Warning: Undefined variable $type in /home/users/1/sub.jp-asate/web/wiki/extensions/HeadScript/HeadScript.php on line 3

Warning: "continue" targeting switch is equivalent to "break". Did you mean to use "continue 2"? in /home/users/1/sub.jp-asate/web/wiki/includes/json/FormatJson.php on line 297

Warning: Trying to access array offset on value of type bool in /home/users/1/sub.jp-asate/web/wiki/includes/Setup.php on line 660

Warning: session_name(): Session name cannot be changed after headers have already been sent in /home/users/1/sub.jp-asate/web/wiki/includes/Setup.php on line 834

Warning: ini_set(): Session ini settings cannot be changed after headers have already been sent in /home/users/1/sub.jp-asate/web/wiki/includes/session/PHPSessionHandler.php on line 126

Warning: ini_set(): Session ini settings cannot be changed after headers have already been sent in /home/users/1/sub.jp-asate/web/wiki/includes/session/PHPSessionHandler.php on line 127

Warning: session_cache_limiter(): Session cache limiter cannot be changed after headers have already been sent in /home/users/1/sub.jp-asate/web/wiki/includes/session/PHPSessionHandler.php on line 133

Warning: session_set_save_handler(): Session save handler cannot be changed after headers have already been sent in /home/users/1/sub.jp-asate/web/wiki/includes/session/PHPSessionHandler.php on line 140

Warning: "continue" targeting switch is equivalent to "break". Did you mean to use "continue 2"? in /home/users/1/sub.jp-asate/web/wiki/languages/LanguageConverter.php on line 773

Warning: Cannot modify header information - headers already sent by (output started at /home/users/1/sub.jp-asate/web/wiki/extensions/HeadScript/HeadScript.php:3) in /home/users/1/sub.jp-asate/web/wiki/includes/Feed.php on line 294

Warning: Cannot modify header information - headers already sent by (output started at /home/users/1/sub.jp-asate/web/wiki/extensions/HeadScript/HeadScript.php:3) in /home/users/1/sub.jp-asate/web/wiki/includes/Feed.php on line 300

Warning: Cannot modify header information - headers already sent by (output started at /home/users/1/sub.jp-asate/web/wiki/extensions/HeadScript/HeadScript.php:3) in /home/users/1/sub.jp-asate/web/wiki/includes/WebResponse.php on line 46

Warning: Cannot modify header information - headers already sent by (output started at /home/users/1/sub.jp-asate/web/wiki/extensions/HeadScript/HeadScript.php:3) in /home/users/1/sub.jp-asate/web/wiki/includes/WebResponse.php on line 46

Warning: Cannot modify header information - headers already sent by (output started at /home/users/1/sub.jp-asate/web/wiki/extensions/HeadScript/HeadScript.php:3) in /home/users/1/sub.jp-asate/web/wiki/includes/WebResponse.php on line 46
http:///mymemo.xyz/wiki/api.php?action=feedcontributions&user=118.106.155.206&feedformat=atom miniwiki - 利用者の投稿記録 [ja] 2024-05-09T12:47:41Z 利用者の投稿記録 MediaWiki 1.31.0 敦康親王 2017-12-28T10:51:21Z <p>118.106.155.206: </p> <hr /> <div>&#039;&#039;&#039;敦康親王&#039;&#039;&#039;(あつやす しんのう、[[長保]]元年[[11月7日 (旧暦)|11月7日]]([[999年]][[12月17日]]) - [[寛仁]]2年[[12月17日 (旧暦)|12月17日]]([[1019年]][[1月25日]]))は[[平安時代]]中期の[[皇族]]。第66代[[一条天皇]]の第1皇子、母は[[皇后]][[藤原定子]]。<br /> <br /> == 生涯 ==<br /> 長保元年([[999年]])[[中宮職|中宮大進]][[平生昌]]邸において誕生。后腹の第1皇子であったが、当時外祖父である[[中関白家|中関白]][[藤原道隆]]は既に亡く、また伯父[[藤原伊周|伊周]]の失脚で母の実家は没落し力を失っていた。しかも敦康の誕生と同日に[[藤原道長]]の長女[[藤原彰子|彰子]]が[[女御]]宣下を受けていた。<br /> <br /> 誕生翌年の長保2年([[1000年]])4月18日、[[親王宣下]]を受けたが、同年末、2歳で母后を失った。その後、母后の末妹([[御匣殿 (藤原道隆四女)|御匣殿、道隆四女]])が母代として宮中で親王とその姉妹の[[脩子内親王|脩子]]・[[び子内親王|媄子]]両[[内親王]]を養育した。しかし御匣殿も程なく没したため、父帝の配慮でまだ子がなかった[[中宮]]彰子に養育が託され、他の姉妹と離れて彰子の局[[飛香舎]]に移された&lt;ref&gt;『権記』長保3年([[1001年]])8月3日条によれば、「漢明帝令馬皇后愛養粛宗之故事」([[後漢]]の[[明帝 (漢)|明帝]]が[[明徳馬皇后|馬皇后]]に生さぬ仲の[[章帝 (漢)|粛宗]]を養育させた故事)を藤原行成が奏上したのが聞き入れられて養子縁組が実現したという。&lt;/ref&gt;。長保3年([[1001年]])11月13日、同所にて[[袴着|着袴]]&lt;ref&gt;[[七五三]]を参照。&lt;/ref&gt;。同年、天皇側近の[[藤原行成]]が親王家の勅別当に任命された。<br /> <br /> [[中宮]][[藤原彰子|彰子]]は親王を愛情を込めて育てたが、道長は全く別の意味で親王に奉仕していた。道長はかつて親王の外舅伊周・[[藤原隆家|隆家]]兄弟を失脚させ、親王の生母定子にも非礼を働いていた&lt;ref&gt;長保元年([[999年]])8月9日定子が敦康親王出産のため内裏を退出する際、道長は[[宇治市|宇治]]の別荘へ[[公卿]]連を引き連れて遊びに行っており、定子の内裏退出を取り仕切る者がいなかった(結局[[藤原時光]]が病気・[[物忌]]にかかわらず参内し取り仕切った)。&lt;/ref&gt;。道長にとって、敦康親王は彰子に皇子誕生がなかった時の保険&lt;ref&gt;当時、[[藤原公季]]や[[藤原顕光]]の娘も入内しており、彰子にのみ男子が生まれなかった場合、道長は父[[藤原兼家]]の血統を受け継ぐ唯一の男子皇族である敦康親王を擁立するしかなかった。&lt;/ref&gt;に過ぎず、そのため、[[寛弘]]5年([[1008年]])9月、彰子に第2皇子敦成親王(のちの[[後一条天皇]])が生まれると道長は敦康親王への奉仕を放棄し、ひたすら敦成親王の立坊・[[即位]]を望むようになる。<br /> <br /> 寛弘7年([[1010年]])1月29日、伯父[[藤原伊周|伊周]]が薨去。[[正二位]][[准大臣]]の高位にあった伯父の死は、敦康親王の立場をさらに弱めた。同年7月17日、親王は道長の加冠により[[元服]]し、三品[[大宰帥]]に任ぜられた。翌寛弘8年([[1011年]])6月2日、[[一品親王|一品]]に叙せられ[[准后|三宮に准ぜられた]]。これに先立ち、5月27日、[[譲位]]を考えていた[[一条天皇]]は敦康親王[[立太子]]の可否を親王家別当の行成に問うたが、行成は[[文徳天皇]]の[[惟喬親王]]の例を引き、執政者道長の賛成が得難く政変の可能性まであるとした上で、親王の母后の外戚家[[高階氏]]が伊勢の[[伊勢神宮|大神宮]]に憚る所あり&lt;ref&gt;定子・伊周の母方の[[高祖父]][[高階師尚]]は、[[伊勢神宮]]に仕えていた[[斎宮]][[恬子内親王]]と[[在原業平]]が密通して出来た子とする説(『[[尊卑分脈]]』)があった。しかし近年ではこの権記の部分は後世の加筆ではないかと言われている。実は『権記』は原本が存在しておらず、この話の根拠となっているのは宮内庁書陵部蔵の伏見宮本であり院政期の『[[江家次第]]』『[[古今集目録]]』や鎌倉時代の『[[古事談]]』や『[[宝物集]]』にもこの逸話が出てくるようになった。&lt;/ref&gt;と言い、諌止した&lt;ref&gt;[[関口力]]は行成が[[摂政]][[藤原伊尹]]の孫でありながら幼くして孤児同然になった経歴を挙げ、「経験的に体得した現実主義的哲学に基づく親身な忠告」であり、必ずしも道長に迎合したものとは言えないと指摘する。また、行成は敦康親王が亡くなるまでその家司を務めている(関口力『摂関時代文化史研究』([[思文閣出版]]、[[2007年]]) ISBN 978-4-7842-1344-3 P37-38及び157-161)。&lt;/ref&gt;。このため、敦康親王叙一品の10日後、[[皇太子]]に立てられたのは4歳の異母弟敦成親王であった&lt;ref&gt;一品親王は二品を受けて20年を経て叙されるかどうかという地位で、12歳の敦康親王が叙せられるのは、皇位継承から排除される代償であったと言える(安田政彦「一品親王」『平安時代皇親の研究』(吉川弘文館、1998年))。一条天皇は譲位の対面において東宮[[三条天皇|居貞親王]]に敦康親王の優遇を要求し、東宮は「仰せなくとも、奉仕すべき事」と返答した。親王の参内が行われるなど(『小右記』長和元年7月22日条)、三条天皇は親王の処遇に留意している。&lt;/ref&gt;。中宮彰子は天皇と自分の意向に逆らった父道長を怨んだという&lt;ref&gt;一連の経緯は『[[権記]]』『[[栄花物語]]』に詳しいが、彰子が父を怨んだ原因については、『栄花物語』は彰子が一条の後継者に敦康を推したのを道長に反対されたためとし、『権記』は一条譲位の件を[[東宮]]居貞(のちの[[三条天皇]])に伝えるのに彰子の[[直廬]]の前を素通りにした隔意を感じたためと見る。&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 敦康親王は『[[大鏡]]』に「&#039;&#039;&#039;御才(ざえ)いとかしこう、御心ばへもいとめでたうぞおはしましし&#039;&#039;&#039;」と記され、その才華・人品は当時の公卿日記にも詳しい。父もこの親王を愛しむ心深かった&lt;ref&gt;寛弘2年([[1005年]])11月13日、飛香舎における親王の[[読書始]]に際し、天皇は密かに渡御、さらに儀式の最中に屏風を押しのけ、その様子を覗いていたという(『小右記』当日条)。『権記』にも、天皇の勅旨を受けた藤原行成が親王のために奔走する記事が多い。&lt;/ref&gt;が、道長の意向を憚り立太子は実現しなかった。后腹の第1皇子が立太子できなかったのは異例のことで&lt;ref&gt;[[天武天皇|天武]]朝以後、天皇の正妻所生の長子は、16人中14人が立太子しており、夭折した[[敦文親王]]をのぞけば、敦康は立太子できなかった唯一の例([[倉本一宏]]『一条天皇』([[人物叢書]]、[[吉川弘文館]]、[[2003年]]) ISBN 4-642-05229-1 P192-193)。&lt;/ref&gt;、世人は親王に多大な同情を寄せたという&lt;ref&gt;[[藤原公任]]は「帥宮(敦康親王)才智太朗(ハナハダアキラカ)、尤足感歎、足感歎」と言い(『[[小右記]]』[[長和]]2年9月23日条、西暦[[1013年]]で親王は満13歳)。同じく『小右記』[[寛仁]]2年12月26日条によれば、敦康親王の喪中に明年の[[小朝拝|朝拝]]および[[大饗|二宮大饗]]等を強行しようとして、[[式明親王]]の例を引く道長に対して、実資は「式部卿親王(敦康親王)甚無止(甚だやんごとなき)、彼式明親王尤劣者」と言い切り、朝拝と大饗の停止を是としたという。また『大鏡』は、敦康親王が「冷泉院の宮達などのやうに、軽々におはしまさましかば、いとほしさもよろしくや、世の人思ひまさまし」(「親王に[[冷泉天皇|冷泉院]]の宮たち(冷泉院の第3皇子[[為尊親王|為尊]]・第4皇子[[敦道親王|敦道]]の両親王。ともに好色で知られ、[[和泉式部]]との恋愛で世の謗りを受けた)のような軽々しいところが少しでもあったら、世間の同情もさほどでなくて済んだものを」)と述べた。&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> [[長和]]年間の敦康親王は、自邸で[[作文会]]・[[歌合]]・[[法華八講]]を催し、[[大堰川|大井河]]に遊覧するなど、風雅の道に生きた。長和2年([[1013年]])12月10日、[[中務省|中務卿]][[具平親王]]の次女を娶る。長和5年([[1016年]])1月29日、[[式部省|式部卿]]に転じた。寛仁2年([[1018年]])12月17日、にわかに発病し、[[出家]]の後、薨去。享年20。<br /> <br /> 親王は道長の嫡男[[摂政]][[藤原頼通|頼通]]と親しく、相婿となり家を共にしていた&lt;ref&gt;親王妃は一時頼通夫妻が養育していたともいい、婚儀に際して一切を頼通が取り仕切り、その室礼などは甚だ「過差」(贅沢)であったと『[[御堂関白記]]』に見える。&lt;/ref&gt;。薨去後、親王妃は[[出家]]し&lt;ref&gt;「南院の上」とよばれ、実娘嫄子よりも長生きしたらしい(『栄花物語』)。&lt;/ref&gt;、残された一女[[藤原げん子|嫄子女王]]は頼通・[[源隆姫|隆姫女王]]夫婦に引き取られ、のちに[[後朱雀天皇]]に入内した。<br /> <br /> ==参考文献==<br /> (一次史料の『[[権記]]』『[[小右記]]』『[[日本紀略]]』『[[大鏡]]』『[[栄花物語]]』を除く。)<br /> * 下玉利百合子 『枕草子周辺論 続編』 [[笠間書院]]<br /> * 下玉利百合子 『枕草子周辺論』 笠間書院<br /> <br /> ==脚注==<br /> &lt;references /&gt;<br /> <br /> <br /> {{DEFAULTSORT:あつやすしんのう}}<br /> [[Category:日本の親王]]<br /> [[category:平安時代の男性皇族]]<br /> [[Category:999年生]]<br /> [[Category:1019年没]]</div> 118.106.155.206 以仁王 2017-12-19T13:08:42Z <p>118.106.155.206: </p> <hr /> <div>{{基礎情報 皇族・貴族<br /> | 人名 = 以仁王<br /> | 各国語表記 = <br /> | 家名・爵位 = <br /> | 画像 = Prince_Mochihito.jpg<br /> | 画像サイズ = 250px<br /> | 画像説明 = 以仁王像([[蜷川式胤|蜷川親胤]]模、[[東京国立博物館]]蔵)<br /> | 続柄 = [[後白河天皇]]の第三[[皇子]]<br /> | 称号 = <br /> | 全名 = <br /> | 身位 = [[王 (皇族)|王]] → [[臣籍降下]]([[源氏#後白河源氏|後白河源氏]])<br /> | 敬称 = <br /> | お印 = &lt;!-- ※ 日本の皇族のみ。 --&gt;<br /> | 出生日 = [[仁平]]元年([[1151年]])<br /> | 生地 = [[山城国]]<br /> | 死亡日 = [[治承]]4年[[5月26日 (旧暦)|5月26日]]([[1180年]][[6月20日]])<br /> | 没地 = [[山城国]][[相楽郡]]南山城加幡河原<br /> | 埋葬日 = <br /> | 埋葬地 = <br /> | 配偶者1 = 妻:[[八条院]][[女房]]<br /> | 配偶者2 = 妻:[[藤原忠成]]の娘<br /> | 配偶者3 = 妻:[[八条院三位局]](高階盛章の娘)<br /> | 配偶者4 = 妻:[[亮子内親王|殷富門院]]治部卿局<br /> | 配偶者5 = <br /> | 配偶者6 = <br /> | 配偶者7 = <br /> | 配偶者8 = <br /> | 配偶者9 = <br /> | 配偶者10 = <br /> | 子女 = 第一王子:[[北陸宮]]&lt;br/&gt;第二王子:[[道尊 (以仁王王子)|道尊]]&lt;br/&gt;第三王子:[[真性]]&lt;br/&gt;第四王子:道性(安院宮僧正)&lt;br/&gt;第五王子:仁誉&lt;br/&gt;王女:三条宮姫宮&lt;br/&gt;王女:姫宮<br /> | 父親 = [[後白河天皇]](第77代[[天皇]])<br /> | 母親 = &#039;&#039;&#039;実母&#039;&#039;&#039;:[[藤原成子]]([[藤原季成]]女)&lt;br/&gt;[[猶子|猶母]]:&#039;&#039;[[暲子内親王]]&#039;&#039;<br /> | 役職 = <br /> }}<br /> &#039;&#039;&#039;以仁王&#039;&#039;&#039;(もちひとおう、[[仁平]]元年([[1151年]]) - [[治承]]4年[[5月26日 (旧暦)|5月26日]]([[1180年]][[6月20日]]))は、[[平安時代]]末期の[[皇族]]。[[後白河天皇]]の第三皇子。「[[以仁王の挙兵|以仁王の令旨]]」を出して[[源氏]]に[[平氏]]打倒の挙兵を促した事で知られる。邸宅が[[高倉通|三条高倉]]にあったことから、&#039;&#039;&#039;三条宮&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;高倉宮&#039;&#039;&#039;と称された。<br /> <br /> == 生涯 ==<br /> 後白河天皇の第三皇子だが、『[[平家物語]]』では兄の[[守覚法親王]]が仏門に入ったため第二皇子とされている。同母姉に歌人として名高い[[式子内親王]]がいる。母親は[[藤原季成]]の娘・[[藤原成子|成子]]。<br /> <br /> 幼くして[[天台座主]]・[[最雲法親王]]の弟子となるが、[[応保]]2年([[1162年]])に最雲が亡くなり[[還俗]]。[[永万]]元年([[1165年]])に人目を忍んで近衛河原の[[大宮御所]]で元服したという。その後、八条院[[暲子内親王]]の[[猶子]]となる&lt;ref&gt;八条院は永万元年(1165年)に崩御した二条天皇の准母(母親代わり)で、大宮御所には同天皇の后であった[[藤原多子]]が居住していた。このため、以仁王の還俗・元服には二条天皇親政派であった人々の支持があったと考えられる。一方で後白河法皇と二条天皇は実の父子でありながら政治的に対立関係にあり、二条天皇の支持派に擁されるということは結果的に後白河法皇ー高倉天皇の対抗馬としての意味合いを持つことになった(佐伯智広「二条親政の成立」(初出:『日本史研究』505号(2004年)/所収:佐伯『中世前期の政治構造と王家』(東京大学出版会、2015年) ISBN 978-4-13-026238-5))。&lt;/ref&gt;。幼少から英才の誉れが高く、学問や詩歌、特に書や笛に秀でていた。母の実家は[[閑院流]]藤原氏で家柄も良く、皇位継承において有力候補であったが、異母弟である[[高倉天皇|憲仁親王(のちの高倉天皇)]]の生母であり権勢を誇った[[平滋子|平滋子(建春門院)]]の妨害に遭って阻止されたという。<br /> <br /> 特に[[仁安 (日本)|仁安]]元年([[1166年]])、母方の伯父である[[藤原公光]]が権中納言・左衛門督を解官されて失脚したことで、以仁王の皇位継承の可能性は消滅し、[[親王宣下]]も受けられなかった&lt;ref&gt;院政期に親王宣下を受けるのは、原則として正妃(女御・中宮・皇后)所生の皇子、または仏門に入った皇子([[法親王]])のみだった。以仁王の母・成子は女御になれず、幼少の頃には仏門にあったものの12歳のとき還俗した以仁王には親王宣下を行う根拠がなかった。&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;『平家物語』および『越中旧事記』に「&#039;&#039;&#039;以仁親王&#039;&#039;&#039;」と記されている。&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> [[治承]]3年([[1179年]])11月、[[平清盛]]はクーデターを起こし後白河法皇を幽閉、関白・[[松殿基房]]を追放するが([[治承三年の政変]])、以仁王も長年知行してきた[[城興寺 (京都市)|城興寺]]領を没収された&lt;ref&gt;城興寺領の没収の背景には高倉天皇およびその皇統に対抗する以仁王の経済基盤を崩す平家政権の意図があったが、その一方で城興寺は本来最雲法親王が「[[梨本門跡]]」の所領として有していたものとされ、以仁王への継承も彼が出家して最雲の法灯を継ぐことを前提にしていたと考えられている。ところが、以仁王が出家をしないで俗人のまま同領を支配することはその約束に反していた。そのため、平家政権も城興寺領の没収後は本来の所有者と言うべき「梨本門跡」(当時の門跡は[[明雲]])に返還している(栗山圭子「城興寺のゆくえ」『中世王家の成立と院政』吉川弘文館、2012年 ISBN 978-4-642-02910-0)。&lt;/ref&gt;。治承4年([[1180年]])4月、ついに平氏討伐を決意した以仁王は、[[源頼政]]の勧めに従って、平氏追討の[[令旨]]を全国に雌伏する源氏に発し、平氏打倒の挙兵・武装蜂起を促した。<br /> <br /> また自らも「最勝親王」と称して挙兵を試みたが、準備が整わないうちに計画が平氏方に漏れた。5月15日、平氏の圧力による勅命と[[院宣]]で以仁王は皇族籍を剥奪され、[[源氏#後白河源氏|源姓]]を下賜され「源以光」となり、[[土佐国]]への[[配流]]が決まった。その日の夜、検非違使の[[源光長|土岐光長]]と[[源兼綱]](頼政の子)が以仁王の館を襲撃したが、以仁王はすでに物詣を装って脱出していた。16日に入って以仁王が[[園城寺]]に逃れていることが判明し、21日に平氏は園城寺への攻撃を決定する。その中の大将には頼政も入っており、この時点では平氏は以仁王単独の謀反と考えていたと思われる&lt;ref&gt;[[河内祥輔]]は5月21日以前に以仁王と頼政が謀議をしたというのは『平家物語』の創作で、実際はこの日の園城寺攻撃に反対した頼政が抗命の罪で捕らえられそうになったために、やむなく王に協力したという説を出している(河内祥輔『日本中世の朝廷・幕府体制』吉川弘文館、2007年)。&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 頼政はその日のうちに子息たちを率いて園城寺に入り以仁王と合流した。しかし園城寺と対立していた[[延暦寺]]の協力を得ることができず、また園城寺内でも親平氏派が少なくなく、このままでは勝ち目が薄いと判断した以仁王と頼政は南都の寺院勢力を頼ることに決めた。<br /> <br /> 治承4年([[1180年]])5月26日、頼政が[[宇治市|宇治]]で防戦して時間を稼いでいる間に以仁王は[[興福寺]]へ向かったが、同日中に南山城の加幡河原で平氏家人の[[藤原景高]]・[[藤原忠綱 (秀郷流)|伊藤忠綱]]らが率いる追討軍に追いつかれて討たれた。『平家物語』は、[[藤原景家|飛騨守景家]]に軍勢によって光明山鳥居の前で戦死したとする。<br /> <br /> しかし王の顔を知るものは少なく、東国生存説が巷に流れた。以仁王自身の平氏追討計画は失敗に終わったが、彼の令旨を受けて[[源頼朝]]や[[源義仲|木曾義仲]]など各地の源氏が挙兵し、これが平氏滅亡の糸口となった。なお[[朝廷]]は当初この令旨を偽物と考えていたが、後にこれが事実の疑いが出てきたこと、加えて以仁王が高倉天皇(以仁王の弟)及び安徳天皇(以仁王の甥)に替わって即位することを仄めかす文章が含まれていたことに強く反発した。後白河法皇にとって高倉天皇は[[治天]]の権威によって自らが選んだ後継者であり、その子孫に皇位を継承させることは京都の[[公家]]社会では共通の認識であったためである。このため、京都では以仁王の行動は次第に皇位簒奪を謀ったものと受け取られるようになっていった&lt;ref&gt;[[東国]]平定以後、[[三善康信]]など京都出身の実務官人からの情報で朝廷の以仁王に対する認識を知った頼朝は、以仁王の令旨に代わる大義名分である[[寿永二年十月宣旨]]を朝廷から引き出した。一方、義仲は以仁王の令旨を正当な主張と受け止めて北陸宮擁立論を唱えたため、結果的に公家社会と敵対し、両者の命運を分ける一因となった(河内祥輔『頼朝の時代 一一八〇年代内乱史』平凡社、1990年)。&lt;/ref&gt;。乱から16年が経過した[[建久]]7年([[1196年]])になっても以仁王は「刑人」と呼称されて謀反人としての扱いを受けている(『[[玉葉]]』建久7年正月15日条)&lt;ref&gt;[[九条兼実]]の外孫で[[後鳥羽天皇]]の皇女である昇子内親王は、誕生してすぐに八条院の猶子となった。その直後に重病となった八条院は、多年養育していた三条宮姫宮(以仁王の王女)の内親王宣下を兼実に要請する。これは王女が[[八条院領]]の正当な相続権者であることを内外に示すものだった。昇子内親王への八条院領の即時かつ全面的譲与を期待していた兼実は、以仁王が刑人であることを理由に内親王宣下を公式の議題にすることにも反対した。両者の折衝の結果、三条宮姫宮の一期支配の後に昇子内親王が伝領するという妥協案が成立し、王女の内親王宣下は却下された(金澤正大「八条女院と九条兼実外孫昇子内親王」『政治経済史学』232、1985年)。&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 第一王子の[[北陸宮]]は義仲のもとに逃れてその旗頭に奉じられ、また第二王子の若宮は平氏に捕まり、[[道尊 (以仁王王子)|道尊]]と名乗って仏門に入った。八条院三位局(高階盛章の娘)が産んだ王女である三条宮姫宮は、建久7年([[1196年]])に八条院より安楽寿院・歓喜光院などを一期分として譲与されている。<br /> <br /> == 墓・霊廟 ==<br /> [[File:Tomb of Prince Mochihito, haisho.jpg|thumb|220px|right|{{center|以仁王墓([[京都府]][[木津川市]])}}]]<br /> * [[京都府]][[木津川市]]にある[[高倉神社]]には以仁王が祀られており、境内には王の墓と伝えられる陵墓がある。後世、村人によって神社境内に葬られたという。<br /> * 高倉神社のそばにある筒井浄妙墓という塚があり、この塚も以仁王墓の陪冢として王墓とともに[[宮内庁]]が管理している。<br /> &lt;gallery&gt;<br /> File:Tomb of Prince Mochihito, baicho.jpg|伝筒井浄妙墓<br /> &lt;/gallery&gt;<br /> <br /> == 伝承 ==<br /> * [[新潟県]][[長岡市]](旧[[小国町 (新潟県)|小国町]])には、以仁王が平氏から逃れる際に[[越後国]]小国郷に辿り着き、そこで生活したという言い伝えがある。<br /> * [[福島県]][[南会津郡]][[下郷町]]の大内宿にも潜行伝説がある。以仁王を祀る高倉神社が存在する。<br /> * [[長野県]][[木曽郡]][[上松町]]の[[小川 (上松町)|小川]]一帯には、以仁王の姫宮に関する伝承がある。姫宮は以仁王が木曽谷に潜伏していると聞いて密かに木曽谷を目指すが、上松で平家に見つかってしまう。姫宮は小川の上流へ逃げるが、持っていた麝香袋の匂いで見つかってしまい、深い淵に身を投げて果てる。小川には「麝香沢」「姫渕」などの地名が残されているほか、麝香沢近くには姫宮神社(高倉八幡社)が祀られている&lt;ref name=&quot;長野県_姫渕&quot;&gt;[[長野県]] {{PDFlink|[https://www.pref.nagano.lg.jp/mizutaiki/kurashi/shizen/mizukankyo/kankyo/documents/himebutino51.pdf 赤沢自然休養林「姫渕」]}} 2016年1月6日閲覧。&lt;/ref&gt;&lt;ref name=&quot;上松町_散策マップ&quot;&gt;[[上松町]]観光協会 [http://www.town.agematsu.nagano.jp/kankou/akasawa/akasawa_map.html 赤沢散策マップ] 2016年1月6日閲覧。&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> == 系譜 ==<br /> * 父:[[後白河天皇]]<br /> * 母:[[藤原成子]] - [[藤原季成]]の娘<br /> * 妻:[[八条院]][[女房]]{{要出典|date=2016年12月}}<br /> ** 男子:[[北陸宮]](1165-1230)&lt;ref&gt;『[[本朝皇胤紹運録]]』では僧法円を北陸宮に比定している。&lt;/ref&gt;<br /> * 妻:[[藤原忠成]]の娘<br /> ** 男子:[[真性]](1167-1230)<br /> * 妻:[[八条院三位局]](高階盛章の娘)<br /> ** 男子:[[道尊 (以仁王王子)|道尊]](1175-1228)<br /> ** 女子:三条宮姫宮(?-1204)<br /> * 妻:[[亮子内親王|殷富門院]]治部卿局<br /> ** 男子:道性(安院宮僧正)<br /> ** 女子:姫宮<br /> * 生母不明<br /> ** 男子:仁誉<br /> <br /> == 脚注 ==<br /> {{reflist}}<br /> <br /> == 関連項目 ==<br /> * [[以仁王の挙兵]]<br /> * [[以仁王 (小惑星)]]<br /> * [[北陸宮]]<br /> <br /> {{Normdaten}}<br /> <br /> {{DEFAULTSORT:もちひとおう}}<br /> [[Category:日本の王 (皇族)]]<br /> [[Category:平安時代の男性皇族]]<br /> [[Category:還俗した人物]]<br /> [[Category:治承・寿永の乱で戦死した人物]]<br /> [[Category:1151年生]]<br /> [[Category:1180年没]]</div> 118.106.155.206
Warning: Cannot modify header information - headers already sent by (output started at /home/users/1/sub.jp-asate/web/wiki/extensions/HeadScript/HeadScript.php:3) in /home/users/1/sub.jp-asate/web/wiki/includes/WebResponse.php on line 46