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http:///mymemo.xyz/wiki/api.php?action=feedcontributions&feedformat=atom&user=2409%3A251%3A4060%3A1F00%3A4DD8%3A7D60%3AFFB9%3A40BC miniwiki - 利用者の投稿記録 [ja] 2024-05-24T03:13:59Z 利用者の投稿記録 MediaWiki 1.31.0 失われた10年 2018-05-19T09:09:38Z <p>2409:251:4060:1F00:4DD8:7D60:FFB9:40BC: </p> <hr /> <div>&#039;&#039;&#039;失われた10年&#039;&#039;&#039;(うしなわれた10ねん)とは、ある国、あるいは地域の[[経済]]低迷が約10年以上の長期にわたる期間を指す語である。1980年代のメキシコ経済の不振を表した言葉が語源である&lt;ref name=&quot;keizainoshikumi156&quot;&gt;野口旭 『「経済のしくみ」がすんなりわかる講座』 ナツメ社、2003年、156頁。&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> [[アメリカ文学]]における[[失われた世代|ロストジェネレーション]]が、[[第一次世界大戦]]後の[[1920年代]]から[[1930年代]]、すなわち、[[狂騒の20年代]]から急転落の[[世界恐慌]]の時代にかけて活躍した経緯から、ロストジェネレーションの冷笑的で厭世的な世界観を寓喩して用いられることが多い。<br /> <br /> * [[イギリス]]では第二次世界大戦後の[[1946年]] - [[1955年]]。<br /> * [[ラテンアメリカ]]では[[1980年代]]。特に、[[チリ]]の1980年代は[[アウグスト・ピノチェト]]政権の時代と重なる。<br /> * [[大韓民国|韓国]]では[[ハンナラ党]]が[[金大中]]・[[盧武鉉]]両政権([[1998年]] - [[2008年]])を指して批判的な意味を込めて述べる。<br /> * [[日本]]では1990年代全般&lt;ref name=&quot;keizainoshikumi156&quot; /&gt;、[[1991年]]3月から[[2002年]]1月までの約11年間。本項で述べる。<br /> <br /> 日本における「失われた10年」とは[[安定成長期]]終焉後の[[1990年代]]前半から[[2000年代]]前半にわたる経済低迷の期間(好景気時でも[[実質経済成長率]]が5%以下の低成長)を指す語である。[[聖域なき構造改革|小泉構造改革]]を含むその後については[[失われた20年]]を参照。<br /> <br /> == 経緯 ==<br /> [[日本銀行]]による急速な[[金融]]引き締め([[総量規制]])の事実上の失敗を端緒とした[[信用]]収縮と、在庫調整の重なった[[バブル崩壊]]後の急速な景気後退に、財務当局の失政、[[円相場|円高]]、世界的な景況悪化などの複合的な要因が次々に加わり不況が長期化した。[[銀行]]・[[証券会社]]などの大手金融機関の破綻が[[金融不安]]をひきおこすなど、日本の経済に大打撃を与えた。これにより、[[1973年]]12月から続いていた[[安定成長期]]は17年3ヶ月間で終わった。<br /> <br /> 多数の企業[[倒産]]や、従業員の[[解雇]]([[リストラ]])、金融機関を筆頭とした企業の統廃合などが相次いだ。この10年で本来通り成長していれば、100兆円得られたという試算もある&lt;ref&gt;佐藤雅彦・竹中平蔵 『経済ってそういうことだったのか会議』 日本経済新聞社学〈日経ビジネス人文庫〉、2002年、377頁。&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> [[1991年]]3月から始まった「失われた10年」は、バブル崩壊([[平成不況]])に始まり、小泉構造改革によって[[2002年]]1月を底とした外需先導での景気回復により終結した。<br /> <br /> ただし、この期間中にも、[[1993年]]末頃から[[1997年]]前半頃まで、[[カンフル剤]]注入政策(景気回復政策)によるカンフル景気または、さざ波景気([[景気拡張期]])、その後の[[アジア金融危機]]不況([[景気後退期]])、[[1999年]]初頭から[[2000年]]春頃にかけての[[ITバブル]]景気(景気拡張期)と、その後のITバブル崩壊不況(景気後退期)で景気の波はあった。ちなみに、その後の景気回復は、6年1ヶ月の長期間であったため、「[[いざなみ景気]]」と呼ばれたが、低成長にとどまり、実感がなく、しかも一部地域を除いて本格的な好景気に至らなかったため、「だらだら陽炎景気」とも呼ばれた。その後はサブプライムローンをきっかけに大不況([[世界金融危機]]不況、世界同時不況)に陥った。このことから、いざなみ景気の期間も含めたバブル崩壊から約20年以上を不況として扱われることから、[[失われた20年]]とも呼ばれる。<br /> <br /> == 原因 ==<br /> 1992年から2002年までの長期停滞の原因について&lt;ref&gt;岩田規久男 『日本経済を学ぶ』 筑摩書房〈ちくま新書〉、2005年、80頁。&lt;/ref&gt;、研究機関や学者などが多くの研究成果を発表している。停滞の具体的な要因として、主に3つの要因仮説が挙げられている。<br /> <br /> * [[聖域なき構造改革|構造]]要因&lt;ref name=&quot;keizainoshikumi156&quot; /&gt;<br /> ** [[企業]][[投資]]の歴史的な停滞<br /> * [[不良債権]]の先送り&lt;ref name=&quot;keizainoshikumi157&quot;&gt;野口旭 『「経済のしくみ」がすんなりわかる講座』 ナツメ社、2003年、157頁。&lt;/ref&gt;<br /> ** [[資産]]価格の著しい低下([[資産デフレ]])による、[[バランスシート]]の悪化<br /> ** 大手[[金融機関]]([[山一證券]]、[[三洋証券]]、[[北海道拓殖銀行]]、[[日本長期信用銀行]]、[[日本債券信用銀行]]など)の経営の失敗<br /> * [[マクロ経済]]政策の失敗&lt;ref name=&quot;keizainoshikumi157&quot; /&gt;<br /> ** [[日本銀行]]の[[金融緩和]]の不徹底や物価動向に逆行する[[金融政策]]の実施([[速水優]]総裁の主導による[[デフレーション]]下の[[ゼロ金利政策]]解除等)<br /> ** 財務当局の失政([[1989年]]の[[消費税]]導入、景気が回復基調に転じた時点での消費税率引き上げ、社会保険の給付引き締めなど)<br /> <br /> [[経済学者]]の[[斉藤誠]]は、日本経済の長期低迷をもたらした主因は、資源価格の上昇と輸出産業の競争力の衰退による交易条件の悪化だとしている&lt;ref&gt;[http://www.fujitsu.com/jp/group/fri/column/opinion/201412/2014-12-3.html 円安vs原油安の経済学:鍵は「交易条件」]富士通総研 2014年12月16日&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 経済学者の[[原田泰]]は「『失われた10年』は、労働投入・資本投入の低下によって引き起こされた」と指摘している&lt;ref&gt;原田泰 『コンパクト日本経済論(コンパクト経済学ライブラリ)』 新世社、2009年、38頁。&lt;/ref&gt;。原田は「TFP([[全要素生産性]])の変動については原因は解らないが、労働投入の変動(減少)については実質賃金の上昇という原因が解っている」と指摘している&lt;ref&gt;原田泰 『コンパクト日本経済論(コンパクト経済学ライブラリ)』 新世社、2009年、44、46頁。&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> その他には以下の要因仮説が挙げられている。<br /> <br /> * 企業の[[債務]]返済による[[財政]]支出の[[乗数効果]]低下<br /> * 世界において相次いだ[[経済危機]]の余波([[1992年]]の[[ポンド危機]]、[[1994年|1994]]-[[1995年]]の[[メキシコ#1994年メキシコ通貨危機|メキシコ危機]]、[[1997年]] の[[アジア通貨危機]])<br /> <br /> == 社会状況 ==<br /> 企業においては、[[1990年代]]後半からは[[デフレーション]]に対応する形で、優良企業では[[有利子負債]]の圧縮が進展し、[[高度経済成長]]末期から続いていた日本企業の過剰な[[レバレッジ]]体質が抜本的に転換され、財務体質が改善された。この企業行動は当時においては停滞の要因であったものの、財務基盤が強化された強力な企業群が形成された。流動資産を抱え込み過ぎて資本効率の低下した企業も生まれ、[[流動比率]]が高すぎる場合には遊休資産が多いとみなされ、買収の標的になるとの指摘もなされた。<br /> <br /> 労働面では、他の世代に比較して世代人口の多い[[1970年代]]生まれが社会に出る時期であったにもかかわらず、企業が採用を削減したことから就職難が深刻化し、[[就職氷河期]]と呼ばれる状況が続いた。長期にわたる不景気が[[デフレーション]]を誘発し、労働者の給与は減少傾向をたどり、[[非正規雇用]]による[[サービス業]]従事者が増加した。<br /> <br /> 消費者の観点からいえば、デフレーションによる低価格で質のよいモノやサービスを提供する企業が増えていった時代である([[良いデフレ論争]]参照)。衣料品では[[ユニクロ]]が、小売業で[[100円ショップ]]が広がっている。<br /> <br /> 従来、不況といえば消費全体に落ち込みが発生するのに対し、失われた10年においては、従来、みられなかった産業形態の発達や、特定のサービスへと顧客が集中する流行現象など、不況下にあっても好成績を出す業態の存在が注目を集めた。[[ニッチ市場]]や高付加価値サービスの発展、あるいは時間的余裕で経済的な不足を補う旅行形態の流行など、いくつかの特徴的な市場の動向も注目を集めた。また、バブル景気の時代には大衆の国外旅行が急速に増加したが、この傾向は同期間において、「短い余暇を有名な観光名所めぐりと買物で過ごす」という形態から、「多少長い余暇をあまり有名ではない名所にまで足を伸ばす」や「繰り返し特定地域に足を運び、密にその地域を楽しむ([[リピーター]])」という形態もみられ、バブル景気の頃に主流であった気忙しい[[パック旅行]]から、「[[豪華客船]]の旅」や「貧乏旅行」、[[青春18きっぷ]]などによる「[[鉄道旅行]]」などのようなシフトもみられる。この中には、[[定年退職]]した者の夫婦旅行や[[失業者]]の長期旅行など、従来では「慎ましく暮らす」という状態が当然であった人たちによる旅行形態も含まれる。<br /> <br /> この時期、[[1993年]]卒([[1992年]]度[[卒業]])から[[2002年]]卒([[2001年]]度卒業)にかけて[[就職活動]]をしていた[[大学生]]、[[専門学校]]生らは非常に厳しい就職活動([[就職氷河期]])を強いられていた点でも、特徴的であり、彼らは氷河期世代もしくは[[失われた世代]](ロストジェネレーション)と呼ばれている。<br /> <br /> 日本の[[労働分配率]]は、1990年頃は60%程度の水準であったが、バブル崩壊以降上昇し、2000年時点では約70%となっていた&lt;ref&gt;竹中平蔵 『竹中平蔵の「日本が生きる」経済学』 ぎょうせい・第2版、2001年、150頁。&lt;/ref&gt;。経済学者の[[竹中平蔵]]は「売り上げが下がっても賃金は下げられないため、企業収益に対する労働分配率が上がってしまった&lt;ref&gt;竹中平蔵 『竹中平蔵の「日本が生きる」経済学』 ぎょうせい・第2版、2001年、106頁。&lt;/ref&gt;」「バブル崩壊後も日本の企業は雇用をできるだけ守り、賃金を引き下げないように努力してきた。労働分配率の上昇は、資本分配率の低下を意味する&lt;ref&gt;竹中平蔵 『竹中平蔵の「日本が生きる」経済学』 ぎょうせい・第2版、2001年、150-151頁。&lt;/ref&gt;」と指摘している。<br /> <br /> 経済学者の原田泰、[[江川暁夫]]は、1990年代の経済停滞における[[実質賃金]]の上昇が、雇用を減少させたとしている&lt;ref&gt;田中秀臣 『日本型サラリーマンは復活する』 日本放送出版協会〈NHKブックス〉、2002年、133-134頁。&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 原田らは、<br /> <br /> #1990年代を通じたデフレ効果<br /> #週40時間労働の導入による時間当たりの賃金の上昇効果<br /> <br /> という2つの効果が相乗して、実質賃金の大幅な上昇を招いたとしている&lt;ref&gt;田中秀臣 『日本型サラリーマンは復活する』 日本放送出版協会〈NHKブックス〉、2002年、134頁。&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 経済学者の[[田中秀臣]]は「名目賃金の下方硬直性の緩みが、日本の長期停滞が生み出した雇用システムの『痛み』である」と指摘している&lt;ref&gt;田中秀臣 『最後の『冬ソナ』論』 太田出版、2005年、161頁。&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 1998年末時点で日本の不動産の価値は2797兆円に及び、住宅・宅地の価値は1714兆円と不動産全体の約六割を占めていた&lt;ref&gt;三和総合研究所編 『30語でわかる日本経済』 日本経済新聞社〈日経ビジネス人文庫〉、2000年、206頁。&lt;/ref&gt;。1998年末の土地資産総額はピーク比で794兆円、株式資産総額は同じくピーク比で574兆円減少している&lt;ref&gt;三和総合研究所編 『30語でわかる日本経済』 日本経済新聞社〈日経ビジネス人文庫〉、2000年、27頁。&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> === 金融システム危機 ===<br /> {{See also|第136回国会|第143回国会}}<br /> <br /> 金融行政においては[[護送船団方式]]の行き詰まりが表面化した&lt;ref&gt;神樹兵輔 『面白いほどよくわかる 最新経済のしくみ-マクロ経済からミクロ経済まで素朴な疑問を一発解消(学校で教えない教科書)』 日本文芸社、2008年、140頁。&lt;/ref&gt;。以下の銀行・証券が破綻した&lt;ref&gt;[http://www.tdb.co.jp/report/watching/press/p031202.html 帝国データバンク 破綻銀行関連の倒産動向調査]&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;[http://www.dic.go.jp/katsudo/hatanshori/index.html 金融機関の破綻処理]預金保険機構&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;[http://www.fsa.go.jp/kouhou/kouhou_02/020_1404a.pdf ペイオフ凍結期間中(平成 8 年 6 月〜平成 14 年 3 月末)の破綻金融機関]金融庁&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;神樹兵輔 『面白いほどよくわかる 最新経済のしくみ-マクロ経済からミクロ経済まで素朴な疑問を一発解消(学校で教えない教科書)』 日本文芸社、2008年、139頁。&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 1991年以降2003年度までで181行の銀行が倒産し、1992-2002年度まで[[預金保険機構]]が救済金融機関に援助した資金の総額は25兆円となった&lt;ref&gt;岩田規久男 『日本経済にいま何が起きているのか』 東洋経済新報社、2005年、32頁。&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> * [[1995年]]8月 - [[兵庫銀行]]<br /> * [[1996年]]<br /> ** [[住宅金融専門会社]]<br /> ** 3月 - [[太平洋銀行]]<br /> ** [[11月21日]] - [[阪和銀行]]<br /> * [[1997年]]<br /> ** [[10月14日]] - [[京都共栄銀行]]<br /> ** [[11月3日]] - [[三洋証券]]<br /> ** [[11月17日]] - [[北海道拓殖銀行]]<br /> ** [[11月24日]] - [[山一證券]]<br /> ** [[11月26日]] - [[徳陽シティ銀行]]<br /> * [[1998年]]<br /> ** [[5月15日]] - [[みどり銀行]]<br /> ** [[5月22日]] - [[福徳銀行]]<br /> ** [[5月22日]] - [[なにわ銀行]]<br /> ** [[10月23日]] - [[日本長期信用銀行]]<br /> ** [[12月13日]] - [[日本債券信用銀行]]<br /> * [[1999年]]<br /> ** [[4月11日]] - [[国民銀行]]<br /> ** [[5月22日]] - [[幸福銀行]]<br /> ** [[6月12日]] - [[東京相和銀行]]<br /> ** [[8月7日]] - [[なみはや銀行]]<br /> ** [[10月2日]] - [[新潟中央銀行]]<br /> * [[2000年]][[8月6日]] - [[石川銀行]]<br /> * [[2002年]][[3月8日]] - [[中部銀行]]<br /> * [[2003年]]9月 - [[足利銀行]]<br /> <br /> [[三洋証券]]は[[コール市場]]にてデフォルトを起こしたため、無担保コール市場が大混乱に陥った。これにより、金融市場は連鎖的な信用収縮を招き、事態は一気に金融恐慌の様相を呈していった。[[日本長期信用銀行]]に対して税金約7兆9,000億円を投入後、外国投資組合が10億円で落札するという異常な状態になっていた。金融当局や政治が正常なら税金投入案件を外国企業に売却するのは認めないのが通常であり、金融当局や政治がほとんど機能していない状態であった。<br /> <br /> [[逆ザヤ]]を抱えた[[保険会社]]の中には、[[更生特例法]]を申請し破綻する会社が現れた。<br /> <br /> == 克服過程 ==<br /> 多大な資産バブルの後には反動が待っている。ところが日本政府はその影響を過小評価した。[[建設業]]界との密着性が強い保守政権は、景気浮揚のために持続的に努力したが、その効果は一時的であり、改革のための時間を無駄にする結果となった。また、この景気浮揚過程で日本政府の財政赤字は大幅に悪化したため、これは長期的に日本の経済体質を悪化させ、成長の可能性をさらに悪化させる結果となった。<br /> <br /> [[2000年代]]に[[小泉政権]]が誕生し、国民に事態の深刻性を知らせ、[[聖域なき構造改革]]が始まった。その改革はある程度の効果をもたらし、小泉政権後半期に景気は徐々に回復することができた。しかし、[[2008年]]の世界の株価大暴落によって始まった世界的経済不況は、日本に再び莫大な打撃を与えた。<br /> <br /> == 識者の見解 ==<br /> 経済専門のクラウドソース・コンテンツ『Seeking Alpha』は、日本の低迷の主要因はバブル崩壊であり、政府・銀行の対応の遅さがデフレーションにつながったと指摘している&lt;ref&gt;[http://newsphere.jp/economy/20140827-6/ 経済低迷EUは「日本に学べ」 アベノミクス改革の方向性を米誌が評価]ニュースフィア 2014年8月27日&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> [[ベン・バーナンキ]]は2000年の時点で、日本長期停滞の原因は「極めて稚拙な日本銀行の[[金融政策]]にある」と指摘していた&lt;ref&gt;田中秀臣 『ベン・バーナンキ 世界経済の新皇帝』 講談社〈講談社BIZ〉、2006年、98頁。&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 経済学者の[[ジョセフ・E・スティグリッツ]]は、日本経済の長期低迷について「[[潜在成長率]]を大きく下回る状態が長期化していることが最大の問題」と述べており、デフレの弊害を指摘している&lt;ref&gt;田中秀臣 『デフレ不況 日本銀行の大罪』 朝日新聞出版、2010年、96頁。&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 経済学者の[[岩田規久男]]は「バブル崩壊後の日本経済の特徴は、デフレと[[資産デフレ]]が長期的に続いていることである&lt;ref name=&quot;sukkiri214&quot;&gt;岩田規久男 『スッキリ!日本経済入門-現代社会を読み解く15の法則』 日本経済新聞社、2003年、214頁。&lt;/ref&gt;」「バブル崩壊後の景気低迷は、バランス・シート不況という特徴を持っている&lt;ref&gt;岩田規久男 『スッキリ!日本経済入門-現代社会を読み解く15の法則』 日本経済新聞社、2003年、223頁。&lt;/ref&gt;」と指摘している。<br /> <br /> 経済学者の[[香西泰]]は「失われた10年をデフレだけで説明できない。日銀はバブルを発生させ、バブル後に引き締め過ぎたかもしれないが、金融だけで失われた10年すべて説明するには無理がある。産業の問題や企業の失敗も、大きな影響となった。平成の経済停滞を『デフレ』というには、あまりにも物価の低下率が小さ過ぎる。産業自体のほうに大きな問題があって、金融はあまり関係ない」と指摘している&lt;ref&gt;[http://www.toyokeizai.net/115-anniversary/series/kosai5-1.html 連載/石橋湛山を語る]東洋経済新報社&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 経済学者の[[林文夫]]、[[エドワード・プレスコット]]は1990年代の日本の不況は、生産性上昇率の低下・法的規制による労働時間の短縮によって起こったとする論文を書き、学会に大きな影響を与えた&lt;ref&gt;大竹文雄 『競争と公平感-市場経済の本当のメリット』 中央公論新社〈中公新書〉、2010年、145頁。&lt;/ref&gt;。後の実証研究では、技術進歩という意味においての生産性は低下していなかったという結果が出ている&lt;ref&gt;池田信夫 『希望を捨てる勇気-停滞と成長の経済学』 ダイヤモンド社、2009年、132頁。&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> [[池田信夫]]は「日本経済の長期停滞の大きな原因は、1980年代に起こった[[情報革命]]に乗り遅れたことである」と指摘している&lt;ref&gt;池田信夫 『希望を捨てる勇気-停滞と成長の経済学』 ダイヤモンド社、2009年、181頁。&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 構造問題重視の立場からは、一時的に需要増もたらす景気対策には効果がなく、[[規制緩和]]・公的企業の[[民営化]]などの[[構造改革]]を通じて生産性を高めることが重要であると主張されている&lt;ref name=&quot;3jikan17&quot;&gt;みずほ総合研究所編 『3時間でわかる日本経済-ポイント解説』 日本経済新聞社〈日経ビジネス人文庫〉、2002年、17頁。&lt;/ref&gt;。一方で需要サイドの問題を重視する立場からは、バブル崩壊後の資産価格の下落(資産デフレ)を起点とする恒常的な需要不足が長期低迷の主因であり、不況脱却策として財政・金融面からのマクロ経済安定化政策の役割が強調されている&lt;ref name=&quot;3jikan17&quot; /&gt;。<br /> <br /> 竹中平蔵は「『失われた10年』は、日本の企業が過大な債務の償却を先送りし、長期に渡って持ち続けたからである」と指摘している&lt;ref&gt;竹中平蔵 『竹中教授のみんなの経済学』 幻冬舎、2000年、37-38頁。&lt;/ref&gt;。不良債権を1兆円処理するごとに15000人の失業者を生むという試算もあった&lt;ref&gt;神樹兵輔 『面白いほどよくわかる 最新経済のしくみ-マクロ経済からミクロ経済まで素朴な疑問を一発解消(学校で教えない教科書)』 日本文芸社、2008年、130頁。&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> [[森永卓郎]]は「1996年頃には、首都圏の商業地の地価はバブルが始まった1986年頃の水準に戻っている。つまり、バブルの調整は終わっている。1996年以降に発生している不良債権は、不動産価格の下落・景気低迷による経営悪化、つまりデフレの深化によるものである」と指摘している&lt;ref&gt;森永卓郎 『日本経済50の大疑問』 講談社〈講談社現代新書〉、2002年、42頁。&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 日本の1994年時点の不況について、[[ジョン・ケネス・ガルブレイス]]は「(経済改革が必要であるという議論は)現実的な話ではなく、日本経済が直面しているのは循環的なものである」と指摘していた&lt;ref&gt;[http://diamond.jp/articles/-/5924 ジョン・K・ガルブレイス「文明の衝突は起きない」〜「グローバルビジネス」1994年8月15日号掲載]ダイヤモンド・オンライン 2009年12月30日&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 経済学者の[[野口旭]]は「日本経済が長期低迷したのは、構造問題ではなく、基本的に[[総需要]]不足によるものである&lt;ref&gt;野口旭 『ゼロからわかる経済の基礎』 講談社〈講談社現代新書〉、2002年、189頁。&lt;/ref&gt;」「総需要不足が10年以上続いている状態は、歴史的ほとんど無い例であるが、『長さ』だけを根拠として、問題は需要側ではなく供給側にあると主張することは間違いである。日本の10年にもわたる低成長は、基本的には、総需要の不足によって生じたということは、持続的な[[失業率]]の上昇、物価の下落(デフレ)という事実から明白である&lt;ref&gt;野口旭 『ゼロからわかる経済の基礎』 講談社〈講談社現代新書〉、2002年、80頁。&lt;/ref&gt;」と指摘していた。<br /> <br /> 「日本経済の低成長は需要不足ではなく、構造問題から生じている」という議論について、野口旭、[[田中秀臣]]は『「日本経済にデフレ・ギャップは存在しない。さらに、現実の失業率はすべて構造的失業である」と主張することに等しい』と指摘している&lt;ref&gt;野口旭・田中秀臣 『構造改革論の誤解』 東洋経済新報社、2001年、68頁。&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> [[リチャード・ヴェルナー]]は、構造問題が処理されていなかった1990年代以前において目覚ましい経済成長が認められるとして、構造問題を原因とする見方を批判している。ヴェルナーは、日本の不況の主因を銀行システムの不良債権問題だと考えている。ヴェルナーの言う不良債権問題は、処理の先送りではなくて[[貸し渋り]]のことである&lt;ref&gt;『虚構の終焉』 = Towards a new macroeconomic paradigm. Tokyo: PHP. (2003) P71,74&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> [[日本銀行|日銀]][[全国企業短期経済観測調査|短観]]によると、銀行の貸し渋りは1997年半ばから1998年に観測されたが、1993-1996年、1999-2000年には観測されていない&lt;ref&gt;岩田規久男 『「不安」を「希望」に変える経済学』 PHP研究所、2010年、57頁。&lt;/ref&gt;。野口旭は「1990年代で明らかに貸し渋りがあったのは、1997年、1998年だけであったというのが経済の専門家間の定説である」と指摘している&lt;ref&gt;田中秀臣・野口旭・若田部昌澄編 『エコノミスト・ミシュラン』 太田出版、2003年、28頁。&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> [[みずほ総合研究所]]は「供給サイドの論者が指摘するように、生産性の高い企業・産業が、資源の供給不足によって成長が不可能になっている状態であれば、遊休資源としての失業は存在しないはずである。また、経済が需要不足ではなく供給の制約に直面しているのであれば、物価は下落せず上昇するはずである&lt;ref&gt;みずほ総合研究所編 『3時間でわかる日本経済-ポイント解説』 日本経済新聞社〈日経ビジネス人文庫〉、2002年、18頁。&lt;/ref&gt;」「1990年代を通して経済成長力を抑制し、その結果として需要不足を恒常化させている最大の原因は、一般物価・資産価格の持続的な下落(デフレ・資産デフレの進行)である&lt;ref&gt;みずほ総合研究所編 『3時間でわかる日本経済-ポイント解説』 日本経済新聞社〈日経ビジネス人文庫〉、2002年、18-19頁。&lt;/ref&gt;」と指摘している。<br /> <br /> 竹中は「この10年間で日本は大不況だったとされているが、数字の上では必ずしも正しくない。この10年間の年平均経済成長率は1.2%であり、生活水準は13%程度高くなっている」と指摘している&lt;ref&gt;竹中平蔵 『あしたの経済学』 幻冬舎、2003年、29-30頁。&lt;/ref&gt;。また竹中は「この10年間は、企業が痛みをかぶり、労働者に分配してきた」と指摘している&lt;ref&gt;竹中平蔵 『竹中教授のみんなの経済学』 幻冬舎、2000年、44頁。&lt;/ref&gt;。また竹中は「[[小泉内閣]]は『失われた10年』を終わらせたという意味では、歴史的使命を果たした」と指摘している&lt;ref&gt;竹中平蔵 『竹中先生、経済ってなんですか?』 ナレッジフォア、2008年、97頁。&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 1990年以降、[[OECD]]加盟国のほとんどは2%以上の実質経済成長率、4%程度の名目経済成長率を達成している(2010年時点)&lt;ref&gt;飯田泰之 『世界一シンプルな経済入門 経済は損得で理解しろ! 日頃の疑問からデフレまで』 エンターブレイン、2010年、182-183頁。&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 岩田は「バブル崩壊後の日本の実質経済成長率は平均で1980年代の約4%から、1992年以降は約1%へと4分の1に低下した。それ以前の10年間と比べて大きく悪化しており、他の主要国と比べても大きく劣っている」と指摘している&lt;ref name=&quot;sukkiri214&quot; /&gt;。<br /> <br /> == 脚注 ==<br /> {{Reflist}}<br /> <br /> == 関連項目 ==<br /> * [[日本の経済]]<br /> * [[日本の経済史]]<br /> * [[冷戦#冷戦終結後の経過]]<br /> * [[バブル崩壊]]<br /> * [[デフレーション]] - [[資産デフレ]]<br /> * [[アジア通貨危機]]<br /> * [[円高不況]]<br /> * [[就職氷河期]]<br /> * [[第14循環]]<br /> * [[阪神・淡路大震災]]<br /> * [[失われた20年]]<br /> * [[失われた30年]]<br /> <br /> == 外部リンク ==<br /> * [http://project.iss.u-tokyo.ac.jp/index.htm 失われた10年?1990年代日本を問い直す]([http://jww.iss.u-tokyo.ac.jp/index.html 東京大学社会科学研究所])<br /> <br /> {{日本の経済史}}<br /> <br /> {{DEFAULTSORT:うしなわれたしゆうねん}}<br /> [[Category:経済現象]]<br /> [[Category:20世紀の経済史]]<br /> [[Category:流行語]]<br /> [[Category:平成時代の経済]]<br /> [[Category:1990年代の日本]]<br /> [[Category:2000年代の日本]]<br /> [[Category:橋本龍太郎]]<br /> <br /> [[pt:A década perdida]]</div> 2409:251:4060:1F00:4DD8:7D60:FFB9:40BC ディフェンダー (サッカー) 2018-05-19T03:34:37Z <p>2409:251:4060:1F00:4DD8:7D60:FFB9:40BC: /* スウィーパー */</p> <hr /> <div>{{出典の明記|date=2014年6月}} <br /> &#039;&#039;&#039;ディフェンダー&#039;&#039;&#039;({{lang-en-short|Defender}})とは、[[サッカー]]における[[サッカーのポジション|ポジション]]の一つ。略記は&#039;&#039;&#039;DF&#039;&#039;&#039;。<br /> <br /> == 概要 ==<br /> 1920年代から[[1930年代|30年代]]までは、バックスと呼ばれていたポジション。[[ゴールキーパー (サッカー)|ゴールキーパー]]の前、いわゆる最終ラインに位置し、主に[[ディフェンス (サッカー)|守備]]を行うポジション。DFのポジションは&#039;&#039;&#039;センターバック&#039;&#039;&#039;と&#039;&#039;&#039;サイドバック&#039;&#039;&#039;の2つに分けることができる。<br /> <br /> == センターバック ==<br /> [[ファイル:CenterBack.jpg|150px|thumb|センターバックの位置]]<br /> &#039;&#039;&#039;センターバック&#039;&#039;&#039;({{lang-en-short|Centre back}})とはディフェンスライン中央の[[ゴール (スポーツ)|ゴール]]前方に位置するディフェンダーのこと。 広義ではストッパー、スウィーパー、リベロも含む中央を守るディフェンダーであるが、狭義では4バック時の中央の2名(5バックでは3名)である。<br /> <br /> 主な役割は相手選手、主にフォワード選手をマークし相手の攻撃の主に最終段階を阻みゴールを守ることである。<br /> ディフェンスのラインコントロールなどもセンターバックが任されることが多い。また近代サッカーではディフェンスラインからの攻撃の組み立ても要求される場合がある。一般的にはボール奪取能力、ロングボールの処理能力、ポジショニングやプレーを選択する判断力、相手の攻撃陣に競り勝つ身体能力が特に必要になるポジションであり、空中戦に強い事が重要な要素となるため長身の選手が務める場合が多く、最も平均身長の高いポジションである。その長身を攻撃にも活かすため、セットプレーで相手ゴール前に配置される事は常套手段である。また試合終盤に同点又は勝ち越しのゴールを狙って、セットプレー以外の場面でも前線に上げたままにする戦術が取られる事があり、身長や強靭な体格に物を言わせて強引にチャンスを作ろうとする意味で、その作戦はしばしば「パワープレー」と呼ばれる。<br /> <br /> 守備の方法としてマンマークを行うときはセンターバックの選手は&#039;&#039;&#039;ストッパー&#039;&#039;&#039;(&#039;&#039;&#039;ST&#039;&#039;&#039;)と&#039;&#039;&#039;スウィーパー&#039;&#039;&#039;(&#039;&#039;&#039;SW&#039;&#039;&#039;)に分かれる。対してゾーンディフェンス(ラインディフェンス)を行うときにはそれぞれの選手が状況に応じて両方の役割をこなすことがほとんどである。ディフェンスの人数に応じてストッパーの人数が変動し、スイーパーの人数は常に1人である。<br /> <br /> 近代においては4バックでは中央の2人がセンターバックでゾーンディフェンスを行い、特定の役割を持たず状況に応じてプレーするのが一般的である。対して3バックでは両側のセンターバックでマンマークを行い、中央のセンターバックがスィーパーになる「2ストッパー1スウィーパー」が一般的である。かつて日本代表で、[[フィリップ・トルシエ]]が模索したフラットスリーでは3人ともが特定のマークを担当せずスウィーパーも置かない方式であり、3バックとしてはかなり特異な戦術であると言える。<br /> <br /> センターバックは相手選手との個別の局面におけるプレーの勝敗が失点に関わることから、ラフプレーを犯してしまい退場処分を受ける危険が高いポジションであり、早い時間帯であるほど前線の選手を交代させて控えのセンターバックを補充することが多く、ゴールキーパー程ではないが、本職の選手が務めることが望まれるポジションである。<br /> <br /> なお、イギリスにおいてはセンターバックのことをセンターハーフと呼ぶ習慣がある。これは、1930年代に2-3-5のフォーメーションから[[ミッドフィールダー#センターハーフ|センターハーフ]]が下がって3-2-5のフォーメーションに変化したことから、中央のディフェンダーがそのままセンターハーフと呼ばれたという経緯による。<br /> <br /> 組織的守備戦術が成熟するのに従って攻撃の組み立て位置が下がり、センターバックの選手にもフィード能力が求められつつある。<br /> {{-}}<br /> <br /> === ストッパー ===<br /> [[ファイル:Stopper.jpg|150px|thumb|ストッパーの位置]]<br /> &#039;&#039;&#039;ストッパー&#039;&#039;&#039;({{lang-en-short|Stopper}})とは「阻止する人」の意味する通り、相手FWの選手を1対1でマークし、自由にプレーさせないことを役割とするポジション。ドリブルなどで相手選手に抜かれない、空中戦で競り負けないといった高い対人能力が求められる。また、ストッパーの前方に位置する守備的ミッドフィールダーを「前方に位置するストッパー」という意味でフォアストッパーと呼ぶこともある。{{-}}<br /> <br /> === スウィーパー ===<br /> [[ファイル:Sweeper.jpg|150px|thumb|スウィーパーの位置]]<br /> &#039;&#039;&#039;スウィーパー&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;スイーパー&#039;&#039;&#039;({{lang-en-short|Sweeper}})とは「掃除人」を意味する名で、特定のマークを持たず、ストッパーの選手が抜かれた時や、相手フォワードに対してストッパーの選手を競らせた隙にボールを処理、あるいは2列目から飛び出してきたMFの選手に対する守備など、カバーリング関連を行うポジションである。役割を最大限に活かすために、相手のセンターフォワードの人数よりも1人多くセンターバックを配置するフォーメーションである場合が多い。以前はカバーリングなどを行う為にストッパーの選手の後方に位置することが多かったが、ディフェンスラインをフラットに保ち、ラインの高さをコントロールすることが重要視される現在ではストッパーと並び横一列になる場合が多い。<br /> <br /> === リベロ ===<br /> &#039;&#039;&#039;リベロ&#039;&#039;&#039;({{lang-it-short|Libero}})とは「自由な人」を意味する名で、スウィーパーから派生したポジションである。スウィーパーシステムは相手の攻撃陣よりも1人多くのセンターバックを配置している場合が多く、その中で特定のマークを持たないスウィーパーは攻撃人数を削って存在するポジションとも言える。そのため70年代頃からは攻撃時には攻撃参加するスウィーパーが登場し始めたのである。特にスウィーパーは戦術眼や先読み能力など、高いサッカーセンスを兼ね備えた選手が基本だったため、攻撃に置いてもその能力を発揮する選手が増えて行った。それまではカバーリングを専門とする事から「掃除人」を意味するスウィーパーと呼ばれていたのだが、攻撃の起点をも担い始めると、その名前では呼び方として適切ではなくなったため、「守備の選手ながら攻撃にも参加する自由な人」と言う意味からリベロと呼ばれるようになった。<br /> <br /> リベロは1970〜1980年代の[[ドイツ]]によく見られ、代名詞として[[フランツ・ベッケンバウアー]]が特に有名である。他に[[ロナルド・クーマン]]、[[フランコ・バレージ]]、[[ガエターノ・シレア]]、[[ダニエル・パサレラ]]などが有名である。しかし、1990年代には攻撃参加するリベロはほとんど見られなくなった。その理由としてゾーンディフェンスが現在の主流であり、マンツーマンディフェンス自体がかなり希少な存在となっているからである。近年では戦術的なリベロは希少になったものの、一般的なセンターバックよりも攻撃参加の機会や得点が多い選手だとリベロと呼ぶ場合がある。また、守備的ミッドフィールダーが「ディフェンスラインの前に配置されたリベロ」という意味合いでフォアリベロと呼ばれることもある。<br /> <br /> 稀な例として、[[福西崇史]]が一時ボランチからリベロに配置された事があった。他では[[田中マルクス闘莉王]]や[[ルシマール・ダ・シウヴァ・フェレイラ|ルシオ]]がセンターバックながら攻撃参加する選手として有名である。{{-}}<br /> <br /> == サイドバック ==<br /> [[ファイル:SideBack.jpg|150px|thumb|サイドバックの位置]]<br /> &#039;&#039;&#039;サイドバック&#039;&#039;&#039;とは4バック又は5バックの左右両サイドに位置するディフェンダーのこと。サイドにおける守備を主な役割とするが、攻撃時には中盤の選手を追い越して前線に駆け上がり、ドリブルで切り込んだりクロスボールを上げたりする。守備能力に加え、ピッチを縦に激しく上下する多い運動をこなせる行動力とスタミナ、スピード、サイドを突破するドリブル技術、クロスを上げる精度の高いキックも求められる。<br /> <br /> 身体的なぶつかり合いや空中戦を主とするセンターバックに比べ、走力や俊敏性が求められるため小柄な選手が担当する事が多いが、近年ではファーサイド(far side=遠いサイド)からセンタリングに対して空中戦も求められる事から、長身のサイドバックも増えてきている。守備を重視するチームなどでは本来はセンターバックの選手をこのポジションに置き、センターバックを4人並べる場合もある。一方で、ディフェンスのポジションにありながら攻撃能力に特化した非常に攻撃的なサイドバックの選手も存在する。<br /> <br /> ミッドフィールダーのウィングバックの選手とよく似た役割を持っており、ポジションの互換性が高く両方のポジションをこなせる選手が多い。またサイドバック、ウィングバックの選手ともにサイドでプレイすることから右サイドなら右利き、左サイドなら左利きというように受け持つサイド側の足が利き足であるか両方の足を同様に使えることが望ましい。左右両方のサイドでプレーできる選手は少なく重宝される。日本人選手では、[[長友佑都]]や[[内田篤人]]が有名。<br /> <br /> サイドバックは[[和製英語]]であり、英語ではディフェンダーの事をフルバック({{lang-en-short|Full-back}})と呼び、左のフルバックをレフトバック({{lang-en-short|Left-back}})、右のフルバックをライトバック({{lang-en-short|Right-back}})と呼ぶ場合もある。<br /> <br /> == 関連項目 ==<br /> * [[サッカーのフォーメーション]]<br /> <br /> {{サッカーのポジション}}<br /> <br /> {{デフォルトソート:ていふえんたあ}}<br /> [[Category:サッカーのポジション]]<br />  </div> 2409:251:4060:1F00:4DD8:7D60:FFB9:40BC
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