馬して当選を果たした。9月25日にフランス・パリへ戻り、議会に初登院して演説を行った。しかしドイツ語なまりのぼそぼそと聞き取りにくい声で「私を受け入れてくれた共和国に感謝する」と挨拶しただけだった。ルイ・ナポレオンの鈍重そうな顔と相まって、議場から失笑が起こった<ref name="鹿島(2004)62">[[#鹿島(2004)|鹿島(2004)]] p.62</ref>。<br />
<br />
ルイ・ナポレオンについてティエールは「ただのバカ」と一言で評した。レミュザは「[[鉛色]]の長い顔に鈍重な表情、[[ボアルネ家]]特有のだらしない口元をしている。顔が身体に比べて長すぎるし、胴も足に比べて長すぎる。動作が鈍く、鼻にかかった声でよく聞こえず、話し方も単調。」と評した<ref name="鹿島(2004)62">[[#鹿島(2004)|鹿島(2004)]] p.62</ref>。ルイ・ナポレオンの「無能さ」に安心したのか、議会は彼の追放を定めた法律を正式に破棄した<ref name="ランツ(2010)53">[[#ランツ(2010)|ランツ(2010)]] p.53</ref>。<br />
<br />
基本的に彼は討論が苦手で話が詰まることが多かった<ref name="高村(2004)52">[[#高村(2004)|高村(2004)]] p.52</ref>。そのためか憲法制定の論議にはほとんど発言しなかった。共和国への忠誠心を疑われた時だけ「私は共和政を愛している」と反論するのみだった<ref name="ランツ(2010)52">[[#ランツ(2010)|ランツ(2010)]] p.52</ref>。<br />
<br />
11月4日に[[1848年憲法|憲法]]が採択され、[[フランス第二共和政|第二共和政]]の政体が決められた。アメリカ合衆国の政治システムがモデルとなっており、議会(立法府)と大統領(行政府)は対等の関係であり、大統領は国民議会から独立して首相と閣僚を任免する権限を持つが、代わりに議会解散権は有さなかった(そのため大統領と議会が対立した場合には対立の解消は困難であった)<ref name="柴田(1995)93">[[#柴田(1995)|柴田・樺山・福井(1995) 第3巻]] p.93</ref><ref name="鹿島(2004)63">[[#鹿島(2004)|鹿島(2004)]] p.63</ref><ref name="デュヴェルジェ(1995)97">[[#デュヴェルジェ(1995)|デュヴェルジェ(1995)]] p.97</ref>。大統領・国民議会議員ともに男子普通選挙で選出されるが<ref name="デュヴェルジェ(1995)97">[[#デュヴェルジェ(1995)|デュヴェルジェ(1995)]] p.97</ref>、大統領選挙は有効投票数の過半数かつ最低200万票の得票が必要とされ、条件を満たした候補がいない場合には上位者5名の中から国民議会が決めるという制度になっていた<ref name="高村(2004)52">[[#高村(2004)|高村(2004)]] p.52</ref><ref name="マルクス(2008)99-100">[[#マルクス(2008)|マルクス(2008)]] p.99-100</ref>。大統領の任期は4年であり、連続再選はできなかった<ref name="柴田(1995)92">[[#柴田(1995)|柴田・樺山・福井(1995) 第3巻]] p.92</ref><ref name="ランツ(2010)52">[[#ランツ(2010)|ランツ(2010)]] p.52</ref>。<br />
{{-}}<br />
<br />
==== 大統領に当選 ====<br />
[[ファイル:Election france 1848.jpg|thumb|150px|1848年のフランス大統領選挙の様子を描いた絵。ナポレオンのポスターを持った子供とカヴェニャック将軍のポスターを持った子供が喧嘩をしている。]]<br />
1848年12月10日の{{仮リンク|1848年フランス大統領選挙|label=大統領選挙|fr|Élection présidentielle française de 1848}}には[[ルイ=ウジェーヌ・カヴェニャック|カヴェニャック]]将軍、[[アルフォンス・ド・ラマルティーヌ|ラマルティーヌ]]、{{仮リンク|アレクサンドル・ルドリュ=ロラン|label=ルドリュ=ロラン|fr|Alexandre Ledru-Rollin}}、{{仮リンク|フランシス=ヴィンセント・ラスパーユ|label=ラスパーユ|fr|François-Vincent Raspail}}、{{仮リンク|ニコラ・シャンガルニエ|label=シャンガルニエ|fr|Nicolas Changarnier}}将軍、そしてルイ・ナポレオンが出馬した<ref name="鹿島(2004)63">[[#鹿島(2004)|鹿島(2004)]] p.63</ref><ref name="柴田(1995)94">[[#柴田(1995)|柴田・樺山・福井(1995) 第3巻]] p.94</ref>。ルイ・ナポレオンとしては国民投票である第一次選挙で当選する必要があった。共和派が牛耳る議会に持ち込まれた場合、当選の見込みがないからである<ref name="ランツ(2010)54-55">[[#ランツ(2010)|ランツ(2010)]] p.54-55</ref>。<br />
<br />
穏健共和派から支持を得るカヴェニャック将軍、急進的共和派から支持を得る臨時政府閣僚の候補二人ラマルティーヌとルドリュ=ロランは先の6月蜂起鎮圧の悪影響で得票を伸ばせなかった。そこに選挙戦中盤頃からルイ・ナポレオンが有力候補として台頭してきた<ref name="鹿島(2004)64">[[#鹿島(2004)|鹿島(2004)]] p.64</ref>。<br />
<br />
その理由は複数ある。まず右翼の秩序党が「御しやすそうな神輿」としてルイ・ナポレオンを支持していたことである<ref name="柴田(1995)94">[[#柴田(1995)|柴田・樺山・福井(1995) 第3巻]] p.94</ref>。オルレアン派の重鎮ティエールも「最小の悪」としてルイ・ナポレオンを支持している<ref name="鹿島(2004)66">[[#鹿島(2004)|鹿島(2004)]] p.66</ref>。またユダヤ金融業者{{仮リンク|アシーユ・フール|fr|Achille Fould}}やミス・ハワードらの資金援助のおかげで選挙資金が豊富だったこともある<ref name="横張(1999)23">[[#横張(1999)|横張(1999)]] p.23</ref>。その選挙資金を利用してド・ペルシニーらが中心となって地方に「ボナパルト委員会」が次々と創設され、彼らがルイ・ナポレオンのポスターや新聞を積極的にばら撒いていた。保守派向けの『灰色のコート』、穏健共和派向けの『共和ナポレオン』、社会主義者向けの『労働組織』など個々に新聞を作ってばら撒き、あらゆる党派に対して八方美人的にルイ・ナポレオン支持を訴えた<ref name="ランツ(2010)50">[[#ランツ(2010)|ランツ(2010)]] p.50</ref>。後にナポレオン3世批判の急先鋒となる文豪[[ヴィクトル・ユゴー]]もこの選挙ではルイ・ナポレオンをナポレオンの継承者と看做して支持している(ユーゴーはナポレオンを「革命の子」として崇拝していた)<ref name="鹿島(2004)66">[[#鹿島(2004)|鹿島(2004)]] p.66</ref><ref name="山口(2007)156">[[#山口(2007)|山口(2007)]] p.156</ref>。しかしなんといってもルイ・ナポレオンの最大の武器は「シャルル・ルイ・'''ナポレオン・ボナパルト'''」という名前だった。フランスにその名を知らぬ者はいなかった<ref name="ランツ(2010)53-54">[[#ランツ(2010)|ランツ(2010)]] p.53-54</ref><ref name="鹿島(2004)68">[[#鹿島(2004)|鹿島(2004)]] p.68</ref>。<br />
<br />
選挙の結果、ルイ・ナポレオンは553万票(得票率74.2%)を獲得して圧勝した<ref name="ランツ(2010)55">[[#ランツ(2010)|ランツ(2010)]] p.55</ref><ref name="鹿島(2004)68">[[#鹿島(2004)|鹿島(2004)]] p.68</ref><ref name="柴田(1995)94">[[#柴田(1995)|柴田・樺山・福井(1995) 第3巻]] p.94</ref>。かくして二年前には脱獄囚だった男がいまやフランス大統領となったのであった<ref name="鹿島(2004)68">[[#鹿島(2004)|鹿島(2004)]] p.68</ref>。<br />
{{-}}<br />
=== 第二共和政大統領 ===<br />
==== 秩序党との連携期 ====<br />
[[ファイル:Serment du président élu le 20 décembre 1848.JPG|thumb|150px|議会で宣誓するルイ・ナポレオン]]<br />
大統領になったルイ・ナポレオンは「皇子大統領」(Prince-président、プランス・プレジダン)と呼ばれ<ref name="鹿島(2004)69">[[#鹿島(2004)|鹿島(2004)]] p.69</ref><ref name="ランツ(2010)56">[[#ランツ(2010)|ランツ(2010)]] p.56</ref>、また彼の行く先々で兵士や民衆は「皇帝万歳」「ナポレオン万歳」などと叫んで歓迎した<ref name="鹿島(2004)74">[[#鹿島(2004)|鹿島(2004)]] p.74</ref>。<br />
<br />
だが共和主義者が牛耳る国民議会にそんな空気はなかった。ルイ・ナポレオンは1848年12月22日に国民議会で宣誓したが、共和主義者たちはルイ・ナポレオンに帝政復古を企まず、憲法と共和政を遵守することを強く求め、宣誓式でもそれを露骨に示した。議長はルイ・ナポレオンを「市民」という敬称で呼び、ルイ・ナポレオンの演説が終わると議員たちは次々と「共和政万歳」と叫びはじめたのである<ref name="ランツ(2010)55">[[#ランツ(2010)|ランツ(2010)]] p.55</ref>。<br />
<br />
第二共和政の大統領は国民議会を解散できないため、ルイ・ナポレオンとしては国民議会が自ら解散を決議するよう追い込む必要があり、そのためにも当面は秩序党との連携を目指した。最初の首相にオルレアン派の{{仮リンク|オディロン・バロー|fr|Odilon Barrot}}を任じた<ref name="マルクス(2008)48">[[#マルクス(2008)|マルクス(2008)]] p.48</ref>。バロー内閣は大統領の統制はほとんど受けず、秩序党に支持されて保守的な政治を行った<ref name="窪田(1991)78">[[#窪田(1991)|窪田(1991)]] p.78</ref><ref name="デュヴェルジェ(1995)98">[[#デュヴェルジェ(1995)|デュヴェルジェ(1995)]] p.98</ref>。またバローは大統領の権力を抑え込もうとも図ったが、ルイ・ナポレオンはそれに反抗しなかった<ref name="鹿島(2004)72">[[#鹿島(2004)|鹿島(2004)]] p.72</ref>。バローに政治を任せて自らは表に出ないことに努めた<ref name="マルクス(2008)48" />。<br />
<br />
秩序党の支持のもとに[[国民衛兵]]{{#tag:ref|フランス革命期に創設されたブルジョワによる民兵組織。一定額以上の納税をしている者のみを入隊対象者とし、労働者はほとんど参加できなかった<ref name="マルクス(2008)207">[[#マルクス(2008)|マルクス(2008)]] p.207</ref>。復古王政を打倒してオルレアン家によるブルジョワ王政を樹立した[[7月革命]]は彼らが原動力になっていた<ref name="マルクス(2008)78">[[#マルクス(2008)|マルクス(2008)]] p.78</ref>。1848年革命の際にも彼らがルイ・フィリップに対して曖昧な態度を取ったことによってルイ・フィリップは王位を諦めている<ref name="マルクス(2008)78">[[#マルクス(2008)|マルクス(2008)]] p.78</ref>。しかしルイ・ナポレオンが大統領に就任した後にはパリ軍事総督シャンガルニエ将軍の指揮下に置かれ、その独自性を失っていった。急速に規模を縮小されていき、1851年までには解散させられた<ref name="マルクス(2008)78-79">[[#マルクス(2008)|マルクス(2008)]] p.78-79</ref>。|group=注釈}}とパリ駐在正規軍の指揮をしている[[パリ軍事総督]]シャンガルニエ将軍が1849年1月に軍事力をちらつかせて議会の共和派を脅迫することで議会解散へ誘導した<ref name="マルクス(2008)50">[[#マルクス(2008)|マルクス(2008)]] p.50</ref>。<br />
<br />
議会選挙は5月に行われ、穏健共和派が大きく議席を落とす一方、右翼の秩序党が450議席、左翼勢力(急進的共和主義者と社会主義者の合同勢力)が210議席を獲得し、左右両極化が顕著になった<ref name="柴田(1995)96">[[#柴田(1995)|柴田・樺山・福井(1995) 第3巻]] p.96</ref>。<br />
{{-}}<br />
<br />
==== ローマ侵攻とその影響 ====<br />
[[ファイル:Melchiorre Fontana - assalto delle truppe francesi a Roma nel 1849 -ca.1860.jpg|thumb|250px|1849年のフランス軍のローマ侵攻を描いた絵]]<br />
フランス2月革命の影響でローマに[[ローマ共和国 (19世紀)|共和政]]が樹立され、11月に教皇[[ピウス9世]]がローマを追われた。ルイ・ナポレオンは大統領選挙中からカトリックの票目当てに教皇のローマ帰還を支援すると公約していたため、1849年4月から秩序党の支持のもとにローマ侵攻を開始した<ref name="鹿島(2004)78">[[#鹿島(2004)|鹿島(2004)]] p.78</ref>。<br />
<br />
これにルドリュ=ロランを中心とする左翼勢力が強く反発し、1849年6月にローマ共和国支援を訴える左翼暴動が発生した<ref name="柴田(1995)97">[[#柴田(1995)|柴田・樺山・福井(1995) 第3巻]] p.97</ref>。ルイ・ナポレオンはこれを左翼一掃のチャンスと見て武力鎮圧を決意した。自ら出陣してシャンガルニエ将軍とともに指揮を執り、左翼暴動を徹底的に鎮圧した(6月事件)<ref name="鹿島(2004)79">[[#鹿島(2004)|鹿島(2004)]] p.79</ref>。<br />
<br />
6月事件でルドリュ=ロラン以下左翼議員30名が国を追われ、左翼勢力は壊滅的打撃を受けた<ref name="ランツ(2010)58">[[#ランツ(2010)|ランツ(2010)]] p.58</ref><ref name="鹿島(2004)79">[[#鹿島(2004)|鹿島(2004)]] p.79</ref>。これにより秩序党の権勢はいよいよ絶頂に達した<ref name="柴田(1995)99">[[#柴田(1995)|柴田・樺山・福井(1995) 第3巻]] p.99</ref>。同時に共通の敵がいなくなったことでルイ・ナポレオンと秩序党の対立が表面化し始めた<ref name="ランツ(2010)58">[[#ランツ(2010)|ランツ(2010)]] p.58</ref>。<br />
<br />
1849年7月にフランス軍がローマを陥落させたことで、教皇はローマに帰還することができたが、帰還するや反動的な政治を開始した。それを憂慮したルイ・ナポレオンは教皇に対して「フランス共和国はイタリアの自由を圧殺するためにローマに出兵したわけではない。」と諌め、自由主義的な世俗政府の早期樹立を要求した。これに秩序党(特にカトリックの正統王朝派)はルイ・ナポレオンを裏切り者として激しく批判するようになった<ref name="鹿島(2004)80">[[#鹿島(2004)|鹿島(2004)]] p.80</ref>。<br />
<br />
ついで1849年10月にルイ・ナポレオンは今後議会多数派を考慮せずに大臣を任免していくと教書の中で宣言し、その予告通り11月1日にはバロー内閣を総辞職させて首相を置かず、事務官僚のみを集めた内閣を発足させた<ref name="鹿島(2004)81">[[#鹿島(2004)|鹿島(2004)]] p.81</ref><ref name="マルクス(2008)86">[[#マルクス(2008)|マルクス(2008)]] p.86</ref><ref name="ランツ(2010)58">[[#ランツ(2010)|ランツ(2010)]] p.58</ref>。行政機関の粛清人事も行っている<ref name="ランツ(2010)59">[[#ランツ(2010)|ランツ(2010)]] p.59</ref>。<br />
<br />
==== 秩序党の支配 ====<br />
一方議会では秩序党のイニシアチブのもと次々と保守的な法案が可決されていった。1850年3月には{{仮リンク|ファルー法|fr|Loi Falloux}}が可決され、ナポレオン時代に分離されたカトリックと教育が再び結合された<ref name="柴田(1995)98">[[#柴田(1995)|柴田・樺山・福井(1995) 第3巻]] p.98</ref><ref name="窪田(1991)78">[[#窪田(1991)|窪田(1991)]] p.78</ref>。これにより教師はカトリック聖職者の管理下に置かれ、共和派の教師は続々と教職を追われた<ref name="鹿島(2004)84">[[#鹿島(2004)|鹿島(2004)]] p.84</ref>。<br />
<br />
さらに1850年5月31日には選挙法が改正され、選挙権の資格として3年以上同一住居であることが条件として加えられた。これによって季節ごとの出稼ぎ労働者など300万人が選挙権を奪われて男子普通選挙制度が骨抜きにされた<ref name="鹿島(2004)85-86">[[#鹿島(2004)|鹿島(2004)]] p.85-86</ref><ref name="柴田(1995)99">[[#柴田(1995)|柴田・樺山・福井(1995) 第3巻]] p.99</ref><ref name="ランツ(2010)60">[[#ランツ(2010)|ランツ(2010)]] p.60</ref>。また有権者数が減ったのに大統領選挙が有効となる最低得票数200万票の規定は変更されなかったので議会が大統領を選出する可能性も増したことになる<ref name="マルクス(2008)100">[[#マルクス(2008)|マルクス(2008)]] p.100</ref>。<br />
<br />
男子普通選挙を通じての民衆との直接的な結びつきにのみ権力基盤があるルイ・ナポレオンはこの選挙法改正には反対の立場だったが、この時点の彼の権力では阻止することは不可能だった<ref name="鹿島(2004)86">[[#鹿島(2004)|鹿島(2004)]] p.86</ref>。だがルイ・ナポレオンは議会に否決されることを承知の上で選挙法改正廃止を議会に提案し、国民の議会への不信感を煽ることに利用した<ref name="鹿島(2004)103">[[#鹿島(2004)|鹿島(2004)]] p.103</ref><ref name="柴田(1995)100">[[#柴田(1995)|柴田・樺山・福井(1995) 第3巻]] p.100</ref><ref name="横張(1999)181">[[#横張(1999)|横張(1999)]] p.181</ref><ref name="マルクス(2008)158-159">[[#マルクス(2008)|マルクス(2008)]] p.158-159</ref>。<br />
<br />
また議会を人民裁判所に告発するという脅迫を行いつつ、議会に対して自分の俸給を60万フランから300万フランに増額するよう求めた<ref name="鹿島(2004)88">[[#鹿島(2004)|鹿島(2004)]] p.88</ref><ref name="マルクス(2008)102">[[#マルクス(2008)|マルクス(2008)]] p.102</ref>。[[カール・マルクス]]はこのやり口を著書『[[ルイ・ボナパルトのブリュメール18日]]』の中で手厳しく批判している。マルクスによれば「国民一人から選挙権を奪う金額を1フランとして合計300万フランを要求した」のだという<ref name="マルクス(2008)102" />。議会はこの要求を拒否しているが、結局今回限りの一時給与として216万フランの支給を認めるという弱腰を見せた<ref name="鹿島(2004)88-89">[[#鹿島(2004)|鹿島(2004)]] p.88-89</ref><ref name="マルクス(2008)102" />。<br />
<br />
==== クーデターの準備 ====<br />
前述したように第二共和政の大統領の任期は4年しかなく、しかも大統領の連続再選が禁止されているため、このままでは秩序党の傀儡大統領として何もできないまま、終わってしまうことになる。ルイ・ナポレオンはかねてから連続再選禁止条項の改正を国民議会に提起していたが、議会からは否決されていた<ref name="鹿島(2004)96-97">[[#鹿島(2004)|鹿島(2004)]] p.96-97</ref>。また王党派がクーデタを起こしてルイ・ナポレオンを拘束したうえでルイ・フィリップ王の孫[[フィリップ (パリ伯)|パリ伯爵]]をパリに迎えて[[王政復古]]宣言を行うという噂も流れていた<ref name="山口(2007)176">[[#山口(2007)|山口(2007)]] p.176</ref>。ルイ・ナポレオンはいよいよ水面下で議会に対する[[クーデター]]の準備を開始する<ref name="柴田(1995)100" />。<br />
<br />
1850年8月の議会の夏休みを利用して積極的に遊説に出て、国民の人気取りに励みつつ<ref name="鹿島(2004)89">[[#鹿島(2004)|鹿島(2004)]] p.89</ref>、将校と下士官を次々と[[エリゼ宮]]に招いて葉巻やシャンパン、料理などを気前よく振る舞い、軍の取り込みも図った<ref name="鹿島(2004)91">[[#鹿島(2004)|鹿島(2004)]] p.91</ref>。<br />
<br />
また「議会の議長の要請があり次第、いつでも大統領を[[ヴァンセンヌ城|ヴァンセンヌ牢獄]]に投獄する」と豪語して憚らない[[パリ軍事総督]]シャンガルニエ将軍を命令不服従の容疑で1851年1月3日に解任した。解任に反対するティエールに対してルイ・ナポレオンは「君は私をヴァンセンヌにぶち込んでやると公言している男を私の配下に置いておけというのか」と反論したという<ref name="鹿島(2004)92-93">[[#鹿島(2004)|鹿島(2004)]] p.92-93</ref>。<br />
<br />
シャンガルニエ将軍の解任で国民議会は丸腰状態になったが、ルイ・ナポレオンはすぐにはクーデタを起こさなかった。1851年の議会の夏休みも利用して慎重に軍隊と警察の取り込みに励んだ。ド・ペルシニーの主導で[[フランス植民地帝国|植民地]]駐留軍をはじめとしてシャンガルニエの息の掛かっていない将軍らの取り込みと取り立てを開始した。{{仮リンク|アルマン・ジャック・ルロワ・ド・サン=タルノー|label=ド・サン=タルノー|fr|Armand Jacques Leroy de Saint-Arnaud}}将軍を陸軍総司令官、{{仮リンク|ベルナール・ピエール・マニャン|label=マニャン|fr|Bernard Pierre Magnan}}将軍をパリ軍事総督に任じた<ref name="鹿島(2004)98-99">[[#鹿島(2004)|鹿島(2004)]] p.98-99</ref>。警察では{{仮リンク|シャルルマーニュ・ド・モーパ|label=ド・モーパ|fr|Charlemagne de Maupas}}をパリ警視総監に据えた<ref name="鹿島(2004)103">[[#鹿島(2004)|鹿島(2004)]] p.103</ref><ref name="ランツ(2010)61">[[#ランツ(2010)|ランツ(2010)]] p.61</ref>。かつて二度の一揆の計画立案をド・ペルシニーに任せたルイ・ナポレオンだが、今回は失敗は許されないだけに猪突猛進型のド・ペルシニーではなく、異父弟[[シャルル・ド・モルニー]]伯爵に計画立案を任せ、彼を内務大臣に任じた<ref name="鹿島(2004)99-101">[[#鹿島(2004)|鹿島(2004)]] p.99-101</ref>。<br />
<br />
クーデターの計画はド・モルニー内務大臣、ド・ペルシニー、陸軍総司令官ド・サン=タルノー将軍、パリ軍事総督マニャン将軍、ド・モーパ警視総監、そしてルイ・ナポレオンが中心になって練られていった<ref name="ランツ(2010)61" /><ref name="鹿島(2004)104">[[#鹿島(2004)|鹿島(2004)]] p.104</ref>。クーデタのための資金は愛人ミス・ハワード、従兄妹のマチルド、大蔵大臣として入閣していた金融業者アシーユ・フールなどの資金援助を受けて拠出した<ref name="鹿島(2004)102">[[#鹿島(2004)|鹿島(2004)]] p.102</ref><ref name="マルクス(2008)87">[[#マルクス(2008)|マルクス(2008)]] p.87</ref><ref name="ランツ(2010)61">[[#ランツ(2010)|ランツ(2010)]] p.61</ref>。<br />
<br />
クーデター決行日はナポレオンの戴冠式の日、また[[アウステルリッツの戦い]]の日でもある[[12月2日]]に定められた<ref name="ランツ(2010)61">[[#ランツ(2010)|ランツ(2010)]] p.61</ref>。ルイ・ナポレオンとしては「血塗られた皇帝」にならぬため、できれば無血でクーデターを成し遂げたかった。<br />
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<br />
==== 「ルイ・ボナパルトのブリュメール18日のクーデター」 ====<br />
{{main|{{仮リンク|フランス・クーデター (1851年)|fr|Coup d'État du 2 décembre 1851|en|French coup of 1851|label=1851年12月2日のクーデター}}}}<br />
[[ファイル:Cavalerie rues paris (1851).jpg|thumb|200px|ルイ・ナポレオンのクーデターが決行された1851年12月2日のパリの様子を描いた絵。]]<br />
1851年12月2日早朝、ルイ・ナポレオンと内務大臣ド・モルニーの名において議会の解散と普通選挙の復活が布告されると同時に警察が大物議員たちの寝所を襲い次々と逮捕していった。ティエールやシャンガルニエ将軍、カヴェニャック将軍などが逮捕された<ref>[[#鹿島(2004)|鹿島(2004)]] p.105-106/114-115</ref>。パリ十区の区役所では議員200人以上が立てこもったが、警察によって全員逮捕されている<ref name="鹿島(2004)119-121">[[#鹿島(2004)|鹿島(2004)]] p.119-121</ref><ref name="ランツ(2010)62">[[#ランツ(2010)|ランツ(2010)]] p.62</ref>。<br />
<br />
議員の中にはパリ市民に決起を促す者もいたが、ほとんどの市民は関心を持たず、12月2日にはそうした決起は発生しなかった<ref name="ランツ(2010)62">[[#ランツ(2010)|ランツ(2010)]] p.62</ref>。しかし12月3日には左翼議員たちが一部の労働者を取り込むことに成功し、バリケードを築いて蜂起を開始し、その鎮圧のさなかに{{仮リンク|ジャン・バティスト・ボダン|fr|Jean-Baptiste Baudin}}議員が銃殺された。さらに12月4日には発砲されたことに動揺した軍隊が民衆に向かって発砲し、数百人の死者が出る事態となった<ref name="ランツ(2010)62-63">[[#ランツ(2010)|ランツ(2010)]] p.62-63</ref>。ルイ・ナポレオンはこの惨劇を聞いて困惑し、秘密投票の復活を告知するビラ貼りを徹底させた<ref name="マルクス(2008)172">[[#マルクス(2008)|マルクス(2008)]] p.172</ref>。しかし手遅れであった。この時の虐殺は1871年の帝政崩壊までナポレオン3世に血のイメージを付きまとわせることとなった<ref name="鹿島(2004)137-138">[[#鹿島(2004)|鹿島(2004)]] p.137-138</ref><ref name="松井(1997)134">[[#松井(1997)|松井(1997)]] p.134</ref>。<br />
<br />
だがそれでも1851年12月20日と21日に行われたクーデタの信任投票では743万票の賛成、64万票の反対、170万票の棄権という圧倒的信任を受けた<ref name="松井(1997)134">[[#松井(1997)|松井(1997)]] p.134</ref><ref name="高村(2004)81">[[#高村(2004)|高村(2004)]] p.81</ref>。<br />
<br />
さらにド・モルニーは1851年末から1852年初めにかけて共和主義者の弾圧を行った。そもそもこのクーデタは12月2日に発動された直後には議会内右翼の秩序党をターゲットにした物だったはずだが、いつの間にかターゲットは左翼に転換されていった<ref name="ランツ(2010)64">[[#ランツ(2010)|ランツ(2010)]] p.64</ref>。結局「最良の帝政支持者」となるのは右翼しかいないのだから彼らに対しては牽制はしても潰してはならないのであった。実際この激しい左翼弾圧を見て秩序党もルイ・ナポレオンへの警戒を緩め、彼のクーデタを支持するようになった<ref name="ランツ(2010)64-65">[[#ランツ(2010)|ランツ(2010)]] p.64-65</ref>。右翼と左翼の対立をうまく煽ることで反クーデター派を分断したのである<ref name="高村(2004)82">[[#高村(2004)|高村(2004)]] p.82</ref>。<br />
<br />
このクーデタにより多くの者がフランスを追われた。2万5000人が逮捕され、約1万人がフランス植民地[[アルジェリア]]に流刑となったという<ref name="ランツ(2010)63">[[#ランツ(2010)|ランツ(2010)]] p.63</ref>。[[ヴィクトル・ユゴー]]も[[ベルギー]]へ亡命していった<ref name="鹿島(2004)107">[[#鹿島(2004)|鹿島(2004)]] p.107</ref><ref name="辻・丸岡(1981)14">[[#辻・丸岡(1981)|辻・丸岡(1981)]] p.14</ref><ref name="山口(2007)178">[[#山口(2007)|山口(2007)]] p.178</ref>。<br />
<br />
==== 1852年憲法と独裁体制の樹立 ====<br />
クーデタに成功したルイ・ナポレオンは伯父ナポレオンが制定した[[共和暦8年憲法]]をモデルにした憲法草案を作らせ、これを1851年12月21日と22日に国民投票にかけて92%の賛成票を得たうえで、1852年1月14日に[[1852年憲法|新憲法]]として公布した<ref name="鹿島(2004)138">[[#鹿島(2004)|鹿島(2004)]] p.138</ref><ref name="柴田(1995)101">[[#柴田(1995)|柴田・樺山・福井(1995) 第3巻]] p.101</ref>。<br />
<br />
これにより大統領の任期は10年に延ばされた。大統領には行政権全てと立法権の一部が与えられた。立法機関は法律の起草を行う[[国務院 (フランス)|国務院]]、国務院で起草された法案を審議する{{仮リンク|立法院 (フランス第二帝政)|label=立法院|fr|Corps législatif (Second Empire)}}(法案修正には国務院の許可が必要)、立法院を通過した法律が憲法に適合しているかどうかチェックする{{仮リンク|元老院 (フランス第二帝政)|label=元老院|fr|Sénat (Second Empire)}}(違憲と判断した場合には法律を廃止できる。また植民地に対してはここが立法院の役割を果たす)の3つに分けられた<ref name="柴田(1995)102">[[#柴田(1995)|柴田・樺山・福井(1995) 第3巻]] p.102</ref><ref name="高村(2004)83-84">[[#高村(2004)|高村(2004)]] p.83-84</ref><ref name="デュヴェルジェ(1995)100">[[#デュヴェルジェ(1995)|デュヴェルジェ(1995)]] p.100</ref><ref name="野村(2002)84-86">[[#野村(2002)|野村(2002)]] p.84-86</ref><ref name="松井(1997)44">[[#松井(1997)|松井(1997)]] p.44</ref><ref name="ランツ(2010)66-67">[[#ランツ(2010)|ランツ(2010)]] p.66-67</ref>。うち男子普通選挙で選出されるのは立法院のみであり、国務院や元老院は大統領から任命を受けた者によって構成された<ref name="ランツ(2010)66-67" /><ref name="高村(2004)83">[[#高村(2004)|高村(2004)]] p.83</ref><ref name="野村(2002)81">[[#野村(2002)|野村(2002)]] p.81</ref><ref name="柴田(1995)102">[[#柴田(1995)|柴田・樺山・福井(1995) 第3巻]] p.102</ref><ref name="松井(1997)44" />。すなわち法律の起草と最終チェックを大統領が掌握していた<ref name="鹿島(2004)139">[[#鹿島(2004)|鹿島(2004)]] p.139</ref>。<br />
<br />
のみならずこの3機関を通過した法律であっても大統領には拒否権があった<ref name="松井(1997)44-45">[[#松井(1997)|松井(1997)]] p.44-45</ref>。また大統領は何の制約も受けない大統領令を自由に出すことができた<ref name="鹿島(2004)139" />。さらに大統領は立法院解散権も有するが、立法院の側には行政を制限する手段は一切なかった<ref name="鹿島(2004)139" /><ref name="柴田(1995)102">[[#柴田(1995)|柴田・樺山・福井(1995) 第3巻]] p.102</ref>。<br />
<br />
また司法機関である{{仮リンク|司法高等法院|fr|Haute Cour de justice (France)}}は「大統領と国家に対する陰謀」に対して裁判なしで刑罰を与えることができるとされていた<ref name="高村(2004)84">[[#高村(2004)|高村(2004)]] p.84</ref>。<br />
<br />
この憲法により大統領はほとんど絶対君主も同然の独裁権を得た<ref name="鹿島(2004)139" /><ref name="高村(2004)84-85">[[#高村(2004)|高村(2004)]] p.84-85</ref>。あとは任期を廃して世襲とし、職名を皇帝に変更すれば悲願が達成されることになるが、ルイ・ナポレオンはクーデタ後すぐさま帝政復古させることには慎重であり、まず世論を調整しなければならないと考えていた。一方ド・ペルシニーはルイ・ナポレオンのこうした不明瞭な態度にイライラしており、「本人が嫌だと言っても皇帝に即位させる」などと公言していた<ref name="ランツ(2010)67">[[#ランツ(2010)|ランツ(2010)]] p.67</ref>。<br />
<br />
新憲法が制定されてまもない1852年1月23日にルイ・ナポレオンは早速大統領令を出し、[[オルレアン家]]のフランス国内の財産を没収した<ref name="高村(2004)87">[[#高村(2004)|高村(2004)]] p.87</ref>。オルレアン派であったド・モルニーがこの大統領令に強く反発し、内務大臣辞職を申し出た。ルイ・ナポレオンはド・モルニーのせいで自分の新体制が血で汚されたと恨んでいたので慰留することなく彼の辞職を認めた。後任にはド・ペルシニーを任じた<ref name="鹿島(2004)139-141">[[#鹿島(2004)|鹿島(2004)]] p.139-141</ref>。なおオルレアン家から没収した財産は相互扶助組合や労働者住宅{{#tag:ref|建築家{{仮リンク|ヘンリー・ロバーツ|en|Henry Roberts (architect)}}の『労働者階級のための住宅』に影響を受けていたナポレオン3世は、1852年にオルレアン家から没収した財産を使って{{仮リンク|ロッシュシュアール通り|fr|Rue de Rochechouart}}58番地に低家賃で住める200世帯の労働者共同住居「シテ・ナポレオン」を建設した<ref name="鹿島(2004)192">[[#鹿島(2004)|鹿島(2004)]] p.192</ref>。ここは洗濯室と浴槽が共同になっており、低料金で住居外の者も使用できた。当時の労働者階級が住む住居と比べると格段に衛生状態が良かったが、労働者は住み慣れた不衛生な住居の方を好み、この共同住宅への入居希望者は少なく、失敗に終わった<ref name="鹿島(2004)193-194">[[#鹿島(2004)|鹿島(2004)]] p.193-194</ref>。|group=注釈}}など労働者階級のために使用された<ref name="鹿島(2004)142">[[#鹿島(2004)|鹿島(2004)]] p.142</ref>。<br />
<br />
一方1852年2月8日の大統領令で7月王政下の{{仮リンク|官選候補|fr|Candidat officiel}}制度を復活させた。これにより知事は立法院の選挙において官選候補に様々な優遇を与える一方、非官選候補には様々な妨害を加えるようになった<ref name="鹿島(2004)144">[[#鹿島(2004)|鹿島(2004)]] p.144</ref><ref name="高村(2004)85-86">[[#高村(2004)|高村(2004)]] p.85-86</ref><ref name="松井(1997)46">[[#松井(1997)|松井(1997)]] p.46</ref>。非官選候補者の当選は極めて困難であり、また当選したとしても立法院議員は全員大統領に忠誠宣誓することを義務付けられていたため、大統領の政策に反対する事はできなかった<ref name="デュヴェルジェ(1995)100">[[#デュヴェルジェ(1995)|デュヴェルジェ(1995)]] p.100</ref><ref name="松井(1997)46">[[#松井(1997)|松井(1997)]] p.46</ref>。<br />
<br />
続いて2月17日には新聞規制の大統領令を発令し、1848年革命で認められた報道の自由を再び制限した。これにより新聞の発刊には政府の事前許可と多額の保証金が必要となった<ref name="高村(2004)86">[[#高村(2004)|高村(2004)]] p.86</ref><ref name="松井(1997)46">[[#松井(1997)|松井(1997)]] p.46</ref>。各紙毎号、政府のコミュニケを無償で掲載することが義務付けられ<ref name="高村(2004)86">[[#高村(2004)|高村(2004)]] p.86</ref>、政府から不適当な記事であると3度警告された新聞は発行停止されることになった<ref name="ランツ(2010)67" /><ref name="鹿島(2004)143">[[#鹿島(2004)|鹿島(2004)]] p.143</ref><ref name="柴田(1995)106">[[#柴田(1995)|柴田・樺山・福井(1995) 第3巻]] p.106</ref>。集会や結社も厳しく制限・監視された<ref name="松井(1997)46">[[#松井(1997)|松井(1997)]] p.46</ref>。<br />
<br />
こうした制度の下で1852年3月に行われた立法院選挙はボナパルティストが議席の3分の1、オルレアン派が2分の1を確保し、ルイ・ナポレオンの明確な反対派は立法院から消滅することとなった<ref name="ランツ(2010)67">[[#ランツ(2010)|ランツ(2010)]] p.67</ref>。非官選候補者は8人しか当選できず、またその中でも大統領への忠誠宣誓を拒否した者は議員辞職したからである<ref name="デュヴェルジェ(1995)102">[[#デュヴェルジェ(1995)|デュヴェルジェ(1995)]] p.102</ref><ref name="松井(1997)46">[[#松井(1997)|松井(1997)]] p.46</ref>。<br />
<br />
=== 第二帝政皇帝 ===<br />
==== 皇帝に即位 ====<br />
[[ファイル:Entry of Napoleon III into Paris by Theodore Jung.jpeg|thumb|250px|1852年12月2日、サン=クルー城からパリへ入ったナポレオン3世。]]<br />
はじめルイ・ナポレオンは任期10年で連続再選が可能の大統領制のままで良いかのような発言をしていたが<ref name="鹿島(2004)149">[[#鹿島(2004)|鹿島(2004)]] p.149</ref>、ド・ペルシニーが訪問先で「皇帝万歳」の声が上がるよう工作し続けたこともあって徐々にルイ・ナポレオンもその気になってきた<ref name="鹿島(2004)150-152">[[#鹿島(2004)|鹿島(2004)]] p.150-152</ref>。<br />
<br />
1852年10月9日の[[ボルドー]]の演説では「『帝国とは戦争だ』という人々がいますが、私はこう言いたいです。『帝国とは平和』であると。」と帝国復活に前向きな発言を行っている<ref name="鹿島(2004)153">[[#鹿島(2004)|鹿島(2004)]] p.153</ref><ref name="高村(2004)88">[[#高村(2004)|高村(2004)]] p.88</ref><ref name="松井(1997)135-136">[[#松井(1997)|松井(1997)]] p.135-136</ref><ref name="ランツ(2010)68">[[#ランツ(2010)|ランツ(2010)]] p.68</ref>。<br />
<br />
1852年11月に入るとルイ・ナポレオンは皇帝即位を最終的に決断し、11月5日に元老院に対して帝国復活の検討に入るよう指示した<ref name="鹿島(2004)154">[[#鹿島(2004)|鹿島(2004)]] p.154</ref>。11月7日の[[元老院令]]{{#tag:ref|元老院は国家の改革のために必要があると判断すれば憲法を修正する決議を出すことが可能であった<ref name="高村(2004)84">[[#高村(2004)|高村(2004)]] p.84</ref>。|group=注釈}}によって1852年憲法の大統領に関する規定が改正され、任期10年の大統領に代わって世襲制の皇帝制が導入された<ref name="高村(2004)88">[[#高村(2004)|高村(2004)]] p.88</ref><ref name="デュヴェルジェ(1995)100">[[#デュヴェルジェ(1995)|デュヴェルジェ(1995)]] p.100</ref>。またその是非を国民投票にかけることが決議された<ref name="鹿島(2004)154-155">[[#鹿島(2004)|鹿島(2004)]] p.154-155</ref>。国民投票は11月21日と22日に行われ、782万票の賛成、25万票の反対、200万票の棄権により国民から承認された<ref name="鹿島(2004)155">[[#鹿島(2004)|鹿島(2004)]] p.155</ref><ref name="柴田(1995)101">[[#柴田(1995)|柴田・樺山・福井(1995) 第3巻]] p.101</ref>。<br />
<br />
ルイ・ナポレオンは12月1日午後8時半に{{仮リンク|サン=クルー城|fr|Château de Saint-Cloud}}において元老院議員、国務院議員、立法院議員が居並ぶ中、元老院議長ビヨーよりこの国民投票の結果報告を受けた。これに対してルイ・ナポレオンは皇帝即位を受諾し、「私の治世は1815年に始まるのではない。諸君が私に国民の意思を伝えた今この瞬間から始まったのだ」と語り、国民の意思によって皇帝に即位することを強調した<ref name="鹿島(2004)156">[[#鹿島(2004)|鹿島(2004)]] p.156</ref>。<br />
<br />
ついで施政方針演説を行い「私は寛容をもって統治に臨む。誰の意見にも耳を傾け、党派には属さない。政治犯は釈放する。フランスの過去に対して連帯責任を取り、どの時代も我が国の歴史の1ページとして否定しない。(略)諸君、どうか私を助けてほしい。たび重なる革命で何度も政府が転覆したこのフランスの大地に安定した政府を樹立することに協力してほしいのだ。新政府の基礎となるのは宗教、所有権、正義、そして貧困する階級への愛である。」といつもの如くよく聞き取れない声で語った<ref name="鹿島(2004)156-157">[[#鹿島(2004)|鹿島(2004)]] p.156-157</ref>。<br />
<br />
12月2日にルイ・ナポレオンはサン=クルー城を出てパリへ入り<ref name="鹿島(2004)157">[[#鹿島(2004)|鹿島(2004)]] p.157</ref>、正式に帝政宣言を行って「'''ナポレオン3世'''」と名乗るようになった<ref name="横張(1999)11" /><ref name="柴田(1995)101">[[#柴田(1995)|柴田・樺山・福井(1995) 第3巻]] p.101</ref><ref name="野村(2002)1">[[#野村(2002)|野村(2002)]] p.1</ref><ref name="窪田(1991)82">[[#窪田(1991)|窪田(1991)]] p.82</ref>。署名する場合には「ナポレオン、神の恩寵と国民的意思によるフランス国民皇帝」と記した<ref name="鹿島(2004)156">[[#鹿島(2004)|鹿島(2004)]] p.156</ref>。<br />
<br />
大統領が世襲の皇帝になったこと以外は1852年憲法のままであった<ref name="柴田(1995)102">[[#柴田(1995)|柴田・樺山・福井(1995) 第3巻]] p.102</ref>。君主は通常誰に対しても責任を負わないものだが、大統領が改組された存在であるフランス第二帝政の皇帝は国民に対して責任を負っていた(皇帝は「国民の代表」と規定されていた)<ref name="ランツ(2010)84">[[#ランツ(2010)|ランツ(2010)]] p.84</ref>。ただその責任は皇帝の側からの一方的なものであり、国民の側から責任を問う手段はなかった。立法院選挙も皇帝の政策について問う選挙ではなかった<ref name="ランツ(2010)85">[[#ランツ(2010)|ランツ(2010)]] p.85</ref>。前述したように官選候補者制度によって選挙は政府に都合のいいようにコントロールされたし、そもそも立法院議員は全員皇帝に忠誠宣誓をしなければならなかった。1858年には元老院令によって立法院議員選挙に立候補するだけでも皇帝に忠誠宣誓することが義務付けられるようになった<ref name="デュヴェルジェ(1995)102">[[#デュヴェルジェ(1995)|デュヴェルジェ(1995)]] p.102</ref>。国民投票も結局帝政末期の1870年6月まで行われなかった(その国民投票は自由主義的な議会手続き導入の是非を問うもので70%の賛成票を得ている)<ref name="ランツ(2010)84-85">[[#ランツ(2010)|ランツ(2010)]] p.84-85</ref>。<br />
<br />
このようなナポレオン3世を歴史家{{仮リンク|フランソワ・フュレ|fr|François Furet}}は「ヨーロッパで唯一、民主主義という名の下における専制君主」と定義した<ref name="ランツ(2010)82">[[#ランツ(2010)|ランツ(2010)]] p.82</ref>。<br />
<br />
==== 権威帝政と自由帝政 ====<br />
[[ファイル:Franz Xaver Winterhalter Napoleon III.jpg|thumb|180px|[[フランツ・ヴィンターハルター|ヴィンターハルター]]画『ナポレオン3世の肖像』(ナポレオン博物館蔵)]]<br />
第二帝政は1850年代を「{{仮リンク|権威帝政|fr|Empire autoritaire}}」、1860年代を「{{仮リンク|自由帝政|fr|Empire libéral}}」として区分する事が多い<ref name="柴田(1995)101">[[#柴田(1995)|柴田・樺山・福井(1995) 第3巻]] p.101</ref><ref name="鹿島(2004)178">[[#鹿島(2004)|鹿島(2004)]] p.178</ref><ref name="野村(2002)2-3">[[#野村(2002)|野村(2002)]] p.2-3</ref><ref name="松井(1997)47">[[#松井(1997)|松井(1997)]] p.47</ref>。<br />
<br />
1850年代の「権威帝政」は完全なる専制体制・警察国家であり、反対派は徹底的に抑圧された<ref>[[#柴田(1995)|柴田・樺山・福井(1995) 第3巻]] p.101/105</ref><ref name="ランツ(2010)86">[[#ランツ(2010)|ランツ(2010)]] p.86</ref>。「権威帝政」時代の皇帝とその行政組織は議会や国民世論から何らの拘束も受けることなく自由に権力を行使できた<ref name="柴田(1995)105">[[#柴田(1995)|柴田・樺山・福井(1995) 第3巻]] p.105</ref>。<br />
<br />
ナポレオン3世は国民の支持を自らの正統性としていたので男子普通選挙は維持し続けたが、前述した官選候補者制度と恣意的な選挙区割によって帝政に有利になるよう選挙は操作された<ref name="柴田(1995)105-106">[[#柴田(1995)|柴田・樺山・福井(1995) 第3巻]] p.105-106</ref><ref name="ランツ(2010)85-86">[[#ランツ(2010)|ランツ(2010)]] p.85-86</ref>。出版規制により言論の自由はなく、立法院での討論を報道することも禁止され、立法院が国民に訴えかける道も閉ざされていた<ref name="柴田(1995)106" />。当時集会場になりやすかった酒場の閉鎖権限も知事が握っていた<ref name="柴田(1995)106" />。<br />
<br />
しかしながらこのような徹底した専制体制を取ったがゆえに「権威帝政」時代には強力な経済・社会改革を推し進めることが可能となった面もある。成し遂げられた近代化改革は「自由帝政」時代より「権威帝政」時代の方が多かったとする説もある<ref name="鹿島(2004)178-179">[[#鹿島(2004)|鹿島(2004)]] p.178-179</ref>。<br />
<br />
第二帝政が絶頂期にあった1860年以降、ナポレオン3世は[[アレテ|行政令]]や元老院令でもって1852年憲法体制に自由主義的な変革を加えるようになった<ref name="デュヴェルジェ(1995)103">[[#デュヴェルジェ(1995)|デュヴェルジェ(1995)]] p.103</ref>。このナポレオン3世の突然の独裁権力放棄に世界は驚き、[[タイムズ]]紙も「全く予想外の措置」と書いている<ref name="デュヴェルジェ(1995)102">[[#デュヴェルジェ(1995)|デュヴェルジェ(1995)]] p.102</ref>。<br />
<br />
1860年代初めに立法院と元老院は皇帝が議会で述べる勅語に対する{{読み仮名|奉答|ほうとう}}権(droit d'adresse)を認められた<ref name="野村(2002)82">[[#野村(2002)|野村(2002)]] p.82</ref>。この制度はかつて復古王政時代に導入され、これにより議院内閣制の道が開かれた過去があった<ref name="デュヴェルジェ(1995)103">[[#デュヴェルジェ(1995)|デュヴェルジェ(1995)]] p.103</ref>。勅語奉答の審議では政府委員が出席したため、問責質問的な審議が行われるようになった<ref name="デュヴェルジェ(1995)103">[[#デュヴェルジェ(1995)|デュヴェルジェ(1995)]] p.103</ref>。<br />
<br />
またそれ以外の際にも1860年から設置されることになった[[無任所大臣]]が政府提出法案擁護のために議会に出席するようになったことで問責質問制は強化された。また予算が細目化され、すべての補正予算の承認権が議会に付与されたことにより議会の予算審議権は大きく強化された<ref name="デュヴェルジェ(1995)103-104">[[#デュヴェルジェ(1995)|デュヴェルジェ(1995)]] p.103-104</ref><ref name="松井(1997)46-47">[[#松井(1997)|松井(1997)]] p.46-47</ref>。<br />
<br />
1864年には団結権やストライキ権が合法化し、1868年には出版・集会の事前許可制が廃止された<ref name="野村(2002)82">[[#野村(2002)|野村(2002)]] p.82</ref>。また立法院と元老院の議事録は新聞に公開されるようになった(議会が国民世論に訴えかけることが可能)<ref name="デュヴェルジェ(1995)103">[[#デュヴェルジェ(1995)|デュヴェルジェ(1995)]] p.103</ref>。その結果1869年の立法院総選挙は依然として官選候補者制度のもとで行われたにも関わらず、反政府派議員が60人も当選した。また自由主義的な改革を皇帝に促す「第三党」も40人ほど当選した<ref name="デュヴェルジェ(1995)105">[[#デュヴェルジェ(1995)|デュヴェルジェ(1995)]] p.105</ref>。<br />
<br />
さらに第二帝政の最終局面である1869年と1870年には自由主義化の改革が一層推し進められた。これはメキシコ出兵の失敗などで第二帝政の権威が失墜する中、批判をかわすために行われた改革だった<ref name="松井(1997)47">[[#松井(1997)|松井(1997)]] p.47</ref>。<br />
<br />
1869年9月8日の元老院令により立法院は自ら議事規則を制定できるようになり、また法案提出権を皇帝と共有することとなり、国務院の許可がなくとも法案を修正することが可能となった<ref name="デュヴェルジェ(1995)105">[[#デュヴェルジェ(1995)|デュヴェルジェ(1995)]] p.105</ref>。<br />
<br />
さらに第三党の党首[[エミール・オリヴィエ]]が首相に就任した後の1870年4月から5月にかけての元老院令によって1870年憲法が制定された。これにより元老院は憲法制定権限を失い、立法院と同じ権能を有するようになり、完全に[[上院]]化した<ref name="デュヴェルジェ(1995)106">[[#デュヴェルジェ(1995)|デュヴェルジェ(1995)]] p.106</ref>。立法院は法案提出権に加えて大臣質問権も持つに至り、イギリスや七月王政下の[[議院内閣制]]に近づいたと言える<ref name="野村(2002)82">[[#野村(2002)|野村(2002)]] p.82</ref><ref name="松井(1997)47">[[#松井(1997)|松井(1997)]] p.47</ref>。しかし完全な議院内閣制ではなく、引き続き皇帝は国民に対して責任を負い、国民投票を行う権利を有しており、この点は1852年憲法の「[[大統領制]]」的な要素であった<ref name="野村(2002)82-83">[[#野村(2002)|野村(2002)]] p.82-83</ref><ref name="松井(1997)47">[[#松井(1997)|松井(1997)]] p.47</ref>。議院内閣制と大統領制を組み合わせたような独特な政治体制だったが、長くは続かなかった。同年7月に[[普仏戦争]]が勃発し、9月に第二帝政は終焉したためである<ref name="松井(1997)47" /><ref name="デュヴェルジェ(1995)107">[[#デュヴェルジェ(1995)|デュヴェルジェ(1995)]] p.107</ref>。<br />
<br />
==== ウジェニーを皇后に迎える ====<br />
[[ファイル:Empress Eugenie 1854.jpg|thumb|200px|1854年の[[ウジェニー・ド・モンティジョ|ウジェニー]]皇后]]<br />
皇帝即位時のナポレオン3世はすでに44歳になっていたが、彼はこの年になってもまだ結婚していなかった。第二帝政の正統性を確保するためには他のヨーロッパ君主家から皇后を迎える事が望ましかった<ref name="窪田(1991)94">[[#窪田(1991)|窪田(1991)]] p.94</ref>。ド・ペルシニーに各国への折衝に当たらせたが、クーデターによって皇帝に即位したという微妙な経歴が災いし、どこの君主家からも皇后を出すことを拒否された<ref name="鹿島(2004)160-161">[[#鹿島(2004)|鹿島(2004)]] p.160-161</ref>。<br />
<br />
とはいえ、愛人ミス・ハワードと結婚するわけにもいかなかった。彼女は元娼婦であり、そのような女性を皇后に迎えたら国内外から笑い物にされるのは必定だった<ref name="鹿島(2004)161">[[#鹿島(2004)|鹿島(2004)]] p.161</ref>。結局貴族から皇后を見つけるしかなくなり、ナポレオンびいきだったスペイン貴族[[シプリアーノ・パラフォクス・イ・ポルトカレッロ]]の娘であるエウヘニア・デ・モンティホ(フランス語読みで[[ウジェニー・ド・モンティジョ]])と1853年1月22日に婚約し、30日に[[ノートルダム大聖堂]]において挙式した<ref name="鹿島(2004)165">[[#鹿島(2004)|鹿島(2004)]] p.165</ref><ref>[[#窪田(1991)|窪田(1991)]] p.6/</ref>。<br />
<br />
彼はこれを機にミス・ハワードを追い払おうとイギリスでの任務を与え、更にその留守を狙って{{仮リンク|シルク通り|fr|Rue du Cirque}}にある彼女の家を家宅捜査させ、全てのラブレターを回収している<ref name="窪田(1991)99">[[#窪田(1991)|窪田(1991)]] p.99</ref>。ミス・ハワードはこの処遇に怒り、ナポレオン3世から預かっていた私生児二人とともに宮廷を立ち去った<ref name="窪田(1991)100-102">[[#窪田(1991)|窪田(1991)]] p.100-102</ref>。<br />
<br />
ウジェニーは1853年2月末に懐妊したが、流産した<ref name="窪田(1991)106">[[#窪田(1991)|窪田(1991)]] p.106</ref>。一方ナポレオン3世は新婚から3カ月とたっていないこの頃から再び漁色家に戻っていた。失意のウジェニーを気にする様子もなく、宮殿や{{仮リンク|バック通り|fr|Rue du Bac}}の私邸に女優、女官、社交界の女性、高級娼婦などを続々と招いて放蕩生活を送った。一度は縁を切ったミス・ハワードともいつの間にかよりを戻していたが、その件についてはウジェニーも激怒し、ナポレオン3世が寝室に入ってくることを拒否するようになったため、ナポレオン3世はやむなくミス・ハワードをイギリスへ帰している<ref name="窪田(1991)109-110">[[#窪田(1991)|窪田(1991)]] p.109-110</ref>。<br />
<br />
1856年3月17日にウジェニーが待望の男子([[ナポレオン・ウジェーヌ・ルイ・ボナパルト]]、ナポレオン4世)を産んだ。ナポレオン3世はこれに大いに喜び、クーデターの際に投獄されたり、国外追放になった者たちのうち3000人ほどを対象に[[恩赦]]を行った<ref name="鹿島(2004)165">[[#鹿島(2004)|鹿島(2004)]] p.165</ref>。<br />
<br />
後述する[[1858年]]のナポレオン3世暗殺未遂事件{{仮リンク|オルシーニ事件|en|Orsini affair}}を機に皇帝不在ないし皇帝に支障があった時には皇后ウジェニーが摂政に就任することが布告され、これ以降ウジェニーの政治介入が本格化していく。毎週のようにウジェニーがサン=クルー宮殿で閣議を取り仕切るようになっていった<ref>[[#窪田(1991)|窪田(1991)]] p.134/136</ref>。<br />
<br />
==== 経済政策 ====<br />
第二帝政期にフランス経済は急成長した<ref name="野村(2002)67">[[#野村(2002)|野村(2002)]] p.67</ref><ref name="ランツ(2010)112">[[#ランツ(2010)|ランツ(2010)]] p.112</ref>。その原因については、第二帝政期以前の産業革命の結果であり、第二帝政期はその歩みを継続させただけにすぎないとする説もあれば、ナポレオン3世のサン=シモン主義的な経済問題への取り組みのおかげとする説もある<ref name="ランツ(2010)112">[[#ランツ(2010)|ランツ(2010)]] p.112</ref>。<br />
<br />
サン=シモン主義は既存の「軍事体制」を批判して「産業者(industriels)」(サン=シモンの造語。[[テクノクラート]]のこと)を中心とする経済社会の実現を目指し、経済発展によって労働者の環境を改善することを目指している<ref name="横張(1999)207">[[#横張(1999)|横張(1999)]] p.207</ref>。「産業者」は実力主義で選ばれるべきであるとし、そのために教育を重視する。また国家の役割を最小限にすることを求め、[[レッセフェール]]や[[自由貿易]]を支持する<ref name="野村(2002)67">[[#野村(2002)|野村(2002)]] p.67</ref>。また西洋と東洋の通商による融合という理念を持ち、通商路建設や植民地政策など東方進出を推進する<ref name="鹿島(2004)411">[[#鹿島(2004)|鹿島(2004)]] p.411</ref>。<br />
<br />
ナポレオン3世はテクノクラート重用、関税大幅引き下げ、道路・鉄道の整備、スエズ運河建設、アジアへの積極的な植民地化政策などサン=シモン主義的な政策を遂行した。サン=シモン主義者も熱烈にナポレオン3世の政策を支持していた<ref>[[#野村(2002)|野村(2002)]] p.181</ref>。ただし、一般のサン=シモン主義者は政府が経済に介入することに反対するが、ナポレオン3世はその独裁主義から国家の経済介入に積極的だった<ref>[[#野村(2002)|野村(2002)]] p.181-182</ref>。サン=シモン主義は経済の観点に重点を置くが、ナポレオン3世は帝政の秩序の観点に重点を置いていたのである<ref name="野村(2002)182">[[#野村(2002)|野村(2002)]] p.182</ref>。<br />
===== 金融改革 =====<br />
[[ロスチャイルド家|ロチルド家(英語読みでロスチャイルド家)]]をはじめとした「オート・バンク」と呼ばれるフランスの既存大手銀行は、これまで[[為替]]や[[手形割引]]などで儲け、産業金融をあまり手掛けてこなかったため、フランス資本主義の発展は立ち遅れていた。その状況を打破すべくナポレオン3世は金融改革を行って殖産興業を押し進めた<ref name="柴田(1995)11">[[#柴田(1995)|柴田・樺山・福井(1995) 第3巻]] p.11</ref>。<br />
<br />
1852年11月には{{仮リンク|ペレール兄弟|fr|Frères Pereire}}やアシーユ・フールなどユダヤ金融業者の援助で{{仮リンク|クレディ・モビリエ|fr|Crédit mobilier}}を創設した<ref name="横張(1999)195-196">[[#横張(1999)|横張(1999)]] p.195-196</ref><ref name="ランツ(2010)117">[[#ランツ(2010)|ランツ(2010)]] p.117</ref>。これは株式を発行して国民から資金を集め、産業企業に投資する銀行だった<ref name="横張(1999)196">[[#横張(1999)|横張(1999)]] p.196</ref><ref name="柴田(1995)11-12">[[#柴田(1995)|柴田・樺山・福井(1995) 第3巻]] p.11-12</ref>。とりわけ鉄道に積極的に投資し、国内鉄道はもとより、オーストリアやイタリア、スペインの鉄道にも積極的に投資してヨーロッパを繋ぐ巨大鉄道網の建設をめざした<ref name="柴田(1995)11-12">[[#柴田(1995)|柴田・樺山・福井(1995) 第3巻]] p.11-12</ref>。クレディ・モビリエは同業者の合併を推し進めて経済の集中化を図り、自身はあらゆる産業の頂点に立つ[[持株会社]]になろうとしていた<ref name="横張(1999)196">[[#横張(1999)|横張(1999)]] p.196</ref>。<br />
<br />
クレディ・モビリエの登場でオート・バンクももはや一部の金持ちとだけ取引しているわけにはいかなくなり、ひろく大衆の貯蓄から資金を募り、産業金融を行うようになった<ref name="横張(1999)208-209">[[#横張(1999)|横張(1999)]] p.208-209</ref>。1863年には{{仮リンク|クレディ・リヨネ|fr|Crédit Lyonnais}}、1864年には[[ソシエテ・ジェネラル]]が創設され、これらの銀行も産業金融を手掛けるようになった<ref name="柴田(1995)12">[[#柴田(1995)|柴田・樺山・福井(1995) 第3巻]] p.12</ref>。クレディ・モビリエ自体は帝政末期の頃にオート・バンクとの競争に敗れて経営破綻しているが、その登場の意義は大きく、フランス金融の近代化は同社の出現による競争の激化で成し遂げられたのであった<ref name="横張(1999)200-201">[[#横張(1999)|横張(1999)]] p.200-201</ref>。<br />
<br />
ナポレオン3世の金融改革で近代的な銀行システムが作られたことは、[[カリフォルニア・ゴールドラッシュ]]に伴う銀行の金準備の増加で[[兌換]]が促進されたことと相まって、フランスの経済発展の原動力となったといえる<ref name="柴田(1995)12">[[#柴田(1995)|柴田・樺山・福井(1995) 第3巻]] p.12</ref><ref name="ランツ(2010)116">[[#ランツ(2010)|ランツ(2010)]] p.116</ref>。<br />
<br />
また[[株式会社]]の創設も推奨した。[[南海泡沫事件]]以来ヨーロッパでは株式会社に対する警戒感が強く、フランスでもこれまで株式会社設立には規制がかけられることが多かったが、ナポレオン3世は1863年と1864年に商法を改正して株式会社設立を[[準則主義]]にして、株式会社を創設しやすくした<ref name="柴田(1995)12">[[#柴田(1995)|柴田・樺山・福井(1995) 第3巻]] p.12</ref>。もっとも株主に口出しされることを嫌がる経営者が多かったため、株式会社への転換はなかなか進まなかったという<ref name="柴田(1995)12-13">[[#柴田(1995)|柴田・樺山・福井(1995) 第3巻]] p.12-13</ref>。<br />
<br />
===== 自由貿易 =====<br />
これまでフランスをはじめ西ヨーロッパ諸国は保護関税によって自国の脆弱な産業を保護してきたが、ナポレオン3世はそれがかえって自国産業の近代化を遅らせていると痛感し、自国産業を自由貿易の中に投げ込んで鍛える時だと考えていた<ref name="柴田(1995)13">[[#柴田(1995)|柴田・樺山・福井(1995) 第3巻]] p.13</ref>。<br />
<br />
1852年12月に元老院令によって皇帝は関税率を自由に変更できるものと定めた<ref name="ランツ(2010)120">[[#ランツ(2010)|ランツ(2010)]] p.120</ref>。その権限で1860年に国内製鉄業や綿業の激しい反対運動を押し切って{{仮リンク|英仏通商条約|fr|Traité franco-anglais de 1860}}を締結した<ref name="柴田(1995)13">[[#柴田(1995)|柴田・樺山・福井(1995) 第3巻]] p.13</ref>。これにより各種輸入禁止措置は撤廃され、また関税は大幅に引き下げられた。この条約の締結は「ナポレオンの経済クーデタ」とも呼ばれる<ref name="柴田(1995)13">[[#柴田(1995)|柴田・樺山・福井(1995) 第3巻]] p.13</ref>。<br />
<br />
さらにベルギー、プロイセン、イタリア、オーストリア、スペイン、ポルトガルなどとも続々と自由貿易の協定を結んでいった<ref name="ランツ(2010)120">[[#ランツ(2010)|ランツ(2010)]] p.120</ref>。<br />
===== 社会保障の不十分 =====<br />
一方不十分だったのが[[社会政策]]であった。ナポレオン3世は青年期に書いた『貧困の根絶』の中で社会問題に関心がある様子だったが、第二帝政はサン=シモン主義の影響から基本的に[[自由放任主義]]であり、国民の生活は「自然」の状態に任されていた<ref name="ランツ(2010)123">[[#ランツ(2010)|ランツ(2010)]] p.123</ref>。第二帝政の社会保障政策は法律の枠組みを変更するだけのものに留まっている<ref name="ランツ(2010)123">[[#ランツ(2010)|ランツ(2010)]] p.123</ref>。<br />
<br />
フランスの労働運動は1851年のナポレオン3世のクーデタで弾圧されて一度壊滅しており、権威帝政下では徹底的に監視・規制されて沈黙していた。しかし自由帝政へと移行していく中で1862年のロンドン万博で英仏労働者の交流が深まり、イギリス労働運動に影響を受けてフランスでも労働運動が盛り上がっていった。1864年には英仏労働者を中心とする世界初の労働者国際組織[[第一インターナショナル]]が結成された<ref name="柴田(1995)115">[[#柴田(1995)|柴田・樺山・福井(1995) 第3巻]] p.115</ref>。<br />
<br />
帝政後期の更なる自由主義改革と第一インターナショナルの拡大で、長時間労働と低賃金の改善を求める[[ストライキ]]が多発していくようになった。帝政末期にはその鎮圧のために軍隊が投入される騒動も発生している。第二帝政は結局最後まで積極的な社会政策を打ち出すことなく、終焉を迎えることになる<ref name="ランツ(2010)124">[[#ランツ(2010)|ランツ(2010)]] p.124</ref>。<br />
<br />
==== 国土整備 ====<br />
===== 鉄道建設 =====<br />
[[ファイル:No04p08 fetes industrie cdf midi ouest-e01-inauguration toulouse 1858.jpg|thumb|200px|1858年、[[トゥールーズ・マタビオ駅]]の線路開通の様子。]]<br />
フランスは馬車交通網が充実していたため、鉄道整備の必要性がなかなか理解されず、1830年代から本格的に鉄道建設に乗り出した[[イギリス]]や[[ベルギー]]に比べて後れを取っていた<ref name="鹿島(2004)211-212">[[#鹿島(2004)|鹿島(2004)]] p.211-212</ref>。オート・バンクもあまり鉄道に関心を持たず、投資に消極的だった<ref name="鹿島(2004)212-213">[[#鹿島(2004)|鹿島(2004)]] p.212-213</ref>。だがサン=シモン主義者は鉄道を社会改革の先駆と看做しており、その整備を強く主張していた。その影響でナポレオン3世も熱心な鉄道擁護者となった<ref name="鹿島(2004)214-215">[[#鹿島(2004)|鹿島(2004)]] p.214-215</ref>。彼は鉄道の発展は流通を促進し、そのほかの分野の経済発展ももたらすと見ていた<ref name="横張(1999)204-205">[[#横張(1999)|横張(1999)]] p.204-205</ref>。<br />
<br />
ナポレオン3世は1852年に鉄道会社の開発利権を99年まで延長することを認める大統領令を発令し、これにより鉄道への投資ブームを煽った<ref name="鹿島(2004)215">[[#鹿島(2004)|鹿島(2004)]] p.215</ref>。それでもオート・バンクの腰は重かったので、クレディ・モビリエのペレール兄弟に鉄道への投資を主導させた<ref name="鹿島(2004)216">[[#鹿島(2004)|鹿島(2004)]] p.216</ref>。フランス中の鉄道が続々とペレール兄弟の傘下に入っていく中、[[ジャコブ・マイエール・ド・ロチルド|ジェームス・ド・ロチルド]]の{{仮リンク|ロチルド銀行|fr|Banque Rothschild}}も対抗して鉄道買収に乗り出すようになり、ペレール兄弟とロチルド家の鉄道競争が激化していった<ref name="鹿島(2004)216-217">[[#鹿島(2004)|鹿島(2004)]] p.216-217</ref>。<br />
<br />
その結果、鉄道分野は競争で切磋琢磨する状況が生まれ、第二帝政期に鉄道が急速に整備されることとなった<ref name="鹿島(2004)219">[[#鹿島(2004)|鹿島(2004)]] p.216-219</ref>。1851年時点でフランスの鉄道は3600キロだったが、1870年には2万3300キロに達しており、現在のフランス鉄道網の半分ほどが完成を見ている<ref name="ランツ(2010)117">[[#ランツ(2010)|ランツ(2010)]] p.117</ref>。<br />
<br />
もっとも第二帝政期にはいまだ一般国民には鉄道の利用料金は高く、一般的な移動手段にはならなかったという<ref name="木下(2000)137">[[#木下(2000)|木下(2000)]] p.137</ref>。<br />
{{-}}<br />
===== パリ改造計画 =====<br />
[[ファイル:NapoleonIIIHaussmann.jpg|thumb|200px|1860年のナポレオン3世と[[セーヌ県]]知事[[ジョルジュ・オスマン]]を描いた絵画]]<br />
{{main|パリ改造}}<br />
当時のフランスは急速な産業化の進展に伴って人口が地方から都市に流出する傾向があり、パリの人口も19世紀初頭から半世紀の間に2倍に増加して100万人を超えていた<ref name="木下(2000)143">[[#木下(2000)|木下(2000)]] p.143</ref>。その結果人口過密で不衛生な状態となり、[[コレラ]]が流行するようになった<ref name="松井(1997)83-85">[[#松井(1997)|松井(1997)]] p.83-85</ref>。ナポレオン3世は衛生的で都市設備の進んだロンドンに感銘を受けていたのでパリも同じように改造したいと願っていた<ref name="鹿島(2004)242-245">[[#鹿島(2004)|鹿島(2004)]] p.242-245</ref>。[[パリ改造]]計画自体はルイ・フィリップ王政下の1840年頃にはすでに立案されていたもので第二帝政のオリジナルではないが、第二帝政によって計画が大幅に拡張されたものである<ref name="木下(2000)134">[[#木下(2000)|木下(2000)]] p.134</ref>。<br />
<br />
第二帝政時代はパリ最大の変革期にあたる。現在のパリは高層ビルなどの現代都市的要素も浸食してきているが、それ以外の地域は第二帝政期によって建設された部分が多い。アメリカの歴史家{{仮リンク|デヴィッド・H・ピンクニー|en|David H. Pinkney}}は1958年時に「現在のパリの中で[[サクレ・クール寺院]]と[[エッフェル塔]]以外の物は第二帝政期にできあがっていた」と述べている<ref name="木下(2000)134">[[#木下(2000)|木下(2000)]] p.134</ref>。<br />
<br />
ナポレオン3世が行った最初の大規模な都市改造は、[[1区 (パリ)|パリ1区]]にある{{仮リンク|パリ中央市場|fr|Halles de Paris}}の立て直しだった。パリの人口が膨張する中、中央市場の拡張再建は急務になっていた<ref name="松井(1997)254">[[#松井(1997)|松井(1997)]] p.254</ref>。ナポレオン3世はまだ大統領だった頃の1851年夏、7月王政下で計画されていた中央市場の立て直しを実行に移すことを命じた<ref name="松井(1997)117">[[#松井(1997)|松井(1997)]] p.117</ref><ref name="鹿島(2004)276">[[#鹿島(2004)|鹿島(2004)]] p.276</ref>。設計者の[[ヴィクトール・バルタール]]ははじめ石造りの中央市場を建設したが、「まるで要塞のようだ」とナポレオン3世が反発したため、取り壊された。代わりに[[ロンドン万国博覧会 (1851年)|ロンドン万博]]の[[水晶宮|クリスタル・パレス]]に倣ったガラスに覆われた中央市場が設計され、1857年に完成した<ref name="鹿島(2004)276-277">[[#鹿島(2004)|鹿島(2004)]] p.276-277</ref><ref name="松井(1997)118-119">[[#松井(1997)|松井(1997)]] p.118-119</ref>。この中央市場は約一世紀以上にわたり「パリの胃袋」([[エミール・ゾラ]])として象徴的存在であり続けたが、1969年にはパリ市内の渋滞緩和のため、郊外[[ランジス]]へ移設されている<ref name="鹿島(2004)278">[[#鹿島(2004)|鹿島(2004)]] p.278</ref><ref name="木下(2000)135">[[#木下(2000)|木下(2000)]] p.135</ref><ref name="松井(1997)120">[[#松井(1997)|松井(1997)]] p.120</ref>。<br />
<br />
1853年6月に[[ジロンド県]]知事[[ジョルジュ・オスマン]]を[[セーヌ県]]知事に任じて、以降彼にパリ改造計画の陣頭指揮をとらせるようになった<ref name="ランツ(2010)117">[[#ランツ(2010)|ランツ(2010)]] p.117</ref><ref name="松井(1997)96">[[#松井(1997)|松井(1997)]] p.96</ref>。オスマンは近代都市に最も大事なことは交通システムと理解していた<ref name="松井(1997)181">[[#松井(1997)|松井(1997)]] p.181</ref>。オスマン計画の特徴は出来る限り道路の幅を広く取って直線化し、また[[セーヌ川]]に平行・垂直になっている既存の街路を二つの[[環状道路]]と結合し、さらに都心部から新街区に向けて斜交路を走らせ、斜交路と環状道路が交わる部分は[[ロータリー交差点]]にして交通の要所とすることだった<ref name="松井(1997)185-186">[[#松井(1997)|松井(1997)]] p.185-186</ref>。<br />
[[ファイル:Paris-haussmann-centre.png|thumb|200px|left|[[パリ改造]]計画で新設もしくは拡張された道路(赤い部分)。]]<br />
そうした基本戦略の下、次々と巨大な道路が建設されていった。[[セーヌ川]]の[[中州]][[シテ島]]を通過する{{仮リンク|パレ大通り|fr|Boulevard du Palais (Paris)}}<ref name="松井(1997)186-187">[[#松井(1997)|松井(1997)]] p.186-187</ref>、[[コンコルド広場]]と[[バスティーユ広場]]を繋ぐ{{仮リンク|リヴォリ通り|fr|Rue de Rivoli}}<ref name="松井(1997)187-188">[[#松井(1997)|松井(1997)]] p.187-188</ref>、セーヌ川右岸でリヴォリ通りと交差する{{仮リンク|セバストポール大通り|fr|Boulevard de Sébastopol}}<ref name="松井(1997)188-189">[[#松井(1997)|松井(1997)]] p.188-189</ref>、[[ガルニエ宮|新オペラ座]]建設に備えた{{仮リンク|オペラ通り|fr|Avenue de l'Opéra}}<ref name="松井(1997)196-197">[[#松井(1997)|松井(1997)]] p.196-197</ref>、[[エトワール凱旋門|凱旋門]]のある[[エトワール広場]]と同心円の円形道路{{仮リンク|ティルジット通り|fr|Rue de Tilsitt}}<ref name="松井(1997)201">[[#松井(1997)|松井(1997)]] p.201</ref>、ティルジット通りと交差する12本の道路<ref name="松井(1997)202">[[#松井(1997)|松井(1997)]] p.202</ref>、凱旋門からブローニュの森に通じる{{仮リンク|フォッシュ大通り|label=フォッシュ大通り(当時皇后通り)|fr|Avenue Foch (Paris)}}<ref name="鹿島(2004)285">[[#鹿島(2004)|鹿島(2004)]] p.285</ref>、セーヌ川左岸で{{仮リンク|サン・ミシェル大通り|fr|Boulevard Saint-Michel (Paris)}}と交差する環状路[[サンジェルマン大通り]]<ref name="松井(1997)190">[[#松井(1997)|松井(1997)]] p.190</ref>、さらにその外側を走る環状路{{仮リンク|ポール・ロワイヤル大通り|fr|Boulevard de Port-Royal}}などである<ref name="松井(1997)191">[[#松井(1997)|松井(1997)]] p.191</ref>。<br />
<br />
とりわけ[[パリ東駅]]から伸びる{{仮リンク|ストラスブール大通り|fr|Boulevard de Strasbourg (Paris)}}からセーヌ川まで一直線に駆け下りることができる幅30メートルのセバストポール大通りの開通はパリ市民を熱狂させ、パリ改造計画の評価はこの道路建設以降に高まった<ref name="松井(1997)189">[[#松井(1997)|松井(1997)]] p.189</ref>。<br />
<br />
またこうした道路工事の際に不衛生な[[貧民窟]]が次々と取り壊されていった<ref>[[#松井(1997)|松井(1997)]] p.186-187/188/190-191</ref>。これにより都市中心部の人口は減少し、都市郊外に住宅地が形成されていった([[ドーナツ化現象]])<ref name="松井(1997)339-340">[[#松井(1997)|松井(1997)]] p.339-340</ref>。その結果パリ中心部と郊外にあたる周辺市町村の結び付きが強くなる中、統一した行政管轄下に置かれることが好ましいと判断され、1859年6月には周辺の市町村がパリ市に合併された<ref name="松井(1997)203">[[#松井(1997)|松井(1997)]] p.203</ref>。<br />
<br />
[[下水道]]の整備も第二帝政期に飛躍的に進んだ。1852年にパリの全ての建物を下水道に接続させることを命じる法律が出され、これにより下水道をすべての道路の下に通すための建設工事が開始された<ref name="リアー(2009)141">[[#リアー(2009)|リアー、ファイ(2009)]] p.141</ref>。1852年に107キロだったパリの下水道は第二帝政末期には560キロに延びていた<ref name="松井(1997)244">[[#松井(1997)|松井(1997)]] p.244</ref>。下水道は建設にあたって地上の道路以上に直線化・画一化が徹底された<ref name="リアー(2009)142">[[#リアー(2009)|リアー、ファイ(2009)]] p.142</ref>。これによってパリの下水道はすべて大溝渠へ流れ込むようになった。またすでにドブになり下がっていたパリ南部を走る{{仮リンク|ビエーブル川|fr|Bièvre (affluent de la Seine)}}もセーヌ川から切り離して大溝渠へ流れ込むよう工事した<ref name="リアー(2009)142">[[#リアー(2009)|リアー、ファイ(2009)]] p.142</ref>。<br />
<br />
パリの道路脇は水が流れ、掃除夫はここにゴミを落とし、ゴミは自動的に排水溝まで流れるようになっているが、この街路清掃システムも第二帝政期にオスマンの都市計画によって生みだされたものである<ref name="松井(1997)247">[[#松井(1997)|松井(1997)]] p.247</ref>。<br />
<br />
[[ガス燃料|ガス]]の設備も進められ、夜のパリは[[ガス灯]]によって明るく照らされるようになった。しかし一般家庭への普及は限定的で、帝政末期の時点でもガス照明を使っているのは5人に1人ほどの割合であったという<ref name="木下(2000)143">[[#木下(2000)|木下(2000)]] p.143</ref>。<br />
<br />
パリ改造計画は交通の便を良くするとともに都市の衛生化を図るのが第一の目的であったが、同時に暴動を阻止する意図もあった。当時一般に暴動の背景は失業と考えられていたので(実際[[1848年革命]]の大きな原因は失業率の高さだった)、パリ改造という巨大公共事業によって失業者対策を企図したのである<ref name="松井(1997)114">[[#松井(1997)|松井(1997)]] p.114</ref>。また狭い路地を減らして大通りを建設することで反政府勢力が暴動の際にバリケードを作るのを防止する意図もあったと考えられている<ref name="鹿島(2004)282">[[#鹿島(2004)|鹿島(2004)]] p.282</ref><ref name="木下(2000)135">[[#木下(2000)|木下(2000)]] p.135</ref><ref name="山口(2007)175">[[#山口(2007)|山口(2007)]] p.175</ref>。交通の便が良くなることで軍隊の市内の移動も迅速になり、1871年に[[アドルフ・ティエール]]政府が[[パリ・コミューン]]政府を早期に鎮圧できたのもこれによるところが大きいという<ref name="松井(1997)183">[[#松井(1997)|松井(1997)]] p.183</ref>。<br />
<br />
パリにつづいて、[[リヨン]]、[[マルセイユ]]、[[ボルドー]]でも都市改造が行われていった<ref name="ランツ(2010)118">[[#ランツ(2010)|ランツ(2010)]] p.118</ref>。<br />
{{-}}<br />
<br />
==== 外交 ====<br />
ナポレオン3世の外交は、3つの方向性で行われた。まず第一に彼の伯父を否定する[[ウィーン体制]]を改定すること、第二に[[国民国家]]の樹立を目指す[[ナショナリズム]]運動を支援すること、第三にフランス植民地を拡大することである<ref name="ランツ(2010)100">[[#ランツ(2010)|ランツ(2010)]] p.100</ref>。<br />
<br />
[[クリミア戦争]]でイギリスと同盟を結んで[[ロシア帝国]]を破り、一躍フランスがヨーロッパ国際社会の中心に躍り出たことでウィーン体制の改定には成功したといえる。ナショナリズムへの支援はポーランドの民族運動やイタリア統一運動の支援という形で現れた。これはウィーン体制改定のための手段でもあったが<ref name="ガル(1988)542">[[#ガル(1988)|ガル(1988)]] p.542</ref>、[[オーストリア帝国]]やロシアとの対立を深め、やがてイギリスからの支持も失い、ドイツ・ナショナリズムを高めて最終的に[[普仏戦争]]で破滅することとなった。結果的には彼はナポレオン戦争後のフランスの地位回復のための60年にわたる運動をすべて無に帰してしまった<ref name="ランツ(2010)97-98">[[#ランツ(2010)|ランツ(2010)]] p.97-98</ref>。<br />
<br />
一方で彼が外交面でフランスに残した最大の物は[[植民地]]であった。前任であるルイ・フィリップ王はイギリスとの対立を嫌がってアルジェリア以外の植民地政策にはそれほど関心を持たなかったが、ナポレオン3世はアフリカやアジアの国々を「文明化」する使命感に燃えており、積極的な[[帝国主義]]・[[植民地]]政策に乗りだした<ref name="ランツ(2010)98">[[#ランツ(2010)|ランツ(2010)]] p.98</ref>。第二帝政においてフランスはその植民地を3倍にも拡張させている<ref name="柴田(1995)108">[[#柴田(1995)|柴田・樺山・福井(1995) 第3巻]] p.108</ref>。植民地は普仏戦争の敗北によっても奪われることはなく、フランスからの報復に備えた[[ビスマルク体制]]においては、欧州内でのフランス孤立化と引き換えにフランスの対外植民地積極主義は放置・黙認されたため、第三共和政下においてフランスの植民地政策は更に加速され、[[大英帝国]]に次ぐ植民地大国[[フランス植民地帝国]]の繁栄につながっていく。<br />
<br />
===== クリミア戦争 =====<br />
[[ファイル:Vernet - La prise de Malakoff.jpg|thumb|200px|{{仮リンク|マラコフの戦い|fr|Bataille de Malakoff}}のフランス軍の戦勝を描いた[[オラース・ヴェルネ]]の絵画。]]<br />
1853年、[[ロシア帝国]]は[[ダーダネルス海峡]]と[[ボスフォラス海峡]]の支配権を狙って[[エルサレム]](当時[[オスマン帝国|オスマン=トルコ帝国]]領)の[[ギリシャ正教徒]]保護を理由にオスマン=トルコに最後通牒を突きつけた<ref name="鹿島(2004)313">[[#鹿島(2004)|鹿島(2004)]] p.313</ref>。<br />
<br />
海洋の覇者イギリスとしてはロシアが南下することで[[地中海]]へ進出してくることを嫌い、トルコを支援した。一方フランスにとってはほとんど利害関係のない地域であったが、ナポレオン3世はウィーン体制に代わる新たなヨーロッパ国際関係の構築を望んでいたため、イギリスと連携を深めてロシアと戦争することを欲した<ref name="ランツ(2010)99">[[#ランツ(2010)|ランツ(2010)]] p.99</ref>。また東方進出を主張するサン=シモン主義の影響から地中海へ進出しようという野望もあったのではないかとも言われる。実際にこの戦争後[[スエズ運河]]建設などナポレオン3世の東方政策は積極的になっていく<ref name="鹿島(2004)314">[[#鹿島(2004)|鹿島(2004)]] p.314</ref>。<br />
<br />
ナポレオン3世は「[[フランソワ1世 (フランス王)|フランソワ1世]]以来フランスに認められている権利である」として東方キリスト教徒、パレスチナ・キリスト教徒の排他的保護権を主張してこの問題に介入し<ref name="ランツ(2010)100">[[#ランツ(2010)|ランツ(2010)]] p.100</ref>、イギリスと競い合うように[[ギリシャ]]周辺海域に艦隊を派遣した<ref name="鹿島(2004)313">[[#鹿島(2004)|鹿島(2004)]] p.313</ref>。イギリスとフランスを後ろ盾に得たトルコは強気になり、ロシアの最後通牒を拒否。ロシアは1853年7月に[[プルート川]]を渡河してトルコ領へ侵攻を開始した<ref name="鹿島(2004)313">[[#鹿島(2004)|鹿島(2004)]] p.313</ref>。<br />
<br />
ナポレオン3世の仲裁提案に対してニコライ1世は「ロシアは現在においても1812年([[1812年ロシア戦役|対ナポレオン戦争]])の立場を変えることはない」という喧嘩腰の返事をした<ref name="鹿島(2004)315">[[#鹿島(2004)|鹿島(2004)]] p.315</ref><ref name="ランツ(2010)100-101">[[#ランツ(2010)|ランツ(2010)]] p.100-101</ref>。そこで英仏はロシアに対してトルコ領から撤収するよう求める最後通牒を送ったが、ロシアはこれを無視したため、1854年3月27日に英仏はロシアに対して宣戦布告し、[[クリミア戦争]]が始まった<ref name="鹿島(2004)316">[[#鹿島(2004)|鹿島(2004)]] p.316</ref><ref name="ランツ(2010)100-101">[[#ランツ(2010)|ランツ(2010)]] p.100-101</ref>。<br />
<br />
フランス軍の指揮はクーデターで活躍した陸軍大臣ド・サン=タルノー将軍が執ったが、兵站の確立が困難を極め、フランス軍の士気も低く、トルコ軍の士気はさらに低かった<ref name="鹿島(2004)317">[[#鹿島(2004)|鹿島(2004)]] p.317</ref>。しかも部隊内で[[コレラ]]が流行し、司令官ド・サン=タルノー将軍もコレラで落命した<ref name="鹿島(2004)319">[[#鹿島(2004)|鹿島(2004)]] p.319</ref>。1854年9月から英仏軍はロシア軍最大の要塞である[[セヴァストポリの戦い (クリミア戦争)|セヴァストポリ要塞への攻撃]]を開始したが、戦闘は泥沼化し、1年にもわたる激戦となった<ref name="鹿島(2004)320">[[#鹿島(2004)|鹿島(2004)]] p.320</ref>。<br />
<br />
1855年4月にナポレオン3世は自ら戦地に出陣すると宣言したが、大臣たちは皇帝に万が一があれば第二帝政は崩壊してしまうと危惧し、これに反対した<ref name="鹿島(2004)321">[[#鹿島(2004)|鹿島(2004)]] p.321</ref>。4月28日に[[ブローニュの森]]でイタリア人共和主義者から暗殺未遂を受けたことでナポレオン3世も出陣を断念している<ref name="鹿島(2004)323-324">[[#鹿島(2004)|鹿島(2004)]] p.323-324</ref>。<br />
<br />
1855年9月30日にセヴァストポリ要塞が陥落。さらに12月にはバルカン半島に地歩を築こうとしていたオーストリアが英仏側で参戦すると宣言した<ref name="ウォーンズ(2001)231">[[#ウォーンズ(2001)|ウォーンズ(2001)]] p.231</ref>。崩御したニコライ1世の後を継いでいたロシア皇帝[[アレクサンドル2世]]はこれ以上の戦争継続の意思を失い、和平交渉を求めた<ref name="ウォーンズ(2001)231">[[#ウォーンズ(2001)|ウォーンズ(2001)]] p.231</ref>。<br />
<br />
イギリスは休戦協定に応じることに反対したが、ナポレオン3世が押し切り、1856年2月からパリ講和会議が開催された<ref name="鹿島(2004)328">[[#鹿島(2004)|鹿島(2004)]] p.328</ref>。ナポレオン3世は[[従弟]](ナポレオンの庶子)にあたる外相[[アレクサンドル・ヴァレフスキ]]に会議を任せ、3月30日に講和条約を締結した。これによりトルコはキリスト教徒の権利を守ることを条件として領土を保全されつつも、[[ルーマニア]]など[[ドナウ川]]沿岸地域は自治国(事実上トルコから独立)とすることになった。また[[黒海]]の中立化が取り決められ、ロシアがここに艦隊を置くことはできなくなった<ref name="ウォーンズ(2001)231">[[#ウォーンズ(2001)|ウォーンズ(2001)]] p.231</ref><ref name="鹿島(2004)328">[[#鹿島(2004)|鹿島(2004)]] p.328</ref><ref name="ランツ(2010)101">[[#ランツ(2010)|ランツ(2010)]] p.101</ref>。<br />
<br />
この戦争によってロシアの威信は傷つき、逆にフランスの威光は高まった<ref name="鹿島(2004)328-329">[[#鹿島(2004)|鹿島(2004)]] p.328-329</ref><ref name="ランツ(2010)102">[[#ランツ(2010)|ランツ(2010)]] p.102</ref>。バルカン半島をめぐってオーストリアとロシアの対立は深まっていき、また英露関係も伝統的な対立が世界レベルの規模に拡大されていく中で、国際社会におけるナポレオン3世の発言力はいやがうえにも高まることとなった<ref name="ガル(1988)202">[[#ガル(1988)|ガル(1988)]]、p.202</ref>。<br />
<br />
===== イタリア統一戦争 =====<br />
先のクリミア戦争には[[サルデーニャ王国|サルデーニャ王国(ピエモンテ王国)]]も英仏側で参戦していたが、これはイタリア統一の障害であるオーストリアに対抗するためフランスの支援を得ようというサルデーニャ宰相[[カミッロ・カヴール]]の戦略であった<ref name="鹿島(2004)333">[[#鹿島(2004)|鹿島(2004)]] p.333</ref>。<br />
<br />
ナポレオン3世は青年時代から[[イタリア統一運動]]に共感を持っていた<ref name="ランツ(2010)102">[[#ランツ(2010)|ランツ(2010)]] p.102</ref>。パリ講和会議ではナポレオン3世がイタリア問題を持ち出し、オーストリアの不興を買う一幕もあった<ref name="ランツ(2010)103">[[#ランツ(2010)|ランツ(2010)]] p.103</ref>。<br />
[[ファイル:Attempted Assassination of Emperor Napoleon III Romano.jpg|thumb|250px|left|1858年1月14日のナポレオン3世の暗殺未遂事件を描いた絵]]<br />
とはいえ当初ナポレオン3世はオーストリアと対立することには慎重だった(カブールはナポレオン3世をその気にさせるため、[[ヴィルジニア・オルドイーニ]]を宛がう[[ハニートラップ]]も仕掛けている)。そのためイタリア統一運動家たちはナポレオン3世に失望し、1858年1月14日にはイタリア民族運動家[[フェリーチェ・オルシーニ]]伯爵によるナポレオン3世暗殺未遂事件があった。ナポレオン3世は無事だったが、18名の死者を出す惨事となった([[オルシーニ事件]])<ref name="鹿島(2004)340-342">[[#鹿島(2004)|鹿島(2004)]] p.340-342</ref>。<br />
<br />
このオルシーニ事件がきっかけでナポレオン3世はイタリア統一運動を支援する意思を固めた<ref name="ランツ(2010)103">[[#ランツ(2010)|ランツ(2010)]] p.103</ref>。ナポレオン3世はその大義名分として「民族国家」を掲げたが、実際にはオーストリアに代わってフランスがイタリアの覇権を握ることが目的だった。そのためサルデーニャやイタリア統一運動をある程度まで支援しつつ、イタリアの完全な統一は望まず、またカトリックや保守派を敵に回さないため、[[教皇領]]やイタリア小国を害しすぎないようにすることが彼の基本的なイタリア政策となった<ref name="エンゲルベルク(1996)440">[[#エンゲルベルク(1996)|エンゲルベルク(1996)]] p.440</ref>。<br />
<br />
1858年7月21日にサルデーニャ宰相カブールと[[プロンビエールの密約]]を締結。これはサルデーニャとオーストリアが開戦した際にはフランスはサルデーニャのために20万の援軍を送り、またイタリア半島を教皇を盟主とする4つの国(サルデーニャ王[[ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世]]を王とする北イタリア王国、ナポレオン3世の従弟[[ナポレオン・ジョゼフ・シャルル・ポール・ボナパルト|ナポレオン公]]を王とする中部イタリア王国、教皇が統治するローマ、そして南イタリアの[[両シチリア王国]])の連邦国家に作り替える一方、[[ニース]]と[[サヴォワ]]はフランスに割譲されるという内容だった<ref name="鹿島(2004)346-347">[[#鹿島(2004)|鹿島(2004)]] p.346-347</ref><ref name="窪田(1991)119">[[#窪田(1991)|窪田(1991)]] p.119</ref><ref name="ランツ(2010)103">[[#ランツ(2010)|ランツ(2010)]] p.103</ref>。<br />
[[ファイル:Yvon Bataille de Solferino Compiegne.jpg|right|thumb|250px|1859年[[ソルフェリーノの戦い]]の指揮を執るナポレオン3世を描いた絵画。{{仮リンク|アドルフ・イヴォン|fr|Adolphe Yvon}}画。]]<br />
1859年に入るとサルデーニャとフランスはオーストリアに戦争を仕掛けようとオーストリアを挑発するようになった<ref name="鹿島(2004)348">[[#鹿島(2004)|鹿島(2004)]] p.348</ref>。たまりかねたオーストリアは最後通牒をサルデーニャに突き付け、4月27日にオーストリア軍とサルデーニャ軍が開戦した。フランスは密約に基づいて5月3日にオーストリアに宣戦を布告してサルデーニャ側で参戦した<ref name="ランツ(2010)104-105">[[#ランツ(2010)|ランツ(2010)]] p.104-105</ref><ref name="エンゲルベルク(1996)446">[[#エンゲルベルク(1996)|エンゲルベルク(1996)]] p.446</ref>。ナポレオン3世は今度こそ前線で指揮を執ることを決意し、5月10日に皇后ウジェニーを摂政に任じてイタリアへと出陣した<ref name="鹿島(2004)349">[[#鹿島(2004)|鹿島(2004)]] p.349</ref>。<br />
<br />
ナポレオン3世の直接指揮の下、フランス軍は6月に[[マジェンタの戦い]]と[[ソルフェリーノの戦い]]でオーストリア軍に勝利をおさめた<ref name="エンゲルベルク(1996)452">[[#エンゲルベルク(1996)|エンゲルベルク(1996)]] p.452</ref><ref name="柴田(1995)107">[[#柴田(1995)|柴田・樺山・福井(1995) 第3巻]] p.107</ref>。しかしこの激戦でフランス軍も多くの戦死者を出し、ナポレオン3世は被害の大きさに動揺するようになったという<ref name="鹿島(2004)352-353">[[#鹿島(2004)|鹿島(2004)]] p.352-353</ref><ref name="ランツ(2010)105">[[#ランツ(2010)|ランツ(2010)]] p.105</ref>。またイタリア国内で次々と革命政権が誕生し、サルデーニャに併合されていくのも警戒するようになった<ref>[[#柴田(1995)|柴田・樺山・福井(1995) 第3巻]] p.109-110</ref>。加えてプロイセン軍が40万の軍勢をライン川に集結させつつ、ドイツ連邦軍指揮権を要求するようになったことも警戒していた<ref name="鹿島(2004)353">[[#鹿島(2004)|鹿島(2004)]] p.353</ref><ref name="ガル(1988)242">[[#ガル(1988)|ガル(1988)]]、p.242</ref>。プロイセンが[[ドイツ連邦]]内で影響力を増大させることは好ましくないという点はフランス・オーストリアともに共通認識だった<ref name="ガル(1988)242" />。国内的にもこの戦争は「教皇への敵対行動」「共和派を利する革命戦争」であるとしてカトリックや保守派の不満を高めていた<ref name="ランツ(2010)105" />。<br />
[[ファイル:Italia 1843-fr.png|left|thumb|200px|イタリア統一図。水色と白の[[縞模様]]がフランス獲得地域、青が[[サルデーニャ王国]]、ライトグリーンが[[ロンバルド=ヴェネト王国]]、紫が[[教皇領]]、オレンジが[[両シチリア王国]]。]]<br />
そのような諸々の事情によりナポレオン3世はサルデーニャに独断で1859年7月11日にオーストリアとの間に[[ヴィッラフランカの休戦|ヴィッラフランカの休戦協定]]を締結した<ref name="エンゲルベルク(1996)452">[[#エンゲルベルク(1996)|エンゲルベルク(1996)]] p.452</ref><ref name="ガル(1988)242">[[#ガル(1988)|ガル(1988)]]、p.242</ref>。この休戦協定でロンバルディアはオーストリアからフランスへ割譲され、さらにフランスからサルデーニャに割譲することになった<ref name="エンゲルベルク(1996)453">[[#エンゲルベルク(1996)|エンゲルベルク(1996)]] p.453</ref>。そしてフランスは1860年にサルデーニャに{{仮リンク|トリノ条約 (1860年)|fr|Traité de Turin (1860)|label=トリノ条約}}を締結させ、ロンバルディアを引き渡す代わりに住民投票の上でサヴォワとニースを獲得した<ref name="エンゲルベルク(1996)453" /><ref name="鹿島(2004)356">[[#鹿島(2004)|鹿島(2004)]] p.356</ref>。<br />
<br />
オーストリアに勝利したことでナポレオン3世の威信は絶頂に達した<ref name="窪田(1991)137">[[#窪田(1991)|窪田(1991)]] p.137</ref>。イギリス首相[[ヘンリー・ジョン・テンプル (第3代パーマストン子爵)|パーマストン子爵]]は1860年に「フランス皇帝の意向を伺わなければ、ヨーロッパでは誰も行動を起こそうとしない」と評している<ref name="デュヴェルジェ(1995)102">[[#デュヴェルジェ(1995)|デュヴェルジェ(1995)]] p.102</ref>。<br />
[[ファイル:Allegoria italia post1861.jpg|right|thumb|250px|1861年から1870年のイタリア情勢の風刺画。ナポレオン3世が教皇や両シチリア王国、{{仮リンク|南イタリアの山賊行為|label=南イタリア山賊|en|Brigandage in Southern Italy}}などイタリア統一反対勢力の避難場所になっていることを風刺している。]]<br />
しかし一方でナポレオン3世に裏切られる形となったイタリア・ナショナリストは彼に不信感を強めた。サルデーニャ宰相カヴールらはフランスとの連携を断ち切ることには慎重な態度をとったが、[[ジュゼッペ・ガリバルディ]]ら「行動派」はナポレオン3世など信用できないと主張して、1860年に独断で[[両シチリア王国]]侵攻を開始して、その領土をサルデーニャに献上して[[イタリア王国]]を樹立させた<ref name="エンゲルベルク(1996)469">[[#エンゲルベルク(1996)|エンゲルベルク(1996)]] p.469</ref>。<br />
<br />
ナポレオン3世はこうした独断のイタリア統一の動きを黙認し続け、イタリア王国も国家承認しているが、やがて国内カトリック勢力の強い要請に抗いがたくなり、1867年にはガリバルディ軍から教皇領を守るためにローマに再度フランス軍を入城させた。ガリバルディ軍はまもなく壊滅し、イタリア王国はガリバルディの行動は自分たちと無関係であると言いわけしたが、結局1870年の普仏戦争でローマ駐留フランス軍がローマを離れるやいなやイタリア王国軍がローマを占領している<ref name="ランツ(2010)106">[[#ランツ(2010)|ランツ(2010)]] p.106</ref>。<br />
{{-}}<br />
<br />
===== アルジェリア統治 =====<br />
[[ファイル:Abd-EL-Kader-And-Napoleon-III.jpg|thumb|250px|投獄されていたアルジェリア独立運動家[[アブド・アルカーディル]]を引見するナポレオン3世。彼はナポレオン3世の「アラブ王国」政策を支持し、第二帝政のスポークスマンとなった<ref name="平野(2002)128-129">[[#平野(2002)|平野(2002)]] p.128-129</ref>。]]<br />
フランス植民地の中でも最も主要な存在が北アフリカの[[アルジェリア]]である。アルジェリアは16世紀にオスマン=トルコ帝国に征服されたが<ref name="アージュロン(2002)10">[[#アージュロン(2002)|アージュロン(2002)]] p.10</ref>、1830年にはフランス軍が侵攻してきてトルコ軍を追い払い、以降アルジェリアはフランスの植民地となっていた<ref name="アージュロン(2002)13-16">[[#アージュロン(2002)|アージュロン(2002)]] p.13-16</ref>。<br />
<br />
地中海をはさんでフランスの対岸に位置するという地理的な近さもあってアルジェリアへのフランス人入植者の数は最終的には100万人以上に及ぶことになる<ref name="松沼(2012)98">[[#松沼(2012)|松沼(2012)]] p.98</ref>。そうした特殊性からアルジェリアは法的には植民地に分類されず、本国領土の延長とされていた<ref name="松沼(2012)98">[[#松沼(2012)|松沼(2012)]] p.98</ref>{{#tag:ref|フランスの法的文書はフランス植民地をまとめて表現する際には「アルジェリア及び植民地」という表現を使用していた<ref name="松沼(2012)98" />。|group=注釈}}。<br />
<br />
フランス人はアルジェリアに入植した頃から先住民に土地所有を認めず、入植者の土地確保のために先住民から土地を奪ってきた<ref name="平野(2002)127">[[#平野(2002)|平野(2002)]] p.127</ref>。1848年革命以来植民地住民に認められていたフランス本国の議会への選挙権{{#tag:ref|他のヨーロッパ諸国の植民地支配と比して非常に特殊なことだが、フランスでは1848年革命によって植民地住民にも選挙権が与えられ、フランス本国の議会に規定の数の議員を送り出すことができた。もっとも全ての植民地の議席を合わせても885議席のうち15議席にしかならないため影響力はほとんどなく、またインド植民地はその対象外とされ、アルジェリアも先住民には選挙権が認められず、入植フランス人がアルジェリア枠(3議席)の議員を選出した。第二帝政において植民地住民の本国議会への選挙権ははく奪されたが、第二帝政崩壊後に復活した<ref name="平野(2002)73-76">[[#平野(2002)|平野(2002)]] p.73-76</ref><ref name="松沼(2012)64">[[#松沼(2012)|松沼(2012)]] p.64</ref><ref name="宮本(1997)326">[[#宮本(1997)|宮本(1997)]] p.326</ref>。|group=注釈}}もアルジェリア先住民には認められなかった<ref name="松沼(2012)99-100">[[#松沼(2012)|松沼(2012)]] p.99-100</ref>。<br />
<br />
「権威帝政」時代のナポレオン3世もそうした従来からのアルジェリア政策を踏襲し、ヨーロッパ人入植と先住民の強制退去を推し進めた<ref name="平野(2002)127">[[#平野(2002)|平野(2002)]] p.127</ref>。しかし「自由帝政」に移行後のナポレオン3世はうちつづくアルジェリア部族民の反乱を抑えるべく、融和政策に転換した。1863年には元老院令によってアルジェリア先住民の土地所有を認め、囲い込み政策を中止させた(もっとも先住民に伝統的な部族所有の形態は認めず、ヨーロッパ型の個人所有の概念を持ち込んだ。これにより結局先住民はフランス人入植者に土地を買い取られていった)<ref name="平野(2002)128">[[#平野(2002)|平野(2002)]] p.128</ref>。<br />
<br />
1865年にはナポレオン3世自らアルジェリアを訪問し、「フランスはアルジェリアの民族を抹殺するために来たわけではない。私は貴方達をトルコの支配から解放し、福祉の向上を図り、文明の恩恵を受けられるようにし、また参政権を与えてやりたいのだ」と先住民に呼びかけた<ref name="アージュロン(2002)49">[[#アージュロン(2002)|アージュロン(2002)]] p.49</ref><ref name="平野(2002)130">[[#平野(2002)|平野(2002)]] p.130</ref>。その宣言通り、議会を有する町村を設置して先住民の地方政治参加を促した(アルジェリア先住民の伝統的な部族制度を解体させるためでもあるが)<ref name="アージュロン(2002)51-52">[[#アージュロン(2002)|アージュロン(2002)]] p.51-52</ref>。1866年には廃止されていたイスラム法廷の復活を許し、併せてイスラム法解釈のための「イスラム法高等評議会」の設置も許可した。1870年6月には先住民の県議会議員選挙への出馬も認めた<ref name="アージュロン(2002)52">[[#アージュロン(2002)|アージュロン(2002)]] p.52</ref>。1865年には元老院令によってアルジェリア先住民を「市民権のないフランス国籍者」としつつ、申請して審査を通ればフランス市民になることができると定めた<ref name="松沼(2012)101">[[#松沼(2012)|松沼(2012)]] p.101</ref>{{#tag:ref|しかしナポレオン3世はアルジェリア先住民に大盤振る舞いに市民権を与えることは嫌がり、「フランスの価値観に近づこうと努力する先住民にのみ市民権を与える」よう指示した<ref name="平野(2002)130">[[#平野(2002)|平野(2002)]] p.130</ref>。その結果、市民権付与の審査にあたっては申請者自身とその家族に犯罪歴がないかどうか、フランス国家への忠誠心が強いかどうかが重点的にチェックされた<ref name="松沼(2012)107">[[#松沼(2012)|松沼(2012)]] p.107</ref>。結局こうした手続きの煩雑さや制度の存在の無知、背教と批判される恐れなどからフランス市民権を希望する先住民は少なく、市民権を認められた先住民もごく少数であった<ref name="松沼(2012)107">[[#松沼(2012)|松沼(2012)]] p.107</ref>。|group=注釈}}。<br />
<br />
こうしたナポレオン3世の融和政策は「アラブ王国」政策と呼ばれた<ref name="アージュロン(2002)52">[[#アージュロン(2002)|アージュロン(2002)]] p.52</ref>。ナポレオン3世は「アラブ王国」政策について「この偉大な事業が完成したなら、フランスの栄光は[[チュニス]]から[[ユーフラテス川]]まで響き渡り、東洋の大半の地域においてフランスの覇権は確固なものとなろう」と語った<ref name="平野(2002)129-130">[[#平野(2002)|平野(2002)]] p.129-130</ref>。<br />
<br />
しかしフランス人アルジェリア入植者たちは先住民を徹底的に搾取することを望んでおり、ナポレオン3世の「アラブ王国」政策に強く反発した。そのため入植者たちは帝政に反対する共和主義者・民主主義者となっていき、1870年の第二帝政崩壊を歓喜を持って迎えた。民主主義の時代になったのだから、植民地においても「国民の意思」が最優先で尊重されるべきと考えられるようになっていった<ref name="アージュロン(2002)60">[[#アージュロン(2002)|アージュロン(2002)]] p.60</ref>。こうして第三共和政のアルジェリア政策は融和政策を放棄して、ひたすら植民地化(フランス人入植者の土地確保、先住民から土地収奪、先住民の民族性抹殺、イスラム教信仰の破壊、徹底的搾取)を推進するというフランス人入植者たちの希望に沿った物になっていくのである<ref name="アージュロン(2002)66-71">[[#アージュロン(2002)|アージュロン(2002)]] p.66-71</ref>。<br />
<br />
===== サハラ以南アフリカの統治 =====<br />
[[サハラ砂漠]]以南アフリカ(いわゆる「黒アフリカ」)ではナポレオン3世が1854年に[[セネガル]]総督に任じた{{仮リンク|ルイ・フェデルブ|fr|Louis Faidherbe}}の指揮の下、フランス軍が現地の小王国を次々と征服していき、後の[[フランス領西アフリカ]]の基礎を固めていた<ref name="世界大百科事典セネガル">[[#世界大百科事典|世界大百科事典]]「セネガル」の項目</ref>。<br />
<br />
サハラ砂漠以南のアフリカ植民地に対しては第二帝政期にも融和政策は取られなかった<ref name="宮本(1997)330">[[#宮本(1997)|宮本・松田(1997)]] p.330</ref>。そこではフェデルブ総督の主導により、この後フランスが長きにわたってアフリカで行う植民地統治の手法が確立された。それはアフリカ先住民の民族分布を無視して恣意的な行政区分を作り、総督に絶対的権限を与えて中央集権的に支配し、アフリカ先住民を「従属民」に分類して法律の保護対象外とし、「先住民局」が先住民を恣意的に強制労働徴用・投獄するというものであった<ref name="宮本(1997)330">[[#宮本(1997)|宮本・松田(1997)]] p.330</ref>。フランス政府がこの「先住民局」制度を廃止するのはやっと1946年になってのことであった<ref name="宮本(1997)331">[[#宮本(1997)|宮本・松田(1997)]] p.331</ref>。<br />
<br />
===== マダガスカル侵食 =====<br />
[[ファイル:LaGuerreAMadagascar.jpg|200px|thumb|第三共和政時代の1895年のマダガスカル侵攻の際のポスター]]<br />
当時[[マダガスカル島]]は[[メリナ王国]]が統治していた。1861年にメリナ王に即位した{{仮リンク|ラダマ2世|en|Radama II}}は英仏との関係悪化を恐れ、鎖国体制を破棄して、英仏と自由貿易を開始させた。また信教・布教の自由も認め、ヨーロッパ人宣教師団を呼び戻した<ref name="藤野(1997)92-93">[[#藤野(1997)|藤野(1997)]] p.92-93</ref>。<br />
<br />
この頃のフランスは東アジア植民地化に忙しかったため、マダガスカルに対してはそれほど軍事的野心を露わにしていなかったが<ref name="藤野(1997)96">[[#藤野(1997)|藤野(1997)]] p.96</ref>、それでもナポレオン3世は{{仮リンク|ジョゼフ・ランベール|en|Joseph-François Lambert}}を通じてラダマ2世をうまく誘導して[[不平等条約]]締結とマダガスカル島の資源開発のため国土を自由使用する権利の獲得にこぎつけた<ref name="藤野(1997)97-98">[[#藤野(1997)|藤野(1997)]] p.97-98</ref>。この権利に基づきランベールは「マダガスカル会社」の創設の準備を開始した<ref name="藤野(1997)99">[[#藤野(1997)|藤野(1997)]] p.99</ref>。<br />
<br />
しかし1863年5月にラダマ2世が暗殺され、{{仮リンク|ライニライアリブニ|en|Rainilaiarivony}}が宰相として実権を握るようになると、メリナ王国は国土自由使用権撤回の外交交渉に乗り出した<ref name="藤野(1997)101-102">[[#藤野(1997)|藤野(1997)]] p.101-102</ref>。マダガスカル島におけるフランスの膨張を恐れたイギリスもメリナ王国を支持した結果、ナポレオン3世も譲歩を余儀なくされ、賠償金120万フラン支払いを条件にマダガスカル会社創設中止を認めた<ref>[[#藤野(1997)|藤野(1997)]] p.104-105、p.110-111</ref>。<br />
<br />
フランスを出し抜こうとするイギリスとメリナ王国が接近する中、マダガスカルにおけるイギリスの覇権は強化され、宣教においてもプロテスタント(イギリス)はカトリック(フランス)よりはるかに優勢となった<ref name="藤野(1997)112-114">[[#藤野(1997)|藤野(1997)]] p.112-114</ref>。<br />
<br />
結局第二帝政はマダガスカル問題でイギリスに優位に立つことなく終焉した。しかしこの後イギリスがマダガスカルに興味を無くしていく中で第三共和政はジャン・ラボルド遺産事件やトアレ号事件でマダガスカル領有への野望を本格化させた<ref>[[#藤野(1997)|藤野(1997)]] p.131-141</ref>。メリナ王国が最後の希望と頼んだイギリスはイギリスの[[ザンジバル]]支配権を認めることを条件としてフランスのマダガスカル支配権を認める条約をフランスとの間に締結した<ref name="藤野(1997)151">[[#藤野(1997)|藤野(1997)]] p.151</ref>。イギリスのお墨付きを得たフランス軍はマダガスカル島へ軍事侵攻を開始し、1895年9月にメリナ王国を滅亡させて同島をフランス保護領としたのであった<ref>[[#藤野(1997)|藤野(1997)]] p.157-158</ref>。<br />
{{-}}<br />
<br />
===== アジア太平洋地域植民地化 =====<br />
[[ファイル:CousinMontaubanCampaignOf1860.jpg|thumb|250px|[[アロー戦争]]で清軍を蹴散らす{{仮リンク|シャルル・クーザン=モントバン|fr|Charles Cousin-Montauban}}将軍率いるフランス軍を描いた絵。彼は[[八里橋の戦い]]の勝利でナポレオン3世よりパリカオ(八里橋)伯爵に叙され、後に首相に任じられた<ref name="鹿島(2004)441">[[#鹿島(2004)|鹿島(2004)]] p.441</ref>。]]<br />
サン=シモン主義の影響を受けるナポレオン3世は東方へフランスの勢力を拡大させることに熱心だった。とはいってもナポレオン3世にもその政府にもアジア諸国の知識などなかったので、現地のフランス海軍司令官に大幅な自由裁量権を与えた。結果アジア太平洋地域では強硬な帝国主義政策が遂行されることになった<ref name="鹿島(2004)409">[[#鹿島(2004)|鹿島(2004)]] p.409</ref>。<br />
<br />
1856年10月にイギリスが[[アロー号事件]]を口実に[[清]]へ出兵を開始すると、ナポレオン3世も清の[[江西省]]でフランス人宣教師が殺害された事件を口実として清への出兵を開始し、英仏は協力して[[アロー戦争]]を遂行することになった<ref name="世界大百科事典第二次アヘン戦争">[[#世界大百科事典|世界大百科事典]]「第二次アヘン戦争」の項目</ref><ref name="高村(2004)137">[[#高村(2004)|高村(2004)]] p.137</ref>。[[広東]]や[[天津]]を占領して北進する英仏軍を前に[[北京]]陥落を恐れた清政府は、一時しのぎのつもりで1858年に[[不平等条約]]である[[天津条約 (1858年)|天津条約]]の締結に応じ、一時終戦したが、英仏軍が撤収するや清政府はこの条約の批准を拒否して発砲したため、1860年に英仏軍が攻撃を再開し、今度こそ北京は陥落した。清は更に不利な内容の[[北京条約]]を締結することを余儀なくされた<ref name="高村(2004)137-138">[[#高村(2004)|高村(2004)]] p.137-138</ref>。アロー戦争は[[アヘン戦争]]と並んで清の半植民地化を決定づけた戦争となった(得た権益はフランスよりイギリスの方が大きかったが)<ref name="世界大百科事典第二次アヘン戦争" />。<br />
<br />
並行して清周辺地域も続々とフランスの支配下・影響下に組み込んでいった。1856年には[[阮朝]](ベトナム)に対して不平等条約締結に応じるよう要求したが、阮朝が拒否したため、スペイン人宣教師死刑を口実として1857年よりベトナム侵攻を開始し、1862年には阮朝に不平等条約[[サイゴン条約]]を結ばせてベトナム植民地化に先鞭をつけた<ref name="石井・桜井(1999)229">[[#石井・桜井(1999)|石井・桜井(1999)]] p.229</ref><ref name="高村(2004)140">[[#高村(2004)|高村(2004)]] p.140</ref>。さらに1867年には[[コーチシナ]](ベトナム南部のこと。ただし語源となった[[交趾郡|交趾]]は、もとは中華文明圏に属するベトナム北部を指す呼称であった)へ侵攻し、同地をフランス領に併合した<ref name="石井・桜井(1999)230">[[#石井・桜井(1999)|石井・桜井(1999)]] p.230</ref><ref name="鹿島(2004)410">[[#鹿島(2004)|鹿島(2004)]] p.410</ref>。<br />
<br />
[[胡椒]]と[[シナモン]]が豊富で、かつ[[メコン川]]確保に重要な位置にある[[カンボジア王国]]の支配権も狙った。当時のカンボジアは阮朝の宗主権下に置かれており、阮朝の強権的な[[同化政策]]を受けていた<ref name="桐山(2003)59-60">[[#桐山(2003)|桐山・根本・栗原(2003)]] p.59-60</ref><ref name="世界大百科事典カンボジア">[[#世界大百科事典|世界大百科事典]]「カンボジア」の項目</ref>。カンボジア人の阮朝への反発が強まっていた中、フランスは1863年に国王[[ノロドム]]に署名させて同国をフランス保護国に組み込むことに成功した<ref name="世界大百科事典カンボジア" /><ref name="高村(2004)141">[[#高村(2004)|高村(2004)]] p.141</ref><ref name="ヤコノ(1998)65">[[#ヤコノ(1998)|ヤコノ(1998)]] p.65</ref>。イギリスに先んじて清に通じる通商路を作ろうと1866年から1868年にかけてメコン川遠征を行わせたが、メコン川から清へ入ることはできないことが判明し、以降フランスは戦略を[[紅河]]獲得に転換させ、第三共和政が[[トンキン]]支配を狙うようになっていく<ref name="ヤコノ(1998)65">[[#ヤコノ(1998)|ヤコノ(1998)]] p.65</ref>。<br />
[[ファイル:Jean-Leon Gerome 001.JPG|thumb|250px|right|1864年、[[フォンテーヌブロー宮殿]]でシャム(タイ)の使節団を引見するナポレオン3世とウジェニー皇后を描いた[[ジャン=レオン・ジェローム]]の絵画。]]<br />
シャム([[タイ王国|タイ]])にもイギリス・アメリカに続く形で不平等条約を締結させたが、これはシャムに旧来の政治体制を破棄して西欧型近代国家へ転換する決意を固めさせるきっかけになり、またフランスとの対立激化を恐れたイギリスが同地を緩衝地帯にすることを望み、フランスのタイ分割案を牽制したこともあって、タイは日本と並んで数少ない植民地化をまぬがれた有色人国家となった<ref name="石井・桜井(1999)276-277">[[#石井・桜井(1999)|石井・桜井(1999)]] p.276-277</ref><ref>[[#桐山(2003)|桐山・根本・栗原(2003)]] p.83/112/116</ref>。<br />
<br />
日本を貿易の拠点と看做し、幕末の日本にも現れた。1858年[[徳川幕府]]との間に不平等条約[[日仏修好通商条約]]を締結したが、ここでは英仏の協調は崩れ、フランスは徳川幕府、イギリスは[[薩長]]を支持して対立した。結局幕府は[[明治維新]]で倒れ、[[明治政府]]は対等外交を志向したため、幕府を通じて日本に影響力を行使しようとした目論見は潰えた<ref name="世界大百科事典フランス">[[#世界大百科事典|世界大百科事典]]「フランス」の項目</ref><ref name="高村(2004)138">[[#高村(2004)|高村(2004)]] p.138</ref>。<br />
<br />
鎖国体制に固執する[[李氏朝鮮]]に対してはフランス人宣教師死刑を口実に1866年に戦争を仕掛けたが([[丙寅洋擾]])、持久戦に持ち込まれ、撤退を余儀なくされた<ref name="世界大百科事典洋擾">[[#世界大百科事典|世界大百科事典]]「洋擾」の項目</ref>。しかしこの戦いと続くアメリカとの戦い([[辛未洋擾]])の勝利に浮かれた李氏朝鮮は一層鎖国に固執して近代化に背を向けたため、1876年以降日本や欧米諸国の本格的な[[砲艦外交]]に晒されて半植民地状態と化していき、最終的には日本に呑みこまれて消滅した<ref name="世界大百科事典李朝">[[#世界大百科事典|世界大百科事典]]「李朝」の項目</ref>。<br />
<br />
太平洋では、[[ニュージーランド]]を併合したイギリスへの対抗、また[[オーストラリア]]との貿易の拠点および犯罪者の流刑地にする目論見で1853年に[[ニューカレドニア]]を併合している<ref name="ヤコノ(1998)64">[[#ヤコノ(1998)|ヤコノ(1998)]] p.64</ref><ref name="世界大百科事典ニューカレドニア">[[#世界大百科事典|世界大百科事典]]「ニューカレドニア」の項目</ref>。この際に先住民と戦闘になったが、結局フランス軍が勝利している。ナポレオン3世はこの島を政治犯(とりわけ社会主義者)の流刑地として使用した。現在ニューカレドニアに住む白人はほとんどがその子孫である<ref name="世界大百科事典ニューカレドニア" />。<br />
{{-}}<br />
<br />
===== メキシコ出兵 =====<br />
[[ファイル:Edouard Manet 022.jpg|thumb|250px|処刑されるメキシコ皇帝[[マクシミリアン (メキシコ皇帝)|マクシミリアン]]と二人の従者を描いた[[エドゥアール・マネ]]の絵画。]]<br />
[[メキシコ]]では19世紀初頭から保守派・教会派と自由主義派・反教会派の熾烈な政治闘争が続いていたが<ref name="窪田(1991)143">[[#窪田(1991)|窪田(1991)]] p.143</ref>、1861年に[[アメリカ合衆国]]の支援を受ける自由主義者・民族主義者の革命家[[ベニート・フアレス]]がメキシコ大統領に就任したことで、反カトリック、反ヨーロッパ政策を打ち出すようになり、フランスをはじめとするヨーロッパ諸国に対する債務の支払いを停止した。これに対抗してナポレオン3世は武力でフアレス政権を転覆させてメキシコにアメリカを牽制するカトリック帝国を建設することを決意し(皇后ウジェニーがこの構想を強硬に推進していた)、共同債権国のイギリスとスペインとともに[[メキシコ出兵]]を開始した<ref name="鹿島(2004)412-413">[[#鹿島(2004)|鹿島(2004)]] p.412-413</ref><ref name="窪田(1991)144">[[#窪田(1991)|窪田(1991)]] p.144</ref><ref name="ランツ(2010)108">[[#ランツ(2010)|ランツ(2010)]] p.108</ref>。<br />
<br />
しかし連合軍は不慣れな熱帯やゲリラに悩まされて苦戦を強いられた。イギリス軍とスペイン軍は早期にメキシコ政府と和解して撤兵したが、ナポレオン3世はメキシコ支配に拘り、フランス単独になってもメキシコが完全屈服するまで戦争を継続した<ref name="ランツ(2010)108" /><ref name="窪田(1991)144" /><ref name="鹿島(2004)413">[[#鹿島(2004)|鹿島(2004)]] p.413</ref>。1863年6月にはフランス軍が[[メキシコシティ]]を占領している<ref name="窪田(1991)145">[[#窪田(1991)|窪田(1991)]] p.145</ref>。<br />
<br />
ナポレオン3世は対[[プロイセン王国|プロイセン]]でオーストリアとの関係を強化するためにも、オーストリア皇帝[[フランツ・ヨーゼフ1世|フランツ・ヨーゼフ]]の弟[[マクシミリアン (メキシコ皇帝)|マクシミリアン]]を[[メキシコ皇帝]]に即位させたいとオーストリアに打診した<ref name="鹿島(2004)412-413">[[#鹿島(2004)|鹿島(2004)]] p.412-413</ref>。マクシミリアン自身ははじめ逡巡していたが、情勢が安定するまでフランス軍がメキシコに駐屯するという条件で引き受けることにし、1864年4月にメキシコシティに入り、皇位に就いた<ref name="鹿島(2004)414">[[#鹿島(2004)|鹿島(2004)]] p.414</ref>。<br />
<br />
しかし大多数のメキシコ国民はこのようなフランス傀儡帝政は認めず、反仏ゲリラ闘争が激化した<ref name="窪田(1991)145">[[#窪田(1991)|窪田(1991)]] p.145</ref>。さらに1865年になるとアメリカで[[南北戦争]]が終結し、アメリカが本格的にメキシコ問題に介入するようになった。アメリカは安全保障上メキシコがヨーロッパ列強に支配されるのを避けたがっていたため、フアレス軍に武器を提供して支援した<ref name="鹿島(2004)415">[[#鹿島(2004)|鹿島(2004)]] p.415</ref><ref name="窪田(1991)145">[[#窪田(1991)|窪田(1991)]] p.145</ref>。<br />
<br />
アメリカと事を構えるのは危険と判断したナポレオン3世はマクシミリアンを見捨ててメキシコから撤兵することを決意した。フランス軍撤退後の1867年2月、マクシミリアンはフアレス軍に捕らえられて銃殺された<ref name="ランツ(2010)108" /><ref name="鹿島(2004)416">[[#鹿島(2004)|鹿島(2004)]] p.416</ref><ref name="窪田(1991)145">[[#窪田(1991)|窪田(1991)]] p.145</ref>。これによりオーストリア皇室はフランスに強い反感を持つようになり、1867年の[[パリ万国博覧会 (1867年)|パリ万博]]の際、[[フランツ・ヨーゼフ1世|フランツ・ヨーゼフ]]帝は皇后を伴わずに訪仏し、「妻はマクシミリアンを売り渡したフランス人のところへ行きたがりません」と嫌味を述べている<ref>[[#窪田(1991)|窪田(1991)]] p.167-168</ref>。<br />
<br />
メキシコ出兵の失敗で第二帝政の権威は地に落ちた<ref name="窪田(1991)145">[[#窪田(1991)|窪田(1991)]] p.145</ref>。<br />
{{-}}<br />
<br />
===== 普墺戦争をめぐって =====<br />
[[ファイル:Deutscher Bund.png|thumb|250px|ウィーン体制の構築(1815年)から普墺戦争前(1866年)までの[[ドイツ連邦]]の状況]]<br />
[[ファイル:Httpdigi.ub.uni-heidelberg.dediglitklabismarck18900044.jpg|250px|thumb|中立の代償をもらいに来たナポレオン3世を追い返すビスマルクの風刺画(1866年の『クラッデラダーチュ』誌)]]<br />
[[ドイツ連邦]]内で覇権争いをするプロイセンとオーストリアは、1864年の[[シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争|第二次シュレースヴィヒ・ホルシュタイン戦争]]以降、デンマークから奪取した[[シュレースヴィヒ公国]]・[[ホルシュタイン公国]]の処理をめぐって対立を深めた。<br />
<br />
熱心なカトリックで教皇党の領袖である皇后[[ウジェニー・ド・モンティジョ|ウジェニー]]と外相{{仮リンク|エドゥアール・ドルアン・ド・リュイス|fr|Édouard Drouyn de Lhuys}}は同じカトリック教国のオーストリアを強く支持したが、ナポレオン3世はこの頃プロイセン寄りの立場を取っていた。1863年11月に[[シュレースヴィヒ=ホルシュタイン問題]]でヨーロッパ情勢が一触即発になった時、ナポレオン3世は欧州大会議を提案したのだが、英墺がこれに反対して彼の面目を潰したのに対し、プロイセン宰相[[オットー・フォン・ビスマルク]]は会議開催に反対しなかったので、以降プロイセンに好意を寄せていた。プロイセンを支援することで普墺対立を激化させてフランスが漁夫の利を得ることを考えるようになったのである<ref name="時323-326">[[#時|時野谷(1945)]] p.323-326</ref><br />
<br />
普墺戦争を決意していたビスマルクは、フランスの中立を確保したがっており、1865年8月には駐ベルリン・フランス公使代理{{仮リンク|エドゥアール・ルフェーヴル・ド・ベエーン|fr|Édouard Lefebvre de Béhaine}}に対して「プロイセンが北ドイツの覇権を握れたらフランスがベルギーやルクセンブルクなどのフランス語圏に領土を拡大することを支持する用意がある」と表明した<ref>[[#アイ3|アイク(1995) 3巻]] p.196-197</ref>。さら1865年10月にはナポレオン3世が滞在中の保養地[[ビアリッツ]]にビスマルクがやってきて二人の会談が行われた。ここでライン川左岸のドイツ諸侯領をフランスに割譲するという「[[ビアリッツの密約|密約]]」が交わされたともいわれる。ただしこの「密約」は文書としては存在しておらず、実否は不明である。あったとしても口約だと思われる。内容も定かではないのだが、ライン川左岸の割譲と推測されているのはフランス国内のライン川左岸への領土欲が1863年頃から本格的に高まっており、ナポレオン3世がプロイセンから一番引き出したがっているのは、それと考えられるからである<ref>[[#時|時野谷(1945)]] p.336-339/350</ref>。<br />
<br />
オーストリアとは普墺開戦直前の1866年6月12日に文書で密約を結んだ。フランスが中立を守る条件としてオーストリアはヴェネト州をフランスへ割譲し、フランスがそれをイタリアへ割譲することになった。これによりフランスはヴェネト州をイタリアに割譲する際に教皇領保全を条件に付けることが可能となり、イタリア統一への干渉力を確保した<ref name="エンゲルベルク(1996)547">[[#エンゲルベルク(1996)|エンゲルベルク(1996)]] p.547</ref>。一方プロイセンからは文書での密約をとろうとしなかった。ナポレオン3世は両国の戦争は長引いてプロイセンが負けるか苦境に陥ると見ており、プロイセンからはその時にオーストリア以上の見返りを頂戴できると考えていた<ref>[[#ガル|ガル(1988)]] p.447-448/458</ref><ref name="鹿島(2004)419">[[#鹿島(2004)|鹿島(2004)]] p.416-419</ref>。<br />
<br />
オーストリアから普仏国境地域にフランス軍を配置してプロイセンを牽制してほしいと要請されたが、ナポレオン3世は拒否した。ビスマルクはナポレオン3世に参戦の意思はないと判断し、1866年6月に[[普墺戦争]]を開始した<ref name="鹿島(2004)418">[[#鹿島(2004)|鹿島(2004)]] p.418</ref>。ウジェニーはオーストリア側で参戦したがっていたが<ref name="窪田(1991)156">[[#窪田(1991)|窪田(1991)]] p.156</ref>、ナポレオン3世は開戦にあたって「私は注意深い観察者として以上にこの戦争に関わるつもりはない。自国のためには何も要求しないが、ヨーロッパの力の均衡とイタリアにおいて私が創造した物は断固として守る」と中立を宣言した<ref name="アイク(1996,4)166">[[#アイク(1996,4)|アイク(1996) 4巻]] p.166</ref>。<br />
<br />
普墺戦争は[[ケーニヒグレーツの戦い]]でのプロイセンの勝利により、ナポレオン3世の予想に反してわずか3週間足らずで大勢が決した<ref name="鹿島(2004)418-419">[[#鹿島(2004)|鹿島(2004)]] p.418-419</ref>。勝ち誇るプロイセンを危険視したリュイス外相は普仏国境に兵力を配置し、フランスなしでは何の交渉もできないことをビスマルクに思い知らせるべきであるとナポレオン3世に進言したが<ref name="ランツ(2010)110">[[#ランツ(2010)|ランツ(2010)]] p.110</ref>、反オーストリア派の従弟[[ナポレオン・ジョゼフ・シャルル・ポール・ボナパルト|ナポレオン公]]や国務大臣{{仮リンク|ウジェーヌ・ルエール|fr|Eugène Rouher}}が武力による威嚇は止めるべきと提言したため、最終的に中止された<ref name="アイク(1996,4)167">[[#アイク(1996,4)|アイク(1996) 4巻]] p.167</ref>。ナポレオン3世は両国の仲裁をするだけで多くの物を得ることができると思い込んでいたし<ref name="アイク(1996,4)168">[[#アイク(1996,4)|アイク(1996) 4巻]] p.168</ref>、武力による威嚇を仕掛けてドイツ・ナショナリズムを台頭させる危険だけは避けたかった。この頃ビスマルクは「フランスが干渉してくるならドイツ民族精神が完全に燃え上がって[[バイエルン王国|バイエルン]]と[[バーデン大公国|バーデン]]はこちら側に移るだろう。」と語っていたが、当時のドイツ自由主義者たちの世論を見てもこれはかなり現実味のある話だった<ref name="エンゲルベルク(1996)581">[[#エンゲルベルク(1996)|エンゲルベルク(1996)]] p.581</ref>。<br />
<br />
ケーニヒグレーツの戦いから2日後の7月5日、オーストリアの打診を受けてナポレオン3世が仲裁に乗り出した<ref name="ガル(1988)474">[[#ガル(1988)|ガル(1988)]] p.474</ref>。オーストリアがナポレオン3世を介してプロイセンに提示した条件は自国の独立保全とオーストリアの最も忠実な同盟国[[ザクセン王国]]の領土保全だけであった<ref name="エンゲルベルク(1996)574">[[#エンゲルベルク(1996)|エンゲルベルク(1996)]] p.574</ref>。ビスマルクは早々にこれを飲んでオーストリアとの間に[[ニコルスブルク仮条約]]を締結して普墺戦争を終戦させ、フランスにそれ以上付け入る隙を与えなかった<ref name="鹿島(2004)419-420">[[#鹿島(2004)|鹿島(2004)]] p.419-420</ref>。<br />
<br />
交渉の中でナポレオン3世はライン川左岸の割譲とドイツ統一は北ドイツに限定することの保証をビスマルクに求めていたが、ビスマルクは南ドイツ諸国をプロイセンを中心とする新ドイツ連邦に組み込まないことを約束しつつ、ライン川左岸割譲の件は拒否した<ref name="エンゲルベルク(1996)582">[[#エンゲルベルク(1996)|エンゲルベルク(1996)]] p.582</ref>。ナポレオン3世はドイツ・ナショナリズムの台頭を恐れてライン川割譲要求については「勘違いだった」として取り下げている<ref name="エンゲルベルク(1996)582">[[#エンゲルベルク(1996)|エンゲルベルク(1996)]] p.582</ref>。<br />
<br />
ナポレオン3世が全体的に弱気・消極的であったのは、持病を悪化させていたためだった。皇后ウジェニーはこの頃のナポレオン3世の状態をパリ駐在オーストリア大使[[リヒャルト・クレメンス・フォン・メッテルニヒ|リヒャルト・フォン・メッテルニヒ]]に「陛下は歩行も睡眠も食事もできなくなっています」と語っている<ref name="アイク(1996,4)167">[[#アイク(1996,4)|アイク(1996) 4巻]] p.167</ref>。<br />
<br />
普墺戦争のプロイセンの勝利によりドイツ連邦は解体され、オーストリアはドイツから追放された。代わってプロイセン王ヴィルヘルム1世を盟主とする[[北ドイツ連邦]]が樹立されたが、南ドイツの[[バイエルン王国]]、[[ヴュルテンベルク王国]]、[[バーデン大公国]]、および[[ヘッセン大公国]]({{仮リンク|オーバーヘッセン|de|Oberhessen}}のみ参加)の4か国はこれに参加しなかった。{{-}}<br />
<br />
===== ルクセンブルク問題 =====<br />
外交的成功を求めていたナポレオン3世は[[ルクセンブルク]]獲得を狙うようになった。当時のルクセンブルクは[[オランダ]]と[[同君連合]]下にあったが、旧ドイツ連邦加盟国という沿革によりプロイセン軍が駐屯していた<ref name="エンゲルベルク(1996)616">[[#エンゲルベルク(1996)|エンゲルベルク(1996)]] p.616</ref>。ナポレオン3世はこのルクセンブルク駐留プロイセン軍の撤退を要求するとともにオランダ王[[ウィレム3世 (オランダ王)|ウィレム3世]]からルクセンブルクを購入しようとしていた<ref name="エンゲルベルク(1996)616">[[#エンゲルベルク(1996)|エンゲルベルク(1996)]] p.616</ref>。<br />
<br />
オランダ王ウィレム3世は売却に乗り気だったが、ドイツ人の多くはルクセンブルクをドイツの一員と看做しており、この売買計画はドイツ・ナショナリズムの強い反発を買った<ref name="エンゲルベルク(1996)616-617">[[#エンゲルベルク(1996)|エンゲルベルク(1996)]] p.616-617</ref>。ビスマルクは普墺戦争の講和交渉中に普仏間で作成した秘密協定の草案でフランスのルクセンブルク併合を認めていたが、ドイツ・ナショナリズムに配慮する必要があり、この問題に曖昧な態度をとった。そして1867年4月には北ドイツ連邦帝国議会で[[国民自由党 (ドイツ)|国民自由党]]の{{仮リンク|ルドルフ・フォン・ベニヒゼン|de|Rudolf von Bennigsen (Politiker)}}にフランス批判、ルクセンブルク放棄反対演説を行わせてドイツ・ナショナリズムを煽った<ref name="エンゲルベルク(1996)618">[[#エンゲルベルク(1996)|エンゲルベルク(1996)]] p.618</ref>。<br />
<br />
これに慌てたウィレム3世は、売却を中止するとナポレオン3世に通達した。ナポレオン3世はビスマルクに騙されたと感じて激怒し<ref name="エンゲルベルク(1996)618">[[#エンゲルベルク(1996)|エンゲルベルク(1996)]] p.618</ref>、一度はプロイセンとの開戦さえ決意したが、フランス軍はメキシコ出兵の失敗で疲労していたため、最終的には断念した<ref name="鹿島(2004)421">[[#鹿島(2004)|鹿島(2004)]] p.421</ref>。一方ビスマルクも北ドイツ連邦憲法制定前の現状においてフランスと戦争をする意思はなかった<ref name="エンゲルベルク(1996)619">[[#エンゲルベルク(1996)|エンゲルベルク(1996)]] p.619</ref>。<br />
<br />
結局ルクセンブルク問題はイギリスが介入し、1867年5月の[[ロンドン条約 (1867年)|ロンドン条約]]の結果ルクセンブルクは[[永世中立国]]とされてプロイセン軍は同地から撤退することとなった<ref name="鹿島(2004)618-619">[[#鹿島(2004)|鹿島(2004)]] p.618-619</ref>。しかしこの問題により普仏関係は決定的に悪化した。<br />
<br />
===== スペイン王位継承問題 =====<br />
[[ファイル:Wilhelm_I_at_Bad_Ems.jpg|250px|thumb|right|1870年7月13日、[[バート・エムス]]の散歩道。ヴィルヘルム1世(左)と駐独フランス大使{{仮リンク|ヴァンサン・ベネデッティ|fr|Vincent Benedetti}}(右)。[[普仏戦争]]の原因となる[[エムス電報事件]]のきっかけとなった会談の様子。]]<br />
1868年9月、[[スペイン]]首都[[マドリード]]で[[フアン・プリム]]将軍のクーデタが発生し、[[スペイン君主一覧|スペイン女王]][[イサベル2世 (スペイン女王)|イザベル2世]]が王位を追われた。プリム将軍は[[立憲君主制]]を宣言し、新国王の選定を開始した。前フランス王ルイ・フィリップの息子[[アントワーヌ・ドルレアン (モンパンシエ公)|モンパンシエ公]]やプロイセン王室[[ホーエンツォレルン家]]の分家である[[ホーエンツォレルン=ジグマリンゲン家|ジグマリンゲン家]]の[[レオポルト・フォン・ホーエンツォレルン=ジグマリンゲン|レオポルト]]らが候補者として浮上した<ref name="アイク(1997,5)131">[[#アイク(1997,5)|アイク(1997) 5巻]] p.131</ref><ref name="ガル(1988)541">[[#ガル(1988)|ガル(1988)]] p.541</ref>。<br />
<br />
モンパンシエ公は旧フランス王族であり、一方レオポルトも[[ステファニー・ド・ボアルネ]](ナポレオン皇后ジョセフィーヌの姪)の孫にあたるため、ナポレオン3世にとっては親戚にあたる<ref name="鹿島(2004)418-435">[[#鹿島(2004)|鹿島(2004)]] p.435</ref>。しかしプロイセン王族のスペイン王即位はフランス世論の反発が強かったため、ナポレオン3世は駐ベルリン大使と駐マドリード大使に対して「モンパンシエ公の王位継承は反(ボナパルト)王朝的であるが、それは私だけに関わることなので私は切り抜けることができる。だが、ホーエンツォレルン家の王子が王位継承することは反仏的であり、フランスとしてはこれを認めるわけにはいかない。」と語った<ref name="アイク(1997,5)133">[[#アイク(1997,5)|アイク(1997) 5巻]] p.133</ref>。<br />
<br />
ナポレオン3世は駐ベルリン大使{{仮リンク|ヴァンサン・ベネデッティ|fr|Vincent Benedetti}}にフランスが紛争を起こそうとしている印象を与えないように注意しつつ、ビスマルクからレオポルトをスペイン王に立候補させない旨の言質を取るよう指示した<ref name="アイク(1997,5)133-135">[[#アイク(1997,5)|アイク(1997) 5巻]] p.133-135</ref>。だがビスマルクは曖昧な返答しかしなかったので、ベネデッティはこれ以上問い詰めれば紛争になる恐れがあると考え、パリの指示を仰いだ。その間スペインの様子を見守っていたナポレオン3世はホーエンツォレルンの王子はスペインではほとんど支持されていないと判断し、それ以上ビスマルクを追求しなくて良いと返答した<ref name="アイク(1997,5)135">[[#アイク(1997,5)|アイク(1997) 5巻]] p.135</ref>。<br />
<br />
この件はその後しばらくたち消えたが、やがて他のスペイン王候補者が駄目になり、1870年2月にスペイン枢密顧問官エウセビオ・デ・サラザール(Eusebio de Salazar)がプロイセンを訪問し、レオポルトのスペイン王立候補を要請するプリムの書簡を秘密裏に届けたことでいよいよ本格化した<ref name="アイク(1997,5)139">[[#アイク(1997,5)|アイク(1997) 5巻]] p.139</ref>。プロイセン・スペイン両国はフランスに既成事実だけ突き付けようと秘密裏に計画を進めていたが、1870年7月2日にはパリの新聞に漏れ、「ビスマルクの反仏策動」として報道されるに至った<ref name="鹿島(2004)435">[[#鹿島(2004)|鹿島(2004)]] p.435</ref>。<br />
<br />
反プロイセン世論が激昂し、宮廷内でも皇后ウジェニー、外務大臣{{仮リンク|アジェノール・ド・グラモン|fr|Agénor de Gramont (1819-1880)}}公爵らが好戦的姿勢を示した<ref name="鹿島(2004)435">[[#鹿島(2004)|鹿島(2004)]] p.435</ref>。こうした権威主義的ボナパルティストたちは戦争という動乱が起これば権威主義の帝政を取り戻すチャンスが生まれると考えていたため、戦争を恐れなかった<ref name="ランツ(2010)133">[[#ランツ(2010)|ランツ(2010)]] p.133</ref>。ウジェニーが強硬だったのも、息子ルイ皇太子への皇位継承は強力な政治体制のもとでしか為し得ないと考えていたためだった<ref name="ランツ(2010)133">[[#ランツ(2010)|ランツ(2010)]] p.133</ref>。<br />
<br />
一方、ナポレオン3世は戦争を望んでいなかった。彼は不十分な再編成を受けたばかりの今のフランス軍ではプロイセン軍に太刀打ちできないと思っていたし、また病が悪化していたため積極的な行動には出たがらなかった<ref name="ランツ(2010)132">[[#ランツ(2010)|ランツ(2010)]] p.132</ref>。ウジェニーによれば彼は1874年を目途に皇太子ルイに譲位することを考えていたという<ref name="ランツ(2010)127">[[#ランツ(2010)|ランツ(2010)]] p.127</ref>。だが同時に病のために皇后・側近・世論に抗う気力もなく、結局彼らに引きずられて戦争への道を突き進むこととなった<ref>[[#ランツ(2010)|ランツ(2010)]] p.132/134</ref>。<br />
<br />
7月6日にはグラモン公爵が立法院の演説で「いかなる手段を用いても阻止する」と宣言した。フランスの強硬姿勢を危惧したヴィルヘルム1世はレオポルトに立候補を辞退させて危機を回避しようとしたが、フランス国内の右派政治家やジャーナリストたちはそれだけでは気が収まらなかった<ref name="アイク(1997,5)160">[[#アイク(1997,5)|アイク(1997) 5巻]] p.160</ref><ref name="ガル(1988)561">[[#ガル(1988)|ガル(1988)]] p.561</ref>。ナポレオン3世もウジェニー皇后の影響で強硬路線をとり、レオポルトのスペイン王立候補を将来にわたっても承諾しない旨の言質をヴィルヘルム1世から得る必要があると考えるようになった<ref name="アイク(1997,5)160">[[#アイク(1997,5)|アイク(1997) 5巻]] p.160</ref>。<br />
<br />
ナポレオン3世はオリヴィエ首相に相談することなく、ベネデッティにその旨の指示を出した。ベネデッティは[[バート・エムス]]でヴィルヘルム1世の引見を受けたが、ヴィルヘルム1世はレオポルトは立候補を断念したのだからこの問題は片付いたはずだと述べ、ベネデッティの要求を拒否し、現時点の情報で話すことはないとして再度の謁見も断った。その経緯を電報で知らされたビスマルクは「フランス大使が傲慢な要求を行い、それに対して陛下はこれ以上話すことはないとして謁見を拒否した」という意図的な省略で内容をねつ造した電報を各紙に送った。またフランスにいかなる平和的な逃げ道も与えないため、諸外国政府にもその電報を送りつけ、とことんフランスの体面を傷つけた([[エムス電報事件]])<ref>[[#アイク(1997,5)|アイク(1997) 5巻]] p.162-166</ref><ref name="ガル(1988)561-562">[[#ガル(1988)|ガル(1988)]] p.561-562</ref>。<br />
<br />
この電報により南北問わず全ドイツでドイツ・ナショナリズムと反仏感情が爆発し、普段反プロイセン的な南ドイツ諸国もプロイセンを支持する世論で埋め尽くされた<ref name="ガル(1988)562-563">[[#ガル(1988)|ガル(1988)]] p.562-563</ref>。一方フランスでも反プロイセン感情が爆発した。もとより自由帝政の移行と外交的失態でグラついていた第二帝政には、もはや宣戦布告以外に政治的に延命できる可能性はなかった<ref name="ガル(1988)562-563">[[#ガル(1988)|ガル(1988)]] p.562-563</ref>。避けがたい戦争を前にしてナポレオン3世は閣議で涙を流したという<ref>[[#アイク(1997,5)|アイク(1997) 5巻]] p.165</ref>。<br />
<br />
ナポレオン3世は1870年7月14日の閣議でフランス軍の動員を決定し、ついで7月19日にはプロイセンに対して宣戦布告した<ref name="エンゲルベルク(1996)677">[[#エンゲルベルク(1996)|エンゲルベルク(1996)]] p.677</ref><ref name="ガル(1988)563">[[#ガル(1988)|ガル(1988)]] p.563</ref>。一方で7月23日には「我々に開戦を命じたのは国民全体である」と宣言して予防線も張っておいた<ref name="鹿島(2004)439">[[#鹿島(2004)|鹿島(2004)]] p.439</ref>。<br />
{{-}}<br />
===== 普仏戦争と破滅 =====<br />
[[ファイル:Nap sedan von Wilhelm Camphausen.jpg|180px|thumb|right|[[セダンの戦い]]の際のナポレオン3世を描いた絵画({{仮リンク|ヴィルヘルム・カンプハウゼン|de|Wilhelm Camphausen}}画)]]<br />
フランス軍はほとんど戦争準備をしていなかった。急遽ローマ派遣軍を呼び戻し、アルジェリア兵も動員して強化したが、それでも総兵力は35万人程度だった。一方プロイセン軍を中心とするドイツ連合軍は50万の兵力を擁していた。フランス軍の[[シャスポー銃]]はプロイセン軍の[[ドライゼ銃]]より射程が長かったが、フランス軍は弾薬が圧倒的に不足していた。大砲もフランス軍の先込式のブロンズ砲よりプロイセン軍の元込式のクルップ砲の方が強力だった<ref name="鹿島(2004)440-441">[[#鹿島(2004)|鹿島(2004)]] p.440-441</ref>。<br />
<br />
ナポレオン3世の病状は深刻化していたが、皇后ウジェニーの薦めで軍の士気をあげるため前線に出陣することにした。ウジェニーを摂政に任じて、内政を彼女に任せつつ、7月28日にルイ皇太子とともに[[メス (フランス)|メス]]へ出陣した<ref name="鹿島(2004)439">[[#鹿島(2004)|鹿島(2004)]] p.439</ref><ref name="窪田(1991)177">[[#窪田(1991)|窪田(1991)]] p.177</ref>。<br />
<br />
8月2日にフランス軍はプロイセン領[[ザールブリュッケン]]で初めてプロイセン軍と戦闘を交え、プロイセン軍を追って同市を占領することに成功した。しかし8月4日に[[ヴィッセンベルク]]、ついで6日に[[ロレーヌ地方]][[フォルバック]]と[[アルザス地方]][[ヴルト|ヴールト]]でプロイセン軍に敗北を喫した<ref name="鹿島(2004)441">[[#鹿島(2004)|鹿島(2004)]] p.441</ref>。<br />
<br />
この大敗に衝撃を受けたナポレオン3世はアルザス地方とロレーヌ地方を放棄して[[シャロン=アン=シャンパーニュ]]まで後退し、そこで予備軍と合流した。一方、[[アルザス=ロレーヌ]]地方が占領されたとの知らせを受けたパリでは第二帝政への不満が高まり、8月9日にはオリヴィエ内閣が退陣し、パリカオ伯爵クーザン・モントバン将軍が後任の首相に就任した。パリカオ伯爵は戒厳令でもってパリ市民の不満を抑え込もうとした<ref name="鹿島(2004)442-443">[[#鹿島(2004)|鹿島(2004)]] p.442-443</ref>。<br />
<br />
プロイセン軍に[[モーゼル川]]を突破された後、ナポレオン3世はパリに退却することを決意した。そのことをパリにいる皇后に伝えたところ、彼女は「敗戦のままパリへ戻れば帝政は崩壊する」として強硬に反対した。憔悴していたナポレオン3世に彼女と言い争う気力はなく、パリ撤退は中止となり、メスのフランス軍主力と合流することになった<ref name="鹿島(2004)443-444">[[#鹿島(2004)|鹿島(2004)]] p.443-444</ref>。しかしプロイセン軍に進路を阻まれ、[[スダン|セダン]]要塞に籠城することになり、同要塞は9月1日からプロイセン軍の激しい砲撃に晒された<ref name="鹿島(2004)445-446">[[#鹿島(2004)|鹿島(2004)]] p.445-446</ref>。<br />
<br />
パリのウジェニー皇后はナポレオン3世が先頭に立って突撃を行うことを希望した。そうすればナポレオン3世は死ぬだろうが帝政の名誉は守られるのでルイ皇太子が「ナポレオン4世」として安定して皇位を受け継ぐことができると考えたためだった<ref name="鹿島(2004)447">[[#鹿島(2004)|鹿島(2004)]] p.447</ref>。だがナポレオン3世は「私に兵士を殺す権利はない」としてこれを拒否し、セダン要塞に白旗を掲げさせ、プロイセン王ヴィルヘルム1世のもとへ使者を送って降伏する旨の手紙を届けさせた<ref name="鹿島(2004)447-448">[[#鹿島(2004)|鹿島(2004)]] p.447-448</ref>。<br />
[[ファイル:BismarckundNapoleonIII.jpg|250px|thumb|right|投降したナポレオン3世とビスマルクの会見を描いた絵({{仮リンク|ヴィルヘルム・カンプハウゼン|de|Wilhelm Camphausen}}画)]]<br />
9月2日早朝にナポレオン3世はビスマルクとの会見に及び、降伏条件について話し合おうとしたが、ビスマルクは「それは[[ヘルムート・カール・ベルンハルト・フォン・モルトケ|モルトケ]]の管轄」として条件交渉に応じなかった。またナポレオン3世はヴィルヘルム1世との会見を申し入れたが、ビスマルクは降伏条約締結の後でなければ無理であるとして拒否した。結局ナポレオン3世は同日午前11時頃、プロイセン軍将軍が一方的に条件を通知した降伏文書に署名する事を余儀なくされた<ref name="エンゲルベルク(1996)684">[[#エンゲルベルク(1996)|エンゲルベルク(1996)]] p.684</ref>。<br />
<br />
その後{{仮リンク|ベルヴュ城|fr|Château de Bellevue (Meudon)}}でヴィルヘルム1世と会見したが、ヴィルヘルム1世はナポレオン3世の憔悴した姿に同情し、彼を[[カッセル]]近くの{{仮リンク|ヴィルヘルムスヘーエ城|de|Schloss Wilhelmshöhe}}へ送り、比較的自由な生活を送ることを許した<ref name="鹿島(2004)452">[[#鹿島(2004)|鹿島(2004)]] p.452</ref><ref name="窪田(1991)184">[[#窪田(1991)|窪田(1991)]] p.184</ref>。<br />
{{-}}<br />
==== 第二帝政崩壊 ====<br />
一方パリでは9月3日に皇帝が捕虜になったとのニュースが届いた<ref name="鹿島(2004)450">[[#鹿島(2004)|鹿島(2004)]] p.450</ref>。ウジェニー皇后はわが耳を疑い、「ナポレオンは降伏などしないわ。死んだのよ。私に隠そうとしているのね」と叫んだという<ref name="窪田(1991)179">[[#窪田(1991)|窪田(1991)]] p.179</ref>。<br />
<br />
共和制への移行を求める運動がパリ中に広がり、9月4日には[[レオン・ガンベタ]]や{{仮リンク|ジュール・ファーヴル|fr|Jules Favre}}らがパリ市民を扇動して市庁舎を占拠し、パリ軍事総督{{仮リンク|ルイ・ジュール・トロシュ|fr|Louis Jules Trochu}}将軍を首班とする共和政の臨時政府を樹立した<ref name="鹿島(2004)448">[[#鹿島(2004)|鹿島(2004)]] p.448</ref><ref name="窪田(1991)179">[[#窪田(1991)|窪田(1991)]] p.179</ref><ref name="柴田(1995)122">[[#柴田(1995)|柴田・樺山・福井(1995) 第3巻]] p.122</ref>。<br />
<br />
ウジェニー皇后は摂政退任を拒否していたが、彼女のいる[[テュイルリー宮殿]]の庭園にも「スペイン女を倒せ」と叫ぶ民衆が乱入してきたため、ついに彼女もイギリス亡命を余儀なくされた<ref name="鹿島(2004)450-451">[[#鹿島(2004)|鹿島(2004)]] p.450-451</ref><ref name="窪田(1991)180-182">[[#窪田(1991)|窪田(1991)]] p.180-182</ref><ref name="ランツ(2010)135">[[#ランツ(2010)|ランツ(2010)]] p.135</ref>。<br />
<br />
=== 廃位後 ===<br />
==== プロイセン軍の捕虜 ====<br />
[[ファイル:SchlossWilhelmshoehe kasselgalerie de.jpg|250px|thumb|right|プロイセン軍の捕虜だった時期にナポレオン3世が過ごしたヴィルヘルムスヘーエ城。]]<br />
一方ナポレオン3世はヴィルヘルムスヘーエ城に幽閉されていたが、世話係の侍従たちをそのまま連れて行くことを許され、快適な生活を送り、体調も回復していた<ref name="鹿島(2004)453">[[#鹿島(2004)|鹿島(2004)]] p.453</ref><ref name="ランツ(2010)136">[[#ランツ(2010)|ランツ(2010)]] p.136</ref>。この時点のナポレオン3世は戦争が終わればフランス国民は再び自分を皇帝として迎え入れてくれるだろうと楽観視していた<ref name="ランツ(2010)136">[[#ランツ(2010)|ランツ(2010)]] p.136</ref>。それよりも心配だったのは、ウジェニー皇后とルイ皇太子の安否が知れないことだったが、やがて二人が無事イギリスに亡命したと知って安堵した<ref name="鹿島(2004)453">[[#鹿島(2004)|鹿島(2004)]] p.453</ref>。10月にはウジェニーがヴィルヘルムスヘーエを訪問し、二人は再会を喜び合った<ref name="窪田(1991)190">[[#窪田(1991)|窪田(1991)]] p.190</ref>。<br />
<br />
第二帝政が終焉してもフランス政府はビスマルクが提示した休戦協定の条件(アルザス・ロレーヌ地方の割譲、賠償金50億フラン)を認めようとしなかったため、戦争は継続されていた。ビスマルクは戦争を終わらせる方法として捕虜にしたナポレオン3世とフランス軍を釈放してパリに戻して政権を取り戻させて、彼らと休戦協定を締結することも検討したが、結局実現しなかった<ref name="鹿島(2004)454-457">[[#鹿島(2004)|鹿島(2004)]] p.454-457</ref>。そもそもナポレオン3世自身もフランス領土割譲を条件とした休戦協定の締結に応じる意思はなかった<ref name="ランツ(2010)136">[[#ランツ(2010)|ランツ(2010)]] p.136</ref>。<br />
<br />
プロイセン軍の包囲が続く中、パリ市民の生活は困窮した。ビスマルクの承諾を得て行われた1871年2月のフランス総選挙に平和を主張していた王党派が圧勝したことで、オルレアン派の[[アドルフ・ティエール]]がフランス政府首班となった。ティエール政府は同月26日にプロイセン側の要求を全て受け入れた休戦協定に署名し、戦争を終わらせる道を選んだ<ref name="柴田(1995)123-124">[[#柴田(1995)|柴田・樺山・福井(1995) 第3巻]] p.123-124</ref><ref name="鹿島(2004)458">[[#鹿島(2004)|鹿島(2004)]] p.458</ref><ref name="デュヴェルジェ(1995)111-112">[[#デュヴェルジェ(1995)|デュヴェルジェ(1995)]] p.111-112</ref>。これを知ったナポレオン3世はウジェニーへの手紙の中で「このような平和は一時的なものであり、やがてヨーロッパに大きな不幸をもたらすだろう」と語った<ref name="鹿島(2004)458-459">[[#鹿島(2004)|鹿島(2004)]] p.458-459</ref>。一方ティエール政府は3月1日にこのような屈辱的な休戦協定を締結する羽目になったのはすべて第二帝政のせいであるとし、ナポレオン3世の廃位を正式に宣言した<ref name="鹿島(2004)459">[[#鹿島(2004)|鹿島(2004)]] p.459</ref>。これに対してナポレオン3世は3月6日にフランス国民に向けて声明を出し、国民投票によって政治体制を決めるべきであると訴えた<ref name="ランツ(2010)137">[[#ランツ(2010)|ランツ(2010)]] p.137</ref>。<br />
<br />
ともかく戦争は終結し、ナポレオン3世も3月19日にはプロイセン軍から釈放された。妻や息子と合流するため、イギリスへ亡命した<ref name="鹿島(2004)458-459">[[#鹿島(2004)|鹿島(2004)]] p.458-459</ref>。<br />
<br />
==== イギリスでの晩年 ====<br />
[[ファイル:La famille impérial en exil à Camden Place 1872.jpg|250px|thumb|right|1872年のナポレオン3世一家。]]<br />
イギリス亡命後のナポレオン3世はウジェニー元皇后、ルイ元皇太子、使用人数十名とともにロンドン郊外{{仮リンク|チズルハースト|en|Chislehurst}}にある邸宅で暮らすようになった。この邸宅はミス・ハワードとその友人たちが用意してくれたものだった<ref name="ランツ(2010)137">[[#ランツ(2010)|ランツ(2010)]] p.137</ref>。イギリスに亡命してきた第二帝政の皇族や貴族たちも続々とこの町に集まってきたため、この近辺はちょっとした宮廷になった<ref name="鹿島(2004)461">[[#鹿島(2004)|鹿島(2004)]] p.461</ref>。ウジェニーと親しかった[[ヴィクトリア (イギリス女王)|ヴィクトリア女王]]もナポレオン3世を気にかけていたので、しばしば彼の邸宅を訪問した<ref name="ランツ(2010)138">[[#ランツ(2010)|ランツ(2010)]] p.138</ref>。<br />
<br />
ウジェニーは亡命直前に巨額の皇室財産をスペインに移しておいたため、一家が金銭面で困窮することはなかった<ref name="鹿島(2004)462">[[#鹿島(2004)|鹿島(2004)]] p.462</ref>。ナポレオン3世は15歳になった息子ルイの教育に力を入れ<ref name="ランツ(2010)137">[[#ランツ(2010)|ランツ(2010)]] p.137</ref>、ルイを[[ウーリッジ]]にある[[王立陸軍士官学校]]に入学させた<ref name="鹿島(2004)463">[[#鹿島(2004)|鹿島(2004)]] p.463</ref><ref name="窪田(1991)192">[[#窪田(1991)|窪田(1991)]] p.192</ref>。<br />
<br />
ナポレオン3世は復位を諦めておらず、1872年末頃には従弟[[ナポレオン・ジョゼフ・シャルル・ポール・ボナパルト|ナポレオン公]]らとともにクーデタの計画を立てている<ref name="鹿島(2004)463">[[#鹿島(2004)|鹿島(2004)]] p.463</ref><ref name="窪田(1991)192">[[#窪田(1991)|窪田(1991)]] p.192</ref><ref name="ランツ(2010)138">[[#ランツ(2010)|ランツ(2010)]] p.138</ref>。<br />
{{-}}<br />
<br />
==== 死去 ====<br />
[[ファイル:Napoleon III after Death - Illustrated London News Jan 25 1873-2.PNG|250px|thumb|right|『[[イラストレイテド・ロンドン・ニュース]]』に掲載されたナポレオン3世臨終のイラスト。]]<br />
しかしクーデタ計画を実行に移す前に[[膀胱]]に大きな[[結石]]が出来ていることが判明し、1873年1月2日と1月7日に手術を受け、結石を摘出した。しかしナポレオン3世の容態は悪化を続け、3度目の手術を前にした1月9日には危篤状態に陥った<ref name="鹿島(2004)463">[[#鹿島(2004)|鹿島(2004)]] p.463</ref><ref name="ランツ(2010)138">[[#ランツ(2010)|ランツ(2010)]] p.138</ref>。<br />
<br />
一時的に意識を取り戻した際、ナポレオン3世は侍医に「私たちは[[セダンの戦い|セダン]]で卑怯者ではなかっただろう?」と尋ねたという。これが彼の最後の言葉となった<ref name="鹿島(2004)464">[[#鹿島(2004)|鹿島(2004)]] p.464</ref>。<br />
<br />
同日午前11時頃に死去した<ref name="窪田(1991)193">[[#窪田(1991)|窪田(1991)]] p.193</ref>。64歳だった<ref name="鹿島(2004)464">[[#鹿島(2004)|鹿島(2004)]] p.464</ref>。ウジェニーは、王立陸軍士官学校から急遽かけつけてきたルイ元皇太子に抱きついて「もうお前しかいない」と叫んだという<ref name="窪田(1991)193">[[#窪田(1991)|窪田(1991)]] p.193</ref>。<br />
<br />
1月15日にチズルハーストのカトリック教会でナポレオン3世の葬儀が行われ、フランスから多くの来賓が訪れた<ref name="鹿島(2004)464">[[#鹿島(2004)|鹿島(2004)]] p.464</ref><ref name="ランツ(2010)138">[[#ランツ(2010)|ランツ(2010)]] p.138</ref>。出席者の中には「皇帝陛下万歳」を叫ぶ者もいたが、第三共和政政府の反発を恐れてか、ルイ元皇太子は出席者たちに「フランス万歳」と叫ぶよう要請した<ref name="鹿島(2004)464-465">[[#鹿島(2004)|鹿島(2004)]] p.464-465</ref>。<br />
<br />
1878年に[[南アフリカ]]でイギリス軍と[[ズールー族]]の[[ズールー戦争|戦争]]が勃発すると、ルイ元皇太子はイギリス軍に従軍したが、23歳にして戦死した。彼には子がなかったためナポレオン3世の直系は絶えた<ref name="窪田(1991)197-198">[[#窪田(1991)|窪田(1991)]] p.197-198</ref>。これによりフランス[[王位請求者|皇位請求者]]の地位はナポレオン3世の従弟[[ナポレオン・ジョゼフ・シャルル・ポール・ボナパルト|ナポレオン公]]の子孫に移っている。<br />
<br />
一人残されたウジェニーの悲しみは深かった。チズルハーストの教会は手狭であったので、1887年にウジェニーはヴィクトリア女王の協力も得て{{仮リンク|ファーンボロー|en|Farnborough, Hampshire}}に{{仮リンク|聖マイケル修道院|en|St Michael's Abbey, Farnborough}}を創設し、ここに夫と息子の墓を移した<ref name="鹿島(2004)466">[[#鹿島(2004)|鹿島(2004)]] p.466</ref><ref name="窪田(1991)199-200">[[#窪田(1991)|窪田(1991)]] p.199-200</ref><ref name="ランツ(2010)138">[[#ランツ(2010)|ランツ(2010)]] p.138</ref>。1920年にウジェニーが死去すると彼女もそこに葬られている<ref name="鹿島(2004)466">[[#鹿島(2004)|鹿島(2004)]] p.466</ref>。<br />
{{Gallery<br />
|lines=2<br />
|ファイル:Napoleon III masque mortuaire.jpg|ナポレオン3世の[[デスマスク]]<br />
|ファイル:Mort du prince imperial.jpg|ナポレオン3世の遺児ルイの最期を描いた絵画。<br />
|ファイル:Image Stmchurch2.jpg|ナポレオン3世が眠る聖マイケル修道院<br />
}}<br />
{{-}}<br />
== 人物 ==<br />
=== 容姿 ===<br />
[[ファイル:Napoleon III - Boutibonne 1856.jpg|thumb|200px|馬上のナポレオン3世を描いた{{仮リンク|シャルル=エドゥアール・ブーティボネ|fr|Charles-Édouard Boutibonne}}の絵画。]]<br />
背が低く、肩幅が狭く、胴長、まぶたの深い垂れ下がり、X脚、身体を左に傾ける癖など、容姿にはあまり恵まれていなかった<ref name="鹿島(2004)171">[[#鹿島(2004)|鹿島(2004)]] p.171</ref><ref name="高村(2004)27">[[#高村(2004)|高村(2004)]] p.27</ref>。ただ、胴長短脚で身長のわりに座高が高かったゆえに馬上の姿は立派であったといい<ref name="高村(2004)27-28">[[#高村(2004)|高村(2004)]] p.27-28</ref><ref name="山口(2007)172">[[#山口(2007)|山口(2007)]] p.172</ref>、彼が強い影響を受けていた[[アンリ・ド・サン=シモン|サン=シモン]]にちなんで「馬上のサン=シモン」と呼ばれたという<ref name="山口(2007)172" />。<br />
<br />
=== 漁色家 ===<br />
ナポレオン3世は根っからの漁色家だった。初体験は13歳の時で、女中を部屋の中に無理やり引きずり込んで犯したという<ref name="窪田(1991)45-46">[[#窪田(1991)|窪田(1991)]] p.45-46</ref>。1830年のフィレンツェ滞在中には、バラリーニ伯爵夫人に惚れてその家に忍び込んだが、主人に見つかり家から叩き出されたという<ref name="窪田(1991)46">[[#窪田(1991)|窪田(1991)]] p.46</ref>。<br />
<br />
ウジェニーを皇后に迎えた後も、病気で身体が衰えた後も、漁色家の本性は抜けなかった<ref>[[#窪田(1991)|窪田(1991)]] p.108/154</ref>。社交界の貴婦人から庶民の娘まで、高級娼婦から貧乏娼婦まで、女優から踊り子まであらゆる女性に手を伸ばした<ref name="鹿島(2004)382">[[#鹿島(2004)|鹿島(2004)]] p.382</ref>。首相[[エミール・オリヴィエ]]はナポレオン3世について「肉欲に苦しめられた男」と評した<ref name="鹿島(2004)381">[[#鹿島(2004)|鹿島(2004)]] p.381</ref>。<br />
<br />
ナポレオン3世と寝ることになった女性は、侍従から「陛下のいかなる箇所にキスしても良い。だが顔だけはだめだ。」という指示を受けたという<ref name="朝倉(1996)726">[[#朝倉(1996)|朝倉・三浦(1996)]] p.726</ref>。<br />
<br />
1853年には従妹のマチルドに「3人の女性に追い回されて困っている」という話を打ち明け、マチルドが「皇后はそれについてどう思っているのか」と聞くと、ナポレオン3世は「私だって最初の半年は忠実な夫だったさ。だがね、今は色々と気晴らしが必要なんだよ。いつも同じ調子では退屈でやりきれないだろう」と答えたという<ref name="鹿島(2004)382">[[#鹿島(2004)|鹿島(2004)]] p.382</ref>。ウジェニーは姉への手紙の中で「私の心は屈辱にあふれています。彼のような地位にある人間が低級娼婦 ―彼女たちのある者は小間使いにすら値しません― で満足できるといった考えはどうしても是認できません!でも彼に止めさせることはできますまい!彼にとっては何だって構わないのですからね。あの尻軽女どもへの彼のぞっとするような、飽くことを知らない好みを前には私の激昂も効き目がありません」と愚痴を述べている<ref name="窪田(1991)138">[[#窪田(1991)|窪田(1991)]] p.138</ref>。<br />
<br />
ナポレオン3世はこのことでウジェニーに後ろめたい思いがあり、彼女の機嫌を取るために政治を含む他の様々な問題で譲歩することが多かった。ウジェニーの政治面での影響力が大きかったのは2人のこうした関係のためでもあった<ref name="窪田(1991)149">[[#窪田(1991)|窪田(1991)]] p.149</ref>。<br />
<br />
=== 無口 ===<br />
伯父ナポレオンと違って、無口・無表情であった。そのため「[[スフィンクス]]」とあだ名されていた<ref name="鹿島(2004)171">[[#鹿島(2004)|鹿島(2004)]] p.171</ref>。長い沈黙の後にようやく口を開いても、話下手なので慣れていないと意味を理解しにくかったという<ref name="鹿島(2004)171">[[#鹿島(2004)|鹿島(2004)]] p.171</ref>。気の利いたことを言うのも苦手だった<ref name="鹿島(2004)171">[[#鹿島(2004)|鹿島(2004)]] p.171</ref>。<br />
<br />
閣議でもほとんど発言せず、政敵には「偉大なる無能」と呼ばれていた<ref name="鹿島(2004)176">[[#鹿島(2004)|鹿島(2004)]] p.176</ref>。政治的決断を下すのも慎重だったが、目標を達成することには異常に執着し、彼の「延期」は決して中止を意味しなかった<ref name="鹿島(2004)172">[[#鹿島(2004)|鹿島(2004)]] p.172</ref>。<br />
<br />
=== 正統性の欠落 ===<br />
ナポレオン3世の悩みの一つは、伯父と同じく君主としての正統性がないために、他のヨーロッパ君主との間に溝があることだった。彼は革命家を自認し、ヨーロッパ各地のナショナリズム運動を擁護するなどウィーン体制の破壊を目指したが、同時にウィーン体制的なヨーロッパ君主間の連帯の中に入りたがるという矛盾した願望を持っていた{{sfn|キッシンジャー|1996|p=135}}。<br />
<br />
当時、ヨーロッパ君主たちは互いを「兄弟」と呼び合っており、ナポレオン3世もそう呼ばれたがっていたが、ロシア皇帝は頑なにこれを拒否し続け、正統性のない彼に対しては「兄弟」より格下の表現「友」以上は使わなかった。一方、プロイセン国王とオーストリア皇帝は彼を「兄弟」と呼んだが、それでもなお正統性のない彼と正統性を有する他のヨーロッパ君主たちの間には深い溝があったようである。これについて、パリ駐在オーストリア大使ヒュブナー男爵は「長い歴史を持つ宮廷に鼻であしらわれたと思うに違いない。これがまさにナポレオン皇帝の心を蝕む虫であった」と述べている{{sfn|キッシンジャー|1996|p=135}}。<br />
<br />
=== その他 ===<br />
フリーメイソンの『アカシア』誌によれば、青年時代のスイス亡命中に[[フリーメイソン]]に加入している。一方、カトリック強硬派[[イエズス会]]とも接触があった。皇帝即位後も伯父と同様に、メイソンとイエズス会の間を行ったり来たりする無節操な政策が多かったという{{sfn|湯浅慎一|1990|p=146-147}}。<br />
<br />
== 評価 ==<br />
=== マルクスとユーゴーの批判 ===<br />
[[ファイル:Marx color.jpg|thumb|200px|ナポレオン3世の体制を[[ルンペンプロレタリアート]]体制と分析した[[カール・マルクス]]]]<br />
ナポレオン3世には著名な批判者が2人いる。[[カール・マルクス]]と[[ヴィクトル・ユーゴー]]である。<br />
<br />
カール・マルクスはナポレオン3世の支持者をルンペン・プロレタリアートと看做していた<ref name="マルクス(2008)104-105">[[#マルクス(2008)|マルクス(2008)]] p.104-105</ref>。またナポレオン3世自体も「冒険家(Abenteurer)」呼ばわりし、ルンペン・プロレタリアートと看做していたようである<ref>[[#横張(1999)|横張(1999)]] p.98/106</ref>。マルクスは彼の[[階級闘争]]理論に当てはめることができない不都合な存在としてルンペン・プロレタリアートを忌み嫌っていた<ref name="横張(1999)192-93">[[#横張(1999)|横張(1999)]] p.192-193</ref><ref name="鹿島(2004)90">[[#鹿島(2004)|鹿島(2004)]] p.90</ref>。しかしマルクスのルンペン・プロレタリアートの定義は一定していない(マルクスの定義については[[ルンペン・プロレタリアート|当該項目]]を参照)。<br />
<br />
マルクスは『[[ルイ・ボナパルトのブリュメール18日]]』においてブルジョワの分裂(議会内の党派争い、「代表する者」と「代表される者」の乖離)がナポレオン3世の進出を招き、最終的にフランスは議会政治という一階級(ブルジョワ)の支配からのがれるために全ての階級が等しく無力となり、何の階級も代表していない一個人(「ルンペン・プロレタリアートの首領」ナポレオン3世)の専制下におかれてしまったと考察した<ref name="マルクス(2008)173-174">[[#マルクス(2008)|マルクス(2008)]] p.173-174</ref><ref name="横張(1999)183/186">[[#横張(1999)|横張(1999)]] p.183/186</ref>。<br />
<br />
この「ナポレオン3世の体制=ルンペン・プロレタリアート体制」というマルクスの考察はクーデター前後についてだけでなく、第二帝政期全期を通じてそうだと考えていたようである。第二帝政が崩壊した後の1871年に書かれた『[[フランスにおける内乱]]』でも第二帝政をプロレタリアート政府[[パリ・コミューン]]の対極に位置する存在と定義し、「第二帝政は超国境的な金融詐欺師の祭典であり、様々な国の放蕩者が第二帝政の無礼講とフランス人民への略奪に加わろうと、その呼びかけに応じて殺到した」、「帝政は公共の財産を浪費することにより、また金融詐欺を助けることにより、資本集中の人為的促進を助けて大多数の中産階級を収奪し、彼らを経済的に破滅させた。帝政は彼らを政治的に抑圧し、また宴会騒ぎで彼らを道徳的に怒らせた。彼らの子供を無知な教団に引き渡して、彼らの[[ヴォルテール]]主義を侮辱した。そして彼らを戦争へ導くことでフランス人としての民族感情を激昂させた」と総括している<ref>[[#マルクス(1954)|マルクス(1954)]] p.88/91</ref><ref name="横張(1999)108">[[#横張(1999)|横張(1999)]] p.108</ref>。<br />
{{-}}<br />
[[ファイル:Hugo justicier.jpg|thumb|150px|[[ヴィクトル・ユーゴー]]によって「犯罪者」と断罪されるナポレオン3世の風刺画({{仮リンク|アルフレッド・ル・プティ|fr|Alfred Le Petit}}画)]]<br />
[[ヴィクトル・ユーゴー]]も亡命先から『小ナポレオン』や『懲罰詩集』などの著作によってナポレオン3世批判を行った<ref name="ランツ(2010)10">[[#ランツ(2010)|ランツ(2010)]] p.10</ref>{{#tag:ref|[[カール・マルクス]]は『[[ルイ・ボナパルトのブリュメール18日]]』第2版序文の中で「私と同時期にこの対象を論じた著作の中ではヴィクトル・ユーゴーの『小ナポレオン』と[[ピエール・ジョゼフ・プルードン|プルードン]]の『クーデター』だけが注目に値する」として2人の著作と自らの著作の違いについて論じている。その中でマルクスは「ユーゴーは(クーデタを)一個人の暴力としか見ていない。この事件の主導権を、世界史上例にないような一個人の暴力に帰することによって、その個人を小さくするどころか、かえって大きくしていることに気づいていない。プルードンはクーデターを歴史的発展の結果としてとらえているが、その歴史的構築がこっそりクーデター主人公の弁護にすり替えられている。それに対して私は中庸でグロテスクな人物が主人公を演じることを許すような事情をフランス階級闘争がいかに創出したかを証明した」としている<ref name="マルクス(2008)198-199">[[#マルクス(2008)|マルクス(2008)]] p.198-199</ref>。|group=注釈}}。ユーゴーは国民議会の議員であったため、ナポレオン3世の「犯罪」を告発することが自分の使命であるという強い自負心を持っていた<ref name="辻・丸岡(1981)72-73">[[#辻・丸岡(1981)|辻・丸岡(1981)]] p.72-73</ref>。彼は古代[[共和政ローマ]]と[[フランス革命]]の立場に立ってナポレオン3世を批判した<ref name="赤井(1980)44">[[#赤井(1980)|赤井(1980)]] p.44</ref>。<br />
<br />
ユーゴーは『懲罰詩集』において「わたしは辛い亡命を受け入れる。たとえ果てしなく続いても。…(略)…もう千人しか残らなくなっても、私は踏みとどまる。100人しか残らなくなっても[[ルキウス・コルネリウス・スッラ|スッラ]]に立ち向かう。10人しか残らなくなったら、私は10番目の者となる。一人しか残らなくなったら、それは私だ」と書いた<ref name="辻・丸岡(1981)75">[[#辻・丸岡(1981)|辻・丸岡(1981)]] p.75</ref>。実際彼はナポレオン3世の恩赦の誘いには決して乗らず、「自由がフランスに戻った時、私も戻るだろう」と返答していた<ref name="赤井(1980)48">[[#赤井(1980)|赤井(1980)]] p.48</ref><ref name="辻・丸岡(1981)84">[[#辻・丸岡(1981)|辻・丸岡(1981)]] p.84</ref>。そうした態度から彼は「民主主義の父」と呼ばれ<ref name="辻・丸岡(1981)84">[[#辻・丸岡(1981)|辻・丸岡(1981)]] p.84</ref>、やがて同時代の人々から正邪を区別する裁判官のような存在として見られるようになっていった<ref name="赤井(1980)48">[[#赤井(1980)|赤井(1980)]] p.48</ref>。<br />
<br />
ユーゴーはその著作においてナポレオン3世を徹底的に「小物」扱いしてこき下ろした。それは分析というより罵倒に近いものだったが、国民には大きな影響を与え、第二帝政批判から出発した[[フランス第三共和政]]の基本的イデオロギーとなったといって過言ではない<ref name="野村(2002)14">[[#野村(2002)|野村(2002)]] p.14</ref><ref name="マルクス(2008)238">[[#マルクス(2008)|マルクス(2008)]] p.238</ref>。現在のフランスの歴史教科書も基本的にそうした立場に立っており、たとえばリジェル社の教科書は「いずれにしてもナポレオン3世は、カヴールやビスマルクのような政治的天才に対抗できる器ではなかった」と結論している<ref name="ランツ(2010)10">[[#ランツ(2010)|ランツ(2010)]] p.10</ref>。<br />
<br />
こうしたマルクスとユーゴーの批判が、第二帝政の始まりであるクーデタという暴力的行為、第二帝政の最後である普仏戦争での不手際と符合した結果、ナポレオン3世は極端に戯画化されたイメージを後世に残すことになった<ref name="鹿島(2004)11-12">[[#鹿島(2004)|鹿島(2004)]] p.11-12</ref>。<br />
{{-}}<br />
{{Gallery<br />
|ファイル:Dame Europa 25.png|ナポレオン3世の[[カリカチュア]]<br />
|ファイル:DameEuropa31.png|ナポレオン3世のカリカチュア<br />
|ファイル:Dame Europa 27-1.png|ナポレオン3世のカリカチュア<br />
}}<br />
=== ビスマルクによる評価 ===<br />
1850年代にはナポレオン3世は[[ウィーン体制]]を破壊し、クリミア戦争によって[[神聖同盟]]も破壊することでフランスの孤立状態から脱出させた恐るべき知恵者のように評価されるのが一般的だった。だが、ビスマルクはこの頃からナポレオン3世をたいして評価しておらず、「彼の感傷的性格が過小評価されている分だけ、彼の知性は過大評価されている」{{sfn|キッシンジャー|1996|p=134}}、「彼を良く知る人から聞いた話から判断すると、彼は誰一人として予想もしないことをやりたがるという病的衝動があるようだ。そして、それを皇后が日々養い育てている」<ref name="エンゲルベルク(1996)486">[[#エンゲルベルク(1996)|エンゲルベルク(1996)]]、p.486</ref>といった評価をしていた。<br />
<br />
さらに普仏戦争直前の1870年3月には「ナポレオンは国内では次第に確信を失い、内政でありとあらゆる失策を犯した。その結果国民の不満が高まり、彼らの不満の矛先を逸らすためにますます戦争をせざるを得なくなっていった」と評している<ref name="エンゲルベルク(1996)486" />。<br />
<br />
=== キッシンジャーの評価 ===<br />
[[アメリカ合衆国]]の政治家[[ヘンリー・キッシンジャー]]はナポレオン3世について次のように論じた。「ナポレオン3世は伯父のような誇大な野心は抱いていなかった。しかしこの謎めいた指導者はフランスは機会があれば領土拡張が許されていると感じており、そのためにその目前に統一されたヨーロッパが立ちはだかることを望まなかった。さらに彼は世界はナショナリズムと自由主義をフランスと同一視していると考え、したがってこれを抑圧しようというウィーン体制は彼自身の野望を束縛する物であると考えた」「自らをウィーン体制の破壊者であり、ヨーロッパ・ナショナリズムの鼓舞者であるとの幻想を抱いたナポレオン3世は、ヨーロッパの外交を混乱に陥れたが、フランスはそこから長期的に何も得ることができず、他の国を利しただけだった。ナポレオン3世はイタリア統一を可能にし、結果的にドイツ統一を促したが、この二つの事実はフランスを地政学的に弱めた」{{sfn|キッシンジャー|1996|p=132-133}}。<br />
<br />
「彼はフランスを侮辱するものとしてウィーン体制に反対したが、遅きに失するまで彼が理解しなかったことは、ウィーン体制による世界秩序こそが、実はフランスにとって考えられる最良の安全保障であるということだった。なぜならドイツ連邦は外部からの圧倒的な脅威に対してのみ一丸となって行動するように構想されていたからだ。連邦構成国は攻撃の目的で同盟することを禁じられ、攻撃を意図する戦略の合意さえできなかった。」「ウィーン体制が無傷である限りは不可侵だったライン国境は、ナポレオン3世の政策が道を開いたドイツ連邦崩壊の後の一世紀の間、安全である保障がなくなった」「ドイツ連邦に取って代わったのはフランスを上回る人口を持ち、すぐにもフランスを抜きうる工業力を備えた統一ドイツだった。ウィーン体制に挑戦することによりナポレオン3世は防衛的性格の邪魔者を攻撃的性格に変え、フランスの安全に対する潜在的な脅威にしてしまったのである」{{sfn|キッシンジャー|1996|p=139-140}}。<br />
<br />
「ナポレオンはその結果がどの方向に向きそうであるかを理解しないまま、革命を支持した。」「名声を常に追い求めていたナポレオン3世は自己が進むべき一貫した政策を持たなかった。その代わりにナポレオン3世は入り組んだ多くの目的に追い立てられ、その目的はまた時に相矛盾するものだった。そこで重大な危機に直面した時、様々な衝動がお互いを潰し合う作用をした。」「クリミア戦争においてロシアとオーストリアにくさびを打ち込み、神聖同盟を崩壊させたことは確かに成功だった。しかしナポレオン3世はこの成功をいかに生かすか知らなかった。1853年〜1871年にかけてのヨーロッパは新秩序への移行期であり、小さな混乱が絶えなかった。その時代を経て大陸最強国ドイツが出現することになる。」「そうした中でメッテルニヒ時代に保守勢力が共通して援用した原則である正統性はむなしい主張にすぎなくなってしまった。このような展開にはナポレオン3世が常に関与していた。フランスの実力を過信していたナポレオン3世は何か変動があるたびにこれをフランスの利益に結び付けることができると信じて、この変動を助長したのである」{{sfn|キッシンジャー|1996|p=154-155}}。<br />
<br />
「革命的指導者であるナポレオン3世は政策を世論に連動させる潮流を代表していた。対して保守的な革命家だったビスマルクは政策を力関係の分析と同一と看做す傾向を反映していた。」「自己の目的及び自己の正統性に確信を持てなかったナポレオン3世は世論に頼った。」「今日の政治家とまったく同様に、ナポレオン3世は単に戦術的なことにすぎないものの虜となって、短気的な目標や早く成果のでる物に的を絞り、彼がきっかけを作った外交的な圧力を大きく見せることで国民に印象付けようとしたのである。政策遂行の課程においてナポレオン3世は外交政策を手品師の手さばきと混同していた。」「長期的に見れば自己の不安感を表に出したり、長期的な流れよりもその場その場の危機の兆候にしか注目しない指導者には国民は敬意を抱かないものである」「ナポレオン3世は現代の不思議な現象、すなわち国民が何を欲しているかを必死になって追い求め、結局最後は国民に見捨てられ、時には軽蔑される政治家の先駆者になってしまったのである。」{{sfn|キッシンジャー|1996|p=180}}。<br />
<br />
=== その他の評価 ===<br />
*駐パリ・オーストリア公使ヒュブナー男爵は、1857年にオーストリア皇帝に送った報告書の中でナポレオン3世について「彼(ナポレオン3世)の目から見れば外交政策はフランスにおける彼の支配を安定させ、彼の帝位を正統化し、彼の王朝を開くための道具に過ぎない。彼は国内で人気を高めるためであれば、いかなる手段をとることも、またいかなる勢力と結びつくことも辞さないであろう」と論じた{{sfn|キッシンジャー|1996|p=136-137}}<br />
<br />
=== 再評価論 ===<br />
[[ファイル:Buste Napoléon III Compiègne.jpg|thumb|150px|ナポレオン3世の胸像]]<br />
左翼の凋落が始まった1980年代以降のフランスでは、マルクス主義史観や共和主義史観からの脱却が図られつつあり、ナポレオン3世や第二帝政にも再評価の動きがみられるようになった<ref name="鹿島(2004)138">[[#鹿島(2004)|鹿島(2004)]] p.138</ref>。とりわけナポレオン3世のサン=シモン主義的な経済政策によりフランスに消費資本主義社会が実現した点、およびナポレオン3世の都市計画によって現在のパリの基礎が築かれたという点に再評価が多い<ref name="鹿島(2004)13">[[#鹿島(2004)|鹿島(2004)]] p.13</ref>。<br />
<br />
伯父[[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン1世]]の仇敵であった[[イギリス]]とは協調し、第一帝政時代から続く英露対立を反映した[[クリミア戦争]]では連合国中で最大兵力を派遣したことをはじめ、アジアでは[[アロー戦争]]でも英仏連合軍を結成するなど、対外積極主義を掲げながらも当時のヘゲモニー国家である[[大英帝国]]と共同歩調を取り、メキシコ遠征や普仏戦争で破滅的な失敗を犯すまでは一時的にフランスの国際的地位を高めた。<br />
<br />
またナポレオン3世の積極的な植民地政策が第三共和政下で最盛期を迎える[[フランス植民地帝国]]の繁栄の礎を築いたとされ、フランス植民地史においても再評価がはじまっている<ref name="平野(2002)141">[[#平野(2002)|平野(2002)]] p.141</ref>(ちなみにフランスでは現在でも自国の植民地支配の歴史を肯定的に見る立場が根強い<ref name="平野(2002)136">[[#平野(2002)|平野(2002)]] p.136</ref>)。<br />
{{-}}<br />
<br />
== 子女 ==<br />
{{仮リンク|エレオノール・ヴェルジョ|fr|Eléonore Vergeot}}との間の私生児<br />
*{{仮リンク|アレクサンドル=ルイ・ウージェーヌ・ビュール|fr|Eugène Bure}}(1843年 - 1910年) オルクス伯爵。<br />
*{{仮リンク|アレクサンドル・ルイ=エルネスト・ビュール|fr|Alexandre Bure}}(1845年 - 1882年) ラボンヌ伯爵。<br />
皇后[[ウジェニー・ド・モンティジョ]]との間の[[嫡出子]]<br />
*[[ナポレオン・ウジェーヌ・ルイ・ボナパルト]](1856年 - 1879年) 皇太子。「ナポレオン4世」<br />
<br />
== 脚注 ==<br />
=== 注釈 ===<br />
{{reflist|group=注釈|1}}<br />
=== 出典 ===<br />
{{reflist|23em}}<br />
== 参考文献 ==<br />
*{{Cite book|和書|author=エーリッヒ・アイク|translator=[[新妻篤]]|date=1995年(平成7年)|title=ビスマルク伝 3|publisher=ぺりかん社|isbn=978-4831506832|ref=アイ3}}<br />
*{{Cite book|和書|author=エーリッヒ・アイク|translator=[[渋谷寿一]]|date=1996年(平成8年)|title=ビスマルク伝 4|publisher=ぺりかん社|isbn=978-4831507235|ref=アイク(1996,4)}}<br />
*{{Cite book|和書|author=エーリッヒ・アイク|translator=[[吉田徹也]]|date=1997年(平成9年)|title=ビスマルク伝 5|publisher=ぺりかん社|isbn=978-4831507440|ref=アイク(1997,5)}}<br />
*{{Cite book|和書|author=[[赤井彰]]|date=1980年(昭和55年)|title=ヴィクトル・ユゴー フランスロマン派の文豪|publisher=[[平凡社]]|ref=赤井(1980)}}<br />
*{{Cite book|和書|author=[[朝倉治彦]]、[[三浦一郎]]|date=1996年(平成8年)|title=世界人物逸話大事典|publisher=[[角川書店]]|isbn=978-4040319001|ref=朝倉(1996)}}<br />
*{{Cite book|和書|author={{仮リンク|シャルル=ロベール・アージュロン|fr|Charles-Robert Ageron}}|translator=[[私市正年]]、[[中島節子]]|date=2002年(平成14年)|title=アルジェリア近現代史|series=文庫クセジュ857|publisher=[[白水社]]|isbn=978-4560058572|ref=アージュロン(2002)}}<br />
*{{Cite book|和書|author=[[石井米雄]]、[[桜井由躬雄]]|date=1999年(平成11年)|title=東南アジア史〈1〉大陸部|series=新版 世界各国史5|publisher=[[山川出版社]]|isbn=978-4634413504|ref=石井・桜井(1999)}}<br />
*{{Cite book|和書|author=デヴィッド・ウォーンズ|date=2001年(平成13年)|title=ロシア皇帝歴代誌|translator=[[月森左知]]|publisher=創元社|isbn=978-4422215167|ref=ウォーンズ(2001)}}<br />
*{{Cite book|和書|author={{仮リンク|エルンスト・エンゲルベルク|de|Ernst Engelberg}}|translator=[[野村美紀子]]|date=1996年(平成8年)|title=ビスマルク <small>生粋のプロイセン人・帝国創建の父</small>|publisher=[[海鳴社]]|isbn=978-4875251705|ref=エンゲルベルク(1996)}}<br />
*{{Cite book|和書|author=[[鹿島茂]]|date=2004年(平成16年)|title=怪帝ナポレオンIII世 <small>第二帝政全史</small>|publisher=[[講談社]]|isbn=978-4062125901|ref=鹿島(2004)}}<br />
*{{Cite book|和書|author={{仮リンク|ロタール・ガル|de|Lothar Gall}}|translator=[[大内宏一]]|date=1988年(昭和63年)|title=ビスマルク <small>白色革命家</small>|publisher=[[創文社]]|isbn=978-4423460375|ref=ガル(1988)}}<br />
*{{Cite book|和書|last=キッシンジャー|first=ヘンリー|translator=[[植村邦彦]]|date=1996年(平成8年)|title=外交〈上〉|publisher=[[日本経済新聞社]]|isbn=978-4532161897||ref=harv}}<br />
*{{Cite book|和書|author=[[木下賢一]]|date=2000年(平成12年)|title=第二帝政とパリ民衆の世界 「進歩」と「伝統」のはざまで|series=歴史のフロンティア|publisher=[[山川出版社]]|isbn=978-4634481800|ref=木下(2000)}}<br />
*{{Cite book|和書|author=[[桐山昇]]、[[根本敬]]、[[栗原浩英]]|date=2003年(平成15年)|title=東南アジアの歴史 人・物・文化の交流史|publisher=[[有斐閣]]|isbn=978-4641121928|ref=桐山(2003)}}<br />
*{{Cite book|和書|author=[[窪田般弥]]|date=1991年(平成3年)|title=皇妃ウージェニー 第二帝政の栄光と没落|publisher=[[白水社]]|isbn=978-4560028629|ref=窪田(1991)}}<br />
*{{Cite book|和書|author=[[柴田三千雄]]、[[樺山紘一]]、[[福井憲彦]]|date=1996年(平成8年)|title=フランス史〈2〉16世紀~19世紀なかば|series=世界歴史大系|publisher=[[山川出版社]]|isbn=978-4634461000|ref=柴田(1996)}}<br />
*{{Cite book|和書|author=柴田三千雄、樺山紘一、福井憲彦|date=1995年(平成7年)|title=フランス史〈3〉19世紀なかば~現在|series=世界歴史大系|publisher=山川出版社|isbn=978-4634461109|ref=柴田(1995)}}<br />
*{{Cite book|和書|author=[[高村忠成]]|date=2004年(平成16年)|title=ナポレオン3世とフランス第二帝政|publisher=[[北樹出版]]|isbn=978-4893849656|ref=高村(2004)}}<br />
*{{Cite book|和書|author=[[辻昶]]、[[丸岡高弘]]|date=1981年(昭和56年)|title=ヴィクトル=ユゴー|series=Century books―人と思想68|publisher=[[清水書院]]|asin=B000J7UMTS|ref=辻(1981)}}<br />
*{{Cite book|和書|author=[[モーリス・デュヴェルジェ]]|translator=[[時本義昭]]|date=1995年(平成7年)|title=フランス憲法史|publisher=[[みすず書房]]|isbn=978-4622036517|ref=デュヴェルジェ(1995)}}<br />
*{{Cite book|和書|author=[[時野谷常三郎]]|date=1945年(昭和20年)|title=ビスマルクの外交|publisher=[[大八洲出版]]|asin=B000JBPJ3S|ref=時}}<br />
*{{Cite book|和書|author=[[野村啓介]]|date=2002年(平成14年)|title=フランス第二帝制の構造|publisher=[[九州大学出版会]]|isbn=978-4873787138|ref=野村(2002)}}<br />
*{{Cite book|和書|date=2001年(平成13年)|title=世界諸国の組織・制度・人事 1840―2000|editor=[[秦郁彦]]編|publisher=[[東京大学出版会]]|isbn=978-4130301220|ref=秦(2001)}}<br />
*{{Cite book|和書|author=[[平野千果子]]|date=2002年(平成14年)|title=フランス植民地主義の歴史 奴隷制廃止から植民地帝国の崩壊まで|publisher=[[人文書院]]|isbn=978-4409510490|ref=平野(2002)}}<br />
*{{Cite book|和書|author=[[藤野幸雄]]|date=1997年(平成9年)|title=赤い島 物語マダガスカルの歴史|publisher=[[彩流社]]|isbn=978-4882024545|ref=藤野(1997)}}<br />
*{{Cite book|和書|author=[[松井道昭]]|date=1997年(平成9年)|title=フランス第二帝政下のパリ都市改造|publisher=[[日本経済評論社]]|isbn=978-4818809161|ref=松井(1997)}}<br />
*{{Cite book|和書|author=[[松沼美穂]]|date=2012年(平成24年)|title=植民地の〈フランス人〉第三共和政期の国籍・市民権・参政権|publisher=[[法政大学出版局]]|isbn=978-4588377105|ref=松沼(2012)}}<br />
*{{Cite book|和書|author=[[カール・マルクス]]|translator=[[植村邦彦]]|date=2008年(平成20年)|title=[[ルイ・ボナパルトのブリュメール18日]][初版]|publisher=[[平凡社]]|series=[[平凡社ライブラリー]]649|isbn=978-4582766493|ref=マルクス(2008)}}<br />
*{{Cite book|和書|author=カール・マルクス|translator=[[中原稔生]]|date=1960年(昭和35年)|title=フランスにおける階級闘争|publisher=[[大月書店]]|series=[[国民文庫]]24|isbn=978-4272802401|ref=マルクス(1960)}}<br />
*{{Cite book|和書|author=カール・マルクス|translator=[[川崎七瀬]]|date=1954年(昭和29年)|title=フランスにおける内乱|publisher=[[青木書店]]|series=[[青木文庫]]178|asin=B000JB7INW|ref=マルクス(1954)}}<br />
*{{Cite book|和書|author=[[宮本正興]]、[[松田素二]]|date=1997年(平成9年)|title=新書アフリカ史|series=[[講談社現代新書]]1366|publisher=[[講談社]]|isbn=978-4061493667|ref=宮本(1997)}}<br />
*{{Cite book|和書|author=[[山口昌子 (ジャーナリスト)|山口昌子]]|date=2007年(平成19年)|title=エリゼ宮物語|publisher=[[扶桑社]]|isbn=978-4594055103|ref=山口(2007)}}<br />
*{{Cite book|和書|author=[[湯浅慎一]]|date=1990|title=フリーメイソンリー その思想、人物、歴史|series = [[中公新書]]955|publisher=[[中央公論社]]|ISBN=978-4121009555|ref=harv}}<br />
*{{Cite book|和書|author=[[グザヴィエ・ヤコノ]]|translator=平野千果子|date=1998年(平成10年)|title=フランス植民地帝国の歴史|series=文庫クセジュ798|publisher=[[白水社]]|isbn=978-4560057988|ref=ヤコノ(1998)}}<br />
*{{Cite book|和書|author=[[横張誠]]|date=1999年(平成11年)|title=芸術と策謀のパリ ナポレオン三世時代の怪しい男たち|publisher=[[講談社]]|isbn=978-4062581509|ref=横張(1999)}}<br />
*{{Cite book|和書|author=[[ティエリー・ランツ]]|translator=[[幸田礼雅]]|date=2010年(平成22年)|title=ナポレオン三世|publisher=[[白水社]]|series=文庫クセジュ951|isbn=978-4560509517|ref=ランツ(2010)}}<br />
*{{Cite book|和書|author=[[ギュンター・リアー]]、[[オリヴィエ・ファイ]]|translator=[[古川まり]]|date=2009年(平成21年)|title=パリ 地下都市の歴史|publisher=[[東洋書林]]|isbn=978-4887217737|ref=リアー(2009)}}<br />
*{{Cite book|和書|title=[[世界大百科事典]]|publisher=[[平凡社]]|isbn=978-4582027006|ref=世界大百科事典}}<br />
{{refend}}<br />
<br />
== 関連項目 ==<br />
{{Commonscat|Napoleon III of France}}<br />
* [[マーガリン]]、[[ボブリル]] - 発明にナポレオン3世が深く関わっている。<br />
* [[ヴィクトール・ド・ペルシニー]]、[[シャルル・ド・モルニー]]<br />
* [[ナポレオン・ボナパルト]]、[[ボナパルティズム]]<br />
* [[アンリ・ド・サン=シモン]]、[[社会主義]]、[[第一インターナショナル]]<br />
* [[ヘンリー・ジョン・テンプル (第3代パーマストン子爵)]]、[[スエズ運河]]<br />
* [[カール・マルクス]]、[[ルイ・ボナパルトのブリュメール18日]]<br />
* [[オットー・フォン・ビスマルク]]、[[普仏戦争]]<br />
* [[ジョルジュ・ブーランジェ]]<br />
* [[ナポレオン3世とアルミニウム製品]]<br />
<br />
{{Start box}}<br />
{{S-off}}<br />
{{S-new<br />
| reason = [[フランス第二共和政|第二共和政]]成立<br />
}}<br />
{{S-ttl<br />
| title = {{flagicon|FRA}} [[フランスの大統領|フランス共和国大統領]]<br />
| years = 初代:[[1848年]] - [[1852年]]<br />
}}<br />
{{S-vac<br />
| next = [[アドルフ・ティエール]]<br />
| reason = [[フランス第二帝政|第二帝政]]成立<br />
}}<br />
{{Succession box<br />
| title = {{flagicon|FRA}} フランスの元首<br />
| years = [[1848年]] - [[1870年]]<br />
| before = [[ルイ=ウジェーヌ・カヴェニャック|ウジェーヌ・カヴェニャック]]<br />
| beforenote = [[フランスの首相|閣僚評議会議長]]<br />
| after = [[ルイ=ジュール・トロシュ]]<br />
| afternote = 国防政府主席<br />
}}<br />
{{S-reg|}}<br />
|-<br />
{{S-vac<br />
| last = [[ナポレオン2世]]<br />
}}<br />
{{S-ttl<br />
| title = {{flagicon|FRA}} [[フランス皇帝]]<br />
| years = [[1852年]] - [[1870年]]<br />
}}<br />
{{S-non<br />
| reason = [[フランス第三共和政|第三共和政]]成立<br />
}}<br />
{{Succession box<br />
| title = {{flagicon|AND}} [[アンドラ君主一覧|アンドラ共同大公]]<br />
| years = [[1848年]] - [[1870年]]<br />
| before = [[ルイ=ウジェーヌ・カヴェニャック|ウジェーヌ・カヴェニャック]]<br />
| after = [[ルイ=ジュール・トロシュ]]<br />
}}<br />
{{Succession box<br />
| title = [[ボナパルト朝|ボナパルト家家長]]<br />
| years = [[1846年]] - [[1873年]]<br />
| before = [[ルイ・ボナパルト]]<br />
| after = [[ナポレオン・ウジェーヌ・ルイ・ボナパルト|ナポレオン4世]]<br />
}}<br />
{{End box}}<br />
{{フランスの大統領}}<br />
{{フランス君主}}<br />
{{Normdaten}}<br />
<br />
{{Good article}}<br />
{{デフォルトソート:なほれおん3}}<br />
[[Category:ナポレオン3世|*]]<br />
[[Category:フランス皇帝]]<br />
[[Category:フランスの大統領]]<br />
[[Category:フランスの亡命者]]<br />
[[Category:フランスのフリーメイソン]]<br />
[[Category:ネーデルラントのプリンス]]<br />
[[Category:ガーター勲章]]<br />
[[Category:金羊毛騎士団員]]<br />
[[Category:ボナパルト家]]<br />
[[Category:クーデター政権指導者]]<br />
[[Category:フランス第二共和政の人物]]<br />
[[Category:フランス第二帝政の人物|*]]<br />
[[Category:イタリア統一運動の人物]]<br />
[[Category:普仏戦争の人物]]<br />
[[Category:捕虜となった人物]]<br />
[[Category:パリ出身の人物]]<br />
[[Category:1808年生]]<br />
[[Category:1873年没]]</div>
122.197.105.12
1852年憲法
2018-07-11T18:01:07Z
<p>122.197.105.12: /* 関連項目 */</p>
<hr />
<div>[[File:Constitution de 1852. Page 1 - Archives Nationales - AE-I-29.jpg|thumb|1852年憲法]]<br />
'''1852年憲法'''({{lang-fr|Constitution de 1852}})は、[[ナポレオン3世|シャルル・ルイ・ナポレオン・ボナパルト]](ナポレオン3世)によって1852年1月14日に公布され、1852年12月25日に若干修正されて、[[フランス第二帝政|第二帝政]]の基を築いた憲法である。<br />
<br />
== 採択 ==<br />
ルイ・ナポレオンは{{仮リンク|1851年12月2日のクーデター|en|French coup d'état of 1851}}で[[フランス第二共和政|第二共和政]]を事実上崩壊させた。同日、ルイ・ナポレオンはフランス人民に向けて「人民への訴え({{lang|fr|Appel au peuple}})」を布告し、伯父[[ナポレオン・ボナパルト]]に倣い「[[第一統領]]によって創設された制度({{lang|fr|le système créé par le Premier consul}})」を復活する意向を表明した。<br />
<br />
ルイ・ナポレオンのクーデターは1851年12月20日と21日の[[国民投票|プレビシット]]で承認された。この投票はかなり誇張され、92%が賛成票を投じたと発表された。この圧勝を受け、ルイ・ナポレオンは側近の{{仮リンク|ウジェーヌ・ルエール|label=ルエール|en|Eugène Rouher}}、{{仮リンク|エルネスト・バロッシュ|label=バロッシュ|fr|Ernest Baroche}}、{{仮リンク|レイモン=テオドール・トロロン|label=トロロン|fr|Raymond-Théodore Troplong}}らに新憲法の起草を急がせ、新憲法が1852年1月14日に公布された。<br />
<br />
この憲法は、1852年11月7日の[[セナテュス=コンシュルト|元老院決議]]で修正され、[[ボナパルト朝|ルイ・ナポレオンの一族]]による世襲の帝政を復活するものとした。この修正条項もプレビシットで承認された(これもかなり誇張され、97%が賛成票を投じたとされた)。1852年12月2日に第二帝政の成立が宣言され、1852年12月25日に帝国憲法が公布されたが、1月14日の憲法からの目立った変更点はなかった。<br />
<br />
== 皇太子大統領 ==<br />
この憲法は、[[アンシャン・レジーム]]や革命後の[[制限選挙]]王政({{lang|fr|monarchie censitaire}})を拒絶し、[[フランス革命]](「1789年に宣言された偉大な諸原理を承認し、確認し、保障する({{lang|fr|reconnaît, confirme et garantit les grands principes proclamés en 1789}})」<ref>1852年憲法1条</ref>とうたっている)そして何よりも[[フランス第一帝政|第一帝政]]をそのよりどころとした。<br />
<br />
ルイ・ナポレオンは、人間の中に民主主義が息づかなければならず、この憲法が伯父[[ナポレオン・ボナパルト]]流の民主主義的[[ボナパルティズム|帝政]]への回帰だという信念を持っていた。この体制の特徴は[[普通選挙]]に支えられた個人の強権政治にあり、[[国民主権|人民主権]]をその正当化根拠とした点でそれまでの[[立憲君主制|立憲王政]]と異なる。<br />
<br />
== 権力の配分 ==<br />
=== 個人統治 ===<br />
この憲法は、大統領の任期を10年に延長し、多選を制限しなかった<ref>1852年憲法2条</ref>。この憲法の規定のもとで、ルイ・ナポレオン・ボナパルトは当然に新しい任期で大統領に再選されたものとして扱われた。<br />
<br />
大統領には全執行権と立法に関する権限が与えられた<ref>1852年憲法6条、4条</ref>。大統領は、陸海軍を指揮し、恩赦権のほか条約締結権を有するものとされた<ref>1852年憲法6条、9条</ref>。また、大統領は、大臣任免権と立法院解散権を有するものとされた<ref>1852年憲法6条、46条</ref>。<br />
<br />
大統領を補佐する[[国務院 (フランス)|国務院]]は、大統領が指揮監督・主宰し、法案の起草・推進に当たるものとされた<ref>1852年憲法49条ないし51条</ref>。<br />
<br />
大統領は、法案提出権、すべての法律および元老院決議の公布権、その公布の拒否権を有するものとされた<ref>1852年憲法4条、8条、10条</ref>。<br />
<br />
このように強大な権限が大統領のもとに集中していたため、第二帝政の成立が宣言された際、わずかに変更された点といえば、「大統領」が「[[フランス皇帝|皇帝]]」に読み替えられ、世襲の帝位となったこと程度しかなかった。<br />
<br />
=== 弱体な議会 ===<br />
2つの[[国会 (フランス)|議会]]は圧倒され、限られた権限しか持たなかった。<br />
<br />
[[立法院 (フランス)|立法院]]([[統領政府]]・第一帝政時代の[[下院]]と同名)は、[[直接選挙]]かつ[[普通選挙]]によって選出される任期6年の議員<ref>1852年憲法36条、38条</ref>260人からなるが、[[ゲリマンダー|恣意的な選挙区割り]]と官選候補制度が大統領(皇帝)を支持する立候補者に有利に働いた。立法院は、法案修正を審議したり<ref>1852年憲法40条</ref>、大臣の行為を問責したりすることはできず<ref>1852年憲法13条</ref>、政府がその議長を任命するなど<ref>1852年憲法43条</ref>、議院自律権もなかった。<br />
<br />
[[元老院 (フランス)|元老院]]は、大統領によって任命される終身議員80人ないし150人からなる<ref>1852年憲法19条ないし21条</ref>。元老院は、[[セナテュス=コンシュルト|元老院決議]]を発して統治機構を再編し<ref>1852年憲法27条</ref>、法律の合憲性を審査することができるものとされた<ref>1852年憲法25条、26条</ref>。<br />
<br />
== 議会帝政への構造転換 ==<br />
やがて、勅令や元老院決議によって憲法が修正され、徐々に議会の権限が拡張された。1860年、ナポレオン3世は勅語奉答を復活し、元老院・立法院両議院が政府の行為について意見することを認めた。立法院は、1861年にその議事録の公表が認められ、1867年に政府に対する問責質問権を獲得し、1869年に法案提出権と法案修正権を獲得した。<br />
<br />
== 脚注 ==<br />
{{Reflist|2}}<br />
<br />
== 参考文献 ==<br />
* 山本, 浩三「[https://doors.doshisha.ac.jp/duar/repository/ir/10473/?lang=0 第二帝政の憲法(一)訳]」『同志社法學』11巻(2号)、同志社法學會、88-97頁、1959年9月30日、{{NAID|110000400924}}<br />
* 山本, 浩三「[https://doors.doshisha.ac.jp/duar/repository/ir/10482/?lang=0 第二帝政の憲法(二)完・訳]」『同志社法學』11巻(3号)、同志社法學會、77-88頁、1959年11月30日、{{NAID|110000400931}}<br />
<br />
== 関連項目 ==<br />
* {{Wikisourcelang-inline|fr|Constitution du 14 janvier 1852|1852年憲法{{fr icon}}}}<br />
<br />
{{フランスの憲法}}<br />
<br />
{{DEFAULTSORT:けんほう1852}}<br />
[[Category:フランス第二帝政]]<br />
[[Category:フランスの憲法典|1852]]<br />
[[Category:1852年のフランス]]<br />
[[Category:1852年の法]]<br />
[[Category:ナポレオン3世]]</div>
122.197.105.12
ルイ・ボナパルト
2018-07-11T17:49:53Z
<p>122.197.105.12: /* 出典 */</p>
<hr />
<div>{{基礎情報 君主<br />
| 人名 = ローデウェイク1世<br />
| 各国語表記 = Lodewijk I<br />
| 君主号 = ホラント王<br />
| 画像 = LouisBonaparte Holland.jpg<br />
| 画像サイズ = 200px<br />
| 画像説明 = [[チャールズ・ハワード・ホッジス]]画、[[1805年]]<br />([[アムステルダム国立美術館]]蔵)<br />
| 在位 = [[1806年]][[6月5日]] - [[1810年]][[7月1日]]<br />
| 戴冠日 = <br />
| 別号 = サン=ルー伯<br />
| 全名 = ルイ・ナポレオン・ボナパルト<br />
| 出生日 = [[1778年]][[9月2日]]<br />
| 生地 = [[ファイル:Pavillon royal de France.svg|border|25px]] [[フランス王国|フランス]]、[[コルシカ島|コルシカ]]、[[アジャクシオ]]<br />
| 死亡日 = {{死亡年月日と没年齢|1778|9|2|1846|7|25}}<br />
| 没地 = [[ファイル:Flag of the Grand Duchy of Tuscany (1840).svg|border|25px]] [[トスカーナ大公国|トスカーナ]]、[[リヴォルノ]]<br />
| 埋葬日 = <br />
| 埋葬地 = {{FRA}}、[[イル=ド=フランス地域圏|イル=ド=フランス]]、[[w:en:Saint-Leu-la-Forêt|サン=ルー=ラ=フォレ]]<br />
| 継承者 = <br />
| 継承形式 = <br />
| 配偶者1 = [[オルタンス・ド・ボアルネ]]<br />
| 子女 = ナポレオン・シャルル<br />[[ナポレオン・ルイ・ボナパルト|ナポレオン・ルイ]]<br />[[ナポレオン3世|シャルル・ルイ=ナポレオン]]<br />
| 王家 = [[ボナパルト朝|ボナパルト家]]<br />
| 王朝 = <br />
| 王室歌 = <br />
| 父親 = [[シャルル・マリ・ボナパルト]]<br />
| 母親 = [[マリア・レティツィア・ボナパルト]]<br />
}}<br />
'''ルイ・ボナパルト'''('''Louis Bonaparte''', [[1778年]][[9月2日]] - [[1846年]][[7月25日]])は、[[シャルル・マリ・ボナパルト]]の五男で[[ナポレオン・ボナパルト]]の弟。兄によって、帝国顕官国民軍総司令官の職、[[ホラント王国]]の王位、サン=ルー伯爵の称号を与えられた。ホラント国王としての名はローデウェイク1世(フランス語の Louis はオランダ語では '''Lodewijk''' となる)。<br />
<br />
兄の[[イタリア遠征]]や[[エジプト遠征]]に参加した。のちに[[リウマチ]]にかかる。<br />
<br />
兄の妻[[ジョゼフィーヌ・ド・ボアルネ]]の連れ子である[[オルタンス・ド・ボアルネ]]と結婚した。オルタンスとの間には男子3人が生まれた。<br />
<br />
* ナポレオン・シャルル・ボナパルト(1802年 - 1807年)<br />
* [[ナポレオン・ルイ・ボナパルト]](1804年 - 1831年):ホラント王ローデウェイク2世<br />
* シャルル・ルイ=ナポレオン・ボナパルト(1808年 - 1873年): [[フランス第二帝政|フランス]]皇帝[[ナポレオン3世]]<br />
<br />
しかし陰気な性格のルイと、ジョゼフィーヌに似て陽気で社交的なオルタンスとは性格が合わず、夫婦仲は悪かった。<br />
<br />
[[フランス革命戦争]]の結果、[[オランダ]]には[[1795年]]にフランスの衛星国家[[バタヴィア共和国]]が成立していた。ナポレオンはオランダを[[イギリス]]侵攻のための基地と位置づけ、自らの意思に即応できる体制を整えるため、ルイを自分の代理としてオランダに派遣した。ルイは[[1806年]]6月22日に[[デン・ハーグ|ハーグ]]に入り、バタヴィア共和国は[[ホラント王国]]に改組されて、ルイがホラント国王に即位した。<br />
<br />
しかしルイは兄の傀儡ではなかった。オランダ人の利益にも配慮し、オランダの王としての責務を良心的に果たした。内政や経済復興にも関心を示し、[[ナポレオン法典]]の導入や[[カトリック教会]]の復権などを実現し、一方で[[徴兵制]]の導入を拒否した。[[大陸封鎖令]]にも反対したが、このことと密貿易の横行、さらに[[1809年]]にイギリス軍が[[ゼーランド州]]に上陸したことなどもあって、ナポレオンは[[1810年]]に2万人の軍隊をオランダへ派遣する一方、ルイを退位させた。ルイは[[ボスニア]]に[[亡命]]した。ルイの退位後、ホラント王国はルイの次男ナポレオン・ルイを即位させ、ローデウェイク2世と名乗らせたが、10日後にはホラント王国は[[フランス第一帝政|フランス帝国]]に併合され、[[シャルル=フランソワ・ルブラン]]が総督としてアムステルダムに駐在した。<br />
<br />
また、同じ1810年にルイはオルタンスと離婚した。子供のうち三男のシャルル・ルイ=ナポレオンはオルタンスが引き取って育てた。<br />
<br />
== 人物 ==<br />
ナポレオンは兄弟たちをフランスの[[フリーメイソン]]の高位職につけた。ルイも[[1804年]]に{{仮リンク|フランス・グラントリアン|fr|Grand Orient de France}}の副グランドマスター(グランドマスターは兄[[ジョゼフ・ボナパルト|ジョゼフ]])に任じられた{{sfn|湯浅慎一|1990|p=139}}<ref>{{Cite web |url=http://freemasonry.bcy.ca/biography/bonaparte_n/bonaparte_n.html |title=Napoleon I |accessdate= 2015-09-04 |work= [http://freemasonry.bcy.ca/grandlodge.html Grand Lodge of British Columbia and Yukon] |language= 英語 }}</ref>。<br />
<br />
== 参考文献 ==<br />
* {{Cite book|和書|author=[[湯浅慎一]]|date=1990|title=フリーメイソンリー その思想、人物、歴史|series = [[中公新書]]955|publisher=[[中央公論社]]|ISBN=978-4121009555|ref=harv}}<br />
<br />
== 出典 ==<br />
{{脚注ヘルプ}}<br />
{{Reflist|1}}<br />
<br />
{{オランダ君主|ホラント国王}}<br />
{{先代次代|[[ボナパルト朝#帝位請求者|ボナパルト家家長<br />フランス帝位請求者]]|[[1844年]] - [[1846年]]|[[ジョゼフ・ボナパルト]]|[[ナポレオン3世]]}}<br />
<br />
{{history-stub}}<br />
{{DEFAULTSORT:ほなはると るい}}<br />
[[Category:ホラント国王|るい]]<br />
[[Category:ボナパルト家|るい]]<br />
[[Category:コルシカの人物]]<br />
[[Category:フランス第一帝政の人物]]<br />
[[Category:ナポレオン3世]]<br />
[[Category:金羊毛騎士団員]]<br />
[[Category:フランスの亡命者]]<br />
[[Category:フランスのフリーメイソン]]<br />
[[Category:1778年生]]<br />
[[Category:1846年没]]</div>
122.197.105.12
ルイ・ボナパルトのブリュメール18日
2018-07-11T17:45:41Z
<p>122.197.105.12: /* 関連項目 */</p>
<hr />
<div>[[File:Marx EighteenthBrumaire.JPG|thumb|200px|『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』は1852年に『革命』紙に掲載された。]]<br />
{{マルクス主義}}<br />
<br />
『'''ルイ・ボナパルトのブリュメール18日'''』({{lang-de|''Der 18te Brumaire des Louis Bonaparte''}})は、[[カール・マルクス]]の著書。<br />
<br />
本書『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』は、1848年の[[1848年のフランス革命|二月革命]]に始まる[[フランス第二共和政]]における諸階級の政治闘争が[[フランス第二帝政|フランス皇帝]][[ナポレオン3世]]の{{仮リンク|フランス・クーデター (1851年)|fr|Coup d'État du 2 décembre 1851|en|French coup of 1851|label=クーデター}}を成立させた過程について分析した評論で、「[[ボナパルティズム]]」という言葉を世の中に定着させた。<br />
<br />
== 概説 ==<br />
フランス第二共和政の歴史は、自由民主主義が実現していく歴史であった。<br />
<br />
[[1848年のフランス革命|二月革命]]によって成立した臨時政府は、成人男子選挙権にもとづく新選挙法を公布し、[[生存権]]・[[労働権]]・[[団結権]]などの市民的諸権利を承認したほか、[[言論の自由]]・[[出版の自由]]の保障を約束し、10時間労働制を導入して失業者を雇用する[[国立作業場]]の設置を決定した<ref name="河野(1982)58-66">[[#河野(1982)|河野(1982)]] pp.58-66</ref>。<br />
<br />
しかし、フランス第二共和政下の民主主義は保守派による批判と攻撃の中で勢力を弱めて、やがて、[[ルイ・ナポレオン]]の大統領当選と1851年クーデターによって、わずか3年9カ月という短命さでその歴史を閉じる<ref name="河野(1982)5-6">[[#河野(1982)|河野(1982)]] pp.5-6</ref>。マルクスは[[唯物史観]]に基づいてフランスの革命と反革命の展開を考察し、[[フランス第二帝政]]成立の歴史的原因を解明した<ref name="河野(1982)213">[[#河野(1982)|河野(1982)]] p.213</ref>。<br />
<br />
{{main|1848年のフランス革命|フランス第二共和政|唯物史観}}<br />
<br />
== 沿革 ==<br />
<br />
マルクスによる本書の執筆は、[[共産主義者同盟]]の古くからの同志であった{{仮リンク|ジョゼフ・ヴァイデマイヤー|en|Joseph Weydemeyer}}から、{{仮リンク|フランス・クーデター (1851年)|fr|Coup d'État du 2 décembre 1851|en|French coup of 1851|label=1851年12月2日のクーデター}}に関してニューヨークで発行を計画中の週刊誌への寄稿を求められたことに起因する<ref name="岩波文庫版(1954)7">[[#岩波文庫版(1954)|岩波文庫版(1954)]] p.7</ref>。ヴァイデマイヤーはマルクスと同い年の友人で、プロイセン軍の士官であり、ジャーナリストであった。1846年にブリュッセルで設立された共産主義通信委員会に参加し、正義者同盟から改称した共産主義者同盟にも参加した。1848年革命に参加し、翌年49年『新ドイツ新聞』の編集者となった。1851年にアメリカに亡命した後は新雑誌『革命(ディ・レヴォルティオーン)』({{lang-de-short|''Die Revolution''}})の創刊を目指して活動し、マルクスに論文の寄稿を依頼した<ref name="平凡社版(2008)247">[[#平凡社版(2008)|平凡社版(2008)]] p.247</ref>。12月16日、マルクスはマンチェスターにいたエンゲルスに相談を持ちかけたところ、エンゲルスから論文を執筆してみてはどうかという提案がなされた。そのときの手紙でエンゲルスは次のように語っている。<br />
<br />
{{quotation|「今日昼に受け取ったヴァイデマイヤーの手紙を同封する……金曜日の晩までにかれのところへ論文を送ってくれという要求はちと無理だ、―とくに今の状態では。しかし、今こそ人々はフランス史について論断とよりどころを切に求めているのだ。そして、ここで情勢について何かはっきりしたことをいうことができれば、それで彼の企画が最初の号で成功するということになろう。だが、厄介なのはそういうものを書くということだ、そしていつものように難しいことは君に任せる。僕が何を書くにしてもクラピュリンスキーのねらいうち(ボナパルトのクーデター)ではないことだけは確かだ。いずれにしてもそれについて君は彼に外交的に退路を残した画期的な論文を書いてやることができる」<ref name="岩波文庫版(1954)229">[[#岩波文庫版(1954)|岩波文庫版(1954)]] p.229</ref>}}<br />
<br />
マルクスはエンゲルスの助言で早速執筆に取り掛かり、12月19日、ヴァイデマイヤーに第一章を送付することを約束した。この約束は病気のために果たされなかったが、明けて1月1日に最初の原稿が、2月13日に続きが送られた。その間、ヴァイデマイヤーの週刊誌発刊の計画は資金面の障害により挫折していたが、マルクスは諦めずに執筆を続け、三月中で全部の原稿が送られた。5月、ヴァイデマイヤーの不定期雑誌『革命』第一号に『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』として公表されたのである<ref name="岩波文庫版(1954)229-230">[[#岩波文庫版(1954)|岩波文庫版(1954)]] pp.229-230</ref>。<br />
<br />
== 本書の内容 ==<br />
=== 基調となる歴史認識 ===<br />
<br />
本書の扱っている時期は1848年の[[1848年のフランス革命|二月革命]]から{{仮リンク|フランス・クーデター (1851年)|fr|Coup d'État du 2 décembre 1851|en|French coup of 1851|label=1851年12月2日のクーデター}}までを内容としているが、これは1850年3月までの時期を扱った{{仮リンク|『フランスにおける階級闘争』|en|The Class Struggles in France 1848-1850}}も同時期を扱っており、共に[[1848年革命]]とその帰結に関するマルクスの歴史観を読み取ることができる。この両著は、[[唯物史観|階級闘争史観]]を下敷きに革命後の政治過程に評論を加えるという基本性格を共有しているため内容上の差異はない。ただし、『階級闘争』では先に待ち受けているであろう展望を見据えた見解が提示されている。これに対して『ブリュメール18日』の場合はルイ・ナポレオンのクーデターという革命の結末部分を目撃して執筆されているという意味で「歴史の皮肉性」を強調したものとなった<ref name="岩波文庫版(1954)230-231">[[#岩波文庫版(1954)|岩波文庫版(1954)]] pp.230-231</ref>。<br />
<br />
本書は非常に有名な言葉に始まる。<br />
<br />
{{quotation|「[[ヘーゲル]]はどこかで、すべての偉大な世界史的な事実と世界史的人物はいわば二度現れる、と述べている。彼はこう付け加えるのを忘れた。一度目は偉大な悲劇として、二度目はみじめな笑劇として、と。[[ジョルジュ・ダントン|ダントン]]の代わりにコシディエール、[[ロベスピエール]]の代わりにルイ・ブラン、1793~1795年の[[ジャコバン派|モンターニュ派]]の代わりに1848~1851年の[[ジャコバン派|モンターニュ派]]、小男の伍長と彼の元帥の円卓の騎士団の代わりに、借金を抱えた中尉を手当たり次第かき集めて引き連れたロンドンの警官!天才の[[ブリュメールのクーデター|ブリュメール18日]]の代わりに白痴のブリュメール18日!そしてブリュメール18日の第二版が出版された状況も、これと同じ戯画である。一度目はフランスが破産の瀬戸際にあったが、今度はボナパルト自身が債務者留置所に入る瀬戸際だった。……。<br />
<br />
人間は自分自身の歴史を創るが、しかし、自発的に、自分が選んだ状況の下で歴史を創るのではなく、すぐ目の前にある、与えられた、過去から受け渡された状況の下でそうする。すべての死せる世代の伝統が悪夢のように生きているものの思考にのしかかっている。そして、生きている者たちは、自分自身と事態を根本的に変革し、いままでになかったものを創造する仕事を携わっているように見えるちょうどそのときでさえ、まさにそのような革命的危機の時期に、不安そうに過去の亡霊を呼び出して自分のたちの役に立てようとし、その名前、鬨の声、衣装を借用して、これらの由緒ある衣装に身を包み、借り物の言葉で、新しい世界史の場面を演じようとしているのである。」<ref name="平凡社版(2008)15-16">[[#平凡社版(2008)|平凡社版(2008)]] pp.15-16</ref>}}<br />
<br />
とりわけ、冒頭部分が注目に値する。<br />
<br />
「偉大な悲劇」が、1799年11月9日(共和暦8年霧月18日)、[[ナポレオン・ボナパルト]]が[[フランス革命]]をクーデターで流産させたことを意味しており、「みじめな笑劇」が、その甥のルイ・ボナパルトが、第二共和制の下で民主的に大統領に選出されながら、同じく1851年12月2日にクーデターで共和制を流産させ、大統領権限を大幅に強化した新憲法を制定して独裁体制を樹立し、翌年には[[国民投票]]を経て皇帝に即位し第二帝政を樹立して、ナポレオン3世と自らを称したことを意味している。この二つの事件は相互に直接的には関係ないが、マルクスの目から見れば、クーデタで共和政を崩壊させた点では伯父と甥とは歴史的に同じ役割を果たしたことになるから、「ルイ・ボナパルトのブリュメール18日」という表現には「大きな皮肉」が込められていることになる<ref name="平凡社版(2008)291-293">[[#平凡社版(2008)|平凡社版(2008)]] pp.291-293</ref>。<br />
<br />
冒頭に続く部分からは「歴史は繰り返す」という点を元に、過去の歴史的状況を対比させることにはルイ・ナポレオンのクーデターを「戯画」として読者に印象付けようとするマルクスの意図が込められている。マルクスは、二つの革命に登場した共和派と反動勢力の相克はフランス革命をなぞったものと理解し、革命の歴史的成果を矮小化させたと批判した。<br />
<br />
さらに、諸勢力を率いる指導者たちを歴史という舞台で過去の台本を演じるコミカルなキャラクターとして描写しようとした<ref name="鹿島(2004)10-12">[[#鹿島(2004)|鹿島(2004)]] pp.10-12</ref>。マルクスは革命の矮小化と同時にナポレオンに対しても矮小化が生じたことを感じ取り、「彼ら(フランス国民)は昔のナポレオンのマンガ版を手に入れただけでなく、19世紀半ばにはそう見えるに違いないのだが、昔のナポレオン自身をマンガにしてしまった」と語った<ref name="平凡社版(2008)20">[[#平凡社版(2008)|平凡社版(2008)]] p.20</ref>。こうした歴史の結果に第一帝政を模倣し平凡化した第二帝政が始動したと描写している。<br />
<br />
マルクスは第2版へのマルクスの序文の中でこの著作の特徴を、クーデターを青天の霹靂というべき不意打ちだったと語った[[ヴィクトル・ユゴー]]の『小ナポレオン』と二月革命から生じた歴史的な不可避の帰結であったと指摘する[[ピエール・ジョゼフ・プルードン|プルードン]]の『クーデタ』とを比較して、「私が証明しているのは逆であって、フランスにおける[[階級闘争]]というものが事態や情況を作り出して、そのおかげで、平凡で馬鹿げた一人物が主役を演じることができるようになったということなのだ。」と述べている。マルクスは、1851年12月2日のクーデターがナポレオン・ボナパルトのクーデタの時とは異なり、ルイ・ボナパルトの能力や実力によって可能になったのではなく、フランスにおける階級闘争の激化が左右両翼の諸党派を共倒れさせ、結果的にルイ・ナポレオンの台頭とその後のクーデターを可能にしたという点を示そうとした<ref name="平凡社版(2008)198">[[#平凡社版(2008)|平凡社版(2008)]] p.198</ref>。<br />
<br />
また、上記マルクスの叙述の後半部分からは、歴史における社会的条件づけの優位性を示唆している。革命の歴史の記憶が強く作用してクーデターを可能にさせたのだと考え、ナポレオンのクーデターをフランスの革命史の伝統が創り出した事件であると見ていることが読み取れる。クーデターは個人的な自由意志による行動としてではなく、階級闘争の激化、革命の前途への漠然とした不安感が人々を捕え、かつて存在した第一帝政への軌跡についての追憶から自由の放棄と独裁への転落という道を歩ませたのだと指摘している。<br />
<br />
== 日本語訳 ==<br />
*[[伊藤新一]]、[[北条元一]]訳 [[岩波文庫]] [[1954年]][[9月25日]]<br />
*[[植村邦彦]]訳、[[柄谷行人]]解説 [[平凡社ライブラリー]] [[2008年]][[9月]]<br />
*[[市橋秀泰]]訳、[[新日本出版社・科学的社会主義の古典選書]] [[2014年]][[1月10日]]<br />
http://e-hon.cloudpages.jp/viewer/asp/9784_406_057707<br />
<br />
==参考文献==<br />
*{{Cite book|和書|author=[[鹿島茂]]|date=2004年(平成16年)|title=怪帝ナポレオンIII世 第二帝政全史|publisher=[[講談社]]|isbn=978-4062125901|ref=鹿島(2004)}}<br />
*{{Cite book|和書|author=[[喜安朗]]|date=1994年|title=夢と反乱のフォブール―1848年パリの民衆運動|publisher=[[山川出版社]]|ref={{harvid|喜安朗|1994}}}}<br />
*{{Cite book|和書|author=[[河野健二]] |year=1982 |title=現代史の幕あけ―ヨーロッパ1848年 |publisher=岩波書店|ref={{harvid|[河野健二]]|1982}}}}<br />
*{{Cite book|和書|author=[[アレクシス・ド・トクヴィル]]|translator=[[喜安朗]]||date=1988年|title=フランス二月革命の日々―トクヴィル回想録|publisher=[[岩波書店]]|ref={{harvid|[トクヴィル]]|1988}}}}<br />
*{{Cite book|和書|author=[[カール・マルクス]],[[フリードリヒ・エンゲルス]],マルクス=レーニン主義研究所|year=1962 |translator=[[大内兵衛]],[[細川嘉六]]|title=マルクス・エンゲルス全集 (8)|publisher=[[大月書店]]|ref={{harvid|マルクス, エンゲルス|1962}}}}<br />
*{{Cite book|和書|author=[[ジョージ=リューデ]]|year=1982|translator=[[古賀秀男]] |title=歴史における群衆―英仏民衆運動史1730ー1848|publisher=[[法律文化社]]|ref={{harvid|ジョージ=リューデ|1982}}}}<br />
*{{Cite book|和書|author={{仮リンク|トリストラム・ハント|en|Tristram Hunt}} |translator=[[東郷えりか]] |year=2016 |title=エンゲルス: マルクスに将軍と呼ばれた男 |publisher=筑摩書房|ref={{harvid|ハント|2016}}}}<br />
*{{Cite book|和書|author={{仮リンク|フランシス・ウィーン|en|Francis Wheen}}|translator=[[田口俊樹]]|date=2002年(平成14年)|title=カール・マルクスの生涯|publisher=[[朝日新聞社]]|isbn=978-4022577740|ref=ウィーン(2002)}}<br />
*{{Cite book|和書|author=[[小牧治]]|date=1966年(昭和41年)|title=マルクス|series=人と思想20|publisher=[[清水書院]]|isbn=978-4389410209|ref=小牧(1966)}}<br />
*{{Cite book|和書|author=[[ジャック・アタリ]]|translator=[[的場昭弘]]||date=2014年|title=世界精神マルクス|publisher=[[藤原書店]]|ref={{harvid|[アタリ]]|2014}}}}<br />
*{{Cite book|和書|author=[[E・H・カー]]|translator=[[石上良平]]|date=1956年(昭和31年)|title=カール・マルクス その生涯と思想の形成|publisher=[[未来社]]|ref=カー(1956)}}<br />
<br />
==脚注==<br />
{{reflist|colwidth=20em}}<br />
<br />
== 関連項目 ==<br />
*[[ブリュメールのクーデター]] - [[1799年]][[11月9日]]に発生した[[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン1世]]のクーデター。<br />
*[[唯物史観]]<br />
*[[マルクス主義]]<br />
*[[フランス革命]]<br />
*[[フランス帝国]]<br />
<br />
{{マルクス=エンゲルスの著作}}<br />
{{philos-stub}}<br />
{{book-stub}}<br />
{{DEFAULTSORT:るいほなはるとのふりゆめるしゆうはちにち}}<br />
[[Category:マルクスとエンゲルスの著作]]<br />
[[Category:1850年代の書籍]]<br />
[[Category:マルクス主義]]<br />
[[Category:フランス第二帝政]]<br />
[[Category:ナポレオン3世]]</div>
122.197.105.12
セダンの戦い
2018-07-11T17:44:18Z
<p>122.197.105.12: </p>
<hr />
<div>{{出典の明記|date=2012年10月}}<br />
{{Battlebox|<br />
battle_name = セダンの戦い<br />
|campaign = 普仏戦争<br />
|colour_scheme = background:#cccccc<br />
|image = [[画像:Karte zur Schlacht bei Sedan (01.09.1870).jpg|300px]]<br />
|caption = セダンの戦い<br />
|conflict = [[普仏戦争]]([[1870年]][[7月19日]] - [[1871年]][[5月10日]])<br />
|date = 1870年[[9月1日]]<br />
|place = [[フランス]]北東部[[アルデンヌ県]][[スダン]]近郊<br />
|result = [[プロイセン王国]]の勝利<br />
|combatant1 = {{PRU1803}}<br />{{BAY}}<br />
|combatant2 = {{FRA1852}}<br />
|commander1 = [[ファイル:Flag of the Kingdom of Prussia (1803-1892).svg|border|25px]] [[ヴィルヘルム1世 (ドイツ皇帝)|ヴィルヘルム1世]]<br />[[ファイル:Flag of the Kingdom of Prussia (1803-1892).svg|border|25px]] [[ヘルムート・カール・ベルンハルト・フォン・モルトケ|大モルトケ]]<br />
|commander2 = {{flagicon|FRA}} ナポレオン3世<br />
|strength1 = 200,000<br />火砲 774門<br />
|strength2 = 120,000<br />火砲 564門<br />
|casualties1 = 戦死傷 9,000<br />
|casualties2 = 戦死傷 17,000<br />捕虜・降伏103,000<br />
|}}<br />
<br />
'''セダンの戦い'''(セダンのたたかい、{{lang-de-short|Schlacht von Sedan}}、{{lang-fr-short|Bataille de Sedan}})は、[[普仏戦争]]における戦いの1つ。この戦いに参加したフランス軍の主力は全面降伏した上、最高司令官たる[[ナポレオン3世]]が捕虜となったため、戦争の趨勢を定めた戦いとなった。セダンは'''[[スダン]]'''と表記することもある。<br />
<br />
== 概要 ==<br />
[[メス攻囲戦]]でフランス陸軍主力がドイツ第1軍及び第2軍に包囲されていたため、これを救援すべく[[シャロン=アン=シャンパーニュ|シャロン]]では陸軍を編成した。これに気付いた[[ヘルムート・カール・ベルンハルト・フォン・モルトケ|大モルトケ]]率いるドイツ軍は第3軍をもってフランス軍を急襲し、打撃を被ったフランス軍は一時撤退して弾薬の補給と兵士の休息を行った。間もなく第3軍はセダン(スダン)に到着し、フランス軍はこれを確認するも、消耗のために直ちに撤退することはできなかった。そのため、包囲されたままセダンで戦うこととなった。フランス陸軍は包囲を突破する努力を続けたが、火砲を駆使するプロイセン軍により、司令官の[[パトリス・ド・マクマオン|マクマオン]]将軍が負傷し、兵員も多数負傷したため、降伏するに至った。<br />
<br />
ナポレオン3世の体たらくにフランス国民は失望し、[[フランス第二帝政]]は終焉を迎えた。とはいえ戦争は終わらず、メス攻囲戦はフランスの敗北という結果となったが、この後も普仏戦争は続いた。<br />
<br />
{{History-stub}}<br />
{{War-stub}}<br />
{{France-stub}}<br />
<br />
{{DEFAULTSORT:せたんのたたかい}}<br />
[[Category:1870年の戦闘]]<br />
[[Category:1870年のフランス]]<br />
[[Category:普仏戦争]]<br />
[[Category:ドイツの戦闘]]<br />
[[Category:フランスの戦闘]]<br />
[[Category:プロイセンの戦闘]]<br />
[[Category:シャンパーニュ=アルデンヌの歴史]]<br />
[[Category:ナポレオン3世]]</div>
122.197.105.12
ウジェニー・ド・モンティジョ
2018-07-11T17:37:00Z
<p>122.197.105.12: /* 参考文献 */</p>
<hr />
<div>{{基礎情報 皇后<br />
|名 = ウジェニー<br>{{Lang|fr|Eugénie}}<br />
|画像 = Eugénie; keizerin der Fransen (2).jpg<br />
|画像幅 = 200px<br />
|画像代替文 = <br />
|画像説明 = 1853年、フランス皇后ウジェニー<br>([[フランツ・ヴィンターハルター|ヴィンターハルター]]画)<br />
|在位期間 = [[1853年]][[1月30日]] - [[1870年]][[9月4日]]<br />
|立后 = [[1853年]][[1月30日]]<br />
|廃后 = <br />
|出生日 = {{生年月日と年齢|1826|5|5|no}}<br />
|生地 = {{ESP1785}}、[[グラナダ]]<br />
|死亡日 = {{死亡年月日と没年齢|1826|5|5|1920|7|11}}<br />
|没地 = {{ESP1785}}、[[マドリード]]<br />
|入内 = <br />
|結婚 = <br />
|皇后 = <br />
|皇太夫人 = <br />
|皇太后 = <br />
|太皇太后 = <br />
|女院 = <br />
|大喪儀 = <br />
|陵所 = <br />
|身位 = <br />
|地位 = フランス皇后<br />
|敬称 =<br />
|諱 = マリア・エウヘニア・イニャシア・アグスティナ・デ・パラフォクス・イ・キルクパトリック<br>Doña María Eugenia Ignacia Agustina de Palafox y Kirkpatrick, Condesa de Teba<br />
|命名年月日 = <br />
|氏族 = [[ボナパルト朝|ボナパルト家]]<br />
|旧名 =<br />
|女院号 = <br />
|諡号 = <br />
|異称 = <br />
|戒名 =<br />
|幼称 = <br />
|お印 =<br />
|父親 = [[シプリアーノ・パラフォクス・イ・ポルトカレッロ]]<br />
|母親 = [[マリア・マヌエラ・キルクパトリック]]<br />
|配偶者1 = [[ナポレオン3世]]<br />
|配偶者2 = <br />
|配偶者3 = <br />
|子女 = [[ナポレオン・ウジェーヌ・ルイ・ボナパルト|ナポレオン・ウジェーヌ・ルイ・ジャン・ジョゼフ・ボナパルト]](ナポレオン4世)<br />
|養子女 = <br />
|皇居 = <br />
|宮廷首脳人物 = <br />
|宮廷首脳人物2 =<br />
|宮廷女房 = <br />
|空欄表題1 = 埋葬日<br />
|空欄記載1 = [[1920年]]<br />
|空欄表題2 = 埋葬地<br />
|空欄記載2 = {{GBR}}、[[ハンプシャー]]、[[:en:Farnborough, Hampshire|ファーンバラ]]、[[:en:St Michael's Abbey, Farnborough|聖マイケル修道院]]<br />
|空欄表題3 = 宗教<br />
|空欄記載3 = [[カトリック教会|ローマ・カトリック教会]]<br />
|空欄表題4 = <br />
|空欄記載4 = <br />
|役職 = <br />
|親署 = Empress Eugénie Signature.jpg<br />
|脚注 = <br />
}}<br />
'''ウジェニー・ド・モンティジョ'''({{Lang-fr|Eugénie de Montijo}}, [[1826年]][[5月5日]] - [[1920年]][[7月11日]])は、[[フランス第二帝政|フランス皇帝]][[ナポレオン3世]]の[[皇后]]。<br />
<br />
テバ伯爵令嬢'''マリア・エウヘニア・イニャシア・アグスティナ・デ・パラフォクス・イ・キルクパトリック'''({{Lang-es|María Eugenia Ignacia Agustina de Palafox y Kirkpatrick, Condesa de Teba}})として生まれ、結婚にともない、'''フランス皇后ウジェニー'''({{Lang-fr|Eugénie, Impératrice des Français}})となった。<br />
<br />
==生涯==<br />
===少女期===<br />
[[ファイル:Winterhalter Eugenie 1855.jpg|thumb|right|300px|「ウジェニー皇后と女官たち」[[フランツ・ヴィンターハルター|ヴィンターハルター]]画]]<br />
[[スペイン]]・[[グラナダ]]において、テバ伯爵・モンティホ伯爵・アルガバ侯爵およびペニャルダ公爵の称号を持つ[[グランデ|スペイン貴族]]ドン・[[シプリアーノ・パラフォクス・イ・ポルトカレッロ]]と、[[スコットランド人]]の父とベルギー人の母の血を引く[[マリア・マヌエラ・キルクパトリック]]の間に生まれた。ドン・シプリアーノは[[ボナパルティズム|ボナパルト主義]]者であった。マヌエラの父、クローゼンバーン出身のウィリアム・カークパトリックは在[[マラガ]]の[[アメリカ合衆国]][[領事]]で、後に大手の[[ワイン]]販売業者となった。エウヘニアの1つ上の姉[[マリア・フランシスカ・デ・サレス・ポルトカレッロ|マリア・フランシスカ・デ・サレス]]もまた「パカ」の愛称で知られる。2人は1834年から1838年までパリの[[サンジェルマン・デ・プレ|サンジェルマン]]地区ヴァレンヌ街にある[[サクレクール寺院]]女子修道院で教育を受けていた。そこでは彼女は、揺るぎない[[カトリック教会|カトリック]]としての教えを受ける。ここは厳格なカトリック教育をすることで知られており、ここでの日々はエウヘニアの信仰に大きな影響をもたらした。エウヘニア・デ・モンティホの名はサクレクールで学んでいる頃から[[フランス]]国内で知れ渡ることになる。<br />
<br />
エウヘニア姉妹は家族内では[[フランス語]]を日常語として使い、[[スペイン語]]を正式に読み始めたのは12歳のときからである。幼い頃から父に連れられ乗馬をし、時には焚き火をし野営もするような遠乗りに出かけている。[[水泳]]も幼い頃から好んだスポーツである。11歳の頃に[[ブリストル]]にあるイギリス系の学校に姉妹は入れられたが、家庭教師と共に姉妹は脱走してしまう。この頃、[[プロスペル・メリメ|メリメ]]の紹介で小説家の[[スタンダール]]と知り合っている。母のサロンに2人が現れるとウジェニーたちは彼らの話に夢中になった。メリメはウジェニーの生涯の友となっている。エウヘニアが13歳の時、最愛の父ドン・シカプリアーノは亡くなった。父が亡くなると母マヌエラとの仲はあまりうまくいかなくなった。<br />
<br />
姉のパカは家族の栄典のほとんどを相続し、[[1849年]]に幼馴染の第15代[[アルバ公]]{{仮リンク|ハコポ・フィツ=ハメス・ストゥアルト (第15代アルバ公)|label=ハコポ・フィツ=ハメス・ストゥアルト|en|Jacobo Fitz-James Stuart, 15th Duke of Alba}}と結婚した。アルバ公に恋をしていたウジェニーは、いつかはアルバ公に嫁ぎたいと願っていたが、母は静かな性格のパカをアルバ公に嫁がせたのだ。失恋の痛手から男装しマドリードの町を煙草を吸いながら闊歩したり、裸馬で町を疾走したり、闘牛場に男装して現れるなどの奇行が5年ほど続いた。しかし愛してやまない姉夫妻を友人として認めることにし、生涯の友人となった。カトリックの教えが一時は自殺も考えたエウヘニアを救ったのである。<br />
<br />
===美しきテバ女伯 ===<br />
エウヘニアは21歳の時に亡き父の持っていた多数の称号を受け継いだ。[[1853年]]に結婚するまでは「テバ女伯」あるいは「モンティホ女伯」などの称号を色々使用していた。しかし、家族の称号の中には法的に姉が相続し、[[アルバ公|アルバ家]]に渡ったものもある。父の死後、エウヘニアは第9代テバ女伯になり、『{{仮リンク|ゴータ年鑑|en|Almanach de Gotha}}』にその名が載った。ウジェニーの死後、モンティホ家の称号の全てが、フィツ=ハメス・ストゥアルト家(アルバ公およびベルウィック公)の下に渡った。<br />
<br />
この頃、エウヘニアはフランスの[[社会主義]]理論家の[[シャルル・フーリエ]]が提唱する独自の社会主義思想に傾倒してゆく。元々フランスで学んでいた頃から社会主義思想に興味を持っていたエウヘニアだが、25歳になる頃にはこの考えにはついて行けなくなっていた。<br />
<br />
父親譲りの勇敢さと彼女の美しさの評判はフランスだけではなく、やがてヨーロッパ各国へ伝わって行った。彼女は各国の王侯貴族から求婚されているが、すべてを断り続け、やがて「鉄の処女」と言われるようになる。<br />
<br />
1848年にルイ=ナポレオン・ボナパルトが[[フランス第二共和政|第二共和政]]の大統領になると、エウヘニアは母とともに[[エリゼ宮]]での「皇子大統領」({{Lang|fr|Prince-Président}})主催の舞踏会に姿を現した。これが彼女が未来の皇帝と出会った最初の機会であった。<br />
<br />
[[1853年]][[1月30日]]、エウヘニアは前年にフランス皇帝ナポレオン3世に即位していたルイ=ナポレオンと、[[ノートルダム大聖堂 (パリ)|ノートルダム大聖堂]]で結婚式を挙げた。それまでの短い間に、ナポレオン3世は[[カロラ・ヴァーサ|カロラ・フォン・ヴァーサ]]([[スウェーデン]]の廃王[[グスタフ4世アドルフ (スウェーデン王)|グスタフ4世アドルフ]]の元王太子[[グスタフ (ヴァーサ公)|ヴァーサ公]]の娘、後に[[ザクセン王国|ザクセン]]王[[アルベルト (ザクセン王)|アルベルト]]の妃となる)、さらに[[ヴィクトリア (イギリス女王)|ヴィクトリア女王]]の異父姉[[フェオドラ・ツー・ライニンゲン|フェオドラ]]の10代の娘[[アーデルハイト・ツー・ホーエンローエ=ランゲンブルク|アーデルハイト]]との縁談を断わっていた。<br />
<br />
=== 論争を呼んだ結婚 ===<br />
[[ファイル:Disderi, Adolphe Eugène (1819-1890) - French emperor Napoléon III and his wife Eugenie - 1865.jpg|thumb|left|200px|[[ナポレオン3世]]とウジェニー]]<br />
[[1853年]][[1月22日]]の玉座からの演説において、ナポレオン3世は公式に彼自身の婚姻を発表した。いわく「朕は朕のことを知らない女性よりも、朕が愛し、尊敬できる女性を望んできた。彼女によって同盟はいくらの犠牲を混ぜつつ優位を有し続けることになるであろう」<br />
<br />
1月29日に[[テュイルリー宮殿]]で2人は公使らに見守られ結婚式が行われた。翌日には[[ノートルダム大聖堂 (パリ)|ノートルダム寺院]]でパリ大司教の元に結婚式がもう一度行われた。<br />
<br />
いわゆる、「愛の駆け引き」は[[イギリス]]のいくつかの風刺的なコメントによって見上げられた。『[[タイムズ]]』誌は以下のような事を書いた。「わたしたちは、フランス帝国の年代記におけるこのロマンティックな出来事が以後最も強い反対と呼ばれてきたことを学び、極度の苛立ちを刺激した」と。ヴィクトリア女王も「下品で気がきかない縁組」と公式にコメントしている。<br />
<br />
皇帝一族、内閣、そして宮中の下層グループやその隣人たちでさえ、誰もがこぞってこの結婚を驚きべき恥辱と認識するふりをした。多くの称号と伝統ある血統を受け継ぐ26歳のスペインの伯爵令嬢だが、彼女は[[ボナパルト家]]に十分にふさわしいとは思われなかった(もっともボナパルト家も2代前までは辺境[[コルシカ島|コルシカ]]の小貴族にすぎず、[[フランス革命|大革命]]の混乱に乗じて成り上がった帝室・王家であるが)のである。<br />
<br />
[[1855年]]、イギリス王室からの招待で、皇帝と共に[[イギリス]]を公式訪問した。結婚を反対されたヴィクトリア女王らと会うのが非常に気がかりであったウジェニーであるが、この公式訪問は大成功に終わった。[[クリミア戦争]]における同盟関係を結び、ウジェニーはヴィクトリア女王から非常に気に入られ、2人は生涯の友人となった。ウジェニーは公式訪問の際にヴィッキー王女(女王の長女[[ヴィクトリア (ドイツ皇后)|ヴィクトリア]]、後のドイツ皇后)にそっくりな人形をプレゼントし、その後は人形に着させるドレスをフランスから贈り続け、最新流行のドレスをヴィッキーが着られるように配慮している。ヴィクトリア女王からは画家の[[フランツ・ヴィンターハルター]]を紹介され、多くの肖像画を残している。翌年の[[パリ万国博覧会 (1855年)|パリ万国博覧会]]にはイギリス訪問のお礼に、イギリス王室の人々をフランスに招待した。[[1856年]]3月16日、ウジェニーは皇子を生んだ。[[ナポレオン・ウジェーヌ・ルイ・ボナパルト|ナポレオン・ウジェーヌ・ルイ・ジャン・ジョゼフ・ボナパルト]](ナポレオン4世)である。<br />
<br />
ウジェニーの美しさ、気品とマナーの魅力は皇帝支配の輝きに貢献した。彼女は、[[パウリーネ・フォン・メッテルニヒ|パウリーネ・メッテルニヒ]]と大変親密な友人関係を持っていた。パウリーネは在フランス・[[オーストリア帝国|オーストリア]][[大使]]の妻であった。フランス宮廷での彼女は社会的、文化的生活に重要な役割を演じる。<br />
<br />
ウジェニーが[[1855年]]に着けた新しい骨組みの[[クリノリン]]は、ヨーロッパの宮廷ファッションに流行を巻き起こした。そして彼女が、1860年代の終わりに大きなスカートを捨てると、彼女の伝説めいた宮廷人[[シャルル・フレデリック・ウォルト]]の奨励によって、ウジェニーのファッションは再び流行となった。<br />
<br />
ウジェニーの貴族的気品、ドレスの豪華さおよび伝説的な宝石は数え切れない絵画、特に彼女のお気に入りの画家[[フランツ・ヴィンターハルター]]によって記録されている。ウジェニーの[[マリー・アントワネット]]の生涯への興味は、[[ルイ16世 (フランス王)|ルイ16世]]の頃に人気があった[[新古典主義|新古典様式]]の家具とインテリアデザインが宮廷の装飾に多用された。「[[シック]]」という表現はウジェニーの宮廷や第二帝政を表現する言葉であったと言われる。また、ウジェニーはマリー・アントワネットの肖像画や遺品をコレクションし、それらを集めた展覧会も開き成功したが、中には悲劇の王妃に傾倒する皇后を心配する人々もいた。<br />
<br />
煌びやかさや美しさだけが評価を受けるウジェニーだが、実はフランスに嫁いで間もなくから慈善活動に力を入れており、公務の合間には深々とヴェールをかぶり、お忍びで慈善バザーや病院を見舞っていた。女性の社会活動にも影響があった。[[1866年]]には女性を初めて[[電報局]]で雇用している。<br />
<br />
ウジェニーはフランスで教育を受け、大変知性があったので、ナポレオン3世はよく重要な問題を彼女に相談していた。そして[[1859年]]、[[1865年]]および[[1870年]]の皇帝の留守の間、彼女は[[摂政]]として行動した。カトリックで保守的なウジェニーの影響力は、帝政のあらゆるリベラル勢力と対立した。彼女は、[[イタリア]]での[[教皇]]の世俗権力の忠実な守護者であり、[[ウルトラモンタニズム|ウルトラモンタニスト]]であった。このためウジェニーは憎まれ、しばしばフランスの[[反教権主義|反教権主義者]]によって中傷された。<br />
<br />
=== 普仏戦争以後 ===<br />
[[ファイル:L'impératrice Eugénie en deuil 1873.jpg|2oopx|thumb|喪服姿のウジェニー]]<br />
[[普仏戦争]]でフランスが敗れ、[[フランス第二帝政|第二帝政]]が覆された後、皇后は夫とともに[[イギリス]]へと亡命し、[[ケント (イングランド)|ケント州]]の{{仮リンク|チズルハースト|en|Chislehurst}}に居住した。イギリスでは王室や国民に歓迎され、丁重に扱われた。皇帝の死(1873年)から12年後、彼女は[[ハンプシャー]]の{{仮リンク|ファーンバラ (ハンプシャー)|label=ファーンバラ|en|Farnborough, Hampshire}}にある別荘“Cyrnos”(古代[[ギリシア語]]で[[コルシカ島|コルシカ]]を意味する)に引っ越した(彼女は同じ名前の別荘を、かつて[[カンヌ]]近くのカプ=マルタン({{Lang|fr|Cap-Martin}})に建てていた)。そこは彼女が、フランスの政治に一切干渉せずに余生を過ごした場所となった。<br />
<br />
ウジェニーは1920年7月に死去した。94歳であった。アルバ公を訪ねて[[スペイン]]の[[マドリード]]に滞在していた際の死であった。彼女はファーンバラの{{仮リンク|聖マイケル修道院 (ファーンバラ)|label=聖マイケル修道院|en|St Michael's Abbey, Farnborough}}に、夫と、[[1879年]]に[[南アフリカ]]の[[ズールー戦争]]で戦死した息子ナポレオン・ウジェーヌともに埋葬された。<br />
<br />
ウジェニーは様々な親戚に財産を遺した。彼女の不動産は[[アルバ家]]に嫁いだ姉の孫が相続した。ファーンバラの別荘は全てのコレクションともに、夫の従弟[[ナポレオン・ジョゼフ・シャルル・ポール・ボナパルト|ナポレオン公]]の息子、「ナポレオン5世」こと[[ナポレオン・ヴィクトル・ボナパルト]]が相続し、Cyrnos荘はさらにその妹レティティアに渡った。[[動産]]は[[ランス (マルヌ県)|ランス]]の[[ノートルダム大聖堂 (ランス)|大聖堂]]再建委員会に譲渡された10万フランを除いて、近親者に与えられた。<br />
<br />
ウジェニーの没落した家族の友好協会は、[[1887年]]にイギリスで、彼女が[[ヴィクトリア・ユージェニー・オブ・バッテンバーグ]](後にスペイン王[[アルフォンソ13世 (スペイン王)|アルフォンソ13世]]の妃になる)の代母になった時に結成された。[[バルモラル城]]で生まれたヴィクトリア・ユージェニーは、[[スコットランド]]の[[改革長老教会|長老派教会]]の洗礼を受けていて、この洗礼は初期の[[エキュメニズム]]の例だった。1世紀後、[[1990年]]に生まれた[[アンドルー (ヨーク公)|ヨーク公アンドルー]]の次女は[[ユージェニー・オブ・ヨーク|ユージェニー]]と命名された。<br />
<br />
皇后は宇宙にも記念されている。[[小惑星]][[ウジェニア (小惑星)|ウジェニア]]は彼女にちなんで命名され、その衛星[[プティ・プランス (衛星)|プティ・プランス]]は彼女の息子にちなんで命名された。<br />
<br />
==称号==<br />
* {{Lang|es|''Doña''<ref>[[ドン (尊称)]]を参照。</ref> Maria Eugenia Ignacia Augustina Palafox de Guzmán Portocarrero y Kirkpatrick}}(誕生時から父の死まで)<br />
* ''Her Excellency Doña'' Maria Eugenia Ignacia Augustina Palafox de Guzmán Portocarrero y Kirkpatrick, 9th Countess de Teba (父の死亡時から結婚まで)<br />
* ''Her Imperial Majesty The Empress of the French'' (1853年-1871年)as well as ''Her Imperial Majesty The Empress-Regent'' during several periods (including Italian, Crimean and Franco-Prussian wars)<br />
* ''Her Imperial Majesty'' Empress Eugénie of the French (1871年-1920年)<br />
<br />
==関連項目==<br />
{{Commonscat|Eugénie de Montijo}}<br />
* [[クリノリン]]<br />
* [[ゲラン]] - [[香水]]・{{Lang|fr|EAU IMPERIALE eau de cologne}}を彼女のために作っている<br />
<br />
== 脚注 ==<br />
{{Reflist}}<br />
<br />
==参考文献==<br />
翻訳の際、参考にしたもの。<br />
*{{Cite book|和書|author=窪田般彌|title=皇妃ウージェニー―第二帝政の栄光と没落|series=白水社Uブック|publisher=[[白水社]]|year=2005|isbn=4-560-72081-9}}(c0222、単行本は1991年刊行)<br />
<br />
{{先代次代|フランス皇后|1853年 - 1870年|[[マリア・ルイーザ (パルマ女公)|マリー=ルイーズ]]|―}}<br />
{{Normdaten}}<br />
<br />
{{DEFAULTSORT:もんていしよ うしえにい}}<br />
[[Category:フランス第二帝政の人物]]<br />
[[Category:フランス皇后|うしえにい]]<br />
[[Category:フランスの摂政|うしえにい]]<br />
[[Category:フランスのソーシャライト]]<br />
[[Category:女性摂政]]<br />
[[Category:ナポレオン3世|うしえにい]]<br />
[[Category:フランスの亡命者]]<br />
[[Category:ポルトカレッロ家|うしえにい]]<br />
[[Category:スペイン系フランス人]]<br />
[[Category:グラナダ出身の人物]]<br />
[[Category:1826年生]]<br />
[[Category:1920年没]]</div>
122.197.105.12
フランス第二共和政
2018-07-11T17:35:25Z
<p>122.197.105.12: /* 関連項目 */</p>
<hr />
<div>{{基礎情報 過去の国<br />
|略名 =フランス <br />
|日本語国名 = フランス共和国<br />
|公式国名 = {{lang|fr|'''République française'''}}<br />
|建国時期 = 1848年<br />
|亡国時期 = 1852年<br />
|先代1 = 7月王政<br />
|先旗1 = Flag of France.svg<br />
|先代2 = <br />
|先旗2 = <br />
|次代1 = フランス第二帝政<br />
|次旗1 = Flag of France.svg<br />
|次代2 = <br />
|次旗2 = <br />
|国旗画像 = Flag of France.svg<br />
|国旗リンク = <!-- リンクを手動で入力する場合に指定 --><br />
|国旗幅 = <!-- 初期値125px --><br />
|国旗縁 = <!-- no と入力すると画像に縁が付かない --><br />
|国章画像 = Great Seal of France.svg<br />
|国章リンク = <!-- リンクを手動で入力する場合に指定 --><br />
|国章幅 = <!-- 初期値85px --><br />
|標語 = [[自由、平等、友愛]]<br />
|標語追記 = <br />
|国歌 = [[Le Chant des Girondins]]<br />
|国歌追記 = <br />
|位置画像 = France1848.PNG<br />
|位置画像説明 = <br />
|位置画像幅 = <!-- 初期値250px --><br />
|公用語 = [[フランス語]]<br />
|首都 = [[パリ]]<br />
|元首等肩書 = [[フランスの首相|臨時政府議長]]、[[フランスの大統領|大統領]]<br />
|元首等年代始1 = 1848年<br />
|元首等年代終1 = 1848年<br />
|元首等氏名1 = [[ジャック=シャルル・デュポンドルール]]<br />
|元首等年代始2 = 1848年<br />
|元首等年代終2 = 1848年<br />
|元首等氏名2 = [[フランソワ・アラゴ]]<br />
|元首等年代始3 = 1848年<br />
|元首等年代終3 = 1848年<br />
|元首等氏名3 = [[ルイ=ウジェーヌ・カヴェニャック]]<br />
|元首等年代始4 = 1848年<br />
|元首等年代終4 = 1852年<br />
|元首等氏名4 = [[ナポレオン3世|シャルル・ルイ=ナポレオン・ボナパルト]]<br />
|首相等肩書 = <br />
|首相等年代始1 = <br />
|首相等年代終1 = <br />
|首相等氏名1 = <br />
|首相等年代始2 = <br />
|首相等年代終2 = <br />
|首相等氏名2 = <br />
|面積測定時期1 = <br />
|面積値1 = <br />
|面積測定時期2 = <br />
|面積値2 = <br />
|人口測定時期1 = <br />
|人口値1 = <br />
|人口測定時期2 = <br />
|人口値2 = <br />
|変遷1 = [[1848年のフランス革命|革命]]<br />
|変遷年月日1 = 1848年2月24日<br />
|変遷2 = {{仮リンク|フランス・クーデター (1851年)|fr|Coup d'État du 2 décembre 1851|en|French coup of 1851|label=1851年12月2日のクーデター}}<br />
|変遷年月日2 = 1851年12月2日<br />
|変遷3 = 帝政復古<br />
|変遷年月日3 = 1852年12月2日<br />
|通貨 = [[フランス・フラン]]<br />
|通貨追記 = <br />
|時間帯 = <br />
|夏時間 = <br />
|時間帯追記 = <br />
|ccTLD = <br />
|ccTLD追記 = <br />
|国際電話番号 = <br />
|国際電話番号追記 = <br />
|注記 = <br />
}}<br />
{{フランスの歴史}}<br />
<br />
'''フランス第二共和政'''(フランスだいにきょうわせい、{{lang-fr-short|Deuxième République}})は、[[1848年]]の[[1848年革命|二月革命]]から[[1852年]]の[[ナポレオン3世]]皇帝即位([[フランス第二帝政|第二帝政]]の成立)までの期間の[[フランス]]の政体を指す。<br />
<br />
第二共和政の発足当初は[[ブルジョワジー|ブルジョワ]]と[[社会主義]]者の協調が図られたが、実際の政策運営にあたって対立が先鋭化し、[[六月蜂起]]へと至った。これにより保守化したブルジョワ・農民は社会的安定を求めて強力な指導者を求め、一方で新政府に失望した[[労働者]]も強力な指導者による保護を求めた。こうした中、[[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン1世]]の威光を帯びた[[ナポレオン3世|ルイ=ナポレオン・ボナパルト]]が各層の広範な支持を得て権力を掌握し、1852年に皇帝に即位したことで第二共和政は崩壊した。本項は[[1848年のフランス革命]]の続きである。<br />
<br />
== フランス二月革命 ==<br />
<br />
=== 臨時政府の発足 ===<br />
<br />
[[1848年]]、[[1848年のフランス革命|二月革命]]により[[ルイ・フィリップ (フランス王)|ルイ・フィリップ]]が亡命したことで、[[7月王政|七月王政]]は終焉した<ref name="河野(1982)48">[[#河野(1982)|河野(1982)]] p.48</ref>。<br />
<br />
その後、共和派政治家[[アルフォンス・ド・ラマルティーヌ|ラマルティーヌ]]が中心となって王政の廃止が決定し、フランスは第二共和政へと移行した<ref name="河野(1982)49">[[#河野(1982)|河野(1982)]] p.49</ref>。[[フランス革命]]の経験者であった[[ジャック=シャルル・デュポンドルール|デュポンドルール]]が首班となって、ラマルティーヌなどの自由主義者だけでなく[[ジャコバン派]]の{{仮リンク|ルドリュ・ロラン|en|Alexandre Auguste Ledru-Rollin}}や[[ルイ・ブラン]]ら社会主義者を含む11人によって{{仮リンク|1848年の臨時政府|en|French Provisional Government of 1848}}が樹立されると、臨時政府は[[生存権]]・[[労働権]]・[[団結権]]などの市民的権利を承認した<ref name="河野(1982)50">[[#河野(1982)|河野(1982)]] p.50</ref>。さらに、パリ民衆とルイ・ブランの強い要求を踏まえて「[[国立作業場]]」と労働者のための{{仮リンク|リュクサンブール委員会|fr|Commission du Luxembourg}}の設立が定められた<ref name="河野(1982)84-86">[[#河野(1982)|河野(1982)]] pp.84-86</ref>。また、{{仮リンク|奴隷制の廃止の政令|fr|Décret d'abolition de l'esclavage du 27 avril 1848}}が発せられた他、[[言論の自由]]、[[出版の自由]]が保障され、200以上の新聞が発刊されることになった。<br />
<br />
=== 総選挙と保守派の勝利 ===<br />
<br />
3月初旬、憲法制定国民議会の開催にむけて、選挙に関して21歳以上の成人男子選挙権に基づく法令が示された<ref name="河野(1982)66">[[#河野(1982)|河野(1982)]] p.66</ref>。<br />
<br />
{{仮リンク|4月23日に国政選挙|en|French Constituent Assembly election, 1848}}が実施され、880人の議員によって議会が発足した。総選挙は穏健共和派と保守派の{{仮リンク|秩序党|en|Party of Order}}が躍進を果たし、[[社会主義者]]にとって極めて厳しい結果になった。そもそも地方には[[社会主義]]に共感を抱く層が少なかったことに加え、[[パリ]]でもかつての[[フランス革命]]のような急進的な[[ジャコバン派|ジャコバン独裁]]への恐怖感があったことから、社会主義者は議会に進出することができなかった。また、そもそも全国で選挙を行い各地の総意に基づいて政治を運営するということが、直接行動に訴えて革命の担い手となってきたパリ市民の地位を相対的に低下させることになっていた<ref name="河野(1982)91">[[#河野(1982)|河野(1982)]] p.91</ref>。<br />
<br />
左翼陣営は自らの政治的主張を実現できないと考え、徐々に直接行動を激化させていった。そして、新議会で国立作業場が閉鎖されたことを契機に、パリの労働者が大規模な武装蜂起を起こした。これがいわゆる[[六月蜂起]]である。4日間の流血戦を経て蜂起は鎮圧され、政府側703名、労働者側3035名に及ぶ多数の死者を出した<ref name="河野(1982)104-109">[[#河野(1982)|河野(1982)]] pp.104-109</ref><ref name="鹿島(2004)59-60">[[#鹿島(2004)|鹿島(2004)]] pp.59-60</ref>。この事件により、それまで共闘してきた[[ブルジョワ]]と[[プロレタリアート]]の関係が決裂した。政府側を支持するブルジョワは、反政府的な労働者による[[社会主義革命]]を警戒するようになり、これまでのように革命の担い手にはならなくなった。むしろ、社会の安穏を求めて保守化した政府を支持するようになるのである。こうして、[[市民革命]]の時代は終焉へと向かった。<br />
<br />
{{main|1848年のフランス革命}}<br />
<br />
== 第二共和政の過渡期 ==<br />
<br />
=== 社会主義者狩り ===<br />
<br />
六月蜂起の鎮圧後、暫定的に政治を担ったのが軍人[[ルイ=ウジェーヌ・カヴェニャック|カヴェニャック]]であった。カヴェニャックは「秩序の勝利」を謳い、国内反動派の秩序党と王政各国政府からの世界的賞賛を浴びたが、同時に第二共和政の死を早める存在となった。<br />
<br />
カヴェニャックが最初に取り組んだのは蜂起の鎮圧と容疑者探しであった。<br />
<br />
6月26日、蜂起の原因を究明する調査委員会が発足し、オルレアン派の{{仮リンク|オディロン・バロー|en|Odilon Barrot}}が委員長に就任した。委員会の目的は[[ルイ・ブラン]]や{{仮リンク|コーシディエール|en|Marc Caussidière}}など社会主義者を糾弾し、蜂起に関係していたとして責任を追及するとともに、支持を失わせることが目的となった。議会はバローの調査報告を受けて二人の社会主義者の問責を承認した。このときルドリュ・ロランはカヴェニャックと密約を結んで追及をかわした。[[言論の自由]]は否定され言論統制が進行、「労働の権利」が政府文書から消され、10時間労働制は廃止され、労働者の待遇改善など先進的な社会政策が否定されるようになった。蜂起に関わったとされた労働者のアルジェリア流刑が進められた<ref name="河野(1982)144-145">[[#河野(1982)|河野(1982)]] pp.144-145</ref>。<br />
<br />
=== ルイ・ナポレオンの復帰 ===<br />
<br />
社会主義者狩りが進行していた頃、或る亡命者が表舞台に登場しようとしていた。共和派軍人カヴェニャックが皮肉にも六月蜂起の弾圧者となったことを喜び、「この男は私のために道を掃いているのだ」と語った男、[[ルイ・ナポレオン]]である<ref name="河野(1982)162">[[#河野(1982)|河野(1982)]] p.162</ref><ref name="鹿島(2004)61">[[#鹿島(2004)|鹿島(2004)]] p.61</ref>。<br />
<br />
1848年6月、彼はブリテンに亡命中であったが、6月の補欠選挙で立候補して当選を果たした。[[ピエール・プルードン]]、[[アドルフ・ティエール]]、[[ヴィクトル・ユゴー]]もこの選挙で当選した<ref name="河野(1982)160">[[#河野(1982)|河野(1982)]] p.160</ref>。だが、[[ルイ・ナポレオン]]は外国政府や反動勢力からの資金援助と支持を受けて政治活動を図り、やがて共和制の敵になることが疑われた要注意人物であった。議会では危険な亡命者が議席に就くことを承認するか否かで議論が紛糾した。ラマルティーヌは「共和国のなかの一徒党がいかに光輝ある名前を装っていたとしても、われわれはそのヴェールを引き裂き、その名前の背後に徒党しか見ないのだ」と語った<ref name="河野(1982)160">[[#河野(1982)|河野(1982)]] p.160</ref>。しかし、母国政府での不信をよく弁えていた[[ルイ・ナポレオン]]は、賢明にも議席に就くことを辞退するとともに、議会で共和国への忠誠を表明した<ref name="河野(1982)161">[[#河野(1982)|河野(1982)]] p.161</ref><ref name="鹿島(2004)58">[[#鹿島(2004)|鹿島(2004)]] p.58</ref>。議会多数を占めていた秩序党はルイ・ナポレオンに誠実さを感じ入り、彼のフランスへの復帰を承認するとともに、その政治的復権の道を開くことになった。ルイ・ナポレオンは一連の芝居によって議会内に同調勢力を作り出し、その後の政治的基盤の形成に成功したのである<ref name="鹿島(2004)59">[[#鹿島(2004)|鹿島(2004)]] p.59</ref>。<br />
<br />
[[ファイル:Napoleon-3.jpg|thumb|150px|1848年のルイ・ナポレオン]]<br />
<br />
ルイ・ナポレオンの権力への道に貢献した人物に保守派の{{仮リンク|ファルー公爵|en|Frédéric Alfred Pierre, comte de Falloux}}がいた。ファルーは共和派のカヴェニャックに民衆を弾圧させるという汚れ仕事をさせるべく陰謀をめぐらせていた。歴史はファルーの思惑通りに展開、国立作業場を閉鎖して民衆の蜂起を誘発してカヴェニャックがこの蜂起を鎮圧、共和派は同士討ちを演じた。共和派を構成する[[自由主義者]]と[[社会主義者]]、[[ブルジョワ]]と[[プロレタリア]]は反目しあう関係になり、相互不信が広まていった。弾圧者としての役割を果たしたカヴェニャックにもはや利用価値は無かった。ルイ・ナポレオンとファルーら{{仮リンク|秩序党|en|Party of Order}}の思惑は一致し、カヴェニャック降ろしのために共闘するようになる<ref name="河野(1982)161-162">[[#河野(1982)|河野(1982)]] pp.161-162</ref>。<br />
<br />
1848年9月、再び補欠選挙が実施された。ルイ・ナポレオンは圧倒的な支持で当選を果たした<ref name="河野(1982)162">[[#河野(1982)|河野(1982)]] p.162</ref><ref name="鹿島(2004)61">[[#鹿島(2004)|鹿島(2004)]] p.61</ref>。この選挙ではすでに一議員の存在としてではなく、ポスト・カヴェニャックの有力候補へと成長していた。しかし、25日にいざ議席に就いてみると、議会でのルイ・ナポレオンは長い亡命生活のゆえにフランス語の発音が下手で演説力に著しく欠き、政治家としての資質を備えているとはおよそ思えない七光り議員であった。保守派にとっても扱いやすい神輿と見なされていた<ref name="鹿島(2004)62">[[#鹿島(2004)|鹿島(2004)]] p.62</ref>。<br />
<br />
[[アドルフ・ティエール]]はルイ・ナポレオンについて「ただのバカ」と一言で評した。オルレアン派のレミュザは「鉛色の長い顔に鈍重な表情、ボアルネ家特有のだらしない口元をしている。顔が身体に比べて長すぎるし、胴も足に比べて長すぎる。動作が鈍く、鼻にかかった声でよく聞こえず、話し方も単調だ。ようするに外見からすると、非常に感じが悪い」と評した<ref name="鹿島(2004)62-63">[[#鹿島(2004)|鹿島(2004)]] pp.62-63</ref>。<br />
<br />
=== 憲法制定と大統領選挙 ===<br />
<br />
この間に憲法制定議会は、1)[[労働権]]、2)一院制、3)大統領選挙方法、4)大統領選挙期日をめぐって討議を展開した<ref name="河野(1982)163">[[#河野(1982)|河野(1982)]] p.163</ref>。<br />
<br />
[[1848年のフランス革命|革命]]の初期には熱烈に支持された労働権は「夢想家の感傷」だとか「職を持たない労働者に40スー(2フラン)の日当をやるための結構な発明品だ」とか揶揄された。結局「労働と産業の自由」が明記されることとなり、労働権は憲法から削除されることになった<ref name="河野(1982)163">[[#河野(1982)|河野(1982)]] p.163</ref>。続いて一院制に関して、バローは下院の独走を防ぐために第二院を設置することを求めたが、同時に執行府の独裁を阻止するために強力な一院制を設置することが決定、議会に対して参事院が設置され、立法審査のためのチェック機構となることが決した<ref name="河野(1982)163-164">[[#河野(1982)|河野(1982)]] pp.163-164</ref>。大統領については独裁者の登場が危惧され、国民投票ではなく議会による指名という方式も検討された。しかし、ラマルティーヌは大統領選に復権の機会を願っており、「いくらかは神の意志に残されるべきだ」と訴えて国民投票を強く支持した。大統領は国民投票によって直接選出することが決定され、大統領選挙は12月10日に実施することが定められた<ref name="河野(1982)164">[[#河野(1982)|河野(1982)]] p.164</ref>。<br />
<br />
議会は憲法の草案を完成させ、11月4日に議会で賛成796票・反対30票で採択され、12日に公布されることなった。このとき、戒厳令下での憲法制定は違法であるとして極右と極左が共に反対票を投じた。極左の代表者であった[[プルードン]]や[[ピエール・ルルー]]は労働権の削除に反対して抗議した<ref name="河野(1982)164">[[#河野(1982)|河野(1982)]] p.164</ref>。<br />
<br />
11月4日に憲法が採択され、第二共和政の政体が決められた。[[アメリカ合衆国]]の政治形態がモデルとなっており、議会(立法府)と大統領(行政府)は対等の関係であり、大統領は国民議会から独立して首相と閣僚を任免する権限を持つが、代わりに議会解散権は有さなかった。そのため大統領と議会が対立した場合には行政と立法間の捻じれの解消は困難であった。大統領・国会議員ともに成人男子による直接選挙で選出されるが、大統領選挙は有効投票数の過半数かつ最低200万票の得票が必要とされ、条件を満たした候補がいない場合には上位者5名の中から国民議会が決めるという制度になっていた。また、大統領の任期は4年であり、連続再選はできなかった。憲法からは長期政権を維持して政治の持続的なかじ取りが不可能な規定になっていた。こうした矛盾が後に致命的な落とし穴となっていく<ref name="河野(1982)165">[[#河野(1982)|河野(1982)]] p.165</ref><ref name="鹿島(2004)63">[[#鹿島(2004)|鹿島(2004)]] p.63</ref>。<br />
<br />
11月12日、カヴェニャックは憲法制定を祝して[[コンコルド広場]]で祭典を催したが、当日は早くも雪が降りしきり、軍と政府の高官ならびに司祭の列席があったものの一般民衆はこれに参加しなかった。祭典は軍と宗教によって財産家の秩序が勝利したという点を強調するものとなった。民衆が祭典に参加しなかったのは天候だけが理由ではない。民衆は王政に対して立ち上がったものの、その後に革命の成果と恩恵に十分に浴することができなかった。最大の理由は政府による弾圧を受けるに至った六月蜂起の傷が癒えていなかったためである。このような国民感情の悪化は大統領選挙に影響を及ぼした<ref name="河野(1982)165">[[#河野(1982)|河野(1982)]] p.165</ref>。<br />
<br />
[[ファイル:Election france 1848.jpg|thumb|200px|1848年のフランス大統領選挙の様子を描いた絵。ナポレオンのポスターを持った子供とカヴェニャック将軍のポスターを持った子供が喧嘩をしている。]]<br />
<br />
[[第二共和国憲法]]に従って大統領選挙が12月10日に行われることとなった。{{仮リンク|1848年フランス大統領選挙|fr|Élection présidentielle française de 1848}}には[[ルイ=ウジェーヌ・カヴェニャック|カヴェニャック]]将軍、[[アルフォンス・ド・ラマルティーヌ|ラマルティーヌ]]、{{仮リンク|アレクサンドル・ルドリュ=ロラン|label=ルドリュ=ロラン|fr|Alexandre Ledru-Rollin}}、{{仮リンク|フランシス=ヴィンセント・ラスパーユ|label=ラスパーユ|fr|François-Vincent Raspail}}、{{仮リンク|ニコラ・シャンガルニエ|label=シャンガルニエ|fr|Nicolas Changarnier}}将軍、そしてルイ・ナポレオンが出馬した。大統領選は有権者となってい久しい全国各地の民衆票を獲得することに主眼が置かれ、政策論争ではなく候補者間の中傷合戦で終始していった。<br />
<br />
その結果、[[ルイ・ナポレオン]]が[[ナポレオン1世]]の甥という出自を生かして各層の幅広い支持を得、543万票(得票率74.2%)を獲得して圧勝した。二位がカヴェニャックで144万票(得票率19.8%)を獲得。三位ルドリュ=ロランが37万票(得票率5%)、四位ラスパーユが3万6千票(得票率0.5%)、5位ラマルティーヌが1万7千票(得票率0.2%)6位シャンガルニエが4700票(得票率0.06%)という結果であった<ref name="河野(1982)186">[[#河野(1982)|河野(1982)]] p.186</ref><ref name="鹿島(2004)63-64,68">[[#鹿島(2004)|鹿島(2004)]] pp.63-64 p.68</ref>。<br />
<br />
カヴェニャックは大ブルジョワと主要メディアの支持を獲得し、議会共和派の全面的な信任を受けて立候補したが、共和派を結集することができず惨敗した。また、共和派の指導者ルドリュ=ロランとラマルティーヌは共に二月革命とその後の第二共和政の立役者であったが両者は新憲法を支持して曖昧な態度を採ったため決断力と指導力に欠けると見られ、また、カヴェニャックと同様「6月蜂起」での労働者への弾圧に対する嫌悪感から投票は忌避され、労働者の票は{{仮リンク|5月15日の議会乱入事件|en|French demonstration of 15 May 1848}}で逮捕され獄中立候補していたラスパーユに流出した。共和派は候補者の絞り込みもできず票が分散して民衆の支持も得られず敗北したのである<ref name="河野(1982)185">[[#河野(1982)|河野(1982)]] p.185</ref><ref name="鹿島(2004)63-64">[[#鹿島(2004)|鹿島(2004)]] pp.63-64</ref>。<br />
<br />
一方、ルイ・ナポレオンは秩序、宗教、家族、財産の擁護を前面に出し、戦争と帝政の復活への警戒感を和らげながら選挙戦を戦い、共和派の躍進と革命の続行を警戒する保守派と地方の農民層の支持を得た。また、ロシアなどの反動国家や主要な銀行から資金援助を受けて豊富な選挙資金を確保し、シャンソンをつくったりビラをまいたり口コミを生かした地道な広報戦略を駆使した。彼はラマルティーヌのような優柔不断なイメージ、カヴェニャックのような弾圧者のイメージもなく、ナポレオンの名を利用して人々の期待感を煽って多くの民衆の支持を得た。瞬く間に泡沫候補者から有力候補者へと駆け上がり、大統領選の当選者になったのである<ref name="河野(1982)182-184">[[#河野(1982)|河野(1982)]] pp.182-184</ref><ref name="鹿島(2004)66-67">[[#鹿島(2004)|鹿島(2004)]] pp.66-67</ref>。<br />
<br />
== ルイ=ナポレオン大統領 ==<br />
[[ファイル:Serment du président élu le 20 décembre 1848.JPG|thumb|200px|議会で宣誓するルイ・ナポレオン]]<br />
<br />
=== 大統領就任と首相指名 ===<br />
<br />
1848年12月22日、ルイ・ナポレオンは立法議会で宣誓して新大統領に就任した。彼は「皇太子=大統領(プランス=プレジダン)と呼ばれた<ref name="鹿島(2004)69">[[#鹿島(2004)|鹿島(2004)]] p.69</ref>。<br />
<br />
しかし、新政権発足は孤立無援からのスタートとなった。大統領に就任して首相を指名し組閣を命じなければならなかったが、議会の調整役となり政策を実行する役目を果たせる人物に当てがなかったのである。本来、こうした役割をルイ・ナポレオンの大統領選を支えた新聞王{{仮リンク|エミール・ジラルダン|en|Émile de Girardin}}といった人物が引き受けるべきであったが、ジラルダンは急進的な改革派で議会の調整役に不適格な人物であり、大統領の手足となりうる存在ではなかった<ref name="鹿島(2004)70">[[#鹿島(2004)|鹿島(2004)]] p.70</ref>。<br />
<br />
議会調整役としては革命前に政権を掌握していたオルレアン派が有望であったが、ルイ・ナポレオンは旧体制を支えていた派閥との妥協に消極的であった。しかし、背に腹を変えられないルイ・ナポレオンは[[アドルフ・ティエール]]に相談を持ちかけた。ティエールは政権運営の難航を予想して首相就任の任を引き受けなかったが、代打として同僚のオディオン・バローを推薦した。バローは傀儡として利用することができるが、[[サン・シモン|サンシモン主義]]を信奉していたルイ・ナポレオンが提示する社会改革を政策として具体化させ、貧困との戦いを通じて民衆を救うという政治構想を実現できる人物ではなかった。そのため、ルイ・ナポレオンは共和派のラマルティーヌに首相を引き受けてもらおうと散歩の道すがらで接触を試み、首相就任を引き受けてほしいと申し出た。ラマルティーヌは引退を決め込んでいたためこの申し出を拒絶し、バローを推薦しながら彼が拒否したら自分が引き受けると返答した。各派が首相指名を拒否して消去法的にバローが新首相に浮上し、バローも大統領の申し出を受諾して組閣に着手することになった<ref name="鹿島(2004)70">[[#鹿島(2004)|鹿島(2004)]] p.70</ref>。<br />
<br />
案の定、{{仮リンク|第一次オディオン・バロー内閣|en|First cabinet of Odilon Barrot}}は閣僚ポストをオルレアン派など王党派で固めた。したがって、ルイ・ナポレオンは『{{仮リンク|貧困の根絶|fr|Extinction du paupérisme}}』(1844年)で国立の集団農場を設置して入植者を未開拓地に派遣し、農業増産によって食糧価格の騰貴に対処する政策案を提示していたのだが、そこで描いた政策の立案も遂行も思うように進められず、何もできなままに時を浪費することとなった<ref name="鹿島(2004)49">[[#鹿島(2004)|鹿島(2004)]] p.49</ref>。彼は忍耐しながらも{{仮リンク|ハリエット・ハワード|en|Harriet Howard}}や女優の[[ラシェル・フェリックス]]、[[テオドール・シャセリオー|シャセリオー]]のモデルで愛人だった{{仮リンク|アリス・オジー|fr|Alice Ozy}}との関係を楽しみつつ、機会が訪れるのを待った<ref name="鹿島(2004)75">[[#鹿島(2004)|鹿島(2004)]] p.75</ref>。<br />
<br />
政権発足から半年が過ぎた[[1849年]]、{{仮リンク|5月13日の総選挙|en|French legislative election, 1849}}が実施される。このときの総選挙では保守派の秩序党が大勝、705議席中450議席を制して第一党に躍進した。また、ルドリュ・ロランら率いる{{仮リンク|山岳党(1849)|en|The Mountain (1849)}}は180議席へと議席を増やすことに成功した。しかし、カヴェニャック率いる{{仮リンク|穏健共和派|en|Moderate Republicans (France)}}は75議席へと転落した。山岳党が議席を伸長させたことは秩序党にとっては勝利を打ち消すほどの苦々しいものであった<ref name="鹿島(2004)77">[[#鹿島(2004)|鹿島(2004)]] p.77</ref>。<br />
<br />
=== ローマ侵攻 ===<br />
[[ファイル:Melchiorre Fontana - assalto delle truppe francesi a Roma nel 1849 -ca.1860.jpg|thumb|200px|1849年のフランス軍のローマ侵攻を描いた絵]]<br />
<br />
[[1848年革命]]の震源地[[イタリア]]では、革命派の力はまだ温存されていた。[[オーストリア帝国]]により国土の北半分を占領支配されていたイタリアでは、ナショナリズムの機運によって[[リソルジメント|統一運動]]が盛んになっていた。<br />
<br />
ローマでは[[教皇]][[ピウス9世]]の信頼の厚いローマ暫定政府首班{{仮リンク|ペレグリーノ・ロッシ|en|Pellegrino Rossi}}が暗殺されて暴動が起こり、教皇自らも市民軍によって軟禁される。1848年11月24日、教皇はローマを放棄して[[ガエータ]]に逃亡していた。1849年2月9日、[[ジュゼッペ・マッツィーニ]]を中心とした[[ローマ共和国]]が成立した。ルイ・ナポレオンは大統領選で勝利するためにカトリック勢力の支持を得ようと考え、教皇のローマ帰還を支援する約束をしていた。4月に入ると、ルイ・ナポレオンはオーストリアの南下を阻むためにイタリア派兵を決定した。5月の初め、フランス軍がローマに到着し、市内に入城しようとした際、ローマ共和国軍の激しい抵抗に遭って撃退されるという事件が起こる。ルイ・ナポレオンはローマに進軍してローマ共和国を崩壊させるべく増援を決定した<ref name="鹿島(2004)78-79">[[#鹿島(2004)|鹿島(2004)]] pp.78-79</ref>。<br />
<br />
[[File:Ledru-Rollin 1848.JPG|thumb|200px|1848年の{{仮リンク|アレクサンドル・ルドリュ=ロラン|label=ルドリュ=ロラン|fr|Alexandre Ledru-Rollin}}]]<br />
<br />
しかし、共和派新聞は出兵による外国革命への干渉を禁じた[[第二共和国憲法]]の条文を理由に政権批判を加えた。山岳党はイタリア問題を政治の焦点として定め選挙戦を展開し、議席を伸ばすことに成功した。6月に入ると再びローマ攻撃のニュースが入り、これを機にルドリュ・ロランは民衆に{{仮リンク|6月13日にデモ|fr|Journée du 13 juin 1849}}を呼びかけ、8000人の群衆がシャトー・ドーの広場に参集した。{{仮リンク|第二次オディオン・バロー内閣|en|Second cabinet of Odilon Barrot}}は事態に狼狽したが、これを好機と見たルイ・ナポレオンは左派勢力の一掃を図るべく戒厳令を発し、シャンガルニエ将軍とともにデモ隊鎮圧のために騎兵隊を派遣して群衆を一掃した。ルドリュ・ロランをはじめ山岳党の議員たちは拠点とした工業技術学院に立て籠もって抵抗したが、ルドリュ・ロランはベルギーに逃亡し、逃げ遅れた30名の議員が逮捕された<ref name="鹿島(2004)79">[[#鹿島(2004)|鹿島(2004)]] p.79</ref>。<br />
<br />
ルイ・ナポレオンは山岳党の蜂起を機に秩序党からクーデターを起こして共和派を一掃するように圧力をかけられた。<br />
<br />
しかし、ルイ・ナポレオンは腹心の[[ヴィクトール・ド・ペルシニー]]を伴なって全国遊説に赴き、秩序党の陰謀を世間に公表して共和政を守るべきだと訴えた。彼は秩序党の手先になるほど愚かではなく、左の革命と右のクーデターを拒否して政治の混乱に疲れた国民の信頼を獲得し、左右両派の対立を利用して自身の支持率向上の道具としたのである。また、復権したピウス9世が反動政治を強化しつつあることを知り、「フランスはイタリアの自由を圧殺するために軍隊を派遣したわけではない」としてこれを諌める書簡を送った<ref name="鹿島(2004)80">[[#鹿島(2004)|鹿島(2004)]] p.80</ref>。これは秩序党の反感を煽るものとなり、大統領と秩序党の決別のきっかけとなった。まもなく第二次オディオン・バロー内閣は退陣、ルイ・ナポレオン自身が新内閣の首班となって組閣をおこなう<ref name="鹿島(2004)81">[[#鹿島(2004)|鹿島(2004)]] p.81</ref>。<br />
<br />
=== 1851年クーデターまで ===<br />
<br />
ルイ・ナポレオンの政治は、「国内では秩序、権威、宗教、そして民衆の福祉、国外では国家の威信」を柱としたが、その政治は反動的なものであった。オルレアン派と穏健共和派の連立であったバロー内閣を退陣させる一方、議会内の勢力均衡の観点からブルボン王朝派の閣僚ファルー公爵との協調を重視し、彼が提出した教育改革法案通過を支援した。{{仮リンク|ファルー法|fr|Loi Falloux}}と呼ばれるこの法律により、中高等教育の私学の認可とカトリック教会を支持する宗教教育が導入され、共和派の教員のパージがおこなわれた<ref name="鹿島(2004)83-84">[[#鹿島(2004)|鹿島(2004)]] pp.83-84</ref>。こうした反動政策への反発から1850年3月の補欠選挙では30議席の改選議席の20議席を山岳党が占め、議席数を増やした<ref name="鹿島(2004)85">[[#鹿島(2004)|鹿島(2004)]] p.85</ref>。<br />
<br />
しかし、秩序党はこの敗北に危機感を感じ、左派の封じ込めを図ろうと巻き返しを始めた。<br />
<br />
成人男子選挙権を骨抜きにするために、選挙法を改正しようと試みた。左翼支持の都市部の急進的労働者から選挙権を取り上げるべく、居住資格を半年から3年に延長した。その結果、1000万人の都市労働者のうち、300万人が有権者資格を失うこととなった。とくにパリでの影響は大きく、有権者の62%が選挙権をはく奪されたと言われている。新選挙法は大統領選挙での議会の権限の強化も意味した。大統領選挙の有効得票数を200万票以上に規定されていたため、もし有効数に達しなかった場合には議会が上位3位から指名できた。山岳党は議会で反対の論陣を張ったが無謀な蜂起を避けた。1850年5月31日、新選挙法が議会を賛成多数で通過し、これにより議会は大統領指名の機会も高めた<ref name="鹿島(2004)85">[[#鹿島(2004)|鹿島(2004)]] p.85</ref>。同年6月9日、集会と結社の自由が禁止され、7月11日には新出版法により検閲が復活した。一方、ルイ・ナポレオンは新選挙法に反対の意思を表明したものの、成人男子選挙権の否定につながる政局に傍観を決め込んだ。彼は秩序党に反動の責任を押し付け、時が到来したら民衆の権利の擁護者として秩序党を処断するつもりでいた。<br />
<br />
秩序党はルイ・ナポレオンの排除のためにあらゆる工作を試みた。そのひとつがルイ・ナポレオンの俸給問題であった。ルイ・ナポレオンは支持者の支援を得るため、自身の俸給とハリエッタ・ハワードからの借金によって資金を調達して、全国遊説に歓呼を叫ぶ支持者部隊を動員しており、軍の兵士たちに御馳走を振る舞ったり有力者に贈賄を繰り返す賄賂政治に頼っていた。議会は大統領に不信感を抱いていたため俸給の支給を拒絶していたが、クーデターへの懸念から選挙法改正の協力に対する謝礼として臨時俸給260万フランを支給することを決定する<ref name="鹿島(2004)87-88">[[#鹿島(2004)|鹿島(2004)]] pp.87-88</ref>。<br />
<br />
ルイ・ナポレオンの最大の障害物は[[パリ軍事総督]]シャンガルニエ将軍であった。ルイ・ナポレオンはシャンガルニエ将軍が秩序党と結託してクーデターを計画していることを察知、1851年1月3日、先手を打って将軍を更迭した<ref name="鹿島(2004)92-93">[[#鹿島(2004)|鹿島(2004)]] pp.92-93</ref>。議会によるクーデターは阻止され、今度はルイ・ナポレオンがクーデターを試みる番となる。しかし、ルイ・ナポレオンは議会との平和共存のために大統領の再選禁止を規定する憲法第45条の修正を提案した。議会内でも大統領によるクーデターを回避する必要性が認識され、憲法改正の議論が積極的に交わされる。[[アレクシス・ド・トクヴィル]]も将来の政変の可能性を予測して憲法改正を支持したが、7月19日、6日をかけた議論の末に憲法改正案は賛成446票対反対278票で改正規定の三分の二に届かずに廃案となってしまう。かくして、ルイ・ナポレオンのクーデターは不可避となり、時期を待つのみとなった<ref name="鹿島(2004)95-97">[[#鹿島(2004)|鹿島(2004)]] pp.95-97</ref>。<br />
<br />
ルイ・ナポレオン大統領は選挙資格制限法の撤回を求めたが、提案を議会から拒絶されて、ついにクーデターを決意する<ref name="鹿島(2004)103">[[#鹿島(2004)|鹿島(2004)]] p.103</ref>。<br />
<br />
[[ファイル:Cavalerie rues paris (1851).jpg|thumb|200px|ルイ・ナポレオンのクーデターが決行された1851年12月2日のパリの様子を描いた絵。]]<br />
<br />
[[1851年]][[12月2日]]、警視総監モーバ、陸軍大臣{{仮リンク|サン・タルノー|en|Jacques Leroy de Saint Arnaud}}、内務大臣[[シャルル・ド・モルニー]]、腹心ペルシニー、パリ総司令官{{仮リンク|ピエール・マニャン|en|Bernard Pierre Magnan}}の主導のもとに{{仮リンク|フランス・クーデター (1851年)|fr|Coup d'État du 2 décembre 1851|en|French coup of 1851|label=1851年12月2日のクーデター}}を起こし、国民議会を解散してオルレアン派の[[アドルフ・ティエール]]や王党派のベリエ、共和派の[[カヴェニャック]]将軍や、シャンガルニエ将軍が逮捕され、議会メンバーが次々と拘束された<ref name="鹿島(2004)114-116">[[#鹿島(2004)|鹿島(2004)]] pp.114-116, pp.120-121</ref>。<br />
<br />
翌12月3日、民衆派議員{{仮リンク|ジャン・バティスタ・ボダン|en|Jean-Baptiste Baudin|fr|Jean-Baptiste Baudin}}はバリケード上で共和政の防衛のために立ち上がるよう民衆を鼓舞したが、銃撃を受けて死を遂げた<ref name="鹿島(2004)124-125">[[#鹿島(2004)|鹿島(2004)]] pp.124-125</ref>。クーデターは抵抗を次々と排除して着々と進められ、成功を収めた。12月20日の国民投票の結果、成人男子選挙の復活と憲法改正を提示した大統領提案が可決され、クーデターは合法化された。[[1852年]][[11月22日]]、国民投票でルイ=ナポレオンの皇帝即位が可決された。同年12月2日、皇帝ナポレオン3世として即位し、[[フランス第二帝政|第二帝政]]の始まりとなった<ref name="鹿島(2004)148,155">[[#鹿島(2004)|鹿島(2004)]] p.148, p.155</ref>。<br />
<br />
{{main|ナポレオン3世|{{仮リンク|フランス・クーデター (1851年)|fr|Coup d'État du 2 décembre 1851|en|French coup of 1851|label=1851年12月2日のクーデター}}}}<br />
<br />
== 歴史的評価 ==<br />
<br />
{{節スタブ}}<br />
<br />
{{main|ルイ・ボナパルトのブリュメール18日}}<br />
<br />
== 脚註 ==<br />
{{脚注ヘルプ}}<br />
{{reflist|colwidth=20em}}<br />
<br />
== 参考文献 ==<br />
*[[柴田三千雄]]ら編 『世界歴史大系 フランス史3』 山川出版社、1995年<br />
*{{Cite book|和書|author=[[柴田三千雄]]|date=1983年|title=近代世界と民衆運動|publisher=[[岩波書店]]|ref=柴田(1983)}}<br />
*{{Cite book|和書|author=[[鹿島茂]]|date=2004年(平成16年)|title=怪帝ナポレオンIII世 第二帝政全史|publisher=[[講談社]]|isbn=978-4062125901|ref=鹿島(2004)}}<br />
*{{Cite book|和書|author=[[喜安朗]]|date=1994年|title=夢と反乱のフォブール―1848年パリの民衆運動|publisher=[[山川出版社]]|ref={{harvid|喜安朗|1994}}}}<br />
*{{Cite book|和書|author=[[喜安朗]]|date=2008年|title=パリの聖月曜日――19世紀都市騒乱の舞台裏|publisher=[[岩波書店]]|ref={{harvid|喜安朗|2008}}}}<br />
*{{Cite book|和書|author=[[喜安朗]]|date=2009年|title=パリ――都市統治の近代|publisher=[[岩波書店]]|ref={{harvid|喜安朗|2009}}}}<br />
*{{Cite book|和書|author=[[河野健二]] |year=1982 |title=現代史の幕あけ―ヨーロッパ1848年 |publisher=岩波書店|ref={{harvid|[河野健二]]|1982}}}}<br />
*{{Cite book|和書|author=[[アレクシス・ド・トクヴィル]]|translator=[[喜安朗]]||date=1988年|title=フランス二月革命の日々―トクヴィル回想録|publisher=[[岩波書店]]|ref={{harvid|[トクヴィル]]|1988}}}}<br />
*{{Cite book|和書|author=[[カール・マルクス]],[[フリードリヒ・エンゲルス]],マルクス=レーニン主義研究所|year=1959 |translator=[[大内兵衛]],[[細川嘉六]]|title=マルクス・エンゲルス全集 |publisher=[[大月書店]]|ref={{harvid|マルクス, エンゲルス|1959}}}}<br />
*{{Cite book|和書|author=[[ジョージ=リューデ]]|year=1982|translator=[[古賀秀男]] |title=歴史における群衆―英仏民衆運動史1730ー1848|publisher=[[法律文化社]]|ref={{harvid|ジョージ=リューデ|1982}}}}<br />
<br />
== 関連項目 ==<br />
<br />
*[[1848年のフランス革命]]<br />
*[[アルフォンス・ド・ラマルティーヌ]]<br />
*[[ナポレオン3世]]<br />
*[[アドルフ・ティエール]]<br />
*[[アレクシス・ド・トクヴィル]]<br />
*[[ピエール・プルードン]]<br />
*[[カール・マルクス]]<br />
<br />
{{DEFAULTSORT:ふらんすたい2きようわせい}}<br />
[[Category:フランス第二共和政|*たい2きようわせい]]<br />
[[Category:1848年に成立した国家・領域]]<br />
[[Category:1852年に廃止された国家・領域]]<br />
[[Category:ナポレオン3世|*3]]</div>
122.197.105.12
フランス第二帝政
2018-07-11T17:34:57Z
<p>122.197.105.12: /* 関連項目 */</p>
<hr />
<div>{{出典の明記|date=2012年12月}} <br />
{{基礎情報 過去の国<br />
|略名 = フランス<br />
|日本語国名 = フランス帝国<br />
|公式国名 = Empire Français<br />
|建国時期 = 1852年<br />
|亡国時期 = 1870年<br />
|先代1 = フランス第二共和政<br />
|先旗1 = Flag of France.svg<br />
|先代2 = <br />
|先旗2 = <br />
|次代1 = フランス第三共和政<br />
|次旗1 = Flag of France.svg<br />
|次代2 = <br />
|次旗2 = <br />
|国旗画像 = Flag of France.svg<br />
|国旗リンク = <!-- リンクを手動で入力する場合に指定 --><br />
|国旗幅 = <!-- 初期値125px --><br />
|国旗縁 = <!-- no と入力すると画像に縁が付かない --><br />
|国章画像 = Coat of Arms Second French Empire (1852–1870)-2.svg<br />
|国章リンク = <!-- リンクを手動で入力する場合に指定 --><br />
|国章幅 = <!-- 初期値85px --><br />
|標語 = [[自由、平等、博愛]]<br />
|標語追記 = <br />
|国歌 = [[:fr:Partant pour la Syrie|Partant pour la Syrie]]<br />
|国歌追記 = <br />
|位置画像 =Second French Empire.png <br />
|位置画像説明 =フランス帝国とその植民地 <br />
|位置画像幅 = <!-- 初期値250px --><br />
|公用語 = [[フランス語]]<br />
|首都 = [[パリ]]<br />
|元首等肩書 = [[フランス皇帝|皇帝]]<br />
|元首等年代始1 = 1852年<br />
|元首等年代終1 = 1870年<br />
|元首等氏名1 = [[ナポレオン3世]]<br />
|元首等年代始2 = <br />
|元首等年代終2 = <br />
|元首等氏名2 = <br />
|首相等肩書 = [[フランスの首相|首相]]<br />
|首相等年代始1 = 1852年<br />
|首相等年代終1 = 1869年<br />
|首相等氏名1 = 空位<br />
|首相等年代始2 = 1869年<br />
|首相等年代終2 = 1870年<br />
|首相等氏名2 = [[エミール・オリヴィエ]]<br />
|首相等年代始3 = 1870年<br />
|首相等年代終3 = 1870年<br />
|首相等氏名3 = {{仮リンク|シャルル・クーザン=モントバン|fr|Charles Cousin-Montauban|en|Charles Cousin-Montauban, Comte de Palikao}}<br />
|面積測定時期1 = <br />
|面積値1 = <br />
|面積測定時期2 = <br />
|面積値2 = <br />
|人口測定時期1 = <br />
|人口値1 = <br />
|人口測定時期2 = <br />
|人口値2 = <br />
|変遷1 = クーデター<br />
|変遷年月日1 = 1851年12月2日<br />
|変遷2 = ナポレオン3世失脚<br />
|変遷年月日2 = 1870年9月4日<br />
|通貨 = [[フランス・フラン]]<br />
|通貨追記 = <br />
|時間帯 = <br />
|夏時間 = <br />
|時間帯追記 = <br />
|ccTLD = <br />
|ccTLD追記 = <br />
|国際電話番号 = <br />
|国際電話番号追記 = <br />
|注記 = <br />
}}<br />
{{フランスの歴史}}<br />
<br />
'''フランス第二帝政'''(フランスだいにていせい、{{lang-fr|Second Empire Français}})は、[[1852年]]から[[1870年]]まで存在した君主政体。[[ナポレオン・ボナパルト]]の甥であるルイ=ナポレオン([[ナポレオン3世]])が[[1851年]][[12月2日]]に{{仮リンク|フランス・クーデター (1851年)|fr|Coup d'État du 2 décembre 1851|en|French coup of 1851|label=クーデター}}によって議会を解散し、新たな憲法を制定した上で[[国民投票]]によって[[フランス皇帝]]に即位した。<br />
<br />
[[フランス第二共和政|第二共和政]]期において、とりわけ[[六月蜂起]]後に保守・反動化した議会は、幅広い民衆の支持を得ることに失敗していた。こうして反議会に傾いた民衆をルイ=ナポレオン大統領は取り込むことに成功した。クーデターによる議会打倒を経て成立した第二帝政(第二帝国)は、[[権威主義]]的・反議会主義的な統治体制である一方、国民投票によって指導者を選出し、幅広い民衆に支持基盤をおいた点で、人民主権的、[[民主主義]]的な性格も有していた。<br />
<br />
== 歴史 ==<br />
[[1848年]]の[[1848年革命|二月革命]]の後、11月4日の大統領選挙で、[[ナポレオン3世|ルイ=ナポレオン]]がナポレオン1世の甥という出自を生かし、労働者や農民の幅広い支持を得て当選した。[[1852年]]、国民投票でルイ=ナポレオンの皇帝即位が可決される。同年12月2日、皇帝ナポレオン3世が即位し、第二帝政の始まりとなった。<br />
<br />
ナポレオン3世は[[メキシコ出兵]]失敗の名誉挽回のため、[[1870年]]に[[プロイセン王国|プロイセン]]に宣戦したが([[普仏戦争]])、[[セダンの戦い]]で惨敗し、自らがプロイセン軍に捕えられ退位へと追い込まれた。こうして第二帝政の時代は終わった。皇帝不在となったフランスでは[[フランス第三共和政|第三共和政]]が誕生する一方、パリでは一時、史上初の労働者による政権[[パリ・コミューン]]が樹立された。<br />
<br />
== 政治 ==<br />
[[ファイル:Napoleon III 1863.jpg|thumb|left|ナポレオン3世]]<br />
=== 内政 ===<br />
第二帝政(第二帝国)は、「'''権威帝政'''」期と「'''自由帝政'''」期の二つの時期に大別できる。[[1852年]]から[[1860年]]頃までは権威帝政と呼ばれ、ナポレオン3世のもとで言論・出版の自由などが規制され、権威主義的手法による統治が行われた。こうした状況下でもナポレオン3世が高い支持を得た背景には、第二共和政の混乱を経て強力な指導者の下で政治的安定を求める[[世論]]が強かったこと、あいつぐ鉄道敷設・[[パリ]]市街改造などが経済発展と雇用創出に貢献したこと、あいつぐ外征の成功によりナポレオン個人の威光が高められたことなどが挙げられる。<br />
<br />
しかし1860年代に入ると、[[イギリス]]と結んだ[[自由貿易協定]]のためイギリスの工業製品が流入し、国内の資本家からの反発を招いた。メキシコ出兵も失敗に終わり、外征を通じた威光高揚にも陰りが見えるようになった。こうした中、権威主義的手法を維持することが困難となり、世論の支持をとりつけるためにも報道の自由を拡大したり、[[議会]]への大幅な譲歩をみせるなど、[[自由主義]]的な政策へと転換をみせた(「自由帝政期」)。<br />
<br />
=== 都市計画 ===<br />
[[フランス革命]]以降、政府に不満を持つパリ市民の蜂起は政権を揺るがしかねない事態であった。当時のパリは網の目のような路地が多く、市民はバリケードを築いて軍隊の速やかな移動を封じた。その結果、鎮圧のための戦闘が長引くこととなる。これに苦慮したナポレオン3世は、万が一の市民蜂起に備え、セーヌ県知事[[ジョルジュ・オスマン]]にパリの大整備を命じ、街路を広くし、見通しをよくする大幅な都市改造を行わせた。パリの改造計画は軍事面からの意味も持つとされる。現在のパリはこのときにほぼ出来上がった(詳細は「[[パリ改造]]」を参照)。<br />
<br />
=== 外政 ===<br />
ナポレオン3世は[[1853年]]に勃発していた[[クリミア戦争]]に翌年より介入し、かつて[[1812年ロシア戦役|モスクワ遠征]]でナポレオン1世を返り討ちにした[[ロシア帝国|ロシア]]に対して勝利を収めた。[[1856年]]には[[パリ]]で講和会議を開催するなど中心的な役割を果たし、帝国内外に彼の威光を知らしめた。かつてのナポレオンがそうであったように[[ヨーロッパ]]における[[ナショナリズム]]の擁護者であろうとし、[[1859年]]の[[イタリア統一戦争]]にも[[サルデーニャ王国]]を支援して参戦した(ただし、途中でサルデーニャの意向に反し[[オーストリア帝国|オーストリア]]と単独講和を行う)。しかし、その理念はヨーロッパ外で適用されるものではなく、[[インドシナ]]、[[アフリカ]]における[[植民地]]の拡張に尽力し、[[アメリカ大陸]]においても[[メキシコ出兵]]を行った。こうしたあいつぐ外征は、ナポレオン3世の威光を維持する上で必要不可欠であった。しかし、当然ながら外征の失敗は彼の威信をおとしめることにもつながった。また、[[日本]]の[[戊辰戦争]]においては、[[徳川幕府]]側を支援した。<br />
<br />
== 執政者 ==<br />
# [[ナポレオン3世]](シャルル・ルイ=ナポレオン・ボナパルト、[[1852年]][[12月2日]] - [[1870年]][[9月4日]])<br />
# [[ナポレオン・ウジェーヌ・ルイ・ボナパルト]](皇太子のまま執政。別名ナポレオン4世:[[1870年]][[9月2日]] - [[1870年]][[9月4日]])<br />
<br />
== 脚注 ==<br />
{{脚注ヘルプ}}<br />
{{reflist}}<br />
<br />
== 参考文献 ==<br />
<!--編集時に実際に参照した文献のみ記載してください--><br />
<!--{{Cite book}}等の出典テンプレートの使用をご検討ください--><br />
<br />
== 関連書籍 ==<br />
<!--編集時に参照していないがさらなる理解の助けになる書籍を記載してください--><br />
* 『フランス・ブルジョア社会の成立 第二帝政期の研究』 [[河野健二]]編、[[岩波書店]]〈[[京都大学人文科学研究所]]報告〉、1977年11月。ISBN 978-4-00-001970-5、{{全国書誌番号|78001738}}。<br />
* 浅井香織 『音楽の「現代」が始まったとき 第二帝政下の音楽家たち』 [[中央公論新社|中央公論社]]〈[[中公新書]] 938〉、1989年9月。ISBN 978-4-12-100938-8。<br />
* 松井道昭 『フランス第二帝政下のパリ都市改造』 [[日本経済評論社]]、1997年3月。ISBN 978-4-8188-0916-1。<br />
* 木下賢一 『第二帝政とパリ民衆の世界 「進歩」と「伝統」のはざまで』 [[山川出版社]]〈歴史のフロンティア〉、2000年11月。ISBN 978-4-634-48180-0。<br />
* [[鹿島茂]] 『怪帝ナポレオン三世 第二帝政全史』[[講談社]]〈講談社学術文庫 2017〉、2010年10月。ISBN 978-4-06-292017-9。<br />
<br />
== 関連項目 ==<br />
* [[フランスの歴史]]<br />
* [[ボナパルティズム]]<br />
* [[ボナパルト朝]]<br />
* [[パリ改造]]<br />
同様に、[[大統領]]([[中華民国大総統|大総統]])が[[皇帝]]に即位した例<br />
* [[ハイチ帝国 (1849年-1859年)]]<br />
* [[中央アフリカ帝国]]<br />
* [[中華帝国 (1915年-1916年)]]<br />
<br />
{{フランス君主}}<br />
<br />
{{デフォルトソート:ふらんすたいにていせい}}<br />
[[Category:フランスの王朝|たいにていせい]]<br />
[[Category:フランス第二帝政|*たい2ていせい]]<br />
[[Category:王政復古]]<br />
[[Category:ナポレオン3世|*2]]<br />
[[Category:1852年に成立した国家・領域]]<br />
[[Category:1870年に廃止された国家・領域]]</div>
122.197.105.12
ボナパルティズム
2018-07-11T17:34:29Z
<p>122.197.105.12: /* 関連項目 */</p>
<hr />
<div>{{出典の明記|date=2016年4月}}<br />
'''ボナパルティズム'''([[フランス語]]:Bonapartisme)は、本来の意味では、[[ナポレオン・ボナパルト]](ナポレオン1世)による[[フランス第一帝政]]の崩壊以後に活発化した政治運動で、国民の支持でフランスの支配者に選ばれたナポレオンとその一族を再び[[フランス]]の支配者に据えようとした運動を指す。[[ボナパルト朝|ボナパルト家]]支持者たちは'''ボナパルティスト'''(Bonapartiste)と呼ばれた。<br />
<br />
より広い意味では、[[革命]]運動を強権でもって弾圧しようとする[[権威主義]]的・[[反動]]的な運動一般のことを指す。<br />
<br />
== 狭義のボナパルティズム ==<br />
=== ボナパルティズムの思想 ===<br />
ボナパルティズムの思想は、[[フランス革命]]の打ち立てた原則を、ナポレオンの帝政支配に合うように適用しようというものである。[[ブリュメールのクーデター]]を企てた人々は、[[共和政ローマ]]で強力な支配を打ち立てた[[ガイウス・ユリウス・カエサル|ユリウス・カエサル]]を理想とし、革命後のフランスに秩序と国家の栄光をもたらすために、カリスマ性が高く軍人や国民に人気の高いナポレオン・ボナパルトをかつぎあげ、クーデター続きの[[総裁政府]]を倒して執政政府を建て、ナポレオンを第1コンスル(第1執政)とした。<br />
<br />
対外的には軍事的勝利をおさめ、内政面では政治・経済・宗教上の安定をもたらしたナポレオンはフランス革命を否定せず、革命の先駆者たちを信奉し敬意を払ったが、その政治体制は独裁的であり、直接かつ個人的な支配をフランスに貫徹させようとした。王党派の相次ぐテロの中でその独裁色は強まり、やがて軍人や自作農・小規模ブルジョワジーを中心とする、フランス革命の継続を支持する国民からの人気を背景に、国民投票によりナポレオンは皇帝に即位した。<br />
<br />
第一帝政崩壊以後のボナパルティストの思想は、このナポレオン時代の実践を基礎とする。[[王党派]]のように革命前の[[アンシャン・レジーム]]に戻すことを支持せず、さりとて革命直後の[[ジャコバン派]]による[[恐怖政治]]に戻ることもよしとせず、自由や法の下の平等などといったフランス革命の肯定的な部分を維持しつつ、国民の支持により選ばれた皇帝による強力な秩序を必要とし、能力のすぐれたエリートを集めて中央集権的な政府を作り、フランスの栄光を内外に実現させることがその主張である。第一帝政や第二帝政のシンボルとして、奉仕、自己犠牲、社会への忠誠などを象徴する[[ミツバチ]]が使われた。<br />
<br />
=== ボナパルティストの活動 ===<br />
ボナパルティストには、ナポレオン1世が失脚直後から[[百日天下]]、そして[[セントヘレナ島]]流罪とナポレオンが生存していた頃のナポレオン支持者も含める。ナポレオン支持者は[[ナポレオン戦争]]終息後、[[フランス復古王政|復古王政]]下のフランスで王党派からの迫害を受けた([[白色テロ]])。流罪となってもナポレオン支持者の復位の策謀があったが、ナポレオンは復位を拒んだ。<br />
<br />
ボナパルティズム運動の実質は、ナポレオン1世の死後から始動する。運動の初期は、ナポレオン1世の嫡子で[[ローマ王]]だった[[ナポレオン2世]]の擁立に向けられたが、[[1832年]]に死去したため、ナポレオン1世の弟[[ルイ・ボナパルト]]の子ルイ=ナポレオン・ボナパルト([[ナポレオン3世]])を宗主として仰いだ。ルイ=ナポレオンは[[1840年]]、[[7月王政]]期のフランスで[[クーデター]]を起こしたが、この時は失敗した。<br />
<br />
この運動は、[[フランス第二共和政|第二共和政]]下でのルイ=ナポレオンの大統領就任、クーデターを経て、[[1852年]]の[[フランス第二帝政|第二帝政]]成立に結実した。第二帝政崩壊後の[[フランス第三共和政|第三共和政]]下では、ボナパルティストはナポレオン3世の皇太子であった[[ナポレオン・ウジェーヌ・ルイ・ボナパルト]](ナポレオン4世)に望みを賭けたが、同じような保守派でも、[[立憲君主制]]を志向し[[人民主権]]や[[自然権]]は認める[[オルレアン家]]の[[ルイ・フィリップ (フランス王)|ルイ・フィリップ1世]]の一族を推す[[オルレアニスト]](オルレアン派)や、革命も帝政も否定し[[アンシャン・レジーム]]への復帰を求め、[[シャルル10世 (フランス王)|シャルル10世]]の直系、その断絶後は[[スペイン・ブルボン朝|スペイン・ブルボン家]]の王族を推す[[レジティミスト]](正統派)と競合することになった(オルレアニストとレジティミストは王党派と総称されるが、共に[[カペー家]]の流れを汲む一族を支持しており、歴史的正統性は高かった)。自由主義者からはレジティミストのような極端な王党派は嫌悪されたが、その一方でボナパルティストも民主主義を標榜しながら結局は政治的自由を抑圧する独裁体制を正当化するものとみなされた。<br />
<br />
[[1879年]]のナポレオン・ウジェーヌ・ルイの死後は、ボナパルト家支持者という意味でのボナパルティズムは有力な政治運動ではなくなっている。ただこの狭義においてのボナパルティズムは[[20世紀]]まで続き、特にナポレオンの生地[[コルシカ島]]の各市の市長にはボナパルト派と呼ばれる人物が存在していた。<br />
<br />
=== フランス帝位請求者(1814年以後) ===<br />
{| class="wikitable" style="width:100%; font-size:95%; text-align:center"<br />
|-<br />
!width = "10%" bgcolor = "#FFDEAD"|肖像<br />
!width = "30%" bgcolor = "#FFDEAD"|名前<br />
!width = "20%" bgcolor = "#FFDEAD"|生没年<br />
!width = "40%" bgcolor = "#FFDEAD"|付記<br />
|-<br />
|[[ファイル:Napoleon in His Study.jpg|100px|center]]<br />
|<center>'''"ナポレオン1世"'''<br>([[ナポレオン・ボナパルト]])<br>1814年4月11日 - 1821年5月5日</center><br />
|1769年8月15日 - 1821年5月5日<br />
|-<br />
|[[ファイル:80 Napoleon II.jpg|100px|center]]<br />
|<center>'''"[[ナポレオン2世]]"'''<br>(ナポレオン・フランソワ・ボナパルト)<br>1821年5月5日 - 1832年7月22日</center><br />
|1811年3月20日 - 1832年7月22日<br />
|ローマ王。ナポレオン1世の長男。<br />
|-<br />
|[[ファイル:Joseph-Bonaparte.jpg|100px|center]]<br />
|<center>'''"ジョゼフ・ナポレオン1世"'''<br>([[ジョゼフ・ボナパルト|ジョゼフ・ナポレオン・ボナパルト]])<br>1832年7月22日 - 1844年7月28日</center><br />
|1768年1月7日 - 1844年7月28日<br />
|スペイン王。ナポレオン1世の兄。<br />
|-<br />
|[[ファイル:LouisBonaparte_Holland.jpg|100px|center]]<br />
|<center>'''"ルイ1世"'''<br>([[ルイ・ボナパルト|ルイ・ナポレオン・ボナパルト]])<br>1844年7月28日 - 1846年7月25日</center><br />
|1778年9月2日 - 1846年7月25日<br />
|ホラント王。ナポレオン1世の弟。<br />
|-<br />
|[[ファイル:Franz_Xaver_Winterhalter_Napoleon_III.jpg|100px|center]]<br />
|<center>'''"[[ナポレオン3世]]"'''<br>(シャルル・ルイ=ナポレオン・ボナパルト)<br>1846年7月25日 - 1873年1月9日</center><br />
|1808年4月20日 - 1873年1月9日<br />
|フランス大統領。ルイ1世の三男。<br />
|-<br />
|[[ファイル:Prince impérial 1878.jpg|100px|center]]<br />
|<center>'''"ナポレオン4世"'''<br>([[ナポレオン・ウジェーヌ・ルイ・ボナパルト]])<br>1873年1月9日 - 1879年6月9日</center><br />
|1856年3月17日 - 1879年6月9日<br />
|ピエルフォン公。ナポレオン3世の息子。<br />
|-<br />
|[[ファイル:Victor Napoleon.jpg|100px|center]]<br />
|<center>'''"ナポレオン5世"'''<br>([[ナポレオン・ヴィクトル・ボナパルト]])<br>1879年6月9日 - 1926年5月3日</center><br />
|1862年7月18日 - 1926年5月3日<br />
|ナポレオン公。ルイ1世の弟[[ジェローム・ボナパルト|ジェローム]]の孫。<br />
|-<br />
|[[ファイル:Napoleon, Louis Jerome (Le Journal, 1926-05-04).jpg|100px|center]]<br />
|<center>'''"ナポレオン6世"'''<br>([[ルイ・ナポレオン (ナポレオン公)|ルイ・ジェローム・ボナパルト]])<br>1926年5月3日 - 1997年5月3日</center><br />
|1914年1月23日 - 1997年5月3日<br />
|ナポレオン公。ナポレオン5世の息子。<br />
|-<br />
|<br />
|<center>'''"ナポレオン7世"'''<br>([[シャルル・ナポレオン|シャルル・ナポレオン・ボナパルト]])<br>1997年5月3日 -</center><br />
|1950年10月19日 -<br />
|ナポレオン公。ナポレオン6世の長男。家長位をめぐってナポレオン8世と競合状態にある。<br />
|-<br />
|[[ファイル:Prince Napoléon.JPG|100px|center]]<br />
|<center>'''"ナポレオン8世"'''<br>([[ジャン・クリストフ・ナポレオン|ジャン・クリストフ・ナポレオン・ボナパルト]])<br>1997年5月3日 -</center><br />
|1986年7月11日 -<br />
|ナポレオン7世の長男。家長位をめぐってナポレオン7世と競合状態にある。<br />
|-<br />
|}<br />
<br />
== 広義のボナパルティズム ==<br />
より広い意味では、革命運動を強権でもって弾圧しようとする[[権威主義]]的・反動的な運動一般のことを指す。ボナパルティズムという用語を最初にこの意味で用いたのは、フランス第二帝政の成立を同時代人として目撃し、これを批判した[[カール・マルクス]]であった。マルクスは、第二帝政やナポレオン3世に対し、<br />
{{quotation|<br />
『歴史的な大事件や重要人物はすべて、いうならば二度繰り返される』と[[ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル|ヘーゲル]]はどこかで指摘したが、彼は以下のことを付け加えるのを忘れている。一度目は悲劇だが、二度目は茶番劇だということを。<br />
|マルクス『[[ルイ・ボナパルトのブリュメール18日]]』第1部冒頭}}<br />
と辛辣な評価を下している。以後、[[発展段階史観]]的な視点に立つ者にとっては、「勃興する[[プロレタリアート]]と旧来の支配的勢力たる[[ブルジョアジー]]との間で勢力均衡が生じ、いずれもが国家体制に対する[[覇権|ヘゲモニー]]を握れない状況下で、その双方に対して自立的な強権を振るう、自作農民など中間層を基盤に持つ[[権威主義]]的な国家権力が、一時的に発生する現象」と、ボナパルティズムを普遍化して解釈するようになった。その意味ではブルジョワ国家の最終段階とされるが、実際はブルジョアジーの上昇期に出現し、人民投票や普通選挙など[[民主主義]]要因を含む[[独裁制]]という特異な近代の権力形態の一つである。<br />
<br />
[[ソビエト連邦|ソ連]]時代の[[ロシア]]ではより単純に、軍事力によって[[共産主義]]体制の転覆を目指す活動全般を(半ばレッテル貼り的な用法で)指していた。[[ヨシフ・スターリン|スターリン]]時代には[[ミハイル・トゥハチェフスキー]]、[[ゲオルギー・ジューコフ]]ら、有力で高名な赤軍の指導者、軍事英雄たちがボナパルティストとして槍玉に挙げられた。生来、猜疑心の強いスターリンは、赤軍内部に多数のボナパルティストが潜伏しているものと頑なに信じ込み、そのことが[[赤軍大粛清]]の原因にもなった。<br />
<br />
今日ではボナパルティズムは(少なくとも歴史学の上では)あくまで近代フランス史上の特定状況下で発生した現象として分析されるようになっている。しかし、[[マルクス主義|マルキシズム]]の系譜を引く政治思想に基づいて革新運動を行う団体や個人は、しばしば今日でも、当世の国家権力による強権発動と彼らがみなした現象を、プロレタリアートとブルジョアジーの均衡状況が発生したが故の一時的な現象と解釈する。そして、プロレタリアートの権力掌握に向けて直ちに克服すべき性格の国家権力が出現したとして、権力批判の[[プロパガンダ]]に多用する傾向がある。<br />
<br />
なお、古典的な意味では[[ドイツ帝国]]の[[ヴィルヘルム1世 (ドイツ皇帝)|ヴィルヘルム1世]]と[[オットー・フォン・ビスマルク|ビスマルク]]の[[二頭政治]]もボナパルティズムに分類される。<br />
<!--<br />
[[佐藤優 (外交官)|佐藤優]]は『国家論』(NHKブックス、2007年)の中で、2001年頃の[[小泉純一郎]]、[[田中眞紀子]]現象をボナパルティズム現象と呼んだ。<br />
--><br />
<br />
== 関連項目 ==<br />
*[[ブーランジスム]]<br />
*[[ド・ゴール主義]]<br />
<br />
{{DEFAULTSORT:ほなはるていすむ}}<br />
[[Category:ボナパルト家]]<br />
[[Category:政治家による政治思想]]<br />
[[Category:フランス復古王政]]<br />
[[Category:フランス第二帝政]]<br />
[[Category:フランスの政治]]<br />
[[Category:君主主義]]<br />
[[Category:ボナパルティスト帝位請求者|*ほなはるていすむ]]<br />
[[Category:フランスの保守思想家]]<br />
[[Category:フランスのナショナリズム]]<br />
[[Category:ナポレオン3世]]</div>
122.197.105.12
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