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http:///mymemo.xyz/wiki/api.php?action=feedcontributions&feedformat=atom&user=240F%3A31%3A937B%3A1%3A3928%3AC783%3AFB9F%3ADA83 miniwiki - 利用者の投稿記録 [ja] 2024-05-25T15:20:55Z 利用者の投稿記録 MediaWiki 1.31.0 平氏政権 2018-05-22T08:12:12Z <p>240F:31:937B:1:3928:C783:FB9F:DA83: </p> <hr /> <div>{{政府<br /> |政府名 = 平氏政権<br /> |画像 = Ageha-cho.svg<br /> |創設年 = 1167<br /> |解散年 = 1185<br /> |代表 = [[平清盛]]&lt;br/&gt;[[平宗盛]]<br /> |対象国 = {{JPN}}<br /> |地域 = <br /> |前政府 = [[ファイル:Imperial Seal of Japan.svg|25x20px]] [[朝廷#日本の朝廷|朝廷]]<br /> |後政府 = [[ファイル:Japanese_Crest_mitu_Uroko.svg|25x20px]] [[鎌倉幕府]]<br /> |サイト = <br /> |備考 = <br /> }}<br /> &#039;&#039;&#039;平氏政権&#039;&#039;&#039;(へいしせいけん)は、[[平安時代]]末期([[1160年代]] - [[1185年]])に登場した[[平清盛]]を中心とする[[伊勢平氏]]による政権。清盛の館が[[京都]][[六波羅]]にあったことから、&#039;&#039;&#039;六波羅政権&#039;&#039;&#039;ともいう。<br /> <br /> __TOC__{{-}}<br /> <br /> == 概説 ==<br /> 以前、学界では平氏政権を貴族政権的な性格が強いとする見解が主流であったが、[[1970年代]]・[[1980年代]]頃からは、平氏政権が地頭や国守護人を設置した事実に着目し、最初期の[[武家政権]]とする見解が非常に有力となっている。<br /> <br /> 平氏政権の成立時期については、[[仁安 (日本)|仁安]]2年([[1167年]])5月[[宣旨]]&lt;ref&gt;同宣旨については、『[[兵範記]]』仁安2年5月10日条に載せられているため、同日付の「六条天皇宣旨」と解されているが、実態は後白河上皇の院宣に基づいて発給されたものであった(西田友広『鎌倉幕府の検断と国制』[[吉川弘文館]]、2011年、P211)。&lt;/ref&gt;を画期とする見解と、[[治承三年の政変]]([[1179年]])の時点とする見解とが出されている。前者の宣旨は[[平重盛]]へ東山・東海・山陽・南海諸道の治安警察権を委ねる内容であり、[[源頼朝]]による諸国の治安維持権を承認した[[建久]]2年([[1191年]])3月新制につながるものと評価されており、武家政権の性格を持つ平氏政権がこの宣旨によって成立したとする見方である。一方、後者は、治承三年の政変の際に平氏勢力が従来の国家機構の支配権を掌握したことを重視している。一般的に平氏政権は[[12世紀]]中期から段階的に成立したのであり、仁安2年5月宣旨を大きな画期としつつ、治承三年の政変により平氏政権の成立が完了したものと考えられている。<br /> <br /> == 歴史 ==<br /> === 前史 ===<br /> 平氏政権に至る基盤形成は、[[白河天皇|白河]][[院政]]期に遡る。[[平正盛]]は、[[平氏#桓武平氏|桓武平氏]][[平貞盛|貞盛流]]の[[伊勢平氏]]に出自し、その父の[[平正衡|正衡]]までは[[軍事貴族]]の中でもそれほど有力な一族ではなかったが、[[永長]]2年([[1097年]])[[伊賀国]]の所領を六条院([[白河天皇|白河上皇]]の娘・[[てい子内親王|郁芳門院]]の御堂)に寄進して[[鞆田荘]]を成立させた。正盛は[[預所]]となり、周辺の[[東大寺]]領も取り込んで立荘するなど、白河の政治権力を後ろ盾に[[東大寺]]や[[国衙]]の支配を除去して実質的な土地所有に成功した。立荘の背景には、東大寺や国衙の支配と収奪を逃れようとする[[田堵]]農民層と、自らの所領の拡大・安定を狙った正盛の間に利害の一致があったと考えられる。正盛は自らに服従した田堵を[[郎等]]・[[家人]]にして、武士団を形成していった。<br /> <br /> 一方、白河上皇も権力維持のために、正盛の武力を必要としていた。当時の白河は院領が少なく、直属武力もほとんどなかった。しかも、白河に対抗する勢力として、異母弟・[[輔仁親王]]や[[摂関家]]を始めとする伝統的[[貴族]]が存在し、田堵農民層を[[神人]]・寄人に組織して巨大化した[[寺社勢力]]の圧力も熾烈だった。これらの諸勢力を抑えて国政の主導権を確保するため、白河は自らの手足である[[院近臣]]や親衛隊ともいえる[[北面武士]]を、[[受領]]・[[太政官]]・[[兵衛府]]・[[衛門府]]などの公的機関に強引に送り込んでいった。<br /> <br /> このような情勢の中で[[北面武士]]になった正盛は、[[出雲国|出雲]]で[[源義親]]の濫行が起こると、[[嘉承]]2年([[1107年]])12月19日追討使に抜擢される。翌年[[正月]]には早くも義親の首を携えて華々しく凱旋し、白河は正盛を[[但馬国|但馬守]]に[[任官|任じた]](ただし、その後も義親生存説が根強く残る)。これを契機に北面武士の規模は急激に膨張し、[[元永]]元年([[1118年]])[[延暦寺]]の[[強訴]]を防ぐため賀茂河原に派遣された部隊だけで「千余人」に達したという(『[[中右記]]』)。正盛は主に、北面武士・[[検非違使]]・追討使といった国家権力の爪牙として活躍するが、各地の受領も歴任した。当時、国衙は在地領主・田堵農民層との闘争でその支配体制が危機に瀕していたため、武力による補強が求められていた。<br /> <br /> 正盛の子・[[平忠盛|忠盛]]も父の路線を継承して、[[院政]]の武力的主柱となった。その役割は[[鳥羽天皇|鳥羽院政]]期となっても変化はなく、牛馬の管理・御幸の警護を行う院の武力組織の中核ともいえる院御厩(いんのみうまや)の預(あずかり)となった。鳥羽院政期になると荘園整理が全く実施されなくなったため、各地で[[荘園]]は爆発的に増加した。忠盛も受領として荘園の設立に関与し、院領荘園の管理も任されるようになった。[[肥前国]][[神崎荘]]の預所となった忠盛は、[[大宰府]]の関与を排除して[[日宋貿易]]にも直接介入するようになった。<br /> <br /> この頃、日宋貿易につながる海上交通ルート・[[瀬戸内海]]は、[[海賊]]の跋扈が大きな問題となっていた。これらの海賊は、有力な在地領主、神人・供御人の特権を得た沿岸住民などが経済活動の合間に略奪しているケースが多く、国衙の力だけでは追討が困難だった。鎮圧するには強力な[[武士]]の[[棟梁]]を追討使にする他に手はなく、忠盛に白羽の矢が立てられる。忠盛は[[海賊]]追討に成功するが、降伏した海賊(在地領主)を自らの家人に組織化した。忠盛は他の院近臣受領と同じく院への経済奉仕に励む一方で、荘園の預所・受領・追討使の地位を利用して在地勢力を自らの私兵に編成するなど、武士団の増強も怠らなかった。これは院の権威のみを頼みとする通常の院近臣とは、決定的に異なる点だった。<br /> <br /> [[仁平]]3年([[1153年]])忠盛が没したとき、[[藤原頼長]]は「&#039;&#039;&#039;数国の吏を経、富巨万を累ね、奴僕国に満ち、武威人にすぐ&#039;&#039;&#039;」(『宇槐記抄』)と評したが、これは平氏の実力の大きさを物語っている。忠盛の築いた経済的・軍事的基盤は、子の[[平清盛|清盛]]に継承された。<br /> <br /> === 形成期 ===<br /> [[保元]]元年([[1156年]])、[[治天の君]]及び[[摂政|摂]][[関白|関]]の座をめぐる対立が激化し、[[保元の乱]]が発生した。この乱で清盛は[[後白河天皇]]に味方し、その武功により[[播磨国|播磨守]]となった。その後、政治を主導する[[信西]]と後白河院政派([[藤原信頼]]・[[藤原成親]]・[[源師仲]])・[[二条天皇|二条]]親政派([[藤原経宗]]・[[藤原惟方]])の対立が激しくなり、3年後の[[平治]]元年([[1159年]])に[[平治の乱]]が起こった。信頼は[[源義朝]]を配下につけて、信西を自殺へ追い込むことに成功したが、二条親政派の裏切りと清盛の反撃に遭い、あえなく敗北し処刑された。<br /> <br /> 平治の乱後の[[永暦]]元年([[1160年]])、清盛は[[正三位]][[参議]]に補任され、[[武士]]として初めて[[公卿]](政治決定に参与する[[議政官]])となった。保元・平治両乱は政治抗争が武力で解決されることを示した歴史的な事件だった。乱後、後白河上皇と[[二条天皇]]の対立はしばらくの小康状態を経て再燃するが、[[武士]]で最大の実力者となっていた清盛は室の[[平時子|時子]]が二条の[[乳母]]であったことから、天皇の乳父として後見役の地位を得て[[検非違使]][[別当]]・[[中納言]]となった。その一方で後白河院庁別当として後白河への奉仕も怠らず、両派の争いに巻き込まれないように細心の注意を払った。時子の妹・[[平滋子]](建春門院)が後白河の[[皇子]]・憲仁親王(後の[[高倉天皇]])を出産すると、[[平時忠]]・[[平教盛]]らはその[[立太子]]を画策したことで二条の逆鱗に触れて[[解官]]、後白河院政は停止された。ここに至り、清盛は院政派の反発を抑えるため[[皇居]]の警護体制を整えるなど、二条支持の姿勢を明確にした。さらに[[関白]][[近衛基実]]を娘の[[平盛子|盛子]]の婿に迎え、[[摂家|摂関家]]にも接近する姿勢をとった。<br /> <br /> [[永万]]元年([[1165年]])に二条天皇が[[崩御]]した。前後して前関白[[藤原忠通]]([[1164年]] [[崩御#薨去|薨去]])、[[太政大臣]][[藤原伊通]]([[1165年]][[崩御#薨御|薨御]])、[[摂政]][[近衛基実]]([[1166年]]薨去)など、政治の中心人物たちが相次いでこの世を去った。清盛は院近臣の昇進の限界とされていた[[大納言]]となり女婿の基実を補佐していたが、基実が急死して後白河院政が復活すると「&#039;&#039;&#039;勲労久しく積もりて、社稷を安く全せり。その功、古を振るにも比類少なければ、酬賞無くてやは有るべき&#039;&#039;&#039;」という理由で仁安元年([[1166年]])に[[内大臣]]へ昇進した。大臣に昇進できたのは[[摂家|摂関家]]([[中御門流]]・[[花山院流]]も含む)・[[村上源氏]]・[[閑院流]]に限られていて、清盛の昇進は未曾有のものだった。なお翌年には[[太政大臣]]となるが、太政大臣はすでに実権のない名誉職となっていて、清盛は僅か3ヵ月で辞任している。<br /> <br /> この時期の清盛の出世について「&#039;&#039;&#039;当時の貴族社会の中では清盛を白河上皇の[[落胤]]とする説が信じられており、このことが清盛の異例の昇進に強く影響した&#039;&#039;&#039;」という説もある。一方、[[橋本治]]はこれについて憲仁親王が立太子の式を挙げた場所が摂関家の正邸・[[東三条殿]]であったことに注目し、東三条殿の当時の所有者が清盛の娘の盛子であった(基実はこの立太子式の3ヶ月前に薨去)ことが強く影響したという説を立てている。橋本によれば、清盛はこの状況を奇貨として滋子の生んだ皇子の養母を「先の摂政の未亡人」である盛子に引き受けさせ、「東宮の養母の父親」である清盛が内大臣や太政大臣に出世する口実としたとされる(橋本2006:22-24)。<br /> <br /> === 全盛期 ===<br /> 仁安3年([[1168年]])、[[六条天皇]]が退位して憲仁親王が即位した(高倉天皇)。高倉の即位は、清盛だけでなく、安定した王統の確立を目指していた後白河も望んでいたものであり、後白河と清盛は利害をともにする関係にあったといえる。この時期まで後白河と清盛の関係は良好であった。清盛の家系は、代々院に仕えることで勢力を増してきたのであり、清盛も後白河の[[院司]]として精力的に貢献を重ねてきた。[[応保]]2年([[1162年]])、後白河が[[日宋貿易]]の発展を目論んで[[摂津国|摂津]]の[[大輪田泊]]を修築した際、清盛は隣接地の[[福原京|福原]]に日宋貿易の拠点として山荘を築いているが、このことは、後白河と清盛が共同して日宋貿易に取り組んでいたことを示している。<br /> <br /> 清盛は、若い頃から[[西国]]の[[国司]]を歴任し、父から受け継いだ西国の平氏勢力をさらに強化していた。[[大宰府|大宰大弐]]を務めた時は日宋貿易に深く関与し、[[安芸国|安芸守]]・[[播磨国|播磨守]]を務めた時は[[瀬戸内海]]の[[海賊]]を伊勢平氏勢力下の水軍に編成して瀬戸内海交通の支配を強めていった。こうして涵養した実力を背景として、清盛は後白河と深く結びついていた。<br /> <br /> また、基実が薨去した際、清盛は摂関家が蓄積してきた荘園群を基実の[[正室]]・盛子に伝領させた。これにより清盛は厖大な摂関家領を自己の管理下へ置くことに成功した。摂関家を嗣いだ[[松殿基房|基房]]は伊勢平氏による[[押領]]だと非難したが、この事件は摂関家の威信の低下を如実に表しており、清盛一族は大きな経済基盤を獲得した。<br /> <br /> 以上に見るように、政治世界における武力が占める比重の増加、後白河と清盛の強い連携、後白河と滋子の関係、高倉の即位、清盛の大臣補任、日宋貿易や集積した所領(荘園)に基づく巨大な経済力、西国武士や瀬戸内海の水軍を中心とする軍事力などを背景として、1160年代後期に平氏政権が確立した。<br /> <br /> この時期、後白河は院政の強化を図っており、清盛の[[長男]]・[[平重盛]]に軍事警察権を委任し、[[東海道]]・[[東山道]]・[[山陽道]]・[[南海道]]の追討を担当させた。また、[[内裏]]の警備のために諸国から武士を交替で上京させる内裏大番役の催促についても、清盛が担うようになっていた。こうした動きは、院と深く連携して院政の軍事警察部門を担当することを平氏政権の基盤に置くものであり、その中心には重盛がいたが、その一方で清盛は、西国に築いた強固な経済・軍事・交通基盤によって、院政とは独自の路線を志向するようになっていたと考えられている。<br /> <br /> 仁安3年([[1168年]])に清盛は[[出家]]した。政界から引退して[[雪見御所|福原の山荘]]へ移り、日宋貿易および瀬戸内海交易に積極的に取り組み始めた。後白河も清盛の姿勢に理解を示し、[[嘉応]]元年([[1169年]])から[[安元]]3年([[1177年]])まで毎年のように福原の山荘へ赴いた。嘉応2年([[1170年]])後白河は福原山荘にて宋人と対面しているが、これは[[宇多天皇]]の遺戒でタブーとされた行為であり、[[九条兼実]]は「&#039;&#039;&#039;我が朝、[[延喜]]以来未曾有の事なり。天魔の所為か&#039;&#039;&#039;」(『[[玉葉]]』)と驚愕している。同年に[[藤原秀衡]]が[[鎮守府将軍]]になるが、日宋貿易の輸出品である[[金]]の貢納と引き換えに任じられたと推測される。これについても兼実は「夷狄(いてき)」の秀衡を任じたことは「乱世の基」であると非難しているが、これらの施策により日宋貿易は本格化していった。<br /> <br /> [[承安 (日本)|承安]]元年([[1171年]])、清盛は娘の[[平徳子|徳子]](建礼門院)を[[高倉天皇]]の[[中宮]]とした。清盛一族と同様に、建春門院に連なる堂上平氏([[平高棟|高棟流]])も栄達し、両平氏から全盛期には10数名の[[公卿]]、[[殿上人]]30数名を輩出するに至った。『[[平家物語]]』によれば、[[平時忠]]は「&#039;&#039;&#039;平家一門でない者は人ではない(この一門にあらざれば人非人たるべし)&#039;&#039;&#039;」と放言したと伝えられている。<br /> <br /> === 動揺期 ===<br /> 長らく続いた後白河と清盛の良好な関係は、[[安元]]2年([[1176年]])の建春門院の死によって大きな変化が生じ始めた。後白河の寵愛する建春門院は、後白河と清盛の関係をつなぐ重要な存在であったが、その死は、両者間に蓄積していた対立点を顕在化させることとなった。<br /> <br /> 高倉天皇は成人して政治への関与を深めていたが、後白河も院政継続を望んでいたため、高倉を擁する平氏と後白河を擁する院近臣の間には人事を巡って鋭い対立が生じていた。院近臣の[[藤原定能]]・[[藤原光能]]が[[蔵人頭]]になったことに対抗して、平氏側からは重盛・[[平宗盛|宗盛]]がそれぞれ[[近衛大将|左大将]]・[[近衛大将|右大将]]になるなど、しばらくは膠着状態が続いた。後白河は福原を訪れて平氏との関係修復を模索するが、ここに突然、新たな要素として[[延暦寺]]が登場する。[[加賀国|加賀守]]・[[藤原師高]]の[[目代]]であり弟である[[藤原師経 (末茂流)|藤原師経]]が白山の末寺を焼いたことが発端で、当初は目代と現地の寺社によるありふれた紛争にすぎなかったが、白山の本寺が延暦寺であり、師高・師経の父が院近臣の[[西光]]だったため、中央に波及して延暦寺と院勢力との全面衝突に発展した。この強訴では、重盛の兵が[[神輿]]を射るという失態を犯したことで延暦寺側に有利に事が運び、師高の配流・師経の禁獄で一旦は決着する。<br /> <br /> 安元3年([[1177年]])4月には、[[大内裏]]・[[大極殿]]・官庁の全てが全焼する大火が発生した([[太郎焼亡]])。この大火は後白河に非常に大きな衝撃を与えた。このような中で延暦寺への恨みを抱く西光は後白河に、[[天台座主]]・[[明雲]]が強訴の張本人であり処罰することを訴えた。明雲は突如、座主を解任されて所領まで没収された上、[[伊豆国|伊豆]]に[[配流]]となった。激怒した延暦寺の大衆が明雲の身柄を奪回したため、ここに延暦寺と院勢力との抗争が再燃することになった。後白河は清盛に延暦寺への攻撃を命じるが、清盛自身は攻撃に消極的であり、むしろ事態を悪化させた後白河や西光に憤りを抱いていた。延暦寺攻撃直前の6月1日、[[多田行綱]]が、京都郊外の鹿ヶ谷で成親、西光、[[俊寛]]ら院近臣が集まり平氏打倒の謀議をしていたと密告した。清盛は関係者を速やかに斬罪や流罪などに処断した([[鹿ケ谷の陰謀]])。陰謀が事実であったかは定かでないが、これにより清盛は延暦寺との望まぬ軍事衝突を回避することができ、後白河は多くの近臣を失い、政治発言権を著しく低下させてしまった。また、成親と婚姻関係を結び、一貫して盟友関係にあった重盛の平氏政権後継者としての地位は、彼が清盛の現在の正室であった時子の所生ではないこともあって、動揺することになる(重盛は清盛最初の正妻であった[[高階基章]]の娘の所生)。<br /> <br /> 清盛は、後白河との関係を放棄する一方で高倉天皇との関係を強化し、高倉もまた後白河院政からの独立を志向し、翌[[治承]]2年([[1178年]])、両者は連携して[[新制]]17条を発布した。同年には[[中宮]]・徳子が高倉の[[皇子]]・言仁親王(後の[[安徳天皇]])を出産、同[[親王]]は生後1月で[[皇太子]]に立てられた。<br /> <br /> 治承3年([[1179年]])重盛と盛子が相次いで死去すると、後白河は[[関白]]基房と共謀し、清盛に無断で重盛の[[知行国]]([[越前国|越前]])と盛子の荘園を没収した。特に盛子の所領は高倉が相伝することが決まっていたため、高倉・清盛側と後白河側の対立は悪化の一途をたどった。11月14日清盛は福原から上京すると、基房・[[松殿師家|師家]]父子を手始めに、[[藤原師長]]以下39名([[公卿]]8名、[[殿上人]]・[[受領]]・[[検非違使]]など31名)を[[解官]]、後白河も[[鳥羽殿]]へ幽閉した。これは事実上、軍事力による[[朝廷]]の制圧であり後白河院政は完全に停止された。以後、平氏政権はますます軍事的な色彩を強めていく。この[[治承三年の政変]]をもって、[[武家政権]]としての平氏政権が初めて成立したとする見解もある。従前の高官に代わって平氏一族や親平氏的貴族が登用され、また知行国の大幅な入れ替えもあって中央・地方の両面において平氏一門を中心とする軍事的な支配体制が強化していった。<br /> <br /> 同年の平氏一門の知行国25か国、国守29か国にのぼり、伊勢平氏の勢力基盤の西国のみならず、[[東国]]にも平氏政権の勢力が及ぶこととなった。平氏の荘園は500余箇所だったとされているが、平氏は[[本家]]などといった最上位の領主として荘園を支配したのではなく、[[領家]]や預所といった職で荘園管理に当たっていた。平氏政権は、各地の武士を系列化したり、家人の武士を各地へ派遣し、知行国においては国守護人、[[荘園]]においては地頭と呼ばれる職に任命して現地支配に当たらせた。ただし、こうした現地支配の形態は、関係史料が少ないため明らかでない部分もあるが、平氏支配地に一律で適用されたのではなく、[[武士]]による支配を模索する中で現れたに過ぎないとされている。これは後の[[鎌倉幕府]]による本格的な武家政権支配と比較すると、[[御家人]]制度のように確立されたものでもなく未熟なものだったといえるが、武士を通じた支配ネットワークを構築したことは従前の貴族政権には見られない画期的なものとされ、ゆえに学界では発現期の武家政権であるとする評価が主流となっている。なお、清盛が置いた国守護人・地頭は、鎌倉期におけるの[[守護]]・[[地頭]]の祖形だと考えられている。<br /> <br /> 治承4年([[1180年]])2月、高倉天皇は言仁親王に譲位([[安徳天皇]])、平氏の傀儡としての高倉院政が開始された。平氏は[[軍事貴族]]の枠を超えて政治の実権を掌握したが、後白河の幽閉は多くの反対勢力を生み出し、高倉院政もクーデターで成立した政権であるため平氏の軍事力に支えられている面が大きく、その正統性に疑問があった。さらに新しく平氏の知行国となった国では、[[国司]]と国内武士の対立が発生するなど、平氏政権は極めて脆弱な基盤に載っていたといえる。<br /> <br /> === 衰退・消滅期 ===<br /> {{Main|治承・寿永の乱}}<br /> <br /> 清盛は高倉院政の開始に当たって、高倉とともに[[安芸国]][[厳島]]への社参を行った。しかしこれは、代替わりに[[石清水八幡宮]]・[[賀茂神社]]へ社参するという慣例に反するものであり、[[園城寺]]・[[興福寺]]などは一斉に清盛へ反抗の姿勢を見せ始めた。反清盛の気運が高まる中、治承4年([[1180年]])4月には[[以仁王]](後白河の第 3[[皇子]])が平氏追討の[[令旨]]を発し、[[源頼政]]と結んで挙兵した。しかし清盛は迅速に対応し、平氏軍は[[以仁王]]と頼政をすぐに敗死へ追い込んだ。しかし叛乱に興福寺や園城寺などの有力寺院が与したことから、清盛は平氏にとって地勢的に不利な京都からの遷都を目指して[[福原京#福原行幸|福原行幸]]を決行した。<br /> <br /> ところが高倉上皇が[[平安京]]を放棄しない意向を示すなど、この遷都計画は[[貴族]]らに極めて不評であり、[[朝廷]]内部に清盛への反感が募っていった。さらに、[[以仁王の令旨]]を受けて、[[東国]]の[[源頼朝]]、[[源義仲|木曾義仲]]、[[武田信義]]らが相次いで反平氏の兵を挙げ、さらに[[多田源氏]]、[[美濃源氏]]、[[近江源氏]]、[[河内国]]の[[石川源氏]]、[[九州]]の[[菊池氏]]、紀伊熊野の[[湛増]]、[[土佐国]]の[[源希義]]らも反平氏の行動を始めていた。こうした反平氏の動きの背景には、平氏が現地勢力を軽視して自らの家人や係累を優先して平氏知行国や平氏所領の支配に当たらせていたことへの反発があった。特に[[クーデター]]で[[国司]]が交代した[[上総国|上総]]・[[相模国|相模]]では、[[源頼朝]]の下に[[武士]]たちが瞬く間に集結して一大勢力を形成しており、清盛は孫の[[平維盛|維盛]]に追討軍を率いさせたが、[[富士川の戦い]]であえなく敗走してしまった。<br /> <br /> 福原への[[行幸]]以降、貴族の不満も高まり、高倉上皇の健康が悪化していくなか、親平氏派の[[延暦寺]](彼らは[[園城寺]]や[[興福寺]]と敵対関係にあったが、遷都には不満を抱いていた)などからの要望を契機として、福原行幸から半年後の11月、清盛は福原から京へ戻った。翌12月、[[園城寺]]・[[興福寺]]などが反平氏の挙兵を行ったため、清盛は断固とした態度で臨み、[[平知盛|知盛]]率いる軍は園城寺を焼き払い[[近江源氏]]を撃破、[[平重衡|重衡]]率いる軍も[[南都]]の諸寺を焼き払って[[荘園]]を没収した([[南都焼討]])。これにより[[畿内]]周辺の叛乱はひとまず沈静化した。<br /> <br /> 治承5年([[1181年]])1月、高倉上皇が[[崩御]]し、後白河院政が再開されたが、[[畿内]]に臨時の軍政を布くべしという高倉の遺志に基づいて、清盛は嫡子の宗盛を畿内周辺を直接管領する惣官に任じた。この惣官職は、畿内近国を軍事的に直轄支配することを目的に設置されたもので、平氏政権の武家政権としての性格を如実に表しており、平氏政権が本格的な武家政権へ成長していく可能性をここに見出しうると、学界では考えられている。清盛はこれにより京の富裕層から兵粮を徴収すると同時に、伊勢周辺の水軍に動員をかけて、反平氏勢力の追討に意欲を燃やしていたが、同年閏2月に熱病で急死し、平氏政権は大きな打撃を受けた。<br /> <br /> 清盛の死後、跡を継いだ宗盛は後白河との融和路線を採り、各地の叛乱も平氏の反撃と[[養和の大飢饉]]で小康状態となった。しかし、[[寿永]]2年([[1183年]])7月に[[木曾義仲]]の軍が北陸から一気に京へ進軍すると、義仲軍に主力を壊滅させられていた平氏は、ついに[[安徳天皇]]を伴って京を脱出し[[大宰府]]に[[下向]]するが、[[豊後国|豊後]]の[[武士]]・[[緒方惟栄]]に撃退され屋島にたどり着いた。この時点で平氏政権は、貴族社会に形成してきた基盤を捨て、[[西国]]の地方政権へと転落した。後白河は平氏と行動を共にせず、京に残って孫の[[後鳥羽天皇]]を即位させたが、これにより[[天皇]]が2人存在するという未曾有の事態となった。<br /> <br /> 平氏は、西国の勢力を再編成して軍の再建を進め、瀬戸内沿岸で義仲軍を徐々に押しやり、寿永3年([[1184年]])1月に義仲が鎌倉軍([[源範頼]]・[[源義経]]軍)に滅ぼされる頃には福原を回復するまでに至っていた。平氏は、後白河の仲介による京への復帰を目指していたが、後白河にすれば平氏が政権に復帰することになれば再び院政停止・幽閉となる危険性があり、和平はありえなかった。平氏は半ば騙し討ちを受けた形で[[一ノ谷の戦い]]に敗北し、西下していった。<br /> <br /> その後、平氏は西国の諸勢力を組織して戦争に当たっていたが、[[元暦]]2年([[1185年]])3月、[[関門海峡]]での最終決戦([[壇ノ浦の戦い]])で義経軍に敗れて滅亡し、平氏政権は名実ともに消滅した。<br /> <br /> == 意義と評価 ==<br /> 平氏政権は、今日では&#039;&#039;&#039;[[日本]]史上初の[[武家政権]]&#039;&#039;&#039;と考えられている。<br /> <br /> 『[[平家物語]]』や『[[愚管抄]]』など同時代の文献は、平氏滅亡後に平氏政権に抑圧されてきた貴族社会や寺社層の視点で描かれてきたものが多い。従って、後白河法皇が自己の政権維持のために平氏を利用して、高い官職を与え知行国を増やさせてきたという経緯や当時の社会問題に対する貴族社会の対応能力の無さという点には触れず、清盛と平氏一門がいかに専横を振るい、「驕れる者」であったかを強調している(だが、実際には少なくとも治承3年以前における平氏の権力は後白河との強い関係の下で行使されたものが大半であり、その段階において清盛及び平氏一門が独裁的権力を有していたという具体的な事実は存在していない)。そのため、以後の歴史書もこの歴史観に引きずられる形で「平氏政権観」を形成していった。<br /> <br /> こうした背景を受けて以前の学界では、平氏政権が貴族社会の中で形成されたことに着目して、武家政権というよりも貴族政権として認識されていた。貴族社会の官職に依存していること、院政と連携して政策推進を行っていたこと、などがその理由である。そのため、平氏政権は、武士に出自しながら旧来の支配勢力と同質化してしまったと批判されたのに対し、在地領主層 = 武士階級から構成される[[鎌倉幕府]]は、旧来の支配階級を打倒した画期的・革新的な存在だとして、[[階級闘争]]史観などにより高く評価されていた。こうした歴史像に基づく記述が、[[21世紀]]初頭まで一部の辞書などに残存していた。<br /> <br /> しかし、[[1970年代]] - [[1980年代]]頃から、史料に基づく実証的な研究が進んでいくと、平氏政権も鎌倉幕府に先立って武家政権的な性格を呈していたことが判明するようになった&lt;ref&gt;例えば、[[五味文彦]]「平氏軍制の諸段階」(『史学雑誌』第88編第8号、史学会、[[1979年]])などを参照。&lt;/ref&gt;。史料によれば、平氏政権は支配地域の勢力を武士として系列化し、知行国・荘園に国守護人・地頭などといった従来あまり見られなかった職を置いて、半軍事的な支配を進めた。関係史料が少ないため、平氏政権における国守護人・地頭の設置とそれに伴う支配の深化がどれほど進んでいたかは、必ずしも明らかとなっていないが、学界では、これら国守護人・地頭は、後の鎌倉幕府における守護・地頭の先駆的な存在だと考えるようになっている。また治承5年([[1181年]])に設置した畿内惣官職や諸道鎮撫使は、これもその職能の詳細は不明な点もあるが、数か国にわたる広い領域を軍事的に直轄支配するものと見られており、特に畿内惣官職は[[征夷大将軍]]と同様の性格を見出しうるとする見解もある。このように、平氏政権は従来の貴族政権と異なり、武力に大きな基盤を有していたことが明らかとなり、学界では日本最初の武家政権とするのが通説となっている。なお、元暦2年([[1185年]])滅亡することがなければ、平清盛の政権は鎌倉幕府とはまた違った、西国を中心とした独自の武家政権へ成長したのではないかとの可能性も指摘されている。<br /> <br /> また、武士の起源を在地領主層に求める従来の歴史学会の見解も、1970年代以降の研究では[[軍事貴族]]層を武士の起源とする新たな見方が生まれている。そういった見解からは、平氏は元より貴族であり、旧来の支配勢力と同質化した訳ではなく、旧来の支配層の中から軍事貴族たる平氏が台頭したと言えるのである。<br /> <br /> また、日宋貿易に支えられた平氏政権を[[10世紀]][[朝鮮半島]]の[[張保皐]]・[[弓裔]]・[[甄萱]]・[[太祖 (高麗王)|王建]]らと比較し、[[唐]]王朝の滅亡と私貿易の拡大によってもたらされた政治・社会の変動が、旧来の出入国・貿易統制(公式の使者以外の往来を禁止・制限する「[[渡海制]]」)がある程度維持された日本では、地理的条件と商工業の遅れもあって2世紀以上遅れて到達し、平氏政権の成立をもたらしたとする見方もある&lt;ref&gt;榎本淳一「唐代の朝貢と貿易」(初出:『古代文化』第50巻第9号([[1998年]])/所収:榎本『唐王朝と古代日本』([[吉川弘文館]]、[[2008年]])&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 平氏政権は清盛という一個人に大きく依存しており、清盛の死から数年のうちに瓦解に至った。また、前述したように、後白河との良好な関係に依存するところも大きかった。院政期は律令制に代わり、院を頂点とした主従制的関係が形成され、官職や土地を恩給として臣下に与えて奉仕させるようになり、知行国・荘園制度が確立していった時期だった。保元の乱で摂関家が事実上壊滅し、平治の乱で源義朝などの有力武士が淘汰されると、平氏の勢力は他より突出することになった。<br /> <br /> [[治承三年の政変]]により平氏政権は完成されたかに見えたが、それは平氏と反対勢力の全面衝突をもたらした。平氏の軍制の欠陥は、直属部隊が[[伊勢国|伊勢]]・[[伊賀国|伊賀]]の重代相伝の家人や「私郎従」と呼ばれる諸国の特定武士だけで、兵の大部分を公権力の発動によって動員する形態を採っていたことにある。都落ちして平氏追討宣旨が下された時点で、平氏に従う兵は僅かになっていた。安徳天皇を擁していてもその即位はクーデターによるものであり、平氏が自己の立場を正当化することは困難だった。更に清盛が出家・隠退の後、後継者である重盛の下に一部の重代相伝の家人が集まるようになり、重盛も平氏政権の基盤強化のために源氏の影響力が強い東国武士の郎従化に努めていたが、鹿ケ谷の陰謀後の重盛の没落と急死、それに伴う宗盛への嫡流の交替はこうした重盛傘下の兵力を平氏の軍制の中枢から排除することとなり、弱体化した軍制の再構築を終えないうちに源頼朝の挙兵を迎える結果となった&lt;ref&gt;[[元木泰雄]]「平重盛論」([[朧谷壽]]・[[山中章]] 編『平安京とその時代』([[思文閣出版]]、[[2009年]] ISBN 978-4-7842-1497-6)所収&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 平氏は成す術もなく敗北を繰り返し滅亡する。王朝政権の接収・大々的な外交の展開といった清盛の構想が実現したのは、平氏が滅亡してからおよそ200年後、[[足利義満]]の時代だった。<br /> == 家人 ==<br /> 平氏の家人の多くは、本領である[[伊賀国|伊賀]]・[[伊勢国|伊勢]]の郎等で構成されていたが、その後、西国での海賊追討・国司補任・荘園管理などを通して新たな家人を獲得したことで、畿内・瀬戸内海沿岸・九州の在地領主の比重が高まった。平治の乱以降は、源氏の基盤であった東国にも拡大していった。以下に主な家人を列記する。<br /> {| width=&quot;100%&quot;<br /> |-<br /> | valign=&quot;top&quot;|<br /> * [[平家貞]]<br /> * [[平貞能]]<br /> * [[平田家継]]<br /> * [[藤原忠清]]<br /> * [[平盛国]]<br /> * [[平盛俊]]<br /> | valign=&quot;top&quot;|<br /> * [[橘公長]]<br /> * [[大庭景親]]<br /> * [[千田親政]]<br /> * [[佐竹隆義]]<br /> * [[源義重|新田義重]]<br /> * [[足利忠綱]]<br /> | valign=&quot;top&quot;|<br /> * [[城資永]]<br /> * [[妹尾兼康]]<br /> * [[佐伯景弘]]<br /> * [[湯浅宗重]]<br /> * [[原田種直]]<br /> * [[源季貞]]<br /> | valign=&quot;top&quot;|<br /> * [[田口成良]]<br /> * [[田口良遠]]<br /> * [[武藤頼平]]<br /> * [[武藤資頼]]<br /> |}<br /> <br /> == 脚注 ==<br /> {{脚注ヘルプ}}<br /> {{Reflist}}<br /> <br /> == 参考文献 ==<br /> * [[橋本治]] 『権力の日本人:双調平家物語ノートI』 [[講談社]]、[[2006年]]。<br /> * [[田中文英]] 『平氏政権の研究』 [[思文閣出版]]、[[1994年]]。<br /> <br /> == 関連項目 ==<br /> * [[武家政権]]<br /> * [[武臣政権]]([[高麗]])<br /> <br /> {{DEFAULTSORT:へいしせいけん}}<br /> [[Category:平安時代の政治]]<br /> [[Category:伊勢平氏|*]]<br /> [[Category:平家|*]]<br /> [[Category:日本の武家政権]]<br /> [[Category:平清盛]]</div> 240F:31:937B:1:3928:C783:FB9F:DA83
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