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miniwiki - 利用者の投稿記録 [ja]
2024-05-06T22:22:47Z
利用者の投稿記録
MediaWiki 1.31.0
賑給
2016-05-21T01:48:38Z
<p>114.171.176.208: /* 概要 */</p>
<hr />
<div>'''賑給'''(しんごう/しんきゅう)とは、'''賑恤'''(しんじゅつ)とも呼ばれ、[[律令制]]において高齢者や病人、困窮者、その他[[鰥寡孤独]]<ref>「鰥寡孤独」(かんかこどく)は「鰥寡惸独」(かんかけいどく)ともいわれる。ここで「鰥」とは男やもめ、「寡」は女やもめ、「惸」は孤児、「独」は独居老人の意味である。『続日本紀1』直木孝次郎 他 訳注,平凡社(東洋文庫)1986年、68頁より)</ref>(身寄りのない人々)に対して国家が[[穀|稲穀]]や[[塩]]などの食料品や[[布]]や[[綿]]などの衣料品を支給する福祉制度、あるいは支給する行為そのものを指す。<br />
<br />
== 概要 ==<br />
賑給が行われる原因として大きく2つに分けることができる、1つは天皇の[[即位]]や[[立太子]]、[[改元]]、皇族の病気や死亡など、国家的な大事が発生した時に行われるものである。もう1つは[[疫病]]や[[飢饉]]、[[地震]]など災害が発生した時に行われるものである。ともに、君主である天皇の[[徳]]を天下に知らしめて、国家統治の万全と支配秩序の正統性を謳うことを真の目的としていたと考えられ、実際の実施状況を示した現存の[[古文書]]を見ても、[[儒教]]において、養老の精神から保護の対象とされた高齢者や困窮者の典型として掲げられていた鰥寡孤独への賑給が回数・支給量ともに多く、本当の意味で賑給が必要とされている各種災害による被災者・困窮者に対する支給が後回しもしくは実施されない場合もあったことが知られている。また、支給の対象とされる地域は前者の場合は全国的規模で実施され、後者の場合には特定の地域([[日本の首都|京]]や1ないし複数の[[令制国|国]][[郡]])に限定される場合が多かった。<br />
<br />
財源としては[[正倉]]などに納められていた[[租穀|田租穀]]などの備蓄が用いられていたが、支給の対象・実施の基準が曖昧であったために、中には賑給を口実として[[正税]][[未進]]の補填を行ったり、私的に流用したりする[[国司]]・[[郡司]]などもいた。このため、朝廷は地方における賑給の実施に中央の許可を必要とするなどの制約を設けようとしたが、その場合には大規模な災害など緊急性を要する賑給には対処しきれないという問題点も発生した。<br />
<br />
[[平安時代]]([[9世紀]])に入ると、賑給を巡る状況に変化が生じることになる。すなわち、賑給の支給対象が畿内もしくは[[平安京]]の中(「京中賑給」)に限定されることが多くなり、現実的な飢饉・疫病・災害対策として実施されることが増加していったのである。その背景として財政難や地方政治の不振、更には律令制全体の不振によって朝廷が自らの足元である京(平安京)やその周辺地域を固める必要が生じたことによる。特に平安京は農業生活から切り離され、生活水準も高いとは言えない下層の都市生活者が多く居住しており、飢饉や疫病などに対して弱い構造になっていた。また、平安京への米などの物資の輸送は[[葛野川]]・[[鴨川 (淀川水系)|鴨川]]・[[淀川]]などの河川を介した水運に依拠するところが大きく、霖雨(長雨)で川の水位が上昇すると洪水に至らなくても船の航行停止や渡河困難による物流の停止によって京中に飢饉が発生する場合があった。変わったところでは、[[承和の変]]の際に平安京の周辺の交通を封鎖したところ京中で飢饉が発生して賑給を行ったことが知られている(『[[続日本後紀]]』[[承和 (日本)|承和]]9年7月丙辰条)<ref>寺内浩「京進米と都城」(初出:『史林』72巻6号(1989年)/所収:寺内『受領制の研究』(塙書房・2004年))</ref>。なお、米に代わって銭が支給される事があったが、これは京内で銭が流通していた反映と考えられる一方で、米不足などの食糧難に由来している場合には、結果的に物価の高騰を招いて賑給の効果を損なう結果になるため、[[10世紀]]以降に入ると銭による賑給は行われなくなった<ref name=kushiki>櫛木謙周「<京中賑給>に関する基本的考察」(初出:『富山大学人文学部紀要』第12号(1987年)/所収:櫛木『日本古代の首都と公共性』(塙書房、2014年) ISBN 978-4-8273-1267-6)</ref>。また、[[賑給田]]や[[救急田]]の設定や[[救急稲]]の[[出挙]]などによる新たな財源確保などが行われたのもこの時期である。<br />
<br />
律令制の形骸化が進んだ[[10世紀]]に入ると、賑給そのものが[[年中行事]]化され、毎年[[5月 (旧暦)|5月]]の京中賑給のみが実施されるようになり、内容も再び「天皇の恩徳」を強調して[[徳治主義]]や[[家族国家]]を前面に押し出した旧来の発想に回帰することになる(もっとも、従来の災害・困窮対策として行われる賑給も稀に実施されている)。また、旧来の儒教による徳治的観念に加えて仏教の[[布施|施行]]の観念も付け加えられ、[[太上天皇|院]]や[[公卿]]による施行を目的とした私的かつ特定の地域・人々を対象にした賑給も行われるようになる<ref name=kushiki/>。『[[江家次第]]』(第7「賑給使事」)によれば、平安京の左京・右京をそれぞれ5つの地区に分けられ、一条(および北辺)と七・八・九条は衛門府、二条と三・四条は兵衛府、五・六条は馬寮が管轄(左京は左の[[官司]]、右京は右の官司が担当)し、[[四等官]]のうち次官(すけ)から主典(さかん)までのうちより各3名(左衛門府・右衛門府・左兵衛府・右兵衛府からはそれぞれ3名×2=各6名、左馬寮・右馬寮からは各3名、合わせて30名)が賑給使として派遣された。更に賑給時のトラブルを防止するために[[検非違使]]が合わせて派遣される場合があった(『[[西宮記]]』巻3など、東西の[[市場|市]]がある七条が検非違使との兼帯が多い衛門府の管轄となっている背景の1つとみられている)。また、年中行事らしい現象として、支給される人数と米銭の総額があらかじめ決められていたことがあげられている。こうした年中行事としての賑給も、供給すべき現物の不足などによって時代とともに形骸化していき、[[鎌倉時代]]には廃絶状態となった。<br />
<br />
==脚注==<br />
<references /><br />
<br />
== 参考文献 ==<br />
*舟尾好正「賑給」(『国史大辞典 7』(吉川弘文館、1986年) ISBN 978-4-642-00507-4)<br />
*舟尾好正「賑給」(『日本史大事典 3』(平凡社、1993年) ISBN 978-4-582-13104-8)<br />
*朧谷寿「賑給」(『平安時代史事典』(角川書店、1994年) ISBN 978-4-04-031700-7)<br />
*寺内浩「賑給」(『日本歴史大事典 2』(小学館、2000年) ISBN 978-4-09-523002-3)<br />
*寺内浩「賑給」(『歴史学事典 10 <small>身分と共同体</small>』(弘文堂、2003年) ISBN 978-4-335-21040-2)<br />
*阪口勉「賑給」(『日本古代史事典』(朝倉書店、2005年) ISBN 978-4-254-53014-8)<br />
<br />
== 関連項目 ==<br />
*[[義倉]]<br />
*[[平準署]]<br />
<br />
{{DEFAULTSORT:しんこう}}<br />
[[Category:日本の律令制]]<br />
[[Category:社会制度]]</div>
114.171.176.208
フレデリック・クレッカー
2016-04-22T03:27:07Z
<p>114.171.176.208: /* 参考文献 */</p>
<hr />
<div>'''フレデリック・クレッカー'''(Fredrick Krecker、[[1843年]][[1月31日]] - [[1883年]][[4月26日]])は、[[メソジスト]]系の[[米国福音教会]]の日本派遣[[宣教師]]である。<br />
<br />
1843年に福音教会東ペンシルバニア年会の[[牧師]]の長男として、[[ニューヨーク州]][[ロチェスター (ニューヨーク州)|ロチェスター]]に生まれる。1851年、8歳の時に[[回心]]する。その後[[医師]]になることを志す。<br />
<br />
1861年に[[フィラデルフィア・ジェファーソン医科大学]]を卒業後、[[南北戦争]]中だったので、[[北軍]]の海軍[[軍医]]として従軍する。終戦後は、帰郷して医師として働きながら、[[ランカスター (ペンシルベニア州)|ランカスター]]の教会を[[牧会]]する。<br />
<br />
日本宣教の志を持ち、1876年3月11日に来日する。7月18日に[[東京府|東京]]に住み、[[神田駿河台|駿河台]]の[[ロシア正教会]]の一室を借りて[[福音伝道|伝道]]を始める。1878年には和泉教会を建設する。1879年には正式に米国福音教会最初の日本派遣宣教師に任命される。<br />
<br />
1883年に[[京橋 (東京都中央区)|京橋]]の[[スラム街]]を伝道しているときに、[[腸チフス]]にかかる。宣教医[[ウィリス・ホイットニー]]の治療を受けるが病死する。<br />
<br />
== 参考文献 ==<br />
*『日本キリスト教史大事典』[[教文館]]、1988年 <br />
*[[高橋昌郎]]『明治のキリスト教』[[吉川弘文館]]、2003年<br />
<br />
{{明治時代の来日宣教師}}<br />
<br />
{{デフォルトソート:くれつか ふれてりつく}}<br />
[[Category:在日宣教師]]<br />
[[Category:在日アメリカ人]]<br />
[[Category:アメリカ合衆国の宣教師]]<br />
[[Category:アメリカ合衆国の医師]]<br />
[[Category:アメリカ合衆国の軍医]]<br />
[[Category:明治時代の外国人]]<br />
[[Category:明治元訳聖書]]<br />
[[Category:医療宣教師]]<br />
[[Category:腸チフスで死亡した人物]]<br />
[[Category:メソジスト派の宣教師]]<br />
[[Category:ニューヨーク州ロチェスター出身の人物]]<br />
[[Category:1843年生]]<br />
[[Category:1883年没]]</div>
114.171.176.208
フレデリック・クライン
2016-04-22T03:23:03Z
<p>114.171.176.208: /* 参考文献 */</p>
<hr />
<div>'''フレデリック・チャールズ・クライン'''(Frederick Charles Klein、[[1857年]][[5月17日]] - [[1926年]][[12月27日]])は、[[米国プロテスタント・メソジスト教会]]の[[宣教師]]である。<br />
<br />
1857年[[ワシントン州]]に生まれる。1883年9月23日に来日し、[[横浜英和学校]]を創立する。1886年に[[横浜第一美普教会]]を設立する。基督教青年会([[キリスト教青年会|YMCA]])や、[[禁酒同盟]]などにかかわる。<br />
<br />
1887年7月11日に[[私立愛知英語学校]](同年9月に名古屋英和学校と改称、現:学校法人名古屋学院[[名古屋中学校・高等学校]])を設立し、校長になる。1890年4月より学校内の[[教会]]の[[牧師]]を兼務する。1893年病のために[[アメリカ合衆国|アメリカ]]に帰国する。帰国後、メリーランド地区年会代議員を務める。1926年に[[バーヴィンク]]の自宅で死去する。<br />
<br />
== 参考文献 ==<br />
*『日本キリスト教大事典』[[教文館]]、1988年<br />
*[[守部喜雅]]『日本宣教の夜明け』[[いのちのことば社]]、2009年<br />
<br />
{{明治時代の来日宣教師}}<br />
<br />
{{デフォルトソート:くらいん ふれてりつく}}<br />
[[Category:アメリカ合衆国の宣教師]]<br />
[[Category:在日宣教師]]<br />
[[Category:在日アメリカ人]]<br />
[[Category:メソジスト]]<br />
[[Category:明治時代の外国人]]<br />
[[Category:ワシントン州の人物]]<br />
[[Category:1857年生]]<br />
[[Category:1926年没]]</div>
114.171.176.208
フレデリック・ガルニエ
2016-04-22T02:44:07Z
<p>114.171.176.208: /* 関連項目 */</p>
<hr />
<div>'''フレデリック・ルイ・ガルニエ'''(Frederic Louis Garnier, [[1860年]][[12月20日]] - [[1941年]][[1月19日]])は、[[明治]]から[[昭和]]初期の[[日本]]で活動した[[フランス]]人[[カトリック教会|カトリック]][[司祭]]。[[パリ外国宣教会]]所属の[[宣教師]]。<br />
<br />
== 名前について ==<br />
[[熊本県]][[天草市]]大江にあるガルニエの銅像の碑文では「ルドヴィコ(フランス語では[[ルイ]])・ガルニエ」とあり、ガルニエを紹介した多くの文献やネット情報もこれに従っているが<ref>例えば[http://www.geocities.jp/amakusa_tanken/chri_garunie.htm]。ただしこのホームページ作成者は銅像碑文の引用に留め、ガルニエの人名について断定はしていない。他に「ルドビコ」「ルドヴィコフ」「ルドビコフ」の表記もあり。</ref>、浜名志松の1987年の著書、竹森敏・竹森要の1990年の著書(「参考文献」参照)ではそのファーストネームを「フレデリック」としており、また後者に掲載された「ガルニエ家の家系図」ではそのフルネームを「フレデリック・ルイ・ガルニエ」としている<ref>竹森敏・竹森要、1990年、20-21頁(神父のフルネームの記載は21頁)。</ref>。両文献ともガルニエ本人とフランスの親族との間で交わされた私信(日本語訳文)を資料として紹介しており、特に竹森はガルニエ本人やその親族と直接面識・親交のある人物であることから、情報の信憑性も高いと思われるので、本記事ではこれらに従った。<br />
{{節stub}}<br />
<br />
== 生涯 ==<br />
[[File:OoeTenshudo.JPG|thumb|大江天主堂(2015年5月)]]<br />
[[オート=ロワール県]][[ル・ピュイ=アン=ヴレ]]市出身。[[1885年]]12月来日。[[京都]]での日本語修得を経て86年[[長崎県]][[伊王島]]の[[大明寺教会]]、88年には[[新上五島町|上五島]]の魚の目教会、1892年には天草の大江教会に[[司祭]]として赴任した([[1927年]]まで崎津教会を兼任)。以来[[1941年]]1月同地に没するまでの49年間、質素な生活を送りながら天草島民への布教に従事した。<br />
<br />
この間、1933年には私費を投じて大江教会の現会堂(通称「大江天主堂」)を完成。[[ロマネスク建築|ロマネスク]]様式の同会堂はガルニエの布教に捧げた生涯の記念碑であると同時に、日本の大工職人がヨーロッパの教会建築の技術を摂取して明治~昭和期の日本各地に建てたいわゆる「天主堂」の作例として、近代建築史上も重要である。<br />
<br />
[[1907年]]の[[紀行文]]『[[五足の靴]]』の一行もガルニエを訪れ、土地の信者が親しみを込めて「パアテルさん」(「神父」の意)と呼ぶフランス人の宣教師、として紹介している。<br />
<br />
== 参考文献 ==<br />
* 浜名志松『天草の土となりて ガルニエ神父の生涯』(日本基督教団出版局、1987年)<br />
* 竹森敏・竹森要『天草からフランスに架ける橋 愛の手紙コレクション』(自費出版、1990年)<br />
<br />
== 脚注 ==<br />
<references /><br />
<br />
== 関連項目 ==<br />
* [[五足の靴]]<br />
<br />
{{明治時代の来日宣教師}}<br />
<br />
{{Christ-stub}}<br />
{{people-stub}}<br />
{{DEFAULTSORT:かるにえ ふれてりつく}}<br />
[[Category:フランスの宣教師]]<br />
[[Category:在日宣教師]]<br />
[[Category:在日フランス人]]<br />
[[Category:オート=ロワール県出身の人物]]<br />
[[Category:1860年生]]<br />
[[Category:1941年没]]</div>
114.171.176.208
ピエール・マリー・オズーフ
2016-04-22T02:07:03Z
<p>114.171.176.208: /* 外部リンク */</p>
<hr />
<div>{{Infobox Christian leader<br />
|背景色= catholic<br />
|敬称接頭辞=<br />
|名前= ピエール・マリー・オズーフ<br>Pierre Marie Osouf<br />
|敬称接尾辞=<br />
|称号= カトリック東京[[大司教]]<br />
|紋章=<br />
|画像= Osouf pierre marie.jpeg<br />
|画像サイズ= <br />
|画像説明=<br />
|教会= [[カトリック教会]]<br />
|管区= <br />
|首都大司教管区= <br />
|archdiocese= [[カトリック東京大司教区|東京]]<br />
|司教区= <br />
|着座= [[1891年]]6月15日<br />
|離任= [[1906年]]6月27日(死去)<br />
|前任=<br />
|後任= [[ピエール・ザヴィエ・ミュガビュール]]<br />
|司祭叙階= [[1852年]]7月11日<br />
|司教叙階= [[1877年]]2月11日<br />
|枢機卿任命=<br />
|格付=<br />
|著作=<br />
|伝道=<br />
|その他役職= 日本北緯[[使徒座代理区]]長([[1876年]] - [[1891年]])<br />
|座右の銘=<br />
<!---個人情報---><br />
|本名=<br />
|別名=<br />
|生年月日= [[1829年]]5月26日<br />
|出生地= {{FRA}} [[ノルマンディー]]地方クータンス司教区<br />
|没年月日= {{death date and age|1906|6|27|1829|5|26}}<br />
|死没地= {{Flagicon|JPN}}[[東京都]][[文京区]]<br />
|墓所=<br />
|墓所座標=<br />
|国籍= {{FRA}}<br />
|宗派=<br />
|居住地=<br />
|両親=<br />
|配偶者=<br />
|子供=<br />
|職業=<br />
|専門職=<br />
|出身校=<br />
|署名=<br />
|公式サイト=<br />
<!---聖人情報---><br />
|記念日=<br />
|崇敬教派=<br />
|聖人称号=<br />
|列福日=<br />
|列福地=<br />
|列福決定者=<br />
|列聖日=<br />
|列聖地=<br />
|列聖決定者=<br />
|象徴=<br />
|守護対象=<br />
|主要聖地=<br />
|崇敬対象除外=<br />
<!---その他---><br />
|教皇名= <br />
}}<br />
<br />
'''ピエール・マリー・オズーフ'''([[仏]]:Pierre Marie Osouf、[[1829年]]5月26日 - [[1906年]]6月27日)は、[[キリスト教]]・[[カトリック教会|カトリック]]の[[フランス人]][[宣教師]]である。[[パリ外国宣教会]]所属で、[[1877年]]([[明治]]11年)に来日し、[[1891年]](明治24年)6月に[[カトリック東京大司教区]]の初代[[大司教]]([[教区長]])に就任した。<br />
<br />
== 生涯 ==<br />
[[1829年]]([[文政]]12年)5月26日、[[フランス]]北西部の[[ノルマンディー]]地方クータンス司教区にて生まれる。[[1852年]]([[嘉永]]5年)に[[神学校]]を卒業、同年7月11日に[[司祭]]に[[叙階]]された後、3年間クータンス司教区の[[司教]]秘書を勤めた。その後、パリ外国宣教会に入会し東洋伝道を志して[[シンガポール]]や[[香港]]に赴任した。<br />
<br />
[[1876年]](明治9年)、[[パリ]]の神学校の校長に任命されて帰国したが、同年12月に日本北緯[[使徒座代理区]]の教区長に任命された。翌[[1877年]](明治10年)2月11日、パリ外国宣教会本部の[[聖堂]]で司教に叙階され、同年7月に日本に向けて出発した。来日後、[[築地]]の[[外国人居留地]]に[[ゴシック様式]]の[[大聖堂]]の建設に着手、翌[[1878年]](明治11年)8月15日には完成した[[カトリック築地教会]]聖堂で献堂式を行った。<br />
<br />
同1878年に[[シャルトル聖パウロ修道女会]]を招聘し、[[1882年]](明治15年)には[[カトリック神田教会]]の敷地内に[[孤児院]]や[[小学校]](現在の[[白百合学園中学校・高等学校]])を設立した。また、[[1887年]](明治20年)には[[マリア会]]を招聘し、翌[[1888年]](明治21年)に[[暁星学園]]を創立した。<br />
<br />
[[1891年]](明治24年)6月15日、日本使徒座代理区の[[大司教区]]昇格に伴い[[カトリック東京大司教区|東京大司教区]]の初代教区長に任命され、その後も教育事業・出版事業などに多大な功績を残した。晩年、[[リウマチ]]に悩み、[[1906年]](明治39年)6月27日、風邪を拗らせて[[カトリック関口教会|関口教会]]の会堂にて死去した。<br />
<br />
==参考文献==<br />
* 一粒の麦 東京教区創立100周年記念誌(1991年)<br />
* 人物による日本カトリック教会史-聖職者および信徒-75名伝 池田敏雄著(1968年) <br />
* 来日西洋人事典〔増補改訂普及版〕[[日外アソシエーツ]] 武内 博著(1995年)<br />
<br />
== 関連項目 ==<br />
* [[パリ外国宣教会]]<br />
* [[カトリック築地教会]]<br />
<br />
==外部リンク==<br />
* [http://www.tokyo.catholic.jp/index.htm カトリック東京大司教区]<br />
* [http://www.catholic-hierarchy.org/bishop/bosouf.html Archbishop Pierre-Marie Osouf, M.E.P. † Catholic-Hierarchy]<br />
<br />
{{s-start}}<br />
{{s-bef|before= }}<br />
{{s-ttl|title=[[カトリック東京大司教区]] 教区長|years=[[1891年]]‐[[1906年]]}}<br />
{{s-aft|after=[[ピエール・ザヴィエ・ミュガビュール]]<br/>Pierre Xavier Mugabure}}<br />
{{s-end}}<br />
<br />
{{DEFAULTSORT:おすふ ひええる まりい}}<br />
[[Category:司教]]<br />
[[Category:フランスの宣教師]]<br />
[[Category:在日宣教師]]<br />
[[Category:在日フランス人]]<br />
[[Category:明治時代の外国人]]<br />
[[Category:パリ外国宣教会]]<br />
[[Category:日本の司教]]<br />
[[Category:1829年生]]<br />
[[Category:1906年没]]</div>
114.171.176.208
ジョン・ウォーラー
2016-04-22T02:00:17Z
<p>114.171.176.208: /* 参考文献 */</p>
<hr />
<div>'''ジョン・ゲージ・ウォーラー'''(John Gage Waller、[[1863年]][[1月26日]] - [[1943年]]4月)は、[[カナダ聖公会伝道協会]]の[[宣教師]]である。<br />
<br />
1863年に[[カナダ]]、[[南オンタリオ]]の農場で生まれる。[[トリニティ・カレッジ]]で学び、[[カナダ聖公会]]の聖アンナ教会の副[[牧師]]をする。1887年に[[執事 (キリスト教)|執事]]になり、1888年に[[司祭]]の[[按手|按手礼]]を受ける。<br />
<br />
1890年カナダ聖公会伝道協会の宣教師として日本に行く。最初[[東京府|東京]]で[[福音伝道|伝道]]するが、ビューテス主教の要請で[[福島県|福島]]伝道に行く。1892年には[[長野県]]に伝道に行く。[[長野市|長野]]、稲荷山([[千曲市]])、[[飯山市|飯山]]、[[新潟県]][[高田市|高田]]([[上越市]])などに教会を設立する。また、長野[[小布施町|小布施]]に[[結核]]患者のために新生療養所を設立する。<br />
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1938年に妻が日本で死去する。1942年[[太平洋戦争]]の最中にカナダに帰国し、翌年カナダの[[ハミルトン (オンタリオ州)|ハミルトン]]で死去する。<br />
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== 参考文献 ==<br />
*『日本キリスト教歴史大事典』[[教文館]]、1988年<br />
*[[高橋昌郎]]『明治のキリスト教』[[吉川弘文館]]、2003年<br />
* [http://www.nskk.org/chubu/church/nagano/j_g_waller2.html 小林史郎著『ウォーラー司祭 その生涯と家庭』(2005年)]<br />
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{{明治時代の来日宣教師}}<br />
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{{デフォルトソート:うおら しよん}}<br />
[[Category:カナダの宣教師]]<br />
[[Category:聖公会の聖職者]]<br />
[[Category:在日宣教師]]<br />
[[Category:在日カナダ人]]<br />
[[Category:カナダの聖公会]]<br />
[[Category:オンタリオ州の人物]]<br />
[[Category:1863年生]]<br />
[[Category:1943年没]]</div>
114.171.176.208
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