Warning: Undefined variable $type in /home/users/1/sub.jp-asate/web/wiki/extensions/HeadScript/HeadScript.php on line 3

Warning: "continue" targeting switch is equivalent to "break". Did you mean to use "continue 2"? in /home/users/1/sub.jp-asate/web/wiki/includes/json/FormatJson.php on line 297

Warning: Trying to access array offset on value of type bool in /home/users/1/sub.jp-asate/web/wiki/includes/Setup.php on line 660

Warning: session_name(): Session name cannot be changed after headers have already been sent in /home/users/1/sub.jp-asate/web/wiki/includes/Setup.php on line 834

Warning: ini_set(): Session ini settings cannot be changed after headers have already been sent in /home/users/1/sub.jp-asate/web/wiki/includes/session/PHPSessionHandler.php on line 126

Warning: ini_set(): Session ini settings cannot be changed after headers have already been sent in /home/users/1/sub.jp-asate/web/wiki/includes/session/PHPSessionHandler.php on line 127

Warning: session_cache_limiter(): Session cache limiter cannot be changed after headers have already been sent in /home/users/1/sub.jp-asate/web/wiki/includes/session/PHPSessionHandler.php on line 133

Warning: session_set_save_handler(): Session save handler cannot be changed after headers have already been sent in /home/users/1/sub.jp-asate/web/wiki/includes/session/PHPSessionHandler.php on line 140

Warning: "continue" targeting switch is equivalent to "break". Did you mean to use "continue 2"? in /home/users/1/sub.jp-asate/web/wiki/languages/LanguageConverter.php on line 773

Warning: Cannot modify header information - headers already sent by (output started at /home/users/1/sub.jp-asate/web/wiki/extensions/HeadScript/HeadScript.php:3) in /home/users/1/sub.jp-asate/web/wiki/includes/Feed.php on line 294

Warning: Cannot modify header information - headers already sent by (output started at /home/users/1/sub.jp-asate/web/wiki/extensions/HeadScript/HeadScript.php:3) in /home/users/1/sub.jp-asate/web/wiki/includes/Feed.php on line 300

Warning: Cannot modify header information - headers already sent by (output started at /home/users/1/sub.jp-asate/web/wiki/extensions/HeadScript/HeadScript.php:3) in /home/users/1/sub.jp-asate/web/wiki/includes/WebResponse.php on line 46

Warning: Cannot modify header information - headers already sent by (output started at /home/users/1/sub.jp-asate/web/wiki/extensions/HeadScript/HeadScript.php:3) in /home/users/1/sub.jp-asate/web/wiki/includes/WebResponse.php on line 46

Warning: Cannot modify header information - headers already sent by (output started at /home/users/1/sub.jp-asate/web/wiki/extensions/HeadScript/HeadScript.php:3) in /home/users/1/sub.jp-asate/web/wiki/includes/WebResponse.php on line 46
http:///mymemo.xyz/wiki/api.php?action=feedcontributions&user=111.87.58.77&feedformat=atom miniwiki - 利用者の投稿記録 [ja] 2024-05-30T17:48:19Z 利用者の投稿記録 MediaWiki 1.31.0 8世紀 2018-08-02T00:34:47Z <p>111.87.58.77: /* 750年代 */</p> <hr /> <div>{{翻訳中途|1=[https://en.wikipedia.org/w/index.php?title=8th_century&amp;oldid=695767593 英語版 &quot;8th century&quot; 12:45, 18 December 2015 (UTC)]|date=2016年1月}}<br /> {{centurybox}}<br /> [[ファイル:Age of Caliphs.png|right|thumb|300px|イスラム帝国の拡大。ウマイヤ朝時代までにイスラム帝国は中央アジアからイラン・イラクを経て、エジプト・北アフリカを超えてイベリア半島まで拡がった。]]<br /> [[ファイル:Courtyard2(js).jpg|right|thumb|300px|[[ウマイヤド・モスク]]。ウマイヤ朝第6代カリフの[[ワリード1世]]により705年に[[シリア]]の[[ダマスカス]]に建築された現存する世界最古のモスクで、カアバ・預言者のモスク・岩のドームに次ぐイスラム教第4の聖地として巡礼者が絶えない。]]<br /> [[ファイル:Folio from a Koran (8th-9th century).jpg|thumb|right|280px|[[クルアーン]]と[[イスラームの書法|イスラムの書法]]。すでに[[正統カリフ]]時代にはクルアーンの編纂が行われていたが、この世紀になると洗練された書体が生み出され用いられた。画像はアッバース朝初期に置かれた都[[クーファ]]の名から「[[クーフィー体]]」と呼ばれた書体によるクルアーンの一節。]]<br /> [[ファイル:Baghdad 150 to 300 AH.png|thumb|right|280px|円城(ムダッワラ)都市[[バグダード]]。アッバース朝の第二代カリフ・[[マンスール]]によって766年に完成したこの都市は[[ティグリス川]]に面した交通の要衝で最盛期にはその人口は100万人を擁した。アラビア語で「平安の都」を意味するマディーナ・アッ=サラームとも呼ばれる。画像はアッバース朝時代のバグダードの再現地図。]]<br /> [[File:Solidus-Leo III and Constantine V-sb1504.jpg|thumb|right|280px|[[イコノクラスム]]の始まり。イスラム帝国の攻撃から帝都[[コンスタンティノポリス]]を死守した皇帝[[レオン3世]]により[[聖像]]禁止令が出され、東ローマ帝国と周辺のキリスト教国は宗教的混乱に巻き込まれることなった。画像はレオン3世とその子[[コンスタンティノス5世]]の肖像が刻まれた[[ソリドゥス]]金貨。]]<br /> [[ファイル:Ellora cave16 001.jpg|right|thumb|280px|[[エローラ石窟群]]。画像は8世紀にインドの[[ラーシュトラクータ朝]]の君主クリシュナ1世により[[ヒンドゥー教]]の[[シヴァ]]神の住むカイラス山([[須弥山]])になぞらえて建てられた第16窟のカイラサナータ寺院。]]<br /> [[ファイル:DSC00096 Java Centre Borobudur Stupas and Temple (6219572675).jpg|thumb|280px|right|[[ボロブドゥール]]遺跡。[[インドネシア]]の[[ジャワ島]]ケドゥ盆地にある大規模な仏教遺跡で、[[シャイレンドラ朝]]の[[ダルマトゥンガ]]王時代に造営された。]]<br /> [[ファイル:Li Xian&#039;s tomb, ambassadors.jpg|thumb|280px|right|唐の世界帝国。西域での覇権を確立した唐は華やかな異文化交流で知られることになる。画像は706年に造営された[[章懐太子]]李賢の墓の壁画「賓客図」で、黒衣で禿頭の人物は東ローマ帝国の使節と考えられている。]]<br /> [[ファイル:Yang Guifei by Uemura Shoen (Shohaku Art Museum).jpg|thumb|right|250px|[[楊貴妃]]。絶世の美女として名高いばかりでなく、治世後半の[[玄宗]]皇帝の寵愛をほしいままにしたことで「傾城」とも「傾国」とも呼ばれる。[[安禄山の乱]]に巻き込まれ悲劇的な最期を遂げた。画像は日本の[[上村松園]]による歴史画。]]<br /> [[File:Li Bai viewing the waterfall at Mr. Lu, by Soami (d. 1525), Japan, Muromachi period, approx. 1500-1525, hanging scroll, ink on paper - Asian Art Museum of San Francisco - DSC01478.JPG|thumb|right|200px|盛唐の詩人たち。[[唐詩]]の名で知られるようにこの時代には[[李白]]や[[杜甫]]などの詩人たちが活躍した。画像は室町時代の水墨画家[[相阿弥]]の「李白観瀑図」([[サンフランシスコ・アジア美術館]]蔵)。]]<br /> [[ファイル:Nestorian-Stele-Budge-plate-X.jpg|thumb|200px|right|[[大秦景教流行中国碑]]。781年にキリスト教[[ネストリウス派]](景教)信者で中央アジア出身の伊斯がその伝来の経緯を記録した石碑。画像はその拓本の一部で、碑題の上に十字架があるのが読み取れる。]]<br /> [[ファイル:Westerner on a camel.jpg|thumb|200px|right|[[唐三彩]]の[[駱駝]]。8世紀前半まで唐は中央アジアの覇権を握り交通の要衝を保持していた。画像は駱駝に乗る[[ソグド人]]と思われる[[西域]]の商人([[上海博物館]]蔵)。]]<br /> [[ファイル:Manicheans.jpg|right|thumb|200px|[[マニ教]]の東漸。[[ウイグル]]ではマニ教が国教として受容された。画像は[[アルベルト・フォン・ル・コック]]が発見した[[タリム盆地]]高昌故城出土の細密画「マニ教経典断簡」([[ベルリン美術館|国立アジア美術館(ベルリン美術館)]]蔵)。]]<br /> [[ファイル:Vajirapani Shukongoshin Todaiji2.JPG|right|thumb|200px|[[天平文化]]。[[遣唐使]]の頻繁な行き来により盛唐の文物が招来され、710年に遷都された[[平城京]]では国際色の豊かな文化が花開いた。画像はこの時代を代表する[[東大寺法華堂]]執金剛神。]]<br /> [[ファイル:Emperor Kammu large.jpg|right|thumb|200px|平安遷都。[[桓武天皇]]により[[平城京]]から[[長岡京]]を経て[[平安京]]に都が遷った。平安京は長きにわたって都となり「千年の都」と呼ばれるようになる。画像は桓武天皇の肖像([[延暦寺]]蔵)。]]<br /> [[File:Stele51CalakmulMuseum.JPG|thumb|right|200px|[[カラクムル]]遺跡。[[メキシコ]]にある古典期マヤの遺跡で、117基という最も多くの石碑(ステラ)が残ることで知られている。画像は石碑51で[[731年]]の記録がされているユクノーム・トーク・カウィール王のもの({{仮リンク|メキシコ国立人類学博物館|en|National Museum of Anthropology (Mexico)}}蔵)。]]<br /> [[ファイル:Meister des Book of Kells 001.jpg|right|thumb|200px|『[[ケルズの書]]』。『[[ダロウの書]]』『[[リンディスファーンの福音書]]』とともに三大ケルト装飾写本の一つとされ、「世界で最も美しい本」とも称される。画像は[[XP|キー・ロー]]の[[モノグラム]]の頁(Folio 34r)で[[トリニティ・カレッジ (ダブリン大学)]]図書館が所蔵している。]]<br /> [[File:Cividale Ratchis1.JPG|right|thumb|250px|[[ランゴバルド王国]]の盛衰。東ローマ帝国のイタリア領を蚕食して支配を拡げたこの王国も教皇庁と提携したフランク王国の攻勢に敗退した。画像はランゴバルド王ラトキスが8世紀半ばに寄進した祭壇で、[[チヴィダーレ・デル・フリウーリ]]のキリスト教美術館が所蔵している。]]<br /> [[ファイル:Karl der große.jpg|right|thumb|200px|[[アーヘン大聖堂]]宝物館の[[カール大帝]]の胸像。カール大帝の800年の「西ローマ帝国復興」は東ローマ帝国との間に「二帝問題」の軋轢を生んだ。]]<br /> &#039;&#039;&#039;8世紀&#039;&#039;&#039;(はちせいき、はっせいき)は、[[西暦]][[701年]]から西暦[[800年]]までの100年間を指す[[世紀]]。<br /> <br /> == できごと ==<br /> <br /> === 700年代 ===<br /> {{main|700年代}}<br /> * [[701年]]<br /> ** [[大宝律令]]の撰定が完成する。[[忍壁皇子|刑部皇子]]・[[藤原不比等]]らに禄を賜う。<br /> ** [[則天武后]]の命により中宗の嫡男[[李重潤]](懿徳太子)・七女[[永泰公主]]らを処刑する。<br /> * [[702年]] <br /> ** 第八次遣唐使が派遣され、執節使[[粟田真人]]が[[武則天|則天武后]]に謁見する。<br /> *** この遣唐使は663年以来40年ぶりのもので、「[[倭]]」に代わる国名「[[日本]]」を承認させる目的もあった。<br /> * [[703年]] <br /> ** 持統太上天皇死去、天皇経験者として最初の[[火葬]]にされる。<br /> * [[705年]]<br /> ** 則天武后が死去し、復位した中宗により唐が再興される(神龍革命)。<br /> ** [[ウマイヤ朝]][[カリフ]]の[[ワリード1世]]により[[ダマスクス]]の[[ウマイヤド・モスク]]が完成する。<br /> ** 東ローマ皇帝[[ユスティニアノス2世]]が[[ティベリオス3世]]を打倒し復位を果たす。<br /> * [[706年]]頃 - [[真臘]]が北部の陸真臘と、南部の水真臘とに分離する。<br /> * [[707年]] - [[文武天皇]]が死去し、第43代[[元明天皇]]即位する。<br /> * [[708年]]<br /> ** [[和同開珎]]鋳造。<br /> ** アヴランシュのオベールがモン・トンブ山に礼拝堂を建てる([[モン・サン=ミシェル|モン・サン=ミシェル修道院]]の始まり)。<br /> <br /> === 710年代 ===<br /> {{main|710年代}}<br /> * [[710年]]<br /> ** [[平城京]]へ[[遷都]]。[[奈良時代]]はじまる。<br /> ** 唐で韋后排斥の政変により睿宗が復位。この功績で李隆基が皇太子となる。<br /> ** 涼州に最初の[[節度使]]である河西節度使が設置される。<br /> * 710年頃 - ブルガリアの[[マダラの騎士像]]が作られる。<br /> * [[711年]]<br /> ** [[ウマイヤ朝]]がグアダレーテの戦いで[[西ゴート王国]]を滅ぼし[[イベリア半島]]を占領。<br /> ** 東ローマ皇帝ユスティニアノス2世が殺害され、[[ヘラクレイオス王朝|ヘラクレイオス朝]]が断絶する。<br /> ** ウマイヤ朝のムハンマド・ビン・カーシムが[[シンド]]地方(現パキスタン)を征服する。<br /> * [[712年]]<br /> ** [[太安万侶]]が『[[古事記]]』を撰上する。<br /> ** 唐で李隆基が[[玄宗 (唐)|玄宗]]として即位。唐は最盛期を迎える([[開元の治]])。<br /> ** ウマイヤ朝の[[クタイバ・イブン・ムスリム]]が[[サマルカンド]]を占領し、[[マー・ワラー・アンナフル]]全域の征服完了。<br /> * [[713年]]<br /> ** 諸国に『[[風土記]]』の編纂を命ずる。<br /> ** 唐の玄宗が[[太平公主]]一派を倒す。<br /> ** 四川の[[楽山大仏]]の建設が始まる( - [[803年]])。<br /> ** 震国が国号を[[渤海 (国)|渤海]]と改称。<br /> * [[714年]]<br /> ** 『[[続日本紀]]』に奄美・信覚・球美などの人々が来朝したとされる。<br /> ** 唐で最初の[[市舶司]]が[[広州]]に設置される。<br /> * [[715年]] - 元明天皇が譲位し、第44代[[元正天皇]]が即位する。<br /> * [[717年]] - テマ・アナトリコン長官であった[[レオーン3世]]が[[東ローマ帝国|東ローマ皇帝]]に即位し、[[イサウリア朝]]を開く。<br /> * [[718年]] - 東ローマ皇帝レオーン3世が[[コンスタンティノポリス]]を包囲したウマイヤ朝軍を撃退する。<br /> <br /> === 720年代 ===<br /> {{main|720年代}}<br /> * [[720年]] - 『[[日本書紀]]』完成。[[舎人親王]]が『[[日本書紀|日本紀]]』30卷・系図1卷を撰上する。<br /> * [[722年]] - コバドンガの戦いで[[ペラーヨ]]がイスラム勢力から[[アストゥリアス]]を奪回(最初の[[レコンキスタ]])。<br /> * [[722年]]頃 - 新羅人僧[[慧超]]がインドに渡る( - [[727年]])。<br /> * [[723年]]<br /> ** 田地開墾のため[[三世一身法]]を施行する。太安万侶没する。<br /> ** ウマイヤ朝[[ヤズィード2世]]がキリスト教徒の聖画像を禁止する。<br /> * [[724年]] <br /> ** 元正天皇が譲位し、第45代[[聖武天皇]](首皇子)が即位する。<br /> ** ウマイヤ朝カリフの[[ヒシャーム・イブン・アブドゥルマリク]]が即位( - [[743年]])。<br /> *** ウマイヤ朝最後の安定期をもたらし、モザイク床遺跡で知られる{{仮リンク|ヒシャーム宮殿|en|Hisham&#039;s Palace}}を建設。<br /> ** ピルミニウスにより[[ボーデン湖]](コンスタンツ湖)の島に[[ライヒェナウ島|ライヒェナウ修道院]]が創設される。<br /> * [[726年]] - 東ローマ皇帝レオーン3世が[[イコン|聖像]]禁止令を公布([[イコノクラスム]](聖像破壊運動)の始まり)。<br /> * [[727年]] - 渤海国王[[大武芸]]が高仁義らを日本に派遣(第一回[[渤海使]])。翌年には日本から[[遣渤海使]]が送られる。<br /> * [[728年]] - ローマ教皇[[グレゴリウス2世 (ローマ教皇)|グレゴリウス2世]]と[[ランゴバルド]]王リウトプランドの領土寄進に関する合意がなされる(「スートリの寄進」)。<br /> * [[729年]] - [[長屋王]]の変。<br /> <br /> === 730年代 ===<br /> {{main|730年代}}<br /> * [[730年]]<br /> ** 東ローマ皇帝レオーン3世がイコン擁護派の[[コンスタンティノポリス総主教]]ゲルマノス1世を罷免する。<br /> * [[732年]]<br /> ** [[トゥール・ポワティエ間の戦い]]で、[[カール・マルテル]]率いる[[フランク王国]]軍がウマイヤ朝軍を破る。<br /> *** この戦いと、718年の東ローマ帝国の勝利により、キリスト教世界は[[イスラム帝国]]の進撃を止めることに成功。<br /> ** [[オルホン川]]流域の[[ホショ・ツァイダム碑文|ホショ・ツァイダム]]に東突厥の[[闕特勤|キュル・テギン]]の碑文が建てられる。<br /> ** 東ローマ皇帝レオーン3世が[[イリュリクム]]の裁治権をローマ教皇からコンスタンティノポリス総主教に移管する。<br /> ** 東ローマ皇帝レオーン3世の息子(後の皇帝[[コンスタンティノス5世]])が[[ハザール]]王女[[チチャク]](エイレーネー)と結婚。<br /> * [[734年]]<br /> ** [[遣唐使]]留学生[[井真成]]36歳で[[長安]]で没する。<br /> *** その2005年4月に発見された墓誌には、玄宗皇帝から官位授与や「国号日本」も記録されている。「日本」表記の現存資料としては最古。<br /> ** ボールンの戦いで、フランク王国が[[フリースラント]]王国を征服。<br /> * [[735年]] - オルホン川流域のホショ・ツァイダムに東突厥の[[毘伽可汗|ビルゲ・カガン]]の碑文が建てられる。<br /> * [[738年]]<br /> ** 唐が皮羅閣を雲南王に冊封し[[南詔]]が建国される。<br /> ** 唐の玄宗が[[翰林院|翰林学士院]]を設置する。<br /> ** [[キリグア]]王カック・ティリウが反乱を起こし、[[コパン]]王を斬首して[[マヤ地域]]の覇権を握る。<br /> <br /> === 740年代 ===<br /> {{main|740年代}}<br /> * [[740年]]<br /> ** [[藤原広嗣の乱]]。<br /> ** アクロイノンの戦いで東ローマ帝国がウマイヤ朝に勝利し、小アジアの確保に成功。<br /> * [[740年]] - [[クーファ]]のシーア派によるザイド・ブン・アリーの乱。<br /> * [[741年]]<br /> ** 東ローマ皇帝レオーン3世により「ローマ法大全」を改訂した「エクロゲー(ギリシア語法選集)」が出される(726年説もある)。<br /> ** 聖武天皇の[[国分寺]]建立の詔。<br /> * [[742年]] - 突騎施の莫賀達干が十姓可汗([[阿史那昕]])を殺害し[[西突厥]]を滅ぼす。<br /> * [[743年]] - [[墾田永年私財法]]を施行。[[東大寺盧舎那仏像|大仏]]建立の詔が出される。<br /> * [[744年]] - ザクセン人への宣教のため[[フルダ]]修道院が設立される。<br /> * [[745年]]<br /> ** 唐の玄宗が楊太真を貴妃とする([[楊貴妃]])。<br /> ** [[大秦国]](東ローマ帝国)から[[ネストリウス派]]聖職者の佶和(ゲワルギス)が長安に来訪し玄宗に謁見する。<br /> ** [[回鶻]]([[ウイグル]])の[[懐仁可汗]]が[[白眉可汗]](鶻隴匐)を殺害し[[東突厥]]を滅ぼす。<br /> * [[746年]] - {{仮リンク|カンスタットの血の宮廷|en|Council of Cannstatt}}。<br /> * [[749年]]<br /> ** [[陸奥国|陸奥]][[国司]][[百済王敬福]]が朝廷に黄金を献上(日本での産金の最古の記録)。<br /> ** 東大寺大仏造営にあたり[[宇佐八幡宮]]より[[八幡神]]が勧請され[[手向山八幡宮]]が創建される。<br /> ** 聖武天皇が譲位し、第46代[[孝謙天皇]]即位する。<br /> ** アブー・アル=アッバース([[サッファーフ]])が[[イラク]]の[[クーファ]]で[[アッバース朝]]を建てる。<br /> <br /> === 750年代 ===<br /> {{main|750年代}}<br /> * 750年 - ザーブ河畔の戦いで、アッバース朝がウマイヤ朝残党に勝利する。<br /> ** アッバース朝初代宰相([[ワズィール]])アブー・サラマが暗殺され、以後シーア派の粛清が続く。<br /> * 750年頃 - ベンガル地方に[[パーラ朝]]が成立。<br /> * [[751年]]<br /> ** 唐の[[高仙芝]]が中央アジアに遠征し、タラス河畔でアッバース朝に敗れる([[タラス河畔の戦い]])。<br /> ** [[ランゴバルド人|ランゴバルド]]王アイストゥルフが東ローマ帝国のラヴェンナ総督府を占領。<br /> ** フランク王国でソワソン会議により[[メロヴィング朝]]の[[キルデリク3世]]が廃位される。<br /> *** [[カール・マルテル]]の子[[ピピン3世]](小ピピン)が国王に選出され、[[カロリング朝]]が成立する。<br /> ** 新羅の宰相[[金大城]]が都の[[慶州]]に[[石窟庵]]と[[仏国寺]]を建立。<br /> * [[752年]] - [[東大寺]]大仏の開眼供養が行われる。<br /> * [[753年]]<br /> ** 唐の朝賀で遣唐使[[大伴古麻呂]]が新羅の使者と席次を争う。<br /> ** 唐僧の[[鑑真]]が日本に着く。[[阿倍仲麻呂]]は難破して[[安南]]に漂着し日本に帰れず。<br /> ** [[ダンティドゥルガ]]が[[前期チャールキヤ朝]]を滅ぼし[[ラーシュトラクータ朝]]を興す。<br /> * 754年<br /> ** ヒエレイア教会会議で聖像破壊論者が聖像崇敬を断罪する。<br /> ** [[教皇]][[ステファヌス3世]]とフランク王ピピン3世とのポンティオンの会見。<br /> ** 宣教師[[聖ボニファティウス|ボニファティウス]]が[[フリースラント]]のドックムで殉教する。<br /> ** イスラム支配下のスペインで『[[754年のモサラベ年代記]]』が執筆される。<br /> * [[755年]]<br /> ** 唐で[[安史の乱]]が起こる(- 763年)。<br /> ** 渤海国王[[大欽茂]]が中京顕徳府から[[上京竜泉府]]に遷都。<br /> ** アッバース朝建国の功臣[[アブー・ムスリム]]がカリフ・[[マンスール]]に処刑される。<br /> * [[756年]]<br /> ** [[安禄山]]が洛陽で大燕皇帝を名乗る。<br /> ** 唐の玄宗が長安から出奔。馬嵬にて楊国忠・楊貴妃を処刑。玄宗に代わり[[粛宗 (唐)|粛宗]]が[[霊武市|霊武]]にて即位。<br /> ** 聖武太上天皇死去。聖武太上天皇の[[中陰法要|七七忌]]に当たり、東大寺に遺品を施入したのが[[正倉院]]の始まり。<br /> ** フランク王ピピン3世が[[ラヴェンナ]]を含む北イタリアをランゴバルドから奪う。<br /> *** これらの領土は教皇ステファヌス3世に[[寄進]]され(「ピピンの寄進」)、[[ローマ教皇領]]の始まりとなる。<br /> ** ウマイヤ朝の王族[[アブド・アッラフマーン1世]]がムサラの戦いで勝利し、[[コルドバ (スペイン)|コルドバ]]で[[アミール]]を名乗る。<br /> *** これにより[[後ウマイヤ朝]]がイベリア半島で独立し、イスラム帝国は分裂する。<br /> ** ラシュトラクータ朝のクリシュナ1世が即位。<br /> *** この王のもとで[[エローラ石窟]]のカイラーサナータ寺院が建造される。<br /> *** コンカン地方[[ムンバイ]]近郊ガーラープリー島[[エレファンタ石窟群]]もこの時代までに整備される。<br /> * [[757年]]<br /> ** イスラム世界で最初の製紙工場が[[サマルカンド]]に設立される。<br /> ** 安禄山が[[安慶緒]]に殺害される。唐と[[ウイグル]]の連合軍が長安を奪回。<br /> ** 孝謙天皇が[[道祖王]]を廃太子として大炊王を皇太子とする。[[橘奈良麻呂の変]]。<br /> * [[758年]]<br /> ** 孝謙天皇が譲位し、第47代[[淳仁天皇]]が即位する。<br /> ** 唐の塩鉄使の[[第五琦]]が[[中国塩政史|塩の専売制]]を行う。<br /> * [[759年]]<br /> ** 安慶緒が[[史思明]]に殺害される。<br /> ** フランク王ピピン3世が[[ナルボンヌ]]を奪回し、南フランスからイスラム教徒を放逐。<br /> ** 鑑真により[[唐招提寺]]が創建される。<br /> ** 『[[万葉集]]』に採録された最も年代の新しい[[大伴家持]]の和歌が詠まれる。この年以降に『万葉集』が成立する。<br /> <br /> === 760年代 ===<br /> {{main|760年代}}<br /> * [[760年]] - [[揚州大虐殺]]。<br /> * [[761年]] - 史思明が[[史朝義]]に殺害される。<br /> * [[761年]]頃 - カウィール・チャン・キニチが[[ドス・ピラス]]を放棄し、[[アグアテカ]]に遷都する。<br /> * [[762年]]<br /> ** [[回鶻]](ウイグル)の[[牟羽可汗]]が[[マニ教]]を受容する。<br /> ** アッバース朝のカリフ・マンスールがハーシミーヤから[[バグダード]]に遷都。<br /> ** 唐で玄宗と粛宗が相次いで死去。粛宗の張皇后と宦官李輔国を倒した宦官程元振が実権を握る。<br /> * [[763年]] - 史朝義が自殺し、安史の乱が終結する。[[吐蕃]]が一時的に唐の長安を占領する。<br /> * [[764年]]<br /> ** 僕固懐恩の乱( - [[765年]])。<br /> ** [[藤原仲麻呂の乱|藤原仲麻呂の乱(恵美押勝の乱)]]。<br /> *** 乱を鎮圧した孝謙上皇が[[重祚]]して、第48代[[孝謙天皇|称徳天皇]]となり、淳仁天皇を廃して[[淡路国]]に配流とする。<br /> * [[765年]]<br /> ** 道鏡が[[太政大臣]]禅師となる。称徳天皇の発願で大和[[西大寺 (奈良市)|西大寺]]が創建される。<br /> ** この年の年号(神護元年)の木簡で式部省大学寮のペルシア人官僚[[破斯清通]]の名が記されていたものが平城宮跡から出土している。<br /> * [[766年]] - 道鏡が[[法王]]になる。<br /> * [[767年]] - [[シャイレーンドラ朝]]軍が北ベトナムの[[安南都護府]]を攻撃する。<br /> * [[768年]]<br /> ** フランク王ピピンが死去、息子の[[カール大帝|カール]]と[[カールマン]]が共同のフランク王に即位する。<br /> ** [[藤原永手]]が[[鹿島神宮|鹿島]]・[[香取神宮|香取]]・[[枚岡神社|枚岡]]各社の祭神を勧請し[[春日大社]]を創建。<br /> ** [[宇佐八幡宮神託事件]]で[[和気清麻呂]]が[[大隅国]]に流罪となる。<br /> <br /> === 770年代 ===<br /> {{main|770年代}}<br /> * [[770年]]<br /> ** 称徳天皇の命で[[法隆寺]]など有力寺院に[[百万塔陀羅尼]]が奉納される。<br /> ** 称徳天皇が没し、第49代[[光仁天皇]]が即位する。[[道鏡]]を[[下野国]]に配流する。<br /> ** 光仁天皇の[[皇后]][[井上内親王]]と皇太子[[他戸親王]]が廃される。<br /> * [[771年]] - カールマンの死去によりカールがフランク単独の王となる。<br /> * [[772年]] - フランク王カールによる[[ザクセン戦争]]( - [[804年]])。<br /> * [[774年]] - フランク王カールがランゴバルド王国を滅ぼす。都[[パヴィア]]を制圧し「[[ロンバルディアの鉄王冠|ランゴバルドの鉄王冠]]」を取得。<br /> * [[775年]]<br /> ** 東ローマ皇帝[[コンスタンティノス5世]]コプロニュモスが死去し、[[レオーン4世]]ハザロスが皇帝に即位(在位775-780年)。<br /> ** 吐蕃王[[ティソン・デツェン]]が[[サムイェー寺]]を建設する。<br /> * [[776年]] - [[ムカンナーの反乱]]( - [[783年]])。<br /> * [[776年]]頃 - [[ハワーリジュ派]]系[[イバード派]]により[[アルジェリア]]に[[ルスタム朝]]が成立する。<br /> * [[777年]] - 唐の宰相[[元載]]が皇帝代宗の命で誅殺される。<br /> * [[778年]] - スペイン遠征中のフランク王国軍が[[バスク人]]との[[ロンセスバーリェス|ロンスヴォー]]の戦いで敗退する。<br /> ** この事件がもととなり後に『[[ローランの歌]]』が作られる。<br /> * [[779年]] <br /> ** フランク王カールによるヘルスタル勅令。<br /> *** この法令によりフランク王国のキリスト教徒は教会に[[十分の一税]]を納めることが定められる。<br /> ** 回鶻(ウイグル)の牟羽可汗が殺害され、宰相の頓莫賀達干が[[合骨咄禄毘伽可汗]]として即位、マニ教は弾圧される。<br /> <br /> === 780年代 ===<br /> {{main|780年代}}<br /> * [[780年]] - 唐の宰相[[楊炎]]の建議により[[租庸調]]制から[[両税制]]へ税制を移行。<br /> * [[780年]]頃 - インドネシアのシャイレーンドラ朝が[[ボロブドゥール]]の建設を始める。<br /> * [[781年]]<br /> ** 唐の[[徳宗 (唐)|徳宗]]の抑圧策により[[河朔三鎮]]・河南二鎮の[[節度使]](藩鎮)が反乱を起こす。<br /> ** 中央アジア出身の伊斯が長安の[[大秦寺]]に「[[大秦景教流行中国碑]]」を建立。<br /> ** 光仁天皇が病気のため譲位し、[[桓武天皇]]が即位する。<br /> * [[782年]]<br /> ** フランク王国の宮廷学校に[[ヨーク]]出身の[[アルクィン]]が招かれる([[カロリング・ルネサンス]]の始まり)。<br /> ** [[氷上川継の乱]]。<br /> * [[783年]] - 唐で朱泚の乱が起こり、皇帝徳宗が長安から逃亡。<br /> ** この時期に何家村の宝物が埋蔵されたか(何家村唐代窖藏)。<br /> * [[784年]] - [[長岡京]]に[[遷都]]。<br /> * [[785年]]<br /> ** 長岡京建設の責任者[[藤原種継]]が暗殺される。<br /> *** この事件で桓武天皇の弟で皇太子の[[早良親王]]が流罪となるがその途上で憤死。<br /> ** 唐の徳宗の命で楊良瑶がアッバース朝に派遣される。<br /> * [[786年]]<br /> ** アッバース朝で[[ハールーン・アッ=ラシード]]が[[カリフ]]となる( - [[809年]])(アッバース朝の最盛期)。<br /> ** フランク王カールが[[アーヘン大聖堂]]の建設に着手。<br /> * [[787年]] - [[第2ニカイア公会議]]でキリスト教会での聖像使用の教義が確認される。<br /> * [[788年]]<br /> ** [[最澄]]が一乗止観院を建てる(後の[[比叡山]][[延暦寺]])。<br /> ** フランク国王カールが[[バイエルン]]部族公タッシロ3世を追放する。<br /> ** [[マグリブ]]西部の[[モロッコ]]に[[イドリース朝]]が興る。<br /> * [[789年]]<br /> ** フランク王カールによる「一般訓令(Admonitio generalis)」。<br /> <br /> === 790年代 ===<br /> {{main|790年代}}<br /> * [[791年]] - フランク国王カールが[[アヴァール]]を征討。<br /> * [[793年]]<br /> ** バグダードに最初の製紙工場が設立される<br /> ** イングランド北部の[[リンデスファーン修道院]]が[[ヴァイキング]]に襲撃され、ヴァイキング時代の幕開けとなる。<br /> * [[794年]]<br /> ** [[平安京]]へ遷都し[[平安時代]]はじまる。山背国を[[山城国]]へ改称。<br /> ** フランク国王カールの招集によるフランクフルト教会会議が開催される。<br /> * [[795年]] <br /> ** フランク王国が[[スペイン辺境領]]を設置。<br /> ** 回鶻(ウイグル)の[[懐信可汗]]が即位、マニ教が再び国教とされる。<br /> * [[796年]] - アッバース朝カリフのハールーン・アッ=ラシードが[[ラッカ]]に宮廷を遷す( - [[809年]])。<br /> * [[797年]]<br /> ** 東ローマ皇帝[[コンスタンティノス6世]]が母[[エイレーネー (東ローマ女帝)|エイレーネー]]によって廃位され、エイレーネーがローマ帝国初の[[女帝]]として即位。<br /> ** フランク国王カールがアッバース朝のハールーン・アッ=ラシードに使節を送る。<br /> * [[797年]]頃 - 唐僧摩訶衍がインド僧カマラシーラに敗北しチベットから退去。[[サムイェー寺の宗論]]が終わる。<br /> <br /> === 800年代 ===<br /> {{main|800年代}}<br /> * [[800年]]<br /> ** フランク国王カールがローマ教皇[[レオ3世 (ローマ教皇)|レオ3世]]から「ローマ皇帝」の冠を受ける(カール大帝)。<br /> ** マグリブ東部の[[チュニジア]]に[[アグラブ朝]]が興る。<br /> ** 早良親王に「崇道天皇」の追尊号が贈られる。<br /> ** [[富士山]]の[[延暦]][[噴火]]。<br /> <br /> == 時代の動向 ==<br /> === 東アジア ===<br /> ==== 大陸 ====<br /> ==== 朝鮮半島 ====<br /> ==== 日本 ====<br /> 日本では[[唐|唐制]]に倣った[[律令制]]が布かれた時代にあたり、その最盛期とされる。時代区分で言うと[[飛鳥時代]]から[[奈良時代]]へと移り変わり、さらに[[平安時代]]初頭にあたる。[[条坊制]]を布いた[[都城制]]の都が建設され、[[藤原京]]>[[平城京]]>[[恭仁京]]>[[難波京]]>[[紫香楽宮]]>[[平城京]]>[[長岡京]]>[[平安京]]と[[遷都]]が繰り返された。<br /> <br /> === 西アジア ===<br /> === 南アジア ===<br /> === 東南アジア ===<br /> === ヨーロッパ ===<br /> デンマークの建国<br /> <br /> == 伝説・フィクションのできごと ==<br /> * [[712年]]以降 - 唐の玄宗皇帝が[[瘧]]の高熱に浮かされていると、夢の中に[[鍾馗]]が現れ、玄宗への恩義に報いるべく、瘧の原因となっている子鬼どもを退治していく(「鍾馗」伝説)。<br /> * [[716年]] - [[735年]] - 唐に留学中の[[吉備真備]]が唐人により楼閣に幽閉されるが、鬼となった[[阿倍仲麻呂]]の霊の助力により、難解な「[[野馬台詩]]」の解読や囲碁の勝負などを解決していく(『[[江談抄]]』『[[吉備大臣入唐絵巻]]』)。<br /> * [[729年]] - [[749年]] - [[聖武天皇]]の[[天平]]年間に[[大和国]][[吉野郡]]にいた[[久米仙人]]が飛行術で空を飛んでいたが、久米川で洗濯する若い女性の白い脛に見惚れて、神通力を失って墜落し、その女性を妻として俗人となる道を選んだ(『七大寺巡礼私記』『久米寺流記』『[[元亨釈書]]』『[[扶桑略記]]』他)。<br /> * [[750年]]頃 - 唐の玄宗皇帝の[[天宝]]末年、[[隴西]]の李徴が[[進士]]に及第した。にもかかわらず官吏の生活を良しとせず河南に出張中に発狂し行方知れずとなる。後年、旧友の袁傪は図らずも虎となった李徴と再会する([[中島敦]]『[[山月記]]』)。<br /> * [[756年]]以降 - 唐の玄宗皇帝は馬嵬で殺された楊貴妃を想い、方士に命じその魂魄の行方を探させる。各地を遍歴して[[蓬莱]]宮に至った方士は楊貴妃に巡り会い、玄宗への形見と誓いの言葉を託される([[白居易]]「[[長恨歌]]」)。<br /> * [[773年]] - [[藤原豊成]]の娘[[中将姫]]が[[長谷観音]]の導きにより一夜で蓮糸を用いて[[曼荼羅]]を織り上げる(「[[当麻曼荼羅|當麻曼荼羅]]」伝説・[[折口信夫]]『[[死者の書 (小説)|死者の書]]』ほか)。<br /> <br /> == 人物 ==<br /> === 東アジア ===<br /> ==== 唐 ====<br /> * [[張柬之]]([[625年]] - [[706年]]) - 唐の政治家・張易之と張昌宗の兄弟を斬り則天武后を退位させる・中宗の復位を実現<br /> * [[韋皇后 (唐中宗)|韋后]](? - [[710年]]) - 唐の皇帝[[中宗 (唐)|中宗]]の皇后・「武韋の禍」の一人・娘の[[安楽公主]]とともに中宗を殺害し帝位を窺う<br /> * [[太平公主]]([[665年]]? - [[713年]]) - 唐の皇帝高宗の娘・母は則天武后・韋后排斥の中心人物・後に甥の李隆基と対立し滅ぼされる<br /> * [[張説]]([[667年]] - [[730年]]) - 唐の政治家・宰相・李隆基に挙兵を決断させた功で有名・詩人として『張説之文集』がある<br /> * [[玄宗 (唐)|玄宗]](李隆基)([[685年]] - [[762年]]) - 唐の第6代皇帝(在位[[712年]] - [[756年]])・その治世前半が「開元の治」<br /> * [[姚崇]]([[650年]] - [[721年]]) - 唐の政治家・宰相・宋璟とともに「姚宋」と呼ばれ「[[開元の治]]」を指導<br /> * [[宋璟]]([[663年]] - [[737年]]) - 唐の政治家・宰相・姚崇とともに「姚宋」と呼ばれ「開元の治」を指導<br /> * [[張九齢]]([[678年]] - [[740年]]) - 唐の政治家・宰相・[[李林甫]]と対立し辞職・「開元最後の賢相」と呼ばれる<br /> * [[李林甫]](? - [[752年]]) - 唐の政治家・宰相・張九齢らを失脚させ天宝年間の政局を握る・[[府兵制]]崩壊に伴い異民族[[節度使]]を登用<br /> * [[高力士]]([[684年]] - [[762年]]) - 唐の宦官・韋后討伐から安史の乱まで玄宗の腹心として仕える・李輔国に失脚させられる<br /> * [[郭子儀]]([[697年]] - [[781年]]) - 唐の軍人・安史の乱を平定・後には吐蕃やウイグルの反乱も鎮圧する<br /> * [[高仙芝]](? - [[755年]])- 唐の[[高句麗]]系[[軍人]]・タラス河畔の戦いで敗北・安史の乱の渦中で処刑される<br /> * 杜環(生没年不詳) - 唐の著述家・タラス河畔の戦いで捕虜となり中央アジアや西アジアに滞在したのち帰国し『経行記』を執筆<br /> * [[李輔国]]([[704年]] - [[762年]]) - 唐の宦官・玄宗に代わり[[粛宗 (唐)|粛宗]]を擁立・粛宗の皇后を殺害させるなど専権を極める<br /> * [[楊国忠]](? - [[756年]]) - 唐の宰相・楊貴妃の親族として出世・安史の乱で長安を捨て四川に逃亡するが殺害される<br /> * [[楊貴妃]]([[719年]] - [[756年]]) - 唐の玄宗の寵妃・安史の乱の原因とされ楊国忠に続き馬嵬で殺される<br /> * [[安禄山]]([[705年]]? - [[757年]]) - 唐の安史の乱の指導者・もとは[[節度使]]・大燕皇帝を自称(在位[[756年]] - [[757年]])・実子[[安慶緒]]に殺される<br /> * [[史思明]]([[703年]] - [[761年]]) - 唐の安史の乱の指導者・もとは安禄山の部下・大燕皇帝を自称(在位[[759年]] - [[761年]])・実子[[史朝義]]に殺される<br /> * 魚朝恩([[721年]] - [[770年]]) - 唐の宦官・神策軍を従え代宗の宮廷で専権を振るうが[[元載]]の命で処刑される<br /> * [[元載]](? - [[777年]]) - 唐の政治家・宰相・宦官魚朝恩を滅ぼし政権を掌握・後に代宗の命で処刑される<br /> * [[楊炎]]([[727年]] - [[781年]]) - 唐の政治家・皇帝[[徳宗 (唐)|徳宗]]に仕え均田制/租庸調制に代わる両税法を創設・のちに失脚し処刑される<br /> * [[第五キ|第五琦]]([[729年]] - [[799年]]) - 唐の政治家・塩法による塩の専売制を導入し財政再建に尽力・乾元重宝銭の鋳造で物価高騰を招く<br /> * [[杜佑]]([[735年]] - [[812年]]) - 唐の官僚・歴史家として法令制度の通史『[[通典]]』をまとめる・杜牧は孫<br /> * [[司馬承禎]]([[643年]] - [[735年]]) - 唐の道士・「道先仏後」の唐にあって玄宗の信任を得る・著作に『坐忘論』『天隠子』がある<br /> * [[李思訓]]([[651年]] - [[718年]]) - 唐の画家・皇族であり官僚として玄宗に仕える・「北画の祖」とされる<br /> * [[呉道玄]](生没年不詳) - 唐の画家・玄宗に仕えて山水画の画法に変革をもたらし「画聖」と呼ばれる<br /> * [[張萱]](生没年不詳) - 唐の画家・宮廷で活躍し「虢国夫人游春図」「搗練図」(いずれも後世の模作)が残る<br /> * 呉競([[670年]] - [[749年]]) - 唐の歴史家・唐の太宗とその臣下の言行を記録した『[[貞観政要]]』を編纂<br /> * 李瀚(生没年不詳) - 唐の文筆家・上古から六朝までの逸話を選び初学者用に編纂した『[[蒙求]]』で知られる<br /> * [[一行]]([[683年]] - [[727年]]) - 唐の僧侶・[[真言八祖]]の一人であり[[善無畏]]と『大日経疏』を編纂・天文学者としては[[大衍暦]]を作成<br /> * [[鑑真]]([[688年]] - [[763年]]) - 唐の僧侶・日本に渡り[[律宗]]を伝える・奈良の唐招提寺の開基となる<br /> * [[孟浩然]]([[689年]] - [[740年]]) - 唐の詩人・代表作に「春暁」がある・官人にはなれず在野で活躍<br /> * [[王維]]([[701年]] - [[761年]]) - 唐の[[詩人]]で「詩仏」と称される・[[画家]]として「[[南画]]の祖」とされる<br /> * [[李白]]([[701年]] - [[762年]])- 唐の詩人で「詩仙」と称される・代表作に「早發白帝城」がある<br /> * [[顔真卿]]([[709年]] - [[785年]]) - 唐の書家・「争座位帖」や「[[祭姪文稿]]」がある・安史の乱でも活躍し忠臣とされる<br /> * [[杜甫]]([[712年]] - [[770年]]) - 唐の詩人で「詩聖」と称される・代表作に「春望」がある<br /> * [[張旭]](生没年不詳) - 唐の書家・[[狂草]]という奔放な書体で有名・「自言帖」や「郎官石柱記」がある<br /> * [[懐素]]([[725年]] - [[785年]]) - 唐の書家・僧侶・張旭の狂草の影響を受ける・「草書千字文」が有名<br /> * [[陸羽]]([[733年]] - [[804年]]) - 唐の文筆家・[[茶]]にまつわる知識をまとめた『[[茶経]]』を残す<br /> * [[沈既済]]([[750年]] - [[800年]]頃) - 唐の歴史家・小説家・歴史書『建中実録』や[[伝奇小説]]「枕中記」「任氏伝」がある。<br /> <br /> ==== 渤海 ====<br /> * [[大欽茂]](文王)(? - [[793年]]) - 渤海の第3代王(在位[[737年]] - [[793年]])・律令体制を整え[[上京龍泉府]]に遷都<br /> <br /> ==== 日本 ====<br /> * [[藤原不比等]]([[659年]] - [[720年]]) - [[公卿]]・[[右大臣]]・大宝律令を制定・藤原四兄弟や光明皇后の父<br /> * [[柿本人麻呂]]([[660年]]頃 - [[720年]]頃) - 歌人・『[[万葉集]]』の代表的な歌人・「歌聖」と呼ばれる<br /> * [[山上憶良]]([[660年]]? - [[733年]]?) - 官人・歌人・『万葉集』の「貧窮問答歌」「子を思ふ歌」が知られる<br /> * [[元明天皇]]([[661年]] - [[721年]]) - 第43代天皇(在位[[707年]] - [[715年]])・女帝・平城京に遷都<br /> * [[太安万侶]](? - [[723年]]) - 文官・『古事記』を編纂・太安万侶墓誌が発見されている<br /> * [[行基]]([[668年]] - [[749年]]) - [[大僧正]]・[[東大寺]]大仏造造営の勧進としても活躍・「行基菩薩」と呼ばれる<br /> * [[舎人親王]]([[676年]] - [[735年]]) - 天武天皇皇子・淳仁天皇の父(崇道尽敬皇帝)・『日本書紀』を編纂<br /> * [[藤原四兄弟]] <br /> ** [[藤原武智麻呂]]([[680年]] - [[737年]]) - 公卿・[[藤原南家]]祖<br /> ** [[藤原房前]]([[681年]] - [[737年]]) - 公卿・[[藤原北家]]祖<br /> ** [[藤原宇合]]([[694年]]? - [[737年]]) - 公卿・[[藤原式家]]祖<br /> ** [[藤原麻呂]]([[695年]] - [[737年]]) - 公卿・[[藤原京家]]祖<br /> * [[橘諸兄]]([[684年]] - [[757年]]) - 公卿・[[左大臣]]・藤原四兄弟亡き後の政局を指導・初代橘氏長者<br /> * [[長屋王]]([[684年]]? - [[729年]]) - 皇族・公卿・左大臣・高市皇子の長男・長屋王の変で自害した<br /> * [[良弁]]([[689年]] - [[774年]]) - 華厳宗の僧・奈良[[東大寺]]初代別当・大仏開眼供養に尽力・鷲に攫われた幼児の伝説も有名<br /> * [[平群広成]](? - [[753年]]) - 官人・遣唐使の判官・唐から帰国途中に遭難し[[チャンパ]]に漂流・後に[[渤海 (国)|渤海]]から無事に帰国<br /> * [[吉備真備]]([[695年]] - [[775年]]) - 遣唐留学生・帰国後は恵美押勝の乱を鎮圧・称徳天皇に重んじられ右大臣となる<br /> * [[阿倍仲麻呂]]([[698年]] - [[770年]]) - 遣唐留学生・帰国は果たせず唐の玄宗皇帝に仕え安南都護府に在任する<br /> * [[聖武天皇]]([[701年]] - [[756年]]) - 第45代[[天皇]](在位[[724年]] - [[749年]])・[[奈良]][[東大寺]]を創建<br /> * [[光明皇后]]([[701年]] - [[760年]]) - 聖武天皇の皇后・人臣で最初の皇后・孝謙称徳天皇の母・[[正倉院]]の創設にも関与<br /> * [[藤原広嗣]](? - [[740年]]) - 官人・大宰少弐・式家宇合の子・[[藤原広嗣の乱]]を起こし処刑される<br /> * [[藤原仲麻呂]]([[706年]] - [[764年]]) - 公卿・太師([[太政大臣]])・藤原仲麻呂の乱(恵美押勝の乱)を起こし敗死<br /> * [[藤原真楯]]([[715年]] - [[766年]]) - 公卿・[[大納言]]・北家房前の子<br /> * [[国中公麻呂]](? - [[774年]]) - 仏師・造東大寺次官・東大寺[[盧遮那仏]]の造像と大仏殿建立の指揮をする<br /> * [[孝謙天皇|孝謙・称徳天皇]]([[718年]] - [[770年]]) - 第46代天皇(在位[[749年]] - [[758年]])・第48代天皇(在位[[764年]] - [[770年]])<br /> * [[大伴家持]]([[718年]]頃 - [[785年]]) - 公卿・[[中納言]]・諸国の国司を歴任・和歌に優れ『万葉集』を編纂したか<br /> * [[橘奈良麻呂]]([[721年]]? - [[757年]]) - 公卿・参議・橘諸兄の子・[[橘奈良麻呂の乱]]が露見し処罰される<br /> * [[道鏡]](? - [[772年]]) - 太政大臣禅師・[[法王]]・[[宇佐八幡宮神託事件]]に関与・称徳天皇没後は[[下野国]]に追放される<br /> * [[藤原百川]]([[732年]] - [[779年]]) - 公卿・参議・[[井上内親王|井上廃后]]事件に関与して桓武天皇を擁立したか<br /> * [[和気清麻呂]]([[733年]] - [[799年]]) - 公卿・[[民部卿]]・宇佐八幡宮神託事件で道鏡を退ける<br /> * [[桓武天皇]]([[737年]] - [[806年]]) - 第50代天皇(在位[[781年]] - [[806年]])・[[長岡京]]そして[[平安京]]に遷都<br /> * [[藤原種継]]([[737年]] - [[785年]]) - 公卿・中納言・式家百川の甥・長岡京造営の途中で暗殺される<br /> <br /> === 南アジア・チベット・東南アジア ===<br /> * ナラシンハヴァルマン2世(? - [[728年]]頃)- インドの[[パッラヴァ朝]]の王(在位[[700年]]頃 - [[728年]]頃)・[[マハーバリプラム]]海岸寺院を建立<br /> * ヴィクラマーディティヤ2世(? - [[744年]]) - インドの前期[[チャールキヤ朝]]の王(在位[[733年]] - [[744年]])・[[パッタダガル]]寺院を建立<br /> * ダンティドゥルガ(? - [[756年]]) - インドの[[ラーシュトラクータ朝]]の王(在位[[753年]] - [[756年]])・[[チャールキヤ朝]]の君主を廃しデカン地方を支配<br /> * クリシュナ1世(? - [[775年]]) - インドのラーシュトラクータ朝の王(在位[[756年]] - [[775年]])・[[エローラ石窟]]のカイラーサ寺院を建立<br /> * [[ダルマトゥンガ]](? - [[782年]]) - ジャワ島の[[シャイレーンドラ朝]]の王(在位[[755年]]以前 - [[782年]])・[[ボロブドゥール寺院]]建立に着手<br /> * [[善無畏|シュバカラシンハ]]([[637年]] - [[735年]]) - インド出身の僧侶・中国名は善無畏・唐に[[密教]]([[真言宗]])を伝え第五祖とされる <br /> * [[シャーンタラクシタ]](? - [[787年]]頃) - インドの僧侶でナーランダ寺院の出身・チベットに仏教を伝え[[サムイェー寺]]を建立<br /> * カマラシーラ(生没年不詳) - インドの僧侶・チベットに招かれサムイェー寺の宗論で唐僧[[摩訶衍]]に勝利する<br /> * [[パドマサンバヴァ]](8世紀後半) - インドの僧侶・チベットに仏教を伝え[[ニンマ派]](紅教)の祖となる<br /> * ダーモーダラグプタ(8世紀後半) - [[カシミール]]王国の宰相・詩人・風俗抒情詩『クッタニーマタ(遊女の手引き)』は資料としても評価が高い<br /> * [[ティソン・デツェン]]([[742年]] - [[797年]]) - チベットの吐蕃の王(在位[[755年]] - [[797年]])・安史の乱に乗じて長安を占領・仏教興隆に尽力<br /> <br /> === イスラム世界 ===<br /> ==== ウマイヤ朝 ====<br /> * [[クタイバ・イブン・ムスリム]]([[669年]] - [[715年]]/[[716年]]) - ウマイヤ朝の軍人・[[ホラサーン]]総督となり[[マー・ワラー・アンナフル]]を征服する<br /> * [[ワリード1世]]([[674年]] - [[715年]]) - ウマイヤ朝の第6代カリフ(在位[[705年]] - [[715年]])・[[ウマイヤド・モスク]]を建設<br /> * [[ターリク・イブン=ズィヤード|タリク・イブン・ズィヤード]]([[689年]] - [[720年]]) - ウマイヤ朝の軍人・イベリア半島を征服し[[ジブラルタル]]の名の由来になる<br /> * アブドゥル・ラフマーン・アル・ガーフィキー(? - [[732年]]) - ウマイヤ朝の軍人・アルアンダルス知事・[[トゥール・ポワティエ間の戦い]]で敗北<br /> <br /> ==== 後ウマイヤ朝 ====<br /> * [[アブド・アッラフマーン1世]]([[731年]] - [[788年]]) - 後ウマイヤ朝の初代[[アミール]](在位[[756年]] - [[788年]])・[[コルドバ (スペイン)|コルドバ]]を都とする<br /> <br /> ==== アッバース朝 ====<br /> * [[サッファーフ]]([[724年]]? - [[754年]]) - アッバース朝の初代カリフ(在位[[750年]] - [[754年]])・ウマイヤ家残党を粛清<br /> * [[マンスール]]([[712年]] - [[775年]]) - アッバース朝の第2代カリフ(在位[[754年]] - [[775年]])・都バグダードを建設<br /> * [[ハールーン・アッラシード]]([[763年]] - [[809年]]) - アッバース朝の第5代カリフ(在位[[786年]] - [[809年]])・アッバース朝の最盛期<br /> * ジヤード・イブン・サーリフ(? - [[752年]]) - アブー・ムスリム配下の将軍・[[タラス河畔の戦い]]で高仙芝率いる唐の軍団を撃破<br /> * [[アブー・ムスリム]]([[700年]]頃 - [[755年]]) - [[アッバース革命]]の指導者でアッバース朝建国における最大の功臣・「ホラサーンの猛虎」<br /> * [[ムカンナー]](メルヴのハキム)(? - [[783年]]) - ペルシアの反乱指導者・アブー・ムスリムを預言者とみなす反主流派の教団を形成した<br /> <br /> ==== 思想家・学者 ====<br /> * アブー・ハニーファ([[699年]]頃 - [[767年]]) - イスラム法学者・[[ハナフィー学派]]の祖・シーア派との関係を疑われ獄死<br /> * [[ジャアファル・サーディク]]([[702年]] - [[765年]]) - シーア派の第6代イマーム・イスラム法学者としては[[ジャアファル法学派|ジャアファル学派]]の祖<br /> * イブン・イスハーク([[704年]] - [[761年]]/[[770年]]) - アッバース朝の著述家・カリフのマンスールに命じられ『預言者の生涯』をまとめる<br /> * マーリク・イブン・アナス([[714年]] - [[796年]]) - イスラム法学者・[[マーリク学派]]の祖・著作に『ムワッタ』がある<br /> * [[ラービア・アル・アダウィーヤ]]([[717年]]頃 - [[801年]]頃) - [[バスラ]]出身の女性神秘家・禁欲から「神への愛」を昇華させた[[スーフィー]]の先駆者<br /> * アル・ハリール・イブン・アフマド・アル・ファラーヒディー([[718年]] - [[786年]]/[[791年]]) - 文献学者・アラビア語辞書を編纂しアラビア語正書法を確定<br /> * [[イブン・アル=ムカッファ]]([[721年]] - [[757年]]) - アッバース朝の著作家・ペルシアのサーサーン朝の年代記『フダーイ・ナーメ』をアラビア語に翻訳<br /> * [[ファザーリ|ムハンマド・アル・ファザーリ]](? - [[796年]]/[[806年]]) - 天文学者・インドの[[ブラーマグプタ]]の天文学書を翻訳し『シンドヒンド』として編纂する<br /> * [[ジャービル・イブン・ハイヤーン]]([[721年]]? - [[815年]]?) - アッバース朝の哲学者・化学者・塩酸や硝酸の調合や蒸留装置を開発<br /> * [[アブル=アターヒーヤ|アブル・アターヒーヤ]]([[748年]] - [[828年]]) - アッバース朝の詩人・もとは壺売りだったが歴代カリフにより宮廷に招かれ「天才詩人」と呼ばれる<br /> <br /> === 中央アジア ===<br /> * [[毘伽可汗|ビルゲ・カガン]](? - [[734年]]) - [[東突厥]]の[[カガン]](在位[[716年]] - [[734年]])・[[オルホン河]]畔の[[ホショ・ツァイダム碑文]]で有名<br /> * [[ブラン・カガン]](? - [[740年]]) - [[ハザール]]の[[カガン]](在位[[730年]] - [[740年]])・[[テュルク]]系遊牧国家ながら[[ユダヤ教]]に改宗<br /> * [[牟羽可汗]](? - [[779年]]) - [[回鶻]]の可汗(在位[[759年]] - [[779年]])・マニ教を受容・安史の乱の鎮圧に協力するが後に唐と反目<br /> <br /> === キリスト教世界 ===<br /> ==== フランク王国 ====<br /> * アヴランシュのオベール(? - [[720年]]) - [[ノルマンディー]]地方のアヴランシュ司教・[[モン・サン=ミシェル|モン・サン・ミシェル]]修道院の基礎を築く<br /> * [[カール・マルテル]]([[686年]] - [[741年]]) - フランク王国の[[宮宰]]・トゥール・ポワティエ間の戦いで勝利しイスラム軍を撃退<br /> * [[ピピン3世]](小ピピン)([[714年]] - [[768年]]) - カロリング朝の開祖(在位[[751年]] - [[768年]])・カール・マルテルの子・[[教皇領]]を寄進<br /> * [[カール大帝]]([[742年]] - [[814年]]) - フランク国王(在位[[768年]] - [[814年]])・西ローマ皇帝(在位[[800年]] - [[814年]])・小ピピンの子<br /> * [[ローラン (シャルルマーニュ伝説)|ローラン]](? - [[778年]]) - ブルターニュ辺境伯・カール大帝に仕える・ロンスヴォーの戦いでの死が『[[ローランの歌]]』伝説のもとになる<br /> * [[ヴィドゥキント]]([[730年]]頃 - [[808年]]?) - [[ザクセン]]部族公・[[サクソン戦争|ザクセン戦争]]でカール大帝に敗北しキリスト教に改宗<br /> * タッシロ3世([[742年]]頃 - [[794年]]頃) - [[バイエルン]]部族公・カール大帝と対立しバイエルンから追放される<br /> * [[聖ボニファティウス|ボニファティウス]]([[672年]]頃 - [[754年]]) - キリスト教宣教師・「ドイツ人の[[使徒]]」・[[フリースラント]]で殉教<br /> * ピルミニウス([[700年]]頃 - [[753年]]) - 修道士(ベネディクト会)・[[ライヒェナウ島]]修道院を建設<br /> * [[アルクィン]]([[735年]]? - [[804年]]) - 神学者で[[トゥール (アンドル=エ=ロワール県)|トゥール]]司教・フランク王国宮廷学校校長・「カール大帝の知的宰相」<br /> * リュートガー(ルドガー)([[742年]]頃 - [[809年]]) - キリスト教宣教師・[[ザクセン人]]や[[フリース人]]に布教し[[ミュンスター]]で修道院を創設<br /> <br /> ==== イタリア ====<br /> * デシデリウス(? - [[786年]]) - [[ランゴバルド王国]]最後の国王(在位[[756年]] - [[774年]])<br /> * [[パウルス・ディアコヌス]]([[720年]] - [[799年]]) - イタリアの著述家・歴史家として『ランゴバルド史』を著す<br /> * [[ザカリアス (ローマ教皇)|ザカリアス]](? - [[752年]]) - ローマ教皇(在位[[741年]] - [[752年]])・ピピン3世のカロリング朝創設を支援<br /> * [[ステファヌス3世 (ローマ教皇)|ステファヌス3世]](? - [[757年]]) - ローマ教皇(在位[[752年]] - [[757年]])・ピピン3世による寄進を受ける([[教皇領]]の始まり)<br /> * [[レオ3世 (ローマ教皇)|レオ3世]]([[750年]]? - [[816年]]) - ローマ教皇(在位[[795年]] - [[816年]])・「カール大帝の戴冠」を行う<br /> <br /> ==== 東ローマ帝国と東方正教圏 ====<br /> * [[ユスティニアノス2世]]([[668年]]? - [[711年]]) - 東ローマ帝国ヘラクレイオス朝の皇帝(在位[[685年]] - [[695年]]、[[705年]] - [[711年]])・「鼻削がれ」の名で有名<br /> * [[レオーン3世]]([[680年]]? - [[741年]]) - 東ローマ帝国[[イサウリア朝]]の皇帝(在位[[717年]] - [[741年]])・イスラム軍を撃退・聖像崇拝を禁止<br /> * [[コンスタンティノス5世]](コプロニュモス)([[718年]] - [[775年]]) - 東ローマ帝国イサウリア朝の皇帝(在位[[741年]] - [[775年]])<br /> * [[エイレーネー (東ローマ女帝)|エイレーネー]](アテナイア)([[752年]] - [[803年]]) - 東ローマ帝国イサウリア朝の女帝(在位[[797年]] - [[802年]])・聖像崇敬を復活<br /> * [[ダマスコの聖イオアン|ダマスコのヨハネ]]([[676年]]頃 - [[749年]]) - キリスト教[[神学者]]・聖像崇敬を擁護・著作に『神学の泉』がある<br /> * テオドロス・ストゥディテス([[759年]] - [[826年]]) - キリスト教[[神学者]]・首都のストゥデイオス修道院院長・聖像崇敬派を率い皇帝と対決<br /> <br /> ==== イベリア半島 ====<br /> * [[ロデリック (西ゴート王)|ロデリック]]([[687年]]以降 - [[712年]]頃) - 西ゴート王国最後の国王(在位[[710年]] - [[712年]]頃)・イスラム軍に敗北し殺害される<br /> * [[ペラーヨ]](? - [[737年]]) - 西ゴート王国の貴族・反イスラム勢力を糾合し[[アストゥリアス王国]]を建国(在位[[718年]] - [[737年]])<br /> * エリパンドゥス([[718年]]頃 - [[802年]]頃) - [[トレド]]大司教・[[ウルヘル]]司教フェリックスとともに[[養子的キリスト論|キリスト養子論]]を提唱し論争を引き起こす<br /> * リエバナのベアトゥス([[730年]]頃 - [[800年]]頃) - アストゥリウス王国のリエバナの修道院長・キリスト養子論を否定・著作に『黙示録注解』がある<br /> <br /> ==== イングランド ====<br /> * [[ベーダ・ヴェネラビリス]]([[672年]]/[[673年]] - [[735年]]) - キリスト教聖職者・歴史家として『イングランド教会史』を著す<br /> * オファ(? - [[796年]]) - [[マーシア]]王(在位[[757年]] - [[796年]])・[[ブレトワルダ]](上王)として覇を唱える・オファの防塁でも有名<br /> <br /> == 脚注 ==<br /> &#039;&#039;&#039;注釈&#039;&#039;&#039;<br /> {{Reflist|group=&quot;注&quot;}}<br /> &#039;&#039;&#039;出典&#039;&#039;&#039;<br /> {{脚注ヘルプ}}<br /> {{Reflist|3}}<br /> &lt;!-- == 参考文献 == --&gt;<br /> <br /> == 関連項目 ==<br /> * [[年表]]<br /> <br /> == 外部リンク ==<br /> * {{Commonscat-inline}}<br /> <br /> {{十年紀と各年| 世紀 = 8 | 年代 = 700 }}<br /> {{世紀}}<br /> <br /> {{デフォルトソート:8せいき}}<br /> [[Category:8世紀|*]]</div> 111.87.58.77
Warning: Cannot modify header information - headers already sent by (output started at /home/users/1/sub.jp-asate/web/wiki/extensions/HeadScript/HeadScript.php:3) in /home/users/1/sub.jp-asate/web/wiki/includes/WebResponse.php on line 46