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http:///mymemo.xyz/wiki/api.php?action=feedcontributions&user=103.226.44.7&feedformat=atom miniwiki - 利用者の投稿記録 [ja] 2024-04-28T00:53:34Z 利用者の投稿記録 MediaWiki 1.31.0 モンパルナス 2019-03-03T23:45:23Z <p>103.226.44.7: 文微修正</p> <hr /> <div>[[Image:LeDomeAtNight.jpg|thumb|right|250px|カフェ『ル・ドーム』(Le Dôme)。]]<br /> [[Image:14e arrondissement.jpg|thumb|right|300px|モンパルナス付近(14区)空撮]]<br /> &#039;&#039;&#039;モンパルナス地区&#039;&#039;&#039;({{lang-fr-short|Quartier du Montparnasse}})は、[[パリ]]の第53番目の[[カルティエ (曖昧さ回避)|カルチエ]]([[パリの行政区|行政地区]])で、[[セーヌ川]]左岸[[14区 (パリ)|14区]]に所在する地区である。<br /> <br /> 但し、[[トゥール・モンパルナス]](モンパルナス・タワー)は西側の[[15区 (パリ)|15区]]に位置する。北側の[[5区 (パリ)|5区]]、[[6区 (パリ)|6区]]と接した一帯、モンパルナス大通りとラスパイユ大通りの交差点を中心とした地区である。[[フランス国鉄]]や[[メトロ (パリ)|地下鉄]]のモンパルナス駅がある交通の要所となっており、ビジネスと商業の拠点として[[オフィスビル]]、[[映画館]]、ショッピングセンターなどが集中する。商店や[[スーパーマーケット]]、[[レストラン]]は、庶民的なものから高級なものまで何でも揃っている。<br /> <br /> [[1920年代]]の[[狂騒の20年代|狂乱の時代]]、[[エコール・ド・パリ]]の時代の[[芸術家]]たちの中心地としても有名である。<br /> <br /> == モンパルナス周辺のみどころ ==<br /> * [[モンパルナス駅]]<br /> :フランス国鉄の駅で、フランス西部・西南部方面へ向かうパリのターミナル駅のひとつ。[[1840年]]開業。[[1960年代]]に現在の姿になった。[[ブルターニュ]]方面の列車が出るほか、[[トゥール (アンドル=エ=ロワール県)|トゥール]]、[[ボルドー]]、[[ル・マン]]方面の[[TGV]]が発着する。オフィスビル群や大庭園も備えた現代的な建築の複合体で、TGV開通の[[1990年]]に増築されている。<br /> :駅の北には[[メトロ (パリ)|地下鉄]]の[[モンパルナス=ビヤンヴニュ駅]]があり、4号線、6号線、12号線、13号線が交差する[[乗換駅]]になっている。<br /> * [[トゥール・モンパルナス]](モンパルナス・タワー)<br /> :パリで最初に建設された、現在でも有数の高さの[[超高層ビル]]。[[1973年]]に完成し、高さ210m、56階建て。完成当時西ヨーロッパ一の高さを誇った。もとのモンパルナス駅を[[1969年]]に取り壊したあとに建てられている。<br /> * 1940年6月18日広場<br /> :レンヌ通りがモンパルナス大通りに突き当たる[[広場]]で、モンパルナスの道路交通の中心。旧モンパルナス駅の[[駅前]]広場。パリ[[陥落]]後[[イギリス]]に亡命した[[シャルル・ド・ゴール]]は、[[1940年]][[6月18日]]に対独徹底抗戦を呼びかける歴史的ラジオ[[演説]]を行ったが、これを記念し「レンヌ広場」から改名された。<br /> * [[モンパルナス墓地]]<br /> :1824年、当時パリ市外だったこの地に作られた。多くの[[知識人]]、芸術家が眠っているため観光名所となっている。<br /> * [[ブールデル美術館]]<br /> :彫刻家[[アントワーヌ・ブールデル]]の家及び[[アトリエ]]を改修した美術館。彼の作品や習作などを展示。展示空間の設計は[[建築家]][[クリスチャン・ド・ポルザンパルク]]による。<br /> * [[カルティエ財団現代美術館]]<br /> :モンパルナス墓地の近くにある、[[カルティエ]]が運営する[[現代 (時代区分)|現代]][[美術館]]。[[ジャン・ヌーヴェル]]の設計による。<br /> * [[パスツール研究所]]<br /> * [[カタコンブ・ド・パリ]](地下墓地)<br /> :モンパルナス周辺の地下には[[カタコンベ|カタコンブ]](地下墓地)がある。墓地の不足のため、[[1786年]]から19世紀初頭までの間に、[[採石場]]跡の[[迷宮]]のような[[トンネル]]に市内各地から数百万体の[[骸骨]]が集められている。<br /> <br /> また、北方向には[[リュクサンブール公園]]と[[リュクサンブール宮殿]]([[6区 (パリ)|6区]])が、また[[大学]]の集中する[[カルチェ・ラタン]]([[5区 (パリ)|5区]]、6区)や、やはり芸術家の溜まり場となる[[カフェ]]の多い[[サン=ジェルマン=デ=プレ]](6区)などの地区が隣接している。<br /> <br /> == 歴史 ==<br /> モンパルナスの名は[[ギリシア神話]]にある[[パルナッソス山]](文芸の[[女神]]たち、[[ムーサ|ミューズ]]の9柱の[[姉妹]]が住み遊んだとされる山)から来たあだ名である。[[17世紀]]ごろ、[[丘]]の多いパリ南郊のこの地に[[学生]]たちが集まり、[[詩]]の朗読会をするなど遊び場としていたことから、「パルナッソス山」とあだ名されるようになった。ただし丘は[[18世紀]]、モンパルナス大通りの建設のために削られて平らになってしまっている。[[フランス革命]]の頃には多くの[[キャバレー]]や[[ダンスホール]]が並ぶ[[歓楽街|歓楽地]]となっていた。<br /> <br /> == 芸術家たちのモンパルナス ==<br /> [[Image:LaCloseriedesLilas.jpg|thumb|right|250px|カフェ「ラ・クロズリ・デ・リラ」、1909年]]<br /> <br /> セーヌ川の反対側の地区・[[モンマルトル]]と同様、モンパルナスは[[20世紀]]前半、世界の[[芸術家]]の集う地として有名になった。特に[[第一次世界大戦]]後の開放感と好[[景気]]で浮かれた&#039;&#039;&#039;[[狂騒の20年代|狂乱の時代]]&#039;&#039;&#039;(レ・ザネ・フォル、Les Années Folles)といわれる[[1920年代]]、モンパルナスはパリの知識人・芸術家の生活の中心となっている。[[1910年]]ごろから、パリの芸術家のサークルは、[[印象派]]など前の世代の芸術家たちの[[揺籃]]の地であったが、[[観光地]]や[[高級住宅街]]([[ジェントリフィケーション]])となってしまったモンマルトルから、次第に[[家賃]]の安いモンパルナスに移動した。<br /> <br /> 意志が強く頑固で論争を厭わない、モンマルトルに住む[[パブロ・ピカソ|ピカソ]]ら[[移民]]の芸術家たちは、[[19世紀]]末に活躍したパリっ子の[[エミール・ゾラ]]、[[エドゥアール・マネ]]、[[エドガー・ドガ]]、[[ガブリエル・フォーレ]]たちや、[[ダンディ]]さを洗練させることに浸って実際の芸術的傾向よりも[[地位]]から来る親和性によって集まるフランス人の芸術家集団とは、経済的にも社会的にも政治的にも対極にあった。こうした移民芸術家たちが[[1910年代]]以降、モンマルトルを去りモンパルナスへと移る。<br /> <br /> === 外国人たちのモンパルナス ===<br /> [[ファイル:La-ruche-2-montparnasse-paris-1918-amedeo-modigliani.jpg|サムネイル|170x170ピクセル|集合アトリエ兼住宅「[[ラ・リューシュ]]」(1918年)]]<br /> モンパルナスは[[1900年代]]までは、北隣の大学地区、[[カルチェ・ラタン]]に通う学生の[[下宿]]や[[荒地]]が広がっていた場所で、家賃や[[物価]]はじめ、何もかもが安いさびれた[[郊外]]であり、[[区画整理]]が進んで[[市街地]]化した[[1900年代]]後半になっても基本的な変化はなかった。世界中から集まった金のない画家、[[彫刻家]]、[[小説家]]、[[詩人]]、[[作曲家]]たちは、安い家賃や物価のため、また創造的な環境に身を置いて成功のチャンスを掴むため、「&#039;&#039;&#039;[[ラ・リューシュ]]&#039;&#039;&#039;(La Ruche)」のような[[集合住宅]]に住み、芸術家の[[コミューン]]を作り上げた。ラ・リューシュでは[[マルク・シャガール]]、[[アメデオ・モディリアーニ]]、[[シャイム・スーティン]]らが[[水道]]や[[暖房]]のない[[アトリエ]]で、[[ネズミ]]や[[シラミ]]に苦しみながら、食べるために作品をわずかな金で売っていた。[[ジャン・コクトー]]はかつて、モンパルナスでは貧困すら贅沢だと言った。[[キュビスム]]や[[フォーヴィスム]]を支援した[[ヘンリー・カーンワイラー]]などの[[画商]]に見出され、売り出されたこれらの芸術家の作品は、今日では数億円の値で取引されるほどになっている。<br /> <br /> モンパルナスには全世界から芸術家がやってきた。パリの[[アメリカ合衆国|アメリカ]]人の人数は、[[1921年]]から[[1924年]]の間に6千人から3万人に増加した。他にも[[ロシア]]、[[ヨーロッパ]]各地、[[カナダ]]、[[メキシコ]]、[[チリ]]、そして[[日本]]のような遠い地からも集まっている。[[パブロ・ピカソ]]、[[オシップ・ザッキン]]、[[マルク・シャガール]]、[[モイーズ・キスリング]]、[[ニナ・ハムネット]]、[[フェルナン・レジェ]]、[[シャイム・スーティン]]、[[アメデオ・モディリアーニ]]、[[マルセル・デュシャン]]、[[コンスタンティン・ブランクーシ]]、[[マヌエル・オルティス・デ・ザラテ]]、[[アンリ=ピエール・ロシェ]]、[[マリー・ヴァシリエフ]]、[[マックス・ジャコブ]]、[[ディエゴ・リベラ]]、[[アルベルト・ジャコメッティ]]、[[ヘンリー・ミラー]]、[[ジャン=ポール・サルトル]]、[[サルバドール・ダリ]]、[[サミュエル・ベケット]]、[[ジョアン・ミロ]]、[[アンドレ・ブルトン]]、[[藤田嗣治]]、[[高崎剛]]、[[ギヨーム・アポリネール]]、[[ジュール・パスキン]]、[[岡本太郎]]、[[ゲルダ・タロー]]らがモンパルナスに集まっている。[[エドガー・ドガ]]も晩年はモンパルナスに住んだ。<br /> [[ファイル:Modigliani, Picasso and André Salmon.jpg|サムネイル|「ラ・ロトンド」のモディリアーニ、ピカソ、アンドレ・サルモン (1916年)]]<br /> モンパルナスの芸術家コミューンは、独創性のある者はどんな変人であれ受け入れられた。新しくやってきて不安に感じている者も、先に来ていたメンバーに遠慮なく迎え入れられた。藤田嗣治が[[1913年]]、誰も知り合いのいないモンパルナスに日本からやってきたとき、彼は暮らし始めたアパートで、来仏前には名前を聞いたこともなかったようなスーティン、モディリアーニといった同居人の芸術家たちと一晩で知り合いになり、一週間以内にアパートに出入りする[[フアン・グリス]]、パブロ・ピカソ、[[アンリ・マティス]]らとも友人になった。[[1914年]]、イギリスの画家ニナ・ハムネットがモンパルナスに着いた最初の晩、カフェ「ラ・ロトンド」の隣のテーブルで微笑んでいた男が愛想良く「モディリアーニ、画家でユダヤ人です」と自己紹介した。彼女たちは友人同士になり、後にハムネットは、あるときモディリアーニから上着とコーデュロイのズボンを借りて、二人でラ・ロトンドに行き、通りで一晩中踊り明かしたことを回想している。<br /> <br /> モンパルナスが、創造的かつ[[ボヘミアニズム|ボヘミアン]]的な環境で暮らして作品を作りたいという人々を引き寄せていた頃、亡命し放浪する政治家たちもモンパルナスに隠れ住んでいた。たとえば[[ウラジーミル・レーニン|ウラジミール・レーニン]]、[[レフ・トロツキー]]、[[ポルフィリオ・ディアス]]、[[シモン・ペトリューラ]]らの住処もモンパルナスにあった。<br /> <br /> === パリのアメリカ人 ===<br /> この地に集まった芸術家コミュニティのほとんどが生存のためにぎりぎりの生活を営んでいた頃、[[ニューヨーク]]から来た[[ペギー・グッゲンハイム]]、[[イーディス・ウォートン]]、[[ボストン]]から来た[[ハリー・クロスビー (詩人)|ハリー・クロスビー]]、[[サンフランシスコ]]から来た[[ベアトリス・ウッド]]などアメリカの社交界の名士たちがモンパルナスの狂騒や芸術家たちの創造性の虜になっていた。彼らアメリカ人の中には[[出版社]]を立ち上げるものもいた。ロバート・マッカルモン([[:en:Robert McAlmon|Robert McAlmon]])、マリア([[:en:Maria Jolas|Maria Jolas]])とユージンのジョーラス([[:en:Eugene Jolas|Eugene Jolas]])夫妻はパリに来て国際的な[[文芸雑誌]]『トランジション([[:en:Transition (literary journal)|Transition]])』を創刊した。ハリー・クロスビーとカレス・クロスビーの夫妻は「[[ブラック・サン・プレス]]」を[[1927年]]に創立し、後に有名になった小説家たち、例えば[[D・H・ローレンス]]、[[ジェイムズ・ジョイス]]、[[アーネスト・ヘミングウェイ]]、[[ウィリアム・フォークナー]]、<br /> [[ジョン・ドス・パソス]](John Dos Passos)、[[ハート・クレイン]](Hart Crane)、[[アーチボルド・マクリーシュ]](Archibald MacLeish)、[[ケイ・ボイル]](Kay Boyle)、[[ドロシー・パーカー]](Dorothy Parker)などの作品を出版した。アメリカのジャーナリスト、ビル・バード(Bill Bird)も自分の趣味で作った「スリー・マウンテン・プレス」社から[[エズラ・パウンド]]らの本を出版し、イギリスから来たナンシー・キュナード(Nancy Cunard)が乗っ取りアワーズ・プレス(Hours Press)に変えるまで経営を続けた。<br /> <br /> [[マックス・エルンスト]]と結婚したペギー・グッゲンハイムのような名士はパリ都心の高級住宅地に住んだが、モンパルナスのさまざまなアトリエを頻繁に回り、将来名作と呼ばれるであろう作品を次々買い求めた。これらは現在、[[ヴェネツィア]]の[[ペギー・グッゲンハイム美術館]]に展示されている。<br /> <br /> 多くのアメリカ人がパリにやって来た理由の一つに、20世紀初頭の[[フラン]]に対する[[米ドル]]の為替騰貴も挙げられる。<br /> <br /> === モンパルナスのカフェ ===<br /> [[Image:La Rotonde-2.jpg|thumb|left|250px|カフェ「ラ・ロトンド」]]<br /> モンパルナスの[[カフェ]]や[[バー (酒場)|バー]]は芸術家たちがアトリエの暑さや寒さをしのぐ場所であると同時に待ち合わせ場所・溜まり場であり、アイデアが孵化し熟考される場所だった。モンパルナスのナイトライフの中心であるカフェは&#039;&#039;&#039;ヴァヴァン交差点&#039;&#039;&#039;(Carrefour Vavin、今はパブロ・ピカソ広場と改名されている)に集まっていた。モンパルナスの絶頂期、&#039;&#039;ル・ドーム(Le Dôme)&#039;&#039;、&#039;&#039;ラ・クロズリ・デ・リラ(La Closerie des Lilas)&#039;&#039;、&#039;&#039;ル・セレクト(Le Select)&#039;&#039;、&#039;&#039;ラ・ロトンド(La Rotonde)&#039;&#039;、&#039;&#039;[[ラ・クーポール]](La Coupole)&#039;&#039;など、観光名所となった今もなお営業して当時の面影を残しているこれらのカフェは、腹をすかせた芸術家が数[[サンチーム]]で一晩テーブルに居座ることのできる店だった。彼らがここで寝てしまっても、[[ウェイター]]たちは彼らを起こさないようにと言われていた。半ば知力で、半ばアルコールの力で激論が起こることは普通で、殴り合いの喧嘩に発展しても警察をわざわざ呼ぶ人はいなかった。もし飲み代を払えなくても、ラ・ロトンドの経営者ヴィクトル・リビオン(Victor Libion)などは代わりに[[ドローイング]](素描)などを受け取り、金ができるまでそれを預かっていた。カフェの壁がこうした画家たちのドローイングで埋まるという、今なら世界の名だたる美術館の[[キュレーター]]たちが嫉妬する光景がこの時期のモンパルナスのカフェにはあった。<br /> <br /> === モンパルナスの溜まり場 ===<br /> モンパルナスには偉大な芸術家の集まる場所が多くあった。その内の一つがル・ドームの近くのドランブル通り(Rue Delambre)10番地にあったディンゴ・バー(Dingo Bar)だった。そこは芸術家たちと国を離れたアメリカ人たちの溜まり場であり、カナダ人[[モーリー・キャラハン]]は友人のアーネスト・ヘミングウェーと、共にまだ何も出版していない小説家同士飲みに行き、すでに小説家として名を成していた[[F・スコット・フィッツジェラルド]]とここで出会っている。また[[マン・レイ]]は、友人で[[ダダイスム|ダダイスト]]のマルセル・デュシャンがニューヨークに移住した後、最初のアトリエをドランブル通り15番地の[[ホテル]]「ロテル・デゼコール(L&#039;Hôtel des Ecoles)」に作った。ここはマン・レイが写真家としてのキャリアを始めたところであり、ジェイムズ・ジョイス、[[ガートルード・スタイン]]、[[ジャン・コクトー]]らがポーズを取り[[モノクローム]]の[[写真]]に納まった。<br /> <br /> === モンパルナスの劇場 ===<br /> デ・ラ・ゲテ通り(Rue de la Gaité)には[[劇場]]や[[ミュージックホール]]が多数あった。特に「&#039;&#039;&#039;ボビノ&#039;&#039;&#039;」(Bobino)は有名だった。その[[舞台]]では、当時流行していた[[姓]]か[[名]]だけを[[芸名]]にした[[歌手]]、たとえばダミア(Damia、本名マリー=ルイーズ・ダミアン Marie-Louise Damien)、キキ(Kiki、本名[[アリス・プラン]] Alice Prin)、マイヨール(Mayol、本名フェリックス・マイヨール Félix Mayol)、ジョルジュス(Georgius、本名ジョルジュ・ギブール Georges Guibourg)といった[[歌手]]たちが満員の観客に対して歌っていた。特に[[ブルゴーニュ]]出身の&#039;&#039;&#039;キキ&#039;&#039;&#039;は[[軍需産業|軍需工場]]で働きながらモンパルナスのカフェに出入りし、藤田嗣治ら売れない画家たちの[[モデル (職業)|モデル]]を勤め、やがて「モンパルナスの女王」と呼ばれるようになった。彼女はマン・レイやキスリングほかと愛人関係を持ち、絵画のモデルに頻繁に起用され[[映画]]にも出演するなど、[[新聞]]や[[雑誌]]の[[ゴシップ|噂]]となった。ここはまた、[[エリック・サティ]]やジャン・コクトーのアイデアに基づいた音楽を作る[[フランス6人組]]が形成された場所だった。<br /> <br /> === モンパルナスの狂乱の時代 ===<br /> [[Image:Montparnasse at night.jpg|thumb|right|250px|夜のモンパルナス]]<br /> 第一次大戦でモンパルナスは徴兵や芸術家たちの帰国、戦場からの避難民の殺到で混乱するが、戦後は開放感と、神話化された芸術の[[聖地]]へ行きたいという世界中の若者の殺到で、戦前の貧困振りとは全く異なる風景が出現した。いわゆる狂乱の時代である。<br /> <br /> [[1920年代]]のモンパルナスは毎日毎晩が華やかな祝祭で、[[酒]]や[[麻薬]]による乱痴気騒ぎが繰り返された。狂騒と喪失感が混ざり合った当時の雰囲気を、ヘミングウェーは後に遺作『移動祝祭日』([[1960年]])で、「もし君が幸いにもパリで青春を過ごしたなら、残りの人生をどこで過ごしたとしてもパリは君についてくる。なぜなら、パリは[[移動祝祭日]]だから。」と述べている。詩人マックス・ジャコブは、彼はモンパルナスに「恥ずかしく罪を犯しに」やってきたと述べた。マルク・シャガールはモンパルナスに行った理由を説明する際、これをもっと優雅に要約している。「わたしは遠い国で耳にしていた物事を、自分のこの目で見ることにあこがれた。この眼の革命、この色の回転、想像上の線の流れの中で自発的に鋭く互いに合体してゆく。これはわたしの故郷の町では見ることができないものだった。あのとき芸術の太陽はパリだけを照らしていたのだ。」<br /> <br /> 狂乱の時代は[[1929年]]の[[世界恐慌|大恐慌]]をきっかけに幕を閉じた。アメリカ発の大[[景気後退|不況]]はフランスに及び、[[1930年]]には美術市場は暴落、同年「モンパルナスの王子」と呼ばれた[[ジュール・パスキン]]が自殺して一つの時代の終わりを感じさせた。数人の芸術家は一旦パリを離れ、アメリカやメキシコ、アジアなどに長期旅行している。一旦は[[ドイツ]]から[[退廃芸術]]狩りを逃れた芸術家がパリに避難したものの、[[第二次世界大戦]]の開始により多くの芸術家が[[アメリカ合衆国]]などに逃げ、とりわけ[[1940年]]5月から6月の[[ナチス・ドイツのフランス侵攻]]とパリ占領をもって芸術家コミュニティは解体した。そして[[戦後]]、美術の中心地を目指す各国からの芸術家の多くは[[ニューヨーク]]へ行き、パリの芸術家コミュニティは[[サンジェルマン・デ・プレ]]へ移り、モンパルナスがその輝きを取り戻すことはなかった。<br /> <br /> この地の歴史を展示するモンパルナス博物館(Musée du Montparnasse)が[[1998年]]、メーヌ通り21番地に開館した。パリ市のわずかな交付金で運営されているが、この博物館は[[NPO]]法人である。<br /> <br /> == 参考文献 ==<br /> *Shari Benstock, &#039;&#039;Women of the Left Bank: Paris 1900-1940&#039;&#039; (1986)<br /> *Morrill Cody &amp; Hugh Ford, &#039;&#039;Women of Montparnasse&#039;&#039; (1984)<br /> *Morrill Cody et al, &#039;&#039;This Must Be the Place: Memoirs of Montparnasse by Jimmie &#039;the Barman&#039; Charters, As Told to Morrill Cody&#039;&#039; (1937, reprint 1989)<br /> *Jean-Paul Crespelle, &#039;&#039;La vie quotidienne à Montparnasse à la grande époque 1905-1930&#039;&#039; (author-historian who specialized in the artistic life of Montmartre and Montparnasse)<br /> *Noel Riley Fitch, &#039;&#039;Sylvia Beach and the Lost Generation: A History of Literary Paris in the Twenties and Thirties&#039;&#039; (1983)<br /> *Dan Franck &amp; Cynthia Liebow, &#039;&#039;Bohemian Paris: Picasso, Modigliani, Matisse, and the Birth of Modern Art&#039;&#039; (2002)<br /> *Herbert R. Lottman, &#039;&#039;Man Ray&#039;s Montparnasse&#039;&#039; (2001)<br /> *Marie Vorobieff, &#039;&#039;Life in Two Worlds: A True Chronicle of the Origins of Montparnasse&#039;&#039; (London 1962) <br /> *Kenneth Wayne, &#039;&#039;Modigliani &amp; the Artists of Montparnasse&#039;&#039; (2002)<br /> *John Glassco, &#039;&#039;Memoirs of Montparnasse&#039;&#039; (1963)<br /> *&#039;&#039;Being Geniuses Together, 1920-1930&#039;&#039; by Robert McAlmon, Kay Boyle (1968)<br /> <br /> == 関連項目 ==<br /> * [[サン=ジェルマン=デ=プレ]]<br /> * [[カルチエ・ラタン]]<br /> * [[モンマルトル]]<br /> *[[ラ・リューシュ]]<br /> <br /> == 外部リンク ==<br /> {{Commonscat|Montparnasse}}<br /> *[http://jp.franceguide.com/magazine/article.asp?idc=23161&amp; サン・ジェルマン・デ・プレ/モンパルナス界隈 - フランス政府観光局公式サイト]<br /> *[http://www.terasz.hu/premier/main.php?id=premier&amp;page=cikk&amp;cikk_id=5185 &#039;&#039;La Rotonde Terasza&#039;&#039;, Paris (1917)], by Marie Vorobieff-Stebelska (Marevna) (scroll down to 5th painting).<br /> *[https://web.archive.org/web/20060401002619/http://www.rusmuseum.ru/eng/exhibitions/?id=140&amp;i=4&amp;year=2003&amp;pic=4 &#039;&#039;Homage to Friends from Montparnasse&#039;&#039;] by Marie Vorobieff-Stebelska (Marevna), c.1962, oil/canvas<br /> <br /> {{Coord|48|50|37.10|N|2|19|25.72|E|display=title}}<br /> <br /> {{DEFAULTSORT:もんはるなす}}<br /> [[Category:パリの地理]]<br /> [[Category:パリ14区]]</div> 103.226.44.7 ソーシャライト 2017-12-07T20:38:31Z <p>103.226.44.7: /* アメリカ */細部</p> <hr /> <div>[[ファイル:The Duchess of Windsor (1970).jpg|thumb|200px|ヨーロッパのソーシャライト、[[エドワード8世 (イギリス王)|ウィンザー公爵]]夫人[[ウォリス・シンプソン]](1970年)]]<br /> &#039;&#039;&#039;ソーシャライト&#039;&#039;&#039;ないし&#039;&#039;&#039;ソーシャライツ&#039;&#039;&#039;(&#039;&#039;&#039;Socialite&#039;&#039;&#039;)は[[社交界]]の[[名士]]の意。主にアメリカで用いられる用語、[[アメリカ英語]]の言葉である&lt;!--フランス語版より--&gt;。<br /> <br /> == 概要 ==<br /> [[上流階級]]や[[富裕層]]に属するエンターテインメント性に富み、[[チャリティー]]活動(あるいは[[フィランソロピー]]、慈善事業)に携わったり、社会団体に属している人物やその家族を指す&lt;ref&gt;{{cite web|url=http://www.fashion-j.com/mt/archives/003455.html|title=ソーシャライツ【 Socialite 】|date=2006年4月23日 |accessdate=2008年2月25日 |author=Fashion-J}}&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> ほとんどが親や夫など親族が築いた財産により暮らしており、名義上親族企業の一員として名を連ねることもあるが、実務に関わることはほとんどない(実務で手腕を発揮している場合はビジネスマン、ビジネスウーマンと呼ばれることが多い)。<br /> <br /> == 各国事情 ==<br /> === ヨーロッパ諸国 ===<br /> [[image:Lee Radziwill in India.jpg|thumb|right|240px|欧米を股に掛けるソーシャライト、[[リー・ラジヴィル|リー・ラジウィル]](左、1962年)]]<br /> ヨーロッパでは、概して「『由緒ある家』に生まれ、裕福な男性と結婚し、社交界で積極的に活動する女性」を指すことが多いとされる&lt;ref name=kes08.12&gt;2008年12月号「この映画がすごい!」内『ビミョ~なセレブ図鑑』より&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> ==== イギリス ====<br /> 男女を問わず、[[貴族]]や[[ジェントリ]]、富裕層の一族など、潤沢な不労所得のために基本的に働く必要がなく、社交界で活躍する人々を指す&lt;ref&gt;[[:en:Category:English socialites]]、[[:en:Socialite]]を参照。&lt;/ref&gt;。<br /> 主な人物については、{{see|Category:イギリス社交界の花形}}<br /> <br /> ==== フランス ====<br /> チャリティに携わったり、ジェット機を乗り回し、[[スキャンダル]]に見舞われる、社交界の人物や上流階級([[ハイソサエティ]])、上層[[ブルジョワジー]]([[資本家]])といったその種の人物を指す[[アメリカ英語]]の言葉とする。関連する言葉として、[[:fr:Socialite|フランス語版]]では、上層ブルジョワジーに、フランスの上層ブルジョワ層(&quot;19家族&quot;と括られたりする)に浸透した[[ユグノー]]を挙げている。あるいは英米の[[WASP]]、[[ヤッピー]]、[[ハンプトンズ]]等の言葉を挙げている。<br /> <br /> [[フランス革命]]や[[フランス7月革命|7月革命]]を経て、[[フランス第三共和政|第三共和政]]の成立&lt;!--第二共和政の後のナポレオン3世第二帝政時に例えば第二代リヴォリ公爵などがいた--&gt;を受けて貴族制度は公式上形式上無くなったが、それら子孫や富裕層の一族などを中心に謂わば「ソーシャライト」が形成されている(「[[フランス銀行#200家族]]」等も参照)。<br /> 主な人物については、{{see|Category:フランスのソーシャライト}}<br /> <br /> === アメリカ ===<br /> 19世紀以降、[[エスタブリッシュメント]]、あるいは生まれ、人種、教育、経済的地位等で括られた著名なファミリーを指している。特に1886年、[[ドイツ系アメリカ人]]の{{仮リンク|ルイス・ケラー|en|Louis Keller}}による「&quot;New York Social Register ([[ニューヨーク]]の[[紳士録]])&quot;」は、[[ニューヨーク]]を&quot;造った人々&quot;である[[ニッカボッカー]]をまとめて編集発行したものとして知られている&lt;ref&gt;[[:en:Social Register]]、[[:en:Socialite]]を参照。&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> しかし、アメリカは国の歴史が浅い上に、貴族制度や[[華族]]制度などの[[階級]]制度が存在したことがないために、下記「25ans」誌同様に単なる有名人や[[成金]]、資産家、またその子供や子孫を「ソーシャライト」と称したり、「セレブリティ」との区別が曖昧なところがあるとされる&lt;ref name=kes08.12/&gt;。また、資産家の親を持つ女性を指す場合が多いが、稀に男性にも使われる&lt;ref&gt;2007年6月25日「朝日新聞」&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> [[プロ]]ではないが、その人脈や知名度のメリットから、ソーシャライト(名士)に対して「[[セレブタント]]」と呼ばれるような、映画やテレビ番組、ファッションブランドの宣伝に携わる者もいる。<br /> 主な人物については、{{see|Category:アメリカのソーシャライト}}<br /> <br /> === 日本 ===<br /> 日本では言葉自体が浸透していない。<br /> <br /> 女性向けファッション雑誌「[[25ans]]」が積極的に取り上げ、同誌独自の定義を提示している。同誌では「リーダー的存在」、「『[[名家]]』出身ながらも独立している」、「海外で働いた経験がある人物」のいずれかであることなどを「ソーシャライト」としている。また「単なる『[[セレブリティ]]』とは区別されている」とされる&lt;ref&gt;{{cite web|url=http://www.25ans.jp/25ans/socialites/|title=25ans ソーシャライツって? |accessdate=2008年11月12日 |author=25ansONLINE |archiveurl=https://web.archive.org/web/20081224132452/http://www.25ans.jp/25ans/socialites/ |archivedate=2008-12-24 |deadlinkdate=2014-4-10 }}&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> == ギャラリー ==<br /> &lt;gallery&gt;<br /> ファイル:Barbara Hutton May 1931.jpg|right|[[バーバラ・ハットン]](1931年)<br /> ファイル:Paris Hilton 3.jpg|アメリカの&quot;ソーシャライト([[セレブタント]])&quot;、[[パリス・ヒルトン]](2006年)<br /> ファイル:Kim Kardashian LF.JPG|アメリカの&quot;ソーシャライト(セレブタント)&quot;、[[キム・カーダシアン]](2007年)]<br /> &lt;/gallery&gt;<br /> <br /> == 脚注 ==<br /> {{脚注ヘルプ}}<br /> {{Reflist}}<br /> <br /> == 関連項目 ==<br /> * [[デビュタント]]<br /> * [[セレブリティ]] - [[セレブタント]]<br /> <br /> {{デフォルトソート:そおしやらいと}}<br /> [[Category:ソーシャライト|*]]<br /> [[Category:社交]]</div> 103.226.44.7 エコール・デ・ボザール 2017-12-06T20:23:37Z <p>103.226.44.7: /* ボザール様式とアメリカン・ボザール */リンク</p> <hr /> <div>{{出典の明記|date=2012年12月}}<br /> {{Infobox university<br /> | name = エコール・デ・ボザール<br /> | image_name = Palais des etudes ensba paris 003.jpg<br /> | image_size = 250px<br /> | image_alt = <br /> | caption = <br /> | latin_name = <br /> | established = 1682年<br /> | closed = <br /> | type = [[特別高等教育機関]](&#039;&#039;[[:fr:Grands établissements|Grands établissements]]&#039;&#039;)<br /> | budget = 10,6 millions €<br /> | officer_in_charge = <br /> | director = Jean-Marc Bustamante<br /> | head_label = <br /> | head = <br /> | academic_staff = <br /> | administrative_staff = <br /> | students = 530<br /> | city = [[6区 (パリ)|パリ6区]]や[[リヨン]]などフランス各地<br /> | state = <br /> | province = <br /> | country = [[フランス]]<br /> | coor = {{Coord|48|51|24.16|N|2|20|0.68|E|region:FR_type:landmark|display=title}}<br /> | campus = 都市型<br /> | website = [http://www.ensba.fr Ecole Nationale Superieure des Beaux-Arts] <br /> }}<br /> &#039;&#039;&#039;エコール・デ・ボザール&#039;&#039;&#039;({{Llang|言語記事名=フランス語|fr|École nationale supérieure des Beaux-Arts}}, ENSBA)は、17世紀[[パリ]]に最初に設立された[[フランス]]の国立[[高等教育機関|高等]][[美術学校]]であり、[[グランゼコール]]の一つ。350年間以上にわたる[[歴史]]があり、[[建築]]、[[絵画]]、[[彫刻]]の分野に[[芸術家]]を輩出してきた。現在は[[建築]]がここから切り離されている。<br /> <br /> 現在は[[特別高等教育機関]](グラン・デタブリスマン)であり[[フランス文化省]]の管轄下にある。<br /> <br /> パリ6区マラケ河岸から入ってボナパルト街(ボナパルト通り)に面して構えたパリ・ボザール校の正面には、[[ニコラ・プッサン]]とピエール・ビュジエの胸像を頂部に載せた門柱が目に入り、[[ルネサンス建築|フランス・ルネサンス建築]]の断片でくみ上げられた壮大な中庭が目の前に展開する。<br /> <br /> == 概要 ==<br /> [[File:Paris 6 - ENSBA 03.jpg|right|thumb|300px|エコール・デ・ボザールの入り口]]<br /> {{see|芸術アカデミー}}<br /> ボザールでの教育は伝統的、[[古典主義]]的な作品が理想とされ、これらの理想化された[[様式]]を踏襲させていく、世界にもまれな教育システムであった。<br /> <br /> [[1648年]]、[[ルイ14世 (フランス王)|ルイ14世]]は王立建築物の各種美術工芸や装飾を担当させる人材の育成を要請し、[[枢機卿]][[ジュール・マザラン]]が[[アカデミー・フランセーズ]](フランス王立アカデミー)の付属学校として美術学校を設立した。その後[[古典主義建築]]の母体となる建築アカデミーが[[1671年]]に時の宰相[[ジャン=バティスト・コルベール]]によって創設された。これらのアカデミーは古典主義芸術の進展を促す母体となっていき、ルイ14世から[[ルイ16世 (フランス王)|ルイ16世]]までの旧制度化においてフランスで絶対的な地位を確立するにいたった。また1666年にはローマにフランス・アカデミーを設置し、本国から選りすぐりの芸術家を古典文化の発掘と接収を目的に派遣するようになった。留学制度に対応して古代のギリシア、そしてローマの文化から古典芸術と建築に焦点を合わせているのはこのためで、この毎年各芸術分野ごとに1名をローマ留学生を選抜し数年滞在させる制度はのちのボザールにも引き継がれたが、総括する美術アカデミーの終身書記に就任した[[カトルメール・ド・カンシー]]などは新古典主義芸術に対して深い造詣を発揮し、とくに古代建築に関心を寄せ[[ウィトルウィウス]]を再解釈した大著を著し、古代建築の復元を試み、後に自身が主宰して編纂した建築辞典には古代ギリシャの建築に建築の原型を求め、さらに建築史的な理解の必要性を説いている。こうしたカンシーの一連の作業は[[パエストゥム]]の古代ギリシャ神殿の発掘からギリシャ建築再評価・[[グリーク・リバイバル]]の思潮をさらに一段と高める。そうした古代建築を深く学ぶために大半が崩れ落ちた古代の遺跡を[[建築家]]が自らの観念に基づいて復元する主張はのちのフランス・アカデミーにおける留学生の研修方法に大きな影響を与えた。ボザール建築アカデミー発足に当たって建築史講座の設置を唱え、J・H・ヌイノーをその教授に任命したのはそのためとされる。<br /> <br /> 1789年に勃発した[[フランス革命]]によって、革命に共鳴した若い芸術家たちは旧体制のアカデミーに対抗して芸術コミューンを成立させ、1793年には王立アカデミーは廃止されたが、建築アカデミーは教授をつとめていたジュリアン・ダヴィド・ルロワがコミューンとして主宰することで学校は存続する。その後18世紀なかばに旧アカデミーにかわり学士院が発足し、美術の教育機関が復活。さらに[[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン]]失脚後の[[フランス復古王政|王政復古]]にともない、学士院の芸術部会はそのまま絵画・彫刻・建築の3分野の、各芸術アカデミーと呼称を変更し発足する。この王政復古の時期に、フランスではさまざまな組織や期間が整理と統廃合が行われ、別々の芸術アカデミーであった絵画・彫刻・建築などもひとつに統合した教育機関の創設、学校名「エコール・ロワイヤル・エ・スペシアル・デ・ボザール」が、1816年12月18日国王命令により決定される。こうして1819年に、名称を国立の美術学校(エコール・デ・ボザール)に改称となった。当初学生は男性のみで、女性は1897年から入学を許可された。<br /> <br /> カリキュラムは画家と彫刻家育成の「絵と彫刻アカデミー」と建築家育成の役割を果たすセクション「建築アカデミー」に分割される。今日その名を残す有名な芸術家の多くがここで訓練され、[[エドガー・ドガ]]、[[ウジェーヌ・ドラクロワ]]、[[ジャン・オノレ・フラゴナール]]、[[ドミニク・アングル]]、[[クロード・モネ]]、[[ギュスターヴ・モロー]]、[[ピエール=オーギュスト・ルノワール]]、[[ジョルジュ・スーラ]]、[[アルフレッド・シスレー]]などの名が挙げられる。<br /> <br /> 両方のプログラムは、留学制度に対応して古代のギリシア、そしてローマの文化から古典芸術と建築に焦点を合わせ、当然のことながら入学、その後の学習に対し学生全員が古典芸術の教養と絵画表現の基本技量を求められた。また、年1回グラン・プリ・ドゥ・ローム([[ローマ大賞]])というコンクールを主催し、受賞者にはローマで研究するために全額給与の奨学金を与えていた。賞を入手する3つのトライアルがおよそ3カ月に1回続く。前身のアカデミー時代から実施されていた制度である、各分野の専門家がパトロン・担当教育者となるアトリエ制を採用し、その後150年にわたって[[徒弟制度]]に似せた方式で学生を教育していった。大革命から第一帝政にかけてすでにアカデミーを取り巻く形でいくつかのアトリエが存在し、入学を許可された学生らが[[師匠]]たる[[芸術家]]のもとで修行に励んだ。<br /> <br /> == 第二次世界大戦後の改革 ==<br /> 1960年、アカデミー・デ・ボザール会員に独占されていたローマ大賞の審査委員会にボザールのパトロンの参加が決定される。続いて1962年には文化省が建築教育の改革を検討する委員会を設立し、これと平行してでボザール卒業生の建築家を中心として利益を保護する同窓会のような組織であるグランド・マスも同様の目的の委員会を設置するが、これはあくまで建築家と建築の学生の利益を守るための団体でありのちに立ち消えとなるが、この結果[[ジョルジュ・キャンディリス]]や[[エミール・アヨー]]ら、集合住宅などを中心に活躍する建築家たちのアトリエ開設につながり、1965年に建築のアトリエがA、B、Cと三つのグループに分割する制度が取り入れられる。この中でCグループが住宅問題を取り上げより改革色、政治色の強いグループと化していき、この中からさらにC&#039;グループが分離、セーヌ右岸の8区[[グラン・パレ]]にアトリエを移動させる。このグループはその後の1967年には縦割り制のアトリエ制度を廃止し、同一学年の横割りクラス制を採用、設計演習も建築家とアシスタントとのグループでの合同審査制となり、パトロンも教授グループとして教育を行うことにした。こうした改革が進む中、[[1968年]]2月に文化省まで次年度からの制度変更を発表した。<br /> <br /> 1968年の5月革命をきっかけに、[[ソルボンヌ大学]]に続いて構造改革を要求して立ちあがったボザールも大学の改革が行われ、解体そして分校制といった結果を招くことになり、エコール・デ・ボザールもパリ、[[ディジョン]]、[[ブールジュ]]、[[ナンシー]]、[[リヨン]]と、[[ロリアン]]、[[レンヌ]]、[[カンペール]]、[[ブレスト (フランス)|ブレスト]]というように各地に分割された。この中で最も有名なのがパリのエコール・デ・ボザールとして続いている、ルーヴルからはセーヌの対岸にあたるセーヌ左岸の[[6区 (パリ)|6区]]に位置しているパリ学校で、現在の校舎、本館は1830年に、卒業生の[[フェリックス・デュバン]]による建築作品である。<br /> <br /> [[2009年]]現在ではフランス国内には59の国公立の美術芸術系の学校があり、それらの美術学校(日本国内における芸術・美術大学)を総称としてボザールと呼ぶ。<br /> <br /> == ボザール様式とアメリカン・ボザール ==<br /> {{main|ボザール様式}}<br /> {{See also|歴史主義建築}}<br /> 建築セクションの場合、美術のアカデミーで実権を掌握していたカトルメール・ド・カンシーは、ローマ留学生に対して厳しい制約を課していて、実測はローマ建築に限らせていた。しかし若手の建築家はより深遠なる古代の歴史を求めて様々の試みを行っている。後のポザール建築史教授ユイヨーは1817年からギリシアやアジアにまで足を運び、数々の実測図をき 持ち返り、その後の講義に用いている。この頃は[[ギリシア建築]]に対する認識は一段と高まっていたが、そこに新たな論争の種が加わることになる。古代ギリシア建築が多彩色を用いて派手やかに彩られていたかいなかったかという問題で、[[ジャック・イニャス・イトルフ]]のローマから送りつけた実測図はその問題を最初に投げかけ、古代建築彩色論を登場させた。<br /> <br /> フランス[[建築家]]にとって[[イタリア]]に赴くということは[[古典古代]]の建築をじかに観察し直接肌で感じることができるということにほかならなく、以前からローマ留学生達は古代の建築を丹念に実測し克明に素描していた。しかしパエストゥムの発見以降、[[ギリシア]]建築が現実に建築家達の眼前に晒され、加えて中近東のそれや[[古代エジプト建築]]もその実像が明らかになってきた。[[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン]]の[[エジプト遠征]]軍が多数の考古学者を引き連れていったことからも解るとおり、当時の人々はそうしたローマ以前の古代世界に対して並み外れた関心を抱いていたのである。実際[[ギリシア]]や[[エジプト]]の建築が建築家に知られるようになってきて従来古典と考えられてきた[[ローマ建築]]は古典期の最後に位置するものと認識されるようになったし、古代世界なるものも人々の意識の中ではるかに奥深いものとなり、[[考古学]]的発掘とあいまって、建築家にインスピレーションを汲み取るべき古代建築もそのレパートリーを増やしていた。<br /> <br /> 建築家らが主張したのはむしろ、同時代の作品を生み出していくにあたってその規準原理としての原色効果で、古典主義建築、あるいは世紀末以降の新古典主義の建築家が考えもしなかった様々な色彩に彩られた建築を生み出していくことであり、1830年、[[ジャック・イニャス・イトルフ]]は碑文アカデミーにて「ギリシア人における多彩色建築に関する論考」を発表する。古代ギリシア人がいかに色彩を用いて建築を装飾していたかを改めて世に問うたもので、この論考は1851年になって印刷されるが、彼が単に古代建築の復原のみを考えていたのでなく、その中に新しい建築に用うべき新しい原理をもとめていて、彼はギリシア建築の中に、注目すべき形態、たとえば、ポルティコ、列柱、あるいはその平面形式といったものを求めていたのではなくむしろ、形態・要素は建築家の造形意欲に応じて自在に寄せ集め、様々のモチーフ、色彩で建築を豊潤に装飾していくことが重要であるとした。<br /> <br /> 古代ギリシア建築から多彩色効果を学ぶということは、新古典主義的な作風を一段と躍び越え、19世紀前半の建築の新しい潮流にまで展開していく。18世紀後半から発生したグリーク・リバイバルの運動から考えればその最後の局面といわれ、この多彩色(ポリクロミー)を基調とした様式美から、[[ギリシャ]]や[[ローマ]]、[[中東]]から[[ルネサンス]]までいろいろな要素を混ざり合わせる新古典主義とはまったく違った体系、折衷様式ネオ・グレコは、発足まもないエコール・デ・ボザールの若い建築家をことごとく魅了したようであるが、[[19世紀]]末から[[20世紀]]初めにかけて、ヨーロッパで[[アール・ヌーヴォー]]などが出現し、[[モダン]]・デザインへの傾斜がみられる中で、海の向こうの[[アメリカ]]では逆に建物の前面に[[オーダー]]を配し[[列柱]]を並べた[[デザイン]]などが流行していくこれらの古典様式を施す[[建築]]がまさにこの建築である。建築学でこれを[[ボザール様式]](アメリカン・ボザール)と呼んでいる。<br /> <br /> その背景として、[[マサチューセッツ工科大学|MIT]]の建築学科でボザール帰りの建築家が教鞭を取っていたこと、[[シカゴ万国博覧会]]でボザール様式が好評だったことなどがある。日本でも大正から昭和初期に銀行建築などに列柱を並べるデザインが流行したが、アメリカン・ボザールの影響である([[三井本館]]、[[明治生命館]]など)。<br /> <br /> ボザール自体は絵画、彫刻、建築の各美術分野を併せ持った総合[[美術学校]]であるが、そのうち建築セクションではほかとはまったく独自に別れて、特権的ともいえる独自の教育方針を採り、その教育システムも19世紀の出発期から1968年の解体にいたるまで、途中1863年に[[ナポレオン3世]]の介入による大改革以外は、ほとんど変わることなく続けられてくるという、あくまでアカデミーがその教育をつかさどるという創立以来の方針が堅持されてきた。ボザールの基本はアトリエ制であるが、今日の大学のような[[講座]]や[[スタジオ]]、[[研究室]]などではなく、建築であれば建築家を招いている学生[[私塾]]のようなもので、[[建築家]]になろうとするものはまずは外国人であってもアトリエに入所し、普通はその所属するアトリエの建築家の推薦を得てボザールの入学志願者の資格を得ることになる。アトリエのパトロン建築家は自身の[[建築設計事務所]]は別に主宰している。初期のアトリエパトロンはすべて[[ローマ賞]]受賞者で占められ、建築家の特権的立場を維持しながら社会をリードしていく建築形態と建築を絶えず生み出していった。<br /> <br /> 建築アカデミーであれば、当時はA・L・T・ヴォードワイエや[[ナポレオン]]の庇護を得たペルシエ+フォンテーヌなどのアトリエがローマ大賞受賞者を輩出していて人気が高かった。ペルシエ+フォンテーヌのアトリエからは18人のローマ大賞受賞者と17人の次席を出している。いずれも師匠の作風を受け継ぎつつもより折衷的な方向に向っている。彼らの著作はまたカトルメール・ド・カンシーとは別の意味で新古典主義的な建築論を展開しているが古典主義における規定の絶対性を避け、感性にもとづく建築構成を主張するなど、この議論はちょうど17世紀末の建築アカデミー創設の際、フランソワ・ブロンデルとクロード・ペローが繰り拡げた新旧論争にも似て[[建築美]]の基準を何処に求めるかを追求したものであったが、彼らの立場はそれより少し前にヴィジオネールの建築家と呼ばれるブレが感性を重んじ、古い意味での古典派を斥けたような古代の建築を否定するのではなく、古代の建築に顕現する一種の驚きにも似た美的感動を新しい建築に実現しようとする方向性をもっていて、その意味ではきわめてロマン主義的な傾向にも近く、ロマン主義と新古典主義は裏腹の現象であったとみられている。<br /> <br /> ボザールで行われる講義は常に理論的な面ばかりで、建築アカデミー所属の教授たちの中でも、特に[[建築論]]を担当するものが最も権威であり、かつ学生を対象とした課題[[設計競技]]のプログラム作成の担当責任者となっていた。発足以来のバルダールやブルーエ、ルシェールなどがその地位に就いていた。下級を修了した学生は上級に進み、ここでは修業年限が何年という規定ではなく、入学から10年間のみの在籍規定だけで、学生たちは自分のペースに合わせて学業を果たし、1867年までボザールには[[学科 (学校)|学科]]制度は存在していなかった。あるのは唯一のローマ大賞のみで、しかも年間1名だけに与えられていた。こうした教育システムの中で学生たちは適当に学校を離れて、建築実務に就いていたのである。<br /> <br /> == その他 ==<br /> [[ニューヨーク近代美術館]]で1975年から76年にかけて開催されたエコール・デ・ボザールの建築展は、フランスでもめったに公開されない図面類までも展示され、大変な反響を呼んだ。ボザールで建築史を講じ、のちに美術アカデミーの終身書記の役職に就任したルイ・オートクールはボザールに関する詳しい記録を7巻にもおよぶ大著で残している。<br /> <br /> 入学方法は、所属するアトリエで修行をしながら、志願者は入学試験準備にとりかかり、めでたく入学試験に合格したものが、ボザール下級の学生として登録されることになる。学生の生活基盤は常にアトリエにあって、○○アトリエ所属というかたちで認定を受けた。アトリエは国や学校やアカデミーから費用等が出費されているものではなく、学生たちがみずから組織し、上下関係の序列の中に組みたてられ、その上に先生を招いているという形式で、学生の間で選出された長がそのアトリエの管理運営を行い、建築家に謝礼を支払っていた。アトリエ主宰者の存在は絶対的存在であり、学生修行や教育に対して必要な助言と指導を与え、またボザールで講義を行う教授とは区別され、アトリエのパトロンと呼ばれる。各アトリエはボザール校舎内ではなく町中の適当な場所、大体はボザールの周辺に構えて、学生たちはそこで修行の合間にボザールに通って講義を聴いていたのである。<br /> <br /> == 参考文献 ==<br /> * [[三宅理一]]・アニー・ジャック 『ボザール建築図集』 求龍堂、1987年、ISBN 978-4763087102<br /> <br /> == 関連項目 ==<br /> * [[パリ国立高等美術学校]]([[:fr:École nationale supérieure des Beaux-Arts|fr]], [[:en:École nationale supérieure des Beaux-Arts|en]])<br /> ** 上記、フランス国内にあるボザール各校の内、パリ校についてのフランス語版と英語版の項目。<br /> <br /> *[[芸術アカデミー]]<br /> *[[アカデミック美術]]<br /> *[[アカデミー・ジュリアン]]<br /> <br /> == 外部リンク ==<br /> * [http://www.ensba.fr Ecole Nationale Superieure des Beaux-Arts] - 公式サイト<br /> <br /> {{DEFAULTSORT:えこおるてほさある}}<br /> [[Category:フランスの特別高等教育機関]]<br /> [[category:西洋美術史]]<br /> [[Category:フランスの美術]]<br /> [[Category:美術評論]]<br /> [[category:建築史]]<br /> [[category:建築系教育機関]]<br /> [[Category:美術大学]]<br /> {{architecture-stub}}<br /> {{France-stub}}<br /> {{school-stub}}</div> 103.226.44.7
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