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http:///mymemo.xyz/wiki/api.php?action=feedcontributions&user=113.37.189.50&feedformat=atom miniwiki - 利用者の投稿記録 [ja] 2024-04-26T16:45:11Z 利用者の投稿記録 MediaWiki 1.31.0 サン・バルテルミの虐殺 2018-08-25T12:37:49Z <p>113.37.189.50: </p> <hr /> <div>[[File:Francois Dubois 001.jpg|thumb|350px|サン・バルテルミの虐殺 フランソワ・デュボワ(1529-1584), ローザンヌ美術館]]<br /> &#039;&#039;&#039;サン・バルテルミの虐殺&#039;&#039;&#039;(サン・バルテルミのぎゃくさつ [[フランス語]]:&#039;&#039;Massacre de la Saint-Barthélemy&#039;&#039;)は、[[1572年]][[8月24日]]に[[フランス]]の[[カトリック教会|カトリック]]が[[プロテスタント]]を大量虐殺した[[事件]]である。&#039;&#039;&#039;聖バルテルミーの虐殺&#039;&#039;&#039;あるいは([[英語]]表記から)&#039;&#039;&#039;聖バーソロミューの虐殺&#039;&#039;&#039;(&#039;&#039;St. Bartholomew&#039;s Day Massacre&#039;&#039;)とも表記される。<br /> <br /> [[宗教改革]]者[[ジャン・カルヴァン]]の思想が[[フランス]]でも勢力を持ち、[[プロテスタント]]はカトリック側から「[[ユグノー]]」と呼ばれた。[[1562年]]以降、フランスはカトリックとユグノーとの[[内乱]]状態([[ユグノー戦争]])となっていた。<br /> <br /> 国王[[シャルル9世 (フランス王)|シャルル9世]]の母后[[カトリーヌ・ド・メディシス]]の提案により、ユグノーとカトリックとの融和を図るため、ユグノーの指導者である[[ナバラ王国|ナバラ]]王[[アンリ4世 (フランス王)|アンリ]](有力な王位継承権を持つ[[ブルボン家]]当主)と王妹[[マルグリット・ド・ヴァロワ|マルグリット]](国王[[シャルル9世 (フランス王)|シャルル9世]]の妹)が結婚することになった。1572年[[8月17日]]に結婚式が行われ、ユグノーの中心人物である[[ガスパール・ド・コリニー|コリニー提督]]はじめ多くのユグノー[[貴族]]が結婚を祝うためパリに集まっていた。[[8月22日]]にコリニーが狙撃されて負傷する事件が起こると、ユグノーは憤り、国王に真相究明を求めた&lt;ref name=hasegawa27/&gt;。<br /> <br /> 2日後、[[バルトロマイ|サン・バルテルミ]]の祝日である8月24日、カトリック強硬派の[[ギーズ公]]の兵がコリニー提督を暗殺し、シャルル9世の命令により宮廷のユグノー貴族多数が殺害された。だが、事態は宮廷の統制を超えて暴発し&lt;ref&gt;[[#Pettegree(2002)|Pettegree(2002)]],pp.159-160&lt;/ref&gt;、市内でもプロテスタント市民が襲撃され、虐殺は地方にも広まり、犠牲者の数は約1万~3万人とされる(後述[[#犠牲者数]]節参照)。ナバラ王アンリは捕らえられ、カトリックへの改宗を強制された。だが、内乱はこれでは終わらず、ユグノーは[[モナルコマキ|暴君放伐論]]を唱えてより強硬に抵抗するようになり&lt;ref&gt;『[http://100.yahoo.co.jp/detail/%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%90%E3%83%AB%E3%83%86%E3%83%AB%E3%83%9F%E3%83%BC%E3%81%AE%E8%99%90%E6%AE%BA/ サン・バルテルミーの虐殺]』(日本大百科全書、[[小学館]])&lt;/ref&gt;、穏健派カトリックも独自勢力であるポリティーク派を形成するようになった。<br /> <br /> 2年後にシャルル9世が死去し、[[1576年]]にはナバラ王アンリが逃走してプロテスタントに再改宗した&lt;ref name=hasegawa33/&gt;。その後、内乱は新国王[[アンリ3世 (フランス王)|アンリ3世]](シャルル9世の弟)、カトリック同盟の[[アンリ1世 (ギーズ公)|ギーズ公アンリ]]そしてユグノー陣営のナバラ王アンリの三つどもえのいわゆる「&#039;&#039;&#039;三アンリの戦い&#039;&#039;&#039;」と呼ばれる泥沼状態に陥る。ギーズ公とアンリ3世が相次いで暗殺された後の[[1589年]]にナバラ王アンリが王位を継承する([[アンリ4世 (フランス王)|アンリ4世]])。この宗教戦争は[[1598年]]にアンリ4世がプロテスタントに一定の制限はあるが信仰の自由を容認した[[ナントの勅令]]を発するまで続いた&lt;ref name=&quot;Huguenotwar&quot;/&gt;&lt;ref name=&quot;Nantes&quot;&gt;『[http://100.yahoo.co.jp/detail/%E3%83%8A%E3%83%B3%E3%83%88%E3%81%AE%E7%8E%8B%E4%BB%A4/ ナントの王令]』(日本大百科全書、小学館)&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> == 背景 ==<br /> === フランスの改革派、ユグノー ===<br /> [[Image:Catherine de Medicis.jpg|180px|right|thumb|[[カトリーヌ・ド・メディシス]]&lt;br/&gt;アンリ2世の妃で、[[メディチ家]]出身。夫の死後は相次いで息子を即位させ、実権を握った]]<br /> {{Main|ユグノー}}<br /> [[1517年]]に[[マルティン・ルター]]が発表した『[[95ヶ条の論題]]』を契機に[[神聖ローマ帝国]]領域(現在の[[ドイツ]])で[[宗教改革|宗教改革運動]]が始まった。帝国はプロテスタント諸侯とカトリック諸侯とに分裂して対立した。抗争は[[シュマルカルデン戦争]]([[1546年]]~[[1547年]])に勝利した皇帝[[カール5世 (神聖ローマ皇帝)|カール5世]]のカトリック陣営優勢に終わるかに見られた。だが、[[1552年]]にフランスと結んだ[[ザクセン選帝侯]][[モーリッツ (ザクセン選帝侯)|モーリッツ]]が反乱を起こして皇帝を襲撃し、カール5世は大敗を喫してプロテスタント信仰([[ルター派]]のみ)を容認する[[アウクスブルクの和議]]([[1555年]])を余儀なくされる&lt;ref&gt;『[http://100.yahoo.co.jp/detail/%E5%AE%97%E6%95%99%E6%94%B9%E9%9D%A9/ 宗教改革]』(日本大百科全書、小学館)&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> [[スペイン・ハプスブルク家]]の領地であった[[ネーデルラント17州|ネーデルラント]]にもプロテスタントが浸透しており、[[スペイン王]][[フェリペ2世 (スペイン王)|フェリペ2世]]は[[フェルナンド・アルバレス・デ・トレド|アルバ公]]を派遣して弾圧による恐怖政治で応じたが、[[1568年]]に北部ネーデルラント7州が反乱を起こしオランダ独立戦争([[八十年戦争]])が勃発する&lt;ref&gt;『[http://100.yahoo.co.jp/detail/%E3%82%AA%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%80%E7%8B%AC%E7%AB%8B%E6%88%A6%E4%BA%89/ オランダ独立戦争]』(日本大百科全書、小学館)&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> フランスにおいても[[宗教改革]]と通じる[[福音主義]]的思想が現れた。その最初期のものは、[[ルフェーヴル・デタープル]]による[[パウロ]]の書簡の注解([[1512年]])やフランス語訳新約聖書([[1523年]])があげられる&lt;ref&gt;[[#柴田他(1996)|柴田他(1996)]],pp.99-101.&lt;/ref&gt;。しかし[[パリ大学]]の神学者や[[パリ高等法院]]から弾圧され、デタープルは[[ストラスブール]]へ亡命するなど、改革運動に迫害が加えられた。だが改革派は急速に影響力を増大させ&lt;ref group=&quot;nb&quot;&gt;[[1533年]]にはパリ大学総長がルターに依拠して演説し、[[1534年]]にはカトリックのミサ聖祭の中止を訴える檄文事件が起こっている。&lt;/ref&gt;、1550年代には[[ジャン・カルヴァン|カルヴァン]]の指導の下で組織化が図られるようになった。<br /> <br /> 国王[[フランソワ1世 (フランス王)|フランソワ1世]]は姉の[[マルグリット・ド・ナヴァル|マルグリット]]が人文主義や改革運動に好意的であったためか、当初改革派に理解を示していたが、[[檄文事件]]を境に弾圧に回り、パリ高等法院に異端審問委員会を設置した&lt;ref&gt;[[#柴田他(1996)|柴田他(1996)]],p.103,pp.107-108.&lt;/ref&gt;。さらに後継者[[アンリ2世 (フランス王)|アンリ2世]]は[[1547年]]に[[特設異端審問法廷]]を設け、弾圧を強化した&lt;ref&gt;[[#柴田他(1996)|柴田他(1996)]],p.108.&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> これに対し改革派は[[1559年]]に第1回全国改革派教会会議を開催し、信仰箇条や教会の規則を定めて一応の組織化を果たした&lt;ref&gt;[[#森田(2010)|森田(2010)]],p.81.&lt;/ref&gt;。プロテスタントは血統親王である[[ブルボン家]]の[[ナバラ王国|ナバラ王]][[アントワーヌ (ヴァンドーム公)|アントワーヌ]]を盟主に戴き、後により信仰に熱心なその弟の[[コンデ公]][[ルイ1世 (コンデ公)|ルイ]]が中心人物となった&lt;ref&gt;[[#リヴェ(1968)|リヴェ(1968)]],p.13;[[#柴田他(1996)|柴田他(1996)]],p.129.&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> [[1559年]]に[[馬上槍試合]]での事故によりアンリ2世が死去すると、15歳の[[フランソワ2世 (フランス王)|フランソワ2世]]が即位し、王妃メアリー・スチュアート([[スコットランド王|スコットランド女王]][[メアリー (スコットランド女王)|メアリー]])の伯父である[[ギーズ公]][[フランソワ (ギーズ公)|フランソワ]]と[[シャルル・ド・ロレーヌ (1524-1574)|ロレーヌ枢機卿]]が実権を掌握した&lt;ref&gt;[[#柴田他(1996)|柴田他(1996)]],p.129.&lt;/ref&gt;。熱烈なカトリックであるギーズ家はプロテスタント迫害を行い、これに反発した不平貴族がギーズ家打倒を図るが、逆襲を受け多数のプロテスタント貴族が処刑されてしまう([[アンボワーズの陰謀]])&lt;ref&gt;[[#森田(2010)|森田(2010)]],p.84.&lt;/ref&gt;。母后カトリーヌ・ド・メディシスに召喚され、宮廷に出仕したコンデ公も逮捕された。<br /> <br /> [[1560年]]に僅か1年半の在位でフランソワ2世が病死して幼少の[[シャルル9世 (フランス王)|シャルル9世]]が即位すると、母后カトリーヌは本来は摂政となるべき第一血統親王のナバラ王アントワーヌと取引を行い、ナバラ王の辞退によりカトリーヌが摂政となり、代わりにコンデ公は釈放された&lt;ref&gt;[[#リヴェ(1968)|リヴェ(1968)]],p.15.&lt;/ref&gt;。実権を握ったカトリーヌは大法官[[ミシェル・ド・ロピタル]]を重用してプロテスタントとの融和政策を採る&lt;ref&gt;[[#森田(2010)|森田(2010)]],pp.84-85.&lt;/ref&gt;。カトリーヌはカトリックとプロテスタントの代表者による宗教会談([[ポワシー会談]])を開き、宗教融和を図るが、彼女の楽観的な見通しに反して、両者の信仰上の相違は大きく決裂に終わった&lt;ref&gt;[[#森田(2010)|森田(2010)]],pp.85-86.&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> ユグノー(&#039;&#039;huguenot&#039;&#039;)というフランス・プロテスタントの呼称はカトリックとプロテスタントとの論争の際に生まれ、[[ドイツ語]]の&#039;&#039;Eidgenosse&#039;&#039;(アイトゲノッセ、盟友の意味)から生まれた蔑称である&lt;ref name=&quot;Huguenotwar&quot;/&gt;&lt;ref name=&quot;Huguenot&quot;&gt;『[http://100.yahoo.co.jp/detail/%E3%83%A6%E3%82%B0%E3%83%8E%E3%83%BC/ ユグノー]』(日本大百科全書、小学館)&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> === ユグノー戦争 ===<br /> [[File:Bemberg Fondation Toulouse - Portrait de Charles IX - François Clouet - Inv.1012.jpg|thumb|upright|シャルル9世。サン・バルテルミの虐殺が発生した1572年8月時点で22歳だった。]]<br /> {{main|ユグノー戦争}}<br /> [[1562年]]、カトリーヌは内戦を回避すべく[[サン=ジェルマン勅令]](一月勅令)を発し、プロテスタントに一定の制限の下での礼拝の自由を容認するが、ギーズ公の兵士がプロテスタントを虐殺する事件([[ヴァシーの虐殺]])が起き、内戦は不可避となった&lt;ref&gt;『[http://100.yahoo.co.jp/detail/%E3%83%90%E3%82%B7%E3%83%BC%E3%81%AE%E8%99%90%E6%AE%BA/ バシーの虐殺]』(日本大百科全書、小学館)&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> ユグノーの指導者コンデ公と[[ガスパール・ド・コリニー|コリニー提督]]は兵を集めて諸都市を攻撃するとともに、[[イングランド王|イングランド女王]][[エリザベス1世]]とハンプトン・コート条約を結び援助を取りつけた&lt;ref&gt;[[#柴田他(1996)|柴田他(1996)]],p.117.&lt;/ref&gt;。国王軍は反撃に出て、ルーアンを陥落させるが、この戦いでナバラ王アントワーヌ(カトリックに改宗して国王軍の司令官になっていた)が戦死している。[[ドルーの戦い]]で国王軍はコンデ公を捕虜にし、カトリック陣営が優勢になるが、オルレアン包囲戦の最中にギーズ公フランソワが暗殺されてしまう。ギーズ家はコリニー提督が暗殺の黒幕と信じた&lt;ref&gt;[[#ネーミ&ファースト(1982)|ネーミ&ファースト(1982)]],pp.127-128;[[#エルランジェ(1985)|エルランジェ(1985)]],p.119.&lt;/ref&gt;。強硬派だったギーズ公フランソワの死により、カトリーヌが和平を調停し、[[1563年]]に和議が成立した。<br /> <br /> [[1567年]]まで約4年間一応の平和は保たれたが、プロテスタントとカトリックの対立は続き、国王・母后のスペインへの接近を警戒したユグノー陣営が国王奪取を企てたため([[モーの奇襲]])、内戦が再開した(第二次戦争)。翌[[1568年]]に[[ロンジュモーの和議]]が結ばれたが、この和平は直ぐに破たんした(第三次戦争)。ユグノーは大西洋沿海地域の要塞化された拠点ラ・ロシェルへと退却し、ジャンヌ・ダルブレも15歳の息子アンリ・ド・ブルボンとともに彼らに合流した&lt;ref&gt;[[#Bryson(1999)|Bryson(1999)]], p.204.&lt;/ref&gt;。ジャンヌはカトリーヌに対して「私たちは神と信仰を捨てるよりは死ぬことを決意してここへやって来た」と書き送っている&lt;ref&gt;[[#Knecht(1998)|Knecht(1998)]], p.132.&lt;/ref&gt;。カトリーヌはジャンヌを「世界で最も恥ずべき女」と呼んだ&lt;ref&gt;[[#Frieda(2005)|Frieda(2005)]], p.241.&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> [[1569年]]の[[ジャルナックの戦い]]で王弟アンジュー公アンリ(後の[[アンリ3世 (フランス王)|アンリ3世]])率いる国王軍が勝利し、コンデ公が戦死する。これにより、先に死去したナバラ王アントワーヌと[[ジャンヌ・ダルブレ]](ナバラ女王ファナ3世)の息子アンリ・ド・ブルボン(後の[[アンリ4世 (フランス王)|アンリ4世]])がユグノー陣営の盟主となった&lt;ref&gt;[[#リヴェ(1968)|リヴェ(1968)]],p.21.&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> ユグノー軍は一時苦境に陥るが、コリニー提督の指揮により巻き返し、パリへと進軍する。資金を使い果たした国王軍は[[1570年]]8月8日に{{仮リンク|サン・ジェルマンの和議|en|Peace of Saint-Germain-en-Laye}}を結び、ユグノーに対してこれまで以上の寛容を余儀なくされた&lt;ref&gt;[[#Wood(1996)|Wood(1996)]], p.28.&lt;/ref&gt;。<br /> {{-}}<br /> <br /> == コリニー提督の宮廷復帰 ==<br /> [[File:François Clouet - Admiral Gaspard II de Coligny.jpg|thumb|upright|ユグノーの指導者。ガスパール・ド・コリニー。「提督」(&#039;&#039;Amiral de France&#039;&#039;)の称号で知られる。]]<br /> サン=ジェルマンの和議により、ユグノーには礼拝の自由と4ヶ所の安全保障都市([[ラ・ロシェル]]、[[ラ・シャリテ=シュル=ロワール]]、[[コニャック (コミューン)|コニャック]]、[[モントーバン]])が与えられた&lt;ref&gt;[[#エルランジェ(1985)|エルランジェ(1985)]],p.31.&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 強硬派カトリックを率いるギーズ家が宮廷で忌避される一方で、[[1571年]]9月にユグノーの指導者コリニー提督が国務会議に復帰した。カトリックたちはプロテスタントの宮廷復帰に衝撃を受けたが、母后カトリーヌ・ド・メディシスと国王シャルル9世は内戦を再開させない決意をしていた。彼らは王国財政の困難を自覚しており、このため平和を維持し、コリニー提督と友好的な関係を保とうとしていた。ところが、国王シャルル9世本人がコリニー提督に強く傾倒するようになり、国王は彼を「よき友」「父上」と呼ぶまでになってしまう&lt;ref&gt;[[#エルランジェ(1985)|エルランジェ(1985)]],pp.52-53.&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 国王の信頼を得たコリニー提督は、サン=ジェルマンの和議の適用をユグノー側に有利に進めさせる&lt;ref&gt;[[#エルランジェ(1985)|エルランジェ(1985)]],p.53-54.&lt;/ref&gt;。1569年にユグノーをかばった罪で処刑されたフィリップ・ド・ガスティーヌの邸宅に立てられた十字架の問題が熱心なカトリックであるパリ市民の不満を煽ることになった。この十字架は群集がガスティーヌの邸宅を打ち壊したさいに立てられたものであったが、和議の適用を実施するカトリックとプロテスタントの混合委員会はユグノーにとって侮辱である十字架をイサン墓地へ移すよう命じた&lt;ref&gt;[[#エルランジェ(1985)|エルランジェ(1985)]],p.54,60.&lt;/ref&gt;。高等法院とパリ市長はこれに反対して問題が紛糾し、結局、12月に民衆の抵抗を排除して十字架は取り除かれたが、この際に約50人が犠牲となり、群集による家屋打ち壊しが起こっている&lt;ref&gt;[[#Holt (2005)|Holt (2005)]], pp.79-80&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 1572年5月に{{仮リンク|ルートヴィヒ・フォン・ナッサウ|en|Louis of Nassau}}率いるユグノー軍が国境を越えてネーデルラント領[[エノー州|エノー]]へ侵攻し、[[モンス]]と[[ヴァランシエンヌ]]を占領したとの報告がパリへもたらされると緊張はより一層高まった。ルートヴィヒ・フォン・ナッサウはネーデルラントでスペインに対する反乱を起こしたオランジュ公[[ウィレム1世 (オラニエ公)|ウィレム1世]]の弟であり、兄に代わって南フランスの{{仮リンク|オランジュ公国|en|Principality of Orange}}を統治していた人物だった。カトリックはコリニー提督がオランダ人の側に立って参戦するよう国王を説得していると信じた&lt;ref&gt;[[#Holt (2005)|Holt (2005)]], p.81&lt;/ref&gt;。事実、コリニー提督はネーデルラントでの戦争に介入するようシャルル9世を説得しており、前年の10月にはこれに成功していたが、カトリーヌがこの決定を覆している&lt;ref&gt;[[#Knecht(2001)|Knecht(2001)]],p. 356.&lt;/ref&gt;。<br /> {{-}}<br /> <br /> == ナバラ王アンリと王妹マルグリットの結婚 ==<br /> [[ファイル:Jeanne-albret-navarre.jpg|thumb|upright|ジャンヌ・ダルブレ(ナバラ女王ファナ3世)]]<br /> サン=ジェルマンの和議が成立すると母后カトリーヌは両宗派間の和平を固めるために、王女[[マルグリット・ド・ヴァロワ]]とユグノー陣営の盟主アンリ・ド・ブルボンとの結婚を提案した。アンリ・ド・ブルボンの母ジャンヌ・ダルブレは二人の信仰の違いを理由に反対しており&lt;ref&gt;[[#オリユー(1990)|オリユー(1990)]],p.85;[[#エルランジェ(1985)|エルランジェ(1985)]],p.55.&lt;/ref&gt;、カトリックの側でもこの結婚には反対意見が強く、教皇[[ピウス5世 (ローマ教皇)|ピウス5世]]は結婚の承認を頑強に拒み、教皇特使はマルグリットは妾となり、生まれた子は私生児になるとカトリーヌを脅した&lt;ref&gt;[[#エルランジェ(1985)|エルランジェ(1985)]],p.55,p.66.&lt;/ref&gt;。マルグリット自身にも問題があり、彼女は[[アンリ1世 (ギーズ公)|ギーズ公アンリ]](先に暗殺されたギーズ公フランソワの息子)とひそかに恋仲になっており、このことを知ったカトリーヌは激怒し、娘を寝室から連れて来させると、王とともに彼女を引っ叩き、寝間着を引き裂き、そして彼女の毛髪をひとつかみ引き抜いた&lt;ref&gt;[[#Frieda(2005)|Frieda(2005)]], p.257; [[#Knecht(1998)|Knecht(1998)]],p.135;[[#オリユー(1990)|オリユー(1990)]],pp.54-56.&lt;/ref&gt;。この件の為にギーズ家一門は、一時的に宮廷から退かされている&lt;ref&gt;[[#オリユー(1990)|オリユー(1990)]],pp.56-59.&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> カトリーヌはジャンヌ・ダルブレに宮廷に出仕するよう圧力をかけた。彼女はジャンヌの息子との面会を求め、決して危害を加えないと約束すると書き送った。これに対してジャンヌは「申し訳ありません。私はお手紙を読んで笑ってしまいました。なぜなら、貴女様は私がかつて感じたこともない恐怖を取り除いてくださると申されますので。私は、人々が言うように、貴女が小さな子供を食べてしまうと考えたことなどございません」と返書した&lt;ref&gt;[[#Bryson(1999)|Bryson(1999)]], p.282.&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 1572年2月、結婚の交渉の為にジャンヌは宮廷に出仕するが、母后の態度への不満や宮廷の腐敗を非難する手紙を息子に書き送っている&lt;ref&gt;[[#エルランジェ(1985)|エルランジェ(1985)]],pp.68-69.&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> {{Cquote|私は王様や、私を苛立たせる [&#039;&#039;me traite á la fourche&#039;&#039;]&amp;nbsp;母后様と自由にお話をすることはできません;... 彼らの主目的があなたを神と私から引き離すことであるとあなたは疑いなく悟っていることでしょう。&lt;ref&gt;[[#Knecht(1998)|Knecht(1998)]],pp.148–49.&lt;/ref&gt;}}<br /> {{Cquote|彼女(カトリーヌ)は事ごとに私を愚弄し、その後に私の言ったことと全く逆のことを人々に話すのです…彼女はすべてを否定して私の顔を笑います…彼女は私を屈辱的に扱い、私は[[グリゼルダ]]{{enlink|Griselda (folklore)|Griselda}}(民話上の忍耐強い女性)を越える忍耐力で辛うじて平静を保っています。&lt;ref&gt;[[#Knecht(1998)|Knecht(1998)]], p.149.&lt;/ref&gt;}}<br /> <br /> 彼女はマルグリットをプロテスタントに改宗させようと試みたが失敗に終わった&lt;ref&gt;[[#長谷川(2002)|長谷川(2002)]],p.24;[[#エルランジェ(1985)|エルランジェ(1985)]],pp.69-70.&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> [[File:Henry&amp;Margot.jpg|thumb|200px|ナバラ王アンリと王妃マルグリット。作者不明。1572年。]]<br /> 4月12日に結婚の契約が調印され、[[シャルル1世・ド・ブルボン (ルーアン大司教)|ブルボン枢機卿]]が司祭ではなく伯父として祝福を行い、花婿は[[ミサ]]には出席せず教会の外に留まる変則的な結婚式が取り決められた&lt;ref&gt;[[#長谷川(2002)|長谷川(2002)]],p.24;[[#エルランジェ(1985)|エルランジェ(1985)]],pp.70-71.&lt;/ref&gt;。その後、ジャンヌ・ダルブレは結婚式の準備のためにパリに滞在していたが、病に倒れ6月8日に死去してしまった&lt;ref&gt;[[#ネーミ&ファースト(1982)|ネーミ&ファースト(1982)]],pp.190-191.&lt;/ref&gt;。検視の結果は胸部の膿瘍と結核による死であったが、プロテスタントはカトリーヌが毒を仕込んだ手袋を使ってジャンヌ・ダルブレを暗殺したと非難した&lt;ref&gt;[[#オリユー(1990)|オリユー(1990)]],p.97;[[#ネーミ&ファースト(1982)|ネーミ&ファースト(1982)]],p.191.&lt;/ref&gt;。ジャンヌ・ダルブレの死により、アンリ・ド・ブルボンがナバラ王位を継承した(ナバラ王エンリケ3世)。<br /> <br /> 7月、ナバラ王アンリが騎兵800を率いてパリに入城し、また結婚式に参列するため多数のユグノー貴族が地方からパリに集まって来た&lt;ref&gt;[[#オリユー(1990)|オリユー(1990)]],p.97;[[#志垣(1983)|志垣(1983)]],p.143.&lt;/ref&gt;。だが、パリは強硬な反ユグノー派都市であり、熱烈なカトリックであるパリ市民はユグノー貴族たちの存在を許容できないと感じており、カトリック説教師たちに扇動されたパリ市民はフランス王族がプロテスタントと結婚することに恐怖していた&lt;ref&gt;[[#Lincoln(1989)|Lincoln(1989)]], pp. 93-94&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> この悪感情には凶作と重税への不満も混じり合っていた&lt;ref&gt;[[#Knecht (2001)|Knecht (2001)]], p.359&lt;/ref&gt;。食糧価格の値上がりと、王室結婚のための贅沢な装飾はパリ市民の反感を受けた&lt;ref&gt;[[#ネーミ&ファースト(1982)|ネーミ&ファースト(1982)]],p.195;[[#オリユー(1990)|オリユー(1990)]],pp.98-99.&lt;/ref&gt;。緊張が高まる中、カトリックの守護者と見なされていたギーズ公へのパリの民衆の期待が高まった&lt;ref&gt;[[#オリユー(1990)|オリユー(1990)]],p.99;[[#赤井他(1974)|赤井他(1974)]],p.263.&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> プロテスタントとカトリックとの混合結婚式(&#039;&#039;mariage du mixtes&#039;&#039;)は8月18日にパリ市内の[[ノートルダム聖堂]]で挙行された。取り決め通りにナバラ王は祝福のミサには出席せず、新婦のみが聖堂に入り、その間、新郎は外で待機する奇妙な形式で執り行われた&lt;ref&gt;[[#オリユー(1990)|オリユー(1990)]],p.101;[[#長谷川(2002)|長谷川(2002)]],p.26.&lt;/ref&gt;。ブルボン枢機卿が結婚の同意をマルグリットに求めた際に彼女は沈黙して同意の言葉を発さず、立腹したシャルル9世が彼女のうなじを抑えて強引に同意の印とさせている&lt;ref&gt;[[#エルランジェ(1985)|エルランジェ(1985)]],p.123;[[#オリユー(1990)|オリユー(1990)]],p.101;[[#志垣(1983)|志垣(1983)]],pp.144-145.&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 挙式後の数日間、盛大な祝祭行事が行われたが、カトリックとプロテスタントとの関係は一層険悪化する&lt;ref&gt;[[#エルランジェ(1985)|エルランジェ(1985)]],pp.124-126.&lt;/ref&gt;。ギーズ家とライバル関係にあるパリ総督{{仮リンク|フランソワ (モンモランシー公)|label=モンモランシー公フランソワ|en|François de Montmorency}}は危険な情勢を察知してパリから退去してしまった&lt;ref&gt;[[#エルランジェ(1985)|エルランジェ(1985)]],p.126.&lt;/ref&gt;。<br /> {{-}}<br /> <br /> == コリニー提督暗殺未遂 ==<br /> [[File:Stbart.jpg|thumb|事件を描いた{{仮リンク|俗画|en|popular print}}。左側にコリニー提督暗殺未遂の様子が描かれ、右側にはその後に起こった彼の殺害と通りでの大量虐殺が描かれている。]]<br /> 8月22日、コリニー提督がルーヴル宮から宿へ帰る途中、家屋から銃声が鳴り響き、彼の手と腕を負傷させた&lt;ref&gt;[[#Sutherland(1973)|Sutherland(1973)]], p.313.&lt;/ref&gt;。窓に置かれた発煙している[[火縄銃]]が発見されたが、犯人は建物の裏手に用意していた馬に乗って逃亡しており、後に捜査員はこの家屋からギーズ家へ向かう馬の足跡を追跡し犯人はシャルル・ド・ルヴィエ・ド・モールヴェールであると主張している&lt;ref&gt;[[#Frieda(2005)|Frieda(2005)]], p.254, pp.304–5; [[#Holt(1995)|Holt(1995)]], p.83.&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> コリニー提督はベティシー通りの宿舎へ運び込まれ、外科医[[アンブロワーズ・パレ]]が肘から弾丸を摘出して負傷した指を切断した。母后カトリーヌ・ド・メディシスは無感動にこの知らせを受け取るとシャルル9世や廷臣たちとともにコリニー提督を訪ね、国王は涙を流して犯人を罰すると約束した&lt;ref&gt;[[#エルランジェ(1985)|エルランジェ(1985)]],pp.131-133;[[#オリユー(1990)|オリユー(1990)]],pp.109-111.&lt;/ref&gt;。通説では対スペイン開戦を主張するコリニー提督を危険視したカトリーヌが事件の黒幕だとされており&lt;ref&gt;[[#オリユー(1990)|オリユー(1990)]],pp.102-107;[[#エルランジェ(1985)|エルランジェ(1985)]],pp.117-122;[[#志垣(1983)|志垣(1983)]],pp.150-153;[[#赤井他(1974)|赤井他(1974)]],pp.263-264.&lt;/ref&gt;、後に王弟アンジュー公は彼とカトリーヌが[[アンナ・デステ]](先に暗殺されたギーズ公フランソワの未亡人)と共謀して暗殺を計画したと発言している&lt;ref&gt;[[#Frieda(2005)|Frieda(2005)]], p.292.&lt;/ref&gt;。王妹マルグリットも後に「兄のポーランド王(アンジュー公)と母が関与した」と語っている&lt;ref&gt;[[#ミシュレ(2010)|ミシュレ(2010)]],p.391.&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 他にはギーズ家首謀者説、コリニー提督の国王への影響を止めようとするスペイン王やスペイン人教皇による陰謀説などがある&lt;ref&gt;[[#長谷川(2002)|長谷川(2002)]],pp.26-27.&lt;/ref&gt;&lt;ref group=&quot;nb&quot;&gt;コリニー提督は国王に対してスペイン領ネーデルラントに介入するよう働きかけていた。[[#Knecht(1998)|Knecht(1998)]], p.154–57.&lt;/ref&gt;&lt;ref group=&quot;nb&quot;&gt;歴史家たちの様々な解釈については [[#Holt(1995)|Holt(1995)]], pp.83–4.を参照。&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> == 虐殺 ==<br /> === パリ ===<br /> [[File:Henri duc de Guise.jpg|thumb|upright|ギーズ公アンリ。1570年頃。]]<br /> [[File:Joseph-Benoît Suvée - Admiral de Coligny impressing his murderers.jpg|thumb|upright|暗殺者と対するコリニー提督。&lt;br&gt;{{仮リンク|ジョゼフ=ブノワ・シュヴェ|en|Joseph-Benoît Suvée}}画。1787年。]]<br /> コリニー提督暗殺の企ては[[大量虐殺]]へと至る危機の引き金となった。コリニー提督は最も尊敬を集めていたユグノーの指導者であり、加えて国王とも緊密な関係を持っていたものの、母后からは信用されていなかった。ユグノー貴族たちは国王に真相究明を強硬に求めた&lt;ref name=hasegawa27&gt;[[#エルランジェ(1985)|エルランジェ(1985)]],p.135;[[#長谷川(2002)|長谷川(2002)]],p.27.&lt;/ref&gt;。母后カトリーヌの昼食中にプロテスタントたちが部屋に押し入って法の裁きを要求し、何人かは脅迫的な言辞を弄している&lt;ref&gt;[[#Garrisson(2000)|Garrisson(2000)]], pp. 82-83;[[#Lincoln(1989)|Lincoln(1989)]], p. 96;[[#Knecht (2001)|Knecht (2001)]], p. 361;[[#エルランジェ(1985)|エルランジェ(1985)]],pp.142-143.&lt;/ref&gt;。ユグノーによる報復の懸念が増大した。兵4000を率いたコリニー提督の義弟がパリ郊外に駐屯しており&lt;ref&gt;[[#Holt(2005)|Holt(2005)]], p.81.&lt;/ref&gt;、彼らが攻撃を計画していたという証拠はないが、市内のカトリックたちはこの軍隊がギーズ家もしくはパリ市民に対して報復を行うのではないかと恐怖した&lt;ref&gt;[[#エルランジェ(1985)|エルランジェ(1985)]],p.136.&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> カトリーヌはテュイルリー宮で{{仮リンク|アルベルト・デ・ゴルディ|en|Albert de Gondi}}、コンテ・デ・リッツらイタリア人顧問官と会合を持った。8月23日夕刻、カトリーヌはシャルル9世を訪れ危機について協議し、それまでコリニー提督に好意的だった国王は説得に屈して「そうだ皆殺しだ!皆殺しにしろ!」と命じた&lt;ref&gt;[[#志垣(1983)|志垣(1983)]],p.158;;[[#エルランジェ(1985)|エルランジェ(1985)]],pp.145-146;[[#オリユー(1990)|オリユー(1990)]],p.119;[[#赤井他(1974)|赤井他(1974)]],p.265.&lt;/ref&gt;。{{仮リンク|ガスパール・ド・ソ|label=タバンヌ元帥|en|Gaspard de Saulx}}はカトリーヌがテュイルリー宮殿に軍事会議を召集し、次の行動を計画して「提督に対する企ては戦争を引き起こすので、彼女と我々はパリを戦おうとの提案に同意した」と回想している&lt;ref&gt;[[#Frieda(2005)|Frieda(2005)]], pp.306–8.&lt;/ref&gt;。しかしながら、シャルル9世が「皆殺しにしろ」との命令を下したとき、彼が意図していたのはカトリーヌが提出した名簿の人々であり、しばしば言われるようなユグノー全体ではなかった&lt;ref&gt;[[#志垣(1983)|志垣(1983)]],p.157;[[#エルランジェ(1985)|エルランジェ(1985)]],pp.146-147;[[#オリユー(1990)|オリユー(1990)]],pp.120-121;[[#長谷川(2002)|長谷川(2002)]],p.27;[[#柴田他(1996)|柴田他(1996)]],p.133.&lt;/ref&gt;&lt;ref group=&quot;nb&quot;&gt;歴史家マック・P・ホルトはパリに依然として滞在していた「24人から36人の貴族」であったであろうと推測している。[[#Holt(1995)|Holt(1995)]], p. 85.&lt;/ref&gt;。カトリーヌと顧問官たちはユグノーがコリニー提督襲撃への復讐を求めて武装蜂起することを予期しており、それ故に彼らはユグノーの指導者たちが結婚式の為にパリに滞在している間に先制して彼らを粛清することを選択したのである&lt;ref&gt;[[#Holt(1995)|Holt(1995)]], p.84;[[#志垣(1983)|志垣(1983)]],p.154.&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> この決定が下されるとパリ市政当局者たちが召集され、プロテスタントの武装蜂起を防ぐために城門を閉じ、そして市民を武装させるよう命じられた&lt;ref&gt;;[[#エルランジェ(1985)|エルランジェ(1985)]],pp.147-148;[[#オリユー(1990)|オリユー(1990)]],pp.121-122;[[#赤井他(1974)|赤井他(1974)]],p.266.&lt;/ref&gt;。国王の[[スイス傭兵|スイス人傭兵]]にはリストに記載されたプロテスタント指導者を殺害する任務が与えられた。<br /> <br /> 今日では正確な事件の経過と虐殺の開始時を定めることは困難であるが、その合図はルーヴル近くの{{仮リンク|サン・ジェルマン・ロクセロワ教会|en|Saint-Germain l&#039;Auxerrois}}(フランス国王の教区教会)の朝の祈り(深夜から夜明けの間)の鐘の音であったであろう&lt;ref&gt;[[#志垣(1983)|志垣(1983)]],p.158;;[[#エルランジェ(1985)|エルランジェ(1985)]],p.161;[[#オリユー(1990)|オリユー(1990)]],p.122.&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> [[バルトロマイ|サン・バルテルミ]]の祝日である翌8月24日夜明け前にキーズ公家臣の一団がコリニー提督の宿舎に押し入って彼を寝台の上で刺殺した。遺体は窓から投げ出され、暗殺者たちは国王と母后に供するためにコリニー提督の首を斬って立ち去り、残された体は群衆によって切り刻まれ、胴体はセーヌ川の岸辺まで運ばれて絞首台に吊るされ、そして「豚のように」焼かれた&lt;ref&gt;[[#ミシュレ(2010)|ミシュレ(2010)]],pp.401-402;[[#エルランジェ(1985)|エルランジェ(1985)]],p.154;[[#オリユー(1990)|オリユー(1990)]],p.130.&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> その後、ルーヴル宮に滞在していたユグノー貴族をスイス人傭兵が中庭へと追い立て、そこで虐殺した&lt;ref&gt;[[#ミシュレ(2010)|ミシュレ(2010)]],pp.403-409;[[#エルランジェ(1985)|エルランジェ(1985)]],pp.156-157.&lt;/ref&gt;。ナバラ王と一部の貴族たちは、キーズ家の勢力を必要以上に増長させぬ配慮から死を免れている&lt;ref&gt;[[#ミシュレ(2010)|ミシュレ(2010)]],pp.406-407;[[#エルランジェ(1985)|エルランジェ(1985)]],pp.155-156.&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> サン・ジェルマン・ロクセロワ教会の鐘の音を合図に宮廷外のユグノー貴族も襲撃・殺害された&lt;ref&gt;[[#エルランジェ(1985)|エルランジェ(1985)]],pp.163-166;[[#赤井他(1974)|赤井他(1974)]],p.267.&lt;/ref&gt;。だが、事態はシャルル9世やカトリーヌの統制を越えて暴走し、サン=ジェルマン勅令以来、形成されていた緊張は民衆暴動のかたちで爆発する&lt;ref&gt;[[#志垣(1983)|志垣(1983)]],p.159;[[#柴田他(1996)|柴田他(1996)]],p.133.&lt;/ref&gt;。民衆が市内のプロテスタントを狩り立て始めた&lt;ref&gt;[[#志垣(1983)|志垣(1983)]],pp.159-160.&lt;/ref&gt;。プロテスタントが家から逃げられないように道路に鎖が張られ、民兵や群衆がユグノー商家を略奪し、女子供そして赤子まで見境なく虐殺した&lt;ref&gt;[[#オリユー(1990)|オリユー(1990)]],pp.130-132;[[#エルランジェ(1985)|エルランジェ(1985)]],pp.167-172.&lt;/ref&gt;。死体は荷馬車に積まれ、[[セーヌ川]]に投げ捨てられた&lt;ref&gt;[[#オリユー(1990)|オリユー(1990)]],p.132&lt;/ref&gt;。国王の制止にも拘らず、パリ市内での虐殺は3日間続いた&lt;ref&gt;[[#オリユー(1990)|オリユー(1990)]],p.133.&lt;/ref&gt;&lt;ref group=&quot;nb&quot;&gt;歴史家ホルトはカトリックの廷臣たちが指導者ではないプロテスタント個人を救った事例を示して「大虐殺が阻止される可能性があったが一方で、宮廷の高官が虐殺を意図していた証拠はなかった」と結論付けている。[[#Holt(2005)|Holt(2005)]], pp. 88-91&lt;/ref&gt;。犠牲者には哲学者{{仮リンク|ピエール・ラムス|en|Petrus Ramus}}が含まれる。また、この虐殺の混乱に巻き込まれて多数のカトリック市民も殺害されている&lt;ref&gt;[[#オリユー(1990)|オリユー(1990)]],pp.131-133,p.136;[[#エルランジェ(1985)|エルランジェ(1985)]],p.182.&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> ユグノーの首領であったナバラ王とその従弟の[[アンリ1世 (コンデ公)|コンデ公アンリ1世]]はカトリックに改宗することで助命された。<br /> <br /> 8月26日、国王と宮廷は事件に関する公式見解を[[パリ高等法院]]で発した。{{仮リンク|親裁座|en|lit de justice}}を開いたシャルル9世は「王室に対するユグノーの陰謀を阻止すべく虐殺を命じた」と宣言した&lt;ref&gt;[[#Lincoln(1989)|Lincoln(1989)]], p. 98&lt;/ref&gt;。市内の一部で虐殺が続いている最中に祝祭と行列が催された&lt;ref&gt;[[#Lincoln(1989)|Lincoln(1989)]], p. 98&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> &lt;gallery caption=&quot;虐殺の経過&quot; widths=&quot;200px&quot; heights=&quot;200px&quot;&gt;<br /> 画像:Joseph Martin Kronheim - Foxe&#039;s Book of Martyrs Plate II - Death of Admiral de Coligny.jpg|1.コリニー提督の死。&lt;br&gt;{{仮リンク|ヨーゼフ・マルティン・クロンハイム|en|Joseph Martin Kronheim}}画。1887年。<br /> 画像:Alexandre-Évariste Fragonard - Scène du massacre de la Saint-Barthélémy (1836).jpg|2.ルーヴル宮での虐殺。王妹マルグリットの寝室に逃げ込むユグノー貴族。&lt;br&gt;{{仮リンク|アレクサンドル=エヴァリスト・フラゴナール|en|Alexandre-Évariste Fragonard}}画。1836年。<br /> 画像:Bartolomeinatten, scen från, efter samtida gravyrer 1, Nordisk familjebok.png|3.パリ市内での大量虐殺。&lt;br&gt;同時代の版画<br /> 画像:Debat-Ponsan-matin-Louvre.jpg|4.虐殺跡を視察する母后カトリーヌ・ド・メディシス&lt;br&gt;『&#039;&#039;ある朝のルーヴル宮城門&#039;&#039;』&lt;br&gt;{{仮リンク|エドワール・ドゥバ・ポンサン|en|Édouard Debat-Ponsan}}画。1880年。<br /> 画像:Charles IX in front of the Paris Parliament on 26 August 1572 attempting to justify the Saint Bartholomew massacre as a response to a Huguenot plot.jpg|5.パリ高等法院でユグノー虐殺の正当性を訴えるシャルル9世。&lt;br&gt;グレゴリウス13世がジョルジョ・ヴァザーリに描かせたフレスコ画。1572-73年。<br /> &lt;/gallery&gt;<br /> <br /> === 地方 ===<br /> 虐殺はフランス各地に広まり、秋まで続いた。歴史家[[ジュール・ミシュレ]]は「サン・バルテルミは一日ではなく、一季節だった」と述べている&lt;ref&gt;[[#ミシュレ(2010)|ミシュレ(2010)]], p.409.&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> シャルル9世は8月24日に地方の長官たちに暴力を妨げ、1570年の勅令を遵守するよう命じたが&lt;ref&gt;[[#Holt (2005)|Holt (2005)]], p. 91&lt;/ref&gt;、8月から10月にかけて[[トゥールーズ]]、[[ボルドー]]、[[リヨン]]、[[ブールジュ]]、[[ルーアン]]&lt;ref&gt;[[#Benedict(2004)|Benedict(2004)]]&lt;/ref&gt;、[[オルレアン]]、[[モー (フランス)|モー]]、[[アンジェ]]、[[ラシャリテ]]、[[ソミュール]]、[[ガヤック]]そして[[トロワ]]の12の都市でパリと同様のユグノー虐殺が発生した&lt;ref&gt;[[#Holt (2005)|Holt (2005)]], p. 91. &lt;/ref&gt;&lt;ref group=&quot;nb&quot;&gt;期間は [[#Garrisson(2000)|Garrisson(2000)]], p. 139, より、また同書では虐殺のあった都市に[[アルビ]]を加えている。&lt;/ref&gt;。ほとんどはパリからの虐殺のニュースが到着した直後に起こっているが、幾つかの場所では1ヶ月以上遅れて発生している。<br /> <br /> 幾つかの事例ではカトリックの市民は国王から虐殺を命じられたと信じており、それ以外の事例では明らかに地方貴族やその代理人から命令を受けている&lt;ref&gt;[[#Holt (2005)|Holt (2005)]], pp. 93-94;[[#Benedict(2004)|Benedict(2004)]], p.127&lt;/ref&gt;。ギーズ派は虐殺を望んでいたが、この様な命令を国王から受けていたことは疑わしい&lt;ref&gt;[[#Benedict(2004)|Benedict(2004)]], p.127&lt;/ref&gt;。アンジュー公(国王の弟)からの正真の書簡は国王の名で虐殺を促している。幾つかの都市では虐殺は群衆によって主導され、市当局がこれを鎮圧しようとしており、またその他の都市では兵士や官吏の集団が少数の群衆ともにプロテスタント粛清を始めている&lt;ref&gt;[[#Knecht (2001)|Knecht (2001)]], p. 368, 異なる主眼点については[[#Holt (2005)|Holt (2005)]], pp. 93-95を参照せよ。&lt;/ref&gt;。リヨンでは異なる命令が届き、市政当局者の対応が混乱している間に扇動された群衆によるユグノー虐殺が起こり、著名な作曲家[[クロード・グディメル]] も犠牲となった&lt;ref&gt;[[#エルランジェ(1985)|エルランジェ(1985)]],pp.188-192;[[#Pearl(1998)|Pearl(1998)]], p. 70.&lt;/ref&gt;。ボルドーでは9月29日にイエズス会のエドモンド・オージェが扇動的な説教を行い、その数日後に虐殺が発生している&lt;ref&gt;[[#エルランジェ(1985)|エルランジェ(1985)]],pp.198-199.&lt;/ref&gt;&lt;ref group=&quot;nb&quot;&gt;ジャニーン・ギャリソンはこの事がボルドーの「火薬に点火した」(&#039;&#039;met le feu au poudres&#039;&#039;)とする見方には否定的である。[[#Garrisson(2000)|Garrisson(2000)]], pp. 144-45&lt;/ref&gt;。一方で、ユグノー粛清の命令を受けた[[ナント]]では、幸運なことに市長が1週間後に国王の名義でまったく逆の命令が届くまで、この手紙の公表を差し控え、虐殺は回避されている&lt;ref&gt;[[#Knecht (2001)|Knecht (2001)]], p. 367;[[#エルランジェ(1985)|エルランジェ(1985)]],pp.195-196.&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 虐殺後の諸都市におけるユグノーコミュニティの損失は人数的には犠牲者数よりもはるかに多かった。虐殺の翌週、ユグノーに対する明らかに威嚇的な雰囲気に応じて、ユグノーの大量改宗が行われた。数百人が殺されたルーアンではユグノーコミュニティは虐殺やより安全な都市や外国への避難によって16,500人から3,000人に縮小している。暴力が発生していなかった幾つかの都市でもユグノー人口の顕著な減少が見られる&lt;ref&gt;[[#Holt (2005)|Holt (2005)]], p. 95;[[#Benedict(2004)|Benedict(2004)]], pp. 127-132&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 虐殺から程なく、両陣営は第四次戦争の準備を行い、戦争はこの年末に再開した。<br /> <br /> === 犠牲者数 ===<br /> 虐殺の犠牲者数の見積もりはローマ・カトリックの弁明者による2,000人から、自らも危うく死を免れた同時代のユグノーである{{仮リンク|マクシミリアン・ド・ベテュヌ|label=シュリー公|en|Maximilien de Béthune, Duke of Sully}}による70,000人に及ぶ&lt;ref&gt;&#039;&#039;Saint Bartholomew’s Day, Massacre of&#039;&#039; (2008) Encyclopaedia Britannia Deluxe Edition, Chicago;&lt;/ref&gt;。正確な犠牲者数は未だに算定されておらず&lt;ref group=&quot;nb&quot;&gt;19世紀半頃における推定値は、その他の詳細とともにユグノーの政治家および歴史家である[[フランソワ・ピエール・ギヨーム・ギゾー]]の著作 [http://books.google.co.uk/books?id=nbIWRyfAvq8C&amp;pg=PA351&amp;dq=%22Kill+them+all%22+Batholomew&amp;lr=&amp;as_brr=3#PPA352,M1 &#039;&#039;A Popular History of France from the Earliest Times, Volume IV&#039;&#039;]に要約されている。&lt;/ref&gt;、現代の歴史家たちの見積もりでさえ、相当な幅がある。最少の見積もりはパリで約2,000人&lt;ref&gt;[[#Armstrong(2003)|Armstrong(2003)]],pp.70-71;&lt;/ref&gt;、地方で3,000人である&lt;ref&gt;[[#Benedict(1978)|Benedict(1978)]],pp. 205-225;[[#Holt(2005)|Holt(2005)]], p. 91; [[#Knecht(2001)|Knecht(2001)]], p. 366.&lt;/ref&gt;。その他の見積もりはパリで3,000人&lt;ref&gt;[[#Garrisson(2000)|Garrisson(2000)]], p, 131; [[#Parker(1998)|Parker(1998)]],p. 585; [[#Chadwick &amp; Evans(1987)|Chadwick &amp; Evans(1987)]], pp. 113.&lt;/ref&gt;、地方で7,000人&lt;ref&gt;[[#Moynahan(2003)|Moynahan(2003)]], p. 456&lt;/ref&gt;&lt;ref group=&quot;nb&quot;&gt;[[ジョン・アクトン|アクトン卿]]はこの件について詳細に検討し、「8000人以上である証拠はない」と結論付け、同時代の良質史料は常に最少の人数を示していると述べている。- &#039;&#039;[[:en:s:Lectures on Modern History|Lectures on Modern History]]&#039;&#039;, &quot;[[:en:s:Lectures on Modern History/The Huguenots and the League|The Huguenots and the League]]&quot;, pp 162&amp;ndash;163.&lt;/ref&gt;の合計10,000人である&lt;ref&gt;[[#Lincoln(1989)|Lincoln(1989)]], p.97(パリでは「最低限で2000人」としている)&lt;/ref&gt;。最大が20,000人以上&lt;ref&gt;[[#Perry(1997)|Perry(1997)]], p. 5.&lt;/ref&gt;または「同時代の無党派の人物による推測」に基づく合計30,000人である&lt;ref&gt;[[#Fernández-Armesto&amp;Wilson(1996)|Fernández-Armesto&amp;Wilson(1996)]],pp. 236-37.&lt;/ref&gt;。パリに関する唯一の確実な数値は、パリ市がセーヌ川下流の岸から死体を引き揚げて埋葬した労働者に賃金を支払った際の数値の1,100人である。その他の支払額に関連する遺体数はここから計算されている&lt;ref&gt;[[#Garrisson(2000)|Garrisson(2000)]], p.131.&lt;/ref&gt;&lt;ref group=&quot;nb&quot;&gt;ヘンリー・ホワイトは詳細に検討して、歴史家たちの推定値の一覧を作成しており、その最大は10万人である。彼自身の推定値は2万人である。[[#White(1868)|White(1868)]],p.472.&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> == 虐殺の影響 ==<br /> === 国内外の反応 ===<br /> [[ファイル:Gregory XIII medal.jpg|thumb|left|[[ローマ教皇]][[グレゴリウス13世 (ローマ教皇)|グレゴリウス13世]]のメダル]]<br /> [[File:Giorgio Vasari San Bartolomeo.jpg|thumb|150px|グレゴリウス13世がジョルジョ・ヴァザーリに描かせたフレスコ画。1572-73年。]]<br /> 内外のカトリックは(少なくとも当初は)虐殺をユグノーによる[[クーデター]]の脅威に対する正当防衛であると見なしていた。コリニー提督の首は[[グレゴリウス13世 (ローマ教皇)|教皇グレゴリウス13世]]の元へ送り届けられ、教皇は国王に[[黄金のバラ]]を贈った&lt;ref&gt;[[#Fisher(1969)|Fisher(1969)]], p. 581;&lt;/ref&gt;。教皇は神への感謝を捧げるために[[テ・デウム]]を唱歌するよう命じ(この慣例は数年後まで続いた)、「ユグノー撲滅 1577年」(&#039;&#039;Ugonottorum strages 1577&#039;&#039;)の標語とともに虐殺されたプロテスタントの隣に十字架と剣を掲げた天使を刻んだメダルを発行させた&lt;ref&gt;[[#Lindberg(1996)|Lindberg(1996)]], p. 295&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> また、教皇は[[ジョルジョ・ヴァザーリ]]に[[1571年]]の[[レパントの海戦]]でのトルコ人に対する勝利と組み合わせになるコリニー提督の負傷、彼の死そして高等法院におけるシャルル9世からなる三点の[[フレスコ|フレスコ画]]の製作を依頼した。虐殺は神聖なる懲罰であると解釈され、コリニー提督はキリスト教世界に対する脅威であると見なされていたので、教皇は1572年9月11日をレパントの海戦とユグノー虐殺の合同祝祭日とした&lt;ref&gt;[[#Howe(1976)|Howe(1976)]], pp. 258-261.&lt;/ref&gt;。カトリック教会はこの虐殺を公式に謝罪したことがないが&lt;ref&gt;http://www.newadvent.org/cathen/13333b.htm&lt;/ref&gt;、虐殺の本質が次第に明らかになると教皇庁における個人的な懸念が高まった。グレゴリウス13世本人もコリニー提督暗殺未遂犯とされるシャルル・ド・モールヴェールとの接見を拒否している&lt;ref&gt;[[#Daniel-Rops(1964)|Daniel-Rops(1964)]], p. 241;[[#Erlanger(1962)|Erlanger(1962)]], p. 119;[[#Jouanna(2007)|Jouanna(2007)]], p. 203;&lt;/ref&gt;&lt;ref group=&quot;nb&quot;&gt;グレゴリウス13世とモールヴェールの件に関する根本史料はフランス国立図書館に所蔵されている当時の外交文書であり、&quot;De la Ferrière, Lettres de Catherine de Médicis vol. 4 &quot;(Paris: Imprimerie Nationale, 1891)でも解説されている。&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 虐殺の報告を受けたスペイン王フェリペ2世は生涯でただ一度の笑みをこぼしたという&lt;ref&gt;[[#Ward(1904)|Ward(1904)]],pp.20;&lt;/ref&gt;。一方で、シャルル9世の舅の神聖ローマ皇帝[[マクシミリアン2世 (神聖ローマ皇帝)|マクシミリアン2世]]は虐殺を「恥ずべくこと」と述べて激怒している&lt;ref&gt;[[#Bordonove(1981)|Bordonove(1981)]] p.82&lt;/ref&gt;。フランスの穏健派カトリックは宗教統一がかくも多くの流血の価値があるものなのかと動揺し、宗派間の利益よりも国家の統一に重きを置くポリティーク派と呼ばれる運動の人数を増大させ始めた&lt;ref&gt;[[#長谷川(2002)|長谷川(2002)]],p.30.&lt;/ref&gt;&lt;ref name=&quot;Huguenotwar&quot;&gt;『[http://100.yahoo.co.jp/detail/%E3%83%A6%E3%82%B0%E3%83%8E%E3%83%BC%E6%88%A6%E4%BA%89/ ユグノー戦争]』(日本大百科全書、小学館)&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> === 暴君放伐論とポリティーク ===<br /> カルヴァンは信徒に抵抗を認めなかったが&lt;ref&gt;[[#リヴェ(1968)|リヴェ(1968)]],pp.62-63;[[#柴田他(1996)|柴田他(1996)]],p.138.&lt;/ref&gt;、ユグノーに対する弾圧が強くなると、ユグノーたちの間に支配権力に対する抵抗理論が現れた。サン・バルテルミの虐殺によって宗教対立がいよいよ抜き差しならない段階に入ると、武力抵抗を肯定する必要が生じた。こうして武力抵抗を肯定する理論として暴君は打倒しても良いとする暴君放伐論が現れ&lt;ref name=sibata138&gt;[[#柴田他(1996)|柴田他(1996)]],p.138.&lt;/ref&gt;、暴君放伐論者を[[モナルコマキ]]という。暴君放伐論として代表的なのは[[テオドール・ド・ベーズ]]の『臣民に対する為政者の権利について』([[1573年]])とデュプレシ・モルネとランゲが著したと推定される『暴君に対する反抗の権利』である&lt;ref name=sibata138/&gt;。<br /> [[Image:Jean Bodin.jpg|left|thumb|200px|[[ジャン・ボダン]]]]<br /> ベーズは為政者が人民の同意しない権力を行使した場合は、これに抵抗することが可能であるという&lt;ref&gt;[[#リヴェ(1968)|リヴェ(1968)]],p.63.&lt;/ref&gt;。ただし抵抗の主体となることができるのは個々の人民ではなく、三部会もしくは大貴族によってのみ国王を放伐することが可能であるとした&lt;ref&gt;[[#リヴェ(1968)|リヴェ(1968)]],p.64.&lt;/ref&gt;。後者の著作はベーズのものより体系的な政治理論を展開しており、一連のユグノーの暴君放伐論の中では絶頂であると考えられている&lt;ref&gt;[[#柴田他(1996)|柴田他(1996)]],pp.139-140.&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 一方で、カトリック穏健派はモナルコマキたちが君主への抵抗に神との契約違反を見たり、教皇の承認を重視したりする傾向に批判的であった。彼らはむしろ国家を重視し、宗教上の問題に寛容な解決をもたらすことで、政治的統一を尊重すべきと説いた&lt;ref&gt;[[#柴田他(1996)|柴田他(1996)]],p.141.&lt;/ref&gt;。宗教よりも政治的配慮を優先する彼らは[[ポリティーク]]と呼ばれた&lt;ref&gt;[[#柴田他(1996)|柴田他(1996)]],p.133.&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> ポリティークの代表的論者は[[ジャン・ボダン]]で、彼は一方で近代的な[[主権]]理論の祖ともいわれる&lt;ref&gt;『[http://100.yahoo.co.jp/detail/%E3%83%9C%E3%83%BC%E3%83%80%E3%83%B3/ ボーダン]』(日本大百科全書、小学館);[[#柴田他(1996)|柴田他(1996)]],p.142.&lt;/ref&gt;。ボダンは中世的な国王大権を発展させて、主権概念をつくった&lt;ref&gt;『[http://100.yahoo.co.jp/detail/%E5%9B%BD%E5%AE%B6%E8%AB%96%EF%BC%88%E3%83%9C%E3%83%BC%E3%83%80%E3%83%B3%E3%81%AE%E8%91%97%E6%9B%B8%EF%BC%89/ 国家論]』(日本大百科全書、小学館)&lt;/ref&gt;。この主権とは、国家を支配-被支配の関係で捉えた際に支配者側が持つ絶対的な権限のことで、国王にのみ固有のものである&lt;ref&gt;『[http://100.yahoo.co.jp/detail/%E4%B8%BB%E6%A8%A9/ 主権]』(日本大百科全書、小学館)&lt;/ref&gt;。彼によれば、「国家の絶対的な権力が主権」であり、「主権による統治が国家」である&lt;ref&gt;[[#柴田他(1996)|柴田他(1996)]],p.142.&lt;/ref&gt;。つまり主権は国家そのものと不可分である。要するに、伝統的な封建制や従来の身分制社会では、国王と末端の被支配者である人民との間に、大貴族や群小の領主のように中間権力が存在したが、ボダンは主権を設定することによって、中間権力を排除して、支配者と被支配者の二者関係で国家を定義した。これによりモナルコマキたちが主張した、貴族などが支配権の一部を分担しているという観点から抵抗権を認める暴君放伐論を否定した&lt;ref&gt;[[#リヴェ(1968)|リヴェ(1968)]],p.77.&lt;/ref&gt;。<br /> {{-}}<br /> <br /> == 事件後 ==<br /> サン・バルテルミの虐殺で大打撃を受けたユグノーはラ・ロシェルに集結して抵抗の意思を示し、第四次戦争に突入する。王弟アンジュー公率いるカトリック軍がこれを攻撃したが、[[1573年]]7月にブローニュ王令が出されて和議が成立した。ユグノーは[[1574年]]に第1回改革派政治会議を開き、ユグノーの優勢な地域での徴税とそれを財源とした常備軍設立を決定し、ほとんど独立した状態となった&lt;ref&gt;[[#柴田他(1996)|柴田他(1996)]],p.133.&lt;/ref&gt;。1574年5月にシャルル9世は死去し、弟のアンリ3世が即位した。<br /> <br /> その後、数次の開戦と休戦を繰り返したが、第四王子[[フランソワ (アンジュー公)|アラソン公フランソワ]]やモンモランシー家が中心となった穏健派カトリックのポリティーク派がユグノーと同盟を結んで優勢になった&lt;ref&gt;[[#柴田他(1996)|柴田他(1996)]],p.134.&lt;/ref&gt;。ナバラ王アンリは[[1576年]]に宮廷から脱出してプロテスタントに再改宗している&lt;ref name=hasegawa33&gt;[[#長谷川(2002)|長谷川(2002)]],pp.33-34.&lt;/ref&gt;。[[1581年]]にユグノーはナバラ王を「保護者(&quot;&#039;&#039;Protecteur&#039;&#039;&quot;)」として推戴した&lt;ref name=sibata135&gt;[[#柴田他(1996)|柴田他(1996)]],p.135.&lt;/ref&gt;。[[1584年]]6月に王弟アンジュー公フランソワ(元アラソン公)が死去し、[[サリカ法]]に則り、ナバラ王が筆頭王位継承権者となる&lt;ref&gt;[[#柴田他(1996)|柴田他(1996)]],p.134;[[#長谷川(2002)|長谷川(2002)]],pp.36-37.&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 危機感を持ったカトリック陣営はスペインの後ろ盾を得てギーズ公アンリを盟主とする「[[カトリック同盟 (フランス)|カトリック同盟]](ラ・リーグ、&quot;la Ligue&quot;)」を結成して対抗した&lt;ref name=sibata135/&gt;。カトリック同盟はアンリ3世にナバラ王の王位継承権無効を迫り、内乱は宗教問題に王位継承問題が加わって、国王アンリ3世、カトリック同盟のギーズ公アンリそしてユグノー陣営のナバラ王アンリによる「&#039;&#039;&#039;三アンリの戦い&#039;&#039;&#039;」と呼ばれる様相を呈するようになる。<br /> <br /> [[1588年]]にパリで発生した「[[バリケードの日]]」事件でカトリック同盟が国王に対して優勢に立ち、ほとんど全ての要求を受け入れさせたが&lt;ref&gt;[[#柴田他(1996)|柴田他(1996)]],p.134-135;[[#リヴェ(1968)|リヴェ(1968)]],p.28.&lt;/ref&gt;、アンリ3世は巻き返しを図り、同年に開催されたブロワ三部会の際にギーズ公アンリを暗殺した。この時、病床にあった母后カトリーヌは息子の愚行を嘆きつつ程なく死去している&lt;ref&gt;[[#ネーミ&ファースト(1982)|ネーミ&ファースト(1982)]],pp.320-324.&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> アンリ3世はナバラ王と同盟してパリ奪回を図るが、翌[[1589年]]には国王も同盟側によって暗殺され、[[ヴァロワ朝]]は断絶した。ナバラ王アンリが王位を継承して[[ブルボン朝]]が開かれた(アンリ4世)。カトリック勢力はアンリ4世の王位を拒否して根強く反抗した。[[1593年]]にアンリ4世はカトリックに改宗することで、翌年パリに入城することができた。この改宗によってカトリック勢力は次々とアンリ4世に帰順し、内乱は終息へと向かう&lt;ref&gt;[[#柴田他(1996)|柴田他(1996)]],p.134;[[#リヴェ(1968)|リヴェ(1968)]],p.29-30.&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> アンリ4世の改宗に改革派は危機を覚え、改革派政治会議を全国組織にし、会議は[[1595年]]から[[1597年]]の間、王権と並ぶ統治機関として機能した&lt;ref&gt;[[#リヴェ(1968)|リヴェ(1968)]],pp.66-67.&lt;/ref&gt;。これに対しアンリ4世は改革派に宗教上の保証を与える[[ナントの勅令]]を[[1598年]]に発布した&lt;ref name=&quot;Nantes&quot;/&gt;。改革派はこれに満足し、王権への忠誠を誓った&lt;ref&gt;[[#長谷川(2002)|長谷川(2002)]],pp.51-52;[[#リヴェ(1968)|リヴェ(1968)]],p.67.&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 結果的に結婚式がサン・バルテルミの虐殺の契機となったアンリ4世とマルグリットは不仲となり、子もなかった&lt;ref&gt;[[#長谷川(2002)|長谷川(2002)]],p.52.&lt;/ref&gt;。このため二人は、[[1599年]]に離婚している。<br /> <br /> ナントの勅令で信仰を寛容されたユグノーは幾つかの安全保障都市を与えられてフランス内で独自の勢力を保つようになったが&lt;ref name=ono47/&gt;、[[ルイ13世 (フランス王)|ルイ13世]]の治世に度々の討伐を受けて、その特権は縮小した&lt;ref&gt;[[#長谷川他(2009)|長谷川他(2009)]],p.65.&lt;/ref&gt;。そして[[1627年|1627]]-[[1628年|28年]]に[[リシュリュー]]枢機卿率いる国王軍に[[ラ・ロシェル包囲戦|ラ・ロシェルを包囲されて降伏し]]、すべての特権を失い辛うじて制限付きの信仰の自由だけが残された&lt;ref name=ono47&gt;[[#大野他(1961)|大野他(1961)]],pp.47-48&lt;/ref&gt;。だが、[[ルイ14世 (フランス王)|ルイ14世]]の治世になって迫害が強まり、[[1685年]]の[[フォンテーヌブローの勅令]]でナントの勅令は撤廃され、ユグノーは信仰の自由すら奪われ、多くのユグノーが国を捨てることになった&lt;ref name=&quot;Huguenot&quot;/&gt;。このため、現代のフランスではプロテスタント人口は1.7%と少数派になっている&lt;ref&gt;『世界年鑑2009』(共同通信社、2010),p.533.&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> == 作品 ==<br /> [[File:Huguenot lovers on St. Bartholomew&#039;s Day.jpg|left|thumb|『サン・バルテルミの日のユグノー』。ミレー画。1852年]]<br /> [[エリザベス朝]]時代の劇作家[[クリストファー・マーロウ]]は英訳されたユグノーの作品やおそらくは彼の故郷[[カンタベリー]]に避難してきた難民を通じてこの事件について熟知していた。彼はこの事件を題材とした強い反カトリック・反フランス的な作品『パリの虐殺』(&#039;&#039;The Massacre at Paris&#039;&#039;)を著した。この題材は[[1772年]]に上演された{{仮リンク|ルイ=セバスチャン・メルシエ|en|Louis-Sébastien Mercier}}の作品&quot;&#039;&#039;Jean Hennuyer, Bishop of Lizieux&#039;&#039;&quot;でも取り上げられている。この作品は{{仮リンク|エリザベス・インチボルド|en|Elizabeth Inchbald}}によって英訳翻案され、[[1792年]]に上演された。<br /> <br /> フランス革命の時期に上演された{{仮リンク|マリー=ジョゼフ・シェニエ|en|Joseph Chénier}}の作品『シャルル9世、または王様の学校』(&#039;&#039;Charles IX&#039;&#039;)はこの虐殺を教訓とする強い反王権・反宗教を描き大成功を収めた&lt;ref&gt;{{Cite EB1911|wstitle=Chénier, Marie-Joseph Blaise de}}&lt;/ref&gt;。シェニエは自らの主張を政治家として実践する機会を得ており、[[ルイ16世 (フランス王)|ルイ16世]]やその他多くの処刑の票決に加わっており、その中にはおそらくは彼の兄[[アンドレ・シェニエ]]が含まれる。しかしながら、[[恐怖政治]]が終焉する以前に彼自身が穏健派の嫌疑をかけられて危険にさらされている&lt;ref&gt;[[#Maslan(2005)|Maslan(2005)]], p.40.&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> この題材は小説化もなされており、主な作品には[[プロスペル・メリメ]]の『シャルル9世の幻想』(&#039;&#039;Chronique du règne de Charles IX&#039;&#039;、[[1829年]])や[[アレクサンドル・デュマ・ペール]]の『[[王妃マルゴ]]』(&#039;&#039;La Reine Margot&#039;&#039;、[[1845年]])がある。デュマの小説を原作とした映画に『[[バルテルミーの大虐殺]]』(主演:[[ジャンヌ・モロー]]、[[1954年]])と『[[王妃マルゴ (映画)|王妃マルゴ]]』(主演:[[イザベル・アジャーニ]]、[[1994年]])がある。<br /> <br /> この虐殺を非常に大まかにだが題材としたフランス・[[グランド・オペラ]] 『[[ユグノー教徒 (オペラ)|ユグノー教徒]]』(&#039;&#039;[[:en:Les Huguenots|Les Huguenots]]&#039;&#039;、[[1836年]])は[[ジャコモ・マイアベーア]]の代表作の一つとなっている&lt;ref&gt;『[http://100.yahoo.co.jp/detail/%E3%83%9E%E3%82%A4%E3%83%A4%E3%83%99%E3%83%BC%E3%82%A2/ マイヤベーア]』(日本大百科全書、小学館);『マイヤベーア』(日本国語大辞典、小学館)&lt;/ref&gt;。<br /> [[File:Noc św. Bartłomieja.gif|thumb|250px|映画『イントレランス』のサン・バルテルミの虐殺の場面]]<br /> [[ラファエル前派]]の画家[[ジョン・エヴァレット・ミレー]]は『サン・バルテルミの日のユグノー』(&#039;&#039;[[:en:A Huguenot|A Huguenot]]&#039;&#039;、[[1852年]])において虐殺の場面での感傷的な情景を描いた。この作品ではカトリックの女性がユグノーの恋人にカトリックの印である白いスカーフを身に付けるよう説得するが、信仰に忠実でありたい男性は穏やかにこれを拒否している&lt;ref name=Humanities&gt;{{Cite web|url=http://www.humanitiesweb.org/human.php?s=g&amp;p=c&amp;a=p&amp;ID=216|title=A Huguenot on St Bartholomew&#039;s Day|accessdate=2007-04-19|publisher=Humanities Web}}&lt;/ref&gt;。ミレーはマイアベーアの『ユグノー教徒』を観賞した際にこの作品の着想を得た&lt;ref name=Humanities/&gt;。<br /> <br /> サン・バルテルミの虐殺とその周辺の出来事は[[D・W・グリフィス]]の大作映画『[[イントレランス]]』([[1916年]])の[[オムニバス]]に組み込まれている。映画ではカトリーヌ・ド・メディシス([[ジョゼフィン・クロウェル]])が虐殺を計画し、息子のシャルル9世(フランク・ベネット)にこれを認可するよう強制する。その他の登場人物にはナバラ王アンリ、マルグリット・ド・ヴァロワ({{仮リンク|コンスタンス・タルマッジ|en|Constance Talmadge}})、コリニー提督({{仮リンク|ジョセフ・ヘナベリー|en|Joseph Henabery}})そしてアンジュー公(ホモセクシャルとして描かれている)がいる。この作品では事件に巻き込まれたユグノーの家族の創作場面と並行して史実の場面が描写された。<br /> {{-}}<br /> <br /> == 脚注 ==<br /> === 注釈 ===<br /> {{脚注ヘルプ}}<br /> {{Reflist|30em|group=&quot;nb&quot;}}<br /> <br /> === 出典 ===<br /> {{脚注ヘルプ}}<br /> {{Reflist|20em}}<br /> <br /> == 参考文献 ==<br /> &lt;!--<br /> *{{Cite book|和書|author=|translator=|editor=|year=|title=|series=|publisher=|isbn=|ref=}}<br /> *{{Cite book | last= | first = | title = | publisher = | year = |isbn= |ref=}}<br /> *{{Cite book|author=|title=|year=|publisher=|ref=}}<br /> --&gt;<br /> *{{Cite book|和書|author=フィリップ・エルランジェ|translator=磯見辰典|editor=|year=1985|title=聖バルテルミーの大虐殺|series=ドキュメンタリー・フランス史|publisher=[[白水社]]|isbn=978-4560029411|ref=エルランジェ(1985)}}<br /> *{{Cite book|和書|author=ジャン・オリユー|translator=田中梓|year=1990|title=カトリーヌ・ド・メディシス―ルネサンスと宗教戦争〈下〉|series=|publisher=[[河出書房新社]]|isbn=978-4309201412|ref=オリユー(1990)}}<br /> *{{Cite book|和書|author=[[ジュール・ミシュレ]]|translator=[[大野一道]]、[[立川孝一]]|editor=|year=2010|title=フランス史 3 (16世紀 ルネサンス)|series=|publisher=[[藤原書店]]|isbn=978-4894347571|ref=ミシュレ(2010)}}<br /> *{{Cite book|和書|author=オルソラ・ネーミ、ヘンリー・ファースト|translator=[[千種堅]]|year=1982|title=カトリーヌ・ド・メディシス|series=|publisher=[[中央公論社]]|isbn=|ref= ネーミ&ファースト(1982)}}<br /> *{{Cite book|和書|author=ジョルジュ・リヴェ|translator=[[二宮宏之]]、関根素子|editor=|year=1968|title=宗教戦争|series=|publisher=白水社|isbn=978-4560054284|ref=リヴェ(1968)}}<br /> *{{Cite book|和書|author=|translator=|editor=[[柴田三千雄]], [[樺山紘一]], [[福井憲彦]](編集)|year=1996|title=フランス史〈2〉16世紀~19世紀なかば|series=世界歴史大系|publisher=[[山川出版社]]|isbn=978-4634461000|ref=柴田他(1996)}}<br /> *{{Cite book|和書|editor=[[大野真弓]](編集)||author=|translator=|year=1961|title=世界の歴史 8 絶対君主と人民|publisher=中央公論新社|isbn=978-4124005783|ref=大野他(1961)}}<br /> *{{Cite book|和書|author=赤井彰、[[山上正太郎]]|translator=|year=1974|title=世界の歴史 7 文芸復興の時代|publisher=[[社会思想社]]|isbn=978-4390108270|ref=赤井他(1974)}}<br /> *{{Cite book|和書|author=志垣嘉夫|editor=(『歴史をつくる女たち〈3〉ルネサンスの光と影』収録)|translator=|year=1983|title=カトリーヌ・ド・メディシス|publisher=[[集英社]]|isbn=|ref=志垣(1983)}}<br /> *{{Cite book|和書|author=長谷川輝夫|translator=|editor=|year=2002|title=聖なる王権ブルボン家|series=|publisher=[[講談社]]|isbn=978-4-06-258234-6|ref=長谷川(2002)}}<br /> *{{Cite book|和書|author=長谷川輝夫、土肥恒之、大久保桂子|translator=|year=2009|title=世界の歴史〈17〉ヨーロッパ近世の開花|publisher=中央公論新社|isbn=978-4122051157|ref=長谷川他(2009)}}<br /> *{{Cite book|和書|author=森田安一|translator=|year=2010|title=図説 宗教改革|series=|publisher=河出書房新社|isbn=978-4309761459|ref=森田(2010)}}<br /> *{{Cite book | last=Armstrong | first =Alastair | title =France 1500-1715 | publisher =Heinemann | year =2003 |isbn= |ref=Armstrong(2003)}}<br /> *{{Cite book | last=Benedict | first =Philip | title =The Saint Bartholomew&#039;s Massacres in the Provinces | publisher =, The Historical Journal, Vol. 21, No. 2 (Jun., 1978),Cambridge University Press | year =1978 |isbn= |ref=Benedict(1978)}}<br /> *{{Cite book | last=Benedict| first =Philip | title =Rouen During the Wars of Religion | publisher =Cambridge University Press | year =2004 |isbn=0-521-54797-0 |ref=Benedict(2004)}}<br /> *{{Cite book | last=Bordonove | first =Georges | title =Henri IV | publisher =Pygmalion | year =1981 |isbn= |ref=Bordonove(1981)}}<br /> *{{Cite book | last=Bryson | first =David M | title =Queen Jeanne and the Promised Land: Dynasty, Homeland, Religion and Violence in Sixteenth-century France | publisher =Leiden and Boston, Massachusetts: Brill Academic | year =1999 |isbn=9004113789|ref=Bryson(1999)}}<br /> *{{Cite book|author=Chadwick, H.&amp; Evans, G.R.|title=Atlas of the Christian Church|year=1987|publisher=Macmillian|isbn=0-333-44157-5|ref=Chadwick &amp; Evans(1987)}}<br /> *{{Cite book | last=Daniel-Rops | first =Henri | title =The Catholic Reformation. Vol. 1 | publisher =New York:Image | year =1964 |isbn= |ref=Daniel-Rops(1964)}}<br /> *{{Cite book | last=Erlanger | first =Philippe | title =St. Bartholomew’s Night: The Massacre of Saint Bartholomew | publisher =Weidenfeld and Nicolson | year =1962 |isbn= |ref=Erlanger(1962)}}<br /> *{{Cite book|author=Fernández-Armesto, F.&amp;Wilson, D|title=Reformation: Christianity and the World 1500 - 2000|year=1996|publisher=Bantam Press|isbn=0-593-02749-3|ref=Fernández-Armesto&amp;Wilson(1996)}}<br /> *{{Cite book | last=Fisher | first =Herbert | title =A History of Europe: Volume One | publisher =Fontana Press | year =1969 |isbn= |ref=Fisher(1969)}}<br /> *{{Cite book | last=Frieda | first =Leonie | title =Catherine de Medici | publisher =London: Phoenix | year =2005 |isbn=0173820390|ref=Frieda(2005)}}<br /> *{{Cite book | last=Garrisson | first =Janine | title =1572 : la Saint-Barthélemy | publisher =Complexe | year =2000 |isbn=2-87027-721-0 |ref=Garrisson(2000)}}<br /> *{{Cite book | last=Holt | first =Mack P| title =The French Wars of Religion 1562-1626 | publisher =Cambridge University Press | year =1995 |isbn=978-0521353595|ref=Holt(1995)}}<br /> *{{Cite book | last=Holt | first =Mack P| title =The French Wars of Religion 1562-1626 | publisher =Cambridge University Press | year =2005 |isbn= |ref=Holt (2005)}}<br /> *{{Cite book | last=Howe | first =E. | title =Architecture in Vasari&#039;s &quot;Massacre of the Huguenots | publisher =Journal of the Warburg and Courtauld Institutes, Vol. 39 | year =1976 |isbn= |ref=Howe(1976)}}<br /> *{{Cite book | last=Jouanna | first =Arlette | title =La Saint Barthélemy: Les Mystères d’un Crime d’État, 24 Août 1572 | publisher =Gallimard | year =2007 |isbn= |ref=Jouanna(2007)}}<br /> *{{Cite book | last=Knecht | first =Robert Jean| title =Catherine de&#039; Medici. | publisher =London and New York: Longman | year =1998|isbn=0582082412 |ref=Knecht(1998)}}<br /> *{{Cite book | last=Knecht | first =Robert Jean | title =The Rise and Fall of Renaissance France, 1483-1610: 1483-1610 | publisher =Blackwell Publishing | year =2001 |isbn=0-631-22729-6|ref=Knecht(2001)}}<br /> *{{Cite book | last=Lincoln | first =Bruce | title =Discourse and the Construction of Society: Comparative Studies of Myth, Ritual, and Classification | publisher =Oxford University Press | year =1989 |isbn=0-19-507909-4 |ref=Lincoln(1989)}}<br /> *{{Cite book | last=Lindberg | first =Carter | title =The European Reformations | publisher =Blackwell | year =1996 |isbn= |ref=Lindberg(1996)}}<br /> *{{Cite book | last=Maslan | first =Susan | title =Revolutionary Acts: Theater, Democracy, and the French Revolution | publisher =JHU Press | year =2005 |isbn=0-8018-8125-0|ref=Maslan(2005)}}<br /> *{{Cite book | last=Moynahan | first =Brian | title =The Faith: A History of Christianity | publisher =Pimlico | year =2003 |isbn=0-7126-0720-X |ref=Moynahan(2003)}}<br /> *{{Cite book | last=Parker | first =Geoffrey | title =Oxford Encyclopedia World History | publisher =Oxford University Press | year =1998 |isbn=0-19-860223-5 |ref=Parker(1998)}}<br /> *{{Cite book | last=Pearl| first =Jonathan L | title =The Crime of Crimes: Demonology and Politics in France, 1560-1620 | publisher =Wilfrid Laurier Univ. Press | year =1998 |isbn=9780889202962 |ref=Pearl(1998)}}<br /> *{{Cite book | last=Perry | first =Sheila | title =Aspects of Contemporary France | publisher =Routledge | year =1997 |isbn=0-415-13179-0 |ref=Perry(1997)}}<br /> *{{Cite book | last=Pettegree | first =Andrew | title =Europe in the Sixteenth Century | publisher =Oxford: Blackwell | year =2002 |isbn=063120704X|ref=Pettegree(2002)}}<br /> *{{Cite book | last=Ward| first =Adolphus William | title =The Cambridge Modern History - Volume III: Wars of Religion | publisher =Cambridge University Press | year =1904 |isbn= |ref=Ward(1904)}}<br /> *{{Cite book | last=White | first =Henry | title =The Massacre of St Bartholomew | publisher =London, John Murray | year =1868 |isbn= |ref=White(1868)}}<br /> *{{Cite book | last=Wood | first =James B | title =The King&#039;s Army: Warfare, Soldiers and Society during the Wars of Religion in France, 1562–76 | publisher =Cambridge: Cambridge University Press | year =1996 |isbn=0521550033|ref=Wood(1996)}}<br /> <br /> == 関連項目 ==<br /> *[[ユグノー戦争]]<br /> *[[カトリーヌ・ド・メディシス]]<br /> *[[バルトロマイ]]<br /> <br /> == 外部リンク ==<br /> {{Commons|St. Bartholomew&#039;s Day massacre|サン・バルテルミの虐殺}}<br /> {{Wikisource1913CatholicEnc|Saint Bartholomew&#039;s Day|サン・バルテルミの日}}<br /> *[http://www.historische-romane.de/ereignisse_detail.html?event=event435.html Historische Romane mit der Thematik &#039;&#039;Bartholomäusnacht&#039;&#039;]<br /> *[http://www.massviolence.org/Massacres-during-the-Wars-of-Religion?cs=print Massacres during the wars of religion: The Saint Bartholomew&#039;s Day Massacre, a foundational event (at Massacres.org)]<br /> <br /> {{DEFAULTSORT:さんはるてるみのきやくさつ}}<br /> [[Category:ユグノー戦争]]<br /> [[Category:宗教改革]]<br /> [[Category:フランスによる大量虐殺]]<br /> [[Category:フランスにおける大量虐殺]]<br /> [[Category:1572年のフランス]]<br /> [[Category:1572年の戦闘]]</div> 113.37.189.50 建国記念日 2018-07-16T10:31:07Z <p>113.37.189.50: /* 各国の建国記念日と名称 */ 旧ソ連諸国の独立日を追加。</p> <hr /> <div>{{Otheruses|[[世界]]各国の建国記念日|日本の祝日|建国記念の日}}<br /> &#039;&#039;&#039;建国記念日&#039;&#039;&#039;(けんこくきねんび)とは、文字通り「[[建国]]を記念する日([[祝日]])」である。何をもって建国の日付とするかは、[[国家]]により異なる。<br /> <br /> [[日本]]では、実際の建国日が明確でないため、[[建国神話]]をもとに、建国を祝う日を定めている。すなわち、[[日本神話]]の登場人物で[[古事記]]や[[日本書紀]]で初代[[天皇]]とされる[[神武天皇]]の即位日([[紀元前660年]][[1月1日 (旧暦)]])より、その即位月日を[[明治]]期に[[新暦]]に換算した[[2月11日]]を「[[建国記念の日]]」とした&lt;ref&gt;[[大日本帝国憲法]]は[[1889年]]の&#039;&#039;&#039;[[2月11日]]&#039;&#039;&#039;に発布された。&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 法律で定められた「建国記念日」(祝日)がない国家としては[[イギリス]]が挙げられるが、伝統的に、イングランドの守護聖人・聖ジョージを記念した[[ゲオルギオスの日]]({{en|St. George&#039;s Day}}、[[4月23日]])が宗教的な[[国家の日]]である。<br /> <br /> == 各国の建国記念日と名称 ==<br /> {| class=&quot;sortable wikitable&quot;<br /> |-<br /> !国名<br /> !月日<br /> !名称<br /> !由来<br /> |-<br /> ||{{flag|アイスランド}}||{{Display none|06/17_}}[[6月17日]]|| ||[[1944年]]デンマークの支配下で自治権獲得活動をリードした[[ヨン・シグルズソン]]の誕生日<br /> |-<br /> ||{{flag|アゼルバイジャン}}||{{Display none|10/18_}}[[10月18日]]|| ||[[1991年]][[ソビエト連邦]]に対する主権宣言を行なった日<br /> |-<br /> ||{{flag|アフガニスタン}}||{{Display none|08/19_}}[[8月19日]]|| ||[[1919年]]宗主国イギリスとの間で独立に関する条約が結ばれた日<br /> |-<br /> ||{{flag|アメリカ合衆国}}||{{Display none|07/04_}}[[7月4日]]||[[独立記念日 (アメリカ合衆国)|独立記念日]]&lt;br&gt;Independence Day||[[1776年]][[大陸会議]]で[[アメリカ独立宣言]]に署名がされた日<br /> |-<br /> ||{{flag|アラブ首長国連邦}}||{{Display none|12/02_}}[[12月2日]]||連邦結成記念日||1972年に領土問題のあった[[ラアス・アル=ハイマ|ラアスアルハイマ]]が連邦に加入した日<br /> |-<br /> ||{{flag|アルバニア}}|| style=&quot;white-space:nowrap;&quot; |{{Display none|11/29_}}[[11月29日]]||解放記念日||[[1944年]]イタリア軍からの解放を宣言した日<br /> |-<br /> ||{{flag|アルメニア}}||{{Display none|09/21_}}[[9月21日]]||独立の日||1991年にソビエト連邦に対して主権宣言を実行した日で、この日は[[十字架挙栄祭]]の開催日でもある<br /> |-<br /> ||{{flag|アルゼンチン}}||{{Display none|07/09_}}[[7月9日]]||独立宣言の日||[[1816年]]スペインから独立した日<br /> |-<br /> ||{{flag|アンゴラ}}||{{Display none|11/11_}}[[11月11日]]||国祭日||[[1975年]]ポルトガルからの独立宣言をした日<br /> |-<br /> ||{{flag|イエメン}}||{{Display none|09/26_}}[[9月26日]]||革命記念日||1962年の革命記念日、翌日共和制移行<br /> |-<br /> ||{{flag|イスラエル}}||ユダヤ暦イヤル(Iyar)月5日||独立記念日||1948年5月14日(ユダヤ暦5708年イヤル月5日)イギリスより独立宣言、独立記念日はユダヤ暦で迎えるため、西暦に換算すると年ごとに日にちが変わる<br /> |-<br /> ||{{flag|イタリア}}||{{Display none|06/02_}}[[6月2日]]||共和国記念日&lt;br&gt;Festa della Repubblica||[[1946年]]国民投票により王制に代って共和制を政体とすることを決定<br /> |-<br /> ||{{flag|イラク}}||{{Display none|07/17_}}[[7月17日]]|| ||[[1968年]]無血クーデターによって[[バアス党]]が政権を取った日<br /> &lt;!--||{{flag|イラク}}||{{Display none|10/03_}}[[10月3日]]||独立記念日|| --&gt;<br /> |-<br /> ||{{flag|イラン}}||{{Display none|02/11_}}[[2月11日]]||イスラム革命記念日||1979年[[イラン・イスラム革命]]により革命側が政権を掌握した日<br /> |-<br /> ||{{flag|インド}}||{{Display none|08/15_}}[[8月15日]]||独立記念日||[[1947年]]イギリスから独立([[インド・パキスタン分離独立|パキスタンとの分離独立]])した日<br /> |-<br /> ||{{flag|インドネシア}}||{{Display none|08/17_}}[[8月17日]]||独立記念日||[[1945年]](昭和20年)[[日本の降伏|日本の敗戦]]によって統治権が旧[[宗主国]]の[[オランダ]]に返還されることを阻止するため、独立を宣言した日 <br /> |- <br /> ||{{flag|ウクライナ}}||{{Display none|08/24_}}[[8月24日]]||独立記念日||1991年[[ソ連崩壊|ソ連が崩壊]]し、独立を宣言した日<br /> |- <br /> ||{{flag|ウズベキスタン}}||{{Display none|09/01_}}[[9月1日]]||独立記念日||1991年のソ連崩壊時に独立を宣言した日<br /> |-<br /> ||{{flag|ウルグアイ}}||{{Display none|08/25_}}[[8月25日]]||独立記念日||[[1825年]]ブラジルから分離独立した日<br /> |-<br /> ||{{flag|エジプト}}||{{Display none|07/23_}}[[7月23日]]||革命記念日||1952年の革命記念日<br /> |-<br /> ||{{flag|エクアドル}}||{{Display none|08/10_}}[[8月10日]]||独立記念日||[[1822年]]スペインから独立した日<br /> |-<br /> ||{{flag|エリトリア}}||{{Display none|05/24_}}[[5月24日]]||[[独立記念日 (エリトリア)|独立記念日]]||[[1991年]]、エリトリア臨時政府が樹立された日&lt;ref&gt;{{Cite web|url=http://blogs.loc.gov/law/2011/05/eritrean-independence-day/|title=Eritrean Independence Day|author=Kelly Buchanan|publisher=[[アメリカ議会図書館]]|date=2011-05-24|accessdate=2014-02-12}}&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;{{Cite web|url=http://www.eritreaembassy-japan.org/news/11_0526.html|title=独立20周年記念 イサイアス大統領基調演説|publisher=[[駐日エリトリア大使館]]|date=2011-05-25|accessdate=2014-02-12}}&lt;/ref&gt;。<br /> |-<br /> ||{{flag|エルサルバドル}}||{{Display none|09/15_}}[[9月15日]]||独立記念日||[[1821年]]スペインから独立した日<br /> |-<br /> ||{{flag|オーストラリア}}||{{Display none|01/26_}}[[1月26日]]||[[オーストラリアの日]]&lt;br&gt;Australia Day||[[1788年]]最初の移民団がシドニー湾から上陸した日であり、建国記念日とはされていない。<br /> |-<br /> ||{{flag|オーストリア}}||{{Display none|10/26_}}[[10月26日]]||建国記念日&lt;br&gt;Nationalfeiertag||[[1955年]]永世中立国を宣言した日<br /> |-<br /> ||{{flag|オランダ}}||{{Display none|07/26_}}[[7月26日]]||||[[1581年]]ユトレヒト同盟参加の北部7州による連邦議会にて[[フェリペ2世 (スペイン王)|スペイン王フェリペ2世]]の[[オランダの歴史#フェリペ2世の統治権否認決議|統治権を否認する布告]]を出した日であるが、建国記念日ではなく、国家の成立の関係上、正式な建国日は不明である。<br /> |-<br /> ||{{flag|ガーナ}}||{{Display none|03/06_}}[[3月6日]]||独立記念日||[[1957年]]イギリスから独立した日<br /> |-<br /> |rowspan=&quot;2&quot;|{{flag|ガイアナ}}||{{Display none|02/23_}}[[2月23日]]||マシュラマニ&lt;br&gt;Mashramani||[[1970年]]共和制に移行した日<br /> |-<br /> ||{{Display none|05/26_}}[[5月26日]]||独立記念日||[[1966年]]イギリスから独立した日<br /> |-<br /> ||{{flag|カザフスタン}}||{{Display none|12/16_}}[[12月16日]]||独立記念日||1991年ソ連に対し主権宣言を採択した日 <br /> |-<br /> ||{{flag|カナダ}}||{{Display none|07/01_}}[[7月1日]]||[[カナダの日]]&lt;br&gt;Canada Day||[[1867年]]イギリスから自治権を獲得した日。建国記念日。<br /> |-<br /> ||{{flag|カンボジア}}||{{Display none|11/09_}}[[11月9日]]||独立記念日||[[1953年]]フランスから独立した日<br /> |-<br /> ||{{flag|キプロス}}||{{Display none|10/01_}}[[10月1日]]||[[独立記念日 (キプロス)|独立記念日]]||1960年に共和制国家として独立した日<br /> |-<br /> ||{{flag|キューバ}}||{{Display none|01/01_}}[[1月1日]]||解放記念日||[[1959年]]キューバ革命を達成した日<br /> |-<br /> ||{{flag|ギリシャ}}||{{Display none|10/28_}}[[10月28日]]||[[参戦記念日 (ギリシャ)|参戦記念日]]||[[1940年]]の第2次世界大戦への参戦表明日。[[第一次世界大戦|第一次大戦(欧州戦線)]]には中立体制維持を理由に参戦していなかったが、1940年の当日に[[第二次世界大戦|第二次大戦(欧州戦線)]]への参戦を表明。[[参戦記念日 (ギリシャ)|ギリシアによる参戦記念日]]を参照。<br /> |-<br /> ||{{flag|キルギス}}||{{Display none|08/31_}}[[8月31日]]||独立記念日||1991年ソ連に対し主権宣言を採択した日 <br /> |-<br /> ||{{flag|グアテマラ}}||{{Display none|09/15_}}[[9月15日]]||独立記念日||[[1821年]]スペインから独立した日<br /> |-<br /> ||{{flag|ケニア}}||{{Display none|12/12_}}[[12月12日]]||独立記念日||[[1963年]]イギリスから独立した日<br /> |-<br /> ||{{flag|コートジボワール}}||{{Display none|08/07_}}[[8月7日]]||独立記念日||[[1960年]]フランスから独立した日<br /> |-<br /> ||{{flag|コスタリカ}}||{{Display none|09/15_}}[[9月15日]]||独立記念日||[[1821年]]スペインから独立した日<br /> |-<br /> ||{{flag|コロンビア}}||{{Display none|07/20_}}[[7月20日]]||独立記念日||[[1810年]]スペインから独立した日<br /> |-<br /> ||{{flag|サウジアラビア}}||{{Display none|09/23_}}[[9月23日]]||建国記念日||1932年にアラビア半島の大部分を占める主要4地域により統一国家として建国<br /> |-<br /> ||{{flag|サモア}}||{{Display none|06/01_}}[[6月1日]]||独立記念日||1962年独立、但し史実上では1月1日&lt;!--日本における元日--&gt;に独立しているため正式な独立記念日ではない<br /> |-<br /> ||{{flag|ザンビア}}||{{Display none|10/24_}}[[10月24日]]||独立記念日||[[1964年]]イギリスから独立した日<br /> |-<br /> ||{{flag|ジョージア}}||{{Display none|05/26_}}[[5月26日]]||独立記念日||[[1918年]]に「[[グルジア民主共和国]]」としての独立宣言をした日で、ソ連から独立した時(1991年4月9日)のものとは別となっている <br /> |-<br /> ||{{flag|シンガポール}}||{{Display none|08/09_}}[[8月9日]]||独立記念日||[[1965年]]マレーシア連邦から分離独立した日<br /> |-<br /> ||{{flag|ジンバブエ}}||{{Display none|04/18_}}[[4月18日]]||独立記念日||[[1980年]]にジンバブエとして正式独立した日<br /> |-<br /> ||{{flag|スイス}}||{{Display none|08/01_}}[[8月1日]]||建国記念日||[[1291年]]スイス誓約同盟が結ばれた日<br /> |-<br /> ||{{flag|スウェーデン}}||{{Display none|06/06_}}[[6月6日]]||建国記念日||[[1523年]]に[[カルマル同盟]]から離脱した日<br /> |-<br /> ||{{flag|スーダン}}||{{Display none|01/01_}}[[1月1日]]||独立記念日||[[1956年]]イギリス・エジプト両国の統治下から独立した日<br /> |-<br /> ||{{flag|スリランカ}}||{{Display none|02/04_}}[[2月4日]]||独立記念日||[[1948年]]イギリスから独立した日<br /> |-<br /> ||{{flag|スワジランド}}||{{Display none|09/06_}}[[9月6日]]||独立記念日||[[1968年]]イギリス保護領から独立した日<br /> |-<br /> ||{{flag|セネガル}}||{{Display none|04/04_}}[[4月4日]]||独立記念日||[[1960年]]フランスから独立した日<br /> |-<br /> ||{{flag|タイ王国}}||{{Display none|06/24_}}[[6月24日]]||革命記念日||1932年[[絶対君主制|絶対王政]]から[[立憲君主制|立憲政治]]に移行した日で、[[立憲革命 (タイ)|タイ民主(立憲)革命]]の記念日。<br /> |-<br /> |rowspan=&quot;2&quot;|{{flag|大韓民国}}||{{Display none|08/15_}}[[8月15日]]||[[光復節 (韓国)|光復節]]||[[1945年]][[大日本帝国]]政府による[[ポツダム宣言]]受諾により[[日本統治時代 (朝鮮)|日本の統治]]から[[朝鮮]]が解放([[光復]])された独立記念日[http://japanese.korea.net/AboutKorea/Korean-Life/Festivals]<br /> |-<br /> |{{Display none|10/03_}}[[10月3日]]||[[開天節]]||{{Display none|0000-1/}}[[紀元前24世紀|紀元前2333年]]、[[朝鮮民族]]の建国神話で[[檀君]]が古朝鮮王国([[檀君朝鮮]])を建国したとされる日 <br /> |-<br /> ||{{flag|タジキスタン}}||{{Display none|09/09_}}[[9月9日]]||独立記念日||1991年ソ連から独立した日 <br /> |-<br /> ||{{flag|タンザニア}}||{{Display none|04/26_}}[[4月26日]]||連合記念日||1964年それぞれ単一国家だった[[タンガニーカ]]・[[ザンジバル]]両国が合邦した日<br /> |-<br /> ||{{flag|中華人民共和国}}||{{Display none|10/01_}}[[10月1日]]||[[国慶節]]||[[1949年]]、[[毛沢東]]が[[天安門]]で、新中国の建国宣言をした日<br /> |-<br /> ||{{flag|中華民国}}||{{Display none|10/10_}}[[10月10日]]||[[双十節]]||[[1911年]](清宣統三年辛亥年)に発生した武昌起義を記念した日<br /> |-<br /> ||{{flag|チェコ}}||{{Display none|10/28_}}[[10月28日]]||建国記念日&lt;br&gt;Den vzniku samostatného československého státu||[[1918年]][[チェコスロバキア]]建国の日<br /> |-<br /> ||{{flagicon|北朝鮮}} [[朝鮮民主主義人民共和国|北朝鮮]]||{{Display none|09/09_}}[[9月9日]]||共和国創建記念日||[[1948年]]朝鮮民主主義人民共和国建国が宣布された日<br /> |-<br /> ||{{flag|デンマーク}}||{{Display none|06/05_}}[[6月5日]]||憲法日&lt;br&gt;Grundlovsdag||[[1849年]]立憲君主政になった日<br /> |-<br /> ||{{flag|ドイツ}}||{{Display none|10/03_}}[[10月3日]]||[[ドイツ統一の日]]&lt;br&gt;{{lang|de|Tag der Deutschen Einheit}}||[[1990年]][[ドイツ連邦共和国]]と[[ドイツ民主共和国]]が再統一した日<br /> |-<br /> ||{{flag|ドミニカ共和国}}||{{Display none|02/27_}}[[2月27日]]||独立記念日||[[1844年]]ハイチから分離独立した日<br /> |-<br /> ||{{flag|トルクメニスタン}}||{{Display none|10/27_}}[[10月27日]]||独立記念日||1991年ソ連から独立した日<br /> |-<br /> ||{{flag|トルコ}}||{{Display none|10/29_}}[[10月29日]]||共和国宣言記念日||[[1923年]]正式に共和国となった日<br /> |-<br /> ||{{flag|ナイジェリア}}||{{Display none|10/01_}}[[10月1日]]||ナショナルデー||[[1960年]]イギリスから独立した日<br /> |-<br /> ||{{flag|ナミビア}}||{{Display none|03/21_}}[[3月21日]]||独立記念日||[[1990年]]南アフリカから独立した日<br /> |-<br /> ||{{flag|ニカラグア}}||{{Display none|09/15_}}[[9月15日]]||独立記念日||[[1821年]]スペインから独立した日<br /> |-<br /> ||{{flag|日本}}||{{Display none|02/11_}}[[2月11日]]||[[建国記念の日]](旧[[紀元節]])||{{Display none|0000-2/}}[[紀元前7世紀|紀元前660年]]、[[記紀]]における[[神武天皇]]が即位したとされる日([[1月1日 (旧暦)]])<br /> |-<br /> ||{{flag|ノルウェー}}||{{Display none|05/17_}}[[5月17日]]||ナショナルデー&lt;br /&gt;(ノルウェー憲法記念日)||[[1814年]]ノルウェー憲法が制定された日<br /> |-<br /> ||{{flag|パキスタン}}||{{Display none|08/14_}}[[8月14日]]||独立記念の日||[[1947年]]イギリスから独立([[インド・パキスタン分離独立|インドとの分離独立]])した日<br /> |-<br /> ||{{flag|パナマ}}||{{Display none|10/11_}}[[10月11日]]||独立記念日||1903年の新パナマ会社の分離独立派と米[[セオドア・ルーズヴェルト|ルーズヴェルト]]政権による[[ニューヨーク]]会談が行われた日<br /> |-<br /> ||{{flag|パラオ}}||{{Display none|10/01_}}[[10月1日]]||パラオ独立記念祭||[[1994年]]、[[アメリカ合衆国]]の[[信託統治]]から独立した日<br /> |-<br /> ||{{flag|ハンガリー}}||{{Display none|08/20_}}[[8月20日]]||建国記念日||[[1000年]]初代王の[[イシュトヴァーン1世]]がハンガリー王国を建国したとされる日<br /> |-<br /> ||{{flag|バングラデシュ}}||{{Display none|03/26_}}[[3月26日]]||独立記念日||[[1971年]]パキスタンからの分離独立を宣言した日<br /> |-<br /> ||{{flag|フィリピン}}||{{Display none|06/12_}}[[6月12日]]||独立記念日||[[1898年]]革命軍の最高指導者[[エミリオ・アギナルド|アギナルド将軍]]が独立を宣言した日<br /> |-<br /> ||{{flag|フィンランド}}||{{Display none|12/06_}}[[12月6日]]||[[独立記念日 (フィンランド)|独立記念日]]||1917年当時のフィンランド領邦議会により[[フィンランド独立宣言|独立を宣言した]]日<br /> |-<br /> ||{{flag|ブラジル}}||{{Display none|09/07_}}[[9月7日]]||独立記念日&lt;br /&gt;{{lang|pt|Dia da Independência do Brasil}}||[[1822年]]ポルトガルからの独立を宣言した日<br /> |-<br /> ||{{flag|フランス}}||{{Display none|07/14_}}[[7月14日]]||{{lang|fr|Fête nationale}}([[パリ祭]])||[[1789年]]バスティーユ牢獄襲撃・政治犯解放でフランス革命が始まった日<br /> |-<br /> ||{{flag|ブルガリア}}||{{Display none|03/03_}}[[3月3日]]||解放記念日||[[1878年]][[オスマン帝国]]より独立を宣言した日<br /> |-<br /> ||{{flag|ベトナム}}||{{Display none|09/02_}}[[9月2日]]||[[国慶節 (ベトナム)|国慶節]]||[[1945年]][[ホー・チ・ミン]]が[[フランス領インドシナ]]から独立を宣言([[ベトナム独立宣言]])した日 <br /> |-<br /> ||{{flag|ベネズエラ}}||{{Display none|07/05_}}[[7月5日]]||独立調印記念日||[[1811年]]スペインから独立した日<br /> |-<br /> ||{{flag|ベラルーシ}}||{{Display none|07/03_}}[[7月3日]]||独立記念日||[[1944年]]首都ミンスクがドイツ軍から解放された日<br /> |-<br /> ||{{flag|ベリーズ}}||{{Display none|09/21_}}[[9月21日]]||独立記念日||[[1981年]]イギリスから独立した日<br /> |-<br /> ||{{flag|ペルー}}||{{Display none|07/28_}}[[7月28日]]||独立記念日||[[1821年]]スペインから独立した日<br /> |-<br /> ||{{flag|ベルギー}}||{{Display none|07/21_}}[[7月21日]]||建国記念日||[[1831年]]レオポルド1世が初代国王に即位した日<br /> |-<br /> | style=&quot;white-space:nowrap;&quot; |[[ファイル:Flag of Poland (1928-1980).svg|border|25x20px]] [[ポーランド]]&lt;br/&gt;([[1945年]]-[[1989年]])||{{Display none|07/22_}}[[7月22日]]||ポーランド民族復活の祝日&lt;br/&gt;Narodowe Święto Odrodzenia Polski||[[1944年]][[ソビエト連邦|ソ連]]の支援を受けた[[ポーランド国民解放委員会]]が成立した日<br /> |-<br /> ||{{flag|ポーランド}}&lt;br/&gt;(1919年-1938年,&lt;br /&gt;1989年~)||{{Display none|11/11_}}[[11月11日]]||[[独立記念日 (ポーランド)|民族独立の祝日]]&lt;br/&gt;Narodowe Święto Niepodległości||[[1918年]][[第一次世界大戦]]休戦により[[ロシア帝国]]から独立した日<br /> |-<br /> ||{{flag|ボツワナ}}||{{Display none|09/30_}}[[9月30日]]||独立記念日||[[1966年]]イギリスから独立した日<br /> |-<br /> ||{{flag|ボリビア}}||{{Display none|08/06_}}[[8月6日]]||独立記念日||[[1825年]]スペインから独立した日<br /> |-<br /> ||{{flag|ポルトガル}}||{{Display none|10/05_}}[[10月5日]]||共和国記念日||[[1910年]]の[[1910年10月5日革命|革命記念日]]<br /> |-<br /> ||{{flag|ホンジュラス}}||{{Display none|09/15_}}[[9月15日]]||独立記念日||[[1821年]]スペインから独立した日<br /> |-<br /> ||{{flag|マラウイ}}||{{Display none|07/06_}}[[7月6日]]||独立記念日||1964年イギリスから独立した日<br /> |-<br /> ||{{flag|マリ共和国|マリ}}||{{Display none|09/22_}}[[9月22日]]||独立記念日||[[1960年]]、マリ連邦からのセネガルの離脱により単独で独立した日<br /> |-<br /> ||{{flag|マレーシア}}||{{Display none|08/31_}}[[8月31日]]||独立記念日||[[1957年]]マラヤ連邦としてイギリスから独立した日<br /> |-<br /> ||{{flag|ミクロネシア連邦}}||{{Display none|11/03_}}[[11月3日]]||独立記念日||1986年にアメリカの信託統治から独立した日<br /> |-<br /> ||{{flag|南アフリカ共和国}}||{{Display none|05/31_}}[[5月31日]]|| ||1910年イギリスから独立<br /> &lt;!--||[[南アフリカ共和国]]||{{Display none|04/06_}}[[4月6日]]||建国の日|| --&gt;<br /> |-<br /> ||{{flag|南スーダン}}||{{Display none|07/08_}}[[7月8日]]||独立記念日||[[2011年]]スーダンから分離した日 <br /> |-<br /> ||{{flag|ミャンマー}}||{{Display none|01/04_}}[[1月4日]]||独立記念日||[[1948年]]イギリスから独立した日<br /> |-<br /> ||{{flag|メキシコ}}||{{Display none|09/16_}}[[9月16日]]||独立記念日||[[1810年]]メキシコ独立革命が始った日<br /> |-<br /> ||{{flag|モーリシャス}}||{{Display none|03/12_}}[[3月12日]]||独立記念日||[[1968年]]イギリスから独立した日<br /> |-<br /> ||{{flag|モルディブ}}||{{Display none|07/26_}}[[7月26日]]||独立記念日||[[1965年]]イギリスから独立した日<br /> |-<br /> ||{{flag|モルドバ}}||{{Display none|08/27_}}[[8月27日]]||独立記念日||1991年ソビエト連邦に対する主権宣言を採択した日。<br /> |-<br /> ||{{flag|モロッコ}}||{{Display none|11/18_}}[[11月18日]]||独立記念日||[[1956年]]フランスから独立した日(スペインからも一部飛地を除きおおむね併合)<br /> |-<br /> ||{{flag|ヨルダン}}||{{Display none|05/25_}}[[5月25日]]||独立記念日||[[1946年]]イギリスの[[国際連盟|国連]][[委任統治領|委任統治]]から独立した日<br /> |-<br /> ||{{flag|ラオス}}||{{Display none|12/02_}}[[12月2日]]||建国記念日||1974年の王政廃止宣言日<br /> |-<br /> ||{{flag|ラトビア}}||{{Display none|11/18_}}[[11月18日]]||独立記念日||[[1918年]]ロシア帝国から独立した日<br /> |-<br /> ||{{flag|リビア}}||{{Display none|10/23_}}[[10月23日]]||解放記念日||[[2011年]]旧[[ムアンマル・アル=カッザーフィー|カダフィ]]政権からの解放が宣言された日<br /> |-<br /> ||{{flag|リビア}}||{{Display none|12/24_}}[[12月24日]]||独立記念日||[[1951年]]イタリア及びフランスから独立した日([[ムアンマル・アル=カッザーフィー|カダフィ]]大佐の死去の後記念日に戻された)<br /> |-<br /> ||{{flag|リベリア}}||{{Display none|07/26_}}[[7月26日]]||独立記念日||[[1847年]]アメリカ合衆国から独立した日<br /> |-<br /> ||{{flag|ルーマニア}}||{{Display none|12/01_}}[[12月1日]]||統一記念日||1918年トランシルヴァニアとの統一が成立した日 <br /> |-<br /> ||{{flag|ルワンダ}}||{{Display none|07/01_}}[[7月1日]]||独立記念日||[[1962年]]ベルギーから独立した日<br /> |-<br /> ||{{flag|レソト}}||{{Display none|10/04_}}[[10月4日]]||独立記念日||[[1966年]]イギリスから独立した日<br /> |-<br /> ||{{flag|ロシア}}||{{Display none|06/12_}}[[6月12日]]||主権宣言記念日||1991年ソビエト連邦から独立を宣言した日<br /> |-<br /> |}<br /> <br /> == 脚注 ==<br /> {{reflist|2}}<br /> <br /> == 関連項目 ==<br /> * [[国家の日]]<br /> * [[紀元節]]<br /> <br /> {{DEFAULTSORT:けんこくきねんひ}}<br /> [[Category:祝日]]<br /> [[Category:国の象徴]]<br /> [[Category:各国の一覧]]</div> 113.37.189.50 トルクメニスタン 2018-07-16T10:22:39Z <p>113.37.189.50: /* 治安 */</p> <hr /> <div>{{基礎情報 国<br /> |略名 =トルクメニスタン<br /> |日本語国名 =トルクメニスタン<br /> |公式国名 ={{Lang|tk|Türkmenistan}}&lt;br/&gt;{{Lang|ru|Туркменистан}}<br /> |国旗画像 =Flag of Turkmenistan.svg<br /> |国章画像 =[[File:Coat of Arms of Turkmenistan.svg|100px|トルクメニスタンの国章]]<br /> |国章リンク =([[トルクメニスタンの国章|国章]])<br /> |標語 =なし<br /> |国歌名 =独立、中立、トルクメニスタンの国歌<br /> |位置画像 =Turkmenistan on the globe (Turkmenistan centered).svg<br /> |公用語 =[[トルクメン語]]、[[ロシア語]]<br /> |首都 =[[アシガバート]]<br /> |最大都市 =アシガバート<br /> |元首等肩書 =[[トルクメニスタンの大統領|大統領]]<br /> |元首等氏名 =[[グルバングル・ベルディムハメドフ|グルバングル・マリクグルイェヴィチ・ベルディムハメドフ]]<br /> |首相等肩書 =首相<br /> |首相等氏名 =グルバングル・マリクグルイェヴィチ・ベルディムハメドフ&lt;ref group=&quot;注&quot;&gt;トルクメニスタンでは{{仮リンク|トルクメニスタン憲法|label=憲法|en|Constitution of Turkmenistan}}規定により大統領自身が兼任している。&lt;/ref&gt;<br /> |面積順位 =51<br /> |面積大きさ =1 E11<br /> |面積値 =488,100<br /> |水面積率 =極僅か<br /> |人口統計年 =2012<br /> |人口順位 =<br /> |人口大きさ =1 E6<br /> |人口値 =5,200,000<br /> |人口密度値 =10<br /> |GDP統計年元 =2013<br /> |GDP値元 =1,163億&lt;ref name=&quot;imf201410&quot;&gt;{{Cite web|url=http://www.imf.org/external/pubs/ft/weo/2014/02/weodata/weorept.aspx?sy=2012&amp;ey=2014&amp;scsm=1&amp;ssd=1&amp;sort=country&amp;ds=.&amp;br=1&amp;c=925&amp;s=NGDP%2CNGDPD%2CNGDPDPC%2CPPPGDP%2CPPPPC&amp;grp=0&amp;a=&amp;pr.x=45&amp;pr.y=1|title=World Economic Outlook Database, October 2014|publisher=[[国際通貨基金|IMF]]|language=英語|date=2014-10|accessdate=2014-11-03}}&lt;/ref&gt;<br /> |GDP統計年MER =2013<br /> |GDP順位MER =88<br /> |GDP値MER =408億&lt;ref name=&quot;imf201410&quot; /&gt;<br /> |GDP統計年 =2013<br /> |GDP順位 =87<br /> |GDP値 =734億&lt;ref name=&quot;imf201410&quot; /&gt;<br /> |GDP/人 =12,863&lt;ref name=&quot;imf201410&quot; /&gt;<br /> |建国形態 =[[独立]]&lt;br/&gt;&amp;nbsp;- 日付<br /> |建国年月日 =[[ソビエト連邦]]より&lt;br/&gt;[[1991年]][[10月27日]]<br /> |通貨 =[[トルクメニスタン・マナト]]<br /> |通貨コード =TMM<br /> |通貨追記 = (£)<br /> |時間帯 =+5<br /> |夏時間 =なし<br /> |ISO 3166-1 = TM / TKM<br /> |ccTLD =[[.tm]]<br /> |国際電話番号 =993<br /> | 注記 =&lt;references group=&quot;注&quot; /&gt;<br /> }}<br /> <br /> &#039;&#039;&#039;トルクメニスタン&#039;&#039;&#039;({{lang-tk|Türkmenistan / Түркменистан}})は、[[中央アジア]]南西部に位置する[[共和制]][[国家]]。[[カラクム砂漠]]が国土の85%を占めており、国民のほとんどは南部の山沿いの都市に住んでいて、豊富な[[石油]]や[[天然ガス]]を埋蔵する。西側で[[カスピ海]]に面し、東南が[[アフガニスタン]]、西南に[[イラン]]、北東を[[ウズベキスタン]]、北西は[[カザフスタン]]と国境を接する。首都は[[アシガバート]]で、[[永世中立国]]である。20世紀の末から21世紀にかけて[[ソビエト連邦|ソ連]]からの独立を果たした。<br /> <br /> == 国名 ==<br /> 正式名称は[[トルクメン語]]で、{{lang|tk|&#039;&#039;Türkmenistan / Түркменистан&#039;&#039;}}。公式の英語表記は、{{lang|en|&#039;&#039;Turkmenistan&#039;&#039;}}。国民・形容詞ともTurkmen。<br /> <br /> [[日本語]]の表記は、&#039;&#039;&#039;トルクメニスタン&#039;&#039;&#039;。[[国名の漢字表記一覧|漢字による当て字]]は&#039;&#039;&#039;土耳古斯坦&#039;&#039;&#039;。<br /> <br /> トルクメニスタンとは「[[トルクメン人]]の土地」を意味する。<br /> <br /> == 歴史 ==<br /> {{main|{{仮リンク|トルクメニスタンの歴史|en|History of Turkmenistan}}}}<br /> <br /> 首都であるアシガバードの郊外には人類最古の農耕集落遺跡のひとつである[[アナウ|アナウ遺跡]]、および[[紀元前2世紀]]または[[紀元前3世紀|3世紀]]頃の[[パルティア]]王国(漢名「安息国」)の発祥地とされる[[ニサ_(トルクメニスタン)|ニサ]]遺跡がある。またこの時代、現在のアシガバードの位置に小さな集落があったが、その後[[サーサーン朝]][[ペルシア]]の領地となった。[[6世紀]]には[[遊牧民]]の[[テュルク系民族]]の領地となり、[[7世紀]]から[[ウマイヤ朝]]および[[アッバース朝]]の領地となる。[[9世紀]]から[[サーマーン朝]]、[[セルジューク朝]]、[[ガズナ朝]]、[[ホラズム王国]]などの領地となる。[[13世紀]]に[[モンゴル帝国]]が侵攻する。[[イル・ハン国]]や[[ティムール朝]]の領地となる。<br /> <br /> [[16世紀]]以降、[[ヒヴァ・ハン国]]、[[ブハラ・ハン国]]、[[サファヴィー朝]]などに絶えず侵略される。<br /> <br /> [[1869年]]に[[ロシア帝国|帝政ロシア]]軍が[[カスピ海]]東岸に上陸し、[[1873年]]に[[ザカスピ州|ザカスピ軍区]]を設置。同年、{{仮リンク|ヒヴァ戦争 (1873年)|ru|Хивинский поход (1873)|label=ヒヴァ戦争}}。[[1880年]]に[[カスピ海横断鉄道|ザ・カスピ鉄道]]が開通する。[[1881年]]に[[アレクサンドル2世]]治下の[[ロシア帝国陸軍]]が[[アシガバート]]を占領し基地を築く。<br /> <br /> 翌[[1882年]]に[[アレクサンドル3世]]治下の帝政ロシアにより、[[カフカス総督管区]]内の[[ザカスピ州]]とされた。ロシア帝国への編入後、ロシア向け[[木綿|綿花]]栽培が拡大し、[[1910年]]頃よりロシアの[[綿工業]]の原綿の供給地の役割を果たし、現在も繊維工業や綿花栽培は主要な産業となっている。<br /> <br /> [[File:Turkmen man with camel.jpg|thumb|left|200px|伝統的な衣装を着たトルクメン人の男性([[20世紀]]初頭)]]<br /> <br /> [[第一次世界大戦]]中の[[1916年]]から[[1918年]]にかけて反ロシア大暴動([[バスマチ蜂起|バスマチ運動]])が起きる。[[1924年]]に[[トルキスタン自治ソビエト社会主義共和国]]を民族別の共和国に再編し、[[トルクメン・ソビエト社会主義共和国]]としてソ連を構成する国の1つとなった。[[ヨシフ・スターリン]]による[[農業集団化]]に反発した[[遊牧民]]の抵抗が[[1936年]]頃まで続いた。[[1948年]]には{{仮リンク|1948年アシハバード地震|label=大震災|en|1948 Ashgabat earthquake}}に見舞われ、11万人の犠牲者を出した。<br /> <br /> [[File:Saparmurat Niyazov in 2002.jpg|thumb|160px|初代大統領[[サパルムラト・ニヤゾフ]]]]<br /> ソ連時代末期の[[1990年]][[8月22日]]に[[主権]]宣言を行い、10月27日には[[直接選挙]]による[[大統領]]選で単独候補の[[サパルムラト・ニヤゾフ]]最高会議議長が98.8%の得票率で当選した。[[1991年]][[10月26日]]の国民投票でソ連からの独立に94.1%が賛成し、翌[[10月27日]]独立。その2ヶ月後の[[12月26日]]に[[ソ連崩壊|ソ連が解体]]されたことで晴れて独立国家となる。[[1992年]]5月18日、最高会議が大統領権限を強めた新[[憲法]]を採択。傍らで同年5月に[[ロシア]]・[[独立国家共同体|CIS]]諸国との[[集団安全保障条約]]の署名を拒否。<br /> <br /> 1992年[[6月]]、大統領選でニヤゾフ大統領が99.5%の支持で再選し[[1995年]]12月、[[国連総会]]において「永世中立国」として承認された&lt;ref group=&quot;注&quot;&gt;永世中立宣言はロシアの影響力の排除が目的と見られている。&lt;/ref&gt;。ニヤゾフ大統領は[[2002年]]8月には終身大統領とされ、国内ではニヤゾフ大統領は「[[テュルクメンバシュ]](トルクメン人の長)」を姓としている。<br /> <br /> その後、ニヤゾフ大統領は[[2006年]]12月21日未明に66歳で死去した。その直後、同日中に[[オヴェズゲリドゥイ・アタエフ]]大統領代行が刑事訴追を理由に解任された。約2ヶ月後の[[2007年]]2月14日に大統領選が行われ、89.23%の得票率を獲得した[[グルバングル・ベルディムハメドフ]]大統領代行が正式にトルクメニスタンの第2代大統領に就任した。<br /> <br /> == 政治 ==<br /> <br /> {{main|{{仮リンク|トルクメニスタンの政治|en|Politics of Turkmenistan}}}}<br /> <br /> === 行政 ===<br /> トルクメニスタンの国家[[元首]]である[[トルクメニスタンの大統領|大統領]]は憲法規定によれば任期は7年で、[[国民]]の[[直接選挙]]により選出される。だが、1990年以来2006年末までニヤゾフ大統領が終身制の下で大統領職に就き首相も兼任していた。ニヤゾフ大統領は、[[2008年]]から[[2010年]]頃に大統領選挙が行われると表明していたが、ニヤゾフ大統領が死亡した為、死去後に大統領選挙が行われた。選挙の結果、得票率89.23%(2007年2月14日[[朝日新聞]])で他の候補を圧倒した[[グルバングル・ベルディムハメドフ]]大統領代行が第2代大統領に就任した。2008年に憲法を改正した。<br /> <br /> 2016年、憲法改正が行われ大統領の任期延長(5年から7年)、大統領選挙の出馬資格の緩和が行われた&lt;ref&gt;[http://www.afpbb.com/articles/-/3117541 独裁強化の現職勝利へ=中央アジアのトルクメン] AFP(2017年2月12日)2017年2月12日閲覧&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> {{See also|{{仮リンク|トルクメニスタン憲法|en|Constitution of Turkmenistan}}}}<br /> <br /> === 議会 ===<br /> {{main|トルクメニスタン議会}}<br /> <br /> [[マジュリス]]と呼ばれる定数125議席の[[議会]]があるが、議員全員は大統領の承認を得る必要がある。議員は[[比例代表制]]に基づき国民の直接選挙で選出され、任期は5年である。<br /> <br /> 国権の最高機関として国民評議会(ハルク・マスラハトイ)が存在していたが、2008年の憲法改正により廃止され、権限は議会に移った。この際、それまで50議席だった議会定数は125議席に拡大された。国民評議会は、大統領による主宰の下、マジュリス代議員、閣僚、地方、司法権等の代表が入り、大統領不信任案を提出し、弾劾に関する国民投票を行う権限を有していた。<br /> <br /> === 政党 ===<br /> 旧[[トルクメン共産党]]の後身[[トルクメニスタン民主党]](&#039;&#039;Türkmenistanyň Demokratik Partiýasy, TDP&#039;&#039;)による事実上の[[一党独裁制]]で、ニヤゾフ初代大統領が同党の議長を務めていた。<br /> <br /> 憲法では[[複数政党制]]が認められているものの、TDP以外の合法[[政党]]は&#039;&#039;&#039;[[農民正義党]]&#039;&#039;&#039;の1つしかない。この農民正義党はTDPの地方(農村)幹部により構成される[[衛星政党]]であるため、実質には複数政党制は機能していない。[[2004年]]12月19日の議会(マジュリス)選では、全50議席をTDPが独占した。<br /> [[2013年]]の選挙ではトルクメニスタン民主党が大幅に議席を減らし47議席となり、トルクメニスタン労働組合組織となり33議席を確保し第二党になった。<br /> <br /> == 軍事 ==<br /> {{main|トルクメニスタン軍}}<br /> [[トルクメニスタン軍]]は[[トルクメニスタン陸軍|陸軍]]、[[トルクメニスタン海軍|海軍]]、[[トルクメニスタン空軍|空軍]]の三軍から構成されている。<br /> <br /> == 国際関係 ==<br /> {{main|[[トルクメニスタンの国際関係]]|トルクメニスタンの在外公館の一覧}}<br /> {{節スタブ}}<br /> <br /> == 地方行政区分 ==<br /> {{main|トルクメニスタンの行政区画}}<br /> [[Image:TurkmenistanNumbered.png|right|thumb|320px|トルクメニスタンの地方行政区分]]<br /> 5州(ベラヤト)と[[アシガバート]]市({{lang|tk|Aşgabat}})で構成される。<br /> # [[アハル州]] ({{lang|tk|Ahal}}) - 州都[[アナウ]] ({{lang|tk|Änew}})<br /> # [[バルカン州]] ({{lang|tk|Balkan}}) - 州都[[バルカナバト]]({{lang|tk|Balkanabat}}、{{lang|tr|Nebitdag}} ネビトダグ)<br /> # [[ダショグズ州]] ({{lang|tk|Daşoguz}}) 州都[[ダショグズ]] ({{lang|tk|Daşoguz}})<br /> # [[レバプ州]] ({{lang|tk|Lebap}}) - 州都[[テュルクメナバト]] ({{lang|tk|Türkmenabat}})<br /> # [[マル州]] ({{lang|tk|Mary}}) - 州都[[マル (都市)|マル]] ({{lang|tk|Mary}})<br /> * 順番は地図の番号と対応させている。<br /> <br /> 地方自治制度は、ゲンゲシュ(小会議)と地方公共自治機関が構成する。ゲンゲシュは、小都市、町村の代表機関である。ゲンゲシュ議員は、5年の任期で選出される。<br /> <br /> === 主要都市 ===<br /> {{main|トルクメニスタンの都市の一覧}}<br /> <br /> == 地理 ==<br /> [[ファイル:Turkmenistan-map.png|thumb|300px|トルクメニスタンの地図]]<br /> {{main|{{仮リンク|トルクメニスタンの地理|en|Geography of Turkmenistan}}}}<br /> [[ファイル:Turkmenistan Topography.png|thumb|300px|left|トルクメニスタンの地形]]<br /> <br /> === 地形 ===<br /> [[国境]]線の長さは3,736km。うち9割が[[カラクム砂漠]]で国土面積の多くを占めており、国土の北方は[[トゥラン低地]]で占められている。<br /> <br /> [[ウズベキスタン]]との国境付近に位置する北東地域には[[キジルクム砂漠]]が在る。その中に[[アムダリヤ川]]が流れており、そこから[[カラクム運河]]が分かれていて、[[灌漑農業]]などに利用されている。<br /> また、同じくウズベキスタン国境線上の北部地域には[[サリカミシュ湖]]が在り、アムダリヤ川の分流である[[ウズボイ川]]に通じている。<br /> <br /> 一方で、国土に流れる河川には{{仮リンク|ムルガブ川|en|Murghab River}}や{{仮リンク|アトレク川|en|Atrek River}}があり、ムルガブ川は[[マル (都市)|マル]]を通りアフガニスタンの国境を越えて流れ アトレク川はカスピ海沿いに流れてイランの国境付近の河川と繋がっている。なお、国内の河川の多くは水無川である。<br /> <br /> 最高地点は東部のウズベキスタン国境にそびえる[[アイリババ山]] (海抜3,139m)である。<br /> <br /> === 気候 ===<br /> ほぼ全域が[[砂漠気候]]である。トルクメニスタンの気候条件は非常に厳しく[[夏]]は40~50度、[[冬]]は0度以下まで下がるなど、[[年較差|夏と冬の寒暖の差]]、[[日較差|日中と夜間の寒暖の差]]が激しい。また、昼と夜では20度を超える温度差となることもある。年間降雨量はかなり少なく、[[コペトダグ山脈|コペト・ダヴ山脈]]では200~400mm、[[カラクム山脈]]中央部は40~50mmと恐ろしく過酷な状況である。一方で南・東辺のイランおよびアフガニスタンの国境地帯は降雨量が比較的多い為、国土は[[ステップ気候]]と[[地中海性気候]]の二面を持つ。<br /> <br /> 夏季に雨はほとんど降らないがその反面、冬季には国土一帯に雪が降り、この雪は一時的に積雪することがある。<br /> <br /> === 環境 ===<br /> 上述の通り、国土のほとんどがカラクム砂漠で占められている為、[[植物]]の生息域は非常に狭められている状況である。[[森林]]面積は4,130,000haで、そのほとんどは[[天然林]]である。なお、[[山地]]の森林は79,000haほど存在し、川沿いの森林は33,400haほど存在している。天然林の主な樹種は[[砂漠化]][[領域]]が[[サクサウール]]や[[タマリクス]]で、山地は[[アルチャ]]([[ビャクシン]]の一種)、川沿いは[[トゥランガ]]と呼ばれる[[ポプラ]]の一種である。トルクメニスタンは現在、国土の[[緑化]]に力を入れているが、[[違法伐採]]が続く為に森林の減少傾向による[[環境破壊]]が問題となっており、[[水資源]]の乏しさも加わって非常に深刻なものとなっている。<br /> {{Clearleft}}<br /> <br /> == 経済 ==<br /> [[ファイル:Turkmenistan Export Treemap.png|thumb|色と面積で示したトルクメニスタンの輸出品目]]<br /> {{main|{{仮リンク|トルクメニスタンの経済|en|Economy of Turkmenistan}}}}<br /> <br /> [[国際通貨基金|IMF]]の推計によると、[[2013年]]のトルクメニスタンの[[国内総生産|GDP]]は408億ドルである。一人当たりのGDPは7,157ドルで、[[中央アジア]]5ヶ国の中ではカザフスタンに次いで2番目、世界平均の約70%の水準にある。&lt;ref name=&quot;imf201410&quot; /&gt;。2014年時点で輸出の69.7%を[[中華人民共和国|中国]]、4.6%を[[トルコ]]が占めている&lt;ref&gt;{{cite web|url=https://www.cia.gov/library/publications/the-world-factbook/fields/2050.html#tx|title=Export Partners of Turkmenistan|publisher=[[ザ・ワールド・ファクトブック]]|year=2014|accessdate=2016-03-01}}&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 主な産業は、[[天然ガス]]、[[石油]]、[[綿花]]栽培、[[繊維工業]]。特に天然ガスは狭い国土にも拘らず世界第4位の埋蔵量の資源国である。これらの資源の輸出により潤沢な資金流入がある為、経済が豊かで、政府による治安維持が行き届いている。現状では治安はとても良く、近隣諸国と違い[[テロリズム|テロ]]事件等もおこっていない&lt;ref&gt;{{Cite web|url=http://www2.anzen.mofa.go.jp/info/pchazardspecificinfo.asp?id=202&amp;infocode=2011T040|title=トルクメニスタンに対する渡航情報(危険情報)の発出|work=外務省海外渡航安全ページ|publisher=外務省|accessdate=2012-02-19}}&lt;/ref&gt;。[[経済成長]]率は潤沢な資源のおかげで高成長を見せている。更に、食料品・日用品や住居等の[[物価]]が低く抑えられている他、教育・医療費や[[電気]]ならびガス・[[水道]]などが無料とされている。この為、国民生活は実質的な収入金額以上に安定していると言える。<br /> <br /> === 農業 ===<br /> {{Main|{{仮リンク|トルクメニスタンの農業|en|Agriculture in Turkmenistan}}}}同国の主産物は[[小麦]]・[[種実類|ナッツ]]類(主に[[ピスタチオ]])・[[ハーブ]](薬草)類である。ピスタチオは元々[[造林]]用として栽培されているものであるが、その[[果実]]を食用として利用出来るため積極的に[[植林]]されており、果実は[[豊作]]の年で20~30t採取されることがある。同国特産のハーブは[[ヨモギ属|アルテミシア]]と[[マオウ属|エフェドラ]]で、この2つは[[料理]]用や[[薬品]]の原材料として用いられることが多い。また、[[林業]]にも力を入れており、その主要となっているのは[[人工林|人工造林]]である&lt;ref group=&quot;注&quot;&gt;ただし、環境造林を基本としているので産業造林には特化しておらず、国内の林産業へはあまり揮われていないのが現状である。&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;{{Cite web|url=http://www.jofca.or.jp/_files/publication/C06.pdf|title=トルクメニスタン[PDF]|publisher=一般社団法人 海外林業コンサルタンツ協会|accessdate=2016-10-03}}&lt;/ref&gt;。一方、ソ連時代から綿花栽培を行なっているが、灌漑農業での栽培である為に水資源に乏しい同国においては綿花を主産物とすることに対し賛否両論となっている面を持つ。<br /> <br /> === 鉱業 ===<br /> トルクメニスタンは他の中央アジア諸国と比較した場合、鉱物資源に乏しいと言える。例えば、金属鉱物資源は採掘されていない。<br /> <br /> ただし、有機鉱物資源、特に[[天然ガス]]に恵まれている。2013年版[[BP統計]]によると埋蔵量はイラン、ロシア、[[カタール]]に次ぐ世界第4位の17.5兆立方メートルを誇る。2002年時点の天然ガス産出量は1944千兆ジュールであり、これは世界シェアの2%に達する。[[輸出]]額に占める天然ガスの割合は[[2000年]]時点で49.7%。[[原油]](802万トン)にも恵まれている。輸出額に占める石油製品と原油の割合は合計30.2%である。したがって、輸出に占める鉱業(一部、[[化学工業]]が含まれる)[[セクター]]の割合は8割に達する。なお、[[石炭]]はほとんど採掘されていない。<br /> <br /> === 観光 ===<br /> [[メルヴ]]や[[ニサ_(トルクメニスタン)|ニサ]]といった[[シルクロード]]の[[遺跡]]が有名だが、全体として[[観光業]]はあまり発展していない。<br /> <br /> また、[[査証|観光ビザ]]に関しては、海外の先進国や新興諸国に比べ処理のスピード等が遅めであることから、その取得手続きは煩雑である。<br /> <br /> 政策により物価はとても安く、期間に拘らず滞在し易い。<br /> <br /> [[日本]]からの観光については、シルクロードトラベルインフォメーションセンター&lt;ref&gt;{{Cite web|url=http://www.silkroad-travel.com/travel/turkmenistan/|title=トルクメニスタン|publisher=シルクロードトラベルインフォメーションセンター|accessdate=2012-02-19}}&lt;/ref&gt;とオワダン観光&lt;ref&gt;{{Cite web|url=http://www.owadan.net/jp/home|title=オワダン観光とトルクメニスタン発見の旅|publisher=オワダン観光|accessdate=2018-02-28}}&lt;/ref&gt;が渡航の手配をしている。<br /> <br /> == 交通 ==<br /> {{main|トルクメニスタンの交通}}<br /> {{節スタブ}}<br /> <br /> == 国民 ==<br /> {{main|トルクメニスタンの人口統計}}<br /> === 民族構成 ===<br /> {{bar box<br /> |title=民族構成(トルクメニスタン)&lt;2003年&gt;<br /> |titlebar=#ddd<br /> |float=right<br /> |bars=<br /> {{bar percent|[[トルクメン人]]|yellowgreen|85}}<br /> {{bar percent|[[ウズベク人]]|green|5}}<br /> {{bar percent|[[ロシア人]]|blue|4}}<br /> {{bar percent|その他|red|6}}<br /> }}<br /> : [[トルクメン人]]が[[人口]]の大半を占めるが、[[ロシア人]]や[[ウズベク人]]も多い。現在はロシア人は減少傾向にある&lt;ref group=&quot;注&quot;&gt;トルクメン人 (85%)、ウズベク人 (5%)、ロシア人 (4%)、その他 (6%) (2003年)&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> : ソ連時代の名残りから人名はロシア語風の姓名が多く見受けられる。<br /> <br /> === 言語 ===<br /> : [[トルクメン語]] 72%、 [[ロシア語]] 12%、[[ウズベク語]]9%、その他7%。<br /> <br /> : 公用語はロシア語だが、トルクメン人同士は主にトルクメン語で会話する。<br /> : ただし、トルクメン人でも長く都市部に住んでいる者やエリートなどの中にはロシア語を[[母語]]とし、トルクメン語が満足に話せない者もいる&lt;ref group=&quot;注&quot;&gt;実は初代大統領のニヤゾフもその一人であった。&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> === 宗教 ===<br /> <br /> <br /> : [[イスラム教]][[スンナ派]]が大多数。[[キリスト教]][[正教会]]の信徒も一部存在する。<br /> <br /> === 教育 ===<br /> 2011年の推計によれば、15歳以上の国民の[[識字率]]は99.6%(男性:99.7%、女性:99.5%)である&lt;ref name=2013cia&gt;[https://www.cia.gov/library/publications/the-world-factbook/geos/tx.html CIA World Factbook &quot;Turkmenistan&quot;]2013年9月8日閲覧。&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> === 保健 ===<br /> 2013年の推計によれば、国民の[[平均寿命]]は69.16歳(男性:66.18歳、女性:72.29歳)である&lt;ref name=2013cia/&gt;。<br /> <br /> == 治安 ==<br /> 同国の治安は経済の項目欄でも記されている通り比較的安定している面を持つが、犯罪統計を一切公表していない為に実際の犯罪発生状況を正確に把握することが困難な状況にあり、危険と判断されるレベルで捉えられていることが多い&lt;ref&gt;[http://www.anzen.mofa.go.jp/info/pcinfectionspothazardinfo_202.html#ad-image-0 海外安全ホームページ: 危険・スポット・広域情報:トルクメニスタン] [[外務省]]&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;[http://www.anzen.mofa.go.jp/info/pcsafetymeasure_202.html 海外安全ホームページ: 安全対策基礎データ:トルクメニスタン] [[外務省]]&lt;/ref&gt;。現在、海外からの訪問者が現地で[[盗難]]被害に遭っている事件が後を絶たず、傍らで同地[[警察]]による[[贈収賄]]が横行している問題も根強い。<br /> <br /> [[両替]]を行う[[ブラックマーケット]]も存在し、実際の[[為替レート]]とは違う金額で換金が行なわれるなどの被害も多発している。<br /> <br /> また、[[売春]]を行なっていると思わしき女性と一緒にいた外国人男性が、現地の警察から嫌がらせを受けたという被害報告も出ている。<br /> <br /> === 人権 ===<br /> トルクメニスタンでは国内の少数民族に対する差別が今も続いている。一例として、同国に散在する世界的[[少数民族]]の{{仮リンク|バローチ人|en|Baloch people}}の文化やその言葉を教えることが禁じられている&lt;ref&gt;[http://www.fidh.org/IMG/pdf/Alternative_report_Turk_UPR_eng.pdf &quot;Alternative report on the Human Rights situation in Turkmenistan for the Universal Periodic Review&quot;]&lt;/ref&gt;。 <br /> <br /> また、同国では2003年にロシアとの[[二重国籍]]を廃止。そこからロシアの[[パスポート]]を持たない同国生まれのロシア人は、トルクメン人に認定される形で自身の[[アイデンティティー]]を奪われ、ロシアへの出入国も永久に行なえない可能性が高まっている&lt;ref&gt;[http://news.bbc.co.uk/2/hi/asia-pacific/3007598.stm &quot;Asia-Pacific | Russians &#039;flee&#039; Turkmenistan&quot;.] [[BBC News Channel|BBC News]]&lt;/ref&gt;。加えて数千人のロシア人がトルクメニスタンから財産などを放棄したままで出国するよう促されたという話もある&lt;ref&gt;[http://www.irinnews.org/news/2004/02/18/unions-strike-successful Striking Zambian unions described their nationwide stayaway on Wednesday against tax hikes and wage freezes as &quot;successful&quot;.] IRIN • humanitarian news and analysis from Africa, Asia and the Middle East - updated daily&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> {{See also|{{仮リンク|トルクメニスタンの人権|en|Human rights in Turkmenistan}}}}<br /> <br /> == 文化 ==<br /> [[ファイル:Turkman girl in national dress.jpg|thumb|200px|伝統的な衣装を身にまとった[[トルクメン人]]の女性]]<br /> [[ファイル:Shinzo Abe cropped 2 Gurtnyyaz Nurlyyewic Hanmyradow and Shinzo Abe 20151023.jpg|thumb|200px|トルクメニスタンの[[アカデミックドレス]]を着用した[[安倍晋三]]([[2015年]][[10月23日]]、マフトゥムグルィ名称トルクメニスタン国立総合大学にて)]]<br /> {{Main|トルクメニスタンの文化}}<br /> [[アハルテケ|アハル・テケ]]というトルクメニスタン名産の[[ウマ|馬]]はトルクメニスタンの誇りとされ、[[アレクサンドロス3世|アレクサンダー大王]]もお気に入りだったという。この他、[[絨毯]]も名産品の一つ。<br /> <br /> === 食文化 ===<br /> {{Main|トルクメニスタン料理}}<br /> <br /> === 音楽 ===<br /> {{Main|トルクメニスタンの音楽}}<br /> [[ペルシア]]、[[インド]]の音楽の影響下にある独自の[[民族音楽]]がある。<br /> <br /> また、ソ連時代から[[ジャズ]]や[[軽音楽]]のバンドの活動もあり、打楽器奏者 Rishad Shafi をリーダーとするバンド Гунеш (Gunesh Ensemble) のレコードがソ連国営レコード会社 &quot;メロディヤ&quot; から発売されていた。同バンドは高度な演奏技術を持ち、トルクメニスタンを代表するバンドとして西側諸国でも高い評価を得ている。<br /> <br /> === 世界遺産 ===<br /> {{Main|トルクメニスタンの世界遺産}}<br /> トルクメニスタン国内には、[[国際連合教育科学文化機関|UNESCO]]の[[世界遺産]]リストに登録された[[文化遺産 (世界遺産)|文化遺産]]が3件存在する。<br /> <br /> === 祝祭日 ===<br /> {| class=&quot;wikitable&quot;<br /> |-<br /> !日付!!日本語表記!!現地語表記!!備考<br /> |-<br /> ||1月1日||新年||lang=&quot;tk&quot;| ||<br /> |-<br /> ||1月12日||記憶の日||lang=&quot;tk&quot;| ||<br /> |-<br /> ||2月19日||トルクメニスタン国旗の日||lang=&quot;tk&quot;| ||ニヤゾフ初代大統領の誕生日でもある。<br /> |-<br /> ||3月8日||トルクメニスタン(国際)女性の日||lang=&quot;tk&quot;| ||<br /> |-<br /> ||3月21日、22日||春分の日||lang=&quot;tk&quot;| ||<br /> |-<br /> ||4月第1日曜日||「[[水の滴、金の粒]]」の日||lang=&quot;tk&quot;| ||<br /> |-<br /> ||4月最終日曜日||トルクメニスタン[[競走馬]]の日||lang=&quot;tk&quot;| ||<br /> |-<br /> ||5月8日||1941-1945年[[独ソ戦|大祖国戦争]]戦死者追悼日||lang=&quot;tk&quot;| ||<br /> |-<br /> ||5月9日||勝利の日||lang=&quot;tk&quot;| ||<br /> |-<br /> ||5月18日||再生、統一、[[マフトゥムグル]]の詩の日||lang=&quot;tk&quot;| ||<br /> |-<br /> ||5月最終日曜日||[[トルクメン絨毯]]の日||lang=&quot;tk&quot;| ||<br /> |-<br /> ||7月第3日曜日||ガッラー・バイラマの日||lang=&quot;tk&quot;| ||<br /> |-<br /> ||8月第2日曜日||[[メロンの日]]||lang=&quot;tk&quot;| ||ニヤゾフ初代大統領がメロン好きであった事から制定された記念日で、現在も引き継がれている。当日はメロンを称える様々なイベントが行われる。<br /> |-<br /> ||9月第2土曜日||石油・ガス、エネルギー、地質産業職員の日||lang=&quot;tk&quot;| ||<br /> |-<br /> ||9月第2日曜日||トルクメン・バフシーの日||lang=&quot;tk&quot;| ||バフシーとは、弾き語りをする音楽師。<br /> |-<br /> ||10月6日||追悼、全国民服喪の日||lang=&quot;tk&quot;| ||<br /> |-<br /> ||10月27日、28日||トルクメニスタン独立記念日||lang=&quot;tk&quot;| ||<br /> |-<br /> ||11月第1土曜日||健康の日||lang=&quot;tk&quot;| ||<br /> |-<br /> ||11月17日||学生の日||lang=&quot;tk&quot;| ||<br /> |-<br /> ||11月最終日曜日||収穫の日||lang=&quot;tk&quot;| ||<br /> |-<br /> ||12月第1日曜日||善隣の日||lang=&quot;tk&quot;| ||<br /> |-<br /> ||12月12日||中立の日||lang=&quot;tk&quot;| ||<br /> |-<br /> ||12月21日||初代トルクメニスタン大統領、偉大なるサパルムラト・テュルクメンバシュ記念日||lang=&quot;tk&quot;| ||ニヤゾフ初代大統領の没日(2006年)で、2007年3月2日制定。<br /> |-<br /> ||政府が決定||クルバン・バイラムの日||lang=&quot;tk&quot;| ||<br /> |-<br /> ||政府が決定||オラザ・バイラムの日||lang=&quot;tk&quot;| ||<br /> |}<br /> <br /> === 過去の月名と曜日名 ===<br /> 2002年、ニヤゾフ元大統領の独断により、月の名称と曜日の名称が独自のものに変えられた。しかし、国民には不評で2008年4月には元に戻す法案が提出され、2009年から元の月と曜日の名称に戻った。<br /> {| class=&quot;wikitable&quot;<br /> |+トルクメニスタンの月<br /> |-<br /> !月!!日本語表記!!現地語表記!!本来のトルクメン語!!備考<br /> |-<br /> | 1月 || テュルクメンバシュ ||lang=&quot;tk&quot;| Türkmenbaşy ||lang=&quot;tk&quot;| Ýanwar || ニヤゾフ大統領の言葉によれば、ニヤゾフ大統領自身を賛美するためではなく、トルクメン人にとっての最初の月だからだという。<br /> |-<br /> | 2月 || バイダク ||lang=&quot;tk&quot;| Baýdak ||lang=&quot;tk&quot;| Fewral || 「旗」、2月に国旗を制定したため<br /> |-<br /> | 3月 || [[ノウルーズ|ノヴルーズ]] ||lang=&quot;tk&quot;| Nowruz ||lang=&quot;tk&quot;| Mart || [[イラン暦]]新年<br /> |-<br /> | 4月 || グルバンソルタン ||lang=&quot;tk&quot;| Gurbansoltan ||lang=&quot;tk&quot;| Aprel || ニヤゾフの母親の名前。これは議員からの「提案」<br /> |-<br /> | 5月 || [[マフトゥムグル]] ||lang=&quot;tk&quot;| Magtymguly ||lang=&quot;tk&quot;| Maý || トルクメニスタンの国民的詩人<br /> |-<br /> | 6月 || オグズ ||lang=&quot;tk&quot;| Oguz ||lang=&quot;tk&quot;| Iýun || 歴史上の人物。トゥルクマーンによる国家をはじめて築いたとされるオグズ・ハーン<br /> |-<br /> | 7月 || ゴルクート ||lang=&quot;tk&quot;| Gorkut ||lang=&quot;tk&quot;| Iýul || 歴史上の人物。トルクメンの叙事詩の英雄<br /> |-<br /> | 8月 || [[アルプ・アルスラーン]] ||lang=&quot;tk&quot;| Alp Arslan ||lang=&quot;tk&quot;| Awgust || 歴史上の人物。[[セルジューク朝]]を拡大させたスルタン<br /> |-<br /> | 9月 || [[ルーフナーマ]] ||lang=&quot;tk&quot;| Ruhnama ||lang=&quot;tk&quot;| Sentýabr || ニヤゾフが9月にルーフナーマを書き終えたから<br /> |-<br /> | 10月 || ガラシュスィズルィク ||lang=&quot;tk&quot;| Garaşsyzlyk ||lang=&quot;tk&quot;| Oktýabr || 「独立」、トルクメンが1991年に独立した月<br /> |-<br /> | 11月 || [[アフマド・サンジャル|サンジャール]] ||lang=&quot;tk&quot;| Sanjar ||lang=&quot;tk&quot;| Noýabr || 歴史上の人物。大セルジューク朝最後のスルタン・サンジャール<br /> |-<br /> | 12月 || ビタラプルイク ||lang=&quot;tk&quot;| Bitaraplyk ||lang=&quot;tk&quot;| Dekabr || 「中立」、永世中立国となった月<br /> |}<br /> <br /> {| class=&quot;wikitable&quot;<br /> |+トルクメニスタンの曜日<br /> |-<br /> !曜日!!日本語表記!!現地語表記!!備考!!本来のトルクメン語<br /> |-<br /> | 月曜日 || バシュギュン ||lang=&quot;tk&quot;| Başgün || 主要な日 ||lang=&quot;tk&quot;| Duşenbe<br /> |-<br /> | 火曜日 || ヤシュギュン ||lang=&quot;tk&quot;| Ýaşgün || 若き日 ||lang=&quot;tk&quot;| Sişenbe<br /> |-<br /> | 水曜日 || ホシュギュン ||lang=&quot;tk&quot;| Hoşgün || 善の日 ||lang=&quot;tk&quot;| Çarşenbe<br /> |-<br /> | 木曜日 || ソガプギュン ||lang=&quot;tk&quot;| Sogapgün || 敬虔の日。死者に祈りを捧げる日 ||lang=&quot;tk&quot;| Penşenbe<br /> |-<br /> | 金曜日 || アンナギュン ||lang=&quot;tk&quot;| Annagün || 全国民が[[ルーフナーマ]]を読む日 ||lang=&quot;tk&quot;| Anna<br /> |-<br /> | 土曜日 || ルフギュン ||lang=&quot;tk&quot;| Ruhgün || 精神の日。読書や観劇で精神を高める日 ||lang=&quot;tk&quot;| Şenbe<br /> |-<br /> | 日曜日 || ドゥインチギュン ||lang=&quot;tk&quot;| Dynçgün || 休息の日 ||lang=&quot;tk&quot;| Ýekşenbe<br /> |}<br /> &lt;!--<br /> == メディア ==<br /> --&gt;<br /> <br /> == 著名な出身者 ==<br /> [[ファイル:1959 CPA 2364.jpg|thumb|200px|right|{{仮リンク|マフトゥムグル・ファラージ|en|Magtymguly Pyragy|label=マフトゥムグル}}の切手&lt;br /&gt;([[ソ連]]、[[1959年]])]]<br /> <br /> * {{仮リンク|マフトゥムグル・ファラージ|en|Magtymguly Pyragy|label=マフトゥムグル}}([[1733年]] - [[1797年]]) - トルクメニスタンの国民的[[詩人]]と言われる。首都アシガバートのメインストリートは「マフトゥムグル通り」と名づけられている。[[バルカン州]]には{{仮リンク|マフトゥムグル県|en|Magtymguly District}}が置かれている。なお、出身地は[[世界遺産]]の「[[ゴンバデ・カーブース]]」で有名な{{仮リンク|ゴンバデ・カーヴース|en|Gonbad-e Kāvus}}(現[[イラン]]、[[ゴレスターン州]])である。<br /> *[[エルヌル・フュセイノフ]] - ポップ[[歌手]]。[[アゼルバイジャン人]]だが生誕地はアシガバート([[トルクメン・ソビエト社会主義共和国]]時代)である。<br /> *[[グヴァンチ・ヌルムハメドフ]] - 男子[[柔道家]]。<br /> *[[グルバダム・ババムラトワ]] - 女子[[柔道家]]。<br /> *[[ルシャナ・ヌルジョヴォヴァ]] - 女子[[柔道家]]。<br /> <br /> == 脚注 ==<br /> === 注釈 ===<br /> {{Reflist|group=注}}<br /> === 出典 ===<br /> {{Reflist}}<br /> <br /> == 関連項目 ==<br /> * [[西気東輸]]<br /> * [[トルクメニスタン関係記事の一覧]]<br /> <br /> == 外部リンク ==<br /> {{Commons&amp;cat|United States|United States}}<br /> ; 政府<br /> * [http://www.turkmenistan.gov.tm/ トルクメニスタン政府] {{tk icon}}<br /> <br /> ; 日本政府<br /> * [http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/turkmenistan/ 日本外務省 - トルクメニスタン] {{ja icon}}<br /> <br /> ; 大使館<br /> * [http://www.tm.emb-japan.go.jp/itprtop_ja/index.html 在トルクメニスタン日本国大使館] {{ja icon}}<br /> * [http://japan.tmembassy.gov.tm/ja 在日トルクメニスタン大使館] {{ja icon}}<br /> * [http://www.turkmenistan.or.jp/ 駐日トルクメニスタン大使館] {{ja icon}}<br /> <br /> ; その他<br /> * [https://turkmenportal.com/ Turkmenportal (トルクメニスタン専門ニュースサイト)] {{ru icon}}<br /> * [http://www.mofa.go.jp/mofaj/files/000106723.pdf 日・トルクメニスタン共同声明 (PDF)] <br /> * [http://www.jp-tr.org/ 日本トルクメニスタン投資環境整備ネットワーク] {{ja icon}}<br /> * [https://www.facebook.com/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%83%88%E3%83%AB%E3%82%AF%E3%83%A1%E3%83%8B%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%B3%E4%BA%A4%E6%B5%81%E3%82%BB%E3%83%B3%E3%82%BF%E3%83%BC-1524443241148917/ 日本トルクメニスタン交流センター | Facebook] <br /> <br /> ; 観光<br /> * [http://turkmenistan-japan.com/ トルクメニスタン政府観光局] {{ja icon}}<br /> <br /> {{アジア}}<br /> {{独立国家共同体}}<br /> {{OIC}}<br /> {{トルクメニスタン関連の項目}}<br /> {{Normdaten}}<br /> <br /> {{DEFAULTSORT:とるくめにすたん}}<br /> [[Category:トルクメニスタン| ]]<br /> [[Category:トルキスタン]]<br /> [[Category:独立国家共同体]]<br /> [[Category:内陸国]]<br /> [[Category:共和国]]<br /> [[Category:中央アジア]]</div> 113.37.189.50 フラッグ・キャリア 2018-07-06T13:28:06Z <p>113.37.189.50: /* 現存しないフラッグ・キャリア */</p> <hr /> <div>{{複数の問題<br /> | 独自研究 = 2010-3<br /> | 出典の明記 = 2010-3<br /> | 精度 = 2010-10<br /> | 単一の出典 = 2010-3<br /> }}<br /> &#039;&#039;&#039;フラッグ・キャリア&#039;&#039;&#039;([[英語]]:{{lang|en|flag carrier}})とは、一国を代表する[[航空会社]]のことである&lt;ref&gt;『カタカナ語新辞典』旺文社&lt;/ref&gt;。{{要検証範囲|date=2012年11月|「ナショナル・フラッグ・キャリア({{lang|en|national flag carrier}})」と呼ぶこともある&lt;ref&gt;『大辞泉〔第二判〕』(2012年・小学館)&lt;/ref&gt;。}}&lt;ref&gt;[http://www.staralliance.com/en/about/airlines/air-china-airlines/ スターアライアンス公式サイトの中国国際航空の紹介]でも{{lang|en|&quot;Air China Limited (Air China) is the national flag carrier of China&quot;}}と紹介されているほか、[[欧州委員会]]のサイトでも[[LOTポーランド航空]]のことを{{lang|en|&quot;national flag carrier LOT&quot;}}と呼んでいる([http://europa.eu/rapid/press-release_IP-14-883_en.htm State aid: Commission approves restructuring aid for LOT Polish Airlines] 欧州委員会プレスリリース 2014年7月29日)&lt;/ref&gt;<br /> <br /> == 概要 ==<br /> ナショナル・フラッグ・キャリアとは、「もともと海運用語で国旗を掲げた運送業者」&lt;ref&gt;引用:柴田匡平『ブリティッシュ・エアウェイズの経営 民営化・国際展開とアエロポリティクス1981-2000』中央書院 p2&lt;/ref&gt;である。外航(国際線)の[[船舶]]が、夜間に着岸したときに、国旗を照らし、国籍を明示する[[習慣|慣習]]からきていて&lt;ref&gt;柴田匡平『ブリティッシュ・エアウェイズの経営 民営化・国際展開とアエロポリティクス1981-2000』中央書院&lt;/ref&gt;、[[20世紀]]に入り[[航空]]用語ともなった。明確な定義はないが、「国を代表し、国際線を運航している航空会社のこと。かつては国営など国家主導で育成され、様々な保護を受けた」&lt;ref&gt;引用:読売新聞朝刊2006-4-25 8項&lt;/ref&gt;とされる。2000年時点で世界の70社に各国政府が50%以上出資していた&lt;ref&gt;井上泰日子『新・航空事業論』日本評論社&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> == 船会社の場合 ==<br /> 国際海運の原則として、「定期船同盟行動憲章条約(コード条約)」が[[UNCTAD]](1972年)において採決された。コード条約には、政府が国を代表すると承認した定期船会社「ナショナルライン(National shipping Line、当事国海運会社)」があった。ナショナルラインは1国単位なので複数の会社や民間会社も該当した。定期船同盟(海運同盟)は、形骸化後、2008年に完全消滅した&lt;ref&gt;参考文献:武城正長『海運同盟とアジア海運』お茶の水書房&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> == 航空会社の場合 ==<br /> &lt;!--[[プロジェクト‐ノート:航空]] 参照--&gt;<br /> <br /> [[File:747Af747.jpg|thumb|right|240px|会社名に国名を入れたのは[[エールフランス]]が初である。]]<br /> [[1920年代]]から[[1980年代]]の国際航空の歴史においては、「原則的に1か国1社」&lt;ref name=&quot;用語500&quot;&gt;引用:月刊エアライン2008年5月号付録 エアライン用語500&lt;/ref&gt;の[[国有企業|公企業体]](かつ唯一の航空会社&lt;ref&gt;著:アンソニー・サンプソン、訳:大谷内一夫『エアライン 世界を変えた航空業界』早川書房 p18&lt;/ref&gt;であることもあった)や、民間会社([[アメリカ合衆国]]&lt;ref&gt;アメリカ合衆国では、世界中に運航ができる航空会社として[[パンアメリカン航空]]があった。他に[[ノースウエスト航空]]が太平洋線、[[トランス・ワールド航空]]が大西洋線、[[ブラニフ航空]]が中南米線と制限を受けた会社はあった。出典:(株)ANA総合研究所[編著]『航空産業入門』東洋経済新報社&lt;/ref&gt;と少数のラテン諸国)&lt;ref&gt;[著]R.ドガニス [訳]5名『21世紀の航空ビジネス』中央経済社 第7章国有航空会社の行方&lt;/ref&gt;や半官半民の特殊会社([[日本航空]]、[[ブリティッシュ・エアウェイズ]]など)で国策のもとに国際線を運航する航空会社がフラッグ・キャリアとされた。複数国が共同でフラッグ・キャリアを運営(例:[[スカンジナビア航空]]や[[アビアンカ航空]])することもある。<br /> 現在は自由化が進み、複数の航空会社が国際線を運航しているため、違いは必ずしも明確ではない。<br /> なお、民営化された航空会社(例:日本航空、ブリティッシュ・エアウェイズ、ともに[[1987年]]に民営化)は、厳密にはナショナル・フラッグ・キャリアではない&lt;ref&gt;月刊エアライン 2009-12」イカロス出版 p.10&lt;/ref&gt;と言う意見もある。<br /> <br /> === 歴史 ===<br /> [[パリ条約 (1919年)|パリ条約]](1919年、別名は国際航空条約で、日本を含めた33カ国が参加)締結をきっかけに、欧米諸国では[[世界]]各国に散らばる[[植民地]]を結ぶ国際航空会社が国家の支援を受け、創設や合併により誕生してゆく。また南米諸国や日本でも、国際航空会社がこの頃誕生した。さらに[[第二次世界大戦]]後の[[1950年代]]から[[1960年代]]にかけて、植民地から脱したアジアやアフリカ諸国をはじめとする新興国が独立国家の象徴ともいえる国際航空会社を誕生させてゆくことになる&lt;ref&gt;[http://www.mas-japan.co.jp/profile/history.html マレーシア航空の歴史]&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;[http://www.iranairjp.com/jap/indexj.html 「42年の歴史、58年の経験」イラン航空]&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> [[1944年]]の[[シカゴ条約]]採択をきっかけに、国際航空路線は[[航空協定|二国間協定]]に基づくものになった。二国間協定には、国籍条項(航空会社はその国の航空会社でなければならない)があり、各1社&lt;ref&gt;事前決定方式の場合(シングル)、バミューダ方式(例:アメリカ合衆国)では当時からダブルやマルチプルの指定もあった。出典:[著]R.ドガニス [訳]5名『21世紀の航空ビジネス』中央経済社 p30&lt;/ref&gt;が政府に指定されていた。[[1978年]]に[[アメリカ合衆国]]から始まる航空の自由化まで、国際航空はフラッグ・キャリアの全盛期といえた&lt;ref&gt;参考文献: 「航空情報2008年11月号」 酣燈社、伊藤元重+下井直毅『日本の空を問う』日本経済新聞出版社&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> その後の航空自由化のあおりを受けて、アメリカ合衆国や[[ペルー]]、[[ベルギー]]など一部の国では経営破綻による消滅でかつてのフラッグ・キャリアが消滅し存在しない国もあること、1997年に完全自由化がされた[[EU]]圏内においては、国内最大の航空会社が他国の航空会社の傘下となっていること&lt;ref&gt;[[KLMオランダ航空]]は[[エールフランス]]と持株会社方式で経営統合されている。また、[[スイス インターナショナル エアラインズ]]、[[ブリュッセル航空]]、[[オーストリア航空]]は、[[ルフトハンザドイツ航空]]傘下である&lt;/ref&gt;、経済規模の大きな国では国際線を新興航空会社([[LCC]]含む)も含めた複数の会社が運航していることもあるため、「ナショナル・フラッグ・キャリアという概念は消えつつある」&lt;ref name=&quot;用語500&quot;/&gt;という意見もある。<br /> <br /> 「航空業は通常の産業とは異なる特別な存在であるという見方もある。元々、多くの国で航空業が国営企業で政府出資を仰いでいたことからも、この点は明らかだ。多くの国がフラッグ・キャリアを維持しようとしている」&lt;ref&gt;引用: 伊藤元重+下井直毅『日本の空を問う』日本経済新聞出版社P79&lt;/ref&gt;という意見もある。実際に、日本や[[アメリカ]]、[[マレーシア]]や[[オーストラリア]]などでは、国防面や[[公共交通機関]]の安定維持などの観点から、フラッグ・キャリアにかかわらず外資や外国人による航空会社の株保有の上限規制を設けており&lt;ref&gt;[http://www.jasdec.com/reading/for_pubinfo.php [[証券保管振替機構]]「外国人持株比率制限銘柄」]&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;[http://www.jterc.or.jp/koku/shyokoku/02PDF/aus.pdf 運輸政策研究機構「豪州の運輸事情」]&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;シンガポールには無く、逆に[[エア・カナダ]]には15%(単一投資家)の強い規制がある。引用: 伊藤元重+下井直毅『日本の空を問う』日本経済新聞出版社P86 なお、同書は最重要点に、「どれだけ日本の航空会社が路線を確保できるのかではなく、利用者である国民の利益がどれだけ最大化されるのか」を挙げる。&lt;/ref&gt;、法の下でフラッグ・キャリアを含む自国の航空会社が他国の航空会社の傘下になることを防ぎ、自国政府や企業の直接影響下に留まるようになされている国がある。<br /> <br /> == 各国のフラッグ・キャリア ==<br /> === アジア ===<br /> {| class=&quot;wikitable&quot;<br /> ! 国||航空会社<br /> |-<br /> | {{KOR}} || [[大韓航空]]&lt;ref name=&quot;フラッグ&quot;&gt;チャーリー古庄『エアライン年鑑 2009-2010』イカロス出版にフラッグキャリアの記述あり&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;[http://www.nytimes.com/keyword/korean-air/4 Ney York Times]&lt;/ref&gt;<br /> |-<br /> | {{PRK}} || [[高麗航空]]&lt;ref name=&quot;唯一&quot;&gt;チャーリー古庄『エアライン年鑑 2009-2010』イカロス出版に「唯一」の記述あり。他にティアラ・エア([[アルバ]])、トランス・[[ガイアナ]]・エアウェイズ、エア・ラロトンガ([[クック諸島]])、[[エール・ブルキナ]]もある。&lt;/ref&gt;<br /> |-<br /> | {{ROC}} || [[チャイナエアライン]]&lt;ref&gt;[http://allabout.co.jp/gm/gc/53536/ オールアバウト]&lt;/ref&gt;<br /> |-<br /> | {{MNG}} || [[MIATモンゴル航空]]&lt;ref name=&quot;国営&quot;&gt;チャーリー古庄『エアライン年鑑 2009-2010』イカロス出版に「国営など」の記述あり。他に[[アゼルバイジャン航空]]、[[ガーナ国際航空]]、[[キプロス航空]]、[[マルタ航空]]もある。&lt;/ref&gt;<br /> |-<br /> | {{HKG}} || [[キャセイパシフィック航空]]&lt;ref&gt;[http://www.qantas.com.au/fflyer/dyn/partners/airline Qantas]&lt;/ref&gt;<br /> |-<br /> | {{PHL}} || [[フィリピン航空]]&lt;ref name=&quot;フラッグ&quot;/&gt;&lt;ref&gt;[http://www.emirates247.com/philippine-flag-carrier-cancels-flights-blames-pilots-2010-07-31-1.273065 Emirates 24/7 July 31, 2010]&lt;/ref&gt;<br /> |-<br /> | {{VNM}} || [[ベトナム航空]]&lt;ref name=&quot;フラッグ&quot;/&gt;&lt;ref&gt;[http://www.chinapost.com.tw/business/asia/vietnam/2010/06/10/260161/Flag-carrier.htm China Post June 10 2010]&lt;/ref&gt;<br /> |-<br /> | {{LAO}} || [[ラオス国営航空]]&lt;ref name=&quot;フラッグ&quot;/&gt;<br /> |-<br /> | {{THA}} || [[タイ国際航空]]&lt;ref name=&quot;代表&quot;&gt;チャーリー古庄『エアライン年鑑 2009-2010』イカロス出版に「代表」の記述あり。他に代表として、エア・[[ウガンダ]]、プルナ([[ウルグアイ]])、[[エリトリア航空]]、TACV[[カーボベルデ]]・エア、[[グルジア]]ン・エアウェイズ、ポリネシアン・エアラインズ([[サモア]])、[[:en:Air Zimbabwe|エアジンバブエ]]、SVGエア([[セントビンセント・グレナディーン]])、[[タジキスタン航空]]、[[モルドバ航空]]、[[リトアニア航空]]&lt;/ref&gt; &lt;ref&gt;[http://www.ft.com/cms/s/0/525270fc-9df6-11df-b377-00144feab49a.html Financlai Times August 2 2010]&lt;/ref&gt;<br /> |-<br /> | {{MYS}} || [[マレーシア航空]]&lt;ref name=&quot;代表&quot;/&gt;<br /> |-<br /> | {{BRN}} || [[ロイヤルブルネイ航空]]&lt;ref name=&quot;フラッグ&quot;/&gt;<br /> |-<br /> | {{INA}} || [[ガルーダ・インドネシア航空]]&lt;ref name=&quot;フラッグ&quot;/&gt;&lt;ref&gt;[http://www.nytimes.com/2009/10/16/business/global/16garuda.html New York Times]&lt;/ref&gt;<br /> |-<br /> | {{SIN}} || [[シンガポール航空]]&lt;ref name=&quot;代表&quot;/&gt; &lt;ref&gt;[http://www.ana.co.jp/int/airinfo/codeshare/sq.html 「シンガポール航空」全日空]&lt;/ref&gt;<br /> |-<br /> | {{PNG}} || [[ニューギニア航空]]&lt;ref name=&quot;国営&quot;/&gt;<br /> |-<br /> | {{NPL}} || [[ネパール航空]]&lt;ref name=&quot;こだわり&quot;&gt;「こだわりのエアラインガイド改訂版」イカロス出版に「フラッグキャリア」の記述あり&lt;/ref&gt;<br /> |-<br /> | {{BHU}} || [[ロイヤルブータン航空]]&lt;ref name=&quot;唯一&quot;/&gt;<br /> |-<br /> | {{IND}} || [[エア・インディア]]&lt;ref name=&quot;こだわり&quot;/&gt;&lt;ref&gt;[http://www.saiyu.co.jp/special/india/airindia/ 西遊旅行]&lt;/ref&gt;<br /> |-<br /> | {{BGD}} || [[ビーマン・バングラデシュ航空]]&lt;ref name=&quot;代表&quot;/&gt;<br /> |-<br /> | {{PAK}} || [[パキスタン国際航空]]&lt;ref name=&quot;代表&quot;/&gt;<br /> |-<br /> | {{AFG}} || [[アリアナ・アフガン航空]]&lt;ref name=&quot;フラッグ&quot;/&gt;<br /> |-<br /> | {{UZB}} || [[ウズベキスタン航空]]&lt;ref name=&quot;フラッグ&quot;/&gt;<br /> |-<br /> | {{LKA}} || [[スリランカ航空]]&lt;ref name=&quot;代表&quot;/&gt;<br /> |-<br /> | {{KAZ}} || [[エア・アスタナ]]&lt;ref name=&quot;フラッグ&quot;/&gt;<br /> |-<br /> | {{KGZ}} || [[キルギスタン航空]]&lt;ref name=&quot;フラッグ&quot;/&gt;<br /> |-<br /> | {{TKM}} || [[トルクメニスタン航空]]&lt;ref name=&quot;フラッグ&quot;/&gt;<br /> |}<br /> <br /> === 中東 ===<br /> {| class=&quot;wikitable&quot;<br /> ! 国||航空会社<br /> |-<br /> | {{IRN}} || [[イラン航空]]&lt;ref name=&quot;こだわり&quot;/&gt;&lt;ref&gt;[http://abroad.travel.yahoo.co.jp/tif/airline/IR/ Yahoo!トラベル]&lt;/ref&gt;<br /> |-<br /> | {{KUW}} || [[クウェート航空]]&lt;ref name=&quot;国営&quot;/&gt;<br /> |-<br /> | {{ARE}}&lt;br/&gt;&amp;emsp;{{ABU}} || [[エティハド航空]]&lt;ref name=&quot;代表&quot;/&gt;<br /> |-<br /> | {{ARE}}&lt;br/&gt;&amp;emsp;{{DUB}} || [[エミレーツ航空]]&lt;ref name=&quot;国営&quot;/&gt;&lt;ref&gt;[http://money.cnn.com/magazines/business2/business2_archive/2005/10/01/8359251/index.htm CNN Money]&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;[http://allabout.co.jp/finance/gc/9944/ オールアバウト]&lt;/ref&gt;<br /> |-<br /> | {{BHR}} || [[ガルフエア]]&lt;ref name=&quot;国営&quot;/&gt;<br /> |-<br /> | {{QAT}} || [[カタール航空]]&lt;ref name=&quot;フラッグ&quot;/&gt;&lt;ref&gt;[http://www.arukikata.co.jp/webmag/2009/0901/sp/090100sp_03_06.html 地球の歩き方]&lt;/ref&gt;<br /> |-<br /> | {{SAU}} || [[サウディア|サウジアラビア航空]]&lt;ref name=&quot;フラッグ&quot;/&gt;&lt;ref&gt;[http://www.businessweek.com/adsections/2007/pdf/09172007_Saudi.pdf Businessweek 2007年9月17日]&lt;/ref&gt;<br /> |-<br /> | {{JOR}} || [[ロイヤル・ヨルダン航空]]&lt;ref name=&quot;代表&quot;/&gt; &lt;ref&gt;[http://www.omanair.com/wy/aboutus/aboutus_media_center/about_media_presrelses/releases_66.htm Oman Air]&lt;/ref&gt;<br /> |-<br /> | {{LEB}} || [[ミドル・イースト航空]]&lt;ref name=&quot;フラッグ&quot;/&gt;<br /> |-<br /> | {{SYR}} || [[シリア・アラブ航空]]&lt;ref name=&quot;フラッグ&quot;/&gt;<br /> |-<br /> | {{YEM}} || [[イエメニア]]&lt;ref name=&quot;国営&quot;/&gt;<br /> |-<br /> | {{ISR}} || [[エル・アル航空]]&lt;ref name=&quot;代表&quot;/&gt;&lt;ref&gt;[http://www.reuters.com/article/idUKLDE62R01T20100328?type=companyNews Reuters Mar 28, 2010]&lt;/ref&gt;<br /> |-<br /> | {{TUR}} || [[ターキッシュ エアラインズ]]&lt;ref name=&quot;フラッグ&quot;/&gt; &lt;ref&gt;[http://www.his-j.com/tyo/cpn/airline/eur_tk.htm HIS]&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;[http://www.free-bird.co.jp/Statics/CAList/info/TK.asp フリーバード]&lt;/ref&gt;<br /> |-<br /> | {{PSE}} || [[パレスチナ航空]]&lt;ref name=&quot;フラッグ&quot;/&gt;<br /> |}<br /> <br /> === ヨーロッパ ===<br /> {| class=&quot;wikitable&quot;<br /> ! 国||航空会社<br /> |-<br /> | {{ISL}} || [[アイスランド航空]]&lt;ref&gt;[http://www.businesstraveller.com/news/icelandair-launches-premium-economy-seats Business Traveler]&lt;/ref&gt;&lt;ref name=&quot;フラッグ&quot;/&gt;<br /> |-<br /> | {{GBR}} || [[ブリティッシュ・エアウェイズ]]&lt;ref name=&quot;最大&quot;/&gt;&lt;!-- 典拠が古すぎる --&gt;&lt;!-- &lt;ref&gt;「エアライン Empires of the Sky」アンソニー・サンプソン著 大谷内一夫訳(早川書房 1987年)&lt;/ref&gt;--&gt;<br /> |-<br /> | {{IRL}} || [[エアリンガス|エア リンガス]]&lt;ref name=&quot;フラッグ&quot;/&gt;<br /> |-<br /> | {{PRT}} || [[TAP ポルトガル航空]]&lt;ref name=&quot;フラッグ&quot;/&gt;<br /> |-<br /> | {{ESP}} || [[イベリア航空]]&lt;ref name=&quot;フラッグ&quot;/&gt;&lt;ref&gt;[http://www.jterc.or.jp/koku/shyokoku/03pdf/spa.pdf 「スペイン運輸事情」運輸政策研究機構]&lt;/ref&gt;<br /> |-<br /> | {{ITA}} || [[アリタリア航空]]&lt;ref name=&quot;代表&quot;/&gt;&lt;ref&gt;[http://airline.arukikata.co.jp/AZ1.html 「アリタリア航空」地球の歩き方]&lt;/ref&gt;<br /> |-<br /> | {{GRC}} || [[オリンピック航空]]&lt;ref&gt;[http://www.amadeus.com/jp/x77153.html アマデウス メールニュース Vol.122]&lt;/ref&gt;&lt;ref name=&quot;フラッグ&quot;/&gt;<br /> |-<br /> | {{CHE}} || [[スイス インターナショナル エアラインズ]]&lt;ref name=&quot;代表&quot;/&gt;<br /> |-<br /> | {{AUT}} || [[オーストリア航空]]&lt;ref name=&quot;フラッグ&quot;/&gt; &lt;ref&gt;[http://europa.eu/rapid/pressReleasesAction.do?reference=IP/09/74 EUROPA]&lt;/ref&gt;<br /> |-<br /> | {{FRA}} || [[エールフランス|エールフランス航空]]&lt;ref name=&quot;フラッグ&quot;/&gt;&lt;ref&gt;[http://airline.arukikata.co.jp/AF1.html 地球の歩き方]&lt;/ref&gt;<br /> |-<br /> | {{NLD}} || [[KLMオランダ航空]]&lt;ref name=&quot;代表&quot;/&gt;&lt;!--典拠が古すぎる --&gt;&lt;!-- &lt;ref&gt;「エアライン Empires of the Sky」アンソニー・サンプソン著 大谷内一夫訳(早川書房 1987年)&lt;/ref&gt;--&gt;<br /> |-<br /> | {{DEU}} || [[ルフトハンザドイツ航空]]&lt;ref name=&quot;こだわり&quot;/&gt; &lt;ref&gt;[http://airline.arukikata.co.jp/LH1.html 地球の歩き方]&lt;/ref&gt;<br /> |-<br /> | {{SWE}}&lt;br/&gt;{{DNK}}&lt;br/&gt;{{NOR}} || [[スカンジナビア航空]]&lt;ref name=&quot;フラッグ&quot;/&gt;&lt;!--典拠が古すぎる --&gt;&lt;!-- &lt;ref&gt;「エアライン Empires of the Sky」アンソニー・サンプソン著 大谷内一夫訳(早川書房 1987年)&lt;/ref&gt; --&gt;<br /> |-<br /> | {{FIN}} || [[フィンエアー]]&lt;ref name=&quot;代表&quot;/&gt; &lt;ref&gt;[http://www.businesstraveller.com/news/finnair-to-launch-singapore-route Business Traveller]&lt;/ref&gt;<br /> |-<br /> | {{CZE}} || [[チェコ航空]]&lt;ref&gt;[http://www.hankyu-travel.com/guide/east-eur/traffic.php 阪急交通社]&lt;/ref&gt;&lt;ref name=&quot;フラッグ&quot;/&gt;<br /> |-<br /> | {{POL}} || [[LOTポーランド航空]]&lt;ref name=&quot;フラッグ&quot;/&gt; &lt;ref&gt;[http://uk.reuters.com/article/idUKLDE60J17220100120 &quot;UPDATE 1-Three possible bidders for Polish flag carrier LOT&quot; Reuters]&lt;/ref&gt;<br /> |-<br /> | {{ROU}} || [[タロム航空]]&lt;ref&gt;[http://jp.skyteam.com/news/headlines/20100625.html スカイチーム・ヘッドライン]&lt;/ref&gt;<br /> |-<br /> | {{HRV}} || [[クロアチア航空]]&lt;ref name=&quot;国営&quot;/&gt; &lt;ref&gt;[http://www.croatiaairlines.com/nbspnbspnbspnbspaboutusnbspnbspnbsp/management/tabid/193/Default.aspx Croatia Airlines]&lt;/ref&gt;<br /> |-<br /> | {{BGR}} || [[ブルガリア航空]]&lt;ref name=&quot;代表&quot;/&gt;<br /> |-<br /> | {{UKR}} || [[ウクライナ国際航空]]&lt;ref name=&quot;代表&quot;/&gt;&lt;br/&gt;[[アエロスヴィート航空]]&lt;ref name=&quot;最大&quot;/&gt;<br /> |-<br /> | {{SVN}} || [[アドリア航空]]&lt;ref&gt;[http://www.amadeus.com/amadeus/x65425.html amadeus]&lt;/ref&gt;<br /> |-<br /> | {{MKD}} || MATマケドニア航空([[:en:MAT Macedonian Airlines|英語版]])&lt;ref name=&quot;フラッグ&quot;/&gt;<br /> |-<br /> | {{BLR}} || [[ベラヴィア]]&lt;ref name=&quot;フラッグ&quot;/&gt;<br /> |-<br /> | {{BIH}} || [[B&amp;amp;H航空]]&lt;ref name=&quot;フラッグ&quot;/&gt;<br /> |-<br /> | {{LVA}} || [[エア・バルティック]]&lt;ref name=&quot;フラッグ&quot;/&gt;<br /> |-<br /> | {{LUX}} || [[ルクスエア]]&lt;ref name=&quot;フラッグ&quot;/&gt;&lt;ref&gt; チャーリー古庄『エアライン年鑑 2009-2010』イカロス出版 P160 に「ルクセンブルクは他の欧州の国と比べて国の規模、面積が小さいので、フラッグキャリアでありながら事業規模は小さい」の記述あり&lt;/ref&gt;<br /> <br /> |}<br /> <br /> === アフリカ ===<br /> {| class=&quot;wikitable&quot;<br /> ! 国||航空会社<br /> |-<br /> | {{EGY}} || [[エジプト航空]]&lt;ref name=&quot;最大&quot;/&gt;&lt;ref&gt;[http://www.ft.com/cms/s/0/cb376bd8-9a5b-11df-87fd-00144feab49a.html Finalcial Times July 28 2010]&lt;/ref&gt;<br /> |-<br /> | {{LBY}} || [[リビア航空]]&lt;ref name=&quot;フラッグ&quot;/&gt;<br /> |-<br /> | {{ALG}} || [[アルジェリア航空]]&lt;ref name=&quot;国営&quot;/&gt; &lt;ref&gt;[http://www.france24.com/en/node/4926356 France 24 16 November 2009]&lt;/ref&gt;<br /> |-<br /> | {{TUN}} || [[チュニスエア]]&lt;ref name=&quot;フラッグ&quot;/&gt;<br /> |-<br /> | {{MAR}} || [[ロイヤル・エア・モロッコ]]&lt;ref name=&quot;代表&quot;/&gt; &lt;ref&gt;[http://www.amadeus.com/travelagencies/x152484.html Amadeus]&lt;/ref&gt;<br /> |-<br /> | {{MDG}} || [[マダガスカル航空]]&lt;ref name=&quot;国営&quot;/&gt;<br /> |-<br /> | {{ETH}} || [[エチオピア航空]]&lt;ref name=&quot;フラッグ&quot;/&gt; &lt;ref&gt;[http://www.mtn.cx/news/article/newsid/2010100101/ マイルトラベルなび]&lt;/ref&gt;<br /> |-<br /> | {{KEN}} || [[ケニア航空]]&lt;ref name=&quot;代表&quot;/&gt;<br /> |-<br /> | {{GAB}} || [[エール・ガボン・インターナショナル]]&lt;ref name=&quot;フラッグ&quot;/&gt;<br /> |-<br /> | {{ZAF}} || [[南アフリカ航空]]&lt;ref name=&quot;代表&quot;/&gt; &lt;ref&gt;[http://blog.hankyu-travel.com/kaigai/00100/00115/2010/034266.php 阪急交通社]&lt;/ref&gt;<br /> |-<br /> | [[ファイル:Flag_of_South_Sudan.svg|30px|SPLA/Mの「新スーダン」旗]] [[南部スーダン|南スーダン]]|| [[フィーダー航空]]<br /> |-<br /> | {{ANG}} || [[TAAGアンゴラ航空]]&lt;ref name=&quot;代表&quot;/&gt;<br /> |-<br /> | {{CIV}} || [[エール・イボワール]]&lt;ref name=&quot;フラッグ&quot;/&gt;<br /> |-<br /> | {{MAW}} || [[エア・マラウイ]]&lt;ref name=&quot;国営&quot;/&gt;<br /> |-<br /> | {{CMR}} || [[:en:Cameroon Airlines|カメルーン航空]]&lt;ref name=&quot;フラッグ&quot;/&gt; &lt;ref&gt;[http://news.bbc.co.uk/2/hi/business/3092955.stm BBC News]&lt;/ref&gt;<br /> |-<br /> | {{COG}} || [[:en:Trans Air Congo|トランスエアコンゴ]]&lt;ref name=&quot;フラッグ&quot;/&gt;<br /> |-<br /> | {{SDN}} || [[スーダン航空|スーダン・エアウェイズ]]&lt;ref name=&quot;フラッグ&quot;/&gt;<br /> |-<br /> | {{TCD}} || [[:en:Toumai Air Chad|トウマイ・エア・チャド]]&lt;ref name=&quot;フラッグ&quot;/&gt;<br /> |-<br /> | {{NAM}} || [[ナミビア航空]]&lt;ref name=&quot;フラッグ&quot;/&gt;<br /> |-<br /> |{{BOT}}||[[ボツワナ航空]]&lt;ref name=&quot;国営&quot;/&gt;<br /> |-<br /> |{{BEN}}||ベニン・ゴルフ・エア([[:en:Benin Golf Air|英語版]])&lt;ref name=&quot;フラッグ&quot;/&gt;<br /> |-<br /> |{{MUS}}||[[モーリシャス航空]]&lt;ref name=&quot;フラッグ&quot;/&gt;<br /> |-<br /> |{{MOZ}}||[[LAMモザンビーク航空]]&lt;ref name=&quot;フラッグ&quot;/&gt;<br /> |}<br /> <br /> === 南北アメリカ ===<br /> {| class=&quot;wikitable&quot;<br /> ! 国||航空会社<br /> |-<br /> | {{CUB}} || [[クバーナ航空]]&lt;ref name=&quot;フラッグ&quot;/&gt;<br /> |-<br /> | {{PAN}}|| [[コパ航空]]&lt;ref name=&quot;フラッグ&quot;/&gt;<br /> |-<br /> | {{COL}} || [[アビアンカ航空]]&lt;ref name=&quot;代表&quot;/&gt;&lt;ref&gt;[http://www.jetro.go.jp/world/cs_america/co/biznews/485894b8b7416 JETRO 2008年06月18日]&lt;/ref&gt;<br /> |-<br /> | {{VEN}} || [[コンビアサ航空]]<br /> |-<br /> | {{ARG}} || [[アルゼンチン航空]]&lt;ref name=&quot;代表&quot;/&gt;<br /> |-<br /> | {{CHL}} || [[ラン航空|LANチリ航空]]&lt;ref name=&quot;最大&quot;/&gt; &lt;ref&gt;[http://markets.ft.com/tearsheets/news.asp?s=cl:LAN Financial Times]&lt;/ref&gt;<br /> |-<br /> | {{CAN}} || [[エア・カナダ]]&lt;ref name=&quot;最大&quot;/&gt;&lt;ref&gt;[http://www.cccj.or.jp/contents/GENERAL/aircanada2 在日カナダ商工会議所]&lt;/ref&gt;<br /> |-<br /> | {{SLV}}&lt;br/&gt;{{CRI}}&lt;br/&gt;{{GUA}}&lt;br/&gt;{{PER}} || [[アビアンカ・エルサルバドル]](旧TACA航空)&lt;ref name=&quot;フラッグ&quot;/&gt;<br /> |-<br /> | {{CYM}} || [[ケイマン航空|ケイマン・エアウェイズ]]&lt;ref name=&quot;フラッグ&quot;/&gt;<br /> |-<br /> | {{JAM}} || [[エア・ジャマイカ]]&lt;ref name=&quot;フラッグ&quot;/&gt;&lt;ref&gt;[http://www.caribbeannetnews.com/cgi-script/csArticles/articles/000039/003945.htm Carribbean Net News October 27, 2006]&lt;/ref&gt;<br /> |-<br /> |{{SUR}}||[[スリナム・エアウェイズ|スリナム航空]]&lt;ref name=&quot;フラッグ&quot;/&gt;<br /> |-<br /> |{{BHS}}||[[バハマスエア]]&lt;ref name=&quot;フラッグ&quot;/&gt;<br /> |-<br /> | {{MEX}}|| [[アエロメヒコ航空]]<br /> |}<br /> <br /> === オセアニア ===<br /> {| class=&quot;wikitable&quot;<br /> ! 国||航空会社<br /> |-<br /> | {{NRU}} || [[ナウル航空]]&lt;ref name=&quot;フラッグ&quot;/&gt;<br /> |-<br /> | {{FJI}} || [[フィジー・エアウェイズ]]&lt;ref name=&quot;国営&quot;/&gt; &lt;ref&gt;[http://www.skygate.co.jp/air_company/fj.html スカイゲート]&lt;/ref&gt;<br /> |-<br /> | {{AUS}} || [[カンタス航空]]&lt;ref name=&quot;こだわり&quot;/&gt;&lt;ref&gt;[http://japan.zdnet.com/release/story/0,3800075480,10460041,00.htm Japan ZD Net 2010年7月23日]&lt;/ref&gt;<br /> |-<br /> | {{NZL}} || [[ニュージーランド航空]]&lt;ref name=&quot;フラッグ&quot;/&gt;&lt;ref&gt;[http://www.tv-kikaku.com/anz/2010/vol1/ トラベルビジョン]&lt;/ref&gt;<br /> |-<br /> | {{VUT}} || [[バヌアツ航空]]&lt;ref name=&quot;フラッグ&quot;/&gt;<br /> |-<br /> |{{MHL}}||[[エア・マーシャル・アイランド]]&lt;ref name=&quot;フラッグ&quot;/&gt;<br /> |}<br /> <br /> === 出典もしくは注記の必要のある航空会社 ===<br /> {| class=&quot;wikitable&quot;<br /> ! 国||航空会社||<br /> |- <br /> | {{JPN}} || [[日本航空]] &lt;ref&gt;「Bloomberg」2010年1月19日 [http://www.bloomberg.com/apps/news?pid=20601087&amp;sid=aRPZ99KN1_ko&amp;pos=3]&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;「Herald Sun」2010年1月11日[http://www.heraldsun.com.au/news/japan-airlines-may-go-bankrupt/story-e6frf7jo-1225817895450]&lt;/ref&gt; || 1953年の「[[日本航空株式会社法]]」に規定された、[[半官半民]]の[[特殊会社]]であり、1972年以降の[[45/47体制]]では定期国際線を独占的に運航していた。1987年11月に全株式を[[東京証券取引所]]に上場し、完全民営化された。2010年1月19日に[[会社更生法]]の適用を申請し[[破綻]]後、企業の規模を縮小して経営再建をした。「かつてフラッグキャリアであった」とする文献も複数ある&lt;ref&gt;[http://fpcj.jp/modules/news8/index.php?page=article&amp;storyid=251&amp;ml_lang=ja 【ジャパン・ブリーフ】日本航空再建は政府主導で] 公益財団法人 フォーリン・プレスセンター 2009年11月5日&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;[http://www.jal.co.jp/other/info2010_0430.html 日本航空 定例記者会見 管財人の発言] 2010年4月28日&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;[http://moneyzine.jp/article/detail/189189 年収1800万円がリストラで無職に… 解雇に抵抗する日航社員「天国と地獄」] MONEYzine 2010年10月31日&lt;/ref&gt;。2014年、[[全日本空輸]]にナショナルフラッグキャリアが交代したという報道もある&lt;ref&gt;[http://www.asahi.com/articles/DA3S11169737.html 国際線規模、ANA首位 羽田増便、初めてJAL抜く] 朝日新聞 2014年6月3日&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;[http://biz-journal.jp/2014/10/post_6187.html ANA、なぜJAL抜き悲願のトップ目前?政権の意向に左右される航空業界の特性露呈] Business Journal 2014年10月1日&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;[http://www.j-cast.com/2015/07/07239664.html?p=all 「ナショナルフラッグキャリア」、JALからANAに交代か ANA 政府専用機に続いて「皇室フライト」連続で獲得] J-CASTニュース 2015年7月7日&lt;/ref&gt;。<br /> |-<br /> | {{CHN}} || [[中国国際航空]] || 『日本の空港2セントレア』(イカロス出版)P.44によれば、「複数のエアラインが国際線に進出している現在でもなお、中国を代表するフラッグキャリアのような見方をされるのは、中国国際航空が、北米、欧州線などの長距離路線を含む[[中国民航]]の国際線ネットワークの大半を引き継いだため」としている。航空会社コードや機材の塗装デザインも中国民航時代のものを踏襲しており、[[スターアライアンス]]の公式サイトでも「エアチャイナ・リミテッド(エアチャイナ)は、中国のナショナルフラッグ・キャリア」と紹介されている&lt;ref&gt;[http://www.staralliance.com/ja/about/airlines/air-china_airlines/ スターアライアンス 加盟航空会社より&quot;Air China&quot;]&lt;/ref&gt;なお、[[中国国際航空]]、[[中国東方航空]]、[[中国南方航空]]は、中国民航から分離された航空会社である。<br /> <br /> |-<br /> |nowrap| {{USA}} || 不在 || チャーリィ古庄『航空会社の選び方[海外旅行編]』(エイ出版社)P15によると、[[パンアメリカン航空]]亡き後のアメリカでは「フラッグキャリアは存在しない」とされている。アメリカ最大の航空会社は[[アメリカン航空]]である。<br /> <br /> |-<br /> | {{VEN}} || [[コンビアサ航空]]&lt;ref name=&quot;フラッグ&quot;/&gt; || フラッグキャリアのVIASA倒産後、2004年に政府が筆頭株主となり、コンビアサを設立した。<br /> |-<br /> | {{BRA}} || [[LATAM ブラジル]]&lt;ref name=&quot;代表&quot;/&gt; || ブラジルを代表する航空会社として、フラッグ・キャリアであったヴァリグ・ブラジル航空を傘下にした [[ゴル航空]]もある。<br /> |-<br /> | {{RUS}} ||nowrap| [[アエロフロート・ロシア航空]]&lt;ref name=&quot;最大&quot;&gt;チャーリー古庄『エアライン年鑑 2009-2010』イカロス出版に「最大」の記述あり&lt;/ref&gt; || 旧[[ソビエト連邦|ソ連]]唯一の航空会社だったアエロフロート・ソビエト航空の後身。この他に国営の[[ロシア航空]]もある。ただし、ロシア国内線での最大手航空会社は民営の[[S7航空]]である。<br /> |-<br /> |{{CAM}}||[[カンボジア・アンコール航空]]|| 2001年にロイヤル・エア・カンボージュが3000万米ドルの赤字を抱え破綻後、政府が51%の出資者となり設立した&lt;ref&gt;日本経済新聞朝刊 2009/7/25&lt;/ref&gt;。<br /> |-<br /> | {{IRQ}} || [[イラク航空]]&lt;ref name=&quot;国営&quot;/&gt; ||2010年5月に清算が決まったが、2013年に存続が決まった。<br /> |-<br /> | {{BOL}} || ||[[LAB航空]]が2007年3月に運航停止、同社を支援した[[アエロスール航空]]&lt;ref name=&quot;最大&quot;/&gt;も2012年5月に運航停止した。その他に国営の[[ボリビアーナ航空]]がある。<br /> |-<br /> | {{MYA}} || ||国営の[[ミャンマー・ナショナル航空]]と同社が出資する[[ミャンマー国際航空]]がある。 <br /> |}<br /> <br /> == 現存しないフラッグ・キャリア ==<br /> {| class=&quot;wikitable&quot;<br /> ! 国||航空会社||<br /> <br /> |-<br /> | {{JPN}} || [[大日本航空]] || [[1945年]][[8月]]に日本が[[第二次世界大戦]]に敗北し、日本を占領した[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]により、日本国籍機による全ての航空活動が停止させられたことを受け解散した。<br /> |-<br /> | {{MCK}} || [[満州航空]] || 1945年8月に同盟国の日本が第二次世界大戦に敗北し、それに伴い満州国が消滅した為解散した。<br /> |-<br /> | {{TWN}} || [[民航空運公司]] || 航空事故を起こしたことなどから経営不振に陥り[[1975年]]に運航を停止した。<br /> |-<br /> | {{CHN}} || [[中国民用航空局|中国民航]] || [[中華人民共和国国務院]]直属の民間航空行政機構である[[中国民用航空局|中国民用航空総局]]が運航も行っていたが、[[1988年]]に民間航空部門を分割、民営化した。現在でも航空行政を担当する行政機関としては存続している。<br /> |-<br /> | {{VSO}} || [[エア・ベトナム]] || 南ベトナムが[[ベトナム戦争]]に敗北して消滅したため、その混乱の中で消えていった。残った機材は社会主義政権の国営[[ベトナム航空]]で使用された。<br /> |-<br /> | {{GBR}} || [[英国海外航空]] || 遠距離国際線を担当するイギリスのフラッグキャリアとして、パンアメリカン航空やエール・フランスなどと共に知られていた。国内線と近距離国際線を担当する[[英国欧州航空]]と合併し、現在のブリティッシュ・エアウェイズとなった。現在は同社がイギリスのフラッグキャリアである。<br /> |-<br /> | {{BEL}} || {{nowrap|[[サベナ・ベルギー航空]]}} || 国営航空会社として旧[[植民地]]などへの不採算路線を運航せざるを得なかったことなどから赤字体質が続き、[[2001年]]に倒産した。一部の路線や機材、従業員は、子会社のデルタ・エアー・トランスポートが「SNブリュッセル航空」(現在の[[ブリュッセル航空]])と改名して引き継いだ。<br /> |-<br /> | {{CHE}} || [[スイス航空]] || サベナ・ベルギー航空と資本提携していたが、共倒れになる形で2001年に倒産した。その後子会社の[[クロスエア]]が[[スイス インターナショナル エアラインズ]]と名を変えて営業を引き継いだ。<br /> |-<br /> | rowspan=&quot;2&quot; | {{DDR}} || [[ルフトハンザドイツ航空 (ドイツ民主共和国)|ルフトハンザドイツ航空]] || 戦前から存在していた[[ルフトハンザドイツ航空]]の後継を称していたが、[[西ドイツ]]側の同名企業に裁判で敗れたため、1963年に[[インターフルーク]]が事業を引き継いだ。<br /> |-<br /> | [[インターフルーク]] || 東ドイツが[[ドイツ|ドイツ連邦共和国]]に編入されたため1991年に解散し、乗務員や路線は[[ルフトハンザドイツ航空|ルフトハンザ]]に、機体は[[ドイツ空軍 (ドイツ連邦軍)|ドイツ空軍]]および[[アエロフロート・ロシア航空|アエロフロート]]に引き継がれた。<br /> |-<br /> | {{SVK}} || [[スロバキア航空]] || 民間投資家グループが1995年に設立し1998年運航開始。2005年にオーストリア航空傘下に入ったが2007年に倒産。事業と従業員の一部は[[シーグル・エアー]](スロバキア)が引き継いだものの、同社も2009年に事業停止し倒産。<br /> |-<br /> | {{nowrap|{{USA}}}} || {{nowrap|[[パンアメリカン航空]]}}&lt;ref&gt;著:アンソニー・サンプソン、訳:大谷内一夫『エアライン 世界を変えた航空業界』早川書房 p66、「南米諸国では、パンアメリカンは、アメリカ国務省の付属物であり、アメリカ帝国主義の道具の一つである」の記述あり&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;柴田匡平『ブリティッシュ・エアウェイズの経営 民営化・国際展開とアエロポリティクス1981-2000』中央書院 p62 中華人民共和国が、パンナムを正真正銘のナショナル・フラッグ・キャリアとみなし、台北(台湾)への再乗り入れを抗議した。&lt;/ref&gt;|| アメリカの航空会社で唯一全世界に路線を持ち、[[ボーイング707]]、[[ボーイング747]]をいち早く導入するなど、アメリカの先進性や繁栄の象徴、世界の国際線航空会社の盟主的存在であった。しかし、高コスト体質の改革が進む前に航空自由化が進んだために経営が悪化し、[[1991年]]に倒産した。<br /> |-<br /> | {{BRA}} || {{nowrap|[[ヴァリグ・ブラジル航空]]}} || かつては南米最大級の航空会社、[[スターアライアンス]]の一員であり、ヨーロッパや日本にも就航していたが[[格安航空会社]]の台頭によって[[2005年]]に破産し、格安航空会社の[[ゴル航空]]に買収された。今後もブランド名としては存続する。<br /> |-<br /> | {{PER}} || [[アエロペルー]] || [[1996年]][[10月2日]]に起きた[[アエロペルー603便墜落事故]]の影響で業績が悪化し、1999年に運航停止に追い込まれた。<br /> &lt;!--|-<br /> | {{CAN}} || [[カナダ太平洋航空]] || 経営不振に陥り、[[2000年]]にライバルのエア・カナダに吸収合併された。--&gt;&lt;!--なぜコメントアウト?--&gt;<br /> |-<br /> | {{NGR}} || {{nowrap|[[ナイジェリア航空]]}} || 国営航空会社であったが、[[2003年]]に経営不振で破産した。<br /> |-<br /> | {{SOM}} || {{nowrap|[[ソマリ航空]]}} || [[1990年]]の[[ソマリア内戦]]勃発によって経営が破綻した。<br /> |-<br /> | {{HUN}} || [[マレーヴ・ハンガリー航空]]&lt;ref name=&quot;フラッグ&quot;/&gt;&lt;ref&gt;[http://ja.oneworld.com/enja/ow/member-airlines ワンワールド]&lt;/ref&gt; ||2012年2月に全便の運行を停止したのち[[破産]]した。なお、同社の運行停止後は、[[格安航空会社]]である[[ウィズエアー]]が同国最大規模の航空会社となっている。<br /> |}<br /> <br /> == 脚注 ==<br /> {{Reflist|2}}<br /> <br /> == 関連項目 ==<br /> * [[航空会社の一覧]]<br /> * [[航空会社の年表]]<br /> * [[運輸業|キャリア]]<br /> * [[メガ・キャリア]]<br /> * [[格安航空会社]]<br /> * [[フラッグシップ]]<br /> <br /> {{DEFAULTSORT:ふらつくきやりあ}}<br /> [[Category:海運業]]<br /> [[Category:航空会社]]<br /> [[Category:国の象徴]]<br /> <br /> [[et:Rahvuslike lennukompaniide loend]]<br /> [[fi:Luettelo kansallisista lentoyhtiöistä]]<br /> [[it:Lista di compagnie aeree di bandiera]]</div> 113.37.189.50 熱帯 2018-04-27T13:34:32Z <p>113.37.189.50: /* 分布地域 */</p> <hr /> <div>{{otheruses||劇団|熱帯 (劇団)}}<br /> {{ケッペンの気候区分図}}<br /> [[Image:River gambia Niokolokoba National Park.gif|thumb|right|200px|セネガルの熱帯雨林。]]<br /> [[Image:World map torrid.svg|thumb|200px |right|回帰線で定義される熱帯の範囲。]]<br /> <br /> &#039;&#039;&#039;熱帯&#039;&#039;&#039;(ねったい)とは、[[地球]]上で[[緯度]]が低く年中温暖な地域のことである。緯度による定義、気候区分による定義が存在する。<br /> <br /> 緯度による定義では、赤道を中心に[[北回帰線]](北緯23度26分22秒)と[[南回帰線]](南緯23度26分22秒)に挟まれた帯状の地域を意味する。英語で熱帯を意味するtropicsは、[[回帰線]](tropic)から生まれた言葉である。<br /> <br /> 気候区分による定義は気象学者によって複数存在する。以下では気候区分による定義、それも[[ケッペンの気候区分]]における定義に基づいた内容を紹介する。ケッペンの気候区分における記号は&#039;&#039;&#039;A&#039;&#039;&#039;で、最も低緯度に位置することを示す。<br /> <br /> [[アリソフの気候区分]]では、1936年に発表された「地理的気候帯」の中に熱帯があり、赤道気候(E)・赤道モンスーン気候(E.M.)・貿易風気候(Pass.)の3つに区分される&lt;ref name=&quot;cr&quot;&gt;矢澤(1989):352ページ&lt;/ref&gt;。さらに貿易風気候は海洋性(Pass. m.)と大陸性(Pass. c.)に分割される&lt;ref name=&quot;cr&quot;/&gt;。ただし、現在よく知られている[[1954年]]発表の気候区分には「熱帯」は存在しない。<br /> <br /> == 定義 ==<br /> ケッペンの気候区分においては次のように定義され、以下の2つの条件を満たす必要がある。<br /> * 最寒月の平均気温が18℃以上([[ヤシ]]が生育できること)<br /> * 年平均降水量が[[ケッペンの気候区分#乾燥限界 r (mm/樹木生育に必要な最低降水量)の計算|乾燥限界]]以上<br /> 例えば、平均気温が1年中19℃で、降水量が乾燥限界以上ならば、熱帯に含められる。 <br /> <br /> == 特徴 ==<br /> 両回帰線にはさまれた地域は[[日射量]]が多いため年中温暖となり、それによって[[上昇気流]]が生ずるため[[低気圧]]地帯となる([[熱帯収束帯]]または赤道低圧帯)。この低気圧によって豊富な雨量が得られ、直下には[[熱帯雨林]]が形成される。この熱帯収束帯は季節によって[[太陽]]の通る緯度が変わるため、それにあわせて南北に動く。これによって[[夏]]にのみ熱帯収束帯に入る地域は、[[冬]]に乾期が来る[[サバナ気候]]となる。ただし[[大陸]]東岸では[[モンスーン]]の影響のため乾期が目立たず、[[熱帯モンスーン気候]]と呼ばれる。<br /> <br /> == 分布地域 ==<br /> [[File:Koppen World Map Af Am Aw.png|thumb|350px|熱帯気候の気候区ごとの分布図<br /> {{legend|#0000FE|[[熱帯雨林気候|熱帯雨林気候 (Af)]]}}<br /> {{legend|#0077FF|[[熱帯モンスーン気候|熱帯モンスーン気候 (Am)]]}}<br /> {{legend|#46A9FA|[[サバナ気候|サバナ気候 (Aw)]]}}]]<br /> {{Columns-list|2|<br /> * [[アマゾン川]]流域<br /> * [[カリブ海]]沿岸周辺地域<br /> * [[コンゴ川]]流域を中心とする[[アフリカ大陸]]中部<br /> * [[インド]]<br /> * [[インドシナ半島]]<br /> * [[フィリピン]]<br /> * [[インドネシア]]<br /> * [[オーストラリア]]北部およびその周辺地域<br /> * [[ミクロネシア]]、[[ポリネシア]]および[[メラネシア]]など[[太平洋]]の島々<br /> * [[日本]]<br /> ** [[東京都]]<br /> *** [[南鳥島]]&lt;ref name=&quot;kikohyo&quot;&gt;『日本気候表 全国の平年値一覧(統計期間[[1971年|1971]]~[[2000年]])』気象庁 [[2001年]]&lt;/ref&gt;<br /> *** [[硫黄島 (東京都)|硫黄島]]&lt;ref&gt;中央気象台『中央気象台月報 全国気象表』 [[1940年|1940]]~[[1943年]]の各月、自衛隊による観測記録有&lt;/ref&gt;<br /> ** [[沖縄県]]<br /> *** [[多良間島]]&lt;ref name=&quot;amedas&quot;&gt;地域気象観測(アメダス)平年値表 CD-ROM&lt;/ref&gt;<br /> *** [[石垣島]]&lt;ref name=&quot;kikohyo&quot;/&gt;<br /> *** [[西表島]]&lt;ref name=&quot;kikohyo&quot;/&gt;<br /> *** [[与那国島]]&lt;ref name=&quot;kikohyo&quot;/&gt;<br /> *** [[波照間島]]&lt;ref name=&quot;amedas&quot;/&gt;<br /> *** [[沖大東島]]&lt;ref&gt;中央気象台『中央気象台月報 全国気象表』 [[1919年|1919]]~[[1921年]]、[[1926年|1926]]~[[1928年]]、[[1941年|1941]]~1943年の<br /> 各月&lt;/ref&gt;<br /> *** [[宮古島]]&lt;ref&gt;[http://www.data.jma.go.jp/obd/stats/etrn/view/nml_sfc_ym.php?prec_no=91&amp;block_no=47927&amp;year=&amp;month=&amp;day=&amp;view=#kishouchou 気象庁|月ごとの平年値(宮古島)]&lt;/ref&gt;<br /> *: など。<br /> }}<br /> [[Image:Pajuçara.jpg|thumb|right|200px|ブラジル]]<br /> <br /> [[地球温暖化]]が進めば、熱帯の分布は南北あるいは標高が高い場所に向かって広がると予想される。温帯において、熱帯との境界に近い場所が、[[平年値]]の上昇により温帯から熱帯に変更される可能性がある。例えば、日本の沖縄県宮古島は[[1971年|1971]] - [[2000年]]の平年値では、1月の平均気温が17.7℃、2月が17.8℃とかろうじて温帯に含まれていたが、[[1981年|1981]] - [[2010年]]の平年値ではそれぞれ、18.0℃、18.3℃に上昇したため、定義上は[[熱帯雨林気候]]に変更されたことになる。<br /> <br /> 2016年に発表された[[ナショナル・ジオグラフィック]]誌で紹介された論文によると、熱帯太平洋では[[降水量]]が4倍になる一方で、南北アメリカでは最悪3分の1にまで、またオーストラリア、[[地中海]]、アフリカ南部、[[アマゾン]]の一部では2分の1にまで減少すると予測されており、地球規模での[[熱帯化]]によって気候バランスが崩れていくとしている&lt;ref&gt;http://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/news/16/052500185/?ST=m_news&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> == 気候区 ==<br /> 熱帯気候には3つの気候区が含まれており、気候区の違いは降水量により規定される。<br /> <br /> * &#039;&#039;&#039;[[熱帯雨林気候]]&#039;&#039;&#039; (&#039;&#039;Af&#039;&#039;):&lt;ref name=McKnight&gt;{{cite book | author=McKnight, Tom L; Hess, Darrel | year=2000 | chapter=Climate Zones and Types: The Köppen System | title=Physical Geography: A Landscape Appreciation | pages=205–211 | location=Upper Saddle River, NJ | publisher=Prentice Hall | isbn=0-13-020263-0}}&lt;/ref&gt; 12ヶ月の平均降水量が60mm以上の地域。この気候は通常[[赤道]]から緯度5-10°内に含まれているが、複数の東海岸地域では、赤道から25°離れた地域に分布している。この気候地域には1年を通して[[低気圧]]が{{仮リンク|停滞 (気候)|label=停滞|en|Doldrums}}しているため、自然の四季は存在しない。<br /> * &#039;&#039;&#039;[[熱帯モンスーン気候]]&#039;&#039;&#039; (&#039;&#039;Am&#039;&#039;):&lt;ref name=McKnight/&gt; この気候は[[南アメリカ]]と[[中央アメリカ]]で一般的であり、季節区分は[[モンスーン]]の影響を大きく受けている。この気候は月間最小降水量 (赤道付近の地域では[[冬至]]付近にこの時期が訪れる) が60mm以下であるが、年間平均降水量が100mmの地域である。<br /> * &#039;&#039;&#039;[[サバナ気候]]&#039;&#039;&#039; (&#039;&#039;Aw&#039;&#039;):&lt;ref name=McKnight/&gt; この気候は通常極めて乾燥した地域であり、12ヶ月の月間最小降水量が60mm以下かつ年間平均降水量が100mm以下の地域である。<br /> *このほか、現実にはほとんどみられないが[[熱帯夏季少雨気候|As気候]]もある&lt;ref&gt;[https://kotobank.jp/word/気候区分-677382 気候区分 キコウクブン] [[コトバンク]]、2017年12月10日閲覧&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 気をつけたいのは、緯度による区分で定義された[[熱帯]]に属する多くの場所が熱帯気候では無いということである。例として、[[サハラ砂漠]]がある。[[ケニア山]]は熱帯にあるがその山頂は気温が低い。しかし、熱帯に属する低地では、熱帯の高山地帯に見られるような気温における季節変化はほとんどない。<br /> ※Amのmはモンスーンのmではなくmiddle(ミドル)のmである。<br /> <br /> == 熱帯収束帯 ==<br /> [[File:Omega-500-july-era40-1979.png|thumb|350px|right|7月の[[熱帯収束帯]]。上昇気流 (負の値) [[赤道]]に近い地域に集中しており、下降気流 (正の値) はより広く分布している。]]<br /> {{仮リンク|太陽高度の気候に対する影響|en|effect of sun angle on climate}}のため、熱帯に属するほとんどの地域は1年を通して気温が高く、季節による温度変化よりも1日の気温の変化のほうが大きい。熱帯気候地域における季節の変化は降水量の変化により影響を受けており、特に{{仮リンク|熱帯雨林気候帯|en|tropical rain belt}}や[[熱帯収束帯]] (ITCZ)では大きな影響を受ける。7月平均のITCZは右図のとおりである。上昇気流が発生する地域は降水量が多く、下降気流が発生する地域は乾燥している。ITCZは1年を通して赤道付近に存在するが、インドのいくつかの地域では地域的に発生する大規模[[モンスーン]]に大きな影響を受けている。<br /> <br /> == 脚注 ==<br /> {{脚注ヘルプ}}<br /> {{Reflist}}<br /> <br /> == 参考文献 ==<br /> * [[矢沢大二|矢澤大二]]『気候地域論考―その思潮と展開―』古今書院、1989年11月20日、738pp. ISBN 4-7722-1113-6<br /> <br /> == 関連項目 ==<br /> {{Commonscat|Tropics}}<br /> {{commons category|Tropical climate|熱帯気候}}<br /> * {{仮リンク|熱帯植物|en|Tropical vegetation}}<br /> * [[亜熱帯]]<br /> * [[南日本気候]]<br /> * [[熱帯魚]]<br /> <br /> {{ケッペンの気候区分}}<br /> <br /> {{Climate-stub}}<br /> <br /> {{デフォルトソート:ねつたい}}<br /> [[Category:熱帯地方|*]]<br /> [[Category:気候区分]]<br /> [[Category:気候]]<br /> [[Category:熱帯気象学|*]]<br /> [[Category:大気力学]]</div> 113.37.189.50 モノクロフィルム 2018-04-20T13:38:55Z <p>113.37.189.50: </p> <hr /> <div>[[ファイル:Doris Ulmann - Laborers hands.jpg|thumb|{{仮リンク|ドリス・ウルマン|en|Doris Ulmann}}の『労働者の手』(1925年以前)]]<br /> &#039;&#039;&#039;モノクロフィルム&#039;&#039;&#039;は、光の強弱のみを記録する白黒[[写真]]の[[写真フィルム]]を指す[[和製英語]]で、もっぱらカラー写真のカラーフィルムに対して使われる語である。&#039;&#039;&#039;モノクロ&#039;&#039;&#039;は[[モノクローム]]の略である。&lt;ref name=&quot;モノクロ_デジタル大辞泉&quot;&gt;{{Kotobank|モノクロ|2=デジタル大辞泉}}、2011年12月10日閲覧。&lt;/ref&gt;&lt;ref name=&quot;モノクローム_デジタル大辞泉&quot;&gt;{{Kotobank|モノクローム|2=デジタル大辞泉}}、2011年12月10日閲覧。&lt;/ref&gt;もともとは[[フランス語]]で「単一の色彩で描かれた絵画」である「[[単色画]]」、「{{仮リンク|単彩画|en|Monochrome painting}}」を指す美術用語で、必ずしも白黒を意味しない&lt;ref name=&quot;モノクローム_デジタル大辞泉&quot; /&gt;&lt;ref name=&quot;モノクローム_写真用語&quot;&gt;{{Kotobank|モノクローム|2=カメラマン写真用語辞典}}、2011年12月9日閲覧。&lt;/ref&gt;。白黒写真のことは、英語では &#039;&#039;&#039;&#039;&#039;[[:en:Black_and_white|black-and-white]]&#039;&#039;&#039;&#039;&#039;, フランス語では &#039;&#039;&#039;&#039;&#039;[[:fr:Noir et blanc|noir et blanc]]&#039;&#039;&#039;&#039;&#039; と、たんに「黒と白」を意味する語で呼ぶ&lt;ref name=&quot;モノクローム_写真用語&quot; /&gt;(文化圏により、黒を先とするのが一般的な場合と、白を先とするのが一般的な場合がある。日本では一般的には「白黒」の順だが、英語などからの訳であることを重視する場合などは「黒白」とされることもある)。<br /> <br /> &#039;&#039;&#039;モノクローム写真&#039;&#039;&#039;({{lang-en|&#039;&#039;&#039;Monochrome photography&#039;&#039;&#039;}})は、[[写真]]に撮られた対象物の色彩を記録するのではなく、写真に生成される[[画像]]が単一の[[色相]]をもつもののことである。[[黒色]]と[[白色]]との間の[[灰色]]の[[色調]]を生み出す白黒写真は、すべてモノクローム写真のカテゴリに属する&lt;ref name=&quot;Langford&quot;&gt;Langford, p.160.&lt;/ref&gt;。現行の白黒フィルムは[[#パンクロマチックとオルソクロマチック|パンクロマチックフィルム]]であり、[[可視光線]]のすべてを記録する&lt;ref&gt;Langford, p.157.&lt;/ref&gt;&lt;ref name=&quot;パンクロマチックフィルム_デジタル大辞泉&quot;&gt;{{Kotobank|パンクロマチックフィルム|2=デジタル大辞泉}}、2011年12月10日閲覧。&lt;/ref&gt;。[[#パンクロマチックとオルソクロマチック|オルソクロマチックフィルム]]は、可視光線のうち590[[ナノメートル]]未満の波長を持つ光線を記録する&lt;ref&gt;Langford, p.158.&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> モノクローム写真、とりわけ白黒写真は、カラー写真に比して、微妙かつ現実に対する解釈的な表現であり、リアルさに欠けるものであると考えられている&lt;ref name=&quot;Langford&quot; /&gt;。モノクローム画像(白黒画像)は、対象物を表現として直接差し出すものではなく、現実から抽象されたものであり、灰色の陰影で色彩を表象する。色彩についての情報は含まずに[[明度]]情報のみで示すことをコンピュータ用語では[[グレースケール]]と呼ぶ&lt;ref name=&quot;グレースケール_デジタル大辞泉&quot;&gt;{{Kotobank|グレースケール|2=デジタル大辞泉}}、2011年12月10日閲覧。&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 本項でおもに扱うのは[[モノクロフィルム#現行のパンクロマチックフィルム製品の一覧|現行のパンクロマチックフィルム製品の一覧]]とその解説である。<br /> <br /> == 概要 ==<br /> {{出典の明記|date=2011年12月|section=1}}<br /> 色彩に頼らずに表現するため、題材をシンプルに伝えることができる。現在でも表現手法の一つとして用いられる他、警察など業務用分野でもよく使われている。また、[[現像]]や[[焼き付け]]が比較的容易なことから、これらの処理を個人で行う愛好者も多い。[[1990年代]]後半にレトロな感覚が受け、モノクロフィルムが入った使いきりカメラ([[レンズ付きフィルム]])やAPSフィルム(カラー現像処理に対応したタイプ、[[富士フイルム]]より)も発売されたがすぐにブームは下火になり、現在は写真の急速なデジタル化により販売量が減りつつある。<br /> <br /> 一般にカラーフィルムと比べて保存性や粒子の細かさに優れるとされる。[[ネガフィルム]]が多数であるが、[[白黒リバーサルフィルム|モノクロリバーサルフィルム]]もある。また、カラー写真の[[クロス現像]]のような独特の色あいになったりする現象が無いことから、ネガフィルムをリバーサル現像することもわりと一般的である。<br /> <br /> カラーフィルムでは漂白の過程で銀が取り除かれるのに対して、モノクロフィルムでは銀が画像を形成する。これによってカラーフィルムでは得られない粒子感があり、これもモノクロフィルムが根強く支持される理由の一つといえる。銀粒子による[[キャリエ効果]]があり、プリントの出来を大きく左右する。<br /> <br /> 通常のモノクロフィルムの[[現像]]や[[焼き付け]]はカラーフィルムとは違う薬品や工程が必要なため、ミニラボ機しか設備していない一般の写真店では処理することができず、[[リバーサルフィルム]]の現像と同様大半が取り次ぎ集中現像所で処理されるが、現在はモノクロ現像を行う現像所が減りつつある。このような不便を掛けず手軽にモノクロを楽しむため、カラーネガフィルムと同じ方法(現像液)で現像処理ができるモノクロフィルムもあるが、カラープリントの仕上げをした際には、完全にニュートラルなグレートーンを得るのは困難である。本来比較的簡単に処理できるはずのモノクロフィルムであるが、カラーフィルムが一般化しそれに合わせた設備のみを揃える現像所が増えたために生じた逆転現象である。<br /> <br /> 最近のデジタルラボ機であればモノクロフィルムからカラー用の[[印画紙]]へプリントをすることができる場合もある。<br /> <br /> 現在の[[ポリエステル]]ベースのモノクロフィルムは、環境にかかわらずほとんど劣化しない強い耐久力を持つことから、機械的故障から逃れられないデジタル写真より保存性は上であるとする主張もある。<br /> <br /> どのような波長の光に感光するかでパンクロマチックとオルソクロマチックに大別される。[[写真フィルム#感色性によるもの(主にモノクロフィルム)]]の項も参照されたい。<br /> == パンクロマチックとオルソクロマチック ==<br /> パンクロマチックフィルムは[[可視光線]]のすべてに対して感度を持っている一方、オルソクロマチックは青と緑に限られ、赤に対しては感度を持たない。<br /> <br /> [[ハロゲン化銀]]単体では紫外線や青色光にしか感度をもっておらず、1873年にドイツの科学者、{{仮リンク|ヘルマン・ヴィルヘルム・フォーゲル|en|Hermann_Wilhelm_Vogel}}が、色素を加えることによって感度を緑に、その後黄色・橙色までに広がる&lt;ref name=&quot;ohishi2007&quot;&gt;{{Cite journal|和書|author = 大石恭史|title = カラー銀塩感光材料の技術革新史 第1部 分光増感 (上) 1920 年代まで|year = 2007|publisher = 日本写真学会 |journal = 日本写真学会誌|volume = 70|issue = 5|pages = 296-298|ncid = AN00191766|url = https://www.jstage.jst.go.jp/article/photogrst1964/70/5/70_5_295/_article/-char/ja|accessdate = 2018-01-11}}&lt;/ref&gt;ことを発見するまで、写真用感材は青にしか感度を持っていなかった。[[エリスロシン|赤色3号]]を加えることによってオルソクロマチックフィルムが、シアン誘導体のピナシアノル (ピナクローム)&lt;ref name=&quot;ohishi2007&quot;&gt;&lt;/ref&gt; を加えることによってパンクロマチックフィルムが作れるようになるが、パンクロ感材の実現には、彼の死後すこし経った20世紀初頭まで待たねばならず、1906年になって写真用の感材が商業的に提供されるようになった&lt;ref&gt;{{Cite book |title=The Manual of Photography: Photographic and Digital Imaging |author=Ralph E. Jacobson|author2= Sidney F. Ray|author3=Geoffrey G. Attridge|author4= Norman R. Axford|origiyear=2000||edition=9th|publisher=Focal Press|isbn=978-0-240-51574-8|page=208}}&lt;/ref&gt;。<br /> しかしオルソクロマチックからパンクロマチックへの移行は以下の理由により、徐々にしか起こらなかった。<br /> *オルソクロマチックの2 - 3倍という費用の高さ<br /> *赤色灯を[[セーフライト]]として用いられたオルソクロマチックと違って暗闇で現像を行わなければならない&lt;ref&gt;{{cite journal |author=Geo. F. Greenfield,|date=1912-10|title=Practical Panchromatism in the Studio|url=https://archive.org/stream/wilsonsphotogra05unkngoog#page/n547/mode/2up|journal=Wilson&#039;s Photographic Magazine|volume=49|pages=460-461|doi= |accessdate=2018-01-11}}&lt;/ref&gt; <br /> *黄色や赤への感度を持たせる処理が青や紫に対して以前よりも高い感度を与えてしまい、これの補正するためのレンズのせいで長い感光時間が要求された&lt;ref&gt;&quot;[https://books.google.com/books?id=dSkqAAAAYAAJ&amp;pg=PA518 Photography]&quot;, &#039;&#039;The Encyclopædia Britannica&#039;&#039;, 1911, vol. 21, p. 518.&lt;/ref&gt;&lt;ref name=&quot;ohishi2007&quot;&gt;&lt;/ref&gt;<br /> == 現行のパンクロマチックフィルム製品の一覧 ==<br /> 以下すべて、日本語の「モノクロフィルム」が指すパンクロマチックフィルム(全整色性フィルム)&lt;ref name=&quot;パンクロマチックフィルム_デジタル大辞泉&quot; /&gt;の製品の一覧である。オルソクロマチックフィルムは含まれていない。<br /> === コダック ===<br /> {{出典の明記|date=2011年12月|section=1}}<br /> 白黒フィルムはプロフェッショナル向けのみ。赤外白黒フィルム、カラー現像(C-41)処理タイプも提供している。<br /> <br /> [[2002年]]よりモノクロフィルム(T400CN・現:BW400CNを除く)を製造する新工場への移行(400TMAXは[[1995年]]より新工場に移行)や物理特性(静電気の低減や埃の付着)の改善(HIE・TPは従来のまま)により大部分のフィルムで現像時間の変更が行われ、これに合わせて新旧の判別をしやすくするため、全てのモノクロフィルムのパッケージ(外箱やパトローネ)と名称変更が行われた。ただしプラスX・トライXはその伝統的な商標を継承する意味で箱及びパトローネに「PLUS-X」「TRI-X」の記述がある。<br /> <br /> 同社の「トライX」(TRI-X・現:400TX)は、ISO感度が100のフィルムが主流の時代から50年以上の歴史を誇る国際的に知名度の高いモノクロフィルムで、報道分野や夜間、舞台撮影、[[天体写真|星野写真]]などで多用されてきた。高感度フィルムの代名詞でもあったが、[[2002年]]以降正式の商品名ではなくなった。元々トライXとは(XXX)という意味で、発売当初はISO200であったが、当時のISO100のダブルX(XX)に対してXをひとつ増やし高感度を強調したネーミングである。日本においては、ISO100の[[富士フイルム]]・ネオパンSSと二分する勢力だったが、富士フイルムがトライXを凌駕する粒子密度のPRESTOを投入したことでフジ優位になった。<br /> <br /> これらXシリーズとD-76現像液による処理が、“データ上の”もっともニュートラルなグレートーンと言われている(ただし、コダック推奨の手順で処理するとやや硬調になる)。<br /> <br /> T-MAXは要求される粒子密度の増加(=[[解像度]]の向上)から、非球形粒子を使用した新シリーズとして投入されたが、D-76処理をすると極度の軟調になってしまう欠陥があった。このため専用の現像液「T-MAX Developer」が発売されたが完全な解決には至らず、トライXからの完全移行の失敗(と、日本国内におけるフジ優位)の原因になった。<br /> <br /> 過去において同社のモノクロフィルムは、微粒子のパナトミックXを始め、ポートレート向きのオルソフィルムであったヴェリクローム、さらにレギュラー特性のコマーシャルなど、数多くの個性的なものが存在していた。<br /> <br /> 現在、日本国内では「プロ用商品」とされ、入手は専門店や、いわゆるプロラボのみに限られる(実際には都市部のカメラ系量販店では簡単に購入でき、また富士も同じくプロ用としているが実際には一般流通させている)。<br /> <br /> カッコ内は旧品名<br /> [[ファイル:Kodak Professional Film 400TX.jpg|thumb|100px|400TX(トライX)のパトローネと外箱(両方とも135)]][[ファイル:BW400CN PICT0008.JPG|thumb|100px|BW400CNのパトローネと外箱(両方とも135)]]<br /> *ISO100<br /> **100TMAX(T-MAX100/TMX)<br /> *ISO125<br /> **125PX(プラス-Xパン/PX・プラス-Xパン プロフェッショナル/PXP・販売終了)<br /> *ISO320<br /> **320TXP(トライ-Xパン プロフェッショナル/TXP)<br /> **:中判(220サイズ)、シート(4×5in判、8×10in判)のみ<br /> *ISO400<br /> **400TMAX(T-MAX400/TMY)<br /> **400TX(トライ-Xパン/TX)<br /> **BW400CN(T-MAXプロ T400CN)<br /> **:カラー現像(C-41)処理可能タイプ<br /> *ISO3200<br /> **P3200TMAX(T-MAX3200/TMZ・販売終了)<br /> *赤外写真用<br /> **HIE(ハイスピードインフラレッド・販売終了)<br /> *記録(複写)用<br /> **TP([[テクニカルパン]]・販売終了)<br /> **:コピー用途でISO100相当<br /> **:複写用。コントラストが高く中間調がほとんど出ない。<br /> **:専用の軟調現像液テクニドールを使用すれば超微粒子の通常コントラスト仕上げもできる。ただし、通常コントラスト仕上げにする際はISO20相当で撮影する必要がある。<br /> **:[[水素増感]]により、天体撮影にもよく使われた。<br /> <br /> === 富士フイルム ===<br /> {{出典の明記|date=2011年12月|section=1}}<br /> 富士フイルムでは「黒白フィルム」と呼ぶ。業務用と一般(アマチュア)用は、サイズ(135、120・220、シート)で区別される。<br /> *ネオパン<br /> *:[[ファイル:NP PICT0070.JPG|thumb|100px|ネオパン400 PRESTO のパトローネと外箱(両方とも135)]]<br /> *:[[ファイル:NSP PICT0065.JPG|thumb|100px|ネオパン1600 Super PRESTO のパトローネと外箱(両方とも135)]]<br /> *:白黒フィルムのブランド名。「パン」はパンクロマチック(全色感色性)に由来しているが、オルソ特性のフィルムもある。ISO100の「ネオパンSS」はシリーズの中で広く長く使われている。<br /> *:また、ISO400の「ネオパン400 PRESTO」は[[日本]]国内で最も入手しやすくかつ最も使われていたモノクロフィルムである。当初SS・SSS(ISO200)の純発展型としてネオパン400が投入されたが、トライXに比べ粒子が粗いことが指摘され、改良型の非球形粒子として投入されたものがPRESTOである。この粒子技術をISO100に逆応用した100 PRESTOも発売されていたが、後に現行製品のACROSに取って代わられている。PRESTOは同様の技術を採用しながらT-MAXと異なり旧来のネオパンシリーズとほぼ同等の発色特性を示した。<br /> *:標準的な仕上げではニュートラルなグレートーンより軟調寄りになる。<br /> *:かつてはネオパンF(ISO32)、ネオパンS(ISO50。ネオパンSSはSの倍の感度と言う意味)、ネオパンSSS(ISO200)等、充実したラインアップを持っていたが、近年の銀塩フイルム衰退と、ネオパンACROSの投入により旧式低感度フイルムの優位がなくなったことから、多くの製品が生産終了になった。<br /> **ISO100<br /> ***ネオパン100 ACROS<br /> ***ネオパンSS(出荷終了)<br /> **ISO400<br /> ***ネオパン400 PRESTO(出荷終了)&lt;ref&gt;[http://ffis.fujifilm.co.jp/information/articlein_0032.html 135サイズ「ネオパン400PRESTO」および120サイズ「フジカラーPRO400」販売終了のご案内]富士フイルムイメージングシステムズ株式会社、2014年3月6日閲覧。&lt;/ref&gt;<br /> **ISO1600<br /> ***ネオパン1600 SuperPRESTO (出荷終了)<br /> **ISO20(オルソクロマチック)<br /> ***ネオパン ORTHO<br /> ***:シート(4×5)のみ<br /> *ミニコピーフィルムHRII(出荷終了)<br /> *:コピー用途でISO32相当<br /> *:複写用。コントラストが高く中間調がほとんど出ない。<br /> *:POTA現像液を使用すれば超微粒子の通常コントラスト仕上げもできる。ただし、通常コントラスト仕上げにする際はISO6相当で撮影する必要があり、また露出決定がシビアになる。<br /> <br /> === コニカミノルタ ===<br /> コニカミノルタパン(旧コニパン)はパンクロマチック特性の商品を製造していたが、コニカミノルタの写真事業の終了と共に製造中止となった。また、かつてはカラー現像(C-41)処理タイプの「モノクロームセピア調(ISO400)」も発売していた。<br /> *ISO100<br /> **PAN100<br /> *ISO400<br /> **PAN400<br /> *INFRARED750<br /> *:旧「さくら赤外フィルム」以来、長い歴史をもつモノクロの[[赤外線フィルム]]。<br /> <br /> === アグフア ===<br /> コダック同様、モノクロフィルムはプロフェッショナル用の扱いのみ。現在、日本では正規販売されておらず、一部の販売店が個別に輸入した品が流通している。大手欧米メーカーでは唯一、35mm写真用モノクロリバーサルフィルムをカタログに載せていた(2005年生産中止)。<br /> *ISO100<br /> **Agfapan APX100<br /> *ISO400<br /> **Agfapan APX400<br /> *ISO200<br /> **Scala 200<br /> **:パンクロマチックモノクロリバーサルフィルム。<br /> <br /> *以下は2013年2月現在、株式会社パワーショベルより日本国内向けにAGFA PHOTOブランドで販売されているフィルムである。なお、フィルムの製造はドイツにてAGFAブランドで製品を展開しているLupus Imaging &amp; Media社である。詳しくはパワーショベルのAGFAフィルム製品ページを参照。http://www.superheadz.com/agfa/<br /> *APXシリーズ<br /> **35mmサイズでISO100、ISO400のみ。両方とも36枚撮りのみで希望小売価格は630円である。<br /> :なおAPXシリーズは現在、ほかのAGFAブランドのフィルム同様、トイカメラ向きに販売されている。<br /> <br /> === イルフォード ===<br /> [[イルフォード (写真)|イルフォード]]は英国のメーカー(現社名はHarman Technology、ILFORD Photoブランドを継承)。事実上モノクロ写真材料専業(同ブランドのカラーネガフィルムも少数流通するがOEM品)。<br /> 日本ではこれまで[[中外写真薬品]]が総代理店として取り扱っていたが、[[2008年]][[4月]]より[[サイバーグラフィックス]]が国内総代理店に変わる[http://www.ilfordphoto.jp/press/press20080301.pdf]。また35mm長巻き(30.5m)や4&quot;x5&quot;など一部のフィルムにラインナップが追加された。<br /> <br /> *ISO50<br /> **PAN F プラス<br /> *ISO100<br /> **DELTA100 プロフェッショナル<br /> **Pan100<br /> *ISO125<br /> **FP4 プラス<br /> *ISO200<br /> **SFX200<br /> **:740nmまでの赤外感光性(Max720nm)を併せ持ち濃赤フィルター使用で擬似赤外効果が得られる<br /> *ISO400<br /> **HP5 プラス<br /> **DELTA400 プロフェッショナル<br /> **Pan400<br /> **XP2 Super<br /> **:カラーネガフィルム現像(C-41)処理可能タイプ<br /> *ISO3200<br /> **DELTA3200 プロフェッショナル<br /> <br /> === フォマ ===<br /> [[フォマ・ボヘミア]]([[チェコ]])は白黒感光材料を主体に生産を続けている。フォマはその商標である。<br /> *ISO100<br /> **fomapan 100<br /> *ISO200<br /> **fomapan 200<br /> *ISO400<br /> **fomapan 400<br /> *ISO100<br /> **FOMAPAN R100 (白黒リバーサル)<br /> <br /> === フォトケミカ ===<br /> [[フォトケミカ]](Fotokemika, [[クロアチア]])は白黒感光材料を主体に生産を行っていた。127サイズの白黒や赤外線フィルムも製造していたが、2013年8月に印画紙の乳剤塗布設備が老朽化により修理不能&lt;ref&gt;[http://efke.exblog.jp/18295759/ コーティング設備の老朽化から生産に支障をきたし製造中止を発表]、efke日本代理店かわうそ商店、2014年3月6日閲覧。&lt;/ref&gt;となり、それに伴って印画紙とフィルムの生産を終了した。<br /> *ISO25<br /> **efke KB 25<br /> *ISO50<br /> **efke KB 50<br /> *ISO100<br /> **efke KB 100<br /> **efke IR 820 (赤外線フィルム)<br /> **efke IR 820 AURA (赤外線フィルム)<br /> <br /> === マコ ===<br /> [[マコ (ドイツの企業)|マコ]]([[ドイツ]])は白黒感光材料を主体に現在は有名カメラの「[[ローライ]]」ブランドの名前を付け生産を続けている。127サイズの白黒や赤外線フィルムなど個性的なフィルムも製造している。<br /> <br /> *ISO25<br /> **Rollei PAN 25<br /> **Rollei ORTHO 25<br /> **Rollei ATO 2.1 Supergraphic<br /> *ISO32<br /> **Rollei Advanced Technical Pan 1.1<br /> *ISO80<br /> **Rollei RETRO 80S<br /> *ISO100<br /> **Rollei Retro 100<br /> **Rollei Retro 100 TONAL<br /> *ISO200<br /> **Rollei Superpan 200<br /> *ISO400<br /> **Rollei RETRO R3<br /> **Rollei RETRO 400<br /> **Rollei RETRO 400S<br /> **Rollei INFRARED (赤外線フィルム)<br /> <br /> == 脚注 ==<br /> {{Reflist}}<br /> <br /> == 参考文献 ==<br /> * {{Cite book<br /> | last = Langford<br /> | first = Michael<br /> | title = Basic Photography<br /> | place = Oxford<br /> | publisher = [[:en:Focal Press|Focal Press]]<br /> | year = 2000<br /> | edition = 7th<br /> | isbn = 0240515927}}<br /> * [[増田賢一]]・[[村林孝夫]]『モノクロ入門 白黒フィルムの撮影と暗室ワーク39の技法 』、[[学習研究社]]、1998年7月、ISBN 4056019339<br /> <br /> == 関連項目 ==<br /> * [[モノクローム]]<br /> * [[写真フィルム]]<br /> * [[グレースケール]]<br /> * {{仮リンク|白黒写真|en|Black_and_white}}<br /> * [[単色画]]({{仮リンク|単彩画|en|Monochrome painting}})<br /> <br /> == 外部リンク ==<br /> * [http://www.guidetofilmphotography.com/black-and-white-film.html Black and White Film] {{en icon}}<br /> <br /> {{写真}}<br /> <br /> {{デフォルトソート:ものくろふいるむ}}<br /> [[Category:写真フィルム]]<br /> [[Category:暗室]]<br /> [[Category:和製英語]]</div> 113.37.189.50 ロンドンデリー 2018-03-13T04:49:54Z <p>113.37.189.50: /* 市名 */</p> <hr /> <div>{{For|同名の場所など|デリー (曖昧さ回避)|ロンドンデリー (曖昧さ回避)}}<br /> {{翻訳直後|1=[https://en.wikipedia.org/w/index.php?title=Derry&amp;oldid=655621625 英語版02:45, 9 April 2015(UTC)]|date=2015年4月}}<br /> {{Infobox UK place<br /> | official_janame = デリー / ロンドンデリー<br /> | official_name = Derry / Londonderry<br /> | irish_name = Doire / Doire Cholmcille<br /> | scots_name = Derrie / Lunnonderrie<br /> | local_name = メイデン・シティ(Maiden City)<br /> | static_image_name = DerryMontage3.JPG<br /> | static_image_caption = 上段から左、右の順に:オースティン百貨店、デリー城壁、{{仮リンク|フリー・デリー・コーナー|en|Free Derry Corner}}、{{仮リンク|フォイル川|en|River Foyle}}に架かる{{仮リンク|ピース橋 (フォイル)|en|Peace Bridge (Foyle)|label=ピース橋}}、ロンドンデリーの夜景、{{仮リンク|ダイアモンド戦没者慰霊碑|en|Diamond War Memorial}}、ハンズ・アクロス・ザ・ディバイド(Hands Across the Divide)像<br /> | static_image_2 = [[File:Coat of arms of Derry.png|150px]]<br /> | static_image_2_caption = Vita Veritas Victoria&lt;br /&gt;&quot;生命、真実、勝利&quot;&lt;br/&gt;({{仮リンク|クレイガヴォン橋|en|Craigavon Bridge}}にある勲章から採られた)<br /> | latitude = 54.9958<br /> | longitude = -7.3074<br /> | label_position = none<br /> | belfast_distance =<br /> | population =<br /> | population_ref = ロンドンデリー&lt;br /&gt;85,016&amp;nbsp;&lt;br /&gt;{{仮リンク|デリー都市地域|en|Derry Urban Area|label=都市地域}}&lt;br /&gt; 93,512&amp;nbsp;&lt;br /&gt;[[都市圏]]&lt;br /&gt;237,000&amp;nbsp;&lt;br /&gt;[https://web.archive.org/web/20160305033056/http://www.nisra.gov.uk/archive/demography/population/small_area/SAPE_Settlement_08.xls 2008 est.]<br /> | irish_grid_reference = C434166<br /> | unitary_northern_ireland = {{仮リンク|デリー区|en|Derry City Council|label=デリー市}}<br /> | country = 北アイルランド<br /> | post_town = LONDONDERRY&lt;ref&gt;{{citation|url=http://www.evoxfacilities.co.uk/evoxptn.html|title=PostTowns by UK Postcode Area: 2007 information|publisher=Evox Facilities|year=2007|accessdate=28 August 2008|archiveurl=https://web.archive.org/web/20080404200000/http://www.evoxfacilities.co.uk/evoxptn.html|archivedate=2008-04-04}}&lt;/ref&gt;<br /> | postcode_area = BT<br /> | postcode_district = BT47&lt;br&gt;BT48<br /> | dial_code = 028&lt;!-- Yes, that&#039;s right. Just 028. [http://www.ofcom.org.uk/consumer/2009/09/telephone-area-codes-tool/] [http://www.ofcom.org.uk/static/archive/oftel/publications/1999/consumer/qanum999.htm] [[UK telephone code misconceptions]] --&gt;<br /> | constituency_westminster = {{仮リンク|フォイル (イギリス議会選挙区)|en|Foyle (UK Parliament constituency)|label=フォイル}}<br /> | constituency_ni_assembly = {{仮リンク|フォイル (議会選挙区)|en|Foyle (Assembly constituency)|label=フォイル}}<br /> | lieutenancy_northern_ireland = [[ロンドンデリー州]]<br /> | website = [http://www.derrycity.gov.uk/ www.derrycity.gov.uk]<br /> }}<br /> &#039;&#039;&#039;デリー&#039;&#039;&#039; ({{lang-en|Derry}}、{{IPAc-en|ˈ|d|ɛ|r|ɪ}}&lt;ref name=&quot;Collins&quot;&gt;{{citation|url=http://www.collinsdictionary.com/dictionary/english/derry?showCookiePolicy=true|title=Derry|accessdate=24 September 2014|publisher=Collins Dictionary|date=n.d.}}&lt;/ref&gt;)、公式には&#039;&#039;&#039;ロンドンデリー&#039;&#039;&#039; ({{lang-en|Londonderry}}、{{IPAc-en|ˈ|l|ʌ|n|d|ə|n|ˌ|d|ɛ|r|ɪ}}&lt;ref name=&quot;Collins&quot;/&gt;)とは[[北アイルランド]]で2番目に大きい{{仮リンク|イギリスの都市|en|City status in the United Kingdom|label=都市}}かつ&lt;ref&gt;{{citation|url=http://www.bbc.co.uk/breathingplaces/cities/lderry/|title=Derry/Londonderry|publisher=BBC|accessdate=28 August 2008|archiveurl=https://web.archive.org/web/20071021082303/http://www.bbc.co.uk/breathingplaces/cities/lderry/|archivedate=2007-10-21}}&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;{{citation|url=http://www.ofcom.org.uk/research/cm/cm07/nireland/ni2.pdf|title=The Communications Market 2007|page=14|publisher=Ofcom|format=PDF|accessdate=28 August 2008|archiveurl=https://web.archive.org/web/20080626114418/http://www.ofcom.org.uk/research/cm/cm07/nireland/ni2.pdf|archivedate=2008年6月26日|deadlinkdate=2017年9月}}&lt;/ref&gt;、アイルランド島において4番目に大きい都市でもある&lt;ref&gt;[https://web.archive.org/web/20071224093119/http://www2.derrycity.gov.uk/economicdevelopment/business.asp DERRY REGIONAL CITY – Business Investment]. Retrieved 1 November 2008.&lt;/ref&gt;。デリーと言う名は「オークの森」を意味するアイルランド語の「Daire」もしくは「Doire」を{{仮リンク|英語化|en|Anglicisation}}したものである&lt;ref&gt;[http://www.libraryireland.com/sketches/toc.php Library Ireland] – Sketches of Olden Days in Northern Ireland&lt;/ref&gt;&lt;ref name=&quot;Mills2003&quot;&gt;{{cite book|author=Anthony David Mills|title=A Dictionary of British Place-Names|url=http://books.google.com/books?id=br8xcW1f_a8C&amp;pg=PT430|accessdate=27 June 2012|date=6 November 2003|publisher=Oxford University Press|isbn=978-0-19-852758-9|pages=430–}}&lt;/ref&gt;。1613年、[[ジェームズ1世 (イングランド王)|ジェームズ1世]]の勅許状により都市になることが承認され、デリーの前に「ロンドン」を付ける形で市名がロンドンデリーに変更された。デリーという都市名がより一般的に知られているが&lt;ref name=&quot;BerkmoesBerry2009&quot;&gt;{{cite book|author1=Ryan Ver Berkmoes&lt;!-- |author2=Oliver Berry --&gt;|author3=Geert Cole|author2=David Else|title=Western Europe|url=http://books.google.com/books?id=0jpUlPrDRFoC&amp;pg=PA704|accessdate=30 May 2011|date=1 September 2009|publisher=Lonely Planet|isbn=978-1-74104-917-6|page=704}}&lt;/ref&gt;&lt;ref name=&quot;Name DJ&quot;/&gt;、ロンドンデリーという都市名も一般的に使用されていて、法的名称として残っている。<br /> <br /> フォイル川西川岸にある古い[[城壁|城壁都市]]は2つの道路橋と1つの歩道橋が架かっているが、現在両川岸とも市内(西の「シティサイド」と東の「{{仮リンク|ウォーターサイド (デリー)|en|Waterside, Derry|label=ウォーターサイド}}」)に入っている。また都市区域は南東の農村部にも及んでいる。デリー区が管轄していて、{{仮リンク|ロンドンデリー港|en|Londonderry Port}}と{{仮リンク|デリー市空港|en|City of Derry Airport}}を抱えている。<br /> <br /> 市から約30km圏内にの大デリー地域の人口は23万7000人である&lt;ref&gt;[https://web.archive.org/web/20090303222243/http://www.qub.ac.uk/cibr/WPpdffiles/MFWPpdf/w14_ac.pdf]&lt;/ref&gt;。この地域はデリー・シティと{{仮リンク|リマヴァディ区|en|Limavady Borough Council}}と{{仮リンク|ストラバン区|en|Strabane District Council}}の一部、[[ドニゴール州]]東部({{仮リンク|ラフォー|en|Raphoe}}と{{仮リンク|セント・ジョンストン|en|St Johnston}}を含む)や{{仮リンク|イニショウエン|en|Inishowen}}で構成されている&lt;ref&gt;{{citation|url=http://www.discovernorthernireland.com/Greater-Derry-Interactive-Map-A1606|title=Greater Derry Interactive Map|publisher=Discovernorthernireland.com |accessdate=20 June 2010}}&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> また、[[ドニゴール州]]と{{仮リンク|アイルランド共和国とイギリスの国境|en|Republic of Ireland–United Kingdom border|label=国境}}で接していて、多世紀に渡って親密な関係となっている。デリーの創設者は伝統的に[[コルンバ|コルムシル]]という聖人と見なされていて、コルムシルは{{仮リンク|ティアコネル|en|Tyrconnell}}からやってきた聖者で、ティアコネルは現在のドニゴール州のほぼ全ての地域(1610年以前はフォイル川西岸も一部だった&lt;ref&gt;Brian Lacy (Editor), &#039;&#039;Archaeological Survey of County Donegal&#039;&#039;, p. 1. [[Donegal County Council]], [[Lifford]], 1983.&lt;/ref&gt;)の古名である。<br /> <br /> 2013年、ロンドンデリーは2010年7月に{{仮リンク|イギリス文化都市|en|UK City of Culture}}に選出された&lt;ref name=&quot;Derry wins City of Culture&quot;&gt;{{cite news|url=http://www.bbc.co.uk/news/entertainment-arts-10653989|title=Londonderry named the UK City of Culture|last=BBC News|first=|publisher=BBC News|accessdate=15 July 2010 | date=15 July 2010}}&lt;/ref&gt;&lt;ref name=&quot;DCS - UK City of Culture&quot;&gt;{{citation|url=http://webarchive.nationalarchives.gov.uk/+/http://www.culture.gov.uk/reference_library/media_releases/6256.aspx|title=The race is on to find UK&#039;s first &#039;City of Culture&#039; for 2013|last=Palmer|first=Robert|publisher=The National Archives|accessdate=15 July 2010}}&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> ==市名==<br /> {{Main|デリー/ロンドンデリー名称論争}}<br /> [[File:Vandalised road-sign Londonderry P3010060.jpg|thumb|right|北アイルランドにある、「London(ロンドン)」の部分が塗りつぶされた道路標識]]<br /> [[File:Derry Stranorlar N13 roadsign cropped.JPG|thumb|right|[[アイルランド|アイルランド共和国]]ドニゴール州にある、英語の「Derry(デリー)」とアイルランド語の「Doire(ディリャ)」表記の道路標識]]<br /> 1662年4月10日に発行された市の{{仮リンク|勅許状|en|Royal Charter}}によれば正式な都市名は「ロンドンデリー(Londonderry)」であり、デリー市議会が市名を変更するための手続きに関する指針を求めたことに対し、2007年1月に高等裁判所がこの勅許状を再確認する形で退けた&lt;ref&gt;{{citation|url=http://www.bailii.org/cgi-bin/markup.cgi?doc=/nie/cases/NIHC/QB/2007/5.html&amp;query=title+(+Derry+)&amp;method=boolean|title=Derry City Council, Re Application for Judicial Review [2007] NIQB 5 |date=25 January 2007|publisher=Derry City Council|accessdate=28 August 2008}}&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;{{cite news|url=http://news.bbc.co.uk/1/hi/northern_ireland/6297907.stm|title=Stroke City to remain Londonderry |date=25 January 2007|publisher=BBC|accessdate=28 August 2008}}&lt;/ref&gt;。しかし、議会は1984年に名称をロンドンデリー市議会からデリー市議会に変更しており&lt;ref&gt;{{cite news| url=http://news.bbc.co.uk/1/hi/northern_ireland/6213890.stm | work=BBC News | title=City name row lands in High Court | date=6 December 2006 | accessdate=1 May 2010}}&lt;/ref&gt;、この裁判はこの名称変更で市名までも変更することが可能かどうか明確に求めるものだった。裁判所の決定はそれが明確とはしなかったが枢密院へ市名変更の請願は正しい手順だったことを明確化した&lt;ref&gt;{{citation|url=http://www.derrycity.gov.uk/Press%20Releases/250107-name.htm |title=Derry City Council – High Court Provides Clarification on City&#039;s Name |publisher=Derrycity.gov.uk |date=25 January 2007 |accessdate=20 June 2010|archiveurl=https://web.archive.org/web/20071224093434/http://www.derrycity.gov.uk/Press%20Releases/250107-name.htm|archivedate=2007-12-24}}&lt;/ref&gt;。デリー市議会はその後この手順を開始し、平等性インパクト評価レポート(EQIA)の実施を伴った&lt;ref&gt;[https://web.archive.org/web/*/http://www.derrycity.gov.uk/equality-current.htm Equality Impact Assessments] Derry City Council website&lt;/ref&gt;。2009年に、市内在住者への最初のアンケートを取ったが、市名変更に賛成なのはカトリック教徒の75%、ナショナリストの77%だったが、プロテスタントは6%、ユニオニストは8%に過ぎなかった&lt;ref&gt;Draft EQIA, Appendix pp.91–2&lt;/ref&gt;。その後EQIAでは、諮問公開討論会を2回開催し、市名をデリーに変更すべきか否かに関する意見を一般市民から募集したが&lt;ref name=&quot;TCR&quot;/&gt;、総数12,136件のうち、3,108件は概して賛成だったものの、9,028件は反対意見だった&lt;ref name=&quot;TCR&quot;&gt;{{citation |url=http://www.derrycity.gov.uk/Agenda/downloads/special/tcr.doc |title=Report of Town Clerk and Chief Executive to Special Council Meeting |last=McMahon |first=Damien |date=26 February 2010 |accessdate=1 May 2010 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20070710022228/http://derrycity.gov.uk/Agenda/downloads/special/tcr.doc |archivedate=2007年7月10日 |deadlinkdate=2017年9月 }}&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 公式市名に反して、簡素なデリーの方がより一般的に知られているが&lt;ref name=&quot;BerkmoesBerry2009&quot;/&gt;&lt;ref name=&quot;Name DJ&quot;&gt;{{cite news|url=http://www.derryjournal.com/editorial/What39s-in-a-name-.5699397.jp|title=What&#039;s in a name?|date=2 October 2009|work=[[Derry Journal]]|accessdate=1 December 2009}}&lt;/ref&gt;、デリーはアイルランド語で[[カシ]]の森/カシの木を意味する「Daire」や「Doire」を英語化した言葉で、この言葉は現在のこの都市に位置している場所の最も古い名称である「ディレ・カルガフ(Daire Calgaich)」(カルガフのカシ森)が由来となっている&lt;ref&gt;{{citation|url=http://www.bbc.co.uk/northernireland/irish/blas/education/beginnersblas/3derry.shtml|title=Education/Oideachas|publisher=BBC|accessdate=14 July 2007}}&lt;/ref&gt;。市名がデリーから変更されたのは{{仮リンク|アルスター植民|en|Plantation of Ulster}}の間である1613年でロンドンのギルドによる市の設立を反映したものだった&lt;ref&gt;{{citation|url=http://www.collectbritain.co.uk/dlo.cfm/19thphotobooks/006ZZZ001782A19U00012000.htm|title=Londonderry|last=Hudson|first=John|publisher=The British Library|accessdate=29 September 2007}}&lt;/ref&gt;&lt;ref name=&quot;Curl&quot;&gt;{{citation|url=http://www.bbc.co.uk/history/british/plantation/companies/londoncompanies_full.rtf|title=The City of London and the Plantation of Ulster|last=Curl|first=James Stevens|year=2001|publisher=BBCi History Online|accessdate=10 August 2008}}&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> デリーという名称は{{仮リンク|アイルランド・ナショナリズム|en|Irish nationalism|label=ナショナリスト}}が好んでいて、北アイルランド&lt;ref name= CainName&gt;{{citation|url=http://cain.ulst.ac.uk/issues/segregat/temple/discus1.htm|title=Aspects of Sectarian Division in Derry Londonderry&amp;nbsp;&amp;nbsp;– First public discussion: The Name Of this City?|accessdate=15 June 2008}}&lt;/ref&gt;やアイルランド共和国のカトリック教徒の間で幅広く使われていて、逆に{{仮リンク|ユニオニズム (アイルランド)|en|Unionists (Ireland)|label=ユニオニスト}}の間ではロンドンデリーという名称が好まれるが&lt;ref name=&quot;Kuusisto-Arponen&quot;&gt;{{cite journal|doi=10.1111/j.0435-3684.2001.00100.x|last=Kuusisto-Arponen|first=Anna-Kaisa|year=2001|title=The end of violence and introduction of &#039;real&#039; politics: Tensions in peaceful Northern Ireland|journal=Geografiska Annaler: Series B, Human Geography|volume=83|issue=3|pages=121–130|jstor=491073|publisher=Blackwell Publishing}}&lt;/ref&gt;&lt;ref name=&quot;LP&quot;&gt;{{cite book|last=Davenport|first=Fionn|author2=Beech, Charlotte |author3=Downs, Tom |author4=Hannigan, Des |author5=Parnell, Fran |author6= Wilson, Neil |title=Ireland|publisher=Lonely Planet|location=London|year=2006|edition=7th|page=625|url=http://books.google.com/?id=OKDE6knNUSQC&amp;pg=PA625&amp;vq=Derry&amp;dq=Derry+name+republic | isbn=978-1-74059-968-9}}&lt;/ref&gt;、日常会話では市内に住むほとんどのプロテスタント教徒はデリーと言っている&lt;ref&gt;&#039;&#039;War zone language: linguistic aspects of the conflict in Northern Ireland&#039;&#039; by Cordula Hawes-Bilger (ISBN 978-3-7720-8200-9), page 100&lt;/ref&gt;。一方、市政府の決定により、イギリス国内での公式使用は通常&lt;ref name=CainName/&gt;ロンドンデリーとなっているが、アイルランド共和国の都市や州のほとんどでは地図もメディアでも会話でも常にデリーを使っている&lt;ref&gt;{{citation|url=http://www.irishrail.ie/images/maps/intercity_map.gif|title=Irish Rail network showing &#039;Derry&#039;|accessdate=29 July 2009|publisher=[[Iarnród Éireann]]|archiveurl=https://web.archive.org/web/20081118043852/http://www.irishrail.ie//images/maps/intercity_map.gif|archivedate=2008-11-18}}&lt;/ref&gt;。2009年4月、アイルランド共和国外務大臣の{{仮リンク|マイケル・マーティン|en|Micheál Martin}}はロンドンデリー出身者でアイルランドのパスポートを所持している場合ロンドンデリーとデリーの両方を選べるようにすると発表した&lt;ref&gt;Derry-born can choose city&#039;s name on passport. Available: http://www.irishtimes.com/newspaper/ireland/2009/0409/1224244287427.html&lt;/ref&gt;。アイルランド共和国での公式道路標識はデリー表記だが、北アイルランドではロンドンデリー(「L&#039;Derry」と略している場合もある)表記であるものの、「ロンドン」の部分を読めなくする破壊行為が行われることがある&lt;ref name=&quot;LP&quot;/&gt;。組織団体によっても表記が分かれており併記する例もある。例としてシティ・オブ・デリー空港、[[デリー・シティFC]]、プロテスタントの{{仮リンク|デリー徒弟少年団|en|Apprentice Boys of Derry}}といったデリー呼称、対してロンドンデリー港、ロンドンデリーYMCAラグビークラブ、ロンドンデリー・チャンバー・オブ・コマースとロンドンデリーと称する場合もある&lt;ref&gt;{{citation|url=http://www.londonderrychamber.co.uk/ |title=Londonderry Chamber of Commerce |publisher=Londonderrychamber.co.uk |accessdate=20 June 2010}}&lt;/ref&gt;。市内のほとんどの企業はペニーバーン、ローズマウントといったローカル地域名やフォイル川由来のフォイルを社名で使用することで他のコミュニティからの反発を避けている。{{仮リンク|ロンドンデリー駅|en|Londonderry railway station}}は市内ではウォーターサイド駅と呼ばれる事が多いが、他駅ではデリー/ロンドンデリーと呼称されている。1984年5月7日に市議会は市が含まれる行政区を変更した時に、これにより市議会名もデリー市議会に変更された&lt;ref&gt;Change of District Name (Derry) Order 1984&lt;/ref&gt;。市は地区と隣接しているが市名は変更せず、市議会も法的に「コーポレーション・オブ・ロンドンデリー(Corporation of Londonderry)」、より正式的に「メイヤー、アルダーマン・アンド・シチズン・オブ・ザ・シティ・オブ・ロンドンデリー(Mayor, Aldermen and Citizens of the City of Londonderry)」となっている&lt;ref&gt;Sections 7, 8 and 132 of the Local Government Act (Northern Ireland) 1972 (Eliz II 20 &amp; 21 c.9)&lt;/ref&gt;。[[ロイヤルメール]]の{{仮リンク|ポスト・タウン|en|Post town}}ではロンドンデリー表記だが、デリー表記でも配達は可能である。<br /> <br /> また市の別名として「メイデン・シティ(the Maiden City)」があるが、これは1688-89年にあった最も有名な{{仮リンク|デリー包囲戦|en|Siege of Derry}}など17世紀に3度も包囲されたのにもかかわらず持ちこたえた歴史的事実に基づく&lt;ref name=&quot;Maiden&quot;&gt;{{citation|url=http://www.discovernorthernireland.com/article.aspx?ArticleID=1588|title=The Walled City Experience|publisher=Northern Ireland Tourist Board|accessdate=4 September 2008|archiveurl=https://web.archive.org/web/20080420182750/http://www.discovernorthernireland.com/article.aspx?ArticleID=1588|archivedate=2008年4月20日|deadlinkdate=2017年9月}}&lt;/ref&gt;。さらに地元の放送司会者である{{仮リンク|ゲリー・アンダーソン (司会者)|en|Gerry Anderson (broadcaster)|label=ゲリー・アンダーソン}}は「[[スラッシュ (記号)|ストローク]]・シティ」と名づけたがデリー/ロンドンデリーという「政治的に理にかなった」スラッシュ表記を風刺したものである&lt;ref name=CainName/&gt;(自身が出演していた{{仮リンク|英国放送協会のテレビ放送|en|BBC Television|label=BBCテレビ}}で使用していた&lt;ref&gt;&#039;&#039;The One Show&#039;&#039;, BBC1, 15 July 2010&lt;/ref&gt;)。最近では市内へ主要道路を走るドライバーを迎えるいくつかの大きな石柱がそびえ立つ風景を風刺的に「ウォールド・シティ(the walled city)」と呼ばれることもある。<br /> <br /> デリーという呼称はアイルランドでは非常に多く使われており、少なくとも6の町と79の地点で使用されているだけでなく、デリーベグ、デリーボーイ、デリーレア、デリーモアと地名の一部で使われることも多い。<br /> <br /> さらに、デリーとロンドンデリーの使用はアイルランドにとどまらず、[[アメリカ合衆国]][[ニューハンプシャー州]]では[[デリー (ニューハンプシャー州)|デリー]]という町があるが西に[[ロンドンデリー (ニューハンプシャー州)|ロンドンデリー]]という町が隣接している。ロンドンデリーは他にイングランドの[[ヨークシャー]]、アメリカ合衆国[[バーモント州]]、カナダの[[ノバスコシア州]]、オーストラリアの北部と東部に存在する。チリでも[[ティエラ・デル・フエゴ]]に{{仮リンク|ロンドンデリー島|en|Londonderry Island}}がある。<br /> <br /> スティーブン・キングの小説にアメリカ合衆国メーン州にある架空の町として{{仮リンク|デリー (スティーブン・キング)|en|Derry (Stephen King)|label=デリー}}が登場する&lt;ref&gt;{{citation|url=http://www.stephenking.com/images/map_of_maine.jpg |title=Stephen King&#039;s Map of Maine |accessdate=13 May 2012}}&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> ==城壁==<br /> [[File:Cannon on Derry City Walls SMC 2007.jpg|thumb|right|ロンドンデリーにある城壁の一部]]<br /> [[File:Bishops Street Gate Derry SMC 2007.jpg|thumb|right|ビショップ・ストリート・ゲート]]<br /> ロンドンデリーはアイルランドで唯一城壁が完全に残っている都市であり、ヨーロッパでも最も良好な城壁都市とされる&lt;ref&gt;{{citation|url=http://www.brilliantireland.com/products/inc_productdetails.cfm/product_key/46 |title=Web Development Belfast &amp;#124; Web solutions Ireland &amp;#124; Biznet IIS Northern Ireland |publisher=Brilliantireland.com |accessdate=20 June 2010|archiveurl=https://web.archive.org/web/20080821103657/http://www.brilliantireland.com//products/inc_productdetails.cfm/product_key/46|archivedate=2008-08-21}}&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;{{citation|url=http://www.irelandwide.com/regional/ulster/county_derry/index.htm |title=County Derry, Northern Ireland – Londonderry |publisher=Irelandwide.com |accessdate=20 June 2010}}&lt;/ref&gt;。州最大かつ北アイルランドで保護されているモニュメントとなっていて、ヨーロッパで最後に建設された城壁都市として最も完全かつ壮大にそびえ立っている&lt;ref&gt;{{citation|url=http://www.ni-environment.gov.uk/derry-lowres.pdf|title=Derry City Walls Conservation Plan. pdf doc. p19}}{{リンク切れ|date=2017年9月 |bot=InternetArchiveBot }}&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 城壁は17世紀初期にイングランドやスコットランドから移民してきた人々を防衛する目的で{{仮リンク|ジ・オナラブル・ジ・アイリッシュ・ソサエティ|en|The Honourable The Irish Society}}が1613年から1619年に掛けて建設、円周は約{{convert|1|mi|km}}、高さや幅は{{convert2|12|and|35|ft|m|abbr=off|disp=flip}}の範囲と異なっていて、完全に形は残っていて市中心部を回るように歩道が形成されている。また、ルネサンス様式の通路計画が今もなお維持されている初期の町のレイアウトが見られる独自の遊歩道もある。門は初期にビショップス・ゲート、フェリーキー・ゲート、ブッチャー・ゲート、シップキー・ゲートの4つが設けられ、後にマガジン・ゲート、キャッスル・ゲート、ニュー・ゲートが建設されたため、合わせて7つ設けられている。城壁内にある歴史的建造物には1633年に建てられたゴシック建築の{{仮リンク|聖コロンブス大聖堂|en|St Columb&#039;s Cathedral}}、徒弟少年団メモリアルホール、そして裁判所がある。<br /> <br /> ヨーロッパにおいて城壁が破られたことがない数少ない都市であり、1689年に起きた105日間の包囲など数回の包囲戦にも耐えたことからメイデン・シティという別名も付けられている&lt;ref&gt;[http://www.discovernorthernireland.com/Historic-Walls-of-Derry-Londonderry-Derry-P7097 Historic Walls of Derry] Discover Northern Ireland website&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> ==歴史==<br /> [[File:St Columb&#039;s Cathedral1 by Paride.jpg|upright|thumb|聖コロンブス大聖堂]]<br /> <br /> ===初期===<br /> アイルランドにおいて最古の継続居住地の1つである&lt;ref name=Lacey&gt;<br /> {{cite book<br /> | last = Lacey<br /> | first = Brian<br /> | title = Discover Derry<br /> | publisher = The O&#039;Brien Press Ltd<br /> | location = Dublin<br /> | series = City Guides<br /> | year = 1999<br /> | pages =<br /> | isbn = 0-86278-596-0 }}<br /> &lt;/ref&gt;。現在のドニゴール州から来た有名な聖人であるコルンバもしくはコルムシルが[[僧院|修道院]]を建設した6世紀が記録に見られる最も古い時期だが、実際は約1000年前から近辺に居住者がいたとされる。<br /> <br /> 他所でキリスト教を布教するためにアイルランドを離れる前、コルンバはフォイル側東岸にある後のディレ・カルガフに修道院を建設した。口伝や歴史書によれば、この場所は地元の王様がコルンバに寄進したとしている&lt;ref&gt;{{citation<br /> | url = http://www.geographia.com/norThern-ireland/ukider01.htm<br /> | title = History of Derry<br /> | accessdate = 13 February 2010<br /> | publisher = www.geographia.com}}&lt;/ref&gt;。その後この修道院はコルムシルを精神的助言者とするコルンバン教会連盟の助力で現存している。546年は最初の町が作られた時期とされることが多いが、現在、中世の年代記編者が時期を誤って割り当てたものと歴史学者は見ていて&lt;ref name=Lacey/&gt;、実際は6世紀から11世紀の間と考えられており、デリーは主に修道の町として知られていた&lt;ref name=Lacey/&gt;。<br /> <br /> この町は{{仮リンク|アイルランドのチューダー朝征服|en|Tudor conquest of Ireland}}において戦略的により重要な場所になり、度重なる攻撃に晒されることになる。{{仮リンク|ケア・オドハティ|en|Cahir O&#039;Doherty|label=オドハティの反乱}}の最中である1608年、イニショウエン半島のアイルランド人部族長であるサー・ケア・オドハティによる攻撃で{{仮リンク|デリー焼き討ち|en|Burning of Derry|label=町は焼かれ何もかも無くなり}}、町を取り仕切っていた{{仮リンク|ジョージ・ポーレット|en|George Paulet}}も討ち取られた&lt;ref&gt;{{citation<br /> | url = http://www.irishtimes.com/focus/earls/theflight/flight3.html<br /> | title = King ponders plantation<br /> | accessdate = 13 February 2010<br /> | publisher = www.irishtimes.com/<br /> | archiveurl = https://web.archive.org/web/20101026145907/http://www.irishtimes.com/focus/earls/theflight/flight3.html<br /> | archivedate = 2010-10-26<br /> }}&lt;/ref&gt;。軍人兼政治家の{{仮リンク|ヘンリー・ドクラ (初代カルモアのドクラ男爵)|en|Henry Docwra, 1st Baron Docwra of Culmore|label=サー・ヘンリー・ドクラ}}が積極的に町を開発したため、「デリーの創設者」と評判になったが、オドハティによる攻撃を防げなかったと非難されイングランドに帰還してしまった。<br /> <br /> ===植民===<br /> デリーが都市になったのは1610年までに比較的新しいドニゴール州の一部になった時である&lt;ref&gt;Brian Lacy, &#039;&#039;Archaeological Survey of County Donegal&#039;&#039;, p. 1. [[Donegal County Council]], [[Lifford]], 1983.&lt;/ref&gt;。この都市、将来の都市になる西岸は[[イングランド君主の一覧|イングランド君主]]からジ・オナラブル・ジ・アイリッシュ・ソサエティに譲渡され&lt;ref&gt;Brian Lacy, &#039;&#039;Archaeological Survey of County Donegal&#039;&#039;, p. 1. [[Donegal County Council]], [[Lifford]], 1983.&lt;/ref&gt;、{{仮リンク|コルレイン州|en|County Coleraine}}と[[アントリム州]]の一部と、[[ティロン州]]の大部分と合併して[[ロンドンデリー州]]になった。17世紀にやってきたアルスター植民の一部である植民者はジ・オナラブル・ジ・アイリッシュ・ソサエティを通じてロンドンの[[リヴァリ・カンパニー]]によって統治され、初期の町からフォイル川沿いに拡大したロンドンデリーという都市を整備し、アイルランド反乱者から植民者を守る目的で城壁が建設された。これらの目的は住民が君主の支持の下アルスターに定住するためだった&lt;ref name=&quot;Curl&quot;/&gt;。<br /> <br /> この都市はアイルランドにおいて最初の[[計画都市]]であり、1613年から始まった城壁の建設は1619年に完了し、建設費は£10,757に及んだ&lt;ref&gt;{{citation|url=http://www.derryswalls.com/hist-walls-constructed.html|title=Walls Constructed|accessdate=23 July 2012|publisher=Guildhall Press|date=2005-8|work=Derry&#039;s Walls|archiveurl=https://web.archive.org/web/20120224131028/http://www.derryswalls.com/hist-walls-constructed.html|archivedate=2012年2月24日|deadlinkdate=2017年9月}}&lt;/ref&gt;。4つの門が設けられた城壁都市内のセントラルダイアモンドは防御するのに良いデザインと考えられていた。またこの選ばれたグリッドパターンはその後英領北アメリカにある多くの植民地で模倣された&lt;ref&gt;{{citation|url=http://worldfacts.us/UK-Londonderry.htm|title=World Facts Index &gt; United Kingdom &gt; Londonderry|year=2005|publisher=worldfacts.us|accessdate=5 September 2006}}&lt;/ref&gt;。また、都市憲章では都市の範囲は中心から約6km拡張されると定義されている。<br /> <br /> 現在の都市にはセントラルダイアモンドからビショップ・ゲート、フェリーキー・ゲート、シップキー・ゲート、ブッチャー・ゲートの4つの門まで放射状に4つのメインストリートが伸びている17世紀当時のレイアウトが現存している。また都市に残る最も古い建造物は同時期の1633年に建設されたゴシック建築の聖コロンブ大聖堂である。大聖堂の玄関内は完成を記念する石パネルがあり、「If stones could speake, then London&#039;s prayse should sound, Who built this church and cittie from the grounde.(もし石が話せるのなら、ロンドンによる1から都市と大聖堂を建設した人々への賞賛の話をしてほしい)」という碑文がある&lt;ref&gt;{{citation |url=http://www.stcolumbscathedral.org/History.htm |title=BRIEF HISTORY OF ST COLUMB&#039;S CATHEDRAL LONDONDERRY |accessdate=13 February 2010 |publisher=www.stcolumbscathedral.org |archiveurl=https://web.archive.org/web/20090104025334/http://www.stcolumbscathedral.org/history.htm |archivedate=2009年1月4日 |deadlinkdate=2017年9月 }}&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> ===17世紀の動乱===<br /> 1640年代のこの都市は[[清教徒革命|三王国戦争]]による受難を受けており、{{仮リンク|1641年アイルランド反乱|en|Irish Rebellion of 1641}}が始まった時はゲール系アイルランド反乱軍が都市に侵攻したが失敗に終わった。1649年、都市とその守備隊はロンドンの共和国[[イングランド議会|議会]]派{{enlink|Parliament of England|en}}の支援を受けたが、[[チャールズ1世 (イングランド王)|チャールズ1世]]に忠誠を誓うスコットランドの[[長老派教会|プレスビテリアン]]軍に包囲された。しかし、このプレスビテリアンによるデリー包囲は[[ジョージ・マンク (初代アルベマール公)|ジョージ・マンク]]指揮下の[[円頂党]]軍とアイルランドカトリック教会の将軍である{{仮リンク|オーウェン・ロー・オニール|en|Owen Roe O&#039;Neill}}との不可解な同盟によって解除された。これらの一時的な同盟は1649年に{{仮リンク|ニューモデル軍|en|New Model Army}}によるアイルランド上陸で瞬く間に崩壊し再度戦争となった。アルスターでの戦いは1650年にドネゴール州に近い{{仮リンク|レタケニー|en|Letterkenny}}周辺で発生した{{仮リンク|スカリフォリスの戦い|en|Battle of Scarrifholis}}で議会派がアイルランドカトリックのアルスター軍を破ったことで集結した。<br /> <br /> [[名誉革命]]では、1688年11月にデリーと[[エニスキレン]]にのみプロテスタントが駐屯、第3代アントリム伯爵アレクサンダー・マクドネルの指揮によるほとんどが「レッドシャンクス」([[ハイランド地方|ハイランダー]])である約1200人の男性で構成される軍が時間を掛けて編成された(ウィリアム・オブ・オレンジがイングランドに上陸している一週間の間に着手した)。1688年12月7日に軍はデリーに到着、門は閉められデリー包囲戦が勃発した。1689年4月、ジェームズ王が都市を訪れ、降伏を促したが拒絶され、包囲自体も7月終わりに救援の船が到着するまで続いた。<br /> <br /> ===18世紀と19世紀===<br /> [[File:1837Londonderry.jpg|thumb|upright|1837年時点のロンドンデリー州の地図]]<br /> 18世紀の都市再開発で現在も残る{{仮リンク|ジョージア式建築|en|Georgian architecture|label=ジョージア式}}建築物が多く建てられた。1790年にフォイル川を渡る橋が初めて架けられた。18、19世紀の間、港湾施設は北米に行くアイルランド移民にとって重要な乗船拠点になり、ニューハンプシャー州に[[デリー (ニューハンプシャー州)|デリー]]や[[ロンドンデリー (ニューハンプシャー州)|ロンドンデリー]]の名を冠した植民地が複数設立された。<br /> <br /> また19世紀の間、[[ジャガイモ飢饉]]の影響をより深刻に受けた移民の逃亡先となっていった&lt;ref name=Johnson&gt;{{cite journal|title=The population of Londonderry during the Great Irish Famine|journal=The Economic History Review|last=Johnson|first=James H.|year=1957|volume=10|issue=2|pages=273–285|doi=10.2307/2590863|jstor=2590863|publisher=Blackwell Publishing}}&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;Page 67 &quot;Derry beyond the walls&quot; by SDLP politician John Hume&lt;/ref&gt;。1778年にWm. McCorkell &amp; Co. Ltd.が設立した{{仮リンク|マッコーケル・ライン|en|McCorkell Line}}はもっとも有名な海運会社の一社になった&lt;ref name=&quot;mccorkellline.com&quot;&gt;http://www.mccorkellline.com/ McCorkell Line&lt;/ref&gt;。そしてマッコーケルが所有していた最も有名な船はミネハハ(Minnehaha)で「デリーのグリーンヨット(Green Yacht from Derry)」として知られた&lt;ref name=&quot;mccorkellline.com&quot; /&gt;。<br /> <br /> ===20世紀初期===<br /> ====第一次世界大戦====<br /> カトリック教徒やプロテスタントの英陸軍男性兵5000人が住んでいた。<br /> <br /> ====分割====<br /> [[File:War memorial Derry 2007 SMC.jpg|thumb|upright|1927年に建てられたダイアモンド広場の戦争慰霊碑&lt;ref&gt;{{citation|url=http://www.localhistories.org/derry.html|title=A Brief History of Derry|last=Lambert|first=Tim|publisher=Local Histories.org|accessdate=28 March 2008}}&lt;/ref&gt;]]<br /> [[アイルランド独立戦争]]の間、この地域は宗教間暴力で揺れ動き、[[アイルランド共和軍]]とイギリス軍との間の激しいゲリラ戦が一部行われ、経済的・社会的圧力の影響も受けた&lt;ref&gt;{{citation<br /> | url = http://www.irishtimes.com/newspaper/opinion/2009/0624/1224249415663.html<br /> | title = June 24th, 1920: Pitched battles on the streets of Derry<br /> | accessdate = 13 February 2010<br /> | last = JOYCE<br /> | first = JOE<br /> | date = 24 June 2009<br /> | publisher = www.irishtimes.com}}&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;{{citation<br /> |url = http://saoirse.21.forumer.com/viewtopic.php?t=2326<br /> |title = This is a chronology of Irish War of Independence<br /> |accessdate = 13 February 2010<br /> |publisher = saoirse.21.forumer.com<br /> |archiveurl = https://web.archive.org/web/20120303110930/http://saoirse.21.forumer.com/viewtopic.php?t=2326<br /> |archivedate = 2012年3月3日<br /> |deadlinkdate = 2017年9月<br /> }}&lt;/ref&gt;。この間、多くの住民が死亡した上に、カトリック教徒やプロテスタント教徒が追放された。その後、地元政治家がユニオニストと共和国側両方に休戦交渉を行った。<br /> <br /> 1921年、[[英愛条約]]や{{仮リンク|アイルランド分割|en|Partition of Ireland}}によって、この地は予想外の形で「国境都市」になり、ドニゴール州の伝統的かつ経済的な後背地の多くから分割された。<br /> <br /> ====第二次世界大戦====<br /> [[第二次世界大戦]]の間、この都市は[[大西洋の戦い (第二次世界大戦)|大西洋の戦い]]において重要な拠点となった&lt;ref&gt;{{citation<br /> | url = http://www.derryjournal.com/features/Derry-was-39best-kept-secret39.4586787.jp<br /> | title = Derry was &#039;best kept secret&#039; in Battle of the Atlantic<br /> | accessdate = 13 February 2010<br /> | last = Cullen<br /> | first = Ian<br /> | date = 13 October 2008<br /> | publisher = Derry Journal}}&lt;/ref&gt;。[[イギリス海軍]]や[[カナダ海軍]]その他同盟海軍の船舶が停泊し、米軍基地も建設された。戦時中、イギリス海軍が2万人以上、カナダ海軍が1万人以上、[[アメリカ海軍]]が6000人以上この都市に駐屯した&lt;ref&gt;{{citation|url=http://www.bbc.co.uk/northernireland/radiofoyle/peoples_war/context.shtml |title=BBC Online – Northern Ireland – Radio Foyle |publisher=Bbc.co.uk |accessdate=13 May 2012}}&lt;/ref&gt;。米軍の駐屯はアメリカ合衆国の参戦前に結ばれた米英密約によるもので&lt;ref name=&quot;culturenorthernireland1&quot;&gt;{{citation|url=http://www.culturenorthernireland.org/article/447/world-war-two-in-derry |title=World War Two in Derry |publisher=Culturenorthernireland.org |accessdate=13 May 2012}}&lt;/ref&gt;、この都市は欧州初の米海軍軍港となり、欧州に行くアメリカ合衆国船団の拠点となった。<br /> <br /> 海軍など軍事活動の度合いが大きかった理由は自明であり、デリーはイギリス最西部の港湾拠点であり、実際欧州においても最西部の連合軍側港湾拠点だったためで、このようにデリーはグラスゴーやリバプールと共に欧州北米間を行き来する船団にとって重要な出港地点だったわけである。これらの数年間、デリーにいた多数の軍人は実質的に都市の性格を変えるようになり、複数の外部のカラーだけでなく国際的かつ経済的な快活さが持ち込まれた。複数の飛行場がメイダウン、イグリントン、バリーケリーといった都市郊外に建設されたが、そのうちイギリス空軍イグリントン空軍基地は現在のシティ・オブ・デリー空港に生まれ変わった。<br /> <br /> 兵役による戦争努力で都市へ顕著に貢献した男たちで最も有名なのは「デリー・ボーイズ」で知られる第9(ロンドンデリー)重対空連隊の500人で、この連隊はイギリスを中心に北アフリカ、スーダン、イタリアで任務にあたっている。船団の商船で任務していた他の多くは戦時中イギリスとソ連で供給任務にあたっていた。<br /> <br /> 都市の境目では軍の護衛隊からの交易品の流入もあり街の開発にとって欠かせない密輸業務が行われていた。<br /> <br /> 第二次世界大戦の終戦時、降伏した60隻の[[ドイツ海軍 (国防軍)|ドイツ海軍]]Uボートがリサハリーにある市の港に入港した&lt;ref&gt;{{citation<br /> | url = http://www.secondworldwarni.org/print.aspx?pagerecordid=1469<br /> | title = The U-boat surrender<br /> | accessdate = 13 February 2010<br /> | publisher = www.secondworldwarni.org}}&lt;/ref&gt;。最初の降伏では[[ウェスタンアプローチ]]最高指令官のサー・{{仮リンク|マックス・ケネディ・ホートン|en|Max Kennedy Horton|label=マックス・ホートン}}提督、第3代{{仮リンク|北アイルランド首相|en|Prime Minister of Northern Ireland}}のサー・{{仮リンク|バジル・ブルック (初代ブルックバラ子爵)|en|Basil Brooke, 1st Viscount Brookeborough|label=バジル・ブルック}}が随行した&lt;ref name=&quot;culturenorthernireland1&quot;/&gt;。<br /> <br /> ===20世紀後半===<br /> ====1950年代、1960年代====<br /> 第二次世界大戦後、失業や開発の停滞で衰退していった。{{仮リンク|デリー大学委員会|en|University for Derry Committee}}が市内に北アイルランドで2番目の大学を設立しようとしたが失敗に終わった。<br /> <br /> ====公民権運動====<br /> デリーは北アイルランドにおける初期の公民権運動の中心地となった。<br /> <br /> [[File:Bogside Derry SMC 2005.jpg|thumb|right|城壁から見たボグサイド地域]]<br /> カトリック教徒は北アイルランドのユニオニスト政府の下で政治的にも経済的にも差別を受けた&lt;ref&gt;&#039;&#039;Explaining Northern Ireland: broken images&#039;&#039; by John McGarry, Brendan O&#039;Leary (ISBN 978-0631183495), pages 205–206&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;&#039;&#039;Race and inequality: world perspectives on affirmative action&#039;&#039; by Elaine Kennedy-Dubourdieu (ISBN 978-0754648390), page 108&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;&#039;&#039;The Irish Catholic diaspora in America&#039;&#039; by Lawrence John McCaffrey (ISBN 978-0813208961), page 168&lt;/ref&gt;&lt;ref name=DiscrimChron&gt;{{citation<br /> | url = http://cain.ulst.ac.uk/issues/discrimination/chron.htm<br /> | title = Discrimination – Chronology of Important Events<br /> | accessdate = 13 February 2010<br /> | date = 6 January 2009<br /> | publisher = cain.ulst.ac.uk}}&lt;/ref&gt;。1960年代、この都市は制度的[[ゲリマンダー]]に関する論争の発火点となった。[[政治学|政治学者]]の{{仮リンク|ジョン・ヘンリー・ホワイト|en|John Henry Whyte|label=ジョン・ホワイト}}は次のように説明している。<br /> <br /> &lt;blockquote&gt;<br /> ゲリマンダーに関する全ての苦情は、実質的に居住地や地域の政策や、この地域からの公共や民間の雇用に関する不均衡な課徴金額が苦情の全てだ。タイロン州、ファーマナ州、ロンドンデリーカウンティ・バラ、ロンドンデリー州とアーマー州の一部といった地域の人口は北アイルランドの総人口の4分の1以下なのに、差別に関する苦情は4分の3にも遠く達してないためユニオニスト政府は責任を取らなければならない。これはオリジナルのゲリマンダーを通してその後起きるかなり多くの不正行為の温床になっており、抗議運動が繰り返されているにもかかわらず、不正行為の継続に歯止めを掛けようとしない。北アイルランド政府への苦情のほとんどは広範な差別が直接の原因ではないが、北アイルランドの多数の区域に渡る規模の差別を引き起こす原因にはなっている。&lt;ref&gt;{{cite book|last=Whyte|first=John|title=Contemporary Irish Studies|editor=Gallagher, Tom; O&#039;Connell, James|publisher=Manchester University Press|location=Manchester|year=1983|chapter=How much discrimination was there under the unionist regime, 1921–68?|isbn=0-7190-0919-7|url=http://cain.ulst.ac.uk/issues/discrimination/whyte.htm#chap1}}&lt;/ref&gt;<br /> &lt;/blockquote&gt;<br /> <br /> 1968年に{{仮リンク|北アイルランド公民権協会|en|Northern Ireland Civil Rights Association}}が[[公民権]]デモを起こしたが、政府に許可されず、{{仮リンク|王立アルスター警察隊|en|Royal Ulster Constabulary}}に抑えられた&lt;ref name=DiscrimChron/&gt;。それでもこの運動は1969年のデリー徒弟少年団による行進に受け継がれたが、{{仮リンク|ボグサイドの戦い|en|Battle of the Bogside}}に発展してしまい、カトリック教徒の暴徒が警察と衝突したことにより、市民暴動が北アイルランド中に拡大した。この出来事は「[[北アイルランド問題|厄介事]](The Troubles)」の引き金になったと語られることが多い。<br /> <br /> 1972年1月30日日曜日、{{仮リンク|ボグサイド|en|Bogside}}地域で発生した公民権デモ行進で13人の非武装市民が英軍落下傘連隊による銃撃で死亡、その他13人が負傷し、さらに1名の男性が負傷後に死亡した。この出来事は[[血の日曜日事件 (1972年)|血の日曜日事件]]として知られるようになった。<br /> <br /> ===The Troubles===<br /> [[File:Free Derry Corner in 1969.jpg|thumb|300px|right|ボグサイドのレッキー通りとファハン通りの交差点角にある「{{仮リンク|フリー・デリー・コーナー|en|Free Derry Corner}}」。1969年1月にジョン・ケイシーが初めて描いた。]]<br /> 後に「厄介事」(The Troubles)として知られる紛争はデリーで発生したボグサイドの戦いから始まったと見なされていて、市内の公民権運動もとても活発だった。1970年代初期において、市内は重武装されていて市民の間に幅広い不安が発生していた。複数の地区でも人の行き来を制限したり州の機動隊が侵入するのを防ぐためにバリケードが築かれていた。<br /> <br /> しかし、暴力行為は1980年終わりから1990年始めにかけて収束していった。アイルランドのジャーナリストであるエド・マロニーは「IRAの秘密史(The Secret History of the IRA)」にて共和党指導者が1991年始めに「事実上」の終戦を交渉していたとしている。これが事実かどうかは確定してないが、少なくともこの時期ではベルファストや他の地域よりも地を見ることは少なかった。<br /> <br /> The Troublesが最も激しかった1977年11月、都市にドペイ・ディックと称される[[シャチ]]がやってきて1km圏内から1000人もの人々がシャチを見ようと押し寄せた&lt;ref name=Dopey&gt;{{citation|url=http://www.bbc.co.uk/northernireland/radiofoyle/dopeydick/|title=A whale of a time|publisher=BBC Radio Foyle|accessdate=12 October 2008}}&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> ==市政==<br /> 市の政府はシティサイド、ノースランド、ルーラル、{{仮リンク|シャンタロウ|en|Shantallow}}、ウォーターサイドの5選挙区で構成されているデリー市議会で、30人いる議員の任期は4年である。2011年選挙の時点で[[社会民主労働党 (北アイルランド)|社会民主労働党]]が14議席、[[シン・フェイン党]]が10議席、[[民主統一党 (北アイルランド)|民主統一党]]が5議席、[[アルスター統一党]]が1議席獲得している。市長と副市長は毎年議員によって選出される。<br /> <br /> また、地方自治体の境界はイギリス議会の{{仮リンク|フォイル (イギリス議会選挙区)|en|Foyle (UK Parliament constituency)|label=フォイル選挙区}}、北アイルランド議会の{{仮リンク|フォイル (議会選挙区)|en|Foyle (Assembly constituency)|label=フォイル選挙区}}の境界と一致するが、欧州議会選挙区では{{仮リンク|北アイルランド (欧州議会選挙区)|en|Northern Ireland (European Parliament constituency)|label=北アイルランド選挙区}}の一部となっている。<br /> <br /> ===紋章と標語===<br /> [[File:Coat of arms of Derry.png|thumb|upright|ロンドンデリーの紋章]]<br /> 紋章の模様は盾の下部に背景が黒い骸骨と塔型の城郭があり、その上に背景が白い赤十字と剣で構成される[[シティ・オブ・ロンドン]]の旗が描かれていて、その赤十字の真ん中に金色のハープがある。そして盾の上に長(Chief)が描かれている。<br /> <br /> [[紋章記述]]は次のようになっている:<br /> <br /> &#039;&#039;Sable, a human skeleton Or seated upon a mossy stone proper and in dexter chief a castle triple towered argent on a chief also argent a cross gules thereon a harp or and in the first quarter a sword erect gules&#039;&#039;&lt;ref name=&quot;LP2003&quot;&gt;Letters Patent certifying the arms of the City of Londonderry issued to Derry City Council, sealed by Garter and Norroy and Ulster Kings of Arms dated 30 April 2003&lt;/ref&gt;<br /> <br /> ロンドンの[[紋章院]]やダブリンの{{仮リンク|系図学事務局|en|Genealogical Office}}にある文書によれば、市の紋章は1613年に{{仮リンク|ノロイ・アンド・アルスター・キング・オブ・アームズ|en|Norroy and Ulster King of Arms}}のダニエル・モリニューが承認したとしている&lt;ref name=Lacey/&gt;。紋章院の文書にはデリーの紋章は「ye picture of death (or a skeleton) on a moissy stone &amp; in ye dexter point a castle」だったが、同業組合による資金提供やロンドンデリーに市名が変更された年に初代市長が「ロンドンの長(chief of London)」を追加するように求めたとしている&lt;ref&gt;Genealogical Office, Dublin: GO Ms 60, &#039;&#039;Sketches of arms by Richard Carney&#039;&#039;, fol. 47&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;College of Arms, London: &#039;&#039;The Arms of Peers of Ireland and some Commoners&#039;&#039;, fol. 133d (c.1652)&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> シティ・オブ・ロンドンの旗を帯びたロンドンの長が追加される前のデリーの旧紋章の意味に関する説は以下のとおり:<br /> * 城郭は{{仮リンク|グリーンキャッスル (ドニゴール州)|en|Greencastle, County Donegal|label=グリーンキャッスル}}近くで14世紀にアングロノルマン人{{仮リンク|アルスター伯爵|en|Earl of Ulster}}である{{仮リンク|リチャード・オグ・デ・バーグ (第2代アルスター伯爵|en|Richard Óg de Burgh, 2nd Earl of Ulster|label=リチャード・デ・バーグ}}が城主だった城と関連してるのではないかとされる&lt;ref name=Lacey/&gt;。<br /> * 最も有名な説として、骸骨は1332年に城の地下牢で餓死したデ・バーグという騎士を指していて上記に記しているデ・バーグのいとこにあたるアルスター伯爵の命令によって死に至ったという&lt;ref name=Lacey/&gt;。別説では1608年にイングランド軍がデリーを包囲した後に死刑が処された{{仮リンク|カヒール・オドハティ|en|Cahir O&#039;Doherty}}(サー・チャールズ・オドハティ)を描いたとも言われる。ゲリマンダーやカトリック教徒への差別があった時代、デリーのローマ・カトリックはたびたび暗い機知として、骸骨は市議会から救ってくれることをここで待つことだと説明していた&lt;ref name=Lacey/&gt;。<br /> <br /> 1979年、ロンドンデリー市議会は{{仮リンク|ヘラルディック・バッジ|en|heraldic badge}}のデザイン過程の一環として市の紋章と記章に関して報告書に記載した。公開された報告書によれば、骸骨に関する通説には根拠がなく、「純粋なシンボルで、何れの実在人物を示すものではない。」としている&lt;ref&gt;L E Rothwell, &#039;&#039;An inquiry initiated by Derry City Council into the ensigns armourial and related matters of the City of Londonderry&#039;&#039;&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 1613年時点の紋章では十字の中心にハープが描かれていたが、後年の紋章や1952年、ロンドンデリー市に承認した紋章に関する{{仮リンク|レターズ・パテント|en|Letters patent}}では削除されている&lt;ref&gt;ロンドンデリー市に承認・批准した紋章に関するレターズ・パテントは1952年4月28日、ノロイ・アンド・アルスター・キング・オブ・アームズが捺印している。&lt;/ref&gt;。2002年、デリー市議会は紋章院にハープを復活させること、さらに2003年に{{仮リンク|ガーター・プリンシパル・キング・オブ・アームズ|en|Garter Principal King of Arms|label=ガーター}}及びノロイ・アンド・キング・オブ・アームズが17世紀に承認したパテント・レターが有効であることを申し入れた&lt;ref name=&quot;LP2003&quot;/&gt;。<br /> <br /> 紋章にあるモットーはラテン語で&quot;Vita, Veritas, Victoria&quot;と表記されていて、英語では&quot;Life, Truth, Victory&quot;という表記に生る&lt;ref name=Lacey/&gt;。<br /> <br /> ==地理==<br /> [[File:OpenStreetMap of DerryLondonderry UK Apr2012.png|thumb|right|[[オープン・ストリート・マップ]]による地図]]<br /> [[File:Craigavon bridge.jpg|thumb|right|クレイガヴォン橋]]<br /> ロンドンデリーは他所にはない丘陵地形が特徴である&lt;ref&gt;{{citation<br /> |url = http://www.ni-environment.gov.uk/landscape/country_landscape/32/32-land.htm<br /> |title = Derry Slopes Landscape<br /> |accessdate = 13 February 2010<br /> |publisher = DOENI<br /> }}{{リンク切れ|date=2017年9月 |bot=InternetArchiveBot }}&lt;/ref&gt;。市内を流れるフォイル川は深い谷を形成していて、急勾配の通りや驚くべき風景を生み出している。初期の城壁都市はフォイル川の西岸に位置している。かつて、川は分岐していて木の生い茂る丘が島のように囲われていたが、数世紀経て西の分岐は干上がり低地かつ沼地となったがこの地区が現在のボグサイドである&lt;ref&gt;{{citation<br /> |url = http://www.museumoffreederry.org/history-bogside01.html<br /> |title = History–The Bogside<br /> |accessdate = 13 February 2010<br /> |publisher = Museum of Free Derry<br /> |archiveurl = https://www.webcitation.org/5zCTrvieM?url=http://www.museumoffreederry.org/history-bogside01.html<br /> |archivedate = 2011年6月4日<br /> |deadlinkdate = 2017年9月<br /> }}&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 現在のロンドンデリーは城壁の北と西、川の東岸へと拡張している。フォイル川を挟んで西半分はシティサイド、東半分はウォーターサイドと呼ばれている。シティサイドとウォーターサイドはクレイガヴォン橋とフォイル橋で結ばれていて、市の中心部にある歩道橋は{{仮リンク|ピース橋 (フォイル)|en|Peace Bridge (Foyle)|label=ピース橋}}を呼ばれている。また街の南東に農村地帯が広がっている。<br /> <br /> この都市は遥かに広いが、川の両岸にある市内の地形の多くを形成している急勾配のある丘という特徴が残っている。北東の端には有名な異なる地形としてフォイル湾の海岸があるが、非常に広々とした海と19世紀中頃に干拓された干潟がある。現在、これらの手付かずの場所は1.6kmにわたる防波堤で保護されていて、国際的に重要な鳥類保護区となっており、イギリスの湿地上位30位以内に入っている&lt;ref&gt;{{citation<br /> | url = http://www.derryjournal.com/journal/Concerns-over-Lough-Foyle-bird.6066202.jp<br /> | title = Concerns over Lough Foyle bird numbers<br /> | accessdate = 13 February 2010<br /> | last = Wilson<br /> | first = David<br /> | date = 12 February 2010<br /> | publisher = Derry Journal}}&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> その他重要な自然保護区にはロンドンデリーから東16kmにあるネス国立公園&lt;ref&gt;{{citation<br /> | url = http://www.ni-environment.gov.uk/places_to_visit_home/parks/ness.htm<br /> | title = Ness Country Park<br /> | accessdate = 13 February 2010<br /> | publisher = DOENI<br /> | archiveurl = https://web.archive.org/web/20110829082757/http://www.doeni.gov.uk/niea/places_to_visit_home/parks/ness.htm<br /> | archivedate = 2011-08-29<br /> }}&lt;/ref&gt;や、市内南東部にあるプレヘン・ウッドがある&lt;ref&gt;{{citation<br /> | url = http://www.discovernorthernireland.com/Prehen-Wood-Londonderry-Derry-P11676<br /> | title = Prehen Wood<br /> | accessdate = 13 February 2010<br /> | publisher = Northern Ireland Tourist Board}}&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> ===気候===<br /> ロンドンデリーは[[ケッペンの気候区分]]においてアイルランドのほとんどが該当する[[西岸海洋性気候]]に属している&lt;ref&gt;{{citation|url=http://www.derry-ldy.airports-guides.com/ldy_climate.html |title=Airport guides climate page |publisher=Derry-ldy.airports-guides.com |date=5 January 2012 |accessdate=13 May 2012}}&lt;/ref&gt;。かつて市からもっとも近い公式の[[イギリス気象庁|イギリス気象庁気象台]]としてシティ・オブ・デリー空港のちょうど西にあり市の中心部から北東約8kmに位置するカルマネー(Carmoney)で観測されていたが&lt;ref&gt;{{citation | publisher = [[MetOffice]] | url= http://web.archive.org/web/20010702202452im_/http://www.metoffice.gov.uk/climate/uk/networks/images/climnet5_jan2001.gif | title = Station Locations}}&lt;/ref&gt;、2004年に廃止され、現在は東北東19kmに位置するバリーケリーに気象台が置かれている&lt;ref&gt;{{citation| publisher = [[MetOffice]] | url= http://www.metoffice.gov.uk/climate/uk/networks/images/map3.gif | title = Station Locations}}&lt;/ref&gt;。基本的に、バリーケリーで年27夜に空気中の霜を観測していて、最も少ない降水量は1mmで170日観測されている(1981年から2010年の間の平均)。<br /> <br /> 最も低い気温は1995年12月27日にカルマネーで{{convert|-11.0|C|F}}である&lt;ref&gt;{{citation| publisher = [[tutiempo]]| url= http://www.tutiempo.net/en/Climate/CARMONEY/27-12-1995/39060.htm | title = 1995 minimum}}&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> {{Weather box<br /> | location = バリーケリー気象台(SAMOS) ([[シティ・オブ・デリー空港|デリー空港]] 1981年–2010年)<br /> | metric first = Yes<br /> | single line = Yes<br /> | Jan high C = 8.0<br /> | Feb high C = 8.2<br /> | Mar high C = 10.1<br /> | Apr high C = 12.1<br /> | May high C = 15<br /> | Jun high C = 17.0<br /> | Jul high C = 18.9<br /> | Aug high C = 18.5<br /> | Sep high C = 16.7<br /> | Oct high C = 13.5<br /> | Nov high C = 10.2<br /> | Dec high C = 8<br /> | year high C =<br /> | Jan low C = 2.2<br /> | Feb low C = 2.1<br /> | Mar low C = 3.5<br /> | Apr low C = 4.8<br /> | May low C = 7<br /> | Jun low C = 9.7<br /> | Jul low C = 11.6<br /> | Aug low C = 11.4<br /> | Sep low C = 9.8<br /> | Oct low C = 7.2<br /> | Nov low C = 4.5<br /> | Dec low C = 2.5<br /> | year low C =<br /> | Jan precipitation mm = 83.5<br /> | Feb precipitation mm = 62.7<br /> | Mar precipitation mm = 69.8<br /> | Apr precipitation mm = 55.2<br /> | May precipitation mm = 51.2<br /> | Jun precipitation mm = 56.1<br /> | Jul precipitation mm = 66.1<br /> | Aug precipitation mm = 75.3<br /> | Sep precipitation mm = 68.7<br /> | Oct precipitation mm = 89.0<br /> | Nov precipitation mm = 86.7<br /> | Dec precipitation mm = 88.4<br /> | year precipitation mm = 852.6<br /> | Jan precipitation days = 17<br /> | Feb precipitation days = 13<br /> | Mar precipitation days = 16<br /> | Apr precipitation days = 12<br /> | May precipitation days = 12<br /> | Jun precipitation days = 11<br /> | Jul precipitation days = 13<br /> | Aug precipitation days = 13<br /> | Sep precipitation days = 13<br /> | Oct precipitation days = 16<br /> | Nov precipitation days = 19<br /> | Dec precipitation days = 15<br /> | year precipitation days =<br /> | unit precipitation days = 1&amp;nbsp;mm<br /> | Jan sun = 52.3<br /> | Feb sun = 72.4<br /> | Mar sun = 100.9<br /> | Apr sun = 155.0<br /> | May sun = 202.7<br /> | Jun sun = 161.4<br /> | Jul sun = 140.4<br /> | Aug sun = 141.1<br /> | Sep sun = 119.6<br /> | Oct sun = 102.5<br /> | Nov sun = 57.9<br /> | Dec sun = 37.7<br /> | year sun =<br /> | source 1 = [[MetOffice]]&lt;ref&gt;{{citation<br /> | url = http://www.metoffice.gov.uk/public/weather/climate/ballykelly-samos#?tab=climateTables | title = Ballykelly SAMOS 1981–2010 | accessdate = 30 June 2013 | publisher = [[Met Office]]}}&lt;/ref&gt;<br /> | date = June 2013}}<br /> <br /> ==人口動態==<br /> この都市と隣接する自治体である{{仮リンク|カルモア (北アイルランド)|label=カルモア|en|Culmore|FIXME=1}}、{{仮リンク|ニュービルディングス|en|Newbuildings}}、{{仮リンク|ストラスフォイル|en|Strathfoyle}}で構成されるデリー都市圏は人口が7万5000人を超えて以降、北アイルランド統計調査機関(NISRA)によって都市に分類されていて、人口調査が行われた2011年3月27日の時点で10万5066人が居住している。このうち、27%が16歳以下で14%が60歳以上、49%が男性で51%が女性、75%がローマ・カトリック信者で23%(2001年から3%増加)がプロテスタントだった&lt;ref name=NISRA2012&gt;{{citation|url=http://www.nisra.gov.uk/Census/2011_results_population.html|title=Census 2011 – Population and Household Estimates for Northern Ireland|publisher=Northern Ireland Statistics &amp; Research Agency|accessdate=24 September 2012}}&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 更に広いデリー市議会地域における2006年中頃の人口は10万7330人だった&lt;ref name=NISRA2006&gt;{{citation|url=http://www.nisra.gov.uk/archive/demography/publications/pr_mye_2006.pdf|title=Statistics press notice: Mid-year population estimates Northern Ireland (2006)|publisher=Northern Ireland Statistics &amp; Research Agency|date=31 July 2007|accessdate=28 August 2008|format=PDF|archiveurl=https://web.archive.org/web/20080626114426/http://www.nisra.gov.uk/archive/demography/publications/pr_mye_2006.pdf|archivedate=2008年6月26日|deadlinkdate=2017年9月}}&lt;/ref&gt;。2005-6年ねんの人口の伸びは約100人の最終的な転出を伴う自然な変化によるものだった&lt;ref name=NISRA2006/&gt;。<br /> <br /> またこの都市はアイルランドにおいてジャガイモ飢饉の最中でも人口が増加した数少ない都市の1つであるが、これは最も深刻な影響を受けた他の地域から多くの人が押し寄せたためである&lt;ref name=Johnson/&gt;。<br /> <br /> ===プロテスタントのマイノリティ===<br /> [[File:Nosurrender mural derry.jpg|thumb|right|城壁の外にある&quot;降伏しない(No Surrender)&quot;と書かれた[[壁画]]]]<br /> 都市環境の分断が留めなく進行していることに伴う両コミュニティへの懸念が提起されている。1971年の時点でフォイル川西岸に約1万7000人のプロテスタント教徒が居住していたが&lt;ref&gt;{{citation|url=http://cain.ulst.ac.uk/proni/1979/proni_CENT-1-8-11A_1979-01-11.pdf|title=Londonderry population movement from West bank to East bank |date=11 January 1979 |publisher=}}&lt;/ref&gt;、その割合は急激に減少し&lt;ref&gt;{{citation|url=http://cain.ulst.ac.uk/proni/1978/proni_CENT-1-8-11A_1978-11-06.pdf |title=Note of a meeting between Secretary of State and William Ross Unionist MP |date=6 November 1978 |publisher=Public Records Office of Northern Ireland}}&lt;/ref&gt;、現在は約2000人しかおらず&lt;ref&gt;{{cite news|url=http://www.londonderrysentinel.co.uk/news/catholics-outnumber-protestants-on-both-banks-of-the-foyle-1-4737478 |title=Catholics outnumber Protestants on both banks of the Foyle|publisher=Londonderry Sentinel|date=31 January 2013|first=Kevin|last=Mullenaccessdate=18 May 2013}}&lt;/ref&gt;、都市が永久的に分断されてしまう可能性に恐怖しているとされる&lt;ref&gt;{{cite news|url=http://news.bbc.co.uk/1/hi/northern_ireland/6060810.stm|title=Catholics urged to support neighbours|publisher=BBC News|date=18 October 2006|accessdate=28 August 2008}}&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;{{citation|url=http://www.ofmdfmni.gov.uk/derryreport.pdf|title=Population Change and Social Inclusion Study: Derry/Londonderry|author=Peter Shirlow, Brian Graham, Amanda McMullan, Brendan Murtagh, Gillian Robinson and Neil Southern|publisher=Office of the First Minister and Deputy First Minister|year=2005|accessdate=27 March 2008|format=PDF}}&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> しかし、地元のコミュニティや教会、政治指導者によるそれぞれの慣習に基づく努力で問題を解決しようとしていて、2006年10月に中心人物を共に招き、寛容さを促進するための会議が開催された&lt;ref name=&quot;Alienation conference&quot;&gt;{{cite news|url=http://news.bbc.co.uk/1/hi/northern_ireland/6060810.stm|title=Catholics urged to support neighbours|date=18 October 2006|publisher=BBC News|accessdate=28 August 2008}}&lt;/ref&gt;。{{仮リンク|デリー・アンド・ラフォー教区|en|Diocese of Derry and Raphoe}}に属する[[アイルランド国教会]]司教のドクター・ケン・グッド師はシティサイドに住んでいることを幸せに感じていると言っている上、「一部は感じているが、ここは自分の街であり、他のプロテスタント教徒にも全く同じことを感じることを奨励したい。」とも述べている&lt;ref name=&quot;Alienation conference&quot;/&gt;。&lt;!--<br /> <br /> 市内のプロテスタント教徒支援はかつて市長だった社会民主労働党の{{仮リンク|ヘレン・クイグリー|en|Helen Quigley}}が強化してきており、包容さと寛容さを市政の主要課題としていて、「市内で他宗派を悩ませたりその他暴力をふるうのを止めるために皆さんが立ち上がる時です。」と述べていた&lt;ref&gt;{{citation|url=http://www.derryjournal.com/editorial/Taking-a-stand.1620934.jp|title=Taking a Stand Derry Journal Editorial|date=11 July 2006|publisher=Derry Journal|accessdate=28 August 2008}}{{dead link|date=January 2014}}&lt;/ref&gt;。--&gt;<br /> <br /> ==経済==<br /> [[File:Du Pont Derry 2007 SMC.JPG|right|thumbnail|メイダウンにあるデュポン社の工場]]<br /> <br /> ===歴史===<br /> この地域の経済は近年まで織物産業に依存していた。長年、男性の多くの失業率が高かったのに対し女性たちの多くはシャツの工場しか賃金の得られる働き口がなく&lt;ref&gt;{{citation|url=http://www.recirca.com/backissues/c95/dwc.shtml|title=Women, art and architecture appear to have achieved a rare symbiosis in a new project in Derry|year=2001|publisher=Declan Sheehan CIRCA 95|accessdate=5 September 2006|archiveurl=https://web.archive.org/web/20060528155727/http://www.recirca.com/backissues/c95/dwc.shtml|archivedate=2006-05-28}}&lt;/ref&gt;、貴重な男性の流出に繋がっていった&lt;ref&gt;{{citation|url=http://www.bloodysundaytrust.org/eduhistory.htm|title=History of the Bogside|publisher=Bloody Sunday Trust|accessdate=5 September 2006|archiveurl=https://web.archive.org/web/20060823085030/http://www.bloodysundaytrust.org/eduhistory.htm|archivedate=2006年8月23日|deadlinkdate=2017年9月}}&lt;/ref&gt;。この街でのシャツ製造は1831年にまでさかのぼり、ウィリアム・スコット一家が始め、グラスゴーにシャツを出荷していた&lt;ref&gt;{{citation|url=http://www.geocities.com/historyofshirtmakinginderry/shirtmakinginderry.htm|title=Derrys association with shirt making|publisher=GeoCities.com|accessdate=5 September 2006|archiveurl=https://web.archive.org/web/20071225221059/http://www.geocities.com/historyofshirtmakinginderry/shirtmakinginderry.htm|archivedate=2007年12月25日|deadlinkdate=2017年9月}}&lt;/ref&gt;。50年の間、衣料品が全世界に輸出される中でこの街でのシャツ生産はイギリスにおいて最も多い生産量を誇った。これは[[カール・マルクス]]の[[資本論]]で工場システムについて論じてる際にこの産業に関して次のように触れている。:<br /> {{Blockquote|<br /> ロンドンデリーにあるティリー氏の工場では、自身の工場では労働者を1000人雇用するが、国中に散らばった9000人が自宅で内職している&lt;ref&gt;{{citation|url=http://www.econlib.org/library/YPDBooks/Marx/mrxCpAtoc.html|title=Capital: A Critique of Political Economy, Vol. I. The Process of Capitalist Production. Part IV, Chapter XV|authors=Karl Marx; Charles H. Kerr|year=1867|publisher=Co. Chicago|accessdate=5 September 2006|archiveurl=https://web.archive.org/web/20060821064500/http://www.econlib.org/library/YPDBooks/Marx/mrxCpAtoc.html|archivedate=2006年8月21日|deadlinkdate=2017年9月}}&lt;/ref&gt;<br /> }}<br /> <br /> この産業の最盛期は1920年代で約1万8000人が働いていたが&lt;ref name=Lacey/&gt;、近年アジア製の安価な衣料品が主な原因として織物産業は衰退していった&lt;ref&gt;{{citation|url=http://www.derryjournal.com/features/Thriving-industry-is-no-more.4184442.jp|title=Thriving industry is no more: Glory days of shirt factories recalled|date=13 June 2008|publisher=Derry Journal Online|accessdate=15 June 2008}}&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 1958年にメイダウンに工場を置いた[[デュポン]]社はロンドンデリーで初めて工場を建設した欧州資本企業で歴史の長い外資系雇用者である&lt;ref&gt;{{citation|url=http://heritage.dupont.com/touchpoints/tp_1958/depth.shtml|title=First European Plant&amp;nbsp;–1958|publisher=heritage.dupont.com.|accessdate=5 September 2006|archiveurl=https://web.archive.org/web/20060317060124/http://heritage.dupont.com/touchpoints/tp_1958/depth.shtml|archivedate=2006年3月17日|deadlinkdate=2017年9月}}&lt;/ref&gt;。もともと[[クロロプレンゴム|ネオプレン]]はメイダウンで生産していたが、その後[[クロロスルホン化ポリエチレン|ハイパロン]]を生産した。直近では[[スパンデックス|ライクラ]]や[[ケブラー]]の生産を始めた&lt;ref&gt;{{citation|url=http://www.northernireland.gov.uk/|title=Du Pont (UK) Ltd|publisher=Northern Ireland Executive|accessdate=5 September 2006}}&lt;/ref&gt;。この工場で生産されるケブラーへの世界的に大きい需要のおかげで、この工場は最近世界的なケブラー生産を拡張するために4,000万ポンドの改築を行った。デュポンはメイダウンへ継続的に取り組く主な理由として「人件費の安さ、優れた交流、無関税、イギリスと欧州大陸への容易なアクセス」と述べている。<br /> <br /> ===対内投資===<br /> [[File:Seagate building Derry 2005.jpg|right|thumbnail|シーゲイトの生産工場]]<br /> 最近の15年間、市内での対内投資を増加させており、より最近ではデジタル産業に集中させている。現在規模で上位3社の民間企業雇用者がアメリカ企業である&lt;ref&gt;{{citation|url=http://www.state.gov/s/p/rem/13319.htm|title=U.S.-Irish Business Summit|last=N. Haass|first=Richard|date=6 September 2002|publisher=Richard N. Haass, director, Policy Planning Staff, Remarks to the US&amp;nbsp;– Irish Business Summit, Washington, D.C.|accessdate=5 September 2006|archiveurl=https://web.archive.org/web/20060901165901/http://www.state.gov/s/p/rem/13319.htm|archivedate=2006年9月1日|deadlinkdate=2017年9月}}&lt;/ref&gt;。1993年からスプリングタウン工場地区に工場を稼働している[[シーゲイト・テクノロジー]]によるコールセンターや大規模投資などがこの街での経済的成功で、現在シーゲートは1000人以上雇用しており、[[ハードディスクドライブ]]の読み書きヘッドの総必要数の半分以上を生産している。<br /> <br /> 最近かつ問題が起きている新たな雇用主が[[レイセオン]]で、1999年アルスター・サイエンス・アンド・テクノロジー・パークにレイセオン・システムズ・リミテッドを設立したが&lt;ref&gt;{{cite news|url=http://news.bbc.co.uk/2/hi/uk_news/northern_ireland/428973.stm|title=UK: Northern Ireland Software centre plans under fire|date=25 June 1999|publisher=BBC|accessdate=15 December 2009}}&lt;/ref&gt;、一部住民は新たな雇用として歓迎したものの、同地域の他住民は[[軍需産業]]に深く関与する企業が提供する事業に反対した&lt;ref&gt;{{cite news|url=http://news.bbc.co.uk/2/hi/uk_news/northern_ireland/2886611.stm|title=Protest over NI missile firm|date=25 March 2003|publisher=BBC|accessdate=27 August 2006}}&lt;/ref&gt;。フォイル・エシカル・インベストメント・キャンペーン(Foyle Ethical Investment Campaign)による4年間の反対運動によって、2004年デリー市議会は「A &#039;No – Go&#039; Area for the Arms Trade」という軍需産業を受け入れない宣言を決議した&lt;ref&gt;{{citation|url=http://www.indymedia.ie/article/62917|title=Derry City Now A &#039;No&amp;nbsp;– Go&#039; Area for the Arms Trade|date=8 January 2004|publisher=www.indymedia.ie|accessdate=19 July 2006}}&lt;/ref&gt;。2009年、レイセオンは2010年で切れる土地契約を更新せず、事業を行う新たな場所を模索することを発表した&lt;ref&gt;{{citation|url=http://www.londonderrysentinel.co.uk/news/Raytheon-looks-for-new-home.5381105.jp|title=Raytheon looks for new home|date = 19 June 2009|publisher=[[Londonderry Sentinel]]|accessdate=15 December 2009}}&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 市内で雇用主になっている多国籍企業にはインドのファーストソース、アメリカ合衆国のデュポン、{{仮リンク|インビスタ|en|INVISTA}}、ストリーム・インターナショナル、シーゲイト・テクノロジー、パーフェクシール、{{仮リンク|アルキーバ|en|Arqiva|label=NTL}}、レイセオン、{{仮リンク|ノースブルック・テクノロジー|en|orthbrook Technology&lt;!-- 存在せずリンク元がない --&gt;|FIXME=1}}、ドイツのアーンツ・ベルティング、インビジョン・ソフトウェア、イギリスのホームローン・マネジメントがある。大手地元資本企業には、北アイルランドの最大手個人経営企業で衣服の製造やソーシングを行っているデズモンド(Desmonds)、E&amp;Iエンジニアリング、{{仮リンク|セイント・ブレンダンズ|en|Saint Brendan&#039;s|label=セイント・ブレンダンズ・アイリッシュクリームリカー}}、イギリスにおける倒産関連業務最大手の1社であるマッケンブリッジ・ダッフィーがある&lt;ref&gt;{{citation|url=http://www.derrycity.gov.uk/economicdevelopment/downloads/1709M%20DERRY%20BOOK.pdf|title=Derry&amp;nbsp;&amp;nbsp;– Regional City|publisher=Derry City Council|accessdate=8 April 2008|format=PDF|archiveurl=https://web.archive.org/web/20080406154351/http://www.derrycity.gov.uk/economicdevelopment/downloads/1709M%20DERRY%20BOOK.pdf|archivedate=2008-04-06}}&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> また、この街は西欧の基準による安価な労働力を提供しているが、評論家は北アイルランド産業開発委員会(Northern Ireland Industrial Development Board)が出した補助金は資金が続く限り仕事を得るための援助となったと論じている&lt;ref&gt;{{citation|url=http://www.marxist.net/ireland/beyondframe.htm?ch8.htm|title=Beyond the Troubles? – Chapter 8, Will there be peace?|last=Hadden|first=Peter|year=1994|publisher=Marxist|accessdate=5 September 2006}}&lt;/ref&gt;。これは1990年に{{仮リンク|リチャード・ニードハム|en|Richard Needham}}による北アイルランド[[政務次官 (イギリス)|政務次官]]への疑問に反映されていて&lt;ref&gt;{{citation|url=http://www.parliament.the-stationery-office.co.uk/pa/cm198990/cmhansrd/1990-03-01/Orals-1.html|title=House of Commons&amp;nbsp;– Column 372 &amp; 373|date=1 March 1990|publisher=House of Commons|accessdate=5 September 2006|archiveurl=https://web.archive.org/web/20060302111209/http://www.parliament.the-stationery-office.co.uk/pa/cm198990/cmhansrd/1990-03-01/Orals-1.html|archivedate=2006年3月2日|deadlinkdate=2017年9月}}&lt;/ref&gt;、北アイルランドにおいてアメリカ企業による雇用創出に3万ポンド掛かったと論じられている。<br /> <br /> この地域の投資決定で批判されることが多いのがアルスター大学{{仮リンク|マギー・カレッジ|en|Magee College}}の開発ではなく{{仮リンク|コルレイン|en|Coleraine}}近く(プロテスタントが多い)に新たな大学を建設するという決定で、その他政府による決定でこの都市に影響を与えたのはベルファスト郊外にあるクレイガボンに新たな町を建設することで、この都市の発展に再度悪い影響を与えるものだった。2005年10月においても主な公務員がベルファストに赴任するという仕事の契約という比較的貧困な北西部への偏見が露呈した。社会民主労働党党首でフォイル選挙区選出市議会議員の{{仮リンク|マーク・ダーカン|en|Mark Durkan}}はベルファスト・テレグラフにて次のように語っている。:<br /> <br /> {{Blockquote|<br /> この事実は北西部に対する一貫とした過小投資でバン(Bann)西部を支援するために市民サービスを一部渋っているが、増加していると評価した場合を除き、我々と同等に扱っている。<br /> }}<br /> <br /> 2005年7月、アイルランドの[[ブライアン・カウエン]]財務相は越境地域の経済成長を促進するためのジョイントタスクフォースを呼びかけた。これは国境地域のロンドンデリー州、タイロン州、ドニゴール州との密接な関係を意味していた。<br /> <br /> ===ショッピング===<br /> [[File:Austins 2007 SMC.jpg|thumb|upright|オースティンズ百貨店&lt;!--[[Austins of Derry|Austins]] department store--&gt;]]<br /> 市の北西部にある有数のショッピング地区は2つの大規模ショッピングセンターがあり、周辺のとおりに数多くの商店が軒を連ねていて、タイロン州、ドニゴール州といった州の多くからの買い物客で賑わっている。2009年における[[スターリング・ポンド]]安はロンドンデリーのような国境の街を国境からの買い物客にとって魅力的にした&lt;ref&gt;{{cite news|url=http://www.belfasttelegraph.co.uk/news/local-national/poundrsquos-record-low-to-bring-a-swarm-of-euro-shoppers-14105210.html|title=Pound&#039;s record low to bring a swarm of euro shoppers|date=12 December 2008|work=Belfast Telegraph|accessdate=9 November 2009}}&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;{{cite news|url=http://www.belfasttelegraph.co.uk/business/business-news/northern-irelandrsquos-border-retailers-gear-up-for-a-euro-boost-this-christmas-14547191.html|title=Northern Ireland&#039;s border retailers gear up for a euro boost this Christmas|date=2 November 2009|work=Belfast Telegraph|accessdate=9 November 2009}}&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 市の中心部には2つの主要なショッピングセンターがあり、{{仮リンク|フォイルサイドショッピングセンター|en|Foyleside Shopping Centre}}には45軒の店舗に1,430台分の駐車場があり、{{仮リンク|リッチモンドセンター (ロンドンデリー)|en|Richmond Centre (Derry)|label=リッチモンドセンター}}にも39軒の店舗がある。また、キーサイドショッピングセンター(Quayside Shopping Centre)もシティサイドに、リスネイゲルヴィンショッピングセンター(Lisnagelvin Shopping Centre)はウォーターサイドにある。これらのショッピングセンターだけでなく、地元資本や国内系、外資系の店舗も多い。さらにウォーターサイドにある{{仮リンク|クレセント・リンク・リテール・パーク|en|Crescent Link Retail Park}}にはホームベース、カリーズ・アンド・PCワールド(店舗が合体している)、カーペット・ライト、マプリン、アーゴス・エクストラ・トイザらス、ハルフォーズ、DWスポーツ(旧JJBスポーツ)、ペッツ・アット・ホーム、ネクストホーム、スターバックス、マクドナルド、テスコエクスプレス、M&amp;Sシンプリー・フードといった多くの世界的チェーンストアが出店していて、開業から短期間で北アイルランドにおける2番目の規模を持つショッピングパークに急成長した(最大規模はリスバーンにあるスプルースフィールド)&lt;ref name=&quot;Crescent&quot;&gt;{{citation|url=http://www.derryjournal.com/business/Crescent-Link-Retail-Park-bought.3462253.jp|title=Crescent Link Retail Park bought for £92 m|date=9 November 2007|publisher=Derry Journal Online|accessdate=15 June 2008}}&lt;/ref&gt;。アスダもこのショッピングパークにホームベースと共有する形でロンドンデリーに初出店する計画が承認され&lt;ref&gt;{{cite news|url=http://www.belfasttelegraph.co.uk/business/news/derrys-first-asda-store-to-create-350-jobs-29007917.html|title=Derry&#039;s first Asda store to create 350 jobs|date=22 December 2012|work=Belfast Telegraph|accessdate=31 December 2013}}&lt;/ref&gt;、セインズベリーズもクレセント・リンクに出店しようとしたが、環境大臣の{{仮リンク|アレックス・アットウッド|en|Alex Attwood}}によって却下された&lt;ref&gt;{{cite news|url=http://www.bbc.co.uk/news/uk-northern-ireland-foyle-west-20812156|title=Attwood gives ASDA green light for new Londonderry store|date=21 December 2012|work=BBC News|accessdate=31 December 2013}}&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> また、1830年に開業した世界最古の独立系百貨店であるオースティンズも市内にあり、[[エディンバラ]]の{{仮リンク|ジェナーズ|en|Jenners}}より5年、ロンドンの[[ハロッズ]]より15年、[[ニューヨーク]]の[[メイシーズ]]より25年先に開業している&lt;ref&gt;{{citation|url=http://www.austinsstore.com/Pages/about_us/austins_in_brief |title=Austins in Brief |publisher=Austinsstore.com |accessdate=20 June 2010|archiveurl=https://web.archive.org/web/20090817121617/http://www.austinsstore.com/Pages/about_us/austins_in_brief|archivedate=2009-08-17}}&lt;/ref&gt;。オースティンズの5階建て{{仮リンク|エドワード時代|en|Edwardian era|label=エドワード様式}}建築物はザ・ダイアモンドとして知られる地域にある城壁都市内部に位置している。<br /> <br /> ==ランドマーク==<br /> [[File:St Eugene&#039;s Cathedral, August 2009.JPG|right|thumb|聖ユージーン大聖堂]]<br /> [[File:Bishop Street Courthouse, Derry - Londonderry - geograph.org.uk - 174216.jpg|right|thumb|ビショップ・ストリート・コートハウス]]<br /> [[File:Long Tower Church, August 2009.JPG|right|thumb|ロングタワー教会]]<br /> ロンドンデリーは建築物でも名高く、現代の都市中心部にあるデリーの歴史的な城壁都市の正式な計画に帰することができ、これは大通り(シップキー通り、フェリーキー通り、ブッチャー通り、ビショップ通り)から城門までの格子線に現存している後期ジョージア式、{{仮リンク|ビクトリア式建築|en|Victorian architecture|label=ビクトリア式}}、{{仮リンク|エドワード式建築|en|Edwardian architecture|label=エドワード式}}建築物群と共にあるダイアモンドの中心に配置されている。しかし、アイルランド国教会の大聖堂である聖コロンブス大聖堂は市の性格を補強する格子状パターンに従っておらず、[[聖公会]]の大聖堂として初めて{{仮リンク|イギリス宗教改革|en|English Reformation|label=宗教改革}}後に建てられた大聖堂である。ボグサイドにあるローマ・カトリックの{{仮リンク|聖ユージーン大聖堂|en|St Eugene&#039;s Cathedral}}は19世紀に建設されていて、市内における別の主要な建築物になっている。タウンスケープ・ヘリテージ・イニシアチブは主要登録建築物やその他古い構造物の修復作業に資金援助している。<br /> <br /> 街の建設から三世紀の間、城壁は都市が変化することによる需要を満たすように適応されており、もっとも良い適応例は19世紀のうちにキャッスル・ゲート、ニュー・ゲート、マガジン・ゲートという3つの門を城壁に新設したことである。今日、要塞は都市中心部周辺を囲う途切れのない遊歩道を形成している上大砲が完全な形で装備されていて、成熟した樹木の通りがありロンドンデリー全体を見渡せる。城壁の中にある歴史的建造物には元々修道院があった場所の近くにある聖オーガスティン教会、世界最古の百貨店と言われていて銅製の円屋根があるオースティン百貨店、ビショップ通りには堂々とした貫禄のあるグリーク・リバイバル・コートハウスがある。赤レンガでできている後期ビクトリア建築の{{仮リンク|ギルドホール (ロンドンデリー)|en|Guildhall, Derry|label=ギルドホール}}も銅製の円屋根で覆われていて、ちょうどシップキー・ゲートの向こうにある水辺空間の近くにある。<br /> <br /> また、数ある博物館やその他市内や周辺の名所として、フォイル・バレー・レイルウェイ・センター、[[アメリア・イアハート]]・センター、ワイルドライフ・サンクチュアリー、徒弟少年団メモリアルホール、{{仮リンク|バリーオーン墓地|en|Ballyoan Cemetery}}、ザ・ボグサイド、{{仮リンク|ボグサイド・アーティスツ|en|Bogside Artists}}による数多くの壁画、デリー・クラフト・ヴィレッジ、フリー・デリー・コーナー、オドアティ・タワー(現在タワー博物館の一部になっている)、ギルドホール、ハーバー博物館、フリー・デリー博物館、チャプター・ハウス博物館、ワークハウス博物館、{{仮リンク|ナーブ・センター (団体)|en|Nerve Centre (organisation)|label=ナーブ・センター}}、聖コロンブスパーク・アンド・レジャーセンター、聖ユージーン大聖堂、クレガン・カントリー・パーク、{{仮リンク|ザ・ミレニアム・フォーラム|en|The Millennium Forum}}、フォイル橋やクレイガヴォン橋といった橋梁がある。<br /> <br /> 他の魅力として、博物館や活況を呈するショッピングセンターがあり、[[ジャイアンツ・コーズウェー]]観光でも知られるが約80km離れていて公共交通機関が貧弱である。[[ロンリープラネット]]は2013年にロンドンデリーを世界で最も良い都市の4位に選出した&lt;ref&gt;{{citation|url=http://www.bbc.co.uk/news/uk-northern-ireland-foyle-west-20039650|title=Londonderry &#039;world&#039;s fourth best city to visit&#039; in 2013|publisher=BBC News |date=23 October 2012 |accessdate=28 October 2012}}&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 未来に向けた都市計画として、ウォールド・シティ・シグネイチャー・プロジェクトでは城壁を世界的な観光資源にしようと計画されている&lt;ref&gt;{{citation |url=http://www.nitb.com/article.aspx?ArticleID=809 |title=Walled City of Derry&amp;nbsp;– Signature Project |archiveurl=https://web.archive.org/web/20080202030606/http://www.nitb.com/article.aspx?ArticleID=809 |archivedate=2008年2月2日 |deadlinkdate=2017年9月 }} The Industry Website of the Northern Ireland Tourist Board. Retrieved 10 September 2006.&lt;/ref&gt;。アイレックス・アーバン・リジェネレーション・カンパニーは複数のランドマーク再開発事業を手がけていて、市の中心部にある2つの英国陸軍旧兵舎を管理している。<br /> <br /> ==交通==<br /> [[File:Foyle bridge, railside.jpg|thumb|right|フォイル橋を渡るロンドンデリー発ベルファスト行きの鉄道路線]]<br /> 交通網は市や州全体に行き渡っている古いものや新しいもの入り混じった道路や鉄道の複雑な路線網で成り立っている。市の道路網はクレイガボン橋とアイルランド島で一番長いフォイル橋というフォイル川を渡る2つの橋を使っている。また、ロンドンデリーはドニゴール州近辺の観光にとって主要な交通拠点となっている。<br /> <br /> ロンドンデリーは北アイルランドにおいて第2の都市(アルスターの全都市においても2番めに大きい)になっているにもかかわらず、他都市への道路や鉄道の接続は都市の規模に見合わないほど劣っている。多くの企業経営者は政府による都市やインフラへの投資がひどく不足していると主張していて、原因として市の近隣、特にカトリック教徒が多いバン川西岸地区に対する[[セクト主義]]的偏見と指摘している&lt;ref&gt;{{citation|url=http://cain.ulst.ac.uk/events/derry/bac.htm|title=The Derry March&amp;nbsp;– Background Information|date=23 March 2003|publisher=CAIN Web Service|accessdate=5 September 2006}}&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;{{citation|url=http://www.irelandseye.com/aarticles/history/events/conflict/bttc4.shtm|title=NORTHERN IRELAND DURING THE 1960s|publisher=Irelandseye.com, 1999–2006|accessdate=5 September 2006}}&lt;/ref&gt;。さらに[[ダブリン]]やベルファストへ直接行かれる自動車道も存在しない。ベルファスト行きの鉄道路線も長年にわたって劣化していて、現在産業が頼っている道路の有効な代替手段になっていないため、地区内や周辺にある劣化した交通インフラに1億ポンド投資する計画がある&lt;ref name=eGov&gt;{{cite news|url=http://www.egovmonitor.com/node/19373|title=Over £1billion transport investment planned for North West in Northern Ireland|publisher=eGov Monitor|date=13 June 2008|accessdate=18 June 2008|archiveurl=https://web.archive.org/web/20090112205513/http://www.egovmonitor.com/node/19373|archivedate=2009年1月12日|deadlinkdate=2017年9月}}&lt;/ref&gt;。また、[[ベルファスト合意]]の一環として承認された{{仮リンク|A5号線 (北アイルランド)|en|A5 road (Northern Ireland)|label=A5号線}}を改良でダブリンまで接続する計画やセント・アンドリュースでの交渉は最近の経済危機でアイルランド共和国政府が予算投入しなかったため頓挫した&lt;ref name=a5bbc&gt;{{cite news|url=http://www.bbc.co.uk/news/uk-northern-ireland-15658959|title=Irish government pulls £400m A5 upgrade funding|publisher=BBC|date=9 November 2011|accessdate=22 October 2012}}&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> ===バス路線===<br /> 北アイルランドにおけるほとんどの公共交通機関は{{仮リンク|トランスリンク (北アイルランド)|en|Translink (Northern Ireland)|label=トランスリンク}}の子会社によって運営されている。当初の市内路線バスは{{仮リンク|アルスターバス|en|Ulsterbus}}が運営していて現在は同じ北アイルランドにある他の町行きの路線を運営している。現在市バスは{{仮リンク|アルスターバス・フォイル|en|Ulsterbus Foyle}}が運営している&lt;ref&gt;{{citation|url=http://www.translink.co.uk/20060904newulsterbusfoyle.asp|title=The launch of Ulsterbus Foyle|publisher=Translink|accessdate=22 September 2006|archiveurl=https://web.archive.org/web/20070311165354/http://www.translink.co.uk/20060904newulsterbusfoyle.asp|archivedate=2007年3月11日|deadlinkdate=2017年9月}}&lt;/ref&gt;のと同時に、{{仮リンク|メトロ (ベルファスト)|en|Metro (Belfast)|label=トランスリンク・メトロ}}は現在ベルファストの路線バスを運営している。アルスターバス・フォイルは、イージバス(Easibus)が運営しているウォーターサイドと{{仮リンク|ドラマホー|en|Drumahoe}}を結ぶ路線を除く市内と郊外を結ぶ13の路線でバスを運行していて&lt;ref name=translinkFoyle&gt;{{citation|url=http://www.translink.co.uk/present/IndexOpSvc.asp#FOY|title=Foyle Area Ulsterbus routes|accessdate=15 June 2008|archiveurl=https://web.archive.org/web/20080527090847/http://www.translink.co.uk/present/IndexOpSvc.asp#FOY|archivedate=2008年5月27日|deadlinkdate=2017年9月}}&lt;/ref&gt;、レイルリンクバスがウォーターサイド駅から市中心部行きの無料バスを運行している。全てのバスは市中心部にあるフォイル・ストリート・バスステーションから出発している。<br /> <br /> フォイル・ストリート・バスステーションからアイルランド島中の目的地に行く長距離バスがあり、国境を超える路線はアルスターバスと{{仮リンク|バス・エールン|en|Bus Éireann}}の両社が運営している。かつて{{仮リンク|ロンドンデリー・アンド・ラフ・スウィリー鉄道|en|Londonderry and Lough Swilly Railway|label=ラフ・スウィリー}}がドニゴール州行きのバスを運営していたが、会社が精算されたため運営を終了した。また、メイデン・シティ・フライヤーと呼ばれる毎日30分単位でベルファストに行く路線がありゴールドライン・エクスプレスの旗艦路線である。1時間単位で{{仮リンク|ストラバン|en|Strabane}}、[[オマー]]、{{仮リンク|コルレイン|en|Coleraine}}、{{仮リンク|レタケニー|en|Letterkenny}}、{{仮リンク|バンクラナ|en|Buncrana}}に行く路線や、[[スライゴ]]、[[ゴールウェイ]]、[[シャノン空港]]、[[リムリック]]へ毎日運行する路線もある。<br /> <br /> ===空路===<br /> {{Main|シティ・オブ・デリー空港}}<br /> イグリントン近くにある公営のシティ・オブ・デリー空港は近年躍進を見せており、滑走路の拡張への投資やターミナル改築計画が存在する&lt;ref&gt;{{citation|url=http://www.4ni.co.uk/industrynews.asp?ID=38867|title=Story of investment – £10 million investment in City of Derry Airport.|publisher=4ni.co.uk|accessdate=22 September 2006}}&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> メイダウンと空港があるイグリントンを結ぶ{{仮リンク|A2号線 (北アイルランド)|en|A2 road (Northern Ireland)|label=A2号線}}は最近{{仮リンク|デュアル・キャリッジウェイ|en|dual carriageway|label=中央分離帯を設けた高速道路}}になった&lt;ref&gt;{{citation|url=http://www.wesleyjohnston.com/roads/a2maydowndualling.html |title=A2 dualling Maydown to City of Derry airport – Northern Ireland Roads Site |publisher=Wesleyjohnston.com |accessdate=20 June 2010}}&lt;/ref&gt;。シティ・オブ・デリー空港はドニゴール州、ロンドンデリー州、タイロン州だけでなくロンドンデリー自身にとって主要な地域空港となっている。<br /> <br /> [[ライアンエアー]]が[[バーミンガム国際空港]]、{{仮リンク|グラスゴー・プレストウィック空港|en|Glasgow Prestwick Airport}}、[[リバプール・ジョン・レノン空港]]、[[ロンドン・スタンステッド空港]]行きの通年定期便や[[アリカンテ]]、[[ファロ]]行きの夏季限定便を運行していて、2014年には[[TUIフライ・ドイッチュラント]]が[[マヨルカ島]]行きの夏季チャーター便を運行した。<br /> <br /> ===鉄道===<br /> [[ノーザン・アイルランド・レイルウェイズ]] (N.I.R.)はウォーターサイドにある{{仮リンク|ロンドンデリー駅|en|Londonderry railway station}}(別名ウォーターサイド駅)から{{仮リンク|コルレイン駅|en|Coleraine railway station}}、{{仮リンク|バリーマネー駅|en|Ballymoney railway station}}、{{仮リンク|バリーメナ駅|en|Ballymena railway station}}、{{仮リンク|アントリム駅|en|Antrim railway station}}、{{仮リンク|モズリー・ウエスト駅|en|Mossley West railway station}}、[[ベルファスト・セントラル駅]]を経由して[[ベルファスト・グレート・ヴィクトリア・ストリート駅]]へ行く路線を運営しているが、1990年代に劣化が目立つようになったため予算を投入して改善した。<br /> <br /> 2008年、地域開発省(Department for Regional Development)はロンドンデリーとコルレイン間の線路を再敷設し、輸送量を増加させるために[[列車交換]]線を新設し、2両の[[気動車]]を導入することで列車数を増やす計画を発表した&lt;ref name=RailUpgrade&gt;{{cite news |url=http://www.irishnews.com/articles/540/5860/2008/6/12/590126_34824869487716386&amp;nbsp;m.html |title=£86&amp;nbsp;m upgrade to rail link will &#039;take half an hour off journey&#039; |last=McKinney |first=Seamus |date=12 June 2008 |publisher=[[The Irish News]] |accessdate=14 June 2008}}&lt;/ref&gt;。この8,600万ポンドの計画でベルファストへの所要時間を30分削減し、通勤電車が朝9時より前までに到着できるようになるとしている&lt;ref name=RailUpgrade/&gt;。多くの人が鉄道を利用しないのは市中心部同士を1時間40分で結ぶアルスターバス・ゴールドライン・エクスプレスよりも2時間以上所要時間がかかるためである&lt;ref&gt;{{citation |url=http://www.nibusinessinfo.co.uk/bdotg/action/detail?site=191&amp;type=RESOURCES&amp;itemId=5000218567 |title=Doing business in County Londonderry |accessdate=15 June 2008}}&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> ====鉄道史====<br /> [[File:Map Rail Ireland Viceregal Commission 1906.jpg|thumb|1906年時点のアイルランド島の鉄道網]]<br /> 20世紀前半の間は市内からアルスター地域のほとんどの都市を4つの異なる鉄道で接続していて、他の4路線に接続する港湾鉄道網もあった。さらに、フォイル川のシティサイドではトラムウェイも運行していた。<br /> <br /> =====19世紀、20世紀の発展=====<br /> ロンドンデリーで初めて運行された鉄道は{{仮リンク|5フィート3インチ軌間|en|5 ft 3 in gauge railways|label=アイルランド軌間}}({{RailGauge|5ft3in}})である{{仮リンク|ロンドンデリー・アンド・エニスキレン鉄道|en|Londonderry and Enniskillen Railway}} (L&amp;ER)で、1845年に建設が開始され、一時的な駅としてフォイル川のシティサイドに{{仮リンク|ロンドンデリー・カウ・マーケット駅|en|Londonderry Cow Market railway station}}が置かれ、1847年にストラバーンにまで達し&lt;ref name=Hajducki3&gt;{{cite book |last=Hajducki |first=S. Maxwell |authorlink= |year=1974 |title=A Railway Atlas of Ireland |location=Newton Abbott |publisher=[[David &amp; Charles]] |isbn=0-7153-5167-2 |at=map 3}}&lt;/ref&gt;、1850年にカウ・マーケット駅から恒久的な終点であるフォイルサイドまで延長&lt;ref name=Hajducki2&gt;Hajducki, &#039;&#039;op. cit.&#039;&#039;, inset to map 2&lt;/ref&gt;、1852年にオマーまで、1854年にエニスキレンまで達したが&lt;ref name=Hajducki2/&gt;、1883年に{{仮リンク|グレート・ノーザン鉄道 (アイルランド)|en|Great Northern Railway (Ireland)|label=グレート・ノーザン鉄道}}に吸収された&lt;ref&gt;{{cite book |last=Patterson |first=Edward M |year=1962 |title=The County Donegal Railways |publisher=[[David &amp; Charles]] |location=Dawlish |pages=10–11}}&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> {{仮リンク|ノーザン・カウンティーズ委員会|en|Northern Counties Committee|label=ロンドンデリー・アンド・コルレイン鉄道}} (L&amp;CR)もアイルランド軌間であり、1852年に終点であるウォーターサイドまで達して開業した&lt;ref name=Hajducki2/&gt;。[[ノーザン・カウンティーズ委員会|ベルファスト・アンド・ノーザン・カウンティーズ鉄道]]が1861年にこの路線をリースし、1871年に引き継いだ。<br /> <br /> 1863年にロンドンデリー・アンド・ラフ・スウィリー鉄道(L&amp;LSR)がラフ・スィリーのファーランド・ポイントと一時的な終点であるペニーバーン間で開業し&lt;ref name=Hajducki2/&gt;、1866年にペニーバーンから恒久的な終点であるグレイビング・ドックまで延長された&lt;ref name=Hajducki2/&gt;。L&amp;LSRは1885年までアイルランド軌間だったが、レターケニー鉄道が乗り入れるにあたり{{RailGauge|3ft}}の[[狭軌]]に改軌された。<br /> <br /> 1867年にグレイビング・ドックからミドル・キー経由でフォイル・ロード駅へ繋ぐ[[ロンドンデリー港|ロンドンデリー港湾施設委員会鉄道]] (LPHC)が開業し、1868年に新しいカーライル橋を渡る形でウォーターサイド駅まで延伸した&lt;ref name=Hajducki2/&gt;。このカーライル橋は1933年に二重橋であるクレイガボン橋に置き換えられ、LPHC鉄道は下部を通ることになった。<br /> <br /> 1900年に{{RailGauge|3ft}}の軌間である{{仮リンク|ドニゴール州鉄道合同委員会|en|County Donegal Railways Joint Committee|label=ドニゴール鉄道}}がストラバーンからロンドンデリーまで延伸し、{{仮リンク|ロンドンデリー・ヴィクトリア・ロード駅|en|Londonderry Victoria Road railway station|label=ヴィクトリア・ロード駅}}に終点が設けられたが、ヴィクトリア・ロード駅はカーライル橋の隣にあり、LPHC鉄道の連絡駅だった&lt;ref name=Hajducki2/&gt;。LPHC線はドニゴール鉄道やL&amp;LSR間だけでなくアイルランド軌間のGNRやB&amp;NCR間の通行が可能になる{{RailGauge|3ft}}の軌間に対応した[[三線軌条]]に改造された。1906年、ノーザン・カウンティーズ委員会 (NCC、B&amp;NCRの後継)とGNRはドニゴール州鉄道を共同で傘下に収め、ドニゴール州鉄道合同委員会 (CDRJC)を立ち上げた。<br /> <br /> イギリス政府はドニゴール州最奥部までの長距離鉄道を建設するためにL&amp;LSRとドニゴール鉄道を買収し、1905年までに州のほとんどに鉄道を張り巡らせ&lt;ref&gt;Hajducki, &#039;&#039;op. cit.&#039;&#039;, maps 2, 3 &amp; 6&lt;/ref&gt;ロンドンデリーやストラバーンを州の主要鉄道ハブ都市にした。<br /> <br /> 1897年に{{仮リンク|シティ・オブ・デリートラムウェイ|en|City of Derry Tramways}}が開業&lt;ref name=HajduckiXVII&gt;Hajducki, &#039;&#039;op. cit.&#039;&#039;, page xvii&lt;/ref&gt;、[[標準軌]] ({{RailGauge|sg}})の[[馬車鉄道]]として運行され電化されることはなく&lt;ref name=HajduckiXVII/&gt;、全長2.4kmの単線のみでフォイル川のシティサイド沿いに走り、LPHCの川側にある鉄道と平行していたが&lt;ref&gt;Hajducki, &#039;&#039;op. cit.&#039;&#039;, map 3&lt;/ref&gt;、1919年に運行を終了した&lt;ref name=HajduckiXVII/&gt;。<br /> <br /> =====20世紀の衰退=====<br /> 1922年の{{仮リンク|アイルランド島分割|en|partition of Ireland}}によってドニゴール州は外国の領土になったため取引パターンが変わり鉄道に損害を与え、コルレイン駅行きのNCC路線を除くロンドンデリーを起終点とする路線ごとに国境標識を設置せざるを得なかった&lt;ref name=Hajducki3/&gt;。L&amp;LSRもペニーバーンとブリッジ・エンド間で、CDRJCはストラバーンをちょうど越えたあたりで、GNR線はロンドンデリーとストラバーンの間を2度も国境をまたぐようになった&lt;ref name=Hajducki3/&gt;。また、税関検査での停車で列車の遅れが大きくなり、時間管理で揉めるようになっていった。<br /> <br /> 数年後、税関に関する二国間協定が結ばれ、ロンドンデリーを起終点とするGNRの列車はフォイル川西岸の駅への定期便で無い限を検査なしでアイルランド自由国を通過できるようになり、全路線上の荷物も北アイルランドの{{仮リンク|保税倉庫&lt;!-- リダイレクト先の「[[保税地域]]」は、[[:en:Customs area]] とリンク --&gt;|en|Bonded warehouse|label=税関倉庫|FIXME=1}}の管理に入ること無くアイルランド自由国の異なる場所との間で輸送できるようになったが、税関検査でによる物流の遅延は続いていた。<br /> <br /> 1920年代、1930年代、そして第二次世界大戦後と鉄道は道路との競争激化に直面するようになり、1953年にL&amp;LSRが、1954年にCDRJCが廃線した&lt;ref name=Hajducki39&gt;Hajducki, &#039;&#039;op. cit.&#039;&#039;, map 39&lt;/ref&gt;。{{仮リンク|アルスター交通局|en|Ulster Transport Authority}} (UTA)は1949年にNCCを、1958年にGNRの北アイルランドにある路線を買収した。さらにLPHCの路線も買収したが1962年に廃線となった&lt;ref name=Baker209&gt;{{cite book |last=Baker |first=Michael H.C. |authorlink= |year=1972 |title=Irish Railways since 1916 |location=London |publisher=[[Ian Allan]] |isbn=0711002827 |page=209}}&lt;/ref&gt;。1963年に北アイルランド政府によって承認された[[アルスター交通局#ベンソン報告書|ベンソン報告書]]に従ってUTAは1965年にGNRのロンドンデリー行きの路線を廃止した&lt;ref name=Hajducki39/&gt;&lt;ref name=Baker209/&gt;&lt;ref&gt;Baker, &#039;&#039;op. cit.&#039;&#039;, page 155&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 1965年以降ロンドンデリーに接続する路線はL&amp;CRの路線のみとなった。故にロンドンデリーとベルファスト間の旅客輸送のみならず、[[CIÉ]]による貨物輸送もドニゴール州向けにロンドンデリーを起終点して活用している。<br /> <br /> ===道路網===<br /> 2010年に、道路への北西部の歴史上最大規模の投資として「メイダウンとシティ・オブ・デリー空港間を結ぶ、中央分離帯のあるA2号線の広大橋梁(A2 Broadbridge Maydown to City of Derry Airport dualling)」を建設するプロジェクトの実行&lt;ref&gt;{{citation|url=http://www.drdni.gov.uk/index/roadimprovements/schemes/a2_broadbridge.htm |title=A2 BroadBridge Maydown to City of Derry Airport Dualling |publisher=Department for Regional Development |accessdate=2015-04-14}}&lt;/ref&gt;、「ロンドンデリーとダンギブン間のA6号線中央分離帯新設計画(A6 Londonderry to Dungiven Dualling Scheme)&lt;ref&gt;{{citation|url=http://roadimprovements.roadsni.gov.uk/index/schemes/londonderry-dungiven.htm |title=A6 Londonderry to Dungiven Dualling Scheme &amp;#124; Road Improvements &amp;#124; Road Service Northern Ireland |publisher=Roadimprovements.roadsni.gov.uk |accessdate=20 June 2010|archiveurl=https://web.archive.org/web/20100503192755/http://roadimprovements.roadsni.gov.uk/index/schemes/londonderry-dungiven.htm|archivedate=2010-05-03}}&lt;/ref&gt;を発表、ベルファストへの所要時間を短縮することが可能になるという&lt;ref&gt;{{citation |url=http://www.wesleyjohnston.com/roads/a6dungiventoderry.html |title=75% of the journey upon completion will be on either High Quality Dual Carriageway or Motorway Standard Roads. |publisher=www.wesleyjohnston.com/roads |accessdate=22 September 2006}}&lt;/ref&gt;。後者のプロジェクトは北アイルランドの最大級都市間をデュアル・キャリアージウェイで結ぶことに一歩近づいた。3億2,000万ポンドの建設費で2016年の完成を目指す。<br /> <br /> 2006年10月、{{仮リンク|アイルランド政府|en|Government of Ireland}}は北アイルランドに1億ユーロの投資をすることや&lt;ref&gt;{{citation |url=http://www.newsletter.co.uk/3425/It39s-trickortreat-time-with-Brown.1839311.jp |title=It&#039;s trick-or-treat time with Brown |last=Dempster |first=Stephen |date=24 October 2006 |work=www.belfasttoday.net |publisher=Johnston Press Digital Publishing |accessdate=31 October 2006}}&lt;/ref&gt;、「A5号線ウェスタン・トランスポート・コリドール」&lt;ref&gt;{{citation |url=http://www.roadsni.gov.uk/contractadverts-details.htm?id=192&amp;referrer=ContractListing.asp?type=Current |title=Contract Details &amp;#124; Roads Service Northern Ireland |publisher=Roadsni.gov.uk |accessdate=20 June 2010 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20090608190306/http://www.roadsni.gov.uk/contractadverts-details.htm?id=192&amp;referrer=ContractListing.asp%3Ftype%3DCurrent |archivedate=2009年6月8日 |deadlinkdate=2017年9月 }}&lt;/ref&gt;というA5号線のロンドンデリー - オマー - オーナクロイ (– ダブリン)間全長約{{convert|90|km|abbr=off}}を標準的なデュアル・キャリアージウェイにするプロジェクト&lt;ref&gt;{{citation|url=http://www.breakingnews.ie/ireland/?jp=MHAUMHCWOJOJ&amp;rss=rss2|title=Package would fund biggest-ever cross-border project |date=22 March 2007 |publisher=www.breakingnews.ie |accessdate=9 June 2007}}&lt;/ref&gt;を計画しているプロジェクトの1つとして発表した。<br /> <br /> これら2つの別々のプロジェクトはどの時点で繋がるかは未だに不明だが、この2つの路線間を繋ぐ形に関し言及があり、2008年6月、地域開発相の{{仮リンク|コナー・マーフィー|en|Conor Murphy}}はA5号線とA6号線の接続が実現可能かどうか調査することを示唆した&lt;ref name=eGov/&gt;。また進めるべきプロジェクトとしてドラマホーからロンドンデリーの南東部を通ってプレヘン南部へ行く路線の実現可能性が最も高いとされる&lt;ref name=RailUpgrade/&gt;。<br /> <br /> ===海運===<br /> [[File:HMS Ferret surrendered Uboats.jpg|upright|thumb|リサハリーに停泊する降伏したドイツ軍Uボートの集団]]<br /> {{仮リンク|リサハリー|en|Lisahally}}にある{{仮リンク|ロンドンデリー港|en|Londonderry Port}}はイギリスにおいて最西端の湖で30,000トンの船舶が寄港できるキャパシティを持つ。ロンドンデリー港湾施設委員会 (LPHC)は2008年3月末に過去最高の売上高、利益、トン数の数値を記録したと発表した。この数値は2000年から2007年にかけて2,200万ポンドの大規模設備投資を行った結果だった。<br /> <br /> 第二次世界大戦中、最も長期間の作戦だった大西洋の戦いにおいて連合軍にとってもっとも重要な港湾施設で、1945年5月8日に降伏したドイツ軍のUボートの集団がリサハリーに停泊した&lt;ref&gt;{{cite news |url=http://www.guardian.co.uk/uk/2007/aug/20/secondworldwar.northernireland |title=Raise the U-boat: council plans to put Nazi sub in maritime museum |last=Bowcott |first=Owen |date=20 August 2007 |publisher=[[Guardian Unlimited]] |accessdate=19 June 2008 | location=London}}&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> ===内陸水路===<br /> 干満のあるフォイル川はロンドンデリーの海岸から約16kmの内陸部まで航行可能である。1796年に開業した{{仮リンク|ストラバーン運河|en|Strabane Canal}}はさらにストラバーンへ南方6kmまで航行していたが、1962年に廃止された。<br /> <br /> ==教育==<br /> [[File:Magee University Derry SMC 2005.jpg|upright|thumb|1969年に{{仮リンク|マギー・カレッジ|en|Magee College}}は{{仮リンク|アルスター大学|en|Ulster University}}のキャンパスになった]]<br /> ロンドンデリーにはかつての{{仮リンク|マギー・カレッジ|en|Magee College}}である{{仮リンク|アルスター大学|en|Ulster University}}マギー・キャンパスがある。しかし、ロックウッド&lt;ref&gt;[http://library.ulster.ac.uk/magee/history.htm A History of Magee College] Ulster University website&lt;/ref&gt;によるロンドンデリーではなくコルレインに北アイルランド第2の大学を設置するという1960年代の決断は最終的にThe Troublesに発展する公民権運動を煽る結果になった。ロンドンデリーは1世紀以上の歴史を持つマギー・カレッジがあるなど高等教育と密接な関係を持つ街という事実があった&lt;ref&gt;[http://books.google.co.uk/books?id=tBoSJFAnKbMC&amp;pg=PA234&amp;lpg=PA234&amp;dq=coleraine+derry+university+decision&amp;source=bl&amp;ots=4CT1v0xopl&amp;sig=TjfK3Kk1IIk2axy255p4VgtYaPw&amp;hl=en&amp;ei=O4kISpOOG-ahjAe944GWCw&amp;sa=X&amp;oi=book_result&amp;ct=result&amp;resnum=1 A history of Irish Theatre] Google books&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;[http://www.irelandseye.com/aarticles/history/events/conflict/bttc4.shtm Northern Ireland during the 1960s] www.irelandseye.com&lt;/ref&gt;。1980年代中頃のいい加減な試みはマギー・カレッジをアルスター大学のキャンパスに転換することでこの間違いを正すことになったが、ロンドンデリーで最大限に盛り上がっていた独立系大学の創設を求める声を抑えることに失敗した&lt;ref&gt;[http://www.irishnews.com/appnews/540/606/2008/2/1/579104_335361441817Derryneed.html Derry needs big idea to get over depression] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20150903221802/http://www.irishnews.com/appnews/540/606/2008/2/1/579104_335361441817Derryneed.html |date=2015年9月3日 }} Irish News website 1 February 2009&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 同じ市内にある{{仮リンク|ノースウェスト・リージョナル・カレッジ|en|North West Regional College}}は近年成長しており約3万人が在学している&lt;ref&gt;[http://www.irelandnorthwest.eu/pages-The-North-West-Region-10.htm The North West Region Profile – Derry and Donegal]{{リンク切れ|date=2017年9月 |bot=InternetArchiveBot }} Ireland Northwest website&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 北アイルランドにおける2校の最も古い中等学校の1校がロンドンデリーにある{{仮リンク|フォイル・カレッジ|en|Foyle College|label=フォイル・アンド・ロンドンデリー・カレッジ}}であり、1616年にマーチャント・テイラーズが創設し人気校として定着している。他の中等学校には{{仮リンク|聖コロンブス・カレッジ|en|St. Columb&#039;s College}}、{{仮リンク|聖セシリア・カレッジ|en|St Cecilia&#039;s College}}、{{仮リンク|聖メリー・カレッジ (ロンドンデリー)|en|St Mary&#039;s College, Derry|label=聖メリー・カレッジ}}、{{仮リンク|聖ジョセフ少年学校|en|St. Joseph&#039;s Boys&#039; School}}、{{仮リンク|リズニール・カレッジ|en|Lisneal College}}、{{仮リンク|ソーンヒル・カレッジ|en|Thornhill College}}、{{仮リンク|ルーメン・クリスティ・カレッジ (ロンドンデリー)|en|Lumen Christi College (Derry, Northern Ireland)|label=ルーメン・クリスティ・カレッジ}}、聖ブリギッドカレッジがある。また小学校も多数市内にある。<br /> <br /> ==スポーツ==<br /> 本拠地とするクラブやチームがあり、サッカーや[[ゲーリックフットボール]]の人気が高い。<br /> <br /> ===サッカー===<br /> {{external media|image1=[[:en:File:Psggame.JPG|Psggame.JPG]] - {{仮リンク|ブランディウェル・スタジアム|en|Brandywell Stadium}}で開催された[[デリー・シティFC|デリー・シティ]]対[[パリ・サンジェルマンFC]]の試合。(2006年[[UEFAカップ]])}}<br /> サッカーにおいて市内でもっとも有名なクラブは[[リーグ・オブ・アイルランド]]所属の[[デリー・シティFC|デリー・シティ]]、[[NIFLチャンピオンシップ1|NIFLチャンピオンシップ]]所属の[[インスティテュートFC]]、{{仮リンク|北アイルランドインターメディエイトリーグ|en|Northern Ireland Intermediate League}}所属の{{仮リンク|オックスフォード・ユナイテッド・スターズFC|en|Oxford United Stars F.C.}}である。デリー・シティ、インスティテュート、オックスフォード・ユナイテッド・スターズは国(カントリー)単位のリーグに所属していて、他のクラブは市単位のリーグに属している。ロンドンデリーのローカルリーグは{{仮リンク|デリー・アンド・ディストリクトリーグ|en|Derry and District League}}といい、リンカーン・コーツ、ドン・ボスコス、{{仮リンク|トロージャンズFC|en|Trojans F.C.}}やBBOB (ボーイズ・ブリゲート・オールド・ボーイズ)といったノースウェストのチームといった市内や周辺のチームが参加している。また、{{仮リンク|フォイルカップ|en|Foyle Cup}}という毎年市内で開催しているユースサッカートーナメント大会では、[[ヴェルダー・ブレーメン]]、[[IFKヨーテボリ]]、[[フェレンツヴァーロシュTC]]といった多くの有名クラブが参加した。<br /> <br /> ===ゲーリックフットボール===<br /> [[File:Derry 2009 NFL final.jpg|thumb|{{仮リンク|2009年ナショナルフットボールリーグ (アイルランド)|en|2009 National Football League (Ireland)|label=2009年ナショナルフットボールリーグ}}ファイナル時の{{仮リンク|デリーGAA|en|Derry GAA}}]]<br /> ゲーリックフットボールのチームである{{仮リンク|デリーGAA|en|Derry GAA}}は州のチームとして[[ゲーリック体育協会]]の{{仮リンク|ナショナルフットボールリーグ (アイルランド)|en|National Football League (Ireland)|label=ナショナルフットボールリーグ}}、{{仮リンク|アルスター・シニアフットボール・チャンピオンシップ|en|Ulster Senior Football Championship}}、{{仮リンク|オールアイルランド・シニアフットボール・チャンピオンシップ|en|All-Ireland Senior Football Championship&lt;!-- [[:ja:全アイルランドシニアフットボール選手権]] とリンク --&gt;|FIXME=1}}に参戦していて、同じトーナメントに参戦しているフィールド[[ハーリング]]チームも持っている。市内や市周辺にはゲーリックゲームズクラブが多く存在していて、例として{{仮リンク|ナ・マグハCLG|en|Na Magha CLG}}、{{仮リンク|スティールズタウンGAC|en|Steelstown GAC}}、{{仮リンク|ディレ・コルムシルCLG|en|Doire Colmcille CLG}}、{{仮リンク|ショーン・ドランズCLG|en|Seán Dolans GAC}}、ナ・ピアーサイCLG・ディレ・トラスナ、{{仮リンク|スロートマナスGAC|en|Slaughtmanus GAC}}がある。<br /> <br /> ===ラグビーユニオン===<br /> [[ラグビーユニオン]]の人気も非常に高く、市中心部から遠くない場所に{{仮リンク|シティ・オブ・デリー・ラグビー・クラブ|en|City of Derry Rugby Club}}がある&lt;ref&gt;{{citation|url=http://www.cityofderryrfc.com/ |title=City of Derry Rugby Club Official Website |publisher=Cityofderryrfc.com |date=5 June 2010 |accessdate=20 June 2010}}&lt;/ref&gt;。2009年にアルスター・タウンズ・カップとアルスター・ジュニアカップで優勝している。また市郊外のドラマホーを本拠地とするロンドンデリー・YMCA RFCというラグビークラブもある。<br /> <br /> ===バスケットボール===<br /> 市を本拠地とするバスケットボールクラブは{{仮リンク|バスケットボール・ノーザンアイルランド|en|Basketball Northern Ireland}}のシニアとジュニアのリーグに所属している{{仮リンク|ノーススター・バスケットボールクラブ|en|North Star Basketball Club}}のみである&lt;ref&gt;{{citation|url=http://www.northstarbasketball.com/ |title=North Star Basketball Club Official Website |publisher=Northstarbasketball.com |accessdate=20 June 2010}}&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> ===クリケット===<br /> [[クリケット]]もウォーターサイドを中心に人気がある。市内には{{仮リンク|ブリゲイド・クリケットクラブ|en|Brigade Cricket Club}}と{{仮リンク|グレンダーモット・クリケットクラブ|en|Glendermott Cricket Club}}の2クラブがあり、{{仮リンク|ノースウェストシニアリーグ|en|North West Senior League}}に所属している。<br /> <br /> ===ゴルフ===<br /> ゴルフの競技人口も多く、市内にはシティ・オブ・デリー・ゴルフクラブとフォイル・インターナショナル・ゴルフセンターの2つのゴルフクラブがある。<br /> <br /> ==文化==<br /> [[File:&#039;Hands Across the Divide&#039; sculpture, Derry.jpg|right|thumbnail|モーリス・ハロンによる彫刻「Hands Across the Divide」]]<br /> 近年ロンドンデリーや周辺の田園地帯はノーベル賞を受賞した詩人の[[シェイマス・ヒーニー]]&lt;ref&gt;{{citation|url=http://nobelprize.org/nobel_prizes/literature/laureates/1995/heaney-bio.html |title=Seamus Heaney – Biography |publisher=Nobelprize.org |accessdate=20 June 2010}}&lt;/ref&gt;、同じく詩人の{{仮リンク|シーマス・ディーン|en|Seamus Deane}}、脚本家の{{仮リンク|ブライアン・フライエル|en|Brian Friel}}&lt;ref&gt;{{citation|url=http://www.derryjournal.com/journal/Milestone-birthday-for-playwright-Brian.4859003.jp |title=Milestone birthday for playwright Brian Friel – Derry Today |publisher=Derryjournal.com |accessdate=20 June 2010}}&lt;/ref&gt;、作家、音楽評論家の{{仮リンク|ニック・コーン|en|Nik Cohn}}、アーティストの{{仮リンク|ウィリー・ドハティ|en|Willie Doherty}}、社会・政治評論家の{{仮リンク|イアモン・マッキャン|en|Eamonn McCann}}&lt;ref&gt;{{citation |url=http://www.derryjournal.com/17469/Meet-the-Candidates--Eamonn.6216366.jp |title=Meet the Candidates – Eamonn McCann People Before Profit Alliance – Derry Today |publisher=Derryjournal.com |accessdate=20 June 2010 |archiveurl=https://archive.is/20120728121439/http://www.derryjournal.com/17469/Meet-the-Candidates--Eamonn.6216366.jp |archivedate=2012年7月28日 |deadlinkdate=2017年9月 }}&lt;/ref&gt;、{{仮リンク|アンダー・トーンズ|en|The Undertones}}といったバンドなどがもたらした芸術で有名になっている。ボグサイド・アーティスツによる政治的な巨大切妻型壁画、フリー・デリー・コーナー、フォイル映画祭、デリー・ウォールズ、聖ユージーン大聖堂、聖コロンブス大聖堂、毎年開催されるハロウィーン・ストリート・カーニバル&lt;ref&gt;{{citation |url=http://www.derrycity.gov.uk/halloween/ |title=Halloween 2009 |publisher=Derrycity.gov.uk |date=2 November 2009 |accessdate=20 June 2010 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20060721232747/http://www.derrycity.gov.uk/halloween/ |archivedate=2006年7月21日 |deadlinkdate=2017年9月 }}&lt;/ref&gt;も有名な観光資源となっている。2010年、[[PRS for Music]]にイギリスにおける「最もミュージカルな都市」で10位に選出された&lt;ref name=&quot;mirror.co.uk&quot;&gt;{{citation|author=Richard Smith |url=http://www.mirror.co.uk/celebs/news/2010/03/13/bristol-named-britain-s-most-musical-city-115875-22107650/ |title=Bristol named Britain&#039;s most musical city |publisher=mirror.co.uk |accessdate=20 June 2010}}&lt;/ref&gt;&lt;ref name=&quot;mirror.co.uk&quot;/&gt;。<br /> <br /> [[File:Derry_Peace_Flame.jpg|thumb|right|2013年5月にお披露目されたピース・フレーム・モニュメント]]<br /> 2013年5月、恒久的に設置されたピース・フレーム・モニュメントの除幕式が{{仮リンク|マーティン・ルーサー・キング3世|en|Martin Luther King III}}と長老派教会牧師のデヴィッド・ラティマーによって執り行われた。市内に住むカトリックとプロテスタントの子どもたちが点火した灯火は世界中で15個しかない灯火の1つである&lt;ref&gt;{{citation|author= |url=http://www.derryjournal.com/news/community/pathway-to-peace-cycle-event-on-sunday-1-5547805 |title=‘Pathway to Peace’ cycle event on Sunday |publisher=Derry Journal |date=4 October 2013 |accessdate=15 August 2014}}&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;{{citation|last=Deeney |first=Donna |url=http://www.belfasttelegraph.co.uk/news/local-national/northern-ireland/derrys-children-united-to-light-flame-of-peace-29271479.html |title=Derry&#039;s children united to light flame of peace |publisher=BelfastTelegraph.co.uk |date=16 May 2013 |accessdate=15 August 2014}}&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> ===メディア===<br /> 地元紙として{{仮リンク|デリー・ジャーナル|en|Derry Journal}}(1880年までロンドンデリー・ジャーナル)や{{仮リンク|ロンドンデリー・センチネル|en|Londonderry Sentinel}}があり、この都市において分裂した経緯がある。ジャーナルは1772年創刊でアイルランドにおいて2番目に古い新聞である&lt;ref name=Lacey/&gt;。ロンドンデリー・センチネルはジャーナルの新オーナーが[[カトリック解放令]]を受け入れたことにより編集者が退社し1829年にセンチネルを設立した。数多くのラジオ局の受信も可能であるが、市内にある大手のラジオ局は{{仮リンク|BBCラジオ・フォイル|en|BBC Radio Foyle}}&lt;ref&gt;{{citation|url=http://www.bbc.co.uk/radiofoyle/ |title=Northern Ireland – Radio Foyle |publisher=BBC |accessdate=20 June 2010}}&lt;/ref&gt;と民放の[[Q102.9]]である&lt;ref&gt;{{citation|url=http://www.q102.fm/portal/ |title=Q102.9 FM |publisher=Q102.fm |accessdate=20 June 2010}}&lt;/ref&gt;。かつて[[C9TV]]という地元テレビ局があり、北アイルランドにおいて2つしかないローカルもしくは視聴が限られたテレビ局だったが2007年に閉局した。<br /> <br /> ===夜遊び===<br /> ロンドンデリーの夜遊びとして複数のバーや平日の間に「学生ナイト」を行うクラブがあり、主に週末盛り上がっている。ウォータールー通りやストランド道路が主な夜遊びの場となっていて、急勾配なウォータールー通りには伝統的なアイルランド風のパブや現代風のパブが軒を連ねていて、夜間にロックや伝統音楽のコンサートが開催されることが多い。また、ロンドンデリーは周辺の会場で演奏をする有名ミュージシャンや多くのバンドを輩出することで有名で例として{{仮リンク|スモールタウン・アメリカ・レコード|en|Smalltown America Records}}所属の{{仮リンク|ファイティング・ウィズ・ワイヤー|en|Fighting with Wire}}、{{仮リンク|ジェットプレーン・ライディング|en|Jetplane Landing}}がいる。その他地元で活動する若いバンドや国際的名声を得たバンドはナーブ・センターでライブを行うことが多い。<br /> <br /> ===出来事やイベント===<br /> * 2013年、ロンドンデリーはUKシティ・オブ・カルチャーに初めて選出され、2010年7月に受賞した&lt;ref name=&quot;Derry wins City of Culture&quot; /&gt;&lt;ref name=&quot;DCS - UK City of Culture&quot; /&gt;。<br /> * また2013年に[[Radio 1&#039;s Big Weekend]]の開催都市になった。<br /> * 「バンク・オブ・フォイル・ハロウィンカーニバル」(別名アイリッシュ・アズ・フェイラ・ナ・サムーナ)はロンドンデリーにおいて大規模な観光資源である。この祭りはアイルランド島全体において初めてかつ一番歴史の長いハロウィンカーニバルであり&lt;ref&gt;{{citation|url=http://www.derrycity.gov.uk/halloween/|title=Banks of the Foyle Hallowe&#039;en Carnival|publisher=Derry City Council|accessdate=5 September 2006|archiveurl=https://web.archive.org/web/20061013211420/http://www.derrycity.gov.uk/halloween/|archivedate=2006-10-13}}&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;{{citation|url=http://aspen.conncoll.edu/politicsandculture/page.cfm?key=448|title=Masquerading as Subversion?|last=Pelan|first=Rebecca|publisher=Politics and Culture|accessdate=5 September 2006|archiveurl=https://web.archive.org/web/20060917093737/http://aspen.conncoll.edu/politicsandculture/page.cfm?key=448|archivedate=2006-09-17}}&lt;/ref&gt;、アイルランド島において最大規模のストリートパーティーであり、毎年3万人以上のおぞましい泥酔者が発生するとデリー・ビジター・コンベンション・ビューローが述べている&lt;ref&gt;{{citation|url=http://www.irishabroad.com/news/irishpost/Travel/ireland-home-halloween-051012.asp|title=Ireland, home of Halloween|last=Rogers|first=Malcolm|publisher=The Irish Post|accessdate=5 September 2006}}&lt;/ref&gt;。<br /> * 3月、ビッグ・ティックル・コメディー・フェスティバルを開催していて2006年には[[ダラ・オブリエン]]と{{仮リンク|コリン・マーフィー (コメディアン)|en|Colin Murphy (comedian)|label=コリン・マーフィー}}が出演した。4月には{{仮リンク|シティ・オブ・デリー・ジャズ・アンド・ビッグバング・フェスティバル|en|City of Derry Jazz and Big Band Festival}}を、11月には北アイルランド最大の映画祭であるフォイル映画祭を開催している。<br /> * 夏にはアイルランド島最大の[[アニメコンベンション]]だった[[Tomo-Dachi]]を開催していて、2006年はマギー・カレッジで開催した&lt;ref&gt;{{cite news|url=http://news.ulster.ac.uk/releases/2005/1976.html|title=Magee To Host Japanese Animation Convention|date=7 December 2005|publisher=news.ulster.ac.uk|accessdate=5 September 2006|archiveurl=https://web.archive.org/web/20061015035202/http://news.ulster.ac.uk/releases/2005/1976.html|archivedate=2006年10月15日|deadlinkdate=2017年9月}}&lt;/ref&gt;。<br /> * デリー包囲戦を記念して友愛組織であるデリー徒弟少年団が{{仮リンク|メイデン・シティ・フェスティバル|en|Maiden City Festival}}を1週間の期間で開催している。<br /> * インスティンクト・フェスティバルという芸術をテーマにしたユースフェスティバルを毎年開催していて、イースターの間での開催で近年成功していると認められている。<br /> * セルトロニックという市の全体が会場になる有名なエレクトロニックダンスフェスティバルがあり、2007年はDJの{{仮リンク|エロル・アルカン|en|Erol Alkan}}が出演した。<br /> * 市の主要な劇場であるミレニアム・フォーラムでは毎週数多くの劇が上映される。<br /> * 2007年12月9日、1万3000人のサンタクロースが集まったことでリバプールとラスベガスが保持していた世界記録を破りギネス世界記録に認定された&lt;ref&gt;{{cite news|url=http://news.bbc.co.uk/1/hi/northern_ireland/7135400.stm|title=Santa record bid attracts 13,000|publisher=BBC|accessdate=28 August 2008 | date=9 December 2007}}&lt;/ref&gt;。<br /> * 2005年に{{仮リンク|ブリテイン・イン・ブルーム|en|Britain in Bloom}}の都市部門で優勝、2009年も準優勝だった。<br /> <br /> ==著名人==<br /> [[File:Millennium Forum (02), August 2009.JPG|thumb|upright|ニューマーケット通りにあるミレニアム・フォーラム]]<br /> ロンドンデリー出身か在住の著名人:{{main|Category:ロンドンデリー出身の人物}}<br /> {{Columns-list|2|<br /> * {{仮リンク|フレドリック・ハーヴェイ (第4代ブリストル伯爵)|en|Frederick Hervey, 4th Earl of Bristol|label=フレドリック・ハーヴェイ}} - デリー司教、第4代ブリストル伯爵<br /> * {{仮リンク|エドワード・ペンバートン・リーチ|en|Edward Pemberton Leach|label=エドワード・リーチ}} - [[ヴィクトリア十字章]]受章者<br /> * {{仮リンク|ジョージ・ファーカー|en|George Farquhar}} - {{仮リンク|王政復古文学|en|Restoration literature|label=王政復古的}}劇作家<br /> * {{仮リンク|ジョイス・ケリー|en|Joyce Cary}}、{{仮リンク|シェイマス・ディーン|en|Seamus Deane}}、{{仮リンク|ジェニファー・ジョンストン|en|Jennifer Johnston}}、{{仮リンク|ネル・マクカファティ|en|Nell McCafferty}} - 作家<br /> * [[シェイマス・ヒーニー]] - 詩人・[[ノーベル文学賞]]受賞者<br /> * [[ジョン・ヒューム]] - [[社会民主労働党 (北アイルランド)|社会民主労働党]]設立者・[[ノーベル平和賞]]受賞者<br /> * {{仮リンク|マーティン・マクギネス|en|Martin McGuinness}} - {{仮リンク|首相・副首相事務局|en|Office of the First Minister and Deputy First Minister|label=北アイルランド副首相}}<br /> * [[マーティン・オニール]] - [[レスター・シティFC]]、[[セルティックFC]]、[[アストン・ヴィラFC]]などを歴任した監督<br /> * [[ダロン・ギブソン]] - [[サンダーランドAFC]]所属サッカー選手<br /> * {{仮リンク|アマンダ・バートン|en|Amanda Burton}}、{{仮リンク|ロマ・ダウニー|en|Roma Downey}} - 女優<br /> * [[ネイディーン・コイル]] - [[ガールズ・アラウド]]の元メンバー<br /> * {{仮リンク|ダナ・ローズマリー・スカロン|en|Dana Rosemary Scallon|label=ダナ}} - [[ユーロビジョン・ソング・コンテスト]]優勝者、元政治家<br /> * バンドの{{仮リンク|アンダートーンズ|en|The Undertones}}と元メンバーの{{仮リンク|フィアガル・シャーキー|en|Feargal Sharkey}}<br /> * {{仮リンク|ジミー・マクシェイン|en|Jimmy McShane}} - [[バルティモラ]]のメンバー<br /> * {{仮リンク|アイリーン・モリソン|en|Aileen Morrison}} - トライアスロン選手<br /> * {{仮リンク|トム・マクギネス (ゲーリックフットボール選手)|en|Tom McGuinness (Gaelic footballer)|label=トム・マクギネス}} - [[ゲーリックフットボール]]選手&lt;ref&gt;{{cite news |title=Ulster&#039;s 125 – Derry shortlist |work=[[The Irish News]] |date=10 February 2009 |accessdate=7 April 2009 |url=http://irishnews125.blogspot.com/2009/02/125-derry-player-list.html }}&lt;/ref&gt;<br /> * {{仮リンク|ダミアン・マクギンティ|en|Damian McGinty&lt;!-- [[:ja:ダミアン・マクギンティー]] とリンク --&gt;|FIXME=1}}と{{仮リンク|ケイス・ハーキン|en|Keith Harkin}} - 歌手で{{仮リンク|セルティック・サンダー|en|Celtic Thunder}}メンバー<br /> * {{仮リンク|ジョン・パーク (ヴィクトリア十字章)|en|John Park (VC)|label=ジョン・パーク}} - ヴィクトリア十字章受章者<br /> * {{仮リンク|ダニエル・クイグリー|en|Daniel Quigley}} - 世界ISKAプロフェッショナルスーパーヘビー級キックボクシングチャンピオン&lt;ref&gt;[http://www.derryjournal.com/sport/other-sports/world-championship-kickboxing-coming-to-the-venue-1-5572123 World Championship Kickboxing coming to ‘The Venue’ – Derry Journal&lt;!-- Bot generated title --&gt;]&lt;/ref&gt;<br /> *{{仮リンク|マイルズ・ライアン|en|Miles Ryan}} - ヴィクトリア十字章受章者<br /> }}<br /> <br /> ==脚注==<br /> {{Reflist|30em}}<br /> <br /> ==関連項目==<br /> * {{仮リンク|バリーナガリア|en|Ballynagalliagh}}<br /> * {{仮リンク|北アイルランドのスカウト運動|en|Scouting in Northern Ireland}}<br /> * [[ロンドンデリーの歌]]<br /> * {{仮リンク|わたしの愛した街|en|The Town I Loved So Well}}:デリーを歌った曲<br /> <br /> ==外部リンク==<br /> {{Commons|Derry}}<br /> {{Wikivoyage|Derry}}<br /> * {{dmoz|Regional/Europe/United_Kingdom/Northern_Ireland/Londonderry/Londonderry,_City_of|Derry, City of}}<br /> * [http://www.derrycity.gov.uk/ Derry City Council]<br /> * [http://www.visitderry.com/ Derry visitor information]<br /> * [http://www.londonderrychamber.co.uk/ Londonderry Chamber of Commerce]<br /> * [http://maps.msn.com/%28oo3qg4r3h5sfzcfnviwvhs2g%29/map.aspx?lats1=54.9958&amp;lons1=-7.3074&amp;alts1=14&amp;regn1=2 MSN Map]<br /> * [https://maps.google.ie/maps?q=derry&amp;hl=en&amp;ll=55.003318,-7.308655&amp;spn=0.059072,0.110378&amp;sll=53.401034,-8.307638&amp;sspn=7.866021,14.128418&amp;t=m&amp;hnear=Londonderry,+Derry,+United+Kingdom&amp;z=13 Google Map]<br /> * [http://www.visitbritain.com/ja/Destinations-and-Maps/Cities-and-towns/Londonderry-Travel-Guide.htm VisitBritainがお届けするロンドンデリー観光ガイド]<br /> * [http://am.jungle-jp.com/song02_2.html ロンドンデリーと呼ばれた街](執筆: 茂木健。A-Musik 生きてるうちに見られなかった夢を)<br /> *[https://rsis.ramsar.org/ris/974 Lough Foyle | Ramsar]<br /> {{Normdaten}}<br /> {{デフォルトソート:ろんとんてりい}}<br /> [[Category:ロンドンデリー| ]]<br /> [[Category:ロンドンデリー州]]<br /> [[Category:北アイルランドのカウンティ・タウン]]<br /> [[Category:イギリスのラムサール条約登録地]]</div> 113.37.189.50 シドニー=ガブリエル・コレット 2017-10-24T02:58:11Z <p>113.37.189.50: </p> <hr /> <div>{{Infobox 作家<br /> |name=シドニー=ガブリエル・コレット&lt;br&gt;Sidonie-Gabrielle Colette<br /> |image=SidonieGabrielleColette.jpg<br /> |imagesize=200px<br /> |caption=<br /> |pseudonym=Colette<br /> |birth_name=<br /> |birth_date=[[1873年]][[1月28日]]<br /> |birth_place={{FRA1870}}、[[ヨンヌ県]]サン=ソーヴル=アン=ピュイゼー<br /> |death_date={{死亡年月日と没年齢|1873|1|28|1954|8|3}}<br /> |death_place={{FRA1946}}、[[パリ]]<br /> |occupation=[[小説家]]<br /> |nationality={{FRA}}<br /> |period=<br /> |genre=<br /> |subject=<br /> |movement=<br /> |notable_works=「シェリ」1920年<br /> |awards=<br /> |debut_works=<br /> |spouse=<br /> |partner=<br /> |children=<br /> |relations=<br /> |influences=<br /> |influenced=<br /> |signature=<br /> |website=<br /> }}<br /> &#039;&#039;&#039;シドニー=ガブリエル・コレット&#039;&#039;&#039; (Sidonie-Gabrielle Colette, [[1873年]][[1月28日]] - [[1954年]][[8月3日]]) は、[[フランス]]の女性[[作家]]。&#039;&#039;&#039;コレット&#039;&#039;&#039; (Colette) というペンネームで活動した。「性の解放」を叫び、同性も対象とした華麗な恋愛遍歴で有名。代表作のひとつは『ジジ』 ([[1944年]]) であり、後に[[ブロードウェイ]]で舞台化され、さらに[[1958年]]には[[モーリス・シュヴァリエ]]主演により映画化もされた。ブロードウェイ版『ジジ』のオーディションに自ら立会い、主演に[[オードリー・ヘプバーン]]を抜擢したことでも有名。<br /> <br /> ==生涯==<br /> [[ブルゴーニュ]]地方[[ヨンヌ県]]サン=ソーヴル=アン=ピュイゼー出身。父親はジュール=ジョゼフ・コレット、母親は愛称シドことアデールという。[[1893年]]に15歳年長のアンリ・ゴーティエ=ヴィラールと結婚。処女出版された『クロディーヌ』シリーズは、夫の筆名&#039;&#039;&#039;ヴィリー &#039;&#039;&#039; (Willy) 名義で世に送り出された(夫婦合作とも言われる)。<br /> <br /> [[1906年]]に浮気な[[バイセクシャル]]の夫と離婚し、[[パリ]]の[[ミュージック・ホール]]で[[パントマイム]]や踊り子として活躍を始める。この頃の愛人は、[[ナポレオン3世]]の血縁者を名乗っていたベルブーフ侯爵夫人ミッシーであり、二人は舞台上で共演することもあった。[[1912年]]に{{仮リンク|ル・マタン (フランス)|fr|Le Matin (France)|en|Le Matin (France)|label=ル・マタン}}紙主筆のアンリ・ド・ジュヴネルと再婚。ベル=ガズー・コレット=ド=ジュヴネルをもうけた。娘の回想によると、コレットは子供を望んでおらず、赤ん坊をイギリス人の乳母に任せて自分は家を出たきりだったという。<br /> <br /> [[1914年]]にパリ・[[パリ国立オペラ|オペラ座]]から、新作[[バレエ]]の台本を委嘱され、「わが子のためのディヴェルティスマン(娯楽音楽)」と題したプランを練り始め、[[モーリス・ラヴェル]]に音楽担当を呼びかけるが、ラヴェルはこれを[[オペラ]]として膨らませることを提案し、コレットはそれを受け容れた。こうして完成された台本が『[[子供と魔法]]』であり、ラヴェルは[[第一次世界大戦]]後に、数年がかりで1幕オペラにまとめあげ、[[1925年]][[3月21日]]の初演を迎えた。<br /> <br /> [[1924年]]に、ジュヴネルの連れ子ベルトランとの仲が取りざたされ、離婚に至る。このベルトランとの関係からインスピレーションを得た作品が『&#039;&#039;&#039;青い麦&#039;&#039;&#039;』 ([[1922年]]) 。[[1935年]]、17歳年下のモーリス・グドケと再々婚。今度の結婚生活は幸福だった。<br /> <br /> 生涯にわたって挑発的な人物として、結婚生活のかたわらで[[同性愛]]体験を謳歌した。だが、[[第一次世界大戦]]中は、ジャーナリストとして活躍し、自宅を野戦病院として開放していた。[[第二次世界大戦]]中は、夫グドケが[[ナチス]]の[[ゲシュタポ]]に連行されるなどの経験もあり、心ならずも[[ヴィシー政権]]に協力した。<br /> <br /> 受けた名誉は、[[レジオンドヌール勲章|レジオンドヌール]]・シュヴァリエ ([[1920年]]) 、ベルギー王立アカデミー ([[1935年]]) 、アカデミー・ゴンクール総裁 ([[1945年]]、最初の女性総裁) 、レジオンドヌール・グラントフィシエ ([[1953年]]、最初の女性グラントフィシエ) など。<br /> <br /> [[1954年]][[8月3日]]に[[パリ]]で他界。生前、自らの奔放な生活様式を理由に、[[カトリック教会|ローマ・カトリック]]による葬儀を拒否したにもかかわらず、[[8月8日]]に国葬が営まれ、亡骸は[[ペール・ラシェーズ墓地]]に葬られた。<br /> <br /> ==作風と主要作品==<br /> コレットは最も感覚的な女性作家といわれる。[[1920年]]、『シェリ』の出版によって創作活動が花開き、生涯で約50点の[[小説]]を出版した。その多くは自叙伝的な側面を持つ。コレットの主題は、大まかに見て、牧歌的な自然を舞台としたお伽噺と、男女の関係や恋愛における暗い闘いという二つに分けられる。コレットの小説は、味な観察力と、つまびらかであからさまな文体が特徴的である。またコレットの表現は情熱的で、五官をくすぐるようなニュアンスと、たっぷりにちりばめられた毒気で知られている。晩年まで創作の筆は衰える事がなかった。同時代の支持者に、[[マルセル・プルースト]]、[[アンドレ・ジッド]]、[[アンリ・バタイユ]]らの名を挙げることができる。<br /> <br /> 日本語訳は[[深尾須磨子]]以来数多く、『コレット著作集』全12巻(1970-1980)が二見書房から出ている。<br /> <br /> *学校のクローディーヌ ([[1900年]])<br /> **学校へ行くクローディーヌ [[川口博]]訳 三笠書房 若草文庫 1955 「学校のクローディーヌ」コレット著作集1<br /> *パリのクローディーヌ ([[1901年]])<br /> **[[関義]]訳 角川文庫、1958<br /> **[[望月芳郎]]訳 コレット著作集2 1971<br /> *去りゆくクローディーヌ(1903)<br /> **[[安東次男]]訳 角川文庫、1959 「クローディーヌは行ってしまう」コレット著作集1<br /> *動物の対話 ([[1904年]])<br /> **犬猫の会話七つ 深尾須磨子訳 世界社、1930 「動物の対話」三笠新書<br /> **[[榊原晃三]]訳 コレット著作集8 1971<br /> *さすらいの女 ([[1910年]])<br /> **[[片山正樹]]訳 世界の文学 中央公論社、1969<br /> **[[大久保敏彦]]訳 コレット著作集4 1973<br /> *ミュージックホールの内幕 ([[1913年]])<br /> **[[平岡篤頼]]訳 コレット著作集9、1977<br /> *踊り子ミツ ([[1919年]])<br /> **ミツの初恋 娘達はどうして女になるか [[堀口大学]]訳 角川小説新書 1956<br /> **[[窪田般弥]]訳 コレット著作集2 二見書房、1970<br /> *シェリー ([[1920年]])<br /> **紫の恋 深尾須磨子訳 世界社、1928 「黄昏の薔薇」角川書店 1954 のち文庫<br /> **[[加藤民男]]訳 コレット著作集6 1970<br /> **[[工藤庸子]]訳 岩波文庫、1994<br /> *クローディーヌの家 ([[1922年]])<br /> **[[小林竜雄]]訳 大観堂、1941<br /> **[[桜井成夫]]訳 コレット著作集10 1972<br /> *[[青い麦]] ([[1922年]])<br /> **青麦 [[福永英二]]訳 春陽堂文庫、1936<br /> **[[岡田真吉]]訳 雄鶏社 1954<br /> **川口博訳 三笠書房 1954<br /> **[[石川登志夫]]訳 角川文庫、1954 のち旺文社文庫<br /> **堀口大学訳 新潮社 1954 のち文庫<br /> **[[鈴木健郎]]訳 角川文庫、1955<br /> **[[横塚光雄]]訳 コレット選集2 創芸新社 1956<br /> **恋の手ほどき・青い麦 [[斉藤正直]]訳 秋元書房 1959<br /> **[[新庄嘉章]]訳 コレット著作集5 二見書房5、1970 のち講談社文庫<br /> **[[手塚伸一]]訳 世界文学全集 学習研究社、1978 のち集英社文庫<br /> **[[河野万里子]]訳 光文社古典新訳文庫、2010<br /> *シェリーの最後 ([[1926年]])<br /> **[[高木進]]訳 コレット著作集6 1970<br /> **工藤庸子訳 岩波文庫、1994<br /> *シド ([[1929年]])<br /> **[[山崎剛太郎]]訳 コレット著作集7 1970<br /> *ジュリー・ド・カルネラン<br /> **[[三輪秀彦]]訳 コレット著作集7 1970<br /> *ジジ ([[1945年]])<br /> **[[横塚光雄]]訳 コレット選集2 創芸新社 1956<br /> **高木進訳 コレット著作集11、1975<br /> *牝猫 ([[1933年]])<br /> **川口博訳 三笠書房 1954 のち新潮文庫<br /> **[[倉田清]]訳 コレット著作集6 1970<br /> **工藤庸子訳 岩波文庫、1988<br /> <br /> ==その他日本語訳==<br /> *コレット選集 第1 最愛の人 横塚光雄訳 創芸社 1956<br /> *夜明け 望月芳郎訳 コレット著作集5 二見書房5、1970<br /> *ル・トゥトゥニエ([[豊崎光一]]訳)コレット著作集7 1970<br /> *家庭のクロディーヌ(倉田清訳) コレット著作集2 1971<br /> *仮装した女 新庄嘉章訳 コレット著作集8 1971<br /> *動物の平和(山崎剛太郎訳)コレット著作集8<br /> *純粋なものと不純なもの(倉田清訳) ホテルの部屋(小笠原真一訳)コレット著作集10<br /> *宵の明星([[高橋彦明]]訳)コレット著作集4 1973<br /> *愛の隠れ家([[佐藤実枝]]訳) 第二の女([[品田一良]]訳) コレット著作集11、1975<br /> *気ままな生娘([[三輪秀彦]]訳) ベラ・ヴィスタ(山崎剛太郎訳) コレット著作集9、1977<br /> *いさかい([[小佐井伸二]]、吉田千代子訳)私の修業時代(佐藤実枝訳)青い灯(桜井成夫訳)コレット著作集3、1978<br /> *きずな([[中島公子]]訳) 軍帽([[弓削三男]]訳)コレット著作集12、1980<br /> *「コレット」花 28のエッセイ 森本謙子訳 八坂書房 1993.12<br /> *わたしの修業時代 工藤庸子訳 ちくま文庫 2006.3<br /> <br /> ==外部リンク==<br /> *[http://www.colette.org/ &#039;&#039;Colette webpage&#039;&#039;(仏語)]<br /> *[http://www.biblioweb.org/-COLETTE-.html 伝記。 書誌学] (フランス語)<br /> <br /> ==脚注==<br /> {{脚注ヘルプ}}<br /> &lt;div class=&quot;references-small&quot;&gt;&lt;references/&gt;&lt;/div&gt;<br /> {{Normdaten}}<br /> {{DEFAULTSORT:これつと しとにい かふりえる}}<br /> [[Category:フランスの小説家]]<br /> [[Category:レジオンドヌール勲章受章者]]<br /> [[Category:LGBTの著作家]]<br /> [[Category:両性愛の人物]]<br /> [[Category:ヨンヌ県出身の人物]]<br /> [[Category:1873年生]]<br /> [[Category:1954年没]]</div> 113.37.189.50 トゥグルグ 2017-10-05T13:50:00Z <p>113.37.189.50: /* 概要 */</p> <hr /> <div>{{特殊文字|説明=[[モンゴル文字]]・[[キリル文字]]}}<br /> {{Infobox Currency<br /> | currency_name_in_local = {{lang|mn|Монгол төгрөг}} {{Smaller|{{mn icon}}}}<br /> | image_1 = 5000 Tugriks - Recto.jpg<br /> | image_title_1 = 5000トゥグルグ<br /> | iso_code = MNT<br /> | using_countries = {{MNG}}<br /> | inflation_rate = 14.4%<br /> | inflation_source_date = [http://www.mongolbank.mn/web/guest/home Bank of Mongolia homepage], December 15, 2007.<br /> | subunit_ratio_1 = 1/100<br /> | subunit_name_1 = ムング ({{lang|mn|мөнгө}})<br /> | plural =<br /> | plural_subunit_1 =<br /> | symbol = {{通貨フォント|₮}}<br /> | used_coins = 20, 50, 100, 200, 500トゥグルグ<br /> | used_banknotes = <br /> | frequently_used_banknotes = 10トゥグルグ&lt;br/&gt;20トゥグルグ&lt;br/&gt;50トゥグルグ&lt;br/&gt;100トゥグルグ&lt;br/&gt;500トゥグルグ&lt;br/&gt;1000トゥグルグ&lt;br/&gt;5000トゥグルグ&lt;br/&gt;10&amp;nbsp;000トゥグルグ&lt;br/&gt;20&amp;nbsp;000トゥグルグ<br /> | rarely_used_banknotes = 10, 20, 50ムング&lt;br/&gt;1, 5トゥグルグ<br /> | issuing_authority = [[モンゴル銀行]]<br /> | issuing_authority_website = {{URL|www.mongolbank.mn}}<br /> }}<br /> &#039;&#039;&#039;トゥグルグ&#039;&#039;&#039;(&#039;&#039;Tugrik&#039;&#039;, {{lang-mn|төгрөг}})とは、[[モンゴル国]]の[[通貨]]単位。国際通貨コード ([[ISO 4217]]) はMNT。&#039;&#039;&#039;トゥグルク&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;トゥグリク&#039;&#039;&#039;とも。また、単位記号(シンボル)は「&#039;&#039;&#039;{{通貨フォント|₮}}&#039;&#039;&#039;」(Tに斜線二本を引いた記号)。[[通貨の補助単位|補助通貨]]としてムング (möngö, {{lang-mn|мөнгө}}) があるが、実際には殆ど使用されない。1トゥグルグ=0.045円である。(2016年8月27日現在)<br /> <br /> なお、[[モンゴル人民共和国]]時代は[[ロシア・ルーブル|ソビエト連邦ルーブル]]と等価であった。<br /> <br /> == 概要 ==<br /> モンゴルでは[[1911年]]の独立宣言以降も、[[中国]]製の円銀、中国・[[ロシア帝国|ロシア]]・[[ドイツ帝国|ドイツ]]・[[イギリス]]製の銀両(1両=37.3g)、[[ロシア・ルーブル]]、[[アメリカ合衆国ドル|米ドル]]などが流通していた。[[モンゴル人民革命党|人民革命党]]政権は[[1924年]]6月に[[モンゴル銀行|モンゴル商工業銀行]]を設立、翌[[1925年]]2月、国家貨幣トゥグルク(1トゥグルク=純銀18g)の発行を決定、1tg、2tg、5tg、10tgの計600万トゥグルク分の紙幣を[[ソビエト連邦]]に発注、同年12月9日より流通が開始された。1トゥグルク銀貨は40万枚発行され、量目19.9957g、で90%の銀品位であった。<br /> <br /> 翌年[[1927年]]1月1日を期して、すべての財政報告、予算、再出入をトゥグルクで算出する決定がなされ、1928年4月1日より、トゥグルクが国内流通する唯一の通貨と定められ、同月13日、トゥグルクの交換価値を強化すべく、[[金本位制]]が導入された&lt;ref&gt;モンゴル科学アカデミー歴史研究所『モンゴル史』恒文社1988, pp.245-246&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 貨幣はソビエト連邦のレニングラード(現: [[サンクトペテルブルク]])で製造され、当初は[[モンゴル文字]]で表記されていたが、[[1941年]]のソ連[[民族主義]]否定政策により[[キリル文字]]をモンゴル語の表記に用いるものとされ、[[1946年]]からはモンゴルの貨幣もキリル文字表記となった。[[1989年]]の[[ソ連崩壊|ソビエト連邦崩壊]]後、[[1994年]]から貨幣の表面にモンゴル文字が復活し、裏面にキリル文字が表記されるようになった&lt;ref&gt;平石国雄、二橋瑛夫 『世界コイン図鑑』 日本専門図書出版、2002年&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> == 符号位置 ==<br /> {| class=&quot;wikitable&quot; style=&quot;text-align: center;&quot;<br /> !記号!![[Unicode]]!![[JIS X 0213]]!![[文字参照]]!!名称<br /> {{CharCode|8366|20AE|-|トゥグルグ|font=通貨フォント}}<br /> |}<br /> <br /> ==紙幣==<br /> トゥグルグ紙幣は[[モンゴル人民共和国]]時代(1992年まで)は[[ロシア・ルーブル|ソビエト連邦ルーブル]]とよく似ていた。色、全体のデザイン、1トゥグルグから100トゥグルグまでの額面設定なども共通であった。当時は[[ソビエト連邦]]で印刷されていたが、1993年版以降は[[イギリス]]にて印刷されている。<br /> <br /> === 現在の紙幣(1993年版) ===<br /> {|class=&quot;wikitable&quot; style=&quot;font-size: 85%&quot;<br /> !colspan=&quot;10&quot;| 1993年版シリーズ<br /> |-<br /> !colspan=&quot;2&quot;| 画像 !!rowspan=&quot;2&quot;| 額面 !!rowspan=&quot;2&quot;| 寸法 !!rowspan=&quot;2&quot;| 主要色 !!colspan=&quot;3&quot;| デザイン !!rowspan=&quot;2&quot;| 発行 !!rowspan=&quot;2&quot;| 備考<br /> |-<br /> ! 表 !! 裏 !! 表 !! 裏 !! 透かし <br /> |- <br /> |style=&quot;text-align:center;&quot;| [[File:10MongoObverse.jpg|50px]]<br /> |style=&quot;text-align:center;&quot;| [[File:10MongoReverse.jpg|50px]]<br /> | 10ムング<br /> | 45x90mm<br /> | ピンク<br /> |[[ソヨンボ]]; モンゴル弓道<br /> |モンゴル弓道<br /> | なし<br /> | rowspan=&quot;3&quot;| 1993年<br /> | rowspan=&quot;4&quot;| 現在ではほとんど流通していない。収集用には豊富に存在。<br /> |- <br /> |style=&quot;text-align:center;&quot;| [[File:20MongoObverse.jpg|50px]]<br /> |style=&quot;text-align:center;&quot;| [[File:20MongoReverse.jpg|50px]]<br /> | 20ムング<br /> | 45x90mm<br /> | 黄茶<br /> |[[ソヨンボ]]; [[ブフ|モンゴル相撲]]<br /> |モンゴル相撲<br /> | なし<br /> |- <br /> |style=&quot;text-align:center;&quot;| [[File:50MongoObverse.jpg|50px]]<br /> |style=&quot;text-align:center;&quot;| [[File:50MongoReverse.jpg|50px]]<br /> | 50ムング<br /> | 45x90mm<br /> | 緑青<br /> |[[ソヨンボ]]; モンゴル馬術<br /> |モンゴル馬術<br /> | なし<br /> |- <br /> |style=&quot;text-align:center;&quot;| <br /> |style=&quot;text-align:center;&quot;| <br /> | 1トゥグルグ<br /> | 115x57mm<br /> | 黄茶<br /> |[[ライオン]]<br /> |[[ソヨンボ]]<br /> | rowspan=&quot;11&quot;| [[チンギス・カン]]<br /> | rowspan=&quot;2&quot;| 1993年、2008年<br /> |- <br /> |style=&quot;text-align:center;&quot;| <br /> |style=&quot;text-align:center;&quot;| <br /> | 5トゥグルグ<br /> | 120x60mm<br /> | オレンジ<br /> |rowspan=&quot;5&quot;| [[ダムディン・スフバートル]]、[[ソヨンボ]]、パイザ<br /> |rowspan=&quot;5&quot;| 草原・山岳風景と草を食む馬<br /> | 現在ではほとんど流通していない。主に銀行のみで使用。<br /> |- <br /> |style=&quot;text-align:center;&quot;| [[File:10TugrikObverse.jpg|99px]]<br /> |style=&quot;text-align:center;&quot;| [[File:10TugrikReverse.jpg|99px]]<br /> | 10トゥグルグ<br /> | 125x61mm<br /> | 緑<br /> |rowspan=&quot;2&quot;| 1993年、2002年、2013年<br /> | 市中で通常流通している最小額の紙幣。<br /> |- <br /> |style=&quot;text-align:center;&quot;| [[File:20tfront.png|99px]]<br /> |style=&quot;text-align:center;&quot;| [[File:20tback.png|99px]]<br /> | 20トゥグルグ<br /> | 130x65mm<br /> | 赤紫<br /> | rowspan=&quot;8&quot;| <br /> |- <br /> |style=&quot;text-align:center;&quot;| [[File:50 Tugriks - Recto.jpg|99px]]<br /> |style=&quot;text-align:center;&quot;| [[File:50 Tugriks - Verso.jpg|99px]]<br /> | 50トゥグルグ<br /> | 135x66mm<br /> | 茶<br /> |rowspan=&quot;2&quot;| 1993年、2000年、2013年<br /> |- <br /> |style=&quot;text-align:center;&quot;| [[File:100 Tugriks - Recto.jpg|99px]]<br /> |style=&quot;text-align:center;&quot;| [[File:100 Tugriks - Verso.jpg|99px]]<br /> | 100トゥグルグ<br /> | 140x68mm<br /> | 紫<br /> |- <br /> |style=&quot;text-align:center;&quot;| <br /> |style=&quot;text-align:center;&quot;| <br /> | 500トゥグルグ<br /> | 145x70mm<br /> | 緑<br /> |rowspan=&quot;5&quot;| [[チンギス・カン]]、[[ソヨンボ]]、パイザ<br /> |rowspan=&quot;2&quot;| 移動中の[[オルド]](移動宮殿)<br /> | 1993年、1997年、2000年、2003年、2013年<br /> |- <br /> |style=&quot;text-align:center;&quot;| [[File:1000 Tugriks - Recto.jpg|99px]]<br /> |style=&quot;text-align:center;&quot;| [[File:1000 Tugriks - Verso.jpg|99px]]<br /> | 1000トゥグルグ<br /> | 150x72mm<br /> | 青<br /> | 1993年、1997年、2003年、2013年<br /> |- <br /> |style=&quot;text-align:center;&quot;| [[File:5000 Tugriks - Recto.jpg|99px]]<br /> |style=&quot;text-align:center;&quot;| [[File:5000 Tugriks - Verso.jpg|99px]]<br /> | 5000トゥグルグ<br /> | 150x72mm<br /> | ピンク・紫<br /> |rowspan=&quot;2&quot;| [[カラコルム]]宮殿広場の木の形をした飲用水井戸<br /> | 1994年、2003年、2013年<br /> |- <br /> |style=&quot;text-align:center;&quot;| [[File:10000 Tugriks - Recto.jpg|99px]]<br /> |style=&quot;text-align:center;&quot;| [[File:10000 Tugriks - Verso.jpg|99px]]<br /> | 10,000トゥグルグ<br /> | 150x72mm<br /> | オレンジ<br /> | 1995年、2002年、2014年<br /> |- <br /> |style=&quot;text-align:center;&quot;| <br /> |style=&quot;text-align:center;&quot;|<br /> | 20,000トゥグルグ<br /> | <br /> | ライム色・紫<br /> |[[キプチャク・ハン国]]の九旒の白旗(纛)<br /> | 2006年、2013年<br /> |}<br /> <br /> == 参考文献 ==<br /> {{脚注ヘルプ}}{{Reflist}}<br /> <br /> == 外部リンク ==<br /> * [http://www.mongolbank.mn/ モンゴル銀行公式サイト]<br /> {{Exchange Rate|MNT}}<br /> {{圓}}<br /> {{アジアの通貨}}<br /> {{Currency signs}}<br /> <br /> {{DEFAULTSORT:とうくるく}}<br /> [[Category:各国の通貨]]<br /> [[Category:アジアの通貨]]<br /> [[Category:モンゴル国の経済]]<br /> [[Category:圓|もんこる]]<br /> [[Category:通貨記号]]</div> 113.37.189.50 国別煙草消費概況 2015-12-28T14:55:38Z <p>113.37.189.50: </p> <hr /> <div>[[ファイル:World map of countries by number of cigarettes smoked per adult per year.svg|thumb|400px|色が濃い国ほど一人当たりの成人の煙草消費量が多い]]<br /> &#039;&#039;&#039;国別煙草消費概況&#039;&#039;&#039;とは一年間に一人の成人が消費する煙草の量を一覧にしたものである。<br /> 現在、世界で11億人が喫煙しており、その数は先進国では年々減少し、発展途上国では年間約3.4%の割合で増加している。<br /> <br /> __TOC__<br /> == 消費量番付 ==<br /> {{col-begin}}<br /> {{col-break}}<br /> {| class=&quot;wikitable&quot; style=&quot;text-align: left;font-size:small&quot;<br /> |-<br /> ! 番付<br /> ! 国<br /> ! 成人の年間消費本数<br /> |-<br /> | 1 || {{flagcountry|Greece}} || 3,017 <br /> |-<br /> | 2 || {{flagcountry|Slovenia}} || 2,537 <br /> |-<br /> | 3 || {{flagcountry|Ukraine}} || 2,526<br /> |-<br /> | 4 || {{flagcountry|Bulgaria}} || 2,437<br /> |-<br /> | 5 || {{flagcountry|Czech Republic}} || 2,368<br /> |-<br /> | 6 || {{flagcountry|Macedonia}} || 2,336 <br /> |-<br /> | 7 || {{flagcountry|Russia}} || 2,319 <br /> |- <br /> | 8 || {{flagcountry|Moldova}} || 2,239 <br /> |-<br /> | 9 || {{flagcountry|Spain}} || 2,225 <br /> |-<br /> | 10 || {{flagcountry|Bosnia and Herzegovina}} || 2,145 <br /> |-<br /> | 11 || {{flagcountry|Armenia}} || 2,083 <br /> |-<br /> | 12 || {{flagcountry|Japan}} || 2,028 <br /> |-<br /> | 13 || {{flagcountry|Latvia}} || 1,890 <br /> |-<br /> | 14 || {{flagcountry|Croatia}} || 1,849<br /> |-<br /> | 15 || {{flagcountry|Belarus}} || 1,846 <br /> |-<br /> | 16 || {{flagcountry|Lebanon}} || 1,837 <br /> |-<br /> | 17 || {{flagcountry|Cyprus}} || 1,830 <br /> |-<br /> | 18 || {{flagcountry|Poland}} || 1,810 <br /> |-<br /> | 19 || {{flagcountry|Kazakhstan}} || 1,805 <br /> |-<br /> | 20 || {{flagcountry|Belgium}} || 1,763 <br /> |-<br /> | 21 || {{flagcountry|South Korea}} || 1,733<br /> |-<br /> | 22 || {{flagcountry|Estonia}} || 1,718 <br /> |-<br /> | 23 || {{flagcountry|Switzerland}} || 1,698 <br /> |-<br /> | 24 || {{flagcountry|Austria}} || 1,684 <br /> |-<br /> | 25 || {{flagcountry|China}} || 1,648 <br /> |-<br /> | 26 || {{flagcountry|Hungary}} || 1,623 <br /> |-<br /> | 27 || {{flagcountry|Italy}} || 1,596 <br /> |-<br /> | 28 || {{flagcountry|Tunisia}} || 1,532 <br /> |-<br /> | 29 || {{flagcountry|Kuwait}} || 1,509 <br /> |-<br /> | 30 || {{flagcountry|Turkey}} || 1,499 <br /> |-<br /> | 31 || {{flagcountry|Denmark}} || 1,495 <br /> |-<br /> | 32 || {{flagcountry|Romania}} || 1,480 <br /> |-<br /> | 33 || {{flagcountry|Slovakia}} || 1,430 <br /> |-<br /> | 34 || {{flagcountry|Ireland}} || 1,391 <br /> |-<br /> | 35 || {{flagcountry|Trinidad and Tobago}} || 1,337 <br /> |-<br /> | 36 || {{flagcountry|Portugal}} || 1,318 <br /> |-<br /> | 37 || {{flagcountry|Malta}} || 1,287 <br /> |-<br /> | 38 || {{flagcountry|Albania}} || 1,201 <br /> |-<br /> | 39 || {{flagcountry|United States}} || 1,196 <br /> |-<br /> | 40 || {{flagcountry|Israel}} || 1,173 <br /> |-<br /> | 41 || {{flagcountry|Australia}} || 1,130 <br /> |-<br /> | 42 || {{flagcountry|Germany}} || 1,125 <br /> |-<br /> | 43 || {{flagcountry|United Arab Emirates}} || 1,092 <br /> |-<br /> | 44 || {{flagcountry|Azerbaijan}} || 1,089 <br /> |-<br /> | 45 || {{flagcountry|Egypt}} || 1,082 <br /> |-<br /> | 46 || {{flagcountry|Philippines}} || 1,073 <br /> |-<br /> | 47 || {{flagcountry|Syria}} || 1,067 <br /> |-<br /> | 48 || {{flagcountry|Georgia}} || 1,040 <br /> |-<br /> | 49 || {{flagcountry|Kyrgyzstan}} || 1,017 <br /> |-<br /> | 50 || {{flagcountry|Argentina}} || 1,014 <br /> |-<br /> | 50 || {{flagcountry|Cuba}} || 1,010 <br /> |-<br /> | 52 || {{flagcountry|Indonesia}} || 974 <br /> |-<br /> | 53 || {{flagcountry|Paraguay}} || 968 <br /> |-<br /> | 54 || {{flagcountry|Finland}} || 956 <br /> |-<br /> | 55 || {{flagcountry|Lithuania}} || 920 <br /> |-<br /> | 56 || {{flagcountry|Chile}} || 909 <br /> |-<br /> | 57 || {{flagcountry|Canada}} || 897 <br /> |-<br /> | 58 || {{flagcountry|Netherlands}} || 888 <br /> |-<br /> | 59 || {{flagcountry|Vietnam}} || 887 <br /> |-<br /> | 60 || {{flagcountry|France}} || 876 <br /> |}<br /> {{col-break}}<br /> {| class=&quot;wikitable&quot; style=&quot;text-align: left;font-size:small&quot;<br /> |-<br /> ! 番付<br /> ! 国<br /> ! 成人の年間消費本数<br /> |-<br /> | 61 || {{flagcountry|Libya}} || 860 <br /> |-<br /> | 62 || {{flagcountry|Jordan}} || 846 <br /> |-<br /> | 63 || {{flagcountry|Mauritius}} || 846 <br /> |-<br /> | 64 || {{flagcountry|Uruguay}} || 793 <br /> |-<br /> | 65 || {{flagcountry|United Kingdom}} || 790 <br /> |-<br /> | 66 || {{flagcountry|Iraq}} || 784 <br /> |-<br /> | 67 || {{flagcountry|Iran}} || 764 <br /> |-<br /> | 68 || {{flagcountry|Sweden}} || 751 <br /> |-<br /> | 69 || {{flagcountry|North Korea}} || 714 <br /> |-<br /> | 70 || {{flagcountry|Saudi Arabia}} || 648 <br /> |-<br /> | 71 || {{flagcountry|Malaysia}} || 646 <br /> |-<br /> | 72 || {{flagcountry|Thailand}} || 634 <br /> |-<br /> | 73 || {{flagcountry|Venezuela}} || 622 <br /> |-<br /> | 74 || {{flagcountry|Brazil}} || 580 <br /> |-<br /> | 75 || {{flagcountry|Algeria}} || 577 <br /> |-<br /> | 76 || {{flagcountry|New Zealand}} || 565 <br /> |-<br /> | 77 || {{flagcountry|Costa Rica}} || 552 <br /> |-<br /> | 78 || {{flagcountry|Laos}} || 544 <br /> |-<br /> | 79 || {{flagcountry|South Africa}} || 511 <br /> |-<br /> | 80 || {{flagcountry|Hong Kong}} || 499 <br /> |-<br /> | 81 || {{flagcountry|Turkmenistan}} || 496 <br /> |-<br /> | 82 || {{flagcountry|Norway}} || 493 <br /> |-<br /> | 83 || {{flagcountry|Jamaica}} || 480 <br /> |-<br /> | 84 || {{flagcountry|Colombia}} || 479 <br /> |-<br /> | 85 || {{flagcountry|Mexico}} || 470 <br /> |-<br /> | 86 || {{flagcountry|Honduras}} || 450 <br /> |-<br /> | 87 || {{flagcountry|Cambodia}} || 447 <br /> |-<br /> | 88 || {{flagcountry|Morocco}} || 430 <br /> |-<br /> | 89 || {{flagcountry|Singapore}} || 406 <br /> |-<br /> | 90 || {{flagcountry|Angola}} || 397 <br /> |-<br /> | 91 || {{flagcountry|Pakistan}} || 391 <br /> |-<br /> | 92 || {{flagcountry|Nicaragua}} || 386 <br /> |-<br /> | 93 || {{flagcountry|Senegal}} || 380 <br /> |-<br /> | 94 || {{flagcountry|Dominican Republic}} || 335 <br /> |-<br /> | 95 || {{flagcountry|Guatemala}} || 325 <br /> |-<br /> | 96 || {{flagcountry|Uzbekistan}} || 317 <br /> |-<br /> | 96 || {{flagcountry|Yemen}} || 317 <br /> |-<br /> | 98 || {{flagcountry|Togo}} || 306 <br /> |-<br /> | 99 || {{flagcountry|Panama}} || 291 <br /> |-<br /> | 100 || {{flagcountry|Madagascar}} || 276 <br /> |-<br /> | 101 || {{flagcountry|El Salvador}} || 275 <br /> |-<br /> | 102 || {{flagcountry|Nepal}} || 274 <br /> |-<br /> | 103 || {{flagcountry|Ecuador}} || 234 <br /> |-<br /> | 104 || {{flagcountry|Mozambique}} || 213 <br /> |-<br /> | 105 || {{flagcountry|Myanmar}} || 209 <br /> |-<br /> | 106 || {{flagcountry|Sri Lanka}} || 205 <br /> |-<br /> | 107 || {{flagcountry|Ivory Coast}} || 198 <br /> |-<br /> | 108 || {{flagcountry|Bolivia}} || 178 <br /> |-<br /> | 109 || {{flagcountry|Bangladesh}} || 172 <br /> |-<br /> | 110 || {{flagcountry|Kenya}} || 167 <br /> |-<br /> | 111 || {{flagcountry|Cameroon}} || 141 <br /> |-<br /> | 112 || {{flagcountry|Democratic Republic of the Congo}} || 131 <br /> |-<br /> | 113 || {{flagcountry|Peru}} || 129 <br /> |-<br /> | 114 || {{flagcountry|Tanzania}} || 108 <br /> |-<br /> | 115 || {{flagcountry|Nigeria}} || 103 <br /> |-<br /> | 116 || {{flagcountry|India}} || 99 <br /> |-<br /> | 117 || {{flagcountry|Zimbabwe}} || 86 <br /> |-<br /> | 118 || {{flagcountry|Ghana}} || 80 <br /> |-<br /> | 119 || {{flagcountry|Sudan}} || 75 <br /> |-<br /> | 120 || {{flagcountry|Zambia}} || 71 <br /> |-<br /> | 121 || {{flagcountry|Ethiopia}} || 52 <br /> |}<br /> {{col-end}}<br /> <br /> ただし、この統計には{{flagcountry|United States}}、{{flagcountry|United Kingdom}}、{{flagcountry|Iraq}}、{{flagcountry|Saudi Arabia}}、{{flagcountry|Russia}}など、多くの国のデータが欠けている&lt;ref&gt;[http://www.nationmaster.com/red/graph/hea_tob_cig_con-health-tobacco-cigarette-consumption&amp;b_map=1 Countries of No Data]&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> == 性別消費概況 ==<br /> [[ファイル:Female Smoking by Country.png|thumb|right|280px|赤に近いほど女性の喫煙率が高く、緑に近いほど低い]]<br /> &lt;table style=&quot;text-align:center&quot;&gt;<br /> &lt;tr&gt;&lt;td&gt;&lt;/td&gt;&lt;th colspan=2&gt;比率(%)&lt;/th&gt;&lt;/tr&gt;<br /> &lt;tr&gt;&lt;th&gt;地域&lt;/th&gt;&lt;th&gt;男性&lt;/th&gt;&lt;th&gt;女性&lt;/th&gt;&lt;/tr&gt;<br /> &lt;tr&gt;&lt;td align=&quot;left&quot;&gt;[[アフリカ]]&lt;/td&gt;&lt;td&gt;29&lt;/td&gt;&lt;td&gt;4&lt;/td&gt;&lt;/tr&gt;<br /> &lt;tr&gt;&lt;td align=&quot;left&quot;&gt;[[米国]]&lt;/td&gt;&lt;td&gt;35&lt;/td&gt;&lt;td&gt;22&lt;/td&gt;&lt;/tr&gt;<br /> &lt;tr&gt;&lt;td align=&quot;left&quot;&gt;[[地中海]]東方諸国&lt;/td&gt;&lt;td&gt;35&lt;/td&gt;&lt;td&gt;4&lt;/td&gt;&lt;/tr&gt;<br /> &lt;tr&gt;&lt;td align=&quot;left&quot;&gt;[[欧州]]&lt;/td&gt;&lt;td&gt;46&lt;/td&gt;&lt;td&gt;26&lt;/td&gt;&lt;/tr&gt;<br /> &lt;tr&gt;&lt;td align=&quot;left&quot;&gt;[[東南アジア]]&lt;/td&gt;&lt;td&gt;44&lt;/td&gt;&lt;td&gt;4&lt;/td&gt;&lt;/tr&gt;<br /> &lt;tr&gt;&lt;td align=&quot;left&quot;&gt;[[太平洋諸国]]&lt;/td&gt;&lt;td&gt;60&lt;/td&gt;&lt;td&gt;8&lt;/td&gt;&lt;/tr&gt;<br /> &lt;/table&gt;<br /> <br /> == 資料 ==<br /> *消費量番付 - [http://www.nationmaster.com/graph/hea_tob_cig_con-health-tobacco-cigarette-consumption NationMaster - Tobacco &gt; Cigarette consumption (most recent) by country]<br /> *性別消費概況 - [[世界保健機関]]による[[2000年]]度の見積<br /> == 脚注 ==<br /> &lt;references /&gt;<br /> <br /> {{Smoking nav|state=expanded}}<br /> {{国の指標}}<br /> <br /> {{DEFAULTSORT:くにへつたはこしようひかいきよう}}<br /> [[Category:各国のたばこ|*]]<br /> [[Category:国の一覧]]</div> 113.37.189.50
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