Warning: Undefined variable $type in /home/users/1/sub.jp-asate/web/wiki/extensions/HeadScript/HeadScript.php on line 3

Warning: "continue" targeting switch is equivalent to "break". Did you mean to use "continue 2"? in /home/users/1/sub.jp-asate/web/wiki/includes/json/FormatJson.php on line 297

Warning: Trying to access array offset on value of type bool in /home/users/1/sub.jp-asate/web/wiki/includes/Setup.php on line 660

Warning: session_name(): Session name cannot be changed after headers have already been sent in /home/users/1/sub.jp-asate/web/wiki/includes/Setup.php on line 834

Warning: ini_set(): Session ini settings cannot be changed after headers have already been sent in /home/users/1/sub.jp-asate/web/wiki/includes/session/PHPSessionHandler.php on line 126

Warning: ini_set(): Session ini settings cannot be changed after headers have already been sent in /home/users/1/sub.jp-asate/web/wiki/includes/session/PHPSessionHandler.php on line 127

Warning: session_cache_limiter(): Session cache limiter cannot be changed after headers have already been sent in /home/users/1/sub.jp-asate/web/wiki/includes/session/PHPSessionHandler.php on line 133

Warning: session_set_save_handler(): Session save handler cannot be changed after headers have already been sent in /home/users/1/sub.jp-asate/web/wiki/includes/session/PHPSessionHandler.php on line 140

Warning: "continue" targeting switch is equivalent to "break". Did you mean to use "continue 2"? in /home/users/1/sub.jp-asate/web/wiki/languages/LanguageConverter.php on line 773

Warning: Cannot modify header information - headers already sent by (output started at /home/users/1/sub.jp-asate/web/wiki/extensions/HeadScript/HeadScript.php:3) in /home/users/1/sub.jp-asate/web/wiki/includes/Feed.php on line 294

Warning: Cannot modify header information - headers already sent by (output started at /home/users/1/sub.jp-asate/web/wiki/extensions/HeadScript/HeadScript.php:3) in /home/users/1/sub.jp-asate/web/wiki/includes/Feed.php on line 300

Warning: Cannot modify header information - headers already sent by (output started at /home/users/1/sub.jp-asate/web/wiki/extensions/HeadScript/HeadScript.php:3) in /home/users/1/sub.jp-asate/web/wiki/includes/WebResponse.php on line 46

Warning: Cannot modify header information - headers already sent by (output started at /home/users/1/sub.jp-asate/web/wiki/extensions/HeadScript/HeadScript.php:3) in /home/users/1/sub.jp-asate/web/wiki/includes/WebResponse.php on line 46

Warning: Cannot modify header information - headers already sent by (output started at /home/users/1/sub.jp-asate/web/wiki/extensions/HeadScript/HeadScript.php:3) in /home/users/1/sub.jp-asate/web/wiki/includes/WebResponse.php on line 46
http:///mymemo.xyz/wiki/api.php?action=feedcontributions&user=106.132.201.54&feedformat=atom miniwiki - 利用者の投稿記録 [ja] 2024-05-03T12:44:49Z 利用者の投稿記録 MediaWiki 1.31.0 ジャニー喜多川 2018-07-22T09:34:22Z <p>106.132.201.54: </p> <hr /> <div>{{混同|x1=バスケットボール選手の|北川弘}}<br /> {{存命人物の出典明記|date=2010年11月}}<br /> {{Infobox 人物<br /> |氏名 = ジャニー 喜多川<br /> |ふりがな = ジャニー きたがわ<br /> |画像 = <br /> |画像サイズ = <br /> |画像説明 = <br /> |出生名 = ジョン・ヒロム・キタガワ&lt;br&gt; (John Hiromu Kitagawa)&lt;br /&gt;漢字表記:&lt;br&gt;喜多川 擴(きたがわ ひろむ)<br /> |生年月日 = {{生年月日と年齢|1931|10|23}}<br /> |生誕地 = {{USA1912}}&lt;br&gt;[[カリフォルニア州]][[ロサンゼルス|ロサンゼルス市]]<br /> |失踪年月日 = <br /> |失踪地 = <br /> |現況 = <br /> |没年月日 = &lt;!-- {{死亡年月日と没年齢|1931|10|23|XXXX|XX|XX}} --&gt;<br /> |死没地 = <br /> |死因 = <br /> |遺体発見 = <br /> |墓地 = <br /> |記念碑 = <br /> |住居 = {{JPN}}<br /> |国籍 = <br /> |別名 = <br /> |民族 = [[日本人]]([[大和民族]])<br /> |市民権 = <br /> |教育 = <br /> |出身校 = [[ロサンゼルス・シティー・カレッジ]] (LACC)&lt;br /&gt;[[上智大学]]国際部&lt;br&gt;(現在の[[国際教養学部]])<br /> |職業 = [[実業家]]&lt;br /&gt;芸能[[プロモーター]]&lt;br /&gt;[[音楽プロデューサー]]<br /> |活動期間 = <br /> |雇用者 = <br /> |団体 = <br /> |代理人 = <br /> |著名な実績 = [[ギネス世界記録]]&lt;br&gt;「最も多くのコンサートをプロデュースした人物」&lt;br&gt;「最も多くのナンバーワン・シングルをプロデュースした人物」<br /> |業績 = <br /> |流派 = <br /> |影響を受けたもの = <br /> |影響を与えたもの = <br /> |活動拠点 = <br /> |給料 = <br /> |純資産 = <br /> |身長 = <br /> |体重 = <br /> |テレビ番組 = <br /> |肩書き = <br /> |任期 = <br /> |前任者 = <br /> |後任者 = <br /> |取締役会 = <br /> |配偶者 = <br /> |非婚配偶者 = <br /> |子供 = <br /> |親 = 父:喜多川 諦道<br /> |親戚 = <br /> |コールサイン = <br /> |受賞 = <br /> |署名 = <br /> |署名サイズ = <br /> |公式サイト = <br /> |補足 = <br /> }}<br /> &#039;&#039;&#039;ジャニー 喜多川&#039;&#039;&#039;(ジャニー きたがわ、Johnny H. Kitagawa、本名: &#039;&#039;&#039;ジョン・ヒロム・キタガワ&#039;&#039;&#039; (John Hiromu Kitagawa)、漢字表記: &#039;&#039;&#039;喜多川 擴&#039;&#039;&#039;〈きたがわ ひろむ〉、[[1931年]]〈昭和6年〉[[10月23日]]&lt;ref group=&quot;注釈&quot;&gt;雑誌『女性自身』(1967年9月25日号)の裁判記事では、当時の年齢が「38歳」(つまり1928年生まれ)と表記されている。&lt;/ref&gt; - )は、[[日本]]の[[実業家]]・芸能[[プロモーター]]・[[音楽プロデューサー]]で、[[ジャニーズ事務所]]、[[ジェイ・ドリーム]]、ジャニーズ出版、[[ヤング・コミュニケーション]]、つづきスタジオの[[社長]]である。<br /> <br /> [[アメリカ合衆国|アメリカ]]、[[カリフォルニア州]][[ロサンゼルス|ロサンゼルス市]]生まれの[[日本人]]。<br /> <br /> == 来歴 ==<br /> === 生い立ち ===<br /> 父親は[[日本の仏教|日本仏教]]・[[高野山真言宗]]米国別院の僧侶(第3代主監)で、[[1946年]](昭和21年)2月から[[1948年]](昭和23年)2月までプロ野球チーム「[[大映ユニオンズ|ゴールドスター]]([[1947年]]に「金星スターズ」に改称)」のマネージャーだった喜多川諦道。諦道の次男として、[[1931年]](昭和6年)10月23日に[[アメリカ合衆国|アメリカ]]・[[ロサンゼルス]]に生まれる。姉は[[メリー喜多川]]、兄は[[アメリカ航空宇宙局|NASA]]で[[アポロ]]の設計もしていた[[科学者]]だったが1980年代に50代半ばで死去している。<br /> <br /> [[1933年]](昭和8年)、喜多川一家は日本へ渡航し、[[大阪市]]で生活した。しかし間もなくして母親が死去、やがて[[第二次世界大戦]]が勃発すると子供たちだけで[[和歌山県]][[那智勝浦町]]に[[疎開]]した。<br /> <br /> [[日本の降伏|日本の敗戦]]後、[[1947年]](昭和22年)に子供たちだけでロサンゼルスに帰国し、現地の高校に入学した。高校時代にはロサンゼルスの「[[アーニー・パイル・シアター]]」にて、ミュージックメイカーのアシスタントとして、[[アルバイト]]を経験している。<br /> <br /> ロサンゼルスの高校を卒業後、姉と同じ[[ロサンゼルス・シティー・カレッジ]]&lt;ref group=&quot;注釈&quot;&gt;[[ディプロマミル]]とされる「ロサンゼルス市立大学」(シティユニバーシティロサンゼルス、City University Los Angeles)とは異なる。&lt;/ref&gt;に進学。<br /> <br /> [[1950年]](昭和25年)、[[美空ひばり]]が育ての親・[[川田晴久]]と共にアメリカ公演を行ったが、ロサンゼルス公演の際、父の勤務先だった真宗大谷派東本願寺ロサンゼルス別院が会場となったため、ステージマネージメント全体を担当する。川田の知遇を得ると共に、ひばりとも親しく交流するようになった。このことが、日本芸能界への進出のきっかけとなる。 <br /> <br /> [[1952年]](昭和27年)に再来日。[[駐日アメリカ合衆国大使館|アメリカ大使館]]に陸軍犯罪捜査局 ([[:en:United States Army Criminal Investigation Command|USACIDC]], CID) の情報員(通訳の助手)として勤務する。[[アメリカ軍]]関係の仕事の一環として、当時勃発していた[[朝鮮戦争]]による[[戦災孤児]]に[[英語]]を教授するために、日本でわずか11ヶ月で[[朝鮮語]]を習得し、すぐ[[大韓民国|韓国]]側の[[板門店]]に出向き、1年2ヶ月間に渡って子供たちに英語を教授した。<br /> <br /> さらに、再来日後はアメリカ大使館[[軍事顧問]]団に勤務。その傍ら[[上智大学]]国際部(現在の[[国際教養学部]]の前進)に進学し、上智大学を卒業。大学在学中の[[1955年]](昭和30年)、バンドを結成し芸能界へ参入した。以降は[[日本]]に永住している。<br /> <br /> === ジャニーズ事務所の設立 ===<br /> [[1960年代]]初頭、ジャニーは自分の居住していた[[東京都]][[渋谷区]]・[[代々木]]の[[在日米軍|占領アメリカ軍]]宿舎「[[ワシントンハイツ (在日米軍施設)|ワシントンハイツ]]」にて、近所の少年たち約30名で構成された少年野球チームのコーチを務めていた。そのチーム名は、本人のニックネーム「ジャニー (Johnny)」&lt;ref group=&quot;注釈&quot;&gt;本名のJohnのニックネームの[[アメリカ英語|米国式]]発音による。なお、Johnnyの日本語表記は、通常は[[イギリス英語|英国式]]発音によって「ジョニー」とされる事が多い。&lt;/ref&gt;からとって「[[ジャニーズ]]」と名付けられた。このチームのメンバーには、[[浜田光夫]]・小畑やすし・[[設楽幸嗣]]等もおり、応援団には[[松島トモ子]]も居た。このチームはプロ野球の球団や[[力道山]]等に支援されており、後に練習場も池袋にある[[立教大学]]のグラウンドへと移行した。<br /> <br /> ある日、このチームのメンバーの中から[[渋谷区立代々木中学校]]の生徒4名を選抜し映画館に連れて行く。そして、そこで鑑賞した映画『[[ウェストサイドストーリー]]』に一同感動し、エンターテインメント事業を興業することを決意した。[[1962年]](昭和37年)4月、自身が結成させた野球チームのメンバーである4名の少年により最初のグループである[[ジャニーズ]](通称・初代ジャニーズ)を結成する。最初は東京都[[豊島区]]・池袋西口にある[[芸能プロダクション]]「新芸能学院(現: 名和プロダクション)」に在籍をしていたが、[[1962年]](昭和37年)6月に[[ジャニーズ事務所]]を創業、創業当初は[[渡辺プロダクション]]と業務提携し渡辺プロを窓口としていたが、[[1975年]](昭和50年)1月、正式に株式会社として法人登記した。<br /> <br /> 姉のメリーは、1950年代から東京都[[新宿区]]・[[四谷]]三丁目の円通寺坂入口右手の角にあった「スポット」という名の[[カウンターバー]]を経営しており、バーの客だった[[東京新聞]]記者(後に[[作家]])の[[藤島泰輔]]と内縁関係となり、1972年(昭和47年)の藤島泰輔の離婚成立後に結婚した。ジャニーがジャニーズ事務所を創業するとバーは廃業をし、事務所の経理を担当するようになった。<br /> <br /> 日本の芸能プロの草分けともいえる[[渡辺晋]]とほぼ同世代であるが、活動の開始は大きく出遅れたこともあり、先行する大手プロダクション群を凌駕し始めたのは[[1980年代]]に突入してからである。事務所黎明期の[[フォーリーブス]]・[[郷ひろみ]]・[[たのきんトリオ]]・[[シブがき隊]]・[[少年隊]]・[[光GENJI]]等に続いて、[[1990年代]]以降は[[SMAP]]をマルチタレント型なアイドルとして発展させ、[[2000年代]]から[[2010年代]]には、現在の[[TOKIO]]・[[V6 (グループ)|V6]]・[[KinKi Kids]]・[[嵐 (グループ)|嵐]]・[[Kis-My-Ft2]].[[ジャニーズWEST]]などの所属タレントの活躍の場を広げ、[[アイドル|男性アイドル]]の礎を築いた。<br /> <br /> === タレントに対する性的行為についての報道と裁判 === <br /> ジャニーが[[同性愛|同性愛者]]([[ゲイ]]、[[少年愛]]、[[ペドフィリア]])であり、事務所に所属する男性タレントに対して猥褻な行為を行っているとの噂は、[[1960年代]]から散発的に報道されていた。<br /> * 元フォーリーブスの[[北公次]]は、『光GENJIへ』シリーズ [[データハウス]]、[[1988年]](昭和63年) <br /> * 元[[ジューク・ボックス]]の小谷純とやなせかおるは、『さらば!!光GENJIへ』データハウス、1989年(平成元年)<br /> * 元ジャニーズの中谷良は、『ジャニーズの逆襲』データハウス、1989年(平成元年)<br /> * [[平本淳也]]は、『ジャニーズのすべて―少年愛の館』鹿砦社、[[1996年]](平成8年)<br /> * [[豊川誕]]は、『ひとりぼっちの旅立ち - 元ジャニーズ・アイドル 豊川誕半生記』 [[鹿砦社]]、1997年(平成9年)3月<br /> * 元光GENJI候補の木山将吾(山崎正人)は、『[[SMAPへ - そして、すべてのジャニーズタレントへ]]』[[2005年]](平成17年)など<br /> <br /> などを出版した。1988年(昭和63年)- 1989年(昭和64年/平成元年)に『[[噂の眞相]]』がこの問題を数回取り上げた。なお、[[自由民主党 (日本)|自民党]]衆議院議員(当時)・[[阪上善秀]](元・[[兵庫県]][[宝塚市]]長)が[[2000年]](平成12年)4月13日にこの問題を[[衆議院]]で取り上げている&lt;ref&gt;[http://www.shugiin.go.jp/itdb_kaigiroku.nsf/html/kaigiroku/007314720000413005.htm 第147回国会青少年問題に関する特別委員会第5号]&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> [[1999年]](平成11年)、『[[週刊文春]]』がジャニーズ事務所に関する特集記事を掲載し、喜多川が所属タレントに対して[[同性愛]]行為を行い、事務所では未成年所属タレントの喫煙などがあると報道した。これに対し喜多川側は記事が[[名誉毀損]]であるとして、文春に対し1億円あまりの損害賠償を要求する民事訴訟を起こした。<br /> <br /> [[2002年]](平成14年)3月27日の一審判決では、喜多川側が勝訴し、東京地裁は文春側に880万円の損害賠償を命じた。文春側はこれを不服として東京高裁に控訴した。[[2003年]](平成15年)7月15日の二審判決では、喜多川側の同性愛行為を認定した(矢崎秀一裁判長)。このため、同性愛部分の勝訴は取り消され、損害賠償額は120万円に減額された。喜多川側は損害賠償額を不服として最高裁に上告したが、[[2004年]](平成16年)2月24日に棄却され(藤田宙靖裁判長)、120万円の損害賠償と同性愛行為の認定が確定した。<br /> <br /> また、『[[ニューヨーク・タイムズ]]』、『[[オブザーバー (イギリスの新聞)|オブザーバー]]』などの世界各国のメディアでも取り上げられ、この問題をタブー視するなどして報道しない日本の[[マスメディア]]の姿勢を指摘した&lt;ref&gt;[http://www.nytimes.com/library/world/asia/013000japan-talent.html In Japan, Tarnishing a Star Maker](日本のスターメーカーの曇り)ニューヨークタイムズ2000年1月30日、カルビン・シムス記者。[http://observer.guardian.co.uk/omm/story/0,13887,1550807,00.html Japan&#039;s bizarre music industry](日本の奇妙な音楽産業)オブザーバー2005年8月21日、クリス・カンピオン記者&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> === 住居侵入被害 ===<br /> [[2011年]](平成23年)7月、[[東京都]][[渋谷区]]内の自宅[[マンション]]に見知らぬ男が侵入、喜多川を締め出して30分以上に渡って篭城するという事件が起こった&lt;ref&gt;[http://www.47news.jp/CN/201108/CN2011081701000443.html ジャニーさん宅に侵入容疑 男を現行犯逮捕] 『47ニュース』 共同通信 2011年8月17日配信&lt;/ref&gt;。喜多川は34階建てタワーマンションの最上階に居住していたが、この事件による怪我や室内の物品の破損・盗難などの被害はなかった&lt;ref&gt;[http://www.daily.co.jp/gossip/article/2011/08/18/0004379904.shtml ジャニー喜多川社長宅に男侵入、立てこもり] デイリースポーツ/神戸新聞社 2011年8月18日&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> == 逸話 ==<br /> * 喜多川は所属タレントを呼ぶ時に「you」と呼ぶことが多い。しかし混合するため「ゆう」という名前(芸名)の関ジャニ∞メンバー・[[横山裕]]に限り、「ヨコ」と呼んでいる。<br /> * 「[[敬語]]は堅苦しいから」とジャニーから敬語禁止令が出ており、所属タレントは皆、喜多川に対しタメ口で話している。所属タレントからの呼称は「ジャニーさん」または「社長」。<br /> * 喜多川本人は「[[演歌]]好き」とのことで、年末恒例のテレビ番組『[[NHK紅白歌合戦]]』から[[北島三郎]]が2013年(平成25年)限りで勇退したのを始め、年々[[演歌歌手]]が減少傾向があることに関して「大変寂しいこと」であると語っている&lt;ref&gt;[http://www.daily.co.jp/gossip/2015/01/03/0007629488.shtml ジャニー喜多川社長 紅白サブ不在に…] デイリースポーツ 2015年1月3日閲覧&lt;/ref&gt;。<br /> * [[2012年]](平成24年)[[5月3日]]に[[中華人民共和国|中国]]への進出を報道陣の前で表明&lt;ref&gt;[[デイリースポーツ]]2012年5月4日&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;{{cite news|title=「またジャニーさんの気まぐれか」“中国版ジャニーズ”構想にファンは冷静|url=http://www.excite.co.jp/News/entertainment_g/20120509/Cyzowoman_201205_post_5814.html|publisher=サイゾーウーマン|date=2012-05-09|accessdate=2017-10-22}}&lt;/ref&gt;するも結局頓挫した&lt;ref&gt;{{cite news|title=ジャニーズ中国進出が頓挫|url=https://www.tokyo-sports.co.jp/entame/33816/|publisher=[[東スポ]]|date=2012-08-25|accessdate=2017-10-22}}&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> == 受賞経歴 ==<br /> * [[2003年]](平成15年)、[[菊田一夫演劇賞]]「特別賞」受賞。授賞式には[[堂本光一]]を代理人として参加させた。<br /> * [[2011年]](平成23年)、[[ギネス世界記録|ギネス・ワールド・レコーズ]]が「最も多くのコンサートをプロデュースした人物」と「最も多くのナンバーワン・シングルをプロデュースした人物」に認定&lt;ref&gt;[http://www.47news.jp/CN/201109/CN2011092001000989.html ジャニーズ社長が世界記録 ギネス、最多のコンサート] 47NEWS 2011年9月21日閲覧&lt;/ref&gt;。ジャニー喜多川はそれまで「自分の写真を決して公開しない人物」として有名であったが、この受賞に際し自身の公開用肖像写真を初めて撮影した。ギネスブック(日本版除く)を始め、この写真を[[スポーツ新聞]]等マスコミ各社が掲載した(ただし、[[野球帽]]に[[サングラス]]姿のため、仔細な肖像は判らない様になっている。また、ジャニーズ事務所の方針に従い、[[インターネット]]上では公開されない)&lt;ref&gt;[http://sankei.jp.msn.com/entertainments/news/110925/ent11092508360003-n1.htm ジャニー喜多川さん「表舞台」初登場 ギネス認定で顔写真公表] MSN産経ニュース 2011年9月25日閲覧。&lt;/ref&gt;&lt;ref group=&quot;注釈&quot;&gt;[[2013年]](平成25年)[[1月27日]]に[[NHKワールドTV]](海外向け国際放送)で放送された「JOHNNYS&#039; World: Top of the J-Pops」でも自身の公開用肖像写真が紹介された。&lt;/ref&gt;。2012年(平成24年)にも「最も多くのチャート1位アーティストを生み出したプロデューサー」としてギネス認定を受けている&lt;ref&gt;[http://mainichi.jp/select/news/20121120k0000m040154000c.html ギネス認定:ジャニー喜多川さん3件目],毎日新聞,2012年11月20日&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> == 関連文献 ==<br /> * あおきひろし『ボクの夢はキミたちが描く夢〜ジャニー喜多川が語るジャニーズ塾の子供たち』メタモル出版、1999年8月。<br /> * 和泉ヒロシ『ジャニーズ・ファミリー - 裸になった少年たち -』オリオン出版、1976年6月。<br /> * [[江木俊夫]]『ジャニー喜多川さんを知ってますか』KKベストセラーズ、1997年7月。<br /> * 鶴田康文『ジャニーさん』データハウス、1990年3月。<br /> <br /> == 注釈 ==<br /> {{脚注ヘルプ}}<br /> {{reflist|group=&quot;注釈&quot;}}<br /> <br /> == 出典 ==<br /> {{reflist}}<br /> <br /> == 参考文献 ==<br /> * 芸能裁判研究班『平成の芸能裁判大全』鹿砦社、2003年10月、ISBN 978-4846305314<br /> * 小菅宏『芸能をビッグビジネスに変えた男「ジャニー喜多川」の戦略と戦術』[[講談社]]、2007年3月、ISBN 978-4062139007<br /> <br /> == 関連項目 ==<br /> * [[ジャニーズ事務所]]<br /> * [[渡辺プロダクション]]<br /> * [[吉本興業]]<br /> * [[渡辺晋]]<br /> * [[吉野伊佐男]]<br /> <br /> {{ジャニーズ}}<br /> <br /> {{デフォルトソート:きたかわ しやにい}}<br /> [[Category:日本の実業家]]<br /> [[Category:ジャニーズ事務所|人きたかわ しやにい]]<br /> [[Category:アメリカ合衆国陸軍の軍人]]<br /> [[Category:軍事顧問]]<br /> [[Category:英語通訳]]<br /> [[Category:帰国子女]]<br /> [[Category:日本のギネス世界記録保持者]]<br /> [[Category:上智大学出身の人物]]<br /> [[Category:ロサンゼルス出身の人物]]<br /> [[Category:1931年生]]<br /> [[Category:存命人物]]</div> 106.132.201.54 隠れキリシタン 2018-07-22T09:28:32Z <p>106.132.201.54: /* 芝居 */</p> <hr /> <div>[[File:Maria Kannon.jpg|thumb|[[マリア観音]](主に[[中国]]製の[[観音菩薩|慈母観音]]像を、[[聖母マリア]]に見立てて信仰の対象としていたもの)]]<br /> &#039;&#039;&#039;隠れキリシタン&#039;&#039;&#039;(かくれキリシタン)は、日本の[[江戸時代]]に[[江戸幕府]]が[[禁教令]]を布告して[[キリスト教]]を弾圧した後も、密かに信仰を続けた信者である。以下の2つに分けられるが、一般に両者を区別せずに呼ぶ。<br /> # [[強制改宗]]により[[仏教]]を信仰していると見せかけ、キリスト教([[カトリック教会|カトリック]])を[[偽装棄教]]した信者。<br /> # [[1873年]]([[明治]]6年)に禁教令が解かれ潜伏する必要がなくなっても、江戸時代の秘教形態を守り、[[カトリック教会]]に戻らない信者。<br /> <br /> 敢えて両者を区別する場合、1は「&#039;&#039;&#039;潜伏キリシタン&#039;&#039;&#039;」、2は「&#039;&#039;&#039;カクレキリシタン&#039;&#039;&#039;」(すべて[[片仮名]]で表記)と呼ぶ。<br /> <br /> == 潜伏キリシタン ==<br /> [[画像:Ibaraki Municipal Christian Relics Depository - Wooden Statue of Jesus Christ Crucified - Height 21.2cm, span of arms 19.7cm - On loan from Mr. Tôji Higashi.jpg|thumb|220px|キリスト磔刑木像([[茨木市立キリシタン遺物史料館]])]]<br /> [[画像:Ibaraki Municipal Christian Relics Depository - Container for Statue of Jesus Crucified - 6.8cm in diameter, 13.3cm in height - On loan from Mr. Tôji Higashi.jpg|thumb|140px|キリスト磔刑木像の筒]]<br /> 日本では、[[1549年]]に[[フランシスコ・ザビエル]]が来日して以降、[[キリスト教]]の布教がおこなわれて次第に改宗する者([[キリシタン]])が増えていった。しかし、江戸時代には、[[1614年]]に[[徳川家康]]による[[禁教令]]によってキリスト教信仰は禁止され、さらに[[1637年]]に起きた[[島原の乱]]の前後からは幕府による徹底したキリスト教禁止、キリシタン取り締まりが行われた。{{see also|邪教#江戸時代|日本のキリスト教史#江戸時代}}<br /> <br /> <br /> <br /> 当時のカトリック信徒(キリシタン)やその子孫は、表向きは仏教徒として振る舞うことを余儀なくされ、また[[1644年]]以降は国内にカトリックの[[司祭]]が一人もいない状況ながらも、密かにキリスト教の信仰を捨てずに代々伝えていった。これを「&#039;&#039;&#039;潜伏キリシタン&#039;&#039;&#039;」と呼ぶ&lt;ref&gt;片岡『かくれキリシタン - 歴史と民俗』、13頁&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;宮崎『カクレキリシタン』、21頁&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 「潜伏キリシタン」は、ごく小さな集落単位で秘密組織を作ってひそかに祈祷文「[[オラショ]]」を唱えて祈りを続け、[[観音菩薩|慈母観音]]像を[[聖母マリア]]に見立てたり(今日、それらの観音像は「[[マリア観音]]」と呼ばれる)、聖像聖画や[[メダイ]]、[[ロザリオ]]、クルス([[十字架]])などの聖具を秘蔵して「納戸神」として祀ったり、キリスト教伝来当時にならったやり方で生まれた子に[[洗礼]]を授けるなどして信仰を守りつづけた(これらの信仰の形式は地方によって異なる&lt;ref group=&quot;※&quot;&gt;たとえば[[外海町|外海]]・[[五島列島|五島]]では[[マリア観音]]が特に重要な信仰対象となっていた例が多いが、[[生月島]]ではマリア観音は見られず、聖画を掛け軸に仕立てて納戸に秘蔵していた例が多い。(宮崎『カクレキリシタン』、132-134頁&lt;/ref&gt;)。<br /> <br /> 「潜伏キリシタン」は、当初は国内広く潜伏していたとされるが、多くの土地ではすぐに途絶えていったとみられる。しかし、[[長崎県]]をはじめ[[熊本県]]の[[天草諸島|天草]]など九州の一部では、キリスト教伝来当時から継続的に宣教師の指導を受けた信仰が広く浸透していたことから、幕末まで多くの信仰組織が存続していた。<br /> <br /> 幕末の開国後の[[1865年]]([[慶応]]元年)、[[長崎市|長崎]]の[[大浦天主堂]]を浦上(現・長崎市浦上)在住の信者が訪ねてきたこと(「信徒発見」と呼ばれる)から、潜伏キリシタンの存在が国内外で知られるようになった。{{main|大浦天主堂#信徒の発見と大浦天主堂|ベルナール・プティジャン#信徒発見}}<br /> [[File:Oura_Tenshudo_Temple.jpg|250px]]<br /> <br /> その後、浦上の他にも長崎県の[[外海町|外海]]や[[五島列島|五島]]などでも信仰を表明する者が多数あらわれた。しかしキリスト教はいまだ禁教であったため、信仰を表明した信者は投獄や拷問によって棄教を迫られ、あるいは全国に配流されるなどの大規模な弾圧にあった。{{main|浦上四番崩れ#流配|崩れ#江戸時代末期から明治時代初期}}{{see also|五島列島#五島のキリスト教史}}<br /> <br /> 明治政府によるキリスト教弾圧は諸外国の非難・批判を招くことになり、[[1873年]](明治6年)に、江戸幕府以来の「キリシタン禁教令」が解かれて信仰の自由が認められた。それ以降はキリスト教信者ということだけで重罪に処されることが無くなり、再宣教のために来日した[[パリ外国宣教会]]などによって、一部を除く多くのキリシタンたちがキリスト教信仰を表明し、[[カトリック教会]]の信仰に復帰した。{{main|日本のキリスト教史#カトリック教会の復興とキリスト教解禁|禁教令#明治政府による禁教令と政教分離}}{{see also|浦上四番崩れ#帰郷|邪教#明治時代}}<br /> <br /> 現在では[[日本国憲法第19条]]および[[日本国憲法第20条]]により法的にも[[信教の自由]]が保証されているため、定義上潜伏キリシタンは現存しない。<br /> <br /> == カクレキリシタン ==<br /> [[江戸時代]]潜伏していたキリシタンたちは、200年以上もの間[[司祭]]などの指導を受けることなく自分たちだけで信仰を伝えていったため、長い年月の中でキリスト教の教義などの信仰理解が失われていき、[[仏教]]や[[神道]]、民俗信仰などとも結びついたり、あるいは地元の殉教者に対する尊崇を精神的な拠り所としつつ、キリシタン信仰当時の聖具からなる御神体や、殉教者が没した聖地などを主要な信仰対象とするもの&lt;ref&gt;[http://www.ikitsuki.com/yakata/kiricult/index8.htm 平戸市生月町博物館 島の館 (生月島のかくれキリシタン信仰)]&lt;/ref&gt;に変化していった。<br /> <br /> このため、明治時代以降にキリスト教の信仰が解禁されて再びカトリックの宣教がなされても、地域によっては半数以上のキリシタンは改宗に応じなかった&lt;ref&gt;米村(1980)、28頁。&lt;/ref&gt;&lt;ref group=&quot;※&quot;&gt;しかし、明治初期にはカトリックの宣教を全く受け入れなかったわけではないようで、その頃長崎県のカクレキリシタンは多くの地域でカトリックの宣教師と接触していたと思われ、カトリックに復帰せずカクレキリシタンに留まった地区・組織でも、明治期に宣教師からもたらされた十字架や[[ロザリオ]]などをいまも信仰の対象として大切に保管している例が、生月島や五島列島などで見られる。(宮崎『カクレキリシタン』、140頁、210頁)&lt;/ref&gt;。その後も独自の信仰様式を継承している人たちが、[[長崎県]]の一部地域に現在でも存在する。現地では「古ギリシタン」「旧キリシタン」「元帳」などと呼んでいるが&lt;ref&gt;宮崎『カクレキリシタン』、22頁&lt;/ref&gt;、学術的には、これを「&#039;&#039;&#039;カクレキリシタン&#039;&#039;&#039;」(全て[[片仮名]]表記&lt;ref group=&quot;※&quot;&gt;[[文化財保護法]]による[[選択無形民俗文化財]]としての隠れキリシタンは「&#039;&#039;&#039;かくれキリシタン&#039;&#039;&#039;」と表記。{{文化遺産オンライン|161271|長崎「かくれキリシタン」習俗}}&lt;/ref&gt;)と呼ぶ&lt;ref group=&quot;※&quot;&gt;以前は「&#039;&#039;&#039;離れキリシタン&#039;&#039;&#039;」と呼ぶこともあったが、この言葉は、正統なカトリックから離れてしまったという認識でカクレキリシタンを[[異端]]と見る差別的なものであり、用いるべきでないとされている。(宮崎『カクレキリシタン』、22頁)&lt;/ref&gt;。カクレキリシタンの研究者である[[宮崎賢太郎]]([[長崎純心大学]]教授)は、次のように定義している。<br /> <br /> {{Quotation|「カクレキリシタン」とは、キリシタン時代にキリスト教に改宗した者の子孫であり、[[1873年]]に禁教令が解かれて信仰の自由が認められた後もカトリックとは一線を画し、潜伏時代より伝承されてきた信仰形態を組織下にあって維持し続けている人々を指す。オラショや儀礼などに多分にキリシタン的要素を留めているが、長年月にわたる指導者不在のもと、日本の民俗信仰と深く結びつき、重層信仰、祖先崇拝、現世利益、儀礼主義的傾向を強く示すものである。|宮崎賢太郎|『カクレキリシタン』 21頁、ISBN 4931493408}}<br /> <br /> これまでの研究・調査によると、大正から昭和30年代の頃には約2万人~3万人弱の「カクレキリシタン」の信徒がいたと推計されているが、近年、過疎や高齢化による後継者不足、生活様式の世俗化などによってその数は急激に減少している&lt;ref name=&quot;Kakurekirisitan 44-48&quot;&gt;宮崎『カクレキリシタン』、44-48頁&lt;/ref&gt;。少数ながら、昭和以降にカトリックに復帰した集落があったり、結婚などを機に個人・家族単位でカトリックになった人もいるが、それよりも多くの人がキリシタンの信仰をやめて仏教や神道だけになっている。地域によっては、明治以降カトリックに復帰せず教会との接触を嫌ったことや近年の世俗化によってさらなる信仰の希薄化や変容が進んで元々のキリスト教から程遠いものになってしまった例もあり、集落の信仰伝承が途絶える原因の一つになっているとも考えられている。最近まで伝承が継続されている地域としては、長崎県の[[長崎市]]外海地区(旧[[西彼杵郡]][[外海町]])や[[五島列島]]、さらに[[平戸市]]の[[平戸島]]や[[生月島]](旧[[北松浦郡]][[生月町]])などの地域が挙げられ、[[世界遺産|世界文化遺産]]「[[長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産]]」の構成資産も、これらの地域に集中している&lt;ref name=&quot;Kakurekirisitan 44-48&quot;/&gt;。<br /> <br /> 長崎市外海地区、および隣接する旧三重村の樫山(現・長崎市樫山町)などは、江戸時代から多くの潜伏キリシタン組織が継承されてきた地域で、その後カトリックに復帰した者も多かったが、いまも旧外海町の[[黒崎村 (長崎県)|黒崎]]、[[小田平集落|出津]]にはカクレキリシタンの組織が残っている。このうち黒崎には、カクレキリシタンの神社「枯松神社」があり、「サン・ジワンさま&lt;ref group=&quot;※&quot;&gt;語源は[[ポルトガル語]]の“São João”(サン・ジョアン=聖ヨハネ)と思われ、長崎で布教した[[司祭]]を指すとも、[[洗礼者ヨハネ]]を指すともいう。&lt;/ref&gt;」を祀っている。黒崎の潜伏キリシタンは、明治になってカトリックに復帰した者、カクレキリシタンをかくまった[[天福寺_(長崎市)|天福寺]](長崎市樫山町、仏教[[曹洞宗]])の[[檀家制度|檀家]]に留まった者、カクレキリシタンとして先祖の信仰を維持した者とに分かれ、三者の間で互いにわだかまりが残っていた。[[1998年]](平成10年)にこの地のカトリック黒崎教会に主任[[司祭]]として赴任した野下千年[[神父]]はこれを憂慮し、三者が心を寄せ合う場として枯松神社で共に集い、信仰を守り抜いた先祖を慰霊する祭を実施するよう呼びかけ、[[2000年]]に三者の協力による「枯松神社祭」が行われ、現在も毎年行われている&lt;ref&gt;[http://www.nagasaki-np.co.jp/press/sekaiisan/kikaku4/04.html 『世界遺産への道』4、外海の文化的景観 独特の精神世界連綿と] [[2008年]]7月26日[[長崎新聞]]掲載&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;[http://lindenstein.blog58.fc2.com/blog-entry-795.html リンデンの長崎ケルン 第10回枯松神社祭(「沈黙」の原点)]&lt;/ref&gt;。{{see also|小田平集落#歴史}}<br /> <br /> {{要出典範囲|五島列島[[奈留島]]([[五島市]][[奈留町]])の火葬場の裏には現在も[[聖母マリア]]の姿をした[[墓]]がいくつも置かれている|date=2012年6月}}。五島列島ではカクレキリシタンの組織は大半が既に解散してしまい、信仰の道具の一部が[[福江島]]の[[堂崎天主堂#堂崎天主堂キリシタン資料館|堂崎天主堂キリシタン資料館]]に収蔵されているが、いまも[[福江島]]や奈留島、および[[中通島]](旧[[南松浦郡]][[若松町]])にわずかに組織が残っていて信仰が受け継がれている&lt;ref&gt;[http://www.nagasaki-np.co.jp/press/sekaiisan/kikaku3/04.html 『祈りの軌跡 堂崎教会献堂百周年』4、資料館の収蔵物(下)] 2008年4月25日 [[長崎新聞]]&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 平戸島では、カクレキリシタンの集落単位の信仰組織はすべて解散・消滅してしまったが、地元の殉教者・殉教地はいまも大切に崇められていて、カトリック教会と合同で慰霊祭が継続して行われている地区もある。また、代々信仰の対象となってきた聖画・聖具などの一部が[[平戸市切支丹資料館]]に収蔵されているほか、いまも各家庭で聖画等を保管して個人的に信仰を受け継ぐ信者もいる&lt;ref&gt;[http://www.nagasaki-np.co.jp/press/sekaiisan/kikaku4/02.html 『世界遺産への道』2、生月・平戸の文化的景観と中江ノ島] 2008年5月24日 [[長崎新聞]]&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> そして生月島では、現在最も多くカクレキリシタンの組織が残っており、独自の信仰行事がいまも伝承されている&lt;ref&gt;[http://www.ikitsuki.com/yakata/kiricult/index9.htm 平戸市生月町博物館 島の館 (生月島のかくれキリシタン信仰 - 組織)]&lt;/ref&gt;。平戸市生月町博物館「島の館」には、生月島のカクレキリシタンが信仰の対象としてきた「納戸神」の一部が展示されているほか、カクレキリシタンの人たちによるオラショがCDに収録されて出版もされている。<br /> <br /> === カトリックに戻らない理由 ===<br /> カクレキリシタンが未だカトリックに復帰しない理由については、さまざまな要因が考えられているが、主なものとしては、<br /> #先祖からの伝統形態を守り続けることが正しいとする考え方。<br /> #仏教、神道を隠れ蓑として来たが、長い年月のうちに精神と生活に定着し、神仏を祀るのに矛盾を感じなくなり、カトリックへ復活することによって神仏や先祖の位牌を捨てることへの抵抗感。<br /> #先祖から受け継いだ習慣を放棄すると、罰を受けるのではないかという恐れ。<br /> &lt;!--また、プチジャン神父が信徒発見以降、各々キリシタンの土地を回った際に、伝えられてきたキリシタンの教理、定められている暦、典礼が有効か無効か判断したことも大きな原因となっている。無効だった場合、代々の先祖の魂は救われず地獄に行くということになるので、隠れキリシタンはカトリックに改宗する際大きな勇気が必要であった。--&gt;<br /> &lt;!--↑出典を示してください。『カトリック教会情報ハンドブック2014』p33(キリシタン史跡をめぐる_九州編①)では、プティジャン師によって洗礼が無効と判断された地区の潜伏キリシタンは、無効だったからこそ改めて洗礼を受けてカトリック教会に戻ったという考察が紹介されています。--&gt;<br /> <br /> などが挙げられている&lt;ref&gt;[http://www.hira-shin.jp/record/index.cgi?page=6&amp;field=33 平戸地方のかくれキリシタン「9.復活しない訳」] [[平戸市切支丹資料館]]&lt;/ref&gt;。カムフラージュであったはずの仏教や神道の信仰が強くなってキリスト教の信仰理解が失われてしまい、カクレキリシタンにとって大切なのは、先祖が伝えてきたキリスト教起源の祈りや行事を、本来のキリスト教の意味は理解できなくなってしまっても、それを絶やすことなく継承していくことであって、それが先祖に対する子孫としての務めと考えられている&lt;ref&gt;宮崎『カクレキリシタン』、283頁&lt;/ref&gt;。また、明治初期のカトリック教会による宣教の際には、前述の[[浦上四番崩れ]]など直前にあった激しい迫害や差別を恐れたり、当時のカトリックの教義が厳格であったため容易に戻って行けなかったこと&lt;ref group=&quot;※&quot;&gt;[[長崎ウエスレヤン大学]]講師の加藤久雄は「当時(明治初期の禁教令廃止の頃)の[[カトリック教会|カトリック]]の教義が厳格であったこと、そして信仰するにあたって様々な負担もあって、なかなかカトリックには入って行けなかった。しかし、1960年代の[[第2バチカン公会議]]以降、日本語[[ミサ]]や地域への順応など教義が寛容になった。もし、明治初頭の禁教令廃止の際に今のような寛容な教義だったら、潜伏キリシタンは皆カトリックになっていたと思います。」と述べている。({{Cite news|title=隠れキリシタン紀行:最後の晩餐は質問攻め|url=http://www.asahi.com/travel/hikyou/TKY201102240373.html|newspaper=asahi.com|date=2011-02-24}})&lt;/ref&gt;&lt;ref group=&quot;※&quot;&gt;平戸市生月町博物館「島の館」学芸員の中園成生は「生月でも明治初期にカトリック教会から復帰の働きかけがあったが、神棚や仏壇の存在、とりわけ仏壇を廃棄するか否かという問題があった。それは仏様の壇というより、ご先祖様を祀る祭壇として意識されていたもので、ご先祖様こそ、死の危険を感じながら信仰を受け継いできた人たちであり、それを祀らずに捨てるということは考えられないばかりか、場合によっては不吉なことが起こるかもしれないという危惧を持ったようです。当時のフランス人宣教師は、先祖の祭壇としての意味を十分に理解できなかったようで、もし、そのような祖先祭祀のスタイルを上手く組み込むことが出来ていたら、カクレキリシタンは今日存在していなかったかも知れません。」と述べている。([http://tabinaga.jp/column/view.php?category=1&amp;hid=20140226193945&amp;offset=3 “旅する長崎学” たびながコラム「島の館」学芸員 中園成生さんインタビュー(1)] 長崎県文化振興課)&lt;/ref&gt;なども、理由として考えられている。<br /> <br /> そして現代においては、カトリックとカクレキリシタンの間での認識の違いも生じていて、カトリック教会・信者の側はカクレキリシタンもカトリックと同じ信仰だとみなしているが、カクレキリシタンの人たちは「カトリックとは違う」と意識している例が見られる&lt;ref&gt;{{Cite news|title=五島列島 カクレキリシタンとカトリックの胸の内|url=http://www.asahi.com/travel/hikyou/TKY201102150432.html|newspaper=asahi.com|date=2011-02-18}}&lt;/ref&gt;。あるいは、現代日本において仏教や神道でも見られるように、強い信仰心が失われて単なる伝統として宗教を受け継いでいるに過ぎず、カクレキリシタンもまたその例外ではなく、それゆえにあえてカトリックに復帰する必要性を感じないというケースも見られる。ただ、前述の外海地区のように、同じ地域や集落の中で同じ信仰を受け継いでいてもカトリックに復帰した者とカクレに留まった者が混在している例は多く&lt;ref group=&quot;※&quot;&gt;五島列島でも、カトリックとカクレキリシタンが混在している集落が複数ある他、現在カクレキリシタンが最も多い生月島でも、カクレと比べれば少数ながらカトリック信者が共存している。(宮崎『カクレキリシタン』より)&lt;/ref&gt;、また、そもそも信仰心は個人の内面の問題であって当然ながら他人からは伺い知れないものであり、一概に明確な理由を見出すことは困難である。<br /> <br /> == 教義の変容 ==<br /> 一部の隠れキリシタンの[[神話]]では、[[アダムとイヴ]]が[[禁断の果実]]を食べた後神に赦しを請うと神はこれを聞き届けてしまう、というものがある。[[旧約聖書]]の義の神とは明らかに異質なものとなり、西方キリスト教(ラテン教会)の中核ともいうべき[[原罪]]の観念が消滅している&lt;ref&gt;[[河合隼雄]]「隠れキリシタン神話の変容過程」(『物語と人間の科学』[[岩波書店]])1993年所収&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> == 海外からの視点 ==<br /> === バチカンの対応 ===<br /> [[2014年]]1月15日の一般謁見演説で[[フランシスコ (ローマ教皇)|フランシスコ]][[教皇]]は、「日本のキリスト教共同体は17世紀の初めに聖職者は追放され一人の[[司祭]]も残らず、共同体は非合法状態へと退き、密かに信仰と祈りを守りました。約250年後に宣教師が日本に戻り、数万人のキリスト信者が公の場に出て、教会は再び栄えることができました。このことは偉大です。日本のキリスト教共同体は、隠れていたにもかかわらず、強い共同体的精神を保ちました。彼らは孤立し、隠れていましたが、つねに神の民の一員でした。わたしたちはこの歴史から多くのことを学ぶことができるのです」と公式コメントを声明&lt;ref&gt;[http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/feature/francis/msg0081.htm 教皇フランシスコの2014年1月15日の一般謁見演説] [[カトリック中央協議会]]&lt;/ref&gt;、これをうけ[[バチカン]]の[[ローマ教皇庁]]は隠れキリシタンを「古いキリスト教徒であり、キリスト教徒とみなさない理由はない」とし(朝日新聞2014年3月26日)、[[信教の自由]]・[[文化的自由]]を認め、キリスト教の裾野の広さ、[[寛容]]さや[[多様性]]を示そうとした。<br /> <br /> === 英語表記 ===<br /> 隠れキリシタン(潜伏キリシタン・カクレキリシタンいずれも)の一般的な英訳は「Hidden Christians」になる&lt;ref group=&quot;※&quot;&gt;[[英語版Wikipedia]]には「[[:en:Kakure Kirishitan|Kakure Kirishitan]]」と[[ローマ字]]読み表記の項目がある&lt;/ref&gt;。これは明治期の[[来日]][[宣教師]]が本国やバチカンへ送った書簡に見られるもので&lt;ref group=&quot;※&quot;&gt;各宣教師の母国語やバチカン宛の[[ラテン語]]によるものの英語対訳&lt;/ref&gt;、[[長崎の教会群とキリスト教関連遺産]]として[[世界遺産]]を目指す活動の中で[[ユネスコ]][[世界遺産センター]]へ提出した推薦書や関係史跡での英語解説にも用いられている。「hide」には「隠れる・潜伏する」「秘めた」「人知れず」といった意味があり、自らの意思による積極性と、追い詰められやむなくの消極的な意味合い双方に解釈でき、微妙なニュアンスが伝わりにくいともされる。<br /> <br /> == その他 ==<br /> * [[福岡県]][[三井郡]][[大刀洗町]]には国の重要文化財の[[今村天主堂]]があるが、この教会堂が建つ今村地区は、[[1867年]]([[慶応]]3年)に隠れキリシタンが発見された場所である。<br /> * [[大阪府]][[茨木市]]北部(千提寺地区)の[[高山右近]]旧領に[[大正|大正時代]]まで発見されなかった隠れキリシタンの家々があり、ある旧家は信仰の品々を入れた「あけずの櫃」を長男にのみ伝承して誰にも見せなかった。こうした中から、現在[[神戸市立博物館]]蔵の[[重要文化財]]「聖[[フランシスコ・ザビエル]]像」もこの地の旧家で発見されている。現在[[茨木市立キリシタン遺物史料館]]で「あけずの櫃」や絵画、彫刻等の資料が公開されている。<br /> [[File:Daihoji temple (Shiojiri, Nagano) Maria jizo.jpg|thumb|180px|マリア地蔵&lt;br /&gt;(大宝寺、長野県塩尻市)]]<br /> * [[長野県]]の[[木曾谷|木曽谷]]を通る旧[[中山道]]沿いの各所には隠れキリシタン信仰の名残が散在している。[[塩尻市]][[奈良井宿|奈良井]]の大宝寺には子育て地蔵として隠し奉っていたのだが、首を落とされてしまったというマリア像があり、[[木曽町]]日義には折畳みマリア像、[[大桑村]]の妙覚寺には千手観音に姿を借りたマリア観音像、天長院には子育地蔵と呼ばれているマリア地蔵がある。<br /> * [[岩手県]][[一関市]]の大籠地区は、隠れキリシタンの里である。[[1640年]]([[寛永]]17年)には約3万人の信者がいた。現在は、[[大籠キリシタン殉教公園]]として整備され、資料館などの施設が建てられている。また、周辺にはいくつかの処刑場の跡が残されている。<br /> * [[兵庫県]][[加西市]]の大日寺で、[[1972年]]([[昭和]]47年)に背面に十字を刻んだ石仏([[背面十字架地蔵]])が発見される&lt;ref&gt;「[http://www.city.kasai.hyogo.jp/02kank/09bunk/sitei/shi/shi21.htm 大日寺石仏群]」(市指定文化財)&lt;/ref&gt;。また加西市は[[羅漢寺 (加西市)|羅漢寺]]の北条石仏([[五百羅漢]])&lt;ref&gt;「[http://kanko-kasai.com/spot/gohyakurakan/ 五百羅漢石仏]」(加西市観光まちづくり協会)&lt;/ref&gt;など多数の石仏で知られるが、うち150体ばかりについて隠れキリシタンとの関連を指摘する意見がある&lt;ref&gt;{{Cite news|title=加西の異形石仏群|url=http://www.asahi.com/kansai/travel/kansaiisan/OSK200811060033.html|newspaper=asahi.com|date=2008-11-06|accessdate=2011年3月19日}}&lt;/ref&gt;。<br /> * [[大分県]][[竹田市]]竹田には、隠れキリシタンが礼拝を行うために溶結凝灰岩を刳り貫いて造った全国でも例を見ない「キリシタン洞窟礼拝堂」(県指定史跡)と、それに隣接してブルドリノ、ナバロを含む5名の南蛮人宣教師を匿った「キリシタン神父の住居趾」がある。これらはいずれも藩の家老であった古田家の私邸敷地内であった(現在は私邸敷地内ではない)。また、キリシタンの遺物と言われる1612年に製造された「[[サンチャゴの鐘]]」が、歴代の[[岡藩]]主を祀る中川神社に奉納されている。<br /> * [[島根県]][[津和野町]]には、明治時代初期に長崎から連行されてきた隠れキリシタンの殉教地跡に建てられた「[[乙女峠マリア聖堂]]」があり、毎年5月3日には殉教者を偲ぶ乙女峠祭が行われている。<br /> * [[鹿児島県]]の[[甑島列島|甑島]]には、「クロ宗」([[クロ教]])と呼ばれる隠れキリシタンが現存していると言われている&lt;ref&gt;宮崎『カクレキリシタン』、42頁&lt;/ref&gt;。<br /> * [[愛知県]][[名古屋市]]には処刑されたキリシタンを弔うために建立された[[栄国寺]]があり、境内にはマリア観音など関連資料を展示する「切支丹遺跡博物館」が置かれている。<br /> * [[熊本県]][[天草市]]には民間キリシタン資料館の[[サンタマリア館]]がある。<br /> * [[宮崎県]][[延岡市]]松山町にはキリシタン塚と呼ばれる場所があり、現在は墓地となっている{{要出典|date=2018/02/20}}。<br /> <br /> == 隠れキリシタンを題材とした作品 ==<br /> === 音楽 ===<br /> ==== 合唱曲 ====<br /> * [[大島ミチル]]:交響曲『御誦』、男声合唱曲『御誦』<br /> * [[柴田南雄]]:『宇宙について』<br /> * [[千原英喜]]:『おらしょ』、『どちりなきりしたん』、『きりしたん 天地始之事』<br /> * [[荻久保和明]]:ミサ曲第二番『オラショ』、『ぱらいぞ/オラショ』<br /> * [[木下牧子]]:『邪宗門秘曲』<br /> * [[岩河三郎]]:『十字架(クルス)の島』<br /> * [[藤原義久]]:『マリア観音』<br /> <br /> ==== 吹奏楽曲 ====<br /> * [[伊藤康英]]:交響詩『[[ぐるりよざ]]』<br /> * [[藤田玄播]]:『切支丹の時代』<br /> <br /> ==== CD・DVD ====<br /> * 『洋楽渡来考』4枚組 ([[皆川達夫]] 日本伝統文化振興財団)<br /> <br /> === 小説 ===<br /> * [[沈黙 (遠藤周作)|沈黙]]([[遠藤周作]])<br /> *女の一生(遠藤周作)<br /> *青い空―幕末キリシタン類族伝([[海老沢泰久]])<br /> *奇談(行川渉、諸星大二郎)<br /> *守教([[帚木蓬生]])<br /> <br /> === 詩 ===<br /> *十字路(中村恵美)<br /> <br /> === 漫画 ===<br /> * [[生命の木]]([[諸星大二郎]])<br /> * [[さよなら絶望先生]]([[久米田康治]]) - 原作の最終回の舞台が長崎の離島と思われる描写があり、隠れキリシタンが物語の真相を明らかにするテーマとなっている。<br /> <br /> === ゲーム ===<br /> * [[Fate/stay night]] ([[TYPE-MOON]]) - ヒロインの一人、遠坂凛が隠れキリシタンの末裔であることが示唆されている。<br /> <br /> === 芝居 ===<br /> *[[大衆演劇]]などで、隠れキリシタンの[[奉行]]の人生を劇化した、「[[マリア観音]]」を演じることもある。<br /> <br /> == 脚注 ==<br /> {{脚注ヘルプ}}<br /> ; 注釈<br /> {{Reflist|group=&quot;※&quot;}}<br /> ; 出典<br /> {{Reflist|2}}<br /> <br /> == 参考資料 ==<br /> &lt;!-- * [[皆川達夫]]『洋楽渡来考』日本キリスト教出版局 --&gt;<br /> * {{Cite journal|和書|author=米村昭二|year=1980|title=キリシタン村落の家族分封と儀礼的親族関係 : 長崎県南松浦郡奈留町矢神・南越、若松町古里の事例分析|journal=北海道大學文學部紀要|volume=28|issue=1|page=|pages=3-130|publisher=北海道大學文學部}}<br /> *[[片岡弥吉]]『かくれキリシタン - 歴史と民俗』、日本放送出版協会、1967、ISBN 4140010568<br /> *宮崎賢太郎『カクレキリシタン オラショー魂の通奏低音』、長崎新聞社、2003、ISBN 4931493408<br /> <br /> == 関連項目 ==<br /> * [[ドチリナ・キリシタン]]<br /> * [[転びキリシタン]]<br /> * [[オラショ]]<br /> * [[隠れ切支丹鏡]]<br /> * [[マリア観音]]<br /> ** [[さんた丸や]]<br /> ** [[マリア地蔵 (幸手市)]]<br /> * [[宗門改め]]<br /> ** [[踏み絵]]<br /> ** [[南蛮誓詞]]<br /> {{キリスト教 横}}<br /> {{日本キリスト教史}}<br /> <br /> {{DEFAULTSORT:かくれきりしたん}}<br /> [[Category:キリシタン|!かくれ]]<br /> [[Category:隠れキリシタン|*]]<br /> [[Category:宗教的な差別]]<br /> [[Category:江戸時代のキリスト教]]<br /> [[Category:九州地方の歴史]]<br /> [[Category:日本のカトリック教会]]<br /> {{Japanese-history-stub}}<br /> {{christ-stub}}<br /> <br /> [[de:Christentum in Japan#Kakure Kirishitan]]<br /> [[es:Historia del catolicismo en Japón#Kakure Kirishitan]]</div> 106.132.201.54
Warning: Cannot modify header information - headers already sent by (output started at /home/users/1/sub.jp-asate/web/wiki/extensions/HeadScript/HeadScript.php:3) in /home/users/1/sub.jp-asate/web/wiki/includes/WebResponse.php on line 46