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miniwiki - 利用者の投稿記録 [ja]
2024-05-03T13:10:26Z
利用者の投稿記録
MediaWiki 1.31.0
デレーチョ
2018-09-27T10:11:57Z
<p>113.36.250.10: ←新しいページ: 「'''デレーチョ'''(''Derecho'')は、スペイン語で「真っ直ぐ」あるいは「真っすぐなもの」という意味の単語。 :* {{…」</p>
<hr />
<div>'''デレーチョ'''(''Derecho'')は、[[スペイン語]]で「真っ直ぐ」あるいは「真っすぐなもの」という意味の単語。<br />
<br />
:* {{仮リンク|デレーチョ (自然災害)|en|Derecho}} - [[アメリカ大陸]]中央部で発生する大規模な直進性の[[嵐]]。[[事象]]としては災害級レベルの激しい[[雷雨]]が陸上で急速に移動するもので、[[6月]]ごろから[[7月]]中にかけて頻繁に発生する。<br />
:* [[デレーチョ・ビエホ]] - [[タンゴ]]の一曲。作曲は[[エドゥアルド・アローラス]]。<br />
<br />
<br />
{{aimai}}<br />
{{DEFAULTSORT:てれえちよ}}<br />
[[Category:スペイン語の語句]]</div>
113.36.250.10
タジキスタン
2018-08-04T09:05:06Z
<p>113.36.250.10: /* 近況 */ 更新と改訂</p>
<hr />
<div>{{基礎情報 国<br />
| 略名 =タジキスタン<br />
| 日本語国名 =タジキスタン共和国<br />
| 公式国名 ={{lang|tg|'''Ҷумҳурии Тоҷикистон'''}}<small>(キリル文字)</small><br>{{lang|tg|'''جمهوری تاجیکستان'''}}<small>(アラビア文字)</small><br />
| 国旗画像 =Flag of Tajikistan.svg<br />
| 国章画像 =[[ファイル:Coat of arms of Tajikistan.svg|100px|タジキスタンの国章]]<br />
| 国章リンク =([[タジキスタンの国章|国章]])<br />
| 標語 =なし<br />
| 位置画像 =Tajikistan (orthographic projection).svg<br />
| 公用語 =[[タジク語]]<ref group="注">''{{仮リンク|タジキスタン共和国憲法|en|Constitution of Tajikistan}}'', November 6, 1994, Article 2.</ref><ref>[https://www.cia.gov/library/publications/the-world-factbook/geos/ti.html CIA World Factbook/Tajikistan]</ref> <br> (共通語:[[ロシア語]]<ref name="lenta.ru/news/2011/06/09">[http://lenta.ru/news/2011/06/09/russian/ В Таджикистане русскому языку вернули прежний статус]</ref>)<br />
| 首都 =[[ドゥシャンベ]]<br />
| 最大都市 =ドゥシャンベ<br />
| 元首等肩書 =[[タジキスタンの大統領|大統領]]<br />
| 元首等氏名 =[[エモマリ・ラフモン]]<br />
| 首相等肩書 =[[タジキスタンの首相|首相]]<br />
| 首相等氏名 =[[コヒル・ラスルゾダ]]<br />
| 面積順位 =92c<br />
| 面積大きさ =1 E11<br />
| 面積値 =143,100<br />
| 水面積率 =0.3%<br />
| 人口統計年 =2015<br />
| 人口順位 =98<br />
| 人口大きさ =1 E6<br />
| 人口値 =8,352,000<br />
| 人口密度値 =49<br />
| GDP統計年元 =2016<br />
| GDP値元 =544億<ref name="economy">{{Cite web|url=http://www.imf.org/external/pubs/ft/weo/2017/01/weodata/weorept.aspx?pr.x=99&pr.y=5&sy=2012&ey=2017&scsm=1&ssd=1&sort=country&ds=.&br=1&c=923&s=NGDP_R%2CNGDP_RPCH%2CNGDP%2CNGDPD%2CNGDPRPC%2CNGDPPC%2CNGDPDPC%2CPPPGDP%2CPPPPC%2CPPPSH%2CNGSD_NGDP&grp=0&a=|title=World Economic Outlook Database, April 2017|publisher = [[国際通貨基金|IMF]]|date=2017-04|accessdate=2017-06-17}}</ref><br />
| GDP統計年MER =2016<br />
| GDP順位MER =142<br />
| GDP値MER =69億{{R|economy}}<br />
| GDP統計年 =2016<br />
| GDP順位 =131<br />
| GDP値 =260億{{R|economy}}<br />
| GDP/人 =3,008{{R|economy}}<br />
| 建国形態 =[[独立]]<br>&nbsp;-&nbsp;日付<br />
| 建国年月日 =[[ソビエト連邦]]より<br>[[1991年]][[9月9日]]<br />
| 通貨 =[[ソモニ]]<br />
| 通貨コード =TJS<br />
| 時間帯 =(+5)<br />
| 夏時間 =なし<br />
| 国歌名 =タジキスタン共和国国歌<br />
| ISO 3166-1 = TJ / TJK<br />
| ccTLD =[[.tj]]<br />
| 国際電話番号 =992<br />
| 注記 =<references group="注" /><br />
}}<br />
'''タジキスタン共和国'''(タジキスタンきょうわこく、{{lang-tg|Ҷумҳурии Тоҷикистон}}<small>(キリル文字)</small>、{{lang|tg|جمهوری تاجیکستان}}<small>(アラビア文字)</small>)、通称'''タジキスタン'''は、[[中央アジア]]に位置する[[共和制]][[国家]]。首都は[[ドゥシャンベ]]である。旧[[ソビエト連邦]]から独立した国で、南に[[アフガニスタン]]、東に[[中華人民共和国]]、北に[[キルギス]]、西に[[ウズベキスタン]]と国境を接する。<br />
<br />
== 国名 ==<br />
正式国名は、[[キリル文字]]で''{{Lang|tg|Ҷумҳурии Тоҷикистон}}'' (Jumhurii Tojikiston)、[[アラビア文字]]でجمهوری تاجیکستان(Jumhūrī-i Tājīkistān)。読みは、ジュムフーリーイ・トージーキストーンあるいはジュムフーリーイ・タージーキスターン。通称は、''{{Lang|tg|Тоҷикистон}}'' / تاجیکستان。<br />
<br />
公式の英語表記は、''Republic of Tajikistan''。通称、''Tajikistan''。国民・形容詞ともTajikistani。<br />
<br />
日本語の表記は、'''タジキスタン共和国'''。通称、'''タジキスタン'''。[[国名の漢字表記一覧|漢字による当て字]]は'''汰爾奇斯坦'''<ref>[http://homepage3.nifty.com/maryy/japanese/country-names.htm 地名・国名・人名の漢字表記]</ref>。<br />
<br />
国名は[[タジク人]]の自称民族名{{Lang|tg|Тоҷик}}(タージーク、トージーク)と、[[タジク語]]で「~の国」を意味する {{Lang|tg|-истон}} の合成語である。タジク([[ペルシア語]]ではタージークt&#257;j&#299;k)の語源は明らかではないが、[[中国]]の[[唐|唐朝]]が[[イスラム帝国]]を指した「[[大食]]」(タージー)と同じで、元はペルシア語で「[[アラブ人]]」を意味した語であると言われ、のちにアラブ人から[[イスラム教]]を受け入れたペルシア・イラン系の人々のことを指すようになったとの俗説もあるが根拠はない{{要検証|date=2011年4月|title=これを根拠が無い俗説とする出典の提示、若しくは「独自研究」のテンプレートを要する}}。タジク語、ペルシア語、ダリー語で"تاج T&#257;j" は「王冠」を意味し、単純には「冠の人たちの国」となり、現在でもタジキスタン国内で国名の由来を説明するときに用いられる通説である。<br />
<br />
== 歴史 ==<br />
{{main|{{仮リンク|タジキスタンの歴史|en|History of Tajikistan}}}}<br />
<br />
=== 紀元前から近世 ===<br />
[[紀元前2000年]]から[[紀元前1000年]]にかけて、[[アーリア系]]諸部族が[[ユーラシア]]草原から[[中央アジア]]に移住し、[[オアシス]]地方で独自の文化を創り上げていた。<br />
<br />
現在のタジキスタンの領土に相当する地域は、[[古代]]より最盛期の[[アケメネス朝]][[ペルシア帝国]]の東部辺境として[[古代ギリシア|ギリシア世界]]に知られ、様々な民族の往来・侵入・支配を受けつつも果敢に反撃し、[[パミール高原]]を境とする[[中国]]、[[インド]]・[[アフガニスタン]]、[[イラン]]・[[中東]]の結節点としての文明の十字路たる地位を確立してきた。反撃の過程では[[スピタメネス]](タジク語では「スピタメン」)を輩出した。同時に山岳地域は被征服民族の“落武者の隠れ里”として、各地のタジク語諸方言だけでなく、[[ヤグノビ語]]、[[シュグニー語]]<!--シュグナーン語-->、{{仮リンク|ルシャン語|en|Rushani dialect}}、[[ワヒ語]]などの{{仮リンク|パミール諸語|en|Pamir languages}}<!--ワハーン諸語-->を話す民族を今日まで存続させてきた。<br />
<br />
[[画像:Samanid Mausoleum.jpg|thumb|left|160px|[[サーマーン朝]]の[[イスマーイール・サーマーニー廟]]]]<br />
[[7世紀]]の[[イスラーム教徒のペルシア征服]]の後、[[8世紀]]に西方から[[アラブ人]]が到来し、イラン系の言語を話していたこの地域の住民たちの多くは[[イスラム教]]を信奉するようになり、[[9世紀]]には現在のタジキスタンからウズベキスタンにかけての地域で、土着のイラン系領主が[[ブハラ]]を首都に[[サーマーン朝|サーマーン王朝]]を立てた。しかし、サーマーン朝は同地域でのタジク系最後の独立王朝となる。やがて[[テュルク|テュルク民族]]が到来すると、タジキスタンとウズベキスタン、アフガニスタン、イランなどにかけて広く居住するイラン系の言語を話す[[ムスリム]](イスラム教徒)定住民たちは都市部においては侵入してきた[[テュルク系民族|テュルク語系諸民族]]と混住し、テュルク系言語とイラン系言語のバイリンガルが一般的となり、双方の民族とも民族としてのアイデンティティは低く、例えば[[タジク人|タジク]]という呼称よりも、出身地により自らを「[[サマルカンド]]人」や「[[ブハラ]]人」などと呼ぶなど、出身都市や集落に自己の[[アイデンティティ]]を求めることが多かったようである。<br />
<br />
[[16世紀]]にはタジクたちの中心地域である[[マー・ワラー・アンナフル]](ウズベキスタン中央部からタジキスタン北西部)に、[[ヴォルガ川]]流域で強大になった[[ウズベク|ウズベク人]](シャイバニ・ウズベク族)が侵入し、ウズベク族の建てた[[ブハラ・ハン国]]の支配下に入る。<br />
<br />
{{仮リンク|アングロ・ペルシア戦争|en|Anglo-Persian War}}([[1856年]]-[[1857年]])後に[[パリ条約 (1857年)|パリ条約]]が締結されると、[[ガージャール朝]]が[[ヘラート]]から手を引いた。[[19世紀]]に[[ロシア帝国]]では[[軽工業]]を基幹とする[[産業革命]]が進行していたが、[[1860年代]]前半に勃発した[[南北戦争|アメリカ南北戦争]]の影響から、それまで[[アメリカ合衆国南部]]で[[奴隷制]][[プランテーション]]農業によって生産されていた棉花の値段が上昇したため棉花原料の確保が困難となり、ロシア帝国では「安い綿原料の確保」ばかりでなく、「[[イギリス帝国|大英帝国]]による中央アジアの植民地化阻止」及び「平原を国境とすることの危険性」といった観点から、中央アジアへの南進及び領土編入・保護国化が進められ([[グレート・ゲーム]])、[[1868年]]にブハラ・ハン国はロシアの[[保護国]]となった。<br />
{{Clearleft}}<br />
<br />
=== 20世紀以降 ===<br />
[[File:Flag of the Bukharan People's Soviet Republic.svg|thumb|180px|[[ブハラ人民ソビエト共和国]]の国旗]]<br />
[[20世紀]]初頭の[[オスマン帝国]]は[[1904年]]から[[1905年]]にかけての[[日露戦争]]での[[日本]]の活躍をほとんど注目しておらず、むしろ[[ロシア]]と敵対関係にあった[[ブハラ・ハン国]]の政府に支援されたブハラからの留学生が留学先の[[ドイツ帝国]]の首都[[ベルリン]]でロシアが日本に敗れたことを知り、ブハラ・ハン国とその同盟国たるオスマン帝国に知らせている{{要出典|date=2008年12月}}。その留学生らは、日本の近代化の原動力を[[明治維新]]だと知ると、同じような[[自由主義革命]]の気運が[[ガージャール朝]][[ペルシア]]([[1906年]]から始まった[[イラン立憲革命]])やオスマン帝国([[1908年]]から始まった[[青年トルコ人革命]])に拡大した。しかし、ロシアの力が余りに強大だった[[ウラル山脈]]地域や[[中央アジア]]では[[社会主義革命]]に[[民族自決]]のための希望を見出した。[[ロシア革命]]の影響を受けたブハラ青年らは[[保守]]的なブハラ・ハン国を倒壊し、[[1920年]]に[[ブハラ人民ソビエト共和国]]を打ち立てた。しかし、[[1924年]]、[[ソビエト連邦|ソビエト政府]]は中央アジアの各自治共和国を民族別の共和国に分割統治再編する「民族境界区分」の画定に踏み切り、それまでテュルクの定住民とまとめて「[[サルト人|サルト]]」と呼ばれてきたイラン系のタジクたちが、タジク民族として公認されるとともに、ブハラの東部と[[トルキスタン自治ソビエト社会主義共和国]]の南部が切り分けられて現在のタジキスタンの領域に[[タジク自治ソビエト社会主義共和国]]が設置された。<br />
<br />
このように、[[中央アジア]]地域では[[ナポレオン]]や[[ヨハン・ゴットリープ・フィヒテ|フィヒテ]]の唱えた西欧型民族自決の言葉と引き換えに、本来の民族共生というアジア的な優れた生き方を少なくとも政府の[[イデオロギー]]レベルでは失うことになり、本来は中央アジア諸国が一団となれば巨大な経済圏となるはずであったのが、結果的に諸国の分立と[[少数民族]]と多数派民族とのあらゆる格差を生み出すことになった。以上のような考え方はタジクへももたらされたものの、[[第一次世界大戦]]後の[[トルコ革命]]後にパミール地方へ逃れた[[エンヴェル・パシャ]]将軍らが唱えた「[[汎テュルク主義]]」はロシアとの対立を望まない[[ケマル・アタチュルク]]率いる新生[[トルコ|トルコ共和国]]により却下され、反ロシア・反ソヴィエトの[[バスマチ蜂起|バスマチ抵抗運動]]は旧地主・支配階層による抵抗運動の枠を超えられず、中央アジア諸民族の結束力の弱さを体現している。この旧地主・支配階層は、その後アフガニスタンに逃れ、一部は湾岸諸国やイラン、或いは西欧に亡命して現在に至っている。一方で[[1929年]]、タジクは[[ウズベク・ソビエト社会主義共和国]]から分離し、ソビエト連邦構成国のひとつ[[タジク・ソビエト社会主義共和国]]に昇格した。ソ連時代のタジク・ソビエト社会主義共和国は、[[スターリン批判]]後の[[中ソ対立]]の文脈で[[1969年]]に発生した[[珍宝島]]/[[ダマンスキー島]]をめぐる[[中ソ国境紛争]]の調停の結果、タジキスタンの東部パミール地域にある[[ゴルノ・バダフシャン自治州]]にある{{仮リンク|ムルガーブ地区|en|Murghob District|label=ムルガーブ県}}の一部領土が[[中華人民共和国]]に割譲されるなど、中央政権にとってのタジキスタンのパミール地域は「削られても痛くない辺境地域」として見られているかと見間違うほどであった。<br />
<br />
こうして形成されたタジク国家は[[1990年]]に[[主権]]宣言を行い、[[1991年]]に国名をタジキスタン共和国に改めるとともに、[[ソ連崩壊|ソ連解体]]にともなって独立を果たした。1991年11月大統領選挙で[[ラフモン・ナビエフ]]が当選し、[[共産党]]政権が復活する。1991年12月21日、[[独立国家共同体]] (CIS) に参加する。ロシアとは同盟関係にあり、国内に[[ロシア連邦軍|ロシア軍]]が駐留している。<br />
<br />
[[File:Spetsnaz troopers during the 1992 Tajik war.jpg|thumb|[[タジキスタン内戦]]([[1992年]])]]<br />
<br />
[[1992年]]、[[タジキスタン共産党]]系の政府と[[イスラーム|イスラム]]系野党反政府勢力との間で[[タジキスタン内戦]]がおこった。11月に最高会議(共産党系)は[[エモマリ・ラフモン|エモマリ・ラフモノフ]] (1952-) を議長に選び新政権を樹立し、1993年春までにほぼ全土を制圧した。[[1994年]]4月最初の和平交渉が行われた。11月の大統領選挙が行われ、1997年6月の暫定停戦合意で反対派は政府ポストの3割を占めた。5万人以上の死者を出した内戦が終わった。エモマリ・ラフモノフ(現在はラフモンと改名)大統領の就任以来、[[国際連合タジキスタン監視団]] (UNMOT) のもとで和平形成が進められてきたが、[[1998年]]には監視団に派遣されていた[[秋野豊]][[筑波大学]]助教授が、ドゥシャンベ東方の山岳地帯で武装強盗団に銃撃され殉職する事件が起こった。<br />
<br />
[[1997年]]に内戦は終結した。UNMOTは[[2000年]]に和平プロセスを完了させ、以後は[[国際連合タジキスタン和平構築事務所]] (UNTOP) が復興を支援した。[[2001年]]の[[対テロ戦争]]以来、[[フランス空軍]]も小規模ながら駐留している(2008年現在)。<br />
<br />
ラフモン大統領の長期政権によって、ロシアや[[中華人民共和国]]([[上海協力機構]]加盟)、[[アメリカ合衆国|米国]]との関係強化が行われ、[[日本]]を含む各国の手厚い支援や国連活動によって、[[21世紀]]に入ってからは年10パーセントの高成長率を維持しているようである。和平後のマクロ経済成長は順調で負債も順調に返済していたが、[[2006年]]に中華人民共和国が[[道路]]建設支援を目玉に大規模な借款を行ったために、タジキスタンのマクロ経済指標の状況は[[アフリカ]]諸国並みであり、将来にわたる世界不況に対する不安が残っている。特に、もともと資源・産業の多様性は乏しい上、[[富の再分配|所得の再分配]]がうまく機能せず、国民の大多数は年収350ドル未満の生活を送っている。旧ソ連各国の中でも最も貧しい国の一つであるが、近年の[[ロシアの経済|ロシア経済]]の好転により、[[出稼ぎ]]労働者からの送金額が上昇したことから、公式経済データと実体経済との乖離、及び出稼ぎ労働者のいない[[寡婦世帯]]における貧困の深化が問題となっている。特に、[[ロシア語]]の話せない村落部出身の男性は、ロシアでの出稼ぎ先では低賃金肉体労働しか選択肢がなく、過酷な労働による死亡、[[後天性免疫不全症候群|AIDS]]若しくは[[性感染症]]の持ち込み、或いはロシア国内での[[重婚]]による本国家族への送金の停止など、都市部・村落部を問わず社会的問題は単純な貧困を超えた現象となりつつある。<br />
<br />
[[2011年]][[1月12日]]、タジキスタン下院は、中国との国境画定条約を批准し、[[パミール高原]]の約1000平方キロメートルが中国に割譲されることになった。<br />
<br />
=== 近況 ===<br />
ラフモン政権下の同国は自国民の[[愛国心]]を高める為として、ソ連時代から用いられ続けていた(公用語としての)ロシア語を[[2009年]]に廃止。<br />
[[2016年]]には[[出生届]]に関する[[新法]]を施行し、産まれてくる子供に外国名を名付けること(特にロシア語での命名)を禁止している<ref>{{Cite web|url=http://www.jiji.com/jc/article?k=2016043000098&g=int|title=ロシア風の名字禁止=愛国政策、新生児に適用-タジク|publisher=時事ドットコム|date=2016-04-30|accessdate=2016-08-24}}</ref>。<br />
最近では、[[テレビ番組]]に外国風の[[衣装]]を身に着けた[[キャラクター]]を登場させることを禁止する他、仕事で海外から渡って来た人間の[[母語]]を含む[[多言語]]の使用にも制限が設けられる事態が起こっている<ref>{{Cite web|url=http://www.afpbb.com/articles/-/3096045|title=「理解不能」な言葉使った記者に罰金、タジキスタン|publisher= AFPBB News|date=2016-08-02|accessdate=2016-08-24}}</ref>。<br />
<br />
この他には、ソ連の名残を払拭する目的から[[祝祭]]を規制する[[法律]]を厳格化したことが挙げられ、[[新年]]を祝うことを禁じ[[ヒンドゥー教]]の[[ホーリー祭]]を祝う[[行事]]に参加した若者を「[[ハラーム]]に該当する行為」だとして強制的に[[解散]]させるといった取り締まりが執行されたほか、[[学校]]の卒業パーティーを禁止する方針が固められたり個人の[[誕生日]]を「自宅だけで祝う」ようにさせるなどの措置が執られている<ref>[https://jp.globalvoices.org/2018/04/17/47569/ タジキスタンの残念な御法度13選!] Global Voices 2018年4月17日</ref>。<br />
<br />
[[2018年]][[7月29日]]、首都ドゥシャンベからアフガニスタン国境に向かう道路を南に約150㎞下った付近の地域で、観光目的で現地を訪れていた外国人グループが襲撃され4名が死亡する事件が発生した<ref>{{Cite web|url=https://www.asahi.com/articles/ASL7Z66ZCL7ZUHBI023.html|title=タジキスタンで米国人ら4人死亡 車で襲撃、テロか|publisher= 朝日新聞デジタル|date=2018-07-30|accessdate=2018-08-04}}</ref>。<br />
<br />
== 政治 ==<br />
[[画像:Emomali Rahmonov 2001Nov03.jpg|thumb|140px|[[エモマリ・ラフモン]]大統領]]<br />
{{main|{{仮リンク|タジキスタンの政治|en|Politics of Tajikistan}}}}<br />
<br />
=== 政治体制 ===<br />
タジキスタンの[[政体]]は[[共和制]]をとる立憲[[国家]]である。現行[[憲法]]は[[1994年]][[11月]]に採択されたもの。<br />
<br />
=== 行政府 ===<br />
[[元首|国家元首]]として強大な権限を憲法により保障されている[[大統領]]は、[[国民]]の直接選挙で選出される。大統領は[[首相]]を任命する。[[副大統領]]職は無い。大統領の任期は7年だが、2016年の国民投票で、現職のラフモン大統領に限り任期制限が撤廃する憲法改正案が承認された<ref>[http://www.afpbb.com/articles/-/3088075 タジキスタン、大統領の任期制限を撤廃 国民投票で改憲承認] [[AFP通信]]、2016年5月24日。2016年10月11日閲覧。</ref>。<br />
<br />
[[内閣]]に相当する'''閣僚評議会'''のメンバーは、'''最高会議'''の承認のもとに大統領が任命する。<br />
<br />
=== 立法府 ===<br />
{{main|最高議会 (タジキスタン)}}<br />
[[立法府]]は[[両院制|二院制]]の'''[[最高議会 (タジキスタン)|最高会議]]'''(マジリシ・オリ)で、'''国民議会'''([[上院]]、マジリシ・ミリー)と'''人民代表議会'''([[下院]]、マジリシ・ナモヤンダゴン)で構成される。国民議会は33議席で、うち25議席は地方議会による選出枠、残りは大統領が任命する。人民代表議会は63議席で、その内、41議席は小選挙区制、22議席は比例代表制で選出される。両院とも任期は5年。<br />
<br />
[[2015年]][[3月1日]]には下院選挙が行われた<ref name="rfe">{{cite news|url=http://www.rferl.org/content/osce-to-monitor-tajik-parliamentary-elections/26839759.html|title=OSCE To Monitor Tajik Parliamentary Elections|date=10 February 2015|publisher=[[Radio Free Europe/Radio Liberty]]|accessdate=28 February 2015}}</ref>。<br />
<br />
=== 政党 ===<br />
主要[[政党]]には大統領[[エモマリ・ラフモン]]([[2007年]][[4月14日]]、ラフモノフから改名)率いる[[タジキスタン人民民主党]]、[[ソビエト連邦|旧ソ連]]時代の政権党であった[[タジキスタン共産党]]、そして[[イスラム主義]]の[[宗教]]政党[[タジキスタン・イスラム復興党]]の3つがある。この3党は、比例代表制での5%障壁を超えることができた。タジキスタン人民民主党以外は野党つまり反政府派であり、当初の和平協定では反政府派に政府閣僚級ポストの5%が所定枠として当てられ、「民主的国家」を目指すことになっていたが、2006年11月の大統領選挙で現大統領が再選すると野党反政府派は主要ポストからほぼ退かされた状況にある。<br />
<br />
=== 司法 ===<br />
最高[[司法]]機関は[[最高裁判所]]で、その裁判官は大統領が任命する。<br />
<br />
== 軍事 ==<br />
{{main|タジキスタン軍}}<br />
<br />
== 国際関係 ==<br />
{{main|タジキスタンの国際関係|タジキスタンの在外公館の一覧}}<br />
[[インド]]が基地の許可を得た<ref>{{cite web<br />
|url = http://www.fsight.jp/article/3504<br />
|title = インドがタジキスタンに進出 その背後にもロシア:Foresight {{!}} 記事 {{!}} 新潮社 Foresight(フォーサイト) {{!}} 会員制国際情報サイト<br />
|date = 2007-7<br />
|accessdate = 2018-1-22<br />
|publisher = [[新潮社]]<br />
}}</ref>。<br />
<br />
== 地理 ==<br />
国土のほとんどは山岳地帯で、国土の半数が標高3000m以上であり、中国との国境に至る東部は7000m級に達する[[パミール高原]]の一部。首都のドゥシャンベの標高は700~800mほどとそれほど高くなく、北西部の[[フェルガナ盆地]]は標高300~500m前後と最も低くなっており、ウズベキスタン、キルギスと入り組んで国境を接している。一方、パミール地方の[[ゴルノ・バダフシャン自治州]]の州都[[ホログ]]は標高2000mを超す。最高峰は[[イスモイル・ソモニ峰]](7495m)、次いで[[:en:Lenin Peak|レーニン峰]](7130m)、[[:en:Peak Korzhenevskaya|コルジェネフスカヤ峰]](7105m)と三つの7000m級の山がある。主要河川は、[[アムダリヤ川]]、[[ヴァフシュ川]]、[[パンジ川]]、{{仮リンク|バルタン川|en|Bartang River}}、[[ザラフシャン川]](旧ソグド川)。<br />
<br />
=== タジキスタンの地震 ===<br />
{{main|タジキスタンの地震の一覧表|[[:en:List of earthquakes in Tajikistan]]}}<br />
<br />
== 地方行政区分 ==<br />
[[画像:Tajikistan satellite photo.jpg|thumb|250px|right|タジキスタンの衛星写真]]<br />
[[画像:Tajikistan OVER.jpg|thumb|250px|right|首都ドゥシャンベは西の平野部に位置する]]<br />
{{main|タジキスタンの行政区画}}<br />
地方は3つの州と1つの自治州に分けられる。すなわち、[[共和国直轄地]](首都[[ドゥシャンベ]]を含む)、南部の[[ハトロン州]](州都[[クルガン・テッパ]])、北部[[フェルガナ]]盆地方面の[[ソグド州]](州都[[ホジェンド]])の2州と、東部パミール高原の[[ゴルノ・バダフシャン自治州]](州都[[ホログ]])である。<br />
<br />
州より下の行政単位は、行政郡(nohiya) - 地区(jamoat) - 村(deha)或いは集落地 が一般的であり、行政郡の中心部に市(shahrak)をおくこともある。ただし、地方の大きな都市は独立した行政単位であり、特に首都のドゥシャンベは非常に権限の強い行政単位である。ドゥシャンベの内部は区(nohiya)が置かれ、住民自治の一端を担っている。<br />
<br />
=== 主要都市 ===<br />
{{main|タジキスタンの都市の一覧}}<br />
その他の主要都市は[[パンジケント]]、[[ガルム (タジキスタン)|ガルム]]、[[クリャーブ]]などがある。<br />
<br />
== 経済 ==<br />
{{main|{{仮リンク|タジキスタンの経済|en|Economy of Tajikistan}}}}<br />
[[画像:Dushanbe1.JPG|thumb|right|首都[[ドゥシャンベ]]]]<br />
タジキスタンは[[中央アジア]]の中で最も[[貧困|貧しい]]が、[[タジキスタン内戦|内戦]]終結後の経済発展は著しく、2000年から2004年のGDP成長率は9.6%に達した。主要歳入源は[[アルミニウム]]生産、[[綿花]]栽培、国外[[出稼ぎ]]労働者からの送金である。人口の1割にあたる87万人がロシアで働いて送金し、その額はGDPの1/3にあたる(2016年現在)。国営Talco社が世界的規模のアルミ精錬を行っている。主にロシアなど国外での安い労働力提供で得られる仕送りはGDPの36%を超え、貧困層を多く抱えるタジキスタンにとって重要な収入である。<br />
<br />
一方、2006年には[[麻薬]]押収量世界3位であったが、アフガニスタンからロシアなどへの移送取締りを国連などの協力で実施したため、その効果は上がっているという。アフガニスタン国境の橋が米国により建設されるなど[[インフラストラクチャー|インフラストラクチュア]]整備が少しずつ進んでいる。<br />
<br />
通貨は[[ソモニ]]である。<br />
<br />
=== 農業 ===<br />
: タジキスタンでは主に小麦や米が栽培されているが、農産物の中で重きを置かれているのは綿花である<ref group="注">タジキスタンは嘗て[[ソビエト社会主義共和国連邦|ソ連]]の[[ソビエト連邦構成共和国|構成国家]]であった為、ソ連時代から綿花の栽培が行われており、ソ連構成国であった当時はソ連全体の綿花栽培に於ける重要地域の1つとして注視されていた。</ref>。<br />
: タジキスタン国内に於いて綿花は小麦と同じく農作物の主産物であり国の社会生活に深く繋がっているものの、ソ連崩壊後から状況が一転し、近年では農業改革によって作付けの農作物を自由に選べるようになっていることも加わり、栽培の割合が減少傾向にある。<br />
: (作付面積はソ連時代と比べると60%強ほど)<ref>{{Cite web<br />
| url = http://www.swissinfo.ch/jpn/{{urlencode:単作農業からの脱却}}_{{urlencode:タジキスタンの将来を握る}}-{{urlencode:白い金}}-/41680222<br />
| title = タジキスタンの将来を握る「白い金」<br />
| publisher = SWI swissinfo.ch<br />
| date = 2015-09-25<br />
| accessdate = 2016-08-24<br />
}}</ref><br />
<br />
=== 鉱業 ===<br />
: タジキスタンの鉱物資源で特筆すべきなのは[[アンチモン|アンチモン鉱]]である。2002年時点で3000トンを採鉱した。<br />
: これは世界第4位であり、世界シェア2.1%に相当する。この他、[[金]]、[[銀]]、[[水銀]](20トン、世界シェア1.1%)、[[鉛]]を産する。<br />
: 有機鉱物資源は[[亜炭]]、[[原油]]、[[天然ガス]]とも産出するが量は多くない。[[ウラン]]鉱も存在する。<br />
<br />
=== エネルギー ===<br />
: タジキスタンの[[エネルギー]]供給は世界一高い[[ヌレークダム]]や近年完成間近である[[サングトゥーダ・ダム]]などで行っている、[[水力発電]]に完全に依存し、水が足りなくなる冬季においては首都では都市[[セントラルヒーティング]]用のボイラーを使った小さな[[火力発電所]]しかない。<br />
: その他には、[[ザラフシャン川]]などに大規模ダムなどを作らず、夏季に安定した水供給を約束する見返りとして、冬季にウズベキスタンやトルクメニスタンから電力を輸入している。<br />
: 7000mを超える高山、深い谷と急流、比較的雨量の多い地中海性気候という条件下、年間発電量144億kW/h(2001年)のうち、97.7%を水力発電でまかなっている。<br />
: 安価で大量の電力生産は[[精錬]]に膨大な電力を必要とする[[アルミニウム]]工業を発達させるためであり、生産量は世界シェアの1.2%に当たる31万トンに達するが、原料となる[[ボーキサイト]]は[[ウクライナ]]などの外国からの輸入に頼っている。<br />
: 輸出金額に占めるアルミニウムの割合は53.7%にも達するが、その利権の全てがタジク国内にあるわけではない。<br />
<br />
== 交通 ==<br />
{{main|タジキスタンの交通}}<br />
=== 鉄道 ===<br />
{{main|タジキスタンの鉄道}}<br />
<br />
== 国民 ==<br />
{{main|タジキスタンの人口統計}}<br />
=== 民族 ===<br />
{{bar box<br />
|title=民族構成(タジキスタン)<br />
|titlebar=#ddd<br />
|float=right<br />
|bars=<br />
{{bar percent|[[タジク人]]|orange|84.3}}<br />
{{bar percent|[[ウズベク人]]|green|13.8}}<br />
{{bar percent|[[キルギス人]]|yellow|0.8}}<br />
{{bar percent|[[ロシア人]]|blue|0.5}}<br />
{{bar percent|その他|red|1}}<br />
}}<br />
主な[[民族]]は[[タジク人]]、[[ウズベク人]]、[[ロシア人]]など。タジク人の話す[[タジク語]]は[[ペルシア語]]に近く、方言の一種とされる。民族的には[[イラン人]]に近いと考えられるが、タジク人を含めたタジキスタンの[[ムスリム]](イスラム教徒)の間では[[スンナ派]]が多数を占め、[[イラン|イラン・イスラーム共和国]]の[[国教]]と同じ[[シーア派]]の[[十二イマーム派]]の信徒は殆どいない。むしろ、東部のパミール高原ではシーア派の[[イスマーイール派]]の信徒が大部分を占め、パキスタン北部と同様に寛容と自由に溢れるイスラム文化を築いている。<br />
<br />
人名はソ連時代の名残りでロシア語風の姓が多く見受けられるが、2009年からロシア語が公用語での使用を廃止されるに至り、現在はロシア式の接尾辞を取り去った形のタジク語風の姓名あるいはタジク語そのものの姓名を用いる[[世帯]]が増加しつつある。<br />
<br />
2010年センサスの時点で、[[タジク人]](84.3%)が多数を占める。[[ウズベク人]](13.8%)、キルギス人(0.8%)、ロシア人(0.5%)が次ぐ。なお、ロシア人人口は1959年に全人口の13.3%、ソ連からの独立前の1989年時点では7.6%を占めていたが、1990年代の内戦により大部分が流出し2010年には0.5%にまで低下した。<br />
<br />
=== 言語 ===<br />
[[チュルク系]]の言語が使われている中央アジアの中では唯一、住民の大多数の母語が[[ペルシア語]]方言の[[タジク語]]であり、[[公用語]]となっている。[[ロシア帝国|帝政ロシア]]~[[ソビエト連邦]]時代の共通語であった[[ロシア語]]は[[第二言語]]として教育・ビジネス等で多く使用されている。ただし、[[2009年]]10月から国語法が成立し、公文書や看板、新聞はタジク語を用いることを義務付けられた<ref name="asahi">{{cite web<br />
| url = http://www.asahi.com/international/weekly-asia/TKY201110170089.html<br />
| title = 旧ソ連圏、ロシア語回帰 タジキスタン ことばを訪ねて(4)<br />
| publisher = [[朝日新聞]]<br />
| date = 2011-10-17<br />
| accessdate = 2012-6-25<br />
| archivedate = 2012-5-25<br />
| deadlinkdate = 2018-1-22<br />
| archiveurl = https://web.archive.org/web/20120525052232/http://www.asahi.com/international/weekly-asia/TKY201110170089.html<br />
}}</ref>。違反者には罰金が科される。ラフモン大統領も以前まではロシア語風の「ラフモノフ」と名乗っていたが、現在はタジク語風の「ラフモン」である。<br />
<br />
[[ソ連崩壊]]後に起きた[[タジキスタン内戦]]によるロシア人の大量流出によりロシア語の通用度が急激に低くなったが、現在では出稼ぎ先の大半はロシアであることと、高等教育にはロシア語習得が不可欠であることから、ロシア語教育も重要視されつつあり{{R|asahi}}、国民の間ではロシア語学習熱が強い。また、独立後に[[トルコ語]]系の[[ウズベク語]]や[[トルクメン語]]が[[キリル文字]]から[[ラテン文字]]へ変わったが、[[ペルシャ語]]系のタジク語はキリル文字のままである。なお、[[ペルシャ文字]]風のキリル文字表記もみられ、ペルシャ文字への表記への移行も議論されている。<br />
<br />
また、他にウズベク語、キルギス語、[[コワール語]]、[[シュグニー語]]、[[:en:Pamir languages|パミール諸語]]、[[:en:Yaghnobi language|ヤグノビ語]]なども使われている。<br />
<br />
=== 宗教 ===<br />
タジキスタン国民の多くは[[ムスリム]]であり、[[スンナ派]]が大半を占める。また、歴史的に[[ペルシャ]]との結び付きが強く、[[哲学者]][[イブン・スィーナー]]などの[[ペルシャ人]]は尊敬されている。その他、ダルヴァーズ郡、ヴァンジ郡並びにムルガーブ郡を除く[[ゴルノ・バダフシャン自治州]]では、服装・戒律とも極めて緩やかで、開放的な[[シーア派]]の[[イスマーイール派]]が大多数を占める。イスマーイール派のリーダーは「アーガー・ハーン」の称号を用い、宗教的指導者よりも、精神的・思想的指導者としての面が強く、国境を跨いだアフガニスタンとタジキスタンのイスマーイール派の居住する地域と周辺部では、ビジネス及び人道的支援の両面にわたる社会的事業を展開している。<br />
<br />
2003年の推計では国民の85%が[[スンナ派]]ムスリム、5%が[[シーア派]]ムスリム、10%がその他であった<ref name=2013cia>[https://www.cia.gov/library/publications/the-world-factbook/geos/ti.html CIA World Factbook "Tajikistan"]2013年9月8日閲覧。</ref>。<br />
<br />
=== 教育 ===<br />
2011年の推計によれば、15歳以上の国民の[[識字率]]は99.7%(男性:99.8%、女性:99.6%)である{{R|2013cia}}。2011年の[[教育]]支出はGDPの3.9%だった{{R|2013cia}}。<br />
<br />
== 文化 ==<br />
[[File:Celebrating Eid in Tajikistan 10-13-2007.jpg|thumb|160px|[[イド・アル=フィトル]]を祝うタジク人家族]]<br />
{{main|タジキスタンの文化}}<br />
タジキスタンの文化は、[[ウズベキスタンの文化]]と同根であるが、ソビエト時代の共産政権下においては地域の文化組織は崩壊し、ウズベキスタンの文化とは分断された。しかし、このことは全て悪い結果をもたらした訳ではなく、ソビエト時代には、タジキスタンは[[劇場]]と有名な[[小説家]]を輩出することにより知られていた。これらタジク[[知識人]]士は、タジク語と[[アラビア語]]・[[ペルシャ語]]との関連性を調節し、タジク語をより洗練されたものにした。<br />
<br />
=== 食文化 ===<br />
{{main|タジキスタン料理}}<br />
<br />
=== 音楽 ===<br />
{{main|タジキスタンの音楽}}<br />
<br />
=== 世界遺産 ===<br />
{{Main|タジキスタンの世界遺産}}<br />
タジキスタン国内には、[[国際連合教育科学文化機関]](UNESCO)の[[世界遺産]]リストに登録された[[文化遺産 (世界遺産)|文化遺産]]が1件、[[自然遺産 (世界遺産)|自然遺産]]が1件存在する。<br />
<br />
=== 祝祭日 ===<br />
{| class = "wikitable"<br />
|+ style="font-weight:bold;font-size:120%" | [[祝祭日]]<br />
|- style="background:#efefef"<br />
! 日付 !! 日本語表記!! 現地語表記!! 備考<br />
|-<br />
| style="text-align:center" | [[1月1日]] || 新年<br />
| <span lang="tg" xml:lang="tg" style="font-family:'Palatino', 'Linotype', sans-sarif;">&#1057;&#1086;&#1083;&#1080; &#1085;&#1072;&#1074;&#1080; &#1084;&#1077;&#1083;&#1086;&#1076;&#1251;</span><br />
| style="text-align:center" | -<br />
|-<br />
| style="text-align:center" | [[3月8日]] || [[国際女性デー]]<br />
| <span lang="tg" xml:lang="tg" style="font-family:'Palatino', 'Linotype', sans-sarif;">&#1047;&#1072;&#1085;&#1086;&#1085;</span><br />
| style="text-align:center" | -<br />
|-<br />
| style="text-align:center" | [[3月20日]] - [[3月22日]]<br />
| [[ノウルーズ]]<br />
| <span lang="tg" xml:lang="tg" style="font-family:'Palatino', 'Linotype', sans-sarif;">&#1053;&#1072;&#1074;&#1088;&#1118;&#1079;</span><br />
| style="text-align:center" | [[イラン暦]]新年<br />
|-<br />
| style="text-align:center" | [[5月9日]] || [[ヨーロッパ戦勝記念日#ソ連側の対独戦勝記念日|戦勝記念日]]<br />
| <span lang="tg" xml:lang="tg" style="font-family:'Palatino', 'Linotype', sans-sarif;">&#1088;&#1118;&#1079;&#1080; &#1171;&#1072;&#1083;&#1072;&#1073;&#1072;</span><br />
| style="text-align:center" | -<br />
|-<br />
| style="text-align:center" | [[9月9日]] || [[独立記念日]]<br />
| <span lang="tg" xml:lang="tg" style="font-family:'Palatino', 'Linotype', sans-sarif;">&#1048;&#1089;&#1090;&#1080;&#1179;&#1083;&#1086;&#1083;</span><br />
| style="text-align:center" | -<br />
|-<br />
| style="text-align:center" | [[11月6日]] || [[憲法記念日]]<br />
| <span lang="tg" xml:lang="tg" style="font-family:'Palatino', 'Linotype', sans-sarif;">&#1178;&#1086;&#1085;&#1091;&#1085;&#1080; &#1072;&#1089;&#1086;&#1089;&#1251;</span><br />
| style="text-align:center" | -<br />
|-<br />
| style="text-align:center" | -<br />
| [[イード・アル=フィトル|断食月明祭]]<br />
| <span lang="tg" xml:lang="tg" style="font-family:'Palatino', 'Linotype', sans-sarif;">&#1080;&#1076;&#1080; &#1056;&#1072;&#1084;&#1072;&#1079;&#1086;&#1085;</span><br />
| [[ヒジュラ暦]]による<br />
|-<br />
| style="text-align:center" | -<br />
| [[イード・アル=アドハー|犠牲祭]]<br />
| <span lang="tg" xml:lang="tg" style="font-family:'Palatino', 'Linotype', sans-sarif;">&#1080;&#1076;&#1080; &#1178;&#1091;&#1088;&#1073;&#1086;&#1085;</span><br />
| ヒジュラ暦による<br />
|}<br />
<br />
== 著名な出身者 ==<br />
* [[ラフモン・ナビエフ]] - タジキスタン初代大統領<br />
<!-- * [[ブルグゥ・ベルナチオ]] - 独立に貢献した英雄{{要出典|date=2008年12月}} --><br />
* [[ラスル・ボキエフ]] - [[2008年北京オリンピックの柔道競技|北京五輪柔道]]73kg級銅メダリスト=タジキスタン初の五輪メダル獲得<br />
* [[ユスプ・アブドサロモフ]] - [[2008年北京オリンピックのレスリング競技|北京五輪レスリング]]・フリースタイル84kg級銀メダリスト<br />
* [[タハミネー・ノルマトワ]] - 女優<br />
<br />
== 脚注 ==<br />
{{脚注ヘルプ}}<br />
=== 注釈 ===<br />
{{Reflist|group=注}}<br />
=== 出典 ===<br />
{{Reflist}}<br />
<br />
== 関連項目 ==<br />
* [[タジキスタン関係記事の一覧]]<br />
* [[タジキスタン (小惑星)]]<br />
* [[タジキスタンの国際関係]]<br />
* [[ソグディアナイト]]<br />
<br />
== 外部リンク ==<br />
{{Commons&cat|Tajikistan|Tajikistan}}<br />
'''タジキスタンについての情報'''<br />
* [http://www.navrasta.com/ タジキスタンへの旅] {{tg icon}}<br />
<br />
'''政府'''<br />
* [http://www.president.tj/ タジキスタン大統領府] {{tg icon}}<br />
* [https://tajikistan.jp/ 駐日タジキスタン共和国大使館] {{tg icon}}{{En icon}}{{ja icon}}<br />
<br />
'''日本政府'''<br />
* [http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/tajikistan/ 日本外務省 - タジキスタン] {{ja icon}}<br />
* [http://www.tj.emb-japan.go.jp/itprtop_ja/index.html 在タジキスタン日本国大使館] {{ja icon}}<br />
<br />
{{アジア}}<br />
{{独立国家共同体}}<br />
{{OIC}}<br />
{{上海協力機構}}<br />
{{タジキスタン関連の項目}}<br />
<br />
{{デフォルトソート:たしきすたん}}<br />
[[カテゴリ:タジキスタン| ]]<br />
[[カテゴリ:トルキスタン]]<br />
[[カテゴリ:独立国家共同体]]<br />
[[カテゴリ:内陸国]]<br />
[[カテゴリ:共和国]]<br />
[[カテゴリ:中央アジア]]</div>
113.36.250.10
キルギス
2018-08-04T08:27:12Z
<p>113.36.250.10: 脚注を 注釈 と 出典 に分割。文章を一部改訂。</p>
<hr />
<div>{{Redirect|キルギス共和国|ソ連時代の共和国|キルギス・ソビエト社会主義共和国}}<br />
{{otheruses|国家|古代・中世北アジアの遊牧民族|堅昆|近現代中央アジアの民族|キルギス人}}<br />
{{基礎情報 国<br />
| 略名 =キルギス<br />
| 日本語国名 =キルギス共和国<br />
| 公式国名 ='''{{lang|ky|Кыргыз Республикасы}}''' <small>(キルギス語)</small><br/>'''{{lang|ru|Киргизская Республика}}''' <small>(ロシア語)</small><br />
| 国旗画像 =Flag of Kyrgyzstan.svg<br />
| 国章画像 =[[ファイル:National emblem of Kyrgyzstan.svg|100px|キルギスの国章]]<br />
| 国章リンク =([[キルギスの国章|国章]])<br />
| 標語 =なし<br />
| 位置画像 =Kyrgyzstan (orthographic projection).svg<br />
| 公用語 =[[キルギス語]]、[[ロシア語]]<br />
| 首都 =[[ビシュケク]]<br />
| 最大都市 =ビシュケク<br />
| 元首等肩書 =[[キルギスの大統領|大統領]]<br />
| 元首等氏名 = {{仮リンク|ソーロンバイ・ジェーンベコフ|en|Sooronbay Jeenbekov}}<br />
| 首相等肩書 = [[キルギスの首相|首相]]<br />
| 首相等氏名 = {{仮リンク|ムハメトカリー・アブルガジエフ|en|Muhammetkaliy Abulgaziyev}}<br />
| 面積順位 =84<br />
| 面積大きさ =1 E11<br />
| 面積値 =198,500<br />
| 水面積率 =3.6%<br />
| 人口統計年 =2015<br />
| 人口順位 =<br />
| 人口大きさ =1 E6<br />
| 人口値 =5,900,000<br />
| 人口密度値 =26<br />
| GDP統計年元 =2008<br />
| GDP値元 =1,850億<ref name="economy">IMF Data and Statistics 2009年4月27日閲覧([http://www.imf.org/external/pubs/ft/weo/2009/01/weodata/weorept.aspx?pr.x=85&pr.y=12&sy=2008&ey=2008&scsm=1&ssd=1&sort=country&ds=.&br=1&c=917&s=NGDP%2CNGDPD%2CPPPGDP%2CPPPPC&grp=0&a=])</ref><br />
| GDP統計年MER =2014<br />
| GDP順位MER =146<br />
| GDP値MER =74.0億<ref name="economy" /><br />
| GDP統計年 =2014<br />
| GDP順位 =139<br />
| GDP値 =191.6億<ref name="economy" /><br />
| GDP/人 =3,361<ref name="economy" /><br />
| 建国形態 =[[独立]]<br/>&nbsp;-&nbsp;日付<br />
| 建国年月日 =[[ソビエト連邦]]より<br/>[[1991年]][[8月31日]]<br />
| 通貨 =[[キルギス・ソム|ソム]]<br />
| 通貨コード =KGS<br />
| 時間帯 =+6<br />
| 夏時間 =なし<br />
| 国歌 =[[キルギス共和国国歌]]<br />
| ISO 3166-1 = KG / KGZ<br />
| ccTLD =[[.kg]]<br />
| 国際電話番号 =996<br />
| 注記 =<br />
}}<br />
'''キルギス共和国'''(キルギスきょうわこく)、通称'''キルギス'''は、[[中央アジア]]に位置する旧[[ソビエト連邦]]の[[共和制]][[国家]]である。首都は[[ビシュケク]](旧名フルンゼ)。かつての正式国名は'''キルギスタン'''であり、改称以降も別称として公式に認められている。<br />
<br />
北から時計回りに[[カザフスタン]]、[[中華人民共和国]]、[[タジキスタン]]、[[ウズベキスタン]]と国境を接する。ソビエト連邦から独立したウズベキスタン、カザフスタン、[[トルクメニスタン]]、タジキスタンとともに中央アジアを形成し、[[独立国家共同体]] (CIS) 加盟国である。旧ソ連を構成していた中央アジア5カ国で「最も民主的」といわれるキルギスでは、2005年と2010年に野党勝利による政変があった。しかし、キルギスの大統領たちは政権交代による第一野党勝利後にそれぞれ国外に亡命している<ref>https://.yahoo.co.jp/hl?a=20171016-00000078-mai-int</ref>。<br />
<br />
== 国名 ==<br />
{{出典の明記|section=1|date=2012年4月}}<br />
正式名称はキルギス語では {{Lang|ky|Кыргыз Республикасы}}(Kyrgyz Respublikasy; クルグズ・レスプブリカス)、ロシア語では {{Lang|ru|Киргизская Республика}}(Kyrgyzskaia Respublika; キルギースカヤ・リスプーブリカ)。別称は {{Lang|ky|Кыргызстан}}(Kyrgyzstan; クルグズスタン)。<br />
<br />
[[1991年]]の独立時にキルギス語の国名を {{lang|ky|Кыргызстан Республикасы}}({{lang|ky|Kyrgyzstan Respublikasy;}} クルグズスタン・レスプブリカス)としたが、[[1993年]]に憲法を改正して正式国名を現行の {{lang|ky|Кыргыз Республикасы}} に改めた。ただし、国名変更以降も旧称 {{lang|ky|Кыргызстан}} が別称として公式に認められている。<br />
<br />
公式の[[英語]]表記は {{lang|en|Kyrgyz Republic}}。別称 {{lang|en|Kyrgyzstan}}。 国民・形容詞はKyrgyztani。<br />
<br />
日本語の表記は'''キルギス共和国'''。[[通称]]'''キルギス'''。[[国名の漢字表記一覧|漢字による当て字]]は'''黠戛斯'''。<br />
<br />
クルグズ(キルギス)の語源は「{{lang|ky|кырк}}(クルク)」が40の意味で、40の民族を指し、また中国人にかつて「{{lang|ky|гунны}}(グンヌィ、匈奴)」と呼ばれていた背景から、それらを合わせてクルグズとなったと言われている。 ちなみに、[[テュルク諸語|テュルク系言語]]で40を意味する「クゥルク」に、娘や女の子を意味する「クゥズ」をあわせた「クゥルク・クゥズ」は、“40人の娘”という意味になり、中央アジアに広く伝えられるアマゾネス伝承との関連をうかがわせる。したがって、「40の民族」というよりも、「40の部族」ないし「40の氏族」という意味のほうが適切である。<br />
<br />
日本語名のキルギスは、ロシア語表記の「{{lang|ru|Киргиз}}」に由来する。<br />
<br />
独立時に、キルギスのロシア語表記・英語表記は、キルギス語の自称に基づいた {{lang|ru|Кыргыз}}・{{en|Kyrgyz}} に改められたが、日本語ではそのままキルギスと呼びつづけ、正式国名の日本語名はキルギスタン共和国と表記された。その後のキルギス共和国への国名変更を経て、依然キルギスと通称されている。タジキスタンやカザフスタンなどにみられる「~スタン」とは、[[ペルシア語]]で「~が多い場所」を意味する言葉である。詳しくは[[スターン (地名)|スタン]]を参照。<br />
<br />
本項では「キルギス」の国名を使用するが、中央アジアの研究者には正確な発音に近い「クルグズ」と表記すべき、との声もある。<br />
<br />
== 歴史 ==<br />
{{main|堅昆}}<br />
{{Main|{{仮リンク|キルギスの歴史|en|History of Kyrgyzstan}}}}<br />
* [[古代]] - キルギス人の祖先は、シベリアを南北に流れる[[エニセイ川]]上流に定住していたと考えられている<br />
* [[1世紀]]ごろ - [[匈奴]]の支配下に入る。<br />
* [[6世紀]] - [[突厥]]の支配下に入る。<br />
* [[7世紀]] - [[唐]]の支配下に入る。<br />
* [[8世紀]] - [[回鶻]]の支配下に入る。<br />
* [[9世紀]] - 回鶻を滅ぼす。<br />
* [[13世紀]] - [[モンゴル帝国]]の支配下に入る。<br />
* [[16世紀]] - [[キルギス人|キルギス民族]]が現在のキルギス共和国の領域に移住。<br />
* [[19世紀]]初頭 - キルギス民族は[[ウズベク]]系の[[コーカンド・ハン国]]の支配下に入った。<br />
[[File:Киргизские кибитки на реке Чу.jpg|thumb|キルギスの[[ゲル (家屋)|ユルト]]([[19世紀]]後半)]]<br />
[[File:Перекочевка киргизов.jpg|thumb|キルギスの遊牧民(19世紀後半)]]<br />
* [[1865年]] - [[コーカンド・ハン国|北キルギジア]]が[[ロシア帝国]]に併合される。<br />
* [[1867年]] - [[トルキスタン総督府]]を設置。<br />
* [[1876年]] - コーカンド・ハン国(Kirgizia)がロシア帝国に併合される。<br />
* [[1922年]] - [[ソビエト連邦]]が成立。<br />
* [[1910年代]]~[[1920年代]] - ソビエトの支配下に入り、[[トルキスタン自治ソビエト社会主義共和国]]の一地域となる。<br />
* [[1924年]] - 中央アジアに位置する共和国の国境が整理され、ソビエト連邦内の{{仮リンク|カラ=キルギス自治州|ru|Кара-Киргизская автономная область|en|Kara-Kirghiz Autonomous Oblast}}となる。<br />
* [[1925年]] - キルギス自治州に改称。<br />
* [[1926年]] - [[キルギス自治ソビエト社会主義共和国 (1926-1936)]]に改称。<br />
* [[1936年]] - ソビエト連邦を構成する[[キルギス・ソビエト社会主義共和国]]となる。<br />
* [[1991年]]{{0}}[[8月31日]] - ソビエト連邦のクーデターにより独立を果たす('''キルギスタン共和国''')。<br />
* [[1991年]][[12月21日]]、[[独立国家共同体]] (CIS) に参加。<br />
* [[1992年]]{{0}}3月{{0|00日}} - [[国際連合]]に加盟。<br />
* [[1992年]]{{0}}5月{{0|00日}} - 独自通貨であるソムを導入、[[国際通貨基金]] (IMF) に加盟、独立国家共同体 (CIS) の集団安全保障条約に調印。<br />
* [[1993年]]{{0|00月00日}} - 新憲法下で現国名('''キルギス共和国''')に改称。<br />
* [[1995年]]12月{{0|00日}} - 大統領選挙でアスカル・アカエフが再選された。<br />
* [[1996年]]{{0}}2月{{0|00日}} - 大統領の権限大幅に拡大する憲法改正案が国民投票により賛成94.5%で可決された。<br />
* [[1999年]]{{0|00月00日}} - 「[[ウズベキスタン・イスラム運動|ウズベキスタン・イスラーム運動]]」のゲリラがクルグズスタン南部に侵入する事件が起こる。[[キルギス日本人誘拐事件]]([[8月23日]] - [[10月25日]])。<br />
* [[2003年]]{{0|00月00日}} - 憲法改正の国民投票実施。これにより憲法を改正し[[二院制]]から[[一院制]]に移行することが決定。<br />
* [[2005年]]{{0}}3月{{0|00日}} - [[チューリップ革命]]。議会選挙の不正疑惑をきっかけに、南部で強権的な[[アスカル・アカエフ|アカエフ大統領]]に対する野党側の反政府運動が激化。反政府運動は首都のビシュケクまで拡大し、野党勢力が大統領府を占拠。アカエフ大統領が逃亡し政権が崩壊した後、野党勢力は暫定政権を樹立したと報じられる。<br />
* [[2005年]]{{0}}[[4月4日|4月{{0}}4日]] - アカエフ大統領、正式に辞任。<br />
* [[2005年]]{{0}}[[7月10日]] - [[クルマンベク・バキエフ]]が大統領選挙で圧勝し、大統領に就任。<br />
* [[2010年]]{{0|00月00日}} - 景気低迷や政府によるメディア規制が起こる中、首都ビシュケクを中心に野党側による反政府運動が激化。4月7日に野党勢力が大統領府を占拠し、翌8日に元外相の[[ローザ・オトゥンバエヴァ]]が臨時政府樹立を発表、5月19日に暫定大統領に就任。6月27日に行われた国民投票で信任されたことで臨時から正式な政府に移行としたと宣言。<br />
* [[2011年]]12月{{0}}1日 - 大統領選挙などを経て、[[アルマズベク・アタンバエフ]]が大統領に就任。<br />
* 2017年11月24日 - {{仮リンク|ソーロンバイ・ジェーンベコフ|en|Sooronbay Jeenbekov}}が第5代大統領に就任。<br />
<br />
== 政治 ==<br />
[[File:Sooronbay_Jeenbekov_at_the_Eurasian_Intergovernmental_Council_meeting,_7_March_2017.jpg|thumb|160px|第5代大統領ソーロンバイ・ジェーンベコフ]]<br />
{{Main|キルギスの政治}}<br />
<br />
=== 政体 ===<br />
[[政治体制]]は[[共和制]]であり、国民による[[直接選挙]]で[[大統領]]と[[議員]]が選出される。<br />
<br />
=== 行政府 ===<br />
{{Main|キルギスの大統領|キルギスの首相}}<br />
大統領の任期は6年で、再選は禁じられている。大統領は議会の承認に基づき[[首相]]を任命する。大統領は議会の承認があれば閣僚を任免できる。大統領が不在の場合は議会の議長が代行する。<br />
<br />
=== 立法府 ===<br />
{{Main|ジョゴルク・ケネシ}}<br />
[[議会]]「[[ジョゴルク・ケネシ]]」は、120議席の[[一院制]]。2005年に新憲法が発布される以前、1994年10月から2005年1月までは[[二院制]]であり、上院に相当する定数60議席の立法議会と、下院に相当する45議席{{疑問点|title=こちらは定数ではないのか|date=2013年5月}}の国民代表議会に分かれていた。<br />
<br />
=== 政党 ===<br />
政党の活動は自由であり、[[キルギスタン民主運動]]、[[キルギスタン共産主義者党]]、[[農民党 (キルギス)|農民党]]など約40の政党がある。<br />
<br />
=== 近年の政情 ===<br />
{{main|チューリップ革命}}<br />
{{main|2010年キルギス騒乱}}<br />
2005年2月と3月の総選挙の腐敗が[[欧州安全保障会議]]により指摘されたことを直接のきっかけとして、2005年3月24日に[[アスカル・アカエフ]]大統領の辞任を求める大規模な抗議行動が行われた。政権は崩壊し、大統領が逃亡した後、議会の議長が代行を務める暫定政権が樹立された([[チューリップ革命]])。<br />
<br />
2005年7月10日に行われた大統領選挙で、「国民のために働く質の高い政府を作る」と訴えた親欧米派の[[クルマンベク・バキエフ]]が大統領に当選した。民主化を目指す人物が大統領に就任したことで、中央アジアの他の長期独裁政権にも影響を与える可能性もあるといわれたが、「民主化の希望の星」だったバキエフも、独裁主義に陥ったとされた。政敵やジャーナリスト襲撃が相次ぎ、暗殺事件は次々と迷宮入りになっている。景気が停滞していたことや、政府によりメディア報道が閉鎖されるなどが起こり<ref>[http://www.eurasianet.org/departments/civilsociety/articles/eav040510.shtml Kyrgyzstan: UN Head Chides Bakiyev as More Media Outlets Blocked] Eurasianet.org 2010年4月4日(英語)</ref>、バキエフ大統領に対して不満が高まっていた。<br />
<br />
2010年4月7日、首都ビシュケクを中心に野党勢力による数千人規模の反大統領デモが勃発。政府軍側の発砲により大規模な武力衝突となり、死者は少なくとも75人、負傷者は1000人以上に達した。野党勢力は内務省や国家治安局、国営テレビ局などを占拠した。翌日8日、バキエフは南部へ逃亡しその後大統領を辞職して[[ベラルーシ]]に亡命した。北部を中心に実権を掌握した野党勢力は元外相の[[ローザ・オトゥンバエヴァ]]を首班に臨時政府樹立を宣言した。暫定政権は2010年7月に技術政府となり、2011年12月に大統領選挙が行われ[[アルマズベク・アタンバエフ]]が大統領に就任。2017年には後継の{{仮リンク|ソーロンバイ・ジェーンベコフ|en|Sooronbay Jeenbekov}}が大統領に就任した。<br />
<br />
== 軍事 ==<br />
{{Main|{{仮リンク|キルギスの軍事|en|Military of Kyrgyzstan}}}}<br />
<br />
== 国際関係 ==<br />
{{Main|[[キルギスの国際関係]]}}<br />
{{節スタブ}}<br />
[[ロシア]]の軍事基地があり、ロシアとは密接な関係を築いている。<br />
<br />
== 地理 ==<br />
{{Main|{{仮リンク|キルギスの地理|en|Geography of Kyrgyzstan}}}}<br />
[[ファイル:Kyrgyzstan satellite photo.jpg|thumb|300px|キルギスの衛星写真]]<br />
[[ファイル:Kg-map-ja.gif|thumb|300px|キルギスの地図]]<br />
国土全体の40%が標高3000mを超える山国。国土は東西に長く、[[中華人民共和国|中国]]との国境には[[天山山脈]]が延びる。南に位置する[[タジキスタン]]に向かって[[パミール高原]]が広がる。<br />
<br />
国土の中央など東西に山脈が走り、国土を数多くの峡谷に分断している。最高峰は、中国国境にそびえる[[ポベティ山]](Pobeda または Jengish もしくは 勝利峰、7439m)、ついで[[ハン・テングリ]]({{lang|ky|Khan-Tängri}} または Kan-Too、6995m)である。4000m級の峰は珍しくない。各都市の標高は首都ビシュケクが800 m、[[フェルガナ盆地]]に位置する[[オシュ]]が963 m、イシク湖畔の[[バルイクチ]]が1610 m、[[カラコル (キルギス)|カラコル]]が1745 mとなっており、[[ナルイン州]]の州都[[ナルイン]]は2044 m、中国やタジキスタンとの国境に近い南部の[[:en:Sary-Tash|サリタシュ]]は3170 mもの高地に位置している。<br />
<br />
主な河川は、[[シルダリア川]]支流の[[ナルイン川]]。主な湖は国内北東部に位置する[[イシク・クル|イシク湖]] ({{lang|ky|Isik-Köl}})。東西180km、南北60km、周囲長700kmに及ぶ。湖面の標高は1600m。イシク湖とナルイン川は水系が異なる。<br />
<br />
ビシュケクと第2の都市[[オシュ]]、中央部の[[ナルイン]]にはソ連共和国時代に大規模な灌漑施設が敷設されているため、[[綿花]]を中心とした耕作に向く。これらの灌漑地はシルダリア川、ナルイン川の支流から水を得ている。<br />
<br />
=== 気候 ===<br />
隣国の[[カザフスタン]]や中国とは異なり、国内に[[砂漠]]は存在せず、この地方の中では[[気候]]に恵まれている。人の居住に適した東西に伸びる渓谷部分は[[ケッペンの気候区分]]では、夏季に雨が少ない温帯の[[地中海性気候]] (Cs) に相当する。これは、[[イタリア]]の[[ローマ]]や[[アメリカ合衆国]][[サンフランシスコ]]と同じ気候区である。山地は[[亜寒帯湿潤気候]] (Df) 、特に高地は[[高山気候]] (H) となる。天山山脈をはさんで南方の中華人民共和国と、[[:en:Teskey Ala-Too Range|テスケイ・アラ・トー山脈]]をはさんで北方の[[カザフスタン]]には、[[ステップ気候]] (BS) と[[砂漠気候]] (BW) が広がる。<br />
<br />
実際に降水量を比較すると、天山山脈の100km南方に位置する中国[[新疆ウイグル自治区]][[カシュガル市|喀什]](カシ、カシュガル)の年降水量は60mmだが、ビシュケク(北緯43度、標高800m)の降水量は450mmに達する。これは[[ローマ]]や[[サンフランシスコ]]と同水準である。ビシュケクの平均気温は、1月に-20度、7月に30度で2017年度は7月に最高気温43度、2月に最低気温-31度を記録している。<br />
<br />
== 地方行政区分 ==<br />
{{main|キルギスの行政区画}}<br />
[[ファイル:KyrgyzstanNumbered.png|300px|thumb|<br />
1. [[ビシュケク]]特別市<br />
2. [[バトケン州]]<br />
3. [[チュイ州]]<br />
4. [[ジャララバード州]]<br />
5. [[ナルイン州]]<br />
6. [[オシ州]]<br />
7. [[タラス州]]<br />
8. [[イシク・クル州]]<br />
]]<br />
キルギスは7つの州 (oblast) と1つの特別市 (shaar) から成り立つ。州はさらに地方 (raion) に分かれる。地方長官は中央政府が任命する。aiyl okmotu と呼ばれる自治体は、最大で20程度の集落から構成されており、選挙で選ばれた村長のほか議会が設置されている。<br />
<br />
=== 主要都市 ===<br />
{{Main|キルギスの都市の一覧}}<br />
<br />
{{clear}}<br />
<br />
== 経済 ==<br />
{{Main|{{仮リンク|キルギスの経済|en|Economy of Kyrgyzstan}}}}<br />
[[File:Kyrgyzstan Export Treemap.jpg|thumb|色と面積で示したキルギスの輸出品目]]<br />
[[農業]]および[[牧畜]]、[[鉱業]]が主である。農業は主として輸出品目にもなっている[[綿花]]、[[タバコ]]の栽培が活発に行われている。鉱業は[[金]]、[[水銀]]、[[アンチモン]]など。1997年に採掘がはじまった[[クムトール鉱山]]は、世界屈指の金鉱山である。また水銀([[ハイダルカン鉱山]])は2002年のデータで世界第3位の産出量を誇っている。<br />
<br />
ソ連から独立後は、[[観光産業]]に早くから注力する。旧ソ連邦でも先駆けてヨーロッパや日本からの[[観光]]目的の入国に際し、[[査証]]不要を打ち出した。<br />
<br />
キルギスは[[石油]]製品、[[天然ガス]]を輸入し、[[水力発電]]による電力、[[葉タバコ]]、[[綿]]を輸出している。ただし、金の輸出が急速に伸びている。2000年における輸入相手国は、ロシア、ウズベキスタン、カザフスタン、アメリカ合衆国、中華人民共和国の順。輸出相手国は、ドイツ、ウズベキスタン、ロシア、中華人民共和国、スイス。キルギスの対日本への貿易は2012年の財務省貿易統計によると輸入57.6億円(機械類及び輸送用機器、自動車、建設用・鉱山用機械)、輸出0.8億円(アルミニウム及び、同合金)となっている。<br />
<br />
キルギスに対する2000年における主要援助国(団体)は、[[日本]]、[[アジア開発銀行]]、[[世界銀行]]、[[アメリカ合衆国]]、[[国際通貨基金]]の順である。日本の援助額は5500万米ドル。<br />
<br />
通貨は[[キルギス・ソム]]である。<br />
<br />
== 交通 ==<br />
{{Main|キルギスの交通}}<br />
国内には[[バス (交通機関)|バス]]と[[航空]]網が敷かれている。外国との間には[[フラッグキャリア]]の[[キルギスタン航空]]が、ビシュケクの[[マナス国際空港]]から[[アジア]]と[[ヨーロッパ]]各国に就航しているほか、同空港には各国の[[航空会社]]が乗り入れている。<br />
<br />
[[鉄道]]は[[ビシュケク]]から[[バルクチ]]までの国内線の他、ビシュケクと[[ロシア]]や[[カザフスタン]]との間に国際列車が運行されている。<br />
<br />
また'''マルシュル'''というバスがありそれが国民の足となっている。ビシュケク市内では10ソム(約16円)乗ることができ便利である。[[タクシー]]も走っており、日本と比較すると安価で乗ることが出来るため便利である。<br />
<br />
なお、キルギス国内で走行している車両の70%は中古の[[日本車]]である。<br />
<br />
== 国民 ==<br />
{{Main|{{仮リンク|キルギスの人口統計|en|Demographics of Kyrgyzstan}}}}<br />
<!-- (住民の人種構成、言語、宗教など) --><br />
=== 民族 ===<br />
{{bar box<br />
|title=民族構成(キルギス)<br />
|titlebar=#ddd<br />
|float=right<br />
|bars=<br />
{{bar percent|[[キルギス人]]|yellowgreen|62.6}}<br />
{{bar percent|[[ウズベク人]]|green|14.5}}<br />
{{bar percent|[[ロシア人]]|blue|16.4}}<br />
{{bar percent|その他|red|6.5}}<br />
}}<br />
2016年現在、[[キルギス人]]が62.6%、[[ウズベク|ウズベク人]]が14.5%、[[ロシア人]]が16.4%、その他が7%であり、その他には[[ドンガン人]]、[[ウイグル人]]、[[タジク人]]、[[トルコ人]]、[[カザフ人]]、[[タタール人]]、[[ウクライナ人]]、[[高麗人]]、[[アゼルバイジャン人]]などが含まれる[[多民族国家]]である。<br />
<br />
地域による民族分布差も大きく、首都[[ビシュケク]]と周辺の[[チュイ州]]や[[イシク・クル州]]のカラコルを中心とした東部にはロシア人、ウクライナ人など[[白人]]([[スラヴ人|スラブ]]系住民)が多く、オシ州やジャララバード州、バトケン州などの西部、南部にはウズベク人やタジク人が、中国国境付近にはドンガン人やウイグル人が住む。一方、[[ナルイン州]]の住民はほとんどがキルギス人である。人名はソ連時代の名残りもあり、全体的にロシア語風の姓名が多く見受けられる。<br />
<br />
独立前の1989年にはロシア人は全人口の21.5%を占めていたが、独立後国外流出が続き、2016年には6.4%にまでに減少した<ref group="注釈">尚、ビシュケク市にはロシア人が多数集まっており、同市内においてはロシア人の割合が民族構成の数値よりも高めとなっている。</ref>。<br />
<br />
=== 言語 ===<br />
{{bar box<br />
|title=母語話者(キルギス)<br />
|titlebar=#ddd<br />
|float=right<br />
|bars=<br />
{{bar percent|[[キルギス語]]|red|55.2}}<br />
{{bar percent|[[ウズベク語]]|lightblue|4.7}}<br />
{{bar percent|[[ロシア語]]|Purple|34.0}}<br />
{{bar percent|その他|black|6.1}}<br />
}}<br />
[[ロシア語]]が[[公用語]]、[[キルギス語]]が[[国語|国家語]]とされている (憲法第10条第1項、第2項<ref name="const">[http://www.kg.emb-japan.go.jp/constitution%20KR%202010.pdf キルギス共和国憲法] 在キルギス共和国日本国大使館作成の邦訳</ref>)。<br />
<br />
2017年の国勢調査によると、キルギス語が55.2%、[[ウズベク語]]が4.7%、ロシア語が34.0%となっている。ウズベク語は[[オシ州]]や[[ジャララバード州]]を中心にウズベク系住民の間で使われている。<br />
<br />
[[ロシア語]]は独立以降公用語から除外されたウズベキスタンなどと違い、引き続き公用語に制定されている。これは、国の中枢を占めていたロシア人などのロシア語系住民の国外流出([[頭脳流出]])を防ぐためであり、現在{{いつ|date=2014年5月}}<!-- See [[WP:DATED]] -->でも山岳部を除く全土で通用し、教育、ビジネスや政府機関で幅広く使用される。また医療用語などはロシア語でしか成立されていない為、ロシア語が話せないと生活に苦労する部分もある。<br />
<br />
特に首都[[ビシュケク]]とその周辺では多くの住民はロシア語を使って生活しており、そこから大半の人々はロシア語を話すことができるもののキルギス語があまり上手に話せないキルギス人も存在する程である。これに反して現地生まれのロシア人はキルギス語を話せない人がほとんどを占めている。<br />
<br />
その他、[[ドンガン語]]なども使われている。<br />
<br />
=== 宗教 ===<br />
宗教は[[イスラム教]]が75%、[[キリスト教]][[正教会]]が20%、その他が5%である。<br />
<br />
== 文化 ==<br />
[[File:Kyrgyz Musicians in Karakol.jpg|thumb|伝統音楽を演奏する人々]]<br />
{{Main|キルギスの文化}}<br />
[[敦煌市|敦煌]]で南北に分かれた「[[シルクロード]]」は[[カシュガル市|喀什]]で合流後、再び南北に分かれる。南の道は[[タジキスタン]]に向かうが、北の道はキルギスの南部を通過する。首都[[ビシュケク]]近郊の[[トクマム]]の町には、[[バラサグン遺跡]]が残る。ここには砂漠を進む商隊の灯台として使われたと推定されている'''[[ブラナの塔]]'''が残る。また周囲にはキルギス各地から集められた石人があり有名。<br />
<br />
=== 食文化 ===<br />
{{Main|キルギス料理}}<br />
<br />
=== 音楽 ===<br />
{{Main|キルギスの音楽}}<br />
キルギス人の[[民族楽器]]は三弦の[[コムズ]]が知られる。[[キュ]]と呼ばれる器楽独奏曲ごとに伝説が残されており、伝統的な作法では、[[伝説]]を語った後、キュを演奏していた。<br />
<br />
=== 世界遺産 ===<br />
{{Main|キルギスの世界遺産}}<br />
キルギス国内には、[[国際連合教育科学文化機関]](UNESCO)の[[世界遺産]]リストに登録された[[文化遺産 (世界遺産)|文化遺産]]が2件存在する。<br />
<br />
=== 祝祭日 ===<br />
{| class="wikitable"<br />
<br />
|-<br />
!日付<br />
!日本語表記<br />
!現地語表記<br />
!備考<br />
|-<br />
|[[1月1日]]<br />
|[[元日]]<br />
|<br />
|<br />
|-<br />
|[[1月7日]]<br />
|[[クリスマス]]([[正教会]])<br />
|<br />
|<br />
|-<br />
|[[2月1日]]<br />
|[[犠牲祭]]<br />
|<br />
|移動祝日<br />
|-<br />
|[[3月8日]]<br />
|[[国際女性デー]]<br />
|<br />
|<br />
|-<br />
|[[3月21日]]<br />
|ノールーズ<br />
|<br />
|<br />
|-<br />
|[[5月1日]]<br />
|[[メーデー]]<br />
|<br />
|<br />
|-<br />
|[[5月5日]]<br />
|憲法記念日<br />
|<br />
|<br />
|-<br />
|[[5月9日]]<br />
|戦勝記念日<br />
|<br />
|<br />
|-<br />
|[[6月1日]]<br />
|子供の日<br />
|<br />
|<br />
|-<br />
|[[8月31日]]<br />
|独立記念日<br />
|<br />
|<br />
|-<br />
|[[11月7日]]<br />
|同意と和解の日<br />
|<br />
|<br />
|-<br />
|[[11月25日]]<br />
|断食明けの日<br />
|<br />
|移動記念日<br />
|}<br />
<br />
== キルギス出身の有名人 ==<br />
<!--* [[{人名}]] - [[{職業}]]のように記載して下さい。なお、追加する人物は既に記事がある人物に限ります。また、追加する場合はアイウエオ順(姓)でお願いします。--><br />
* [[チンギス・アイトマートフ]] - [[作家]]<br />
* [[アスカル・アカエフ]] - 政治家、元大統領<br />
* アクタン・アリム・クバト([[アクタン・アブディカリコフ]]) - 映画監督<br />
* [[ビタリ・クリチコ]] - [[プロボクサー]]<br />
* [[ウラジミール・クリチコ]] - プロボクサー<br />
* [[フェリックス・クロフ]] - 政治家、元首相<br />
* [[ヴァレンティーナ・シェフチェンコ]] - [[キックボクサー]]、[[総合格闘家]]<br />
* [[ミハイル・シュヴィドコイ]] - 舞台演出家、教育者、政治家<br />
* [[オルズベック・ナザロフ]] - プロボクサー<br />
* [[イゴール・パクリン]] - 陸上選手<br />
* [[ボリス・パンキン]] - 政治家<br />
<br />
== 脚注 ==<br />
{{脚注ヘルプ}}<br />
=== 注釈 ===<br />
{{Reflist|group="注釈"}}<br />
=== 出典 ===<br />
{{Reflist}}<br />
<br />
== 関連項目 ==<br />
<!--<br />
* [[キルギスの通信]]<br />
* [[キルギスの交通]]<br />
* [[キルギスの軍事]]<br />
* [[キルギスの国際関係]]<br />
--><br />
* [[キルギス関係記事の一覧]]<br />
* [[キルギス共和国人材開発センター]]<br />
* [[キルギス日本人誘拐事件]]<br />
* [[烏孫]]国<br />
* [[アラ・カチュー]]<br />
<br />
== 外部リンク ==<br />
{{Commons&cat|Kyrgyzstan|Kyrgyzstan}}<br />
{{Wiktionary}}<br />
* 政府<br />
** [http://www.gov.kg/ キルギス共和国政府] {{ky icon}}<br />
** [http://www.president.kg/ キルギス共和国大統領府] {{ky icon}}<br />
** [http://www.kyrgyzembassy.jp/ 駐日キルギス共和国大使館] {{ja icon}}{{en icon}}<br />
* 日本政府<br />
** [http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/kyrgyz/ 日本外務省 - キルギス]<br />
** [http://www.kg.emb-japan.go.jp/ 駐キルギス共和国日本国大使館] {{ja icon}}{{ru icon}}<br />
<br />
* その他<br />
** [http://www.jp-kg.org/ 日本キルギス投資環境整備ネットワーク] {{ja icon}}<br />
<br />
* 観光<br />
** [http://tko19850617.wix.com/kyrgyz-karakol キルギス|イシククリ州 カラコル観光案内]{{ja icon}}<br />
** [http://kyrgyz.org.uk/ キルギス|シルクロードの小さな山]{{ja icon}}<br />
<br />
{{アジア}}<br />
{{独立国家共同体}}<br />
{{OIC}}<br />
{{上海協力機構}}<br />
{{キルギス関連の項目}}<br />
{{Normdaten}}<br />
{{coord|41|N|75|E|type:country|display=title}}<br />
<br />
{{DEFAULTSORT:きるきす}}<br />
[[Category:キルギス|*]]<br />
[[Category:トルキスタン]]<br />
[[Category:独立国家共同体]]<br />
[[Category:内陸国]]<br />
[[Category:共和国]]<br />
[[Category:中央アジア]]</div>
113.36.250.10
港湾
2018-07-28T09:57:59Z
<p>113.36.250.10: /* 他の種類の港 */</p>
<hr />
<div>{{redirect|港||}}<br />
{{redirect|海港|中国の行政区|海港区}}<br />
{{redirect|港口|中国の行政区|港口区|北朝鮮の行政区|港口区域}}<br />
[[File:Yangshan-Port-Balanced.jpg|thumb|250px|2010年以来、[[世界のコンテナ港の一覧|世界最大]]のコンテナ港である[[w:Port of Shanghai|上海港]]]]<br />
[[File:Singapore from above.jpg|thumb|250px|積み替え港として[[w:List of world's busiest transshipment ports|世界最大]]の[[w:Port of Singapore|シンガポール港]]]]<br />
'''港湾'''(こうわん、{{Lang-en-short|Port}})とは、古くは[[泊地|泊]](とまり)などから発展した港・[[湊]](みなと)であり、[[島嶼]]・[[岬]]などの天然の地勢や[[防波堤]]などの人工構造物によって風浪を防いで、[[船舶]]が安全に停泊し人の乗降や荷役が行なえる海域と陸地を指す<ref name="船のすべてがわかる本">池田良穂監修 『船のすべてがわかる本』 ナツメ社 2009年2月9日発行 ISBN 9784816346408</ref>。水陸交通の結節点となる機能を持つ港湾には、[[物流]]・[[旅客輸送]]が円滑に行われるために各種の港湾[[施設]]が整備され、[[ポートオーソリティ]]([[港務局]]・[[港湾局]])・[[地方自治体]]などの組織によって管理・運営されている。<br />
<br />
== 歴史 ==<br />
船の運航のために[[古代]]より、河川の[[河口]]、[[湾]]、[[入り江]]といった天然の地形が、[[波浪]]や[[嵐]]といった[[自然災害]]からの船舶の避難場所が泊となったり、補給のための飲料水や[[薪]]などの確保も必要になり、これらの条件が停泊する上では都合が良いため時代が進むにつれて、これらの場所が泊や港・湊として使わるようになり、海運の発達ともに船の規模が拡大するなど港の陸上部分に[[桟橋]]や[[岸壁]]が作られ、施設も拡充され、[[防波堤]]などの突堤も突き出すようになる。<br />
<br />
現代では[[税関]]や[[検疫所]]、出入国管理所が設けられ、旅客船の増加と規模の拡大に応じて旅客施設が作られた。貨物荷役の便益の為に桟橋上や岸壁横には上屋が多く建てられ、陸上輸送との接続地点として道路や鉄道が港に接続されるようになった。<br />
<br />
交通の要所となると他国・他地域との文化的な玄関口となると共に、商業活動によって経済的な発展を遂げて港湾都市として繁栄するようになり、ますます港湾機能の充実が図られた。埋め立て、陸地の掘り込み、浚渫などによってそれまでの港湾の規模を拡大することも行なわれた。また、天然の良港として長い時間をかけて発展してきた港とは別に、人間活動の要請に応じて、新たな港が作られるようになった。鉄鋼業や石油化学工業の発展によって専用の貨物船に対応した工業港が作られ、専用ターミナルとして発展して行った。<br />
<br />
貨物船はしだいに大きくなり、港での荷役に数日が掛かるようになったため、港外で桟橋や岸壁の空きを待つ「滞船」(たいせん)が起きるようになった<ref group="注">貨物船でも旅客を運ぶ貨客船となれば滞船待ちの順番を待たずに優先的に接舷できたため、多くの貨物船が旅客設備を備えるようになった時期がある。</ref>。また、大型貨物船が直接接舷できない多くの港では、[[沖仲仕]](おきなかし)が湾外で停泊する貨物船と陸の間を[[艀]](はしけ)に貨物を積み替えることで荷役を行うなど、非常に非効率であった。<br />
<br />
[[コンテナ船]]の登場で港での荷役作業は効率化されたが、同時に港の荷役設備は更新を迫られた。コンテナ船の巨大化に応じて浚渫やクレーンの大型化が図られ、コンテナターミナルとして発展していった<ref name="船のすべてがわかる本"/>。21世紀に入ると国際貨物コンテナを扱う港は、ハブ港とフィーダー港に峻別される傾向が鮮明になってきた<ref name = "船の最新知識"/>。<br />
<br />
== 機能 ==<br />
島・岬や湾入などにより遮蔽された[[地形]]は、しばしば天然の良港と呼ばれる。近代に入ってからは、防波堤・岸壁といった構造物や掘り込み式港湾などの建設技術が著しく向上し、天然の地形に恵まれない場所でも大規模な港湾が造られている。英語の"Harbour"は、[[古英語]]の軍隊 "here" をかくまう "beorg" という意味合いに由来を持ち、船舶が安全に停泊できる港という避難港的な意味合いが強い。そしてそれは、港湾として求められる最も重要な機能でもある。<br />
<br />
[[旅客]]の乗降や[[貨物]]の[[荷役]]・[[保管]]といった水陸輸送の転換機能、すなわち、[[ターミナル]]機能も港湾の重要な機能である。そのため、港湾には船舶の係留のみならず、貨物の荷さばきと保管、旅客の乗降、港湾から後背地への陸上輸送などを行うための施設が整備されている。英語"port"の語源は、古代ローマの[[ラテン語]]の「運ぶ」を意味する"portare"である。そして運び入れたり運び出す場所をport(門)と呼ぶようになり、[[都市]]・[[国家]]間の[[輸送]]の門である港湾の意味に転じた。すなわち、port には水陸輸送の転換場所という意味合いが強い。<br />
<br />
これらの他の港湾の機能としては船舶へ[[水]]・[[燃料]]・[[食糧]]・船用品などを補給する運航援助機能などがある。<br />
<br />
== 分類 ==<br />
=== 主要な分類 ===<br />
港湾は機能・用途・運営主体・規模・[[法令]]などによって分類することができる。代表的な分類としては、用途による分類がある。港湾の用途に応じた分類であるが、出入港する船舶種類に応じた分類であるとも言える。用途による分類の概略を以下に示す。<br />
{| class="wikitable" style="margin:0 0 1em 1em;text-align: left;"<br />
|-<br />
!種類!!内容!!主な入港船舶<br />
|-<br />
|商港||外国貿易・内国貿易による貨物取扱いを主とする港湾||[[貨物船]]、[[コンテナ船]]など<br />
|-<br />
|工業港||工業地域に接し原料や[[工業製品]]の取扱いを主とする港湾||[[タンカー]]、原料輸送船など<br />
|-<br />
|[[漁港]]||[[水産物]]の取扱いを主とする港湾||[[漁船]]など<br />
|-<br />
|フェリー港]||[[車両]]・旅客を[[運送]]する[[フェリー]]が出入港する港湾||フェリー<br />
|-<br />
|[[ヨットハーバー|マリーナ]]||[[趣味]]・[[娯楽]]・[[観光]]目的の船舶が停泊・発着する港湾||[[ヨット]]、[[プレジャーボート]]、[[遊覧船]]など<br />
|-<br />
|[[軍港]]||軍事的な性格を持った港湾||[[軍艦]]など<br />
|-<br />
|[[避難港]]||小型船舶が強い風浪から避難するための港湾||小型船舶など<br />
|}<br />
<br />
また、港湾の立地・地形に着目した分類もある。港湾の多くは[[海洋]]に面している[[海港]]・[[沿岸港]]であるが、[[河口]]や[[川|河川]]・[[湖]]に建設された港湾も少なくない。概略は以下のとおり。<br />
{| class="wikitable" style="margin:0 0 1em 1em;text-align: left;"<br />
|-<br />
!種類!!内容!!港の例<br />
|-<br />
|海港・沿岸港||海洋に面した港湾||多数<br />
|-<br />
|[[河口港]]||河口に位置する港湾||[[ル・アーヴル|ルアーブル]]港、[[水島港]]、[[新潟港]]<br />
|-<br />
|[[河川港]]・[[河港]]||河川に面した港湾||[[ロッテルダム港]]、[[ロンドン]]港、旧[[伏見港]]、[[上海港]]、[[ハンブルク港]]、[[デュースブルク]]港、[[ベオグラード港]]、[[モントリオール]]港、[[ニューヨーク港]]、[[ニューオーリンズ]]港、[[ブエノスアイレス]]港<br />
|-<br />
|[[湖港]]||湖に面した港湾||[[シカゴ]]港、[[ジュネーヴ]]港、[[バクー]]港、[[大津港 (滋賀県)|大津港]]、[[土浦港]]、[[米子市|米子]]港、[[長浜港 (滋賀県)|長浜港]]、[[ダルース]]港<br />
|}<br />
<br />
多くの河川が航行に利用され、運河も発達している欧米では、海を航行する船が直接入港する港を港(海港)、河川や運河を航行する船が入る港を内陸港湾([[:en:Inland port|Inland port]])と呼んで区別している。この区分によると、たとえば海を航行する船が入港している[[ハンブルク港]]は、エルベ川の河口から約100km上流に位置しているが「内陸港湾」ではない。<br />
<br />
以上のほか、天然の地勢に恵まれた「天然港」と、海浜掘込など人為的に建設された「人工港」という建設方法による分類、高緯度地域において冬季でも暖流などによって凍結することのない[[不凍港]]の分類などがある。<br />
<br />
=== 日本における分類 ===<br />
日本においては、いくつかの港湾関係法令が制定されており、それぞれの法令目的に従って港湾分類がなされている。<br />
<br />
港湾の管理・建設を目的とした[[港湾法]]においては、次のような港湾区分を設けている。<br />
{| class="wikitable" style="margin:0 0 1em 1em;text-align: left;"<br />
|-<br />
!区分!!概要<br />
|-<br />
|[[国際戦略港湾]]||重要港湾の中でも東アジアのハブ化目標とする港湾<br />
|-<br />
|[[特定重要港湾|国際拠点港湾]]||重要港湾の中でも国際海上輸送網の拠点として特に重要な港湾<br />
|-<br />
|[[重点港湾]]||重要港湾のうち国が重点して整備・維持する港湾<br />
|-<br />
|[[重要港湾]]||国際海上輸送網または国内海上輸送網の拠点となる港湾で今後も国が整備を行う港湾<br />
|-<br />
|[[その他の重要港湾]]||国際海上輸送網または国内海上輸送網の拠点となる港湾など<br />
|-<br />
|[[地方港湾]]||重要港湾以外で地方の利害にかかる港湾<br />
|-<br />
|[[56条港湾]]||港湾区域の定めがなく[[都道府県]][[知事]]が港湾法第56条に基づいて公告した水域<br />
|-<br />
|[[避難港]]||小型船舶が[[荒天]]・風浪を避けて停泊するための港湾<br />
|}<br />
旧[[運輸省]](現[[国土交通省]]が1995年に策定した港湾政策「大交流時代を支える港湾」に明記された通称で、次のような港湾区分を設けていた。<br />
{| class="wikitable" style="margin:0 0 1em 1em;text-align: left;"<br />
|-<br />
!区分!!概要<br />
|-<br />
|[[スーパー中枢港湾]]||国家的見地でみた日本のコンテナ重要港湾<br />
|-<br />
|[[中枢国際港湾]]||日本の中枢的な国際コンテナ港湾<br />
|-<br />
|[[中核国際港湾]]||国際海上コンテナターミナルを有する港湾<br />
|}<br />
※スーパー中枢港湾の政令上の呼び名は「[[指定特定重要港湾]]」。<br />
<br />
※スーパー中枢港湾は、[[東京港]]・[[横浜港]]・[[名古屋港]]・[[四日市港]]・[[大阪港]]・[[神戸港]]が指定されていた。<br />
<br />
[[水産業]]の発展を図り、漁港漁場の整備の推進を目的とした[[漁港漁場整備法]]における漁港に関する区分がなされている。行政においては、港湾は港湾法に基づく港([[国土交通省]]所管)、漁港は漁港漁場整備法に基づく港([[農林水産省]]所管)として明確に区別されている。<br />
<br />
港内における船舶交通安全の確保を目的とした[[港則法]]は、喫水の深い船舶・外国船舶が常時出入りできる港を[[特定港]]として分類しているほか、港則法を適用する港を港則法適用港(港則法施行令別表第1)としている。<br />
<br />
貨物の輸出入の手続きについて定める[[関税法]]においては、外国船舶が寄港できる[[開港]]とそうでない不開港を区分している。その他、[[検疫法]]、[[港湾運送事業法]]、[[出入国管理及び難民認定法]](入国管理法)などの法令による港湾分類がある。<br />
<br />
== 管理・運営 ==<br />
=== 港湾管理者 ===<br />
港湾を管理・運営している主体、すなわち港湾管理者には、[[ポートオーソリティ]]([[港務局]])・地方自治体などがある。<br />
<br />
ポートオーソリティとは、公営企業の形態をとった港湾管理組織であり、独立採算によって港湾および港湾隣接区域の運営を行うもので、主にヨーロッパ・北米で広く普及している。日本では第2次世界大戦後、占領軍が港湾[[管理運営主体]]の民主化を狙いにポートオーソリティ制度の導入を勧告。1950年公布の[[港湾法]]に同制度をそのまま移植し、その和訳である港務局制度が港湾管理者制度の柱として確立された。しかし港務局は終戦直後の財政的な制約もあって日本においては普及せず、大半の港湾が都府県、[[政令指定都市]]などの[[地方公共団体]]単独管理となった。現在港務局が港湾管理者を務める日本港湾は[[新居浜港]]のみである(※[[ポート・オーソリティ]]内「日本への影響」項も参照のこと)。<br />
<br />
=== 関係機関 ===<br />
港湾に関わる公的な機関には、港湾管理者のほか[[港長]]・[[沿岸警備隊]]・[[税関]]・[[検疫所]]・[[出入国管理]]機関などがある。<br />
<br />
港長は、港湾内の水域における船舶の安全な航行・停泊・荷役などを司る職である。港長のもとでこれらの任務に当たるのは沿岸警備隊(日本では[[海上保安庁]])であることが多い。税関は、港湾を通じて輸出入する貨物・物資を検査し、[[関税]]の課税・徴収を行う機関である。このほか、[[密輸]]取締りなども税関の業務である。検疫所は、外国から国内に[[伝染病]]の病原菌が侵入するのを防ぐ機関であり、外国から来た船舶は、検疫所の[[検疫]]が完了するまで人の上陸・貨物の陸揚げを行うことができない。国・地域により異なるが検疫所には動物検疫所・植物防疫所などがある。また、出入国管理機関も港湾に関係する機関である。多くの国・地域で、港湾を通じた出入国を公正に管理するために設置されている。<br />
<br />
=== 関係事業者 ===<br />
港湾に関わる事業者には、[[船舶代理店]]、[[通関業者]]、[[港湾運送事業者]](港湾荷役事業者、はしけ運送事業者、[[検数]]事業者、検定事業者など)、[[水先人]]、曳船業者([[タグボート]])などがある。<br />
<br />
;ターミナルオペレーター<br />
[[ガントリークレーン]]など多大な設備投資を必要とし、[[コンテナ船]]の利用に供される[[コンテナターミナル]]は、特定の船会社が定期的に利用する特性を有するため、受益者となる船会社・港湾運送事業者が施設を港湾管理者などから一体的に借り受け、自らも投資しながら運営する形態が一般的である。コンテナターミナルの運営業務を担う事業者はターミナルオペレーターと呼ばれ、特に国際海上コンテナ輸送の大規模化に伴い世界規模で急成長した巨大会社を[[メガターミナルオペレーター]]という。<br />
<br />
;シップチャンドラー<br />
港に停泊する船舶に、食料、日用品、船具や船舶機械を販売して納める業者は「シップチャンドラー」(ship chandler、船舶納入業者)と呼ばれ、国際航路の船には国内税を掛けずに食料や酒類を販売できるため、免税販売の免許を取得している<ref group="注">日本のシップチャンドラーとしては、高級スーパーやジャム等でもよく知られた[[明治屋]]が有名である。</ref>。<br />
<br />
;給油<br />
多くの港では小型タンカーにも似た、「給油船」と呼ばれる船が接舷し、ホースを繋いで主機械用の重油や軽油の供給を行なう<ref group="注">船への給油作業は「バンカリング」と呼ばれる。これは石炭を燃料としていた時代の名残で石炭庫のことをバンカーと呼んでいたためである</ref><ref name="船のすべてがわかる本"/>。この他、専用の給油施設を備える港もあれば、タンクローリーによって行なう港もある。<br />
<br />
;給水<br />
給油と同様に「給水船」が接舷して、飲料用水や造水機を持たない小型船のボイラー用の清浄水を供給する<ref group="注">神戸港の水は文字通り「六甲のおいしい水」として人気がある。</ref><ref name = "船の最新知識">池田良穂著 『船の最新知識』 ソフトバンク クリエイティブ(株) 2008年11月24日初版第一刷発行 ISBN 9784797350081</ref>。<br />
<br />
=== 港湾運営の民営化 ===<br />
2011年現在、国土交通省は[[港湾法]]を改正して、[[港湾運営会社]]を設立できるようにし、民間の経営手法を導入して、独自に資金調達や岸壁使用料の設定やポートセールスができるようにすることを検討している。対象は、[[特定重要港湾]]の23港とされる。<br />
<br />
(参考)[http://www.mlit.go.jp/report/press/port01_hh_000054.html 港湾法及び特定外貿埠頭の管理運営に関する法律の一部を改正する法律案について] - 国土交通省平成23年2月4日<br />
<br />
== 構成・施設 ==<br />
=== 港湾の構成 ===<br />
港湾は水域と陸域に二分される。国・地域によって異なるが、水域部分については一定の区域を[[港湾区域]]として定め、陸域部分についても[[臨港地区]]として指定することが一般的である。陸域における臨港地区は商港区・工業港区・鉄道連絡港区・漁港区・保安港区などに区分され、港湾機能の有効な発揮が図られている。<br />
<br />
また、港湾の一定の区域を[[埠頭]]という。埠頭は、岸壁・荷さばき地・荷役機械・上屋・臨港道路・臨港鉄道など、その区域内の港湾施設を総称したものであり、港湾機能の中枢をなす(→詳細は[[埠頭]]を参照)。<br />
<br />
=== 港湾施設 ===<br />
水域・陸域それぞれに各種の港湾施設が整備されている。主要な港湾施設は下表のように区分されている(→詳細は各項目を参照)。<br />
{| class="wikitable" style="margin:0 0 1em 1em;text-align: left;"<br />
|-<br />
!区分<br />
!施設の例<br />
|-<br />
|[[水域施設]]||[[航路]]、[[泊地]]など<br />
|-<br />
|外郭施設||防波堤、[[防潮堤]]、防砂堤、導流堤、[[堤防]]など<br />
|-<br />
|[[係留施設]]||[[岸壁]]、物揚場、[[係船浮標]]、[[桟橋]]、[[浮桟橋]]など<br />
|-<br />
|臨港交通施設||[[臨港道路]]、臨港鉄道、[[運河]]など<br />
|-<br />
|[[荷さばき施設]]||[[ガントリークレーン]]、アンローダー、荷役機械、上屋など<br />
|-<br />
|旅客施設||旅客乗降用施設、[[フェリーターミナル|旅客ターミナル]]など<br />
|-<br />
|保管施設||[[倉庫]]、野積場、[[貯木場]]、コンテナターミナル([[コンテナヤード]])など<br />
|-<br />
|船舶役務用施設||給水施設、給油施設など<br />
|-<br />
|航行援助施設||[[灯台]]、[[灯浮標]]<br />
|}<ref name = "イラスト図解 船">八木光監修、『イラスト図解 船』、日東書院、2010年2月1日初版第1刷発行、ISBN 9784528019256</ref><ref name = "クレーンの運転">塩ノ谷幸造編、『クレーンの運転』、パワー社、2003年6月25日発行、ISBN 4827730318</ref><br />
<br />
== 世界の主要港湾 ==<br />
{{main|en:List of seaports}}<br />
<br />
=== アフリカ ===<br />
{{See also|en:Ports and harbours in South Africa}}<br />
アフリカ最大の港湾は、エジプトの[[ポートサイド]]である。<br />
<br />
=== アジア ===<br />
{{See also|en:List of East Asian ports}}<br />
[[上海港]]は、[[w:List of world's busiest ports by cargo tonnage|載貨トン数]]及び活動において世界最大の港湾である。2009年及び2010年、同港は載荷トン数及び[[世界のコンテナ港の一覧|コンテナ取扱量]]で世界最大の港湾の地位を取り戻した。同港の後には、いずれも[[シンガポール港]]及び{{仮リンク|香港港|en|Port of Hong Kong}}や[[釜山港]]が続く。<br />
<br />
=== ヨーロッパ ===<br />
{{See also|en:List of busiest ports in Europe}}<br />
コンテナ取扱量及び載貨トン数でヨーロッパ最大の港湾は、第2位に大差をつけてオランダの[[ロッテルダム港]]である。同港の後には、測定基準に応じ、[[w:Port of Antwerp|アントワープ港]]又は[[ハンブルク港]]が続く。<br />
<br />
=== 北アメリカ ===<br />
{{See also|en:List of North American ports|en:Ports of the United States}}<br />
北アメリカ各国の最大の港湾としては、アメリカ合衆国では[[w:Port of Los Angeles|ロサンゼルス港]]及び[[w:Port of South Louisiana|サウスルイジアナ港]]、メキシコでは[[w:Manzanillo, Colima|マンザニーロ港]]、カナダでは[[w:Port Metro Vancouver|バンクーバー港]]が挙げられる。パナマには太平洋及び大西洋を結ぶ[[パナマ運河]]があり、貿易の肝要なルートとなっている。<br />
<br />
=== オセアニア ===<br />
オーストラリア最大の港湾は、[[メルボルン港]]である。<br />
<br />
=== 南アメリカ ===<br />
南アメリカ最大の港湾は、ブラジルの[[サントス]]港である。<br />
<br />
== 脚注 ==<br />
{{脚注ヘルプ}}<br />
=== 注釈 ===<br />
{{Reflist|group="注"}}<br />
=== 出典 ===<br />
{{Reflist}}<br />
== 参考文献 ==<br />
* 小林義久監修・池田宗雄著、『港湾知識のABC』、成山堂書店、1994年、ISBN 4425391241<br />
<br />
== 関連項目 ==<br />
{{Commonscat|Ports and harbours}}<br />
{{Commonscat|Ports and harbours in Japan|日本の港湾}}<br />
*[[w:Anchorage (shipping)|Anchorage (shipping)]]<br />
*[[メガプロジェクト]]<br />
<br />
=== 港湾 ===<br />
*[[w:Bandar (port)|Bandar]] (ペルシア語で「港湾」の意)<br />
*[[ヨットハーバー]] - レクリエーション用ボート対象の港湾<br />
*[[港湾運送業]]<br />
*[[湾]]<br />
*[[海運]]<br />
<br />
=== 他の種類の港 ===<br />
*[[空港]]<br />
*[[ドライ・ポート]]<br />
*[[w:Spaceport|Spaceport]]<br />
*[[w:Port of entry|Port of entry]]<br />
<br />
=== 一覧 ===<br />
*[[w:Lists of ports|Lists of ports]]<br />
*[[w:World's busiest port|World's busiest port]]<br />
*[[w:Category:Sea rescue organisations|Sea rescue organisations]]<br />
<br />
== 外部リンク ==<br />
* [http://law.e-gov.go.jp/cgi-bin/idxselect.cgi?IDX_OPT=1&H_NAME=%8d%60%98%70%96%40&H_NAME_YOMI=%82%a0&H_NO_GENGO=H&H_NO_YEAR=&H_NO_TYPE=2&H_NO_NO=&H_FILE_NAME=S25HO218&H_RYAKU=1&H_CTG=1&H_YOMI_GUN=1&H_CTG_GUN=1 港湾法] - 法令データ提供システム<br />
<br />
{{DEFAULTSORT:こうわん}}<br />
[[Category:港湾|*]]</div>
113.36.250.10
バドミントン
2018-07-26T10:19:39Z
<p>113.36.250.10: /* 関連項目 */</p>
<hr />
<div>{{スポーツ<br />
| 画像 =[[ファイル:Badminton Semifinal Pan 2007.jpg|300px]]<br />
| 見出し = 男子ダブルスのバドミントンの試合<br />
| 競技統括団体 = [[世界バドミントン連盟]]<br />
| 通称 = バド<br />
| 起源 = [[17世紀]]<br />
| 競技登録者 =<br />
| クラブ =<br />
| 身体接触 = 無<br />
| 選手 = 1人ないし2人<br />
| 男女 = 有<br />
| カテゴリ = 屋内競技<br />
| ボール = シャトル(シャトルコック)<br />
| オリンピック = [[1992年]]-<br />
}}<br />
[[ファイル:Badmintonfeld mit Abmessungen.png|right|200px|thumb|バドミントンのコート<li>奥行き:13.4m<br />
<li>幅:6.1m(ダブルス)、5.18m(シングルス)<br />
<li>ネットの高さ:ネットポストの部分で1.55m、中央部で1.524m]]<br />
[[ファイル:Battledore-and-shuttlecock.jpg|right|200px|thumb|バドミントンが登場する、1854年に描かれた漫画]]<br />
'''バドミントン'''({{lang-en-short|badminton}} {{IPA-en|ˈbædmɪntən}})は、ネットを隔て二つに分けられたコートの両側にプレーヤーが位置し、シャトル(シャトルコック)を[[ラケット]]を使って打ち合い、得点を競う[[スポーツ]]である。誤って「バ'''ト'''ミントン」と呼ばれることが多いが、正しくは「バ'''ド'''ミントン (ba'''d'''minton)」である。また、打球は最速初速493km/hであり、最速の[[スポーツ]]として[[ギネス・ワールド・レコーズ|ギネスブック]]に認定されている<ref>クレイグ・グレンディ 著『ギネス世界記録2015』(角川アスキー総合研究所)参照</ref>。'''羽球'''と称する場合もある<ref>[http://www.shukutoku.ac.jp/campuslife/club/chiba/badminton.html]</ref><ref>[https://www.sapporo-u.ac.jp/campuslife/circle/physical/badminton_women.html]</ref>。<br />
<br />
== 特徴 ==<br />
* シャトル(シャトルコック)という、半球状の[[コルク]]に[[水鳥]]等の羽を[[接着剤]]などで固定した物を打ち合うのが最大の特徴。近年は、プラスチック製やナイロンの合成球を使うこともあるが、大会などの公式戦では使われない。<br />
* 全ての球技の中で打球の初速が最も速いことで、[[ギネス・ワールド・レコーズ|ギネスブック]]に認定されている。[[スマッシュ]]の初速は、最速で時速で493㎞に達する。また打球が相手コートに届くまでに空気抵抗を受けて急激に速度が低下するため、初速と終速の差が著しいことも他の球技には無い特徴と言える。<br />
* 競技としてのバドミントンは、緩急を使い分ける様々な[[ショット]]や[[フットワーク]]、対戦相手との駆け引き、ダブルスの場合、ペアとの[[コンビネーション]]など多岐にわたる技術を必要とし、パワーや瞬発力とともに持久力の優劣も勝負を左右する、複雑で非常に激しいものである。<br />
* 一方、屋内外で行われる[[レクリエーション]]として、年齢や性別を問わず広く一般に楽しまれている。競技としての奥深さと、簡単にできるスポーツとしての楽しさの、両面を兼ね備えている。<br />
<br />
== ルール ==<br />
[[ファイル:バドミントンのコート.gif|right|200px|thumb|バドミントンのコートと各線の名称]]<br />
=== 試合の進行 ===<br />
* プレーが始まる前に『サービスをするかレシーブをするか』または『コートのどちらのエンドを選ぶか』の選択権をトスによって決める。トスに勝ったサイドが先にどちらかを選び、負けたサイドは、残りから選択する。国際大会ではコイントスを行うが、日本では、一般に[[じゃんけん]]等で決められる場合がある。<br />
* 試合は、シングルス、ダブルスともに、2ゲーム先取の3ゲームマッチ。それぞれラリーポイントの21点ゲーム、ただし20対20になった場合延長戦となり、以降どちらかが2点差をつけるか、30点に達するまで行われる。但し、29-29まで来ると一発勝負となる。<br />
* すべてのラリーはサービスから始める。サービスは、トスの直後を除いて1つ前のラリーに勝ったサイドが行う。よって、第2ゲームと第3ゲームの初めは、直前のゲームの勝者サイドが行う。<br />
* シングルス、ダブルスともに、1ゲーム終了毎にチェンジエンド(プレイするコートのエンド交換)を行う。3ゲーム目まで試合が続いた場合、2ゲーム目終了直後のチェンジエンドに加え、どちらかが11点先取した時に、チェンジエンドを行う。<br />
* 決められた相手コート内にシャトルを落とすか、相手がフォルト(反則)を取られた場合、1点を得る。<br />
*主審の判定は、最終的なもので、質問は許されても抗議は認められない。<br />
<br />
=== サービス ===<br />
* サービスでは、シャトルの台を打たなければならない。<br />
* サーバーがシャトルを打つ瞬間、ラケットのシャフトが下向きでなければならない。<br />
* ラケットで打たれる瞬間、シャトル全体がサーバーのウエスト(肋骨の一番下の高さ)より下でなければならない。<br />
* サービスを行うときに両足を地面から離してはならない。<br />
* サーバーは、コートのライン内でサービス<br />
<br />
=== コート ===<br />
* シングルスでは内側のサイドラインを使用し、ダブルスでは外側のサイドラインを使用する。<br />
* サービスは、サーバーから見て対角線側のコートに打つ。このとき、シングルスではショートサービスラインからバックバウンダリーライン、ダブルスではショートサービスラインからダブルス用のロングサービスラインの間にシャトルが落下するよう、それぞれ打たなければならない。<br />
<br />
=== インターバル ===<br />
* 各ゲームどちらかの点数が11点に達した時は60秒以内、ゲームとゲームの間には120秒以内のインターバルをとることができる。<br />
* 各インターバル以外でコート外に出ることは、故障等の止むを得ない場合を除き、基本的に認められない。ただし手の汗を拭いたり、破損したラケットを交換することは認められる。<br />
<br />
== 用具 ==<br />
バドミントンで使用される用具は以下の通りである。特に断りがない限り、競技用のものについて述べる。<br />
<br />
=== シャトル(シャトルコック) ===<br />
[[ファイル:Shuttlecocks Yonex Aerosensa 20.jpg|right|170px|thumb|バドミントンのシャトル]]<br />
「羽(羽根)」または「シャトル」と呼ばれることが多い。シャトルコックという名前は以前[[鶏]](コック)の羽で作られていたころの名残である。現在は試合球、練習球においても鶏の羽根のシャトルはほとんど使われていない。競技規則には、シャトルコックではなく、シャトルと記載されている<ref>日本バドミントン協会、世界バドミントン連盟の競技規則を参照。</ref>。<br />
<br />
* 競技用に主として使用されている物は、主に食用の[[ガチョウ]]の羽(羽軸が強く、丈夫。中でも[[風切羽|次列風切]]という部位が最適)とコルクから作られていて、各羽は樹脂で固められている。安価なシャトルは[[アヒル]]の羽によって作られている物もある。卓球、テニスボールのように羽根を蛍光色に着色したものもナイロン製では古くからあったが、最近では鳥の羽製のものでも存在する。また[[動体視力]]を鍛える練習球として、黒ガチョウの羽根を使用したシャトルも一部メーカーが販売している。<br />
* コルク部分に羽根を埋め込み、軸を糸で留めた後、接着剤で固定する。<br />
* 1本でも羽が折れれば正しい軌道で飛ばなくなる。最近では、練習用に羽だけ部分的に交換できる物も販売されている。一般に壊れたシャトルは、ノック練習等でボロボロになるまで再利用された後、廃棄される。かつて、経済的に苦しいチームは、ニカワ・木工用ボンドなどで補強再生され使用していた。<br />
* 気温や湿度の変化による[[空気抵抗]]の差により、飛距離が変化しやすい。具体的には、気温が高く湿度が低いときはよく飛び、逆に気温が低く湿度が高いときは飛ばなくなる。バドミントンの試合前に温度などを測り、常に同じ飛びのシャトルでプレーできるように、同じ銘柄のシャトルでも飛距離の違うものが数種類ずつ製造されている。<br />
* かつては、選手が羽の内側にラケットのグリップエンドや自分の肘を押し込み、羽を外側に広げ、改造する行為の場面が見られた。これは、シャトルが飛び過ぎる場合、空気抵抗を故意に上げ、標準のフライトに近づけるためである。<br />
* 価格は、安価なもので1球数十円ほど、最高級品では1球400円近い物もある。1ダース単位で筒状のケースに入った状態で売られている。多くのメーカーでは、使用する羽の種類や、質などにより、細かく等級を定めており、大きな価格差がある。<!--日本で最大手の[[ヨネックス]]社のシャトルコックでは、希望小売価格がある最も安価な銘柄のサイバーテック01(中国製)が1ダース1,944円<ref name="tax">2014年4月、消費税率8%時の価格</ref>、最高級の銘柄であるF-90トーナメント(日本製・第一種検定合格球)が1ダース5,400円<ref name="tax" />と、3倍近い価格差がある。--><br />
* 世界のシャトルの9割以上は[[中華人民共和国|中国]]で生産されている。<br />
* 材料(ガチョウ、アヒルの羽)と生産地(中国)の関係で、2005年から2006年に[[鳥インフルエンザ]]が流行した際には、現地で食用ガチョウが大量に処分された。その影響で各メーカーが販売価格を値上げした。<br />
* 高品質のシャトルとそうでないものとでは、飛行精度や強度が大きく異なる。<br />
<br />
==== 規格・規定 ====<br />
* 重量約5g、長さ約7cm。羽根の枚数は16枚。羽根の先端(コルクとは逆側)は58mmから68mmで、円形でなければならない。コルクの直径は25mmから28mmで、先は丸くする、と規定されている。<br />
* 日本バドミントン協会では、「第一種検定合格球」「第二種検定合格球」という等級を定めている。「第一種検定合格球」とは、日本バドミントン協会が主催する大会およびその予選で使用できるシャトルコックであり、 「第二種検定合格球」とは、日本バドミントン協会の加盟団体が単独で開催する競技大会で使用を認められているシャトルである。<br />
* 「第一種検定合格球」を更に厳密に分けると、全国大会、国体競技で使用できる「第一種合格水鳥シャトル」と、開催地都道府県協会が使用できる「第一種合格水鳥シャトル開催地選択品」がある。2006年度、「第一種合格水鳥シャトル」には6メーカー6銘柄、「第一種合格水鳥シャトル開催地選択品」には17メーカー22銘柄が認定された。<br />
<br />
==== ナイロン製シャトル ====<br />
1980年代日本では、中学生の大会等で費用の問題からナイロンシャトルが公式採用されていたが、打球感などが羽毛球と異なり軽いことや、いずれ世界を目指すジュニア選手は、早くから羽毛球に慣れ親しんだ方が育成につながること、また、最近では安価の羽毛球も多く販売されていることから、現在は試合でも練習でもほとんど使われていない。しかし、寒冷地などでは検定より温度が下がるため使用されている。<br />
<br />
ただし、前述の鳥インフルエンザ等の影響から、数十年後には水鳥の羽根の安定した供給が望めなくなることが示唆されており、また高価なシャトルの使用が新規プレイヤー獲得の妨げとなっているという意見もあることから、将来的にナイロンなどの安価で耐久性の高いシャトルを公式球として使用することになる可能性がある。<br />
<br />
ナイロン製は羽毛球に比べ、減速度合いが低い(飛び過ぎる)傾向があり、羽毛球と比べ若干の放物線の違いがある。誕生から数十年経過しており、長年の製造技術・開発力で羽毛球に類似させることは可能と思われるが、羽毛球は消耗頻度が高く、メーカーとしてもうまみのある市場なため、利益の薄くなるナイロン製の開発・移行には、やや消極的である。<br />
<br />
=== ラケット ===<br />
バドミントンのラケットは、[[テニス]]や[[スカッシュ (スポーツ)|スカッシュ]]のそれと同じように、フレームにストリング(ガット)を張ったフェースと呼ばれる部分で球を打つ構造となっている。以前はフレーム部分が木製でたいへん重く、木材の歪みを防止するために、使用後は専用の器具で固定しておかなければならなかった。ストリングには動物の内臓など(通常ヒツジの腸、ストリングの別名のガット(英語で内臓の意)の語源でもある)が使われていた。今日では技術の進歩により、以下のようになっている。<br />
<br />
==== フレーム ====<br />
* 全長で680mm以内、幅は230mm以内と規定されており<ref name="kihon23">公益財団法人日本バドミントン協会『観戦&プレーで役に立つ! バドミントンのルール 審判の基本』実業之日本社、2016年、23頁</ref>、そのうちヘッド部分は長さ330mm以内、幅230mm以内とされている<ref name="kihon23" />。<br />
* [[炭素繊維|カーボン繊維]]を中心に、[[複合素材]]として[[チタン]]等の金属が使われている。後者は主にラケットヘッドのねじれを低減したり、重量バランスを調整したりする用途で用いられる場合が多い。[[ケブラー]]等の素材が使われているものもある。<br />
* 木製→金属製→カーボン製と材質が軽量化、高弾性化したことで、選手のフォームが肩を中心としたスイングから手首や指を使うものへと変化し、その結果、打球やゲーム展開が高速化した。また、ストリングを高テンション(張りの強さ)で張れるようになった。<br />
* ヘッドとシャフトをつなぐ部分をスロートという<ref name="kihon23" />。金属製のラケットはヘッドとシャフトが別々になっているものが多く、そのようなものはT字型の部品で固定されている。フレームとシャフトが異種素材であるものも同様である。ただしこのようなラケットは、消耗と共に抜けやすくなる。<br />
* 従来の卵形のヘッドのラケットの他に、ヘッドの形状をやや四角型に成型し、中央部のストリングスが長い部分を増やすことで、スイートスポットと呼ばれる快適に打つことが出来る部分を広げたラケットが、各メーカーで製造されている。現在では、後者がむしろ主流となりつつある。<br />
* 近年、[[ナノテクノロジー]]や[[ゴムメタル]]を採用した高反発、軽量なラケットも登場している。<br />
<br />
==== ストリング(ガット) ====<br />
* ストリングが張ってある部分をストリングド・エリアという。ストリングド・エリアの部分の大きさは、縦280mm以内、横220mm以内と規定されている<ref name="kihon23" />。ただし、ストリングスを張って拡がったエリアの幅が35mm以内で、ストリングド・エリアの縦の長さが330mm以内になっているという条件を満たしているときに限り、ストリングスをスロート部分に拡げて張ることが認められている<ref name="kihon23" />。<br />
* [[ナイロン]]などの[[化学繊維]]を細かく編んだものが主に用いられ、金属音に近い高い打球音を好むプレーヤーのためチタンなどの金属素材を配合した物も販売されている。<br />
* ストリングのテンションは低くて20ポンド弱、高くて30ポンド強である。高テンションで張ると打球音がよくなり、インパクト時のブレが少なくなるためコントロール性が向上するが、ある程度パワーや技術が無ければシャトルが飛ばなくなり([[スイートスポット]]が狭くなる)、また肘などへの反動も大きくなるため、上級者ほど高テンションで張ったラケットを使う傾向がある。ただしプレースタイルにもよる。<br />
* ストリングは基本的に縦糸・横糸共に22本ずつであり、縦糸の左右最後の一本は穴([[グロメットホール]])を一本飛ばして通す。ただし検定品でない安価なラケットの場合はストリングの本数がいい加減なものもある。ヨーロッパのラケットで日本に進出したもので縦横24本ずつのものもある。(検定品)<br />
<br />
==== ハンドル(グリップ)====<br />
* 多くは木製で、それを土台としてシャフトを埋め込み、釘で固定してある。<br />
* ハンドル(手で握る部分)にはほとんどの場合、合成レザーのグリップテープが最初から巻かれている。ただしグリップ性能の問題からそのままの状態で使用するプレーヤーは少なく、レザーの上にポリウレタン等でできた別売りのグリップテープ('''オーバーグリップ''')を重ねて巻く人が多い。<br />
<br />
===== オーバーグリップ =====<br />
オーバーグリップは、大別してポリウレタン製のものとタオル地のものとに大別される。<br />
<br />
; ポリウレタン製<br />
: よく延びるため太さの調節もしやすく、糊などは使わずにテープ一枚で固定できることから取替えも手軽であるため、多くのプレーヤーが使用している。中にはフィット感を高めるために、ウレタンの凸凹がついている物もある。<br />
; タオル地<br />
: 表面がタオル上の布の裏に両面テープがついており、それをハンドル部分に貼り付けて使用する。汗をよく吸うため、手のひらに汗をよくかく人が好んで使う。また使っているうちに、タオルが手の形になじんでくる点も好まれている。ただし使っているうちに硬くなるので、耐久性の面ではポリウレタン製に劣るが、グリップパウダーを使用すると改善されることが多い。<br />
<br />
=== ウェア(ユニフォーム)===<br />
バドミントン競技は、動きが激しく、また、それにより多くの発汗を伴うため、伸縮性・吸湿性・速乾性・防臭性などが優れた[[高機能]][[素材]]のウェアが好まれ、選ばれている。<br />
<br />
ウエアの色や柄に制限はない<ref name="kihon">公益財団法人日本バドミントン協会『観戦&プレーで役に立つ! バドミントンのルール 審判の基本』実業之日本社、2016年、25頁</ref>。以前は白地でなければならない等のルールがあったため、非常に地味でファッション性の乏しいウェアが多かったが、規制が緩和されたことでカラフルなウェアを使用でき、使用している選手も多くいる。ただし、日本国内の公式大会では日本バドミントン協会の検定審査合格品を着用することとされている<ref name="kihon" />。<br />
<br />
[[2000年代]]初頭まではショートパンツは前ファスナー付きのものが多かったが、現在はジャージ形式のものが主流である。<br />
<br />
ウエア前面には1行の文字列(チーム名またはスポンサー名のいずれか)と番号の表示(背番号と同一とすること)が認められている<ref name="kihon" />。<br />
<br />
ウエア背面には3行までの文字列の表示が認められており、プレイヤー名、チーム名、スポンサー名、都道府県名を表示できるが、これらは項目ごとに別の行に表示しなければならず同一行に異なる項目を並べてはならない<ref name="kihon" />。背番号(2桁以内)は文字列の中央下に表示しなければならない<ref name="kihon" />。<br />
<br />
各行の文字列はウエアの前面・背面ともに高さ6~10cm、横30cm以内でなければならない<ref name="kihon" />。<br />
<br />
ウエアの左右襟、左右袖、前面(計5か所)のいずれか3か所にはスポンサーロゴ、チーム名、プレーヤー名を1個ずつ表示することができる(メーカーロゴはその数に含まれない)<ref name="kihon" />。<br />
<br />
=== シューズ ===<br />
バドミントンはストップ&ダッシュの連続でフットワークの技術も特殊であるため、ほとんどの場合で専用の屋内用シューズを使用する。特に踵の部分のショック吸収性と、左右の動きで生じるズレやつぶれ等に対する強さに重点を置いているものが多い。特徴として他のスニーカーに見られない「シャンク」という合成樹脂製のパーツがソールに埋め込まれており、一般的な靴で言われる「反り」(かえり)が良くなる様に設計されておりソールを見ただけで、それと判る。<br />
<br />
== 技術 ==<br />
バドミントンにおいて必要な技術は、ラケットでシャトルを打つ技術(ラケットワーク)と、無駄の無い動きで素早く追いつくための技術(フットワーク)である。詳細は[[バドミントンの技術]]を参照。<br />
<br />
== 歴史 ==<br />
=== バドミントンの誕生 ===<br />
諸説あるものの、最も有力とされている説は次の通り。元々は[[イギリス]]植民地時代の[[インド]]の[[プネー|プーナ]]で[[1820年代]]に行われていた、皮の球をラケットでネット越しに打ち合う「プーナ」(Poona)という遊びを、インド帰りのイギリス人兵士(イギリス人とインド人の混血とも言われる)が[[1873年]]に本国に伝えたのが始まりとされる。その兵士は、プーナを紹介するために[[シャンパン]]の[[栓]]に[[鳥]]の[[羽根]]を刺したものを用い、それをテニスラケットで打って見せたという。紹介されたのがイギリスの[[グロスタシャー]]の{{仮リンク|バドミントン荘|en|Badminton House}}という邸宅であったため、バドミントンという名称がついた(ただし、1870年代にはかなり進んだバドミントンルールが存在したことなどから、この起源説に対し、疑問を持つ者も少なくない。スポーツの起源というものは往々にして脚色されがちである)。いずれにせよ、現在の国際的流行の下地を作ったのはイギリスである。<ref>『「先生なぜですか」ネット型球技編 0のことをなぜラブと呼ぶの?』(稲垣正浩・他=編著、大修館書店)※バドミントンの項目は奈良重幸=著</ref><br />
<br />
イギリスには{{仮リンク|バトルドア・アンド・シャトルコック|en|Battledore and Shuttlecock}}という、シャトルコックに似た球を打ち合う遊びが、プーナ伝来よりも前から伝わっている。その競技の性質や、名前などから、バトルドア・アンド・シャトルコックが次第にバドミントンへと変化していったという説も信憑性が高い。初期のバドミントンはバドミントン・バトルドアと称していることも、この説を裏づける。ともあれ、[[1860年代]]-[[1870年代]]ごろに誕生したらしいバドミントンは次第にイギリス中に普及していった。<br />
<br />
その後ルール統一の必要性から、[[1893年]]イギリスにバドミントン協会が誕生。プレーする人数や、コートの広さ、マッチまでの得点などが様々だったが、これ以後、ルールの統一が進んでいく。<!--その頃までにはバドミントンはマイナーではあるものの、そこそこ普及していたという。-->当時のバドミントンは、バックバウンダリーラインから、ネットに向けて狭くなっていく、[[バスケットボール]]のフリースローレーンのような形のコートを2つ合わせたような形であった。これは、バドミントン荘がそのような形状であったから、というのが定説である。日本に古くから伝わる[[羽根突き]]との関連は不明。<br />
<br />
[[1899年]]には[[ロンドン]]で第一回[[全英オープン (バドミントン)|全英オープン]]が行われ、[[1921年]]に[[カナダ]]、[[1930年]]に[[デンマーク]]、[[オランダ]]、[[フランス]]にバドミントン協会が設立され、そして[[1934年]]に[[世界バドミントン連盟]]が誕生した。<br />
<br />
[[1972年]]の[[ミュンヘンオリンピック]]にて[[オリンピック公開競技|公開競技]]として行われた後、その次の[[モントリオールオリンピック]]から正式競技になるとの観測があったが、中国が脱退するなどして国際バドミントン連盟が分裂する事態が起こり、立ち消えとなったことがある。<br />
<br />
[[オリンピックバドミントン競技|オリンピック]]の方が注目されがちだが、オリンピックや[[世界バドミントン選手権大会|世界選手権]]よりも上記の[[全英オープン (バドミントン)|全英オープン]]、国別対抗団体戦の[[トマス杯]]、[[ユーバー杯]]の方が長い歴史と伝統を誇る。<br />
<br />
===各国での普及===<br />
==== 日本 ====<br />
日本では[[1921年]]、横浜[[キリスト教青年会|YMCA]]の体育主事をしていた[[広田兼敏]]が[[名誉主事]]のアメリカ人スネードから用具一式を寄贈されたことが始まりとされている。広田はその後、在日欧米人よりバドミントンについて学び、[[1933年]]に横浜YMCAの体育活動に取り入れ、[[1937年]]にはバドミントンクラブを設置したと言われる。<br />
<br />
その後、[[第二次世界大戦]]のために普及活動は停滞するが、[[1946年]]、終戦後早々と各地のYMCAなどのクラブチームはバドミントンを再開した。同年、[[11月2日]]、日本バドミントン協会が設立される。[[1948年]]、第1回[[全日本総合バドミントン選手権大会]]開催、[[日本体育協会]]に参加。[[1949年]]、第四回[[国民体育大会]]の競技種目となり、[[1950年]]第一回全日本学生バドミントン選手権開催、[[1951年]]第1回全国高等学校体育大会バドミントン競技大会開催、第1回実業団バドミントン選手権開催、[[1952年]][[国際バドミントン連盟]]加盟し、急速にバドミントンは普及する。<br />
<br />
[[1954年]]男子チームが初の国際大会となる第3回[[トマス杯]]大会アジア地区予選に出場した。女子チームは[[湯木博恵]]などを中心に[[1965年]]-[[1966年]]、[[1968年]]-[[1969年]]、[[1971年]]-[[1972年]]、[[1977年]]-[[1978年]]、[[1980年]]-[[1981年]]に、最も権威ある国際大会の一つである[[ユーバー杯]]で優勝するという快挙を成し遂げた。また、公開競技として行われた[[1972年]]の[[ミュンヘンオリンピック]]において女子シングルスに出場した[[中山紀子]]が金メダル、[[湯木博恵]]が銅メダルを獲得。さらに[[1988年]]の[[ソウルオリンピック]]において女子シングルスに出場した[[北田スミ子]]、男子ダブルスに出場した[[松野修二]]・[[松浦進二]]ペアが銅メダルを獲得している。<br />
<br />
[[1992年]]の[[バルセロナオリンピック]]にて正式種目として採用されてからはしばらくメダルを獲得出来なかったが、[[2008年]]の[[北京オリンピック]]で女子ダブルスに出場した[[末綱聡子]]・[[前田美順]]ペア([[スエマエ]])がベスト4入りを果たすと、[[2012年]]の[[ロンドンオリンピック (2012年)|ロンドンオリンピック]]で同種目に出場した[[藤井瑞希]]・[[垣岩令佳]]ペア([[フジカキ]])が銀メダルを獲得。そして、[[2016年]]の[[リオデジャネイロオリンピック]]で[[高橋礼華 (バドミントン選手)|高橋礼華]]・[[松友美佐紀]]ペア([[タカマツ]])がついにオリンピックで日本初の金メダルを獲得した。<br />
<br />
=== 近年のバドミントン ===<br />
[[1972年]]の[[ミュンヘンオリンピック]]、[[1988年]]の[[ソウルオリンピック]]では、公開競技として行われた。[[1992年]]の[[バルセロナオリンピック]]より正式競技種目として採用された(混合ダブルスは[[1996年]]のアトランタ大会から)。国際バドミントン連盟(IBF)は、オリンピック種目として生き残ることを視野に、2000年から 7点5ゲーム・サイドアウト制の試行を始めた。この得点システムは2002年6月に見直され、元の15点(女子シングルスは11点)3ゲーム・サイドアウト制に戻された。2003年3月に、イングランドの呼びかけで開かれた IBF臨時総会では、9点5ゲーム制、女子種目と混合ダブルスの11点3ゲーム制(いずれもサイドアウト制)などが検討されたが、再び旧ルールに戻る結末を迎えた。2005年は、IBFの提案により、ラリーポイント制について、実験的採用が行われた年となった。2006年5月6日、トマス杯ユーバー杯開催中の日本の東京で開かれた IBF年次総会において、21点ラリーポイント制の得点システムが加盟各国理事に満場一致で支持され、IBF の世界ランキング大会は、これで行われることが正式に決定した。<br />
2006年9月、国際バドミントン連盟は、世界選手権開催中のスペインのマドリードで開かれた臨時総会において、名称を 世界バドミントン連盟(Badminton World Federation)に変更することを決め、発表した。<br />
<br />
== 主な大会 ==<br />
=== 国際大会 ===<br />
* [[オリンピックバドミントン競技|オリンピック]]<br />
* [[世界バドミントン選手権大会]]<br />
* [[世界ジュニアバドミントン選手権大会]]<br />
* [[世界学生バドミントン選手権大会]]<br />
* [[世界シニアバドミントン選手権大会]]<br />
* [[トマス杯]](男子国別対抗団体戦)<br />
* [[ユーバー杯]](女子国別対抗団体戦)<br />
* [[スディルマンカップ]](男女混合国別対抗団体戦)<br />
* [[BWFワールドツアー]]<br />
** [[全英オープン (バドミントン)|全英オープン]]<br />
** [[ヨネックスオープンジャパン]]<br />
** 他<br />
* [[アジア競技大会バドミントン競技|アジア大会]]<br />
* [[東アジア競技大会バドミントン競技|東アジア大会]]<br />
* [[大阪インターナショナルチャレンジ]]<br />
<br />
===各国の大会===<br />
==== 日本====<br />
* [[全日本総合バドミントン選手権大会]]<br />
* [[日本ランキングサーキット大会]]<br />
* [[全日本社会人バドミントン選手権大会]]<br />
* [[全日本シニアバドミントン選手権大会]]<br />
* [[全日本ジュニアバドミントン選手権大会]]<br />
* [[全日本実業団バドミントン選手権大会]]<br />
* [[全日本教職員バドミントン選手権大会]]<br />
* [[全日本学生バドミントン選手権大会]]<br />
* [[全日本レディースバドミントン選手権大会]]<br />
* [[日本バドミントンジュニアグランプリ]]<br />
* [[全国高等学校バドミントン選手権大会]]<br />
* [[全国高等学校選抜バドミントン大会]]<br />
* [[全日本高等専門学校バドミントン選手権大会]]<br />
* [[全国中学校バドミントン大会]]<br />
* [[全日本中学生バドミントン選手権大会]]<br />
* [[全国小学生ABCバドミントン大会]]<br />
* [[全国小学生バドミントン選手権大会]]<br />
* [[若葉カップ全国小学生バドミントン大会]]<br />
* [[バドミントンS/Jリーグ]](実業団クラブ対抗・団体戦)<br />
* [[バドミントン日本リーグ]](実業団対抗・団体戦)<br />
* [[国民体育大会]](県対抗・団体戦)<br />
* [[日本スポーツマスターズ]]<br />
* [[全国スポーツ・レクリエーション祭]]<br />
* [[全国青年大会]]<br />
* [[全国スポーツ祭典]]<br />
<br />
== 脚注 ==<br />
=== 出典 ===<br />
<references/><br />
<!--<br />
== 注釈 == <br />
<references group="注釈" /><br />
--><br />
<br />
== バドミントンがテーマの主な作品 ==<br />
* [[スマッシュ!]]([[咲香里]])<br />
* [[はねバド!]]([[濱田浩輔]])<br />
* [[バドガール (漫画)|バドガール]]<br />
<br />
== 派生競技 ==<br />
* [[パラバドミントン]] - 障がい者向けの競技。ルールはバドミントンと同じ。<br />
<br />
== 関連項目 ==<br />
{{Commons&cat|Badminton|Badminton}}<br />
{{Wikibooks}}<br />
* [[日本バドミントン協会]]<br />
* [[世界バドミントン連盟]]<br />
* [[バドミントン日本代表]]<br />
* [[フリンゴ]] - バドミントンのダブルスコートを準用する球技。<br />
* [[ミニバレー]] - バドミントンのダブルスコートを準用する球技。<br />
* [[ジェンズ#毽球|毽球]](ジェンチウ) - 現代中国でプレイされるバドミントンに似たスポーツ。<br />
<br />
== 外部リンク ==<br />
=== 団体 ===<br />
* [http://www.bwfbadminton.org/ Badminton World Federation(BWF) 世界バドミントン連盟] {{en icon}}<br />
** [http://badmintonworld.tv/ Badmintonworld.tv] - BWF の公式生チャンネル([[YouTube]]) {{en icon}}<br />
* [http://www.parabadminton.org/ Parabadminton World Federation(PBWF) 世界障害者バドミントン連盟] {{en icon}}<br />
* [http://www.badminton.or.jp/ 日本バドミントン協会]<br />
* [http://www.badminton-league.jp/ バドミントン日本リーグ]<br />
* [http://www.badminton-jitsugyodan-jp.com/ 日本実業団バドミントン連盟]<br />
* [http://www.jef-badminton.jp/ 日本教職員バドミントン連盟]<br />
* [http://www.japanibf.com/ 全日本学生バドミントン連盟]<br />
* [http://www.zenkoku-koutairen-bad.com/ 全国高等学校体育連盟バドミントン専門部]<br />
* [http://www7.plala.or.jp/njpa-bad/ 日本中学校体育連盟バドミントン専門部]<br />
* [http://www.syoubad.jp/ 日本小学生バドミントン連盟]<br />
* [http://www.hellonet.or.jp/~hisato/msbf/ 全日本社会人クラブバドミントン連盟]<br />
* [http://www.jlbad.gr.jp/ 日本レディースバドミントン連盟]<br />
* [http://www.jbad.org/index.html 日本障害者バドミントン協会]<br />
* [http://jbad.jp/ 日本ろう者バドミントン協会]<br />
<br />
=== ルールなど ===<br />
* [http://www.badminton.or.jp/rule/ 競技規則] - [[日本バドミントン協会]]<br />
* [http://www.unisys.co.jp/badminton/rule/ 詳しいバドミントン新ルール解説] - [[日本ユニシス]]実業団バドミントン部<br />
* [http://badminton-rule.com/ バドミントンルール百科]<br />
* [http://www.ganbaranai-bad.com/shuttle-hyakka/ バドミントンシャトル百科]<br />
* [http://badminton-beginner.com/ バドミントン初心者ガイド]<br />
<br />
=== その他 ===<br />
* [http://www.joc.or.jp/sports/badminton.html 日本オリンピック委員会(バドミントン)]<br />
<br />
{{球技}}<br />
<br />
{{デフォルトソート:はとみんとん}}<br />
[[Category:バドミントン|*]]<br />
[[Category:オリンピック競技]]<br />
[[Category:ラケットスポーツ]]</div>
113.36.250.10
町丁
2018-07-12T19:46:45Z
<p>113.36.250.10: </p>
<hr />
<div>'''町丁'''(ちょうちょう)とは[[日本]]の[[市区町村]]下における区画であり、[[国勢調査]]などの人口統計等の分野で用いられる[[学術用語]]。法令上の正式な名称としては'''[[町]]'''であり、[[地方自治法]]では字と合わせた「[[町字|町又は字]]」の区域・名称についての新設・変更・廃止の手続が規定されている<ref group="†">同法第260条第1項。なお同項条文中は「町若しくは字」と表現されている</ref>。[[住居表示]]実施地区においては[[街区]]、未実施地区においては[[地番]]よりも上に位置づけられる単位である。成立の経緯から[[市街地]]を中心に設けられており、[[農村]]部における字(あざ:[[大字]]と[[小字]])に対応するが、「町」と「字」は排他的なものではなく混在する場合もある。<br />
<br />
== 由来 ==<br />
=== 町の語義の変遷 ===<br />
元々「町」にも「[[丁]]」にも「市街」という意味はなく、[[日本語]]だけに限られる国訓である。なぜそうなったかを説明すると以下のとおりである。<br />
<br />
そもそも「町」の字義は「[[田]]を区切る[[畦]]<ref group="†">字(あざ)を畔の転であるとする説があり、図らずも一致する</ref>」「田の一区画」である。これが日本語に入るに及び、土地などの一部分という意味の「マチ」が訓として当てられた<ref group="†">刀剣において、刀身の部分と茎(なかご)との境目を「区(まち)」と訓むのも同様</ref>。十巻本『[[和名抄]]』にも「町蒼頡篇云町〈他丁反 和名末地〉田地也」とある。これが[[宮殿]]ないし[[邸宅]]内の一区画を指すようになり、[[都城]]の[[条坊制]]の区画として「町(まち)」が用いられ「[[坊]]」とも字が充てられた<ref group="†">坊は[[平安京]]では16の町から構成され各坊に坊長が置かれて支配を掌ったが、早くにその実体を失い、町が専ら「まち」となってくる</ref>。<br />
==== 条坊制と町 ====<br />
都市の区画としての「町」は都城制に基づく日本宮都内の最小の区画であり、その成立は条坊制の成立と時を同じくすると考えられるが定説はない。[[大化]]2年([[646年]])正月の[[大化の改新|改新]]の詔には京に坊を置きたりと記されるが、『[[大宝律令|大宝令]]』文に基づく修飾文である。[[平城京]]出土の[[木簡]]には「左京小治町」と既に町の固有名すら生まれているのが垣間見られる<ref group="†">しかし一般には町の表示は「二条三坊八町」の如く数字にて表示(京外の五条八里三坪(町)などという表示と対応)されたと考えられる</ref><ref name="日本史大事典 町">{{Cite encyclopedia<br />
|author = [[松本四郎]]<br />
|encyclopedia = [[#日本史大事典6|日本史大事典]]<br />
|title = '''町''' まち<br />
|year = 1994<br />
|month = 2<br />
|volume = 6<br />
|pages = 291-293<br />
}}</ref>。また特定の種類の居住者の名を冠して[[神祇町]]、[[春宮町]]、[[修理官町]]、[[左近町]]、[[御倉町]]、[[織部町]]、[[縫殿町]]、[[木工町]]といった(いわゆる[[官衙町]]<ref group="†">官人の集住地で、行政上の理由で強制的に住まわされた</ref>)。例は[[古代]]から見られ、『[[続日本後紀]]』には「以仕丁町地長廿四広四丈広四丈、為陰陽寮守辰丁廿二人盧一居」と見える。だがこの時点では「町」は市街というニュアンスを有さなかった。<br />
<br />
==== 市街地という意味への転化 ====<br />
「町」に市街の意味が付き始めるのは古代も末、[[平安時代]]末期まで下る。『[[類聚名義抄]]』では「店家俗に町と云う」、『和名抄』にも「店、坐売舎(ざうりのや)也」と記されその注に「今俗に町と云う、この類なり」とあり、この頃から「町」の意味が40[[丈]](約120m)四方の区画から[[商店街]]の意味を有するようになった。<br />
<br />
官衙町から発した通り「町通」は、町口・町口小路と呼ばれていたのが略されて12世紀半ばには「町」と呼ばれた。『[[続本朝往生伝]]』には「左衛門町は潤屋の地なり、店家屋を比べ百物自ら備る」と本来の市であった東市を上回る盛況振りが言及されている。ここを通る「町通」(現在の京都市の[[新町通]])は三条・四条・七条の交点付近に一大商業地を形成していた<ref name="角川地名大辞典別巻1">{{Cite book|和書<br />
|editor = [[市川健夫]]、[[北原進]]、[[竹内誠]]、[[西垣晴次]]、[[宇野俊一]]、[[杉山博]]、[[所理喜夫]]<br />
|year = 1990<br />
|title = 角川日本地名大辞典 別巻1 日本地名資料集成<br />
|publisher = 角川書店<br />
|isbn = 978-4040014807<br />
|pages = 279-282<br />
}}</ref>。<br />
<br />
[[鎌倉時代]]には「町人」「町屋」という言葉が登場し、[[鎌倉]]でも地方でも都会的な場を町と呼ぶことが定着する<ref name="角川地名大辞典別巻1" />。<br />
<br />
[[1595年]]の『[[羅葡日辞書]]』には「Vicinus <略>リンカニ イル モノ、ヲナジ chŏni(チャウニ) スム モノ」とある<ref>{{Cite encyclopedia <br />
|encyclopedia =[[#日本国語大辞典12|日本国語大辞典]] 第二版<br />
|title = まち【町・街・坊】<br />
|year = 2001<br />
|month = 11<br />
|volume = 12<br />
|pages = 419<br />
}}</ref>。<br />
<br />
=== 町と丁 ===<br />
日本では条坊制・[[条里制]]により[[町 (単位)|面積および長さの単位としての「町」]]が普及し、また「丁」は同音であるため長さの単位としては「町」と同じ意味を有するようになった。すなわち、これら単位としての町丁も国訓なのである。<br />
<br />
[[京都市|京都]]では最初東西二面にしか家屋の門を作ることが認められなかったが(二面町)、後に南北にも認められるようになった(四面町)、この町の4つの辺がそれぞれ一つの町(まち)から分立する「丁(ちょう)」として認識される様になり(四丁町)、[[応仁の乱]]の後は向かい合う丁と改めて併せて「町(ちょう)」という自治組織の形態を取る様になった(両側町)<ref group="†">そのため京都の旧市街で町を「まち」と呼ぶのは一部の例外を除き、室町通や新町通など通りの名称に限られる</ref><ref name="世界大百科事典 町">{{Cite encyclopedia <br />
|author = 松本四郎<br />
|encyclopedia = [[#世界大百科事典27|世界大百科事典]]<br />
|title = まち 町<br />
|year = 1958<br />
|volume = 27<br />
|pages = 70-71<br />
}}</ref>。<br />
<br />
今日では町を細かく分けた単位を'''[[丁目]]'''(ちょうめ)と呼称するが、町は丁から成るという考えから出たものだろうか。[[1614年]]の『慶長見聞集』には「皆人沙汰しけるは本町<u>二丁目</u>の滝山彌次兵衛は家をはんぶん瓦にて葺たり」と近世初期にはこの言い方が確立していたことがわかる。<br />
<br />
ただし、[[松江市|松江]]や[[和歌山市|和歌山]]や[[仙台市|仙台]]の様に町(まち)を[[町人]]の居住地、丁(ちょう)を[[武士]]の居住地として厳然と使い分ける例も見られる。<br />
<br />
== 近世の町割り ==<br />
[[近世]]には[[兵農分離]]により、[[城下町]]において町人と武士の住む場所は[[濠]]や[[堤]]によって分けられるようになった。<br />
<br />
[[安土桃山時代]]、安土(現在の[[近江八幡市]][[安土町地域自治区|安土町]])では武士と町人が混住しすぎたため様々な身分上の対立が起こり問題があった。そこで、[[豊臣秀次]]は[[近江八幡|八幡]]では[[武家屋敷]]と[[町屋]]は明瞭に区分して一つの[[城下町]]を作らせた。これが近世の城下町における典型的な[[町割り]]の嚆矢となった。<br />
<br />
各々の町は形態的には街路網により[[地割]]が画定され[[江戸]]、[[仙台都心部|仙台]]、[[甲府市|甲府]]、[[駿府]]、[[名古屋市|名古屋]]、[[大阪市|大阪]]、[[小倉市|小倉]]などの[[碁盤]]型、[[上野町 (三重県)|伊賀上野]]、[[秋田市|秋田]]、[[福島市|福島]]などの[[短冊]]型などがあった<ref name="国史大辞典 町割">{{Cite encyclopedia <br />
|author = [[田中喜男]]<br />
|encyclopedia = [[#国史大辞典13|国史大辞典]]<br />
|title = まちわり 町割<br />
|year = 1992<br />
|volume = 13<br />
|pages = 88<br />
}}</ref>。<br />
<br />
[[江戸時代]]初期には[[職人町]]と[[商人町]]とに分けられた。職人町には[[大工町 (曖昧さ回避)|大工町]]、[[石切町]]、[[塗師町]](ぬし{{Ndash}})、[[樋町]]、[[鍛冶町 (曖昧さ回避)|鍛冶町]]([[鍛治町 (曖昧さ回避)|鍛治町]])、[[紺屋町 (曖昧さ回避)|紺屋町]]、[[大鋸町]]、[[研屋町]]、[[金屋町]]、[[細工町]]、[[檜物師町]]、[[畳町]]、[[瓦町]]などの名があり、商人町には[[肴町 (曖昧さ回避)|肴町]]([[魚町 (曖昧さ回避)|魚町]]、[[魚屋町]])、[[米町]]([[穀町]]、[[石町]])、[[塩町]]([[塩屋町]])、[[油屋町]]、[[茶町]]、[[八百屋町]]([[青物町]])、[[紙屋町]]([[紙町]])、[[呉服町 (曖昧さ回避)|呉服町]]、[[瀬戸物町]]、[[材木町 (曖昧さ回避)|材木町]]([[木町]])、[[伯楽|博労]][[博労町|町]]([[馬喰町]])など、交通関係では[[伝馬町 (曖昧さ回避)|伝馬町]]、[[旅籠|旅籠屋]][[旅籠屋町|町]]、[[連雀]][[連雀町|町]]([[連尺町]])などがあった<ref name="世界大百科事典 町" /><ref name="国史大辞典 町割" />。これらは[[大名]]によって職能集団ごとに町立てが命じられた結果である。一方、[[大坂]]では人名を冠した町名が非常に多くあり(特に現在の大阪市中央区)、これらは町開発者(町立てを主導した人物)の名だという<ref name="角川地名大辞典別巻1" />。<br />
<br />
== 近代における町 ==<br />
今日でも、「町名」が[[市町村]]のうちの町の名前である場合よりも市町村内の町丁を呼ぶことが多い。上述してきた様に「町」が元々区画を表す言葉だったのでこれは当然の事である。大きな都市の一部分として「町名」と言う用法は江戸時代の[[人情本]]『[[恋の若竹]]』にも「どうも町名(チャウメイ)が解らぬが礼に行くのに大きに困った、何方(どっち)へ行った」とある様に近世にはあった用法である。<br />
<br />
複数の町を含む町場を集合的に町と呼ぶことは近世からあったが、、[[1889年]]([[明治]]22年)前後の[[町村制]]施行によるいわゆる[[日本の市町村の廃置分合|明治の大合併]]により全国の区町村が統合され、この際旧来の村々は[[大字]]と名を変えて混乱を免れたが、都市を形作っていた町々が合わさって一つの町になった場合旧来の町は町のままで(これまで町が集合して都市になっていたか、村の中の市街が町と呼ばれていたかしていたのが)自治体としての町の中に町丁がある状態となった。さらに東京周辺においては、[[東京15区]]をもって[[東京市]]が発足するのに伴い、区部と郡部との境界が一部変更された際、区部から郡部に移行した町丁は、その町丁のみでひとつの大字とした(例:[[赤坂区]]青山北町七丁目→[[豊多摩郡]][[渋谷町 (東京府)|渋谷町]]大字青山北町七丁目等)ため、同一自治体内に旧来の村による広大な大字と町方由来の町割・町名を保存したままの狭小な大字が混在するケースも見られた。<br />
<br />
また、後に大字を有する町村を合併した際に大字の上に旧来の町村名を冠した「町(ちょう)」を冠するという例もよく見られる。[[都市化]]が進み[[土地区画整理事業|区画整理]]を行うと、旧来の字を廃して新たに町丁を作る(町名を付ける)ことが多い。<br />
<br />
== 脚注 ==<br />
{{脚注ヘルプ}}<br />
=== 付記 ===<br />
{{Reflist|group=†}}<br />
=== 出典 ===<br />
{{Reflist}}<br />
<br />
== 参考文献 ==<br />
* {{Cite book|和書<br />
|editor = <br />
|year = 1994<br />
|title = 日本史大事典 6<br />
|publisher = 平凡社<br />
|isbn = 978-4582131062<br />
|ref = 日本史大事典6<br />
}}<br />
* {{Cite book|和書<br />
|editor = 小学館国語辞典編集部<br />
|year = 2001<br />
|title = 日本国語大辞典 第二版 12<br />
|publisher = 小学館<br />
|isbn = 978-4095210124<br />
|ref = 日本国語大辞典12<br />
}}<br />
* {{Cite book|和書<br />
|editor = <br />
|year = 1958<br />
|title = 世界大百科事典 27<br />
|publisher = 平凡社<br />
|isbn = <br />
|ref = 世界大百科事典27<br />
}}<br />
* {{Cite book|和書<br />
|editor = 国史大辞典編集委員会<br />
|year = 1992<br />
|title = 国史大辞典〈13〉<br />
|publisher = 吉川弘文館<br />
|isbn = 978-4642005135 <br />
|ref = 国史大辞典13<br />
}}<br />
<br />
== 関連項目 ==<br />
* [[ストリート]]、[[通り]]、[[街路]]<br />
* [[街区]]<br />
* [[街区表示板]]<br />
* [[住居表示]]<br />
* [[洞 (行政区画)]]<br />
* [[台湾の村里]]<br />
* [[天正の地割]]<br />
* [[地割役]]<br />
* [[新寺町新割町]](地名)<br />
* [[町字]]<br />
<br />
{{DEFAULTSORT:ちようちよう}}<br />
[[Category:日本の町・字|* ちようちよう]]<br />
[[Category:行政区画の単位]]<br />
[[Category:日本の行政区画]]</div>
113.36.250.10
私
2018-07-07T14:21:29Z
<p>113.36.250.10: /* 私と公 */</p>
<hr />
<div>{{Otheruses|「公」と対比しての「私」|その他|私 (曖昧さ回避)}}<br />
<br />
'''私'''(し、わたくし)は、[[仕事]]場などの社会的集団の中における人間の属性と対比して、一個人としての属性を示すときに用いられる言葉である。<br />
<br />
この意味における反対語は'''[[公]]'''(こう、おおやけ)である。例えば、「私用」は仕事に関係のない行動や物品を指し、「公用」はもっぱら仕事上の行動や仕事に用いる物品を指す。<br />
<br />
== 私と公 ==<br />
「私」と「公」を区別することが重要であるとされることがしばしばある。例えば、百科事典などの広く公開されている文書に私人の詳細な情報を記載することは一般的にはすべき事ではないとされるが、公人についてはある程度詳細な記述が求められることがある。<br />
<br />
ただし、何をもって私と公を分別すべきか、私と公の二極に分別するのが適当であるかについては常に意見が分かれるところである。特に著名人に於いてはその立場が私なのか公なのかでしばしば論争が起こる。<br />
<br />
近年、日本の[[内閣総理大臣]]が[[靖国神社]]を[[参拝]]するのが私人としての行動であるのか公人としての行動であるのかについて論争がある。また、芸能人の[[プライバシー]]はどこまで公開されても良いのかという議論に於いても「どこまでが私的なことでどこまでが公的な事なのか」が論点になっている。<br />
<br />
== 哲学上の私 ==<br />
[[哲学]]において'''私'''とは、全ての[[物|事物]]を[[意識]]するその始まりである。これにより、物事は一歩を歩み始める。[[対象]]を[[認識]]する前に、その対象を意識したそれが、私である。<br />
<br />
== 漢文上の私 ==<br />
漢文においては「私に(ひそかに)」と読み「こっそりと」や「他人に知られないように」という意味がある。<br />
<br />
== 関連項目 ==<br />
*[[自我]]<br />
<br />
{{Philos-stub}}<br />
{{Socsci-stub}}<br />
<br />
{{DEFAULTSORT:わたくし}}<br />
[[Category:哲学の概念]]</div>
113.36.250.10
貨物列車
2018-06-30T13:35:38Z
<p>113.36.250.10: /* 混合列車 */</p>
<hr />
<div>[[ファイル:1116 Mariahof.jpg|thumb|250px|right|[[オーストリア連邦鉄道]]の貨物列車]]<br />
'''貨物列車'''(かもつれっしゃ)とは[[鉄道]]において[[貨物]]の輸送を目的とする[[列車]]であり、鉄道発祥以来運転されている。[[機関車]]が[[貨車]]を牽引する形態が主流であるが、貨車自体が動力を有する電動貨車や気動貨車、あるいは動力分散方式の貨物[[電車]]もみられる。[[客車]]と貨車を併結する'''混合列車'''(こんごうれっしゃ)という形態もある([[#混合列車|後述]])。<br />
<br />
== 運用と実情 ==<br />
大量輸送という観点からすれば鉄道による貨物輸送以前は[[船|船舶]]による輸送があり、そのために内陸部では[[運河]]が作られた。船舶による輸送は運河の建築に膨大な労力を必要とし、輸送力を増強するために船舶の大型化か船舶の数量を増やすしかなかった。鉄道の発明により、より少ない労力で内陸部の輸送網を作り上げることが可能となり[[産業革命]]後大いに発展することとなった。<br />
<br />
鉄道が陸運の主力であった時代は[[鉱山]]や[[工場]]・建設現場などへ[[専用鉄道|専用線]]が敷かれることが多く、貨物輸送を主目的として開業する鉄道会社・線区も多かった。<br />
<br />
鉄道による輸送の利点は貨車を増やし大量輸送が可能となることであったが、それは同時に時間における柔軟性を欠くことでもあった。政策的な自動車道路網の整備による[[モータリゼーション]]の発展と[[貨物自動車|トラック]]の性能の向上により、鉄道を利用する貨物輸送はきめの細かい貨物輸送の手段としての価値を失ってゆく。しかし、近年は[[大気汚染]]や[[地球温暖化]]の深刻化などを受け、企業は[[環境]]保護の取り組みが社会的に要求されるようになったことから[[環境負荷]]の低い鉄道貨物輸送を見直す[[モーダルシフト]]の動きが出ている。<br />
<br />
== 欧米の貨物列車 ==<br />
[[ファイル:BNSF 5216 West Kingman Canyon AZ (293094839).jpg|thumb|250px|right|ダブルスタックカーを連ねたアメリカのコンテナ列車([[アリゾナ州]])]]<br />
[[欧米]]では現在においても最も安価で効率的な貨物の陸上輸送手段として物流の主役であり、特に[[アメリカ合衆国]]や[[カナダ]]など[[北アメリカ]]は海上コンテナを2段積みにした[[ダブルスタックカー]]を100両近く連ねた長大な貨物列車が運転され、[[ピギーバック輸送]]やデュアルモードトレーラーシステムなど、他の陸上輸送手段との連携も進んでいる。<br />
<br />
{{Main|インターモーダル輸送}}<br />
<br />
[[大陸横断鉄道]]を用いて従来船舶で輸送していた貨物を陸上輸送にシフトするランドブリッジ構想が提唱されている。高速な輸送が可能となる利点があるが一方で鉄道施設の近代化、通過国の関税上の扱い、盗難・損傷などの問題、密輸対策など課題も多い。欧州と[[中国]]沿岸部・[[ロシア]]極東部を結ぶ[[ユーラシアランドブリッジ]]が有名である。<br />
<br />
=== アメリカ合衆国 ===<br />
米国は[[1830年]]に客車を貨車をけん引する蒸気機関車が開業し<ref name="PHP122">{{Cite book |和書 |author=PHP研究所 |year=2013 |title=貨物列車のひみつ |page=122}}</ref>、[[1916年]]に鉄道路線の総延長が42万[[キロメートル|km]]に達して世界一となった<ref name="PHP122" />。第二次世界大戦後は高速道路網と航空便が発達し、大都市圏の通勤輸送などを除き鉄道による旅客輸送は急速に衰退した<ref name="PHP122" />。一方、貨物輸送は輸送力が大きくなるほど高速道路や航空輸送に対して有利であり現代に至るまで鉄道による貨物輸送は活発である<ref name="PHP122" />。<br />
<br />
=== ヨーロッパ ===<br />
[[フランス]]の[[TGV]]では郵便列車や小包列車などが運行されている<ref name="PHP124">{{Cite book |和書 |author=PHP研究所 |year=2013 |title=貨物列車のひみつ |page=124}}</ref>。ヨーロッパではユーロトンネル・シャトルなど自動車を積載した[[カートレイン]]も運行されている<ref name="PHP124" />。<br />
<br />
== 中国の貨物列車 ==<br />
中国では鉄道の貨物輸送の需要が急激に増大しており、[[2009年]]に貨物輸送量が2兆5239億1700万[[輸送量の単位|トンキロ]]に達し、米国を抜いて世界第一位の鉄道貨物輸送量となった<ref name="PHP125">{{Cite book |和書 |author=PHP研究所 |year=2013 |title=貨物列車のひみつ |page=125}}</ref>。米国とは異なり鉄道による旅客輸送量も増加しており、貨物列車による輸送力を強化できないことから旅客列車と貨物列車の鉄路を分ける貨客分離が進められている<ref name="PHP125" />。一部の炭鉱鉄道では蒸気機関車がけん引する石炭輸送列車が運行されている<ref name="PHP125" />。<br />
<br />
== 日本の貨物列車 ==<br />
[[ファイル:JR_Freight_EF65-1042.jpg|thumb|250px|right|日本のコンテナ貨物列車([[2006年]])]]<br />
[[ファイル:Model M250 of JR Freight.jpg|thumb|250px|right|M250系貨物電車]]<br />
=== 歴史 ===<br />
[[日本]]では[[1873年]][[9月15日]]に当時の[[汐留駅 (国鉄)|新橋駅]]と[[桜木町駅|横浜駅]]の間で初めて運転された。<br />
<br />
鉄道開業以来、貨物列車を[[操車場 (鉄道)|操車場]]で組替えながら貨車を継送し、各駅で貨車を解結するヤード輸送方式が主流であった。この方式は貨物到着までに日数を要しかつ不確定で、[[高速道路]]網や高規格の[[国道]]の整備によってトラックによる輸送時間が飛躍的に短縮されると、鉄道利用の場合に発生する貨物の積み替えが不要になることもあり[[高度経済成長#日本の高度経済成長|高度成長]]期以降、一気に衰退した。<br />
<br />
[[日本国有鉄道]](国鉄)は大きな赤字を生み出していた貨物輸送体系を抜本的に見直し、ヤード輸送方式は[[1984年]]2月1日に全廃された。以降は[[コンテナ]]貨車および[[石油]]・化成品・[[セメント]]類などの物資適合貨車(専用貨車)を主体とした拠点間直行輸送のみとなり、数多くの貨物取り扱い駅が廃止されて多くの専用線も使命を終えた。<br />
<br />
{{See also|1984年2月1日国鉄ダイヤ改正}}<br />
<br />
[[工業地帯]]が臨海部に集中し、鉄道規格も[[軌間]]が1067[[ミリメートル|mm]]の[[狭軌]]で、地形が入り組んでいるため曲線区間が多いなど、欧米に比べて制限が厳しく、貨物列車は他の輸送機関に対して競争力が低かった。<br />
<br />
モーダルシフトの取り組みの一環として、[[佐川急便]]は[[日本貨物鉄道|JR貨物]]と共同で[[JR貨物M250系電車|M250系貨物電車「スーパーレールカーゴ」]]を開発し[[東京貨物ターミナル駅|東京]] - [[安治川口駅|大阪]]間の深夜高速輸送を行っている。[[2010年]]代以降は、ドライバーの人手不足から貨物輸送をトラックから鉄道に切り替える動きが進んでおり、2017年にJR貨物が発足以来初となる鉄道事業の黒字化を達成している<ref>[https://www.nikkei.com/article/DGXKZO21056720T10C17A9TJ2000/ JR貨物、人手不足の順風 ビール4社の共同輸送開始] 日本経済新聞 2017年9月13日</ref>。<br />
<br />
2010年現在、日本で最長距離を走破する貨物列車は[[札幌市|札幌]] - [[福岡市|福岡]]間のコンテナ専用列車で、[[北海道]]の[[農産物]]などを積載して[[札幌貨物ターミナル駅]]を発ち、[[青函トンネル]]から[[本州]]に入り[[日本海縦貫線]]、[[東海道本線]]、[[山陽本線]]を経由して[[九州]][[福岡県]]の[[福岡貨物ターミナル駅]]までの2127.7kmを約40時間余りで走破する。<br />
<br />
=== 営業区間 ===<br />
日本では[[日本貨物鉄道]](JR貨物)が[[JR]]旅客鉄道(JR)各社、および[[整備新幹線]]開業による並行在来線を転換した[[第三セクター鉄道]]会社の保有する線路(路線)の多くを借受ける形で[[鉄道事業者|第二種鉄道事業者]]として営業している。これに接続するごく少数の[[私鉄]]([[秩父鉄道]]、[[三岐鉄道]]、[[西濃鉄道]]、工場地帯の[[臨海鉄道]]など)や[[専用鉄道]]が末端部の輸送を受け持っている。<br />
<br />
かつて鉄道は旅客と貨物をともに営業し、駅の貨物扱いも通常業務であった。中小私鉄はもとより、[[大手私鉄]]でも[[狭軌]]線で、明治・大正時代に未電化([[蒸気機関車]])で開業した歴史を有す[[東武鉄道]]、[[西武鉄道]]、[[名古屋鉄道]]、[[南海電気鉄道]]などの会社は、旅客列車の合間に貨物列車を多く運行した。戦後は中小私鉄の路線自体の廃止やトラックへの転移、前述の[[1984年]]の貨物列車の方式変更により、多くの会社で貨物列車が廃止・縮小された。大手私鉄で最後まで貨物営業した東武も[[2003年]]に貨物列車が全廃され、大手私鉄で自社関連の[[車両輸送]]以外の貨物列車を運行している会社は存在しない。<br />
<br />
== 混合列車 ==<br />
[[ファイル:Nemuro-Line 442train.jpg|thumb|250px|right|DD51形の牽引する、根室本線の混合列車。貨車は[[国鉄コキ10000形貨車|コキ10000形]](1984年1月)]]<br />
'''混合列車'''(こんごうれっしゃ)は1本の[[列車]]に[[客車]]と[[貨車]]の両方を連結する運行形態である。[[英語]]"[[:en:mixed train|'''Mixed''' train]]"より「'''ミキスト'''(または'''ミクスト''')」とも呼ばれる。<!--旅客輸送、貨物輸送という表現だと、電車による新聞輸送は混合列車となる?-->ローカル路線においては機関車の車両数や[[乗務員]]・[[駅員]]数に幹線のようなゆとりがないケースが多く、別個の列車により運行するより1本の列車にまとめた方が合理的な面がある。<br />
<br />
一方で貨車の[[入換 (鉄道)|入換]]作業に時間を要するため、途中駅での停車時間を多く確保する必要があり、その分速達性が損なわれ、貨車の両数により客車が[[プラットホーム|ホーム]]を外れ、客車の連結位置により機関車から熱源を供給する列車暖房が使用できなくなることもある。かつての客車の暖房は機関車から供給される[[蒸気]]を使用していたが、客車と機関車の間に引き通し用の蒸気管を持たない貨車が入ることで暖房用蒸気の供給ができなくなる。[[肥薩線]]などのように機関車の次位に客車を連結してその後に貨車を連結した例もあるが、この場合は入換作業が不便となる。北海道や東北では蒸気管が使えない場合、[[ダルマストーブ]]や[[ウェバスト]]式・[[五光製作所|五光]]式など独立式の暖房装置を用いていた。<br />
<br />
必ずしも客車列車によるものとは限らず、貨物が僅少な路線の場合、[[宮之城線]]や[[旭川電気軌道]]など一部ローカル私鉄のように[[電車]]や[[気動車]]が貨車を牽引した例もある。この場合は駅での入換は客を乗せたまま行うことになる。貨物が中心の鉄道では、[[福知山線]][[支線]]となり[[1981年]]に旅客営業が廃止された[[塚口駅 (JR西日本)|塚口駅]] - [[尼崎港駅]]間の通称[[尼崎港線]]など、貨物列車の最後尾にごく少数の客車を連結している例も見られた。<br />
<br />
日本の普通鉄道では[[1987年]]の[[三菱石炭鉱業大夕張鉄道線]]の廃止とともに消滅したが、その後に運転された「[[カートレイン]]」も客車と貨車を併結した形態の列車である。[[国鉄スニ40形客車|ワキ8000形]]のように貨客両用という車両も存在したが、この場合の「客」は[[荷物列車]]で乗客を乗せていない。2010年代以降は宅配業者との連携で一般列車に荷物を混載して運行する事例も増えている。<br />
<br />
{{Main|荷物列車#鉄道による新たな荷物輸送}}<br />
<br />
このほか、鋼索鉄道で[[近鉄西信貴鋼索線]]のコ7形が、貨物車であるコニ7形を連結可能で、[[立山黒部貫光立山ケーブルカー|立山ケーブルカー]]も貨車を連結して運転することがある。<br />
<br />
== 参考文献 ==<br />
* 小学館『コロタン文庫51 時刻表全百科』([[1980年]][[5月31日]]初版発行)<br />
<br />
== 脚注 ==<br />
<references /><br />
<br />
== 関連項目 ==<br />
* [[貨物線]]<br />
* [[臨海鉄道]]<br />
* [[専用鉄道]]<br />
* [[鉄道駅#一般駅|一般駅]]<br />
* [[貨物駅]]<br />
* [[操車場 (鉄道)]]<br />
* [[旅客列車]]<br />
* [[荷物列車]]<br />
* [[高速貨物列車]]<br />
* [[モーダルシフト]]<br />
* [[鉄道利用運送事業]](通運)<br />
* [[貨物時刻表]]<br />
* [[着発線荷役方式]](E&S方式)<br />
* [[コンテナ荷票]]<br />
* [[エコレールマーク]]<br />
* [[鉄道郵便]]<br />
* [[貨車]]<br />
* [[車掌車]]<br />
<br />
== 外部リンク ==<br />
{{Commonscat|Freight trains}}<br />
* [http://homepage1.nifty.com/yswww/index.html 日本の鉄道貨物輸送]<br />
<br />
{{公共交通}}<br />
<br />
{{DEFAULTSORT:かもつれつしや}}<br />
[[Category:列車|種かもつれっしゃ]]<br />
[[Category:鉄道貨物輸送]]</div>
113.36.250.10
東ティモール
2018-06-24T09:18:38Z
<p>113.36.250.10: 出典となるソース記事などの情報と見分けが付くように 注釈 を挿入し、脚注欄を改訂</p>
<hr />
<div>{{基礎情報 国<br />
| 略名 =東ティモール<br />
| 日本語国名 =東ティモール民主共和国<br />
| 公式国名 =<B lang="x-tetum">Republika Demokratika Timor Lorosa'e</B> <small>(テトゥン語)</small><br /><br />
'''{{Lang|pt|República Democrática de Timor-Leste}}''' <small>(ポルトガル語)</small><br />
| 国旗画像 =Flag of East Timor.svg<br />
| 国章画像 =[[ファイル:Coat of arms of East Timor.svg|100px|東ティモールの国章]]<br />
| 国章リンク =([[東ティモールの国章|国章]])<br />
| 標語 =''{{Lang|pt|Unidade, Acção, Progresso}}''<br />(ポルトガル語: 統一、行動、前進)<br />
| 位置画像 =Timor Leste (orthographic projection).svg<br />
| 公用語 =[[テトゥン語]]、[[ポルトガル語]]<br />
| 首都 =[[ディリ]]<ref name="chunichi2017524">{{Cite news <br />
| title = 東ティモール独立15年 経済自立 道遠く 若者の半数失業 ASEAN加盟熱望<br />
| newspaper = [[中日新聞]]<br />
| date = 2017-05-24<br />
| author = 清水健太郎<br />
| publisher = 中日新聞社<br />
| page = 夕刊 2<br />
}}</ref><br />
| 最大都市 =ディリ<br />
| 元首等肩書 =[[東ティモールの大統領|大統領]]<br />
| 元首等氏名 =[[フランシスコ・グテレス]]<br />
| 首相等肩書 =[[東ティモールの首相|首相]]<br />
| 首相等氏名 =[[タウル・マタン・ルアク]]<br />
| 面積順位 =154<br />
| 面積大きさ =1 E10<br />
| 面積値 =15,007<br />
| 水面積率 =極僅か<br />
| 人口統計年 =2008<br />
| 人口順位 =153<br />
| 人口大きさ =1 E6<br />
| 人口値 =1,133,000<br />
| 人口密度値 =68<br />
| GDP統計年元 =2013<br />
| GDP値元 =61億4,700万<ref name="imf201404">{{Cite web|url=http://www.imf.org/external/pubs/ft/weo/2014/01/weodata/weorept.aspx?sy=2012&ey=2014&scsm=1&ssd=1&sort=country&ds=.&br=1&c=537&s=NGDP%2CNGDPD%2CNGDPDPC%2CPPPGDP%2CPPPPC&grp=0&a=&pr.x=65&pr.y=9|title=World Economic Outlook Database, April 2014|publisher=[[国際通貨基金|IMF]]|language=英語|date=2014-04|accessdate=2014-10-04}}</ref><br />
| GDP統計年MER =2013<br />
| GDP順位MER =147<br />
| GDP値MER =61億4,700万<ref name="imf201404" /><br />
| GDP統計年 =2013<br />
| GDP順位 =118<br />
| GDP値 =258億<ref name="imf201404" /><br />
| GDP/人 =21,705<ref name="imf201404" /><br />
| 建国形態 =[[独立]]<br />&nbsp;- 宣言<br />&nbsp;- 主権回復(事実上の独立)<br />
| 建国年月日 =[[ポルトガル]]より<br />[[1975年]][[11月28日]]<br />[[インドネシア]]より<br />[[2002年]][[5月20日]]<ref name="chunichi2017524"/><br />
| 通貨 =[[アメリカ合衆国ドル]]<br />
| 通貨コード =USD<br />
| 時間帯 =(+9)<br />
| 夏時間 =なし<br />
| 国歌名 =故国<br />
| ISO 3166-1 = TL / TLS<br />
| ccTLD =[[.tl]]<br />
| 国際電話番号 =670<br />
| 注記 =註1: かつては.TP<br />
}}<br />
'''東ティモール民主共和国'''(ひがしティモールみんしゅきょうわこく)、通称'''東ティモール'''は、[[アジア]]([[東南アジア]])地域に位置する[[共和制]][[国家]]。[[1999年]][[8月30日]]に[[国際連合|国連]]の主導で独立についての[[住民投票]]を実施。<br />
[[インドネシア]]の占領から[[2002年]][[5月20日]]独立した<ref name="chunichi2017524"/>([[国際法]]上は[[ポルトガル]]より独立)。[[21世紀]]最初の独立国である。[[ポルトガル語諸国共同体]]加盟国。<br />
<br />
[[島国]]であり、[[小スンダ列島]]にある[[ティモール島]]の東半分と[[アタウロ島]]、[[ジャコ島]]、[[飛地]][[オエクシ=アンベノ|オエクシ]]で構成されている。南方には、[[ティモール海]]を挟んで[[オーストラリア]]があり、それ以外はインドネシア領[[東ヌサ・トゥンガラ州]]([[西ティモール]]を含む)である。<br />
<br />
== 国名 ==<br />
正式名称は、{{lang|x-tetum|Republika Demokratika Timor Lorosa'e}}(<small>[[テトゥン語]]:</small> レプブリカ・デモクラティカ・ティモール・ロロサエ)、{{lang|pt|República Democrática de Timor-Leste}}(<small>[[ポルトガル語]]:</small>レプーブリカ・デモクラーティカ・ド・ティモール・レスト)。略称は、{{lang|x-tetum|Timor Lorosa'e}}(<small>テトゥン語</small>)、{{lang|en|Timor-Leste}} (<small>ポルトガル語</small>)。<br />
<br />
公式の[[英語]]表記は、{{lang|en|Democratic Republic of Timor-Leste}}、略称は、{{lang|en|East Timor}}。<br />
<br />
[[日本語]]の表記は、'''東ティモール民主共和国'''。通称、'''東ティモール'''。ティモールの部分は、'''チモール'''とも表記される(近年では“ティモール”の表記が一般的である)。ちなみに、現地の発音は、「ティ」と「チ」の中間音。<br />
<br />
国名は、「ティモール島の東部」という意味である。「ティムール (timur)」は、[[マレー語]]・[[インドネシア語]]で「東」を意味する。テトゥン語の「ロロ」は「太陽」、「サエ」は「出る」、「ロロサエ」は「日の出」またはその方角(すなわち「東」)を意味する。ポルトガル語の「レステ」も「東」を意味する。<br />
<br />
== 歴史 ==<br />
{{main|{{仮リンク|東ティモールの歴史 (東ティモール民主共和国)|en|History of East Timor|label=東ティモールの歴史}}}}<br />
<br />
=== 成立 ===<br />
ポルトガルの植民地になるはるか昔、紀元前2000年ごろパプア系語族が島の東部へ移住していき、ずっと時代が下って紀元10世紀ごろ[[オーストロネシア語族]]が流入してきた、と伝えられている。さらに紀元前3000年ごろと同2000年頃の二度に渡って、インド=マレー系エスニックグループが移住してきたとの説もある。<ref>山崎功「白檀をめぐるティモールのおいたち」/山田満編著『東ティモールを知るための50章』明石書店 2006年 16ページ</ref>。<br />
<br />
=== ポルトガル植民地 ===<br />
{{main|ポルトガル領ティモール}}<br />
[[ファイル:Lesser coat of arms of Portuguese Timor.svg|thumb|left|100px|[[ポルトガル領ティモール]]の国章]]<br />
ティモール島は[[16世紀]]に[[ポルトガル]]によって[[植民地]]化された。その後[[オランダ]]が進出し、一時はポルトガルがこれを撃退したが、[[1859年]]に[[西ティモール]]を[[オランダ]]領として割譲し、ティモール島は東西に分割された({{仮リンク|リスボン条約 (1859年)|de|Vertrag von Lissabon (1859)|label=リスボン条約}})。[[1904年]]に[[ポルトガル=オランダ条約]](1908年批准)で国境を直線的分断し、[[1913年]]<ref name="Schwartz199"> Schwartz (1994), p. 199.</ref>(または[[1914年]]<ref>Deeley, Furness, and Schofield (2001) ''The International Boundaries of East Timor'' p. 8</ref>)に確定した。<br />
<br />
1911年から翌年にかけて収奪の厳しさに耐えかねてリウライ(マヌファヒ小国王)のドン・ドンボアベントゥラが反乱を起こした。戦死者3424人、負傷者1万2567人を出した。さらに、1959年にピケケ県知事誘拐・蜂起事件が亡命インドネシア人と東ティモール人らによって引き起こされた。150人の死者が出たとの説もある。<ref>山崎功「近代ナショナリズムと「植民地」支配」/山田満編著『東ティモールを知るための50章』明石書店 2006年 20-22ページ</ref><br />
<br />
ポルトガルが中立を守った[[第二次世界大戦]]時には、当初はオランダ軍と[[オーストラリア軍]]が保護占領し、{{仮リンク|ティモール島の戦い|en|Battle of Timor}}の後[[オランダ領東インド]]地域と合わせて[[日本軍]]が占領したが、[[日本]]の敗戦により[[オーストラリア]]軍の進駐を経てポルトガル総督府の支配が復活し、[[1949年]]に[[インドネシア]]の一部として西ティモールの独立が確定した後もポルトガルによる支配が継続した。これに対し、人口の中で圧倒的多数を占める地元住民は独立志向を強めたが、[[アントニオ・サラザール]]首相などの「[[エスタド・ノヴォ]]体制」により抑圧された。<br />
<br />
[[1974年]]にポルトガルで左派を中心とした[[カーネーション革命]]が起こり、植民地の維持を強く主張した従来の保守独裁体制が崩壊すると、東ティモールでも独立への動きが加速し、反植民地主義のティモール社会民主協会(ASDT、9月に[[東ティモール独立革命戦線]]FRETILIN(フレティリン)と改称)が即時完全独立を要求<ref group="注釈">若い活動家を中心に識字教室や保健プログラムを村落ごとに実施、自主独立の精神を高揚させた。</ref>、ポルトガルとの関係維持のティモール民主同盟 (UDT)<ref group="注釈">植民地政庁の役人やポルトガル人教会の支持を得て保守層を代弁した。</ref>、インドネシアとの統合を主張するアポデディ<ref group="注釈">インドネシアの支援を受けて武装化した。</ref>の三つが政党として旗揚げした<ref>松野明久「ポルトガルでもインドネシアでもなく」/山田満編著『東ティモールを知るための50章』明石書店 2006年 35-38ページ</ref>。この動きは、東ティモールの領有権を主張し、[[反共主義]]を国是とするインドネシアの[[スハルト]]政権にとっては容認できず、反フレティリンの右派勢力を通じた介入を強化した。<br />
<br />
=== インドネシアによる占領 ===<br />
{{main|{{仮リンク|インドネシア占領下の東ティモール|en|Indonesian occupation of East Timor}}}}<br />
[[ファイル:East Timor Demo.jpg|thumb|right|インドネシアからの独立デモ]]<br />
[[1975年]]11月28日、右派勢力と連携したインドネシア軍が西ティモールから侵攻を開始する中、フレティリンが首都ディリで'''東ティモール民主共和国'''の独立宣言を行う。11月29日、インドネシア軍が東ティモール全土を制圧し、併合を承認する「バリボ宣言」(国連はこれを認めず)。12月7日、東ティモールに対する全面侵攻「スロジャ作戦」を開始。12月12日、[[国連安全保障理事会総会]]が、インドネシアの即時撤退を求める決議可決。[[1976年]]、インドネシアが27番目の州として併合宣言を行った。[[国連総会]]ではこの侵攻と占領を非難する決議が直ちに採択されたが、[[日本|日]]・[[ヨーロッパ|欧]]・[[アメリカ合衆国|米]]・[[オーストラリア|豪]]など西側の有力諸国は反共の立場をとるインドネシアとの関係を重視し、併合を事実上黙認した。<br />
<br />
[[1977年]] インドネシア軍が包囲殲滅作戦を展開。スハルト政権は東ティモールの抵抗に対し激しい弾圧を加えたため、特に占領直後から1980年代までに多くの人々が殺戮や飢餓により命を落とした。インドネシア占領下で命を失った東ティモール人は20万人にのぼると言われている。1991年、平和的なデモ隊にインドネシア軍が無差別発砲し、400人近くを殺した[[サンタクルス事件]]は、住民の大量殺戮事件として世界的に知られることになった。また、官吏や教員などを派遣して徹底した「インドネシア化」も推進した。フレティリンの軍事部門であるファリンテルは民族抵抗革命評議会 (CRRN) の主要メンバーとなり、[[シャナナ・グスマン]]が議長になったが、インドネシア政府はグスマンを逮捕し、抵抗運動を抑え込んだ。[[1996年]]12月、[[ノーベル平和賞]]が現地カトリック教会の[[ベロ司教]]及び独立運動家の[[ジョゼ・ラモス=オルタ]]に贈られた。<br />
<br />
[[1998年]]にインドネシアでの民主化運動でスハルト政権が崩壊すると、後任の[[ユスフ・ハビビ|ハビビ]]大統領は東ティモールに関し特別自治権の付与を問う住民投票を実施する事で旧宗主国のポルトガルと同意した。<br />
<br />
=== 国連の暫定統治と独立後の平和構築活動 ===<br />
{{main|{{仮リンク|東ティモールの国連の暫定統治|en|United Nations Transitional Administration in East Timor}}}}<br />
1999年5月、インドネシア、ポルトガルと国連、東ティモールの住民投票実施の枠組みに関する合意文書に調印(ニューヨーク合意)。6月、[[国際連合東ティモール・ミッション]](UNAMET)が派遣される。8月30日、独立に関する住民投票が行われた(投票率98.6%)。9月4日に発表された投票結果では、自治拒否78.5%で、特別自治権提案が拒否された事で独立が事実上決定。9月7日、インドネシア治安当局は、東ティモールに非常事態宣言を発令し国軍5,500人を増兵しインドネシア併合維持派の武装勢力(民兵)を使って破壊と虐殺を行う。9月12日、インドネシアが、国連平和維持軍の受け入れを容認し、[[オーストラリア軍]]を主力とする[[多国籍軍]]([[東ティモール国際軍]],INTERFET)が派遣された([[東ティモール紛争]])。その結果、暴力行為は収拾したが、多くの難民が西ティモールに逃れ、あるいは強制的に連れ去られたりした。10月には、[[国際連合東ティモール暫定行政機構]] (UNTAET) が設立、2002年の独立まで率いた。<br />
<br />
その後の制憲議会選挙ではフレティリンが圧勝し、大統領には[[シャナナ・グスマン]]、首相には[[マリ・アルカティリ]]が選出され、[[2002年]][[5月20日]]に独立式典を行った。独立後、国連は[[国際連合東ティモール支援団]] (UNMISET) を設立、独立後の国造りの支援を行った。この中で、日本の[[自衛隊]]も[[国連平和維持活動]] (PKO) として[[自衛隊海外派遣|派遣]]され、国連と協力して活動を行った。2005年には、国連の平和構築ミッション、UNOTIL(国連東ティモール事務所)が設立された。<br />
<br />
=== 独立後の混乱 ===<br />
{{main|{{仮リンク|2008年の東ティモール暗殺未遂事件|en|2008 East Timorese assassination attempts}}}}<br />
[[2006年]]4月に西部出身の軍人約600人が昇級や給料で東部出身者との間で差別があるとして待遇改善と差別の廃止を求め抗議し、[[ストライキ]]を起こしたが、政府はストライキ参加者全員を解雇した(国軍は2000人ほどしかいない)。これを不服とした参加者側が5月下旬に蜂起、国軍との間で戦闘が勃発した。ところが、鎮圧に赴いた警察や国軍の一部がスト参加者に同調して反旗を翻し、警察署を襲撃して死者が出たため、怯えた警察官が職務放棄。また若者を中心に暴徒化してディリは混乱した。治安維持が不可能となった政府は[[5月24日]]にオーストラリア・[[マレーシア]]・[[ニュージーランド]]・[[ポルトガル]]に治安維持軍の派遣を要請し、翌日には東ティモールへの利権を確保することを意図したオーストラリア軍が早速展開し、その後4カ国による治安維持が行われた。<br />
<br />
この背景として東部住民と西部住民の軋轢や、若者の失業率の高さが挙げられている。また、アルカティリ首相の独善的姿勢や国連の活動終了が早すぎた可能性も指摘されている。<br />
<br />
オーストラリア軍は反乱軍を指揮する少佐と接触し、少佐の武装解除命令によって6月半ばに蜂起は終結したが、暴徒の方は反政府デモとなり、グスマン大統領の忠告によって、アルカティリ首相は辞任に追い込まれた。ディリは半ば戦場と化し、住民のほとんどは難民となって郊外へ脱出した。治安維持軍によって年内に暴動は鎮圧されたが、オーストラリア政府の支援による[[警察]]の再建など、治安の回復には時間がかかると思われる。<br />
<br />
暴動を受け、同年8月には[[国際連合東ティモール統合ミッション]] (UN Integrated Mission in Timor-Leste:UNMIT) が設立。平和構築ミッションから、再び、平和維持活動へと逆戻りした。<br />
<br />
[[2007年]][[1月13日]]、[[フランス]]と共に[[東南アジア友好協力条約]] (TAC) に締結した。この条約は[[東南アジア諸国連合]](ASEAN)加盟と[[東アジアサミット]]参加への条件とされており、締結国間の主権尊重と内政不干渉、紛争の平和的解決を謳うものである。東ティモールは2007年内のASEAN加盟を目指していたが、国内事情の混乱もあって実現しなかった。その後、2011年にASEAN加盟を申請して、2017年時点でも交渉中である<ref>{{Cite news|url=http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/easttimor/data.html#section3|title=東ティモール民主共和国 基礎データ|work=|publisher=日本国外務省ホームページ|accessdate=2017-8-2}}</ref>。<br />
<br />
[[2007年]][[8月8日]]、与党フレティリンが下野し、グスマン連立政権発足の前後より、フレティリンの熱狂的な支持者が暴徒化し、首都ディリなどで民家などへの放火や投石が多発している。また、8月10日には、東部のバウカウ県では、幸い負傷者はなかったが、国連平和維持活動に携わる[[国際連合|国連]]警察の車列が、発砲を受け車両1台が燃やされた。ビケケ県では子供1人が暴動に巻き込まれ死亡。数日の間に100名以上の逮捕者が出た。バウカウ・ビケケ両県は、フレティリン支持者が多い。8月12日には、国連警察、東ティモール警察、多国籍治安部隊(主に豪軍)、東ティモール国軍により暴動は沈静化した。<br />
<br />
[[2008年]][[2月11日]]、ラモス=オルタ大統領やグスマン首相が2006年の国軍反乱以降に反政府勢力となった{{仮リンク|アルフレド・レイナド|en|Alfredo Reinado}}少佐指揮の武装集団に襲撃された。この際にレイナドは死亡し、ラモス=オルタは重傷を負ったがオーストラリアの病院での治療により一命を取り留めた。ラモス=オルタ大統領は4月17日に職務に復帰し、襲撃事件に伴う非常事態令も5月8日に解除された。国連によるUNMITは[[2009年]]も延長されたが、同年3月には国家警察への権限移譲が開始され、混乱は徐々に収束しつつある<ref name="mofadata">{{Cite web|url=http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/easttimor/data.html|title=東ティモール民主共和国基礎データ|publisher=外務省|date=2013-10-28|accessdate=2014-10-12}}</ref>。<br />
<br />
この一連の独立に至る記録が、2013年に[[ユネスコ記憶遺産]]に登録された<ref>[http://www.unesco.org/new/en/communication-and-information/flagship-project-activities/memory-of-the-world/register/full-list-of-registered-heritage/registered-heritage-page-6/on-the-birth-of-a-nation-turning-points/ UNESCO Memory of the World Archives]</ref>。<br />
<br />
== 政治 ==<br />
[[ファイル:Gouverneurspalast klein 2002.jpg|200px|left|thumb|国会議事堂]]<br />
<!-- ''詳細は[[東ティモールの政治]]を参照'' --><br />
国家[[元首]]の[[大統領]]は、主として象徴的な役割を果たすにすぎないが、立法に対する拒否権をもつ。国民の選挙によって選ばれ、任期は5年。行政府の長である[[首相]]は、議会での選出後、大統領が任命する。現在は第3代大統領の[[タウル・マタン・ルアク]]が1期目を務めている。<br />
<br />
立法府は、[[一院制]]の[[国民議会 (東ティモール)|国民議会]]で、定数は、52以上65以下の範囲で法律によって定められる。現在は65。<br />
<br />
ただし、第1期のみは特例として88議席。議員は、国民の選挙によって選出され、任期は5年。2007年6月30日に行われた選挙では、東ティモール独立革命戦線(フレティリン)が21議席、東ティモール再建国民会議 (CNRT) が18議席、ティモール社会民主連合と社会民主党の統一連合が11議席、民主党が8議席、他に3つの政党・統一連合が計7議席を獲得し、東ティモール再建国民会議を中心とする反フレティリン連立政権樹立が合意された。[[東ティモールの政党]]も参照のこと。<br />
<br />
独立後のフレティリンは左派色を薄め、資本主義国との関係を重視している。独立直後の2002年7月には[[ポルトガル語諸国共同体]]に加盟している。また、インドネシアとの外交関係の安定も志向し、[[東南アジア諸国連合]] (ASEAN) へのオブザーバー資格獲得や正式加盟も模索しているが、独立戦争以来の諸問題の解決が多く残り、経済的な格差も大きいため、まだ正式な加盟交渉には至っていない。<br />
<br />
2006年6月23日、シャナナ・グスマン大統領から辞任を求められていたアルカティリ首相が辞任を表明した。26日、アルカティリ首相は、グスマン大統領に正式に辞表を提出、受理された。首相が首都ディリ市内の公邸で辞任表明を読み上げると、市民は歓迎し、騒乱の収拾・事態正常化への期待を高めた。7月8日、グスマン大統領は、前首相の後任に[[ノーベル平和賞]]受賞者の[[ジョゼ・ラモス=オルタ]]前外相兼国防相を任命した。前首相の与党のフレティリンが推したダ・シルバ農相を第一副首相に、デ・アラウジョ保健相を第二副首相に起用する。<br />
<br />
2006年7月14日、オルタ内閣の就任宣誓式が、首都ディリで行われ、同内閣が正式に発足した。14閣僚のうち6人が新任で、残りの6人は前内閣からの再任である。国防相は、オルタ首相自身が務める。オルタ首相の任期は来年5月の総選挙まで。オルタ首相は施政方針演説で、アジアの最貧国である東ティモールの経済をインフラ建設などを通じ底上げし、復興を目指すと表明した。<br />
<br />
[[2007年]][[4月9日]]、[[2007年東ティモール大統領選挙|東ティモール大統領選挙]]が行われた。これは、2002年独立以後初めての国政選挙となった。登録有権者数は約52万人。独立運動指導者で[[ノーベル平和賞]]受賞者の[[ラモス・オルタ]]首相(シャナナ・グスマン大統領(当時)に支持されている)、旧与党・[[東ティモール独立革命戦線]](フレティリン)のフランシスコ・グテレス(通称ル・オロ)国会議長、野党・民主党のフェルナンド・ラマサ党首ら8人が立候補したが、[[4月18日]]、選挙管理委員会は過半数を得た候補がいなかったとして、1位のグテレスと2位のオルタ両候補による決選投票を実施すると発表した。得票率はそれぞれ27.89%、21.81%で、投票率は81.79%だった。[[5月9日]]、決選投票が行われ、即日開票作業が行われた。そして、ラモス・オルタが制し、[[5月20日]]に第2代大統領に就任した。<br />
<br />
[[2007年]][[6月30日]]に行われた[[2007年東ティモール国民議会選挙|議会選挙]]では、グスマン党首率いる[[東ティモール再建国民会議]] (CNRT) が18議席を獲得し、議会第2党に躍進。[[東ティモール独立革命戦線]]は、かろうじて第1党であったが、65議席中21議席と大幅に議席を減らした。これは前大統領シャナナ・グスマンがCNRTを結成して選挙に挑んだからにほかならない。ラモス・オルタ大統領は、与野党による挙国一致内閣を目指したが、フレティリンの[[マリ・アルカティリ]]書記長は、これに異を唱えた。一旦はその考えを受け入れたが、CNRT率いる野党連合とフレティリンは、何週間も論争を繰り返したが合意には至らなかった。これにより、ラモス・オルタ大統領は、反フレティリン野党連合(37議席)による連立政権を組閣することを決断。8月6日にグスマン党首を首相に指名し組閣を指示、8月8日にグスマンは首相に就任した。これに対して、首相は第1党から出すと定めた東ティモールの憲法に違反するとして、アルカティリが法的手段で闘うと述べ、首相就任宣誓式出席をボイコット、フレティリンはラモス・オルタ大統領の決定を非難した。そのうえ、議長もフレティリンではなく、連立を組んだ民主党のアラウジョ党首が就任した。しかし、連立政権は反フレティリンで一致しているだけで、初代大統領として国の混乱を招いた責任は免れないというグスマンへの個人批判を述べるものもいるという側面もある。連立政権はCNRT、社会民主党、民主党等4党。副首相にグテレス。外相に社会民主党幹部のダコスタ。なお、グテレスはフレティリン反主流派。議会選挙では「フレティリン改革派」を組織し、CNRT支援に回った。<br />
<br />
== 地方行政 ==<br />
[[ファイル:2015 East Timor, administrative divisions - de - monochrom.tif|500px|thumb|[[東ティモールの行政区画]]]]<br />
[[ファイル:East Timor map mhn.jpg|thumb|300px|[[ティモール島]]の地図]]<br />
{{main|東ティモールの行政区画}}<br />
<br />
全13県。国土の北部沿岸を中心とする'''ディリ地方'''、島の東端部の'''バウカウ地方'''、国土の中央部の'''サメ地方'''、インドネシアとの境界線付近の'''マリアナ地方'''、飛び地である'''[[オエクシ=アンベノ|オエクシ]]地方'''に大きくグループ分けされる。<br />
; ディリ地方<br />
: [[ディリ県]] - ([[ディリ]])<br />
: [[マナトゥト県]] - ({{仮リンク|マナトゥト|en|Manatuto}})<br />
: [[リキシャ県]] - ({{仮リンク|リキシャ (東ティモール)|en|Liquiçá|label=リキシャ}})<br />
; バウカウ地方<br />
: [[バウカウ県]] - ({{仮リンク|バウカウ|en|Baucau}})<br />
: [[ヴィケケ県]] - ({{仮リンク|ヴィケケ|en|Viqueque}})<br />
: [[ラウテン県]] - ([[ロスパロス]])<br />
; サメ地方<br />
: [[アイナロ県]] - ({{仮リンク|アイナロ|en|Ainaro}})<br />
: [[アイレウ県]] - ({{仮リンク|アイレウ|en|Aileu}})<br />
: [[マヌファヒ県]] - ({{仮リンク|サメ (東ティモール)|en|Same (East Timor)|label=サメ}})<br />
; マリアナ地方<br />
: [[エルメラ県]] - ({{仮リンク|グレノ|en|Gleno}})<br />
: [[コバリマ県]] - ({{仮リンク|スアイ|en|Suai}})<br />
: [[ボボナロ県]] - ([[マリアナ (東ティモール)|マリアナ]])<br />
; オエクシ地方<br />
: [[オエクシ県]] - ({{仮リンク|パンテ・マカッサル|en|Pante Macassar}}) [[飛び地]]<br />
<br />
== 地理と自然 ==<br />
{{Main|ティモール島}}<br />
東ティモールは[[環太平洋火山帯]](環太平洋造山帯)の一部で[[小スンダ列島]]に属する[[ティモール島]]の東部に位置しており、全土の約6割は山岳地帯となっている。最高峰は2,963mの[[タタマイラウ山]](ラメラウ山)。高温多湿の熱帯性気候下だが、[[乾季]]と[[雨季]]の区別がある。動植物の[[固有種]]が多数存在し、北部海岸には[[サンゴ礁]]が発達している。<br />
<br />
==対外関係と軍事==<br />
{{main|{{仮リンク|東ティモールの国際関係|en|Foreign relations of East Timor}}|{{仮リンク|東ティモール国防軍|en|Timor Leste Defence Force}}}}<br />
独立して日が浅い小国であるため、隣国インドネシアをはじめとする東南アジア諸国、オーストラリアのほか、この地域に大きな影響力を持つ日本、[[中華人民共和国|中国]]、[[アメリカ合衆国]]との良好な関係を築き、国家としての存立と発展を目指している。ASEAN加盟は2017年時点で実現していないが、アラウジョ首相は「我々は準備ができている」「ポルトガル語諸国共同体の議長国として多くの国際会議を主催した」として、早期加盟を目指す方針を示している<ref>{{Cite news|url=https://mainichi.jp/articles/20170802/k00/00m/030/084000c|title=東ティモール首相 ASEAN早期加盟に意欲|work=|publisher=[[毎日新聞]]ニュース|date=2017年8月1日}}</ref>。<br />
<br />
独立直後は日本からの[[政府開発援助]](ODA)が大きな役割を果たしたが、近年は中国が経済支援や[[インフラストラクチャー|インフラ整備]]で急速に存在感を増している<ref>{{Cite news|url=https://mainichi.jp/articles/20170802/k00/00m/030/086000c|title=東ティモール 中国の存在感高まる…首都に人・モノ・金|work=|publisher=[[毎日新聞]]ニュース|date=2017年8月1日}}</ref>。対中接近の背景には、経済を支えるティモール海の既存[[油田]]が数年内に枯渇するとの危機感がある。2016年には[[中国海軍]]艦艇が初めて首都ディリに寄港した<ref>{{Cite news|url=http://www.nikkei.com/article/DGKKZO2027420023082017FF1000/|title=東ティモール独立15年 豪州と溝、中国が存在感 石油枯渇にらみ投資期待|work=|publisher=『[[日本経済新聞]]』朝刊|date=2017年8月23日}}</ref>。<br />
<br />
オーストラリアとは後述のように、ティモール海の資源権益を巡る紛争を抱える。<br />
<br />
2001年に{{仮リンク|東ティモール国防軍|en|Timor Leste Defence Force}}を創設しており、[[陸軍]](兵力1250人)と[[海軍]](兵力80人)を保有する<ref>{{Cite news|url=http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/easttimor/data.html#section3|title=東ティモール民主共和国 基礎データ|work=|publisher=日本国外務省ホームページ|accessdate=2017-8-2}}</ref>。<br />
<br />
== 経済 ==<br />
<!-- ''詳細は[[東ティモールの経済]]を参照'' --><br />
[[ファイル:Dili and Atauro Island.jpg|thumb|left|首都[[ディリ]]]]<br />
[[ファイル:Timor Lorosa'e centavo coin -2.JPG|thumb|補助通貨のセンタボ]]<br />
[[通貨]]に関しては[[アメリカ合衆国ドル|アメリカドル]]による{{仮リンク|通貨代替|en|Currency substitution}}(ドラリゼーション)が行われているが、[[通貨の補助単位|補助通貨]]として[[東ティモール・センターボ|センタボ]]という単位の[[硬貨]]が流通している。<br />
<br />
[[国際通貨基金|IMF]]によると、[[2013年]]の[[GDP]]は61億ドル。一人当たりのGDPは5,177ドルで[[インドネシア]]の1.5倍ほどであり、東南アジアでは[[タイ王国|タイ]]に次ぐ水準である。<ref name="imf201404" /> [[2011年]]に[[アジア開発銀行]]が公表した資料によると、1日2ドル未満で暮らす[[貧困層]]は77万人と推定されており、国民の過半数を占めている<ref>[http://www.adb.org/sites/default/files/pub/2011/Economics-WP267.pdf アジア開発銀行 Poverty in Asia and the Pacific: An Update] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20150318083921/http://adb.org/sites/default/files/pub/2011/Economics-WP267.pdf |date=2015年3月18日 }}</ref>。[[国際連合]]による基準に基づき、[[後発開発途上国]]に分類されている<ref>[http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/ohrlls/ldc_teigi.html 外務省 後発開発途上国]</ref>。<br />
<br />
[[ファイル:East Timor Export Treemap 2010.png|thumb|色と面積で示した東ティモールの輸出品目(2010年)]]<br />
ポルトガル領時代は、[[アンゴラ]]や[[モザンビーク]]等の他の植民地同様、工業化が全く進まず、自給自足的な農業に依存した貧困状態だった。インドネシアによる統治が始まると社会資本の整備が緩やかに進んだが、[[1999年]]の住民投票で独立支持派が勝利するとインドネシア併合維持派の民兵が首都[[ディリ]]を破壊し、経済は壊滅状態に陥った。しかし、[[2006年]]の混乱後は経済成長が始まり、[[2007年]]から2011年にかけては平均12.1%にも達する高いGDP成長率を記録した<ref name="mofadata" />。一方で、このGDPの伸びの大半は[[石油]]収入によるものであり、経済の多角化を図ることが目標とされている<ref name="mofadata" /><ref name="imf20110308">{{Cite web|url=http://www.imf.org/external/np/sec/pn/2011/pn1131.htm|title=IMF Executive Board Concludes 2010 Article IV Consultation with the Democratic Republic of Timor-Leste|publisher=[[国際通貨基金|IMF]]|language=英語|date=2011-03-08|accessdate=2014-10-12}}</ref>。<br />
<br />
石油・[[天然ガス]]による収入は2011年時点で実にGDPの8割に達しており<ref name="mofadata" />、IMFは東ティモールの経済を「世界で最も石油収入に依存した経済」と評している<ref name="imf20110308" />。石油以外の主要産業は農業で、米やトウモロコシ、[[コーヒー豆]]などが生産されている<ref name="mofadata" />。コーヒーは[[フェアトレード]]商品として人気がある。かつての独立闘争の影響が残り、米やトウモロコシの主食は近隣諸国からの輸入に依存している。<br />
<br />
[[ファイル:Timor Gap map.PNG|thumb|300px|ティモール・ギャップ。赤色の海域が東ティモールの領域、黄色の海域がオーストラリアの領域、ピンク色の海域が共有領域である。]]<br />
<br />
石油は南方のティモール海の海底[[油田]]より産出されている。隣国で、東ティモールへの影響力を獲得しようとしているオーストラリアとの境界線確定が課題だが、東ティモール側はインドネシア政府が結んだ境界線の見直しを求め、交渉は難航している。しかし、確定とは別に両国共同石油開発エリア (JPDA:{{lang|en|Joint Petroleum Development Area}}) を定め ([[:en:Timor Gap Treaty|Timor Gap Treaty]], [[:en:Sunrise International Unitization Agreement|Sunrise International Unitization Agreement]], [[:en:Timor Sea Treaty|Timor Sea Treaty]])、収入の90%を東ティモールに、10%をオーストラリアに渡すこととなった。2007年からは原油採掘に伴う税収や[[ロイヤルティー]]収入が計上され ([[:en:Treaty on Certain Maritime Arrangements in the Timor Sea|Treaty on Certain Maritime Arrangements in the Timor Sea]])、その収入を集約するために東ティモール政府が設立した「石油基金」(2010年末時点で約69億ドル<ref>http://www.laohamutuk.org/Oil/PetFund/Reports/PFQR10q4en.pdf</ref>)を利用した国家予算が計上できるようになっている。最初の事業はグレーターサンライズ・ガス田開発である。<br />
<br />
また、2009年3月にはグスマン首相が日本を訪問し、日本の[[麻生太郎]]首相との間で「日本と東ティモールとの間の共同プレスステートメント」を発表した。その中で日本は無償資金援助を東ティモールに対して行い、東ティモールの円滑なASEAN加盟を支援する事を表明した<ref name=mofa20090422></ref>。<br />
<br />
== 国民 ==<br />
<!-- ''詳細は[[東ティモールの人口統計]]を参照'' --><br />
=== 民族 ===<br />
住民は[[メラネシア人]]が大部分である。その他[[華僑]]([[客家]])、[[印僑]]([[インド系移民]])、[[メスティーソ|ハーフカスト]]([[ポルトガル人]]とメラネシア人の[[混血]])、ごく少数の[[カーボベルデ]]などアフリカ系の移民などが存在する。<br />
[[ファイル:Sprachen Osttimors-en.png|thumb|250px|東ティモールの言語分布]]<br />
<br />
=== 言語 ===<br />
{{Main|東ティモールの言語状況}}<br />
言語は[[テトゥン語]]と[[ポルトガル語]]が[[公用語]]である<ref>法律の正文はポルトガル語で、一部がテトゥン語に翻訳されている</ref>。現在は、{{仮リンク|マカサエ語|en|Makasae language}}や{{仮リンク|ファタルク語|en|Fataluku language}}などの[[パプア諸語]]([[トランス・ニューギニア語族|トランスニューギニア語族]])とテトゥン語や{{仮リンク|マンバイ語|en|Mambai}}などの[[オーストロネシア語族]]が中心に話されている<ref>山崎功「白檀をめぐるティモールのおいたち」/山田満編著『東ティモールを知るための50章』明石書店 2006年 16ページ</ref>。<br />
その他、インドネシア統治期に教育を受けた30-40歳代を中心に[[インドネシア語]]が使われている。現在は世代間で使用できる言語が異なっている事が問題となっている<ref name=mofa20090422>外務省広報資料 わかる!国際情勢 vol.36 21世紀初の独立国、東ティモールの現状と課題[http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/easttimor/data.html]</ref>。東ティモールは独立時の2002年から[[ポルトガル語諸国共同体]]CPLP)に加盟している。<br />
<br />
=== 宗教 ===<br />
[[ファイル:キリスト像.JPG|thumb|ディリ郊外ファツカマ岬のキリスト像]]<br />
{{Main|東ティモールの宗教}}<br />
[[キリスト教]]の信徒が国民の99.1%を占めており、アジアでは[[フィリピン]]と並びキリスト教信仰が盛んな国である。キリスト教徒の大半は[[カトリック教会|ローマ・カトリック]]に属し、それ以外は[[プロテスタント]]諸派に属している。キリスト教以外の宗教の信徒の構成比は、[[イスラム教]]が0.7%、その他[[ヒンドゥー教]]、[[仏教]]、[[アニミズム]]などとなっている。インドネシア統治時代の1992年推計ではイスラム教徒が人口の4%を占めていたとされるが、独立によりインドネシア政府の公務員などが東ティモールから退去し、イスラム教徒の比率は大幅に低下した。一方、独立運動を精神面で支え続けたカトリック教会への信頼は高まった。<br />
<br />
== 文化 ==<br />
[[ファイル:Man in traditional dress, East Timor.jpg|thumb|180px|伝統的な衣装に身を包んだ東ティモールの男性]]<br />
{{Main|東ティモールの文化}}<br />
<br />
=== 音楽 ===<br />
{{Main|東ティモールの音楽}}<br />
{{節スタブ}}<br />
<br />
=== 祝祭日 ===<br />
{| class="wikitable"<br />
|+<br />
!日付!!日本語表記!!現地語表記!!備考<br />
|-<br />
|[[1月1日]]<br />
|[[元日]]<br />
|&nbsp;<br />
|&nbsp;<br />
|-<br />
|3月〜4月<br />
|聖金曜日<br />
|&nbsp;<br />
|''イースター前の金曜日''<br />
|-<br />
|3月〜4月<br />
|[[イースター]]<br />
|&nbsp;<br />
|''移動祝日''<br />
|-<br />
|[[5月20日]]<br />
|[[独立記念日]]<br />
|&nbsp;<br />
|2002年<br />
|-<br />
|[[8月15日]]<br />
|聖母被昇天祭<br />
|&nbsp;<br />
|&nbsp;<br />
|-<br />
|[[8月30日]]<br />
|住民投票記念日<br />
|&nbsp;<br />
|[[1999年]]<br />
|-<br />
|[[9月20日]]<br />
|解放記念日<br />
|&nbsp;<br />
|1999年のINTERFET(国連平和維持活動隊)による解放を記念<br />
|-<br />
|[[11月1日]]<br />
|[[諸聖人の日]]<br />
|&nbsp;<br />
|&nbsp;<br />
|-<br />
|[[11月12日]]<br />
|サンタクルス記念日<br />
|&nbsp;<br />
|[[サンタクルス事件]]の日<br />
|-<br />
|[[12月8日]]<br />
|[[無原罪の御宿り]]<br />
|&nbsp;<br />
|&nbsp;<br />
|-<br />
|[[12月25日]]<br />
|[[クリスマス]]<br />
|&nbsp;<br />
|&nbsp;<br />
|}<br />
<br />
== スポーツ ==<br />
ポルトガルやインドネシアの統治を受けた歴史的経緯から、[[サッカー]]が盛んである。[[国際サッカー連盟]](FIFA)は東ティモール国内に1万5500人のサッカー選手がおり(うち登録選手は500人)、10の国内クラブが存在するとしている<ref name=FIFAinfo>FIFA.com内の東ティモール基本情報(英語、2009年12月13日閲覧)[http://www.fifa.com/associations/association=tls/countryInfo.html]</ref>。東ティモールサッカー連盟(FFTL)は2002年に設立され、2003年3月には[[サッカー東ティモール代表]]にとって初の公式戦([[AFCアジアカップ]]の[[AFCアジアカップ2004 (予選)|2004年大会予選]])が実施された。最初の試合は2003年3月21日に[[サッカースリランカ代表|スリランカ]]に2-3で敗れ、続く3月23日には[[サッカーチャイニーズタイペイ代表|チャイニーズタイペイ]](台湾)に0-3で敗れた。FFTLは2005年9月12日にFIFA加盟が認められ、現在は[[アジアサッカー連盟]](AFC)にも加盟している。国内リーグとして[[東ティモール・サッカーリーグ]]がある。<br />
<br />
東ティモール代表が参加する公式戦は徐々に増加している。アジアカップは前述の2004年大会では予選に参加したが、[[AFCアジアカップ2007 (予選)|2007年大会予選]]には棄権し、AFC内の[[FIFAランキング]]下位のチームが参加する[[AFCチャレンジカップ]]にも参加していない。一方、[[東南アジアサッカー選手権]]には2004年から参加し、2008年には[[サッカースリランカ代表|スリランカ]]に2-2で引き分けて同チーム史上初の[[国際Aマッチ]]での[[勝ち点]]を獲得、2012年に[[サッカーカンボジア代表|カンボジア]]に勝利して同じく初勝利を記録した。また、[[FIFAワールドカップ]]の予選には[[2010 FIFAワールドカップ・アジア予選|2010年大会予選]]から参加。2010年大会予選・[[2014 FIFAワールドカップ・アジア予選|2014年大会予選]]は1次予選でそれぞれ[[サッカー香港代表|香港]]・[[サッカーネパール代表|ネパール]]に敗れ敗退したものの、[[2018 FIFAワールドカップ・アジア予選|2018年大会予選]]では[[サッカーモンゴル代表|モンゴル]]を破って初めて1次予選を突破した(2次予選は0勝2分6敗で敗退)。2013年時点の[[FIFAランキング]]では180位前後で、いわゆる「最弱国」の一つと見なされている。<br />
<br />
スポーツ全体を統轄する組織としては、2003年にオリンピックの[[国内オリンピック委員会]](NOC)である東ティモールオリンピック委員会が結成され、[[国際オリンピック委員会]](IOC)や[[アジアオリンピック評議会]](OCA)に参加した。国が独立準備中だった[[2000年シドニーオリンピック]]ではNOC設立前だった東ティモールの選手に対して[[2000年シドニーオリンピックの個人参加選手団|個人参加]]の特例が認められ、次の[[夏季オリンピック]]となった[[2004年アテネオリンピック]]では[[オリンピックの東ティモール選手団|東ティモール選手団]]としての初参加が実現した。ただし、今までにオリンピックで東ティモール選手団がメダルを獲得した事はない。また、2003年からは[[東南アジア競技大会]]に参加し、2005年には[[武術]]で3つの銅メダルを獲得した<ref name=OCAtimorleste>OCA NOCS Timor Leste [http://www.ocasia.org/NOCs/NocCountries.aspx?Nocs=43]</ref>。<br />
<br />
== 脚注 ==<br />
{{脚注ヘルプ}}<br />
=== 注釈 ===<br />
{{Reflist|group="注釈"}}<br />
=== 出典 ===<br />
{{Reflist|colwidth=30em}}<br />
{{Reflist|2}}<br />
<br />
== 参考文献 ==<br />
{{節スタブ}}<br />
* {{cite book |last=Schwarz |first=A. |year=1994 |title=A Nation in Waiting: Indonesia in the 1990s |publisher=Westview Press |isbn=1-86373-635-2}}<br />
<br />
== 関連項目 ==<br />
{{ウィキポータルリンク|東南アジア|[[ファイル:SE-asia.png|45px|Portal:東南アジア]]}}<br />
* [[西ティモール]]<br />
* [[東ティモール関係記事の一覧]]<br />
* {{仮リンク|ティモール・ギャップ|en|Timor Gap}}<br />
* [[ポルトガル語諸国共同体]]<br />
<br />
== 外部リンク ==<br />
{{wikisource|東チモールを承認した件|東チモールを承認した件|[[外務省]][[告示]]文}}<br />
{{Commons&cat|East Timor|East Timor}}<br />
; 政府<br />
:* [http://www.pm.gov.tp/welcome.htm 東ティモール首相府・内閣府] {{en icon}}<br />
:* [https://web.archive.org/web/20111013181113/http://www.mfac.gov.tp/ 東ティモール外務・協力省] {{en icon}}<br />
:<br />
; 日本政府<br />
:* [http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/easttimor/ 日本国外務省 - 東ティモール] {{ja icon}}<br />
<br />
{{アジア}}<br />
{{CPLP}}<br />
{{Normdaten}}<br />
----<br />
<br />
''このページは[[プロジェクト:国|ウィキプロジェクト 国]]のテンプレートを使用しています。''<br />
<br />
{{デフォルトソート:ひかしていもおる}}<br />
[[Category:東ティモール|*]]<br />
[[Category:共和国]]<br />
[[Category:島国]]<br />
[[Category:2002年に成立した国家・領域]]</div>
113.36.250.10
フランコ体制下のスペイン
2018-05-22T15:38:40Z
<p>113.36.250.10: /* 戦後のスペイン */</p>
<hr />
<div>{{基礎情報 過去の国<br />
|略名 = スペイン<br />
|日本語国名 = スペイン国<br />
|公式国名 = Estado Español<ref group="注">フランコ体制下では憲法が停止状態であったため、憲法によって制定された正式な国名は無かったが、内戦中の1936年9月に発表されたフランコ側の公式文書Decreto nombrando Jefe del Gobierno a Francisco Franco([https://www.boe.es/datos/pdfs/BOE/1936/032/J00125-00126.pdf Boletín Oficial de la Junta de Defensa Nacional])で反乱側の国家元首に指名されたとあり、その第一条では:{{Quotation|"Artículo primero -En cumplimiento de acurerdo adoptado por la Junta de Defensa Nacional, se nomhra Jefe del Gobierno del '''Estado Español''' al Exemo. Sr. General de División D. Francisco Franco Bahamonde, quien asumirá todos los poderes del nuevo Estado."}} と国名はEstado Español(スペイン国)の名称が使われている。またフランコ体制下の事実上の憲法と考えられる{{仮リンク|スペイン王国基本法|label=王国基本諸法|es|Leyes Fundamentales del Reino}}のうち{{interlang|es|Fuero del Trabajo}}(労働特別法、1938年)では:{{Quotation|"El '''Estado español''' formula estas declaraciones, que inspiraran su política social y ..."}}{{interlang|es|Ley Orgánica del Estado}}(国家組織法、1967年)では:{{Quotation|"Artículo 1.- I. El '''Estado español''', constituido en Reino, es la suprema institución de la comunidad nacional."<Br>"Artículo 2.-II. El sistema institucional del '''Estado español''' responde a los principios de unidad de poder y coordinación de funciones."。}}フランコ死後に制定された{{interlang|es|Ley para la Reforma Política}}(政治改革法、1977年)では:{{Quotation|"Artículo 1-1. La democracia en el '''Estado español''' se basa en la supremacía de la Ley, expresión de la voluntad soberana del pueblo."}}'''Estado español'''が使われている。主要法律ではスペイン国の他にも「Reino de España(スペイン王国)」などの表記があった。</ref><br />
|建国時期 = 1939年<br />
|亡国時期 = 1975年<br />
|先代1 = スペイン第二共和政<br />
|先旗1 = Flag of the Second Spanish Republic.svg<br />
|次代1 = スペイン<br />
|次旗1 = Flag of Spain 1977 1981.svg<br />
|国旗画像 = Flag of Spain 1945 1977.svg<br />
|国章画像 = COA Spain 1945 1977.svg<br />
|国章リンク =<br />
|標語 = ''{{interlang|en|Una, Grande y Libre}}''<br />(スペイン語:ひとつにして偉大で自由な)<br />
|国歌名 = 擲弾兵行進曲<br />
|国歌 = [[国王行進曲]]<br />
|位置画像 = Spanish State.png<br />
|latd=|latm=|lats=|latNS=N|longd=|longm=|longs=|longEW=E<br />
|公用語 = [[スペイン語]]<br />
|首都 = [[マドリード]]<br />
|元首等肩書 = [[カウディーリョ]](総統)<br />
|元首等年代始1 = [[1939年]]<br />
|元首等年代終1 = [[1975年]]<br />
|元首等氏名1 = [[フランシスコ・フランコ]]<br />
|首相等肩書 = [[スペインの首相|首相]]<br />
|首相等年代始1 = [[1938年]]<br />
|首相等年代終1 = [[1973年]]<br />
|首相等氏名1 = フランシスコ・フランコ<br />
|首相等年代始2 = [[1973年]]<br />
|首相等年代終2 = [[1976年]]<br />
|首相等氏名2 = [[カルロス・アリアス・ナバーロ]]<br />
|変遷1 = [[スペイン内戦]]終結<br />
|変遷年月日1 = [[1939年]][[4月1日]]<br />
|変遷2 = 国家首長継承法制定<br />
|変遷年月日2 = [[1947年]][[7月26日]]<br />
|変遷3 = [[王政復古]]<br />
|変遷年月日3 = [[1975年]][[11月29日]]<br />
|通貨 = [[ペセタ]]<br />
|注記 =|<br />
}}<br />
{{スペインの歴史}}<br />
'''フランコ体制下のスペイン'''({{lang-es-short|España durante el régimen de Franco}})では、[[スペイン内戦]]により[[スペイン第二共和政|第二共和政]]が崩壊した後、政権を握った[[フランシスコ・フランコ|フランシスコ・フランコ・バーモンデ]]が[[国家元首]]となった[[1939年]]から、[[1975年]]のフランコの死によって[[フアン・カルロス1世 (スペイン王)|フアン・カルロス1世]]が国王となるまでの間の[[スペイン]]について記述する。[[1947年]]に{{仮リンク|国家首長継承法|es|Ley de Sucesión en la Jefatura del Estado}}が制定されて、[[王国]]であると定められたが、フランコが死亡するまで国王は空位のままであった。<br />
<br />
== スペイン内戦と政権の誕生 ==<br />
{{main|スペイン内戦}}<br />
スペイン共和国が成立した{{仮リンク|1931年スペイン議会総選挙|label=1931年の総選挙|en|Spanish general election, 1931}}では、[[スペイン社会労働党]]などの[[社会主義]][[政党]]か、{{仮リンク|急進社会主義共和党|en|Radical Socialist Republican Party}}などの[[共和主義]]左派政党、[[カタルーニャ共和主義左翼]]などの[[左翼ナショナリズム|民族主義左派]]政党を中心とする[[左派]]が勝利し、社会主義的政策の一環として小作料の制限、小作農[[雇用]]に関する規制を実行に移すことを試みた。しかし、土地所有者である[[地主]]、[[貴族]]はこれに反発し、実質的に形骸化した。また、[[王党派]]、[[カトリック教会]]などの[[保守]]勢力の[[政権]]に対する反発は根強く、{{仮リンク|1933年スペイン議会総選挙|label=1933年の総選挙|en|Spanish general election, 1933}}では[[右派]]が政権を獲得し、左派政権時に行った政策を反故にした。これに対する小作農、労働者の反発は根強く、{{仮リンク|1936年スペイン議会総選挙|label=1936年2月実施の総選挙|en|Spanish general election, 1936}}では左派の[[スペイン人民戦線|人民戦線]]勢力が政権を奪還した。このため、地主、貴族、[[資本家]]、カトリック教会などの保守勢力と政府の対立は激化した。<br />
<br />
同年7月、当時の{{仮リンク|スペイン領モロッコ|en|Spanish Protectorate of Morocco}}と本土の一部で軍が反乱を起こした。元[[スペイン陸軍|陸軍]][[参謀総長]]のフランシスコ・フランコは[[モロッコ]]で反乱軍を指揮し、本土に侵攻した。保守勢力が反乱軍を支援したため、この反乱はスペインを二分する[[スペイン内戦]]に発展した。その後、フランコは[[ナチス・ドイツ|ドイツ]]や[[イタリア王国|イタリア]]の支援を受けて政府勢力と戦い、最終的に反乱を成功に導いた。<br />
<br />
反乱軍の指導者は、当初は{{仮リンク|エミリオ・モーラ|en|Emilio Mola|label=エミリオ・モーラ・ビダル}}将軍だった。しかし、短期間にめざましい戦功を上げたフランコは[[1936年]][[10月1日]]、[[ブルゴス]]において反乱軍の総司令官に指名され、同時に反乱軍の[[国家元首]]に就任した。また、フランコは[[1938年]][[1月30日]]に正式に内閣制度を導入し、自ら国家元首兼首相となり「カウディーリョ」と称した。内戦終了直前には反乱軍は反乱ではなく、「合法的な武力行使」を行ったと主張した{{sfn|野上和裕|2009|pp=37}}。<br />
<br />
[[戦後]]には共和派の[[粛清]]が行われ、27万人が[[収監]]され、5万人以上が処刑されたと見られている{{sfn|野上和裕|2009|pp=36-37}}。この過程で、共和派が左派的な政策を強く押し進め、多くの人々が収監・[[財産]]を没収されただけでなく、50万人以上が殺害されたという[[プロパガンダ]]が行われた{{sfn|野上和裕|2009|pp=37}}。1940年代から粛清の動きは低下し、[[強制収容所]]も規模を縮小し、刑の免除・停止も行われ始めた{{sfn|野上和裕|2009|pp=38}}。<br />
<br />
== フランコ政権成立 ==<br />
フランコ政権を支えていたのはスペイン国内の多様な右派であり、思想的統一はなされなかった。スペインでは伝統的なカトリックの勢力が強く、[[ファシズム]]勢力の浸透を妨げた{{sfn|野上和裕|2009|pp=27}}。フランコは[[ホセ・アントニオ・プリモ・デ・リベラ]]が設立した急進ファシズム政党[[ファランヘ党]]と右派を結合させ、新たなファランヘ党を結成させた。新ファランヘ党は旧来の綱領をほとんどそのまま受け継ぎ、1939年に国家唯一の政党であると定義されたが、影響力はさほど強力ではなかった。1938年から1962年に就任した閣僚の出身身分のうち、ファランヘ党出身者はわずか25%にすぎず、最も多いのは39%の軍人であった{{sfn|野上和裕|2009|pp=28}}。またファランヘ党への国庫からの支援もほとんど無く、むしろファシズム勢力が退潮したとされる時期のほうが国庫支援や党員数を増加させている{{sfn|野上和裕|2009|pp=33}}。フランコは各派の勢力均衡のため、突出した勢力が出ないよう配慮していた。また体制内で失脚した者を粛清することはなく、1940年代に王政復古をはかった将軍も赦免されている{{sfn|野上和裕|2009|pp=28}}。このため体制派から反体制派に転身したものは非常に希であった{{sfn|野上和裕|2009|pp=28}}。<br />
<br />
ただし国内が自由であったと言うわけではなく、1940年の[[共産主義]]者・[[フリーメーソン]]弾圧法に見られるような政治的抑圧は続いていた{{sfn|野上和裕|2009|pp=38}}。<br />
<br />
経済面においては、一国内での自給経済を志向する「[[閉鎖経済|アウタルキー]]」政策が1950年代までとられた。しかし総じて好況とはほど遠く、国民経済では困窮が続いた{{sfn|野上和裕|2009|pp=33}}。<br />
<br />
== 第二次世界大戦 ==<br />
{{main|第二次世界大戦下のスペイン}}<br />
こうしたフランコ政権の中で最も有力なファシストがフランコの義弟{{仮リンク|ラモン・セラーノ・スニェール|en|Ramón Serrano Súñer}}であった{{sfn|野上和裕|2009|pp=32}}。セラーノはファランヘ党の書記長、内相を務め、1940年からは外相となった。また[[第二次世界大戦]]においては[[枢軸国]]への接近を主張し、1940年のフランコ・ヒトラーの{{仮リンク|アンダイエ会談|es|Entrevista de Hendaya}}を実現させた。ヒトラーはスペインの参戦を求め、フランコも一時はこれに同意した{{sfn|ゲルハルト・クレーブス|2000|pp=285-286p}}。しかしその後は言を左右にして参戦を拒み、[[中立国]]ではあるものの親枢軸国側である「[[非交戦]]」国家として振る舞った{{sfn|ゲルハルト・クレーブス|2000|pp=282}}。<br />
<br />
スペインは諜報活動などで枢軸国側に便宜を図ったものの、これは原油の一大輸入先である[[アメリカ]]の怒りを買った。アメリカはスペインへの[[石油]]禁輸を行って圧力を加え、枢軸側への資源売却が監視されるようになった{{sfn|ゲルハルト・クレーブス|2000|pp=289}}。その後枢軸側の退勢が明らかになる1942年には、フランコは枢軸国側を見切る方針を固めた。セラーノはすべてのポストから解任されて失脚した{{sfn|野上和裕|2009|pp=32}}。体制が揺らぐ中、1943年9月15日には王党派の中将8名が王政復古を求める意見書をフランコに提出するという事件が起きた{{sfn|野上和裕|2009|pp=40}}。<br />
<br />
1944年には[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]の圧力により諜報支援も打ち切られた{{sfn|ゲルハルト・クレーブス|2000|pp=289}}。[[日本の降伏]]後、駐米スペイン大使が祝辞を述べに国務省を訪れたが、これに高官が対応することはなかった{{sfn|ゲルハルト・クレーブス|2001|pp=258}}。<br />
<br />
== 戦後のスペイン ==<br />
中立こそ維持したものの、戦時中の親枢軸的な態度が災いし、連合国から白眼視されていた。[[マーシャル・プラン]]の対象にもならず、[[欧州経済共同体]]への加盟も[[民主主義]]国でないとして認められなかった{{sfn|野上和裕|2009|pp=22}}。1946年12月の[[国際連合]]総会はフランコ体制が非民主的でスペイン人の支持を得たものでないと批判し、加盟国に断交を推奨する決議を行った{{sfn|野上和裕|2009|pp=40}}。この決議を受けてアメリカや[[ヨーロッパ]]諸国は大使を召還した。<br />
<br />
ファランヘ党はこの期を利用して自らの動員能力を示し、存在感をアピールすることで権力の維持を図った{{sfn|野上和裕|2009|pp=40-41}}。フランコは政治制度について、最終的には[[君主制]]に移行すべきだと考え、[[1947年]]に「{{仮リンク|国家首長継承法|es|Ley de Sucesión en la Jefatura del Estado}}」を制定した。これにより、スペインは「王国」{{sfn|野上和裕|2012|pp=17}}{{sfn|黒田清彦|1997|pp=4}}でありフランコが国家元首として「王国の終身摂政」となることが決定した。さらに、フランコには後継者となる国王の指名権が付与された{{sfn|野上和裕|2012|pp=17}}。7月6日にはこの措置の国民投票が行われ、圧倒的多数がこの措置を支持した{{sfn|野上和裕|2009|pp=41}}。この結果は王党派の活動にとどめを刺し、さらに動員力を見せつけたファランヘ党の権力も維持された。また、アメリカもこの結果をみてはフランコに[[国民]]支持がないと主張することもできず、アメリカの国連代表は再度のスペイン非難決議に反対し、その決議を阻止した{{sfn|野上和裕|2009|pp=41}}。しかし[[冷戦]]の勃発によってある程度は緩和されたものの、スペインの国際的孤立は変わらなかった{{sfn|野上和裕|2009|pp=22}}。<br />
<br />
1960年代からは奇跡と呼ばれる[[経済成長]]が起き、国民生活も安定した{{sfn|野上和裕|2009|pp=22}}。1960年には軍法と通常法の分離が行われ、軍部が[[治安]]権限を[[警察]]に委譲する治安法と治安裁判所が成立した{{sfn|野上和裕|2009|pp=38}}。1965年には国民運動(ファランヘ党中央組織)書記長{{仮リンク|ホセ・ルイス・デ・アレセ|en|José Luis de Arrese}}が国民運動の影響力を強める改革を行おうとしたが、カトリック教会の強い反発に会い、失脚した。1966年にはフランコ体制の憲法と呼ばれる{{仮リンク|国家組織法|es|Ley Orgánica del Estado}}が成立したが、体制が明確化されたのはこのときが初めてであった。ファランヘ党はこの際にも動員力を見せつけ、存在感をアピールした{{sfn|野上和裕|2009|pp=41-42}}。1968年からは[[バスク祖国と自由]](ETA)の活動が活発となり、再び軍が治安維持の全面に立つことになった{{sfn| 野上和裕|2009|pp=38-39}}。ETA構成員に対する苛烈な処罰は国際社会の反発を再び招いたが、スペイン国内においてはおおむね支持されていた{{sfn|野上和裕|2009|pp=41}}。<br />
<br />
1969年には、1931年の革命で亡命した国王[[アルフォンソ13世 (スペイン王)|アルフォンソ13世]]の孫である[[フアン・カルロス1世 (スペイン王)|フアン・カルロス]]を王位継承者とする法律が成立し{{sfn|黒田清彦|1997|pp=4}}、フランコ死後の元首が確定した。しかしフランコは腹心の[[ルイス・カレーロ・ブランコ]]を事実上の後継者として実権を握らせ、自らの独裁路線を継続させる構想を描いていたが、[[1973年]]にETAがブランコを[[暗殺]]したため頓挫した。また、[[オイルショック]]や1973年の急激な[[インフレーション]]はスペインの経済状況を悪化させた{{sfn|野上和裕|2009|pp=22}}。<br />
<br />
== 民主化 ==<br />
{{main|{{仮リンク|スペインの民主化|en|Spanish transition to democracy}}}}<br />
[[1975年]][[11月20日]]、フランコは死去し、2日後に皇太子[[フアン・カルロス1世 (スペイン王)|フアン・カルロス]]が44年ぶりに国王に即位した。しかし、フランコの操り人形と見られていた{{sfn|黒田清彦|1997|pp=4}}フアン・カルロス1世は、大方の予想を裏切り、積極的に[[民主化]]を推進し、[[1976年]]に首相となった[[アドルフォ・スアレス]]の指導の下、民主化のための制憲議会{{enlink|Constituent Cortes|Cortes Constituyentes}}の設置を表明した。フランコ派が多数を占めていた議会もこの措置に賛同し、フランコ独裁体制は民主化への軟着陸を目指すこととなった{{sfn|野上和裕|2009|pp=23}}。<br />
<br />
[[1977年]]には41年ぶりの民主的な選挙が行われた。翌[[1978年]]に新しい憲法([[スペイン1978年憲法|1978年憲法]])が承認され、スペインは[[立憲君主制]]に移行した。ただしこの時期でも[[政権]]を握っていたのはフランコ派の政治エリートであり、かつての反体制派が政権に参加するのは1982年のことであった{{sfn|野上和裕|2009|pp=23}}。<br />
<br />
== 体制の評価 ==<br />
{{main|フランキスモ}}<br />
フランコ体制は当時の左派勢力を中心に「[[ファシズム]]体制」と見られており、現在でもそうした見方がとられることがある{{sfn| 野上和裕|2009|pp=25}}。{{仮リンク|スタンリー・G・ペイン|en|Stanley G. Payne}}はセラーノ失脚の頃からフランコ政権の「脱ファシズム化」が行われたと見ている。[[ホアン・リンス]]はフランコ体制が初期にはファシズムの拡張を図ったものの、ナチス退勢後はファシズムを排除し、従来の伝統的支配とファシズム勢力が結合した「[[権威主義]]体制」であるととらえている{{sfn|野上和裕|2009|pp=24-25}}。トゥセイはリンスの見方を引き継ぎ、フランコ体制が「軍・教会・ファランヘ党・[[オプス・デイ]]」等の自立した「ファミリア」によって構成されているとした。各ファミリアはそれぞれ省庁を支配し、権力の棲み分けを図っていた{{sfn|野上和裕|2009|pp=28}}。フランコ体制がファシズムであったと見る論者でも、そのイデオロギー性が弱体であり、他の政治勢力の影響が強いと見ている{{sfn|野上和裕|2009|pp=31}}。フランコの死後も「フランコ無きフランコ体制」を維持しようとする動きはあり、その動きが完全に断たれたのは[[1982年スペイン議会総選挙]]で[[民主中道連合]]が敗北し、解散されて以降のことであった。<br />
<br />
== 脚注 ==<br />
{{脚注ヘルプ}}<br />
=== 注釈 ===<br />
{{reflist|group=注}}<br />
=== 出典 ===<br />
{{reflist|2}}<br />
<br />
== 参考文献 ==<br />
* {{Cite journal|和書|author= 野上和裕 |title=ファシズムと権威主義体制 : スペイン・フランコ体制を手がかりに|date= 2012 |publisher=首都大学東京都市教養学部法学系 |journal=法学会雑誌 |volume=52|number=2 |naid=40019198146|pages=1-39|ref=harv}}<br />
* {{Cite journal|和書|author= 野上和裕 |title=権威主義体制とスペイン歴史研究 : フランコ体制について|date=2009 |publisher=首都大学東京 |journal=法学会雑誌 |volume=50|number=1 |naid=110008456858|pages=21-53|ref=harv}}<br />
* {{Cite journal|和書|author= [[ゲルハルト・クレープス|ゲルハルト・クレーブス]]|coauthors=田島信雄、井出直樹(訳者) |title=<翻訳>第二次世界大戦下の日本=スペイン関係と諜報活動(1) (南博方先生古稀祝賀記念号)|date=2000 |publisher=成城大学 |journal=成城法学|volume=63 |naid=110000246510|pages=279-320 |ref=harv}}<br />
* {{Cite journal|和書|author=ゲルハルト・クレーブス|coauthors=田島信雄、井出直樹(訳者) |title=<翻訳>第二次世界大戦下の日本=スペイン関係と諜報活動(2・完) (庄政志先生古稀祝賀記念号)|date=2001|publisher=成城大学 |journal=成城法学|volume=64|naid=110000246520|pages=237-268 |ref=harv}}<br />
* {{Cite journal|和書|author= 黒田清彦|title=立憲君主制のあり方 スペインと日本|date=1997|publisher=南山大学 |journal=ヨーロッパ研究センター報|volume=4|url=http://www.ic.nanzan-u.ac.jp/EUROPE/kanko/pdf/01kuroda-4.pdf|pages=237-268 |ref=harv}}<br />
<br />
== 関連項目 ==<br />
*[[ファシズム]]<br />
*[[フランキスモ]]<br />
*[[カシケ|カシキスモ]]<br />
<br />
{{DEFAULTSORT:ふらんこたいせいかのすへいん}}<br />
[[Category:フランコ時代のスペイン|*]]<br />
[[Category:スペインの歴史]]<br />
[[Category:スペインの近代史]]<br />
[[Category:スペインの政治]]<br />
[[Category:20世紀のスペイン]]<br />
[[Category:空位期]]<br />
[[Category:過去に存在した軍事政権]]<br />
[[Category:1939年に成立した国家・領域]]<br />
[[Category:1975年に廃止された国家・領域]]</div>
113.36.250.10
ベトナム民主共和国
2018-05-19T15:16:01Z
<p>113.36.250.10: /* ジュネーヴ協定からトンキン湾事件まで(1955~1965) */</p>
<hr />
<div>{{基礎情報 過去の国<br />
|略名 = 北ベトナム<br />
|日本語国名 = ベトナム民主共和国<br />
|公式国名 = '''{{Lang|vi|Việt Nam Dân Chủ Cộng Hòa}}'''<br />
|建国時期 = 1945年<br />
|亡国時期 = 1976年<br />
|先代1 = フランス領インドシナ<br />
|先旗1 = Flag of Colonial Vietnam.svg<br />
|先代2 = ベトナム帝国<br />
|先旗2 = Old Flag Of Vietnam.svg<br />
|次代1 = ベトナム<br />
|次旗1 = Flag of Vietnam.svg<br />
|国旗画像 = Flag of North Vietnam 1945-1955.svg<br />
|国旗リンク = [[ベトナムの国旗|国旗]]<br />
|国旗説明 = <br />
|国旗幅 = <br />
|国旗縁 = <br />
|国章画像 = Coat of arms of North Vietnam.svg<br />
|国章リンク = [[ベトナムの国章|国章]]<br />
|国章説明 = <br />
|国章幅 = <br />
|標語 = ''{{Lang|vi|Độc lập - Tự do - Hạnh phúc}}''<br />(ベトナム語 : 独立、自由、幸福)<br />
|国歌名 = 進軍歌<br />
|国歌 = 進軍歌<br />
|国歌追記 = <br />
|位置画像 = LocationNorthvietnam.svg<br />
|位置画像説明 = <br />
|公用語 = [[ベトナム語]]<br />
|首都 = [[ハノイ]]<br />
|元首等肩書 = [[ベトナムの国家主席|国家主席]]<br />
|元首等年代始1 = 1945年<br />
|元首等年代終1 = 1969年<br />
|元首等氏名1 = [[ホー・チ・ミン]]<br />
|元首等年代始2 = 1969年<br />
|元首等年代終2 = 1976年<br />
|元首等氏名2 = [[トン・ドゥック・タン]]<br />
|首相等肩書 = [[ベトナムの首相|政府主席]]<br />
|首相等年代始1 = 1945年<br />
|首相等年代終1 = 1955年<br />
|首相等氏名1 = [[ホー・チ・ミン]]<br />
|首相等年代始2 = 1955年<br />
|首相等年代終2 = 1976年<br />
|首相等氏名2 = [[ファム・ヴァン・ドン]]<br />
|面積測定時期1 = <br />
|面積値1 = 157,880<br />
|人口測定時期1 = <br />
|人口値1 = 13,000,000<br />
|変遷1 = [[ベトナム八月革命|独立宣言]]<br />
|変遷年月日1 = [[1945年]][[9月2日]]<br />
|変遷2 = [[ジュネーヴ協定]]締結<br />
|変遷年月日2 = [[1954年]][[7月21日]]<br />
|変遷3 = 南北ベトナム統一<br />
|変遷年月日3 = [[1976年]][[7月2日]]<br />
|通貨 = [[ドン (通貨)|ベトナム民主共和国ドン]]<br />
|時間帯 = <br />
|夏時間 = <br />
|時間帯追記 = <br />
|ccTLD = <br />
|ccTLD追記 = <br />
|国際電話番号 = <br />
|国際電話番号追記 = <br />
|注記 = <br />
}}<br />
{{ベトナムの歴史}}<br />
'''ベトナム民主共和国'''(ベトナムみんしゅきょうわこく、{{vie|v='''Việt Nam Dân Chủ Cộng Hòa'''|hn=越南民主共和}})は、[[1945年]]の[[ベトナム八月革命]]によって、[[ベトナム]]に成立した、[[東南アジア]]最初の[[社会主義国|社会主義国家]]。<br />
<br />
[[第一次インドシナ戦争]]の結果、[[1954年]]以降は暫定的に、「[[軍事境界線 (ベトナム)|北緯17度線]]」以北のベトナムのみを統治したため、'''北ベトナム'''と別称される。[[1976年]]に[[南ベトナム共和国|南ベトナム]]を吸収併合したことで、[[ベトナム|ベトナム社会主義共和国]]として発展的に消滅した。<br />
<gallery><br />
Flag of North Vietnam 1945-1955.svg|初代国旗<br />
Flag of Vietnam.svg|二代目国旗<br />
</gallery><br />
<br />
== 歴史 ==<br />
=== 第二次世界大戦(~1945) ===<br />
[[フランス]]の植民地([[フランス領インドシナ]]、仏印)の一部であったベトナムには、[[1940年]]9月と[[1941年]]7月に[[大日本帝国|日本軍]]が進駐([[仏印進駐]])していた。そして、[[第二次世界大戦]]末期、[[東京大空襲]]の翌日に当たる[[1945年]][[3月11日]]に、日本軍によってフランス植民地政府が打倒([[明号作戦|仏印処理]])され、[[阮朝]]は日本軍の庇護の下で[[ベトナム帝国]]を樹立した。<br />
<br />
その後、[[8月15日]]に日本軍がフランスを初めとする[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国軍]]に[[降伏文書]]の調印を予告すると、2日後の[[8月17日]]に、[[ベトナム独立同盟会]](ベトミン)は[[インドシナ共産党]]の主導下で[[ベトナム八月革命|八月革命]]を起こし、ベトナム帝国からの権力争奪闘争を各地で展開した。そして、[[日本の降伏|日本政府が降伏文書に調印]]した[[9月2日]]には、[[ホー・チ・ミン]]が[[ハノイ]]でベトナム民主共和国の[[ベトナム独立宣言|独立を宣言]]し、ベトナム帝国は崩壊した。<br />
<br />
===日本の降伏からジュネーヴ協定まで(1945~1955)===<br />
[[日本の降伏|日本軍が降伏]]してベトナム帝国が崩壊すると、ベトナムは[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国軍]]の占領下に入った。日本軍の武装解除の為、まずフランス領インドシナ北部には[[中華民国軍]]が、南部には[[イギリス軍]]が進駐した。中華民国軍の支配下で、[[ベトミン]]は[[越南国民党|ベトナム国民党]]などとの連立内閣を組織しており、翌[[1946年]]の総選挙後もこれを維持していた。しかし南部ではイギリス軍に代わり旧植民地の再支配を謀る[[フランス軍]]が再進駐し、1945年9月末には[[ホーチミン市|サイゴン]]の支配権を奪取したことで、ベトミンとの武力衝突が発生した。ベトミンはフランスとの交渉による解決を試み、1946年3月には[[フランス連合]]内での独立が認められた。だが、インドシナ一帯の再支配を目論むフランス政府は、ベトナムが[[共産主義国家]]として独立することを拒否し、[[コーチシナ共和国]]の樹立などさまざまなかたちで分離工作を行なった。そのため、越仏双方が抱く意見の相違は解決されず、同年12月にハノイで越仏両軍が衝突したことで、[[第一次インドシナ戦争]]が勃発した。<br />
<br />
開戦当初はフランス軍が優勢であった。だが、山岳地帯に引きこもって軍隊を組織したベトミンは、フランス軍との戦力差を考慮して[[ゲリラ戦]]で対抗した。この際、日本軍兵士の一部も[[残留日本兵]]として[[ベトミン]]軍に参加(この際の日本軍兵士の助太刀は現地のベトナム人から感謝されている)。戦争の長期化に直面したフランスは[[1949年]]6月、ベトナム民主共和国に代わる[[ベトナム人]]国家として[[ベトナム国]]をサイゴンに成立させ、[[国家承認]]した。ベトナム国が[[アメリカ合衆国|アメリカ]]、[[イギリス]]からも国家承認を受けたのに対し、[[1950年]]にはベトナム民主共和国が[[ソ連型社会主義]][[国家]]の[[ソビエト連邦]]と[[中華人民共和国]]から[[国家承認]]を受け、両国からの援助を得ながら抗戦を続けた。こうしてこの戦争は、[[冷戦]]の体制競争という側面も有するようになった。<br />
<br />
第一次インドシナ戦争の長期化は、戦争に疲れたフランス国民の厭戦感を高めた。そのため、フランス政府は戦争終結に向け、[[1954年]][[4月]]からジュネーヴ会議を開始した。そして、[[ディエンビエンフーの戦い|ディエンビエンフーの要塞陥落]]を受けて、1954年[[7月21日]]に[[ジュネーヴ協定|ジュネーヴ休戦協定]]を締結した。協定により、ベトナムの国土は[[軍事境界線 (ベトナム)|北緯17度線]]で南北に分割され、北ベトナムをベトナム民主共和国が、[[南ベトナム]]をベトナム国が([[1955年]]まで)統治することになった。しかし、恒久的な分割を避けるため、[[1956年]]に再統一のための全国選挙を実施することも決められた。<br />
<br />
=== ジュネーヴ協定からトンキン湾事件まで(1955~1965) ===<br />
ジュネーヴ会議の後、北ベトナムでは戦闘が停止され、[[ベトナム共産党|ベトナム労働党]]と民主共和国政府は土地改革や[[集団農場]]化などの社会主義化を推進した。一方、南ベトナムでは、アメリカの支援を得た[[ゴ・ディン・ジエム]]が旧来の指導者達を追放して[[1955年]]に[[ベトナム共和国]]を樹立し、[[反共主義]]に基づく南ベトナムの[[警察国家]]化を推進した。ゴ・ディン・ジェム政権はジュネーヴ協定で定められた南北再統一のための選挙を拒否した上、反政府分子の弾圧や特定勢力([[カトリック教徒]]等)の優遇等で[[失敗国家]]化が進み、社会不安を増大させていた。そのため、労働党は革命戦争再開の好機と判断し、[[1960年]]の第3回党大会で南ベトナムの解放と[[社会主義]]建設を謳い、[[南ベトナム解放民族戦線]](ベトコン、[[1960年]]成立)の闘争を指導し始めた([[ベトナム戦争]]の始まり)。<br />
<br />
[[1960年代]]に入りベトコンによる[[テロ]]、[[ゲリラ活動]]が南ベトナム各地で本格化すると、労働党は[[ホーチミンルート]]を通じてベトコンへ物的・人的支援を活発化させた。ただし、1960年代前半の南ベトナムにおける闘争の主戦力は南ベトナムの活動家であり、[[ベトナム人民軍]]の派兵は限定的だった。これに対し、南ベトナムの現状を憂えた[[アメリカ政府]]は[[1961年]]に[[南ベトナム軍事援助司令部]]を設置し、[[軍事顧問]]団の増派と、[[ベトナム共和国軍]]への軍事物資支援の増強という形で軍事的介入を徐々に拡大した。南ベトナムにおける解放闘争の激化とあわせ、民主共和国はベトナム共和国軍の[[コマンド部隊]]による北ベトナム沿岸への襲撃を受けるようになった。そのような状況下の[[1964年]]、[[トンキン湾]]で[[ベトナム人民海軍]]の[[魚雷艇]]が[[アメリカ海軍]]の[[駆逐艦]]を攻撃してしまう事件が発生した。事件は人民海軍の敵方識別誤認による偶発的なものであったが、アメリカ政府は事件発表時に事実を一部捏造して「共産主義の脅威」をあおり([[トンキン湾事件]])、翌[[1965年]][[3月8日]]から[[アメリカ軍|米軍]]戦闘部隊の南ベトナム派遣を行なう口実としていった。<br />
<br />
=== 抗米救国闘争(ベトナム戦争・1965~1975) ===<br />
米軍は戦闘部隊の派兵に先立ち、1965年[[2月7日]]から北ベトナムへの集中[[爆撃]]([[北爆]])を開始し、北ベトナム全域が[[ベトナム戦争]]の戦火にさらされることになった。これを受け、ベトナム民主共和国は[[ソビエト連邦]]から[[重火器]]や[[軍事顧問]]、[[中華人民共和国]]から[[軽火器]]や軍事顧問の受け入れを活発化させ、南ベトナム解放民族戦線を通じたベトナム人民軍の南ベトナム派遣を本格化させた。同時に、攻撃対象をベトナム共和国軍からアメリカ軍・[[東南アジア条約機構|SEATO]]連合([[オーストラリア]]、[[タイ王国|タイ]]、[[フィリピン]]、[[ニュージーランド]])軍・及び[[韓国軍]]にまで拡大し、ベトナム戦争を本格的な戦争へと発展させた。ただし、[[1967年]]頃までは米軍の対[[ゲリラ]]戦略が功を奏し、解放戦線側が劣勢になることもあった。<br />
<br />
[[1968年]]、ベトナム人民軍は事態を打開すべく、解放戦線と共に[[テト攻勢]]を敢行し、ベトナム共和国の[[グエン・バン・チュー]]政権の転覆を目指した。攻撃は共和国政府を根底から揺さぶったものの体制転覆には至らず、むしろ解放民族戦線の戦闘能力に大打撃を受けたため、以降の解放戦線側の主戦力はベトナム人民軍が担うこととなった。しかし一方で、この攻撃は「ベトナム戦争の終結は間近」と知らされていたアメリカ社会に大きなショックを与え、アメリカにおける[[反戦運動]]を激化させるきっかけとなった。翌[[1969年]]には建国以来の指導者であるホー・チ・ミンが死去したが、指導権は労働党第一書記の[[レ・ズアン]]に継承され、混乱は生じなかった。また、同年中に南ベトナム解放民族戦線を中心とする[[南ベトナム共和国|南ベトナム共和国臨時革命政府]]を樹立させ、南ベトナムにおける反政府勢力が強大であることを世界に示した。<br />
<br />
[[1973年]]、ベトナム民主共和国はアメリカ・ベトナム共和国と[[パリ協定 (ベトナム和平)|パリ協定]]を締結し、米軍を始めとする外国軍を南ベトナムから撤退させるとともに、南ベトナム共和国を「南ベトナムの[[政府]]」として国際的に認知させることに成功した。その一方で、米軍が南ベトナムへ再介入する可能性とベトナム再統一のための新たな全国選挙に備え、民主共和国はベトナム共和国の存在を受け入れることを暗黙のうちに認めた。だが、米軍再介入の可能性がないことが分かると、[[1975年]][[1月]]にベトナム民主共和国はパリ協定を破棄して軍事攻勢を起こし、[[3月]]には猛攻撃を開始、約6週間で[[ベトナム共和国軍|南ベトナム軍]]を壊滅させた。1975年[[4月30日]]、ベトナム人民軍と南ベトナム解放民族戦線軍は[[サイゴン陥落|サイゴンを占領]]し、ベトナム共和国政府を無条件降伏させた(ベトナム戦争の終結)。<br />
<br />
=== 再統一と消滅(1975~1976) ===<br />
ベトナム共和国の消滅後、南ベトナムを代表する政府は[[南ベトナム共和国]]臨時革命政府だけになり、ベトナム民主共和国によるベトナム再統一を阻む[[国家]]は存在しなくなった。しかし一方で、ベトナム戦争後に[[中華人民共和国]]や[[クメール・ルージュ]]([[カンボジア]])との軋轢が顕在化し、ベトナムは周辺諸国への脅威に対応する必要に迫られた。これを受け、労働党は国内体制を安定化させるべく再統一の計画を早めて統一選挙を実施し、[[1976年]][[7月2日]]に南北ベトナムの再統一と[[ベトナム|ベトナム社会主義共和国]]の成立を宣言した。これ以降、旧ベトナム共和国政府関係者の「再教育」、南ベトナムの社会主義化(行政、官僚組織の再編成や企業の国営化)が急速に進められ、統一ベトナム政府に反発する人々が[[ボートピープル]]として国外へ脱出することになる([[インドシナ難民]])。<br />
<br />
==備考==<br />
2013年にベトナムで[[ベトナム社会主義共和国憲法|憲法]]が改正された際、国号を「ベトナム民主共和国」へ戻すことも検討された<ref>[http://www.nikkei.com/article/DGXNASGM1400E_V10C13A4EB2000/ 社会主義の看板外すか ベトナムで国名変更案] [[日本経済新聞]] 2013年4月15日 2015年10月28日閲覧)</ref>が、結局は実現しなかった。<br />
<br />
==脚注==<br />
{{Reflist}}<br />
<br />
== 関連項目 ==<br />
*[[南ベトナム]]<br />
*[[インドシナ戦争]](曖昧さ回避)<br />
*[[ベトナム戦争]]<br />
*[[越南民主共和]]<br />
*[[消滅した政権一覧]]<br />
<br />
{{先代次代|[[ベトナムの歴史]]|'''[[分断国家|南北分断]]時代'''<br />'''(ベトナム民主共和国)'''<br />'''([[南ベトナム]])'''<br />1945年9月-1976年|[[ベトナム帝国]]<br />1945年3月-9月|[[ベトナム社会主義共和国]]<br />1976年-現在}}<br />
<br />
{{分断国家}}<br />
{{各国の社会主義}}<br />
<br />
{{DEFAULTSORT:へとなむみんしゆきようわこく}}<br />
[[Category:ベトナム民主共和国|*]]</div>
113.36.250.10
ムラート
2018-04-22T11:47:44Z
<p>113.36.250.10: /* 関連項目 */</p>
<hr />
<div>{{Otheruses|南北アメリカの民族集団|中東系の人名|ムラト|トウガラシの品種|ムラート (トウガラシ)}}<br />
{{infobox 民族<br />
|民族 = ムラート<br />
|民族語名称 = <br />
<br />
|居住地=[[ラテンアメリカ]]、[[カリブ海]]、[[アメリカ合衆国]]、[[南アフリカ共和国]]、[[カーボ・ヴェルデ]]<br />
|言語=[[ポルトガル語]]、[[スペイン語]]、[[英語]]、[[フランス語]]、[[アフリカーンス語]]<br />
|宗教=[[キリスト教]](大多数が[[カトリック教会|ローマ・カトリック]]で[[プロテスタント]]は少数)、[[イスラム教]]、その他<br />
|関連 = ヨーロッパ人(特に[[ポルトガル人]]、[[スペイン人]]、[[イギリス人]]、[[フランス人]]、[[オランダ人]])、[[アフリカ人]]<br />
}}<br />
<br />
[[image:Mulatto212.jpg|200px|thumb|南北アメリカのムラートの民族旗]]<br />
[[File:Chino 1770.jpg|thumb|「[[インディアン]]<!--原文が「インディアン」です-->とムラートから[[w:Chino|チノ]]が生まれる」という題の、南米におけるムラートの絵図。(1770年)。]]<br />
[[File:Sambo 1770.jpg|thumb|「[[ニグロ]]とムラートから[[w:Zambo|サンボ]]が生まれる」(1770年)。]]<br />
'''ムラート'''(Mulatto, Mulato)は、[[ラテンアメリカ]]および[[北アメリカ]]でヨーロッパ系[[白人]]と、アフリカ系の特に[[ネグロイド|黒人]]との[[混血]]を指す言葉である。'''ムラット'''ともいう。なお、女性だけを指していう場合は'''ムラータ'''(Mulata)という。<br />
<br />
==概要==<br />
元々は、片方の親が[[ヨーロッパ]]系でもう片方の親が[[アフリカ]]系の子供のことを指していたが、現在ではある程度両方の血統が混じっている人々のことを指すようになった。「黒人と白人の[[混血]]者」と説明されることも多い。なお、ヨーロッパ白人系と[[インディアン]]や[[インディオ]]との混血を'''[[メスティーソ]]'''、アフリカ系と[[インディオ]]の混血を[[サンボ]]という。アメリカ合衆国ではインディアンと黒人との混血がムラートと呼ばれ、ヨーロッパ系とアフリカ系との混血は、[[ワンドロップ・ルール]]により黒人と呼ばれた。<br />
<br />
この言葉は、[[スペイン語]]および[[ポルトガル語]]で雌[[ラバ]]([[ウマ|馬]]と[[ロバ]]を掛け合わせた品種)を意味する''mula''から来ており、強く侮蔑的な意味を含んでいる<ref>[[ジョアン・マノエル・リマ・ミラ]]「ラテンアメリカにおけるアフリカ系文化」子安昭子/高木綾子(訳)『ラテンアメリカ人と社会』中川文雄/三田千代子 (編)新評論 1995/10</ref>。<br />
<br />
ムラートの多い国は、[[ドミニカ共和国]]や[[キューバ]]、[[プエルトリコ]]など、[[カリブ海]]の国と、[[南アメリカ]]の[[ブラジル]]、[[コロンビア]]、[[ベネズエラ]]、[[中央アメリカ]]の[[パナマ]]、[[エクアドル]]などであり、[[アルゼンチン]]、[[ウルグアイ]]、[[チリ]]、[[ボリビア]]、[[メキシコ]]などにも少数が存在する。<br />
<br />
[[西インド諸島]]の国家でも「世界初の黒人共和国」と呼ばれる[[ハイチ]]では、独立以来国民の約5-10%に当たるムラートがエリート層を形成し、[[フランス]]文化を受け入れてその他大勢の黒人に対して文化的、経済的に圧倒的に優位に立っている。<br />
<br />
== アフリカ ==<br />
[[ポルトガル語]]圏アフリカ諸国では、[[メスティーソ|メスチーソ]](''mestiço'')の用語が、公式にヨーロッパ人とアフリカ人の祖先を併せ持つ人々を表すのに使用されてきた。しかしながら、ムラートとの用語は広く用いられ、もはや侮蔑的な含みを持たない。<br />
<br />
[[サントメ・プリンシペ]]の193,413人の住人の大部分はメスチーソと定義される<ref>{{cite web|url=http://www.infoplease.com/ipa/A0107943.html|title=São Tomé and Príncipe|work=Infoplease|publisher=Pearson Education, Inc|accessdate=2008-07-14}}</ref>。[[カーボ・ヴェルデ]]の人口の71%もまた同様に定義される<ref>{{cite web|url=http://www.infoplease.com/ipa/A0107395.html|title=Cape Verde|work=Infoplease|publisher=Pearson Education, Inc|accessdate=2008-07-14}}</ref>。現在のその地の大多数の人口は15世紀の少し後に初めて諸島に定住した[[ポルトガル人]]と、[[アフリカ]]大陸本土から奴隷として働かせられるために連行された黒人の混血を遺伝している。<br />
<br />
[[アンゴラ]]と[[モサンビーク]]では、彼等は少数派だが、未だに重要なマイノリティを構成している。アンゴラでは人口の2%を占め<ref>{{cite web|url=http://www.infoplease.com/ipa/A0107280.html|title=Angola|work=Infoplease|publisher=Pearson Education, Inc|accessdate=2008-07-14}}</ref>、モサンビークでは人口の0.2%を占める<ref>{{cite web|url=http://www.infoplease.com/ipa/A0107804.html|title=Mozambique|work=Infoplease|publisher=Pearson Education, Inc|accessdate=2008-07-14}}</ref>。<br />
<br />
アフリカ唯一の[[スペイン語]]を公用語とする国家である[[赤道ギニア]]には、[[フェルナンディノ]]と呼ばれるムラートの集団が存在する。<br />
<br />
== アメリカ合衆国 ==<br />
ムラートは1930年まで公式のカテゴリとしてセンサスに存在していた。[[アメリカ合衆国南部]]では、ムラートは母親が黒人奴隷だった場合、奴隷としての地位を受け継いだ。自由ムラートとして、南部の[[南北戦争]]より先にスペインとフランスの影響を受けた地域(特に[[ニューオーリンズ]]、[[ルイジアナ]])では、多くのムラート達は自由身分で、奴隷を所有していた<ref>{{cite web |url=http://backintyme.com/essays/?p=17 |publisher=Backintyme Essays |work=Essays on the Color Line and the One-Drop Rule|title=Barbadian South Carolina: A Class-Based Color Line|last=Sweet|first=Frank W.|date=2005-06-01|accessdate=2008-07-14}}</ref>。けれどもヨーロッパ白人とアフリカ黒人の遺伝を持つ個人を見出すことは容易であり、当初は誰もが混血エスニシティについて言及した、事実、アメリカ合衆国では、初期のセンサスの間では「ムラート」はしばしば白人と[[インディアン]]の血統を持つ人を指す用語としても使われた<ref name=autogenerated1>{{cite web |url=http://racerelations.about.com/od/skillsbuildingresources/g/mulattodef.htm |publisher=About.com|work=Race Rekations|title=Mulatto - An Invisible American Identity|accessdate=2008-07-14}}</ref><ref>{{cite web |url=http://www.mitsawokett.com/Introduction.html |title=Introduction|publisher=Mitsawokett: A 17th Century Native American Community in Central Delaware|accessdate=2009-06-9}}</ref><ref>{{cite web |url=http://www.mitsawokett.com/Plecker.htm |title=Walter Plecker's Racist Crusade Against Virginia's Native Americans |publisher=Mitsawokett: A 17th Century Native American Settlement in Delaware|accessdate=2008-07-14}}</ref><ref>{{cite web |url=http://heite.org/Invis.indians1.html |title=Introduction and statement of historical problem|work=Delaware's Invisible Indians|last=Heite|first= Louise|accessdate=2008-07-14}}</ref>ムラートはまた「ターク」(turk)-多くの北アメリカ人と[[中東]]人を言及する際に更なる曖昧さを導く用語-のような用語と交換が効く言葉として使われた<ref>{{cite web |url=http://www.pbs.org/wgbh/pages/frontline/shows/secret/famous/vansallees.html |publisher=PBS Frontline|last=de Valdes y Cocom|first=Mario| work=The Blurred Racial Lines of Famous Families|title=The Van Salee Family|accessdate=2008-07-14}}</ref><br />
<br />
加えて、「ムラート」は[[イギリス東インド会社|東インド会社]]によってイギリス領アメリカ植民地にもたらされた[[南アジア]]人の年季奉公人と国際結婚した白人の子孫についてもまた用いられた。例えば、[[インド系アメリカ人|東インド人]]の父と[[アイルランド系アメリカ人]]の母の間に1680年の[[メリーランド]]で生まれたユーラシア系の娘は、「ムラート」として分類され、奴隷として売り飛ばされた<ref>{{cite web|author=Francis C. Assisi|title=Indian-American Scholar Susan Koshy Probes Interracial Sex|year=2005|publisher=INDOlink|url=http://www.indolink.com/displayArticleS.php?id=111605054006|accessdate=2009-01-02}}</ref>。<br />
<br />
==過剰な差別==<br />
また奴隷解放後の19世紀後半からは、ある白人至上主義者が白人と黒人の混血であっても、たとえ「一滴(1/32-1/64)」でも黒人の血を引いていれば、法律上は黒人だという意見から「[[w:One-drop rule|一滴規定]]」が各州で適用されていたこともあった。<br />
<br />
==著名なムラート==<br />
===アメリカ合衆国===<br />
* [[バラク・オバマ]] - 第44代アメリカ合衆国大統領<br />
<br />
===アルゼンチン===<br />
* [[ロセンド・メンディサーバル]] - [[タンゴ]]の作曲家<br />
* [[オラシオ・サルガン]] - [[タンゴ]]の作曲家でモダンタンゴの創始者<br />
<br />
===キューバ===<br />
* [[フルヘンシオ・バティスタ]] - 第17代キューバ大統領、[[キューバ革命]]で失脚<br />
<br />
===ジャマイカ===<br />
* [[ボブ・マーリー]] - [[レゲエ]]歌手<br />
<br />
===ハイチ===<br />
* [[アレクサンドル・ペション]] - 初代[[ハイチ共和国]]大統領<br />
<br />
===ブラジル===<br />
* [[マシャード・デ・アシス]] - 文学者<br />
<br />
===フランス===<br />
* [[トマ=アレクサンドル・デュマ]] - [[フランス革命戦争]]中の軍人。作家の[[大デュマ]]の父親。<br />
* [[ジョゼフ・ブローニュ・シュヴァリエ・ド・サン=ジョルジュ]] - 音楽家<br />
<br />
===ベネズエラ===<br />
* [[ウゴ・チャベス]] - 第53代ベネズエラ大統領<br />
<br />
===メキシコ===<br />
* [[ビセンテ・ゲレロ]] - 第2代メキシコ大統領<br />
<br />
===モザンビーク===<br />
* [[ジョゼ・クラヴェイリーニャ]] - 詩人<br />
<br />
== 脚註 ==<br />
{{脚注ヘルプ}}<br />
<references /><br />
<br />
== 参考文献 ==<br />
* [[ジョアン・マノエル・リマ・ミラ]]「ラテンアメリカにおけるアフリカ系文化」子安昭子/高木綾子(訳)『ラテンアメリカ人と社会』中川文雄/三田千代子 (編)新評論 1995/10(ISBN 4-7948-0272-2)<br />
<br />
== 関連項目 ==<br />
*[[人種]] - [[人種差別]]<br />
*[[クレオール]]<br />
*[[混血]]<br />
*[[パルド]] - ブラジルではムラート/ムラータという呼び方をせず、混血者層一般を「褐色」を表すパルドと呼ぶ。<br />
*[[メスティーソ]]<br />
*[[カラード (南アフリカ共和国)]]<br />
*[[ブラック・セミノール]]<br />
*[[ブラック・インディアン]]<br />
*[[バラク・オバマ]]<br />
*[[デレク・ジーター]]<br />
*[[ムラト]]<br />
<br />
<br />
{{人種}}<br />
{{DEFAULTSORT:むらと}}<br />
[[Category:ラテンアメリカの民族]]<br />
[[Category:民族集団]]<br />
[[Category:人種]]<br />
{{South-america-stub}}<br />
{{Central-america-stub}}<br />
{{Africa-stub}}</div>
113.36.250.10
トルクメニスタン・マナト
2018-04-22T10:32:54Z
<p>113.36.250.10: </p>
<hr />
<div>{{Infobox Currency<br />
| currency_name_in_local = Türkmen manady <small>{{tk icon}}</small><br />
| iso_code = TMT<br />
| image_1 = <br />
| image_title_1 = <br />
| image_width_1 = <br />
| using_countries = {{flagicon|Turkmenistan}}トルクメニスタン<br />
| inflation_rate = 11%<br />
| inflation_source_date = ''[https://www.cia.gov/library/publications/the-world-factbook/fields/2092.html The World Factbook]'', 2006年推計<br />
| subunit_ratio_1 = 1/100<br />
| subunit_name_1 = テネシ<br />
| symbol = m<br />
| plural = マナト<br />
| plural_subunit_1 = <br />
| used_coins = 1, 2, 5, 10, 20, 50 テネシ (テンゲ), 1, 2 マナト<br />
| used_banknotes = 1, 5, 10, 20, 50, 100, 500 マナト<br />
| issuing_authority = {{仮リンク|トルクメニスタン中央銀行|en|Central Bank of Turkmenistan}}<br />
| issuing_authority_website =<br />
}}<br />
<br />
'''マナト'''([[トルクメン語]]: '''manat''')は、[[トルクメニスタン]]の通貨。補助単位は'''テネシ'''([[トルクメン語]]: tennesi、{{lang-ru|тенге}}<small>テンゲ</small>、1マナト=100テネシ)。[[1993年]][[11月1日]]に[[ソビエト連邦ルーブル]]と500ルーブル=1マナトのレートで交換され、発行が開始された。[[2009年]][[1月1日]]には新マナトが導入された。<br />
<br />
[[マナト]]とはロシア語で硬貨を意味するモネタ({{lang-ru|монета}}、Moneta)からの借用語である。旧[[ソビエト連邦|ソ連]]時代には、ルーブル紙幣の裏側に[[トルクメン語]]と[[アゼルバイジャン語]]でマナトと書かれていた。<br />
<br />
==トルクメニスタン・マナト (1993年)==<br />
1993年に1、5、10 、20 、50テネシ硬貨が発行された。 1、5、10 テネシは銅メッキの鉄で、20 、50テネシはニッケルメッキの鉄で作られた。[[インフレーション]]により、[[1999年]]には500マナト及び1000マナト硬貨が鋳造された。どの硬貨にも、国父であるとされた[[サパルムラト・ニヤゾフ]]大統領の肖像がデザインされていた。<br />
<gallery><br />
Image:1 Tennesi TM 1993.png|1テネシ硬貨<br />
Image:5 Tennesi TM 1993.png|5テネシ硬貨<br />
Image:10 Tennesi TM 1993.png|10テネシ硬貨<br />
</gallery><!-- This is intentional for 1024 × 768 screen --><br />
<gallery><br />
Image:20 Tennesi TM 1993.png|20テネシ硬貨<br />
Image:50 Tennesi TM 1993.png|50テネシ硬貨<br />
</gallery><br />
<br />
紙幣は、1993年に1、5、10 、20、 50 、100 、500マナトが発行された。[[1995年]]には1000マナトが、[[1996年]]には5000マナトと10000マナトが発行された。[[2005年]]には、新デザインの50, 100, 500, 1000, 5000、 10,000マナトが新たに発行された。すべての紙幣には、やはり硬貨と同じように国父であるとされたニヤゾフ大統領の肖像がデザインされていた。<br />
<br />
==トルクメニスタン・マナト (2009年)==<br />
[[2009年]][[1月1日]]、インフレを理由として5000分の1の[[デノミ]]が行われ、それに伴い新しいマナト紙幣及び硬貨が発行された。新通貨は1, 2, 5, 10, 20, 50 テネシ硬貨1, 5, 10, 20, 50, 100, 500 マナト紙幣が発行された。及び新マナトでは最高額紙幣である500マナトにのみ故ニヤゾフ大統領の肖像が使用され、それ以外はトルクメニスタンの歴史に関わる新たなデザインが採用された。<br />
<br />
==関連項目==<br />
*[[アゼルバイジャン・マナト]]<br />
*[[トルクメニスタンの銀行の一覧]]<br />
<br />
==外部リンク==<br />
*[http://www.cbt.tm/ トルクメニスタン中央銀行・公式サイト]<br />
*[http://www.banknotenews.com/files/tag-turkmenistan.html 新紙幣デザイン]<br />
<br />
{{Exchange Rate|TMT|TRY|AZN|IRR|KZT}}<br />
<br />
{{トルクメニスタン関連の項目}}<br />
{{アジアの通貨}}<br />
{{デフォルトソート:とるくめにすたんまなと}}<br />
[[Category:各国の通貨]]<br />
[[Category:アジアの通貨]]<br />
[[Category:トルクメニスタンの経済|まなと]]</div>
113.36.250.10
LGVペルピニャン-フィゲラス線
2018-03-31T13:08:34Z
<p>113.36.250.10: </p>
<hr />
<div>{{Infobox 鉄道路線<br />
|路線名=LGVペルピニャン-フィゲラス線<br />
|画像=Barcelona - Perpignan.PNG<br />
|画像サイズ=300px<br />
|画像説明=<br />
|国={{FRA}}<br />{{SPA}}<br />
|起点=[[ペルピニャン]] ([[フランス]])<br />
|終点=[[フィゲラス]] ([[スペイン]])<br />
|駅数=<br />
|開業=[[2010年]]<br />
|廃止=<br />
|所有者=<br />
|運行者=[[フランス国鉄]]<br />
|路線距離=44.4 km<br />
|軌間=1,435 mm<br />
|線路数=複線<br />
|電化方式=交流25kV, 50Hz<br />
|最大勾配=12 [[パーミル|‰]]<br />
|最高速度=300 km<br />
}}<br />
[[File:TGV i la Muga 001.jpg|thumb|250px|ムガ(Muga)橋梁]]<br />
[[File:Estació-Figueres-Vilafant-construction.jpg|thumb|250px|建設中のフィゲラス=ビラファント駅(Estació-Figueres-Vilafant)]]<br />
'''LGVペルピニャン-フィゲラス線'''({{lang-fr-short|LGV Perpignan-Figueres}})は[[フランス]]と[[スペイン]]を結ぶ[[高速鉄道]][[鉄道路線|路線]]である。当路線は国境を挟みフランス、[[ルシヨン]]地方[[ピレネー=オリアンタル県]]の[[ペルピニャン]]とスペイン、[[カタルーニャ州]]の[[フィゲラス]]間44.4kmを結ぶ路線でペルトゥス峠(Perthus)に位置する全長8.3kmのペルトゥストンネル内で国境を越える。<ref name=db />[[2010年]][[12月19日]]の冬期ダイヤより[[パリ]]よりペルピニャン経由でフィゲラスまでの[[TGV]]の運行が開始された。<br />
<br />
== 歴史 ==<br />
建設契約は[[2004年]][[2月17日]]に、フランスの建設会社[[エファージュ (フランスの企業)|エファージュ]]とスペインの[[ゼネコン]]ドラガドス(Dragados)の[[共同企業体]](JV)である'' TP Ferro consortium''に与えられた<ref name=db>{{cite web|url= http://en.structurae.de/projects/data/index.cfm?id=p0000133 |title= Perpignan Figueras High-speed Rail Line|publisher= [[Structurae]]|accessdate= 2009-01-30}}</ref>。JVは当路線の建設を約11億[[ユーロ]]で請負、53年間にわたる運営を行う予定である<ref>{{cite news|url=http://www.railwaygazette.com/nc/news/single-view/view/perpignan-figueres-concession-extended.html|title=Perpignan - Figueres concession extended|date=2009-11-24|accessdate=2010-12-01|work=[[レールウェイ・ガゼット・インターナショナル]]}}</ref>。[[欧州連合]]、フランス政府、スペイン政府からの分担による交付金は5億4千万ユーロであった。試運転は[[2008年]][[11月]]から開始され、西仏国際間の公式の開業は[[2009年]][[2月17日]]であったがフィゲラス側の駅の開業を待って2010年12月まで営業運転は開始されず、12月19日のダイヤ改正をもって営業運行を開始した。<ref name=opening_delayed>{{cite news|url= http://www.la-clau.net/noticia/la-ligne-tgv-perpignan-figueres-livree-dans-10-jours-pour-rien-1781 |title= La ligne TGV Perpignan-Figueres livrée dans 10 jours, pour rien|language= French|accessdate= 2009-02-08|date= 2008-02-04|work= La Clau}}</ref><ref>{{cite news|url= http://www.la-clau.net/noticia/interrogations-sur-les-tarifs-du-tgv-perpignan-figueres-1094|title= Interrogations sur les tarifs du TGV Perpignan-Figueres|language= French|date= 2008-10-10|accessdate= 2009-01-30|work= La Clau}}</ref><ref>{{cite news|url= http://www.railwaygazette.com/news/single-view/view//tunnel-with-no-trains.html|title= Tunnel with no trains|work= [[Railway Gazette International]]|date= 2009-04-15|accessdate= 2009-05-20}}</ref><ref>{{cite news|url=http://www.rtl.fr/actualites/vie-pratique/article/le-tgv-relie-desormais-la-france-et-l-espagne-7644241537|title=Le TGV relie désormais la France et l'Espagne|work=RTL.fr|language=french|date=2010-12-19}}</ref><br />
<br />
== 路線概況 ==<br />
軌間は他の[[LGV]]路線と同様の[[標準軌]]で、電化方式は交流25kv50Hzでフランスとスペイン両国の高速鉄道網を直結する役割を担っている<ref name=rail>{{cite web|url= http://www.railway-technology.com/projects/perpignan/ |title= Perpignan-Figueres Cross-Border Railway, France|accessdate= 2009-01-30}}</ref> <ref name=rail />。当路線は高速列車[[TGV]]、[[AVE]]と貨物列車の両方の混合走行が計画されているため、最大勾配は1.2%である。スペインでは[[広軌]](イベリアゲージ)が広く採用されていることから、当路線を介することによって旅客、貨物共に軌間変更の必要が無くなり速達化が図られる<ref>{{cite web|url= http://histoireduroussillon.free.fr/Thematiques/Batiments/Histoire/TGV.php |title= La ligne TGV de Perpignan|language= French|accessdate= 2009-01-30}}</ref>。西仏間では他にフランスの大西洋岸とスペインのバスク地方や[[ウエスカ]]方面からの連絡も検討されている。<br />
<br />
== フィゲラス=ビラファント駅 ==<br />
当路線はフィゲラスの西側を経由し新駅がビラファント地区に設けられた<ref name=opening_delayed />。計画では既存の路線を迂回させローカル列車を新駅にも乗り入れさせることが出来、既存の町の中心部に近い駅に連絡することが可能である<ref>{{cite web|url= http://www.elperiodico.com/EDICION/ED070306/CAS/CARP01/PDF/g030mR01.PDF |format= PDF|title= Plans for Figurers Vilafant Station|publisher= [[El Periódico de Catalunya]]|language= Spanish|accessdate=2009-01-30}} {{リンク切れ|date=October 2010|bot=H3llBot}}</ref>。<br />
<br />
== 営業運転 ==<br />
2010年12月19日以降、フィゲラスは暫定的な終着駅としてパリより[[LGV地中海線]]経由でTGVが乗り入れている<ref name=tempStation>{{cite web|url= http://www.la-clau.net/noticia/la-gare-tgv-temporaire-de-figueres-sera-prete-en-2010-1910|title= La gare TGV temporaire de Figueres sera prête en 2010|date= 2009-02-26|accessdate= 2009-05-09|work= La Clau|language= French}}</ref>。[[バルセロナ]]方面への連絡は[[レンフェ]]の在来線によって行われている<ref name=Open2014>{{cite web|url= http://www.la-clau.net/info/4141/le-tgv-perpignan-girona-promis-pour-fin-2012-4141 |title= Le TGV Perpignan-Girona, promis pour fin 2012|date= 2010-03-26|accessdate= 2010-07-14|work= laclau|language=French}}</ref>。パリ、フィゲラス間の所要時間は5時間30分程度、バルセロナまでは7時間30分程度となっている。<br />
<br />
== 将来計画 ==<br />
バルセロナ、フィゲラス間は、軌間可変後イベリアゲージのままの連絡される<ref name=ticketsale />。[[マドリード-バルセロナ高速線]]がバルセロナからフィゲラスへ延長される予定で[[2012年]]<ref name=Open2014 /> には[[ジローナ]]、バルセロナ間、パリ、バルセロナ間<ref name=ticketsale>{{cite news|url=http://www.railwaygazette.com/nc/news/single-view/view/tgv-tickets-to-figueres-on-sale.html|work=[[Railway Gazette International]]|title=TGV Tickets to Figueres on sale|date=2010-11-24}}</ref> の運行が開始される予定である。列車の高速化によって、[[マドリード]]からペルピニャン、[[リヨン]]から[[バルセロナ]]等が4時間以下になる計画がある他<ref>{{cite web |url= http://www.elpais.com/articulo/espana/Sarkozy/Francia/tiene/discursos/ETA/elpepuesp/20090428elpepunac_5/Tes#despiece1 |title= A Lyon en AVE a partir de 2012|date= 2009-04-24|accessdate= 2009-05-09|work= [[El País]]|language= Spanish}}</ref>、フランスの在来線を利用しペルピニャン、[[モンペリエ]]の運行も計画される。新たに製造される車両製造費は3億ユーロとされる.<ref>{{cite news | work=Railway Herald issue 205 | url=[http://www.railwayherald.org/magazine/pdf/RHUK/Issue205.pdf] |page=25 | date=2009-12-14}}</ref>。[[2010年]][[5月7日]]に[[ニーム (フランス)|ニーム]]、[[モンペリエ]]間のパイパスルートの入札が開始されると発表された。ニーム、モンペリエ間のバイパスルートはスペインの高速鉄道網とLGV地中海線を接続する最初の段階で、この路線は貨物列車と高速列車の両方が利用する。開業は[[2016年]]以降を予定している。<br />
<br />
== 脚注 ==<br />
{{Reflist}}<br />
<br />
== 関連項目 ==<br />
*[[AVE]]<br />
*[[TGV]]<br />
<br />
{{rail-stub}}<br />
{{france-stub}}<br />
{{spain-stub}}<br />
<br />
{{TGV}}<br />
{{AVE}}<br />
{{DEFAULTSORT:へるひにやんふいけらすせん}}<br />
[[Category:フランスの高速鉄道路線]]<br />
[[Category:スペインの高速鉄道路線]]</div>
113.36.250.10
聖堂
2018-03-23T12:16:58Z
<p>113.36.250.10: </p>
<hr />
<div>'''聖堂''' は[[宗教]][[施設]]の一つである。<br />
<br />
==東アジア文化圏における聖堂==<br />
'''聖堂'''(せいどう)とは、[[聖人]]、[[君子]]を祭った祭礼の場、[[祠]]、[[廟]]である。[[中国]]では、聖人と称えうる政治家、軍人、為政者なども廟に祭られる。[[孔子廟]]、[[関帝廟]]など。国内では、[[横浜市|横浜]]や[[神戸市|神戸]]、[[長崎市|長崎]]の[[中華街]]にも見られる。また、日本文化の中での重要な聖堂としては、[[湯島聖堂]]がある。<br />
<br />
==キリスト教の聖堂==<br />
[[File:Chram.jpg|thumb|260px|right|正教の聖堂の内部の例([[デュッセルドルフ]]の[[生神女庇護教会]]、[[2009年]])。緑色の布を掛けた3つの台([[アナロイ]])に[[イコン]]が置かれている。[[イコノスタシス]]の向こう側に[[至聖所]]がある。右奥の[[祭服]]を着た人物は[[副輔祭]]。正教会の聖堂の内観は、[[西方教会]]のそれとは大きく異なっている。]]<br />
[[File:20050220 113548 christ church vienna interior ni pt.jpg|thumb|140px|right|[[ウィーン]]のキリスト教会。西方教会の聖堂の典型的な内観。]]<br />
転じて、'''聖堂'''(せいどう)は[[キリスト教]]での礼拝施設の名称で、[[ミサ]]・[[聖体礼儀]]や種々の典礼儀式が行われる建物のこと。特定の[[宗教的共同体|信徒共同体]](教会)の拠点として用いられる点で、個人宅や施設に付属し信仰共同体とつながりのない[[礼拝堂]]とは区別される。[[カトリック教会|カトリック]]、[[正教会]]、[[聖公会]]などの教派でこの名称を用い、[[プロテスタント]]教派では相当する施設を[[教会堂]]等と呼ぶことが多い。<br />
<br />
カトリックでは、地方の教会([[教区]])の中心で教区を治める[[司教]]が司式するための着座椅子(司教座)が置かれる聖堂を[[司教座聖堂]]という。同様に正教会・聖公会では[[主教]]が司式するための着座椅子が置かれる聖堂を[[主教座聖堂]]という。カトリック・聖公会では、司教座聖堂・主教座聖堂は[[大聖堂]]とも呼ばれる。<br />
<br />
{{See also|教会堂|大聖堂の一覧}}<br />
<br />
ある建築を聖堂として使うためには、多く特別の儀式を要する。これを献堂式、聖堂[[成聖式]]などという。<br />
<br />
日本のカトリック信徒は、会話の中で半ば指示代名詞的に特定される(現在話題の)聖堂のことを「御御堂(おみどう)」と呼ぶことも多いが、これはあくまでも話し言葉に限られる通称のようなもので近年は本来の「聖堂」と呼ぶこともある。他教派ではカトリックの聖堂を指してはこの用法に準拠するが、自派の施設には適用しない。<br />
<br />
信徒共同体を本来意味する「教会」の語も、俗には、聖堂を指すものとしてしばしば用いられる。<br />
<br />
しばしば聖堂は[[聖書]]中の事件・[[聖人]]などを記憶(記念)し、捧げられる。たとえば「[[サン・ピエトロ大聖堂]]」は使徒[[ペトロ]]を記憶する。「[[復活大聖堂]]」はキリストの復活を記憶する。聖人崇敬を行う教派にあっては、聖堂が捧げられた聖人はその堂の守護聖人となる。そしてその聖人(出来事を記憶する場合はその出来事のための記憶日)の記憶のための祭が、その堂の堂祭となる。<br />
<br />
[[東方教会]]においては、聖堂は必ず[[東]]を向いて建てられる。この制限は最初西方でも尊ばれていたが、その後あまり省みられなくなった。<br />
<br />
大規模な聖堂には、複数の礼拝施設を内部ないし外部付属設備としてもつものがある。これを「小聖堂」や「(小)[[礼拝堂]]」といい、聖堂本体を使うほど規模の大きくない礼拝などに用いられる。<br />
<br />
多くの聖堂には、礼拝用空間に隣接または近接して事務所や信徒の集会施設、[[司祭]]の居住施設が設けられる。納骨堂が設けられることもある。日本には多くないが、墓地が付属することもある。<br />
<br />
==外部リンク==<br />
*[http://www.orthodoxjapan.jp/tebiki/katachi02.html かたち-正教会の手引き 日本正教会(聖堂の項)] - 正教会における聖堂の説明<br />
<br />
{{DEFAULTSORT:せいとう}}<br />
[[Category:キリスト教の教会|*]]<br />
[[Category:教会建築|*]]<br />
[[Category:宗教施設]]<br />
[[Category:教会論]]<br />
[[Category:カトリック|せいとう]]</div>
113.36.250.10
アメリカン・コーヒー
2018-03-20T12:37:02Z
<p>113.36.250.10: /* 由来 */</p>
<hr />
<div>'''アメリカン・コーヒー'''とは、浅く[[焙煎]]した[[コーヒー豆]]で入れた[[コーヒー]]<ref>{{Cite web |url=http://www.ucc.co.jp/enjoy/knowledge/dictionary/dictionary_g-5-4.html#sec01 |title=「コーヒー用語辞典」|publisher=[[UCC上島珈琲]] |accessdate=2012-06-07}}</ref>。'''アメリカン'''とも呼ばれるが[[アメリカーノ (コーヒー)|アメリカーノ]]とはまた違ったコーヒー。[[和製英語]]で「アメリカン」は「濃度が薄い」という意味に拡大してきた<ref>[[名古屋市|名古屋]]周辺などで食される[[台湾ラーメン]]には、辛さが柔らかい「台湾ラーメン・アメリカン」なる調理法が存在する。</ref>。<br />
<br />
== 特徴 ==<br />
[[アメリカ合衆国]]式の8段階で表示されるコーヒー豆焙煎度分類法で、焙煎度が低いシナモンロースト(浅煎り)やミディアムロースト(やや浅めの中煎り)の豆を使って、[[パーコレータ]]などの[[コーヒーメーカー]]で多めのお湯でいれる点が特徴である。[[アメリカ西部]]の方が浅煎りの豆を使用し、東部の方が深めに焙煎した豆を使用する傾向がある<ref name="事典"/>。味わいとしては、浅煎り豆を使用しているため、[[苦味]]よりも[[酸味]]が強い味わいとなる。一般的には[[砂糖]]、[[牛乳|ミルク]]などは入れずにブラックコーヒーと呼ばれる状態で飲む<ref name="事典">[[伊藤博 (コーヒー研究家)|伊藤博]]『コーヒー事典』1994年、p.69</ref>、という俗説が日本では長く流布していたが、現実には65%以上<ref>[http://www.statisticbrain.com/coffee-drinking-statistics/ Coffee Drinking Statistics]</ref>のアメリカ人はミルクと砂糖を加えてコーヒーを飲む。浅煎りのアメリカンコーヒーでは豆本来のよい香りとさっぱりした味を楽しむことができるので[[軟水]]を用いることが望ましい<ref name="column">[http://www.cosmowater.com/fun/column/column_vol5.html 軟水と硬水について]</ref><ref>[http://aissy.co.jp/ajihakase/blog/archives/7866 硬水・軟水で料理の味が変わる]</ref><ref name="minekyo">[http://minekyo.net/publics/index/7/detail=1/c_id=20 軟水、硬水はどのように使い分けされているのでしょうか。]</ref>。<br />
<br />
通常のコーヒーをお湯割りにしたものを「アメリカン・コーヒー」と認識している人達が見られるが、こうした見方は正確な認識とは言えない。<br />
<br />
== 呼称 ==<br />
このアメリカン・コーヒーという名称は、日本で使われる呼称であって、世界基準となる珈琲鑑定士用語には存在していない。また、アメリカ人は自国のコーヒーについて「アメリカンコーヒー」と呼称しない<ref name="事典"/><ref>[[アーサー・ビナード]]の『亜米利加ニモ負ケズ』([[日本経済新聞出版社]])は「米国産の豆で作れば、American Coffeeになる。[[ハワイ]]の[[コナ (ハワイ島)|コナ]]コーストで栽培される[[コナコーヒー|Kona coffee]]はそう呼んでいい。けれど「薄めにいれたコーヒー」という意味で、アメリカ人はAmericanとはいわない」と書いている。</ref>し、21世紀のアメリカでは[[スターバックス]]に代表される[[シアトル系コーヒー]]などの[[エスプレッソ]]等も好んで飲まれるようになっている。<br />
<br />
== 由来 ==<br />
{{出典の明記|date=2012年6月|section=1}}<br />
由来としては、「[[1964年]]東京:[[西新橋|芝田村町]]の、とある石油会社ビル内の地下で営業している某喫茶店において、日本のコーヒー(当時深煎りが主流であった)を何杯でも飲めるようにというアメリカ駐在帰りの会社員の客からのリクエストに応え、コーヒーカップより一回り大きいミルクカップにコーヒー豆の量を少なめにして淹れることで、浅煎りのコーヒーに見立てた」という説や、「[[1966年]]に設立された[[日本珈琲販売共同機構]]を本部とする珈琲専門店フランチャイズ『[[コーヒーハウスぽえむ]]』が日本(世界的にも)で初めてメニューとして登場させた」など複数の説が存在する。<br />
<br />
大森洋平『考証要集』([[文春文庫]])にはミリタリー・ライターの菊月俊之の説が紹介されている。「これは第二次大戦中、米国内でもさすがに物資が不足したために、コーヒー豆の節約法として考案された飲み方という(『月刊コンバットマガジン』2011年)」。<br />
<br />
== 脚注 ==<br />
<references/><br />
<br />
== 参考文献 ==<br />
*[[伊藤博 (コーヒー研究家)|伊藤博]] 『コーヒー事典』 [[保育社]](カラーブックス)、1994年12月、ISBN 4586508698<br />
<br />
== 関連項目 ==<br />
*[[アメリカーノ (コーヒー)|アメリカーノ]]<br />
<br />
{{コーヒー}}<br />
{{food-stub}}<br />
<br />
{{DEFAULTSORT:あめりかんこおひい}}<br />
[[Category:和製英語]]<br />
[[Category:コーヒー]]</div>
113.36.250.10
旗
2018-03-03T13:25:20Z
<p>113.36.250.10: /* 関連項目 */ 仮リンク込みの単語を追加</p>
<hr />
<div>{{otheruses|何らかの目印やシンボルとして掲示されるもの}}<br />
{{出典の明記|date=2013年2月14日 (木) 11:24 (UTC)}}<br />
[[画像:Flag_of_Brazil.svg|thumb|ブラジルの国旗]]<br />
[[画像:Flag_of_Nepal.svg|thumb|180px|ネパールの国旗]]<br />
'''旗'''(はた)は、[[布]]や[[紙]]など薄い[[素材]]を用いて、主に[[竿]]の先端に付けて空中に掲げたものである。竿以外には綱などに付ける場合がある。<br />
<br />
== 概要 ==<br />
旗は、何らかの目印や[[シンボル]]として掲示されるもので、視認性や他と識別されるために意匠が凝らされた布である。風雨によってほつれたりちぎれたりしないよう、多くは補強が施されており、特に綱や竿に結び付ける部分は念入りに補強されている。旗はもっぱら目に付く高いところに掲揚される。<br />
<br />
その用途によって様々な機能が付与された旗も多い。[[国家]]や[[コミュニティ]]などグループの象徴(シンボル)としての旗や、装飾用の旗は美しい色合いを使い、図案や色に意味をもたせるなどの意匠が施されている。[[通信]]用や識別用の旗は、他との識別性を重視して、風で多少歪んでいても、見間違えないような共通化されたデザインが施されている。<br />
<br />
シンボルとしての意味を持つ旗は、様々な儀式で様々な扱い方がなされる。例えば[[優勝旗]]は、一種の記念品として扱われる。また、同じ旗でも扱い方によって込められた意味が違う。例えば[[半旗]]は弔意という意思を表明する意味を持ち、[[国家の象徴]]である[[国旗]]を同列に繋げた[[万国旗]]は、[[平和|世界平和]]や国際協力を願う意味を持つ。<br />
<br />
== 歴史 ==<br />
{{節stub}}<br />
<br />
== 旗の形式 ==<br />
* 掲揚旗<br />
*: 掲揚台やポールなどに取り付けて用いる大型の旗。<br />
* 卓上旗<br />
*: 机上に置いて用いる小型の旗。<br />
* [[手旗]]<br />
*: 手で持って用いる旗。<br />
* 車旗<br />
*: 自動車のボンネットなどに取り付ける旗。<br />
* [[バナー (旗)|バナー]]<br />
* [[ペナント]]<br />
* [[幟]]<br />
* 連続旗<br />
*: 万国旗のようにロープに多数の旗を連続して結び付けたもの。三角旗や半円旗の連続旗もある。<br />
* [[ゲートフラッグ]]<br />
*: 布の両端にポールが設置された、両手で頭上に掲げる形の旗。<br />
<br />
== 旗の機能 ==<br />
旗の機能として、以下のものがあげられる。<br />
*遠距離からでも視認できるようにするため<br />
*[[情報]]の伝達手段<br />
*実績を[[表彰]]する、あるいは順位を表す(優勝旗、準優勝旗、等旗、等級旗)<br />
*所有者が所属する集団の識別<br />
*集団の[[アイデンティティ]]の拠りどころ(部隊旗など)<br />
*慶弔の意の表明<br />
*目印<br />
*装飾<br />
<br />
== 旗の持つ意味 ==<br />
[[ファイル:Flags onu geneva2.jpg|thumb|[[国際連合]]に集う加盟国の[[国旗]]]]<br />
[[ファイル:ボダナート(Boudhanath)ブッダアイImg292.jpg|thumbnail|[[チベット仏教]]で使われる[[タルチョー]]も旗の一種である。]]<br />
[[ファイル:Hyakken-taki-hudoson,百間滝不動尊の幟-P8161927.jpg|thumb|right|日本の[[神社]]などの宗教施設でよく見られる[[幟]]]]<br />
[[ファイル:Akashi-uontana,2010年末-魚の棚商店街 DSCF0215.JPG|thumb|right|大漁旗]]<br />
装飾目的の旗の一部を除けば、位置や図案によって何らかの意味を保有している。<br />
<br />
; '''位置による意味'''<br />
* [[手旗]] - 航海士や[[スポーツ]]競技の審判が使う手旗は、位置により様々な意味を持たせた代表的な例である。手旗を揚げる者は1つまたは種類の違う2つの旗を持ち、上げ下げや腕との組み合わせたポーズを予めルールや規約にとりまとめ、旗を見るものに視覚的に情報を伝える。<br />
* [[半旗]] - 弔意を表すために旗の布部分を竿の中ほどまで掲げたもの。詳しくは該当項目を参照のこと。<br />
* 単純な2値(真偽)の伝達 - 予め取り決めた命題が[[真]]であるか[[偽]]であるかを伝える。コンピュータアーキテクチャにおける[[フラグ (コンピュータ)|フラグ]]の語源はここからきている。<br />
* 応援団旗 - 往々にして大きな旗であり、棹を左右に振って翻らせ、応援する意思を知らしめる。<br />
; '''図案による意味'''<br />
* 国旗を含む団体を表す旗 - 旗の立つ場所や持つものがその図案が示す団体に帰属していることを表す。様々な団体旗が集合している場合、掲げられた団体が一堂に会していることを示している(但し、[[万国旗]]は装飾の意味合いが色濃いことがある)。詳しくは[[国旗]]、[[校旗]]などを参照のこと。<br />
* [[優勝旗]] - 団体競技の大会で、優勝したチームに贈られることがある。<br />
* [[白旗]] - 降参を表明するときに使われる。<br />
* [[大漁旗]] - 元来は[[漁船]]に掲げて、帰港時に漁獲高が多かったことを知らせる目的で使われた。新しく漁船をあつらえた際に親しい人から贈られる。一般に吉祥文様が描かれ、[[結婚]]など船の新調以外でも祝いの品として贈られることがある。<br />
* 安全旗 - [[緑十字]]が描かれている旗。工事現場等で掲げられる。<br />
* その他、文字を図案に施し、施した文字の意味を旗に持たせることが多い。<br />
; '''立てられた場所による意味'''<br />
* 目印<br />
* [[旅行代理店]]等の[[添乗員]]が持つ手旗 - [[パッケージツアー]]等で、団体行動の目印として使われる。<br />
* [[ゴルフ場]]の旗(ピン) - グリーン上のホールの位置を示す。<br />
; '''色彩による意味'''<br />
* [[鉄道]]等交通機関の運行に際して、[[信号機]]の代用として手旗により進路の状況の伝達手段として使われる(赤旗を振る=止まれ等)。<br />
* 同様に、工事中の箇所で、工作機械や進来物から安全な場所に退避が完了していることを示すため「白旗」が使われることもある。<br />
<br />
== 旗の付属品 ==<br />
=== 旗への装着品 ===<br />
以下、旗と組み合わせて用いる装着品について述べる。<br />
*[[竿頭綬]] - 主に消防などの分野では消防隊や消防団の部隊が功績や実績を挙げた場合、上位組織はその部隊に対して竿頭綬を授与する。竿頭綬は部隊の旗の上部(竿頭)に付けるもので、その部隊の実績を明らかにする。<br />
*[[ペナント]] - 竿頭に取り付ける細長い旗。優勝旗の歴代優勝者(優勝団体)の銘を記したものが馴染み深い。<br />
*喪章(弔旗) - 半旗と同様に弔意を表す。黒布で竿頭(普通は慶事の際に揚げるので金色の玉が付いていることが多い)や旗そのものを覆うか、黒布のリボン(ペナント)を旗の上部に付ける。構造上の問題で半旗に出来ない旗に用いられる。<br />
<br />
=== その他 ===<br />
*旗棒(ポール) - 旗を掲揚するための棒。後述の旗索と滑車が付いているものが多い。<br />
*旗竿 - 旗を掲揚するための棒のなかで細めのもの、または人が手に持って掲げるもの。旗棒の中で、恒久設置されないものがこのように呼ばれることが多い。 旗棒のように旗索と滑車を持たず、旗を結ぶための輪(環)がついている。<br />
*旗頭(竿頭) - 旗棒の先端に付ける飾り部品。球状、剣状、[[槍]]([[鉾]])状のものがあり、剣状や槍状のものは軍事組織において長槍に旗を着けて掲げたことを模したものである。<br />
*旗索 - 旗棒に旗を掲げる際に用いるロープ、もしくはワイヤ。旗棒についている滑車に旗索を通してこれに旗を結び、索を引き上げる事によって結んだ旗を掲揚する。<br />
*石突(いしづき) - 旗竿の下端(後端)に取り付けられている金具。装飾用途の他に、竿を地面に立てた際に安定させ、竿の破損を防ぐ。<br />
*スタンド(三脚台、五脚台) - 旗竿を地上に設置した際に用いる。<br />
*帯革バンド - 旗を持っての行進時や[[応援団]]が応援する時に使う。これを用いて旗手と旗竿を結ぶことにより、重い旗竿を安定して持つことができる。<br />
<br />
== 関連項目 ==<br />
{{wiktionary}}<br />
{{commonscat|Flags}}<br />
{{Wikidata property |1=P163 |2=旗}}<br />
*[[旗の一覧]]<br />
**{{仮リンク|色数による旗の一覧|en|List of flags by number of colors}}<br />
*[[旗章学]]<br />
**[[旗章学用語]]<br />
*[[国旗]]<br />
**[[国旗の一覧]]<br />
***{{仮リンク|デザインによる国旗の一覧|en|List of national flags by design}} <br />
*[[船旗]]<br />
**[[商船旗]]<br />
**[[軍艦旗]]<br />
**[[国際信号旗]]<br />
**[[船首旗]]<br />
*[[軍旗]]<br />
*[[赤旗]]<br />
*[[仏旗]]<br />
*[[旗指物]]<br />
*[[幟]]<br />
*[[幡]]<br />
*[[ブンチューク]]<br />
*[[馬印]]<br />
*[[竿頭綬]]<br />
*[[手旗信号]]<br />
*[[旗揚げゲーム]]<br />
*[[幕]]<br />
*[[吹流し]]<br />
*[[印]]<br />
*[[レース旗]]<br />
*[[社旗]]<br />
*[[校旗]]<br />
*[[レインボーフラッグ]]<br />
*[[緑十字]]<br />
**[[安全旗]]<br />
**[[衛生旗]]<br />
**[[安全衛生旗]]<br />
<br />
{{Textile-stub}}<br />
{{Authority control}}<br />
{{DEFAULTSORT:はた}}<br />
[[Category:旗|*]]<br />
[[Category:旗章学]]</div>
113.36.250.10
ベリーズ
2018-02-17T17:13:40Z
<p>113.36.250.10: /* 文化 */</p>
<hr />
<div>{{Otheruses|中央アメリカの国}}<br />
{{基礎情報 国<br />
|略名 =ベリーズ<br />
|日本語国名 =ベリーズ<br />
|公式国名 ='''{{Lang|en|Belize}}'''<br />
|国旗画像 =Flag of Belize.svg<br />
|国章画像 =[[ファイル:Coat_of_arms_of_Belize.svg|100px|ベリーズの国章]]<br />
|国章リンク =[[ベリーズの国章|国章]]<br />
|標語 =''{{Lang|la|Sub Umbra Floreo}}''<br/>(ラテン語: 木陰の下で栄える)<br />
|位置画像 =BLZ orthographic.svg<br />
|公用語 =[[英語]]<br />
|首都 =[[ベルモパン]]<br />
|最大都市 =[[ベリーズシティ]]<br />
|元首等肩書 =[[ベリーズ国王|女王]]<br />
|元首等氏名 =[[エリザベス2世]]<br />
|首相等肩書 =[[ベリーズ総督|総督]]<br />
|首相等氏名 ={{仮リンク|コルヴィル・ヤング|en|Colville Young}}<br />
|他元首等肩書1 =[[ベリーズの首相の一覧|首相]]<br />
|他元首等氏名1 =[[ディーン・バロウ]]<br />
|面積順位 =147<br />
|面積大きさ =1 E10<br />
|面積値 =22,966<br />
|水面積率 =0.7%<br />
|人口統計年 =2010<br />
|人口順位 =173<br />
|人口大きさ =1 E5<br />
|人口値 =324,528<br />
|人口密度値 =14.1<br />
|GDP統計年元 =2013<br />
|GDP値元 =32億<ref name="imf201410">{{Cite web|url=http://www.imf.org/external/pubs/ft/weo/2014/02/weodata/weorept.aspx?sy=2012&ey=2014&scsm=1&ssd=1&sort=country&ds=.&br=1&c=339&s=NGDP%2CNGDPD%2CNGDPDPC%2CPPPGDP%2CPPPPC&grp=0&a=&pr.x=43&pr.y=5|title=World Economic Outlook Database, October 2014|publisher=[[国際通貨基金|IMF]]|language=英語|date=2014-10|accessdate=2015-01-02}}</ref><br />
|GDP統計年MER =2013<br />
|GDP順位MER =166<br />
|GDP値MER =16億<ref name="imf201410" /><br />
|GDP統計年 =2013<br />
|GDP順位 =166<br />
|GDP値 =28億<ref name="imf201410" /><br />
|GDP/人 =8,013<ref name="imf201410" /><br />
|建国形態 =[[独立]]<br/>&nbsp;- 日付<br />
|建国年月日 =[[イギリス]]より<br/>[[1981年]][[9月21日]]<br />
|通貨 =[[ベリーズ・ドル]]<br />
|通貨コード =BZD<br />
|時間帯 =-6<br />
|夏時間 =なし<br />
|国歌名 =自由人の土地<br />
|ISO 3166-1 = BZ / BLZ<br />
|ccTLD =[[.bz]]<br />
|国際電話番号 =501<br />
|注記 =<br />
}}<br />
'''ベリーズ'''は、[[中央アメリカ]]北東部、[[ユカタン半島]]の付け根の部分に位置する[[英連邦王国]]の一国たる[[立憲君主制]][[国家]]である。北に[[メキシコ]]と、西に[[グアテマラ]]と国境を接し、南東には[[ホンジュラス湾]]を挟んで[[ホンジュラス]]があり、東は[[カリブ海]]に面する。首都は[[ベルモパン]]。<br />
<br />
美しい[[海]]と[[サンゴ礁|珊瑚礁]]に恵まれ、「カリブ海の宝石」と呼ばれている。ベリーズ最大の島アンバーグリス・キーをはじめ、海岸線に沿って約450の離島があり、リゾート地として知られる。<br />
<br />
== 国名 ==<br />
正式名称は、'''{{Lang|en|Belize}}'''({{IPA-en|bəˈliːz||En-us-Belize.ogg}} ベ'''リ'''ーズ)。スペイン語表記は、'''Belice'''(ベリーセ)。<br />
<br />
日本語の表記は、'''ベリーズ'''。<br />
<br />
旧称は、'''イギリス領ホンジュラス''' ('''{{Lang|en|British Honduras}}''')。[[1973年]]改称。<br />
<br />
国名の由来は[[マヤ語]]で「泥水」を意味する言葉から来ているとされている。<br />
<br />
== 歴史 ==<br />
{{Main|ベリーズの歴史}}<br />
<br />
[[ファイル:Map of West Indies and Central America (1888).jpg|thumb|left|[[19世紀]]末の[[カリブ海]]沿岸地域]]<br />
ヨーロッパ人のアメリカ大陸到達以前、ベリーズを含む[[ユカタン半島]]一帯は[[マヤ文明]]の領域に属していた。[[スペインによるアメリカ大陸の植民地化]]により、ベリーズは{{仮リンク|グアテマラ総督領|en|Captaincy General of Guatemala}}の一部となるが、密林地帯の彼方にあったベリーズ一帯には統治が及ばず、[[17世紀]]以降イギリス人の入植地が形成されていった。[[1862年]]には[[カリブ海]]の[[ジャマイカ]]とともにイギリス領ホンジュラスを形成([[1884年]]に単独の植民地に移行)。[[第二次世界大戦]]以降は独立に向けた動きが進んだものの、ベリーズの領有権を主張する[[グアテマラ]]との対立により難航、[[1981年]]になりようやく独立が実現した。<br />
{{Clearleft}}<br />
== 政治 ==<br />
<!-- ''詳細は[[ベリーズの政治]]を参照'' --><br />
[[政治体制|政体]]は国王を[[元首]]とする[[立憲君主制]]国家である。現在のベリーズ国王は[[イギリス]]女王[[エリザベス2世]]で、その代理人として実権のない[[総督]]がいる。<br />
<br />
[[議会]]は、元老院(上院)と代議院(下院)の[[両院制]](二院制)。下院の定数は、31議席。議員は、国民の直接選挙で選ばれ、任期は5年。前回選挙(2015年11月4日)の結果は、[[民主連合党 (ベリーズ)|民主連合党]] (UDP) 19議席、[[人民連合党 (ベリーズ)|人民連合党]] (PUP) 12議席<ref>[http://www.elections.gov.bz/modules/article_publish/files/files_5751dbfccc313.pdf Elections and Boundaries Department] 2016年10月2日閲覧。</ref>。上院は、12議席。そのうち、6議席を首相が、3議席を野党党首が、残り3議席を宗教団体などが議員を指名する。<br />
<br />
[[首相]]は、下院の第1党党首を総督が任命する。[[議院内閣制]]。<br />
<br />
ベリーズは[[中華民国]]([[台湾]])を承認している。<br />
<br />
== 軍事 ==<br />
{{Main|ベリーズの軍事}}<br />
ベリーズ国防軍は[[陸軍]]のみから成る[[統合軍]]であり、2007年現在現役兵1,050人、予備役700人が所属する。国家安全保障省の下、国防軍と並列する組織に、[[沿岸警備隊]]、出入国管理局、国立科学捜査局がある。<br />
<br />
この他に[[イギリス陸軍]]が30人駐留している。<br />
<br />
== 地方行政区分 ==<br />
[[ファイル:BelizeNumbered.png|thumb|right|160px|ベリーズの州]]<br />
{{Main|ベリーズの行政区画}}<br />
<br />
ベリーズは6つの州に分かれている。<br />
<br />
# [[ベリーズ州]] - [[ベリーズシティ]]<br />
# {{仮リンク|カヨ州|en|Cayo District}} - {{仮リンク|サン・イグナシオ (ベリーズ)|en|San Ignacio, Belize|label=サン・イグナシオ}}及びサンタ・エレナ<br />
# [[コロザル州]] - {{仮リンク|コロザル|en|Corozal Town}}<br />
# {{仮リンク|オレンジウォーク州|en|Orange Walk District}} - [[オレンジウォーク]]<br />
# {{仮リンク|スタンクリーク州|en|Stann Creek District}} - [[ダンリガ]]<br />
# {{仮リンク|トレド州|en|Toledo District}} - [[プンタ・ゴルタ]]<br />
<br />
===主要都市===<br />
{{Main|ベリーズの都市の一覧}}<br />
最大都市は、旧首都の[[ベリーズシティ]]。第2の都市は、[[オレンジウォーク]]。現在の首都[[ベルモパン]]はカヨ州にある。<br />
<br />
== 地理 ==<br />
[[ファイル:Great Blue Hole.jpg|thumb|left|200px|[[ベリーズ珊瑚礁保護区|サンゴ礁保護区]]の[[ブルーホール|グレート・ブルー・ホール]]]]<br />
[[ファイル:Belize Topography.png|thumb|180px|ベリーズの地形]]<br />
<br />
ベリーズは中米の[[ユカタン半島]]の東部に位置し、[[オンド川]]に沿って[[メキシコ]]と[[グアテマラ]]と国境を接し、[[カリブ海]]に面している。国土の大半は未開発の熱帯雨林の原生林である。ベリーズ国土の大半は標高の低い低地だが、南部に[[マヤ山脈]]が[[グアテマラ]]の方に延びており、最高地点はビクトリア・ピーク (1120m)。沿岸部は湿地帯で[[マングローブ]]の森があり、世界第2位の[[サンゴ礁]]がある。<br />
{{Clearleft}}<br />
== 経済 ==<br />
[[File:Belize City Aerial Shots.jpg|thumb|left|最大の都市[[ベリーズシティ]]]]<br />
<br />
[[国際通貨基金|IMF]]の統計によると、[[2013年]]のベリーズの[[国内総生産|GDP]]は16億ドルである。一人当たりのGDPでは4,619ドルであり、隣国との比較では[[グアテマラ]]や[[ホンジュラス]]よりは高いものの、[[メキシコ]]の半分以下の水準にある。<ref name="imf201410" /><br />
<br />
中米の国の中で最も経済の開発が遅れた国である。農作物は[[砂糖]]、[[柑橘類]]、[[バナナ]]など。[[漁業]]は盛んで[[イセエビ]]は年間537tの水揚げがあるが、乱獲によって個体数の激減しているまぐろを巡って、[[まぐろ類保存国際委員会]]に加盟していないベリーズ漁船の操業が問題化した(もっともこれらの漁船は、規制を逃れるために船籍のみを変更した[[台湾]]、[[中華人民共和国|中国]]資本の漁船が殆ど)。豊かな[[木材]]資源もある。1980年代から麻薬[[ギャング]]組織による[[マリファナ]]や[[コロンビア]]産の[[コカイン]]のアメリカ合衆国への密輸による貿易も増えている。[[カリブ共同体]]に加盟している。<br />
{{Clearleft}}<br />
<br />
== 交通 ==<br />
[[ファイル:Bh-map-ja.png|thumb|200px|ベリーズの地図]]<br />
{{See also|ベリーズの鉄道}}<br />
経済の繁栄に従い道路の設備は良くなっているが{{いつ範囲|[[信号機]]はまだあまり設置されていない|date=2015年1月}}。<br />
<br />
主要な空港としては、最大都市[[ベリーズシティ]]近郊に[[フィリップス・S・W・ゴールドソン国際空港]]がある。<br />
<br />
かつては[[鉄道]]路線も存在したが、[[1937年]]に全て廃線となっている。<br />
<br />
== 国民 ==<br />
{{main|{{仮リンク|ベリーズの国民|en|Demographics of Belize}}}}<br />
<br />
===民族===<br />
住民は[[メスティーソ]]が48.7%、17世紀から18世紀に[[アフリカ]]から[[奴隷]]として連れて来られたアフリカ系[[黒人]]がルーツの{{仮リンク|ベリーズ・クレオール|en|Belizean Creole people}}が24.9%、[[マヤ族]]が10.6%、[[西インド諸島|カリブの島々]]から来た黒人と[[カリブ族]]の混血の[[ガリフナ]]が6.1%、その他では[[華人]]や[[白人]]などが9.7%である。<br />
<br />
===言語===<br />
{{bar box<br />
|title=母語話者(ベリーズ)<ref>[http://celade.cepal.org/cgibin/RpWebEngine.exe/PortalAction?&MODE=MAIN&BASE=CPVBLZ2000&MAIN=WebServerMain.inl 2000 Housing and Population Census Belize Central Statistical Office] {{webarchive|url=https://archive.is/20120628225923/http://celade.cepal.org/cgibin/RpWebEngine.exe/PortalAction?&MODE=MAIN&BASE=CPVBLZ2000&MAIN=WebServerMain.inl |date=2012年6月28日 }}</ref><br />
|titlebar=#ddd<br />
|float=right<br />
|bars=<br />
{{bar percent|[[英語]]|lightblue|3.9}}<br />
{{bar percent|[[スペイン語]]|Purple|46.0}}<br />
{{bar percent|[[:en:Belizean Creole|ベリーズ・クレオール語]]|red|32.9}}<br />
}}<br />
言語は公用語は[[英語]]のみだが、母語話者数は3.9%と少なく、一般に[[第二言語]]として用いられる。スペイン語は最も広く話される言語で国民の (46.0%) の母語である他、英語を基盤にアフリカ諸語やスペイン語、先住民諸語が混ざった[[:en:Belizean Creole|ベリーズ・クレオール語]] (32.9%) も日常的に話されている。その他、[[マヤ語]]、[[ガリフナ語]]などが使われている。政府は英語とスペイン語の[[二言語話者|バイリンガル]]の姿勢を強く推し進めており、国民の半数以上は両言語を話すことができる。<br />
<br />
===宗教===<br />
{{See also|ベリーズのイスラム教}}<br />
<br />
宗教は[[カトリック教会|ローマ・カトリック]]が40.1%、[[プロテスタント]]が31.8%、無宗教が15.5%、その他10.3%などとなっている。<ref name="census2010">{{Cite web|url=http://www.sib.org.bz/Portals/0/docs/publications/census/2010_Census_Report.pdf|title=Belize Population and Housing Census 2010|publisher=The Statistical Institute of Belize|language=英語|date=2010|accessdate=2015-01-02|archiveurl=https://web.archive.org/web/20160127084833/http://www.sib.org.bz/Portals/0/docs/publications/census/2010_Census_Report.pdf|archivedate=2016年1月27日|deadurldate=2017年9月}}</ref><br />
<br />
== 文化 ==<br />
[[ファイル:Bluhead Wrasse.jpg|thumb|right|200px|[[ベリーズ珊瑚礁保護区]]]]<br />
<br />
他の中米諸国は[[スペイン]]の植民地だったので[[ラテンアメリカ|ラテン]]文化の影響が強いが、ベリーズは他の中米諸国と異なってイギリスの植民地だったことからイギリスの影響の方が強く、またアフリカ系の黒人系が多いこともあって同じ英語圏の[[ジャマイカ]]など[[西インド諸島|カリブ海諸国]]との結び付きや影響も強い。<br />
<br />
=== 食文化 ===<br />
{{main|{{仮リンク|ベリーズ料理|en|Belizean_cuisine}}}}<br />
<br />
=== 音楽 ===<br />
{{main|{{仮リンク|ベリーズの音楽|en|Music of Belizean}}}}<br />
<br />
=== スポーツ ===<br />
{{main|{{仮リンク|ベリーズのスポーツ|en|Sport_in_Belizean}}}}<br />
<br />
=== 世界遺産 ===<br />
{{Main|ベリーズの世界遺産}}<br />
<br />
ベリーズ国内には、[[国際連合教育科学文化機関|ユネスコ]]の[[世界遺産]]リストに登録された[[自然遺産 (世界遺産)|自然遺産]]が1件存在する。<br />
<br />
* [[ベリーズ珊瑚礁保護区]] - [[1996年]] [[自然遺産 (世界遺産)|自然遺産]]<br />
<br />
=== 祝祭日 ===<br />
{|border="1" frame=<br />
|+<span style="font-weight:bold;font-size:120%">祝祭日</span><br />
|-<br />
!style="background:#efefef"|日付<br />
!style="background:#efefef"|日本語表記<br />
!style="background:#efefef"|現地語表記<br />
!style="background:#efefef"|備考<br />
|-<br />
||1月1日||元日||New Year's Day||<br />
|-<br />
||3月9日||ブリス男爵記念日||Baron Bliss Day||<br />
|-<br />
<!-- ||移動祝祭日||聖金曜日||Good Friday||<br />
|-<br />
||移動祝祭日||復活祭||Easter||<br />
|-<br />
||移動祝祭日||復活祭月曜日||Easter Monday||<br />
|- --><br />
||5月1日||[[メーデー]]||Labour Day||<br />
|-<br />
||5月24日||英連邦記念日||Sovereign's Day||<br />
|-<br />
||9月10日||英・スペイン戦記念日||St. George's Caye Day||National Day<br />
|-<br />
||9月21日||独立記念日||Independence Day||<br />
|-<br />
||10月12日||コロンブスの日||Day of the Americas||<br />
|-<br />
||11月19日||[[ガリフナ入植記念日]]||Garifuna Settlemant Day||<br />
|-<br />
||12月25日||[[クリスマス]]||Christmas Day||<br />
|-<br />
||12月26日||[[ボクシング・デー]]||Boxing Day||<br />
|-<br />
||12月29日||年末休日||Year End Holi day||<br />
|}<br />
<br />
== 脚注 ==<br />
{{脚注ヘルプ}}<br />
{{Reflist}}<br />
<br />
== 関連項目 ==<br />
* [[ベリーズ関係記事の一覧]]<br />
<br />
== 外部リンク ==<br />
{{Commons&cat|Belize|Belize}}<br />
; 政府<br />
* [http://www.belize.gov.bz/ ベリーズ政府] {{en icon}}<br />
<br />
; 日本政府<br />
* [http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/belize/ 日本外務省 - ベリーズ] {{ja icon}}<br />
* [http://www.jamaica.emb-japan.go.jp/jp/html/index.html 在ジャマイカ日本国大使館] - 在ベリーズ大使館を兼轄 {{ja icon}}<br />
<br />
; 観光<br />
* [http://www.belize.jp/ ベリーズ政府観光局] {{ja icon}}<br />
<br />
{{アメリカ}}<br />
{{イギリス連邦}}<br />
{{Normdaten}}<br />
{{BZ-stub}}<br />
{{Country-stub}}<br />
<br />
{{デフォルトソート:へりいす}}<br />
[[Category:ベリーズ|*]]<br />
[[Category:イギリス連邦加盟国]]<br />
[[Category:英連邦王国]]<br />
[[Category:現存する君主国]]</div>
113.36.250.10
ルーマニア人
2017-12-15T09:58:51Z
<p>113.36.250.10: /* 起源 */</p>
<hr />
<div>{{Otheruses|ルーマニアやモルドバ共和国の多数派を形成する民族|ルーマニアの国民|ルーマニア#国民}}<br />
[[File:Map-balkans-vlachs.png|thumb|300px|バルカン半島におけるヴラフ人の分布。 {{legend2|#5c9e74}}がダコ=ルーマニア人。]]<br />
'''ルーマニア人'''([[ルーマニア語]]:{{lang|ro|români}})は、[[ルーマニア]]および[[モルドバ|モルドバ共和国]]で多数派を形成する民族である。[[アルーマニア人]]などの他の南東ヨーロッパのラテン系諸民族と共に「[[ヴラフ人]]」と他称される民族集団に含まれ、ダコ=ルーマニア人([[ダキア]]のルーマニア人)とも呼ばれる。<br />
<br />
== 起源 ==<br />
{{main|{{仮リンク|ルーマニア人の起源|en|Origin of the Romanians}}}}<br />
[[File:Yugoslavia 2008 ethnic map fr.svg|thumb|300px|旧[[ユーゴスラビア]]の民族分布(2008年)。 {{legend2|#d896d7}}がルーマニア人。]]<br />
ルーマニア人は東欧に在住するにも関わらず[[ラテン語]]系の[[ルーマニア語]]を話すことからその起源には諸説あり、歴史の謎であるとする歴史家も存在する。ルーマニアの歴史家によれば、現在のルーマニアに在住していた[[ダキア人]]と、その[[ダキア]](現在の[[トランシルヴァニア]]地方)を征服して[[属州]]とした[[ローマ人]]と混血したことでルーマニア人及びルーマニア語が9世紀までに形成されたとしており、これを「ダキア=ローマ人の連続説」や「ダキア=ローマ人の原住民説」などと呼ぶ<ref>[[#南塚 (東欧の民族と文化)|南塚(1989)、p.176]]</ref>。<br />
<br />
また、時期にも諸説あるが、ルーマニア人らは[[バルカン半島]]から[[移住]]してきたとする説がありこれはこの説を唱えたドイツの学者レスラーの名をとって「レスラー説」と呼ばれている<ref>[[#南塚 (東欧の民族と文化)|南塚(1989)、p.176]]</ref>。<br />
<br />
ただし、トランシルヴァニア地方の領有権をめぐってルーマニアと[[ハンガリー]]の間に対立があり、この問題については18世紀に書かれた「[[ローマ帝国衰亡史]]」の時代より、論争が続いている<ref>[[#南塚 (東欧の民族と文化)|南塚(1989)、p.176]]</ref>。<br />
<br />
== 特徴 ==<br />
[[ルーマニア語]]は[[ロマンス語]]に属するとされるが、語彙に[[スラヴ語派|スラヴ語]]からの[[借用語]]が非常に多く、[[トルコ語]]などからも借用語があることが特徴で、文化は[[ビザンチン文化]]を受容し、その多くは[[正教会]]:[[ルーマニア正教会]]を信仰している点がルーマニア人の特徴である。<br />
<br />
<gallery><br />
File:Paleo-Balkan_languages_in_Eastern_Europe_between_5th_and_1st_century_BC_-_Spanish_and_English.png|紀元前5世紀-紀元前1世紀の[[古代バルカン諸語]]<br />
File:Bgiusca Jirecek Line.jpg|バルカン半島の言語における[[:en:Jirecek Line|Jirecek Line]]<br />
File:Theoretical map of Romanian origins.png|「ルーマニア人の起源」に関する地図<br />
File:FormatiuniPoliticeRomanestiSecolele IX XIII.svg|9-13世紀におけるルーマニア地域の諸国<br />
File:Romanians before WW1.jpg|[[第一次世界大戦]]以前のルーマニア人の分布<br />
File:Romani in Romania (2002).png|ルーマニアにおけるルーマニア人の分布(2002年)<br />
File:Ponderea românilor în Republica Moldova la nivel de comune.jpg|モルドヴァにおける分布<br />
File:Romanii din Ucraina.PNG|[[ウクライナ]]のルーマニア人<br />
File:Romanian and Vlach language in Serbia.png|セルビアのルーマニア人・ヴラフ語話者<br />
</gallery><br />
<br />
== 脚注 ==<br />
{{脚注ヘルプ}}<br />
<br />
=== 注釈 ===<br />
{{reflist|group=#|1}}<br />
<br />
=== 参照 ===<br />
{{reflist|2}}<br />
<br />
==参考文献==<br />
* {{Cite book|和書|author=矢田俊隆編|year=1977|title=<small>世界各国史13</small>東欧史|publisher=[[山川出版社]]|isbn=4-634-41130-X|ref=矢田 (東欧史)}}<br />
* {{Cite book|和書|author=南塚信吾編|year=1989|title=<small>叢書東欧 (1)</small>東欧の民族と文化|publisher=[[彩流社]]|isbn=4882021374|ref=南塚 (東欧の民族と文化)}}<br />
**担当執筆者<br />
*** 「ルーマニアの民族と文化」萩原直<br />
<br />
== 関連項目 ==<br />
*[[ヴラフ人]]<br />
*[[アルーマニア人]]<br />
*[[モルドバ人|モルドヴァ人]]<br />
*[[モルドバの言語・民族性問題]]<br />
<br />
{{Romania-stub}}<br />
<br />
{{DEFAULTSORT:るうまにあしん}}<br />
[[Category:ルーマニアの民族]]<br />
[[Category:モルドバの民族]]<br />
[[Category:ラテン民族]]</div>
113.36.250.10
レスリング
2017-12-09T09:29:44Z
<p>113.36.250.10: 記事を改訂</p>
<hr />
<div>{{Redirect|レスラー|ダーレン・アロノフスキー監督の映画|レスラー (映画)}}<br />
{{出典の明記|date = 2012年1月}}<br />
'''レスリング'''({{Lang-en-short|Wrestling}})は、[[ヨーロッパ]]が発祥の[[格闘技]]。徒手で組み合い、投げるなどで相手を倒すことを主眼とする。<br />
<br />
[[スポーツ]]種目としては<br />
* [[アマチュアレスリング]]<br />
* [[コンバットレスリング]]<br />
* [[ビーチレスリング]]<br />
* [[グラップリング]]<br />
がメインとなっていることが多い。<br />
<br />
<br />
また、世界各地では自国の伝統的な競技を基にした種目を生み出しており、これらは一般に{{仮リンク|フォークレスリング|en|Folk wrestling}}と呼ばれている。<br />
<br />
以下フォークレスリングを起源とするものを記す。<br />
* [[ルタ・リーブリ]]<br />
* [[ヤールギュレシ]]<br />
* [[キャッチ・アズ・キャッチ・キャン]]<br />
<br />
<br />
上記以外では以下の2種類があり、これらは正式なスポーツ種目としてでなく[[ショー]]や[[レクリエーション]]としての色合いが強い。<br />
* [[プロレス]]<br />
* [[アームレスリング]]<br />
<br />
<br />
競技名とは別に以下の意味でも使用される。<br />
* プロレス用語として組んでの攻撃。「レスリングの攻防」、「レスリング技術」などとして使われる。<br />
<br />
{{Martialart-stub}}<br />
{{スポーツ一覧}}<br />
{{古代オリンピック}}<br />
{{デフォルトソート:れすりんく}}<br />
[[Category:レスリング|*]]<br />
[[Category:ヨーロッパの武術]]</div>
113.36.250.10
華人
2017-09-26T08:50:41Z
<p>113.36.250.10: /* 関連項目 */</p>
<hr />
<div>'''華人'''(かじん)は、移住先の[[国籍]]を取得した[[中国]]系住民をさす。国籍を取得していない[[華僑]]とは違う。<br />
<br />
上記は[[中華人民共和国]]政府の定義であって、華僑と同一概念として使われることや、国籍にかかわらず中国以外に在住する中国系住民を指すこともある。<br />
<br />
== 関連項目 ==<br />
*[[華人のノーベル賞受賞者]]<br />
*[[ホア族]] - ベトナムを構成する民族のひとつ。<br />
*[[タイの華人]]<br />
*[[韓国の華人]]<br />
* [[フィリピン共和国の華人]], [[:en:Tornatrás]], [[:en:Sangley]]<br />
*[[華僑]]<br />
*[[客家]]<br />
*[[中国人]]<br />
*[[中華民族]]<br />
*[[中華圏]]<br />
*[[苦力]]<br />
*[[コーカン族|コーカン(果敢)族]] - [[ミャンマー]]([[ビルマ]])政府から「先住民」として認知された、同国北部に居住する漢族の集団。<br />
*[[中華街]]<br />
*[[日本華僑華人学会]]<br />
<br />
{{華僑}}<br />
<br />
[[Category:華人|!]]</div>
113.36.250.10
シムネルケーキ
2017-09-17T08:05:47Z
<p>113.36.250.10: </p>
<hr />
<div>[[File:Simnel cake 1.jpg|thumb|right|200px|シムネルケーキ]]<br />
'''シムネルケーキ''' ({{Lang-en|Simnel cake}})は[[イギリス]]で[[四旬節|レント]](四旬節)期間の中ごろ([[マザリングサンデイ]]など)や[[イースター]](復活祭)に供される[[ケーキ]]である。[[ドライフルーツ]]を沢山入れて円形に焼きそれを各自用に切って食べる[[クリスマスケーキ]]と似ているが、通常上部に[[使徒#十二使徒|イエスの十二弟子]]のうち[[イスカリオテのユダ|ユダ]]を除いた十一弟子を象徴する11個の突起(団子)を配置するのが特徴である。<ref> [http://england.cocolog-nifty.com/news/2010/04/post-4205.html シムネルケーキ] </ref> <br />
<p><br />
シムネルケーキの語源は、[[ラテン語]]のsimila([[小麦粉]])である、[[ランバート・シムネル]]から来ている、など諸説がある。 <ref> Merriam-Webster's Collegiate Dictionary, Eleventh Edition (2003) </ref> <ref> [http://blog.goo.ne.jp/countsheep99/e/f9d658e3ef750842c73f6c901592768a イギリスの奉公娘はシムネルケーキを焼く] </ref><br />
<br />
==参照項目==<br />
* [[マザリングサンデイ]]<br />
* [[イースター]]<br />
* [[フルーツケーキ]]<br />
* [[クリスマスケーキ]]<br />
<br />
==脚注==<br />
<references/><br />
<br />
==外部リンク==<br />
* [http://ejje.weblio.jp/content/%E3%82%B7%E3%83%A0%E3%83%8D%E3%83%AB%E3%82%B1%E3%83%BC%E3%82%AD シムネルケーキ(Weblio)]<br />
* 北野佐久子『季節を楽しむイギリスのお菓子』(文化出版局、1998年)<br />
<br />
{{DEFAULTSORT:しむねるけえき}}<br />
[[Category:ケーキ]]<br />
[[Category:イギリスの菓子]]<br />
[[Category:ヨーロッパの食文化]]<br />
[[Category:行事食]]</div>
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