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http:///mymemo.xyz/wiki/api.php?action=feedcontributions&user=113.158.34.120&feedformat=atom miniwiki - 利用者の投稿記録 [ja] 2024-05-06T01:11:05Z 利用者の投稿記録 MediaWiki 1.31.0 フリードリヒ1世 (神聖ローマ皇帝) 2018-03-30T03:02:32Z <p>113.158.34.120: </p> <hr /> <div>{{基礎情報 君主<br /> | 人名 = フリードリヒ1世<br /> | 各国語表記 = Friedrich I.<br /> | 君主号 = ローマ皇帝<br /> | 画像 = Barbarossa.jpg<br /> | 画像サイズ = <br /> | 画像説明 = <br /> | 在位 = [[1152年]] - [[1190年]][[6月10日]]<br /> | 戴冠日 = [[1155年]][[6月18日]]<br /> | 別号 = <br /> | 全名 = <br /> | 出生日 = [[1122年]]<br /> | 生地 = <br /> | 死亡日 = [[1190年]][[6月10日]]<br /> | 没地 = [[File:Rubenid Flag.svg|border|25px]] [[キリキア・アルメニア王国]]<br /> | 埋葬日 =  <br /> | 埋葬地 = [[アンティオキア]]<br /> | 継承者 = <br /> | 継承形式 = <br /> | 配偶者1 = アーデルハイト・フォン・フォーブルク<br /> | 配偶者2 = [[ベアトリス1世 (ブルゴーニュ女伯)]]<br /> | 配偶者3 = <br /> | 子女 = <br /> | 王家 = [[ホーエンシュタウフェン家]]<br /> | 王朝 = [[ホーエンシュタウフェン朝]]<br /> | 王室歌 = <br /> | 父親 = シュヴァーベン大公[[フリードリヒ2世 (シュヴァーベン大公)|フリードリヒ2世]]<br /> | 母親 = [[ユーディト・フォン・バイエルン]]<br /> }}<br /> &#039;&#039;&#039;フリードリヒ1世&#039;&#039;&#039;(Friedrich I., [[1122年]] - [[1190年]][[6月10日]])は[[ローマ王]](在位:[[1152年]] - [[1190年]])及び[[イタリア王]](在位:[[1155年]] - [[1190年]])、並びに中世西ヨーロッパの[[神聖ローマ皇帝|ローマ皇帝]](在位:[[1155年]] - [[1190年]])。[[1178年]]に[[ブルグント王]]としても戴冠。[[ホーエンシュタウフェン朝]]第2代の王で初代皇帝。父は[[シュヴァーベン大公]][[フリードリヒ2世 (シュヴァーベン大公)|フリードリヒ2世]](独眼公)、母は[[バイエルン大公|バイエルン公]][[ハインリヒ9世 (バイエルン公)|ハインリヒ9世]]の娘[[ユーディト・フォン・バイエルン|ユーディト]]。皇帝[[ハインリヒ4世 (神聖ローマ皇帝)|ハインリヒ4世]]の曾孫にあたる。西ヨーロッパの歴代ローマ皇帝の中でも有能なことで知られ、後世では[[英雄]]とまで呼ばれた。また、赤みを帯びたブロンドの髭を持っていたことから、&#039;&#039;&#039;赤髭王&#039;&#039;&#039;(&#039;&#039;&#039;バルバロッサ&#039;&#039;&#039;、Barbarossa)と呼ばれた&lt;ref&gt;成瀬 他、p. 218。バルバは髭、ロッサは赤の意。&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> なお、弟の[[ライン宮中伯]][[コンラート (ライン宮中伯)|コンラート]]([[1135年]] - [[1195年]])の娘のアグネスは[[ハインリヒ5世 (ライン宮中伯)|ハインリヒ5世]](バイエルン公ハインリヒ9世の曾孫)に嫁いでいる&lt;ref&gt;瀬原、p. 442&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> == 生涯 ==<br /> [[1147年]]の父の死によりシュヴァーベン大公位を継承、1152年に叔父の[[コンラート3世 (神聖ローマ皇帝)|コンラート3世]]の指名でローマ王に即位する&lt;ref&gt;成瀬 他、p. 218&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;瀬原、p. 400&lt;/ref&gt;。シュヴァーベンは従弟でコンラート3世の次男[[フリードリヒ4世 (シュヴァーベン大公)|フリードリヒ4世]]に与えたが、[[1167年]]に彼が亡くなると息子の[[フリードリヒ5世 (シュヴァーベン大公)|フリードリヒ5世]]に継承させた&lt;ref&gt;瀬原、p. 421&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 即位後は帝国の混乱を収拾するために、本国たるアルプス以北の諸侯に対しては特権を与えて協調をはかった。帝国の宿敵で従弟でもある[[ヴェルフ家#ヴェルフ=エステ家|ヴェルフ家]]の[[バイエルン大公|バイエルン公]]兼[[ザクセン公国|ザクセン公]][[ハインリヒ3世 (ザクセン公)|ハインリヒ獅子公]]には司教叙任権を授与し、さらに[[1156年]]にはバイエルン公位を与えるなどして和解し、これを収めることに成功した&lt;ref&gt;成瀬 他、p. 219&lt;/ref&gt;&lt;ref name=S404&gt;瀬原、p. 404&lt;/ref&gt;。また、1156年までバイエルン公であった[[バーベンベルク家]]の[[ハインリヒ2世 (オーストリア公)|ハインリヒ・ヤゾミルゴット]]に対しては、バイエルンからオストマルク(オーストリア辺境伯領)を切り離してオーストリア公領に昇格させ、これを与えることで、バーベンベルク家との融和も実現させた&lt;ref name=N239&gt;成瀬 他、p. 239&lt;/ref&gt;。[[1154年]]10月に[[イタリア遠征]]を行ない&lt;ref name=S404 /&gt;、翌1155年6月18日に聖ペテロ教会で[[ローマ教皇|教皇]][[ハドリアヌス4世 (ローマ教皇)|ハドリアヌス4世]]から戴冠される&lt;ref&gt;成瀬 他、p. 220 - 221&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;瀬原、p. 405&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> しかし、その後は[[イタリア政策]]に力を注ぎ、そのために政策をめぐって教皇と[[1157年]]から対立&lt;ref&gt;成瀬 他、p. 221 - 222&lt;/ref&gt;、以後フリードリヒ1世は5回にわたるイタリア遠征を行なうこととなり、本国の統治に力を注げなくなる。1159年に教皇ハドリアヌス4世は死去したが、その後継を巡って、反皇帝派が推す[[アレクサンデル3世 (ローマ教皇)|アレクサンデル3世]]と親皇帝派が推す[[対立教皇ウィクトル4世 (後代)|対立教皇ウィクトル4世]]の両者が立ち、18年間にわたる教会分裂が起こった&lt;ref&gt;瀬原、p. 413 - 414&lt;/ref&gt;。このため[[1160年]]に教皇アレクサンデル3世から[[破門]]された&lt;ref&gt;成瀬 他、p. 226&lt;/ref&gt;。[[1162年]]には自身に敵対する[[ミラノ]]に侵攻して同地を破壊&lt;ref&gt;瀬原、p. 414&lt;/ref&gt;、ミラノは皇帝が任命したポデスタ(独裁官)により支配されることとなった。[[1168年]]から[[北イタリア]]の諸都市がフリードリヒ1世のイタリア政策に不満をもって[[ロンバルディア同盟]]を結成すると&lt;ref&gt;成瀬 他、p. 227 - 228&lt;/ref&gt;、フリードリヒ1世はこれに危機感を覚えて[[1174年]]に再びイタリア遠征を実施するが、ハインリヒ獅子公からは援軍を拒否され&lt;ref&gt;瀬原、p. 425 - 426。獅子公からは[[ゴスラー]]の譲渡が支援の条件として提示されたが、フリードリヒ1世は拒否した。このときの獅子公の対応が、今後の獅子公の失脚につながったとも見られている。&lt;/ref&gt;、[[1176年]]には[[レニャーノの戦い]]で大敗するという有様であった&lt;ref&gt;成瀬 他、p. 229&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;瀬原、p. 426&lt;/ref&gt;。同年10月には[[アナーニ]]で教皇と交渉し、アレクサンデル3世を正式な教皇として承認すること、[[マティルデ・ディ・カノッサ|マティルデ]]の領土の返還などフリードリヒは譲歩を余儀なくされた。そして1177年のヴェネツィアの和約により都市同盟側と6年間の休戦が実現し、18年間にわたる教会分裂も終結した。その後、都市同盟側の内部対立もあり、[[1183年]]に、フリードリヒ1世は都市同盟と「コンスタンツの和約」を締結し、フリードリヒは都市同盟を承認する代わりに同盟側に皇帝の諸権利を認めさせ、イタリアでの問題に一応の決着をつけた&lt;ref&gt;成瀬 他、p. 241 - 242&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;瀬原、p. 431 - 432&lt;/ref&gt;。ちなみに愛称である&#039;&#039;&#039;バルバロッサ&#039;&#039;&#039;は赤髭を表すイタリア語であり、この皇帝がイタリアに注力した事を示すものである。<br /> <br /> その後は国内政策に力を注ぎ、ローマ帝国内の諸邦だけではなく[[ポーランド王国]]、[[ハンガリー王国]]&lt;ref name=S408&gt;瀬原、p. 408&lt;/ref&gt;および[[ボヘミア王国]]に対しても行われた皇帝権威の主張(ただし、帝国が後援していた[[ヴワディスワフ2世ヴィグナニェツ|ヴワディスワフ2世]]が、ポーランド王国の主権維持を主張する兄弟達と有力貴族、[[グニェズノ|グニェズノ大司教]]によって[[失脚]]させられたためポーランドの[[従属国|属国化]]は失敗に終わった)、[[オーストリア]]の公国化(1156年)&lt;ref name=N239 /&gt;、宿敵ハインリヒ獅子公の追放&lt;ref&gt;成瀬 他、p. 237 - 238&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;瀬原、p. 428 - 430&lt;/ref&gt;など、いずれも成功を収めている。また、[[シチリア王国]]と婚姻関係を結んで[[南イタリア]]に僅かに影響力を保持し、息子[[ハインリヒ6世 (神聖ローマ皇帝)|ハインリヒ6世]]のシチリア王位戴冠につなげている&lt;ref&gt;成瀬 他、p. 243&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> [[1189年]]、[[第3回十字軍]]の総司令として出征&lt;ref name=N244&gt;成瀬 他、p. 244&lt;/ref&gt;。翌年に[[イコニウムの戦い (1190年)|イコニウムの戦い]]で[[アイユーブ朝]]軍を打ち破るという大戦果を収めた。しかし翌年6月、[[小アジア]]南東部、[[キリキア]]のサレフ河にて溺死するという意外な最期を遂げた&lt;ref name=N244 /&gt;(これには諸説があり、フリードリヒ1世は[[卒中]]のために溺死したとも、暗殺されたともいわれる)。この意外な最期によって、多くの人はこの皇帝の死を信じられず、そのため後述するような伝説が生まれた。<br /> <br /> == 子女 ==<br /> [[1147年]]、フォーブルク辺境伯ディーポルト3世の娘アーデルハイトと結婚したが、[[1153年]]に離婚した&lt;ref name=S408 /&gt;。子供はいない。<br /> <br /> [[1156年]]、[[ブルゴーニュ伯|ブルゴーニュ女伯]][[ベアトリス1世 (ブルゴーニュ女伯)|ベアトリス1世]]と再婚&lt;ref&gt;成瀬 他、p. 221&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;瀬原、p. 407&lt;/ref&gt;、12人の子をもうけた。<br /> * ゾフィー(1161年 - 1187年) - [[モンフェッラート侯国|モンフェッラート候]]グリエルモ6世と結婚。<br /> * ベアトリクス(1162年 - 1174年)<br /> * [[フリードリヒ5世 (シュヴァーベン大公)|フリードリヒ5世]](1164年 - 1170年) - [[シュヴァーベン大公]](1167年 - 1170年)<br /> * [[ハインリヒ6世 (神聖ローマ皇帝)|ハインリヒ6世]](1165年 - 1197年) - ローマ皇帝、[[シチリア王国|シチリア]]王<br /> * フリードリヒ6世(コンラート)(1167年 - 1191年) - シュヴァーベン大公(1170年 - 1191年)<br /> * ギーゼラ(1168年 - 1184年)<br /> * [[オトン1世 (ブルゴーニュ伯)|オットー]](オトン1世、1170年 - 1200年) - ブルゴーニュ伯<br /> * [[コンラート2世 (シュヴァーベン大公)|コンラート2世]](1172年 - 1196年) - シュヴァーベン大公(1191年 - 1196年)<br /> * レナート(1173年 - ?)<br /> * ヴィルヘルム(1176年 - ?)<br /> * [[フィリップ (神聖ローマ皇帝)|フィリップ]](1178年 - 1208年) - シュヴァーベン公(1196年 - 1208年)、[[ローマ王]]<br /> * アグネス(1181年 - 1184年)<br /> <br /> == 伝説 ==<br /> 中世の民間信仰では、帝国が再び彼を必要とする時まで赤髭王は生き続けているとされている。トリフェルス城内で、キーフホイザーで、ウンタースベルクで、と諸説あるが、帝国が危機に陥ると、カラスがその上を飛び回って知らせ、彼は永い眠りから覚めて起ち上がり国にふたたび栄華と平和をもたらすのだと言われている&lt;ref&gt;瀬原、p. 436&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> == 脚注 ==<br /> {{Reflist|2}}<br /> <br /> == 参考文献 ==<br /> * 成瀬治 他 『世界歴史大系 ドイツ史 1』 山川出版社、1997年<br /> * 瀬原義生 『ドイツ中世前期の歴史像』 文理閣、2012年<br /> <br /> {{Commons|Friedrich I. Barbarossa}}<br /> <br /> {{神聖ローマ皇帝||1152年 - 1190年(戴冠:1155年)}}<br /> {{先代次代|[[ブルゴーニュ伯]]|1156年 - 1190年&lt;br&gt;&lt;small&gt;1184年まで&lt;br&gt;[[ベアトリス1世 (ブルゴーニュ女伯)|ベアトリス1世]]と共同統治&lt;/small&gt;|[[ルノー3世 (ブルゴーニュ伯)|ルノー3世]]|[[オトン1世 (ブルゴーニュ伯)|オトン1世]]}}<br /> <br /> {{DEFAULTSORT:ふりとりひ1}}<br /> [[Category:神聖ローマ皇帝]]<br /> [[Category:ローマ王]]<br /> [[Category:シュヴァーベン公]]<br /> [[Category:ブルゴーニュ伯]]<br /> [[Category:ブルグント王]]<br /> [[Category:十字軍の人物]]<br /> [[Category:ホーエンシュタウフェン家]]<br /> [[Category:カトリック教会に破門された人物]]<br /> [[Category:水難死した人物]]<br /> [[Category:1122年生]]<br /> [[Category:1190年没]]</div> 113.158.34.120 南洋諸島 2018-03-27T09:22:20Z <p>113.158.34.120: </p> <hr /> <div>{{参照方法|date=2015年9月}}<br /> {{基礎情報 過去の国<br /> |略名 = 南洋<br /> |日本語国名 = 南洋諸島<br /> |公式国名 = 委任統治地域南洋諸島<br /> |建国時期 = [[1919年]]<br /> |亡国時期 = [[1947年]]<br /> |先代1 = ドイツ領ニューギニア<br /> |先旗1 = Flag of Deutsch-Neuguinea.svg<br /> |次代1 = 太平洋諸島信託統治領<br /> |次旗1 = Flag of the Trust Territory of the Pacific Islands.svg<br /> |国旗画像 = Flag of the South Pacific Mandate.svg<br /> |国旗リンク = <br /> |国旗幅 = <br /> |国旗縁 = <br /> |国章画像 = Emblem of the South Pacific Mandate.svg<br /> |国章リンク = <br /> |国章幅 = <br /> |標語 = <br /> |標語追記 = <br /> |国歌 = <br /> |国歌追記 = <br /> |位置画像 = TTPI-locatormap.png<br /> |位置画像説明 = サイパン支庁は[[北マリアナ諸島]]、パラオ支庁は[[パラオ]]、ヤップ支庁は[[ヤップ州]]、トラック支庁は[[チューク州]]、ポナペ支庁は[[ポンペイ州]]と[[コスラエ州]]と[[マーシャル諸島]]の西側、ヤルート支庁はその残りに相当する。<br /> |位置画像幅 = <br /> |公用語 = [[日本語]]<br /> |首都 = [[コロール (都市)|コロール]]&lt;br /&gt;(南洋庁所在地)<br /> |元首等肩書 = [[天皇]](国家元首)<br /> |元首等年代始1 = [[1919年]]&lt;ref&gt;[[1912年]]に即位&lt;/ref&gt;<br /> |元首等年代終1 = [[1926年]]<br /> |元首等氏名1 = [[大正天皇]]<br /> |元首等年代始2 = [[1926年]]<br /> |元首等年代終2 = [[1947年]]&lt;ref&gt;[[1989年]]まで在位&lt;/ref&gt;<br /> |元首等氏名2 = [[昭和天皇]]<br /> |首相等肩書 = 南洋庁長官<br /> |首相等年代始1 = [[1922年]]<br /> |首相等年代終1 = [[1923年]]<br /> |首相等氏名1 = [[手塚敏郎]]<br /> |首相等年代始2 = [[1943年]]<br /> |首相等年代終2 = [[1946年]]<br /> |首相等氏名2 = [[細萱戊子郎]]<br /> |面積測定時期1 = <br /> |面積値1 = <br /> |人口測定時期1 = [[1937年]]<br /> |人口値1 = 109,847<br /> |変遷1 = [[ヴェルサイユ条約]]批准により委任統治開始<br /> |変遷年月日1 = [[1919年]][[11月7日]]<br /> |変遷2 = [[ポツダム宣言]]受諾に伴い領有権を放棄<br /> |変遷年月日2 = [[1945年]][[8月15日]]<br /> |変遷3 = [[太平洋諸島信託統治領]]成立<br /> |変遷年月日3 = [[1947年]][[7月18日]]<br /> |通貨 = [[円 (通貨)|円]]<br /> |通貨追記 = <br /> |時間帯 = +9 - +11<br /> |夏時間 = <br /> |時間帯追記 = <br /> |ccTLD = <br /> |ccTLD追記 = <br /> |国際電話番号 = <br /> |国際電話番号追記 = <br /> |注記 = &lt;references/&gt;<br /> }}<br /> &#039;&#039;&#039;南洋諸島&#039;&#039;&#039;(なんようしょとう)は、かつて[[大日本帝国]]が[[国際連盟]]によって[[委任統治]]を託された西[[太平洋]]の[[赤道]]付近に広がる[[ミクロネシア]]の島々を指す。現在の[[北マリアナ諸島]]・[[パラオ]]・[[マーシャル諸島]]・[[ミクロネシア連邦]]に相当する地域である。<br /> <br /> 別名は&#039;&#039;&#039;南洋群島&#039;&#039;&#039;(なんようぐんとう)。当時の日本人は&#039;&#039;&#039;内南洋&#039;&#039;&#039;(うちなんよう)とも言った&lt;ref&gt;ちなみに外南洋は、内南洋以外のミクロネシア、[[メラネシア]]、[[東南アジア]]の島嶼部を指す。&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> == 歴史 ==<br /> === 先史時代 ===<br /> この地域の考古学的研究はまだ発展途上であり、はっきりしたことはわかっていないが、文化的に見て、フィリピン周辺から直接パラオ、ヤップなどに植民したグループと、東ポリネシア方面から[[カロリン諸島]]に植民したグループがいたのではないかと推測されている。この地域の先住民の文化を最も強く特色づけているのは、シングル・アウトリガー・タイプの航海カヌーであり、彼らはこれを用いて広範な交流を行っていた。特にヤップ島はこれらの島々の中でも最も強力な権力を持ち、カロリン諸島の島々から定期的にヤップ島まで貢ぎ物を届ける航海が行われていた。ヤップ島の酋長の権力は現在も強く、カロリン諸島の島々に対しても一定の権威を保持している。<br /> <br /> === 西洋諸国による植民地化 ===<br /> {{main|スペイン領東インド|ドイツ領ニューギニア}}<br /> [[17世紀]]初頭より[[スペイン帝国|スペイン]]はこの地一帯を植民地化し、[[フィリピン]]と共に「[[スペイン領東インド]]」を形成していた。同地の[[マリアナ諸島]]やカロリン諸島という地名は、それぞれ[[マリアナ・デ・アウストリア|マリアナ王妃]]や[[カルロス2世 (スペイン王)|カルロス2世国王]]に由来する。<br /> <br /> [[19世紀]]末になり[[ドイツ植民地帝国|ドイツ]]も植民地経営に乗り出し、[[1885年]]にドイツは[[マーシャル諸島]]を占領した。そして、[[米西戦争]]で負けたスペインにスペイン領東インド(フィリピン、[[グアム]]を除く)の売却を持ちかけ、2500万[[ペセタ]]で買い取った。ドイツは[[カイザー・ヴィルヘルムスラント]](現在の[[パプアニューギニア]]北部)と合わせて、「[[ドイツ領ニューギニア]]」を成立させた。<br /> <br /> やがて[[第一次世界大戦]]が始まると、日本が[[日英同盟]]に基づいて[[連合国 (第一次世界大戦)|連合国]]の一員として参戦し、[[赤道]]以北のドイツ領ニューギニアの各諸島を占領した。[[1918年]](大正7年)にドイツは降伏し、第一次世界大戦は終結した。<br /> <br /> === 日本の委任統治 ===<br /> [[File:Koror in the Japanese Period3.JPG|thumb|300px|right|日本統治時代のコロール(4丁目)]]<br /> [[第一次世界大戦]]での敗退によってドイツは海外[[植民地]]をすべて失い、[[連合国 (第一次世界大戦)|連合国]]であった日本は[[1922年]]([[大正]]11年)、[[ヴェルサイユ条約]]によって[[赤道]]以北の旧ドイツ領ニューギニアの地域を[[委任統治]]することとなった(赤道以南の旧ドイツ領ニューギニアの地域は[[オーストラリア]]および[[ニュージーランド]]が委任統治)。<br /> <br /> 日本は南洋諸島獲得後、開拓のため[[南洋庁]]を置き、[[特殊会社|国策会社]]の[[南洋興発株式会社]]を設立して島々の開拓、[[産業]]の扶植を行った。南洋諸島では[[時差]]があり、南洋群島東部標準時([[ジャルート環礁|ヤルート]]・[[ポナペ]]地区)が日本標準時+2時間([[UTC+11]])、南洋群島中部標準時([[チューク諸島|トラック]]・[[サイパン]]地区)で日本標準時+1時間([[UTC+10]])、南洋群島西部標準時([[ヤップ]]・[[パラオ]]地区)は[[日本標準時]]と同じ([[UTC+9]])であった。1937年([[昭和]]12年)、南洋群島東部標準時(トラック・ポナペ・ヤルート地区。日本標準時+1時間)と南洋群島西部標準時(パラオ・ヤップ・サイパン地区。日本標準時と同じ)の2つに再編した。<br /> <br /> また、[[国際連盟]]脱退後&lt;ref&gt;日本が国際連盟を脱退すると、委任統治の根拠が薄くなったが、1933年3月16日「帝国の国際連盟脱退後の南洋委任統治の帰趨に関する帝国政府の方針決定の件」を閣議決定し、委任統治はヴェルサイユ条約での批准事項であることを盾に引き続き委任統治を行った。一方で国際連盟を脱退したということで国際連盟理事会が制定した「委任統治条項」は無効であるとの見解を示し、軍事基地設置禁止規定に反し来るべき対米戦争のために[[ワシントン海軍軍縮条約]]が失効した1936年以降は各島の基地化、要塞化を推し進めていくことになる。なお国際連盟への統治に関する年次報告は1938年まで行っている。&lt;/ref&gt;は[[パラオ]]や[[北マリアナ諸島|マリアナ諸島]]、[[チューク諸島|トラック諸島]]は[[大日本帝国海軍|海軍]]の停泊地として整備し、それらの島には[[軍人]][[軍属]]、軍人軍属相手の商売を行う人々が移住した。また、新天地を求めて多くの日本人が移住し、その数は10万人に上った。日本人の子供たちのために[[学校]]が開かれ、現地人の子供にも[[日本語]]による初等教育を行った。[[1941年]](昭和16年)には[[パラオ放送局]]が開局し、[[ラジオ]]放送が開始された。<br /> <br /> === 第二次世界大戦 ===<br /> [[File:&quot;A member of a Marine patrol on Saipan found this family of Japs hiding in a hillside cave. The mother, four children an - NARA - 532380.jpg|thumb|300px|right|サイパンの戦い末期、[[民間人]]に[[投降]]を呼び掛ける[[アメリカ海兵隊|アメリカ海兵隊員]]]]<br /> {{main|ギルバート・マーシャル諸島の戦い|マリアナ・パラオ諸島の戦い}}<br /> [[第二次世界大戦]]([[大東亜戦争]]・[[太平洋戦争]])においては南洋諸島も戦場となり、[[日本軍]]と[[アメリカ海兵隊]]の間で熾烈な戦闘となり、多くの戦死者を出した。<br /> <br /> 一連の戦いの嚆矢となったのは、[[1944年]](昭和19年)2月に行われた[[クェゼリンの戦い]]からで、1週間の戦闘の末同島の守備隊は[[玉砕]]した。さらに同月には米軍による[[トラック島空襲]]も行われ、トラック環礁にあった日本海軍の拠点が無力化された。<br /> <br /> 1944年(昭和19年)6月、戦略上最重要拠点の一つであったマリアナ諸島に対して米軍は侵攻を開始した。[[サイパンの戦い|サイパン島での戦闘]]は凄惨を極め、在住日本人1万人および島民700人が戦死または自決した。7月には[[テニアンの戦い]]が行われ、テニアンでも多数の[[民間人]]が犠牲になった。その後、サイパンおよびテニアンは日本本土を[[空襲]]する拠点となり、特に[[テニアン島]]は[[原子爆弾]]を搭載した爆撃機の[[ハゴイ飛行場|発進基地]]となった。<br /> <br /> 1944年(昭和19年)9月、米軍はパラオ諸島への侵攻を開始し、[[第1海兵師団]]を[[ペリリュー島]]に上陸させた。この[[ペリリューの戦い]]において、日本軍は従来の[[戦術]]から[[ゲリラ]]戦と[[縦深防御]]戦術に転換したため米軍に出血を強要し、73日間の戦闘で日本軍の戦死者とほぼ同数である10,786名の死傷者を出している&lt;ref&gt;[http://www.stamfordhistory.org/ww2_peleliu.htm The Stamford Historical Society: Peleliu(英語)] &lt;/ref&gt;。<br /> <br /> ペリリューの戦い以後、[[1945年]](昭和20年)[[8月15日]]の[[日本の降伏]]まで、米軍による南洋諸島での大規模な軍事行動は起こらなかった。しかし、米軍によって日本本土との補給線を断たれた孤島では[[飢餓]]に見舞われ、[[ウォッジェ環礁]]や[[ウォレアイ環礁]]などでは多数の餓死者を出した。<br /> <br /> === アメリカの信託統治 ===<br /> {{main|太平洋諸島信託統治領|信託統治#太平洋諸島}}<br /> [[第二次世界大戦]]終結後、[[国際連合]]は旧委任統治領・南洋諸島を[[アメリカ合衆国]]を施政権者とする[[信託統治]]に付することになった。当初は太平洋諸島信託統治領全域をひとつの連邦国家として独立させる計画であった。<br /> <br /> また、アメリカは終戦後すぐに、[[ビキニ環礁]]において[[クロスロード作戦|史上4発目の原子爆弾]]を炸裂させ、この地を[[放射能汚染|放射能で汚染]]した。その後、初めての水素爆弾[[太平洋核実験場|実験場]]にも選ばれ、ビキニ周辺は幾度となく核兵器の実験場となった。実験に際して多くの住民がほかの島々へ強制移住させられた。<br /> <br /> [[1980年代]]から各地で独立運動が起こり、対米交渉や住民投票を経て、[[軍事]]を除く自治権を獲得した。そして[[自由連合 (国家間関係)|自由連合]]の名のもとに&#039;&#039;&#039;[[パラオ]]&#039;&#039;&#039;・&#039;&#039;&#039;[[マーシャル諸島]]&#039;&#039;&#039;・&#039;&#039;&#039;[[ミクロネシア連邦]]&#039;&#039;&#039;が[[1994年]]までに独立した。ただし、&#039;&#039;&#039;[[北マリアナ諸島]]&#039;&#039;&#039;は独立せず、アメリカとの交渉の結果、コモンウェルス規約を締結し、現在に至るまでアメリカの[[コモンウェルス (米国自治連邦区)]]となっている。なお、先の核実験の影響から、これらの国では核に対するアレルギーが、原爆の攻撃を直接受けた日本と同等、またはそれ以上とも言われており、南洋諸島では非核条約[[南太平洋非核地帯条約|ラロトンガ条約]]が結ばれている。<br /> <br /> == 人口 ==<br /> [[File:Chamorro girls in 1930s.JPG|thumb|250px|right|1930年代に撮影されたチャモロ人の少女たち]]<br /> [[File:Kosraean people in 1930s.JPG|thumb|250px|right|1930年代に撮影されたクサイ(コスラエ)島民]]<br /> * 総人口 129,104人(1939年12月末現在&lt;ref&gt;『第9回南洋庁統計年鑑 昭和14年』&lt;/ref&gt;)<br /> ** 内訳<br /> *** 日本人(台湾人・朝鮮人を含む) 77,257人<br /> *** 島民([[チャモロ人]]・[[カナカ人]]) 51,723人<br /> *** 外国人 124人<br /> <br /> == 民族構成 ==<br /> ;日本人(台湾人・朝鮮人を含む)<br /> :領有当初は数十人しかいなかったが、1939年頃には7万人以上にも達し、原住民の島民の人口を超えつつあった。[[南洋興発]]が開発したサイパン支庁管内に至っては、島民人口約3千人に対し4万人以上が住んでおり、サイパン支庁管内の主要民族を構成していた。次に多いのがパラオ支庁管内であった。本籍別にみると沖縄県民が最も多かった。そのため当時の特産物の一つが[[泡盛]]であった。<br /> ;島民<br /> :[[先住民族]]であるチャモロ人やカナカ人は「&#039;&#039;&#039;島民&#039;&#039;&#039;」という[[カテゴリ]]に入れられた。委任統治という統治形態が採られていたので、朝鮮人や台湾人のように[[日本国籍]]は付与されなかった。<br /> ;;チャモロ人<br /> ::南洋庁では、島民の中でチャモロ人を別格扱いにしていた。当時のチャモロ人は、洋風家屋に住み、常に洋服を着用し、[[ピアノ]]を弾いたり、[[ダンス]]&lt;ref&gt;現在、観光客向けに披露する「チャモロ・ダンス」ではなく、純然たる西洋式ダンスのことである。&lt;/ref&gt;を踊ったりするなど、日本人以上に西洋的な生活習慣を身に着けていた。[[スペイン語]]の影響を受けた[[チャモロ語]]を話し、教養水準も比較的高かったことから、日本統治下においてはカナカ人より優遇され、歴代の植民地政府の補助要員を務める者もいた。主に[[マリアナ諸島]]に住んでいたが、[[ヤップ島]]にも住む者&lt;ref&gt;戦後、彼らは日本人が引き揚げて無人島化していた[[テニアン島]]に移り住むようになった。&lt;/ref&gt;がいた。<br /> ;;カナカ人<br /> ::チャモロ人以外の島民を全て「カナカ人」と称していた。オセアニア諸民族の総称であるため「カナカ語」ともいうべき言語は存在せず、島によって別の言語が話されていた。衣服も[[褌]]・[[腰蓑]]といった「南洋の情緒」を感じさせる服装であったが、歴代の植民地政府の指導もあり、次第に廃れつつあった。マリアナ諸島以外の地域に多く住んでいたが、マリアナ諸島のサイパン島にはカナカ人の一種族で、カロリン諸島から移住してきた[[カロリン人]]が住んでいた。<br /> ;外国人<br /> :外国人の多くが宗教関係者や商人で、旧宗主国人のスペイン人やドイツ人が比較的多かった。後の宗主国人となるアメリカ人は、当時十人程度しかいなかった。<br /> <br /> == 地方行政 ==<br /> [[File:The Headquarters of the South Pacific Mandate.JPG|thumb|300px|right|南洋庁庁舎]]<br /> [[File:Nan&#039;yo-cho Ponape Branch Office.JPG|thumb|300px|right|南洋庁ポナペ支庁]]<br /> === 支庁 ===<br /> 南洋諸島を6つの地域に分け、そこに支庁を設けた、この地域区分は、戦後の[[太平洋諸島信託統治領]]の地区(District)にも概ね踏襲されている。<br /> * サイパン支庁<br /> ** 後に北部支庁となる。<br /> * パラオ支庁<br /> * ヤップ支庁<br /> ** 後に西部支庁となる。<br /> * トラック支庁<br /> * ポナペ支庁<br /> * ヤルート支庁<br /> ** 後に東部支庁となる。<br /> <br /> === 行政補助機関 ===<br /> 日本人が多く住む地区については、「&#039;&#039;&#039;[[部落 (南洋群島)|部落]]&#039;&#039;&#039;」が設けられた。部落の責任者として「総代」「副総代」を置き、諮問機関として「部落協議会」が設けられた。部落が設置されていた所は下記の通りである(1939年時点)。<br /> ;パラオ支庁管内<br /> * コロール町(コロール島)<br /> ;サイパン支庁管内<br /> * ガラパン町<br /> * チャランカ町<br /> * 北村<br /> * 南村<br /> * 東村(以上サイパン島)<br /> * テニアン町(テニアン島)<br /> ;トラック支庁管内<br /> * 夏島町(トノアス島)<br /> ;ポナペ支庁管内<br /> * コロニア町(ポナペ島)<br /> <br /> 一方、日本人の部落とは別に、島民による「&#039;&#039;&#039;[[村吏 (南洋群島)|村吏]]&#039;&#039;&#039;」がいた。チャモロ人については「区長」と「助役」が、カナカ人には「総村長」と「村長」が置かれた。チャモロ人とカナカ人の村吏が別になっているのは、[[酋長]]制度の有無によるもので、酋長制度がないチャモロ人については住民の推薦により、カナカ人の場合は「大酋長」を総村長、その他の酋長を村長に任命した。<br /> <br /> == 司法 ==<br /> 南洋諸島の裁判制度は二審制が採られていた。第一審裁判所は「[[地方法院]]」といい、パラオ、サイパン、ポナペに置かれ、第二審裁判所の「[[高等法院 (曖昧さ回避)|高等法院]]」{{要曖昧さ回避|date=2015年9月}}はパラオに置かれていた。また支庁長には軽微な刑事事件の即決権が与えられていた。<br /> <br /> 「南洋群島裁判事務取扱令」により、南洋諸島には[[刑法 (日本)|刑法]]・[[民法 (日本)|民法]]等の日本の諸法令を適用していたが、一部の事項については特例を設けていた。<br /> ;司法上の特例<br /> *[[予審]]は行わない。<br /> *[[除斥]]、[[忌避]]、[[回避]]の規定を適用しない。<br /> *島民のみが関係する民事事件は旧慣に基づいて処理する。<br /> *土地に関する権利義務については、旧慣に基づき、登記もしない。<br /> *公共機関以外の者が島民所有の土地に関する契約をする際には南洋庁長官の許可を要する。<br /> *島民が行う訴訟手続きについては、法院が別途定める手続きによる。<br /> *一年未満の[[自由刑]]([[懲役]]、[[禁錮]]、[[拘留]])に処せられた島民については、労役での代用可。<br /> *島民による[[姦通罪]]の[[告訴]]には、[[離婚]]を要件としない。<br /> <br /> === 犯罪 ===<br /> 元々住んでいた島民が純朴であったこと、また[[南洋群島在留者取締規則]]により不良日本人・外国人の居住を禁止していたことから、犯罪は少なかった。犯罪件数で一番多かったのが、南洋諸島特有の法令である[[南洋群島酒類取締規則]]違反事件で、一時期は全犯罪の70%以上に達していた。それ以外の犯罪で一番多かったのが[[窃盗]]であった。凶悪犯罪もほとんど無く、[[1939年]](昭和14年)までに死刑判決を受けた犯罪者は一人もいなかったという。<br /> <br /> [[高等警察]]や[[特別高等警察]]の取締対象となる犯罪もほとんどなかった&lt;ref&gt;南洋興発に対する[[小作争議]]が数件あったくらいで、島民による独立運動もなかった。&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> [[受刑者]]の絶対数が少なかったため、支庁に付設された未決囚用の[[留置場]]を[[刑務所]]代わりに使っていたが、サイパンに本格的な刑務所&lt;ref&gt;[[ガラパン]]にある「日本刑務所跡(Old Japanese Jail)」と呼ばれる遺構のことである。&lt;/ref&gt;が完成し、これらの受刑者が移監された。<br /> <br /> == 衛生 ==<br /> 南洋諸島の風土病として[[アメーバ赤痢]]、[[デング熱]]、[[フランベジア]]などがあった。南洋庁では各地に公営の病院(「医院」と称した)を設けて診療に当たらせた。(各医院は[[南洋庁#南洋庁立の病院|南洋庁立の病院]]を参照)また民間でも、南洋興発が各農場に診療所を開設して従業員の診療を行っていた。公医院の一部の医師は現地人の診察の傍ら積極的に民族学的、疫学的、医学的調査を行っていた。それら研究結果は「南洋群島地方病調査医学論文集」として南洋庁警務課が発行を行っており第一集(1933)から第五集(1939)まである。<br /> <br /> パラオ、トラック、ポナペ、ヤルート、ヤップの各医院に勤務していた岡谷昇、長崎協三、藤井保、[[鮫島宗雄]]らは上記論文集の4集「民族生理学及病理学的研究」5集「人類学人種学的研究」で[[ミクロネシア人]]の医学的、衛生学的、人類学的発表を行っている外、公学校教師の調査協力をもとに[[日本民族衛生学会]]の雑誌「民族衛生」などでもミクロネシア人の疫学的研究結果を発表している&lt;ref&gt;マーシヤル群島原住民 (ミクロネシヤ族) の指紋研究 民族衛生 Vol. 6 (1937-1938) No. 5-6 P 395-409,en1&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 島民の一部には近代医療を拒否したり([[モデクゲイ]]を参照)、[[便所]]を作らないで近所の森や砂浜に排泄する習慣があったため、講話や映画によって衛生思想の普及を図ったり、共同便所の設置や汚物清掃などの事業を行っていた。<br /> <br /> == 教育 ==<br /> [[File:Natsushima Kogakko classroom.JPG|thumb|300px|right|トラック環礁夏島公学校の教室]]<br /> 日本人児童と島民児童の教育を完全に分離し、前者には内地と同様の教育機関を設けた。日本人児童は修業年限や教科課程の面で、内地と何ら変わらない教育を受けることができた。<br /> <br /> 一方、島民児童には、本科3年制の「[[公学校]]」が設けられた。[[修身]]や[[国語]]([[日本語]])の習熟に重きが置かれた教育で、優秀な児童には更に2年制の補習科に進学した。[[1926年]](大正15年)には、更なる進学先として「木工徒弟養成所」を設立し、島民技術者の養成に当たった。<br /> <br /> == 租税 ==<br /> 南洋庁は、租税として「[[人頭税]]」「関税」「出港税」「鉱区税」の四種類の税を定めていた(1932年時点)。徴税手続については当時の[[国税徴収法]]に準じて、「南洋群島租税其他の公課徴収規則」を定めて執行した。<br /> ;人頭税<br /> ドイツ統治時代に由来を発する税で、16歳以上の男子に課せられた税である。ただし島民とそれ以外の者とで税額や徴収方法に区別を設けていた。<br /> ;;島民の人頭税<br /> ::年額10円以内とし、各集落ごとに酋長の意見を聞いて税額を定めた。原則として均一税額であったが、多額の資産を持つ者については別途40円まで賦課できた。また16歳未満の児童を5人以上扶養する者(資産家は除く)や障害者などについては免除された。特例として、ヤルート支庁管内では酋長が全住民を代表して納税することにし、金納ではなく[[コプラ]]で納めた。<br /> ;;島民以外の人頭税<br /> ::収入に応じて、2~50円を賦課した。また宗教関係者や貧困者、一時滞在者や6ヶ月未満の在住者については免除された。<br /> ;関税<br /> 南洋諸島を一つの[[関税地域]]とし、南洋諸島外(内地も含む)から輸入したり、南洋諸島外に輸出する物品に、価格(一部の物品については重量)に応じて賦課した。<br /> ;出港税<br /> 当時の日本では、[[アルコール飲料|酒類]]や[[砂糖]]については、それぞれ[[酒造税]]・[[砂糖消費税]]という[[間接税]]が課せられていた。そこで南洋庁では、酒類や砂糖を内地に持ち出す際に、予めこれらの税と同額の税を課した。一旦、出港税を課した物品については、内地で再度課税されることはない。<br /> ;鉱区税<br /> 1年ごとに鉱区1000坪あたり1円を賦課した。<br /> <br /> == 宗教 ==<br /> [[File:Nanyo Shrine.JPG|thumb|300px|right|南洋神社]]<br /> [[File:Nan&#039;yo Shrine Matsuri.jpg|thumb|300px|right|南洋神社の祭り]]<br /> [[File:Tinian Shinto Shrine 1.JPG|thumb|300px|テニアン島の住吉神社跡]]<br /> 元来、島民は伝統的な[[アニミズム]]信仰を持っていたが、スペインによる植民地化に伴って[[キリスト教]]が広く普及し、この頃には完全に定着していた。旧宗主国人であるスペイン人の聖職者が[[バチカン]]から派遣され、島民の教化に務めた。またパラオでは[[モデクゲイ]]という土着の[[新宗教]]が誕生し、信者を増やしつつあった。<br /> <br /> 在留日本人の増加に伴い、新たに[[仏教]][[寺院]]が進出してきた。しかしその寺の多くが、日本人が多いパラオ支庁やサイパン支庁の管轄区域に偏在していた。海外布教に熱心な[[天理教]]はパラオを拠点に置き、島民を対象とした布教活動をしていた。<br /> <br /> [[神社]]も在留日本人の増加に連動して各地に創建された。有志による創建のため、その多くが無格社であったが、[[1940年]](昭和15年)に南洋群島総鎮守として官幣大社の[[南洋神社]]が創建された。<br /> <br /> === 管内神社一覧 ===<br /> ;パラオ支庁管内<br /> * [[南洋神社]]<br /> * 朝日神社<br /> * 清水神社<br /> * 瑞穂神社<br /> * [[ペリリュー神社]]<br /> * アンガウル神社<br /> ;サイパン支庁管内<br /> * 八幡神社<br /> * [[南興神社]]<br /> * 南陽神社<br /> * [[彩帆香取神社|彩帆神社]]<br /> * カラベラ神社<br /> * 天仁安神社<br /> * 住吉神社<br /> * 和泉神社<br /> * 橘神社<br /> * 日之出神社<br /> * 羅宗神社<br /> * ロタ神社<br /> * 大山祇神社<br /> ;ヤップ支庁管内<br /> * 弥津府神社<br /> * フハエス神社<br /> ;トラック支庁管内<br /> * 都洛神社<br /> ;ポナペ支庁管内<br /> * 照南神社<br /> * 春来神社<br /> * 明治神社<br /> ;ヤルート支庁管内<br /> * マーシャル神社<br /> <br /> == 経済 ==<br /> [[File:NKK Garapan Branch Office.JPG|thumb|250px|right|南洋興発ガラパン出張所]]<br /> [[File:NKK Sugar train.JPG|thumb|250px|right|南洋興発産業用軌道]]<br /> スペイン・ドイツ統治時代まで、特にこれといった産業はほとんど無かった。ところが日本の統治になり、様々な産業の振興に努めた結果、南洋諸島はかつてない経済成長を遂げることに成功した。特に[[南洋興発]]が興した製糖業は大成功を収め、これによって南洋庁は財政的に自立できるようになった。<br /> ;農業<br /> :南洋興発による[[サトウキビ]]栽培が最も大きな産業であった。当時のサイパン島の植生は現在とは異なり、[[南大東島]]のように平地のほとんどがサトウキビ畑で占められていた。その他、[[パイナップル]]や[[コーヒー豆]]の栽培も行われた。また島民は自己消費のために[[タロイモ]]などを栽培していた。<br /> ;畜産業<br /> :牧草がよく繁茂することから、畜産業も盛んであった。[[ブタ]]は諸島全域で飼育されていたが、[[ウシ]]はサイパン支庁管内、[[ヤギ]]はパラオ・トラック・ポナペ各支庁管内で飼育されているなど地域差があった。<br /> ;漁業<br /> :辺り一帯は[[カツオ]]が一年中生息しているため、日本の漁師がはるばる[[遠洋漁業]]をしに来訪してきた。やがて、このカツオを原料とした[[鰹節]]の生産が現地で始まり、「&#039;&#039;&#039;南洋節&#039;&#039;&#039;」の名で大いに市場を拡大した。<br /> ;林業<br /> :南洋諸島では[[ヤシ]]が多く生育しており、[[胚乳]]を乾燥させた[[コプラ]]はこの地域の主要な特産物であり、島民の貴重な収入源になった。その反面、[[木材]]に使えるような[[樹木]]はほとんどなかった。<br /> ;鉱業<br /> :[[リン鉱石]]の[[鉱床]]が南洋諸島各地に存在しており、[[アンガウル島]]ではドイツ統治時代より採掘が行われた。また[[アルミニウム]]の原料となる[[ボーキサイト]]の鉱床も存在していた。<br /> ;商業<br /> :南洋庁の統治開始により、日本人商人が南洋諸島に多数移住した。彼らの多くはサイパン支庁やパラオ支庁管内に居を構え、日本人街を構成した。またコプラの仲買のためにその他の地域にも進出する商人もいた。<br /> ;工業<br /> :南洋興発の製糖工場が特に有名であるが、他にも鰹節製造工場や泡盛の酒造所が存在していた。パラオではパイナップル缶詰の製造工場などがあった。<br /> ;金融業<br /> :従来は[[郵便局]]があるのみで、民間の金融といえば[[無尽|無尽講]]しかなかった。[[昭和]]に入り、ようやく[[信用組合]]が設立されるようになった。そして[[1936年]](昭和11年)に設立された[[特殊法人]]の[[南洋拓殖]]は金融業も事業として認められ、南洋諸島唯一の日本銀行代理店でもあった。<br /> <br /> == 交通 ==<br /> [[大日本航空]]による航空路線も整備されつつあったが、一般的には海路が利用された。海路には大きく3種に分けることができる。<br /> ;内地群島間航路 - [[日本郵船]]が担当し、[[サイパン丸]]、[[パラオ丸]]、[[山城丸]]が就航した。<br /> * 西廻線([[横浜港|横浜]] - [[父島]] - サイパン - テニアン - ロタ - ヤップ - パラオ - [[ダバオ]] - [[マナド]])<br /> * 東廻線(横浜 - 父島 - サイパン - トラック - ポナペ - クサイ - ヤルート)<br /> * サイパン線(横浜 - 父島 - サイパン)<br /> ;群島内離島間航路 - [[南洋汽船]]・[[南洋貿易]]が担当<br /> * マリアナ群島線<br /> * ヤップ・パラオ離島線<br /> * ポナペ離島線<br /> * マーシャル群島線<br /> ;環礁内航路 - 運送組合・個人が担当(南洋庁が補助金を支給し維持)<br /> * パラオ各線<br /> * トラック各線<br /> * ポナペ各線<br /> * ヤップ各線<br /> <br /> == 「諸島」と「群島」の違い ==<br /> 明治時代、「南洋諸島」と「南洋群島」の定義と区別は、必ずしも明確でなかった。ただ漠然と日本の南の海に浮かぶ島々という意味で使われており、その範囲も[[オセアニア]]や[[大スンダ列島]]を包括するかなり広大な地域の呼称であった。1893年に[[鈴木経勲]]が著した『南洋風物誌』には、「南洋諸島」と「南洋群島」の両方の用語が使われ、特に区別はしてなかった。<br /> <br /> 大正時代になると、その定義に差異が生じ始めた。第一次世界大戦で、日本海軍は独領ニューギニアの島嶼部(ミクロネシア)を占領し、その地域を「南洋群島」と称した。1年後、[[吉野作造]]が著した『現代双書 南洋』(1915年刊)では、「赤道以北の独領南洋諸島を、単に南洋群島と云う」と定義し、「南洋群島」は「独領南洋諸島」のみを意味する用語という認識が定着し始めた。<br /> <br /> その後、ヴェルサイユ条約で旧「独領南洋諸島」地域の委任統治が認められたとき、当局はこの地域を「南洋群島」と正式に命名し、施政に当たることになった&lt;ref&gt;「南洋群島酒類取締規則」のように、この地域に関する諸法令は一貫して「南洋群島」と称し、「南洋諸島」の用語が用いられることはなかった。&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> よって、日本の旧委任統治地域の正式呼称については「南洋群島」を、漠然とした南の島々については「南洋諸島」と区別するのが適当といえる。<br /> <br /> == 脚注 ==<br /> &lt;references/&gt;<br /> <br /> == 参考文献 ==<br /> *南洋庁長官官房編『南洋庁施政十年史』南洋庁、1932年<br /> *大宜味朝徳『南洋群島案内』海外研究所、1939年<br /> *太平洋学会編『太平洋諸島百科事典』原書房、1989年<br /> <br /> == 関連項目 ==<br /> *[[太平洋諸島]]<br /> *[[第31軍 (日本軍)]]<br /> *[[南方軍 (日本軍)#隷下部隊|南方軍 (日本軍)]]([[パラオ地区集団]])<br /> *[[南洋庁]]<br /> *[[南洋群島の警察|南洋庁警察]]<br /> *[[パラオ放送局]]<br /> *[[南洋神社]]<br /> *[[南洋幻想]]<br /> *[[環礁 (紀行)]]<br /> *[[南洋踊り]]<br /> <br /> == 外部リンク ==<br /> {{Commonscat|South Pacific Mandate}}<br /> {{Wikisource|大正10年外務省告示第16号|同盟及聯合国ト独逸国トノ平和条約第二十二条及第百十九条ニ関スル巴里講和会議ノ決議、国際聯盟理事会ハジユネーヴニ於テ該講和会議及前記条約第二十二条第八項ニ基キタル決定ヲ為シタル帝国政府ハ国際聯盟理事会決定ノ認証謄本ヲ接受}}<br /> * [http://homepage2.nifty.com/nishidah/t_xa3.htm The page 31.(コトバ-さ~そ)(南洋群島の時差に関する記述あり)]<br /> * [http://www.aozora.gr.jp/cards/000119/card24444.html 『環礁』] [[旧字]][[旧仮名]]([[青空文庫]])<br /> * [[s:風物抄|風物抄]]([http://ja.wikisource.org/wiki/ ウィキソース])<br /> <br /> {{旧外地の行政区分}}<br /> {{DEFAULTSORT:なんようくんとう}}<br /> [[Category:南洋群島|*]]<br /> [[Category:南進論]]</div> 113.158.34.120 テンプレート:準絶滅危惧 2018-03-19T14:38:38Z <p>113.158.34.120: </p> <hr /> <div>&lt;span style=&quot;color:teal&quot;&gt;&#039;&#039;&#039;準絶滅危惧(NT)&#039;&#039;&#039;&lt;/span&gt;([[レッドデータブック (環境省)|環境省レッドリスト]]){{{ref|}}}{{#ifeq:{{{image}}}|none||&lt;div style=&quot;margin-left:2em&quot;&gt;[[File:Status jenv NT.svg]]&lt;/div&gt;}}<br /> &lt;includeonly&gt;{{#switch:{{{category}}}<br /> |none|off=|#default=[[Category:準絶滅危惧]]}}&lt;/includeonly&gt;&lt;noinclude&gt;<br /> ----<br /> ;引数<br /> :image=none ステータス画像の表示しない(文章内で使用する時に)。<br /> :category=off 準絶滅危惧カテゴリを付加しない。<br /> :ref=&lt;nowiki&gt;&lt;ref&gt;ほげほげ&lt;/ref&gt;&lt;/nowiki&gt; テキスト部分の末尾に脚注を挿入する。<br /> [[category:Template of Conservation status]]&lt;/noinclude&gt;</div> 113.158.34.120 テンプレート:絶滅危惧IA類 2018-03-19T14:24:42Z <p>113.158.34.120: </p> <hr /> <div>&lt;span style=&quot;color:crimson&quot;&gt;&#039;&#039;&#039;絶滅危惧IA類 (CR)&#039;&#039;&#039;&lt;/span&gt;([[レッドデータブック (環境省)|環境省レッドリスト]]){{{ref|}}}{{#ifeq:{{{image}}}|none||&lt;div style=&quot;margin-left:2em&quot;&gt;[[File:Status jenv CR.svg]]&lt;/div&gt;}}<br /> &lt;includeonly&gt;{{#switch:{{{category}}}<br /> |none|off=|#default=[[Category:絶滅危惧IA類]]}}&lt;/includeonly&gt;&lt;noinclude&gt;<br /> ----<br /> ;引数<br /> :image=none ステータス画像の表示しない(文章内で使用する時に)。<br /> :category=off 絶滅危惧IA類カテゴリを付加しない。<br /> :ref=&lt;nowiki&gt;&lt;ref&gt;ほげほげ&lt;/ref&gt;&lt;/nowiki&gt; テキスト部分の末尾に脚注を挿入する。<br /> [[category:Template of Conservation status]]&lt;/noinclude&gt;</div> 113.158.34.120 テンプレート:絶滅危惧IB類 2018-03-19T14:19:52Z <p>113.158.34.120: </p> <hr /> <div>&lt;span style=&quot;color:brown&quot;&gt;&#039;&#039;&#039;絶滅危惧IB類 (EN)&#039;&#039;&#039;&lt;/span&gt;([[レッドデータブック (環境省)|環境省レッドリスト]]){{{ref|}}}{{#ifeq:{{{image}}}|none||&lt;div style=&quot;margin-left:2em&quot;&gt;[[File:Status jenv EN.svg]]&lt;/div&gt;}}<br /> &lt;includeonly&gt;{{#switch:{{{category}}}<br /> |none|off=|#default=[[Category:絶滅危惧IB類]]}}&lt;/includeonly&gt;&lt;noinclude&gt;<br /> ----<br /> ;引数<br /> :image=none ステータス画像の表示しない(文章内で使用する時に)。<br /> :category=off 絶滅危惧IB類カテゴリを付加しない。<br /> :ref=&lt;nowiki&gt;&lt;ref&gt;ほげほげ&lt;/ref&gt;&lt;/nowiki&gt; テキスト部分の末尾に脚注を挿入する。<br /> [[category:Template of Conservation status]]&lt;/noinclude&gt;</div> 113.158.34.120 トゥーロン攻囲戦 2018-03-19T08:53:26Z <p>113.158.34.120: </p> <hr /> <div>{{出典の明記|date=2012年10月}}<br /> {{Battlebox<br /> |battle_name=トゥーロン攻囲戦<br /> |campaign=フランス革命戦争<br /> |image=[[File:Flotte Anglo-Espagnole au siège de Toulon 1793.jpg|300px]]<br /> |caption=<br /> |conflict=[[フランス革命戦争]]<br /> |date=[[1793年]][[9月18日]] - [[12月18日]]<br /> |place=[[フランス]]、[[トゥーロン]]<br /> |result=フランス共和派の勝利<br /> |combatant1={{FRA1792}}<br /> |combatant2={{GBR1606}}&lt;br /&gt;{{ESP1785}}&lt;br /&gt;{{Flagicon image|Flag of Royalist France.svg}} フランス王党派&lt;br /&gt;[[File:Bandera de Nápoles - Trastámara.svg|border|25px]] [[ナポリ王国]]&lt;br /&gt;{{Flagicon image|Flag of the Kingdom of Sicily (simplified).svg}} [[シチリア王国]]&lt;br /&gt;{{ITA1720}}(ピエモンテ)<br /> |commander1={{Flagicon image|Flag of France (1790-1794).svg}} [[ジャン・フランソワ・カルトー]]&lt;br /&gt;{{Flagicon image|Flag of France (1790-1794).svg}} [[フランソワ・アメデ・ドッペ]]&lt;br /&gt;{{Flagicon image|Flag of France (1790-1794).svg}} [[ジャック・フランソワ・デュゴミエ]]&lt;br /&gt;{{Flagicon image|Flag of France (1790-1794).svg}} [[ジャン・フランソワ・コルヌ・ド・ラポワプ]]<br /> |commander2={{Flagicon image|Naval Ensign of Great Britain (1707-1800).svg}} [[サミュエル・フッド]]&lt;br /&gt;{{Flagicon|ESP1785}} [[フアン・デ・ランガラ]]<br /> |strength1=32,000人(最大時)<br /> |strength2=22,000人&lt;br /&gt;戦列艦12隻<br /> |casualties1=死傷者2,000人&lt;br /&gt;フランス戦列艦14隻沈没(港内)、15隻拿捕<br /> |casualties2=死者4,000人<br /> |}}<br /> &#039;&#039;&#039;トゥーロン攻囲戦&#039;&#039;&#039;(トゥーロンこういせん、英:Siege of Toulon)は、[[フランス革命]]初期(1793年9月18日 - 12月18日)に、南フランスの港湾都市[[トゥーロン]]で発生した[[王党派]]の反乱に対して、共和派が勝利をおさめた戦い。[[ナポレオン・ボナパルト]]が初めて名を上げた戦いとして知られる。<br /> <br /> == 概要 ==<br /> トゥーロンは、[[王党派#フランスの王党派|フランス王党派]]を支援する[[グレートブリテン王国]](イギリス)、[[スペイン]]らの軍隊によって占領されていた。ナポレオン・ボナパルトは[[砲兵]][[将校]]として、市の港を制圧するための理想的な砲兵陣地の場所を見つけることによって名を上げた。イギリス側もまた脅威と見ていたその地点を彼が激しい突撃により攻略すると、[[サミュエル・フッド]]の指揮するイギリス艦隊は港からの脱出を余儀なくされ、反乱は鎮圧された。その功績によって24歳のナポレオンは一気に砲兵隊司令官(准将)となり、国際的な注目を浴びることとなった。<br /> <br /> == 経緯 ==<br /> {{Main|恐怖政治}}<br /> [[1793年]][[5月31日]]の[[ジロンド派]]議員の逮捕の後、フランスの[[リヨン]]、[[アヴィニョン]]、[[ニーム (フランス)|ニーム]]、[[マルセイユ]]各市が相次いで反乱を起こした。トゥーロンでは、穏健派による[[ジャコバン派]]の追い出しが行われたが、すぐにより多数の王党派によってとって代わられた。革命派によるリヨン、マルセイユの奪還と、その後に彼らによって行われた凄惨な報復のことが伝えられると、ダンベール男爵に率いられた王党派軍は、イギリス・スペイン連合艦隊に援助を求めた。8月28日、イギリスのフッド提督とスペインのランガラ提督は、フランス政府軍に対抗するためイギリス、スペイン、[[ナポリ王国|ナポリ]]、および[[サルデーニャ王国|ピエモンテ]]の各軍からなる13,000人の軍隊を送り込んだ。10月1日、ダンベール男爵は[[ルイ17世]]のフランス王位継承を宣言して王党派の旗「[[フルール・ド・リス]]」を掲げ、トゥーロンの町をイギリス海軍に委ねた。<br /> <br /> == 攻囲戦 ==<br /> &lt;!--「カルマニョール」(&quot;&#039;&#039;Carmagnoles&#039;&#039;&quot;)と呼ばれた--&gt;[[国民公会]]軍は、[[ジャン・フランソワ・カルトー]]将軍の指揮のもと、アビニョンとマルセイユを奪還し、9月8日、オリウール村を経て西側からトゥーロンに到着した。そして、東側から来た[[ジャン・フランソワ・コルヌ・ド・ラポワプ|ラポワプ将軍]]の指揮する6,000人のアルピーヌ海兵隊(&quot;&#039;&#039;the Alpine Maritime Army&#039;&#039;&quot;)と合流した。ラポワプはラ・ヴァレット村に陣を敷き、市の東を制するファロン山の砦を奪取しようとしていた。彼らにはさらに[[ド・サン・ジュリアン]]提督の指揮する3,000人の水兵が加わった。彼らは、イギリスに降った王党派の司令官トロゴフ提督と行動をともにすることを拒否したのである。<br /> <br /> カルトー軍の砲兵隊長ドンマルタンはオリウール村で負傷し、国民公会の2人の代表者、[[オーギュスタン・ロベスピエール]]と[[アントワーヌ・クリストフ・サリセティ]]によって若いナポレオン・ボナパルト大尉がその後任となった。この2人は反目し合っていたが、ボナパルトはこの軍にアヴィニョンから従軍していたため任命されることとなった。<br /> <br /> === ナポレオンの作戦 ===<br /> 偵察の結果により、ナポレオン・ボナパルトは、ル・ケール(= カイロ)の丘を占領することにより、岬にあるレギエットとバラギエの要塞の攻略を計画した。それらはトゥーロンの内港と外港を遮断する位置にあり、包囲下の都市にとって不可欠な海からの補給を止めることができた。しかしカルトーは乗り気でなく、ドラボルド少将以下のわずかな支援しか送らなかったため、9月22日に行われた攻撃は失敗した。イギリス・スペイン連合軍は、それによってル・ケールの丘の重要性に気づき、頂上に新たに砦を築いて、防衛司令官の名前をとってマルグレーヴ砦と名付けた。それは3つの小さな拠点&lt;!--called Saint-Phillipe, Saint-Côme, and Saint-Charles--&gt;で支えられた堅固なものであり、イギリス人から「小[[ジブラルタル]]」と呼ばれた。<br /> <br /> ナポレオンは、19日からサン・ローランの高台に置かれ、単に「山」と呼ばれた孤立した砲台では不十分だと考えた。21日、彼は内港西部のブレガリヨン(&#039;&#039;Brégallion&#039;&#039;)の海沿いに「サン・キュロット」と名づけたもう一つの砲台を構築した。フッド提督はそれを沈黙させようとしたが失敗し、なおかつ東岸のムリヨン(&#039;&#039;Mourillon&#039;&#039;)とラ・トゥール・ロワイヤル(&#039;&#039;la Tour Royale&#039;&#039;)側の水深が浅かったため、イギリス艦隊は別の海岸に沿って集結せざるを得なかった。10月1日、ラポワプ将軍によるファロン山の「東の砦」攻撃が失敗した後、ナポレオンは、市の攻略のために落とさなければならないマルブスケの大きな砦の砲撃を要請された。彼は周辺地域から砲兵を集合させ、各々6門の大砲を持つ50個隊を揃えた。10月19日、ナポレオンは大隊指揮官に昇進し、アレーネの丘に、砦に向けた大砲台「国民公会の砲台」を構築した。それは、デュモンソー(&#039;&#039;Dumonceau&#039;&#039;)の丘の「共和派のキャンプ」、ゴー(&#039;&#039;Gaux&#039;&#039;)の丘の「ファリニエール(&#039;&#039;Farinière&#039;&#039;)」、ラグブラン(&#039;&#039;Lagoubran&#039;&#039;)の「火薬庫」などによって支えられていた。<br /> <br /> === デュゴミエの着任と攻撃 ===<br /> 11月11日にカルトーが更迭され、新たに、以前は医者だったドッペが指揮官となった。しかし彼は決断力に乏しく、16日にマルグレーヴ砦への攻撃に失敗するという事態を招いてしまった。ドッペは自らの無能に気づいて辞任した。彼の後任の[[ジャック・フランソワ・デュゴミエ|デュゴミエ]]はたたき上げの職業軍人であり、すぐにナポレオンの作戦の長所を認め、小ジブラルタルの奪取に取り掛かった。20日、彼は到着するとすぐに&lt;!-- &#039;&#039;l&#039;Evescat&#039;&#039; の--&gt;隆起の上に「ジャコバン党員」砲台を構築し、11月28日にはその左に「恐れを知らぬ男」砲台、12月14日にはそれらの間に「シャース・コカン(&#039;&#039;Chasse Coquins&#039;&#039;)」砲台を作った。最終的にはさらに2つの砲台が、連合軍の軍艦を撃退するために作られた。それらは「大いなる港」および「4つの風車」と呼ばれた。<br /> <br /> 砲撃の圧力によってイギリス・ナポリ連合軍が進出し、「国民公会」砲台を奪取した。デュゴミエとナポレオンは反撃の先頭に立ち、彼らを押し戻した。そのとき、イギリスの指揮官オハラ将軍が負傷してフランス側に捕らえられた。彼はオーギュスタン・ロベスピエールおよびアントワーヌ・ルイ・アルビット(&#039;&#039;Antoine Louis Albitte&#039;&#039;)と、連邦主義者と王党派の軍の武装解除および降服の交渉を始めた。<br /> <br /> === 共和派の勝利 ===<br /> オハラを捕虜にすると、デュゴミエ、ラポワプとナポレオン(大佐となっていた)は、12月16日の夜のうちに一斉攻撃を敢行した。攻撃は真夜中ごろ、小ジブラルタルに対して開始され、一晩中続いた。ナポレオンは、イギリス軍の軍曹の銃剣で腿に負傷した。しかし朝には拠点を奪取し、ナポレオンの副官[[オーギュスト・マルモン]]はレギエット要塞とバラギエ要塞に向けて大砲を据えた。イギリス軍はその日のうちに、それ以上戦うことなく避難した。この間に、ラポワプもファロンとマルブスケの砦を奪取していた。連合軍は海からの脱出を決定した。殿軍を務めたイギリスの[[シドニー・スミス (軍人)|シドニー・スミス]]代将は焼討船隊を港に突入させ、施設や船を焼き払った。<br /> <br /> == 鎮圧とその後 ==<br /> 国民公会軍は12月19日に市内に入った。[[ポール・バラス]]と[[ルイ=マリ・スタニスラ・フレロン|スタニスラ・フレロン]]による血なまぐさい報復が行われた。800人から2,000人におよぶ囚人がシャン・ド・マルスにおいて銃殺され、または銃剣で刺殺されたと考えられている。ナポレオンはジャン・フランソワ・エルナンデスによって怪我の治療を受けていたため、この大虐殺には立ち会わなかった。彼は12月22日に准将に昇進し&lt;!--、すでに新しい任務であるイタリア遠征軍の砲兵隊指揮官として[[ニース]]に赴く途中だっ -- 英文記事は1794年のイタリア戦役従軍と1796年のイタリア遠征を混同しているのではないでしょうか?? --&gt;た。<br /> <br /> 1796年、ナポレオンは[[イタリア戦役 (1796-1797年)|イタリア遠征]]の進軍をトゥーロン市から開始した。古い城壁の一部を成す、彼が出発した門には記念の飾り額が置かれてある。この門は「イタリア門(&#039;&#039;Porte d&#039;Italie&#039;&#039;)」と呼ばれている。<br /> <br /> == トゥーロンの地勢 ==<br /> [[ファイル:Toulon 5.91420E 43.10085 Landsat7 pseudo.png|thumb|トゥーロンの衛星写真]]<br /> トゥーロンの港は[[地中海]]に張り出した半島サン・マンドリエ・シュル・メールによって外海から隔てられているが、さらにその奥にある二つの半島によって内港がかたちづくられている。内港の北東側がトゥーロン市街で、その奥に市を見下ろすファロン山がそびえている。<br /> <br /> 内港を扼する形で東から延びるのがGians半島で、ムリヨン地区と、先端には16世紀以来のラ・トゥール・ロワイヤル要塞がある。西から延びる半島がラ・セーヌ・シュル・メールで、2つあるその先端にあるのがレギエットとバラギエの要塞である。両要塞の後背地にある高台がカイロ(ル・ケール)の丘で、ここに築かれたマルグレーヴ(フランス語でミュルグラーヴ)砦の争奪戦がトゥーロン攻囲戦の主要な戦闘であった。ちなみにレギエットとバラギエの両砦を結ぶ道路は今日「ボナパルト通り」と名づけられている。<br /> <br /> == 関連項目 ==<br /> * [[マルセイユの反乱]]<br /> * [[リヨンの反乱]]<br /> * [[ヴァンデの反乱]]<br /> <br /> {{DEFAULTSORT:とうろんこういせん}}<br /> [[Category:フランス革命戦争]]<br /> [[Category:フランス革命期の出来事]]<br /> [[Category:1793年の戦闘]]<br /> [[Category:1793年のフランス]]<br /> [[Category:イギリスの包囲戦]]<br /> [[Category:フランスの包囲戦]]</div> 113.158.34.120 マラーター同盟 2017-10-07T11:49:45Z <p>113.158.34.120: </p> <hr /> <div>{{<br /> 基礎情報 過去の国<br /> |略名 = マラーター帝国<br /> |日本語国名 = マラーター同盟<br /> |公式国名 = &#039;&#039;&#039;मराठा साम्राज्य&#039;&#039;&#039;<br /> |建国時期 = [[1708年]]<br /> |亡国時期 = [[1818年]]<br /> |先代1 = ムガル帝国<br /> |先旗1 = Alam of the Mughal Empire.svg<br /> |先旗1縁 = no<br /> |次代1 = イギリス東インド会社<br /> |次旗1 = Flag of the British East India Company (1801).svg<br /> |国旗画像 = Flag of the Maratha Empire.svg<br /> |国旗リンク = <br /> |国旗説明 = 国旗<br /> |国旗幅 = <br /> |国旗縁 = <br /> |国章画像 = <br /> |国章リンク = <br /> |国章説明 = <br /> |国章幅 = <br /> |標語 = <br /> |国歌名 = <br /> |国歌 = <br /> |国歌追記 = <br /> |位置画像 = India1760 1905.jpg<br /> |位置画像説明 = 黄色がマラーター同盟の版図、1760年代。<br /> |公用語 = [[マラーティー語]]<br /> |首都 = [[サーターラー]]&lt;br/&gt;後に[[プネー]]<br /> |元首等肩書 = [[ペーシュワー]]<br /> |元首等年代始1 = [[1713年]]<br /> |元首等年代終1 =[[1720年]]<br /> |元首等氏名1 = [[バーラージー・ヴィシュヴァナート]]<br /> |元首等年代始2 = [[1796年]]<br /> |元首等年代終2 =[[1818年]]<br /> |元首等氏名2 =[[バージー・ラーオ2世]]<br /> |面積測定時期1 = <br /> |面積値1 = 2,800,000<br /> |人口測定時期1 = 1700年ごろ<br /> |人口値1 = 1億5千万<br /> |変遷 1=結成<br /> |変遷年月日1 = [[1708年]]<br /> |変遷2= 解体<br /> |変遷年月日2 = [[1818年]][[9月21日]]<br /> |通貨 = [[ルピー]]、[[パイサ]]<br /> |時間帯 = <br /> |夏時間 = <br /> |時間帯追記 = <br /> |ccTLD = <br /> |ccTLD追記 = <br /> |国際電話番号 = <br /> |国際電話番号追記 = <br /> |現在 = {{BAN}}&lt;br&gt;{{IND}}&lt;br&gt;{{PAK}}<br /> |注記 = <br /> }}<br /> &#039;&#039;&#039;マラーター同盟&#039;&#039;&#039;(マラーターどうめい、[[英語]]:Maratha Confederacy、[[1708年]] - [[1818年]])は、中部[[インド]]の[[デカン高原]]を中心とした地域に、[[マラーター王国]]及びマラーター諸侯(サルダール)によって結成された連合体。&#039;&#039;&#039;マラーター連合&#039;&#039;&#039;(マラーターれんごう)とも呼ばれる。<br /> <br /> [[18世紀]]に[[ムガル帝国]]の衰退に乗じて独立し、一時はインドの覇権を握った。だが、同紀末から19世紀初頭にかけて、インド全域に勢力を伸ばす[[イギリス東インド会社]]との3度の[[マラーター戦争]]で敗れ、解体した。その領土は[[イギリス東インド会社]]の直接支配下に入り、諸侯の領土は[[藩王国]]に編成された。<br /> <br /> __TOC__<br /> {{clear}}<br /> == 歴史 ==<br /> ===前史、マラーター王国の建国===<br /> [[File:Shivaji_British_Museum.jpg|thumb|right|190px|シヴァージー]]<br /> [[1660年]]前後よりデカン高原西部にて、[[シヴァージー]]の率いる[[ヒンドゥー教徒]]の[[マラーター]]がムガル帝国に反乱を起こす。シヴァージーはマラーター王国を建国、長期間の[[ゲリラ戦]]にてムガル帝国の皇帝[[アウラングゼーブ]]を苦しめた。<br /> <br /> 1680年シヴァージーが死んで、息子の[[サンバージー]]が後を継いだが、アウラングゼーブのムガル帝国軍が[[ムスリム5王国]]の[[ビジャープル王国]]、[[ゴールコンダ王国]]を滅ぼしデカンでの戦いを有利に進めていく中で、彼は1689年にムガル帝国との戦いでとらえられて、処刑されてしまった。<br /> <br /> サンバージーが殺されてしまい、その弟の[[ラージャーラーム]]は南インドに逃げて王国を復興しようとしたが、ムガル帝国が一時的に南端部を除く全インドを支配した。結果的に王国が復興したのは彼の死後、妻[[ターラー・バーイー]]の時代だった。<br /> <br /> ===マラーター同盟の形成と領土拡大 ===<br /> [[File:Peshwa Baji Rao I riding horse.jpg|thumb|right|200px|バージー・ラーオ]]<br /> 26年間続いた[[デカン戦争]]で、マラーター王国は一時衰退したものの、アウラングゼーブが死ぬと、1708年にシャーフーが即位した。そして、マラーター王国を中心とし、王国の諸侯(サルダール)とともに連合してマラーター同盟を結成した。ただし、同盟が形成されるのはもう少し後の話である。<br /> <br /> [[1713年]]、[[バラモン]]の[[バーラージー・ヴィシュワナート]]が宰相となって同盟を率いた。彼はマラーター同盟の基礎を作り、[[1719年]]にはマラーター諸侯を連れて[[サイイド兄弟]]が[[ファッルフシヤル]]を打倒するのに協力した&lt;ref name=&quot;小谷213&quot;&gt;小谷『世界歴史大系 南アジア史2 ―中世・近世―』、p.213&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> [[1720年]]、バーラージー・ヴィシュワナートが死亡すると、その息子である[[バージー・ラーオ1世]]が宰相となった&lt;ref name=&quot;小谷213&quot;/&gt;。彼はシヴァージーの再来といわれ、ムガル帝国の分裂と衰退に乗じてデカンからインド中部、[[北インド]]全体に勢力を伸ばし、[[1737年]]には弱体化したムガル帝国の首都の[[デリー]]を攻撃した。<br /> <br /> バージー・ラーオの宰相在任期間、マラーター王国はデカンを越えて、帝国とも言えるほど広大な版図を領するようになった。その一方で随行した武将であるマラーター諸侯に征服地を領有させ、諸侯が王国宰相に忠誠と貢納を誓い、宰相がその領土の権益を認める形をとった&lt;ref&gt;チャンドラ『近代インドの歴史』、p.31&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> これにより、[[北インド]]には[[シンディア家]]、[[マールワー]]には[[ホールカル家]]、[[グジャラート]]には[[ガーイクワード家]]がそれぞれ統治を許された。のちにこの統治形態を見たイギリス人は、これを「マラーター同盟」と呼んだ&lt;ref name=&quot;小谷280&quot;&gt;小谷『世界歴史大系 南アジア史2 ―中世・近世―』、p.280&lt;/ref&gt;。ただし、宰相や諸侯らの間には明確な同盟関係があったわけではなく、後述する複雑な対立関係も存在した&lt;ref name=&quot;小谷280&quot;/&gt;。<br /> <br /> とはいえ、バージー・ラーオは治世20年のあいだに、マラーター王権([[ボーンスレー家]])を名目化し、王国宰相が事実上の「王」となり、王国宰相が同盟の盟主を兼ねる「マラーター同盟」を確立させることに成功している。また、[[1731年]]から[[1732年]]にかけて、バージー・ラーオはプネーに巨大な宰相の宮殿である[[シャニワール・ワーダー]]を建設し、プネーに独自の勢力基盤を持った。<br /> <br /> その息子[[バーラージー・バージー・ラーオ]]の在任期間、[[1750年]]にマラーター王国の行政府をサーターラーからプネーに移し、完全に王国の実権を掌握した。<br /> <br /> 領土もさらに拡大し、オリッサ、ベンガルなどに侵攻し、各地の王国からは貢納を取り立て、ムガル帝国の内政にも関与した。さらに、[[1757年]]には[[パンジャーブ]]一帯を制圧した({{仮リンク|マラーターのインド北西部征服|en|Maratha conquest of North-west India}})。そのため、一時はインド全域の覇者になるかと思われた。<br /> <br /> ===大敗と結束の弛緩===<br /> [[Image:The Third battle of Panipat 13 January 1761.jpg|right|280px|thumb|第三次パーニーパトの戦い]]<br /> <br /> [[1761年]]1月14日、南下してきた[[アフガン]]勢力([[ドゥッラーニー朝]])のムスリム同盟軍に[[第三次パーニーパトの戦い]]で大敗し、数万の犠牲者を出したことにより衰退に向かう。バーラージー・バージー・ラーオの治世末のことであった&lt;ref name=&quot;小谷219&quot;&gt;小谷『世界歴史大系 南アジア史2 ―中世・近世―』、p.219&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> バーラージー・バージー・ラーオの死後、マラーター王国の宰相府は統率力を失い、同盟の結束は緩んだ。これ以降、同盟の有力な諸候である[[ナーグプル]]の[[ボーンスレー家 (ナーグプル)|ボーンスレー家]]、[[インドール (インド)|インドール]]のホールカル家、グワーリヤルの[[シンディア家]]、[[ヴァドーダラー]]のガーイクワード家が分立した&lt;ref name=&quot;小谷280-281&quot;&gt;小谷『世界歴史大系 南アジア史2 ―中世・近世―』、pp.280-281&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> だが、宰相[[マーダヴ・ラーオ]]の奮闘もあり、同盟はなんとか勢力を保つことができた。彼は北方ではアフガン勢力を討ち、南方ではムスリム軍人[[ハイダル・アリー]]のもとで台頭する[[マイソール王国]]を抑えた&lt;ref name=&quot;小谷219&quot;/&gt;。<br /> <br /> ===第二次マラーター戦争、マラーター勢力の緩やかな連携===<br /> [[File:Maharaja Mahadji Shinde and Sawai Madhu Rao II Narayan Peshwa.jpg|thumb|250px|right|マーダヴ・ラーオ・ナーラーヤンとマハーダージー・シンディア]]<br /> [[1772年]][[8月]]、マーダヴ・ラーオの没後、弟[[ナーラーヤン・ラーオ]]が継いだものの、彼は宰相位を狙う叔父[[ラグナート・ラーオ]]によって殺された&lt;ref name=&quot;小谷220&quot;&gt;小谷『世界歴史大系 南アジア史2 ―中世・近世―』、p.220&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> しかし、[[1774年]]、宰相府はラグナート・ラーオを廃位して、ナーラーヤン・ラーオの死後に生まれた息子[[マーダヴ・ラーオ・ナーラーヤン]]を宰相とした&lt;ref name=&quot;小谷220&quot;/&gt;。そのため、不利になったラグナート・ラーオがイギリスに援助を求め、[[第一次マラーター戦争]]が起こった&lt;ref name=&quot;小谷220&quot;/&gt;。<br /> <br /> 第一次マラーター戦争では、マラーターが優勢でイギリスが苦戦し、[[サルバイ条約]]で兵を引かざるを得なかった&lt;ref name=&quot;小谷220&quot;/&gt;。<br /> <br /> 18世紀末、マラーター勢力はマーダヴ・ラーオ・ナーラーヤンを擁する権臣ナーナー・ファドナヴィースのもと、緩やかな連携を保っていた&lt;ref name=&quot;小谷280&quot;/&gt;。<br /> <br /> 他方、諸侯は独自に軍事活動を行っており、なかでもシンディア家が最も有力であった。その当主[[マハーダージー・シンディア]]は北インドに広大な領土を有し、ムガル帝国の内政にも関与して、[[1784年]]にはムガル帝国の摂政に任命された。ただし、マハーダージーはマラーター王国ではナーナー・ファドナヴィースに対立する派閥に手を貸していたし、ホールカル家とも領土をめぐり対立していた&lt;ref name=&quot;チャンドラ35&quot;&gt;チャンドラ『中世インドの歴史』、p.35&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> ===深刻な対立と第二次マラーター戦争===<br /> [[ファイル:Battle of Assaye2.jpg|right|280px|thumb|第2次マラーター戦争、[[アッサイェの戦い]]]]<br /> [[1795年]][[10月]]、宰相マーダヴ・ラーオ・ナーラーヤンが自殺したため、諸侯間で宰相位をめぐる争いがおこり、翌[[1796年]]にラグナート・ラーオの息子[[バージー・ラーオ2世]]が宰相となった&lt;ref name=&quot;小谷280&quot;/&gt;。<br /> <br /> しかし、ナーナー・ファドナヴィースが死ぬとバージー・ラーオ2世と諸侯との関係は険悪となり、特にホールカル家の当主ヤシュワント・ラーオ・ホールカルとは激しく対立した&lt;ref name=&quot;小谷280&quot;/&gt;。ホールカル家はシンディア家とも争っており、1800年には[[ウッジャインの戦い]]でホールカル家がシンディア家を破っている。<br /> <br /> [[1802年]]、バージー・ラーオ2世とホールカル家の対立から、ヤシュワント・ラーオはプネーを攻めた&lt;ref name=&quot;小谷280&quot;/&gt;。そして、宰相府とシンディア家の連合軍を破り、プネーを占拠した&lt;ref&gt;チャンドラ『近代インドの歴史』、p.77&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 同年[[12月31日]]、バージー・ラーオ2世はイギリスと軍事保護条約を締結し、[[1803年]]にその援助でプネーに帰還した&lt;ref name=&quot;小谷280&quot;/&gt;。だが、マラーター諸侯はイギリスが介入したことを脅威に思い、また条約ではマラーター王国の領土割譲も約されていたため、マラーター諸侯とイギリスとの間で[[第二次マラーター戦争]]が勃発した&lt;ref name=&quot;小谷280&quot;/&gt;。<br /> <br /> 第二次マラーター戦争では、マラーター諸侯は連携した行動をとることができず、ガーイクワード家に至っては中立を保つほどであり、イギリスはボーンスレー家、シンディア家、ホールカル家を破り、諸侯の力を削いだ。諸侯から割譲された領土は「征服領土」とよばれ、ベンガル管区に組み込まれた&lt;ref name=&quot;小谷281&quot;&gt;小谷『世界歴史大系 南アジア史2 ―中世・近世―』、p.281&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> ===第三次マラーター戦争と同盟の解体===<br /> [[1814年]]、宰相バージー・ラーオ2世とガーイクワード家との間にグジャラートの[[アフマダーバード]]領有をめぐり争いが発生した&lt;ref name=&quot;小谷282&quot;&gt;小谷『世界歴史大系 南アジア史2 ―中世・近世―』、p.282&lt;/ref&gt;。その調停はイギリスにゆだねられたが、[[1815年]][[7月14日]]にガーイクワード家からプネーに派遣された使節[[ガンガーダル・シャーストリー]]を、バージー・ラーオ2世の家臣が殺害してしまう&lt;ref name=&quot;小谷282&quot;/&gt;&lt;ref&gt;[http://www.worldstatesmen.org/India_princes_A-J.html Princely States of India A-J]&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> [[1817年]][[6月13日]]、イギリスはこのことからバージー・ラーオ2世に対して、新たな条約[[プネー条約]]を押し付けた。これは形式的にも実質的にもマラーター同盟を解体することを強制するものであった&lt;ref name=&quot;小谷282&quot;/&gt;。<br /> <br /> バージー・ラーオ2世がイギリスの押しつけたプネー条約に耐え切れず、[[11月]]にイギリス軍に対して攻撃を開始した。ここに[[第三次マラーター戦争]]が勃発した&lt;ref name=&quot;小谷282&quot;/&gt;。ボーンスレー家、シンディア家、ホールカル家といったマラーター諸侯も味方したが次々に制圧され、[[1818年]]6月にはバージー・ラーオ2世も降伏した&lt;ref name=&quot;小谷282&quot;/&gt;。<br /> <br /> バージー・ラーオ2世の降伏をもって、マラーター王国の宰相府は崩壊し、マラーター同盟は名実ともに解体された&lt;ref name=&quot;小谷282&quot;/&gt;。宰相府の領土はボンベイ管区に併合され、バージー・ラーオ2世は北インドの[[カーンプル]]近郊[[ビトゥール]]へ追放された&lt;ref name=&quot;小谷282&quot;/&gt;。<br /> <br /> 他方、マラーター王国と[[コールハープル・マラーター王国]]はそれぞれ藩王国としてそれぞれ存続を許された&lt;ref name=&quot;小谷282&quot;/&gt;。また、有力諸侯シンディア家、ホールカル家、ボーンスレー家、ガーイクワード家も藩王国として存続を許された&lt;ref name=&quot;小谷282&quot;/&gt;。南マラーター地方にはゴールパデー家、パトワルダン家など小さな諸侯国も多かったが、それらも藩王国として存続を認められた&lt;ref name=&quot;小谷282&quot;/&gt;。<br /> <br /> ==マラーター同盟の構成勢力==<br /> *[[マラーター王国]]<br /> *[[コールハープル・マラーター王国]]<br /> *[[タンジャーヴール・マラーター王国]]<br /> *[[ホールカル家]]([[インドール (インド)|インドール]])<br /> *[[シンディア家]]([[グワーリヤル]])<br /> *[[ボーンスレー家 (ナーグプル)|ボーンスレー家]]([[ナーグプル]])<br /> *[[ガーイクワード家]]([[ヴァドーダラー]])<br /> *パワール家([[ダール (インド)|ダール]]、[[デーワース]])<br /> *ゴールパデー家([[ムドール]])<br /> *パトワルダン家([[クルントワード]]、[[ミラジ]])<br /> ほか<br /> <br /> ==マラーター同盟の盟主==<br /> *[[バーラージー・ヴィシュワナート]](在位;1713年 - 1720年)<br /> *[[バージー・ラーオ1世]](在位:1720年 - 1740年)<br /> *[[バーラージー・バージー・ラーオ]](在位:1740年 - 1761年)<br /> *[[マーダヴ・ラーオ]](在位:1761年 - 1772年)<br /> *[[ナーラーヤン・ラーオ]](在位:1772年 - 1773年)<br /> *[[ラグナート・ラーオ]](在位:1773年 - 1774年)<br /> *[[マーダヴ・ラーオ・ナーラーヤン]](在位:1774年 - 1795年)<br /> *[[バージー・ラーオ2世]](在位:1795年 - 1818年)<br /> <br /> == 脚注 ==<br /> {{脚注ヘルプ}}<br /> &lt;references/&gt;<br /> <br /> ==参考文献==<br /> *{{Cite|和書|author =小谷汪之|authorlink =小谷汪之|translator=|title =世界歴史大系 南アジア史2 ―中世・近世―|publisher =山川出版社|date =2007年| isbn =}}<br /> *{{Cite|和書|author =ビパン・チャンドラ|authorlink =ビパン・チャンドラ| translator=栗原利江|title =近代インドの歴史|publisher =山川出版社| date =2001年|isbn =}}<br /> <br /> == 関連項目 ==<br /> * [[マラーター王国]]<br /> <br /> {{インドの王朝}}<br /> {{デフォルトソート:まらたとうめい}} <br /> [[Category:マラーター同盟]]<br /> [[Category:インドの王朝]]<br /> [[Category:かつて存在したアジアの国家]]<br /> [[Category:1818年に廃止された国家・領域]]</div> 113.158.34.120
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