Warning: Undefined variable $type in /home/users/1/sub.jp-asate/web/wiki/extensions/HeadScript/HeadScript.php on line 3

Warning: "continue" targeting switch is equivalent to "break". Did you mean to use "continue 2"? in /home/users/1/sub.jp-asate/web/wiki/includes/json/FormatJson.php on line 297

Warning: Trying to access array offset on value of type bool in /home/users/1/sub.jp-asate/web/wiki/includes/Setup.php on line 660

Warning: session_name(): Session name cannot be changed after headers have already been sent in /home/users/1/sub.jp-asate/web/wiki/includes/Setup.php on line 834

Warning: ini_set(): Session ini settings cannot be changed after headers have already been sent in /home/users/1/sub.jp-asate/web/wiki/includes/session/PHPSessionHandler.php on line 126

Warning: ini_set(): Session ini settings cannot be changed after headers have already been sent in /home/users/1/sub.jp-asate/web/wiki/includes/session/PHPSessionHandler.php on line 127

Warning: session_cache_limiter(): Session cache limiter cannot be changed after headers have already been sent in /home/users/1/sub.jp-asate/web/wiki/includes/session/PHPSessionHandler.php on line 133

Warning: session_set_save_handler(): Session save handler cannot be changed after headers have already been sent in /home/users/1/sub.jp-asate/web/wiki/includes/session/PHPSessionHandler.php on line 140

Warning: "continue" targeting switch is equivalent to "break". Did you mean to use "continue 2"? in /home/users/1/sub.jp-asate/web/wiki/languages/LanguageConverter.php on line 773

Warning: Cannot modify header information - headers already sent by (output started at /home/users/1/sub.jp-asate/web/wiki/extensions/HeadScript/HeadScript.php:3) in /home/users/1/sub.jp-asate/web/wiki/includes/Feed.php on line 294

Warning: Cannot modify header information - headers already sent by (output started at /home/users/1/sub.jp-asate/web/wiki/extensions/HeadScript/HeadScript.php:3) in /home/users/1/sub.jp-asate/web/wiki/includes/Feed.php on line 300

Warning: Cannot modify header information - headers already sent by (output started at /home/users/1/sub.jp-asate/web/wiki/extensions/HeadScript/HeadScript.php:3) in /home/users/1/sub.jp-asate/web/wiki/includes/WebResponse.php on line 46

Warning: Cannot modify header information - headers already sent by (output started at /home/users/1/sub.jp-asate/web/wiki/extensions/HeadScript/HeadScript.php:3) in /home/users/1/sub.jp-asate/web/wiki/includes/WebResponse.php on line 46

Warning: Cannot modify header information - headers already sent by (output started at /home/users/1/sub.jp-asate/web/wiki/extensions/HeadScript/HeadScript.php:3) in /home/users/1/sub.jp-asate/web/wiki/includes/WebResponse.php on line 46
http:///mymemo.xyz/wiki/api.php?action=feedcontributions&user=118.106.249.225&feedformat=atom miniwiki - 利用者の投稿記録 [ja] 2024-05-06T20:23:28Z 利用者の投稿記録 MediaWiki 1.31.0 森忠政 2018-07-01T11:13:16Z <p>118.106.249.225: /* 幼少期 */</p> <hr /> <div>{{基礎情報 武士<br /> | 氏名 = 森 忠政<br /> | 画像 = Mori Tadamasa statue at Kakuzan park in Tsuyama city.jpg<br /> | 画像サイズ = 200px<br /> | 画像説明 = 鶴山公園(津山城跡)にある森忠政の銅像<br /> | 時代 = [[安土桃山時代]] - [[江戸時代]]前期<br /> | 生誕 = [[元亀]]元年([[1570年]])<br /> | 死没 = [[寛永]]11年[[7月7日 (旧暦)|7月7日]]([[1634年]][[7月31日]])<br /> | 改名 = せん、仙千代、仙千代丸、千丸(幼名)→長重→一重→忠重→忠政<br /> | 別名 = 羽柴右近<br /> | 戒名 = 本源院殿前作衆国主羽林中郎将先翁宗進大居士<br /> | 墓所 = [[京都府]][[大徳寺]]三玄院・[[本源寺 (津山市)]]<br /> | 官位 = [[従五位]]下右近丞、[[従四位]]下[[侍従]]&lt;br&gt;従四位上[[近衛府|左近衛権中将]]<br /> | 藩 = [[信濃国|信濃]][[松代藩|川中島藩]]主→[[美作国|美作]][[津山藩]]主<br /> | 氏族 = [[森氏]]<br /> | 父母 = 父:[[森可成]]&lt;br /&gt;母:[[妙向尼|えい]](妙向尼、[[林通安]]の娘)<br /> | 兄弟 = [[森可隆|可隆]]、[[森長可|長可]]、[[森成利|成利]](蘭丸)、[[森長隆|長隆]]、&lt;br&gt;[[森長氏|長氏]]、&#039;&#039;&#039;忠政&#039;&#039;&#039;、うめ([[木下勝俊]]正室)、&lt;br&gt; 碧松院([[関成政]]正室)<br /> | 妻 = 正室:&#039;&#039;&#039;チボ&#039;&#039;&#039;([[中川清秀]]の娘)&lt;ref&gt;大蔵姫([[中川秀成]]の養女([[今西春房]]の娘))も正室であったとする記録が今西家には残るが森家の記録には残っていない。&lt;/ref&gt;&lt;br&gt;継室:&#039;&#039;&#039;岩&#039;&#039;&#039;([[名古屋山三郎]]妹・[[豊臣秀長]]養女)&lt;br&gt;側室:お竹([[山内之豊 (戦国時代)|山内之豊]]の娘)<br /> | 子 = [[森重政|重政]]、[[森虎松|虎松]]、[[森忠広|忠広]]&lt;br&gt;於松([[池田長幸]]正室)、黒([[森正信]]室)&lt;br&gt;菊([[池田忠継]]室→[[鳥居忠恒]]正室)&lt;br&gt;宮(四条殿、池田長幸継室)&lt;br&gt;郷([[関成次]]正室)、法光院([[本多忠義]]正室)&lt;br&gt;養子:&#039;&#039;&#039;&#039;&#039;[[森長継|長継]]&#039;&#039;&#039;&#039;&#039;<br /> | 特記事項 =<br /> }}<br /> <br /> &#039;&#039;&#039;森 忠政&#039;&#039;&#039;(もり ただまさ)は、[[安土桃山時代]]から[[江戸時代]]前期の武将、[[大名]]。[[信濃国|信濃]][[松代藩|川中島藩]]主、後に[[美作国|美作]][[津山藩]]の初代藩主。<br /> <br /> == 家系 ==<br /> [[本姓]]は[[源氏]]。[[清和源氏]]の一家系 [[河内源氏]]の流れ。[[源義家|八幡太郎義家]]の四世孫・[[森頼定|森伊豆守頼定]]を祖とする。<br /> {{main|森氏}}<br /> ;系譜<br /> 森判官代頼定 - 森二郎定氏 - 森二郎太郎頼氏 - 森七郎光氏 - 森伊豆守氏清 - 森左近大夫頼俊 - 森左京亮頼師 - 森二郎太郎頼長-森七郎右衛門尉頼継 - 森二郎可光 - 森越後守可房 - 森越後守可秀 - 森越後守可行 - 森三左衛門可成 - 森武蔵守長可=&#039;&#039;&#039;森左近衛中将忠政&#039;&#039;&#039;<br /> <br /> ただし、この系譜は仮冒という説もある。<br /> == 生涯 ==<br /> ===幼少期===<br /> 元亀元年(1570年)、[[美濃国|美濃]][[金山城 (美濃国)|金山城]]で[[織田信長]]の家臣、[[森可成]]の六男(末子)として生まれる。母は美濃の豪族[[林通安]]の娘えい(後の妙向禅尼)。幼名は仙千代。誕生と同年中に父が戦死(長兄の[[森可隆|可隆]]は父に先立って戦死)したために次兄の[[森長可|長可]]が家督を継いでいる。<br /> <br /> [[石山合戦]]の和睦の際に母の妙向禅尼は[[浄土真宗|一向宗]]の門徒ということで織田家と本願寺の講和の使者の1人となっていたが、この和睦の締結の際に「森家ゆかりの人間を僧籍に入れる」という事が条件に入っており、仙千代が一時期僧籍に入ったが程なくして[[関成政]](森可成の娘婿)の四男の竹若丸が代わりに僧籍に入ることになり(法名・了向)、仙千代はすぐに還俗している&lt;ref name=&quot;sendaijitsuroku&quot;&gt;『森家先代実録』&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> [[天正]]10年([[1582年]])の春頃、「&#039;&#039;&#039;長重&#039;&#039;&#039;」を名乗り織田信長に[[小姓]]として出仕するが、同僚の梁田河内守にちょっかいをかけられ、信長の前で梁田の頭を扇子で殴打したのを見咎られ、まだ幼すぎるとして3月には美濃国の母の許に返された。しかし、結果としてこれが幸いして[[本能寺の変]]に巻き込まれずに済んだ。本能寺の変が起きた時は妙向禅尼と共に[[近江国|近江]][[安土城]]に居たが、変の事を知った森家と友好の深い[[甲賀流]]忍者の[[伴惟安]]の手引きによって妙向禅尼と共に政情不安定な安土から脱出し、甲賀にある惟安の所領に匿われている。同年9月11日に領地付近の平定を終えた長可によって迎えの使者が出され、[[伊勢国]]で引渡しが行われ妙向禅尼ともども金山へと帰った&lt;ref name=&quot;sendaijitsuroku&quot;/&gt;。<br /> <br /> ===家督相続===<br /> 天正12年([[1584年]])4月9日、兄の長可が[[小牧・長久手の戦い]]で戦死。この時点で既に他の兄達は全て早世しており、森家の世継ぎは長重のみであった。長可戦死後、遺言状が[[豊臣秀吉|羽柴秀吉]]に提出されたが長可は遺言書で長重への家督相続について「あとつぎ候事、いやにて候」と書き、更には金山は誰か信頼できる武将に任せて長重は秀吉の元で奉公するようにと指定するなど長重の家督相続にかなり否定的であったが、秀吉も自分に味方した武将の領地を没収する訳にはいかず遺言のこの一節は無視して、長重を金山7万石の跡継ぎとして指名し[[各務元正]]・[[林為忠]]の両家老を後見役に任命。森家も金山にそのままとどめ置かれた。長重は家督を継いでまず、かつて恩の有る伴惟安や息子の[[伴惟利]]ら長可の代まで協力者の立場であった甲賀衆に森家への仕官を打診し、正式に召抱えている。<br /> <br /> 天正13年([[1585年]])になると「&#039;&#039;&#039;一重&#039;&#039;&#039;」と改名。同年の[[富山の役]]に1,500の兵を率いて16歳で初陣を果たし、10月6日に従五位下右近丞に叙任。天正14年([[1586年]])になると「&#039;&#039;&#039;忠重&#039;&#039;&#039;」と改名し秀吉の[[関白]]拝賀のため参内している。<br /> <br /> ===豊臣政権時===<br /> 天正15年([[1587年]])2月6日、[[豊臣氏|豊臣姓]]を下賜され、従四位下侍従に叙任された。また同時に羽柴姓と桐紋&lt;ref&gt;秀吉が「豊臣氏」の紋として朝廷より使用を許可されたもの。&lt;/ref&gt;の使用を認められ、以後「&#039;&#039;&#039;羽柴右近大夫忠政&#039;&#039;&#039;」と称す&lt;ref&gt;村川浩平『日本近世武家政権論』近代文芸社、2000年、28・36頁。&lt;/ref&gt;。同年[[九州征伐]]には眼病を理由に参陣を見送り、陣代として大将に[[林為忠]]、副将として[[伴惟利]]らを派遣している。天正18年([[1590年]])の[[小田原征伐]]では自身も出馬し[[韮山城]]攻めに参加した。[[文禄・慶長の役|朝鮮出兵]]の折には、九州の[[名護屋城]]普請奉行を勤め、兵2,000を率いて名護屋城下に参陣している(渡海はしていない)。[[伏見城]]普請、[[方広寺]]の大仏建造などにも参加した。<br /> <br /> 慶長3年([[1598年]])に秀吉が死亡すると[[徳川家康]]に接近。慶長4年([[1599年]])に伏見城下にて、家康と[[前田利家]]・[[石田三成]]との対立によって双方に味方する諸侯・軍勢が参集し緊張状態となった際には徳川屋敷に参じて3日間詰め、家康より賞詞があった&lt;ref name=&quot;sendaijitsuroku&quot;/&gt;。<br /> <br /> 慶長5年([[1600年]])、かねてから希望していた[[信濃国]][[松代藩|川中島]]13万7,500石への加増転封の話が纏まる。これは[[太閤]][[蔵入地]]約9万石を廃止しての加増転封であった。これにより同年2月、川中島4万石の[[田丸直昌]]と相互に入れ替わる形で領替えが行われた。この時、[[河尻秀長]]・[[妻木頼忠]]などが信濃転封には同行せず美濃にそのまま残っている。この転封は後年になって家康の独断と取られがちだが、転封前には[[増田長盛]]・[[前田玄以]]・[[長束正家]]らが信濃入りして田丸に森家への御蔵米の譲渡を指示しており&lt;ref&gt;『田丸文書』、『信濃史料』&lt;/ref&gt;、豊臣家公認の上での転封である可能性が高い。<br /> <br /> ===信濃川中島藩主時代===<br /> 慶長5年([[1600年]])3月には川中島へと入領。入領してすぐに[[天正壬午の乱]]の際に兄である長可を裏切った[[高坂昌元]]の一門を探し出して磔に架けるなど当初から強硬な姿勢で臨んだ。また居城となった[[海津城]]を「待城(兄長可と同じ地へ入領し兄の遺恨を晴らすのを心待ちにしていたからと伝えられている。その後に[[松平忠昌]]が松城、[[真田信之]]の代に幕命により松代)」と改名している。4月頃になると石田三成が森家の大坂方参陣を促すべく川中島を訪れ会談が行われた。忠政は対外的にはまだ豊臣家の家臣の体をとっていたがこの席で豊臣家批判とも取れる言動を繰り返し破談。以後は家康支持の立場を明確なものとし、本姓である森姓を再び名乗った。三成はこの時の忠政の態度に強く憤り、[[真田昌幸]]に宛てた書状の上で「忠政との遺恨格別」「秀頼様を騙し領地を掠め取った」などと名指しで批判している。<br /> <br /> 同年の[[関ヶ原の戦い]]では東軍に与し、7月21日に家康の会津出兵に先立って[[宇都宮]]に着陣し合流を待ったが、7月24日に真田昌幸が西軍と通じ[[上田市|上田]]へと帰国した事を受けて忠政と[[石川康長]]両名は真田への抑えとして領国へと帰還するよう命じられている(この為、小山評定や以後の中山道隊の行軍には加わっていない)。離脱後も盛んに家康や[[徳川秀忠]]と書状を交わし情報交換を行っている。その後も家康の命で川中島在中であり、9月の[[上田合戦|第二次上田合戦]]の際にも出馬はせず、出馬要請なども無かった事から行った軍事行動は[[井戸宇右衛門]]ら少数の軍勢を上田の北にある[[地蔵峠]]付近へと派遣するに留まっている&lt;ref name=&quot;sendaijitsuroku&quot;/&gt;。<br /> <br /> 結局、秀忠率いる中山道隊は[[上田城]]を本格的に攻める前に上洛命令を受け、先を急ぐことになったが忠政は秀忠の意向で[[仙石秀久]]らと共に真田の備えの為に領地に残し置かれた。忠政は[[葛尾城]]代・井戸宇右衛門配下の兵に上田の監視を命じたが、これに対して真田軍は[[真田信繁]]が9月18日と23日の2度打って出て、葛尾城に夜討と朝駆けの攻撃を敢行している。同月中に真田家は降伏・開城したが、徳川軍の入領に対して領民の一揆が起きた時に忠政はこれを速やかに鎮圧しその功を秀忠より賞された。&lt;ref&gt;「慶長5年9月末日付徳川秀忠書状」。同月中に一揆の鎮撫を完了した事を示している。&lt;/ref&gt;ただ、戦後の加増はなく領地は据え置かれた。<br /> <br /> 慶長7年([[1602年]])8月、忠政は「右近検地」と呼ばれる信濃4郡全てを対象とした総検地を実施。検地は厳しく行われ、この検地により信濃4郡の石高は5万石以上上昇し、結果として領内の領民に多大な増税を課す事になった。領民はたまらず検地のやり直しを求める嘆願などを出したが忠政はこれを無視。圧政に耐えかねた領民はついに一揆を起こし、これは4郡に波及する大規模な全領一揆となった。これに対して忠政は一揆を徹底的に殲滅し、捕縛された一揆衆も[[鳥打峠]]で数百人単位で磔に架けられ処刑され死者は600人余りに及ぶなど忠政の対応は苛烈なものであった&lt;ref&gt;『長野市誌』『更級郡誌』など&lt;/ref&gt;。[[善光寺]]に残る「千人塚」は忠政に殺された犠牲者を弔ったものといわれ、塚には赤字で犠牲者の姓名が刻まれている&lt;ref&gt;ただし、後年[[真田幸道]]の治世において起こった一揆、二斗八升騒動での犠牲者を刻んだものという説もある。&lt;/ref&gt;。また、一揆後も検地のやり直しなどは一切行なっていない。<br /> <br /> 慶長8年([[1603年]])、[[小早川秀秋]]の死によって[[小早川氏|小早川家]]が無嗣[[改易]]されると[[美作国]]一国18万6,500石([[津山藩]])への加増転封が決定。川中島には[[松平忠輝]]が入った。<br /> <br /> ===美作国人一揆===<br /> しかしながら森家の美作入封に元小早川家臣や元[[宇喜多秀家]]の家臣の浪人や在地土豪らが反発。元小早川家臣・難波宗守が首魁となり2,680人余りで[[播磨国|播磨]]・[[因幡国|因幡]]国境付近を固め入国を拒否するという事態となった&lt;ref&gt;『大原町史. 通史編』など&lt;/ref&gt;。<br /> この一揆の報告を受けた忠政であったが女子供含む1,000人足らずで信濃を発つと調略に取り掛かり、美作菅党の[[有元佐政]]を寝返らせる事に成功し、彼らの案内で美作入国を目指す。この動きに気付いた国人衆は慌てて忠政を討つべく夜襲を敢行したが、忠政を捕捉出来無いどころか、別の夜襲部隊と鉢合わせして同士討ちを始めるなど連携の悪さを露呈し、この隙に忠政一行は美作入国を果たした。この有元氏は当時は浪人であったが美作菅党と呼ばれる美作の有力土豪の宗家筋に当たる家で、有元佐政は一揆に参加した一族の説得を開始。これにより一揆軍の瓦解が始まった。<br /> <br /> そもそも一揆の目的は防衛線を固め、森家の美作国への侵入を防ぎつつ迎え撃ち、進退極まった森家が和議を申込んだところでこれまでと同じ既得権益を認めさせる事に有ったという&lt;ref&gt;『美作太平記』&lt;/ref&gt;。しかしながら、既に忠政の入国を許してしまった事から、早く森家に降伏して取り入ることにより権益の保持を狙うものが続出。離脱者の相次ぐ一揆勢は徐々に体を成さなくなり崩壊し、占拠していた[[林野城]]も森家に明け渡され一揆の指導者と目された難波宗守も自害して果て、森家に従うことを良しとしない者達は美作国を去り、一揆は殆ど森家と交戦する事も無く終息へと向かった。<br /> <br /> 乱後、有元氏や、菅納(菅)氏、福島氏、佐藤氏など早くから従う姿勢を見せた者には地主としての権利の保持や森家への仕官などが認められたが、それ以外の後から降った者達は期待したような待遇は無く、逆に士分を剥奪され帰農する事を強制するなど厳しく対応している。<br /> <br /> ===津山入り後===<br /> 無事に美作入りを果たした忠政であったが、新たな居城の建築場所を巡って以前より関係の悪化していた重臣・井戸宇右衛門との対立が表面化。忠政は同年5月に院庄の工事現場にて[[名古屋山三郎]]に井戸の殺害を命じ、宇右衛門の2人の弟も刺客を放ち暗殺し、井戸一族を抹殺した。しかしながらこの一件により筆頭家老の林為忠を初めとする林一門が森家を出奔するという事態に陥る。二頭体制の一角であった各務元正も既に亡く、これにより筆頭家老の座には若い[[各務元峯]](元正の嫡男)が就く事になった。<br /> <br /> 慶長9年([[1604年]])には伴直次を総奉行とし領内の検地を実施。また、前年の事件により止まっていた城の建築予定地を院庄から鶴山の地に変更。地名を鶴山から『津山』へと改め、城の建築を再開した。これが[[津山城]]である。また、築城に際して荒廃していた[[大聖寺 (美作市)|大聖寺]]の再建にも努めた。<br /> <br /> しばらくは家政も安定していたが、慶長13年([[1608年]])に石切場で筆頭家老である各務元峯が喧嘩の末に家老の[[小沢彦八]]を殺害。また仲裁に入った家老・細野左兵衛も元峯の家臣によって斬り殺されるという事件が起こる。折悪く忠政は[[参勤交代]]の為に江戸に居たが、この事件は[[大塚丹後守]]の裁量によって家中騒動などの大事には至らなかった。しかしながら忠政はこの有様に激怒し3家老の所領を召し上げた。この後、しばらくは大塚丹後守がまとめ役となったがその大塚も慶長17年([[1612年]])7月に死去。<br /> <br /> こうした事から忠政は新たな家中の抑えとなる人物を探し、[[江戸幕府]][[旗本]]となっていた叔父の[[森可政]]の津山藩入りを幕府に希望。幕府もこれを認め忠政は可政に5,000石の所領と執政職の権限、更には従弟で可政の四男[[森可春|可春]]にも3,000石の所領を与え、可政らの津山入りの際には自ら国境付近まで出迎えに赴くなど厚くもてなした。以後、家中での不祥事と言えるような出来事は収束する。<br /> <br /> ===大坂の陣===<br /> 慶長19年([[1614年]])の[[大坂の陣#大坂冬の陣|大坂冬の陣]]では[[池田忠継]]ら[[西国]]の大名と共に行軍し参加。[[中之島 (大阪府)|中之島]]を経由し今橋付近に陣取った。しかしながら11月27日に小姓数人を引き連れて大坂城に接近するも感づかれ発砲され、軍監の[[城昌茂]]が制止して陣に戻されるという事を起こす。これにより城は軍法に背いたとして森軍に静止命令を出した&lt;ref name=&quot;sendaijitsuroku&quot;/&gt;。この命令は11月29日の[[博労淵の戦い]]の最中にあっても解かれなかった為に森軍は[[天満川]]を渡らず傍観に徹した。翌30日、幕府の上使である[[水野勝成]]が前日の戦いでの森軍の有様を叱責しに現れたが忠政は「軍監の命に従ったまで」と説明した&lt;ref name=&quot;sendaijitsuroku&quot;/&gt;。結局のところ、水野は眼前で戦いが行われているのにも関わらず静止を解かなかった城の側を罪に問い、城は軍監を罷免(後に改易)され代わりに水野が軍監として忠政と後の戦いに同行している。<br /> <br /> 翌慶長20年([[1615年]])の[[大坂の陣#大坂夏の陣|大坂夏の陣]]にも参戦。森軍は208の首級を挙げ、特に森可春は大坂方の布施屋飛騨守を討つなど活躍した&lt;ref name=&quot;sendaijitsuroku&quot;/&gt;。<br /> <br /> ===晩年===<br /> 慶長21年([[1616年]])、13年の歳月をかけた津山城が完成。この間にもかつての領国美濃国から人員を呼びこんでの「[[美濃町 (津山市)|美濃職人町]]」や京や大坂・尾張から人員を招致しての「[[新職人町]]」の形成、久世牛馬市の創設などを始めとする経済の振興や、[[吉井川]]の堤防工事の実施とそれに伴っての河原町・船頭町の設置、美作の道路網の整備とそれに沿った宿場の新設、農業用水路の確保などの公共事業を始めとした多種多様な政策を計画・実行に移し津山藩の地盤を築き上げ、忠政の代に完遂が成らなかった事業も次代の[[森長継]]に引き継がれた。<br /> <br /> [[寛永]]3年([[1626年]])、嫡男・[[森忠広|忠広]]と2代[[征夷大将軍|将軍]]・徳川秀忠の養女・亀鶴姫([[前田利常]]の娘)が婚姻。これは将軍家斡旋の婚姻で前田家の縁戚、更には徳川家準一門の座につく権利を得たが、寛永7年([[1630年]])に亀鶴姫が子なく早世したために将軍家との姻戚関係は無くなり、徳川家準一門になる機会を逸した。寛永10年([[1633年]])には忠広が家督を継ぐこと無く死亡している。<br /> <br /> 同年、[[堀尾忠晴]]が死亡し堀尾氏が無嗣改易になると後釜として[[出雲国|出雲]]・[[石見国|石見]]・[[隠岐国|隠岐]]の3ヶ国への加増転封の話が浮上。[[老中]]・[[酒井忠勝 (若狭国小浜藩主)|酒井忠勝]]より御内証が届けられ、忠政は当初乗り気ではなかったが結局のところこの話を受けた&lt;ref name=&quot;sendaijitsuroku&quot;/&gt;。<br /> <br /> 翌寛永11年(1634年)、死亡した忠広の後釜として[[外孫]]に当たる関家継(後の森長継)を養子縁組して嫡子とする事を幕府に承認される。同年7月6日、京の大文字屋宗味の邸宅で夕食をとり、宿所の[[妙顕寺]]へ戻る途中に急激に体調が悪化。強い腹痛と嘔吐感を訴え、治療の甲斐無く7月7日未明に死亡した。死因は[[モモ|桃]]に当たっての[[食中毒]]であるという。[[享年]]65。<br /> <br /> 京都紫野[[大徳寺]]塔頭三玄院に葬られる。戒名 本源院殿前作州太守先翁宗進大居士。跡を長継が継いだ。また、将軍家との正式な会談が持たれる前の忠政の死により3ヶ国加増の話は立ち消えとなっている&lt;ref name=&quot;sendaijitsuroku&quot;/&gt;。<br /> <br /> == 官歴 ==<br /> ※日付=旧暦<br /> * 天正13年([[1585年]])10月6日、従五位下右近丞に叙任。<br /> * 天正15年([[1587年]])2月6日、従四位下侍従。これより「右近大夫忠政」と称す。<br /> * 寛永3年([[1626年]])8月19日、従四位上左近衛権中将。<br /> <br /> == 脚注・出典 ==<br /> {{reflist}}<br /> <br /> == 関連項目 ==<br /> *[[江村専斎]]<br /> *[[美濃町 (津山市)]]<br /> *[[津山まつり]]<br /> <br /> == 外部リンク ==<br /> *[http://www.mori-family.com/ 森氏家譜]<br /> *[http://www.spy.ne.jp/~satomako/ 森家資料調査会]<br /> *[http://www.libnet.pref.okayama.jp/mmhp/kyodo/person/mori/moritada-short.htm 森忠政(おかやま人物往来)] - [[岡山県立図書館]]<br /> <br /> {{先代次代|[[森氏|美濃森氏(宗家)当主]]|森忠政|[[森長可]]|[[森長継]]}}<br /> {{松代藩主|森氏||1600年 - 1603年|川中島藩}}<br /> {{津山藩主|森氏|初代|1603年 - 1634年}}<br /> <br /> {{DEFAULTSORT:もり たたまさ}}<br /> [[Category:森氏|たたまさ]]<br /> [[Category:戦国武将]]<br /> [[Category:織豊政権の大名]]<br /> [[Category:外様大名]]<br /> [[Category:津山藩主]]<br /> [[Category:松代藩主]]<br /> [[Category:美濃国の人物]]<br /> [[Category:日本の神 (人物神 江戸時代大名)]]<br /> [[Category:事故死した人物]]<br /> [[Category:1570年生]]<br /> [[Category:1634年没]]</div> 118.106.249.225 長府藩 2018-06-29T09:50:48Z <p>118.106.249.225: /* 概要 */</p> <hr /> <div>[[画像:Kushizaki Castle (Shimonoseki).JPG|thumb|藩庁である櫛崎城跡(現・関見台公園)]]<br /> &#039;&#039;&#039;長府藩&#039;&#039;&#039;(ちょうふはん)は、[[江戸時代]]の[[藩]]のひとつである。[[長州藩]]の[[支藩]]で、&#039;&#039;&#039;長門府中藩&#039;&#039;&#039;(ながとふちゅうはん)ともいう。須原屋[[武鑑]]の居城・在所表記では当初は[[長門国|長門]][[長府]]で、[[宝暦]]年中より長門府中に改称されている。藩庁は[[櫛崎城]](長府城、長府陣屋)に置かれた。<br /> <br /> == 概要 ==<br /> 藩主は[[毛利氏]]である。[[毛利元就]]の四男[[穂井田元清]]の子で、[[毛利輝元]]の養子となった[[毛利秀元]]が藩祖。<br /> <br /> 秀元は天正20年[[4月11日 (旧暦)|4月11日]]([[1592年]][[5月22日]])には[[文禄・慶長の役|朝鮮出兵]]に向かうために毛利氏の本拠であった[[広島城]]に入った秀吉によって直接、輝元の養嗣子となることを承認された。ただし、後日の紛糾を避けるために「輝元に男子が生まれた場合には分家すること」という条件の下であった。その後、輝元に待望の嫡男[[毛利秀就|秀就]]が誕生した。これを受けて[[慶長]]3年[[8月1日 (旧暦)|8月1日]]([[1598年]][[9月1日]])、豊臣政権は秀就を毛利氏の後継者として承認し、事実上廃嫡される秀元には輝元から所領を分知されて大名となることが決定された。翌年6月、方針に則って秀元に[[長門国]]一国と安芸国[[佐伯郡]]及び[[周防国]][[吉敷郡]]の計17万石をもって叔父である[[小早川隆景]](元就の三男)の例に倣って毛利氏家臣でありながら大名としての身分が認められることとなった。この時が長府藩の立藩であった。<br /> <br /> [[関ヶ原の戦い]]の後に、輝元が安芸ほか8か国で112万石から周防・長門の2か国29万8千石&lt;ref&gt;慶長5年の検地による石高。慶長10年([[1605年]])の毛利家御前帳にも同様の石高が記載。&lt;/ref&gt;に減封された際に輝元が東の守りとして[[岩国藩|岩国]]に[[吉川広家]](元就の二男[[吉川元春]]の三男)を置き、西の守りとして改めて長門国[[豊浦郡]](現在の[[山口県]][[下関市]])に秀元が領地を与えられた。のちに長州藩は、幕府の了解を得て36万9千石に高直しを行なった&lt;ref&gt;慶長18年([[1613年]])、検地では53万9千石余を打ち出したが、山代地方(現[[岩国市]][[錦町 (山口県)|錦町]]・[[本郷村 (山口県)|本郷町]])では[[山代慶長一揆|一揆]]も起きている事や[[広島藩]]主[[福島正則]]49万8000石とのつりあい等を考慮して、幕府は、検地石高の7割である36万9千石を表高として公認した&lt;/ref&gt;。<br /> なお、長府藩は綱元の時に叔父の[[毛利元知]]に1万石を分知し、支藩の[[清末藩]]を立藩させている。<br /> <br /> 初め 6万石→[[承応]]2年 5万石→[[享保]]3年 3万8千石→[[享保]]5年 4万7千石→[[天明]]3年 5万石<br /> <br /> 歴代藩主の中では3代・綱元の子である[[毛利吉元]]と、8代藩主の[[毛利重就|匡敬]](重就)が宗藩の長州藩主を継いでいる。<br /> <br /> [[幕末]]には宗藩である長州藩が下関を直轄領としようとしたために対立したが、後に和解し他の長州支藩とともに[[戊辰戦争]]で戦った。しかし、維新後に叙爵された際には維新の功績に伴わず[[子爵]]どまりであった。このことに関しては[[明治天皇]]の叔父にあたる[[中山忠光]]が長府藩に亡命していたときに暗殺されたことで、明治天皇が長府毛利家の伯爵への叙爵を渋ったと言われている(実際は、華族の爵位は華族制度発効時の所領の実高に拠り定められたもので、実高1万石以上5万石以下は子爵と規定されており、 5万石の長府藩もその制度に漏れなかったというだけである)。<br /> <br /> &#039;&#039;&#039;豊浦藩&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;豊浦県&#039;&#039;&#039;を経て山口県に編入され廃藩となった。<br /> <br /> == 歴代藩主 ==<br /> ;毛利家<br /> 外様 6万石→5万石→3万8千石→4万7千石→5万石<br /> # [[毛利秀元|&#039;&#039;&#039;秀&#039;&#039;&#039;元]]、穂井田元清の子<br /> # [[毛利光広|&#039;&#039;&#039;光&#039;&#039;&#039;広]]、初代藩主秀元二男<br /> # [[毛利綱元|&#039;&#039;&#039;綱&#039;&#039;&#039;元]]、2代藩主光広長男(※綱元の長男は宗藩を継いで5代藩主[[毛利吉元|毛利&#039;&#039;&#039;吉&#039;&#039;&#039;元]]となる)<br /> # [[毛利元朝|元朝]]、宗藩5代藩主毛利吉元の長男(※のちに宗藩の嗣子となって毛利&#039;&#039;&#039;宗&#039;&#039;&#039;元に改名するが、こちらは継ぐことなく死去)<br /> # [[毛利元矩|元矩]]、3代藩主綱元四男<br /> # [[毛利匡広|匡広]]、長門清末藩2代藩主毛利元平が継いで改名<br /> # [[毛利師就|師就]]、6代藩主匡広五男<br /> # [[毛利重就|匡敬]]、6代藩主匡広十男(※のちに宗家を継いで7代藩主毛利&#039;&#039;&#039;重&#039;&#039;&#039;就となる)<br /> # [[毛利匡満|匡満]]、宗家7代藩主毛利重就長男<br /> # [[毛利匡芳|匡芳]]、宗家7代藩主毛利重就五男<br /> # [[毛利元義|元義]]、10代藩主匡芳長男<br /> # [[毛利元運|元運]]、11代藩主元義三男<br /> # [[毛利元周|元周]]、11代藩主元義長男元寛の三男<br /> # [[毛利元敏|元敏]]、12代藩主元運六男<br /> <br /> ※歴代藩主の中で秀元は[[豊臣秀吉]]から、光広・綱元父子は[[徳川将軍家]]からの[[偏諱]]の授与を受けている。また出身者から本家に入った吉元、宗元、重就ものちに将軍家から偏諱を賜っている。該当文字は&#039;&#039;&#039;太字&#039;&#039;&#039;で示してある。<br /> <br /> == 主な藩士 ==<br /> 文政年間の毛利元義治世中の主要家臣は以下のとおり。<br /> <br /> 【[[家老]]など】<br /> :細川織部、毛利玄蕃、[[三吉周亮|三吉内蔵]]、桂縫殿、伊秩右膳、田代左京、三沢外記、西図書、毛利辰三郎、迫田伊勢之助、細川中務、毛利勘解由、三沢六郎太夫<br /> 【[[用人]]】<br /> :上田権右衛門、松田甚左衛門、長谷川貢、江見平馬、弘仲与兵衛、坂原九郎左衛門、林仲助、国弘清次郎、浅野教、<br /> 【城使】<br /> :田上新右衛門、井上丹下<br /> この他、[[乃木希典]]の伝記に登場する中下級藩士は以下のとおり<br /> * [[乃木希次]]<br /> * 江木傳右衛門<br /> * 菅野清右衛門<br /> <br /> == 藩邸及び菩提寺 ==<br /> [[江戸藩邸]]では麻生日ヶ窪に上屋敷、白金早道場に下屋敷があり、[[京都]]藩邸は三条通下立売油小路に、[[大阪]]藩邸は中ノ島にあった。江戸における[[菩提寺]]は芝の[[泉岳寺]]で清末藩も同寺を江戸での菩提寺としていた。江戸上屋敷の跡は現在[[六本木ヒルズ]]となっている。<br /> <br /> == 幕末の領地 ==<br /> * [[長門国]]<br /> ** [[厚狭郡]]のうち - 36村<br /> ** [[豊浦郡]]のうち - 130村<br /> <br /> == 関連項目 ==<br /> * [[毛利邸]](長府毛利邸) - 最後の藩主・毛利元敏が、明治時代に建てた長府毛利家の邸宅。<br /> * [[理方一流]](長府藩では今枝流と呼ばれていた)<br /> * [[田宮流]]<br /> <br /> ==脚注==<br /> {{Reflist}}<br /> <br /> <br /> {{s-start}}<br /> {{s-bef|before=([[長門国]])|表記=前}}<br /> {{s-ttl|title=行政区の変遷 <br /> |years=[[1600年]] - [[1871年]]|years2=府中藩→豊浦藩→豊浦県}}<br /> {{s-aft|after=[[山口県]]|表記=次}}<br /> {{end}}<br /> <br /> {{江戸時代の藩}}<br /> {{Pref-stub|pref=山口県}}<br /> {{japanese-history-stub}}<br /> <br /> {{DEFAULTSORT:ちようふはん}}<br /> [[Category:藩]]<br /> [[Category:長門国|藩ちようふ]]<br /> [[Category:長州藩の支藩]]<br /> [[Category:長府毛利氏|*]]<br /> [[Category:下関市の歴史]]<br /> [[Category:長府藩|*]]</div> 118.106.249.225 渡島大島 2018-06-24T13:31:12Z <p>118.106.249.225: /* 自然 */</p> <hr /> <div>{{Infobox 島<br /> |島名 = 渡島大島<br /> |画像 = [[File:Oshima-Oshima island aerial photograph.JPG|300px|渡島大島]]&lt;br /&gt;画像中央右が最高峰の江良岳、中央やや左に見える[[火口]]が寛保岳。二重カルデラの様子が分かる。&lt;br /&gt;{{国土航空写真}}。(1976年撮影の3枚を合成作成。)<br /> |座標 = {{coord|41|30|40|N|139|21|30|E|type:isle_region:JP-01|display=inline,title}}<br /> |面積 = 9.73<br /> |周囲 = <br /> |標高 = 737<br /> |海域 = <br /> |国 = {{JPN}}<br /> |地図2=Japan Hokkaido#Japan<br /> }}<br /> [[File:Oshima-ooshima.jpg|thumb|284px|渡島大島]]<br /> <br /> &#039;&#039;&#039;渡島大島&#039;&#039;&#039;(おしまおおしま)は、[[北海道]][[松前郡]][[松前町 (北海道)|松前町]]に属する[[無人島]]である。&#039;&#039;&#039;松前大島&#039;&#039;&#039;(まつまえおおしま)とも呼ばれる。松前町西方沖50kmの地点に位置する。大島の名は[[渡島小島]]に対してのもの。住所は全域に亘って松前郡松前町大島。<br /> <br /> == 地理 ==<br /> 渡島大島の面積は、約9.73km{{sup|2}} で、[[日本]]の施政下で最大の無人島である&lt;ref&gt;中村 庸夫 『島の名前 (日本編)』 p.20 東京書籍 2005年9月7日発行 ISBN 4-487-80047-1&lt;/ref&gt;。島は北に開いた馬蹄形カルデラと、その中に形成された大きな[[スコリア丘]]からなる火山であり、最高峰は[[江良岳]](737m)。海底から見ると2,000m近い高さになる。島の西端は東経139度20分16秒で、[[北海道]]の最西端に当たる。島の周囲の海底は急深で、距岸約500mで水深100mとなる。馬蹄形カルデラは島から約5km北部の海底まで連続しており、山体崩壊時の総体積は約2.5km{{sup|3}}と推定されている&lt;ref&gt;{{Cite journal |date= 2007 |url= https://www.terrapub.co.jp/journals/EPS/pdf/2007/5905/59050381.pdf |title= Volcanic origin of the 1741 Oshima-Oshima tsunami in the Japan Sea |format= PDF |author= Kenji Satake |accessdate= 2016-10-13 |journal= Earth, Planets and Space |volume= 59 |issue= 5 |pages= 381-390 }}&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> === 火山活動の歴史 ===<br /> 渡島大島は[[離島]]である上に無人島であるため、噴火活動の記録はほとんど残されていない。数少ない記録では、[[1741年]]([[寛保]]元年)[[8月27日]]の寛保岳の大噴火がある。噴火の翌日、[[津波]]が発生し、対岸の[[熊石町|熊石]]から松前にかけて1,467人の死者を出した。津波の原因は、噴火による大規模な[[山体崩壊]]によるという説&lt;ref&gt;{{Cite web |date=1998-01-14 |url=http://docsrv.godac.jp/MSV2_DATA/23/16_02_04.pdf |title=日本海東縁, 奥尻海嶺および周辺の大地震と海底変動 |format=PDF |publisher=海洋研究開発機構(JAMSTEC) |accessdate=2008-12-03 |archiveurl=http://web.archive.org/web/20030726225353/http://www.gsj.jp/Pub/Bull/vol_49/49-01_01.pdf |archivedate=2003-07-26 |deadlinkdate=2014-10-04 }}&lt;/ref&gt;と、低周波[[地震]]によるもの&lt;ref&gt;{{PDFlink|[http://www.gsj.jp/Pub/Bull/vol_49/49-01_01.pdf 日本海東縁海域の活構造およびその地震との関係]}} (独)産業技術総合研究所 地質調査総合センター&lt;/ref&gt;との説がある。[[気象庁]]は山体崩壊説&lt;ref&gt;[http://www.data.jma.go.jp/svd/vois/data/sapporo/115_Osimaosima/115_history.html 渡島大島 有史以降の火山活動]&lt;/ref&gt;を採っており、[[東京大学地震研究所]]らの研究によれば地震説が有力である&lt;ref&gt;[http://hdl.handle.net/2261/12927 相田勇:噴火により発生する津波の見積り:1741年渡島大島の場合] 東京大学地震研究所彙報. 第59冊第4号, 1985.3.30, pp. 519-531&lt;/ref&gt;。&lt;br/&gt;<br /> <br /> == 自然 ==<br /> [[オオミズナギドリ]]の北限の[[繁殖地]]であり&lt;ref&gt;中村 庸夫 『島の名前 (日本編)』 p.20、p.21 東京書籍 2005年9月7日発行 ISBN 4-487-80047-1&lt;/ref&gt;、日本国指定の[[天然記念物]]に指定されている。また、[[松前矢越道立自然公園]]の一部にもなっている。しかし、戦前から戦後直後における人間による捕獲や人為的に持ち込まれた[[ネズミ]]や[[ウサギ]]による被害(ネズミによる食害、ウサギによる巣の占拠、ネズミやウサギによる植物への被害による島の環境の激変)によってオオミズナギドリの生息数は激減してしまったままである。<br /> <br /> == 交通 ==<br /> [[無人島]]のため、島へのアクセス手段はない。<br /> <br /> 近海で操業する[[漁船]]が多いため、漁業の前進基地及び[[時化|海が荒れた]]場合の避難所として島東部トリカラス浜に[[漁港]]を建設中。[[2020年]]の完成を予定している&lt;ref&gt;[http://www.hkd.mlit.go.jp/ky/ki/chousei/splaat000000v29l.html 北海道開発局事業審議委員会 平成29年度第1回]&lt;/ref&gt;。島南部の北風泊(アイドマリ)に[[松前大島灯台|灯台]]と[[海上保安庁]]の[[ヘリポート]]が設置されている。<br /> <br /> 漁港完成後も、活発な火山活動と自然保護のため、上陸には[[文化庁]]の許可が必要とされ、一般観光客の上陸は非常に難しい。<br /> <br /> == 出典 ==<br /> {{Reflist}}<br /> <br /> == 関連項目 ==<br /> * [[渡島小島]]<br /> * [[日本海東縁変動帯]]<br /> * [[松前大島灯台]]<br /> <br /> == 外部リンク ==<br /> * [http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.html?meshcode=62392205 国土地理院 地図閲覧システム 2万5千分1]<br /> * [http://repository.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/dspace/handle/2261/12732 北海道渡島大島津波(1741年)の供養碑](東京大学地震研究所)<br /> * [http://www.data.jma.go.jp/svd/vois/data/sapporo/115_Osimaosima/115_index.html 気象庁 北海道の活火山 渡島大島]<br /> * [http://unit.aist.go.jp/actfault/katsudo/news/no.32/shinbun.html 活断層研究センターニュース no32]<br /> * [http://www.town.matsumae.hokkaido.jp/hotnews/detail_sp/00000259.html 渡島大島の位置と歴史]<br /> * {{PDFlink|[http://www.jific.or.jp/dispatch/ronbun/pdf_h16/13-315.pdf 大島漁港の管理に関する調査]}}<br /> <br /> {{日本の活火山}}<br /> {{大規模火山災害}}<br /> <br /> {{DEFAULTSORT:おしまおおしま}}<br /> [[Category:渡島国]]<br /> [[Category:松前町 (北海道)]]<br /> [[Category:火山島]]<br /> [[Category:北海道の島]]<br /> [[Category:北海道の火山]]<br /> [[Category:日本の漁港]]<br /> [[Category:日本の無人島]]<br /> [[Category:日本海の島]]</div> 118.106.249.225 両統迭立 2018-06-24T02:41:36Z <p>118.106.249.225: /* 迭立の過程 */</p> <hr /> <div>{{複数の問題<br /> | 独自研究 = 2017年12月<br /> | 脚注の不足 = 2017年12月<br /> | 参照方法 = 2017年12月<br /> }}<br /> &#039;&#039;&#039;両統迭立&#039;&#039;&#039;(りょうとうてつりつ)は、一国の世襲[[君主]]の家系が2つに分裂し、それぞれの家系から交互に君主を即位させている状態である。「迭」は「たがいに」「かわるがわる」の意。<br /> <br /> 日本では、[[鎌倉時代]]に皇統が2つの家系に分裂し、[[治天]]と[[天皇]]の継承が両統迭立の状態にあったことが最も著名である。<br /> <br /> == 日本 ==<br /> === 鎌倉時代 ===<br /> 鎌倉時代の両統迭立は、[[後嵯峨天皇]]の第3皇子[[後深草天皇]]の子孫である[[持明院統]]と、第4皇子[[亀山天皇]]の子孫である[[大覚寺統]]とのあいだで行われた。<br /> <br /> ==== 端緒 ====<br /> [[image:RyoutouTetsuritsuKAMAKURA.png|thumb|500px|right|持明院統・大覚寺統両統関係系図]]<br /> [[仁治]]3年([[1242年]])に即位した後嵯峨は、[[寛元]]4年([[1246年]])に[[皇太子]]久仁親王(後深草天皇、4歳)に譲位して[[院政]]を開始したあと、後深草に[[皇子]]が生まれるのを待たず、[[正嘉]]2年([[1258年]])に後深草(16歳)の同母弟恒仁親王(亀山天皇、10歳)を皇太子とし、さらに翌[[正元 (日本)|正元]]元年([[1259年]])には後深草から恒仁に[[譲位]]させた。後深草にはその後皇子が生まれたが、[[文永]]5年([[1268年]])、後嵯峨は、後深草の嫡男(第2皇子)煕仁親王(4歳)をさしおいて亀山の嫡男(第2皇子)世仁親王(2歳)を皇太子とした。<br /> <br /> この一連の措置から、後嵯峨が亀山を自らの後継者としその子孫に皇統を伝える意図を持っていたことは容易に推測できるが、後嵯峨はその意図を明確にせずに文永9年([[1272年]])に死去した(53歳)。[[遺言状]]も財産の分与をこまごまと定めるのみで後継者を指名する文言はなく、ただ次代の治天の指名は[[鎌倉幕府]]の意向に従うようにという遺志だけが示された。後深草と亀山はそれぞれ次代の治天となることを望んで争い、裁定は幕府に持ち込まれた。幕府は、後嵯峨の[[正室|正妻]]であり後深草と亀山の生母でもある[[大宮院]]に故人の真意がどちらにあったかを照会し、大宮院が亀山の名を挙げたことから亀山を治天に指名した。後嵯峨がこのような曖昧な態度をとったのは、自身が幕府の介入によって傍系から予想外の即位をした経験を踏まえ、後継者を指名しても幕府の意にかなわなければ簡単に覆されてしまうことをよく知っていたためであろう{{要出典|date=2018年4月}}。亀山はしばらく在位のまま政務を執り、文永11年([[1274年]])には皇太子世仁(8歳、[[後宇多天皇]])に譲位した。<br /> <br /> 一方、[[治天]]の地位を逃した後深草は不満を募らせ、後宇多が即位すると抗議のため上皇の待遇を辞退して[[出家]]しようとした。後嵯峨は、膨大な王家領荘園群のうち、全国100ヶ所以上の荘園から構成される大荘園群[[長講堂領]]を後深草が相続できるようとりはからっていたが、皇室伝来の[[坂上田村麻呂]]の御佩刀([[坂上宝剣]]{{Refnest|group=注|『[[増鏡]]』では「朝の御まぼりとて田村の将軍より伝はりまいりける御はかし」とあり、朝廷守護の宝剣や皇位継承の印と考えられていた}})が後嵯峨の意向により亀山に伝えられ、大宮院も関与していたことに後深草の不満は収まらなかったのである{{Sfn|荒木|2007|pages=123-128}}。のちに長講堂領は持明院統の重要な財政基盤となる。亀山も対抗措置としてやはり200ヶ所にのぼる大荘園群[[八条院領]]をのちに手に入れ、こちらは大覚寺統の主要な財政基盤となった。2つの皇統は、こののち、[[治天の君|治天]]・[[天皇]]・[[皇太子]]の地位だけでなく、[[女院]]などの[[皇族]]たちが分散して管理する王家領荘園群の熾烈な争奪戦も演じることになり、王家は政治的にだけではなく経済的にも分裂状況に陥ることになる。後深草の不満を受けて、[[承久の乱]]以来の慣行に従って幕府が皇位継承に介入し、[[建治]]元年([[1275年]])に煕仁(11歳)を皇太子に指名、将来、後深草が治天となることを保証した。この介入は、[[執権]][[北条時宗]]が後深草の立場に同情したためという説明が当時からなされている(「[[増鏡]]」)ほか、[[得宗]]と治天の交渉を仲介する立場にある[[関東申次]][[西園寺実兼]]が亀山父子よりも後深草父子と親しかったため、後深草にとって有利な解決をはかったことも指摘されている{{要出典|date=2018年4月}}。この時点ですでに幕府は[[摂家|摂関家]]が分裂したのと同様に王家をも分裂させる意図を持っていたとも言われる([[本郷和人]])が、史料がなく真相は不明である。[[鎌倉時代]]には、[[公家]]社会一般で分家を次々に創出させる傾向が見られたことにも留意する必要がある。いずれにしても、建治元年の幕府の介入によって、後深草と亀山の両者が等しく皇位を子孫に伝え自らは治天となる資格を有することが確定し、これが以後200年に及ぶ王家分裂の端緒となった。<br /> <br /> ==== 定着 ====<br /> 亀山は、[[朝廷]]の訴訟処理機構の整備を進め、また公家社会の身分秩序を律する「[[弘安礼節]]([[弘安書札礼]])」を制定するなど、意欲的に政務に取り組んだ。この時期を「弘安の徳政」とも呼ぶ。同じころ幕府でも[[安達泰盛]]が主導する[[徳政]]が行われており、亀山と泰盛とのあいだには文化交流など個人的なつながりもあることから、公武両徳政には密接な連関があるものと考えられている。<br /> <br /> しかし、弘安8年([[1285年]])に泰盛とその与党が[[平頼綱]]らのクーデタである[[霜月騒動]]により殺害・追放されて幕府の政策が転換すると、その影響が朝廷にも及び、亀山の院政は動揺した。このころ後深草も後嵯峨は亀山を後継者に指名してはいない旨を幕府に申し入れるなどの工作を行っている。亀山が倒幕を考えている、という噂が立つなどの政情不安のなか、結局、弘安10年([[1287年]])になって幕府は治天・天皇の交替を要求し、皇太子煕仁(23歳、[[伏見天皇]])が[[践祚]]して後深草による院政が開始された。[[正応]]2年([[1289年]])にはこれも幕府の指名により伏見の第1皇子胤仁親王(2歳)が皇太子に立てられ、さらに同年後深草の皇子[[久明親王]]が[[鎌倉殿]]として幕府に迎えられた。後深草はこれを見届けると正応3年([[1290年]])に出家(48歳)し、治天の政務も伏見に譲って引退した。この時点では、まだ両統迭立が完全には定着しておらず、貴族たちもいずれか一方の皇統にのみ仕えて派閥を形成するということはなかったため、それまで大覚寺統の治天に仕えていた貴族たちはそのまま持明院統の治天に仕えることになり、大覚寺統は一気に勢力を失った。亀山は失意のうちに正応2年に出家(41歳)し、翌正応3年に霜月騒動で所領を失った武士[[浅原為頼]]らが[[内裏]]に乱入し伏見を殺害しようとする事件が起きると関与を疑われ、[[起請文]]を幕府に提出して身の潔白を主張しなければならなかった。<br /> <br /> [[治天]]となった伏見は、亀山が政務を執った時代に整備された訴訟処理機構をさらに拡充し、[[家柄]]にとらわれない人材登用を積極的にめざすなど、政務の振興に努力した。伏見が抜擢した人物としてもっとも著名なのは[[京極為兼]]である。為兼は伏見の信任を背景に[[二条派|二条家]]と並ぶ歌壇の一方の指導者となっただけでなく、政務にも深く関与した。ただ、為兼の強烈な個性は多くの敵をつくり、伏見の積極的な政治姿勢とも相まって、[[関東申次]][[西園寺実兼]]との対立や幕府の警戒を呼ぶ結果となった。伏見は[[永仁]]6年([[1298年]])に皇太子胤仁(10歳、[[後伏見天皇]])に譲位したが、次の皇太子の人選をめぐって大覚寺統の巻き返しが起こり、実兼もこれに加担した。結局、皇太子には後宇多天皇の第1皇子邦治親王(14歳)が指名された。伏見は引き続き政務を執ったが政権は安定せず、[[正安]]3年([[1301年]])、幕府は治天・天皇の交替を要求し、邦治(17歳、[[後二条天皇]])が践祚して後宇多による院政が開始された。<br /> <br /> 両統迭立が鎌倉幕府(最高権力者は[[得宗]][[北条貞時]])の公式な方針として表明されたのは、この交替のときが最初である。以後滅亡まで幕府はこの方針を堅持した。王家の分裂を固定化する意図によるものとする説と、皇位継承を王家の自律に任せ直接的な関与を避ける意図によるものとする説とが対立している。両統迭立の定着にともない、一方の皇統に専属的に仕える[[貴族]]が出現しはじめ、また治天の側も貴族たちにそれを求めた。王家の分裂が公家社会全体の分裂へと発展してゆくことになった一方、貴族たちの治天への従属は深まった。また、政務の交替とともに朝廷の高官・要職が一斉に入れ換えられ、一方の皇統の治天が下した訴訟の判決が他方の皇統の治天によって安易に覆されるなどの混乱も生じ、朝廷そのものの権威はかえって地盤沈下してゆくことになった。更にこの混乱は幕府へも思わぬ影響を及ぼした。治天が下した判決を執行するための警察力・軍事力を欠いていた朝廷では、六波羅探題にその執行を命じる勅命(違勅綸旨・違勅院宣)を送ってその[[検断権]]に基づく執行を命じたからである。この結果、敗訴した側は朝廷に逆らう「[[悪党]]」として討伐の対象となり、一方的に「悪党」と認定された側も激しく抵抗した。ところが、治天の交替によって判決がひっくり返されると、今度は対立していた側が同様の目に遭わされた。このため、訴訟当事者たちの朝廷に対する怒りが六波羅探題とその後ろにいる幕府にも向けられた。しかも、訴訟当事者の中に御家人がいた場合でも六波羅探題や幕府は勅命や院宣に逆らってまで彼らを保護することが出来なかった。このため、悪党の活発化や御家人の幕府への不信を招く結果となり、幕府の権威もまた傷つく結果となったのである。<br /> <br /> 両統迭立の方針に基づき、次の皇太子は持明院統から出すこととされた。13歳の後伏見にはまだ皇子がなく、伏見の第4皇子富仁親王(5歳)が皇太子となった。2つに分裂した王家がさらに分裂する可能性が生じ、伏見は持明院統の分裂を防止するため富仁を後伏見の[[猶子]]とする措置をとっている。大覚寺統では、すでに後二条には正安2年([[1300年]])に第1皇子[[邦良親王]]が生まれて将来の皇位継承が予定されていたにもかかわらず、亀山が[[乾元 (日本)|乾元]]2年([[1303年]])に生まれた自分の皇子[[常盤井宮恒明親王|恒明親王]]を偏愛するあまり、邦良に代えて恒明を皇位につけることを後宇多と伏見に約束させて、さらなる皇統分裂の種を蒔いた。<br /> <br /> [[嘉元]]2年([[1304年]])に後深草が62歳で死去、翌嘉元3年([[1305年]])には亀山が57歳で死去し、両統迭立は第2世代の時代に入った。それに先立つ正安4年([[1302年]])、伏見は2年前に死去した[[室町院]]より相続した[[持明院]]を新たな御所とした。一方、後宇多は徳治3年([[1308年]])になって[[大覚寺]]を再興して自らの御所とした。[[近藤成一]]の研究によれば、後深草・亀山両院の存命中はそれぞれ冷泉富小路殿と冷泉万里小路殿を拠点としており、「持明院統」「大覚寺統」の名称の由来となった持明院と大覚寺は自己の系統を新たな皇統として位置づけることに成功した伏見と後宇多という第2世代を象徴する殿舎であったと指摘している。<br /> <br /> 両統迭立の影響は芸能面にも見られるようになる。[[豊永聡美]]の研究によれば、後鳥羽天皇が愛好した影響により、鎌倉期よりそれまでの笛に代わって琵琶が天皇の教養として必須の楽器となっており、後深草もその例に倣って琵琶を習得していたのに対し、亀山は笛を重んじた。これは亀山が皇位継承者として浮上する以前から笛を習得していたことに加えて何らかの政治的判断も働いた可能性がある(後深草も亀山の了承を得た上で、持明院統の笛説を天皇家代々の藤井流から地下官人の大神氏に伝わる大神流に切り替えている)。実際には亀山も習得の開始は遅いながらも琵琶にも優れており、兄の後深草よりも先に秘曲を習得することが出来た(ただし、秘曲の伝授の時期は政治的な問題も絡んでおり、習得時期の前後と能力の優劣は無関係である)。以降、持明院統の天皇は琵琶を、大覚寺統の天皇は笛を、必須の楽器とした(なお、後年の持明院統(北朝)の分裂の際にも、[[後光厳天皇]]が兄である[[崇光天皇]]流(持明院統嫡流)に対抗する意図で琵琶から笙に切り替えている)。それでも、後深草・亀山の存命中は亀山が朗詠や蹴鞠を後伏見に伝授したり、管弦の会で両統の天皇や院が共演して演奏したりする交流の機会もあったが、両院の没後はそうした機会も減少していく。<br /> <br /> 後宇多もやはり政務に精励することで自己の皇統の正統性を補強しようと努力している。また、真言密教に傾倒して、徳治2年([[1307年]])には出家している(41歳)。これも個人的な信仰だけでなく、宗教的権威により皇統の正統性を強化する意図を含むものである。しかし、[[徳治]]3年([[1308年]])に後二条(24歳)が急死して皇太子富仁(12歳、[[花園天皇]])が践祚し、伏見による院政が再開された。大覚寺統から皇太子が選ばれることになったが、後宇多天皇は、皇太子として嫡孫邦良(9歳)ではなく第2皇子尊治親王(21歳)を選んだ。邦良の幼少と病弱を考慮し、また恒明を立太子を要求する勢力を抑えるための措置だったが、結局これも問題をさらに複雑なものにした。なお、伏見も正和2年([[1313年]])に出家し、治天の政務を後伏見に譲っている。<br /> <br /> 両統迭立の定着により、両統とも時期を待てばいずれ政務を執ることができるようになると、今度は両統ともその時期をなるべく早めようとする。それは、具体的にはもっぱら鎌倉幕府へ特使を派遣して現任の天皇を譲位させるように請願するかたちで行われた。特にこのころ、伏見は第1次の院政期から引き続いて幕府から警戒されており、かつての亀山のように倒幕を考えているという噂も立つほどで、正和5年([[1316年]])には、伏見は幕府に[[告文]]を提出して潔白を訴えている。当然、治天・天皇の交替を求める大覚寺統からの圧力は増大した。対応に苦しんだ幕府は、[[文保]]元年([[1317年]])、次回の皇位継承については両統の協議により決定し、特使の派遣はやめるように指示した。協議の場で後宇多は[[花園天皇|花園]]が皇太子尊治に譲位すること、次の皇太子には邦良を立てることを求めた。伏見は花園の譲位は受け入れたが、皇太子には後伏見の第1皇子量仁親王(5歳)を立てることを求めた。協議はいったん決裂したが、同年伏見が53歳で死去すると両統の力関係は持明院統に不利となり、後宇多は再び花園の譲位を要求し、後伏見はこれを拒むことができず、翌文保2年([[1318年]])には尊治(31歳、[[後醍醐天皇]])が践祚し、邦良(19歳)が皇太子となった。交換条件として、後宇多は邦良の次の皇太子には量仁を立てることを後伏見に約束している。両統迭立は、すでに当然のこととして定着していた。後醍醐の践祚とともに後宇多の院政が再開されたが、後宇多は[[大覚寺]][[門跡]]を創設して自ら門主となるなど密教への傾倒をさらに深め、また年齢とともに体調を崩してしだいに政務に倦み、[[元亨]]元年([[1321年]])には治天の政務を後醍醐に譲り、元亨4年([[1324年]])には58歳で死去した。両統迭立は第3世代の時代を迎える。<br /> <br /> ==== 解消 ====<br /> 後宇多は、あくまでも邦良を自分の正統な後継者と考えており、後醍醐の即位は邦良が成人するまでの“中継ぎ”でしかなかった。後宇多は、徳治3年、後二条の死去の8日後、愛息に先立たれた悲しみのなかでしたためた[[処分状]]のなかで次のように述べる。<br /> <br /> {{Quotation|<br />   処分<br /> <br /> (中略。大覚寺統の所領群を列挙し、その集積過程などを記す。)<br /> <br /> 右、寺院・御所・和漢文書等、一紙を残さず、中務卿尊治親王に譲与するところなり。後二条院長嫡として相承すべきのところ、不慮に崩御す。御悲嘆尽きるなし。去る秋仙院早世、この秋天子晏駕、眼前無常のこと、いかでか繋風を得ん。長く一事の俗塵を抛ち、いよいよ無為の真境に入らん。利生の方便にあらず。治世の要術は、口に世事を言うべからず、意に世事を憶うべからず。よって親王に処分するところなり。一期ののち、ことごとく邦良親王に譲与すべし。尊治親王子孫においては、賢明の器・済世の才あらば、しばらく親王として朝に仕え君を輔けよ。天下の謳歌、虞舜・夏禹のごとくんば、皇祖の冥鑒に任すべし。僭乱の私曲あるなかれ。後二条院の宮をもって実子のごとくすべし。ゆめゆめ保護せしめよ。ことに孝行を存じ、朕が志をなすべし。<br /> <br />   徳治三年閏八月三日                            御判<br /> |『鎌倉遺文』23,369号「後宇多上皇譲状案」<br /> }}<br /> <br /> つまり、後醍醐の子孫は皇位継承権を原則として有さないこと、後醍醐は邦良を自分の実子と思って待遇することなどが記され、そのことは関係者にも周知された。当時の持明院統の関係者が残したメモには、後醍醐の地位が「一代主」と表現されている。後醍醐は、天皇としての権威を十全に主張できない立場にあった。持明院統における花園も同様に“中継ぎ”の立場にあったが、伏見の意向で、花園は兄[[後伏見天皇|後伏見]]の猶子として持明院統の「嫡嗣」と呼ばれ、さらに後伏見の子の量仁が花園の猶子とされて、花園を持明院統の[[嫡流]]に組み込む、いわば“顔を立てる”配慮がなされていた。その温厚な人柄もあって、花園は自らの置かれた立場を従順に受け入れ、むしろ量仁の養育に力を注いだ。しかし、後醍醐は自らの立場に強い不満をいだき、激しく反発した。元亨元年に後宇多が後醍醐に治天の政務を譲ったのは、後醍醐の強要によるものではないかと推測する研究者(網野善彦、森茂暁)もいるほどである。<br /> <br /> 一方、処分状は、後醍醐の子孫から天皇や親王([[法親王]]ではなく俗人の親王)を出すことをほんのわずかな可能性ではあるが許容しているが、それは、古代中国の伝説的な聖天子である[[舜]]や[[禹]]と同等の帝王としての徳を後醍醐が備えている、と万民が認めたときに限られたものであり、ほとんど[[易姓革命]]と同じことであって、実現不可能な条件と言える。なお、この「可能性」を強調して、後宇多の意図を、天皇後醍醐・皇太子邦良の体制をできるかぎり長期化させ、量仁の立太子・践祚を遅延させることに求めようとする説(河内祥輔)もある。いわば、後二条流皇統をメインの皇統、後醍醐流皇統をサブの皇統として、大覚寺統の内部で皇位を独占し、将来的には持明院統を廃絶に追い込むことが意図されているというのである。しかし、仮にこの説に従うとして、後宇多のこのような意図の実現には、河内自身が認めているように、後醍醐と邦良の綿密な協調が不可欠であり、それは後宇多が親権者として両者のうえに君臨していなければ維持することは難しい。しかも、後宇多自身、後二条流皇統の維持に最大限の努力を払っていた。後宇多が院政を停止する直前の元亨元年2月に邦良が病に倒れると、3月19日に同母弟の[[花町宮邦省親王|邦省親王]]を内裏で[[元服]]させた。まもなく邦良は健康を回復したものの、この措置は、邦良の身に万一の事態があってその系統が断絶しても、それに代えて邦省を後二条流皇統の嫡流と定め、後醍醐流皇統に優先させる意図が後宇多にあったことを推測させる。後年になって、邦省はこのときに自分が後二条の「第二の皇胤」と位置づけられたと主張している。元亨4年6月に後宇多が死去すると、はたして後醍醐と邦良の関係はたちまち険悪となる。<br /> <br /> 自らの立場に納得できない後醍醐の感情は、政務を掌握してからのきわめて精力的な政策展開にも表現されている。これまで歴代の治天が進めてきた訴訟処理機構の整備や迅速な訴訟処理、有為な人材の登用などは当然であるが、後醍醐は、[[沽酒法]](米価・酒価公定令)、洛中への[[地口銭]]賦課などの経済政策にも取り組み、さらには[[洛中酒鑪役賦課令]]、[[神人公事停止令]]、[[関所停止令]]などを発して、それまで治天の権限の及ばなかった領域へも積極的に手を伸ばして朝廷自体の権力基盤の拡大をも目指した。<br /> <br /> しかし、このような新政策は、当然、既得権を侵害される貴族・大寺社の抵抗や全国統一政権としての性格を強めつつあった幕府の規制を受けて充分な成果を挙げることはできなかった。また、後醍醐は朝廷内部で孤立しており、手足となって働く人材が不足していた。後嵯峨の治世以来整備されてきた朝廷の訴訟処理機構で[[伝奏]]や[[奉行]]などの役職に就き実務を担う家柄([[名家 (公家)|名家]]の家柄)を確立させてきた貴族たちは、すでにいずれかの皇統に組織されてそれぞれ主従関係を結んでいた。持明院統に仕える貴族たちが後醍醐に協力しなかったのはもちろん、大覚寺統に仕える貴族たちも多くは「一代主」でしかない後醍醐よりも嫡流の邦良に仕えることを選んだ。後醍醐に仕えたのは、学問や芸能、信仰などを通じて後醍醐と個人的なつながりのあった者や、新たに名家の家柄への上昇を目指す低い[[家格]]の家系の出身者が中心だった。<br /> <br /> 「一代主」の立場を甘受することもできず、自らが理想とする政策を充分に実現することもできなかった後醍醐は、唯一の突破口として武力により既存の政治秩序を根こそぎ破壊する道を選ぶことになる。当時、相続に関して父母の遺言は絶対的な効力を持っており、幕府や朝廷の法廷でも容易にそれを覆すことはできなかったほどである。後宇多の定めた皇位継承プランを尋常の手段で変更することは難しかった。まして、両統迭立が幕府の方針として明確にされている以上、後醍醐の攻撃対象に幕府も含まれることになるのは必然的だったと言える。<br /> <br /> 後醍醐の第1次の武力倒幕計画が密告により発覚したのは、元亨4年9月のことだった。後宇多の死去が同年6月であるから、まるで父の死亡を待っていたかのようなタイミングである。この年は12月に[[正中 (日本)|正中]]と改元されたので、これを[[正中の変]]と呼ぶ。計画は事前に幕府に漏れ、参画した者はある者は殺害され、ある者は逮捕されたが、幕府の対応は微温的であり、朝廷関係者では、後醍醐の側近[[日野資朝]]が佐渡に配流されただけで後醍醐は罪を問われなかった。<br /> <br /> 後醍醐と不和になっていた邦良は、正中の変以後、後醍醐を早期に譲位させるようたびたび幕府に請願していたが、正中4年([[1326年]])に死去してしまう(27歳)。持明院統の嫡子量仁のほか、後二条が死去した際に立太子の機会を逸した恒明、邦良の同母弟邦省、後醍醐の第1皇子[[尊良親王]]らが次の皇太子の座を争い、最終的には幕府の裁定で量仁(14歳)が皇太子に指名された。邦良も幼い男子を遺しており、彼らも将来は後醍醐の強力なライバルとなり得る立場にあって、後醍醐の「一代主」としての立場は幕府の権威のもとでますます明確となり、後醍醐の倒幕志向もますます強まることになった。<br /> <br /> 第2次の武力倒幕計画も[[元徳]]3年([[1331年]])にやはり密告により事前に発覚した。今回は幕府の対応は素早くまた強硬だった。後醍醐は予定を早めて武装蜂起([[元弘の乱]])に踏み切ったが、幕府は関係者の逮捕に着手するとともに、大軍を動員して鎮圧に乗り出し、後醍醐も逮捕されることを避けて京都を脱出し自ら叛乱軍に加わった。京都を制圧した幕府は、本人不在のまますぐに後醍醐を[[廃位]]し、皇太子量仁(19歳、[[光厳天皇]])を践祚させた。この年8月、京都脱出の直前に後醍醐は[[元弘]]と改元しているが、幕府はこの改元も認めず、もとの元徳の元号をそのまま使用させた。まもなく後醍醐は捕虜となり、承久の乱の先例に従って謀反人として隠岐に配流された。計画に参画した皇子たちや貴族たちも死刑を含む厳罰に処された。<br /> <br /> 光厳の践祚とともに後伏見の院政が再開された。後伏見がまず着手したのは次の皇太子の人選である。大覚寺統は邦良の早世と後醍醐の謀反とで壊滅状態にあり、持明院統が皇位を独占することも不可能ではなかったが、後伏見は幕府の意向もあって両統迭立の原則にあくまで忠実だった。邦良の未亡人である[[禖子内親王]](後宇多天皇の[[皇女]])を大覚寺統の家長に擬して、彼女に次期皇太子の推薦を要請したのである。禖子は、後醍醐の冷遇のもとで12歳になるまで元服もできず、正式な命名もされていなかった邦良の第1王子を推薦した。王子は持明院統により[[木寺宮康仁親王|康仁]]と命名され、同時に親王とされた。禖子も大覚寺統の家長にふさわしく[[女院]]([[崇明門院]])の地位を与えられて上皇に准じる立場に就けられた。崇明門院の後見のもと、康仁が皇太子となり、持明院統の支援で大覚寺統は再建されたのである。<br /> <br /> 元弘の乱が失敗に終わったあとも、幕府の追及を逃れた後醍醐の皇子[[護良親王]]、[[楠木正成]]らのゲリラ的抵抗運動は続き、規模的にも地域的にも次第に純然たる叛乱へと拡大していった。[[正慶]]2年([[1333年]])には後醍醐が隠岐を脱出して[[伯耆国|伯耆]]に滞在し、自ら叛乱に参加する態度を示すとともに、広く各地の武士団に叛乱への参加を呼びかけた。幕府は[[北条高家|名越高家]]と[[足利尊氏]]を総大将とする大軍を動員して[[近畿地方]]に増派し、叛乱の鎮圧をはかったが、高家は京都に着いてまもなく緒戦で戦死し、尊氏は後醍醐の呼びかけに応じて叛乱軍に参加した。[[北条氏]]に次ぐ[[家格]]と勢力を誇る有力御家人である[[足利氏]]が幕府から離反した影響は甚大で、叛乱は瞬く間に全国に波及、鎌倉幕府は短時日でもろくも崩壊してしまった。<br /> <br /> 権力の空白を埋めたのは、まだ伯耆にいた後醍醐である。後醍醐は、京都に帰還するよりも早く伯耆から命令を発して、元弘の乱以後の朝廷の政治的行為をすべて取り消した。後伏見の政務が停止され、光厳が廃位されたのはもちろん、後醍醐はそもそも元徳3年に自分が廃位された事実自体を認めず、隠岐に配流されていた間も自分はずっと天皇に在位していたという立場をとり、従って光厳の即位と在位も“なかったこと”にされた。後宇多の遺言はなお有効であり、いったん自らの退位を認めてしてしまえば、治天として政務を執る資格も子孫に皇位を伝える資格も失われかねないことを後醍醐はよく承知していたのである。光厳にはいちおう上皇の称号と待遇が与えられたが、それは通例の前天皇に対する優遇措置ではなく、あくまでも皇太子の地位を辞退したことに対する褒賞であることが明示された。光厳から将来治天として政務を執る資格を奪う措置であった。後伏見は前途を悲観して出家している。康仁も皇太子を廃され、親王の称号までも奪われた。正慶2年の年号も元弘3年と改められた。翌元弘4年([[1334年]])には後醍醐の皇子[[恒良親王]](12歳)が皇太子に立てられ、持明院統の皇統としての地位は完全に否定され、3世代、50年以上にわたった両統迭立はここに終焉した。<br /> <br /> ==== 後日談 ====<br /> 両統迭立は終わっても、その理念は、なおしばらく残存した。後醍醐の新政権が足利尊氏の離反により[[建武 (日本)|建武]]3年([[1336年]])に崩壊すると、尊氏の奏請により同年8月から[[光厳天皇|光厳]]の院政が開始され(後伏見はこの年4月に49歳で死去していた)、光厳の同母弟豊仁親王(16歳、[[光明天皇]])が践祚した。[[新田義貞]]とともに北陸に逃亡した恒良に代えて皇太子に立てられたのは、[[廃太子]]康仁でも、光厳の第1皇子興仁親王(3歳)でもなく、後醍醐の皇子[[成良親王]](12歳)であった。後醍醐には正式な前天皇としての上皇の称号と待遇が与えられ、これで後醍醐には将来治天として政務を執る可能性が生じることになった。このような措置は、後醍醐から譲歩を引き出し、自らの新政権に協力させたい尊氏の意向によるものであったが、後醍醐はいっさいの妥協を拒み、すぐに京都を脱出して吉野に自らの朝廷を樹立した。両統迭立の時代から[[南朝 (日本)|南]][[北朝 (日本)|北朝]]並立の時代へはっきりと転換したのである。利用価値のなくなった成良はまもなく皇太子を廃され、建武5年([[1338年]])には興仁(5歳、のちの[[崇光天皇]])が皇太子に立てられた。<br /> <br /> [[明徳]]3年([[1392年]])に[[足利義満]]がまとめた[[南北朝合一]]に際しても、両統迭立の理念が再度持ち出された。合一後は、北朝の[[後小松天皇]]の子孫と南朝の[[後亀山天皇]]の子孫とのあいだで両統迭立を行うことが、合一の条件に盛り込まれたのである。もっとも、当時の南北両朝の力関係から言って、北朝側はもちろん、南朝側も、この条件が遵守されるとは考えていなかったはずであり、実際にも遵守されなかった。しかし、この条件を口実として、旧南朝の皇族の子孫や旧南朝にゆかりのある人々による[[室町幕府]]に対する抵抗や叛乱がその後も100年にわたって相次いだ。これらの運動を[[後南朝]]という。<br /> <br /> === 平安前期(嵯峨流と淳和流) ===<br /> [[image:RyoutouTetsuritsuHEIAN-1.png|400px|thumb|right|嵯峨流・淳和流両統関係系図]]<br /> <br /> ==== 迭立に至る経緯 ====<br /> [[平安京]]を建設した[[桓武天皇]]には、多数の妻妾と多数の皇子女があったが、なかでも皇位継承についてもっとも有利な立場にあるとみなされていたのは、安殿親王(後の[[平城天皇]])、神野親王(後の[[嵯峨天皇]])、大伴親王(後の[[淳和天皇]])の3皇子であった。彼らはいずれも[[皇后]]もしくはそれに準じる待遇を受けた[[藤原氏]][[藤原式家|式家]]出身の女性を母とし、さらに桓武の意向で異母姉妹にあたる[[内親王]]を妻としていた(安殿は[[朝原内親王]]と[[大宅内親王]]の2人、神野は[[高津内親王]]、大伴は[[高志内親王]])。3人の皇子をあえて並び立たせ、将来複雑な皇位継承争いを引き起こしかねない措置をとった桓武の真意は不明である。まず、第1皇子である安殿が[[延暦]]4年([[785年]])に皇太子に立てられた。安殿は桓武の死去を受けて延暦25年([[806年]])に践祚し([[平城天皇]])、皇太子には同母弟の神野を立てた。平城は朝原と大宅の2人との間に子はなく、ほかの皇子たちはいずれも母の身分が低く、神野と大伴の隠然たる権威と存在感を無視することはできなかった。<br /> <br /> 長期間皇太子として過ごした平城には、それなりに自らの施政に対する抱負があった。新天皇が先帝死亡の翌年になるのを待って改元する先例に反して即位後ただちに[[大同 (日本)|大同]]と改元し、桓武がさかんに行った[[蝦夷征討]]の軍事行動や[[遷都]]にともなう土木工事のために弛緩した財政の引き締め、機能していない官司の整理、[[参議]]を廃止して[[太政官]]が地方政治を直接監督する[[観察使]]を置くなど積極的に政治改革に取り組んだ。<br /> <br /> ==== 迭立の過程 ====<br /> 若いころから病弱だった平城はやがて体調を崩し、早くも大同4年([[809年]])には皇太子神野([[嵯峨天皇]])に譲位することになった。嵯峨にはすでに高津との間に生まれた皇子[[業良親王]]がいたが、業良は先天的に心身に重篤な障碍を負っており、皇位継承は不可能とみなされていた。大伴にも高志との間に[[恒世親王]]が生まれていたが、平城は大伴父子の存在を無視してあえて自分の皇子[[高岳親王]]を皇太子に立てた。<br /> <br /> 退位して[[太上天皇]]となった平城は、生まれ故郷である[[平城京]]に移り住み、体調がやや回復すると再度政務に意欲を示し、独自に天皇としての権限を行使しはじめた。もともと太上天皇は天皇と同格かつ同等の権限を有するものとされ、最初の太上天皇である[[持統天皇|持統太上天皇]]と[[文武天皇]]以来、太上天皇と天皇が共同で執政することは当然のこととされていた。しかし、これは太上天皇が天皇の直系尊属ないしそれに準じた立場を有する場合にこそ円滑に機能するものであり、同母兄弟である平城と嵯峨の間ではむしろ政治の混乱と両者の対立抗争の原因となった。翌[[弘仁]]元年([[810年]])、平城が平城京への遷都を嵯峨に命令すると、嵯峨は一気にクーデターに踏み切った。平城は予想外の事態に驚き、[[東国]]へ逃れて再起しようとしたが、嵯峨の派遣した軍隊に進路を遮られて挫折、すべての権力を放棄して出家した。高岳も皇太子の地位を追われ、同じく出家している。<br /> <br /> 嵯峨が高岳に代えて皇太子に立てたのは[[淳和天皇|大伴]]である。嵯峨に皇太子とすべき皇子がいなかったこともあったが、やはり大伴の権威と存在感を尊重したのである。平城との争いで大伴が嵯峨を支持した事情もあった。嵯峨は平城と対立し武力衝突にまで至った轍を踏まないよう、兄弟の融和に細心の注意を払い、大伴の立場を最大限尊重することに努めた。皇女[[正子内親王]]を大伴に嫁がせたこともそうであるが、その最大のものは、弘仁14年([[824年]])に大伴に譲位するに際して、もともと天皇が譲位とともに自動的にその地位につくものとされていた太上天皇の地位を辞退したことである。退位後は一皇族の地位に降り、後任の天皇となる大伴([[淳和天皇]])に全権力を委ねることを表明したのである。譲位を受けた淳和はもちろんこれを受け入れず、両者の間で押し問答があったが、結局、嵯峨がいったん太上天皇を辞退したうえで、あらためて淳和が嵯峨に太上天皇の称号と待遇を贈ることで決着した。このことで、太上天皇の地位は後任の天皇から与えられることに根拠を持つものに変質し、在位の天皇の優位性が確立して、二頭政治・二重権力の弊害は解消されることになった。<br /> <br /> 嵯峨と淳和の融和と互譲はその後も続けられ、ことあるごとに強調された。嵯峨は、太上天皇を辞退しただけではなく、譲位の宣命で恒世を皇太子に立てることを命じていたほどであるが、これも淳和・恒世の拒絶を受け、結局、嵯峨と皇后[[橘嘉智子]]との間に生まれた皇子正良親王が皇太子に立てられた。[[天長]]10年([[833年]])に淳和が皇太子正良([[仁明天皇]])に譲位すると、ここでも淳和の太上天皇辞退・皇后正子の[[皇太后]]辞退と新天皇仁明による拒絶が繰り返され、皇太子には淳和と正子との間に生まれた皇子[[恒貞親王]]が立てられた(高志・恒世はともにすでに早世していた)。淳和は、恒貞の立太子も辞退しているが、これも嵯峨・仁明により拒絶されている。<br /> <br /> しかし、このような嵯峨と淳和の関係は、あくまでも2人の個人的な信頼関係にとどまり、貴族たちの広く受け入れるところとはならなかった。むしろ、貴族たちが嵯峨派と淳和派に分裂する傾向さえ見られた。[[承和 (日本)|承和]]7年([[840年]])に淳和が死去し、承和9年([[842年]])に嵯峨が危篤に陥ると、この分裂はたちまち表面化した。まず、[[春宮坊]][[帯刀]][[伴健岑]]と[[但馬国|但馬権守]][[橘逸勢]]の2人が、平城の皇子[[阿保親王]]のもとを訪れ、東国に赴いて叛乱を起こすことを勧めたとされる。阿保は、父の失脚のときに[[大宰権帥]]に左遷されて九州に移された苦い経験を持っていたので、このような話には乗らず、すぐに当時は[[太皇太后]]になっていた嘉智子に報告した。この間に嵯峨は死去している。嘉智子は[[中納言]][[藤原良房]]を通じてこれを仁明に伝え、関係者の逮捕と処罰が開始された。健岑と逸勢は容疑を否認したが結局[[流罪]]とされ、淳和に近い立場にいた貴族たちが[[解官|解任]]され、ついには恒貞も[[連坐]]して皇太子の地位を追われ、かつての高岳と同じように出家した。この事件を[[承和の変]]と呼ぶ。首謀者である健岑と逸勢の地位が、このような謀反を計画するにはあまりにも低く、また計画に関与したとしたとして処罰された人々も叛乱に荷担する動機が見当たらないことから、事件自体を恒貞を廃位に追い込むことを目的としたでっちあげとみなす説もある。いずれにせよ、次の皇太子には仁明の第1皇子道康(のちの[[文徳天皇]])が立てられ、皇統は嵯峨の子孫に一本化されることになった。道康の母[[藤原順子]]の兄である良房の権力掌握のきっかけとなった事件でもある。<br /> <br /> === 平安中期(冷泉流と円融流) ===<br /> [[image:RyoutouTetsuritsuHEIAN-2.png|thumb|500px|right|冷泉流・円融流両統関係系図]]<br /> <br /> ==== 迭立に至る経緯 ====<br /> [[天慶]]9年([[946年]])に即位した[[村上天皇]]は、[[天暦]]4年([[950年]])に第2皇子憲平親王(のちの[[冷泉天皇]])が生まれるとすぐに皇太子に立てた。同年に生まれた第1皇子[[広平親王]]が中納言[[藤原元方]]の娘[[藤原祐姫|祐姫]]を母としていたのに対し、憲平は[[右大臣]][[藤原師輔]]の娘[[藤原安子|安子]]を母としていた。村上は、次期天皇の[[外戚]]としてあえて師輔を選んだことになる。安子は皇太子の母であることにより[[天徳 (日本)|天徳]]2年([[958年]])に[[皇后]]に立てられ、村上の寵愛も篤かった。憲平は、村上の先代[[朱雀天皇]]のひとり娘である[[昌子内親王]]と結婚し、その立場はさらに強化された。しかし、成長するにつれて憲平の精神はしだいに変調をきたし、狂気の兆候をあらわすようになっていった。また、安子も[[応和]]4年([[964年]])に急逝する。それでも、皇后の[[長男]]であり、先帝の[[女婿]]であり、有力な外戚に支えられた憲平を[[廃嫡]]する決断は村上には結局できなかった。村上は[[康保]]4年([[967年]])に死去し、18歳の憲平が践祚した([[冷泉天皇]])。<br /> <br /> 冷泉の狂気はすでに誰の目にもあきらかな状態に至っており、その在位は短期間であることが当初から予測されていた。冷泉には[[皇后]]となった昌子のほか、[[藤原伊尹]](師輔の長男)の娘[[藤原懐子|懐子]]ら複数の妻がいたがまだ皇子がなく、皇太子の人選が急がれた。このような場合にまず候補となるのは冷泉の同母弟である。候補者には、2歳年下の[[為平親王]]と9歳年下の守平親王の2人がいた。結局、[[康保]]4年([[967年]])に守平が皇太子に立てられた。為平が[[源高明]]の女婿であることから、藤原氏の貴族たちに忌避されたとするのが通説であるが、冷泉と年齢の近い為平を皇太子とした場合、冷泉の在位が短期間になりすぎることに配慮したものとする説([[保立道久]])もある。<br /> <br /> [[安和]]元年([[968年]])、懐子が冷泉の第1皇子師貞親王を出産した。このことは、かえって冷泉の譲位を早めることになった。冷泉が譲位しても、引き続き冷泉の子孫が皇統を維持する見通しが立ったからである。<br /> <br /> ==== 迭立の過程 ====<br /> 安和2年([[969年]])、冷泉は皇太子守平(のちの[[円融天皇]])に譲位した。譲位の宣命では、師貞を皇太子に立てることがはっきりと命じられていた。円融は、のちの鎌倉時代の花園や後醍醐と同様の“中継ぎ”の天皇とされたのである。そのため、后が皇子を生んでも皇位を継ぐ見込みのないと思われた円融には[[藤原兼通]](師輔の次男)の娘[[藤原こう子|媓子]]のみが入内していた。<br /> <br /> しかし、花園や後醍醐のケースと異なり、冷泉と円融のケースでは、父村上、母安子、外祖父師輔がいずれもすでに没しており、皇位継承をコントロールする親権者が存在しなかった。さらにこの時期、師輔の弟[[藤原師尹|師尹]]、兄[[藤原実頼|実頼]]が相次いで死去し、次代の外戚の地位をめぐって実頼・師輔・師尹の子どもたちの世代の貴族たちが相争う状況が生じていた。円融もこのような権力の空白状況のなかで、新皇統を確立する可能性のある候補者として注目される。そんな中で、天禄3年(972年)に師輔の長男であった摂政の[[藤原伊尹]]が急逝すると、師輔の次男である兼通と三男である[[藤原兼家|兼家]]が後継を争った。その際、元服したばかりの円融は兼通が持ってきた亡き母・安子の書きつけに従って兼通を関白に任じた。[[栗山圭子]]は安子が亡くなる際に、伊尹や兼家が冷泉のみを庇護して他の皇子女を庇護しなかったことを憂慮して守平(後の円融)らを[[中宮職|中宮権大夫]]であった兼通に託し、兼通もその遺命に従って円融らを庇護した結果、冷泉-伊尹・兼家と円融-兼通の皇統を巡る対立構図が生まれ、円融の事実上の唯一の外戚となった兼通が関白に任ぜられたとする。伊尹・兼家から「一代主」とみなされた円融と一族の中では冷遇されていた兼通は協力して独自の皇統を創始する意欲を持っていたとみられる。兼通は程なく没したものの、こうした動きをみた他の有力貴族も娘を円融に入内させる動きを見せ、[[藤原頼忠]](実頼の長男)の娘[[藤原遵子|遵子]]、藤原兼家の娘[[東三条院|詮子]]ら、円融は皇后となり皇太子を産むにふさわしい身分の妻と有力な外戚の後ろ盾を得ることができた。円融も最初に皇后とした媓子の没後、皇子懐仁親王を産んだ詮子をさしおいて、皇子のいない遵子を皇后に立てるなど、貴族たちを手玉に取るような行動にも出ている。<br /> <br /> この行動は、兼家・詮子父子の憤激を招き、詮子の内裏退出と兼家一家の政務ボイコットという事態に至った。円融と兼家は対立の末にひとつの妥協点を見出した。円融が譲位する代わりに、懐仁を皇太子に立てるというものである。円融は子息の皇位継承を確実なものにして“中継ぎ”の立場を脱することに成功し、兼家は外孫を皇太子にすることに成功した。両者にとって大きなメリットのある妥協であった。このときの譲位の宣命には、懐仁を皇太子に立てることと、頼忠を[[関白]]に留任させることが明記されている。<br /> <br /> こうして[[永観]]2年([[984年]])、円融は皇太子師貞に譲位した。次の皇太子には懐仁が立てられた。即位した師貞([[花山天皇]])は、外祖父伊尹がすでに死去し、外戚関係にない頼忠が関白の地位にあることを踏まえ、伊尹の五男[[藤原義懐|義懐]]と[[乳母子]]の[[藤原惟成]]を相談役として、関白に政務を委任することなく積極的に親政を行った。新立荘園の停止、貨幣流通の促進、物価の公定などの新政策が次々に打ち出された。さらに関白である以上は当然のこととして[[太政大臣]]を兼ねていた頼忠は、太政大臣は[[一上]]となることができない慣行のため、練達の[[左大臣]][[源雅信]]が一上として[[太政官]]の実務を切りまわすことを阻止できず、その権威をさらに失墜させた。<br /> <br /> しかし、花山は父の血を受け継いだのか、性格に異常なところがあった。それは特に女性関係に現れた。特定の女性に執着して異常に深く寵愛しながら、やがて飽きて別の女性に寵愛を移す、ということが繰り返された。[[寛和]]2年([[986年]])、当時花山の寵愛をほしいままにしていた[[女御]][[藤原し子|藤原忯子]]([[藤原為光|為光]]の娘)が病死した。忯子は妊娠中であったが、出産準備のため実家に戻ろうとしたのを花山が無理に引き止めたため体調を崩して死に至ったものである。花山の悲しみは尋常ではなく、出家遁世を考えるほどであった。花山の幼なじみであった[[藤原道兼]](兼家の三男)の教唆もあって花山はついに出家を決意、夜陰に乗じて内裏を抜け出し、道兼に付き添われて山科の[[元慶寺]](花山寺)に赴き剃髪した。出家により花山は自動的に退位したことになった。道兼の行動はもちろん父兼家と示し合わせてのものであり、花山が元慶寺へ向かう道筋は兼家が派遣した武士たちにより警備されており、道兼が花山とともに出家させられそうになったときは武士たちが実力で救出する手はずになっていた。兼家自身は天皇不在の内裏に深夜参入し、大急ぎで譲位の手続きを進めて翌朝には皇太子懐仁([[一条天皇]])を践祚させた。兼家は新天皇の外祖父として頼忠に代わって[[摂政]]となった。<br /> <br /> まだ7歳の一条に当然皇子はなくかつ円融の唯一の皇子であったこと、花山にも皇子がいなかったことから、皇太子は冷泉の息子たち(花山の弟たち)から選ぶほかなく、兼家の娘[[藤原超子|超子]]が産んだ冷泉の第2皇子居貞親王が皇太子となり、ここに両統迭立の状況が出現した。居貞は一条より4歳年上であり「老東宮」などと揶揄された。兼家は天皇と皇太子の外祖父を一身に兼ね、絶大な権力を掌握した。円融も幼帝の父として一定の政治的影響力を獲得し“院政”的な状況を生み出した。<br /> <br /> [[永祚 (日本)|永祚]]2年([[989年]])に兼家が死去し、翌[[正暦]]2年([[990年]])に円融も死去して、円融即位直後の“親権者不在”の状況が再現した。違ったのは、一条の母詮子がなお健在だったことである。兼家の跡は長男[[藤原道隆|道隆]]が継ぎ、娘[[藤原定子|定子]]を后位に空席がないにもかかわらず強引に皇后に立てるなど、一時は強力な権力を振るったが、[[長徳]]元年([[995年]])に病死、跡を継いだ道兼も道隆に1ヶ月ほど遅れて病死し、道隆の嫡男[[藤原伊周|伊周]]と兼家の四男[[藤原道長|道長]]が跡目を争った。結局、詮子の支持を受けた道長が最終的な勝利を手にし、[[内覧]]の地位に就いた。道長はその後、伊周の起こした不祥事に乗じて伊周を[[大宰権帥]]に左遷し、娘[[上東門院|彰子]]を一条の皇后としている。また、あえて関白に就任せず、内覧のまま左大臣にとどまることで関白の権限と一上の権限を一手に握り、権力を盤石のものとした。<br /> <br /> 政局がもっぱら一条を中心として展開してゆくなかで、皇太子居貞は孤立しており、皇統としての冷泉流の劣勢はあきらかだった。狂気の父冷泉はもちろん、政治に関心を失い、信仰にのめりこむ一方で、遊興と漁色にふけることも忘れない兄花山もまったく頼りにならなかった。居貞は[[藤原済時]](師尹の長男)の娘[[藤原せい子|娍子]]と道隆の娘[[藤原原子|原子]]を妻としていたが、済時と道隆は長徳元年に揃って死去してしまい、居貞は有力な外戚の後ろ盾を得ることもできなかった。しかも原子は[[長保]]4年([[1002年]])に子どもを遺さずに死去してしまった。また、一条がわずか11歳で入内した彰子が皇子を産むのを待ち続けた結果、居貞は皇太子のまま25年も即位を待たされることになった。<br /> <br /> [[寛弘]]8年([[1011年]])、一条は死に臨んでようやく皇太子居貞([[三条天皇]])に譲位した。次の皇太子には、彰子が産んだ一条の第2皇子敦成親王が立てられた。この立太子も一条の譲位の宣命により命じられたものである。次代の天皇の外祖父の地位を確保した道長は三条の早期の譲位を望み、両者の折り合いは悪かった。一方で、道長は娘[[藤原妍子|妍子]]を三条の皇后にしようとして、長年連れ添った娍子を尊重する三条とさらに軋轢を生じさせた。結局、定子と彰子の2人を同時に皇后としていた一条の先例にならい、娍子と妍子を揃って皇后とすることになったが、道長の強大な勢威と三条の権力基盤の弱さを反映して、まず妍子を立后させ、その後に娍子を立后させることになっただけでなく、妍子の立后の儀式には多くの貴族たちが積極的に協力したのに対し、娍子の立后の儀式には道長の妨害工作もあって貴族たちのサボタージュが続出し、三条やその側近たちを憤激させた。<br /> <br /> やがて三条が眼病を患うと、道長ははっきりと三条に譲位を勧めるようになり、視力の低下で政務や日常生活にも支障をきたすようになった三条は、[[長和]]5年([[1016年]])には皇太子敦成([[後一条天皇]])に譲位せざるを得なくなった。三条の強い意向により、皇太子には娍子を母とする三条の第1皇子[[敦明親王]]が立てられた。三条は、譲位の宣命に敦明の立太子を命じる旨を明記して、道長の反対をあらかじめ封じ込めることを忘れなかった。<br /> <br /> 敦明は皇太子にはなったものの、やはり父同様に道長からの圧迫と政界での孤立に悩むことになった。[[寛仁]]元年([[1017年]])に三条が死去すると、敦明はついに皇太子の辞退を決意した。これは単なる逃避行動ではなく、政治的取引であった。敦明は、皇太子の地位と引き換えに、太上天皇に准じた待遇を得て、さらに道長の娘婿となることを交換条件として提示し、道長に承諾させたうえで皇太子を退いている。この約束は遵守され、敦明には上皇に准じて「[[小一条院]]」の院号と[[年官]][[年爵]]などが与えられ、上皇同様に[[院庁]]も設置されている。また道長の娘[[藤原寛子 (藤原道長女)|寛子]]が小一条の女御となった。代わって皇太子に立てられたのは、後一条の同母弟(彰子の息子)であり、やはり道長の外孫である敦良親王(のちの[[後朱雀天皇]])である。こうして、道長の権威と権力が朝廷を圧するなかで両統迭立は終焉し、皇統は円融の子孫に一本化された。<br /> <br /> ==== 後日談 ====<br /> 冷泉流皇統から天皇が即位することはなくなったが、その血統は女系を通じて後年に影響を残した。三条と妍子の間に生まれた[[陽明門院|禎子内親王]]が皇太子敦良の妻となり、第2王子尊仁親王を産んでいる。尊仁は父[[後朱雀天皇|後朱雀]]の死後、遺詔により異母兄の[[後冷泉天皇]]の皇太子に立てられ、後冷泉が皇子を遺さずに死亡すると、跡を継いで天皇([[後三条天皇]])となった。彼の追号「後三条」は、彼が外祖父三条の後継者であることを意味しており、生前自ら定めたものだという説もある(『[[栄花物語]]』)。また、後三条の妻のひとりに小一条院の息子[[源基平]]の娘[[源基子|基子]]がおり、第2皇子[[実仁親王 (平安時代)|実仁親王]]と第3皇子[[輔仁親王]]を産んでいる。実仁は、異母兄[[白河天皇]]の即位にあたり皇太子に立てられたが即位の機会を得ずに早世した。同母弟として実仁の身代わりとみなされた輔仁は、皇太子にはなれなかったものの、長寿を保った祖母禎子(陽明門院)の庇護の下、白河とその子[[堀河天皇]]の皇位継承上のライバルとして一時は政界に大きな勢力を有した。<br /> <br /> なお、後一条→後朱雀、後冷泉→後三条と、その後も2度にわたって兄弟間の皇位継承が行われていることは、両統迭立による不安定な政局を再現する可能性を含むものであり不可解である。ただ、2度とも兄に皇子が生まれなかったことによってその可能性は結果的に回避されている。後朱雀の立太子は、小一条に代わる皇太子を即座に擁立する必要があったためと推測されるが、後三条の立太子は、そのような緊急性がなく、しかも当時の関白[[藤原頼通]]の反対を押し切ってのものであった。後三条の立太子を強く望んだ後朱雀の真意は不明である。<br /> <br /> ==日本以外の国の両統迭立の例==<br /> === クウェート ===<br /> [[クウェート]]は、[[サバーハ家]]が[[首長]]([[アミール]])の称号を名乗り統治している君主国である。現在の地に建国され初代[[サバーハ・ビン・ジャービル・アッ=サバーハ|サバーハ]]が首長に選出されたのは[[1756年]]である。もとは[[オスマン帝国]]の宗主権の下にあったが、[[1899年]]、第7代首長[[ムバーラク・ビン・サバーハ・アッ=サバーハ|ムバラク]]がイギリスの保護国となることでオスマン帝国の支配を脱した。ムバラクはサバーハ家中興の英主とされ「大アミール」と尊称される。その後[[1961年]]にはイギリスの保護下から離れ独立国となっている。<br /> <br /> ムバラクのあと、長男[[ジャービル・アル=ムバーラク・アッ=サバーハ|ジャービル]]が第8代、次男[[サーリム・アル=ムバーラク・アッ=サバーハ|サリーム]]が第9代の首長となり、さらにジャービルの息子[[アフマド=ビン=ジャービル・アッ=サバーハ|アハマド]]が第10代を継いだ。その後、ジャービルの子孫とサリームの子孫がほぼ交互に首長の位につくことが慣行となってきた。歴代の首長の出身家系は次のとおりである。<br /> <br /> {|class=&quot;wikitable&quot;<br /> | 第10代 || アハマド || ジャービル系<br /> |-<br /> | 第11代 || [[アブドゥッラー3世・アッ=サバーハ|アブドゥッラー]] || サリーム系<br /> |-<br /> | 第12代 || [[サバーハ3世・アッ=サバーハ|サバーハ]] || サリーム系<br /> |-<br /> | 第13代 || [[ジャービル・アル=アフマド・アッ=サバーハ|ジャービル]] || ジャービル系<br /> |-<br /> | 第14代 || [[サアド・アル=アブドゥッラー・アッ=サバーハ|サアド]] || サリーム系<br /> |-<br /> | 第15代(在位) || [[サバーハ・アル=アフマド・アル=ジャービル・アッ=サバーハ|サバーハ]] || ジャービル系<br /> |}<br /> <br /> [[2006年]]に首長ジャービルが長い闘病の末に死去、皇太子サアドがただちに首長位を継承したものの、サアドもすでに高齢かつ病身で、首長としての公務に耐えられる状態ではなかった。もともと近年クウェート政界ではサリーム系王族よりもジャービル系王族の方が優位に立ちつつあったが、サアドの即位にあたって、ジャービル系王族を中心に、執務不可能を理由にサアドに退位を求める声があがった。代わって首長に推されたのは、首相として、病身で執務できない首長ジャービルと皇太子サアドに代わって国政の実権を握っていたジャービル系王族のサバーハであった。クウェートでは、首相であることは次期皇太子の最有力候補であることを意味する。サリーム系王族は当然これに抵抗し、両派のあいだで妥協の道も探られたが、結局決裂に終わり、ジャービル系が掌握する政府は、首長解任権を持つ議会に首長サアドを解任する議案を提出した。議会は満場一致で首長解任を決議し、新首長にサバーハを指名した。サアドは廃位される不名誉を避けようと、自発的に退位する旨の文書を議会に届けたが、採決に間に合わなかった。サアドの首長在位はわずか10日間であった。<br /> <br /> 首長となったサバーハは、異母弟ナワーフを皇太子に、甥ナーセルを首相に任命し、要職をジャービル系で独占した。今後、クウェートの首長位はジャービル系が独占し、サリーム系は凋落の道をたどるであろうと予測されている。<br /> <br /> == 脚注 ==<br /> {{脚注ヘルプ}}<br /> <br /> === 注釈 ===<br /> {{Reflist|group=&quot;注&quot;}}<br /> <br /> === 出典 ===<br /> {{Reflist}}<br /> <br /> == 参考文献 ==<br /> {{参照方法|date=2015年5月|section=1}}<br /> === 平安時代 ===<br /> * 『大鏡』 角川書店〈角川文庫ソフィア〉、1977年。ISBN 4044038015<br /> * 河内祥輔 「後三条・白河「院政」の一考察」 『日本中世の朝廷・幕府体制』 吉川弘文館、2007年。ISBN 4642028633<br /> * 倉本一宏 『一条天皇』 吉川弘文館〈人物叢書〉、2003年。ISBN 4642052291<br /> * 保立道久 『平安王朝』 岩波書店〈岩波新書〉、1996年。ISBN 4004304695<br /> * 美川圭 『院政』 中央公論新社〈中公新書〉、2006年。ISBN 4121018672<br /> * 栗山圭子「兼通政権の前提-外戚と後見」服藤早苗 編『平安朝の女性と政治文化 宮廷・生活・ジェンダー』(明石書店、2017年)<br /> <br /> === 鎌倉時代 ===<br /> * [[網野善彦]] 『異形の王権』 平凡社〈平凡社ライブラリー〉、1993年。ISBN 4582760104<br /> * 網野善彦 『蒙古襲来 転換する社会』 小学館〈小学館文庫〉、2000年。ISBN 409405071X<br /> * [[飯倉晴武]] 『地獄を二度も見た天皇 光厳院』 吉川弘文館〈歴史文化ライブラリー〉、2002年。ISBN 4642055479<br /> * [[木村英一 (歴史学者)|木村英一]] 「勅命施行にみる鎌倉後期の六波羅探題」 『鎌倉時代公武関係と六波羅探題』 清文堂、2016年。ISBN 9784792410377<br /> * [[黒田俊雄]] 『蒙古襲来』 中央公論新社〈中公文庫〉、2004年。ISBN 4122044669<br /> * [[河内祥輔]] 「後醍醐天皇の倒幕運動について」 『日本中世の朝廷・幕府体制』 吉川弘文館、2007年。ISBN 4642028633<br /> * [[近藤成一]] 「内裏と院御所」(初出:五味文彦 編『都市の中世』(吉川弘文館、1992年)/所収:近藤『鎌倉時代政治構造の研究』(校倉書房、2016年) ISBN 978-4-7517-4650-9)<br /> * [[本郷和人]] 『中世朝廷訴訟の研究』 東京大学出版会、1995年。ISBN 4130201077<br /> * 本郷和人 「文保の和談」 『UP』281号、東京大学出版会、1996年。雑誌コード 08943<br /> * 本郷和人 『新・中世王権論』 新人物往来社、2004年。ISBN 4404032285<br /> * [[村田正志]] 『村田正志著作集 第1巻増補南北朝史論』 思文閣出版、1983年。ISBN 4784203435<br /> * [[森茂暁]] 『鎌倉時代の朝幕関係』 思文閣出版、1991年。ISBN 4784206485<br /> * 森茂暁 『後醍醐天皇』 中央公論新社〈中公新書〉、2000年。ISBN 4121015215<br /> * [[竹内理三]]編 『[[鎌倉遺文]]』古文書編第30巻 東京堂出版、1983年。ISBN 4490300611<br /> * 豊永聡美「大覚寺統の天皇と音楽」『中世の天皇と音楽』(吉川弘文館、2006年) ISBN 4-642-02860-9 <br /> * {{Cite journal|和書|author=荒木浩|authorlink=荒木浩 (国文学者)|date=2009-07|title=第二部 中世の皇統迭立と文学形成 1院政期から中世への視界 坂上の宝剣と壺切―談話録に見る皇統・儀礼の古代と中世―|journal=皇統迭立と文学形成|publisher=大阪大学古代中世文学研究会|isbn=978-4-7576-0513-8|ref=harv}}<br /> <br /> == 外部リンク ==<br /> * [http://www.hi.u-tokyo.ac.jp/personal/kazuto/index.html 本郷和人の『史料屋通信』] {{ja icon}}(論文「文保の和談」の全文を読むことができる)<br /> * [http://www2.pf-x.net/~informant/kuwait/indexkuwait.htm 中東経済を解剖する] {{ja icon}}<br /> <br /> {{DEFAULTSORT:りようとうてつりつ}}<br /> [[Category:鎌倉時代の事件]]<br /> [[Category:平安時代の事件]]<br /> [[Category:皇位継承]]<br /> [[Category:クウェートの政治]]<br /> [[Category:王位継承]]</div> 118.106.249.225 高遠藩 2018-06-19T06:32:01Z <p>118.106.249.225: /* 鳥居家の時代 */</p> <hr /> <div>&#039;&#039;&#039;高遠藩&#039;&#039;&#039;(たかとおはん)は、[[信濃国]]南部(現在の[[長野県]][[伊那市]][[高遠町]])に存在した[[藩]]。居城は[[高遠城]]。<br /> <br /> == 藩の前史 ==<br /> 高遠の地は[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]、[[諏訪氏]]の一族であった[[高遠頼継]]が治めていた。頼継が[[武田信玄]](晴信)との戦いで没落した後、高遠は[[武田氏]]の支配下に入る&lt;ref name=&quot;高遠藩11&quot;&gt;長谷川『シリーズ藩物語、高遠藩』、P11&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 後に信玄の5男で[[武田勝頼|勝頼]]の異母弟[[仁科盛信]]が高遠城主となり、[[天正]]10年([[1582年]])2月に[[織田信長]]による[[甲州征伐]]が開始されると、信濃の武田勢は次々と信長の嫡男[[織田信忠|信忠]]率いる織田軍に降伏していくが、高遠城を守る盛信のみは信忠の降伏勧告を拒絶して果敢に抗戦、織田軍は3月2日に高遠を攻撃して1日で落城させ、城主盛信は自害した&lt;ref name=&quot;高遠藩12&quot;&gt;長谷川『シリーズ藩物語、高遠藩』、P12&lt;/ref&gt;。武田家は盛信の玉砕で総崩れになり、勝頼は3月11日に[[天目山]]で自害し、武田家は滅亡した。<br /> <br /> その3ヵ月後の6月、[[本能寺の変]]が起こって信長・信忠が横死。信濃の織田勢は武田旧臣の一揆で追放されて無主状態になると、[[徳川家康]]・[[北条氏直]]・[[上杉景勝]]らによる旧武田領をめぐる[[天正壬午の乱]]が起こる。高遠は高遠氏の旧臣[[保科氏]]が[[内藤昌月]]の支援を得て奪回し&lt;ref name=&quot;高遠藩13&quot;&gt;長谷川『シリーズ藩物語、高遠藩』、P13&lt;/ref&gt;、昌月の実父である[[保科正俊]]が城主となった。10月、正俊の子[[保科正直|正直]]は家康に服従し、[[伊那郡]]2万5000石の所領を宛がわれた&lt;ref name=&quot;高遠藩13&quot;&gt;長谷川『シリーズ藩物語、高遠藩』、P13&lt;/ref&gt;。正直はその後、伊那箕輪の[[藤沢頼親]]を降伏させた&lt;ref name=&quot;高遠藩13&quot;&gt;長谷川『シリーズ藩物語、高遠藩』、P13&lt;/ref&gt;。天正12年([[1584年]])に[[小牧・長久手の戦い]]が起きると、家康は正直や[[諏訪頼忠]]、[[小笠原貞慶]]ら信濃衆を木曾に派遣したがこの木曾攻めは成果を上げず、正直を抑えに残して撤退した&lt;ref name=&quot;高遠藩13&quot;&gt;長谷川『シリーズ藩物語、高遠藩』、P13&lt;/ref&gt;。天正13年([[1585年]])、家康と北条氏直の和睦の条件である[[上野国|上野]]沼田領の譲渡問題で[[真田昌幸]]が家康から離反したため、家康は[[大久保忠世]]に正直ら信濃衆をつけて攻撃するも&lt;ref name=&quot;高遠藩13&quot;&gt;長谷川『シリーズ藩物語、高遠藩』、P13&lt;/ref&gt;大敗して撤退。しかも11月に[[石川数正]]が徳川家から出奔したのを機に松本の小笠原貞慶が高遠に攻撃をかけるが、保科正俊が[[鉾持除の戦い]]で退けた&lt;ref name=&quot;高遠藩13&quot;&gt;長谷川『シリーズ藩物語、高遠藩』、P13&lt;/ref&gt;。正直はその後、家康の異父妹[[久松氏]]と縁戚となって勢力を伸ばし&lt;ref name=&quot;高遠藩13&quot;&gt;長谷川『シリーズ藩物語、高遠藩』、P13&lt;/ref&gt;、天正18年([[1590年]])の[[小田原征伐]]でも徳川軍の後備えとして参戦した&lt;ref name=&quot;高遠藩14&quot;&gt;長谷川『シリーズ藩物語、高遠藩』、P14&lt;/ref&gt;。[[後北条氏]]が滅亡して家康が関東に移封されると、正直は家康に従って[[下総国|下総]][[多胡藩|多胡]]で1万石を与えられた&lt;ref name=&quot;高遠藩14&quot;&gt;長谷川『シリーズ藩物語、高遠藩』、P14&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> [[ファイル:Kyogoku Takakazu.jpg|thumb|180px|豊臣時代最後の領主、京極高知]]<br /> 家康が関東に移ると、旧徳川領は[[豊臣秀吉]]の家臣が入封することとなり、伊那には[[毛利秀頼]]が10万石で入った&lt;ref name=&quot;高遠藩14&quot;&gt;長谷川『シリーズ藩物語、高遠藩』、P14&lt;/ref&gt;。甲州征伐の功により伊那郡を与えられて信長没後の混乱で失領し、復帰したものである&lt;ref&gt;阿部『戦国人名事典コンパクト版』、P774。&lt;/ref&gt;。秀頼は入封した直後に3か条からなる条々を発布して統治方針を示し、[[太閤検地]]も実施したが、実際の政務は勝斎(姓不詳)と[[篠治秀政]]が担当していた&lt;ref name=&quot;高遠藩14&quot;&gt;長谷川『シリーズ藩物語、高遠藩』、P14&lt;/ref&gt;。秀頼は[[文禄]]2年([[1593年]])に病死&lt;ref name=&quot;高遠藩14&quot;&gt;長谷川『シリーズ藩物語、高遠藩』、P14&lt;/ref&gt;。その妹婿である[[京極高知]]が跡を継いだ。高知時代には[[岩崎重次]]が城代として統治を担当したが、統治体制には不明な点が多い&lt;ref name=&quot;高遠藩14&quot;&gt;長谷川『シリーズ藩物語、高遠藩』、P14&lt;/ref&gt;。[[慶長]]5年([[1600年]])の[[関ヶ原の戦い]]で高知は東軍に与力して[[岐阜城]]攻略戦に参加し、9月15日の関ヶ原本戦にも参加した功績から&lt;ref&gt;阿部『戦国人名事典コンパクト版』、P291。&lt;/ref&gt;、戦後に[[丹後国|丹後]][[宮津藩|宮津]]に移封され、岩崎も甲斐に帰国した&lt;ref name=&quot;高遠藩14&quot;&gt;長谷川『シリーズ藩物語、高遠藩』、P14&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> == 藩史 ==<br /> === 保科家の時代 ===<br /> [[ファイル:Hoshina Masayuki.jpg|thumb|180px|高遠藩第2代、保科正之]]<br /> 関ヶ原の戦いの後、高遠には正直の子[[保科正光|正光]]が2万5000石で入部したことにより高遠藩が成立した&lt;ref name=&quot;高遠藩15&quot;&gt;長谷川『シリーズ藩物語、高遠藩』、P15&lt;/ref&gt;。正光は慶長11年([[1606年]])の[[江戸城]]石垣修理や5年後の堀普請、[[大坂の役]]参戦など幕府に奉仕している&lt;ref name=&quot;高遠藩16&quot;&gt;長谷川『シリーズ藩物語、高遠藩』、P16&lt;/ref&gt;。しかし正光には嗣子が無かったので&lt;ref name=&quot;高遠藩17&quot;&gt;長谷川『シリーズ藩物語、高遠藩』、P17&lt;/ref&gt;、正光は第2代将軍・[[徳川秀忠]]の隠し子(生母が正室・[[崇源院|於江与]]ではなかったため、その悋気に触れることを恐れた秀忠が正光に預けていた)である幸松こと[[保科正之]]を養育することになった。[[元和 (日本)|元和]]4年([[1618年]])には正之の養育料として[[筑摩郡]]に5000石を加増された&lt;ref name=&quot;高遠藩20&quot;&gt;長谷川『シリーズ藩物語、高遠藩』、P20&lt;/ref&gt;。[[寛永]]6年([[1629年]])6月に正之は兄の第3代将軍[[徳川家光]]と初対面し、[[寛永]]8年([[1631年]])11月、正光の死により正之が家督と3万石を継いで従五位下肥後守に叙任されたが&lt;ref name=&quot;高遠藩20&quot;&gt;長谷川『シリーズ藩物語、高遠藩』、P20&lt;/ref&gt;、この頃になると於江与が既に亡く、正之が秀忠の息子であることも周知の事実となったため、徳川家光の計らいにより、正之は寛永13年([[1636年]])7月に[[出羽国|出羽]][[山形藩]]20万石に加増移封された&lt;ref name=&quot;高遠藩20&quot;&gt;長谷川『シリーズ藩物語、高遠藩』、P20&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> === 鳥居家の時代 ===<br /> [[ファイル:Torii Mototada.jpg|thumb|180px|鳥居家勲功の祖、鳥居元忠]]<br /> 正之と入れ替わりで、山形より[[鳥居忠春]]が3万2000石(3万200石&lt;ref name=&quot;高遠藩23&quot;&gt;長谷川『シリーズ藩物語、高遠藩』、P23&lt;/ref&gt;)で入る。この忠春は関ヶ原の戦いの前哨戦である[[伏見城の戦い]]で戦死した[[鳥居元忠|元忠]]の孫である。鳥居家は元忠の勲功やその子[[鳥居忠政|忠政]]の功績もあり、24万石まで栄進していた。ところが忠政の子[[鳥居忠恒|忠恒]]は病弱で公務が務まらず、しかも継嗣が無く33歳で病死したので、[[末期養子]]の禁令に触れてしまい、鳥居家は山形24万石を没収された&lt;ref name=&quot;高遠藩23&quot;&gt;長谷川『シリーズ藩物語、高遠藩』、P23&lt;/ref&gt;。しかし幕府は元忠の勲功を認めて、忠恒の実弟忠春に3万200石を与えることで高遠藩に移封した&lt;ref name=&quot;高遠藩25&quot;&gt;長谷川『シリーズ藩物語、高遠藩』、P25&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 忠春は兄の時代に失った24万石を取り戻そうと幕府の御用に励んだ&lt;ref name=&quot;高遠藩28&quot;&gt;長谷川『シリーズ藩物語、高遠藩』、P28&lt;/ref&gt;。だがそのために藩財政は大きな負担を伴い、忠春は財源確保のために[[慶安]]2年([[1649年]])に年貢を増徴したため、領民は生活困窮と賦役に耐え切れず、[[承応]]3年([[1654年]])6月に3000人の百姓が[[尾張藩]]領の木曾に逃散する事件も起きた&lt;ref name=&quot;高遠藩29&quot;&gt;長谷川『シリーズ藩物語、高遠藩』、P29&lt;/ref&gt;。また忠春自らも豪遊したりした&lt;ref name=&quot;高遠藩30&quot;&gt;長谷川『シリーズ藩物語、高遠藩』、P30&lt;/ref&gt;。寛文2年([[1662年]])、忠春は侍医・[[松谷寿覚]]により斬りつけられ、それが原因で客死した&lt;ref name=&quot;高遠藩31&quot;&gt;長谷川『シリーズ藩物語、高遠藩』、P31&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 忠春の跡を継いだ子の[[鳥居忠則|忠則]]は、[[元禄]]2年([[1689年]])2月に[[江戸城]]馬場先御門の警備を担当していた家臣[[高坂権兵衛]]が職務中、幕府御側衆の[[平岡頼恒]]の屋敷を覗いていたところを、平岡家の家臣に取り押さえられる事件が起こった([[高坂権兵衛事件]])&lt;ref name=&quot;高遠藩33&quot;&gt;長谷川『シリーズ藩物語、高遠藩』、P33&lt;/ref&gt;(高坂は主家に塁が及ぶことを恐れ、取り調べ中に自害)。この事件で忠則は家中不取締の責任を追及されて[[閉門]]となり、その最中の7月に急死した(自害したといわれる)&lt;ref name=&quot;高遠藩33&quot;&gt;長谷川『シリーズ藩物語、高遠藩』、P33&lt;/ref&gt;。忠則の死により、鳥居家は再度[[改易]]となった&lt;ref name=&quot;高遠藩32&quot;&gt;長谷川『シリーズ藩物語、高遠藩』、P32&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 忠則の後継者であった[[鳥居忠英|忠英]]は、先祖元忠の勲功により、1万石を与えられて[[能登下村藩]]を立藩している&lt;ref name=&quot;高遠藩33&quot;&gt;長谷川『シリーズ藩物語、高遠藩』、P33&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> === 内藤家の時代 ===<br /> 鳥居家改易後、高遠藩は廃藩となり、元禄4年([[1691年]])まで[[天領]]となった&lt;ref name=&quot;高遠藩36&quot;&gt;長谷川『シリーズ藩物語、高遠藩』、P36&lt;/ref&gt;。その後、[[河内国|河内]][[富田林藩]]より[[内藤清枚]]が3万3000石で入る&lt;ref name=&quot;高遠藩36&quot;&gt;長谷川『シリーズ藩物語、高遠藩』、P36&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 第2代藩主・[[内藤頼卿|頼卿]]の時代から財政難が始まり、藩政改革が試みられた。[[正徳 (日本)|正徳]]4年([[1714年]])3月の[[江島生島事件]]に関わり、高遠に流罪にされた絵島の身柄を預かっている&lt;ref name=&quot;高遠藩39&quot;&gt;長谷川『シリーズ藩物語、高遠藩』、P39&lt;/ref&gt;。第3代藩主[[内藤頼由|頼由]]は藩士に対して俸禄制を採用して財政問題解決に邁進した&lt;ref name=&quot;高遠藩63&quot;&gt;長谷川『シリーズ藩物語、高遠藩』、P63&lt;/ref&gt;。第5代藩主の[[内藤長好|長好]]は幼少で藩主になった事情もあるが、自らが頻繁に外出して遠乗りや狩り、花火見物に視察などを繰り返して領民に負担をかけ、諸費用もかなりの額に上った&lt;ref name=&quot;高遠藩67&quot;&gt;長谷川『シリーズ藩物語、高遠藩』、P67&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 第7代藩主・[[内藤頼寧|頼寧]]は博学多才で&lt;ref name=&quot;高遠藩67&quot;&gt;長谷川『シリーズ藩物語、高遠藩』、P67&lt;/ref&gt;、産物会所設置による産業奨励、学問の奨励、新田開発計画、藩直営の桑園経営などに手腕を発揮して藩政改革に成功を収めた。幕政においても日米関係の上申書を提出したり、兵備を西洋式に改変して藩士に訓練させた&lt;ref name=&quot;高遠藩68&quot;&gt;長谷川『シリーズ藩物語、高遠藩』、P68&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> [[安政]]6年([[1859年]])に最後の藩主となった[[内藤頼直]]は、[[藩校]]である進徳館の設立や[[長州征伐]]参加で活躍した。[[慶応]]4年([[1868年]])の[[戊辰戦争]]では新政府軍に与し、[[北越戦争]]・[[会津戦争]]に参戦した。明治2年([[1869年]])の[[版籍奉還]]で、頼直は藩知事となる。そして明治4年([[1871年]])の[[廃藩置県]]で高遠藩は廃藩となって[[高遠県]]となり、同年12月には[[筑摩県]]に編入された。<br /> <br /> == 社会 ==<br /> === 農民 ===<br /> 、鳥居家の時代に多数の百姓が逃散して藩内の田畑は無主状態が多くなり、荒廃した&lt;ref name=&quot;高遠藩29&quot;&gt;長谷川『シリーズ藩物語、高遠藩』、P29&lt;/ref&gt;。このため鳥居家では[[明暦]]2年([[1656年]])から2年がかりで検地を藩全土で実施し、貢租の確保を図った&lt;ref name=&quot;高遠藩29&quot;&gt;長谷川『シリーズ藩物語、高遠藩』、P29&lt;/ref&gt;。しかし鳥居家の2人の藩主はいずれも豪遊して藩財政を傾かせ、領民には重い賦役を課したようで現在に至るまで数多くの借用証文が残っており&lt;ref name=&quot;高遠藩31&quot;&gt;長谷川『シリーズ藩物語、高遠藩』、P31&lt;/ref&gt;、田畑を担保にしたり、自分の妻子や家族を質草にして借用した証文も存在している&lt;ref name=&quot;高遠藩31&quot;&gt;長谷川『シリーズ藩物語、高遠藩』、P31&lt;/ref&gt;。また寛文9年([[1669年]])12月などに年貢が納められないので妻子を担保にするなど、わずかな借金で妻子や家族を質入れして領民の生活が苦しめられていた&lt;ref name=&quot;高遠藩32&quot;&gt;長谷川『シリーズ藩物語、高遠藩』、P32&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 内藤家の時代では藩主長好の領国生活が原因で灯油など不必要な経費が浪費されて町民や農民の負担が増した&lt;ref name=&quot;高遠藩67&quot;&gt;長谷川『シリーズ藩物語、高遠藩』、P67&lt;/ref&gt;。このため[[文政]]5年([[1822年]])に[[わらじ騒動]](興津騒動)と称される藩領一揆にまで発展した&lt;ref name=&quot;高遠藩158&quot;&gt;長谷川『シリーズ藩物語、高遠藩』、P158&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> === 軍隊 ===<br /> 内藤頼寧は幕末の情勢を見て藩内の軍備を西洋化して藩士に訓練させ、領内で演習させた&lt;ref name=&quot;高遠藩68&quot;&gt;長谷川『シリーズ藩物語、高遠藩』、P68&lt;/ref&gt;。また[[江川英龍]]、[[肥田金之助]]、[[斎藤弥九郎]]、[[木戸孝允|桂小五郎]]らを高遠に招聘したり藩士を派遣して訓練させている&lt;ref name=&quot;高遠藩180&quot;&gt;長谷川『シリーズ藩物語、高遠藩』、P180&lt;/ref&gt;。内藤頼直の時、調練された軍隊は[[長州征伐]]、[[戊辰戦争]]における会津・越後戦争で官軍として出兵、越後戦争では若き日の[[西園寺公望]]の危急を救った&lt;ref name=&quot;高遠藩180&quot;&gt;長谷川『シリーズ藩物語、高遠藩』、P180&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> == 文化 ==<br /> 頼寧の時代に文化が大いに発展した。頼寧は[[文政]]年間に領民の教化策から学問所設立の必要性を痛感し&lt;ref name=&quot;高遠藩93&quot;&gt;長谷川『シリーズ藩物語、高遠藩』、P93&lt;/ref&gt;、頼直の時代に[[藩校]][[進徳館 (高遠藩)|進徳館]]が設立された&lt;ref name=&quot;高遠藩94&quot;&gt;長谷川『シリーズ藩物語、高遠藩』、P94&lt;/ref&gt;。また多くの文人・学者らを頼寧は招聘した。茶道・調理術・能楽・書画など多芸に通じ、高遠藩は頼寧の時代に全盛になり、次代の頼直にも受け継がれた。<br /> <br /> == 産業・経済 ==<br /> 農民の生活は困窮し藩財政も逼迫した。このため年貢増徴などを試みるも、譜代内藤家は幕府の公務に参加することが多くそのために出費は多かった&lt;ref name=&quot;高遠藩158&quot;&gt;長谷川『シリーズ藩物語、高遠藩』、P158&lt;/ref&gt;。さらに文政3年([[1820年]])の旱魃、翌年の天候不順などで計2万5000石の損害を受け、財政は破綻に近い状態にまで追い込まれていた&lt;ref name=&quot;高遠藩158&quot;&gt;長谷川『シリーズ藩物語、高遠藩』、P158&lt;/ref&gt;。このため農民に御用金を課すことで解決を図るもわらじ騒動が発生して失敗し、藩は不正を働いた[[郡代]]興津紋左衛門を処分した&lt;ref name=&quot;高遠藩163&quot;&gt;長谷川『シリーズ藩物語、高遠藩』、P163&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 重臣[[岡村忠輔]]は[[天保]]3年([[1832年]])2月に産物会所を設置して殖産興業政策を図る&lt;ref name=&quot;高遠藩79&quot;&gt;長谷川『シリーズ藩物語、高遠藩』、P79&lt;/ref&gt;。農閑期に薬草を採取させて他国に売り出し、木綿業を製作させて資金の乏しい者には貸付を行なった&lt;ref name=&quot;高遠藩80&quot;&gt;長谷川『シリーズ藩物語、高遠藩』、P80&lt;/ref&gt;。また[[弘化]]年間には[[高遠焼]]を再興させた&lt;ref name=&quot;高遠藩80&quot;&gt;長谷川『シリーズ藩物語、高遠藩』、P80&lt;/ref&gt;。産物会所には機織所を設けて絹織業の発展に寄与している&lt;ref name=&quot;高遠藩80&quot;&gt;長谷川『シリーズ藩物語、高遠藩』、P80&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 内藤家の石高は3万3000石であるが、これは高遠の農業生産力の限界に近い値であった&lt;ref name=&quot;高遠藩114&quot;&gt;長谷川『シリーズ藩物語、高遠藩』、P114&lt;/ref&gt;。このため年貢率は4割5分から5割を推移し&lt;ref name=&quot;高遠藩114&quot;&gt;長谷川『シリーズ藩物語、高遠藩』、P114&lt;/ref&gt;、豪商農層からの御用金、領内の林にかかる税金など諸税で財政は支えられていた&lt;ref name=&quot;高遠藩115&quot;&gt;長谷川『シリーズ藩物語、高遠藩』、P115&lt;/ref&gt;。このため藩士の俸禄を下げたり、[[検見法]]から[[定免法]]への転換も行なわれている&lt;ref name=&quot;高遠藩124&quot;&gt;長谷川『シリーズ藩物語、高遠藩』、P124&lt;/ref&gt;。文政9年([[1826年]])には財政再建のために豪農四名を採用しての藩財政再建政策が試みられるも失敗し、[[幕末]]にも[[和宮]]降嫁による負担などで高遠は苦しかった。<br /> <br /> == 年表 ==<br /> * [[1545年]] - 高遠頼継、武田晴信に敗れて追放。高遠は武田領に。<br /> * [[1582年]] - 織田信忠に攻められて高遠城落城。城主仁科盛信自害。<br /> * [[1590年]] - 豊臣秀吉家臣の毛利秀頼が入封。<br /> * [[1593年]] - 秀頼病死。婿の京極高知が入封。<br /> * [[1600年]] - [[関ヶ原の戦い]]で高知は丹後宮津へ。徳川家臣の保科正光が入封し高遠藩成立<br /> * [[1631年]] - 正光死去。養子正之が新藩主に。<br /> * [[1636年]] - 正之、出羽山形20万石に移封。鳥居忠春が入封。<br /> * [[1689年]] - 高坂権兵衛事件。鳥居忠則急死して改易。天領に。<br /> * [[1691年]] - 内藤清枚、3万3000石で入封。<br /> * [[1714年]] - 絵島生島事件で絵島を預けられる。<br /> * [[1822年]] - わらじ騒動<br /> * [[1869年]] - 版籍奉還で内藤頼直、知藩事に。<br /> * [[1871年]] - 廃藩置県。高遠藩消滅。<br /> <br /> == 歴代藩主 ==<br /> === 保科家 ===<br /> [[譜代大名|譜代]] 2万5000石→3万石<br /> #[[保科正光|正光]](まさみつ)従五位下。肥後守。<br /> #[[保科正之|正之]](まさゆき)正四位下。肥後守。左近衛中将。<br /> <br /> === 鳥居家 ===<br /> 譜代 3万2000石<br /> #[[鳥居忠春|忠春]](ただはる)従五位下。主膳正。<br /> #[[鳥居忠則|忠則]](ただのり)従五位下。左京亮。<br /> <br /> === 内藤家 ===<br /> 譜代 3万3000石  <br /> #[[内藤清枚|清枚]](きよかず)従五位下。丹後守。<br /> #[[内藤頼卿|頼卿]](よりのり)従五位下。伊賀守。<br /> #[[内藤頼由|頼由]](よりゆき)従五位下。大和守。<br /> #[[内藤頼尚|頼尚]](よりたか)従五位下。伊賀守。<br /> #[[内藤長好|長好]](ながよし)従五位下。大和守。<br /> #[[内藤頼以|頼以]](よりもち)従五位下。大和守。<br /> #[[内藤頼寧|頼寧]](よりやす)従五位下。大和守。<br /> #[[内藤頼直|頼直]](よりなお)従五位下。大和守。<br /> <br /> == 幕末の領地 ==<br /> * [[信濃国]]<br /> ** [[筑摩郡]]のうち - 7村<br /> ** [[伊那郡]]のうち - 80村<br /> <br /> == 脚注 ==<br /> === 注釈 ===<br /> &lt;references group=&quot;注釈&quot;/&gt;<br /> === 引用元 ===<br /> {{Reflist|2}}<br /> <br /> == 参考文献 ==<br /> * {{Cite book|和書|editor=[[阿部猛]]|others=西村圭子|title=戦国人名事典コンパクト版|publisher=[[新人物往来社]]|date=1990年9月|isbn=4-404-01752-9}}<br /> * {{Cite book|和書|author=[[長谷川正次]]|title=高遠藩|series=シリーズ藩物語|publisher=[[現代書館]]|date=2005年11月|isbn=4-7684-7103-X}}<br /> * {{Cite book|和書|author=長谷川正次|title=大名の財政|series=同成社江戸時代史叢書|publisher=[[同成社]]|year=2001|isbn=4-88621-219-0}}<br /> *:信濃国高遠藩の事例を取り上げ、いかに財政難に対処したのかを検討し、大名の経済事情にせまる。<br /> <br /> == 関連項目 ==<br /> * [[内藤新宿]](藩の中屋敷が存在していた)<br /> * [[新宿御苑]]<br /> * [[高遠石工]]<br /> <br /> {{s-start}}<br /> {{s-bef|before=([[信濃国]])|表記=前}}<br /> {{s-ttl|title=行政区の変遷 <br /> |years=[[1691年]] - [[1871年]]|years2=高遠藩→高遠県}}<br /> {{s-aft|after=[[筑摩県]]|表記=次}}<br /> {{end}}<br /> {{江戸時代の藩}}<br /> <br /> {{デフォルトソート:たかとおはん}}<br /> [[Category:藩]]<br /> [[Category:長野県の歴史]]<br /> [[Category:信濃国|藩たかとお]]<br /> [[Category:保科氏|藩たかとお]]<br /> [[Category:会津松平氏|藩たかとお]]<br /> [[Category:鳥居氏|藩たかとお]]<br /> [[Category:内藤氏|藩たかとお]]<br /> [[Category:高遠藩|*]]</div> 118.106.249.225
Warning: Cannot modify header information - headers already sent by (output started at /home/users/1/sub.jp-asate/web/wiki/extensions/HeadScript/HeadScript.php:3) in /home/users/1/sub.jp-asate/web/wiki/includes/WebResponse.php on line 46