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http:///mymemo.xyz/wiki/api.php?action=feedcontributions&user=106.166.216.227&feedformat=atom miniwiki - 利用者の投稿記録 [ja] 2024-05-16T03:51:34Z 利用者の投稿記録 MediaWiki 1.31.0 島倉千代子 2018-06-05T12:42:09Z <p>106.166.216.227: /* その他 */内容追加</p> <hr /> <div>{{複数の問題|出典の明記=2013年11月9日 (土) 04:52 (UTC)|独自研究=2013年11月9日 (土) 04:52 (UTC)}}<br /> {{Infobox Musician &lt;!--プロジェクト:音楽家を参照--&gt;<br /> |名前 = 島倉 千代子&lt;br /&gt;しまくら ちよこ<br /> |画像 = <br /> |画像説明 = <br /> |画像サイズ = &lt;!-- サイズが幅250ピクセルに満たない場合のみ記入 --&gt;<br /> |画像補正 = &lt;!-- 画像の横幅が広く、高さが小さい場合に“yes”を記入 --&gt;<br /> |背景色 = singer&lt;!-- singer/group/bandなど --&gt;<br /> |出生名 = &lt;!-- 個人のみ --&gt;&lt;!-- 出生時の名前が公表されている場合にのみ記入 --&gt;<br /> |別名 = お千代さん<br /> |出生 = &lt;!-- 個人のみ --&gt;{{生年月日と年齢|1938|3|30|no}}<br /> |出身地 = {{JPN}}・[[東京都]][[品川区]]<br /> |死没 = &lt;!-- 個人のみ --&gt;{{死亡年月日と没年齢|1938|3|30|2013|11|8}}<br /> |血液型 = &lt;!-- 個人のみ --&gt;[[ABO式血液型|A型]]<br /> |学歴 = &lt;!-- 個人のみ --&gt;[[日本音楽高等学校]]卒業<br /> |ジャンル = [[演歌]] [[歌謡曲]]<br /> |職業 = &lt;!-- 個人のみ --&gt;[[歌手]]<br /> |担当楽器 = &lt;!-- 個人のみ --&gt;<br /> |活動期間 = [[1954年]] - [[2013年]]<br /> |レーベル = [[日本コロムビア]]&lt;ref&gt;2002年10月から2010年9月まではコロムビアミュージックエンタテインメント&lt;/ref&gt;<br /> |事務所 = <br /> |共同作業者 = <br /> |公式サイト = <br /> |メンバー = &lt;!-- グループのみ --&gt;<br /> |旧メンバー = &lt;!-- グループのみ --&gt;<br /> |著名使用楽器 = <br /> }}<br /> &#039;&#039;&#039;島倉 千代子&#039;&#039;&#039;(しまくら ちよこ、[[1938年]]([[昭和]]13年)[[3月30日]] - [[2013年]]([[平成]]25年)[[11月8日]]&lt;ref name=&quot;nikkan&quot;&gt;[http://www.nikkansports.com/entertainment/news/f-et-tp0-20131108-1215406.html 島倉千代子さんが肝臓がんで死去、75歳] 日刊スポーツ 2013年11月8日&lt;/ref&gt;)は、[[日本]]の[[演歌]]・[[歌謡曲]][[歌手]]である。出身は[[東京都]][[品川区]][[北品川]]&lt;ref&gt;[https://web.archive.org/web/20160412171902/http://www.sponichi.co.jp/entertainment/meikan/sa/shimakurachiyoko.html 島倉千代子](2016年4月12日時点の[[インターネットアーカイブ|アーカイブ]]) - スポーツニッポン。&lt;/ref&gt;、学歴は[[日本音楽高等学校]]卒業。愛称は「{{要出典範囲|&#039;&#039;&#039;お千代さん&#039;&#039;&#039;|date=2016年12月}}」。<br /> <br /> == 略歴 ==<br /> === デビュー以前 ===<br /> 1938年3月、東京市品川区北品川に[[警察官]]の父・島倉{{読み仮名|壽雄|としお}}、母・ナカの二男四女の四女として生まれる。<br /> <br /> 1945年(7歳)、[[長野県|長野]][[松本市]]へ[[疎開]]。実は両親の実家がある[[群馬県]][[桐生市]]にも半年[[疎開]]していた事もある。井戸から水を運ぶ途中に転倒、水の入ったビンを割り、左手首からひじまでを負傷。母・ナカが「女の子だから(腕を)残して欲しい」と医師に懇願し、切断は免れたが47針を縫い&lt;ref name=&quot;nikkansports20131109&quot;&gt;{{Cite web|url=http://www.nikkansports.com/entertainment/news/p-et-tp0-20131109-1215709.html |title=借金、けが…「人生いろいろ」お千代さん |author=笹森文彦 |format= |date=2013年11月9日 |work= |publisher=[[日刊スポーツ]] |accessdate=2016年12月23日}}&lt;/ref&gt;、感覚も無く、動かすこともできなくなる(後に不自由ながらも動かすことができるようになる)。この時の[[輸血]]がのちに千代子が患った[[C型肝炎]]の遠因となった。気持ちの沈んだ千代子のために母・ナカは『[[リンゴの唄]]』を聞かせるようになる。後に『[[この世の花#主題歌|この世の花]]』で歌手デビューを遂げた千代子だが、『この世の花』の作曲は『リンゴの唄』の作曲と同じく[[万城目正]]によるもの。<br /> <br /> 1947年(9歳)、東京に戻る。姉の敏子は歌唱力があったが[[小児麻痺]]を患っていたために歌手にはなれなかった。大好きな姉のために自分が歌手になると決意。敏子により声楽を学び、近所の「若旦那楽団」に入団。左手に負担の無い[[アコーディオン]]を担当。歌唱力があったためボーカルにも起用されていた。地元の[[品川神社]]で催されたのど自慢大会には毎回姉妹で参加していた。<br /> <br /> === 1950年代 ===<br /> 1950年(12歳)、童謡『お山のお猿』が[[テイチクレコード]]から発売される。ただし[[誤植]]により「戸倉千代子」名義となってしまったため、「島倉千代子」のデビュー作とはならなかった。<br /> <br /> 1953年(15歳)、品川区の[[日本音楽高等学校]]へ入学。歌謡コンクールにも積極的に参加するようになる。[[1954年]]、[[日本コロムビア|コロムビア]]全国歌謡コンクールで優勝し、同社と専属契約。<br /> <br /> [[1955年]]3月&lt;ref&gt;[http://columbia.jp/artist-info/chiyoko/album.html 島倉千代子](日本コロムビア)&lt;/ref&gt;(16歳)、本名「島倉千代子」で歌手デビュー。デビュー曲『[[この世の花#主題歌|この世の花]]』(同名の映画の主題歌)は半年後に200万枚達成、人気歌手になる(後にテレビドラマでカバーされ、[[1977年]]に同名の映画の2作目で再度カバーされる)。1955年23曲、1956年34曲、1957年37曲、1958年33曲と驚異的な速さで新曲を発表。<br /> <br /> 1957年(19歳)、『[[東京だョおっ母さん]]』が150万枚のヒット。映画化もされ、自ら主演する。この年初めて[[NHK紅白歌合戦]]に初出場(曲目は『逢いたいなァあの人に』。その後、1976年、1979年にも歌唱)、1歳年長で憧れの[[美空ひばり]]と競演してその後生涯にわたり実妹のように可愛がられるようになる。当時大卒サラリーマンの給料が1万円であったが、千代子は常に財布に2千円入っていた。この年の3月、島倉を殺害しようとした16歳の無職少年が逮捕される&lt;ref name=&quot;nikkansports20131109&quot; /&gt;。<br /> <br /> 1958年(20歳)、[[港区 (東京都)|港区]][[高輪]](北品川の隣町)に一戸建てを購入。同年には『[[からたち日記]]』が130万枚のヒットとなった。<br /> <br /> === 1960年代 ===<br /> [[Image:Back of grave of Shimakura Chiyoko.jpg|thumb|180px|島倉千代子の墓碑の背面]]<br /> 1960年(22歳)、美空ひばりと一緒に『つばなの小径・白い小ゆびの歌』を発表。同年、ひばりを抑えて初めて紅白の紅組トリを務める(1960年から1962年、1973年から1975年の計6回に渡り紅組トリを務める。1975年は唯一の大トリ)。<br /> <br /> 1961年(23歳)、ファンの投げたテープが両目に当たって失明の危機に陥る&lt;ref name=&quot;nikkansports20131109&quot; /&gt;。このとき、品川区[[五反田]]「守屋眼科」の医師・守屋義人の助けで[[視力]]を回復。<br /> <br /> 1962年(24歳)、何者かによって後援会事務所に爆発物が送りつけられ、負傷者が出る([[草加次郎事件]])&lt;ref name=&quot;nikkansports20131109&quot; /&gt;。<br /> <br /> 1963年(25歳)、父・壽雄が他界。悲しみにくれる中、支えてくれた元[[阪神タイガース]]の[[藤本勝巳]]と母親の反対を押し切り結婚。結婚前に妊娠したが中絶、結婚後も二子をもうけたが中絶した&lt;ref name=repo1&gt;『歌ごよみ』島倉千代子著、読売新聞刊 (1994/01)&lt;/ref&gt;。後年、この三人の子を合わせて「忍」と名付け、その名を小さな地蔵に付けて肌身離さず持ち歩いた。忍の名は、島倉の墓碑にも千代子と並んで刻まれている&lt;ref name=&quot;sponichi.co.jp 2013/11/10&quot;&gt;{{Cite web|url=http://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2013/11/10/kiji/K20131110006984700.html |title=島倉さん お墓準備していた…ピアノかたどり、戒名も|author= |date=2013年11月10日 |work= |publisher=[[スポニチ]]アネックス |accessdate=2015年7月1日 }}&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> [[1968年]](30歳)、「泣き節」を売り物としていた彼女にとり異色の作品である『[[愛のさざなみ]]』が幅広い世代の間でヒット。この曲で[[第10回日本レコード大賞]]・特別賞を[[春日八郎]]と共に受賞。すれ違いの多い生活により別居を経て離婚。家族の元に戻るも反対を押し切って結婚したために門前払いされ、自分だけの戸籍を作る。<br /> <br /> === 1970年代 ===<br /> 1972年(34歳)、母・ナカが脳軟化症により他界。<br /> <br /> 1975年(37歳)、以前かかった眼科医に頼まれ[[実印]]を貸してしまう&lt;ref name=&quot;repo1&quot;/&gt;。その知人だけではなく、島倉が知らない間にマネージャーや全く面識のない赤の他人まで多数の人々の[[保証人]]にされてしまう。島倉を保証人に借金を重ねた人々はその後行方不明になり、その借金が雪だるま式に膨らんでいき当時総額16億円といわれた莫大な借金を抱える。後に美空ひばりから「実印は貸すな」と注意を受けたという(ひばり自身も実印を押してしまった経験を持つため)。<br /> <br /> 1977年(39歳)、今度は島倉に信頼され、島倉に[[約束手形|手形]]の[[裏書]]をさせていた守屋義人が事業に失敗して、[[不渡り]]手形を出し蒸発。島倉は借金の連帯保証人にされ、これにより更に2億4000万円(当時判明分)の債務を負う。20億近くもの莫大な借金返済のため、写真集の発売や全国各地の[[キャバレー]]回りや地方興行などをしながら、足掛け7年程で完済した。このような活動をしている最中でも島倉の人気は全く衰えを知らず、NHK紅白歌合戦の連続出場記録は続く。<br /> <br /> === 1980年代 ===<br /> 1984年(46歳)、歌手生活30周年を迎える。<br /> <br /> 1986年(48歳)、[[第37回NHK紅白歌合戦]]で紅白歌合戦への30年連続30回出場を達成。当時の紅白史上最多記録だった。<br /> <br /> 1987年(49歳)、『[[人生いろいろ]]』を発表。「30回という区切りを大切にしたい」と“紅白辞退”の記者会見を行い、紅白連続出場記録は30回でストップ。出場辞退表明の記者会見で若手記者から「結局、落選するのが怖かったということですか」と辛辣な質問をされ、「その通りです」と返答した&lt;ref&gt;『島倉家-これが私の遺言』108-109頁。島倉千代子著、文芸社 (2005/02)&lt;/ref&gt;。『紅白50回』のインタビューで本人は「辞退は前年の時点で決めており、前回身に纏った白色の着物はその表れだった」「ここ数年紅白に出られるか出られないかで不安だった。もし落選したらショックで歌えなくなると思った。そのため、余力のあるうちに辞退しようと思った」と語った。島倉は出場辞退をこの年発売の『人生いろいろ』の作曲者で当時療養中の[[浜口庫之助]]に報告したところ、「紅白で『人生いろいろ』が聞けないのか」と返されたことを明かしている&lt;ref&gt;『島倉家-これが私の遺言』79頁。&lt;/ref&gt;。<br /> 1988年(50歳)、『人生いろいろ』が前1987年からこの年にかけて130万枚の大ヒットを記録。当時の人気バラエティー番組「[[オレたちひょうきん族]]」での[[山田邦子]]や[[コロッケ (タレント)|コロッケ]]による[[物真似]]をきっかけに『人生いろいろ』が若者にも受け、再びブレークする。同年の[[第30回日本レコード大賞]]で最優秀歌唱賞を受賞。100万枚記念パーティーでは、山田とコロッケが本人の目の前で、島倉の物真似による『人生いろいろ』を歌唱。これに対し島倉は、「山田邦子さんとコロッケさんのおかげで、『人生いろいろ』が若い方にも親しまれるようになり、光栄です」と二人を賞賛する。同年末の[[第39回NHK紅白歌合戦]]に2年ぶり31回目の復帰出場となる。この復帰出場に対しては「一度降りたのに」と批判の声も上がった。出演を決めた背景には当時療養中だった浜口&lt;ref&gt;2年後の[[1990年]][[12月2日]]に死去。&lt;/ref&gt;に「歌う姿を見て元気になって貰いたい」との思いがあったためである&lt;ref&gt;『紅白50回』、56頁。&lt;/ref&gt;。借金返済の目処がたつ。姉の敏子が[[目黒川]]で投身自殺&lt;ref name=&quot;nikkansports20131109&quot; /&gt;&lt;ref&gt;『島倉家―これが私の遺言』80-86頁。&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 1989年5月(51歳)、美空ひばりが52歳の若さで[[間質性肺炎]]による[[呼吸不全]]で他界。自身の後援会で愛知県に滞在中に訃報を聞いた島倉はその後のスケジュールを切り上げて目黒区[[青葉台 (目黒区)|青葉台]]のひばり邸に駆けつけ、息子の[[加藤和也 (ひばりプロダクション)|加藤和也]]に頼み3日間ひばりのそばに張り付いて離れなかったという。<br /> <br /> === 1990年代 ===<br /> 1993年(55歳)、初期の[[乳癌]]であることが判明。芸能人で会見を開き、自ら癌であることを発表したのは島倉が初めてだった。手術は成功する。ライブハウスなど歌謡曲の枠をはみ出して活動。<br /> <br /> 1999年(61歳)、歌手生活45周年を迎える。45周年コンサートではタキシードで全国を廻る。[[ベストジーニスト]]賞を受賞。同年、[[紫綬褒章]]を受章した。<br /> <br /> === 2000年代 ===<br /> 2004年(66歳)、歌手生活50周年を迎える。[[第55回NHK紅白歌合戦]]に生涯最後となった35回目の出場を果たす(当時の紅組史上最多記録)。<br /> <br /> 2007年(69歳)、事務所のスタッフに資産を奪われ再び多額の借金を抱える&lt;ref&gt;「金曜プレステージ・独占秘話!初公開!秘蔵映像!島倉千代子最期の223日~今夜明かされる壮絶人生と「からたちの小径」誕生秘話~」フジテレビ、2013年12月20日&lt;/ref&gt;。同じ過ちを犯すのは自分のせいと責任を感じ、自らの誕生日に事務所を解散。しかし周りの協力により心機一転スタートすることになり、経理も全部自分でやるために[[簿記]]を勉強。同年、映画『ララ、歌は 中山晋平物語』にナレーターとして出演し、[[中山晋平]]の世界を表現した。また[[藤商事]]から[[パチンコ]]機種『CR島倉千代子の千代姫七変化』が発表され、全国のパチンコ店に導入された。<br /> <br /> 2008年(70歳)、『人生いろいろ』が出身地である品川区の[[京浜急行電鉄]][[青物横丁駅]]の電車接近メロディに採用される。このニュースを聞きつけた島倉自身が2009年1月、青物横丁駅を訪れて実際に流れる駅メロに耳を傾けた。そして京浜急行電鉄に宛てて後日、礼状を改めて送付したという&lt;ref&gt;[https://web.archive.org/web/20131108213142/http://hochi.yomiuri.co.jp/topics/news/20131109-OHT1T00020.htm 島倉千代子さん、青物横丁駅に流れる「人生いろいろ」に感謝の手紙](2013年11月8日時点の[[インターネットアーカイブ|アーカイブ]]) スポーツ報知 2013年11月9日閲覧&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 2009年(71歳)、歌手生活55周年を迎える。<br /> <br /> この頃、[[大分県]]を本拠地として九州各地で営業するリフォーム会社・野田建工のテレビコマーシャルに着物姿で出演していた。なお、野田建工は求人雑誌に大きなカラー広告を多く掲載しており、島倉の写真を求人情報誌で見ることができた。<br /> <br /> === 2010年代・死去 ===<br /> [[Image:Grave of Shimakura Chiyoko.jpg|thumb|250px|東海寺の墓碑。&lt;br&gt;後ろには[[カラタチ]]が植えられている]]<br /> [[2010年]]に[[肝癌|肝臓癌]]であることが判明、手術・入退院を繰り返していた&lt;ref&gt;[http://www.daily.co.jp/newsflash/gossip/2013/11/09/0006482951.shtml 島倉千代子さん 3年前に肝臓がん患う]デイリースポーツ 2013年11月9日閲覧&lt;/ref&gt;。肝臓癌発症はごく少数の関係者にしか打ち明けていなかった。その間、3度の肝動脈塞栓術を受けたが、[[2013年]]前半には[[肝硬変]]に至っていた。同年3月30日、75歳の誕生日にはコロムビアレコードの100周年を記念し復活したイベント「コロムビア大行進2013」に出演し、数千人の聴衆を前にトークを交えながら『人生いろいろ』など数曲を歌った&lt;ref&gt;[http://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2013/03/31/kiji/K20130331005515570.html 島倉千代子 75歳バースデー「後期高齢者という紙届いた」] スポニチアネックス 2013年3月21日&lt;/ref&gt;。同年5月から仕事をセーブするようになり、同年6月21日、宮崎県延岡市で開催したコンサートが生涯最後のステージとなった&lt;ref&gt;[https://web.archive.org/web/20131109013934/http://sankei.jp.msn.com/entertainments/news/131108/ent13110822520023-n1.htm 最期は苦しまず、眠るように…日本コロムビアが会見](2013年11月9日時点の[[インターネットアーカイブ|アーカイブ]]) msn産経ニュース 2013年11月9日閲覧&lt;/ref&gt;。同年6月、[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]「[[1番ソングSHOW]]」の取材を受けた(生涯最後のテレビ取材となった)。同年9月14日にブログを更新した(最後の更新)。<br /> <br /> [[2014年]]のデビュー60周年に向け、復帰への意欲は衰えずに持ち、死去3日前の2013年11月5日に自宅で記念曲『[[からたちの小径]]』を録音した&lt;ref name=&quot;sponichi.co.jp 2013/11/09&quot;&gt;[http://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2013/11/09/kiji/K20131109006979680.html 南こうせつ「奇跡の歌声」 島倉千代子さん死去3日前に録音]&lt;/ref&gt;。レコーディングは当初、11月15日に行う予定だったが、島倉自身から「その日まで待てない」と関係者に連絡を入れて11月5日に急遽吹き込みが行われた&lt;ref name=&quot;sponichi.co.jp 2013/11/09&quot; /&gt;。同曲の作曲を担当し、レコーディングにも立ち会った[[南こうせつ]]は「(島倉の具合から)1回位しか歌えないかと思ったが、3回も歌われた。奇跡の歌声だった」と語った&lt;ref name=&quot;sponichi.co.jp 2013/11/09&quot; /&gt;。翌6日には入院先の島倉本人が南へ電話をかけ、感謝の意を伝えたという&lt;ref name=&quot;sponichi.co.jp 2013/11/09&quot; /&gt;。なお、同曲は[[中陰法要|四十九日]]にあたる12月18日に[[シングル]]発売された&lt;ref name=&quot;sanspo20131219&quot;&gt;{{Cite web|url=http://www.sanspo.com/geino/news/20131219/oth13121905020007-n1.html |title=島倉千代子さん、遺作曲発売日に四十九日法要 |author= |date=2013年12月19日 |work= |format= |publisher=[[サンケイスポーツ]] |accessdate=2017年1月1日}}&lt;/ref&gt;。同曲は[[遺作]]となったが、「来年発売の記念CDボックスに入れたい」と関係者は語っていた&lt;ref&gt;[http://www.sanspo.com/geino/news/20131109/oth13110905110020-n2.html 離婚、借金、乳がん…「人生いろいろ」島倉千代子さん急死] サンスポ 2013年11月9日&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 同年10月中旬に一時退院したが、同年11月6日、「体調が悪いので来てほしい」と自宅からスタッフに電話して[[中目黒]]の[[東京共済病院]]に再入院。翌々日の2013年11月8日朝に容体が急変。午後、東京共済病院の病室にて所属事務所の女性スタッフに看取られ、眠るように息を引き取った&lt;ref&gt;[http://columbia.jp/artist-info/chiyoko/info.html#33206 島倉千代子 逝去のお知らせ] 日本コロムビア アーティストインフォーメーション:島倉千代子 2013年11月8日付&lt;/ref&gt;&lt;ref name=&quot;nikkan&quot; /&gt;。満75歳没([[享年]]76)。周囲の関係者にはあらかじめ、通夜は密葬とし、香典は断るように伝えていた。<br /> <br /> 島倉の訃報を受けて[[内閣官房長官]]・[[菅義偉]]&lt;ref&gt;[http://www.sponichi.co.jp/society/news/2013/11/08/kiji/K20131108006972791.html 官房長官 島倉千代子さん哀悼「昭和を代表する歌手」]スポーツニッポン 2013年11月8日閲覧&lt;/ref&gt;を始め、[[北島三郎]]&lt;ref&gt;[http://www.nikkansports.com/entertainment/news/f-et-tp0-20131108-1215561.html 北島三郎「演歌界の大きなあかり」]日刊スポーツ 2013年11月8日閲覧&lt;/ref&gt;、[[五木ひろし]]&lt;ref&gt;[http://www.nikkansports.com/entertainment/news/f-et-tp0-20131108-1215559.html 五木ひろし「早すぎますね」]日刊スポーツ 2013年11月8日閲覧&lt;/ref&gt;、[[細川たかし]]&lt;ref&gt;[https://web.archive.org/web/20140109074920/http://www9.nhk.or.jp/kabun-blog/700/172829.html 細川たかしさん「最後のパワーに驚きました」NHK「かぶん」ブログ](2014年1月9日時点の[[インターネットアーカイブ|アーカイブ]]) 2013年11月14日閲覧&lt;/ref&gt;、[[氷川きよし]]&lt;ref&gt;[http://www.daily.co.jp/newsflash/gossip/2013/11/13/0006494842.shtml 氷川きよし 島倉千代子さんに誓い]デイリースポーツ 2013年11月13日閲覧&lt;/ref&gt;、[[水前寺清子]]&lt;ref&gt;[http://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2013/11/08/kiji/K20131108006974550.html 「最後にお顔を拝見したときにお別れを」]スポニチアネックス 2013年11月9日閲覧&lt;/ref&gt;、[[大月みやこ]]&lt;ref&gt;[http://sankei.jp.msn.com/entertainments/news/131108/ent13110817370013-n1.htm 「大きく輝いている先輩が…」大月みやこさん]msn産経ニュース 2013年11月9日閲覧&lt;/ref&gt;、[[都はるみ]]&lt;ref&gt;[http://www.news24.jp/entertainment/news/1630935.html 【お悔み】都はるみ、優しく大好きな先輩]日テレNEWS24 2013年11月8日閲覧&lt;/ref&gt;、[[八代亜紀]]&lt;ref&gt;[http://www.daily.co.jp/newsflash/gossip/2013/11/08/0006482904.shtml 八代亜紀 島倉さんは心労が多かった]デイリースポーツ 2013年11月9日閲覧&lt;/ref&gt;、[[小林幸子]]&lt;ref&gt;[http://daily.co.jp/newsflash/gossip/2013/11/08/0006482697.shtml 小林幸子 島倉さんに「母さん!」]デイリースポーツ 2013年11月8日閲覧&lt;/ref&gt;、[[森昌子]]&lt;ref&gt;[http://www.sanspo.com/geino/news/20131109/oth13110905040014-n1.html 森昌子、訃報を知り号泣「本当に優しくてお母さんのよう」]サンスポ 2013年11月9日閲覧&lt;/ref&gt;など島倉を敬愛していた後輩の演歌歌手達、また[[コロッケ (タレント)|コロッケ]]&lt;ref&gt;[http://sankei.jp.msn.com/entertainments/news/131108/ent13110822380021-n1.htm コロッケさん「かけがえのない人失った」]msn産経ニュース 2013年11月9日閲覧&lt;/ref&gt;、[[山田邦子]]&lt;ref&gt;[http://www.cinematoday.jp/page/N0057953 島倉千代子さん、人生いろいろ教えてもらった…山田邦子が悲痛な思い]シネマトゥデイ 2013年11月9日閲覧&lt;/ref&gt;らものまねタレントも追悼のコメントをそれぞれ発表した。<br /> <br /> 島倉の死去から6日後の2013年[[11月14日]]、葬儀が[[青山 (東京都港区)|南青山]]の[[青山葬儀所]]で営まれた。会場には、『からたちの小径』の録音後に涙声で次の言葉を語る、島倉の生涯最後となる肉声テープが流された&lt;ref&gt;[http://sankei.jp.msn.com/entertainments/news/131114/ent13111413480003-n1.htm 島倉千代子さん葬儀、「人生の最後に素晴らしい時間をありがとう」冒頭に肉声流れ]msn産経ニュース 2013年11月14日閲覧&lt;/ref&gt;。{{Quotation|「私の部屋の中にスタジオができて、そこで私はできる限りの声で歌いました。自分の人生の最後に、二度と見られない風景を見せて頂きながら歌を入れられるって、こんな幸せはありませんでした。人生の最後に素晴らしい時間をありがとうございました」}}また告別式では、島倉に憧れて演歌歌手となった[[石川さゆり]]が代表として「本当に寂しいです。もっともっと、お元気で歌っていて欲しかった。優しく、時に厳しく、叱ってくれる人が、居なくなってしまいました…」「これからも、私達後輩を、空高くから見守っていて下さい」と、涙で時折言葉を詰まらせながら弔辞を読んだ&lt;ref&gt;[http://mantan-web.jp/2013/11/14/20131114dog00m200009000c.html 島倉千代子さん:「優しく時に厳しく」石川さゆり涙で弔辞]毎日新聞デジタル 2013年11月14日閲覧&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;[http://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2013/11/15/kiji/K20131115007012440.html 石川さゆり弔辞「生涯を歌い手として見事なまでに全う」]スポニチアネックス 2013年11月15日閲覧&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 同年[[12月31日]]の[[第64回NHK紅白歌合戦]]では石川の『[[津軽海峡・冬景色]]』の歌唱前に島倉の追悼コーナーが設けられた。当初、番組側は石川に島倉の持ち歌である『東京だョおっ母さん』や『人生いろいろ』の歌唱を要請していたが、石川が「島倉さんとは親しいですが、都はるみさんや五木ひろしさんなど、自分よりも仲の良かった先輩歌手がいるのに、そんな出しゃばった真似はできない」とその打診を断ったとされる&lt;ref&gt;[http://www.tokyo-sports.co.jp/entame/entertainment/215786/],東スポWeb,2013年12月21日付&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 戒名は寳婕院千代歌愛大姉。故郷・北品川の[[臨済宗大徳寺派|臨済宗]][[東海寺 (品川区)|東海寺]]大山墓地に生前に建てていた墓に眠る&lt;ref name=&quot;sponichi.co.jp 2013/11/10&quot; /&gt;。<br /> <br /> == エピソード ==<br /> === 島倉千代子と地方との結びつき ===<br /> 島倉は、地方小唄や音頭といった[[新民謡]]を数多くレコードに吹き込んでいた。それらの中には、『[[松井田町|松井田]]小唄』『[[祇園]]まつり音頭』『七夕おどり』など地元の人以外にも広く親しまれ、全国的によく知られた歌もある。それぞれの地元では、大スターである島倉がレコードに吹き込んだこともあって、親しまれている場合が多い。当時の音源を祭りの際に使用し続けているところもある。<br /> <br /> また、仙台市の『[[ミス仙台]]』([[二葉あき子]]のカバー)や、大阪市の『小鳥が来る街』などといった、地方の愛唱歌の類もレコードに吹き込んでいる。また、民謡で『[[祖谷渓|祖谷]]の粉ひき節』『[[島原の子守唄]]』『[[五木の子守唄]]』などをレコードに吹き込み、ヒットさせている。<br /> <br /> === 美空ひばりとの秘話 ===<br /> 7歳の時の怪我で左手が不自由になって以来、引きこもりがちとなった島倉には友達が一人もいなかった。そんな彼女が夢中になったのが1歳年長の[[美空ひばり]]である。アルバイトをしてはひばりのコンサートに行く、[[追っかけ]]となった。<br /> <br /> 1953年の落選を経て、1954年憧れのひばりが所属するコロムビアレコードのコンクールに合格。しかし既に大スターだったひばりにはなかなか会えなかった。<br /> <br /> 1961年、それまではひばりが不動の1位だった雑誌『[[Myojo|明星]]』のファン投票で島倉が1位となってからは、ますますひばりに会う機会が失われていく。「ひばりさんが出る番組には島倉は出られない。という空気が築かれていた」と島倉自身が語っている。<br /> <br /> 周囲の仲間たちがひばりと交友関係を築いた後も、島倉はひばりとは歌番組などの仕事で共演はしてもプライベートでは交流することはなかった。両者とも親しかった[[和田アキ子]]は島倉に「今度、一緒にひばりさんに会おう」と誘ったが「恐れ多くて…」と遠慮していたという。<br /> <br /> 1984年2月2日、長年憧れながらもひばりとの距離が縮められずにいた島倉に思わぬ出来事が起こる。コロムビアレコード主催で島倉のデビュー30周年記念パーティーに今まで一度も飛び入り出演をしたことがなかったひばりが島倉やコロムビアレコードの役員や関係者などに一切連絡もなく島倉に手渡す花束を持参して一人でパーティー会場へ突如やってきたのである。驚きと嬉しさで涙が止まらない島倉にひばりは「これからは人に騙されない人生を送って欲しい。私は実印は絶対離しません」と述べ会場の笑いをとっていた。<br /> <br /> その頃、ひばりは自身を深く理解してくれる家族を相次いで亡くしており、今一番に自身を理解できるのは妹分の島倉かもしれないと考えていたという。2人には共通点が多々あったからである。同学年で若くしてスターになり、ファンに塩酸をかけられ負傷したひばりとファンが投げたテープがあたり失明の危機に陥った島倉。離婚経験、金銭トラブル、家族の死、そして歌への熱意。<br /> <br /> 翌年の3月3日毎年極親しい女友達だけを集め美空ひばり邸で行われる「ひな祭り」に島倉は初めて参加する。その時ひばりに頼んで書いて貰ったサイン色紙には「舞う鳥も私と同じこの世にも生きてこそあれ歌ひとすじ一筋の道」という短歌が書かれており島倉の宝物となった。<br /> <br /> 1987年夏、ひばりが病気で福岡の病院に入院した直後に島倉が「面会謝絶は重々承知の上で、ひばり姉さんに逢えなくても病室の前を一目見るだけでいいから直ぐにでも駆けつけたい。」とひばり本人やコロムビアレコード役員などの関係者に直訴したところ直ぐ様「お千代なら来てもいいわよ」とひばりが了解して即見舞いに訪れた。島倉本人は大変緊張しながら「ひばり姉さんを励ますつもり」で病室に入ったら、病室のひばりが「お千代、良く来たわね」と生来の明るさで島倉を迎え、「お千代が来てくれたから鍋焼きうどん(島倉の好物)の出前でも取って食べよう」と食欲がなかったのにも関わらず完食したそうで病人とは思えない元気さを島倉の前に見せた。そのひばりの姿に「私が励ますつもりで行ったのに、逆に私の方がひばり姉さんに励まされちゃって…… こっちの方が恐縮でした」と後にテレビのインタビューで語っていた。<br /> <br /> 島倉が紅白出場辞退をした際、ひばりから「お千代、(辞退したことに)後悔はない? ここからが見せどころよ」とアドバイスを受けたという&lt;ref&gt;[[田勢康弘]]『島倉千代子という人生』&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 晩年、闘病生活を送っていたひばりはどんなに親交の深い芸能界の友人、親友などが見舞いに訪れても、プライベートでも実妹のように大変可愛がっていた島倉と[[とんねるず]]以外の面会は拒否していたとされる。<br /> <br /> === 声優 ===<br /> [[2003年]][[6月29日]]、[[フジテレビジョン|フジテレビ]]『[[FNS27時間テレビ]]』内アニメ『[[ちびまる子ちゃん]]』(「歌は心・人生いろいろ」の巻)において、本人役で自身初の[[声優]]に挑戦。この回のストーリーはまる子の祖母・こたけからの「病に倒れた友人に一目会ってあげてほしい」という手紙を受け取り、変装をして清水にやってくるという設定だった。挿入歌として「からたち日記」(1番を[[ア・カペラ|アカペラ]](無伴奏)で歌うシーンもある)、エンディングテーマには「人生いろいろ」が起用された。[[2011年]]、DVDとして発売されている&lt;ref&gt;DVD『ちびまる子ちゃん スペシャル「温泉に行こう!!」の巻』に収録。&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> === その他 ===<br /> * 59年間の歌手生活において、ステージで一度も[[口パク]]はしなかった。<br /> * 人を疑わない性格のため多くの人に「騙された」「裏切られた」と言われる島倉に対し作詞家[[なかにし礼]]は「その分、騙した人の数の何倍もの音楽関係者、芸能関係者が彼女を助けてきた」と語った。<br /> * なかにしは彼女の代表曲のひとつである「愛のさざなみ」を作詞している。結婚後ミリオンから遠のき、離婚により暗いイメージがつきかけた島倉のために作ったこの異色の曲は久々のミリオンとなった。<br /> * 横文字が苦手で『[[クイズ$ミリオネア]]』に出演した際、正解発表前の言葉「&#039;&#039;&#039;ファイナルアンサー&#039;&#039;&#039;」が言えず、代わりに「&#039;&#039;&#039;おしまいアンサー&#039;&#039;&#039;」と言っていた。<br /> * 『[[NHKのど自慢]]』への出場経験も有しているが、結果は「鐘一つ」に終わったとされている&lt;ref&gt;{{Cite web |date=2010-05-14 |url=http://www.nhk.or.jp/archives/search/special/detail/?d=music007 |title=なつかしの番組 音楽番組編:NHKのど自慢(2) |work=[[NHKアーカイブス (施設)|NHKアーカイブス]] |publisher=[[日本放送協会]] |accessdate=2017-03-20 |quote=当該頁末尾『アカイさんの一言』より。「NHKアーカイブスブログ(2010年5月14日)より転載、加筆、写真追加」 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20160305161650/http://www.nhk.or.jp/archives/search/special/detail/?d=music007 |archivedate=2016年3月5日 }}《》&lt;/ref&gt;<br /> *兄弟<br /> 島倉は八人兄弟で姉二人が一歳、六歳で逝去している。弟二人は俳優デビューしたものの引退や作詞家に転身した。<br /> <br /> == NHK紅白歌合戦出場歴 ==<br /> 1957年(第8回)の初出場以来、1986年(第37回)まで紅白史上初の30回連続出場を達成。1987年(第38回)は一旦出場辞退したが、「人生いろいろ」で久々のヒットを記録したことを背景に、1988年(第39回)へ2年ぶりに復帰出場。1994年(第45回)には「紅白歌合戦45回の歴史を象徴する歌手」として6年ぶりのカムバックを果たし、1996年(第47回)まで3年連続して出場した。2004年(第55回)に「紅白歌合戦に出場してほしい歌手」アンケートで上位歌手15組の中に入ったことから、8年ぶり通算35回目の出場で66歳の当時の紅組最年長出場となったが、これが生涯最後の出場となった。<br /> <br /> 通算出場回数では、1973年(第24回)に17回目の出場を果たして以降&lt;ref&gt;当時の最多記録保持者は美空ひばりだった。&lt;/ref&gt;、白組歌手・[[北島三郎]]が1998年(第49回)で通算35回目の出場を果たし、島倉の記録を追い越すまで20年以上もの間歴代第1位の記録を保持していた&lt;ref&gt;1982年(第33回)までは、同じく連続出場を続けていた[[フランク永井]]とタイ記録。&lt;/ref&gt;。さらに女性歌手では、同じく1973年(第24回)以降、2012年(第62回)に[[和田アキ子]]が36回目の出場を果たすまで、39年もの間島倉が史上最多出場記録を保持していた。<br /> <br /> 1960年(第11回)では、それまで3年連続で大トリを務めていた美空ひばりを抑えて初めて紅組トリを務め、1962年(第13回)まで3年連続で紅組トリを担当した。その後はひばりが10年連続でトリを務めたが(島倉は中盤に固定されていた)、1973年(第24回)にひばりが落選すると再び紅組トリに返り咲き、1975年(第26回)まで3年連続で紅組トリを務めた(1975年は唯一の大トリ)。紅組において通算トリ回数6回という記録は、美空ひばり(13回)、石川さゆり(8回)、和田アキ子(7回)に次ぎ、歴代4位である。また、3年連続トリという記録も、上述したひばりの10年連続に次ぐ記録である&lt;ref&gt;紅組歌手で3年以上連続でトリを務めた人物はひばり(3年連続および10年連続)と島倉(3年連続が2回)しかいない。&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> {| class=&quot;wikitable&quot;<br /> |-<br /> ! 通算&lt;br /&gt;出場&lt;br /&gt;回数 !! 出場&lt;br /&gt;紅白 !! 出場年度 !! 曲目<br /> ! 出演順 !! 対戦相手 !! 備考<br /> |-<br /> | 初 || [[第8回NHK紅白歌合戦|第8回]] || 1957年(昭和32年)|| 逢いたいなァ あの人に<br /> | 22/25 || [[春日八郎]] (1) ||<br /> |-<br /> | 2 || [[第9回NHK紅白歌合戦|第9回]] || 1958年(昭和33年)|| [[からたち日記]]<br /> | 23/25 || 春日八郎 (2) ||<br /> |-<br /> | 3 || [[第10回NHK紅白歌合戦|第10回]] || 1959年(昭和34年)|| おもいで日記<br /> | 13/25 || [[三橋美智也]] (1) ||<br /> |-<br /> | 4 || [[第11回NHK紅白歌合戦|第11回]] || 1960年(昭和35年)|| 他国の雨<br /> | 27/27 || 三橋美智也 (2) || &#039;&#039;&#039;トリ (1)&#039;&#039;&#039;<br /> |-<br /> | 5 || [[第12回NHK紅白歌合戦|第12回]] || 1961年(昭和36年)|| [[襟裳岬 (島倉千代子の曲)|襟裳岬]]<br /> | 25/25 || [[三波春夫]] (1) || &#039;&#039;&#039;トリ (2)&#039;&#039;&#039;<br /> |-<br /> | 6 || [[第13回NHK紅白歌合戦|第13回]] || 1962年(昭和37年)|| さよならとさよなら<br /> | 25/25 || 三橋美智也 (3) || &#039;&#039;&#039;トリ (3)&#039;&#039;&#039;<br /> |-<br /> | 7 || [[第14回NHK紅白歌合戦|第14回]] || 1963年(昭和38年)|| 武蔵野エレジー<br /> | 13/25 || 三橋美智也 (4) ||<br /> |-<br /> | 8 || [[第15回NHK紅白歌合戦|第15回]] || 1964年(昭和39年)|| ふたりだけの太陽<br /> | 13/25 || [[村田英雄]] (1) ||<br /> |-<br /> | 9 || [[第16回NHK紅白歌合戦|第16回]] || 1965年(昭和40年)|| 新妻鏡<br /> | 12/25 || 三橋美智也 (5) ||<br /> |-<br /> | 10 || [[第17回NHK紅白歌合戦|第17回]] || 1966年(昭和41年)|| [[ほんきかしら]]<br /> | 12/25 || 春日八郎 (3) ||<br /> |-<br /> | 11 || [[第18回NHK紅白歌合戦|第18回]] || 1967年(昭和42年)|| ほれているのに<br /> | 12/23 || [[橋幸夫]] ||<br /> |-<br /> | 12 || [[第19回NHK紅白歌合戦|第19回]] || 1968年(昭和43年)|| [[愛のさざなみ]]<br /> | 12/23 || 三波春夫 (2) ||<br /> |-<br /> | 13 || [[第20回NHK紅白歌合戦|第20回]] || 1969年(昭和44年)|| すみだ川<br /> | 12/23 || 三波春夫 (3) ||<br /> |-<br /> | 14 || [[第21回NHK紅白歌合戦|第21回]] || 1970年(昭和45年)|| 美しきは女の旅路<br /> | 12/24 || 三波春夫 (4) ||<br /> |-<br /> | 15 || [[第22回NHK紅白歌合戦|第22回]] || 1971年(昭和46年)|| 竜飛岬<br /> | 10/25 || [[北島三郎]] (1) ||<br /> |-<br /> | 16 || [[第23回NHK紅白歌合戦|第23回]] || 1972年(昭和47年)|| すみだ川(2回目)<br /> | 18/23 || [[フランク永井]] (1) ||<br /> |-<br /> | 17 || [[第24回NHK紅白歌合戦|第24回]] || 1973年(昭和48年)|| からたち日記(2回目)<br /> | 22/22 || 北島三郎 (2) || &#039;&#039;&#039;トリ (4)&#039;&#039;&#039;<br /> |-<br /> | 18 || [[第25回NHK紅白歌合戦|第25回]] || 1974年(昭和49年)|| 襟裳岬(2回目)<br /> | 25/25 || [[森進一]] || &#039;&#039;&#039;トリ (5)&#039;&#039;&#039;<br /> |-<br /> | 19 || [[第26回NHK紅白歌合戦|第26回]] || 1975年(昭和50年)|| 悲しみの宿<br /> | 24/24 || [[五木ひろし]] || &#039;&#039;&#039;大トリ (6)&#039;&#039;&#039;<br /> |-<br /> | 20 || [[第27回NHK紅白歌合戦|第27回]] || 1976年(昭和51年)|| 逢いたいなァ あの人に(2回目)<br /> | 18/24 || フランク永井 (2) ||<br /> |-<br /> | 21 || [[第28回NHK紅白歌合戦|第28回]] || 1977年(昭和52年)|| 京都・北嵯峨・別れ寺<br /> | 20/24 || 三波春夫 (5) ||<br /> |-<br /> | 22 || [[第29回NHK紅白歌合戦|第29回]] || 1978年(昭和53年)|| りんどう峠<br /> | 22/24 || 村田英雄 (2) ||<br /> |-<br /> | 23 || [[第30回NHK紅白歌合戦|第30回]] || 1979年(昭和54年)|| 逢いたいなァ あの人に(3回目)<br /> | 17/23 || フランク永井 (3) ||<br /> |-<br /> | 24 || [[第31回NHK紅白歌合戦|第31回]] || 1980年(昭和55年)|| 女がひとり<br /> | 14/23 || フランク永井 (4) ||<br /> |-<br /> | 25 || [[第32回NHK紅白歌合戦|第32回]] || 1981年(昭和56年)|| 鳳仙花<br /> | 09/22 || フランク永井 (5) ||<br /> |-<br /> | 26 || [[第33回NHK紅白歌合戦|第33回]] || 1982年(昭和57年)|| [[この世の花#主題歌|この世の花]]<br /> | 11/22 || [[千昌夫]] || 前半トリ <br /> |-<br /> | 27 || [[第34回NHK紅白歌合戦|第34回]] || 1983年(昭和58年)|| 積木くずし<br /> | 07/21 || 三波春夫 (6) ||<br /> |-<br /> | 28 || [[第35回NHK紅白歌合戦|第35回]] || 1984年(昭和59年)|| からたち日記(3回目)<br /> | 17/20 || 三波春夫 (7) ||<br /> |-<br /> | 29 || [[第36回NHK紅白歌合戦|第36回]] || 1985年(昭和60年)|| 夢飾り<br /> | 16/20 || [[近藤真彦]] ||<br /> |-<br /> | 30 || [[第37回NHK紅白歌合戦|第37回]] || 1986年(昭和61年)|| くちべに挽歌<br /> | 18/20 || 村田英雄 (3) ||同回で一旦紅白出場勇退を宣言<br /> |-<br /> | 31 || [[第39回NHK紅白歌合戦|第39回]] || 1988年(昭和63年)|| [[人生いろいろ]]<br /> | 14/21 || [[チョー・ヨンピル]] ||2年ぶりに復帰出場<br /> |-<br /> | 32 || [[第45回NHK紅白歌合戦|第45回]] || 1994年([[平成]]6年) || 人生いろいろ(2回目)<br /> | 10/25 || [[小椋佳]] || 6年ぶりに復帰出場・前半トリ<br /> |-<br /> | 33 || [[第46回NHK紅白歌合戦|第46回]] || 1995年(平成7年) || あの頃にとどけ<br /> | 19/25 || [[小林旭]] ||<br /> |-<br /> | 34 || [[第47回NHK紅白歌合戦|第47回]] || 1996年(平成8年) || [[ときめきをさがしに]]<br /> | 21/25 || [[堀内孝雄]] ||<br /> |-<br /> | 35 || [[第55回NHK紅白歌合戦|第55回]] || 2004年(平成16年)|| 人生いろいろ(3回目)<br /> | 12/28 || [[布施明]] || 8年ぶりに復帰・生涯最後の紅白出場<br /> |}<br /> <br /> (注意点)<br /> *対戦相手の歌手名の( )内の数字は、その歌手との対戦回数、備考のトリ等の次にある( )はトリ等を務めた回数を表す。<br /> *曲名の後の(○回目)は、紅白で披露された回数を表す。<br /> *出演順は「(出演順) / (出場者数)」で表す。<br /> *前半トリとは1990年以降の紅白において、前半戦(ニュース中断まで)で両軍の締めくくりを務めたことを指す。<br /> <br /> == 主な楽曲 ==<br /> [[Image:Tokyo no hito sayonara poster.jpg|thumb|200px|『[[東京の人さようなら]]』は映画化され、島倉自ら主演した]]<br /> 多くの楽曲を発表しており(およそ2,000曲)、また当時のアルバムにしか入っていない曲もあるため、持ち歌の数を正確に数えるのは困難である。<br /> <br /> * [[この世の花#主題歌|この世の花]](1955年、デビュー曲) - 200万枚&lt;ref name=sankei13110926&gt;『[[サンケイスポーツ]]』2013年11月9日付、大阪本社版12版、26面。&lt;/ref&gt;&lt;ref name=sales_best10&gt;「売り上げベスト10」『島倉家-これが私の遺言』168頁。(該当ページには[[ノンブル]]表記なし)&lt;/ref&gt; <br /> ** 同名の[[松竹]]映画の主題歌<br /> * りんどう峠(1955年) - 130万枚&lt;ref name=sankei13110926 /&gt;&lt;ref name=sales_best10 /&gt;<br /> ** 初の古賀メロディー<br /> * 乙女流しは寂しいネ(1956年)<br /> * 東京の人さようなら(1956年)<br /> ** 暮れに発売されたため、ヒットは翌年になってから。<br /> * 逢いたいなァあの人に(1957年) - 120万枚&lt;ref name=sankei13110926 /&gt;&lt;ref name=sales_best10 /&gt;<br /> ** 紅白初出場曲<br /> * 祇園まつり音頭(1957年)<br /> ** [[山形英夫]]とのデュエット。<br /> ** [[京都]]の[[祇園祭]]で今でも流れる。<br /> * [[東京だョおっ母さん]](1957年) - 150万枚&lt;ref name=sankei13110926 /&gt;&lt;ref name=sales_best10 /&gt;<br /> ** 発売当時はセリフなしであった。<br /> * [[からたち日記]](1958年) - 130万枚&lt;ref name=sankei13110926 /&gt;&lt;ref name=sales_best10 /&gt;<br /> ** セリフ入りの歌は売れないというジンクスがあったが、大ヒットした。<br /> * 北京の小鳥売り(1958年)<br /> * 思い出さん今日は(1958年) - 60万枚&lt;ref name=sankei13110926 /&gt;&lt;ref name=sales_best10 /&gt;<br /> * 海鳴りの聞こえる町(1959年) - 70万枚&lt;ref name=sankei13110926 /&gt;&lt;ref name=sales_best10 /&gt;<br /> * 夕焼けさん(1959年)<br /> * 哀愁のからまつ林(1959年) - 60万枚&lt;ref name=sankei13110926 /&gt;<br /> * おもいで日記(1959年) - 60万枚&lt;ref name=sankei13110926 /&gt;<br /> * 他国の雨(1960年)<br /> ** [[鳴海日出夫]]の「涙のグラス」の歌詞を変えて吹き込まれたもの。<br /> * 白い小ゆびの歌(1960年)<br /> ** 片面は[[美空ひばり]]「つばなの小径」<br /> ** ジャケットには島倉とひばりの写真を2枚ずつ市松に配して、どちらがA面か分からないように配慮されていたが、双方のファンから猛反発を受けた。<br /> * 花散る下田(1960年) - 70万枚&lt;ref name=sankei13110926 /&gt;&lt;ref name=sales_best10 /&gt;<br /> * 恋しているんだもん(1961年) - 80万枚&lt;ref name=sankei13110926 /&gt;&lt;ref name=sales_best10 /&gt;<br /> ** 島倉の口癖をアイデアに作詞<br /> * 夕月(1961年) - 100万枚&lt;ref name=sankei13110926 /&gt;&lt;ref name=sales_best10 /&gt;<br /> ** 島倉の主演ドラマの主題歌<br /> ** [[黛ジュン]]の[[夕月 (黛ジュンの曲)|楽曲]](1968年)とは同名異曲である。<br /> * [[襟裳岬 (島倉千代子の曲)|襟裳岬]](1961年) - 100万枚&lt;ref name=sankei13110926 /&gt;&lt;ref name=sales_best10 /&gt;<br /> ** [[森進一]]の[[襟裳岬 (森進一の曲)|楽曲]](1974年)とは同名異曲である。<br /> * 十国峠の白い花(1961年)<br /> * かるかやの丘(1961年)<br /> * さよならとさよなら(1962年)<br /> * 別れるときは死ぬときよ(1962年)<br /> * [[七夕おどり]](1962年)<br /> ** [[仙台七夕|仙台七夕まつり]]を歌った曲で、現在も会場周辺で流れ、また盆踊りの定番曲として仙台市民に親しまれている。[[都はるみ]]の「七夕おどり」(1970年)は[[湘南ひらつか七夕まつり|平塚七夕]]を歌ったものであり、同名異曲である。<br /> * 武蔵野エレジー(1963年)<br /> ** [[THEE MICHELLE GUN ELEPHANT]]の[[ベイビー・スターダスト|楽曲]](2000年)とは同名異曲である。<br /> * 星空に両手を(1963年) - 70万枚&lt;ref name=sankei13110926 /&gt;&lt;ref name=sales_best10 /&gt;<br /> ** [[守屋浩]]とのデュエット。<br /> * あの橋の畔で(1963年)<br /> ** 松竹の同名映画の主題歌<br /> * ふたりだけの太陽(1964年)<br /> * [[新妻鏡]](1965年)<br /> ** 戦前に[[霧島昇]]&二葉あき子が歌ったものをカバー。B面は「[[目ン無い千鳥]]」であり、奇しくも[[霧島昇]]のオリジナル盤と同じ組合せであった。<br /> * [[ほんきかしら]](1966年) - 60万枚&lt;ref name=sankei13110926 /&gt;&lt;ref name=sales_best10 /&gt;<br /> * 涙の谷間に太陽を(1966年) - 50万枚&lt;ref name=sales_best10 /&gt;<br /> * ほれているのに(1967年) - 50万枚&lt;ref name=sankei13110926 /&gt;&lt;ref name=sales_best10 /&gt;<br /> * [[愛のさざなみ]](1968年) - 100万枚&lt;ref name=sankei13110926 /&gt;&lt;ref name=sales_best10 /&gt;<br /> ** 島倉にとって[[オリコン]]初ランクインの曲で最高位20位。作曲した[[浜口庫之助]]の助言により、バックの音は海外でレコーディングされた。1992年に[[カーネーション (バンド)|カーネーション]]、2001年に[[ミニスカパン]]がカバー。島倉は1998年9月20日のカーネーションのライブ(渋谷クラブクアトロ)にゲスト出演し、同曲を歌っている。<br /> * わかれ(1968年)<br /> * すみだ川(1969年) - 70万枚&lt;ref name=sankei13110926 /&gt;&lt;ref name=sales_best10 /&gt;<br /> ** 戦前の[[東海林太郎]]の代表作をカバー。またB面の「築地明石町」も同じく東海林太郎のカバーである。<br /> * 美しきは女の旅路(1970年)<br /> * 竜飛岬(1971年)<br /> * 津軽の宿(1972年)<br /> * 流し唄(1974年)<br /> * [[ミス仙台]](1974年)<br /> ** 1936年に[[二葉あき子]]が初めて発表した曲で、1962年に[[コロムビア・ローズ#二代目コロムビア・ローズ|二代目コロムビア・ローズ]]も発売しており、島倉は3番目。「七夕おどり」同様、仙台七夕まつりの時期に会場周辺で流れている。<br /> * 悲しみの宿(1975年)<br /> ** 1000曲吹き込み記念曲。CDの時代に入って以降、当初発売されたシングルのものとは異なる音源(冒頭の台詞の「[[裏日本]]」が「北日本」に変更されている)が商品化されており、[[MEG-CD]]「悲しみの宿」の商品ページにも「都合により、「悲しみの宿」は、当時のレコードに収録されている音源とは異なる音源を使用しています。」と記載されている&lt;ref&gt;[http://meg-cd.jp/artist/shimakura_chiyoko/MSCL-12152.html 島倉千代子 悲しみの宿] MEG-CD.jp 2015年8月27日閲覧&lt;/ref&gt;。また、この曲が発売された1975年のNHK紅白歌合戦では、後年の再録音盤と同様の「北日本」に変更された台詞で歌唱している。<br /> * ひろしまの母(1977年)<br /> ** ひろしま音楽祭参加作品で、島倉にとって最後の古賀メロディーとなった。<br /> * 京都 北嵯峨 別れ寺(1977年)<br /> * サーシャわが愛(1979年)<br /> ** アニメスペシャル『[[宇宙戦艦ヤマト 新たなる旅立ち]]』挿入歌。<br /> * 女がひとり(1980年)<br /> * 鳳仙花(1981年) - 80万枚&lt;ref name=sankei13110926 /&gt;&lt;ref name=sales_best10 /&gt;<br /> ** 「竜飛岬」以降、なかなかヒットに恵まれなかったが、この曲は久しぶりの大ヒットになった。<br /> * ためいき橋(1982年)<br /> * 積木くずし/愛とは何(1983年)<br /> ** 映画『[[積木くずし#映画|積木くずし]]』主題歌。<br /> ** 作曲は[[五輪真弓]]。演歌調とはまた違う、五輪メロディーに挑戦した。<br /> * 夢飾り(1984年) - 60万枚&lt;ref name=sankei13110926 /&gt;&lt;ref name=sales_best10 /&gt;<br /> * 母子星(1984年)<br /> * くちべに挽歌(1986年)<br /> ** この曲で紅白を一旦辞退。<br /> * 浅草メロドラマ(1987年)<br /> * [[人生いろいろ]]/花ごよみ(1987年) - 130万枚&lt;ref name=sankei13110926 /&gt;&lt;ref name=sales_best10 /&gt;<br /> ** [[第30回日本レコード大賞]]最優秀歌唱賞を受賞。<br /> ** [[京浜急行電鉄]][[青物横丁駅]]の電車到着案内メロディにも用いられている。<br /> * 浪花姉妹(1987年)<br /> ** [[石川さゆり]]とのデュエット。<br /> * 心うきうき(1988年)<br /> * ゆずり葉の宿(1989年)<br /> * おんなの一生(1989年)<br /> * 今日も初恋(1991年)<br /> * 空蝉(1992年)<br /> * それ行けダイエーホークス音頭(1992年)<br /> * 女の夢灯り(1993年)<br /> * 昔も今も…女(1994年)<br /> * あしたになれば(1994年)<br /> * 夢おまもり(1994年)<br /> * ちょっとだけ(1994年)<br /> ** [[目黒祐樹]]とのデュエット。<br /> * [[あの頃にとどけ]](1995年)<br /> ** [[小田和正]]作詞(島倉と共作)・作曲・編曲・プロデュース。<br /> * 片瀬月(1995年)<br /> ** 美空ひばりが遺した小唄をもとに作った曲。<br /> * 木枯らしのクリスマス(1995年)<br /> ** [[片岡鶴太郎]]とのデュエット。作詞は[[秋元康]]、作曲は[[三木たかし]]。<br /> * 火の酒(1996年) - 30万枚&lt;ref name=sales_best10 /&gt;<br /> ** ディレクターとして「からたち日記」などを手がけ、その後1963年にコロムビアを離れた[[馬渕玄三]]([[五木寛之]]の『海峡物語』などに登場する「艶歌の竜」・高円寺竜三のモデルとして知られる)と久々に組んだ作品。<br /> * [[ときめきをさがしに]](1996年)<br /> ** [[池内淳子]]主演の[[日本放送協会|NHK]][[ドラマ新銀河]]『素敵に女ざかり』主題歌。<br /> * 私って(1997年)<br /> * 花なら花らしく(1998年)<br /> * 人生はショータイム(1999年)<br /> * 柿の実ひとつ(1999年)<br /> * 三日月慕情(2000年)<br /> * 北どまり(2001年)<br /> * 君(2002年)<br /> * 海かがみ(2003年)<br /> ** [[山崎ハコ]]を起用。<br /> * 風のみち(2004年)<br /> ** デビュー50周年記念曲<br /> * ちよこまち(2005年)<br /> ** 島倉のテーマソングともいえる曲。元は「海かがみ」のカップリング曲だったが、2005年に「ちよこまち(シングルバージョン)」として発売された。<br /> * それいけGoGo(2006年)<br /> * おかえりなさい/あの頃へ(2007年)<br /> * 風になる/ひとりじゃないよ(2009年)<br /> ** 歌手生活55周年記念曲<br /> * 私の小さな幸せの花/哀秋(2010年)<br /> * 愛するあなたへの手紙/光を感じて(2012年)<br /> * [[からたちの小径]]/この世の花(2013年)<br /> **歌手生活60周年記念曲として制作された。体調を考慮して歌入れは自宅で行われたが、歌入れの僅か3日後に他界した為、遺作となってしまった。<br /> <br /> == 著書 ==<br /> * 歌ごよみ(自叙伝、読売新聞社、1994年。ISBN 4-643-94005-0)<br /> * 島倉家-これが私の遺言(手記、文芸社、2005年。プロデュース:[[寺西一浩]]。ISBN 4-8355-9125-9)<br /> <br /> == 出演 ==<br /> === テレビ ===<br /> &lt;!-- 単発のゲスト出演は不要。レギュラー番組のみ記述をお願いします。「プロジェクト:芸能人」参照 --&gt;<br /> *[[積木くずし]] 〜親と子の200日戦争(1983年、TBS) - 本人 役([[特別出演]])<br /> *[[雨の降る駅]](1986年、TBS)<br /> *[[男と女のミステリー]] [[心はロンリー気持ちは「…」]]VIII(1989年、フジテレビ)<br /> *[[女子刑務所東3号棟]](2003年、TBS) - 慰問者 役<br /> *[[全員正解あたりまえ!クイズ]](2005年-2006年、TBS)準レギュラー<br /> *[[午後は○○おもいッきりテレビ]](日本テレビ)<br /> ほか多数<br /> <br /> ===アニメ===<br /> *[[ちびまる子ちゃん]] - 本人 役(特別出演)<br /> <br /> === 映画 ===<br /> * [[新妻鏡#1956年版|新妻鏡]] (1956年、新東宝) - 本人 役<br /> * [[大学の石松シリーズ|大学の石松 女群突破]] (1957年、東映) - 島村岐代子 役<br /> * [[あんみつ姫#鰐淵晴子版|あんみつ姫の武者修行]](1960年、松竹) - 千鳥太夫 役<br /> * [[太陽に突っ走れ]] (1966年、東映) - 本人 役<br /> * [[サード (映画)|サード]] (1978年、ATG) - サードのおふくろ 役(特別出演)<br /> ほか多数<br /> <br /> === CM ===<br /> *[[山本山]]<br /> *[[日清食品]] [[出前一丁]]<br /> *野田建工<br /> *[[理想科学工業]] [[リソグラフ]](「からたちの花」の替え歌を歌唱)<br /> *京都きものプラザ 大B反市<br /> <br /> == 脚注 ==<br /> {{reflist|colwidth=30em}}<br /> <br /> == 外部リンク ==<br /> {{Commonscat|Chiyoko Shimakura}}<br /> * [http://columbia.jp/artist-info/chiyoko/ 日本コロムビア | 島倉千代子]<br /> * {{Wayback |url=http://ameblo.jp/shimakura-chiyoko/ |title=島倉千代子オフィシャルブログ |date=20131112004304}}<br /> {{日本レコード大賞最優秀歌唱賞}}<br /> {{NHK紅白歌合戦 紅組トリ}}<br /> {{日本ジュエリーベストドレッサー賞受賞者}}<br /> {{DEFAULTSORT:しまくら ちよこ}}<br /> [[Category:日本の女性歌手]]<br /> [[Category:演歌歌手]]<br /> [[Category:日本の女優]]<br /> [[Category:NHK紅白歌合戦出演者]]<br /> [[Category:日本コロムビアのアーティスト]]<br /> [[Category:紫綬褒章受章者]]<br /> [[Category:東京都区部出身の人物]]<br /> [[Category:障害を持つ人物]]<br /> [[Category:1938年生]]<br /> [[Category:2013年没]]</div> 106.166.216.227
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