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http:///mymemo.xyz/wiki/api.php?action=feedcontributions&feedformat=atom&user=2402%3A6B00%3A5609%3AEF00%3A38ED%3AD87C%3A7444%3A83F miniwiki - 利用者の投稿記録 [ja] 2024-06-07T18:25:51Z 利用者の投稿記録 MediaWiki 1.31.0 金銀比価 2017-10-09T14:36:16Z <p>2402:6B00:5609:EF00:38ED:D87C:7444:83F: </p> <hr /> <div>{{No footnotes|date=2017年10月}}<br /> &#039;&#039;&#039;金銀比価&#039;&#039;&#039;(きんぎんひか)とは、[[金]]と[[銀]]の価値比率のこと。ただし、[[両替商]]や[[銀行]]における[[金貨]]と[[銀貨]]の両替のための金銀相場とは直接関連しないことに注意を要する。<br /> <br /> == 概要 ==<br /> 金や銀は古代から採掘されて[[地金]]や[[貨幣]]、装飾品などの加工品の形態で溶解と生成を繰り返しつつ長期にわたって保有されていたため、生産や流通に余程の大変動がなければ大きく変化することは無かった。<br /> <br /> [[9世紀]]の[[ヨーロッパ]]諸国は金の生産に恵まれず、[[ビザンツ帝国]]のように貿易によって金を入手するだけの経済力も十分ではなかったために、金貨の生産が低調であり[[イスラム世界]]やビザンツの金貨が流入していた。ビザンツの金もイスラム世界からの輸入品であったことから、結果的に[[イングランド]]などヨーロッパの広い地域の金銀比価はイスラム世界のそれに近い、1:6.5(以下重量ベース)であった。一方、日本では[[平安時代]]後期の[[応徳]]2年([[1085年]])の相場が1:5で、[[元寇]]前後の混乱期である[[弘安]]10年([[1287年]])には一時的に1:3にまでなったものの、凡そ金1に対して銀が5から6の時代が続いた。一方、中国では[[元 (王朝)|元]]の時代に1:13、[[明]]初期には1:6であったから、銅銭の生産困難な日本では金銀を輸出して銅銭を輸入する構造が続くことになった。<br /> <br /> この構造が大きく変化するのは、[[16世紀]]のいわゆる「[[大航海時代]]」である。まず、[[新大陸]]から金銀が大量にヨーロッパに流入し、続いて[[水銀]]による銀の精錬法が開発されてこれまで価値がないとされた低品位の銀鉱石から銀が取れるようになった。更に[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の[[天文 (日本)|天文]]年間の日本との貿易が開始されると、折りしも[[戦国大名]]達の間で推進された[[金鉱山|金山]]・[[銀山]]の開発競争と[[灰吹法]]の伝来による金[[灰吹銀|銀地金]]の生産効率の向上によって大量の金銀が日本国内に流通し、更に貿易を通じて金銀比価の大きい中国やヨーロッパにも日本の金銀が流入した。<br /> <br /> まず南部ドイツなどの銀山の採算が取れなくなり、同地の諸侯や商人たちの衰退をもたらした。更に「[[価格革命]]」と呼ばれる大規模インフレが発生し、それがイングランドや[[フランス]]・[[オランダ]]での工業生産の増加と貿易の活発化を生み出して[[イタリア]]などの地中海沿岸の諸都市の没落を招いた。なお、[[1535年]]には[[洋銀]]([[メキシコ・ドル]])の生産が当時[[スペイン]]領であった[[メキシコ]]で開始されている。一方、日本では金銀ともにその生産・流通を増加させたが、特に銀の生産が増加したために[[天正]]年間には1:10に、[[慶長]]年間には1:12にまで広がった。このため、日本から銀が中国やヨーロッパに輸出され、逆に日本へは金が流入する構造が、戦国時代末期から[[江戸時代]]初期にかけて成立した。なお、16世紀の[[中国]]では1:9前後、[[インド]]では1:12、[[朝鮮]]では1:10であったから大量の洋銀がヨーロッパあるいは新大陸から直接アジアに流入した。[[万有引力]]発見で知られる[[アイザック・ニュートン]]は[[イギリス|英国]][[造幣局]]長も務め、[[1717年]]に1:15.21のいわゆるニュートン比価を定めた。また[[アダム・スミス]]もヨーロッパとアジアの金銀比価の違いに関する記述を残している。一方日本では[[鎖国]]の実施後も暫く金銀の輸出が行われた影響によって17世紀前半には東アジア全域で金銀比価の平準化が進み、一旦は1:13前後に収束していく傾向が見られた。だが、[[貞享]]・[[元禄]]年間に金・銀輸出の制限が取られたこと(金銀輸出の制限については[[新井白石]]の[[海舶互市新例]]が著名である)、[[江戸幕府]]の財政難によって金貨の改鋳が行われた事、銀貨でありながら事実上小判の補助通貨とも言うべき[[一分銀]]の発行により日本のみ小判と一分銀の貨幣材質上の金銀比価が変動して(小判と丁銀の含有率に基づく比価は1:10前後を維持した)、[[幕末]]の[[安政]]6年([[1859年]])には1:4.65の金銀比価となったのである。ところが、国際経済から隔絶され、なおかつ[[本位貨幣]]の経済概念が知られなかったこともあり、[[小判|金貨]]・[[丁銀|銀貨]]が別々の貨幣体系を有したまま通用していた日本では、開国に当たって米国など列強の圧力もあって適切な対応がとれなかった。<br /> <br /> さて、[[アメリカ合衆国]]が建国されると国内の貨幣不足によって、[[1792年]]の[[貨幣法 (アメリカ)|貨幣法]]によって実質上の[[金銀複本位制]]が採用され、フランスでは[[1803年]]の[[鋳造法]]によって正式に金銀複本位制が導入され、同時に法定の金銀比価を1:15.5と定めた。当時、フランスは[[イギリス]]と並ぶ経済の最先進国であり、大量の金銀が同国に流れ込んだために、金銀比価と金銀相場の乖離が小さくフランスからは法定の金銀比価に合わせた金貨・銀貨の発行が行われたために、同国の金銀比価から逸脱する比価を採用する国はほとんど無かった。<br /> <br /> ところが、[[1848年]]に[[カリフォルニア]]で、続いて[[1851年]]に[[オーストラリア]]で大規模な金山が発見されて[[ゴールドラッシュ]]が始まり、世界の金の生産量が増加して金の価値が暴落し、金銀相場はフランスの法定の金銀比価を下回って銀の国外流出が激化し、フランスは銀貨の生産を抑えて金貨の増産をすることとなった。そんな最中に日本は[[黒船来航]]を機に開国を迫られ、1859年には欧米との貿易が開始された。当初、洋銀1枚と[[1分銀]]3枚を交換できることとした。ところが、日本の天保一分銀は当時の国際水準から見て異常に品位が高く、さらに4枚で[[天保小判]]1枚と等価であり材質価値より高額面に設定されていたため、洋銀は明らかに交換規定の水準よりも品位が劣るとして日本の商人達は洋銀を拒否したのである。さらに幕府は天保一分銀より大型でありながら額面価値が半分である貿易専用の[[二朱銀]]を発行し、二朱銀2枚をもって洋銀1枚と交換させようとした。これに激怒した欧米各国は日本の銀貨の高額面設定を非難して、1日1万6千枚(4千両)分の1分銀を強制的に洋銀との交換させる要求を通したのであった。このため、強制的な交換で入手した天保一分銀で一両金貨を獲得して海外に持ち出して、当時の国際的な金銀比価の水準とされた1:15.3の相場で銀貨と再換金することで約3.3倍の利益を得たのである。このため、日本国内から大量の金が流出して日本経済は大混乱に陥った。これに対して、江戸幕府は国際的な金銀比価に合わせた安政一分銀・[[万延小判]]を鋳造して、欧米側もこれを受け入れることでとりあえず金の大量流出は一定の抑制が図られたのである。<br /> <br /> フランスとその貨幣体系の安定の恩恵を受けてきた3ヶ国(イタリア・[[ベルギー]]・[[スイス]])は、[[1865年]]に[[ラテン通貨同盟]]([[:en:Latin Monetary Union|en]])を結成して、金銀複本位制と法定の金銀比価1:15.5の防衛に乗り出したが、[[1870年代]]に入ると、各国が一斉に[[金本位制]]への移行を進め、金の不足と銀の暴落が深刻化し、ついに[[1876年]]にフランスは事実上の金本位制への移行を宣言した。[[19世紀]]末期までに日本・メキシコを始め[[銀本位制]]の国々のほとんどが金本位制へと切替、最後に残ったのは[[清]](中国)のみとなり、国内の銀産業保護の観点から金本位制を採用しつつ([[1873年]]の[[鋳貨法]]及び[[1900年]]の[[金本位法]])も国家による銀の買上を継続し続けたアメリカのみが銀価格を支える役割を担った。[[1934年]]、アメリカは[[世界恐慌]]対策を兼ねて[[銀買上法]]を制定して国内の金保有の1/3までの政府買上を実施することとなると、銀の価格が高騰して当時の[[中華民国]]よりアメリカへ大量の銀が流出、結果的に[[1935年]]には中華民国も[[法幣]]導入による[[管理通貨制度]]を採用するに至り、銀を本位貨幣とする国は消滅して銀貨は完全に[[補助貨幣]]化したために金銀比価が問題とされることはなくなったのである。<br /> <br /> == 参考文献 ==<br /> *[[本山美彦]]「銀貨」「金銀比価」「通貨の名称」(『歴史学事典 1 &lt;small&gt;交換と消費&lt;/small&gt;』(弘文堂、1994年) ISBN 978-4-335-21031-0)<br /> *田谷博吉「金銀比価」(『国史大辞典 4』(吉川弘文館、1984年) ISBN 978-4-642-00504-3)<br /> *[[小葉田淳]]「金銀銅貿易」(『国史大辞典 4』(吉川弘文館、1984年) ISBN 978-4-642-00504-3)<br /> *滝沢武雄「金銀比価」(『日本史大事典 2』(平凡社、1993年) ISBN 978-4-582-13102-4)<br /> <br /> == 関連項目 ==<br /> *[[幕末の通貨問題]]<br /> **[[万延元年遣米使節#通貨の交換比率の交渉]]<br /> <br /> {{DEFAULTSORT:きんきんひか}}<br /> [[Category:金]]<br /> [[Category:銀]]<br /> [[Category:経済史]]<br /> [[Category:交易の歴史]]<br /> [[Category:貨幣]]<br /> <br /> [[en:Silver_standard#The_relative_value_of_silver_and_gold]]</div> 2402:6B00:5609:EF00:38ED:D87C:7444:83F
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