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http:///mymemo.xyz/wiki/api.php?action=feedcontributions&user=112.140.13.142&feedformat=atom miniwiki - 利用者の投稿記録 [ja] 2024-05-03T20:58:18Z 利用者の投稿記録 MediaWiki 1.31.0 海軍 2018-07-06T12:28:34Z <p>112.140.13.142: /* 内陸国における海軍 */</p> <hr /> <div>{{Otheruses}}<br /> {{出典の明記|date=2010年3月}}<br /> [[ファイル:US Navy 101206-N-5538K-395 The aircraft carrier USS George Washington (CVN 76) transits the East China Sea.jpg|thumb|[[アメリカ海軍]]の[[空母]][[ジョージ・ワシントン (空母)|ジョージ・ワシントン]]]]<br /> [[ファイル:US Navy 091117-N-1644H-511 The guided-missile destroyers USS Lassen (DDG 82) and USS Curtis Wilbur (DDG 54) are underway in the Pacific Ocean.jpg|thumb|アメリカ海軍の[[アーレイ・バーク級ミサイル駆逐艦]]]]<br /> [[File:Orion.usnavy.750pix.jpg|thumb|アメリカ海軍の[[P-3 (航空機)|P-3]][[対潜哨戒機|哨戒機]]]]<br /> &#039;&#039;&#039;海軍&#039;&#039;&#039;(かいぐん、{{lang-en-short|navy}})は[[軍事作戦]]のために主に[[艦艇]]を使用する[[軍隊|軍事組織]]を言う。<br /> <br /> ==概説==<br /> 海軍は本質的に[[海洋]]を活動領域とする軍隊の一種であり、その意義は海洋がどのように社会と関係しているかに影響している。[[地球]]の表面はその約70%が海洋であり、沿岸地域の集落は古来より[[船舶]]を活用しながら生活を営んでいた。古代ギリシアの哲学者[[アリストテレス]]は海洋が国家にもたらす影響に言及している。彼は[[安全保障]]と[[貿易]]の面で海洋は国家に重要な便益をもたらすと述べており、例えば[[戦争]]において海外から派遣された援軍を収容するためにも、また国内の余剰生産物を輸出するためにも海洋という地理的環境は有用であると考えていた&lt;ref&gt;田中美知太郎訳『世界の名著8 アリストテレス』(中央公論社、昭和47年)&lt;/ref&gt;。さらにイギリスの哲学者であり、政治家でもあった[[フランシス・ベーコン (哲学者)|フランシス・ベーコン]]も[[政治]]的な見地から海洋の重要性を論じており、海を支配することができれば、大陸を領有する国家と比べてより自由になり、戦争の規模や範囲を制御することができることを主張した&lt;ref&gt;渡辺義雄訳『ベーコン随想録』(岩波書店)&lt;/ref&gt;。したがって、海洋とは国家や人間の生活にとって有益であり、しかも陸地とは全く異なる環境であると考えることができる。陸軍や空軍と異なる海軍に固有の性格とは、このような海洋の重要性や特殊性を踏まえて軍事作戦を遂行する能力を持つことであると特徴付けられる。<br /> <br /> 海洋において海軍が担う具体的な戦略的役割は[[海軍戦略]]の理論によって規定されている。アメリカの軍人[[アルフレッド・セイヤー・マハン]]は『[[海上権力史論]]』や『[[海軍戦略 (マハン)|海軍戦略]]』において海洋戦略を理論化し、海軍の使命は[[制海権]](海上優勢)の獲得にあると論じた&lt;ref&gt;北村謙一訳『マハン海上権力史論』(原書房)と井伊順彦訳『マハン海軍戦略』(中央公論新社)&lt;/ref&gt;。マハンの格言に『海を制する者が、世界を制する。』がある。これは、現代に至っても、各国海軍の存在意義を証明する骨幹となっているとはイギリスの軍人[[フィリップ・ハワード・コロム]]の『[[海戦論]]』によって初めて提唱されえた概念であり、海洋において航海を管制する権力である。これを保持することは味方の船舶の航行を保全し、同時に敵の航行する船舶を阻止もしくは破壊することとなる。軍事作戦の用語法では前者を[[護衛船団|海上護衛]]、後者を[[通商破壊]]と呼び、海軍の任務の一部としている。しかしマハンは海軍が制海権を確立するための方法として通商破壊だけでは不十分であると考えていたために敵の艦隊を撃滅する艦隊決戦が必要であると強調している。敵の艦隊を破壊することによって、敵の商船隊をも完全に撃滅することが可能となり、したがって敵に対する[[海上封鎖]]が実現できることとなる。一方でマハンとは異なる見地から『[[海洋戦略の諸原則]]』を著したイギリスの戦略研究者ジュリアン・コーベットは陸軍と海軍の相補的な関係を踏まえて艦隊決戦による制海権の確立を絶対視していない&lt;ref&gt;高橋弘道編著『戦略論大系8 コーベット』(芙蓉書房出版)にて和訳がある。&lt;/ref&gt;。海洋という地理的特性を考えれば制海権を完全に確立することは現実的に不可能であり、むしろ海上護衛と通商破壊こそが海軍の本質的な任務であると捉えていた。そして戦争全体における海軍の戦略的任務として海洋から大陸に対して適時適所に[[戦力投射]]能力を発揮することを主張した。これまでの議論から海軍とは海上交通路を排他的に確保するために制海権を掌握することが重要であることはわかるが、そのために海軍がどのようにあるべきかは議論が分かれる問題である。<br /> <br /> 海軍という軍事組織の具体的な構成要素とは船舶である。[[英語]]で海軍を表すnavyの語源は[[ラテン語]]の&quot;navis&quot;であり、これは[[軍艦]]、[[貨物船]]、[[漁船]]などあらゆる船舶の集合体を意味していた。工学的には船舶は液体から浮力と復元性を得ながら機関の推進力で航行する構造物であり、その内実は[[船舶工学]]の[[技術革新]]や使用目的の複雑化に伴って歴史的に変化してきた。そのため現代の海軍では航空打撃力を持つ[[航空母艦]]、潜水作戦能力を持つ[[潜水艦]]、水上艦艇である[[戦艦]]や[[巡洋艦]]、[[駆逐艦]]などの艦艇を擁しており、地域や時代によっては[[海兵隊]]などの陸上戦力、対潜戦闘能力を持つ航空戦力、[[核兵器]]などを運用する場合もある。海軍は航空打撃戦、対水上戦闘、対潜戦闘、機雷戦、電子戦、水陸両用作戦、海上護衛戦、通商破壊、洋上補給などさまざまな海上作戦を遂行するために、諸々の作戦能力の均整がとれた艦隊を編制することが求められる。しかしながら、このような一般原則に反して海軍は地域や時代に応じてさまざまな形態に変容してきた。マハンは艦隊決戦の重要性を認識していたために大型艦を中心とする艦隊を主張し、[[アメリカ海軍]]の艦隊は積極的に海外に派遣する外洋海軍としての能力が期待された。しかし[[水雷艇]]や潜水艦が登場した頃、[[フランス海軍]]では青年学派によって当時優勢な[[海軍力]]を誇っていた[[イギリス海軍]]に対抗するために外洋に[[機動]]力がある巡洋艦を、沿岸には潜水艇や水雷艇を導入する守勢的な海軍の構想が提唱され、ドイツの軍人ティルピッツもイギリス海軍と直接対決しない抑止力としての危険艦隊の構想を主張した。このような沿岸海軍の構想は[[ロシア海軍]]でも青年学派の影響で受け入れていたが、ロシア革命後には陸主海従の方針を採り、[[キューバ危機]]が起こるまでは外洋に展開する能力を期待されなかった&lt;ref&gt;各国の海軍政策の歴史的経緯を概観したものに防衛大学校・防衛学研究会編『軍事学入門』(かや書房)がある。&lt;/ref&gt;。このように海軍の在り方はその海軍を取り巻く戦略環境によって可変的なものであり、また軍事技術や戦略思想の変化にも影響を受けるものだと考えられる。<br /> <br /> ==海軍史==<br /> {{出典の明記|section=1|date=2010年3月}}<br /> 大量の物資を輸送するには、海上や河川を船舶で航行するのが効率が良い。人類が大きな国家を作るようになると船舶による輸送が不可欠となった。この航行の安全を守るために海軍が創設された。海軍力とは自国の海上通商路の維持能力にほぼ等しい。歴史上では海軍力の盛衰が国家の盛衰と一致している事が多い。(日本の海軍史については[[日本の海軍史]]参照)<br /> <br /> 海軍の役割は海軍を取り巻く政治情勢や技術躍進などによって大きく変化してきた。初期の海軍は陸軍部隊の輸送や沿岸警備という補助的な役割であり、常に編制されていたわけではなかった。しかし16世紀に初めて戦闘を目的とした船舶が設計されるようになり、次いで[[蒸気機関]]を用いた船舶技術の発達が進むと、独自的な役割を担う戦力として海軍が常備化されるようになる。航空機が発明される以前のものであったが、現代においてもその基本思想は現代海軍に残っている。第一次世界大戦では潜水艦の通商破壊や海上封鎖の効果が高く評価され、また第二次世界大戦でも大西洋と太平洋の海上交通を巡って従来の軍艦と併せて航空母艦の航空打撃戦が行われた。冷戦期には[[核弾頭]]を搭載した[[核ミサイル]]と原子力潜水艦という新しい海上戦力が[[核抑止]]の役割を担っていた。<br /> <br /> === 古代 ===<br /> [[File:Greek Galleys.jpg|thumb|[[古代ギリシア]]の[[ガレー船]]]]<br /> [[紀元前21世紀]]頃に[[古代エジプト]]が[[ナイル川]]に浮かべた軍船が、海軍のもっとも古い例のひとつと考えられている。<br /> <br /> 地中海世界では、[[紀元前15世紀]]頃から[[メソポタミア]]とエジプトで生まれた[[文明]]が東[[地中海]]地域に波及し、地中海沿岸の各地に生まれた諸都市・諸国家は海軍を編成して海上交通の覇を競い合った。海の覇権争いで最初に有力となったのは[[フェニキア]]の諸都市で、次いで[[紀元前4世紀|紀元前300年]]頃まで[[古代ギリシア]]が有力となった。[[ヘレニズム]]期以降、約100年間、[[北アフリカ]]の[[カルタゴ]]が優位に立ち、[[紀元前2世紀]]にカルタゴを滅ぼした[[ローマ|古代ローマ]]の覇権は[[4世紀|紀元300年]]頃まで続いた。ローマの覇権による地中海世界の平和は[[パクス・ロマーナ|パックス・ロマーナ]]と呼ばれる。帝国の行政上の中心である属州首都は多く海港ないしその付近に置かれた。<br /> <br /> 古代地中海世界の海戦では、艦首の[[衝角]]を敵艦に当てて破壊する戦法や、船を敵に寄せてはしごを使って戦士を敵艦に乗り込ませる戦法などが取られた。艦船も人力で漕ぐトリエーレ(90t、120人乗り)から、やはり人力ではあるが更に大きい[[ガレー船]](300t、200人乗り)へと大型化していった。[[アテナイ]]などの都市国家では、海軍が運用する[[三段櫂船]]の提供は富裕な市民の負担とされ、自力で歩兵の兵装を揃えることができない貧困層が船の漕ぎ手となった。海軍力による[[ペルシア戦争]]の勝利は、これら貧困層の政治的発言力を増すことにつながった。<br /> <br /> === 中近世 ===<br /> [[File:Oseberg ship - IMG 9129.jpg|thumb|[[ヴァイキング]]が用いた[[ロングシップ]]]]<br /> [[6世紀]]頃から東地中海では、古代ギリシャ・ローマ以来の造船技術を受け継いだ[[東ローマ帝国]](ビザンティン帝国)が、火炎放射器[[ギリシア火薬|ギリシャの火]]を持つ[[戦艦]][[デュロモイ]]を擁して海上の覇権を握った。しかし、やがて[[7世紀]]に[[エジプト]]・[[シリア]]を征服して東地中海世界に参入した[[ムスリム]](イスラム教徒)の力が増し、[[シチリア島]]や[[マルタ島]]、[[イベリア半島]]にまでムスリムの支配が及ぶようになる。この[[イスラーム]]による覇権は、&#039;&#039;&#039;パクス・イスラミカ&#039;&#039;&#039;と呼ぶ。[[キリスト教]]化された西ヨーロッパは[[ムスリム]]との通商を行わなかったため、古代以来の地中海全体を覆う海上通商路は分断された。<br /> <br /> 一方[[ヨーロッパ]]の[[大西洋]]側では、北から[[ヴァイキング]]と呼ばれる[[ノルマン人]]たちの襲撃が及ぶようになっていたが、西ヨーロッパ各国はこれに対抗する海軍を発達させず、ほとんど押さえ込まれたままであった。ノルマン人の勢力は、大西洋のみならず、地中海の[[シチリア島]]にも及んだ。<br /> <br /> ヨーロッパの地中海側では[[11世紀]]頃から[[イタリア半島]]の諸都市が力をつけ、[[ジェノヴァ共和国|ジェノヴァ]]や[[ヴェネツィア共和国|ヴェネツィア]]の海軍が活躍した。東地中海の覇権は東ローマ帝国からジェノヴァ・ヴェネツィアに移り、各国はその力を無視できなくなる。<br /> <br /> この頃の軍船は[[ガレー船]]のほかに[[帆船]]も使われるようになり、[[火薬]]を使った[[鉄砲]]や[[大砲]]が装備されるようになった。しかし遠距離攻撃を行う武器が出現しても、接舷して相手の船に乗り移っての[[白兵戦]]は、依然として重要な攻撃手段であり続けた。<br /> <br /> [[15世紀]]頃からビザンティン帝国を滅ぼして[[エーゲ海]]・[[マルマラ海]]沿岸の[[ギリシャ人]]・[[トルコ人]]海上勢力を支配下に入れた[[オスマン帝国]]が海軍力で優位に立ち、[[16世紀]]には[[北アフリカ]]の[[バーバリ海賊]]もこれに加わって西地中海まで制した。16世紀後半までは、実質的にオスマンの世紀だったと言える。<br /> <br /> 一方、[[大西洋]]側では16世紀に[[スペイン]]や[[ポルトガル王国|ポルトガル]]の海軍が優位に立ち、地中海の覇権を巡ってオスマン帝国と争う一方、大西洋や[[インド洋]]まで展開するようになった。しかし同世紀の末にはスペインの[[アルマダの海戦|無敵艦隊]](アルマダ)がイギリスに敗れ、スペインの国力も急速に低下していった。[[17世紀]]には、[[イベリア半島|イベリア]]の両国にかわって新興の[[オランダ]]、[[イングランド]]の海軍が有力となっていく。<br /> <br /> [[バルト海]]においては、中世以来、[[都市同盟]]の[[ハンザ同盟]]が優位に立っていた。これに対して、[[北ヨーロッパ|北欧]]では、ヴァイキングを継承する[[デンマーク]]が[[国家]]として海軍を形成し、[[大航海時代]]に参画し、[[インド]]にまで達している。ハンザ同盟とデンマークは16世紀まで対立し、ハンザ同盟が弱体化した後は、[[スウェーデン]]がデンマークとバルト海の制海権を争った。これに対して、この当時[[大国]]だった[[ロシア・ツァーリ国|ロシア]]([[モスクワ大公国]])は海軍が存在しなかった。17世紀に入るとスウェーデンが海軍を強化し、デンマークを撃破して[[バルト帝国]]を建国する。一方17世紀後半には、バルト海の[[制海権]]に再び動揺が見られた。デンマークは依然海軍力を擁し、また新興の[[プロイセン]]もバルト海の覇権争いに参戦する。そして、海軍後進国だったロシアが1696年に海軍を創設。18世紀初頭の[[大北方戦争]]において、バルト海の制海権を奪い、北欧の両国に代わって北方の覇権を確立した([[ロシア帝国]])。<br /> <br /> [[ファイル:The arrival of King Charles II of England in Rotterdam, may 24 1660 (Lieve Pietersz. Verschuier, 1665).jpg|thumb|250px|[[17世紀]]の[[イギリス海軍]]]]<br /> 西洋各国は、国による海軍のほかに、[[私掠免許]]状を出して、敵国船の攻撃ならびに[[拿捕]]を許し、海軍力の不足を補った。これがとくに効果的に行われたのはイングランドで、[[フランシス・ドレーク]]など多数の有名な[[私掠船]]船長を出した。またイングランドは操船規則などを充実し、それまでばらばらに行動しがちだった艦船が、隊列を組み信号旗の合図によって組織的に[[機動]]する近代海軍の整備で他国に先んじた。<br /> <br /> [[18世紀]]に入ると[[フランス王国|フランス]]が海軍を増強し[[イギリス]]に挑戦したが、[[トラファルガーの海戦]]でイギリスが大勝し、[[イギリス海軍]]の覇権が確立した([[イギリス帝国]])。この頃の主力艦は戦列艦と呼ばれ木造3本マスト約2000tで約100門の大砲を有していた。しかしこのような大型艦の建造は、国家財政の負担となった。イギリスにおける[[清教徒革命]]は、大きな反対があった建艦税の導入を求めた国王が、イングランド議会を召集したことに端をなした。<br /> <br /> 日本では七世紀の大和朝廷と新羅・唐連合軍との[[白村江の戦い]]があり海軍の歴史は長いが組織的な海軍(海賊衆:水軍)の活躍が見られるのは平安時代からであり、古代海賊衆の代表として、伊予国、日振島の[[藤原純友]]があげられる。[[平安時代]]の後期からこのような沿海の[[武士]]が武装化・集団化して縄張りの海域を通航する船に対して有償の海上警備や略奪を働くようになり、[[海賊衆]]と呼ばれる集団に発展した。海賊衆は[[室町時代]]から[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]には[[大名]]の[[水軍]]に編成され、海上の覇権を競った。比較的大規模な海賊衆に伊予の[[村上氏]]と[[河野氏]]があり、一時的に日本最大規模の水軍でもあった。[[織田信長]]に仕えた[[九鬼嘉隆]]は[[志摩国]]一国を与えられて織田氏の熊野水軍を編成し、「[[日本丸#文禄の役の日本丸|日本丸]]」を始めとする鉄張りの軍船によって[[紀伊国|紀州]]の[[一向一揆]]や[[石山本願寺]]などの攻略に貢献した。しかし、これらは[[文禄・慶長の役|朝鮮出兵]]において莫大な人的損耗をきたし、江戸時代には幕府の1635年の[[武家諸法度]]で法文化された[[大船建造の禁]]と[[鎖国]]政策により衰えた。<br /> <br /> === 近代 ===<br /> [[File:Tokubetu-Kankanshiki.jpg|thumb|300px|[[大日本帝国海軍]]の艦隊]]<br /> 19世紀にはそれまで木造のみであった艦船の材質に[[鉄]]や[[鋼]]が使用されるようになった。主な兵装は大砲の他に、艦首水面下に大きな衝角を装備した船が作られた。この衝角は、[[オーストリア]]と[[イタリア]]が戦った[[リッサ海戦]]を最後に使われなくなり、20世紀に入ると廃止された。また鋼で装甲された艦が作られるようになり、[[南北戦争]]では[[装甲艦]]同士の砲撃戦も生起した。19世紀の終わりに[[魚雷]]が実用化され、[[日清戦争]]でその威力が確かめられた。<br /> <br /> 19世紀末から20世紀にかけて、[[戦艦]]・[[巡洋艦]]・[[駆逐艦]]・魚雷艇・[[潜水艦]]等の艦種が確立した。イギリス・フランス・ロシア・ドイツ・アメリカは戦艦多数を持つ大艦隊を装備したが、その他の国もその国力と地理条件に見合った艦隊を整備した。<br /> <br /> [[日露戦争]]では戦艦同士の大規模な[[戦闘]]が行われ、その戦訓を元に[[弩級戦艦]]が作られた。またロシア海軍はこの戦争で大敗し、海軍拡張競争から脱落してゆく。<br /> <br /> [[第一次世界大戦]]では、大艦隊を有するイギリス・フランス・アメリカとドイツが戦った。[[第一次世界大戦]]における海軍の主な戦いは、ドイツの潜水艦による[[通商破壊]]とそれに対する対潜作戦であった。水上艦艇による大規模な艦隊決戦は回数は少ないが、[[南アメリカ|南米]]と[[北海]]で何度か行われた。また[[航空機]]が戦闘に使用され、[[航空母艦]]が整備されるようになった。<br /> <br /> 第一次世界大戦中もイギリスは大規模な建艦を続け、大戦終了時には他の国とは比較にならない大規模な艦隊を有していた。大戦で敗れたドイツは海軍を大幅に縮小され、フランスも国力が疲弊し新規建造は減少した。第一次世界大戦後はイギリスが艦隊を縮小し、大戦の影響の少なかったアメリカと日本が大建艦計画を始めたため、この3カ国が大海軍国となった。日米の大建艦計画は経済的負担が大き過ぎ、1920年代に建艦競争を一旦中止する[[ワシントン会議 (1922年)|ワシントン軍縮会議]]と[[ロンドン軍縮会議]]が行われ、1930年代末まで主力艦の建造は中止された。この期間をネイバル・ホリデー(海軍休日)と呼ぶ。<br /> <br /> ネイバル・ホリデー後、各国は主力艦の建造を再開し、すぐに[[第二次世界大戦]]が始まった。この[[戦争]]で戦艦は主力艦の座を航空母艦に譲った。また[[大西洋の戦い (第二次世界大戦)|大西洋]]では再度潜水艦と対潜部隊の大規模な[[戦闘]]が行われた。[[太平洋戦争|太平洋]]では、空母[[機動部隊]]同士の戦闘が行われた。<br /> <br /> === 現代 ===<br /> [[ファイル:USS Maine (SSBN-741).jpg|thumb|[[アメリカ海軍]]の[[オハイオ級原子力潜水艦]]]]<br /> 第二次世界大戦終了時、アメリカが多数の大型航空母艦を基幹とする圧倒的な海軍力を有し、それが現在まで継続している。現在は慣例に従えば&#039;&#039;&#039;[[パクス・アメリカーナ]]&#039;&#039;&#039;となる。[[ソビエト連邦]]は一時期アメリカの海軍力に挑戦したが、[[ソ連崩壊]]とともに海軍力も低下した。また、イギリス海軍も戦後の有力な海軍として残った他、海軍に準じる戦力として日本の[[海上自衛隊]]も世界で有数の実力を持つとされている。<br /> 第二次世界大戦後に、[[原子爆弾]]と長距離[[ミサイル]]が実用化され、これを一つにまとめた[[潜水艦発射弾道ミサイル|弾道核ミサイル]]を多数搭載した[[原子力潜水艦]]が登場した。またこの[[潜水艦]]を破壊する目的の攻撃型潜水艦も多数建造されている。しかし現在の世界状況では[[核兵器]]は実際には使えない[[兵器]]であり、1990年代にアメリカの航空母艦から撤去されている。<br /> <br /> 21世紀初頭において、各国海軍の主力兵器は[[潜水艦]]である。比較的大規模な外洋型海軍を有する国は、敵潜水艦からの[[通商破壊]]に対する海上護衛の必要を訴え続けることで艦艇部隊、航空部隊の存在を維持している。こういった組織形態の海軍は&#039;&#039;&#039;対潜海軍&#039;&#039;&#039;とも呼ばれ、[[海上自衛隊]]は対潜海軍の典型といえる。<br /> <br /> == 機能 ==<br /> 海軍の基本的な機能は大きく外交機能、軍事機能、警備機能の3つに分類されると考えられている。<br /> <br /> === 外交・広報機能 ===<br /> 平時の海軍にとって第一義の任務は、外交、広報活動である。海軍の行なう外交、広報は共に[[情報戦]]、[[心理戦]]の一角を成すものである。<br /> 海軍の外交的な機能に[[強制外交]]([[砲艦外交]])の支援がある。外国との交渉において、強力な軍艦を派遣しその武力を後ろ楯として交渉を有利に進めることは砲艦外交と呼ばれ、幕末アメリカの[[マシュー・ペリー|ペリー]]提督が軍艦を江戸湾に進入させて日本を開国させ外交関係を結んだ事件は、砲艦外交の成功例として有名である。また砲艦外交のような強制力を活用したものばかりではなく、「Show the Flag」など外交政策の実行にも運用することができる。<br /> <br /> また外国に対する政治的な親善活動という機能もある。同盟国や友好国を訪問し、現地での親睦交流を行うことも海軍の重要な任務の一つである。また海軍軍人も一種の外交官として行動に配慮を要求され、その伝統を誇りにしている。また外国のみならず自国民に対しても、[[観艦式]]・体験航海の実施や[[博物館]]・[[資料館]]の運営などで、海軍への親近感と国防意識の涵養に努めている&lt;ref group=&quot;注&quot;&gt;砲艦外交、親善航海などでは、これら外交目的を満たすためかつてのようなそびえ立つ[[艦橋]]と天を衝く巨砲が造り出す軍艦の威容は、観る者に強い印象を与えた。しかし現代では、武装の[[ミサイル]]化や[[ステルス性]]の重視、[[軍事技術|電子兵器]]の発展で「[[軍艦行進曲|浮かべる城]]」とも例えられた威容は失われている。&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> === 軍事機能 ===<br /> 海軍に限らず、軍の機能の根幹は、戦争抑止力にあるといえる。海軍力が持つ抑止力には核戦力による核抑止、在来戦力による抑止がある。またこの他にも[[公海]]上での自国および同盟国・友好国の船舶の保護、通商路の安全確保という機能を持つ。<br /> <br /> 海軍力の使用手段として全面[[戦争]]における通商破壊作戦、[[上陸作戦]]、艦隊決戦、攻勢的機雷戦などがある。<br /> <br /> 局地[[戦闘]]においては海上護衛作戦、[[海上封鎖]]、個艦戦闘、守勢的機雷戦、[[特殊部隊]]の[[浸透戦術]]などがなどがある。<br /> <br /> 戦時下では海上での軍事活動のみならず、海上・海中から届く範囲の陸上の目標物を破壊する。過去一般的であった「領海3海里」は18世紀頃の艦載砲の弾が届く距離として採用されたと言われている。(現在は大半の国が12海里を採用している。)第二次世界大戦では航空母艦を発進した航空機が敵の本土を空襲した。第二次世界大戦後には戦略核ミサイルを搭載した原子力潜水艦が実用化し、巡航ミサイルにいたっては潜水艦だけではなく巡洋艦や駆逐艦にも搭載され、海軍の攻撃力範囲は大陸の奥を含む全世界に広がった。<br /> &lt;!--20世紀末までは、領海を「3海里」とする国が大多数でした。--&gt;<br /> <br /> 例えば現代のアメリカ合衆国は世界の多くの国と同盟関係にあり、ほとんどの国と友好関係を結んでいる。また米国人と米国企業は世界のあらゆるところに進出して活動している。そこで米海軍は全世界を活動領域とし、本国以外にも[[横須賀海軍施設|横須賀]]等に多くの基地を設置し、その艦船を全世界的に運用している。また紛争が予想される地域に空母や艦船を進出させ紛争抑止力とするとともに、万が一の際には敵に有効な打撃を与えると同時にその地域の自国民の保護を行う。<br /> <br /> === 警備救難機能 ===<br /> 海軍の警備の機能は[[国家主権]]の行使として、自国の[[領海]]などの警備に表される海上の治安維持である。具体的な活動としては[[密輸]]の防止や海洋法規の施行、沿岸における[[海難事故]]などの救難活動などを行う。このような機能に特化した海上戦力は海軍とは異なる[[準軍事組織]]として[[沿岸警備隊]]とされる場合もあるが、アメリカの沿岸警備隊が海事法規の執行を重視し、イギリスの[[イギリス沿岸警備隊|HM沿岸警備隊]]が海上救難を重視しているように沿岸警備の任務も多様である。また[[税関]]への協力関係として、[[脱税]]の強行摘発に参加する場合もある。<br /> <br /> ==組織構造==<br /> 海軍の組織は時代や国、[[戦略]]によって千差万別であるが、現代の西欧諸国の海軍を例に説明する。<br /> <br /> === 軍令・軍政 ===<br /> 海軍は国防組織の一部局であり、この組織の最高指揮権は国権と同様に大統領や首相、また一部では国防相などが保有している。この部隊の軍事作戦を指揮統制する命令は軍令であり、最高指揮官の軍令が通達されることによって作戦部隊が行動することとなる。軍令の対照として軍事についての行政的分野を[[軍政 (行政)|軍政]]というが、軍政部門としては海軍部隊には[[国防省]]や海軍省が設置されている。このような軍政機関が予算編成や基地管理などの行政的な業務を行っている。<br /> <br /> === 艦隊編制 ===<br /> 海軍の編制は国によって大きく異なるが、基本的には軍政上の単位と戦術上の単位として[[艦隊]]がある。艦隊とは単独の指揮官の下で特定の海域を航行する海軍部隊であるとされている。例えば[[アメリカ海軍]]の艦隊は軍政上では大西洋と太平洋に配備された二大艦隊から成り、その両方には航空母艦部隊、巡洋艦部隊、駆逐艦部隊、潜水艦部隊、水陸両用部隊、補給部隊などの部隊があり、これらは種類に応じてそれぞれに指揮官が存在している。<br /> <br /> また地域間の柔軟な運用が出来るように工夫されており、現在は[[第2艦隊 (アメリカ軍)|第2艦隊]](大西洋)、[[第3艦隊 (アメリカ軍)|第3艦隊]](東太平洋)、[[第5艦隊 (アメリカ軍)|第5艦隊]](中東)、[[第6艦隊 (アメリカ軍)|第6艦隊]](地中海)、[[第7艦隊 (アメリカ軍)|第7艦隊]](西太平洋とインド洋)の5つの艦隊が存在しているが、艦艇は担当海域を移動する事によって所属する艦隊が変更になる仕組みを取っている。例えば中東で有事があった場合に第5艦隊が第6艦隊や第7艦隊から増援を受けた場合には、これらの艦艇は第5艦隊所属に切り替わり、指揮系統が一本化される。5つの艦隊司令部は固定されているが、実働部隊は常に流動的であり、必要なところへ必要な兵力が配置できるように合理化されている。<br /> <br /> 艦隊は戦術的には軍政上の指揮官とも少なからず合致しているが、これは艦艇を艦隊全体としての運用上の基準に適応させるためである。まず3隻から6隻程度の艦艇で一個の小隊を編成し、さらに駆逐艦や潜水艦の二個小隊によって1個駆逐隊や潜水隊、そして3個駆逐隊や潜水隊で水雷戦隊を編成する。そして指揮官は階級によって職責が異なり、例えば少将は航空母艦や巡洋艦の戦隊などを指揮する立場である。<br /> <br /> === 空母打撃部隊 ===<br /> 空母打撃部隊とは航空母艦の持つ航空打撃力に主眼を置いた部隊であり、艦隊を構成する。<br /> <br /> === 護衛部隊 ===<br /> また艦隊の構成部隊として[[巡洋艦]]、[[駆逐艦]]、[[フリゲート]]などから成る護衛部隊があり、哨戒の任務をも担う。<br /> <br /> === 航空部隊 ===<br /> {{main|海軍航空隊}}<br /> <br /> === 掃海部隊 ===<br /> 機雷を排除する任務を担う。<br /> <br /> === 潜水部隊 ===<br /> 水中を行動する事で、探知機器の発達した現在においても存在自体の秘匿性が高い。<br /> 第二次世界大戦あたりまでは、哨戒・通商路の破壊または妨害を主任務にする事が多かった。第二次世界大戦後には弾道ミサイルや巡航ミサイルの発射母機としても使用され、陸上への攻撃能力が加わった。一部の潜水艦には特殊部隊の搭載スペースがもうけられ、隠密裏に陸上戦力の投射と回収をする事が可能となっている。<br /> <br /> === 輸送部隊 ===<br /> 海上輸送を担う。<br /> <br /> === 水陸両用部隊 ===<br /> 水陸両用部隊は海軍に付随して海上要務と着上陸作戦を任務とした部隊である。水陸両用部隊については、古代ギリシアの歴史学者ヘロドトスとツキジデスはギリシア艦隊の「重装備の兵士たち」に言及しており、また[[ローマ海軍]]でも艦隊兵団についての記述が見られるように、古来より存在している。<br /> <br /> 中世までのヨーロッパの海軍は、海上を移動して敵地に上陸する将兵を運ぶための海上輸送船団であり、この時代の海戦とは兵士を乗せた船同士が遭遇した際に、兵士が敵艦に乗り込んで白兵戦を行なう接舷戦闘であった。やがて艦船同士が搭載した火砲による砲撃戦を行なうようになると、接舷戦闘や上陸戦闘を専門に行なうための歩兵部隊、或は陸軍部隊を海軍が組織し、艦船に乗り込ませるようになった。イギリスでは1664年、オランダはその翌年にその専門部隊を設立している。現代では[[海兵隊]]が水陸両用戦を専門に行う部隊として存在し、その代表に[[アメリカ海兵隊]]がある。<br /> <br /> 近代的な[[水陸両用作戦]]の祖は[[日本軍]]とされ、[[太平洋戦争]]において、[[真珠湾攻撃]]に続いて[[太平洋]]の島々を攻略した時に編み出した戦法とされる&lt;ref&gt;{{cite news |title=日本の自衛隊、その実力は<2> 水陸機動団の編成進む |newspaper=[[CNN]] |date=2016-12-11 |url=http://www.cnn.co.jp/world/35093435.html|accessdate=2017-4-29 }}&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> === 沿岸警備隊 ===<br /> {{main|沿岸警備隊}}<br /> &lt;!---ここでは海上自衛隊を見本として説明する。自衛隊の組織は文民統制が基本となっている。<br /> <br /> * 最高組織は[[内閣]]であり、[[内閣総理大臣]]が最高責任者である。<br /> * [[自衛隊]]は[[防衛庁]]長官の指揮下にある。<br /> * 制服組の最高組織は[[海上幕僚監部]]であり、そのトップは[[海上幕僚長]]である。幕僚は部隊に対して直接の指揮権を有しない。<br /> * 防衛庁長官の指揮下に直接部隊の自衛艦隊や地方隊、[[防衛研究所]]・[[技術研究本部]]や各種の学校がある。<br /> * 自衛艦隊は主戦部隊であり、自衛艦隊の下に[[護衛艦]]隊・[[潜水艦]]隊・[[掃海隊]]群・開発部隊群・輸送隊・航空集団を置く。護衛艦隊の指揮下には大型の護衛艦8隻を持つ護衛隊群が4セットある。潜水艦隊の指揮下には潜水隊群が2セットあり、あわせて16隻の潜水艦を有する。海外へ派遣される部隊は自衛艦隊から選ばれる。航空集団は対潜哨戒や輸送に当たる[[航空機]]や[[ヘリコプター]]を保有している。<br /> * 自衛艦隊とは別の組織として、地方警備を担当する地方隊が横須賀・呉・佐世保・舞鶴・大湊の5ヶ所にある。各々やや小型の護衛艦または自衛艦隊で使われなくなった護衛艦を主力とし基地名の警備区を管轄している。また練習艦隊も自衛艦隊とは別の組織である。<br /> <br /> 現在の[[海上自衛隊]]には存在しないが、旧海軍や世界の一般としての組織には海軍工廠(海軍専用の造船・造機・修理工場)がある。護衛艦隊の母港は旧海軍の軍港である横須賀・呉・佐世保・舞鶴に置かれている。---&gt;<br /> <br /> === 海軍基地 ===<br /> 海軍基地とは軍艦を建造・整備し、弾薬燃料などの[[補給]]、兵員の休養を行うために陸上に設置される軍事施設である。[[軍港]]とも言う。さらに海軍基地には艦隊の泊地でもあり、海軍基地は停泊する艦隊を保全し、敵による攻撃に対する十分な防備が必要である。ただしこれらの施設は大規模にならざるをえないために、隠蔽は極めて困難であり、[[戦略爆撃]]や核攻撃などには脆弱である。しかし海軍力及び海軍航空戦力の有効な運用のためにも前進基地ともなる海軍基地は重要である。<br /> <br /> === 補助機関 ===<br /> 技術研究所や[[海軍兵学校]]などの研究開発および教育機関も含まれる。<br /> <br /> == 兵器 ==<br /> === 艦艇 ===<br /> 海軍の主な装備は<br /> * [[ガレー船]]<br /> * [[フリゲート]]<br /> * [[コルベット]]<br /> * [[ケッチ]]<br /> * [[戦列艦]]<br /> * [[航空母艦]](空母)<br /> * [[戦艦]]<br /> * [[巡洋艦]]<br /> * [[駆逐艦]]<br /> * [[輸送艦]]<br /> * [[揚陸艦]]<br /> * [[潜水艦]]<br /> * [[掃海艇]]<br /> <br /> === 航空機 ===<br /> * [[艦載機]]<br /> * [[艦上機]]<br /> * [[対潜哨戒機]]<br /> <br /> == 戦略・戦術 ==<br /> === 海軍戦略 ===<br /> {{main|海軍戦略}}<br /> 海軍戦略とは海軍力の運用に関する戦略である。<br /> <br /> === 海戦術 ===<br /> {{main|海戦術}}<br /> 海戦術とは海軍の戦術である。<br /> <br /> == 内陸国における海軍 ==<br /> {{See also|[[:en:Navies of landlocked countries|内陸国の水上部隊]]}}<br /> <br /> [[ブータン王国]]や[[ボツワナ防衛軍|ボツワナ]]のように、[[河川]]・[[湖沼]]・[[運河]]などが存在しない[[内陸国]]では当然海軍も存在しないが、領土内を[[運河]]や[[国際河川]]が通っていたり、複数カ国が隣接する[[湖沼]]が存在する場合には、沿岸国は警備や救難などの義務が存在する。このため領海が存在しなくても海軍、もしくは「河川海軍」と称される海軍に準じた部隊を組織していることがある。こうした組織では、[[砲艦]]など大型の艦艇を装備するケースもあるが、中型〜小型の[[哨戒艦艇]]が普通である。<br /> <br /> 河川海軍は組織として独立せず、海軍([[ロシア]]の[[カスピ海小艦隊]])や[[陸軍]]([[オーストリア]]、[[スイス]]、[[中央アフリカ]]など)の管轄下や、軍ではなく[[国家憲兵隊]]([[ブルンジ]])や[[国境警備隊]]([[ウズベキスタン]])に組み込まれている場合もある。<br /> <br /> 珍しい存在として[[ハンガリー]]の[[ハンガリー陸軍|陸軍]]河川部隊は、[[ドナウ川]]とその周辺河川・湖水において[[第二次世界大戦]]期に敷設された[[機雷]]の掃討を目的としている。また河川[[掃海艇]]を配備しており、河川哨戒も可能である。また[[ボリビア海軍]]は[[ボリビア]]が海岸部の領土を失ってからも、河川哨戒を担当する組織として存続(陸軍の管轄下)している&lt;ref group=&quot;注&quot;&gt;現在でも[[チチカカ湖]]上にペルーとの国境を有する。&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> == 各国の海軍 ==<br /> {{main|海軍の一覧}}<br /> === 北米 ===<br /> * [[アメリカ海軍|アメリカ合衆国海軍]]<br /> * [[アメリカ連合国海軍]](解隊)<br /> * [[カナダ海軍]]<br /> <br /> === 南米 ===<br /> * [[ブラジル海軍]]<br /> * [[アルゼンチン海軍]]<br /> * [[チリ海軍]]<br /> * [[ペルー海軍]]<br /> * [[ベネズエラ海軍]]<br /> * [[ボリビア海軍]](1993年陸軍に併合)<br /> * [[パラグアイ海軍]]<br /> <br /> === ヨーロッパ ===<br /> * [[イギリス海軍]] (Royal Navy)<br /> * [[フランス海軍]]<br /> * [[イタリア海軍]]<br /> * [[ドイツ海軍]]<br /> * [[スペイン海軍]]<br /> * [[ポルトガル海軍]]<br /> * [[オランダ海軍]]<br /> * [[ギリシャ海軍]]<br /> * [[デンマーク海軍]]<br /> * [[ノルウェー海軍]]<br /> * [[スウェーデン海軍]]<br /> * [[ポーランド海軍]]<br /> * [[ウクライナ海軍]]<br /> * [[ロシア海軍]]<br /> * [[クロアチア海軍]]<br /> <br /> === アジア ===<br /> * [[モンゴル国の軍事#モンゴル海軍|モンゴル海軍]] (現在は存在しない)<br /> * [[大日本帝国海軍]](Imperial Japanese Navy)(廃止)<br /> * [[海上自衛隊]](Japan Maritime Self-Defense Force)<br /> * [[韓国軍#海軍|韓国海軍]](Republic of Korea Navy)<br /> * [[中国人民解放軍海軍]](People&#039;s Liberation Army Navy)<br /> * [[中華民国軍#海軍|中華民国海軍]]<br /> * [[タイ王国海軍]]<br /> * [[シンガポール海軍]]<br /> * [[インドネシア海軍]]<br /> * [[インド海軍]]<br /> * [[パキスタン海軍]]<br /> * [[イラン海軍]]<br /> * [[イスラエル海軍]]<br /> * [[サウジアラビア海軍]]<br /> * [[トルコ海軍]]<br /> <br /> === オセアニア ===<br /> * [[オーストラリア海軍]]<br /> * [[ニュージーランド海軍]]<br /> <br /> === アフリカ ===<br /> * [[アルジェリア国民海軍]]<br /> * [[エジプト海軍]]<br /> * [[ガーナ海軍]]<br /> * [[ナイジェリア海軍]]<br /> * [[南アフリカ海軍]]<br /> * [[モロッコ王国海軍]]<br /> <br /> == 脚注 ==<br /> {{脚注ヘルプ}}<br /> === 注釈 ===<br /> {{Reflist|group=&quot;注&quot;}}<br /> === 出典 ===<br /> {{Reflist}}<br /> <br /> == 関連項目 ==<br /> {{wiktionary|海軍}}<br /> * [[海軍省]]<br /> * [[海戦]]<br /> * [[海戦術]]<br /> ** [[ガレー船時代の海戦戦術]]<br /> ** [[帆船時代の海戦戦術]]<br /> ** [[蒸気船時代の海戦戦術]]<br /> * [[軍艦]]<br /> ** [[アメリカ海軍艦艇一覧]]<br /> ** [[大日本帝国海軍艦艇一覧]]<br /> ** [[海上自衛隊艦艇一覧]]<br /> ** [[イギリス海軍艦艇一覧]]<br /> ** [[フランス海軍艦艇一覧]]<br /> ** [[イタリア海軍艦艇一覧]]<br /> ** [[ドイツ海軍艦艇一覧]]<br /> ** [[ソ連・ロシア海軍艦艇一覧]]<br /> ** [[中華人民共和国海軍艦艇一覧]]<br /> * [[沿岸警備隊]]<br /> ** [[海上保安庁]]<br /> ** [[アメリカ沿岸警備隊]]<br /> ** [[海洋警察庁]]<br /> ** [[トルコ沿岸警備隊]]<br /> * [[軍隊]]・[[統合軍]]<br /> ** [[陸軍]]<br /> ** [[空軍]]<br /> ** [[海兵隊]]<br /> * [[軍事]]<br /> * [[戦争]]<br /> {{gunji-stub}}<br /> {{DEFAULTSORT:かいくん}}<br /> [[Category:海]]<br /> [[Category:海軍|*かいくん]]</div> 112.140.13.142 空軍 2018-06-19T18:19:47Z <p>112.140.13.142: /* 攻撃ヘリコプターについて */</p> <hr /> <div>{{Redirect|エアフォース|韓国のテレビドラマ|エアフォース (テレビドラマ)|カナダにある[[北極諸島]]の島|エアフォース島|映画|空軍/エア・フォース}}<br /> {{出典の明記|date=2010年3月}}<br /> [[ファイル:Usaf.f15.f16.kc135.750pix.jpg|thumb|[[アメリカ空軍]]の[[戦闘機]]と[[空中給油機]]]]<br /> [[ファイル:B-2 Spirit original.jpg|thumb|アメリカ空軍の[[B-2 (航空機)|B-2]][[戦略爆撃機]]]]<br /> <br /> &#039;&#039;&#039;空軍&#039;&#039;&#039;(くうぐん、{{lang-en-short|Air force}})とは、[[航空機]]を主な装備とし[[航空作戦]]・航空戦を遂行する[[軍隊]]の一種。<br /> <br /> 航空機の発達によって[[第一次世界大戦]]に登場して各国軍部に高く評価され、[[第二次世界大戦]]以後は[[陸軍]]や[[海軍]]と並ぶ主要な[[軍種]]となっている。<br /> <br /> == 概要 ==<br /> {{出典の明記|section=1|date=2010年3月}}<br /> 空軍とは[[航空作戦]]の遂行を任務とする軍隊の一種である。[[ライト兄弟]]が飛行実験を成功させて以来、人間は航空機を使用して地表面を離れ、空中を機動する事が可能となった。[[航空]]との意義とは、陸地や海上の地理的な制約をほとんど受けずに[[地球]]上の全ての地点に到達できる事である。アメリカにおいて航空戦略思想を啓蒙した軍人[[ウィリアム・ミッチェル]]は、航空機の登場が戦争に決定的な影響を及ぼすことを強調している。前線から遠く離れた後方に攻撃目標が存在していても、それが上空から確認される限りは航空攻撃が可能なためである。具体的には、前線から最も離れた政経中枢の首都、[[港湾]]や[[空港]]、重要な幹線[[道路]]などの任意の目標が破壊される可能性が出現したのである。開戦に伴う危険が高まるため、開戦は可能な限り回避され、また開戦した場合も極めて短期間で勝敗が決定するものと推測できる。この主張は即座に陸海軍の存在意義が消失したことを意味しないが、陸海軍にはない決定的な任務を備えた軍種として空軍の重大性を確立するものである。<br /> <br /> 空軍の戦略的威力について、1893年に開かれた世界コロンビア博覧会の軍事会議で、イギリスの軍人フラートンは[[海戦]]の遂行にも空の支配が必要であり、戦争の勝利は航空隊が敵の首都上空へ到着することで決定されると主張した。このような空軍の重要性に関する主張はイタリアの軍人[[ジュリオ・ドゥーエ]]によって体系化されることになる。[[第一次世界大戦]]で陸海軍が航空機を航空偵察や支援戦闘、対航空戦のために運用するようになると、ドゥーエは戦略爆撃の効果と独立空軍の創設を『[[制空]]』で論じるようになる。ドゥーエが展開した理論の中核にある概念は[[制空権]](航空優勢)である。制空権とはある空域において排他的に航空を管制する状態である。これを確保するためには敵の[[航空機]]を空域から空中戦によって排除し、さらに敵の航空基地に対して攻撃を加えなければならない。この制空権を確立する作戦を行うためには、戦闘部隊や爆撃部隊などから構成される独立空軍が編制されなければならないとドゥーエは考える。もし独立空軍がなければ陸軍や海軍が健在であっても敵による政経中枢への[[戦略爆撃]]を許し、[[戦争]]に敗北することを余儀なくされると空軍の重要性を強調した。つまり戦争における空軍の戦略的な役割は航空偵察や陸海軍の部隊に対する支援戦闘に始まり、後に制空権の確立と戦略爆撃の実施へと変化していった。ミッチェルは『[[空軍による防衛]]』においてドゥーエと同様に独立空軍の設置を主張するが、同時に軍事航空だけではなく国家の全般的な航空能力を[[エアパワー]]と定義し、民間の航空産業を保護することも主張している。これは優れた空軍を維持するためには航空機や[[飛行場]]を維持するだけでなく、愛国的で卓越した技量を持つ航空要員と工業生産力が不可欠であるという考えに基づいており、現代の航空戦略の概念として受け入れられている。<br /> <br /> 空軍の作戦能力は航空機によって構成されている。航空機は一般に機関により推進力を、主翼により[[揚力]]を得て空中を飛行する能力を持つ交通手段である。航空機は1903年12月17日に[[ライト兄弟]]がアメリカで[[ライトフライヤー号]]の飛行実験を成功させた時には、木材で骨格が作られたものであり、[[ガソリンエンジン]]を動力として[[プロペラ]]で推進する簡単な[[複葉機]]の構造を持っていた。しかし第一次世界大戦で運動性や武装などが改良され、[[偵察機]]、[[戦闘機]]、[[攻撃機]]、[[爆撃機]]という[[軍用機]]の基本的な機種が成立する。この大戦を通じてドイツ軍の空襲を受けたイギリスは[[1918年]]に世界で初めての独立空軍である[[イギリス空軍]]を編制している。[[第二次世界大戦]]では金属素材の[[単葉機]]が登場し、航続距離、運動性、兵装が改善されただけでなく、ドイツ軍で開発された[[電撃戦]]において航空部隊は近接航空支援で敵前線に戦車が突撃を加える突破口を形成する役割を担った。一方のイギリス空軍でもドイツ空軍に対する近代的な防空システムを構築して本土への攻撃を退けた。またアメリカでもセヴァルスキーによる『[[空軍力による勝利]]』で[[戦略爆撃機]]とそれを護衛する戦闘機の生産を拡大が推進された。工学者[[ロバート・ゴダード]]はロケット工学の研究で[[ジェット機]]や[[ミサイル]]の基礎技術を導入している。戦後間もない1947年に新設された[[アメリカ空軍]]では[[核兵器]]を運用するための戦略爆撃の能力を拡大し、長距離航空を支援するための[[空中給油機]]が導入されるようになる。[[空中給油]]を実施することでより幅広い地域にわたって航空戦力を展開することが可能となる。空軍の意義は冷戦後の[[湾岸戦争]]でも高く評価され、多国籍軍による[[精密誘導兵器]]を用いた戦略爆撃はイラク軍の戦闘能力を低下させることに成功した。<br /> <br /> == 空軍史 ==<br /> {{出典の明記|section=1|date=2010年3月}}<br /> 空中戦の起源は[[ギリシャ神話]]などで出てきている([[ペロデフォン]]の空中戦など)がこんにちの空軍とは除外される。そもそも、飛行機が使われていないためである。<br /> 確かな空軍戦力が戦場に投入されたはじまりは1794年の[[フルーリュスの戦い]]にて、[[フランス軍]]が偵察のために[[気球]]を使用したこととされる&lt;ref&gt;フランス革命「場面・事件」の解説- 専修大学(www.senshu-u.ac.jp/library/00_spdata/libif/libtop_index/libdisplay/pdf/200710_exhibition_explanation_01.pdf)&lt;/ref&gt;。<br /> [[飛行機]]の歴史は、[[1903年]]アメリカの[[ライト兄弟]]の飛行から始まる。初期の飛行機は空を飛ぶことに専念し、戦闘に使われることは想定されなかった。<br /> <br /> 1911年9月から1912年10月の[[伊土戦争]]でイタリアが2隻の飛行船に加えて28機の航空機を投入して偵察を行ったのが、戦場で航空機が初めて登場した戦争になった。<br /> <br /> === 第一次世界大戦 ===<br /> [[ファイル:Farman Shorthorn MF11.jpg|thumb|第一次世界大戦当時の[[偵察機|偵察]]・[[爆撃機]][[MF.11 (航空機)|MF.11]]]]<br /> 航空機が戦力として本格的に注目されたのは第一次世界大戦である。大戦初期、航空部隊の任務は[[偵察]](偵察機)のみで戦闘に携わることは無かったが、途中から戦闘機や爆撃機が誕生し、[[ドイツ]]・[[フランス]]・[[イギリス]]・[[アメリカ合衆国|アメリカ]]・[[カナダ]]・[[イタリア]]などの国で多数の戦闘機や爆撃機が生産・使用された。<br /> <br /> この時期に[[イギリス陸軍航空隊]](ロイヤル・フライング・コア)、[[フランス空軍|フランス陸軍航空隊]](アエロノーティク・ミリテール)と[[ドイツ空軍|ドイツ陸軍航空隊]](ルフトシュトライトクレフテ)が組織として誕生した。その後ドイツ陸軍航空隊は敗戦により解体されたが、イギリス陸軍航空隊はイギリス空軍に形を変え現在まで続いている。この大戦では戦闘機同士の空中戦、ドイツ[[飛行船]](海軍に所属)・爆撃機による夜間都市爆撃、[[イギリス海軍]]機([[水上機]])によるドイツ軍基地攻撃など今まで無かった新しい戦争の形態が出現した。<br /> <br /> 航空機のもたらす偵察情報はしばしば戦闘に大きな役割を果たし、砲兵観測は既存の直接射撃主体の砲兵の戦術を一新する等、航空機は陸戦の勝敗を決する上で非常に重要な兵科となった。<br /> <br /> === 大戦間の状況 ===<br /> 第一次世界大戦が終了し[[戦間期]]に入ると大戦参加各国の航空部隊は大幅に縮小された。当時の飛行機は木製で耐久性に乏しかったため、大部隊を維持するには常に大量に更新する必要があったためでもある。<br /> <br /> その中でイタリアの[[ジュリオ・ドゥーエ]]少将は将来の戦争は[[戦略爆撃]]が戦争の勝敗を決する旨の構想を明らかにし、アメリカの[[ウィリアム・ミッチェル|ウィリアム・E・ミッチェル]][[准将]]は航空爆撃の効果を重視し爆撃機の攻撃により(旧式ではあるが)[[戦艦]]を撃沈できることを証明した。これらの見解は将来の戦争形態について各国の関係者たちに少なからず影響を与えた。[[1930年代]]中期まで、各国空軍は技術の進歩にあわせて新しい機体を採用しつつも規模は小さいままであった。<br /> <br /> 1930年代後半に[[アドルフ・ヒトラー]]が率いる[[ナチス・ドイツ]]が[[再軍備]]を宣言し空軍を急速に増大させ、[[スペイン内戦]]には主に新型機材で構成された[[コンドル軍団]]を投入し、戦果を挙げるとともに、[[ヴェルナー・メルダース]]が[[ロッテ戦法|ロッテ戦法・シュヴァルム戦法]]を考案するなど運用面でも進化を遂げた。これに対抗してイギリス・フランス・アメリカ・[[ソビエト連邦|ソ連]]などが空軍の強化を開始し、[[極東]]では[[日中戦争]]や[[ノモンハン事件]]を戦っていた[[日本]]の[[大日本帝国陸軍|陸軍]]と[[大日本帝国海軍|海軍]]も航空部隊を増強した。特に陸軍では既存の[[陸軍士官学校 (日本)|士官学校]]とは別に航空[[将校]]養成に特化した[[陸軍航空士官学校|航空士官学校]]を設立、[[少尉候補者|陸軍少尉候補者制度]]により[[准士官]][[下士官]]パイロットの[[将校]]・[[指揮官]]登用、実戦部隊([[陸軍飛行戦隊|飛行戦隊]])と支援部隊([[飛行場大隊]])の空地分離化などが推し進められ、海軍では[[山本五十六]]の主導の下、従来の戦艦主体の艦隊から[[航空母艦]]を主力とする海軍への切り替えが始まった。この時期イギリスは空母搭載機も空軍に所属していたがこれは不合理で、海軍用の機体は地上を基地とする機体に比べて更新が大幅に遅れた。イギリス海軍が大戦前半に複座戦闘機[[フェアリー フルマー|フルマー]]や複葉攻撃機[[フェアリー ソードフィッシュ|ソードフィッシュ]]で戦った原因はここにある。その後イギリスも空母搭載機は海軍所属に変更した。<br /> <br /> === 第二次世界大戦 ===<br /> [[ファイル:Supermarine Spitfire Mk XVI NR.jpg|thumb|[[バトル・オブ・ブリテン]]で活躍した[[イギリス空軍]]の[[スーパーマリン スピットファイア|スピットファイア]]戦闘機]]<br /> 第二次世界大戦では、空軍は戦争の主力となった。陸上でも海上でも制空権を有する側が勝利を得た。<br /> <br /> 大戦初期、ドイツは制空権を握った空軍の電撃戦により[[ポーランド侵攻|ポーランド侵攻戦]]や[[ナチス・ドイツのフランス侵攻|フランス侵攻戦]]で成功を収めるが、[[バトル・オブ・ブリテン]]の航空戦で敗北。[[独ソ戦|対ソ連戦]]の[[バルバロッサ作戦]]では電撃戦で当初はソ連軍を圧倒したものの、[[モスクワの戦い|タイフーン作戦]]の失敗により戦局は停滞する。<br /> <br /> [[太平洋戦争]]初期の日本の陸海軍航空部隊は、パイロットの優れた技量と集中投入によって[[マレー作戦|マレー電撃戦]]や[[真珠湾攻撃]]、[[ビルマの戦い|ビルマ攻略戦]]、[[フィリピンの戦い (1941-1942年)|フィリピン攻略戦]]、[[蘭印作戦|蘭印攻略戦]]などの[[南方作戦]]においてイギリス・アメリカ・オランダを圧倒した。真珠湾攻撃や[[マレー沖海戦]]の結果、長年海軍の主力であった戦艦はその座を失い、航空母艦が海軍の根幹となり大戦中は多数建造された。しかしながら[[ミッドウェー海戦]]の敗北により主導権を失い、以降は[[特別攻撃隊|特攻]]までせざるを得ない消耗戦に引きずり込まれる。<br /> <br /> 更に大戦中期に連合軍は大反攻に転じ、次第に[[枢軸国|枢軸軍]]を圧倒するとともに、航空戦力をもって制空権を奪回・確保していった。第二次大戦では後方の都市への[[絨毯爆撃]]が盛んに行われ、直接戦闘員以外の損害も著しく増えた。最終的にドイツは連合軍による[[戦略爆撃]]と地上戦によるドイツ全土の占領により無条件降伏し、日本はアメリカ軍による戦略爆撃に加え[[広島市への原子爆弾投下|広島]]・[[長崎市への原子爆弾投下|長崎]]への[[原子爆弾]]投下により大日本帝国陸海軍は無条件降伏、第二次大戦は終戦となった。<br /> <br /> 第二次大戦中に生産された機体数はアメリカが約30万機、ソ連が約15万機、他の国も数万~10万機を生産し戦場に投入した。<br /> <br /> 組織として独立した空軍を保有した主な国はイギリス・ドイツ・[[イタリア空軍|イタリア]]・[[フランス空軍|フランス]]・[[赤色空軍|ソ連]]・[[フィンランド空軍|フィンランド]]で、アメリカ・日本の2国は陸軍航空部隊(陸軍航空隊・陸軍航空軍)と海軍航空部隊(海軍航空隊)をそれぞれ主力航空戦力として擁した。大戦中に[[対潜哨戒機]]や[[ヘリコプター]]が実用化され、飛行機による物資・人員の輸送とともに[[空挺部隊]]も一般化した。<br /> <br /> === 冷戦時代まで ===<br /> 1947年9月18日、[[アメリカ陸軍航空軍]]が[[アメリカ空軍|空軍]]となり、陸軍から独立した。主要国でも組織としての空軍が一般化した。例外としては[[スイス]]や[[オーストリア]]などは現在も陸軍の所属であり、名義上では空軍として独立していても、指揮系統において陸軍の下に位置する。また[[ソビエト連邦]]などの[[東側諸国]]などでは、[[防空]]任務を行う[[防空軍]]が空軍とはさらに別の組織として設立された。<br /> <br /> 日本においては、再軍備の途上である[[保安隊]]([[陸上自衛隊]]の前身)・[[警備隊 (保安庁)|警備隊]]([[海上自衛隊]]の前身)時代には、戦前同様に航空部隊は保安隊・警備隊に分属していたが、1954年(昭和29年)に[[自衛隊]]に改組される際に、国際の趨勢に従い[[航空自衛隊]]として分離独立することとなった。<br /> <br /> [[冷戦]]時代は、空軍の任務として敵対国への[[核爆弾]]攻撃が重視され各国で多数の爆撃機が開発された。これらの爆撃機は万一の事態に備えて整備され、いつでも核爆弾を搭載して飛行できるように準備されていた。戦闘機・爆撃機とも[[1950年代]]にはジェット化された。<br /> <br /> 第二次世界大戦末期にドイツで開発された[[V2ロケット]]は、大戦後に核爆弾を搭載した[[大陸間弾道ミサイル]]に進化した。これらの攻撃を探知し防御することも空軍の重要な任務となった。また、仮想敵国の情報を入手するため、専用の[[偵察機]]が種々製作され運用された。<br /> <br /> 一方、[[開発途上国|発展途上国]]においては戦闘機・爆撃機を戦略上必要とせず、また、価格的にも高価である事から入手せず、[[COIN機]]のような廉価かつ操縦性の容易い機体が選ばれるようになった。これは冷戦時代を背景に各地で左翼ゲリラ活動が行われるようになり、従来の戦闘機・爆撃機ではリスクが合わなくなってきた為である。こうした動きは、[[ベトナム戦争]]においてアメリカが、[[アルジェリア戦争|アルジェリア紛争]]においてはフランスがこうした任務の機体の必要性を痛感した事も一因となった。<br /> <br /> === 現代の空軍 ===<br /> 冷戦が終結し大国間の全面戦争の危険が後退したかわりに、アメリカは[[アメリカ合衆国本土|自国本土]]を含む世界のあらゆるところで多様な敵と対戦する必要に迫られた。この状況に対し、アメリカ軍は2002年4月以後[[統合軍]]運用を基本とし、空軍単体としての運用は無くなった(名前は残り続けている)。また、[[偵察衛星]]や[[無人航空機]]の進歩により、パイロットの危険を伴う有人機による敵地偵察飛行は重要性が低下した。<br /> &lt;!--現実にはこれら全てを保有するケースは極めて稀であり、最大規模のアメリカ空軍にしても攻撃機、戦術爆撃機、偵察機などは戦闘機等に能力が付与される形で統合され、観測機はレーダーの発達や地対空ミサイルに脆弱である事から消滅しつつある。[[開発途上国|発展途上国]]における空軍はさらに小規模であり、作戦能力は軽攻撃機(いわゆる[[COIN機]]:対ゲリラ戦機)に限られる場合が多く、作戦機を保有せず輸送機・海洋監視機などのみで構成される国もある。--&gt;<br /> <br /> == 部隊編制 ==<br /> 軍隊共通の組織体制に関しては[[軍隊#組織形態]]を参照。<br /> <br /> === 部隊 ===<br /> {{main|飛行隊}}<br /> <br /> 部隊の[[編制]]は国や時代、装備機種によって一様ではない。例として、最小単位となる2機編隊を[[分隊]](Section, Element)、2個分隊から成る[[小隊]](Flight, Platoon)、複数小隊から成る飛行隊/飛行中隊(Squadron)がある。これら分隊・小隊・飛行隊/飛行中隊は基本的に同一の機種で編制されている。この飛行隊は航空群/飛行群/飛行戦隊/航空隊(Group)として構成され、整備隊・補給隊・防空隊・施設隊・警備隊・航空管制団などから成る支援任務群や専属の司令部とあわせて独立的な作戦行動をとることが出来る航空団/飛行団(Wing)となり、戦闘機を主要な戦力とした航空団/飛行団は戦闘航空団/飛行団(Combat wing, Fighter wing)と呼ぶ。この2個以上の航空団/飛行団から編制された部隊が[[航空師団]]/飛行師団(Air division)であり、これは任務によって様々に改編される場合もある。<br /> <br /> === 航空部隊 ===<br /> *主戦力:平時は領空保全を行い、戦時はそれに加えて敵対国・組織を空から攻撃する。[[戦闘機]]・[[攻撃機]]・[[爆撃機]]・[[偵察機]]・観測機・[[早期警戒機]]([[早期警戒管制機]])・連絡機などを運用する部隊。冷戦時代は[[核兵器]]を搭載した[[戦略爆撃機]]を運用する戦略空軍が独立部隊として存在していた。<br /> *空輸部隊:[[輸送機]]・[[空中給油機]]などを運用して、空軍の兵器・兵員や陸軍部隊を輸送する。<br /> **さらに南米諸国では下部組織として航空会社を経営しており、空軍の輸送機を用いた民間輸送が行なわれている。また、旧共産圏やアラブ諸国では国営のフラッグキャリアが「第二の空輸部隊」としての機能を持たせている事が多い。<br /> *訓練部隊:[[パイロット (航空)|パイロット]]の養成を行う部隊、訓練には専用の[[練習機]]を使用する。<br /> **近年では経費節減などから、基礎訓練は外郭団体や民間のパイロットスクールに委託する場合もある。<br /> <br /> === 支援部隊 ===<br /> *地上部隊:航空機の整備・補給に携わる部隊、[[飛行場]]を運営する部隊。飛行場の防衛に当たる部隊が空軍に属する場合もある。&lt;br/&gt;第二次世界大戦中の[[ドイツ空軍]](ルフトヴァッフェ)では空軍の指揮下に[[防空]]部隊や空挺部隊([[降下猟兵]])、[[歩兵]]部隊([[空軍野戦師団]])も存在した。前二者が空軍と密接に関係するものであったのに対し、歩兵部隊は陸軍と空軍の派閥抗争の産物という特殊な背景があった。&lt;br/&gt;現在においても、[[アメリカ空軍]]([[空軍警備隊]])やイギリス空軍([[:en:RAF Regiment|空軍連隊]])、([[内戦]]を経験した)[[開発途上国|発展途上国]]においては、基地・飛行場警備を主任務とする大規模な地上部隊を編成している。これらはドイツ空軍と異なり、空軍基地および施設の警備・防衛を第一義としている。&lt;br/&gt;なお、日本においては[[ホーク (ミサイル)|地対空誘導弾改良ホーク]]は[[陸上自衛隊]]に、[[パトリオットミサイル|地対空誘導弾パトリオット]]は航空自衛隊に所属している。&lt;br/&gt;これらとは別に、[[前線航空管制]](FAC)を担当する部隊が[[陸軍]]部隊に派遣される事がある。これは、空軍仕様の[[無線機]]を携行するとともに、[[近接航空支援]]に当たる[[攻撃機]]などの誘導の訓練を受けた隊員によって構成されており、陸軍に準じた兵装を携行する。<br /> <br /> {{See also|[[:en:Air force infantry and special forces|空軍歩兵および特殊部隊]]}}<br /> <br /> *[[戦略ロケット軍]]、[[宇宙軍]]:戦略ロケット兵器や[[スペースシャトル]]、[[宇宙ステーション]]を使用する部隊。中国人民軍では第二砲兵という独自の呼称を使用する。<br /> <br /> == 空軍軍人の気質 ==<br /> {{独自研究|section=1|date=2012年5月23日 (水) 14:21 (UTC)}}<br /> <br /> 日本国においては、航空自衛隊の特徴は「勇猛果敢、支離滅裂」と表現されている&lt;ref&gt;{{Cite web|date=2005-03|url=http://www.nids.go.jp/publication/senshi/pdf/200503/12.pdf|title=日本の職業軍人意識 ―1500 年の軍事史を振り返って―|format=PDF|publisher=[[防衛研究所]]|accessdate=2011-03-04}}&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> == 各国の空軍 ==<br /> {{main|空軍の一覧}}<br /> <br /> === 管轄の例 ===<br /> ==== 対潜哨戒機について ====<br /> *現在の[[イギリス軍]]<br /> :固定翼の対潜哨戒機は、多くの国々(日本、アメリカ、ドイツ、フランスなど)では海軍が運用しているが、イギリスでは空軍が運用している。同様に旧イギリス植民地であったオーストラリアやニュージーランドなどのほか、南ヨーロッパの一部の国(イタリア、ポルトガルなど)においても空軍で運用されている例がある。<br /> <br /> ==== 空母搭載航空機について ====<br /> *現在のアメリカ軍<br /> :空母に搭載されている航空機は海軍や[[アメリカ海兵隊|海兵隊]]の所属。&lt;!--何か例外があったような……--&gt;<br /> <br /> *現在のイギリス軍<br /> :海軍の所属であったシーハリアーが退役した為、空軍所属のハリアーが空母に搭載している唯一の固定翼機となっている。<br /> <br /> &lt;!--*フォークランド紛争当時のイギリス軍<br /> :空軍所属のハリアーが海軍所属の空母に……っと自信がないのでコメントアウト--&gt;<br /> ==== 対空兵器について ====<br /> *現在の自衛隊<br /> :[[ホーク (ミサイル)|ホーク]]は陸上自衛隊、[[パトリオットミサイル|パトリオット]]は航空自衛隊が運用。<br /> <br /> *第二次世界大戦当時のドイツ空軍<br /> :[[降下猟兵|空挺部隊]]のみならず地上戦用に[[装甲師団]]や22個の[[空軍野戦師団|野戦師団]]を擁していた。[[高射砲]]の運用も主に空軍が行っていた。<br /> <br /> ==== 戦略核ミサイルについて ====<br /> &lt;!--*2008年現在のアメリカ軍<br /> :空軍の管轄。--&gt;<br /> *現在のロシア軍<br /> :[[ロシア戦略ロケット軍|戦略ロケット軍]]を独立させている。<br /> <br /> *現在の中国軍<br /> :[[中国人民解放軍ロケット軍]]として独立させている。<br /> <br /> ==== 攻撃ヘリコプターについて ====<br /> *現在のロシア軍<br /> :[[ロシア航空宇宙軍]]によって運用されている。<br /> *1990年代の[[ユーゴスラビア連邦共和国|ユーゴスラビア]](実質的にはセルビア)空軍<br /> :装備・要員は空軍所属であったものの、実際の指揮・運用は陸軍部隊が掌握していた。<br /> <br /> == 関連項目 ==<br /> {{wiktionary|空軍}}<br /> *[[航空作戦]]<br /> *[[空軍戦略]]<br /> *[[航空戦術]]<br /> *[[エアパワー]]<br /> *[[各国軍の航空配備一覧]]<br /> *[[空軍の一覧]]<br /> *[[空軍基地の一覧]]<br /> *[[婦人補助空軍]]<br /> <br /> == 脚注 ==<br /> {{Reflist}}<br /> <br /> == 参考文献 ==<br /> *郷田充『航空戦力 上下』原書房、1978年。<br /> *Air Force Magazine. Soviet Air Force Almanac Issue, March. 1984.<br /> *Canan, J. W. No more SAC, TAC, and MAC. Air Force Magazine, October, pp. 13-15. 1991.<br /> *Douhet, G. The Command of the air, trans. by Dino Ferrari. New York: Arno Press. 1972.<br /> *Mason, R. A. The Royal Air Force: Today and Tomorrow. London: Ian Allan. 1982.<br /> *McMeiken, F. Italian military avaition. 1st ed. Midland Counties: Leiscester.<br /> *Sabin, P., ed. The future of United Kingdom air power. London and Washington: Brassey&#039;s. 1988.<br /> *Smith, M. J. The Soviet air and strategic rocket forces. Santa Barbara, Calif.: ABC-Clio. 1981.<br /> *Tedder, W. Air power in war. London: Hodder and Stoughoton. 1947.<br /> *Watanabe, A. Japanese air arms. Rev. ed. Japan: Saitama Komatsu. 1985.<br /> *Wolk, H. S. Planning and organization the postwar air force 1943-1947. Office of Air Force History. Washington, D.C.: U.S. Air Force. 1984.<br /> *Air Force Manual 1-1: Basic Aerospace Doctrine of the United States Air Forces. Headquarters U.S. Air Force. 1992.<br /> <br /> {{gunji-stub}}<br /> {{デフォルトソート:くうくん}}<br /> [[Category:空軍|*]]</div> 112.140.13.142 エスタド・ノヴォ 2018-06-19T18:05:40Z <p>112.140.13.142: /* 関連項目 */</p> <hr /> <div>{{参照方法|date=2015年9月}}<br /> {{基礎情報 過去の国<br /> |略名 = ポルトガル<br /> |日本語国名 = ポルトガル共和国<br /> |公式国名 = República Portuguesa<br /> |建国時期 = 1933年<br /> |亡国時期 = 1974年<br /> |先代1 = ディタドゥーラ・ナシオナル<br /> |先旗1 = Flag of Portugal.svg<br /> |先代2 =<br /> |先旗2 =<br /> |先代3 =<br /> |先旗3 =<br /> |先代4 =<br /> |先旗4 =<br /> |次代1 = ポルトガル<br /> |次旗1 = Flag of Portugal.svg<br /> |次代2 = アンゴラ人民共和国<br /> |次旗2 = Flag of Angola.svg <br /> |次代3 =モザンビーク人民共和国<br /> |次旗3 =Flag of Mozambique (1974-1975).svg<br /> |次代4 =インドネシア<br /> |次旗4 = Flag of Indonesia.svg<br /> |次代5 =インド<br /> |次旗5 =Flag of India.svg<br /> |次代6 =サントメ・プリンシペ<br /> |次旗6 = Flag of Sao Tome and Principe.svg<br /> |次代7 =ギニアビサウ<br /> |次旗7 =Flag of Guinea-Bissau.svg<br /> |次代8 =カーボベルデ<br /> |次旗8 =Flag of Cape Verde (1975-1992).svg<br /> |国旗画像 = Flag of Portugal.svg<br /> |国旗リンク =<br /> |国章画像 = Coat of arms of Portugal.svg<br /> |国章リンク =<br /> |標語 = {{lang|pt|Deus, Pátria e Família}}(神、祖国、そして家族)<br /> |国歌名 = ア・ポルトゥゲーザ<br /> |国歌追記 = <br /> |位置画像 = Portuguese Empire 20th century.png<br /> |位置画像説明 = <br /> |公用語 = [[ポルトガル語]]<br /> |首都 = [[リスボン]]<br /> |元首等肩書 = [[ポルトガルの大統領|大統領]]<br /> |元首等年代始1 = 1926年<br /> |元首等年代終1 = 1951年<br /> |元首等氏名1 = [[オスカル・カルモナ]]<br /> |元首等年代始2 =1951年<br /> |元首等年代終2 =1958年<br /> |元首等氏名2 =[[フランシスコ・クラヴェイロ・ロペス]]<br /> |元首等年代始3= 1958年<br /> |元首等年代終3= 1974年<br /> |元首等氏名3= {{仮リンク|アメリコ・トマス|en|Américo Tomás}}<br /> |首相等肩書 = [[ポルトガルの首相|首相]]<br /> |首相等年代始1 = 1932年<br /> |首相等年代終1 = 1968年<br /> |首相等氏名1 = [[アントニオ・サラザール]]<br /> |首相等年代始2 = 1968年<br /> |首相等年代終2 = 1974年<br /> |首相等氏名2 = [[マルセロ・カエターノ]]<br /> |首相等年代始3 =<br /> |首相等年代終3 =<br /> |首相等氏名3 =<br /> |首相等年代始4 =<br /> |首相等年代終4 =<br /> |首相等氏名4 =<br /> |面積測定時期1 = 1940年<br /> |面積値1 = 2,168,071<br /> |面積測定時期2 =<br /> |面積値2 =<br /> |面積測定時期3 =<br /> |面積値3 =<br /> |面積測定時期4 =<br /> |面積値4 =<br /> |人口測定時期1 = 1940年推計<br /> |人口値1 = 17,103,404 <br /> |人口測定時期2 = 1970年推計<br /> |人口値2 = 22,521,010<br /> |人口測定時期3 =<br /> |人口値3 =<br /> |人口測定時期4 =<br /> |人口値4 =<br /> |変遷1 = [[ポルトガルの憲法|1933年憲法]]<br /> |変遷年月日1 = 1933年<br /> |変遷2 = [[カーネーション革命]]<br /> |変遷年月日2 = [[1974年]][[4月25日]]<br /> |変遷3 = <br /> |変遷年月日3 = <br /> |変遷4 =<br /> |変遷年月日4 =<br /> |通貨 = [[ポルトガル・エスクード]]<br /> |時間帯 =<br /> |夏時間 =<br /> |時間帯追記 =<br /> |ccTLD =<br /> |ccTLD追記 =<br /> |国際電話番号 =<br /> |国際電話番号追記 =<br /> |注記 =<br /> }}<br /> &lt;!-- 第二次大戦中の記述が抜けてるのでどなたか加筆お願いします --&gt;<br /> &#039;&#039;&#039;エスタド・ノヴォ&#039;&#039;&#039;({{lang-pt-short|Estado Novo}})は、[[1933年]]から[[1974年]]にかけて[[ポルトガル]]に存在した保守[[権威主義]]的な長期独裁政権。正式な国名は現在の政体と同じく&#039;&#039;&#039;ポルトガル共和国&#039;&#039;&#039;({{lang|pt|República Portuguesa}})であり、&#039;&#039;&#039;第二共和政&#039;&#039;&#039;とも呼ばれる。<br /> <br /> エスタド・ノヴォとは[[ポルトガル語]]で「新(しい)国家」の意味で、発音は「イシュタドゥ・ノヴ」に近い。<br /> <br /> ==概要==<br /> エスタド・ノヴォは[[ファシズム]]指向を持った[[パターナリズム|父権的干渉主義]]政権である。[[1932年]]から[[1968年]]にかけ政権の座にあった[[アントニオ・サラザール]]首相によって発展した。暴力を前面に押し出して支配しようとする[[スペイン]]の[[フランシスコ・フランコ|フランコ]]や[[イタリア]]の[[ベニート・ムッソリーニ|ムッソリーニ]]のファシスト政権よりも緩やかな支配を目標とした。<br /> <br /> サラザール政権はポルトガル国民に[[ナショナリズム]]と[[カトリック教会|カトリック]]の価値観を強要した。サラザール自身は熱心なカトリック教徒であり、敬虔な信者である国民とポルトガルの国土を守るために経済の先進化が必要であると考えていた。そのため全ての教育政策はポルトガルと海外植民地の高揚を志向した。<br /> <br /> == 誕生 ==<br /> ポルトガルは[[1910年]]に[[君主制]]が倒れてから[[ポルトガル第一共和政|第一共和政]]に移行したが、16年間で8人が大統領となるなど国内は混乱状態にあり、軍部の[[クーデター]]が国民の支持を得る状態にあった。<br /> <br /> [[1926年5月28日クーデター|第一共和制の終焉]]を主導した[[マヌエル・ゴメス・ダ・コスタ]]将軍がわずか1ヶ月で権力を喪失すると、[[1926年]]7月に[[アントニオ・オスカル・カルモナ]]将軍が政権を掌握し、11月に大統領に就任、翌年3月には国民投票により信任された。[[アントニオ・サラザール]]はダ・コスタ将軍からの蔵相への招致に対して数日で辞任し隠遁していたが、大統領となったカルモナに大蔵大臣として再び招致され、その手腕により経済を再建した。<br /> <br /> その後、世界恐慌の中[[1932年]]には首相に就任し蔵相を兼任した。翌年の[[1933年]]に新憲法を制定し、エスタド・ノヴォの成立が宣言された。これによりカルモナ大統領の実権は失われ、サラザールの独裁が確立された。その後[[1951年]]にカルモナ大統領が死亡するとサラザールは選挙期間中一時的に大統領を兼務し、[[クラヴェイロ・ロペス]]を大統領に擁立した。<br /> <br /> ==政策==<br /> サラザールの統治下で、交通網など新たな[[インフラストラクチャー|インフラ]]が整備された。また教育プログラムによりポルトガルの農村部の人々にも初等教育を行う事が出来た。しかし、サラザールは教育が人々の潜在的な保守と宗教的な価値観を破壊すると考え、ごく少数の政権関係者のみに[[高等教育]]を奨励した。<br /> <br /> エスタード・ノヴォは、国家の[[パターナリズム|父権的管理]]の下で新たなエリート層の育成を阻み、資本主義における寡占状態を擁護する、[[コーポラティズム|イタリア・ファシズム型の統制経済]]を取った。サラザールは[[1938年]]に[[日独伊防共協定]](反[[コミンテルン]]協定)に署名することは拒絶したが、[[ポルトガル共産党]]は弾圧された。政党は[[国家連合党]](&#039;&#039;Unido Nacional&#039;&#039;)のみが合法とされ、一党独裁政治が行われた。<br /> <br /> 更にファシズム思想の普及を図るために、イタリアの[[黒シャツ隊]]を模倣した[[国民軍団]](&#039;&#039;{{lang|pt|Legião Nacional}}&#039;&#039;)と、既存の[[ボーイスカウト]]に代わり[[ヒトラーユーゲント]]を模倣した組織である[[ポルトガル青年団]](&#039;&#039;Mocidade Portuguesa&#039;&#039;)などの組織を設立した。これらの2つの組織は、国家の支援の元で青少年に軍隊式の生活を課した。<br /> <br /> ポルトガルは[[19世紀]]に、[[死刑]]を廃止した最初の国であるが、反体制派を弾圧するために[[秘密警察]]{{仮リンク|PIDE|en|PIDE}}({{lang|pt|&#039;&#039;Polícia Internacional e de Defesa do Estado&#039;&#039;}}、「国防国際警察」の意)を保持した。<br /> <br /> ポルトガルはこのような独裁政権であったが、[[第二次世界大戦]]を中立、後に連合国寄りに立つ外交政策によって切り抜け、[[1940年代]]~[[1950年代]]には特に、第二次世界大戦から復興しようとするヨーロッパ諸国に資材を売りつける事で高度経済成長を遂げた。<br /> <br /> しかし、[[1960年代]]にはヨーロッパの復興も一段落し、特需の終わったポルトガルは深刻な経済の遅れを耐える必要に迫られた。与党の中では自由主義経済に移行すべきだと主張する人々も表れた。彼らは隣国スペインが経済の自由化によって同様な状況から脱出し得たと主張した。当のスペインの場合は首脳部が「農業国の工業化が共産主義者に活気を与え、世論が左翼化し、政権やイデオロギーを不安定にする」との危惧を振り払って工業化を推し進めたことで、経済の復興を成し遂げる事ができた。しかしながらイタリア・ファシズム型の経済統制を取るポルトガルは急進的な工業化による新たな階級の出現を容認できず、その結果経済政策の転換は遅れた。<br /> <br /> ==終焉==<br /> エスタド・ノヴォの終焉は[[1960年代]]の植民地での暴動から始まった。独立以後[[ゴア]]を筆頭とする[[ポルトガル領インド]]の返還を要求していた[[インド共和国]]が、1961年12月18日に[[インド軍|陸海空軍]]合わせて4万5千の軍を侵攻させた。現地のポルトガル軍は抵抗するも翌19日に降伏し、ポルトガル領インドは全てインド共和国に併合された({{仮リンク|ゴア併合|en|Annexation of Goa|pt|Invasão de Goa}})。<br /> <br /> そして[[アンゴラ]]、[[モザンビーク]]、[[ギニアビサウ]]などの植民地の独立を、各々の陣営の勢力範囲を拡張しようとする東西両陣営が支援した。[[1961年]]以降[[ポルトガル植民地戦争|植民地戦争]]は[[ベトナム戦争]]と同じように激化し、大勢の人々を虐殺し、第二共和政の評価を台無しにしてしまった。<br /> <br /> ポルトガル側は植民地での優勢を維持することは出来たが、[[ソビエト連邦]]や[[キューバ]]に支援された共産ゲリラに苦戦し、国軍の損害は増すばかりだった。1950年代から1960年代にかけて、アンゴラの安価な石油とポルトガル人の安価な労働力、及び外国資本の導入による重工業化政策は多少なりとも成功したが、その間にも植民地戦争による莫大な軍事費は財政を圧迫し経済状況は悪化、徴兵制や低水準の賃金から逃れるために多くのポルトガル人が[[フランス]]や[[ルクセンブルク]]などの先進国に移住した。結果としてポルトガルは西ヨーロッパ最貧国と呼ばれるまでに転落した。<br /> <br /> [[1968年]]、サラザールの事故による引退と共に後継の[[マルセロ・カエターノ]]首相は当初漸進的に民主化を進めようとしたが、すぐにエスタド・ノヴォ体制を解体する意思がないことを行動で表し、植民地戦争を継続した。そのため、[[1974年]][[4月25日]]に決起した[[国軍運動]](MFA)の左派将校らによる[[カーネーション革命]]により体制は崩壊した。<br /> <br /> == 参考文献 ==<br /> * [[市之瀬敦]]『ポルトガルの世界―海洋帝国の夢のゆくえ』[[社会評論社]]、2000年12月。<br /> * [[金七紀男]]『ポルトガル史(増補版)』[[彩流社]]、2003年4月増補版。<br /> <br /> ==関連項目==<br /> * [[ポルトガル植民地戦争]]<br /> * [[カーネーション革命]]<br /> * [[ジェトゥリオ・ドルネレス・ヴァルガス]] - 同時期に[[ブラジル]]でエスタード・ノヴォと呼ばれる独裁体制を掲げた。こちらは工業化によるブラジル経済の第一次産業偏重からの脱却など、一般的な[[開発独裁]]に近いものであった。<br /> * [[ビルマ式社会主義]] - 社会主義を取り入れながらもビルマ文化を損ねるとして積極的な工業化を拒否した。<br /> * [[サンタマリア号乗っ取り事件]] - エスタド・ノヴォに反発した軍人カルロス・エンリケ・ガルバン大尉が起こした客船乗っ取り事件。<br /> <br /> {{DEFAULTSORT:えすたとのうお}}<br /> [[Category:ポルトガル共和国]]<br /> [[Category:ポルトガルの政治史]]<br /> [[Category:ファシズム]]<br /> [[Category:冷戦]]<br /> [[Category:1933年に成立した国家・領域]]<br /> [[Category:1974年に廃止された国家・領域]]</div> 112.140.13.142 下町 2018-06-19T17:48:35Z <p>112.140.13.142: /* 関連項目 */</p> <hr /> <div>{{Otheruses|地域的特性または社会的特性としての下町|大字としての下町|下町 (曖昧さ回避)}}<br /> &#039;&#039;&#039;下町&#039;&#039;&#039;(したまち)は、[[市街地]]の一部を区分して言う言葉で、複数の意味を有する。<br /> <br /> == 概要 ==<br /> 通常は下の二つの意味を同時に持つ言葉として用いられる。<br /> <br /> === 地形的特性としての下町 ===<br /> 第一の語義には地形的な特徴によって区分した「下町」があげられ、市街地中の[[海]]や[[川]]に近い[[低地]]の部分を示す。<br /> <br /> この意味での下町は、[[東京]]では、[[山の手]]([[武蔵野台地]]東端部分)の周辺をなす[[崖]]線より下側の地域がこれにあたる。[[大阪]]では、舌状に伸びる[[上町台地]]の西麓や[[旧淀川|大川]]北岸の地域がこれにあたる。[[江戸]]=東京についてはこの意味の下町と対をなす言葉は山の手であるが、通常は「山側」を意味する[[山手]]が対語となる。<br /> <br /> 大阪については下町という言い方はあまり用いられず、[[船場 (大阪市)|船場]]、[[島之内]]、[[堀江 (大阪市)|堀江]]、[[下船場]]、[[中之島 (大阪府)|中之島]]、[[堂島]]、[[天満]]など、川や[[堀]]で区切られたブロック毎の固有名称が一般的で、下町の対語となる[[上町台地|上町]](うえまち)がよく用いられる。<br /> <br /> === 社会的特性としての下町 ===<br /> 江戸のような[[都市]]では、[[軍事]]上の有利性から軍事拠点となる[[大名]]屋敷、[[大身]][[旗本]]屋敷、大[[寺|寺院]]は幕府の近くの台地におかれることもあった。また、[[水運]]の便の良かった川沿[[城下町]]、[[陣屋町]]などにも見られる。<br /> <br /> 大阪の地理的高低差は、江戸のような社会的棲み分けとの関連性は弱く、市街地の時間的変遷との関連性が強い。<br /> <br /> == 東京における下町 ==<br /> === 東京旧市街地、城下町 ===<br /> 東京では、[[歴史]]的に江戸時代の御府内([[江戸]]の市域)で、[[丘|高台]]の地域を「山の手」と呼び、低地にある町を「&#039;&#039;&#039;下町&#039;&#039;&#039;」と呼称されたという。東京における下町の代表的な地域は[[日本橋 (東京都中央区)|日本橋]]、[[京橋 (東京都中央区)|京橋]]、[[神田 (千代田区)|神田]]、[[下谷]]、[[浅草]]、[[本所 (墨田区)|本所]]、[[深川 (江東区)|深川]]であるが、「山の手」のイメージで語られがちな旧[[小石川区]]や旧[[牛込区]]、旧[[芝区]]にも下町地域は存在する。また、[[城南]]に位置する大田区の[[蒲田]]、[[大森]]も、下町の扱いを受ける場合がある。<br /> <br /> [[徳川家康]]は[[江戸城]]入城後、台地に屋敷を造ったのち、低湿地帯を埋め立てて職人町等を造ることにし、平川の河口から江戸城に通じる[[道三堀]]を造ったのを手始めに、[[掘割]]が縦横に走る市街地の下町を造成していった。芝居小屋や[[遊郭]]などの遊び場も栄え、江戸文化が花咲いた。&lt;ref name=repo1&gt;[http://repo.lib.hosei.ac.jp/bitstream/10114/3671/1/kyoyo90_takagi.pdf 「東京と文学(1)-近代化過程における相互の関連について-」高木利夫]法政大学教養部紀要、1994-2&lt;/ref&gt;<br /> <br /> 東京の下町は[[運河]]や小[[川|河川]]が縦横にあり、[[橋]]を渡らないと隣町に行けないところという見解がある。この地域には[[道路]]や川を越した先を「むこうがし(向こう[[河岸]])」という表現がある。<br /> <br /> 今日では[[地名]]を整理統合する動きが進行しており、「下町」「山の手」の区分が不明瞭になっている。<br /> <br /> == 大阪における下町 ==<br /> 大阪には下町・山の手という区別はない。特に太平洋戦争前に生まれた世代においては、下町という言葉を使うことは無い。しかし近年メディアの影響で東京の下町に似た庶民的な街を下町と呼ぶことが多くなった。[[豊臣政権|豊臣時代]]初期は武家地、町人地とも上町(うえまち)を中心に展開していた。しかし、[[豊臣秀吉]]晩年の[[1598年]]に[[大坂城]]三の丸の造成が始まると、上町に展開していた町人地の大半が下町の船場へ移転された。西端部を除いて現在も船場に残る40[[間]]四方の区画は太閤地割と呼ばれる豊臣時代の名残である。[[江戸時代|徳川時代]]に入ると下商人町の発は幕府や有力町人によってさらに進んだが、豊臣時代の三の丸にも再び町人地が展開され、[[渡辺津|渡辺]]、[[玉造 (大阪市)|玉造]]、[[上本町]]、[[谷町]]などが上町と総称された。武家地については、[[大坂城代]]や[[大坂町奉行]]の屋敷地は基本的に城内および上町に置かれたが、一部は天満の北縁や[[旧川口居留地|川口]]といった下町に置かれ、天下の台所と称された都市の性格上、各[[藩]]の[[武家屋敷#大名屋敷|大名屋敷]]([[蔵屋敷]])はもっぱら堂島や中之島といった水運に利する地に置かれた。<br /> <br /> 大阪においても東京の下町の雰囲気に通じる[[新世界 (大阪)|新世界]]、[[天下茶屋]]、[[天王寺]]や駒川の[[駒川商店街]]といった地域はもともとの大阪市域ではない。また、玉造、[[空堀商店街]]界隈、寺町群といった[[天王寺区]]域は上町台地上に位置している。今日的な下町のイメージのうち本来の下町である地域は天満の[[天神橋筋商店街]]界隈ぐらいである。<br /> <br /> == 日本国外における下町 ==<br /> [[ダウンタウン (曖昧さ回避)|ダウンタウン]](英:downtown)は[[都心]]、中心街、[[繁華街]]を指す言葉である。単語の成立に際し上下的な位置関係(ただしdowntownの場合は地形的な低地ではなく地図における下方、すなわち南を意味する。[[:en:Downtown]]を参照)が影響した点を除き、日本語の下町との関連性はない。対義語は[[アップタウン]]。<br /> * [[ウクライナ]]の首都[[キエフ]]の下町 → [[ポジール]]<br /> <br /> == 下町文学 ==<br /> 独特の気質や美意識を持つ下町は、多くの文学者に愛され、下町を描いた近代文学作品は数多い。代表的な作家に、[[幸田露伴]]、[[久保田万太郎]]、[[舟橋聖一]]、[[円地文子]]、[[永井龍男]]、[[芝木好子]]、[[田久保英夫]]、[[吉村昭]]、[[川口松太郎]]、[[池波正太郎]]、[[長谷川時雨]]、[[樋口一葉]]、[[永井荷風]]、[[安岡章太郎]]、[[泉鏡花]]、[[川端康成]]、[[江戸川乱歩]]、[[佐多稲子]]らがいる&lt;ref name=&quot;repo1&quot;/&gt;&lt;ref name=repo2&gt;[http://repo.lib.hosei.ac.jp/bitstream/10114/3683/1/kyoyo93_takagi.pdf 東京と文学(2) -近代化過程における相互の関連について- 高木利夫]法政大学教養部紀要、1995-2&lt;/ref&gt;。また、西洋的な視座から隅田川河岸の江戸趣味を楽しむ文人の集まり、「[[パンの会]]」も一時結成された&lt;ref name=&quot;repo2&quot;/&gt;。<br /> <br /> == 舞台にした作品 ==<br /> &lt;small&gt;※発表順&lt;/small&gt;<br /> * [[七色とんがらし]] (1976年) - [[千葉真一]][[主演]]の[[ホームドラマ]]で、[[東京]]・下町の鉄工所を舞台に、家族の人間模様・絆を描いている<br /> <br /> == 脚注 ==<br /> {{脚注ヘルプ}}<br /> &lt;references/&gt;<br /> <br /> == 関連項目 ==<br /> * [[城下町]]<br /> * [[陣屋町]]<br /> * [[門前町]]<br /> * [[寺町]]<br /> * [[東京市街の変遷]]<br /> * [[史跡]]<br /> * [[町並み保存]]<br /> * [[ノスタルジー]]<br /> * [[谷根千]]<br /> <br /> {{DEFAULTSORT:したまち}}<br /> [[Category:都市]]<br /> [[Category:東京都区部の地域]]<br /> [[Category:大阪市の地理]]<br /> <br /> [[en:Yamanote_and_Shitamachi]]</div> 112.140.13.142 アンチモン 2018-06-09T02:05:44Z <p>112.140.13.142: /* 用途 */</p> <hr /> <div>{{Elementbox<br /> |name=antimony<br /> |japanese name=アンチモン<br /> |number=51<br /> |symbol=Sb<br /> |pronounce={{IPAc-en|ˈ|æ|n|t|ɨ|m|ɵ|n|ɪ}}&lt;br /&gt;{{respell|AN|ti-mo-nee}}&lt;ref group=&quot;note&quot;&gt;In the UK, the variable vowel {{IPA|/ɵ/}} is usually pronounced as a schwa {{IPA|[ə]}}; in the US, it is generally a full {{IPA|[oʊ]}}.&lt;/ref&gt;<br /> |left=[[スズ]]<br /> |right=[[テルル]]<br /> |above=[[ヒ素|As]]<br /> |below=[[ビスマス|Bi]]<br /> |series=半金属<br /> |series comment=<br /> |group=15<br /> |period=5<br /> |block=p<br /> |series color=<br /> |phase color=<br /> |appearance=銀白色<br /> |image name=Antimony-4.jpg<br /> |image name comment=<br /> |image name 2=<br /> |image name 2 comment=<br /> |atomic mass=121.760<br /> |atomic mass 2=1<br /> |atomic mass comment=<br /> |electron configuration=&amp;#91;[[クリプトン|Kr]]&amp;#93; 4d&lt;sup&gt;10&lt;/sup&gt; 5s&lt;sup&gt;2&lt;/sup&gt; 5p&lt;sup&gt;3&lt;/sup&gt;<br /> |electrons per shell=2, 8, 18, 18, 5<br /> |color=<br /> |phase=固体<br /> |phase comment=<br /> |density gplstp=<br /> |density gpcm3nrt=6.697<br /> |density gpcm3mp=6.53<br /> |melting point K=903.78<br /> |melting point C=630.63<br /> |melting point F=1167.13<br /> |boiling point K=1860<br /> |boiling point C=1587<br /> |boiling point F=2889<br /> |triple point K=<br /> |triple point kPa=<br /> |critical point K=<br /> |critical point MPa=<br /> |heat fusion=19.79<br /> |heat vaporization=193.43<br /> |heat capacity=25.23<br /> |vapor pressure 1=807<br /> |vapor pressure 10=876<br /> |vapor pressure 100=1011<br /> |vapor pressure 1 k=1219<br /> |vapor pressure 10 k=1491<br /> |vapor pressure 100 k=1858<br /> |vapor pressure comment=<br /> |crystal structure=trigonal<br /> |japanese crystal structure=[[三方晶系]]<br /> |oxidation states=&#039;&#039;&#039;5&#039;&#039;&#039;, &#039;&#039;&#039;3&#039;&#039;&#039;, -3<br /> |oxidation states comment=<br /> |electronegativity=2.05<br /> |number of ionization energies=4<br /> |1st ionization energy=834<br /> |2nd ionization energy=1594.9<br /> |3rd ionization energy=2440<br /> |atomic radius=[[1 E-10 m|140]]<br /> |covalent radius=[[1 E-10 m|139±5]]<br /> |Van der Waals radius=[[1 E-10 m|206]]<br /> |magnetic ordering=[[反磁性]]&lt;ref&gt;[http://www-d0.fnal.gov/hardware/cal/lvps_info/engineering/elementmagn.pdf Magnetic susceptibility of the elements and inorganic compounds], in Handbook of Chemistry and Physics 81st edition, CRC press.&lt;/ref&gt;<br /> |electrical resistivity=<br /> |electrical resistivity at 0=<br /> |electrical resistivity at 20=417 n<br /> |thermal conductivity=24.4<br /> |thermal conductivity 2=<br /> |thermal diffusivity=<br /> |thermal expansion=<br /> |thermal expansion at 25=11<br /> |speed of sound=<br /> |speed of sound rod at 20=3420<br /> |speed of sound rod at r.t.=<br /> |Young&#039;s modulus=55<br /> |Shear modulus=20<br /> |Bulk modulus=42<br /> |Poisson ratio=<br /> |Mohs hardness=3.0<br /> |Vickers hardness=<br /> |Brinell hardness=294<br /> |CAS number=7440-36-0<br /> |isotopes=<br /> {{Elementbox_isotopes_stable | mn=[[アンチモン121|121]] | sym=Sb | na=57.36% | n=70}}<br /> {{Elementbox_isotopes_stable | mn=[[アンチモン123|123]] | sym=Sb | na=42.64% | n=72}}<br /> {{Elementbox_isotopes_decay | mn=[[アンチモン125|125]] | sym=Sb<br /> | na=[[人工放射性同位体|syn]] | hl=[[1 E7 s|2.7582 y]]<br /> | dm=[[ベータ崩壊|β&lt;sup&gt;-&lt;/sup&gt;]] | de=0.767 | pn=[[テルル125|125]] | ps=[[テルル|Te]]}}<br /> |isotopes comment=<br /> }}<br /> &#039;&#039;&#039;アンチモン&#039;&#039;&#039;({{lang-de-short|Antimon}} {{IPA-de|antiˈmoːn|}}、{{lang-en-short|antimony}} {{IPA-en|ˈæntɨmɵni|}}、{{lang-la-short|stibium}})は[[原子番号]]51の[[元素]]。[[元素記号]]は &#039;&#039;&#039;Sb&#039;&#039;&#039;。常温、常圧で安定なのは灰色アンチモンで、銀白色の金属光沢のある硬くて脆い[[半金属]]の[[固体]]。[[炎色反応]]は淡青色(淡紫色)である。[[レアメタル]]の一種。古い資料や文献によっては[[英語]]の読み方を採用して&#039;&#039;&#039;アンチモニー&#039;&#039;&#039;(安質母尼)と表記されている事もある。<br /> <br /> 元素記号の Sb は[[輝安鉱]]([[三硫化二アンチモン]]、Sb&lt;sub&gt;2&lt;/sub&gt;S&lt;sub&gt;3&lt;/sub&gt;)を意味する[[ラテン語]] &#039;&#039;Stibium&#039;&#039; から取られている。<br /> <br /> == 歴史 ==<br /> アンチモン化合物は古代より[[顔料]]([[化粧品]])として利用され、最古のものでは有史前の[[アフリカ]]で利用されていた痕跡が残っている。<br /> <br /> 西洋史においては[[ドイツ]]・[[エルフルト]]の[[ベネディクト会]]修道院長、医師、錬金術師であるバシリウス・ウァレンティウスが著したとされる『太古の偉大なる石』『自然・超自然の存在』『オカルト哲学』『アンチモン凱旋車』など「ヴァレンティヌス文書」にアンチモンの記述が見出される&lt;ref&gt;[http://macrocosm4alchemy.web.fc2.com/translation/Twelve_Keys.html『十二の鍵』Practice with Twelve Keys and appendix,Basil Valentine,1400~1600?]&lt;/ref&gt;。しかし、ベネディクト会の記録にはバシリウス・ウァレンティウスが存在したという記録はない。また、16世紀にテューリンゲンの参事官かつ製塩業者である[[ヨハン・テルデ]]が編纂出版しているが、実際にはウァレンティウスは存在せず彼の著作であるという説がある。<br /> <br /> 『アンチモンの凱旋車』で[[ワイン]]より生じる「星状レグレス」と呼ばれる[[結晶]]が記述されているが、これは[[酒石酸アンチモン]]の結晶であると推定される。またアンチモンの[[毒|毒性]]について「ヴァレンティヌス文書」で述べられているが、これに関連すると考えられる逸話に「ある修道会で[[ブタ|豚]]にアンチモンを与えたら(駆虫薬として働き)豚は丸々と太った。そこで栄養失調の修道士に与えたところ、太るどころではなく死んでしまった。それゆえアンチ・モンク(修道士に抗する)という名が与えられた」というものである&lt;ref&gt;ウァレンティウスがアンチモンの語をはじめて著したが、この修道士がウァレンティウスとするならば[[ドイツ語]]ではなく[[フランス語]]の「モンク」を用いて命名するのは不自然である。&lt;/ref&gt;。実際には[[11世紀]]頃に[[アラビア]]より[[錬金術]]が伝わった際にすでにアンチモンに[[アラビア語]]の名が与えられていたので、「アンチモン」という語の語源はアラビア語に由来すると考えられている。[[ギリシャ語]]で「孤独嫌い」を意味する anti-monos が由来とする説もある(単体で見つからないからという)。<br /> <br /> 日本最古の銅銭である[[富本銭]](683年頃)に、アンチモンが銅の融解温度を下げ鋳造を易しくするとともに、完成品の強度を上げるために添加されている。<br /> <br /> == 産地 ==<br /> {| class=&quot;wikitable&quot; style=&quot;text-align:right&quot;<br /> ! 国 !! トン !! 構成比<br /> |-<br /> | style=&quot;text-align:center&quot;| [[中華人民共和国|中国]] || 120,937 || 78.3<br /> |-<br /> | style=&quot;text-align:center&quot;| [[ロシア]] || 10,000 || 6.5<br /> |-<br /> | style=&quot;text-align:center&quot;| [[ボリビア]] || 5,052 || 3.3<br /> |-<br /> | style=&quot;text-align:center&quot;| [[タジキスタン]] || 3,945 || 2.6<br /> |-<br /> | style=&quot;text-align:center&quot;| [[ミャンマー]] || 3,836 || 2.5<br /> |-<br /> | style=&quot;text-align:center&quot;| [[オーストラリア]] || 3,275 || 2.1<br /> |-<br /> | style=&quot;text-align:center&quot;| [[南アフリカ共和国|南アフリカ]] || 2,615 || 1.7<br /> |-<br /> | 7か国小計 || 149,660 || 96.9<br /> |-<br /> | &#039;&#039;&#039;世界合計&#039;&#039;&#039; || &#039;&#039;&#039;154,3978&#039;&#039;&#039; || 100.0<br /> |-<br /> | colspan=&quot;3&quot; | 産出国 出典:&lt;ref&gt;{{PDFlink|[http://mric.jogmec.go.jp/public/report/2015-03/22_201504_Sb.pdf 鉱物資源マテリアルフロー2014] 石油天然ガス・金属鉱物資源機構(JOGMEC)}}&lt;/ref&gt;<br /> |}<br /> <br /> [[中華人民共和国|中国]]の[[湖南省]]が世界の主産地で、他に[[広東省]]、[[貴州省]]などにも[[輝安鉱]]の鉱山がある。最大の鉱山は湖南省の錫鉱山であるが、その名が示す通り、昔は[[スズ]]と混同されていた。なお、[[中国語]]の[[方言]]では、[[アルミニウム]]をアンチモンやスズと混同して呼ぶ例も見られる。<br /> <br /> 日本において本格的に採掘が開始されたのは[[明治時代]]以降である。[[愛媛県]]・[[市ノ川鉱山]]、[[兵庫県]]・[[中瀬鉱山]](金山として開発され、第二次世界大戦後にアンチモンが主力となった)、[[山口県]]・[[鹿野鉱山]]等が開発された。とくに市ノ川鉱山は美晶の輝安鉱が産出されることが海外にも知られ、製錬所も建設された。しかし、資源枯渇や生産コストの問題から現在は全て輸入となっている。また、鉱石による輸入は1990年代に終了し、全量が[[地金]]及び地金屑、あるいは[[三酸化アンチモン]]等化合物による輸入である。<br /> <br /> [[2011年]]5月、[[鹿児島湾]]の海底で総量約90万トンと推定されるアンチモンの鉱床が、[[岡山大学]]や[[東京大学]]、[[九州大学]]らの研究グループにより発見されたと報道された。2010年の日本国内販売量約5千トンから計算すると、約180年分がまかなえる量&lt;ref&gt;[http://www.asahi.com/science/update/0515/OSK201105150023.html 鹿児島湾でレアメタル発見 国内販売量の180年分] 朝日新聞 2011年5月15日&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;[http://www.okayama-u.ac.jp/up_load_files/soumu_pdf/press23/press-110419-6.pdf 鹿児島湾奥部海底に有望なレアメタル鉱床を確認] 岡山大学 2011年4月19日&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;[http://qyj00653.cocolog-nifty.com/blog/2011/04/post-6044.html アンチモン鉱床が日本近海底で存在確認される] 「日本資源貿易の将来像」 国際資源産業・資源貿易研究 :武上研究室 2011年4月25日&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> == 用途 ==<br /> 工業材料として多岐にわたる用途に用いられているが、人体に対して毒性の疑いがある(化合物の多くが刺激性のある[[劇物]])ことから、代替素材の開発が進み、徐々に使用が控えられる傾向にある。<br /> <br /> アンチモン[[地金]]は正方形に作られることが多く、上方に輝安鉱のような[[シダ]]状の凸凹模様ができる。これは「スターマーク」と言い、純度の高い物ほど、この模様がはっきりと現れる。<br /> <br /> * [[活字合金]](現在では[[活字]]はほとんど使用されなくなった)。<br /> * [[鉛蓄電池]](バッテリー)の[[電極]]材料。<br /> * [[ハンダ]]合金の材料。<br /> * [[アルミニウム合金]]への添加物。微量添加により共晶組織を微細化する。<br /> * [[バビットメタル]]などの[[軸受合金]]。<br /> * [[半導体]]材料への添加物([[ドーパント]]として)。<br /> * [[ポリエステル]]を製造する際の[[触媒]]。<br /> * [[ゴム]]、[[プラスチック]]の[[顔料]]。毒性の低い[[三酸化アンチモン]]を利用。[[黄色]]顔料の[[ニッケルチタンイエロー]]およびTi-Cr-Sb系[[クロムチタンイエロー]]に含まれている。<br /> * プラスチック、[[繊維]]、[[紙]]を難燃性にするための[[難燃剤|難燃助剤]]。主に[[三酸化アンチモン]]を、一部に[[五酸化アンチモン]]を用いる。<br /> * [[化粧品]]の材料(古くは[[硫化アンチモン]]を[[アイシャドー]]に使った。毒性のため、現在は使用されない)。<br /> * [[医薬品]]の材料。酒石酸ナトリウムアンチモニウムが[[駆虫薬]]に用いられている。<br /> * [[ピューター]]([[スズ]]合金)の材料。<br /> * [[防炎加工]]。<br /> <br /> == 毒性 ==<br /> 「[[ヴァレンティヌス文書]]」などを始め古典的著作には[[毒性]]が認められてきた[[元素]]である。広く使われてきた結果、{{要出典範囲|自然界への蓄積が進み、無視できないレベルに達していると指摘する識者もいる|date=2017年11月}}。<br /> <br /> 急性アンチモン[[中毒]]の症状は、著しい体重の減少、脱毛、皮膚の乾燥、鱗片状の皮膚である。また、血液学的所見では好酸球の増加が、病理的所見では心臓、肝臓、腎臓に急性の[[うっ血]]が認められる&lt;ref&gt;[http://www.shokusan.or.jp/haccp/hazardous/2_8_ziyukin.html#02 HACCP関連情報データベース 化学的・物理的危害要因情報] 財団法人食品産業センター&lt;/ref&gt;。このほか、アンチモン化合物は、[[皮膚]]や[[粘膜]]への刺激性を有するものが多く、日本では[[毒物及び劇物取締法]]及び[[毒物及び劇物指定令]]によりアンチモン化合物及びこれを含有する製剤は[[硫化アンチモン]]など一部の例外&lt;ref&gt;4-アセトキシフエニルジメチルスルホニウム=ヘキサフルオロアンチモネート及びこれを含有する製剤、アンチモン酸ナトリウム及びこれを含有する製剤、[[三酸化アンチモン|酸化アンチモン(III)]]を含有する製剤、[[五酸化アンチモン|酸化アンチモン(V)]]及びこれを含有する製剤、[[硫化アンチモン]]及びこれを含有する製剤を除く。&lt;/ref&gt;を除いて[[劇物]]に指定されている。<br /> <br /> == 化合物 ==<br /> {{See also|Category:アンチモンの化合物}}<br /> * [[硫化アンチモン]] (Sb&lt;sub&gt;2&lt;/sub&gt;S&lt;sub&gt;3&lt;/sub&gt;)<br /> * [[三酸化アンチモン]](アンチモン白)(Sb&lt;sub&gt;2&lt;/sub&gt;O&lt;sub&gt;3&lt;/sub&gt;)<br /> * [[五酸化アンチモン]] (Sb&lt;sub&gt;2&lt;/sub&gt;O&lt;sub&gt;5&lt;/sub&gt;)<br /> * [[塩化アンチモン|三塩化アンチモン]](アンチモンバター)(SbCl&lt;sub&gt;3&lt;/sub&gt;)<br /> * [[アンチモン酸鉛]](アンチモンイエロー)(Pb&lt;sub&gt;3&lt;/sub&gt;(SbO&lt;sub&gt;4&lt;/sub&gt;)&lt;sub&gt;2&lt;/sub&gt;)<br /> * [[スチビン]] (SbH&lt;sub&gt;3&lt;/sub&gt;)<br /> * [[五フッ化アンチモン]] (SbF&lt;sub&gt;5&lt;/sub&gt;) - 強力な[[ルイス酸]]。[[フルオロスルホン酸]]との混合物である[[マジック酸]]は最強の[[超酸]]として知られる。<br /> * [[酒石酸アンチモニルカリウム]](吐酒石)(KSb(C&lt;sub&gt;4&lt;/sub&gt;H&lt;sub&gt;2&lt;/sub&gt;O&lt;sub&gt;6&lt;/sub&gt;)•1.5H&lt;sub&gt;2&lt;/sub&gt;O)<br /> * [[アンチモン化インジウム]] (InSb) - [[III-V族半導体]]<br /> <br /> == 同位体 ==<br /> {{Main|アンチモンの同位体}}<br /> <br /> == 脚注 ==<br /> {{Reflist}}<br /> <br /> == 関連項目 ==<br /> {{Commonscat|Antimony}}<br /> <br /> == 外部リンク ==<br /> * [http://www.antimonynet.com/ AntimonyNet (news, price, ore, analysis, etc)] {{en icon}}<br /> <br /> {{元素周期表}}<br /> {{アンチモンの化合物}}<br /> {{Normdaten}}<br /> {{DEFAULTSORT:あんちもん}}<br /> [[Category:アンチモン|*]]</div> 112.140.13.142 内陸国一覧 2018-05-24T16:11:28Z <p>112.140.13.142: /* ヨーロッパ */</p> <hr /> <div>{{出典の明記|date=2016年4月7日 (木) 10:52 (UTC)}}<br /> [[File:Landlocked countries.svg|250px|thumb|right|世界の内陸国、紫色は[[内陸国#二重内陸国|二重内陸国]]]]<br /> &#039;&#039;&#039;内陸国一覧&#039;&#039;&#039;(ないりくこくいちらん)は、世界の[[内陸国]]を列記した一覧である。内陸国とは、すべての[[国境]]が陸上にあり、その[[領域 (国家)|領域]]を[[海|海洋]]上に持たない[[国家]]のことをいう。なお、下記では、[[カスピ海]]は湖として扱い、海ではないものとする。<br /> *()は非独立国・自治州<br /> <br /> ==アジア==<br /> {{Col-begin}}<br /> {{Col-2}}<br /> *{{AZE}}<br /> *{{AFG}}<br /> *{{ARM}}<br /> *{{UZB}}<br /> *{{KAZ}}<br /> *{{KGZ}}<br /> *{{TJK}}<br /> *{{TKM}}<br /> *{{NPL}}<br /> *{{BTN}}<br /> *{{MNG}}<br /> *{{LAO}}<br /> {{Col-2}}<br /> *アゼルバイジャンの自治共和国<br /> **({{flagicon|Azerbaijan}} [[ナヒチェヴァン自治共和国]])<br /> *ウズベキスタンの自治共和国<br /> **({{Flagicon|UZ-QR}} [[カラカルパクスタン共和国]])<br /> *[[ロシアの共和国]]<br /> **({{Flagicon|Altai}} [[アルタイ共和国]])<br /> **({{flagicon|Tuva}} [[トゥヴァ共和国]])<br /> **({{flagicon|Khakassia}} [[ハカス共和国]])<br /> **({{flagicon|Buryatia}} [[ブリヤート共和国]])<br /> *その他<br /> **({{TIB}})<br /> **({{ETR}})<br /> **({{flagicon|Nagorno-Karabakh}} [[アルツァフ共和国]])<br /> **({{flag|South Ossetia}})<br /> {{Col-end}}<br /> <br /> ==アフリカ==<br /> {{Col-begin}}<br /> {{Col-2}}<br /> *{{UGA}}<br /> *{{ETH}}<br /> *{{ZMB}}<br /> *{{ZWE}}<br /> *{{SWZ}}<br /> *{{TCD}}<br /> *{{CAF}}<br /> *{{NER}}<br /> {{Col-2}}<br /> *{{BFA}}<br /> *{{BDI}}<br /> *{{BWA}}<br /> *{{MWI}}<br /> *{{MLI}}<br /> *{{SSD}}<br /> *{{RWA}}<br /> *{{LSO}}<br /> {{Col-end}}<br /> <br /> ==ヨーロッパ==<br /> {{Col-begin}}<br /> {{Col-2}}<br /> *{{AND}}<br /> *{{AUT}}<br /> *{{KOS}}<br /> *{{SMR}}<br /> *{{CHE}}<br /> *{{SVK}}<br /> *{{SRB}}<br /> *{{CZE}}<br /> *{{VAT}}<br /> *{{HUN}}<br /> *{{BLR}}<br /> *{{MKD}}<br /> *{{MDA}}<br /> *{{LIE}}<br /> *{{LUX}}<br /> {{Col-2}}<br /> *[[ロシアの共和国]]<br /> **({{flagicon|Adygea}} [[アディゲ共和国]])<br /> **({{flagicon|Ingushetia}} [[イングーシ共和国]])<br /> **({{flagicon|Kabardino-Balkaria}} [[カバルダ・バルカル共和国]])<br /> **({{flagicon|Kalmykia}} [[カルムイク共和国]])<br /> **({{flagicon|Karachay-Cherkessia}} [[カラチャイ・チェルケス共和国]]) <br /> **({{flagicon|North Ossetia-Alania}} [[北オセチア共和国]])<br /> **({{flagicon|Dagestan}} [[ダゲスタン共和国]])<br /> **({{flagicon|Chechnya}} [[チェチェン共和国]])<br /> *その他<br /> **([[画像:Flag of Transnistria (state).svg|25x20px|沿ドニエストルの旗]] [[沿ドニエストル]])<br /> *[[事実上]]の内陸国<br /> **{{BIH}} - [[ネウム]]地区に海岸線を持つものの、港湾機能及び交通路が存在しないため内陸国と同じ扱いを受ける。<br /> {{Col-end}}<br /> <br /> ==南アメリカ==<br /> *{{flagicon|Bolivia}} [[ボリビア]]<br /> *{{flagicon|Paraguay}} [[パラグアイ]]<br /> <br /> ==消滅した内陸国一覧==<br /> <br /> ===アジア===<br /> *[[ボーパール藩王国]]<br /> *[[マールワール王国]]<br /> *[[中華ソビエト共和国]]<br /> *[[内モンゴル人民共和国]]<br /> *[[第1次東トルキスタン共和国]]<br /> *[[第2次東トルキスタン共和国]]<br /> *[[モンゴル人民共和国]]<br /> *[[ネパール王国]]<br /> *[[ラオス王国]]<br /> *[[チベット (1912-1950)]]<br /> *[[ブハラ・ハン国]]<br /> *[[コーカンド・ハン国]]<br /> *[[トゥヴァ人民共和国]]<br /> *[[アラシュ自治国]]<br /> *[[カザフ・ソビエト社会主義共和国]]<br /> *[[ウズベク・ソビエト社会主義共和国]]<br /> *[[カザフ・ソビエト社会主義共和国]]<br /> *[[キルギス・ソビエト社会主義共和国]]<br /> *[[タジク・ソビエト社会主義共和国]]<br /> *[[トルクメン・ソビエト社会主義共和国]]<br /> *[[トルキスタン自治ソビエト社会主義共和国]]<br /> *[[ホラズム人民ソビエト共和国]]<br /> *[[ブハラ人民ソビエト共和国]]<br /> *[[タジク自治ソビエト社会主義共和国]]<br /> *[[カザフ・ハン国]]<br /> *[[アゼルバイジャン・ソビエト社会主義共和国]]<br /> *[[アルメニア・ソビエト社会主義共和国]]<br /> <br /> ===アフリカ===<br /> *[[オートボルタ]]<br /> *[[ガーナ王国]]<br /> *[[エチオピア帝国]]<br /> *[[中央アフリカ帝国]]<br /> *[[ボプタツワナ]]<br /> *[[ヴェンダ]]<br /> *[[オレンジ自由国]]<br /> *[[トランスヴァール共和国]]<br /> *[[カネム・ボルヌ帝国]]<br /> *[[ブルンジ王国]]<br /> *[[ルワンダ王国]]<br /> *[[北ローデシア]]<br /> *[[ニヤサランド]]<br /> *[[ルアンダ=ウルンディ]]<br /> *[[ローデシア・ニヤサランド連邦]]<br /> *[[ジンバブエ=ローデシア]]<br /> *[[ローデシア]]<br /> <br /> ===ヨーロッパ===<br /> *[[西ウクライナ人民共和国]]<br /> *[[セルビア公国]]<br /> *[[セルビア救国政府]]<br /> *[[セルビア社会主義共和国]]<br /> *[[マケドニア社会主義共和国]]<br /> *[[オーストリア第一共和国]]<br /> *[[チェコスロバキア]]<br /> *[[チェコ社会主義共和国]]<br /> *[[チェコスロバキア社会主義共和国]]<br /> *[[スロバキア第一共和国]]<br /> *[[スロバキア社会主義共和国]]<br /> *[[ベーメン・メーレン保護領]]<br /> *[[ハンガリー王国 (1920年-1946年)]]<br /> *[[ハンガリー民主共和国]]<br /> *[[ハンガリー人民共和国]]<br /> *[[ハンガリー・ソビエト共和国]]<br /> *[[ベラルーシ人民共和国]]<br /> *[[白ロシア・ソビエト社会主義共和国]]<br /> *[[アルザス=ロレーヌ共和国]]<br /> <br /> === アメリカ ===<br /> ==== 北アメリカ ====<br /> *[[バーモント共和国]]<br /> ==== 中央アメリカ ====<br /> *[[ロスアルトス (中央アメリカ)]]<br /> ==== 南アメリカ ====<br /> *[[アクレ共和国]]<br /> <br /> ==関連項目==<br /> *[[国の一覧]]<br /> *[[島国一覧]]<br /> *[[消滅した政権一覧]]<br /> <br /> {{国の指標}}<br /> <br /> {{DEFAULTSORT:ないりくこくいちらん}}<br /> [[Category:内陸国|*いちらん]]<br /> [[Category:国の一覧]]<br /> [[Category:大陸別の国]]<br /> {{Country-stub}}</div> 112.140.13.142 通商破壊 2018-05-20T03:26:53Z <p>112.140.13.142: /* 通商破壊の目的 */</p> <hr /> <div>{{出典の明記|date=2011年4月}} <br /> &#039;&#039;&#039;通商破壊&#039;&#039;&#039;(つうしょうはかい)とは戦時に、通商物資や人を乗せた商船を攻撃することによって、海運による物資の輸送を妨害すること。主に[[潜水艦]]により行なわれたものが有名であるが、[[航空機]]や[[戦艦]]、[[武装商船]]などでも行う。なお、通商破壊に対する護衛・防御のことを&#039;&#039;&#039;通商護衛&#039;&#039;&#039;(つうしょうごえい)と呼び、通商破壊に対抗するために生み出された戦法が[[護送船団]]である。<br /> <br /> == 通商破壊の目的 ==<br /> 交戦相手国の物資の輸送が主に[[海運]]による場合において取られる手段であり、古来から行われてきた。食料や産業活動に必要な原材料の輸送を海運に依存する国家にとって、海運による通商活動の停止は、産業活動の崩壊・国家の崩壊に結びつくため、そのような国家に対する作戦行動として非常に有効となる。<br /> <br /> また通商破壊作戦は、対戦国よりも相対的に弱小な[[海軍]]を保有する場合にも[[ゲリラ]]的に実施できるため、劣勢海軍の主軸戦術として実施される。現代の通商破壊の主力兵器は、[[潜水艦]]、[[航空機]]、[[機雷]]、武装小艇、自爆ボートなどである。<br /> <br /> これに対して、海運が重要な国家において海軍に求められることは[[シーレーン|シーレーン(海上通商路)]]の維持・防衛となる。その方策としては、通商物資を搭載した商船に船団を組ませ、それを軍艦などで護衛する護送船団や、通商破壊を行う敵部隊・根拠地を直接攻撃する方法の二つがある。しかし、このシーレーンの維持・防衛は、戦時においては現地主義の弊害から、後方支援として重要度が低くされる傾向にあり、優秀な指揮官があたることは少ない。また、兵士も戦闘員ではなく輸送員と化してしまうことにより士気が低下することもあり、成功させることは困難である。通商破壊を実施する側はゲリラ的な作戦を実施できるのに対し、防衛には各艦船・兵力の連携や情報の更新、護衛と同時に撃退を行うなど、非常に多くの戦力が必要となるためである。<br /> <br /> == 通商破壊の効果 ==<br /> 商船を拿捕し、また沈めてしまえばその国家の海運から直接その船の分の輸送力を永続的に奪うことになるが、間接的にも大きい効果を及ぼすことができる。すなわち、ある航路が安全でないとなれば、低速の単独船は出発港に引き返すか最寄りの港に避難してしまうため、長期にわたってその航路の効率を落とすことになる。また通商護衛のために船団方式を採用すれば、護衛がつくことにより船舶そのものの被害は減少するが、出港の準備が早く整った船も最後の船の準備ができるまで港内で待たざるを得ない。<br /> <br /> 少数の通商破壊艦でもその出現によって多大な影響を与えることができる。それを排除するために相手国の海軍では船団護衛のみならず、通商破壊艦を積極的に索敵撃滅するために大兵力を投入することがある。<br /> <br /> == 歴史 ==<br /> 近代以前では[[地中海]]における[[オスマン帝国]]と[[ヴェネツィア共和国]]の抗争、[[大航海時代]]におけるスペインの輸送船団に対する[[イングランド]]の[[私掠船]]の攻撃などが著名な通商破壊戦として上げられる。また後にオランダを建国することになる16世紀のスペイン領[[ネーデルラント]]の反乱軍は、一時期「海乞食([[ゴイセン#ゼーゴイセン|ゼーゴイセン]])」を自称する通商破壊船団が部隊の中核であった。<br /> <br /> [[20世紀]]においては、[[第一次世界大戦]]において[[ドイツ帝国]]が[[イギリス]]に対して、[[第二次世界大戦]]においては[[ナチス・ドイツ|ドイツ]]と[[大日本帝国|日本]]がイギリスと[[アメリカ合衆国|アメリカ]]に対して、アメリカが日本に対して行った。<br /> <br /> 2度の世界大戦を通じてイギリス海軍はアメリカ軍の援助を受けながらもシーレーン防衛には最大限の努力を払った。これは宿敵である[[ドイツ海軍]]の作戦行動能力がイギリスに対して低かったことを考慮したとしても非常に大きなものであった。それに対し、第二次世界大戦における[[大日本帝国海軍|日本海軍]]は、緒戦でその占領範囲を広範囲に広げたことや、海軍自体が艦隊決戦のためのものだったこともありシーレーン防衛を顧ることがなかった。その上、インド洋以外では同盟国の協力が無かったことから、大戦末期の1944年末以降は、アメリカ海軍とイギリス海軍により、日本本土と占領地そして資源産出地とを結ぶシーレーンは戦況が悪化するごとに寸断され、[[補給]]も資源の輸送もままならない状況となり、終戦時には[[石油]]を始めとする各種物資の欠乏に陥り、産業活動がほぼ停止するに至った。<br /> <br /> === 第一次世界大戦 ===<br /> 第一次世界大戦では、主に[[大西洋]]・[[地中海]]・[[北海]]において、ドイツが[[連合国 (第一次世界大戦)|連合国]](主にイギリス)に対して通商破壊作戦を行った。<br /> <br /> 大西洋・地中海・北海においては、主に潜水艦([[Uボート]])による通商破壊戦が行われた。[[太平洋]]・[[インド洋]]方面においては、[[巡洋艦|軽巡洋艦]][[エムデン (軽巡洋艦・初代)|エムデン]]による通商破壊戦が有名である。それら以外では南大西洋を中心に活動した[[帆船]][[ゼーアドラー (帆船)|ゼーアドラー]]が知られている。<br /> <br /> === 第二次世界大戦 ===<br /> 第二次世界大戦では、主に大西洋や地中海、カリブ海や北海において、ドイツが[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]](主にイギリスとアメリカ)に対して通商破壊作戦を行った。また、日本も連合国に対し、アメリカ本土沿岸やインド洋、[[南太平洋]]で通商破壊作戦を行った。アメリカも太平洋や[[南シナ海]]、[[東シナ海]]において日本に対して通商破壊作戦を行った。<br /> <br /> ==== ドイツ ====<br /> 主に[[群狼作戦]]などの潜水艦による通商破壊戦を行った。このほか、[[ドイッチュラント級装甲艦|ポケット戦艦]]、[[仮装巡洋艦]]、航空機でも積極的に活動を行い、ポケット戦艦「[[アドミラル・シェーア (装甲艦)|アドミラル・シェーア]]」、仮装巡洋艦「[[コメート (仮装巡洋艦)|コメート]]」など優秀な通商破壊艦を多く輩出した。その活動範囲は、北海・北大西洋を中心に、赤道以南の大西洋、地中海、[[カリブ海]]、インド洋、太平洋からアメリカ本土の[[セントローレンス川]]にまでおよんでいる。特に大西洋におけるものは[[大西洋の戦い (第二次世界大戦)|大西洋の戦い]](Battle of the Atlantic)と呼ばれた。<br /> <br /> ==== 日本 ====<br /> 対英米戦開戦後の[[1941年]]12月から1942年秋にかけて、アメリカ本土西海岸の[[カリフォルニア州]]沿岸から[[カナダ]]、[[アラスカ州]]にかける広い範囲で[[伊十五型潜水艦|巡潜乙型潜水艦]]により通商破壊作戦を行った([[アメリカ本土攻撃]])。また、通商破壊作戦に従事していた潜水艦の艦載機が[[オレゴン州]]を空襲した。<br /> <br /> [[南遣艦隊]]や商船改造の特設巡洋艦、[[愛国丸 (特設巡洋艦)|愛国丸]]・[[報国丸 (特設巡洋艦)|報国丸]]で構成された第24戦隊が1941年から1942年にかけて、インド洋でイギリスや[[オーストラリア]]の艦船に対して通商破壊作戦を行った。<br /> <br /> ==== アメリカ ====<br /> アメリカ軍は、特に戦争後半において、日本に対し通商破壊作戦を行った。その主力となったものは、[[オーストラリア]]や[[ハワイ州|ハワイ]]を基地とした潜水艦である。潜水艦3隻を一組とし、[[群狼作戦|ウルフパック]]と名付け太平洋をはじめ、南シナ海、東シナ海、さらには[[日本海]]で作戦を行った。また、[[1944年]]には[[航空母艦|空母]][[機動部隊]]の[[艦載機]]も南シナ海で作戦行動を行い、多数の商船を撃沈した。<br /> <br /> 末期には「[[飢餓作戦]]」と命名された大規模な機雷投下作戦を、日本本土周辺で行った。[[ボーイング]][[B-29_(航空機)|B-29]]爆撃機が、日本や[[朝鮮半島]]の[[港湾]]に[[機雷]]を投下し、艦船の運航を妨げた。ピーク時には潜水艦などの戦果を上回り、日本商船の月間喪失原因の過半数を占めた。<br /> <br /> == 関連項目 ==<br /> * [[海上封鎖]]<br /> == 脚注 ==<br /> {{Reflist}}<br /> {{DEFAULTSORT:つうしようはかい}}<br /> [[Category:海洋国家]]<br /> [[Category:海戦]]<br /> [[Category:経済戦争]]<br /> [[Category:交易の歴史]]<br /> [[Category:軍事史]]<br /> [[Category:封鎖]]<br /> [[Category:兵站]]<br /> <br /> {{gunji-stub}}<br /> <br /> [[pt:Guerra de corso]]</div> 112.140.13.142 東山千栄子 2018-05-19T07:22:23Z <p>112.140.13.142: /* 映画 */</p> <hr /> <div>{{ActorActress<br /> | 芸名 = 東山 千栄子<br /> | ふりがな = ひがしやま ちえこ<br /> | 画像ファイル =Chieko Higashiyama in Tokyo Story (1953).jpg <br /> | 画像サイズ = <br /> | 画像コメント = 『東京物語』(1953年)の予告編より<br /> | 本名 = 河野 せん({{smaller|旧姓:}}渡辺)<br /> | 別名義 =<br /> | 出生地 = {{JPN}}・[[千葉県]][[千葉市]]<br /> | 死没地 = {{JPN}}・[[静岡県]][[御殿場市]]<br /> | 国籍 =<br /> | 身長 =<br /> | 血液型 =<br /> | 生年 = 1890<br /> | 生月 = 9<br /> | 生日 = 30<br /> | 没年 = 1980<br /> | 没月 = 5<br /> | 没日 = 8<br /> | 職業 = [[俳優|女優]]<br /> | ジャンル = [[映画]]、[[テレビドラマ]]、[[舞台]]<br /> | 活動期間 = [[1925年]] - [[1980年]]<br /> | 活動内容 =<br /> | 配偶者 = 河野通久郎<br /> | 著名な家族 = [[渡辺暢]](父)&lt;br/&gt;[[中江百合]](妹)<br /> | 事務所 =<br /> | 公式サイト =<br /> | 主な作品 = &#039;&#039;&#039;映画&#039;&#039;&#039;&lt;br/&gt;『[[白痴 (1951年の映画)|白痴]]』&lt;br/&gt;『[[東京物語]]』&lt;br/&gt;『[[喜劇 にっぽんのお婆あちゃん]]』&lt;hr&gt;&#039;&#039;&#039;舞台&#039;&#039;&#039;&lt;br/&gt;『[[桜の園]]』<br /> | アカデミー賞 =<br /> | アリエル賞 =<br /> | AFI賞 =<br /> | 英国アカデミー賞 =<br /> | エミー賞 =<br /> | グラミー賞 =<br /> | ゴールデングローブ賞 =<br /> | ゴールデンラズベリー賞 =<br /> | ゴヤ賞 =<br /> | ジェミニ賞 =<br /> | ジニー賞 =<br /> | セザール賞 =<br /> | トニー賞 =<br /> | 日本アカデミー賞 =<br /> | フィルムフェア賞 =<br /> | ブルーリボン賞 =<br /> | ローレンス・オリヴィエ賞 =<br /> | その他の賞 =<br /> | 備考 =<br /> }}<br /> &#039;&#039;&#039;東山 千栄子&#039;&#039;&#039;(ひがしやま ちえこ、旧字体:&#039;&#039;&#039;千榮子&#039;&#039;&#039;、[[1890年]][[9月30日]] - [[1980年]][[5月8日]])は、[[日本]]の[[俳優|女優]]。[[日本新劇俳優協会]]初代会長。本名は&#039;&#039;&#039;河野 せん&#039;&#039;&#039;(旧姓は&#039;&#039;&#039;渡辺&#039;&#039;&#039;)。<br /> <br /> [[築地小劇場]]を経て[[俳優座]]の結成に参加した新劇出身者。舞台では翻訳劇の貴婦人役を多く演じ、『[[桜の園]]』のラネーフスカヤ夫人役が当たり役となった。テレビドラマや映画では老婦人役を多く演じ、特に『[[東京物語]]』の老母役で知られる。主な栄典・称号・褒章に[[紫綬褒章]]、[[文化功労者]]。著書に[[自伝]]『新劇女優』など。<br /> <br /> 妹に[[料理研究家]]の[[中江百合]]、弟にベース奏者の[[渡辺良]]がいる。&lt;!--義弟(妹の夫)にジャーナリストの[[石川欣一 (ジャーナリスト)|石川欣一]]。--&gt;&lt;!--場違い・脱線トリビア--&gt;<br /> <br /> == 来歴・人物 ==<br /> [[1890年]](明治23年)[[9月30日]]、[[千葉県]][[千葉市]]に生まれる。司法官で後に[[貴族院 (日本)|貴族院議員]]を務めた[[渡辺暢]]の次女で、10人兄妹の3番目&lt;ref name=&quot;新撰&quot;&gt;[https://kotobank.jp/word/%E6%9D%B1%E5%B1%B1+%E5%8D%83%E6%A0%84%E5%AD%90-1653223#E6.96.B0.E6.92.B0.20.E8.8A.B8.E8.83.BD.E4.BA.BA.E7.89.A9.E4.BA.8B.E5.85.B8.20.E6.98.8E.E6.B2.BB.EF.BD.9E.E5.B9.B3.E6.88.90 新撰 芸能人物事典 明治~平成「東山千栄子」の項]&lt;/ref&gt;。生家は代々[[佐倉藩]]の城代家老を務めていた&lt;ref name=&quot;自伝&quot;&gt;東山の自伝『新劇女優』&lt;/ref&gt;。[[1899年]](明治32年)、母方の伯父である[[法学者]]の[[寺尾亨]]の養女となり、[[東京市]][[麹町区]][[富士見町]]に転居する&lt;ref name=&quot;新撰&quot;/&gt;&lt;ref name=&quot;桜散りぬ&quot;&gt;『櫻散りぬ ある小学唱歌教師一族の近代史』p.267&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 富士見高等小学校高等科2年を終えて[[学習院女子中・高等科|華族女学校]]に入学&lt;ref name=&quot;桜散りぬ&quot;/&gt; し、[[1907年]](明治40年)の卒業後は仏英和女学校(現・[[白百合学園中学校・高等学校|白百合学園高等学校]])でフランス語を学ぶ。[[1909年]](明治42年)、「外交官夫人になってほしい」と言う養父母の希望で、輸入業者のモスクワ支店長だった河野通久郎と結婚し、河野の任地の[[モスクワ]]へ向かった。その間に[[リヨン]]へ語学留学したが、買い物で滞在費を浪費したため、モスクワへ連れ戻されている。また、夫に連れられて見た、[[モスクワ芸術座]]の舞台『[[桜の園]]』を見るうち、その魅力の虜となった。[[1917年]](大正6年)、[[ロシア革命]]の影響で夫と共に日本に帰国した。夫はすぐに海外勤務に就いたが、[[ロシア]]の政情不安から一人日本に留まった。<br /> <br /> [[1925年]](大正14年)、[[築地小劇場]]に第2期研究生として入団&lt;ref name=&quot;新撰&quot;/&gt;&lt;ref&gt;[[大笹吉雄]]著『新日本現代演劇史 第2巻』p.329&lt;/ref&gt;。同期には[[岸輝子]]、[[村瀬幸子]]、[[薄田研二]]らがいた。[[ユージン・オニール]]作『皇帝ジョーンズ』の貴婦人役で初舞台を踏んだ&lt;ref name=&quot;新撰&quot;/&gt;&lt;ref name=&quot;自伝&quot;/&gt;。翌[[1925年]](大正15年)、[[モーリス・メーテルリンク|メーテルリンク]]作『タンタジールの死』が初主演作となり&lt;ref name=&quot;新撰&quot;/&gt;、[[1927年]](昭和2年)に『[[マクベス]]』のマクベス夫人を演じて注目を浴びた。同年、[[チェーホフ]]作『[[桜の園]]』でラネーフスカヤ夫人を演じ、以降東山の当たり役として[[1963年]](昭和33年)の俳優座公演までに約310回も演じた。<br /> <br /> [[1928年]](昭和3年)、築地小劇場創立者の[[小山内薫]]が死去し、その影響で劇団が分裂。多くの劇団員が脱退していった中、東山は[[青山杉作]]、[[北村喜八]]らと同劇場に残留し、北村らと劇団築地小劇場を名乗って活動した。しかし、[[1930年]](昭和5年)には青山らと劇団新東京(後に劇団東京、劇団自由舞台と改称)を結成した。解散後は[[新築地劇団]]や[[文学座]]などの劇団に客演し、映画やラジオにも出演した。<br /> <br /> [[1944年]](昭和19年)、[[千田是也]]、[[東野英治郎]]、[[小沢栄太郎]]らと[[俳優座]]を結成する。終戦まで移動演劇隊・芙蓉隊を組織して地方を巡演した。戦後も東山は劇団の中核として数多くの舞台に出演し、『[[フィガロの結婚]]』の伯爵夫人役、『女の平和』のリューシストラテー役、[[森本薫]]脚色の『陳夫人』などが代表作&lt;ref name=&quot;新撰&quot;/&gt;。[[1952年]](昭和22年)には『桜の園』の演技で[[芸術選奨]]文部大臣賞を受賞した。<br /> <br /> 戦中から映画にも意欲的に出演している。[[溝口健二]]監督『[[女優須磨子の恋]]』、[[吉村公三郎]]監督『源氏物語』、[[今井正]]監督『[[喜劇 にっぽんのお婆あちゃん]]』等に出演したが、特に[[小津安二郎]]監督の『[[東京物語]]』では、[[笠智衆]]と共に老夫婦を演じて映画出演の代表作とした。また東山は[[木下惠介]]監督作品の常連出演者であり、木下監督のデビュー作『[[花咲く港]]』から『[[歌え若人達]]』まで計13本に出演している。<br /> <br /> [[1956年]](昭和31年)、女優として初の[[紫綬褒章]]を受章する。1958年(昭和33年)、[[日本新劇俳優協会]]の初代会長に就任し、亡くなるまで務めた。[[1966年]](昭和41年)には[[文化功労者]]に選出された。<br /> <br /> [[1969年]](昭和44年)、体力的な衰えから舞台活動を引退し、その後はテレビなどに活動の場を移し、晩年まで仕事を続けた。<br /> <br /> [[1980年]](昭和55年)[[5月8日]]、[[静岡県]][[御殿場市]]の自宅で老衰のため89歳で没した。葬儀は劇団俳優座・日本新劇俳優協会合同葬という形で行われた。<br /> <br /> == 受賞・受章歴 ==<br /> *1952年:[[芸術選奨文部大臣賞]] 『桜の園』<br /> *1955年:毎日演劇賞演技賞 『女の平和』『かもめ』<br /> *1956年:[[紫綬褒章]]<br /> *1965年:[[勲四等]][[宝冠章]]<br /> *1966年:[[文化功労者]]<br /> *1967年:[[日本放送協会|NHK]][[放送文化賞]]<br /> *1974年:[[勲三等]][[宝冠章]]<br /> *1976年:[[日本芸能実演家団体協議会|芸能功労者表彰]]<br /> <br /> == 出演作品 ==<br /> === 映画 ===<br /> &#039;&#039;&#039;太字の題名は[[キネマ旬報ベストテン]]にランクインした作品&#039;&#039;&#039;<br /> * &#039;&#039;&#039;大阪夏の陣&#039;&#039;&#039;(1937年、[[松竹]]) - 淀君<br /> * 誓ひの港(1941年、松竹) - つる<br /> * [[母の地図]](1942年、[[東宝]]) - 一成の妻<br /> * [[花咲く港]](1943年、松竹) - おかの<br /> * 若き姿(1943年、朝鮮映画) - 北村の妻<br /> * [[雷撃隊出動]](1944年、東宝) - 島の老女 <br /> * &#039;&#039;&#039;[[わが恋せし乙女]]&#039;&#039;&#039;(1946年、松竹) - 母・きん<br /> * [[結婚 (1947年の映画)|結婚]](1947年、松竹) - 母・ふき子<br /> * 地下街ニ十四時間(1947年、東宝) - バーのマダム<br /> * [[女優須磨子の恋]](1947年、松竹) - いち子の母・せき<br /> * [[肖像 (映画)|肖像]](1948年、松竹) - 野村妻君<br /> * &#039;&#039;&#039;[[破戒 (小説)|破戒]]&#039;&#039;&#039;(1948年、松竹) - 蓮華寺の奥さん<br /> * &#039;&#039;&#039;[[お嬢さん乾杯!]]&#039;&#039;&#039;(1949年、松竹) - 恭子の母<br /> * 人間模様(1949年、新東宝) - 大輪藤代<br /> * 白鳥は悲しからずや(1949年、えくらん社) - 学園長<br /> * 山を飛ぶ花笠(1949年、[[大映]]) - 菱江<br /> * 深夜の告白(1949年、[[新東宝]]) - 波多野の妻<br /> * 人間模様(1949年、新東宝) - 大輪藤代<br /> * &#039;&#039;&#039;[[破れ太鼓]]&#039;&#039;&#039;(1949年、松竹) - 伸子<br /> * 女の四季(1950年、東宝) - 明一の母<br /> * われ幻の魚を見たり(1950年、大映) - 母エツ<br /> * レ・ミゼラブル ああ無情(1950年、[[東横映画]]) - お咲<br /> * 怒りの街(1950年、東宝) - 祖母<br /> * [[戦火の果て]](1950年、大映)<br /> * [[白痴 (1951年の映画)|白痴]](1951年、松竹) - 里子<br /> * &#039;&#039;&#039;[[麦秋 (1951年の映画)|麦秋]]&#039;&#039;&#039;(1951年、松竹) - 志げ<br /> * &#039;&#039;&#039;[[源氏物語 (1951年の映画)|源氏物語]]&#039;&#039;&#039;(1951年、大映) - 弘徴殿女御<br /> * [[海の花火]](1951年、松竹) - 母みつ<br /> * &#039;&#039;&#039;あゝ青春&#039;&#039;&#039;(1951年、松竹) - 峯子の母<br /> * 長崎の歌は忘れじ(1952年、大映) - 奥村のぶ<br /> * 西陣の姉妹(1952年、大映) - お豊<br /> * &#039;&#039;&#039;[[慟哭 (映画)|慟哭]]&#039;&#039;&#039;(1952年、東京プロ)<br /> * &#039;&#039;&#039;[[カルメン純情す]]&#039;&#039;&#039;(1952年、松竹) - 女中・きく<br /> * やっさもっさ(1953年、松竹) - 福田嘉代<br /> * 愛欲の裁き(1953年、松竹) - 奥山刀自<br /> * &#039;&#039;&#039;[[東京物語]]&#039;&#039;&#039;(1953年、松竹) - とみ<br /> * [[夏子の冒険#映画化|夏子の冒険]](1953年、松竹) - 祖母かよ<br /> * [[思春の泉]](1953年、俳優座) - 隠居<br /> * 獅子の座(1953年、大映) - きの<br /> * 青春三羽烏(1953年、松竹) - 覚の母シゲ<br /> * 番長皿屋敷 お菊と播磨(1954年、大映) - 真弓<br /> * &#039;&#039;&#039;勲章&#039;&#039;&#039;(1954年、俳優座) - 辰子<br /> * &#039;&#039;&#039;[[女の園]]&#039;&#039;&#039;(1954年、松竹) - 校長<br /> * 若き日は悲し(1954年、松竹) - お祖母ちゃん<br /> * 千姫(1954年、大映) - 淀君<br /> * 女人の館(1954年、[[日活]]) - 丹野夫人<br /> * 制服の乙女たち(1955年、東宝) - 峯村白鳥<br /> * 春の夜の出来事(1955年、日活) - 女中頭まつ<br /> * &#039;&#039;&#039;女中ッ子&#039;&#039;&#039;(1955年、日活) - 初の母<br /> * 愛すればこそ(1955年、独立映画) - 母の声<br /> * 森繁のやりくり社員(1955年、東宝) - 水田やす子<br /> * &#039;&#039;&#039;市川馬五郎顛末記 浮草日記&#039;&#039;&#039;(1955年、俳優座) - 楽屋番の女<br /> * 沙羅の花の峠(1955年、日活) - おろく婆<br /> * 七人の兄いもうと(1955年、大映) - 煙草屋の未亡人<br /> * 嫁ぐ日(1956年、[[近代映画協会]]) - みどり<br /> * 父子鷹(1956年、東映) - 勝の祖母<br /> * [[ここは静かなり]](1956年、松竹) - 神崎の母<br /> * 新・平家物語 静と義経(1956年、大映) - 磯の禅尼<br /> * 家庭教師と女生徒(1957年、松竹) - 祖母しの<br /> * 真昼の対決(1957年、大映) - 玉子刀自<br /> * [[忠臣蔵 (1958年の映画)|忠臣蔵]](1958年、大映) - 大石の母・おたか<br /> * 美しい庵主さん(1958年、日活) - 昌光尼<br /> * 風流温泉日記(1958年、宝塚映画) - 千代子夫人<br /> * 花の遊侠伝(1958年、大映) - おもん<br /> * [[日蓮と蒙古大襲来]](1958年、大映) - 梅菊<br /> * [[風花 (1959年の映画)|風花]](1959年、松竹) - 名倉トミ<br /> * 若い素顔(1959年、松竹) - おばあさん<br /> * 天と地を駈ける男(1959年、日活) - 稲葉花子<br /> * 最高殊勲夫人(1959年、大映) - 大島千代子<br /> * 「通夜の客」より わが愛(1960年、松竹) - 親戚の老夫人<br /> * [[春の夢 (1960年の映画)|春の夢]](1960年、松竹) - 奥平祖母<br /> * [[流転の王妃]](1960年、大映) - 菅原直<br /> * &#039;&#039;&#039;[[喜劇 にっぽんのお婆あちゃん]]&#039;&#039;&#039;(1962年、松竹) - あそばせばあさん末野<br /> * [[今年の恋]](1962年、松竹) - 婆やもと子<br /> * [[瘋癲老人日記]](1962年、大映) - はま<br /> * [[女の一生]](1962年、大映) - 堤しず<br /> * [[歌え若人達]](1963年、松竹) - 岡田の祖母<br /> * [[宮本武蔵 一乗寺の決斗]](1964年、東映) - 妙秀<br /> * [[大根と人参]](1965年、松竹)<br /> * &#039;&#039;&#039;[[紀ノ川 (小説)|紀ノ川]]&#039;&#039;&#039;(1966年、松竹) - 豊乃<br /> * 続大奥(秘)物語(1967年、東映) - 英法尼<br /> * &#039;&#039;&#039;やさしいにっぽん人&#039;&#039;&#039;(1971年、東プロ) - お婆さん<br /> * [[幻の殺意]](1971年、コマ・プロ) - 静子<br /> * 愛と死(1971年、松竹) - 祖母<br /> * 甘い秘密(1971年、松竹) - 山路の母<br /> <br /> === テレビ ===<br /> * テレビ劇場 / 肖像(1958年、[[日本放送協会|NHK]])<br /> * [[東芝土曜劇場]]([[フジテレビジョン|CX]])<br /> ** 第5話「草を刈る娘」(1959年)<br /> ** 第7話「雨夜」(1959年)<br /> * [[サンヨーテレビ劇場]] / ふところ(1960年、TBS)<br /> * シャープ火曜劇場 第40話「明日の幸福」(1960年、CX) - 淑子<br /> * [[おはなはん#ドラマ『おはなはん一代記』|おはなはん一代記]](1962年、NHK)<br /> * 愛の劇場 第165話「毒薬はいかが」(1962年、NTV)<br /> * [[夫婦百景 (テレビドラマ)|夫婦百景]] 第250話「ある妻の話」(1963年、NTV)<br /> * [[嫁ぐ日まで]] 第16話「名門」(1963年、CX)<br /> * [[一千万人の劇場]] / 巴里に死す(1964年、CX)<br /> * [[東芝日曜劇場]](TBS)<br /> ** 第439話「加納大尉夫人」(1965年)<br /> ** 第574話「くちなしの花」(1967年)<br /> * [[シオノギテレビ劇場]](CX)<br /> ** [[戸田家の兄妹]](1965年)<br /> ** [[東京物語]](1967年) - とみ<br /> * [[ポーラ名作劇場]] / いのちある日を(1965年 - 1966年、NET)<br /> * [[木下恵介アワー]](TBS)<br /> ** [[今年の恋#テレビドラマ|今年の恋]](1967年) - 家政婦もと子<br /> ** [[おやじ太鼓]](1968年) - 神尾光の祖母<br /> * 剣 第6話「鰯の頭」(1967年、NTV) - 滋乃<br /> * [[渥美清の泣いてたまるか|泣いてたまるか]] 第46話「先生仲人をする」(1967年、TBS)<br /> * [[銀河ドラマ]](NHK)<br /> ** [[一の糸]](1969年) - 小谷ゆの、ナレーター<br /> ** [[闇からの声]](1970年) - 山村夫人<br /> * [[アーラわが君]](1969年 - 1970年、CX) - 桜子<br /> * [[陽はまた昇る (1973年のテレビドラマ)|陽はまた昇る]] 第7話「さまざまな夜」(1973年、CX) - 真弓の祖母(特別出演)<br /> * [[黄色いトマト]](1973年、NET) - 碧川光<br /> * [[ポーラテレビ小説]] / 加奈子(1976年、TBS)<br /> <br /> === 舞台 ===<br /> * [[桜の園]](1927年 - 1963年) - ラネーフスカヤ夫人<br /> * 検察官(1946年)<br /> * 中橋公館(1947年)<br /> * あゝ荒野(1949年) - エシー<br /> * 現代の英雄(1952年)<br /> * 女の平和(1954年)<br /> * 幽霊(1955年)<br /> * タルチュフ(1957年)<br /> * ウィンザーの陽気な女房たち(1957年)<br /> * ミッシュル・オークレール(1958年)<br /> * 間漢卿(1959年) - 母親<br /> * 有福詩人(1964年)<br /> * [[ハムレット]](1963年) - ガートルード<br /> * 落ち葉日記(1966年)<br /> * 御意のままに(1969年)<br /> <br /> === ラジオドラマ ===<br /> * 新田次郎『[[八甲田山死の彷徨]]』より ラジオドラマ 『氷雪』(1972年、文化放送) - 第27回[[芸術祭 (文化庁)|芸術祭]]優秀賞&lt;ref&gt;{{放送ライブラリー|133035|R00225}}&lt;/ref&gt;<br /> <br /> ==著書==<br /> *『新劇女優』(1958年、学風書院)<br /> *『私の歩んだ人生』(1977年、産業能率短期大学出版部)<br /> <br /> ==脚注==<br /> {{reflist}}<br /> <br /> ==外部リンク==<br /> *[http://www.jmdb.ne.jp/person/p0304720.htm 日本映画データベース 東山 千栄子]<br /> *{{Kinejun name|104075}}<br /> *{{Allcinema name|116413}}<br /> *{{Tvdrama-db name}}<br /> *{{cite web|url=http://www.jiji.com/jc/d4?p=act001-img101&amp;d=d4_ent|accessdate=2016-10-25|title=東山千栄子 1890年生まれ。築地小劇場を経て、俳…:日本の大女優 写真特集|publisher=[[時事ドットコム]]}}<br /> <br /> {{Normdaten}}<br /> <br /> {{デフォルトソート:ひかしやま ちえこ}}<br /> [[Category:日本の女優]]<br /> [[Category:文化功労者]]<br /> [[Category:紫綬褒章受章者]]<br /> [[Category:宝冠章受章者]]<br /> [[Category:過去の劇団俳優座所属者]]<br /> [[Category:千葉市出身の人物]]<br /> [[Category:1890年生]]<br /> [[Category:1980年没]]<br /> {{actor-stub}}</div> 112.140.13.142 神岡鉱山 2018-04-09T10:01:11Z <p>112.140.13.142: </p> <hr /> <div>{{Infobox mine<br /> | name = 神岡鉱山<br /> | image = <br /> | width = <br /> | caption = <br /> &lt;!-- 所在地 --&gt;<br /> | pushpin_map =Japan Gifu<br /> | pushpin_label_position =<br /> | pushpin_label =神岡鉱山<br /> | pushpin_map_alt =<br /> | pushpin_mapsize =<br /> | pushpin_map_caption =<br /> | coordinates = {{coord2|36|20|55.8|N|137|17|42.7|E|region:JP|display=inline,title}}<br /> | place = [[岐阜県]][[飛騨市]](旧・吉城郡神岡町)<br /> | subdivision_type = <br /> | state/province = <br /> | country = {{JPN}}<br /> &lt;!-- 所有者 --&gt;<br /> | owner = 三井組 &lt;br&gt;⇒ 三井鉱山 &lt;br&gt;⇒ 三井金属鉱業 &lt;br&gt;⇒ 神岡鉱業&lt;!-- 企業 --&gt;<br /> | official website = &lt;!-- 公式サイト --&gt;<br /> | acquisition year = &lt;!-- 取得時期 --&gt;<br /> | stock_exchange = <br /> | stock_code = <br /> &lt;!-- 生産 --&gt;<br /> | products = <br /> | amount = &lt;!-- 生産量 --&gt;<br /> | financial year = &lt;!-- 会計年度 --&gt;<br /> &lt;!-- 歴史 --&gt;<br /> | opening year = 720年&lt;!-- 開山 --&gt;<br /> | closing year = 2001年6月<br /> }}<br /> [[file:Kamiokakozan2.jpg|thumb|right|270px|神岡鉱業亜鉛製錬工場]]<br /> &#039;&#039;&#039;神岡鉱山&#039;&#039;&#039;(かみおかこうざん)は、[[岐阜県]][[飛騨市]](旧[[吉城郡]][[神岡町 (岐阜県)|神岡町]])にあった[[亜鉛]]・[[鉛]]・[[銀]][[鉱山]]。[[2001年]]6月に[[鉱石]]の採掘を中止した。<br /> <br /> == 概要 ==<br /> [[奈良時代]][[養老]]年間([[720年]]ごろ)に採掘が始まり、明治7年([[1874年]])に[[三井財閥|三井組]]が経営権を取得、近代化により国内初のトラックレス・マイニング法を取り入れるなど、大規模採掘を続けていた。三井組経営から閉山までの総採掘量は、約130年間で7,500万トンにも達し、一時は[[東洋]]一の鉱山として栄えた。<br /> <br /> 飛騨[[片麻岩]]中に含まれる[[結晶質石灰岩]]を[[火成岩]]起源の[[熱水]]が交代した[[スカルン鉱床]]で、主な[[鉱床]]として栃洞坑(とちぼらこう)、茂住坑(もずみこう)、円山坑(まるやまこう)がある。[[灰鉄輝石]]を中心とした[[スカルン鉱物]]を伴う鉱石を杢地鉱(もくじこう)と呼び、[[石英]]や[[方解石]]を伴う鉱石を白地鉱(しろじこう)と呼ぶ。<br /> <br /> 鉱山跡地は廃墟となっているが、一部に[[三井金属鉱業]]株式会社の100%出資子会社の[[神岡鉱業]]株式会社が建ち、鉱物のリサイクルなどを営んでいる。<br /> <br /> 2007年、[[日本の地質百選]]に選定された。<br /> <br /> == イタイイタイ病 ==<br /> {{Main|イタイイタイ病}}<br /> <br /> 神岡鉱山の亜鉛鉱石の主要鉱物である[[閃亜鉛鉱]]に含まれる[[カドミウム]]を原因とする、[[富山県]][[神通川]]流域で発生した大規模な[[公害]]である。この公害により最も大きく発生した被害は、布団をかぶせただけで骨折し「痛い、痛い(いたい、いたい)」と叫んでしまう「&#039;&#039;&#039;[[イタイイタイ病]]&#039;&#039;&#039;」と呼ばれる[[公害病]]である。患者が神岡鉱山を操業していた[[三井金属鉱業]]株式会社(当時)を相手取り集団提訴し、[[1971年]][[富山地方裁判所]]で患者原告が勝訴、[[名古屋高等裁判所]]金沢支部でも勝訴した。日本の[[公害病#四大公害病|四大公害病]]裁判において、最初の原告勝訴判決で、その後の公害病裁判に大きな影響を与えた。<br /> <br /> == 跡地の利用 ==<br /> === カミオカンデ ===<br /> {{Main|カミオカンデ}}<br /> 神岡鉱山跡地にあったニュートリノ観測装置、スーパーカミオカンデが完成し解体された。<br /> <br /> === スーパーカミオカンデ ===<br /> {{Main|スーパーカミオカンデ}}<br /> [[スーパーカミオカンデ]]は、神岡鉱山茂住坑に建設された[[東京大学宇宙線研究所]]の[[ニュートリノ]]観測装置である。世界最先端の研究施設の設置場所として、交通のアクセスも悪く他の研究機関からも離れた神岡鉱山が選定された理由は、<br /> # 観測装置に必要な巨大な地下空間の作成に、岩盤強度の高い堅牢な[[飛騨]][[片麻岩]]からなる地質が適していたこと<br /> # 観測で使用する[[純水]]を調達する際に、豊富に坑内湧水が利用可能なこと<br /> # 坑内気温が年間13 - 14℃と一定しており、観測に必要な環境の保持が容易なこと<br /> が挙げられる。<br /> <br /> [[2004年]]7月に[[明仁|今上天皇]]・[[皇后美智子|皇后]]が見学。スーパーカミオカンデの前身である[[カミオカンデ]]では、茂住坑口からトロッコを使いアクセスしていたが、スーパーカミオカンデでは跡津坑口から乗用車やトラックなどで行き来している。<br /> <br /> === カムランド ===<br /> {{Main|カムランド}}<br /> カミオカンデの跡地につくられた反ニュートリノ検出器。カミオカンデやスーパーカミオカンデより低いエネルギーのニュートリノを検出する。<br /> <br /> === XMASS ===<br /> {{Main|XMASS}}<br /> 液体キセノンを用いたダークマター検出器。<br /> <br /> === KAGRA ===<br /> {{Main|KAGRA}}<br /> 2017年後半の本格観測を目指し建設中の重力波望遠鏡。<br /> <br /> === ハイパーカミオカンデ ===<br /> {{Main|ハイパーカミオカンデ}}<br /> 2026年の観測開始を目標に建設が予定されている超大型水チェレンコフ光検出装置。<br /> <br /> === データセンター ===<br /> [http://www.mobi-lity.com/news1.html 株式会社モビリティ]は2001年6月に[[三井金属鉱業]]株式会社100%子会社の神岡鉱業と「神岡鉱山地下空間利用」に関する独占的な管理会社の契約を交わし、鉱山地下空間でのデータセンター事業を提唱した(日本経済新聞 2001年12月31日、2002年1月4日)。<br /> その後、2007年11月14日 日本経済新聞1面などに、「[[サン・マイクロシステムズ]]と[[インターネットイニシアティブ]](IIJ)、[[ベリングポイント]]など12社・団体は、セキュアで低消費電力なデータセンターを地下空間に建設するプロジェクト「[http://www.pricewaterhousecoopers.co.jp/pdf/news/0912180d0925cb.pdf 地底空間トラステッド・エコ・データセンター・プロジェクト]」を発表し、2010年4月のサービス開始を目指す。」との記事が掲載された。この時点で場所の特定はされていなかったが、地方紙での、船坂前飛騨市長の発言で、本鉱山跡地と特定されてしまった。<br /> 金属鉱山跡地は、堅牢な岩盤、温度約14℃、豊富な地下水など、データセンターとして必要な要素を兼ね備えているにもかかわらず、未だに活用されていない。<br /> <br /> === 減圧トレーニング室 ===<br /> 0.7気圧まで減圧できる減圧トレーニング室が設置されている。地下460mの地点に設けられ、面積は90平米。高地トレーニング効果を目的に設置された。<br /> <br /> == 鉱山町の発展と衰退 ==<br /> [[file:Kamiokakozan1.jpg|thumb|right|270px|[[神岡城]]より望む神岡鉱山]]<br /> 神岡鉱山の採掘及び精錬加工によって、鉱山町としての[[神岡町 (岐阜県)|神岡町]]は隆盛と衰退を共にした。鉱山最盛期である[[1950年]]代後半~[[1960年]]代前半は町民が2万7,000人以上にふくれあがったが、鉱山の合理化、及び、採掘中止に伴い転出が続き、現在は1万1,000人ほどまで減少している。ちなみに、神岡町にある[[神岡城]]は昭和45年に三井金属鉱業株式会社神岡鉱業所創業100周年記念として建設されたもので、現在も神岡鉱山の施設・鉱石などが展示、紹介されている。町の各所には、鉱員住宅や集会場、共同浴場などが点在しており、鉱山マニアや[[廃墟]]マニアを惹きつけている。<br /> <br /> == 関連企業 ==<br /> * 神岡鉱業株式会社(三井金属鉱業株式会社100%子会社)<br /> * 三井金属鉱業株式会社<br /> <br /> == 脚注 ==<br /> {{脚注ヘルプ}}<br /> {{Reflist}}<br /> <br /> == 参考文献 ==<br /> {{節スタブ}} &lt;!-- {{Cite book}} --&gt; &lt;!-- {{Cite journal}} --&gt;<br /> <br /> ==関連文献==<br /> *{{Cite journal |和書|title =国内鉛製錬所の概要|date =1962|publisher =日本鉱業会|journal =日本鉱業会誌|volume =78|issue =894|doi=10.2473/shigentosozai1953.78.894_966|pages =966-976|ref = }}<br /> <br /> == 関連項目 ==<br /> &lt;!-- {{Commonscat|}} --&gt;<br /> * [[LCGT]]([[KAGRA]]) - 重力波望遠鏡(かぐら)<br /> * [[神岡水電]] - 神岡鉱山への電力供給を行った<br /> * [[神岡軌道]](専用鉄道)<br /> * [[神岡鉄道]] - [[神岡鉱山前駅]]<br /> * [[日本の地質百選]]<br /> <br /> == 外部リンク ==<br /> * [http://www.mitsui-kinzoku.co.jp/nobel/page-01/ 神岡鉱山ってどんな鉱山?](三井金属)<br /> * [http://www.hidatakayama.ne.jp/gokoku/gold.html 金守山黄金神社](飛騨護國神社)<br /> <br /> {{Japan-geo-stub}}<br /> {{DEFAULTSORT:かみおかこうさん}}<br /> [[Category:日本の廃鉱山]]<br /> [[Category:岐阜県の経済]]<br /> [[Category:岐阜県の観光地]]<br /> [[Category:岐阜県の地形]]<br /> [[Category:日本の地質百選]]<br /> [[Category:飛騨市の地理]]<br /> [[Category:飛騨市の歴史]]<br /> [[Category:三井鉱山]]<br /> [[Category:三井グループの歴史]]</div> 112.140.13.142 ビスマス 2018-04-05T16:24:41Z <p>112.140.13.142: /* ビスマス鉱石 */</p> <hr /> <div>{{Elementbox<br /> |name=bismuth<br /> |japanese name=ビスマス<br /> |number=83<br /> |symbol=Bi<br /> |pronounce={{IPAc-en|ˈ|b|ɪ|z|m|ə|θ}} {{respell|BIZ|məth}}<br /> |left=[[鉛]]<br /> |right=[[ポロニウム]]<br /> |above=[[アンチモン|Sb]]<br /> |below=[[モスコビウム|Mc]]<br /> |series=卑金属<br /> |series comment=<br /> |group=15<br /> |period=6<br /> |block=p<br /> |series color=<br /> |phase color=<br /> |appearance=銀白色<br /> |image name=Bismuth crystals and 1cm3 cube.jpg<br /> |image name comment=<br /> |image name 2=<br /> |image name 2 comment=<br /> |atomic mass=208.98040<br /> |atomic mass 2=1<br /> |atomic mass comment=<br /> |electron configuration=&amp;#91;[[キセノン|Xe]]&amp;#93; 4f&lt;sup&gt;14&lt;/sup&gt; 5d&lt;sup&gt;10&lt;/sup&gt; 6s&lt;sup&gt;2&lt;/sup&gt; 6p&lt;sup&gt;3&lt;/sup&gt;<br /> |electrons per shell=2, 8, 18, 32, 18, 5<br /> |color=<br /> |phase=固体<br /> |phase comment=<br /> |density gplstp=<br /> |density gpcm3nrt=9.78<br /> |density gpcm3mp=10.05<br /> |melting point K=544.7<br /> |melting point C=271.5<br /> |melting point F=520.7<br /> |boiling point K=1837<br /> |boiling point C=1564<br /> |boiling point F=2847<br /> |triple point K=<br /> |triple point kPa=<br /> |critical point K=<br /> |critical point MPa=<br /> |heat fusion=11.30<br /> |heat vaporization=151<br /> |heat capacity=25.52<br /> |vapor pressure 1=941<br /> |vapor pressure 10=1041<br /> |vapor pressure 100=1165<br /> |vapor pressure 1 k=1325<br /> |vapor pressure 10 k=1538<br /> |vapor pressure 100 k=1835<br /> |vapor pressure comment=<br /> |crystal structure=[[三方晶系]]&lt;ref&gt;[http://www.mindat.org/min-684.html Bismuth], mindat.org&lt;/ref&gt;<br /> |oxidation states=&#039;&#039;&#039;3&#039;&#039;&#039;, 5<br /> |oxidation states comment=弱[[酸性酸化物]]<br /> |electronegativity=2.02<br /> |number of ionization energies=4<br /> |1st ionization energy=703<br /> |2nd ionization energy=1610<br /> |3rd ionization energy=2466<br /> |atomic radius=156<br /> |covalent radius=148 ± 4<br /> |Van der Waals radius=[[1 E-10 m|207]]<br /> |magnetic ordering=[[反磁性]]<br /> |electrical resistivity=<br /> |electrical resistivity at 0=<br /> |electrical resistivity at 20=1.29 µ<br /> |thermal conductivity=7.97<br /> |thermal conductivity 2=<br /> |thermal diffusivity=<br /> |thermal expansion=<br /> |thermal expansion at 25=13.4<br /> |speed of sound=<br /> |speed of sound rod at 20=1790<br /> |speed of sound rod at r.t.=<br /> |Young&#039;s modulus=32<br /> |Shear modulus=12<br /> |Bulk modulus=31<br /> |Poisson ratio=0.33<br /> |Mohs hardness=2 - 2.5<br /> |Vickers hardness=<br /> |Brinell hardness=94.2<br /> |CAS number=7440-69-9<br /> |isotopes=<br /> {{Elementbox_isotopes_decay | mn=207 | sym=Bi<br /> | na=[[人工放射性同位体|syn]] | hl=31.55 [[年|y]]<br /> | dm=[[電子捕獲|ε]], [[陽電子放出|β&lt;sup&gt;+&lt;/sup&gt;]] | de=2.399 | pn=207 | ps=[[鉛|Pb]] }}<br /> {{Elementbox_isotopes_decay | mn=208 | sym=Bi<br /> | na=[[人工放射性同位体|syn]] | hl=368,000 y<br /> | dm=[[電子捕獲|ε]], [[陽電子放出|β&lt;sup&gt;+&lt;/sup&gt;]] | de=2.880 | pn=208 | ps=[[鉛|Pb]] }}<br /> {{Elementbox_isotopes_decay | mn=209 | sym=Bi<br /> | na=100% | hl=(1.9 ± 0.2) × 10&lt;sup&gt;19&lt;/sup&gt; y<br /> | dm=[[アルファ崩壊|α]] | de=3.14 | pn=205 | ps=[[タリウム|Tl]] }}<br /> {{Elementbox_isotopes_decay | mn=210m | sym=Bi<br /> | na=[[人工放射性同位体|syn]] | hl=3.04 × 10&lt;sup&gt;6&lt;/sup&gt; y<br /> | dm=[[核異性体転移|IT]] | de=0.271 | pn=210 | ps=Bi }}<br /> |isotopes comment=<br /> }}<br /> &#039;&#039;&#039;ビスマス&#039;&#039;&#039;({{lang-en-short|bismuth}})は[[原子番号]]83の[[元素]]。[[元素記号]]は &#039;&#039;&#039;Bi&#039;&#039;&#039;。[[第15族元素]]の一つ。日本名は蒼鉛。<br /> <br /> == 特徴 ==<br /> 淡く赤みがかった銀白色の[[金属]]で、柔らかく脆い。多彩な色を示すことがあるが、これは表面の酸化膜で光が[[干渉]]することによる[[構造色]]であり、ビスマス本来の色ではない。[[電気伝導性]]や[[熱伝導性]]は高くない。[[融点]]は271.3 {{℃}}と低い。<br /> <br /> [[常温]]で安定に存在し、[[凝固]]すると体積が増加するのが特徴。またビスマス化合物には[[医薬品]]の材料となるものがあり、他の窒素族元素([[ヒ素]]や[[アンチモン]])の化合物に[[毒性]]が強いものが多いことと対照的である。<br /> <br /> == 産出 ==<br /> 天然には硫化物([[輝蒼鉛鉱]])として主に産出するが、[[自然蒼鉛]]として単体での産出も知られている。なお、鉱工業上はこれらの鉱物ではなく、主に[[鉛]]、[[モリブデン]]、[[タングステン]]精錬の副産物として生産される&lt;ref&gt;[http://minerals.usgs.gov/minerals/pubs/commodity/bismuth/bismumcs96.pdf Bismuth, Mineral Commodity Summaries] (1996) Bismuth, USGeological Survey.&lt;/ref&gt;。ビスマスの[[ドイツ語]]Wismutは、1472年に与えたシュネーベルクの草原 (Wiese) の採掘許可権 (Mutung) から生まれた語Wiesemutungに由来するが、当時はビスマスは[[アンチモン]]、[[錫]]、[[亜鉛]]などと混同されていた&lt;ref&gt;大学教育研究会編 「化学―物質と人間の歴史―」開成出版、1985年、ISBN 4-87603-044-8&lt;/ref&gt;。[[18世紀]]に[[フランス]]の[[クロード・F・ジョフロア]]により、[[単体]]であることが確認された。<br /> <br /> === ビスマス鉱石 ===<br /> ビスマス鉱石を構成する[[鉱石鉱物]]には、次のようなものがある。<br /> * [[自然蒼鉛]](自然ビスマス)(Bi)<br /> * [[輝蒼鉛鉱]](輝ビスマス鉱)(Bi&lt;sub&gt;2&lt;/sub&gt;S&lt;sub&gt;3&lt;/sub&gt;)<br /> * [[蒼鉛土]](ビスマイト)(Bi&lt;sub&gt;2&lt;/sub&gt;O&lt;sub&gt;3&lt;/sub&gt;)<br /> <br /> 日本ではビスマス単産の鉱山は無く、[[恵比寿鉱山]](タングステン)、[[足尾銅山|足尾鉱山]](銅)などで副産物としてビスマスが生産された。<br /> <br /> == 用途 ==<br /> [[医薬品]](整腸剤)の原料として、[[日本薬局方]]に収載されている。<br /> <br /> 単体のビスマスと他の金属([[カドミウム]]、[[錫]]、[[鉛]]、[[インジウム]]など)との合金は、それぞれの金属単体より低い融点となる。このため、[[鉛フリーはんだ]]に添加されたり、あるいはより低温で溶ける[[ウッド合金]]のような[[低融点合金]]に使われる。また、ビスマスは大きな[[熱電効果]]を示す物質であり、特に[[テルル]]との合金は[[熱電変換素子]]として実用化されている。<br /> <br /> 化合物としては、銅酸化物[[高温超伝導体]]の1成分としても用いられ、ビスマスを含む[[超伝導]]物質はしばしばビスマス系高温超伝導物質または単にビスマス系と呼ばれる。<br /> <br /> 上記以外にも、高比重・低融点で比較的柔らかく無害である事から鉛の代替として注目され、[[散弾]]や釣り用の[[錘]]、鉛・カドミウムの代替として黄銅への添加剤、ガラスの材料などとして用いられている。<br /> <br /> == 同位体 ==<br /> {{main|ビスマスの同位体}}<br /> 天然に存在するビスマスの同位体はすべて[[放射性同位体]]である。主要な同位体である &lt;sup&gt;209&lt;/sup&gt;Bi は長らく[[安定同位体]]とされてきたが、理論的計算に基づいて不安定である可能性が指摘されていた。2003年、精密な測定で非常に長い半減期&lt;!--(1.9×10&lt;sup&gt;19&lt;/sup&gt;年=1900京年)--&gt;を持つ放射性同位体であることが判明し&lt;ref&gt;セオドア・グレイ著 「世界で一番美しい元素図鑑」193ページ 2015年10月1日閲覧&lt;/ref&gt;、最重[[安定同位体]]の地位を[[鉛]] (&lt;sup&gt;208&lt;/sup&gt;Pb) に譲ることとなった。<br /> <br /> &lt;sup&gt;209&lt;/sup&gt;Bi はごくわずかに[[アルファ崩壊|α崩壊]]により崩壊するが、その[[半減期]]は[[2003年]]に測定された値で (1.9 ± 0.2) × 10&lt;sup&gt;19&lt;/sup&gt; 年(≒ 1700京〜2100京年)である。この値は現在の[[ビッグバン|宇宙年齢]]の9桁以上も長い&lt;ref&gt;de Marcillac, P. Coron, N. Dambier, G. Leblanc, J. &amp; Moalic, J.-P. Experimental detection of α-particles from the radioactive decay of natural bismuth. Nature 422, 876-878 (2003).&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> その他にも、半減期は短いが自然界には5つの同位体が存在する。いずれも、壊変系列の崩壊過程によって発生する同位体である。ウラン233の崩壊過程でできるビスマス213はα崩壊核種であり、α線を用いた[[がん]]の治療に期待されている(Actimab-B &lt;sup&gt;TM&lt;/sup&gt;)&lt;ref&gt;Allen BJ., &quot;Clinical trials of targeted alpha therapy for cancer.&quot;, Rev Recent Clin Trials. 2008 Sep;3(3):185-91. (PubMed) https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pubmed/18782076&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> == ビスマスの化合物 ==<br /> 収斂作用を持つビスマスの化合物は、[[腸粘膜]]のタンパク質と結合して被膜を作り炎症を起こした粘膜への刺激を和らげる効果があり、[[整腸剤]]として利用される。<br /> * {{仮リンク|酸化ビスマス(III)|en|Bismuth(III) oxide}} (Bi&lt;sub&gt;2&lt;/sub&gt;O&lt;sub&gt;3&lt;/sub&gt;) - 整腸剤<br /> * {{仮リンク|次没食子酸ビスマス|en|Bismuth subgallate}} (C&lt;sub&gt;7&lt;/sub&gt;H&lt;sub&gt;5&lt;/sub&gt;BiO&lt;sub&gt;6&lt;/sub&gt;) - 整腸剤(日本薬局方収載)<br /> * [[輝蒼鉛鉱]] (Bi&lt;sub&gt;3&lt;/sub&gt;S&lt;sub&gt;3&lt;/sub&gt;)<br /> * [[塩化酸化ビスマス]] (BiOCl) - [[化粧品]]、パール塗料の原料。<br /> * [[次硝酸ビスマス]] (Bi&lt;sub&gt;5&lt;/sub&gt;O(OH)&lt;sub&gt;9&lt;/sub&gt;(NO&lt;sub&gt;3&lt;/sub&gt;)&lt;sub&gt;4&lt;/sub&gt;) - 整腸剤(日本薬局方収載)<br /> * 次サリチル酸ビスマス - 整腸剤<br /> * [[炭酸酸化ビスマス(III)]] - 整腸剤<br /> * [[チタン酸ビスマスナトリウム]] ((Bi&lt;sub&gt;1/2&lt;/sub&gt;Na&lt;sub&gt;1/2&lt;/sub&gt;)TiO&lt;sub&gt;3&lt;/sub&gt;)<br /> <br /> == 結晶 ==<br /> [[File:Bi-crystal.jpg|thumb|left|150px|ビスマスの結晶]]<br /> 人工的に作ったビスマスの結晶は、酸化膜による多彩な着色と[[骸晶]]による特徴的な形状から、観賞用として市販される場合がある。<br /> <br /> {{-}}&lt;!--回り込み防止--&gt;<br /> <br /> == 脚注 ==<br /> {{脚注ヘルプ}}<br /> {{Reflist}}<br /> <br /> == 関連項目 ==<br /> {{Commons|Bismuth}}<br /> <br /> &lt;!-- == 参考文献 == --&gt;<br /> &lt;!-- == 外部リンク == --&gt;<br /> <br /> {{元素周期表}}<br /> {{ビスマスの化合物}}<br /> {{Normdaten}}<br /> {{DEFAULTSORT:ひすます}}<br /> [[Category:ビスマス|*]]</div> 112.140.13.142 丹生鉱山 2018-02-26T02:03:11Z <p>112.140.13.142: </p> <hr /> <div>{{Infobox mine<br /> | name = 丹生鉱山<br /> | image = <br /> | width = <br /> | caption = <br /> &lt;!-- 所在地 --&gt;<br /> | pushpin_map =Japan Mie<br /> | pushpin_label_position =<br /> | pushpin_label =丹生鉱山<br /> | pushpin_map_alt =<br /> | pushpin_mapsize =<br /> | pushpin_map_caption =<br /> | coordinates = {{coord2|34|28|17.1|N|136|29|25.9|E|region:JP|display=inline,title}}<br /> | place = [[三重県]][[多気郡]][[多気町]]<br /> | subdivision_type = <br /> | state/province = <br /> | country = {{JPN}}<br /> &lt;!-- 所有者 --&gt;<br /> | owner = (近代以降のみ記す)&lt;br&gt;北村覚蔵&lt;br&gt;⇒中世古亮平ほか&lt;br&gt;⇒大和金属鉱業<br /> | official website = &lt;!-- 公式サイト --&gt;<br /> | acquisition year = 1940年(北村覚蔵による探鉱開始)<br /> | stock_exchange = <br /> | stock_code = <br /> &lt;!-- 生産 --&gt;<br /> | products = [[辰砂]]、[[自然水銀]]、[[鶏冠石]]、[[雄黄]]<br /> | amount = 700トン/月(大和金属鉱業)&lt;!-- 生産量 --&gt;<br /> | financial year = &lt;!-- 会計年度 --&gt;<br /> &lt;!-- 歴史 --&gt;<br /> | opening year = 縄文時代&lt;!-- 開山 --&gt;<br /> | closing year = 1973年11月<br /> }}<br /> &#039;&#039;&#039;丹生鉱山&#039;&#039;&#039;(にうこうざん)は、[[三重県]][[多気郡]][[多気町]]にあった[[水銀]][[鉱山]]である。&#039;&#039;&#039;丹生水銀鉱山&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;丹生丹坑&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;丹生水銀山&#039;&#039;&#039;ともいう。<br /> <br /> == 鉱床・鉱物 ==<br /> [[中央構造線]]上に位置し、[[花崗岩]]質を母岩とする[[裂化充填鉱床]]である。主要[[鉱物]]は、[[辰砂]]、[[黒辰砂]]、[[自然水銀]]、[[鶏冠石]]、[[雄黄|石黄]]、[[輝安鉱]]、[[白鉄鉱]]、[[方解石]]。水銀[[鉱床]]であるが、鶏冠石と石黄の産出が比較的多い。<br /> <br /> 主要な鉱床は、洞口、灯篭 - 日ノ谷、鳴谷 - 柳谷の3か所の[[鉱脈]]群である。<br /> <br /> [[1942年]]([[昭和]]17年)の[[名古屋通産局]]による分析結果では、水銀の含有率は保賀口付近において2.03%、日ノ谷前においては1.81%であった。鉱石の[[品位 (鉱業)|品位]]は0.5%であり、当時の全国平均は0.3%であった。<br /> <br /> == 歴史 ==<br /> [[縄文時代]]から丹生鉱山とその近辺で辰砂の[[採掘]]が行われていた。丹生鉱山に隣接する池ノ谷・新徒寺・天白[[遺跡]]からは、粉砕した辰砂を利用した[[縄文土器]]が発掘されており、辰砂原石や辰砂の粉砕用に利用したと見られる[[石臼]]も発見されている。さらに、40か所以上に及ぶ[[採取]]坑跡が付近から発見されており、辰砂の色彩を利用した土器製造と辰砂の採掘・[[加工]]が行われていた。<br /> <br /> === 地名 ===<br /> 鉱山の名称であり、[[地名]]ともなっている「[[丹生 (多気町)|丹生]]」とは、丹土(朱砂…辰砂)が採取される土地の事を指すとする説が有力である(「ニフ」を、「稲積」を呼ぶ名称の「ニホ」や「ニフ」と同じとして、神の降臨を迎える標山とする[[折口信夫]]等による異説もあり)。また、古代に水銀や朱砂を採掘・加工していた[[氏族]]の名前とされる。彼らはニウヅヒメ(丹生津姫、丹生津比女とも書く)を[[祭神]]として、活動拠点に[[丹生神社]]と名付けられた[[神社]]を建立した。また、地名としても[[丹生 (多気町)|丹生]]という名が残っている他、「入」、「仁宇」、「仁保」、「門入」と丹生から変型した地名も存在する。<br /> <br /> :この一例として、[[徳島県]][[阿南市]][[水井町]]には若杉山遺跡が存在している。同遺跡からは石臼・辰砂原石が発見されており、[[古墳時代]]の水銀採取遺跡として知られている。この付近には[[江戸時代]]末期に発見された[[水井鉱山]](由岐水銀鉱山)があり、近隣の[[那賀郡]][[那賀町]]仁宇には、丹生神社を合祀した[[八幡神社]]が存在する。また、この付近一帯は「丹生谷」と呼ばれている。<br /> <br /> 丹生鉱山の位置する同町丹生地区もこうした条件が揃う土地であり、丹生神社が存在する。[[523年]]([[継体天皇]]17年)の創建とされ、この神社は[[8世紀]]、[[東大寺盧舎那仏像|大仏鋳造]](後述)の際に水銀を求める[[祈願]]がなされた。その祈願通り、水銀が産出したため、[[743年]]に丹生[[明神]]の名を賜っている。<br /> <br /> また、江戸時代の記録では、[[819年]]([[弘仁]]10年)には[[夏]]の日照りから[[勅令]]によって[[祈雨]]をし、秋になると多雨となったので、[[止雨]]を祈らせたという。<br /> <br /> [[高野山]]麓には[[丹生都比売神社]]が存在し、[[ニウヅヒメ]]が[[祭神]]となっている。ニウヅヒメは元々、[[大和国]]の[[丹生川]]のはてに住んでみえたので名付けられたという。現在、ニウヅヒメは「祈雨止雨の神」であり、同神社は同信仰の拠点となっている。また、ニウヅヒメは[[伊勢国]]に姿を見せたともされている。同地は丹生氏の本拠地だったともいわれ、水銀にまつわる[[神 (神道)|神]]と考えられる。この事から丹生都比売神社と、同町丹生地区の丹生神社は祈雨止雨信仰と共に水銀鉱業に関するつながりもあるものと見られる。<br /> <br /> ただし、元来、ニウヅヒメと祈雨止雨信仰は無関係のものであった。これは古代の水銀鉱業の衰退に伴い、丹生氏が水銀鉱業から[[農業]]に[[生業]]を転換していく際、農業に重要な[[水]]を司る[[女神]]である[[ミヅハノメ]]を[[祭神|主神]]に迎え入れた。この結果、ニウヅヒメとミヅハノメの混同されるようになり、ニウヅヒメは「祈雨止雨の神」となってしまった。<br /> <br /> 一方、丹生神社には[[カナヤマヒメ]]と[[カナヤマヒコ]]の男女一組の神も[[合祀]]されている。他の鉱山でも「[[山神]]」として祭られる事もあり、鉱山に密接した神といえる。<br /> <br /> === 古代 ===<br /> [[7世紀]]末、『[[続日本紀]]』の[[文武天皇]]2年([[698年]])[[9月28日 (旧暦)|9月28日]]の条であり、[[常陸国]]・[[備前国]]・[[伊予国]]・[[日向国]]、そして伊勢から朱砂(辰砂)が献上されている。とくに、伊勢国の場合は、朱砂とともに雄黄(石黄)が献上されている。雄黄は有毒な[[ヒ素]]鉱物ではあるが、当時は貴重な薬品として流通していた。丹生鉱山の大きな特徴として副産物の石黄の産出が多いことがあり、現在のところ、このとき献上された伊勢産の水銀は丹生産の物であったと考えられている。[[713年]]([[和銅]]6年)には、伊勢国のみから朱砂が献上されている。<br /> <br /> [[905年]]([[延喜]]5年)の『[[延喜式]]』には、朱砂と水銀に関する規定が記されている。また、民部下「[[交易雑物]]」には、伊勢国から水銀400[[斤]]が[[朝廷]]に献上されている。水銀の生産は圧倒的に伊勢国であったと見られるが、同時に[[大宰府]]からも朱砂1000両が献上されており[[中国]]からも輸入していた可能性もある。<br /> <br /> 古代における水銀の用途は、朱([[弁柄]])、[[赤土]](丹土)と共に朱砂が[[顔料]]として用いられていた他、[[アマルガム]][[メッキ]]用に水銀が用いられていた。特に[[奈良]][[東大寺]]の[[東大寺盧舎那仏像|虞舎那仏像(大仏)]]の建造の際には、熟[[銅]]73万7560斤とともに、メッキ用に[[金]]1万436両、水銀5万8620両、さらに水銀気化用に[[木炭]]1万6656斛が調達されている。この際に使用された水銀が全て伊勢産で賄われていたかは不明。ただし、その後、戦乱によって損壊した大仏を再建するために用いられた水銀は、全て伊勢産であったと考えられている。<br /> <br /> 伊勢産を含めた水銀や朱砂が交易品として中国にも輸出されていた。[[1056年]]([[天喜]]4年)、[[藤原明衛]]の『[[新猿楽記]]』には[[猿楽]]見物客の一人として、八郎真人なる「商人の首領」が登場している。彼は「[[唐物]]」として中国産の朱砂を扱う一方、「[[本朝]]物」として国産水銀を中国に輸出していた。この頃は後述の大仏再建におけるエピソードも考慮すると、すでに国産水銀の生産のピークを超えていた可能性がある。<br /> <br /> 入[[宋 (王朝)|宋]]僧・[[成尋]]の『[[参天台五台山記]]』巻一には、[[1072年]]([[延久]]4年)、[[肥前国]][[松浦郡]][[壁島]]より[[唐人]]の船に乗り込んだ事が記されている。その際に3人の唐人[[船頭]]に米50斛、[[絹]]100疋、[[褂]]2重、[[砂金]]4小両、上[[紙]]100張、[[鉄]]100挺と共に水銀80両を贈与している。また、同書巻二には、成尋を乗せていた船の主である唐人の[[曾聚]]が、日本にて[[硫黄]]や水銀を買い付けていた事が記されている。<br /> <br /> このように、伊勢産の水銀が重用されていたが、数少ない丹生鉱山の「現場記録」として、『[[今昔物語集]]』に収載された説話がある。<br /> : [[伊勢国]][[飯高郡]]において郡司によって水銀採掘に徴用された人夫達がいた。彼らは常日頃から[[地蔵菩薩]]を熱心に[[信仰]]していた。水銀採掘のために「十余丈」ある坑内で作業をしていた彼らは[[落盤]]事故に遭遇して閉じ込められてしまった。彼らは、お地蔵様に念じ続けた。すると、見事救い出された。<br /> <br /> これはあくまでも[[仏教]][[説話]]であって信仰の重要性をとなえる物語であり、必ずしも事実に沿っているとはいえない。誇張等もあると考えられる。しかし、丹生鉱山における水銀採掘現場をほぼ直接記したものであり、貴重な資料と考えられている。<br /> <br /> === 中世 ===<br /> [[律令制]]度の衰退にともなって他の物資共々、都への水銀供給が滞るようになり、水銀価格が上昇していった。この状況を利用して、水銀商人が出現するようになっていった。<br /> <br /> [[1183年]]([[寿永]]2年)、[[重源]]が大仏再建に際して資材調達するが、水銀だけが入手困難に陥っていた。しかし、水銀採掘に関わっていたと見られる伊勢国住人「大中臣某」の旧宅から水銀2万両が「産出」し、これを[[後白河天皇|後白河法皇]]に献上した。このうち、水銀1万両を大仏再建に使用した。このように、[[寺院]]の資材として水銀は重要であり、各寺院が水銀を備蓄していたと見られる。<br /> <br /> 丹生には日本で唯一、[[水銀座]]と呼ばれる[[座]]が存在した。水銀座も他の座同様、[[本所]]と呼ばれる庇護者が存在したが、それは近隣の[[伊勢神宮]]ではなく、朝廷の中心に位置する[[摂関家]]が本所になっていたのではないかと考えられている。伊勢神宮側が朝廷に対して商取引や水銀山の領有を巡る丹生の水銀商人の横暴を告発する[[訴訟]]が提起されている。当時、水銀座は摂関家の権威を借りて、威圧的に商取引を進めたり、他の座の利権を侵食したりする事もたびたびあったと見られる。<br /> <br /> 『[[経俊卿記]]』には、[[1257年]]の[[6月2日]]および[[6月14日]]([[正嘉]]元年の[[4月19日 (旧暦)|4月19日]]および[[5月1日 (旧暦)|5月1日]])に[[後嵯峨院]]と考えられる[[院庁|院]]の[[細工所]]と、「水銀[[供御人]]」と呼ばれる水銀商人との間に起きたトラブルを記している。供御人とは、中央[[官司]]に属している特権的な商人のことを指す。この事から、水銀商人は朝廷の中央の庇護を受ける形で丹生周辺に数多く存在していたと考えられる。<br /> <br /> 『[[吾妻鏡]]』には、[[1227年]]([[安貞]]元年)に本間元忠という[[御家人]]が、[[鎌倉幕府]]の命を受けて丹生山の[[悪党]]・丹生右馬允を討伐しようとしたが返り討ちに遭い失敗。再び討伐を試みるが、今度は友軍が逃亡する事態となりまたも失敗したという記録が残っている。さらに、河田入道なる丹生の「住人」がおり、彼の死は「[[往生]]」と見られた。河田氏の旧宅を訪れれば往生が得られると[[近畿]]の[[民衆]]が押し掛け、これを伊勢神宮が「河田氏の旧宅に近づくものは[[ケガレ]]を得るのみ」と牽制する事態に到っている。彼らは丹生を拠点とする、悪党と呼ばれた実力者と見られ、いずれも水銀を資金力や行動力の源にしていたと考えられる。<br /> <br /> 丹生村を拠点としていた[[豪商]]として、長井家が存在する。屋号を梅屋といい、江戸時代初期には「丹生の梅屋か射和の太郎次、松ヶ島では伊豆蔵か」という[[俚諺]]もあった。[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]には、同地を支配していた[[北畠家|北畠氏]]の配下にあり、さらに家臣となる事を求めたともされる。長井家は日本における[[兌換紙幣]]のさきがけである[[丹生羽書]]([[梅屋札]])と呼ばれる[[羽書]]を発行し、現在も[[寛永]]年間([[1624年]] - [[1644年]])に発行したものが残存している。兌換紙幣を発行するには信用と財力が必要であり、同地に長井家が長年存在し続けた証拠ともいえる。また、子孫の一人である長井善兵衛は、戦国時代に荒廃した丹生神社や寺院の再建に努めたともいわれる。ただし、善兵衛がどのような商業活動を行なっていたのか詳らかではない。また、長井家と水銀を直接結び付けるものは無く、数々の伝説も複数の人物のエピソードが合体してしまったものとみられるものもあり、実態は謎に包まれている。<br /> <br /> このように、水銀は重要な物資であり、これによって丹生は中央と強い結び付きを持っていたと見られる。こうした実際の水銀生産を巡る遺跡として、丹生若宮遺跡が存在する。ここからは辰砂原石や辰砂粉砕用とみられる10点の小型石臼の他に、水銀の[[製錬]]に使用したと考えられる[[甕]]が発見されている。甕の内部には、水銀鉱石等の分量を示すと考えられる墨線が引かれている。また、甕の内部からは微量の水銀が検出されていると同時に、最高25万6300[[ppm]]に達するヒ素が検出されており、これは天然のヒ素鉱物に匹敵する。<br /> <br /> [[明]]代末の技術書『[[天工開物]]』には、辰砂を容器に入れて加熱し、気化した水銀を冷却、液化して採取する図が存在する。この方式は、現在の水銀製錬の原理にも通じる蒸留製錬であり、日本においても同様の製錬が行なわれていたと考えられる。先述したように、丹生鉱山からは鶏冠石や石黄といったヒ素鉱物が多く産出する。高濃度のヒ素は、水銀鉱石を製錬する際、辰砂に酷似した鶏冠石が混入したために検出された可能性が高い。このような事から、丹生若宮遺跡は[[中世]]における水銀製錬遺跡であると見られる。<br /> <br /> [[室町時代]]には、丹生産の水銀は従来の用途の他に、伊勢白粉の不可欠な原料として使用されることになった後述、→[[#伊勢白粉(射和軽粉)|伊勢白粉(射和軽粉)]])。しかし、その一方で[[鎌倉時代]]から堺や博多において「[[朱座]]」が形成されてきた。この朱座は中国から輸入した技術でもって朱を製造し、原料も全て中国産の輸入朱砂に頼っていた。中国での水銀採掘が活発化するのと対照的に、国産水銀の生産は漸減していき、質も低下していったものと見られる。<br /> <br /> 丹生鉱山がいつ休山したかは定かではないが、室町末期には伊勢白粉の原料である水銀は丹生産から[[京都|京]]経由で輸入された中国産の水銀を用いるようになったとされるので、この頃には水銀採掘が休止したと見られる。<br /> <br /> === 近世 ===<br /> [[江戸時代]]でも、丹生が水銀の産地である事は知られていた。[[1661年]]([[万治|萬冶]]4年)の『長井浄蓮筆記』には、朝と晩に水銀山の割れ目(坑口?)から水銀が出てきていると記している。また、西村和廉『丹洞夜話』には、水銀の[[探鉱]]のために旧坑に入った男が落盤に巻き込まれた話が載っており、妻の不浄が原因であると記している。<br /> <br /> [[1736年]]([[元文]]元年)、丹生村の[[医師]]・北川丹雪が水銀試掘を[[松阪奉行所]]に願い出たが、許可されなかった。[[寛延]]3年には[[紀州藩]]が試掘したが失敗している。また、[[天保]]年間には松阪に住む亀井某及び時中某が共同で試掘するが、資力が続かずに挫折した。<br /> <br /> このように、江戸時代における試掘や探鉱の全てが失敗に終わっているが、[[佐藤信淵]]の祖父にあたる[[佐藤信豊]]は『[[土性弁]]』において水銀の産する山の土は必ず赤色という独自の理論を提唱し、当時、日本における水銀生産が途絶していた事を嘆いている。当時、中国から輸入されていた水銀は、貴重かつ高価な品物であったと見られる。<br /> <br /> 孫の信淵は『[[経済要録]]』において、祖父の理論を実践して丹生鉱山を含めた各地の水銀鉱山を探鉱した。そして、水銀鉱山の再開発と水銀の国産化が重要であると強調した。しかし、江戸時代に丹生鉱山が再開される事は無いままだった。<br /> <br /> === 近代 ===<br /> [[明治]]時代に入っても丹生鉱山は休山が続いた。わずかに『[[大日本國誌]]』に辰砂の産地として伊勢国丹生村の名前があるのみであった。[[大正]]時代も依然として休山状態が続いた。<br /> <br /> 丹生鉱山の再開が現実化したのは、[[1940年]]([[昭和]]15年)である。東京で[[古書店]]を経営していた北村覚蔵が帰郷し、独学でもって丹生鉱山の探鉱を開始した。丹生南部地帯から始まり、最終的には日ノ谷坑が有望と見た北村は、試掘に際して産出した鉱物を丹念に観察すると共に、採取した辰砂を使用して自宅の[[庭]]で水銀製錬の研究をも行なった。特にこの水銀製錬の研究結果は重要であり、後に丹生鉱山が再開される際、この結果を元にオリジナルの[[レトルト]]式蒸留製錬装置が構築されている。<br /> <br /> 丹生産鉱石の水銀含有率は0.5%であり、当時の全国平均は0.3%であったから充分商業ベースに乗ると考えられた。[[1948年]](昭和23年)に北村によって書かれた監督官庁へ提出する『鉱山現況報告書』では、従業員7人で月産340kgの[[精製]]水銀を生産する計画が記されている。しかし、北村は研究途上の同年逝去し、再開発計画は中断した。<br /> <br /> [[1954年]](昭和29年)、北村の妻芳子と鉱山技術者であった中世古亮平が丹生鉱山の再開発に着手した。中世古は、北村が遺した資料を元にレトルト[[炉]]を構築して、小規模ながら採掘から水銀[[地金]]の生産まで一貫して行うこととなった。[[1955年]](昭和30年)、本格的な操業を開始し、[[1956年]](昭和31年)には34.5kg鉄製[[フラスコ]]に充填された水銀地金2本を[[大阪]]の業者に売却している。当時、[[蛍光灯]]・[[農薬]]・[[乾電池]]向けに水銀地金の価格は上昇しており、34.5kgで11万3000 - 12万5000円が相場だった。ちなみに当時の[[高等学校|高校]][[教員]]の初任給は1万円弱であったという。<br /> <br /> 建設された炉は、以下のような仕組みであった。<br /> * 辰砂を300℃以下で乾燥させた後、石灰と辰砂を炉に入れて空気を遮断して密封し、加熱して脱硫させる。<br /> * 辰砂から水銀がガス化し、炉から延びた煙道を通って、[[コンデンサー]]と呼ばれる凝縮器に入って冷却され、水銀は液化する。<br /> * 採取率を高めるため、一つのレトルト炉にコンデンサーは2基設置され、最初のコンデンサーを出た煤煙は長い煙道を通って第2のコンデンサーに入り、両方で水銀が回収された。<br /> * 2つのコンデンサーを通過した[[煤煙]]は、山の頂上に設けられた[[煙突]]から大気に放出された。<br /> * レトルト炉は窯の火元から垂直に3基設けられ、火元に近い1基目のレトルト炉に付属するコンデンサーのみ、水を用いた冷却装置が設けられ、均等に冷却化する手助けとなっていた。<br /> * 燃料は当初[[オガクズ]]であり、後に[[コークス]]に切り替わった。<br /> <br /> 水銀価格の高騰が続いていたにも関わらず、[[1956年]](昭和31年)5月頃にはまたも休山となった。<br /> [[画像:丹生鉱山口跡.JPG|thumb|none|240px|丹生坑道口跡 左が近世までの坑道、右が昭和期の坑道(2007年8月撮影)]]<br /> <br /> == 現状 ==<br /> その後、丹生鉱山の[[鉱業権]]は[[奈良県]]で[[大和水銀鉱山]]を経営していた[[大和金属鉱業]](現・[[野村興産]])に譲渡された。<br /> <br /> 休山後も、同社によって探鉱が続けられ、[[1962年]](昭和37年)には品位0.6%を記録している。[[1968年]](昭和43年)になって同社丹生鉱業所が開設され、総事業費3000万円、2か年計画でもって基幹斜坑を[[掘削]]した。昭和45年8月には本格的な採掘を開始。採掘された水銀鉱石は全量、陸送で奈良県の大和水銀鉱山に運搬されて処理された。<br /> <br /> しかし、水銀[[公害]]が[[社会問題]]化しつつある中、水銀生産を続けていた大和水銀鉱山が水質汚染や需要低迷から閉山し、条件の合う鉱石の受入先が無くなった。[[1973年]](昭和48年)[[11月30日]]をもって、丹生鉱業所は閉山した。大和金属鉱業による鉱石採掘量は月産700トンであり、水銀約3トンを含有していた。<br /> <br /> 現在、丹生地区は丹生神社と[[神宮寺]]を中心として観光地として再開発されている。[http://www.tachibai.jp/mameya/index.html](坑道入口付近の観光施設)鉱山跡地も、1950年代くらいに採掘された坑口と旧レトルト炉を中心に整備されている。しかし、山中には現在も数多くの坑口跡が残っている。大和金属鉱業が採掘した坑口は危険防止のために閉塞されたが、現在では草木に完全に埋れてしまっているという。<br /> <br /> == 伊勢白粉(射和軽粉) ==<br /> 丹生鉱山と関わりの深い伊勢[[白粉]]についても、ここで紹介する。<br /> <br /> 丹生鉱山に近接する三重県[[松阪市]]射和地区を中心に生産されていたので&#039;&#039;&#039;射和軽粉&#039;&#039;&#039;ともいう。また、&#039;&#039;&#039;御所白粉&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;ハラヤ&#039;&#039;&#039;ともいう。水銀系の白粉の成分は、[[塩化水銀(I)|塩化第1水銀]]([[甘汞]])であり、[[透明]]の[[結晶]]体である。原料は水銀の他に、[[食塩]]・水・実土([[赤土]]の一種)である。<br /> <br /> 製法としては、水銀・食塩・水・実土をこね合わせ、鉄[[釜]]に入れて[[粘土]]製の蓋である「ほつつき」で覆って約600℃で約4時間加熱する。すると、「ほつつき」の内側に白い結晶が付着する。これが塩化第1水銀であり、これを「ほつつき」から払い落とし、白い粉状にしたものが水銀白粉である。<br /> <br /> 白粉は鎌倉時代に中国から製法が伝来したとされる。当時の白粉の[[製法]]には水銀の存在が不可欠であり、丹生鉱山が存在するこの地域に伝播することになった。[[文安]]年間([[1444年]]ころ)には、窯元が83軒ほど存在していたという。1453年([[享徳]]2年)には三郡内[[神税]]御注文に、軽粉窯元に対して課税がなされた。鎌倉時代から軽粉座が存在し、これは伊勢神宮が本所となっていた。その後、本所は公家である京の[[薄家]]となり、現地に代官が置かれる事となった。伊勢射和白粉公用として、年に6貫文が本所に納められた。その後、本所は北畠家等に移った。<br /> <br /> 射和の軽粉商は、白粉の他にも[[小間物]]等も扱っていた。当初、白粉は[[化粧品]]であると同時に、腫れ物といった[[皮膚疾患]]を治す薬品として[[貴族]]の間で珍重されていた。また、時としては外用ばかりでなく、[[腹痛]]の内用薬としても用いられていた。これが一般に広まったのは、伊勢神宮の[[御師]]が諸国の[[檀那]]に大神宮の[[お祓い]]と共に白粉を配るようになった事がきっかけである。室町末期には[[鉛]]白粉が輸入されだし、丹生鉱山の水銀から輸入水銀に原料を転換している。鉛白粉の普及に押されていたが、[[16世紀]]頃に[[梅毒]]が流行、[[18世紀]]頃になると伊勢白粉は駆梅薬として再び注目される事となった。また、[[シラミ]]除けの薬として人ばかりでなく[[ウシ|牛]][[ウマ|馬]]にも使用された。<br /> <br /> しかし、窯元も17軒程度に減少し、軽粉座も崩壊して江戸時代には[[株仲間]]となった。[[1620年]]([[元和 (日本)|元和]]6年)には、[[鳥羽藩]]領射和から正米29石5[[斗]]が納税され、[[1624年]]([[寛永]]10年)以降は25石に減少させて納税した。江戸時代には新規の窯元設立を規制し、16基に制限された。<br /> <br /> 明治時代に入ると製造過程で[[水銀中毒]]が続発した事や洋式の第1塩化水銀の製法が普及した事、[[医薬品]]の法的規制の強化によって窯元は減少していった。[[1953年]]([[昭和]]28年)に最後の窯元が廃業して伊勢白粉は途絶した。<br /> <br /> == 参考文献 ==<br /> * 『勢和村史』勢和村史編纂委員会 勢和村 [[1999年]](平成11年)<br /> * 『勢和村の民俗』伊勢民俗学会 光出版印刷 [[1985年]](昭和60年)<br /> * 『わたしたちのふるさと勢和』勢和村史編纂委員会 勢和村 [[1995年]](平成7年)<br /> * 『松阪市史』松阪市史編さん委員会 松阪市 [[1977年]](昭和52年)<br /> * 『丹生の研究-歴史地理学から見た日本の水銀』[[松田壽男]] [[早稲田大学出版部]] [[1970年]](昭和45年)<br /> * 『三重県における鉱山遺跡の地学的研究(水沢鉱山・丹生鉱山)』 磯部克<br /> * 『伊勢水銀異聞-女人高野悲歌』田畑美穂 十楽 [[2002年]](平成14年)<br /> * 『「地名と風土」業書・2』谷川健一・編所収「水銀産地名「丹生」を追って」永江秀雄 三一書房 [[1997年]](平成9年)<br /> * 『勢和村水銀採掘坑群発掘調査報告』三重県埋蔵文化財センター [[2004年]](平成16年)<br /> * 『角川日本地名大辞典 24 三重県』角川日本地名大辞典編さん委員会 [[角川書店]] [[1983年]](昭和58年)<br /> <br /> {{Japan-geo-stub}}<br /> {{DEFAULTSORT:にうこうさん}}<br /> [[Category:日本の廃鉱山]]<br /> [[Category:多気町の歴史]]<br /> [[Category:紀州藩]]<br /> [[Category:日本の水銀鉱山]]</div> 112.140.13.142 保存食 2018-02-25T05:11:13Z <p>112.140.13.142: /* 保存方法 */</p> <hr /> <div>{{Otheruses|長期間の保存に適するように加工・処理した食品|食品衛生上の観点から保存される検査用保存食|検食}}<br /> &#039;&#039;&#039;保存食&#039;&#039;&#039;(ほぞんしょく)とは、比較的長期間(数か月から長いもので数年程度)にわたって貯蔵するため、[[腐敗]]を抑制する加工や処理がされた[[食品]]をいう。<br /> <br /> == 概要 ==<br /> 保存食の多くは、[[気候]]や[[風土]]の関係で[[冬|冬季]]や[[乾季]]など、長期にわたり食料の確保に困難を抱える地方や、遠洋航海や戦争などの食料の確保や輸送、あるいは貯蔵・調理に大きな制約をうける状況下で、その代案として工夫されてきた生活の知恵である。また、[[災害]]や[[飢饉]]の際の[[非常食]]としての役目もあり、現代社会においても備蓄用など需要がある。近年では、調理の不要な[[インスタント食品]]としての需要も大きい。<br /> <br /> これらは長期間食べられる状態で保存する必要性から、[[腐敗]]はもちろん、[[昆虫]]や[[カビ]]など他の動植物に消費され難くするための保管方法も求められた。人間が文明を獲得し発展させる段階で、安定的に食料を得ようという欲求があった訳だが、保存食もそういった必要性の中で発明され利用されてきた。<br /> <br /> 保存食は、原料や保存方法ともに多岐にわたる。[[海産物]]なら[[コンブ|昆布]]、魚の[[干物]]・[[燻製]]、[[塩漬け]]、[[酢漬け]]などがあり、[[農産物]]なら野菜の[[漬物]]や[[寒干し]]から、[[高野豆腐]]などの[[大豆]][[加工食品]]、果物の[[ジャム]]まで千差万別である。地域で得られる産品を、より遠隔地に輸送するためにも利用されており、名産品として広い地域で親しまれた食品の中にも、この保存食が見出せる。<br /> <br /> 保存の手法も様々であるが、容器による密閉([[缶詰]]や[[瓶詰め]])をはじめ、いずれも[[雑菌|腐敗菌]]の繁殖を抑え、長期間の保存を可能にする工夫がみられる。通常であれば食品に一定の加工を施すが、[[蜂蜜]]や[[種実類|ナッツ]]類等、そのままで長期の保存性を持つ食品もある。保存食とは、通常、常温で長期保存ができる食品をいうが、広義では[[冷凍食品]]等も含める。<br /> <br /> 食品の多くは、常温で保管すると急速に鮮度が低下し腐敗する。[[冷凍]]や[[冷蔵|冷蔵技術]]の発達により、近年では多くの[[生鮮食品]]が比較的長期間、新鮮な状態のまま貯蔵できるようになった。しかし、一般家庭に[[冷蔵庫]]が普及したのは[[1930年代|1930]]-[[1950年代|50年代]]であり、それ以前は生鮮食品を長期保存することは困難であった。<br /> <br /> 多くの食品(特に野菜、果物や[[魚介類]])にはいわゆる[[旬]]があり、決まった時期にしか手に入らなかった。季節を問わず野菜や果物類が手に入るようになったのは、最近のことである。このため生鮮食品を加工し、常温での保存性を高める工夫が行われてきた。<br /> <br /> ==あり方の変化==<br /> 保存食の歴史を考える場合、その発明から現代に至るまで少なくとも2つの大きな転換点がある。[[缶詰]]の発明と、[[冷蔵]]([[冷凍]])技術の発達である。<br /> <br /> 保存食のはじめは、&#039;&#039;&#039;手作業・手作りの時代&#039;&#039;&#039;である。この時代の保存食は、天然の素材と自然界にある様々な現象を最大限に利用して、保存しやすくするような工夫がされていた。[[塩蔵]]、[[糖蔵]]、[[乾燥]]、[[燻製]]、[[発酵]]などである。保存のための技法により、良い意味でも悪い意味でも食品の性質は大きく変化してしまう。また、加工後の食品を食べるには特殊な調理が必要となる場合も多い。このため保存方法それぞれに特化した調理法や食文化を発生させており、後述の食品保存技術の発達した現在では、これらの伝統的保存食は保存目的よりも食文化の一環として存続している。<br /> <br /> 次は、&#039;&#039;&#039;缶詰の時代&#039;&#039;&#039;である。[[1804年]]に[[フランス]]で広口ビンに食品を詰める「ビン詰め」が発明され、[[1810年]]金属容器が発明されて「缶詰」が生まれる。これらは[[レーション|軍用食]]という需要があって開発された技術だが、これの[[加熱殺菌]]と密封によって、食品の風味をあまり損なわない長期保存が可能となった。しかもこれらは調理済みであるため、容器を開ければ、そのまま食べることが出来る。当初は軍用食として開発された缶詰であったが、その有用性・利便性が知れ渡り[[19世紀]]の中頃より現在に至るまで、一般でも広く量産され続けている。<br /> <br /> 最後は、&#039;&#039;&#039;冷凍保存の時代&#039;&#039;&#039;である。低温で[[雑菌|腐敗菌]]の繁殖を抑え長期の保存を可能にした。調理済みのもの、半調理済みの素材、生の素材(食品による)、いずれも冷凍により保存が可能である。缶詰よりも更に食品の性質変化は少なくなった。<br /> <br /> この変化以降にも、缶詰の技術を応用し[[合成樹脂]]の[[フィルム]]に密封した[[レトルト食品]]や、[[乾物]]([[凍結乾燥]])の技術を発展させた[[フリーズドライ]]も保存食の歴史を変える大きな技術革新であった。こういった変化は、人間の社会のありようが変化して行く中で、そこに生活する者の食料を保存・輸送し安定して供給する上で役立っており、一般から[[宇宙開発]]など先端の分野([[宇宙食]])まで、幅広い分野で利用されている。<br /> <br /> == 保存方法 ==<br /> 複数の方法を併用した食品は重複して記載していない。<br /> *[[塩蔵]] - [[新巻鮭]]、[[塩豚]]、[[漬物]]([[梅干し]]、[[たくあん]])<br /> *[[糖蔵]] - [[ジャム]]、[[コンポート]]、[[ドライフルーツ]]<br /> *[[酢]]漬け - [[ピクルス]]、[[きずし|しめさば]]<br /> *[[アルコール]]漬け - [[焼酎]]漬け、[[粕漬け]]<br /> ** [[アルコール製剤]]<br /> *[[香辛料]]の添加 - [[わさび漬け]]<br /> ** [[天然抗菌剤]]<br /> *[[食品添加物]]([[保存料]]の添加)<br /> *[[コンフィ]]<br /> *[[発酵]]([[発酵食品]]/[[醸造]]) - [[チーズ]]、[[塩辛]]、[[ザワークラウト]]、[[なれずし]]([[鮒寿司]])<br /> *[[乾燥]]([[乾物]]・[[干物]]) - [[干し椎茸]]、[[切り干し大根]]、干し魚([[棒鱈]]など)、[[煮干し]]、[[ジャーキー]]、[[乾麺]]、[[即席麺]]、[[アルファ化米|糒]]<br /> ** 凍結乾燥([[フリーズドライ]]) - [[高野豆腐]](凍り豆腐)、[[凍みこんにゃく]]、[[氷餅]]、[[凍み大根]]<br /> **焼き[[菓子]] - [[ビスケット]]([[乾パン]]、[[堅パン]])、[[煎餅]]([[南部煎餅]]、[[かたやき]])、[[フルーツケーキ]]<br /> ** [[乾燥剤]]<br /> *[[燻煙]]-[[燻製]]<br /> * [[真空包装]]<br /> * [[脱酸素剤]]及びガスバリア性の高い包装の利用<br /> * [[窒素ガス]]封入<br /> * [[炭酸ガス]]封入<br /> * 無菌[[包装]](無菌[[充填]]) - 無菌[[包装米飯]]<br /> *[[缶詰]]<br /> *[[瓶詰|瓶詰め]]<br /> *レトルトパウチ食品([[レトルト食品]])<br /> *[[冷凍]]([[冷凍食品]])<br /> * [[冷蔵]] - [[キムチ]]<br /> *[[氷室]] (雪室)<br /> *[[土穴]] ([[土中保存]]) - 根菜類、芋類<br /> <br /> == 用途例 ==<br /> *[[非常食]]<br /> *[[レーション]](軍用食)<br /> *[[宇宙食]]<br /> *[[携行食]]<br /> <br /> == 参考文献 ==<br /> {{commonscat|Food preservation}}<br /> * [[スー・シェパード]] 『[[保存食品開発物語]]』 [[赤根洋子]]訳 ISBN 4167651157<br /> <br /> {{DEFAULTSORT:うちゆうしよく}}<br /> [[Category:保存食|*]]<br /> [[Category:食事]]</div> 112.140.13.142 硫黄鳥島 2018-02-18T19:11:03Z <p>112.140.13.142: </p> <hr /> <div>{{Pathnav|世界|アジア|東アジア|日本|南西諸島|沖縄諸島|frame=1}}<br /> {{Infobox 島<br /> |島名=硫黄鳥島<br /> |画像=[[ファイル:Io-Torishima gsi-20081121.jpg|300px]]&lt;br/&gt;2008年11月21日撮影。6枚の空中写真を合成。&lt;br/&gt;&lt;small&gt;出典:『国土交通省「国土画像情報(カラー空中写真)」(配布元:[http://mapps.gsi.go.jp/ 国土地理院地図・空中写真閲覧サービス])』&lt;/small&gt;<br /> |座標={{ウィキ座標2段度分秒|27|52|27|N|128|13|35|E|region:JP-47_type:isle|display=inline,title|name=硫黄鳥島}}<br /> |面積=2.50<br /> |周囲=7.3<br /> |標高=212<br /> |最高峰=「方位」<br /> |最大都市=<br /> |諸島=[[沖縄諸島]]<br /> |海域=[[東シナ海]]<br /> |国={{JPN}}・[[沖縄県]][[島尻郡]][[久米島町]]<br /> |地図={{Location map many | Japan Ryukyu Islands<br /> | width = 220<br /> | float = center<br /> | label = &#039;&#039;&#039;硫黄鳥島&#039;&#039;&#039;<br /> | pos = left<br /> | mark1size = 8<br /> | lat1_deg = 27 | lat1_min = 52.45<br /> | lon1_deg = 128 | lon1_min = 13.6<br /> | label2 = &lt;small&gt;[[徳之島]]&lt;/small&gt;<br /> | pos2 = right<br /> | mark2size = 6<br /> | lat2_deg = 27 | lat2_min = 49.2<br /> | lon2_deg = 128 | lon2_min = 55.9<br /> | label3 = &lt;small&gt;[[久米島]]&lt;/small&gt;<br /> | pos3 = left<br /> | mark3size = 6<br /> | lat3_deg = 26 | lat3_min = 20.5<br /> | lon3_deg = 126 | lon3_min = 48.3<br /> | label4 = &lt;small&gt;[[那覇市]]&lt;/small&gt;<br /> | mark4 = Blue 000080 pog.svg<br /> | pos4 = bottom<br /> | mark4size = 6<br /> | lat4_deg = 26 | lat4_min = 12.7<br /> | lon4_deg = 127 | lon4_min = 40.8<br /> }}<br /> }}<br /> &#039;&#039;&#039;硫黄鳥島&#039;&#039;&#039;(いおうとりしま)は、[[沖縄県]]における最北端の[[島]]で&lt;ref name=&quot;rekishi-intro23jo&quot;&gt;「総論 自然環境」、『日本歴史地名大系』(2002年)、p.23上段&lt;/ref&gt;、県内唯一の[[活火山]]島である&lt;ref name=&quot;rekishi-intro23ge&quot;&gt;「総論 自然環境」、『日本歴史地名大系』(2002年)、p.23下段&lt;/ref&gt;{{Refnest|group=注|沖縄県に属する火山島は硫黄鳥島と[[尖閣諸島]]の[[久場島 (沖縄県石垣市)|久場島]]の2島で、また活火山は硫黄鳥島の他に、[[西表海底火山]]が挙げられる&lt;ref name=&quot;katou166&quot;&gt;加藤(1995年)、p.166&lt;/ref&gt;。}}。<br /> <br /> [[14世紀]]後半から[[明]]王朝へ進貢する[[硫黄]]の産地として知られ、[[琉球王国]]が滅亡する[[19世紀]]中頃まで、琉球と明・[[清]]朝の[[朝貢]]関係を繋ぐ重要な島であった&lt;ref name=&quot;okinawa-rekishi-160&quot;&gt;安里ほか(2004年)、p.160&lt;/ref&gt;。[[1903年]]([[明治]]36年)の[[久米島]]移住後も硫黄採掘が行われたが&lt;ref name=&quot;kado-iotorishima-kindai&quot;&gt;「硫黄鳥島〈近代〉」、『角川日本地名大辞典』(1991年)、p.137&lt;/ref&gt;、[[1959年]]([[昭和]]34年)の噴火により住民は島外へ移住、[[1967年]](昭和42年)にも採掘従事者も撤退し、それ以降は完全な[[無人島]]となった&lt;ref name=&quot;nichigai&quot;&gt;「硫黄鳥島」、『島嶼大事典』(1991年)、p.31&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> == 地理 ==<br /> [[徳之島]]の西約65km、[[久米島]]の北東約200kmの[[東シナ海]]に位置する&lt;ref name=&quot;kado-iotorishima&quot;&gt;「硫黄鳥島」、『角川日本地名大辞典』(1991年)、p.136&lt;/ref&gt;。[[沖縄諸島]]の最北端であるが&lt;ref name=&quot;rekishi-okinawaIslands-71chu&quot;&gt;「沖縄諸島」、『日本歴史地名大系』(2002年)、p.71中段&lt;/ref&gt;、地理的には[[奄美群島]]に近い&lt;ref name=&quot;sugata&quot;&gt;「鳥島」、『日本の島事典』(1995年)、p.197&lt;/ref&gt;。面積は2.50km{{sup|2}}&lt;ref name=&quot;island-area&quot;&gt;{{Cite web|date=2016-10-01|url=http://www.gsi.go.jp/KOKUJYOHO/MENCHO/201610/f3_shima.pdf|title=平成28年 全国都道府県市区町村別面積調 島面積|format=PDF|publisher=[[国土地理院]]|accessdate=2017-06-12}}&lt;/ref&gt;、周囲7.3km&lt;ref name=&quot;kado-iotorishima&quot;/&gt;、標高212mの[[火山島]]である&lt;ref name=&quot;metro-vol421&quot;&gt;「硫黄鳥島」、『日本活火山総覧 第2版』(1996年)、p.421&lt;/ref&gt;。かつては単に「&#039;&#039;&#039;鳥島&#039;&#039;&#039;」&lt;ref name=&quot;okinawa-jo148&quot;&gt;加藤祐三「硫黄鳥島火山」、『沖繩大百科事典 上巻』(1983年)、p.148&lt;/ref&gt;と言われ、島外へ移住した人々からは「&#039;&#039;&#039;元鳥島&#039;&#039;&#039;」&lt;ref name=&quot;rekishi-io551jo&quot;&gt;「硫黄鳥島」、『日本歴史地名大系』(2002年)、p.551上段&lt;/ref&gt;と呼ばれる。また他に「&#039;&#039;&#039;琉球鳥島&#039;&#039;&#039;」&lt;ref name=&quot;nichigai&quot;/&gt;、火山名として「&#039;&#039;&#039;沖縄鳥島&#039;&#039;&#039;」&lt;ref name=&quot;metro-vol421&quot;/&gt;と称されたこともある{{Refnest|group=注|1975年の気象庁発行『日本活火山要覧』には「沖縄鳥島」という名称が使用されていたが、1984年の『日本活火山総覧 第1版』からは「硫黄鳥島」に変更されている&lt;ref name=&quot;metro-vol495&quot;&gt;『日本活火山総覧 第2版』(1996年)、p.495&lt;/ref&gt;。}}。「硫黄鳥島」という名称は、1935年(昭和10年)に[[木下亀城]]が著した論文などに見受けられ、それ以降この名称が広まったとされる&lt;ref name=&quot;okinawakenshi-299&quot;&gt;上江洲均「硫黄鳥島移住の百年」、『沖縄県史 資料編13 硫黄鳥島』 (2002年)、p.299&lt;/ref&gt;。久米島北東沖に位置する[[鳥島 (沖縄県)|鳥島]](この島は「久米鳥島」ともいわれる&lt;ref name=&quot;sugata&quot;/&gt;&lt;ref name=&quot;kado-torishima-naka&quot;&gt;「鳥島 &lt;仲里村&gt;」、『角川日本地名大辞典』(1991年)、p.509&lt;/ref&gt;)、または移住先の久米島・鳥島集落と区別するためだと思われる&lt;ref name=&quot;okinawakenshi-299&quot;/&gt;。<br /> <br /> [[琉球王国|琉球王朝]]時代において、[[琉球王国#申口方|泊地頭]]の下に設置された「泊頭取方」は、泊村([[那覇市]]の泊(とまり)と前島(まえじま)地区にほぼ相当する&lt;ref name=&quot;okinawa-chu960&quot;&gt;真栄田義見「泊村」、『沖繩大百科事典 中巻』(1983年)、p.960&lt;/ref&gt;)と共に硫黄鳥島を管轄した&lt;ref name=&quot;rekishi-tomari165jo&quot;&gt;「泊村」、『日本歴史地名大系』(2002年)、p.165上段&lt;/ref&gt;。1879年(明治12年)に沖縄県、1896年(明治29年)に同県島尻郡に、1904年(明治37年)に移住先の具志川[[間切]]、1908年(明治41年)に[[具志川村]]の[[大字]]「硫黄鳥島」となり&lt;ref name=&quot;kado-iotorishima-kinsei&quot;&gt;「硫黄鳥島〈近世〉」、『角川日本地名大辞典』(1991年)、p.137&lt;/ref&gt;、一島で一字を構成する&lt;ref name=&quot;kado-gushikawa-iotorishima921&quot;&gt;宮城幸吉「硫黄鳥島 〔具志川村 現行行政地名〕」、『角川日本地名大辞典』(1991年)、p.922&lt;/ref&gt;。2002年(平成14年)4月1日に具志川村は隣接する[[仲里村]]と合併し[[久米島町]]となり&lt;ref name=&quot;shichosonyouran2015-455&quot;&gt;「合併、市・町制施行、名称変更一覧(昭和40年3月29日 - 平成27年10月1日)」、『全国市町村要覧 平成27年版』(2015年)、p.455&lt;/ref&gt;、2015年(平成27年)1月現在でも硫黄鳥島は当町に属する&lt;ref name=&quot;rito-kankei8&quot;&gt;「2.島しょ」、『平成27年1月 離島関係資料』(2015年)、p.8&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> === 地形・地質 ===<br /> 硫黄鳥島は北西 - 南東方向に伸びる細長い島で、長さは約3km、幅約1kmにおよぶ&lt;ref name=&quot;kado-iotorishima&quot;/&gt;。北側の硫黄岳火山体には島内最高峰の「方位」&lt;ref name=&quot;metro-vol421&quot;/&gt;&lt;ref name=&quot;gsi&quot;&gt;[http://maps.gsi.go.jp/?z=14&amp;ll=27.873056,128.227222#15/27.872086/128.226500/&amp;base=std&amp;ls=std&amp;disp=1&amp;vs=c1j0l0u0f0 国土地理院(電子国土Web)]&lt;/ref&gt;(「ホーイノ山」&lt;ref name=&quot;katou167&quot;&gt;加藤(1995年)、p.167&lt;/ref&gt;、「トリノトコヤギーノ山」&lt;ref name=&quot;kado-iotorishima&quot;/&gt;とも)と「硫黄岳」が、南端にはグスク火山体の「前岳」(「前嶽」とも&lt;ref name=&quot;gsi&quot; /&gt;)&lt;ref name=&quot;katou167&quot;/&gt;がそびえる。全島の岩石のほとんどは[[安山岩]]質で、侵食に弱い[[火山砕屑岩]]で構成され&lt;ref name=&quot;okinawa-jo148&quot;/&gt;、島の周囲は波蝕により[[海食崖]]に覆われている&lt;ref name=&quot;katou170&quot;/&gt;。東部の海岸から観察すると、様々な砕屑物により縞模様に見え、また海岸の砂浜は火成岩由来の黒色に帯びている&lt;ref name=&quot;katou170&quot;&gt;加藤(1995年)、p.170&lt;/ref&gt;。グスク火山体の中央にある「グスク」と島北西端に位置する「フツヤ山」は地下から押し上げられた[[溶岩]]で形成された山である&lt;ref name=&quot;katou171&quot;&gt;加藤(1995年)、p.171&lt;/ref&gt;。また[[マグマ]]が隙間に貫入してできた[[岩脈]]が島南部に見受けられ、中には周囲が削られ岩脈が[[三角形]]状に露出した岩が存在する&lt;ref name=&quot;katou172&quot;&gt;加藤(1995年)、p.172&lt;/ref&gt;。島周辺の[[サンゴ礁]]は全体的に発達していない&lt;ref name=&quot;rekishi-io552jo&quot;&gt;「硫黄鳥島」、『日本歴史地名大系』(2002年)、p.552上段&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> === 火山 ===<br /> {{Multiple image<br /> | align = right<br /> | direction = horizontal<br /> | header = 硫黄鳥島の火山<br /> | header_align = center<br /> | footer = {{国土航空写真}}。<br /> | footer_align = center<br /> | width = 180<br /> | image1 = Io-dake, Io-torishima.jpg<br /> | caption1 = &lt;div style=&quot;text-align:center;&quot;&gt;島北西部の硫黄岳火山体。&lt;/div&gt;<br /> | image2 = Gusuku volcano, Io-torishima.jpg<br /> | caption2 = &lt;div style=&quot;text-align:center;&quot;&gt;島南東部のグスク火山体。&lt;/div&gt;<br /> }}<br /> 硫黄鳥島は、北西の硫黄岳火山体と南東のグスク火山体の2つの火山により構成されている&lt;ref name=&quot;okinawa-jo147vol&quot;&gt;加藤祐三「硫黄鳥島火山」、『沖繩大百科事典 上巻』(1983年)、p.147&lt;/ref&gt;、[[地質学]]で島全体は「硫黄鳥島火山」と呼ばれる&lt;ref name=&quot;katou&quot;&gt;加藤(1995年)、p.181&lt;/ref&gt;。[[火山噴火予知連絡会]]は、[[火山活動]]度のランク付けをAからCの3段階評価で行い&lt;ref name=&quot;kazan-jiten417&quot;&gt;山里平「日本の火山防火体制」、『火山の事典 第2版』(2008年)、p.417&lt;/ref&gt;、[[2007年]](平成19年)末現在で硫黄鳥島は「ランクB」に分類されている&lt;ref name=&quot;kazan-jiten418&quot;&gt;山里平「日本の火山防火体制」、『火山の事典 第2版』(2008年)、p.418&lt;/ref&gt;。硫黄鳥島は[[九州]]の[[阿蘇山]]・[[桜島]]から[[トカラ列島]]へ続く[[霧島火山帯]]の最南端に属し、約数万年前の[[更新世]]後期に火山活動を開始したと考えられる&lt;ref name=&quot;kamiya122&quot;&gt;神谷(2007年)、p.122&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 硫黄岳火山は火山活動が活発で、南西に向いた高さ約100mの崖から常時[[硫黄]]を含む噴気を上げ&lt;ref name=&quot;katou169&quot;&gt;加藤(1995年)、p.169&lt;/ref&gt;、崖下には乳白色に呈した[[火口湖]]が見られる&lt;ref name=&quot;kamiya122&quot;/&gt;。一方、グスク火山は硫黄岳と比較して火山活動は穏やかであるが、山体は島の3分の2を占める&lt;ref name=&quot;katou168&quot;&gt;加藤(1995年)、p.168&lt;/ref&gt;。2つの[[外輪山]]と[[中央火口丘]]を有する三重式の火山で、外側の外輪山の直径は約1.5kmにおよぶ&lt;ref name=&quot;okinawa-jo147vol&quot;/&gt;。<br /> <br /> 以下の表に硫黄鳥島の噴火活動記録を示す。過去に幾度もなく[[噴火]]に伴う降灰、爆発鳴動や[[地震]]を引き起こしてきた。[[1903年]](明治36年)に大鳴動と地震により、硫黄採掘者を除く島民全員が久米島へ移住、[[1959年]](昭和34年)にも噴火によって全島民が島外に移住している。そして[[1967年]](昭和42年)も噴火により出稼ぎ採掘員が撤退し、それ以降は[[無人島]]と化している&lt;ref name=&quot;nichigai&quot;/&gt;&lt;ref name=&quot;volcano&quot;&gt;『日本の火山 (III)』(1979年)、pp.138 - 140&lt;/ref&gt;。2015年(平成27年)に[[気象庁]]と[[第十一管区海上保安本部]]が行った火山調査では、硫黄岳から少量の噴気が認められたが、グスク火山からは観測されなかった&lt;ref name=&quot;kishonenkan2016-199&quot;&gt;気象庁地震火山部火山課「硫黄鳥島 〔2015年(平成27年)の地震・火山の記録〕」、『2016年版 気象年鑑』(2016年)、p.199&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> {| class=&quot;wikitable&quot; style=&quot;margin:0 auto;width:80%;text-align:left;&quot;<br /> |+ 硫黄鳥島の火山活動史<br /> ! style=&quot;width:17%&quot; | 発生時期 !! 火山活動・被害<br /> |-<br /> ! style=&quot;text-align:left&quot;|[[1631年]]<br /> | [[噴火]]。死者多数&lt;ref name=&quot;okinawa-chu972izyu&quot;&gt;宮里正光「鳥島移住」、『沖繩大百科事典 中巻』(1983年)、p.972&lt;/ref&gt;。<br /> |-<br /> ! style=&quot;text-align:left&quot;|[[1664年]]<br /> | 噴火、[[地震]]。『[[球陽]]』には1人死亡と記載。<br /> |-<br /> ! style=&quot;text-align:left&quot;|[[1796年]][[11月]]頃<br /> | 噴火による降灰。島民は事前に徳之島へ避難。火山灰は[[沖永良部島]]までに到達し、当島の農作物に被害。翌年、[[バジル・ホール]]が硫黄鳥島付近を探索した際、既に噴火は沈静化していたという。<br /> |-<br /> ! style=&quot;text-align:left&quot;|[[1829年]][[12月1日]]<br /> | 噴火に伴う火山爆発。硫黄鉱区の大半が焼失し、島民は徳之島へ避難。火山灰は[[加計呂麻島]]まで達する&lt;ref name=&quot;okinawa-jo147jima&quot;&gt;嘉手納宗徳「硫黄鳥島」、『沖繩大百科事典 上巻』(1983年)、p.147&lt;/ref&gt;。<br /> |-<br /> ! style=&quot;text-align:left&quot;|[[1855年]]<br /> | 2,3ヶ月に1回の割合に噴火。硫黄鳥島内の農作物に被害。<br /> |-<br /> ! style=&quot;text-align:left&quot;|[[1868年]]<br /> | 2月ないし3月に噴火したが、勢いは小さく、降灰も少なかったという。<br /> |-<br /> ! style=&quot;text-align:left&quot;|[[1903年]]3月 - 8月<br /> | 3月15日頃から噴煙開始し、4月には鳴動と降灰が度々発生した。5月3日頃に噴火は最盛を迎え、8月頃まで火山活動は継続。島民のほとんどは久米島に移住し、採掘員が残留。<br /> |-<br /> ! style=&quot;text-align:left&quot;|[[1934年]]<br /> | 5月頃に噴気を確認。グスク火山北側に3か所の噴気孔が形成。7月2日に[[関西]]の[[新聞社]]が硫黄鳥島の噴火を伝えたが、誤報であった。<br /> |-<br /> ! style=&quot;text-align:left&quot;|[[1959年]][[6月8日]]<br /> | 硫黄岳火口から噴煙発生、上空約3,000mまで上昇。噴石や降灰などの火山活動は約1ヶ月続き、島民全員を那覇などに移住&lt;ref name=&quot;rekishi-io552jo&quot;/&gt;。<br /> |-<br /> ! style=&quot;text-align:left&quot;|[[1967年]][[11月25日]]頃<br /> | 噴煙多量につき、硫黄採掘者は島外へ避難。それ以降、硫黄鳥島は無人島のままである&lt;ref name=&quot;nichigai&quot;/&gt;。<br /> |-<br /> ! style=&quot;text-align:left&quot;|[[1968年]][[7月18日]]頃<br /> | 航行中の漁船が噴火を目撃。降灰を確認。<br /> |-<br /> | colspan=2 style=text-align:left |<br /> * 出典は主に、『日本活火山総覧 第2版』&lt;ref name=&quot;metro-vol421&quot;/&gt;、『日本の火山 (III)』&lt;ref name=&quot;volcano&quot;/&gt;から。一部の項目に他の文献も付記している。<br /> |}<br /> <br /> === 生物 ===<br /> &lt;div class=&quot;thumb tright&quot;&gt;<br /> &lt;div class=&quot;thumbinner&quot; style=&quot;width:222px&quot;&gt;<br /> &lt;div style=&quot;position:relative;width:220px;padding:auto&quot;&gt;[[ファイル:Io-torishima.png|220px|border]]<br /> &lt;div style=&quot;position:absolute;left:20px;top:160px;font-size:13px;&quot;&gt;[[File:North Pointer.svg|30px]]&lt;/div&gt;<br /> &lt;div style=&quot;position:absolute;left:90px;top:40px;font-size:13px;&quot;&gt;[[File:Fire.svg|8px]]方位 &lt;small&gt;(212m)&lt;/small&gt;&lt;/div&gt;<br /> &lt;div style=&quot;position:absolute;left:103px;top:62px;font-size:13px;&quot;&gt;[[File:Fire.svg|8px]]硫黄岳 &lt;small&gt;(208m)&lt;/small&gt;&lt;/div&gt;<br /> &lt;div style=&quot;position:absolute;left:105px;top:203px;font-size:13px;&quot;&gt;前岳 &lt;small&gt;(190m)&lt;/small&gt;[[File:Fire.svg|8px]]&lt;/div&gt;<br /> &lt;div style=&quot;position:absolute;left:140px;top:180px;font-size:13px;&quot;&gt;&lt;small&gt;グスク&lt;/small&gt;&lt;/div&gt;<br /> &lt;div style=&quot;position:absolute;left:0px;top:52px;font-size:13px;&quot;&gt;フツヤ山 &lt;small&gt;(145m)&lt;/small&gt;&lt;/div&gt;<br /> &lt;div style=&quot;position:absolute;left:60px;top:62px;font-size:13px;&quot;&gt;[[File:Fire.svg|8px]]&lt;/div&gt;<br /> &lt;/div&gt;<br /> &lt;div class=&quot;thumbcaption&quot;&gt;硫黄鳥島の地形図。山名と標高を表記&lt;ref name=&quot;ooki6&quot;&gt;大木(2002年)、p.6&lt;/ref&gt;。&lt;/div&gt;<br /> &lt;/div&gt;<br /> &lt;/div&gt;<br /> <br /> 硫黄鳥島のほとんどは[[火山]]砕屑物で構成されていることから、[[海底火山]]による噴出物の堆積により島が形成されたと考えられる&lt;ref name=&quot;katou168&quot;/&gt;。大陸との陸続きがなかったため、[[動植物]]の種類は少ない。それらは風や鳥または[[流木]]などによって運ばれたか、人間の手によって持ち込まれたのが繁殖した可能性が高い&lt;ref name=&quot;katou178&quot;&gt;加藤(1995年)、p.178&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> ==== 動物 ====<br /> 哺乳類に関しては人為的に持ち込まれ、野生化した[[ネズミ]]と[[ヤギ]]が確認された。爬虫類は、小型の[[トカゲ]]が発見されたのみで、また島内に[[ハブ (動物)|ハブ]]は生息していない。鳥類は[[セッカ]]のみが繁殖し、他に[[クロサギ]]と[[ミサゴ]]が飛来している。昆虫は[[シジミチョウ]](大型の[[アゲハチョウ]]は確認されず)、[[カタツムリ]]、[[アリ]]、[[クモ]]の仲間が生息している&lt;ref name=&quot;katou177-179&quot;&gt;加藤(1995年)、pp.177 - 179&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> ==== 植物 ====<br /> 現在も噴気活動している硫黄岳火山には植物がほとんど生育していないが、グスク火山全体は緑に覆われている&lt;ref name=&quot;katou168&quot;/&gt;。沖縄県では島内のみに分布する[[マルバニッケイ]]や、県内では生息域が限られている[[シャシャンボ]]などの低木が生育している。硫黄岳火口壁にはハチジョウススキが群生しているのみである。集落跡の平坦地には、[[ススキ]]・[[チガヤ]]などが混生する草原が広がる。また人間により植え付けられた[[リュウキュウマツ]]と[[シークァーサー]]が、さらにかつての島民が栽培したと思われる[[タバコ]]も見受けられる&lt;ref name=&quot;katou179&quot;&gt;加藤(1995年)、p.179&lt;/ref&gt;&lt;ref name=&quot;okinawa-jo148plant&quot;&gt;新納義馬「硫黄鳥島の植物」、『沖繩大百科事典 上巻』(1983年)、p.148&lt;/ref&gt;。<br /> {{-}}<br /> <br /> == 歴史 ==<br /> 硫黄鳥島は古くから[[硫黄]]の産地として知られ、[[明]]への貿易重要品目の一つであった&lt;ref name=&quot;kado-iotorishima&quot;/&gt;。[[1534年]]の『使琉球録』には「硫黄山」、『[[海東諸国紀]]』には「鳥島」、[[徐葆光]]の『中山伝信録』に「土里臣馬」と記されている&lt;ref name=&quot;rekishi-io551chu&quot;&gt;「硫黄鳥島」、『日本歴史地名大系』(2002年)、p.551中段&lt;/ref&gt;。また、{{仮リンク|アントワーヌ・ゴービル|en|Antoine Gaubil}}の著書に「硫黄山 (&#039;&#039;Montagne de soufre&#039;&#039;)」&lt;ref name=&quot;kado-iotorishima&quot;/&gt;、[[バジル・ホール]]の探検記には「硫黄島 (&#039;&#039;Sulphur Island&#039;&#039;)」と表記され、白煙を噴く硫黄鳥島の挿絵が描かれている&lt;ref name=&quot;katou173&quot;&gt;加藤(1995年)、p.173&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 島への定住時期は不明で、[[14世紀]]後半の[[察度王統]]以前と思われる&lt;ref name=&quot;rekishi-io551chu&quot;/&gt;。[[1634年]]([[正保]]3年)の『[[正保国絵図]]』には「人居有り」と記載され、この頃は確実に島民は存在していた&lt;ref name=&quot;okinawa-rekishi-160&quot;/&gt;。[[1376年]]([[洪武]]9年)に中山王・[[察度]]が硫黄4千[[斤]]を明へ進貢したのが始まりで、多いときには1年で4隻合計7万斤を朝貢した&lt;ref name=&quot;okinawa-rekishi-160&quot;/&gt;。硫黄鳥島から採掘された硫黄は現在の[[那覇市]]の泊(とまり)まで運搬され、[[崇元寺]]の西に位置していた「硫黄蔵」に保管された&lt;ref name=&quot;okinawa-jo147iogura&quot;&gt;嘉手納宗徳「硫黄蔵」、『沖繩大百科事典 上巻』(1983年)、p.147&lt;/ref&gt;。原鉱硫黄を約2 - 3万斤を進貢していたが、船の積載量不足により[[嘉靖]]年間([[16世紀]]中頃)に精錬硫黄に変更され、1万数千斤にまで軽減し進貢している&lt;ref name=&quot;kado-tomari&quot;&gt;「泊」、『角川日本地名大辞典』(1991年)、p.502&lt;/ref&gt;。精錬作業は「硫黄蔵」と那覇港内の「硫黄城」で行われ&lt;ref name=&quot;kado-tomari&quot;/&gt;、硫黄は那覇港に停泊していた進貢船へ運搬された&lt;ref name=&quot;rekishi-tomari165ge&quot;&gt;「泊村」、『日本歴史地名大系』(2002年)、p.165下段&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> [[1609年]]に[[琉球侵攻|琉球へ侵攻]]した[[薩摩藩]]は、[[与論島]]以北の島々を領地としたが、中国との進貢貿易を存続させるため、硫黄鳥島を琉球王国の領地として存置した&lt;ref name=&quot;rekishi-io551chu&quot;/&gt;。その際、琉球と薩摩藩は、硫黄鳥島と与論島を交換する協定を結んだとされているが&lt;ref name=&quot;nichigai&quot;/&gt;、桂博文は薩摩藩は領地として島を獲得するのが目的でなく、琉球の安定支配であり、交換説は後世の創作ではないかと述べている&lt;ref&gt;{{Cite news |title=「検証 硫黄鳥島」 第1章 王国を築いた鉱物資源 4 |newspaper=[[琉球新報]] |date=2016-08-03 |author =桂博文 |page=23}}&lt;/ref&gt;。[[琉球王国#申口方|泊地頭]]の下に設置された「泊頭取方」の管轄となり&lt;ref name=&quot;rekishi-tomari165jo&quot;/&gt;、島民から選出された役人は、島内の貢納管理と治安秩序の維持に務めた&lt;ref name=&quot;rekishi-tomari165chu&quot;&gt;「泊村」、『日本歴史地名大系』(2002年)、p.165中段&lt;/ref&gt;。毎年島民は硫黄1万6千斤と摺貝800枚の上納義務を課せられたが、代わりに[[夫役]]免除と糧米が支給された&lt;ref name=&quot;rekishi-io551chu&quot;/&gt;。硫黄の上納高は1763年には1万斤とあるが、他の史料には1万2060斤、もしくは2万斤と摺貝800枚ともある&lt;ref name=&quot;kado-iotorishima-kinsei&quot;/&gt;。[[1666年]]に支給米が増量され、また[[1742年]]に[[ノロ]]の食糧も倍増支給された&lt;ref name=&quot;okinawa-jo147jima&quot;/&gt;。こうした優遇政策に惹かれた島外民が移住し、人口は増加した&lt;ref name=&quot;okinawa-jo147jima&quot;/&gt;。しかし硫黄鳥島は火山島で樹木が無く、水は[[雨|天水]]に頼らざるを得なく、[[旱魃]]による[[渇水]]に苦労した&lt;ref name=&quot;okinawa-jo147jima&quot;/&gt;。[[1810年]]には、島民らが[[井戸]]を掘り当て、首里王府から恩賞を授かっている&lt;ref name=&quot;okinawa-jo147jima&quot;/&gt;。<br /> <br /> 琉球処分後の[[1882年]](明治15年)に発生した[[飢饉]]で、沖縄県は島民に久米島への移住を推奨したが、提案は拒否された&lt;ref name=&quot;rekishi-io551ge&quot;&gt;「硫黄鳥島」、『日本歴史地名大系』(2002年)、p.551下段&lt;/ref&gt;。そのため、[[廃藩置県]]後も行われた給米支給を廃止し、代替策として給米3年分の下附金で島民を自活させようとした&lt;ref name=&quot;gushikawa-494&quot;&gt;「鳥島の移住 1.硫黄鳥島の沿革」、『久米島具志川村史』(1976年)、p.494&lt;/ref&gt;。しかし、近世中後期の101人&lt;ref name=&quot;okinawa-rekishi-161&quot;&gt;安里ほか(2004年)、p.161&lt;/ref&gt;、[[1878年]](明治11年)は508人、その25年後の[[1903年]](明治36年)には732人まで人口は増加&lt;ref name=&quot;gushikawa-495&quot;&gt;「鳥島の移住 1.硫黄鳥島の沿革」、『久米島具志川村史』(1976年)、p.495&lt;/ref&gt;、その一方で島内の農作物の生産は追いつかず、島民の生活は益々困窮した&lt;ref name=&quot;gushikawa-494&quot;/&gt;。そこで島民らは、硫黄の上納免除を政府に請願し、硫黄の売り上げで生活補助に充てるという対策を打ち出し、[[1888年]](明治21年)に受理され、日本で唯一の納税義務の無い島となった&lt;ref name=&quot;gushikawa-494&quot;/&gt;。売り上げ金は、島の共有金としての積み立てと、採掘従事者への賃金に割り当てられた&lt;ref name=&quot;gushikawa-496&quot;&gt;「鳥島の移住 1.硫黄鳥島の沿革」、『久米島具志川村史』(1976年)、p.496&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 移住以前における島民の生活は限界に達していた&lt;ref name=&quot;gushikawa-497&quot;&gt;「鳥島の移住 1.硫黄鳥島の沿革」、『久米島具志川村史』(1976年)、p.497&lt;/ref&gt;。硫黄採掘以外の産業は、[[サツマイモ|甘藷]]栽培と[[イカ]]漁が主で、飢饉に備えるための[[ソテツ]]が島の至る所に植え付けられていた&lt;ref name=&quot;gushikawa-496&quot;/&gt;。医者はおらず、学校も無く、島内で十分な治療や教育を受けられない状態であった&lt;ref name=&quot;gushikawa-497&quot;/&gt;&lt;ref name=&quot;gushikawa-496&quot;/&gt;。1903年(明治36年)4月に硫黄採掘坑が爆発、日本政府・沖縄県・地震調査会らは現地調査の結果より、島民に集団移住を催促した&lt;ref name=&quot;rekishi-io551ge&quot;/&gt;。島民の多数は賛成し、残りの反対者を説得させた後に開かれた島民大会では、全会一致で移住を決定した&lt;ref name=&quot;gushikawa-500&quot;&gt;「鳥島の移住 2.硫黄坑の爆発と移住」、『久米島具志川村史』(1976年)、p.500&lt;/ref&gt;。同年[[12月19日]]に345人&lt;ref name=&quot;gushikawa-509&quot;&gt;「鳥島の移住 2.硫黄坑の爆発と移住」、『久米島具志川村史』(1976年)、p.509&lt;/ref&gt;、翌年の1904年(明治37年)[[2月11日]]に硫黄採掘員93人を除く203人を硫黄鳥島から引き揚げ&lt;ref name=&quot;gushikawa-510&quot;&gt;「鳥島の移住 2.硫黄坑の爆発と移住」、『久米島具志川村史』(1976年)、p.510&lt;/ref&gt;、当時の久米島具志川間切大田の仲泊(なかどまり)海岸付近に移住、「鳥島」という名の集落を新設した&lt;ref name=&quot;okinawa-chu972izyu&quot;/&gt;。当時の[[島尻郡]]長を務めた斎藤用之助は、1904年(明治37年)6月29日付&lt;ref name=&quot;gushikawa-512&quot;&gt;「鳥島移住報告書」、『久米島具志川村史』(1976年)、p.512&lt;/ref&gt;に移住の経緯を記した「鳥島移住報告書」を知事に提出した&lt;ref name=&quot;okinawa-chu972izyu&quot;/&gt;。<br /> <br /> 久米島への移住後も、42世帯が硫黄鳥島に再び入植した&lt;ref name=&quot;rekishi-io552jo&quot;/&gt;。戦前で使用された沖縄県内の[[石臼]]はすべて硫黄鳥島産であった&lt;ref name=&quot;kado-iotorishima-kindai&quot;/&gt;。戦前には国策会社による硫黄採掘が行われ、人口は600人に達し、[[小中学校]]・[[診療所]]・[[役場]]も設置された&lt;ref name=&quot;kado-iotorishima-kindai&quot;/&gt;&lt;ref name=&quot;ooki7&quot;&gt;大木(2002年)、p.7&lt;/ref&gt;。しかし、1959年(昭和34年)の噴火により全島民21世帯85人&lt;ref name=&quot;okinawa-jo147jima&quot;/&gt;は那覇や久米島に移住&lt;ref name=&quot;rekishi-io552jo&quot;/&gt;、1967年(昭和42年)も噴火により出稼ぎで来島した採掘員も撤退し、それ以降は完全な無人島となった&lt;ref name=&quot;nichigai&quot;/&gt;。このような経緯から、硫黄鳥島は沖縄県に属する島で、特異な[[歴史]]を有する&lt;ref name=&quot;okinawa-rekishi-160&quot;/&gt;。<br /> <br /> 硫黄鳥島の周囲は断崖で、かつての島民が設置した[[突堤]]が島南部の東西両海岸に位置しているが&lt;ref name=&quot;rekishi-io551chu&quot;/&gt;、船舶が接岸できる港は無い&lt;ref name=&quot;kado-iotorishima&quot;/&gt;。大木(2002年)によると、東側の突堤は老朽化し、途中小さな[[艀]]に乗り換えて上陸したという&lt;ref name=&quot;ooki7&quot;/&gt;。集落跡がグスク火山の中央火口丘の南にあるが、草木が繁茂しているのみで、他に雨水[[タンク]]、家屋の壁、硫黄を運搬する際に使用した[[トロッコ]]のレール束が残存しているという&lt;ref name=&quot;ooki8&quot;&gt;大木(2002年)、p.8&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> == 久米島に移住した「鳥島」集落 ==<br /> 島民らは久米島の5か所ある移住候補地から選定し&lt;ref name=&quot;gushikawa-502&quot;&gt;「鳥島の移住 2.硫黄坑の爆発と移住」、『久米島具志川村史』(1976年)、p.502&lt;/ref&gt;、審査結果より具志川間切大田村字仲泊の馬場およびその周辺に決定した&lt;ref name=&quot;gushikawa-505&quot;&gt;「鳥島の移住 2.硫黄坑の爆発と移住」、『久米島具志川村史』(1976年)、p.505&lt;/ref&gt;。移住受け入れ先の具志川間切の各村は、島民の移住を歓迎した&lt;ref name=&quot;gushikawa-504&quot;&gt;「鳥島の移住 2.硫黄坑の爆発と移住」、『久米島具志川村史』(1976年)、p.504&lt;/ref&gt;。当地は[[ソテツ]]や[[アダン]]が生い茂る荒野であったが、近隣住民が開拓し家屋を建築した&lt;ref name=&quot;rekishi-io552jo&quot;/&gt;。移住した児童91人は具志川[[尋常小学校]]に編入され、増員に伴い、硫黄鳥島から運搬された資材で校舎は増築された&lt;ref name=&quot;gushikawa-510&quot;/&gt;。当集落に渡った島民らは、当初[[漁業]]に従事する者が多く、[[大正]]末期まで[[カツオ]]漁業を行っていた&lt;ref name=&quot;kado-torishima-gushikawa&quot;&gt;「鳥島 &lt;具志川村&gt;」、『角川日本地名大辞典』(1991年)、p.509&lt;/ref&gt;。この時期より、鳥島集落の港に[[那覇市|那覇]]を往復する[[蒸気船|汽船]]に貨客運搬を行う[[伝馬船]]が発着し始め、その後久米島島内における交通の要所として[[商店]]や[[旅館]]が立地、そして1969年(昭和44年)に同集落東海岸の[[埋め立て地]]に商業地域が形成された&lt;ref name=&quot;kado-torishima-gushikawa&quot;/&gt;。1967年(昭和42年)に大田の一部から「鳥島」として[[大字]]が分離した&lt;ref name=&quot;kado-torishima-gushikawa&quot;/&gt;。<br /> <br /> 集落西に位置する「七嶽(ななたき)神社」は、硫黄鳥島の7つの[[御嶽 (沖縄)|御嶽]]から採取した砂を壺に納め、それらを合祀し、毎年移住記念日の[[2月11日]]に例祭を行っている&lt;ref name=&quot;rekishi-io552jo&quot;/&gt;&lt;ref name=&quot;okinawa-ge59&quot;&gt;湧川元雄「七嶽神社」、『沖繩大百科事典 下巻』(1983年)、p.59&lt;/ref&gt;。当神社の境内には、硫黄鳥島からの移住を記念した[[石碑|碑]]が建立されている&lt;ref name=&quot;kado-gushikawa-torishimaiju921&quot;&gt;宮城幸吉「硫黄鳥島住民の移住 〔具志川村 沿革〕」、『角川日本地名大辞典』(1991年)、p.921&lt;/ref&gt;。鳥島集落の方言は[[沖縄方言|久米島や沖縄本島中南部で話される方言]]と異なり&lt;ref name=&quot;okinawa-chu972lang&quot;&gt;野原三義「鳥島の方言」、『沖繩大百科事典 中巻』(1983年)、p.972&lt;/ref&gt;、[[奄美方言|徳之島の方言]]との共通点が多く&lt;ref name=&quot;kado-gushikawa-torishima922&quot;&gt;宮城幸吉「鳥島 〔具志川村 現行行政地名〕」、『角川日本地名大辞典』(1991年)、p.922&lt;/ref&gt;、「[[言語島|言語の島]]」を形成している&lt;ref name=&quot;okinawa-chu972lang&quot;/&gt;。<br /> <br /> == 脚注 ==<br /> {{脚注ヘルプ}}<br /> === 注釈 ===<br /> {{Reflist|group=注}}<br /> <br /> === 出典 ===<br /> {{Reflist|2}}<br /> <br /> == 参考文献 ==<br /> *{{Cite book|和書|author=安里進ほか|title=沖縄県の歴史|publisher=[[山川出版社]]|year=2004|isbn=4-634-32470-9}}<br /> *{{Cite book|和書|author=一般財団法人 気象業務支援センター編、気象庁監修|title=2016年版 気象年鑑|publisher=[[一般財団法人]] [[気象業務支援センター]]|year=2016|isbn=978-4-87757-013-2}}<br /> *{{Cite book|和書|author=大木隆志|title=海と島の景観散歩 沖縄地図紀行|publisher=ボーダーインク|year=2002|isbn=4-89982-027-5}}<br /> *{{Cite book|和書|author=沖縄県企画部地域・離島課編|title=平成27年1月 離島関係資料|publisher=[[沖縄県庁|沖縄県企画部地域・離島課]]|year=2015}}<br /> *{{Cite book|和書|author=沖繩大百科事典刊行事務局編|title=[[都道府県別百科事典|沖繩大百科事典]]|publisher=[[沖縄タイムス|沖縄タイムス社]]|year=1983}}{{全国書誌番号|84009086}}<br /> *{{Cite book|和書|author=加藤祐三|title=沖縄でも地震は起きる|publisher=ボーダーインク|year=1995}}{{全国書誌番号|96050478}}<br /> *{{Cite book|和書|author=角川日本地名大辞典編纂委員会編|title=[[角川日本地名大辞典]] 47.沖縄県|publisher=[[角川書店]]|year=1991|isbn=4-04-001470-7}}<br /> *{{Cite book|和書|author=神谷厚昭|title=琉球列島ものがたり 地層と化石が語る二億年史|publisher=ボーダーインク|year=2007|isbn=978-4-89982-116-8}}<br /> *{{Cite book|和書|author=[[気象庁]]|title=日本活火山総覧 第2版|publisher=[[大蔵省]][[印刷局]]|year=1996|isbn=4-17-315150-0}}<br /> *{{Cite book|和書|author=具志川村史編集委員会編|title=久米島具志川村史|publisher=[[具志川村|具志川村役場]]|year=1976}}{{全国書誌番号|95053196}}<br /> *{{Cite book|和書|author=[[財団法人]]沖縄県文化振興会編|title=沖縄県史 資料編13 硫黄鳥島|publisher=[[沖縄県教育委員会]]|year=2002}}{{全国書誌番号|20299635}}<br /> *{{Cite book|和書|author=市町村要覧編集委員会編|title=全国市町村要覧 平成27年版|publisher=[[第一法規|第一法規株式会社]]|year=2015|isbn=978-4-474-05229-1}}<br /> *{{Cite book|和書|author=[[下鶴大輔]]ほか編|title=火山の事典 第2版|publisher=[[朝倉書店]]|year=2008|isbn=978-4-254-16046-8}}<br /> *{{Cite book|和書|author=菅田正昭編著、財団法人日本離島センター監修|title=日本の島事典|publisher=[[三交社]]|year=1995|isbn=4-87919-554-5}}<br /> *{{Cite book|和書|author=日外アソシエーツ株式会社編|title=島嶼大事典|publisher=[[日外アソシエーツ|日外アソシエーツ株式会社]]|year=1991|isbn=4-8169-1113-8}}<br /> *{{Cite book|和書|author=平凡社地方資料センター編|title=[[日本歴史地名大系]]第四八巻 沖縄県の地名|publisher=[[平凡社]]|year=2002|isbn=4-582-49048-4}}<br /> *{{Cite book|和書|author=村山磐|title=日本の火山 (III)|publisher=[[大明堂]]|year=1979}}{{全国書誌番号|79010412}}<br /> <br /> == 関連項目 ==<br /> {{Commonscat|Io-Torishima}}<br /> {{osm box|r|5139177}}<br /> * [[鳥島]]<br /> * [[南西諸島]]<br /> * [[日本の島の一覧]]<br /> * [[火山の一覧 (日本)|日本の火山一覧]]<br /> * [[日本の端の一覧#都道府県の東西南北端の自治体|各都道府県の東西南北端]]<br /> <br /> == 外部リンク ==<br /> * [http://www.data.jma.go.jp/svd/vois/data/tokyo/601_Io-Torishima/601_index.html 活火山情報 硫黄鳥島] - [[気象庁]]<br /> * {{PDF|[http://www.data.jma.go.jp/svd/vois/data/tokyo/STOCK/souran/main/98_Io-Torishima.pdf 日本活火山総覧(第4版)Web掲載版 硫黄鳥島]}} - 気象庁 <br /> * [http://www1.kaiho.mlit.go.jp/GIJUTSUKOKUSAI/kaiikiDB/kaiyo35-2.htm 海域火山データベース 硫黄鳥島] - [[海上保安庁]][[海洋情報部]]<br /> * [https://unit.aist.go.jp/gsc/dger/db/QVDB/vol/3.htm 第四紀火山岩体・貫入岩体データベース 硫黄鳥島] - [[地質調査総合センター]]<br /> * [http://volcano.si.edu/volcano.cfm?vn=282020 硫黄鳥島]{{en icon}} - [[スミソニアン協会]] [[Global Volcanism Program]]<br /> <br /> {{沖縄諸島}}<br /> {{日本の活火山}}<br /> <br /> {{Good article}}<br /> {{DEFAULTSORT:いおうとりしま}}<br /> [[Category:かつて人が住んでいた沖縄県の無人島]]<br /> [[Category:沖縄諸島]]<br /> [[Category:久米島町]]<br /> [[Category:火山島]]<br /> [[Category:九州地方の火山]]<br /> [[Category:東シナ海の島]]<br /> [[Category:日本の廃鉱山]]</div> 112.140.13.142
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