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miniwiki - 利用者の投稿記録 [ja]
2024-04-23T14:27:06Z
利用者の投稿記録
MediaWiki 1.31.0
パーヴェル・ベリャーエフ
2018-08-30T17:12:39Z
<p>114.161.14.158: </p>
<hr />
<div>[[ファイル:Voskhod-2 Pavel.jpg|thumb|パーヴェル・ベリャーエフ(1965年の写真)]]<br />
[[ファイル:Soviet Union-1965-stamp-Pavel Belyayev-6K.jpg|thumb|ベリャーエフをモチーフにしたソビエト連邦の6コペイカ切手(1965年)]]<br />
'''パーヴェル・イヴァノヴィチ・ベリャーエフ'''('''{{lang|ru|Павел Иванович Беляев}}'''、ラテン翻字の例:Pavel Ivanovich Belyayev、[[1925年]]6月26日 - [[1970年]]1月10日)は、[[ソビエト連邦]]の[[宇宙飛行士]]。1965年、[[ボスホート2号]]で[[アレクセイ・レオーノフ]]と共に宇宙へ飛び立った。ベリャーエフは操縦士としてレオーノフを補佐し、この飛行でレオーノフが史上初の[[宇宙遊泳]]を行った。チェリシェヴォ({{lang|ru|Челищево}})生まれ。[[モスクワ]]で没。<br />
<br />
ベリャーエフは、1960年、ソビエト連邦の[[ソ連空軍|空軍]]と[[ソ連海軍|海軍]]が15年近くをかけて進めていた宇宙計画の用員として選出された。彼は本来[[ヴォストーク]]8号で地球の[[ヴァン・アレン帯]]中を飛ぶ予定であったが、このミッションは中止となった。<br />
<br />
胃潰瘍の手術に起因する[[腹膜炎]]で1970年に死亡し、モスクワのノヴォデヴィチ({{lang|ru|Новодевичий}})修道院に埋葬された。<br />
<br />
パーヴェル・ベリャーエフは[[ソ連邦英雄]](1965年3月23日)、[[レーニン勲章]]、赤星勲章、および多数の賞を与えられている。彼はまたブルガリア社会主義労働英雄<!-- Hero of Socialist Labor of Bulgaria -->、ヴェトナム英雄、モンゴル英雄といった外国の称号も得ている。<br />
<br />
1969年にソ連の天文学者[[リュドミーラ・チェルヌイフ]]が発見した[[小惑星]]、2030ベリャーエフはパーヴェル・ベリャーエフの名にちなむ。<ref>Schmadel, Lutz D. (2003). [http://books.google.com/books?q=2030+Belyaev+1969+TA2 Dictionary of Minor Planet Names], 5th, New York: Springer Verlag, p. 164. ISBN 3540002383. </ref><br />
<br />
== 脚注 ==<br />
<references /><br />
<br />
{{commonscat|Pavel Belyayev}}<br />
<br />
{{space-stub}}<br />
{{DEFAULTSORT:へりやあえふ はあうえる}}<br />
[[Category:ソビエト連邦の宇宙飛行士]]<br />
[[Category:ソビエト連邦の空軍軍人]]<br />
[[Category:ソビエト連邦英雄]]<br />
[[Category:モンゴル人民共和国英雄]]<br />
[[Category:レーニン勲章受章者]]<br />
[[Category:赤星勲章受章者]]<br />
[[Category:社会主義労働英雄 (ブルガリア)]]<br />
[[Category:労働英雄 (ベトナム)]]<br />
[[Category:ホー・チ・ミン勲章受章者]]<br />
[[Category:ゲオルギ・ディミトロフ勲章受章者]]<br />
[[Category:カール・マルクス勲章受章者]]<br />
[[Category:スフバートル勲章受章者]]<br />
[[Category:ヴォログダ州出身の人物]]<br />
[[Category:1925年生]]<br />
[[Category:1970年没]]</div>
114.161.14.158
ヴェルナー・ベスト
2018-08-29T02:56:16Z
<p>114.161.14.158: </p>
<hr />
<div>[[ファイル:Bundesarchiv Bild 183-B22627, Dr. Werner Best.jpg|thumb|ヴェルナー・ベスト]] <br />
'''カール・ルドルフ・ヴェルナー・ベスト'''(Karl Rudolf Werner Best, [[1903年]][[7月10日]] - [[1989年]][[6月23日]])は、[[ヴァイマル共和政]]期から[[ナチス・ドイツ]]期の[[ドイツ]]の[[法学者]]、法務官僚、警察官僚。[[保安警察]]長官代理、[[国家保安本部]]人事局長などを務めた。[[第二次世界大戦]]中はドイツ占領下の[[フランス]]や[[デンマーク]]の統治にあたっていた。[[親衛隊 (ナチス)|親衛隊]] (SS) の幹部であり、親衛隊での最終階級は[[親衛隊大将]]。<br />
<br />
== 生涯 ==<br />
=== 前半生 ===<br />
1903年、[[ダルムシュタット]]にて上級郵便局局長ゲオルク・コンラート・ベスト (Georg Konrad Best) およびその妻カロリーネ (Karoline) の長男として生まれた。1912年に両親とともに[[ドルトムント]]へ転居したが、1914年、父ルドルフが[[第一次世界大戦]]の東部戦線での負傷がもとで死去したため、母と弟とともに、[[マインツ]]郊外ゴンゼンハイム ([[:de:Mainz-Gonsenheim|Gonsenheim]]) へ移り、人文主義[[ギムナジウム]]へ入学した。ギムナジウム在学中から青年政治運動団体に参加していた。1919年には[[ドイツ国家人民党]]のマインツ支部に入党し、同党の青年グループのリーダーとして活躍した(1927年に離党)。1921年に[[アビトゥーア]]に合格して大学入学資格を得る。<br />
<br />
1922年には法学を学ぶため[[ヨハン・ヴォルフガング・ゲーテ大学フランクフルト・アム・マイン|フランクフルト大学]]に入学。1923年10月に[[ユストゥス・リービッヒ大学ギーセン|ギーセン大学]]へ移った。しかし大学入学後しばらく学業より政治闘争に熱中し、特に第一次世界大戦後にフランスに占領されていた[[ルール地方]]における闘争運動に積極的に参加した。そのために1924年4月にマインツに戻った際にフランス警察に逮捕されている。7月にフランス軍事法廷から3年の禁固と1,000[[ライヒスマルク]]の罰金に処されたが、9月に釈放された。<br />
<br />
その後、学業に戻り、1927年には労働法の論文で法学博士号 (Dr. jur.) を取得した。1928年11月には司法官司補の研修を受けて合格。しばらく[[ライプツィヒ]]や[[ゴータ]]の複数の弁護士の下で助手をしていたが、1929年9月にヘッセン人民州 ([[:de:Volksstaat Hessen|Volksstaat Hessen]]) の州法務省に入省。1930年春には[[ゲルンスハイム]] ([[:de:Gernsheim|Gernsheim]]) の地区裁判官となった。1930年11月1日に[[国家社会主義ドイツ労働者党]](ナチ党)に入党(党員番号341,338)。12月には歯科医の娘ヒルデガルト・レグナー (Hildegard Regner) と結婚している。彼女との間に2人の息子と3人の娘を儲けている。<br />
<br />
1931年夏に[[ボックスハイム文書事件]]([[:de:Boxheimer Dokumente|Boxheimer Dokumente]], ナチ党の暴動計画・政敵処刑などを明記した文書を裁判官であるベストが起草していたことが発覚し政治問題化した)を引き起こし、この影響で11月に裁判官の職を引責辞任した。事件は世論にも影響を与え、当時合法的手段で政権獲得を狙っていた[[アドルフ・ヒトラー]]やナチ党には大きな打撃となった。しかしベストが事件によってヒトラーら党幹部から見捨てられたというわけではなく、ヒトラー内閣誕生後の1933年3月にベストはヘッセン警察州委員 ({{lang|de|Staatskommissar für das Polizeiwesen}}) に任じられて復権している。さらに7月にはヘッセン州の警察長官 ({{lang|de|Landespolizeipräsident}}) となる。しかし9月にヘッセンのナチ党内部の権力争いに敗れる形でヘッセンにおける地位を解任された。<br />
<br />
=== 親衛隊高官時代 ===<br />
[[ファイル:Bundesarchiv Bild 121-0128, Berlin, Besuch der ungarischen Polizeiabordnung.jpg|thumb|右がベスト、左は[[アルトゥール・ネーベ]]。1939年2月]]<br />
ベストはボックスハイム文書事件で引責辞任した直後の1931年11月13日に SS に入隊している(隊員番号23,377)。ベストがヘッセンでの役職を追われた後、[[ハインリヒ・ヒムラー]]や[[ラインハルト・ハイドリヒ]]に目をかけられて[[ミュンヘン]]の[[SD (ナチス)|親衛隊情報部]] (SD) 本部に招かれた。上官のヒムラーとハイドリヒは1934年4月に首都ベルリンへ移っていったが、ベストはミュンヘンに残留し、南ドイツの SD の司令官を務めていた。6月下旬の[[長いナイフの夜]](レーム事件)の際にもベストはミュンヘンにあった。ミュンヘンは長いナイフの夜の際の主要舞台となったため、ベストも粛清に深く関与することとなった。ヘッセンの[[シュターデルハイム監獄]]では[[エルンスト・レーム]]以下突撃隊の幹部が大量に銃殺されている。事件後の7月4日に[[親衛隊中佐]]に昇進。<br />
<br />
1935年1月からベルリンの[[ゲシュタポ]]本部へ移動となった。この頃のゲシュタポは[[ヘルマン・ゲーリング]]が長官(ただし形式的。1935年11月から形式的にもヒムラーが長官)であり、ヒムラーが長官代理、ハイドリヒが政治警察部(2部)部長をしていた。ベストはハイドリヒの代理に任じられた。1936年6月にヒムラーは全ドイツ警察長官となった。この権限に基づき、ヒムラーはゲシュタポを含む全ドイツの政治警察を[[保安警察 (ドイツ)|保安警察]] (SiPo) の下にまとめ、その長官にハイドリヒを据えた。あわせてベストも保安警察長官代理に就任し、保安警察内の行政・法制局の局長、および政治警察局第3部防諜警察部の部長にも任じられた。さらに1939年9月にハイドリヒが[[国家保安本部]] (RSHA) を誕生させてその長官となった際にベストは国家保安本部第1局(人事局)局長に就任する。しかしベストは法学の素養のある者を好んで採用する癖があり、「インテリ」嫌いの上司のハイドリヒや第4局(ゲシュタポ局)局長[[ハインリヒ・ミュラー]]と潜在的に対立するようになっていった。徐々にベストは国家保安本部における役割を制限されて干されていった。<br />
<br />
=== デンマーク時代 ===<br />
[[ファイル:Scavenius og Best.jpg|thumb|右がベスト。左はデンマーク外相[[エリック・スカヴェニウス]]。1942年 - 1943年頃のデンマークで]]<br />
1940年6月に国家保安本部の役職を辞することとなったベストは、1940年8月からドイツの占領下に落ちたフランス・[[パリ]]で民政本部長に転じ、[[レジスタンス運動|レジスタンス]]撲滅と[[ユダヤ人]]の強制収容所移送に辣腕を振るった。その腕をかわれ、1942年11月からはデンマーク全権代表(Reichsbevollmächtigter)に就任し、実質的な総督としてデンマークの統治にあたった。以降終戦までこの地位にあった。<br />
<br />
しかしデンマークにおいてのベストは融和的であった。デンマークの王室も政府もそのまま維持することを認め、議会の自由選挙も守った。さらにヒムラーの“[[ユダヤ人問題の最終的解決]]”の指令を妨害しようとした形跡もある。デンマークには7,000人を越えるユダヤ人社会が形成されていたが、ドイツ軍部隊の狩りこみを受けたのは、このうち477人にとどまっている。部隊はユダヤ人の住居への無法な侵入をベストから堅く禁じられていたのだった。遅まきながらベストも法律家として再び[[法の支配]]の概念に目覚めたともいわれる。<br />
<br />
=== 敗戦後 ===<br />
ナチス・ドイツの敗戦後、ベストは1945年5月5日にデンマーク外務省に保護を求めたが、自宅拘束されて、5月21日には[[コペンハーゲン]]要塞監獄へ収監された。1946年3月にパリへ移され、直後、さらにフランクフルトにおかれた[[アメリカ合衆国]]の捕虜収容所へと移された。1947年2月、デンマーク政府から起訴されて、再びコペンハーゲンに戻され、一度は死刑判決を受けたが、最終的には12年の[[禁固刑]]となり、さらに[[恩赦]]によって1951年8月には釈放されてドイツへと帰国していった。<br />
<br />
1969年3月にはドイツ検察庁から「国家保安本部第2局長として行った殺人罪」に問われて起訴されるということがあったが、健康状態を理由にすぐに釈放された。1972年2月にも再度の起訴を受けたが、やはり健康状態を理由に裁判中止となった。1989年6月23日に死去。<br />
<br />
== 参考文献 ==<br />
{{commonscat|Werner Best}}<br />
* [[大野英二]]『ナチ親衛隊知識人の肖像』([[2001年]]、[[未來社]])ISBN 978-4624111823 <br />
* [[ロベルト・ヴィストリヒ]]著、[[滝川義人]]訳『ナチス時代 ドイツ人名事典』([[2002年]]、[[東洋書林]])ISBN 978-4887215733<br />
* Michael D. Miller, ''Leaders of the SS & German Police, Volume I'', Bender Publishing(英語)ISBN 9329700373 <br />
* Ulrich Herbert,''Best:Biographische Studien über Radikalismus, Weltanschauung und Vernunft 1903–1989'',Bonn,Dietz(ドイツ語),1996,ISBN 3-8012-5019-9.<br />
<br />
{{DEFAULTSORT:へすと うえるな}}<br />
[[Category:ドイツの法学者]]<br />
[[Category:ドイツの裁判官]]<br />
[[Category:在デンマークドイツ大使]]<br />
[[Category:ナチ党員]]<br />
[[Category:親衛隊将軍]]<br />
[[Category:ダルムシュタット出身の人物]]<br />
[[Category:フランスにおける戦争犯罪]]<br />
[[Category:1903年生]]<br />
[[Category:1989年没]]</div>
114.161.14.158
ヨアヒム・フォン・リッベントロップ
2018-08-29T02:03:18Z
<p>114.161.14.158: </p>
<hr />
<div>{{政治家<br />
|人名=ヨアヒム・フォン・リッベントロップ<br />
|各国語表記={{Lang|de|Joachim von Ribbentrop}}<br />
|画像=Bundesarchiv Bild 183-H04810, Joachim von Ribbentrop.jpg<br />
|画像サイズ=<br />
|画像説明=ヨアヒム・フォン・リッベントロップ(1938年4月)<br />
|国略称={{DEU1935}}<br />
|生年月日={{生年月日と年齢|1893|4|30|no}}<br />
|出生地={{DEU1871}}<br>{{PRU}}、[[ラインラント]]、[[:de:Wesel|ヴェーゼル]]<br />
|没年月日={{死亡年月日と没年齢|1893|4|30|1946|10|16}}<br />
|死没地={{DEU1945}}、[[ニュルンベルク]]<br />
|出身校=<br />
|前職=<br />
|現職=<br />
|所属政党=[[国家社会主義ドイツ労働者党]]<br />
|称号・勲章=<br />
|親族(政治家)=<br />
|配偶者=アンナ・エリーザベト・ヘンケル<br />
|サイン=Joachim von Ribbentrop Signature.svg<br />
|国旗=<br />
|職名={{DEU1935}}[[外務大臣]]<br />
|内閣=[[ヒトラー内閣]]<br />
|就任日=[[1938年]][[2月4日]]<br />
|退任日=[[1945年]][[6月14日]]<br />
|元首職=総統<br />
|元首=[[アドルフ・ヒトラー]]<br />
}}<br />
'''ウルリヒ・フリードリヒ・ヴィルヘルム・ヨアヒム・フォン・リッベントロップ'''({{Lang-de|Ulrich Friedrich Wilhelm Joachim von Ribbentrop}}、[[1893年]][[4月30日]] - [[1946年]][[10月16日]])は、[[ナチス・ドイツ|ドイツ]]の[[実業家]]、[[政治家]]。<br />
<br />
[[コンスタンティン・フォン・ノイラート]]の後任として、[[ヒトラー内閣]]の[[外務大臣]]を[[1938年]]から[[1945年]]にかけて務めた。最終階級は[[親衛隊名誉指導者|親衛隊名誉大将]]。[[ニュルンベルク裁判]]により[[絞首刑]]に処せられた。[[武装親衛隊]]に志願、大戦を生き延びた[[親衛隊大尉]][[ルドルフ・フォン・リッベントロップ]]は長男。<br />
<br />
== 生い立ち{{Ndash}}外務大臣就任まで ==<br />
[[ラインラント]]の[[ヴェーゼル]]([[:de:Wesel]])にリヒャルト・ウルリヒ・フリードリヒ・ヨアヒム・リッベントロップ(Richard Ulrich Friedrich Joachim Ribbentrop)の子として生まれた。出生時の名は'''ウルリヒ・フリードリヒ・ヴィルヘルム・ヨアヒム・リッベントロップ'''。父はプロイセン歩兵連隊を指揮する陸軍中佐だった。母ゾフィー(旧姓ヘルトヴィヒ)は[[ザクセン]]の地主の娘だった。当時のドイツでは異例のことだが、彼はドイツとスイスの私立学校で10代半ばまで教育を受けている。<br />
<br />
[[フランス語]]と[[英語]]に堪能であり、1910年から1914年にかけて[[ドイツワイン]]の貿易商として[[カナダ]]で働いた。ここの事業で成功を収め、[[モントリオール]]や[[オタワ]]の上流社会の一員となった。イギリス総督府のあった[[デュー・ホール]]での祝典にも必ず招かれる常連の一人となった。<br />
<br />
しかし1914年に[[第一次世界大戦]]が勃発し、ドイツとイギリスが敵国となるとリッベントロップはイギリスに身柄を押さえられることを避けるため、急遽ニューヨーク経由でドイツに帰国した。この頃[[肺結核]]を患っていて動けなかった弟のローターはカナダへ残り、そのままイギリスに拘束された(1918年に死去している)。<br />
<br />
帰国したリッベントロップはただちにドイツ陸軍に入って東部戦線に従軍し、中尉まで昇進して一級[[鉄十字章]]を授与されている。1918年4月に東部戦線で負傷したのち、駐[[イスタンブール|コンスタンチノープル]]ドイツ大使館勤務を任ぜられている。このコンスタンチノープル時代に[[ハンス・フォン・ゼークト]]将軍や[[フランツ・フォン・パーペン]]の知遇を得ている。ドイツ敗戦後にはゼークト将軍の副官として[[パリ講和会議]]に参加している。[[ヴェルサイユ条約]]に身近で接しただけに屈辱は大きかったことを後に回想している。<br />
<br />
1920年7月に裕福な[[シャンパン]]醸造家の娘アンナ・エリーザベト・ヘンケル( Anna Elisabeth Henkell )と結婚し、商売のため欧州各地を転々とする。アンナ・エリーザベトは高慢な女性で、夫を完全に支配下に置き、しばしば「[[マクベス (シェイクスピア)|マクベス]]夫人的存在」と評されている。夫婦は5人の子をもうけた。リッベントロップは伯母(その夫は貴族称号を持っていた)に自分を養子とするよう頼み込んだ。結果としてリッベントロップは貴族称号「[[フォン (前置詞)|フォン]]」を名前に加えることとなった。[[ヴァイマル共和政]]時代には、リッベントロップが政治に関心を持ったり、反ユダヤ的偏見を明らかにしたような形跡はない。<br />
<br />
リッベントロップは1930年に初めて[[アドルフ・ヒトラー]]に会った。貴族である上に[[外交官]]の経験もあり、他国の高い地位の人々との伝手を多く持つことから、ヒトラーはリッベントロップに好印象を持った。[[1932年]]5月にリッベントロップは[[国家社会主義ドイツ労働者党|ナチ党]]に入党し、1933年、ヒトラーが首相に指名されるまでの一連のフォン・パーペンとヒトラーとの秘密会談をベルリンの自宅で設定するなどの支援活動を行った。ヒトラーはこれらの貢献を高く買っていたが、リッベントロップはナチ党にとっては新参者だったため、古参の幹部達からは妬まれることになった。<br />
<br />
特に、貴族ではないものの貴族的趣味を愛好した[[ヨーゼフ・ゲッベルス]]は、フォンの称号を持つリッベントロップにコンプレックスを抱いており、激しい嫌がらせをした。ゲッベルスの嫌悪感はその日記にも現れており、次の記述がある。「フォン・リッベントロップは名前を買い、金銭目当てに結婚し、そしてまんまと官職にありついた」。こうした敵対視への対抗からか、リッベントロップは狂信的あるいは戯画的とまで言ってよいほどの強固なナチズム信奉者・反ユダヤ主義者になっていった。<br />
<br />
リッベントロップはヒトラーお気に入りの外交政策アドヴァイザーになっていった。ドイツ外務省のエリート職業外交官たちは、(少なくともナチス政権下のドイツの初期の時代にあっては)国外の情勢についてヒトラーに真実を伝えていたが、リッベントロップは都合の良いことだけを伝えていた。彼は1933年に[[親衛隊名誉指導者|親衛隊名誉大佐]]の称号を与えられた。[[親衛隊全国指導者]]の[[ハインリヒ・ヒムラー]]とは一時は友好関係を保ったが、最終的には敵対関係となった。<br />
<br />
== 外交官として ==<br />
[[1933年]]11月、リッベントロップは非公式の外交特使としての働きを開始する。最初はロンドンを訪問、首相の[[ラムゼイ・マクドナルド]]と外務大臣の[[ジョン・サイモン]]と会談を行っているが、とくに主要な成果は得られなかった。<br />
<br />
[[1934年]]には、影の外務省とでもいうべき「リッベントロップ事務所」({{Lang|de|Büro Ribbentrop}}、後に「{{仮リンク|リッベントロップ機関|de|Dienststelle Ribbentrop}}」と改称)を創設した。彼は外務省と張り合い、[[コンスタンティン・フォン・ノイラート]]外相をあらゆる局面で出し抜こうと努めた。当初、ノイラートの方ではリッベントロップを軽蔑していた。英語とフランス語は措くとしても、綴りや文法に誤りの多いドイツ語しか書けない人間は警戒するにも値しない、との考えだった。<br />
<br />
一方で1934年にヒトラーはリッベントロップを軍縮問題担当全権代表に任命した。これは形式的にはリッベントロップが外務省の一員でもあることを意味していた。この軍縮全権代表の地位を利用して、彼は[[ロンドン]]、[[パリ]]、[[ローマ]]を頻繁に行き来するようになった。当時のドイツは、軍備制限の具体的内容に関する提案には常に反対し続けていた。リッベントロップに課せられた使命は、ドイツは真摯に軍縮を行う意志があると他国に思わせる一方で、そのような軍縮が具体的な協約として現れることがないようにする、というものだった。この第一の点に関して彼はそこそこの成功を収め、第二の点に関してはヒトラーの期待以上の働きをした。<br />
<br />
彼は{{仮リンク|英独海軍協定|en|Anglo-German Naval Agreement}}([[1935年]])および[[日独防共協定]]([[1936年]])の交渉を行った。<br />
英独海軍協定に関していえば、ノイラートは交渉成立などそもそもあり得ないと考え、リッベントロップを長とする代表団のロンドン派遣に同意したのだった。交渉のテーブルに就くや、リッベントロップは豪胆にもサイモン英国外相に対して、ドイツの要求が完全に満足されるのでなければ代表団は帰国する、と最後通牒を突きつけたのだった。サイモンは激怒し退席したが、驚くべきことにその翌日、イギリスはリッベントロップの要求を受け入れ、海軍協定は1935年6月18日、ロンドンにて調印されたのだった。この外交的勝利によって、リッベントロップはヒトラーに対して点数を稼いだ。<br />
<br />
日独防共協定についてもリッベントロップの功績は大きい。ドイツ外務省や陸軍上層部は伝統的に親[[中華民国]]政策をとっており、ノイラートも無論推進者であった。一方リッベントロップは外務省の[[親華派|親華]]路線に反対し、[[アプヴェーア|国防軍情報部]]の[[ヴィルヘルム・カナリス|カナリス]]や駐独日本大使館付武官の[[大島浩]]と連携して日本との同盟を主張した。協定の締結はドイツにとって重大な外交政策上の転換を意味していた。<br />
<br />
同時期にリッベントロップはしばしばフランスを訪問、同地の政治家たちが親独路線をとるべく影響を与えることを試みたが、大きな成果は得られなかった。イギリスに対しては同様の政略はより大きな成功を収めた。彼は英国上流階級の枢要な人々にヒトラーを訪問させることに成功した。リッベントロップがドイツに連れてきた最重要人物と言っていいのが[[デビッド・ロイド・ジョージ]](1936年)である。ヒトラーに面会したイギリス人はその多くが貴族、引退した政治家、退役将軍、新聞王ロザーミア卿のような実業家といった人々であって、イギリス政府中枢にあって実際の政策決定を行う閣僚級政治家や上級官僚は少なかった。<br />
<br />
1936年8月、リッベントロップは駐英大使に任命される。彼に与えられた使命は、ヒトラーがかつて『[[我が闘争]]』で予言したような英独連携を果たすことであった。リッベントロップは結局この使命を成功させられなかったが、仮に彼より熟達した外交官でも、その成功は疑わしかっただろう。とはいえリッベントロップのロンドン滞在は失言と失態の連続であり、彼と英国外務省との以前から良好ではなかった関係がより一層悪化することになった。彼は自分の妻とヒトラー以外の誰に対しても攻撃的かつ尊大に振舞っていたため、リッベントロップを知るということは彼を嫌うということとほとんど同義だった。その交渉スタイルは、怒号と冷淡さと長大なヒトラー礼賛の入り混じった奇妙なものであった。使命である英独連携が達成できないことで彼は苛々しく感じ、ヒトラーの寵愛を失うことになりはしないかと怖れるようになり、また嫌英感情を強く持つようになった。<br />
<br />
== 第三帝国の外相として ==<br />
[[Image:Bundesarchiv Bild 183-H27337, Moskau, Stalin und Ribbentrop im Kreml.jpg|200px|thumb|ヨシフ・スターリンと握手するリッベントロップ([[1939年]][[8月23日]])]]<br />
[[1938年]]2月4日、リッベントロップはノイラートの後任として外務大臣に就任する。この外相指名はドイツの外交路線がより急進的な方向に向かったことを意味する。戦争については慎重だったノイラートと対照的に、リッベントロップは1938年から1939年にかけてはっきりと戦争を支持している。[[ベニート・ムッソリーニ|ムッソリーニ]]曰く「リッベントロップはドイツに厄難をもたらす一人だ。彼はあちこちで戦争を説くが、敵国が誰とも、目的が何とも言わない」とリッベントロップを嫌っていたが、ムッソリーニがヒトラーにあてた書簡によれば、「リッベントロップは有能な外交官である」と表向きでは評価しているように見せていた。ヒトラーもそれに応じてリッベントロップを褒めるような書簡を送っている。<br />
<br />
リッベントロップはイギリス首相[[ネヴィル・チェンバレン]]を嫌悪しており、宥和政策をドイツが国際社会において正当な地位に就く障害になると考えていた。また[[ミュンヘン会談|ミュンヘン協定]]はドイツ外交上の敗北であるとまで考えていた。なぜなら、彼の欲した戦争なしでドイツが[[ズデーテン地方|ズデーテンランド]]を手中に収めたからである。彼は外務省の重要な地位にあった多くの外交官を罷免し、後任に彼自身の「事務所」の出身者を充てた。1943年までに、外務省内のポストの32%は「事務所」出身者で占められるようになっていた。<br />
<br />
[[1938年]]12月6日、リッベントロップはパリを訪問、フランス外相{{仮リンク|ジョルジュ・ボネ|en|Georges Bonnet}}と共に一見画期的、しかし実態は空虚な仏独親善共同声明に署名する。この会談の席上、ボネが「東ヨーロッパがドイツの勢力圏内であることをフランスは承認する」と述べたとリッベントロップは後になって主張している。また彼はチェコスロヴァキア大統領[[エミール・ハーハ]]を文字通り恫喝して、ボヘミア・モラヴィア両地方をドイツ保護領とすることに成功した([[1939年]])。<br />
<br />
リッベントロップの経歴の中でも重要な外交案件は、[[1939年]]8月23日の[[独ソ不可侵条約]]調印と、それに前後する[[ポーランド侵攻]]時の外交攻勢であり、リッベントロップはここで中心的な役割を演じた。彼はヒトラーに対し、ポーランドの防衛を名目にイギリスが参戦することはないと力説していた。<br />
<br />
=== 第二次世界大戦 ===<br />
[[File:Bundesarchiv Bild 183-M1112-500, Waffenstillstand von Compiègne, Hitler, Göring.jpg|thumb|250px|フランス降伏文書調印に立ち会うリッベントロップとヒトラーら幹部。1940年7月22日]]<br />
[[File:Bundesarchiv Bild 183-B23201, Joachim von Ribbentrop und Ion Antonescu.jpg|250px|thumb|リッベントロップと[[ルーマニア王国|ルーマニア]]首相[[イオン・アントネスク]]。1943年1月]]<br />
親仏的だったリッベントロップは、[[第二次世界大戦]]勃発後のドイツによるフランス占領以降も、独仏連携のもとで、[[ヴィシー政権]]に対してある限定された範囲での独立性を認めるべきだとの主張を行っていた。彼は「事務所」時代からの同僚{{仮リンク|オットー・アベッツ|de|Otto Abetz}}を駐仏大使に任命し、[[ピエール・ラヴァル]]の政治的地位を高めるようにとの指令を下した。軍、親衛隊、仇敵[[ヘルマン・ゲーリング]]の「[[四ヵ年計画]]」事務所など多くの機関が覇を争っていたため、外務省のフランスにおける影響力は当初限定的であったが、1943年から44年半ばにかけて、外務省のフランスにおける影響力は親衛隊のそれに次ぐ位置にあった。<br />
<br />
1937年以降、リッベントロップはドイツ、イタリア、日本3国の同盟によって大英帝国を分割するという考えの主唱者となった。独ソ不可侵条約以降、彼はこの考えを拡大し、[[ソビエト連邦]]を引き入れた[[汎ユーラシア大陸ブロック構想|汎ユーラシア大陸ブロック]]を形成して、イギリスのような海洋国家を粉砕する、といった構想を持つに至った。これは日本の[[松岡洋右]]のユーラシア枢軸構想に似ている。1940年11月に[[ヴャチェスラフ・モロトフ]]が訪独すると、リッベントロップはイギリスの敗北を前提としてこの構想を語った。するとイギリス軍の空襲がはじまり、モロトフは「今夜爆撃している飛行機はどこの国のだ」とやりかえした<ref>ベレズホフ、63頁</ref>。これは2人の会談を妨害するための嫌がらせのためだったと、後にチャーチルはスターリンに語ったという<ref>ベレズホフ、326頁</ref>。<br />
<br />
また彼は[[ヨシフ・スターリン]]を個人的に好んでいた。1939年8月23日の不可侵条約締結後のカクテルパーティーでは、シュペーアが制作した「[[世界首都ゲルマニア|新第三帝国首都]]模型」をスターリンに披露し、大いに意気統合した<ref>ベレズホフ、57頁</ref>。後にヒトラーに「スターリンとモロトフは実に気持ちの良い連中です。懐かしい党友に囲まれているようでした」と報告した。1941年のドイツの対ソ宣戦には反対の立場だった。しかし外務大臣ゆえに宣戦布告文書を手渡さなければならない。リッベントロップは酒で勇気を奮いたたせつつ<ref>ベレズホフ、61頁</ref>、ソビエト大使[[ウラジーミル・デカノゾフ|デカノゾフ]]に宣戦布告の文書を手渡した。激怒したソ連大使が席を立つと、彼は大使にすがりつき「スターリンには、私は宣戦に反対だったと伝えてくれ。この戦争がドイツに多大な不幸をもたらすことを自分はわかっている。私は確かに総統に反対した」との言葉を残している<ref>ベレズホフ、62頁</ref>。<br />
<br />
リッベントロップは友好国の首脳に、各国の[[ユダヤ人]]をドイツが設けた[[強制収容所 (ナチス)|強制収容所]]に移送するよう依頼しており、この点で彼は[[ホロコースト]]に責任がある。ドイツ外務省は[[ヴィシー政権|フランス]](1942年 - 44年)、[[国民統一政府 (ハンガリー)|ハンガリー]](1944年 - 45年)、[[独立スロバキア|スロバキア]]、[[イタリア社会共和国]](1943年以降)のユダヤ人移送に関して中心的役割を演じている。彼は「事務所」時代からの同僚[[マルティン・ルター (外交官)|マルティン・フランツ・ユリウス・ルター]]を、ホロコースト関連施策担当に任命しており、ルターは1942年の[[ヴァンゼー会議]]に外務省代表として出席したとされている。<br />
<br />
戦争の激化とともにリッベントロップの影響力は低下した。世界の国のほとんどが枢軸・連合国いずれかの陣営として参戦しており、更にドイツにとって戦局が不利である状況では、外務省の重要性は低下するのが当然だったし、彼の任命したドイツ在外公館の長は、そのほとんどが無能な人物だった。ヒトラーも次第にリッベントロップを煩わしいだけの男として避けるようになってきた。リッベントロップにとって更なる痛手は、外務省に残存していた多くの古参外交官が1944年7月20日の[[7月20日事件|ヒトラー暗殺計画]]に関与していたことであった。リッベントロップ自身は計画の存在を(多分)知らなかったが、あまりに多くの現役・元外交官が関与していたことから、リッベントロップは部下の外交官を適切に統御できていないのではないか、との疑念をヒトラーに抱かせる結果となった。7月20日以降、リッベントロップは親衛隊と連携して外務省内の陰謀加担者のパージに努めた。親衛隊と協同でなされたもう一つの成果は、[[ハンガリー王国 (1920-1946)|ハンガリー]]で密かに枢軸陣営からの離反、単独停戦を模索していた摂政[[ホルティ・ミクローシュ]]を、[[パンツァーファウスト作戦|1944年10月15日のクーデター]]で解任したことであった。<br />
<br />
ベルリン陥落直前の1945年4月20日、リッベントロップは[[ベルリン]]で行われたヒトラーの56歳祝賀パーティーに参加した。これが彼がヒトラーに会った最後となった。パーティー後にリッベントロップはヒトラーと会談を持とうと試みたが、斥けられている。終戦時に彼はヒトラーの後継大統領[[カール・デーニッツ]]によって職を解かれ、潜伏するも、6月14日[[ハンブルク]]にてイギリス軍に逮捕された。その時彼が所持していたのはイギリス首相「ヴィンセント・チャーチル」(リッベントロップは1945年のこの時点にあっても、[[ウィンストン・チャーチル|チャーチル]]のファースト・ネームを知らなかった)に宛てた支離滅裂な手紙であり、そこではイギリスの外交政策が反独的であることへの批判、ドイツの東半分をソ連軍が占領していることへのイギリスに対する非難などが連ねてあった。<br />
<br />
== 裁判と処刑 ==<br />
[[Image:Nuremberg-1-.jpg|thumb|200px|right|ニュルンベルク裁判中のリッベントロップ(前列左から3番目)。左二人は[[ヘルマン・ゲーリング|ゲーリング]]と[[ルドルフ・ヘス|ヘス]]、右端は[[ヴィルヘルム・カイテル|カイテル]]]]<br />
リッベントロップは[[ニュルンベルク裁判]]の被告となり、すべての罪状について有罪とされた。監獄にあっても彼はヒトラーに対して忠実であった。「いまこの時点になっても、この独房に総統がいらっしゃって『これをしろ』と命令されたら、また同じことを自分はしただろう」と述べたとも伝えられる。<br />
<br />
公判で、彼は戦時下における自分の役割を否定しようとした。例えば彼の反対尋問で、検察側が彼がヒトラー、ゲーリングと共に[[チェコスロヴァキア]]大統領[[エミール・ハーハ|ハーハ]]を「敵対的行動をとるとの脅し」により脅迫したと主張した際のやりとりとして以下のものが伝えられている:<br />
<blockquote><br />
''検察 「他国の元首に対して、強力な陸軍部隊が進攻する、あるいは首都を空軍で空爆する、などと言った、これ以上の脅迫行為はあるでしょうか?」''<br />''リッベントロップ 「例えば、戦争になるぞ、と言うこともできますね」''</blockquote><br />
<br />
ちなみに、リッベントロップのこの発言を聞いた[[ヒャルマル・シャハト]]は、<br />
<blockquote><br />
''リッベントロップは、奴が愚か者だという理由だけで死刑に値する。''</blockquote><br />
と零している。<br />
<br />
[[File:Deadjoachimribbentrop.jpg|thumb|刑死後のリッベントロップの遺体]]<br />
ゲーリングが死刑執行の数時間前に自殺したため、1946年10月16日に最初に執行された死刑囚はリッベントロップであった。彼の最期の言葉は「神よ、ドイツを護り賜え。神よ、我を憐れみ給え。私の最後の望みは、ドイツが自らの運命を認識することと、平和の為に洋の東西が互いを理解し合うことです。世界が平和でありますように」だった。<br />
<br />
== 人物 ==<br />
米軍の捕虜になった際の拘留記録によると身長は178センチである<ref>[[commons:File:RibbentropDetentionReport.png|米軍の拘留記録]]</ref>。<br />
<br />
ニュルンベルク刑務所付心理分析官[[グスタフ・ギルバート]]大尉が、開廷前に被告人全員に対して行った[[ウェクスラー成人知能検査|ウェクスラー・ベルビュー成人知能検査]]によると、リッベントロップの[[知能指数]]は129であった<ref>モズレー、166頁</ref>。<br />
== 著作 ==<br />
* Zwischen London und Moskau (ロンドンとモスクワの間、未邦訳)1953年<br />
<br />
== 脚注 ==<br />
<references/><br />
<br />
== 文献 ==<br />
{{commonscat|Joachim von Ribbentrop}}<br />
* Wolfgang Gans Edler Herr zu Putlitz 『ドイツ現代史 <small>元外交官の思い出</small>』谷村暲(訳)、1925年にドイツ外務省に入省した外交官の回顧録、みすず書房、1960年、<br />
* ジョン・ワイツ 『ヒトラーの外交官 <small>リッベントロップは、なぜ悪魔に仕えたか</small>』久保田誠一(訳)、サイマル出版会、1995年<br />
* リッベントロップ述 「ヨーロッパ及び東亜建設の戦ひ」『戦の責任者は誰か』、日本産業報国新聞社出版部、1941年<br />
* [[レナード・モズレー]]『第三帝国の演出者 ヘルマン・ゲーリング伝 下』伊藤哲(訳)、[[早川書房]]、1977年<br />
* ワレンチン・M・ベレズホフ『私は、スターリンの通訳だった』同朋舎出版、1995年<br />
<br />
==関連項目==<br />
*[[ペルソナ・ノン・グラータ]]<br />
<br />
{{start box}}<br />
{{s-off}}<br />
{{Succession box<br />
| title = {{flagicon|DEU1935}} 外務大臣<br />
| years = 1938年 - 1945年<br />
| before = [[コンスタンティン・フォン・ノイラート]]<br />
| after = [[アルトゥル・ザイス=インクヴァルト]]<br />
}}<br />
{{end box}}<br />
<br />
{{ヒトラー内閣}}<br />
{{ニュルンベルク裁判被告人}}<br />
{{Normdaten}}<br />
<br />
{{DEFAULTSORT:りつへんとろつふ よあひむ}}<br />
[[Category:ドイツ第三帝国の外相]]<br />
[[Category:在イギリスドイツ大使]]<br />
[[Category:親衛隊将軍]]<br />
[[Category:第一次世界大戦期ドイツの軍人]]<br />
[[Category:ドイツの実業家]]<br />
[[Category:ドイツの貴族]]<br />
[[Category:ナチ党員]]<br />
[[Category:刑死した人物]]<br />
[[Category:日独関係]]<br />
[[Category:昭和時代戦前の外交]]<br />
[[Category:ニュルンベルク裁判]]<br />
[[Category:人道に対する罪]]<br />
[[Category:1893年生]]<br />
[[Category:1946年没]]</div>
114.161.14.158
ヴァルター・ウルブリヒト
2018-08-29T01:06:14Z
<p>114.161.14.158: </p>
<hr />
<div>{{政治家<br />
|各国語表記 = {{lang|de|Walter Ulbricht}}<br />
|画像 = Bundesarchiv Bild 183-J1231-1002-002 Walter Ulbricht, Neujahrsansprache.jpg<br />
|画像説明 = 1970年の新年のテレビ演説を収録するウルブリヒト議長<br />
|国略称 = {{DDR}}<br />
|生年月日 = [[1893年]][[6月30日]]<br />
|出生地 = {{DEU1871}}<br>[[File:Flagge Königreich Sachsen (1815-1918).svg|25px]] [[ザクセン王国]] [[ライプツィヒ]]<br />
|没年月日 = {{死亡年月日と没年齢|1893|06|30|1973|08|01}}<br />
|死没地 = {{DDR}} [[ノイブランデンブルク県]] {{仮リンク|テンプリン|de|Templin}}、{{仮リンク|グロース・デルン|de|Groß Dölln}}<br />
|出身校 = <br />
|所属政党 = [[ドイツ社会民主党]](1912-1917)<br />[[ドイツ独立社会民主党]](1917-1920)<br />[[ドイツ共産党]](1920-1946)<br />[[ドイツ社会主義統一党]](1946-1973)<br />
|称号・勲章 = [[カール・マルクス勲章]]<br />
|配偶者 = {{仮リンク|ロッテ・ウルブリヒト|de|Lotte Ulbricht}}<br />
|サイン = <br />
|ウェブサイト = <br />
|サイトタイトル = <br />
|国旗 = 東ドイツ<br />
|職名 = [[ドイツ民主共和国]] 初代[[国家評議会 (東ドイツ)|国家評議会議長]]<br />
|内閣 = <br />
|選挙区 = <br />
|当選回数 = <br />
|就任日 = [[1960年]][[9月12日]]<br />
|退任日 = [[1973年]][[8月1日]]<br />
|退任理由 = 死亡<br />
|元首職 = <br />
|元首 = <br />
|国旗2 = 東ドイツ<br />
|職名2 = [[ドイツ民主共和国]] 初代国防評議会議長<br />
|内閣2 = <br />
|選挙区2 = <br />
|当選回数2 = <br />
|就任日2 = [[1960年]][[2月11日]]<br />
|退任日2 = [[1971年]][[6月24日]]<br />
|退任理由2 = <br />
|元首職2 = <br />
|元首2 = <br />
<!-- ↓省略可↓ --><br />
|国旗3 = 東ドイツ<br />
|職名3 = [[ドイツ民主共和国]] 第一[[副首相]]<br />
|内閣3 = [[オットー・グローテヴォール]]内閣<br />
|選挙区3 = <br />
|当選回数3 = <br />
|就任日3 = [[1955年]]<br />
|退任日3 = [[1960年]]<br />
|退任理由3 = <br />
|元首職3 = 大統領<br />
|元首3 = [[ヴィルヘルム・ピーク]]<br />
|国旗4 = 東ドイツ<br />
|職名4 = [[ドイツ民主共和国]] [[人民議会 (東ドイツ)|人民議会]]議員<br />
|内閣4 = <br />
|選挙区4 = <br />
|当選回数4 = <br />
|就任日4 = [[1950年]]<br />
|退任日4 = [[1973年]]<br />
|退任理由4 = <br />
|元首職4 = <br />
|元首4 = <br />
|国旗6 = <br />
|その他職歴1 = [[File:Sozialistische Einheitspartei Deutschlands Logo.svg|20px]][[ドイツ社会主義統一党]][[中央委員会]][[第一書記]]<br />
|就任日6 =[[1950年]][[7月25日]]<br />
|退任日6 =[[1971年]][[5月3日]]<br />
|国旗7 = <br />
|その他職歴2 = <br />
|就任日7 = <br />
|退任日7 = }}<br />
<br />
{{スターリニズムのサイドバー}}<br />
'''ヴァルター・エルンスト・パウル・ウルブリヒト'''({{lang-de|Walter Ernst Paul Ulbricht}}、[[1893年]][[6月30日]] - [[1973年]][[8月1日]])は、[[ドイツ]]の[[共産主義]]者で[[政治家]]。[[1950年]]から[[1971年]]まで[[ドイツ社会主義統一党]]の[[第一書記]]([[書記長]])を、[[1960年]]から1973年まで[[国家元首]]である[[国家評議会議長]]を務め、'''[[ドイツ民主共和国]]'''(東ドイツ)の建国と初期の発展に中心的な役割を果たした。<br />
<br />
==来歴・人物==<br />
=== 生い立ち ===<br />
ウルブリヒトは[[ライプツィヒ]]で仕立て屋の息子として生まれた。両親とも[[ドイツ社会民主党]] (SPD) の熱心な活動家であった。ヴァルターは小学校に通った後、指物師の修行をしつつドイツ社会民主党の活動にも加わった。[[1915年]]より[[1917年]]まで彼は[[第一次世界大戦]]に出征し、[[ガリツィア]]および[[バルカン半島|バルカン]]戦線で戦った<ref>Frank, Mario, ''Walter Ulbricht. Eine Deutsche Biographie'' (Berlin 2001) 52-53ページ</ref>。戦争に当初より反対していた彼は1917年に部隊から[[脱走]]し投獄されたが、[[ドイツ革命]]の只中の[[1918年]]に出獄した。<br />
<br />
=== 戦間期の政治活動 ===<br />
戦争に出る前の[[1912年]]、ウルブリヒトはドイツ社会民主党に加入している。戦後、[[1920年]]に彼は[[ドイツ共産党]] (KPD) の党員となり、[[1924年]]から[[1925年]]にかけて[[モスクワ]]の[[国際レーニン学校]]で[[コミンテルン]]の指導を受けた。[[1926年]]、彼は[[ザクセン州]]の州議会議員に当選、[[1928年]]から[[1933年]]には[[国会 (ドイツ)|国会(ライヒスターク)]]議員も務めた。<br />
<br />
1933年の[[ナチス]]の政権獲得まで、ドイツではナチスの「[[突撃隊]]」や共産党の「[[赤色戦線戦士同盟]]」に代表されるような左右の政党の私兵部隊が示威行動を起こし、各地で騒動が頻発していた。双方の行動部隊や支持者、[[警察]]が入り乱れての暴力ざたもしばしば起こった。[[1931年]]、[[ベルリン]]の共産党員は警察が共産党のデモ隊員一人を殺すごとに警官を二人殺すことを決定、これを受けてウルブリヒトは同志のハインツ・ノイマン (Heinz Neumann) とハンス・キッペンベルガー (Hans Kippenberger) と共謀して警官二名を殺す計画を立て、[[エーリッヒ・ミールケ]]ら党員に警官殺害を実行させている。[[社会民主主義]]を敵視する[[社会ファシズム論]]が主流だった[[1932年]]、コミンテルンはドイツ共産党に社会民主党の敵であるナチスとの協力を指示し、ウルブリヒトはナチスのプロパガンダ担当者だった[[ヨーゼフ・ゲッベルス]]と組んでそれぞれの構成員や労働者組織に同時[[ストライキ]]を起こさせた。ストライキではナチスと共産党の双方の党員が共に行進し示威行動を行ったが、ストは5日で収束した<ref>Frank, Mario, ''Walter Ulbricht. Eine Deutsche Biographie'' (Berlin 2001) 88-89ページ</ref>。<br />
<br />
1933年1月に[[ナチ党の権力掌握|ナチスが政権を握ると]]、共産党員と社会民主党員の大規模な弾圧が始まった。共産党指導者[[エルンスト・テールマン]]が3月3日に[[ゲシュタポ]]に逮捕されると、ウルブリヒトは代わりの指導者となるよう担ぎ上げられた。指導者の座を争う他の有力党員達はすでに[[ソビエト連邦]]において粛清されており、うちキッペンベルガーの殺害にはウルブリヒトの関与も指摘されている<ref>Frank, Mario, ''Walter Ulbricht. Eine Deutsche Biographie'' (Berlin 2001) 117-121ページ</ref>。<br />
<br />
ウルブリヒトは1933年から[[1937年]]まで[[パリ]]と[[プラハ]]に亡命した。[[ハインリヒ・マン]]が指揮するパリの反ナチス組織、「ドイツ人民戦線」は、コミンテルン指導下の組織を代わりに置こうとするウルブリヒトが背後で仕掛けたキャンペーンによって崩壊した。ウルブリヒトはパリにいた共産党創始者の一人[[ヴィリ・ミュンツェンベルク]] (Willi Münzenberg) にソ連に行くよう勧めたが、ミュンツェンベルクは拒否した。彼がソ連に行けば[[内務人民委員部]] (NKVD) に逮捕粛清される運命が待っている、と両者とも考えていたと思われる<ref>Frank, Mario, ''Walter Ulbricht. Eine Deutsche Biographie'' (Berlin 2001) 124-139ページ</ref>。ミュンツェンベルクは[[1940年]]10月に森の中で吊るされるという、他殺とも自殺ともつかない謎の死を遂げた。一方ウルブリヒトは1937年から[[1945年]]までをソ連で過ごした。<br />
<br />
=== 独ソ戦 ===<br />
[[1941年]]のドイツのソ連侵攻後、ウルブリヒトは内務人民委員部監督下のドイツ人共産主義者グループで活動した。彼らはソビエトのプロパガンダ文書をドイツ語に翻訳し、東部戦線のドイツ軍への宣伝放送を行い、捕虜となったドイツ軍士官に対する尋問を行い、後に[[自由ドイツ国民委員会]]を組織した。[[1943年]]2月、ドイツ第六軍が降伏し[[スターリングラード攻防戦]]が終結すると、ウルブリヒトや[[ヴィルヘルム・ピーク]](後の東ドイツ初代大統領)らは、ドイツ軍捕虜らが強制的に参加させられた[[ヴォルゴグラード|スターリングラード]]中心部での共産主義集会を指揮した。この間、ソ連の[[ソビエト連邦人民委員会議|人民委員会議]]副議長(副首相)[[ラヴレンチー・ベリヤ]]はウルブリヒトを「かつて見たことのない大馬鹿者」と述べている<ref>Frank, Mario, ''Walter Ulbricht. Eine Deutsche Biographie'' (Berlin 2001) 241ページ</ref>。陰では実際的な考えを持っていたベリヤに対し、ウルブリヒトは実際的ではなく、心の底から[[スターリニズム]]を信じきっていた人物だったからという。<br />
<br />
=== 東ドイツ建国 ===<br />
[[File:Mao, Bulganin, Stalin, Ulbricht Tsedenbal.jpeg|thumb|250px|[[毛沢東]]、[[ニコライ・ブルガーニン|ブルガーニン]]、[[スターリン]]、[[ユムジャーギィン・ツェデンバル|ツェデンバル]]([[モンゴル国|モンゴル]])らとウルブリヒト]]<br />
[[ファイル:Bundesarchiv Bild 183-V01850, Berlin, Walter Ulbricht am Rednerpult.jpg|thumb|SED党大会で演説するウルブリヒト書記長(1946年9月)]]<br />
[[1945年]]4月、「ウルブリヒト・グループ」はソ連から[[連合軍軍政期 (ドイツ)|占領下のドイツ]]に送られ、正統的スターリン主義に基づいて[[ドイツ共産党]]の再建を始めた。[[1946年]][[ソ連占領地区]]で、ドイツ共産党と[[ドイツ社会民主党]]が半強制的に合併させられ、スターリン主義政党[[ドイツ社会主義統一党]]が誕生した。<br />
<br />
[[1949年]]10月、ソ連占領地区が[[ドイツ民主共和国]]となると、ウルブリヒトは[[ドイツ社会主義統一党]]の中央委員会書記長(後に第一書記)として君臨した。[[1957年]]、ソ連の対外活動の顔だった第一副首相[[アナスタス・ミコヤン]]が訪独すると、ウルブリヒトは北部(ノルトフォアポンメルン)の Trinwillershagen にあった[[集団農場]]に彼を招き、東ドイツの農業集団化の進展を紹介した。1955年に第一副首相となり、[[1960年]]に[[大統領]]の[[ヴィルヘルム・ピーク]]が没すると彼は大統領制を廃止し、国家評議会議長として国家元首も兼任した。<br />
<br />
=== 強硬派スターリン主義者 ===<br />
彼の政権下ではスターリン死後の反ソ暴動([[六月十七日事件]])など不穏な動きが絶えず、急速な農業集団化や国有化で経済も混乱した。自営農民達の[[西ドイツ]]への逃亡<ref>1949年の建国からベルリンの壁建設までの12年間で、総人口の15%にあたる270万人が西側に脱出した。その中には数多くの専門技術者がおり、東ドイツ経済に大きな打撃となった</ref>や軍需に応えた重工業への傾斜生産などから食糧・日用品の不足を招き、東ドイツの生活水準は急低下した。東西ベルリンを通じた国民の脱出を防ぐため、[[1961年]]には[[ベルリンの壁]]建設に至っている。彼は取材に対し「[[西ベルリン]]を囲う計画などない」と強力に否認したものの、そのわずか2ヵ月後の[[8月13日]]から壁の建設が開始されている。彼は[[1968年]]の[[チェコスロヴァキア]]の改革運動「[[プラハの春]]」に強い懸念を示し、[[ワルシャワ条約機構]]軍による8月の軍事介入とその後のチェコスロヴァキア国内の抑圧に賛同するなど、強硬なスターリン主義者として西側には見られていた。しかし[[ヨシフ・スターリン|スターリン]]とは違い、ウルブリヒトは自身に対する[[個人崇拝]]は確立しなかった。<br />
<br />
=== 新経済システム導入 ===<br />
[[1963年]]以降、ウルブリヒトとその経済アドバイザー、ウォルフガング・ベルガー (Wolfgang Berger) は「{{仮リンク|新経済システム|de|Neues Ökonomisches System der Planung und Leitung|en|New Economic System}}」({{lang|de|Neues Ökonomisches System}} 、略称NÖS)を通じてより効率的な国家経済を作ろうと試みた。これは中央による計画経済のもとで、[[企業]]の独自採算制を導入するなど地方や各企業に対し決定権を大幅に移譲しようというものであった。この政策導入の理由は各企業の責任感を大いに刺激するだけでなく、決定権は時には現場が握ったほうがうまくいくことに気がついたからでもあった。ウルブリヒトの原理のひとつは政治や経済の「科学的な」実行であり、時には[[社会学]]や[[心理学]]も応用するものの、[[自然科学]]を政治や経済の運営に当たって全面的に活用した。新経済システムは、過去に起こった経済の失敗を訂正し、「壁」による国民流出の低下もあいまって[[1960年代]]の東ドイツ経済を効果的に発展させることになる。<br />
<br />
しかしながら、この政策は党内では評価はあまり良いものではなく、[[1965年]]以降、側近のホーネッカーや彼を支援するソ連指導者[[レオニード・ブレジネフ]]の指導の下、新経済システムに対する反対派が次第に大きくなってきた。ウルブリヒトの自然科学応用への没頭は、経済の管理権を党指導部から現場の専門家達へと委譲するものであり、イデオロギー上の強硬派からは共産主義理論から離れつつあるとして違和感をもって見られるようになっていった。<br />
<br />
また、自国の経済発展に自信を深めたウルブリヒトは東ドイツが社会主義国のモデル国家であると誇るようになったが、これは当然ソ連指導部の不興を買った。さらにウルブリヒトは、[[西ドイツ]]の[[ヴィリー・ブラント|ブラント]][[連邦首相 (ドイツ)|首相]]による[[東方外交]]によって西ドイツとソ連や[[ポーランド人民共和国|ポーランド]]との関係が改善することにも反対したため、ソ連指導部は[[ソビエト連邦共産党|ソ連共産党]]の意向に従わないウルブリヒトを疎んじるようになっていった<ref>仲井斌『もうひとつのドイツ』朝日新聞社、1983年 P149-151</ref>。<br />
<br />
=== 晩年 ===<br />
[[1971年]][[5月3日]]、彼は「健康上の理由」でドイツ社会主義統一党第一書記の座を退き、第一書記を(ソ連の信任の厚い)ホーネッカーに譲った。ウルブリヒトは引続き国家元首である国家評議会議長には留まり、また「ドイツ社会主義統一党議長」という名誉職が彼だけのために創設されたが、実権はホーネッカーに移った。彼は1973年8月1日、[[東ベルリン]]近郊で死去し、大規模な国葬で見送られた。しかし彼の名を冠した街路や工場、公共施設などは彼の死後短期間で改名され、公式の歴史叙述からもウルブリヒトの名は消されてしまった<ref>[http://www.spiegel.de/einestages/walter-ulbrichts-ende-gekraenkt-gestorben-getilgt-a-951393.html Walter Ulbrichts Ende(ワルター・ウルブリヒトの最期)]([[デア・シュピーゲル|シュピーゲル]])</ref>。<br />
<br />
[[ファイル:Bundesarchiv Bild 183-66400-0142, Leipzig, Turn- und Sportfest, Walter Ulbricht.jpg|thumb|250px|ドイツ・スポーツ祭で市民と共に(1959年8月15日、ライプツィヒ)]]<br />
[[ファイル:Bundesarchiv Bild 183-F0309-0201-001, Berlin, Empfang DDR-Frauen bei Ulbricht.jpg|thumb|250px|ウルブリヒトと妻ロッテ。左端は[[ヴィリー・シュトフ|シュトフ]]首相(1967年3月)]]<br />
<br />
== 私生活 ==<br />
彼は二度結婚した。[[1920年]]にマルタ・シュメリンスキー (Martha Schmellinsky) と結婚し、[[1953年]]には党の活動家で部下だったロッテ・ウルブリヒト(Lotte Ulbricht、[[1903年]] - [[2002年]])と再婚している。ロッテとの間にはソ連からの[[養子]]、ベアーテ(Beate、[[1944年]] - [[1991年]])を迎えていた。ロッテは一時、夫の部下を従わせるほど影響力が強く、「鉄の女」とも呼ばれた。ベルリンの壁崩壊後、[[日本放送協会|NHK]]は大型企画「[[社会主義の20世紀]]」で彼女の取材を試みたが、拒絶された。<br />
<br />
その風体から「ヤギひげ」、またその口癖から「ヌー・ヌー」(「同意」を意味する[[ザクセン州|ザクセン]]方言)とあだ名されていた。また国民には隠れてそのライプツィヒ方言の訛りをふざけて真似る者も多かった。<br />
<br />
== 受勲 ==<br />
[[1963年]][[6月29日]]には[[ソ連邦英雄]]の称号を受けた。また[[1965年]]の[[エジプト]]訪問<ref>当初エジプトは[[ハルシュタイン原則]]に沿って西ドイツのみを国家承認していたが、1965年に西ドイツが[[イスラエル]]と国交を樹立し武器供与した事に抗議して西ドイツと国交断絶し、東ドイツを承認してそれを見せつける目的でウルブリヒトをエジプトに招待した。</ref>の際には[[ガマール・アブドゥン=ナーセル|ナセル大統領]]からナイル勲章を受けた。<br />
<br />
== 語録 ==<br />
* 東側が強硬措置をという噂が流れ、西側の新聞記者がウルブリヒトに質問したところ「我々の首都の労働者はその全力を主に住宅建築に注いでいる。誰も壁を作ろうなどと思ってはいない」と口を滑らせた(1961年6月15日、記者会見で。それから2ヶ月も経たないうちに「[[ベルリンの壁]]」が建設された)。<br />
* 「我々は西側から来た汚物を本当にコピーしなくてはならないのか?私が思うに、同志たちよ、イェー・イェー・イェー (Je-Je-Je) と繰り返すことは、それが『はい (Ja)』を意味するように、もうやめさせなくてはならない」(1965年、党中央委員会での演説。[[ビートルズ]]の「[[ビートルズがやって来るヤァ!ヤァ!ヤァ! (アルバム)|ビートルズがやって来るヤァ!ヤァ!ヤァ!]]」の流行を受けての発言)<br />
<br />
== 評価 ==<br />
[[ファイル:Stamps of Germany (DDR) 1969, MiNr 1482.jpg|thumb|130px|右|ウルブリヒトを記念した切手(1969年)]]<br />
ウルブリヒトは生涯にわたり[[レーニン主義]]と[[スターリン主義]]に忠誠を誓い、妥協はほとんどしない人物であった。融通が利かず人当たりも良くないため、[[大衆]]の愛情や尊敬を集める対象とはならなかった。ウルブリヒトは東ドイツ国民に比較的人気のあった前の大統領ピークと違い全く人気がなかった。しかし彼は、二つ以上の困難な状況に巻き込まれないようにするにはどうすれば良いか理解している、抜け目なく知的な政治家だった。東ドイツの政治経済をある程度安定させて[[東側陣営|東側]]の優等生国家としたが、国民の生活水準を[[西側陣営|西側]]並みに引き上げることはついにできなかった。<br />
<br />
== 関連項目 ==<br />
* [[シュヴェーデンアイスベッヒャー]] - 英語名では「スウェーデンアイスパフェ」。バニラアイスをベースに、林檎味ムース、卵黄リキュール、生クリームを加えて作るアイスデザート。冷戦時代である1952年に開催された[[オスロオリンピック|オスロ冬季五輪]]大会[[アイスホッケー]]競技において、敵対国家である西ドイツ(当時)代表がスウェーデン代表に3:7で大敗した事に狂喜した当時の東ドイツ国家評議会議長ヴァルター・ウルブリヒトにより命名されたとされる。([http://osanpoberlin.blog.fc2.com/blog-entry-96.html 参考HP1]、[http://www.tsujicho.com/column/cat659/post-178.html 参考HP2])<br />
<br />
== 脚注 ==<br />
<references /><br />
<br />
== 外部リンク ==<br />
* [http://www.calvin.edu/academic/cas/gpa/ulbricht.htm 1968年の国民向けプロパガンダ本、『ヴァルター・ウルブリヒト:ドイツのための生涯』より抜粋](英語)<br />
{{Commons category|Walter Ulbricht}}<br />
{{start box}}<br />
{{s-off}}<br />
{{Succession box<br />
| title = {{flagicon|DDR}} [[ドイツ民主共和国]]<br />[[国家評議会 (東ドイツ)|国家評議会]][[ドイツの国家元首一覧|議長]]<br />
| years = 初代:1960 - 1973<br />
| before = [[ヴィルヘルム・ピーク]]<br />
| beforenote = (ドイツ民主共和国大統領)<br />
| after = [[フリードリヒ・エーベルト_(息子)|フリードリヒ・エーベルト]]<br />
| afternote = (副議長による代行)<br />
}}<br />
{{Succession box<br />
| title = {{flagicon|DDR}} [[ドイツ民主共和国]]<br />[[国防評議会 (東ドイツ)|国防評議会]]議長<br />
| years = 初代:1960 - 1971<br />
| before = <br />
| after = [[エーリッヒ・ホーネッカー]]<br />
}}<br />
{{Succession box<br />
| title = {{flagicon|DDR}} [[ドイツ民主共和国]]<br />閣僚評議会第一副議長(第一副首相)<br />
| years = 初代:1955 - 1960<br />
| before = <br />
| after = [[ヴィリー・シュトフ]]<br />
}}<br />
{{s-ppo}}<br />
{{Succession box<br />
| title = [[ドイツ社会主義統一党]][[書記長]]<br />(1953 - 1971 は[[第一書記]])<br />
| years = 初代:1950 - 1971<br />
| before = [[オットー・グローテヴォール]]<br />[[ヴィルヘルム・ピーク]]<br />
| beforenote = (ドイツ社会主義統一党議長)<br />
| after = [[エーリッヒ・ホーネッカー]]<br />
}}<br />
{{end box}}<br />
{{ドイツの国家元首|1960-1973}}<br />
<br />
{{DEFAULTSORT:うるふりひと うあるた}}<br />
[[Category:第一次世界大戦期ドイツの軍人]]<br />
[[Category:ドイツ共産党の政治家]]<br />
[[Category:ヴァイマル共和国の政治家]]<br />
[[Category:ドイツ民主共和国の政治家]]<br />
[[category:共産主義者]]<br />
[[Category:ドイツの亡命者]]<br />
[[Category:ライプツィヒ出身の人物]]<br />
[[Category:カール・マルクス勲章受章者]]<br />
[[Category:ドイツ民主共和国労働英雄]]<br />
[[Category:ソビエト連邦英雄]]<br />
[[Category:レーニン勲章受章者]]<br />
[[Category:十月革命勲章受章者]]<br />
[[Category:労働赤旗勲章受章者]]<br />
[[Category:祖国戦争勲章受章者]]<br />
[[Category:人民友好勲章受章者]]<br />
[[Category:1893年生]]<br />
[[Category:1973年没]]<br />
{{Normdaten}}</div>
114.161.14.158
ヴィルヘルム・ピーク
2018-08-29T01:03:56Z
<p>114.161.14.158: </p>
<hr />
<div>{{大統領 | 人名=ヴィルヘルム・ピーク<br />
| 各国語表記=Wilhelm Pieck<br />
| 画像=Fotothek_df_roe-neg_0002793_004_Portrait_Wilhelm_Piecks_im_Publikum_der_Bachfeier.jpg<br />
| 代数=初<br />
| 職名={{仮リンク|共和国大統領 (東ドイツ)|de|Präsident der DDR|label=大統領}}<br />
| 国名={{flagicon|DDR|size=20px}}[[ドイツ民主共和国]]<br />
| 副大統領職=なし<br />
| 副大統領=<br />
| 就任日=[[1949年]][[10月11日]]<br />
| 退任日=[[1960年]][[9月7日]]<br />
| 出生日={{生年月日と年齢|1876|1|3|死去}}<br />
| 生地={{DEU1871}}<br><br />
[[File:Flag of Prussia (1892-1918).svg|25px]] [[プロイセン王国]] グーベン<br />(現[[ポーランド]]領)<br />
| 生死=死去<br />
| 死亡日={{死亡年月日と没年齢|1876|1|3|1960|9|7}}<br />
| 没地={{DDR}}、[[ベルリン]]<br />
| 配偶者=<br />
| 政党=[[ドイツ社会民主党]]→<br/>[[ドイツ共産党]]→<br/>[[ドイツ社会主義統一党]]<br />
}}<br />
[[ファイル:Bundesarchiv Bild 183-08783-0009, Berlin-Friedrichsfelde, Einweihung Gedenkstätte.jpg|thumb|[[ミース・ファン・デル・ローエ]]作の共産党殉難者碑を除幕し挨拶するピーク(左端)(1926年6月、ベルリン)]]<br />
'''フリードリヒ・ヴィルヘルム・ラインホルト・ピーク'''(Friedrich Wilhelm Reinhold Pieck、[[1876年]][[1月3日]] - [[1960年]][[9月7日]])は、[[ドイツ]]の[[共産主義]]者、[[政治家]]。[[ドイツ民主共和国]](東ドイツ)の初代{{仮リンク|共和国大統領 (東ドイツ)|de|Präsident der DDR|label=大統領}}。彼以後は[[国家評議会議長]]が元首となり、[[大統領]]制が廃止されたので、最初で最後の大統領である。<br />
<br />
== 経歴 ==<br />
=== 生い立ち ===<br />
ピークは1876年、ドイツ東部[[ナイセ川]]沿いの街、[[グーベン]](Guben)で馬車の御者の家に生まれた(現在グーベンは、ナイセ川を境にドイツ側のグーベン市と[[ポーランド]]側の[[グービン]]市に分かれているが、彼は川の東側の現ポーランド領出身)。彼は[[大工]]となるべく学校に進んだが、当時の国際情勢から来るイデオロギーの影響や政治的野心から、彼は政治の道へ入った。<br />
<br />
=== 政治活動 ===<br />
大工として、ピークは木工労働者連盟に[[1894年]]に参加し、そこから[[1895年]]に[[ドイツ社会民主党]](SPD)に入党した。彼は党内で昇進し、[[1899年]]には党都市部議長となり、[[1906年]]には党の常勤の書記となった。1907年から翌年にかけては[[ベルリン]]にあった党の中央学校で学び、[[ローザ・ルクセンブルク]]の影響を受けている。[[第一次世界大戦]]が勃発するとピークは[[平和主義]]に賛同して戦争に反対の立場をとった。彼はドイツ帝国陸軍への[[徴兵]]には応じたが反戦的な態度から憲兵に逮捕され[[営倉]]に入れられた。脱走後ピークはしばらくベルリンに潜伏して[[スパルタクス団]]に入り、のち[[アムステルダム]]に逃れた。<br />
<br />
[[1918年]]ベルリンに戻ると政治活動に戻った。彼は[[プロイセン州]]議会に加わる一方、[[ドイツ共産党]](KPD)の結党に参加しその政治局員となった。翌年1月の[[スパルタクス団蜂起]]では虐殺されたローザ・ルクセンブルクや[[カール・リープクネヒト]]らと共に政府側の[[フライコール|義勇軍]]に捕えられたが脱出に成功した。1921年にはKPDにより[[コミンテルン]]の代表委員に選ばれ、[[ウラジーミル・レーニン|レーニン]]に接する機会を得た。1928年には帝国議会議員に当選している。国際的な共産主義活動が認められ、1931年にはコミンテルン代表委員長に選出された。<br />
<br />
[[1930年]][[8月5日]]の演説で、ピークは「労働者男女」に向けて彼の[[マルクス・レーニン主義]]的な世界観を概説している。[[国家社会主義ドイツ労働者党]](ナチス)の勃興に憂慮を示し、ピークは彼の考える共産主義の体制とナチスの理想とする体制との違いを情熱的に解説している。彼は「共産主義者だけが労働者を救う」と論じ、これに反してナチスは労働者の味方になるどころか「党の指導のもとに大衆の過激化が進む」と述べている。ピークは「労働者たちが団結すれば強力だ」と信じ、ドイツ人は「戦争と[[ファシズム]]の[[帝国主義]]的脅威に対する闘争を続け、社会主義の『ソビエト・ドイツ』実現のための闘争を続けなければならない」と主張した。<br />
<br />
=== ソ連での活動 ===<br />
ピークは[[アドルフ・ヒトラー]]の政権獲得への反対と、[[ヨシフ・スターリン]]との連携を行った。1933年の[[ナチ党の権力掌握|ナチスの政権獲得と権力集中]]、共産党の非合法化により、ピークは[[1934年]]5月に[[フランス]]に亡命し、[[1935年]]にブリュッセルで開かれた党会議では獄中にある[[エルンスト・テールマン]]議長に代わる議長代行に選出され[[モスクワ]]に移った。モスクワでは彼は[[ソ連共産党]]に様々な形で協力した。スターリンによる[[大粛清]]の時はソ連に亡命したドイツの共産主義者も多くが犠牲となったが、ピークは[[ヴァルター・ウルブリヒト]]らのスターリンに忠実なグループに属してこれを免れた。[[1938年]]から[[1943年]]までは[[コミンテルン]]の総書記(General Secretary)となった。またピークは、ドイツの意図と将来の戦争への道に関してスターリンに助言する重要な役割を果たした。<br />
<br />
[[1941年]]、ピークはウルブリヒトとともにスターリンと会い、ヒトラーについて徹底的に分析して警告を発し、[[赤軍]]を西へ進軍させるスターリンの希望について議論している。会合の指揮やその記録など、ピークの果たした役割はその50年後に記録が公開されるまで不明であった。[[1943年]]、ピークはナチスに抵抗するソ連主導のドイツ人抵抗組織、[[自由ドイツ国民委員会]]([[:de:Nationalkomitee Freies Deutschland|Nationalkomitee Freies Deutschland]]、NKFD)の創設者のひとりとなった。NKFDは[[第二次世界大戦]]後のドイツの社会主義化という将来も視野に入れていた。[[1945年]]の終戦後、ピークは赤軍とともにドイツに入りドイツ共産党を再建し、ソ連をモデルにしたプロレタリアート独裁や共産主義体制を導入するため、[[ソ連占領地域]]の社会民主党と共産党を半強制的に併合させて[[ドイツ社会主義統一党]]を誕生させた。<br />
<br />
=== 東ドイツ大統領 ===<br />
[[ファイル:Bundesarchiv Bild 183-19000-3301, Berlin, DDR-Gründung, Wahl Pieck, Grotewohl.jpg|thumb|ピーク(左)と[[オットー・グローテヴォール]]]]<br />
[[1949年]]、ピークは新しく建国されたドイツ民主共和国(東ドイツ)の初代{{仮リンク|共和国大統領 (東ドイツ)|de|Präsident der DDR|label=共和国大統領}}(<span lang="de">Präsident der Republik</span>)となった。ドイツ社会主義統一党の指導者となったヴァルター・ウルブリヒトと違い、彼は国民の間からの人気もあった。ただしその在任の後期には健康状態の悪化から公式の場に現れることはほとんどなかった。<br />
<br />
ピークは[[1960年]]の心臓麻痺による死去まで東ドイツの初代にして唯一の大統領を務めた。[[スターリニズム]]を世界へ、とりわけ東西の境界に位置するドイツへ広げるピークの能力をスターリンは信頼していた。彼のイデオロギーはスターリンからの全面的な信頼を得るのに役立ち、その結果東ドイツの指導者として最後まで務め上げることができた。<br />
<br />
旧東ドイツ時代には彼の出身地グーベンが公式には「ヴィルヘルム・ピーク都市グーベン」と呼ばれたほか、[[ロストック大学]]も彼の名が冠されヴィルヘルム・ピーク大学と改名され、また各都市で大通りや広場に彼の名が付けられた。そのほとんどは1990年の東西[[ドイツ再統一]]の際に東ドイツ以前の旧名に戻されるか改名されたが、少数ながら現在も残っている所もある。<br />
<br />
== 外部リンク ==<br />
{{Commonscat}}<br />
* [http://dispatch.opac.d-nb.de/DB=4.1/REL?PPN=118594273 Literatur von und über Wilhelm Pieck] - [[ドイツ国立図書館]]<br />
* [http://www.dhm.de/lemo/html/biografien/PieckWilhelm/ Biografie des DHM]<br />
* Gerhard Keiderling: ''[http://www.luise-berlin.de/bms/bmstxt00/0012GESA.HTM Wilhelm Pieck - erster Ehrenbürger nach 1945]'', www.luise-berlin.de<br />
<br />
{{start box}}<br />
{{s-off}}<br />
{{Succession box<br />
| title = {{flagicon|DDR}} [[ドイツ民主共和国]]{{仮リンク|共和国大統領 (東ドイツ)|de|Präsident der DDR|label=大統領}}<br />
| years = 初代:1949 - 1960<br />
| before = [[カール・デーニッツ]]<br />
| beforenote = ({{flagicon|DEU1935}}[[ドイツ国大統領]])<br />
| after = [[ヴァルター・ウルブリヒト]]<br />
| afternote = ([[ドイツの国家元首一覧#ドイツ民主共和国(東ドイツ)の国家元首|国家評議会議長]])<br />
}}<br />
{{s-ppo}}<br />
{{Succession box<br />
| title = [[ドイツ社会主義統一党]]議長<br />
| titlenote = [[オットー・グローテヴォール]]と共同<br />
| years = 初代:1946 - 1950<br />
| before = (創設)<br />
| after = [[ヴァルター・ウルブリヒト]]<br />
| afternote = (ドイツ社会主義統一党書記長)<br />
}}<br />
{{end box}}<br />
{{ドイツの国家元首|1949-1960}}<br />
<br />
{{DEFAULTSORT:ひいく ういるへるむ}}<br />
[[Category:第一次世界大戦期ドイツの軍人]]<br />
[[Category:ドイツ共産党の政治家]]<br />
[[Category:ドイツ民主共和国の政治家]]<br />
[[Category:ドイツの大統領]]<br />
[[Category:コミンテルンの人物]]<br />
[[Category:カール・マルクス勲章受章者]]<br />
[[Category:ドイツ民主共和国労働英雄]]<br />
[[Category:ドイツの旧領土出身の人物]]<br />
[[Category:ルブシュ県出身の人物]]<br />
[[Category:1876年生]]<br />
[[Category:1960年没]]</div>
114.161.14.158
クルト・ゲオルク・キージンガー
2018-08-29T00:30:19Z
<p>114.161.14.158: </p>
<hr />
<div>{{政治家<br />
|各国語表記 = Kurt Georg Kiesinger<br />
|画像 = Bundesarchiv B 145 Bild-F024017-0001, Oberhausen, CDU-Parteitag Rheinland, Kiesinger.jpg<br />
|画像説明 = クルト・ゲオルク・キージンガー<br />
|国略称 = {{GER}}<br />
|生年月日 = {{生年月日と年齢|1904|4|6|no}}<br />
|出生地 = {{DEU1871}}<br />[[ヴュルテンベルク王国]][[エービンゲン]]<br />
|没年月日 = {{死亡年月日と没年齢|1904|4|6|1988|3|9}}<br />
|死没地 = {{GER}}連邦共和国<br />[[バーデン=ヴュルテンベルク州]]<br />[[ベーベンハウゼン]]<br />
|出身校 = <br />
|所属政党 = ([[国家社会主義ドイツ労働者党]]→)<br>[[ドイツキリスト教民主同盟|キリスト教民主同盟]]<br />
|称号・勲章 = <br />
|配偶者 = マリー=ルイーゼ・キージンガー<br />
|サイン =<br />
|ウェブサイト = <br />
|サイトタイトル = <br />
|国旗 = 西ドイツ<br />
|職名 = 第3代[[連邦首相 (ドイツ)|連邦首相]]<br />
|内閣 = クルト・ゲオルク・キージンガー内閣<br />
|選挙区 = <br />
|当選回数 = <br />
|就任日 = [[1966年]][[12月1日]]<br />
|退任日 = [[1969年]][[10月21日]]<br />
|退任理由 = <br />
|元首職 = <br />
|元首 = <br />
}}<br />
'''クルト・ゲオルク・キージンガー'''(Kurt Georg Kiesinger、[[1904年]][[4月6日]] - [[1988年]][[3月9日]])は、[[西ドイツ]]の[[政治家]]。[[連邦首相 (ドイツ)|ドイツ連邦共和国首相]](在任: [[1966年]][[12月1日]] - [[1969年]][[10月21日]])として政治的ライバルである[[ドイツ社会民主党]](SPD)との「[[大連立]] (große Koalition)」[[政権]]を樹立した。[[バーデン=ヴュルテンベルク州]]首相(1958年 - 1966年)、[[ドイツキリスト教民主同盟|キリスト教民主同盟]](CDU)党首([[1967年]] - [[1971年]])を歴任した。<br />
<br />
== 経歴 ==<br />
1904年4月6日、[[ドイツ帝国]][[ヴュルテンベルク王国]]のエービンゲンに生まれる。父は[[プロテスタント]]の商人だったが、1歳の時に亡くなった母が[[カトリック教会|カトリック]]だったため、カトリックの[[洗礼]]を受けた。少年時代は詩に傾倒し詩人になることを夢見ていたが、長じて[[エバーハルト・カール大学テュービンゲン|テュービンゲン大学]]および[[ベルリン]]で法律を学び、[[博士(法学)|法学博士]]号を取得して[[弁護士]]となる。1932年に結婚し、1男1女をもうける。<br />
<br />
[[1933年]]2月、[[ナチ党の権力掌握]]にあわせて入党する。しかし「[[長いナイフの夜]]」で行われた政治的テロを目にして、ナチスの危険性を悟って距離を置いたため、その圧力を受けた。やがて[[第二次世界大戦]]が始まったが、武器を手にとることを避けるために[[1940年]]から外務省ラジオ宣伝部に勤務する。仕事の性格上、宣伝相[[ヨーゼフ・ゲッベルス]]との付き合いがあった。戦後、戦争責任を問われ、非ナチス化法廷の判決を受け、数ヶ月間ルートヴィヒスブルク収容所に投獄された。この経歴はのちのちまで批判されたが、1966年に公表された[[親衛隊 (ナチス)|親衛隊]]の文書では、彼が[[反ユダヤ主義]]の宣伝を拒んでいたことが証明された。<br />
<br />
戦後、キージンガーはキリスト教民主同盟(CDU)に入党し、1949年に第1回[[ドイツ連邦議会]]選挙に立候補し、当選する。[[1951年]] CDU幹部会員となる。1954年から1959年まで、連邦議会外交委員長。連邦議会ではその弁舌で鳴らした。1956年から1958年まで[[欧州議会議員]]を兼任する。同時期の1955年から1959年まで、[[欧州評議会]]副議長も務める。CDUの重鎮であるにもかかわらず、いつまでも閣僚ポストを与えられないことに不満を持ち、[[1958年]][[12月17日]]にバーデン=ヴュルテンベルク州首相に転じ、[[1966年]][[12月1日]]まで務める。1952年に成立したばかりの同州の安定化を図り、[[ウルム大学]]と[[コンスタンツ大学]]を新設するなどの功績をあげた。その間、[[1962年]]から1年間、[[連邦参議院]]議長となった。<br />
<br />
=== 第3代首相 ===<br />
1966年キリスト教民主同盟(CDU)・[[キリスト教社会同盟]](CSU)及び[[自由民主党 (ドイツ)|自由民主党]](FDP)の連立内閣からFDPが閣僚を引き上げて崩壊した際、キージンガーは[[ライナー・バルツェル]]幹事長や[[ゲアハルト・シュレーダー (CDU)|ゲアハルト・シュレーダー]]外相との党内での決選投票に勝ち、CDU党首の[[ルートヴィヒ・エアハルト]]首相に取って代わった。キージンガーは新首相候補として[[ドイツ社会民主党]](SPD)と交渉し、新たな[[大連立]][[政権]]を樹立することに成功した。指名選挙ではSPDからの造反があったにもかかわらず連邦議会の全議席の3分の2以上の支持を得たが、これは戦後の首相指名投票では最高記録である。しかしナチスで働いた経歴があるキージンガーの首相就任に対する拒否反応は大きく、[[作家]][[ハインリヒ・ベル]]に痛烈に批判され、[[哲学者]][[カール・ヤスパース]]などは[[スイス]]に国籍を変更したほどである。また、1968年11月7日のベルリンのCDU党大会で左派のフリー[[ジャーナリスト]]である[[ベアーテ・クラールスフェルト]]に「このナチ」と罵倒されて平手打ちを喰ったのは有名な話である。<br />
<br />
[[File:Nixon kiesinger berlin.jpg|thumb|250px|群集の歓呼に応える'''キージンガー'''(右)と[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の[[リチャード・ニクソン|ニクソン]][[アメリカ合衆国大統領|大統領]](中央)(1969年、[[西ベルリン]])]]<br />
先輩の[[コンラート・アデナウアー|アデナウアー]]元首相が「実行力がない」とキージンガーをくさしたにもかかわらず、彼は[[ヴィリー・ブラント]]や[[フランツ・ヨーゼフ・シュトラウス]]、[[カール・シラー]]、[[ヘルベルト・ヴェーナー]]といったあくの強い政治家をよくまとめ、大連立内閣は約3年間続いた。1967年にはCDU党首に就任する。SPD党首のブラントを副首相兼外相に据えて[[東方外交]]を展開し、[[社会主義]]圏の[[チェコスロバキア社会主義共和国|チェコスロバキア]]、[[ルーマニア社会主義共和国|ルーマニア]]及び[[ユーゴスラビア社会主義連邦共和国|ユーゴスラビア]]と外交関係を樹立した。この時代に西ドイツ国内では[[学生運動]]が盛り上がり、キージンガーは1968年に非常事態法を施行している。そのほか内政では、就学助成制度の充実や傷病労働者の収入保護といった法令を実現している。<br />
<br />
SPDの大連立参加は、SPDが現実的な政権運営が可能な政党に脱皮する契機となった。1969年の総選挙後、躍進したSPDは第一党であるキリスト教民主同盟との連立を解消し、新たに自由民主党(FDP)と連立を組んで過半数を確保する。キージンガーはブラントと首相を交代して、戦後一貫して続いてきたCDU/CSU政権は中断することになった。CDU/CSUが[[与党]]に復帰するにはこの後13年も待たねばならなかった。キージンガーは今のところCDUの首相としては在任期間が最も短い。キージンガーは、[[野党]]としてのキリスト教民主社会同盟を1971年6月まで率いた。8期を務めて1980年に連邦議会議員を引退するまで、雄弁家として鳴らし、「銀の舌をもつ首長」("Häuptling Silberzunge")と称された。一方で彼が首相に就任したことは、戦後の西ドイツが第三帝国の過去を清算出来ていない実例として、現在に至るまで[[左翼]]([[グレゴール・ギジ]]など)の攻撃の対象となっている。<br />
<br />
1988年3月9日、バーデン=ヴュルテンベルク州[[テュービンゲン]]近郊の自宅で死去した。執筆中だった回顧録は州首相就任直前(1958年)の部分で絶筆になった。<br />
<br />
== 外部リンク ==<br />
{{commonscat|Kurt Georg Kiesinger}}<br />
* {{DNB-Portal|118562053}}<br />
* [http://www.dhm.de/lemo/html/biografien/KiesingerKurtGeorg ドイツ歴史博物館]略歴紹介(ドイツ語)<br />
* [http://www.bundeskanzlerin.de/nn_4976/Webs/BK/DE/Amt-und-Verfassung/Bundeskanzler-1949-2005/Kurt-Georg-Kiesinger/kurt-georg-kiesinger.html www.bundeskanzlerin.de]ドイツ連邦首相府による略歴紹介<br />
* [http://www.cosmopolis.ch/geschichte/86/kurt_georg_kiesinger.htm バイオグラフィー]<br />
<br />
{{先代次代|[[バーデン=ヴュルテンベルク州]]首相|1958年 - 1966年|[[ゲブハルト・ミュラー|ゲプハルト・ミュラー]]|[[ハンス・フィルビンガー]]}}<br />
{{ドイツの首相|1966年 - 1969年}}<br />
{{ドイツキリスト教民主同盟党首|1967年 - 1971年}}<br />
<br />
{{DEFAULTSORT:きいしんか くるとけおるく}}<br />
[[Category:西ドイツの首相]]<br />
[[Category:バーデン=ヴュルテンベルク州首相]]<br />
[[Category:ドイツの欧州議会議員]]<br />
[[Category:ドイツの弁護士]]<br />
[[Category:ナチ党員]]<br />
[[Category:1904年生]]<br />
[[Category:1988年没]]</div>
114.161.14.158
フリードリヒ・エーベルト
2018-08-29T00:24:32Z
<p>114.161.14.158: </p>
<hr />
<div>{{Otheruses|[[ドイツ]]・[[ヴァイマル共和政]]の初代大統領|その息子で[[ドイツ民主共和国|東ドイツ]]の政治家|フリードリヒ・エーベルト_(息子)}}<br />
{{大統領<br />
| 人名 = フリードリヒ・エーベルト<br />
| 各国語表記 = {{lang|de|Friedrich Ebert}}<br />
| 画像 = Bundesarchiv Bild 102-00015, Friedrich Ebert.jpg<br />
| 画像サイズ =275px<br />
| キャプション = 1925年<br />
| 国名 = {{DEU1919}}<br />
| 代数 = 初<br />
| 職名 = [[ドイツ国大統領|大統領]]<br />
| 就任日 = [[1919年]][[2月11日]]<br />
| 退任日 = [[1925年]][[2月28日]]<br />
| 副大統領 = <br />
| 副大統領職名 = <br />
| 元首 = <br />
| 出生日 = {{生年月日と年齢|1871|2|4|no}}<br />
| 生地 = {{DEU1871}}<br>[[File:Flagge Großherzogtum Baden (1871-1891).svg|border|25px]] [[バーデン (領邦)|バーデン大公国]] [[ハイデルベルク]]<br />
| 死亡日 = {{死亡年月日と没年齢|1871|2|4|1925|2|28}}<br />
| 没地 = {{DEU1919}}<br>{{PRU1918}} [[ベルリン]]<br />
| 配偶者 = ルイーゼ・ルンプ<br />
| 政党 = [[ドイツ社会民主党]]<br />
| サイン = <br />
}}<br />
'''フリードリヒ・エーベルト'''({{lang-de|Friedrich Ebert}}、[[1871年]][[2月4日]] - [[1925年]][[2月28日]])は、[[ドイツ]]の[[政治家]]。[[ドイツ社会民主党]](SPD)党首、[[ドイツ国]]([[ヴァイマル共和政]])初代[[ドイツ国大統領|大統領]]。<br />
<br />
== 経歴 ==<br />
=== 労働者 ===<br />
[[ファイル:Bundesarchiv Bild 102-00605A, Friedrich Ebert als Lehrling.jpg|250px|thumb|徒弟時代のエーベルト(X印の人物。1885年)]]<br />
仕立職人の家に9人兄弟の7番目の息子として[[ハイデルベルク]]に生まれ、国民学校を卒業後、馬具徒弟工となる。しかし親方と喧嘩したため職人(マイスター)免許の試験に合格せず、一時失業も経験した。修業中に[[労働組合]]に投じ、1889年頃に[[ドイツ社会民主党]](SPD)に入党して政治に傾倒する。1890年、[[ハノーファー]]で馬具職人組合の書記長となる。しかし[[社会主義者鎮圧法]]により当局に監視されていた彼は移住を強いられ、[[ブレーメン]]に引っ越す。<br />
<br />
ブレーメンでは職人及び臨時労働者として過ごした。1893年にSPD系の地元紙「ブレーメン市民新聞」編集員となる。翌年SPDの地区代表となり、政治キャリアの第一歩を踏み出した。この頃ルイーゼ・ルンプと結婚。彼女は生涯エーベルトを支えてゆくことになる。エーベルトは飲食店経営を引き継ぎ、その店はブレーメンの労働組合員の溜まり場となった。1900年に労働組合の書記として収入を得るようになり、1902年には[[ヘルマン・ミュラー]]と共にブレーメンの労働者の労働条件や生活の実情を記録した報告を作成した。<br />
<br />
SPDは1904年にブレーメンで党大会を開いたが、その議長を務めたエーベルトは全国的な知名度を得た。翌[[1905年]]にSPD事務局長となり、14年住んだブレーメンを離れて[[ベルリン]]に引っ越した。そこでSPDの党学校に学んだが、そこで[[マルクス主義]]及び[[経済学]]の講師を務めていた[[ローザ・ルクセンブルク]]に習っている。1912年にエーベルトは[[帝国議会 (ドイツ帝国)|帝国議会]]議員に初当選し、SPDは議会第一党に躍進した。翌[[1913年]]に[[アウグスト・ベーベル]]が死ぬと、9月20日の党大会で彼は[[フーゴー・ハーゼ]]と並んで党首(幹部会議長)に就任。エーベルトはSPDの穏健[[修正主義]]のリーダーとなる。またエルバーフェルト(現在の[[ヴッパータール]])でも政治家を務めた。<br />
<br />
=== 大戦と革命 ===<br />
[[1914年]]8月、[[第一次世界大戦]]が勃発。8月4日の戦時予算案の議決に際し、エーベルトは「祖国が危機に瀕しているときに放っておきはしない」と戦争を必要な愛国的防衛の手段だとして受け入れ、戦時適応法を支持して、党議拘束でほぼ全員一致で投票させた。党のスタンスは、エーベルトや戦争を支持していた[[フィリップ・シャイデマン]]のような修正主義派のリーダーシップの下で進められていた。しかしこの大戦ではエーベルトの3人の息子のうち2人が戦死、末子の[[フリードリヒ・エーベルト_(息子)|フリードリヒ]]も負傷している。<br />
<br />
戦争の勝利の見込みが薄くなると、戦争に反対するハーゼや[[カール・カウツキー]]をはじめとする左派は1916年に離党あるいは除名された。彼らは翌年4月に[[アメリカ合衆国]]が[[連合国 (第一次世界大戦)|連合国]]に参戦すると、[[ドイツ独立社会民主党]](USPD)を結成した。またローザ・ルクセンブルクや[[カール・リープクネヒト]]ら急進左派は[[スパルタクス団]]を結成して分離した。エーベルトはハーゼの議会議員団長の職を引き継ぎ、シャイデマンが共同党首になった。1918年に敗色が濃厚になると、10月にエーベルトやSPDの他のメンバーを含めた、[[マクシミリアン・フォン・バーデン]]による新内閣が組閣された。<br />
<br />
[[キール (ドイツ)|キール]]で水兵の反乱が起きて[[ドイツ革命]]が勃発し、その波がドイツ各地に広まると、宰相マクシミリアンは11月9日に辞職して独断で皇帝[[ヴィルヘルム2世 (ドイツ皇帝)|ヴィルヘルム2世]]の退位を発表し、同様にエーベルトを自分の後任のドイツ帝国臨時宰相に指名した。同日ベルリンの[[国会議事堂 (ドイツ)|帝国議会]]でフィリップ・シャイデマンが、帝政の終了と共和国発足を宣言した。翌日発足したSPDとUSPDによる[[臨時政府]](人民代表委員会([[:en:Council of the People's Deputies|en]]))は、完全にエーベルトの主導権下に入り、エーベルトはハーゼと共に委員長に就任した<ref>エーベルトとハーゼは同格扱いだったが、建前上はマクシミリアン・フォン・バーデンから法的根拠がないまま首相に指名されていたエーベルトが首相格とされ、ハーゼは副首相格だった。ただしドイツ語版ウィキペディアなど、ハーゼをエーベルトと並ぶ暫定首相扱いする場合もある。</ref>。さらにエーベルトは軍のトップとなった[[ヴィルヘルム・グレーナー]]とも交渉して協力を取り付けた。しかし本来エーベルトは君主制の支持者であり、この地位を不承不承に引き受けていた。<br />
<br />
[[Image:Ebert Fehrenbach.jpg|thumb|[[コンスタンティン・フェーレンバッハ|フェーレンバッハ]]首相(中央右)と'''エーベルト'''(中央左)(1920年)]]<br />
<br />
=== 初代大統領 ===<br />
なおも革命の高揚はおさまらず、首都ベルリンでも急進的な労働者・兵士レーテ(評議会)による動きがあったが、エーベルトは前線から復員した兵士による[[ドイツ義勇軍|義勇軍]]でこれを抑え込もうとした。同年のクリスマス、エーベルトは宮殿を占拠するレーテの水兵を武力鎮圧することに決めた。この決定に反対したハーゼらUSPDの委員は臨時政府から離脱した。続いて翌1919年1月にスパルタクス団員による暴動が発生すると、エーベルトは軍隊・義勇軍でこれを鎮圧した。一連の暴動による死者はドイツ全国で数千人に上るといわれる。同月制憲会議のための総選挙が行われ、SPDは第一党となった。2月6日から[[ヴァイマル]]で国民会議が開催されて[[ヴァイマル憲法]]が制定され、[[ヴァイマル共和政]]樹立が定まる。[[2月11日]]の{{仮リンク|1919年ドイツ大統領選挙|de|Reichspräsidentenwahl 1919|en|German presidential election, 1919|label=大統領選挙}}で、エーベルトは[[ドイツ国]]の初代大統領に選ばれた。<br />
<br />
1919年6月、一方的な[[パリ講和会議]]で[[ヴェルサイユ条約]]が締結され、連合国はドイツに対し膨大な賠償金支払など屈辱的な条件を押し付けた。これに反発して[[1920年]]には右翼による[[カップ一揆]]が発生、労働者は[[ゼネラル・ストライキ]]でこれに対抗して政府を守った。しかし、ストライキが終わった後、エーベルトの政府は再びドイツ西部での残りの暴動を押さえるために義勇軍や兵士を増強した。その後も困難は続き、[[1923年]]9月にはドイツの賠償金支払いの遅れに苛立った[[フランス]]が[[ルール占領]]を強行。その結果ハイパー[[インフレーション]]が頂点に達し、危機を乗りきるために[[グスタフ・シュトレーゼマン]]を首班とする[[大連立]]内閣が発足するが、のちにSPDは連立政権からの離脱を決定。エーベルトはかつて党首を務めた自らの党を叱責した。<br />
<br />
=== 死去と評価 ===<br />
新生の共和国を取り巻く困難な情勢の中、[[ミュンヘン]]の新聞が、ドイツが大戦に敗れたのは1918年1月のストライキ委員長だったエーベルトらが「[[背後の一突き|背後からの一刺し]]」を加えたからだ、と書きたてて訴訟騒ぎになった。むしろストライキを早期に済ませるために委員長を引き受けた、とエーベルトは抗弁したが、[[マクデブルク]]地裁の判事がエーベルトはその時点では国家反逆罪だったと述べ、エーベルトに追い打ちをかけた。心労を重ねたエーベルトは医者の勧めを受け入れず盲腸炎を悪化させ、[[1925年]]2月28日に腹膜炎のため54歳で死去した。故郷ハイデルベルクに埋葬された。<br />
<br />
ドイツ史上最初の民選大統領ということで、現在のドイツではあらゆる町で大通りに彼の名前が冠されている。一方でエーベルトは今日まで非常に論争の的になっている人物である。後のヒンデンブルクよりも上回る回数でワイマール憲法第48条を濫発し、左派労働者の暴動を右派義勇軍を使って抑制したため、治安維持という点では一応の評価をされている一方、左派からは批判の対象とされている。<br />
<br />
== 外部リンク ==<br />
{{commons|Friedrich Ebert}}<br />
*[http://www.dhm.de/lemo/html/biografien/EbertFriedrich/index.html ドイツ歴史博物館]経歴紹介(ドイツ語)<br />
*[http://www.ebert-gedenkstaette.de/ フリードリヒ・エーベルト記念財団](ドイツ語)<br />
*[http://www.fes-japan.org/?page_id=368&lang=ja フリードリヒ・エーベルト財団東京事務所]<br />
*[http://library.fes.de/fulltext/historiker/00211005.htm#LOCE9E5 フリードリヒ・エーベルト財団の資料]写真多数(ドイツ語)<br />
<br />
== 脚注 ==<br />
<references /><br />
<br />
{{start box}}<br />
{{s-off}}<br />
{{Succession box<br />
| title = {{flagicon|DEU1919}} [[ドイツ国大統領]]<br />
| years = 初代:1919年 - 1925年<br />
| before = [[ヴィルヘルム2世 (ドイツ皇帝)|ヴィルヘルム2世]]<br />
| beforenote = [[ドイツ皇帝]]<br />
| after = [[パウル・フォン・ヒンデンブルク]]<br />
}}<br />
{{Succession box<br />
| title = {{flagicon|DEU1919}} [[ドイツ国首相]]<br />
| titlenote = (帝政ドイツ臨時政府人民代表委員長)<br />
| years = 1918年 - 1919年<br />
| before = -<br />
| after = [[フィリップ・シャイデマン]]<br />
}}<br />
{{Succession box<br />
| title = {{flagicon|DEU1871}} [[ドイツ国首相|ドイツ帝国宰相]]<br />
| years = 1918年<br />
| before = [[マクシミリアン・フォン・バーデン]]<br />
| after = -<br />
}}<br />
{{Succession box<br />
| title = {{PRU}}首相<br />
| years = 1918年<br />
| before = [[マクシミリアン・フォン・バーデン]]<br />
| after = {{仮リンク|パウル・ヒルシュ|de|Paul Hirsch}}<br />
| afternote = [[プロイセン州]][[:en:Minister President of Prussia|首相]]<br />
}}<br />
{{s-ppo}}<br />
{{Succession box<br />
| title = [[ドイツ社会民主党]]党首<br />
| titlenote = ([[フーゴー・ハーゼ]]、[[フィリップ・シャイデマン]]と共同)<br />
| years = 1913年 - 1919年<br />
| before = [[アウグスト・ベーベル]]<br />[[フーゴー・ハーゼ]]<br />
| after = [[オットー・ヴェルス]]<br />[[ヘルマン・ミュラー]]<br />
}}<br />
{{end box}}<br />
{{ドイツの国家元首}}<br />
{{ドイツの首相}}<br />
<br />
{{DEFAULTSORT:ええへると ふりいとりひ}}<br />
[[Category:ドイツの大統領]]<br />
[[Category:ドイツ帝国の首相]]<br />
[[Category:ヴァイマル共和国の政治家]]<br />
[[Category:ドイツ社会民主党の政治家]]<br />
[[Category:プロイセン州首相]]<br />
[[Category:新聞編集者]]<br />
[[Category:ハイデルベルク出身の人物]]<br />
[[Category:1871年生]]<br />
[[Category:1925年没]]</div>
114.161.14.158
マクシミリアン・フォン・バーデン
2018-08-29T00:24:11Z
<p>114.161.14.158: </p>
<hr />
<div>{{出典の明記|date=2016年9月}}<br />
{{基礎情報 皇族・貴族<br />
|人名=マクシミリアン<br />
|各国語表記={{Lang|de|Maximilian}}<br />
|家名・爵位=[[ツェーリンゲン家|バーデン家]]<br />
|画像=Bundesarchiv Bild 183-R04103, Prinz Max von Baden.jpg<br />
|画像サイズ=<br />
|画像説明=マクシミリアン(1914年)<br />
|続柄=<br />
|称号=[[バーデン (領邦)|バーデン]][[辺境伯]]<br />
|全名={{Collapsible list|title=一覧参照|{{Lang|de|Maximilian Alexander Friedrich Wilhelm}}<br>マクシミリアン・アレクサンダー・フリードリヒ・ヴィルヘルム}}<br />
|敬称=<br />
|出生日={{生年月日と年齢|1867|7|10|no}}<br />
|生地={{DEU1867}}<br>[[ファイル:Baden 1862.png|border|25x20px]] [[バーデン (領邦)|バーデン大公国]] [[バーデン=バーデン]]<br />
|死亡日={{死亡年月日と没年齢|1867|7|10|1929|11|6}}<br />
|没地={{DEU1919}}<br>[[File:Flagge Großherzogtum Baden (1891–1918).svg|border|25px]] [[:en:Republic of Baden|バーデン州]] [[コンスタンツ]]<br />
|埋葬日=<br />
|埋葬地=<br />
|配偶者1=[[マリア・ルイーゼ・フォン・ハノーファー]]<br />
|子女={{Collapsible list|title=一覧参照|マリー・アレクサンドリーネ<br>[[マクシミリアン・アンドレアス・フォン・バーデン|マクシミリアン]]<br>ルートヴィヒ}}<br />
|父親=[[ヴィルヘルム・フォン・バーデン (1829-1897)|ヴィルヘルム]]<br />
|母親=[[マリア・マクシミリアノヴナ・ロマノフスカヤ|マリア・マクシミリアノヴナ]]<br />
|役職=[[ドイツの首相|ドイツ帝国宰相]]<br />[[プロイセン王国]]首相<br />
|宗教=[[キリスト教]][[ルーテル教会]]<br />
|サイン=Signaturemaxvonbaden.png<br />
}}<br />
{{政治家<br />
|人名=マックス・フォン・バーデン<br />
|各国語表記={{Lang|de|Max von Baden}}<br />
|国略称=<br />
|画像=Bundesarchiv Bild 183-R04159, Berlin, Deutelmoser, Max v. Baden, v. Radowitz.jpg<br />
|出身校=[[ライプツィヒ大学]]<br />
|前職=<br />
|現職=<br />
|所属政党=無所属<br />
|称号・勲章=<br />
|国旗=DEU1871<br />
|職名=第8代[[ドイツの首相|ドイツ帝国宰相]]<br>{{PRU}}首相<br />
|就任日=[[1918年]][[9月30日]]<br />
|退任日=[[11月9日]]<br />
|元首職=[[ドイツ皇帝]]<br />
|元首=[[ヴィルヘルム2世 (ドイツ皇帝)|ヴィルヘルム2世]]<br />
}}<br />
'''プリンツ・マクシミリアン・アレクサンダー・フリードリッヒ・ヴィルヘルム・フォン・バーデン''' ({{lang-de|Prinz Maximilian Alexander Friedrich Wilhelm von Baden}}, [[1867年]][[7月10日]] - [[1929年]][[11月6日]])は、[[ツェーリンゲン家|バーデン大公家]]家長。'''マックス・フォン・バーデン'''({{lang-de|Max von Baden}})の[[人名の短縮形|短縮形]]の名で知られる。最後の[[バーデン (領邦)|バーデン]]大公[[フリードリヒ2世 (バーデン大公)|フリードリヒ2世]]の従弟にあたる。<br />
<br />
== 生涯 ==<br />
[[プロイセン王国|プロイセン]]の将軍であったバーデン大公子[[ヴィルヘルム・フォン・バーデン (1829-1897)|ヴィルヘルム]]とその妻である[[ロイヒテンベルク公]]女[[マリア・マクシミリアノヴナ・ロマノフスカヤ|マリア・マクシミリアノヴナ]]の長男として、[[バーデン=バーデン]]で生まれた。<br />
<br />
[[第一次世界大戦]]前から[[自由主義]]者として知られ、[[1918年]]10月に[[ドイツ帝国]][[ドイツ国首相|宰相]]に任命され[[連合国 (第一次世界大戦)|連合国]]との休戦交渉を担ったが、ドイツ政府は既に軍部に掌握されており、マクシミリアンの行動の余地は狭かった。彼は[[ヴィルヘルム2世 (ドイツ皇帝)|ヴィルヘルム2世]]が帝位を保持することはできないと悟っており、[[ホーエンツォレルン家]]を救うために退位を促した。彼は事態はもはや一刻ではなく分や秒を争うと皇帝に迫ったという<ref>『世界の歴史・第一次世界大戦』(中央公論社 1966年)による。なお、当書ではマックスを「バーデン大公」としているが、彼が家長位を継ぐのはその10年後のことであるから、正確な記述ではない。</ref>。[[パウル・フォン・ヒンデンブルク]]や[[ヴィルヘルム・グレーナー]]らも同調したが、ヴィルヘルム2世は退位を拒絶した。<br />
<br />
やがて、ヴィルヘルム2世は「帝位は退くが[[プロイセン国王|プロイセン王位]]は保持する」という苦肉の案に飛びついたが、マクシミリアンは皇帝の同意なしにドイツ皇帝位(およびプロイセン王位)の退位を発表した。しかし時すでに遅く、1918年[[11月9日]]、[[ヴァイマル共和政|ドイツ共和国]]成立の宣言がされた。マクシミリアンは[[フリードリヒ・エーベルト]]に後を託し、辞職した。マクシミリアンは退役して余生を過ごし、[[1928年]]に従兄のフリードリヒ2世よりバーデン大公家家長を継いだが、翌年に[[コンスタンツ]]で死去した。<br />
<br />
== 家族 ==<br />
[[ハノーファー王国|ハノーファー]]王太子[[エルンスト・アウグスト (ハノーファー王太子)|エルンスト・アウグスト(2世)]]の長女[[マリア・ルイーゼ・フォン・ハノーファー|マリア・ルイーゼ]]と結婚。1男1女を儲けた。<br />
* {{仮リンク|マリー・アレクサンドラ・フォン・バーデン|label=マリー・アレクサンドラ|de|Marie Alexandra von Baden}}(1902年 - 1944年) - ヘッセン=カッセル公子[[ヴォルフガング・フォン・ヘッセン|ヴォルフガング]]と結婚。[[第二次世界大戦]]中、[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]による[[フランクフルト・アム・マイン|フランクフルト]]空爆の犠牲となって死去。<br />
* [[ベルトルト・フォン・バーデン|ベルトルト]](1906年 - 1963年) - [[ギリシャ王国|ギリシャ]]・[[デンマーク]]王女[[セオドラ・ティス・エラザス (1906-1969)|テオドラ]]と結婚。<br />
<br />
== 出典・脚注 ==<br />
{{脚注ヘルプ}}<br />
{{Reflist}}<br />
<br />
== 参考文献 ==<br />
<br />
== 関連項目 ==<br />
{{Commonscat|Prince Maximilian of Baden}}<br />
* [[ドイツ革命]]<br />
<br />
{{start box}}<br />
{{s-off}}<br />
{{Succession box<br />
| title = {{DEU1871}}[[ドイツ国首相|宰相]]<br />
| years = 第8代:1918年<br />
| before = [[ゲオルク・フォン・ヘルトリング]]<br />
| after = [[フリードリヒ・エーベルト]]<br />
}}<br />
{{Succession box<br />
| title = {{PRU}}首相<br />
| years = 1918年<br />
| before = ゲオルク・フォン・ヘルトリング<br />
| after = フリードリヒ・エーベルト<br />
}}<br />
{{s-reg|de}}<br />
{{Succession box<br />
| title = [[ツェーリンゲン家|バーデン大公家]]家長<br />
| years = 1928年 - 1929年<br />
| before = [[フリードリヒ2世 (バーデン大公)|フリードリヒ2世]]<br />
| after = [[ベルトルト・フォン・バーデン|ベルトルト]]<br />
}}<br />
{{end box}}<br />
{{Normdaten}}<br />
{{DEFAULTSORT:はあてん まくしみりあん}}<br />
[[Category:バーデン大公子|まくしみりあん]]<br />
[[Category:プロイセンの政治家]]<br />
[[Category:ドイツ帝国の首相]]<br />
[[Category:第一次世界大戦期の政治家]]<br />
[[Category:王位請求者|まくしみりあん]]<br />
[[Category:バーデン家|まくしみりあん]]<br />
[[Category:バーデン=バーデン出身の人物]]<br />
[[Category:1867年生]]<br />
[[Category:1929年没]]</div>
114.161.14.158
ヴィリー・シュトフ
2018-08-29T00:13:27Z
<p>114.161.14.158: </p>
<hr />
<div>{{政治家<br />
|各国語表記 = {{lang|de|Willi Stoph}}<br />
|画像 = Bundesarchiv Bild 183-R0430-0305A, Willi Stoph.jpg<br />
|画像説明 = <br />
|国略称 = {{DDR}}<br />
|生年月日=[[1914年]][[7月9日]]<br />
|出生地={{DEU1871}}<br>[[File:Flag of Prussia (1892-1918).svg|25px]] [[プロイセン王国]] [[ベルリン]]<br />
|没年月日={{死亡年月日と没年齢|1914|7|9|1999|4|13}}<br />
|死没地 = {{DEU}} ベルリン<br />
|出身校 = <br />
|所属政党 = [[ドイツ共産党]](1931-1946)<br />[[ドイツ社会主義統一党]](1946-1990)<br />
|称号・勲章 = [[ドイツ民主共和国英雄]]<br />[[カール・マルクス勲章]]<br />
|配偶者 = <br />
|サイン = <br />
|ウェブサイト = <br />
|サイトタイトル = <br />
|国旗 = 東ドイツ<br />
|職名 = [[ドイツ民主共和国]] 第4代[[ドイツの首相|閣僚評議会議長]]<br />
|内閣 = 第2次ヴィリー・シュトフ内閣<br />
|選挙区 = <br />
|当選回数 = <br />
|就任日 = [[1976年]][[10月29日]]<br />
|退任日 = [[1989年]][[11月7日]]<br />
|退任理由 = <br />
|元首職 = [[国家評議会 (東ドイツ)|国家評議会議長]] <br />
|元首 = [[エーリッヒ・ホーネッカー]]<br />
|国旗2 = 東ドイツ<br />
|職名2 = ドイツ民主共和国 第2代国家評議会議長<br />
|内閣2 = <br />
|選挙区2 = <br />
|当選回数2 = <br />
|就任日2 = [[1973年]][[10月3日]]<br />
|退任日2 = [[1976年]][[10月29日]]<br />
|退任理由2 = <br />
|元首職2 = <br />
|元首2 = <br />
|国旗3 = 東ドイツ<br />
|職名3 = ドイツ民主共和国 第2代閣僚評議会議長<br />
|内閣3 = 第1次ヴィリー・シュトフ内閣<br />
|選挙区3 = <br />
|当選回数3 = <br />
|就任日3 = [[1964年]][[9月21日]]<br />
|退任日3 = [[1973年]][[10月3日]]<br />
|退任理由3 = <br />
|元首職3 = 国家評議会議長<br />
|元首3 = [[ヴァルター・ウルブリヒト]]<br />
|国旗4 = 東ドイツ<br />
|職名4 = ドイツ民主共和国 初代国防大臣<br />
|内閣4 = [[オットー・グローテヴォール]]内閣<br />
|選挙区4 = <br />
|当選回数4 = <br />
|就任日4 = [[1956年]][[3月1日]]<br />
|退任日4 = [[1960年]][[7月14日]]<br />
|退任理由4 = <br />
|元首職4 = 大統領<br />
|元首4 = [[ヴィルヘルム・ピーク]]<br />
|国旗5 = GDR1949<br />
|職名5 = ドイツ民主共和国 第2代内務大臣<br />
|内閣5 = オットー・グローテヴォール内閣<br />
|選挙区5 = <br />
|当選回数5 = <br />
|就任日5 = [[1952年]][[5月9日]]<br />
|退任日5 = [[1955年]][[7月1日]]<br />
|退任理由5 = <br />
|元首職5 = 大統領<br />
|元首5 = ヴィルヘルム・ピーク<br />
|国旗6 = 東ドイツ<br />
|その他職歴1 = ドイツ民主共和国 [[人民議会 (東ドイツ)|人民議会]]議員<br />
|就任日6 =[[1950年]]<br />
|退任日6 =[[1989年]]<br />
|国旗7 = <br />
|その他職歴2 = [[File:Coat of arms of NVA (East Germany).svg|20px]] [[国家人民軍]][[上級大将 (東ドイツ)|上級大将]]<br />
|就任日7 = [[1959年]]<br />
|退任日7 = }}<br />
'''ヴィリー・シュトフ'''({{lang|de|'''Willi Stoph'''}}, [[1914年]][[7月9日]] - [[1999年]][[4月13日]])は、[[ドイツ民主共和国|東ドイツ]]の[[政治家]]。[[ドイツの首相|閣僚評議会議長(首相)]]([[1964年]]-[[1973年]]、[[1976年]]-[[1989年]])、[[国家元首]]である[[国家評議会 (東ドイツ)|国家評議会]][[ドイツの国家元首一覧|議長]](1973年 - 1976年)を務めた。[[国家人民軍]][[上級大将_(東ドイツ)|上級大将]]。<br />
<br />
== 人物 ==<br />
=== 青年期 ===<br />
シュトフは1914年[[ベルリン]]に生まれ、彼の父はその翌年、[[第一次世界大戦]]で死亡した。国民学校を卒業後、レンガ職人の徒弟となる。一方で1928年、若きシュトフはドイツ共産主義青年同盟({{lang|de|Kommunistischer Jugendverband Deutschlands}}、略称:{{lang|de|KJVD}})に参加し、そして[[1931年]]彼は[[ドイツ共産党]]に入党した。党の情報部に所属し、[[ナチス]]に対する闘争に従事。彼はまた、1935年から37年まで兵役で[[ドイツ国防軍]]の砲兵連隊に入営。除隊後はベルリンの[[建築設計事務所]]で働いていたが、[[第二次世界大戦]]勃発後の1940年に再び従軍した。彼は第2級[[鉄十字章]]を授与され、[[下士官]]の位に昇級した。1942年に負傷。1943年には反ナチス組織の地下活動と連絡を取っていた。敗戦時の1945年4月、[[赤軍|ソ連軍]]の捕虜となるが、7月に脱走した。<br />
<br />
脱走後はロシア兵に変装してベルリンに逃げ戻る。[[建築設計事務所]]で働いた経験を生かし、共産党の建築部長となった。1948年には党執行部経済政策部門の長となる。[[ドイツ民主共和国]]の建国後の[[1950年]]、シュトフは[[ドイツ社会主義統一党]](SED)中央委員、及び[[人民議会 (東ドイツ)|人民議会]]({{lang|de|Volkskammer}})議員となった(この2つの肩書きは、1989年の東ドイツ崩壊まで保持し続ける)。そして1950年~52年、彼は人民議会の経済委員会委員長、閣僚評議会の社会問題局局長を歴任し、[[シュタージ|国家保安省]]の創設と[[兵営人民警察]](KVP)の組織化に関与した。<br />
<br />
=== 赤いプロイセン人 ===<br />
1952年~55年、彼は内相を務めた。この役職にあって、彼は東ドイツの全兵力に対する指揮権を公式に保有していた。そして1953年の「[[六月十七日事件|6月17日蜂起]]」を鎮圧後には、党中央委員会政治局員となった。1954年~62年、彼は{{仮リンク|閣僚評議会 (東ドイツ)|label=閣僚評議会|de|Ministerrat der Deutschen Demokratischen Republik}}副議長(副首相)を務め、1955年からは、兵営人民警察、国家保安省、科学技術庁、核研究・核技術庁、そして「核エネルギー平和利用のための経済評議会」に対して責任を負っていた。<br />
<br />
1956年~60年、東ドイツの再軍備に伴い彼は国防相をも務めた。そしてこの職にあって、[[ワルシャワ条約機構]]統合軍の副司令官を兼ねていた。1960年には、国家機関内における閣僚評議会及びSED中央委員会の決定の執行を調整し、統制することを任された。1962年~64年、彼は閣僚評議会第一副議長(第一副首相)を務め、1963年~64年に、国家評議会の委員を兼ねた。<br />
<br />
[[1964年]]~[[1973年|73年]]、死んだ[[オットー・グローテヴォール]]の後継として、閣僚評議会議長(首相)および国家評議会副議長を務めた。この間首相として、1967年に[[西ドイツ]]首相[[クルト・ゲオルク・キージンガー]]に東西両ドイツの交渉を呼びかける書簡を送付。[[1970年]]には後任の西ドイツ首相[[ヴィリー・ブラント]]と[[エアフルト]]及び[[カッセル]]で会談し、東西ドイツの指導者同士の初の会談を実現した。そして[[ヴァルター・ウルブリヒト]]の死後の1973年、シュトフは[[国家評議会議長]]、即ち共和国の[[国家元首]]となった。1976年の人民議会選挙の後、国家と党の指導部組織は再編され、シュトフは再度、閣僚評議会議長を務めた。ソ連に倣い、国家評議会議長の地位はSED書記長である[[エーリッヒ・ホーネッカー]]が兼任した。シュトフは東ドイツにおいて教条主義的[[共産主義]]者で厳格な[[保守]]派とみなされ「赤いプロイセン人(''Roter Preuße'')」などとあだ名された。<br />
<gallery><br />
File:Bundesarchiv Bild 183-57000-0314, Berlin, V. SED-Parteitag, 3.Tag.jpg|第3回SED党大会でのシュトフ国防相(左)と[[ハンガリー社会主義労働者党]]の[[カーダール・ヤーノシュ|カーダール]][[第一書記]](右) (1958年)<br />
ファイル:Bundesarchiv B 145 Bild-F031406-0017, Erfurt, Treffen Willy Brandt mit Willi Stoph.jpg|エアフルトで会見するブラント(前列左)とシュトフ(右)(1970年3月19日)<br />
File:Bundesarchiv Bild 183-M1025-335, Berlin, 5. DDR-Staatsratsitzung, Willi Stoph.jpg|国家評議会議長に就任したシュトフ(1973年10月3日)<br />
<br />
file:Bundesarchiv Bild 183-Z0626-408, Berlin, Ministerrat der DDR, Gruppenbild.jpg|シュトフ内閣(閣僚評議会)のメンバー(1981年)<br />
</gallery><br />
<br />
<br />
=== 没落 ===<br />
一連の[[東欧革命]]により東ドイツでも西側への[[市民]]の[[逃亡]]や[[デモ]]行進が相次ぎ、SEDの党内からもホーネッカーに対する反発が増してきた中、[[1989年]]10月17日の[[政治局]]会議でシュトフは突如「エーリッヒ、ちょっと発言が」と言うと、続いて「ホーネッカー同志の書記長解任、およびミッターク、ヘルマン同志の解職を提案したい」と述べ、ホーネッカーに引導を渡す役割を演じた<ref>三浦元博・山崎博康『東欧革命-権力の内側で何が起きたか-』(岩波新書 1992年 ISBN 4004302560)P17</ref>。結局解任動議は可決され、翌日の党[[中央委員会]]でホーネッカーは辞任した。<br />
<br />
党内改革派を名乗るホーネッカーの後任[[エゴン・クレンツ]]書記長や[[ハンス・モドロウ]](党ドレスデン地区委員会第一書記)、さらには[[国民]]からの圧力により、11月7日にシュトフと44人の閣僚は総辞職した。11月8日、党中央委員会はモドロウをシュトフの後継として選出し、その翌日に[[ベルリンの壁崩壊]]が起きた。<br />
<br />
シュトフは人民議会での演説で東ドイツの失政の責任をホーネッカーに押し付けようと試みたが、1989年12月にはSEDを除名され、さらには失政と汚職の容疑で不当に[[逮捕]]された。この[[捜査]]では、彼が国立公園内に私有していた狩猟のための別荘が発見された。しかし彼は1990年2月に[[健康]]上の理由から[[保釈]]された。彼は[[ソ連]]に[[政治]][[亡命]]を希望したが、ソ連側は何の反応も示さなかった。<br />
<br />
東西[[ドイツ再統一]]後の1991年、ベルリンの壁で死んだ犠牲者に対する殺人容疑で再び逮捕された。しかし再び健康上の理由で翌年8月に釈放、翌年この[[裁判]]は最終的に審理停止となった。[[1994年]]10月14日、[[ベルリン]]の法廷は彼の20万[[ドイツマルク]]の[[資産]]を没収する決定をした。シュトフは[[1999年]][[4月13日]]に、ベルリンで死去した。<br />
<br />
==脚注==<br />
<references /><br />
== 外部リンク ==<br />
{{Commonscat}}<br />
*[http://www.dhm.de/lemo/html/biografien/StophWilli/ Lebendiges Museum Online]経歴紹介 {{de icon}}<br />
<br />
{{start box}}<br />
{{s-off}}<br />
{{Succession box<br />
| title = {{flagicon|DDR}} [[ドイツ民主共和国]]<br />[[国家評議会 (東ドイツ)|国家評議会]][[ドイツの国家元首一覧|議長]]<br />
| years = 第2代:1973 - 1976<br />
| before = [[フリードリヒ・エーベルト (息子)|フリードリヒ・エーベルト]]<br />
| beforenote = (臨時代理)<br />
| after = [[エーリッヒ・ホーネッカー]]<br />
}}<br />
{{Succession box<br />
| title = {{flagicon|DDR}} [[ドイツ民主共和国]]<br />[[ドイツの首相|閣僚評議会議長]]<br />
| years = 第2代:1964 - 1973<br />
| before = [[オットー・グローテヴォール]]<br />
| after = [[ホルスト・ジンダーマン]]<br />
}}<br />
{{Succession box<br />
| title = {{flagicon|DDR}} [[ドイツ民主共和国]]<br />[[ドイツの首相|閣僚評議会議長]]<br />
| years = 第4代:1976 - 1989<br />
| before = [[ホルスト・ジンダーマン]]<br />
| after = [[ハンス・モドロウ]]<br />
}}<br />
{{Succession box<br />
| title = {{flagicon|DDR}} ドイツ民主共和国国防相<br />
| years = 1956 - 1960<br />
| before = (創設)<br />
| after = [[カール=ハインツ・ホフマン]]<br />
}}<br />
{{Succession box<br />
| title = {{flagicon|GDR1949}} ドイツ民主共和国内相<br />
| years = 1952 - 1955<br />
| before = [[カール・シュタインホーフ]]<br />
| after = [[カール・マーロン]]<br />
}}<br />
{{end box}}<br />
{{ドイツの国家元首|1973-1976}}<br />
{{ドイツの首相}}<br />
{{Normdaten}}<br />
{{DEFAULTSORT:しゆとふ ういりい}}<br />
[[Category:ドイツ民主共和国の内相]]<br />
[[Category:ドイツ民主共和国の国防相]]<br />
[[Category:ドイツ民主共和国英雄]]<br />
[[Category:ドイツ民主共和国労働英雄]]<br />
[[Category:ドイツ民主共和国の首相]]<br />
[[Category:ドイツ第三帝国の軍人]]<br />
[[Category:ドイツ民主共和国の上級大将]]<br />
[[Category:カール・マルクス勲章受章者]]<br />
[[Category:レーニン勲章受章者]]<br />
[[Category:ゲオルギ・ディミトロフ勲章受章者]]<br />
[[Category:捕虜となった人物]]<br />
[[Category:ベルリン出身の人物]]<br />
[[Category:1914年生]]<br />
[[Category:1999年没]]</div>
114.161.14.158
オットー・グローテヴォール
2018-08-29T00:10:08Z
<p>114.161.14.158: </p>
<hr />
<div>{{政治家<br />
|人名 = オットー・グローテヴォール<br />
|各国語表記 = Otto Grotewohl <br />
|画像 = Bundesarchiv Bild 183-19204-3150, Otto Grotewohl.jpg<br />
|画像説明 = <br />
|国略称 = {{DDR}}<br />
|生年月日 = [[1894年]][[3月11日]]<br />
|出生地 = {{DEU1871}}<br />[[File:Flagge Herzogtum Braunschweig.svg|25px]] [[ブラウンシュヴァイク公国]] [[ブラウンシュヴァイク]]<br />
|没年月日 = {{死亡年月日と没年齢|1894|3|11|1964|9|21}}<br />
|死没地 = {{DDR}} [[東ベルリン]]<br />
|出身校 = <br />
|前職 = <br />
|現職 = <br />
|所属政党 = ([[ドイツ社会民主党]]→)<br/>([[ドイツ独立社会民主党]]→)<br/>(ドイツ社会民主党→)<br />[[ドイツ社会主義統一党]]<br />
|称号・勲章 = [[レーニン勲章]]<br />[[カール・マルクス勲章]]<br />東ドイツ祖国功労勲章金メダル<br />ドレスデン市名誉市民<br />
|配偶者 = マルタ・ヴィッツ<br />
|子女 = <br />
|親族(政治家) = <br />
|サイン = <br />
|ウェブサイト = <br />
|サイトタイトル = <br />
|国旗 = DDR<br />
|職名 = 初代[[ドイツの首相|首相]]<br />
|内閣 = <br />
|就任日 = [[1949年]][[10月12日]]<br />
|退任日 = [[1964年]][[9月21日]]<br />
|元首職 = [[ドイツの大統領|大統領]]<br />[[国家評議会 (東ドイツ)|国家評議会議長]]<br />
|元首 = [[ヴィルヘルム・ピーク]]<br />[[ヴァルター・ウルブリヒト]]<br />
|国旗2 = <br />
|職名2 = [[ドイツ社会主義統一党]]共同議長<br />
|内閣2 = <br />
|就任日2 = [[1946年]]<br />
|退任日2 = [[1950年]]<br />
|元首職2 = <br />
}}<br />
'''オットー・グローテヴォール'''(Otto Grotewohl、[[1894年]][[3月11日]] - [[1964年]][[9月21日]])はドイツの政治家。[[第二次世界大戦]]前に[[ドイツ社会民主党]]の要職を務め、戦後は[[ドイツ民主共和国]](東ドイツ)の初代[[ドイツの首相|首相]]({{lang|de|Ministerpräsident}}<ref>1949年制定の[[ドイツ民主共和国憲法|東ドイツ憲法]]では首相({{lang|de|Ministerpräsident}})[http://www.documentarchiv.de/ddr/verfddr1949.html#c4 東ドイツ憲法(1949) 第91条]。グローテヴォールの死後の1968年の憲法改正で閣僚評議会議長({{lang|de|Vorsitzende des Ministerrates}})に改められた[http://www.documentarchiv.de/ddr/verfddr1968.html#IIIk3 東ドイツ憲法(1968) 第80条]。</ref>)となった。<br />
<br />
== 経歴 ==<br />
[[ブラウンシュヴァイク]](現[[ニーダーザクセン州]])に生まれ、[[1908年]]から[[1912年]]まで印刷工の修業をした。修業生活後、グローテヴォールは[[ドイツ社会民主党]](SPD)に入党した。[[1918年]]から[[1922年]]の間は社会民主党から離党した[[ドイツ独立社会民主党]](USPD)に属していた。<br />
<br />
=== SPD時代 ===<br />
[[1920年]]から[[1930年]]まで、グローテヴォールはブラウンシュヴァイク州(ブラウンシュヴァイク自由国とも。以前の[[ブラウンシュヴァイク公国]])の州議会議員となった。彼は[[1921年]]に州国民教育大臣(Minister für Volksbildung)となり、[[1923年]]には内務大臣・法務大臣となった。1925年に党所属議員の死去に伴い[[国会 (ドイツ)|国会]]議員に繰り上げ当選し、[[1928年]]には州保険庁の長も歴任した。<br />
<br />
[[1933年]]、[[ナチス]]の[[ナチ党の権力掌握|政権獲得]]とともに彼は職を解かれ、ブラウンシュヴァイクを去る羽目になった。彼は[[ハンブルク]]に逃れ、[[1938年]]には[[ベルリン]]で雑貨商として暮らした。彼はブラウンシュヴァイク時代からの知人の社会民主党員、エーリヒ・グニフケ(Erich Gniffke)と抵抗運動を組織したが1938年8月に逮捕され、[[人民法廷]](Volksgerichtshof、民族法廷)で[[内乱罪]]に問われた。ただし訴訟は7ヵ月後に中断している。<br />
<br />
=== 東ドイツ時代 ===<br />
[[File:Fotothek df pk 0000172 011 Porträt, Ernst.jpg|thumb|250px|SEDの結党大会で握手する[[ヴィルヘルム・ピーク]](KPD)とグローテヴォール(SPD)。最前列右は[[ヴァルター・ウルブリヒト]]]]<br />
[[1945年]][[6月17日]]、グローテヴォールら[[ソ連占領地域]]に住むかつての社会民主党員は党再建の準備を開始した。彼は党中央委員会議長となるが、しかし[[東ベルリン]]のカルルスホルストに本拠を構える[[在独ソ連軍政府]]から圧力を受け、変節して[[ドイツ共産党]](KPD)との合同に積極的となった。[[1946年]][[3月31日]]、激しい内部の争いの中、[[西ベルリン]]の社会民主党員の間で「共産党と社会民主党、二つの労働者政党の合同に賛成するか?」との投票がなされた。結果は80%が否だった。東ベルリンでは投票自体がソ連軍に止められた。<br />
<br />
グローテヴォールは結局、4月22日に共産党との合同<ref>共産党と合併したのは[[ソ連占領地区]]の社会民主党のみであり、米英仏占領地区の社会民主党はそのまま存続して現在に至っている。</ref>を行い、[[スターリニズム]]政党である[[ドイツ社会主義統一党]](SED)が誕生し、ドイツ共産党の[[ソ連占領地区]]の代表者[[ヴィルヘルム・ピーク]]とともにドイツ社会主義統一党議長に就任した。<br />
[[画像:Karla_Gänßler_Gedenktafel_Otto_Grotewohl.jpg|thumb|ベルリン・ヨナス百貨店(旧SED党中央委員会マルクス・レーニン主義研究所)にある、'''グローテヴォール'''の記念碑]]<br />
[[画像:Stamps of Germany (DDR) 1970, MiNr 1591.jpg|thumb|ゲルリッツ条約20周年記念切手(1970年)]]<br />
1948年にのちの[[人民議会 (東ドイツ)|人民議会]]の前身となる制憲会議の議長を務め、[[1949年]]にはドイツ民主共和国の建国とともに初代首相に就任したが、旧SPDの党員は徐々に除名され、実権はソ連の代弁者ともいえるヴィルヘルム・ピークや[[ヴァルター・ウルブリヒト]](1950年よりドイツ社会主義統一党の書記長として党最高責任者となった)のもとにあった。首相として1950年に[[ポーランド]]との間でゲルリッツ条約を締結し、[[オーデル・ナイセ線]]を両国の国境として承認した(当時は「平和の国境」と呼ばれた)。またポーランド外相による[[中欧]]の[[非核]]化提案である「ラパツキ計画」に賛成したが、西側に拒絶された。彼は[[白血病]]のため[[1960年]]から休養し、1964年に首相在任のまま死去した。<br />
<br />
[[レーニン勲章]]、[[カール・マルクス勲章]]、東ドイツ祖国功労勲章金メダルを受章。ドレスデン市名誉市民。絵を描くのが好きで、絵画やフィルム撮影が趣味だった。<br />
<br />
== 注釈 ==<br />
<references /><br />
<br />
== 外部リンク ==<br />
*[http://www.dhm.de/lemo/html/biografien/GrotewohlOtto/ Lebenslauf Otto Grotewohl] {{de icon}}<br />
<br />
{{start box}}<br />
{{s-off}}<br />
{{Succession box<br />
| title = {{flagicon|DDR}} [[ドイツ民主共和国]]<br />[[閣僚評議会議長 (東ドイツ)|首相]]<br />
| years = 初代:1949 - 1964<br />
| before = (創設)<br />
| after = [[ヴィリー・シュトフ]]<br />
}}<br />
{{s-ppo}}<br />
{{Succession box<br />
| title = [[ドイツ社会主義統一党]]議長<br />
| titlenote = [[ヴィルヘルム・ピーク]]と共同<br />
| years = 初代:1946 - 1950<br />
| before = (創設)<br />
| after = [[ヴァルター・ウルブリヒト]]<br />
| afternote = (ドイツ社会主義統一党書記長)<br />
}}<br />
{{end box}}<br />
{{ドイツの首相}}<br />
{{DEFAULTSORT:くろてうおる おつと}}<br />
[[Category:ドイツ民主共和国の首相]]<br />
[[Category:ドイツ社会民主党の政治家]]<br />
[[Category:カール・マルクス勲章受章者]]<br />
[[Category:レーニン勲章受章者]]<br />
[[Category:ブラウンシュヴァイク出身の人物]]<br />
[[Category:1894年生]]<br />
[[Category:1964年没]]</div>
114.161.14.158
イパチェフ館
2018-08-14T22:07:46Z
<p>114.161.14.158: </p>
<hr />
<div>{{coord|56|50|39|N|60|36|35|E|region:RU-SVE_type:landmark|display=title}}<br />
[[File:Ipat'jev Haus.jpg|300px|right|thumb|イパチェフ館(19世紀末に撮影)]]<br />
[[File:Ipatiev House in 1918.jpg|300px|right|thumb|イパチェフ館(1918年春に撮影)]]<br />
'''イパチェフ館'''('''{{翻字併記|ru|Дом Ипатьева|Ipatiev House}}''')は、元は[[エカテリンブルク]]在住の商人の家であったが、接収されて[[1918年]][[4月30日]]から[[ロマノフ朝]]最後の[[ロシア皇帝|皇帝]][[ニコライ2世]]一家を幽閉するための建物として78日間使用された。一家やその従者たちは同年[[7月17日]]未明に[[ヤコフ・ユロフスキー]]率いる[[チェーカー]]の銃殺隊によって、この建物内で[[超法規的殺害]](裁判手続きを踏まない殺人)が実行された。<br />
<br />
館は[[1977年]]に[[スヴェルドロフスク州]]の党最高責任者[[ボリス・エリツィン]]の命令によって取り壊され、[[2003年]]にかつて館が存在していた場所に{{仮リンク|血の上の教会|en|Church of All Saints, Yekaterinburg|label=血の上の教会}}が建造された。<br />
<br />
== 皇帝一家の監禁と殺害 ==<br />
{{see also|ロマノフ家の処刑}}<br />
[[File:Outside Nicolas Ipatiev.jpg|300px|thumb|ニコライ・イパチェフ]]<br />
[[File:Ipatiev House - Dining room.jpg|300px|thumb|イパチェフ館の食堂]]<br />
[[File:Ipatyev house basement.jpg|300px|thumb|皇帝一家と従者たちの殺害が実行された地下2階]]<br />
[[File:Ipatjew-Haus2.jpg|300px|thumb|イパチェフ館(1928年撮影)]]<br />
[[File:Photo 013 - Receipt issued by Commissar Yakovlev.jpg|300px|thumb|'''『荷物』(前皇帝一家)'''のウラル・ソビエト執行委員会への引き渡し文書。一家の監視役である{{仮リンク|ヴァシリー・ヤコブレフ|en|Vasily Yakovlev|ru|Мячин, Константин Алексеевич}}の署名入り]]<br />
[[エカテリンブルク]]にあるイパチェフ館の所有者、{{仮リンク|ニコライ・イパチェフ|ru|Ипатьев, Николай Николаевич|label=ニコライ・イパチェフ}}は[[1918年]]4月終わりにウラル・ソビエト執行委員会のオフィスに呼び出され、数時間以内に館から退去するよう命じられた。彼はひとまずエカテリンブルク郊外の別荘に立ち退いて急場を凌いだ<ref>[[#サマーズ, マンゴールド(1987年)|サマーズ, マンゴールド(1987年)]] p.32</ref>。<br />
<br />
[[4月30日]]に前[[ロシア皇帝|皇帝]][[ニコライ2世]]とその妻[[アレクサンドラ・フョードロヴナ (ニコライ2世皇后)|アレクサンドラ皇后]]、三女[[マリア・ニコラエヴナ (ニコライ2世皇女)|マリア皇女]]は列車で[[エカテリンブルク旅客駅|エカテリンブルク駅]]に到着すると待ち構えていたウラル・ソビエト当局にただちに身柄を拘束され、イパチェフ館へと送り込まれた<ref>[[#植田(1998年)|植田(1998年)]] p.205</ref>。他の3人の皇女([[オリガ・ニコラエヴナ (ニコライ2世皇女)|オリガ皇女]]、[[タチアナ・ニコラエヴナ|タチアナ皇女]]、[[アナスタシア・ニコラエヴナ|アナスタシア皇女]])は弟の[[アレクセイ・ニコラエヴィチ (ロシア皇太子)|アレクセイ皇太子]]を連れて、両親のエカテリンブルク到着から3週間後の1918年[[5月23日]]にようやく合流した。当時、アレクセイは持病の[[血友病]]が悪化してエカテリンブルクへの長旅に耐えられるだけの体力が残されていなかったため、アレクセイが旅行に堪えられるまで回復するのを待っての合流となった<ref>[[#サマーズ, マンゴールド(1987年)|サマーズ, マンゴールド(1987年)]] p.31</ref>。<br />
<br />
皮肉にも[[ロマノフ朝]]が創始された場所は[[コストロマ]]にある同名の{{仮リンク|イパチェフ修道院|en|Ipatiev Monastery|label=イパチェフ修道院}}であった<ref>[[#ラヴェル(1998年)|ラヴェル(1998年)]] p.78</ref>。<br />
<br />
当時のイパチェフ館は広い大通り{{仮リンク|カール・リープクネヒト通り (エカテリンブルク)|ru|Улица Карла Либкнехта (Екатеринбург)|label=ヴォズネセンスキー通り}}に面しており、正面には堂々とした石造りの門があった<ref name="サマーズ32-33">[[#サマーズ, マンゴールド(1987年)|サマーズ, マンゴールド(1987年)]] pp.32-33</ref>。[[ソ連共産党|共産党]]はこの館を「'''特別目的館'''」という不気味な名称に変更した。ニコライ2世一家の到着前から館の玄関前には木の柵が張り巡らされ、しばらくすると、中庭と通りに面した脇の出入口を仕切る第二の柵が作られた<ref name="サマーズ32-33" />。警護兵は約50人配置され、各玄関の見張り小屋から中庭や庭を監視していた。屋根裏部屋の窓や一階の要所には機関銃座が据え付けられ、2階では屋内警護兵が一日中、ロマノフ家の住む一郭の周りを歩き回っていた<ref name="サマーズ32-33" />。<br />
<br />
ニコライ2世一家と従者たちは2階の6部屋に押し込められた。このうち、[[OTMA|4人の皇女たち]](オリガ、タチアナ、マリア、アナスタシア)は一部屋を共有し、ニコライ2世とアレクサンドラは病身のアレクセイと3人で一部屋を割り当てられた<ref name="サマーズ32-33" />。外を覗いたり、覗かれたりしないように窓はすぐに白く塗り潰され、夏も窓は開けてはならないという命令が下された<ref name="サマーズ32-33" />。一家の部屋に通じる唯一の出入り口の外には監視所と警護隊長以下の詰所が置かれていた<ref name="サマーズ32-33" />。朝食は砂糖の入っていない[[紅茶]]と[[黒パン]]、昼食は脂がたっぷり浮いたスープとほとんど肉の無い[[カツレツ]]という風に満足な食事が与えられなかった。また、食器も人数分あるわけではなく、ニコライ2世の家族も従者も同じ食器を順番に共用しなければならなかったという<ref>[[#植田(1998年)|植田(1998年)]] p.206 </ref>。警護兵もある時から一家から持ち物を盗むようになり、貴重品まで盗むようになった時にはニコライ2世も堪忍袋の緒が切れて怒ったが、逆に「囚人には命令する権限はない」とどやしつけられる始末だった<ref>[[#サマーズ, マンゴールド(1987年)|サマーズ, マンゴールド(1987年)]] p.36</ref>。<br />
<br />
1918年[[7月17日]]明け方前の深夜に[[医師]]の[[エフゲニー・ボトキン]]の2階の部屋に警護隊長[[ヤコフ・ユロフスキー]]が入室した。ユロフスキーは[[白軍]]がエカテリンブルクまで迫っているという理由で、ボトキンにニコライ2世一家と他の3人の従者([[メイド]]の[[アンナ・デミドヴァ]]、[[フットマン]]の[[アレクセイ・トルップ]]、[[コック (家事使用人)|料理人]]の[[イヴァン・ハリトーノフ]])を起こすように指示した。洗顔と着替えに約30分ほどの時間をかけることを許し、一家とその従者は地下2階へ移動した。その後にユロフスキー率いる銃殺隊が入室したが、この兵士たちは[[ラトビア人]]の[[傭兵]]だった<ref>[[#Kurth(1998年)|Kurth(1998年)]] p.195</ref>。<br />
<br />
ユロフスキーは一家を殺害する理由を簡単に話した。銃殺隊は一斉に発砲を開始したが、皇女たちやアレクセイは当局の検査をパスする目的で衣服に縫い付けた宝石がいわば[[コルセット]]代わりになって銃弾を跳ね返したりしていたため<ref>{{Cite book|和書 |author = [[中野京子]] |year = 2014 |title = 名画で読み解く ロマノフ家12の物語 |publisher = [[光文社]] |page = 221 |isbn = 978-4-334-03811-3}}</ref>、11人全員の死亡を確認するまでに20分ないしは30分ぐらいの時間を要したという<ref>[[#Kurth(1998年)|Kurth(1998年)]] p.197</ref>。<br />
<br />
7月17日の早朝、夜が明けてイパチェフ館に新鮮な[[牛乳|ミルク]]を届けに来た[[修道士|修道女]]の[[アントニナ・トリンキナ]]はその時の館の様子を次のように振り返っている<ref>[[#サマーズ, マンゴールド(1987年)|サマーズ, マンゴールド(1987年)]] p.46</ref>。<br />
{{cquote|''私達は館に着いてから長々と待たされました。誰も差し入れの品を受け取ってはくれませんでした。警護兵に隊長の居場所を尋ねると、「食事中」との返事でした。私達は「朝7時にですか?」と思わず聞き返しました。警護兵達は何度も出たり入ったりしていましたが、そのうちに「帰れ、もう何も持って来なくていい」と申しました。その日はミルクも受け取ってもらえませんでした。''<br />
}}<br />
<br />
殺害から4日後の7月21日に館の元の所有者ニコライ・イパチェフがウラル・ソビエト当局に呼び出され、ゴミだらけにされた自分の家の鍵を返却された<ref>[[#ラジンスキー(1993年)|ラジンスキー(1993年)]] p.247</ref>。さらにその4日後の7月25日にエカテリンブルクは陥落した<ref>[[#サマーズ, マンゴールド(1987年)|サマーズ, マンゴールド(1987年)]] p.52</ref>。<br />
<br />
== 館の解体 ==<br />
[[File:Yekaterinburg cathedral on the blood 2007.jpg|300px|thumb|ソビエト崩壊後にイパチェフ館の跡地に建てられた[[血の上の教会]]]]<br />
[[ロシア内戦]]後の1920年代半ばにイパチェフ館はウラル革命博物館の支部となり、皇帝一家が殺害された地下2階への訪問を含めた見学ツアーも実施されていた<ref>{{Cite web|url=http://magazines.russ.ru/ural/2003/8/zlok.html|title=Конец последнего свидетеля|publisher=Журнальный зал|language=ロシア語|accessdate=2014年4月3日}}</ref>。<br />
<br />
1970年代に入り、[[レオニード・ブレジネフ]]政権下で[[米ソデタント|米ソ間の緊張緩和]]が進むと、外国人の[[エカテリンブルク|スヴェルドロフスク]]訪問を禁止するのが困難となり、法的な手続きを経ずに皇帝一家や従者たちを皆殺しにした残虐行為の証拠隠滅を急ぐ必要が出てきた。<br />
<br />
[[1975年]][[7月26日]]に当時の[[ユーリ・アンドロポフ]][[ソ連国家保安委員会|KGB]]議長が[[ソビエト連邦共産党中央委員会|党中央委員会]]に以下の提案を行った<ref>[[#植田(1998年)|植田(1998年)]] pp.59-60</ref><ref>{{cite web|url=http://www.bukovsky-archives.net/pdfs/sovter75/pb75-1.pdf|title=Пост. ЦК КПСС № П185.34 от 4 августа 1975 г.|accessdate=2014-02-18}}</ref>。<br />
{{quotation|<br />
Пост. ЦК КПСС № П185.34 Секретно<br><br />
от 4 августа 1975 г. <br><br />
26 июля 1975 <br><br />
№ 2004-А ЦК КПСС<br><br />
<center>О сносе особняка Ипатьева <br><br />
в городе Свердловске.</center><br />
Антисоветскими кругами на Западе периодически инспирируются различного рода пропагандистские кампании вокруг царской семьи Романовых, и в этой связи нередко упоминается бывший особняк купца Ипатьева в г. Свердловске. <br> Дом Ипатьева продолжает стоять в центре города. В нём размещается учебный пункт областного управления культуры. Архитектурной и иной ценности особняк не представляет, к нему проявляет интерес лишь незначительная часть горожан и туристов. <br> В последнее время Свердловск начали посещать зарубежные специалисты. В дальнейшем круг иностранцев может значительно расшириться и дом Ипатьева станет объектом их серьёзного внимания. <br>В связи с этим представляется целесообразным поручить Свердловскому обкому КПСС решить вопрос о сносе особняка в порядке плановой реконструкции города. <br><br />
Проект постановления ЦК КПСС прилагается. <br><br />
Просим рассмотреть. <br><br />
Председатель Комитета госбезопасности Андропов.<br />
<br />
Секретно<br />
<center>Постановление ЦК КПСС <br><br />
О сносе особняка Ипатьева в гор. Свердловске<br />
</center><br />
<br />
# Одобрить предложение Комитета госбезопасности при Совете Министров СССР, изложенное в записке № 2004-А от 26 июля 1975 г.<br />
# Поручить Свердловскому Обкому КПСС решить вопрос о сносе особняка Ипатьева в порядке плановой реконструкции города. <br><br />
Секретарь ЦК.<br />
<br />
(日本語訳)<br><br />
[[西側諸国|西側]]の反ソ勢力によって、ロマノフ王朝の皇帝一家をめぐる様々な宣伝活動が繰り返し煽り立てられている。その際、しばしばスヴェルドロフスク市にある旧商人イパチェフの家が話題になっている。イパチェフの家は今も市の中心部に残っている・・・・・・。近年、外国の専門家がスヴェルドロフスク市を訪れるようになった。将来、訪れる外国人はずっと多くなるだろう。そうなると、イパチェフの家は彼らが重大な関心を寄せる対象になるに違いない。こうした状況により、ソ連共産党スヴェルドロフスク州委員会に、都市改造計画の一環としてこの家を取り壊す任務を委ねることが適当である・・・・・・右の件につき検討されたい。<br/>国家保安委員会議長 アンドロポフ<br />
<br />
極秘<br />
<br />
ソ連共産党中央委員会決定<br />
<br />
イパチェフの家(スヴェルドロフスク市)の解体を承認する。<br />
<br />
No.2004<br />
<br />
1975年7月26日付けソ連閣僚会議付属国家保安委員会の提案を承認する。<br />
<br />
ソ連共産党スヴェルドロフスク市委員会に対し、都市改造計画の一環としてイパチェフの家を取り壊す任務を委任する。<br />
<br />
党中央委員会書記<br />
}}<br />
<br />
現地[[スヴェルドロフスク州]]党委員会の第一書記は後年に改革派指導者となり、[[ロシア|新生ロシア]]の初代[[ロシア連邦大統領|大統領]]に就任した[[ボリス・エリツィン]]だった。エリツィン州第一書記は中央からの指令を直ちに実行に移し、イパチェフ館を取り壊して、跡地をコンクリートで固めて更地にした。彼は[[ソ連崩壊|ソビエト崩壊]]後に書いた自伝『告白』の中で「残念ながら、当時はそうするしか仕方がなかったのだ」と弁解し、皮肉にも[[1998年]]に皇帝一家の遺骸を丁重に埋葬する命令を出した<ref>[[#植田(1998年)|植田(1998年)]] p.61</ref>。<br />
<br />
== 脚注 ==<br />
{{Reflist}}<br />
<br />
== 参考文献 ==<br />
* {{Cite book|和書|author=Anthony Summers (著), Tom Mangold (著), [[高橋正]] (翻訳)|date=1987年|title=ロマノフ家の最期|publisher=[[中公文庫]]|isbn=978-4122014473|ref=サマーズ, マンゴールド(1987年)}}<br />
* {{Cite book|和書|author=植田樹|date=1998年|title=最後のロシア皇帝|publisher=[[ちくま新書]]|isbn=978-4480057679|ref=植田(1998年)}}<br />
* {{Cite book|和書|author=James Blair Lovell (著), [[広瀬順弘]] (翻訳)|date=1998年|title=アナスタシア―消えた皇女|publisher=[[角川文庫]]|isbn=978-4042778011|ref=ラヴェル(1998年)}}<br />
* {{Cite book|author=Peter Kurth|date=1998年|title=Tsar: The Lost World of Nicholas and Alexandra|publisher=Back Bay Books|language=英語|isbn=978-0316557887|ref=Kurth(1998年)}}<br />
* {{Cite book|和書|author=[[エドワード・ラジンスキー|Edvard Radzinsky]] (著), [[工藤精一郎]] (翻訳)|date=1993年|title=皇帝ニコライ処刑―ロシア革命の真相〈下〉|publisher=[[日本放送出版協会]]|isbn=978-4140801079|ref=ラジンスキー(1993年)}}<br />
<br />
== 外部リンク ==<br />
{{commons category|Ipatiev’s Mansion}}<br />
*[http://www.romanov-memorial.com/ Romanov Memorial Site]<br />
*[http://gatchina3000.ru/literatura/sokolov_n_a/murder_imperial_family37.htm Ipatiev House / Investigation of murder of the Romanov Imperial Family in 1918. In Russian]<br />
<br />
{{DEFAULTSORT:いはちえふかん}}<br />
[[Category:ホルシュタイン=ゴットルプ=ロマノフ家]]<br />
[[Category:ロシア革命]]<br />
[[Category:刑場]]<br />
[[Category:ロシアの博物館]]<br />
[[Category:現存しない建築物]]<br />
[[Category:エカテリンブルクの歴史]]<br />
[[Category:エカテリンブルクの建築物]]</div>
114.161.14.158
クラスノヤルスク演説
2018-08-14T20:02:57Z
<p>114.161.14.158: </p>
<hr />
<div>{{出典の明記|date=2012年6月}}<br />
'''クラスノヤルスク演説'''は、[[1988年]]9月、当時の[[ミハイル・ゴルバチョフ]]・[[ソ連共産党]]書記長が[[シベリア]]中部の都市[[クラスノヤルスク]]で行なった演説を指す。<br />
<br />
ゴルバチョフ書記長はクラスノヤルスク演説の2年前に[[ウラジオストック演説]]を行なって、アジア太平洋地域における[[安全保障]]体制の確立と、ソ連とアジア諸国との関係強化を呼びかけていたが、クラスノヤルスク演説ではその内容をさらに発展・強化させた。特に同年の[[ソウルオリンピック]]を機会に、[[韓国]]側に韓ソ間の経済交流の促進と関係正常化を提案し、2年後の韓ソ国交樹立への第一歩となった。<br />
<br />
{{russia-stub}}<br />
<br />
{{デフォルトソート:くらすのやるすくえんせつ}}<br />
[[Category:冷戦]]<br />
[[Category:演説]]<br />
[[Category:1988年のソビエト連邦]]<br />
[[Category:クラスノヤルスクの歴史|えんせつ]]<br />
[[Category:ミハイル・ゴルバチョフ]]<br />
[[Category:1988年9月]]</div>
114.161.14.158
ソチ・オートドローム
2018-08-14T19:41:20Z
<p>114.161.14.158: </p>
<hr />
<div>{{モータースポーツ開催地<br />
| サーキット名 = {{flagicon|RUS}} ソチ・オートドローム<br />
| サーキット画像 = Circuit Sochi.svg<br />
| 所在地 = [[ロシア]] [[クラスノダール地方]] [[ソチ]]<br />
| 座標 = {{Coord|43.405687|N|39.957778|E|dim:1km_type:landmark_region:RU|display=inline,title}}<br />
| オーナー = <br />
| 運営会社 = オメガ<br />
| 営業期間 = <br />
| 収容人数 =<br />
| 主なイベント = [[フォーミュラ1|F1]]<br />
| 設計者 = [[ヘルマン・ティルケ]]<br />
| レイアウト1 = Grand Prix circuit<br />
| レイアウト画像1 =<br />
| 使用期間1 =<br />
| コース長1 = 5.848km (3.634 mi)<br />
| コーナー数1 = 19<br />
| レコードタイム1 = 1:36.844<br />
| レコードドライバー1 = {{Flagicon|FIN}} [[キミ・ライコネン]]<br />
| レコードチーム1 = [[スクーデリア・フェラーリ|フェラーリ]]<br />
| レコード樹立年1 = [[2017年ロシアグランプリ|201]]7<br />
| レコードカテゴリ1 = [[フォーミュラ1|F1]]<br />
| レイアウト2 = Short circuit<br />
| レイアウト画像2 =<br />
| 使用期間2 =<br />
| コース長2 = 2.313 km (1.437 mi)<br />
| コーナー数2 =<br />
| レコードタイム2 =<br />
| レコードドライバー2 =<br />
| レコードチーム2 =<br />
| レコード樹立年2 =<br />
| レコードカテゴリ2 =<br />
| レイアウト3 =<br />
| レイアウト画像3 =<br />
| 使用期間3 =<br />
| コース長3 =<br />
| コーナー数3 =<br />
| レコードタイム3 =<br />
| レコードドライバー3 =<br />
| レコードチーム3 =<br />
| レコード樹立年3 =<br />
| レコードカテゴリ3 =<br />
| レイアウト4 =<br />
| レイアウト画像4 =<br />
| 使用期間4 =<br />
| コース長4 =<br />
| コーナー数4 =<br />
| レコードタイム4 =<br />
| レコードドライバー4 =<br />
| レコードチーム4 =<br />
| レコード樹立年4 =<br />
| レコードカテゴリ4 =<br />
}}<br />
'''ソチ・オートドローム'''([[ロシア語|露語]]:'''Сочи Автодром'''、Sochi Autodrom)は、[[ロシア]]の[[クラスノダール地方]][[ソチ]]にある[[サーキット]]。開業前は'''ソチ・インターナショナル・ストリート・サーキット'''({{lang-en|Sochi International Street Circuit}})<ref name="vettel">{{cite news|title=Vettel impressed by Russian circuit after first visit|url=http://www.autosport.com/news/report.php/id/106997|first=Aleksander|last=Kabanovsky|work=Autosport.com|publisher=[[Haymarket Media Group|Haymarket Publications]]|date=22 April 2013|accessdate=22 April 2013}}</ref>、あるいは'''ソチ・オリンピックパーク・サーキット'''({{lang-en|Sochi Olympic Park Circuit}})とも呼ばれていた。<br />
<br />
[[2014年]][[ソチオリンピック|ソチ冬季オリンピック]]のメイン会場を利用したロード/[[公道コース|ストリート]]コースであり、[[フォーミュラ1|F1]][[ロシアグランプリ]]を開催している。設計者は[[ヘルマン・ティルケ]]。<br />
<br />
== 特徴 ==<br />
[[ファイル:Sochi Olympic Park (rus).png|thumb|left|220px|ソチ・オリンピックパーク]]<br />
[[カナダグランプリ|カナダGP]]が開催される[[ジル・ヴィルヌーヴ・サーキット]]と同じく、オリンピック開催後の競技会場敷地を利用したコース。[[黒海]]に面したソチ・オリンピックパークに設営され、全長は5.848kmで、うち1.7kmは公道を使用する。現在のF1開催コースの中では[[スパ・フランコルシャン]]と[[シルバーストン・サーキット|シルバーストン]]に次ぐ長さとなる。コーナー数は19。<br />
<br />
スタート/フィニッシュラインはオリンピックパーク北端の駅近くにある。メインストレートを通過後、五輪のメダル授与式が行われる中央広場をぐるりと回りこみ、[[ボリショイ・アイス・ドーム]]([[アイスホッケー]]会場)、アイスキューブ・カーリングセンター([[カーリング]]会場)、[[アドレル・アリーナ]]([[スピードスケート]]会場)、[[アイスバーグ・スケート・パレス]]([[フィギュアスケート]]/[[ショートトラックスピードスケート|ショートトラック]]会場)などの競技施設の周りを巡って1周する。<br />
<br />
[[ジェンソン・バトン]]は[[2014年ロシアグランプリ|2014年]]のロシアGP初開催前に「[[韓国インターナショナル・サーキット|韓国]]と[[バレンシア市街地コース|バレンシア]]のようなコースをひとつにした感じのサーキット<ref>[http://www.topnews.jp/2014/10/09/news/f1/f1teams/mclaren/117932.html 「初ロシアGPを成功に導く」/マクラーレン、ロシアGPプレビュー].Topnews(2014年10月9日)</ref>」という感想を残しており、ティルケの特色が前面に押し出された設計になっている<ref>韓国とバレンシアのコースは2017年現在使用されることはない。</ref>。市街地コースのように鋭角コーナーが多く、コース両側はコンクリートウォールに囲まれている。バックストレートエンドのターン14は左に緩く曲がりながら急減速するためコントロールが難しく、2015年には[[カルロス・サインツJr.]]がバリアに衝突して病院へ搬送された<ref>[http://www.topnews.jp/2015/10/11/news/f1/130945.html 大クラッシュのサインツ、ロシアGP出走が決定].Topnews(2015年10月11日)</ref>。<br />
<br />
また、路面が非常にスムーズで、タイヤへの負担が少ない。2014年ロシアGPでは1周目にタイヤ交換を行った[[ニコ・ロズベルグ]]がそのまま最後まで走り切り、最下位から2位まで挽回した<ref>"[http://as-web.jp/news/info.php?c_id=1&no=60713 ロズベルグが51周走行のタイヤであわやFL]". オートスポーツweb.(2014年10月13日)2016年1月16日閲覧。</ref>。<br />
<br />
== 建設 ==<br />
[[ファイル:Vladimir Putin and Bernie Ecclestone 46776.jpeg|thumb|right|200px|2014年ロシアGPを観戦するプーチン大統領]]<br />
2010年10月、ロシアの[[ウラジミール・プーチン|プーチン大統領]]がソチでロシアGPを2014年から2020年まで開催する契約を結んだことを発表した<ref>"[http://jp.reuters.com/article/sportsNews/idJPJAPAN-17681620101015 F1=ロシアでGP開催へ、冬季五輪のソチで14年から]". Reuters.(2010年10月15日)2013年6月6日閲覧。</ref>。[[ロシア連邦政府]]は建設費用を2億ドル(約152億円)と見積もり、うち1億9540万ドルを国が負担し、残りはスポンサーと民間投資で賄うとした<ref>"[http://jp.reuters.com/article/sportsNews/idJPJAPAN-23848720111027 F1=露政府、152億円かけGPサーキットの建設を計画]". Reuters.(2011年10月27日)2013年6月3日閲覧。</ref>。<br />
<br />
[[国際オリンピック委員会]] (IOC) は2つのビックイベントの準備が重なることへ懸念を示し、五輪開催に影響が出るようであれば、ロシアGPを1年延期する決定を下すとコメントした<ref>"[http://2011.f1.topnews.jp/2011/01/14/news/f1/29583.html 国際オリンピック委員会にF1ロシアGP順延の権限]". Topnews.(2011年1月14日)2013年6月6日閲覧。</ref>。<br />
<br />
2013年1月、ソチのアナトリー・パホモフ市長はサーキット建設は予定通り進んでおり、オリンピック後の2014年秋に開催されるだろうと述べた<ref>"[http://www.gpupdate.net/ja/f1-news/289734/ ロシアGPは11月開催?]". GPUpdate.net.(2013年1月26日)2013年6月6日閲覧。</ref>。同年3月には運営会社のフォーミュラ・ソチが破産し、建設会社のオメガが仕事を引き継ぐことになったが<ref>"[http://ja.espnf1.com/f1/motorsport/story/103558.html ロシアGP主催者に破産報道]". ESPN F1.(2013年3月20日)2013年6月3日閲覧。</ref>、ロシア政府はサーキット完成に必要な資金を提供することを約束した<ref>"[http://f1-gate.com/russia_gp/f1_18851.html ロシア政府、ソチ・サーキットへの資金提供を約束]". F1-Gate.com.(2013年4月5日)2013年6月3日閲覧。</ref>。<br />
<br />
2014年はロシアが国際外交上多くの問題行動を起こしたため、報道陣から「F1を行える資格があるのか」と質問がFIAに殺到したが、[[バーニー・エクレストン]]は「金銭上問題がないので」と発言し物議をかもした。<br />
<br />
== 脚注 ==<br />
{{Reflist}}<br />
<br />
== 関連項目 ==<br />
* [[F1サーキットの一覧]]<br />
* [[ソチオリンピック]]<br />
<br />
== 外部リンク ==<br />
{{Commonscat|Sochi Autodrom}}<br />
* [http://sochiautodrom.ru/ 公式サイト](露語・英語)<br />
* {{facebook|sochiautodrom}}<br />
<br />
{{F1サーキット}}<br />
{{Motorsport-stub}}<br />
<br />
{{デフォルトソート:そちおおととろおむ}}<br />
[[Category:F1サーキット]]<br />
[[Category:ロシアのサーキット]]<br />
[[Category:ロシアグランプリ]]<br />
[[Category:ソチのスポーツ|おおととろおむ]]<br />
[[Category:ソチの建築物|おおととろおむ]]<br />
[[Category:2014年開業の施設]]</div>
114.161.14.158
テンプレート:英雄都市
2018-08-14T07:59:53Z
<p>114.161.14.158: </p>
<hr />
<div>{{Navbox<br />
|name=英雄都市<br />
|title=[[ソビエト連邦]]の[[英雄都市]]<br />
|state={{{state|autocollapse}}}<br />
|listclass=hlist<br />
|list1=<br />
<!--Cities are ordered by date of award, then in alphabetical order when more than one award given at one time:--><br />
*[[サンクトペテルブルク|レニングラード]]<br />
*[[オデッサ]]<br />
*[[セヴァストポリ ]]<br />
*[[ヴォルゴグラード|スターリングラード]]<br />
*[[キエフ]]<br />
*[[ブレスト要塞]]<br />
*[[モスクワ]]<br />
*[[ケルチ]]<br />
*[[ノヴォロシースク]]<br />
*[[ミンスク]]<br />
*[[トゥーラ (ロシア)|トゥーラ]]<br />
*[[ムルマンスク]]<br />
*[[スモレンスク]] <br />
}}<noinclude><br />
{{collapsible option}}<br />
<br />
{{DEFAULTSORT:えいゆうとし}}<br />
[[Category:ソビエト連邦のテンプレート]]<br />
[[Category:ソビエト連邦の英雄都市|T]]<br />
<br />
</noinclude></div>
114.161.14.158
英雄都市
2018-08-14T07:58:25Z
<p>114.161.14.158: </p>
<hr />
<div>{{出典の明記|date=2013年8月}}<br />
{{Location map+<br />
|European Russia<br />
|AlternativeMap = European Soviet Union laea location map.svg<br />
|border = <br />
|caption = 現在の[[東ヨーロッパ]]の地図で示す12の英雄都市と1つの英雄要塞<br />
|float = right<br />
|label = <br />
|width = 350<br />
|places = <br />
{{Location map~|European Russia|lat=52.08|long=23.66|position=bottom|label=[[ブレスト要塞]]}}<br />
{{Location map~|European Russia|lat=59.95|long=30.32|position=|label=[[サンクトペテルブルク]]}}<br />
{{Location map~|European Russia|lat=48.7 |long=44.52|position=|label=[[ヴォルゴグラード]]}}<br />
{{Location map~|European Russia|lat=46.47|long=30.73|position=left|label=[[オデッサ]]}}<br />
{{Location map~|European Russia|lat=44.6 |long=33.53|position=left|label=[[セヴァストーポリ]]}}<br />
{{Location map~|European Russia|lat=55.75|long=37.62|position=|label=[[モスクワ]]}}<br />
{{Location map~|European Russia|lat=50.45|long=30.52|position=|label=[[キエフ]]}}<br />
{{Location map~|European Russia|lat=44.72|long=37.77|position=bottom|label=[[ノヴォロシースク]]}}<br />
{{Location map~|European Russia|lat=45.33|long=36.47|position=top|label=[[ケルチ]]}}<br />
{{Location map~|European Russia|lat=53.9 |long=27.57|position=left|label=[[ミンスク]]}}<br />
{{Location map~|European Russia|lat=54.2 |long=37.62|position=|label=[[トゥーラ (ロシア)|トゥーラ]]}}<br />
{{Location map~|European Russia|lat=68.97|long=33.08|position=|label=[[ムルマンスク]]}}<br />
{{Location map~|European Russia|lat=54.78|long=32.05|position=top|label=[[スモレンスク]]}}<br />
}}<br />
'''英雄都市'''(えいゆうとし、{{lang-ru|город-герой}}, gorod-geroy, {{lang-uk|місто-герой}}, misto-heroy, {{lang-be|горад-герой}}, horad-heroy, 英:Hero City)とは、[[1941年]]から[[1945年]]にかけての「[[大祖国戦争]]」([[第二次世界大戦]]の[[独ソ戦]])において、[[ドイツ軍]]などの侵略に対して激しく抵抗し、傑出した英雄的行為を見せた[[ソビエト連邦]]の都市に対して贈られた名誉称号である。合計で12箇所の都市に対して贈られ、加えて[[ブレスト (ベラルーシ)|ブレスト]]要塞に対しては英雄都市と同格の「英雄要塞」の名誉称号が与えられた。都市にとってのこの称号は、個人にとっての'''[[ソ連邦英雄]]'''の称号と等しい重みを持つ。<br />
<br />
法令によれば、英雄都市に対してはソ連最高の勲章である[[レーニン勲章]]が与えられ、さらに[[金星章]]とともに英雄的行為(gramota)の証明書が[[ソ連最高会議幹部会]]から与えられた。また街の中に英雄都市であることを示す[[オベリスク]]が建てられた。<br />
<br />
== 英雄都市とされた街 ==<br />
[[ファイル:Coat of Arms of Volgograd.png|thumb|150px|ヴォルゴグラード市の紋章。英雄都市であることを示す勲章が描かれている]]<br />
;現[[ロシア連邦]]<br />
* {{RUS}} '''[[サンクトペテルブルク]]'''(旧レニングラード) - [[レニングラード包囲戦]]<br />
* {{RUS}} '''[[ヴォルゴグラード]]'''(旧スターリングラード) - [[スターリングラード攻防戦]]<br />
* {{RUS}} '''[[モスクワ]]''' - [[モスクワの戦い]]<br />
* {{RUS}} '''[[ノヴォロシースク]]'''<br />
* {{RUS}} '''[[トゥーラ (ロシア)|トゥーラ]]'''<br />
* {{RUS}} '''[[ムルマンスク]]''' - [[銀狐作戦]](1941年)<br />
* {{RUS}} '''[[スモレンスク]]''' - [[スモレンスクの戦い (1941年)|スモレンスクの戦い]] (1941年)<br />
;現[[ウクライナ]]<br />
* {{UKR}} '''[[オデッサ]]''' - [[オデッサの戦い (1941年)|オデッサの戦い]] (1941年)<br />
* {{UKR}} '''[[キエフ]]''' - [[キエフの戦い (1941年)|キエフの戦い]] (1941年)<br />
* {{UKR}} '''[[セヴァストポリ]]'''<ref name="example">ロシアの実効支配下にある</ref> - [[セヴァストポリの戦い (第二次世界大戦)|セヴァストポリの戦い]]<br />
* {{UKR}} '''[[ケルチ]]'''<ref name="example"/><br />
<br />
;現[[ベラルーシ]]<br />
* {{BLR}} '''[[ミンスク]]''' - [[ミンスクの戦い]](1941年)<br />
* {{BLR}} '''[[ブレスト要塞]]'''(英雄要塞) - ブレスト要塞防衛戦(1941年)<br />
<br />
== 歴史 ==<br />
[[ファイル:Pavlov's House.jpg|thumb|250px|[[スターリングラード攻防戦]](「[[パブロフの家]]」)]]<br />
[[ファイル:Hero City Sevastopol.jpg|thumb|250px|セヴァストポリの英雄都市記念碑]]<br />
「英雄都市」という語は、すでに1942年には[[プラウダ]]紙の記事に登場している。公式に英雄都市の語が用いられたのは、独ソ戦の勝利が決定的となった1945年5月1日、[[ヨシフ・スターリン]]が最高司令官命令20号で「英雄都市[[サンクトペテルブルク|レニングラード]]、[[ヴォルゴグラード|スターリングラード]]、[[セヴァストポリ]]、[[オデッサ]]」において礼砲を打つよう命じた時が最初である。<br />
<br />
大祖国戦争開戦20周年の1961年6月22日、[[キエフ]]市にレーニン勲章を与える政令、および1941年7月から9月までの[[キエフの戦い (1941年)|キエフの戦い]]で貢献した人々に対しての「キエフ防衛記章」({{lang|ru|За оборону Киева}})の創設を決定する政令において、「英雄都市」の語はキエフに対しても用いられた。<br />
<br />
1965年5月8日、大祖国戦争勝利20周年を機会に、ソ連最高会議幹部会は英雄都市という名誉称号を公式に創設する政令を発した。同日の政令において、上記の都市、すなわちレニングラード、ヴォルゴグラード(旧スターリングラード)、キエフ、セヴァストポリ、オデッサの五都市に対し英雄都市の称号を贈ることになった(ただしこれらの都市では、英雄都市になった記念日を5月8日ではなく、最初に英雄都市という名で呼ばれた日である5月1日あるいは6月22日としている)。加えて、[[モスクワ]]が英雄都市とされ、[[ブレスト (ベラルーシ)|ブレスト]]要塞が英雄要塞とされた。<br />
<br />
さらに1973年9月14日には[[ケルチ]]と[[ノヴォロシースク]]に、1974年6月26日には[[ミンスク]]に、1976年12月7日には[[トゥーラ (ロシア)|トゥーラ]]に、1985年5月6日には[[ムルマンスク]]と[[スモレンスク]]に、それぞれ英雄都市の名誉称号が贈られた。<br />
<br />
1988年、ソ連政府は英雄都市の称号の授与を公式に打ち切ったため、英雄都市の数は12、英雄要塞が1で全てとなっている。一方、[[2005年]][[4月5日]]、ロシア連邦の[[ドゥーマ]](下院)は新たに「軍事栄光都市」({{lang|ru|Город воинской славы}})の名誉称号を新設する法案を可決した。この法案により新たな名誉称号を与えられる都市の候補には、[[オリョール]]、[[ルジェフ]]、[[エリニャ]](イェリニャ)、[[ヴォロネジ]]、[[ヴャジマ]]などの独ソ戦の激戦地が挙げられている。ただしこの法案は、条文にある「最も激しい戦い」など、名誉称号を与えられる都市の条件として挙げられている様々な用語の基準が欠けていること、法案の実行に際しどこから予算を出すかが特定できていないことなどが批判されている。<br />
<br />
== ギャラリー ==<br />
[[1965年]]にソ連は英雄都市の創設を記念し以下の切手を発行した。<br />
<gallery><br />
File:Brest (timbre soviétique).jpg|ブレスト<br />
File:Kiev (timbre soviétique).jpg|キエフ<br />
File:Odessa (timbre soviétique).jpg|オデッサ<br />
File:Léningrad (timbre soviétique).jpg|レニングラード<br />
File:Moscou (timbre soviétique).jpg|モスクワ<br />
File:Sébastopol (timbre soviétique).jpg|セヴァストポリ<br />
File:Volgograd (timbre soviétique).jpg|ヴォルゴグラード<br />
</gallery><br />
<br />
== ソ連以外の例 ==<br />
[[ユーゴスラビア]]の'''[[リュブリャナ]]'''(現在の[[スロベニア]]の首都)は第二次世界大戦当時、[[イタリア軍]]の占領に対して激しく抵抗した。これを讃え、1955年に[[ユーゴスラビア社会主義連邦共和国|ユーゴスラビア連邦人民共和国]]の指導者[[ヨシップ・ブロズ・チトー]]から「英雄都市」の称号を与えられた。<br />
<br />
[[コロンビア]]の[[カルタヘナ (コロンビア)|カルタヘナ]]は[[スペイン]]からの[[独立戦争]]中の1815年2月、[[パブロ・モリーリョ]]将軍率いる[[スペイン軍]]に包囲されたが、121日間にわたる激しい戦闘の末に陥落した。独立の英雄[[シモン・ボリバル]]は後に「英雄都市」の称号を与えた。<br />
<br />
== 脚注 ==<br />
{{Reflist}}<br />
<br />
== 関連項目 ==<br />
* [[バルバロッサ作戦]]<br />
{{英雄都市}}<br />
<br />
{{DEFAULTSORT:えいゆうとし}}<br />
[[Category:英雄都市|*]]</div>
114.161.14.158
ベオグラード
2018-08-14T07:42:27Z
<p>114.161.14.158: </p>
<hr />
<div>{{世界の市<br />
|正式名称 = ベオグラード <!--必須--><br />
|公用語名称 = {{lang|sr|Град Београд<br />Grad Beograd}} <!--必須--><br />
|愛称 =<br />
|標語 =<br />
|画像 =Belgrade_Montage.jpg<br />
|画像サイズ指定 =<br />
|画像の見出し =ベオグラードの風景<br />
|市旗 = Flag of Belgrade.svg<br />
|市章 = Coat of Arms Belgrade.png<br />
|位置図 =Belgrade in Serbia (Kosovo independent).svg<br />
|位置図サイズ指定 =<br />
|位置図の見出し =<br />
|位置図2 =<br />
|位置図サイズ指定2 =<br />
|位置図の見出し2 =<br />
|緯度度 = 44 |緯度分 =49 |緯度秒 =14 |N(北緯)及びS(南緯) =N<br />
|経度度 = 20 |経度分 =27 |経度秒 =44 |E(東経)及びW(西経) =E<br />
|成立区分 = 入植<br />
|成立日 = [[紀元前269年]]<br />
|成立区分1 =<br />
|成立日1 =<br />
|成立区分2 =<br />
|成立日2 =<br />
|旧名 =<br />
|創設者 =<br />
|下位区分名 = {{SRB}} <!--必須--><br />
|下位区分種類1 =<br />
|下位区分名1 =<br />
|下位区分種類2 =<br />
|下位区分名2 =<br />
|下位区分種類3 =<br />
|下位区分名3 =<br />
|下位区分種類4 =<br />
|下位区分名4 =<br />
|規模 = [[セルビアの郡|市]] <!--必須--><br />
|最高行政執行者称号 = 市長<br />
|最高行政執行者名 = シニシャ・マリ<br />
|最高行政執行者所属党派 = [[セルビア進歩党|SNS]]<br />
|総面積(平方キロ) = 3,222.68<br />
|総面積(平方マイル) = 1,244.3<br />
|陸上面積(平方キロ) =<br />
|陸上面積(平方マイル) =<br />
|水面面積(平方キロ) =<br />
|水面面積(平方マイル) =<br />
|水面面積比率 =<br />
|市街地面積(平方キロ) = 359.96<br />
|市街地面積(平方マイル) = 139<br />
|都市圏面積(平方キロ) =<br />
|都市圏面積(平方マイル) =<br />
|標高(メートル) =117<ref>{{cite web|url=http://www.beograd.rs/cms/view.php?id=201029<br />
|title = Geographical Position<br />
|publisher = Official website of City of Belgrade<br />
|accessdate = 2007-07-10<br />
}}</ref><br />
|標高(フィート) = 384<br />
|人口の時点 =2006年<ref name=popis>{{cite book<br />
|author = Statistical Office of the Republic of Serbia<br />
|title = Национална или етничка припадност - подаци по насељима<br />
|url = http://www.zis.bg.gov.yu/upload/G_2007S%2003.pdf<br />
|format = PDF<br />
|accessdate = 2006-10-29<br />
|edition = Procena stanovnistva 2007<br />
|year=2006 estimate<br />
|publisher = Statistical Office of the Republic of Serbia<br />
|location = Belgrade<br />
|language = Serbian<br />
|page = 14<br />
}}</ref><br />
|人口に関する備考 =<br />
|総人口 = 1,756,534<br />
|人口密度(平方キロ当たり) = 530.61<br />
|人口密度(平方マイル当たり) =<br />
|市街地人口 = 1,281,801<br />
|市街地人口密度(平方キロ) = 3,560.95<br />
|市街地人口密度(平方マイル) =<br />
|都市圏人口 =<br />
|都市圏人口密度(平方キロ) =<br />
|都市圏人口密度(平方マイル) =<br />
|等時帯 = [[中央ヨーロッパ時間]]<br />
|協定世界時との時差 = +1<br />
|夏時間の等時帯 = [[中央ヨーロッパ夏時間]]<br />
|夏時間の協定世界時との時差 = +2<br />
|郵便番号の区分 = 郵便番号<br />
|郵便番号 = 11000<br />
|市外局番 = (+381) 11<br />
|ナンバープレート = BG<br />
|ISOコード =<br />
|公式ウェブサイト = [http://www.beograd.rs/ www.beograd.rs]<br />
|備考 =<br />
}}<br />
'''ベオグラード'''([[セルビア語]]:{{lang|sr|Београд}} / ''Beograd''、{{Audio|sr-beograd.ogg|発音}}、[[ハンガリー語]]では:{{lang|hu|Belgrád}} {{Small|ベルグラード}} / {{lang|hu|Nándorfehérvár}} {{Small|ナーンドルフェヘールヴァール}})は、[[セルビア|セルビア共和国]]の首都であり、最大都市である。ベオグラードは[[バルカン半島]]、[[パンノニア平原]]の中にあり、[[ドナウ川]]と[[サヴァ川]]の合流地点に広がっている。[[2007年]]の公式の推計による人口は1,756,534人であった<ref name="zis.bg.gov.yu">{{cite web<br />
|url = http://www.zis.bg.gov.yu/upload/G_2007S%2003.pdf<br />
|format = PDF<br />
|title = Statistički godišnjak Beograda<br />
|page = 64<br />
|year = 2007<br />
|publisher = Zavod za informatiku i statistiku Grada Beograda<br />
|accessdate = 2009-2-7<br />
}}</ref>。かつては[[ユーゴスラビア社会主義連邦共和国]]の首都であり、旧ユーゴスラビア地域で最大の都市である。また、[[ドナウ川]]沿いでは2番目に大きく<ref>http://www.budapestinfo.hu/en/</ref>、[[バルカン半島]]では[[イスタンブール]]、[[アテネ]]、[[ブカレスト]]に次いで4番目に大きい。<br />
<br />
[[ヨーロッパ]]でも最古の都市の1つであり、考古学的な調査では、同地における人の居住は[[紀元前6千年紀]]にまでさかのぼる<ref>[http://www.beograd.rs/cms/view.php?id=320 Discover Belgrade]</ref><ref>[http://www.visiteurope.com/ccm/where_to_go/city/detail/?nav_cat=677231&lang=fr_GL&item_url=/NTO-Serbia/unique-pages/regions/cities/belgrade-capital-city.pt Belgrade, capital city]</ref>。ベオグラード広域都市圏の域内は[[ヴィンチャ文化]]と呼ばれる、[[ヨーロッパ]]最大の前史文明の発祥の地である<ref>http://www.stonepages.com/news/</ref><ref>[http://in.reuters.com/article/worldNews/idINIndia-30447520071112?pageNumber=1 Prehistoric women had passion for fashion | World | Reuters<!--Bot-generated title-->]</ref>。町は[[ギリシャ人]]に発見され<ref name="p104.ezboard.com">http://p104.ezboard.com/Skordiski/fistorijabalkanafrm27.showMessage?topicID=209.topic</ref>、[[ケルト人]]によって築かれて命名された<ref name="qtours.dk">http://www.qtours.dk/index.php?option=com_content&task=view&id=54&Itemid=97</ref>。[[ローマ帝国]]によって[[都市法|都市権]]を与えられた<ref name="books.google.com">http://books.google.com/books?id=_uMP91pRf0UC&pg=PA113&lpg=PA113&dq=singidunum+colonia&source=bl&ots=Pmy6FibAUe&sig=x_p0gw_9V_qg0Prr3HJ_tX6gHhg&hl=en&sa=X&oi=book_result&resnum=3&ct=result</ref>。[[600年代]]に[[白セルビア人]]による定住が始まる。ベオグラードは戦略的拠点として、町は古代より現代までの間に140回にわたって戦いの場となった<ref>http://www.timesonline.co.uk/tol/travel/holiday_type/music_and_travel/article4385812.ece</ref>。中世には、[[東ローマ帝国]]、[[フランク人]]、[[第一次ブルガリア帝国]]、[[ハンガリー王国]]、そして[[セルビア人]]の諸領主の支配地となった。[[1521年]]、ベオグラードは[[オスマン帝国]]に征服され、[[バルカン半島|オスマン領ヨーロッパ]]の重要拠点として、{{仮リンク|スメデレヴォ県|en|Sanjak of Smederevo}}(スメデレヴォ・サンジャク)の中心都市となった<ref>http://www.belgradenet.com/belgrade_history_middle_ages.html</ref><ref>http://www.beograd.rs/cms/view.php?id=201251</ref>。ベオグラードはオスマン帝国と[[ハプスブルク君主国]]に交互に支配され、セルビアの首都としての地位を回復するのは[[1841年]]のことであった。しかし、[[ゼムン|ベオグラード北部]]はその後も[[1918年]]の[[オーストリア=ハンガリー帝国]]崩壊までオーストリアの統治下に置かれ続けた。その後統一されたベオグラードは、[[2006年]]にセルビアが独立するまでの間、[[ユーゴスラビア王国]]、[[ユーゴスラビア社会主義連邦共和国]]、[[ユーゴスラビア連邦共和国]]、[[セルビア・モンテネグロ]]の首都を歴任した。<br />
<br />
ベオグラードはセルビアの中で、自治権のある独自の市政府を持つ、独立した地位を持っている<ref name="assemb">{{cite web<br />
|url = http://www.beograd.rs/cms/view.php?id=201014<br />
|title = Assembly of the City of Belgrade<br />
|publisher = Official website<br />
|accessdate = 2007-07-10<br />
}}</ref>。ベオグラードは17の[[オプシュティナ|区]]に分かれ、それぞれの区は独自の区議会を持つ<ref name="municip">{{cite web<br />
|url = http://www.beograd.rs/cms/view.php?id=201906<br />
|title = Urban Municipalities<br />
|publisher = Official website<br />
|accessdate = 2007-07-10<br />
}}</ref>。ベオグラードはセルビアの面積の3.6%を占め、セルビアの人口の24%が居住する<ref name="mdata">{{cite web<br />
|title = 2005 Municipal indicators of Republic of Serbia<br />
|url = http://webrzs.statserb.sr.gov.yu/axd/en/pok.php?god=2005<br />
|publisher = Statistical Office of the Republic of Serbia<br />
|accessdate = 2007-05-17<br />
|archiveurl = https://web.archive.org/web/20091113142815/http://webrzs.statserb.sr.gov.yu/axd/en/pok.php?god=2005<br />
|archivedate = 2009年11月13日<br />
|deadurldate = 2017年9月<br />
}}</ref>。ベオグラードはセルビアの経済活動の中心であり、[[セルビアの文化]]、教育、学術の中心である。<br />
<br />
== 地理 ==<br />
[[ファイル:Beograd Sat.jpg|250px|thumb|left|ベオグラードの衛星写真]]<br />
ベオグラードは標高116.75m、[[ドナウ川]]と[[サヴァ川]]の合流地点、東経20°27'44"、北緯44°49'14" にある。ベオグラードの歴史的な中核は、両河川の右岸に位置しており、今日の{{仮リンク|カレメグダン|en|Kalemegdan}}地区に当たる。[[19世紀]]以降、町は南および東に拡大し、[[第二次世界大戦]]以降にサヴァ川の左岸に[[ノヴィ・ベオグラード]]が建設され、[[ゼムン]]はベオグラードに統合された。ドナウ川の対岸にある小規模な、主として住宅地であった{{仮リンク|クルニャチャ|en|Krnjača}}や{{仮リンク|オヴチャ|en|Ovča}}等もまたベオグラードに統合された。市域の面積は360km<sup>2</sup>、都市圏の面積は3223km<sup>2</sup>に達する。歴史を通じ、ベオグラードは西洋と東洋を繋ぐ主要な交易路の上にあった<ref>{{cite web<br />
|url = http://www.beograd.rs/cms/view.php?id=201029|title=Geographical Position<br />
|publisher = Official website<br />
|accessdate = 2007-07-10}}</ref>。<br />
<br />
サヴァ川右岸にあるベオグラード中心部は丘陵地帯であり、またベオグラード域内で最も標高の高い地点は{{仮リンク|トルラク丘|en|Torlak (Belgrade)}}で標高303mである。街の南には{{仮リンク|アヴァラ山|en|Avala}}(標高511m)、{{仮リンク|コスマイ山|en|Kosmaj}}(標高628m)がある<ref>{{cite web<br />
|url = http://www.beograd.rs/cms/view.php?id=201033<br />
|publisher = Official site<br />
|title = Natural Features<br />
|accessdate = 2007-07-16<br />
}}</ref>。サヴァ川およびドナウ川に沿った一帯では地形は平坦であり、[[沖積平野]]や[[ローム (土壌)|ローム]]台地を形成している<ref>{{cite conference<br />
|url = http://www.geo.uni.lodz.pl/~icuc5/text/P_1_10.pdf<br />
|title = Topoclimate and air pollution effects on respiratory diseases occurrences in Belgrade<br />
|first = Verica<br />
|last = Gburčik<br />
|coauthors = Valentina Gburčik, Ljubinka Marčetić, Slobodan Tošović<br />
|publisher = Institute of Public Health of Belgrade<br />
|format = PDF<br />
|accessdate = 2010-11-21<br />
}}</ref>。<br />
{{Clearleft}}<br />
== 気候 ==<br />
ベオグラードは温暖な[[大陸性気候]]である。年間平均気温は摂氏11.7度であり、最も暑い7月の平均気温は25度に達する。平均的に、年間31日は気温が30度を越え、95日は25度を越える。ベオグラードの年間降水量は700mmである。平均的な年間の日照時間は2096時間である。最も晴れる月は7月と8月であり、10月は平均的である。12月と1月は日照が最も少なく、平均すると一日あたりの日照時間は2-2,3時間程度である<ref>{{cite web<br />
|url = http://www.beograd.rs/cms/view.php?id=201193<br />
|title = Climate<br />
|publisher = Official website<br />
|accessdate = 2007-07-10<br />
}}</ref>。ベオグラードにおける公式な記録史上最も高い気温は43.1度であり<ref>{{cite web<br />
|url = http://news.monstersandcritics.com/europe/news/article_1334095.php/Record-breaking_heat_measured_in_Belgrade<br />
|author = m&c News<br />
|title = Record-breaking heat measured in Belgrade<br />
|date = 2007-07-24<br />
|accessdate = 2007-08-10<br />
|archiveurl = https://web.archive.org/web/20120714085754/http://news.monstersandcritics.com/europe/news/article_1334095.php/Record-breaking_heat_measured_in_Belgrade<br />
|archivedate = 2012年7月14日<br />
|deadurldate = 2017年9月<br />
}}</ref>、他方で最も低い気温は1893年1月10日の-26.2度である<ref>http://www.mherrera.org/temp.htm</ref>。<br />
<br />
{{Weather box|location = ベオグラード (1981–2010)<br />
|metric first = y<br />
|single line = y<br />
|Jan record high C = 20.7<br />
|Feb record high C = 23.9<br />
|Mar record high C = 28.8<br />
|Apr record high C = 32.2<br />
|May record high C = 34.9<br />
|Jun record high C = 37.4<br />
|Jul record high C = 43.6<br />
|Aug record high C = 40.0<br />
|Sep record high C = 37.5<br />
|Oct record high C = 30.7<br />
|Nov record high C = 28.4<br />
|Dec record high C = 22.6<br />
|year record high C = 43.6<br />
|Jan high C = 4.6<br />
|Feb high C = 7.0<br />
|Mar high C = 12.4<br />
|Apr high C = 18.0<br />
|May high C = 23.5<br />
|Jun high C = 26.2<br />
|Jul high C = 28.6<br />
|Aug high C = 28.7<br />
|Sep high C = 23.9<br />
|Oct high C = 18.4<br />
|Nov high C = 11.2<br />
|Dec high C = 5.8<br />
|year high C = 17.4<br />
|Jan mean C = 1.4<br />
|Feb mean C = 3.1<br />
|Mar mean C = 7.6<br />
|Apr mean C = 12.9<br />
|May mean C = 18.1<br />
|Jun mean C = 21.0<br />
|Jul mean C = 23.0<br />
|Aug mean C = 22.7<br />
|Sep mean C = 18.0<br />
|Oct mean C = 12.9<br />
|Nov mean C = 7.1<br />
|Dec mean C = 2.7<br />
|year mean C = 12.5<br />
|Jan low C = -1.1<br />
|Feb low C = -0.1<br />
|Mar low C = 3.7<br />
|Apr low C = 8.3<br />
|May low C = 13.0<br />
|Jun low C = 15.8<br />
|Jul low C = 17.5<br />
|Aug low C = 17.6<br />
|Sep low C = 13.5<br />
|Oct low C = 9.0<br />
|Nov low C = 4.2<br />
|Dec low C = 0.2<br />
|year low C = 8.5<br />
|Jan record low C = -26.2<br />
|Feb record low C = -15.4<br />
|Mar record low C = -12.4<br />
|Apr record low C = -3.4<br />
|May record low C = 2.5<br />
|Jun record low C = 6.5<br />
|Jul record low C = 9.4<br />
|Aug record low C = 6.7<br />
|Sep record low C = 4.7<br />
|Oct record low C = -4.5<br />
|Nov record low C = -7.8<br />
|Dec record low C = -13.4<br />
|year record low C = -18.2<br />
|Jan precipitation mm = 46.9<br />
|Feb precipitation mm = 40.0<br />
|Mar precipitation mm = 49.3<br />
|Apr precipitation mm = 56.1<br />
|May precipitation mm = 58.0<br />
|Jun precipitation mm = 101.2<br />
|Jul precipitation mm = 63.0<br />
|Aug precipitation mm = 58.3<br />
|Sep precipitation mm = 55.3<br />
|Oct precipitation mm = 50.2<br />
|Nov precipitation mm = 55.1<br />
|Dec precipitation mm = 57.4<br />
|year precipitation mm = 690.9<br />
|Jan humidity = 78<br />
|Feb humidity = 71<br />
|Mar humidity = 63<br />
|Apr humidity = 61<br />
|May humidity = 61<br />
|Jun humidity = 63<br />
|Jul humidity = 61<br />
|Aug humidity = 61<br />
|Sep humidity = 67<br />
|Oct humidity = 71<br />
|Nov humidity = 75<br />
|Dec humidity = 79<br />
|year humidity = 68<br />
|unit precipitation days = 0.1 mm<br />
|Jan precipitation days = 13<br />
|Feb precipitation days = 12<br />
|Mar precipitation days = 11<br />
|Apr precipitation days = 13<br />
|May precipitation days = 13<br />
|Jun precipitation days = 13<br />
|Jul precipitation days = 10<br />
|Aug precipitation days = 9<br />
|Sep precipitation days = 10<br />
|Oct precipitation days = 10<br />
|Nov precipitation days = 12<br />
|Dec precipitation days = 14<br />
|year precipitation days = 139<br />
|Jan sun = 72.2<br />
|Feb sun = 101.7<br />
|Mar sun = 153.2<br />
|Apr sun = 188.1<br />
|May sun = 242.2<br />
|Jun sun = 260.9<br />
|Jul sun = 290.8<br />
|Aug sun = 274.0<br />
|Sep sun = 204.3<br />
|Oct sun = 163.1<br />
|Nov sun = 97.0<br />
|Dec sun = 64.5<br />
|year sun = 2111.9<br />
|source 1 = Republic Hydrometeorological Service of Serbia<ref name = RHSS>{{cite web<br />
| url = http://www.hidmet.gov.rs/eng/meteorologija/stanica_sr.php?moss_id=13274<br />
| title = Monthly and annual means, maximum and minimum values of meteorological elements for the period 1981 - 2010-Belgrade<br />
| language = Serbian<br />
| publisher = Republic Hydrometeorological Service of Serbia<br />
| accessdate = 8 September 2012}}</ref><br />
| date = September 2010<br />
}}<br />
<br />
== 歴史 ==<br />
=== 古代 ===<br />
[[ファイル:Jovian1.jpg|thumb|left|140px|ベオグラード([[シンギドゥヌム]])出身の[[ローマ帝国|ローマ皇帝]][[ヨウィアヌス]]。]]<br />
[[新石器時代]]の{{仮リンク|スタルチェヴォ文化|en|Starčevo culture}}、{{仮リンク|ヴィンチャ文化|en|Vinča culture}}はベオグラード付近で発達し、7000年ほど前に[[バルカン半島]]一帯および[[中央ヨーロッパ]]や[[アナトリア半島]]の一部を支配した<ref name="Vinca">{{cite book<br />
|author = Nikola Tasić<br />
|coauthors = Dragoslav Srejović, Bratislav Stojanović<br />
|editor = Vladislav Popović<br />
|other = Smiljka Kjurin (translator)<br />
|title = Vinča: Centre of the Neolithic culture of the Danubian region<br />
|url = http://www.rastko.org.yu/arheologija/vinca/vinca_eng.html<br />
|accessdate = 2006-10-28<br />
|year = 1990<br />
|location = Belgrade<br />
|chapter = Vinča and its Culture<br />
|chapterurl = http://www.rastko.org.yu/arheologija/vinca/vinca_eng.html#_Toc504111710<br />
|archiveurl = https://web.archive.org/web/20060923032654/http://www.rastko.org.yu/arheologija/vinca/vinca_eng.html<br />
|archivedate = 2006年9月23日<br />
|deadurldate = 2017年9月<br />
}}</ref><ref name="ancient">{{cite web<br />
|url = http://www.beograd.rs/cms/view.php?id=201172<br />
|title = History (Ancient Period)<br />
|publisher = Official website<br />
|accessdate = 2007-07-10<br />
}}</ref>。有史以前に見られる[[古ヨーロッパ文字]](ヴィンチャ文字)は最古の[[アルファベット]]であるとする見方もある<ref>http://books.google.com/books?id=iWlpqkVMX2YC&pg=PA5&lpg=PA5&dq=Vin%C4%8Da+signs+earliest+alphabet&source=web&ots=fujg0dANsG&sig=WIElz2jkSAwDGHT8dD4KJGcw6e4&hl=en&sa=X&oi=book_result&resnum=5&ct=result</ref>。数世紀の後、ギリシャの[[アルゴナウタイ]]は、カウリアク (Cauliac) と呼ばれた古代のベオグラードに[[黒海]]から[[ドナウ川]]をさかのぼって到達し、[[サヴァ川]]を発見している<ref name="p104.ezboard.com"/>。紀元前4世紀には[[ケルト人]]の部族・[[スコルディスキ]]が居住し、町はシンギドゥン (Singidūn) と呼ばれた。町は紀元後[[1世紀]]に[[ローマ帝国|ローマ化]]され、{{仮リンク|シンギドゥヌム|en|Singidunum}}と呼ばれた。2世紀中期、町はローマ帝国の[[ムニキピウム]]とされ、2世紀の末にはローマ帝国の都市制度の中で最も上位にある[[コロニア (古代ローマ)|植民市(コロニア)]]に昇格した<ref name="books.google.com"/>。<br />
<br />
初の[[キリスト教徒]]のローマ皇帝は、今日の[[セルビア]]・[[ニシュ]]で[[280年]]に生まれた[[コンスタンティヌス1世]]であった<ref>[http://www.britannica.com/eb/article-9109633/Constantine-I Constantine I - Britannica Online Encyclopedia<!--Bot-generated title-->]</ref><ref>柴(1998) p.54</ref>。ベオグラード出身でローマ皇帝となった[[ヨウィアヌス]](332年生まれ)は、キリスト教を再導入した<ref>[http://artfl.uchicago.edu/cgi-bin/philologic/getobject.pl?c.25:1:283.harpers Philologic Results<!--Bot-generated title-->]</ref>。ヨウィアヌスは[[ローマ帝国]]の国教としてキリスト教を再導入し、前任者[[フラウィウス・クラウディウス・ユリアヌス|ユリアヌス]]による異教の復興に終止符を打った。[[395年]]、この地域は[[東ローマ帝国]]へと引き継がれた<ref name="ancient"/><ref>柴(1998) p.55</ref>。<br />
<br />
シンギドゥヌムからサヴァ川を挟んで対岸にはケルト人の町タウルヌム(Taurunum、今日の[[ゼムン]])があり、ローマ時代、東ローマ時代を通じてシンギドゥヌムとタウルヌムの両都市は命運を共にした<ref>[http://www.beograd.rs/cms/view.php?id=201172 City of Belgrade - Ancient Period<!-- Bot generated title -->]</ref>。両都市は橋で結ばれていた。<br />
{{Clearleft}}<br />
<br />
=== 中世 ===<br />
[[ファイル:Dizd ops.jpg|225px|thumb|right|ベオグラード要塞 - デスポト・ステファン塔]]<br />
[[ファイル:Siege of Nándorfehérvár.jpg|thumb|200px|left|[[ナーンドルフェヘールヴァール包囲|ナーンドルフェヘールヴァール(ベオグラード)包囲]](1456年)]]<br />
<br />
シンギドゥヌムは[[630年]]ごろに[[スラヴ人]]が移住するまでの間、[[フン族]]、[[サルマタイ]]、[[ゲピド族]]、[[東ゴート族]]、[[アヴァール]]などによってたびたび侵入を受け、また破壊された。500年代初期、アヴァールの侵入を受けるまでの間、ゲピド王国の中心地として機能した。[[9世紀]]初頭、アヴァールが最終的に[[フランク王国]]によって崩壊すると<ref>柴(1998) p.61</ref>、シンギドゥヌムは再び[[東ローマ帝国]]の支配下に復した一方、[[ゼムン|タウルヌム]]はマレヴィラ (Malevilla) と改称され、フランク王国の一部となった<ref>[http://www.geocities.com/kadezi/zemunhistory.html History of Zemun<!-- Bot generated title -->]</ref>。およそ878年ごろ、[[第一次ブルガリア帝国]]の支配下の時代、この街の最古の[[スラヴ語派|スラヴ語]]の呼称・ベリグラード (Beligrad) が記録されている。その後4世紀にわたり、街は[[東ローマ帝国]]、[[ハンガリー王国]]、[[第一次ブルガリア帝国]]の争奪の場となった<ref name="ancbhistory">[http://www.belgradenet.com/belgrade_history_ancient.html The History of Belgrade]</ref>。ベオグラードは[[第1回十字軍]]、[[第2回十字軍]]を受け入れたが<ref name="beligrad_history">[http://www.beligrad.com/history.htm How to Conquer Belgrade - History<!--Bot-generated title-->] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20090616085512/http://www.beligrad.com/history.htm |date=2009年6月16日 }}</ref>、[[第3次十字軍]]がベオグラードを通るとき、[[フリードリヒ1世 (神聖ローマ皇帝)|フリードリヒ1世]]と彼の率いる190,000人の兵士らは、ベオグラードが廃墟となっているのを目撃した<ref>[http://www.belgradenet.com/belgrade_history.html The History of Belgrade<!--Bot-generated title-->]</ref>。<br />
<br />
ベオグラードは[[1284年]]、[[スレム王国]]の首都となり、[[ステファン・ドラグティン]]はベオグラードを統治した初のセルビア人の王となった。ドラグティンは義父のハンガリー王[[イシュトヴァーン5世]]から[[スレム]]地域を与えられた<ref name="MSH">{{cite web<br />
|url = http://www.beograd.rs/cms/view.php?id=201247<br />
|title = History (Medieval Serbian Belgrade)<br />
|publisher = Official website<br />
|accessdate = 2007-07-10<br />
}}</ref>。[[1371年]]の[[マリツァの戦い (1371年)|マリツァ川の戦い]]、[[1389年]]の[[コソボの戦い]]を経て、[[セルビア王国 (中世)|セルビア帝国]]は崩壊し、[[オスマン帝国]]がその南部を支配下においた<ref>{{cite web<br />
|url = http://www.britannica.com/eb/article-9050991/Battle-of-the-Maritsa-River<br />
|title = Battle of Maritsa<br />
|publisher = Encyclopaedia Britannica<br />
|accessdate = 2007-07-10<br />
}}</ref><ref>{{cite web<br />
|url = http://www.britannica.com/eb/article-9046112/Battle-of-Kosovo|title=Battle of Kosovo<br />
|publisher = Encyclopaedia Britannica<br />
|accessdate = 2007-07-10<br />
}}</ref><ref name="hoesch">{{Cite book<br />
|author = [[エドガー・ヘッシュ]]、訳:[[佐久間穆]]<br />
|date = 1995年5月<br />
|title = バルカン半島<br />
|publisher = みすず書房<br />
|location = 日本、東京<br />
|id = ISBN 978-4-622-03367-7<br />
}}</ref>。他方で、セルビアの北部ではベオグラードを首都とした{{仮リンク|セルビア専制公国|en|Serbian Despotate}}が続いた。ベオグラードは[[専制公]]{{仮リンク|ステファン・ラザレヴィチ|en|Stefan Lazarević}}のもとで繁栄した。ステファン・ラザレヴィチはセルビア公[[ラザル・フレベリャノヴィチ]]の息子であった。ステファン・ラザレヴィチは要塞、塔を備えた城を建造し、そのうち西の壁と{{仮リンク|デスポト・ステファン塔|en|Despot Stefan Tower}}は今日まで残されている。ステファン・ラザレヴィチはまた、街を取り囲む古代の要塞を再建し、専制公国はオスマン帝国の攻勢に対してほぼ70年持ちこたえた。この間、ベオグラードはオスマン帝国の支配から逃れてきたバルカン各地の人々の逃げ込み先となっており、その人口は4万-5万人ほどであったと考えられる<ref name="MSH"/>。<br />
<br />
[[1427年]]、ステファン・ラザレヴィチのあとを継いだ{{仮リンク|ジュラジ・ブランコヴィチ|en|Đurađ Branković}}は、ベオグラードを[[ハンガリー王国]]に返還させられ、首都は[[スメデレヴォ]]に移った。ジュラジの統治時代、オスマン帝国はセルビア専制公国の領地のほとんどを制圧したものの、[[1440年]]の{{仮リンク|ベオグラード包囲戦 (1440年)|en|Siege of Belgrade (1440)|label=ベオグラード包囲戦}}<ref name = "beligrad_history"/>、[[1456年]]の再度の{{仮リンク|ベオグラード包囲戦 (1456年)|en|Siege of Belgrade (1456)|label=包囲戦}}<ref name="corovic">{{cite book<br />
|last = Ćorović<br />
|first = Vladimir<br />
|authorlink = Vladimir Ćorović<br />
|title = Istorija srpskog naroda<br />
|url = http://www.rastko.org.yu/rastko-bl/istorija/corovic/istorija/index_l.html<br />
|year=1997<br />
|publisher = [[Project Rastko]]<br />
|location = Banja Luka / Belgrade<br />
|language = Serbian<br />
|chapter = V. Despot Đurađ Branković<br />
|chapterurl = http://www.rastko.org.yu/rastko-bl/istorija/corovic/istorija/4_5_l.html |accessdate = 2007-07-17<br />
|isbn = 86-7119-101-X<br />
}}</ref>はいずれも失敗している。ベオグラードは、10万人を超える兵士を擁するオスマン帝国の[[中央ヨーロッパ]]侵攻を食い止める防衛線の役目を果たしていた<ref name = "belgradenet-middleages">[http://www.belgradenet.com/belgrade_history_middle_ages.html The History of Belgrade<!--Bot-generated title-->]</ref>。[[フニャディ・ヤーノシュ]]率いるキリスト教徒の勢力はベオグラードの包囲戦を戦い、オスマン帝国のスルタン・[[メフメト2世]]率いる軍勢から街を守りぬいた<ref>{{cite web<br />
|url = http://www.historynet.com/magazines/military_history/3030796.html<br />
|author = Tom R. Kovach<br />
|title = Ottoman-Hungarian Wars: Siege of Belgrade in 1456<br />
|publisher = Military History magazine<br />
|accessdate = 2007-07-10<br />
|archiveurl = https://web.archive.org/web/20070626184935/http://www.historynet.com/magazines/military_history/3030796.html<br />
|archivedate = 2007年6月26日<br />
|deadurldate = 2017年9月<br />
}}</ref>。この戦いは「キリスト教の命運を決するもの」とされ、[[教皇]][[カリストゥス3世 (ローマ教皇)|カリストゥス3世]]は毎日正午に全教会の鐘を鳴らすよう命じ、防衛戦の勝利を祈った<ref>[http://www.mek.oszk.hu/02000/02085/02085.htm Hungary: A Brief History]</ref><ref name = "beligrad_history"/>。<br />
{{Clearleft}}<br />
<br />
=== オスマン帝国とオーストリアによる統治 ===<br />
[[ファイル:Fortress Belgrade.jpg|250px|thumb|right|16世紀のベオグラード]]<br />
長くオスマン帝国の攻勢に抵抗を続けていたベオグラードは、[[1521年]][[8月28日]]、[[スレイマン1世]]の25万人の兵士によって制圧された。街はほぼ全てが破壊され、キリスト教徒(セルビア人、[[ハンガリー人]]、[[ギリシャ人]]、[[アルメニア人]]など)はすべて[[イスタンブール]]へと強制移送され<ref name = "beligrad_history"/>、その地区はこれに因んで後にベオグラード要塞と呼ばれるようになった<ref>http://books.google.com/books?id=r0_gJ7wEXWsC&pg=PA145&lpg=PA145&dq=belgrade+forest+istanbul+serbs&source=web&ots=gXc8ac4BeK&sig=dXT7OkpPonyBeJFBbYL3wg9GP54&hl=en&sa=X&oi=book_result&resnum=2&ct=result</ref>。ベオグラードは[[サンジャク (行政区分)|サンジャク]](県)の県都となり、トルコ人、アルメニア人、ギリシャ人、[[ラグーサ共和国|ラグーサ]]の交易商人などが集まるようになった。ベオグラードはこの後150年に及ぶ平和を享受する。ベオグラードは[[コンスタンティノポリス]]に次いで、オスマン帝国領ヨーロッパで2番目に大きい都市となり、10万人以上が居住した<ref name = "belgradenet-middleages"/>。オスマン帝国の統治は、ベオグラードに[[オスマン建築]]をもたらし、多くの[[モスク]]が建造され、街にはオリエンタルの影響が強まった<ref name="imperialrule">{{cite web<br />
|url = http://www.beograd.rs/cms/view.php?id=201251<br />
|title = History (Turkish and Austrian Rule)<br />
|publisher = Official website<br />
|accessdate = 2007-07-10<br />
}}</ref>。[[1594年]]、[[バナト蜂起]]とよばれる大規模なセルビア人の反乱がトルコ人によって鎮圧された。さらに、[[アルバニア]]出身の[[大宰相]]、[[スィナン・パシャ]]([[:en:Sinan Pasha|Sinan Pasha]])<ref>[http://www.frosina.org/culturehistory/reviews.asp?id=121 Welcome to Frosina.org :: An Albanian Immigrant and Cultural Resource<!--Bot-generated title-->]</ref>は、ベオグラードの[[ヴラチャル台地]]にて[[聖サヴァ]]の[[不朽体]]を公開の場で焼き捨てるよう命じた。後にこの事件を記憶するために[[聖サワ大聖堂]]が建造された<ref>{{cite web<br />
|url = http://www.mitropolija.cg.yu/dvavoda/knjige/aradovic-hram_l.html<br />
|title = Duhovni smisao hrama Svetog Save na Vračaru (Online book reprint)<br />
|author = [[Amfilohije Radović]]<br />
|publisher = Janus, Belgrade<br />
|year = 1989<br />
|language = Serbian<br />
|accessdate = 2007-07-05<br />
}}</ref>。反乱に対する報復として、街の住民のほとんどがイスタンブールに強制移送された<ref>[http://icdea.bahcesehir.edu.tr/istanbul.htm University of Bahçeşehir<!--Bot-generated title-->]</ref>。<br />
<br />
[[ファイル:Belagerung belgrad 1717.jpg|thumb|right|250px|[[1717年]]、オーストリアの[[オイゲン・フォン・ザヴォイエン|プリンツ・オイゲン]]による[[ベオグラード包囲戦 (1717年)|ベオグラード包囲戦]]。[[墺土戦争 (1716年-1718年)|墺土戦争]]の戦闘の1つとして発生した。]]<br />
ベオグラードは3度にわたって[[ハプスブルク帝国]]([[オーストリア大公国]])に占領された(1688年 - 1690年、1717年 - 1739年、1789年 - 1791年)。1度目は[[大トルコ戦争]]で[[バイエルン選帝侯領|バイエルン選帝侯]][[マクシミリアン2世エマヌエル (バイエルン選帝侯)|マクシミリアン2世]]がベオグラードを包囲して奪い([[ベオグラード包囲戦 (1688年)|ベオグラード包囲戦]])、2度目は[[オイゲン・フォン・ザヴォイエン|プリンツ・オイゲン]]の主導で[[墺土戦争 (1716年-1718年)|墺土戦争]]の最中に包囲・陥落させ([[ベオグラード包囲戦 (1717年)|ベオグラード包囲戦]])、3度目は[[墺土戦争 (1787年-1791年)|墺土戦争]]中にオーストリアに落とされた<ref>[http://razgledanje.tripod.com/tvrdjava/english.htm Belgrade Fortress: History<!-- Bot generated title -->]</ref>。ベオグラードはその度にオスマン帝国によって再制圧された<ref name="imperialrule"/>が、[[ゼムン]]以北は引き続きオーストリア領となった。<br />
<br />
この間、セルビア人の大規模な人口移動が発生し、退却するオーストリア人とともにセルビア人がハプスブルク領内に流入した。彼らの子孫は[[ヴォイヴォディナ]]や[[スラヴォニア]]に居住している<ref>{{cite book<br />
|url = http://www.suc.org/culture/library/Oci/tajne-poruke-svetoga-save-16-03-03.html<br />
|title = Oči u oči<br />
|chapter = Tajne poruke svetog Save" Svetosavska crkva i velika seoba Srba 1690. godine<br />
|authorlink = Dejan Medaković<br />
|publisher = [[BIGZ]] (online reprint by Serbian Unity Congress library)<br />
|location = Belgrade<br />
|isbn = 978-8613009030<br />
|last = Medaković<br />
|first = Dejan<br />
|accessdate = 2007-05-17<br />
|year = 1990<br />
|archiveurl = https://web.archive.org/web/20090125184014/http://www.suc.org/culture/library/Oci/tajne-poruke-svetoga-save-16-03-03.html<br />
|archivedate = 2009年1月25日<br />
|deadurldate = 2017年9月<br />
}}</ref>。<br />
<br />
=== セルビアの首都 ===<br />
[[ファイル:Knez Mihailo, Republic Square.jpg|thumb|left|ベオグラードの[[共和国広場 (ベオグラード)|共和国広場]]に立つ[[ミハイロ・オブレノヴィチ3世]]の像([[19世紀]]中頃)]]<br />
<br />
[[第一次セルビア人蜂起]]の間、セルビア人の反乱者らは[[1807年]]1月8日からベオグラードを統治し、1813年にオスマン帝国に再制圧されるまで続いた<ref name="bglib">{{cite web<br />
|url = http://www.beograd.rs/cms/view.php?id=201255<br />
|title = History (Liberation of Belgrade)<br />
|publisher = Official website<br />
|accessdate = 2007-07-10<br />
}}</ref>。1815年の[[第二次セルビア人蜂起]]の後、セルビアは半独立的な地位を獲得し、[[1830年]]にはオスマン帝国によって認められた<ref>{{cite paper<br />
|title = Nations into States: National Liberations in Former Yugoslavia<br />
|last = Pavkovic<br />
|first = Aleksandar<br />
|publisher = The Australian National University<br />
|date = 2001-10-19<br />
|accessdate = 2007-07-21<br />
}}</ref>。[[1841年]]、[[ミハイロ・オブレノヴィッチ]]([[:en:Mihailo Obrenović|Mihailo Obrenović]])は首都を[[クラグイェヴァツ]]からベオグラードに移した<ref>{{cite web<br />
|url = http://www.kragujevac.org.yu/en/history.htm<br />
|title = History of Kragujevac<br />
|publisher = Official website of Kragujevac<br />
|accessdate = 2007-05-17<br />
|archiveurl = https://web.archive.org/web/20091214211418/http://www.kragujevac.org.yu/en/history.htm<br />
|archivedate = 2009年12月14日<br />
|deadurldate = 2017年9月<br />
}}</ref><ref name="history">{{cite web<br />
|url = http://www.beograd.rs/cms/view.php?id=201239<br />
|title = History (Important Years Through City History)<br />
|publisher = Official website<br />
|accessdate = 2007-07-10<br />
}}</ref>。<br />
<br />
[[セルビア公国 (近代)|セルビア公国]]の完全独立は[[1878年]]で、これによって国は[[1882年]]に[[セルビア王国 (近代)|セルビア王国]]へと改組された。ベオグラードは再びバルカンの主要都市の一つへと返り咲き、急速な発展を遂げた<ref name="bglib"/><ref name="20c">{{cite web<br />
|url = http://www.beograd.rs/cms/view.php?id=201259<br />
|title = History (The Capital of Serbia and Yugoslavia)<br />
|publisher = Official website<br />
|accessdate = 2007-07-10<br />
}}</ref>。セルビアで2番目に大きい[[ニシュ]]への鉄道が開通したものの、[[1900年]]のベオグラードの人口は69,100人程度しかなく、セルビアは国全体としては、依然農業国であり続けた<ref>{{cite web<br />
|url = http://www.populstat.info/Europe/yugoslft.htm<br />
|title = The Yugoslav Federation: Historical demographical data of the urban centers<br />
|publisher = www.populstat.info<br />
|date = 2003-02-03<br />
|accessdate = 2007-05-17<br />
|author = Jan Lahmeyer<br />
}}</ref>。[[1905年]]、ベオグラードの人口は8万人を超えた。[[1914年]]に[[第一次世界大戦]]が勃発したとき、当時は[[オーストリア=ハンガリー帝国]]領であった[[ゼムン]]を含まないベオグラードの人口は10万人を超えた<ref>"[[s:Catholic Encyclopedia (1913)/Belgrade and Smederevo|Belgrade and Smederevo]]" in the 1913 ''Catholic Encyclopedia'' - Retrieved on 2007-10-16</ref>。<br />
<br />
バルカン半島および[[中央ヨーロッパ]]で初の映画の映写はベオグラードで[[1896年]]6月に[[リュミエール兄弟]]の代理人としてAndre Carrによって行われた。Carrは翌年、初の映画をベオグラードで撮影したが、その映像は残されていない<ref>{{cite book<br />
|url = http://www.rastko.org.yu/isk/index_e.html<br />
|chapterurl = http://www.rastko.org.yu/isk/dkosanovic-cinematography.html<br />
|title = The history of Serbian Culture<br />
|chapter = Serbian Film and Cinematography (1896-1993)<br />
|last = Kosanovic<br />
|first = Dejan<br />
|isbn = 1-870732-31-6<br />
|publisher = Porthill Publishers<br />
|origyear = 1995<br />
|accessdate = 2007-07-10<br />
}}</ref>。<br />
{{Clearleft}}<br />
=== 第一次世界大戦 - 戦間期: 街の統合 ===<br />
{{Quote box<br />
|width = 140px<br />
|align = left<br />
|quote = "''{{仮リンク|カレメグダン|en|Kalemegdan}}は私の知る限りで最も素晴らしく、楽天主義の最良の場である。"<br />
|source= [[レベッカ・ウェスト]]、1936年<ref>[http://www.balkanology.com/serbia/article_belgrade.html Balkanology :: Serbia :: Belgrade<!-- Bot generated title -->]</ref><br />
}}<br />
[[ファイル:Knez_Mihailova,_Serbia,_XIX_century.jpg|thumb|300px|[[19世紀]]末の[[クネズ・ミハイロヴァ通り]]]]<br />
<br />
[[1914年]][[6月28日]]、[[ガヴリロ・プリンツィプ]]がオーストリア皇太子[[フランツ・フェルディナント・フォン・エスターライヒ=エステ|フランツ・フェルディナント]]夫妻を暗殺した[[サラエボ事件|サライェヴォ事件]]によって[[第一次世界大戦]]が引き起こされた。その後のバルカン半島での戦いの多くはベオグラード周辺で起こった。[[オーストリア=ハンガリー帝国海軍]]の[[モニター艦]]は[[1914年]][[7月29日]]にベオグラードを包囲し、街は11月30日にオスカル・ポティオレク([[:en:Oskar Potiorek|Oskar Potiorek]])率いるオーストリア軍の手に落ちた。12月15日、街は[[ラドミル・プトニク]]率いるセルビア軍によって奪還された。[[10月6日]]から[[10月9日]]にかけて、街の大半を破壊した長期の戦いの後、[[10月9日]]にベオグラードは[[ドイツ陸軍]]と[[アウグスト・フォン・マッケンゼン]]率いるオーストリア=ハンガリー軍の手に落ちた。街は[[1918年]][[11月5日]]、元帥[[:en:Louis Franchet d'Espérey|Louis Franchet d'Espérey]]と[[アレクサンダル1世 (ユーゴスラビア王)|アレクサンダル1世]]率いるセルビア軍とフランス軍によって再奪還された。前線の街であったベオグラードでは大規模に人口が減少し、一時は[[スボティツァ]]がセルビアで最大の人口の街となった<ref>[http://www.balkanology.com/serbia/article_vojvodina.html Balkanology :: Serbia :: Vojvodina<!--Bot-generated title-->]</ref>。しかし終戦後ベオグラードは急速に人口を増やし、[[1920年代]]初頭にはベオグラードの人口はスボティツァを上回った。終戦後、セルビアは他国の領土とともに[[ユーゴスラビア王国|セルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国]]となり、ベオグラードはその首都となった。王国は[[1929年]]に公式にユーゴスラビアへと改称された。ユーゴスラビア王国は9の[[ユーゴスラビア王国の行政区分|州(バノヴィナ)]]に分けられ、ベオグラードと[[ゼムン]]、[[パンチェヴォ]]はどのバノヴィナにも属さない独立した行政区を構成した<ref>ISBN 86-17-09287-4: Kosta Nikolić, Nikola Žutić, Momčilo Pavlović, Zorica Špadijer: Историја за трећи разред гимназије, Belgrade, 2002, pg. 144</ref>。<br />
<br />
この時代、ベオグラードは急速な発展と現代化を遂げた。ベオグラードの人口は[[1931年]]には239,000人に達し(オーストリア・ハンガリー帝国領であった[[ゼムン]]を含む)、[[1940年]]には320,000人となった。[[1921年]]から[[1948年]]までの年間の人口増加率は平均して4.08%であった<ref name="stan">{{cite journal<br />
|url = http://nainfo.nbs.bg.ac.yu/sfoa/pdfovi/0350-03730101087P.pdf<br />
|title = Industrija i urbani razvoj Beograda<br />
|last = Petrović<br />
|first = Dragan<br />
|journal = Industrija<br />
|year = 2001<br />
|volume = 21, No. 1–4<br />
|pages = 87–94<br />
|accessdate = 2007-07-10<br />
|issn = 0350-0373<br />
|format = PDF<br />
}}</ref>。[[1927年]]、ベオグラードで初の空港が開港し、[[1929年]]、ラジオ局が放送を開始した。ドナウ川を渡る[[パンチェヴォ橋]]([[:en:Pančevo Bridge|Pančevo Bridge]])は[[1935年]]に開通した<ref>{{cite web<br />
|url = http://www.serbia-info.com/g3/images/1930-50-e.htm<br />
|title = Twentieth Century - Innovations in Belgrade<br />
|publisher = Serbia-info.com (Government of Serbia website)<br />
|accessdate = 2007-07-21<br />
|archiveurl = https://web.archive.org/web/20080705201816/http://www.serbia-info.com/g3/images/1930-50-e.htm<br />
|archivedate = 2008年7月5日<br />
|deadurldate = 2017年9月<br />
}}</ref>。<br />
{{Clearleft}}<br />
=== 第二次世界大戦 ===<br />
[[ファイル:Bundesarchiv Bild 141-1005, Belgrad, Zerstörungen.jpg|thumb|240px|破壊された市街([[1941年]])]]<br />
<br />
[[1941年]]3月25日、ユーゴスラビア王国の[[摂政]][[パヴレ・カラジョルジェヴィチ]]は[[日独伊三国軍事同盟]]に調印し、[[第二次世界大戦]]の混乱を避けるため[[枢軸国]]の一員となった。これは直後にベオグラードで大規模な抗議行動に発展し、空軍指揮官の[[ドゥシャン・シモヴィッチ]]([[:en:Dušan Simović|Dušan Simović]])将軍率いるクーデターが引き起こされた。シモヴィッチは、国王[[ペータル2世 (ユーゴスラビア王)|ペータル2世]]が摂政なしで統治する年齢に達したと宣言した。その直後、[[1941年]][[4月6日]]、ベオグラードは[[ベオグラード空爆|ドイツ空軍によって空爆され]]、24,000人が死亡した<ref name="Intrepid">{{cite book<br />
|title = A Man Called Intrepid, The Secret War<br />
|last = Stevenson<br />
|first = William<br />
|year = 1976<br />
|pages = 230<br />
|publisher = Ballantine Books<br />
|location = New York<br />
|isbn = 345-27254-4-250<br />
}}</ref><ref>[http://www.army.mil/CMH/books/wwii/balkan/20_260_2.htm THE GERMAN CAMPAIGN IN THE BALKANS (SPRING 1941): PART II<!--Bot-generated title-->]</ref>。ユーゴスラビア王国は[[ナチス・ドイツ]]による[[ユーゴスラビア侵攻|侵攻]]を受け、[[ゼムン]]の東に至るまでのベオグラード郊外はナチスの[[傀儡政権]]、[[クロアチア独立国]]の領土とされた。ベオグラードはナチスの傀儡[[ミラン・ネディッチ]]による[[セルビア救国政府]]の首都とされた。<br />
<br />
[[1941年]]の夏から秋にかけて、ナチスへのゲリラ攻撃に対する報復として、ドイツ軍はベオグラードの一般市民に対する虐殺を行った。特に、ベオグラードのユダヤ人共同体に属する市民は、ドイツ軍のセルビア軍事指導者[[フランツ・ベーメ]]将軍の命令により大量殺戮の対象となった。ベーメは、ドイツ人の死者1人に対してセルビア人市民100人、ドイツ人の負傷者1人に対してセルビア人市民50人を殺害するとする報復の規定を厳格に適用し、死亡したドイツ兵1人につき100人の市民を殺害した<ref>{{cite book<br />
|last = Rubenstein<br />
|first = Richard L<br />
|coauthors = Roth, John king<br />
|title = Approaches to Auschwitz: The Holocaust and Its Legacy<br />
|year = 2003<br />
|publisher = Westminster John Knox Press<br />
|isbn = 0664223532<br />
|pages = 170<br />
|url = http://www.questia.com/library/book/approaches-to-auschwitz-the-holocaust-and-its-legacy-by-john-k-roth-richard-l-rubenstein.jsp<br />
}}</ref>。<br />
<br />
ベオグラードは1944年4月、[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]による空爆を受け、1600人が死亡した。以前のドイツ軍による空爆も、今回の連合国による空爆も、共に[[正教会]]の[[復活祭]]の時期に行われた。ベオグラードの多くは[[1944年]][[10月20日]]までドイツ軍の占領が続いたが、その後[[共産主義|共産主義者]]の[[パルチザン (ユーゴスラビア)|パルチザン]]と[[赤軍]]によって解放された。[[1945年]][[10月20日]]、パルチザンの[[ヨシップ・ブロズ・チトー|ヨシップ・ブロズ・ティトー]]元帥はベオグラードにて[[ユーゴスラビア社会主義連邦共和国|ユーゴスラビア連邦人民共和国]]の成立を宣言した。<br />
<br />
=== 社会主義ユーゴスラビア時代 ===<br />
第二次世界大戦後、ベオグラードは社会主義の連邦国家として再出発した[[ユーゴスラビア社会主義連邦共和国|ユーゴスラビア連邦]]の首都として急速に発展し、主要な産業拠点となった<ref name="20c"/>。[[1958年]]、ベオグラードで初のテレビ放送が始まった。[[1961年]]、[[ヨシップ・ブロズ・チトー|ヨシップ・ブロズ・ティトー]]を議長とし[[非同盟諸国首脳会議]]がベオグラードで開かれた。[[1968年]]、ティトー体制に反対する大規模な学生の抗議行動が起こり、路上で学生らと警官が衝突した。抗議は、ティトーの有名な言葉「学生たちは正しい!」を残して終わった。[[1972年]]3月、ベオグラードはヨーロッパを中心とした[[天然痘]]の流行([[:en:1972 outbreak of smallpox in Yugoslavia|the last major outbreak of smallpox in Europe]])の中心となり、検疫とワクチンの集団投与を通じ、5月末までに沈静化された<ref>{{cite web<br />
|url = http://www.npr.org/news/specials/response/anthrax/features/2001/oct/011023.quarantine.html<br />
|title = Bioterrorism: Civil Liberties Under Quarantine<br />
|publisher = [[ナショナル・パブリック・ラジオ|NPR]]<br />
|date = 2001-10-23<br />
|accessdate = 2007-05-19<br />
}}</ref>。<br />
<br />
=== 社会主義体制崩壊以降 ===<br />
<br />
[[1991年]][[3月19日]]、[[ヴク・ドラシュコヴィッチ]]([[:en:Vuk Drašković|Vuk Drašković]])に率いられた、大規模な[[スロボダン・ミロシェヴィッチ]]政権に対する抗議行動([[:en:March 9, 1991 protest]])が起こった<ref>{{cite web<br />
|url = http://www.danas.co.yu/20060309/hronika1.html<br />
|title = Prvi udarac Miloševićevom režimu<br />
|publisher = [[ダナス|Danas]]<br />
|date = 2006-03-09<br />
|language = Serbian<br />
|accessdate = 2007-07-10<br />
|archiveurl = https://web.archive.org/web/20090124174029/http://www.danas.co.yu/20060309/hronika1.html<br />
|archivedate = 2009年1月24日<br />
|deadurldate = 2017年9月<br />
}}</ref>。各種メディアの推計によると、抗議には10万人から15万人が参加していたと見られている<ref>{{cite web<br />
|url = http://www.time.com/time/magazine/article/0,9171,972607-1,00.html<br />
|title = Yugoslavia: Mass bedlam in Belgrade<br />
|publisher = [[タイム (雑誌)|TIME]]<br />
|author = James L. Graff<br />
|date = 1991-03-25<br />
|accessdate = 2007-07-10<br />
}}</ref>。この中で2人が死亡し、203人が負傷、108人が逮捕され、秩序回復のために戦車が投入された<ref>{{cite web<br />
|url = http://www.vreme.com/arhiva_html/450/2.html<br />
|title = Srbija na mitinzima (1990–1999)<br />
|publisher = [[ヴレメ|Vreme]]<br />
|date = 1999-08-21<br />
|language = Serbian<br />
|accessdate = 2007-07-10<br />
}}</ref>。<br />
<br />
[[1996年]]11月から[[1997年]]2月にかけて、再び大規模な抗議行動([[:en:1996-1997 protests in Serbia]])が行われた。これは地元の選挙における不正の疑惑を引き金とし、ミロシェヴィッチ政権への反対を表明するものであった<ref name="twelveyears">{{cite web<br />
|url = http://www.beograd.rs/cms/view.php?id=201267<br />
|title = History (Disintegration Years 1988–2000)<br />
|publisher = Official website<br />
|accessdate = 2007-07-10}}</ref>。抗議行動によって、[[ゾラン・ジンジッチ]]がベオグラード市長となった。これは、[[第二次世界大戦]]以降で初めて、[[ユーゴスラビア共産主義者同盟]]やその後継の[[セルビア社会党]]出身ではない市長の誕生となった<ref>{{cite web<br />
|url = http://select.nytimes.com/gst/abstract.html?res=F40616F83B5A0C708EDDAB0894DF494D81&n=Top%2fReference%2fTimes%20Topics%2fPeople%2fD%2fDjindjic%2c%20Zoran<br />
|title = New Mayor of Belgrade: A Serbian Chameleon<br />
|publisher = The New York Times<br />
|date = 1997-02-23<br />
|author = Jane Perlez<br />
|accessdate = 2007-05-17<br />
}}</ref>。<br />
<br />
[[1999年]]に[[コソボ紛争]]が激化し、[[アライド・フォース作戦|NATOによる空爆]]が始まると、街は大きな打撃を受けた。[[セルビア国営放送]]の建物が攻撃を受け、国営放送本社への攻撃では16人の技術家が死亡した。このほか、ベオグラードでは各省庁の庁舎や複数の病院、ユーゴスラビア・ホテル、[[ウシュチェ]]・タワー([[:en:Ušće Tower|Ušće]])、[[アヴァラ・テレビ塔]]([[:en:Avala TV Tower|Avala TV Tower]])、中国大使館も攻撃を受けた<ref>{{cite web<br />
|url = http://www.beograd.rs/cms/view.php?id=201271<br />
|title = NATO bombing|publisher=Official website<br />
|accessdate = 2007-05-17<br />
}}</ref>。<br />
<br />
[[2000年]]の[[ユーゴスラビア連邦共和国]]大統領選挙([[:en:Federal Republic of Yugoslavia presidential election, 2000|en]])では、ベオグラードは大規模な路上抗議行動の場となった。50万人を超える人々が抗議行動に参加した(警察による推定では80万人、[[ミシャ・グレニー]] [[:en:Misha Glenny|Misha Glenny]] によると100万人超)。抗議行動によってミロシェヴィッチ政権は転覆し、後に[[ブルドーザー革命]]([[:en:5th October (Serbia)|en]])と呼ばれた<ref>{{cite web<br />
|author = Glenny, Misha<br />
|url = http://www.glypx.com/BalkanWitness/glenny3.htm<br />
|title = Can Serbia's new leaders overcome the legacy of Slobodan Milosevic?<br />
|publisher = [[ザ・ニューヨーカー|The New Yorker]]<br />
|date = 2000-10-30<br />
|accessdate = 2007-07-10<br />
}}</ref>。<br />
<br />
=== 呼称の変遷 ===<br />
ベオグラードは歴史上、さまざまに異なる名前で呼ばれてきた。そして、その多くは「白い街」を意味している([[ロシア]]の[[ベルゴロド]]も白い街を意味している)。<br />
{|border="1" cellpadding="2" cellspacing="0" style="margin: 10px 0 10px 25px; background-color: #f9f9f9; border: 1px #AAA solid; border-collapse: collapse; font-size: 95%; float: center;"<br />
|-<br />
!style="background-color: #efefef; border-bottom: 2px solid gray;" | 名前<br />
!style="background-color: #efefef; border-bottom: 2px solid gray;" | 注記<br />
|-<br />
|Singidūn(o)-<br />
|[[ケルト人]]の部族[[スコルデスキ]]([[:en:Scordisci|Scordisci]])による呼称。[[:en:dun|dūn(o)-]]は駐屯地や要塞を意味する。singiには諸説あり、一説ではケルト語の「円」を意味するとされ、全体で「円形の要塞」の意味になる。別の節では、スコルデスキ以前にこの地を支配した、[[トラキア人]]の氏族と思われるシング(Sing)に由来すると考えられている<ref name="official website of the city of Belgrade">{{cite web<br />
|url = http://www.beograd.org.yu/cms/view.php?id=201172<br />
|title = Ancient Period<br />
|publisher = Official website<br />
|accessdate = 2009-01-31<br />
|archiveurl = https://web.archive.org/web/20080513224229/http://www.beograd.org.yu/cms/view.php?id=201172<br />
|archivedate = 2008年5月13日<br />
|deadurldate = 2017年9月<br />
}}</ref>。<br />
|-<br />
|[[:en:Singidunum|Singidūnum]]<br />
|ローマ帝国による征服で、[[ケルト語]]名をローマ化した呼称<br />
|-<br />
|{{lang|sr|Београд / ''Beograd''}}<br />
|初めての[[スラヴ語派|スラヴ語]]による記録は[[878年]]で、ブルガリア帝国の[[ボリス1世]]からローマ教皇[[ヨハネ3世]]への手紙の中で白い街、あるいは白い要塞を意味する「Beligrad」として言及されている<ref name=Byzantine>{{cite web<br />
|url = http://www.beograd.rs/cms/view.php?id=201243<br />
|title = History (Byzantine Empire)<br />
|publisher = Official website<br />
|accessdate = 2007-05-17<br />
}}</ref>。<br />
|-<br />
|Alba Graeca<br />
|Albaは[[ラテン語]]の「白」に由来すると考えられる。<br />
|-<br />
|Alba Bulgarica<br />
|[[第一次ブルガリア帝国|ブルガリア帝国]]統治時代における[[ラテン語]]呼称<br />
|-<br />
|Weißenburg / Griechisch-Weißenburg<br />
|[[ドイツ語]]化した呼称。現代のドイツ語ではBelgradである<ref name=Byzantine/>。<br />
|-<br />
|Castelbianco<br />
|[[イタリア語]]化した呼称<ref name=Byzantine/>。<br />
|-<br />
|Nandoralba<br />
|[[14世紀]]以前の[[ハンガリー王国|中世ハンガリー王国]]での呼称<ref name=Byzantine/><br />
|-<br />
|Nándorfehérvár, Landorfehérvár<br />
|中世ハンガリーによる呼称で、「白い騎士の街」を意味する。現代のハンガリー語ではBelgrádである<ref name=Byzantine/>。<br />
|-<br />
|Veligrad(i)on or Velegrada/Βελέγραδα<br />
|[[東ローマ帝国]]による呼称。現代[[ギリシア語]]での呼称は{{lang|el|Βελιγράδι / ''Veligradi''}}<br />
|-<br />
|Dar Al [[ジハード|Jihad]]<br />
|[[オスマン帝国]]統治時代の[[アラビア語]]呼称。<br />
|-<br />
|Prinz-Eugenstadt<br />
|[[第二次世界大戦]]時、[[ナチス・ドイツ]]の占領下となったベオグラードでナチスにより計画された呼称。この呼称は[[1717年]]にこの街を征服したオーストリアの[[プリンツ・オイゲン]]に因む<ref name=Prinzeugenstadt>[[:en:Template:Cite web]]{{cite web<br />
|url = http://www.danas.rs/vesti/dijalog/opasno_neznanje_ili_nesto_vise.46.html?news_id=145464<br />
|title = Opasno neznanje ili nešto više<br />
|publisher = [[ダナス|Danas]]<br />
|accessdate = 2008-12-29<br />
}}</ref>。<br />
|}<br />
<br />
== 政府と政治 ==<br />
[[ファイル:Belgrade Old Court 1.jpg|thumb|right|250px|{{仮リンク|旧宮殿 (ベオグラード)|en|Old Palace (Belgrade)|label=旧宮殿}}。ベオグラード市議会が入っている。]]<br />
[[ファイル:Dragan Djilas 2013 Corp.jpg|thumb|right|200px|{{仮リンク|ドラガン・ジラス|en|Dragan Đilas}}、ベオグラード市長(在任2008年8月 - )。]]<br />
ベオグラードはセルビアの中ではどの[[セルビアの郡|郡]]にも属さない独立した地域であり、独自の市政府を持つ<ref name="assemb"/>。ベオグラード市長の地位は[[2004年]]から[[2007年]][[9月27日]]に死去するまで[[民主党 (セルビア)|民主党]]の[[ネナド・ボグダノヴィッチ]]([[:en:Nenad Bogdanović|Nenad Bogdanović]])であった。[[1996年]]には、[[第二次世界大戦]]後初めて民主的な市長選挙が行われ、[[ゾラン・ジンジッチ]]が市長に選ばれた。<br />
<br />
ベオグラード市議会は110の議席があり、市議の任期は4年である。2008年以降、市議会の多数派は[[国民議会 (セルビア)|国民議会]]と同様に、[[民主党 (セルビア)|民主党]]-[[G17プラス]]と[[セルビア社会党]]-[[セルビア統一年金者党]]の連立であり、さらに[[自由民主党 (セルビア 2005年)|自由民主党]]やその他の小政党の支持も得ている。[[セルビア急進党]]、[[セルビア民主党 (セルビア)|セルビア民主党]]-[[新セルビア]]が野党の立場にある<ref>{{cite web<br />
|title = Councilors of the Assembly of the City of Belgrade<br />
|url = http://www.beograd.rs/cms/view.php?id=201942<br />
|publisher = Official site<br />
|accessdate = 2007-07-16<br />
}}</ref>。<br />
<br />
=== 基礎自治体 ===<br />
ベオグラードは17の[[オプシュティナ|基礎自治体(オプシュティナ)]]に分かれている<ref name="municip"/>。<br />
<br />
ベオグラードを構成する自治体の多くは[[ドナウ川]]および[[サヴァ川]]の南側の[[シュマディヤ]]([[:en:Šumadija|Šumadija]])地方に位置している。[[ゼムン]]、[[ノヴィ・ベオグラード]](新ベオグラード)、[[スルチン (地名)|スルチン]]の3自治体はサヴァ川の北側の[[スレム]]地方に位置し、[[パリルラ (ベオグラード)|パリルラ]]は[[ドナウ川]]を越え、シュマディヤと[[バナト]]地方にまたがっている。<br />
<br />
[[File:BelgradeMunicipalities.svg|250px|right|thumb|ベオグラードの自治体]]<br />
{| border="1" cellpadding="4" cellspacing="0" style="margin: 10px 0 10px 25px; background-color: #f9f9f9; border: 1px #AAA solid; border-collapse: collapse; font-size: 95%; float: center;"<br />
|-<br />
!style="background-color: #efefef; border-bottom: 2px solid gray;"|名前<br />
!style="background-color: #efefef; border-bottom: 2px solid gray;"|面積(km²)<br />
!style="background-color: #efefef; border-bottom: 2px solid gray;"|人口(1991年)<br />
!style="background-color: #efefef; border-bottom: 2px solid gray;"|人口(2002年)<br />
|-<br />
|[[バライェヴォ]]([[:en:Barajevo|Barajevo]])||align="right"|213||align="right"|20,846||align="right"|24,641<br />
|-<br />
|[[チュカリツァ]]([[:en:Čukarica|Čukarica]])||align="right"|156||align="right"|150,257||align="right"|168,508<br />
|-<br />
|[[グロツカ]]([[:en:Grocka|Grocka]])||align="right"|289||align="right"|65,735||align="right"|75,466<br />
|-<br />
|[[ラザレヴァツ]]([[:en:Lazarevac|Lazarevac]])||align="right"|384||align="right"|57,848||align="right"|58,511<br />
|-<br />
|[[ムラデノヴァツ]]([[:en:Mladenovac|Mladenovac]])||align="right"|339||align="right"|54,517||align="right"|52,490<br />
|-<br />
|[[ノヴィ・ベオグラード]]([[:en:Novi Beograd|Novi Beograd]])||align="right"|41||align="right"|218,633||align="right"|217,773<br />
|-<br />
|[[オブレノヴァツ]]([[:en:Obrenovac|Obrenovac]])||align="right"|411||align="right"|67,654||align="right"|70,975<br />
|-<br />
|[[パリルラ (ベオグラード)|パリルラ]]([[:en:Palilula (Belgrade)|Palilula]])||align="right"|451||align="right"|150,208||align="right"|155,902<br />
|-<br />
|[[ラコヴィツァ]]([[:en:Rakovica, Belgrade|Rakovica]])||align="right"|31||align="right"|96,300||align="right"|99,000<br />
|-<br />
|[[サヴスキ・ヴェナツ]]([[:en:Savski Venac|Savski Venac]])||align="right"|14||align="right"|45,961||align="right"|42,505<br />
|-<br />
|[[ソポト (セルビア)|ソポト]]([[:en:Sopot, Serbia|Sopot]])||align="right"|271||align="right"|19,977||align="right"|20,390<br />
|-<br />
|[[スタリ・グラード (ベオグラード)|スタリ・グラード]]||align="right"|5||align="right"|68,552||align="right"|55,543<br />
|-<br />
|[[スルチン (地名)|スルチン]]||align="right"|285||align="right"|<small>Part of Zemun <br />municipality until 2004.</small>||align="right"|55,000 (est.)<br />
|-<br />
|[[ヴォジュドヴァツ]]([[:en:Voždovac|Voždovac]])||align="right"|148|| align="right"|156,373||align="right"|151,768<br />
|-<br />
|[[ヴラチャル]]([[:en:Vračar|Vračar]])||align="right"|3|| align="right"|67,438||align="right"|58,386<br />
|-<br />
|[[ゼムン]]||align="right"|154||align="right"|176,158|| align="right" | 136,645<br />
|-<br />
|[[ズヴェズダラ]]([[:en:Zvezdara|Zvezdara]])||align="right"|32||align="right"|135,694||align="right"|132,621<br />
|-style="background-color: #E9E9E9;" <br />
|合計||align="right"|3227||align="right"|1,552,151||align="right"|1,576,124<br />
|-<br />
|colspan="5"|<small><center>出典: セルビア共和国統計局<ref name="mdata"/></center></small><br />
|}<br />
<br />
== 住民 ==<br />
[[ファイル:Saint Sava et Partizan stadium.jpg|thumb|left|250px|[[聖サワ大聖堂]]と{{仮リンク|セルビア国立図書館|en|National Library of Serbia}}]]<br />
<br />
[[2002年]]の国勢調査によると、ベオグラードの住民は民族別では[[セルビア人]]が1,417 187人、[[ユーゴスラビア人]]が22,161人、[[モンテネグロ人]]が21,190人、[[ロマ]]が19,191人、[[クロアチア人]]が10,381人、[[マケドニア人]]が8,372人、[[ムスリム人]]が4,617人などとなっている<ref>{{cite web<br />
|url = http://www.beograd.rs/cms/view.php?id=201201<br />
|title = Facts (Population)<br />
|publisher = Official website<br />
|accessdate = 2007-07-10<br />
}}</ref>。[[2007年]]の投票では、ベオグラードの人口はわずか5年で40万人の増加があったことが示唆されている<ref>[http://www.blic.co.yu/temadana.php?id=17781 Blic Online | Tema dana | Svi putevi vode u Beograd<!--Bot-generated title-->]</ref>。[[2008年]]8月2日の時点で、ベオグラードの情報統計局では1,542,773人の有権者が登録されており、その6年前の全人口を上回る有権者が登録されていることになり、[[2002年]]以降に急速な人口増加があったことが示されている<ref>{{cite web<br />
|url = http://www.zis.bg.gov.yu/spisak.php<br />
|title = Birački spisak<br />
|publisher = Zavod za informatiku i statistiku Grada Beograda<br />
|year = 2007<br />
|accessdate = 2009-02-28<br />
}}</ref>。<br />
<br />
ベオグラード情報統計局による[[2007年]]末の公式の推計では、街の人口は約1,630,000人となっている<ref name="zis.bg.gov.yu"/>。<br />
<br />
ベオグラードには旧[[ユーゴスラビア社会主義連邦共和国|ユーゴスラビア連邦]]各地の民族が居住している<ref name=popis/>。住民の多くはより小さい街や村部からの移住者や、[[1990年代]]の[[ユーゴスラビア紛争]]によって故郷を失った[[クロアチア]]、[[ボスニア・ヘルツェゴビナ]]、[[コソボ]]からの移民である<ref>[http://www.washingtonpost.com/wp-srv/inatl/longterm/balkans/stories/belgrade062299.htm Refugee Serbs Assail Belgrade Government]: ''[[ワシントン・ポスト|The Washington Post]]'', Tuesday, June 22, 1999.</ref>。また、1990年代中期からの移民によって1万人から2万人程度の<ref>[http://www.novosti.co.yu/code/navigate.php?Id=14&status=jedna&vest=120710&datum=2008-05-06 Novosti | Vecernje novosti | Beograd]</ref>[[漢民族|漢人]]がベオグラードに居住しているものと推定される。[[ノヴィ・ベオグラード]]のブロック70(Blok 70)地区は中華街として知られている<ref>{{cite web<br />
|url = http://www.kurir-info.co.yu/Arhiva/2005/februar/19-20/B-01-19022005.shtml<br />
|title = Kinezi Marko, Miloš i Ana<br />
|publisher = [[Kurir]]<br />
|date = 2005-02-20<br />
|accessdate = 2007-07-18<br />
|language = Serbian<br />
|archiveurl = https://web.archive.org/web/20070310205100/http://www.kurir-info.co.yu/Arhiva/2005/februar/19-20/B-01-19022005.shtml<br />
|archivedate = 2007年3月10日<br />
|deadurldate = 2017年9月<br />
}}</ref><ref>{{cite web<br />
|url = http://www.vreme.com/arhiva_html/471/10.html<br />
|title = Kineska četvrt u bloku 70<br />
|publisher = [[ヴレメ|Vreme]]<br />
|date = 2001-01-15<br />
|author = Biljana Vasić<br />
|accessdate = 2007-07-18<br />
|language = Serbian<br />
}}</ref>。<br />
<br />
ベオグラードにはまた多くの[[インドネシア]]人、中東系の住民(主に[[シリア]]、[[イラン]]、[[ヨルダン]]、[[イラク]]から、[[1970年代]]から[[1990年代]]にかけて学業のために移り住み、その後街に定住した人々である<ref>{{cite web<br />
|url = http://www.dawn.com/2005/12/07/int17.htm<br />
|title = A unique friendship club in Belgrade<br />
|publisher = Dawn - International<br />
|date = 2005-12-07<br />
|accessdate = 2007-07-17<br />
|author = Vesna Peric Zimonjic<br />
|archiveurl = https://web.archive.org/web/20070927225101/http://www.dawn.com/2005/12/07/int17.htm<br />
|archivedate = 2007年9月27日<br />
|deadurldate = 2017年9月<br />
}}</ref><ref>{{cite web<br />
|url = http://www.jordanembassyus.org/041199003.htm<br />
|title = Government, public diverge in assessment of Kosovo crisis<br />
|author = Francesca Ciriaci<br />
|publisher = Jordan Times<br />
|date = 1999-04-11<br />
|accessdate = 2007-07-18<br />
|archiveurl = https://web.archive.org/web/20120114070003/http://www.jordanembassyus.org/041199003.htm<br />
|archivedate = 2012年1月14日<br />
|deadurldate = 2017年9月<br />
}}</ref>)、[[アフガニスタン]]人、イラクの[[クルド人]]難民も居住している<ref>{{cite web<br />
|url = http://ins.onlinedemocracy.ca/index.php?name=News&file=article&sid=9214<br />
|title = CHINESE AND IRAQI IMMIGRANTS RECEIVE QUIET WELCOME<br />
|publisher = international<br />
|date = 2007-05-31<br />
|accessdate = 2007-10-04<br />
}}</ref>。<br />
<br />
ベオグラードには歴史的に複数の宗教の共同体が共存してきたが、街の宗教構成は比較的、均質である。[[セルビア正教会]]が圧倒的に最大であり、正教会の信者数は1,429,170人である。この他では20,366人が[[イスラム教]]、16,305人が[[カトリック教会|ローマ・カトリック教会]]、3,796人が[[プロテスタント]]に属する。ベオグラードにはかつて一定規模の[[ユダヤ教]]の共同体があったが、[[ナチス・ドイツ]]による占領統治を経て、多くが[[イスラエル]]に移住し、その人口は515人にまで減少した<ref name=popis/>。<br />
{{Clearleft}}<br />
== 経済 ==<br />
ベオグラードは、セルビアで最も経済的に発達した地域であり、[[セルビア国立銀行]]の本拠地である。[[Jat航空]]、[[テレコム・スルビヤ]]([[:en:Telekom Srbija|Telekom Srbija]])、[[テレノル・セルビア]]([[:en:Telenor Serbia|Telenor Serbia]])、[[デルタ・ホールディング]]([[:en:Delta Holding|Delta Holding]])、[[セルビア電力産業公社]]の本社や、[[ソシエテ・ジェネラル]]、[[ASUS]]、[[インテル]]<ref>[http://www.ekapija.com/website/sr/page/140159 E kapija - Centar kompanije `Intel` za Balkan u Beogradu - Srbija deo `Intel World Ahead Program`<!--Bot-generated title-->]</ref>、[[モトローラ]]、[[クラフトフーヅ]]<ref>{{cite web |url=http://www.emportal.co.yu/vesti/srbija/40020.html |title=アーカイブされたコピー |accessdate=2010年12月16日 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20070808195418/http://www.emportal.co.yu/vesti/srbija/40020.html |archivedate=2007年8月8日 |deadurldate=2017年9月 }}</ref>、[[カールスバーグ]]<ref>{{cite web |url=http://www.politika.co.yu/rubrike/Ekonomija/Beograd-konkurishe-Bechu.sr.html |title=アーカイブされたコピー |accessdate=2010年12月16日 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20080517103727/http://www.politika.co.yu/rubrike/Ekonomija/Beograd-konkurishe-Bechu.sr.html |archivedate=2008年5月17日 |deadurldate=2017年9月 }}</ref>、[[マイクロソフト]]、[[OMV]]、[[ユニリーバ]]、[[:en:Zepter International|Zepter]]、[[日本たばこ産業]]などの地域拠点が置かれている<ref>{{cite web<br />
|url = http://www.b92.net/biz/vesti/srbija.php?yyyy=2007&mm=04&dd=24&nav_id=243493&fs=1<br />
|title = JTI u Srbiju ulaže oko $100 mil.<br />
|publisher = [[B92]] Biz<br />
|date = 2007-04-24<br />
|accessdate = 2007-05-19<br />
|language = Serbian<br />
}}</ref><ref>{{cite web<br />
|url = http://www.24x7.co.yu/default.aspx?cid=400&fid=300&pid=izbor_societe_generale_group<br />
|title = Beograd - Bankarski razvojni centar<br />
|publisher = 24x7 business news<br />
|date = 2006-03-29<br />
|accessdate = 2007-05-19<br />
|language = Serbian<br />
|archiveurl = https://web.archive.org/web/20070928010513/http://www.24x7.co.yu/default.aspx?cid=400&fid=300&pid=izbor_societe_generale_group<br />
|archivedate = 2007年9月28日<br />
|deadurldate = 2017年9月<br />
}}</ref>。<br />
<br />
[[1990年代]]前半の[[ユーゴスラビア社会主義連邦共和国]]から[[ユーゴスラビア連邦共和国]]への移行期の混乱はベオグラードにも影響を与えた。セルビアのほかの地域と同様に、国際的な[[禁輸]]によって経済に深刻な影響がもたらされた。[[ユーゴスラビア・ディナール]]のハイパーインフレは、記録史上最大であったといわれ<ref name=inflation1>{{cite web<br />
|last = Watkins<br />
|first = Thayer<br />
|title = The Worst Episode of Hyperinflation in History: Yugoslavia 1993-94<br />
|url = http://www.sjsu.edu/faculty/watkins/hyper.htm#YUGO<br />
|work = Episodes of Hyperinflation<br />
|publisher = San José State University Department of Economics<br />
|accessdate = 2007-07-26<br />
}}</ref><ref name=inflation2>{{cite web<br />
|last = Taylor<br />
|first = Bryan<br />
|title = Countries that Suffered the Greatest Inflation in the Twentieth century<br />
|url = http://www.globalfindata.com/articles/Century_of_Inflation.doc<br />
|format = [[Microsoft Word|Word document]]<br />
|work = The Century of Inflation<br />
|publisher = Global Financial Data<br />
|pages = 8, 10<br />
|accessdate = 2007-07-26<br />
|archiveurl = https://web.archive.org/web/20070808143908/http://www.globalfindata.com/articles/Century_of_Inflation.doc<br />
|archivedate = 2007年8月8日<br />
|deadurldate = 2017年9月<br />
}}</ref>、街の経済を破壊した。ユーゴスラビアは1990年代中期にはハイパーインフレから脱却し、その後のベオグラードの経済成長は目覚しい。2000年代末の時点で、ベオグラードはセルビア全体の[[国内総生産]]の30%以上を占め、またセルビアの労働者人口の30%以上を占めている<ref>{{cite web<br />
|url = http://www.kombeg.org.yu/privredabg/privreda.htm<br />
|publisher = Economic Chamber of Belgrade<br />
|title = Privreda Beograda<br />
|language = Serbian<br />
|accessdate = 2007-07-10<br />
|archiveurl = https://web.archive.org/web/20080915205842/http://www.kombeg.org.yu/privredabg/privreda.htm<br />
|archivedate = 2008年9月15日<br />
|deadurldate = 2017年9月<br />
}}</ref>。平均的な月収は47.500[[セルビア・ディナール]]であり、[[ユーロスタット]]([[:en:Eurostat|Eurostat]])の手法によれば、コンピュータを保有する家庭は53%に上る<ref name="politika.rs">http://www.politika.rs/rubrike/Drustvo/U-Srbiji-sve-vishe-rachunara.sr.html</ref><ref>[http://www.economy.co.yu/eng/index.php?action=news&subact=full&id=514 Almost 98% of companies in Serbia are computerised] - Economy.co.yu</ref>。同じ調査によると、ベオグラードの家庭の39.1%はインターネット接続を持っており、これは[[ソフィア (ブルガリア)|ソフィア]]や[[ブカレスト]]、[[アテネ]]などのほかのバルカン地域の首都よりも高い比率である<ref name="politika.rs"/>。<br />
<br />
== 文化 ==<br />
[[ファイル:Serbia Beograd SANU - Feb 2006.jpg|thumb|250px|right|1922年建造の[[セルビア科学芸術アカデミー]]の建物]]<br />
ベオグラードでは多くの文化的催しが開催されている。代表的なものでは、ベオグラード映画祭([[:en:FEST (Belgrade)|FEST]])、ベオグラード演劇祭([[:en:Bitef|BITEF]])、ベオグラード夏季祭(BELEF)、ベオグラード音楽祭([[:en:BEMUS|BEMUS]])、ベオグラード図書祭([[:en:Belgrade Book Fair|Belgrade Book Fair]])、ベオグラード・ビール祭などがある<ref>{{cite web<br />
|url = http://www.beograd.rs/cms/view.php?id=201299<br />
|title = Culture and Art (Cultural Events)<br />
|publisher = Official website<br />
|accessdate = 2007-07-10<br />
}}</ref>。<br />
<br />
[[ノーベル文学賞]]を受賞した[[イヴォ・アンドリッチ]]は、その最も有名な著作『[[ドリナの橋]]』をベオグラードで執筆した<ref>{{cite web<br />
|url = http://www.ivoandric.org.yu/html/biography.html<br />
|title = The biography of Ivo Andrić<br />
|publisher = The Ivo Andrić Foundation<br />
|accessdate = 2007-05-18<br />
|archiveurl = https://web.archive.org/web/20091217220618/http://www.ivoandric.org.yu/html/biography.html<br />
|archivedate = 2009年12月17日<br />
|deadurldate = 2017年9月<br />
}}</ref>。このほかのベオグラードの著名な作家には、[[ブラニスラヴ・ヌシッチ]]([[:en:Branislav Nušić|Branislav Nušić]])、[[ミロシュ・ツルニャンスキ]]([[:en:Miloš Crnjanski|Miloš Crnjanski]])、[[ボリスラヴ・ペキッチ]]([[:en:Borislav Pekić|Borislav Pekić]])、[[ミロラド・パヴィチ|ミロラド・パヴィッチ]]、[[メシャ・セリモヴィッチ]]([[:en:Meša Selimović|Meša Selimović]])などがいる<ref>{{cite web<br />
|url = http://www.rastko.org.yu/knjizevnost/nauka_knjiz/pekic-biograf.html<br />
|title = Borislav Pekić - Biografija<br />
|publisher = [[Project Rastko]]<br />
|language = Serbian<br />
|accessdate = 2007-05-19<br />
}}</ref><ref>{{cite web<br />
|url = http://www.electronicbookreview.com/thread/internetnation/sumatrism<br />
|title = Miloš Crnjanski and his descendents<br />
|publisher = Electronic Book Review<br />
|author = Joseph Tabbi<br />
|date = 2005-07-26<br />
|accessdate = 2007-07-10<br />
}}</ref><ref>{{cite web<br />
|url = http://www.xs4all.nl/~eteia/kitabhana/Selimovic_Mehmed_Mesa/Biografija.html<br />
|title = Meša Selimović - Biografija<br />
|publisher = Kitabhana.net<br />
|accessdate = 2007-07-10<br />
|language = Bosnian<br />
}}</ref>。セルビアの映画産業の多くはベオグラードを拠点としている。[[1995年]]に[[パルム・ドール]]を受賞した[[エミール・クストリッツァ]]監督の『[[アンダーグラウンド (映画)|アンダーグラウンド]]』はベオグラードで製作された。<br />
<br />
街は[[1980年代]]の[[ユーゴスラヴ・ニュー・ウェーブ]]([[:en:Yugoslav New Wave|Yugoslav New Wave]])の中心の一つであった。[[VISイドリ]]([[:en:VIS Idoli|VIS Idoli]])、[[エカテリーナ・ヴェリカ]]([[:en:Ekatarina Velika|Ekatarina Velika]])、[[シャルロ・アクロバタ]]([[:en:Šarlo Akrobata|Šarlo Akrobata]])はいずれもベオグラード出身である。このほかの著名なベオグラード出身のロック・アーティストには、[[リブリャ・チョルバ]]([[:en:Riblja Čorba|Riblja Čorba]])、[[バヤガ・イ・インストルクトリ]]([[:en:Bajaga i Instruktori|Bajaga i Instruktori]])などがある<ref>{{cite web<br />
|url = http://www.balkanmedia.com/magazin/hall/corba/biografija2.shtml<br />
|title = Riblja Čorba<br />
|publisher = Balkan Media.com<br />
|accessdate = 2007-07-10<br />
|language = Serbian<br />
}}{{リンク切れ|date=2017年9月 |bot=InternetArchiveBot }}</ref>。ベオグラードは、スター歌手の[[ツェツァ]]に代表されるような、旧ユーゴスラビア地域で流行している[[ターボ・フォーク]]と呼ばれるジャンルの音楽の中心地である。ベオグラードはまた[[セルビアのヒップ・ホップ]]([[:en:Serbian hip hop|Serbian hip hop]])の中心でもあり、[[ベオグラードスキ・シンディカト]]([[:en:Beogradski Sindikat|Beogradski Sindikat]])、[[シュカボ]]([[:en:Škabo|Škabo]])、[[マルチェロ]]([[:en:Marčelo|Marčelo]])や、その他[[バッシヴィティ・ミュージック]]所属アーティストなどがベオグラードを拠点としている<ref>{{cite web<br />
|url = http://www.popboks.com/albumi/beogradskisindikat.shtml<br />
|title = Beogradski Sindikat: ''Svi Zajedno''<br />
|publisher = Popboks magazine<br />
|date = 2005-02-09<br />
|author = Aleksandar Pavlić<br />
|accessdate = 2007-05-23<br />
|language = Serbian<br />
|archiveurl = https://web.archive.org/web/20070513014844/http://www.popboks.com/albumi/beogradskisindikat.shtml<br />
|archivedate = 2007年5月13日<br />
|deadurldate = 2017年9月<br />
}}</ref><ref>{{cite web<br />
|url = http://www.balkanmedia.com/m2/doc/3184-1.shtml<br />
|title = Liričar među reperima<br />
|publisher = Balkanmedia<br />
|author = S. S. Todorović<br />
|date = 2004-01-30<br />
|accessdate = 2007-05-23<br />
|language = Serbian<br />
}}{{リンク切れ|date=2017年9月 |bot=InternetArchiveBot }}</ref>。<br />
<br />
ベオグラードには多くの劇場があり、その中で特に著名なものとしては[[ベオグラード国立劇場]]([[:en:National Theatre in Belgrade|National Theatre]])、[[テラジイェ劇場]]([[:en:Theatre on Terazije|Theatre on Terazije]])、[[ユーゴスラヴ・ドラマ劇場]]([[:en:Yugoslav Drama Theatre|Yugoslav Drama Theatre]])、[[ズヴェズダ劇場]](Zvezdara Theatre)、アテリェ212(Atelier 212)などがある。[[セルビア科学芸術アカデミー]]や[[セルビア国立図書館]]もベオグラードを拠点としている。ベオグラードには、ベオグラード国立劇場とゼムンのマドレニヤヌム([[:it:Teatro dell'Opera di Madlenijanum|Madlenijanum]])という2つのオペラ・ハウスがある。<br />
<br />
ベオグラードにはまた多くの外国の文化的施設が集まっており、[[セルバンテス文化センター]]、[[ゲーテ・インスティトゥート]]([[:en:Goethe-Institut|Goethe-Institut]])、[[フランス文化センター]](Centre Culturel Français)、オーストリア文化フォーラム(Österreichischen Kulturforums)、[[ブリティッシュ・カウンシル]]([[:en:British Council|British Council]])、[[ロシア科学文化センター]](Российский центр науки и культуры)、[[孔子学院]]、カナダ文化センター(Canadian Cultural Center)、[[イタリア文化会館]](Istituto Italiano di Cultura)、[[ヘレニック・ハウス]]([[:en:Hellenic Foundation for Culture|Hellenic House]])、[[イラン・イスラム共和国文化センター]]などがある。<br />
<br />
[[ユーロビジョン・ソング・コンテスト]]の[[ユーロビジョン・ソング・コンテスト2007|2007年大会]]における[[マリヤ・シェリフォヴィッチ]]の優勝に伴い、翌年の[[ユーロビジョン・ソング・コンテスト2008|2008年大会]]はベオグラードで開催された<ref>{{cite web<br />
|url = http://www.hs.fi/english/article/Serbian+ballad+wins+Eurovision+Song+Contest+-+Belgrade+hosts+in+2008+/1135227223254<br />
|publisher = [[Helsingin Sanomat]]<br />
|title = Serbian ballad wins Eurovision Song Contest - Belgrade hosts in 2008<br />
|date = 2007-05-14<br />
|accessdate = 2007-07-10<br />
}}</ref> 。<br />
<br />
=== 博物館 ===<br />
[[ファイル:Miroslavs Gospel.jpg|thumb|left|200px|[[ミロスラヴの福音]]([[:en:Miroslav's Gospel|Miroslav's Gospel]])、[[2005年]]に[[国際連合教育科学文化機関|UNESCO]]の[[世界の記憶]]に加えられた12世紀の記録物。]]<br />
[[ファイル:Belgrade Rail HQ.JPG|thumb|right|鉄道博物館]]<br />
ベオグラードで最高の博物館といわれるのは、[[1844年]]に設立された[[セルビア国立博物館]]であり、40万点を超える展示物を収蔵している(5600を超える絵画、8400を超える図画および印刷物を持つ)。収蔵されている展示物の中には、多くの外国の名作や、有名な[[ミロスラヴの福音]]([[:en:Miroslav's Gospel|Miroslavljevo Jevanđelje]])が含まれる<ref>{{cite web<br />
|url = http://www.narodnimuzej.org.yu/code/navigate.php?Id=75<br />
|title = From the history of the National Museum in Belgrade<br />
|publisher = National Museum of Serbia<br />
|author = Tatjana Cvjetićanin<br />
|accessdate = 2007-07-27<br />
|archiveurl = https://web.archive.org/web/20060930070306/http://www.narodnimuzej.org.yu/code/navigate.php?Id=75<br />
|archivedate = 2006年9月30日<br />
|deadurldate = 2017年9月<br />
}}</ref>。[[軍事博物館 (ベオグラード)|軍事博物館]]は、[[ローマ帝国|ローマ時代]]からユーゴスラビア軍に撃墜された[[F-117 (航空機)|F-117]]ステルス機まで、2万5千を超える幅広い軍事に関する展示物を収蔵している<ref>{{cite web<br />
|url = http://www.beograd.rs/cms/view.php?id=201283<br />
|title = Museums<br />
|publisher = Official website<br />
|accessdate = 2007-07-10<br />
}}</ref><ref>{{cite web<br />
|url = http://www.lonelyplanet.com/worldguide/destinations/europe/serbia/belgrade?v=print<br />
|title = World Guide:Belgrade<br />
|publisher = [[ロンリープラネット|Lonely Planet]]<br />
|accessdate = 2007-07-27<br />
|archiveurl = https://web.archive.org/web/20071011235929/http://www.lonelyplanet.com/worldguide/destinations/europe/serbia/belgrade?v=print<br />
|archivedate = 2007年10月11日<br />
|deadurldate = 2017年9月<br />
}}</ref>。[[ベオグラード航空博物館]]([[:en:Museum of Aviation in Belgrade|Museum of Aviation in Belgrade]])では、200を超える航空機が収められ、うち50が展示されている。一部には、[[G.50 (航空機)|Fiat G.50]]などの現存する数少ない型式の物もある。この博物館はまた、[[アメリカ合衆国]]や[[北大西洋条約機構|NATO]]の戦闘機、F-117や[[F-16 (戦闘機)|F-16]]なども展示されている<ref>{{cite web<br />
|url = http://www.muzejrv.org/istorija/istorija.html<br />
|title = Lična karta Muzeja ratnog vazduhoplovstva<br />
|publisher = Museum of Air force Belgrade<br />
|accessdate = 2007-05-19<br />
|language = Serbian<br />
}}</ref>。[[民俗誌博物館]]([[Ethnographic Museum (Belgrade)|Ethnographic Museum]])は[[1901年]]に設立され、15万点を超える展示物は[[バルカン半島]]、特に旧[[ユーゴスラビア社会主義連邦共和国|ユーゴスラビア]]諸国の農村部や都市部の文化を示している<ref>{{cite web<br />
|url = http://www.beograd.rs/cms/view.php?id=201167<br />
|title = Museums 3<br />
|publisher = Official website<br />
|accessdate = 2007-07-10<br />
}}</ref>。[[コンテンポラリー・アート美術館 (ベオグラード)|コンテンポラリー・アート美術館]]は、[[1901年]]以降に[[ユーゴスラビア]]地域で製作された8,540点ほどの作品を収蔵している<ref>{{cite web<br />
|url = http://www.beograd.rs/cms/view.php?id=201055<br />
|title = Museums 2<br />
|publisher = Official website<br />
|accessdate=2007-07-10}}</ref>。[[ニコラ・テスラ]]博物館は[[1952年]]に設立され、単位[[テスラ (単位)|テスラ]]の名前の由来となった科学者[[ニコラ・テスラ]]の個人所有物を収蔵している。この博物館は、16万点ほどの文書の原著や、その他5,700点ほどの物品を収蔵している<ref>{{cite web<br />
|url = http://www.tesla-museum.org/meni_en/nt.php?link=muzej/m&opc=sub2<br />
|publisher = Nikola Tesla Museum<br />
|title = About the museum<br />
|accessdate = 2007-07-10<br />
|archiveurl = https://web.archive.org/web/20070610092417/http://www.tesla-museum.org/meni_en/nt.php?link=muzej%2Fm&opc=sub2<br />
|archivedate = 2007年6月10日<br />
|deadurldate = 2017年9月<br />
}}</ref>。[[ヴク・ドシテイ博物館]]は、[[19世紀]]のセルビア文章語改革の推進者の[[ヴーク・カラジッチ]]と、初代のセルビア教育大臣の[[ドシテイ・オブラドヴィッチ]]([[:en:Dositej Obradović|Dositej Obradović]])に関する物品を収蔵している<ref>{{cite web<br />
|url = http://www.beograd.rs/cms/view.php?id=201051<br />
|title = City of Belgrade - Museums 1<br />
|publisher = Official website<br />
|accessdate = 2007-07-10<br />
}}</ref>。ベオグラードにはまた[[アフリカ芸術博物館 (セルビア)]]もあり、[[西アフリカ]]由来の大規模なコレクションを持っている<ref>{{cite web<br />
|url = http://www.beograd.rs/cms/view.php?id=202308<br />
|title= ural institutions:Museum of African Art<br />
|publisher = Official website<br />
|accessdate = 2007-07-10<br />
}}</ref>。<br />
<br />
9万5千点ほどの国内外の映画の記録を収蔵する[[ユーゴスラビア映画保管所]]([[:en:Yugoslav Film Archive|Yugoslav Film Archive]])は、地域で最大、また全世界でも10本の指に入る規模となっている<ref>{{cite web<br />
|url = http://www.ear.europa.eu/serbia/main/documents/2006Media.pdf<br />
|title = Action programme 2006 for Serbia: Support to the Yugoslav Film Archive<br />
|publisher = European Agency for Reconstruction<br />
|date = 2006-01-01<br />
|accessdate = 2007-07-10<br />
|format = PDF<br />
|archiveurl = https://web.archive.org/web/20080307210609/http://www.ear.europa.eu/serbia/main/documents/2006Media.pdf<br />
|archivedate = 2008年3月7日<br />
|deadurldate = 2017年9月<br />
}}</ref>。ユーゴスラビア映画保管所を運営する機関はまた、映写室と展示ホールも持っている。保管所の長期にわたる保管の問題は[[2007年]]に、新しい保管庫を作ることで解決された<ref>{{cite web<br />
|url = http://www.seecult.org/english/module-News-display-sid-211.html<br />
|title = New Depository for the Yugoslav Film Archive’s treasure<br />
|publisher = SEECult.org, Culture Portal of Southeastern Europe<br />
|date = 2007-06-07<br />
|accessdate = 2007-07-10<br />
|archiveurl = https://web.archive.org/web/20070611204840/http://www.seecult.org/english/module-News-display-sid-211.html<br />
|archivedate = 2007年6月11日<br />
|deadurldate = 2017年9月<br />
}}</ref>。<br />
<br />
[[ベオグラード市博物館]]([[:en:Museum of the City of Belgrade|Museum of the City of Belgrade]])は、都心の[[ネマニヤ通り]]の新しいビルディングに移転予定である。博物館にはベオグラード福音(1503年)、[[コソボの戦い]]の[[プレートアーマー]]をはじめとする、多くの絵画や図画が収蔵されている。新しい「科学技術博物館」の建設が[[2011年]]に着工された。<br />
{{Clearleft}}<br />
<br />
=== 建築 ===<br />
[[ファイル:ParlamentBelgrad.jpg|300px|thumb|right|[[国民議会 (セルビア)|セルビアの国民議会]]と、[[ポシュタ・スルビイェ|セルビア郵便]]の本社社屋。1938年建造]]<br />
[[ファイル:Beogradjanka, Belgrade, Serbia.jpg|left|thumb|180px|[[ベオグラジャンカ]]]]<br />
<br />
ベオグラードの[[建築]]は幅広く、[[ゼムン]]中心では典型的な[[中央ヨーロッパ|中欧]]風の街並みが見られる<ref>{{cite web<br />
|title = Zemun: The Town Within the City<br />
|url = http://www.b92.net/eng/travel/index.php?nav_id=38986<br />
|author = Nicholas Comrie, Lucy Moore<br />
|publisher = [[B92]] Travel<br />
|date = 2007-10-01<br />
|accessdate = 2007-05-17<br />
}}</ref>一方、[[ノヴィ・ベオグラード]]にはより現代的で巨大な建築物が並ぶ。ベオグラードで最古の建造物はカレメグダン公園(Kalemegdan)に残されている。カレメグダン公園の外では、その地理的関係、および度重なる戦乱や破壊のため、[[19世紀]]よりも古い建物はない<ref name=manevic>{{cite web<br />
|url = http://web.mit.edu/most/www/ser/Belgrade/zoran_manevic.html<br />
|title = Architecture and Building<br />
|author = Zoran Manević<br />
|publisher = [[MIT]] website<br />
|accessdate = 2007-05-19<br />
}}</ref>。ベオグラードで最古の公共施設は平凡なトルコ式の墓([[テュルベ]]、[[:en:turbe|turbe]])であり、最古の家屋は[[ドルチョル]]([[:en:Dorćol|Dorćol]])にある[[18世紀]]の地味な粘土造りのものである<ref>{{cite web<br />
|url = http://www.ulus.org.yu/ENGLISH/Exhibitions/TriennialA/TriennialA.htm<br />
|title = Seventh Belgrade triennial of world architecture<br />
|publisher = ULUS<br />
|author = Prof. Dr. Mihajlo Mitrović<br />
|date = 2003-06-27<br />
|accessdate = 2007-05-19<br />
|archiveurl = https://web.archive.org/web/20070608232537/http://www.ulus.org.yu/ENGLISH/Exhibitions/TriennialA/TriennialA.htm<br />
|archivedate = 2007年6月8日<br />
|deadurldate = 2017年9月<br />
}}</ref>。西側からの影響の流入は[[19世紀]]に始まり、それまでのオリエンタルな街並みから一変して、[[新古典主義]]、[[ロマン主義]]、[[アカデミック絵画|アカデミック様式]]の影響を受けた当時のヨーロッパの街並みへと造りかえられた。19世紀後半には外来の建築家に代わってセルビアの建築家が活躍するようになり、[[ベオグラード国立劇場]]([[:en:National Theatre in Belgrade|National Theatre]])、[[旧宮殿 (ベオグラード)|旧宮殿]]([[:en:Old Palace (Belgrade)|Old Palace]])、[[聖天使首ミハイル大聖堂 (ベオグラード)|聖天使首ミハイル大聖堂]]([[:en:Saborna Crkva|Saborna Crkva Sv. Arhangela Mihaila]])などが建てられた。[[20世紀]]初期には、[[アール・ヌーヴォー]]の影響を受けた[[国民議会 (セルビア)|国民議会]]や[[セルビア国立博物館]]([[:en:National Museum of Serbia|National Museum]])などが建てられた<ref name=manevic/>。<br />
<br />
[[ネオ・ビザンティン建築]]の要素は[[ヴク協会]]やコソヴスカ通り(Kosovska)の旧郵便局、あるいは[[グラチャニツァ修道院]]([[:en:Gračanica monastery|Gračanica monastery]])を基にした[[聖マルコ聖堂 (ベオグラード)|聖マルコ聖堂]]や[[聖サワ大聖堂]]などの[[聖堂]]にも用いられている<ref name=manevic/>。<br />
<br />
共産主義時代、地方からベオグラードへの急速な人口流入に伴い、多くの住居を早く安価で建設する必要が生じた。その結果、[[ノヴィ・ベオグラード]]の[[ブロコヴィ]]([[:en:blokovi|blokovi]])に見られるような[[ブルータリズム]]([[:en:brutalist architecture|brutalist architecture]])や、[[社会主義リアリズム]]が一時の間支配的となり、貿易連合ホール(Dom sindikata)のような建物が出現した<ref name=manevic/>。しかし、[[1950年代]]半ばからは[[モダニズム]]の傾向が強まり、その後もベオグラードでは支配的となっている。<br />
{{Clearleft}}<br />
=== 観光 ===<br />
[[ファイル:Street Knez Mihailova.png|185px|right|thumb|[[クネズ・ミハイロヴァ通り]]、街の歩行者区域の中心]]<br />
[[ファイル:Kalemegdan park 1.jpg|thumb|left|250px|{{仮リンク|カレメグダン|en|Kalemegdan}}公園]]<br />
{{See also|ベオグラードの通りと広場}}<br />
ベオグラードの歴史的地域や建築物は街の重要な観光資源である。その中には、[[スカダルリヤ]]、[[セルビア国立博物館]]([[:en:National Museum of Serbia|National Museum]])と隣接する[[ベオグラード国立劇場]]([[:en:National Theatre in Belgrade|National Theatre]])、[[ゼムン]]、[[ニコラ・パシッチ広場]]([[:en:Nikola Pašić Square|Nikola Pašić Square]])、[[テラジイェ]]、[[学生広場]]([[:en:Studentski Trg|Students' Square]])、[[カレメグダン]]要塞([[:en:Kalemegdan|Kalemegdan]])、[[クネズ・ミハイロヴァ通り]]、[[国民議会 (セルビア)|国民議会]]、[[聖サワ大聖堂]]、[[旧宮殿 (ベオグラード)|旧宮殿]]などがある。ベオグラードには川の両岸とも多くの公園、記念碑、博物館、カフェ、レストラン、店舗がある。[[アヴァラ山]]([[:en:Avala|Avala]])の[[無名英雄記念碑]]([[:en:Monument to the Unknown Hero|Monument to the Unknown Hero]])からは街を一望できる。[[クチャ・ツヴェチャ]]([[:en:Kuća Cveća|Kuća Cveća]]、花の家)と呼ばれる[[ヨシップ・ブロズ・チトー|ヨシップ・ブロズ・ティトー]]の墓や、近接する[[トプチデル公園]]([[:en:Topčider|Topčider]])や[[コシュトニャク公園]]([[:en:Košutnjak|Košutnjak]])も、特に旧[[ユーゴスラビア社会主義連邦共和国|ユーゴスラビア]]諸国からの訪問者の間では人気が高い。<br />
<br />
[[ベリ・ドヴォル]]([[:en:Beli Dvor|Beli Dvor]]、白の宮殿)は[[カラジョルジェヴィチ家|カラジョルジェヴィッチ王家]]の宮殿であり、訪問者に開放されている。宮殿には[[レンブラント・ファン・レイン]]、[[ニコラ・プッサン]]、[[セバスチャン・ブルドン]]([[:en:Sebastien Bourdon|Sebastien Bourdon]])、[[パオロ・ヴェロネーゼ]]、[[カナレット]]、[[ビアージョ・ダントニオ]]([[:en:Biagio d'Antonio|Biagio d'Antonio]])、[[ジュセッペ・クレスピ]]([[:en:Giuseppe Crespi|Giuseppe Crespi]])、[[フランツ・ヴィンターハルター]]、[[イヴァン・メシュトロヴィッチ]]([[:en:Ivan Meštrović|Ivan Meštrović]])などの作品が収められている。<br />
<br />
[[アダ・ツィガンリヤ]]は、かつては[[サヴァ川]]に浮かぶ中洲の島であり、ベオグラード最大のスポーツ・レクリエーション施設がある。現在、島は陸地と結ばれ、川の中に人造の池を形成している。アダ・ツィガンリヤは暑い夏季の間、多くのベオグラード市民が訪れる。アダには、7kmに及ぶ長い浜と、多様なスポーツ施設があり、[[ゴルフ]]、[[サッカー]]、[[バスケットボール]]、[[バレーボール]]、[[ラグビー]]、[[野球]]、[[テニス]]などができる<ref>{{cite web<br />
|url = http://www.adaciganlija.co.yu/sport_tereni.htm<br />
|title = Sportski tereni<br />
|publisher = Public utility "Ada Ciganlija"<br />
|accessdate = 2007-05-19<br />
|language = Serbian<br />
|archiveurl = https://web.archive.org/web/20070425214616/http://www.adaciganlija.co.yu/sport_tereni.htm<br />
|archivedate = 2007年4月25日<br />
|deadurldate = 2017年9月<br />
}}</ref>。夏の間、ここには毎日20万から30万人が訪れる。クラブは24時間営業し、音楽ライブや夜通しのビーチ・パーティーを開催している。[[バンジージャンプ]]や[[水上スキ]]、[[ペイントボール]]といったエクストリーム・スポーツも可能である<ref>{{cite web<br />
|url = http://www.tob.co.yu/english/zasto_bg/zeleni_bg/ada/index.html<br />
|publisher = Tourism Organisation of Belgrade<br />
|title = Ada Ciganlija<br />
|accessdate = 2007-05-19<br />
|archiveurl = https://web.archive.org/web/20060925191013/http://www.tob.co.yu/english/zasto_bg/zeleni_bg/ada/index.html<br />
|archivedate = 2006年9月25日<br />
|deadurldate = 2017年9月<br />
}}</ref>。アダには複数の周回コースがあり、サイクリングやジョギング、散歩も可能である<ref>{{cite web<br />
|url = http://www.adaciganlija.co.yu/o_adi.htm<br />
|title = O Adi<br />
|publisher = Public utility "Ada Ciganlija"<br />
|language = Serbian<br />
|accessdate = 2007-05-19<br />
|archiveurl = https://web.archive.org/web/20070520164006/http://www.adaciganlija.co.yu/o_adi.htm<br />
|archivedate = 2007年5月20日<br />
|deadurldate = 2017年9月<br />
}}</ref><ref>{{cite web<br />
|url = http://www.adaciganlija.co.yu/s_tereni/kupaliste.htm<br />
|title = Kupalište<br />
|publisher = Public utility "Ada Ciganlija"<br />
|language = Serbian<br />
|accessdate = 2007-05-19<br />
|archiveurl = https://web.archive.org/web/20070520164310/http://www.adaciganlija.co.yu/s_tereni/kupaliste.htm<br />
|archivedate = 2007年5月20日<br />
|deadurldate = 2017年9月<br />
}}</ref>。アダのほかに、ベオグラードには川の中に全部で16の島があり<ref>{{cite paper<br />
|author = Ana Nikolov<br />
|title = Beograd – grad na rekama<br />
|publisher = Institut za Arhitekturu i Urbanizam Srbije<br />
|date = 2005-07-29<br />
|url = http://www.ekapija.com/website/sr/page/17516<br />
|accessdate = 2007-06-05<br />
}}</ref>、その多くは未使用である。その中の一つに、サヴァ川とドナウ川の合流地点にある[[大戦争島]]([[:en:Great War Island|Great War Island]])があり、手付かずの野生動物、とくに野鳥の楽園となっている<ref>{{cite web<br />
|url = http://www.kurir-info.co.yu/Arhiva/2006/maj/23/B-01-23052006.shtml<br />
|title = Zbogom, oazo!<br />
|publisher = [[Kurir]]<br />
|date = 2006-05-23<br />
|accessdate = 2007-06-05<br />
|language = Serbian<br />
}}</ref>。この大戦争島と、近接する[[小戦争島]]([[:en:Small War Island|Small War Island]])を含む一体は、ベオグラード市政府によって[[自然保護区]]として保護されている<ref>{{cite web<br />
|title = Prirodno dobro "Veliko ratno ostrvo” stavljeno pod zaštitu Skupštine grada<br />
|url = http://www.ekoforum.org.yu/index/vest.asp?vID=181<br />
|author = Beoinfo<br />
|publisher = Ekoforum<br />
|date = 2005-08-04<br />
|accessdate = 2007-06-05<br />
|language = Serbian<br />
}}</ref>。<br />
{{Clearleft}}<br />
=== ナイトライフ ===<br />
ベオグラードでは多様なナイトライフが楽しめることで知られ、街の各所に明け方まで営業しているクラブがある。代表的なベオグラードらしいナイトライフには、サヴァ川やドナウ川の川岸に沿って展開するはしけ(splavovi)がある<ref>{{cite web<br />
|url = http://travel.guardian.co.uk/article/2003/aug/10/observerescapesection1<br />
|title = "Why I love battered Belgrade"<br />
|author = Eve-Ann Prentice<br />
|publisher = [[ガーディアン|The Guardian]] Travel<br />
|date = 2003-08-10<br />
|accessdate = 2007-05-19<br />
|archiveurl = https://web.archive.org/web/20070515043701/http://travel.guardian.co.uk/article/2003/aug/10/observerescapesection1<br />
|archivedate = 2007年5月15日<br />
|deadurldate = 2017年9月<br />
}}</ref><ref>{{cite web<br />
|url = http://www.nytimes.com/2005/10/16/travel/16belgrade.html?ex=1287115200&en=4cd8ccf41a41542c&ei=5088<br />
|title = Belgrade Rocks<br />
|publisher = [[ニューヨーク・タイムズ|The New York Times]]<br />
|author = Seth Sherwood<br />
|date = 2005-10-16<br />
|accessdate = 2007-05-19<br />
}}</ref><ref>{{cite web<br />
|url = http://www.dw-world.de/dw/article/0,2144,2129528,00.html<br />
|title = Belgrade's Nightlife Floats on the Danube<br />
|publisher = [[ドイチェ・ヴェレ|Deutsche Welle]]<br />
|author = Barbara Gruber<br />
|date = 2006-08-22<br />
|accessdate = 2007-05-19<br />
}}</ref>。<br />
<br />
週末にベオグラードを訪れる周辺諸国 - [[ボスニア・ヘルツェゴビナ]]や[[クロアチア]]、[[スロベニア]]など - からの観光客は、自国の首都よりもベオグラードでのナイトライフをより好み、その理由としてベオグラードの友好的な雰囲気や素晴らしいクラブ、バー、安い飲料、言語の壁がないこと(これらの国々の人々は多くがベオグラードの言葉を問題なく理解できる)、夜間営業に対する規制が緩いことなどが挙がる<ref name="slovenci">{{cite web<br />
|url = http://www.b92.net/info/vesti/pregled_stampe.php?yyyy=2004&mm=12&dd=21&nav_id=158386<br />
|title = Slovenci dolaze u jeftin provod<br />
|publisher = [[:en:Glas Javnosti|]]<br />
|date = 2004-12-21<br />
|language = Serbian<br />
|accessdate = 2007-07-10<br />
}}</ref><ref name="hrvati">{{cite web<br />
|url = http://www.vecernji-list.hr/newsroom/news/international/453911/print.do<br />
|title = U Beograd na vikend-zabavu<br />
|publisher = [[ヴェチェルニ・リスト|Večernji list]]<br />
|date = 2006-01-06<br />
|language = Croatian<br />
|accessdate = 2007-06-15<br />
|archiveurl = http://www.b92.net/info/vesti/pregled_stampe.php?yyyy=2006&mm=01&dd=08&nav_id=184523<br />
|archivedate = 2006-01-06<br />
}}</ref>。<br />
[[ファイル:Skadarlija_street,_Belgrade,_Serbia.jpg|thumb|[[スカダルリヤ]]、ベオグラードの古い[[ボヘミアニズム]]様式の地区]]<br />
<br />
アカデミヤ(Akademija)やKST(Klub studenata tehnike)などの有名なクラブが[[ベオグラード大学]]([[:en:University of Belgrade|University of Belgrade]])の電気工学科の施設の地下にある<ref>{{cite book<br />
|title = The Culture of Power in Serbia: Nationalism and the Destruction of Alternatives<br />
|pages = 121–122<br />
|last = Gordy<br />
|first = Eric D.<br />
|chapter = The Destruction of Musical Alternatives<br />
|publisher = Penn State Press<br />
|accessdate = 2007-07-10<br />
|url = http://books.google.com/books?id=WqoZsrmYZQIC&dq=Belgrade+KST<br />
|isbn = 0271019581<br />
|year = 1999<br />
}}</ref><ref>{{cite web<br />
|url = http://kst.etf.rs/<br />
|title = Klub Studenata Tehnike - O nama<br />
|language = Serbian<br />
|accessdate = 2010-11-21<br />
}}</ref>。最も良く知られたサブカルチャーの拠点の一つにSKC(学生文化センター)がある。SKCはベオグラードに高くそびえ立つ[[ベオグラジャンカ]]([[:en:Beograđanka|Beograđanka]])の真向かいにある。地元の、あるいは国外の数多くの有名なバンドがここでコンサートを開催している。SKCではまた多くの展示や公開討論、議論などが行われている<ref>{{cite web<br />
|url = http://www.skc.org.yu/info.php?lang=2<br />
|title = Student cultural center<br />
|publisher = SKC<br />
|accessdate = 2007-05-19<br />
|archiveurl = https://web.archive.org/web/20090114073818/http://www.skc.org.yu/info.php?lang=2<br />
|archivedate = 2009年1月14日<br />
|deadurldate = 2017年9月<br />
}}</ref>。<br />
<br />
セルビア北部の都市部で見られるような、[[スタログラドスカ・ムジカ]]([[:en:Starogradska muzika|Starogradska muzika]]、旧市街)の名で知られる伝統音楽に彩られた、より伝統的なセルビアのナイトライフは、ベオグラードの[[ボヘミアニズム]]の地区である[[スカダルリヤ]]で最も盛んである。スカダルリヤ地区は、19世紀から20世紀初頭にかけての詩人や芸術家らが集まった地区である。スカダル通りやその周辺地区には、[[カファナ]]と呼ばれる、ベオグラードで最も優れた、伝統的なレストランが立ち並んでいる<ref>{{cite web<br />
|url = http://www.tob.co.yu/english/zasto_bg/bg_amb/skadarlija/index.html<br />
|title = Skadarlija<br />
|publisher = Tourist Organisation of Belgrade<br />
|accessdate = 2007-05-19<br />
|archiveurl = https://web.archive.org/web/20070127235333/http://www.tob.co.yu/english/zasto_bg/bg_amb/skadarlija/index.html<br />
|archivedate = 2007年1月27日<br />
|deadurldate = 2017年9月<br />
}}</ref>。地区の端には、19世紀前半に操業したベオグラードで最も古いビール醸造所がある<ref>{{cite web<br />
|url = http://www.bip.co.yu/e-istorija.htm<br />
|title = History<br />
|publisher = BiP (Belgrade Brewery)<br />
|accessdate = 2007-05-19<br />
|archiveurl = https://web.archive.org/web/20070929033107/http://www.bip.co.yu/e-istorija.htm<br />
|archivedate = 2007年9月29日<br />
|deadurldate = 2017年9月<br />
}}</ref>。街で最も古いカファナの一つに[[? (食堂)|?]](ズナク・ピタニャ Znak pitanja)が知られる<ref>{{cite web<br />
|url = http://www.beograd.rs/cms/view.php?id=1319<br />
|title = Znamenite građevine 3<br />
|publisher = Official site<br />
|language=Serbian<br />
|accessdate = 2007-07-10<br />
}}</ref>。<br />
<br />
[[イギリス]]の[[タイムズ]]は、ベオグラードを「ヨーロッパで最良のナイトライフの街」と表現した<ref>{{cite web<br />
|url = http://www.timesonline.co.uk/tol/travel/holiday_type/music_and_travel/article5082856.ece<br />
|title = Europe's best nightlife<br />
|publisher = Official site<br />
|language = English<br />
|accessdate = 2008-04-11<br />
}}</ref>。<br />
<br />
=== スポーツ ===<br />
[[ファイル:Belgrade Arena south-east.jpg|right|270px|thumb|[[ベオグラード・アリーナ]]]]<br />
ベオグラードにはおよそ1千のスポーツ施設があり、多くの施設がさまざまなレベルのスポーツ・イベントに使用できる<ref name=offsport>{{cite web<br />
|url = http://www.beograd.rs/cms/view.php?id=201508<br />
|title = Sport and Recreation<br />
|publisher = Official website<br />
|accessdate = 2007-07-10<br />
}}</ref>。ベオグラードでは[[2005年バスケットボール男子欧州選手権]]や[[2005年バレーボール男子欧州選手権]]、[[2006年ヨーロッパ水球選手権]]([[:en:European Water Polo Championship|European Water Polo Championship]])、2007年の[[:en:European Youth Olympic Festival|European Youth Olympic Festival]]などの大規模なイベントも開かれている。ベオグラードは、[[モンテレイ (メキシコ)|モンテレイ]]や[[ポズナン]]を退けて[[ユニバーシアード|ユニバーシアード2009年夏季大会]]の開催地に選ばれた<ref>{{cite web<br />
|url = http://www.fisu.net/site/page_1068.php<br />
|title = Universiade 2009 (Belgrade)<br />
|publisher = [[International University Sports Federation|FISU]]<br />
|accessdate = 2007-05-19<br />
|archiveurl = https://web.archive.org/web/20070506144512/http://www.fisu.net/site/page_1068.php<br />
|archivedate = 2007年5月6日<br />
|deadurldate = 2017年9月<br />
}}</ref>。ベオグラードは過去に2つの大きな大会の誘致に失敗している。1つは、[[バルセロナオリンピック|1992年夏季オリンピック]]であり、3回目の[[国際オリンピック委員会]]の投票で破れ、開催地は[[バルセロナ]]となった。[[アトランタオリンピック|1996年夏季オリンピック]]でも、最終的に開催地は[[アトランタ]]となった<ref>{{cite web<br />
|url = http://www.okscg.org.yu/s101e.htm<br />
|title = History of the Olympic Committee of Serbia<br />
|publisher = Olympic Committee of Serbia<br />
|accessdate = 2007-05-19<br />
|archiveurl = https://web.archive.org/web/20090110110205/http://www.okscg.org.yu/s101e.htm<br />
|archivedate = 2009年1月10日<br />
|deadurldate = 2017年9月<br />
}}</ref><ref>{{cite web<br />
|url = http://www.olympic.org/uk/ /past/index_uk.asp?OLGT=1&OLGY=1996|publisher=Official Website of the Olympic Movement<br />
|title = Atlanta 1996<br />
|accessdate = 2007-05-19<br />
}}</ref>。<br />
<br />
ベオグラードはセルビアで最も規模の大きく人気の高い2つのサッカークラブ、[[レッドスター・ベオグラード]]と[[パルチザン・ベオグラード]]をはじめとする、複数のクラブの拠点となっている。ベオグラードの2つの主要なスタジアムには「マラカナ」(Marakana、[[スタディオン・ツルヴェナ・ズヴェズダ]])と[[スタディオン・パルチザン]]([[:en:Partizan Stadium|Partizan Stadium]])がある<ref>{{cite web<br />
|url = http://www.beograd.rs/cms/view.php?id=201754<br />
|title = Sport and Recreation (Stadiums)<br />
|publisher = Official website<br />
|accessdate = 2007-07-10<br />
}}</ref>。[[ベオグラード・アリーナ]]と[[アレクサンダル・ニコリッチ・ホール]](旧称:ハラ・ピオニル)([[:en:Aleksandar Nikolić Hall|Aleksandar Nikolić Hall]])は[[KKパルチザン]]([[:en:KK Partizan|KK Partizan]])や[[KKツルヴェナ・ズヴェズダ]]([[:en:KK Crvena zvezda|KK Crvena zvezda]])などのバスケットボールの試合に使われる。また、ベオグラード・アリーナは2008年には[[ユーロビジョン・ソング・コンテスト2008]]の会場ともなった<ref>{{cite web<br />
|url = http://www.beograd.rs/cms/view.php?id=201758<br />
|title = Sport and Recreation (Sport Centers and Halls)<br />
|publisher = Official website<br />
|accessdate = 2007-07-10<br />
}}</ref><ref>{{cite web<br />
|url = http://www.beograd2007.org/index.php?option=com_content&task=view&id=20&Itemid=131&limit=1&limitstart=3&lang=en<br />
|title = Venues<br />
|publisher = EYOF Belgrade 2007<br />
|accessdate = 2007-07-30<br />
|archiveurl = https://web.archive.org/web/20071008062254/http://www.beograd2007.org/index.php?option=com_content&task=view&id=20&Itemid=131&limit=1&limitstart=3&lang=en<br />
|archivedate = 2007年10月8日<br />
|deadurldate = 2017年9月<br />
}}</ref>。[[タシュマイダン・スポーツ・センター]]([[:en:Tašmajdan Sports Centre|Tašmajdan Sports Centre]])は[[水球]]の試合に使われる。又、2年に1度に開催される[[世界水泳選手権]]の記念すべき第1回大会がこのベオグラード市にて開催され'''世界水泳・発祥の地'''と言われる。<br />
[[ファイル:BG landmarks-en.svg|500px|thumb|ベオグラードのランドマークの高さ]]<br />
[[ファイル:Sava river in Belgrade, Serbia.jpg|900px|thumb|none|[[ドナウ川]](右端)へと注ぎ込む[[サヴァ川]]。]]<br />
<br />
== メディア ==<br />
ベオグラードはセルビアで最も重要なメディアの拠点である。ベオグラードには全国的な公共放送である[[セルビア国営放送]](RTS)の本社がある<ref>{{cite web<br />
|url = http://www.rts.rs/|title=RTS|date=2005-08-23<br />
|publisher = Radio Television of Serbia<br />
|accessdate = 2010-11-21<br />
}}</ref>。RTSのレコード・レーベルである[[PGP RTS]]もベオグラードに本社を置いている<ref>{{cite web<br />
|url = http://www.pgp-rts.rs/index.html<br />
|title = ПГП - РТС (Прича о нама)<br />
|publisher = PGP RTS<br />
|accessdate = 2010-11-21<br />
|archiveurl= https://web.archive.org/web/20100701204418/http://www.pgp-rts.rs/index.html<br />
|archivedate= 2010-07-01<br />
|deadlinkdate= 2016-01-03<br />
}}</ref>。民間で最大の放送局は[[RTVピンク]]([[:en:RTV Pink|RTV Pink]])であり、同局はセンセーショナルで低俗とも評される人気の高い娯楽番組で知られている。民間で対抗する主要なメディアは[[B92]]であり、テレビ放送局、ラジオ放送局、音楽・書籍出版事業、そしてセルビアのインターネットで最も人気の高いウェブサイトを持っている<ref>{{cite web<br />
|url = http://www.cjr.org/issues/2005/1/manasek-paradox.asp<br />
|title = The Paradox of Pink<br />
|author = Jared Manasek<br />
|publisher = Columbia Journalism Review<br />
|date = 2005-01<br />
|accessdate = 2007-05-19<br />
|archiveurl = https://web.archive.org/web/20070310234840/http://www.cjr.org/issues/2005/1/manasek-paradox.asp<br />
|archivedate = 2007年3月10日<br />
|deadurldate = 2017年9月<br />
}}</ref><ref>{{cite web<br />
|url = http://www.b92.net/info/vesti/index.php?yyyy=2006&mm=09&dd=01&nav_category=15&nav_id=210237&fs=1<br />
|title = B92 na 8.598. mestu na svetu<br />
|publisher = [[B92]]<br />
|date = 2006-09-01<br />
|accessdate = 2007-05-19<br />
|language = Serbian<br />
}}</ref>。ベオグラードから放送しているこのほかのテレビ放送局には、[[TVコシャヴァ]]([[:en:TV Košava|Košava]])、[[TVアヴァラ]]([[:en:TV Avala|Avala]])、[[フォックス放送]]があるほか、ベオグラード地域のみに放送される放送局もある。スポーツのSOS channel、音楽のMetropolis、芸術のArt TV([[:en:Art TV|Art TV]])、映画のCinemania、子供向け番組のHappy TV([[:en:Happy TV|Happy TV]])などの専門チャンネルもある。<br />
<br />
ベオグラードで発行される、広く流通している日刊の新聞には、[[ポリティカ]]、[[ブリツ]]([[:en:Blic (newspaper)|Blic]])、[[ヴェチェルニェ・ノヴォスティ]]([[:en:Večernje novosti|Večernje novosti]])、[[グラス・ヤヴノスティ]]([[:en:Glas javnosti|Glas javnosti]])、[[プレス (新聞)|プレス]]([[:en:Press (newspaper)|Press (newspaper)]])、[[スポルツキ・ジュルナル]]([[:en:Sportski žurnal|Sportski žurnal]])などがある。このほかにベオグラードで発行される日刊紙には[[ダナス]]、[[クリル (新聞)|クリル]]([[:en:Kurir|Kurir]])などがある。[[ノヴィ・プラメン]]([[:en:Novi Plamen|Novi Plamen]])は、現在最も左翼的な雑誌である。無料の日刊紙[[24サタ]]([[:en:24 sata (Serbia)|24 sata]])は[[2006年]]に創刊された。<br />
<br />
== 教育 ==<br />
[[ファイル:Faculty of Architecture and Civil Engineering, Belgrade, Serbia.jpg|225px|thumb|left|[[ベオグラード大学]]の建築・土木工学部の建物]]<br />
ベオグラードには2つの国立大学と、複数の私立の高等教育機関がある。[[1808年]]に創設された[[ベオグラード高等教育学校]]([[:en:Belgrade Higher School|Belgrade Higher School]])は、セルビア、そして[[バルカン半島]]全域で初めての高等教育の機関であった<ref>{{cite web<br />
|url = http://www.ius.bg.ac.yu/eng/university_of_belgrade.htm<br />
|title = The University of Belgrade – The Seedbed of University Education<br />
|publisher = Faculty of Law of University of Belgrade<br />
|accessdate = 2007-05-18<br />
|archiveurl = https://web.archive.org/web/20091209042236/http://www.ius.bg.ac.yu/eng/university_of_belgrade.htm<br />
|archivedate = 2009年12月9日<br />
|deadurldate = 2017年9月<br />
}}</ref>。<br />
<br />
[[1841年]]にはこれに続いて、[[クラグイェヴァツ]]からベオグラードに高等教育機関が移転し、大学校を合併して[[ベオグラード大学]]([[:en:University of Belgrade|University of Belgrade]])の前身となった<ref>{{cite web<br />
|url = http://www.bg.ac.yu/en_istorijat.php<br />
|title = History of The University<br />
|publisher = [[University of Belgrade]]<br />
|accessdate = 2007-05-18<br />
|archiveurl = https://web.archive.org/web/20080320103727/http://www.bg.ac.yu/en_istorijat.php<br />
|archivedate = 2008年3月20日<br />
|deadurldate = 2017年9月<br />
}}</ref>。9万人を超える学生がこの大学で学んだ<ref>{{cite web<br />
|url = http://www.bg.ac.yu/csrp/univerzitet/br_studenata.php|title=Универзитет у Београду - Број Студената<br />
|publisher = [[ベオグラード大学|University of Belgrade]]<br />
|language = Serbian<br />
|accessdate = 2008-10-16<br />
|format = HTML<br />
}}</ref>。ベオグラード大学法学部([[:en:University of Belgrade Faculty of Law|University of Belgrade's Law School]]は、[[バルカン半島]]で最も古い法の教育機関の一つである。<br />
<br />
ベオグラードには195の初等学校、85の中等学校がある。初等学校のうち、162は普通校、14は特殊学校、15は芸術学校、4は大人向けである。中等学校のうち51は職業訓練学校、21は[[ギムナジウム]]、8は芸術学校、5は特殊学校である。生徒の総数は23万人、職員は2万2千、総計で5百を超える建物があり、総面積は1100千m<sup>2</sup>に達する<ref>{{cite web<br />
|url = http://www.beograd.rs/cms/view.php?id=201008<br />
|title = Education and Science<br />
|publisher = Official website<br />
|accessdate = 2007-07-10<br />
}}</ref>。<br />
{{Clearleft}}<br />
== 交通 ==<br />
[[ファイル:Beovoz in Novi Beograd railway station 2007.jpg|thumb|250px|right|ベオヴォズの電車]]<br />
[[File:MAN SL 283 GSP Beograd.jpg|thumb|250px|right|セルビアと日本の国旗が描かれた『ヤパナッツ』]]<br />
ベオグラードには[[バス (交通機関)|バス]](都心に118路線、郊外に300路線以上が走る)、[[路面電車]](12路線)、[[トロリーバス]](8路線)を中心とした広範な公共交通システムがある<ref>{{cite web<br />
|url = http://www.gsp.co.yu/english/statistic.htm<br />
|title = Statistics<br />
|publisher = Public Transport Company "Belgrade"<br />
|accessdate = 2007-05-19<br />
}}</ref>。ベオグラードの交通システムは[[GSPベオグラード]](ベオグラード市公共輸送公社)、[[SPラスタ]]([[:fr:SP Lasta|SP Lasta]])およびその他の民間のバス会社によって運営されている。ベオグラードにはまた、コミュータ鉄道([[:en:regional rail|commuter rail]])網の[[ベオヴォズ]]([[:en:Beovoz|Beovoz]])や、都市鉄道の[[GSPベオグラード#都市鉄道「BG Voz」|BG Voz]]があり、[[セルビア鉄道]]により運行されている。ベオグラードの中央駅からは、他のヨーロッパ諸国の首都や、セルビア各地の都市へと鉄道網が結ばれている。[[高速バス|長距離バス]]での旅行も一般的であり、ベオグラードからセルビア各都市へは毎日、バスの便がある。[[高速道路]]網によって、北へは[[ヴォイヴォディナ]]の[[ノヴィ・サド]]や[[ハンガリー]]の首都[[ブダペスト]]へ、南へは[[ニシュ]]へ、西へは[[ザグレブ]]へと結ばれている。2つの主要河川、[[ドナウ川]]と[[サヴァ川]]の合流地点に位置するベオグラードには数多くの橋があるが、最も主要な橋は[[ブランコ橋]]([[:en:Branko's bridge|Branko's bridge]])と[[ガゼラ橋]]([[:en:Gazela bridge|Gazela]])であり、どちらも[[ノヴィ・ベオグラード]]地区と都心を結んでいる。新しい[[アダ橋]]([[:en:Ada Bridge|Ada Bridge]])は建造中である。<br />
<br />
市内を走る黄色いバスは2003年に日本の無償資金協力で導入されたため、『ヤパナッツ(日本人)』と呼ばれている<ref>[https://toyokeizai.net/articles/-/221687 ベオグラードを走る日本製バスが伝えること] - [[東洋経済]]</ref>。<br />
<br />
[[ファイル:Belgrade Sava bridge.jpg|thumb|330px|left|[[サヴァ橋]]]]<br />
[[ベオグラード港]]はドナウ川に面しており、河川からの貨物を取り扱える<ref>{{cite web|url=http://www.port-bgd.co.yu/en/history.htm|title=History of the Port of Belgrade|publisher=Port of Belgrade|accessdate=2007-05-18}}</ref>。街からは[[ベオグラード・ニコラ・テスラ空港]]([[空港コード|IATAコード]]: BEG)も利用でき、同空港は街の中心から西に12kmの[[スルチン (地名)|スルチン]]近くにある。[[1986年]]には3百万人に迫る旅客が利用していたが、[[1990年代]]には旅客数は減少した<ref>{{cite web<br />
|url = http://www.vazduhoplovnivodic.co.yu/sr/letelista.htm<br />
|title = Aerodromi i letelišta<br />
|publisher = Vazduhoplovni vodič kroz Beograd<br />
|language = Serbian<br />
|archiveurl = https://web.archive.org/web/20060503063756/http://www.vazduhoplovnivodic.co.yu/sr/letelista.htm<br />
|accessdate = 2006-05-03<br />
|archivedate = 2006年5月3日<br />
|deadurldate = 2017年9月<br />
}}</ref>。2000年代に復興が進むと、旅客数は2004年から2005年にかけては2百万人に迫った<ref>{{cite web<br />
|url = http://www.danas.co.yu/20050520/ekonomija1.html<br />
|title = Regionalni centar putničkog i kargo saobraćaja<br />
|publisher = Danas<br />
|date = 2005-05-20<br />
|language = Serbian<br />
|accessdate = 2007-07-10<br />
}}</ref>。[[2006年]]の11月半ばには年初からの旅客数が2百万人を上回り<ref>{{cite web<br />
|url = http://www.beg.aero/code/navigate.php?Id=130#775<br />
|title = "Nikola Tesla" Airport received its two millionth passenger<br />
|publisher = Belgrade Nikola Tesla Airport<br />
|date = 2006-11-14<br />
|accessdate = 2006-05-18<br />
}}</ref>、[[2007年]]には250万人の利用者数があった<ref>[http://www.airport-belgrade.co.yu/code/navigate.php?Id=63 www.beg.aero | Nikola Tesla Belgrade Airport | News<!--Bot-generated title-->]</ref>。<br />
<br />
[[ファイル:New_Railway_Bridge,_Belgrade,_Serbia.jpg|thumb|250px|right|[[:en:New Railroad Bridge|New Railroad Bridge]]]]<br />
街の拡大と自動車数の増加に伴い、渋滞は深刻な問題となっている。[[E70号線]]([[:en:European route E70|E70]])と[[E75号線]]を結ぶ[[ベオグラード・バイパス]]が開通すれば、問題は緩和されると期待されている<ref>{{cite web|url=http://www.bankwatch.org/project.shtml?w=147584&s=1961998|title=Belgrade Bypass, Serbia|publisher=CEE Bankwatch network|accessdate=2007-05-19|archiveurl=https://web.archive.org/web/20070304135012/http://www.bankwatch.org/project.shtml?w=147584&s=1961998|archivedate=2007年3月4日|deadurldate=2017年9月}}</ref>。さらに、サヴァ川に架かる橋を含む都心部の半環状線が計画されており、通勤が容易になり、ガゼラ橋やブランコ橋の過負荷を軽減するものと期待されている<ref>{{cite web<br />
|url = http://www.ebrd.com/projects/eias/34913s.pdf<br />
|title = 1. faza prve deonice Unutrašnjeg magistralnog poluprstena<br />
|publisher = Belgrade Direction for Building and Real Estate Land/EBRD<br />
|date = 2005-07-01<br />
|accessdate = 2007-09-15<br />
|language = Serbian<br />
|format = PDF<br />
|archiveurl = https://web.archive.org/web/20070809064808/http://www.ebrd.com/projects/eias/34913s.pdf<br />
|archivedate = 2007年8月9日<br />
|deadurldate = 2017年9月<br />
}}</ref>。ベオグラードでは[[2008年]]に3つの新しい橋の建設が着手された。2本はサヴァ川、1本はドナウ川に架かる橋である。ドナウ川にはさらに2本の新しい橋の建設が計画されている。<br />
{{Clearleft}}<br />
<br />
== 国際協力 ==<br />
以下はベオグラードと公式に姉妹都市提携を結んでいる都市である<ref>{{cite web<br />
|url = http://www.beograd.rs/cms/view.php?id=1225698<br />
|title = International Cooperation<br />
|publisher = Official website<br />
|accessdate = 2007-07-10<br />
}}</ref><ref>{{cite web<br />
|url = http://www.skgo.org/php/opstine/detalji.php?Id=12&IdSvojstva=MO<br />
|title = Beograd: Međunarodni odnosi<br />
|publisher = Stalna konferencija gradova i opština Srbije<br />
|accessdate = 2007-06-18<br />
|archiveurl = https://web.archive.org/web/20070616083850/http://www.skgo.org/php/opstine/detalji.php?Id=12&IdSvojstva=MO<br />
|archivedate = 2007年6月16日<br />
|deadurldate = 2017年9月<br />
}}</ref><ref>{{cite web<br />
|url = http://thepost.com.pk/Arc_CityNews.aspx?dtlid=79932&catid=3&date=01/28/2007&fcatid=14<br />
|title = Council okays peace committees: Lahore and Chicago to be declared twin cities.<br />
|publisher = [[The Post (Pakistani newspaper)|The Post]]<br />
|date = 2007-01-28<br />
|accessdate = 2007-05-16<br />
|archiveurl = https://web.archive.org/web/20070928030458/http://thepost.com.pk/Arc_CityNews.aspx?dtlid=79932&catid=3&date=01%2F28%2F2007&fcatid=14<br />
|archivedate = 2007年9月28日<br />
|deadurldate = 2017年9月<br />
}}</ref><br />
<br />
{|class="wikitable"<br />
|-style="background-color: #811541; color: #fff; font-weight:bold;"<br />
|<br />
| style="width:9.5em" |国<br />
|style="background-color: #ff9999; width:6.5em" |都市<br />
| style="width:8.5em" |地域<br />
|時期<br />
|-<br />
|{{flagicon|UK}}<br />
|[[イギリス]]<br />
|style="background-color: #ffffcf; white-space:nowrap"|'''[[コヴェントリー]]'''<br />
| style="white-space:nowrap;" |''[[ウェスト・ミッドランズ]]''<br />
|1957<br />
|-<br />
|{{flagicon|USA}}<br />
| style="white-space:nowrap;" |[[アメリカ合衆国]]<br />
|style="background-color: #ffffcf;"|'''[[シカゴ]]'''<br />
|''[[イリノイ州]]''<br />
|2005<br />
|-<br />
|{{flagicon|PAK}}<br />
|[[パキスタン]]<br />
|style="background-color: #ffffcf;"|'''[[ラホール]]''' <br />
|''[[パンジャーブ州 (パキスタン)|パンジャーブ州]]''<br />
|2007<br />
|-<br />
|{{flagicon|ISR}}<br />
|[[イスラエル]]<br />
|style="background-color: #ffffcf;"|'''[[テルアビブ]]'''<br />
|''[[テルアビブ地区]]''<br />
|1990<br />
|-<br />
|{{flagicon|AUT}}<br />
|[[オーストリア]]<br />
|style="background-color: #ffffcf;"|'''[[ウィーン]]'''<br />
|''ウィーン''<br />
|2003<br />
|}<br />
<br />
さらに、ベオグラードを構成する自治体の一部は、以下の都市やその下位自治体と姉妹都市提携を結んでいる。<br />
<br />
{|class="wikitable"<br />
|-style="background-color: #1560BD; color: #fff; font-weight:bold;"<br />
|<br />
| style="width:9.5em" |国<br />
|style="background-color: #6495ED; width:6.5em"|都市<br />
| style="width:8.5em" |地域<br />
|時期<br />
|形式<br />
|-<br />
|{{flagicon|USA}}<br />
|[[アメリカ合衆国]]<br />
|style="background-color: #ffffcf;"|'''[[デイトン (オハイオ州)|デイトン]]'''<br />
|''[[オハイオ州]]''<br />
|1966<br />
|Agreement on Friendship and Cooperation<br />
|-<br />
|{{flagicon|BIH}}<br />
| style="white-space:nowrap;" |[[ボスニア・ヘルツェゴビナ]]<br />
|style="background-color: #ffffcf;"|'''[[バニャ・ルカ]]'''<br />
| style="white-space:nowrap;" |''[[スルプスカ共和国]]''<br />
|2005<br />
|Agreement on Cooperation<br />
|-<br />
|{{flagicon|CHN}}<br />
|[[中華人民共和国]]<br />
|style="background-color: #ffffcf;"|'''[[北京市]]'''<br />
|<br />
|1980<br />
|Agreement on Cooperation<br />
|-<br />
|{{flagicon|TUR}}<br />
|[[トルコ]]<br />
|style="background-color: #ffffcf;"|'''[[アンカラ]]'''<br />
|''Ankara''<br />
|1978<br />
|Agreement on Cooperation and Friendship<br />
|-<br />
|{{flagicon|UAE}}<br />
|[[アラブ首長国連邦]]<br />
|style="background-color: #ffffcf;"|'''[[ドバイ]]'''<br />
|<br />
|2004<br />
|Agreement on Cooperation<br />
|-<br />
|{{flagicon|AZE}}<br />
|[[アゼルバイジャン]]<br />
|style="background-color: #ffffcf;"|'''[[バクー]]'''<br />
|''Baku''<br />
|2002<br />
|Agreement on Cooperation<br />
|-<br />
| tyle="background-color: #fff;"|{{flagicon|PAK}}<br />
|[[パキスタン]]<br />
|style="background-color: #ffffcf; white-space:nowrap;"|'''[[イスラマバード]]'''<br />
|<br />
|2000<br />
|{{Nowrap|Memorandum of Agreement,}} City to City Programme<br />
|-<br />
|{{flagicon|RUS}}<br />
|[[ロシア]]<br />
|style="background-color: #ffffcf;"|'''[[モスクワ]]'''<br />
|''[[中央連邦管区]]''<br />
|2002<br />
|Programme of Cooperation<br />
|-<br />
|{{flagicon|ITA}}<br />
|[[イタリア]]<br />
|style="background-color: #ffffcf;"|'''[[ローマ]]'''<br />
|''[[ラツィオ州]]''<br />
|1971<br />
|Agreement on Friendship and Cooperation<br />
|}<br />
<br />
また、以下の旧[[ユーゴスラビア社会主義連邦共和国|ユーゴスラビア]]諸国の首都との基本合意に調印している。<br />
*{{flagicon|SLO}} '''[[リュブリャナ]]'''、[[スロベニア]](2003年10月、ザグレブと共に)<br />
*{{flagicon|MKD}} '''[[スコピエ]]'''、[[マケドニア共和国]](2006年10月)<br />
*{{flagicon|CRO}} '''[[ザグレブ]]'''、[[クロアチア]](2003年10月、リュブリャナと共に)<br />
*{{flagicon|MNE}} '''[[ポドゴリツァ]]'''、[[モンテネグロ]] (2006年)<br />
ベオグラード市は国内外から数多くの栄誉賞を受けており、[[1920年]]の[[フランス]]の[[レジオンドヌール勲章]]、[[チェコスロバキア]]の[[:en:Czechoslovak War Cross|War Cross]]、[[セルビア]]の[[:en:Karađorđe's Star with Swords|Karađorđe's Star with Swords]]、[[ユーゴスラビア社会主義連邦共和国]]の人民英雄勲章([[:en:Order of the National Hero|Order of the National Hero]]、[[1974年]][[10月20日]]、[[第二次世界大戦]]での[[ナチス・ドイツ]]による占領を打ち破った記念日)<ref>{{cite web|url=http://www.beograd.rs/cms/view.php?id=201227|title=Received Decorations|accessdate=2007-05-16|publisher=Official website}}</ref>。[[2006年]]、[[フィナンシャル・タイムズ]]の雑誌「[[:en:FDi magazine|fDi Magazine]]」はベオグラードに「南ヨーロッパの未来」賞を付与した<ref>{{cite web<br />
|url = http://www.fdimagazine.com/news/fullstory.php/aid/1543<br />
|title = European Cities of the Future 2006/07<br />
|accessdate = 2007-07-10<br />
|publisher = fDi magazine<br />
|date = 2006-02-06<br />
}}</ref><ref>{{cite web<br />
|url = http://www.seeurope.net/files2/pdf/rgn0906/13_Belgrade_CityOfTheFutureInSEE.pdf<br />
|title = Belgrade - City of the Future in Southern Europe<br />
|author = Aleksandar Miloradović<br />
|date = 2006-09-01<br />
|accessdate = 2007-07-10<br />
|publisher = TheRegion, magazine of SEE Europe<br />
|format = PDF<br />
}}</ref>。<br />
<br />
== 脚注 ==<br />
{{reflist|3}}<br />
<br />
== 参考文献 ==<br />
*{{cite book<br />
|last = Pavić<br />
|first = Milorad<br />
|authorlink = :en:Milorad Pavić (writer)<br />
|title = A Short History of Belgrade<br />
|publisher = Dereta<br />
|year = 2000<br />
|location = Belgrade<br />
|isbn = 86-7346-117-0<br />
}}<br />
*{{cite book<br />
|last = Tešanović<br />
|first = Jasmina<br />
|authorlink = :en:Jasmina Tešanović<br />
|title = The Diary of a Political Idiot: Normal Life in Belgrade<br />
|publisher = [[:en:Cleis Press|Cleis Press]]<br />
|year = 2000<br />
|location =<br />
|isbn = 1-57344-114-7}}<br />
*{{cite book<br />
|last = Levinsohn<br />
|first = Florence Hamlish<br />
|authorlink = :en:Florence Levinsohn<br />
|title = Belgrade : among the Serbs<br />
|publisher = Ivan R. Dee<br />
|year = 1995<br />
|location = Chicago<br />
|isbn = 1-56663-061-4<br />
}}<br />
*{{cite book<br />
|last = Paton<br />
|first =Andrew Archibald<br />
|authorlink = :en:Andrew Archibald Paton<br />
|title = Servia, Youngest Member of the European Family: or, A Residence in Belgrade, and Travels in the Highlands and Woodlands of the Interior, during the years 1843 and 1844. |publisher = Longman, Brown, Green and Longmans<br />
|origyear = 1845<br />
|location = London<br />
|url = http://pge.rastko.net/dirs/1/6/9/9/16999/16999-h/16999-h.htm<br />
|format = Reprint by [[Project Gutenberg]]/[[:en:Project Rastko|Project Rastko]]<br />
|date = 2005-11-04<br />
}}<br />
*{{Cite book<br />
|author = [[柴宜弘]]<br />
|date = 1998年10月<br />
|title = バルカン史 - 世界各国史<br />
|publisher = 山川出版社<br />
|location = 日本、東京<br />
|id = ISBN 978-4-634-41480-8<br />
}}<br />
<br />
== 関連項目 ==<br />
* [[パルチザン・ベオグラード]]<br />
* [[レッドスター・ベオグラード]]<br />
* [[ベオグラード (小惑星)]]<br />
<br />
== 外部リンク ==<br />
{{ウィキポータルリンク|ベオグラード}}<br />
{{Commons&cat|Beograd|Belgrade}}<br />
; 公式<br />
* [http://www.beograd.rs/cms/view.php?id=220 ベオグラード市公式ウェブサイト] {{en icon}}<br />
<br />
; 観光<br />
* [http://www.tob.co.yu/eng/ ベオグラード観光局] {{en icon}}<br />
<br />
{{セルビアの行政区分}}<br />
{{ヨーロッパの首都}}<br />
{{Normdaten}}<br />
{{coord|44.8162|20.4816|type:city|display=title}}<br />
{{Good article}}<br />
<br />
{{DEFAULTSORT:へおくらあと}}<br />
[[Category:ベオグラード|*]]</div>
114.161.14.158
ニコライ・ブルガーニン
2018-08-13T10:29:13Z
<p>114.161.14.158: </p>
<hr />
<div>{{政治家<br />
|人名 = ニコライ・アレクサンドロヴィチ・ブルガーニン<br />
|各国語表記 = {{lang|ru|Николай Александрович Булганин}}<br />
|画像 = Bundesarchiv Bild 183-29921-0001, Bulganin, Nikolai Alexandrowitsch.jpg<br />
|画像説明 = <br />
|国略称 = {{SSR1923}}<br />
|生年月日 = {{生年月日と年齢|1895|6|11|死去}}<br />
|出生地 = {{RUS1883}} [[ニジニ・ノヴゴロド]]<br />
|没年月日 = {{死亡年月日と没年齢|1895|6|11|1975|2|24}}<br />
|死没地 = {{SSR1955}} [[ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国|ロシア共和国]]、[[モスクワ]]<br />
|出身校 = <br />
|前職 = <br />
|現職 = <br />
|所属政党 = <br />
|称号・勲章 = <br />
|世襲の有無 = <br />
|親族(政治家) = <br />
|配偶者 = <br />
|サイン = <br />
|ウェブサイト = <br />
|サイトタイトル = <br />
|国旗 = SSR1955<br />
|職名 = [[ソビエト連邦の首相#ソビエト連邦閣僚会議議長|ソビエト連邦閣僚会議議長]]([[首相]])<br />
|内閣 = <br />
|選挙区 = <br />
|当選回数 = <br />
|就任日 = [[1955年]][[2月8日]]<br />
|退任日 = [[1958年]][[3月27日]]<br />
|退任理由 = <br />
|所属委員会 = <br />
|議員会館 = <br />
|元首職 = [[第一書記]]<br />
|元首 = [[ニキータ・フルシチョフ]]<br />
|国旗2 = SSR1923<br />
|職名2 = [[ソビエト連邦の国防相|ソビエト連邦国防相]]<br />
|内閣2 = <br />
|選挙区2 = <br />
|当選回数2 = <br />
|就任日2 = [[1953年]]<br />
|退任日2 = [[1955年]]<br />
|退任理由2 = <br />
|所属委員会2 = <br />
|議員会館2 = <br />
|元首職2 = [[第一書記]]<br />
|元首2 = [[ニキータ・フルシチョフ]]<br />
|国旗3 = SSR1923<br />
|職名3 = [[ソビエト連邦の国防相|ソビエト連邦軍事人民委員]]<br />
|内閣3 = <br />
|選挙区3 = <br />
|当選回数3 = <br />
|就任日3 = [[1947年]]<br />
|退任日3 = [[1949年]]<br />
|退任理由3 = <br />
|所属委員会3 = <br />
|議員会館3 = <br />
|元首職3 = [[人民委員会議議長|首相]]<br />
|元首3 = [[ヨシフ・スターリン]]<br />
<!-- ↑省略可↑ --><br />
}}<br />
'''ニコライ・アレクサンドロヴィチ・ブルガーニン'''('''{{lang|ru|Николай Александрович Булганин}}'''、Nikolai Aleksandrovich Bulganin、[[1895年]][[6月11日]] - [[1975年]][[2月24日]])は、[[ソビエト連邦]]の[[政治家]]。ソ連共産党政治局員、第一副首相、国防相、[[ニキータ・フルシチョフ|フルシチョフ]]時代前期の[[1955年]]から[[1958年]]にかけて[[ソビエト連邦の首相#ソビエト連邦閣僚会議議長|ソ連閣僚会議議長]]([[首相]])を務めた。<br />
<br />
== 来歴・人物 ==<br />
1895年6月11日、[[ロシア帝国]]の[[ニジニ・ノヴゴロド]]の中産階級の家庭に生まれる。実科中学校に学ぶが、[[1917年]][[ロシア革命]]を経て、ロシア共産党([[ボリシェビキ]])に入党した。<br />
<br />
[[1918年]]、[[チェーカー]]([[ソ連国家保安委員会|KGB]]の前身)に入り、反革命の取り締まりに辣腕を振るう。内戦では、[[赤軍]]に対する統制を行う全ロシア・チェーカー特別部に所属した。内戦終結後、ソ連国民経済会議電気トラスト理事([[1922年]]~[[1927年]])、モスクワ電気工場長(1927年~[[1931年]])。<br />
<br />
1931年から[[モスクワ]]市[[ソビエト]]議長。モスクワにおける反右派闘争やモスクワ市改造計画を積極的に推進したことが機縁となって[[ヨシフ・スターリン|スターリン]]に認められる。[[1937年]]、[[ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国]][[人民委員会議議長]](首相)、[[1938年]][[ソビエト連邦人民委員会議|ソ連人民委員会議]]副議長(副首相)兼[[ゴスバンク]]総裁を歴任する。[[1939年]]にはソ連共産党中央委員に選出された。<br />
<br />
[[第二次世界大戦]]中は進んで前線指導に赴き、[[西部戦線 (ソ連軍)|西部戦線]]、[[第2沿バルト戦線 (ソ連軍)|第2沿バルト戦線]]、[[第1白ロシア戦線 (ソ連軍)|第1白ロシア戦線]]で政治委員の最高責任者として活躍した。[[1944年]]12月、国防人民委員代理(国防次官)に転出し、スターリンを議長とする[[ソ連国家防衛委員会|国家防衛委員会]]の委員となった。<br />
<br />
第二次世界大戦終了後、[[1946年]]3月に[[政治局]]員候補に抜擢される。[[1947年]]、ソ連副首相兼軍事相に就任し、[[ソ連邦元帥|元帥]]号を授与された。[[1948年]]、政治局員となる。<br />
<br />
[[1953年]]のスターリンの死後、党筆頭書記と首相に就任した[[ゲオルギー・マレンコフ]]の新政権では[[ヴャチェスラフ・モロトフ]]、[[ラヴレンチー・ベリヤ]]、[[ラーザリ・カガノーヴィチ]]とともに第一副首相に就任し国防相を兼務した。[[1955年]]、[[ニキータ・フルシチョフ]]が実権を掌握し党第一書記となると、マレンコフ後のソ連閣僚会議議長(首相)に就任し、フルシチョフと'''「B・Kコンビ」'''を組んだ。ブルガーニンとフルシチョフは1955年5月、[[ユーゴスラビア]]を訪問し、[[ヨシップ・ブロズ・チトー|チトー]]大統領に和解を申し入れ、スターリン時代に冷却化した両国関係を打開しようとした。次いで[[インド]]、[[ビルマ]](現在の[[ミャンマー]])、[[アフガニスタン]]を相次いで訪問し、[[平和共存]]外交を展開した。内政面では[[1956年]]党大会で非スターリン化を推進した。[[スエズ危機]]では仏英への武力行使を示唆した。<br />
<br />
しかし、フルシチョフが推進する農業改革、工業管理の地方分権化や外交面での平和共存路線に対して、官僚やスターリン主義者の反撃が行われた。[[1957年]]6月、モロトフらいわゆる「反党グループ」がフルシチョフを第一書記から解任しようとした。フルシチョフは党中央委員会を招集し、逆にグループを倒すことに辛くも成功した。この頃すでにフルシチョフと確執を持つようになっていたブルガーニンは、この[[反党グループ事件]]において積極的に関与し、彼の解任に賛同している。これが後に祟り、[[1958年]][[3月27日]]に首相を解任され、ゴスバンクの仕事に戻る。同年9月、幹部会員を解任、失脚した(元帥号も剥奪)。以後、スタヴロポリの人民経済会議議長として過ごす。[[1960年]]から年金生活入りし、[[1961年]]には中央委員を解任された。<br />
<br />
1975年2月24日死去。79歳没。<br />
<br />
== 日本との関係 ==<br />
[[日本]]との関係では、[[鳩山一郎]]首相、[[河野一郎]]農相が訪ソし、[[日ソ国交回復]]、[[日ソ漁業協定]]を締結した。<br />
<br />
== 関連項目 ==<br />
*[[共産主義]]<br />
<br />
{{start box}}<br />
{{s-off}}<br />
{{succession box<br />
|title=[[ソビエト連邦の国防相|ソビエト連邦軍事人民委員]]<br />
|before=[[ヨシフ・スターリン]]<br />
|after=[[アレクサンドル・ヴァシレフスキー|A・ヴァシレフスキー]]<br />
|years=1947–1949<br />
}}<br />
{{s-bef|rows=1|before=[[ニコライ・クズネツォフ]]}}<br />
{{s-ttl|rows=2|title=[[ソビエト連邦の国防相|ソビエト連邦国防相]]|years=1953–1955}}<br />
{{s-aft|rows=2|after=[[ゲオルギー・ジューコフ]]}}<br />
{{s-bef|rows=1|before=[[アレクサンドル・ヴァシレフスキー|A・ヴァシレフスキー]]}}<br />
{{succession box|title=[[ソビエト連邦の首相#ソビエト連邦閣僚会議議長|ソビエト連邦閣僚会議議長(首相)]]|before=[[ゲオルギー・マレンコフ]]|after=[[ニキータ・フルシチョフ]]|years=1955–1958}}<br />
{{end box}}<br />
<br />
{{ソビエト連邦の首相}}<br />
{{DEFAULTSORT:ふるかあにん にこらい}}<br />
[[Category:ソビエト連邦共産党中央委員会政治局の人物]]<br />
[[Category:全連邦共産党(ボリシェヴィキ)中央委員会組織局の人物]]<br />
[[Category:第2回ソビエト連邦最高会議の代議員]]<br />
[[Category:第3回ソビエト連邦最高会議の代議員]]<br />
[[Category:第4回ソビエト連邦最高会議の代議員]]<br />
[[Category:第5回ソビエト連邦最高会議の代議員]]<br />
[[Category:第6回ソビエト連邦最高会議の代議員]]<br />
[[Category:ソビエト連邦の首相]]<br />
[[Category:ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国の首相]]<br />
[[Category:バシキール自治ソビエト社会主義共和国最高会議の代議員]]<br />
[[Category:カレリア自治ソビエト社会主義共和国最高会議の代議員]]<br />
[[Category:モスクワの政治家]]<br />
[[Category:第二次世界大戦期のソビエト連邦の軍人]]<br />
[[Category:ソビエト連邦の国防相]]<br />
[[Category:チェーカーの人物]]<br />
[[Category:ソビエト連邦元帥]]<br />
[[Category:社会主義労働英雄]]<br />
[[Category:レーニン勲章受章者]]<br />
[[Category:赤旗勲章受章者]]<br />
[[Category:スヴォーロフ勲章受章者]]<br />
[[Category:クトゥーゾフ勲章受章者]]<br />
[[Category:祖国戦争勲章受章者]]<br />
[[Category:赤星勲章受章者]]<br />
[[Category:グリュンワルド十字勲章受章者]]<br />
[[Category:赤旗勲章受章者 (モンゴル)]]<br />
[[Category:ヴィルトゥティ・ミリターリ勲章受章者]]<br />
[[Category:ニジニ・ノヴゴロド県出身の人物]]<br />
[[Category:ニジニ・ノヴゴロド出身の人物]]<br />
[[Category:オールド・ボリシェヴィキ]]<br />
[[Category:1895年生]]<br />
[[Category:1975年没]]<br />
{{Normdaten}}</div>
114.161.14.158
アントン・シハルリドゼ
2018-08-12T21:54:08Z
<p>114.161.14.158: </p>
<hr />
<div>{{Infobox フィギュアスケート選手<br />
| 名前 = アントン・シハルリドゼ<br />
| ラテン文字 = Anton SIKHARULIDZE<br />
| 画像 = [[画像:Berezhnaya and Sikharulidze 2001 GPF.jpg|230px]]<br />
| キャプション = [[2001/2002 ISUグランプリファイナル|2001年GPファイナル]]でのベレズナヤとシハルリドゼ<br />
| 国 = {{RUS}}<br />
| 生年月日 = {{生年月日と年齢|1976|10|25}}<br />
| 出生地 = [[サンクトペテルブルク|レニングラード]]<br />
| 身長 = 182 cm<br />
| 体重 = <br />
| パートナー = <br />
| 元パートナー = [[エレーナ・ベレズナヤ]]<br />[[マリア・ペトロワ]]<br />
| コーチ = <br />
| 元コーチ = [[タマラ・モスクビナ]]<br />
| 振付師 = <br />
| 元振付師 = [[イゴール・ボブリン]]<br />
| 所属 = Yubileiny Sport Club<br />
| 引退 = 2002年<br />
| show-medals = yes<br />
| medaltemplates =<br />
{{MedalSport|[[フィギュアスケート]]}}<br />
{{MedalCompetition|[[オリンピックフィギュアスケート競技|オリンピック]]}}<br />
[[File:Olympic rings with transparent rims.svg|center|80px]]<br />
{{MedalSilver|[[長野オリンピックにおけるフィギュアスケート競技|1998 長野]]|ペア}}<br />
{{MedalGold|[[ソルトレイクシティオリンピックにおけるフィギュアスケート競技|2002 ソルトレイクシティ]]|ペア}}<br />
{{MedalCompetition|[[世界フィギュアスケート選手権|世界選手権]]}}<br />
{{MedalGold|[[1998年世界フィギュアスケート選手権|1998 ミネアポリス]]|ペア}}<br />
{{MedalGold|[[1999年世界フィギュアスケート選手権|1999 ヘルシンキ]]|ペア}}<br />
{{MedalSilver|[[2001年世界フィギュアスケート選手権|2001 バンクーバー]]|ペア}}<br />
{{MedalCompetition|[[ヨーロッパフィギュアスケート選手権|欧州選手権]]}}<br />
{{MedalBronze|[[1997年ヨーロッパフィギュアスケート選手権|1997 パリ]]|ペア}}<br />
{{MedalGold|[[1998年ヨーロッパフィギュアスケート選手権|1998 ミラノ]]|ペア}}<br />
{{MedalGold|[[2001年ヨーロッパフィギュアスケート選手権|2001 ブラチスラヴァ]]|ペア}}<br />
{{MedalCompetition|[[ISUグランプリファイナル|グランプリファイナル]]}}<br />
{{MedalGold|[[1997/1998 ISUチャンピオンシリーズファイナル|1997 ミュンヘン]]|ペア}}<br />
{{MedalSilver|[[1998/1999 ISUグランプリファイナル|1998 サンクトペテルブルク]]|ペア}}<br />
{{MedalBronze|[[1999/2000 ISUグランプリファイナル|1999 リヨン]]|ペア}}<br />
{{MedalSilver|[[2000/2001 ISUグランプリファイナル|2000 東京]]|ペア}}<br />
{{MedalSilver|[[2001/2002 ISUグランプリファイナル|2001 キッチナー]]|ペア}}<br />
{{MedalCompetition|[[世界ジュニアフィギュアスケート選手権|世界ジュニア選手権]]}}<br />
{{MedalSilver|[[1993年世界ジュニアフィギュアスケート選手権|1993 ソウル]]|ペア}}<br />
{{MedalGold|[[1994年世界ジュニアフィギュアスケート選手権|1994 コロラドスプリングス]]|ペア}}<br />
{{MedalGold|[[1995年世界ジュニアフィギュアスケート選手権|1995 ブダペスト]]|ペア}}<br />
}}<br />
'''アントン・タリエリエヴィチ・シハルリドゼ'''({{lang-ru|'''Антон Тариэльевич Сихарулидзе'''}}、[[ラテン文字|ラテン翻字]]:'''Anton Tarielyevich Sikharulidze'''、[[1976年]][[10月25日]] - )は、[[ロシア]]出身の[[男性]][[フィギュアスケート]]選手で[[政治家]]。2002年[[ソルトレイクシティオリンピックにおけるフィギュアスケート競技|ソルトレイクシティオリンピック]]ペア金メダリスト、1998年[[長野オリンピックにおけるフィギュアスケート競技|長野オリンピック]]ペア銀メダリスト。[[1998年世界フィギュアスケート選手権|1998年]]、[[1999年世界フィギュアスケート選手権|1999年世界選手権]]ペアチャンピオン。パートナーは[[エレーナ・ベレズナヤ]]、[[マリア・ペトロワ]]。ロシア語読みでの姓は「シハルリゼ」が近い。<br />
<br />
== 経歴 ==<br />
1992年[[マリア・ペトロワ]]とペアを組み、1992-1993年シーズンの[[世界ジュニアフィギュアスケート選手権|世界ジュニア選手権]]では2位となった。翌1994年と1995年の世界ジュニア選手権では連続優勝を果たした。ジュニアクラスで活動する一方でシニアクラスの[[ヨーロッパフィギュアスケート選手権|欧州選手権]]や[[世界フィギュアスケート選手権|世界選手権]]にも参戦し、世界選手権では6位入賞となるなどシニアでも活躍したが、1995-1996年シーズン終了後にペアを解消し、新たに[[エレーナ・ベレズナヤ]]とペアを結成した。<br />
<br />
1996-1997年シーズン、ベレズナヤとのペアを組んで1シーズン目の欧州選手権で銅メダルを獲得。翌1997-1998年シーズンには欧州選手権と[[1997/1998 ISUグランプリファイナル|グランプリファイナル]]を制し、初出場となった長野オリンピックでは銀メダルを獲得。オリンピック後に行われた世界選手権では長野オリンピック金メダルペアの[[オクサナ・カザコワ]]&amp;[[アルトゥール・ドミトリエフ]]が棄権する幸運があったものの、初優勝を飾った。<br />
<br />
1998-1999年シーズン以降、世界選手権および欧州選手権でそれぞれ2度優勝を果たし、2度目のオリンピックとなった2002年[[ソルトレイクシティオリンピック]]では、[[ソルトレイクシティオリンピックにおけるフィギュアスケート・スキャンダル|不正採点事件]]で揺れたものの金メダルを獲得。オリンピック後にアマチュアを引退し、プロに転向した。<br />
<br />
2006年[[統一ロシア]]に入党し、2007年にサンクトペテルブルク立法議会議員に選出された。 2007年12月2日、[[ロシア連邦議会]][[ドゥーマ|国家会議]](下院に相当する)議員に選出されている。現在、体育・スポーツ委員会委員長である<ref>[http://www.mk.ru/sport/article/2010/01/24/417240-anton-siharulidze-mk-flag-rossii-v-vankuvere-dolzhen-nesti-plyuschenko.html](MK.RU,2010年1月24日更新 2010年4月3日閲覧)</ref>。<br />
<br />
== 主な戦績 ==<br />
*1995-96まで[[マリア・ペトロワ]]とのペア。<br />
*1996-97より[[エレーナ・ベレズナヤ]]とのペア。<br />
{| class="wikitable" style="text-align:center"<br />
|-<br />
! 大会/年<br />
! 1992-93<br />
! 1993-94<br />
! 1994-95<br />
! 1995-96<br />
! 1996-97<br />
! 1997-98<br />
! 1998-99<br />
! 1999-00<br />
! 2000-01<br />
! 2001-02<br />
|-<br />
| style="text-align:left" | [[オリンピックフィギュアスケート競技|オリンピック]]<br />
|<br />
|<br />
|<br />
|<br />
|<br />
| style="text-align:center; background-color:#c9c9c9" | 2<br />
|<br />
|<br />
|<br />
| style="text-align:center; background-color:#ffd700" | 1<br />
|-<br />
| style="text-align:left" | [[世界フィギュアスケート選手権|世界選手権]]<br />
|<br />
| style="text-align:center" | 8<br />
| style="text-align:center" | 6<br />
|<br />
| style="text-align:center" | 9<br />
| style="text-align:center; background-color:#ffd700" | 1<br />
| style="text-align:center; background-color:#ffd700" | 1<br />
|<br />
| style="text-align:center; background-color:#c9c9c9" | 2<br />
|<br />
|-<br />
| style="text-align:left" | [[ヨーロッパフィギュアスケート選手権|欧州選手権]]<br />
|<br />
|<br />
| style="text-align:center" | 6<br />
| style="text-align:center" | 5<br />
| style="text-align:center; background-color:#cc9966" | 3<br />
| style="text-align:center; background-color:#ffd700" | 1<br />
| style="text-align:center; background-color:#ffd700" | 1<br />
| style="text-align:center" | 失格<ref>SP2位、FS1位となり優勝したが、競技後のドーピング検査で[[エレーナ・ベレズナヤ]]の服用した風邪薬が陽性と判断され、優勝記録の剥奪と3ヶ月の競技会出場停止処分となった。</ref><br />
| style="text-align:center; background-color:#ffd700" | 1<br />
|<br />
|-<br />
| style="text-align:left" | [[ロシアフィギュアスケート選手権|ロシア選手権]]<br />
|<br />
| 6<br />
| style="text-align:center; background-color:#c9c9c9" | 2<br />
| 4<br />
| style="text-align:center; background-color:#c9c9c9" | 2<br />
| style="text-align:center; background-color:#c9c9c9" | 2<br />
| style="text-align:center; background-color:#ffd700" | 1<br />
| style="text-align:center; background-color:#ffd700" | 1<br />
| style="text-align:center; background-color:#ffd700" | 1<br />
| style="text-align:center; background-color:#ffd700" | 1<br />
|-<br />
| style="text-align:left" | [[ISUグランプリファイナル|GPファイナル]]<br />
|<br />
|<br />
|<br />
|<br />
|<br />
| style="background-color:#ffd700" | 1<br />
| style="background-color:#c0c0c0" | 2<br />
| style="background-color:#cc9966" | 3<br />
| style="background-color:#c0c0c0" | 2<br />
| style="background-color:#c0c0c0" | 2<br />
|-<br />
| style="text-align:left" | [[ロシア杯|GPロシア杯]]<br />
| <br />
| <br />
| <br />
| <br />
| 5<br />
| <br />
| style="background-color:#ffd700" | 1<br />
| <br />
| style="background-color:#ffd700" | 1<br />
| style="background-color:#ffd700" | 1<br />
|-<br />
| style="text-align:left" | [[ラリック杯|GPラリック杯]]<br />
| <br />
| <br />
| <br />
| 5<br />
| style="background-color:#cc9966" | 3<br />
| style="background-color:#ffd700" | 1<br />
| <br />
| <br />
| style="background-color:#ffd700" | 1<br />
| style="background-color:#ffd700" | 1<br />
|-<br />
| style="text-align:left" | [[スケートカナダ|GPスケートカナダ]]<br />
| <br />
| <br />
| <br />
| style="background-color:#c0c0c0" | 2<br />
|<br />
| <br />
| <br />
| style="background-color:#ffd700" | 1<br />
| style="background-color:#c0c0c0" | 2<br />
| <br />
|-<br />
| style="text-align:left" | [[スケートアメリカ|GPスケートアメリカ]]<br />
| <br />
| <br />
| <br />
| <br />
|<br />
| <br />
| style="background-color:#ffd700" | 1<br />
| style="background-color:#cc9966" | 3<br />
| <br />
| <br />
|-<br />
| style="text-align:left" | [[NHK杯国際フィギュアスケート競技大会|GP NHK杯]]<br />
| <br />
| <br />
| <br />
| <br />
|<br />
| <br />
| style="background-color:#ffd700" | 1<br />
| <br />
| <br />
| <br />
|-<br />
| style="text-align:left" | [[ネイションズ杯|GPネイションズ杯]]<br />
| <br />
| <br />
| <br />
| <br />
|<br />
| style="background-color:#c0c0c0" | 2<br />
| <br />
| <br />
| <br />
| <br />
|-<br />
| style="text-align:left" | [[世界ジュニアフィギュアスケート選手権|世界Jr.選手権]]<br />
| style="text-align:center; background-color:#c9c9c9" | 2<br />
| style="text-align:center; background-color:#ffd700" | 1<br />
| style="text-align:center; background-color:#ffd700" | 1<br />
|<br />
|<br />
|<br />
|<br />
|<br />
|<br />
|<br />
|}<br />
<br />
==脚注==<br />
<div class="references-small"><br />
<references/><br />
</div><br />
<br />
== 関連項目 ==<br />
*[[ソルトレイクシティオリンピックにおけるフィギュアスケート・スキャンダル]]<br />
<br />
== 外部リンク ==<br />
{{commonscat|Anton Sikharulidze}}<br />
*{{isu name|00000277|エレーナ・ベレズナヤ &amp; アントン・シハルリドゼ}}<br />
* {{SportsReference|si/anton-sikharulidze-1}}<br />
<br />
{{フィギュアスケート オリンピックチャンピオン - ペア}}<br />
{{フィギュアスケート 世界チャンピオン - ペア}}<br />
{{フィギュアスケート 欧州チャンピオン - ペア}}<br />
{{フィギュアスケート ロシア選手権 チャンピオン - ペア}}<br />
{{フィギュアスケート GPファイナルチャンピオン - ペア}}<br />
{{フィギュアスケート 世界ジュニアチャンピオン - ペア}}<br />
{{Navboxes<br />
|title = ISUグランプリシリーズ(1995-)<br />
|listclass = hlist<br />
|list1=<br />
{{フィギュアスケート ISUグランプリシリーズ スケートアメリカ チャンピオン - ペア}}<br />
{{フィギュアスケート ISUグランプリシリーズ スケートカナダ チャンピオン - ペア}}<br />
{{フィギュアスケート ISUグランプリシリーズ エリック・ボンパール杯 チャンピオン - ペア}}<br />
{{フィギュアスケート ISUグランプリシリーズNHK杯 チャンピオン - ペア}}<br />
{{フィギュアスケート ISUグランプリシリーズ ロシア杯 チャンピオン - ペア}}<br />
}}<br />
<br />
{{DEFAULTSORT:しはるりとせ あんとん}}<br />
[[Category:ロシアのペアスケーティング選手]]<br />
[[Category:オリンピックフィギュアスケートロシア代表選手]]<br />
[[Category:ロシアのオリンピック金メダリスト]]<br />
[[Category:ロシアのオリンピック銅メダリスト]]<br />
[[Category:フィギュアスケートのオリンピックメダリスト]]<br />
[[Category:プロフィギュアスケーター]]<br />
[[Category:ロシアの下院議員]]<br />
[[Category:サンクトペテルブルクの政治家]]<br />
[[Category:名誉勲章受章者 (ロシア連邦)]]<br />
[[Category:友好勲章受章者 (ロシア連邦)]]<br />
[[Category:1976年生]]<br />
[[Category:存命人物]]<br />
[[Category:サンクトペテルブルク出身の人物]]</div>
114.161.14.158
上級大将
2018-08-12T19:59:58Z
<p>114.161.14.158: </p>
<hr />
<div>{{軍隊の階級}}<br />
'''上級大将'''(じょうきゅうたいしょう、{{lang-en-short|'''Colonel General'''}}、{{En|'''Senior General'''}}、{{En|'''Army General'''}}(陸空軍)、{{En|'''Senior Admiral'''}}(海軍)、{{lang-de-short|'''Generaloberst'''}}(陸空軍)、{{De|'''Generaladmiral'''}}(海軍))とは、[[軍隊]]の[[軍隊における階級呼称一覧|階級]]の一つで、通常、[[大将]]の上に位置し[[将官]]の最高位の階級である。<br />
<br />
== 概要 ==<br />
[[プロイセン王国]]陸軍、[[ドイツ帝国|帝政ドイツ]]、[[ヴァイマル共和政|ヴァイマル共和国]]の陸軍、[[ナチス・ドイツ]]、[[ソビエト連邦|ソ連]]、[[文化大革命]]前の[[中華人民共和国]]等におかれた。[[ロシア連邦]]や[[ミャンマー連邦]]などには今でも存在する。<br />
<br />
プロイセン陸軍では、[[元帥]]位は戦時に敵の要塞を陥落させた現役指揮官にしか与えられなかった。平時に退役もしくは特段の功績を挙げた上級大将を昇進させなければならない場合には、元帥位を有する上級大将という階級が用いられた。<br />
<br />
[[第三帝国]]では、陸空軍に[[w:de:Generaloberst|Generaloberst]](英: [[w:en:Colonel General|Colonel General]]) 海軍に[[w:de:Generaladmiral|Generaladmiral]] ([[w:en:General Admiral|General Admiral]]) および親衛隊にSS-Oberstgruppenführerが置かれ、これらは通常上級大将と訳される。また、陸軍と協同作戦を執る[[武装親衛隊]]では混乱を避けるために陸軍同様に Generaloberst der Waffen-SS と呼称されることもあった。警察を管轄する一般親衛隊では SS-Oberstgruppenführer と名称が異なっていたのも特徴である。しかし、訳語としては陸軍と同様に共に[[親衛隊上級大将]]、[[親衛隊大将]]、[[親衛隊中将]]と訳されることが多い。SS-Oberstgruppenführer、SS-Obergruppenführer、SS-Gruppenführer を親衛隊最上級集団指導者、親衛隊上級集団指導者、親衛隊集団指導者と訳し分ける訳者もいる。<br />
<br />
[[ソビエト軍]]や東ドイツ[[国家人民軍]]など共産圏の軍隊においては、{{lang|ru|генерал-полковник}}(独: Generaloberst、英: Colonel General) は三ツ星の将官位であり、'''大将'''に相当する。その上位に上級大将である{{lang|ru|генерал армии}}(独: Armeegeneral、英: Army General)があり、これが将官の最高位である。東ドイツでは将官の上にドイツ民主共和国元帥 ([[:de:Marschall der DDR|de]]) が存在したが、戦時においてのみ全軍を一人が指揮するために設置される例外的な存在である。この場合には[[ドイツ人民警察|警察]]ならびに[[シュタージ|秘密情報機関]]も指揮下に入る。ソビエト軍においては元帥の階級を有する軍人がほとんどの時期に存在した。ソビエト軍の後継組織である[[ロシア連邦軍]]も同様である。また東側諸国の海軍においてaдмирал флота(独:Flottenadmiral英:Fleet Admiral)は陸空軍警察の上級大将に相当する階級であるが海軍元帥と訳されることが多い。<br />
<br />
このように東側の軍隊において、Colonel Generalが大将に相当するのに対し、ドイツ国防軍等では上級大将に相当するので注意が必要である。<br />
<br />
[[ドイツ連邦軍]]は、戦後米国の将官位の階級制を採用したために、'''上級大将'''の階級は存在せず、'''[[大将]]'''(Viersternegeneral、Four stars general、四個の星印の将軍)([[:de:Viersternegeneral|de]]) がかつての'''上級大将'''の階級に相当する。一個の星は[[准将]]、二個は[[少将]]、三個は[[中将]]である。戦前のドイツ軍には将官位に'''准将位'''はなかったので、将官位の数は英米と同じ四階級であった。<br />
<br />
他の国でも准将を置かない国の上級大将は准将を置く国の'''大将'''に相当する階級(NATOの階級符号のOF9)になっていることが多い。<br />
<br />
== ヴァイマル共和国の陸軍 ==<br />
* {{仮リンク|マクシミリアン・ハルダー|de|Maximilian Halder}}(Maximilian Halder)<br />
* [[ヴィルヘルム・ハイエ]]([[1869年]] - [[1946年]])<br />
* [[アレクサンダー・フォン・クルック]]([[1846年]] - [[1934年]])<br />
* [[ハンス・フォン・ゼークト]]([[1866年]]-[[1936年]])<br />
<br />
== ナチスドイツの諸組織 ==<br />
=== 陸軍 ===<br />
[[Image:WMacht A OF9-Generaloberst 1945.gif|framed|上級大将の肩章(1935年 - 1945年)]]<br />
<br />
# [[ヴィルヘルム・アダム]]([[1877年]] - [[1949年]])<br />
# [[ハンス=ユルゲン・フォン・アルニム]]([[1889年]] - [[1962年]])<br />
# [[ルートヴィヒ・ベック]]([[1880年]] - [[1944年]][[7月20日]])[[ヒトラー暗殺計画#1944年:ヴァルキューレ作戦|ヒトラー暗殺未遂事件]]に関与して自殺<br />
# [[ヨハネス・ブラスコヴィッツ]]([[1883年]] - [[1948年]])自殺<br />
# [[エデュアルト・ディートル]]([[1890年]] - [[1944年]])航空機事故<br />
# [[フリードリヒ・ドルマン]]([[1882年]] - [[1944年]])心臓発作<br />
# [[ニコラウス・フォン・ファルケンホルスト]]([[1885年]] - [[1968年]])<br />
# [[ヨハネス・フリースナー]]([[1892年]] - [[1971年]])<br />
# [[ヴェルナー・フォン・フリッチュ]]([[1880年]] - [[1939年]])戦死<br />
# [[フリードリヒ・フロム]]([[1888年]] - [[1945年]])[[ヒトラー暗殺計画#1944年:ヴァルキューレ作戦|ヒトラー暗殺未遂事件]]に関与して処刑<br />
# [[ハインツ・グデーリアン]]([[1888年]] - [[1954年]])<br />
# [[クルト・ハーゼ]]([[1881年]] - [[1943年]])<br />
# [[フランツ・ハルダー]]([[1884年]] - [[1972年]])<br />
# [[クルト・フォン・ハンマーシュタイン=エクヴォルト]]([[1878年]] - [[1943年]])<br />
# [[ヨーゼフ・ハルペ]]([[1887年]] - [[1968年]])<br />
# [[ゴットハルト・ハインリツィ]]([[1886年]] - [[1971年]])<br />
# [[ヴァルター・ハイッツ]]([[1878年]] - [[1944年]])<br />
# [[カール・ヒルペルト]]([[1888年]] - [[1947年]])<br />
# [[カール=アドルフ・ホリット]]([[1891年]] - [[1985年]])<br />
# [[エーリヒ・ヘプナー]]([[1886年]] - [[1944年]])ヒトラー暗殺未遂事件に関与して処刑<br />
# [[ヘルマン・ホト]]([[1885年]] - [[1971年]])<br />
# [[ハンス=ヴァレンティーン・フーベ]]([[1890年]] - [[1944年]])航空機事故にて死亡<br />
# [[エルヴィン・イェーネッケ]]([[1890年]] - [[1960年]])<br />
# [[アルフレート・ヨードル]]([[1890年]] - [[1946年]])[[ニュルンベルク裁判]]にて処刑<br />
# [[ゲオルク・リンデマン]]([[1884年]] - [[1963年]])<br />
# [[エバーハルト・フォン・マッケンゼン]]([[1889年]] - [[1969年]])<br />
# [[エアハルト・ラウス]]([[1889年]] - [[1956年]])<br />
# [[ゲオルク=ハンス・ラインハルト]]([[1887年]] - [[1963年]])<br />
# [[ロタール・レンデュリック]]([[1887年]] - [[1971年]])<br />
# [[リヒャルト・ルオッフ]]([[1883年]] - [[1967年]])<br />
# [[ハンス・フォン・ザルムート]]([[1888年]] - [[1962年]])<br />
# [[ルドルフ・シュミット]]([[1886年]] - [[1957年]])<br />
# [[オイゲン・フォン・ショーベルト]]([[1883年]] - [[1941年]])戦死<br />
# [[アドルフ・シュトラウス]]([[1879年]] - [[1973年]])<br />
# [[ハインリヒ・フォン・フィーティングホフ|ハインリヒ・ゴットフリート・フォン・フィーティングホフ]]([[1887年]] - [[1952年]])<br />
# [[ヴァルター・ヴァイス]]([[1890年]] - [[1967年]])<br />
# [[クルト・ツァイツラー]]([[1895年]] - [[1963年]])<br />
<br />
===海軍=== <br />
# [[:de:Conrad Albrecht|Conrad Albrecht]]、1939年4月1日昇進<br />
# [[:de:Hermann Boehm|Hermann Boehm]]、1941年4月1日昇進<br />
# [[ロルフ・カールス]]、1940年7月19日<br />
# [[ハンス=ゲオルク・フォン・フリーデブルク]]、1945年5月1日昇進<br />
# [[オスカー・クメッツ]]、1944年9月16日昇進<br />
# [[ヴィルヘルム・マルシャル]]、1943年2月1日昇進<br />
# [[アルフレート・ザールヴェヒター]]、1940年1月1日昇進<br />
# [[オットー・シュニーヴィント]]、1944年3月1日昇進<br />
# [[:de:Otto Schultze|Otto Schultze]]、1942年8月31日昇進<br />
# [[:de:Walter Warzecha|Walter Warzecha]]、1944年3月1日昇進<br />
# [[:de:Karl Witzell|Karl Witzell]]、1941年4月1日昇進<br />
<br />
*[[エーリヒ・レーダー]]は海軍元帥に昇進したためにリストにない。<br />
*[[カール・デーニッツ]]は海軍上級大将を経ずに、海軍大将から海軍元帥に特進した。<br />
<br />
=== 空軍 ===<br />
# [[:de:Otto Deßloch|Otto Deßloch]]([[1889年]] - [[1977年]])<br />
# [[:de:Ulrich Grauert|Ulrich Grauert]]([[1889年]] - [[1941年]])航空機事故<br />
# [[ハンス・イェションネク]]([[1899年]] - [[1943年]])自殺 <br />
# [[:de:Alfred Keller|Alfred Keller]]([[1882年]] - [[1974年]])<br />
# [[ギュンター・コルテン]]([[1898年]] - [[1944年]])[[ヒトラー暗殺計画|ヒトラー暗殺]]を目的とした爆破に巻き込まれ死亡<br />
# [[アレクサンダー・レーア]]([[1885年]] - [[1947年]])<br />
# [[ブルーノ・レールツァー]]([[1891年]] - [[1960年]])<br />
# [[:de:Günther Rüdel|Günther Rüdel]]([[1883年]] - [[1950年]])<br />
# [[クルト・シュトゥデント]]([[1890年]] - [[1978年]])<br />
# [[ハンス=ユルゲン・シュトゥムプフ]]([[1889年]] - [[1968年]])<br />
# [[エルンスト・ウーデット]]([[1896年]] - [[1941年]])技術局長時代に自殺<br />
# [[:de:Hubert Weise|Hubert Weise]]([[1884年]] - [[1950年]])<br />
<br />
=== 親衛隊および警察 ===<br />
# [[クルト・ダリューゲ]]([[1897年]] - [[1946年]])処刑、[[親衛隊上級大将]]兼警察上級大将<br />
# [[ヨーゼフ・ディートリヒ]]([[1892年]] - [[1966年]])[[親衛隊上級大将]]兼武装親衛隊上級大将<br />
# [[パウル・ハウサー]]([[1880年]] - [[1972年]])[[親衛隊上級大将]]兼武装親衛隊上級大将<br />
# [[フランツ・クサーヴァー・シュヴァルツ]]([[1875年]] - [[1947年]])[[親衛隊上級大将]]<br />
<br />
== オーストリア ==<br />
オーストリア・ハンガリー帝国のオーストリア陸軍(独:kaiserlich-königliche Landwehr)にも上級大将に相当するGeneraloberstが存在した。しかし、1915年から1918年のあいだしか存在しなかった。承継国であるオーストリア第一共和国および第二共和国の軍隊では准将少将中将大将の将官四級制が採用されており上級大将は存在しない。<br />
<br />
# [[ヨーゼフ・フェルディナント・フォン・エスターライヒ]] (1872 - 1942)<br />
# [[フリードリヒ・フォン・ベック=ルジコウスキ]]男爵 (1830 - 1920)<br />
# [[エドゥアルト・フォン・パール]]伯爵 (1837 - 1919)<br />
# [[アルトゥール・フォン・ボルフラス]]男爵 (1838 - 1922)<br />
# [[:de:Friedrich Freiherr von Georgi|Friedrich Freiherr von Georgi]] (1852 - 1926)<br />
# [[:de:Karl Freiherr von Pflanzer-Baltin|Karl Freiherr von Pflanzer-Baltin]] (1855 - 1925)<br />
# [[ヴィクトル・フォン・ダンクル]]伯爵 (1854 - 1941)<br />
# [[:de:Karl Tersztyánszky von Nádas|Karl Tersztyánszky von Nádas]] (1854 - 1921)<br />
# [[:de:Paul Freiherr Puhallo von Brlog|Paul Freiherr Puhallo von Brlog]] (1856 - 1926)<br />
# [[:de:Erzherzog Leopold Salvator|Erzherzog Leopold Salvator]] (1863 - 1931)<br />
# [[:de:Karl Graf von Kirchbach auf Lauterbach|Karl Graf von Kirchbach auf Lauterbach]] (1856 - 1939)<br />
# [[:de:Adolf Freiherr von Rhemen zu Barenfels|Adolf Freiherr von Rhemen zu Barenfels]] (1855 - 1932)<br />
# [[:de:Karl Graf Huyn|Karl Graf Huyn]] (1857 - 1938)<br />
# [[:de:Hermann Kusmanek von Burgneustädten|Hermann Kusmanek von Burgneustädten]] (1860 - 1934)<br />
# [[:de:Karl Křitek|Karl Křitek]] (1861 - 1928)<br />
# [[ヴェンツェル・フォン・ヴルム]]男爵 (1859 - 1921)<br />
# [[サミュエル・フォン・ハツァイ]]男爵 (1851 - 1942)<br />
# [[:de:Leopold Freiherr von Hauer|Leopold Freiherr von Hauer]] (1854 - 1933)<br />
# [[:de:Viktor Graf von Scheuchenstuel|Viktor Graf von Scheuchenstuel]] (1857 - 1938)<br />
# [[ステファン・サルコチッチ・フォン・ロヴチェン]] (1858 - 1939)<br />
# [[:de:Josef Ritter Roth von Limanowa-Lapanów|Josef Ritter Roth von Limanowa-Lapanów]] (1859 - 1927)<br />
# [[:de:Arthur Freiherr Arz von Straussenburg|Arthur Freiherr Arz von Straussenburg]] (1857 - 1935)<br />
# [[:de:Hugo Martiny von Malastów|Hugo Martiny von Malastów]] (1860 - 1940)<br />
# [[:de:Rudolf Freiherr Stöger-Steiner von Steinstätten|Rudolf Freiherr Stöger-Steiner von Steinstätten]] (1861 - 1921)<br />
# [[:de:Alois Fürst Schönburg-Hartenstein|Alois Fürst Schönburg-Hartenstein]] (1858 - 1944)<br />
<br />
== アメリカ合衆国軍 ==<br />
同国陸軍の'''General of the Army'''、海軍の'''Fleet Admiral'''、空軍の'''General of the Air Force'''は通常元帥と訳されるが、他国軍の[[元帥]]とことなり大将の上位に位置する将官の最上級であるため、上級大将と訳すべきであるという意見もある。中国語ではこれらの階級は五星上将もしくは特級上将と訳される。<br />
<br />
== 中国人民解放軍 ==<br />
日本語でいう大将に相当する上将の上に、上級大将に相当する大将([[十大大将]]を参照)がかつて置かれていたが階級制度自体が1965年に廃止された。また階級制度が復活した1988年に上級大将に相当する一級上将が置かれたが誰にも授与されることなく94年に廃止された。<br />
<!--<br />
== 朝鮮人民軍 ==<br />
朝鮮人民軍上将が日本語でいう大将に、'''朝鮮人民軍大将'''は日本語でいう上級大将にそれぞれ相当するとされる。ただし、朝鮮人民軍は他の軍組織と違って元帥級が細分化されているため、生え抜き軍人に対しては'''次帥'''も上級大将に相当すると認識されることもある。{{main|朝鮮人民軍の階級#現在の階級}}<br />
<br />
[[白頭山]]血統の最高指導者に対する敬称として使う場合は大将・[[将軍]]・元帥・大元帥のいずれかが基本で、上級大将という語は使われない。{{main|将軍#国家指導者の敬称としての将軍|金正日の呼称一覧#リスト}}--><br />
<br />
==第一帝政時のフランス陸軍==<br />
ナポレオン一世治世下の第一帝政において、上級大将([[:fr:Colonel général (France)|colonel-général]])は各兵科の最先任将官に対する称号として用いられた。タヴ―(擲弾歩兵)、スルト(猟歩兵)、ベシェール(騎兵)、モルティエ(海兵および砲兵)などがこの称号を与えられた<ref>軍装・服飾史カラー図鑑124~125および131頁、 辻元よしふみ著、辻元玲子イラスト、2016年8月10日。</ref>。<br />
<br />
<br />
== ベトナム人民軍 ==<br />
上級大将に相当するĐại tướng([[チュハン]]:大将 英:General of the Army) と大将に相当するThượng tướng(チュハン:上将 英:Colonel General) が陸軍と公安に置かれている。初めてĐại tướngの階級を授与されたのは、[[ヴォー・グエン・ザップ]]であった。以降彼を含めて12人しか出ていない。主に共産党中央政治局委員や国防相に充てられる。[[ベトナム人民海軍|海軍]]では上級大将相当の階級は存在せず大将に相当するĐô đốc([[チュハン]]:都督)が最高階級である。ベトナムには准将に相当するĐại táが存在するためThượng tướngを大将、Đại tướngは元帥と訳すべきだという意見も存在する。1946年の建軍から58年までは旧日本軍にならい少将、中将、大将の将官三階級制だった。<br />
<br />
== 中華民国国軍 ==<br />
'''[[一級上将]]'''が上級大将に、[[二級上将]]が大将に相当する。この一・二級の分離は[[1935年]]になされた。[[中華民国国防部]]の[[参謀総長]]は一級上将1名(国防部軍令副部長を兼任)、二級上将は副参謀総長2名だった。[[2015年]]より参謀総長は二級上将、副参謀総長は中将(兼任執行官は二級上将のまま)に降格され、一級上将は戦時または特別の功績を挙げた場合のみに設置される階級となる予定だったが、既に[[2013年]][[1月16日]]にそれより前倒しされる形で空軍総司令だった{{仮リンク|厳明|zh|嚴明_(臺灣)}}が二級上将のまま参謀総長に任命され、さらに7ヶ月後の[[8月8日]]に国防部長となった。<br />
<br />
[[中華民国国防部参謀本部|国防部参謀本部]]参謀総長は1970年から2001年にかけて中華民国軍の実質的な指揮者としての立場を有していた。また、かつては一級上将のさらに上に特級上将(Generalissimo)という階級があったがこれは[[蒋介石]]にのみ与えられた。<br />
<br />
NATO階級符号上は一級上将も二級上将も准将を置く国の大将に相当するOF-9級に位置づけられており日本の自衛隊同様准将に相当するOF-6級が存在しない建前となっている<br />
<br />
== ウクライナ軍 ==<br />
[[ウクライナ上級大将]]が陸軍式の階級として置かれている。参謀総長と三軍(陸軍、海軍、空軍)の各司令官は大将が充てられ、ウクライナ上級大将は国防相や[[ウクライナ保安庁]]、[[ウクライナ対外情報庁]]等の各長官等に充てられる。2018年1月時点で18人が任官しているが、ウクライナ軍は2016年以降准将(海軍は代将)の階級も置かれており、ウクライナ上級大将はNATO階級符号上は元帥に相当するOF-10級に位置づけられている。<br />
<br />
== ミャンマー軍 ==<br />
[[ミャンマー]]の国家元首を務めていた[[タン・シュエ]][[国家平和発展評議会]]議長(同評議会は[[2011年]]3月に解散)の軍人としての階級は'''陸軍上級大将''' (Senior General) である。なお[[ミャンマー軍]]には上級大将と大将の間にも上級大将補 (Vice Senior General) という階級が存在し、同評議会副議長の座にあった[[マウン・エイ]]がこの階級を授与された。またミャンマー国軍には准将の階級も存在し、NATOの階級符号では上級大将は元帥級のOF-10、上級大将補は同国軍の大将同様四つ星将軍級のOF-9に相当する。このため准将を置かない大陸欧州系諸国の上級大将とは性格がことなる<br />
<br />
== 中央アジア諸国 ==<br />
ソ連軍の階級システムを継承した[[カザフスタン]]、[[キルギス]]、[[タジキスタン]]、[[トルクメニスタン]]、[[ウズベキスタン]]各国にも存在する。内ウズベキスタンは[[2002年]]に制定された。大統領と国防相に充てられ、トルクメニスタンは5人昇進しており、[[グルバングル・ベルディムハメドフ]]大統領と{{lang|tk|Агагельды Мамметгельдыевич Мамметгельдыев}}国防相はいずれも現役の上級大将でもある。<br />
<br />
== スペイン海軍 ==<br />
スペインでは1997年まで大将位は無く、中将の中で国防参謀総長、陸軍参謀総長、海軍参謀総長および空軍参謀総長の就任者のみを大将待遇としていた。大将位制定にあたって、その階級呼称を陸軍は'''general de ejército''',空軍は'''general del aire'''としたのに対し、海軍は元来、少将を意味する'''contralmirante'''、中将を意味する'''vicealmirante'''、そして大将を意味する'''almirante'''をそれぞれ准将、少将、および中将としてきたため、旧ドイツ海軍の上級大将('''General admiral''')と同じく'''almirante general'''を大将の階級呼称としている。そのため、陸軍および空軍将官の階級呼称の和訳を准将~大将としているのに対し、海軍将官を少将~上級大将と和訳する人もいる。<br />
<br />
== 参考文献 ==<br />
* Dr. Gerd F. Heuer - Die Generalobersten des Heeres, Inhaber höchster Kommandostellen 1933-45. ISBN 3-8118-1408-7<br />
<br />
== 関連項目 ==<br />
* [[上級大将 (東ドイツ)]]<br />
* [[上級大将 (ソ連)]]<br />
<br />
==脚注==<br />
{{Reflist}}<br />
<br />
{{デフォルトソート:しようきゆうたいしよう}}<br />
[[Category:上級大将|*]]</div>
114.161.14.158
ヴィクトル・チェルノムイルジン
2018-08-12T04:37:20Z
<p>114.161.14.158: </p>
<hr />
<div>{{政治家<br />
|人名 = ヴィクトル・チェルノムイルジン<br />
|各国語表記 = {{lang|ru|Ви́ктор Степа́нович Черномы́рдин}}<br />
|画像 = Viktor Chernomyrdin-1.jpg<br />
|画像説明 = ヴィクトル・チェルノムイルジン(2006年7月撮影)<br />
|国略称 = {{RUS}}<br />
|生年月日 = {{生年月日と年齢|1938|4|9|死去}}<br />
|出生地 = {{SSR1923}}、<br />[[ファイル:Flag of the Russian SFSR 1937-1954.svg|25px|ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国の旗]][[ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国]]<br />[[オレンブルク州]]<br />
|没年月日 = {{死亡年月日と没年齢|1938|4|9|2010|11|3}}<br />
|死没地 = {{RUS}}、[[モスクワ]]<br />
|出身校 = [[クイビシェフ工科大学]]<br />[[全連邦通信制工業大学]]経済学部<br />
|前職 = [[ガスプロム]]社長<br /> 駐ウクライナ・ロシア大使<br />
|所属政党 = [[我が家ロシア]]<br />
|称号・勲章 = <br />
|親族(政治家) = <br />
|配偶者 = <br />
|サイン = <br />
|ウェブサイト = <br />
|サイトタイトル = <br />
|国旗 = RUS<br />
|職名 = 第2代 [[ロシアの首相|ロシア連邦<br />閣僚会議議長(首相)]]<br />
|内閣 = チェルノムイルジン内閣<br />
|就任日 = [[1992年]][[12月14日]] <br />
|退任日 = [[1993年]][[12月25日]]<br />
|元首職 = [[ロシア連邦大統領|連邦大統領]]<br />
|元首 = [[ボリス・エリツィン]]<br />
|国旗2 = RUS<br />
|職名2 = 初代 [[ロシアの首相|ロシア連邦首相]]<br />
|内閣2 = チェルノムイルジン内閣<br />
|就任日2 = [[1993年]][[12月25日]]<br />
|退任日2 = [[1998年]][[3月23日]] <br />
|元首職2 = 連邦大統領<br />
|元首2 = ボリス・エリツィン<br />
|国旗3 = RUS<br />
|職名3 = ロシア連邦首相代行<br />
|内閣3 = <br />
|就任日3 = [[1998年]][[8月23日]]<br />
|退任日3 = [[1998年]][[9月11日]]<br />
|元首職3 = 連邦大統領<br />
|元首3 = ボリス・エリツィン<br />
|国旗4 = SSR<br />
|職名4 = [[ソビエト連邦]]ガス工業大臣<br />
|内閣4 = [[ニコライ・ルイシコフ]]内閣<br />
|就任日4 = [[1985年]]<br />
|退任日4 = [[1989年]]<br />
}}<br />
'''ヴィクトル・ステパノヴィチ・チェルノムイルジン'''({{Lang-ru|'''Виктор Степанович Черномырдин'''}}、[[ラテン文字]]転写の例:{{lang|ru-Lat|'''Victor Stepanovich Chernomyrdin'''}}、[[1938年]][[4月9日]] - [[2010年]][[11月3日]])は、[[ロシア]]の[[政治家]]。[[ボリス・エリツィン]]時代の[[ロシアの首相]](在任[[1992年]] - [[1998年]])、1998年に設立した[[ガスプロム]]の初代社長を務めた。<br />
<br />
== 経歴 ==<br />
1938年4月9日、[[ソビエト連邦]]時代の[[ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国]]の[[オレンブルク州]]に生まれる。[[1966年]]、クイビシェフ工科大学を卒業。[[1972年]]、[[全連邦通信制工業大学]][[経済学部]]を卒業した。[[1961年]]に[[ソビエト連邦共産党|ソ連共産党]]に入党。一貫して[[天然ガス]]などのエネルギー関係を渡る。[[1973年]]にはオレンブルク・ガス精製工場支配人となる。[[1978年]]に共産党中央委員会重工業部に移り、[[1982年]]、ソ連石油ガス工業省[[次官]]に任命される。[[1983年]]から全連邦工業合同「グラヴチュメンガスプロム」(ガスプロムの前身)支配人を兼務する。[[1985年]]、首相の[[ニコライ・ルイシコフ]]のもと、ソ連ガス工業大臣に就任する。[[グリゴリー・ヤブリンスキー]]が中心になって立案した「[[500日計画]]」には反対した。[[1989年]]、ガス工業省内に国営コンツェルンガスプロムを創設する。ガスプロムは、天然ガス企業として世界最大規模を誇り、チェルノムイルジンは同年8月に社長に選出された。[[1990年]]3月、ロシア共和国人民代議員選挙に立候補するが、[[ドミトリー・ウォルコゴノフ]]将軍に敗れる。<br />
<br />
[[1991年]]、[[ソ連8月クーデター]]が失敗に終わり、ソ連共産党の解党が決定的になると、チェルノムイルジンは共産党を離党する。[[1992年]]5月、[[ロシア連邦政府]]の燃料エネルギー担当の副首相に任命される。エリツィンは、[[エゴール・ガイダル]]と[[アナトリー・チュバイス]]を起用して急進的な[[市場経済]]導入を推進したが、そのためのショック療法により、[[ロシアの経済|ロシア経済]]は[[ハイパーインフレーション]]に見舞われ、エリツィン政権に対する国民、とくに低所得者層や[[年金]]生活者など社会的弱者の支持は急降下していった。エリツィンは、新たなる支持基盤として民営化によって生まれた[[ロシアの新興財閥|新興財閥]]に注目し、その代表とも言うべきガスプロムの代表であり、急進的な経済改革ではなく穏健な経済改革を主張していたチェルノムイルジンを登用することになる。こうしてチェルノムイルジンは、1992年12月、第7回[[人民代議員大会]]で首相となる。<br />
<br />
首相となったチェルノムイルジンは、エリツィンに対して忠誠を誓い、副大統領の[[アレクサンドル・ルツコイ]]と{{仮リンク|ロシア連邦最高会議|label= 最高会議|ru|Верховный совет России}}議長の[[ルスラン・ハズブラートフ]]がエリツィンに対して離反した際には、[[1993年]]9月のロシア議会(人民代議員大会と最高会議)解散に関する大統領令を支持し、[[ベールイ・ドーム|最高会議ビル]]に立てこもったルツコイ、ハズブラートフらを武力で鎮圧した。[[1995年]]5月には、大統領[[与党]]として設立された選挙ブロック「[[我が家ロシア]]」評議会議長に就任。自身も同年12月下院国家会議選挙で、「我が家ロシア」で比例区から当選したが、「我が家ロシア」そのものは得票率において、[[ロシア自由民主党]]、[[ロシア連邦共産党]]に次ぐ第3党に留まった(議席数65)。しかし[[1996年]]の[[1996年ロシア大統領選挙|エリツィン大統領再選]]には多大な貢献をし、[[8月10日]]、首相に再任される。1996年[[4月1日]]、大統領令により「チェチェン紛争解決国家委員会」が設置され、さらにチェルノムイルジンは同委員会議長に任命され、[[第一次チェチェン紛争]]の収拾に尽力した。さらに1996年[[11月5日]]から[[11月6日]]にかけてエリツィンが心臓手術を受けている間、臨時大統領を務めた。<br />
<br />
こうして5年余にも及ぶ首相在任によって、チェルノムイルジンはエリツィンに次ぐ政治権力者となったかに見えたが、[[1998年]][[3月23日]]、突然の大統領令によって首相職を解任された。この大統領令は[[2000年]]の[[2000年ロシア大統領選挙|大統領選挙]]へチェルノムイルジンが立候補するためその準備のために首相職を解任すると説明されたが、実際は健康を悪化させていたエリツィンに代わってチェルノムイルジンが政権内で巨大な存在になったことを嫌ったエリツィンとその周辺による体の良い厄介払いであったと言われている。エリツィン大統領は、当初はチェルノムイルジンの後継首相を任命せず、自らが首相代行を兼任して権力を掌握しようとしたけれども、憲法裁判所がこの措置を違法と裁定したことによってそれを断念し、若手政治家の[[セルゲイ・キリエンコ]]を首相代行、続いて首相に任命して、チェルノムイルジンの後継内閣を組閣させた。<br />
<br />
しかし、[[1998年]][[8月17日]]、キリエンコ内閣は、[[ルーブル]]の切り下げと90日間の対外債務の支払停止([[デフォルト (金融)|デフォルト]])を発表し、これが[[ロシア金融危機]]のきっかけとなった。この危機にあってキリエンコは事態を収拾することができず、[[8月23日]]、エリツィン大統領は突如、キリエンコ内閣の全閣僚を[[罷免]]した。<br />
<br />
翌[[8月24日]]、エリツィンは再びチェルノムイルジンを起用し、彼を首相代行に任命した。エリツィンは若手改革派ではあるが政治的力量に欠けていたキリエンコを切り捨て、「重量級」であるチェルノムイルジンを再登板させようと目論んだわけである。しかし[[野党]]勢力は、こうしたエリツィンの行動が支離滅裂であるとますます批判を強めた。[[8月31日]]、下院はチェルノムイルジンの首相承認を賛成94、反対251で否決した。エリツィンは再度、下院にチェルノムイルジンの承認を求めたが、[[9月7日]]の第2回投票でも賛成137、反対273で否決された。チェルノムイルジン自身は第3回投票に持ち込むことを辞さない覚悟であったが、エリツィンは2度の否決でチェルノムイルジンの承認をあきらめ、チェルノムイルジンは首相再登板の目を絶たれてしまった。新首相には、議会の受けもよかった[[エフゲニー・プリマコフ]]外相代行が就任した<ref>プリマコフは、自由民主党を除く各会派から首相候補として推薦されていた。『ロシア同時代史』、[[木村明生]]著、[[朝日新聞社]]発行、225頁</ref>。<br />
<br />
チェルノムイルジンはその後の[[1999年]]に[[ユーゴスラビア紛争]]調停のため、大統領特使としてユーゴに派遣される。同年12月の下院国家会議選挙では、「我が家ロシア」は5%条項を突破せず比例区で議席を獲得できなかったが、チェルノムイルジン自身は小選挙区から立候補して当選した(「我が家ロシア」はその後、[[政権]]与党「[[統一ロシア]]」に合流した)。その後[[2001年]]5月に駐[[ウクライナ]]大使に任命された。<br />
<br />
[[2009年]][[6月11日]]、ウクライナ大使を解任され、大統領顧問兼CIS諸国経済協力特別大統領代表に任命された。<br />
<br />
2010年11月3日、モスクワ市内の病院で死去<ref>{{Cite news<br />
|url=http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20101103-OYT1T00410.htm<br />
|title=ロシア元首相のチェルノムイルジン氏死去<br />
|work=YOMIURI ONLINE<br />
|newspaper=[[読売新聞]]<br />
|date=2010-11-03<br />
|accessdate=2010-11-03<br />
|language=日本語<br />
}}</ref>。{{没年齢|1938|4|9|2010|11|3}}。<br />
<br />
== ガスプロムとロシア経済 ==<br />
在任中の政策により、新興財閥([[オリガルヒ]])を巨大化させた。また、自身の母体である[[ガスプロム]]などのガス石油企業に対する保護は、ロシアの国家財政における税収不足を引き起こす事態になり、短期[[国債]]の乱発とともに[[ロシア財政危機]]の一因となった。<br />
<br />
== 出典 ==<br />
{{Reflist}}<br />
<br />
{{Commonscat|Viktor Chernomyrdin}}<br />
<br />
{{start box}}<br />
{{s-off}}<br />
{{Succession box<br />
| title = {{flagicon|RUS}} [[ロシアの首相|ロシア連邦首相]]<br />
| years = (代行)1998年<br />
| before = [[セルゲイ・キリエンコ]]<br />
| after = [[エフゲニー・プリマコフ]]<br />
}}<br />
{{Succession box<br />
| title = {{flagicon|RUS}} [[ロシアの首相|ロシア連邦首相]]<br />
| years = 初代:1993年 - 1998年<br />
| before = 自分自身<br />
| beforenote = (閣僚会議議長)<br />
| after = [[セルゲイ・キリエンコ]]<br />
| afternote = (エリツィン代行は無効)<br />
}}<br />
{{Succession box<br />
| title = {{flagicon|RUS}} [[ロシアの首相|ロシア連邦閣僚会議議長]]<br />
| years = 第2代:1992年 - 1993年<br />
| before = [[エゴール・ガイダル]]<br />
| beforenote = (代行)<br />
| after = 自分自身<br />
| afternote = (首相)<br />
}}<br />
{{end box}}<br />
<br />
{{ロシアの大統領}}<br />
{{ロシア連邦の首相}}<br />
<br />
{{DEFAULTSORT:ちえるのむいるしん ういくとる}}<br />
[[Category:ロシア連邦の首相]]<br />
[[Category:ロシアの大統領|代ちえのむいるしん]]<br />
[[Category:ロシア連邦大統領顧問]]<br />
[[Category:在ウクライナロシア連邦大使]]<br />
[[Category:ロシアの実業家]]<br />
[[Category:ソビエト連邦共産党中央委員会の人物]]<br />
[[Category:第11回ソビエト連邦最高会議の代議員]]<br />
[[Category:ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国最高会議の代議員]]<br />
[[Category:祖国功労勲章受章者]]<br />
[[Category:友好勲章受章者 (ロシア連邦)]]<br />
[[Category:十月革命勲章受章者]]<br />
[[Category:労働赤旗勲章受章者]]<br />
[[Category:ソビエト連邦の閣僚]]<br />
[[Category:オレンブルク州出身の人物]]<br />
[[Category:1938年生]]<br />
[[Category:2010年没]]</div>
114.161.14.158
シュテルンベルク天文研究所
2018-08-12T02:05:55Z
<p>114.161.14.158: </p>
<hr />
<div>'''シュテルンベルク天文研究所'''(Sternberg Astronomical Institute、ロシア語表記:Государственный астрономический институт имени Штернберга、略称:GAISh:ГАИШ)は[[モスクワ大学]]の天文研究所である。1831年に設立された天文台の場所に1931年に設立された。名前は、ソビエトの天文学者[[パーヴェル・シュテルンベルク]] (Пáвел Кáрлович Штéрнберг) の名前から命名された。<br />
<br />
小惑星 (14789) [[GAISH (小惑星)|GAISH]]の命名の由来となっている。<br />
<br />
== 外部リンク ==<br />
* [http://sai.msu.su/ Sternberg Astronomical Institute]<br />
<br />
{{astro-stub}}<br />
<br />
{{DEFAULTSORT:しゆてるんへるくてんもんけんきゆうしよ}}<br />
[[Category:ロシアの研究所]]<br />
[[Category:モスクワ大学]]<br />
[[Category:天文学]]</div>
114.161.14.158
ドン・コサック軍
2018-08-11T21:01:20Z
<p>114.161.14.158: </p>
<hr />
<div>{{軍隊資料<br />
|名称 =ドン・コサック軍<br />{{lang|ru|Донское казачье войско}}<br />
|画像 =[[Image:Flag of Don Cossacks.svg|180px]]<br />
|画像説明 =[[ドン共和国|ドン・コサック共和国]]の国旗(1918年)<br />
|創設 = 1570年<br />
|廃止 = 1918年<br />
|再編成 = 1936年(ソ連の赤コサック軍)<br />
|再廃止 = <br />
|国籍 = ロシア帝国<br />
|所属 = コサック軍<br />
|規模 = [[総軍]]<br />
|兵科 = <br />
|兵種 = <br />
|人員 =150万人(1916年)<br />
|所在地 =南東部[[ウクライナ]]・南西部[[ロシア]]<br />
|編成地 = <br />
|通称号 = <br />
|愛称 = <br />
|標語 = <br />
|補充担任 = <br />
|上級部隊 = <br />
|最終上級部隊 = <br />
|担当地域 =[[ドン川]]の中・下流域<br />
|最終位置 =<br />
|主な戦歴 = [[1812年ロシア戦役|仏露戦争]]<br/>[[クリミア戦争]]<br/>[[露土戦争]]<br/>[[ロシア内戦]]<br />
}}<br />
'''ドン・コサック軍'''(―ぐん、[[ロシア語]]:''{{lang|ru|Донское казачье войско}}'')は、[[コサック]]の[[軍事]]組織で、[[ロシア帝国]]のコサック軍の一つ。[[ウクライナ人]]、南[[ロシア人]]や[[タタール]]人などによって構成され、現在の南東部[[ウクライナ]]と南西部[[ロシア]]に当たる[[ドン川]]の流域を中心に勢力圏を持った。[[17世紀]]半ばに[[ロシア]]の強化にともなって独立を失い、[[19世紀]]から[[20世紀]]にかけてロシア所属の最大の[[非正規軍]]となった。'''ドン衆'''(''{{lang|ru|Донцы}}'')、'''ドン・コサック'''(''{{lang|ru|Донские казаки}}'')とも。<br />
<br />
20世紀にドン・コサックは、軍役のほかに警察業務を担当していたことから、体制派・帝政派の支持者、民衆の弾圧者、また[[革命]]への反逆者というイメージが強く形成されてきた。<br />
<br />
== 名称 ==<br />
[[日本語]]文献内では「ドン・コサック兵」、「ドン・カザーク軍」、「ドン・カザーキ軍」、「ドン・コザック軍」などとも書かれる。いずれも訳語の問題であり、意味するものは同じである。<br />
<br />
その他、[[ロシア内戦]]期に関しては「白ドン・コサック軍」({{lang|ru|Белоказаки Донской армий}})などという呼称も用いられる。「[[ドン軍]]の白軍コサック(白コサック軍)」という意味であるが、ドン・コサック軍が[[白軍]]([[白衛軍]])としてドン軍({{lang|ru|Донская армия}})に参加していたため、このような名称で呼ばれた。一方、[[ソビエト|ソヴィエト]]勢力に加担したコサックは赤コサック軍と呼ばれ、ソヴィエトに降伏したドン・コサック一部は、赤ドン・コサック軍となった。<br />
<br />
=== 歴史 ===<br />
[[Image:Донского Войска Область 1900.svg|thumb|250px|ドン・コサック軍の勢力域一帯の地図]]<br />
[[Image:Juliusz Kossak Kozacy donscy.jpg|thumb|250px|ドン・コサック軍]]<br />
<br />
[[16世紀]]に[[ドン川]]流域はさまざまな[[遊牧民]]や土地を持たない人々・各地の圧制を逃れてきた人々(逃亡[[農奴]]など)を引き付けた。こうした人々は次第に共同体を構成していき、広くコサックと呼称されるようになった。彼らは武装した集団も形成し、狩猟など生計のほか[[オスマン帝国]]や[[クリミア・ハン国]]との武装闘争に明け暮れ、優れた乗馬能力や武力を磨き、それを[[傭兵]]として売るようになっていく。<br />
<br />
ドン・コサック軍は、[[16世紀]]にドン・コサックの軍事組織として成立した。名称は、根拠地を流れる[[ドン川]]に由来する。当初は[[モスクワ大公国]]やロシア帝国に対する反乱を起こすこともしばしばあった。[[ラージンの乱]]([[1670年]] - [[1671年]])、{{仮リンク|ブラヴィンの乱|ru|Булавинское восстание|en|Bulavin Rebellion}}([[1707年]] - [[1709年]])、[[プガチョフの乱]]([[1773年]] - [[1775年]])はみなドン・コサックによる蜂起である。しかし、次第に帝国の体制に組み込まれていった。<br />
<br />
[[ロシア皇帝]][[ピョートル1世]](在位: 1682年 - 1725年/1721年 - 1725年)によって推し進められた組織の改変に反発し、ドン・コサック軍はウクライナの[[ヘーチマン]]、[[イヴァン・マゼーパ]]と結ぶなどしてピョートルに対し敵対行動をとった。ピョートルに敗れた後、ドン・コサック軍の一部は[[1737年]]から[[オスマン帝国]]へ逃亡を始め、[[クバーニ]]地方に居を構えるようになった。その後、一部は[[ルーマニア]]に組み込まれた。<br />
<br />
一方、ロシア帝国領内に留まったドン・コサック軍はロシア帝国から認められた南ロシアから[[東ウクライナ]]の一帯、現在の[[ロストフ・ナ・ドヌ|ロストフ]]、[[ヴォルゴグラード]]、[[ルハーンシク|ルハーンスク]]、[[ドネツィク|ドネーツク]]、[[ヴォロネジ|ヴォローネシュ]]、[[カルムイク共和国]]一帯をテリトリーとしていた。この地域は、帝政時代には[[ドン軍管州]]と呼ばれ、ドン・コサックは皇帝へ忠誠を誓い軍務に就く代わりにこの地方での一定の自治を認められていた。[[中央集権]]の強いロシア帝国では、このように自治権が認められることはきわめてまれであった。そのため、ドン・コサックは半ば特権階級と化した。ドン軍管州の首都は[[ノヴォチェルカッスク]]に置かれた。<br />
<br />
弾圧行動としてよく知られたのは、[[ロシア第一革命]]中に[[オデッサ]]で起きた[[戦艦ポチョムキンの反乱]]で、ドン・コサック軍が市街において民衆の武力弾圧を行い大勢の死傷者が出た<ref>映画『[[戦艦ポチョムキン]]』劇中で有名な「オデッサの階段」シーンにおいて、[[ポチョムキン=タヴリーチェスキー公 (戦艦)|戦艦ポチョムキン]]の反乱水兵を支持するオデッサ市民に対する無差別発砲を行ったのは、コサック兵である。</ref>。<br />
<br />
ロシア帝国のドン・コサック軍はロシア帝国の軍隊として働き、数々の戦争に参加した。[[露土戦争]]や[[クリミア戦争]]での活躍が知られる。また、[[1812年ロシア戦役|祖国戦争]]でも7万のドン・コサック兵が[[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン]]軍と戦った。<br />
<br />
[[第一次世界大戦]]中の[[1916年]]には、ドン・コサック軍は150万の兵力を誇り、帝国内で最も強大な軍事組織のひとつとなった。[[ロシア革命]]後、ドン・コサック軍は白軍中最大の勢力となり、[[ラーヴル・コルニーロフ]]の指揮の下[[赤軍]]に大きな損害を与えた。しかし、[[1918年]]には祖国を追われることとなった。その後もドン・コサック軍は[[ドン軍]]({{lang|ru|Донская армия}}<small>ドンスカーヤ・アールミヤ</small>)として[[南ロシア軍]]内で活動を続け、組織を維持した<br />
<br />
その後、白軍の敗北によりドン・コサック軍は[[トルコ]]へ亡命した。この亡命の道は、旧来ロシア帝国に追われたロシアやウクライナのコサックたちの辿った道であった。ドン・コサック軍は、[[1962年]]までトルコに居住し、その後は帰国の許されたロシアや[[アメリカ合衆国]]へ移住した者が多かった。<br />
<br />
現在は、ロシア連邦国内のかつての居住地に、一部のドン・コサックが従来のような自治権を持って居住している。<br />
<br />
=== 評価 ===<br />
ドン・コサック軍に対しては、しばしば否定的な評価がなされてきた。<br />
<br />
一般に、コサック集団は初期には帝政時代に推し進められた民衆への弾圧や[[農民]]の[[農奴]]化から逃れるための受け皿としての性格があった。これが度重なるロシア帝国への敗戦ののち、次第に体制側へ転換していき、[[19世紀]]には逆に弾圧する側の軍事組織と変貌した。ドン・コサック軍はその代表格であり、しばしば武力を持って民衆の生命を脅かしたため、多くの人々から恐れられ、忌み嫌われた。だが、その背景には[[ロシア人]]のコサックに対する差別もあった。<br />
<br />
ドン・コサックが弾圧側の代表となっていった背景には、しばしば[[モスクワ]]を脅かした強大な軍事力と巧みな政治力によりうまく体制側に取り入り、生き残ってきたという経緯があった。これに対し、同じく大きな勢力であった[[ウクライナ・コサック|ザポロージャ・コサック]]や[[ヤイク・コサック]]などは、他の道を探った結果軍事的・政治的な敗北により亡ぼされていった。ドン・コサックには、ロシア帝国の体制側に取り入ることより他に生き残る道は残されていなかった。<br />
<br />
ロシア内戦期にも、ドン・コサック軍は皇帝への忠誠を守った。その結果、[[ボリシェヴィキ]]との戦争で赤軍に敵対し、[[ソビエト連邦|ソ連]]時代には「悪役」の代表格として嫌われた。ソ連中期にはロシア国内への帰国が認められ、ソ連末期にはその名誉の回復も進んだが、現在でも一般に嫌われる傾向は薄まったとは言えない。また、「コサックの国家」を自認する人の多いウクライナでも、ドン・コサック軍は「悪いロシアのコサック」というレッテルを貼られ、嫌われる傾向が強い。<br />
<br />
逆に、ドン・コサック軍に関係する人々の間では自らがドン・コサック軍の一員であることは強い誇りであり、現在もロシアの一部で伝統や習慣に基づいた独自の生活を送っている。<br />
<br />
== 脚注 ==<br />
<references /><br />
<br />
== 外部リンク ==<br />
{{Commons cat|Don Cossacks}}<br />
*[http://www.doncossacks.ru/ The Don Cossack Museum in Novocherkassk]<br />
*[http://novocherkassk.net/ Novocherkassk. The Capital of Don Cossacks]<br />
<br />
{{DEFAULTSORT:とんこさつくくん}}<br />
[[Category:ドン・コサック軍|*]]</div>
114.161.14.158
保谷市
2018-08-08T10:51:37Z
<p>114.161.14.158: </p>
<hr />
<div>{{日本の市 (廃止)|<br />
廃止日=2001年1月21日|<br />
廃止理由=新設合併|<br />
廃止詳細='''保谷市'''、[[田無市]] → [[西東京市]]|<br />
現在の自治体=[[西東京市]]|<br />
市章 = [[ファイル:Flag of Hoya Tokyo.svg|center|100px]]保谷[[市町村旗|市旗]][[ファイル:Emblem of Hoya, Tokyo.svg|center|75px]]保谷[[市町村章|市章]]|<br />
市章の説明 = [[1967年]]([[昭和]]42年)[[3月]]制定|<br />
よみがな=ほうやし|<br />
自治体名=保谷市|<br />
都道府県=東京都|<br />
支庁=|<br />
コード=13217-9|<br />
面積=9.05|<br />
境界未定=|<br />
人口=102,720|<br />
人口の時点=2000年国勢調査|<br />
隣接自治体=[[練馬区]]、[[田無市]]、[[武蔵野市]]、<br />[[東久留米市]]、[[埼玉県]][[新座市]]|<br />
木=[[ケヤキ]]|<br />
花=[[サザンカ]]|<br />
シンボル名=他のシンボル|<br />
鳥など=-|<br />
郵便番号=202-8555|<br />
所在地=保谷市中町一丁目5番1号|<br />
電話番号=0424-21-2525|<br />
外部リンク=|<br />
経度=|<br />
緯度=|<br />
位置画像=|<br />
特記事項=<br />
}}<br />
'''保谷市'''(ほうやし)は、[[東京都]]にあった[[市]]。東京都[[東京都区部|特別区部]]への通勤率は51.1%(平成12年国勢調査)。[[2001年]](平成13年)[[1月21日]]に[[田無市]]と[[日本の市町村の廃置分合|合併]]([[日本の市町村の廃置分合#合併と分割の種類|新設合併]])して、'''[[西東京市]]'''となった。<br />
<br />
== 地名の由来 ==<br />
[[江戸時代]]の文献には'''穂屋'''または'''穂谷'''の地名が用いられていた。「[[穂]]」の文字が使われていたことから、周辺に比べ水利が良く、[[植生]]が豊かな土地であることが地名の由来であると考えられている。<br />
<br />
その後[[17世紀]]後半の[[元禄]]時代には、公文書に現在の保谷の文字が記されており、[[江戸幕府|幕府]]に提出する書類に間違えて保谷を使い、以後この字になったとあり、現在の地名はこの頃に確定したと思われる。<br />
<br />
[[西東京市]]の成立後その名は、駅名の[[保谷駅]]と町名([[保谷町]]および[[下保谷]])、創業の地があった[[光学機器]]・[[ガラス]][[メーカー]]の社名「[[HOYA]]」として残っている。<br />
<br />
== 地理 ==<br />
[[2007年]]現在の[[東京都]][[西東京市]][[ひばりが丘 (東京都)|ひばりが丘]](田無市ひばりが丘団地であった三丁目2番を除く。)、[[ひばりが丘北]]、[[住吉町 (西東京市)|住吉町]]、[[栄町 (西東京市)|栄町]]、[[北町 (西東京市)|北町]]、[[下保谷]]、[[東町 (西東京市)|東町]]、[[中町 (西東京市)|中町]]、[[泉町 (西東京市)|泉町]]、[[保谷町]]、[[富士町 (西東京市)|富士町]]、[[東伏見]]、[[柳沢 (西東京市)|柳沢]]、[[新町 (西東京市)|新町]]に相当する。<br />
<br />
=== 隣接していた自治体 ===<br />
* 東京都<br />
** [[練馬区]]<br />
** [[田無市]]<br />
** [[武蔵野市]]<br />
** [[東久留米市]]<br />
* [[埼玉県]]<br />
** [[新座市]]<br />
<br />
== 歴史 ==<br />
他の多摩地域と同様に江戸時代ごろより江戸への農産物の供給地として発展し、特に[[玉川上水]]からの分水である[[千川上水]]の開通をうけ新田開発も行われた。<br />
<br />
[[大正]]時代に池袋と所沢をむすぶ武蔵野鉄道(現在の[[西武鉄道]][[西武池袋線|池袋線]])が開通し、[[保谷駅]]・[[ひばりヶ丘駅]](当時は田無町駅)が開業した。<br />
<br />
その後は鉄道により東京(市内)の糞尿を肥料とするため運び入れ、収穫した作物(野菜が中心)を出荷する近郊農業が中心となる。<br />
<br />
[[太平洋戦争]]後は都心に近いことから住宅(特に[[団地]])開発がすすみ、(都営の柳沢、公団の東伏見、ひばりが丘)東京のベッドタウンとして発展する。<br />
<br />
* [[1868年]](明治元年) - [[武蔵国]][[新座郡|新倉郡]]広沢庄野方領から[[品川県]]となる。<br />
* [[1872年]](明治5年) - [[入間県]]に移る。<br />
* [[1873年]](明治6年) - [[熊谷県]]に移る。<br />
* [[1876年]](明治9年) - [[埼玉県]]に移る。<br />
* [[1886年]](明治19年) - [[上保谷村|上保谷]]、[[下保谷村|下保谷]]、[[上保谷新田村|上保谷新田]]、[[小榑村|小榑]](こぐれ)、[[橋戸村|橋戸]]の5村で保谷連合村となる。<br />
* [[1889年]](明治22年)[[4月1日]] - 町村制施行に伴い、上保谷、下保谷、上保谷新田の3か村が合併し、埼玉県[[新座郡]]'''保谷村'''となる。<br />
* [[1896年]](明治29年)[[3月29日]] - 新座郡が[[北足立郡]]へ編入される。<br />
* [[1907年]](明治40年)4月1日 - 埼玉県北足立郡より[[東京府]][[北多摩郡]]に移る<ref>東京府北多摩郡埼玉県北足立郡境界変更法律(明治40年法律第8号)「埼玉県北足立郡保谷村ヲ東京府北多摩郡ニ編入ス」『官報』明治40年3月18日号に掲載</ref>。<br />
* [[1915年]](大正4年)[[4月15日]] - 武蔵野鉄道武蔵野線(現[[西武池袋線]])開通。[[保谷駅]]開業。<br />
* [[1924年]](大正13年)[[6月11日]] - 武蔵野線田無町駅(現[[ひばりヶ丘駅]])が開業する。<br />
* [[1927年]](昭和2年)4月19日 - 西武鉄道村山線(現[[西武新宿線]])開通。上保谷駅(現[[東伏見駅]])、[[西武柳沢駅]]開業。<br />
* [[1940年]](昭和15年) - 町制施行して'''保谷町'''となる。<br />
* [[1943年]](昭和18年)[[7月1日]] - [[東京都制]]施行により東京都の所属となる。<br />
* [[1967年]](昭和42年) - 市制施行して'''保谷市'''となる。東京で17番目。田無市・[[国立市]]も同日付である。<br />
* [[2001年]](平成13年)[[1月21日]] - [[田無市]]と合併し'''[[西東京市]]'''となる(21世紀最初の合併による市制施行)。<br />
<br />
== 市内に存在した駅 ==<br />
* [[西武池袋線]]<br />
** [[保谷駅]]<br />
** [[ひばりヶ丘駅]](旧:田無町駅)<br />
* [[西武新宿線]]<br />
** [[東伏見駅]](旧:上保谷駅)<br />
** [[西武柳沢駅]]<br />
<br />
== コミュニティバス ==<br />
{{main|はなバス}}<br />
* 保谷市[[コミュニティバス]]「キャンバス (Can Bus) 」<br />
1996年(平成8年)運行開始<ref>{{PDFlink|[http://www.city.nishitokyo.lg.jp/siseizyoho/tokei/toukeisyo/H29toukeinishitokyou.files/furoku_29.pdf 平成29年版 統計にしとうきょう 付録:年表]}} 西東京市公式サイト</ref>。[[西武バス上石神井営業所]]に運行を委託し、専用車として新車([[日野・リエッセ]]2台、[[車椅子]]用リフト無し)を導入。<br />
<br />
2001年の合併にともない、翌2002年3月に西東京市「[[はなバス]]」として運行開始し、専用車両も引き継がれた。詳細は、はなバスの項を参照。<br />
<br />
== 姉妹都市・提携都市 ==<br />
* [[下郷町]]([[福島県]][[南会津郡]])<br />
*: [[1980年]](昭和55年)[[4月29日]]、[[姉妹都市]]提携。<br />
<br />
== 脚注 ==<br />
{{Reflist}}<br />
<br />
== 関連項目 ==<br />
* [[西東京市]]<br />
* [[田無市]]<br />
* [[東京都の廃止市町村一覧]]<br />
* [[日本の廃止市町村一覧]]<br />
<br />
== 外部リンク ==<br />
* [http://www.city.nishitokyo.lg.jp/siseizyoho/syokai/ayumi/nenpyo_hoya.html 年表(保谷版)] - 西東京市公式サイト<br />
* [http://www.city.nishitokyo.lg.jp/siseizyoho/syokai/ayumi/nenpyo_tanasi.html 年表(田無版)] - 西東京市公式サイト<br />
* {{PDFlink|[https://www.city.nishitokyo.lg.jp/siseizyoho/syokai/ayumi/gappei_ayumi.files/00gappei_ayumi.pdf 西東京市合併10年のあゆみ 田無市・保谷市合併の記録]}} - 西東京市公式サイト<br />
<br />
{{東京府の自治体}}<br />
<br />
{{DEFAULTSORT:ほうやし}}<br />
[[Category:新座郡]]<!--保谷村のカテゴリ--><br />
[[Category:北足立郡]]<!--保谷村のカテゴリ--><br />
[[Category:北多摩郡]]<!--保谷村・保谷町のカテゴリ--><br />
[[Category:西東京市域の廃止市町村]]<br />
[[Category:1967年に成立した行政区画]]<br />
[[Category:2001年に廃止された行政区画]]</div>
114.161.14.158
田無市
2018-08-08T10:51:12Z
<p>114.161.14.158: </p>
<hr />
<div>{{日本の市 (廃止)<br />
|廃止日=2001年1月21日<br />
|廃止理由=新設合併<br />
|廃止詳細='''田無市'''・[[保谷市]] → [[西東京市]]<br />
|現在の自治体=[[西東京市]]<br />
|画像=[[ファイル:Tanashi jinja3.JPG|250px]]<br />
|画像の説明=[[田無神社]]<br />
|市旗 = [[ファイル:Flag of Tanashi Tokyo.svg|100px]]<br />
|市旗の説明 = 田無[[市町村旗|市旗]]<br />
|市章 = [[ファイル:Emblem of Tanashi, Tokyo.svg|75px]]<br />
|市章の説明 = 田無[[市町村章|市章]]<div style="font-size:smaller">[[1967年]][[1月1日]]制定<br />
|よみがな=たなしし<br />
|自治体名=田無市<br />
|都道府県=東京都<br />
|支庁=<br />
|コード=13216-1<br />
|面積=6.80<br />
|境界未定=<br />
|人口=78,165<br />
|人口の時点=2000年国勢調査<br />
|隣接自治体=[[保谷市]]、[[武蔵野市]]、[[小金井市]]、<br />[[小平市]]、[[東久留米市]]<br />
|木=[[ケヤキ|けやき]]、[[はくうんぼく]]<br />
|花=[[タナシツツジ]]<br />
|シンボル名=他のシンボル<br />
|鳥など=-<br />
|郵便番号=188-8666<br />
|所在地=田無市南町五丁目6番13号<br />
|電話番号=0424-64-1311<br />
|外部リンク=<br />
|経度=<br />
|緯度=<br />
|位置画像=<br />
|特記事項=}}<br />
'''田無市'''(たなしし)は、かつて[[東京都]]に存在した[[市]]である。<br />
<br />
東京都[[東京都区部|特別区部]]への通勤率は44.7%(平成12年国勢調査)。[[2001年]]([[平成]]13年)[[1月21日]]に[[保谷市]]と[[日本の市町村の廃置分合|合併]]([[日本の市町村の廃置分合#合併と分割の種類|新設合併]])して、'''[[西東京市]]'''となった。<br />
<br />
全国でも[[埼玉県]][[蕨市]]、埼玉県[[鳩ヶ谷市]](2011年に[[川口市]]に合併して同市に復帰)、[[東京都]][[狛江市]]についで4番目に小さい市であった。<br />
<br />
== 地名の由来 ==<br />
田無の地名は、[[1559年]]([[永禄]]2年)の[[後北条氏|後北条]]家の文書にあるのが最も古く、江戸時代以前より集落が形成されていたことが分かる。そのため地名の由来は定かではなく、いくつかの説がある。<br />
# '''田んぼが無い'''ため田無となった説<br />
# '''棚瀬'''が変化し「たなし」となり、田無の字があてられた説<br />
# '''田成'''が田無に変化した説<br />
# '''種なし'''が田無となった説。田無では税の取立てが厳しく、種(種[[籾]])までとられてしまうため、周囲の村から'''種なしの村'''と呼ばれたと言う説。<br />
1の説では、[[畑作]]が中心だった現在の多摩地域ではどこでも[[田]]は無い([[陸稲]]が中心)こと、2と3の説では、途中で意味は正反対に変わっていること。4の説も田無の集落が近隣より比較して早くに成立していることなどから、決め手となる説がない。<br />
<br />
== 歴史 ==<br />
[[青梅街道]]と[[所沢街道]]が交差する交通の要所であり、青梅街道の[[宿場町]]として[[江戸時代]]より栄えた。<br />
<br />
宿場町として陸運により発展していたため鉄道の誘致に積極的ではなく、[[甲武鉄道]](現在のJR[[中央本線]])の開業によりその地位を失う。その後は[[西武鉄道]][[西武新宿線|新宿線]]の開通などで東京の市街地となり、[[昭和]]10年代から、大日本時計([[シチズン時計]])、[[中島飛行機|中島航空金属]]、豊和工業([[石川島播磨重工業]])などの工場が設立された。太平洋戦争後は一部工場は閉鎖されたが、東京都心の[[ベッドタウン]]としての発展を続けた。<br />
<br />
江戸時代より商業的に発展していたことから、周辺の地区が複数の村を統合して明治以降、村を形成したのに対して、田無は江戸から同じ市域で明治以降の田無村となった。全国の市で、複数の[[大字]](に相当する区域)を持たない唯一の市であった。そのため[[明治]]20年代より幾度となく近隣市町村との合併の検討がされたが、[[2001年]](平成13年)に隣接する保谷市との合併を果たした。<br />
<br />
* [[1868年]]([[明治]]元年) - 明治維新によりそれまでの[[代官]]支配から[[韮山県]]となる。<br />
* [[1869年]](明治2年) - [[品川県]]となる。<br />
* [[1871年]](明治4年) - [[入間県]]となる。<br />
* [[1872年]](明治5年)5月 - [[神奈川県]]となる。<br />
* [[1873年]](明治6年)[[5月13日]] - 区番組制により第11区4番組に編入される。<br />
* [[1876年]](明治9年)4月 - [[大区小区制]]により神奈川県第11大区5小区に編入される。<br />
* [[1878年]](明治11年)[[7月22日]] - [[北多摩郡]]に編入される。<br />
* [[1879年]](明治12年)[[5月7日]] - 町制施行([[郡区町村編制法]]下)し田無町となる。<br />
* [[1889年]](明治22年)[[4月1日]] - [[町村制]]施行に伴い、'''田無町'''が発足。また、飛地が久留米村の大字田無となる(現在の[[東久留米市]]下里の一部)。<br />
* [[1893年]](明治26年) - 北多摩郡が[[東京府]]へ移管され、東京府北多摩郡の所属となる。<br />
* [[1927年]]([[昭和]]2年) - [[西武鉄道#西武鉄道(旧)|西武鉄道]]開通、[[田無駅]]開業。<br />
* [[1943年]](昭和18年)[[7月1日]] - [[東京都制]]施行により東京都の所属となる。<br />
* [[1967年]](昭和42年) - [[市制]]施行。'''田無市'''となる(東京で16番目/全国で563番目)。保谷市・[[国立市]]も同日付である。<br />
* [[2001年]]([[平成]]13年)[[1月21日]] - 保谷市と合併し、'''西東京市'''が発足。同日田無市消滅。<br />
<br />
== 市内に存在した駅 ==<br />
* [[西武新宿線]]<br />
** [[田無駅]]<br />
<br />
== 姉妹都市・提携都市 ==<br />
* [[須玉町]]([[山梨県]][[北巨摩郡]])<br />
** [[1999年]][[2月4日]]、[[姉妹都市]]提携。<br />
<br />
== 関連項目 ==<br />
* [[西東京市]]<br />
* [[保谷市]]<br />
* [[東京都の廃止市町村一覧]]<br />
* [[日本の廃止市町村一覧]]<br />
<br />
== 外部リンク ==<br />
* [http://www.city.nishitokyo.lg.jp/siseizyoho/syokai/ayumi/nenpyo_tanasi.html 年表(田無版)] - 西東京市公式サイト<br />
* [http://www.city.nishitokyo.lg.jp/siseizyoho/syokai/ayumi/nenpyo_hoya.html 年表(保谷版)] - 西東京市公式サイト<br />
* {{PDFlink|[https://www.city.nishitokyo.lg.jp/siseizyoho/syokai/ayumi/gappei_ayumi.files/00gappei_ayumi.pdf 西東京市合併10年のあゆみ 田無市・保谷市合併の記録]}} - 西東京市公式サイト<br />
{{東京府の自治体}}<br />
<br />
{{デフォルトソート:たなしし}}<br />
[[Category:北多摩郡]]<br />
[[Category:西東京市域の廃止市町村]]<br />
[[Category:1967年に成立した行政区画]]<br />
[[Category:2001年に廃止された行政区画]]</div>
114.161.14.158
五日市町 (東京都)
2018-08-08T10:45:19Z
<p>114.161.14.158: </p>
<hr />
<div>{{日本の町村 (廃止)<br />
|廃止日 = 1995年9月1日<br />
|廃止理由 = 新設合併<br />
|廃止詳細 = [[秋川市]]・[[西多摩郡]]'''五日市町''' → '''[[あきる野市]]'''<br />
|現在の自治体 = [[あきる野市]]<br />
|旗 = [[ファイル:Flag of Itsukaichi, Tokyo.svg|center|100px]]<br />
|旗の説明 = 五日市[[市町村旗|町旗]]<br />
|紋章 = [[ファイル:Emblem of Itsukaichi, Tokyo.svg|center|80px]]<br />
|紋章の説明 = 五日市[[市町村章|町章]]<div style="font-size:smaller">[[1965年]][[4月]]制定<br />
|自治体名 = 五日市町<br />
|よみがな = いつかいちまち<br />
|区分 = 町<br />
|都道府県 = 東京都<br />
|支庁 =<br />
|郡 = [[西多摩郡]]<br />
|コード = 13306-1<br />
|面積 = 50.90<br />
|境界未定 =<br />
|人口 = 22,252<br />
|人口の時点 = 1995年9月1日<br />
|隣接自治体 = [[秋川市]]、[[八王子市]]、[[青梅市]]<br />[[西多摩郡]][[日の出町]]、[[奥多摩町]]、[[檜原村]]<br />
|木 = [[ヒノキ]]<br />
|花 = [[ウメ]]<br />
|シンボル名 = 町の鳥<br />
|鳥など = [[セキレイ]]<br />
|郵便番号 = 190-01<br />
|所在地 = 西多摩郡五日市町五日市411<br />[[File:Itsukaichi Tokyo map.png|250px]]<br />
|外部リンク = 未開設<br />
|経度 =<br />
|緯度 =<br />
|位置画像 =<br />
|特記事項 =}}<br />
'''五日市町'''(いつかいちまち)は[[東京都]]の西部、[[西多摩郡]]に属していた[[町]]。<br />
<br />
== 概要 ==<br />
* [[東京都]]の[[西多摩郡]]の約56km西側に位置していており、[[秋川 (東京都)|秋川]]の流域沿いに開けた山間部の町である。<ref name="NHK p961">NHKふるさとデータブック p961</ref><ref name="五日市 1995 p43"/><br />
<br />
== 地理 ==<br />
* 河川:[[秋川 (東京都)|秋川]]<br />
<br />
=== 気候・降水量 ===<br />
* 平均気温が11.2℃であり、[[東京都]]内では低い方に値し、降水量も都内の全自治体の平均以上である。<ref name="五日市 1995 p43">五日市 風の催事記 p43</ref><br />
<br />
=== 隣接していた自治体 ===<br />
* [[秋川市]]<br />
* [[八王子市]]<br />
* [[青梅市]]<br />
* [[西多摩郡]][[日の出町]]<br />
** [[奥多摩町]]<br />
** [[檜原村]]<br />
<br />
== 行政 ==<br />
=== 町木・町花・町鳥 ===<br />
* 町木 - [[ヒノキ]]<br />
* 町花 - [[ウメ]]<br />
* 町鳥 - [[セキレイ]]<br />
<br />
=== 紋章 ===<br />
* 「五」を円形にし、象徴して円は和を表したものを[[1965年]][[10月]]に制定される。<ref name="NHK p961"/><ref name="五日市 1995 p19">五日市 風の催事記 p19</ref><br />
<br />
== 歴史 ==<br />
古くは[[木炭]]産業で栄えた町だった。[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]末期に檜原の木炭を[[農家]]が軒先で売り出したのが木炭市場の始まり。だが、[[昭和]]の頃にはすっかり木炭産業は衰退してしまった<ref>2011年8月7日の[[東京新聞]]30面より。</ref>。<br />
* [[1889年]]([[明治]]22年)[[4月1日]] - [[町村制]]施行により、[[神奈川県]][[西多摩郡]]五日市町、小中野村が合併し西多摩郡'''五日市町'''が成立。<br />
* [[1893年]](明治26年)4月1日 - 西多摩郡が[[南多摩郡]]、[[北多摩郡]]と共に[[東京府]]へ編入。<br />
* [[1918年]]([[大正]]7年)[[12月1日]] - [[三ッ里村]]、[[明治村 (東京府)|明治村]]と合併し'''五日市町'''を新設。<br />
* [[1925年]](大正14年)[[4月21日]] - [[五日市鉄道]](現在の[[五日市線]])が開業。<br />
* [[1943年]]([[昭和]]18年)[[7月1日]] [[東京都制|都制]]施行により、東京府、[[東京市]]が統合し[[東京都]]を新設。<br />
* [[1955年]](昭和30年)4月1日 - [[増戸村]]、[[戸倉村 (東京都)|戸倉村]]、[[小宮村]]が合併。<br />
* [[1965年]](昭和40年)[[10月]] - 町章を制定する。<ref name="NHK p961"/><ref name="五日市 1995 p19"/><br />
* [[1995年]]([[平成]]7年)[[9月1日]] - [[秋川市]]と合併、'''[[あきる野市]]'''新設に伴い廃止。<br />
<br />
=== 行政区域変遷 ===<br />
* '''変遷の年表'''<br />
{| class="wikitable navbox collapsible collapsed" style="font-size:x-small"<br />
|-<br />
! colspan="3" style="font-size:small" | 五日市町町域の変遷(年表)<br />
|-<br />
! 年<br />
! 月日<br />
! 旧五日市町町域に関連する行政区域変遷<br />
|-<br />
| [[1889年]](明治22年)<br />
| [[4月1日]]<br />
| style="text-align:left" | [[町村制]]施行により、以下の村が発足。<ref>角川日本地名大辞典編纂委員会『[[角川日本地名大辞典]] 13 東京都』、[[角川書店]]、1978年、ISBN 4040011309より</ref><ref>日本加除出版株式会社編集部『全国市町村名変遷総覧』、[[日本加除出版]]、2006年、ISBN 4817813180より</ref><br />
* '''五日市町''' ← 五日市町・小中野村<br />
* '''[[明治村 (東京府)|明治村]]''' ← 館谷村・入野村・深沢村と五日市町の一部<br />
* '''[[三ッ里村]]''' ← 高尾村・留原村・小和田村<br />
* '''[[増戸村]]''' ← 山田村・伊奈村・網代村・横沢村・三内村<br />
* '''[[戸倉村 (東京都)|戸倉村]]''' ← 戸倉村と乙津村の一部<br />
* '''[[小宮村]]''' ← 乙津村・養沢村<br />
|-<br />
| [[1893年]](明治26年)<br />
| 4月1日<br />
| style="text-align:left" | 西多摩郡は[[南多摩郡]]・[[北多摩郡]]とともに[[東京府]]へ編入。<br />
|-<br />
| [[1918年]](大正7年)<br />
| [[12月1日]]<br />
| style="text-align:left" | 五日市町・明治村・三ッ里村が合併し'''五日市町'''が発足。<br />
|-<br />
| [[1943年]](昭和18年)<br />
| [[7月1日]]<br />
| style="text-align:left" | [[東京都制|都制]]施行により、東京府、[[東京市]]が合併し[[東京都]]が発足。<br />
|-<br />
| [[1955年]](昭和30年)<br />
| 4月1日<br />
| style="text-align:left" | 五日市町・増戸村・小宮村・戸倉村とともに合併し、'''五日市町'''が発足。<br />
|-<br />
| [[1995年]](平成7年)<br />
| [[9月1日]]<br />
| style="text-align:left" | 五日市町は[[秋川市]]と合併し'''[[あきる野市]]'''が発足。五日市町は消滅。<br />
|}<br />
<br />
* '''変遷表'''<br />
{| class="wikitable navbox collapsible collapsed" style="font-size:x-small"<br />
|-<br />
! colspan="8" style="font-size:small" | 五日市町町域の変遷表<br />
|-<br />
! colspan="2" | 1868年<br />以前<br />
! 明治元年 - 明治22年<br />
! 明治22年<br />4月1日<br />
! 明治22年 - 昭和19年<br />
! 昭和20年 - 昭和64年 <br />
! 平成元年 - 現在<br />
! 現在<br />
|-<br />
| bgcolor="#99CCFF" |<br />
| bgcolor="#99CCFF" colspan="2" | 小中野村<br />
| bgcolor="#66FFFF" rowspan="2" | ''五日市町''<br />
| bgcolor="#66FFFF" rowspan="9" | 大正7年12月1日<br />''五日市町''<br />
| bgcolor="#66FFFF" rowspan="18" | 昭和30年4月1日<br />'''五日市町'''<br />
| rowspan="18" | 平成7年9月1日<br />あきる野市<br />
| rowspan="18" | [[あきる野市]]<br />
|-<br />
| bgcolor="#99CCFF" | &nbsp;<br />
| bgcolor="#99CCFF" rowspan="2" | 五日市村<br />
| bgcolor="#66FFFF" rowspan="2" | 明治12年<br />五日市町<br />
|-<br />
| bgcolor="#99CCFF" | &nbsp;<br />
| bgcolor="#99CCFF" rowspan="4" | ''[[明治村 (東京府)|明治村]]''<br />
|-<br />
| bgcolor="#99CCFF" |<br />
| bgcolor="#99CCFF" colspan="2" | 館谷村<br />
|-<br />
| bgcolor="#99CCFF" |<br />
| bgcolor="#99CCFF" colspan="2" | 入野村<br />
|-<br />
| bgcolor="#99CCFF" |<br />
| bgcolor="#99CCFF" colspan="2" | 深沢村<br />
|-<br />
| bgcolor="#99CCFF" |<br />
| bgcolor="#99CCFF" colspan="2" | 高尾村<br />
| bgcolor="#99CCFF" rowspan="3" | ''[[三ッ里村]]''<br />
|-<br />
| bgcolor="#99CCFF" |<br />
| bgcolor="#99CCFF" colspan="2" | 留原村<br />
|-<br />
| bgcolor="#99CCFF" |<br />
| bgcolor="#99CCFF" colspan="2" | 小和田村<br />
|-<br />
| bgcolor="#99CCFF" |<br />
| bgcolor="#99CCFF" colspan="2" | 山田村<br />
| bgcolor="#99CCFF" rowspan="5" | ''増戸村''<br />
| bgcolor="#99CCFF" rowspan="5" | ''[[増戸村]]''<br />
|-<br />
| bgcolor="#99CCFF" |<br />
| bgcolor="#99CCFF" colspan="2" | 伊奈村<br />
|-<br />
| bgcolor="#99CCFF" |<br />
| bgcolor="#99CCFF" colspan="2" | 網代村<br />
|-<br />
| bgcolor="#99CCFF" |<br />
| bgcolor="#99CCFF" colspan="2" | 横沢村<br />
|-<br />
| bgcolor="#99CCFF" |<br />
| bgcolor="#99CCFF" colspan="2" | 三内村<br />
|-<br />
| bgcolor="#99CCFF" |<br />
| bgcolor="#99CCFF" colspan="2" | 戸倉村<br />
| bgcolor="#99CCFF" rowspan="2" | ''戸倉村''<br />
| bgcolor="#99CCFF" rowspan="2" | ''[[戸倉村 (東京都)|戸倉村]]''<br />
|-<br />
| bgcolor="#99CCFF" | &nbsp;<br />
| bgcolor="#99CCFF" rowspan="2" colspan="2" | 乙津村<br />
|-<br />
| bgcolor="#99CCFF" | &nbsp;<br />
| bgcolor="#99CCFF" rowspan="2" | ''小宮村''<br />
| bgcolor="#99CCFF" rowspan="2" | ''[[小宮村]]''<br />
|-<br />
| bgcolor="#99CCFF" |<br />
| bgcolor="#99CCFF" colspan="2" | 養沢村<br />
|}<br />
<br />
== 産業 ==<br />
* [[コンニャク]]栽培が盛んである。<ref name="NHK p961"/><br />
<br />
== 交通 ==<br />
=== 鉄道 ===<br />
* [[東日本旅客鉄道]]<br />
** {{Color|#f15a22|■}}[[五日市線]]<br />
*** [[武蔵増戸駅]] - [[武蔵五日市駅]]<br />
<br />
=== 道路 ===<br />
* '''[[主要地方道]]'''<br />
** [[東京都道7号杉並あきる野線]]<br />
** [[東京都道31号青梅あきる野線]]<br />
** [[東京都道32号八王子五日市線]]<br />
** [[山梨県道・東京都道33号上野原あきる野線|東京都道33号上野原あきる野線]]<br />
** [[東京都道61号山田宮の前線]]<br />
* '''[[都道府県道|一般都道]]'''<br />
** [[東京都道165号伊奈福生線]]<br />
** [[東京都道185号山田平井線]]<br />
** [[東京都道201号十里木御嶽停車場線]]<br />
<br />
== 著名人 ==<br />
* [[宮崎勤]] - [[東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件]]加害者<br />
<br />
== 参考文献 ==<br />
* {{Cite book|和書|author=株式会社ぎょうせい |date=1995-3|title=五日市 風の催事記|publisher=五日市町役場企画造成課}}<br />
* {{Cite book|和書|author= NHK情報ネットワーク|date=1992-4-1|title=NHKふるさとデータブック3 [関東]|publisher=日本放送協会}}<br />
<br />
== 脚注 ==<br />
{{脚注ヘルプ}}<br />
<references/><br />
<br />
== 関連項目 ==<br />
{{commonscat|Itsukaichi, Tokyo}}<br />
* [[東京都の廃止市町村一覧]]<br />
* [[五日市町]](曖昧さ回避ページ)<br />
* [[五日市憲法]]<br />
* 映画「[[五日市物語]]」(2011年)<br />
{{東京府の自治体}}<br />
{{Japan-area-stub}}<br />
<br />
{{デフォルトソート:いつかいちまち}}<br />
[[Category:西多摩郡]]<br />
[[Category:あきる野市域の廃止市町村]]<br />
[[Category:1889年に成立した行政区画]]<br />
[[Category:1918年に成立した行政区画]]<br />
[[Category:1995年に廃止された行政区画]]</div>
114.161.14.158
四谷区
2018-08-08T10:18:53Z
<p>114.161.14.158: </p>
<hr />
<div>{{日本の市 (廃止)<br />
|廃止日=[[1947年]][[3月15日]]<br />
|廃止理由=新設合併<br />
|廃止詳細=[[淀橋区]]、'''四谷区'''、[[牛込区]] → '''新宿区'''<br />
|現在の自治体=[[新宿区]]<br />
|自治体名=四谷区<br />
|区分=区<br />
|都道府県=東京都<br />
|支庁=<br />
|郡=<br />
|コード=<br />
|面積=2.85<!--1933年時点--><br />
|境界未定=<br />
|人口=11,245<br />
|人口の時点=1945年10月1日<br />
|人口の出典=国勢調査人口<br />
|隣接自治体=牛込区、[[麹町区]]、[[赤坂区]]、<br />[[渋谷区]]、淀橋区<br />
|木=<br />
|花=<br />
|シンボル名=その他のシンボル<br />
|鳥など=<br />
|郵便番号=<br />
|所在地=四谷区内藤町1番地<br />
|電話番号=<br />
|外部リンク=<br />
|経度=<br />
|緯度=<br />
|座標={{ウィキ座標2段度分秒|35|41|15|N|139|42|52|E|}}<br />
|位置画像=<br />
|特記事項=<br />
}}<br />
<br />
'''四谷区'''(よつやく)は、かつて[[東京都]]にあった区。<br />
<br />
== 歴史 ==<br />
{{See also|四谷}}<br />
* [[1878年]]([[明治]]11年)[[11月2日]] - [[郡区町村編制法]]により、以下の区域をもって[[東京府]]'''四谷区'''が発足。<br />
{{四谷区の発足時の町名}}<br />
* [[1879年]](明治12年)<br />
** 4月 - [[牛込区]]市ヶ谷七軒町(現四谷本塩町の一部)を編入。四谷七軒町に改称。<br />
** [[4月22日]] - 千駄ヶ谷西信濃町、千駄ヶ谷甲賀町、千駄ヶ谷大番町、千駄ヶ谷一丁目、千駄ヶ谷二丁目、千駄ヶ谷三丁目、千駄ヶ谷仲町二丁目、千駄ヶ谷仲町一丁目、を[[南豊島郡]][[千駄ヶ谷町|千駄ヶ谷村]]に編入。<br />
* [[1880年]](明治13年)[[9月27日]] - [[麹町区]]麹町十一丁目、十二丁目、十三丁目(現四谷)、牛込区[[市谷本村町|市ヶ谷本村町]]の一部(現四谷本塩町)、市ヶ谷片町(現[[片町 (新宿区)|片町]]、ごく一部は荒木町)を編入。市ヶ谷本村町、市ヶ谷片町をそれぞれ本村町、四谷片町に改称。<br />
* [[1889年]](明治22年)[[5月1日]] - [[市制]]、[[町村制]]の施行に伴う[[東京市]]の設置により、以下の再編が行われた。<br />
** [[南豊島郡]]の以下の3町村の各一部を編入(カッコ内は残部の編入先)。<br />
*** 千駄ヶ谷村([[千駄ヶ谷町|千駄ヶ谷村]]) - 1879年に分離した地域のうち、字西信濃町(もと千駄ヶ谷西信濃町)、火薬庫前、霞岳、川向(元千駄ヶ谷一丁目)、甲賀町(元千駄ヶ谷甲賀町)、池尻、大番町(元千駄ヶ谷大番町)の7字。<br />
* [[1891年]](明治24年)編入された旧千駄ヶ谷村域に以下の町丁を設置。一部は四谷永住町に編入。<br />
** 四谷西信濃町(字西信濃町・火薬庫前。現:信濃町)<br />
** 四谷霞岳町(字霞岳・川向・甲賀町。現:[[霞ヶ丘町]])<br />
** 四谷大番町(字大番町・池尻。現:[[大京町]])- 既存の町丁に編入。<br />
* 1891年(明治24年)[[3月18日]] - [[豊多摩郡]][[内藤新宿町]]の一部を四谷永住町、内藤町に編入。<br />
* [[1894年]](明治27年)[[10月9日]] - [[甲武鉄道]][[四ツ谷駅]]および[[信濃町駅]]開業。<br />
* [[1903年]](明治36年)12月 - 東京市街鉄道(後の[[東京都電車]])が新宿駅に乗り入れ。<br />
* [[1911年]](明治44年) - 町名の「四谷」の冠称を廃止。鮫河橋谷町、元鮫河橋町、元鮫河橋南町を、それぞれ谷町、元町、南町に改称。<br />
* [[1915年]]([[大正]]4年)[[5月30日]] - 京王電気軌道(現在の[[京王線]])[[京王線の新宿駅付近の廃駅#京王新宿駅|新宿追分駅]](新宿三丁目)が開業。<br />
* [[1920年]](大正9年)[[4月1日]] - 豊多摩郡内藤新宿町を編入。以下の町丁を設置。<br />
** 新宿一丁目(大字内藤新宿一丁目、大字内藤新宿北裏町)<br />
** 新宿二丁目(大字内藤新宿二丁目、大字内藤新宿一丁目、大字内藤新宿北町)<br />
** 新宿三丁目(大字内藤新宿三丁目、大字内藤新宿添地町)<br />
** 三光町、花園町(大字内藤新宿北裏町)<br />
** 番衆町(大字内藤新宿番衆町、大字内藤新宿北裏町)<br />
** 旭町(大字内藤新宿南町)<br />
* [[1927年]]([[昭和]]2年)[[10月28日]] - 新宿追分駅が、京王新宿ビルディング1階に移転。<br />
* [[1930年]](昭和5年)[[3月6日]] - 新宿追分駅は、四谷新宿駅に改称。<br />
* [[1937年]](昭和12年)[[5月1日]] - 四谷新宿駅は、京王新宿駅に改称。 <br />
* [[1943年]](昭和18年)<br />
** [[7月1日]] - [[東京都制]]施行により[[東京都]]四谷区となる。<br />
** 旧内藤新宿町の区域を除く全域で町名整理が行われ、町名をおおむね現行のものに変更。<br />
* [[1945年]](昭和20年)<br />
**[[4月13日]]~[[4月14日]] - [[東京大空襲#4月|城北大空襲]]を受ける<br />
**[[7月24日]] - 京王新宿駅が廃止される。<br />
* [[1947年]](昭和22年)[[3月15日]] - [[淀橋区]]および[[牛込区]]と合併し、東京都'''[[新宿区]]'''となる。<br />
<br />
== 交通 ==<br />
=== 鉄道路線 ===<br />
* [[日本国有鉄道|国鉄]](現[[東日本旅客鉄道|JR東日本]])<br />
** [[中央本線]]<br />
*** [[四ツ谷駅]] - [[信濃町駅]] - [[千駄ケ谷駅]]<br />
* [[京王電鉄#歴史|京王電気軌道]](→[[大東急|東京急行電鉄(大東急)]]→京王帝都電鉄、現[[京王電鉄]])<br />
** [[京王線]]<br />
*** 新宿追分駅(→四谷新宿駅→京王新宿駅、その後廃駅)<br>(現行の京王線[[新宿駅#京王電鉄(京王線)|新宿駅]]、[[新線新宿駅]]とは異なる。[[京王線の新宿駅付近の廃駅]]も参照。)<br />
<br />
[[東京地下鉄|東京メトロ]][[東京メトロ丸ノ内線|丸ノ内線]]、[[東京メトロ南北線|南北線]]は未開通。また[[北参道駅]]([[東京メトロ副都心線|副都心線]])、[[新宿三丁目駅]](丸ノ内線、副都心線、[[都営地下鉄]][[都営地下鉄新宿線|新宿線]])、[[新宿御苑前駅]]、[[四谷三丁目駅]](丸ノ内線)、[[国立競技場駅]]([[都営地下鉄大江戸線|都営大江戸線]])は開業していなかった。<br />
<br />
== 著名な出身者 ==<br />
''現新宿区の著名な出身者については[[新宿区]]を参照''<br />
* [[神島二郎]] - [[政治学者]]<br />
* [[桃裕行]] - [[歴史学者]]<br />
* [[園池実覧]] - 応用[[物理学者]]<br />
* [[児島喜久雄]] - [[画家]]、[[美学]]、[[美術史]]の研究者<br />
* [[市川清志]] - [[都市計画家]]、[[教育者]]、[[工学博士]]<br />
* [[北村銀太郎]] - 興行主、[[建築家]]<br />
* [[平岡千之]] - 外交官、小説家・三島由紀夫の実弟<br />
* [[平岡美津子]] - 小説家・三島由紀夫の実妹<br />
* [[植松寿樹]] - [[歌人]]<br />
* [[横井弘]] - [[作詞家]]<br />
* [[宗武志]] - [[英語学者]]、[[詩人]]<br />
* [[岸田國士]] - [[劇作家]]、[[小説家]]、[[評論家]]、[[翻訳家]]、[[演出家]]<br />
* [[梅田晴夫]] - [[フランス文学者]]、劇作家、小説家、[[随筆家]]<br />
* [[三島由紀夫]] - 小説家<br />
* [[中島敦]] - 小説家<br />
* [[犬養道子]] - 評論家<br />
* [[森谷司郎]] - 映画監督<br />
* [[ペギー葉山]] - [[歌手]]<br />
* [[平井英子]] - 歌手<br />
* [[東千代之介]] - [[俳優]]<br />
* [[渥美国泰]] - 俳優<br />
* [[市川松蔦 (2代目)|市川松蔦]] - [[歌舞伎俳優]]<br />
* [[伊藤牧子]] - [[俳優|女優]]、[[声優]]<br />
* [[入江たか子]] - 女優<br />
* [[桂木洋子]] - 女優<br />
* [[玉川伊佐男]] - 俳優<br />
* [[富田仲次郎]] - 俳優<br />
* [[中原早苗]] - 女優<br />
* [[船越英二]] - 俳優<br />
* [[光川京子]] - 女優<br />
* [[森下彰子]] - 女優<br />
* [[三遊亭圓彌]] - [[落語家]]<br />
* [[金原亭馬の助|初代 金原亭馬の助]] - 落語家<br />
* [[塩田剛三]] - [[武道家]]<br />
* [[柴田鐵雄]] - [[剣道家]]<br />
* [[安倍晋太郎]] - [[政治家]]、[[安倍晋三]]の実父<br />
* [[尾崎中和]] - [[陸軍軍人]]<br />
<br />
== 外部リンク ==<br />
* [http://www.ndl.go.jp/scenery/map/map_o/yotsuya-ku/index.html 四谷区の写真一覧] - [[国立国会図書館]]<br />
<br />
== 関連項目 ==<br />
* [[東京都の廃止市町村一覧]]<br />
* [[新宿区]]<br />
* [[四谷]]<br />
<br />
{{Geographic Location<br />
|Centre =四谷区<br />
|North =[[牛込区]]<br />
|Northeast =<br />
|East =[[麹町区]]<br />
|Southeast =[[赤坂区]]<br />
|South =<br />
|Southwest =[[渋谷区]]<br />
|West =[[淀橋区]]<br />
|Northwest =<br />
|image =<br />
}}<br />
<br />
{{東京35区}}<br />
<br />
{{デフォルトソート:よつやく}}<br />
[[Category:東京市の区]]<br />
[[Category:新宿区域の廃止市町村]]<br />
[[Category:戦前日本の府県の区]]<br />
[[Category:1878年に成立した行政区画]]<br />
[[Category:1947年に廃止された行政区画]]</div>
114.161.14.158
向島区
2018-08-08T10:17:58Z
<p>114.161.14.158: </p>
<hr />
<div>{{日本の市 (廃止)<br />
|廃止日=[[1947年]][[3月15日]]<br />
|廃止理由=新設合併<br />
|廃止詳細=[[本所区]]、'''向島区''' → '''墨田区'''<br />
|現在の自治体=[[墨田区]]<br />
|自治体名=向島区<br />
|区分=区<br />
|都道府県=東京都<br />
|支庁=<br />
|郡=<br />
|コード=<br />
|面積=<br />
|境界未定=なし<br />
|人口=<br />
|人口の時点=<br />
|隣接自治体=本所区、[[浅草区]]、[[荒川区]]、<br />[[足立区]]、[[葛飾区]]、[[江戸川区]]<br />
|木=<br />
|花=<br />
|シンボル名=<br />
|鳥など=<br />
|郵便番号=<br />
|所在地=向島区寺島町<br />
|電話番号=<br />
|外部リンク=<br />
|経度=<br />
|緯度=<br />
|位置画像=<br />
|特記事項=<br />
}}<br />
<br />
'''向島区'''(むこうじまく)とは、[[東京府]][[東京市]]、[[東京都]]にかつて存在した区である。現在の[[墨田区]]の北部に位置していた。<br />
<br />
== 歴史 ==<br />
{{main|向島 (墨田区)}}<br />
<br />
=== 沿革 ===<br />
* [[1932年]](昭和7年)[[10月1日]] - [[南葛飾郡]]全域が'''[[東京市]]'''に編入。[[寺島町]]、[[隅田町]]、[[吾嬬町]]の区域に'''向島区'''を設置。<br />
** 東京市による最初の区名原案は'''「寺島区」'''(てらじまく)だった<ref>なんだこりゃ? 知って驚く東京「境界線」の謎(小林政能 著、[[実業之日本社]] 2016年3月1日 刊)p.120 - 121</ref>。<br />
** なお、東京市の新設時に南葛飾郡から編入され、「向島○○町」を名乗っていた地域は、そのまま本所区に所属した。<br />
* [[1943年]](昭和18年)[[7月1日]] - [[東京都制]]が施行され、東京市と東京府が廃止され、東京都を設置。<br />
* [[1947年]](昭和22年)[[3月15日]] - [[本所区]]と合併して'''[[墨田区]]'''を新設。<br />
<br />
== 交通 ==<br />
=== 鉄道 ===<br />
* [[東武鉄道]]<br />
** [[東武伊勢崎線|伊勢崎線]] : [[請地駅]](廃駅) - [[曳舟駅]] - [[東向島駅|東武鉄道の白鬚駅(廃駅)→玉ノ井駅(現東向島駅)]] - [[鐘ヶ淵駅]]<br />
** [[東武亀戸線|亀戸線]] : 平井街道駅(現[[東あずま駅]]) - [[小村井駅]] - 天神駅(廃駅) - 十間橋通駅(廃駅) - 虎橋通駅(廃駅)<br />
* [[京成電鉄#歴史|京成電気軌道]](現[[京成電鉄]])<br />
** [[京成押上線|押上線]] : [[京成請地駅]](廃駅) - 曳舟駅(現[[京成曳舟駅]]) - [[向島駅 (東京都)|向島駅]](廃駅) - 荒川駅(現[[八広駅]])<br />
** [[京成白鬚線|白鬚線]](廃線) : 向島駅 - [[長浦駅 (東京都)|長浦駅]] - [[東向島駅#京成電気軌道 京成玉ノ井駅|京成玉ノ井駅]] - 京成電気軌道の白鬚駅<br />
* [[東京都電車]]<br />
** 向島線(廃線)<br />
<br />
=== 道路 ===<br />
* [[水戸街道]]<br />
<br />
== 著名な出身者 ==<br />
''現墨田区の著名な出身者については[[墨田区]]を参照''<br/>'''○は旧[[南葛飾郡]]出身'''<br />
*○[[徳川宗敬]] - [[林学者]]、[[大日本帝国陸軍|陸軍]][[軍人]]、[[政治家]]、[[教育者]]、[[神職]]<br />
*○[[清水一行]] - [[小説家]](経済小説を得意とする)<br />
*○[[幸田文]] - 小説家、[[随筆家]]<br />
*○[[胡桃沢耕史]] - 小説家<br />
*○[[半藤一利]] - 小説家、随筆家<br />
*[[荻生待也]] - [[著述家]]<br />
*[[山根成之]] - [[映画監督]]<br />
*○[[遠藤実]] - [[作曲家]]<br />
*○[[三遊亭圓歌 (3代目)|3代目三遊亭圓歌]] - [[落語家]]<br />
*[[木の実ナナ]] - [[俳優|女優]]<br />
*○[[小川宏]] - テレビ司会者、元[[日本放送協会|NHK]]アナウンサー<br />
*○[[出羽錦忠雄]] - 力士、元関脇、引退して年寄「田子の浦」を襲名<br />
<br />
== 脚注 ==<br />
<references/><br />
<br />
== 関連項目 ==<br />
* [[東京都の廃止市町村一覧]]<br />
* [[墨田区]]<br />
* [[向島 (墨田区)]]<br />
<br />
<br />
{{東京35区}}<br />
{{Japan-area-stub}}<br />
{{DEFAULTSORT:むこうしまく}}<br />
[[Category:東京市の区]]<br />
[[Category:墨田区域の廃止市町村]]<br />
[[Category:1932年に成立した行政区画]]<br />
[[Category:1947年に廃止された行政区画]]</div>
114.161.14.158
本所区
2018-08-08T10:17:34Z
<p>114.161.14.158: </p>
<hr />
<div>{{日本の市 (廃止)<br />
|廃止日=[[1947年]][[3月15日]]<br />
|廃止理由=新設合併<br />
|廃止詳細='''本所区'''、[[向島区]] → '''墨田区'''<br />
|現在の自治体=[[墨田区]]<br />
|自治体名=本所区<br />
|区分=区<br />
|都道府県=東京都<br />
|支庁=<br />
|郡=<br />
|コード=<br />
|面積=<br />
|境界未定=なし<br />
|人口=<br />
|人口の時点=<br />
|隣接自治体=向島区、[[浅草区]]、[[日本橋区]]、<br />[[深川区]]、[[城東区 (東京都)|城東区]]<br />
|木=<br />
|花=<br />
|シンボル名=<br />
|鳥など=<br />
|郵便番号=<br />
|所在地=本所区<br />
|電話番号=<br />
|外部リンク=<br />
|経度=<br />
|緯度=<br />
|位置画像=<br />
|特記事項=<br />
}}<br />
<br />
'''本所区'''(ほんじょく)とは、[[東京府]][[東京市]]、[[東京都]]にかつて存在した区である。現在の[[墨田区]]の南部に位置していた。<br />
<br />
== 歴史 ==<br />
{{main|本所 (墨田区)}}<br />
=== 沿革 ===<br />
* [[1878年]](明治11年)[[11月2日]] - [[郡区町村編制法]]により、以下の区域をもって'''本所区'''を設置。<br />
** 本所千歳町、本所松井町一丁目、本所松井町二丁目、本所松井町三丁目(現[[千歳 (墨田区)|千歳]])<br />
** 本所林町一丁目、本所菊川町一丁目(現[[立川 (墨田区)|立川]])<br />
** 本所菊川町二丁目(現[[菊川 (墨田区)|菊川]])<br />
** 本所林町二丁目、本所林町三丁目、本所徳右衛門町(現立川、菊川)<br />
** 本所藤代町、本所元町、本所小泉町、本所松坂町一丁目、本所松坂町二丁目、本所相生町一丁目、本所相生町二丁目、本所相生町三丁目、本所相生町四丁目(現[[両国 (墨田区)|両国]])<br />
** 本所横網町一丁目(現両国、[[横網]])<br />
** 本所横網町二丁目(現横網)<br />
** 本所緑町一丁目、本所緑町二丁目、本所緑町三丁目、本所緑町四丁目、本所緑町五丁目(現[[緑 (墨田区)|緑]]、[[亀沢]])<br />
** 本所相生町五丁目、本所花町、本所入江町(現緑)<br />
** 本所亀沢町一丁目、本所永倉町、本所長崎町(現両国、緑、亀沢)<br />
** 本所南二葉町、本所三笠町(現亀沢)<br />
** 南本所石原町(現横網、[[石原 (墨田区)|石原]])<br />
** 本所北二葉町、本所吉岡町、本所吉田町(現石原)<br />
** 本所亀沢町二丁目、本所長岡町、本所清水町(現亀沢、石原)<br />
** 南本所外手町、本所番場町、本所荒井町、本所北新町、本所横川町(現[[本所 (墨田区)|本所]])<br />
** 本所若宮町(現石原、本所)<br />
** 本所松倉町一丁目、本所松倉町二丁目、本所表町、中ノ郷横川町(現本所、[[東駒形]])<br />
** 中ノ郷竹町、中ノ郷原庭町、小梅業平町(現東駒形、[[吾妻橋 (墨田区)|吾妻橋]])<br />
** 中ノ郷瓦町、中ノ郷元町、中ノ郷八軒町(現吾妻橋)<br />
** 新小梅町(現[[向島 (墨田区)|向島]])<br />
** 小梅瓦町(現向島、[[押上]])<br />
** 本所松代町一丁目、本所松代町二丁目、本所松代町三丁目、本所茅場町一丁目、本所茅場町二丁目、本所茅場町三丁目、本所柳原一丁目、本所柳原二丁目、本所柳原三丁目(現[[江東橋]])<br />
** 本所錦糸町(現江東橋、[[錦糸]])<br />
** 本所大平一丁目、本所大平二丁目、本所花月町、柳島町(現錦糸、[[太平 (墨田区)|太平]])<br />
** 柳島横川町(現太平、[[横川 (墨田区)|横川]])<br />
** 本所亀戸町、本所瓦町、本所五ノ橋町、本所松代町四丁目(現[[江東区]][[亀戸]])<br />
* [[1889年]](明治22年)[[5月1日]] - [[市制]]、[[町村制]]の施行に伴う[[東京市]]の設置により、東京市と[[南葛飾郡]]の境界を[[横十間川]]として、以下の再編が行われた。<br />
** 本所区の横十間川以東の地域(本所亀戸町、本所瓦町、本所五ノ橋町、本所松代町四丁目)が南葛飾郡[[亀戸町|亀戸村]]に編入。<br />
** 南葛飾郡の横十間川以西の地域である以下の8村の各一部を編入(カッコ内は残部の編入先)。<br />
*** 須崎村([[寺島町|寺島村]]、[[大島町 (東京府)|大島村]]、[[大木村]])<br />
*** 北本所出村([[亀戸町|亀戸村]]、大島村)<br />
*** 南本所出村(亀戸村、大島村、[[砂町|砂村]])<br />
*** 押上村(亀戸村)<br />
*** 請地村([[吾嬬町|吾嬬村]]、寺島村、大木村)<br />
*** 中ノ郷村(大木村)<br />
*** 亀戸村([[深川区]]、亀戸村、吾嬬村、大島村)<br />
*** 小梅村(亀戸村、大島村)<br />
*** 柳島村(亀戸村)<br />
*** 深川本村(深川区、大島村)<br />
*** 八右衛門新田(深川区、砂村)<br />
*** 六間堀出村(大島村)<br />
** 編入区域に以下の町丁を設置。<br />
*** 中之郷横川町(現本所、東駒形)<br />
*** 向島小梅町、向島須崎町(現向島)<br />
*** 向島押上町(現押上)<br />
*** 向島中之郷町、向島請地町(現向島、押上)<br />
*** 中之郷業平町、押上町、柳島元町(現業平、横川)<br />
*** 柳島梅森町(現横川、太平)<br />
*[[1923年]](大正12年)[[9月1日]]‐[[関東大震災]]によりほぼ全滅。<br />
* [[1943年]](昭和18年)[[7月1日]] - [[東京都制]]が施行され、東京市と東京府が廃止され、東京都を設置。<br />
* [[1947年]](昭和22年)[[3月15日]] - [[向島区]]と合併して'''[[墨田区]]'''を新設。<br />
<br />
== 交通 ==<br />
=== 鉄道 ===<br />
* [[日本国有鉄道|国鉄]](現[[東日本旅客鉄道|JR東日本]])<br />
** [[総武本線]] : [[両国駅]] - [[錦糸町駅]]<br />
* [[東武鉄道]]<br />
** [[東武伊勢崎線|伊勢崎線]] : [[隅田公園駅]](廃駅) - 業平橋駅(現[[とうきょうスカイツリー駅]])<br />
* [[京成電鉄#歴史|京成電気軌道]](現[[京成電鉄]])<br />
** [[京成押上線|押上線]] : [[押上駅]]<br />
* [[東京都電車]](廃線)<br />
** 業平線、吾妻橋線、厩橋線、石原線、両国橋線、両国駅引込線、江東橋線、小松川線、高橋線、猿江線、新大橋線<br />
<br />
[[東京地下鉄|東京メトロ]][[東京メトロ半蔵門線|半蔵門線]]、[[都営地下鉄]][[都営地下鉄浅草線|浅草線]]、[[都営地下鉄大江戸線|大江戸線]]は未開通。また[[本所吾妻橋駅]](都営浅草線)、[[菊川駅 (東京都)|菊川駅]]([[都営地下鉄新宿線|都営新宿線]])は開業していなかった。<br />
<br />
== 著名な出身者 ==<br />
''現墨田区の著名な出身者については[[墨田区]]を参照''<br />
*[[徳川圀順]] - [[華族]]、[[政治家]]、[[大日本帝国陸軍|陸軍]][[軍人]]<br />
*[[中野次雄]] - [[裁判官]]<br />
*[[正木ひろし]] - [[弁護士]]<br />
*[[大塚幸之助]] - [[実業家]]、[[プロ野球]]球団経営者 <br />
*[[守随憲治]] - 近世[[日本文学]]研究者<br />
*[[高村象平]] - [[慶應義塾]]塾長、[[経済人類学]]研究者、ハンザ史研究者<br />
*[[青山なを]] - 日本女性史研究者<br />
*[[土屋恵一郎]] - [[法哲学|法哲学者]]・[[演劇]][[評論家]]<br />
*[[池田敏雄]] - [[エンジニア]]<br />
*[[小坂秀二]] - [[相撲]][[評論家]]・[[著作家]]、元NHK及び[[TBSテレビ|TBS]]アナウンサー<br />
*[[池田雅雄]] - [[ジャーナリスト]]、相撲評論家 <br />
*[[佐藤忠勇]] - [[水産学者]]、[[的矢かき]]の生みの親<br />
*[[高橋俊夫]] - [[日本文学]]研究者<br />
*[[吉田精一]] - [[国文学者]]<br />
*[[佐藤運雄]] - [[歯学者]]<br />
*[[富田木歩]] - [[俳人]]<br />
*[[京極杞陽]] - 俳人<br />
*[[小高賢]] - [[編集者]]、[[歌人]]<br />
*[[田河水泡]] - [[漫画家]]<br />
*[[舟橋聖一]] - [[小説家]]<br />
*[[高木敏子]] - [[童話]][[作家]]<br />
*[[海老名香葉子]] - [[エッセイスト]]、[[絵本]]作家、作家<br />
*[[豊田正子]] - 随筆家<br />
*[[ワシの良春]] - [[キャラクターデザイナー]]<br />
*[[大久保徳二郎]] - [[作曲家]]、[[編曲家]]、[[映画音楽]]家<br />
*[[玉川勝太郎|初代 玉川勝太郎]] - [[浪曲]]の[[名跡]]<br />
*[[石川冷]] - [[俳優]]<br />
*[[金田龍之介]] - 俳優<br />
*[[いかりや長介]]([[ザ・ドリフターズ]]) - 俳優、[[コメディアン]]<br />
*[[宮口精二]] - 俳優<br />
*[[志摩靖彦]] - [[映画俳優]]<br />
*[[中村錦司]] - 俳優<br />
*[[仁礼功太郎]] - 俳優<br />
*[[高松しげお]] - 俳優、[[声優]]、[[漫談家]]<br />
*[[里見明]] - 俳優<br />
*[[桑山正一]] - 俳優、[[演出家]]<br />
*[[池内淳子]] - [[俳優|女優]]<br />
*[[炎加世子]] - 女優<br />
*[[木下双葉]] - 女優<br />
*[[村瀬幸子]] - 女優<br />
*[[大橋巨泉]] - テレビ司会者<br />
*[[松本英一]] - [[映画監督]]<br />
*[[木藤茂]] - 映画監督、[[脚本家]]、元俳優<br />
*[[田口修治]] - [[撮影技師]]、映画監督、[[映画プロデューサー]]<br />
*[[市川久夫]] - 劇映画プロデューサー・テレビドラマプロデューサー<br />
*[[福島通人]] - 芸能プロデューサー<br />
*[[柳家権太楼 (初代)|初代 柳家権太楼]] - [[落語家]]<br />
*[[三升家小勝 (6代目)|6代目 三升家小勝]] - 落語家<br />
*[[木村義雄]] - [[棋士 (将棋)|棋士]]<br />
*[[王貞治]] - [[日本プロ野球|プロ野球]]選手・監督、墨田区名誉区民<br />
*[[寺尾正・文姉妹]] - [[一卵性双生児]]の[[陸上競技選手]]<br />
*[[伊勢ノ濱慶太郎]] - 元[[大相撲]][[力士]]<br />
<br />
== 関連項目 ==<br />
* [[東京都の廃止市町村一覧]]<br />
* [[墨田区]]<br />
* [[本所 (墨田区)]]<br />
<br />
{{東京35区}}<br />
{{Japan-area-stub}}<br />
{{DEFAULTSORT:ほんしよく}}<br />
[[Category:東京市の区]]<br />
[[Category:墨田区域の廃止市町村]]<br />
[[Category:戦前日本の府県の区]]<br />
[[Category:1878年に成立した行政区画]]<br />
[[Category:1947年に廃止された行政区画]]</div>
114.161.14.158
本郷区
2018-08-08T10:17:08Z
<p>114.161.14.158: </p>
<hr />
<div>{{日本の市 (廃止)<br />
|廃止日=[[1947年]][[3月15日]]<br />
|廃止理由=特別区の設置<br />
|廃止詳細='''本郷区'''、[[小石川区]] → '''文京区'''<br />
|現在の自治体=[[文京区]]<br />
|自治体名=本郷区<br />
|区分=区<br />
|都道府県=東京都<br />
|支庁=<br />
|郡=<br />
|コード=<br />
|面積=<br />
|境界未定=なし<br />
|人口=<br />
|人口の時点=<br />
|隣接自治体=小石川区、[[下谷区]]、[[神田区]]、<br />[[豊島区]]、[[滝野川区]]、[[荒川区]]<br />
|木=<br />
|花=<br />
|シンボル名=<br />
|鳥など=<br />
|郵便番号=<br />
|所在地=本郷区龍岡町36<br />
|電話番号=<br />
|外部リンク=<br />
|経度=<br />
|緯度=<br />
|位置画像=<br />
|特記事項=<br />
}}<br />
[[File:Former Hongo Ward Office.JPG|thumb|200px|旧本郷区役所。2009年現在、[[関電工]]湯島ビルが建っている場所にあった。]]<br />
'''本郷区'''(ほんごうく、{{旧字体|本鄕區}})とは、[[東京府]][[東京市]]、[[東京都]]にかつて存在した区である。現在の[[文京区]]の東部に位置していた。<br />
<br />
== 歴史 ==<br />
{{main|本郷 (文京区)}}<br />
=== 沿革 ===<br />
* [[1878年]](明治11年)[[11月2日]] - [[郡区町村編制法]]により、以下の区域をもって'''本郷区'''を設置。<br />
** 本郷一丁目、本郷二丁目、本郷三丁目、本郷四丁目、本郷五丁目、本郷六丁目、本郷金助町、本郷春木町一丁目、本郷春木町二丁目、本郷春木町三丁目、本郷元町一丁目、本郷元町二丁目、本郷東竹町、本郷西竹町、本郷真砂町、本郷弓町一丁目、本郷弓町二丁目、本郷菊坂町、本郷台町、湯島五丁目、湯島六丁目(現[[本郷 (文京区)|本郷]])<br />
** 湯島一丁目、湯島二丁目、湯島三丁目、湯島四丁目、妻恋町、湯島新花町、湯島三組町、湯島天神町一丁目、湯島天神町二丁目、湯島天神町三丁目、湯島梅園町、湯島天神下同朋町、湯島切通坂町、湯島切通町、湯島両門町(現[[湯島]])<br />
** 本郷龍岡町(現本郷、湯島)<br />
** 駒込西片町(現[[西片]])<br />
** 本郷森川町、本郷田町(現本郷、西片)<br />
** 丸山福山町(現西片、[[白山 (文京区)|白山]])<br />
** 丸山新町(現白山)<br />
** 駒込追分町、駒込肴町、駒込蓬莱町(現[[向丘 (文京区)|向丘]])<br />
** 本郷本富士町、向ヶ丘弥生町(現本郷、[[弥生 (文京区)|弥生]])<br />
** 根津西須賀町(現弥生)<br />
** 根津宮永町、根津八重垣町、根津須賀町、根津片町、根津藍染町、根津清水町(現[[根津]])<br />
** 駒込千駄木林町、駒込千駄木坂下町(現[[千駄木]])<br />
** 駒込千駄木町(現千駄木、向丘)<br />
** 駒込曙町、駒込片町、駒込吉祥寺町、駒込富士前町、駒込上富士前町、駒込片町分(現[[本駒込]])<br />
** 駒込東片町、駒込浅嘉町(現向丘、本駒込)<br />
* [[1889年]](明治22年)[[5月1日]] - [[市制]]、[[町村制]]の施行に伴う[[東京市]]の設置により、[[北豊島郡]]下駒込村、日暮里村の各一部を編入(ともに残部は[[下谷区]]に編入)。のちに編入された区域に駒込動坂町、駒込神明町を設置。<br />
* [[1943年]](昭和18年)[[7月1日]] - [[東京都制]]が施行され、東京市と東京府が廃止され、東京都を設置。<br />
* [[1947年]](昭和22年)[[3月15日]] - [[小石川区]]と合併して'''[[文京区]]'''を新設。<br />
<br />
== 交通 ==<br />
=== 鉄道 ===<br />
* [[東京都電車]](廃線)<br />
** お茶の水線、切通線、富坂線、本郷線、駒込線、白山線、動坂線<br />
<br />
[[後楽園駅]]([[帝都高速度交通営団]](現[[東京地下鉄|東京メトロ]])[[東京メトロ丸ノ内線|丸ノ内線]]、[[東京メトロ南北線|南北線]])、[[本郷三丁目駅]](丸ノ内線、[[都営地下鉄]][[都営地下鉄大江戸線|大江戸線]])、[[春日駅 (東京都)|春日駅]]([[都営地下鉄三田線|都営三田線]]、[[都営地下鉄大江戸線|都営大江戸線]])、[[白山駅 (東京都)|白山駅]](都営三田線)、[[本駒込駅]]、[[東大前駅]](南北線)、および[[湯島駅]]、[[根津駅]]、[[千駄木駅]]([[東京メトロ千代田線|千代田線]])は開業していなかった。<br />
<br />
== 著名な出身者 ==<br />
''現文京区の著名な出身者については[[文京区]]を参照''<br />
* [[皇后美智子]] - [[今上天皇]]の[[皇后]]<br />
* [[島津朝子]] - 元[[皇族]]<br />
* [[松平胖]] - [[大日本帝国海軍|海軍]]軍人<br />
* [[谷口恒二]] - [[大蔵]][[官僚]]<br />
* [[水口宏三]] - [[農林水産省|農林]]官僚、[[政治家]]<br />
* [[磯崎叡]] - [[鉄道省|鉄道]]官僚、第6代[[日本国有鉄道]](国鉄)[[総裁]]<br />
* [[一龍斎貞水#六代目 一龍斎 貞水|六代目 一龍斎貞水]] - [[講談師]]<br />
* [[永田洋子]] - [[テロリスト]]、[[新左翼]]活動家<br />
* [[鈴木広]] - [[政治運動家]]<br />
* [[間宮不二雄]] - [[実業家]]<br />
* [[沢田美喜]] - 社会事業家<br />
* [[平岡正明]] - [[評論家]]<br />
* [[酒井美意子]] - 評論家<br />
* [[足利惇氏]] - [[インド学者]]・[[イラン学者]]<br />
* [[呉茂一]] - [[西洋古典学|西洋古典学者]]<br />
* [[鳥山喜一]] - [[歴史学者]]<br />
* [[福田恆存]] - [[英文学者]]、文芸[[批評家]]<br />
* [[虫明亜呂無]] - [[作家]]、評論家、[[随筆家]]、[[翻訳家]]<br />
* [[小笠原恭子]] - 芸能史[[研究家]]、作家<br />
* [[石原謙]] - [[キリスト教]]史学者<br />
* [[塚谷晃弘]] - [[経済学者]]、[[作曲家]]<br />
* [[那須皓]] - [[農学者]]<br />
* [[川本茂雄]] - [[言語学者]]<br />
* [[西江雅之]] - [[文化人類学者]]、言語学者<br />
* [[日野龍夫]] - [[国文学者]]<br />
* [[鈴木一雄]] - [[日本文学者]]<br />
* [[岩崎允胤]] - [[哲学者]]<br />
* [[西川治]] - [[人文地理学]]者<br />
* [[道家忠道]] - [[ドイツ文学者]]<br />
* [[木野崎吉郎]] - [[地球科学者]]<br />
* [[清水英夫]] - 法学者<br />
* [[林知己夫]] - [[統計学者]]<br />
* [[金田一春彦]] - 言語学者、[[国語学者]]<br />
* [[小田嶋十黄]] - [[俳人]]<br />
* [[橋本多佳子]] - 俳人<br />
* [[富永太郎]] - 詩人、[[画家]]<br />
* [[堀口大學]] - 詩人、[[歌人]]、[[フランス文学者]]<br />
* [[葛原妙子]] - 歌人<br />
* [[沼波万里子]] - 歌人<br />
* [[大倉てる子|大倉燁子]] - [[小説家]]<br />
* [[高木卓]] - 小説家、ドイツ文学者、音楽評論家<br />
* [[武田泰淳]] - 小説家<br />
* [[辻邦生]] - 小説家、フランス文学者<br />
* [[永井路子]] - [[歴史小説]]家<br />
* [[西尾正]] - 小説家<br />
* [[藤原審爾]] - 小説家、[[岡山県]]育ち<br />
* [[星新一]] - 小説家<br />
* [[物集和子]] - 小説家、[[掃苔家]]<br />
* [[森茉莉]] - 小説家、[[エッセイスト]]<br />
* [[西尾正]] - [[探偵小説]]家<br />
* [[松井由利夫]] - [[作詞家]]<br />
* [[木下順二]] - [[劇作家]]<br />
* [[寺村輝夫]] - [[児童文学]]作家<br />
* [[福田恆存]] - 評論家、翻訳家、劇作家、[[演出家]]<br />
* [[大伴昌司]] - [[編集者]]、[[サイエンス・フィクション|SF]]研究家、[[映画評論家]]、翻訳家<br />
* [[池島信平]] - 編集者、[[文藝春秋]]社長(第3代)。<br />
* [[近藤紘一]] - [[ジャーナリスト]]<br />
* [[吉岡堅二]] - [[日本画家]]<br />
* [[杉浦茂]] - [[漫画家]]<br />
* [[杉浦幸雄]] - 漫画家<br />
* [[武満徹]] - 作曲家<br />
* [[山田耕筰]] - 作曲家<br />
* [[東家浦太郎|初代 東家浦太郎]] - [[浪曲師]]<br />
* [[大滝秀治]] - [[俳優]]<br />
* [[奈良岡朋子]] - [[俳優|女優]]<br />
* [[佐田豊]] - 俳優<br />
* [[本郷秀雄]] - 俳優<br />
* [[杉山昌三九]] - 俳優<br />
* [[琴糸路]] - 映画女優<br />
* [[都賀静子]] - 女優、元[[子役]]<br />
* [[中山昭二]] - 俳優<br />
* [[磯川勝彦]] - 俳優<br />
* [[斎藤晴彦]] - 俳優<br />
* [[鈴木治夫 (俳優)|鈴木治夫]] - 俳優<br />
* [[三波伸介 (初代)|三波伸介]] - [[コメディアン]]、俳優、[[司会者]]、[[タレント]]<br />
* [[川田晴久]] - 俳優、[[歌手]]、コメディアン、[[ボードビリアン]]<br />
* [[藤間紫]] - 舞踊家、女優<br />
* [[ライオン野口]] - [[プロボクサー]]<br />
* [[遠山慶子]] - [[ピアニスト]]<br />
* [[稲垣浩]] - [[映画監督]]、俳優、[[脚本家]]<br />
* [[佐伯孚治]] - 映画監督、脚本家<br />
* [[岡倉士朗]] - 演出家<br />
* [[三縄一郎]] - 音響効果技師<br />
* [[古今亭志ん朝]](三代目) - [[落語家]]<br />
* [[山崎富栄]] - [[美容師]]<br />
* [[高木憲次]] - [[整形外科医]]<br />
* [[石井順一]] - 高校野球指導者、ボール・バット職人。ラビットボール、圧縮バットの発明者。<br />
<br />
== 関連項目 ==<br />
* [[東京都の廃止市町村一覧]]<br />
* [[文京区]]<br />
* [[本郷 (文京区)]]<br />
<br />
{{東京35区}}<br />
{{Japan-area-stub}}<br />
{{DEFAULTSORT:ほんこうく}}<br />
[[Category:東京市の区]]<br />
[[Category:文京区域の廃止市町村]]<br />
[[Category:戦前日本の府県の区]]<br />
[[Category:1878年に成立した行政区画]]<br />
[[Category:1947年に廃止された行政区画]]</div>
114.161.14.158
深川区
2018-08-08T10:16:50Z
<p>114.161.14.158: </p>
<hr />
<div>{{ページ番号|date=2017年7月}}<br />
{{参照方法|date=2017年7月}}<br />
{{日本の市 (廃止)<br />
|廃止日=[[1947年]][[3月15日]]<br />
|廃止理由=特別区の設置<br />
|廃止詳細='''深川区'''、[[城東区 (東京都)|城東区]] → '''江東区'''<br />
|現在の自治体=[[江東区]]<br />
|自治体名=深川区<br />
|区分=区<br />
|都道府県=東京都<br />
|支庁=<br />
|郡=<br />
|コード=<br />
|面積=<br />
|境界未定=なし<br />
|人口=<br />
|人口の時点=<br />
|隣接自治体=城東区、[[本所区]]、[[日本橋区]]、[[京橋区]]<br />
|木=<br />
|花=<br />
|シンボル名=<br />
|鳥など=<br />
|郵便番号=<br />
|所在地=深川区<br />
|電話番号=<br />
|外部リンク=<br />
|経度=<br />
|緯度=<br />
|位置画像=<br />
|特記事項=<br />
}}<br />
<br />
'''深川区'''(ふかがわく)とは、[[東京府]][[東京市]]、[[東京都]]にかつて存在した区である。現在の[[江東区]]の北西部に位置していた。<br />
<br />
== 歴史 ==<br />
[[ファイル:Utamaro (c. 1788–91) Fukagawa no Yuki.jpg|サムネイル|深川の料理茶屋の様子を描いた歌麿の「[[深川の雪]]」。18世紀末]]<br />
[[ファイル:Koizumi Kiba.jpg|サムネイル|小泉癸巳男「深川区・木場の河筋」1940年]]<br />
江戸が町づくりをはじめた[[慶長]]の初期(1596~1614)に、[[摂津国]](現・[[大阪府]])の深川八郎右衛門が[[小名木川]]北岸一帯の開拓を始めた<ref>[http://www.city.koto.lg.jp/103020/bunkasports/bunka/joho/6379.html 江東区の地名由来]江東区役所、2017年3月16日</ref>。次第に近傍に開拓が進み、寛永4年(1627)に[[富岡八幡宮]]と[[永代寺]]が創建され<ref name=kabukiza>[http://www.kabuki-za.com/syoku/2/no260.html 深川の軽子]江戸食文化紀行、歌舞伎座</ref>、3代将軍[[徳川家光]]の時代から富岡八幡宮の[[門前町|鳥居前町]]として発達。[[明暦の大火]]ののちに木場が置かれて商業開港地域となり、深川[[岡場所]]も設置され花街となる。江戸の[[巽|辰巳]]の方角にあることより、ここ深川の芸者は[[辰巳芸者]]と呼ばれ、[[いき]]で気風が良いとされる。<br />
<br />
もとは[[下総国]][[葛飾郡]]の内で、江戸時代初期の[[1683年]](貞享3年)また一説によれば寛永年間([[1622年]]-[[1643年]])に[[江戸川|太日川(現在の江戸川・旧江戸川)]]より西の地域を[[武蔵国]]に編入した際に武蔵国葛飾郡となる。[[万治]]2年(1659)に[[両国橋]]が架けられたのちに江戸図にも載せられて[[江戸]]に組み込まれるようになり、町地が多く起立して[[1818年]]の「旧江戸朱引内図」でも[[朱引]]内に含まれている。一方、町地以外の部分は代官所管地の深川本村が置かれた。<br />
<br />
材木商人として財を成した[[紀伊国屋文左衛門]]や[[奈良屋茂左衛門]]も一時邸を構える。[[1702年]]([[元禄]]15年)の[[大石良雄]]率いる[[赤穂浪士]]が[[吉良義央]]邸に討ち入った事件では、一行は富岡八幡宮の前の茶屋で最終的な打ち合わせのための会議を開いたと伝えられる。[[曲亭馬琴]]はこの地で生まれ、[[平賀源内]]や[[松尾芭蕉]]、[[伊能忠敬]]なども深川に住んだ。<br />
<br />
[[1878年]]、[[郡区町村編制法]]施行に伴い[[東京15区]]の一つとして成立した区域に名称として採用された。この深川区は、現在の江東区のうち上記江戸の町地に該当する地域である。ついで[[1889年]][[市制]][[町村制]]施行によって[[横十間川]]より西側の地域全てが深川区になる(横十間川以東は[[南葛飾郡]][[大島町 (東京府)|大島村]]に編入された)。これらはいずれも現在の江東区深川よりはるかに広い範囲である。極東は深川上大島町(現・[[大島 (江東区)]])、極西は深川熊井町(現・[[永代]])、極北は御船蔵前町(現[[新大橋 (江東区)]])、極南は洲崎弁天町(現・[[東陽 (江東区)]]) で、区内に90以上の町があった<ref>[http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/764148/250 『東京地理沿革誌 : 一名・東京字典』]村田峯次郎 (看雨隠士) 著 (稲垣常三郎, 1890) , p463</ref>。<br />
<br />
[[1945年]][[3月10日]]の[[東京大空襲]]ではこの深川区に爆撃初弾が投下され、区内は焦土と化した。戦後[[1947年]]に[[城東区 (東京都)|城東区]]と合併し、現在の江東区となる。<br />
<br />
=== 沿革 ===<br />
* [[1878年]](明治11年)[[11月2日]] - [[郡区町村編制法]]により、以下の区域をもって'''深川区'''を設置。<br />
** 深川安宅町、深川御船蔵前町、深川八名川町、深川西六間堀町(現[[新大橋 (江東区)|新大橋]])<br />
** 深川西元町、深川常磐町一丁目、深川常磐町二丁目(現[[常盤 (江東区)|常盤]])<br />
** 深川東六間堀町、深川西森下町、深川西町、深川富川町(現[[森下 (江東区)|森下]])<br />
** 深川東森下町、深川東元町(現森下、[[高橋 (江東区)|高橋]])<br />
** 深川猿江裏町(現[[毛利 (江東区)|毛利]]、[[住吉 (江東区)|住吉]]、[[猿江]])<br />
** 深川東町(現毛利、猿江)<br />
** 深川猿江町(現猿江)<br />
** 深川上大島町(現猿江、[[大島 (江東区)|大島]])<br />
** 深川下大島町(現大島)<br />
** 深川清住町、深川西大工町、深川仲大工町、深川裏大工町、深川伊勢崎町(現[[清澄 (江東区)|清澄]])<br />
** 深川東大工町、深川霊巌町、深川元加賀町、深川扇橋町一丁目、深川扇橋町二丁目(現[[白河 (江東区)|白河]]、[[三好 (江東区)|三好]])<br />
** 深川東平野町、深川西平野町、深川山本町、深川三好町、深川西永町、深川島崎町、深川吉永町、深川久永町(現[[平野 (江東区)|平野]])<br />
** 深川佐賀町一丁目、深川佐賀町二丁目、深川今川町、深川西永代町、深川富田町、深川中川町、深川堀川町、深川松賀町(現[[佐賀 (江東区)|佐賀]])<br />
** 深川熊井町、深川諸町、深川中島町、深川福住町、深川蛤町一丁目、深川大島町(現[[永代]])<br />
** 深川小松町、深川富吉町、深川相川町(現佐賀、永代)<br />
** 深川永堀町、深川大住町、深川東永代町、深川材木町、深川一色町、深川伊沢町、深川松村町(現[[福住 (江東区)|福住]])<br />
** 深川万年町一丁目、深川万年町二丁目、深川亀住町(現[[深川 (江東区)|深川]])<br />
** 深川和倉町、深川冬木町、深川亀久町、深川大和町(現深川、[[冬木]])<br />
** 深川蛤町二丁目、深川富岡門前仲町、深川富岡門前山本町(現[[門前仲町]])<br />
** 深川黒江町(現福住、永代、門前仲町)<br />
** 深川富岡門前町、深川富岡門前東仲町、深川数矢町、富岡公園地(現[[富岡 (江東区)|富岡]])<br />
** 深川牡丹町、深川佃町、深川平富町一丁目、深川平富町二丁目(現[[牡丹 (江東区)|牡丹]])<br />
** 深川越中島町、深川越中島新田(現[[越中島]])<br />
** 深川平久町一丁目、深川平久町二丁目、深川鶴歩町、深川島田町、深川入船町、深川茂森町、深川扇町、深川木場町、深川洲崎町(現[[木場]])<br />
** 深川東扇橋町(現[[扇橋]])<br />
** 深川石島町(現扇橋、[[石島 (江東区)|石島]]、[[千石 (江東区)|千石]])<br />
** 深川豊住町、深川洲崎弁天町(現[[東陽 (江東区)|東陽]]) <br />
* [[1889年]](明治22年)[[5月1日]] - [[市制]]、[[町村制]]の施行に伴う[[東京市]]の設置により、東京市と[[南葛飾郡]]の境界をおおむね[[横十間川]]として、以下の再編が行われた。<br />
** 深川区の横十間川以東の地域(深川下大島町の全域、深川上大島町の一部)が南葛飾郡[[大島町 (東京府)|大島村]]に編入。<br />
** 南葛飾郡のおおむね横十間川以西の地域である深川毛利新田、海辺新田、石小田新田、千田新田の全域と、以下の8村の各一部を編入(カッコ内は残部の編入先)。<br />
*** 深川本村([[大島町 (東京府)|大島村]])<br />
*** 猿江村(大島村)<br />
*** 大島村(大島村)<br />
*** 亀戸村([[亀戸町|亀戸村]]、[[吾嬬町|吾嬬村]]、大島村)<br />
*** 八右衛門新田([[砂町|砂村]])<br />
*** 永代新田(砂村)<br />
*** 久左衛門新田(砂村)<br />
*** 平井新田(砂村)<br />
** 編入区域に以下の町丁を設置。<br />
*** 深川古石場町(現[[古石場]])<br />
*** 深川本村町(現毛利、住吉、猿江)<br />
*** 深川海辺町、深川千田町(現扇橋、[[海辺 (江東区)|海辺]]、[[千田 (江東区)|千田]]、千石)<br />
*** 深川東平井町、深川西平井町(現東陽)<br />
* [[1923年]](大正12年)[[9月1日]]‐[[関東大震災]]によりほぼ全滅。<br />
* [[1943年]](昭和18年)[[7月1日]] - [[東京都制]]が施行され、東京市と東京府が廃止され、東京都を設置。<br />
* [[1947年]](昭和22年)[[3月15日]] - 特別区への移行のため、深川区及び[[城東区 (東京都)|城東区]]の区域をもって'''[[江東区]]'''を新設。<br />
<br />
== 交通 ==<br />
=== 鉄道 ===<br />
* [[東京都電車]](廃線)<br />
** 洲崎線、月島線、高橋線、猿江線、[[都電砂町線|砂町線]]<br />
<br />
[[森下駅 (東京都)|森下駅]]([[都営地下鉄]][[都営地下鉄新宿線|新宿線]]、[[都営地下鉄大江戸線|大江戸線]])、[[住吉駅 (東京都)|住吉駅]](都営新宿線、[[東京地下鉄|東京メトロ]][[東京メトロ半蔵門線|半蔵門線]])、[[清澄白河駅]](半蔵門線、都営大江戸線)、[[門前仲町駅]]([[東京メトロ東西線|東西線]]、都営大江戸線)、[[木場駅]]、[[東陽町駅]](東西線)、[[越中島駅]]、[[潮見駅]]([[東日本旅客鉄道|JR東日本]][[京葉線]])、[[豊洲駅]]([[東京メトロ有楽町線|有楽町線]]、[[ゆりかもめ (鉄道会社)|ゆりかもめ]][[ゆりかもめ東京臨海新交通臨海線|東京臨海新交通臨海線]])、[[辰巳駅]](有楽町線)、[[有明駅 (東京都)|有明駅]](ゆりかもめ線)および[[国際展示場駅]]、[[東雲駅 (東京都)|東雲駅]]([[東京臨海高速鉄道]][[東京臨海高速鉄道りんかい線|りんかい線]])は開業していなかった。なお、深川区域内に[[有明テニスの森駅]](ゆりかもめ線)が、そして深川区域周辺に[[新木場駅]](京葉線、有楽町線、りんかい線)、[[新豊洲駅]]、[[市場前駅]]、[[国際展示場正門駅]]、[[青海駅 (東京都)|青海駅]]、[[テレコムセンター駅]]、[[船の科学館駅]]、[[台場駅]]、[[お台場海浜公園駅]](ゆりかもめ線)および[[東京テレポート駅]](りんかい線)があるが、深川区が存在していた頃は駅周辺の土地の[[埋立地|埋め立て]]が完了していなかった。<br />
<br />
=== 船運 ===<br />
内国通運の便が高橋着発あり。<br />
<br />
== 著名な出身者 ==<br />
''現江東区の著名な出身者については[[江東区]]を参照''<br />
* [[臼井荘一]] - [[政治家]]、[[実業家]]<br />
* [[和泉信一]] - 実業家、[[日本馬主協会連合会]]名誉会長<br />
* [[杉野喜精]] - 実業家、[[相場師]]、[[山一證券]]初代社長、元[[東京株式取引所]]理事長<br />
* [[平尾聚泉]] - 実業家<br />
* [[松下宗之]] - [[ジャーナリスト]]、元[[朝日新聞社]][[社長]]<br />
* [[長谷川如是閑]] - ジャーナリスト、[[文明]][[批評家]]、[[評論家]]、[[作家]]<br />
* [[伊東深水]] - [[浮世絵師]]、[[日本画家]]、[[版画家]]<br />
* [[大野静方]] - 日本画家<br />
* [[高野三三男]] - [[画家]]<br />
* [[林義雄]] - [[童画]]画家<br />
* [[秋庭太郎]] - 演劇学者<br />
* [[大井次三郎]] - [[植物学者]]<br />
* [[大野晋]] - [[国語学者]]<br />
* [[西村暹]] - [[生化学者]]、[[分子生物学者]]<br />
* [[萩原竜夫]] - [[民俗学]]者、[[日本史]]研究者<br />
* [[蜷川虎三]] - [[経済学者]]、[[統計学者]]<br />
* [[杉村勇造]] - 中国美術学者<br />
* [[木村荘十]] - 作家<br />
* [[日影丈吉]] - [[小説家]]、[[推理作家]]、[[翻訳家]]<br />
* [[藤原釜足]] - [[俳優]]<br />
* [[勝新太郎]] - 俳優<br />
* [[大村千吉]] - 俳優<br />
* [[宇津井健]] - 俳優<br />
* [[暮林修]] - 俳優<br />
* [[久保明]] - 俳優<br />
* [[浅野進治郎]] - 俳優<br />
* [[斎藤達雄]] - 俳優<br />
* [[小川國松]] - 俳優<br />
* [[山吹徳二郎]] - 俳優<br />
* [[若山富三郎]] - 俳優、[[歌手]]、[[テレビドラマ]][[監督]]<br />
* [[邦創典]] - 俳優<br />
* [[伏見直江]] - [[俳優|女優]]<br />
* [[繪島千歌子]] - 女優<br />
* [[中江真司]] - [[声優]]<br />
* [[一龍斎貞山#7代目|7代目一龍斎貞山]] - [[講釈師]]<br />
* [[藤間勘祖 (2世)|2世藤間勘祖]] - [[舞踊家]]<br />
* [[水原弘]] - [[歌手]]<br />
* 坂野比呂志 - [[オペラ歌手]]、[[漫才師]]<br />
* [[小津安二郎]] - [[映画監督]]<br />
* [[井上金太郎]] - 映画監督、[[脚本家]]<br />
* [[三遊亭圓窓]] - [[落語家]]<br />
* [[西村小楽天]] - [[活動弁士]]、[[漫談家]]、[[司会者]]<br />
<br />
== 脚注 ==<br />
{{Reflist}}<br />
<br />
== 関連項目 ==<br />
* [[東京都の廃止市町村一覧]]<br />
* [[江東区]]<br />
* [[深川 (江東区)]]<br />
<br />
== 外部リンク ==<br />
* [http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1088880 東京市深川区全図 明治三十年十一月調査](北畠茂兵衛, 1898) <br />
<br />
{{東京35区}}<br />
{{Japan-area-stub}}<br />
{{DEFAULTSORT:ふかかわく}}<br />
[[Category:東京市の区]]<br />
[[Category:江東区域の廃止市町村]]<br />
[[Category:戦前日本の府県の区]]<br />
[[Category:1878年に成立した行政区画]]<br />
[[Category:1947年に廃止された行政区画]]</div>
114.161.14.158
滝野川区
2018-08-08T10:16:12Z
<p>114.161.14.158: </p>
<hr />
<div>{{日本の市 (廃止)<br />
|廃止日=[[1947年]][[3月15日]]<br />
|廃止理由=特別区の設置<br />
|廃止詳細='''滝野川区'''、[[王子区]] → [[北区 (東京都)|北区]]<br />
|現在の自治体=[[東京都]][[北区 (東京都)|北区]]<br />
|自治体名=滝野川区<br />
|区分=行政区<br />
|都道府県=東京都<br />
|支庁=<br />
|郡=<br />
|コード=<br />
|面積=3.97<br />
|境界未定=<br />
|人口=36,494<br />
|人口の出典=昭和20年人口調査<br />
|人口の時点=1945年11月1日<br />
|隣接自治体=東京都[[王子区]]、<br />[[荒川区]]、[[本郷区]]、[[豊島区]]、[[板橋区]]<br />
|木=<br />
|花=<br />
|シンボル名=その他のシンボル<br />
|鳥など=<br />
|郵便番号=<br />
|所在地=滝野川区西ヶ原町52番地<br />(旧・大字西ヶ原字殿ノ上52番地)<br />
|電話番号=<br />
|外部リンク=<br />
|経度=<br />
|緯度=<br />
|位置画像=<br />
|特記事項=<br />
}}<br />
'''滝野川区'''(たきのがわく、{{旧字体|瀧野川區}})は、かつて[[東京府]][[東京市]]、[[1943年]](昭和18年)以降は[[東京都]]に存在した[[行政区]](東京35区)の一つ。[[1932年]](昭和7年)の東京市編入(大東京市成立)により誕生した。現在の[[北区 (東京都)|北区]]南部に当たる地域。<br />
<br />
なお、[[1913年]]([[大正]]2年)の[[町村制|町制]]施行によって誕生した、前身である'''滝野川町'''(たきのがわまち)、[[1889年]]([[明治]]22年)の[[市制]][[町村制]]によって誕生した、さらにその前身である'''滝野川村'''(たきのがわむら)についても合わせて記述する。もともと[[室町時代]]以前には[[武蔵国]][[豊島郡 (武蔵国)|豊島郡]]'''平塚郷'''(ひらつかのさと、ひらつかごう)と呼ばれた地域であるため、これもあわせて記述する。<br />
<br />
== 地理 ==<br />
現在の地名では[[上中里]]、[[栄町 (東京都北区)|栄町]]、[[昭和町 (東京都北区)|昭和町]]、[[滝野川 (東京都北区)|滝野川]]、[[田端 (東京都北区)|田端]]、[[田端新町]]、[[中里 (東京都北区)|中里]]、[[西ヶ原]]、[[東田端]]の大半に相当する。<br />
<br />
歴史的には[[武蔵野台地]]と[[荒川 (関東)|荒川]]沿岸の低地([[氾濫原]])の境にあり、起伏が激しい。<br />
<br />
* 山:[[御殿山]]、[[飛鳥山]]<br />
* 河川:[[石神井川]]、[[石神井用水]](音無川)、[[千川上水]](千川用水)、逆川、源五郎淵<br />
<br />
== 歴史 ==<br />
この地域は[[旧石器時代 (日本)|旧石器時代]]あるいは[[縄文時代]]ごろから人が定住しており、西ヶ原二丁目貝塚や[[中里貝塚]]が見つかっている。[[弥生時代]]のものとしては西ヶ原遺跡があり、国内の弥生時代研究に大きな影響を与えた。[[古墳時代]]の遺跡は滝野川地区でははっきりとしない。<br />
<br />
[[奈良時代]]にはこの周辺は「武蔵国豊島郡[[荒墓郷]]」と呼ばれていた。荒墓郷は現在の[[台東区]]、[[荒川区]]、北区南部あたりを占めるかなり広大な地域であった。この時代は[[律令制]]による[[条里制]]の区画整理が行われ、中里や上中里の村名はこれに由来するという。この村名から見られるように、条里制の豊島駅(現在の北区[[西ヶ原]])に繋がる地域として、[[平安時代]]の末期ごろから'''平塚郷'''と呼ばれ、[[豊島氏]]の支配下となり、豊島氏の本城である[[平塚城]]があった。<br />
<br />
[[江戸時代]]に描かれた『平塚明神并別当城官寺縁起絵巻』などによれば、[[源義家]]三兄弟が[[後三年の役]]で勝利を収めた帰りにこの平塚城に立ち寄り、当主の[[豊島近義]]により手厚くもてなされたという。そのため義家は鎧一領と十一面観音像を与えたとされている。近義はこの鎧を埋めて甲冑塚とし、義家の死後に三兄弟の像を作り平塚明神(現在の[[平塚神社]])を建てて祀ったという。また、『[[源平盛衰記]]』によれば[[1180年]]([[治承]]4年)、[[源頼朝]]が[[下総国]]から武蔵国に入った際に、滝野川の「松橋」に陣を張ったことが記述されている。この松橋を[[板橋区]]では「[[板橋 (石神井川)|板橋]]」のこととしているが、北区では滝野川村の「松橋」であるとしている(詳細は[[板橋郷]]も参照)。この際には[[豊島清元]]・[[葛西清重]]親子が従軍している。<br />
<br />
その後も豊島氏は[[宮城氏]]を吸収するなどし、名目上は紀伊熊野の寄進地である豊島庄(豊島荘)として支配され、豊島郡の中心地として発展した。平塚郷もやがて滝野川村のほか、平塚本郷、中里村、田端村、西ヶ原村(西原村)に分立したことが『小田原衆所領役帳』で確認できる。滝野川とは本来は石神井川のことであり、由来ははっきりしないが、石神井川の滝のように速い流れからとするのが通説である。豊島氏流である滝野川氏によって支配され、滝野川城が建造された。ほかに西ヶ原城、飛鳥山城があったことがわかっている。豊島氏が[[江古田・沼袋原の戦い]]で滅亡した後は、[[後北条氏]]下に入った平塚豊後やその子孫の平塚藤右衛門などの豊島氏庶流や、千葉氏、後に太田氏の[[大田康資|大田新六郎]](康資)などが支配した。<br />
<br />
江戸時代には[[岩淵領]]に属した。また鷹狩場としては岩淵筋に属し、西ヶ原村にウサギを育てる広大な御用屋敷が構えられた。それまで豊島郡の中心地であったのと違い単なる農村地となったが、後に飛鳥山が観光化され少しにぎわうようになった。平塚本郷は「[[正保]]の改め」では宮谷戸村(みやがいとむら)と呼ばれ、「[[元禄]]の改め」には上中里村とよばれるようになった。<br />
<br />
[[1868年]](明治元年)、滝野川村、上中里村、中里村、田端村、西ヶ原村は東京府に属した。1889年(明治22年)、滝野川村は一部([[板橋駅]]前周辺)を板橋町に譲り、残りの大半を上中里村、中里村、田端村、西ヶ原村のほぼ全域と下十条村の一部と合併し、'''滝野川村'''となった。東京府案では全域を[[本郷区]]に編入しようとしていたが、急激な拡張は経済面で問題があるとして[[内務省 (日本)|内務省]]に却下された。北豊島郡案では滝野川村の西半分を[[板橋町]]に移し、残りを[[王子町|王子村]]、豊島村、下十条村、梶原堀之内村に合わせ「王子村」としようとしていたが、上十条村を外すことに地元の反発があった。また上中里村、中里村、田端村、西ヶ原村は下駒込村、上駒込村、駒込染井町、駒込妙義坂下町と合併し「駒込村」としようとしていたが、東京府が市域の拡大を望んだことにより最終的に下駒込村が本郷区に合併されることになったため、上駒込村、駒込染井町、駒込妙義坂下町は[[巣鴨町]]に合併され、一方、滝野川町と王子村はほぼ地元の要望が反映された形となった。町名は「滝野川村」と「田端村」で争っていたが、旧・滝野川村が将来的に全責任を負うとして滝野川村が採用された。<br />
<br />
[[1932年]](昭和7年)の大東京市成立に伴う東京市編入時、滝野川町は巣鴨町・[[日暮里町]]と合併する案が浮上。しかし、巣鴨町は西巣鴨町との合併を強く望み、日暮里町も[[下谷区]]への編入を強く望んだ。また、別途[[岩淵町]]・[[王子町]]と合併する案も浮上したが、滝野川町はこの案に難色を示し、また都心側への統合を望むも認められなかったため、結局[[荏原区|荏原町]]と共に一町一区運動を行い、[[豊島区]]の後見を受けることを条件に単独で'''滝野川区'''となった。この際に誕生した20区のうち、面積は最小であった。[[1947年]](昭和22年)の区域再編時に戦後の復興のため合併することとなり、改めて豊島区か[[文京区]]への統合を望んだが却下され、王子区と統合し北区となった。<br />
<br />
=== 沿革 ===<br />
* [[1873年]](明治6年) - [[大区小区制]]により滝野川村、上中里村、中里村、田端村、西ヶ原村は[[巣鴨町]]一丁目から四丁目、駒込染井町、駒込妙義坂下町、上駒込村、梶原堀之内村、船方村、その他[[本郷区]]、[[小石川区]]に属した諸町と共に'''第九大区三小区'''となる(区事務取扱所は駒込富士前町)。<br />
* [[1878年]](明治11年)11月 - 大区小区制が廃され、[[郡区町村編制法]]により[[北豊島郡]]が設置される(郡役所は[[板橋町|下板橋宿]])。<br />
* その後、[[連合戸長役場]]が設置され、滝野川村、西ヶ原村は二ヵ村連合(連合戸長役場は西ヶ原村)と、上中里村、中里村、田端村は三ヵ村連合(連合戸長役場は田端村)となる。<br />
* [[1889年]](明治22年)[[5月1日]] - [[町村制]]の施行により、上中里村、中里村、田端村、西ヶ原村の全域、滝野川村の一部(残部は[[板橋町]]に編入)、下十条村の一部(残部は[[王子町]]に編入)が合併し、'''滝野川村'''を新設。<br />
* [[1913年]](大正2年)10月1日 - 滝野川村が町制施行して'''滝野川町'''となる。地番整理を実施。<br />
* [[1930年]](昭和5年)5月<br />
** 大字田端の一部を大字田端新町一丁目から三丁目に改称。<br />
** 大字中里、上中里の一部を大字昭和町一丁目から三丁目に改称。<br />
* 1932年(昭和7年)[[10月1日]] - [[東京市]]編入により、滝野川町は単独で東京市'''滝野川区'''となる。<br />
* [[1943年]](昭和18年)[[7月1日]] - [[東京都制]]施行により、東京都滝野川区となる。<br />
* 1947年(昭和22年)[[3月15日]] - 特別区への移行のため、滝野川区及び[[王子区]]の区域をもって'''[[北区 (東京都)|北区]]'''となる。<br />
<br />
== 行政 ==<br />
{| border="1" cellspacing="0"<br />
|+ 滝野川町町長<br />
|-<br />
! 代 !! 氏名 !! 任期 !! 出身 !! 期・備考<br />
|-<br />
| - || 浅賀喜右衛門 || 1889年(明治22年) - || &nbsp; || &nbsp;<br />
|-<br />
| - || 戸部弥惣治 || &nbsp; || &nbsp; || &nbsp;<br />
|-<br />
| - || 保坂平三郎 || &nbsp; || &nbsp; || &nbsp;<br />
|-<br />
| - || 野木隆歓 || &nbsp; || &nbsp; || 初代町長<br />
|-<br />
| - || 越部衛五郎 || 1917年(大正6年)[[9月13日]] - || &nbsp; || &nbsp;<br />
|}<br />
<br />
=== 施設 ===<br />
* 滝野川区役所(現・北区立滝野川会館)<br />
* 田端郵便局、西原郵便局(無集配三等局)<br />
<br />
== 経済 ==<br />
=== 産業 ===<br />
* 主な産業:<br />
** 農業:盛んであった(蔬菜種子の産地であり、滝野川葱、滝野川牛蒡、滝野川人参(胡蘿蔔)、宮谷戸姑慈、宮谷戸大根などで有名)が、徐々に住宅地に侵食された。<br />
** その他:西ヶ原御用屋敷の跡地に政府の養蚕研究施設、検疫調査場などが多数建設された。飛鳥山に大蔵省造幣局滝野川印刷工場が建設された。<br />
<br />
== 地域 ==<br />
=== 地名 ===<br />
==== 1889年(明治22年)滝野川町誕生時 ====<br />
* 大字 滝野川<br />
** 字 飛鳥山前、逆サ川前、東大原、大原嵯峨、馬場、西大原、小原、押外戸、谷津、宿、御代台、宮ノ下鴻ノ巣、鴻ノ台、東三軒家、西三軒家、南谷端、北谷端<br />
* 大字 上中里<br />
** 字 鷹番、梶外戸、宮ノ前、宮戸、橋戸、駒込田、立堀合、藤ノ木、市ノ竹、川ノ間、東ノ下<br />
* 大字 中里<br />
** 字 山王下、東前畑、西前畑、居村通、原東坂上、原西坂上、原西峽上、原東峽上、峽下、内見塚、貝塚向、比丘尼東、比丘尼西、広町、西貝塚(貝塚西)<br />
* 大字 田端<br />
** 字 西居村、谷田、東居村、東台通、西台通、峽下、峽附、井堀、三百九十免、まかつど(満加津登)、山谷前、与美、井堀附、神ノ木、井堀通、内貝塚<br />
* 大字 西ヶ原<br />
** 字 殿ノ上、東谷戸、前谷戸、向原、西谷戸、上ノ台、第六天、御殿前、御殿下、神戸、広町、東田<br />
* 大字 十条<br />
** 字 十条<br />
<br />
==== 1930年(昭和5年)改称分 ====<br />
* 大字 田端新町一丁目(旧・大字 田端:字 井堀、三百九十免、まかつど(満加津登))<br />
* 大字 田端新町二丁目(旧・大字 田端:字 井堀、三百九十免、まかつど(満加津登))<br />
* 大字 田端新町三丁目(旧・大字 田端:字 まかつど(満加津登)、山谷前、与美、井堀附、神ノ木)<br />
* 大字 昭和町一丁目(旧・大字 中里:字 比丘尼東、比丘尼西、西貝塚(貝塚西))<br />
* 大字 昭和町二丁目(旧・大字 中里:字 比丘尼西、広町、大字 上中里:字 市ノ竹)<br />
* 大字 昭和町三丁目(旧・大字 上中里:字 立堀合、藤ノ木、市ノ竹)<br />
<br />
==== 1932年(昭和7年)滝野川区誕生時 ====<br />
* 滝野川町(旧・大字 滝野川、十条)<br />
* 上中里町(旧・大字 上中里)<br />
* 中里町(旧・大字 中里)<br />
* 田端町(旧・大字 田端)<br />
* 西ヶ原町(旧・大字 西ヶ原)<br />
* 田端新町一丁目(旧・大字 田端新町一丁目)<br />
* 田端新町二丁目(旧・大字 田端新町二丁目)<br />
* 田端新町三丁目(旧・大字 田端新町三丁目)<br />
* 昭和町一丁目(旧・大字 昭和町一丁目)<br />
* 昭和町二丁目(旧・大字 昭和町二丁目)<br />
* 昭和町三丁目(旧・大字 昭和町三丁目)<br />
<br />
=== 人口 ===<br />
* 総人口 36,494人(昭和20年人口調査)<br />
* 戸数 7,778戸、総人口 33,061人、男性人口 19,321人、女性人口 13,740人、一戸平均人数 4.32人(大正6年度末調査)<br />
* 寄留人口 23,417人、本籍人口 9,644人、寄留人口の本籍人口に対する歩合 2.4(大正6年度末調査)<br />
<br />
==== 人口の推移 ====<br />
{| border="1" cellspacing="0"<br />
|+ 人口の推移<br />
|-<br />
! 時点 !! 総人口 !! 出典<br />
|-<br />
| 1909年 || 6,056人 || 明治41年度末調査<br />
|-<br />
| 1910年 || 6,232人 || 明治42年度末調査<br />
|-<br />
| 1911年 || 6,386人 || 明治43年度末調査<br />
|-<br />
| 1912年 || 6,656人 || 明治44年度末調査<br />
|-<br />
| 1913年 || 6,595人 || 大正元年度末調査<br />
|-<br />
| 1914年 || 6,524人 || 大正2年度末調査<br />
|-<br />
| 1915年 || 6,787人 || 大正3年度末調査<br />
|-<br />
| 1916年 || 7,627人 || 大正4年度末調査<br />
|-<br />
| 1917年 || 8,103人 || 大正5年度末調査<br />
|-<br />
| 1918年 || 8,971人 || 大正6年度末調査<br />
|-<br />
| 1920年10月1日 || 40,689人 || 大正9年国勢調査<br />
|-<br />
| 1925年10月1日 || 82,252人 || 大正14年国勢調査<br />
|-<br />
| 1930年10月1日 || 100,746人 || 昭和5年国勢調査<br />
|-<br />
| 1935年10月1日 || 114,514人 || 昭和10年国勢調査<br />
|-<br />
| 1940年10月1日 || 130,705人 || 昭和15年国勢調査<br />
|-<br />
| 1945年10月1日 || 36,494人 || 昭和20年人口調査<br />
|}<br />
<br />
=== 教育 ===<br />
* [[東京高等蚕糸学校]]<br />
* [[扶桑女子商業学校]]<br />
* [[聖学院]]中学校<br />
* 滝野川区立滝野川尋常高等小学校(現・[[北区立滝野川小学校]])<br />
* 滝野川区立滝野川第一尋常小学校(旧・滝野川尋常高等小学校田端分教場、現・[[北区立田端小学校]])<br />
* 滝野川区立滝野川第二尋常小学校(旧・滝野川尋常高等小学校滝野川分教場、現・[[北区立滝野川第二小学校]])<br />
* 滝野川区立滝野川第三尋常小学校(旧・滝野川尋常高等小学校滝野川分教場(新)、現・[[北区立滝野川第三小学校]])<br />
* 滝野川区立滝野川第四尋常小学校(現・[[北区立滝野川第四小学校]])<br />
* 滝野川区立滝野川第五尋常小学校(現・[[北区立滝野川第五小学校]])<br />
* 滝野川区立滝野川第六尋常小学校(後の[[北区立滝野川第六小学校]])<br />
* 滝野川区立西ヶ原尋常小学校(現・[[北区立西ヶ原小学校]])<br />
* 滝野川区立滝野川谷端尋常小学校(現・[[北区立谷端小学校]])<br />
* 中里幼稚園<br />
<br />
== 交通 ==<br />
=== 鉄道 ===<br />
* [[日本鉄道]]→[[日本国有鉄道|国鉄]](現・[[東日本旅客鉄道|JR東日本]])<br />
** [[東北本線]]、[[山手線]]<br />
*** [[田端駅]]<br />
* [[王子電気軌道]]電車(現・[[都電荒川線]])<br />
** [[西ヶ原四丁目停留場|滝野川停留所]] - [[飛鳥山停留場|飛鳥山停留所]]<br />
<br />
=== 道路 ===<br />
* 仮定県道[[岩槻街道]]<br />
* 東京府費支弁道飛鳥山前道<br />
* 東京府費支弁道飛鳥道<br />
* 東京府費支弁道王子板橋間道([[王子新道]])<br />
* 東京府費支弁道王子間道<br />
* 東京府費支弁道田端道<br />
* 東京府費支弁道千住間道<br />
* 東京府費支弁道富士道<br />
* 東京府費支弁道金杉道<br />
* 東京府費支弁道[[鎌倉街道]]<br />
<br />
== 名所・旧跡・観光スポット・祭事・催事 ==<br />
=== 神社 ===<br />
* 上中里[[平塚神社]](村社)<br />
* [[田端八幡神社]](村社)<br />
* [[滝野川八幡神社]](村社)<br />
* 七社神社(村社)<br />
<br />
=== 宗教 ===<br />
* [[曹洞宗]]<br />
** [[昌林寺 (東京都北区)|昌林寺]]<br />
* [[浄土宗]]<br />
** [[仲台寺]]<br />
** 正受院<br />
** [[円勝寺]]<br />
* [[真言宗]]<br />
** [[興楽寺]]<br />
** [[東覚寺]]<br />
** [[光明院]]<br />
** [[大龍寺 (東京都北区)|大龍寺]]<br />
** [[城官寺]]<br />
** [[無量寺]]<br />
** [[不動院]]<br />
** [[金剛寺]]<br />
** [[寿徳寺]]<br />
* [[法華宗]]<br />
** [[上台寺]]<br />
* [[日本基督教団]]滝野川教会<br />
* [[天理教会]]<br />
<br />
=== 遺跡・その他 ===<br />
* [[平塚城]]跡(御殿山)<br />
* [[滝野川城]]跡<br />
* [[飛鳥山城]]跡<br />
* [[西ヶ原城]]跡<br />
* [[鎌倉街道]]跡<br />
* 西ヶ原[[一里塚]]跡<br />
* 西ヶ原遺跡<br />
<br />
== 出身有名人 ==<br />
* [[芥川比呂志]] - 田端。俳優、演出家。<br />
* [[芥川也寸志]] - 田端。作曲家、指揮者。<br />
* [[安部公房]] - 西ヶ原。小説家、劇作家、演出家。<br />
* [[小池清]] - 田端。アナウンサー。<br />
* [[五社英雄]] - 西ヶ原。映画監督。<br />
* [[児玉清]] - 滝野川区。俳優。<br />
* [[中平康]] - 滝野川。映画監督。<br />
* [[倍賞千恵子]] - 女優、歌手。<br />
* [[古舘伊知郎]] - 滝野川。ニュースキャスター。<br />
* [[やなせたかし]] - 西ヶ原。漫画家・絵本作家・イラストレーター・歌手・詩人。<br />
* [[山田申吾]] - 田端。日本画家。<br />
* [[渡辺護 (映画監督)|渡辺護]] - 映画監督。<br />
<br />
== その他 ==<br />
* 滝野川区史 - [[1944年]](昭和19年)に刊行が準備されていた。[[校正|ゲラ]]の段階まで進行していたが、戦時中により不急案件とされ未刊となる。なお、ゲラの複製は、[[北区立中央図書館]]内の「北区の部屋」にて閲覧可。<br />
<br />
== 参考文献 ==<br />
* 北豊島郡誌(編:北豊島郡農会、[[1918年]](大正7年)[[11月10日]]発行、[[1979年]](昭和54年)[[9月25日]]復刻版発行)<br />
* 板橋区史 通史編 下巻(編:板橋区史編さん調査会、[[1999年]](平成11年)[[11月30日]]発行)<br />
<br />
== 関連項目 ==<br />
* [[日本の廃止市町村一覧]]<br />
* [[東京都の廃止市町村一覧]]<br />
<br />
{{東京35区}}<br />
{{東京都北区の町名}}<br />
<br />
{{Pref-stub|pref=東京都}}<br />
{{DEFAULTSORT:たきのかわく}}<br />
[[Category:東京市の区]]<br />
[[Category:東京都北区域の廃止市町村]]<br />
[[Category:1913年に成立した行政区画]]<br />
[[Category:1932年に成立した行政区画]]<br />
[[Category:1947年に廃止された行政区画]]</div>
114.161.14.158
蒲田区
2018-08-08T10:14:55Z
<p>114.161.14.158: </p>
<hr />
<div>{{日本の市 (廃止)<br />
|廃止日=[[1947年]][[3月15日]]<br />
|廃止理由=特別区の設置<br />
|廃止詳細=[[大森区]]、'''蒲田区''' → '''大田区'''<br />
|現在の自治体=[[大田区]]<br />
|自治体名=蒲田区<br />
|区分=区<br />
|都道府県=東京都<br />
|支庁=<br />
|郡=<br />
|コード=<br />
|面積=<br />
|境界未定=なし<br />
|人口=<br />
|人口の時点=<br />
|隣接自治体=【東京都】大森区<br />【[[神奈川県]]】[[川崎市]]<br />
|木=<br />
|花=<br />
|シンボル名=<br />
|鳥など=<br />
|郵便番号=<br />
|所在地=蒲田区<br />
|電話番号=<br />
|外部リンク=<br />
|経度=<br />
|緯度=<br />
|位置画像=<br />
|特記事項=<br />
}}<br />
<br />
'''蒲田区'''(かまたく)とは、かつて[[東京府]][[東京市]](後に[[東京都]])に存在した区。<br />
<br />
== 歴史 ==<br />
{{main|大田区#歴史}}<br />
=== 沿革 ===<br />
* [[1932年]](昭和7年)[[10月1日]] - [[荏原郡]]全域が'''[[東京市]]'''に編入。[[羽田町]]、[[蒲田町]]、[[矢口町]]、[[六郷町 (東京府)|六郷町]] の区域に'''蒲田区'''を設置。<br />
* [[1943年]](昭和18年)[[7月1日]] - [[東京都制]]が施行され、東京市と東京府が廃止され、東京都を設置。<br />
* [[1947年]](昭和22年)[[3月15日]] - [[大森区]]と合併して'''[[大田区]]'''を新設。<br />
<br />
== 交通 ==<br />
=== 鉄道 ===<br />
* [[日本国有鉄道|国鉄]](現[[東日本旅客鉄道|JR東日本]])<br />
** [[東海道本線]]([[京浜東北線|京浜線(現京浜東北線)]]) : [[蒲田駅]]<br />
* [[京浜急行電鉄#歴史|京浜電気鉄道]](→[[大東急|東京急行電鉄(大東急)]]、現[[京浜急行電鉄]])<br />
** [[京急本線|本線]] : [[梅屋敷駅 (東京都)|梅屋敷駅]] - 蒲田駅([[蒲田駅|JR蒲田駅]]とは異なる)(→京浜蒲田駅、現[[京急蒲田駅]]) - 下町駅(廃駅) - [[出村駅]](廃駅) - [[雑色駅]] - 六郷駅(→八幡塚駅、その後廃駅) - 六郷堤駅(現[[六郷土手駅]]) - 中町駅(廃駅)<br />
** 穴守線(現[[京急空港線|空港線]]) : [[糀谷駅]] - [[大鳥居駅]] - 競馬場前駅(廃駅) - [[穴守駅|旧・穴守駅]](→旧・京浜急行の羽田駅→稲荷橋駅、現[[穴守稲荷駅]]) - 旧・京浜急行の羽田空港駅(廃駅) - [[穴守駅|新・穴守駅]](廃駅)<br />
* [[目黒蒲田電鉄]](→[[東京横浜電鉄]]→東京急行電鉄(大東急)、現[[東京急行電鉄]])<br />
** 蒲田線(→[[東急目蒲線|目蒲線]]、現[[東急多摩川線|多摩川線]]) : [[下丸子駅]] - 新田駅(現[[武蔵新田駅]]) - 矢口駅(現[[矢口渡駅]]) - 本門寺道駅(→[[道塚駅]]、その後廃駅) - 蒲田駅<br />
* [[池上電気鉄道]](→目黒蒲田電鉄→東京横浜電鉄→東京急行電鉄(大東急)、現東京急行電鉄)<br />
** [[東急池上線|池上線]] : [[蓮沼駅]] - 蒲田駅<br />
<br />
羽田整備場駅(現[[整備場駅]])、旧・東京モノレールの羽田駅(廃駅)([[東京モノレール]][[東京モノレール羽田空港線|羽田空港線]])、新・羽田駅(現[[天空橋駅]])(京急空港線、モノレール羽田空港線)は開業していなかった。なお、蒲田区域内に[[羽田空港国際線ターミナル駅]]、新・京浜急行の羽田空港駅(現[[羽田空港国内線ターミナル駅]])(京急空港線)および[[羽田空港国際線ビル駅]]、[[新整備場駅]]、東京モノレールの羽田空港駅(現[[羽田空港第1ビル駅]])、[[羽田空港第2ビル駅]](モノレール羽田空港線)が、そして蒲田区域周辺に[[昭和島駅]](モノレール羽田空港線)があるが、蒲田区が存在していた頃は駅周辺の土地の[[埋立地|埋め立て]]が完了していなかった。<br />
<br />
=== 道路 ===<br />
* [[国道15号|京浜国道]]<br />
<br />
== 関連項目 ==<br />
* [[東京都の廃止市町村一覧]]<br />
* [[大田区]]<br />
* [[梅ちゃん先生]] - 戦中戦後の蒲田区が舞台<br />
<br />
{{東京35区}}<br />
{{Japan-area-stub}}<br />
{{DEFAULTSORT:かまたく}}<br />
[[Category:東京市の区]]<br />
[[Category:大田区域の廃止市町村]]<br />
[[Category:1932年に成立した行政区画]]<br />
[[Category:1947年に廃止された行政区画]]</div>
114.161.14.158
城東区 (東京都)
2018-08-08T10:14:32Z
<p>114.161.14.158: </p>
<hr />
<div>{{ページ番号|date=2017年7月}}<br />
{{参照方法|date=2017年7月}}<br />
{{日本の市 (廃止)<br />
|廃止日 = [[1947年]][[3月15日]]<br />
|廃止理由 = 特別区の設置<br />
|廃止詳細 = [[深川区]]、'''城東区'''→'''江東区'''<br />
|現在の自治体 = [[江東区]]<br />
|自治体名 = 城東区<br />
|区分 = 区<br />
|都道府県 = 東京都<br />
|支庁 =<br />
|郡 =<br />
|コード =<br />
|面積 =<br />
|境界未定 = なし<br />
|人口 =<br />
|人口の時点 =<br />
|隣接自治体 = 深川区、[[本所区]]、[[向島区]]、[[江戸川区]]<br />
|木 =<br />
|花 =<br />
|シンボル名 =<br />
|鳥など =<br />
|郵便番号 =<br />
|所在地 = 城東区<br />
|電話番号 =<br />
|外部リンク =<br />
|経度 =<br />
|緯度 =<br />
|位置画像 =<br />
|特記事項 =<br />
}}<br />
'''城東区'''(じょうとうく)とは、かつて[[東京府]][[東京市]](後に[[東京都]])に存在した区。23区に再編されるまで東京35区を構成していた。(本区は1932年に編入された郊外20区)<br />
<br />
== 歴史 ==<br />
区名は[[皇居]]([[江戸城]])の東側にあることに由来している。東京市の一部ではあったが完全な行政区ではなく一定の自治が認められていた。東を[[荒川 (関東)|荒川]]・[[旧中川]]、北を[[北十間川]]、西を[[横十間川]]、南を[[東京湾]]に囲まれた地域であった。<br />
<br />
当初は[[亀戸]]を中心とした寺社地域や水運関係を除けば[[農業]]地域であったが、次第に[[都心]]部へ[[通勤]]する人々の[[住宅]]や水運を利用した工場建設などが行われ、[[1935年]]10月1日の統計では人口18.43万人、面積10.18平方キロに達した。<br />
<br />
[[東京大空襲]]によって区内全域が大きな被害を受けた。[[1947年]][[3月15日]]の大規模な区の統合に伴い、隣の[[深川区]]と合併して[[江東区]]となった。<br />
<br />
=== 沿革 ===<br />
* [[1932年]](昭和7年)[[10月1日]] - [[南葛飾郡]]全域が'''[[東京市]]'''に編入。[[亀戸町]]、[[大島町 (東京府)|大島町]]、[[砂町]]の区域に'''城東区'''を設置。<br />
** 東京市による最初の区名原案は'''「亀戸区」'''(かめいどく)だった。その後区名案が'''「小名木区」'''(おなぎく)に変更され、その後各所から寄せられた様々な陳情を受け、[[東京都議会|東京府議会]]に於いて「城東区」と再変更され決定された<ref>なんだこりゃ? 知って驚く東京「境界線」の謎(小林政能 著、[[実業之日本社]] 2016年3月1日 刊)p.120 - 121</ref>。<br />
* [[1943年]](昭和18年)[[7月1日]] - [[東京都制]]が施行され、東京市と東京府が廃止され、東京都を設置。<br />
* [[1947年]](昭和22年)[[3月15日]] - 特別区への移行のため、深川区・城東区の区域をもってて'''江東区'''を新設。<br />
<br />
== 参考文献 ==<br />
*細田隆善「城東区」(『国史大辞典 7』(吉川弘文館、1986年) ISBN 978-4-642-00507-4)<br />
<br />
== 交通 ==<br />
=== 鉄道 ===<br />
* [[日本国有鉄道|国鉄]](現[[東日本旅客鉄道|JR東日本]])<br />
** [[中央・総武緩行線|総武線]]:[[亀戸駅]]<br />
* [[東武鉄道]]<br />
** [[東武亀戸線|亀戸線]]:亀戸駅 - [[亀戸水神駅]]([[1946年]]に北十間駅と統合移転) - 北十間駅(廃駅) <br />
* [[東京都電車]](廃線)<br />
** 小松川線、[[都電砂町線|砂町線]]、葛西橋線<br />
<br />
[[西大島駅]]、[[大島駅 (東京都)|大島駅]]、[[東大島駅]]([[都営地下鉄]][[都営地下鉄新宿線|新宿線]])、および[[南砂町駅]]([[東京地下鉄|東京メトロ]][[東京メトロ東西線|東西線]])は開業していなかった。なお城東区域周辺に[[新木場駅]]([[東日本旅客鉄道|JR東日本]][[京葉線]]、[[東京メトロ有楽町線|有楽町線]]、[[東京臨海高速鉄道]][[東京臨海高速鉄道りんかい線|りんかい線]])葉線)があるが、城東区が存在していた頃は駅周辺の土地が[[埋立地|埋め立て]]られていなかった。<br />
<br />
== 脚注 ==<br />
<references/><br />
<br />
== 関連項目 ==<br />
* [[東京都の廃止市町村一覧]]<br />
<br />
{{東京35区}}<br />
{{Japan-area-stub}}<br />
{{DEFAULTSORT:しようとうく}}<br />
[[Category:東京市の区]]<br />
[[Category:江東区域の廃止市町村]]<br />
[[Category:1932年に成立した行政区画]]<br />
[[Category:1947年に廃止された行政区画]]</div>
114.161.14.158
芝区
2018-08-08T10:13:59Z
<p>114.161.14.158: </p>
<hr />
<div>{{日本の市 (廃止)<br />
|廃止日=[[1947年]][[3月15日]]<br />
|廃止理由=特別区の設置<br />
|廃止詳細='''芝区'''、[[麻布区]]、[[赤坂区]] → '''[[港区 (東京都)|港区]]'''<br />
|現在の自治体=港区<br />
|自治体名=芝区<br />
|市章 = <br />
|市章の説明 = <br />
|都道府県=東京都<br />
|支庁=<br />
|コード=<br />
|面積=<br />
|境界未定=<br />
|人口=67,116<br />
|人口の出典=人口調査<br />
|人口の時点=1945年11月1日<br />
|隣接自治体=麻布区、赤坂区、[[麹町区]]、[[京橋区]]、[[渋谷区]]、[[目黒区]]、[[品川区]]<br />
|木=<br />
|花=<br />
|シンボル名=<br />
|鳥など=<br />
|郵便番号=<br />
|所在地=芝区芝公園6号地1番地<br />
|外部リンク=<br />
|InternetArchive=<br />
| 緯度度 =35 |緯度分 =39 |緯度秒 =29<br />
| 経度度 =139 |経度分 =45 |経度秒 =4<br />
|位置画像=<br />
|特記事項=<br />
}}<br />
'''芝区'''(しばく)は、[[1878年]]から[[1947年]]にかけて[[東京]]に存在した[[区]]。<br />
<br />
== 概要 ==<br />
現在の[[港区 (東京都)|港区]]の前身となった3つの区(芝区・[[赤坂区]]・[[麻布区]])のひとつである。[[1878年]](明治11年)[[11月2日]]、[[郡区町村編制法]]によって発足した。その範囲は、現在の港区の範囲のうち、[[赤坂 (東京都港区)|赤坂]]・[[青山 (東京都港区)|青山]]・[[麻布]]・[[六本木]]を除くすべての地域にほぼ一致する。<br />
<br />
== 歴史 ==<br />
* [[戦国時代 (日本)|戦国時代]]までに、当地域は[[武蔵国]][[荏原郡]]の柴村・桜田村・金杉村・三田村・上高輪村・下高輪村・今里村および荏原郡と[[豊島郡 (武蔵国)|豊島郡]]の[[入会地]]とされた白金村として成立する。柴村は後に豊島郡の所属となる。<br />
* 1651年([[慶安]]4年)、白金村より白金台町1から11丁目と白金猿町が分離する。 <br />
* [[1662年]]([[寛文]]2年)、豊島郡柴村、荏原郡金杉町、三田村の一部、上高輪村が町奉行支配となる。<br />
* [[1696年]]([[元禄]]9年)、[[虎ノ門]]地区の組屋敷があった場所に新しく神谷町が成立する。また、元禄期までに隣接する[[西久保 (東京都港区)|西久保]]地区に西久保車坂町・西久保新下谷町・西久保同朋町などの町が成立し、町奉行支配となる。<br />
* [[1710年]]([[宝永]]7年)、新橋地区に芝口一から四丁目・源助町などが町屋として成立し、町奉行支配となる。<br />
* [[1713年]]([[正徳 (日本)|正徳]]3年)、白金台町と白金猿町、荏原郡下高輪村が町奉行支配となる。<br />
* [[1868年]]([[明治]]元年)、[[東京府]]成立にともない、当地域は東京府の所属となる。<br />
* [[1878年]](明治11年)[[11月2日]]、[[郡区町村編制法]]により[[東京15区]]の一つとして、以下の区域をもって芝区が発足。東京府に所属し、東京府芝区となる。発足時の人口は58,861人、戸数は14,757戸。<br />
{{芝区の発足時の町名}}<br />
* [[1888年]](明治22年)[[5月1日]]、東京府に[[市制]]・[[町村制]]が施行され、[[東京市]]が発足。芝区は東京市に所属し、東京市芝区となる。それに伴い、荏原郡白金村の一部を編入(残部は[[大崎町 (東京府)|大崎村]]に編入)。編入された区域には、のちに白金三光町(現白金、白金台)、白金今里町(現白金台)を新設。<br />
* [[1911年]](明治44年)、町名の「芝」の冠称を廃止。三田君塚町を君塚町に改称。<br />
* [[1923年]]([[大正]]12年)[[9月1日]]、[[関東大震災]]により北方面が焼失。<br />
* [[1929年]]([[昭和]]4年)、芝区役所が[[芝公園]]6号地(現在の[[港区役所 (東京都)|港区役所]]所在地)に移転する。この頃の芝区の人口は175,760人(昭和5年)。<br />
* [[1932年]](昭和7年)、震災復興後の区画整理に伴い、現在の新橋、浜松町地域で町名の統合整理を実施。<br />
* [[1933年]](昭和8年)[[11月16日]]、高輪海岸埋立地に高浜町(現港南)を新設。<br />
* [[1943年]](昭和18年)[[4月1日]]、高浜町地先の埋立地に海岸通五丁目、六丁目(現港南)を新設。<br />
* [[1943年]](昭和18年)[[7月1日]]、[[東京都制]]施行により、東京府と東京市は廃止され[[東京都]]が発足。芝区は東京都芝区となる。この頃の芝区の人口は191,445人(昭和15年)。<br />
* [[1945年]](昭和20年)、数回にわたる[[東京大空襲]]により、区内の68,000人以上が罹災する。<br />
* [[1947年]](昭和22年)[[3月15日]]、特別区への移行のため芝区・麻布区及び赤坂区の区域をもって新たに港区が発足し、芝区は消滅する。同時に旧芝区の町名に「芝」の冠称がつけられる。(一部を除く)<br />
<br />
== 交通 ==<br />
=== 鉄道路線 ===<br />
* [[日本国有鉄道]](現[[東日本旅客鉄道|JR東日本]])<br />
** [[東海道本線]](京浜線(現[[京浜東北線]])) : 烏森駅(→新・[[新橋駅]]) - 旧・新橋駅(→[[汐留駅 (国鉄)|汐留駅]]、その後廃駅) - [[浜松町駅]] - [[田町駅]] - [[品川駅]]<br />
* [[京浜急行電鉄#歴史|京浜電気鉄道]](→[[大東急|東京急行電鉄(大東急)]]、現[[京浜急行電鉄]])<br />
** [[京急本線]] : 品川駅<br />
* [[東京地下鉄道]](→[[帝都高速度交通営団]]、現[[東京地下鉄|東京メトロ]])<br />
** 東京地下鉄道線(個別の線名なし; 現[[東京メトロ銀座線|銀座線]]) : 新橋駅<br />
* [[東京高速鉄道]](→帝都高速度交通営団、現東京メトロ)<br />
** 渋谷線(現銀座線) : 新橋駅 - [[虎ノ門駅]]<br />
* [[東京都電車]]<br />
** 蓬莱橋線、[[都電金杉線|金杉線]]、三田線、[[都電品川線|品川線]]、虎ノ門線、札の辻線、六本木線、古川橋線、伊皿子線、目黒線、五反田線<br />
<br />
[[東海旅客鉄道|JR東海]][[東海道新幹線]]、東京メトロ[[東京メトロ日比谷線|日比谷線]]、[[東京メトロ南北線|南北線]]、[[都営地下鉄]][[都営地下鉄浅草線|浅草線]]、[[都営地下鉄三田線|三田線]]、[[都営地下鉄大江戸線|大江戸線]]、[[東京モノレール]][[東京モノレール羽田空港線|羽田空港線]]、[[ゆりかもめ (鉄道会社)|ゆりかもめ]][[ゆりかもめ東京臨海新交通臨海線|東京臨海新交通臨海線]]は未開通。また[[汐留駅]](都営浅草線、ゆりかもめ線)、[[竹芝駅]]、[[日の出駅]]、[[芝浦ふ頭駅]](ゆりかもめ線)、[[芝公園駅]]、[[御成門駅]](都営三田線)、[[大門駅 (東京都)|大門駅]](都営浅草線、都営大江戸線)、[[三田駅 (東京都)|三田駅]](都営三田線、都営大江戸線)、[[泉岳寺駅]](京急本線、都営浅草線)、[[高輪台駅]](都営浅草線)および[[白金高輪駅]]、[[白金台駅]](都営三田線、南北線)は開業していなかった。なお、芝区域周辺に[[東京テレポート駅]](りんかい線)および[[お台場海浜公園駅]]、[[台場駅]]、[[船の科学館駅]]、[[テレコムセンター駅]]、[[青海駅 (東京都)|青海駅]]、[[国際展示場正門駅]](ゆりかもめ線)があるが、芝区が存在していた頃は駅周辺の土地が[[埋立地|埋め立て]]られていなかった。<br />
<br />
== 著名な出身者 ==<br />
* [[大陽寺順一]] - [[社会政策]]学者<br />
* [[山澤逸平]] - [[経済学者]]<br />
* [[島岡達三]] - [[陶芸家]]<br />
* [[吉井勇]] - [[歌人]]<br />
* [[松本泰]] - [[小説家]]<br />
* [[長崎抜天]] - [[漫画家]]<br />
* [[横井福次郎]] - 漫画家<br />
* [[三田平凡寺]] - 珍品[[蒐集家]]<br />
* [[小沢栄太郎]] - [[俳優]]、[[演出家]]<br />
* [[長弘]] - 俳優<br />
* [[山本礼三郎]] - 俳優<br />
* [[葉山純之輔]] - 俳優<br />
* [[椙山拳一郎]] - 俳優<br />
* [[丹羽又三郎]] - 元俳優<br />
* [[南田洋子]] - [[俳優|女優]]<br />
* [[清川玉枝]] - 女優<br />
* [[高峰三枝子]] - 女優<br />
* [[夏川静江]] - 女優<br />
* [[桑野通子]] - 女優<br />
* [[大倉千代子]] - 女優<br />
* [[葛城文子]] - 女優<br />
* [[五月潤子]] - 女優<br />
* [[花島喜世子]] - 女優、[[歌手]]<br />
* [[春風亭柳朝 (5代目)|5代目 春風亭柳朝]] - [[落語家]]<br />
* [[佐伯幸三]] - [[映画監督]]、[[脚本家]]<br />
* [[木村荘十二]] - 映画監督<br />
* [[滝沢英輔]] - 映画監督、脚本家、俳優<br />
* [[二川文太郎]] - 映画監督、脚本家<br />
* [[津田秀水]] - [[活動弁士]]、映画監督、俳優、[[実業家]]<br />
* [[本木荘二郎]] - [[映画プロデューサー]]、映画監督、脚本家<br />
* [[小川紳介]] - [[ドキュメンタリー]]映画監督<br />
* [[橋戸信]] - アマチュア[[野球選手]]、[[新聞記者]]<br />
* [[伊東絹子]] - [[1953年]]([[昭和]]28年)[[ミス・ユニバース・ジャパン|ミス・ユニバース日本代表]]、世界大会3位<br />
* [[芥川隆行]] - アナウンサー<br />
<br />
== 関連項目 ==<br />
* [[東京15区]]<br />
* [[東京都の廃止市町村一覧]]<br />
<br />
{{Geographic Location<br />
|Centre = 芝区<br />
|North = [[麹町区]]<br />
|Northeast = [[京橋区]]<br />
|East = <br />
|Southeast = <br />
|South = [[品川区]]<br />
|Southwest = <br />
|West = [[渋谷区]]<br />[[目黒区]]<br />
|Northwest = [[赤坂区]]<br />[[麻布区]]<br />
|image =<br />
}}<br />
{{東京35区}}<br />
<br />
{{DEFAULTSORT:しはく}}<br />
[[Category:東京市の区]]<br />
[[Category:東京都港区域の廃止市町村]]<br />
[[Category:戦前日本の府県の区]]<br />
[[Category:芝 (東京都港区)|*しはく]]<br />
[[Category:1878年に成立した行政区画]]<br />
[[Category:1947年に廃止された行政区画]]</div>
114.161.14.158
下谷区
2018-08-08T10:13:41Z
<p>114.161.14.158: </p>
<hr />
<div>{{日本の市 (廃止)<br />
|廃止日=[[1947年]][[3月15日]]<br />
|廃止理由=特別区の設置<br />
|廃止詳細='''下谷区'''、[[浅草区]] → '''台東区'''<br />
|現在の自治体=[[台東区]]<br />
|自治体名=下谷区<br />
|区分=区<br />
|都道府県=東京都<br />
|支庁=<br />
|郡=<br />
|コード=<br />
|面積=<br />
|境界未定=なし<br />
|人口=<br />
|人口の時点=<br />
|隣接自治体=浅草区、[[神田区]]、[[本郷区]]、[[荒川区]]<br />
|木=<br />
|花=<br />
|シンボル名=<br />
|鳥など=<br />
|郵便番号=<br />
|所在地=下谷区北稲荷町43<br />
|電話番号=<br />
|外部リンク=<br />
|経度=<br />
|緯度=<br />
|位置画像=<br />
|特記事項=<br />
}}<br />
<br />
'''下谷区'''(したやく)とは、[[東京府]][[東京市]]、[[東京都]]にかつて存在した区である。現在の[[台東区]]の西部に位置していた。<br />
<br />
== 歴史 ==<br />
{{main|下谷}}<br />
=== 沿革 ===<br />
* [[1878年]](明治11年)[[11月2日]] - [[郡区町村編制法]]により、以下の区域をもって'''下谷区'''を設置。<br />
{{下谷区の発足時の町名}}<br />
* 時期不明(1889年ごろ) - 谷中片町、谷中七面前町を谷中初音町に編入。 <br />
* [[1889年]](明治22年)[[5月1日]] - [[市制]]、[[町村制]]の施行に伴う[[東京市]]の設置により、以下の再編が行われた。<br />
** 下谷区の一部(下谷通新町)が[[北豊島郡]][[南千住町]]に編入。<br />
** 北豊島郡谷中村、竜泉寺村、下谷竜泉寺町の全域と、以下の5村の各一部を編入(カッコ内は残部の編入先)。1891年まで「区」の中に「村」が存在していた。<br />
*** 日暮里村(東京市[[本郷区]]、[[日暮里町|日暮里村]])<br />
*** 金杉村(日暮里村)<br />
*** 下駒込村(東京市本郷区)<br />
*** 千束村(東京市[[浅草区]]、[[南千住町]])<br />
*** 坂本村(東京市浅草区)<br />
*** 三ノ輪村(南千住町、[[三河島町|三河島村]])<br />
* [[1891年]](明治24年) - 1889年に編入された区域に以下の町丁を設置。<br />
** 下谷入谷町(現:北上野、[[松が谷 (台東区)|松が谷]]、入谷、下谷、ごく一部は竜泉)<br />
** 下谷竜泉寺町(現:竜泉、三ノ輪、[[千束]])<br />
** 下谷上根岸町、下谷中根岸町、下谷下根岸町(現:根岸)<br />
** 谷中天王寺町(現:谷中、ごく一部は上野桜木)<br />
* [[1911年]](明治44年)<br />
** 町名の「下谷」の冠称を廃止。<br />
** 上野東黒門町、上野西黒門町を、それぞれ東黒門町、西黒門町に改称。<br />
* [[1914年]](大正3年) - 上野公園地を[[上野恩賜公園]]に改称。<br />
*[[1923年]](大正12年)[[9月1日]]‐[[関東大震災]]によりほぼ全滅。<br />
* [[1937年]](昭和12年) - 坂本町一丁目、坂本町二丁目、坂本町三丁目、坂本町四丁目、善養寺町、坂本裏町、箪笥町の全域と、豊住町、入谷町、竜泉寺町、金杉上町、金杉下町の各一部の区域に坂本一丁目、坂本二丁目、金杉一丁目、金杉二丁目を設置。<br />
* [[1943年]](昭和18年)<br />
** [[7月1日]] - [[東京都制]]が施行され、東京市と東京府が廃止され、東京都を設置。<br />
** 浅草区神吉町、永住町、松葉町、光月町、千束一丁目の各一部を編入。南稲荷町、龍泉寺町の一部を浅草区に編入。各町ともに下谷区、浅草区に分立する形となった。<br />
** [[神田区]][[神田松永町|松永町]]の一部(現:秋葉原)を編入。練塀町の一部(現:神田練塀町)を神田区に編入。<br />
* [[1947年]](昭和22年)[[3月15日]] - [[浅草区]]と合併して'''[[台東区]]'''を新設。下谷区役所がそのまま台東区役所となった。<br />
<br />
== 交通 ==<br />
=== 鉄道 ===<br />
* [[日本国有鉄道|国鉄]](現[[東日本旅客鉄道|JR東日本]])<br />
** [[東北本線]]([[山手線]]、[[京浜東北線|東北・京浜線]]) : [[御徒町駅]] - [[上野駅]] - [[鶯谷駅]]<br />
* [[京成電鉄#歴史|京成電気軌道]](現[[京成電鉄]])<br />
** [[京成本線]] : 上野公園駅(現[[京成上野駅]]) - [[博物館動物園駅]](廃駅) - [[寛永寺坂駅]](廃駅)<br />
* [[東京地下鉄道]](→[[帝都高速度交通営団]]、現[[東京地下鉄|東京メトロ]])<br />
** 東京地下鉄道線(個別の線名なし; 現[[東京メトロ銀座線|銀座線]]) : [[上野広小路駅]] - 上野駅 - [[稲荷町駅 (東京都)|稲荷町駅]]<br />
* [[東京都電車]](廃線)<br />
** 上野線、和泉橋線、厩橋線、吾妻橋線、動橋線、三ノ輪線、千束線<br />
<br />
JR東日本[[東北新幹線]]、東京メトロ[[東京メトロ日比谷線|日比谷線]]は未開通。また[[三ノ輪駅]]、[[入谷駅 (東京都)|入谷駅]]、[[仲御徒町駅]](東京メトロ日比谷線)、[[上野御徒町駅]]([[都営地下鉄]][[都営地下鉄大江戸線|大江戸線]])、[[新御徒町駅]](都営大江戸線、[[首都圏新都市鉄道]][[首都圏新都市鉄道つくばエクスプレス|つくばエクスプレス]])は開業していなかった。<br />
<br />
== 著名な出身者 ==<br />
''現台東区の著名な出身者については[[台東区]]を参照''<br />
* [[小沢一郎]] - 国会議員、第6代[[民主党 (日本 1998-2016)|民主党]][[民主党代表|代表]]ほか各党[[党首]]を歴任、[[第2次中曽根内閣第2次改造内閣|第34代]][[自治大臣]]、[[本籍地]]は[[岩手県]][[奥州市]](旧[[水沢市]])<br />
* [[石田五郎]] - [[日本の天文学者の一覧|天文学者]]<br />
* [[市河三喜]] - [[英語学者]]<br />
* [[高村光太郎]] - [[彫刻家]]・[[詩人]]<br />
* [[石井鶴三]] - 彫刻家、[[版画家]]、[[洋画家]]<br />
* [[石井柏亭]] - 版画家・[[洋画家]]・美術[[評論家]]<br />
* [[小絲源太郎]] - 洋画家・版画家<br />
* [[野田九浦]] - [[日本画家]]<br />
* [[水島爾保布]] - 日本画家・[[小説家]]・[[漫画家]]・[[随筆家]]<br />
* [[山下新太郎 (洋画家)|山下新太郎]] - 洋画家<br />
* [[浅尾丁策]] - 絵画修復家<br />
* [[木村伊兵衛]] - [[写真家]]<br />
* [[桑原甲子雄]] - 写真家<br />
* [[濱谷浩]] - 写真家<br />
* [[荒木経惟]] - 写真家<br />
* [[福島泰樹]] - [[歌人]]<br />
* [[水野葉舟]] - 詩人・歌人・小説家・[[心霊現象]]研究者<br />
* [[柳川春葉]] - 小説家・[[劇作家]]<br />
* [[村上信彦]] - 小説家・[[女性史]][[研究家]]・医事評論家<br />
* [[山川方夫]] - 小説家<br />
* [[小沼丹]] - 小説家・[[英文学者]]<br />
* [[内藤千代子]] - 小説家<br />
* [[小島政二郎]] - 小説家・随筆家・[[俳人]]<br />
* [[山本夏彦]] - 随筆家・[[編集者]]<br />
* [[能村登四郎]] - 俳人<br />
* [[日野草城]] - 俳人<br />
* [[西東登]] - 小説家・[[推理作家]]<br />
* [[佐藤碧子]] - 小説家<br />
* [[今日泊亜蘭]] - [[SF作家]]<br />
* [[中村光夫]] - [[文芸評論]]家・劇作家・小説家<br />
* [[久保天随]] - [[中国文学者]]<br />
* [[小島功]] - 漫画家<br />
* [[滝田ゆう]] - 漫画家<br />
* [[いずみたく]] - [[作曲家]]<br />
* [[江利チエミ]] - [[歌手]]・[[俳優|女優]]<br />
* [[小椋佳]] - [[シンガーソングライター]]・[[作詞家]]・[[作曲家]]<br />
* [[河内桃子]] - 女優<br />
* [[渥美清]] - [[俳優]]・[[コメディアン]]<br />
* [[伊東四朗]] - 俳優・[[喜劇役者]]<br />
* [[香住佐代子]] - 女優<br />
* [[鈴木傳明]] - 俳優<br />
* [[武智豊子]] - 女優<br />
* [[田村秋子]] - 女優<br />
* [[坂東三津五郎 (8代目)|八代目坂東三津五郎]] -[[歌舞伎]]俳優<br />
* [[星玲子]] - 女優<br />
* [[唐十郎]] - 劇作家・[[演出家]]・俳優・小説家<br />
* [[近藤乾三]] - [[能楽師]]<br />
* [[藤田大五郎]] - 能楽笛方<br />
* [[林家三平 (初代)|林家三平]] - [[落語家]]<br />
* [[萩本欽一]] - コメディアン<br />
* [[ロイ・ジェームス]] - タレント・俳優<br />
* [[岡野俊一郎]] - [[サッカー選手]]・[[サッカー]][[監督]]、元[[日本サッカー協会]]会長、全国[[ラジオ体操]]連盟会長<br />
* [[若晃三昌]] - [[大相撲]][[力士]]<br />
<br />
== 関連項目 ==<br />
* [[東京都の廃止市町村一覧]]<br />
* [[台東区]]<br />
* [[下谷]]<br />
* [[台東区の町名]]<br />
<br />
{{東京35区}}<br />
{{Japan-area-stub}}<br />
{{DEFAULTSORT:したやく}}<br />
[[Category:東京市の区]]<br />
[[Category:台東区域の廃止市町村]]<br />
[[Category:戦前日本の府県の区]]<br />
[[Category:1878年に成立した行政区画]]<br />
[[Category:1947年に廃止された行政区画]]</div>
114.161.14.158
小石川区
2018-08-08T10:12:57Z
<p>114.161.14.158: </p>
<hr />
<div>{{日本の市 (廃止)<br />
|廃止日=[[1947年]][[3月15日]]<br />
|廃止理由=新設合併<br />
|廃止詳細=[[本郷区]]、'''小石川区''' → '''[[文京区]]'''<br />
|現在の自治体=文京区<br />
|自治体名=小石川区<br />
|市章 = <br />
|市章の説明 = <br />
|都道府県=東京都<br />
|支庁=<br />
|コード=<br />
|面積=<br />
|境界未定=なし<br />
|人口=43,444<br />
|人口の出典=人口調査<br />
|人口の時点=1945年11月1日<br />
|隣接自治体=本郷区、[[神田区]]、[[麹町区]]、<br />[[牛込区]]、[[淀橋区]]、[[豊島区]]<br />
|木=<br />
|花=<br />
|シンボル名=<br />
|鳥など=<br />
|郵便番号=<br />
|所在地=小石川区同心町30<br />
|外部リンク=<br />
|InternetArchive=<br />
| 緯度度 =35 |緯度分 =42 |緯度秒 =29<br />
| 経度度 =139 |経度分 =44 |経度秒 =45.5<br />
|位置画像=<br />
|特記事項=<br />
}}<br />
<br />
'''小石川区'''(こいしかわく)とは、[[東京府]][[東京市]]、[[東京都]]にかつて存在した区である。現在の[[文京区]]の西部に位置していた。<br />
<br />
== 歴史 ==<br />
{{main|小石川}}<br />
<br />
=== 沿革 ===<br />
* [[1878年]](明治11年)[[11月2日]] - [[郡区町村編制法]]により、以下の区域をもって'''小石川区'''を設置。<br />
{{小石川区の発足時の町名}}<br />
* [[1880年]](明治13年)9月 - 新小川町一丁目、新小川町二丁目、新小川町三丁目を[[牛込区]]に編入。<br />
* [[1889年]](明治22年)[[5月1日]] - [[市制]]、[[町村制]]の施行に伴う[[東京市]]の設置により、以下の再編が行われた。 <br />
** 巣鴨町一丁目、巣鴨町二丁目、巣鴨町三丁目、巣鴨町四丁目、小石川大塚辻町飛地を[[北豊島郡]][[巣鴨町]]に編入。<br />
** 高田老松町、高田豊川町、雑司ヶ谷町の各一部を北豊島郡北豊島郡[[高田町 (東京府)|高田村]]に編入。<br />
** [[北豊島郡]]の以下の5村の各一部を編入(カッコ内は残部の編入先)。1891年まで「区」の中に「村」が存在していた。<br />
*** 小石川村(高田村)<br />
*** 雑司ヶ谷村(高田村)<br />
*** 巣鴨村(高田村、巣鴨町、[[西巣鴨町|巣鴨村]])<br />
*** 高田村(高田村、[[戸塚町 (東京府)|戸塚村]])<br />
* [[1891年]](明治24年)<br />
** 小石川村の一部の区域に小石川氷川下町(現大塚、千石)、小石川村と久堅町のそれぞれ一部の区域に白山御殿町(現白山、小石川)を設置。<br />
** 巣鴨仲町、巣鴨原町、巣鴨駕籠町を、それぞれ小石川西丸町、小石川西原町、小石川駕籠町に改称。<br />
* [[1911年]](明治44年)<br />
** 小日向台町と小日向水道町を除き、町名の「小石川」「小日向」の冠称を廃止。<br />
** 小石川春日町の全域、小石川町の一部の区域に春日町一丁目、春日町二丁目、春日町三丁目(現春日、後楽、小石川、本郷)を設置。<br />
* [[1925年]](大正14年) - 掃除町を八千代町に改称。<br />
* [[1931年]](昭和6年) - [[関東大震災]]([[1923年]])で焼失を逃れたことにより「不良住宅地区」(湿地・窪地・袋地などに貧しい長屋が建ち並ぶ地域)の震災復興事業がなされず、東京で最も不良住宅地区が多い区となる<ref>『東京大学が文京区になかったら: 「文化のまち」はいかに生まれたか』伊藤毅、 樺山紘一、 初田香成、 橋元貴、 森朋久、 松山恵、 赤松加寿江、 勝田俊輔、NTT出版, 2018, p100</ref>。<br />
* [[1943年]](昭和18年)[[7月1日]] - [[東京都制]]が施行され、東京市と東京府が廃止され、東京都を設置。<br />
* [[1940年]](昭和15年)<br />
** 小石川町を小石川町一丁目、小石川町二丁目に分割。<br />
** 西富坂町、下富坂町、上富坂町、中富坂町、餌差町の全域と、仲町の一部の区域に富坂一丁目、富坂二丁目を設置。<br />
* [[1947年]](昭和22年)[[3月15日]] - [[本郷区]]と合併して'''[[文京区]]'''を新設。<br />
<br />
== 交通 ==<br />
=== 鉄道 ===<br />
* [[東京都電車]](廃線)<br />
** お茶の水線、水道橋線、白山線、巣鴨線、切通線、富坂線、大塚線、江戸川線、護国寺線、池袋線<br />
<br />
[[江戸川橋駅]]、[[護国寺駅]]([[帝都高速度交通営団]](現[[東京地下鉄|東京メトロ]])[[東京メトロ有楽町線|有楽町線]])、[[茗荷谷駅]]、[[新大塚駅]](東京メトロ[[東京メトロ丸ノ内線|丸ノ内線]])、および[[千石駅]]([[都営地下鉄]][[都営地下鉄三田線|三田線]])は開業していなかった。<br />
<br />
== 著名な出身者 ==<br />
{{Main2|現文京区の著名な出身者|文京区}}<br />
* [[宣仁親王妃喜久子]] - [[皇族]]、[[高松宮宣仁親王]]の妃<br />
* [[鳩山威一郎]] - [[官僚]]、[[政治家]]<br />
* [[鳩山由紀夫]] - 政治家<br />
* [[徳川慶光]] - 官僚、政治家、[[陸軍軍人]]<br />
* [[細川護立]] - [[宮内省|宮内]]官僚、政治家<br />
* [[山口多聞]] - [[大日本帝国海軍]][[軍人]]<br />
* [[吉阪隆正]] - [[建築家]]<br />
* [[波江悌夫]] - 建築家<br />
* [[鳥尾敬孝]] - [[実業家]]<br />
* [[若槻有格]] - 実業家<br />
* [[藤沢武夫]] - 実業家<br />
* [[朝永振一郎]] - [[物理学者]]<br />
* [[堤精二]] - [[国文学者]]<br />
* [[永井秀夫]] - [[歴史学者]]<br />
* [[美濃口時次郎]] - [[社会政策]]学者、官僚<br />
* [[仁田勇]] - [[物理化学]]者<br />
* [[蛭川幸茂]] - [[旧制高校]]、及び[[新制大学]]の[[教授]]<br />
* [[岡田孝男]] - [[医師]]、[[医学博士]]<br />
* [[貴島清彦]] - [[作曲家]]<br />
* [[大築邦雄]] - 作曲家<br />
* [[関屋敏子]] - [[声楽家]]、作曲家<br />
* [[松平頼則]] - 作曲家、[[ピアニスト]]<br />
* [[久保田孝]] - [[指揮者]]、作曲家、マンドリン教師<br />
* [[横山潤之助]] - [[洋画家]]<br />
* [[高崎剛]] - 洋画家<br />
* [[藤富保男]] - [[詩人]]<br />
* [[高柳重信]] - 詩人<br />
* [[篠田悌二郎]] - 詩人<br />
* [[荻昌弘]] - [[映画評論家]]、[[料理研究家]]、オーディオ評論家<br />
* [[岩村透]] - [[美術評論家]]、[[東京美術学校 (旧制)|東京美術学校]]教授<br />
* [[高坂和彦]] - [[フランス文学者]]、[[翻訳家]]<br />
* [[片野一郎]] - [[会計学者]]、[[一橋大学]]名誉教授<br />
* [[三浦つとむ]] - [[言語学者]]<br />
* [[永井荷風]] - [[小説家]]<br />
* [[宮本百合子]] - 小説家<br />
* [[松田瓊子]] - 小説家<br />
* [[都筑道夫]] - [[推理作家]]<br />
* [[中川芳江]] - [[新派|新派女優]]、映画[[俳優|女優]](小松みどりの姉)<br />
* [[小松みどり (1891年生)|小松みどり]] - 新派女優、映画女優(中川芳江の妹、[[小松みどり (1949年生)]]とは別人)<br />
* [[桜むつ子]] - 女優<br />
* [[浦路輝子]] - 女優<br />
* [[坪内美子]] - 女優<br />
* [[宮城野由美子]] - [[宝塚歌劇団卒業生]]の元女優<br />
* [[関山耕司]] - [[俳優]]<br />
* [[大村文武]] - 俳優<br />
* [[津村博]] - 俳優<br />
* [[山田真二]] - 俳優、歌手<br />
* [[河村順子]] - [[童謡]][[歌手]]<br />
* [[押山保明]] - [[映画監督]]、[[映画プロデューサー]]、[[プロレス]]の[[プロモーター]]<br />
* [[芹川有吾]] - [[アニメ監督|アニメーション演出家]]、[[脚本家]]、映画監督<br />
* [[西崎義展]] - プロデューサー、[[アニメ監督]]<br />
* [[糸居五郎]] - 元[[ニッポン放送]]の[[アナウンサー]]<br />
* [[山本文郎]] - [[フリーアナウンサー]]、元TBS(東京放送)アナウンサー<br />
* [[立川談志]] - [[落語家]]<br />
* [[三遊亭圓馬#4代目|4代目三遊亭 圓馬]] - 落語家<br />
* [[脇村春夫]] - 第5代[[日本高等学校野球連盟]]会長<br />
<br />
== 脚注 ==<br />
{{脚注ヘルプ}}<br />
{{Reflist}}<br />
<br />
== 関連項目 ==<br />
* [[東京都の廃止市町村一覧]]<br />
* [[太陽のない街]]<br />
{{Geographic Location<br />
|Centre = 小石川区<br />
|North = <br />
|Northeast = <br />
|East = [[本郷区]]<br />
|Southeast = [[神田区]]<br />
|South = [[麹町区]]<br />
|Southwest = [[牛込区]]<br />
|West = [[淀橋区]]<br />
|Northwest = [[豊島区]]<br />
|image =<br />
}}<br />
<br />
{{東京35区}}<br />
{{Japan-area-stub}}<br />
{{DEFAULTSORT:こいしかわく}}<br />
[[Category:東京市の区]]<br />
[[Category:文京区域の廃止市町村]]<br />
[[Category:戦前日本の府県の区]]<br />
[[Category:1878年に成立した行政区画]]<br />
[[Category:1947年に廃止された行政区画]]</div>
114.161.14.158
大森区
2018-08-08T10:10:24Z
<p>114.161.14.158: </p>
<hr />
<div>{{日本の市 (廃止)<br />
|廃止日=[[1947年]][[3月15日]]<br />
|廃止理由=新設合併<br />
|廃止詳細='''大森区'''、[[蒲田区]] → '''[[大田区]]'''<br />
|現在の自治体=大田区<br />
|自治体名=大森区<br />
|市章 = <br />
|市章の説明 = <br />
|都道府県=東京都<br />
|支庁=<br />
|コード=<br />
|面積=<br />
|境界未定=なし<br />
|人口=160,865<br />
|人口の出典=人口調査<br />
|人口の時点=1945年11月1日<br />
|隣接自治体=蒲田区、[[品川区]]、[[荏原区]]、<br />[[目黒区]]、[[世田谷区]]、[[川崎市]]<br />
|木=<br />
|花=<br />
|シンボル名=<br />
|鳥など=<br />
|郵便番号=<br />
|所在地=大森区新井宿五丁目<br />
|外部リンク=<br />
|InternetArchive=<br />
| 緯度度 =35 |緯度分 =34 |緯度秒 =45<br />
| 経度度 =139 |経度分 =43 |経度秒 =13<br />
|位置画像=<br />
|特記事項=<br />
}}<br />
<br />
'''大森区'''(おおもりく)とは、かつて[[東京府]][[東京市]](後に[[東京都]])に存在した区。<br />
<br />
== 歴史 ==<br />
{{main|大田区#歴史}}<br />
=== 沿革 ===<br />
* [[1932年]](昭和7年)[[10月1日]] - [[荏原郡]]全域が'''[[東京市]]'''に編入。[[大森町 (東京府)|大森町]]、[[入新井町]]、[[馬込町]]、[[池上町 (東京府)|池上町]]、[[東調布町]]の区域に'''大森区'''を設置。<br />
* [[1943年]](昭和18年)[[7月1日]] - [[東京都制]]施行。東京市と東京府が廃止され、東京都を設置。<br />
* [[1947年]](昭和22年)[[3月15日]] - [[蒲田区]]と合併して'''[[大田区]]'''を新設。<br />
<br />
== 交通 ==<br />
=== 鉄道 ===<br />
大森区には9本の旅客向け鉄道路線が通っていたが、南北方向に走るか、あるいは区域の端をかすめるだけであった。<br />
地理的に見て大森区は東西に長い区であるが、区が存在した当時から2017年現在に至るまで、区域の中央部を東西に貫く鉄道路線はなく、東西方向の公共交通機関は路線バスに頼っている。<br />
<br />
* [[日本国有鉄道|国鉄]](現[[東日本旅客鉄道|JR東日本]])<br />
** [[東海道本線]]([[東海道線 (JR東日本)|東海道線]]、京浜線(現[[京浜東北線]]) : [[大森駅 (東京都)|大森駅]]<br />
* [[京浜急行電鉄#歴史|京浜電気鉄道]](→[[大東急|東京急行電鉄(大東急)]]、現[[京浜急行電鉄]])<br />
** [[京急本線|本線]] : 海岸駅(廃駅) - 大森八幡駅(廃駅) - 大森海水浴場前駅(廃駅) - 沢田駅(→学校裏駅、現[[平和島駅]]) - 山谷駅(→大森山谷駅、現[[大森町駅]])<br />
** [[京浜電気鉄道大森支線|大森支線]](廃線) : 大森停車場前駅<br />
* [[東京横浜電鉄]](→東京急行電鉄(大東急)、現[[東京急行電鉄]])<br />
** [[東急東横線|東横線]] : 調布駅(現[[田園調布駅]]) - 多摩川駅(→丸子多摩川駅→多摩川園前駅→多摩川園駅、現[[多摩川駅]])<br />
* [[目黒蒲田電鉄]](→東京横浜電鉄→東京急行電鉄(大東急)、現東京急行電鉄)<br />
** 目黒線(→[[東急目蒲線|目蒲線]]、現[[東急目黒線|目黒線]]) : [[大岡山駅]] -(この間は[[目黒区]]と[[世田谷区]]を通過) - 調布駅(現田園調布駅) - 多摩川駅(→丸子多摩川駅→多摩川園前駅→多摩川園駅、現多摩川駅)<br />
** 蒲田線(→目蒲線、現[[東急多摩川線|多摩川線]]) : 多摩川駅(→丸子多摩川駅→多摩川園前駅→多摩川園駅、現多摩川駅) - 丸子駅(→武蔵丸子駅、現[[沼部駅]]) - 鵜ノ木駅(現[[鵜の木駅]])<br />
** [[東急大井町線|大井町線]] : 池月駅(→洗足公園駅、現[[北千束駅]]) - 大岡山駅<br />
* [[池上電気鉄道]](→目黒蒲田電鉄→東京横浜電鉄→東京急行電鉄(大東急)、現東京急行電鉄)<br />
** [[東急池上線|池上線]] : [[長原駅 (東京都)|長原駅]] - [[洗足池駅]] - 石川駅(現[[石川台駅]]) - 旧・雪ヶ谷駅(廃駅) - 調布大塚駅(→新・雪ヶ谷駅→雪ヶ谷大塚駅、現[[雪が谷大塚駅]]) - 御嶽山前駅(現[[御嶽山駅]]) - 末広駅(→東調布駅→久ヶ原駅、現[[久が原駅]]) - 光明寺駅(廃駅) - 慶大グラウンド前駅(現[[千鳥町駅 (東京都)|千鳥町駅]]) - [[池上駅]]<br />
** [[目黒蒲田電鉄新奥沢線|新奥沢線]](廃線) : (大森区域内には、旧・雪ヶ谷駅、新・雪ヶ谷駅以外の駅は存在しなかった)<br />
<br />
[[馬込駅]]、[[西馬込駅]]([[都営地下鉄]][[都営地下鉄浅草線|浅草線]])は開業していなかった。なお、大森区域周辺に[[昭和島駅]]([[東京モノレール]][[東京モノレール羽田空港線|羽田空港線]])があるが、大森区が存在していた頃は駅周辺の土地の[[埋立地|埋め立て]]が完了していなかった。<br />
<br />
京急本線の[[大森海岸駅]]は[[品川区]]に所在した。<br />
<br />
=== 道路 ===<br />
* [[国道15号|京浜国道]]<br />
* [[第二京浜国道]]([[国道1号]])<br />
* [[東京都道421号東品川下丸子線|池上通り]]<br />
* [[中原街道]]<br />
<br />
== 関連項目 ==<br />
* [[東京都の廃止市町村一覧]]<br />
* [[大田区役所|大森区役所]]<br />
<br />
{{Geographic Location<br />
|Centre = 大森区<br />
|North = [[目黒区]] [[荏原区]]<br />
|Northeast = [[品川区]]<br />
|East = <br />
|Southeast = <br />
|South = [[蒲田区]]<br />
|Southwest = <br />
|West = [[川崎市]]<br />
|Northwest = [[世田谷区]]<br />
|image =<br />
}}<br />
<br />
{{東京35区}}<br />
{{Japan-area-stub}}<br />
{{DEFAULTSORT:おおもりく}}<br />
[[Category:東京市の区]]<br />
[[Category:大田区域の廃止市町村]]<br />
[[Category:1932年に成立した行政区画]]<br />
[[Category:1947年に廃止された行政区画]]</div>
114.161.14.158
王子区
2018-08-08T10:10:02Z
<p>114.161.14.158: </p>
<hr />
<div>{{日本の市 (廃止)<br />
|廃止日=[[1947年]][[3月15日]]<br />
|廃止理由=特別区の設置<br />
|廃止詳細='''王子区'''、[[滝野川区]] → '''北区'''<br />
|現在の自治体=[[北区 (東京都)|北区]]<br />
|自治体名=王子区<br />
|区分=区<br />
|都道府県=東京都<br />
|支庁=<br />
|郡=<br />
|コード=<br />
|面積=<br />
|境界未定=なし<br />
|人口=<br />
|人口の時点=<br />
|隣接自治体=【東京都】<br />滝野川区、[[荒川区]]、[[足立区]]、[[板橋区]]<br />【[[埼玉県]]】<br />[[川口市]]、[[北足立郡]][[戸田市|戸田町]]<br />
|木=<br />
|花=<br />
|シンボル名=<br />
|鳥など=<br />
|郵便番号=<br />
|所在地=王子区王子町一丁目<br />
|電話番号=<br />
|外部リンク=<br />
|経度=<br />
|緯度=<br />
|位置画像=<br />
|特記事項=<br />
}}<br />
<br />
'''王子区'''(おうじく)とは、[[東京府]][[東京市]]、[[東京都]]にかつて存在した区である。現在の[[北区 (東京都)|北区]]の北部に位置していた。<br />
<br />
== 歴史 ==<br />
伝承によれば、王子村は荒川の上流から見て氾濫原の右岸にある台地であったことから古くは岸村と呼ばれた。岸村の地名は王子村の台地東縁に岸という小字になって明治以降までも残り、現在は岸町1丁目、2丁目になっている。ここに[[王子稲荷神社]]がある。。『[[新編武蔵風土記稿]]』によれば、[[鎌倉時代]]後期の[[元亨]]2年([[1322年]])、この地に[[紀伊国|紀伊]][[牟婁郡]][[熊野]][[若一王子]]を勧請したことから王子村と改称したといわれる。これが現在の王子神社であり、[[王子神社の田楽]]として著名な北区指定無形民俗文化財「王子田楽<ref>[http://www2.ocn.ne.jp/~sasara/kaisetsu.html]</ref>」は王子宮勧請の際に創生された魔除けの[[田楽]]芸能とされる。<br />
<br />
『[[義経記]]』によれば[[源頼朝]]が[[隅田川]]を渡河して王子板橋に至ると書かれている<ref name="kado">『角川日本地名大辞典 13 東京都』、角川書店、1978年</ref>。平安時代後期から[[室町時代]]にかけては[[上中里]]に位置する[[平塚城]](現・[[上中里駅]]から[[攻坂]]を登った[[本郷通り]]沿いの平塚神社)を本拠地とする[[豊島氏]]が支配する[[豊島庄]]の一部であった。<br />
<br />
[[江戸時代]]になると王子村の中心には[[日光御成街道]](岩槻街道)が通って[[江戸]]の市街と直結され、[[18世紀]]には八代将軍[[徳川吉宗]]によって[[飛鳥山]]に桜が植えられたことをきっかけに、江戸市民が頻繁に足を運ぶようになった。飛鳥山の花見人気とともに、王子村の北部にある[[王子稲荷神社]]がもともと東国33ケ国(東海道の15国、東山道の11国、北陸道の7国)の[[稲荷神|稲荷社]]の頭領を自認していたこともあってか参拝客が増え、村内には料理屋や茶屋が立ち並んで、江戸郊外の手軽な行楽地として人気を集めた。狐火の伝承をもとに毎年大晦日には狐の行列が催される。<br />
<br />
[[明治時代]]に入ると、のちに王子区となる範囲が[[浦和県]](現・[[埼玉県]])に属した。[[1871年]]には[[東京府]]に編入され、王子村と周辺の村々が合併して王子村となり、旧王子村が[[大字]]王子として新設された村の中心となった。[[1875年]]になると、台地東の低地(現王子駅の東側)に日本で最初の[[紙|洋紙]]工場(旧[[王子製紙 (初代)|王子製紙]]、[[王子ホールディングス]]および[[日本製紙]]の前身)が操業を開始した。翌年には[[国立印刷局|印刷局]]がその隣接地に印刷所を設立し、石神井川・隅田川に沿った一帯の低地(現・北区王子、北区豊島)に工場が建設され始める。<br />
<br />
[[1883年]]には、[[東北本線]]の[[上野駅|上野]]・[[熊谷駅|熊谷]]間が開通すると王子駅が設けられた。その後工場進出が進み、[[大正]]の頃までに[[薬品]]、[[肥料]]の民間工場や[[火薬]]の工廠等が次々に生まれ、[[東京市]]北郊で屈指の工業地域に成長する。<br />
<br />
[[1911年]]には[[王子電気軌道]]の[[路面電車]](現在の[[都電荒川線]])が王子駅をターミナルとして営業を開始し、近隣の工場へ通勤する工員のため住宅の建設が進み始めた。[[1932年]]に王子町は東京市に合併され、北の旧岩淵町とともに王子区となった。[[東京都制]]により東京市王子区が東京都王子区になって後、[[1947年]]に南の滝野川区(旧滝野川町)と合併、新設して北区となった。この際王子区役所がそのまま北区役所となった。<br />
=== 沿革 ===<br />
* [[1932年]](昭和7年)[[10月1日]] - [[北豊島郡]]全域が'''[[東京市]]'''に編入。[[王子町]]、[[岩淵町]]の区域に'''王子区'''を設置。<br />
* [[1943年]](昭和18年)[[7月1日]] - [[東京都制]]が施行され、東京市と東京府が廃止され、東京都を設置。<br />
* [[1947年]](昭和22年)[[3月15日]] - 特別区への移行のため、王子区及び[[滝野川区]]の区域をもって'''[[北区 (東京都)|北区]]'''を新設。<br />
<br />
== 交通 ==<br />
=== 鉄道 ===<br />
* [[日本国有鉄道|国鉄]](現[[東日本旅客鉄道|JR東日本]])<br />
** [[東北本線]]([[京浜東北線|東北・京浜線]]) : [[王子駅]] - 下十条駅(現[[東十条駅]]) - [[赤羽駅]]<br />
** [[赤羽線]](現在の呼称は[[埼京線]]) : [[十条駅 (東京都)|十条駅]] - 赤羽駅<br />
* [[東京都電車]]<br />
** [[都電荒川線|荒川線]]、飛鳥山線(現荒川線)、赤羽線(廃線)<br />
<br />
赤羽駅以北の[[埼京線]]、[[東京地下鉄|東京メトロ]][[東京メトロ南北線|南北線]]、[[埼玉高速鉄道線]]は未開通。<br />
<br />
=== 道路 ===<br />
* [[国道122号|北本通り]]<br />
<br />
== 脚注 ==<br />
{{脚注ヘルプ}}<br />
{{reflist}}<br />
<br />
== 関連項目 ==<br />
* [[東京都の廃止市町村一覧]]<br />
* [[北区 (東京都)]]<br />
* [[王子 (東京都北区)]]<br />
<br />
{{東京35区}}<br />
{{Japan-area-stub}}<br />
{{DEFAULTSORT:おうしく}}<br />
[[Category:東京市の区]]<br />
[[Category:東京都北区域の廃止市町村]]<br />
[[Category:1932年に成立した行政区画]]<br />
[[Category:1947年に廃止された行政区画]]</div>
114.161.14.158
荏原区
2018-08-08T10:09:38Z
<p>114.161.14.158: </p>
<hr />
<div>{{日本の市 (廃止)<br />
|廃止日 = [[1947年]][[3月15日]]<br />
|廃止理由 = [[特別区]]の設置<br />
|廃止詳細 = 品川区、'''荏原区''' → [[品川区]]<br />
|現在の自治体 = [[品川区]]<br />
|自治体名 = 荏原区<br />
|区分 = 区<br />
|都道府県 = 東京都<br />
|支庁 =<br />
|郡 =<br />
|コード =<br />
|面積 =<br />
|境界未定 = なし<br />
|人口 = 53,708<br />
|人口の時点 = 1945年11月1日<br />
|隣接自治体 = 品川区、[[目黒区]]、[[大森区]]<br />
|木 =<br />
|花 =<br />
|シンボル名 =<br />
|鳥など =<br />
|郵便番号 =<br />
|所在地 = 荏原区中延町<br />
|電話番号 =<br />
|外部リンク =<br />
|経度 =<br />
|緯度 =<br />
|位置画像 =<br />
|特記事項 =<br />
}}<br />
<br />
'''荏原区'''(えばらく)とは、かつて[[東京府]][[東京市]](後に[[東京都]])に存在した区。現在の品川区の西部にあたる。おおむね[[東急目黒線]]、[[東急池上線]]の沿線にあたる。本項では同一区域の前身の自治体である'''平塚村'''、'''平塚町'''、'''荏原町'''についても解説する。<br />
<br />
== 概要 ==<br />
古くは[[孟宗筍]]の産地として知られていたが、[[目黒蒲田電鉄]]、[[池上電気鉄道]]の開通と[[関東大震災]]後の東京郊外部の住宅地化に伴う人口増加により急速に発展した地域で、住宅地の拡大、[[第二京浜国道|第二京浜]]の建設とともに進んだ機械工業関連の中小企業の進出によって様相は一変した。その影響か[[第二次世界大戦]]末期の[[空襲]]で大きな被害を受け、区内の7割が焼失し、死者は合計4800人余りに達した。[[1947年]][[3月15日]]には隣の[[品川区]]と合併し、改めて品川区が設置された。<br />
<br />
== 沿革 ==<br />
* [[1889年]](明治22年)[[5月1日]] - [[町村制]]の施行により、戸越村、下蛇窪村、上蛇窪村、小山村、中延村の全域と、谷山村の一部(残部は[[大崎町 (東京府)|大崎村]]に編入)が合併して'''平塚村'''が発足。<br />
* [[1926年]](大正15年)4月1日 - 平塚村が町制施行して'''平塚町'''となる。<br />
* [[1927年]](昭和2年)[[7月1日]] - 平塚町が改称して'''荏原町'''となる。<br />
* [[1932年]](昭和7年)10月1日 - 荏原郡全域が[[東京市]]に編入。荏原町の区域は'''荏原区'''となる。<br />
* [[1947年]](昭和22年)[[3月15日]] - 品川区と荏原区が合併し、改めて'''[[品川区]]'''を設置。<br />
<br />
== 交通 ==<br />
=== 鉄道 ===<br />
* [[目黒蒲田電鉄]](→[[東京横浜電鉄]]→[[大東急|東京急行電鉄(大東急)]]、現[[東京急行電鉄]])<br />
** 目黒線(→[[東急目蒲線|目蒲線]]、現[[東急目黒線|目黒線]]) : 小山駅(現[[武蔵小山駅]]) - [[西小山駅]]<br />
** [[東急大井町線|大井町線]] : 東急電鉄の戸越駅(現[[下神明駅]]) - 蛇窪駅(現[[戸越公園駅]]) - [[中延駅]] - [[荏原町駅]] - 東洗足駅(現[[旗の台駅]])<br />
* [[池上電気鉄道]](→目黒蒲田電鉄→東京横浜電鉄→東京急行電鉄(大東急)、現東京急行電鉄)<br />
** [[東急池上線|池上線]] : [[戸越銀座駅]] - [[荏原中延駅]] - 旗ヶ岡駅(現旗の台駅)<br />
<br />
[[都営地下鉄]][[都営地下鉄浅草線|浅草線]]は未開通。また都営地下鉄の[[戸越駅]](都営浅草線)は開業していなかった。<br />
<br />
=== 道路 ===<br />
* [[中原街道]]<br />
<br />
== 名所・旧跡 ==<br />
* [[旗岡八幡神社]]<br />
* [[戸越八幡神社]]<br />
* [[三谷八幡神社]]<br />
* [[小山八幡神社]]<br />
* [[上神明天祖神社]]<br />
* [[下神明天祖神社]]<br />
* [[荏原金刀比羅神社]]<br />
{{Gallery<br />
|ファイル:Hatagaoka hachiman shinagawa.JPG|旗岡八幡神社<br />
|ファイル:Togoshi hachiman.JPG|戸越八幡神社<br />
|ファイル:Koyama hachiman shinagawa.JPG|小山八幡神社<br />
}}<br />
<br />
== 現在の地名 ==<br />
[[荏原 (品川区)|荏原]]、[[小山 (品川区)|小山]]、[[小山台]]、[[戸越]]、[[中延]]、[[西中延]]、[[旗の台]]、[[東中延]]、[[平塚 (品川区)|平塚]]、[[二葉 (品川区)|二葉]]、[[豊町 (品川区)|豊町]](いずれも大体の範囲)<br />
<br />
== 参考文献 ==<br />
* 伊藤旦正「荏原区」(『国史大辞典 2』(吉川弘文館、1980年) ISBN 978-4-642-00502-9)<br />
* 「角川日本地名大辞典」編纂委員会 編『角川日本地名大辞典 13』(東京都)(角川書店、1978年) ISBN 978-4-040-01130-1<br />
<br />
== 関連項目 ==<br />
* [[東京都の廃止市町村一覧]]<br />
* [[荏原郡]]<br />
* [[品川区]]<br />
<br />
{{東京35区}}<br />
{{東京府の自治体}}<br />
{{Japan-area-stub}}<br />
{{DEFAULTSORT:えはらく}}<br />
[[Category:東京市の区]]<br />
[[Category:品川区域の廃止市町村]]<br />
[[Category:1889年に成立した行政区画]]<br />
[[Category:1947年に廃止された行政区画]]</div>
114.161.14.158
麻布区
2018-08-08T10:08:43Z
<p>114.161.14.158: </p>
<hr />
<div>{{日本の市 (廃止)|<br />
廃止日=[[1947年]][[3月15日]]|<br />
廃止理由=特別区の設置|<br />
廃止詳細=[[芝区]]、'''麻布区'''、[[赤坂区]] → '''港区'''|<br />
現在の自治体=[[港区 (東京都)|港区]]|<br />
自治体名=麻布区|<br />
区分=区|<br />
都道府県=東京都|<br />
支庁=|<br />
郡=|<br />
コード=|<br />
面積=|<br />
境界未定=|<br />
人口=20,697|<br />
人口の時点=1945年11月1日|<br />
人口の出典=人口調査|<br />
隣接自治体=芝区、赤坂区、[[渋谷区]]|<br />
木=|<br />
花=|<br />
シンボル名=その他のシンボル|<br />
鳥など=|<br />
郵便番号=|<br />
所在地=麻布区東鳥居坂町3番地|<br />
電話番号=|<br />
外部リンク=|<br />
経度=|<br />
緯度=|<br />
座標={{ウィキ座標2段度分秒|35|39|38|N|139|44|6|E|}}|<br />
位置画像=|<br />
特記事項=<br />
}}<br />
'''麻布区'''(あざぶく)は、かつて[[東京都]]にあった区。<br />
<br />
== 地理 ==<br />
東京都の東に位置した。南西に[[笄川]]が、南に[[渋谷川|古川]]が位置し、[[東京都電車]]が、区の全域を走る。<br />
<br />
=== 隣接していた自治体 ===<br />
* 東京都<br />
** [[芝区]]、[[赤坂区]]、[[渋谷区]]<br />
<br />
== 歴史 ==<br />
=== 沿革 ===<br />
* [[1878年]]([[明治]]11年)[[11月2日]] - [[大区小区制]]廃止、[[郡区町村編制法]]施行により、以下の区域をもって[[東京府]]'''麻布区'''が置かれる<ref name=futatsu>同日、東京府布達</ref>。区役所は麻布宮村町37番地(旧第2大区12小区区務所、現[[六本木]]5丁目16-45)に置き、[[11月4日]]に開庁し事務を開始する<ref name=futatsu/>。この区役所は現在は現在の麻布地区総合支所である。<br />
{{麻布区の発足時の町名}}<br />
* [[1879年]](明治12年)[[5月1日]] - 麻布新笄町が麻布広尾町に編入。<br />
* [[1880年]](明治13年) - [[芝区]]芝新門前町の一部を編入。芝北新門前町を設置。<br />
* [[1886年]](明治19年) - [[赤坂区]]渋谷神原町(現渋谷区[[恵比寿 (渋谷区)|恵比寿]])を編入。<br />
* [[1889年]](明治22年)[[5月1日]] - [[市制]]施行により、東京府[[東京市]]麻布区となる。それに伴い、以下の再編が行われた。<br />
** [[南豊島郡]]下渋谷村の一部、原宿村の一部を編入。<br />
** 渋谷下広尾町、渋谷広尾町、渋谷神原町の全域、麻布広尾町の一部、渋谷上広尾町の一部を[[渋谷町 (東京府)|渋谷町]]に編入。渋谷上広尾町の残部は麻布広尾町に編入。<br />
* [[1906年]](明治39年)[[3月3日]] - 東京電気鉄道(後の[[東京都電車]])広尾線が開通する。<br />
* [[1911年]](明治44年)<br />
** 町名の「麻布」「芝」の冠称を廃止。<br />
** 飯倉狸穴町を狸穴町に改称。<br />
** 麻布広尾町の一部(古川沿いの区域)を分割し、麻布新広尾町一丁目、二丁目、三丁目を設置。<br />
* [[1943年]](昭和18年)[[7月1日]] - [[東京都制]]施行により、[[東京都]]麻布区となる。<br />
* [[1947年]](昭和22年)[[3月15日]] - [[芝区]]、麻布区および[[赤坂区]]の区域をもって'''[[港区 (東京都)|港区]]'''を置く<ref>同年[[3月5日]]、東京都告示第127号</ref>。同時に旧区域の町名に「麻布」の冠称がつけられる。<br />
<br />
== 行政 ==<br />
''歴代区長は、{{PDFlink|[http://www.soumu.metro.tokyo.jp/01soumu/archives/0714kutyo.pdf 歴代区長一覧 - 東京都]}}の麻布区の項を参照''<br />
<br />
== 地域 ==<br />
=== 教育 ===<br />
* [[駒澤大学|曹洞宗大學林専門学校]]<br />
* [[電気通信大学|電信協会管理無線電信講習所]]<br />
* [[東京工業大学附属科学技術高等学校|東京高等工学院]]<br />
* [[東京都立駒場高等学校|府立第三高等女学校]]<br />
* [[東洋英和女学院中学部・高等部|東洋英和女学校]]<br />
* [[広尾学園中学校・高等学校|順心高等女学校]]<br />
* [[麻布中学校・高等学校|麻布中学校]]<br />
* [[麻布中学校・高等学校|麻布夜間中学]]<br />
* [[港区立笄小学校|笄国民学校]]<br />
* [[港区立本村小学校|本村国民学校]]<br />
* [[港区立麻布小学校|麻布国民学校]]<br />
* [[港区立南山小学校|南山国民学校]]<br />
* [[港区立東町小学校|東町国民学校]]<br />
<br />
== 交通 ==<br />
=== 鉄道路線 ===<br />
* [[東京都交通局]]<br />
** [[東京都電車]]<br />
*** 広尾線:墓地下 - 霞町 - 赤十字病院下 - 広尾橋 - 天現寺橋<br />
*** 古川線:天現寺橋 - 光林寺前 - 四ノ橋 - 古川橋 - 三ノ橋 - 二ノ橋 - 一ノ橋 - 麻布中ノ橋 - 赤羽橋<br />
*** 札の辻線:赤羽橋 - 飯倉四 - 飯倉一<br />
*** 六本木線:飯倉一 - 飯倉片町 - 三河台町 - 六本木 - 竜土町 - 新坂町<br />
*** 伊皿子線:天現寺橋<br />
<br />
[[六本木駅]]([[東京地下鉄|東京メトロ]][[東京メトロ日比谷線|日比谷線]]、[[都営地下鉄]][[都営地下鉄大江戸線|大江戸線]])、[[広尾駅]](日比谷線)、[[麻布十番駅]]([[東京メトロ南北線|南北線]]、都営大江戸線)、[[赤羽橋駅]](都営大江戸線)、[[六本木一丁目駅]](南北線)は開業していなかった。<br />
<br />
== 名所・旧跡・観光スポット・祭事・催事 ==<br />
* [[有栖川宮記念公園]]<br />
* [[善福寺 (東京都港区)|善福寺]]<br />
* [[長谷寺 (東京都港区)|長谷寺]]<br />
* [[日本経緯度原点]]<br />
* [[統計数理研究所]]<br />
* [[在日本大韓民国民団]]<br />
<br />
* [[東京アメリカンクラブ]]<br />
<br />
== 関係者 ==<br />
*; 著名な出身者<br />
* [[赤木圭一郎]] - [[俳優]]<br />
* [[麻生武治]] - [[スキー]]選手<br />
* [[石橋湛山]] - [[内閣総理大臣]]、経済記者、評論家<br />
* [[糸川英夫]] - [[航空宇宙工学]]者<br />
* [[井上順]] - [[タレント]]<br />
* [[入江相政]] - [[随筆家]]、[[侍従長]]<br />
* [[岩淵達治]] - [[ドイツ文学]]者<br />
* [[上田貞次郎]] - [[経済学者]]<br />
* [[榎本健一]] - [[俳優]]、[[コメディアン]]<br />
* [[大野靖子]] - [[脚本家]]<br />
* [[大場磐雄]] - [[考古学]]者<br />
* [[音丸]] - [[歌手]]<br />
* [[岡新]] - [[大日本帝国海軍]][[中将]]、[[総力戦研究所]]所長<br />
* [[緒方貞子]] - [[国際政治学者]]<br />
* [[川村純義]] - [[大日本帝国海軍]][[大将]] / [[麻布狸穴町]]の屋敷に幼少期の[[大正天皇]]が預けられた。<!--http://deepazabu.com/m1/nenpyou/nenpyou2.html--><br />
* [[九條今日子]] - 俳優、演劇・映画プロデューサー<br />
* [[熊倉一雄]] - 俳優<br />
* [[黒尾重明]] - [[プロ野球選手]]<br />
* [[香淳皇后]] - [[皇族]]<br />
* [[西郷寅太郎]] - [[大日本帝国陸軍]][[大佐]] / [[西郷隆盛]]の子<br />
* [[西郷隆輝]] - 寅太郎の子、夭折<br />
* [[西郷吉之助]] - [[法務大臣]]<!--http://omugio.exblog.jp/17391477/--><br />
* [[高島重孝]] - [[医師]]<br />
* [[竹中久七]] - [[前衛]][[詩人]]、[[シュールレアリスム]]評論家<br />
* [[土屋耕一]] - [[コピーライター]]<br />
* [[鶴見俊輔]] - [[評論家]]<br />
* [[デヴィ・スカルノ]] - タレント、元[[インドネシア]]大統領夫人<br />
* [[遠山一行]] - [[音楽評論家]]<br />
* [[轟夕起子]] - 俳優<br />
* [[西竹一]] - [[大日本帝国陸軍]][[大佐]]、1932年ロス五輪馬術優勝者 / 通称「バロン西」<br />
* [[旗照夫]] - [[ジャズ・シンガー]]<br />
* [[東坊城恭長]] - 俳優<br />
* [[古谷敏]] - 俳優<br />
* [[三井八郎右衛門#11代高公|三井八郎衛門高公]] - [[三井家]]当主<br />
* [[森芳雄]] - [[洋画家]]<br />
* [[柳宗悦]] - 評論家、[[民芸運動]]家<br />
* [[柳原白蓮]] - 詩人 / 「[[白蓮事件]]」<br />
* [[山口勇]] - 俳優<br />
* [[山口瞳]] - [[作家]]<br />
* [[山本丘人]] - [[日本画]]家<br />
* [[湯川秀樹]] - [[理論物理学者]]<br />
* [[萬屋錦之介]] - 俳優<br />
* [[若原春江]] - 俳優<br />
* [[和田周]] - 俳優<br />
* [[渡辺美佐子]] - 俳優<br />
<br />
*; 往時の居住その他ゆかりある人物<br />
* [[沖田総司]]([[桜田町|麻布桜田町]]の陸奥白河藩阿部播磨守[[下屋敷]] 、現在の[[六本木ヒルズ]]テレ朝通り向かい[[西麻布]]3丁目桜田神社界隈で生まれ育つ<ref>[http://sakamichi.tokyo/?p=8128 都心の新選組 (沖田総司編ー終焉の地は何処なのか?)] 東京坂道ゆるラン 2017年7月14日</ref>。)<!--麻布区が設立以前の人物ゆえ、出身者ではなくゆかりある人物の項に記載した。--><br />
* [[和宮親子内親王]](麻布市兵衛町、現在の[[六本木]]3丁目5丁目付近)<br />
* [[有栖川宮威仁親王]](麻布盛岡町、現在の[[南麻布]])<br />
* [[三条実美]](麻布市兵衛町)<br />
* [[井上馨]] - 政治家、実業家(麻布宮村町、現在の[[元麻布]]2丁目3丁目)<br />
* [[三井八郎右衛門#10代高棟|三井八郎衛門高棟]] - 三井家当主([[麻布笄町]]、現在の西麻布4丁目)<br />
* [[永井荷風]] - 作家(麻布市兵衛町)<br />
* [[廣田弘毅]] - 内閣総理大臣(麻布笄町)<br />
<br />
== 脚注 ==<br />
{{脚注ヘルプ}}<br />
{{Reflist}}<br />
<br />
==関連文献==<br />
*{{Cite book |和書 |author= |year=1941|title=麻布区史|publisher=東京市麻布区|page= |id={{NDLJP|1042117}}|quote= }}<br />
<br />
== 関連項目 ==<br />
* [[東京都の廃止市町村一覧]]<br />
* [[港区 (東京都)]]<br />
* [[麻布]]<br />
* [[日本獣医生命科学大学]] - 旧役所庁舎が移築され、校舎として使用されている。<br />
<br />
== 外部リンク ==<br />
* [http://www.ndl.go.jp/scenery/map/map_o/azabu-ku/index.html 麻布区の写真一覧] - [[国立国会図書館]]<br />
<br />
{{Geographic Location<br />
|Centre =麻布区<br />
|North =[[赤坂区]]<br />
|Northeast =<br />
|East =<br />
|Southeast =[[芝区]]<br />
|South =<br />
|Southwest =<br />
|West =[[渋谷区]]<br />
|Northwest =<br />
|image =<br />
}}<br />
<br />
{{東京35区}}<br />
{{東京府の自治体}}<br />
{{Japan-area-stub}}<br />
{{DEFAULTSORT:あさふく}}<br />
[[Category:東京市の区]]<br />
[[Category:東京都港区域の廃止市町村]]<br />
[[Category:戦前日本の府県の区]]<br />
[[Category:1878年に成立した行政区画]]<br />
[[Category:1947年に廃止された行政区画]]</div>
114.161.14.158
浅草区
2018-08-08T10:08:17Z
<p>114.161.14.158: </p>
<hr />
<div>{{日本の市 (廃止)<br />
|廃止日=[[1947年]][[3月15日]]<br />
|廃止理由=特別区の設置<br />
|廃止詳細=[[下谷区]]、'''浅草区''' → '''台東区'''<br />
|現在の自治体=[[台東区]]<br />
|自治体名=浅草区<br />
|区分=区<br />
|都道府県=東京都<br />
|支庁=<br />
|郡=<br />
|コード=<br />
|面積=<br />
|境界未定=なし<br />
|人口=<br />
|人口の時点=<br />
|隣接自治体=下谷区、[[神田区]]、[[日本橋区]]、<br />[[本所区]]、[[向島区]]、[[荒川区]]<br />
|木=<br />
|花=<br />
|シンボル名=<br />
|鳥など=<br />
|郵便番号=<br />
|所在地=浅草区浅草雷門二丁目<br />
|電話番号=<br />
|外部リンク=<br />
|経度=<br />
|緯度=<br />
|位置画像=<br />
|特記事項=<br />
}}<br />
<br />
'''浅草区'''(あさくさく、{{旧字体|淺草區}})とは、[[東京府]][[東京市]]、[[東京都]]にかつて存在した[[区 (行政区画)|区]]である。現在の[[台東区]]の東部に位置していた。<br />
<br />
== 歴史 ==<br />
{{main|浅草}}<br />
=== 沿革 ===<br />
* [[1878年]](明治11年)[[11月2日]] - [[郡区町村編制法]]により、以下の区域をもって'''浅草区'''を設置。<br />
** 浅草上平右衛門町、浅草新平右衛門町、浅草新須賀町、浅草福井町一丁目、浅草福井町二丁目、浅草福井町三丁目、浅草新福井町、浅草猿屋町、浅草福富町、向柳原一丁目、向柳原二丁目(現[[浅草橋 (台東区)|浅草橋]])<br />
** 浅草下平右衛門町、浅草榊町、浅草新森田町、浅草新片町、浅草旅籠町一丁目、浅草旅籠町二丁目(現[[柳橋 (台東区)|柳橋]])<br />
** 浅草茅町一丁目、浅草茅町二丁目、浅草瓦町、浅草須賀町、浅草御蔵前片町(現浅草橋、柳橋)<br />
** 浅草元鳥越町、浅草西鳥越町(現浅草橋、[[鳥越 (台東区)|鳥越]])<br />
** 浅草老松町(現鳥越)<br />
** 浅草東三筋町、浅草西三筋町(現[[三筋]])<br />
** 浅草小島町(現[[小島 (台東区)|小島]]、三筋)<br />
** 浅草森田町、浅草新旅籠町、浅草南元町、浅草北元町、浅草南富坂町、浅草北富坂町、浅草八幡町、浅草三好町(現[[蔵前]])<br />
** 浅草七軒町、浅草永住町、浅草阿部川町、浅草南松山町、浅草南清島町(現[[元浅草]])<br />
** 浅草北三筋町(現三筋、元浅草)<br />
** 浅草寿町、浅草高原町、浅草新福富町(現[[寿 (台東区)|寿]])<br />
** 浅草栄久町、浅草森下町(現寿、蔵前)<br />
** 浅草新猿屋町、浅草諏訪町(現[[駒形]])<br />
** 浅草黒船町(現寿、蔵前、駒形)<br />
** 浅草駒形町(現寿、駒形、雷門)<br />
** 浅草田原町一丁目、浅草三間町(現寿、[[雷門 (台東区)|雷門]])<br />
** 浅草田原町二丁目、浅草田原町三丁目、浅草東仲町、浅草西仲町、浅草並木町、浅草茶屋町、浅草材木町(現雷門)<br />
** 浅草北清島町、浅草神吉町(現[[東上野]])<br />
** 浅草北松山町、浅草松葉町(現[[松が谷 (台東区)|松が谷]])<br />
** 浅草松清町、浅草田島町、浅草柴崎町(現[[西浅草]])<br />
** 浅草新谷町(現西浅草、[[千束]])<br />
** 浅草北田原町三丁目、浅草新畑町、浅草北東仲町、浅草馬道一丁目、浅草馬道二丁目、浅草馬道三丁目、浅草馬道五丁目、浅草馬道七丁目、浅草象潟町、浅草猿若町二丁目、浅草猿若町三丁目、浅草聖天町、浅草聖天横町、浅草山川町、浅草金龍山下瓦町、浅草田町一丁目、浅草公園地(現[[浅草]])<br />
** 浅草花川戸町、浅草馬道四丁目、浅草馬道六丁目(現[[花川戸]])<br />
** 浅草馬道八丁目、浅草猿若町一丁目、浅草山ノ宿町(現浅草、花川戸)<br />
** 浅草田町二丁目、浅草東町(現浅草、千束)<br />
** 新吉原五十間町、新吉原江戸町一丁目、新吉原江戸町二丁目、新吉原揚屋町、新吉原角町、新吉原京町二丁目(現千束)<br />
** 浅草光月町(現千束、[[入谷 (台東区)|入谷]])<br />
** 浅草今戸町、浅草亀岡町一丁目、浅草亀岡町二丁目、浅草亀岡町三丁目(現[[今戸]])<br />
** 浅草吉野町(現[[東浅草]]、今戸、[[清川 (台東区)|清川]])<br />
** 浅草元吉町(現東浅草、[[日本堤]])<br />
** 浅草町、浅草山谷町(現日本堤、清川)<br />
** 浅草橋場町(現[[橋場]])<br />
** 浅草石浜町(現橋場、清川)<br />
** 浅草清川町(現清川)<br />
* [[1889年]](明治22年)[[5月1日]] - [[市制]]、[[町村制]]の施行に伴う[[東京市]]の設置により、以下の再編が行われた。<br />
** [[北豊島郡]]地方山谷町、地方今戸町の全域と、以下の3村の各一部を編入(カッコ内は残部の編入先)。<br />
*** 地方橋場町([[南千住町]])<br />
*** 千束村(東京市[[下谷区]]、南千住町)<br />
*** 坂本村(東京市下谷区)<br />
** 編入された地域に以下の町丁を設置。地方橋場町は浅草橋場町に編入。<br />
*** 浅草千束町一丁目(現千束)<br />
*** 浅草千束町二丁目(現千束、浅草)<br />
*** 浅草千束町三丁目(現浅草)<br />
*** 浅草玉姫町(現清川)<br />
*** 浅草田中町(現清川、日本堤)<br />
*[[1923年]](大正12年)[[9月1日]]‐[[関東大震災]]によりほぼ全滅。<br />
* [[1943年]](昭和18年)[[7月1日]] - [[東京都制]]が施行され、東京市と東京府が廃止され、東京都を設置。<br />
* [[1947年]](昭和22年)[[3月15日]] - [[下谷区]]と合併して'''[[台東区]]'''を新設。<br />
<br />
== 交通 ==<br />
=== 鉄道 ===<br />
* [[日本国有鉄道|国鉄]](現[[東日本旅客鉄道|JR東日本]])<br />
** [[総武本線]] : [[浅草橋駅]]<br />
* [[東武鉄道]]<br />
** [[東武伊勢崎線|伊勢崎線]] : [[浅草駅|浅草雷門駅(現浅草駅)]]<br />
* [[東京地下鉄道]](→[[帝都高速度交通営団]]、現[[東京地下鉄|東京メトロ]])<br />
** 東京地下鉄道線(個別の線名なし; 現[[東京メトロ銀座線|銀座線]]) : [[田原町駅 (東京都)|田原町駅]] - 浅草駅<br />
* [[東京都電車]](廃線)<br />
** 蔵前線、千住線、厩橋線、吾妻橋線、千束線<br />
<br />
[[都営地下鉄]][[都営地下鉄浅草線|浅草線]]は未開通。また[[蔵前駅]](都営浅草線、[[都営地下鉄大江戸線|都営大江戸線]])、および[[首都圏新都市鉄道つくばエクスプレス|つくばエクスプレス線]]の[[浅草駅 (首都圏新都市鉄道)|浅草駅]]は開業していなかった。<br />
<br />
== 著名な出身者 ==<br />
''現台東区の著名な出身者については[[台東区]]を参照''<br />
* [[岡田茂吉]] - [[開祖|宗教者]]・美術品[[収集家]]、[[世界救世教]][[教祖]]、[[MOA美術館]]創立者<br />
* [[五井昌久]] - 宗教家、白光真宏会初代会長<br />
* [[深谷隆司]] - [[国会議員]]、[[小渕内閣第2次改造内閣|第64代]]・[[第1次森内閣|第65代]][[経済産業大臣|通商産業大臣]]ほか大臣を歴任<br />
* [[速水御舟]] - [[日本画家]]<br />
* [[杉山寧]] - 日本画家<br />
* [[森白甫]] - 日本画家<br />
* [[山下清]] - [[画家]]<br />
* [[安藤緑山]] - [[彫刻家]]<br />
* [[川田順]] - [[歌人]]・[[実業家]]<br />
* [[土岐善麿]] - 歌人・[[国語学者]]・[[新作能]]作者<br />
* [[加太こうじ]] - [[評論家]]・庶民文化研究家・[[紙芝居]]作家 <br />
* [[秋山安三郎]] - 演劇評論家・[[随筆家]]<br />
* [[荒松雄]] - [[歴史学者]]・[[推理作家]]<br />
* [[久保田万太郎]] - [[小説家]]・[[劇作家]]・[[俳人]]<br />
* [[渡辺水巴]] - 俳人<br />
* [[喜谷六花]] - 俳人<br />
* [[小幡欣治]] - 劇作家<br />
* [[一瀬直行]] - [[詩人]]・小説家<br />
* [[関根弘]] - 詩人・評論家<br />
* [[高橋邦太郎]] - [[翻訳家]]・[[フランス文学者]]<br />
* [[辻潤]] - 翻訳家・[[思想家]]<br />
* [[石川淳]] - 小説家<br />
* [[荒木巍]] - 小説家<br />
* [[川口松太郎]] - 小説家・劇作家<br />
* [[倉光俊夫]] - 小説家<br />
* [[小山清]] - 小説家<br />
* [[佐江衆一]] - 小説家<br />
* [[円地文子]] - 小説家・劇作家<br />
* [[池波正太郎]] - [[時代小説]]作家・劇作家・[[食通|美食家]]<br />
* [[田久保英夫]] - 小説家<br />
* [[田村俊子]] - 小説家<br />
* [[落合信彦]] - [[ノンフィクション作家]]<br />
* [[吉野二郎]] - 映画監督<br />
* [[市川猿翁 (初代)|初代市川猿翁]] - [[歌舞伎]][[俳優]]<br />
* [[市川段四郎 (3代目)|3代目市川段四郎]] - 歌舞伎俳優<br />
* [[片岡仁左衛門 (12代目)|12代目片岡仁左衛門]] - 歌舞伎俳優<br />
* [[澤村國太郎 (4代目)|4代目沢村国太郎]] - [[俳優]]<br />
* [[沢村貞子]] - [[俳優|女優]]・随筆家<br />
* [[伊藤雄之助]] - 俳優<br />
* [[大矢市次郎]] - 俳優<br />
* [[加東大介]] - 俳優<br />
* [[高杉早苗]] - 女優<br />
* [[立花貞二郎]] - 俳優<br />
* [[中村吉右衛門 (初代)|初代中村吉右衛門]] - 歌舞伎俳優<br />
* [[並木路子]] - 歌手・女優<br />
* [[松井潤子]] - 女優<br />
* [[松井千枝子]] - 女優<br />
* [[水川八重子]] - 女優<br />
* [[柳さく子]] - 女優<br />
* [[中島清次郎]] - [[寿司]]職人<br />
* [[西村つた江]] - [[歌手]]<br />
* [[芳村伊十郎 (7代目)|7代目芳村伊十郎]] - [[長唄]]唄方<br />
* [[安藤鶴夫]] - [[落語]]評論家・小説家<br />
* [[三遊亭圓楽 (5代目)|5代目三遊亭圓楽]] - [[落語家]]<br />
* [[東八郎]] - コメディアン<br />
* [[永六輔]] - [[放送作家]]・タレント・作詞家・随筆家<br />
* [[山田太一 (脚本家)|山田太一]] - [[脚本家]]・小説家<br />
* [[大沢悠里]] - [[フリーアナウンサー]]、元[[TBSテレビ|TBS]][[アナウンサー]]<br />
* [[阪本時彦]] - フリーアナウンサー、元[[毎日放送]]アナウンサー<br />
* [[荒川博]] - 元プロ野球選手<br />
* [[土橋正幸]] - 元プロ野球選手<br />
<br />
== 関連項目 ==<br />
* [[東京都の廃止市町村一覧]]<br />
* [[台東区]]<br />
* [[浅草]]<br />
<br />
{{東京35区}}<br />
{{Japan-area-stub}}<br />
{{DEFAULTSORT:あさくさく}}<br />
[[Category:東京市の区]]<br />
[[Category:台東区域の廃止市町村]]<br />
[[Category:戦前日本の府県の区]]<br />
[[Category:1878年に成立した行政区画]]<br />
[[Category:1947年に廃止された行政区画]]</div>
114.161.14.158
赤坂区
2018-08-08T10:07:51Z
<p>114.161.14.158: </p>
<hr />
<div>{{日本の市 (廃止)|<br />
廃止日=[[1947年]][[3月15日]]|<br />
廃止理由=特別区の設置|<br />
廃止詳細=[[芝区]]、[[麻布区]]、'''赤坂区''' → '''港区'''|<br />
現在の自治体=[[港区 (東京都)|港区]]|<br />
自治体名=赤坂区|<br />
区分=区|<br />
都道府県=東京都|<br />
支庁=|<br />
郡=|<br />
コード=|<br />
面積=|<br />
境界未定=|<br />
人口=8,791|<br />
人口の時点=1945年11月1日|<br />
人口の出典=人口調査|<br />
隣接自治体=[[四谷区]]、[[麹町区]]、[[芝区]]、[[麻布区]]、[[渋谷区]]|<br />
木=|<br />
花=|<br />
シンボル名=その他のシンボル|<br />
鳥など=|<br />
郵便番号=|<br />
所在地=赤坂区表町二丁目|<br />
電話番号=|<br />
外部リンク=|<br />
経度=|<br />
緯度=|<br />
座標={{ウィキ座標2段度分秒|35|40|29|N|139|43|54|E|}}|<br />
位置画像=|<br />
特記事項=<br />
}}<br />
'''赤坂区'''(あかさかく)は、かつて[[東京都]]にあった区。<br />
<br />
== 地理 ==<br />
東京都の東に位置した。東に[[外濠 (東京都)#弁慶濠|弁慶濠]]が位置し、[[東京都電車]]が、区の全域を走っている。区域には[[迎賓館#赤坂迎賓館|赤坂離宮]]がある。現在の東京都港区のうち、旧'''赤坂区'''は赤坂総合支所(赤坂4-18-13、[[郵便番号]]107-8516)の管轄下になり、現在も赤坂地区と呼ばれている。[[赤坂 (東京都港区)|赤坂]]一丁目 - 九丁目、[[北青山]]一丁目 - 三丁目、[[南青山]]一丁目 - 七丁目、[[元赤坂]]一丁目・二丁目が属する。<br />
<br />
=== 隣接していた自治体 ===<br />
* 東京都<br />
** [[四谷区]]、[[麹町区]]、[[芝区]]、[[麻布区]]、[[渋谷区]]<br />
<br />
== 歴史 ==<br />
区名の由来は、見附から四ッ谷へのぼる[[紀伊国坂 (港区)|紀伊国坂]]を赤坂と呼んだことから。赤坂と呼んだ理由には、以下の説がある<ref>{{PDFlink|[http://www.city.minato.tokyo.jp/joho/syokai/timei/akasaka/index.html 地名の歴史]}} - 港区</ref>。<br />
* 坂上に[[アカネ|茜草]]が生えることから赤根山(あかねやま)と呼ばれ、この山にのぼる坂を赤坂と称することから<br />
* [[染色|染物]]屋が坂に赤い[[絹]]を干したことから<br />
<br />
=== 沿革 ===<br />
* [[1878年]]([[明治]]11年)[[11月2日]] - [[大区小区制]]廃止により、以下の地域をもって[[東京府]]'''赤坂区'''が置かれる<ref name=futatsu>同日、東京府布達</ref>。区役所(現在の総合支所)は赤坂表三丁目五番地に置き、[[11月4日]]に開庁し事務を開始する<ref name=futatsu/>。<br />
** 元赤坂町、赤坂表町一丁目、赤坂裏町一丁目、赤坂裏町二丁目、赤坂裏町三丁目、青山権田原町(現[[元赤坂]])<br />
** 赤坂田町一丁目、赤坂田町二丁目、赤坂田町三丁目、赤坂田町四丁目、赤坂田町五丁目、赤坂田町六丁目、赤坂田町七丁目、赤坂表町三丁目、赤坂表町四丁目、赤坂新町一丁目、赤坂新町二丁目、赤坂新町三丁目、赤坂新町四丁目、赤坂新町五丁目、赤坂仲ノ町、赤坂一ツ木町、赤坂丹後町、赤坂氷川町、赤坂台町、赤坂新坂町、赤坂檜町、赤坂福吉町、溜池榎坂町(現[[赤坂 (東京都港区)|赤坂]])<br />
** 赤坂表町二丁目(現元赤坂、赤坂)<br />
** 青山北町一丁目、青山北町二丁目、青山北町三丁目、青山北町四丁目、青山北町五丁目、青山北町六丁目、青山三筋町一丁目、青山三筋町二丁目(現[[北青山]])<br />
** 青山南町一丁目(現[[青山 (東京都港区)|南青山]]、ごく一部は[[六本木]])<br />
** 青山南町二丁目、青山南町三丁目、青山南町四丁目(現南青山)<br />
** 青山南町五丁目、青山南町六丁目、青山高樹町(現南青山、ごく一部が[[西麻布]])<br />
** 青山六軒町(現元赤坂、北青山)<br />
** 溜池葵町(現赤坂、[[虎ノ門]])<br />
** 霊南坂町(現赤坂、[[六本木]])<br />
** 青山南町七丁目、渋谷宮益町(現[[渋谷区]][[渋谷]])<br />
** 青山北町七丁目(現渋谷区[[神宮前 (渋谷区)|神宮前]])<br />
** 渋谷神原町(現渋谷区[[恵比寿 (渋谷区)|恵比寿]])<br />
* [[1883年]](明治16年) - [[内務省 (日本)|内務省]]地理局および[[工部省]]電信局による地磁気の臨時観測所(現在の[[気象庁地磁気観測所]])が、今井町に置かれる。<br />
* [[1886年]](明治19年) - 渋谷神原町が[[麻布区]]に編入。<br />
* [[1889年]](明治22年)[[5月1日]] - [[市制]]施行により、東京府[[東京市]]赤坂区となる。それに伴い、[[南豊島郡]]原宿村の一部を編入。青山南町七丁目、青山北町七丁目、渋谷宮益町を南豊島郡[[渋谷町 (東京府)|渋谷町]]に編入。<br />
* [[1911年]](明治44年)[[5月1日]]、町名より「赤坂」の冠称が省かれる。(「青山」の冠称は継続)<br />
* [[1917年]]([[大正]]6年)4月 - 商工中学校(現在の[[日大三高]]の前身)が中ノ町8番地に移転、校名を赤坂中学校と改称する。<br />
* [[1918年]]([[大正]]7年)8月 - 学習院女学部(現在の[[学習院女子大学]])が青山に移転する。<br />
* [[1938年]]([[昭和]]13年)[[11月18日]] - 東京高速鉄道(現在の[[東京メトロ銀座線]])の青山六丁目駅(現在の[[表参道駅]])、[[外苑前駅]]、[[青山一丁目駅]]および[[赤坂見附駅]]が開業する。<br />
* [[1943年]](昭和18年)[[7月1日]] - [[東京都制]]施行により、[[東京都]]赤坂区となる。<br />
* [[1947年]](昭和22年)[[3月15日]] - [[芝区]]、[[麻布区]]および赤坂区の区域をもって'''[[港区 (東京都)|港区]]'''を置く<ref>同年[[3月5日]]、東京都告示第127号</ref>。同時に旧区域の町名に「赤坂」の冠称がつけられる(元赤坂町を除く)。<br />
<br />
== 行政 ==<br />
''歴代区長は、{{PDFlink|[http://www.soumu.metro.tokyo.jp/01soumu/archives/0714kutyo.pdf 歴代区長一覧 - 東京都]}}の赤坂区の項を参照''<br />
<br />
== 地域 ==<br />
=== 教育 ===<br />
* [[日本大学第三中学校・高等学校|私立赤坂中学校-日本大学第三中学校]]<br />
* [[東京都立赤坂高等学校|東京都立赤坂女子商業学校]]<br />
* [[山脇学園中学校・高等学校|山脇高等女学校]]<br />
* 青山尋常高等小学校 - 現在の港区立青山小学校<br />
* 赤坂国民学校 - 現在の港区立赤坂小学校<br />
* 檜町国民学校 - 現在の港区立赤坂小学校<br />
* 氷川国民学校 - 現在の港区立赤坂小学校<br />
* 青南国民学校 - 現在の港区青南小学校<br />
<br />
== 交通 ==<br />
=== 鉄道路線 ===<br />
* [[東京高速鉄道]](→[[帝都高速度交通営団]]、現[[東京地下鉄|東京メトロ]])<br />
** 渋谷線(現[[東京メトロ銀座線|銀座線]]):[[表参道駅|青山六丁目駅→神宮前駅(現表参道駅)]] - [[外苑前駅|青山四丁目駅(現外苑前駅)]] - [[青山一丁目駅]] - [[赤坂見附駅]]<br />
* [[東京都交通局]]<br />
** [[東京都電車]]<br />
*** 溜池線:赤坂見附 - 山王下 - 溜池 - 虎ノ門<br />
*** 霞町線:溜池 - 福吉町、高樹町 - 青山南町<br />
*** 青山線:赤坂見附 - 豊川稲荷前 - 赤坂表町 - 青山一丁目 - 青山三丁目 - 青山四丁目 - 青山五丁目 - 神宮前 - 青山六丁目<br />
*** 広尾線:青山一丁目 - 青山南町一丁目<br />
*** 六本木線:新坂町 - 竜土町<br />
*** 信濃町線:青山一丁目 - 権田原<br />
<br />
東京メトロ[[東京メトロ丸ノ内線|丸ノ内線]]、[[東京メトロ千代田線|千代田線]]、[[東京メトロ半蔵門線|半蔵門線]]、[[東京メトロ南北線|南北線]]、[[都営地下鉄]][[都営地下鉄大江戸線|大江戸線]]は未開通。また[[溜池山王駅]](銀座線、南北線)[[赤坂駅 (東京都)|赤坂駅]]、[[乃木坂駅]](千代田線)、[[明治神宮前駅]](千代田線、[[東京メトロ副都心線|副都心線]])は開業していなかった。<br />
<br />
=== 道路 ===<br />
* [[表参道 (原宿)|表参道]]<br />
<br />
== 名所・旧跡・観光スポット・祭事・催事 ==<br />
* [[迎賓館#赤坂迎賓館|赤坂離宮]]<br />
** [[大宮御所]]、[[秩父宮]]邸<br />
* [[衆議院]][[議員宿舎]]赤坂宿舎<br />
* [[明治神宮外苑]]<br />
* [[高橋是清翁記念公園]]<br />
* [[明治記念館|憲法記念館]]<br />
* [[乃木神社 (東京都港区)|乃木神社]]<br />
* [[氷川神社 (東京都港区赤坂)|氷川神社]]<br />
* [[豊川稲荷東京別院]]<br />
* [[駐日アメリカ合衆国大使館]]<br />
* カナダ[[在外公館|公使館]] - 現在のカナダ[[大使館]]<br />
<br />
== 著名な出身者 ==<br />
* [[有馬頼義]] - [[小説家]](青山出身)<br />
* [[飯島綾子]] - [[俳優]]、[[歌手]]、[[声優]]、[[日本舞踊家]](新町出身)<br />
* [[石垣りん]] - [[詩人]]<br />
* [[入江若葉]] - 俳優<br />
* [[榎本健一]] - 俳優([[南青山|青山南町]]出身)<br />
* [[大空眞弓]] - 俳優<br />
* [[大塚雄司]] - [[衆議院]]議員(青山南町出身)<br />
* [[大庭秀雄]] - 映画監督(青山出身)<br />
* [[小原鈴子]] - [[牧師]](氷川町出身)<br />
* [[神田隆 (俳優)|神田隆]] - 俳優<br />
* [[木子幸三郎]] - [[建築家]]<br />
* [[北杜夫]] - [[小説家]]、[[エッセイスト]]、[[精神科医]]、[[医学博士]](青山南町出身)<br />
* [[木戸幸一]] - [[内大臣]](青山南町出身)<br />
* [[黒田長礼]] - [[侯爵]](福吉町出身)<br />
* [[黒柳徹子]] - 俳優、[[タレント]]、[[司会者]]、エッセイスト([[乃木坂]]出身)<br />
* [[児玉数夫]] - [[映画評論家]]<br />
* [[小森和子]] - 映画評論家<br />
* [[佐伯秀男]] - 俳優、[[ファッションモデル]]、[[ボディビルダー]](表町出身)<br />
* [[笹井醇一]] - 海軍軍人(青山出身)<br />
* [[鈴木泉三郎]] - [[劇作家]]、[[編集者]](青山出身)<br />
* [[竹内良一]] - 俳優(青山出身)<br />
* [[田中英光]] - [[作家]](榎坂町出身)<br />
* [[辻邦生]] - 小説家([[本郷区]][[西片|駒込西片町]]出身、赤坂区丹後町等で育つ)<br />
* [[長岡鉄男]] - オーディオ評論家([[北青山|青山北町]]出身)<br />
* [[仲小路彰]] - 哲学者(氷川町出身)<br />
* [[中村嘉葎雄]] - 俳優(青山南町出身)<br />
* [[土方与志]] - 舞台演出家(表町出身)<br />
* [[藤浦敦]] - [[映画監督]]<br />
* [[南博]] - [[社会心理学]]者(田町出身)<br />
* [[萬屋錦之介]] - 俳優(青山南町出身)<br />
* [[隆慶一郎]] - [[脚本家]]、小説家<br />
* [[和田昭允]] - 生物物理学者(青山南町出身)<br />
<br />
== 脚注 ==<br />
{{脚注ヘルプ}}<br />
{{Reflist}}<br />
<br />
== 関連項目 ==<br />
* [[東京都の廃止市町村一覧]]<br />
* [[港区 (東京都)]]<br />
* [[赤坂 (東京都港区)]]<br />
<br />
== 外部リンク ==<br />
* [http://www.ndl.go.jp/scenery/map/map_o/akasaka-ku/index.html 赤坂区の写真一覧] - [[国立国会図書館]]<br />
<br />
{{Geographic Location<br />
|Centre =赤坂区<br />
|North =[[四谷区]]<br />
|Northeast =[[麹町区]]<br />
|East =<br />
|Southeast =[[芝区]]<br />
|South =[[麻布区]]<br />
|Southwest =<br />
|West =[[渋谷区]]<br />
|Northwest =<br />
|image =<br />
}}<br />
<br />
{{東京35区}}<br />
{{東京府の自治体}}<br />
{{Japan-area-stub}}<br />
{{DEFAULTSORT:あかさかく}}<br />
[[Category:東京市の区]]<br />
[[Category:東京都港区域の廃止市町村]]<br />
[[Category:戦前日本の府県の区]]<br />
[[Category:1878年に成立した行政区画]]<br />
[[Category:1947年に廃止された行政区画]]</div>
114.161.14.158
大師町
2018-08-08T09:57:15Z
<p>114.161.14.158: </p>
<hr />
<div>{{Otheruses|[[神奈川県]][[橘樹郡]]の町|[[大阪府]][[河内長野市]]の地名|三日市 (河内長野市)}}<br />
{{日本の町村 (廃止)<br />
|廃止日=[[1924年]][[7月1日]]<br />
|廃止理由=新設合併<br />
|廃止詳細=[[川崎町 (神奈川県)|川崎町]]、'''大師町'''、[[御幸村 (神奈川県)|御幸村]] → '''川崎市'''<br />
|現在の自治体=[[川崎市]]<br />
|自治体名=大師町<br />
|区分=町<br />
|都道府県=神奈川県<br />
|支庁=<br />
|郡=[[橘樹郡]]<br />
|コード=当時存在せず<br />
|面積=<br />
|境界未定=<br />
|人口=<br />
|人口の時点=<br />
|隣接自治体='''神奈川県'''<br />川崎町、[[田島町 (神奈川県)|田島町]]<br />'''[[東京府]]'''<br />[[荏原郡]][[六郷町 (東京府)|六郷町]]、[[羽田町]]<br />
|木=<br />
|花=<br />
|シンボル名=その他のシンボル<br />
|鳥など=<br />
|郵便番号=<br />
|所在地=橘樹郡大師町大字大師河原<br />
|外部リンク=当時存在せず<br />
|経度=<br />
|緯度=<br />
|位置画像=<br />
|特記事項=<br />
}}<br />
'''大師町'''(だいしまち)は、[[1923年]]([[大正]]12年)[[1月1日]]から[[1924年]]([[大正]]13年)[[7月1日]]まで存在した[[神奈川県]][[橘樹郡]]の[[町]]。前身の'''大師河原村'''(だいしがわらむら)についても本項で述べる。<br />
<br />
== 概要 ==<br />
神奈川県橘樹郡東部の村。現在の神奈川県川崎市[[川崎区]]の東部にあたる。<br />
<br />
== 地理 ==<br />
* 川 : [[多摩川]]<br />
<br />
== 歴史 ==<br />
=== 沿革 ===<br />
* [[戦国時代 (日本)|戦国時代]] - 大師河原の地名が見られる。<br />
* [[江戸時代]] - 大師河原村、池上新田、稲荷新田(いずれも幕府領)、川中島村(幕府領、大師領、稲荷明神社領)が成立。<br />
* [[1868年]]([[明治]]元年)<br />
** 旧暦6月17日 - [[神奈川府]]の管轄となる。<br />
** 旧暦9月21日 - 神奈川府が神奈川県に改称。<br />
* [[1874年]](明治7年) - [[大区小区制]]の施行により、(旧)大師河原村、池上新田、川中島村、稲荷新田が第4大区第2小区となる。<br />
* [[1875年]](明治8年) - 川中島村、稲荷新田が(旧)大師河原村に編入。<br />
* [[1889年]](明治22年)[[4月1日]] - [[町村制]]の施行により、(旧)大師河原村、池上新田および新宿町、砂子町、中島村の[[飛地]]が合併して'''大師河原村'''が成立(大師河原村の飛地は田島村、川崎町の一部となる)。<br />
* [[1912年]](明治45年)4月1日 - 「東京府神奈川県境界変更に関する法律」が施行され、[[東京府]][[荏原郡]][[羽田町]][[鈴木新田 (川崎市)|鈴木新田]]、羽田、羽田猟師町の各一部を編入。<br />
* [[1923年]]([[大正]]12年)[[1月1日]] - 大師河原村が町制施行・改称して'''大師町'''となる。<br />
* [[1924年]](大正13年)[[7月1日]] - [[川崎町 (神奈川県)|川崎町]]、[[御幸村 (神奈川県)|御幸村]]と合併して'''川崎市'''を新設。同日大師町廃止。 <br />
* [[1972年]](昭和47年)4月1日 - 川崎市が[[政令指定都市]]に指定され、旧町域が'''[[川崎区]]'''となる。<br />
<br />
=== 池上家と新田開発 ===<br />
<br />
大師河原村一帯の開発に大きく寄与したのは、世襲名主の池上家であった<ref>[[#高橋b2002|高橋b2002]], p.109</ref>。<br />
<br />
池上家の祖には[[池上本門寺]]と関わりの深い[[池上宗仲|宗仲]]がおり、宗仲から数えて二十代目の[[池上幸種]]が大師河原村一帯の開発に着手した<ref>[[#高橋b2002|高橋b2002]], pp.110-111</ref>。小田原北条氏に仕えていた池上家であったが、幸種は家康に仕えず農産業に従事することを選んだ<ref name="tb111">[[#高橋b2002|高橋b2002]], p.111</ref>。[[小泉次太夫|小泉次太夫吉次]]が[[二ヶ領用水]]を完成させる[[1614年]]([[慶長]]14年)の前年に他界するまで、彼は自費で多摩川河口の萱野を開発した<ref name="tb111" />。<br />
<br />
幸種の息子、[[池上幸広|幸広]]は父の遺志を継ぎ、[[1625年]](寛永2年)から大師河原に隣接する海辺の寄州100町歩を開発し、これが後の[[稲荷新田村]]となった<ref>[[#高橋b2002|高橋b2002]], pp.112-113</ref>。稲荷新田村は後の1702年(元禄15年)には1450石の石高となり、川崎市域で最大の石高を持つ村に発展した<ref>[[#高橋b2002|高橋b2002]], p.113</ref>。幸広は、「[[大師河原の酒合戦]]」([[慶安]]2年に開催された酒合戦)に登場する「大蛇丸底深」本人であり、酒豪で知られた<ref>[[#高橋b2002|高橋b2002]], p.118</ref>。<br />
<br />
幸広から数えて4代目にあたる[[池上幸豊]]は、[[1746年]]([[延享]]3年)から多摩川河口の海辺の新田開発を開始し、1761年(宝暦11年)に耕地面積14町歩の[[池上新田]]を完成させた<ref>[[#高橋c2010|高橋c2010]], pp.82-83</ref>。池上新田の耕地面積は小さく、さらに移住者も家数5軒と少なかったが、海を埋め立てる方法は18世紀半ばの当時としては画期的であった<ref name="tc84">[[#高橋c2010|高橋c2010]], p.84</ref>。その後幕府は幸豊の技術と知識の水準の高さを評価し、新たな埋め立て予定地を選ぶよう命じたが、これは実現しなかった<ref name="tc84" />。<br />
<br />
== 交通 ==<br />
=== 鉄道路線 ===<br />
* [[鉄道省]](現[[東日本旅客鉄道|JR東日本]])<br />
** [[東海道本線]] : [[川崎駅]]<br />
* 京浜電気鉄道(現[[京浜急行電鉄]])<br />
** [[京急大師線|大師線]] : 池端駅(廃駅) - 花見橋駅(廃駅) - 大師駅(現[[川崎大師駅]]) <br />
<br />
京急大師線の[[鈴木町駅]]、[[東門前駅]]、[[産業道路駅]]、[[小島新田駅]]は、当時は未開業。<br />
<br />
== 現在の町名 ==<br />
いずれも大体の範囲。<br />
* 旧大師河原村 : 藤崎、伊勢町、大師河原、台町、観音(一部)、昭和(一部)<br />
* 旧川中島村 : 大師本町、大師駅前、大師町、大師公園、東門前、[[川中島 (川崎市)|川中島]]、観音(一部)<br />
* 旧稲荷新田 : 四谷上町、四谷下町、出来野、日ノ出、塩浜、田町、江川、殿町、小島町、昭和(一部)<br />
* 旧池上新田 : 池上新町、池上町<br />
<br />
== 参照 ==<br />
{{Reflist|15em}}<br />
<br />
== 出典 ==<br />
* {{Cite book|和書|author=高橋嘉彦|year=2000|title=ふるさと川崎の自然と歴史(中)|publisher=多摩川新聞社|isbn=4-924882-41-0|ref=高橋b2002}}<br />
* {{Cite book|和書|author=高橋嘉彦|year=2000|title=ふるさと川崎の自然と歴史(下)|ref=高橋c2010}}<br />
<br />
== 関連項目 ==<br />
* [[神奈川県の廃止市町村一覧]]<br />
* [[橘樹郡]]<br />
* [[川崎市]]<br />
* [[川崎区]]<br />
* [[大師河原塩田]]<br />
<br />
{{Japan-area-stub}}<br />
{{DEFAULTSORT:たいしまち}}<br />
[[Category:川崎市域の廃止市町村]]<br />
[[Category:橘樹郡]]<br />
[[Category:川崎区の歴史]]<br />
[[Category:1889年に成立した行政区画]]<br />
[[Category:1923年に成立した行政区画]]<br />
[[Category:1924年に廃止された行政区画]]</div>
114.161.14.158
御幸村 (神奈川県)
2018-08-08T09:55:36Z
<p>114.161.14.158: </p>
<hr />
<div>{{日本の町村 (廃止)<br />
|廃止日=[[1924年]][[7月1日]]<br />
|廃止理由=新設合併<br />
|廃止詳細=[[川崎町 (神奈川県)|川崎町]]、[[大師町]]、'''御幸村''' → '''川崎市'''<br />
|現在の自治体=[[川崎市]]<br />
|自治体名=御幸村<br />
|区分=村<br />
|都道府県=神奈川県<br />
|支庁=<br />
|郡=[[橘樹郡]]<br />
|コード=当時存在せず<br />
|面積=約12.96<br />
|境界未定=<br />
|人口=4,226<br />
| 人口の出典 = 神奈川県橘樹郡案内記<br />
| 人口の時点 = 1914年<br />
|隣接自治体='''神奈川県'''<br />川崎町、[[潮田町]]、[[日吉村 (神奈川県)|日吉村]]、[[住吉村 (神奈川県)|住吉村]]、[[中原村 (神奈川県)|中原村]]<br />'''[[東京府]]'''<br />[[荏原郡]][[六郷町 (東京府)|六郷町]]、[[矢口町|矢口村]]、[[東調布町|調布村]]<br />
|木=<br />
|花=<br />
|シンボル名=その他のシンボル<br />
|鳥など=<br />
|郵便番号=<br />
|所在地=橘樹郡御幸村[[大字]][[戸手]]1021番地<br />
|外部リンク=当時存在せず<br />
|経度=<br />
|緯度=<br />
|位置画像=<br />
|特記事項=<br />
}}<br />
'''御幸村'''(みゆきむら)は、[[1889年]](明治22年)[[4月1日]]から[[1924年]]([[大正]]13年)[[7月1日]]まで存在した[[神奈川県]][[橘樹郡]]の[[村]]。<br />
<br />
== 概要 ==<br />
神奈川県橘樹郡東部の村。現在の神奈川県川崎市[[幸区]]の東部(日吉出張所管内は[[日吉村 (神奈川県)|日吉村]])、[[中原区]]の東部にあたる。[[川崎駅]]付近のごく一部が[[川崎区]]に属する。村役場は[[大字]][[戸手]]1021番地に置かれ、1913年([[大正]]2年)6月、[[西洋館]]二階建に新築された<ref>辞彙[1917], p.1270.</ref>。<br />
<br />
村域の総面積は約0.84方里(約12.955[[平方キロメートル|km{{sup|2}}]])、世帯数は485戸、人口は約4,226人(1914年)であった<ref name="橘樹郡14_1">[[橘樹郡]][1914], '''御幸村'''の章、p.1-8.</ref><ref name="橘樹郡14_40">橘樹郡[1914], p.40.</ref>。おもな産業は農業であり、[[米]]・[[麦]]のほか、[[果樹]]栽培([[モモ|桃]])や[[養蚕業|養蚕]]も行われ、多摩川沿いでは砂利採掘が行われた<ref name="橘樹郡14_1" />。<br />
<br />
== 地理 ==<br />
* 川 : [[多摩川]]<br />
<br />
== 歴史 ==<br />
{{main|幸区#沿革}}<br />
=== 村名の由来 ===<br />
[[1884年]](明治17年)3月19日、小向村(のちの御幸村大字[[小向 (川崎市)|小向]]、現在の川崎市幸区小向)の[[小向梅林]]に[[明治天皇]]が[[行幸]](御幸)、これを記念して、5年後の1889年(明治22年)4月1日に命名した<ref name="川崎市69_49">[[川崎市]][1969], p.49.</ref>。前年の1883年(明治16年)3月11日、[[依田學海|依田学海]](1834年 - 1909年)が同梅林を訪れ<ref>[http://www.kanabun.or.jp/material-data/chronological-table/chronological-table-02/ 神奈川文学年表 明治11年-20年]、[[神奈川近代文学館]]、2015年9月7日閲覧。</ref>、称賛する漢詩を読んだことが天皇の耳に届き、天皇御幸が実現したものとされる<ref name="川崎市69_49" />。<br />
<br />
=== 沿革 ===<br />
* [[戦国時代 (日本)|戦国時代]] - 戸手の地名が見られる。<br />
* [[江戸時代]] - 塚越村、古川村、戸手村、小向村、下平間村(幕府領→江戸増上寺領)、南河原村、上平間村(幕府領)、中丸子村(幕府領、旗本本郷氏知行)が成立。<br />
* [[1868年]]([[明治]]元年)<br />
** 旧暦6月17日 - [[神奈川府]]の管轄となる。<br />
** 旧暦9月21日 - 神奈川府が神奈川県に改称。<br />
* [[1874年]](明治7年) - [[大区小区制]]の施行により、南河原村が第4大区第5小区に、小倉村、塚越村、下平間村、戸手村、小向村、古川村が第4大区第6小区に、上平間村、中丸子村、市ノ坪村、今井村、鹿島田村、苅宿村が第4大区第7小区になる。<br />
* [[1889年]](明治22年)[[4月1日]] - [[町村制]]の施行により、塚越村、古川村、戸手村、小向村、下平間村、南河原村、上平間村、中丸子村および新宿町、砂子町、堀之内村、矢向村、小杉村の[[飛地]]が合併して'''御幸村'''が成立(南河原村の飛地は川崎町の、中丸子村の飛地は[[中原村 (神奈川県)|中原村]]の一部となる)。<br />
* [[1912年]](明治45年) - 多摩川を挟んで両岸に蛇行していた[[東京府]][[荏原郡]]との境が多摩川上に設定され、荏原郡[[矢口町|矢口村]]大字古市場、矢口、原、[[東調布町|調布村]]大字嶺、下沼部の一部を編入。<br />
* [[1924年]](大正13年)<br />
** 南河原の一部の区域に堀川町を起立。<br />
** [[7月1日]] - [[川崎町 (神奈川県)|川崎町]]、[[大師町]]と合併して'''川崎市'''を新設。同日御幸村廃止。<br />
* [[1964年]](昭和39年) - [[区画整理]]により、南河原の一部が駅前本町となる。 <br />
* [[1972年]](昭和47年)4月1日 - 川崎市が[[政令指定都市]]に指定され、旧村域の一部(上平間、中丸子、下沼部)が'''[[中原区]]'''に、駅前本町が'''[[川崎区]]'''に、残部が'''[[幸区]]'''になる。<br />
<br />
== 行政 ==<br />
=== 歴代村長 ===<br />
カッコ内は就任期間<ref name="橘樹郡23_86">橘樹郡[1923], p.86-89.</ref>。<br />
# 鳥養弥兵衛(1892年5月 - 1904年4月<ref name="橘樹郡23_86" />) - 初代村長<ref>姓氏[1993], p.127.</ref><br />
# 榎木勇次郎(1904年5月 - 1913年5月<ref name="橘樹郡23_86" />)<br />
# 斎藤丑之進(1913年5月 - 1914年7月<ref name="橘樹郡23_86" />) - 「多摩川沿岸新堤塘設置の件願書」(1913年)<ref name="川崎市69_283">川崎市[1969], p.283.</ref><br />
# 大森多門(1914年7月 - 1918年2月<ref name="橘樹郡23_86" />)<br />
#* 小島晋渕 - [[アミガサ事件]](1914年9月16日)時の村長代理、「多摩川築堤期成同盟会」副会長<ref>[http://www.tokyuenv.or.jp/wp/wp-content/uploads/2014/09/124a27dd33e72c97213a22f9133d9b58.pdf 多摩川]、[[公益財団法人]][[とうきゅう環境財団]]、2014年9月付、2015年9月7日閲覧。</ref><br />
# 原八郎兵衛(1918年11月 - 1919年2月<ref name="橘樹郡23_86" />)<br />
# 鳥養仁一(1919年3月 - 1922年8月<ref name="橘樹郡23_86" />)<br />
# 矢島七蔵(1922年9月 - 1924年7月1日<ref name="橘樹郡23_86" />) - 最後の村長<br />
<br />
== 地域 ==<br />
大字の一覧である。10ヶ大字が存在した<ref name="橘樹郡14_1" />。<br />
* [[南河原 (川崎市)|南河原]](みなみがわら)<ref>[http://www.city.kawasaki.jp/250/cmsfiles/contents/0000005/5013/kawasakicyo-minamigawaramura.pdf 川崎町と南河原村の字名]、[[川崎市]]、2013年3月付、2015年9月7日閲覧。</ref><br />
** 甲居村耕地(こういむらこうち)<br />
** 乙居村耕地(おついむらこうち)<br />
** 堤外北耕地(ていがいきたこうち)<br />
** 丁居村耕地(ていいむらこうち)<br />
** 戊大宮耕地(ぼおおみやこうち)<br />
** 砂子下耕地(いさごしたこうち)<br />
** 庚大宮耕地(こうおおみやこうち)<br />
** 辛荻場耕地(しんおぎばこうち)<br />
** 壬荻場耕地(じんおぎばこうち)<br />
** 癸居村耕地(きいむらこうち)<br />
* [[戸手]](とて)<br />
** 癸離河原耕地(きはなれがわらこうち)<br />
** 下河原耕地(しもがわらこうち)<br />
** 遠藤耕地(えんどうこうち)<br />
** 紺屋橋耕地(こんやばしこうち)<br />
** 西中耕地(にしなかこうち)<br />
** 矢場(やば)<br />
* [[古川町 (川崎市)|古川]](ふるかわ)<br />
** 沙原(さはら)<br />
** 鶴見田(つるみだ)<br />
* 塚越(つかこし)<br />
** 袋(ふくろ)<br />
* 下平間(しもひらま)<br />
** 池渕耕地(いけぶちこうち)<br />
** 稲荷耕地(いなりこうち)<br />
** 宮前耕地(みやまえこうち)<br />
* [[小向 (川崎市)|小向]](こむかい)<br />
** 宮前耕地(みやまえこうち)<br />
** 中原耕地(なかはらこうち)<br />
** 荒久耕地(あらくこうち)<br />
** 居村耕地(いむらこうち)<br />
* 古市場(ふるいちば)<br />
** 上台耕地(かみだいこうち)<br />
** 下河原耕地(しもがわらこうち)<br />
** 下耕地(しもこうち)<br />
* [[上平間 (川崎市)|上平間]](かみひらま)<br />
** 古下河原(こしもがわら)<br />
** 玉川渕(たまがわぶち)<br />
** 四谷前(よつやまえ)<br />
** 池淵(いけぶち)<br />
** 北村(きたむら)<br />
** 伊勢浦(いせうら)<br />
** 伊勢前(いせまえ)<br />
** 天神台(てんじんだい)<br />
* 中丸子(なかまるこ)<br />
** 西村(にしむら)<br />
** 上河原(うえがわら)<br />
** 下タ河原(したがわら)<br />
** 中町(なかまち)<br />
** 新宿耕地(しんしゅくこうち)<br />
** 南田(みなみだ)<br />
** 川向(かわむかい)<br />
** 塚田(つかだ)<br />
* 下沼部(しもぬまべ)<br />
** 玉川向(たまがわむかい)<br />
<br />
== 経済・産業 ==<br />
[[File:Meiji Sugar factory about 1910.jpg|thumb|320px|[[明治製糖]]川崎工場(1912年)。]]<br />
=== 第二次産業 ===<br />
'''工場'''<br />
* 横浜煉瓦製造所([[御幸煉瓦工場]]) - 同村大字戸手(現在の戸手4丁目12番付近)。合併前の戸手村に[[1888年]](明治21年)に開業した神奈川県最大のレンガ工場であった<ref name="産業">[http://www.city.kawasaki.jp/kawasaki/category/123-4-5-0-0-0-0-0-0-0.html 年表]、かわさき産業ミュージアム、[[川崎市]]、2013年4月7日閲覧。</ref><ref>[http://www.city.kawasaki.jp/kawasaki/cmsfiles/contents/0000026/26446/20kouza01.pdf 工都川崎前夜 - 東海道川崎宿から工都川崎へ]、[[川崎市]]、2013年4月7日閲覧。</ref>。1898年(明治31年)、[[増山周三郎]]が経営を継承、御幸煉瓦製造場と名称変更。現存せず。<br />
* 横浜精糖川崎工場 - 同村大字南河原(現在の堀川町580番地)。1907年(明治40年)に開業<ref name="産業" />。1912年(明治45年) 1月合併して[[明治製糖]]川崎工場<ref name="橘樹郡14_1" />、取り壊されて現存せず、1995年(平成7年)から現在の[[ソリッドスクエア]]。<br />
* 東京電気川崎工場 - 同村大字南河原(現在の堀川町72番地)。1908年(明治41年)に開業<ref name="産業" />。1913年(大正2年)には本社を同地に移転<ref name="橘樹郡14_1" />、1939年(昭和14年)に合併により東京芝浦電気(現在の[[東芝]])となり、2000年(平成12年)に閉鎖、取り壊されて現存せず、2006年(平成18年)から現在の[[ラゾーナ川崎]]([[ラゾーナ川崎プラザ]])。<br />
* 日東製鋼川崎工場 - 同村大字南河原(現在の[[河原町 (川崎市)|河原町]]1番地)。1915年(大正4年)に開業<ref name="産業" />、同年12月に[[東京製綱]]が買収、東京製綱川崎工場となる。取り壊されて現存せず、1972年(昭和47年)から現在の河原町団地。<br />
<br />
'''本社'''<br />
* 南武鉄道株式会社 - 同村会議員[[秋元喜四郎]]らが多摩川砂利鉄道株式会社を発足して鉄道敷設免許を申請、1920年(大正9年)3月1日社名を変更、[[東京市]][[麹町区]][[内幸町]](現在の[[東京都]][[千代田区]]内幸町)に本社を置いたが、同村合併直前の1924年6月に同村に本社を移転した。開通は同村廃止後の1927年(昭和2年)3月9日、現在の[[南武線]]の国有化前の経営会社である。<br />
* 東京電気株式会社 - 1913年(大正2年)に東京市から大字南河原の工場所在地に移転。<br />
<br />
=== 第三次産業 ===<br />
'''映画館'''<br />
* 御幸館 - 同村大字南河原(現在の中幸町4丁目付近か)。大正年間に開業、のちの[[御幸映画劇場]]、現存せず。<br />
<br />
== 教育 ==<br />
'''旧制尋常小学校'''<br />
* 御幸村立尋常高等御幸小学校 - 1871年(明治4年)、妙光寺に開かれた小向塾が前身、同村成立時に橘樹郡御幸村村立御幸小学校となる<ref>[http://www.keins.city.kawasaki.jp/2/ke202401/top_page/enkaku.pdf 沿革]、[[川崎市立御幸小学校]]、2010年8月29日閲覧。</ref>。所在地は大字[[戸手]]694番地<ref name="橘樹郡14_1" />(現在の幸区[[遠藤町]]1番地)、現在の[[川崎市立御幸小学校]]。<br />
* 御幸村立玉川尋常小学校 - 1904年(明治37年)3月27日、旧・中丸子小学校より分離、御幸村尋常小学校として創立する<ref>[http://www.keins.city.kawasaki.jp/2/ke203801/gaiyou/gaiyou.html 学校概要]、[[川崎市立玉川小学校]]、2010年8月29日閲覧。</ref>。所在地は大字[[上平間 (川崎市)|上平間]]字北谷33番地<ref name="橘樹郡14_1" />(現在の[[中原区]]北谷町32番地)、現在の[[川崎市立玉川小学校]]。<br />
<br />
'''旧制中学校'''<br />
* 御幸村立実業補習学校 - 1918年(大正7年)4月創立、現在の[[川崎市立幸高等学校]]<ref>[http://teiji.info/schoolinfo/syougyou/s-history.htm 商業高校の歴史]、[[川崎市立幸高等学校|川崎市立商業高等学校]]、2010年8月29日閲覧。</ref>。<br />
<br />
== 医療・衛生 ==<br />
橘樹郡医師会に加盟する同村内の医師の一覧である(1914年時点)<ref name="橘樹郡14_109">橘樹郡[1914], p.109.</ref>。<br />
* 岩村得安(大字上平間)<br />
* 岩村安重(大字上平間)<br />
;[[浄水場]]<br />
* [[戸手浄水場]] - 1921年(大正10年)完成(1968年閉鎖)、現在の幸区役所・幸文化センター(幸区戸手本町1丁目12番2号)<br />
<br />
== 交通 ==<br />
=== 鉄道路線 ===<br />
なし。<br />
<br />
合併による同村の成立に2年先立つ1872年(明治5年)旧暦5月7日、のちの同村域に隣接する川崎村を通過する[[品川駅]] - 横浜駅(現在の[[桜木町駅]])間の鉄道が開通、旧暦同年6月5日に[[川崎駅]]が営業を開始した<ref>[[日本国有鉄道|国鉄]][1969], p.94.</ref>が、同駅は当時の村域外であった。1914年(大正3年)12月20日に京浜線(現在の[[京浜東北線]])が開通するが、これも同様である。<br />
<br />
1920年(大正9年)3月1日に設立された南武鉄道(現在の[[南武線]])の川崎 - 登戸間が開通するのは、同村が川崎市へ合併した3年後の1927年(昭和2年)3月9日である。開業と同時に、尻手停留場(現在の[[尻手駅]])、平間停留場(現在の[[平間駅]])、村域外の[[矢向駅]]からの短い貨物支線の終点[[川崎河岸駅]](1972年5月25日廃止)の3駅が旧村域に開業した。鹿島田停留場(現在の[[鹿島田駅]])も当時の村域外であった。<br />
<br />
=== 道路 ===<br />
<!-- * 國道2號 - 同村成立以前の1885年(明治18年)2月24日指定、現在の[[国道1号]] --><br />
* [[府中街道]] - 現在の[[国道409号]]<br />
* [[大師道]] - 同上<br />
* 溝口道 - 現在は「小向東芝町」交差点を経由して「下平間住宅前」交差点で上記と合流<br />
<br />
=== 渡し船 ===<br />
* 矢口渡船場 - 古市場の天満天神社(幸区東古市場)の先に位置した<br />
* 小向渡船場 - 現在の[[川崎競馬場|川崎競馬練習場]](幸区小向)の南に位置した<ref>[http://habs.dc.affrc.go.jp/compare.html?lon=139.69682164228308&lat=35.54596898302377&zoom=16&layers0=B000000000&layers1=00B0000000 小向村]、[[農業環境技術研究所|歴史的農業環境閲覧システム]]、1881年作成地図、2015年9月8日閲覧。</ref><br />
<br />
== 名所・旧跡 ==<br />
* [[小向梅林]] - [[寛文]]年間(1661年 - 1673年)に植林されたもの<ref>[[岡野欣之助|岡野]][1895], p.17-18.</ref>、現在の御幸公園(幸区東古市場1番地)<br />
<!-- * 加瀬山 - 現在の[[夢見ヶ崎動物公園]](幸区[[南加瀬]]1丁目2番1号)<br />
* [[天照皇大神 (川崎市)|天照皇大神]] - 現存(幸区南加瀬1丁目2番2号) --><!-- いずれも[[日吉村 (神奈川県)]] --><br />
* [[女躰神社]] - 南河原村社<ref name="橘樹郡14_1" />、現存(幸区幸町1丁目944番地)<br />
* 御嶽神社 - 塚越村社<ref name="橘樹郡14_1" />、現存(幸区塚越1丁目64番地)<br />
* 神明神社 - 戸手村社<ref name="橘樹郡14_1" />、現存(幸区戸手本町2丁目395番地)<br />
* 八幡神社 - 小向村社<ref name="橘樹郡14_1" />、「小向の獅子舞」、現存(幸区小向西町3丁目28番地)<br />
* 天神社 - 下平間村社<ref name="橘樹郡14_1" />、下平間天満天神社、現存(幸区下平間51番地)<br />
* 天神社 - 古市場村社<ref name="橘樹郡14_1" />、天満天神社、現存(幸区東古市場84番地)<br />
* 八幡神社 - 上平間村社<ref name="橘樹郡14_1" />、上平間八幡大神、現存(中原区上平間299番地)<br />
* 神明神社 - 中丸子村社<ref name="橘樹郡14_1" />、中丸子神明神社、現存(中原区中丸子492番地)<br />
* 延命寺 - 大字南河原<ref name="橘樹郡14_1" />、現存(幸区都町4番地2号)<br />
* 円真寺 - 大字南河原<ref name="橘樹郡14_1" />、現存(幸区幸町3丁目711番地)<br />
* 妙光寺 - 現存(幸区小向20番地1号)<br />
* 称名寺 - 大字下平間、現存(幸区幸区下平間183番地)<br />
* 軽部五兵衛屋敷跡 - [[大石良雄|大石内蔵助]](1659年 - 1703年)が滞在(1702年の旧暦10月26日 - 11月5日)、称名寺正面にかつて存在したが同村成立の時代(1914年)には同家すでに零落し跡のみが残る<ref name="橘樹郡14_1" /><ref>[http://shomyo-ji.com/about/history.html 稱名寺の歴史]、稱名寺、2015年9月8日閲覧。</ref><br />
<br />
== 現在の町名 ==<br />
'''川崎市幸区'''<br />
* 旧塚越村 : 塚越、新塚越<br />
* 旧古川村 : [[古川町 (川崎市)|古川町]]<br />
* 旧戸手村 : 戸手本町、神明町、[[河原町 (川崎市)|河原町]]、[[紺屋町 (川崎市)|紺屋町]]、[[遠藤町]]、[[戸手]]<br />
* 旧小向村 : [[小向 (川崎市)|小向]]、小向町、小向西町、[[小向東芝町]]、小向仲野町、東古市場(一部)<br />
* 旧下平間村 : 下平間<br />
* [[南河原 (川崎市)|旧南河原村]] (一部) : 幸町、中幸町、南幸町、都町、[[柳町 (川崎市)|柳町]]、大宮町、堀川町<br />
* 旧東京府荏原郡古市場村 : 古市場、東古市場(一部)<br />
'''川崎市中原区'''<br />
* 旧上平間村 : [[上平間 (川崎市)|上平間]]、北谷町、田尻町<br />
* 旧中丸子村 : 中丸子<br />
* 旧東京府荏原郡下沼部村 : 下沼部<br />
'''川崎市川崎区'''<br />
* 旧南河原村(一部) : 駅前本町(一部)<br />
<br />
== 脚註 ==<br />
{{脚注ヘルプ}}<br />
{{Reflist|2}}<br />
<br />
== 参考文献 ==<br />
* 『橘樹郡史談』、[[岡野欣之助]]、木曽義比、1895年7月発行<br />
* 『神奈川県橘樹郡案内記』、[[橘樹郡]]、1914年発行<br />
* 『横浜社会辞彙』、[[日比野重郎]]、[[横浜通信社]]、1917年発行<br />
* 『郡制有終記念帖』、橘樹郡、1923年3月発行<br />
* 『川崎市史』、[[川崎市]]、1969年発行<br />
* 『[[日本国有鉄道百年史]]』第1巻、[[日本国有鉄道]]、1969年発行<br />
* 『神奈川県姓氏家系大辞典』、神奈川県姓氏家系大辞典編纂委員会、[[角川書店]]、1993年3月発行 ISBN 4040021401<br />
<br />
== 関連項目 ==<br />
* [[神奈川県の廃止市町村一覧]]<br />
* [[橘樹郡]]<br />
* [[川崎市]]<br />
* [[幸区]]<br />
* [[中原区]]<br />
<br />
{{Japan-area-stub}}<br />
{{デフォルトソート:みゆきむら}}<br />
[[Category:川崎市域の廃止市町村]]<br />
[[Category:橘樹郡]]<br />
[[Category:幸区の歴史]]<br />
[[Category:中原区の歴史]]<br />
[[Category:川崎区の歴史]]<br />
[[Category:1889年に成立した行政区画]]<br />
[[Category:1924年に廃止された行政区画]]</div>
114.161.14.158
北カリマンタン州
2018-08-07T22:59:49Z
<p>114.161.14.158: </p>
<hr />
<div>{{出典の明記|date=2013年5月}}<br />
{{基礎情報 インドネシアの州<br />
| name= 北カリマンタン州<br />Kalimantan Utara<br />
| logo= [[ファイル:Emblem of North Kalimantan.png|100px]]<br />
| motto=<br />
| map= North Kalimantan in Indonesia.svg<br />
| coordinate=<br />
| capital= [[タンジュン・セロル]]<br />
| governor= イリアント•ランブリ<br />
| area= 71,177<br />
| population= 738,163 (2013)<br />
| densities=<br />
| ethnicity = ヂャク<br />
| religion =<br />
| language =<br />
| Time= [[インドネシア時間|WITA]] ([[UTC+8]])<br />
| ISO 3166-2 =<br />
| site= www.kaltara-prov.go.id/<br />
}}<br />
'''北カリマンタン'''([[インドネシア語]]:Kalimantan Utara)は[[インドネシア]]の州。<br />
州都は[[タンジュン・セロル]]。<br />
インドネシア領[[カリマンタン島]]([[ボルネオ島]]のインドネシア側)にある5つの州のひとつ。<br />
[[2013年]]の人口は約73.8万人。<br />
<br />
== 歴史 ==<br />
2012年10月に[[東カリマンタン州]]から北部の県が分離する新自治体設置法案が可決されたことで、設置が決まった。州の設立は2013年、州議会の設置は2014年の予定である<ref>「北カリマンタン州設置へ 34番目の州 豊富な天然資源還元 国境地域の生活改善 (2012年11月03日)」:https://www.jakartashimbun.com/free/detail/7454.html/</ref>。<br />
<br />
== 行政区分 ==<br />
北カリマンタン州は4の県と1つの市部で分けられている。<br />
<br />
=== 県 ===<br />
# {{仮リンク|マリナウ県|en|Malinau Regency}} - ({{仮リンク|マリナウ|id|Malinau Kota, Malinau}})<br />
# {{仮リンク|ブルンガン県|en|Bulungan Regency}} - ([[タンジュン・セロル]])<br />
# {{仮リンク|タナ・ティドゥン県|en|Tana Tidung Regency}} - ({{仮リンク|ティデン・パレ|id|Tideng Pale, Sesayap, Tana Tidung}})<br />
# {{仮リンク|ヌヌカン県|en|Nunukan Regency}} - ({{仮リンク|ヌヌカン|en|Nunukan, Nunukan<!-- 存在しない -->}})<br />
<br />
=== 市 ===<br />
# [[タラカン市]]([[タラカン島]])<br />
<br />
== 脚注 ==<br />
{{Reflist}}<br />
<br />
== 外部リンク ==<br />
* [http://www.kaltara-prov.go.id/ 北カリマンタン州政府]<br />
<br />
{{インドネシアの地方行政区画}}<br />
<br />
{{DEFAULTSORT:きたかりまんたんしゆう}}<br />
[[Category:北カリマンタン州|*]]<br />
{{indonesia-stub}}</div>
114.161.14.158
リアウ諸島州
2018-08-07T22:20:44Z
<p>114.161.14.158: </p>
<hr />
<div>{{基礎情報 インドネシアの州<br />
| name= リアウ諸島州<br />Riau Islands<br />
| logo=[[画像:Lambang Riau Kepulauan.jpeg|100px]]<br />
| motto= "Berpancang Amanah Bersauh Marwah"<br />
| map= IndonesiaRiauIslands.png<br />
| coordinate=<br />
| capital= [[タンジョン・ピナン]]<br />
| governor= Nurdin Basirun<br />
| area= 21,992<br />
| population= 197万3403人(2015年)<ref name="bps2016">{{Cite web|url=http://kepri.bps.go.id/website/pdf_publikasi/Provinsi-Kepulauan-Riau-Dalam-Angka-2016.pdf| title=Provinsi Kepulauan Riau Dalam Angka 2016|language=id|accessdate=2016-09-24}}</ref><br />
| densities= 54.5<br />
| ethnicity = [[マレー人]]<br />
| religion = [[イスラーム]]<br />
| language = [[インドネシア語]]<br />
| Time= [[インドネシア時間|WIB]] ([[UTC+7]])<br />
| ISO 3166-2 = ID-KR<br />
| site= www.kepriprov.go.id/<br />
}}<br />
'''リアウ諸島州''' (リアウしょとうしゅう、[[インドネシア語]]:Kepulauan Riau) は、[[インドネシア]]の[[インドネシアの地方行政区画|州]]。<br />
<br />
== 概要 ==<br />
インドネシア北西部の[[リアウ諸島]]、[[アナンバス諸島]]、[[ナトゥナ諸島]]、[[リンガ諸島]]、[[タンベラン諸島]]などからなる。州都は[[ビンタン島]]の[[タンジョン・ピナン]]。他に代表的な島として[[バタム島]]がある。[[リアウ州]]から[[2004年]]に分離して設立された。[[シンガポール]]の南東に隣接することから、同国からの[[観光]]客も多い。<br />
<br />
== 関連項目 ==<br />
* [[リゾート]]<br />
<br />
== 脚注 ==<br />
{{Reflist}}<br />
<br />
{{インドネシアの地方行政区画}}<br />
<br />
{{DEFAULTSORT:りあうしよとうしゆう}}<br />
[[Category:リアウ諸島州|*]]<br />
{{indonesia-stub}}</div>
114.161.14.158
西スラウェシ州
2018-08-07T22:20:12Z
<p>114.161.14.158: </p>
<hr />
<div>{{基礎情報 インドネシアの州<br />
| name= 西スラウェシ州<br />Sulawesi Barat<br />
| logo= [[Image:West_Sulawesi_coa.png|100px]]<br />
| motto=<br />
| map= IndonesiaWestSulawesi.png<br />
| coordinate=<br />
| capital= {{仮リンク|マムジュ|en|Mamuju (city)}}<br />
| governor= Anwar Adnan Saleh<br />
| area= 16,796.19<br />
| population= 128万4620人(2014年)<br />
| densities=<br />
| ethnicity ={{仮リンク|マンダル人|en|Mandar people}} (49.15%), [[トラジャ族|トラジャ人]]<br />(13.95%), [[ブギス人]] (10.79%),<br />[[ジャワ人]] (5.38%), [[マカッサル人]]<br />(1.59%), その他 (19.15%)<br />
| religion =[[イスラム]] (83.1%), [[キリスト教]]<br />(14.36%), [[ヒンドゥー教]] (1.88%),<br />[[仏教]] (0.04%), [[その他]] (0.62%)<br />
| language = [[インドネシア語]], マンダル語,<br />ブギス語, トラジャ語, マカッサル語<br />
| Time= [[インドネシア時間|WITA]] ([[UTC+8]])<br />
| ISO 3166-2 = ID-SR<br />
| site= www.sulbar.com/<br />
}}<br />
'''西スラウェシ州''' ([[インドネシア語]]:Sulawesi Barat, 略:Sulbar) は、[[インドネシア]]の州。州都は{{仮リンク|マムジュ|en|Mamuju (city)}}。[[スラウェシ島]](旧称:セレベス島)にある。2004年10月に[[南スラウェシ州]]から分離した。州の大きさは、16,796.19 km{{sup|2}}。州の経済は主に鉱業、農業、漁業によって支えられている。主に{{仮リンク|マンダル人|en|Mandar people}}が居住する。<br />
<br />
== 行政区分 ==<br />
西スラウェシ州は5県に分けられている。<br />
<br />
=== 県 ===<br />
県-(県都)<br />
# [[マムジュ県]] – ({{仮リンク|マムジュ|en|Mamuju (city)}})<br />
# [[北マムジュ県]] – ({{仮リンク|パサンカユ|id|Pasangkayu, Mamuju Utara}})<br />
# [[中央マムジュ県]] – ({{仮リンク|トバダク|en|Tobadak}})<br />
# [[マジェネ県]] – ({{仮リンク|マジェネ|en|Majene}})<br />
# {{仮リンク|ポルワリ・マンダル県|en|Polewali Mandar Regency}}<br />
# {{仮リンク|ママサ県|en|Mamasa Regency}} –({{仮リンク|ママサ|id|Mamasa, Mamasa}})<br />
<br />
{{インドネシアの地方行政区画}}<br />
<br />
{{indonesia-stub}}<br />
{{DEFAULTSORT:にしすらうえししゆう}}<br />
[[Category:西スラウェシ州|*]]</div>
114.161.14.158
西パプア州
2018-08-07T22:16:59Z
<p>114.161.14.158: </p>
<hr />
<div>{{基礎情報 インドネシアの州<br />
| name= 西パプア州<br />Papua Barat<br />
| logo=[[画像:Coat of arms of West Papua.svg|100px]]<br />
| motto=<br />
| map= IndonesiaWestPapua.png<br />
| coordinate=<br />
| capital= マノクワリ<br />
| governor=<br />
| area= 115,364<br />
| population=<br />
| ethnicity =<br />
| religion = [[イスラム]](‐%),[[プロテスタント]](‐%),[[カトリック教会|カトリック]](‐%)[[ヒンドゥー教]](‐%),[[仏教]](‐%)<br />
| language = [[インドネシア語]]<br />
| Time= [[インドネシア時間|WIT]]([[UTC+9]])<br />
| ISO 3166-2 = なし<br />
| site=www.papuabaratprov.go.id<br />
}}<br />
'''西パプア州'''([[インドネシア語]]:Papua Barat)は、[[インドネシア]]の州。州都は[[マノクワリ]]である。同州は[[ニューギニア島]]の最西端のバードヘッド半島(オランダ語:Vogelkop インドネシア語:Kepala Burung)に位置する。北には[[太平洋]]が南には[[セラム海]]が広がっている。また西では[[北マルク州]]、[[マルク州]]に、東はチュンデゥラワシ湾 (Cenderawasih) に接している。東南でパプア州と州境を接する。人口は2014年時点で約88万人でインドネシアの中で非常に人口の少ない州である。<br />
<br />
== 歴史 ==<br />
*2003年2月に[[パプア州]]から西部地域が分離することで成立した。この分離は多くの問題を残している。[[ジャカルタ]]の中央政府・移民は効率的な資源管理と公平な利益分配のために分離を支持した。しかし、パプア州全体では、パプア独立派を押さえるために発行されたパプア州特別自治法が脅かされると考え、分離に反対する人が多かった。<br />
<br />
*2004年11月、インドネシア法廷は「西パプア州分離はパプア州特別自治法違反」との見解を出したが、すでに州の分離が行われていることから、まだ分離が行われていなかった中部イリアンジャヤ州の設置を禁じるのみに留まった。<br />
<br />
*2007年2月7日、西イリアン・ジャヤ州 (Irian Jaya Barat) から西パプア州に改名した。<br />
<br />
*2010年10月上旬、トゥルク・ウォンダマ県に集中豪雨があり、[[洪水]]や[[土砂災害]]が発生。100人以上の死者を出し、5,000人以上が避難する規模となった<ref>{{cite news<br />
|url=http://www.bbc.co.uk/news/world-asia-pacific-11499402<br />
|title= Floods and landslides in Indonesia kill more than 100<br />
|newspaper=BBC.NEWS<br />
|date=2010-10-08<br />
|accessdate=2010-10-15<br />
}}</ref>。<br />
<br />
== 行政区分 ==<br />
西パプア州は8の県と1つの市部に分けられている。<br />
<br />
=== 県 ===<br />
* [[ファク・ファク県]] Fak-fak - (ファクファク: Fak-fak)<br />
* [[カイマナ県]] Kaimana - (カイマナ: Kaimana)<br />
* [[マノクワリ県]] Manokwari - (マノクワリ: Manokwari)<br />
* [[ラジャ・アンパット県]] Raja Ampat - (ワイサイ: Waisai)<br />
* [[ソロン県]] Sorong - (ソロン: Sorong)<br />
* [[南ソロン県]] Sorong Selatan - (トゥミナブアン: Teminabuan)<br />
* [[トゥルク・ビントゥニ県]] Teluk Bintuni - (ビントゥニ: Bintuni)<br />
* [[トゥルク・ウォンダマ県]] Teluk Wondama - (ラシウイ: Rasiei)<br />
<br />
=== 市 ===<br />
* [[コタソロン]] - Kota Sorong<br />
<br />
== 関連項目 ==<br />
* [[ニューギニア島]]<br />
* [[イリアンジャヤ]]<br />
<br />
== 出典 ==<br />
{{Reflist}} <br />
{{インドネシアの地方行政区画}}<br />
{{DEFAULTSORT:にしはふあしゆう}}<br />
[[Category:西パプア州|*]]<br />
[[Category:イリアンジャヤ]]<br />
[[Category:2003年に成立した行政区画]]<br />
{{indonesia-stub}}</div>
114.161.14.158
バンテン州
2018-08-07T22:12:11Z
<p>114.161.14.158: </p>
<hr />
<div>{{基礎情報 インドネシアの州<br />
|name=バンテン州<br/>Banten<br />
|logo=[[Image:Banten coa.png|100px|Seal of Banten]]<br />
|motto="''Iman Taqwa''"<br />
|map=IndonesiaBanten.png<br />
|capital= [[セラン]]<br />
|governor=Ratu Atut Chosiyah<br />
|population=11,834,087(2014年)<br />
|area=9,160.7<br />
|coordinate=<br />
|Time=[[インドネシア時間|WIB]] ([[UTC+7]])<br />
|ethnicity=バンテン人 (47%), [[スンダ人]] (23%), [[ジャワ人]] (12%), {{仮リンク|ベタウィ人|en|Betawi people}} (10%), [[華僑]] (1%)<br />
|religion=[[イスラム教]] (96.6%), [[プロテスタント]] (1.2%), [[カトリック教会|カトリック]] (1%), [[仏教]] (0.7%), [[ヒンドゥー教]] (0.4%)<br />
|language=[[インドネシア語]]、[[ジャワ語]]、[[スンダ語]]<br />
|ISO 3166-2 = ID-BT<br />
|site=www.banten.go.id/<br />
}}<br />
'''バンテン州'''<ref>現地語に近い発音はバントゥン。</ref> ([[インドネシア語]]: Banten) は[[ジャワ島]]西部に位置する[[インドネシア]]の州。<br />
州都は[[セラン]]。<br />
[[2014年]]の人口は1183万4087人。<br />
[[2000年]]に[[西ジャワ州]]から分離した。<br />
<br />
== 歴史 ==<br />
16世紀より、イスラーム教国の[[バンテン王国]]が栄えた。当時のムスリム商人は、スマトラ島の[[アチェ王国]]などと往来し、[[ポルトガル]]の進出に対抗した。16世紀後半になると、[[明]]が[[海禁]]を解除したことを受けて、中国船の往来も増加した。16世紀末になると、スペインからの独立を図るオランダが、スペインの勢力下(本来はポルトガル領だが、当時はスペインがポルトガルを併合していた)にある[[マラッカ海峡]]を回避して、[[スンダ海峡]]沿いのバンテンに寄港した。その後、この地にオランダは商館を設け、さらに東方の[[アンボイナ島]]にまで進出した。<br />
<br />
== 行政区分 ==<br />
'''県:'''<br />
# {{仮リンク|セラン県|en|Serang Regency}}<br />
# {{仮リンク|レバック県|en|Lebak Regency}}<br />
# {{仮リンク|パンデグラン県|en|Pandeglang Regency}}<br />
# {{仮リンク|タンゲラン県|en|Tangerang Regency}}<br />
<br />
'''市:'''<br />
# [[チレゴン]]<br />
# [[セラン]]<br />
# [[タンゲラン]]<br />
# {{仮リンク|タンゲラン・セラタン|en|South Tangerang|label=南タンゲラン}}<br />
<br />
== 脚注 ==<br />
<references/><br />
<br />
{{インドネシアの地方行政区画}}<br />
<br />
{{indonesia-stub}}<br />
{{DEFAULTSORT:はんてんしゆう}}<br />
[[Category:バンテン州|*]]<br />
[[Category:2000年に成立した行政区画]]</div>
114.161.14.158
バンカ・ブリトゥン州
2018-08-07T22:11:55Z
<p>114.161.14.158: </p>
<hr />
<div>{{基礎情報 インドネシアの州<br />
|name=バンカ・ブリトゥン<br/>Bangka Belitung<br />
|logo= [[File:Flag of Bangka-Belitung.svg|100px]] [[File:Coat of arms of Bangka Belitung Islands.svg|100px]]<br />
|motto="''Serumpun Sebalai''"<br />
|map=IndonesiaBangkaBelitung.png<br />
|capital=[[パンカルピナン]]<br />
|population=122万3048人(2010年)<br />
|area=18,724.74<br />
|coordinate=<br />
|Time=[[インドネシア時間|WIB]] ([[UTC+7]])<br />
|ethnicity=[[マレー人]] (65%), [[華人]]([[客家人]])(30%), ジャワ人, バタク人, ブギス人(5%)<br />
|religion=[[イスラム教]] (81.83%), [[仏教]] (8.71%),[[儒教]](5.11%), [[プロテスタント]] (2.44%), [[カトリック教会|カトリック]] (1.79%), [[ヒンドゥー教]] (0.13%)<br />
|language=[[マレー語]], [[客家語]], [[インドネシア語]]<br />
|governor=Rustam Effendi<br />
|ISO 3166-2 = ID-BB<br />
|site=www.bangkabelitungprov.go.id/<br />
}}<br />
'''バンカ・ブリトゥン州''' ([[インドネシア語]]:Bangka Belitung) は、[[インドネシア]]の州。州都は[[パンカルピナン]]。[[バンカ島]]と[[ブリトゥン島]]からなる。[[2000年]]に[[南スマトラ州]]から分離した。<br />
<br />
== 住民 ==<br />
住民は[[マレー人]]が多数派で、4分の1程は[[華人]][[客家]]を主とする中国系住民が占める。<br />
<br />
== 行政区分 ==<br />
バンカ・ブリトゥン州は6の県と1つの市部に分けられている。<br />
<br />
=== 県 ===<br />
* バンカ県 - スンガイリアト (Sungailiat)<br />
* 西バンカ県 - ムントク (Muntok)<br />
* 南バンカ県 - トボアリ (Toboali)<br />
* 中部バンカ県 - コバ (Koba)<br />
* ブリトゥン県 - タンジュンパン (Tanjungpandan)<br />
* 東ブリトゥン県 - マンガル (Manggar)<br />
<br />
=== 市 ===<br />
* [[パンカルピナン|パンカルピナン市]](州都)<br />
<br />
==姉妹島==<br />
* [[オーランド諸島]]([[フィンランド]]・自治領)<br />
* [[フロリダキーズ]]([[アメリカ合衆国]]・[[フロリダ州]])<br />
<br />
{{インドネシアの地方行政区画}}<br />
<br />
{{indonesia-stub}}<br />
{{DEFAULTSORT:はんかふりとうん}}<br />
[[Category:バンカ・ブリトゥン州|*]]<br />
[[Category:2000年に成立した行政区画]]</div>
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