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http:///mymemo.xyz/wiki/api.php?action=feedcontributions&feedformat=atom&user=240B%3A11%3A8540%3A3F00%3AFCFC%3AC862%3A4E3D%3AAC6E
miniwiki - 利用者の投稿記録 [ja]
2024-05-24T14:06:30Z
利用者の投稿記録
MediaWiki 1.31.0
谷啓
2018-10-03T11:14:03Z
<p>240B:11:8540:3F00:FCFC:C862:4E3D:AC6E: /* 来歴・人物 */</p>
<hr />
<div>{{Infobox Musician <!--Wikipedia:ウィキプロジェクト 音楽家を参照--><br />
| Name = 谷 啓<br />
| Img = <br />
| Img_capt = <br />
| Img_size = <!-- サイズが250ピクセルに満たない場合のみ記入 --><br />
| Landscape = <!-- 画像の横幅が広く、高さが小さい場合に“yes”を記入 --><br />
| Background = instrumentalist<!-- singer/group/bandなど --><br />
| Birth_name = 渡部 泰雄<br />
| Alias = 谷 敬<br />
| School_background = [[中央大学]][[経済学部]]中退<br />
| Born = {{生年月日と年齢|1932|2|22|no}}<br />
| Died = {{死亡年月日と没年齢|1932|2|22|2010|9|11}}<br />[[東京都]][[三鷹市]][[新川 (三鷹市)|新川]]<br />
| Origin = {{JPN}} [[東京府]][[荏原郡]][[東調布町]]<br />(現・東京都[[大田区]][[田園調布]])<br />
| Instrument = [[トロンボーン]]<br />
| Genre = [[ジャズ]]<br />
| Occupation = トロンボーン奏者、[[歌手]]、[[コメディアン]]、[[俳優]]<br />
| Years_active = [[1953年]] - [[2009年]]<br />
| Label = <br />
| Production = [[ワタナベエンターテインメント]]<br />
| Associated_acts = <br />
| Influences = <br />
| URL = [http://www.watanabepro.co.jp/mypage/10000002/ プロフィール]<br />
| Notable_instruments = <br />
}}<br />
'''谷 啓'''(たに けい、[[1932年]][[2月22日]] - [[2010年]][[9月11日]])は、[[日本]]の[[俳優]]、[[コメディアン]]、[[トロンボーン]]奏者。出生名は、'''渡部 泰雄'''(わたべ やすお)。<br />
<br />
[[東京府]][[荏原郡]][[東調布町]](現・[[東京都]][[大田区]][[田園調布]])出身・[[三鷹市]][[大沢 (三鷹市)|大沢]]に居住していた。[[渡辺プロダクション]]所属。[[中央大学]][[経済学部]]中退{{refnest|group=注釈|[[有楽町]]の[[日本劇場]]にトロンボーン奏者として出演していた時、舞台と舞台の間に大学の月謝を払おうとして現金持参で中大駿河台校舎まで飛んでいったが、月謝を納める学生たちが行列しており、列に並んでいては次の舞台に間に合わなかったため「カネを払うのに行列まですることはねえだろう」と思って日劇に戻り、そのまま除籍になったという<ref>『七人のネコとトロンボーン』p.56</ref>。}}、中央大学学員会三鷹支部会員。日本トロンボーン協会名誉会員。<br />
<br />
写真家の[[吉田ルイ子]]は従妹にあたる。長男の渡部泰裕は映像ディレクター。<br />
<br />
== 来歴・人物 ==<br />
[[日新製鋼]]に勤めていた父の転勤により、生後すぐ[[広島市|広島]]に転居<ref name="rireki104_106">『「家」の履歴書』 光進社 [[2001年]]、104-106頁</ref>。5歳までに東京に戻り、小学校から[[横浜市|横浜]]へ移り六浦尋常小学校へ通う<ref name="rireki104_106"/>。[[1945年]]4月に[[逗子開成中学校・高等学校|旧制逗子開成中学校]]に進学。入学式の時のブラスバンドの演奏で[[トロンボーン]]に出会い、一目惚れして、当時の音楽部(現:吹奏楽部)に入部。しかし、トロンボーンという名前を知らず、また、あの楽器はなんというのかとも聞けず、担当楽器を決める際に適当に[[チューバ]]を希望し担当した。8月に敗戦を迎えると、進駐軍が[[ジャズ]]を持ち込み、それを聞いて「こんなに楽しい音楽があったのか」と夢中になる。また、大量に上映されたアメリカ産のコメディ映画にも夢中になる。<br />
<br />
逗子開成高校時代から、[[キャバレー]]でバンドマンの[[アルバイト]]をしていた。逗子開成高校卒業後、[[関東学院大学]]に進むが<ref>[https://kotobank.jp/word/%E8%B0%B7+%E5%95%93-1672491 『新撰 芸能人物事典 明治~平成』]</ref>、1年後、高校時代の音楽仲間を追って、[[中央大学]][[経済学部]]経済学科に進学。音楽研究会に所属し、バンドを組んでキャバレーや米軍向けに演奏していた。中大音楽研究会時代の後輩には[[高木ブー]]がいる。一方、喜劇俳優にもなりたくて、[[劇団民藝]]や[[俳優座]]を訪ねたが相手にされなかった。中大在学中に、耳の肥えた米軍将校相手に培われた確かな腕前とコミカルな演奏が[[原信夫]]に注目され、トロンボーン奏者としてシャープス&フラッツに参加。本格的な演奏のほかに、トロンボーンのスライドを足で動かして吹くなどのコミカルな演奏も行う。「[[スイングジャーナル]]」誌上でトロンボーン奏者として上位にランキングされるようになる。<br />
<br />
芸名の由来は、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の名コメディアン、[[ダニー・ケイ]]を日本語風にしたもの。名乗り始めた当初は、「ダニー・ケイを敬う」という意味で『谷敬』だったが、ファンから「谷敬という字はいけません。なぜかというと、谷底でいつも敬っているんじゃ、ずっと底にいることになるから」という指摘を受け<ref>[[五歩一勇]]『[[シャボン玉ホリデー]] スターダストを、もう一度』p.152([[日本テレビ放送網|日本テレビ]]放送網、[[1995年]])</ref>、『谷をひらく』という意味の『谷啓』と改名した。ただし、髪型や芸風は、『[[アボット&コステロ]]』のルー・コステロに似せている。『クレージーキャッツ』の他のメンバーはみな、ミュージシャン志望で役者になろうとは全然思っていなかったが、ただ一人、谷だけがコメディアン志望でもあった。<br />
<br />
[[1953年]]、[[フランキー堺]]から「[[スパイク・ジョーンズ (音楽)|スパイク・ジョーンズ]]のような音楽をやろう」と誘われ、谷もスパイク・ジョーンズの大ファンだったため、[[フランキー堺とシティ・スリッカーズ]]に参加し、音楽ギャグを盛んに行う。だが、フランキーが[[日活]]に引き抜かれ、フランキー不在のシティ・スリッカーズは『普通のジャズバンド』になってしまう。そのため、同じバンドの[[植木等]]の紹介でハナ肇に会い、「[[ハナ肇とキューバン・キャッツ]]」に[[1956年]]2月に移籍。のちにバンド名は[[ハナ肇とクレージーキャッツ|クレージーキャッツ]]と変わる。ジャズ喫茶に出演し、多彩なギャグで人気を博す。<br />
<br />
1959年の『[[おとなの漫画]]』以降、コメディアンとして多くのTVバラエティ番組に出演。「ガチョン」(当時は伸ばさなかった)「びろーん」「アンタ誰?」「ムヒョーッ」といった各種のギャグで不動の人気を獲得した。「谷だァ!」というギャグも一時期使っていたが、これは当時の流行語にもなった[[青島幸男]]の「青島だァ!」に対抗する形で発せられたもの。<br />
<br />
俳優としてもテレビドラマや映画に多数出演している。[[1975年]]には、かねてからの夢だった本格的ミュージカル、[[森繁久彌]]主演の『[[屋根の上のバイオリン弾き]]』に出演、肉屋のラザール役を演じ、4年の間出演した。演出家の[[福田陽一郎]]の『好みの役者』で、福田が演出する舞台に多数出演している。<br />
<br />
1975年ごろから、自身のバンド『谷啓とザ・スーパーマーケット』を結成し活動していた(結成時には、キーボード担当として、若き日の[[近田春夫]]も参加していた)。また[[ハナ肇]]が晩年に結成したバンド『ハナ肇&オーバー・ザ・レインボー』(ドラム:ハナ肇、トロンボーン:谷、ピアノ:[[宮川泰]]、トランペット:中川善弘、ベース:江藤勲、テナーサックス:稲垣次郎)にも参加し、ハナが亡くなる直前まで活動していた。<br />
<br />
晩年はバラエティ番組への出演がめっきりと減ったが、[[1990年代]]後半から[[2000年代]]前半には[[背広|スーツ]]に[[サングラス]]姿で、『[[笑う犬の冒険]]』のオープニング[[司会|MC]]を務めた。<br />
<br />
[[2006年]]、クレージーキャッツの結成50周年を記念した、[[松任谷由実]]とのコラボレーション・シングル『[[Still Crazy For You]]』では松任谷のデュエット・パートナーを務め、クレージー名義のシングルでは初めて、単独でフィーチャーされた。<br />
<br />
また2006年から[[2009年]]まで『[[美の壺]]』([[NHK教育テレビジョン]])に出演、飄々としたご隠居の主人として番組の案内役を務めた。<br />
<br />
[[2008年]]ごろから体調を崩し始め、2009年3月までにレギュラー番組をすべて降板し、療養生活をはじめていた。ハナ肇の付き人を務め、長く親交があった[[なべおさみ]]によると「2008年ころから(谷について)物忘れがひどくなっていた。今年([[2010年]])春に見舞いに訪れた際にはもう私(なべ)のことが分からなかったこともあった」と語り、晩年の谷に[[認知症]]の傾向があったことを示唆している<ref>{{Cite news |title=ガチョーンもう見られず…谷啓さん転倒死 |url=http://www.nikkansports.com/entertainment/news/p-et-tp0-20100912-677372.html |newspaper=[[日刊スポーツ|nikkansports.com]] |date=2010-09-12 |accessdate=2014-05-28 }}</ref>。<br />
<br />
[[2010年]][[9月10日]]、私邸の階段から転落し、頭などを強打したために[[杏林大学医学部付属病院]]に搬送されたが、翌[[9月11日|11日]]午前5時7分[[脳挫傷]]のため死去。78歳だった。葬儀は密葬として執り行われ、親族以外はクレージーキャッツのメンバーの[[犬塚弘]]、[[桜井センリ]]が参列した。戒名は『玄妙院殿谷啓日雄大居士』(げんみょういんでんこくけいにちゆうだいこじ)で、芸名の『谷啓』と本名から『雄』の字をとっており、「奥深い悟りがあり一生懸命精進し大きな仕事を成し遂げた」という意味が込められている<ref>{{Cite news |title=谷啓さんの通夜しめやかに 祭壇には優しい微笑みと愛用のトロンボーン |url=http://www.oricon.co.jp/news/80001/full/ |newspaper=[[オリコン|ORICON STYLE]] |date=2010-09-13 |accessdate=2014-05-28 }}</ref>。没後、2010年[[10月2日]]号の『[[週刊現代]]』で、妻・和子が認知症の症状出現の事実とその後亡くなるまでの経緯について、詳細を明らかにしている。遺作は2009年に出演した『[[釣りバカ日誌20 ファイナル]]』)<ref group="注釈">映画本編には登場せず、本編終了直後における出演者全員の舞台挨拶「納竿」の1シーンのみ登場し、エンドクレジットには名前も記載されている。</ref>。<br />
<br />
2010年[[9月20日]]、不忍池水上音楽堂で開催された「[[したまちコメディ映画祭in台東|第3回したまちコメディ映画祭in台東]]」のクロージングイベントで谷のこれまでの業績を讃えて『第3回コメディ栄誉賞』授賞式が行われた(なお、生前から受賞が決定していた)<ref>{{Cite web |title=コメディ栄誉賞 谷啓授賞式 |url=http://www.shitacome.jp/2010/program/program_tanikei.shtml |publisher=第3回したまちコメディ映画祭in台東 |date= |accessdate=2014-05-28 }}</ref>。<br />
<br />
谷の死去を受け、[[NHK教育テレビジョン|NHK Eテレ]]では[[9月26日]]深夜に『[[美の壺]]』の第2回「盆栽」(2006年4月14日放送)を、[[NHK総合テレビジョン]]では[[10月24日]]に『[[NHKアーカイブス]] 谷啓 〜飄々と時代を駆け抜けた名脇役〜』をそれぞれ追悼番組として放送した。<br />
<br />
2010年[[11月11日]]には関係者対象の「お別れの会」が[[プリンスホテル|ザ・プリンスパークタワー東京]]で行われた。[[徳光和夫]]が司会を担当し、約800人が参列した。芸能人では[[西田敏行]]、[[松任谷正隆]]・[[松任谷由実|由実]]夫妻、桜井センリ、[[青木さやか]]、[[アグネス・チャン]]、[[浅香光代]]、[[いしのようこ]]、[[内田裕也]]、[[加藤和也 (ひばりプロダクション)|加藤和也]]、[[上川隆也]]、[[加山雄三]]、[[グッチ裕三]]、[[小松政夫]]、[[小柳ルミ子]]、[[島崎俊郎]]、[[城田優]]、[[せんだみつお]]、[[高見恭子]]、[[地井武男]]、[[仲本工事]]、[[中山秀征]]、[[鳩山邦夫]]、[[ビビる大木]]、[[布施明]]、[[藤村俊二]]、[[松本明子]]、[[ミッキー・カーチス]]、[[三宅裕司]]、[[恵俊彰]]、[[モト冬樹]]、[[山田邦子]]、[[山田洋次]]、[[アンガールズ]]、[[ネプチューン (お笑いトリオ)|ネプチューン]]、[[我が家]]らが参列しその死を悼んだ<ref>{{Cite news |title=谷啓さんにドリフメンバーら追悼続々 |url=http://www.nikkansports.com/entertainment/news/p-et-tp0-20100912-677539.html |newspaper=[[日刊スポーツ|nikkansports.com]]|date=2010-09-12 |accessdate=2014-05-28 }}</ref>。参列者を代表して犬塚弘が来賓あいさつを行い、天を仰ぎながら「みんな! 俺と桜井(センリ)さん2人だけになったんだよ。あと2〜3年たったらみんなのところに行くから、(その時は)向こうでクレージーキャッツを再開しよう。みんな、待っててくれよ!」と呼びかけ、メンバー間の強い絆を印象付けた<ref>{{Cite news |title=谷啓さんのお別れ会に約800人参列 盟友・犬塚弘「待っててくれよ!」 |url=http://www.oricon.co.jp/news/81951/full/ |newspaper=[[オリコン|ORICON STYLE]] |date=2010-11-11 |accessdate=2014-05-28 }}</ref>。<br />
<br />
2010年[[11月19日]]、[[第52回日本レコード大賞]]で特別功労賞を受賞。<br />
<br />
== エピソード ==<br />
* 植木のあだ名『植木屋』は、谷が最初に、つい『植木屋』と呼んでしまったのが始まり。ハナのあだ名は『ハナちゃん』だったが、谷は他人を『ちゃんづけ』で呼ぶのが恥ずかしく、口笛で「スィー・スィー」と吹いて、ハナを呼んでいた。<br />
* 目をしばたたかせるクセがあった。<br />
* テレビに出演するようになった後に、友達から「音楽をやっているのなら、和声学を勉強したほうがいい」と助言され、多忙の中、音楽学校の通信教育で勉強し、4年かけて卒業した。<br />
* 妻・和子は[[ペギー葉山]]の元マネージャー。長年交際しても、恥ずかしがり屋の谷が一向にプロポーズしないため、夫人の側からプロポーズした。<br />
* [[プロレタリア文学]]に関心を持ち、古本屋を回って戦前に発刊された作品を買い集めていたことがある。<br />
* 弟は知的障害者だが、兄弟仲は非常によく、谷が結婚後も同居を続けた。初主演のテレビドラマ『日立ファミリー劇場「女のしあわせ 第7回 田辺死す」』([[1962年]])で、谷が演じた知的障害者は、この弟がモデルである。谷の死去から4年後の2014年に他界した。<br />
* [[1964年]]の[[前東京オリンピック|東京オリンピック]]の際は、テレビでオリンピックの選手たちを観て「ものすごく素晴らしい」と大感動し、「それに比べてオレのやっていることは」と、仕事中は欝状態におちいったという。また 植木の証言によれば、東京オリンピック当時はオリンピック選手に間違われたくて、当時の選手団のユニフォーム一式(赤いジャケットと白いスラックス、白に赤いラインの入ったソフト帽)を身につけて出歩いたり、自宅の電話の受話器を重量挙げのバーベルに見立て、電話の横にロージンバッグを起き、電話に出る前はそれで滑り止めの粉を付け、「フンッ」と勢いをつけてから受話器を取るなど、奇行に及んでいたという<ref group="注釈">このことは『[[植木等とのぼせもん]]』第三話「俺たち戦友」でとりあげられている。</ref>。<br />
* 恥ずかしがり屋の反面、その自分を嫌って『逆に派手なこともする』性格で、自家用車はずっと[[輸入車|外車]]に乗っていた。一時は、ど派手な[[アメリカ車|アメ車]][[フォード・サンダーバード|サンダーバード]]ばかりに乗っていた。<br />
* [[1968年]]に三鷹市に家を新築したが、[[1969年]][[1月19日]]に火事になり全焼。谷はこの時、「火事のシーンを撮りたい」と、わざわざ家にひきかえし、家庭用8ミリ映画のカメラを持ち出したが、フィルムが入っておらず、撮影できなかったという。また、当時は麻雀に熱中しており(メンバーは、[[小野ヤスシ]]、[[なべおさみ]]、[[人見明]]など)、焼け跡に麻雀牌と麻雀卓が残っていたことから、焼け跡で見舞い客たちと麻雀を打った。これは、平静であることを示して見舞い客を安心させるための行為と説明されている。このように、谷の奇行には、目立つのを避けるために大きなサングラスをかけて逆に目立ってしまう、という類の「天然」なものが多い。<br />
* 火事の後に建て直した家は、玄関から全部屋に音が流れるようになっており、谷が深夜に帰宅すると「ただいま帰りました、起きている子供は集合するように」と放送して、子供たちを集め、思いつくままの空想やひらめきをアクションまじりで話し、子供たちと夜中に大熱中していたという。<br />
* 怪奇映画、[[ホラー映画]]の大の愛好家である。<br />
* 『足の水虫が好き』で、まったく治療せず常に水虫状態だったという。靴を履いている時に『むずがゆいのを我慢する』のが気持ちよく、また、耐え切れなくなって掻く時の開放感もたまらないという。<br />
* タレントの所ジョージと親交があったおり、所が面倒を見られなくなった巨大な[[アロワナ]]を押しつけられた事があったようだが、断れない性格故に苦笑いしながらも引き取ってくれたと所が番組で述懐している。<br />
* 「僕は夕日に向かって散歩するのが好きなんだ」と、自分が好きなことについて語っていたという<ref>{{Cite web |url=http://www.nhk.or.jp/tsubo/diary/100913.html |title=「谷啓さん、どうもありがとうございました!」 / チーフプロデューサー紙屋聡 |publisher=スタッフ制作日記|NHK鑑賞マニュアル 美の壺 |date=2010-09-13 |accessdate=2014-05-28 }}</ref>。<br />
<br />
== 谷啓のギャグ ==<br />
谷の一連のギャグの多くは、主に仲間と[[麻雀]]で、谷が牌をツモる時に発する奇声が起源になっている<ref>『七人のネコとトロンボーン』P.118</ref>。<br />
=== ガチョーン ===<br />
* 「'''ガチョーン'''」<br />
*: 追い詰められたときや[[コマーシャルメッセージ|CM]]前のオチに使用される。『[[素敵なデイト]]』で初めて使われたとみられ、当時は伸ばさず、「ガチョン」と発音していた(谷の初シングル『愛してタムレ』でも最後に「ガチョン」と言っているのが確認できる)。また、手の動作は『右手を前後させる』と思われがちで、そのように報道されたこともある<ref>『[[中国新聞]]』9月14日付朝刊</ref> が、前述の通りマージャンが元ネタとなっているので実際に動いているのはテレビカメラのほうであり伸ばした手を引き込む<ref group="注釈">『ガッ』とつかんで『チョン』と引く。</ref> のが正しい。ただし起源については諸説あり。山下勝利は[[麻雀]]から生まれたギャグと伝えており、「いい牌をつもってきたときや、相手の大きな手に打ちこんでしまったときなど、このガチョーンをやっていた。そのときの心境を音にすると、ちょうどこれだった」と記している<ref name="山下9798">山下勝利『ハナ肇とクレージーキャッツ物語』p.97-98</ref>。また、テレビ番組のコントで魚釣りの話をした時、谷啓が「でかい魚をつりあげたのに、ガチョーンと逃げられちゃって」といつもの口癖を出すと、それを聴いていた放送作家の[[塚田茂]]が「いいね、それ、使おうよ」と言い出したのが起源であるとも山下は伝えている<ref name="山下9798" />。<br />
<br />
ガチョーンの補足<br />
* 日刊スポーツが2011年に実施した「お笑い史上最高の一発芸は?」アンケートにおいて、有効投票数3084票中354票を獲得して1位となった<ref>[https://www.nikkansports.com/entertainment/news/f-et-tp0-20110604-785629.html 史上最高の一発芸は「ガチョーン」]日刊スポーツ 2011年6月4日</ref>。2位は[[ビートたけし]]の「コマネチ」、3位は[[志村けん]]の「アイ~ン」であった。<br />
* 平成時代のドラマ・アニメ作品において、昭和を代表する一発ギャグ・流行語として用いられることが多い。<br />
**アニメ『[[おそ松さん]]』(2015年10月から)<ref>[https://realsound.jp/movie/2016/03/post-1298.html 『おそ松さん』はTVアニメ復活の“のろし”となるか? 社会現象となった理由を徹底解剖]Real Sound 2016.03.27</ref><br />
**NHKドラマ『[[ひよっこ (テレビドラマ)]]』(2017年4月から9月)<ref>[https://www.excite.co.jp/News/reviewmov/20170413/E1492011494598.html 「ひよっこ」9話。こんなにも清く正しいのには裏があった]エキサイト 2017年4月13日</ref><br />
**NHKドラマ『[[植木等とのぼせもん]]』(2017年年9月から10月)<ref>[https://news.walkerplus.com/article/119066/ 志尊淳、懐かしのギャグ”ガチョーン”に大笑い]ニュースウォーカー 2017年8月24日</ref><br />
* 1980年代のバラエティー番組「[[オレたちひょうきん族]]」に準レギュラー出演した素人の男性(通称「吉田君のお父さん」)が持ちギャグとして使用した。ただし、手を引く正式な仕草ではなく「ガッチョーン」と連呼して手を突き出す動作を繰り返す我流のものであった<ref>オレたちひょうきん族 THE DVD 1981〜1982</ref>。<br />
{{main|牛の吉田君}}<br />
* 間違ったガチョーンの仕草が広まってしまったことから、後年に本人が正しい動作をレクチャーするテレビの企画などが度々あった。(「[[天才・たけしの元気が出るテレビ!!]]」ガチョーンでハラホロヒレハレずっこけ大会など<ref>超天才たけしの元気が出るテレビ!!That’sメモリアルPart.2(VHS)</ref>)<br />
* 本来の意味ではなく「ガビーン」のようにショックや落胆を表す時にも用いられることがある。特に[[宇多田ヒカル]]が多用していた<ref>[https://twitter.com/utadahikaru/status/565820237518741504 宇多田ヒカル@utadahikaru]2015年2月12日</ref>。<br />
<br />
ガチョーンの派生作品<br />
* 『ガチョン侍武者修行』(1964年1月3日)「[[おとなの漫画]]」の正月スペシャル『新春おとなの漫画』で特集された時代劇。<br />
* 『NaHaNaHa vs. Gattchoon Battle』DJ senda & tiny-k([[せんだみつお]]・谷啓)1999年5月発売。[[プレイステーション]]用ソフト「[[beatmania]] GOTTAMIX」収録曲<ref>[https://www.4gamer.net/games/153/G015366/20121002068/index_2.html 最新作「beatmania IIDX 20 tricoro」のサウンドディレクター陣に聞く,IIDXシリーズの今昔。新曲から制作秘話までみっちり語った2時間を凝縮してお届け]4gamer.net 2012/10/11</ref>。<br />
<br />
=== その他 ===<br />
* 「'''ビローン'''」<br />
*: 両腕を上下に上げるもので、『あんた誰?』の冒頭で使われている。<br />
* 「'''ムヒョー'''」<br />
*: 両手を開きながら前に出すもの。このほかの擬音ギャグに「'''オジョー'''」や「'''アリョーン'''」など。<br />
* 「'''ハラホロヒレハレ'''」<br />
*: 『[[シャボン玉ホリデー]]』のコントのオチに谷が発したのが最初。その後オチに全員で発して崩れ落ちるというのが定着し、植木等の「お呼びでない?」や自身の「ガチョーン」の後にこの言葉が多用された。<br />
* 「'''あんた誰?'''」<br />
* 「'''谷だァ!'''」<br />
*: [[青島幸男]]のギャグ「青島だァ!」をそのまま模倣したもの。コントでは「谷だァ!」と言っている背後に青島本人が現れ、それに気付いた谷の声が上ずり、最後は泣き出すというオチがあった。[[2006年]][[12月27日]]に営まれた青島の告別式の際の弔辞では「青ちゃん、谷だ…」と話しかけ、「返ってきませんね。さみしいです。」とコメント、参列者の涙を誘った<ref>{{Cite news |title=青島幸男さん告別式に700人参列 |url=http://www.news24.jp/articles/2006/12/28/0774219.html |newspaper=日テレNEWS24 |date=2006-12-28 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20140528000153/http://www.news24.jp/articles/2006/12/28/0774219.html |archivedate=2014-05-28 |accessdate=2014-05-28 }}</ref>。<br />
<br />
他に金だらいを使用したギャグや悪人を表す際の頬の大きな十字傷、極端に目が悪いのを表すための牛乳瓶の底のような丸メガネなどをコントに使用したのも谷が最初である(谷は初期のクレージーのコントをほとんど手がけたほか、『シャボン玉ホリデー』でも脚本を務めた回がある)。<br />
<br />
== 出演 ==<br />
※'''太字'''は役名<br />
=== 映画 ===<br />
==== 主演作 ====<br />
* [[図々しい奴#1964年東映|図々しい奴]](1964年1月15日/東映) - '''戸田切人'''<br />
* [[図々しい奴#続・図々しい奴|続・図々しい奴]](1964年6月3日/東映) - '''戸田切人'''<br />
* [[西の王将 東の大将]](1964年8月28日/東宝) - '''神田啓次郎''' [[藤田まこと]]とW主演<br />
* [[続・西の王将 東の大将]](1965年6月20日/東宝) - '''神田啓次郎''' 藤田まこととW主演<br />
* [[クレージーだよ奇想天外]](1966年5月28日/東宝・渡辺プロ) - '''ミステイク7(鈴木太郎)'''<br />
* [[クレージーだよ天下無敵]](1967年1月14日/東宝・渡辺プロ) - '''犬丸正夫''' [[植木等]]とW主演<br />
* [[喜劇 競馬必勝法]](1967年9月18日/東映)<br />
* [[喜劇 競馬必勝法 大穴勝負]](1968年3月5日/東映)<br />
* [[空想天国]](1968年8月14日/東宝・渡辺プロ) - '''田丸圭太郎'''<br />
* [[喜劇 競馬必勝法 一発勝負]](1968年9月6日/東映)<br />
* [[奇々怪々 俺は誰だ?!]](1969年9月27日/東宝・渡辺プロ) - '''鈴木太郎'''<br />
* [[喜劇 負けてたまるか!]](1970年6月13日/東宝・渡辺プロ) - '''友三'''<br />
* [[喜劇 だましの仁義]](1974年5月14日/東宝) - '''川本純平'''<br />
<br />
==== 出演作 ====<br />
* [[裸の大将 (映画)|裸の大将]](1958年10月23日/東宝)<br />
* [[足にさわった女]](1960年8月24日/大映) - '''列車ボーイ'''<br />
* [[竜巻小僧]](1960年11月1日/日活)<br />
* [[ああ女難]](1960年12月6日/東宝)<br />
* [[黒い十人の女]](1961年5月3日/大映)<br />
* [[スーダラ節 わかっちゃいるけどやめられねぇ]](1962年3月25日/大映)<br />
* [[クレージーの花嫁と七人の仲間]](1962年4月15日/松竹)<br />
* [[サラリーマンどんと節 気楽な家業と来たもんだ]](1962年5月12日/大映)<br />
* [[クレージー映画]](1962 - 1971年)<br />
** [[ニッポン無責任時代]](1962年7月29日/東宝) - '''谷田総務部長'''<br />
** [[ニッポン無責任野郎]](1962年12月23日/東宝) - '''中込晴夫'''<br />
** [[クレージー作戦 先手必勝]] (1963年3月24日/東宝) - '''谷村啓太郎'''<br />
** [[日本一の色男]] (1963年7月13日/東宝) - '''小俣教頭'''<br />
** [[クレージー作戦 くたばれ!無責任]](1963年10月26日/東宝) - '''小谷民夫'''<br />
** [[香港クレージー作戦]](1963年12月22日/東宝) - '''谷田敬一'''<br />
** [[日本一のホラ吹き男]](1964年6月11日/東宝) - '''井川'''<br />
** [[無責任遊侠伝]](1964年7月11日/東宝) - '''陳秀明'''<br />
** [[ホラ吹き太閤記]](1964年10月31日/東宝) - '''徳川家康'''<br />
** [[花のお江戸の無責任]](1964年12月20日/東宝) - '''権八'''<br />
** [[日本一のゴマすり男]](1965年5月29日/東宝) - '''白バイの警官'''<br />
** [[大冒険]](1965年10月31日、東宝・渡辺プロ) - '''谷井啓介'''<br />
** [[クレージーの無責任清水港]](1966年1月3日/東宝・渡辺プロ) - '''森の石松'''<br />
** [[クレージー大作戦]](1966年10月29日/東宝・渡辺プロ) - '''大平久'''<br />
** [[クレージー黄金作戦]](1967年4月29日/東宝・渡辺プロ) - '''梨本金男'''<br />
** [[クレージーの怪盗ジバコ]](1967年10月28日/東宝・渡辺プロ) - '''鈴木次郎'''<br />
** [[日本一の男の中の男]](1967年12月31日/東宝・渡辺プロ) - '''手塚仕入部長'''<br />
** [[クレージーメキシコ大作戦]](1968年4月27日/東宝・渡辺プロ) - '''鈴木三郎'''<br />
** [[クレージーのぶちゃむくれ大発見]](1969年1月1日/東宝・渡辺プロ) - '''谷井明'''<br />
** [[クレージーの大爆発]](1969年4月27日/東宝・渡辺プロ) - '''中谷宏'''<br />
** [[日本一の断絶男]](1969年11月1日/東宝・渡辺プロ) - '''発明家・小山'''<br />
** [[クレージーの殴り込み清水港]](1970年1月15日/東宝・渡辺プロ) - '''森の石松'''<br />
** [[日本一のワルノリ男]](1970年12月31日/東宝・渡辺プロ) - '''谷村浩'''<br />
** [[だまされて貰います]](1971年4月29日/東宝・渡辺プロ) - '''早川源内'''<br />
** [[日本一のショック男]](1971年12月31日、東宝/渡辺プロ) - '''山上啓太'''<br />
* [[若い季節 (映画)|若い季節]](1962年10月20日/東宝) - '''偽物加賀見'''<br />
* [[イチかバチか]](1963年6月16日/東宝)<br />
* [[若い仲間たち うちら祇園の舞妓はん]](1963年6月30日/東宝)<br />
* [[宮本武蔵 二刀流開眼]](1963年8月14日/東映) - '''赤壁八十馬'''<br />
* [[ジェリーの森の石松]](1963年9月29日/東映)<br />
* [[宮本武蔵 一乗寺の決斗]](1964年1月1日/東映) - '''赤壁八十馬'''<br />
* [[続・若い季節]](1964年3月20日/東宝)<br />
* [[蟻地獄作戦]](1964年4月29日/東宝)<br />
* [[駿河遊侠伝 破れ太鼓]](1964年9月17日/大映) - '''小政'''<br />
* [[馬鹿が戦車でやって来る]](1964年12月26日/松竹大船) - '''釣人'''<br />
* [[大阪ど根性物語 どえらい奴]](1965年10月24日/東映)<br />
* [[ほんだら捕物帖]](1966年4月9日/大映)<br />
* [[てなもんや東海道]](1966年8月14日/東宝・宝塚映画・渡辺プロ) - '''早川の佐太郎'''<br />
* [[喜劇 仰げば尊し]](1966年10月22日/東京映画) - 西岡勝利<br />
* [[喜劇 一発勝負]](1967年8月5日/松竹大船) - 山口大三郎<br />
* [[てなもんや幽霊道中]](1967年9月2日/東宝・宝塚映画・渡辺プロ) - '''加賀美正家'''<br />
* [[社長繁盛記]](1968年1月14日/東宝) - '''赤間仙吉営業課長'''<br />
* [[続 社長繁盛記]](1968年2月24日/東宝) - '''赤間仙吉営業課長'''<br />
* [[一発かましたれ]](1968年)<br />
* [[喜劇 一発大必勝]](1969年3月15日/松竹大船) - '''左門泰照'''<br />
* [[なにがなんでも為五郎]](1970年8月26日/松竹大船)<br />
* [[やるぞみておれ為五郎]](1971年1月15日/松竹大船)<br />
* [[夕日くん サラリーマン脱出作戦]](1971年4月15日/東宝)<br />
* [[ツンツン節だよ 全員集合!!]](1971年8月7日/松竹)<br />
* [[喜劇 泥棒大家族 天下を盗る]](1972年10月28日/東宝・渡辺プロ)<br />
* [[愛ってなんだろ]](1973年)<br />
* [[ムツゴロウの結婚記]](1974年4月27日/松竹大船)<br />
* [[野球狂の詩]](1977年3月19日/日活) - '''尻間専太郎'''<br />
* [[水戸黄門 (1978年の映画)|水戸黄門]](1978年12月23日/東映) - '''格三'''<br />
* [[本日ただいま誕生]](1979年6月23日/新世映画新社)<br />
* [[港町紳士録]](1979年8月4日/松竹)<br />
* [[幸福 (1981年の映画)|幸福]](1981年10月10日/東宝・フォーライフ) - '''野呂刑事'''<br />
* [[素人助役奮闘記]](1982年9月25日/にんじんくらぶ)<br />
* [[エル・オー・ヴィ・愛・N・G]](1983年12月24日/東宝・ジャニーズ事務所) - '''友永勇蔵'''<br />
* [[精霊のささやき]](1987年6月13日/エクゼ・渡辺プロ)<br />
* [[会社物語 MEMORIES OF YOU]](1988年11月26日/松竹・日本テレビ・SEDIC・坂本事務所) - '''谷山啓'''<br />
* 釣りバカ日誌シリーズ(1988 - 2009年) - '''佐々木和男'''<br />
** 第1作 [[釣りバカ日誌]](1988年12月24日/松竹)<br />
** 第2作 [[釣りバカ日誌2]](1989年12月27日/松竹)<br />
** 第3作 [[釣りバカ日誌3]](1990年12月22日/松竹)<br />
** 第4作 [[釣りバカ日誌4]](1991年12月23日/松竹)<br />
** 第5作 [[釣りバカ日誌5]](1992年12月26日/松竹)<br />
** 第6作 [[釣りバカ日誌6]](1993年12月25日/松竹)<br />
** 第7作 [[釣りバカ日誌スペシャル]](1994年7月16日/松竹)<br />
** 第8作 [[釣りバカ日誌7]](1994年12月23日/松竹)<br />
** 第9作 [[釣りバカ日誌8]](1996年8月10日/松竹)<br />
** 第10作 [[釣りバカ日誌9]](1997年9月6日/松竹)<br />
** 第11作 [[釣りバカ日誌10]](1998年8月8日/松竹)<br />
** 第12作 [[花のお江戸の釣りバカ日誌]](1998年12月23日/松竹)<br />
** 第13作 [[釣りバカ日誌イレブン]](2000年2月5日/松竹)<br />
** 第14作 [[釣りバカ日誌12 史上最大の有給休暇]](2001年8月18日/松竹)<br />
** 第15作 [[釣りバカ日誌13 ハマちゃん危機一髪!]](2002年8月10日/松竹)<br />
** 第16作 [[釣りバカ日誌14 お遍路大パニック!]](2003年9月20日/松竹)<br />
** 第17作 [[釣りバカ日誌15 ハマちゃんに明日はない!?]](2004年8月21日/松竹)<br />
** 第18作 [[釣りバカ日誌16 浜崎は今日もダメだった♪♪]](2005年8月27日/松竹)<br />
** 第19作 [[釣りバカ日誌17 あとは能登なれハマとなれ!]](2006年8月5日/松竹)<br />
** 第20作 [[釣りバカ日誌18 ハマちゃんスーさん瀬戸の約束]](2007年9月8日/松竹)<br />
** 第22作 [[釣りバカ日誌20 ファイナル]](2009年12月26日/松竹)…遺作<br />
* [[彼女が水着にきがえたら]](1989年6月10日/フジテレビ・小学館) - '''大塚'''<br />
* [[東京上空いらっしゃいませ]](1990年) - '''川村'''<br />
* [[夜逃げ屋本舗]](1992年1月18日/光和インターナショナル) - '''浜崎十三郎'''<br />
* [[ザ・中学教師]](1992年4月25日/メリエス・サントリー) - '''春山幾夫'''<br />
* [[義務と演技]](1997年2月15日/TBS・東映) - 佐伯<br />
* [[ジャングル大帝]](1997年8月1日/手塚プロ・松竹) - '''ブラッザー'''<ref>{{Cite web | url = http://tezukaosamu.net/jp/anime/21.html| title = ジャングル大帝 劇場版(1997)| publisher = 手塚治虫公式サイト | accessdate = 2016-06-08}}</ref> ※声の出演<br />
* [[タオの月]](1997年11月29日/バンダイビジュアル)<br />
* [[SF サムライ・フィクション]](1998年8月1日/シネカノン) - '''影丸'''<br />
* [[ワンダフルライフ (映画)|ワンダフルライフ]](1999年4月17日/テレビマンユニオン・エンジンフィルム) - '''渡辺健之助'''<br />
* [[川の流れのように]](2000年4月29日/エイティーワン) - '''三崎時夫'''<br />
* [[RED SHADOW 赤影]](2001年8月11日/東映・角川書店) - '''老師'''<br />
* [[ウォーターボーイズ]](2001年9月15日/フジテレビ・アルタミラ) - '''尾崎校長'''<br />
* [[マヌケ先生]](2000年9月30日/中国放送・バンダイビジュアル・PSC) - '''謎の紳士'''<br />
* [[卒業 (2003年の映画)|卒業]](2003年3月15日/卒業パートナーズ) - '''樋口達男'''<br />
* [[青春ばかちん料理塾]](2003年9月13日/制作委員会) - '''中条英太郎'''<br />
* [[福耳 (映画)|福耳]](2003年9月13日/アルゴ・ピクチャーズ) - '''小林'''<br />
* [[星砂の島、私の島]](2004年2月21日/オフィスキタ)<br />
* [[死に花]](2004年5月8日/制作委員会) - '''庄司勝平'''<br />
* [[スウィングガールズ]](2004年9月11日/フジテレビ・アルタミラ・東宝) - '''森下先生'''<br />
* [[ゲゲゲの鬼太郎 (実写映画)#第1作目『ゲゲゲの鬼太郎』|ゲゲゲの鬼太郎]](2007年4月28日/松竹) - '''モノワスレ'''<br />
* [[スマイル 聖夜の奇跡]](2007年12月15日/フジテレビ) - '''今泉邦雄'''<br />
* [[ポストマン (2008年の映画)|ポストマン]](2008年3月22日/ザナドゥー) - '''羽田薫'''<br />
* [[カメレオン (映画)|カメレオン]](2008年7月5日/東映) - '''境研造'''<br />
<br />
=== テレビドラマ ===<br />
* [[若い季節 (テレビドラマ)|若い季節]](1961 - 64年/[[日本放送協会|NHK]])<br />
* [[男嫌い (1963年のテレビドラマ)|男嫌い]](1963年/[[日本テレビ放送網|日本テレビ]])<br />
* [[谷啓の宇宙冒険]](1963年/[[フジテレビジョン|フジテレビ]]) ※ナレーター<br />
* [[天下の若者]](1964年/フジテレビ)<br />
* [[おれの番だ!]](1964 - 67年/[[TBSテレビ|TBS]])<br />
* [[天下の学園]](1965年/フジテレビ)<br />
* [[坊つちやん|坊ちゃん]](1966年/NHK) - '''野だいこ'''<br />
* [[ドカンと一発!]](1968 - 69年/TBS)<br />
* [[天下御免]](1971、1972年)<br />
* [[大河ドラマ]](NHK)<br />
** [[国盗り物語 (NHK大河ドラマ)|国盗り物語]](1973年)<br />
** [[独眼竜政宗 (NHK大河ドラマ)|独眼竜政宗]](1987年) - '''[[今井宗薫]]'''<br />
** [[武蔵 MUSASHI]](2003年)<br />
* [[若さま侍捕物手帖#『若さま侍捕物手帖』(関西テレビ、1973年)|若さま侍捕物手帖]] 第8話(1973年/[[関西テレビ放送|関西テレビ]]) - '''呂八'''<br />
* [[ぶらり信兵衛 道場破り]] 第15話(1974年/フジテレビ) - '''又平'''<br />
* [[寺内貫太郎一家]] 第一部(1974年/TBS) - '''寺内貫次郎'''<br />
* [[ばあちゃんの星]](1975年/TBS)<br />
* [[玉ねぎ横丁の花嫁さん]](1976 - 77年/[[テレビ朝日|NET]]) - '''野田巡査'''<br />
* [[気まぐれ本格派]] 第9話「ダサイ男の噺」(1977年/日本テレビ・[[ユニオン映画]]) - '''お茶屋の主人'''<br />
<br />
* [[大都会 PARTIII]](1978年/日本テレビ) - '''外科医・三浦'''<br />
* [[浮浪雲]](1978年/テレビ朝日) - '''欲次郎'''<br />
* [[西遊記]](1979年/日本テレビ) - '''[[太上老君]]'''<br />
* [[鬼平犯科帳 (萬屋錦之介)|鬼平犯科帳]] 第10話「盗法秘伝」(1980年/NET・東宝) - '''善八'''<br />
* [[日曜劇場|東芝日曜劇場]]1300回記念番組『[[出航]]』(1981年/TBS)<br />
* [[さりげなく憎いやつ]](1982年/TBS) - '''江川部長'''<br />
* 家族の神話(1982年/[[MBSテレビ|毎日放送]])<br />
* [[いつもお陽さま家族]](1982 - 83年/TBS) - '''井田'''<br />
* [[土曜ワイド劇場]] (テレビ朝日)<br />
** 『[[美人殺しシリーズ|女優殺し]]』(1983年)<br />
** 『[[俺たちの世直し強盗]]』(1997年) - '''野村常次'''<br />
* [[黒革の手帖#1984年版|黒革の手帖]](1984年/TBS) - '''村井亨'''<br />
* [[寝ぼけ署長]](1984、85年/関西テレビ)<br />
* [[月曜ドラマランド]]「[[てんてん娘#1984年版|てんてん娘]]」(1984年/フジテレビ)<br />
* [[暴れん坊将軍II]] 第85話「火花が飛んだ! 嫁・姑!」(1984年/[[テレビ朝日]]) - '''田之助'''<br />
* [[胸キュン刑事]](1987年/テレビ朝日) - '''丸山課長'''<br />
* [[ギョーカイ君が行く!]](1987年/フジテレビ) - '''直木啓之介'''<br />
* [[銀河テレビ小説]]「[[しあわせ志願]]」(1988年/NHK) - '''吉野太郎'''<br />
* [[時間ですよ]](1988 - 90年/TBS) - '''宝田半次'''<br />
* [[ゴリラ・警視庁捜査第8班]](1989、90年/テレビ朝日) - '''塩田直次郎・管理官'''<br />
* [[世にも奇妙な物語]]「ゲームセンターの奇跡」(1990年8月30日/フジテレビ) - 豊田元司([[ゲームセンター]]の店長)<br />
* [[アイとサムの街]](1991年/TBS)<br />
* [[社長になった若大将]](1992年/TBS)<br />
* [[ポケベルが鳴らなくて]](1993年/日本テレビ) - '''野崎寛治'''<br />
* [[江戸の用心棒 (1994年のテレビドラマ)|江戸の用心棒]](1994、95年/日本テレビ) - '''桂木道庵'''<br />
* [[企業病棟]](1994年/NHK)<br />
* [[そのうち結婚する君へ]](1994年/日本テレビ) - '''唐島太郎'''<br />
* [[古谷一行の金田一耕助シリーズ]](1994 - 2005年/TBS) - '''河合警部''' ※レギュラーだったハナ肇の死去に伴い、後任として担当<br />
* [[最高の恋人]](1995年/テレビ朝日) - '''長野富夫'''<br />
* [[正義は勝つ]](1995年/フジテレビ)<br />
* [[ナチュラル 愛のゆくえ]](1996年/[[讀賣テレビ放送|読売テレビ]]) - '''鷲頭佐治'''<br />
* [[それが答えだ!]](1997年/フジテレビ) - '''平林亨太郎'''<br />
* [[踊る大捜査線 歳末特別警戒スペシャル]](1997年12月30日/フジテレビ) - '''篠原捜査資料室長'''<br />
* [[湾岸署婦警物語 初夏の交通安全スペシャル]](1998年6月19日/フジテレビ) - '''篠原浩三'''<br />
* [[食卓から愛をこめて]](1998年/[[テレビ東京]]) - '''三崎雄平'''<br />
* [[物書同心いねむり紋蔵]](1998年/NHK) - '''六兵衛'''<br />
* [[世紀末の詩]] 第4話「星の王子様」(1998年/日本テレビ)<br />
* [[痛快!三匹のご隠居]](1999年/テレビ朝日) - '''玄夢'''<br />
* [[巷説百物語シリーズ|巷説百物語]](2000年/[[WOWOW]]) - '''事触れ治平'''<br />
* [[教習所物語]](2000年/TBS) - '''来栖昇'''<br />
* [[救命病棟24時]]「最後の授業」(2001年7月31日/フジテレビ) - '''柴田茂文'''<br />
* [[さよなら、小津先生]](2001年/フジテレビ) - '''鹿松哲郎校長'''<br />
* [[本家のヨメ]](2001年/読売テレビ) - '''山田文六'''<br />
* [[おかみさんドスコイ!!]](2002年/[[MBSテレビ|毎日放送]]) - '''小林優一'''<br />
* [[マイリトルシェフ]](2002年/TBS)第2話 - '''カルロス小泉'''<br />
* [[金曜エンタテイメント]](フジテレビ)<br />
** [[夏樹静子ミステリー アリバイの彼方に]](2002年) - '''大村藤五郎'''<br />
** 「京都喰い道楽 古本屋探偵ミステリー」(2002年12月) - 野呂爺<br />
*** 「京都喰い道楽 古本屋探偵ミステリー2 夏目漱石に秘められた哀しい恋文」(2004年5月)<br />
** はぐれ泥棒石川悟郎人情事件帳<br />
** [[壁ぎわ税務官]](2006年) - '''前庭無学'''<br />
* [[おみやさん]](2002 - 09年/テレビ朝日) - '''七尾清一郎'''<br />
* [[WATER BOYS]](2003年/フジテレビ) - '''尾崎校長'''<br />
* [[仔犬のワルツ]](2004年/日本テレビ) - '''小暮雅夫'''<br />
* [[たったひとつのたからもの]](2004年10月26日/日本テレビ) - '''天野園長'''<br />
* [[いま、会いにゆきます]](2005年/TBS) - '''鈴木八郎'''<br />
* [[少しは、恩返しができたかな]](2006年/TBS) - '''田之倉校長'''<br />
* [[翼の折れた天使たち]] 第3夜(2006年3月1日/フジテレビ) - '''祖父'''<br />
* [[警察署長・たそがれ正治郎]]3 隅田川殺人模様(2006年11月29日/テレビ東京) - '''大辻茂男'''<br />
* [[美味しんぼ#テレビドラマ|新・美味しんぼ]](2007年1月20日/フジテレビ) - '''[[丿貫]]'''<br />
* [[猟奇的な彼女 (テレビドラマ)|猟奇的な彼女]] 第10回戦・最終戦(2008年6月12・29日/TBS) - '''通りすがりの老人'''<br />
<br />
=== テレビアニメ ===<br />
* [[ピーナッツ (漫画)|スヌーピーとチャーリーブラウン]](1965 - 77年) - '''[[チャーリー・ブラウン (ピーナッツ)|チャーリーブラウン]]'''<br />
* [[おらぁグズラだど]](1967、68年) ※主題歌<br />
* [[どーもくん]] TVシリーズ(2008年) - '''うさじい'''<br />
<br />
=== バラエティ ===<br />
<!-- 単発のゲスト出演は不要。レギュラー番組のみ記述をお願いします。「Wikipedia:ウィキプロジェクト 芸能人」参照 --><br />
* [[てんてん娘]](1957年/ラジオ東京テレビ 現・TBSテレビ) ※谷啓初単独作<br />
* [[光子の窓]](1958 - 60年/日本テレビ)<br />
* [[おとなの漫画]](1959 - 64年/フジテレビ)<br />
* [[シャボン玉ホリデー]](1961 - 72年/日本テレビ)<br />
* [[7時半だよクレージー]](1963、64年/フジテレビ)<br />
* てんで素敵なショー(1963年/日本テレビ)<br />
* [[素敵なデイト]](1963年/日本テレビ)<br />
* [[おれの番だ!]](1964年/TBS)<br />
* [[植木等ショー]](1967、68年/TBS)<br />
* [[歌の祭典 (NHK)]](1970年/NHK)<br />
* [[8時だョ!出発進行]](1971年/TBS)<br />
* [[クレージーの奥さ〜ん!]](1973 - 76年/フジテレビ)<br />
* [[学校そば屋テレビ局]](1974、75年/TBS)<br />
* [[笑って!笑って!!60分]](1975 - 81年/TBS)<br />
* [[欽ドン!|欽ちゃんのドンとやってみよう!]](1975 - 77年/フジテレビ)<br />
* [[欽ちゃんのどこまでやるの!?]](1976 - 86年/テレビ朝日)<br />
* [[なるほど!ザ・ワールド]](1981 - 96年/フジテレビ)<br />
* [[日曜8時!ドパンチ放送!!]](1981年/日本テレビ)<br />
* [[欽ちゃんの週刊欽曜日]](1982 - 85年/TBS)<br />
* [[スターどっきり(秘)報告]](1983年/フジテレビ)<br />
* [[TV海賊チャンネル]](1984 - 86年/日本テレビ)<br />
* [[ダウトをさがせ!]](1992、93年/毎日放送)<br />
* [[餅屋の論理]](1992年/TBS)<br />
* [[テレビの王様]](1994年/TBS)<br />
* [[笑う犬|笑う犬の冒険]](1999 - 2001年/フジテレビ)<br />
* [[完成!ドリームハウス]](2003、04年/テレビ東京)※ナレーター(スペシャル版も2009年3月15日放送分まで担当)<br />
<br />
=== 教養番組 ===<br />
* [[おかあさんといっしょ]]「いそがしおじさん」(1975、76年/NHK教育)<br />
* [[みんなのうた]] 「[[シャーロック・ホームズとワトソン博士]]」(1975、76年/NHK教育)<br />
* [[ひらけ!ポンキッキ]] 「オムライスチョンボNo.5」(1983年/フジテレビ)<br />
* [[ざわざわ森のがんこちゃん]](1996年 - 2010年/NHK教育) ※主題歌<br />
* [[美の壺]](2006 - 09年/NHK教育)<br />
* 名作をポケットに(NHK総合)<br />
<br />
=== ラジオ ===<br />
* ラジオドラマ『[[マイケル・ジャクソン]]出世太閤記』(1984年) - '''我嘲禅師''' ※[[大瀧詠一]]制作、[[小林信彦]]原案。マイケル・ジャクソン役の[[片岡鶴太郎]]に、『ガチョンの修行』を施す<br />
* ラジオドラマ『[[宮崎駿の雑想ノート]]『ロンドン上空1918年』』(1996年)<br />
<br />
=== コンピュータゲーム ===<br />
* セガ(後の[[セガゲームス]]) [[メガCD]]・[[PlayStation 2]]『[[SWITCH (ゲーム)|SWITCH]]』 ※音楽・声優担当<br />
* [[コナミホールディングス|コナミ]](後の[[コナミデジタルエンタテインメント]]) [[beatmania]]『APPEND GOTTAMIX』 ※「DJ Senda & Tiny-K」名義にて、[[せんだみつお]]との連名による参加。また、サウンドトラックアルバムにも同名義でオリジナル曲を提供<br />
<br />
=== 映画吹き替え ===<br />
* [[シャーロットのおくりもの (1973年の映画)|シャーロットのおくりもの]](1973年8月25日) - '''ウィルバー'''<br />
* 凸凹宝島騒動(ルー・コステロ。バド・アボットの声は[[植木等]])<br />
* [[ブリンクス (映画)|ブリンクス]](1982年1月30日「[[ゴールデン洋画劇場]]」) - ヴィニー・コスタ<br />
<br />
=== CM ===<br />
* [[パイロットコーポレーション|パイロット萬年筆]] セーラーミニ(1963年)<br />
* [[日清食品]] [[チキンラーメン]](1963年)<br />
* [[第一製薬]](現:[[第一三共]])マミアン(1963年)<br />
* [[丸美屋食品工業]] [[のりたま]](1964年)<br />
* [[マルタイ]] 即席ラーメン・これだ(1966年)<br />
* [[はごろもフーズ]] シーチキンマイルド(1974年〜)<br />
* [[ロート製薬]] あまちゃづる茶(1985年)<br />
* [[サッポロビール]] 吟仕込み(1991年)[[小林稔侍]]らと共演<br />
* [[日産自動車]] 熱血業界宣言編(1992年)<br />
* [[シマヤ]] めんつゆ(1993年)<br />
* [[KDDI|KDD(現:KDDI)]](1994年)[[西田敏行]]と共演<br />
* 愛知県陶器瓦工業組合 [[三州瓦]] (1992年-1994年) [[植木等]]と共演<br />
* [[パナソニック|松下電器産業(現:パナソニック)]](1996年)愛妻号[[浅野ゆう子]]と共演<br />
* [[ハウス食品]] ふらんす厨房(1998年)<br />
* [[ヤクルト本社]] 蕃爽麗茶(ナレーション)<br />
* [[ACジャパン|公共広告機構(現:ACジャパン)]] うみがめ課(九州エリアのみ。ナレーションを担当)(2003年)<br />
* [[資生堂]] [[uno (化粧品)|uno]](ナレーション、自身も顔出し出演し、馴染みある「ガチョーン」の一発ギャグを披露した)(2005年)<br />
* [[フランソア]] スローブレッド(ナレーション)<br />
* [[セイコーマート]](北海道のみ)<br />
<br />
== ディスコグラフィ ==<br />
* 愛してタムレ/図々しい奴<br />
* あんた誰?/天下の若者<br />
* ヘンチョコリンなヘンテコリンな娘/小指ちゃん<br />
* 虹を渡ってきた男/プンプン野郎<br />
* オムライスチョンボNo.5<br />
* おらぁグズラだど<br />
* グズラ音頭<br />
* アイヤ・ハラホロ<br />
* あんた誰? 『タワーリングナンセンス』 - [[スチャダラパー]] ※クレジットなし<br />
* 僕はしゃべれるんだ<br />
* 愛してタムレnewバージョン<br />
<br />
== 著書 ==<br />
* 『ふたつの月』日之出出版、1989年<br />
* 『七人のネコとトロンボーン』読売新聞社、1995年<br />
<br />
== 谷啓を演じた俳優 ==<br />
* [[小倉久寛]] - 『[[シャボン玉ホリデー#スペシャルドラマ『シャボン玉の消えた日』|シャボン玉が消えた日]]』(1989年、[[日本テレビ放送網|日本テレビ]])<br />
* [[杉山裕之]] - 『[[ザ・ヒットパレード〜芸能界を変えた男・渡辺晋物語〜]]』(2006年、[[フジテレビジョン|フジテレビ]])<br />
* [[谷田部俊]] - 『[[トットてれび]]』(2016年、[[NHK総合テレビジョン|NHK総合]])<br />
* [[浜野謙太]] - 『[[のぼせもんやけん#テレビドラマ|植木等とのぼせもん]]』(2017年、NHK総合)<br />
<br />
== 関連人物 ==<br />
* [[青島幸男]]<br />
* [[萩原哲晶]]<br />
* [[ザ・ピーナッツ]]<br />
* [[ザ・ドリフターズ]]<br />
** [[いかりや長介]]<br />
** [[加藤茶]]<br />
** [[高木ブー]]<br />
** [[仲本工事]]<br />
** [[荒井注]]<br />
** [[志村けん]]<br />
* [[フランキー堺]] - 所属していたシティ・スリッカーズのリーダー<br />
* [[西田敏行]] - 釣りバカ日誌シリーズで共演<br />
* [[三國連太郎]] - 同上<br />
* [[原信夫]] - 所属していたシャープス&フラッツのリーダー<br />
<br />
== 脚注 ==<br />
{{脚注ヘルプ}}<br />
=== 注釈 ===<br />
<references group="注釈" /><br />
=== 出典 ===<br />
{{Reflist}}<br />
<br />
== 外部リンク ==<br />
* [http://www.watanabepro.co.jp/mypage/10000002/ 谷 啓|ワタナベエンターテインメント]<br />
* {{jmdb name|0263860}}<br />
* {{allcinema name|116970}}<br />
* {{kinejun name|87624}}<br />
* {{imdb name|id=0849433|name=Kei Tani}}<br />
* {{URL|movie.walkerplus.com/person/82683/ |谷啓 - Movie Walker}}<br />
* {{URL|www.tvdrama-db.com/name/p/key-%E8%B0%B7%E3%80%80%E3%80%80%E3%80%80%E5%95%93 |谷啓 - テレビドラマ人名録 - ◇テレビドラマデータベース◇}}<br />
<br />
{{ハナ肇とクレージーキャッツ}}<br />
{{ワタナベエンターテインメント}}<br />
{{おはよう!こどもショー}}<br />
{{Normdaten}}<br />
{{デフォルトソート:たに けい}}<br />
[[Category:日本の男優]]<br />
[[Category:日本の男性歌手]]<br />
[[Category:日本のジャズ・トロンボーン奏者]]<br />
[[Category:日本の司会者]]<br />
[[Category:日本のナレーター]]<br />
[[Category:日本のコメディアン]]<br />
[[Category:日本の男性声優]]<br />
[[Category:ハナ肇とクレージーキャッツ]]<br />
[[Category:過去の渡辺プロ系列所属者]]<br />
[[Category:事故死した人物]]<br />
[[Category:関東学院大学出身の人物]]<br />
[[Category:東京都区部出身の人物]]<br />
[[Category:広島県出身の人物]]<br />
[[Category:神奈川県出身の人物]]<br />
[[Category:1932年生]]<br />
[[Category:2010年没]]</div>
240B:11:8540:3F00:FCFC:C862:4E3D:AC6E
柳家小さん (5代目)
2018-10-03T10:55:28Z
<p>240B:11:8540:3F00:FCFC:C862:4E3D:AC6E: /* 略歴 */</p>
<hr />
<div>{{出典の明記|date=2017年5月}}<br />
{{落語家<br />
| 芸名 = 5代目 柳家 小さん<br />
| ふりがな = やなぎや こさん<br />
| 画像ファイル = Kosan Yanagiya V Scan10004.JPG<br />
| 画像サイズ = 250px<br />
| 画像コメント = 柳家小きん時代。生代子夫人と<br />
| 本名 = 小林 盛夫(こばやし もりお)<br />
| 別名 = <br />
| 出身地 = {{JPN}}・長野県[[長野市]]<br />
| 死没地 = <br />
| 生年 = 1915<br />
| 生月 = 1<br />
| 生日 = 2<br />
| 没年 = 2002<br />
| 没月 = 5<br />
| 没日 = 16<br />
| 師匠 = [[柳家小さん (4代目)|4代目柳家小さん]]<br>[[桂文楽 (8代目)|8代目桂文楽]]<br />
| 弟子 = <br />
| 名跡= 1. 柳家栗之助(1933年 - 1939年)<br>2. [[柳家小きん]](1939年 - 1948年)<br>3. 9代目[[柳家小三治]](1948年 - 1950年)<br>4. 5代目[[柳家小さん]](1950年 - 2002年)<br />
| 出囃子 = 序の舞<br />
| 活動期間 = 1933年 - 2002年<br />
| 活動内容 = [[古典落語]]<br />
| 配偶者 =<br />
| 家族 = [[柳家小さん (6代目)|6代目柳家小さん]](息子)<br>[[小林十市]](孫)<br>[[柳家花緑]](孫)<br />
| 所属 = [[落語協会]]<br />
| 公式サイト = <br />
| 主な作品 = <br />
| 受賞歴 = [[芸術祭 (文化庁)|芸術祭]]賞奨励賞(1962年・1967年)<br>[[紫綬褒章]](1980年)<br>第12回[[日本放送演芸大賞]]功労賞(1983年)<br>[[東京都知事#東京都知事表彰|東京都民文化栄誉章]](1984年)<br>[[勲等|勲四等]][[旭日章|旭日小綬章]](1985年)<br>[[日本酒大賞]](1986年)<br>第38回[[NHK放送文化賞]](1987年)<br>[[浅草芸能大賞]](1989年)<br>第13回[[伝統文化ポーラ賞大賞]](1993年)<br>[[重要無形文化財]]保持者([[人間国宝]])認定(1995年)<br>[[豊島区]]名誉区民賞(1995年)<br>東京都[[名誉都民]](1999年)<br>[[従五位]](2002年)<br />
| 備考 = 落語協会会長(1972年 - 1996年)<br>落語協会最高顧問(1996年 - 2002年)<br />
}}<br />
5代目'''柳家 小さん'''(やなぎや こさん、[[1915年]][[1月2日]] - [[2002年]][[5月16日]])は、長野県[[長野市]]出身の[[落語家]]、[[剣道|剣道家]]。本名:'''小林 盛夫'''(こばやし もりお、[[桂三木助 (4代目)|4代目桂三木助]]の本名と同姓同名)。[[出囃子 (落語)|出囃子]]は『序の舞』。1995年、落語家として初の[[人間国宝]]に認定された。[[剣道の段級位制|剣道の段位]]は[[範士]]七段。<br />
<br />
息子は落語家の[[柳家小さん (6代目)|6代目柳家小さん]]。娘は元タレントの[[小林喜美子]]。孫は元バレエダンサーで俳優の[[小林十市]]と、その弟で落語家の[[柳家花緑]](二人の母が喜美子)。<br />
<br />
== 来歴・人物 ==<br />
=== 生い立ち ===<br />
実父は、東京都[[五日市町 (東京都)|五日市町]]出身で[[養蚕家]]であったが、長男ではなかったため家を出る。長野市で紡績業、次いで金融業を営むも破産し、東京府[[浅草]]に戻った。[[関東大震災]]の被災を免れた一家は[[丸の内]]に転居<ref name="nenpuu">五代目柳家小さん『CDブック 五代目柳家小さん落語全集』小学館 2000 「小さん年譜」</ref>。日比谷尋常小学校から麹町高等小学校に入学(いずれも現在の[[千代田区立麹町小学校]])<ref name="nenpuu"/>。ここでは剣道部の副将として東京市剣道大会で優勝している<ref name="nenpuu"/>。卒業後は東京市立商業学校夜間部に入るが後に中退し<ref name="nenpuu"/>、法律事務所の事務員として働きながら[[落語家]]を目指した。<br />
<br />
1933年6月に4代目柳家小さんに入門した。「おまえは栗ににているから」と名付けられたのが柳家栗之助。<br />
<br />
=== 二・二六事件 ===<br />
[[落語家#前座|前座]]時代の1936年、[[大日本帝国陸軍]][[歩兵第3連隊]]に徴兵され、二等兵となる。同年2月26日に起こった[[二・二六事件]]では、反乱部隊の機関銃兵として[[二・二六事件#警視庁|警視庁占拠]]に出動した。<br />
<br />
小さんや同僚兵士は事前にまったく[[クーデター]]計画を知らされず、当日出動命令を受けて支給された弾薬が実弾だったことから「あれ、今日は、演習じゃねえんだな」と思った。反乱部隊の屯所に[[畑和]](後の[[埼玉県知事]])らとともに詰めていたが、知らぬうちに自分たちが反乱軍に参加していると知って意気阻喪気味の兵士を見た指揮官に「士気高揚に一席やれ」と命令された。持ちネタの『[[子ほめ]]』を演じたが、「えらいことしちゃった」と悄然としている兵士たちは笑うわけがない。「面白くないぞッ!」のヤジに、「そりゃそうです。演っているほうだって、ちっとも面白くないんだから」と返した(本人の回顧談)。<br />
<br />
=== 落語 ===<br />
滑稽噺を専ら得意とし、巧みな話芸と豊富な表情で、1979年に[[三遊亭圓生_(6代目)|6代目三遊亭圓生]]が死去してからは落語界の第一人者となる。特に[[蕎麦]]をすする芸は有名であり、日本一であるとの声も多い。本人も蕎麦を実際に食する際は、職業柄周囲の目を意識して落語の登場人物さながら汁を蕎麦の端にのみ付けていたらしく、最晩年になってから、「汁を最後まで付けてみたかった」と登場人物さながらの後悔を語った。<br />
<br />
性格は非常に穏やかなもので、[[真打]]昇進の制度を作ったのも「落語家の生活がよくなるように」 という願いからであった。そのため真打制度への見解の相違から6代目三遊亭圓生らが落語協会を脱退した時は「話し合いにも来ないで」と感じていたという。弟子が居ない時は一人で掃除や洗濯をするなど苦労を拒まない性格で、大御所でありながらも、情にもろく、周囲の意見をよく聞くという面もあった。一方でそれらが災いし、前述の協会分裂騒動や真打昇進試験の是非を巡る混乱に繋がってしまったという指摘もある。<br />
<br />
[[永谷園]]即席みそ汁「[[あさげ]]」のテレビ広告で発売当初から人気を博した。墓所・墓石業の[[須藤石材]] [http://www.sudo-sekizai.co.jp/]のテレビ広告と広告でも長らく活躍した。永谷園の広告も、須藤石材のテレビ広告も、死後、孫の花緑が跡を継いでいる。<br />
<br />
墓の案内看板に「これより[[落語家#二つ目|二つ目]] 柳家小さん」と書かれていたため、これをネタにした落語家もいた(現在は「二基目」と書き直されている)。息子の6代目小さんは、「初々しくて良いのではないか」というニュアンスの発言を著書で行っている。<br />
<br />
=== 剣道家として ===<br />
13歳の頃から剣道を学んだ。麹町高等小学校では剣道部副将として東京市剣道大会で優勝<ref name="nenpuu"/>。職業剣道家を目指すも中耳炎で断念したが、生涯を通じて剣道を続け、[[範士]][[剣道の段級位制|七段]]まで昇段した。剣道専門誌の『[[剣道日本]]』に度々掲載され、「落語と剣道、どっちが好きかって聞かれたら、剣道って言いますよ」と語っていた。<br />
<br />
財団法人[[東京都剣道連盟]]の顧問を務め、自宅を改装して[[道場]]を作り、弟子たちに剣道を教えた。弟子の一人、[[柳家小団治]]は現在剣道七段である。<br />
<br />
剣道の他にも[[居合道]]や[[二天流|二天流剣術]]をも学んでおり、造詣が深かった。<br />
<br />
=== エピソード ===<br />
* 本名が同じ「'''こばやし もりお'''」である縁で、[[三升家小勝 (8代目)|8代目三升家小勝]](表記は小林守巨)に稽古をつけたことがある。<br />
* 上述の通り、弟子である4代目桂三木助の本名は小さんと完全に同姓同名の「'''小林盛夫'''」であるが、これは4代目三木助の父である[[桂三木助 (3代目)|3代目桂三木助]](本名:小林七郎)と小さんが義兄弟の杯を交わすほどの大親友であり、3代目三木助が息子に「小さんのようになって欲しい」との願いを込めて同じ名前を付けたためである。なお、4代目三木助の入門後は全くの同姓同名であるために郵便物の取り違えが多発したという。<br />
* 小三治時代、[[落語芸術協会]]から移籍をもちかけられたが、それを阻止するために[[落語協会]]は香盤を引き上げた。[[桂文楽 (8代目)|8代目桂文楽]]は、自身の総領弟子の[[三升家小勝 (6代目)|6代目三升家小勝]]の一つ上でも良いといったが、さすがにそれでは小勝が可愛そうだという[[三遊亭圓生 (6代目)|6代目三遊亭圓生]]の意見で、小勝の一つ下という位置になった。<br />
* 同じく人間国宝である[[桂米朝 (3代目)|3代目米朝]]と「落語国宝<!-- 国宝落語だったかも知れない。当代小さんの著書より引用。 -->二人会」を開催したり、息子の柳家三語楼(現:6代目柳家小さん)・孫の柳家花緑と親子三人会をやったことがある。<br />
* 米朝が人間国宝に認定されたとき、記念番組で「落語界の今後のために、互いに精進していこう」と祝いのコメントを出した。その後、前述の落語会やいくつかの番組で共演をしている。<br />
* 東京都豊島区[[目白]]に在住していたことから「目白の師匠」という通名もあった。<ref>[http://www.zakzak.co.jp/geino/n-2002_05/g2002051705.html 小さん師匠急死で談志、花緑の想い] ZAKZAK 2002年5月17日付</ref><br />
* 宗旨は[[本門佛立宗]]で、弟子が掃除などのために家に来る頃は、仏壇の前でお題目を唱えていたという。5代目小さんの墓所は東京都[[世田谷区]]の乗泉寺世田谷別院にある<ref name="Kosan-Bosho">[http://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2014/05/17/kiji/K20140517008177060.html 小さんさん十三回忌 六代目、小三治、馬風ら墓参り] スポーツニッポン 2014年5月17日閲覧</ref>。<br />
* 1991年9月、[[幸福の科学]]が代表・[[大川隆法]]に関する雑誌「[[フライデー (雑誌)|フライデー]]」の記事の内容に抗議して[[講談社]]前でのデモや訴訟などを起こした際([[講談社フライデー事件]])、彼の家にフライデー編集部と誤認した(電話番号が似ていたためと思われる)会員からの抗議電話がひっきりなしにかかってきて対応に苦慮した事を[[フジテレビジョン|フジテレビ]]「[[THE WEEK]]」のカメラに語った。この時、番組にスタジオ生出演していた会員の[[景山民夫]]はカメラに向かって平謝りしていた{{要出典|date=2018年2月11日)}}。。<br />
* 1996年、高座の合間に上野広小路で[[マッサージ]]を受けている最中に[[脳梗塞]]を発症した。この時、たまたま同室の客が[[東京大学大学院医学系研究科・医学部|東京大学]]の医師で迅速な対処を受けることができたため、後遺症が比較的軽く済んで高座に復帰することができた。弟子の[[鈴々舎馬風#5代目(当代)|鈴々舎馬風]]は新作落語『会長への道』でこの一件に触れ、「ツイてる男は違う」と評している。現在も同作に限らず、マクラでこのエピソードを語ることが多い。[[救急車]]の中で「[[高速道路|高速]]は使うな、No高速(のうこうそく)」と言った、とネタにしているが真偽は不明である。<br />
* 死去前夜、「ちらし寿司が食べたい」と言い、寿司屋から取り寄せて夕食に食べ、「明日は、いなり寿司が食べたい」と言って寝室に行った。翌朝起きてこないので家人が見に行くと、眠ったまま死去していた大往生だった。<br />
<br />
== 得意ネタ ==<br />
<div style="float:left; vertical-align: top; white-space: nowrap;"><br />
* [[青菜 (落語)|青菜]]<br />
* [[うどん屋]]<br />
* [[お化け長屋]]<br />
* [[親子酒]] ([[三笑亭可楽|8代目三笑亭可楽]]から教わった)<br />
* [[笠碁]] ([[柳亭燕枝 (3代目)|3代目柳亭燕枝]]から)<br />
* [[かぼちゃ屋]]<br />
* [[御慶]]<br />
* [[禁酒番屋]]<br />
* [[強情灸]]<br />
* [[碁泥]]<br />
</div><br />
<div style="float:left; vertical-align: top; white-space: nowrap;"><br />
* [[子別れ]]<br />
* [[三人旅]]<br />
* [[粗忽長屋]] ([[柳家小さん (4代目)|4代目柳家小さん]]から)<br />
* [[たがや]]<br />
* [[狸賽]]<br />
* [[たらちね]]<br />
* [[時そば]]<br />
* [[貧乏花見|長屋の花見]]<br />
* [[二番煎じ (落語)|二番煎じ]]<br />
* [[にらみ返し]]<br />
</div><br />
<div style="float:left; vertical-align: top; white-space: nowrap;"><br />
* [[猫久]]<br />
* [[無精床]]<br />
* [[真二つ]]<br />
* [[まんじゅうこわい|饅頭こわい]]<br />
* [[水屋の富]]<br />
* [[宿屋の仇討]]<br />
* [[宿屋の富]]<br />
* [[湯屋番]]<br />
* [[気の長短]]([[桂三木助 (3代目)|3代目桂三木助]]から)<br />
* [[らくだ]]([[桂文團治#4代目|4代目桂文團治]]から)<br />
: ほか多数<br />
</div>{{clear}}<br />
<br />
余芸で[[百面相]]も披露していた。<br />
<br />
== 略歴 ==<br />
* 日比谷尋常小学校(現・[[千代田区立麹町小学校]])卒業。<br />
* 麹町高等小学校(同上)卒業。<br />
* 東京市立商業学校夜間部中退。<br />
* [[1933年]]([[昭和]]8年)6月 - [[柳家小さん (4代目)|4代目柳家小さん]]に入門。前座名は栗之助。<br />
* [[1936年]](昭和11年) - [[二・二六事件]]の決起部隊である[[歩兵第3連隊]]に[[徴兵制度|徴兵]]され同事件を体験する。<br />
* [[1939年]](昭和14年)3月 - [[除隊]]される。二つ目に昇進し、[[柳家小きん]]に改名。この頃、[[三遊亭歌笑#3代目|3代目三遊亭歌笑]]、[[柳亭痴楽 (4代目)|4代目柳亭痴楽]]と共に「若手[[三羽烏]]」と呼ばれる。<br />
* [[1942年]](昭和17年) - 生代子夫人と結婚。<br />
* [[1943年]](昭和18年) - 長女の喜美子誕生。再徴兵。<br />
* [[1946年]](昭和21年)5月 - 復員。<br />
* [[1947年]](昭和22年) - [[真打]]に昇進し、9代目[[柳家小三治]]を襲名。真打昇進興行中に、師匠・4代目小さんが急死。[[桂文楽 (8代目)|8代目桂文楽]]の預かり弟子になる。<br />
* [[1950年]](昭和25年)9月 - 5代目[[柳家小さん]]を襲名。<br />
[[File:TBS専属の落語家たち(1954年よりは前).png|thumb|200px|1954年以前に撮影、TBS専属メンバー、前列左から[[昔々亭桃太郎]]、5代目古今亭志ん生、8代目桂文楽、後列左から6代目三遊亭圓生、5代目柳家小さんとともに]]<br />
* [[1962年]](昭和37年) - [[芸術祭 (文化庁)|芸術祭]]賞奨励賞。<br />
* [[1967年]](昭和42年) - 芸術祭賞奨励賞。<br />
* [[1972年]](昭和47年)3月 - [[三遊亭圓生 (6代目)|6代目三遊亭圓生]]の後任で[[落語協会]]7代目会長に就任。<br />
* [[1977年]](昭和52年)12月 - それまで[[任意団体]]であった落語協会を[[社団法人]]化し、正式名称を社団法人落語協会とする。<br />
* [[1978年]](昭和53年)12月 - 生代子夫人が死去。<br />
* [[1980年]](昭和55年) - [[紫綬褒章]]。<br />
* [[1983年]](昭和58年) - 第12回[[日本放送演芸大賞]]功労賞。真打昇進試験制度の結果を引き金に落語協会を脱退した[[立川談志 |7代目(自称5代目)立川談志]]を破門。<br />
* [[1984年]](昭和59年) - [[東京都知事#東京都知事表彰|都民文化栄誉章]]。<br />
* [[1985年]](昭和60年) - [[勲等|勲四等]][[旭日章|旭日小綬章]]。<br />
* [[1986年]](昭和61年) - [[日本酒大賞]]。<br />
* [[1987年]](昭和62年) - 第38回[[NHK放送文化賞]]。<br />
* [[1989年]](平成元年) - [[浅草芸能大賞]]。<br />
* [[1993年]](平成5年) - 第13回[[伝統文化ポーラ賞大賞]]。<br />
* [[1995年]](平成7年)<br />
** [[5月31日]] - 落語家初の[[重要無形文化財]]保持者([[人間国宝]])認定。<br />
** [[豊島区]]名誉区民賞受賞。[[胆のう炎]]で入院するも克服。<br />
* [[1996年]](平成8年)2月 - [[脳梗塞]]のため入院。療養ののち高座に復帰するも以後、入浴などに介助が必要な障害が残った。障害を克服するため、剣道や居合の稽古をより行うようになったという。<br />
* [[1996年]](平成8年)[[8月1日]] - ほぼ四半世紀務めた落語協会会長を退任し、落語協会[[最高顧問]]に就任。<br />
* [[1999年]](平成11年)[[10月1日]] - 東京都[[名誉都民]]。<br />
* 2002年(平成14年)[[2月2日]] - 鎌倉芸術館での「親子三人会」にて『[[強情灸]]』を演じる。これが生前最後の高座となった。<br />
* 2002年(平成14年)[[5月16日]] - 午前5時ごろ、[[心不全]]のため87歳で死去。[[従五位]]を贈られる。[[戒名]]は本行院殿法勲語咄日盛居士。墓所は世田谷区[[乗泉寺 (渋谷区)|乗泉寺]][[乗泉寺世田谷別院|世田谷別院]]<ref name="Kosan-Bosho"/>。<br />
* [[2008年]](平成20年) - かつて出演していた永谷園のテレビCMで、孫の花緑と共演する(本人は死去しているため生前の映像を使用)。<br />
<br />
== 出演作品 ==<br />
=== テレビドラマ ===<br />
*[[非情のライセンス]] 第1シリーズ 第9話「兇悪の道」(1973年、[[テレビ朝日|NET]]) - 徳田 役<br />
*[[水色の時]](1975年、[[NHK連続テレビ小説]]) - 春々亭久里丸 役<br />
*[[土曜ドラマ (NHK)|土曜ドラマ]] [[素直な戦士たち]](1979年、[[日本放送協会|NHK]])<br />
*[[獅子の時代]](1980年、[[大河ドラマ|NHK大河ドラマ]]) - 車屋の親方 役<br />
*[[玉ねぎむいたら…]](1981年、[[TBSテレビ]]) - 剣道の師範・道場主 役<br />
*[[世にも奇妙な物語]] 「バカばっかりだ」(1991年、[[フジテレビジョン|フジテレビ]]系)<br />
*[[実録犯罪史シリーズ]]『昭和の説教強盗 命はとらぬ金を出せ!』(1991年、フジテレビ系)<br />
<br />
=== 映画 ===<br />
*[[「可否道」より なんじゃもんじゃ]](1963年、[[松竹]]) - 春遊亭珍馬 役<br />
*[[新・与太郎戦記]](1969年、[[大映]]) - 院長 役<br />
*[[男はつらいよ 奮闘篇]](1971年、松竹) - ラーメン屋 役<br />
*春だドリフだ 全員集合!!(1971年、松竹) - 大真打ちの師匠 役<br />
*祭りだお化けだ全員集合!!(1972年、松竹) - 落語家 役<br />
*にっぽん美女物語(1974年、松竹) - 自然和尚 役<br />
*にっぽん美女物語 女の中の女(1975年、松竹) - 自然和尚 役<br />
*俺たちの時(1976年、松竹) - 弥五郎 役<br />
*美女放浪記(1977年、松竹) - 自然和尚 役<br />
*地獄の蟲(1979年、[[マツダ映画社]]) - 旅人 役<br />
*グッドラックLOVE(1981年、[[東宝]]) - 松宮久平 役<br />
*人形嫌い(1982年、[[東宝東和]]) - 屋台のおでん屋 役<br />
*信号ばか(1990年、[[菅田事務所]]) - 和尚 役<br />
*[[平成狸合戦ぽんぽこ]](1994年、[[スタジオジブリ]]・東宝) - 鶴亀和尚 役(声の出演)<br />
*スクリーンで観る高座 シネマ落語「落語研究会 昭和の名人 四」(2012年、松竹)<br />
*スクリーンで観る高座 シネマ落語「落語研究会 昭和の名人 五」(2013年、松竹)<br />
*スクリーンで観る高座 シネマ落語「落語研究会 昭和の名人 六」(2013年、松竹)<br />
<br />
=== CM ===<br />
*[[永谷園]] 「[[あさげ]]」「ゆうげ」「ひるげ」など<br />
*[[須藤石材]]<br />
*[[アデランス]]<br />
<br />
== 著書 ==<br />
*『柳家小さん集』上下 東京大学落語研究会OB会編 青蛙房 1966-67 <br />
*『小さん落語集』旺文社文庫 1987<br />
*『古典落語 小さん集』(1990年、[[ちくま文庫]]) ※編集:[[飯島友治]]。 ISBN 978-4924725218<br />
*『咄も剣も自然体』(1994年、[[東京新聞]]出版局) ISBN 978-4808304782<br />
*『五代目柳家小さん落語全集』小学館 CDブック 2000<br />
<br />
===共著===<br />
*『柳家小さん 芸談・食談・粋談』[[興津要]]編([[大和書房]]、1975年)<br />
**興津との共著として中公文庫、2013<br />
*『抱腹絶倒 五代目小さんの昔ばなし』[[川戸貞吉]]共著 [[冬青社]] 1988 <br />
*『五代目柳家小さん 芸談』(2003年、冬青社) ※川戸貞吉との共著。 ISBN 978-4887730137<br />
<br />
== 弟子 ==<br />
大らかな性格から多数の門下を抱えた。直弟子、孫弟子、曾孫弟子まで合わせると現在の落語協会では最大の人数を誇り、また東西落語界を合わせても、平成期まで存命であった者の一門としては最多である。<br />
<br />
直弟子数は30名を越え、一門全体では協会加盟の者だけでも総勢100名近く、離脱した[[落語立川流|立川談志一門]]を含めると140名弱という、極めて巨大な一門と言える。そのためか、近年の落語協会の会長・幹部は小さん一門の弟子が多い(特に会長は9代目以降3人続けて小さんの直弟子が就任した)。<br />
<br />
また、20年以上に渡り落語協会の会長に君臨し、何度かの分裂・離脱騒動や、その逆の[[落語芸術協会]]からの流入において、小さん自身がその受け皿となることも多かった。<br />
<br />
=== 直弟子 ===<br />
*[[柳家小せん#4代目|4代目柳家小せん]](総領弟子、父[[柳家小満ん|2代目柳家小満ん]]は師匠4代目小さん一門の総領弟子でもあった)<br />
*[[柳家さん助|2代目柳家さん助]]<br />
*[[柳家つばめ (5代目)|5代目柳家つばめ]]<br />
*[[立川談志|7代目(自称5代目)立川談志]](後に真打昇進試験制度を巡って対立し、一門から破門される)<br />
*[[柳家小三治|10代目柳家小三治]]('''落語協会10代目会長'''(2010年~2014年)、香盤順では現在の一門最上位、'''[[重要無形文化財]]'''(人間国宝))<br />
*[[鈴々舎馬風#5代目(当代)|5代目鈴々舎馬風]]('''落語協会9代目会長'''(2006年~2010年)、入門順では現在の一門最古参)<br />
*[[入船亭扇橋#9代目|9代目入船亭扇橋]](元は[[桂三木助 (3代目)|3代目桂三木助]]門下で、師匠の死後に移籍)<br />
*[[柳亭燕路 (6代目)|6代目柳亭燕路]] <br />
*[[柳家小のぶ]] <br />
*[[柳家さん吉]]<br />
*[[柳家つば女 (6代目)|6代目柳家つば女]]<br />
*[[東家夢助]](元は[[柳家小三太]]、協会を離脱し事実上のレッスンプロ)<br />
*[[柳家小はん|2代目柳家小はん]](元は3代目三木助門下で、師匠の死後に移籍)<br />
*[[柳家小満ん|3代目柳家小満ん]](元は[[桂文楽 (8代目)|8代目桂文楽]]門下で、師匠の死後に移籍)<br />
*[[柳家小さん (6代目)|6代目柳家小さん]](5代目小さんの長男で、師匠の死後は馬風一門に移籍)<br />
*[[柳亭金車]] <br />
*[[柳家菊語楼|2代目柳家菊語楼]]<br />
*[[柳亭風枝]](元は[[三遊亭百生]]門下を経て5代目柳家つばめ門下で、師匠の死後に移籍、小さん初の孫弟子でもある)<br />
*[[柳家小團治|6代目柳家小團治]]<br />
*[[柳亭小燕枝|7代目柳亭小燕枝]]<br />
*[[柳家さん喬]] <br />
*[[柳家さん八|2代目柳家さん八]]<br />
*[[柳家小袁治]] <br />
*[[柳家さん枝]](元は8代目文楽門下で、師匠の死後に移籍)<br />
*[[柳家権太楼 (3代目)|3代目柳家権太楼]](元は5代目柳家つばめ門下で、師匠の死後に移籍)<br />
*[[柳家小里ん]]<br />
*[[桂三木助 (4代目)|4代目桂三木助]](3代目桂三木助の長男)<br />
*[[柳家三寿]]<br />
*[[柳家小ゑん]]<br />
*[[夢月亭清麿]](元は5代目柳家つばめ門下で、師匠の死後に移籍)<br />
*[[柳亭市馬 (4代目)|4代目柳亭市馬]]('''落語協会11代目会長'''(2014年~))<br />
*[[柳家花緑]](5代目小さんの孫、6代目小さんの甥、小さん最後の弟子)<br />
*[[柳家小三太]]<br />
*[[柳家さん福]]<br />
<br />
=== 預かり、その他、色物 ===<br />
*[[川柳川柳]] - 元は6代目三遊亭圓生門下の三遊亭さん生。落語協会脱会騒動の際に、圓生に付き従わず破門されたため、門下に受け入れた。<br />
*[[桂文朝|2代目(5代目)桂文朝]] - 元は[[三遊亭金馬 (3代目)|3代目三遊亭金馬]]及びその弟子[[桂小南 (2代目)|2代目桂小南]]の門下。[[1984年]]に[[鈴本演芸場]]と[[落語芸術協会]]の確執から芸術協会が鈴本に出演しなくなり、出番の減少を危惧し移籍した。<br />
*[[桂南喬]] - 文朝と同上の理由で移籍した、文朝の兄弟弟子。<br />
*[[桂文生|3代目桂文生]] - 文朝と同上の理由で移籍。[[桂枝太郎#2代目|2代目桂枝太郎]]の弟子で、弟子の[[桂扇生]]も師に付き従い移籍した。<br />
*[[柳家紫朝]] - 粋曲・新内語り。色物として一門身内となる。<br />
<br />
== 関連項目 ==<br />
*[[柳家小さん]]<br />
*[[落語家一覧]]<br />
*[[徳光和夫]]<br />
<br />
== 脚注 ==<br />
<references/><br />
<br />
== 外部リンク ==<br />
* {{jmdb name|0365990}}<br />
* {{allcinema name|129238}}<br />
* {{kinejun name|88289}}<br />
* {{IMDb name|id=0945857|name=Kosan Yanagiya}}<br />
* [http://movie.walkerplus.com/person/83320/ 柳家小さん (5代目) Movie Walker]<br />
<br />
{{日本放送演芸大賞}}<br />
{{Normdaten}}<br />
{{Voice-stub}}<br />
{{DEFAULTSORT:やなきや こさん05}}<br />
[[Category:落語家]]<br />
[[Category:人間国宝]]<br />
[[Category:紫綬褒章受章者]]<br />
[[Category:勲四等旭日小綬章受章者]]<br />
[[Category:剣道範士]]<br />
[[Category:二・二六事件の人物]]<br />
[[Category:日本の男性声優]]<br />
[[Category:長野県出身の人物]]<br />
[[Category:捕虜となった人物]]<br />
[[Category:1915年生]]<br />
[[Category:2002年没]]</div>
240B:11:8540:3F00:FCFC:C862:4E3D:AC6E
三遊亭圓楽 (5代目)
2018-10-03T10:35:18Z
<p>240B:11:8540:3F00:FCFC:C862:4E3D:AC6E: /* 現役引退・晩年 */</p>
<hr />
<div>{{落語家<br />
| 芸名 = 5代目 三遊亭 圓楽<br />
| ふりがな = ごだいめ さんゆうてい えんらく<br />
| 画像ファイル = Enraku San'yutei V zensho 1959 Scan10013.jpg<br />
| 画像サイズ = 250<br />
| 画像コメント = 三遊亭全生時代(1959年6月6日、当時26歳)<br />
| 本名 = 吉河 寛海<br />
| 別名 = 山輪雪太郎<br />
| 出身地 = {{JPN}}・[[東京府]][[東京市]][[浅草|浅草区]]<br />(現:[[東京都]][[台東区]])<br />
| 死没地 = {{JPN}}・東京都[[中野区]]<br />
| 生年 = 1932<br />
| 生月 = 12<br />
| 生日 = 29<br />
| 没年 = 2009<br />
| 没月 = 10<br />
| 没日 = 29<br />
| 師匠 = [[三遊亭圓生 (6代目)|6代目三遊亭圓生]]<br />
| 弟子 = <br />
| 名跡 = 1. 三遊亭全生(1955年 - 1962年)<br />2. 5代目三遊亭圓楽(1962年 - 2009年)<br />
| 出囃子 = [[元禄花見踊]]<br />
| 活動期間 = [[1955年]] - [[2009年]]<br />
| 活動内容 = [[古典落語]]<br />
| 配偶者 = <br />
| 家族 = <br />
| 所属 = [[落語協会]](1955年 - 1978年)<br />落語三遊協会(1978年 - 1980年)<br />大日本落語すみれ会→落語円楽党→落語ベアーズ→[[円楽一門会]](1980年 - 2009年)<br />若竹カンパニー(マネジメント)<br />
| 公式サイト = <br />
| 主な作品 = 『[[佃祭]]』<br />
| 受賞歴 = [[芸術祭 (文化庁)|文化庁芸術祭]]優秀賞(1977年)<br />文化庁芸術祭賞(1988年)<br />第23回[[浅草芸能大賞]](2007年)<br />[[旭日小綬章]](2007年)<br />
| 備考 = 落語協会理事(1972年 - 1978年)<br />円楽一門会総帥(1980年 - 2007年)<br />円楽一門会最高顧問(2007年 - 2009年)<br />
}}<br />
5代目'''三遊亭 圓楽'''(さんゆうてい えんらく、[[1932年]]([[昭和]]7年)[[12月29日]]{{Efn|name="birth"|戸籍上は[[1933年]](昭和8年)[[1月3日]]}} - [[2009年]](平成21年)[[10月29日]]<ref>[http://www.asahi.com/showbiz/stage/rakugo/TKY200910300281.html 三遊亭円楽さん死去] [[朝日新聞]] 2009年10月30日閲覧</ref>)は、[[東京府]][[東京市]][[浅草|浅草区]](現:[[東京都]][[台東区]])出身の[[落語家]]。本名、'''吉河 寛海'''(よしかわ ひろうみ)。<br />
<br />
落語円楽党党首、『[[笑点]]』司会者(4代目)、[[円楽一門会]]総帥、円楽一門会最高顧問などを歴任した。<br />
<br />
== 概要 ==<br />
[[演芸]]番組『[[笑点]]』([[日本テレビ放送網|日本テレビ]])の[[大喜利 (笑点)|大喜利]]メンバー・司会者を長く務めていたことで知られる。現役時に所属した芸能事務所は[[星企画]]→[[若竹カンパニー]]。なお、若竹カンパニーは自身の[[長男]]が[[代表取締役]]を務める個人事務所であった。身長は177cmと長身である。<br />
<br />
若い頃は「[[星の王子さま]]」の愛称で親しまれた<ref name="ennraku1">ぴあMOOK『笑点五〇年史 1966-2016』111ページ</ref>。端整な顔立ちと博識ぶりにより、[[1960年代]]演芸ブームの際には脚光を浴びる。[[立川談志|7代目(自称5代目)立川談志]]、[[古今亭志ん朝|3代目古今亭志ん朝]]、[[春風亭柳朝 (5代目)|5代目春風亭柳朝]](柳朝休業後は[[橘家圓蔵 (8代目)|8代目橘家圓蔵]])と共に「落語若手[[四天王]]」と呼ばれた。[[出囃子 (落語)|出囃子]]は『[[元禄花見踊]]』。<br />
<br />
== 生涯 ==<br />
=== 入門まで ===<br />
[[1932年]]([[昭和]]7年)[[12月29日]]{{Efn|name="birth"}}、[[東京府]][[東京市]][[浅草|浅草区]](現:[[東京都]][[台東区]])に吉河家の九人兄弟の一人寛海(ひろうみ)として生まれる。<br />
<br />
実家は[[浄土宗]]の寺院・日照山不退寺[[易行院]](通称:[[助六寺]])。易行院はかつて[[浅草]]の清川町にあったが、後に[[足立区]][[伊興|伊興町狭間]](現在の住所は[[東伊興]]、最寄駅は[[東武伊勢崎線]][[竹ノ塚駅]])に移転している。<br />
<br />
吉河家は[[豊臣秀吉|羽柴秀吉]]による[[鳥取城#秀吉の鳥取城攻略戦|鳥取城の戦い]]にて自害した城主・[[吉川経家]](きっかわ つねいえ)を祖とする。経家の三男・[[吉川家好]](いえよし)は後に[[鳥取藩]][[池田氏|池田家]]の家臣となったと[[藩翰譜]]にある{{Efn|圓楽が鳥取を訪れたときに、地元図書館長が教えてくれたという。{{要出典|date=2017年2月}}}}。1860年(安政7年)、寛海の曽祖父に当たる人物が切腹した。それに立ち会った寛海の祖父・寛雅は「侍というものは、かくも悲惨なものか、もう厭だ」と思いつめて武士をやめ、[[増上寺]]に入り、僧侶となったという<ref>『三遊亭圓楽独演会全集』第二集([[EMIミュージックジャパン]])本人(5代目)による解説([[目黒のさんま]]の項)</ref>。<br />
[[明治]]に至って、寛雅は苗字を「吉川」(きっかわ)から「吉河」(よしかわ)に改めた<ref>「落語で生かそう法然流 圓楽一代記」1、『浄土宗新聞』[[1990年]](平成2年)[[5月1日]]付より</ref>。その息子も僧侶を継ぎ、[[易行院]]住職となる。<br />
<br />
生家には修行僧や使用人など年上の男性が他にも住んでいたため、幼少時の寛海は自分の父親がそのうちのどの人かすら分からなかった。分かったのは5歳ぐらいで、食事時の無作法をたしなめた人がいて、その人との会話の中で初めてその人こそ父であることが判明した。<br />
<br />
[[第二次世界大戦]]では[[東京大空襲]]に遭うも、吉河一家は命をとりとめた。しかし、この戦争は寛海の進路に影を落とす。終戦後、「これからは食糧難だから農業だ」という父親の薦めで農民になることを決意するが、当時の東京にはなかなか農業を学べるところがなかった。寛海は結局、隣県でしかも家からかなり遠い埼玉県立杉戸農業学校(現:[[埼玉県立杉戸農業高等学校|同杉戸農業高等学校]])に入学、卒業する。<br />
<br />
=== 落語家として ===<br />
[[上野]][[鈴本演芸場]]で落語を見た時に「戦争ですべてを奪われ暗い顔をした人々にこうやって笑いを起こさせることができる落語はすごい」と落語家になることを決意する。<br />
<br />
1955年(昭和30年)2月、[[三遊亭圓生 (6代目)|6代目 三遊亭圓生]]に入門し、寛海は「[[三遊亭全生]]」(ぜんしょう)と名乗る。圓生には「一人前になるまで50年は食えませんよ」と言われたが、圓楽は「30歳までに真打になれなかったら辞めます」と言って入門した。なお圓生に入門した理由は「当時は[[古今亭志ん生 (5代目)|志ん生]]師匠や[[桂文楽 (8代目)|文楽]]師匠の方が師匠より格上だったが、高齢(圓楽が噺家を志した時点で両名とも既に[[還暦]]を超えていた)で自分の面倒を最後まで見てくれるか分からなかったから。」と述べている。<br />
<br />
1958年(昭和33年)3月に[[二つ目]]に昇進。1962年(昭和37年)10月に[[真打]]に昇進して5代目「[[三遊亭圓楽]]」を襲名する。落語家を諦める期限としていた30歳を迎える約3か月前であった。<br />
<br />
1965年(昭和40年)『[[笑点]]』の前身となる『[[金曜夜席]]』の放送が開始され、圓楽は[[桂歌丸]]や[[林家こん平]]とともに出演。当初は大喜利コーナーの司会を担当したが、後の『笑点』での司会ぶりとは違い、かなりぎこちない司会ぶりであったため、早々と演芸・対談コーナーの司会で企画立案者でもある[[立川談志]]に譲って辞任し、第4回から回答者となった。<br />
<br />
1966年(昭和41年)に放送が始まった『笑点』では初回から大喜利回答者として出演した。1968年(昭和43年)に立川談志と当時のメンバーの対立により降板したが、1970年(昭和45年)に復帰。しかし、圓生から「おまえはこんな安っぽい芸人で終わるのか」とたしなめられたことから、落語に専念するため1977年(昭和52年)[[3月27日]]をもって番組を再び降板した<ref name="ennraku1" />。降板後、司会として復帰するまでの間にも、1978年(昭和53年)正月の鶴亀大喜利に師匠圓生と共に出演したり、弟子であり後継メンバーとなった[[三遊亭圓楽 (6代目)|三遊亭楽太郎(現:6代目三遊亭円楽)]]の師匠として師弟大喜利などでゲスト出演したりする事があり、番組との関わりは続いていた。後に弟子となる[[三遊亭好楽|林家九蔵(現:三遊亭好楽)]]を笑点メンバーに誘ったのも圓楽だった。<br />
<br />
1978年の[[落語協会分裂騒動]]では「師匠をおいて残れない」と圓生一門とともに{{Efn|弟弟子の[[川柳川柳|三遊亭さん生]]・[[春風亭一柳|三遊亭好生]]は協会に残留。}}落語協会を脱退。当時、圓生は圓楽に「あたしが引退した後、お前が[[三遊派]]の総領として弟子を守っていくんでげすよ」と念を押されていた。圓生が引退している身であれば脱会はしなかったが(もともと、圓楽は騒動の原因となった真打昇進に関しては圓生と正反対の考え方を持っていた)、当時、圓生は78歳と高齢ながら現役を退いておらず、師匠に逆らい自分が弟弟子と行動を共にすることなぞできないと悟り、師匠と共に「落語三遊協会」を立ち上げた。<br />
<br />
1979年(昭和54年)に圓生が亡くなると、[[三遊亭圓窓#6代目|6代目三遊亭圓窓]]・[[三遊亭圓彌]]・[[三遊亭圓丈]]ら圓楽以外の圓生の直弟子たちは落語協会に復帰。圓楽は新たに「大日本落語すみれ会」を設立。すみれ会はその後、「落語円楽党」「落語ベアーズ」と改称し現在の「[[圓楽一門会]]」となる。<br />
<br />
1985年(昭和60年)3月、「噺家の純粋培養」を企て寄席に出られない圓楽一門の新たな活動の場として東京都[[江東区]]東陽町に自費で寄席「[[若竹]]」を設置<ref name="mainichi">野島康祐、「三遊亭円楽さん:落語家:肺がんのため10月29日死去・76歳」『毎日新聞』、2009年12月16日、13版、27面</ref>。しかしオフィス街かつターミナル駅から離れた立地条件の悪さに加え、弟子たちが圓楽の意に反して余興(上方でいう「営業」)等に精を出して「若竹」の出番を休んでいたりしたため、これに憤った圓楽は「若竹」の閉鎖を決意し、1989年([[平成]]元年)11月25日に閉鎖した。以降、圓楽一門は圓楽傘下の芸能社である星企画の取ってくる余興等にのみ活動の場を求めなければならなくなった。<!-- 東京新聞記事から -->「若竹」閉鎖後は借金返済のために日本中で講演したため、高座から離れる機会が多くなり、圓楽はその時期のことについて「借金返済のため、噺家として大事な50代に全国を講演で回った。悔やんでも悔やみきれない」と語っている<ref>{{Cite journal | 和書 | author = 井上幸一 | title = 笑点司会「ガハハ」23年&nbsp;&nbsp;美学と厳しさ貫く&nbsp;&nbsp;円楽さん死去 | journal = [[東京新聞]] | issue = 2009年10月31日 | pages = 社会 12版 27面}}</ref>。<br />
<br />
=== 『笑点』4代目司会者として ===<br />
[[1982年]](昭和57年)[[12月8日]]に当時の司会であった[[三波伸介 (初代)|三波伸介]]の急死に伴い、[[1983年]](昭和58年)[[1月9日]]から司会者として『笑点』に復帰した。しかし当人は、2回限りの臨時司会のつもりで引き受けたと語っていた。司会就任後、しばらくは様々な色の[[紋付]]を着ており、同年[[9月4日]]放送分より、紺の色紋付に定着した。<br />
<br />
就任してからしばらくは、答えの合間にその博識を生かした[[都々逸]]をしばしば披露したり、40分時代の初期には落語に専念していた時代に学んだ知識を生かして「'''よろずガイダンス'''」というコーナーで落語にまつわる話を披露するなどしていた。しばしば台本は無視、林家こん平の回答に対して着物を脱がせたこともあり、「司会者が笑い過ぎ」といった理由で、当初は批判も少なくなかった<ref name="ennraku1" />。だがそれは従来と雰囲気を変えるために意図的に行ったことであり<ref name="ennraku1" />、徐々に出題、指名、座布団の差配など最小限の仕事に絞られていく。これは放送時間の短縮に加え、三波が司会をしていたころの司会者の強烈なキャラクターを柱とした番組から{{Efn|桂歌丸は「圓楽さんは同じ噺家の『間』を持っていたため、歴代司会者で一番やりやすかったですね。三波さんもやりやすかったですが、どうしてもトリオの『間』になってしまうところがありました」と述べており<ref>ぴあMOOK『笑点五〇年史 1966-2016』P.18-21</ref>、林家木久扇は「三波さんは自分がウケようとしましたね。こちらが面白い答えをいうと『何〜!』って場面を取っちゃうのが上手かったんですね」と回想している<ref>山田隆夫『山田クンとざぶとん』 [[双葉社]] ISBN 9784575304701 191ページ</ref>。}}、スピーディーにやり取りする中でメンバーのキャラクターにクローズアップし、司会者だけでなくメンバー全員を主役とするという新しいスタイルに移行した結果である。司会就任後しばらくは視聴率面で苦戦を続けたものの、こうした番組作りの変化が功を奏し、次第にかつてのような人気番組の地位を取り戻していった。<br />
<br />
面長な容姿から「[[馬]]」呼ばわりされたり、若竹の借金・小言が長い・本番中に居眠りなどとネタにされたり、回答者の家族の悪口(歌丸の妻・冨士子夫人など)や[[下ネタ]]を織り交ぜた回答をすると、爆笑しつつも容赦なく座布団を没収していた。<br />
<br />
圓楽の司会就任から1年後、それまでの[[松崎真]]に代わる新しい座布団運びとして[[山田隆夫]]が就任。これ以降、回答者だけでなく座布団運びも番組の流れに積極的に絡むようになった。山田はやり過ぎたり、自らを罵倒する回答をしたメンバー(主にこん平及び弟子のたい平)を座布団から突き飛ばしたり(時に蹴り飛ばしたり)することがあるが、これも圓楽の助言がきっかけで始められた<ref name="rikunabi">{{Cite web|url=http://next.rikunabi.com/journal/entry/20151120_1 |title=幸せと座布団を運び続けて31年!笑点・山田クンが語る「継続する先に見えるもの」 |publisher=リクナビNEXT |date=2015-11-20 |accessdate=2015-12-11 }}</ref>。山田罵倒ネタの際には、山田の判断に一任したり、彼を擁護する発言をすることも多かった。<br />
<br />
圓楽は大喜利メンバー全員で一つのファミリーを形成しているとの考えを持ち、番組の空気やリズムになじむのに時間がかかるということでメンバーの入れ替えはほとんど行わなかった{{Efn|それまで頻繁に行われていた大喜利の席替えも1992年の好楽・小遊三の入れ替えを最後に行われておらず、以降の新メンバーは前のメンバーが座っていた場所にそのまま入るケースが続いている。}}。また、メンバー全員が出演するロケ企画(ボウリング大会・山田隆夫の新居訪問・後述する自身の墓参り等)が頻繁に行われたのもこの時期である。23年間司会を務めながら、その間に新加入した大喜利メンバーは[[三遊亭小遊三]]と[[林家たい平]]{{Efn|ただし、あくまで圓楽司会当時は休演した師匠・林家こん平の代演扱いだった。たい平がレギュラーメンバーに昇格したのは圓楽の勇退に伴い司会が歌丸に交代してからである。}}の2人だけ。[[1988年]](昭和63年)に弟子の[[三遊亭好楽]]が復帰してからは、たい平が加入するまでの16年間を同じメンバーで通した。こん平が長期の休演を余儀なくされた際も、圓楽は「代わりに変な芸人は入れるな。入れるなら、山田くんを大喜利に入れればいい」と語ったという<ref name="rikunabi" />。<br />
<br />
歴代司会者としては最も長く務めていたが、[[2001年]](平成13年)[[2月11日]]の放送では、本来3問行われる大喜利を2問で終わらせようとしてしまった{{Efn|ちなみにこの7年後に後任司会者の歌丸も同様の失敗をやってしまい、2008年(平成20年)[[2月10日]]放送の時は三遊亭楽太郎(現:[[三遊亭圓楽 (6代目)|6代目三遊亭圓楽]])に「あれをね、うちの師匠がやった後、[[脳梗塞|ああなった]]んですよ」とネタにされた。また、現司会者の[[春風亭昇太]]も[[2017年]][[6月25日]]放送分で同様のミスを犯している。}}。<br />
圓楽本人によると、このミスは[[脳梗塞]]の兆候の現れで、このことが切っ掛けで降板を考えるようになったとのこと<ref>『[[スッキリ!!]]』[[2006年]][[5月15日]]放送分の本人のインタビューより</ref>{{Efn|なお、この「大喜利2問で終了」はこの時が最初と思われがちだが(エピソードが語られる際に用いられる映像がもっぱら2001年放送のものであることが多いため)、それ以前にも[[1999年]](平成11年)[[11月7日]]の放送で行ってしまっている。}}。<br />
<br />
また、この他にも[[2005年]](平成17年)[[6月12日]]の放送でたい平の名前を思い出せず、たい平が挙手をした際に「誰だっけ?」と発言してしまったり、他のメンバーに対しても指名してから名前が出るまでに間が空くことがあった。<br />
<br />
その後2005年(平成17年)[[10月13日]]に脳梗塞の症状が現われ入院し、[[10月16日]]分の放送を最後に番組を休養することとなった。[[2006年]](平成18年)[[1月1日]]放送の新春14時間特番『[[大笑点]]』の終盤で久々のテレビ出演こそ果たしたものの、万全の体調ではなく、無理を押しての出演であった。同年[[3月26日]]から笑点の収録に復帰したもののやはり体調が万全でなく、冒頭の案内部分のみで大喜利司会には復帰できなかった。[[5月14日]]放送分([[4月22日]]収録)の放送開始40周年特番を最後に勇退し、歌丸に司会の座を正式に譲った。<br />
<br />
司会当時のエンディングでの締め文句はもっぱら「'''といったところで笑点お開き!また来週のお楽しみ、ありがとうございました。'''」で定着していた(地方収録など回によっては、若干異なる場合もあった)。<br />
<br />
[[2007年]](平成19年)1月1日に放送の『大笑点』では、降板後では初めてゲスト出演。翌2008年(平成20年)[[3月9日]]には高座・テレビ引退後久々に弟子の真打昇進披露口上のため『笑点』出演となったが、体調を考慮して三本締めの音頭は惣領弟子・[[三遊亭鳳楽]]が行った。<br />
<br />
笑点の[[大喜利 (笑点)|大喜利]]には、「実は台本があり、誰がどのような答えを言うかはあらかじめ決まっている」という[[都市伝説]]があったが、逝去直前笑点の司会者時代の回想で、大喜利の際には「'''あの答えは誰に答えさせようか、視聴率を気にしながらよく悩んだ'''」と、それを否定する趣旨の発言をしている。<br />
<br />
歌丸には「圓楽さんに逆らえる人間は落語界にはいない」{{Efn|とは言いながら、大喜利においてその圓楽を頻繁に罵倒し、座布団没収の枚数が最も多かったのは当の歌丸本人であった。もちろんこれは洒落であり、半世紀以上の付き合いがあり「金曜夜席」以来の長い出演経験もある同士だからこその仲がなせる業ともいえる。}}とまで言われ、好楽・楽太郎ら弟子からはもちろん、他の落語家からも尊敬されていたが、「司会がうまい(落語は大したことない、という意趣返し)」などと揶揄(やゆ)されることもあった。追悼特別企画ではその「緻密な司会ぶり」(ミスの多さ)がネタにされた。<br />
<br />
また歌丸は著書の中で「圓楽さんは三波さんに比べるといい加減な人でしょう。でもそのおかげで我々回答者が『ちゃんとしてください!』と突っ込み返すことができる余地が生まれた。そこがまた良かったんです」と評している。<br />
<br />
追悼特番では笑点だけでなく落語の寄席での失敗、弟子一同を集めて小言を垂れる際に[[羊羹]]を[[バナナ]]のごとく丸ごと一本頬張りながら(おかげでまともに小言を聞いていた弟子は一人もいなかった)というほどの甘い物好きぶりや寒がりで厚着をしたことなどが語られ、湿っぽさを感じさせない和やかで明るい雰囲気で進められた。<br />
<br />
そして司会引退および逝去以降も、座布団10枚の賞品のネタ{{Efn|「耳をすませば」のキーワードで、五代目圓楽の豪快な笑い声が収められた笑い袋が賞品にされた(獲得したのは[[春風亭昇太]])。}}にされたり、主に楽太郎(六代目円楽)から歌丸罵倒ネタの際に(物真似されるなどして)引き合いに出されていたりしており、今なお「笑点といえば、圓楽」のイメージは生き続けている。<br />
<br />
=== 現役引退・晩年 ===<br />
『笑点』降板後に出演した『[[徹子の部屋]]』([[テレビ朝日]]、[[2006年]][[6月5日]]放送)では落語家として引退はせず、後輩の指導にあたると発言した。また同年[[7月20日]]放送の『[[クイズ$ミリオネア]]』([[フジテレビジョン|フジテレビ]])では、初代 林家木久蔵(現:[[林家木久扇]])の応援としてVTR出演している。<br />
<br />
[[2007年]]([[平成]]19年)[[2月25日]]に落語会「国立名人会」で高座に復帰することとなり、自分の進退をかけ本番の半年前から稽古をして臨んだ。しかし、その出来に納得がいかずに引退を決意。口演後の記者会見で現役引退を表明した。弟弟子の[[三遊亭圓窓|6代目三遊亭圓窓]]が「まだやれるじゃないの。高座に上がらない圓楽兄さんなんて考えられない」などと説得をしたものの決意は固かった。引退記念の高座が予定されていなかったことから、この日演じた『[[芝浜]]』が最後の高座となった。<br />
<br />
また同年[[4月1日]]放送『[[いつみても波瀾万丈]]』(日本テレビ)の出演をもって、テレビ出演の引退も表明した([[2008年]][[3月9日]]放送『笑点』には弟子の真打昇進披露口上のため出演した)。なお、[[1967年]](昭和42年)から担当していた[[日本香堂]]のCMは[[2009年]](平成21年)まで出演を継続していた。生前の圓楽の言によれば「ギャラもらってるからね」という理由でCMのみの出演を続けていたとのことであるが、実際は日本香堂の会長と私的にも交流のあったためであり、また引退後も自分の健在をアピールできる唯一の場であった為と圓楽没後に前述の会長がテレビで語っている。<br />
<br />
同年[[11月]]に[[胃癌]]の手術を受け、翌[[2008年]](平成20年)3月には[[肺癌]]の手術を受けた<ref>[http://www.nikkansports.com/entertainment/news/p-et-tp0-20080403-343618.html 円楽肺がん手術] 日刊スポーツ 2008年4月3日閲覧</ref>。<br />
<br />
2008年8月、愛弟子の楽太郎に自らの名跡である圓楽を6代目として襲名させることが明らかとなった(林家木久扇による、子息の[[林家木久蔵 (2代目)|2代目木久蔵]]襲名以来となる[[生前贈与]]となる予定であった)。このことは弟子の好楽や後任司会者の歌丸により『笑点』でもネタにされている。圓楽は「私はもう落語家を引退した身ですから」として楽太郎の6代目圓楽襲名後は落語界から完全に引退し、隠居することを表明していた。名前については、木久扇の師匠である[[林家彦六]](8代目[[林家正蔵]]、彦六は三遊亭圓楽を3代目として名乗っていたこともあった)のように隠居名を名乗らず、本名の「吉河寛海」に戻すことを明らかにしたが、「師匠が落語家でなくなってしまうのは嫌だ」という楽太郎の反対により「5代目圓楽」「6代目圓楽」とを並立させる(楽太郎は〈圓〉ではなく〈円〉を通すと表明)予定であった。<br />
<br />
[[2009年]](平成21年)5月、肺癌が再発。同時期に脳梗塞も再発し、半身不随となった。9月に[[慶應義塾大学病院]]に入院し{{Efn|この際、真っ先に見舞いに駆けつけた歌丸に向かって言った最初の言葉が「歌さんタバコ持ってない?」とのことで、歌丸を呆れさせた。なお歌丸自身は2009年(平成21年)に[[肺気腫]]で入院して以降、禁煙している。ただし、歌丸が[[2001年]](平成13年)に[[急性腹膜炎]]で手術をした際、麻酔が切れた際、冨士子夫人と長女に発した第一声が「たばこ」であり、当然ながら冨士子夫人と歌丸の長女を唖然とさせている。}}、本人の意向により10月23日に退院。自宅(および近所に住む長男宅での)療養に入った。[[10月29日]]、転移性肺癌のため長男宅で、76歳で死去。訃報は翌日の[[10月30日]]に公表された。圓楽の逝去を受け、愛弟子の楽太郎を始め、桂歌丸、立川談志、林家こん平、[[橘家圓蔵 (8代目)|8代目橘家圓蔵]]、[[鈴々舎馬風]]など多くの落語家が哀悼のコメントを発表した。またかつては『笑点』の裏番組(『[[ヤングおー!おー!]]』)の司会を長年担当し、東西の噺家タレントとしてライバルであり戦友でもあった桂三枝(現:[[桂文枝 (6代目)|6代桂文枝]])は自らの[[ブログ]]で圓楽へ向けた哀悼のメッセージを綴った<ref>[http://sanshi.laff.jp/blog/2009/10/post-ed82.html 桂三枝ブログ] 2009年10月30日閲覧</ref>。<br />
<br />
圓楽は[[2010年]](平成22年)2月に行われることになっていた楽太郎の6代目圓楽襲名を楽しみにしており、襲名に際し2代の圓楽揃い踏みが行われるはずであったが、目前にして叶わぬ夢となってしまった。<br />
<br />
死去の一報を受けた[[日本香堂]]は自社のホームページにて哀悼の意を表した<ref>[http://www.nipponkodo.co.jp/info/20091030.html 日本香堂公式ホームページ]</ref>。その後、日本香堂・[[毎日香]]のCFナレーションは、[[2010年]](平成22年)[[2月28日]]より、同日の『笑点』をもって名跡を襲名した直弟子・6代目圓楽が継承している。また、死去翌日の『[[NNN Newsリアルタイム]]』(日本テレビ)ではその死がトップニュースで報じられた。<br />
<br />
[[戒名]]は、「'''光岳院情誉圓楽寛海居士'''」(こうがくいんじょうよえんらくかんかいこじ)。[[遺影]]も圓楽が生前に選んでおり、[[国立演芸場]]での高座で『[[芝浜]]』を演じている際の写真が使われた。死去直後の週の11月1日の笑点は歌丸が喪服で追悼する特番が大喜利の前に組まれ、生前の若いころの落語を演芸コーナーで放送し、死去前に収録した大喜利が放送された。死の翌週、2009年(平成21年)11月8日の『笑点』では追悼特別企画として生前を振り返り、後半では「ありがとう円楽さん、追悼大喜利」を放送し、5代目を偲んだ。副音声での解説放送は休止された。<br />
<br />
一門・親族による、[[通夜]]・[[密葬]]は[[2009年]](平成21年)[[11月4日]]・[[11月5日|5日]]の両日に[[代々幡斎場]]で非公表にて執り行われ、同年[[11月21日]]に一門主催による「[[お別れの会]]」が[[東京會舘]]にて行われた。この「お別れの会」の席の中で、これまでの「[[円楽一門会]]」をそのまま「'''五代目圓楽一門会'''」(会長:[[三遊亭鳳楽]])へ改称・改組する方向であることが明らかになった。<br />
<br />
== 略歴 ==<br />
[[File:3tachibana 001.svg|thumb|200px|三ツ組橘は、圓楽一門の[[定紋]]である<br />(『[[笑点]]』では「[[桔梗紋|丸に桔梗]]」を使用していた)]]<br />
* [[1955年]]([[昭和]]30年)2月 - 6代目三遊亭圓生に入門、「[[三遊亭全生]]」(ぜんしょう)と名乗る。<!--(元々、前年の9月に入門し既に高座にも上がっていたが高座名がなかったため、落語協会の公式プロフィールではこの時に入門となっている)--><br />
* [[1958年]](昭和33年)3月 - 二つ目昇進。<br />
* [[1962年]](昭和37年)10月 - [[真打]]昇進し「5代目 [[三遊亭圓楽]]」襲名。<br />
* [[1965年]](昭和40年)[[3月12日]] - [[日本テレビ放送網|日本テレビ]]『[[金曜夜席]]』放送開始。第1回から出演。当初は大喜利司会者だったが、第4回からメンバーへ。<br />
* [[1966年]](昭和41年)[[5月15日]] - 日本テレビ『[[笑点]]』放送開始。<br />
* [[1969年]](昭和44年)<br />
** [[3月30日]] - 『笑点』降板。<br />
** [[4月8日]] - 日本テレビで主役のドラマ『[[笑ってよいしょ]]』放送開始([[6月17日]]まで)。<br />
* [[1970年]](昭和45年)[[6月21日]] - 『笑点』復帰(復帰の際、弟弟子6代目圓窓を連れて来ていた)。<br />
* [[1977年]](昭和52年)[[3月27日]] - 『笑点』卒業([[8月21日]]には弟弟子6代目圓窓も卒業している)。[[芸術祭 (文化庁)|文化庁芸術祭]]優秀賞受賞。<br />
* [[1978年]](昭和53年)[[6月1日]] - 師匠圓生一門と共に落語協会を脱退し([[落語協会分裂騒動]])、「落語三遊協会」創設。<br />
* [[1979年]](昭和54年)[[9月3日]] - 師匠圓生死去。<br />
* [[1980年]](昭和55年)[[2月1日]] - 圓楽を除く圓生の直弟子は落語協会に復帰。圓楽一門で新たに「大日本落語すみれ会」を設立。<br />
* [[1983年]](昭和58年)[[1月9日]] - 4代目司会者として『笑点』復帰。<br />
* [[1985年]](昭和60年)<br />
** 「大日本落語すみれ会」を「落語円楽党」、「落語ベアーズ」と次々と改称し「[[円楽一門会]]」に落ち着く。<br />
** 3月 - 私財を投げ打って[[東京都]][[江東区]]東陽に寄席「[[若竹]]」開館。<br />
* [[1988年]](昭和63年) - 文化庁芸術祭賞受賞。<br />
* [[1989年]]([[平成]]元年)[[11月25日]] - 経営難のため若竹閉館。<br />
* [[2005年]](平成17年)<br />
** [[5月31日]] - [[六人の会]]が主催した「余一会」で27年ぶりに[[新宿末廣亭]]出演。<br />
** [[10月23日]] - [[人工透析]]のため通院していた病院で[[脳梗塞]]の症状が現れたため入院。<br />
* [[2006年]](平成18年)[[5月14日]] - 『笑点』勇退。高座復帰として9月に[[三遊亭好楽|好楽]]の会で小咄、10月に[[笑福亭鶴瓶|鶴瓶]]の会で落語(『[[紺屋高尾]]』)をそれぞれ披露。<br />
* [[2007年]](平成19年)<br />
** [[2月4日]] - 「第23回[[浅草芸能大賞]]」大賞。授賞式で『芝浜』を口演、本格復帰表明。<br />
** [[2月25日]] - 国立演芸場での「国立名人会」で復帰と同じ『芝浜』を口演後、現役引退表明。<br />
** [[4月1日]] - 日本テレビ『[[いつみても波瀾万丈]]』をもってテレビ出演引退。<br />
** [[7月15日]] - 東京・銀座の中央会館で行われた「大銀座落語祭」のトークショーを、風邪による体調不良のため欠席した。圓楽の5ヶ月ぶり登場を待ち望んでいたファンも多かっただけに、同祭を主催する「六人の会」の[[春風亭小朝]]、[[笑福亭鶴瓶]]、[[春風亭昇太]]、[[林家正蔵 (9代目)|9代目林家正蔵]]、『笑点』で共演していた[[林家木久蔵]](現:[[林家木久扇]]、電話で急遽呼びつけられたと高座での本人談)ら豪華メンバーが代演に駆け付けた。鶴瓶は「対談と思って着物を持ってこなかった」と浴衣姿で大先輩の穴を埋めた。結果、観客からの不満は漏れなかったという。<br />
** [[11月3日]] - [[旭日小綬章]][[叙勲]]受章。<br />
** [[11月19日]] - 胃癌発病による[[手術]]のため、[[慶應義塾大学病院]]入院。<br />
** [[12月16日]] - 叙勲を祝う会に出演。<br />
* [[2008年]](平成20年)<br />
** [[3月9日]] - 円楽一門会新真打披露口上のため、『笑点』に出演。<br />
** 4月 - 胃癌[[肺]][[転移 (医学)|転移]]<ref>2009年11月1日、[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]『[[真相報道 バンキシャ!]]』内での報道から</ref>に対する手術を行う。<br />
* [[2009年]](平成21年)<br />
** [[10月29日]](午前8時15分) - 転移性肺癌のため、[[東京都]][[中野区]]の長男宅にて死去<ref>2009年10月30日、[[讀賣テレビ放送|読売テレビ]]『[[情報ライブ ミヤネ屋]]』内での報道から</ref><ref name="mainichi" />。[[享年]]77(満76歳没)。<br />
** [[12月23日]] - [[バップ|VAP]]より、生前の笑点での映像が詰まったDVD『[[笑点 ありがとう円楽さん! 〜五代目 三遊亭円楽を偲ぶ映像集〜]]』<ref>[http://www.vap.co.jp/enraku/ 『笑点 ありがとう円楽さん!〜五代目 三遊亭円楽さんを偲ぶ映像集〜』] VAPビデオリリース情報 </ref>が発売された。<br />
<br />
== 他の落語家との関係 ==<br />
* [[三遊亭圓生 (6代目)|6代目 三遊亭圓生]]に入門する2年前、入門するつもりは無かったが人柄が良さそうだったからと言う理由で[[三遊亭圓歌 (2代目)|2代目 三遊亭円歌]]に落語家になることについて相談をしに行った。<br />
* [[立川談志]]のことは「嫌い」と公言しているが、圓楽が本当に嫌っていたのは談志の師匠・[[柳家小さん (5代目)|5代目柳家小さん]]であったとされる(上述の分裂騒動時の落語協会会長であったため)。ただし分裂騒動時の小さんの行動について圓楽は一定の理解も示している上、小さんが会長に就任した直後に圓楽が「10年以上二つ目にとどまっている噺家達を真打に昇進させるべきだ」と小さんに進言もしている。<br />
* 自身の証言によれば、3代目圓楽でありその名跡を持つ[[林家彦六|8代目 林家正蔵]]は師匠・圓生と最後までそりが合わなかったとされるが、一方で圓楽は気に入られていたため、5代目を襲名させたとされる。なお正蔵の自伝では「圓生が名前をくれというので襲名させた。『くれ』と言われりゃやらない訳にもいかない」といった表現になっている。圓楽自身は、正蔵に気に入られるきっかけとなったいきさつを以下のように語っている。<br />
** 圓楽がまだ全生と名乗っていた二つ目の時分、懇意にしていた[[柳家小半治]]が亡くなった。寺院出身の全生は小半治のために経を唱えてやりたいと思い、先輩の[[橘家圓太郎|7代目 橘家圓太郎]](当時正蔵門下だった)と[[古今亭甚語楼 (2代目)|2代目 古今亭甚語楼]]に葬式の場所をきいたが二人に嘘をつかれ、結局葬儀に立ち会えなかった。後日楽屋で二人を見つけて怒った全生は口論となるが、そこへ正蔵が現れた。「後輩の癖に生意気な口を利くな、俺が相手になってやるから表へ出ろ」と正蔵に叱責され、激昂した全生は「上等だ相手になってやる」と大先輩に向かって返す。外へ出ると、正蔵は一変して笑顔になり、「あの場では圓太郎等の手前、ああ言わざるを得なかった。おまえは気が短いようだが、自分も短気では随分と損をしてきたから、気は長く持たなければならないよ」と優しく諭されたという。それが縁で稽古をたくさん付けてもらうようになり、ゆくゆくは圓楽の名をあげると言われるようになったのだという。<br />
<br />
== 人物 ==<br />
* 幼い頃は病弱で[[腎炎]]、[[結核]]との闘病を経験する。腎臓の病はその後も水面下で進行し、66歳の時に腎不全を発症。以後は週3回の人工透析を受けるようになる。<br />
* [[血圧]]もかなり低く、普段でも最高血圧が80[[水銀柱ミリメートル|mmHg]]しかなかったという。<br />
* 落語家になって数年経っても「噺は上手いが圓生の真似だ」と言われ圓楽自身も悩み、ストレスで一時は体重が48kgになったり自殺未遂をしかけるほどだった。しかし母親から「お前は名人だよ」と言葉をかけられ、自分にはこんなに気遣ってくれる人がいるのだという思いで、なんとかスランプを脱出。後にそれをネタにして若き日の自己のキャッチフレーズを「'''名人圓楽'''」とするが、師匠などから「若手の分際で名人とは生意気だ」と怒られキャッチフレーズを「[[星の王子さま]]」に変更した。<br />
** 「星の王子さま」時代のキャラについては「'''テレビに出たら、今まで寄席で自分がタブーとしていたことを全部やってやろうと思って'''」自らが意図的に演じたキャラだったと『[[いつみても波瀾万丈]]』出演時に語っていた。ちなみに圓楽がタブーとしていたことの一つは「'''キザになってはいけない'''」ことだそうである。なお、圓楽を除く圓楽一門の落語家が所属していた芸能事務所『[[星企画]]』の名はこの「星の王子さま」に由来している。<br />
** また、「星の王子さま」で売り出した時期より長い間[[パンアメリカン航空]]のテレビ[[コマーシャルメッセージ|CM]]に出演していた。<br />
* 一時期は事実上テレビ専業の「落語家タレント」であった。その代わりレギュラーは多くバラエティ、ドラマと何でもこなした。圓楽は「落語界・寄席でタブーとされることを全部やってやる」「寄席の価値観の逆をやる」という戦略をとり、瞬く間にスターとなった。例えば「キザ」という価値観は寄席では排除されるものだが、圓楽はあえてキザであり続けた。<br />
** [[前田憲男]]とプレイボーイズのLP『円楽のプレイボーイ講座 12章』がそのあらわれである。このLPは[[横山剣]]([[クレイジーケンバンド]])により絶賛<ref>少年時代にこの曲から現在に通じる音楽観、その影響を大いに受けたと語っている。</ref>され、[[2001年]]([[平成]]13年)にCD化([[2008年]]、紙ジャケットCDとして再発。2010年には通常版で再々発)。[[ジャズ]]の調べに乗せてエスプリたっぷりに女性の口説き方を、独特のキザな語り口で聴かせている。<br />
** 圓楽主演のテレビドラマ『[[笑ってよいしょ]]』([[東映]]製作・[[日本テレビ系列]])までが制作され、[[野末陳平]]と一緒に歌ったドラマタイトルと同じ曲名の主題歌「笑ってよいしょ」を発表する。後に[[ソニー・ミュージックエンタテインメント (日本)|ソニー・ミュージック]]で発売された[[コミックソング]]を集めた[[コンピレーションCD]]・「SMILE」に収録された。そのライナーノーツによると「ソニーミュージック最古の[[コミックソング]]」という。また、[[日活]]の映画『[[ハレンチ学園]]』シリーズにも主要なコメディリリーフで出演していた。<br />
** 師匠に諭されて[[1977年]]からは、落語に集中するために『笑点』含む全レギュラー出演から降板した<ref>『笑点』で卒業式を行って卒業し、[[寄席]]の活動にシフトした。</ref><ref name="ennraku1" />。[[1983年]]に司会者として『笑点』に復帰した後もテレビのレギュラー番組は原則として『笑点』と[[NHK総合テレビジョン|NHK総合]]『[[笑いがいちばん|お好み演芸会]]』<ref>『笑点』復帰前の1980年4月から大喜利コーナー「花の落語家五人衆」(当初は「六人衆」だったが、初代林家三平逝去により変更)レギュラー。</ref>以外に持たなかった。6代目圓生・圓楽らはその翌年[[落語協会分裂騒動]]を起こす。<br />
** 背広には、高座名や本名ではなく「[[革命児サパタ]]」とネームを入れていた(6代目圓楽談)。同名の映画が好きだったのか、その映画の主人公であるメキシコの革命家[[エミリアーノ・サパタ]]を尊敬していたのか、そのサパタを演じた[[マーロン・ブランド]]のファンだったのか、詳細は不明。<br />
* 「[[仮面ライダー]]」が人気を博していた頃は、笑点の大喜利で、しばしばそれをネタにした答えを言っていた。<br />
* [[読売ジャイアンツ]]のファンであり、[[ジャビット]]の絵が描かれた[[扇子]]を持っていた。<br />
* [[麻雀]]の腕前はプロ級だった。行きつけの[[雀荘]]は旧日本テレビ本社ビル近く・二番町にあった「サラブレッド」。<br />
* [[プロレス団体]]の[[フロンティア・マーシャルアーツ・レスリング|FMW]]のコミッショナーも務めていたことがある。<br />
* 面長([[顔]]が長いこと)で知られ、笑点でもネタにされることが、没後の現在に至っても多々ある。前述の「行きつけの麻雀店名」も相まって、あだ名は「馬」。馬扱い・馬呼ばわりされるネタも多々見られる。<br />
* 小言も長い。反対に弟子の六代目圓楽は「自己の自慢話が長い」といずれもネタにされることが多々ある。<br />
* [[甘党]]であることで知られ、それに関わるエピソードも多々ある。<br />
** [[加糖練乳]]を直接食することを好んでおり、地方での仕事の際に[[イチゴ]]に掛けるために出された練乳を直接飲んで、挙げ句にお代わりまで求めたことを、その場に居合わせた[[林家木久扇]]によって後にネタにされている。木久扇曰く、当時、「この練乳というものはだな、戦時中は大変高価な物であって……」と圓楽は蘊蓄を語り出したらしい。<br />
** また、弟子を全員集めて小言をついていた際に、圓楽の目の前に大型の[[羊羹]]が2棹あり、小言をつきながらも[[鋏]]を使いながら[[バナナ]]を食するように皮膜を剥がして、しゃべりながら2棹とも平らげてしまった、ということもある<ref name="ennraku1" />(当然、羊羹が口に入った状態でしゃべったときは、話し声がモゴモゴしていた)。小言はいつものように長かったが、楽太郎曰く、羊羹を食べきるのかどうかが気になって、弟子一同、圓楽本人の小言の内容は誰も聞いていなかったとのこと。<br />
* [[好々爺]]然とした晩年の司会振りとは対照的に、世相問題などでは保守的な持説があり、[[読売新聞#注目を集めた報道・スクープ|読売改憲試案]]支持や、[[サマータイム]]導入などを訴えていた。教育問題に関しても、著書やインタビューで[[父権]]復活を訴えていた。[[いじめ]]自殺が社会問題化した際には「いじめをやるような子供は、島に隔離して怖い先生に鍛え直してもらえばいいんだ」と発言し物議を醸したことがある。<br />
* [[自由民主党 (日本)|自由民主党]]の大物政治家で[[衆議院議長]]・[[文部大臣 (日本)|文部大臣]]を務めた[[灘尾弘吉]]と[[親戚]]関係だった(灘尾弘吉の父方のいとこの妻が、圓楽の母の姉にあたる)<ref name="joseijishin">『女性自身』1981年5月14日・21日合併号。</ref>。この件はテレビや雑誌でも本人が語っていた。また内閣総理大臣を務めた[[三木武夫]]、[[福田赳夫]]といった大物政治家とも交友関係にあった為、[[1986年]](昭和61年)の[[第14回参議院議員通常選挙|参議院選挙]]の際には出馬を打診されてもいるが、実現はしなかった。彼自身も保守的な思想の持ち主で、憲法改正について訴えたり、[[サマータイム]]導入を訴えたりしていた。<br />
* [[1972年]](昭和47年)[[6月14日]]に発生した[[日本航空ニューデリー墜落事故]]で、[[客室乗務員]]だった実妹(当時23歳)を亡くしている。その事故の直前、圓楽が実家の本堂で睡眠していると、誰も叩いてないはずの[[木魚]]の音に目を覚まさせられ、その直後に実妹の訃報が届いたという。<br />
* [[1988年]](昭和63年)には、実家の寺院に自身の墓を生前建立していた(いわゆる「'''[[寿陵]]'''」)。自他共に認めるせっかちな性格もあり、他人の作った墓に入るよりは自身で早く作ってしまおうと考えたため自分の墓を建立したとのこと。寺の生まれであるため、その墓石の素材等にもこだわりを持っていたと、6代目圓楽襲名決定記者会見の中で明らかにしている。墓石には'''「円楽之墓」'''と刻まれている。<br />
** また、自らの墓の隣には航空機事故で早世した実妹(先述)の供養観音を建立している<ref>[http://www.nikkansports.com/entertainment/news/p-et-tp0-20091101-561742.html 円楽さん不慮の死をとげた妹と易行院に] 日刊スポーツ 2009年11月1日閲覧</ref>。<br />
<br />
== 弟子 ==<br />
(香盤順)<!--落語協会脱退・若竹前後で廃業した噺家はカウントしません--><br />
* [[三遊亭鳳楽]]<br />
* [[三遊亭好楽]](元は林家彦六の弟子だが、師匠彦六死去後に圓楽一門に移籍)<br />
* [[三遊亭圓橘#6代目|6代目三遊亭圓橘]](元は[[三遊亭小圓朝#3代目|3代目三遊亭小圓朝]]の弟子だが、師匠小圓朝死去に伴い圓楽一門に移籍)<br />
* [[三遊亭円楽 (6代目)|6代目三遊亭圓楽]]<br />
* [[三遊亭楽之介]]<br />
* [[三遊亭貴楽]]<br />
* [[三遊亭小圓楽]]<br />
* [[三遊亭喜八楽]]<br />
* [[三遊亭五九楽]]<br />
* [[三遊亭楽麻呂]]<br />
* [[三遊亭圓左衛門]]<br />
* [[三遊亭道楽]]<br />
* [[三遊亭栄楽]]<br />
* [[三遊亭とん楽]]<br />
* [[三遊亭楽春]]<br />
* [[三遊亭洋楽]]<br />
* [[三遊亭真楽]]<br />
* [[三遊亭竜楽]]<br />
* [[三遊亭良楽]]<br />
* [[三遊亭愛楽]]<br />
* [[三遊亭京楽]]<br />
* [[三遊亭全楽]]<br />
* [[三遊亭神楽]]<br />
* [[三遊亭上楽]]<br />
* [[三遊亭圓福]](福楽改め)<br />
* [[三遊亭大楽]]<br />
* [[三遊亭王楽]](三遊亭好楽の息子、圓楽の引退に伴い最後の弟子になる)<br />
<br />
# 現在門下のみ。孫弟子は[[円楽一門会]]を参照。<br />
# [[三遊亭圓好#7代目|7代目三遊亭圓好]]は当初は圓楽門下に入門して三遊亭甘楽と名乗っていた。しかし、後に大師匠である6代目圓生に前座がいなくなったため圓生門下に移籍している。その後も圓楽の弟子として復帰することなく、6代目圓生の直弟子として振る舞った(6代目圓生死後、圓楽以外の他の弟子とともに落語協会に復帰)。<br />
<br />
== 主な出演作 ==<br />
=== テレビ番組 ===<br />
* [[金曜夜席]]([[日本テレビ放送網|日本テレビ]]、[[1965年]] - [[1966年]])<br />
* [[笑点]](日本テレビ)<br />
* [[シャボン玉ホリデー]](日本テレビ)<br />
* [[底ぬけ脱線ゲーム]](日本テレビ)<br />
* [[第18回NHK紅白歌合戦]]([[NHK総合テレビジョン|NHK総合テレビ]]、[[1967年]]) - 白組応援団<br />
* [[お昼のゴールデンショー]]([[フジテレビジョン|フジテレビ]])<br />
* [[オールナイトフジ (1969-1975)|オールナイトフジ]](フジテレビ、[[1969年]] - [[1971年]])<br />
* [[三波伸介の家族そろって三つの歌|家族そろって三つの歌]](日本テレビ)- 家族で出演<br />
* [[第14回日本レコード大賞]]([[TBSテレビ|TBS]]、[[1972年]]) - [[銀座]]4丁目交差点担当レポーター<br />
* [[笑いがいちばん|お好み演芸会]](NHK総合テレビ、[[1980年代]])<br />
* [[初詣!爆笑ヒットパレード]](フジテレビ、[[1983年]]司会)<br />
* [[番組対抗かくし芸大会]](日本テレビ)<br />
<br />
=== ラジオ番組 ===<br />
* [[圓楽の奥様読本]]([[ニッポン放送]])<br />
* [[現代世相噺]]([[アール・エフ・ラジオ日本|RFラジオ日本]])<br />
* [[ふむふむ問答]]<br />
<br />
=== テレビドラマ ===<br />
* [[笑ってよいしょ]](日本テレビ、[[1969年]]) - 主演<br />
* [[東京警備指令 ザ・ガードマン]] 第321話「結婚式から逃げた花嫁」(TBS、[[1971年]]) - ゲスト出演<br />
* [[銭形平次 (大川橋蔵)|銭形平次]] 第869話「平次、暗殺!」(フジテレビ、[[1983年]]) - ゲスト出演<br />
* 町奉行日記 単身赴任、本日も出社せず(テレビ朝日、1987年)<br />
* [[奇兵隊 (テレビドラマ)|奇兵隊]](日本テレビ、[[1989年]]) - [[白石正一郎]] 役<br />
<br />
=== 映画 ===<br />
* [[ザ・タイガース 世界はボクらを待っている]]([[東宝]]、[[1968年]]) - ナルシス殿下 役<br />
* [[進め!ジャガーズ 敵前上陸]]([[松竹]]、[[1968年]]) - 警部 役<br />
* 青春喜劇 [[ハレンチ学園]]シリーズ([[日活]]、[[1970年]] - [[1971年]]) - 教育大臣・大和田武彦 役<br />
* [[ダメおやじ]]([[松竹]]、[[1973年]]) - 葬儀屋 役<br />
* [[日本フィルハーモニー物語 炎の第五楽章]]([[日活|にっかつ]]、[[1981年]]) - 村田 役<br />
* [[みゆき (漫画)|みゆき]]([[東宝]]、[[1983年]]) - 鹿島安次郎 役<br />
* [[魚影の群れ]]([[松竹富士]]、1983年) - エイスケ 役<br />
* [[七年目の浮気]](吹き替え出演:NETテレビ 1969年5月18日『[[日曜洋画劇場]]』)<br />
<br />
=== CM ===<br />
* [[全国酪農業協同組合連合会]](全酪牛乳)<br />
* [[東海 (ライターメーカー)|東海]](チャッカマン)<br />
* [[日本香堂]]<br />
* [[パンアメリカン航空]]<br />
* [[パナソニック]]([[パナソニックのテレビブランドの変遷|テレビ「輝」]])<br />
<br />
==著書==<br />
*『円楽の艶笑江戸川柳』編 土屋書店 1973<br />
*『円楽の艶笑落語』編 新風出版社 1973<br />
*『円楽、親父を叱る 自信を取り戻す父親のゲンコツ教育』芳文社 1981<br />
*『笑点円楽のよろずガイダンス 笑っちゃうくらいタメになる』日本テレビ放送網 1985<br />
*『圓楽芸談しゃれ噺』白夜書房 2006<br />
<br />
== 脚注 ==<br />
{{脚注ヘルプ}}<br />
{{Notelist}}<br />
=== 出典 ===<br />
{{Reflist|2}}<br />
<br />
== 関連項目 ==<br />
* [[三遊亭圓楽]]<br />
* [[笑点]]<br />
* [[円楽一門会]]<br />
* [[落語家一覧]]<br />
* [[ボンさん]]<br />
* [[御乱心 落語協会分裂と、円生とその弟子たち]](著者:[[三遊亭圓丈]])<br />
* [[落語協会分裂騒動]]<br />
* [[日本香堂]]・[[毎日香]](CMの語り手で出演)<br />
<br />
{{笑点司会者}}<br />
{{笑点}}<br />
{{日本放送演芸大賞}}<br />
<br />
{{デフォルトソート:さんゆうてい えんらく05}}<br />
[[Category:落語家]]<br />
[[Category:笑点]]<br />
[[Category:三遊亭圓楽]]<br />
[[Category:日本の司会者]]<br />
[[Category:円楽一門会]]<br />
[[Category:吉川氏]]<br />
[[Category:プロレスの関係者]]<br />
[[Category:日本のラジオパーソナリティ]]<br />
[[Category:日本の男優]]<br />
[[Category:日本のタレント]]<br />
[[Category:日本のナレーター]]<br />
[[Category:東京都区部出身の人物]]<br />
[[Category:旭日小綬章受章者]]<br />
[[Category:1933年生]]<br />
[[Category:2009年没]]</div>
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