Warning: Undefined variable $type in /home/users/1/sub.jp-asate/web/wiki/extensions/HeadScript/HeadScript.php on line 3

Warning: "continue" targeting switch is equivalent to "break". Did you mean to use "continue 2"? in /home/users/1/sub.jp-asate/web/wiki/includes/json/FormatJson.php on line 297

Warning: Trying to access array offset on value of type bool in /home/users/1/sub.jp-asate/web/wiki/includes/Setup.php on line 660

Warning: session_name(): Session name cannot be changed after headers have already been sent in /home/users/1/sub.jp-asate/web/wiki/includes/Setup.php on line 834

Warning: ini_set(): Session ini settings cannot be changed after headers have already been sent in /home/users/1/sub.jp-asate/web/wiki/includes/session/PHPSessionHandler.php on line 126

Warning: ini_set(): Session ini settings cannot be changed after headers have already been sent in /home/users/1/sub.jp-asate/web/wiki/includes/session/PHPSessionHandler.php on line 127

Warning: session_cache_limiter(): Session cache limiter cannot be changed after headers have already been sent in /home/users/1/sub.jp-asate/web/wiki/includes/session/PHPSessionHandler.php on line 133

Warning: session_set_save_handler(): Session save handler cannot be changed after headers have already been sent in /home/users/1/sub.jp-asate/web/wiki/includes/session/PHPSessionHandler.php on line 140

Warning: "continue" targeting switch is equivalent to "break". Did you mean to use "continue 2"? in /home/users/1/sub.jp-asate/web/wiki/languages/LanguageConverter.php on line 773

Warning: Cannot modify header information - headers already sent by (output started at /home/users/1/sub.jp-asate/web/wiki/extensions/HeadScript/HeadScript.php:3) in /home/users/1/sub.jp-asate/web/wiki/includes/Feed.php on line 294

Warning: Cannot modify header information - headers already sent by (output started at /home/users/1/sub.jp-asate/web/wiki/extensions/HeadScript/HeadScript.php:3) in /home/users/1/sub.jp-asate/web/wiki/includes/Feed.php on line 300

Warning: Cannot modify header information - headers already sent by (output started at /home/users/1/sub.jp-asate/web/wiki/extensions/HeadScript/HeadScript.php:3) in /home/users/1/sub.jp-asate/web/wiki/includes/WebResponse.php on line 46

Warning: Cannot modify header information - headers already sent by (output started at /home/users/1/sub.jp-asate/web/wiki/extensions/HeadScript/HeadScript.php:3) in /home/users/1/sub.jp-asate/web/wiki/includes/WebResponse.php on line 46

Warning: Cannot modify header information - headers already sent by (output started at /home/users/1/sub.jp-asate/web/wiki/extensions/HeadScript/HeadScript.php:3) in /home/users/1/sub.jp-asate/web/wiki/includes/WebResponse.php on line 46
http:///mymemo.xyz/wiki/api.php?action=feedcontributions&user=103.226.44.27&feedformat=atom miniwiki - 利用者の投稿記録 [ja] 2024-05-04T01:58:47Z 利用者の投稿記録 MediaWiki 1.31.0 大島浩 2018-06-09T07:09:38Z <p>103.226.44.27: /* 生い立ち */リンク</p> <hr /> <div>{{基礎情報 軍人<br /> | 氏名 = 大島 浩<br /> | 各国語表記 = <br /> | 生年月日 = [[1886年]][[4月19日]]<br /> | 没年月日 = {{死亡年月日と没年齢|1886|4|19|1975|6|6}}<br /> | 画像 = OshimaHiroshi.jpg<br /> | 画像サイズ = 130px<br /> | 画像説明 = <br /> | 渾名 = 駐独ドイツ大使<br /> | 生誕地 = {{JPN}} [[岐阜県]][[恵那郡]][[岩村町]]&lt;br /&gt;(現・[[恵那市]])<br /> | 死没地 = <br /> | 所属組織 = {{IJARMY}}<br /> | 軍歴 = 1905 - 1938<br /> | 最終階級 = 陸軍[[中将]]<br /> | 除隊後 = 駐ドイツ大使<br /> | 墓所 = <br /> | 署名 = <br /> }}<br /> &#039;&#039;&#039;大島 浩&#039;&#039;&#039;(おおしま ひろし、[[1886年]](明治19年)[[4月19日]] - [[1975年]](昭和50年)[[6月6日]])は、[[日本]]の[[昭和]]期の[[陸軍軍人]]である。最終階級は[[陸軍中将]]。<br /> <br /> [[第二次世界大戦]]前から戦中にかけて駐[[ナチス・ドイツ|ドイツ]][[特命全権大使]]を務め、[[日独伊三国同盟]]締結の立役者としても知られる&lt;ref name=&quot;okazaki&quot;&gt;[http://www.zen-kanshiren.com/article/contribution/zuisou/270.html 取れなかった原稿2 (大島浩さん)] 岡崎満義 『文壇こぼれ話5』全日本漢詩連盟、2007年1月1日、2010年8月5日閲覧&lt;/ref&gt;。終戦後の[[極東国際軍事裁判]]では[[A級戦犯]]として[[終身刑]]の判決を受けた。<br /> <br /> ==人物==<br /> 大島は、[[陸軍士官学校 (日本)|陸軍士官学校]]、及び[[陸軍大学校]]を卒業した[[陸軍軍人]]であった。[[1921年]](大正10年)、[[駐在武官|駐在武官補]]として初めてドイツに赴任、[[ナチ党]]とのあいだに強い個人的関係を築くようになった。[[1938年]](昭和13年)には駐ドイツ[[大使|日本大使]]に就任、日独同盟の締結を推進し、[[1940年]](昭和15年)に調印された[[日独伊三国軍事同盟]]も強力に支持した。終戦後には[[A級戦犯]]として[[終身刑]]に処せられ、[[1955年]](昭和30年)まで服役した。<br /> <br /> ==経歴==<br /> === 生い立ち ===<br /> 後の[[陸軍大臣]]・[[大島健一]]の長男として、[[岐阜県]][[恵那郡]][[岩村町]]に生まれた。<br /> <br /> その後は東京で育ち、[[新宿区立愛日小学校|愛日小学校]](東京牛込北町)では、後に経済人として[[経団連]]会長も務めた[[石坂泰三]]と同級であった。[[1898年]](明治31年)、[[東京都立戸山高等学校|東京府立四中]]入学、陸軍幼年学校入学資格である1年次修了後、[[1899年]](明治32年)[[9月]]、[[東京陸軍地方幼年学校]]入学、[[1904年]](明治37年)[[11月]]、[[陸軍幼年学校|陸軍中央幼年学校]]卒業。<br /> <br /> 幼少期から、[[在日ドイツ人]]の家庭に預けられ、[[ドイツ語]]教育とドイツ流の躾を受けた。軍人となった後に初めてドイツに駐在した際には、ドイツ人青年に付いてドイツ語を習い、教科書には『[[ロシア革命]]』([[ローザ・ルクセンブルク]]著)や、『手紙』([[カール・リープクネヒト]]著)などが用いられていたという&lt;ref&gt;2人とも、ドイツ共産主義革命家であり「[[スパルタクス団]]」のリーダー。&lt;/ref&gt;&lt;ref name=&quot;okazaki&quot;/&gt;。<br /> <br /> === ドイツ駐在 ===<br /> [[ファイル:Bundesarchiv_Bild_101I-262-1544-13,_Südfrankreich,_Offiziere_mit_Ferngläsern.jpg|thumb|280px|南フランスのドイツ軍防衛拠点を視察中の大島(写真中央) 1943年]]<br /> <br /> [[1921年]](大正10年)以降には、断続的に[[ベルリン]]に駐在し、[[1933年]]以降はドイツの政権を得ていた[[ナチス党]]上層部との接触を深めた。当時、[[外務省|日本国外務省]]はナチス党とは距離を置く方針であり、独自の行動で同党との[[社会的ネットワーク|ネットワーク]]を構築していた大島は、日独同盟の推進者となっていった。大島の外交思想は、同時期の駐イギリス特命全権大使であり、親英米派であった[[吉田茂]]とは対極であった。<br /> <br /> その後大島は陸軍中央と提携、駐ドイツ大使であった[[東郷茂徳]]を退け、[[1938年]](昭和13年)、自らが駐独大使に就任した。大使就任後には、政治家・外交官でありナチス党幹部の[[リッベントロップ]]に接近、[[日独伊三国同盟]](1940年締結)による枢軸外交実現のために奔走した。さらに、ナチス党総統 [[アドルフ・ヒトラー]]の信任を得るに至った。<br /> <br /> ドイツ駐在中は「姿勢から立ち振る舞いに至るまでドイツ人以上にドイツ人的」との評価を受け、一貫して親独政策を主張した。これらのことから、アメリカのジャーナリスト [[ウィリアム・L・シャイラー]]は後年、大島を、「ナチス以上の[[国家社会主義|国家社会主義者]]」と評している&lt;ref&gt;ウィリアム・L・シャイラー 『[[第三帝国の興亡]]』&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> ===ドイツ敗戦後===<br /> 第二次世界大戦末期の[[1945年]](昭和20年)、[[日本政府]]は駐スイス公使[[阪本瑞男]]からの[[ドイツ第三帝国]]瓦解との本国電を黙殺、大島による、なおもドイツ有利との誤った戦況報告を重用し続けた。ドイツを一方的に信じ続けた大島によるそれらの暗号電報は、全て連合国側に解読されており、英米の作戦遂行に有利に活用されていた。<br /> <br /> 同年[[4月]]、[[ソ連]][[赤軍]]がベルリンに迫ると、大島は一部の高官らと共にドイツ南部の温泉地、[[バート・ガスタイン]]&lt;ref&gt;(現在は[[オーストリア]]・[[ザルツブルク州]]だが、当時は[[1938年]]の[[独墺合邦]]のためドイツ国内)&lt;/ref&gt;に避難した&lt;ref name=&quot;sato&quot;&gt;[http://www.business-i.jp/news/sato-page/rasputin/200706130002o.nwc 危機のときの外交官] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20100131050058/http://www.business-i.jp/news/sato-page/rasputin/200706130002o.nwc |date=2010年1月31日 }} ラスプーチンと呼ばれた男 佐藤優の地球を斬る 『フジサンケイ・ビジネスアイ』 2007年6月13日、2010年8月5日閲覧&lt;/ref&gt;。ドイツ敗戦後、大島は[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]によって身柄を拘束されてアメリカ経由で日本に送還された。日本到着時には「私は政府の指示に従っただけだ」と話していたものの、到着と同時に連合国軍に身柄を拘束され、[[A級戦犯]]として[[起訴]]されることとなった。<br /> <br /> === 極東国際軍事裁判 ===<br /> 大島がA級戦犯として起訴された最大の理由は、[[日独伊三国同盟]]の推進にあった。しかし法廷において大島は、「ヒトラーやリッベントロップとは、ほとんど会わなかった」と、事実とは異なる証言をし、また三国同盟を主導したことなど、自身に不利になることには一切言及しなかった。<br /> <br /> 判事による投票の結果、大島は1票差で[[絞首刑]]を免れ&lt;ref name=&quot;okazaki&quot;/&gt;、[[終身刑]]の判決のもと[[巣鴨拘置所]]で服役した。大島は後年、政治家であった[[広田弘毅]]などが死刑となったことについて、「(自分のほうが戦争への責任が重いにも拘らず)こうして生きているのが、いつも申し訳ない気がしている」([[1965年]](昭和40年)頃の発言)などと述べていた&lt;ref name=&quot;okazaki&quot;/&gt;。<br /> <br /> ===晩年===<br /> [[1955年]](昭和30年)[[11月]]に[[仮釈放]]された大島は、[[神奈川県]][[茅ヶ崎市]]に隠遁した&lt;ref name=&quot;okazaki&quot;/&gt;。<br /> <br /> [[恩赦|赦免]]後には、当時の政権政党だった[[自由民主党 (日本)|自民党]]から、国政選挙への立候補を度々要請されたが、「自分は国家をミスリードした。その人間が再び公職に就くのは許されない」として断り続けた。公的な場所に現れることすら一切なかった大島は、著作や講演の依頼にも頑として応ぜず、編集者で歴史家の高橋正衛には、「私が語り、書いて、大島個人の主観で歴史家を誤らせるという、三国同盟に次いでまた国民に罪を犯したくない」と語っていた。<br /> <br /> [[日独伊三国同盟]]の締結を推し進めたことに付いて大島は後年、当時はそれを最善と信じて行動していたが、結果的にはその見通しの誤りが敗戦という結果を招き、その意味で自らに日本国に対しての重大な責任があることを認めていた&lt;ref name=&quot;okazaki&quot;/&gt;。<br /> <br /> ==ナチスとヒトラーへの心酔==<br /> 大島は強くナチス党とそれを率いるヒトラーに心酔しており、言動や思想は常にナチス党政権及びドイツ寄りであった。そのことから、日本国[[外務省]]や[[大日本帝国海軍]]などでは大島を指して、しばしば『駐独&#039;&#039;&#039;ドイツ&#039;&#039;&#039;大使』と揶揄した。[[木戸幸一]]は戦後、「あのくらい、ドイツ一辺倒の男はなかったナ」「大使になっても依然として駐在武官のような頭だったんだナ」と大島を評している&lt;ref&gt;金沢誠他編『華族 明治百年の側面史』(講談社、1968年)&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 大島のドイツ贔屓は終生続き、その晩年までヒトラーを「天才戦略家」と評価しており、蟄居先であった[[茅ヶ崎]]の自宅応接室にも、自身とヒトラーとが向かい合った写真が飾られていたという&lt;ref name=&quot;okazaki&quot;/&gt;。また、「国家の勢力拡大が最優先事項とされた当時の価値基準で測れば、ヒトラーは[[アレクサンドロス3世]](大王)や[[ナポレオン・ボナパルト]]に次ぐ天才であったことを固く信じる」と、ヒトラー死後30年を経た後にも語っていた&lt;ref name=&quot;okazaki&quot;/&gt;。<br /> <br /> ==性格と趣味・嗜好==<br /> 明るく開放的であった一方、非常に人を信じやすく、癇癪持ちであった。また、一度決めたらなかなか信念を変えなかった。これらのことから政治や術策には不得手であり、自身でも「政治や外交は好きではない」と語っていた。<br /> <br /> 駐ドイツ大使時代には、[[オペラ]]等のコンサートにも度々招待されていた大島であるが、特に[[リヒャルト・ワーグナー]]を一番のお気に入りとし、またドイツ・オーストリア・ハンガリーの喜歌劇([[オペレッタ]])を好んで歌っていた。また、大島は無類の[[食通]]であり、美味しい[[ウナギ|鰻]]屋があると聞いて家族全員で外出することもあった。酒は、ドイツの[[サクランボ]]酒である[[キルシュヴァッサー]]を好んでいた。<br /> <br /> しかし一方では、ドイツ在住の[[ユダヤ人]]演奏家を庇護・援助し続けアメリカとも人脈のあった指揮者[[近衛秀麿]]との確執が生じ、近衞のドイツ本国内での演奏活動が制限される結果となった。<br /> <br /> 大島は幼少時に一度[[結核]]を患った以外、全くの病気知らずで生涯を通した。ドイツに精通、陶酔していた大島は、晩年においても毎日、ドイツ語の本と雑誌ばかり読んでいた&lt;ref name=&quot;okazaki&quot;/&gt;。<br /> <br /> == エピソード ==<br /> *ドイツの敗戦直前、大島らが在留邦人や大使館職員らをベルリンに残して、ドイツ南部の温泉地へと逃避したのは、ソ連軍と遭遇するよりは[[アメリカ軍]]の[[捕虜]]となるほうがましとの判断からであった&lt;ref name=&quot;sato&quot;/&gt;。この時のことに付いて当時[[外交官|外交官補]]だった、後の[[外務省]]アメリカ局長・[[吉野文六]]は、自身が大島から『決死隊』としてベルリンに残留するよう命じられたこと、また、「酒とつまみ」を持ってくるよう命ぜられ、アメリカ軍機の[[機銃掃射]]を受けながらもドイツ人運転手と共にそれらをベルリンから温泉地まで届けたことなどを回想している&lt;ref name=&quot;sato&quot;/&gt;。<br /> *大使在任中の[[諜報活動]]では、在オーストリア英国大使館の下働きの夫婦を[[スパイ]]に仕立て、情報は[[ウィーン]]の中央公園の[[ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン|ベートーヴェン]]や[[ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト|モーツァルト]]の[[銅像]]の前で受取る、などといったこともしていた&lt;ref name=&quot;okazaki&quot;/&gt;。<br /> <br /> == 年譜 ==<br /> [[ファイル:Type 97 - Purple.jpg|thumb|200px|ベルリンの日本大使館で実際に使われていた[[パープル暗号|暗号機B型]]の機器の一部(戦後、アメリカによって接収される)。ケース内の写真では、大島とヒトラーが握手している様子が伺える(中央は[[ヨアヒム・フォン・リッベントロップ|リッベントロップ]])。]]<br /> *[[1905年]](明治38年)11月 - [[陸軍士官学校_(日本)|陸軍士官学校]](18期恩賜)卒業。<br /> *[[1906年]](明治39年)6月 - [[少尉]]に昇進。<br /> *[[1908年]](明治41年)6月 - [[中尉]]に昇進。<br /> *[[1915年]](大正4年)12月 - [[陸軍大学校]](27期)卒業。<br /> *[[1916年]](大正5年)5月 - [[大尉]]に昇進。<br /> **[[1916年]](大正5年)7月 - 重砲2聯隊[[中隊]]長。<br /> *[[1917年]](大正6年)2月 - [[参謀本部 (日本)|参謀本部]]配属。<br /> *[[1918年]](大正7年)8月 - [[シベリア]]出張(~[[1919年]](大正8年)2月)。<br /> *[[1921年]](大正10年)5月 - [[在ドイツ日本国大使館|駐ドイツ大使館]]付[[駐在武官|武官補佐官]]就任。<br /> *[[1922年]](大正11年)1月 - [[少佐]]に昇進。<br /> *[[1923年]](大正12年)2月 - 駐[[オーストリア]]公使館兼[[ハンガリー]]公使館付武官就任。<br /> *[[1926年]](大正15年)8月 - [[中佐]]に昇進。<br /> *[[1930年]](昭和5年)8月1日 - [[大佐]]に昇進。<br /> *[[1934年]](昭和9年)3月5日 - 駐ドイツ大使館付武官昇進。<br /> *[[1935年]](昭和10年)3月15日 - [[少将]]に昇進。<br /> **[[1935年]](昭和10年)10月 - ナチス党外交部長[[ヨアヒム・フォン・リッベントロップ|リッベントロップ]]と初会談([[二元外交]]始まる)<br /> *[[1936年]](昭和11年)11月25日 - [[日独防共協定]]調印<br /> *[[1937年]](昭和12年)11月 - [[イタリア]]、[[日独伊防共協定|日独防共協定]]に加わる。<br /> *[[1938年]](昭和13年)3月1日 - [[中将]]に昇進。<br /> **[[1938年]](昭和13年)8月 - [[ヒトラーユーゲント]]来日。<br /> **[[1938年]](昭和13年)10月8日 - 予備役編入。駐ドイツ大使に任命。日独防共協定を日独同盟へ格上げすることに奔走。<br /> *[[1939年]](昭和14年)8月23日 - ヒトラー、[[独ソ不可侵条約]]を締結。<br /> **[[1939年]](昭和14年)8月25日 - ドイツの独ソ不可侵条約締結を日独防共協定違反として日独同盟交渉中断を閣議決定。<br /> **[[1939年]](昭和14年)8月28日 - ドイツの日独防共協定違反に政治責任を取り[[平沼内閣]]総辞職。<br /> **[[1939年]](昭和14年)10月7日 - ベルリンより帰朝を命ぜられる。<br /> **[[1939年]](昭和14年)12月27日 - 大使依願免職。 <br /> *[[1940年]](昭和15年)2月 - 大島浩の後任、[[来栖三郎 (外交官)|来栖三郎]]駐ドイツ大使に任命。<br /> *[[1940年]](昭和15年)9月27日 - [[日独伊三国同盟]]調印。<br /> **[[1940年]](昭和15年)11月15日 - ヒトラー日本大使館来訪、[[紀元2600年]]を賀す。<br /> *[[1940年]](昭和15年)12月20日 - 駐ドイツ大使に再任命。<br /> **[[1941年]](昭和16年)2月17日 - ベルリン着任。メディア露出率が高く、ベルリンで最も知られた外交官の一人であった。<br /> *[[1941年]](昭和16年)3月27日 - [[松岡洋右]]外務大臣ベルリン訪問、松岡・ヒトラー会談に同席。 <br /> **[[1941年]](昭和16年)6月22日 - ドイツ軍ソ連に侵攻([[バルバロッサ作戦]])。 <br /> **[[1945年]](昭和20年)4月13日 - ソ連軍迫るベルリンを離れ、ドイツ南部のバート・ガスタインに避難。<br /> *[[1948年]](昭和23年)11月12日 - 極東国際軍事裁判でA級戦犯として終身刑。<br /> *[[1955年]](昭和30年)11月 - 減刑、出獄。<br /> *[[1975年]](昭和50年)6月6日 - 死去。{{没年齢|1886|4|19|1975|6|6}}。<br /> <br /> ==家族==<br /> 妻は[[子爵]]令嬢。妹の長江は[[箕作麟祥]]の四男・俊夫に嫁いだ。元[[日本大学]]農獣医学部教授の[[箕作祥一]]は浩の甥にあたる。<br /> <br /> ==演じた俳優==<br /> *[[小日向文世]] - 映画『杉原千畝 スギハラチウネ』(2015年、[[東宝]])<br /> <br /> ==脚注==<br /> &lt;references /&gt;<br /> <br /> == 参考 ==<br /> {{参照方法|section=1|date=2010年8月}}<br /> ;文献<br /> *笹本駿二 『第二次世界大戦下のヨーロッパ 』 岩波文庫〈岩波新書〉、1970年。<br /> * [[鈴木健二]] 『駐独大使大島浩』(芙蓉書房、1979年)<br /> * [[檜山良昭]] 『開戦前夜 &lt;small&gt;日独同盟秘史&lt;/small&gt;』([[日本文芸社]]、1994年) ISBN 4-537-07001-3<br /> *足立邦夫 『臣下の大戦』 ([[新潮社]] 1995年) <br /> * カール・ボイド 著、[[左近允尚敏]]訳 『盗まれた情報 &lt;small&gt;ヒトラーの戦略情報と大島駐独大使&lt;/small&gt;』([[原書房]]、1999年) ISBN 4-562-03274-X<br /> * [[阿部牧郎]] 『東郷茂徳 &lt;small&gt;日本を危機から救った外相&lt;/small&gt;』(人物文庫:[[学陽書房]]、2000年) ISBN 4-313-75109-2<br /> * [[小林よしのり]] 『いわゆるA級戦犯 &lt;small&gt;ゴー宣SPECIAL&lt;/small&gt;』([[幻冬舎]]、2006年) ISBN 4-344-01191-0<br /> * 『「A級戦犯」遺族の告白(後編)』(『[[週刊新潮]]』2007年8月30日号掲載)<br /> <br /> ;テレビ番組<br /> *[[その時 歴史が動いた]] 『ヒトラー情報 日本を揺るがす ~「真珠湾」へのもう一つの道~』 2002年9月18日放送([[日本放送協会|NHK]])<br /> <br /> ;ニュース映像<br /> * [http://cgi2.nhk.or.jp/shogenarchives/jpnews/movie.cgi?das_id=D0001300403_00000&amp;seg_number=004] 時の人は語る[[ハインリヒ・ゲオルク・スターマー|スターマー]]独特派公使、大島前駐独大使、[[日本ニュース]]第18号。<br /> * [https://archive.org/details/1941-03-05-Die-Deutsche-Wochenschau-Nr.548] [[ヒトラー]]に信任状を渡す大島大使、[[ドイツ週間ニュース]]第548号<br /> * [https://archive.org/details/1941-06-25-Die-Deutsche-Wochenschau-Nr.564] [[ゲッティンゲン大学]]から名誉市民称号を贈られる大島大使、[[ドイツ週間ニュース]]第564号<br /> * [https://archive.org/details/1944-11-16-Die-Deutsche-Wochenschau-Nr.741] [[国民突撃隊]]を閲兵する大島大使、[[ドイツ週間ニュース]]741号<br /> {{-}}<br /> {{在ドイツ日本大使}}<br /> {{在スロバキア日本大使|公使}}<br /> {{A級戦犯}}<br /> {{Normdaten}}<br /> {{デフォルトソート:おおしま ひろし}}<br /> [[Category:大日本帝国陸軍将官]]<br /> [[Category:戦前日本の大使]]<br /> [[Category:在ドイツ日本大使]]<br /> [[Category:A級戦犯]]<br /> [[Category:日独関係]]<br /> [[Category:太平洋戦争の人物]]<br /> [[Category:ドイツ鷲勲章受章者]]<br /> [[Category:岐阜県出身の人物]]<br /> [[Category:恵那市の歴史]]<br /> [[Category:1886年生]]<br /> [[Category:1975年没]]</div> 103.226.44.27 ミラノ 2018-06-09T05:56:30Z <p>103.226.44.27: /* ミラノ出身の著名人 */+cat</p> <hr /> <div>{{Otheruseslist|&#039;&#039;&#039;[[ロンバルディア州]]&#039;&#039;&#039;のミラノ(Milano)|&#039;&#039;&#039;[[ヴェネト州]]&#039;&#039;&#039;のミラノ(Mirano)|ミラーノ|その他のミラノ|ミラノ (曖昧さ回避)}}<br /> {{redirect|メディオラヌム|国際列車|メディオラヌム (列車)}}<br /> {{コムーネ<br /> |nomeComune_ja = ミラノ<br /> |nomeComune = Milano<br /> |panorama = Milano collage.jpg <br /> |linkBandiera = Flag of Milan.svg<br /> |linkStemma = CoA Città di Milano.svg<br /> |siglaRegione = LOM<br /> |siglaProvincia = MI<br /> |latitudineGradi = 45<br /> |latitudineMinuti = 28<br /> |latitudineSecondi = 0<br /> |longitudineGradi = 9<br /> |longitudineMinuti = 10<br /> |longitudineSecondi = 0<br /> |mappaX = 66<br /> |mappaY = 57<br /> |altitudine = 122 (102 - 147) &lt;ref name=&quot;istat2001&quot;&gt;{{Cite web|author=[[国立統計研究所 (イタリア)|国立統計研究所(ISTAT)]]|url=http://dawinci.istat.it/daWinci/jsp/MD/dawinciMD.jsp?a1=m0GG0c0I0&amp;a2=mG0Y8048f8&amp;n=1UH90T07S25&amp;v=1UH07B07RH50000|title=Tavola: Popolazione residente - Milano (dettaglio loc. abitate) - Censimento 2001.|language=イタリア語|accessdate=2018-03-14}}&lt;/ref&gt;<br /> |superficie = 182.07 &lt;ref name=&quot;kmq&quot;&gt;{{Cite web|author=[[国立統計研究所 (イタリア)|国立統計研究所(ISTAT)]]|url=http://dawinci.istat.it/MD/dawinciMD.jsp?a1=m0I040WI0&amp;a2=mG0y8048f8&amp;n=1UH90007S04&amp;v=1UH0D807RH40000|title=<br /> Tavola: Superficie territoriale (Kmq) - Milano (dettaglio comunale) - Censimento 2001.|language=イタリア語|accessdate=2018-03-14}}&lt;/ref&gt;<br /> |abitanti = 1,351,562 &lt;ref name=&quot;demo.istat&quot;&gt;{{Cite web|author=[[国立統計研究所 (イタリア)|国立統計研究所(ISTAT)]]|url=http://demo.istat.it/pop2017/index1_e.html|title=Total Resident Population on 1st January 2017 by sex and marital status|language=英語|accessdate=2018-03-14}}&lt;/ref&gt;<br /> |anno = 2017-01-01<br /> |densita = {{formatnum:{{#expr:1351562/182.07 round 1}}}}<br /> |frazioni = <br /> |comuniLimitrofi = [[アレーゼ]]、 [[アッサーゴ]]、 [[バランザーテ]]、 [[ボッラーテ]]、 [[コルシコ]]、 [[ペスキエーラ・ボッロメーオ]]、 [[ロー (イタリア)|ロー]]、 [[セスト・サン・ジョヴァンニ]]、 [[コルマーノ]]、 [[コローニョ・モンツェーゼ]]、 [[ブレッソ]]、 [[ノヴァーテ・ミラネーゼ]]、 [[ヴィモドローネ]]、 [[ペーロ]]、 [[セグラーテ]]、 [[セッティモ・ミラネーゼ]]、 [[クザーゴ]]、 [[チェザーノ・ボスコーネ]]、 [[トレッツァーノ・スル・ナヴィーリオ]]、 [[サン・ドナート・ミラネーゼ]]、 [[ブッチナスコ]]、 [[ロッツァーノ]]、 [[オーペラ]]<br /> |cap = 20100<br /> |prefisso = 02<br /> |istat = 015146<br /> |fiscale = F205<br /> |nomeAbitanti = milanesi または meneghini<br /> |patrono = 聖[[アンブロジウス|アンブロージョ]] (Sant&#039;Ambrogio)<br /> |festivo = [[12月7日]]<br /> |gradiGiorno = 2404<br /> |sito = http://www.comune.milano.it/<br /> |Mappa= Map of comune of Milan (province of Milan, region Lombardy, Italy).svg<br /> |Didascalia mappa=ミラノ県におけるコムーネの領域<br /> }}<br /> <br /> &#039;&#039;&#039;ミラノ&#039;&#039;&#039;({{lang-it-short|Milano}})は、[[イタリア]]で最大の都市圏人口を擁する[[都市]]で、[[ミラノ県]]の県都および[[ロンバルディア州]]の州都である。[[ヨーロッパ]]有数の[[世界都市]]。[[イタリア語]]の[[アクセント]]の関係で&#039;&#039;&#039;ミラーノ&#039;&#039;&#039;と記されることもある。[[英語]]ではミラン({{lang-en-short|Milan}})、[[フランス語]]ではミラン({{lang-fr-short|Milan}})、[[ドイツ語]]ではマイラント({{lang-de-short|Mailand}})、[[スペイン語]]ではミラン({{lang-es-short|Milán}})、[[ラテン語]]ではメディオラーヌム({{lang-la-short|Mediolanum}})と言う。<br /> <br /> == 概要 ==<br /> ミラノはイタリア全土では首都[[ローマ]]に次ぎ第2位、北部イタリアにおいては最大の都市で商業、工業、金融の中心。観光地としても名高い。1982年に1,607,804人いた人口はその後[[ドーナツ化現象]]で長く減り続けたが、ここ数年はおよそ130万人前後で落ち着いている(2013年時点の人口は1,324,169人)。[[2015年]]の近郊を含む都市圏人口は約526万人であり、イタリアで最大、[[南ヨーロッパ]]では[[スペイン]]の[[マドリード]]に次ぐ都市圏を形成している。[[日本]]の[[稚内市]]とほぼ同緯度に位置するが、最寒月の平均気温がおよそ5℃程度と、比較的温暖。<br /> <br /> [[ミラノ・コレクション]]などで知られるように古くから服飾・繊維産業などファッション関連の産業が盛んな土地柄であるが、近年は航空産業や自動車産業、精密機器工業なども発達しておりイタリア最大級の経済地域を形成している。<br /> <br /> 日本の民間[[研究所]]が[[2016年]]に発表した「世界の都市総合力ランキング」では、世界31位と評価された&lt;ref&gt;[http://mori-m-foundation.or.jp/ius/gpci/index.shtml 世界の都市総合力ランキング(GPCI) 2016] 森記念財団都市戦略研究所 2016年11月2日閲覧。&lt;/ref&gt;。また、アメリカの[[シンクタンク]]が2016年に発表した[[世界都市]]ランキングでは世界45位と評価された&lt;ref&gt;[https://www.atkearney.com/documents/10192/8178456/Global+Cities+2016.pdf/8139cd44-c760-4a93-ad7d-11c5d347451a Global Cities 2016] AT Kearney 2016年11月2日閲覧。&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> == 歴史 ==<br /> {{Main|{{仮リンク|ミラノの歴史|it|Storia di Milano}}|en:Timeline of Milan}}<br /> <br /> === 古代 ===<br /> ミラノは古代にはメディオラヌムと言い、[[紀元前600年]]の[[ケルト人]]の町を元にしている。前222年にローマが征服したが、そのどちらにもMediolanum(平原の真中)と呼ばれた。293年から402年まではMailandとも言った。その後は[[ローマ帝国]]のもとで繁栄した。4世紀、司教[[アンブロジウス]]と皇帝[[テオドシウス1世]]の時代には[[西ローマ帝国]]皇帝の宮殿が置かれ、西ローマ帝国の首都であった。450年ごろ、[[アッティラ]]に指揮された[[フン族]]の略奪をうけ、539年には[[ゴート族]]に破壊されたが、8世紀末ごろに再び繁栄し始めた。<br /> <br /> === 中世 ===<br /> 中世を通じてミラノは大司教に統治されたが、都市の独立性をある程度保ちながら、下層の封建貴族たちは次第に大司教の世俗的支配から脱していった。[[東ゴート王国]]、[[東ローマ帝国]]、[[ランゴバルド王国]]の時代を過ぎ、11世紀にはそうした貴族たちがミラノを富裕な自治都市へと変化させ、成長の回復と[[神聖ローマ帝国]]からの独立を果たした。1162年、ミラノは[[神聖ローマ帝国]]の[[フリードリヒ1世 (神聖ローマ皇帝)|フリードリヒ1世]]の軍隊に破壊された。しかしすぐに復興し、[[ロンバルディア同盟]]を結成して、1176年には[[レニャーノ]]の近くでフリードリヒ1世を打ち破った。この勝利でミラノは新しい繁栄の時代を迎えた。1277年、貴族の[[ヴィスコンティ家]]が、領主のデッラ・トッレ家からミラノの統治権をうばった。<br /> <br /> === ミラノ公国 ===<br /> 中世後期と[[ルネサンス]]時代にはミラノは[[ヴィスコンティ家]]と[[スフォルツァ家]]の[[ミラノ公国]]になった。[[1395年]]に[[ミラノ公国|ミラノ公]]の称号を授かった初代ミラノ公[[ジャン・ガレアッツォ・ヴィスコンティ]](1351~1402年)の時代には繁栄を極め、黄金時代を迎え、ヴィスコンティ家の支配は1447年まで続いた。<br /> <br /> 1450年には軍人[[フランチェスコ・スフォルツァ]]が権力を握り、ミラノの統治者としての地位を固めた。続いて息子ルドビコは学芸の保護にも熱心で[[レオナルド・ダ・ビンチ]]をミラノに迎えた。しかし、15世紀の北部イタリアの拡張時代の後の1500年、[[フランス]]軍がこの町を占領。このときレオナルドもミラノを去るがのちに再訪、約二十数年の滞在はこの地に[[ミラノ派]]とよばれる画派を生んだ。スフォルツァ家はフランス、[[スイス]]、[[オーストリア]]にあやつられながらも支配をつづけた。1535年に[[スフォルツァ家]]の血筋が途絶え、ミラノ公国は終焉した。<br /> <br /> === 諸外国の支配 ===<br /> [[イタリア戦争]]後の[[カトー・カンブレジ条約]]([[1559年]])によりミラノは神聖ローマ帝国、次いで[[スペイン]]ハプスブルク家の統治下にはいった。18世紀初頭の[[スペイン継承戦争]]後、[[1714年]]の[[ラシュタット条約]]によって[[オーストリア]]・[[ハプスブルク家]]に帰属することになった。[[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン]]は、1796年の[[イタリア戦役 (1796-1797年)]]でオーストリア人を追い出し、ミラノを[[チザルピーナ共和国]]、[[イタリア共和国 (1802年-1805年)]]、[[イタリア王国 (1805年-1814年)]]の首都とした。1815年、ミラノは、[[ロンバルド=ヴェネト王国]]としてオーストリアの手に戻った。<br /> <br /> [[1848年]]にミラノは、[[イタリア統一運動]]の中心地となり、短期間だが[[ヨーゼフ・ラデツキー]]のオーストリア軍を追放した([[ミラノの5日間]])。[[1859年]]の[[第二次イタリア独立戦争]]の[[ソルフェリーノの戦い]]の結果、オーストリアはイタリアに対する影響力を喪失し、フランスの援助を受けた[[サルデーニャ王国]]が、ミラノをオーストリアから奪取した。<br /> <br /> === イタリア ===<br /> 1861年にミラノは[[イタリア王国]]の一部に編入され、引き続き発展した。<br /> <br /> [[第二次世界大戦]]では、イタリアが降伏した[[1943年]]以降に[[ドイツ軍]]及び[[サロ政権]]の統治下に入ったため、[[イギリス軍]]や[[アメリカ軍]]をはじめとした[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]軍による激しい爆撃をうけたが、戦後急速に発展して復興をとげた。ミラノは文化的にも戦後のモダン・デザインの発信地として知られ、国際デザイン美術展であるミラノ・トリエンナーレが開催されている。<br /> &lt;!--<br /> &#039;&#039;&#039;Milano&#039;&#039;&#039; è una [[città]] [[Italia|italiana]] ed il capoluogo della <br /> [[Provincia di Milano|omonima Provincia]] e della Regione [[Lombardia]], <br /> nonché la più grande città dell&#039;Italia settentrionale, in quanto l&#039;area metropolitana ha 3.370.000 abitanti. <br /> <br /> Fu inizialmente fondata dai [[Celti]] attorno al [[600 a.C.]] per poi essere conquistata dai [[Republica Romana|romani]] nel [[222 a.C.]], i quali le dettero il nome di &#039;&#039;Mediolanum&#039;&#039; (&#039;&#039;in mezzo alla pianura&#039;&#039;); fu chiamata anche &#039;&#039;Mailand&#039;&#039;. Nel IV secolo d.C., al tempo del Vescovo Ambrogio e dell’imperatore [[Teodosio I]], la città divenne per breve tempo capitale dell’[[Impero Romano d’Occidente]].<br /> <br /> Dopo il periodo degli [[Ostrogoti]] e dei [[Longobardi]], nell’XI secolo la città riacquistò una crescente importanza ed indipendenza dal [[Sacro Romano Impero]]. Distrutta nell&#039;aprile del [[1162]] da [[Federico I Barbarossa]], rinacque dopo la vittoria della [[Lega Lombarda]] nella battaglia di [[Legnano]] del [[29 maggio]] [[1176]]. Durante il [[Rinascimento]] Milano fu governata dai duchi della famiglia dei [[Visconti]] e degli [[Sforza]].<br /> <br /> Dopo un periodo di espansione nell’[[Italia]] settentrionale nel XV secolo, all’inizio del XVI secolo Milano fu conquistata dalla [[Francia]], per poi passare alla [[Spagna]] e nel XVIII secolo all’[[Austria]]. Tornata all’Austria dopo il periodo [[Napoleone Bonaparte|napoleonico]] con il [[Regno Lombardo-Veneto]], nel [[1859]] passò al [[Regno di Sardegna]] dopo la [[Seconda Guerra d’Indipendenza]].<br /> <br /> Milano è prettamente [[industria|industriale]], con un [[terziario]] estremamente sviluppato. Negli [[anni 1980]] è divenuta famosa come &quot;Città della Moda&quot;. <br /> <br /> Dista pochi km dal confine [[Svizzera|svizzero]] e sorge al centro della regione, in zona pianeggiante.<br /> <br /> Da visitare: Il [[Duomo di Milano|Duomo]], il [[Castello Sforzesco]], i [[Navigli]], il [[Teatro alla Scala]], la [[Pinacoteca di Brera]], il [[Museo Poldi Pezzoli]], la [[Fiera Campionaria]], la [[Triennale]], la [[Basilica di Sant&#039;Ambrogio]], il [[Cenacolo]] di [[Leonardo|Leonardo da Vinci]] presso la [[Chiesa di Santa Maria delle Grazie]], il [[Museo della scienza e della tecnica]], l&#039;[[Acquario]], il [[Planetario di Milano|Planetario]] e il [[Museo di storia naturale]].<br /> <br /> --&gt;<br /> <br /> == 地理 ==<br /> [[File:RisaieVercellesi Panorama2.jpg|thumb|right|ポー平原の水田]]<br /> ミラノはイタリア北部でトリノ、パルマ等の都市と共に[[ポー平原]]に位置し、南に[[ポー川]]、北に[[コモ湖]]等のあるアルプス山麓が位置する。地形は平たんで標高は122m。<br /> 気候は[[ケッペンの気候区分]]で温暖湿潤気候 (Cfa) に属し、夏は蒸し暑く、冬は寒冷・多霧である。アルプス山脈と[[アペニン山脈]]に挟まれるため欧州で最も降水量が少なく無風の日が多いが、公害が最もひどい都市でもある。平均気温は5~9月が最高20~30度C、10~4月が18~6度Cである。<br /> <br /> == 経済 ==<br /> 化学工業と繊維ではイタリアの諸都市をリードし、[[航空機]]、[[自動車]]、機械や[[ガラス]]、皮革、[[ゴム]]製品、薬なども重要な産業である。出版業や音楽産業、数多くの銀行があつまり、イタリアの主要な株式取引所がある。また、毎年4月に国際貿易フェアが開催される。<br /> <br /> [[1971年]]に[[ヴァレンチノ・ガラバーニ]]がミラノにブティックを開店、これを機にイタリアン・ファッションの中心地は[[ローマ]]から徐々にミラノへ移っていくこととなった。<br /> <br /> アメリカの[[ダウ・ジョーンズ]]らの[[2013年]]の調査によると、世界35位の[[金融センター]]と評価されており、イタリアの都市では1位である&lt;ref&gt;[http://www.sh.xinhuanet.com/shstatics/images2013/IFCD2013_En.pdf Xinhua-Dow Jones International Financial Centers Development Index(2013)] 2013年9月15日閲覧。&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> == 名所 ==<br /> [[ファイル:Milano Duomo 1.jpg|thumb|250px|[[ミラノのドゥオーモ]]]]<br /> *[[スフォルツァ城]](スフォルツェスコ城)<br /> *[[ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世のガッレリア]]<br /> * モンテナポレオーネ通り<br /> *[[ミラノのドゥオーモ|ドゥオーモ]](ミラノ大聖堂)<br /> *[[大聖堂広場 (ミラノ)|大聖堂広場]]<br /> *[[レオナルド・ダ・ヴィンチ]]作『[[最後の晩餐 (レオナルド)|最後の晩餐]]』([[サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会 (ミラノ)|サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会]])<br /> *[[サンタンブロージョ教会]]([[:it:Basilica di Sant&#039;Ambrogio|it]])<br /> *[[サン・ロレンツォ聖堂]]<br /> *[[スカラ座]]<br /> *[[サンテウストルジョ聖堂]]<br /> *[[サン・ナザロ・マッジョーレ聖堂]]<br /> *[[ブレラ美術館|ブレラ絵画館]]<br /> *近代美術館 (la Galleria d&#039;Arte Moderna)<br /> * レオナルド・ダ・ヴィンチ国立科学技術博物館<br /> *バガッティ・ヴァルセッキ美術館 [http://www.museobagattivalsecchi.org]<br /> &lt;gallery&gt;<br /> File:Milano Castello 1.jpg|スフォルツァ城<br /> File:Galleria vittorio emanuele ii 02.jpg|ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世のガッレリア<br /> File:Milano Sant Ambrogio 1.jpg|サンタンブロージョ教会<br /> File:Milano-scalanotte.jpg|スカラ座<br /> File:Milano brera cortile.jpg|ブレラ絵画館<br /> &lt;/gallery&gt;<br /> <br /> == 風景 ==<br /> [[File:Milano banner.jpg|thumbnail|1000px|center|アルプス山脈を背景としたミラノの街並み]]<br /> <br /> == 文化 ==<br /> === スポーツ ===<br /> <br /> ; サッカー<br /> * [[ACミラン]]<br /> * [[インテルナツィオナーレ・ミラノ|インテル・ミラノ]]<br /> * [[スタディオ・ジュゼッペ・メアッツァ]](サン・シーロ)<br /> <br /> ; バスケットボール<br /> * [[オリンピア・ミラノ]]<br /> <br /> ; 自転車ロードレース<br /> * [[クラシック (ロードレース)|クラシックレース]]の1つとされ、毎年春先に行われている[[ミラノ〜サンレモ]]のスタート地点。<br /> * [[グランツール]]で最初に開催され、イタリアを一周するステージレースである[[ジロ・デ・イタリア]]でゴール地点に多く利用されている。<br /> <br /> === 食文化 ===<br /> *ミラノ風[[リゾット]]<br /> *ミラノ風[[カツレツ]]<br /> *ミラノ風[[ブッセカトリッパウミダ]]<br /> *[[オッソ・ブーコ]]<br /> *[[パネットーネ]]<br /> <br /> 2015年には「地球に食料を、生命にエネルギーを(Feeding The Planet, Energy For Life)」をテーマにした[[ミラノ国際博覧会 (2015年)|ミラノ国際博覧会]]が開催された。<br /> <br /> == 教育 ==<br /> * [[ミラノ工科大学]]<br /> * [[ミラノ大学]]<br /> * [[ルイージボッコーニ商業大学]]<br /> * [[サクロ・クオーレ・カトリック大学]]<br /> * [[ミラノ音楽院]]<br /> <br /> == 交通 ==<br /> === 鉄道 ===<br /> *[[ミラノ近郊鉄道]]<br /> *[[ミラノ通過線]]<br /> *[[トレニタリア]] - [[ミラノ中央駅]]など<br /> *[[ミラノ・ロゴレード駅]]<br /> * ATM - ミラノ交通社<br /> * [[ミラノ地下鉄]]<br /> * MSR<br /> <br /> === 航空 ===<br /> * [[ミラノ・マルペンサ空港]](市外)<br /> * [[ミラノ・リナーテ空港]] 主に国内・欧州近距離便<br /> * [[オーリオ・アル・セーリオ空港]](市外) 主にLCCが使用<br /> <br /> ミラノ・マルペンサ空港と[[成田国際空港]]との間に[[アリタリア航空]]が直行便を運航している。以前は[[日本航空]]も直行便を運航していたがその後運休している。<br /> <br /> == 姉妹都市 ==<br /> ミラノは18都市の[[姉妹都市]]を有している:<br /> {{Col-begin}}<br /> {{Col-3}}<br /> * {{flagicon|SRB}} [[ベオグラード]]([[セルビア]])<br /> * {{flagicon|PLE}} [[ベツレヘム]]([[パレスチナ]])<br /> * {{flagicon|UK}} [[バーミンガム]]([[グレートブリテン島]])&lt;!--[http://www.birmingham.gov.uk/twins バーミンガム姉妹都市説明サイト]--&gt;<br /> * {{flagicon|USA}} [[ボストン]]([[アメリカ合衆国]])<br /> * {{flagicon|USA}} [[シカゴ]](アメリカ合衆国)<br /> {{Col-3}}<br /> * {{flagicon|SEN}} [[ダカール]]([[セネガル|セネガル共和国]])<br /> * {{flagicon|GER}} [[フランクフルト・アム・マイン]]([[ドイツ]])<br /> * {{flagicon|POL}} [[クラクフ]]([[ポーランド|ポーランド共和国]])<br /> * {{flagicon|FRA}} [[リヨン]]([[フランス|フランス共和国]])<br /> * {{flagicon|AUS}} [[メルボルン]]([[オーストラリア|オーストラリア連邦]])<br /> * {{flagicon|JPN}} [[大阪市]]([[日本|日本国]])<br /> * {{flagicon|RUS}} [[サンクトペテルブルク]]([[ロシア|ロシア連邦]])<br /> {{Col-3}}<br /> * {{flagicon|BRA}} [[サンパウロ]]([[ブラジル]])<br /> * {{flagicon|CHN}} [[上海市|上海]]([[中華人民共和国]])<br /> * {{flagicon|ISR}} [[テルアビブ]]([[イスラエル|イスラエル国]])<br /> * {{flagicon|GRE}} [[テッサロニキ]]([[ギリシャ|ギリシャ共和国]])<br /> * {{flagicon|CHN}} [[天津市|天津]](中華人民共和国)<br /> * {{flagicon|CAN}} [[トロント]]([[カナダ]])<br /> {{Col-end}}<br /> <br /> == ミラノ出身の著名人 ==<br /> {{main|Category:ミラノ出身の人物}}<br /> === ローマ皇帝 ===<br /> * [[ディディウス・ユリアヌス]] (第19代ローマ皇帝)<br /> <br /> === 王族・貴族 ===<br /> {{Col-begin}}<br /> {{Col-2}}<br /> * [[アウグスト (ロイヒテンベルク公)|アウグスト]] (ロイヒテンベルク公)<br /> * [[マリア・レオポルディーネ・フォン・エスターライヒ=エステ]] (バイエルン選帝侯妃)<br /> * [[カテリーナ・スフォルツァ]] (女傑として知られる領主)<br /> * [[ビアンカ・マリア・スフォルツァ]] (神聖ローマ皇后)<br /> * [[マッシミリアーノ・スフォルツァ]] (貴族、ミラノ公)<br /> {{Col-2}}<br /> * [[マリーア・アデライデ・ダズブルゴ=ロレーナ]] (サルデーニャ王妃)<br /> * [[フランチェスコ4世 (モデナ公)|フランチェスコ4世]] (貴族、モデナ公)<br /> * [[アメリー・ド・ボアルネ]] (ブラジル皇后)<br /> * [[ジョゼフィーヌ・ド・ボアルネ (スウェーデン王妃)|ジョゼフィーヌ・ド・ボアルネ]] (スウェーデン王妃)<br /> * [[ヴァランティーヌ・ヴィスコンティ]] (オルレアン王妃)<br /> {{Col-end}}<br /> <br /> === ローマ教皇・聖職者 ===<br /> * [[ジュゼッペ・カスティリオーネ]] (聖職者)<br /> * [[ピウス4世 (ローマ教皇)|ピウス4世]] (第224代ローマ教皇)<br /> <br /> === 学者 ===<br /> {{Col-begin}}<br /> {{Col-2}}<br /> * [[ジェロラモ・カルダーノ]] (数学者)<br /> * [[エルコレ・デンボウスキー]] (天文学者)<br /> * [[チェーザレ・ベッカリーア]] (法学者、経済学者)<br /> * [[エンリコ・ボンビエリ]] (数学者)<br /> {{Col-2}}<br /> * [[ジュリアーノ・ボンファンテ]] (言語学者)<br /> * [[ジュゼッペ・メルカリ]] (火山学、地震学者)<br /> * [[アンニーバレ・リッコ]] (天文学者)<br /> {{Col-end}}<br /> <br /> === 政治家 ===<br /> * [[ベッティーノ・クラクシ]] (政治家)<br /> * [[ファウスト・ベルティノッティ]] (政治家)<br /> * [[シルヴィオ・ベルルスコーニ]] (政治家)<br /> <br /> === 軍人 ===<br /> * [[ヘンリー・オブ・バッテンバーグ]] (軍人)<br /> <br /> === 音楽家 ===<br /> {{Col-begin}}<br /> {{Col-3}}<br /> * [[クラウディオ・アバド]] (指揮者)<br /> * [[ダニエレ・ガッティ]] (指揮者)<br /> * [[ピエロ・コッポラ]] (指揮者)<br /> * [[ジュゼッペ・サンマルティーニ]] (作曲家、演奏家)<br /> * [[リッカルド・シャイー]] (指揮者)<br /> {{Col-3}}<br /> * [[チェーザレ・シエピ]] (バス歌手)<br /> * [[ジョルジォ・コロンボ・タッカーニ]] (作曲家)<br /> * [[ジョヴァンニ・パオロ・チーマ]] (作曲家、演奏家)<br /> * [[ジャナンドレア・ノセダ]] (指揮者)<br /> * [[マウリツィオ・ポリーニ]] (ピアニスト)<br /> {{Col-3}}<br /> * [[エンリコ・マイナルディ]] (演奏家)<br /> * [[アントニオ・ヤニグロ]] (演奏家、指揮者)<br /> * [[カルロ・リッツィ]] (指揮者)<br /> * [[アンドレア・レオナルディ]] (作曲家、音楽プロデューサー)<br /> * [[ニーノ・ロータ]] (作曲家)<br /> * [[エンリーコ・イントラ]] (ジャズ・ピアニスト、作曲家)<br /> {{Col-end}}<br /> <br /> === その他芸術家 ===<br /> {{Col-begin}}<br /> {{Col-2}}<br /> * [[ジュゼッペ・アルチンボルド]] (画家)<br /> * [[シルビオ・ガザニガ]] (彫刻家)<br /> * [[ルイージ・カニョーラ]] (建築家)<br /> * [[グイド・クレパックス]] (漫画家)<br /> * [[ジョゼフ=マリー・ロ・デュカ]] (著述家)<br /> * [[オリビエーロ・トスカーニ]] (写真家)<br /> {{Col-2}}<br /> * [[ジオ・ポンティ]] (建築家、デザイナー)<br /> * [[ブルーノ・ムナーリ]] (美術家、肩書多数)<br /> * [[ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジオ|ミケランジェロ・メリージ(カラヴァッジオ)]] (画家)<br /> * [[アルド・ロッシ]] (建築家)<br /> * [[マッシモ・ヴィネッリ]] (デザイナー)<br /> {{Col-end}}<br /> <br /> === 映画監督・関係者 ===<br /> * [[ヴィットーリオ・ムッソリーニ]] (映画プロデューサー、ボクシング協会会長)<br /> * [[ディーノ・リージ]] (映画監督)<br /> * [[アルベルト・ラットゥアーダ]] (映画監督)<br /> * [[ルキノ・ヴィスコンティ]] (映画監督)<br /> <br /> === 俳優・その他芸能人 ===<br /> {{Col-begin}}<br /> {{Col-2}}<br /> * [[ディエゴ・アバタントゥオーノ]] (俳優)<br /> * [[アンドレア・オキピンティ]] (俳優、映画プロデューサー)<br /> {{Col-2}}<br /> * [[グレタ・スカッキ]] (女優)<br /> * [[りりあん]] (グラビアアイドル)<br /> {{Col-end}}<br /> <br /> === ジャーナリスト ===<br /> * [[エルネスト・テオドロ・モネータ]] (ジャーナリスト)<br /> <br /> === スポーツ選手・関係者 ===<br /> {{Col-begin}}<br /> {{Col-4}}<br /> * [[グロリア・アゴリアーティ]] (フィギュアスケート選手)<br /> * [[アルベルト・アスカリ]] (レーシングドライバー)<br /> * [[ミケーレ・アルボレート]] (レーシングドライバー)<br /> * [[ルカ・アントニーニ]] (サッカー選手)<br /> * [[シルビア・ファリナ・エリア]] (テニス選手)<br /> * [[ウルバーノ・カイロ]] (実業家、サッカークラブ会長)<br /> * [[イヴァン・カペリ]] (レーシングドライバー)<br /> * [[カルロ・クディチーニ]] (サッカー選手)<br /> * [[パオロ・コッツィ]] (バレーボール選手)<br /> * [[マッシモ・ゴッビ]] (サッカー選手)<br /> * [[ジュゼッペ・ザッペッラ]] (サッカー選手)<br /> * [[マッテオ・ザンニ]] (フィギュアスケート選手)<br /> * [[ダヴィデ・ディ・ジェンナーロ]] (サッカー選手)<br /> * [[マルコ・ジョヴァンネッティ]] (自転車選手)<br /> {{Col-4}}<br /> * [[エレオノーラ・アンナ・ジョルジ]] (陸上選手)<br /> * [[フランチェスカ・スキアボーネ]] (テニス選手)<br /> * [[ワルテル・ゼンガ]] (サッカー選手、チーム監督)<br /> * [[ランフランコ・デットーリ]] (騎手)<br /> * [[マルコ・デルヴェッキオ]] (サッカー選手)<br /> * [[ネッロ・パガーニ]] (モーターバイクレーサー)<br /> * [[ルチア・バレリオ]] (テニス選手)<br /> * [[ルシアン・ビアンキ]] (レーシングドライバー)<br /> * [[ステファニー・ビアンキーニ]] (ボクサー)<br /> * [[アレッサンドロ・ピストーネ]] (サッカー選手)<br /> * [[カミラ・ピストレッロ]] (フィギュアスケート選手)<br /> * [[ヴィッキー・ピリア]] (レーシングドライバー)<br /> * [[カルロ・ファッシ]] (フィギュアスケート選手)<br /> * [[コラード・ファビ]] (レーシングドライバー)<br /> {{Col-4}}<br /> * [[テオ・ファビ]] (レーシングドライバー)<br /> * [[ガンディ・ブッシュ]] (フィギュアスケート選手)<br /> * [[クリスティアン・ブロッキ]] (サッカー選手)<br /> * [[ルイージ・ベッカリ]] (陸上競技選手)<br /> * [[ジュゼッペ・ベルゴミ]] (サッカー選手)<br /> * [[フェデリカ・ペレグリーニ]] (競泳選手)<br /> * [[マリオ・ベレッタ]] (サッカー選手、チーム監督)<br /> * [[カルメロ・ボッシ]] (ボクサー)<br /> * [[アントニオ・マスペス]] (自転車競技選手)<br /> * [[マウリツィオ・マルガリオ]] (フィギュアスケート選手)<br /> * [[ヴァレンティーナ・マルケイ]] (フィギュアスケート選手)<br /> * [[パオロ・マルディーニ]] (サッカー選手)<br /> * [[アルド・マルデラ]] (サッカー選手)<br /> * [[デブラ・ミセリー]] (プロレスラー)<br /> {{Col-4}}<br /> * [[ジュゼッペ・メアッツァ]] (サッカー選手)<br /> * [[ルカ・ラノッテ]] (フィギュアスケート選手)<br /> {{Col-end}}<br /> <br /> == ミラノが登場するフィクション ==<br /> *映画「[[若者のすべて (映画)|若者のすべて]]」<br /> *映画「[[ひまわり (映画)|ひまわり]]」<br /> *映画「[[冷静と情熱のあいだ]]」<br /> *映画「[[紅の豚]]」<br /> *小説「旧宮殿にて」[[三雲岳斗]]<br /> *オペラ「[[ロデリンダ]]」<br /> *小説「[[黒い兄弟]]」(テレビアニメ「[[ロミオの青い空]]」)<br /> *漫画・テレビアニメ「[[爆走兄弟レッツ&amp;ゴー!!|爆走兄弟レッツ&amp;ゴー!! WGP]]」<br /> <br /> == 脚注・出典 ==<br /> {{Reflist}}<br /> <br /> == 関連項目 ==<br /> *[[ミラノ県]]<br /> *[[ミラノの支配者一覧]]<br /> *[[ミラノ公国]]<br /> *[[トッポ・ジージョ]]<br /> <br /> == 外部リンク ==<br /> {{Commons&amp;cat|Milano|Milan}}<br /> ; 公式<br /> * [http://www.comune.milano.it ミラノ市公式サイト] {{it icon}}{{en icon}}<br /> <br /> ; 日本政府<br /> * [http://www.milano.it.emb-japan.go.jp/index_j.htm 在ミラノ日本国総領事館]<br /> <br /> ; 観光<br /> * [http://www.provincia.milano.it/turismo ミラノ観光局] {{it icon}}{{en icon}}<br /> * [http://www.enit.jp/city/milano.html イタリア政府観光局 - ミラノ] {{ja icon}}<br /> <br /> ; その他<br /> * [http://www.vivimilano.it ミラノとその周辺における文化活動情報]<br /> * [http://www.meti.go.jp/policy/exhibition/milano2015.html 2015年ミラノ国際博覧会]<br /> * [http://www.teatroallascala.org スカラ座]<br /> * [http://www.fieramilano.com ミラノ見本市会場]<br /> * [http://www.triennale.it ミラノ・トリエンナーレ]<br /> * [http://www.mi.camcom.it ミラノ商工会議所]<br /> <br /> {{ミラノ県}}<br /> {{DEFAULTSORT:みらの}}<br /> {{Normdaten}}<br /> <br /> [[Category:ミラノ|*]]<br /> [[Category:イタリアの州都]]<br /> [[Category:イタリアの県都]]<br /> [[Category:ミラノ県のコムーネ]]<br /> [[Category:イタリアのコムーネ み|らの]]<br /> [[Category:イタリアのローマ都市]]</div> 103.226.44.27 中央区立銀座中学校 2018-06-09T05:07:52Z <p>103.226.44.27: /* 著名な出身者 */追加</p> <hr /> <div>{{日本の中学校<br /> |校名=中央区立銀座中学校<br /> |画像 = {{画像募集中|cat=東京都中央区}}<br /> |過去校名=中央区立第一中学校・第二中学校<br /> |国公私立=[[公立学校]]<br /> |設置者=[[中央区 (東京都)|中央区]]<br /> |併合学校=<br /> |校訓=<br /> |設立年月日=[[1984年]][[4月1日]]<br /> |記念日名称=開校記念日<br /> |創立記念日=[[5月26日]]<br /> |共学・別学=[[男女共学]]<br /> |学期=[[3学期制]]<br /> |中学校コード=<br /> |郵便番号=104-0051<br /> |所在地=東京都中央区銀座8-19-15<br /> |外部リンク=[http://www.chuo-tky.ed.jp/~ginza-jh/ 公式サイト]<br /> }}<br /> &#039;&#039;&#039;中央区立銀座中学校&#039;&#039;&#039;(ちゅうおうくりつ ぎんざちゅうがっこう)は、[[東京都]][[中央区_(東京都)|中央区]][[銀座]]に所在する区立[[中学校]]。略称は「ぎんちゅう」。<br /> <br /> == 概要 ==<br /> [[学区]]域については[[京橋 (東京都中央区)|京橋地域]]全域。[[1984年]]([[昭和]]59年)統廃合により現在地に開校。通称:銀中。[[朝日新聞社]]の裏手に校舎が所在している。近年[[京橋 (東京都中央区)|京橋地域内]]の公立小学校からの進学者が減少している。近隣の中学校と同様、中学校入学時から[[越境通学]]する生徒の割合が高いため生徒数は維持されている。教科指導では[[習熟度別授業]]や[[少人数授業]]を以前から実施している。<br /> <br /> 中央区では、唯一の特別支援学級がある。<br /> <br /> == 沿革 ==<br /> * [[1984年]][[4月1日]] 中央区立第一中学校・第二中学校を統合、&#039;&#039;&#039;中央区立銀座中学校&#039;&#039;&#039;が開校。当時の全校生徒数は811名(新入生281名)。<br /> * 1984年[[5月26日]] 開校記念式典・校歌発表会(校歌:作詞[[高田敏子]]、作曲[[岩河三郎]])。<br /> <br /> == 特色 ==<br /> * 2年那須移動教室(修学旅行ではない)<br /> * 歌舞伎鑑賞教室<br /> * 東京ディズニーランド(卒業遠足)<br /> <br /> == 部活動 ==<br /> ; 運動部<br /> * バスケットボール部(男女)<br /> * ソフトテニス部(男女)<br /> * 男子バレーボール部<br /> * 女子バレーボール部<br /> * ストレッチ&トレーニング(5組運動部)<br /> * 陸上部<br /> * 剣道部<br /> * サッカー部<br /> ; 文化部<br /> * 吹奏楽部<br /> * 英語劇部<br /> * 科学部<br /> * 美術部<br /> * 茶華道部<br /> * 書道部(2010年3月31日を以て廃部)<br /> * 演劇部<br /> <br /> == 著名な出身者 ==<br /> * [[中山千夏]] - 旧明石中、タレント・政治家<br /> * [[四家秀治]] - 旧第一中1974年卒、アナウンサー<br /> * [[尾上松也]] - 銀座中、歌舞伎役者<br /> <br /> == 交通 ==<br /> * [[都営地下鉄大江戸線]] [[築地市場駅]]<br /> * [[東京メトロ日比谷線]]・[[都営地下鉄浅草線]] [[東銀座駅]]<br /> * [[東日本旅客鉄道|JR線]]・[[東京メトロ銀座線]]・[[都営地下鉄浅草線]]・[[ゆりかもめ東京臨海新交通臨海線|東京臨海新交通臨海線]](ゆりかもめ) [[新橋駅]]<br /> <br /> == 関連項目 ==<br /> * [[中央区 (東京都)#中学校|中央区立中学校一覧]]<br /> * [[東京都中学校一覧]]<br /> <br /> == 外部リンク ==<br /> * [http://www.chuo-tky.ed.jp/~ginza-jh/ 中央区立銀座中学校]<br /> <br /> {{DEFAULTSORT:ちゆうおうくりつきんさちゆうかつこう}}<br /> [[Category:東京都区部の公立中学校]]<br /> [[Category:東京都中央区の学校|きんさちゆうかつこう]]<br /> [[Category:銀座]]<br /> [[Category:1984年設立の教育機関]]<br /> [[Category:学校記事]]</div> 103.226.44.27 移民 2018-06-06T05:55:27Z <p>103.226.44.27: /* 関連項目 */追加</p> <hr /> <div>&#039;&#039;&#039;移民&#039;&#039;&#039;(いみん)とは、異なる[[国家]]や異なる文化地域へ移り住む事象({{lang-en|immigration, emigration}})、また移住する・移住した人々({{lang-en|immigrants, emigrants}})を指す。<br /> <br /> == 概要 ==<br /> 移住は長期にわたる[[居住]]を意味しており、[[観光]]や[[旅行]]は通常含まない。ただし、通常1年以内の居住を指す[[季節労働|季節労働者]]は移民として扱う場合が多い。<br /> <br /> 国際的に合意された「移民」の定義はまだ無く、最も引用されている定義は[[国際連合]](UN)の国連統計委員会への国連事務総長報告書([[1997年]])に記載されているもので、「通常の居住地以外の国に移動し、少なくとも&#039;&#039;&#039;12ヶ月間&#039;&#039;&#039;当該国に居住する人のこと(長期の移民)」を言う。この定義によると長期留学生や長期赴任、長期旅行者も「移民」である。<br /> <br /> また、[[国籍]]に関する要件が含まれていないため、日本で出生した外国籍の保持者は通常の居住国は日本であるため移民ではない。<br /> <br /> [[国際移住機関]](IOM)は「国内移動を含め、&#039;&#039;&#039;自発的に&#039;&#039;&#039;他の居住地に移動すること」と定義しており、「非自発的な移住」として自分の意思に反して強制的に移動を余儀なくされる場合で[[戦争]]や内乱・武力紛争、[[人権蹂躙|人権侵害]]、[[自然災害]]などによって起こる&#039;&#039;&#039;[[難民]]&#039;&#039;&#039;、あるいは避難民、また[[人身取引]]の被害者、研修生や留学生で搾取を受けている人、自分の意思で移動してもその後紛争に巻き込まれてしまったというケースなどを国際的な人道支援の対象としている。<br /> <br /> 出ていった移民を&#039;&#039;&#039;移出民&#039;&#039;&#039;(いしゅつみん、emigrant)、入ってきた移民を&#039;&#039;&#039;移入民&#039;&#039;&#039;(いにゅうみん、immigrant)と呼ぶ。受け入れ国の法的手続きによらず移入した人々を&#039;&#039;&#039;不法移民&#039;&#039;&#039;(ふほういみん、illegal immigrant)と呼ぶ&lt;ref&gt;[http://iomjapan.org/act/act_002.cfm [IOM JAPAN]] - 移住と開発 現代の移民の特徴?ヨーロッパの現状に学ぶ(前編)&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;[http://www.iomjapan.org/news/press_207.cfm [IOM JAPAN]] - 国際移住機関(IOM) プレス・ブリーフィング・ノート日本語版 2009年12月18日&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 通常、統計上の移民は、外国からの(外国への)移住者と同義だが、社会的問題としての「移民」には、文字どおり「民」すなわち特定の出身国から来る「大勢の人々」という意味合いが含まれている。そのため、一般的に移民は、巨視的な移住現象(社会全体に影響しうる程度のもの)、又はそれを構成する個々の移住者を意味している(場合によってその子孫が含まれることもある)。<br /> <br /> 一方、相対的に移住者数が少数である国籍等の場合、移民ではなく、単なる移住者とみられる。例えば、日本には欧州諸国(欧州文化地域)からの移住者が多少居住するが、日本の人口に比してその規模が非常に小さく、通常の社会・政治論ではこれを移民現象として捉えない。なお、より経済力のある豊かな国へ裕福な生活を求めることが多数の移民の動機になっていることから、移民が「経済的移民」を指すことも少なくない。<br /> <br /> さらに、英訳の「イミグレーション」(Immigration)は、国の&#039;&#039;&#039;入国管理事務&#039;&#039;&#039;も意味しているため&lt;ref&gt;[[大辞泉]]を参照&lt;/ref&gt;、[[日本語]]の「移民」より、語義が広範(曖昧)な言葉になっている。こうした定義の曖昧さが移民問題の議論を難しくする要因の一つである。<br /> <br /> [[国際連合|国連]]の推定によれば[[2005年]]には1億9000万の人々が移民したが、これは全世界の[[人口]]の3%に満たない。残りの97%は出生した国もしくはその後継国に在住している。[[1990年]]には国連で「[[全ての移住労働者及びその家族の権利の保護に関する国際条約]]」が採択された。<br /> <br /> また[[サイエンス・フィクション|SF]]などで[[宇宙移民]]について描かれることもある。<br /> <br /> ===アメリカ合衆国===<br /> [[アメリカ合衆国連邦政府|米国政府]]が発給する外国人への[[査証|ビザ]]は、大きく「移民ビザ(Immigrant Visa)」と「非移民ビザ(Non Immigrant Visa)」に分けられる。<br /> [https://jp.usembassy.gov/ja/visas-ja/[在日アメリカ大使館 ビザサービス]]<br /> <br /> 移民ビザは「Permanent resident Visa(永住権)」とも呼ばれ、滞在期限や活動(就業)に一切の規制がない。<br /> <br /> それに対して「非移民ビザ」は、滞在期限や滞在中の活動(就業可・不可やその職種・条件など)に制限があり、非移民ビザによる滞在の外国人は住居の有無・就労・滞在期間に関わらず全てVisitor(訪問者)として扱われる。<br /> <br /> すなわち、米国政府の定義としては移民とは「永住権所持者」を指す事になる。なお、日本の[[自由民主党 (日本)|自民党]]特命委員会が提案している『入国時に在留期間の制限がない者』はこの定義に近い。(ただし米国永住権は期間だけではなく在留中の活動にも制限がない)<br /> <br /> 対して、一般市民の認識では「永住権所持者」と「帰化米国籍者(他国で出生した後に米国へ移住し米国籍を取得した者)」の両方を含めて『移民』と呼ぶ事が多い。<br /> <br /> == 移民の歴史 ==<br /> === 国民と移民 ===<br /> 数10万年前から現象として起きている「人の移動」に対して、&#039;&#039;&#039;[[移住]]&#039;&#039;&#039;とは広義においての「国内での地域間での人々の移り住み」も含まれるが、狭義においての「ある[[国家]]の[[国民]]が別の国家に移り住むこと」を指す事が多い。[[市民権]]や[[国籍]]を管理するようになったのは[[国民国家]]の形成以降であるから、移民とは一般に近代の概念である。[[19世紀]]に進展した国民国家の形成において[[国籍法]]の整備と[[国境]]の画定により国民を登録して管理するようになり、国民と移民が[[法律]]上、明確に分けられることになった。<br /> <br /> === 植民 ===<br /> [[帝国主義]]時代の下、[[ヨーロッパ]]諸国の[[アジア]]・[[アフリカ]][[植民地]]では、植民地経営のために政策的にヨーロッパからの[[植民]]がなされた。また、世界的な[[奴隷制度]]廃止にともない[[鉱山]]や農園([[プランテーション]])開発や[[鉄道]]建設のため、[[アジア]]からの労働移民が[[東南アジア]]や[[アフリカ大陸]]にわたった。<br /> <br /> 東南アジアにおける植民地経営を支えていたのは[[イギリス]]領[[マレー半島]]の[[ゴム]]や[[錫]]、[[オランダ]]領[[インドネシア]]の[[農業]]生産などであり、そこで必要とされた労働力は[[中国大陸]]南部や[[インド]]南部から調達された。かれらの多くは&#039;&#039;&#039;契約労働者&#039;&#039;&#039;であったが、現地に定住する者も少なくなかった。これにともない[[商業]]活動に進出する者も増え、これらの中国系移民([[華僑]]・[[華人]])とインド系移民([[印僑]])は、その後、東南アジア各地で大きな影響力をもつこととなった。<br /> <br /> [[アフリカ]]への移民としては[[南アジア]]とりわけ[[インド]]からの人々が多く、[[イギリス帝国]]のもとではイギリス領植民地相互の植民もおこなわれた。<br /> <br /> === 19世紀・移民の世紀 ===<br /> [[18世紀]]までのヨーロッパからの移民がおもに年季契約のかたちをとった&#039;&#039;&#039;労働移民&#039;&#039;&#039;であったのに対し、19世紀には&#039;&#039;&#039;自由移民&#039;&#039;&#039;が主流となった。19世紀の[[ヨーロッパ]]では、[[産業革命]]の影響等による人口の増大や[[交通機関]]の発達などにより大規模な人口移動がおこった。各国では人口の都市への集中がみられるいっぽう海外移民も増加した。[[第一次世界大戦]]までの100年間に新大陸に渡った[[ヨーロッパ人]]は6000万人におよび、19世紀はまさに「移民の世紀」であった。<br /> <br /> 最大の移民受け入れ国は[[アメリカ合衆国|アメリカ]]であり、その数は[[1821年]]から[[1920年]]までの100年で約3300万人とされる。その前半には北・西ヨーロッパから、その後半は南・東ヨーロッパからの移民が多くみられ、これは各国の[[工業化]]の進展の時期のずれを示している。人口増加や[[貧困]]などの経済的な要因だけでなく、迫害を受けた[[ユダヤ人]]のように政治的な要因からの移民もおこなわれた。また19世紀半ばに[[アフリカ]]からの[[黒人奴隷]]が解放されると[[中国]]や[[インド]]から労働者を雇い入れ、不足する労働力を補った。<br /> <br /> なお、[[アメリカ大陸]]・[[オーストラリア]]・[[南アフリカ共和国|南アフリカ]]における[[黄色人種]]([[モンゴロイド]])の[[アジア]]系移民はヨーロッパ系の[[白人]]労働者と競合したため、「[[黄禍]]」として排斥されたり移民を制限されることもあった。[[1870年代]]には[[カリフォルニア州]]で[[中国人]]([[中国系アメリカ人]])排斥の動きが高まり、[[1882年]]には[[中国人排斥法|中国人移民禁止法]]が[[アメリカ合衆国議会]]で成立した。[[1924年]]にはアメリカ合衆国でとりわけ日本人移民([[日系アメリカ人]])を制限する「[[排日移民法]]」が制定され、日本で「アメリカ政府は[[人種差別]]的である」とする[[反米]]感情が生まれた。<br /> <br /> オーストラリアではアジア系移民の市民権を容認しない「[[白豪主義]]」が採用され、南アフリカではこののち厳しい人種隔離政策である「[[アパルトヘイト]]」が長い間継続された。<br /> <br /> [[冷戦]]終結、[[東欧革命]]による[[共産主義|共産圏]]国家の崩壊以降の近年{{いつ|date=2015年2月}}は[[欧州連合|EU]]統合と[[シェンゲン協定]]加盟国内の旅行が自由となった影響で、旧[[東側諸国]]の[[東ヨーロッパ]]から旧[[西側諸国]]の[[西ヨーロッパ]]への移民が増加している。<br /> <br /> == 移民の現況 ==<br /> === ヨーロッパにおける移民 ===<br /> [[ヨーロッパ]]における移民は、おおむね欧州大陸圏内での移住と、[[北アメリカ|北米]]([[アメリカ合衆国]]と[[カナダ]])から[[イギリス]]への移住、[[イスラム世界|イスラム圏]](北[[アフリカ]]・[[中近東]]諸国・[[インドネシア]])からの流入が大勢を占めている。主に欧州で問題となっているのは宗教的・文化的背景が大きく異なる[[ムスリム]]の移民であるが、[[イタリア]]などでは[[ルーマニア]]など東欧(主にかつての[[冷戦]]下の旧[[東側諸国]])からの移民があまりに増加したために[[不動産]]価格の上昇・土地の不法占拠などの問題が深刻化し、ムスリム・アジア系の移民だけでなく東欧系移民への地元民の反感も強まっている。[[エマニュエル・トッド]]は[[西洋]]四大国(アメリカ、イギリス、[[フランス]]、[[ドイツ]])の移民の統合状況に大きな相違点があるとした&lt;ref&gt;{{citation<br /> | title=移民の運命<br /> | first=Emmanuel<br /> | last=Todd<br /> | publisher=藤原書店<br /> | place=東京<br /> | year=1999<br /> | isbn=4-89434-154-9<br /> }}&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 移民の大多数は複数ある産業のいわゆる下流工程と言える職につくことが多く、ヨーロッパ経済の下支えとしての役割を果たしている。とりわけ[[天然ガス]]の採掘によって危機的な自国通貨高に見舞われた[[オランダ]]では、第一次、第二次産業に従事する移民が経済復興の足がかりにもなった。[[ドイツ]]には[[トルコ人]]が、[[イギリス]]には旧[[植民地]]の[[インド人]]、[[ポーランド人]]、[[パキスタン]]人や[[アフリカ]]系、[[カリブ海諸国|カリブ]]系、[[アラブ]]系、[[華僑]]が移民または労働者として流入している。<br /> <br /> === 移民統合と多文化主義の問題 ===<br /> 異郷の地において同郷の者たちが一つの地区に居住することによって[[コミュニティ]]が形成される場合もあり、[[日本人]]による[[日本人街]]・[[リトルトーキョー]]や[[中華民族|中国人]]による[[中華街]]([[中華街#世界のチャイナタウン|チャイナタウン]])、[[朝鮮半島]](主に[[大韓民国|韓国]])出身者による[[コリア・タウン]]などがある。これらは数ブロック程度の「一区画」であることが多いが、規模が大きくなって村や市がまるごと移民によるコミュニティになっている場合もしばしばある。例えば、[[ボリビア]]における[[サンフアン・デ・ヤパカニ移住区|サンフアン・デ・ヤパカニ市]]は集団移民した日本人が作り上げた市である。<br /> <br /> ==== フランス ====<br /> [[フランス]]は東欧からの移民の統合には成功しているとされる(元大統領の[[ニコラ・サルコジ]]は[[ハンガリー]]移民2世である)が、旧[[宗主国]]として[[北アフリカ]]諸国から受け入れた移民の統合はうまくいっておらず、移民の多い[[バンリュー|大都市の郊外]]では治安の悪化・暴動([[2005年パリ郊外暴動事件]]など)が頻発するなどの問題が深刻化している。<br /> <br /> 2015年1月に首都[[パリ]]で勃発した[[シャルリー・エブド襲撃事件]]では17人の犠牲者を出した<br /> &lt;ref name=NYT2014jan23SV&gt;[http://www.nytimes.com/2015/01/23/world/europe/charlie-hebdo-attack-leads-to-changes-in-french-schools.html?_r=0 Paris Attacks Lead French to Reinforce Secular Values in Schools] M. de la Baume, The New York Times, 23 Jan 2015&lt;/ref&gt;。<br /> この事件はフランスの過去50年で最悪の事件であった。犯人はすべてフランス生まれのイスラム教徒だった。フランスの人口の12%がフランス国外生まれであり、またイスラム系の全人口に占める割合は西欧州一である&lt;ref name=NYP2015jan12IP&gt;[http://nypost.com/2015/01/12/refusing-to-look-at-immigration/ Refusing to look at immigration] R. Lowry, New York Post, 12 Jan 2015 &lt;/ref&gt;2005年のパリ郊外暴動事件はイスラム系移民とフランス国民との溝の深さを示したものである{{誰|date=2015年2月}}。<br /> 2015年以前からフランス国民の約74%が、イスラム教はフランス社会の価値観と相容れないと述べている&lt;ref&gt;[http://www.telegraph.co.uk/news/worldnews/europe/france/11995709/Douglas-Murray-Europe-must-confront-the-danger-of-mass-immigration.html Paris terror attacks: Europe must confront failed integration]D. Murray, The Daily Telegraph, News, 14 Nov 2015 &lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 元来植民地時代から独立・建国以来の国家形成が移民によって成立しているアメリカでも同様のことは起こりうるが、アメリカは欧州など[[キリスト教]]国家からの移民を中心に受け入れているのでそれらの移民は宗教的アイデンティティーをアメリカ政府から抑圧されることがないのである&lt;ref name=NYP2015jan12IP /&gt;。<br /> <br /> {{main|シャルリー・エブド襲撃事件}}<br /> <br /> このフランス紙襲撃事件を境に大陸欧州における移民排斥の動きが一段と活発になり、特にイスラム系移民の制限強化をもとめる世論は日を追って大きくなっている&lt;ref&gt;[http://www.thestar.com/news/world/2015/01/13/antimuslim_antiimmigrant_rallies_grow_in_europe.html Anti-Muslim, anti-immigrant rallies grow in Europe] T. Talaga, Toronto star, 13 Jan 2015 &lt;/ref&gt;<br /> 。[[ドレスデン]](ドイツ)で開かれたイスラム移民排斥のための集会では、約25000人が参加した。またフランス国内の学校では移民の児童と地元の児童との間で[[文化摩擦|文化的対立]]が高まっており、移民が多数居住する地域である[[クリシー=ス=ボワ]]の学校では生徒の4分の3が黙祷を捧げる(キリスト教の宗教的行為)ことを拒否した&lt;ref name=NYT2014jan23SV /&gt;。<br /> <br /> またこのパリでの襲撃事件をうけて、[[ハンガリー]]首相の[[オルバーン・ヴィクトル]]はパリでのデモに参加した。そして、「ハンガリーがそのままのハンガリーであることを我々は望むのであり、身体的特徴や文化的背景が著しく異なるマイノリティーを我々の社会で見たくはない」とオルバーンは主張し、政治的比護目的での移民の数を制限するようEUに求めた&lt;ref name=bloomberg2015jan12O&gt;[http://www.bloomberg.com/news/2015-01-12/hungary-s-orban-urges-eu-immigration-stop-after-france-attacks.html French attacks prompt East Europe calls for curbs on immigration]Z. Simon, Bloomberg, 12 Jan 2015&lt;/ref&gt;。「移民によって欧州は問題と危険を抱え込む些末であり、移民を阻止しなければならない」とオルバーンは述べた。<br /> <br /> [[チェコ]]大統領[[ミロシュ・ゼマン]]は、「欧州の規範を守れないような移民は彼らの本国の文化や慣習のなかで生活するべきであり、それら移民を本国へ送還するべき」と唱えた&lt;ref name=bloomberg2015jan12O /&gt;。フランス首相[[マニュエル・ヴァルス]](自身は[[スペイン]]からの移民で後に仏国籍取得)は、「フランスにおけるイスラム教徒の割合は欧州一であり、ジハーディスト・イスラム原理主義やテロリストとの戦争状態にある」と述べた&lt;ref name=bloomberg2015jan12O /&gt;。<br /> <br /> ==== ドイツ ====<br /> ドイツの首都[[ベルリン]]の移民集住地区[[ノイケルン区]]では2006年3月に、全校生徒の約80%を移民子弟で占めるリュトリ基幹学校(Rütli-Schule)では、教師が生徒に暴力を振るわれ、強盗が日常茶飯事になるなど[[学校崩壊]]が進んだため、全教員が廃校要望書をベルリン市教育長に送付した事件が発生し、ドイツにおける移民統合や[[多文化主義]]の失敗としてドイツのメディアでは報道された&lt;ref&gt;[http://www.desk.c.u-tokyo.ac.jp/download/es_8_Kobayashi.pdf ドイツの移民政策における「統合の失敗」]小林薫,東京大学「ヨーロッパ研究」第8号,2009年&lt;/ref&gt;。2010年には[[アンゲラ・メルケル]]首相が「多文化主義は失敗」と公言した&lt;ref&gt;[http://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2010/10/post-1754.php メルケル「多文化主義は失敗」発言の真意]ニューズウィーク日本版2010年10月28日&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;[http://democracynow.jp/video/20101018-3/ 欧州で勢いを増す反移民感情・極右発言] - スラヴォイ・ジジェク、デモクラシー・ナウ、2010/10/18&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> ==== スイス ====<br /> EU諸国から[[スイス]]への移民の数は毎年8万人であり、この数は当初2007年に見積もられていた数の10倍であることが[[スイス国民党]]によって指摘されている。そして移民超過の結果、[[教育]]システムや[[交通]]、公的[[医療]]システムに負荷をかける事態になっており、[[健康保健]]・[[年金]]など[[移民]]への社会保障のためのコストを誰が負担するかについての議論がある。そしてスイス国内労働者の賃金の下方硬直性が移民労働者の低賃金と競争にさらされることで脅かされる状態になっている。この状況を受け、2014年スイスは、EU諸国からの移民の数を制限する是非についての国民投票を行い&lt;ref&gt;[http://www.telegraph.co.uk/news/worldnews/europe/switzerland/10627452/Switzerland-votes-to-re-introduce-curbs-on-immigration.html Switzerland votes to re-introduce curbs on immigration] The Telegraph, 9 Feb 2014&lt;/ref&gt;、移民規制強化への賛成が過半数を占めた。スイス国民党代表のトニー・ブルンナーは、この国民投票の結果はスイスの移民政策のターニングポイントだとする声明を出した&lt;ref&gt;[http://www.bbc.co.uk/news/world-europe-26111637 Europe elections: Swiss lessons for Brussels] BBC News Europe, 9 Feb 2014 &lt;/ref&gt;。<br /> <br /> これをうけてスイス政府は2017年からEU諸国からの移民の数を制限する声明を発表した&lt;ref name=reuters2014june20IP&gt;[http://uk.reuters.com/article/2014/06/20/swiss-immigration-idUKL6N0P136220140620 UPDATE 2-Swiss plan for immigration quotas denounced by EU] Reuters, 20 June 2014&lt;/ref&gt;。EU側は先行する条約に反すると批判したが&lt;ref&gt;域内の移動の自由はEUの基本的政策の一つではある。だがスイスは[[シェンゲン協定]]には加盟しているもののEU加盟国ではない。&lt;/ref&gt;、「もしスイス有権者が我々を信頼しなくなったら、民主主義の危機となってしまう」とスイス司法・警察担当の連邦参事会員[[シモネッタ・ソマルーガ]]は述べた。その移民制限法は「スイス国内に4か月以上在住する全ての外国人」が対象となり&lt;ref name=reuters2014june20IP /&gt;、またスイス在住ではないが国境を越えて通勤しスイスで労働に従事する外国人も対象となる。<br /> <br /> ==== イギリス ====<br /> [[イギリス]]への移民の数は、年間22万-26万人。&lt;ref&gt;http://www.bbc.com/news/uk-politics-30224493&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;http://www.bbc.com/news/uk-15868793&lt;/ref&gt;。2014年、EU加盟国からの移民は、2004年以降、当時の[[労働党 (イギリス)|労働党]][[トニー・ブレア]]政権が中・東欧8カ国の労働者を受け入れたこともあり、[[ポーランド]]を中心に約150万人の移民が英国に入国したとみられる。政府統計では、過去1年間で移民が実質26万人増えた。英国は独仏などに比べても、とりわけ移民に対する[[社会福祉]]が手厚いとされ、「ベネフィット・ツーリズム([[失業手当]]など[[福祉]]目当ての移住)」も一部で問題になっている&lt;ref&gt;http://www.nikkei.com/article/DGXLASGM28H7I_Y4A121C1FF2000/&lt;/ref&gt;。<br /> イギリス国内では、過去2年間においてEU市民による犯罪は5万4千件以上となった。最多の犯罪者は、主に東欧出身者で、過去2年において、(全ての)外国人による犯罪件数も2倍に増加した&lt;ref&gt;http://www.telegraph.co.uk/news/uknews/law-and-order/8439117/EU-migrants-commit-500-crimes-a-week-in-UK.html&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 2014年、[[保守党]][[デイヴィッド・キャメロン]]英首相は、「欧州連合(EU)からの移民に対する[[社会福祉]]の制限などを柱とする移民制限措置」を導入すると発表した。「移民が職を奪ったり福祉予算を圧迫したりしている」とする国内の不満に対応する狙いだ。キャメロン首相は演説で「移民は現代のオープンな英国社会と経済にとって不可欠なものだ」「英国に来る移民の数を適正にコントロールし、社会福祉の悪用を防止するための追加の手段が必要だ」と語った。制限措置では、EU移民が英国で職をみつけても、4年間は公営住宅への入居や税額控除などの対象外とする。現在は就職後、数カ月後には申請できる。6カ月以内に職を探せなかった移民は国外退去を求めるほか、新規EU加盟国からの移民も制限する考えだ。&lt;ref&gt;http://www.nikkei.com/article/DGXLASGM28H7I_Y4A121C1FF2000/&lt;/ref&gt;<br /> <br /> == 日本における移民の歴史 ==<br /> [[File:Kobe-imin4003.JPG|thumb|right|220px|国立神戸移民収容所は昭和3年(1928年)に設立された。]]<br /> {{See also|日系人}}<br /> [[労働力]]としての人の移動は、[[室町時代]]にはすでに存在していた。しかし[[中世]]においては、男女を[[奴隷]]として輸出する場合もあった。[[後漢書]]によれば、[[107年]]に[[倭国]]王[[帥升]]が[[生口]]160人を[[後漢|漢]]に献じたとある。[[阿倍仲麻呂]]のように[[唐]]で高官に出世した者もいる。御[[朱印状]]による御[[朱印船]]貿易で、[[アユタヤ日本人町]]のような大規模な街を造る者たちもいた。<br /> <br /> [[江戸時代]]に入り、[[鎖国]]政策が採られて以降、[[江戸幕府]]は幕末まで移民を海外に送り込むことは無かった。<br /> <br /> === 日本人移民 ===<br /> 開国後の[[大日本帝国]](日本)は、[[第二次世界大戦]]後に至るまで、労働力が過剰だったために、日本人移民を送出する側にあった。[[明治]]元年([[1868年]])、駐日[[ハワイ]]総領事[[ヴァン・リード]]の要請を受けて、いわゆる[[元年者]]153名が[[ハワイ王国]]に送られたが、その待遇は劣悪極まりないものであったため、国際問題に発展した。<br /> <br /> [[File:Affiche émigration JP au BR-déb. XXe s..jpg|thumb|right|220px|[[海外興業]]株式会社のブラジル移民を促すポスター。[[ブラジル]]は世界最大の日系人人口を擁する国家である]]<br /> その後、[[アメリカ合衆国]]本土や[[ブラジル]]、[[ペルー]]や[[パラグアイ]]などの[[南アメリカ|南米諸国]]等への移民が徐々に増加した。この頃のアメリカへの移民については、[[日本国政府]]による政策や移民斡旋業者に頼らないやり方をした女性[[伊東里き]]などがいる。その他の受入先としては、アメリカ統治下にあった[[フィリピン]]の[[ダバオ]]市、[[満州国]]、日本の[[委任統治]]下にあった[[パラオ]]などの[[南洋諸島|南洋群島]]などがある。<br /> <br /> ただし、日本統治下にあった地域への移住は「国内移住と同等」であると考え、移民とは呼ばないことがある。これは、[[日清戦争]]による領土割譲また当時の[[大韓帝国]]に対する[[韓国併合]]以後、[[日本統治時代の台湾|日本統治下にあった台湾]]および[[日本統治時代の朝鮮|朝鮮]]([[日本列島]]本土を指す[[内地]]と区別して[[外地]]とも呼ばれた)から日本に移住した[[朝鮮人]]や、[[台湾人]]に対しても同様である。<br /> <br /> 移住先の職業は、[[農業]]の担い手だけでなく、[[フィリピン]]の[[バギオ]]市の例のように、道路建設など[[インフラストラクチャー]]の土木作業に従事する者も少なくなかった。<br /> <br /> [[第一次世界大戦]]後の[[戦後恐慌#1920年の戦後恐慌|戦後恐慌]]や1923年([[大正]]12年)の[[関東大震災]]により失業者や困窮者が大量に発生し、労働者や小作人の争議が頻発するなど社会不安に襲われた政府は、打開策のひとつとして[[1923年]](大正12年)から南米移民の宣伝を開始し、翌1924年(大正13年)には渡航費の全額補助を決定、全国の道府県に海外移住組合を設立、現地に大型移住地を建設して移民を送り込んだ&lt;ref&gt;[http://www.nikkeyshimbun.jp/2015/150821-62colonia.html 『百年の水流』開発前線編 第一部=北パラナの白い雲=外山脩=(27)]ニッケイ新聞、2015年8月21日&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> とりわけ、[[1926年]]([[昭和]]元年)以後の[[昭和恐慌]]の[[農村]]への影響は大きく、[[1934年]](昭和9年)の冷害は特に大きな打撃を与え、その一方で[[中国東北部]]での自国による傀儡政府・[[満州国]]の成立によって、[[満蒙開拓団]]が国策として必要となった。[[拓務省]]が設置され、月刊拓務時報が刊行され、拓務省内には海外移住相談所が開設された。<br /> <br /> 戦前・戦後を問わず、[[農業]]を目的とした移民が辿り着く先は、一から開墾すべき原野であることが多く、労苦があった。中には開発の可能性が殆どない荒地に居住することを余儀なくされた、[[ドミニカ共和国]]への移民のようなケースもあった。<br /> <br /> ドミニカ共和国における[[日系ドミニカ人]]の場合には、当時の日本国政府の喧伝内容と実際の現地の状況・待遇にかなりの相違があり、事実上の「[[棄民]]&lt;ref&gt;{{citation|first=忠太郎|last=小林|title=ドミニカ移住の国家犯罪―移民という名の偽装「海外派兵」| year = 2004 | month = 11 | publisher=創史社|isbn=978-4915970245}}&lt;/ref&gt;」ではなかったのかと、後年日本の国会などで議論されている。[[横浜市|横浜]]、[[神戸市|神戸]]には移民希望者が集まり、彼らを相手に出国手続や滞在中の世話をする[[移民宿]]が誕生した。またその出身地にちなんだ「[[薩摩藩|薩摩]]町」「[[加賀藩|加賀]]町」などの町名が残されている。<br /> <br /> [[第二次世界大戦]]後は、日本人の政策的な移民はあまり行われなくなった。だが、日本人が労働力としてアジアや北米などの海外に移住する現象は依然として継続はしており、[[2007年]]([[平成]]19年)以降、日本の失業問題や労働環境の悪化に伴い、[[世界]]に職を求めて流出する若者が増加しており&lt;ref&gt;{{citation| last=西川 | first=敦子 |url=http://diamond.jp/articles/-/6629|title=若者の「海外流出」が止まらない! 冷え込む雇用がもたらす日本の衰退| year = 2010 |date=2010-01-29|accessdate=2010-07-05}}&lt;/ref&gt;、ますます進んでいく[[少子高齢化]]・[[人口減少]]社会に拍車をかけてきている。<br /> <br /> === 日本への移住者 ===<br /> [[日本統治時代の朝鮮]]から日本へ移住した朝鮮人から、また戦後の[[難民]]、[[密航]]などの[[不法入国]]から[[在日朝鮮・韓国人]]が誕生した。<br /> <br /> [[1945年]](昭和20年)の[[第二次世界大戦]]敗戦、[[ポツダム宣言]]受諾{[[日本の降伏]])によりそれまで所有していた領土の内の[[朝鮮半島]]と[[台湾]]の領有権を日本政府が放棄した後、[[1947年]](昭和22年)5月の「[[外国人登録令]]」で旧植民地出身者である朝鮮人や台湾人らは「外国人」とみなされるようになり、[[1952年]](昭和27年)[[4月28日]]の[[サンフランシスコ講和条約]]発効・日本の主権回復と併せ「[[外国人登録法]]」が施行され、日本籍を所持していた[[日本の外国人|在日外国人]]らは日本国籍取得者から除外された。<br /> <br /> [[1980年代]]には一部の[[中小企業]]や[[農林業]]([[第一次産業]])、とりわけ[[第二次産業]]・[[第三次産業]]での[[ブルーカラー]]職種で「人手不足」が深刻化、外国人労働者によって人手不足を埋め合わせる機運が生まれる。[[1990年]]([[平成]]2年)の「[[出入国管理及び難民認定法]]改正」により、日系海外移住者3世まで[[就労可能]]な地位が与えられ、[[日系ブラジル人]]・[[日系ペルー人]]や中国人を中心に外国人労働者が増大した。[[1991年]](平成3年)には「[[日本国との平和条約に基づき日本の国籍を離脱した者等の出入国管理に関する特例法]]」が施行され、「[[特別永住者]]」という地位が新たに法的に規定された。<br /> <br /> また[[中国残留孤児]]や[[フィリピン]]の日系人家族などを想定した「定住者」という法的地位も新設された。その後、ブルーカラーの労働環境の改善や日本で就職難が深刻化するに伴い人手不足は徐々に解消に向かうが、[[外国人労働者]]の増加は[[2007年]]頃まで続き、[[2007年]]の時点で日本には約100万人の外国人労働者が在留している。その家族や[[特別永住者]]等を含めると200万人の[[日本の外国人|在留外国人]]がおり、日本に定住・永住する者も増加している&lt;ref&gt;{{citation| first = 亜紀 | last = 若林 |title=サラダボウル化した日本 Welcome or Reject |authorlink=若林亜紀|publisher=光文社| year = 2007 | date=2007-09-22| isbn = 978-4334934194 }}&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> === 労働力としての移民 ===<br /> [[2010年代]]では[[少子高齢化]]と人手不足の深刻化により、財界と政界の双方から移民の受け入れを求める声が上がっている。計画としては[[移民1000万人計画]]、[[アジア・ゲートウェイ構想]]、[[留学生30万人計画]]、[[高度人材ポイント制]]、[[外国人研修制度]]・[[技能実習制度]]の拡張などがある。<br /> <br /> [[自由民主党 (日本)|自由民主党]]の[[外国人材交流推進議員連盟]]は[[2008年]](平成20年)に日本は、「今後50年で総人口の10%程度の移民を受け入れるのが相当で1000万人規模の移民受け入れを達成すること」も決して夢でないとし、「[[移民庁]]」を創設し日本が受け入れる移民のカテゴリーとして、<br /> # 高度人材(大学卒業レベル)<br /> # 熟練労働者(日本で職業訓練を受けた人材)<br /> # 留学生<br /> # 移民の家族(家族統合の権利保障)<br /> # 人道的配慮を要する移民(難民、日本人妻等北朝鮮帰国者、その他日本が人道上受け入れを考慮すべき人々)<br /> # 投資移民(富裕層)<br /> などを想定している&lt;ref&gt;[http://www.kouenkai.org/ist/pdff/iminseisaku080612.pdf 人材開国!日本型移民政策の提言 世界の若者が移住したいと憧れる国の構築に向けて - =中間とりまとめ=] - [[2008年]][[6月12日]] 自由民主党 外国人材交流推進議員連盟&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;[http://www.kouenkai.org/ist/ 複国籍PT] - 自由民主党 外国人材交流推進議員連盟 日本型移民政策の提言(6月12日)&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> しかし、[[ヨーロッパ]]などの移民政策への評価が分かれており、若者の失業問題が深刻な日本で、あえて移民政策を推進することへの疑問や反対意見も多く、日系人や一部の専門職を除き、外国人労働者を積極的に受け入れることについて、日本国政府は慎重な姿勢は崩していない。建設業界からは「国内の若年者の雇用確保が本筋」「外国人材の活用は、言葉や習慣の違いなど課題も多い」という声も出ている&lt;ref&gt;建設通信新聞2014年3月19日 [http://megalodon.jp/2014-0605-0658-28/www.kensetsunews.com/?p=28755 群馬建協が慎重論提言/外国人材拡大は両刃の剣/「国内若年者確保が本筋」]&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> [[日本介護福祉士会]]は、外国人の労働者を受け入れることに反対している&lt;ref&gt;介護・地域包括ケアの情報サイトJoint 2014年4月14日[http://megalodon.jp/2014-0415-1740-43/www.joint-kaigo.com/social/pg552.html 介護福祉士会が外国人受け入れに反対の声明、「介護は単純労働じゃない」]&lt;/ref&gt;。ただ、法的手続きをとらないまま永住する外国人が多く存在していることも事実であり、[[不法滞在]]の外国人やその子息らの処遇についての問題が顕在化しつつある&lt;ref&gt;http://www.chibanippo.co.jp/news/chiba/society_kiji.php?i=nesp1238121355&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> [[厚生労働省]]によると、[[生活保護]]を受給している外国人は2011年(平成23年)現在、4万3479世帯であり、年間5,000世帯のペースで急増している&lt;ref&gt;Newsポストセブン [http://megalodon.jp/2014-0531-1541-45/www.news-postseven.com/archives/20140531_255504.html 2014年5月31日外国人生活保護受給者 近年は年5000世帯のペースで急増]&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 2015年(平成27年)10月、[[国家戦略特別区域]]諮問会議で内閣総理大臣[[安倍晋三]]が「外国人を積極的に受け入れ、総合的に在留資格を見直す」との考えを示した。2016年(平成28年)4月25日に自由民主党の「労働力確保に関する特命委員会」(委員長・[[木村義雄 (香川県の政治家)|木村義雄]]参院議員)がまとめた提言案では、単純労働者について「その概念自体をなくす」とし、5月中に安倍首相に対し提言を提出する。また、自由民主党外国人材交流推進議員連盟では(<移民の定義>国連事務総長報告書による「通常の居住地以外の国に移動し少なくとも12ヵ月間当該国に居住する人のこと(長期の移民)」(国連事務総長報告書による))としていたが、政府内で統一的な定義のなかった「移民」の定義について(「入国時に在留期間の制限がない者」)との独自の定義を近く示し、「入国時に在留期間の制限がない者」を受け入れる政策は国民に抵抗感が強いとして踏み込まない考えを明らかにする方針。今後は、大学教授や経営者、高度な技術者など「国の利益になる高度な人材」だけでなく、建設作業員などの「単純労働者」の受け入れを「必要に応じて認めるべきだ」とし、外国人の受け入れを基本的に認めるよう求めた&lt;ref&gt;[http://www.sankei.com/politics/news/160426/plt1604260005-n1.html 自民特命委「単純労働者」の受け入れ容認へ 外国人労働者受け入れに関する政府への提言案概要判明 - 産経ニュース]&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;[http://www.kantei.go.jp/jp/singi/tiiki/kokusentoc/shimonkaigi.html 国家戦略特別区域諮問会議]&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> [[留学生30万人計画]]により東南アジアの[[ベトナム]]や南アジアの[[ネパール]]で[[日本語学校]]が相次いで設立され留学生が急増しているが、実質的に安価な労働力として受け入れられていることが問題となっている&lt;ref&gt;[http://www.tv-tokyo.co.jp/shinimin/ ザ・ドキュメンタリー「“新移民”大国ニッポン~知られざる外国人留学生の実態~」] - [[テレビ東京]]&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> == 移民政策 ==<br /> {{main|移民政策}}<br /> <br /> ==同化政策==<br /> ===フランス===<br /> 1960から70年代、北アフリカ諸国[[マグリブ]]からの移民はフランス主要都市郊外の貧困地域に居住していた。<br /> <br /> 移民の家族らがフランスへ移り住むに伴い低所得層の住宅が建設され移民の人口は増加していった。それらの地域では失業率は高く、生活水準は低く、警察の見回りもしばしばであった。それら移民は地理的にもフランス社会から隔絶されていた&lt;ref name=federalist16Jan2015FS&gt;[http://thefederalist.com/2015/01/16/how-france-grew-its-own-terrorists/ How France Grew Its Own Terrorists]M.G. Oprea, World Affairs, The Federalist, 16 Jan 2015 &lt;/ref&gt;。<br /> <br /> ムスリム2世3世のフランス社会への適応度合いはどうなのか。[[フランス革命]]以後におけるフランスの社会政治的構造は[[世俗主義]]の原則に依っている。[[キリスト教]]国家として、学校の授業でも[[聖書]]に言及することは教育カリキュラムのうちの必須事項だが、[[イスラム教]]聖典・[[コーラン]]に言及することは必須ではない。[[キリスト教|ムスリム]]系が多数存在する地域にある学校で、先生が聖書だけ触れるとクラスの生徒らは授業を遮りだす。またムスリムの女子生徒が学校で[[ブルカ]]の着用を禁じられる&lt;ref&gt;[http://www.bbc.co.uk/news/world-europe-31027152 Charlie Hebdo attack: French values challenged in schools]H. Astier, BBC News, Europe, 30 Jan 2015 &lt;/ref&gt;。ブルカ着用禁止は精神の抑圧でもあり、[[信教の自由]]にも反している。この世俗主義の原則によって民族的マイノリティは無視され、フランス社会が分断される現象を示すことにもなった。フランス政府による同化政策の結果、ムスリム系移民の子孫らが社会からの隔絶され彼らの(フランス人としての)アイデンティティが喪失することになった&lt;ref name=federalist16Jan2015FS /&gt;。<br /> <br /> イスラム過激派は「西洋と戦争状態にある」と考えているために、西洋社会と絶交するムスリム系移民の子孫らにとっての恰好の受け皿になっている。フランス政府による世俗主義によって彼らが西洋社会から阻害され、イスラム原理主義に感化され教化される動機となるのである&lt;ref name=federalist16Jan2015FS /&gt;。この傾向はとりわけ[[2001年]][[9月11日]]発生の[[米国同時多発テロ]]以降顕著になっている。<br /> {{see also|ライシテ}}<br /> <br /> == 社会問題 ==<br /> ===賃金への下方圧力===<br /> [[イングランド銀行]]が2015年に発表したレポートにおいて、英国に流入する移民が増加することで労働者の平均[[賃金]]が低下することが示された。移民の比率が10パーセント増加することで非熟練労働者の賃金は1.88パーセント下落、熟練労働者の賃金は1.68パーセント下落する&lt;ref&gt;[http://www.bankofengland.co.uk/research/Documents/workingpapers/2015/swp574.pdf The impact of immigration on occupational wages: evidence from Britain]S. Nickell and J. Saleheen, Staff Working Paper No. 574, Bank of England (2015)&lt;/ref&gt;。 <br /> <br /> === 移民と賃金格差増大 ===<br /> 移民労働者の増加で自国の労働者の所得格差が増大することがわかっている&lt;ref name=weiler2005 &gt; H. Johannsson, S. Weiler, The Social Science Journal 42, 231 (2005) &lt;/ref&gt;。[[1965年]]に米国が移民政策を転換して以来、[[欧州]]からの比較的熟練した労働力と[[アジア]]・[[ラテンアメリカ]]からの比較的非熟練労働力の両方が米国に流入しつづけた。全ての移民労働者に対する非熟練移民労働者の割合と全ての自国籍労働者に占める非熟練自国籍労働者の割合の比率は[[ルイジアナ州]]、[[ワイオミング州]]、[[イリノイ州]]において高くそれぞれ10.4, 7.29, 7.23であった。この数字が10%増加すれば熟練労働者と非熟練労働者の賃金比率は0.22%増加する&lt;ref name=weiler2005 /&gt;。この数字の全米平均値は3.61であり、アラバマ州では3.58であった。この条件では自国籍の熟練労働者と非熟練自国籍労働者の平均賃金の比率は1.44であった。アラバマ州では、非熟練自国籍労働者の平均賃金は熟練自国籍労働者の平均賃金のおよそ0.694倍ということになる。賃金格差の増大は1970年代より始まり、[[NAFTA]]が発効された1990年代における所得格差の増大は顕著であった。<br /> <br /> === 移民と若年労働者の雇用 ===<br /> 移民の流入によって仕事が奪われるとし、移民の流入による職や雇用機会の減少という不安が持たれる場合がある。地域間の差を用いた研究では、外国人の流入が雇用に与える影響は存在しない、あるいは存在してもわずかな負の影響であることを示したものがほとんどであるが、Borjas(2003)の研究は移民流入が母国労働者に意味のある大きさの影響を与えることを示し、塗師本(2014)の研究は外国人比率の上昇は若年失業者割合および非労働力人口割合を高めることが結論付けられ、1990‐2010年の日本においては外国人労働者と若年労働者は代替関係にあることを示した&lt;ref&gt;塗師本(2014)「[http://www.osipp.osaka-u.ac.jp/archives/DP/2014/DP2014J005.pdf 外国人の増加は若年の失業を増やすのか]」OSIPP Discussion Paper、DP-2014-J-005(May)。&lt;/ref&gt;。すなわち、この時期の日本においては移民の流入によって若年層の雇用が奪われていたと言える。<br /> <br /> === 移民と財政負担 ===<br /> ====対処の政治問題====<br /> 米国では中途半端な移民政策が政治問題になっている。とりわけ[[スペイン語圏]]の中南米([[ラテンアメリカ]])の国々から米国[[メキシコ]]国境付近へ、毎年多数の子供(児童)・未成年者たちが押し寄せてくる。彼ら彼女らは、祖国での[[暴力]]や[[貧困]]などから逃避するために米国への移民を希望している。米国大統領[[バラク・オバマ]]([[民主党 (アメリカ)|民主党]])は、政治的議論を捨てて、それら子供らを米国に受け入れる必要性を唱えた&lt;ref name=obama2014june30cnbc&gt;[http://www.cnbc.com/id/101801092#. Obama on immigration: I&#039;m going to fix as much as I can, on my own] CNBC, Immigration, 30 June 2014&lt;/ref&gt;。だが米国メキシコ国境付近へやってくる中南米の子供らの数は、年を追って増え続け、その対処は政治問題になっている<br /> &lt;ref name=cnn2014june26&gt;[http://edition.cnn.com/2014/06/24/politics/immigrant-kid-hearing/ No permisos. Lawmakers, feds debate surge of immigrant kids] CNN, 2014 Midterm Elections, June 26, 2014&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 2013年10月から2014年6月までに間に、[[グアテマラ]]や[[ホンジュラス]]など[[中央アメリカ|中米]]から米国へ逃亡してくる子供らの数は約5万2千人にのぼっている<br /> &lt;ref name=guardian2014july5IP &gt;[http://www.theguardian.com/world/2014/jul/05/murrieta-california-immigration-demonstration-five-arrested Six arrested as Southern California demonstrators clash over immigration] US Immigration, theguardian, 5 July 2014&lt;/ref&gt;。その収容負担を軽減するために、米国政府は移民の家族をテキサスや南カリフォルニアの都市などへ移送している。だが、その移民の移送先で新たな問題を引き起こしている。カリフォルニア州[[マリエータ]]市長であるアラン・ロングは、「[[アメリカ合衆国連邦政府|米国政府]]がすべきことはその不法移民を[[テキサス州|テキサス]]やカリフォルニアに留めておくことではなく粛々と法に基づいて強制送還させることだ」と述べる&lt;ref name=guardian2014july5IP /&gt;。[[ニューメキシコ州]]では、現地住民が、その移民が米国で就業し現地住民の仕事を奪ってしまうことを恐れ、移民に住居を与え留めておくことに反対の声をあげた&lt;ref name=guardian2014july5IP /&gt;。8年間続いた[[共和党 (アメリカ)|共和党]][[ジョージ・ブッシュ]]政権下での不法移民の国外追放者数は200万人であったが、オバマ政権では6年目にして既にほぼ同等数の不法越境者の国外追放を実施している&lt;ref name=obama2014june30cnbc /&gt;。また国外追放するにしても、[[アメリカ合衆国憲法]]に基づいて[[検査官]]らの法的聴取が先行されなければならない。その法的聴取には人員と時間がかかる。<br /> <br /> 米国政府は2014年度に米国へ流入する子供達の数は6万人から8万人に達すると見込んでおり、それら子供達の宿泊場所を手配する政府の負担が急増している。[[テキサス州]]知事[[リック・ペリー]]は、「バラック・オバマがこの問題に十分対処できていない」と述べる&lt;ref name=cnn2014july6IP &gt;[http://politicalticker.blogs.cnn.com/2014/07/06/homeland-security-chief-were-going-to-stem-this-tide-of-illegal-immigration/ Homeland Security chief:‘We&#039;re going to stem this tide’of illegal immigration] CNN Political Ticker, July 6, 2014&lt;/ref&gt;。「オバマは国境地域の治安確保維持を軽視しているために&lt;ref name=cnn2014july6IP /&gt;、彼は集中してこの問題に取り組んでおらず、結果としてそれら子供達への施設提供が不足しているのだ」とペリーは述べた。<br /> <br /> その他の共和党議員は、「国境地帯にやってくる中南米の子供達にオバマ政権がそれらの国外追放に猶予期間を与えたことで、他の中南米の子供達に誤った希望をあたえてしまい、それが彼らの越境に拍車をかけているのだ」とオバマ政権を非難した。移民政策の専門家は&lt;ref name=cnn2014june26 /&gt;、オバマ政権の移民容認姿勢が中南米の子供達の越境をあおってしまったことを示唆する強い証拠があると述べた。<br /> <br /> これをみたオバマ政権は方針を転換し、それら子供達の国外追放のための法的聴取の検査員や国境警備隊の拡充に37億ドルの資金を出すと声明を出した&lt;ref name=guardian2014july8IP&gt;[http://www.theguardian.com/world/2014/jul/08/obama-border-critics-child-migrant-crisis-texas-visit White House seeks $3.7bn in extra funding to address child migrant crisis] The Guardian, World News, 8 July 2014&lt;/ref&gt;。その37億ドルのうち、子供達を本国に無事に送還するための移送費として約1.16億ドルが計上されている。また本国送還のサポートなどに3億ドルが使われることになっている。テキサス州の国境の治安向上には3000万ドルが使われる。それら子供達は法的聴取の間に施設に拘留されるが、その衛生・健康状態をケアするのに18億ドルが[[アメリカ合衆国保健福祉省]]によって費やされる&lt;ref name=guardian2014july8IP /&gt;。<br /> <br /> ===移民と住宅バブル===<br /> [[スイス]]政府統計によれば、住居を有しているスイス居住者は全体の3割しかない。スイスでは住宅所有はすこしの贅沢である。だが超低金利、移民の増加、そしてスイスが投資家達にとっての金融避難所としての魅力的な国家であることから、スイスでは不動産抵当の貸付が急上昇している&lt;ref name=reuters2014june25B&gt;[http://www.reuters.com/article/2014/06/25/uk-swiss-realestate-idUSKBN0F02ID20140625 Swiss government moves to curb pension-funded home ownership] Reuters, June 25, 2014&lt;/ref&gt;。スイス政府は2014年2月以降、資産価格の急激な上昇を抑えるべく努力している。スイス政府は2014年6月、新規に住宅を購入する者が年金基金をその住宅の頭金として使うことを認めない声明を出した。スイス[[連邦参事会]]員である[[ヨハン・シュナイダー=アマン]]は、この政策によって住宅価格高騰が鈍化することを期待すると述べた&lt;ref name=reuters2014june25B /&gt;。<br /> <br /> 他方、金融政策の観点では[[スイス国立銀行]]は既に対ユーロでの為替ターゲットを維持しているために、政策金利を上げることができず、スイスの住宅価格高騰に対して有効な術を喪失している&lt;ref name=reuters2014june25B /&gt;。そして[[スイス銀行]]は抵当ローンへの条件を厳しくすると表明した。<br /> <br /> === 犯罪 ===<br /> 移民、特に貧困層の移民は、移民元では[[余剰人口]]の排出、移民先では安価な低賃金未熟練労働力の供給源となる一方、[[文化摩擦]]や[[失業]]などを背景に[[犯罪集団]]を形成し各種犯罪を起こすことも各国で発生しており、両方にプラスマイナスともにさまざまな影響を与える。一般に移民問題とは移入民に関する問題を指すが、移民による[[頭脳流出]]が移出国で問題となることもあり、特に医療従事者の流出による[[医療崩壊]]は[[発展途上国]]で深刻な社会問題となっている&lt;ref&gt;[http://nna.jp/free/news/20100712php002A.html]&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> == 移民船 ==<br /> * [[メイフラワー号]]<br /> * [[タイタニック (客船)|タイタニック号]]<br /> * [[笠戸丸]]<br /> * [[山城丸]]<br /> * [[あるぜんちな丸]]<br /> * [[ぶらじる丸]]<br /> * [[りおでじゃねろ丸]]<br /> * [[氷川丸]]<br /> <br /> == 脚注・参考文献 ==<br /> {{Reflist}}<br /> <br /> == 関連項目 ==<br /> * [[グローバリゼーション]]<br /> * [[開拓]]<br /> * [[移住]]<br /> * [[帰化]]<br /> * [[永住権]] - [[グリーンカード]] - [[外国人参政権]] - [[市民権]]<br /> * [[出稼ぎ]]<br /> * [[外国人労働者]]<br /> ** [[密航]]、[[不法滞在]]、[[不法就労]]<br /> * [[文化摩擦]]<br /> * [[外国人材交流推進議員連盟]]<br /> * [[国際移民デー]] - [[12月18日]]<br /> * [[宇宙移民]]<br /> <br /> == 外部リンク ==<br /> {{Commonscat|Immigration}}<br /> {{Wiktionary|移民}}<br /> ; 国際機関・研究<br /> * [http://www.iomjapan.org/ 国際移住機関(IOM)]<br /> * [http://camp.ff.tku.ac.jp/tool-box/mig/iju.html 『移住研究』掲載論文一覧、国際協力事業団]<br /> * [http://www.iminseisaku.org/top/ 移民政策学会 Japan Association for Migration Policy Studies (JAMPS)]<br /> * [http://wayward.us/immigration-detention-services.htm Immigration Detention Services]<br /> <br /> ; 日本における移住者<br /> * [http://rafiq.jp/ RAFIQ 在日難民との共生ネットワーク]<br /> <br /> ; 日本からの移住者<br /> * [http://www.jomm.jp/index.html 海外移住資料館] - [[国際協力機構]]<br /> * [http://nikkeijin.densho.org/ 日系アメリカ人 オンライン歴史資料館]<br /> * [http://rengoukai.org.py/ja/la-sociedad-nikkei/historia パラグアイにおける日本人移住の歴史]<br /> * [http://40anos.nikkeybrasil.com.br/jp/index.php あるぜんちな丸同船者寄稿集]<br /> * [http://www.interq.or.jp/tokyo/ystation/index.html 海外移住情報]<br /> <br /> {{日系人}}<br /> {{日本の外国人}}<br /> <br /> {{DEFAULTSORT:いみん}}<br /> [[Category:人間の移動]]<br /> [[Category:社会問題]]<br /> [[Category:外国人]]<br /> [[Category:植民地]]<br /> [[Category:移民|*]]<br /> <br /> [[ar:هجرة]]</div> 103.226.44.27 アルジェ 2018-06-06T03:35:51Z <p>103.226.44.27: /* 脚注 */ cat整序</p> <hr /> <div>{{世界の市<br /> |正式名称 =アルジェ<br /> |公用語名称 =الجزائر&lt;br/&gt;{{flagicon|Algeria}}<br /> |愛称 =<br /> |標語 =白い街アルジェ、Al-Bahjah<br /> |画像 =Algiers Montage.png<br /> |画像サイズ指定 =<br /> |画像の見出し =<br /> |市旗 =<br /> |市章 =Algiers-COA.svg<br /> |位置図 =Algiers location.svg<br /> |位置図サイズ指定 =<br /> |位置図の見出し =<br /> |下位区分名 ={{DZA}}<br /> |下位区分種類1 =[[アルジェリアの地方行政区画|県]]<br /> |下位区分名1 =[[アルジェ県]] <br /> |下位区分種類2 =<br /> |下位区分名2 =<br /> |最高行政執行者称号 =Wali<br /> |最高行政執行者名 =Khalida Toumi<br /> |成立区分 =Re-founded<br /> |成立日 =AD 944<br /> |規模 =市<br /> |総面積(平方キロ) =273<br /> |総面積(平方マイル) =170<br /> |陸上面積(平方キロ) =<br /> |陸上面積(平方マイル) =<br /> |水面面積(平方キロ) =<br /> |水面面積(平方マイル) =<br /> |水面面積比率 =<br /> |市街地面積(平方キロ) =<br /> |市街地面積(平方マイル) =<br /> |都市圏面積(平方キロ) =<br /> |都市圏面積(平方マイル) =<br /> |人口の時点 =2006年<br /> |人口に関する備考 = <br /> |総人口 =2,029,936<br /> |人口密度(平方キロ当たり)=5,560<br /> |人口密度(平方マイル当たり)=8,982<br /> |都市圏人口 =5,515,889<br /> |都市圏人口密度(平方キロ)=<br /> |都市圏人口密度(平方マイル)=<br /> |市街地人口 =3,518,083(?)<br /> |等時帯 =[[中央ヨーロッパ時間|CET]]<br /> |協定世界時との時差 =+1<br /> |夏時間の等時帯 =<br /> |夏時間の協定世界時との時差=<br /> |緯度度=36|緯度分=46|緯度秒=35 |N(北緯)及びS(南緯)=N<br /> |経度度=3 |経度分=3 |経度秒=31 |E(東経)及びW(西経)=E<br /> |標高(メートル) =<br /> |標高(フィート) =<br /> |公式ウェブサイト =<br /> |備考 =<br /> }}<br /> <br /> &#039;&#039;&#039;アルジェ&#039;&#039;&#039;({{Lang-en|Algiers}}、{{Lang-ar|الجزائر}})は、[[北アフリカ]]、[[アルジェリア|アルジェリア民主人民共和国]]の[[首都]]であり、アルジェリア最大の都市である。西部[[地中海]]に面している。[[2010年]]の[[世界の都市的地域の人口順位|都市的地域]]の人口は335万人であり、世界の第90位、同国では第1位である&lt;ref&gt;[http://www.demographia.com/db-worldua.pdf db-worldua](PDF文書) - DEMOGRAPHIA&lt;/ref&gt;。地中海の要塞として古くから発達した都市である。<br /> <br /> == 概要 ==<br /> 都市は、海岸付近の低地に発達した近代的な部分と標高100m以上の高地にある古都部分に分けられる。海岸付近は「北アフリカの[[パリ]]」という言葉に相応しく、[[植民地]]時代の影響でノートルダム大聖堂に代表されるフランス風の建築物が立ち並んでいる。また、地中海沿岸の他都市と同様に[[白壁]]の建物が多い。内陸の旧市街部は[[イスラム]]風の建築物が多く、[[モスク]]が数多く点在している。また、映画「望郷」の舞台として知られる[[アルジェのカスバ|カスバ]](城壁)は[[1992年]][[世界遺産]]に登録された。[[アルベール・カミュ|カミュ]]作の小説『[[異邦人 (小説)|異邦人]]』の舞台としても有名。<br /> <br /> == 歴史 ==<br /> [[紀元前1200年]]頃には[[フェニキア]]がこの地に植民して交易所を置いていた。[[ポエニ戦争]]後は、[[ローマ帝国]]の領土となって&#039;&#039;&#039;イコシウム&#039;&#039;&#039;とよばれたが、[[5世紀]]中頃に[[ゲルマン人|ゲルマン系]][[ヴァンダル族]]によって一時侵略された。次に、[[東ローマ帝国]]がここを支配したが、[[650年]][[アラブ人]]に駆逐された。<br /> <br /> [[950年]]頃、先住民族[[ベルベル人]]の[[ズィール朝]]によって現在の市街が創建された。彼らによって名付けられた現在のこの町の名前「アルジェ」は、「島」を意味する&#039;&#039;&#039;アル・ジャザーイル&#039;&#039;&#039;という[[アラビア語]]に由来する。それから500年間、この町の支配権はヨーロッパ、アラブ、ベルベルの軍人たちが交互に握った。<br /> <br /> [[1510年]]、[[スペイン]]が湾の小島の1つペニョン島を占領し、{{仮リンク|ペニョン・デ・アルジェ|es|Peñón de Argel|en|Peñón of Algiers|label=アルジェ要塞}}とした。[[1516年]]に[[バルバリア海賊]]の[[バルバロス・オルチ]]と[[バルバロス・ハイレッディン]]兄弟が{{仮リンク|アルジェ占領 (1516年)|en|Capture of Algiers (1516)}}に成功。[[1518年]]にアルジェを支配していた[[バルバロス・オルチ]]と[[バルバロス・ハイレッディン]]兄弟は、対スペイン戦の支援を求め、[[オスマン帝国]]に帰属することを宣言。[[1529年]]に[[バルバロス・ハイレッディン]]は{{仮リンク|アルジェ占領 (1529年)|en|Capture of Algiers (1529)}}に成功し、[[スペイン人]]を追い出した。[[1538年]]の[[プレヴェザの海戦]]で[[オスマン帝国]]から[[アルジェリア]]に至る地中海の制海権を掌握。[[1541年]]、[[スペイン]]が{{仮リンク|アルジェ遠征 (1541年)|es|Jornada de Argel|en|Algiers expedition (1541)}}に失敗。オスマン帝国支配時代のアルジェは、[[オスマン帝国海軍|オスマン艦隊]]の拠点となり、ヨーロッパ諸国から海賊海岸として恐れられた。その後230年間にわたって、行政・交易・地中海での海賊活動の中心として栄えた。<br /> <br /> [[ファイル:DecaturOffAlgiers.jpg|thumb|left|240px|アルジェ沖に展開するアメリカ艦隊([[第二次バーバリ戦争]])]]<br /> [[1775年]]、[[スペイン]]が{{仮リンク|アルジェ侵攻 (1775年)|ca|Expedició contra Alger (1775)|en|Invasion of Algiers (1775)}}に失敗。[[1783年]]、[[スペイン]]が{{仮リンク|アルジェ砲撃 (1783年)|en|Bombardment of Algiers (1783)}}に失敗。[[1784年]]、[[スペイン]]・[[ポルトガル]]・[[両シチリア王国]]・[[マルタ騎士団]]連合軍が{{仮リンク|アルジェ砲撃 (1784年)|en|Bombardment of Algiers (1784)}}に成功。[[1815年]]、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の艦隊が遠征し、アメリカ船舶への攻撃中止を約束する平和条約を結ぶようにもとめた。しかし海賊活動・海賊貿易は継続されたため、翌[[1816年]]に[[オランダ]]と[[イギリス]]の連合艦隊は[[アルジェ砲撃]]によってアルジェリア艦隊をほぼ壊滅させ、地中海の制海権を手中にした([[第二次バーバリ戦争]])。オスマンの艦隊としてのアルジェは[[1830年]]に幕を閉じた。この年、[[フランス]]はアルジェに上陸・占領し、やがて国全体を占領した([[アルジェリア侵攻]])。<br /> <br /> フランス支配は[[1962年]]の独立まで続いたが、フランスはアルジェを植民行政の根拠地として都市づくりを行い、海岸部にはフランス風の近代都市が建設されて、現在のアルジェの姿はここで完成した。[[第二次世界大戦]]中は、当初[[ヴィシー・フランス]]に属したが、[[1942年]]の[[トーチ作戦]]で[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]軍による解放が行なわれた後、連合軍の[[北アフリカ]]司令部と[[シャルル・ド・ゴール|ド・ゴール]]の[[自由フランス]]政府がここに設置された。<br /> <br /> 第二次世界大戦後、世界的な[[脱植民地化]]の流れの中でアルジェリアの独立運動が高揚し、[[アルジェリア戦争]]([[1954年]] - [[1962年]])が始まると、アルジェも{{仮リンク|アルジェの戦い (1956年 - 1957年)|en|Battle of Algiers (1956–57)}}([[1966年]]に映画化された『[[アルジェの戦い]]』で知られている戦闘)でフランス軍と[[アルジェリア民族解放戦線|FLN]]の間の戦場となった。1962年の独立後、アルジェから引き上げた[[ピエ・ノワール]]と入れ替わるように人口が集中し、住宅不足や水不足などさまざまな都市問題が生じている。<br /> {{Clearleft}}<br /> <br /> ==気候==<br /> {{Weather box<br /> |location = アルジェ国際空港 (1961-1990)<br /> |metric first = yes<br /> |single line = yes<br /> |Jan record high C = 24.4<br /> |Feb record high C = 30.0<br /> |Mar record high C = 36.3<br /> |Apr record high C = 37.2<br /> |May record high C = 41.2<br /> |Jun record high C = 44.6<br /> |Jul record high C = 43.5<br /> |Aug record high C = 47.5<br /> |Sep record high C = 44.4<br /> |Oct record high C = 37.7<br /> |Nov record high C = 32.4<br /> |Dec record high C = 29.1<br /> |year record high C = 47.5<br /> |Jan high C = 16.5<br /> |Feb high C = 17.3<br /> |Mar high C = 18.5<br /> |Apr high C = 20.4<br /> |May high C = 23.5<br /> |Jun high C = 27.0<br /> |Jul high C = 30.6<br /> |Aug high C = 31.2<br /> |Sep high C = 29.2<br /> |Oct high C = 25.1<br /> |Nov high C = 20.7<br /> |Dec high C = 17.2<br /> |year high C = 23.1<br /> |Jan mean C = 11.2<br /> |Feb mean C = 11.9<br /> |Mar mean C = 12.8<br /> |Apr mean C = 14.7<br /> |May mean C = 17.7<br /> |Jun mean C = 21.3<br /> |Jul mean C = 24.6<br /> |Aug mean C = 25.2<br /> |Sep mean C = 23.2<br /> |Oct mean C = 19.4<br /> |Nov mean C = 15.2<br /> |Dec mean C = 12.1<br /> |year mean C = 17.4<br /> |Jan low C = 5.9<br /> |Feb low C = 6.4<br /> |Mar low C = 7.0<br /> |Apr low C = 9.0<br /> |May low C = 12.0<br /> |Jun low C = 15.6<br /> |Jul low C = 18.5<br /> |Aug low C = 19.1<br /> |Sep low C = 17.1<br /> |Oct low C = 13.7<br /> |Nov low C = 9.6<br /> |Dec low C = 7.0<br /> |year low C = 11.7<br /> |Jan record low C = -2.9<br /> |Feb record low C = -1<br /> |Mar record low C = -1<br /> |Apr record low C = 1<br /> |May record low C = 2<br /> |Jun record low C = 8<br /> |Jul record low C = 11<br /> |Aug record low C = 10<br /> |Sep record low C = 11<br /> |Oct record low C = 2<br /> |Nov record low C = 1<br /> |Dec record low C = -2<br /> |year record low C = -2.9<br /> |Jan rain mm = 80.0<br /> |Feb rain mm = 81.8<br /> |Mar rain mm = 73.4<br /> |Apr rain mm = 61.1<br /> |May rain mm = 39.9<br /> |Jun rain mm = 16.7<br /> |Jul rain mm = 4.6<br /> |Aug rain mm = 7.4<br /> |Sep rain mm = 34.2<br /> |Oct rain mm = 76.0<br /> |Nov rain mm = 96.4<br /> |Dec rain mm = 115.2<br /> |year rain mm = 686.6<br /> |Jan rain days = 11.4<br /> |Feb rain days = 10.6<br /> |Mar rain days = 9.7<br /> |Apr rain days = 9.1<br /> |May rain days = 7.3<br /> |Jun rain days = 2.5<br /> |Jul rain days = 1.5<br /> |Aug rain days = 2.5<br /> |Sep rain days = 5.3<br /> |Oct rain days = 8.6<br /> |Nov rain days = 11.1<br /> |Dec rain days = 12.1<br /> |year rain days = 91.7<br /> |unit rain days = 0.1 mm<br /> |Jan humidity = 82<br /> |Feb humidity = 80<br /> |Mar humidity = 77<br /> |Apr humidity = 77<br /> |May humidity = 75<br /> |Jun humidity = 74<br /> |Jul humidity = 73<br /> |Aug humidity = 71<br /> |Sep humidity = 75<br /> |Oct humidity = 80<br /> |Nov humidity = 80<br /> |Dec humidity = 81<br /> |year humidity = 77<br /> |Jan sun = 149<br /> |Feb sun = 165<br /> |Mar sun = 202<br /> |Apr sun = 258<br /> |May sun = 319<br /> |Jun sun = 318<br /> |Jul sun = 350<br /> |Aug sun = 319<br /> |Sep sun = 237<br /> |Oct sun = 229<br /> |Nov sun = 165<br /> |Dec sun = 136<br /> |year sun = 2847<br /> |source 1 = [[World Meteorological Organization]] ([[United Nations|UN]]),&lt;ref name = WMO&gt;{{cite web | url = http://www.worldweather.org/122/c00242.htm | title = World Weather Information Service - Algiers | publisher = World Meteorological Organization | accessdate = April 14, 2013}}&lt;/ref&gt; [[NOAA]] (1961-1990)&lt;ref name = NOAA&gt;{{cite web | title = Climate Normals for Alger (dar el beida) | url = ftp://ftp.atdd.noaa.gov/pub/GCOS/WMO-Normals/RA-I/AL/60390.TXT | publisher = National Oceanic and Atmospheric Administration | accessdate = 11 February 2013}}&lt;/ref&gt;<br /> |source 2 = [[Danish Meteorological Institute]] (sun and relative humidity),&lt;ref name=DMI&gt;{{cite web | last1 = Cappelen | first1 = John | last2 = Jensen | first2 = Jens | url = http://www.dmi.dk/dmi/tr01-17.pdf | work = Climate Data for Selected Stations (1931-1960) | title = Algeriet - Alger/Dar-El-Beida | page = 10 | publisher = Danish Meteorological Institute | language = Danish | accessdate = April 14, 2013}}&lt;/ref&gt; Weatherbase (record highs and lows)&lt;ref name = weatherbase&gt;{{cite web | url = http://www.weatherbase.com/weather/weather.php3?s=9306&amp;cityname=Algiers-Alger-Algeria&amp;units=metric | title = Weatherbase: Historical Weather for Algiers, Algeria | publisher = Weatherbase | accessdate = April 14, 2013}}&lt;/ref&gt;<br /> |date=January 2011}}<br /> <br /> == 交通 ==<br /> [[File:Algiersnasa.jpg|thumb|アルジェの衛星写真]]<br /> 2011年に市内交通として[[:en:Algiers tramway|アルジェトラム]]と[[アルジェ地下鉄]]が開通した。また[[:en:SNTF|アルジェリア国鉄]]による近郊電車の運行も行われている。また[[ウアリ・ブーメディアン空港]]からはアフリカ、中東の他、欧州各都市や北京、モントリオールなどと結ばれている。<br /> <br /> == 姉妹都市 ==<br /> * {{Flagicon|CHN}} [[北京市|北京]]([[中華人民共和国|中国]])<br /> * {{Flagicon|GER}} [[ベルリン]]([[ドイツ]])<br /> * {{Flagicon|EGY}} [[カイロ]]([[エジプト]])<br /> * {{Flagicon|FRA}} [[パリ]]([[フランス]])<br /> * {{Flagicon|CAN}} [[モントリオール]]([[カナダ]])<br /> * {{Flagicon|MAR}} [[カサブランカ]]([[モロッコ]])<br /> * {{Flagicon|UK}} [[ロンドン]]([[イギリス]])<br /> * {{Flagicon|TUN}} [[チュニス]]([[チュニジア]])<br /> * {{Flagicon|RUS}} [[モスクワ]]([[ロシア]])<br /> * {{Flagicon|ESP}} [[バルセロナ]]([[スペイン]])<br /> * {{Flagicon|SUI}} [[ジュネーヴ]]([[スイス]])<br /> * {{Flagicon|Libya}} [[トリポリ]]([[リビア]])<br /> * {{Flagicon|ITA}} [[ローマ]]([[イタリア]])<br /> * {{Flagicon|SEN}} [[ダカール]]([[セネガル]])<br /> * {{Flagicon|NED}} [[アムステルダム]]([[オランダ]])<br /> <br /> == ギャラリー ==<br /> {{Gallery<br /> |ファイル:Alger front de mer.jpg|海からの風景<br /> |ファイル:Algiers mosque.jpg|アルジェのモスク<br /> |ファイル:Basilique Notre-Dame d Afrique Alger.jpg|アルジェの代表的な観光地の一つ、[[ノートルダム・ダフリク大聖堂]]<br /> ||独立記念塔<br /> }}<br /> <br /> == 脚注 ==<br /> {{脚注ヘルプ}}<br /> {{Reflist}}<br /> {{Commons&amp;cat|Algiers|Algiers}}<br /> <br /> {{アフリカの首都}}<br /> {{Normdaten}}<br /> {{DZ-stub}}<br /> <br /> {{DEFAULTSORT:あるしえ}}<br /> [[Category:アルジェ|*]]<br /> [[Category:アルジェ県]]<br /> [[Category:アルジェリアの都市]]<br /> [[Category:アフリカの首都]]<br /> [[Category:アフリカの港町]]<br /> [[Category:世界歴史都市連盟]]<br /> [[Category:フェニキアの植民都市]]</div> 103.226.44.27
Warning: Cannot modify header information - headers already sent by (output started at /home/users/1/sub.jp-asate/web/wiki/extensions/HeadScript/HeadScript.php:3) in /home/users/1/sub.jp-asate/web/wiki/includes/WebResponse.php on line 46