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miniwiki - 利用者の投稿記録 [ja]
2024-05-04T23:35:02Z
利用者の投稿記録
MediaWiki 1.31.0
ケンブリッジ大学
2018-09-15T03:33:41Z
<p>103.226.44.9: 追記</p>
<hr />
<div>{{出典の明記|date=2015年4月}}<br />
<br />
{{Infobox University<br />
|name = ケンブリッジ大学<br />
|native_name = University of Cambridge<br />
|latin_name = {{lang|la|''Universitas Cantabrigiensis''}}<br />
|image_name = KingsCollegeChapel.jpg<br />
|image_size = 310px<br />
|caption = ケンブリッジ大学<br />
|motto = {{lang|la|''Hinc lucem et pocula sacra''}} ([[Latin]])<br />'' From here, light and sacred draughts([[English]])<br />
|established = [[1209年]]<ref name="camabout">{{cite web |url=http://www.cam.ac.uk/about-the-university/history/timeline |title=About the University |publisher=University of Cambridge |accessdate=2016-02-10}}</ref> <br />
|type = [[古代の大学]]<br />
|president = <br />
|city = [[ケンブリッジ]]<br />
|state = <div>{{ENG}}<br />
|country = <div>{{UK}}<br />
|endowment = £5.89&nbsp;billion<br />
|faculty = 6,645<br />
|staff = 3,178<br />
|students = 19,515<br />
|undergrad = 12,230<br />
|postgrad = 7,285<br />
|mascot = <br />
|athletics = <br />
|colours = {{color box|#A3C1AD}} [[ケンブリッジブルー]]<br />
|affiliations = [[ラッセル・グループ]]<br />[[ヨーロッパ大学協会]]<br />[[G5 (universities)|G5 universities]]<br />[[Golden triangle (universities)|Golden triangle]]<br />[[ヨーロッパ研究大学連盟]]<br />[[国際研究型大学連合]]<br />[[SES-5 (universities)|SES-5]][[SES-5 (universities)|SES-5]]<br />
|website = {{URL|http://www.cam.ac.uk/}}<br />
|footnotes = '''紋章'''<br />
|logo =[[Image:University of Cambridge coat of arms.svg|200px]]<br />
}}<br />
'''ケンブリッジ大学'''(University of Cambridge)は、[[イギリス]]の[[大学都市]][[ケンブリッジ]]に所在する[[総合大学]]であり、イギリス伝統の[[カレッジ|カレッジ制]]を特徴とする世界屈指の名門大学である。[[中世]]に創設されて以来、[[英語圏]]では「[[オックスブリッジ]]」として並び称される一方の[[オックスフォード大学]]に次ぐ古い歴史をもち、[[古代の大学|アンシャン・ユニヴァシティー]]に属し<ref name="camabout" />、また、[[ヨーロッパ|欧州]]内の[[中世大学]]群に属する。<br />
<br />
[[ハーバード大学]]、[[シカゴ大学]]、[[オックスフォード大学]]等と並び、各種の[[世界大学ランキング]]で常にトップレベルの優秀な大学として評価されており、公式の[[ノーベル賞]]受賞者は96人(2016年12月現在)と、世界の大学・研究機関で最多(内、卒業生の受賞者は65人)<ref>https://www.cam.ac.uk/research/research-at-cambridge/nobel-prize</ref>。[[総長]]は{{仮リンク|デービッド・セインズバリー|en|David_Sainsbury,_Baron_Sainsbury_of_Turville}}で、副総長は{{仮リンク|スティーブン・トュープ|en|Stephen_Toope}}。<br />
<br />
公式サイトでは国公立大学(Public University)と紹介している。法的根拠が国王の勅許状により設立された自治団体であること、大学財政審議会(UFC)を通じて国家から国庫補助金の配分を受けており、大学規模や文科・理科の配分比率がUFCにより決定されていること、法的性質が明らかに違う[[バッキンガム大学]]等の私立大学が近年新設されたことによる。ただし、自然発生的な創立の歴史や高度な大学自治、独自の財産と安定収入のあるカレッジの存在、日本でいう国公立大学とは解釈が異なる。<br />
<br />
[[アメリカ合衆国|アメリカ]]、[[ヨーロッパ]]、[[アジア]]、[[アフリカ]]各国からの[[留学生]]も多い。2005年現在、[[欧州連合|EU]]外からの学生は3,000人を超え、日本からの留学生も毎年十数人~数十人規模となっている。研究者の交流も盛んで、日本からの在外訪問研究者も多い。<br />
<br />
== 沿革 ==<br />
[[13世紀]]初頭に、町の人々と対立して[[オックスフォード]]から逃れてきた学者たちが、この町に住み着き、研究・教育活動を始めたのを起源とする[[中世大学]]である(大学としての公式な創立年度は[[1209年]])。彼らの活動はやがて、イングランド国王の保護なども受けて発展をはじめ、現存する最古のカレッジ、Peterhouse(ピーターハウス)は[[1284年]]の創立。13世紀にはヴァチカンから[[ストゥディウム・ゲネラーレ]]の認定を受けている。[[アイザック・ニュートン]]、[[チャールズ・ダーウィン]]、[[ジョン・メイナード・ケインズ]]等、近世以降の人類史において、社会の変革に大きく貢献した数々の著名人を輩出してきた。<br />
<br />
== 特徴 ==<br />
=== カレッジ制 ===<br />
ケンブリッジ大学は、31の[[カレッジ]]から成るカレッジ制を採る。カレッジは「学寮」とも訳され、全ての学生は学部生・大学院生を問わず、1つのカレッジに所属する。学部生の入学者選抜はカレッジ毎に行われ、一部の学科を除いて[[Aレベル]]試験の成績の他に、[[面接試験]]で判定される。歴史的に見れば、カレッジは教師と学生が寝食を共にし、そこで共に学ぶという[[修道院]]の形態に由来している。[[19世紀]]の半ばまで、教員は[[イギリス国教会|英国国教会]]徒であること、および生涯独身であることなどが義務付けられていたが、大学改革により義務は緩和された。現在では国教会に限らず、プロテスタント系、[[カトリック教会|カトリック]]のカレッジも存在している。各カレッジは代々固有の財産と安定収入を持ち、伝統的な資産はイギリス各地の荘園、農園であり、近年では株式の割合も増えている。カレッジの資産を管理・運用する[[フェロー]]のことを{{仮リンク|バルサー|en|Bursar}}と呼び、経済学者のケインズはケンブリッジ大学のキングス・カレッジのバルサーであった。<br />
<br />
学部生の教育は、伝統的にはカレッジで教員と学生の1対1で行われていた。カレッジによるこうした指導を「チュートリアル」と呼び、チュートリアルを施す教員を「[[チューター]]」と呼ぶ。現在ではチューターは生活面で学生の面倒を見る教員を指す。ただし、「シニア・チューター (senior tutor)」と呼ばれるチューターのリーダーは、現在でも各カレッジにおける教育の最高責任者と見なされている。またオックスフォード大学、[[ダラム大学]]は、同種のカレッジ制を採用した大学であることから、大学間でカレッジ対抗のスポーツイベント、[[ドオックスブリッジ]]が開催されている。<br />
<br />
=== 授業・研究活動 ===<br />
現在の授業はカレッジではなく、学部・学科が中心となって行われる。授業には2つの形態があり、1つは学部・学科の提供するもので多くの学生が集まって聴講する講義形式の授業、もう1つはカレッジの責任で行われる「スーパービジョン (supervision)」と呼ばれる個人または少人数形式の授業である。各カレッジには科目毎に学習指導教員 (Director of study) がおり、学習指導教員は学部・学科から推薦された教員・研究員・大学院博士課程の学生の中から、学生ひとりひとりに「スーパーバイザー (supervisor)」と呼ばれる指導教員を任命する。スーパービジョンでは文科系の場合、与えられた課題に対して小論文 (essay) を事前に提出し、その小論文について指導教官が添削したものを学生と議論しながら指導していくという形式を取ることが多い。<br />
<br />
大学院生の教育には、研究科(学部・学科)が主に責任を担っている。大学院の入学者を選抜する権限は専門の研究科にあり、研究科からの入学許可を得た後に、属するカレッジが決定する。大学院においても修士課程や博士課程の初年度には講義が行われる場合が多いが、その勉学・研究活動の中心は指導教官とのスーパービジョンにある。学部生とは異なり、大学院のスーパービジョンは現在でも一対一の原則がほぼ貫かれている。また、スーパーバイザーの選択はカレッジの学習指導教員でなく、それぞれの研究科の責任で行われる。<br />
<br />
=== 学期 ===<br />
ケンブリッジ大学は、1学年を3つの学期に分けている。学則上、10月1日~12月19日をMichaelmas Term、1月5日~3月25日をLent Term、4月10日~6月18日をEaster Termと呼ばれている。このうち授業が行われる「フル・ターム (full term)」と呼ばれる期間は、各学期8週間である。学部と一部の大学院のコースの試験は、5月に一斉に行われる。この学部の試験と数学の[[修士]]の試験は、「トライポス (tripos)」と呼ばれる。日の長くなる6月には各カレッジ毎にメイ・ボール (May Ball) あるいはジューン・イベント (June Event) 等と呼ばれる園遊会のシーズンを迎える。大学院の場合は、6~7月に学年の終了するコースもある。<br />
<br />
=== 試験と入学基準 ===<br />
受験に際しては、通常の試験による。外国人の場合は、[[IELTS]](英国英語検定試験)の受験が義務付けられている。入学基準において、GPA3.70以上に加え(大学院博士課程は大学院の修士号GPA3.70)、IELTS7.5以上、またはTOEFL PBT620点以上(IBT110点以上)が必須。博士号を進むにあたっては職歴も問われ、大学院の修士課程でのGPAの成績が問われる。<br />
<br />
== 学生生活 ==<br />
ケンブリッジ大学には、他の大学とは異なる慣習やルールが多数存在していた。かつては大学の自治警察に町内の[[警察権]]が与えられ、その他にワインや食料を独占的に販売する特権、近傍の市場の度量衡などの監督権<ref>[[コーネリアス・ウォルフォード|コルネリウス・ウォルフォード]] 『市の社会史』 中村勝訳、そしえて、1984年。 p.111</ref>、学生がカレッジの外に出る際には[[ガウン]]を着用する義務などがあった。それらは数百年にわたる大学改革によって徐々に姿を消してきたが、中世由来の慣習の一部は現在でも存在している。例えば授業期間中は大学教会であるセント・メアリー教会から2マイル以内に居住しなければならないこと、カレッジごとに「フォーマル・ホール (formal hall)」と呼ばれる晩餐会が設けられていること、所属するカレッジのフォーマル・ホールにおいてはガウンを着用することなどである。<br />
<br />
ケンブリッジの学寮には「犬の飼育は禁止だが、猫は構わない」というルールがあり、女子寮を含む複数の学寮で猫が飼われている。<ref>トニー・イェンドレイ&志村博「Cambridge Cats ケンブリッジの誇り高き猫たち」『SINRA 1998年7月号』新潮社、1998年、pp114-117。</ref><br />
<br />
== オックスフォード大学との関係 ==<br />
{{main|オックスブリッジ}}<br />
[[オックスフォード大学]]とは強いライバル関係にあり、両大学合わせて、「[[オックスブリッジ]]」と呼ばれる。両校の間では、スポーツなど各種の親善試合が頻繁に行われる。中でもとりわけ有名なのは、毎年春に[[ロンドン]]の[[テムズ川]]で行われる[[ボート競技|ボートレース]]([[レガッタ]])である。両大学は、互いに「あちら(the other place, another universityなど)」と呼び合うだけでなく、[[パント]]と呼ばれる舟遊びでも逆方向から漕ぐ徹底振りである。市内中心部を諸カレッジの壁面が覆うことよりオックスフォード大学が「大学の中に町がある」と言われるのに対し、[[大学都市]]である、ケンブリッジ市内中心部が明るく伸びやかな雰囲気のあるケンブリッジ大学はよく「町の中に大学がある」と称される<ref>『地球の歩き方 イギリス 1999~2000年版』ダイヤモンド・ビッグ社 p.234.</ref>。<br />
<br />
== カレッジ一覧 ==<br />
{| class="wikitable" style="margin: 0 auto; font-size: 90%;"<br />
|- <br />
! 盾章<br />
! スカーフ・カラー<br />
! カレッジ<br />
! 設立年<br />
! 学部生数<br />
! 院生数<br />
! サイト<br />
|-<br />
|[[ファイル:Christs shield.png|20px]]<br />
|<br />
{| style="border-width: 0px; border-collapse: collapse; font-size: 80%; width: 14em;"<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #630;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #630;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #630;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #fff;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #630;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #630;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #630;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #fff;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #630;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #630;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #630;"|&nbsp;<br />
|}<br />
|[[クライスツ・カレッジ (ケンブリッジ大学)|クライスツ・カレッジ]] Christ's College<br />
|[[1505年]]<br />
|395 <br />
|95<br />
|[http://www.christs.cam.ac.uk/]<br />
|-<br />
|[[ファイル:Churchill College Crest - flat.png|20px]]<br />
|<br />
{| style="border-width: 0px; border-collapse: collapse; font-size: 80%; width: 14em;"<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #000;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #000;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #000;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #f99;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #630;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #f99;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #000;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #000;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #000;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #f99;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #630;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #f99;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #000;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #000;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #000;"|&nbsp;<br />
|}<br />
|[[チャーチル・カレッジ]] Churchill College<br />
|[[1960年]]<br />
|440 <br />
|210 <br />
|[http://www.chu.cam.ac.uk/]<br />
|-<br />
|[[ファイル:ClareCollegeCrest.svg|20px]]<br />
|<br />
{| style="border-width: 0px; border-collapse: collapse; font-size: 80%; width: 14em;"<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #000;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #000;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #000;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #ff0;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #000;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #000;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #000;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #ff0;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #000;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #000;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #000;"|&nbsp;<br />
|}<br />
|{{仮リンク|クレア・カレッジ|en|Clare College, Cambridge}} Clare College<br />
|[[1326年]]<br />
|400 <br />
|180<br />
|[http://www.clare.cam.ac.uk/]<br />
|-<br />
|[[ファイル:Clarehall shield.png|20px]]<br />
|<br />
{| style="border-width: 0px; border-collapse: collapse; font-size: 80%; width: 14em;"<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #000;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #000;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #000;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #fc0;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #f00;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #fc0;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #000;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #000;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #000;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #fc0;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #f00;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #fc0;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #000;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #000;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #000;"|&nbsp;<br />
|}<br />
|{{仮リンク|クレア・ホール|en|Clare Hall, Cambridge}} Clare Hall<br />
|[[1965年]]<br />
|0 <br />
|135 <br />
|[http://www.clarehall.cam.ac.uk/]<br />
|-<br />
|[[ファイル:Corpus Shield.png|20px]]<br />
|<br />
{| style="border-width: 0px; border-collapse: collapse; font-size: 80%; width: 14em;"<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #f09;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #f09;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #f09;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #fff;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #f09;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #f09;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #f09;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #fff;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #f09;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #f09;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #f09;"|&nbsp;<br />
|}<br />
|{{仮リンク|コーパス・クリスティ・カレッジ (ケンブリッジ大学)|label=コーパス・クリスティ・カレッジ|en|Corpus Christi College, Cambridge}} Corpus Christi College<br />
|[[1352年]]<br />
|250 <br />
|150 <br />
|[http://www.corpus.cam.ac.uk/]<br />
|-<br />
|[[ファイル:Darwin College Arms.svg|20px]]<br />
|<br />
{| style="border-width: 0px; border-collapse: collapse; font-size: 80%; width: 14em;"<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #00c;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #00c;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #00c;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #f00;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #6cf;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #ff0;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #00c;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #00c;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #00c;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #f00;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #6cf;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #ff0;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #00c;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #00c;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #00c;"|&nbsp;<br />
|}<br />
|[[ダーウィン・カレッジ]] Darwin College<br />
|[[1964年]]<br />
|0 <br />
|591 <br />
|[http://www.dar.cam.ac.uk/]<br />
|-<br />
|[[ファイル:Downing Crest.svg|20px]]<br />
|<br />
{| style="border-width: 0px; border-collapse: collapse; font-size: 80%; width: 14em;"<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #000;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #000;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #f0f;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #000;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #f0f;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #000;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #f0f;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #000;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #000;"|&nbsp;<br />
|}<br />
|{{仮リンク|ダウニング・カレッジ|en|Downing College, Cambridge}} Downing College<br />
|[[1800年]]<br />
|409 <br />
|292<br />
|[http://www.dow.cam.ac.uk/]<br />
|-<br />
|[[ファイル:Emmanuel College Crest.svg|20px]]<br />
|<br />
{| style="border-width: 0px; border-collapse: collapse; font-size: 80%; width: 14em;"<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #006;"|&nbsp;||style="border-width: 0px; background-color: #006;"|&nbsp;||style="border-width: 0px; background-color: #006;"|&nbsp;||style="border-width: 0px; background-color: #f69;"|&nbsp;||style="border-width: 0px; background-color: #006;"|&nbsp;||style="border-width: 0px; background-color: #006;"|&nbsp;||style="border-width: 0px; background-color: #006;"|&nbsp;||style="border-width: 0px; background-color: #f69;"|&nbsp;||style="border-width: 0px; background-color: #006;"|&nbsp;||style="border-width: 0px; background-color: #006;"|&nbsp;||style="border-width: 0px; background-color: #006;"|&nbsp;<br />
|}<br />
|{{仮リンク|エマニュエル・カレッジ|en|Emmanuel College, Cambridge}} Emmanuel College<br />
|[[1584年]]<br />
|494 <br />
|98<br />
|[http://www.emma.cam.ac.uk/]<br />
|-<br />
|[[ファイル:Fitzwilliam College Crest.png|20px]]<br />
|<br />
{| style="border-width: 0px; border-collapse: collapse; font-size: 80%; width: 14em;"<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #903;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #903;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #903;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #999;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #903;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #903;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #903;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #999;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #903;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #903;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #903;"|&nbsp;<br />
|}<br />
|[[フィッツウィリアム・カレッジ]] Fitzwilliam College<br />
|[[1966年]]<br />
|474 <br />
|180<br />
|[http://www.fitz.cam.ac.uk/]<br />
|-<br />
|[[ファイル:Arms of Girton College, Cambridge.svg|20px]]<br />
|<br />
{| style="border-width: 0px; border-collapse: collapse; font-size: 80%; width: 14em;"<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #090;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #090;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #090;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #fff;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #c00;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #fff;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #090;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #090;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #090;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #fff;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #c00;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #fff;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #090;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #090;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #090;"|&nbsp;<br />
|}<br />
|[[ガートン・カレッジ]] Girton College<br />
|[[1869年]] <br />
|503 <br />
|201<br />
|[http://www.girton.cam.ac.uk/]<br />
|-<br />
|[[ファイル:Gonville & Caius College Crest.svg|20px]]<br />
|<br />
{| style="border-width: 0px; border-collapse: collapse; font-size: 80%; width: 14em;"<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #000;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #6cf;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #000;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #6cf;"|&nbsp;<br />
|}<br />
|[[ゴンヴィル・アンド・キーズ・カレッジ]] Gonville and Caius College<br />
|[[1348年]]<br />
|468 <br />
|291<br />
|[http://www.cai.cam.ac.uk/]<br />
|-<br />
|[[ファイル:Homerton College Shield for print.png|20px]]<br />
|<br />
{| style="border-width: 0px; border-collapse: collapse; font-size: 80%; width: 14em;"<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #006;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #006;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #006;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #fff;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #006;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #006;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #006;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #fff;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #006;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #006;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #006;"|&nbsp;<br />
|}<br />
|{{仮リンク|ホマトン・カレッジ|en|Homerton College, Cambridge}} Homerton College<br />
|[[1976年]]<br />
|550 <br />
|500<br />
|[http://www.homerton.cam.ac.uk/]<br />
|-<br />
|[[ファイル:HughesHallShield.png|20px]]<br />
|<br />
{| style="border-width: 0px; border-collapse: collapse; font-size: 80%; width: 14em;"<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #06c;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #6cf;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #06c;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #fff;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #06c;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #6cf;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #06c;"|&nbsp;<br />
|}<br />
|{{仮リンク|ヒューズ・ホール|en|Hughes Hall, Cambridge}} Hughes Hall<br />
|[[1885年]]<br />
|39<sup>†</sup><br />
|314<br />
|[http://www.hughes.cam.ac.uk/]<br />
|-<br />
|[[ファイル:Jesus College (Cambridge) shield.svg|20px]]<br />
|<br />
{| style="border-width: 0px; border-collapse: collapse; font-size: 80%; width: 14em;"<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #000;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #c00;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #000;"|&nbsp;<br />
|}<br />
|{{仮リンク|ジーザス・カレッジ|en|Jesus College, Cambridge}} Jesus College<br />
|[[1496年]]<br />
|503 <br />
|237<br />
|[http://www.jesus.cam.ac.uk/]<br />
|-<br />
|[[ファイル:Kingscollegearms-alternative.svg|20px]]<br />
|<br />
{| style="border-width: 0px; border-collapse: collapse; font-size: 80%; width: 14em;"<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #90c;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #90c;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #90c;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #fff;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #90c;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #90c;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #90c;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #fff;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #90c;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #90c;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #90c;"|&nbsp;<br />
|}<br />
|[[キングス・カレッジ (ケンブリッジ大学)|キングス・カレッジ]] King's College<br />
|[[1441年]]<br />
|397 <br />
|239<br />
|[http://www.kings.cam.ac.uk/]<br />
|-<br />
|[[ファイル:Lucy cav shield.png|20px]]<br />
|<br />
{| style="border-width: 0px; border-collapse: collapse; font-size: 80%; width: 14em;"<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #000;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #000;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #000;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #00c;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #000;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #000;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #000;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #00c;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #00c;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #000;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #000;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #00c;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #00c;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #00c;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #000;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #00c;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #00c;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #00c;"|&nbsp;<br />
|}<br />
|{{仮リンク|ルーシー・キャベンディッシュ・カレッジ|en|Lucy Cavendish College, Cambridge}} Lucy Cavendish College<br />
|[[1965年]]<br />
|106<sup>*†</sup><br />
|116<sup>*</sup><br />
|[http://www.lucy-cav.cam.ac.uk/]<br />
|-<br />
|[[ファイル:Magdalene shield.png|20px]]<br />
|<br />
{| style="border-width: 0px; border-collapse: collapse; font-size: 80%; width: 14em;"<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #006;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #006;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #006;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #f9f;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #006;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #006;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #006;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #f9f;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #006;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #006;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #006;"|&nbsp;<br />
|}<br />
|[[モードリン・カレッジ (ケンブリッジ大学)|モードリン・カレッジ]] Magdalene College<br />
|[[1428年]]<br />
|335 <br />
|169<br />
|[http://www.magd.cam.ac.uk/]<br />
|-<br />
|[[ファイル:MurrayEdwardsCollegeCrest.svg|20px]]<br />
|<br />
{| style="border-width: 0px; border-collapse: collapse; font-size: 80%; width: 14em;"<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #000;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #000;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #000;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #ff0;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #009;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #009;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #009;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #f00;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #009;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #009;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #009;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #ff0;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #000;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #000;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #000;"|&nbsp;<br />
|}<br />
|{{仮リンク|マレー・エドワーズ・カレッジ|en|Murray Edwards College, Cambridge}} Murray Edwards College<br />
|[[1954年]]<br />
|377<sup>*</sup><br />
|74<sup>*</sup><br />
|[http://www.murrayedwards.cam.ac.uk/]<br />
|-<br />
|[[ファイル:Newnham crest.png|20px]]<br />
|<br />
{| style="border-width: 0px; border-collapse: collapse; font-size: 80%; width: 14em;"<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #999;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #999;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #999;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #006;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #006;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #fc0;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #006;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #006;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #999;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #999;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #999;"|&nbsp;<br />
|}<br />
|{{仮リンク|ニューナム・カレッジ|en|Newnham College, Cambridge}} Newnham College<br />
|[[1871年]]<br />
|396<sup>*</sup><br />
|120<sup>*</sup><br />
|[http://www.newn.cam.ac.uk/]<br />
|-<br />
|[[ファイル:Pembroke College (Cambridge) shield.svg|20px]]<br />
|<br />
{| style="border-width: 0px; border-collapse: collapse; font-size: 80%; width: 14em;"<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #006;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #006;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #006;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #6cf;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #006;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #006;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #006;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #6cf;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #006;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #006;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #006;"|&nbsp;<br />
|}<br />
|[[ペンブルック・カレッジ]] Pembroke College<br />
|[[1347年]]<br />
|~420 <br />
|194<br />
|[http://www.pem.cam.ac.uk/]<br />
|-<br />
|[[ファイル:Peterhouse shield.svg|23x23ピクセル]]<br />
|<br />
{| style="border-width: 0px; border-collapse: collapse; font-size: 80%; width: 14em;"<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #009;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #fff;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #009;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #fff;"|&nbsp;<br />
|}<br />
|{{仮リンク|ピーターハウス|en|Peterhouse, Cambridge}} Peterhouse<br />
|[[1284年]]<br />
|270 <br />
|125<br />
|[http://www.pet.cam.ac.uk/]<br />
|-<br />
|[[ファイル:Queens' College (Cambridge) shield.svg|20px]]<br />
|<br />
{| style="border-width: 0px; border-collapse: collapse; font-size: 80%; width: 14em;"<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #060;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #060;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #060;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #fff;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #060;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #060;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #060;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #fff;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #060;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #060;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #060;"|&nbsp;<br />
|}<br />
|{{仮リンク|クイーンズ・カレッジ (ケンブリッジ大学)|label=クイーンズ・カレッジ|en|Queens' College, Cambridge}} Queens' College<br />
|[[1448年]]<br />
|490 <br />
|270<br />
|[http://www.quns.cam.ac.uk/]<br />
|-<br />
|[[ファイル:Robinson College Crest.svg|20px]]<br />
|<br />
{| style="border-width: 0px; border-collapse: collapse; font-size: 80%; width: 14em;"<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #009;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #009;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #009;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #999;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #f90;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #009;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #999;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #999;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #999;"|&nbsp;<br />
|}<br />
|{{仮リンク|ロビンソン・カレッジ|en|Robinson College, Cambridge}} Robinson College<br />
|[[1977年]]<br />
|390 <br />
|96<br />
|[http://www.robinson.cam.ac.uk/]<br />
|-<br />
|[[ファイル:St Catharine's College Crest - flat.png|20px]]<br />
|<br />
{| style="border-width: 0px; border-collapse: collapse; font-size: 80%; width: 14em;"<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #603;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #603;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #603;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #f9c;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #603;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #603;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #603;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #f9c;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #603;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #603;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #603;"|&nbsp;<br />
|}<br />
|{{仮リンク|セント・キャサリンズ・カレッジ|en|St Catharine's College, Cambridge}} St Catharine's College<br />
|[[1473年]]<br />
|436 <br />
|165<br />
|[http://www.caths.cam.ac.uk/]<br />
|-<br />
|[[ファイル:St Edmund's College crest.png|20px]]<br />
|<br />
{| style="border-width: 0px; border-collapse: collapse; font-size: 80%; width: 14em;"<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #009;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #009;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #009;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #fff;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #6cf;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #6cf;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #fff;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #009;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #009;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #009;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #fff;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #6cf;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #6cf;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #fff;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #009;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #009;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #009;"|&nbsp;<br />
|}<br />
|{{仮リンク|セント・エドムンズ・カレッジ|en|St Edmund's College, Cambridge}} St Edmund's College<br />
|[[1896年]]<br />
|100<sup>†</sup><br />
|200<br />
|[http://www.st-edmunds.cam.ac.uk/]<br />
|-<br />
|[[ファイル:Johns shield.png|20px]]<br />
|<br />
{| style="border-width: 0px; border-collapse: collapse; font-size: 80%; width: 14em;"<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #006;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #006;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #006;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #f00;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #6cf;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #f00;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #006;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #006;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #006;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #f00;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #6cf;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #f00;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #006;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #006;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #006;"|&nbsp;<br />
|}<br />
|{{仮リンク|セント・ジョンズ・カレッジ (ケンブリッジ大学)|label=セント・ジョンズ・カレッジ|en|St John's College, Cambridge}} St John's College<br />
|[[1511年]]<br />
|570 <br />
|340<br />
|[http://www.joh.cam.ac.uk/]<br />
|-<br />
|[[ファイル:Selwyn College shield.svg|20px]]<br />
|<br />
{| style="border-width: 0px; border-collapse: collapse; font-size: 80%; width: 14em;"<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #c00;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #c00;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #c00;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #c90;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #c90;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #c00;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #c00;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #c90;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #c00;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #c00;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #c90;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #c90;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #c00;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #c00;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #c00;"|&nbsp;<br />
|}<br />
|{{仮リンク|セルウィン・カレッジ|en|Selwyn College, Cambridge}} Selwyn College<br />
|[[1882年]]<br />
|360 <br />
|140<br />
|[http://www.sel.cam.ac.uk/]<br />
|-<br />
|[[ファイル:Sidney Sussex College shield.svg|20px]]<br />
|<br />
{| style="border-width: 0px; border-collapse: collapse; font-size: 80%; width: 14em;"<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #c00;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #006;"|&nbsp;<br />
|}<br />
|{{仮リンク|シドニー・サセックス・カレッジ|en|Sidney Sussex College, Cambridge}} Sidney Sussex College<br />
|[[1596年]]<br />
|338 <br />
|181<br />
|[http://www.sid.cam.ac.uk/]<br />
|-<br />
|[[ファイル:Trinity College (Cambridge) shield.svg|20px]]<br />
|<br />
{| style="border-width: 0px; border-collapse: collapse; font-size: 80%; width: 14em;"<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #006;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #006;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #ff0;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #006;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #006;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #f00;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #006;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #006;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #ff0;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #006;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #006;"|&nbsp;<br />
|}<br />
|[[トリニティ・カレッジ (ケンブリッジ大学)|トリニティ・カレッジ]] Trinity College<br />
|[[1546年]]<br />
|656 <br />
|380<br />
|[http://www.trin.cam.ac.uk/]<br />
|-<br />
|[[ファイル:Trinity Hall shield.svg|20px]]<br />
|<br />
{| style="border-width: 0px; border-collapse: collapse; font-size: 80%; width: 14em;"<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #000;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #000;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #000;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #fff;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #000;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #000;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #000;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #fff;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #000;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #000;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #000;"|&nbsp;<br />
|}<br />
|{{仮リンク|トリニティ・ホール|en|Trinity Hall, Cambridge}} Trinity Hall<br />
|[[1350年]]<br />
|364 <br />
|241<br />
|[http://www.trinhall.cam.ac.uk/]<br />
|-<br />
|[[ファイル:Wolfson College Crest.png|20px]]<br />
|<br />
{| style="border-width: 0px; border-collapse: collapse; font-size: 80%; width: 14em;"<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #f00;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #f00;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #f00;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #fff;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #fc0;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #fff;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #f00;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #f00;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #f00;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #fff;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #fc0;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #fff;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #f00;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #f00;"|&nbsp;<br />
|style="border-width: 0px; background-color: #f00;"|&nbsp;<br />
|}<br />
|{{仮リンク|ウルフソン・カレッジ|en|Wolfson College, Cambridge}} Wolfson College<br />
|[[1965年]]<br />
|90<sup>†</sup><br />
|510<br />
|[http://www.wolfson.cam.ac.uk/]<br />
|}<br />
<br />
;'''ノート''' : <sup>*</sup> – 女子学生のみ<br />
:<sup>†</sup> – 21歳以上の学生のみ<br />
<br />
他にウエストミンスター・カレッジや Ridley Hall Theological Collegeなどの Cambridge Theological Federationと提携する神学校がある<br />
<br />
=== 以前存在したカレッジ ===<br />
今は存在しないカレッジで代表的なもの:<br />
*King's Hall([[1317年]]設立、[[1546年]]にMichaelhouseと合併して[[トリニティ・カレッジ (ケンブリッジ大学)|トリニティ・カレッジ]]を形成)<br />
*Michaelhouse([[1324年]]設立、[[1546年]]にKing's Hallと合併してトリニティ・カレッジを形成)<br />
*Gonville Hall([[1348年]]設立、[[1557年]]に[[ゴンヴィル・アンド・キーズ・カレッジ]]として建て直された)<br />
*God's House([[1437年]]設立、[[1505年]]に[[クライスツ・カレッジ (ケンブリッジ大学)|クライスツ・カレッジ]]として建て直された)<br />
<br />
=== 参照 ===<br />
*[http://www.admin.cam.ac.uk/univ/gsprospectus/colleges/index.html ケンブリッジ大学のカレッジ] - Key facts for each college are available from the listing on the left. <br />
* [http://www.netsoc.tcd.ie/~peterh/ Armorial Bearings and Scarf Colours of the Universities of Cambridge, Dublin, and Oxford]<br />
<br />
== 学べる分野 ==<br />
人文科学<br />
*文学・文化・歴史 <br />
*言語学・通訳・翻訳 <br />
<br />
教育<br />
*教育 TESOL<br />
<br />
芸術<br />
*音楽<br />
<br />
社会科学<br />
*経済 <br />
*経営・ビジネス<br />
*法律<br />
*開発・平和 <br />
*国際関係・政治 <br />
<br />
理工<br />
*建築・都市計画<br />
*理学 <br />
*工学<br />
*IT/コンピューター<br />
<br />
医学<br />
*看護・医療・薬学<br />
<br />
芸術科学<br />
{{Columns-list|3|<br />
*アングロサクソン、北欧とケルト<br />
*考古学と人類学<br />
*アーキテクチャ<br />
*アジアや中東研究<br />
*クラシック<br />
*経済学<br />
*教育<br />
*英語<br />
*地理<br />
*歴史<br />
*美術史<br />
*土地経済<br />
*法律<br />
*言語学<br />
*経営学<br />
*現代と中世の言語<br />
}}<br />
<br />
*フランス語<br />
*ドイツ語<br />
*イタリア語<br />
*ポルトガル語<br />
*ロシア語<br />
*スペイン語<br />
<br />
{{Columns-list|3|<br />
*音楽<br />
*哲学<br />
*政治、心理学と社会学<br />
*神学と宗教学<br />
*化学工学<br />
*コンピュータサイエンス<br />
*エンジニアリング<br />
*製造エンジニアリング<br />
*数学<br />
*医学<br />
*医学(A100)コース<br />
*大学院医学(A101)コース<br />
*自然科学<br />
*天体物理学<br />
*生化学<br />
*生物学と生命医科学<br />
*化学<br />
*遺伝学<br />
*地質科学<br />
*科学の歴史と哲学<br />
*材質科学<br />
*神経科学<br />
*病理<br />
*薬理学<br />
*物理科学<br />
*物理学<br />
*生理学、開発と神経科学<br />
*植物科学研究<br />
*心理学<br />
*システム生物学<br />
*動物学<br />
*獣医学<br />
}}<br />
<br />
== 教員、著名な卒業生等 ==<br />
* [[ケンブリッジ大学の人物一覧]]を参照。<br />
<br />
== 脚注 ==<br />
{{脚注ヘルプ}}<br />
{{reflist}}<br />
<br />
== 関連項目 ==<br />
* [[ケンブリッジ・ジャッジ・ビジネス・スクール]]<br />
* [[ケネディーラテン語博士号]]<br />
* [[ケンブリッジラテン語講座]]<br />
* [[EDSAC]] - 同大に設置されていた初期のコンピュータ。また画面写真が残っている最古の[[テレビゲーム]]『[[OXO]]』が作られた。<br />
* [[コーパス・クロック]]<br />
* [[:en:Colleges of the University of Cambridge]]<br />
* [[ラッセル・グループ]]<br />
<br />
== 参考文献 ==<br />
* Japanese Students at Cambridge University in the Meiji Era, 1868-1912: Pioneers for the Modernization of Japan ([http://www.lulu.com/content/71869 Lulu Press], September 2004, ISBN 1-4116-1256-6)<br />
<br />
== 外部リンク ==<br />
{{commons|University of Cambridge}}<br />
* [http://www.cam.ac.uk/ ケンブリッジ大学公式サイト]{{en icon}}<br />
* [http://www.russellgroup.ac.uk Russell Group website]{{en icon}}<br />
* [http://trinityjapan.org/j/ トリニティ・イン・ジャパン・ソサエティ、トリニティ・カレッジ (ケンブリッジ大学)]{{jp icon}}<br />
<br />
<br />
{{ラッセル・グループ}}<br />
{{コインブラ・グループ}}<br />
{{ヨーロッパ研究大学連盟}}<br />
{{国際研究型大学連合}}<br />
{{Normdaten}}<br />
{{coord|52|12|11|N|0|7|12|E|type:landmark_region:GB|display=title}}<br />
<br />
{{DEFAULTSORT:けんふりつしたいかく}}<br />
[[Category:ケンブリッジ大学|*]]<br />
[[Category:イングランドの大学]]<br />
[[Category:ラッセル・グループ]]<br />
[[Category:13世紀設立]]<br />
[[Category:学校記事]]</div>
103.226.44.9
近代化
2018-08-05T00:53:08Z
<p>103.226.44.9: /* アメリカ独立とフランス革命 */リンク</p>
<hr />
<div>'''近代化'''(きんだいか)とは、[[社会]]を[[近代]]的な状態に変えること。即ち、[[政治]]・[[経済]]が、[[国民国家]]と[[工業化|産業化]]を特徴とする形態に変えることである。<br />
<br />
== 産業化と近代化 ==<br />
近代化とは、産業化を中心として、それに関連した[[政治]]的・[[社会]]的・[[心理]]的その他、さまざまな変化の総体を指す。産業化は、[[アイザック・ニュートン|ニュートン]]の[[科学革命]]以来の[[科学技術]]の成果を系統的・累積的に活用して、生産力はじめ[[環境]]をコントロールする能力を高めていく過程でもあり、その本格化は[[18世紀]]後半の[[イギリス]]に始まった。いわゆる[[産業革命]]である。やがて、その動きはヨーロッパ大陸や北アメリカに伝わり、[[19世紀]]後半から[[20世紀]]初頭にかけては[[ロシア]]や[[東ヨーロッパ|東欧]]、[[日本]]もその動きに加わって、20世紀後半には全世界を覆うこととなった。<br />
<br />
== 欧米の近代化 ==<br />
[[16世紀]]から[[17世紀]]にかけての[[ヨーロッパ]]では、[[イタリア戦争]]や[[ユグノー戦争]]、[[三十年戦争]]など各地で戦争がつづいたが、その間、強国は[[領土]]を広げ、[[財政]]と軍備を整えて、海外に進出して、[[植民地]]を広げた。こうしたなか、新しい国際秩序ができあがった。[[ウェストファリア条約]]体制([[主権国家]]体制)がそれであり、そこでは[[主権]]を主張する国は、[[宗教]]や[[文化]]の違いをこえて対等な外交交渉をおこない、[[戦争]]のルールを定め、勢力の均衡をはかった。また、ウェストファリア条約では、[[神聖ローマ帝国]]内の各[[領邦]]は主権を認められ、[[オランダ]]と[[スイス]]の[[独立]]も正式に承認された。<br />
<br />
=== オランダの独立と勃興 ===<br />
[[画像:Westfaelischer_Friede_in_Muenster_(Gerard_Terborch_1648).jpg|thumb|250px|right|ウェストファリア条約(ミュンスター条約)締結の図(ヘラルト・テル・ボルフ画)]]<br />
15世紀以来[[ハプスブルク家]]の所領で、[[カール5世 (神聖ローマ皇帝)|カルロス1世]]・[[フェリペ2世 (スペイン王)|フェリペ2世]]の時代を通してスペイン領となっていた[[ネーデルラント17州]]では[[1568年]]より[[八十年戦争]](-[[1648年]])がはじまった。<br />
<br />
16世紀前半の[[イギリス]]や[[フランス]]の[[カトリック教会|カトリック]]に対する[[スペイン]]の支援は混乱をまねき、属領ネーデルラントの商人や貴族のあいだには[[カルヴァン派]]の信仰が浸透して、かれらは[[ゴイセン]](乞食)と呼ばれた。そもそもスペイン本国の産業は弱く、[[アメリカ大陸]]で獲得した富は毛織物工業で栄えた[[フランドル]]へ流出していたのである。<br />
<br />
八十年戦争の勃発は、スペインにとって[[1587年]]の[[アルマダの海戦|無敵艦隊]]の敗北とともに没落の契機となった。それに代わり世界の海上権を握ったのが[[1581年]]に独立を宣言し、[[三十年戦争]]後のウェストファリア条約([[1648年]])で独立が正式に各国により承認されたオランダ([[ネーデルラント連邦共和国]])であった。<br />
<br />
[[共和政]]をとったオランダは[[1602年]]に[[オランダ東インド会社]]を設立して、[[ジャワ]]、[[スマトラ]]、[[モルッカ]]を植民地とし、[[香料]]貿易をさかんにおこなって、その拠点を[[バタヴィア]]に置いた([[1619年]])。さらに、[[台湾]]南部の[[安平古堡|ゼーランディア城]]([[1624年]])、北米の[[ニューアムステルダム]]([[1626年]]、[[西インド会社]]の設立は[[1621年]])、[[南アフリカ]]の[[ケープ植民地]]([[1652年]])、南アジアでは[[セイロン島]]の[[コロンボ]]([[1656年]])などを拠点に海外に勢力を拡大する。これによって[[アムステルダム]]は[[リスボン]]に代わって[[西ヨーロッパ]]最大の商業・金融都市として発展した。<br />
<br />
[[タスマン]]による[[南太平洋]]探検([[1642年]]〜[[1644年]])もおこなわれ、日本に対しては[[1609年]]に[[平戸市|平戸]]に商館を置き、[[1639年]]のポルトガル船来航禁止([[鎖国]]の完成)以後はヨーロッパで唯一の貿易国として[[長崎市|長崎]]での対日貿易を独占した。<br />
<br />
=== イギリス議会王政と産業革命 ===<br />
[[画像:Oliver Cromwell by Robert Walker.jpg|right|thumb|200px|オリヴァー・クロムウェル]]<br />
[[Image:Storck, Four Days Battle.jpg|thumb|right|250px|第2次英蘭戦争中の1666年6月11-14日の海戦(エイブラハム・ストーク画)]]<br />
[[画像:General Wolf at French and Indian war.jpg|250px|thumb|right|アブラハム平原の戦いで倒れる[[ジェームズ・ウルフ|ウルフ]]将軍(フレンチ・インディアン戦争)]]<br />
<br />
[[イングランド]]では処女王[[エリザベス1世|エリザベス]]に後継者がなかったことから、[[スコットランド]]より[[スチュアート朝|スチュアート家]]の[[ジェームズ1世 (イングランド王)|ジェームズ6世]]をイングランド王として招いた(ジェームズ1世)。しかし、[[王権神授説]]の信奉者である王と議会とはしばしば対立し、[[1621年]]には「[[議会の大抗議]]」が起こっている。一方、[[1623年]]には[[アンボイナ事件]]が起こって[[マラッカ]]以東のイングランド勢力がオランダ勢力によって駆逐され、同年、日本との交易からも撤退している。これ以後、イングランドはインドと北米大陸への進出に専念するようになる。<br />
<br />
次の[[チャールズ1世 (イングランド王)|チャールズ1世]]の代になっても[[権利の請願]]([[1628年]])、[[主教戦争|スコットランド反乱]](1639年)、[[議会の大諫奏]]([[1641年]])など政治の混迷は続き、王と議会の対立はついに内戦へと発展([[清教徒革命|ピューリタン革命]])、1649年には国王チャールズ1世が処刑されて[[オリバー・クロムウェル]]による[[共和政]]が始まった。<br />
<br />
クロムウェルは、さまざまな特権や産業統制を廃止して商工業の発展に努力し、なかでも[[1651年]]にはオランダの仲介貿易における覇権の打倒を企図して[[航海条例]]を発布し、[[英蘭戦争|英蘭戦争(第1次)]]([[1652年]]-[[1653年]])を引き起こしてオランダの海上権に打撃を与えた。<br />
<br />
王政復古後、英軍が北米オランダ植民地ニューアムステルダムを占領したことを発端として、[[チャールズ2世 (イングランド王)|チャールズ2世]]を戴くイングランドと[[ヨハン・デ・ウィット]]率いるオランダとの間で第2次英蘭戦争([[1665年]]-[[1667年]])が起こった。戦争の結果、ニューアムステルダムはイングランド領となり(現[[ニューヨーク]])、オランダは北米における拠点を失うこととなった。これにより、オランダは大西洋における海上権を失い、転落傾向をみせはじめる。<br />
<br />
その後、イギリスでは[[名誉革命]]([[1688年]])が起こり、ステュアート朝の[[ジェームズ2世 (イングランド王)|ジェームズ2世]]が王位から追放され、議会は、ジェームズ2世の娘で熱心なプロテスタントであった[[メアリー2世 (イングランド女王)|メアリー]]とその夫で[[オランダ総督|オランダ統領]]の[[ウィリアム3世 (イングランド王)|ウィリアム3世]]をイングランド王として即位させた。2人は、王位に対する議会の優位を認めた「権利の宣言」に署名し、1689年「[[権利の章典]]」として発布された。権利の章典は王の専制を排除する[[近代]]的な[[議会制民主主義]]を確立するできごととして、イギリス史上高く評価される。議会王政の始まりである。<br />
<br />
1689年以降、イギリスはフランスとの間で[[第2次百年戦争]]とよばれる長い対立抗争の時代をむかえ、ヨーロッパのみならず北米やインドでしばしば戦争が繰り返された。イギリスは、この一連の戦いのなかで、<br />
#議会の承認により税収のほとんどを軍事費に投入できた<br />
#議会が保証するイギリス国債の信用が高く、臨時の資金調達能力もすぐれていた<br />
#[[アンシャン・レジーム]]下のフランスでは徴税権をもつ貴族が多く、国庫収入が少なかった<br />
<br />
などの理由、すなわち国力としては必ずしもフランスに及ばなかったが、戦費調達能力においてフランスのそれを大きく上回っていたために戦争を優位に進めることができたのである。<br />
<br />
そのいっぽうで、イギリスでは[[大航海時代]]以来の大西洋[[三角貿易]]によって国内の[[資本]]蓄積が進み、第2次[[囲い込み|エンクロージャー]]によって農村から流入した労働力と「[[プロト工業化]]」と称される農村の工業化によって、その産業構造は産業革命の進展を支えるほどに醸成されていた。<br />
<br />
[[image:Maquina vapor Watt ETSIIM.jpg|250px|right|thumb|ワットの改良蒸気機関]]<br />
<br />
毛織物工業などによる資本の蓄積が大西洋三角貿易によって加速すると、[[マニュファクチュア]]的工業生産にも技術革新が要求された。ダービー父子の[[コークス]]製鉄法や[[ジェームズ・ワット]]による[[蒸気機関]]の改良などがそれである。また、[[1764年]]の[[ハーグリーブズ]]のジェニー紡績機、[[1769年]]の[[リチャード・アークライト]]の水力紡績機、1779年の[[クロンプトン]]の[[ミュール紡績機]]など、相次いで紡織機の改良がなされた。これらは、インド産の[[綿花]]を原料としていた。<br />
<br />
イギリスで産業革命が始まった要因として、通常は、原料供給地および[[市場]]としての植民地の存在、ピューリタン革命・名誉革命による政治的・法的な環境、蓄積された資本ないし資金調達が容易な環境、金融経済の発達および[[農業革命]]によってもたらされた[[労働力]]などがあげられる。<br />
<br />
ただし実際には、これらの条件の多くはフランスでも大差がなかった。決定的に違うものがあるとすれば、それは植民地の広がりであった。イギリス産業革命は1760年代に始まるとされることが多いが、[[七年戦争]](北米では[[フレンチ・インディアン戦争]])が終結し、アメリカやインドにおけるイギリスの優位が決定づけられたのは[[1763年]]の[[パリ条約 (1763年)|パリ条約]]であった。植民地自体は以前から存在していたので、1763年の時点でイギリスが一挙に市場や原料供給地を得たというよりは、フランスが産業革命の先陣を切るために必要な市場、および原料供給地を失ってしまったという見方が可能である。[[三角貿易#砂糖・銃・奴隷|大西洋経済]]こそ、産業革命の生みの親だったのである。いずれにせよ、イギリスはフランスに先んじて産業革命を開始し、一体化しつつあった[[地球]]上の他の全ての国ぐに対し、一定の有利な位置を占めることとなった。これが[[イギリス帝国|第一次大英帝国]]である。<br />
<br />
=== アメリカ独立とフランス革命 ===<br />
産業化とならぶ近代化の特徴としては、[[ナショナリズム]]と平等化、民主化をあげることができる。ナショナリズムとは、[[国家]]を自分たちのものであると考え、愛する態度を意味している。それは、西ヨーロッパで11世紀以来200年にわたった[[十字軍]]や、フランス王位継承に端を発した14世紀から15世紀にかけて英仏で争われた[[百年戦争]]、さらにイタリア戦争や三十年戦争などによって[[諸侯]]や[[騎士]]が没落して[[封建]]制が衰退し、王権が拡大して、主権国家が形成されるとともに次第に芽生えてきたものである。ことにイギリスとフランスでは、百年戦争を通じてナショナリズムの感情が鍛えられた。上述したオランダ独立戦争も、宗教戦争、経済闘争であると同時に、一種のナショナリズムの芽生えと見なすことができる。<br />
<br />
こうしたナショナリズムがきわめて明確なかたちで表現されるようになったのが18世紀後半の[[アメリカ独立革命]]と[[フランス革命]]であり、そこでは多くの血が流された。<br />
<br />
[[画像:Declaration of Independence (1819), by John Trumbull.jpg|thumb|right|250px|[[フィラデルフィア]]で開催された第二次[[大陸会議]]で[[アメリカ独立宣言]]草稿を提出する5人委員会のメンバー]]<br />
[[画像:Prise de la Bastille.jpg|250px|thumb|right|「[[バスティーユ襲撃]]」(“La Prise de la Bastille”)]]<br />
<br />
アメリカ独立革命では、独立戦争によって、13植民地の人びとはイギリスの支配を拒否しアメリカを政治的独立に導くことに成功した。[[1775年]]、革命派は[[13植民地]]政府の全てを掌握するとともに、政治と[[立法]]をおもに担当する[[大陸会議#第2次大陸会議|第二次大陸会議]]、および軍事を担当する[[大陸軍 (アメリカ)|大陸軍]]を発足させた。[[1776年]]には、[[基本的人権]]と[[革命権]]に関する前文、国王の暴政と本国議会・本国人への苦情に関する28か条の本文、そして独立を宣言する結語から構成される[[アメリカ独立宣言]]を発した。なかでも、「全ての人間は平等に造られている」と謳い、不可侵・不可譲の[[自然権]]として「生命、自由、幸福の追求」の権利を掲げた前文は、アメリカ独立革命の理論的根拠を要約し、のちの思想にも大きな影響を与えた。<br />
<br />
フランス革命では自由・平等・同胞愛の近代市民主義の諸原理が掲げられ、その後の[[市民社会]]や[[民主主義]]の土台となった。[[ラファイエット]]によって起草された[[フランス人権宣言]]では、[[国民主権|人民主権]]と機会均等の教義、[[個人主義]]、[[ジャン=ジャック・ルソー|ルソー]]によって理論化された[[社会契約]]の思想、[[シャルル・ド・モンテスキュー|モンテスキュー]]によって支持された[[権力分立]]といった[[啓蒙時代]]の哲学的、政治学的諸原理が盛り込まれた。<br />
<br />
フランス革命のさなかに歌われた「[[ラ・マルセイエーズ]]」はきわめて愛国主義的な内容の歌詞であり、のちにフランス国歌となった。また、フランス革命期およびそれ以降、「国民(ナシオン)」という言葉はきわめて多用されるようになったことからも、それがいっぽうでは[[国民国家]]形成への血のにじむ営みであったことがわかる。<br />
<br />
その後、「フランス革命の申し子」[[ナポレオン・ボナパルト]]によって[[フランス民法典]]がまとめられ、一方ではその軍事力によるヨーロッパ支配が試みられた。[[ナポレオン戦争]]である。ナポレオンの野望であるヨーロッパ統一国家の構想は、かれの敗北によって瓦解したが、ナポレオン戦争の過程で、民主主義、近代法、特権階級の廃止などのフランス革命思想が、ヨーロッパ各地や[[ラテンアメリカ]]へ伝播した。民法典は、旧体制の復活の後も各国に残された。<br />
<br />
同時に、ナポレオンの試みへの抵抗を通じて[[民族主義]]とナショナリズムの思潮がヨーロッパ全域に広まった。これはのちのヨーロッパの歴史を大きく変え、その後100年の間に、ヨーロッパ諸国は封建領主の領土を単位とした領域から国民国家(ネーション・ステイト)へと大きく変貌を遂げた。また、国家を自分たちのものと考える姿勢は、自分たちも国政に参加し、国家の発展に貢献しようという意欲を促す。その意味で、ナショナリズムは平等化と民主化をともなうものであったのである。これらは、[[1848年革命]]へとつながる諸要素となっていった。<br />
<br />
=== イタリアとドイツの統一 ===<br />
[[画像:Francesco Hayez 041.jpg|right|160px|thumb|カミッロ・カヴール]]<br />
[[Image:Reichsgründung1871-AW.jpg|300px|thumb|[[ヴェルサイユ宮殿]]、鏡の間にて戴冠するヴィルヘルム1世。中央の白い服の人物はビスマルク]]<br />
[[画像:Bismarck pickelhaube.jpg|right|thumb|150px|ビスマルク]]<br />
中世から分裂していた[[イタリア]]では、近代化の進んでいた北部を中心とする[[サルデーニャ王国]]の首相[[カミッロ・カヴール]]が、1848年以前から[[自由主義]]による統一運動([[リソルジメント]])を進め、民衆と結ぶ[[ジュゼッペ・ガリバルディ]]らの急進派の運動とも合流した。[[クリミア戦争]]後の国際環境の変化によって、フランスや[[オーストリア]]との交渉も進み、[[1861年]]、サルデーニャ王の[[ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世]]が初代国王となって[[イタリア王国]]が成立した。しかし、統一国家の形はできあがったものの、北部と南部とでは経済も文化も異なり、ひとつの国民を形成するのは必ずしも容易ではなかった。<br />
<br />
[[17世紀]]以来事実上の分裂状態にあった[[ドイツ]]でも、[[プロイセン王国]]首相[[オットー・フォン・ビスマルク]]がドイツ諸邦最大の国家でありながら非ドイツ系住民を多数包含する[[オーストリア帝国]]を排除してプロイセン中心の小ドイツ主義にもとづく君主制ドイツによる統一を目指した。ドイツは、19世紀なかばには産業革命が進んでいたが、プロイセンの軍事や政治を支配したのは東部の農場領主[[ユンカー]]であった。首相ビスマルクは有名な[[鉄血演説]]をおこなってドイツ統一のために軍備拡張政策を追求することを宣言したが、多くのユンカーもまた、これを支持した。<br />
<br />
なお、ドイツにおける産業革命は[[ドイツ関税同盟]]などを背景に経済的な領域を確立したうえでの工業化であった。以下のような諸特徴を有する。<br />
#銀行資本の出資による積極的な拡張投資:ハイペースな事業拡大<br />
#独占企業の発生:シェアと利潤の確保<br />
#研究に基づく技術革新:科学者との協力で技術を生み出す<br />
<br />
ビスマルクは、プロイセン主導の統一に消極的で[[カトリック教会|カトリック]]の勢力の強い[[バイエルン王国]]など、南西ドイツ4領邦を新生ドイツに編入するため、宗教を超えた[[国民主義]]の利用を考えた。折しも[[スペイン]]の王位継承問題に、ともに利害と関心を持っていたフランスとの関係を悪化させ、[[エムス電報事件]]をきっかけにフランス皇帝[[ナポレオン3世]]との間に戦端をひらいた([[普仏戦争]])。フランスに勝利したプロイセンは、[[1871年]]、[[パリ]]を占領して[[ヴェルサイユ宮殿]]の「鏡の間」で[[ドイツ帝国]]の成立を宣言した。<br />
<br />
ドイツ帝国は、諸邦の自立性を認める[[連邦制]]の[[立憲君主国]]であった。経済発展にささえられ、ビスマルクは[[重化学工業]]と[[農業]]の利害を調整し、カトリックを冷遇し、[[社会主義]]者を敵視しつつも、いっぽうでは[[社会保障]]も進め、国内の安定と列強の勢力均衡、なかんづくフランスの孤立をねらう外交政策を採用した。また、国家が化学をはじめとする[[自然科学]]や[[医学]]、軍事技術の開発を積極的に助成したので、ドイツの諸学問は当時の世界の最高水準に達した。<br />
<br />
イタリアやドイツの近代化は「上からの近代化」の典型と呼ばれる。特に発展著しい新生ドイツの方針や政策は、明治維新以来まだ日の浅い当時の日本の指導者に大きな影響をおよぼした。<br />
<br />
政府首脳部をともなった[[岩倉使節団]]はビスマルクの主張に感銘を受け、以後、明治政府はドイツの法学者、医学者、科学者などを[[お雇い外国人]]として招き、その一方でドイツにも数多くの留学生を派遣した。また、のちに初代[[内閣総理大臣]]となった[[伊藤博文]]も[[大日本帝国憲法]]の制定の際、プロイセン憲法を参照したことはよく知られている。<br />
<br />
== ロシアの近代化とソ連一国社会主義 ==<br />
<br />
[[ロシア革命]]、[[ロシア内戦]]を経て1922年に成立した[[ソビエト連邦|ソヴィエト社会主義共和国連邦]](ソビエト連邦)の存在は、それまで[[資本主義]]列強によって形成されてきた世界資本主義に対し背を向けるものであり、なかでも[[ヨシフ・スターリン]]による一国社会主義路線の確立は、アンチ資本主義を国是とする政権の誕生を意味していた。<br />
<br />
しかし、ソ連は[[第二次産業革命]]という経済上の機軸から決して大きく逸脱したものではなかった。<br />
<br />
[[市場経済]]ではなく国家による[[計画経済]]であり、また、軍需産業重視のため豊かなアメリカ的生活スタイルともかけ離れており、さらには、政治的[[民主主義]]も無きに等しかったが、先進資本主義諸国と軍事的に競争できる産業化、あるいは国民を広汎に動員できる大衆性などの点においては確かに20世紀の特質をそなえていたのである。<br />
<br />
したがって、ソ連の存在は欧米諸国や日本とは異なった行き方で第二次産業革命を達成したものととらえることが可能であり、その点で[[第二次世界大戦]]後に独立を果たした[[アジア]]・[[アフリカ]]諸国にとっては一種の近代化のモデルとしてアピールしたのであった。<br />
<br />
==日本の近代化==<br />
{{独自研究|section=1|date=2007年12月}}<br />
[[明治維新]]以降の[[文明開化]]により、[[日本]]にとっての国家目標は[[欧米]][[先進国]]の文物や制度を導入し、[[独立]]を保ちながらも[[条約改正]]の努力をおこない、国際的地位の上昇をはかりつつ[[不平等条約]]を改正していくことを目指した。<br />
<br />
[[開国]]直後の[[江戸時代]]末期に幕府や雄藩が近代化の取り組みを始め、[[明治政府]]の主導により「上からの近代化」が推し進められた。[[官営工場]]を建設し、江戸時代から継続する[[三井財閥|三井]]・[[三菱財閥|三菱]]・[[住友財閥|住友]]などの[[商業資本]]を土台にしつつ、[[日清戦争]]期に[[軽工業]]を、[[日露戦争]]期に[[重化学工業]]を発達させた。<br />
<br />
非[[ヨーロッパ]]国として[[憲法]]を制定し、日露戦争に勝利したことで、当時の[[先進国]]にあたる[[列強]]の1つ(五大国)と呼ばれるようになった。しかし、[[原料]]の補給と[[商品]]の販売は[[植民地]]に依存せざるを得ず、[[第二次世界大戦]]終結まで[[アジア]]への領土拡大が行なわれた。<br />
<br />
第二次世界大戦によりいったんは日本の[[工業]]は壊滅状態に陥ったが、敗戦後の1946年から1951年の間に、アメリカの「[[ガリオア資金|占領地域救済政府資金]]」 (GARIOA) と「[[エロア資金|占領地域経済復興資金]]」 (EROA) から約50億ドルの[[政府開発援助|ODA]]が援助された。このときは[[カナダ]]、[[メキシコ]]、[[チリ]]、[[ブラジル]]、[[アルゼンチン]]、[[ペルー]]などからも生活物資や食料などが援助されている。[[朝鮮戦争]]の[[軍需]]により復興の糸口を掴み、[[1953年]]には、世界銀行から多国間援助である有償資金を使用して[[東海道新幹線]]、[[東名高速道路]]などを建設開始し、高度経済成長を実現した。[[1968年]]にはアメリカに次ぐ経済大国となり、再び[[先進国]]入りを果たした。<br />
<br />
== 韓国の近代化 ==<br />
[[大韓民国|韓国]]の近代化は[[19世紀]]に始まった。[[甲午改革|甲午改革]]など[[李氏朝鮮|李朝]]末期の近代化改革はいずれも政治的変動により挫折、[[日本統治時代の朝鮮|日本の統治時代]]に入って本格的な工業化が進められた。<br />
<br />
朝鮮総督府の施策は伝統的な朝鮮社会の在り方を大きく変え、[[1930年代]]以降は日本の[[財閥]]資本の進出により朝鮮半島北部を中心に[[工業化]]が進行した。しかし、[[第二次世界大戦]]後の[[連合軍軍政期 (朝鮮史)|連合国占領]]で産業インフラの多くが米ソに接収され、韓国独立後に残された数少ない資本も[[朝鮮戦争]]で壊滅した。また、日本統治時代に形成された工業地帯は、[[朝鮮統一問題|南北分断]]によって[[北朝鮮]]の統治区域となっていたため、[[5・16軍事クーデター]]が発生した[[1961年]]時点で、[[農業国]]の韓国は[[国民総生産|GNP]]が現在の[[バングラデシュ]]や[[エチオピア]]と同水準の80ドル程度であった。<br />
<br />
[[1950年代]]に、韓国を「[[反共]]の防波堤」と見做した[[アメリカ合衆国|アメリカ]]からの対外援助を受け、韓国は[[三白産業]](製糖、製粉、綿紡績)を中心とした[[軽工業]]が発展したが、脆弱な国内市場と対外援助の減少により、1950年代末には挫折を余儀なくされた。[[1960年代]]以降、[[朴正煕]]政権は[[外資]]の導入と[[輸出]]主導型経済を志向し、日本を中心とした外国からの[[政府開発援助]]による[[インフラ]]整備と、外資との合弁による[[重工業]]化を推進することになった。<br />
<br />
結果、[[ヒュンダイ|現代]]・[[サムスングループ|三星]]・[[大宇財閥|大宇]]などの財閥が形成された。農村においても、[[セマウル運動]]を手始めに、農業の近代化政策が進められた。これらの輸出主導型の経済成長は「[[韓国ウォン|ウォン]]安・[[アメリカドル|ドル]]安・[[原油]]安」に支えられており、韓国は「[[漢江の奇跡]]」と呼ばれる経済成長を遂げて[[1996年]]に[[経済協力開発機構]](OECD)加盟を果たした。<br />
<br />
== 近代化論 ==<br />
近代化論とは、[[1950年]]代から[[1960年]]代にかけて、次々に独立を遂げていった旧植民地の国々をいかに近代化させ、欧米的な意味での国民国家形成をいかに実現していくのかを論じた学問分野で、[[開発経済学]]と近接ないし重複する領域である。それは、単に[[経済成長]]のモデルではなく、政治、社会、文化、心理など人間生活のあらゆる側面において、近代化とは何か、そしてそれはいかに達成できるのかを明らかにしようとした一連の研究であった。<br />
<br />
近代化論は、日本にも多大な影響を与えながら、特にアメリカ合衆国においては、学問と現実政治のはざまで揺れ続け、その後の社会科学の諸思潮にも長い間強い影響をおよぼした。<br />
<br />
アメリカにおいて近代化論がそれほどまでに影響力を持った背景には、[[冷戦]]という当時の時代状況があった。つまり、[[開発途上国]]に対する[[ソビエト連邦]]の影響力を最小限に食い止め、欧米的な国家を作り上げていくことこそが、近代化論の最も重要な使命とされたのである。<br />
<br />
アメリカ合衆国においては、それゆえ近代化論は国家的な[[イデオロギー]]、さらには[[アイデンティティ]]としての性格を持っていた。しかし、1970年代に入ると、近代化論は急速にその影響力を低下させ、精彩を欠くようになる。開発途上国の経済発展が一向に進まず、[[貧困]]が減らないことに[[悲観論]]が現れ、[[ベトナム戦争]]の敗北と、そこに見られた反米ナショナリズムの強さから、これまでの開発戦略が途上国の歴史的経験や伝統文化、経済の現状から乖離していることへの見直しが始まった。また、[[公民権運動]]に代表される[[マイノリティ]]の異議申し立てがアメリカのみならず先進各国で現れた。この時代、[[従属理論|国際従属理論]]や文化帝国主義論が近代化論に代わって一世を風靡した。<br />
<br />
一方で日本の経済成長や、それにならった韓国、[[台湾]]、[[シンガポール]]、[[香港]]の[[新興工業経済地域]](NIES)の経済発展は近代化の概念を揺さぶった。[[プロテスタント]]の倫理や[[白人]]優越主義はもはや誰の目にも成り立たなくなり、NIES諸国で広くみられた[[開発独裁]]は、民主化を与件としてきた近代化論への再考をせまるものであった。しかし、特にアメリカは一種の人工国家という側面から、自国のアイデンティティの一部をかたちづくっている。アメリカにおける近代化論は、それゆえ何度も論理が組み替えられ、歴史叙述における強国論や覇権の盛衰、[[文明]]論や諸文明の拮抗・対立、あるいは歴史終焉論というふうに姿を変えながらも、根強い影響を与えつづけているのである。<br />
<br />
== 関連項目 ==<br />
*[[工業化]]<br />
*[[民主化]]<br />
*[[産業革命]]<br />
*[[市民革命]]<br />
*[[近代化遺産]]<br />
*[[モダニズム]]<br />
<br />
{{DEFAULTSORT:きんたいか}}<br />
[[Category:歴史理論]]<br />
[[Category:19世紀]]<br />
[[Category:20世紀の世界史]]<br />
<br />
[[he:מודרניות]]</div>
103.226.44.9
16区 (パリ)
2018-08-03T21:39:15Z
<p>103.226.44.9: /* 道路 */付記</p>
<hr />
<div>[[ファイル:Paris 16e arr jms.gif|thumb|right|300px|パリ・16区の位置]]<br />
<br />
[[パリ]]の'''16区 ''' (16く、[[フランス語|仏]]:{{lang|fr|''16<sup>e</sup> arrondissement de Paris''}}) は、[[フランス]]の[[首都]]・パリ市を構成する[[パリの行政区|20の行政区]]のひとつである <ref>[[フランス語]]の 「''16<sup>e</sup>'' 」 = 「{{lang|fr|''seizième''}} 」 は、[[英語]]の「''sixteenth'' 」 に相当する[[序数詞|序数]]。「第16の」 「16番目の」を意味する。したがって、原語の「''16<sup>e</sup> arrondissement'' 」を直訳し<br />
すると「第16区」となる。</ref>。第16区、パリ16区ともいう。市の西部に位置しており、[[ブローニュの森]]を含む。南北に蛇行する[[セーヌ川]]に挟まれた区域であり、区の東西でセーヌ川に接している。<br />
<br />
== 概要 ==<br />
[[パリ]]の16区は、市の西部にある[[パリの行政区|行政区]]。「パッシー区 ({{lang|fr|''Arrondissement de Passy''}})」と呼ばれることもある<ref>[[レジフランス]] ({{lang|fr|''Légifrance''}}). “[[地方自治一般法典]] ({{lang|fr|''Code Général des Collectivités Territoriales (CGCT)''}})” [http://www.legifrance.gouv.fr/affichCode.do?idArticle=LEGIARTI000006396737&idSectionTA=LEGISCTA000006192700&cidTexte=LEGITEXT000006070633&dateTexte=20080404 R2512-1条]. 2008年6月26日閲覧.</ref>。[[セーヌ川]]が南北に蛇行する区域にあり、区の東西はセーヌ川に面している。[[ペリフェリック]](パリ環状道路)が区の中央部を縦断しており、その西側が[[ブローニュの森]]となっている。20区のうちでは[[12区 (パリ)|12区]]に次いで2番目に大きい。人口は、161,773人 (1999年。人口の推移等詳細については[[#住民|後述]])。区の名称は、市の中央部から[[時計回り]]に[[螺旋]]を描くようにして各区に付けられた番号を基にしており、当区はその16番目にあたることから、「16区」と名づけられた。<br />
<br />
セーヌ川を挟んで[[エッフェル塔]]の対岸にあたる16区東側(北側)地域一帯は「[[パッシー]](''PASSY'')」と呼ばれ<ref>元々、西側(南側)地域一帯は「[[オートゥイユ]](''AUTEUIL'')」と呼ばれ、「[[パリ改造]]」の流れの中で1860年にパッシー及びオートイユの二つの[[コミューン|コミューヌ]]が合併して「16区」が設立された。</ref><!--英語版 en:16th arrondissement of Paris、フランス語版 fr:Passy (seine)、fr:Auteuil などより-->、“貴族街”と呼ばれる[[アンバリッド|アンヴァリッド]]地区、あるいは[[サンジェルマン|フォーブール・サンジェルマン]]界隈([[7区 (パリ)|7区]])と並んで旧貴族や富裕層が住む[[高級住宅街]]として有名である<ref>{{仮リンク|リセ・ジャンソン=ド=サイイ|fr|Lycée Janson-de-Sailly}}の[[:en:Lycée Janson-de-Sailly|英語版記述]]によると、当校が"パリの最名門校の一校"とされている理由としては、"高級な16区"に居住する[[上流階級]]や[[貴族]]階級の子弟が通っているからだと、社会学者の{{仮リンク|ミシェル・パンソン|fr|Michel Pinçon}}と{{仮リンク|モニーク・パンソン=シャルロ|fr|Monique Pinçon-Charlot}}らは言う。<!--英語版 en:06:06, 29 July 2016 WhisperToMe の版より参照引用。但し、英語版にも脚注はついておらず。-->また、フランスの人気[[お笑いトリオ]]「レ・ザンコンニュ ([[:fr:Les Inconnus|Les Inconnus]])」は、 [[ラップ]]調の曲『Auteuil Neuilly Passy (Rap B.C.B.G.)』(1991年)で、''"[[オートゥイユ]] [[ヌイイ=シュル=セーヌ|ヌイイ]] パッシー、コレが深窓のお坊ちゃまの[[ゲットー]]"''と[[シニカル]]に[[ウイット]]たっぷりに表現した。</ref><!--一例に、http://blogs.yahoo.co.jp/happy_and_lucky_come_come/36856003.html-->。<br />
<br />
[[File:Métro Passy.jpg|thumb|right|230px|メトロ パッシー駅, [[ビル・アケム橋|ビラケム橋]]]]<br />
16区の主要な施設としては、[[シャイヨ宮]]、[[トロカデロ・11月11日広場]](トロカデロ広場)、[[パリ市立近代美術館]]、[[パルク・デ・プランス]]などのほか、[[8区 (パリ)|8区]]、[[17区 (パリ)|17区]]との境界に[[エトワール凱旋門]]がある。また、[[ブローニュの森]] には、[[バガテル庭園]]、[[ダクリマタシオン庭園|ダクリマタシオン遊園地]]、[[ロンシャン競馬場]]、[[スタッド・ローラン・ギャロス]]などがある。<br />
<br />
なお、セーヌ川に沿った地域のうち、[[イエナ橋]]より上流は「[[パリのセーヌ河岸]]」として[[世界遺産]]に登録されている。<br />
<br />
== 地理 ==<br />
<!-- [[画像:Paris 16th.png|thumb|right|300px|パリ・16区の詳細地図]] ※ 現在、画像無し。--><br />
[[File:Paris 16th arrondissement map with listings.png|thumb|right|260px|パリ・16区の概略図]]<br />
16区は、パリの西部に位置している。南北に蛇行する[[セーヌ川]]に挟まれた区域にあり、東西でセーヌ川に接している。市内では、セーヌ川の北岸地域にあたり <ref>セーヌ川の右岸にあたる。</ref>、[[エッフェル塔]]のある[[シャン・ド・マルス公園]]の対岸にある。[[ペリフェリック]] (パリ環状道路)が、区のほぼ中央部を縦断しており、その西側の地域は[[ブローニュの森]]となっている。面積は16.31 平方キロメートルで、20区のうちでは[[12区 (パリ)|12区]]に次いで2番目に大きい。ブローニュの森を除くと7.85 平方キロメートルとなる。[[画像:Passy et Bois du Boulogne.jpg|thumb|right|280px|[[エッフェル塔]]から[[パッシー]]を望む。奥に[[ブローニュの森]]、下は[[シャイヨ宮]]。]]<br />
<br />
北は、同じ[[パリの行政区]]である[[8区 (パリ)|8区]]と[[17区 (パリ)|17区]]に接しているが、ペリフェリック以西は[[オー=ド=セーヌ県]]の[[コミューン|自治体]]である[[ヌイイ=シュル=セーヌ]]に接している。南は、同じくオー=ド=セーヌ県の[[ブローニュ=ビヤンクール]]に接している。東は、セーヌ川を挟んで[[7区 (パリ)|7区]]と[[15区 (パリ)|15区]]に接している。西は、南から蛇行してきたセーヌ川を挟んで、北西は[[ピュトー]]、西は[[シュレンヌ]]、南西は[[サン=クルー]]の各自治体に接している。<br />
<!--<br />
※ 20区共通のフォーマットを使用しています。<br />
--><br />
[[File:Rue la fontaine 19-21, 07.JPG|thumb|right|270px|[[:fr:Rue Agar|Rue Agar]]]]<br />
<br />
=== 地形 ===<br />
* [[アンフェリウール湖]] ({{lang|fr|''Lac Inférieur''}}) – [[ブローニュの森]]東部にある。<br />
* [[シュペリウール湖]] ({{lang|fr|''Lac Supérieur''}}) – ブローニュの森南東部にある。<br />
<!--<br />
主な地形(山、丘など)について、種別ごとに、その名称を箇条書きします(五十音順)。<br />
数が少ない場合には、種別(「山地・丘陵」「河川・水路」など)を省略することができます。<br />
* 山地・丘陵<br />
** [[○○山]] ({{lang|fr|''''}})<br />
** [[○○丘]] ({{lang|fr|''''}})<br />
* 河川・水路<br />
** [[○○川]] ({{lang|fr|''''}})<br />
** [[○○運河]] ({{lang|fr|''''}})<br />
* 河岸<br />
** [[○○河岸]] ({{lang|fr|''''}})<br />
* 湖沼<br />
** [[○○湖]] ({{lang|fr|''''}})<br />
** [[○○池]] ({{lang|fr|''''}})<br />
* 海岸・湖岸<br />
** [[○○海岸]] ({{lang|fr|''''}})<br />
** [[○○浜]] ({{lang|fr|''''}})<br />
* 坂<br />
** [[○○坂]] ({{lang|fr|''''}})<br />
=== 気候 ===<br />
--><br />
=== 隣接する自治体(行政区) ===<br />
* [[パリの行政区]]のうち、以下の区。<br />
** [[7区 (パリ)|7区]]、[[8区 (パリ)|8区]]、[[15区 (パリ)|15区]]、[[17区 (パリ)|17区]]。<br />
* [[オー=ド=セーヌ県]]のうち、以下の[[コミューン|自治体]]。<br />
** [[サン=クルー]]、[[シュレンヌ]]、[[ヌイイ=シュル=セーヌ]]、[[ピュトー]]、[[ブローニュ=ビヤンクール]]。<br />
<!--=== 範囲 ===<br />
--><br />
=== 地区(カルチェ) ===<br />
[[File:Paris 16e arrondissement - Quartiers.svg|thumb|right|220px|カルティエ区分図]]<br />
パリの[[行政区]]は、それぞれ4つの地区(カルチェ)に区分されている。16区を構成する4地区のコードと名称は、次のとおりである。<br />
* 61 - [[オートゥイユ地区]] ({{lang|fr|''Quartier d'Auteuil''}})<br />
* 62 - [[ラ・ミュエット地区]] ({{lang|fr|''Quartier de la Muette''}}) - <!-- laより大文字の La、ゆえに"ラ・ミュエット"と通称される--><br />
* 63 - [[ポルト=ドーフィーヌ地区]] ({{lang|fr|''Quartier de la Porte-Dauphine''}})<br />
* 64 - [[シャイヨ地区]] ({{lang|fr|''Quartier de Chaillot''}})<br />
[[File:View from the Eiffel Tower, April 2011 001.jpg|thumb|right|260px|エッフェル塔から見るシャイヨ地区]]<br />
<br />
== 住民 ==<br />
=== 人口 ===<br />
16区の人口は、1962年に227,418人となり、ピークに達した。しかし、その後は減少を続け、1999年にはピーク時の7割程度の161,773人となった。2005年の推計では146,900人と見積もられており、人口の更なる減少が見込まれている。<br />
<br />
また、人口の減少とともに人口密度も減り続けており、1999年の人口密度(区の面積から[[ブローニュの森]]を除いて算出)は、ピーク時の7割程度の20,619人となっている。人口の推移の詳細は、次のとおりである。<br />
<br />
{| class="wikitable" style="width:90%; margin:0 auto"<br />
! 年 !! 区人口 !! 市人口 !! 区人口/市人口 !! 区人口密度 !! 市人口密度 !! 備考<br />
<br />
|- style="text-align:right; background-color:#FFFFFF"<br />
! style="width:4em; text-align:right" | [[1872年]]<br />
| style="width:6em" | 43,332 || style="width:6em" | 1,851,792 || style="width:5em" | 2.34% || style="width:6em" | 5,523 || style="width:6em" | 21,303 || style="text-align:left" | <br />
<br />
|- style="text-align:right; background-color:#EEEEEE"<br />
! style="text-align:right; background-color:#EEEEEE" | [[1954年]]<br />
| 214,042 || 2,850,189 || 7.51% || 27,280 || 32,788 || style="text-align:left" | <br />
<br />
|- style="text-align:right; background-color:#FFFFFF"<br />
! style="text-align:right" | [[1962年]]<br />
| 227,418 || 2,790,091 || 8.15% || 28,985 || 32,097 || style="text-align:left" | 人口がピークに達する。<br />
<br />
|- style="text-align:right; background-color:#EEEEEE"<br />
! style="text-align:right; background-color:#EEEEEE" | [[1968年]]<br />
| 214,120 || 2,590,771 || 8.26% || 27,290 || 29,804 || style="text-align:left" | <br />
<br />
|- style="text-align:right; background-color:#FFFFFF"<br />
! style="text-align:right" | [[1975年]]<br />
| 193,590 || 2,299,830 || 8.42% || 24,674 || 26,457 || style="text-align:left" | <br />
<br />
|- style="text-align:right; background-color:#EEEEEE"<br />
! style="text-align:right; background-color:#EEEEEE" | [[1982年]]<br />
| 179,446 || 2,176,243 || 8.25% || 22,871 || 25,035 || style="text-align:left" | <br />
<br />
|- style="text-align:right; background-color:#FFFFFF"<br />
! style="text-align:right" | [[1990年]]<br />
| 169,863 || 2,152,423 || 7.89% || 21,650 || 24,761 || style="text-align:left" | <br />
<br />
|- style="text-align:right; background-color:#EEEEEE"<br />
! style="text-align:right; background-color:#EEEEEE" | [[1999年]] <br />
| 161,773 || 2,125,246 || 7.61% || 20,619 || 24,449 || style="text-align:left" | <br />
<br />
|- style="text-align:right; background-color:#FFFFFF"<br />
! style="text-align:right" | [[2005年]]<br />
| 146,900 || 2,166,200 || 6.78% || 18,723 || 24,920 || style="text-align:left" | 人口は推計。<br />
<br />
|}<small><br />
* 注意<br />
** [[人口密度]]は、1平方キロメートルあたりの[[人口]]。区人口密度は、16区の面積を、森林部([[ブローニュの森]])を除いた7.846平方キロメートルとして算出した。また、市人口密度は、森林部(ヴァンセンヌの森、[[ブローニュの森]])を除くパリ市全体の面積(86.927平方キロメートル)をもとに算出した。<br />
** 1962年から1999年までの区人口及び市人口は、[[フランス国立統計経済研究所]]の[http://www.insee.fr/fr/themes/detail.asp?ref_id=poplog-com&reg_id=99 データ ({{lang|fr|''Île-de-France''}} )]を参考とした。<br />
</small><br />
<!--<br />
・人口の推移・密度・地域別・年齢別・所得層・学歴・治安<br />
・少数民族・移民・外国人<br />
=== 言語 ===<br />
・公用語・言語・方言・使用者の比率<br />
--><br />
<br />
== 歴史 ==<br />
{{節スタブ}}<br />
<!--<br />
=== 年表 ===<br />
* [[XXXX年]][[XX月XX日]] ○○○<br />
--><br />
<br />
== 政治・行政・司法 ==<br />
<!--<br />
=== 区政 ===<br />
* 区長(任期)<br />
** ○○ ○○ (第2期: [[XXXX年]] – [[XXXX年]])<br />
** ○○ ○○ (第1期: [[XXXX年]] – 現職)<br />
* 議会<br />
* 選挙<br />
* 行政機構<br />
* 財政<br />
* 施策<br />
** ○○政策 (○○に関する施策。特色は・・・。)<br />
** ○○条例 (○○に関しては、全国初の条例。特徴は・・・、)<br />
=== 姉妹都市 ===<br />
* 国内<br />
** [[○○市]]([[○○県]])- [[XXXX年]][[XX月XX日]]姉妹都市提携。<br />
* 海外<br />
* {{flagicon|国名}} [[○○市]] ([[国名]]・[[州名など]]) - [[XXXX年]][[XX月XX日]]姉妹都市提携。<br />
=== 国・地域圏・県の行政 ===<br />
* 国<br />
* 地域圏<br />
* 県<br />
=== 司法 ===<br />
司法について、特記事項があれば、記述します。<br />
--><br />
=== 主な官公庁・公共機関 ===<br />
* 経済社会環境会議(経済社会環境評議会, [[:fr:Conseil économique, social et environnemental|''Conseil économique, social et environnemental'']])<br />
** パレ・イエナ (パレ・ディエナ, [[:fr:Palais d'Iéna|Palais d'Iéna]]) 内に置かれている経営者・労働組合・団体間による[[国民議会 (フランス)|国民議会]]の諮問機関。[[元老院 (フランス)|元老院]]への統合も検討されている。パレ・イエナには、[[国際商業会議所]]本部も置かれている。<br />
* [[第16区役所 (パリ)|第16区役所]]({{lang|fr|''Mairie du 16<sup>e</sup> arrondissement''}}) <br />
** トロカデロ・11月11日広場(トロカデロ広場)の西方、アンリ=マルタン大通り沿いにある。<br />
<!--<br />
* [[○○省]] ({{lang|fr|''''}})<br />
・国の機関(司法機関を含む)<br />
・地域圏の機関<br />
・市・区の機関<br />
・警察・消防は、後述の「安全」節に記述。<br />
・郵便局・電話・通信・ライフライン関連は後述の「生活」節に記述。<br />
<br />
== 軍事 ==<br />
区内にある軍事関連施設について、記述します。ただし、省庁(国防省など)は、「政治・行政」に記述します。<br />
* ○○○(駐屯地名)<br />
* ○○士官学校<br />
--><br />
<br />
== 国際機関 ==<br />
[[File:Paris chateau muette.jpg|thumb|250px|OECD本部(旧ラ・ミュエット宮殿)]]<br />
* [[経済協力開発機構|経済協力開発機構本部]](OECD本部, {{lang-fr-short|''Organisation de Coopération et de Développement Économiques (OCDE)''}})<br />
** 本部を置く{{仮リンク|ラ・ミュエット宮殿|fr|Château de la Muette (Paris)}}は、[[ルイ16世 (フランス王)|ルイ16世]]、[[マリー・アントワネット]]が新婚生活を送った地。[[フランス革命]]で破壊されたが、1912-1922年にかけて、[[ナサニエル・ド・ロスチャイルド|ナタニエル・ド・ロチルド]]の孫{{仮リンク|アンリ・ド・ロチルド|fr|Henri de Rothschild}}(実業家、[[フィランソロピー|フィランソロピスト]])が再建し、その後居住した。<!--アンリ・ド・ロチルドのフランス語版より--> <br />
* [[国際商業会議所]]({{lang|fr|''Chambre de commerce internationale''}})<br />
** パレ・イエナ (パレ・ディエナ, {{lang-fr-short|''Palais d'Iéna''}}) 内に置かれている国際通商組織。<br />
<!--* ○○○(国際機関名)--><br />
<br />
== 外国の施設 ==<br />
<gallery mode="packed" caption="" heights="160"><br />
Turkish embassy in Paris-Erd1.jpg|ランバル館の駐仏トルコ大使館<br />
Plaque Nerval-Gounod-Maupassant, 16 avenue de Lamballe, Paris 16.jpg|ランバル大通りの[[プラーク]] « ランバル館に、[[ジェラール・ド・ネルヴァル]]は1853-1854年の間, [[シャルル・グノー]]は1857年、[[ギー・ド・モーパッサン]]は1892年に療養し翌年死去 ».<br />
P1250278 Paris XVI rue de Berton maison de Balzac rwk.jpg|オテル・ド・ランバルとメゾン・ド・[[オノレ・ド・バルザック|バルザック]]との間を走るベルトン通り ([[:fr:Rue Berton|Rue Berton]]) 24番地界隈 <br />
Rue Berton.JPG|現在のベルトン通り<br />
Borne limitative des seigneuries d'Auteuil et de Passy - Vue générale de la rue - Paris 16 - Médiathèque de l'architecture et du patrimoine - APMH00037917.jpg|1901年のベルトン通り ([[ウジェーヌ・アジェ]]撮影)<br />
P1250285 Paris XVI rue Berton rwk.jpg|アンカラ通りからベルトン通りへの入り口 (Entrée de la rue, côté [[:fr:Rue d'Ankara|rue d'Ankara]])<br />
</gallery><br />
{{message galerie}}<br />
16区内には各国[[大使館]]等が多く所在する。[[モナコ]]、[[トルコ]]、[[ボリビア]]・・など90ヶ国以上の駐仏大使館が16区内にあり、[[フランス]]駐在大使館の約4割が集中する。<br />
* トルコ大使館<br />
** "ランバル公邸 ([[:fr:Hôtel de Lamballe]])"ないしランバル館として知られている。セーヌ川沿いの{{仮リンク|ランバル大通り|fr|Avenue de Lamballe}}に位置する。元は王妃[[マリー・アントワネット]]の女官総監の地位を一旦追われた[[ランバル公妃マリー・ルイーズ]]が居住した邸宅だった。1846年からブランシュ精神科療養所ないし病院に用いられた。作曲家[[シャルル・グノー]]、[[ナポレオン3世]]の愛人カスティリオンヌ伯爵夫人[[ヴィルジニア・オルドイーニ]]、詩人[[ジェラール・ド・ネルヴァル]]、画家[[ヴィンセント・ヴァン・ゴッホ]]らが患者として療養していた。作家[[ギー・ド・モーパッサン]]はこの療養所で亡くなった。建物自体は[[第一次世界大戦|第一次]]-[[第二次世界大戦]]間に壊されたが、すぐに精密に再建された。第二次大戦後から駐仏トルコ大使館に用いられている。<br />
<!--* 領事館<br />
** ○○領事館<br />
--><br />
<br />
== マスコミ ==<br />
[[File:Chateau-de-passy.tiff|thumb|250px|旧ブーランヴィリエ城([[:fr:Château de Boulainvilliers|fr]]、現ラジオ・フランス)。または "パッシー城"]]<br />
<br />
<!--<br />
=== 新聞社 ===<br />
* [[○○新聞社|○○新聞本社]]<br />
--><br />
=== 放送局(テレビ・ラジオ) ===<br />
* [[ラジオ・フランス|ラジオ・フランス本社]] ({{lang|fr|''Radio France''}})<br />
** [[メゾン・ド・ラジオ・フランス]]([[:fr:Maison de la Radio (France)|Maison de la Radio (France)]])内にある[[ラジオ放送局]]。かつてこの一帯は{{仮リンク|ブーランヴィリエ城|fr|Château de Boulainvilliers}}が建っていた。徴税請負人の新興貴族かつ音楽等のパトロンだったアレクサンドル・ル・リシュ・ド・ラ・プーピリニエール([[:fr:Alexandre Le Riche de La Pouplinière|fr]])の死後の1762年、[[ルイ・ジャン・マリー・ド・ブルボン|パンティエーヴル公]]が所有。その後、[[フランス革命]]期もお城や庭園に損傷もなく乗り切ったが、[[ワーテルローの戦い]]のあった1815年にイギリス人が購入。1826年に三分割した上で投機家らに売却したため荒廃してしまった。<!--:fr:Château de Boulainvilliers 参照--><br />
<!--<br />
=== その他 ===<br />
* [[○○出版社]]<br />
--><br />
== 経済 ==<br />
<!--=== 産業 ===<br />
* 第一次産業<br />
* 第二次産業 <br />
* 第三次産業<br />
=== 主な繁華街 ===--><br />
=== 主な企業 ===<br />
* [[グループPSA]]本社 ({{lang|fr|''Groupe PSA''}}) <br />
** [[プジョー]]を中心とする[[持株会社]]。グランダルメ大通り (avenue de la Grande-Armée) 75番地に所在する。 <br />
* [[NRJグループ]] ({{lang|fr|''NRJ Group''}})<br />
** 1981年創業の[[マルチメディア]]事業会社。ボイロー通り ([[:fr:Rue Boileau (Paris)|Rue Boileau]]) 22番地に所在する。<br />
<!--=== 主な工場 ===<br />
--><br />
<br />
=== 主な店舗・商業施設 ===<br />
* パッシー・プラザ({{lang|fr|''Passy Plaza''}})<br />
** パッシー通り ({{lang|fr|''Rue de Passy''}}) 53番地にある[[ショッピングセンター]]。スーパーマーケットのモノプリ ([[:fr:Monoprix (France)|Monoprix]]) 等がある。<br />
* フランク・エ・フィス({{lang|fr|''Franck et Fils''}})<br />
** パッシー通り80番地にあったプチ高級百貨店だったが2016年7月閉店。跡には、[[7区 (パリ)|7区]]セーヴル通り ({{lang|fr|''Rue de Sèvres''}}) 38番地にあり、[[ボン・マルシェ百貨店]]隣り、かつ同系列の高級食品店ないしスーパーの「ラ・グランド・エピスリー・ド・パリ ({{lang|fr|''La Grande Epicerie de Paris''}})」2号店が2017年秋にオープン。<br />
* [[セリーヌ]]({{lang|fr|''Celine''}})<br />
** [[エトワール凱旋門]]至近ヴィクトル・ユーゴー大通り ({{lang|fr|''Avenue Victor Hugo''}}) 3番地にある。他の路面店ないし[[旗艦店]]は、[[8区 (パリ)|8区]]モンテーニュ大通り ({{lang|fr|''Avenue Montaigne''}}) 53番地、高級ブランド店が集積する[[サン=ジェルマン=デ=プレ]]界隈7区グルネル通り ({{lang|fr|''Rue de Grenelle''}}) 16番地等にある。<br />
* [[バカラ (ガラス)|バカラ]]・メゾン・パリ({{lang|fr|''Baccarat''}})<br />
** 2003年に開館した[[クリスタルガラス]]のバカラのブティックや美術館。[[エトワール凱旋門]]から凡そ500m南側、イエナ大通り沿い合衆国広場 (エタ=ジュニ広場, {{lang|fr|''Place des Étas-Unis''}}) 11番地にある。ブティックの他、レストラン&バー (クリスタルルーム・バカラ・パリ)、バカラ美術館 (ギャルリー=ミュゼ・バカラ) がある。建物自体は、芸術関連の[[メセナ]]や、建築上「[[ノアイユ子爵夫妻邸]] ([[ヴィラ]]・ノアイユ)」で知られるシャルル・ド・ノアイユ ([[:fr:Charles de Noailles (1891-1981)|fr]])の妻マリ=ロール・ド・ノアイユ ([[:fr:Marie-Laure de Noailles|fr]]) が[[社交]]や居住に用いた館であった。その他、8区フォーブール=サントノレ通りや百貨店等に店舗がある。<!--http://boutique.baccarat.fr/cristal/fr/paris 参照--><br />
<!--* [[複合施設・大型施設名]] ({{lang|fr|''''}})<br />
* [[金融機関名]] ({{lang|fr|''''}})<br />
* [[店舗名]] ({{lang|fr|''''}})<br />
=== 主な商店街 ===<br />
* [[○○商店街]] ({{lang|fr|''''}})<br />
* [[○○・パサージュ]] ({{lang|fr|''''}})<br />
<br />
== 安全 ==<br />
=== 警察等 ===<br />
統括機関(例 パリ警視庁)は、「政治・行政・司法」節に記述します。<br />
* [[○○警察署]] ({{lang|fr|''''}})<br />
* [[○○刑務所]] ({{lang|fr|''''}})<br />
=== 消防 ===<br />
* [[○○消防署]] ({{lang|fr|''''}})<br />
=== その他 ===<br />
* [[○○防災センター]] ({{lang|fr|''''}})<br />
* [[○○遊水地]] ({{lang|fr|''''}})<br />
--><br />
<br />
== 健康・福祉 ==<br />
=== 保健・医療 ===<br />
* [[サント=ペリーヌ病院]] ({{lang|fr|''Hôpital Sainte-Périne''}})<br />
<!--<br />
* [[○○保健センター]] ({{lang|fr|''''}})<br />
=== 福祉 ===<br />
数が多い場合は、「高齢者福祉」「児童福祉」「障害者福祉」「社会福祉」に分割した方がわかりやすいかもしれません。<br />
* [[○○高齢者センター]] ({{lang|fr|''''}})<br />
* [[○○児童福祉センター]] ({{lang|fr|''''}})<br />
=== その他 ===<br />
* [[○○施設]] ({{lang|fr|''''}})<br />
<br />
== 生活 ==<br />
=== 郵便 ===<br />
統括機関(例 中央郵便局)は、「政治・行政・司法」節に記述します。<br />
* [[○○郵便局]] ({{lang|fr|''''}})<br />
=== 電話・通信 ===<br />
* [[○○電話局]] ({{lang|fr|''''}})<br />
=== 電気・ガス ===<br />
* [[○○電気△△支店]] ({{lang|fr|''''}})<br />
* [[○○ガス△△支社]] ({{lang|fr|''''}})<br />
=== 上水道 ===<br />
* [[○○水道局△△出張所]] ({{lang|fr|''''}})<br />
=== 下水道 ===<br />
* [[○○下水道局△△出張所]] ({{lang|fr|''''}})<br />
* [[○○下水処理場]] ({{lang|fr|''''}})<br />
--><br />
=== 墓地等 ===<br />
* [[パッシー墓地]] ({{lang|fr|''Cimetière de Passy''}})<br />
<!--<br />
* [[○○葬儀場]] ({{lang|fr|''''}})<br />
=== その他 ===<br />
* [[○○清掃局△△支所]] ({{lang|fr|''''}})<br />
* [[○○センター]] ({{lang|fr|''''}})<br />
--><br />
<br />
== 学術・研究 ==<br />
=== 研究施設 ===<br />
* [[フランス国立科学研究センター]](CNRS、{{lang|fr|''Centre national de la recherche scientifique''}}) - フランス各地の大学など[[高等教育機関]]とも調査研究・教育で提携している。<br />
<!--* [[○○研究所]] ({{lang|fr|''''}})<br />
--><br />
<br />
== 教育 ==<br />
=== 大学等 ===<br />
* [[パリ第9大学]] (パリ・ドーフィーヌ) ({{lang|fr|''Université Paris IX (Paris Dauphine)''}})<br />
<!--<br />
* [[国立○○学校]] ({{lang|fr|''''}})<br />
* [[○○大学校]] ({{lang|fr|''''}})<br />
* [[○○大学]] ({{lang|fr|''''}})<br />
* [[○○短期大学]] ({{lang|fr|''''}})--><br />
=== 高等学校 ===<br />
<!--* ○○公私立○○高等学校<br />
* 私立○○高等学校<br />
* 私立○○高等専門学校--><br />
※ 以下、区内の主な[[リセ]]をピックアップ。{{main|fr:Liste des collèges et lycées de Paris}}<br />
*{{仮リンク|リセ・ジャンソン=ドゥ=サイイ|fr|Lycée Janson-de-Sailly}}(公立)<br />
** パリの最名門校の一つ。卒業生ないし出身者については「[[:fr:Catégorie:Élève du lycée Janson-de-Sailly|Catégorie:Élève du lycée Janson-de-Sailly]] (仏語版)」を参照。<br />
*{{仮リンク|リセ・ジャン=ドゥ=ラ=フォンテーヌ|fr|Lycée Jean-de-La-Fontaine (Paris)}}(公立)<br />
*{{仮リンク|リセ・モリエール|fr|Lycée Molière (Paris)}}(公立)<br />
*{{仮リンク|リセ・サン=ルイ=ドゥ=ゴンザーグ|fr|Lycée Saint-Louis-de-Gonzague}}(私立)<br />
*{{仮リンク|リセ・サン=ジャン=ドゥ=パッシー|fr|Lycée Saint-Jean-de-Passy}}(私立)<br />
<!--<br />
=== 中学校 ===<br />
* ○○市町村立○○中学校<br />
=== 小学校 ===<br />
* ○○市町村立○○小学校<br />
=== 幼稚園・保育園 ===<br />
* [[○○保育園]] ({{lang|fr|''''}})<br />
* [[○○幼稚園]] ({{lang|fr|''''}})<br />
=== その他 ===<br />
* [[○○盲学校]] ({{lang|fr|''''}})<br />
* [[○○料理学校]] ({{lang|fr|''''}})<br />
* [[○○市民カレッジ]] ({{lang|fr|''''}})<br />
--><br />
<br />
== 宿泊施設 ==<br />
=== 主な宿泊施設 ===<br />
<!--* [[○○ホテル]] ({{lang|fr|''''}})<br />
--><br />
* [[シャングリ・ラ・ホテルズ&リゾーツ|シャングリ・ラ・オテル・パリ]]({{lang|fr|''Shangri-La Hôtel Paris''}}) - イエナ大通り10番地に所在する。<br />
* [[香港&上海ホテルズ|オテル・ペニンシュラ・パリ]]({{lang|fr|''Hôtel The Peninsula Paris''}}) - クレベール大通り19番地に所在する。<br />
* [[ウォルドルフ=アストリア|オテル・ウォルドーフ・トロカデロ・パリ]]({{lang|fr|''Hôtel Waldorf Trocadéro Paris''}}) - ロリストン通り97番地に所在する。<br />
<br />
== 文化施設 ==<br />
<gallery mode="packed" caption="" heights="160"><br />
File:Paris arrondissement XVI.jpg|パリ16区の建築群<br />
File:Musée Galliera, Paris 21 July 2017.jpg|スクアール・ブリニョル・ガリエラ, パリ市立モードと衣装の美術館 ''(ガリエラ美術館, Square Brignole Galliera et [[:fr:Musée Galliera|Musée Galliera]])'', 2017年7月<br />
File:Le musée Galliera à Paris.jpg|ガリエラ美術館, 2010年4月<br />
File:Paris - panoramio (492).jpg|バカラ美術館 ([[:fr:Musée Baccarat (Paris)|Musée Baccarat]]), 2014年9月<br />
File:Paris - panoramio (487).jpg|バカラ美術館, 2014年9月<br />
File:Expo-afrique-musee-dapper.jpg|『''アフリカの香水''』展, ダッペール美術館, 2005年 ''(Exposition "Afrique en parfums au [[:fr:Musée Dapper|Musée Dapper]] à Paris, en 2005)''<br />
File:Le jardin japonais (musée Guimet) (5422097133).jpg|[[ギメ東洋美術館]]の[[日本庭園]], 2011年2月<br />
File:Le Musée Guimet vu de la rue Boissière.JPG|ボワシエール通りから見るギメ東洋美術館, 2015年4月<br />
File:P1180768 Paris XVI square Charles-Dickens rwk.jpg|ワイン博物館 ([[:fr:Musée du Vin|Musée du Vin]]), 2013年6月<br />
File:Scène Champagne.jpg|『[[シャンパーニュ]]の製造シーン』ワイン博物館, 2008年4月<br />
File:Paris 2014 - Visita à exposição de obras impressionistas.jpg|[[マルモッタン美術館]], 2014年5月<br />
File:Paris.- Musée Marmottan Monet (1).jpg|マルモッタン美術館中庭<br />
File:Musée d'Art moderne de la Ville de Paris.jpg|[[パリ市立近代美術館]], 2006年9月<br />
File:Robert Delaunay, 1926, Tour Eiffel, oil on canvas, 169 × 86 cm, Musée d'Art Moderne de la ville de Paris.jpg|『[[エッフェル塔]]』(1926年, [[ロベール・ドローネー]]作, パリ市立近代美術館)<br />
File:Fondation Singer-Polignac.jpg|シンガー=ポリニャック財団, 2017年6月<br />
</gallery><br />
{{message galerie}}<br />
<br />
=== 美術館・博物館 ===<br />
* [[海洋博物館 (パリ)|海洋博物館]] ({{lang|fr|''Musée National de la Marine''}}) - [[シャイヨ宮]]内にある。<br />
* [[ガリエラ美術館]] ({{lang|fr|''Musée Galliera''}}) - 正式名称は、パリ市立モードと衣装の美術館。ガリエラ宮と呼ばれる。<br />
* [[贋造博物館]] ({{lang|fr|''Musée de la Contrefaçon''}})<br />
* [[ギメ東洋美術館]] (ギメ美術館) ({{lang|fr|''Musée National des Arts Asiatiques-Guimet (Musée Guimet)''}})<br />
* [[クレマンソー博物館]] ({{lang|fr|''Musée Clémenceau''}}) - 元首相[[ジョルジュ・クレマンソー]]が、1895年からその死まで居住した建物と庭が当時のまま保存してある。ベンジャマン=フランクラン通り8番地にあり、[[メトロ (パリ)|メトロ]]のパッシー駅と[[トロカデロ駅]]が最寄り駅。<br />
* [[国立民俗民芸博物館]] ({{lang|fr|''Musée National des Arts et Traditions Populaires''}}) - [[ブローニュの森]]北部にある。<br />
* [[人類博物館]] ({{lang|fr|''Musée de l'Homme''}}) - シャイヨ宮内にある。<br />
* [[ダッペール美術館]] ({{lang|fr|''Musée Dapper''}}) - [[セネガル]]などのアフリカ関係の美術館。<br />
* [[テニス博物館]] ({{lang|fr|''Tenniseum''}}) - あるいは、テニス博物館 (Musée du Tennis), ローラン=ギャロス博物館 (Musée de Roland-Garros)。<br />
* [[バカラ美術館]] ({{lang|fr|''Musée Baccarat''}}) - [[メゾン]]やレストラン&バー等と共に、イエナ大通り界隈合衆国広場にある[[バカラ (ガラス)|バカラ]]の複合施設内にある美術館 (ギャルリー=ミュゼ・バカラ)。建物自体は、芸術関連の[[メセナ]]や、建築上「[[ノアイユ子爵夫妻邸]] ([[ヴィラ]]・[[ノアイユ]])」で知られるシャルル・ド・ノアイユ ([[:fr:Charles de Noailles (1891-1981)|fr]])の妻マリ=ロール・ド・ノアイユ ([[:fr:Marie-Laure de Noailles|fr]]) が社交や居住に用いた館であった。<br />
* [[パリ市立近代美術館]] ({{lang|fr|''Musée d'Art Moderne de la Ville de Paris''}}) - [[パレ・ド・トーキョー]]内にある。<br />
* [[バルザック記念館]] ({{lang|fr|''Maison de Balzac''}}) - [[オノレ・ド・バルザック|バルザック]]の旧宅を記念館として使用している。メトロのパッシー駅、トロカデロ駅等が最寄り駅。<br />
* [[マルモッタン美術館]] ({{lang|fr|''Musée Marmottan''}})<br />
* [[ラジオ・フランス博物館]] ({{lang|fr|''Musée de Radio France''}}) - [[ラジオ・フランス|メゾン・ド・ラジオ・フランス]]内にある[[博物館]]。<br />
* [[ワイン博物館]] ({{lang|fr|''Musée du Vin''}})<br />
* [[フォンダシオン・ルイ・ヴィトン|ルイ・ヴィトン美術館]] ({{lang|fr|''Foundation Louis Vuitton''}}) - ブローニュの森北東部に位置する。<br />
* [[ピエール・ベルジェ=イブ・ サンローラン財団]] ({{lang|fr|''Fondation Pierre Bergé - Yves Saint Laurent''}}) - [[8区 (パリ)|8区]]至近マルソー大通り ([[:fr:Avenue Marceau|Avenue Marceau]]) 5番地にある[[イヴ・サン=ローラン]]の[[オートクチュール]]専用[[メゾン]](店舗)だった。2002年に[[公施設法人]]の財団となり、2017年10月に同マルソーと[[マラケシュ]]に美術館が開館する。<br />
<br />
=== 動物園・水族館 ===<br />
* [[シネアクア]] ({{lang|fr|''CinéAqua''}}) – トロカデロ庭園内にある[[水族館]]。<br />
<br />
=== 映画館・劇場 ===<br />
* シャイヨ劇場 ({{lang|fr|''Théâtre National de Chaillot''}}) - [[シャイヨ宮]]内にある。<br />
* マジェスティック・パッシー ({{lang|fr|''Majestic Passy''}}) - パッシー通りにある映画館。<br />
<!--<br />
* [[○○劇場]] ({{lang|fr|''''}})<br />
=== その他 ===<br />
* [[○○図書館]] ({{lang|fr|''''}})<br />
--><br />
<br />
=== その他 ===<br />
* シンガー・ポリニャック財団 ({{lang|fr|''Fondation Singer-Polignac''}}) - [[ポリニャック公爵夫人ヨランド・ド・ポラストロン|ポリニャック公爵夫人]]の孫 {{仮リンク|エドモン・ド・ポリニャック|fr|Edmond de Polignac}}の妻[[ウィナレッタ・シンガー]]が1943年に亡くなった後、"ポリニャック公妃館"は芸術から学術まで[[メセナ]]を行う[[公施設法人]]財団になり現在に至る。トロカデロ界隈の{{仮リンク|ジョルジュ=マンデル大通り|fr|Avenue Georges-Mandel}}43番地から同地裏手{{仮リンク|シェフェール通り|fr|Rue Scheffer}}46番地界隈にある。<br />
<br />
== 体育施設 ==<br />
[[File:Ladies at Longchamp 1908.jpg|thumb|190px|right|''[[ロンシャン競馬場|ロンシャン]]の[[淑女]]たち (Mesdames à Longchamp)'', 1908年]]<br />
<br />
=== 陸上競技場・体育館など ===<br />
* [[ジャン・ブーアン競技場 (パリ)|ジャン・ブーアン競技場]] ({{lang|fr|''Stade Jean-Bouin''}})<br />
** 16区の南の境界線付近にある[[競技場]]。[[ラグビー]]のプロクラブ「[[スタッド・フランセ・パリ]]」の本拠地である。<br />
* [[スタッド・ローラン・ギャロス]] ({{lang|fr|''Stade Roland-Garros''}})<br />
** [[ブローニュの森]]にある[[テニス]]競技場。テニスの[[グランドスラム (テニス)|四大大会]]の一つである[[全仏オープン]]などで世界的に有名である。<br />
* [[パルク・デ・プランス]] ({{lang|fr|''Parc des Princes''}})<br />
** 16区の南の境界線付近にある[[サッカー]]競技場。サッカークラブ「[[パリ・サンジェルマンFC]]」の本拠地である。<br />
<!--<br />
=== プール ===<br />
* [[○○プール]] ({{lang|fr|''''}})<br />
--><br />
=== その他 ===<br />
* [[オートゥイユ競馬場]] ({{lang|fr|''Hippodrome d'Auteuil''}}) <br />
** [[ブローニュの森]]南東部にある。<br />
* [[ロンシャン競馬場]] ({{lang|fr|''Hippodrome de Longchamp''}})<br />
** ブローニュの森南西部にある。[[凱旋門賞]]などで世界的に名が知られている。<br />
<br />
== 宗教施設 ==<br />
<!--<br />
※小節の分け方<br />
複数の宗教がある場合は、宗教別に小節名を「キリスト教」「イスラム教」などとします。<br />
(キリスト教で区別が可能であれば、小節名を「カトリック」「プロテスタント」などとします)<br />
宗教が同一の場合は、建物の種類ごとに小節名を「教会・寺院」「その他」とします。<br />
上記に当てはまらない場合は、小節名を「その他」とします。<br />
以上の方法で分類がうまくいかない場合は、新たな小節名を考慮するなど臨機に対応してください。<br />
--><br />
=== 教会・寺院 ===<br />
[[File:Eglise d'Auteuil.jpg|thumb|right|200px|ノートル=ダム・ドートゥイユ教会]]<br />
<br />
* [[ノートル=ダム・ド・グラス・ド・パッシー教会]] ({{lang|fr|''Notre-Dame de Grâce de Passy''}})<br />
* [[ノートル=ダム・ド・ラソンプション・ド・パッシー教会]] ({{lang|fr|''Notre-Dame de l’Assomption de Passy''}})<br />
* [[サントノレ・デイロー教会]] ({{lang|fr|''Saint-Honoré d’Eylau''}})<br />
* [[サン=ピエール=ド=シャイヨ教会]] ({{lang|fr|''Église Saint-Pierre-de-Chaillot''}})<br />
* [[サン=フランソワ=ド=モリトール教会]] ({{lang|fr|''Église Saint-François-de-Molitor''}})<br />
* [[ノートル=ダム・ドートゥイユ教会]] ({{lang|fr|''Notre-Dame d’Auteuil''}})<br />
* [[サント=ジャンヌ・ド・シャンタル教会]] ({{lang|fr|''Sainte-Jeanne de Chantal''}}) - 名称は[[シャイヨ宮|シャイヨ修道院]]を形成した[[聖母訪問会]]創始者の[[ジャンヌ・ド・シャンタル]]。<br />
<!--<br />
=== その他 ===<br />
* [[○○イスラム寺院]] ({{lang|fr|''''}})<br />
--><br />
<br />
[[File:Jardins du Trocadéro - 20150801 16h02 (10626).jpg|thumb|right|200px|[[エッフェル塔]]からトロカデロ庭園及びシャイヨ宮の眺め]]<br />
<br />
== 観光・憩い ==<br />
=== 自然 ===<br />
* [[ブローニュの森]] ({{lang|fr|''Bois de Boulogne''}})<br />
** ディネ・アン・ブラン(ホワイト・[[ディナー]] ([[:fr:Dîner en blanc|Dîner en blanc]])) - "真っ白な夕食"の意。全身を白い服でまとい、自分の食事から(白い)座席までを持ち寄って、[[フラッシュモブ]]的に公共の場所で突然始まるディナー。テーブルは、白いテーブルクロスで整えられている。1988年、ブローニュの森バガテル庭園で開催されて手狭になってから[[ポンデザール (パリ)|ポンデザール]]、[[シャン・ド・マルス公園]]、[[オテル・デ・ザンヴァリッド|アンヴァリッド]]、[[エトワール広場]]、[[シャンゼリゼ通り]]、[[ノートルダム大聖堂 (パリ)|ノートルダム大聖堂]]前広場、[[ルーヴル美術館]]広場、ヴォージュ広場、[[シャイヨ宮]]広場など・・[[パリ]]の至る公共場所で"突如"開催されてきた。現在では[[ロンドン]]、[[ミュンヘン]]、[[モントリオール]]、[[ニューヨーク]]、[[ラスベガス]]から[[サンパウロ]]、[[メルボルン]]、[[シンガポール]]、[[上海]]などに至る世界各地に拡がり、[[東京]]でも2015年から[[明治神宮外苑]]で初開催されている<ref>[https://tokyo.dinerenblanc.com/ ディネ・アン・ブラン 東京]</ref>。<br />
<!--<br />
=== 温泉 ===<br />
--><br />
<br />
=== 建築 ===<br />
* [[エトワール凱旋門|凱旋門]] ({{lang|fr|''Arc de triomphe de l'Étoile''}}) <br />
** [[8区 (パリ)|8区]]、16区、[[17区 (パリ)|17区]]の境界、[[シャルル・ド・ゴール広場]](エトワール広場)に位置している。<br />
* [[シャイヨ宮]] ({{lang|fr|''Palais de Chaillot''}})<br />
** [[パリ万国博覧会 (1937年)]] の際に建設された宮殿。[[セーヌ川]]を挟んで、[[エッフェル塔]]の真正面に位置している。[[海洋博物館 (パリ)|海洋博物館]]、[[人類博物館]]などがある。<br />
* [[パレ・ド・トーキョー]] ({{lang|fr|''Palais de Tokyo''}}) <br />
** [[パリ万国博覧会 (1937年)]]の際、建設された建物。[[パリ市立近代美術館]]などがある。<br />
* [[メゾン・ド・ラジオ・フランス]] (メゾン・ド・ラ・ラジオ) ({{lang|fr|''Maison de Radio France (Maison de la Radio)''}})<br />
** [[グルネル橋]]の西側界隈にある円柱形の建物。[[ラジオ・フランス|ラジオ・フランス本社]]、[[ラジオ・フランス博物館]]などがある。<br />
* [[ロンシャン城]]{{要検証|date=2016年10月}} ({{lang|fr|''Château de Longchamp''}}) <br />
<!--** [[ブローニュの森]]西部にある。→所在地はどこでしょうか? ベルギーのお城と、他にブローニュの森の「Longchamp Château」という「邸宅?」が競馬場側の旧修道院跡にある…との記述が検索でもかかりますが…。--><br />
* [[バガテル城]] ({{lang|fr|''Château de Bagatelle''}}) <br />
** ブローニュの森北西部、バガテル庭園内にある。<br />
[[File:Jardin de Bagatelle-Mai 2010.JPG|thumb|270px|[[:fr:Parc de Bagatelle|バガテル庭園]]及び[[:fr:Château de Bagatelle (Seine)|バガテル城]]]]<br />
=== 公園・緑地等 ===<br />
* [[サント=ペリーヌ庭園]] ({{lang|fr|''Jardin Sainte-Périnne''}})<br />
* [[オートゥイユ温室庭園]] ({{lang|fr|''Jardin des Serres d'Auteuil''}}) <br />
** [[ブローニュの森]]南東部にある。<br />
* [[シェイクスピア庭園]] ({{lang|fr|''Jardin Shakespeare''}})<br />
** ブローニュの森のほぼ中央にある。<br />
* [[トロカデロ庭園]] ({{lang|fr|''Jardin du Trocadéro''}})<br />
* [[バガテル庭園]] ({{lang|fr|''Jardin de Bagatelle''}}) <br />
** 特に[[バラ]]で有名な[[バガテル・バラ園]]がある。ブローニュの森北西部にある。<br />
* [[ポエット庭園]] (詩人の庭園) ({{lang|fr|''Jardin des Poètes''}}) <br />
** ブローニュの森にある。<br />
* [[ラヌラグ庭園]] ({{lang|fr|''Jardin du Ranelagh''}})<br />
<br />
=== 名所・娯楽 ===<br />
* [[アクリマタシオン庭園]] (ジャルダン・ダクリマタシオン、{{lang|fr|''Jardin d'Acclimatation''}})<br />
** [[ブローニュの森]]北部にある子供向けの[[遊園地]]。[[ゴーカート]]、[[動物園]]、[[人形劇|人形劇場]]、[[ミニゴルフ|ミニゴルフ場]]などがある<ref>JTBパブリッシング編 『ワールドガイド ヨーロッパ2・パリ』、[[JTBパブリッシング]]、2006年、p.144.</ref>。<br />
<!--<br />
* [[○○遊園地]] ({{lang|fr|''''}})<br />
* [[○○アミューズ・センター]] ({{lang|fr|''''}})<br />
* [[○○カジノ]] ({{lang|fr|''''}})<br />
=== 旧跡・記念碑等 ===<br />
* [[○○跡]] ({{lang|fr|''''}})<br />
* [[○○の碑]] ({{lang|fr|''''}})<br />
=== 祭事・イベント ===<br />
* [[xx月xx日]] - [[○○祭]] ({{lang|fr|''''}})<br />
=== その他 ===<br />
--><br />
<br />
== 交通 ==<br />
<gallery mode="packed" caption="" heights="160"><br />
File:P1080370 Paris VII-XV-XVI pont de Bir Hakeim rwk.JPG|パッシー側から望む[[ビル・アケム橋|ビラケム橋]]<br />
File:P1040947 Paris XVI rue de l'Alboni metro Passy rwk.jpg|メトロ パッシー駅出入り口、アルボニ通り (ラルボニ通り, [[:fr:Rue de l'Alboni|Rue de l'Alboni]]) より<br />
File:Paris 16 - Edicule Guimard Station Boissière -1.JPG|メトロ ボワシエール駅出入口の[[エクトール・ギマール|ギマール]]の[[アール・ヌーボー]]作品 ([[:fr:Édicule Guimard|Édicule Guimard]] - Station de métro Boissière)<br />
</gallery><br />
{{message galerie}}<br />
<br />
<!--<br />
=== 空港 ===<br />
--><br />
=== 鉄道 ===<br />
* [[ファイル:Metro-M.svg|16px]] [[地下鉄]]・[[メトロ (パリ)|メトロ]] ([[パリ交通公団|RATP]]) ({{lang|fr|''Métro''}})<br />
** [[File:Paris m 1 jms.svg|20px|1]]</span>[[パリメトロ1号線|1号線]] <br />
*** [[ポルト・マイヨ駅]] – [[アルジャンティーヌ駅]] – [[シャルル・ド・ゴール=エトワール駅]]<br />
** [[File:Paris m 2 jms.svg|20px|2]]</span>[[パリメトロ2号線|2号線]]<br />
*** [[ポルト・ドーフィヌ駅 (パリ)|ポルト・ドーフィヌ駅]] – [[ヴィクトル・ユゴー駅]] – [[シャルル・ド・ゴール=エトワール駅]]<br />
** [[File:Paris m 6 jms.svg|20px|6]]</span>[[パリメトロ6号線|6号線]]<br />
*** [[シャルル・ド・ゴール=エトワール駅]] – [[クレベール駅]] – [[ボワシエール駅]] – [[トロカデロ駅]] – [[パッシー駅]]<br />
** [[File:Paris m 9 jms.svg|20px|9]]</span>[[パリメトロ9号線|9号線]]<br />
*** [[ポルト・ド・サン=クル駅]] – [[エグゼルマン駅]] – [[ミケランジュ=モリトール駅]] – [[ミケランジュ=オートゥイユ駅]] – [[ジャスマン駅]] – [[ラヌラグ駅]] – [[ラ・ミュエット駅]] – [[リュ・ド・ラ・ポンプ駅]] – [[トロカデロ駅]] – [[イエナ駅]]<br />
** [[File:Paris m 10 jms.svg|20px|10]]</span>[[パリメトロ10号線|10号線]]<br />
*** 北側の分岐線 (西方の[[ブローニュ=ポン・ド・サン=クル駅|ブローニュ=ポン・ド・サン=クル駅方面]](パリ市外)への一方通行) : [[ポルト・ドートゥイユ駅]] – [[ミケランジュ=オートゥイユ駅]] – [[エグリーズ・ドートゥイユ駅]]<br />
*** 南側の分岐線 (東方の[[オステルリッツ駅|オステルリッツ駅方面]]への一方通行) : [[ミケランジュ=モリトール駅]] – [[シャルドン=ラガシュ駅]] – [[ミラボー駅]]<br />
<br />
* [[ファイル:RER.svg|16px]] [[RER (イル=ド=フランス)|RER]] ([[フランス国鉄|フランス国鉄 (SNCF)]]/[[パリ交通公団|パリ交通公団(RATP)]]) ({{lang|fr|''Réseau Express Régional d'Île-de-France''}})<br />
** [[File:Paris RER A icon.svg|20px|A]]</span>[[RER A線|A線]]<br />
*** [[シャルル・ド・ゴール=エトワール駅]]のみ。<br />
** [[File:Paris rer C jms.svg|20px|C]]</span>[[RER C線|C線]]<br />
*** [[アヴニュー・フォッシュ駅]] - [[アヴニュー・アンリ・マルタン駅]] - [[ブランヴィリエ駅]] - [[アヴニュー・デュ・プレジダン・ケネディ駅]]<br />
<!--<br />
* 廃線<br />
=== バス ===<br />
* [[○○バス会社]] ({{lang|fr|''''}})<br />
** [[○○線]] ({{lang|fr|''''}})<br />
=== タクシー ===<br />
=== 自転車 ===<br />
--><br />
<br />
=== 高速道路・有料道路 ===<br />
* [[ペリフェリック]] (パリ環状道路) ({{lang|fr|''Boulevard Périphérique''}})<br />
** [[ポルト・ド・サン=クル]] - [[ポルト・モリトール]] - [[ポルト・ドートゥイユ]] - [[ポルト・ド・パッシー]] - [[ポルト・ド・ラ・ミュエット]] - [[ポルト・ドーフィーヌ]] - [[ポルト・マイヨ]]<br />
<br />
<!--<br />
* [[○○自動車道]] ({{lang|fr|''''}})<br />
** [[○○インターチェンジ]] - [[○○ジャンクション]] - [[○○インターチェンジ]]<br />
* [[○○自動車道]] ({{lang|fr|''''}}) - (通過のみ)<br />
* [[○○自動車道]] ({{lang|fr|''''}}) - (計画中)<br />
--><br />
=== 道路 ===<br />
<gallery mode="packed" caption="" heights="160"><br />
File:P1090926 Paris XVI chaussée de la Muette rwk.JPG|ラ・ミュエット通り ([[:fr:Chaussée de la Muette|Chaussée de la Muette]])<br />
File:P1040957 Paris XVI avenue du Président-Kennedy rwk.jpg|プレジダン=ケネディ大通り ([[:fr:Avenue du Président-Kennedy|Avenue du Président-Kennedy]])<br />
File:P1180754 Paris XVI rue des Eaux rwk.jpg|水通り ([[:fr:Rue des Eaux|Rue des Eaux]])。パッシー駅 ([[:fr:Passy (Paris Métro)|fr]]) 西側至近, ワイン博物館があるスクアール・[[チャールズ・ディケンズ|シャルル=ディケンス]] ([[:fr:Square Charles-Dickens|Square Charles-Dickens]]) とパッシー河岸プレジダン=ケネディ大通りとを結ぶ南北の短い路。同通り5番地は,「[[ラストタンゴ・イン・パリ]]」(1972) や[[ジャン=ポール・ベルモンド|ジャン-P・ベルモンド]]「プロフェッショナル」(1981) の映画ロケ地。<br />
File:91 avenue Henri-Martin - Paris 16e.JPG|アンリ=マルタン大通り ([[:fr:Avenue Henri-Martin|Avenue Henri-Martin]]) 91番地<br />
File:P1040936 Paris XVI rue Benjamin Franklin rwk.jpg|バンジャマン=フランクラン通り ([[:fr:Rue Benjamin-Franklin|Rue Benjamin-Franklin]])<br />
File:P1040942 Paris XVI rue de Passy rwk.jpg|コスタリカ広場 ([[:fr:Place de Costa-Rica|Place de Costa-Rica]]) から見るパッシー通り ([[:fr:Rue de Passy|Rue de Passy]])<br />
File:Rue de Passy April 2014.jpg|反対にパッシー通りから見るコスタリカ広場<br />
File:École maternelle rue de Passy.jpg|パッシー通り25番地, 公立パッシー通り小(現在はパッシー通り幼稚園)。裏手に幼・小の公立[[エコール]]・シェルノヴィズ(シェルノヴィズ幼・小)がある。<!--http://lesecoles.fr/paris-75000/16eme/ 参照--><br />
File:Ancienne plaque d'assurance rues Passy-Chernovitz.jpg|シェルノヴィズ通り ([[:fr:Rue Chernoviz|Rue Chernoviz]]) との角にあるパッシー通りと保険会社の古い[[プラーク]] (Ancienne plaque d'assurance donnant sur la rue de Passy - immeuble du 15 rue Chernoviz, Paris, 16e.)<br />
File:Paris 16 - Immeubles Agar - 10 rue Agar -1.JPG|アガー通り10番地のイムーブル (居住建物, [[:fr:Rue Agar|Immeubles Agar - 10 rue Agar]])<br />
File:Avenue de Camoens.jpg|カモアン大通り ([[:fr:Avenue de Camoëns|Avenue de Camoëns]])<br />
File:Plaque Victor Hugo, 124 avenue Victor-Hugo, Paris 16.jpg|[[ヴィクトル・ユーゴー]]が居住し亡くなった地 (Plaque au n°124 avenue Victor-Hugo, Paris) <br />
File:Hotel Guimard.JPG|[[エクトール・ギマール|ギマール]]館 ([[:fr:Hôtel Guimard|Hôtel Guimard]]), 122 avenue Mozart<br />
File:Paris villa scheffer entree.jpg|トロカデロ界隈シェフェール通りにあるヴィラ・シェフェール (L'entrée de la villa Scheffer depuis la [[:fr:Rue Scheffer|rue Scheffer]].)<br />
File:Oreve2.JPG|ファサードが[[歴史的記念物 (フランス)|歴史的記念物]]に指定, 1911年築, 旧居住建物フルーリスト・オレーヴ (Fleuriste Orève, 25 [[:fr:rue de la Pompe|rue de la Pompe]], Paris)<br />
File:Alcôve rue des Marronniers.jpg|マロニエ通りから引っ込んだ場所にある2つの[[レジデンス]] (Une des deux résidences en alcôve de la [[:fr:Rue des Marronniers (Paris)|rue des Marronniers]], Paris, 16e.)<br />
File:Atelier Quillivic (la maison aux statues) 1925 - panoramio.jpg|[[オートゥイユ]]地区モンモランシー大通り ([[:fr:Boulevard de Montmorency|Boulevard de Montmorency]]) 73番地、彫刻家ルネ・キリヴィック ([[:fr:René Quillivic (sculpteur)|René Quillivic]])のアトリエ<br />
File:Cours privé Beauséjour.jpg|ボーセジュール大通り ([[:fr:Boulevard de Beauséjour|Boulevard de Beauséjour]]) 23番地界隈<br />
File:Paris rue de presbourg.jpg|[[エトワール凱旋門]]至近のプレスブール通り ([[:fr:Rue de presbourg|Rue de presbourg]])<br />
File:P1310287 Paris XVI rue Dufrenoy rwk.jpg|デュフレノワ通り ([[:fr:Rue Dufrenoy|Rue Dufrenoy]])<br />
File:P1030835 Paris XVI rue Georges-Bizet rwk.JPG|ジョルジュ=ビゼー通り ([[:fr:Rue Georges-Bizet|Rue Georges-Bizet]])<br />
File:Rue Benjamin Godard, Paris.jpeg|バンジャマン=ゴダール通り ([[:fr:Rue Benjamin-Godard|Rue Benjamin-Godard]])<br />
</gallery><br />
{{message galerie}}<br />
* [[アミラル=ブリュイ大通り]]({{lang|fr|''Boulevard de l'Amiral-Bruix''}})<br />
* [[アンリ=マルタン大通り]]({{lang|fr|''Avenue Henri-Martin''}})<br />
** [[シャイヨー宮]]前[[トロカデロ]]広場より走るジョルジュ=マンデル大通りから接続する、ラ・ミュエット地区とポルト=ドーフィーヌ地区との境界を走る通り。元はジョルジュ=マンデルやプレジダン=ウィルソンとひと続きの道路 "皇帝(陛下)大通り" (Avenue de l’Empereur) として、[[フランス第二帝政|第二帝政]]期[[パリ改造]]で整備された。[[ナポレオン3世]]追放後、トロカデロ大通り ([[:fr:Avenue du Trocadéro|Avenue du Trocadéro]]) と改称、1885年アンリ=マルタンと再改称した。そのうち[[第一次世界大戦]]後の1918年、現在のプレジダン=ウィルソンがアンリ=マルタンから分かれ、さらに1941年、アンリ=マルタンはジャン=シアップ (高級官僚, パリ市長やパリ警視総監歴任, [[:fr:Jean Chiappe|fr]]) と改められた。[[第二次世界大戦]]後の1945年、アンリ=マルタンに戻り、また現在のジョルジュ=マンデルとに分割された。<br />
* [[イエナ大通り]]({{lang|fr|''Avenue d'Iéna''}})<br />
** シャイヨ宮南側(東側)にある[[イエナ橋]]経由トロカデロ庭園内を走るナシオン・ユニ([[国際連合]])大通りと、東側(北側)イエナ広場とを結ぶ。同西側(南側)コスタリカ広場とを結ぶのは下記ドレセール大通り。16区内のグランダルメ、フォッシュ、ユーゴー、ポアンカレ、クレベール、マルソー大通りと共に[[シャルル・ド・ゴール広場]]([[エトワール凱旋門]])まで続く通り。名称は[[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン]]の「[[イエナの戦い]]」から。<br />
* [[プレジダン=ウィルソン大通り]]({{lang|fr|''Avenue du Président-Wilson''}})<br />
** シャイヨ宮前トロカデロ広場から、同宮東側(北側)のイエナ広場 ([[:fr:Place d'Iéna|Place d'Iéna]]) に接続し、区内東側[[8区 (パリ)|8区]]アルマ広場まで続く1キロ無い通り。上記のように元は皇帝大通りの一部であった。<br />
* [[エグゼルマン大通り]]({{lang|fr|''Boulevard Exelmans''}})<br />
** パリ郊外[[ブローニュ=ビヤンクール]]との境界線界隈を走る通り。[[セーヌ川]]を跨いだ[[15区 (パリ)|15区]]から[[オートゥイユ]]地区へ続く通りで、ミュラ、スーシェ、ランヌ、アミラル=ブリュイ大通りと共に"[[ブルヴァール・デ・マレショー]]"を構成する。<br />
* [[エロー大通り]]({{lang|fr|''Avenue d'Eylau''}})<br />
** シャイヨ宮前トロカデロ広場とメクシコ広場とを結ぶ通り。名称はナポレオン戦争期の「[[アイラウの戦い]]」から。<br />
* [[オートゥイユ大通り]]({{lang|fr|''Boulevard d'Auteuil''}})<br />
* [[オートゥイユ通り]]({{lang|fr|''Rue d'Auteuil''}})<br />
* [[グランダルメ大通り]]({{lang|fr|''Avenue de la Grande-Armée''}})<br />
** エトワール凱旋門から[[ラ・デファンス]]に向かって、[[17区 (パリ)|17区]]との境界線上を走る。名称はナポレオンの「[[大陸軍]]」から。<br />
* [[クレベール大通り]]({{lang|fr|''Avenue Kléber''}})<br />
** シャイヨ宮前トロカデロ広場とシャルル・ド・ゴール広場(エトワール凱旋門) とを最短で結ぶ通り。トロカデロ広場前の[[コンビニエンスストア|コンビニ]]のモノップ (Monop') や通り界隈にある[[カルフール]]・シティ (Carrefour City) から、カフェやレストラン、ファッションやインテリアのブティック、[[ソシエテ・ジェネラル]]や[[BNPパリバ]]、[[ゴールドマン・サックス]]、[[香港&上海ホテルズ|ペニンシュラホテル]] (Hôtel The Peninsula Paris)・・まである。<br />
* [[ケ・サンテグジュペリ通り]](サンテグジュペリ河岸通り, {{lang|fr|''Quai Saint-Exupéry''}})<br />
** 16区西側(南側)オートゥイユ地区のセーヌ川河岸沿いの通り。<br />
* [[プレジダン=ケネディ大通り]]({{lang|fr|''Avenue du Président-Kennedy''}})<br />
** 西側(南側)オートゥイユ方面へはヴェルサイユ大通り、東側(北側)シャイヨー方面へはニューヨーク大通りへと続く、セーヌ川沿い界隈を走る通り。<br />
* [[ケ・ルイ=ブレリオ通り]](ルイ=ブレリオ河岸通り, {{lang|fr|''Quai Louis-Blériot''}})<br />
* [[シェルノヴィズ通り]]({{lang|fr|''Rue Chernoviz''}})<br />
** 旧公立パッシー通り小学校 (École primaire rue de Passy, 現在はパッシー通り幼稚園 École maternelle rue de Passy<!--http://m.equipement.paris.fr/ecole-maternelle-passy-241 などを参照-->) 裏手にある短い通り。同様に公立のシェルノヴィズ幼稚園・小学校 (École Chernoviz) があるのみ。通り先レヌアール通り方向は、[[ランバル公妃マリー・ルイーズ|ランバル公妃]]の館だった駐仏[[トルコ]]大使館や[[オノレ・ド・バルザック|メゾン・ド・バルザック]]、セーヌ川になる。<br />
* [[シャルドン=ラガシュ通り]]({{lang|fr|''Rue Chardon-Lagache''}})<br />
* [[ジョルジュ=ポンピドゥー道路]]({{lang|fr|''Voie Georges-Pompidou''}})<br />
** [[セーヌ川]]右岸沿いを[[12区 (パリ)|12区]]方面まで走る高速路。<br />
* [[ジョルジュ=マンデル大通り]]({{lang|fr|''Avenue Georges-Mandel''}})<br />
** 通り中央分離帯は駐車スペースになっている、シャイヨー宮前トロカデロ界隈からアンリ=マルタン大通りに接続する、ラ・ミュエット地区とポルト=ドーフィーヌ地区との間を走る通り。上記アンリ=マルタンやプレジダン=ウィルソンと共に皇帝大通りとして整備された。第二次世界大戦後の1945年、アンリ=マルタンの一部から、現在のジョルジュ=マンデルに分割された。<br />
* [[スーシェ大通り]]({{lang|fr|''Boulevard Suchet''}})<br />
* [[テオフィル=ゴーティエ大通り]]({{lang|fr|''Avenue Théophile-Gautier''}})<br />
* [[ドレセール大通り]]({{lang|fr|''Boulevard Delessert''}})<br />
** シャイヨ宮南側(東側)にあるイエナ橋経由トロカデロ庭園内の東西を走るナシオン・ユニ大通りと、西側(南側)コスタリカ広場とを結ぶ。同東側(北側)イエナ広場とを結ぶのはイエナ大通り。メトロ [[パッシー駅]]入り口になるコスタリカ広場に接続する他の通りは、下記パッシー通り、レヌアール通り、西側[[ブローニュの森]]方面でアンリ=マルタン大通りと接続するトゥール通り。<br />
* [[ニューヨーク大通り]]({{lang|fr|''Avenue de New-York''}})<br />
** イエナ広場界隈[[パレ・ド・トーキョー]]南側を走る。元の名は「東京大通り」だったが、[[第二次世界大戦]]中の[[1945年]]改称<ref>[[山口昌子]] 『フランスよ、どこへ行く』、[[産経新聞社]]、2007年、p.315.</ref>。<br />
* [[パッシー通り]]({{lang|fr|''Rue de Passy''}})<br />
** メトロ パッシー駅の入り口になるシャイヨ宮西側(南側)のコスタリカ広場から西側へ伸びる。シャイヨ宮前トロカデロ広場からパッシー通りの北側を並走するポール=ドゥメール大通りや、セーヌ河岸[[ラジオ・フランス]]から北側へ伸びるブーランヴィリエ通り乃至ポンプ通り、ポール=ドゥメール大通り乃至ラ・ミュエット通り([[:fr:Chaussée de la Muette|fr]])等が交差するメトロ [[ラ・ミュエット駅]]界隈ジャンヌ=エヴラール広場 ([[:fr:Place Jane-Evrard|fr]]) 周辺まで続く。[[ブティック]]から食材店、いくつかの[[日本料理|和食]]店、[[スターバックス|スタバ]]・・まで立ち並ぶ高級住宅街にある生活感溢れる通り。[[ファッションブランド#ファッション分野におけるブランド|ファッションブランド]]では、[[ギャップ (企業)|GAP]]や[[H&M]]、ザディグ・エ・ヴォルテール (Zadig & Voltaire)、[[ラコステ]]ファム (Lacoste Femme)、[[アニエス・ベー]]、レディースプレタポルテのマージュ (Maje)、エル・ガンソ (El Ganso)、子供服のオカイディー (Okaïdi)、H&M系列の[[コス]] ([[COS]])、コスメのブランディ・メルビル (Brandy Melville) やキコ・ミラノ (Kiko Milano)、2017年開店のインテリアメゾン サラ・ラヴォワンヌ ([[:fr:Sarah Lavoine|Maison Sarah Lavoine]])<!--https://www.maisonsarahlavoine.com/article-nouvelle-boutique-passy-104.php 参照-->・・など、16区内では最も店舗が多い通りになる<ref>「[http://jp.france.fr/ja/information/70586 パッシー通り クラシックとカジュアルが同居する]」 [[フランス観光開発機構]]</ref>。旧パッシー通り小 (École primaire rue de Passy, 現在はパッシー通り幼) 向かいには映画館マジェスティック・パッシー ([[:fr:Majestic Passy|Majestic Passy]]) があり、同映画館隣やパッシー・プラザ (Passy Plaza)にあったスーパーマーケット「イノ (Inno)」が同グループの「モノプリ ([[:fr:Monoprix (France)|Monoprix]])」に代わった。裏通りの ボワ=ル=ヴァン通り ([[:fr:rue Bois-Le-Vent|Rue Bois-Le-Vent]]) には「パッシー (屋内常設) 市場 (Marché (couvert) de Passy)」がある。<br />
* [[パルク=デ=プランス大通り]]({{lang|fr|''Avenue du Parc-des-Princes''}})<br />
* [[ピエール=プルミエ=ド=セルビー大通り]]({{lang|fr|''Avenue Pierre-Ier-de-Serbie''}})<br />
** イエナ広場から東側、ガリエラやギメ等があるシャイヨー地区界隈から、8区内へ続く通り。<br />
* [[ヴィクトル=ユーゴー大通り]]({{lang|fr|''Avenue Victor-Hugo''}})<br />
** 124番地(旧50番地)の旧[[リュジニャン家|リュジニャン公妃]]館は[[ヴィクトル・ユーゴー]]が1878年から亡くなる1885年まで愛人[[ジュリエット・ドルエ]]と居住した地。建物自体は1907年に取り壊された。また、トラクティル通り ([[:fr:Rue de Traktir|fr]]) との角の16番地は、かつてのフランス料理人アルフレッド・プルニエ ([[:fr:Alfred Prunier|Alfred Prunier]], 1848-1925) のレストランがある地。シャルル・ド・ゴール広場(エトワール凱旋門)からブローニュの森入り口のポルト・ド・ラ・ミュエット界隈アンリ=マルタン大通りまでを結ぶ通り。凱旋門傍の[[セリーヌ]]から[[ザラ (ファッションブランド)|ZARA]]、オーガニックコスメのイヴ・ロシェ(ール) (Yves Rocher)、マージュ、イザベル・マラン ([[:fr:Isabel Marant|Isabel Marant]] <ref>共に[[6区 (パリ)|パリ6区]]ジャコブ通りや東京の[[表参道 (原宿)|表参道]]界隈等にブティックを持ち、同じくファッションデザイナーのジェローム・ドレフュス ([[:fr:Jérôme Dreyfuss|Jérôme Dreyfuss]]) は夫。</ref>)、レストランやカフェ、[[スターバックス|スタバ]]、パッシー通りにもある回転寿司チェーンのマツリ (Matsuri)・・などが並ぶ通り。<br />
* [[フェルディナン=ビュイソン大通り]]({{lang|fr|''Avenue Ferdinand-Buisson''}})<br />
* [[フォッシュ大通り]]({{lang|fr|''Avenue Foch''}})<br />
** エトワール凱旋門(ないしグランダルメ大通りの南側)から分かれて16区内を走るパリの代表的な"[[ブルジョワ]]通り"。[[ブローニュの森]]傍ポルト・ドーフィーヌ界隈マレシャル=ド=ラトル=ド=タシニー広場が終点。第二帝政期、[[ウジェニー・ド・モンティジョ|ウジェニー]]皇后に因み"皇后(陛下)大通り" (Avenue de l’Impératrice) と名付けられ整備された。第二帝政崩壊後は、ウリッシュ将軍 ([[:fr:Jean-Jacques Uhrich|fr]])、ブローニュの森大通りと変遷し、1929年[[フランス大元帥]][[フェルディナン・フォッシュ]]の名を採って改称された。<br />
* [[ジャン・ド・ラ・フォンテーヌ通り]]({{lang|fr|''Rue Jean de La Fontaine''}})<br />
** パッシーのレヌアール通りから続き、オートゥイユ方面を走り、オートゥイユ通りやミケランジュ通り等に接続する。略して「ラ・フォンテーヌ通り」。[[エクトール・ギマール|ギマール]]作[[アールヌーヴォー]]様式のモダンアパルトマン(イムーブル)「[[カステル・ベランジェ]]」がある<!--冠詞の「ラ」について、フランス語版でも、「ラ・フォンテーヌ通り」と冠詞をつけて呼称、略称しています。上記の「ラ・ミュエット駅」も同様。-->。同通りからアガール通り ([[:fr:Rue Agar|fr]]) 界隈にかけてアール・ヌーヴォー様式の建物が並ぶ<!--Category:Rue Jean-de-La-Fontaine (Paris) 参照-->。<br />
* [[バンジャマン=フランクラン通り]]({{lang|fr|''Rue Benjamin-Franklin''}})<br />
** シャイヨ宮前トロカデロ広場と、同宮西側(南側)のコスタリカ広場とを結ぶ短い通り。上記プレジダン=ウィルソン大通りと対の通り。<br />
* [[ヴェルサイユ大通り]]({{lang|fr|''Avenue de Versailles''}})<br />
* [[ボーセジュール大通り]]({{lang|fr|''Boulevard de Beauséjour''}})<br />
* [[ポール=ドゥメール大通り]]({{lang|fr|''Avenue Paul-Doumer''}})<br />
** シャイヨ宮前トロカデロ広場から、上記パッシー通りの北側を東西に並走する。通り西側メトロ ラ・ミュエット駅界隈ジャンヌ=エヴラール広場で、ラ・ミュエット通りに接続し、パッシー通りやブーランヴィリエ通り、同ブーランヴィリエから名を変えた下記ポンプ通りと交差する。ポンプ通りは、そのまま区内を横断(縦断)し、エトワール凱旋門から伸びるヴィクトル=ユーゴー大通り、同様に同凱旋門から伸びるフォッシュ大通りと交差する。また、パッシー通り北側、トゥール通りとの交差点界隈ポール=ドゥメール大通り58番地に[[ピエール・エルメ]]の店舗がある。<br />
* [[ポルト=ドートゥイユ大通り]]({{lang|fr|''Avenue de la Porte-d'Auteuil''}})<br />
* [[ポンプ通り]]({{lang|fr|''Rue de la Pompe''}})<br />
** セーヌ河岸にあるラジオ・フランスから伸びるブーランヴィリエ通りがパッシー通りやポール=ドゥメール大通り乃至ラ・ミュエット通り等が交差するメトロ ラ・ミュエット駅界隈ジャンヌ=エヴラール広場でポンプ通りと名を変える。通り沿いには、25番地に[[ファサード]]が[[歴史的記念物 (フランス)|歴史的記念物]]指定1911年築, 居住建物フルーリスト・オレーヴ (fleuriste Orève) があり、現在は[[フィリップ・スタルク]]デザインによるレストラン等になっている。[[ヴァレリー・ジスカール・デスタン|ジスカール・デスタン]]元大統領が小学校課程で通った私立[[エコール]]・ジェルソン ([[:fr:Établissement Gerson|fr]])、[[マリー・テレーズ・シャルロット・ド・フランス|マダム・ロワイヤル]]設立カトリックの幼・小私立エコール・ド・ラ・プロヴィダンス、名門公立[[リセ]]・ジャンソン=ド=サイイ ([[:fr:Lycée Janson-de-Sailly|fr]])・・等がある。89番地には、[[フランソワ・モーリヤック]]、子供時分<!--子供時分は当通り英語版より。但し、出典先がリンク切れ-->の[[ブリジット・バルドー]]、[[ジャック・アタリ]]らが居住した。また、1857年には[[ヴィルジニア・オルドイーニ]]がナポレオン3世により通り沿いの小さな家を購入した<!--当通り英語版より。但し、出典は未記載-->。115番地には[[ジョゼフ・ジョフル]]<!--当通りフランス語版より-->、1919年から作家[[イレーヌ・ネミロフスキー]]<!--当通り英語版より。出典は、「The Life of Irene Nemirovsky」 by Olivier Philipponnat and Patrick Lienhardt-->が居住した。通りを進むと、エトワール凱旋門からそれぞれ伸びるヴィクトル=ユーゴー、フォッシュ大通りと交差する、区内東側(北側)一帯にあたる"パッシー"を横断(縦断)する通り。<br />
* [[マラコフ大通り]]({{lang|fr|''Avenue de Malakoff''}})<br />
** [[カフェ]]・ル・マラコフ (Café Le Malakoff) があるシャイヨ宮前トロカデロ広場から北西へ、ヴィクトル=ユーゴー広場経由で走るレーモン=ポアンカレ大通りがフォッシュ大通りとの交差点からマラコフと名を変え、さらに区内北西へ続く通り。フォッシュ同様エトワール凱旋門から伸びるグランダルメ大通り等との交点であり、かつ17区と[[ヌイイ=シュル=セーヌ]]との境界界隈にあたるポルト=マイヨ広場まで伸びる通り。<br />
* [[マルソー大通り]]({{lang|fr|''Avenue Marceau''}})<br />
** [[8区 (パリ)|8区]]との境界線上を走る通り。通り沿いを、上記[[サン=ローラン]]の美術館が2017年秋開館予定。<br />
* [[ミケランジュ通り]]({{lang|fr|''Rue Michel-Ange''}})<br />
* [[ミュラ大通り]]({{lang|fr|''Boulevard Murat''}})<br />
** ヌイイ城 (現在の[[ヌイイ=シュル=セーヌ]]の街) にも居住したナポレオンの腹心[[ジョアシャン・ミュラ]]から名付けられた、上記"ブルヴァール・デ・マレショー"を構成する大通りの一つ。オートゥイユ地区を走る。<br />
* [[モザール大通り]]({{lang|fr|''Avenue Mozart''}})<br />
** 16区内側を走る"モーツァルト大通り"。セーヌ川沿い側を走るヴェルサイユ大通り等と共にラ・ミュエット地区からオートゥイユ地区の住宅街へと続く通り。<br />
* [[モンモランシー大通り]]({{lang|fr|''Boulevard de Montmorency''}})<br />
* [[ラヌラグ通り]]({{lang|fr|''Rue du Ranelagh''}})<br />
* [[ランヌ大通り]]({{lang|fr|''Boulevard Lannes''}})<br />
* [[レイモン=ポアンカレ大通り]]({{lang|fr|''Avenue Raymond-Poincaré''}})<br />
* [[レヌアール通り]]({{lang|fr|''Rue Raynouard''}})<br />
** 同通り47番地に[[:fr:Maison de Balzac|Maison de Balzac]]があり、また、同62番地に[[ベンジャミン・フランクリン]]が1777年に滞在し、彼の[[避雷針]]を取り付けた[[:fr:Hôtel de Valentinois|Hôtel de Valentinois]]がある。通りコスタリカ広場側界隈には、パリ・ワイン博物館がある。<br />
* [[ロリストン通り]]({{lang|fr|''Rue Lauriston''}})<br />
* [[ロンシャン通り]]({{lang|fr|''Rue de Longchamp''}})<br />
** イエナ広場から西側へ走り、シャイヨ宮前トロカデロ広場から西側へ伸びるジョルジュ=マンデル大通りの北側に位置するメクシコ広場まで伸びる通り。<br />
<br />
{{Triple image|center|Paris - panoramio (221).jpg|220|Paris 75016 Avenue d'Eylau 20170121.jpg|200|Place du Trocadéro-et-du-11-Novembre à Paris le 23 avril 2015 - 41.jpg|200|左から、メクシコ広場からトロカデロ広場へ走るエロー大通り (Avenue d'Eylau)、同大通りから見る[[エッフェル塔]]、トロカデロ広場から見るエッフェル塔}}<br />
<br />
=== 橋梁 ===<br />
16区は、南北に蛇行する[[セーヌ川]]に挟まれた区域であり、区の東西でセーヌ川に接している。そのため、橋梁については、区の東側と西側に分けて記述する。<br />
<br />
==== 区東側 ====<br />
{{message galerie}}<br />
<gallery mode="packed" caption="" heights="160"><br />
File:Viaduc de Passy - Paris - novembre 2005.jpg|夜のビラケム橋, 11月<br />
File:P1040965 Paris XVI pont de Bir Hakeim rwk.jpg|ビラケム橋乃至パッシー高架橋とメトロパッシー駅界隈の[[パリ改造|オスマニアン建築群]], 11月 (Viaduc de Passy - Paris - novembre) <br />
File:Viaduc de Passy.jpg|ビラケム橋のランプ装飾<br />
File:Paris (34791521684).jpg|ビラケム橋でのある日の光景. 2017年<br />
File:A_bride_in_Paris_-_Bir_Hakeim_bridge.jpg|花嫁, ビラケム橋, 2015年 (Une mariée sous le viaduc de Passy en 2015.)<br />
File:Pont de Bir-Hakeim and view on the 16th Arrondissement of Paris 140124 1.jpg|夜のビラケム橋とパッシー駅界隈 (Le pont de Bir-Hakeim vu de la rive gauche de nuit avec en arrière plan des immeubles hausmanniens du 16e arrondissement.)<br />
File:Tour_Eiffel,_July_1888.jpg|建設途上の[[エッフェル塔]]とイエナ橋 (Pendant la construction de la tour Eiffel.)<br />
File:75-Paris-Entrée du Trocadéro-1905.JPG|旧トロカデロ宮(現[[シャイヨ宮]])とイエナ橋, 1905年<br />
File:Paris pont iena.jpg|夜のイエナ橋 (Le pont d’Iéna de nuit.)<br />
File:Paris Exposition Vieux Paris (Old Paris), Paris, France, 1900.jpg|[[パリ万国博覧会 (1900年)|1900年パリ万博]]時のセーヌ川上流から下流、アルマ橋とドゥビイ橋の間 (La Seine d'amont vers l'aval entre le pont de l'Alma (au premier plan) et la passerelle Debilly.) <br />
File:Montmartre (35840382093).jpg|ドゥビイ橋と[[モンマルトル]]の[[サクレ・クール寺院]]<br />
File:P1030485 Paris VII et XVI passerelle Debilly-ports Debilly et de La-Bourdonnais rwk.JPG|ドゥビイ橋とシャイヨ宮<br />
</gallery><br />
<br />
16区の東側では、[[セーヌ川]]は北から南へ流れる。セーヌ川に架かる橋は、次のとおりである(上流から順に列挙)。<br />
<br />
* [[アルマ橋]]({{lang|fr|''Pont de l'Alma''}})<br />
* [[ドゥビリ橋]](ドゥビイ橋, {{lang|fr|''Passerelle Debilly''}})<br />
** セーヌ川北岸にある[[パレ・ド・トーキョー]]の西側と南岸の[[ケ・ブランリ美術館]]付近とを結ぶ[[歩道橋]]。<br />
* [[イエナ橋]]({{lang|fr|''Pont d'Iéna''}})<br />
* [[ビル・アケム橋|ビラケム橋]]({{lang|fr|''Pont de Bir-Hakeim''}})<br />
** [[白鳥の島 (パリ)|白鳥の島]]を挟んでセーヌ川両岸を結ぶ。[[メトロ (パリ)|メトロ]][[パリメトロ6号線|6号線]]の[[鉄道橋]]を兼ねている。<br />
* [[ルーエレ橋|ルエル橋]]({{lang|fr|''Pont Rouelle''}})<br />
** [[RER (イル=ド=フランス)|RER]] [[C線 (RER)|C線]]の[[鉄道橋]]。<br />
* [[グルネル橋]]({{lang|fr|''Pont de Grenelle''}})<br />
** 白鳥の島を挟んでセーヌ川両岸を結ぶ。<br />
* [[ミラボー橋]]({{lang|fr|''Pont Mirabeau''}})<br />
* [[ガリリアーノ橋|ガリグリアノ橋]]({{lang|fr|''Pont du Garigliano''}})<br />
* [[アヴァル橋]]({{lang|fr|''Pont Aval''}})<br />
** [[ペリフェリック]]の橋。セーヌ川に架かるパリ市内の橋では最も下流に位置する。<br />
<br />
==== 区西側 ====<br />
16区の東側からパリ市外に出た[[セーヌ川]]は蛇行して、南から北へ大きく方向を変え、16区の西側(すなわち、[[ブローニュの森]]の西側)で再び接する。橋は、次のとおりである(上流から順に列挙)。<br />
<br />
* [[アーヴル歩道橋]]({{lang|fr|''Passerelle de l'Avre''}})<br />
** セーヌ川東岸の16区及び[[オー=ド=セーヌ県]]の[[コミューン|自治体]][[ブローニュ=ビヤンクール]]と西岸の同じくオー=ド=セーヌ県の自治体[[サン=クルー]]を結ぶ[[水道橋]]兼[[歩道橋]]。<br />
* [[シュレンヌ橋]]({{lang|fr|''Pont de Suresnes''}})<br />
** セーヌ川東岸の16区と西岸の[[オー=ド=セーヌ県]]の自治体[[シュレンヌ]]を結ぶ。<br />
* [[ピュトー橋]]({{lang|fr|''Pont de Puteaux''}})<br />
** セーヌ川東岸の16区と西岸の[[オー=ド=セーヌ県]]の自治体[[ピュトー]]を結ぶ。<br />
<br />
=== 広場・交差点 ===<br />
<gallery mode="packed" caption="" heights="160"><br />
File:Trocadéro as seen from the Eiffel Tower, 25 September 2010.jpg|[[エッフェル塔]]から見る[[シャイヨ宮]]前トロカデロ広場とエロー大通り<br />
File:Trocadero and cemetery.jpg|エッフェル塔から見るトロカデロ広場と中央を走るエロー大通り、左斜めに走るジョルジュ=マンデル大通りと[[パッシー墓地]]<br />
File:P1040934 Paris XVI place de Costa-Rica rwk.jpg|コスタリカ広場 ([[:fr:Place de Costa-Rica|Place de Costa-Rica]])<br />
File:Place de Passy neige 2.JPG|パッシー広場 ([[:fr:Place de Passy|Place de Passy]])<br />
File:Place Jane-Evrard, Paris 16.jpg|ジェーンヌ=エヴラール広場 ([[:fr:Place Jane-Evrard|Place Jane-Evrard]])。左がブーランヴィリエ通りで(画像に映らない右側)ポンプ通りへ、右がラ・ミュエット通りで(画像撮影地点側)ポール=ドゥメール大通りへと続く。<br />
File:Paris - panoramio (245).jpg|メクシコ広場 ([[:fr:Place de Mexico|Place de Mexico]])<br />
File:Place de Mexico - Rue de Longchamp, Paris 16.jpg|ロンシャン通りとメクシコ広場<br />
File:Scenes around Paris - Arc de Triomphe, ca. 1920–35.jpg|フォッシュ大通りから見る[[シャルル・ド・ゴール広場|エトワール広場]]と[[エトワール凱旋門]], 1920年代<br />
File:Paris 75016 Place du Maréchal de Lattre de Tassigny 20160925 Pavillon Dauphine.jpg|[[ブローニュの森]]から見るマレシャル=ド=ラトル=ド=タシニー広場界隈の建物パヴィヨン・ドーフィーヌ<br />
File:ImmWalter.JPG|コロンビア広場界隈、1930年代に[[ティエールの城壁]]跡に建てられた[[田園都市]]構想と[[アール・デコ]]調の居住建物 イムーブル・ワルテール ([[:fr:Immeubles Walter|Immeubles Walter]])<br />
</gallery><br />
{{message galerie}}<br />
パリの「[[広場]] (プラス、{{lang|fr|''Place''}})」は、しばしば2以上の[[道路]]が交差する場所に位置し、中心の「島」を道路が周回する[[ロータリー交差点|ロータリー]]状の[[交差点]]となっている場合が多い。中心の「島」部分は、[[オベリスク]]や[[緑地]]等に利用されている場合もある。16区の広場や交差点には、次のようなものがある。<br />
<br />
* [[アルマ広場]]({{lang|fr|''Place de l'Alma''}})<br />
** [[8区 (パリ)|8区]]、16区の境界に位置している。[[ダイアナ (プリンセス・オブ・ウェールズ)|ダイアナ妃]]が亡くなったのはこの広場下のトンネルになる。<br />
* [[イエナ広場]]({{lang|fr|''Place d'Iéna''}})<br />
* [[ウルグアイ広場]]({{lang|fr|''Place de l'Uruguay''}})<br />
* [[合衆国広場]](エタ=ジュニ広場, {{lang|fr|''Place des Étas-Unis''}})<br />
* [[クレマン=アデール広場]]({{lang|fr|''Place Clément-Ader''}})<br />
** [[グルネル橋]]の西側にある。<br />
* [[コスタリカ広場]]({{lang|fr|''Place de Costa-Rica''}})<br />
** パッシー駅至近にある。<br />
* [[コロンビア広場]](プラス・ド・コロンビ、{{lang|fr|''Place de Colombie''}})<br />
** [[経済協力開発機構|OECD本部]]が面している。<br />
* [[シャルル・ド・ゴール広場]](エトワール広場、{{lang|fr|''Place Charles-de-Gaulle (Place de l’Étoile)''}})<br />
** [[8区 (パリ)|8区]]、16区、[[17区 (パリ)|17区]]の境界に位置している。世界的に有名な[[エトワール凱旋門]]がある。<br />
* [[ジェネラル=パットン広場]]({{lang|fr|''Place du Général-Patton''}})<br />
** 16区、[[17区 (パリ)|17区]]の境界に位置している。<br />
* [[ショパン広場]]({{lang|fr|''Place Chopin''}})<br />
* [[東京広場]]({{lang|fr|''Place de Tokyo''}})<br />
** [[パレ・ド・トーキョー]]の北側にある。<br />
* [[トロカデロ・11月11日広場]]([[トロカデロ]]広場、プラス・デュ・トロカデロ=エ=デュ=オンズ=ノヴァンブル、{{lang|fr|''Place du Trocadéro-et-du-11-Novembre''}})<br />
** 現在の[[シャイヨ宮]]の地に、かつて皇帝[[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン]]が、生まれてくる息子[[ナポレオン2世]]の為に「ローマ王宮殿 ([[:fr:Palais du roi de Rome|Palais du roi de Rome]])」を建設した事に因み、 [[フランス第二帝政|第二帝政]]期の1869年、ローマ王広場と名付けられたが、[[フランス第三共和政|第三共和政]]の1877年、トロカデロ広場と改称した ([[:fr:Réalisations urbaines du Second Empire à Paris|Réalisations urbaines du Second Empire à Paris]]も参照)。[[日本人学校]]もこの界隈にかつて設けられていた。「[[日仏文化学院パリ日本人学校]]」も参照。<br />
* [[パッシー広場]]({{lang|fr|''Place de Passy''}})<br />
* [[パラグアイ広場]]({{lang|fr|''Place du Paraguay''}})<br />
** マレシャル=ド=ラトル=ド=タシニー広場の東に隣接している。<br />
* [[バルセロナ広場]](プラス・ド・バルスロヌ、{{lang|fr|''Place de Barcelone''}})<br />
** [[ミラボー橋]]の西側にある。<br />
* [[ヴィクトル=ユゴー広場]]({{lang|fr|''Place Victor-Hugo''}})<br />
* [[ボリビア広場]](プラス・ド・ボリヴィー、{{lang|fr|''Place de Bolivie''}})<br />
* [[ポルト=ド=サン=クル広場]]({{lang|fr|''Place de la Porte-de-Saint-Cloud''}})<br />
* [[ポルト=ドートゥイユ広場]]({{lang|fr|''Place de la Porte-d'Auteuil''}})<br />
* [[ポルト=ド=パッシー広場]]({{lang|fr|''Place de la Porte-de-Passy''}})<br />
* [[ポルト=マイヨ広場]]({{lang|fr|''Place de la Porte-Maillot''}})<br />
** 16区、[[17区 (パリ)|17区]]の境界に位置している。エトワール凱旋門から[[ラ・デファンス]]に向かってグランダルメ大通りが走る。[[ヌイイ・シュル・セーヌ]]との境界に位置し、17区側に[[パレ・デ・コングレ・ド・パリ]]がある。[[ペリフェリック]]や[[ブールヴァール・デ・マレショー]]、グランダルメ大通り・・等が交差する。周辺界隈には、[[マクドナルド]]、[[モンブラン (ケーキ)|モンブラン]]で有名なパティスリー&[[ティールーム|サロン・ド・テ]]「[[アンジェリーナ|アンジュリーナ]]」、ブラッスリー「ル・コングレ・マイヨー (Le Congrès Maillot)」、「[[オーベルジュ]]・ダブ (Auberge Dab)」・・等がある。<br />
* [[ポルト=モリトール広場]]({{lang|fr|''Place de la Porte-Molitor''}})<br />
* [[マレシャル=ド=ラトル=ド=タシニー広場]]({{lang|fr|''Place du Maréchal-De-Lattre-De-Tassigny''}})<br />
** [[ブローニュの森]]界隈ポルト・ドーフィーヌにある。エトワール凱旋門方面から走るフォッシュ大通りの終点。<br />
* マルレーネ=ディートリッシュ広場({{lang|fr|''[[:fr:Place Marlène-Dietrich (Paris)|Place Marlène-Dietrich]]''}})<br />
** 2002年に名付けられた、イエナ広場近くにある広場。名称は、1980-92年に亡くなるまで8区モンテーニュ大通り12番地<!--モンテーニュ12番地は、当広場フランス語版、他に外部サイトでは、https://www.ouest-france.fr/leditiondusoir/data/1001/reader/reader.html#!preferred/1/package/1001/pub/1003/page/18/phone/、動画では、 https://youtu.be/t9iKQcK_PT0 などを参照。-->に居住していた[[マレーネ・ディートリッヒ]]から。<br />
* [[メクシコ広場]]({{lang|fr|''Place de Mexico''}})<br />
** [[フランス語]]では、[[メキシコシティ]]を「{{lang|fr|''Mexico''}}(メクシコ)」と表記する。なお、[[メキシコ]]国の仏語表記は、「{{lang|fr|''Mexique''}}(メクシク)」である。<br />
* [[ロダン広場]]({{lang|fr|''Place Rodin''}})<br />
* [[ヴァルソヴィー広場]]({{lang|fr|''Place de Varsovie''}})<br />
** [[イエナ橋]]の西側にある。<br />
<!--<br />
=== 立体交差 ===<br />
* [[○○交差点|○○交差点の立体交差]] ({{lang|fr|''''}})<br />
=== トンネル ===<br />
** [[○○トンネル]] ({{lang|fr|''''}})<br />
=== 船舶 ===<br />
* [[○○船会社]] ({{lang|fr|''''}})<br />
** [[○○航路]] ({{lang|fr|''''}})<br />
*** [[○○発着場]] - [[○○発着場]] - [[○○発着場]]<br />
=== 港湾 ===<br />
=== その他 ===<br />
<br />
== 著名な出身者 ==<br />
=== 政治 ===<br />
* [[人物名]] (元首相、政治家)<br />
** <br />
=== 財界 ===<br />
=== 学者 ===<br />
=== 文化 ===<br />
=== 芸能 ===<br />
=== スポーツ ===<br />
=== その他 ===<br />
--><br />
<br />
== 著名な居住者 ==<br />
<!--居住者・出身者あわせてフランス語版など参照--><br />
=== 王侯貴族・軍人 ===<br />
* [[シャルル9世 (フランス王)|シャルル9世]] - 狩猟用に{{仮リンク|ラ・ミュエット宮殿|fr|Château de la Muette (Paris)}}を建設した。<br />
* [[マルグリット・ド・ヴァロワ]]([[王妃マルゴ]]) - ラ・ミュエット宮殿に居住<!-- 英語版:Bois de Boulogne#historyより--><br />
* [[ヘンリエッタ・マリア・オブ・フランス]]([[ブルボン朝]]始祖[[アンリ4世 (フランス王)|アンリ4世]]娘、かつイギリス王[[チャールズ1世 (イングランド王)|チャールズ1世]]王妃)<br />
** [[清教徒革命]]([[イギリス革命]])最中、[[サン=ジェルマン=アン=レー城]]に身を寄せ王党派を糾合、また[[シャイヨ宮|シャイヨ修道院]] ([[:fr:Couvent des Visitandines de Chaillot|Couvent des Visitandines de Chaillot]]) を建造し、1651年から10年ほど当修道院に居住した。<br />
* [[ヘンリエッタ・アン・ステュアート]](イギリス王女、ヘンリエッタ・マリアの末娘、[[オルレアン公]][[フィリップ1世 (オルレアン公)|フィリップ1世]]妃)<br />
** 同上。母とおよそ10年間シャイヨ修道院に居住<br />
* [[ポンパドゥール夫人]] - ラ・ミュエット宮殿に居住<br />
* [[デュ・バリー夫人]] - 同上<br />
* [[ルイ16世 (フランス王)|ルイ16世]] - マリー・アントワネットとラ・ミュエット宮殿で新婚生活を送った。<br />
* [[マリー・アントワネット]] - 同上<!--以上、oecdのサイト http://www.oecd.org/general/historyofthechateaudelamuetteoecdheadquartersparis.htm も参照--><br />
* [[ランバル公妃マリー・ルイーズ]] <br />
** セーヌ川沿いのパッシー{{仮リンク|ランバル公邸|fr|Hôtel de Lamballe}}ないしランバル館に居住。"親友"マリー・アントワネットもこの館を度々訪れたとのこと<!-- fr:Avenue de Lamballe を参照-->。[[フランス革命]]期以降には、気球乗りの[[ジャン=ピエール・ブランシャール]]がカフェに借りたりした。建物自体は[[第一次世界大戦|第一次]]-[[第二次世界大戦]]間に壊されたが、すぐに精密に再建された。<!-- 出典付きfr:Hôtel de Lamballe を参照--><br />
* [[ヴィルジニア・オルドイーニ|カスティリオーネ伯爵夫人ヴィルジニア・オルドイーニ]]<br />
** [[イタリア統一]]の陰の功労者とされている。パッシー界隈に、晩年は[[ヴァンドーム広場]]界隈に居住<br />
* [[ロラン・ボナパルト]]([[フランス第二帝政|第二帝政]]皇族)<br />
** [[ナポレオン・ボナパルト]]の弟[[リュシアン・ボナパルト|リュシアン]]の孫。娘は精神分析学者[[マリー・ボナパルト]]。{{仮リンク|イエナ大通り|fr|Avenue d'Iéna}}10番地(現 シャングリ・ラ ホテル パリ、[[:fr:Shangri-La Hotel Paris|fr]])に居住<!--主に当通りフランス語版より--><br />
* {{仮リンク|エドモン・ド・ポリニャック|fr|Edmond de Polignac}}(1834年 - 1901年、ポリニャック公爵、作曲家)<br />
** [[ポリニャック公爵夫人ヨランド・ド・ポラストロン|ポリニャック公爵夫人ヨランド]]の孫、[[フランス復古王政|復古王政]]期の[[フランスの首相|首相]][[ジュール・ド・ポリニャック|ジュール]]の子。[[七月王政]]期の1845年亡命先から[[サン=ジェルマン=アン=レー]]へ、1847年に[[8区 (パリ)|8区]]シャンゼリゼ至近ベリー通り ([[:fr:Rue de Berri|Rue de Berri]]) で育つ。[[サンジェルマン|フォーブール・サンジェルマン]]で教育を受け、またフォーブール・サンジェルマンの[[ロベール・ド・モンテスキュー]]のサークルで、グレフュール伯爵エリザベット・シメイや[[ガブリエル・フォーレ]]らと知己に。[[コンコルド広場]]コワラン館で「ロワイヤル通りサークル ([[:fr:Le Cercle de la rue Royale|fr]])<ref>のちに、8区ラブレ通り ([[:fr:Rue Rabelais|Rue Rabelais]]) 2番地の[[ジョッケクルブ賞|ジョッケクルブ]] ([[:fr:Jockey Club de Paris|fr]])に統合された。</ref>」を主宰。妻ウィナレッタ・シンガーと共に、[[シャイヨ宮]]至近トロカデロ界隈の{{仮リンク|ジョルジュ=マンデル大通り|fr|Avenue Georges-Mandel}}43番地に居住。<!--当人当通りフランス語版参照--><br />
* [[ウィナレッタ・シンガー]](エドモン・ド・ポリニャックの妻、ポリニャック公爵夫人)<br />
** 音楽の[[パトロン]]として知られている。1943年に亡くなって後、ジョルジュ=マンデル43番地から裏手{{仮リンク|シェフェール通り|fr|Rue Scheffer}}46番地界隈までの居宅(ポリニャック公妃館)は、[[メセナ]]を行う[[公施設法人]]のシンガー・ポリニャック財団 ([[:fr:Fondation Singer-Polignac|Fondation Singer-Polignac]]) になり現在まで活動を行っている。<!--当通りフランス語版参照--><br />
* {{仮リンク|エリザベット・ド・グラモン|fr|Élisabeth de Gramont}}(クレルモン=トネール公爵夫人、作家)<br />
** [[アンリ4世 (フランス王)|アンリ4世]]子孫ながら"La duchesse rouge (赤い公爵夫人)"と呼ばれた。作家[[ナタリー・クリフォード・バーネイ|ナタリー・バーネイ]]との同性愛が知られている。{{仮リンク|フェザンドリ通り|fr|Rue de la Faisanderie}}3番地に1954年に亡くなるまで居住。<!--主に当通りフランス語版より--><br />
*{{仮リンク|ショワズール=スタンヴィル公爵ジャック・フィリップ|fr|Jacques Philippe de Choiseul-Stainville}}(貴族・[[ショワズール|ショワズール公爵家]]、軍人・[[フランス元帥|仏元帥]])<br />
** [[七年戦争]]の[[ランゲンザルツァの戦い (1761年)|ランゲンザルツァの戦い]]で敗れた指揮官。[[ルイ15世 (フランス王)|ルイ15世]]宰相[[エティエンヌ・フランソワ・ド・ショワズール|エティエンヌ・ド・ショワズール]]の弟。レヌアール通り [[:fr:Hôtel de Valentinois|Hôtel de Valentinois]]に居住。<!--主に当人フランス語版より--><br />
* {{仮リンク|ジャック=ドナシアン・ル・レイ・ド・ショーモン|fr|Jacques-Donatien Le Ray de Chaumont}}(貴族、[[オテル・デ・ザンヴァリッド|アンヴァリッド]]長官、[[ショーモン城]]主)<br />
** ショーモン宅になっていた Hôtel de Valentinoisに支援依頼で来仏の[[ベンジャミン・フランクリン]]が数年間居住。[[アメリカ独立戦争|米独立戦争]]に巨額援助をし、[[ラファイエット|ラファイエット侯]]、[[ジャン=バティスト・ド・ロシャンボー|ロシャンボー伯]]らと共に"仏人の米独立の父"の一人。但し、[[フランス革命]]に反対し米移住。<!--主に当人フランス語版より--><br />
* [[アントワーヌ=アンリ・ジョミニ]](軍人)<br />
*{{仮リンク|ギュスターヴ・ボルニ=デボルデ|fr|Gustave Borgnis-Desbordes}}(軍人、海兵少将) - [[フランス領スーダン|仏領スーダン]]成立の功労者。[[清仏戦争]]でも中心にいた一人。{{仮リンク|シェフェール通り|fr|Rue Scheffer}}61番地に居住。<!--主に当通りフランス語版より--><br />
* [[アルフレド・ドレフュス]](陸軍軍人、[[ドレフュス事件]]) - 1894年、{{仮リンク|プレジダン=ウィルソン大通り|fr|Avenue du Président-Wilson (Paris)}}6番地に居住<!--当通りフランス語版参照--><br />
* [[ジョゼフ・ジョフル]](軍人、[[フランス陸軍]]総司令官) - ポンプ通り ([[:fr:Rue de la Pompe|Rue de la Pompe]])115番地に10年ほど居住し<!--File:Plaque Maréchal Joffre, 115 rue de la Pompe, Paris 16.jpg のプラーク画像を参照-->、1909-1919年の間はミケランジュ通り ([[:fr:Rue Michel-Ange|Rue Michel-Ange]])6番地に、その後ランバル大通り ([[:fr:Avenue de Lamballe|Avenue de Lamballe]])17番地に亡くなるまで居住。3通りに[[プラーク]]が掲げられている。<br />
* [[ロベール・ニヴェル]](軍人、フランス陸軍総司令官) - {{仮リンク|トゥール通り|fr|Rue de la Tour}}33-35番地に亡くなるまで居住<!--主に当通りフランス語版より--><br />
* [[フィリップ・ド・ゴール]](軍人、上院議員、[[シャルル・ド・ゴール]]の子)<br />
* [[アルベール1世 (モナコ大公)|アルベール1世]]([[モナコ統治者の一覧|モナコ大公]]) - 16区プレジダン=ウィルソン大通り10番地、同ジョルジュ=マンデル大通り、8区{{仮リンク|フォーブール=サントノレ通り|fr|Rue du Faubourg-Saint-Honoré}}25番地に居住。プレジダン=ウィルソンの館は1923年から[[バチカン]]大使館が置かれ、1945年には[[ヨハネ23世 (ローマ教皇)|ヨハネ23世]]が大使だった。<!--各通りフランス語版参照--><br />
* [[レーニエ3世]](モナコ大公) - グレース・ケリーと{{仮リンク|フォッシュ大通り|fr|Avenue Foch (Paris)}}界隈に居住<!--同通りフランス語版、Avenue Fochドイツ語版、また、外部サイトは、http://www.royalfoibles.com/prince-rainiers-other-favorite-movie-star/ など多くある。--><br />
* [[グレース・ケリー]](モナコ大公妃・レーニエ3世妃) - 同上<br />
* [[サルマーン・ビン・アブドゥルアズィーズ]](現在の第7代[[サウジアラビア]]国王) - フォッシュ大通り界隈に居住<!--同通りフランス語版や、外部サイト http://www.purepeople.com/article/famille-royale-saoudienne-une-princesse-ordonne-de-tuer-un-artisan-parisien_a203046/1 などより--><br />
* {{仮リンク|アントン・ビベスコ|fr|Antoine Bibesco}}(外交官、[[ワラキア]]公爵、妻は英首相[[ハーバート・ヘンリー・アスキス|アスキス]]次女) - 8区の[[:fr:Rue de Courcelles|69 Rue de Courcelles]]と、{{仮リンク|ヴィヌーズ通り|fr|Rue Vineuse}}20番地に居住。弟のEmmanuel Bibescoは同14番地に居住。<!--主にこれら当通りフランス語版より--><br />
* [[アンナ・ド・ノアイユ]](ノアイユ伯爵夫人アンナ=エリザベート、小説家・詩人)<br />
** [[ルーマニア]]大貴族ビベスコ家出、嫁ぎ先は[[ノアイユ]]"公爵"家。[[17区 (パリ)|17区]]シテ・デ・フルー ([[:fr:Cité des Fleurs|Cité des Fleurs]]) に優美な[[オルガン|パイプオルガン]]付き[[サロン]]を造築。<!--フランス語版のCité des Fleursより-->[[7区 (パリ)|7区]]ラ・トゥール=モブール大通り ([[:fr:boulevard de La Tour-Maubourg|boulevard de La Tour-Maubourg]]) 界隈で出生し、1910年から1933年に亡くなるまで{{仮リンク|シェフェール通り|fr|Rue Scheffer}}40番地、スクワール・デュ・トロカデロ ([[:fr:Square du Trocadéro|Square du Trocadéro]])界隈に居住。<!--当人、当通りフランス語版より-->生没地にプラークが掲げられている<!--没地は、File:Plaque hôtel de Noailles rue Scheffer.JPG 生地は、File:Plaque Anna de Noailles, 22 bd de La Tour-Maubourg, Paris 7.jpg -->。<br />
* [[フェリックス・ユスポフ]]([[ロマノフ朝]]ロシア帝国貴族ユスポフ公)<br />
** [[グレゴリー・ラスプーチン]]殺害者。1940年以降16区内の[[:fr:Rue Agar|Rue Agar]]、[[:fr:Rue Jean-de-La-Fontaine (Paris)|65 Rue La-Fontaine]]、1943年から亡くなるまで[[:fr:Rue Pierre-Guérin|38 Rue Pierre-Guérin]]に居住。<br />
* [[イリナ・アレクサンドロヴナ]](ロマノフ朝ロシア帝国公女、ユスポフ公の妻) - 同上<!--夫妻ともフェリックス・ユスポフのフランス語版より--><br />
* {{仮リンク|クロシュ・レザー・パフラヴィー|fr|Reza Pahlavi (1960)}}([[パフラヴィー朝]]イラン皇帝[[モハンマド・レザー・パフラヴィー]]の子) - フォッシュ大通り33番地に居住<!--主に当通りフランス語版より--><br />
<br />
=== 政治 ===<br />
* [[ベンジャミン・フランクリン]] (米政治家) - 1776年12月以降数年間、[[アメリカ独立戦争]]への支援依頼で、レヌアール通りオテル・ド・ヴァレンティノワ ([[:fr:Hôtel de Valentinois|Hôtel de Valentinois]]) に居住<!--主に当通りフランス語版より--><br />
* [[ポール・バラス]](政治家、[[総裁政府]]総裁の筆頭) - 晩年、シャイヨ地区で死去<br />
* [[シャルル・ド・フレシネ]](元首相) - {{仮リンク|フェザンドリ通り|fr|Rue de la Faisanderie}}123番地に居住<!--主に当通りフランス語版より--><br />
* [[パトリス・ド・マクマオン]](軍人、元大統領) - {{仮リンク|ヴィヌーズ通り|fr|Rue Vineuse}}49番地に居住<br />
* [[アルフォンス・ド・ラマルティーヌ]](詩人、政治家)<br />
* [[ポール・デシャネル]](元大統領, 1920年) - 1859年の少年期、一家で[[8区 (パリ)|8区]]パンティエーヴル通り34番地居住。晩年は{{仮リンク|エロー大通り|fr|Avenue d'Eylau (Paris)}}10番地に居住し死去。プラークが掲げられている<!--プラークは、File:Plaque Paul Deschanel avenue d'Eylau.jpg 参照-->。<br />
* [[ジョルジュ・クレマンソー]](元首相) - 上記クレマンソー博物館参照<br />
<!--* [[ジャン・ムーラン]]([[レジスタンス]]指導者、政治家)→ 16区やパッシー等のフランス語版・英語版を見直した結果、16区内のゲシュタポ本部に連行されただけ、、かもしれないです。ゆえに「ゆかりの人物に移動します(2016,10.20)。--><br />
* {{仮リンク|ジョルジュ・マンデル|fr|Georges Mandel}}([[レジスタンス]]指導者、政治家) - [[第二次世界大戦|第二次大戦]]期の内相。[[ロスチャイルド家]]の縁戚。{{仮リンク|ジョルジュ=マンデル大通り|fr|Avenue Georges-Mandel}}界隈、{{仮リンク|モザール通り|fr|Avenue Mozart}}等に居住<!--モザール通りフランス語版も参照--><br />
* [[アルベール・ルブラン]](元大統領・首相) - ボーセジュール大通り ([[:fr:Boulevard de Beauséjour|Boulevard de Beauséjour]]) 19番地で1945年から1950年に亡くなるまで居住<!--当通りフランス語版参照--><br />
* [[ヴァレリー・ジスカール・デスタン]](元大統領) - 青少年期も16区内の私立小やリセ・ジャンソン・ド・サイイ等に通っていた。<br />
* [[エドゥアール・バラデュール]](元首相)<br />
* [[ジャック・シャバン=デルマス]](元首相) - [[13区 (パリ)|13区]]オピタル大通り76番地生まれ。{{仮リンク|ヴィクトル=ユーゴー大通り|fr|Avenue Victor-Hugo (Paris)}}15番地に1994年まで居住<!--出典付いた当人、当通りフランス語版参照--><br />
* [[ニコラ・サルコジ]](元大統領) - ブッフレ伯爵夫人 ([[:fr:Marie-Charlotte Hippolyte de Campet de Saujon|fr]]) や[[モンモランシー公]]の所有邸宅跡にある[[ヴィラ]]ないし[[ゲーテッド・コミュニティ]]の"ヴィラ・モンモランシー ([[:fr:Villa Montmorency|Villa Montmorency]]) " に大統領退任後を通じて居住<!--出典が付いた当ヴィラフランス語版参照--><br />
* [[クリスティーヌ・ラガルド]](現[[国際通貨基金|IMF]]専務理事、元[[経済・財務省|経済・財政大臣]]) - パッシー駅の東側スクアール・アルボニ ([[:fr:Square Alboni|Square Alboni]]) に居住し、現在(2010年時点)は息子2人がそこに居住している<ref>「[http://www.elle.fr/People/La-vie-des-people/Une-journee-avec/Une-journee-avec-Christine-Lagarde-1130060 Une journée avec Christine Lagarde]」 [[ELLE (雑誌)|ELLE FRANCE]], 26 Janvier 2010</ref>。生まれは[[9区 (パリ)|パリ9区]]<br />
* [[イグナツィ・パデレフスキ]](第3代(第2代)[[ポーランド第二共和国]]首相、ピアニスト・作曲家) - 1889-1906年の間、ヴィクトル=ユーゴー大通り94番地に居住<!--当通りフランス語版参照--><br />
* [[コンスタンディノス・カラマンリス]](元[[ギリシャ]]大統領・首相) - 1963-1974年の間、モンモランシー大通り ([[:fr:Boulevard de Montmorency|Boulevard de Montmorency]]) 37番地に居住<!--当通りフランス語版参照--><br />
* {{仮リンク|リシウス・サロモン|fr|Lysius Salomon}}(第13代[[ハイチ共和国]]大統領) - 1879年10月-1888年8月まで大統領、1888年10月にヴィクトル=ユーゴー大通り3番地で死去<br />
* [[モブツ・セセ・セコ]](第2代[[コンゴ民主共和国|ザイール共和国]]大統領、[[独裁政治|独裁政権]]) - フォッシュ大通り界隈に居住<!--同通りフランス語版より--><br />
* [[アマニ・ディオリ]](初代[[ニジェールの大統領|ニジェール共和国]]大統領) - {{仮リンク|シェフェール通り|fr|Rue Scheffer}}39番地に居住 <!--当通りフランス語版には、要出典タグが付いていますが、、一応暫定的に記載しておきます--><br />
* [[フェリックス・ウフェ=ボワニ]](初代[[コートジボワール]]大統領・首相) - {{仮リンク|ジョルジュ=マンデル大通り|fr|Avenue Georges-Mandel}}40番地に居住<!--当通りフランス語版参照--><br />
<br />
=== 財界・富豪 ===<br />
* [[ウィリアム・キッサム・ヴァンダービルト]](実業家)<br />
* [[ルイ・ルノー]](実業家、[[ルノー]]創業者) - 8区内で生まれ、[[ブローニュ=ビヤンクール]]、フォッシュ大通り界隈に居住<!--fr:フォッシュ大通り、en:ルイ・ルノーなど参照--><br />
* [[カルースト・グルベンキアン]](実業家、石油マン '''「ミスター5%」''') - {{仮リンク|イエナ大通り|fr|Avenue d'Iéna}}51番地に居住<!--主に当通りフランス語版より--><br />
*{{仮リンク|アンリ・ド・ロチルド|fr|Henri de Rothschild}}(男爵、[[フィランソロピー|フィランソロピスト]]、[[ロスチャイルド家|パリ・ロチルド家]]) - 8区フォーブール=サントノレ通りの邸宅を第一次世界大戦の[[連合国]]の社交クラブ「[[:fr:Cercle de l'Union interalliée|Cercle de l'Union Interalliee]] (連合国クラブ)」に改装し、ラ・ミュエット宮殿を購入し居住。[[ナサニエル・ド・ロスチャイルド|ナタニエル・ド・ロチルド]]の孫、曾孫に[[フィリップ・ド・ロチルド]]がいる。<br />
* {{仮リンク|マリー=アンネ・フォン・ゴルトシュミット=ロートシルト|de|Marie-Anne von Goldschmidt-Rothschild}}(女男爵、ドイツ[[ロスチャイルド家]](仏:ロチルド家)) - フェザンドリ通り33番地の邸宅のうち庭園別館を後に、パリ・ロチルド家出の女優・プロデューサー [[:fr:Nicole Stephane|Nicole Stephane]]に売却した。<!--主に当通りフランス語版より--><br />
* [[アリストテレス・オナシス]](実業家) - フォッシュ大通り界隈に居住。[[マリア・カラス]]や[[ジャクリーン・ケネディ・オナシス|ジャクリーヌ・ケネディ]]らと居住した<!--同通りフランス語版より、及び下記 Jackie kennedy参照--><br />
* {{仮リンク|エドアール=ジャン・アンパン|fr|Édouard-Jean Empain}}(男爵、[[シュナイダーエレクトリック]]CEO) - 1978年に誘拐事件に遭い人質になっている間、メディアに次々と賭博癖艶聞等を流され事件前後で人生が180度変わってしまった人物として知られている。フォッシュ大通り33番地に居住<!--主に当通りフランス語版より--><br />
* [[ルネ・ラコステ]]([[ラコステ]]創業者、テニス選手) - [[10区 (パリ)|10区]]生まれ。イムーブル・ワルテール ([[:fr:Immeubles Walter|Immeubles Walter]]) に居住していた<!--出典としては、https://www.challenges.fr/economie/les-wildenstein-vendent-un-joyau-de-l-immobilier-parisien_442931<br />
--><br />
* {{仮リンク|ウジェーヌ・シュレール|fr|Eugène Schueller}}([[ロレアル]]創業者、[[リリアンヌ・ベタンクール]]の父) - イムーブル・ワルテール ([[:fr:Immeubles Walter|Immeubles Walter]]) に居住していた<!--出典としては、 https://www.challenges.fr/economie/les-wildenstein-vendent-un-joyau-de-l-immobilier-parisien_442931、 http://www.lepoint.fr/societe/le-prince-des-escroqueries-a-la-tva-cyril-astruc-s-est-volatilise-22-06-2017-2137320_23.php など--><br />
* {{仮リンク|セルジュ・ダッソー|fr|Serge Dassault}}([[ダッソー]]名誉会長、政治家)- イムーブル・ワルテール ([[:fr:Immeubles Walter|Immeubles Walter]]) に居住<!--出典としては、https://www.challenges.fr/economie/les-wildenstein-vendent-un-joyau-de-l-immobilier-parisien_442931--><br />
* {{仮リンク|ローラン・ダッソー|fr|Laurent Dassault}}(ダッソー社長、セルジュの子) - [[ヴィラ]]ないし[[ゲーテッド・コミュニティ]]の"ヴィラ・モンモランシー ([[:fr:Villa Montmorency|Villa Montmorency]]) " に居住<!--出典が付いた当ヴィラフランス語版参照--><br />
* ドミニク・ドゥセイニュ([[:fr:Dominique Desseigne|Dominique Desseigne]], [[カジノ]]経営者) - 1997年から妻のディアーヌ・バリエール ([[:fr:Diane Barrière|Diane Barrière]]) が2001年に亡くなるまで"ヴィラ・モンモランシー ([[:fr:Villa Montmorency|Villa Montmorency]]) " に居住<!--出典が付いた当ヴィラフランス語版参照--><br />
* ピエール・ガブリエル・ゲラン ([[:fr:Guerlain#Parfumeurs|Pierre Gabriel Guerlain]], 1872-1961年, [[ゲラン]]4代目[[調香師]]) - イムーブル・ワルテール ([[:fr:Immeubles Walter|Immeubles Walter]]) に居住<!--出典としては、 https://www.challenges.fr/economie/les-wildenstein-vendent-un-joyau-de-l-immobilier-parisien_442931--><br />
* パトリック・グレ=モーブッサン ([[:fr:Mauboussin|Patrick Goulet-Mauboussin]], [[モーブッサン]]6代目社長) - スイスの投資会社に2002年に買収され現在は退任。イムーブル・ワルテール ([[:fr:Immeubles Walter|Immeubles Walter]]) に居住<!--出典としては、https://www.challenges.fr/economie/les-wildenstein-vendent-un-joyau-de-l-immobilier-parisien_442931--><br />
<br />
=== 学者 ===<br />
* [[エルヴェ・フェイ]](天文学者) - {{仮リンク|コルタンベール通り|fr|Rue Cortambert}}39番地に居住し、当地で亡くなる。<br />
* [[アンリ・ベルクソン]](哲学者、[[ノーベル文学賞]]) - [[ヴィラ]]ないし[[ゲーテッド・コミュニティ]]の"ヴィラ・モンモランシー ([[:fr:Villa Montmorency|Villa Montmorency]]) " と<!--出典が付いた当ヴィラフランス語版参照-->、ボーセジュール大通り ([[:fr:Boulevard de Beauséjour|Boulevard de Beauséjour]]) 21番地に1941年に亡くなるまで居住。同地にプラークが掲げられている。<!--当通りフランス語版参照--><br />
* [[ジョルジュ・ソレル]](社会思想家、社会主義者、革命的サンディカリストないし革命的組合主義者) - [[史的唯物論]]から離れ、[[時代精神]]ないし「[[神話]]」についてアンリ・ベルクソンらから影響を受けた。1895年、ミケランジュ通り ([[:fr:Rue Michel-Ange|Rue Michel-Ange]])23番地に居住<!--当通りフランス語版参照--><br />
* [[アルフォンス・ベルティヨン]](犯罪学者、科学捜査官) - {{仮リンク|プレジダン=ウィルソン大通り|fr|Avenue du Président-Wilson (Paris)}}5番地に居住<!--当通りフランス語版参照--><br />
* [[ジャクリーヌ・ド・ロミイ]](ジャクリーヌ・ド・ロミリ、[[ギリシャ文学]]者)<br />
<br />
=== 文化 ===<br />
* [[カミーユ・ピサロ]](画家)<br />
* {{仮リンク|レオ・フォンタン|fr|Léo Fontan}}(画家) - [[:fr:Rue Beethoven|Rue Beethoven]]7番地に居住<!--当通りフランス語版より--><br />
* {{仮リンク|板東敏雄|fr|Toshio Bando}}(画家、[[エコール・ド・パリ]]) - 1924年頃、[[モンパルナス]]地区[[14区 (パリ)|パリ14区]]ラスパイユ大通り ([[:fr:Boulevard Raspail|Boulevard Raspail]]) 207番地に居住。その後、パッシー界隈ニコロ通り ([[:fr:Rue Nicolo|Rue Nicolo]]) 13番地に1940年から亡くなる1973年頃まで居住<!--ラスパイユ大通りフランス語版、及び出典付いてない当ニコロ通りフランス語版より--><br />
* {{仮リンク|アンリ・ファルジュ|fr|Henri Farge}}(画家) - {{仮リンク|ヴェルサイユ大通り|fr|Avenue de Versailles}}に居住<!--当通りフランス語版より--><br />
* [[ポール・デュカス]](作曲家) - {{仮リンク|ラヌラグ通り|fr|Rue du Ranelagh}}84番地に居住<!--当通りフランス語版より--><br />
* [[グザヴィエ・ルルー]](作曲家) - {{仮リンク|コルタンベール通り|fr|Rue Cortambert}}64番地に居住<!--当通りフランス語版参照--><br />
* [[ピエール・バイヨ]](作曲家)<br />
* [[ジャコモ・プッチーニ]](作曲家)<br />
* [[ジョアキーノ・ロッシーニ]](作曲家)<br />
* [[クロード・ドビュッシー]](作曲家) - [[17区 (パリ)|17区]]内や、1905年から亡くなる1918年にかけて、[[:fr:Place du Maréchal-de-Lattre-de-Tassigny|Place du Maréchal-de-Lattre-de-Tassigny]]に近い[[:fr:Square de l'Avenue-Foch|Square de l'Avenue-Foch]]24番地に居住<ref>[[地球の歩き方|地球の歩き方編集室]]編 『[[地球の歩き方|地球の歩き方A07・パリ&近郊の町 2007〜2008年版]]』、[[ダイヤモンド社]]、2007年、p.216.</ref>。<!--フォッシュ大通りフランス語版も参照--><br />
* [[ジャン=ピエール・ランパル]](フルート奏者) - モザール通り15番地に居住<!--当通りフランス語版より--><br />
* [[アルトゥール・ルービンシュタイン]](ピアニスト) - フォッシュ大通り22番地に居住<!--当通りフランス語版より--><br />
* [[エミール・ヴォードルメール]](建築家) - ジョルジュ=マンデル大通り27番地に居住<!--当通りフランス語版より--><br />
* [[エクトール・ギマール]](建築家、[[アールヌーヴォー]]の代表的人物) - 1913-1930年の間、モザール通り122番地に居住<!--当通りフランス語版より--><br />
* [[ル・コルビュジエ]](建築家) - 16区[[オートゥイユ]]界隈のメゾン・ラ・ロッシュ ([[:fr:Maison La Roche|Maison La Roche]])、メゾン・ジャヌレ ([[:fr:Maison Jeanneret|Maison Jeanneret]])や、隣接の[[ブローニュ=ビヤンクール]]に建築作品が残る。<br />
* [[オーギュスト・ペレ]](建築家) - [[:fr:Rue Berton|Rue Berton]]に居住<br />
* [[モリエール]](劇作家、俳優) - 生まれは現在の[[1区 (パリ)|1区]][[サントノーレ通り]]界隈<!--:en:Neuilly-Auteuil-Passy より--><br />
* [[ヴィクトル・ユーゴー]](作家、『[[レ・ミゼラブル]]』、『[[ノートルダム・ド・パリ]]』)<br />
** 1873年に"ヴィラ・モンモランシー ([[:fr:Villa Montmorency|Villa Montmorency]]) " に3ヶ月程居住<!--出典が付いた当ヴィラフランス語版参照-->した他、晩年は[[4区 (パリ)|4区]]ヴォージュ広場界隈<!--:en:Neuilly-Auteuil-Passy より-->に、さらに1878年、{{仮リンク|ヴィクトル=ユーゴー大通り|fr|Avenue Victor-Hugo (Paris)}}124番地(旧50番地)の[[リュジニャン家|リュジニャン公妃]]館に愛人[[ジュリエット・ドルエ]]と居住し、1885年同館で死去。同地にプラークが掲げられている。<!--ユーゴー当人フランス語版、ユーゴー大通りフランス語版を参照。プラークは、File:Plaque Victor Hugo, 124 avenue Victor-Hugo, Paris 16.jpg 参照--><br />
* [[オノレ・ド・バルザック]](作家)<br />
** 1836年頃、債権者から逃げるため[[パリ改造]]前の{{仮リンク|イエナ大通り|fr|Avenue d'Iéna}}12番地に当たる界隈に一時的に居住<!--主に当通りフランス語版より-->。晩年にあたる1840年から1847年にかけて、現在はバルザック記念館 ([[:fr:Maison de Balzac|Maison de Balzac]]) となっている建物で生活していた。この場所で、『従妹ベット』、『従兄ポンス』などが執筆された<ref>[[地球の歩き方|地球の歩き方編集室]]編 『[[地球の歩き方|地球の歩き方A07・パリ&近郊の町 2007〜2008年版]]』、[[ダイヤモンド社]]、2007年、pp.218-219.</ref>。<br />
* [[ピエール=ジャン・ド・ベランジェ]](抒情詩人) - {{仮リンク|ヴィヌーズ大通り|fr|Rue Vineuse}}21番地、{{仮リンク|シェフェール通り|fr|Rue Scheffer}}4番地に居住<!--両通りフランス語版より--><br />
* [[ルネ・ゴシニ]](作家、『[[アステリックス]]』) - {{仮リンク|ブーランヴィリエ通り|fr|Rue de Boulainvilliers}}界隈に居住<br />
* [[フランソワーズ・サガン]](作家、『[[悲しみよこんにちは]]』) - {{仮リンク|フォッシュ大通り|fr|Avenue Foch (Paris)}}界隈に居住<!--当人フランス語版等より--><br />
* [[パトリック・モディアノ]](作家)<br />
* [[オクターヴ・ミルボー]](作家) - フォッシュ大通り界隈に居住<!--同通りフランス語版より--><br />
* [[マルセル・パニョル]](作家) - フォッシュ大通り界隈に居住<!--同通りフランス語版より--><br />
* [[ジェラール・ド・ヴィリエ]](作家) - フォッシュ大通り界隈に居住<!--同通りフランス語版より--><br />
* {{仮リンク|マルセル・プレヴォ|fr|Marcel Prévost}}(作家) - ヴィヌーズ通り49番地に居住<br />
* {{仮リンク|アンドレ・ショメ|fr|André Chaumeix}}(批評家) - ヴィヌーズ通り49番地に居住<br />
* {{仮リンク|ジャック・ド・ラクレテル|fr|Jacques de Lacretelle}}(作家) - ヴィヌーズ通り49番地に居住<br />
<!--カミーユ・サン=サーンス、テオフィル・ゴーティエは、フランス語版ロンシャン通りに居住ないし死去地等と記述されているが、当人記事のフランス語版・英語版とも整合性がつかないので、保留--><br />
* [[ギヨーム・アポリネール]](詩人、[[キュビズム]]先導者、[[シュルレアリスム]]造語)<br />
** [[:fr:Rue Berton|Rue Berton]]や"ヴィラ・モンモランシー ([[:fr:Villa Montmorency|Villa Montmorency]])"<!--出典が付いた当ヴィラフランス語版参照-->に居住。1913年1月に同オートゥイユから[[サンジェルマン大通り|サン=ジェルマン大通り]]202番地に居住し、1918年11月に同地で死去。[[プラーク]]が同建物に掲げられている。<!--出典付いたサンジェルマン大通りフランス語版参照。同通り202番地のプラーク参照 → File:P1260184 Paris VII bd St-Germain n202 Apollinaire rwk.jpg --><br />
* [[アンドレ・ジッド]](作家、[[ノーベル文学賞]]) - 1916年頃から"ヴィラ・モンモランシー ([[:fr:Villa Montmorency|Villa Montmorency]])"に居住<!--出典が付いた当ヴィラフランス語版参照--><br />
* [[エドモン・ド・ゴンクール]](作家、[[ゴンクール賞]])<br />
** [[ベル・エポック]]の19世紀後半当時、モンモランシー大通り ([[:fr:Boulevard de Montmorency|Boulevard de Montmorency]]) 67番地の居宅に、[[オーギュスト・ロダン|ロダン]]、[[エミール・ゾラ|ゾラ]]、[[オクターヴ・ミルボー]]、[[ギュスターヴ・ジェフロワ]]、[[ウジェーヌ・カリエール]]、[[モーリス・バレス]]らが集っていた。<!--当通りフランス語版参照--><br />
* [[ハインリッヒ・ハイネ]](詩人) - パッシー界隈ニコロ通り ([[:fr:Rue Nicolo|Rue Nicolo]]) 64番地に1848年頃に居住<!--出典付いてない当通りフランス語版より--><br />
* [[クリスチャン・ディオール]](ファッションデザイナー、[[ディオール]]創業者) - 青少年期を16区で過ごした<!--出典付いた当人日本語版より--><br />
* [[アンリ・ブシャール]](彫刻家) - 晩年[[オートゥイユ]]界隈で過ごした[[アトリエ]]が当人の美術館になっている<!--当人フランス語版参照--><br />
<br />
=== 芸能 ===<br />
* {{仮リンク|オルタンス・シュネデール|fr|Hortense Schneider}}(19世紀半ばの歌手、女優) - {{仮リンク|ヴェルサイユ大通り|fr|Avenue de Versailles}}123番地に居住<br />
* [[ジョヴァンニ・マリオ]](オペラ歌手)<br />
* [[フョードル・シャリアピン]](オペラ歌手) - {{仮リンク|エロー大通り|fr|Avenue d'Eylau (Paris)}}22番地に居住し1938年に同地で死去。プラークが掲げられている。<!--プラークは、File:Plaque Feodor Chaliapine, 22 avenue d'Eylau, Paris 16 x.jpg 参照--><br />
* [[ロイ・フラー]](米ダンサー) - {{仮リンク|コルタンベール通り|fr|Rue Cortambert}}24番地に居住<!--当通りフランス語版参照--><br />
* [[クロード・フランソワ]](歌手)<br />
* [[マリア・カラス]](オペラ歌手) - 上記オナシスとフォッシュ大通りに、その後ジョルジュ=マンデル大通り36番地に居住。<!--各通り各人フランス語版より-->当通りに並んで「[[:fr:Allée Maria-Callas|Allée Maria-Callas]](マリア・カラスの並木道)」がある。<br />
* {{仮リンク|ジャック・ドュトロン|fr|Jacques Dutronc}}、[[フランソワーズ・アルディ]](歌手夫妻) - {{仮リンク|フォッシュ大通り|fr|Avenue Foch (Paris)}}界隈に居住<!--同通りフランス語版より--><br />
* [[アベル・ガンス]](映画監督、俳優) - [[18区 (パリ)|パリ18区]]生まれ。[[8区 (パリ)|8区]]の[[リセ]]・シャプタルに通った。晩年、居住し亡くなった地は16区で、墓所はオートゥイユ墓地<!--出典付いた当人フランス語版参照--><br />
* [[フェルナンデル]](喜劇俳優) - フォッシュ大通り界隈に居住<!--同通りフランス語版より--><br />
* [[ジャン=ルイ・バロー]]、[[マドレーヌ・ルノー]](俳優・舞台([[コメディ]])俳優夫妻) - 1940-1994年の間、{{仮リンク|プレジダン=ウィルソン大通り|fr|Avenue du Président-Wilson (Paris)}}18番地に居住。同地にプラークが掲げられている。マドレーヌ・ルノーは16区生まれ<!--プラーク画像もある当通りフランス語版参照--><br />
* [[オリヴィア・デ・ハヴィランド]](女優、『[[風と共に去りぬ (映画)]]』) - 東京(現在の[[港区 (東京都)|港区]])生まれ<!--当人フランス語英語日本語版参照。16区居住については、存命の方ですが、Olivia De Havilland house で検索 --><br />
* [[アルレッティ]](女優) - [[クールブヴォワ]]生まれ。1966-1992年の間、16区[[オートゥイユ]]のレミュザ通り ([[:fr:Rue de Rémusat|Rue de Rémusat]]) に居住。<!--当人フランス語版参照--><br />
* [[バルバラ (歌手)|バルバラ]](歌手) - [[17区 (パリ)|パリ17区]]に生まれ、17区内を転々とし、1937年以降、[[マルセイユ]]や[[オーヴェルニュ]]地方[[ロアンヌ]]へ。父がユダヤ系[[アルザス人]]の為、1941年以降、[[ナチス・ドイツによるフランス占領|ナチス・ドイツ仏占領軍]]から逃げるため、[[ピレネー]]地方[[タルブ]]、[[アンドル県]]、オーヴェルニュ地方[[イゼール県]]等を転々とした。戦後1945年以降は、[[イヴリーヌ県]]や[[18区 (パリ)|パリ18区]]、[[9区 (パリ)|9区]]へ。1946-1959年の間は[[20区 (パリ)|20区]]、1961-1968年の間、16区オートゥイユのレミュザ通り (Rue de Rémusat) 居住。''"Rémusat"''は、1967年に亡くなった同居の母を歌った曲の題名に。[[ヌイイ=シュル=セーヌ]]の病院で[[エイズ]]により死去。<!--当人フランス語版参照--><br />
* [[フランソワーズ・アルヌール]](女優)<!--フランス語版によると16区居住、リセ・モリエール進学--><br />
* [[セルジュ・ゲンスブール]](作曲家、映画監督) - [[ロシア]]([[ウクライナ]])移民の一家で、青少年期は[[20区 (パリ)|20区]]、[[9区 (パリ)|9区]]、[[リモージュ]]、[[パリの解放|パリ解放]]少し前に16区居住。<!--当人フランス語版より--><br />
* [[ジーン・セバーグ]](女優)<!--英語版 en:Jean Seberg に記載--> - {{仮リンク|ロンシャン通り|fr|Rue de Longchamp}}125番地に居住し、その界隈で自殺した。<br />
* [[ジェーン・バーキン]](女優)<br />
* [[アラン・ドロン]](男優) - デビュー前、[[モンマルトル]]界隈で仕事を転々ブラブラしていたが、のち{{仮リンク|ブリジット・オベール|fr|Brigitte Auber}}と[[サンジェルマン・デ・プレ]]界隈に身を置き、[[ジャン=クロード・ブリアリ]]とも知り合う。<!--アラン・ドロンのフランス語版より-->大成して後、[[ロミー・シュナイダー]]らと16区プレジダン=ケネディ大通り ([[:fr:Avenue du Président-Kennedy|Avenue du Président-Kennedy]]) 沿い等に居住<!--http://www.purepeople.com/article/alain-delon-et-romy-schneider-un-nid-d-amour-a-46-millions-d-euros_a97150/1 より--><br />
* [[プリンス (ミュージシャン)|プリンス]](歌手) - フォッシュ大通り60番地に邸宅があった。<!--当通りフランス語版より--><br />
<br />
*; ヴィラ・モンモランシー ([[:fr:Villa Montmorency|Villa Montmorency]]) 居住者<!--出典が付いた当ヴィラフランス語版参照--><br />
{{See also|[[ヴィラ]]|[[ゲーテッド・コミュニティ]]}}<br />
* [[サラ・ベルナール]]([[舞台女優]]・[[コメディ|コメディエンヌ]])<br />
* [[キャロル・ブーケ]](女優) - 1994-2006年の間居住<br />
* [[シルヴィ・ヴァルタン]](歌手)、[[ジョニー・アリディ]](歌手) - 1978年から2017年12月にアリディが亡くなるまでヴィラ・モンモランシーに同居。<br />
* [[イザベル・アジャーニ]](歌手)<br />
* [[セリーヌ・ディオン]](歌手)<br />
* [[ジェラール・ドパルデュー]](男優) - 納税問題でロシア国籍に変えるまで居住<br />
* [[ミレーヌ・ファルメール]](シンガーソングライター、歌手) - 1994年から2004年の間、[[:fr:Avenue Pierre-Ier-de-Serbie|Avenue Pierre-Ier-de-Serbie]]に居住<!--出典が付いた当通りフランス語版より-->。また、ヴィラ・モンモランシーにも居住<br />
<br />
=== スポーツ ===<br />
* [[アンドレ・ルデュック]](自転車レーサー、[[ツール・ド・フランス]]区間優勝歴代3位)<br />
** [[サン=トゥアン]]生まれ、[[19区 (パリ)|パリ19区]][[ベルヴィル]]育ち。[[オートゥイユ]]のミケランジュ通り ([[:fr:Rue Michel-Ange|Rue Michel-Ange]]) 19番地に居住しプラークが掲げられている。その他、[[メゾン=ラフィット]]でカフェ食料品店を営んだり、オペラ大通りに居住したりした。[[マルセイユ]]の病院で死去。<!--ミケランジュ通りフランス語版、当人フランス語版参照--><br />
* [[サミュエル・エトオ]](サッカー選手、[[カメルーン]]代表)<br />
** イムーブル・ワルテール ([[:fr:Immeubles Walter|Immeubles Walter]]) に居住<!--出典としては、http://www.lepoint.fr/societe/le-prince-des-escroqueries-a-la-tva-cyril-astruc-s-est-volatilise-22-06-2017-2137320_23.php--><br />
<br />
=== その他 ===<br />
* {{仮リンク|モナ・フォン・ビスマルク|fr|Mona von Bismarck}}([[ソーシャライト]]、ファッションアイコン)<br />
** [[シャネル]]や[[マドレーヌ・ヴィオネ]]、[[ランバン]]等による"ザ・ベスト・ドレッスド・ウーマン"にアメリカ人では最初に選ばれ、雑誌「[[:en:Vanity Fair (magazine)|Vanity Fair]]」の"[[:en:International Best Dressed List|International Best Dressed List]]" 等にも掲載。[[サン=ルイ島]]のランベール館 ([[:fr:Hôtel Lambert|Hôtel Lambert]]) の一室([[アパルトマン]])、その後[[5番街 (マンハッタン)|5番街]]や[[イエナ橋]]近く16区ニューヨーク大通り34番地、イタリア[[カプリ島]]等に居住。1983年の死後、16区の[[タウンハウス]]は米人アーティスト等のパリ居住を支援する財団になり、さらに米文化紹介のモナ・ビスマルク・アメリカン・センター ([[:fr:Mona Bismarck American Center|Mona Bismarck American Center]]) になる。<!--当人フランス語版英語版参照--><br />
* [[ジャクリーン・ケネディ・オナシス]] ([[ジョン・F・ケネディ]]及び[[アリストテレス・オナシス]]の妻) - フォッシュ大通り界隈に居住<!--Avenue Foch → http://www.cbsnews.com/pictures/jacqueline-kennedy-onassis-first-lady/48/ https://www.newspapers.com/newspage/53418700/ -->。[[パリ大学|ソルボンヌ大学]]に遊学していた頃は{{仮リンク|モザール通り|fr|Avenue Mozart}}に友人[[:fr:Alice Kaplan|Alice Kaplan]]らとも居住<!--モーツァルト通りフランス語版より--><br />
* [[リー・ラジヴィル]] ([[ソーシャライト]]、ファッションアイコン、ジャクリーン・ケネディの実妹)<!--本人記事中、"パリ16区"脚注参照 --><br />
* [[カーラ・ブルーニ]] ([[ニコラ・サルコジ]]前大統領の妻) - ニコラ・サルコジと[[:fr:Rue Pierre-Guérin|40 Rue Pierre-Guérin]]に居住していた。<!--当通りフランス語版より--><br />
* [[グリナラ・カリモヴァ]]([[イスラム・カリモフ]]元[[ウズベキスタン]]大統領の長女、ウズベク外務次官など) - イムーブル・ワルテール ([[:fr:Immeubles Walter|Immeubles Walter]]) に居住していた<!--出典としては、https://www.challenges.fr/immobilier/l-incroyable-appartement-de-la-fille-karimov-mis-aux-encheres_459067--><br />
*[[徳川昭武]] - フランス留学中慶応3年5月(1867年)から3か月間、ペルゴレーズ街(Rue Pergolèse)53番地のロシア貴族邸を借り住居とした<ref>[http://www.city.matsudo.chiba.jp/tojo/rekishikan_shoukai/rekishi/nenpyou/1837-1869.html 徳川慶喜・昭武関係年表]松戸市教育委員会 生涯学習部 戸定歴史館</ref>。<br />
*[[栗本鋤雲]] - 幕府派遣公使として慶応3年9月(1867年)から9か月間滞仏した際、シャルグラン街(rue Chalgrin)30番地に居住した<ref>[https://ci.nii.ac.jp/els/contents110008425418.pdf?id=ART0009676463 栗本鋤雲の函館]井田進也、大妻比較文化 : 大妻女子大学比較文化学部紀要 12, 146-139, 2011</ref>。<br />
<br />
== 著名な出身者 ==<br />
=== 政治 ===<br />
* [[サー]]・{{仮リンク|エドワード・スピアーズ|en|Edward Spears}}(将軍・軍人) - パリ16区生まれ。[[第一次世界大戦]]及び、[[第二次世界大戦]]中は[[ウィンストン・チャーチル]]から英仏政府連絡員としてパリに派遣されていた。<br />
* [[ピエール・ブロソレット]]([[レジスタンス活動]]家) - [[オートゥイユ]]のミケランジュ通り ([[:fr:Rue Michel-Ange|Rue Michel-Ange]]) 77番地bis生まれ<!--当通りフランス語版参照--><br />
* [[ローラン・ファビウス]]([[フランスの首相|首相]])<br />
* [[ベルナデット・シラク]]([[ジャック・シラク]]の妻)<br />
* [[フレデリック・ミッテラン]](文化相、テレビ司会者、俳優、[[フランソワ・ミッテラン]]の甥)<br />
* [[ロベール・バダンテール]](法相)<br />
<!--=== 財界 ===--><br />
<br />
=== 学者 ===<br />
* [[エリック・オルセナ]](経済学者・作家)<br />
* [[フランソワーズ・ドルト]](女性精神分析家)<br />
* [[レジス・ドゥブレ]](哲学者)<br />
<br />
=== 文化 ===<br />
* [[マルセル・プルースト]](小説家、『[[失われた時を求めて]]』) - 16区[[オートゥイユ]]界隈生まれ。8区マルゼルブ大通り9番地、オスマン大通り102番地に居住<!--フランス語版 102 Boulevard Haussmann, Paris, France 参照-->。晩年1919-22年の間亡くなるまで、[[プラーク]]が掲げられている16区ラミラル=アムラン通り ([[:fr:Rue de l'Amiral-Hamelin|Rue de l'Amiral-Hamelin]]) 44番地に居住。<!--プラークは、File:Plaque Marcel Proust 44 rue de l'Amiral-Hamelin.jpg 参照。--><br />
* [[ジャン=ポール・サルトル]](哲学者、小説家) - 16区で生まれ育ち、[[シモーヌ・ド・ボーヴォワール]]と6区[[サン=ジェルマン=デ=プレ|サンジェルマン・デ・プレ]]界隈に居住。<!--当人記事より--><br />
* [[ルイ・アラゴン]](小説家、批評家)<br />
* [[クロード・サロート]](女性ジャーナリスト) - [[サン=ルイ島]]に居住。<br />
<br />
=== 芸能 ===<br />
* [[カトリーヌ・ドヌーヴ]]、[[フランソワーズ・ドルレアック]](女優姉妹) - 両人とも出生は[[17区 (パリ)|17区]]内のクリニック<!--フランス語版17区シテ・デ・フルール参照-->、育ちは{{仮リンク|ミュラ大通り|fr|Boulevard Murat}}界隈<!--Ses interviews / Presse 1960-79 / L'Express 1966 (http://toutsurdeneuve.free.fr/Francais/Pages/Interviews_Presse6079/Express66.htm) , フランス語版 fr:Boulevard Muratより-->。ドヌーヴは16区ラ・ミュエット西側のイムーブル・ワルテール ([[:fr:Immeubles Walter|Immeubles Walter]]) に居住<!--出典としては、http://www.lepoint.fr/societe/le-prince-des-escroqueries-a-la-tva-cyril-astruc-s-est-volatilise-22-06-2017-2137320_23.php--><br />
* [[ジャック・フランソワ]](男優)<br />
* [[フランソワ・ベルレアン]](男優)<br />
* [[ブリジット・バルドー]](女優)<!--http://m.elle.co.jp/culture/celebgossip/Brigitte-Bardot-May-Quit-France-Over-Elephants-13_0108--> - 出生は[[15区 (パリ)|15区]]内<br />
* [[イザベル・ユペール]](女優)<br />
* [[クリストフ・ドゥシャヴァンヌ]](番組司会者)<!--フランスの"みのもんた"というところの人--><br />
* [[エマニュエル・セニエ]](女優)<br />
* [[ケブ・アダム]](男優・コメディアン)<br />
<!--=== スポーツ ===--><br />
<br />
=== その他 ===<br />
* [[ジャンヌ・ドゥメルグ]]([[ガストン・ドゥメルグ]]の妻)<br />
<br />
== その他ゆかりのある人 ==<br />
<!-- en:Passy 16:52, 14 September 2016 Aklein62、fr:Passy (Seine) 15 juillet 2016 à 00:07 Kaoh などを参照--><br />
=== 王侯貴族・軍人 ===<br />
* [[マリー・マンチーニ]]([[マザリネット]]の一人) - [[シャイヨ宮|シャイヨ修道院]] ([[:fr:Couvent des Visitandines de Chaillot|Couvent des Visitandines de Chaillot]]) に身を寄せたりした。<!--fr:Couvent des Visitandines de Chaillot 等を参照--><br />
* [[ルイーズ・ド・ラ・ヴァリエール]]([[ルイ14世 (フランス王)|ルイ14世]]の[[公妾]]) - シャイヨ修道院に2度駆け込み、身を寄せた。<!--当人記事や、fr:Couvent des Visitandines de Chaillot 等を参照--><br />
* [[マリー・ヴィクトワール・ド・ノアイユ|トゥールーズ伯爵夫人マリー・ヴィクトワール・ド・ノアイユ]] ([[ルイーズ・マリー・ド・ブルボン=パンティエーヴル|マドモワゼル・ド・パンティエーヴル]]の祖母)<!--ドイツ語版 Marie-Victoire de Noailles 00:14, 18. Okt. 2015 Alan の版より--><br />
* [[シーモア・フレミング]](ワースリー第七代准男爵夫人シーモア・ドロシー・フレミング) - [[コモン・ロー]]の[[姦通罪]]に関連して英国で知られる。<br />
* [[アレクサンドル・ル・リシュ・ド・ラ・プーピリニエール]](18世紀の音楽の[[パトロン]]新興貴族、徴税請負人)<br />
* [[ルイ=グレグワール・デシャン・デトゥルネル]]([[フランス革命]]期の政治家)<br />
* [[シャルル=エドアール・ジェニングス・キルメーヌ]](フランス革命期のアイルランド人[[志願制度|志願軍人]])<br />
* {{仮リンク|セプティム・ド・ファイ (トゥール=モブール伯)|fr|Septime de Faÿ de La Tour-Maubourg}}(貴族・外交官、[[7月王政|フランス王国]]駐ローマ大使 1831-1845年) - パッシー生まれ<br />
* {{仮リンク|フェリックス・アントワーヌ・アペール|fr|Félix Antoine Appert}}(軍人・陸軍中将、[[フランス第三共和政|フランス共和国]]駐帝政ロシア大使 1882年- ) - [[露仏同盟]]の下準備期間の大使。1891年パッシーで死去<br />
* [[ダイアナ (プリンセス・オブ・ウェールズ)|ダイアナ妃]](元イギリス皇太子妃) - 1997年、[[8区 (パリ)|8区]]モンテーニュ大通り至近、8区と16区境界上のアルマ広場([[:fr:Place de l'Alma|Place de l'Alma]])下のトンネルで亡くなる。<br />
<br />
=== 政治 ===<br />
* [[ジャン=フレデリック・ポソーズ]](政治家) - パッシーに居住<br />
* [[ジョゼフ・マリー・ポルタリス]](政治家・マルティニャック内閣外務大臣、[[アルマン・エマニュエル・ド・ヴィニュロー・デュ・プレシ|リシュリュー]]内閣司法次官) - パッシーで死去<br />
* [[ピエール・ジョゼフ・プルードン]]([[社会主義]]者・[[アナキズム|無政府主義指導者]]) - 1865年、パッシー通り12番地で死去。[[プラーク]]が掲げられている。<!--プラークは、File:Plaque Proudhon rue de Passy.jpg 参照--><br />
* [[ジャン・ムーラン]]([[レジスタンス]]指導者、官僚)<!--16区内のゲシュタポ本部に捕われていただけかもしれないので、「居住者」から移動(2016,10.20)--><br />
* [[ジャン・ミュルトン]](レジスタンス活動家、対独協力者)<br />
* [[ポルフィリオ・ルビロサ]]([[ドミニカ共和国]]の外交官、F1ドライバー、[[セレブリティ]]、[[ソーシャライト]]) - [[ブローニュの森]]で激突死<br />
* [[エドゥアール・フィリップ]](現フランス首相) - 16区内の[[リセ]]・ジャンソン=ドゥ=サイイに通った<br />
* [[ニコラ・ユロ]](現[[エコロジー・持続可能開発・エネルギー省|エコロジー移行・連帯省]]大臣、環境ジャーナリスト) - 少年時代、パッシー駅の東側スクアール・アルボニ ([[:fr:Square Alboni|Square Alboni]]) に居住し、同16区内のカトリック系私立リセ・サン=ジャン=ド=パッシー ([[:fr:Lycée Saint-Jean-de-Passy|fr]]) の小学校に通っていた。中学校から[[ニース]]のコレージュ・サッセルノ (collège Sasserno à Nice) を経て[[パリ大学|バリ第6大学]]へ。<!--当人フランス語版、スクアール・アルボニフランス語版より--><br />
<br />
=== 財界 ===<br />
* [[ジュール・ポール・バンジャマン・ドゥルセール]](銀行家、実業家、[[博物学者]]) - 1812年、プレジダン=ケネディ大通り ([[:fr:Avenue du Président-Kennedy|Avenue du Président-Kennedy]]) 沿いに初めて[[砂糖]]の精錬工場を設けた。<!--当通りフランス語版、当人日本語版等より--><br />
* [[アントワーヌ・ブルートス・ムニエ]]([[ショコラ・ムニエ]]創業者) - パッシーで死去<br />
<br />
=== 文化 ===<br />
* [[ジャック・エミール・ブランシュ]](画家)<br />
* {{仮リンク|アンヌ=ルイーズ・ボイヴァン・ダドンクール・ブリヨン・ド・ジュイ|fr|Anne Louise Boyvin d'Hardancourt Brillon de Jouy}}([[フォルテピアノ|フォルテピアニスト]]・作曲家) - [[ベンジャミン・フランクリン]]のパッシー滞在時代の友人。米独立の際に曲を起草<br />
* [[カルロ・マロチェッティ]](彫刻家) - パッシーで死去<br />
* [[ベルト・モリゾ]](画家) - パッシーで死去<br />
* [[ポリーヌ・ドラクロワ・ガニエ]](画家) - パッシー生まれ<br />
* [[カロリーヌ・ブランシュ]](オペラ歌手) - パッシーで死去<br />
* [[ジャック・ゴデ]](スポーツジャーナリスト、[[レキップ]]創業者、[[ツール・ド・フランス]]2代目ディレクター) - [[パッシー墓地]]に埋葬<!--http://www.findagrave.com/cgi-bin/fg.cgi?page=gr&GRid=13707209--><br />
* [[ポール・ド・コック]](大衆小説家) - パッシー生まれ<br />
* [[マルク・ボナシェ]](オペラ歌手) - パッシーで死去<br />
* [[ピエール・ブルトノー]](フランスの著名な医師)<br />
* [[ウジェーヌ・デメ]](フランスの著名な音楽編集者)<br />
* [[ジョエル・ロブション]]([[フランス料理]]人) - 対岸15区の[[:fr:Hôtel Novotel Paris Tour Eiffel|ホテル日航]]料理長から{{仮リンク|ロンシャン通り|fr|Rue de Longchamp}}32番地に1981年「Restaurant Jamin」を独立開店した。<!--主に当通りフランス語版より--><br />
<br />
=== 芸能 ===<br />
* [[フィリップ・ノワレ]](俳優、[[舞台俳優]] ([[コメディ]]俳優)) - 16区内の名門リセ・ジャンソン=ド=サイイに通っていたが、[[バカロレア]]に3度落第した。<!--当人日本語版フランス語版、、fr:Catégorie:Élève du lycée Janson-de-Sailly など参照--><br />
* [[マリオン・コティヤール]](女優) - 16区内のリセ・モリエールに通っていた。<br />
<br />
=== その他 ===<br />
* [[セシリア・アティヤス]]([[ニコラ・サルコジ]]元フランス大統領の前妻) - 16区の私立アンスティチュ・ド・ラソンプション ([[:fr:Institut de l'Assomption|fr]]) に通っていた。隣接する[[ブローニュ=ビヤンクール]]出身。 <br />
* [[ジュリエット・ドルエ]] ([[ビクトル・ユーゴー]]の愛人) - 1833年から亡くなる1883年まで{{仮リンク|ラ・フォンテーヌ通り|fr|Rue Jean-de-La-Fontaine (Paris)}}57番地に居住し死去<!--当人、ラ・フォンテーヌ通りフランス語版より-->。また、ユーゴーが晩年1878年から亡くなる1885年の間に居住した16区ヴィクトル=ユーゴー大通り124番地(旧50番地)の[[リュジニャン家|リュジニャン公妃]]館にも居住した。但し、リュジニャン館自体は1907年に取り壊された。<!--ユーゴー大通り、ユーゴー当人フランス語版参照--><br />
<br />
== 16区を舞台にした作品 ==<br />
<!--=== 絵画 ===<br />
* [[画家]] 『邦題』- {{lang|fr|''''}} (XXXX年)<br />
* [[画家]] - {{lang|fr|''''}} (XXXX年)<br />
=== 音楽 ===<br />
* [[作者]] 『邦題』- {{lang|fr|''''}} (XXXX年)<br />
* [[作者]] - {{lang|fr|''''}} (XXXX年)<br />
=== 小説・詩 ===<br />
* [[著者]] 『邦題』- {{lang|fr|''''}} (XXXX年)<br />
* [[著者]] - {{lang|fr|''''}} (XXXX年)<br />
=== 漫画 ===<br />
* [[著者]] 『邦題』- {{lang|fr|''''}} (XXXX年)<br />
* [[著者]] - {{lang|fr|''''}} (XXXX年)--><br />
=== 映画 ===<br />
* [[エルンスト・ルビッチ]] 『[[天使 (1937年の映画)|天使]]』 - {{lang|fr|''Angel''}} (1937年)<br />
** [[マレーネ・ディートリッヒ]]ほか主演映画。亡命ロシア貴族の生活をパッシー・トゥール通り([[:fr:Rue de la Tour|Rue de la Tour]])の居宅を舞台に描いた作品。日本公開は1946年。<br />
* {{仮リンク|ジャック・ポワトルノー|fr|Jacques Poitrenaud}}、[[ミシェル・ボワロン]]、{{仮リンク|クロード・バルマ|fr|Claude Barma}}、{{仮リンク|マルク・アレグレ|fr|Marc Allégret}} 『パリジェンヌ』 - {{lang|fr|''Les Parisiennes''}} (1962年)<br />
** {{仮リンク|ダニー・サヴァル|fr|Dany Saval}}、[[ダニー・ロバン]]、[[フランソワーズ・アルヌール]]、[[カトリーヌ・ドヌーヴ]]ら各主演4話のオムニバス映画。ダニー・ロバンが16区のレジャーマダムを演じている。<br />
* [[ジェラール・ウーリー]] 『[[大進撃]]』 - {{lang|fr|''La Grande Vadrouille''}} (1966年)<br />
** [[ルイ・ド・フュネス]]ほか主演映画。16区の[[贋造博物館]]が舞台の一つとなっている。日本公開は1967年。<br />
* [[ベルナルド・ベルトルッチ]] 『[[ラストタンゴ・イン・パリ]]』 - {{lang|fr|''Le Dernier Tango à Paris''}} (1972年)<br />
** [[マーロン・ブランド]]、[[マリア・シュナイダー]]主演映画。パッシーの[[ビル・アケム橋|ビラケム橋]]など16区が舞台となっている。日本公開は1973年。<br />
* {{仮リンク|イヴ・ロベール|fr|Yves Robert (cinéaste)}} 『象はよく人を騙す(仮邦題)』 - {{lang|fr|''Un éléphant ça trompe énormément''}} (1976年)<br />
** 16区ではリセ・ジャン=ド=ラ=フォンテーヌ([[:fr:Lycée Jean-de-La-Fontaine (Paris)|fr]])などが舞台([[:fr:Un éléphant ça trompe énormément|フランス語版]]より)。日本未公開作品。<br />
* {{仮リンク|イルマル・ラーグ|fr|Ilmar Raag}} 『クロワッサンで朝食を』 - {{lang|fr|''Une Estonienne à Paris''}} (2012年)<br />
** [[ジャンヌ・モロー]]が16区の(気難しい)高級マダムを演じている。日本公開は2013年。<br />
<!--=== ドラマ ===<br />
* テレビ<br />
** [[監督]] 『邦題』- {{lang|fr|''''}} (XXXX年)<br />
** [[監督]] - {{lang|fr|''''}} (XXXX年)<br />
* ラジオ<br />
=== アニメ ===<br />
* [[監督]] 『邦題』- {{lang|fr|''''}} (XXXX年)<br />
* [[監督]] - {{lang|fr|''''}} (XXXX年)<br />
=== 演劇 ===<br />
演劇について、その名称を箇条書きします(年代順)。<br />
* [[監督]] 『邦題』- {{lang|fr|''''}} (XXXX年)<br />
* [[監督]] - {{lang|fr|''''}} (XXXX年)<br />
=== ゲーム ===<br />
ゲームについて、その名称を箇条書きします(年代順)。<br />
* [[製作会社]] 『邦題』- {{lang|fr|''''}} (XXXX年)<br />
* [[製作会社]] - {{lang|fr|''''}} (XXXX年)<br />
=== その他 ===<br />
<br />
== その他 ==<br />
上記の節にあてはまらない事項について、具体的に記述します。<br />
--><br />
<br />
== 脚注 ==<br />
{{脚注ヘルプ}}<br />
<br />
{{Reflist|2}}<br />
<br />
== 参考文献 ==<br />
* [[ミシュラン|MICHELIN]]編、『{{lang|fr|''Plan Atlas 56 – Paris du Nord au Sud – ''}}』、ISBN 978-2-06-710591-1、MICHELIN、2007年 (仏語。パリ市内の詳細地図。)<br />
<br />
== 関連項目 ==<br />
* [[パリ]]<br />
* [[パリの行政区]]<br />
* 高級住宅街<br />
** [[ケンジントン・アンド・チェルシー王立区|ケンジントン&チェルシー王立区]]<br />
** [[アッパー・イースト・サイド]]<br />
* [[:en:Neuilly-Auteuil-Passy|Neuilly-Auteuil-Passy]](英語版)<!--フランス語版にはない、デュマの「モンテクリスト伯」の話といい、英語版などの独特の記述ゆえ、リンク先に入れました。但し、当該記事には出典が出ていません。--><br />
** [[:fr:Les Inconnus|Les Inconnus]] - フランスの人気お笑いトリオ。『Auteuil Neuilly Passy (Rap B.C.B.G.)』(1991年)で、''"オートゥイユ ヌイイ パッシー、コレが深窓のお坊ちゃまの[[ゲットー]]"''と[[シニカル]]に[[ウイット]]たっぷりに表現した。<br />
<br />
== 外部リンク ==<br />
{{Commonscat|Paris XVIe arrondissement|パリ・16区}}<br />
* [http://www.paris.fr/portail/accueil/Portal.lut?page_id=1 パリ市役所公式サイト] (仏語・英語・スペイン語)<br />
* [http://www.mairie16.paris.fr/mairie16/jsp/site/Portal.jsp パリ・第16区役所公式サイト] (仏語)<br />
* [http://www.paris.fr/portail/Parcs/Portal.lut?page_id=6567 ブローニュの森の紹介 (パリ市役所公式サイト内)] (仏語)<br />
<br />
{{DEFAULTSORT:はり16く}}<br />
{{Geographic Location<br />
|Centre = パリ16区<br />
|North = [[ヌイイ=シュル=セーヌ]]<br />
|Northeast = [[パリ17区]]<br />[[パリ8区]]<br />
|East = [[パリ7区]]<br />
|Southeast = [[パリ15区]]<br />
|South = [[ブローニュ=ビヤンクール]]<br />
|Southwest = [[サン=クルー]]<br />
|West = [[シュレンヌ]]<br />
|Northwest = [[ピュトー]]<br />
|image = }}<br />
{{パリとその周辺}}<br />
{{France-stub}}<br />
<br />
[[Category:パリの行政区| 16]]<br />
[[Category:パリ16区|*]]</div>
103.226.44.9
ロレアル
2018-07-27T01:25:54Z
<p>103.226.44.9: /* 関連項目 */追加</p>
<hr />
<div>{{基礎情報 会社<br />
|社名 = ロレアル<br />
|英文社名 = L'Oréal S.A.<br />
|ロゴ = [[Image:L'Oréal logo.svg|150px|企業ロゴ]]<br />
|種類 = [[株式会社]]<br />
|市場情報 ={{Euronext|OR}}<br />
|略称 =<br />
|本社所在地 = [[クリシー]]、[[オー=ド=セーヌ県]]<br />
|国籍 = {{FRA}}<br />
|設立 = [[1909年]]<br />
|業種 = 化学<br />
|統一金融機関コード =<br />
|SWIFTコード =<br />
|事業内容 = [[化粧品]]<br />
|代表者 =<br />
|資本金 =<br />
|売上高 =3兆1,200億円(2014年)<br />
|総資産 =<br />
|従業員数 = 77,500名<br />
|決算期 =12月末<br />
|主要株主 =<br />
|主要子会社 =<br />
|関係する人物 = Eugène Schueller<br/>François Dalle<br/>Graham Hedworth<br/>Lindsay Owen-Jones<br />
|外部リンク = [http://www.loreal.com www.loreal.com]<br />
|特記事項 =<br />
|郵便番号 =<br />
}}<br />
<br />
'''ロレアル'''({{lang-fr-short|L'Oréal S.A.}}) は、[[フランス]]の[[クリシー]]に本部を置く世界最大の[[化粧品]]会社である。特に、[[化粧品]]、[[ヘアカラー]]、ヘアケア、[[スキンケア]]、日焼け防止、[[香水]]の分野を中心に発展した。また、皮膚病学や[[調剤]]の分野の活動も盛んである。[[ユーロネクスト]]上場企業({{Euronext|OR}})。<br />
<br />
ロレアルは、ヘアカラー分野からその事業を始めたが、すぐに美容の他の分野にも進出した。現在、ロレアルからは50以上の[[ブランド]]が市販されており、ヘアカラーのほかに[[パーマ]]、スタイリング、ボディケア、スキンケア、洗顔、[[香水]]など美容のあらゆる分野においてたくさんの製品を世に出している。またロレアル製品はあらゆる[[流通]]経路を通して販売されており、ヘアサロン、香水売り場から、[[スーパーマーケット]]、[[ドラッグストア]]、[[薬局]]、[[通信販売]]と様々である。<br />
<br />
== 沿革 ==<br />
[[1907年]]、[[フランス人]]の[[化学者]][[ウジェーヌ・シュエレール]]が画期的なヘアダイの開発に成功した。[[パリ|パリジェンヌ]]の間にあって、頭髪のカラーリングはすでにファッションの一つと見なされていたが、それまでのものは強い薬品を使用し、危険でありなおかつ仕上がりも不安定だった。彼が''Auréole''と名付けた新製品は安全性が高く、これを当時のヘアサロンに売り歩いたのがロレアルの歴史の始まりであったといえる。<br />
<br />
[[1909年]]、シュエレールは後のロレアルの原型となる「フランス無害染毛株式会社('''Société Française de Teintures Inoffensives pour Cheveux''')」を設立、当時より会社の基本理念は「研究開発と美しさのための革新」であった。<br />
<br />
[[20世紀]]初期、シュエレールは''La Cagoule''と呼ばれる暴力的な[[反共主義|反共]][[ファシスト]]集団に金銭的な援助を行ったり、このグループの会議にロレアル本部を提供したりしていた。[[第二次世界大戦|第二次大戦]]後にはこのグループのメンバーを役員として雇用もしている。<br />
<br />
[[1920年]]時点で、小さな会社でありながらすでに3人の[[化学者]]が従業員として勤務していたが、[[1950年]]までには研究チームは100強にのぼり、[[1984年]]までにはその数は1000に達し、現在は2000近くの研究チームがある。<br />
<br />
[[1973年]]には[[製薬]]事業への参入を見据えてサンテラボ社('''Synthélabo''')を買収したが、サンテラボ社は1999年に'''Sanofi'''社と合併、2004年にはアベンティス社と合併、現在の[[サノフィ・アベンティス|サノフィ]]社となっている。<br />
<br />
[[2006年]]3月17日には、両社の合意によって、倫理的な企業理念を掲げて美容関連事業を行っている[[ザ・ボディショップ]]の[[株式公開買い付け]]を6億5,200万[[スターリング・ポンド|ポンド]]で行った。また、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]では、[[ナノテク]]分野の最大規模の[[特許権]]者でもある。<br />
<br />
=== 日本ロレアルの沿革 ===<br />
* [[1963年]] - ロレアル社と株式会社小林コーセー(現 株式会社[[コーセー]])が提携。日仏合弁事業としてサロン向け製品の開発をスタート('''“ロレコス”'''設立)。<br />
* [[1976年]] - 個人消費者向け製品を日本に導入。<br />
* [[1978年]] - ラグジュアリ・プロダクツ部門が日本に進出。ランコムの販売を開始。<br />
* [[1983年]] - 東京に研究開発施設を開設。ヘレナ・ルビンスタインがラグジュアリ・プロダクツ部門に加入。[[御殿場市|御殿場]]工場設立。<br />
* [[1990年]] - [[川崎市]]の[[かながわサイエンスパーク]]にヘアケアに関する研究開発施設を開設。<br />
* [[1995年]] - [[つくば市]]に、本国[[フランス]]以外では初めての基礎研究所を設立。<br />
* [[1996年]][[7月1日]] - '''日本ロレアル株式会社'''設立。<br />
* [[1997年]]7月1日 - 別法人となっていた事業を統合。<br />
* [[1999年]]10月 - [[メイベリン]]が日本ロレアルに加入。<br />
* [[2000年]] - 株式会社[[植村秀|シュウウエムラ化粧品]]に資本参加を行い、提携を締結。<br />
* [[2004年]] - つくば市の基礎研究所を「かながわサイエンスパーク」に統合し、フランス以外で初めて基礎・応用・開発の全研究段階を備えた新しい研究開発体制を整える。<br />
<br />
== 経営 ==<br />
=== 企業統治 ===<br />
==== 取締役会 ====<br />
現在ロレアル社の取締役会は、Francisco Basco, Werner Bauer, Liliane Bettencourt, Peter Brabeck-Letmathe, Jean-Louis Dumas, Xavier Fontanet, Bernard Kasriel, Marc Lacharrière, Françoise Meyers, Jean-Pierre Meyers, Lindsay Owen-Jones, Franck Riboud, Louis Schweitzerで構成されている。<br />
<br />
==== 経営委員会 ====<br />
* 最高経営責任者:Jean-Paul Agon<br />
* 取締役会長:Sir Lindsay Owen-Jones<br />
* 戦略的事業開発部門上級副社長:Béatrice Dautresme<br />
* 研究開発部門上級副社長:Jean-François Grollier<br />
* 生産部門上級副社長:Marcel Lafforgue<br />
* 経営部門副社長:Christian Mulliez<br />
* プロフェッショナル用製品部門社長:Jean-Jacques Lebel<br />
* 個人消費者用製品部門社長:Patrick Rabain<br />
* 人事部門上級副社長:Geoff Skingsley<br />
* ラグジュアリー・プロダクツ部門社長:Marc Menesguen<br />
<br />
=== 研究開発 ===<br />
ロレアルは、世界各所に5つの[[研究開発]]センターを構えている。所在地は以下の通り。<br />
* オーネー([[フランス]])<br />
* Chevilly([[フランス]])<br />
* クラーク([[アメリカ合衆国|アメリカ]]、[[ニュージャージー州]])<br />
* [[川崎市]]([[神奈川県]])<br />
* [[上海市|上海]](中国)<br />
<br />
== 株主 ==<br />
* 株式保有の内訳: ベッタンクール家(Bettencourt) 30.0%、[[ネスレ]] 28.9%、[[自己株式]] 3.7%。残り37.4%は[[公開株式]]。<br />
* 議決権の内訳:ベッタンクール家 31.2%、[[ネスレ]] 30.0%、残り38.9%が一般[[株主]]。<br />
<br />
== ブランド ==<br />
ロレアルはいくつものブランドをもっており、ロレアルの名を前面に出さず、各ブランド名で勝負する戦略を取っている。ブランドは大きく分けて、プロフェッショナル向け、高級志向、コンシューマ向け、アクティブコスメティクスに分けられている。<br />
<br />
{| class="wikitable" style="text-align:center"<br />
|-<br />
! colspan="4" |ロレアルグループのブランド<br />
|-<br />
|プロフェッショナル向け<br/>(Professional Product Division)||高級志向<br/>(Luxury Products Division)||コンシューマ向け<br/>(Consumer Product Division) ||アクティブコスメティクス<br/>(Active Cosmetics Division)<br />
|-<br />
|<br />
* [[ロレアル プロフェッショナル]]<br />
* [[ケラスターゼ]]<br />
* [[植村秀|アトリエ メイド by シュウ ウエムラ]]<br />
* [[アレクサンドル ドゥ パリ]]<br />
* L'Oréal Technique<br />
* Matrix<br />
* Mizani<br />
* [[w:Redken|Redken]]<br />
<br />
* [[SHU UEMURA ART OF HAIR]]<br />
<br />
|<br />
<br />
* [[ランコム]]<br />
* [[ヘレナ ルビンシュタイン]]<br />
* [[キールズ]]([[w:Kiehl's|Kiehl's]])<br />
* [[植村秀|シュウ ウエムラ]]<br />
* [[ジョルジオ アルマーニ コスメティックス]]<br />
* [[イヴ・サンローラン]]<br />
* [[ディーゼル フレグランス]]<br />
* [[ラルフ ローレン フレグランス]]<br />
* Cacharel<br />
* Guy Laroche<br />
<br />
* Paloma Picasso<br />
* Victor et Rolf parfums<br />
|<br />
* [[メイベリン ニューヨーク]]<br />
* [[ロレアル パリ]]<br />
* Garnier<br />
* SoftSheen-Carson<br />
* [[ザ・ボディショップ]]<br />
<br />
|<br />
* [[ラ ロッシュ ポゼ]]<br />
* [[スキンシューティカルズ]]<br />
* Dermablend<br />
* Vichy Laboratoires<br />
* Innéov<br />
* Ombrelle<br />
* Vichy<br />
* Roger&Gallet<br />
|-<br />
|}<br />
<small>※英字は日本未展開ブランド</small><br />
<br />
== イメージモデル ==<br />
=== 日本 ===<br />
*[[川原亜矢子]] <br />
*[[黒木メイサ]]<br />
<br />
=== 日本以外 ===<br />
*[[ミラ・ジョボビッチ]]<br />
*[[レティシア・カスタ]]<br />
*[[クラウディア・シファー]]<br />
*[[アンディ・マクダウェル]]<br />
*[[ペネロペ・クルス]]<br />
*[[ビヨンセ・ノウルズ]]<br />
*[[川原亜矢子]]<br />
*[[エヴァ・ロンゴリア・パーカー]]<br />
*[[ケリー・ワシントン]]<br />
*[[スカーレット・ヨハンソン]]<br />
*[[ドウツェン・クロース]]<br />
*[[アイシュワリヤー・ラーイ]]<br />
*[[フリーダ・ピントー]]<br />
<br />
== 関連項目 ==<br />
* [[メイベリン]]<br />
* [[パブリシス]]<br />
* [[ロレアル-ユネスコ女性科学者 日本奨励賞]]<br />
* [[サノフィ]](旧サノフィ・サンテラボ→サノフィ・アベンティス) - 世界有数の大手医薬メーカーで母体企業の一社たるサンテラボ社は同ロレアル社により分離独立した子会社であった。<br />
* [[ガルデルマ]] - [[ネスレ]]と同ロレアル社との[[合弁]]による製薬会社。<br />
* [[植村秀]] - 同ロレアル社の日本法人により買収・統合した「シュウウエムラ化粧品」の創業・開発者。<br />
* [[リリアンヌ・ベタンクール]] - ロレアル創業者の娘、2代目。<br />
<br />
== 外部リンク ==<br />
* [http://www.nihon-loreal.co.jp/_ja/_jp/index.aspx 日本ロレアル]<br />
* [http://www.loreal.com ロレアル]{{en icon}}<br />
* [http://www.the-body-shop.co.jp/top.html ザ・ボディショップ社]<br />
* [http://www.shu-uemura.co.jp/index.html shu uemura(公式HP)]<br />
* [http://www.hairdressers-against-aids.jp ロレアル 「美容師とともに行う HIV/エイズ予防教育活動」 HAIRDRESSERS AGAINST AIDS ]<br />
* [http://www.lancome.jp/ ランコム公式サイト]<br />
<br />
{{CAC 40}}<br />
{{EURO STOXX 50}}<br />
{{STOXX Europe}}<br />
{{company-stub}}<br />
{{DEFAULTSORT:ろれある}}<br />
[[Category:フランスの化粧品メーカー・ブランド]]<br />
[[Category:フランスの多国籍企業]]<br />
[[Category:ユーロネクスト上場企業]]<br />
[[Category:CAC 40]]<br />
[[Category:1909年設立の企業]]</div>
103.226.44.9
パリの解放
2018-06-12T04:49:32Z
<p>103.226.44.9: /* パリ防衛軍の降伏 */細部補正</p>
<hr />
<div>{{Pathnav|第二次世界大戦|ノルマンディー上陸作戦|frame=1}}<br />
{{Battlebox<br />
|battle_name=パリの解放 <br/> Libération de Paris<br />
|campaign=ノルマンディー上陸作戦<br />
|colour_scheme=background:#fca<br />
|image=[[ファイル:Paris1944.jpg|300px]]<br />
|caption=解放後、[[シャンゼリゼ通り]]を行進する自由フランス軍第2機甲師団の車輌と集まったパリ市民、1944年8月25日 手前のプラカードには「ド・ゴール万歳」、奥のプラカードには「ド・ゴール政権」と書かれている<br />
|conflict=[[第二次世界大戦]]([[西部戦線 (第二次世界大戦)|西部戦線]])<br />
|date=1944年8月15日 - 8月25日<br />
|place={{FRA}} [[パリ]]<br />
|result=連合軍の勝利<br />
|combatant1=[[ファイル:Flag of Free France (1940-1944).svg|border|24px]] [[自由フランス軍]]<br />[[ファイル:Flag of Free France (1940-1944).svg|border|24px]] [[:en:French Forces of the Interior|フランス国内軍]]<br />{{USA1912}}<br />{{Flagicon|ESP1931}} [[スペイン第二共和政|スペイン共和国]]亡命者部隊<br />
|combatant2={{DEU1935}}<br />[[ファイル:Flag of the collaborationist French Militia.svg|border|20px]] [[フランス民兵団]]<br />
|commander1=[[ファイル:Flag of Free France (1940-1944).svg|border|24px]] [[フィリップ・ルクレール]]<br />[[ファイル:Flag of Free France (1940-1944).svg|border|24px]] [[:fr:Henri Rol-Tanguy|アンリ・ロル=タンギー]]<br />[[ファイル:Flag of Free France (1940-1944).svg|border|24px]] [[ジャック・シャバン=デルマス]]<br />{{Flagicon|USA1912}} [[:en:Leonard T. Gerow|レナード・T・ジロー]]<br />
|commander2={{Flagicon|DEU1935}} [[ディートリヒ・フォン・コルティッツ]][[File:White flag icon.svg|15px|降伏]]<br />
|strength1=[[第2機甲旅団 (フランス陸軍)|フランス第2機甲師団]]<br />[[アメリカ陸軍]][[第1軍 (アメリカ軍)|第1軍]][[第5軍団 (アメリカ軍)|第5軍団]]<br />フランス国内軍<br />
|strength2=[[ドイツ国防軍]]{{仮リンク|第325保安師団 (ドイツ国防軍)|en|325th Security Division (Wehrmacht)|label=第325保安師団}}など<br />
|casualties1=戦死 1,630<ref>[http://gaminsdulux.fr/ce2cm1/histoire/lib-paris.pdf Liberation de Paris]</ref><br />
|casualties2=戦死 3,200 捕虜 12,800<ref>[http://gaminsdulux.fr/ce2cm1/histoire/lib-paris.pdf Liberation de Paris]</ref><br />
}}<br />
[[第二次世界大戦]]における'''パリの解放'''(パリのかいほう、{{lang-fr|Libération de Paris}})とは、[[1944年]][[8月19日]]から[[8月25日]]に行われた戦いである。[[西部戦線 (第二次世界大戦)|西部戦線]]と[[フランス]]の歴史における大きな節目であった。<br />
<br />
== 背景 ==<br />
1944年6月6日に[[ノルマンディー上陸作戦]]が行われて以降、占領者である[[ドイツ軍]]とその傀儡・[[ヴィシー政権]]に対する「フランス国」国内の[[レジスタンス運動]]の動きはさらに活発化した。北アフリカの[[アルジェ]]に位置する[[フランス共和国臨時政府]]は、独自の軍隊である{{仮リンク|フランス解放軍|fr|Armée française de la Libération}}({{lang|fr|Armée française de la Libération}})<ref group="注釈">1943年8月1日に[[自由フランス軍]]と北アフリカのヴィシー政権軍が合併している。</ref>及びレジスタンスの統合組織[[全国抵抗評議会]]({{lang|fr|Conseil National de la Resistance}} CNR)とその傘下の{{仮リンク|フランス国内軍|en|French Forces of the Interior}}({{lang|fr|Forces Françaises de l'Intérieur}} FFI)を支配下に置いていた。しかし全国抵抗評議会は右派から左派までの寄り合い所帯であり、一枚岩の組織ではなかった。<br />
<br />
臨時政府の代表であった[[シャルル・ド・ゴール]]は、戦後における自らの影響力を確保するためには臨時政府による早期の[[パリ]]解放が不可欠であると考えており、全国抵抗評議会に参加している左派勢力主導の解放は望んでいなかった<ref>児島、「ヒトラーの戦い」、262p</ref>。ド・ゴールは[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]軍ヨーロッパ戦域最高司令官[[ドワイト・D・アイゼンハワー]]大将にパリ攻略を急ぐよう何度も要請したが、アイゼンハワーの司令部はドイツ軍の抵抗が強固であると予想されること、占領した際のパリを給養する物資が膨大なものになると予想されること、ヴィシー政府の退陣を待ってフランス国民が臨時政府を受け入れる用意が出来るのが望ましいことなどを理由に、パリを一部部隊で包囲するにとどめる計画であった<ref>児島、「ヒトラーの戦い」、262-263p</ref>。8月19日にはアメリカ軍[[第3軍 (アメリカ軍)|第3軍]]{{仮リンク|第15軍団 (アメリカ陸軍)|en|XV Corps (United States)|label=第15軍団}}{{仮リンク|第79歩兵師団 (アメリカ軍)|en|79th Infantry Division (United States)|label=第79師団}}が[[セーヌ川]]のほとりにある[[イヴリーヌ県]][[マント=ラ=ジョリー]]に到着した。<br />
<br />
ドイツ側では[[総統]][[アドルフ・ヒトラー]]は「パリの失陥はフランスの失陥であり、ドイツの敗勢の象徴とみなされる」とし<ref>児島、「ヒトラーの戦い」、260p</ref>、8月7日に[[ディートリヒ・フォン・コルティッツ]]歩兵大将をパリ防衛司令官に任命した。8月11日にはパリに架かる橋をすべて爆破した上で、最後の一兵まで戦うよう命令を出したが、コルティッツ大将は市内での防衛が無意味であり、パリ外周での防衛に留めるべきと考えた。当時の上官である{{仮リンク|西方軍集団|en|OB West}}[[ギュンター・フォン・クルーゲ]]元帥もこれを承認した<ref>児島、「ヒトラーの戦い」、260-261p</ref>。<br />
<br />
==経緯==<br />
===パリのレジスタンス蜂起===<br />
[[File:USA-E-Supreme-3.jpg|thumb|220px|連合国軍の進軍経路]]<br />
[[File:Bundesarchiv Bild 183-E1210-0201-018, Dietrich v. Choltitz.jpg|thumb|220px|フォン・コルティッツ]]<br />
一方パリでは[[8月15日]]に、[[パリ地下鉄]]、[[フランス国家憲兵隊]]、[[フランスの警察|警察]]が、翌16日には郵便局員が[[ストライキ]]に入った。[[8月18日]]には[[ゼネラル・ストライキ|ゼネスト]]がパリ全域の労働者に広がった。8月19日午前7時、パリ市内のレジスタンスが蜂起を開始した。蜂起を主導したのはフランス国内軍であり、総兵力は2万人であったが、装備は劣悪であった。<br />
<br />
対するパリ防衛司令官コルティッツ大将率いるドイツ軍も2万人の兵力を持っていたが、兵員の大半はパリ市外に出ており、市内にいるのは5~6千人であった<ref name="kojima259">児島「ヒトラーの戦い」、259p</ref>。レジスタンスは12の区役所、郵便局などの施設を占拠して[[フランスの国旗|三色旗]]を掲げ、[[シテ島]]の[[パリ警視庁]]本部では警察官が蜂起してこれに応えた<ref group="注釈">パリ警視庁はこの功績により同年10月12日に[[レジオンドヌール勲章]]に叙されている</ref>が、午後になると装備に優れたドイツ軍の攻勢が開始され、レジスタンスの拠点は徐々に孤立していった。<br />
<br />
コルティッツ大将は翌日の日の出30分後に鎮圧しようとしていたが、午後7時に中立国[[スウェーデン]]の{{仮リンク|ラウル・ノルドリンク|en|Raoul Nordling}}({{lang|sv|Raoul Nordling}})[[総領事]]が死傷者収容のための休戦を提案した。コルティッツ大将はフランス国内軍らレジスタンスは「暴徒」であって休戦の対象となる「[[交戦団体]]」ではないとしたが、戦闘を停止してフランス国内軍を交戦団体扱いし、一部管轄地域を渡すという「諒解」に合意した。休戦期間は当初1時間とされたが、夜には無期限へと変更された<ref name="kojima259"/>。コルティッツ大将はレジスタンスに内部対立があることを知っており、休戦期間を設ければレジスタンスの団結が瓦解すると考えていた<ref>児島「ヒトラーの戦い」、261p</ref>。<br />
<br />
フランス国内軍も休戦に合意したが、翌8月20日午後には一部の兵士がゲリラ的戦闘を再開した。コルティッツ大将はノルドリンク総領事を通じて「攻撃を停止しなければ、パリを空襲し、本職に与えられたパリ破壊命令を最大限に実行する用意がある」と警告した<ref>児島「ヒトラーの戦い」、264p</ref>。ヒトラーもパリの被害を考慮せず、市の内外で戦うべきであると西方軍集団司令官[[ヴァルター・モーデル]]元帥に命令した。フランス国内軍は連合軍の早期到着が必要であると考え、ガロワ少佐とノルドリンクの弟ロルフを中心とする2つの連絡班をアメリカ軍前線に派遣した。<br />
<br />
その間に連合軍はパリ周辺の攻略を行い、8月21日にはパリ南方にある{{仮リンク|ルビーエ|en|Rubelles}}、[[ムラン]]、{{仮リンク|モントロー=シュル=ル=ジャルド|en|Montereau-sur-le-Jard}}へ向かい、最終的にパリ東方にある{{仮リンク|サン (セーヌ=エ=マルヌ県)|en|Saints, Seine-et-Marne|label=サン}}を占領した。そのためモーデル元帥はパリ防衛が不可能であると考え、パリの東と北で防衛する計画を具申した。しかしヒトラーはこれを退け、パリの東ではなくパリで防戦するよう命令した<ref>児島「ヒトラーの戦い」、265p</ref>。<br />
<br />
=== 連合軍のパリ進軍決定 ===<br />
ド・ゴールは8月20日に[[アルジェ]]を発って[[ノルマンディー]]に到着し、アイゼンハワー大将に臨時政府指揮下にある[[第2機甲旅団 (フランス陸軍)|フランス第2機甲師団]]をパリに進軍させるよう要請した。アイゼンハワーは要請を受け入れたものの、時期については明言しなかった。8月21日にド・ゴールはアイゼンハワーに書簡を送り、連合軍のパリ派兵がなければ臨時政府の権限で第2機甲師団をパリに向かわせると声明した。さらに第2機甲師団の[[フィリップ・ルクレール]]少将は独断でパリ派兵を決断し、アメリカ軍には秘密で準備を開始した<ref>児島、「ヒトラーの戦い」、266p</ref>。<br />
<br />
翌8月22日、フランス国内軍が派遣したガロワ少佐の連絡隊が、[[アメリカ陸軍]]の[[オマール・ブラッドレー]]大将がいる{{仮リンク|第12軍集団|en|Twelfth United States Army Group}}司令部に到着し、次の内容を告げた。<br />
<br />
*パリの大部分とすべての橋はフランス国内軍の支配下にある<br />
<br />
*パリ防衛ドイツ軍の主力は退却した<br />
<br />
*ドイツ軍が休戦に応じたのは退却のため<br />
<br />
*コルティッツ大将は形式的に戦闘したら降伏することになっている<br />
<br />
*休戦期限は8月23日正午までになっているが、両軍とも尊重する意思はなく、ドイツ軍は休戦期間終了後にパリを破壊するおそれがある。<br />
<br />
しかしこの情報は事実とは異なっており、ド・ゴールの側近の工作による<ref>児島、「誤算の論理」、213p</ref>完全な嘘であった。ド・ゴールとの交渉でパリ進軍もやむなしと考えはじめたアイゼンハワー大将と第12軍集団のブラッドレー大将はこの情報を信じ、第12軍集団の指揮下にあるアメリカ軍[[第1軍 (アメリカ軍)|第1軍]][[第5軍団 (アメリカ軍)|第5軍団]]を向かわせる事にした。第5軍団にはフランス第2機甲師団も所属しており、そのための配置であった。イギリス軍の[[バーナード・モントゴメリー]]大将にも部隊派遣要請があったが、指揮権の問題でアイゼンハワーと確執があったモントゴメリーはこれを拒否した<ref name="kojima271">児島、「ヒトラーの戦い」、271p</ref>。<br />
<br />
=== パリ進軍開始 ===<br />
第5軍団司令官{{仮リンク|レナード・T・ジロー|en|Leonard T. Gerow}}少将はパリ進撃部隊を2つに分けた。<br />
<br />
;北方部隊進撃経路([[アルジャンタン]]東部{{仮リンク|セー (フランス)|en|Sai, Orne|label=セー}}→[[ランブイエ]]→[[ヴェルサイユ]])<br />
*第2機甲師団主力、第38騎兵中隊の一部、工兵部隊、第76野砲旅団<br />
<br />
;南方部隊進撃経路([[アランソン]]→[[シャルトル]]→[[パレゾー]])<br />
*第2機甲師団の一部、第38騎兵中隊主力、第5軍団司令部、第4歩兵師団 <br />
<br />
[[File:Liberation of Paris 2nd French Armoured Division shoot at German snipers.jpg|thumb|220px|ドイツ軍の狙撃兵に備えるフランス軍第2機甲師団の兵士]]<br />
パリ入城はあくまで第2機甲師団が先に行うことになっていたが、アメリカ軍の貢献も示すために第38騎兵中隊も同行することとなった。両軍は最終目的地で一旦停止し、ドイツ軍の抵抗が軽微である場合のみにパリ市内に入ることと決められた<ref name="kojima271"/>。軍の出発は当初8月22日中に行われる予定であったが、第2機甲師団の集結準備に手間取り、8月23日午前6時30分に進軍が開始された。両軍の進軍はいたってスムーズであり、フランス人による熱狂的な歓迎を受けるのみであった<ref name="kojima272">児島、「ヒトラーの戦い」、272p</ref>。北方部隊の目的地への到着予定時刻は24日午前5時10分、南方部隊は23日午後8時55分であった<ref name="kojima275">児島、「ヒトラーの戦い」、275p</ref>。<br />
<br />
一方パリではフランス国内軍と防衛軍による散発的な戦闘が続いていたが、おおむね休戦は維持されていた。しかし午前11時、コルティッツ大将のもとにヒトラーからパリの防衛、暴動鎮圧を命じた上で「パリは、廃墟以外の姿で敵に渡すべきではない」といういわゆる「パリ廃墟命令」が到着した<ref>児島、「ヒトラーの戦い」、272-273p</ref>。コルティッツはモーデル元帥に命令遂行が不可能であると上申したが、モーデルは総統命令は一部でも実行しなければならないと命令した。<br />
<br />
同日正午すぎ、[[英国放送協会|BBC]]で「パリ解放」の臨時ニュースが流れた。間もなく誤報であると訂正されたが、これは連合軍の進軍を督促するためのフランス国内軍ロンドン本部による工作であった<ref>児島、「ヒトラーの戦い」、274p</ref>。<br />
<br />
=== パリ攻略の障害 ===<br />
[[File:The Campaign in North-west Europe 1944-45 BU133.jpg|thumb|220px|ドイツ軍からの攻撃を避け戦車脇に隠れるパリ市民]]<br />
しかしその頃、北方部隊の進軍はフランス人や新聞記者の歓迎で遅れ、ヴェルサイユの到着予定の23日午後8時55分にランブイエ到着がやっとであると連絡が入った<ref name="kojima275"/>。北方部隊の到着と同じ頃ド・ゴールもランブイエに入り、ルクレール少将と今後の進軍計画について会談した。ルクレールは独自の偵察から、ヴェルサイユに向かうより{{仮リンク|リムール|en|Limours}}の東{{仮リンク|アルバジャン|en|Arpajon}}に向かったほうがパリに向かいやすいと命令を無視する意向を伝え、ド・ゴールもその方針を支持した<ref>児島、「ヒトラーの戦い」、276p</ref>。しかしこのルートは南方部隊の進軍経路を横断する形となっており、8月24日の午前7時頃には南方部隊と交錯して大渋滞を来した<ref>児島、「ヒトラーの戦い」、277p</ref>。その上ルクレール部隊が向かったアルバジャンとパリの間にはドイツ軍の強固な防衛陣地があったため激しい抵抗を受けた。そのため第2機甲師団がパリ進軍期間に出した損害の大半はこの日のものであった。<br />
<br />
またフランス人による激しい歓迎も変わらず、この日の進軍は北方部隊に属する第2機甲師団主力が15[[マイル]]、南方部隊に属する第2機甲師団の一部が12マイルとはなはだ短いものであったが、南方部隊側はパリまで3マイルに迫っていた<ref>児島、「ヒトラーの戦い」、278p</ref>。ジロー少将はルクレールにやる気がないと判断し、第4歩兵師団のパリ入城許可を要請し、了承された。<br />
<br />
しかしルクレールはその間に戦車3輛、装甲軌道車5輛からなるパリ突入部隊を派遣していた。突入部隊はパリ南部の{{仮リンク|イタリア門|en|Porte d'Italie}}と{{仮リンク|オルレアン門|en|Porte d'Orléans}}の間からパリに入城し、午後11時55分に[[パリ市庁舎]]前に到着した。ラジオはルクレール師団の入城を伝え、[[ノートルダム大聖堂 (パリ)|ノートルダム大聖堂]]の鐘が打ち鳴らされた。しかしパリ市内のドイツ軍は健在であり、外周防備部隊も帰還してきていた。そのため街頭に出ていた市民は再度逼塞することになった。<br />
<br />
=== パリ防衛軍の降伏===<br />
[[File:The Campaign in North-west Europe 1944-45 BU127.jpg|thumb|220px|[[ノートルダム寺院]]前に進出したフランス軍の戦車]]<br />
[[File:Crowds of Parisians celebrating the entry of Allied troops into Paris scatter for cover as a sniper fires from a... - NARA - 531206.tif|thumb|220px|連合国を歓迎するために街頭に繰り出したパリ市民]]<br />
[[File:Bundesarchiv Bild 146-1971-041-10, Paris, der Kollaboration beschuldigte Französinnen.jpg|thumb|220px|頭を刈られ引き回される親ドイツの女性達]]<br />
[[File:WWII, Europe, France, "German POWs - Paris sees the Germans go" - NARA - 196288.jpg|thumb|220px|連行されるドイツ軍将兵]]<br />
8月25日午前0時、アメリカ軍[[第4歩兵師団 (アメリカ軍)|第4歩兵師団]]司令官{{仮リンク|レイモンド・バートン|en|Raymond O. Barton}}({{lang|en|Raymond O. Barton}})少将は{{仮リンク|第12歩兵連隊 (アメリカ軍)|en|12th Infantry Regiment (United States)|label=第12歩兵連隊}}にパリ進出命令を出した。ルクレール少将も第2機甲師団の本隊を三つに分けて市内に突入させた。<br />
<br />
各部隊はドイツ軍の抵抗と、市民の激しい歓迎にあいながらも、午前11時30分にはアメリカ軍第12歩兵連隊がパリ南東部を占拠し、フランス部隊も[[シャルル・ド・ゴール広場|エトワール広場]]、[[ブルボン宮殿]]に到着した。フランス部隊のうち右翼を進んでいた一隊はドイツ軍の司令部がある{{仮リンク|ル・ムーリス|en|Le Meurice|label=オテル・ムーリス}}({{lang|fr|Hôtel Meurice}})近くに進出し、コルティッツ大将に降伏勧告を行ったが、この時点では受け入れられなかった。<br />
<br />
正午、[[エッフェル塔]]の頂上にシーツで作った三色旗が掲げられた。この旗を掲げたのは1940年6月30日の[[ナチス・ドイツのフランス侵攻|パリ陥落]]の日に、[[ハーケンクロイツ]]旗を掲げるため、三色旗をおろすことを命じられた消防士であった<ref>児島、「ヒトラーの戦い」、285p</ref>。同時刻、フランス国内軍部隊200人がオテル・ムーリスの攻撃を始め、コルティッツ大将も降伏を覚悟し始めた。しかしコルティッツ大将は正規軍である連合軍に降伏することはあっても、フランス国内軍に降伏することはできないと考えていた<ref>児島、「ヒトラーの戦い」、286-287p</ref>。<br />
<br />
午後1時、パリの状況にいらだったヒトラーはパリ廃墟命令が実施されているか、[[国防軍最高司令部 (ドイツ)|最高司令部]]作戦部長[[アルフレート・ヨードル]]大将に質問した上で、「Brennt Paris?(パリは燃えているか?)」と3回にわたって叫び、長距離砲や[[V1飛行爆弾]]、[[空襲]]などあらゆる手段でパリを灰にするよう命じた<ref>児島、「ヒトラーの戦い」、287-288p</ref>が、結局外部からの焦土作戦は実行されなかった。<br />
<br />
午後1時10分、オテル・ムーリスの玄関にフランス軍の{{仮リンク|アンリ・カルシェ|fr|Henri Karcher (homme politique, 1908-1983)}}({{lang|fr|Henri Karcher}})中尉ら4人が乗り込んできた。正規軍と遭遇したコルティッツはこれを降伏の機会と考え、[[参謀]]を通じてカルシェ中尉に自分の部屋に来るよう伝えた。カルシェ中尉は司令官室に乗り込むと緊張のあまり「ドイツ語を話せるか」とドイツ語で叫んだ。「貴官よりいくらか上手だと思う」と答えたコルティッツは降伏する旨を伝え、司令部員は武装解除した<ref>児島、「ヒトラーの戦い」、288-289p</ref>。<br />
<br />
コルティッツらはルクレールが司令部を置いた[[パリ警視庁]]に護送され、降伏文書を提示された。しかしその文書にあったルクレールの肩書きは「フランス共和国臨時政府パリ軍政司令官・第2機甲師団長」であり、「連合国軍」ではなかった。するとその部屋にフランス国内軍[[イル=ド=フランス地域圏]]隊長の{{仮リンク|アンリ・ロル=タンギー|en|Henri Rol-Tanguy}}({{lang|fr|Henri Rol-Tanguy}})大佐(通称ロル大佐)とフランス国内軍に属する{{仮リンク|軍事行動委員会 (フランス国内軍)|fr|COMAC (Résistance)|label=軍事行動委員会}}(COMAC)共産党代表{{仮リンク|モーリス・クリーゲル=ヴァリモン|en|Maurice Kriegel-Valrimont}}({{lang|fr|Maurice Kriegel-Valrimont}})が無理やり入室<ref>「パリは燃えているか?」(下)P.288 ドミニク・ラピエール、ラリー・コリンズ著 早川書房刊</ref>し、「ロル大佐にも降伏文書調印資格」があると主張しルクレールと交渉し始めた。ルクレールと2人の交渉はしばらく続いたが、結局ロル大佐の調印参加が認められ、午後3時30分に降伏文書は調印された<ref>児島、「ヒトラーの戦い」、289-291p</ref>。コルティッツが降伏命令を各部隊に発出したことで、パリ市内のドイツ軍部隊は午後7時35分までにはほとんど降伏し、[[ブローニュの森]]にいる2600人の部隊を残すのみとなった。<br />
<br />
ドイツ軍降伏を知ったパリ市民は、占領期間の有力者や[[フランス民兵団]]、ヴィシー政府やドイツへの「[[コラボラシオン]](協力者)」狩りに乗りだし、次々に対象者への暴行や殺害を行っていった。またドイツ軍将兵の[[愛人]]であったりするなど、ドイツ軍に近しいフランス人女性は、髪の毛を丸刈りにする([[スキンヘッド]])、裸にハーケンクロイツを書かれる等の[[私刑]]を受けてさらし者にされた<ref group="注釈">被害に遭った女性のすべてがドイツ人と性的関係を持っていたわけではない(平稲晶子「丸刈りにされた女たち」『ヨーロッパ研究』No.8、東京大学ドイツ・ヨーロッパ研究センター、2009年、pp.25 - 41[http://www.desk.c.u-tokyo.ac.jp/download/es_8_Hirase.pdf])。</ref>。<br />
<br />
さらに降伏したドイツ軍将兵に対する暴行や殺害が行われたほか、「ドイツの協力者」と誤認されて暴行などの被害に遭う市民も多数おり(その中にはレジスタンス協力者まで含まれていた<ref>「パリは燃えているか?」(下)P.303 ドミニク・ラピエール、ラリー・コリンズ著 早川書房刊</ref>)、権力の空白期間が生まれたことで警察機能がなくなっていたこともあり、興奮した市民による混乱はしばらく治まらなかった。<br />
<br />
またパリ市内に入城したフランス軍とアメリカ軍を中心とした連合国軍部隊は、開放を喜ぶパリ市民から熱狂的な歓迎を受け、[[シャンパン]]や[[ワイン]]などの飲食の提供のみならず、老若男女からの抱擁や[[キス]]を受けることとなった。<br />
<br />
=== 解放のパレード ===<br />
[[File:General Charles de Gaulle and his entourage set off from the Arc de Triumphe down the Champs Elysees.jpg|thumb|220px|凱旋門前でパレードを行うド・ゴール]]<br />
ド・ゴールは降伏が成立した後の午後4時半頃に陸軍省に移り、[[パリ市庁舎|オテル・ド・ヴィル]](パリ市庁舎)で臨時政府の帰還と解放を伝える演説を行った後に、翌日の凱旋パレードを計画した。さらに英米軍に対して将兵の参加要請を出した上に、パレード終了後は第2機甲師団を連合軍の編成から外すと通告してきた。第5軍団のジロー少将は激怒し、第12軍集団司令部からパレード参加の禁止と前線への前進命令を受け取ってルクレール少将に下命した。しかしルクレールは「政府の元首」であるド・ゴールの方針に従うと伝え、ド・ゴールもパレード実施を強行した。<br />
<br />
[[8月26日]]には[[シャンゼリゼ通り]]で第2機甲師団を中心とするパレードが行われた。しかし市内になおドイツ軍の狙撃兵が残っており、時折銃弾が飛来して市民が慌てて地面に伏せるような事態も発生した。<br />
<br />
[[8月29日|29日]]には、アメリカ陸軍{{仮リンク|第28歩兵師団 (アメリカ軍)|en|28th Infantry Division (United States)|label=第28歩兵師団}}によるパレードが行われた。この時には警察機能が回復するとともに市民の興奮、混乱も収束し、パリ市内は既に安全な状態となっていた。[[自由フランス軍]]とアメリカ軍の車両がパリの道路を進むと、喜びに満ちた群集が彼らを歓迎した。以後、毎年8月25日にはパリ解放を記念する式典が開かれる。[[2004年]]の60周年記念式典では、オテル・ド・ヴィルの外で音楽に合わせて道で踊る人々の間を、当時のフランス軍とアメリカ軍を表す2種類の装甲車両による軍事パレードが行なわれた。<br />
<br />
== 参考文献 ==<br />
*[[児島襄]]『第二次世界大戦 ヒトラーの戦い』第七巻、(文春文庫、1992年)ISBN 978-4167141424<br />
*児島襄『誤算の論理』([[文春文庫]]、1990年) ISBN 4-16-714134-5<br />
<br />
== 脚注 ==<br />
=== 注釈 ===<br />
{{脚注ヘルプ}}<br />
<references group="注釈" /><br />
=== 出典 ===<br />
{{脚注ヘルプ}}<br />
{{Reflist}}<br />
<br />
== 関連項目 ==<br />
* [[全国抵抗評議会]](CNR)- レジスタンスの全国組織。<br />
* [[パリは燃えているか]] - [[1966年]]の映画。<br />
* [[エピュラシオン]] ([[:fr:Épuration à la Libération en France]])-フランス解放時に起きた「[[粛清]]」<br />
* [[ココ・シャネル]]<br />
* [[ファレーズ・ポケット]] - 連合軍が直前まで行っていた軍事作戦。ドイツ軍は膨大な被害を受けた。<br />
* [[コール オブ デューティ ワールドウォーII]] - [[2017年]]の[[ファーストパーソン・シューティングゲーム]]ソフト。<br />
<br />
== 外部リンク ==<br />
{{commonscat|Liberation of Paris}}<br />
* [http://www.archive.org/details/LaLiberationdeParis1944 ''Battle for Paris: August 16?26''], Documentary shot by the French Resistance propaganda, 1 September 1944<br />
* [https://web.archive.org/web/20081216141748/http://www.charles-de-gaulle.org/article.php3?id_article=514 De Gaulle's speech from the Hotel de Ville] - Charles de Gaulle foundation<br />
* [http://news.bbc.co.uk/2/hi/europe/3595434.stm De Gaulle's speech in retrospect] - BBC News<br />
* {{fr icon}} [http://www.liberation-de-paris.gilles-primout.fr/index.htm La Liberation de Paris (archive documents and detailed timeline) ,Gilles Primout]<br />
* {{fr icon}} [http://www.herodote.net/19440825.htm 25 aout 1944 : la Liberation de Paris par la division Leclerc et les FFI de Rol-Tanguy]<br />
* {{fr icon}} [http://perso.orange.fr/stephane.delogu/2db-paris.html Division Leclerc - Aout 1944 - La Liberation de Paris]. <br />
* {{fr icon}} [http://paris-ile-de-france-centre.france3.fr/dossiers/4047913-fr.php Heure par heure, la liberation de Paris]<br />
* {{fr icon}} [http://www.monde-diplomatique.fr/2004/08/FERNANDEZ_RECATALA/11465 ''Histoire d'un oubli - Ces espagnols qui ont libere Paris'' (Le Monde diplomatique, aout 2004 , Page 10)]<br />
* {{fr icon}} [http://site.voila.fr/espana36/articles/roqueje.html Allocution du General Roquejeoffre quant au role des espagnols de la Neuvieme compagnie]<br />
<br />
{{DEFAULTSORT:はりのかいほう}}<br />
[[Category:ノルマンディー上陸作戦]]<br />
[[Category:パリの歴史|かいほう]]<br />
[[Category:パリの軍事史|かいほう]]<br />
[[Category:独仏関係]]<br />
[[Category:ゲリラ]]<br />
[[Category:1944年8月]]</div>
103.226.44.9
日本貿易振興機構
2018-06-11T17:29:08Z
<p>103.226.44.9: 細部 歴代理事長を組織に吸収</p>
<hr />
<div>{{Infobox 組織2<br />
| 名称 = 独立行政法人日本貿易振興機構<!--無記入であれば記事名が自動的に表示される--><br />
| Width = <br />
| 画像 = <br />
| 脚注 = <br />
| 画像2 = <br />
| 脚注2 = <br />
| 正式名称 = <!--正式名称が外国語である場合に、現地の言葉で名称を記入。それ以外の場合は無記入でOK--><br />
| 英語名称 = Japan External Trade Organization<br />
| 略称 = JETRO<br />
| 組織形態 =[[独立行政法人]]<br />
| 本部名称 = <!--拠点が多数あってすぐ下の住所がどこのものか不明瞭な様な場合に記入。本部、事務局、などと記入。それ以外の場合は無記入でOK--><br />
| 所在国 = {{JPN}}<br />
| 所在地郵便番号 = 107-6006<br />
| 所在地 = [[東京都]][[港区 (東京都)|港区]][[赤坂 (東京都港区)|赤坂]]一丁目12番32号<br />[[アークヒルズ#主要施設|アーク森ビル]]6階<br />
| 位置 = <!--経緯度を記入--><br />
| 予算 = <br />
| 資本金 = 456億720万9,662円(2015年3月31日現在)<br />
| 資金 = <br />
| 負債 = 59億2,439万4,072円(2015年3月31日現在)<br />
| 人数 = 役員10人(理事長1、副理事長1、理事6、監事2)<br />常勤職員1,618人(うち国からの出向者100、地方公共団体・民間からの出向者17)<br />(2015年3月31日現在)<br />
| 代表 = <br />
| 所長 = <br />
| 理事長 = [[石毛博行]]<br />
| 代表職名 = <!--組織トップの肩書が上の三つ以外の場合、ここにその肩書を記入--><br />
| 代表氏名 = <!--組織トップの肩書が上の三つ以外の場合、すぐ上で肩書を記入し、ここに人物の名前を記入--><br />
| 目的 =貿易の拡大及び経済協力の促進に寄与すること<br />
| 活動内容 =<br />
| 活動領域 = <br />
| 設立年月日 = 2003年10月1日<br />
| 前身 = 日本貿易振興会([[特殊法人]])<br />
| 設立者 = <br />
| 廃止年月日 = <br />
| 後身 = <br />
| 上位組織 = <br />
| 所管 = [[経済産業省]]<br />
| 下位組織 =<br />
| 関連組織 =<br />
| 関連団体 =<br />
| 拠点 = <br />
| 保有施設 =<br />
| 保有装置 =<br />
| 保有物分類1 = <!--施設でも装置でもない何かを保有している場合に、ここにその種別を記入。例えば船舶、衛星など--><br />
| 保有物名称1 = <!--すぐ上の種別に属する保有物の名称をここに記入。例えばしんかい6500、など--><br />
| 保有物分類2 = <br />
| 保有物名称2 = <br />
| 保有物分類3 = <br />
| 保有物名称3 = <br />
| 提供サービス = <br />
| プロジェクト = <br />
| 参加プロジェクト = <br />
| 特記事項 = <br />
| ウェブサイト = http://www.jetro.go.jp/<br />
}}<br />
'''独立行政法人日本貿易振興機構'''(にほんぼうえきしんこうきこう、{{lang-en|Japan External Trade Organization; '''JETRO'''}}、'''ジェトロ''')は、[[東京都]][[港区 (東京都)|港区]][[赤坂 (東京都港区)|赤坂]]に本部を構える[[経済産業省]]所管の中期目標管理法人たる[[独立行政法人]]。設置法は[[独立行政法人日本貿易振興機構法]](平成14年法律第172号)。[[2003年]]([[平成]]15年)[[10月1日]]設立。職員数は日本国内約900名、日本国外約700名。日本の貿易の振興に関する事業、開発途上国・地域に関する研究を幅広く実施している。<br />
<br />
== 概要 ==<br />
前身は[[1951年]]([[昭和]]26年)、[[経団連]]の傘下の一般社団法人[[日本貿易会]]が設立した財団法人海外市場調査会である。<br />
<br />
海外市場調査会は、大阪財界の肝いりで[[1954年]](昭和29年)8月、国際見本市協議会、日本貿易斡旋所協議会を統合し、財団法人海外貿易振興会となる。初代理事長は[[大阪商工会議所]]会頭の[[杉道助]]。当初は[[大阪市]][[北区 (大阪市)|北区]]に本部が置かれ、『海外市場月報』を出版した。<br />
<br />
日本貿易振興会法に基づいて日本貿易振興会となる前には、同名団体として明治期に設立された[[日本貿易振興会 (大日本帝国)|日本貿易振興会]](1947年に同じく[[日本貿易会]]の傘下になり解散したとされている)と、[[1956年]]に『海外市場』を出版していた日本貿易振興会が存在したが直接の関係は不明である<ref>『[https://shashi.shibusawa.or.jp/details_nenpyo.php?sid=9510&query=%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%B2%BF%E6%98%93%E5%8D%94%E4%BC%9A ''日本興業銀行五十年史'']』、[[日本興業銀行]]、1957年。</ref>。<br />
<br />
[[1958年]](昭和33年)7月、[[日本貿易振興会法]]に基づき、[[特殊法人]]'''日本貿易振興会'''に改組した。<br />
<br />
[[1998年]]([[平成]]10年)、[[アジア経済研究所]]と統合した。2003年(平成15年)10月、独立行政法人となり、名称を日本貿易振興機構とした。[[外務省]]が管轄する[[在外公館]]に次いで幅広い海外ネットワークを持ち、在外企業の支援を行うとともに、海外経済に関する情報の収集を行っている。<br />
<br />
発足時から[[通商産業省]]と密接な関係があったことから、通商産業省の別働隊という表現をされたこともある<!--参議院経済産業委員会 2002年(平成14年)12月3日 平田健二の発言-->。<br />
<br />
== 組織 ==<br />
* 本部<br />
* 大阪本部:前身組織の成立地が大阪であるため、現在も大阪には事務所でなく「大阪本部」を残している。専門図書館であるビジネスライブラリーも東京のほか、大阪にも設置されている。<br />
* 54カ国72カ所の海外事務所・センター<br />
* 36ヶ所の国内事務所・貿易情報センター<br />
* [[アジア経済研究所]](略称、アジ研)<br />
* ERIA支援室<br />
<br />
=== 歴代理事長 ===<br />
{| class="wikitable" style=font-size:small<br />
!代!!氏名!!在任期間!!就任前後までの主要な役職<br />
|-<br />
|1||[[杉道助]]||[[1954年]]8月 - [[1964年]]12月||[[大阪商工会議所]]会頭<br />
|-<br />
|2||[[駒村資正]]||1964年12月 - [[1969年]]10月||[[兼松|江商]]社長、大阪商工会議所副会頭([[1965年]])<br />
|-<br />
|3||[[原吉平]]||1969年11月 - [[1974年]]7月||[[関西経済同友会]]代表幹事、[[ユニチカ]]会長<br />
|-<br />
|4||[[西村純平]]||1974年7月 - [[1978年]]7月||関西経済同友会代表幹事、[[住友銀行]]副頭取<br />
|-<br />
|5||[[村田恒]]||1978年7月 - [[1983年]]9月||通産省石炭局長、[[三井物産]]副社長<br />
|-<br />
|6||[[赤澤璋一]]||1983年9月 - [[1990年]]12月||通産省重工業局長、[[富士通]]副会長<br />
|-<br />
|7||[[増田実]]||1990年12月 - [[1993年]]7月||通商産業審議官、[[東京電力]]副社長<br />
|-<br />
|8||[[豊島格]]||1993年7月 - [[1998年]]6月||資源エネルギー庁長官、[[コスモ石油]]副社長<br />
|-<br />
|9||[[畠山襄]]||1998年6月 - [[2002年]]7月||通商産業審議官、ジェトロ副理事長<br />
|-<br />
|10||[[渡辺修 (通産省官僚)|渡辺修]]||2002年7月 - [[2007年]]3月||通商産業事務次官<br />
|-<br />
|11||[[林康夫]]||2007年4月 - [[2011年]]9月||中小企業庁長官、三井物産副社長<br />
|-<br />
|12||[[石毛博行]]||2011年10月 - ||[[経済産業審議官]]、[[株式会社]][[損害保険ジャパン]][[顧問]]<br />
|}<br />
<br />
== 沿革 ==<br />
* [[1951年]]2月 - (財)海外市場調査会(Japan Export Trade Research Organization / JETRO)、大阪に設立<br />
* [[1954年]]2月 - 国際見本市協議会・日本貿易斡旋所協議会と統合し、(財)海外貿易振興会(Japan External Trade Recovery Organization / JETRO)が発足<br />
* [[1958年]]7月 - 通商産業省所管の特殊法人、日本貿易振興会(Japan Export Trade Promotion Agency/ JETRO)として発足。本部東京。<br />
* [[1961年]]6月 - 英文名称をJapan External Trade Organization/ JETROと改称<br />
* [[1998年]]7月 - 通商産業省所管の特殊法人、アジア経済研究所と統合<br />
* [[2003年]]10月 - 独立行政法人日本貿易振興機構発足<br />
<br />
このように、名称は[[日本語]]、[[英語]]とも何度か変遷しているが、略称は財団法人としての発足当時から「JETRO/ジェトロ」で変更がない。JETROの英文略称は、1951年当時に[[イギリス]]の輸出振興機関であった[[BETRO]](British Export Trade Research Organization)を手本にしたといわれる(BETRO自体は[[1952年]]に解散したが、現在イギリスではUKTIが貿易振興と対内投資誘致を実施している)。<br />
<br />
== 主な事業 ==<br />
* 中小企業等の国際ビジネス展開の支援<br />
* 地域活性化に向けた対日投資や地域間連携の促進<br />
* 在外日本企業の海外ビジネス展開支援<br />
* 貿易投資相談・情報提供<br />
* ビジネスに役立つ各種海外情報の収集・提供<br />
* 経済連携協定(EPA)への協力<br />
* 開発途上国経済発展支援<br />
* アジア経済研究所における開発途上国研究<br />
<br />
==JETRO輸入車ショウルーム==<br />
[[ファイル:JETRO Inported Cars Showroom.jpg|thumb|240px|right|名古屋にあったJETRO輸入車ショウルーム]]<br />
JETRO輸入車ショウルームとは、かつて[[東京都]]、[[大阪府]][[大阪市]]、[[愛知県]][[名古屋市]]にあった日本貿易振興機構の[[輸入車]]の総合ショールームである。いずれも[[1996年]]([[平成]]8年)に開業したが、東京ショールーム(東京都港区三田3丁目9番6号)は[[2004年]](平成16年)3月31日に閉鎖、大阪ショウルーム(大阪市北区中崎西2丁目4番12号梅田センタービル1階/5階)、名古屋ショールーム(名古屋市中区錦3丁目25番20号)は[[2005年]](平成17年)12月25日に閉鎖となった。<br />
<br />
名古屋ショールームは[[ZIP-FM]]の[[サテライトスタジオ]]Fiera ZIP CORNERを設けておりZIP SATURDAY JUNGLE(Navigator [[ターザン山下]])など毎週土曜日に定期公開生放送を行っていた。また不定期で[[トヨタ博物館]]などが所有する[[クラシックカー]]などを展示する場合もあった。名古屋ショールームは後に改装され[[2006年]][[10月12日]]に日本初のロボット博物館『[[ロボットミュージアム in 名古屋]]』となったが2008年1月に閉鎖、現在は同建物を改装し三井住友銀行「SMBCパーク栄」が2008年6月にオープンした。<br />
<br />
== 脚注 ==<br />
{{脚注ヘルプ}}<br />
{{Reflist}}<br />
<br />
== 関連項目 ==<br />
* [[世界は今 JETROグローバル・アイ]](テレビ番組 [[日本における衛星放送|BSデジタル放送]]:[[ワールド・ハイビジョン・チャンネル|TwellV]])<br />
* [[ビジネス・イノベーションセンター]]<br />
* [[長友貴樹]]<br />
* [[堀武昭]]<br />
* {{仮リンク|大韓貿易投資振興公社|en|KOTRA}}<br />
* [[情報機関]]<br />
* [[大阪国際見本市会場]]<br />
<br />
== 外部リンク ==<br />
* [http://www.jetro.go.jp/indexj.html 日本貿易振興機構]<br />
<br />
{{経済産業省|category=off}}<br />
{{独立行政法人}}<br />
{{日本の情報機関}}<br />
{{Normdaten|ISNI=0000000115812026 |GND=1090648898}}<br />
{{DEFAULTSORT:にほんほうえきしんこうきこう}}<br />
[[Category:独立行政法人 (経産省所管)]]<br />
[[Category:日本の国際通商]]<br />
[[Category:赤坂]]<br />
[[Category:東京都港区の組織]]</div>
103.226.44.9
パリ第6大学
2018-05-15T03:12:47Z
<p>103.226.44.9: /* 著名な卒業者等 */追加</p>
<hr />
<div>{{Infobox university<br />
|name = パリ第6大学<br />
|native_name = UPMC – Sorbonne Universités<br />
|image = [[File:Logo upmc sorbonne.png|300px]]<br />
|established = 1971年1月1日-2018年1月1日<br />
|type = [[公立]]<br />
|administrative_staff = 10,640人<br />
|academic_staff = 7,000人<br />
|students = 32,000人<br />
| budget = 4億3000万ユーロ<ref name=autogenerated1>{{en icon}} [http://www.upmc.fr/en/research/research_policy2/research_key_figures.html Research: Key Figures -UPMC - University Pierre and Marie CURIE - Sciences and Medicine - Paris]. Upmc.fr (2012-05-10). 2017年5月16日閲覧.</ref><br />
|city = [[パリ]]<br/>{{coord|48|50|50|N|2|21|23|E|type:edu|display=inline,title}}<br />
|country = フランス<br />
|campus = 都市型<br />
|president = ジャン・シャンバズ<br />
|mascot =<br />
|nickname = <br />
|affiliations = [[:en:Sorbonne University (alliance)|Sorbonne University]],<ref>{{fr icon}} [http://www.upmc.fr/en/university/sorbonne_universities.html Sorbonne University – UPMC – University Pierre and Marie CURIE – Sciences and Medicine – Paris]. Upmc.fr. Retrieved on 16 June 2014.</ref> [[CNRS]]<ref name=autogenerated2>{{fr icon}} [http://www.upmc.fr/en/university/key_figures2.html Key University Figures – UPMC – University Pierre and Marie CURIE – Sciences and Medicine – Paris]. Upmc.fr (15 August 2013). Retrieved on 16 June 2014.</ref> [[ヨーロッパ研究大学連盟|LERU]], [[ヨーロッパ大学協会|EUA]]<br />
|website = [http://www.upmc.fr/en/index.html www.upmc.fr]<br />
|pushpin_map_caption = パリ市内のパリ第6大学の位置<br />
|pushpin_map = France Paris<br />
}}<br />
{{Infobox world university ranking<br />
| ARWU_W = 36<br />
| ARWU_E = 7<br />
| QS_W = 137<br />
| QS_E = 57<br />
| THE_W = 113<br />
| THE_E = 50<br />
}}<br />
[[File:UPMC-Paris 6-ranking.png|thumb|440x440px|[[世界大学学術ランキング]]の分野ごとの2013年、2014年の推移]]<br />
'''パリ第6大学'''(1971年:'''Université ParisVI''' 設立、1974年改名:'''Université Pierre-et-Marie-Curie''', ピエール・マリー・キュリー大学, 2007年改名:'''UPMC'''<ref>[http://www.upmc.fr/fr/universite/histoire_et_personnalites/dates_cles.html Dates clés](公式サイト)</ref>)は、[[理学]]・[[工学]]・[[医学]]を専門とする[[パリ大学]]の1校で、生徒数は約32,000人(医学:21000人、科学:11000人)である。別名であるピエール・マリー・キュリー大学は放射現象などの研究で名高い[[ピエール・キュリー]]、[[マリ・キュリー|マリー・キュリー]]夫妻の名に由来する。125以上の研究所を有し、その多くが世界の名門大学や[[フランス国立科学研究センター]]と連携している。2018年1月1日に、パリ第4大学と合併した、新しい[[パリ大学|ソルボンヌ大学]]へ。<br />
<br />
==歴史==<br />
[[フランス法]]「Loi n°68-978 du 12 novembre 1968 d'orientation de l'enseignement supérieur」によって、多くの大学と共に1971年1月1日に設立された<ref>{{fr icon}}[https://www.legifrance.gouv.fr/affichTexte.do?cidTexte=JORFTEXT000000693185 Loi n°68-978 du 12 novembre 1968 d'orientation de l'enseignement supérieur]([[レジフランス]])</ref>。<br />
<br />
2018年1月1日に、[[パリ第4大学]]と合併しました。<ref>http://www.lemonde.fr/societe/article/2015/09/15/l-universite-pierre-et-marie-curie-et-paris-iv-sorbonne-fusionnent_4758207_3224.html</ref><ref>http://www.leparisien.fr/paris-75/paris-75005/les-universites-paris-sorbonne-et-pierre-et-marie-curie-pretes-a-fusionner-16-09-2015-5098455.php</ref><ref>http://etudiant.lefigaro.fr/les-news/actu/detail/article/paris-sorbonne-et-pierre-et-marie-curie-vont-se-fondre-en-une-seule-universite-16757/</ref><ref>http://www.lesechos.fr/politique-societe/societe/021328935147-les-universites-pierre-et-marie-curie-et-paris-sorbonne-vont-fusionner-1155854.php</ref><ref>http://www.letudiant.fr/educpros/actualite/universite-l-upmc-et-paris-sorbonne-sur-la-route-de-la-fusion.html</ref>。<br />
<br />
==評価==<br />
[[世界大学学術ランキング]](ARWU)では、2003年から2016年の間の順位は35~65位<ref>[http://www.shanghairanking.com/World-University-Rankings/Pierre-and-Marie--Curie-University---Paris-6.html 世界大学学術ランキングPierre and Marie Curie University - Paris 6]</ref>、[[タイムズ・ハイアー・エデュケーション|Times QS ランキング]]でも2004年から2014年のランキングは57~115位<ref>Universities, Rankings and the Dynamics of Global Higher Education 208p</ref>と世界的に見ても非常に高いレベルの大学と評価されている。<br />
<br />
==キャンパス==<br />
{{Div col}}<br />
* Campus de Jussieu<br />
* Campus des Cordeliers<br />
* Campus de La Pitié-Salpêtrière<br />
* Campus Saint-Antoine<br />
* Institut d'Astrophysique de Paris (IAP)<br />
* Site Curie<br />
* Institution de la Vision<br />
* Institut du Fer à Moulin<br />
* Campus Raspail<br />
* Site Tenon<br />
* Site Trousseau<br />
* Site Ivry - Le Raphaël<br />
* Institut de La Longévité<br />
* Site de Saint-Cyr-l'École<br />
* Campus d'Orsay<br />
* Station marine de Roscoff<br />
* Station marine de Banyuls<br />
* Station marine de Villefranche-sur-mer<br />
{{Div col end}}<br />
==学部==<br />
*[http://www.fmpmc.upmc.fr/fr/index.html Faculté de médecine Pierre-et-Marie-Curie](医学部)<br />
*[http://www.chimie.upmc.fr/fr/index.html Faculté de chimie](化学部)<br />
*[http://www.upmc.fr/fr/universite/organisation/composantes/ufr_d_ingenierie.html Faculté d'ingénierie](工学部)<br />
*[http://www.ufrmath.upmc.fr/ Faculté de mathématiques Pierre-et-Marie-Curie](数学部)<br />
*[http://www.physique.upmc.fr/ Faculté de physique Pierre et Marie Curie](物理学部)<br />
*[http://www.upmc.fr/fr/universite/organisation/composantes/ufr_sciences_de_la_vie.html Faculté de biologie](生物学部)<br />
*[http://www.ufr-teb.upmc.fr/fr/index.html Faculté Terre Environnement et Biodiversité](地球環境と生物多様性学部)<br />
<br />
==研究所==<br />
[[Image:Campus Curie.jpg|right|thumbnail|upright=0.8|パリ5区の研究所を集めた「Campus Curie」地区の地図]]<br />
*[[:fr:École polytechnique universitaire Pierre et Marie Curie de l'université Paris VI|École polytechnique universitaire Pierre-et-Marie-Curie]]<br />
*[[パリ天体物理学研究所]]<br />
*[[ロスコフ生物学研究所]]<br />
*[[:fr:Observatoire océanologique de Banyuls-sur-Mer]]<br />
*[[:fr:Observatoire océanologique de Villefranche-sur-Mer]]<br />
*[[:fr:Institut de statistique de l'université de Paris]]<br />
*[[アンリ・ポアンカレ研究所]]<br />
*[[:fr:Institut des systèmes intelligents et de robotique|ロボット工学システム研究所(フランス語版)]]<br />
<br />
==著名な卒業者等==<br />
* [[クロード・コーエン=タヌージ]] - 1997年[[ノーベル物理学賞]]<br />
* [[セルジュ・アロシュ]] - 2012年ノーベル物理学賞<br />
* [[アラン・コンヌ]]<ref>[http://www.alainconnes.org/fr/cv.php Curriculum vitæ], Alain Connes, consulté sur www.alainconnes.org le 5 octobre 2010</ref> - 1982年[[フィールズ賞]]<br />
* [[ウェンデリン・ウェルナー]] - 2006年フィールズ賞<br />
* [[:fr:Alain Carpentier]]<ref>[http://www.lemonde.fr/savoirs-et-connaissances/article/2003/12/30/alain-carpentier-la-xeno-transplantation-cardiaque_347571_3328.html « Alain Carpentier : La xéno-transplantation cardiaque »], ''Le Monde'', 30 décembre 2003, consulté sur www.lemonde.fr le 6 octobre 2013.</ref> - [[アルバート・ラスカー医学研究賞]]<br />
* [[フィリップ・サンソネッティ]] - [[微生物学|微生物学者]]、[[パスツール研究所]]および[[コレージュ・ド・フランス]]所属<br />
* [[ピエール・ベジェ]] - [[工学者]]、[[ベジェ曲線|ベジエ曲線]]を発明<br />
* [[シェイック・モディボ・ディアラ]] - [[マリ共和国]]の[[宇宙工学|宇宙工学者]]、2012年に[[マリの大統領一覧|暫定首相]]<br />
* [[クリスチャーヌ・トビラ]] - 政治家、第28代フランス[[司法省 (フランス)|司法大臣]]<br />
* [[アミーナ・グリブ=ファキム]] - 名誉学位。[[モーリシャス]]の生物学者、[[モーリシャスの大統領|大統領]]<br />
* [[ウェンデリン・ウェルナー]] - 数学者、[[パリ第11大学]]教授、元[[子役俳優]]<br />
* [[ニコラ・ユロ]] - [[エコロジー・持続可能開発・エネルギー省|エコロジー移行・連帯省]]大臣(2017年5月〜)、環境ジャーナリスト(バリ第6大学医学部に学んだ)<!--当人フランス語版参照--><br />
<br />
==出典==<br />
{{Reflist}}<br />
{{脚注ヘルプ}}<br />
==外部リンク==<br />
{{commonscat}}<br />
*[http://www.upmc.fr/en/index.html 公式サイト]<br />
{{日仏共同博士課程日本コンソーシアム}}<br />
{{Normdaten}}<br />
{{DEFAULTSORT:はりたいろくたいかく}}<br />
[[Category:パリ大学]]<br />
[[Category:パリの大学]]<br />
[[Category:パリ5区]]<br />
[[Category:学校記事]]<br />
[[Category:1971年設立の教育機関]]</div>
103.226.44.9
憲法裁判所
2017-12-17T02:08:17Z
<p>103.226.44.9: /* フランスの憲法評議会 */細部補足 憲法院</p>
<hr />
<div>[[ファイル:Karlsruhe bundesverfassungsgericht.jpg|thumb|right|400px|ドイツの[[連邦憲法裁判所]]]]<br />
'''憲法裁判所'''(けんぽうさいばんしょ)とは、憲法裁判を行うために設置される[[裁判所]]である<ref name=jiten>「法律学小辞典」(第4版補訂版)、有斐閣、2008年。</ref>。<br />
<br />
== 概要 ==<br />
憲法裁判所とは、憲法裁判を行うために設置される裁判所である。憲法裁判とは[[憲法]]の[[解釈]]に関する見解の相違と疑義を[[裁判手続]]で解決する手続のことをいい、[[憲法保障]](憲法を侵害や違反から守り、憲法秩序の存続と安定を保つこと。)の一類型である<ref name=jiten/>。<br />
<br />
憲法裁判所またはそれに類似した機関を持つ国としては、[[ドイツ]]、[[フランス]]、[[イタリア]]、[[オーストリア]]、[[大韓民国|韓国]]、[[スペイン]]、[[タイ王国]]、[[チェコ]]、[[ハンガリー]]、[[ベルギー]]、[[ポーランド]]、[[ポルトガル]]、[[ルーマニア]]、[[ロシア]]、[[中華民国|中華民国(台湾)]]などがある。各国の憲法裁判所は、その統治機構や歴史的沿革などにより、様々な権限が付与されている。<br />
<br />
==違憲審査制==<br />
{{main|違憲審査制}}<br />
ある行為が憲法に適合するかしないか審査し、決定する権限を'''違憲審査権'''という<ref>[[日本国憲法第81条|日本国憲法81条]]は、[[最高裁判所 (日本)|最高裁判所]]に「一切の法律、命令、規則又は処分が憲法に適合するかしないかを決定する権限」を与えている。この「権限」が違憲審査権である。</ref>。この違憲審査権のうち、[[立法府]](特に[[議会]])の制定した[[法律]]に対して違憲審査を行う権限が特に重視され、立法に対して他の機関による違憲審査を認める制度を'''[[違憲審査制]]'''という<ref>違憲審査権は、論述の文脈により、合憲性審査権、違憲法令審査権、法令審査権、違憲立法審査権、司法審査権などとも呼ばれる。</ref>。<br />
<br />
この違憲審査制には、特別の政治機関に違憲審査権を認める制度と、何らかの裁判機関にこれを認める制度の二つがある。そして、通常は違憲審査制といえば後者の「何らかの裁判機関に違憲審査権を認める制度」を指すことが多い。「何らかの裁判機関に違憲審査権を認める制度」も大別すると二つの類型があり、一つは'''アメリカ型・付随的違憲審査制'''で、もう一つは'''ドイツ型・憲法裁判制'''である。<br />
<br />
===アメリカ型・付随的違憲審査制===<br />
[[アメリカ合衆国]]において採られている違憲審査制は、'''付随的違憲審査制'''と呼ばれる。付随的違憲審査制とは、通常の裁判所が、具体的な[[訴訟事件]]を前提として、その手続の中で、原則としてその訴訟の解決に必要な限りにおいて違憲審査権を行使する制度である。アメリカ型・付随的違憲審査制においては、通常の裁判所が違憲審査を行うため、憲法裁判所は設置されない。日本の裁判所もこの制度を採用している(主に最高裁判所が担うが、そのほかの[[下級裁判所]]も判断を下す)。<br />
<br />
{{see also|アメリカ合衆国の司法制度}}<br />
<br />
このようなアメリカ型・付随的違憲審査制を採用しているアメリカや日本の最高裁判所においては、裁判官の定員は少ない。具体的には、[[合衆国最高裁判所|アメリカ]]では9名、[[最高裁判所 (日本)|日本]]では15名である。[[連邦|連邦国家]]であるアメリカの場合は各州ごとに[[州裁判所 (アメリカ合衆国)|州最高裁判所]]を頂点とする三審制の司法制度が存在しており、ほとんどの事件は[[州裁判所 (アメリカ合衆国)|各州の裁判所]]で処理されるのが原則で、[[ワシントンD.C.]]の[[合衆国最高裁判所]]に持ち込まれる事件は全体のごく一部である。[[アメリカ合衆国憲法]]の中には、この違憲審査制が定められた条文や裁判所に違憲審査権を認めた条文はない。また、[[制定法]]でも定められておらず、[[判例法]]によって成立した制度及び権限である。初めて裁判所に違憲審査権があると判断した[[判例]]は、[[1803年]]に出された[[マーベリー対マディソン事件]]の判決(首席裁判官[[ジョン・マーシャル]]の名をとって「マーシャル判決」と呼ばれる)である。<br />
<br />
===ドイツ型・憲法裁判制===<br />
[[ファイル:Boehmische Hofkanzlei Vienna April 2007 003.jpg|thumb|right|300px|オーストリアの憲法裁判所]]<br />
ドイツにおいて採られている違憲審査制は、'''憲法裁判制'''と呼ばれる。憲法裁判制では、通常の裁判所と区別した特別の'''憲法裁判所'''を設け、具体的な訴訟事件を離れて抽象的に法令その他の国家行為の違憲審査を行う権限をこれに与えているところに特色がある('''抽象的違憲審査制''')。ドイツでは伝統的に、大臣の責任追及や憲法機関相互の争議などについて、特別な裁判所を設けてその裁判手続に基づいて解決するという制度があった。近代以降も、この特別な裁判所の制度は、機関相互の争議裁定や連邦制度の維持を目的として設置された。さらに、第二次世界大戦後、アメリカの違憲審査制の影響を受けて、[[ドイツ連邦共和国基本法|ドイツ基本法]](旧[[西ドイツ]]の憲法典)で採用されたのが、連邦憲法裁判制度([[連邦憲法裁判所]])である。<br />
<br />
連邦憲法裁判所は、行政など他の権力はもとより通常の裁判所からも分離され、独立している裁判所である。その制度趣旨は、客観的な憲法秩序の保障<ref>「客観的な憲法秩序の保障」とは、憲法に定められた個別の基本権を保障すること(主観的な憲法秩序の保障)を越えて、憲法が定めた秩序体系そのものを擁護することをいう。</ref>とされたため、その権限は、伝統的な憲法裁判の系統に属する憲法機関相互の争訟の裁定、連邦制度に関わる権限争議の裁定などのほか、法律に対する抽象的違憲審査の権限や、個別的基本権侵害に関わる具体的違憲審査の権限など、多面的で強大なものとされた。そして、このような強大な権限を有する裁判所であるため、それを構成する裁判官は、[[ドイツ連邦議会|連邦議会]]と[[連邦参議院]]によって、党派比例的な選出方法に基づいて選任され、政治的に偏らないように配慮されていると言われる。<br />
<br />
このようなドイツ型の憲法裁判制度を持つ国には、フランス、イタリア、オーストリアなどがある。ドイツ型の憲法裁判制度を持つ国々においては、憲法裁判所に所属する少数の裁判官が憲法裁判を専門に扱う一方、通常の最高裁判所は全国から送られてくる上告事件を棄却せず全て審理するため、アメリカや日本の最高裁判所より多数の裁判官を抱えているのが特徴である。たとえば、ドイツの最高裁判所である[[連邦裁判所 (ドイツ)|連邦通常裁判所]]には125名の裁判官が所属しているほか、事件の種類に応じて[[連邦行政裁判所]]、[[連邦労働裁判所]]、[[連邦社会裁判所]]、[[連邦財政裁判所]]の各裁判所がそれぞれの事件の最上級審を管轄している。また、フランスの最高裁判所である[[破毀院]]には112名の裁判官が所属しているほか、行政事件を専門に扱う最上級審の裁判所として[[国務院 (フランス)|国務院]]が存在する。このほか、イタリアの最高裁判所には250名の裁判官が所属している。ちなみにオーストリアは人口800万人余の小国であるが、それでも最高裁判所には58名の裁判官が所属している<ref>無論、ドイツやフランスと同じくイタリアやオーストリアも通常の最高裁判所とは別に行政事件の最上級審を扱う[[最高行政裁判所]]が存在している点を考慮すれば、これらの国々における最高裁判所裁判官の実質的な人数はさらに多いと言える。</ref>。<br />
<br />
===日本において===<br />
==== 日本の内閣法制局 ====<br />
日本の[[内閣法制局]]は、[[行政権]]を担う[[内閣 (日本)|内閣]]の下に置かれ、独立した第三者的機関ではないものの、「憲法裁判所的機関」とも言われることがある。これは、内閣法制局が、[[国会]]における立法の多数を占める内閣提出法案(閣法)の事前審査を行っており、抽象的違憲審査を行う機関がない日本においてこれに代わる機能を持っているためである。<br />
<br />
==== 日本における憲法裁判所設置の可能性 ====<br />
前述の通り日本には憲法裁判所は存在しないが、仮に日本にも憲法裁判所を設ける場合、 [[日本国憲法第76条|日本国憲法第76条第2項]]では[[特別裁判所]]の設置を禁じており、なおかつ[[日本国憲法第81条]]では、違憲審査の最終的権限を最高裁判所に与えているため、最高裁判所から独立した憲法裁判所を設けるためには、上記2条項の[[憲法改正]]が必要である。ドイツ型のように最高裁判所から独立した憲法裁判所を設ける案のほか、最高裁判所の内部に違憲審査を専門に行う「憲法部」を新たに設ける案などもある。<br />
<br />
===その他の違憲審査===<br />
==== フランスの憲法評議会 ====<br />
[[1958年]]に制定された[[フランス共和国憲法]](第五共和国憲法)には、違憲審査を行う機関として'''[[憲法評議会]]''' (あるいは'''憲法院''') を置くことが定められた。他国の憲法裁判所の多くが、その裁判官の資格として、通常の裁判所の裁判官の経験や法曹資格を定めるのに対して、憲法評議会の委員(9名)には、特に任命資格などが定められず、その構成も[[共和国大統領 (フランス)|大統領]]・[[国民議会 (フランス)|国民議会議長]]・[[元老院 (フランス)|元老院議長]]からそれぞれ3名ずつ任命すると定めるなど、政治的機関としての色彩が強いため、「狭義の違憲審査制」(何らかの裁判機関が違憲審査を行う制度であること)の例から除外されてきた。しかし、1980年代以降、憲法評議会は憲法裁判所的な性質の機関へと発展し、人権問題に関する判断の蓄積も備えてきた。<br />
<br />
==== 韓国====<br />
韓国はドイツ型と考えられる。韓国では[[1987年]]改正の現行憲法によって、通常の最上級裁判所である[[大法院 (大韓民国)|大法院]]とは別に憲法裁判所が設置された。憲法裁判所の裁判官は、大法官となる資格を有する者(その具体的内容は下記の表を参照)の中から、大統領・国会・大法院が3名ずつを指名する。憲法裁判所の権限は、ドイツ型の制度を敷いている諸国と同様、憲法解釈のほか大統領の弾劾、政党の解散、機関争訟(行政機関相互間、たとえば国と自治体との間で発生した対立の処理)といった重要な職責を与えられている。<br />
<br />
==== 中国====<br />
[[中華人民共和国]]の[[最高人民法院]]は、下級裁判所において憲法判断が争点となった場合に、当該下級裁判所からの照会に応じて憲法判断を回答するという体制を敷いている。憲法判断と重要案件の終審とを同じ裁判所が担当するというアメリカ型の側面がある一方で、訴訟当事者に上訴の負担をかけずに憲法問題の最終解決を行えるというドイツ型の機動性も併せ持った、やや変則的な制度である。なお、中国の司法制度は原則として二審制であり、基層人民法院([[簡易裁判所|簡裁]]に相当)・中級人民法院([[地方裁判所|地裁]]に相当)でスタートした案件の事実審が最高人民法院に持ち込まれることがない(例外:死刑の宣告)ということも、この変則的な体制の理由と考えられる。<br />
<br />
==== 旧ソ連諸国など ====<br />
このような広い意味での違憲審査制あるいは憲法裁判所に類似した機関を持つ国としては、旧ソ連・東欧諸国などがある。<br />
<br />
==各国の憲法裁判所==<br />
[http://www.shugiin.go.jp/itdb_kenpou.nsf/html/kenpou/shukenshi029.pdf/$File/shukenshi029.pdf 「司法制度及び憲法裁判所に関する基礎的資料(憲法の有権解釈権の所在の視点から)」](衆議院憲法調査会、2003年)を参照。<br />
{|class="wikitable" style="font-size:80%;"<br />
|-<br />
!rowspan="2" width="10%"|&nbsp;!!colspan="6"|裁判官!!colspan="2"|任命機関!!rowspan="2" width="15%"|権限<br />
|-<br />
!width="5%"|人数!!width="5%"|任期!!width="5%"|定年!!width="5%"|再任!!width="15%"|資格!!width="15%"|兼職禁止!!width="15%"|裁判官!!width="10%"|長官<br />
|-<br />
!{{ITA}}<br>{{仮リンク|イタリア憲法裁判所|en|Constitutional Court of Italy}}<br />
|15名||9年||なし||不可||司法および行政上級裁判所の司法官、法学教授、または20年の職歴を有する弁護士であること||国会議員、州議会議員、弁護士、他のすべての公的または私的職務||大統領(5名)、議会(5名)、司法および行政最高裁判機関(5名)||裁判所自身<br>任期3年(裁判官としての任期内)||・法律、法律の効力を有する法規、州法の違憲性の審査<br>・機関争訟<br>・大統領の弾劾<br>・国民投票の許可に関する審査<br />
|-<br />
!{{AUT}}<br />
|14名(6名の予備裁判官)||なし||70歳||―||・法学を修了し、法学の修了が要件とされる職務に10年以上就いていたこと<br>・連邦政府が提案する8名については、加えて、裁判官、行政官、または大学法学教授であること||大臣、国会議員、州議会議員、市町村議会議員、政党職員||連邦政府(8名)・国民議会(3名)・連邦参議院(3名)の提案に基づいて大統領が任命する||連邦政府の提案に基づいて大統領が任命する||・法律の違憲性の審査<br>・命令の違法性の審査<br>・条約の違法性の審査<br>・連邦、州等に対する財産法上の請求で通常の訴訟手続きまたは行政官庁の処分によっても解決されないものに関する裁判<br>・法律の再公布における授権範囲の踰越の審査<br>・機関争訟<br>・選挙に関する上訴裁判<br>・国民投票等に関する裁判<br>・大統領等に対する弾劾<br>・行政裁判<br>・国際法違反に関する裁判<br />
|-<br />
!{{KOR}}<br>{{仮リンク|憲法裁判所 (大韓民国)|label=韓国憲法裁判所|en|Constitutional Court of Korea}}<br />
|9名||6年||65歳(長官は70歳)||可||・裁判官、検察官、あるいは弁護士である者<br>・弁護士資格を有し政府または公定機関で法律問題に従事した者<br>・弁護士資格を有し大学の助教授以上の地位にあった者<br>※いずれも15年以上の経験のある40歳以上の者||商業活動を営むこと。国会及び地方議会の議員。国会、政府及び裁判所の職員。企業、団体等の顧問、役員及び職員。政党への加入は認められない。||大統領が任命する。ただし指名権者は大統領(3名)、国会(3名)、最高裁判所長官 (3名)||国会の同意で大統領が任命する||・通常裁判所からの移送に基づく法律の違憲審判<br>・国会の弾劾要求を受け高級公務員(大統領、首相、大臣、裁判官、行政委員会の長など)に対する弾劾裁判<br>・民主的基本秩序に反する政党の解散に関する審判<br>・機関争訟<br>・公権力による国民の憲法上の基本権侵害に対する憲法訴願の審判<br />
|-<br />
!{{ESP}}<br>{{仮リンク|スペイン憲法裁判所|en|Constitutional Court of Spain}}<br />
|12名||9年||なし||不可||法律家であること(司法官、大学教授、公務員または弁護士)かつ最低15年の経験||すべての代議的職務、政党もしくは労働組合の指導的職務またはすべての職務、裁判官または検察官の職務、その他すべての専門的もしくは商業的職務||下院(4 名) ・上院(4名)・内閣(2名)・司法総評議会(2名)の提案に基づき国王が任命する||裁判所自身の推薦に基づき国王が任命する。任期3年||・国の法律及び法律の地位を有する規範に対する違憲性の審査<br>・権利及び自由の侵害に対するアンパーロ訴訟(憲法訴願)<br>・国と自治州の間、または自治州相互間の権限をめぐる争議<br />
|-<br />
!{{THA}}<br>{{仮リンク|タイ憲法裁判所|en|Constitutional Court of Thailand}}<br />
|15名||9年||70歳||不可||・最高裁判所判事、最高行政裁判所判事<br>・法学または政治学の専門家については、国籍保有者、45歳以上で、大臣、選挙管理委員、国会オンブズマン、国家人権委員、汚職防止委員、会計検査委員、副検事長、または大学教授等の職にあった者<br>・選挙権・被選挙権欠格者、過去3年間に政党員であった者は除かれる||下院議員、上院議員、政治職公務員、地方議会議員、地方行政官、政党員(過去3年間)、選挙管理委員、国会オンブズマン、国家人権委員、行政裁判所判事、汚職防止委員、会計検査委員、常勤または定給の公務員、会社等の役員・被雇用者等||上院の助言に基づき国王が任命する最高裁判所の判事から5名、最高行政裁判所の判事から2名、法学専門家5名、政治学専門家3名||互選||・議会が承認し国王が署名する前の法案につき、議会または首相の請求に基づき行う当該法案の違憲性審査<br />
・通常裁判所からの移送に基づく法律の違憲性に関する判断<br>・憲法上の機関の職務権限につき、当該機関または国会議長の申立てによる審査<br />
|-<br />
!{{CZE}}<br>{{仮リンク|チェコ憲法裁判所|en|Constitutional Court of the Czech Republic}}<br />
|15名||10年||なし||可||上院議員の被選挙権を有し(すなわち、40歳以上)、高等法学教育を受け、最低10年間の法律家としての経験を有し、品行方正であること||財産管理、学術教育文学芸術活動を除くすべての報酬を受ける職務政党または政治団体の構成員||上院の同意のもとに大統領が任命する||大統領が任命する。(上院の同意は不必要)||・法律の違憲性の審査<br>・命令等の違憲性、違法性の審査<br>・地方自治体による国の違法な干渉に対する憲法異議の審査<br>・公的機関による憲法上の権利の侵害に対する憲法異議の審査<br>・上下両院の選挙に関する裁判<br>・議員の資格争訟<br>・大統領の弾劾、職務遂行不能の審査<br>・国際裁判所の決定の執行に不可欠な措置の決定<br>・政党の活動の違憲性、違法性の審査<br />
・機関争訟<br />
|-<br />
!{{DEU}}<br>[[連邦憲法裁判所]]<br />
|16名||12年||68歳||不可||裁判官に就く資格を有する40歳以上の者、うち6名については連邦最上級裁判所で3年以上裁判官であった者||大臣、連邦ないしラント議員、他のすべての公的私的職務||連邦議会(8名)、連邦参議院(8名)が選出し、大統領が任命する||連邦議会と連邦参議院が交互に任命する||・公権力による基本権等の侵害に関する憲法訴願に対する決定<br>・市町村の自治権が法律により侵害されたとする憲法訴願に対する決定<br>・連邦法、州法の違憲性および国際法の適用に対する違憲性の審査<br>・機関争訟<br>・反民主主義的または連邦の存立に反するような政党の禁止<br>・基本権の濫用者に対する基本権喪失の決定<br>・連邦議会の選挙の効力に関する異議に対する審査<br>・大統領の訴追に対する裁判<br>・裁判官の訴追に対する裁判<br><br />
|-<br />
!{{HUN}}<br>[[ハンガリー憲法裁判所]]<br />
|11名||9年||70歳||1度だけ再任可||45歳以上で、犯罪歴がなく、大学教授、法学・政治学博士、20年の法律実務経験者で、かつ、過去4年間、政府構成員、政党員、指導的地位にある公務員でなかった者||議員、地方議会執行部の構成員、公務員、利益代表団体の指導者、政党員、研究活動・教授活動・文学・芸術活動を除く報酬のある職業||国会の3分の2の多数により選任する||憲法裁判所裁判官の秘密投票による互選<br>任期3年||・採択後の未公布の法律、議院規則及び条約の違憲性の審査<br>・公布後の法令の違憲性の審査<br>・法令の条約違反の審査<br>・憲法上の権利の侵害に対する国民の憲法異議の審査<br>・立法不作為の憲法違反の審査<br>・機関争訟<br>・憲法規定の解釈<br />
|-<br />
!{{FRA}}<br>{{仮リンク|フランス憲法裁判所|en|Constitutional Council of France}}<br />
|9名+生存中の元大統領||9年||なし||不可||・ なし<br>・ 大統領経験者は定員外で委員となる||大臣、国会議員、経済社会評議会構成員、すべての公職||大統領(3名)、国民議会議長(3名)、元老院議長(3名)||大統領||・組織法律及び議院規則に対する違憲性の審査<br>・通常法律に対する違憲性の審査<br>・大統領選挙の適法性の監視、異議申立の審理、投票結果の公表<br>・国民議会議員及び元老院議員選挙の適法性の裁定<br>・国民投票の施行の適法性の監視、結果の公表<br>・大統領の職務遂行不能の認定<br>・大統領の非常事態措置権行使の際の諮問<br />
|-<br />
!{{BEL}}<br>{{仮リンク|ベルギー憲法裁判所|en|Constitutional Court of Belgium}}<br />
|12名||なし||70歳||―||・ 破毀院の裁判官、国務院の評定官、仲裁院の補助裁判官また法学教授等のいずれかの職を5年以上(40歳以上)<br>・ 国会、共同体または地域議員を5年以上(40歳以上)||議員、司法官、すべての公的職務ないし地位||上院および下院より交互に提出される定数の2倍からなるリストに基づき国王が任命する。||各言語グループ裁判官が1名ずつ長官を任命する。1年交替でその職務を行う。||・ 連邦が制定する法律、共同体・地域が制定する法律の効力を有する法規(デクレ、オルドナンス)の以下に限定した審査<br>(a)連邦、共同体、地域の権限配分に関する憲法規定及び憲法規定に基づき制定された法律の規定との適合性<br>(b)一定の基本権(憲法第10条、11条、24条)との適合性<br />
|-<br />
!{{POL}}<br />
|15名||9年||なし||不可||最高裁判所または最高行政裁判所裁判官に必要とされる資格(すなわち、10年の法律実務経験および法学の学位を有する者。ただし、法学教授については上記の要件は免除される。)||政党員、労働組合員、裁判所および裁判官の独立の原則と両立できない公的職務||下院が絶対多数により選任する||憲法裁判所裁判官全体会の提案する候補者の中から大統領が任命する。||・条約及び法律の違憲性の審査<br>・法律の条約違反の審査<br>・命令の違憲性、条約違反、違法性の審査<br>・憲法上の権利の侵害に対する国民の憲法異議の審査<br>・機関争訟<br>・政党の目的または活動の違憲性の審査<br />
|-<br />
!{{PRT}}<br />
|13名||9年||なし||不可||・ 裁判官(6名以上)<br>・ 法律家||すべての公的私的職務(教育・法学研究職を除く)、政党の指導者||議会(10名)、憲法裁判所(3名)||裁判所自身||・組織法律に対する違憲性の審査<br>・通常法律に対する違憲性の審査<br>・立法不作為についての違憲性の審査<br>・自治州議会の定める自治州法の違憲性の審査<br>・自治州の憲法上の権利の侵害の審査<br>・自治州の法規範の違法性の審査<br>・行政裁判<br>・条約及び国際協定に対する違憲性の審査<br>・選挙訴訟の控訴審<br>・政党の違憲性と違法性の審査<br>・大統領の職務の終了の認定<br>・国民投票の違憲性と違法性の審査<br />
|-<br />
!{{ROM}}<br />
|9名||9年||なし||不可||法学高等教育を受け、高い職業的能力を有し、18年以上の法律家または法学教育の活動経験があり、かつルーマニア国籍のみを有しルーマニアに在住する者||法学高等教育を除く公的私的職務<br>政党への加入は禁止||代議院 (3名)、元老院(3名)、大統領(3名)が各々任命する||憲法裁判所裁判官の秘密投票による互選<br>任期3年||・公布前の法律の違憲性審査<br>・憲法改正発議に対する違憲性審査<br>・各院の議院規則の違憲性審査<br>・法律・命令の違憲性に関する司法裁判所への申立てに対する審査<br>・大統領選挙の実施過程の監視及び選挙結果の確認<br>・大統領の職務代行を要する根拠となる状況の確認並びにこれに関する議会及び政府への報告<br>・大統領の職務停止に関する勧告<br>・国民投票の実施過程の監視及び投票結果の確認<br>・市民の立法発議権の実現過程の監視<br>・政党の違憲性の申立てに対する決定<br><br />
|-<br />
!{{RUS}}<br>{{仮リンク|ロシア憲法裁判所|en|Constitutional Court of Russia}}<br />
|19名||12年||70歳||不可||申し分のない評判を有する市民であって、法学高等教育を受け、15年以上の法律専門職経験を有し、法学の分野で高い資質を示す40歳以上の者||上下両院議員その他代議制機関の議員並びに高等研究教育及び個人的創造活動を除く全ての公的私的職業活動||連邦大統領の提案に基づき上院の絶対多数で任命する||憲法裁判所裁判官の秘密投票による互選<br>任期3年<br>再任可||・連邦法、大統領令等、及び未発効の国際条約と連邦憲法との適合性<br>・構成主体の憲法、法令、条約、構成主体と連邦の間の条約と連邦憲法との適合性・機関争訟<br>・市民の権利侵害の訴願及び裁判所の照会に基づく、法律の違憲性審査<br>・大統領、上院、下院、連邦政府、構成主体の立法機関の照会に基づく連邦憲法の解釈<br>・大統領弾劾が定められた手続を遵守したものであることについて、上院の照会に基づく審査<br />
|}<br />
<br />
==脚注==<br />
{{脚注ヘルプ}}<br />
{{reflist|2}}<br />
<br />
==参考文献==<br />
*金子宏・新堂幸司・平井宜雄編集代表「法律学小辞典」(第4版補訂版)、有斐閣、2008年。<br />
*野中俊彦・中村睦男・高橋和之・高見勝利「憲法 II」(第4版)、有斐閣、2006年。<br />
*[http://www.kenpoushinsa.sangiin.go.jp/kenpou/houkokusyo/houkoku/03_42_01.html 参議院憲法審査会『憲法解釈権と憲法裁判(違憲立法審査権)、憲法裁判所制度』]<br />
*[http://www.shugiin.go.jp/itdb_kenpou.nsf/html/kenpou/shukenshi029.pdf/$File/shukenshi029.pdf 「司法制度及び憲法裁判所に関する基礎的資料(憲法の有権解釈権の所在の視点から)」]、衆議院憲法調査会、2003年。<br />
*[http://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_kenpou.nsf/html/kenpou/chosa/shukenshi044.pdf/$File/shukenshi044.pdf#search='%E6%86%B2%E6%B3%95%E8%A3%81%E5%88%A4%E6%89%80+%E9%80%A3%E9%82%A6%E8%A3%81%E5%88%A4%E6%89%80+%E3%83%89%E3%82%A4%E3%83%84+16%E5%90%8D+125%E5%90%8D' 「憲法保障(特に、憲法裁判制度及び最高裁判所の役割)」に関する基礎的資料] - 衆議院憲法調査会、2004年。<br />
*[http://www.kantei.go.jp/jp/singi/sihou/kentoukai/seido/dai11/11siryou2.pdf 「諸外国等における最高裁判所裁判官任命手続等一覧表」]<br />
<br />
==関連項目==<br />
*[[連邦憲法裁判所]](ドイツ)<br />
*[[ハンガリー憲法裁判所]]<br />
*[[違憲審査制]]<br />
<br />
==外部リンク==<br />
*[http://www.kenpoushinsa.sangiin.go.jp/kenpou/houkokusyo/houkoku/03_42_01.html 参議院憲法審査会『憲法解釈権と憲法裁判(違憲立法審査権)、憲法裁判所制度』]<br />
*[http://www.shugiin.go.jp/itdb_kenpou.nsf/html/kenpou/shukenshi029.pdf/$File/shukenshi029.pdf 「司法制度及び憲法裁判所に関する基礎的資料(憲法の有権解釈権の所在の視点から)」] - 衆議院憲法調査会、2003年。<br />
*[http://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_kenpou.nsf/html/kenpou/chosa/shukenshi044.pdf/$File/shukenshi044.pdf#search='%E6%86%B2%E6%B3%95%E8%A3%81%E5%88%A4%E6%89%80+%E9%80%A3%E9%82%A6%E8%A3%81%E5%88%A4%E6%89%80+%E3%83%89%E3%82%A4%E3%83%84+16%E5%90%8D+125%E5%90%8D' 「憲法保障(特に、憲法裁判制度及び最高裁判所の役割)」に関する基礎的資料] - 衆議院憲法調査会、2004年。<br />
*[http://www.kantei.go.jp/jp/singi/sihou/kentoukai/seido/dai11/11siryou2.pdf 「諸外国等における最高裁判所裁判官任命手続等一覧表」]<br />
<br />
{{DEFAULTSORT:けんほうさいはんしよ}}<br />
[[Category:憲法裁判所|*]]</div>
103.226.44.9
マリアンヌ
2017-12-01T00:33:42Z
<p>103.226.44.9: /* マリアンヌのモデル */リンク</p>
<hr />
<div>{{Otheruses|フランスを象徴する女性像}}<br />
'''マリアンヌ'''(Marianne)は、[[フランス|フランス共和国]]を象徴する女性像、もしくはフランス共和国の[[擬人観|擬人化]]されたイメージである。'''[[自由の女神]]'''として知られている。<br />
<br />
[[フランス革命]]の際に[[サン・キュロット]]の象徴とされた[[フリジア帽]]と呼ばれる帽子をかぶっている。[[フランスのユーロ硬貨]]・[[切手]]・[[国璽]]などに描かれたり、庁舎などの公的施設にその彫像が設置されるなどして、[[共和制]]及び[[自由]]の象徴として国民に親しまれている。<br />
<br />
== マリアンヌのモデル ==<br />
[[画像:Paris_R%C3%A9publique_Zoom.jpg|thumb|right|170px|[[レピュブリック広場|共和国広場(パリ)]]に設置されているマリアンヌ像]]<br />
その時代のフランスの顔とも言える美しい女性の著名人が選ばれ、その胸像が作製されフランス国中の役所や公的な場所へ置かれることとなる。これまでに、下記の女性がマリアンヌのモデルに選ばれている。<br />
* [[ブリジット・バルドー]](女優、1970年 - 1978年)<br />
* [[ミレイユ・マチュー]](歌手、1978年 - 1985年)<br />
* [[カトリーヌ・ドヌーヴ]](女優、1985年 - 1989年)<br />
* [[イネス・ド・ラ・フレサンジュ]](ファッションモデル、1989年 - 2000年)<br />
* [[レティシア・カスタ]](ファッションモデル、2000年 - 2003年)<br />
* {{仮リンク|エヴリーヌ・トマ|fr|Évelyne Thomas}}(歌手、2003年 - 2012年)<br />
* [[ソフィー・マルソー]](女優、2012年 - )<br />
<br />
== フランスの国章 ==<br />
フランスは正式な[[国章]]を有しないが、フランスではマリアンヌの肖像がこれに準ずるものとして位置づけられている。フランス政府は[[1999年]]から、マリアンヌと[[フランスの国旗|三色旗]](トリコロール)をデザインした[[ロゴタイプ|ロゴマーク]]を政府公報などに使用している。当初は“青と赤を背景に、マリアンヌの白い横顔、下部にはフランス語で「自由・平等・博愛/フランス共和国」”だった<ref>2017年4月現在でも[https://jp.ambafrance.org/-Japonais- 在日フランス大使館公式サイト]では、このタイプのマリアンヌが使用されている</ref>が、現在は円形で“赤を背景に青でシルエットが描かれたマリアンヌの白い横顔”のデザインに改められている。<br />
<br />
なお、マリアンヌのほかに[[雄鶏]]をフランスの象徴とすることもある。世界の黎明を告げる[[啓蒙主義]]の伝統を具象化したものである。<br />
<br />
==脚注==<br />
{{Reflist}}<br />
<br />
== 外部リンク ==<br />
{{Commons category|Marianne}}<br />
* [http://www.france.fr/institutions-et-valeurs/marianne.html Marianne:infomations et cartes(マリアンヌの情報)](フランス政府による公式紹介サイト){{fr icon}}<br />
<br />
{{国の擬人化}}<br />
<br />
{{DEFAULTSORT:まりあんぬ}}<br />
[[Category:フランスの国の象徴]]<br />
[[Category:民主主義|まりあんぬ]]<br />
[[Category:国の擬人化]]<br />
{{France-stub}}</div>
103.226.44.9
エマニュエル・ド・グルーシー
2017-11-30T16:04:59Z
<p>103.226.44.9: /* 略歴 */補足</p>
<hr />
<div>[[File:EMMANUEL DE GROUCHY(1766-1847).jpg|right|250px]]<br />
'''エマニュエル・ド・グルーシー'''(Emmanuel de Grouchy,[[1766年]][[10月23日]] - [[1847年]][[5月29日]])は、[[フランス革命戦争]]・[[ナポレオン戦争]]期の[[軍人]]。[[フランスの元帥|帝国元帥]]。[[ナポレオン1世]]が任命した26人の元帥のうち最後に任命された一人で、それも1815年の[[百日天下]]においてだった。<br />
<br />
== 略歴 ==<br />
[[パリ]]生まれ。父親は[[アンシャン・レジーム]](旧体制 [[ブルボン朝]]フランス王国)時代の初代グルーシー侯爵。<br />
また、エマニュエルの二人の姉妹が嫁いだのは、それぞれ[[ニコラ・ド・コンドルセ]](社会学者、数学者)と、[[ピエール・ジャン・ジョルジュ・カバニス]](心理生理学者)なので、彼らは義兄弟となる。<!--当人フランス語版英語版参照--><br />
<br />
[[フリートラントの戦い]]や[[ライプツィヒの戦い]]で活躍したが、[[ワーテルローの戦い]]では[[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン]]の命令に固執して敗因を作ったとされている。<br />
<br />
ワーテルローの戦いでは、その2日前の[[リニーの戦い]]で破った[[ゲプハルト・レベレヒト・フォン・ブリュッヘル|ブリュッヘル]]率いる[[プロイセン]]軍を、騎兵35000人をもって追撃するようナポレオンから命じられていたものの、プロイセン軍に追いつき打撃を与えることが出来なかった。<br />
<br />
その後、ワーテルロー近くで砲声が聞こえていたにもかかわらず、追撃命令を墨守して、ナポレオンが率いる主力との合流を<!--躊躇して-->決断できなかった。<br />
<br />
このため、プロイセン軍は追撃を振り切り、ワーテルローの主戦場において初代[[ウェリントン公爵]][[アーサー・ウェルズリー (初代ウェリントン公爵)|アーサー・ウェルズリー]]率いるイギリス軍に有力な援軍として参戦する結果となってしまい、夕方まで優勢だったはずのフランス軍は敗北してしまった。<br />
<br />
ただし、このときにグルーシーの下にいた兵力は主力が敗走したにもかかわらず無傷のまま帰還した。この兵力はパリの留守を守っていた陸軍大臣の[[ダヴー]]元帥が収拾し、連合軍がなだれ込むのを防ぐ抑止力となった。<br />
<br />
[[第六次対仏大同盟]]によりナポレオンが[[エルバ島]]に流された後の[[フランス復古王政|復古王政]]期、[[ルイ18世 (フランス王)|ルイ18世]]にも重用されたが、[[百日天下]]でナポレオンが帰還した際に合流。そのため、ワーテルローで敗れた百日天下後の1815年から、ルイ18世に許される1819年まで[[アメリカ合衆国]]に亡命していた。<!--当人フランス語版英語版参照--><br />
<br />
1840年12月、ナポレオンの遺体がパリに帰還したときの式典に、ナポレオンが任命した元帥の内では[[ニコラ=ジャン・ド・デュ・スールト|スルト]]、[[ニコラ・ウディノ|ウディノ]]、[[ボン・アドリアン・ジャノー・ド・モンセー|モンセイ]]と共に彼も出席している。<br />
<br />
1847年、[[サン=テティエンヌ]]で死去。<br />
<br />
== 関連作品 ==<br />
*[[藤本ひとみ]]『ナポレオンに選ばれた男たち 勝者の決断に学ぶ』<br />
*[[シュテファン・ツヴァイク]]『人類の星の時間』 みすず書房<br />
{{DEFAULTSORT:くるし えまにゆえる}}<br />
[[Category:フランス第一帝政の元帥]]<br />
[[Category:1766年生]]<br />
[[Category:1847年没]]<br />
{{france-stub}}</div>
103.226.44.9
ポール・ヴェルレーヌ
2017-11-30T15:12:21Z
<p>103.226.44.9: /* 栄誉と窮乏 */補正</p>
<hr />
<div>{{出典の明記|date=2016年12月}}<br />
{{Infobox 作家<br />
| name = ポール・ヴェルレーヌ<br/>Paul Verlaine<br />
| image = Netsurf17 - Paul Verlaine.png<br />
| imagesize = 220px<br />
| caption = <br />
| birth_date = {{birth date|1844|03|30|mf=y}}<br />
| birth_place = {{FRA1830}} [[メス (フランス)|メス]]<br />
| death_date = {{死亡年月日と没年齢|1844|03|30|1896|1|8}}<br />
| death_place = {{FRA1870}} [[パリ]]<br />
| occupation = [[詩人]]<br />
| nationality = {{FRA}}<br />
| period = <br />
|influences= [[シャルル・ボードレール]], [[ルコント・ド・リール]], [[アルトゥル・ショーペンハウアー]], [[ヴィクトル・ユーゴー]], [[アルチュール・ランボー]]<br />
|influenced= [[アルチュール・ランボー]], [[トム・ヴァーレイン]]<br />
| movement = [[象徴主義]]<br />
| signature = <br />
}}<br />
'''ポール・マリー・ヴェルレーヌ'''(Paul Marie Verlaine, [[1844年]][[3月30日]] - [[1896年]][[1月8日]])は、[[フランス]]の詩人。'''ポール・ヴェルレーヌ'''、あるいは単に'''ヴェルレーヌ'''とも呼ばれる。[[ステファヌ・マラルメ]]、[[アルチュール・ランボー]]らとともに、[[象徴派]]といわれる。多彩に韻を踏んだ約540篇の詩の中に、絶唱とされる作品を含みながら、その人生は破滅的であった。<br />
<br />
== 生涯と作品 ==<br />
彼の一生には、酒・女・神・祈り・反逆・背徳・悔恨が混在した。晩年には文名を高め[[デカダンス]]の教祖と仰がれたが、初期の作品の方が評価されている。以下で、箇条書きの部分は文学的事項である。<br />
<br />
=== 生い立ち ===<br />
1844年-1864年<br />
<br />
ドイツに接する[[モゼル県]]の[[メス (フランス)|メス]]に生まれた。父は、ベルギー生まれのフランス軍人。母は、[[パ=ド=カレー県]][[アラス]]近郊の生まれ。経済的な環境は恵まれていた。父の退役後一家はパリ ([[9区 (パリ)|9区]]) に出(7歳)、ポールは小学校の寄宿舎に入り、次いで[[リセ]]・ボナパルト (Lycée Bonaparte、現在の9区にある名門校のリセ・コンドルセ<ref>[http://lyc-condorcet.scola.ac-paris.fr/ (Lycée Condorcet )]</ref>)に、さらに修辞学級に進むが卒業には至らなかった。[[バカロレア|大学入学試験]]に合格し(18歳)、[[パリ市庁舎|パリ市役所]]書記になる(20歳)。<br />
* 1858年(14歳):習作を[[ヴィクトル・ユーゴー]]に送る。このころ、[[シャルル・ボードレール|ボードレール]]の『[[悪の華]]』などの詩集を乱読する。<br />
* 1863年(19歳):雑誌に匿名の投稿をする。パリの文人らを知る。<br />
<br />
=== 青年期 ===<br />
1865年-1871年<br />
<br />
父を喪う(21歳)。18歳の美少女マチルド・モーテ(Matild Mauté)と婚約し(25歳)、翌年挙式。間もなく[[普仏戦争]](1870年7月19日 - 1871年5月10日)に召集された。1871年の[[パリ・コミューン]]鎮圧(5/20 - 28)の騒擾を、パリの[[パンテオン (パリ)|パンテオン]]近くの自宅で避けた。失職した。長男ジョルジュ誕生(27歳)。<br />
* 1866年(22歳):詩人らが稿を持ち寄った第1次「現代高踏詩集」(Le Parnasse contemporain)に、7篇を寄稿。<br />
* 1867年(23歳):'''サテュルニアン詩集'''(Poèmes saturniens)を従姉の費用で処女出版。[[ブリュッセル]]で'''女の友達'''(Les Amies)を匿名で刊行(後に「雙心詩集」に収録)。<br />
* 1868年(24歳):文壇の知人を増やす。「女の友達」で、軽罪裁判所に処罰される。ブリュッセル在のユーゴーを訪問。<br />
* 1869年(25歳):「よき歌」の数篇を書く。'''艶なる宴'''(Fêtes galantes)刊行。<br />
* 1871年(27歳):第2次「現代高踏詩集」に、5篇を投稿。<br />
<br />
=== ランボー ===<br />
[[ファイル:Henri Fantin-Latour 005.jpg|thumb|前列左よりヴェルレーヌ、[[アルチュール・ランボー|ランボー]]、L・ヴァラード、E・デルヴィリィ、C・ペルタン、後列左よりP・エルゼアル・ボニエ、E・ブレモン、J・エカール。[[アンリ・ファンタン=ラトゥール]]筆|250px|right]]<br />
1871年-1875年<br />
<br />
結婚1年後、[[アルチュール・ランボー|ランボー]]と会い、妻に乱暴を繰り返した上に彼と同棲し、[[イギリス]]・[[ベルギー]]・北仏を転々した。母と妻が説得に来ても置き去りにして逃げ、妻に絶縁状を書いた。ユーゴーに妻との交渉を懇願した。ロンドンで病臥し、母を呼んだ(28歳)。ホテルで口論となったランボーをブリュッセルで購入した拳銃で2発撃ち、1発が手首に命中したが致命傷にはならなかった<ref name=afpbb1>[http://www.afpbb.com/articles/-/3109739 ランボー殺害未遂で使用の銃、5260万円で落札 写真5枚 国際ニュース:AFPBB News]</ref>。この騒動により2年間収監された<ref name=afpbb1 />。この拳銃は2016年にクリスティーズで競売にかけられ、43万4500ユーロで落札された<ref name=afpbb1 />。妻の別居請求(この時点では離婚はしていない)が認められたことを獄中で知って落胆し、カトリックに帰依した。一年半後出獄し、元妻との和解をはかる一方、旅先でランボーと格闘した(31歳)。<br />
* 1872年(28歳):婚約時代のマチルドを歌った'''優しき歌'''(La Bonne chanson)、戦乱に遅れて発行。<br />
* 1874年(30歳):獄中で書いた'''無言の恋歌'''(「言葉なき恋歌」とも/Romances sans paroles)が友人の手で刊行され、獄中の著者に届けられる。<br />
* 1875年(31歳):第3次「現代高踏詩集」への投稿を忌避される(このとき、マラルメも同様)。<br />
<br />
=== 教職と美少年 ===<br />
1875年-1885年<br />
<br />
イギリスの中学に教職を得た(31歳)。[[アルデンヌ県]]の学校に転じ、生徒中の美少年リュシアン・レチノアに惚れて授業をおろされる(33歳)。その後リュシアンと英国へ渡り、教職を得た。元妻との和解をまたはかり、黙殺された(35歳)。リュシアンを伴い帰国し、その郷里に滞留(36-37歳)。母と暫くパリに住み、市役所への復職をはかるも果せず、西郊の学校に就職した(38歳)。リュシアンが死に(39歳)、その故郷で堕落放浪の日を送った(-40歳)。泥酔して母の頸を絞め、入牢。出獄後またリュシアンの故郷を放浪した(41歳)。<br />
* 1881年(37歳):'''叡智'''(Sagesse)刊行、売れ行き振るわず。<br />
* 1882年(38歳):雑誌に、「昔と近頃」の数詩篇と、獄中作の'''詩法'''(Art poétique)を発表(「詩法」は後に「昔と近頃」に併載)。<br />
* 1884年(40歳):評論、'''呪われた詩人たち'''(Les Poètes maudits)刊行。<br />
<br />
=== 栄誉と窮乏 ===<br />
1885年-1896年<br />
<br />
無一文でパリへ戻りホテル住まいした。左膝を患い、一時慈善病院へ(41歳)。経済的援助をしていた母が死亡するが、葬儀には病気で不参。ホテルを追い出され(42歳)、以降慈善病院を転々とする(42歳-)。慈善病院から娼婦ウジェニー・クランツの家へ転じ、情夫となった。生活費のため、オランダへ講演旅行(48歳)。ウジェニーに駆け落ちされ、慈善病院入院。娼婦フィロメーヌ・ブーダンに連れ出された。国内およびイギリスへ講演旅行をした(49歳)。ウジェニーと和解しまた同棲した。入院2回(50歳)。文部省から救済の500フランを受け取る。パンテオン近くの自宅<ref name="A">「パリの胃袋」として名高い[[ムフタール通り]] (Rue Mouffetard) と繋がり、名門高校([[リセ]])のアンリ四世校の裏手にあるデカルト通り (Rue Descartes) 39番地にある。この建物は現在『ヴェルレーヌの家』と呼ばれる[[レストラン]]になっているが、内装はヴェルレーヌ関係のものは一切なく映画俳優らの写真を並べたもので、価格も同じ通りのほかのレストランに倣い旅行者向けの手ごろな値段である。またこの建物の左隣には[[辻邦生]]が在住したと記した、ヴェルレーヌのものより一回り小さい記念プレートが掲げられている。</ref>で、娼婦に看取られて死去。遠からぬ[http://www.ardds.org/html/sortiesparisiennes/eglisestetiennedumont.htm サン・テチエンヌ・デュ・モン教会]で葬儀。[[マラルメ]]、フランソワ・コペー([[:fr:François Coppée]])ほか参列者多数。ただし、[[入営]]し病中の息子ジョルジュは不参加。パリ市[[17区 (パリ)|17区]]の[[:en:Batignolles Cemetery|バチニョル墓地(Cimetière des Batignolles)]]に埋葬(51歳)。<br />
<br />
日本では、東大生の[[上田敏]]が、「ポオル・ヴェルレエヌ逝く」(1896)を発表した。<br />
* 1885年(41歳):漸く文名を世に知られる。'''昔と近頃'''(Jadis et naguère)刊行。<br />
* 1886年(42歳):雑誌に「パルジファル」(Parsifal)掲載。<br />
* 1888年(44歳):'''愛の詩集'''(Amour)刊行。<br />
* 1889年(45歳):'''雙心詩集'''(Parallèlement)刊行。<br />
* 1890年(46歳):'''献書詩集'''(Dédicaces)予約出版。<br />
* 1891年(47歳):文名ますます高まる。「人さまざま」(Les Une et les Autres)上演。'''幸福'''(Bonheur)、「ヴェルレーヌ選集」、'''女に捧げる歌'''(Chansons pour elle)刊行。<br />
* 1892年(48歳):'''我が病院'''(Mes hôpitaux)、'''内なる祈祷の書'''(Liturgies intimes)刊行。<br />
* 1893年(49歳):プリューム(La Plume)誌の第8回饗宴の座長を務める。[[アカデミー・フランセーズ]]の会員に立候補し、取り消す。'''哀歌'''(Élégies)、'''その名誉を讃える歌'''(Odes en son honneur)、'''獄中記'''(Mes prisons)、'''オランダ15日'''(Quinze jours en Hollande)刊行。<br />
* 1894年(50歳):'''奈落の底'''(Dans les limbes)刊行。[[ルコント・ド・リール]]の後任として、「詩王」(Prince de Poéte)に選ばれる。'''エピグラム'''(Épigrammes)刊行。<br />
* 1895年(51歳):'''懺悔録'''(Confessions)刊行。「失意」Désappointement執筆。<br />
<br />
==日本語文献==<br />
*おもな日本語訳<br />
** 「海潮音」、[[上田敏]]訳、本郷書院(1905年) → 新潮文庫(改版2006年)ISBN 9784101194011<br />
** 「珊瑚集」、[[永井荷風]]訳、籾山書店(1913年) → 岩波文庫(改版1991年)ISBN 978-4003104163<br />
** 「ヴェルレエヌ詩集」、[[鈴木信太郎 (フランス文学者)|鈴木信太郎]]訳、創元社(1947年)(詳細な年譜あり) → 岩波文庫(改版2004年)ISBN 9784003254714 → 「全集. 2巻 訳詩編」、大修館書店<br />
**「叡智」、[[河上徹太郎]]訳、芝書店(1935年)→ 新潮文庫(復刊1994年)ISBN 9784102171028 → 「全集.7巻 翻訳編」、勁草書房<br />
** 「ヴェルレーヌ詩集」、[[堀口大學]]訳、新潮社 世界詩人全集8 (1937年) → 新潮文庫(改版2007年)ISBN 9784102171011 → 「全集.3巻 訳詩編」、小澤書店<br />
** 「ヴェルレーヌ詩集」、[[野村喜和夫]]訳編、[[思潮社]]「海外詩文庫」 (1995年)新書版<br />
*おもな伝記作品研究<br />
** 『堀口大學全集.5巻 「ヴェルレーヌ研究」』、[[小澤書店]](1983年)<br />
** ピエール・プチフィス、『ポール・ヴェルレーヌ』、平井啓之、野村喜和夫訳、[[筑摩書房]](1988年)<br />
** [[アンリ・トロワイヤ]] 『ヴェルレーヌ伝』 [[沓掛良彦]]、中島淑恵訳、[[水声社]]、(2006年)<br />
** 野内良三 『ヴェルレーヌ 人と思想』 [[清水書院]] (1993年) 新書版<br />
<br />
== 歌曲 ==<br />
以下の作曲家がヴェルレーヌの詩による歌曲を作曲している。<br />
* [[ガブリエル・フォーレ]] - 『艶なる宴』から4篇、『言葉なき恋歌』から2篇、『優しき歌』から9編、他<br />
** 「月の光」Op.46-2(1887年)<br />
** 「憂鬱」op.51-3(1889年)<br />
** 歌曲集『5つのヴェネツィアの歌』Op.58(1891年、5曲)<br />
*** 「マンドリン」「ひめやかに」「グリーン」「クリメーヌへ」「やるせない夢心地」<br />
** 歌曲集『優しき歌』op.61(1891年 - 1892年、9曲)<br />
*** 「後光を背負った聖女」「暁の光は広がり」「白い月影は森に照り」「私はつれない道を歩む」「私は本当に恐ろしいほど」「暁の星よ、お前が消える前に」「それはある夏の明るい日」「そうでしょう?」「冬が終わって」<br />
** 「牢獄」Op.83-1(1895年)<br />
* [[クロード・ドビュッシー]] - 『艶なる宴』から9篇、『言葉なき恋歌』から6篇、『叡智』から3篇<br />
** 「操り人形」(1882年)<br />
** 「ひめやかに」(1882年)<br />
** 「マンドリン」(1882年)<br />
** 「パントマイム」(1882年)<br />
** 「月の光」(1882年)<br />
** 歌曲集『忘れられたアリエッタ』(1886年 - 1889年、6曲)<br />
*** 「やるせない夢心地」「巷に雨の降るごとく」「木陰にて」「木馬」「緑」「憂鬱」<br />
** 歌曲集『艶なる宴』第1集(1891年、3曲)<br />
*** 「ひめやかに」「操り人形」「月の光」<br />
** 歌曲集『3つの歌曲』(1891年、3曲)<br />
*** 「海はさらに美しく」「角笛の音は悲しく」「垣根のつらなり」<br />
** 歌曲集『艶なる宴』第2集(1894年、3曲)<br />
*** 「無邪気な人たち」「牧神」「感傷的な対話」<br />
* [[モーリス・ラヴェル]] - 『艶なる宴』から1編、『叡智』から1篇<br />
** 「暗く果てしない眠り」(1895年)<br />
** 「草の上で」(1907年)<br />
<br />
== 肖像画 ==<br />
<gallery widths="160px" heights="160px"><br />
File:Frédéric Bazille - Paul Verlaine.jpg|1844-1877年<br />[[ギュスターヴ・クールベ]]画<br />
File:CarrierePortraitVerlain.jpg|1890年<br />[[ウジェーヌ・カリエール]]画<br />
File:Paul Verlaine-Edmond Aman-Jean mg 9503.jpg|1892年<br />[[エドモン=フランソワ・アマン=ジャン]]画<br />
File:Paul Verlaine-Edouard Chantalat mg 9502.jpg|1898年<br />
</gallery><br />
<br />
== 脚注 ==<br />
{{Reflist}}<br />
<br />
== 関連項目 ==<br />
{{Wikisourcelang|fr|Auteur:Paul Verlaine|ポール・ヴェルレーヌ}}<br />
{{commons|Paul Verlaine}}<br />
* [[太陽と月に背いて]]<br />
<br />
== 外部リンク ==<br />
* [http://www.poesie.webnet.fr/lesgrandsclassiques/recherche.php?nbRechercheDunAuteur=1&Auteur=VERLAINE%20Paul&Pays=8FR&Age=18&Vers=&Titre=&mots_entiers=l ヴェルレーヌの多くの詩]<br />
{{Normdaten}}<br />
{{DEFAULTSORT:うえるれぬ ほる}}<br />
[[Category:フランスの詩人]]<br />
[[Category:象徴派の詩人]]<br />
[[Category:LGBTの著作家]]<br />
[[Category:両性愛の人物]]<br />
[[Category:メス出身の人物]]<br />
[[Category:1844年生]]<br />
[[Category:1896年没]]</div>
103.226.44.9
シャルル・ガルニエ
2017-11-30T05:21:00Z
<p>103.226.44.9: /* 経歴・概要 */内容修正</p>
<hr />
<div>{{Infobox 建築家<br />
|image = Charles Garnier architect.jpg<br />
|image_size = <br />
|caption = <br />
|name = <small>シャルル・ガルニエ</small><br />Charles Garnier<br />
|nationality = {{FRA}}<br />
|birth_date = [[1825年]][[11月6日]]<br />
|birth_place = [[パリ]]<br />
|death_date = {{死亡年月日と没年齢|1825|11|6|1898|8|3}} <br />
|death_place = [[パリ]]<br />
|alma_mater = [[エコール・デ・ボザール]]<br />
|occupation = [[建築家]]<br />
|practice_name = <br />
|significant_buildings=[[ガルニエ宮|オペラ座]]<br />[[モンテカルロ歌劇場]]<br />
|significant_projects =<br />
|significant_design = <br />
|literary_works = <br />
|awards = [[ローマ賞]](1848年)<br />
|website = <br />
}}<br />
'''シャルル・ガルニエ'''(Charles Garnier、[[1825年]][[11月6日]] - [[1898年]][[8月3日]])は、[[フランス]]の[[建築家]]。パリ・オペラ座([[ガルニエ宮]])や[[モンテカルロ]]の国営[[カジノ]]の設計で知られる。<br />
<br />
== 経歴・概要 ==<br />
1825年、パリの[[下町]]である現在の[[5区 (パリ)|パリ5区]][[ムフタール通り]](ムフタール街)に生まれる。父は[[鍛冶]]職人で、母は[[レース (手芸)|レース]]編屋。親は教育熱心で、学費捻出のために働いたという。[[1842年]]、[[エコール・デ・ボザール]]に併設する[[新古典主義建築]]の大家[[ルイ=イボリット・ルバ]]のクラスの下に学び師事する。卒業試験に際しては、「工業製品の展示ギャラリーと[[フランス国立工芸院|コンセルヴァトワール・デザール・エ・メティエ]] (''Un conservatoire des arts et métiers, avec galerie d'expositions pour les produits de l'industrie'')」を提出している。<br />
<br />
[[1848年]]、23歳の時にボザールにおけるテーマで[[ローマ大賞]]を受賞する。翌[[1849年]]、{{仮リンク|ローマ・フランスアカデミー|fr|Académie de France à Rome}}の奨学金給付生となり留学した。留学中は[[ローマ]]のほか[[シチリア]]、さらには[[ギリシャ王国|ギリシャ]]も回り、古代建築への情熱を駆り立て、それらの研究成果を[[1853年]]、[[サロン・ド・パリ]]に出品した。その後、[[エドモン・アブー]]とギリシャを、また、[[テオフィル・ゴーティエ]]と[[コンスタンチノープル]]をそれぞれ訪れた。[[アイギナ島]]の[[アパイアー|アファイア神殿]]の影響を受けて、多色画法を学ぶようになった。<br />
<br />
帰国後はバリューのもとで修行し、1860年に[[ガルニエ宮|オペラ座]]の[[建築設計競技]]で当選し、ガルニエ設計による壮麗なオペラの殿堂が実現する(1862年 - 1875年)。[[1874年]]、[[フランス学士院]]会員と同時に、[[芸術アカデミー|アカデミー・デ・ボザール]]建築部門に名を連ねるが、アトリエは持たなかった。<br />
<br />
== 主な作品 ==<br />
[[ファイル:Paris Opera full frontal architecture, May 2009.jpg|thumb|パリ・オペラ座(ガルニエ宮)]]<br />
[[ファイル:Monte Carlo Casino.jpg|thumb|モンテカルロ国営カジノ]]<br />
=== フランス国内における作品 ===<br />
* [[パリ]]<br />
** オペラ座([[ガルニエ宮]])<br />
** マリニー劇場 {{enlink|Théâtre Marigny|p=off|s=off}}(マリニーの前景 ex-Panorama de Marigny)<br />
** サン・ジェルマン大通り図書館広場 The circle of the librairy, boulevard Saint-Germain<br />
** オテル・マルティキュリエール The hôtel particulier rue du Docteur-Lancereaux (メゾン・オペラ "maison opéra")<br />
** [[ジャック・オッフェンバック]]の墓([[モンマルトル墓地]]内、[[1880年]])<br />
** The Ateliers Berthier, on the boulevard of the same name, the annex of the Opéra and it's fabrication workshops for decorations and storage of costumes and scenery. This building was his last realisation.<br />
* [[プロヴァンス]]<br />
** The casino and thermal baths of Vittel<br />
** The église of {{enlink|Chapelle-en-Thiérache|p=off|s=off}}<br />
** [[ニース天文台]] ([[ギュスターヴ・エッフェル]]との共作)<br />
<br />
=== フランス国外における作品 ===<br />
* [[モナコ]]<br />
** [[モンテカルロ]]国営カジノ、オペラ座、グラントテル・ド・パリ<br />
* [[イタリア]]・[[ボルディゲーラ]](ガルニエはしばしばこの地を訪れている)<br />
** The Église de Terrasanta<br />
** The École Communale, today the Mairie de la ville<br />
** ヴィラ・ビシュホーフスハイム Villa Bischoffsheim(現ヴィラ・エテリンダ Villa Etelinda)<br />
** ガルニエ荘(ヴィラ・ガルニエ) Villa Garnier ([[1872年]])<br />
** ヴィラ・スタジオ Villa Studio<br />
<br />
== 引用 ==<br />
* In 1851, alors qu'il est pensionnaire à la Villa Médicis à Rome et à l'occasion d'un voyage à Athens, Garnier s'exclame en découvrant le Parthenon : ''"Il n'y a pas à choisir entre les arts, il faut être Dieu ou architecte."''<br />
* ''"Les ingénieurs ont de fréquentes occasions d'employer le fer en grandes parties, et c'est sur cette matière que plus d'un fonde l'espoir d'une architecture nouvelle. Je lui dis tout de suite, c'est là une erreur. Le fer est un moyen, ce ne sera jamais un principe."''<br />
<br />
== 外部リンク ==<br />
{{commons|Charles Garnier}}<br />
* [http://www.greatbuildings.com/architects/Charles_Garnier.html Charles Garnier Biography]<br />
* [http://en.structurae.de/persons/data/index.cfm?ID=d002090 Structurae biography]<br />
<br />
{{RIBAゴールドメダル}}<br />
{{Authority control}}<br />
{{Architecture-stub}}<br />
{{France-stub}}<br />
{{artist-stub}}<br />
<br />
{{DEFAULTSORT:かるにえ しやるる}}<br />
[[Category:フランスの建築家]]<br />
[[Category:パリ出身の人物]]<br />
[[Category:1825年生]]<br />
[[Category:1898年没]]</div>
103.226.44.9
赤頭巾ちゃん気をつけて
2017-11-13T16:35:10Z
<p>103.226.44.9: 細部 固有名詞化した、より略称で</p>
<hr />
<div>{{Portal 文学}}<br />
『'''赤頭巾ちゃん気をつけて'''』(あかずきんちゃんきをつけて)は、日本の小説家・[[庄司薫]]の小説。[[学生運動]]を背景に[[東京都立日比谷高等学校|日比谷高校]]の生徒、薫の生活を軽妙な文体で描いた作品で、[[ベストセラー]]となり映画化もされた。<br />
<br />
『[[中央公論]]』[[1969年]]5月号に掲載された。同年7月、第61回[[芥川龍之介賞|芥川賞]]受賞。8月10日、[[中央公論新社|中央公論社]]より刊行された。『白鳥の歌なんか聞えない』『さよなら快傑黒頭巾』『ぼくの大好きな青髭』に続く四部作<ref>「青竜、朱雀、白虎、玄武」の4色を揃えたタイトル。大相撲の吊り天井の四隅の房は東西南北の方位を表し、東に「青竜」、南に「朱雀」、西に「白虎」、北に「玄武」と象徴的な聖獣を四神として配している。「青春、朱夏、白秋、玄冬」とともに古代中国に端を発した「[[五行説]]」に基づくものである。</ref>の第一作にあたる<ref>この作品がタイトルからして[[J・D・サリンジャー]]の『[[ライ麦畑でつかまえて]]』の影響にあることは明白である。比較した論文は多いが、例えば[[渡辺利雄]]『アメリカ文学に触発された日本の小説』([[研究社]][[2014年]]pp.205-229がある。</ref>。<br />
<br />
== あらすじ ==<br />
語り手は[[東京都立日比谷高等学校|都立日比谷高校]]三年生の庄司薫くんである。薫くんは[[学校群制度]]が導入される前の最後の日比谷高校生にあたる。[[1969年]][[2月9日]]の日曜日一日のできごとを、薫くんの饒舌な語りでつづる。1968年暮れ、[[東大紛争]]により東大入試が中止になり、受験するつもりだった薫くんは悩み、願書提出期限を翌日に控えて、大学へ行くのをやめる決心をしている。兄や姉はすでに独立し、父は昨日からゴルフへ行っていて不在、家には母しかいない。小学校までの幼馴染のガールフレンド由美は、中学校から女子大付属に行っている。「'''舌かんで死んじゃいたい'''」が口癖である。昨日は十年飼っていた犬のドンが死に、薫くんは足の親指の爪をはがした。<br />
<br />
大学紛争について、[[米帝]]について、[[サルトル]]や『[[椿姫]]』、[[酒井和歌子]]や[[水前寺清子]]、世界史関係の固有名詞がふんだんに登場する文章で思弁を続ける。知り合いのおばさんなどは、薫くんがやはり[[京大]]か[[一橋大学]]を受けるのかといったことを訊いてくる。電車に乗って[[有楽町駅]]で降りて[[銀座]]をぶらぶらしていると小さい女の子に遭遇して、少しおしゃべりし、[[旭屋書店]]で女の子は[[グリム童話]]の本を買う。薫くんはタクシーで帰宅して医者に寄ったあとで由美の家へ行き、大学へ行くのをやめると告げ、二人で手をつなぐ。<br />
<br />
== 映画 ==<br />
[[1970年]][[8月4日]]公開。製作、配給は[[東宝]]。[[カラー]]、[[シネマスコープ]]。劇中歌はいずれも、作詞・[[岩谷時子]] 作曲・[[いずみたく]]の、「[[恋の季節]]」(唄・[[ピンキーとキラーズ]])、「赤頭巾ちゃん気をつけて」(唄・[[佐良直美]])。併映は[[東京映画]]制作・[[岩下志麻]]主演『[[その人は女教師]]』(監督:[[出目昌伸]])。<br />
<br />
=== スタッフ ===<br />
* 監督:[[森谷司郎]]<br />
* 製作:[[金子正且]]、[[貝山知弘]]<br />
* 原作:[[庄司薫]]<br />
* 脚本:[[井手俊郎]]、森谷司郎 <br />
* 音楽:[[いずみたく]]<br />
* 撮影:[[中井朝一]]<br />
* 美術:[[阿久根厳]]<br />
* 録音:[[伴利也]]<br />
* 照明:[[隠田紀一]]、[[高島利雄]]<br />
* 編集:[[岩下広一]]<br />
<br />
=== キャスト ===<br />
* [[庄司薫]]:[[岡田裕介]]<br />
* 下条由美:[[森和代 (女優)|森和代]]<br />
* 小林:[[富川徹夫]]<br />
* 女医:[[森秋子]]<br />
* 薫の母:[[風見章子]]<br />
* 薫の次兄:[[中尾彬]]<br />
* ヨッちゃん:[[山岸映子]]<br />
* 紀久子:[[四方正美]]<br />
* 地下鉄の女:[[結城美栄子]]<br />
* 松岡:[[廣瀬昌亮|広瀬正助]]<br />
* 看護婦:[[松村幸子]]<br />
* 本多夫人:[[宝生あやこ]]<br />
* 黒い帽子の夫人:[[山岡久乃]]<br />
<br />
{{森谷司郎監督作品}}<br />
<br />
== 脚注 ==<br />
{{Reflist}}<br />
<br />
{{lit-stub}}<br />
{{movie-stub}}<br />
{{DEFAULTSORT:あかすきんちやんきをつけて}}<br />
[[Category:日本の小説]]<br />
[[Category:1969年の小説]]<br />
[[Category:芥川龍之介賞]]<br />
[[Category:高等学校を舞台とした小説]]<br />
[[Category:東京都心を舞台とした作品]]<br />
[[Category:1970年の映画]]<br />
[[Category:東宝製作の映画作品]]<br />
[[Category:日本の青春映画]]<br />
[[Category:森谷司郎の監督映画]]<br />
[[Category:小説を原作とする映画]]<br />
[[Category:高等学校を舞台とした映画作品]]<br />
[[Category:中央公論]]</div>
103.226.44.9
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